2022/01
6635 池田屋惣兵衛招魂之碑(東山区清閑寺霊山町1・霊山護国神社)
池田屋惣兵衛 ( いけだや - そうべえ )
( 1823 ‐ 1864 )
幕末の旅館主。
文政 6年生まれ。
京都三条で営業し,長門 ( ながと )( 山口県 ) 萩 ( はぎ ) 藩士の定宿に供する。
元治 ( げんじ ) 元年宿で会合中の尊攘 ( そんじょう ) 派諸藩士が新選組に襲撃された池田屋事件の際、妻子とともに逃れるが翌日出頭し捕らえられる。
同年 7月 13日牢内で病死した。42歳。
〇 池田屋事件
池田屋事件(いけだやじけん)は、幕末の1864年7月8日(元治元年6月5日)に、京都三条木屋町(三条小橋)の旅館・池田屋に潜伏していた長州藩・土佐藩などの尊王攘夷派志士を、京都守護職配下の治安維持組織である新選組が襲撃した事件。
池田屋事変、池田屋騒動ともいわれている。近藤勇は書面で洛陽動乱と名づけている。
経緯
幕末の京都は政局の中心地として、尊王攘夷・勤王などの各種政治思想を持つ諸藩の浪士が潜伏し、活動していた。会津藩と薩摩藩による「八月十八日の政変」で長州藩が失脚し、朝廷では公武合体派が主流となっていた。尊王攘夷派が勢力挽回を目論んでいたため、京都守護職は新選組を用いて、京都市内の警備や捜索を行わせた。
5月下旬ごろ、新選組諸士調役兼監察の山崎丞・島田魁らが、四条小橋上ル真町で炭薪商を経営する枡屋喜右衛門(古高俊太郎)の存在を突き止め、会津藩に報告。捜索によって、武器や長州藩との書簡などが発見された。古高を捕らえた新選組は、土方歳三の拷問により古高を自白させた。自白内容は、「祇園祭の前の風の強い日を狙って御所に火を放ち、その混乱に乗じて中川宮朝彦親王を幽閉、一橋慶喜・松平容保らを暗殺し、孝明天皇を長州へ動座させる(連れ去る)」というものであった。しかし、自白したのは自分の本名が古高俊太郎であることのみ、という説もあり、古高俊太郎について述べられた日誌には自白内容の記述がされていないことから自白は本名のみであった可能性が高い。
さらに、長州藩・土佐藩・肥後藩などの尊王派が、逮捕された古高奪回のための襲撃計画を実行するか否かを協議する会合が、池田屋あるいは四国屋において行われることを突き止めた。
戦闘
亥の刻(22時ごろ)すぎ、近藤隊は池田屋で謀議中の尊攘派志士を発見した。近藤隊は数名で突入し、真夜中の戦闘となった。20数名の尊攘派に対し当初踏み込んだのは近藤勇・沖田総司・永倉新八・藤堂平助の4名で、残りは屋外を固めた。屋内に踏み込んだ沖田は奮戦したが、戦闘中に病に倒れ戦線から離脱した。また1階の藤堂は油断して鉢金を取ったところで額を斬られ、血液が目に入り戦線離脱した。
襲撃を受けた宮部鼎蔵ら志士たちは応戦しつつ、現場からの脱出を図った。裏口を守っていた安藤早太郎・奥沢栄助・新田革左衛門達のところに土佐藩脱藩・望月亀弥太ら浪士が脱出しようと必死で斬りこみ逃亡。これにより奥沢は死亡し、安藤・新田も1か月後に死亡した。望月は負傷しつつも長州藩邸付近まで逃げ延びたが、追っ手に追いつかれ自刃した。同じく戦闘の末に脱出に成功した土佐藩・野老山吾吉郎の調書が、2009年に高知県が購入した土佐京都藩邸資料(高知県立坂本龍馬記念館蔵)から見つかり、事件前後の様子が明らかとなった。太刀や袴を失い(普段から新撰組は本物の太刀を持ち、敵の刀を切断したり、刀に裂傷を与える鍛錬をしていた)、同僚の石川潤次郎が現場で闘死していたことにも気づいていなかったことから戦闘の激しさが偲ばれる。
新選組側は一時は近藤・永倉の2人となるが、土方隊の到着により戦局は新選組に有利に傾き、方針を「斬り捨て」から「捕縛」に変更。9名討ち取り4名捕縛の戦果を上げた。会津・桑名藩の応援は戦闘後に到着した。土方は手柄を横取りされないように、一歩たりとも近づけさせなかったという。
この戦闘で数名の尊攘派は逃走したが、続く翌朝の市中掃討で会津・桑名藩らと連携し、20名あまりを捕縛した。この市中掃討も激戦となり、会津藩は5名、彦根藩は4名、桑名藩は2名の即死者を出した。
その後新選組は、夜のうちに帰ると闇討ちの恐れがあるために夜が明けるまで待機し、翌日の正午、壬生村の屯所に帰還した。沿道は野次馬であふれていたという。
桂小五郎(のちの木戸孝允)は、会合への到着が早すぎたため、一旦池田屋を出て対馬藩邸で大島友之允と談話しており難を逃れた。談話中に外の騒ぎで異変に気づいた桂は、現場に駆けつけようとしたが、大島友之允に制止されたため思い留まったと、桂の回想録『桂小五郎京都変動ノ際動静』には記されている。ただし、鳥取藩士・安達清風の日記によれば、大島は事件前の5月28日に京都を離れ、6月5日の当日には江戸におり、6月13日になって事件のことを知ったとされており、大島が桂を止めたというのは事実でない可能性がある[1]。それとは別に、京都留守居役であった乃美織江は、手記に「桂小五郎義は池田屋より屋根を伝い逃れ、対馬屋敷へ帰り候由…」と書き残している。
影響
御所焼き討ちの計画を未然に防ぐことに成功した新選組の名は天下に轟いた。逆に尊攘派は、吉田稔麿・北添佶摩・宮部鼎蔵・大高又次郎・石川潤次郎・杉山松助・松田重助らの逸材が戦死し、大打撃を受ける(のちの新政府により彼らは俗に「殉難七士」と呼ばれる)。落命した志士たちは、三条大橋東の三縁寺に運ばれて葬られた。
長州藩は、この事件をきっかけに激高した強硬派に引きずられる形で挙兵・上洛し、7月19日(8月20日)に禁門の変を引き起こした。
異説
近年の研究では「京都大火計画」「松平容保暗殺」「天皇拉致」などの志士側の陰謀は、新選組による捏造(でっち上げ)であり、新選組の実力行使正当化や尊王攘夷派の信用失墜を狙った冤罪だとする説もある。その理由として、これらの計画は幕府側の記録にはあるものの、志士側の記録には一切なく、『木戸孝允日記』にも、"新選組に逮捕監禁されている仲間(古高俊太郎)を救うための会合"としか記されていない。証拠と言えるものは、土方に壮絶な拷問を受け、無理矢理自白させられた古高が語ったとされる発言のみで、その古高も早々に処刑されており、客観的な証拠が乏しいことが挙げられる。
また、近藤は故郷への書簡の中で、当日は病人が多く人手が少なかったとしているが、事件直前に脱走者が多く出ていたためとする説がある。
司馬の小説『竜馬がゆく』などでは、山崎丞が薬屋に変装し事前に池田屋に潜入して探索し、突入前に戸の錠を開けたことになっている。しかし、山崎の確報があったならば最初から主力を池田屋に差し向けたはずであり、山崎の名は褒賞者名簿にはないことから、実際は屯所残留組であったと推定される。
近藤の書簡や永倉新八の手記『浪士文久報国記事』によると、当日は近藤隊10名、土方隊12名、井上源三郎隊12名の三手に別れて探索を行っており、応援に駆けつけたのは井上隊である。
近藤の書簡によると、池田屋に乗込んだのは近藤、沖田、永倉、藤堂、近藤周平の5名ということになっているが、永倉の手記や、事件後の褒賞者名簿から推定すると、近藤、沖田、永倉、藤堂、奥沢、安藤、新田、谷万太郎、武田観柳斎、浅野薫の10名である。
桂の手記によると、池田屋での会合は古高捕縛後に急遽決定されたもので、事前に新選組が場所を察知していたとは考えにくい。永倉は「片っ端から」探索した旨を述べており、また事件直前に祇園の井筒屋に新選組が探索を行った記録があるため、実際には会合場所がどこであるかは把握しておらず、多くの場所を探索していたと考えられる。
新選組出動隊士一覧
池田屋事件に出動した新選組隊士は以下の通り(諸説有り)
近藤隊(10名)
・近藤勇
・沖田総司
・永倉新八
・藤堂平助
・谷万太郎
・浅野薫(藤太郎)
・奥沢栄助
・新田革左衛門
土方隊(12名か24名)
・土方歳三
・斎藤一
・島田魁
・谷三十郎
・川島勝司
・蟻通勘吾
・篠塚峰三
・林信太郎
・三品仲治
松原隊(12名)
諸説有り。井上隊とも、土方隊とも。
・松原忠司
・宿院良蔵
・伊木八郎
・中村金吾
・酒井兵庫
・木内峰太
・近藤周平
屯所守備
・山南敬助
・尾関雅次郎
・柳田三二郎
・山崎丞
・尾形俊太郎
・山野八十八
なお、当時所属していた馬詰信十郎・馬詰柳太郎はこの日に脱走した為に不参加。
尊王攘夷派志士
池田屋事件で襲撃された主な志士
・宮部鼎蔵(肥後藩。池田屋で自刃)
・北添佶摩(土佐藩。池田屋で自刃。子母澤寛の創作中の階段落ちで有名)
・淵上郁太郎(久留米藩。脱出)
・大高又次郎(林田藩。池田屋で闘死)
・石川潤次郎(土佐藩。池田屋で闘死)
・松田重助(肥後藩。池田屋で闘死)
・伊藤弘長(土佐藩。池田屋で闘死)
・福岡祐次郎(伊予松山藩。池田屋で闘死)
・越智正之(土佐藩。池田屋で闘死)
・広岡浪秀(長州藩の神職。池田屋で闘死)
・吉田稔麿(長州藩。脱出後自刃)
・望月亀弥太(土佐藩。脱出後自刃)
・杉山松助(事件を知り長州藩邸から駆けつけるが会津藩兵に斬られ、後に死亡)
・野老山吾吉郎(土佐藩。戦闘の後、脱出。儒学者・板倉槐堂を頼り、後に長州藩邸で自刃)
・藤崎八郎(土佐藩。三条小橋で負傷後自刃、あるいは大坂土佐藩邸に送られた後死亡とも)
・近江屋まさ(近江屋女将(42歳)。近江屋で殺害される。「ふさ」とも)
・酒井金三郎(長府藩。縄手後で殺される)
・内山太郎右衛門(長州藩の無給通士。捕縛され、7月20日(8月21日)に刑死)
・佐伯稜威雄(長州藩の神職。捕縛され、慶応元年6月4日(1865年7月26日)に刑死)
・佐藤一郎(長州藩京都藩邸吏。捕縛され、7月20日(8月21日)に刑死)
・山田虎之助(長州藩の無給通士。いったん脱出。後に捕縛)
・大高忠兵衛(林田藩。大高又次郎の弟。いったん脱出。後に捕縛され、7月4日(8月5日)に獄死)
・北村善吉(又次郎の門人。槍傷を負うが、池田屋裏から川辺に逃れ、舟入の中へひそんで助かる)
・瀬尾幸十郎(捕縛)
・安藤鉄馬(捕縛されるが逃れる)
・沢井帯刀(捕縛)
・大中主膳(捕縛)
・森主計(京。捕縛)
・西川耕造(京。いったん脱出。10日後に捕縛され、元治2年2月11日(1865年3月8日)に獄死)
・木村甚五郎(京。久坂玄瑞と間違われ、捕縛)
・今井三郎右衛門(豊岡藩(46歳)。捕縛され、刑死)
・村上俊平(上野佐位郡出身。捕縛され、刑死)
・河田佐久馬(因州。脱出)
・高木元右衛門(肥後藩。脱出して長州藩邸へ逃れる)
・宮部春蔵(肥後藩。鼎蔵の弟。長州藩邸へ逃れる)
・岩佐某(丹波。池田屋の風呂桶の中に隠れて助かる)
・有吉熊次郎(長州藩。長州藩邸に脱出)
・大沢逸平(長州藩。長州藩邸に脱出)
・松山良造(越後国。松山高吉の従兄弟、元新選組とも。脱出)
・田中長九郎(京。捕縛)
・吉田五郎(越前出身。捕縛)
・南雲平馬(上野利根郡沼田村出身。捕縛)
・国重正文(長州藩。脱出)
・錦織有無之助(尾張藩。二階南側より逃走、水戸藩邸に逃げるも追い出され、捕縛され、刑死)
池田屋事件で捕縛された一般人
・入江惣兵衛(池田屋主人。獄死)
・入江彦助(惣兵衛の弟)
・近江屋宇兵衛(近江屋主人)
・近江屋きん(近江屋の人)
・近江屋とき(近江屋の人)
・和泉屋重助(和泉屋主人。刑死)
・幸次郎(和泉屋手代。刑死)
・丹波屋次郎兵衛(丹波屋主人。刑死)
・丹波屋万助(次郎兵衛の子。刑死)
・松下喜三郎(町人)
・吉兵衛(町人)
・勇助(長州藩邸門番)
など
事件後の池田屋
事件後、尊攘派志士をかくまっていたとして、池田屋主人の池田屋惣兵衛が捕縛され、獄死。池田屋も7か月間の営業停止となった。その後、親類により近在で営業を再開したが、のちに廃業し、現存しない。
元の池田屋は人手に渡り、別の経営者が佐々木旅館として営業していたが、廃業した。1960年ごろまでは当時の建物も残っていたが、その後取り壊され、跡地はテナントビル(1978年ごろはケンタッキーフライドチキンの店舗)やパチンコ屋など転々として、2009年に、居酒屋チェーンのチムニーが、新選組をテーマにした居酒屋「海鮮茶屋 池田屋 はなの舞」を開業している。
当地には、佐々木旅館の縁者が建立した「池田屋騒動之址」と刻まれた石碑がある。
脚注
1. 『池田屋事件の研究』p.181
参考文献
・伊東成郎『新選組は京都で何をしていたか』、KTC中央出版
・原口清「禁門の変の一考察」『名城商学』46巻2号~3号、名城大学商学会
関連項目
・明保野亭事件
・禁門の変
・寺田屋事件
・近江屋事件
(wikiより)
6634 中野喜八墓(東山区清閑寺霊山町1・霊山護国神社)
6633 徳蔵墓(東山区清閑寺霊山町1・霊山護国神社)
6632 玉之石卯吉墓(東山区清閑寺霊山町1・霊山護国神社)
6631 先山倫之進墓(東山区清閑寺霊山町1・霊山護国神社)
6630 松野頴墓(東山区清閑寺霊山町1・霊山護国神社)
6629 山田善次郎墓(東山区清閑寺霊山町1・霊山護国神社)
6628 ジョン・ロレンス墓(豊島区南池袋4-25-1・雑司が谷霊園)
6627 和田垣謙三墓(豊島区南池袋4-25-1・雑司が谷霊園)
経歴
但馬国(現兵庫県)出身。豊岡藩士・和田垣譲の次男。1881年東京帝国大学卒業後、ヨーロッパに留学し、ケンブリッジ大学・ベルリン大学で学び、1883年に帰国。文部省御用掛を経て、1886年帝国大学法科大学教授となり、金井延とともに学部を主導、シュタインやワグナーの社会政策学派財政学を導入、自由主義経済学からの転換を促した。1891年法学博士。1898年の農科大学教授に転じる。また日本女子商業学校校長、東京商業学校校長として民間実業教育に尽力。
1919年、腎臓炎のため死去[1]。
栄典
位階
・1903年(明治36年)10月30日 - 従四位[2]
・1919年(大正8年)7月19日 - 正三位[4]
勲章等
・1900年(明治33年)12月20日 - 勲四等瑞宝章[5]
・1904年(明治37年)12月27日 - 勲三等瑞宝章[6]
・1912年(大正元年)12月18日 - 勲二等瑞宝章[7]
・1919年(大正8年)7月19日 - 勲一等瑞宝章[9]
著書
・『経済教科書』文学社、1901
・『新英和辞典』大倉書店、1901
・『英文典』文学社、1902
・『中学英文典』文学社、1902
・『法制教科書』文学社、1902
・『法制講義』修学堂、1904
・『経済講義』修学堂、1905
・『和英新辞典 会話作文』修学堂、1908
・『青年諸君』至誠堂、1909
・『世界商業史要』至誠堂、1909
・『餅 処世訓話』至誠堂、1909
・『法制経済新教科書』文学社、1911
・『兎糞録』至誠堂書店、1913
・『吐雲録』至誠堂書店 大正名著文庫、1914
・『西遊スケツチ』至誠堂書店 大正名著文庫、1915
・『家庭經濟』婦人文庫刊行会、1917
・『意外録』南北社出版部、1918
・『和田垣博士傑作集』大町桂月編 至誠堂書店、1921
共著
・『外国語研究要論』井上哲次郎共著 磯辺弥一郎、1891
・『實用いろは引和英新字典』生田弘治、星野久成共著 東華堂書店、1908
・『英和俗語熟語故事大辭典』新渡戸稲造、坪内雄蔵共監輯 實業之日本社、1911
・『高等英作文 受験参考』若目田武次共編 北文館、1917
翻訳
・エル・エル・プライス『英国商業史』津田欽一郎共訳 早稲田大学出版部、1904
・グリム原著『家庭お伽噺』星野久成共訳 小川尚栄堂、1909
・アンダーセン原著『教育お伽噺』星野久成共訳 小川尚栄堂、1910
・セルヴァンテス『ドン・キホーテ冒険お迦噺』星野久成共訳 小川尚栄堂、1916
脚注
1. 服部敏良『事典有名人の死亡診断 近代編』(吉川弘文館、2010年)344頁
2. 『官報』第6101号「叙任及辞令」1903年10月31日。
3. 『官報』第7640号「叙任及辞令」1908年12月12日。
4. 『官報』第2088号「叙任及辞令」1919年7月21日。
5. 『官報』第5243号「叙任及辞令」1900年12月21日。
6. 『官報』第6450号「叙任及辞令」1904年12月28日。
7. 『官報』第124号「叙任及辞令」1912年12月27日。
8. 『官報』第1310号・付録「辞令」1916年12月13日。
9. 『官報』第2088号「叙任及辞令」1919年7月21日。
参考文献
・コトバンク
関連文献
・「東京帝国大学教授法学博士和田垣謙三叙勲ノ件」(国立公文書館所蔵 「叙勲裁可書・大正八年・叙勲巻五」)
・「法学博士和田垣謙三君」(花房吉太郎、山本源太編輯 『日本博士全伝』 博文館、1892年8月)
・花房吉太郎、山本源太著 『日本博士全伝』 日本図書センター〈日本人物誌叢書〉、1990年9月、ISBN 4820540300
・矢作栄蔵編 『和田垣教授在職二十五年記念 経済論叢』 有斐閣書房、1914年
・「故法学博士 和田垣謙三」(井関九郎監修 『大日本博士録 第壱巻 法学博士及薬学博士之部』 発展社、1921年1月)
・大町桂月編 『和田垣博士傑作集』 至誠堂書店、1921年7月
・渋木直一編 『吐雲余影』 渋木直一、1934年2月
・大淵利男 「和田垣謙三と『財政学』について」(『法学紀要』第29巻、日本大学法学部法学研究所、1988年2月、NAID 40003457835)
・「和田垣謙三の財政思想とその展開」(『日本大学法学部 創立百周年記念論文集 第2巻 政治・経済・新聞学編』 日本大学法学部、1989年11月)
・三島憲之 「和田垣謙三と明治・大正期の経済学界(I) : 和田垣の経歴と活動を中心に(1)」(『東北公益文科大学総合研究論集』4、2002年12月、NAID 110004557362)
・「和田垣謙三と明治・大正期の経済学界(I) : 和田垣の経歴と活動を中心に(2)」(同誌 5、2003年5月、NAID 110004530763)
・「和田垣謙三と明治・大正期の経済学界(I) : 和田垣の経歴と活動を中心に(3)」(同誌 7、2004年5月、NAID 110004634550)
(wikiより)
和田垣謙三
6626 藤井希璞墓(港区南青山2-32-2・青山霊園)
経歴
近江国滋賀郡上坂本村(現滋賀県大津市坂本)で、日吉神社社司・生源寺希烈の九男として生まれる[1]。
元治元年6月(1864年7月)有栖川宮家の家士となる[1][3]。慶応3年3月(1867年4月)熾仁親王の密書を携え長州藩に赴き、帰途に諸藩を遊説した[1][3]。同年9月(10月)討幕挙兵計画の疑いで新選組に捕縛され拷問を受けた[1][3]。同年11月、藤井の生命が危険との情報を受け熾仁親王の助命により宮家に戻された[1][3]。
戊辰戦争に際し、慶応4年4月7日(1868年4月29日)大総督として東下する熾仁親王の輔弼を命ぜられ、親王に従い各地を転戦した[4]。明治2年3月10日(1869年4月21日)多年の国事への尽力により賞典禄3人口を終身下賜された[4]。
明治3年9月3日(1870年9月27日)有栖川宮家扶となる[4]。以後、東京府士族卒族触頭、触頭取締、神祇省十一等出仕、宮内省七等出仕、兼有栖川宮家令、宮内省九等出仕、兼伏見宮家令、兼東伏見宮家令、宮内省御用掛、有栖川宮・東伏見宮御附、内閣少書記官、左大臣(熾仁親王)秘書官、有栖川宮家令などを歴任[4]。
1888年6月7日、元老院議官に就任し、1890年10月20日の廃止まで在任して非職となる[4]。
栄典
・1888年(明治21年)12月26日 - 勲四等瑞宝章[5]
・1890年(明治23年)12月26日- 勲三等瑞宝章[6]
脚注
1. a b c d e f g h 『明治維新人名辞典』848-849頁。
2. 『明治過去帳』新訂初版、379頁では「文政7年6月24日」。
3. a b c d 『新選組大人名事典 下』145-146頁。
4. a b c d e 『国立公文書館所蔵 勅奏任官履歴原書 下巻』490-494頁。
5. 『官報』第1650号「授爵叙任及辞令」1888年12月27日。
6. 『官報』第2251号「叙任及辞令」1890年12月27日。
参考文献
・大植四郎編『明治過去帳』新訂初版、東京美術、1971年(原著私家版1935年)。
・日本歴史学会編『明治維新人名辞典』吉川弘文館、1981年。
・我部政男・広瀬順晧編『国立公文書館所蔵 勅奏任官履歴原書 下巻』柏書房、1995年。
・秦郁彦編『日本官僚制総合事典:1868 - 2000』東京大学出版会、2001年。
・新人物往来社編『新選組大人名事典 下』新人物往来社、2001年。
・安岡昭男編『幕末維新大人名事典』下巻、新人物往来社、2010年。
(wikiより)
6625 落合豊三郎墓(港区南青山2-32-2・青山霊園)
経歴
松江藩士・落合鍬蔵の三男として江戸で生まれる[1]。陸軍幼年学校を経て、1879年(明治12年)12月、工兵少尉に任官[1][3]。1880年(明治13年)12月、陸軍士官学校(旧3期)工兵科を卒業[1]。1886年(明治19年)12月、陸軍大学校(2期)を優等で卒業した[1][4]。
参謀本部第3局第1課員、参謀本部第1局員、陸大教官、ドイツ公使館付などを経て、1894年(明治27年)9月、第2軍参謀に発令され日清戦争に出征[1][2][4]。その後、陸大教官、イタリア公使館付、参謀本部第5部長、兼中部都督部参謀長、兼参謀本部第4部長などを経て、1903年(明治36年)5月、陸軍少将に進級した[1][4]。
日露戦争では、第2軍参謀長として出征した[2]。その際、部下の由比光衛参謀副長と対立し、由比は奉天会戦直前に第8師団参謀長に転出した。以後、韓国駐剳軍参謀長、満州軍参謀、同軍総兵站監部参謀長、関東総督府陸軍参謀長、第1師団司令部付、交通兵旅団長、工兵監などを歴任し、1910年(明治43年)3月、陸軍中将に昇進[1][2][4]。1914年(大正3年)5月、東京湾要塞司令官となり翌月に待命[1][4]。同年8月、予備役に編入され[2][4]、1924年(大正13年)4月に後備役となった[1]。
栄典
・1895年(明治28年)
・11月18日 - 明治二十七八年従軍記章[6]
・1896年(明治29年)11月25日 - 勲五等瑞宝章[7]
・1906年(明治39年)4月1日 - 功二級金鵄勲章、勲二等旭日重光章、明治三十七八年従軍記章[8]
・1915年(大正4年)11月10日 - 大礼記念章[9]
親族
・長男 落合鎮彦(満州国軍中将)[1]
・娘婿 園周次(海軍中佐)(伯爵園基祥次男 現青山御流家元園基信 祖父)・高橋真八(陸軍中将)・岡崎清三郎(陸軍中将)[1]
著書
・『孫子例解』軍事教育会、1917年。
脚注
1. a b c d e f g h i j k l m n 『日本陸海軍総合事典』第2版、43頁。
2. a b c d e f 『日本陸軍将官辞典』191頁。
3. 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』57、59頁。
4. a b c d e f 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』59頁。
5. 『官報』第3671号「叙任及辞令」1895年9月21日。
6. 『官報』第3824号・付録「辞令」1896年4月1日。
7. 『官報』第4027号「叙任及辞令」1896年11月30日。
8. 『官報』号外「叙任及辞令」1906年12月30日。
9. 『官報』第1310号・付録「辞令」1916年12月13日。
文献
・岡崎清『落合豊三郎と孫子の兵法』正堂会、1995年。
・秦郁彦編『日本陸海軍総合事典』第2版、東京大学出版会、2005年。
・福川秀樹『日本陸軍将官辞典』芙蓉書房出版、2001年。
6624 佐々木玄竜墓(港区南青山2-32-2・青山霊園)
略伝
江戸で生まれる。幼少より書の修行に励み、「象體の字」を得意とする。天和2年(1682年)、来日した朝鮮通信使の一行と詩文をやりとりし、正徳元年(1711年)7月から幕府に仕え、この時と享保4年(1719年)9月にも朝鮮通信使の接待を任されている。享保6年(1721年)6月25日に致仕。享保8年(1723年)に病を得て没す。享年74歳。武州三縁山(増上寺)浄運院に葬る。法号は「領春院興誉琉霊玄龍居士」[1]。
書法
書家の細井九皋は『墨道私言』で玄龍と弟の文山は朝鮮の書法を学んだ、と書いている。玄龍自身は孟魯軒という清国人の書を蔵しそれを学んだという。細井広沢は孟魯軒はおそらく朝鮮の人で、玄龍の書は趙孟頫を尊重していた朝鮮人に似ると評す。『東川筆記』という文献には、玄龍は長崎の訳司・林道栄の門人であったと書かれている[2]。
玄龍の門人として宝井其角・後藤仲龍などがいる。
脚注
1. 三村竹清『近世能書傳』二見書房、1930年、88-89p。
2. 三村竹清『近世能書傳』二見書房、1930年、93-94p。
(wikiより)
6623 福井清介墓(港区南青山2-32-2・青山霊園)
6622 小野権之丞墓(港区南青山2-32-2・青山霊園)
小野 権之丞 ( おの - ごんのじょう )
諱は義忠。
130石取り上士で、会津藩公用人を務めた。
特に手代木直右衛門とは佐幕派強硬派として志を同じくしており、その指示を仰ぐ事が多い。
粗食を美徳とする会津藩士としては珍しい美食家で、肥満漢。休日には京都で名物の食べ歩きをしているとか。
職務としては、公家方との折衝を担当。
会津藩士らしからぬ洒脱・軽妙で悪びれない性格で二条斉敬・中川宮・三条実美・近衛忠凞らとは特に相性が良く、しばしば使者に立った。
特に文久三年六月には近衛邸に参上して孝明天皇の宸襟を受領。
八月十八日のクーデターの契機を作った。
また、小笠原長行・板倉勝静らと共に対薩長諜報作戦にも参与。大坂城に出張して肥後藩留守居役・上田久兵衛を召喚し、薩長同盟について問い質した。
戊辰戦争に際しては、怪僧・義観らと共に輪王寺宮公現法親王 ( 後の北白川宮能久親王 ) の東武皇帝への擁立に奔走。
結局、この試みは孝明天皇の皇統を重んずる藩主・容保の反対に遭って挫折し、東武皇帝は仙台藩の主導の元仙台支藩の白石城で擁立されるのだが、小野は会津の影響力を保持する為宮家に随従した。
仙台藩が降伏すると、小野は降伏を選んだ宮家と別れて榎本艦隊に投じて五稜郭に向かった。
ちなみに、箱館では何か思うところが有ったのか、これまでの策略家めいた役職を離れ、「病院掛頭取」として箱館病院の事務を統括している。
そして、箱館病院が薩摩軍に保護されると、彼らの依頼を受けて五稜郭との和平を斡旋した ( 但し、この和平は五稜郭側の拒絶により成立しなかった )。
明治二十二年、老衰で死去。
6621 金杉英五郎墓(港区南青山2-32-2・青山霊園)
経歴
下総国香取郡古城村の名主金杉与右衛門の子として生まれる。叔父で、内務省書記官を務めていた金杉恒の養子となる。東京帝国大学医科大学にて医学を学んだ後、ドイツへ留学。その後、1892年に、高木兼寛経営の東京病院(現、東京慈恵会医科大学附属病院)にて勤務をする傍ら、東京慈恵医院医学校(現、東京慈恵会医科大学)にて、講義を行う。後に、東京慈恵医院医学校が、大学令に基づき、大学に昇格した際、東京慈恵会医科大学の初代学長となった。
耳鼻咽喉科という専門科を創設した人物として知られ、「本邦ニ於テ首メテ耳鼻咽喉科ヲ開設シタルハ本院ニシテソノ第一回部長タルハ将ニ不肖ナリ」という書も残しており、東京耳鼻咽喉科学会(現、日本耳鼻咽喉科学会)の創設者でもある。内科系・外科系に分かれていた学問を「耳鼻咽喉科学」としてまとめたのは世界でも初めての試みであり、以来、数多くの医師を輩出した[2]。1917年(大正6年)衆議院議員に当選、1922年(大正11年)貴族院議員勅選。
親族
・妻 金杉タキ(大藪房次郎長女)[3]
・三男 金杉台三(尾高次郎の娘婿)
栄典
・1928年(昭和3年)11月10日 - 勲三等瑞宝章[4]
脚注
1. 漆崎多四郎『貴衆両院議員名鑑』、1919年、p.38。
2. 耳鼻咽喉科の歴史 東京慈恵会医科大学耳鼻咽喉科学教室
3. 人事興信所編『人事興信録』第5版、1918年、か120頁。
4. 『官報』号外「授爵・叙任及辞令」1928年11月10日。
関連項目
・東京博善
・岸一太
(wikiより)
金杉英五郎
6620 宍野半墓(港区南青山2-32-2・青山霊園)
宍野 半(ししの なかば、1844年10月20日(弘化元年9月9日) - 1884年(明治17年)5月13日)は、富士講諸派を結集した教派神道の一派である扶桑教の初代管長で、扶桑教の設立に尽くした日本の宗教家、国学者。
薩摩国隈之城(現鹿児島県薩摩川内市隈之城町)の郷士の家に生まれた。25歳で平田鐵胤に国学を学ぶ[1]。
教部省に勤める。後に大教院の大講義も務めた[1]。駿河国富士郡(現・富士宮市)の浅間神社(現在の富士山本宮浅間大社)の官選初代宮司、山梨県北口の浅間神社(現在の北口本宮冨士浅間神社)の社司を兼務[2]。富士講諸派を結集し扶桑教を設立[1]。1879年(明治12年)には神道事務局会計課長[3]。
皇典講究所創立にも尽力し、「皇典講究所創設告文」を連名で著した[1]。
脚注
1. a b c d 井上順孝ほか編 1996, p. 461.
2. 菅田 1985, pp. 162-163.
3. 井上順孝 1991, p. 37.
参考文献
・井上順孝『教派神道の形成』弘文堂、1991年4月。ISBN 978-4335160219。
・井上順孝ほか編『新宗教教団・人物事典』弘文堂、1996年1月。ISBN 978-4335160288。
・菅田, 正昭『古神道は甦る』たま出版、1985年。ISBN 4884811321。(文庫:1994年。ISBN 4886924603。)
関連項目
・扶桑教
(wikiより)
6619 木越安綱墓(港区南青山2-32-2・青山霊園)
木越 安綱(きごし やすつな、1854年4月22日(嘉永7年3月25日) - 1932年3月26日)は、日本の陸軍軍人、政治家。幼名は三次郎。
陸士旧1期。最終階級は陸軍中将。栄典は従二位勲一等功二級男爵。
帝国陸軍におけるドイツ化の功労者。西南戦争、日清戦争、日露戦争に従軍し、軍功により男爵に叙爵される。
軍閥の系列的には長州閥とされ、序列的には山縣有朋、桂太郎、寺内正毅に次ぐ4番目に位置づけられるまでに至る。
山本権兵衛の第1次山本内閣の陸軍大臣として、軍部大臣現役武官制改正に陸軍の反対を押し切り同意する。これにより予備役でも陸・海軍大臣に就任できるようになった。
生涯
嘉永7年(1854年)4月22日、金沢藩士・砲術師範、加藤忠直の二男として生まれる。同藩奉行職・木越安敷の養子となる。
陸軍教導団を経て、1875年、陸軍士官学校(旧1期)に入る。士官学校在学中の明治10年(1877年)に任官し、西南戦争に出征する。1883年、ドイツに留学し、晩年のモルトケのもと最盛期を迎えていたドイツ参謀本部を目の当たりにする。帰国後はフランス式であった日本の陸軍をドイツ式にあらためる。
日清戦争では第3師団参謀として第3師団長・桂太郎のもとで活躍、朝鮮半島から鴨緑江を渡河し清国領内へと進撃していった。このとき、直属上官であった桂太郎から絶大な信頼を受け、それをきっかけにして長州閥の寵児として出世していく。
明治27年末に大佐に昇進し、明治30年に軍務局軍事課長に就した。翌31年に陸軍少将に昇進するとともに、台湾補給廠長に任命され、さらに台湾総督府陸軍幕僚参謀長となる。明治33年には、軍務局長となり、内地に戻る。翌34年には歩兵第23旅団長に就任する。
日露戦争では韓国臨時派遣隊司令官として真っ先に出征した。歩兵第23旅団を率いて佐世保を出航、仁川港に上陸して鉄道で京城に向かい、韓国駐箚隊を指揮下に入れる。朝鮮半島確保後、黒木為楨大将の第1軍の尖兵として鴨緑江渡河作戦に従事、第1軍最右翼から渡河してロシア軍の退路を攻撃、多大な損害を与えた。
その後、自身の旅団に、騎兵、砲兵、工兵の各1個中隊を加えて木越支隊を編成、師団前衛として遼陽に進撃、ケルレル中将の東部支隊を撃退する。8月30日に始まった遼陽会戦では五頂山を攻め、後続の岡崎生三少将の饅頭山攻めに独断で1個連隊を派遣し支援、その占領をなさしめる。そして、10月13日に陸軍中将に昇進、第5師団長として黒溝台会戦に参加し、第8師団(立見尚文中将)を全滅から救った。さらに、グリッペンベルク大将の大軍を破り、これによりロシア軍の冬季総攻撃の出鼻を挫き、奉天会戦の勝利に貢献した。
1907年9月21日、西南・日清・日露の各役の軍功により男爵を授爵。
1913年1月、第1次山本内閣の陸軍大臣に就任。第一次護憲運動をうけた軍部大臣現役武官制改正案に陸軍は猛反対したものの、最終的に木越が陸軍の意向に逆らう形で、閣僚として改正に同意する。6月13日、予備役でも軍部大臣に就任できるように改正され、6月24日に至って辞任。
この改正以後、陸軍の意向に逆らった木越は冷遇された。陸軍大将に昇進することなく、定年前に予備役に編入される。
昭和7年(1932年)に死去。享年79。
年譜
・1874年(明治7年)9月 - 陸軍教導団卒・陸軍軍曹・熊本鎮台付
・1875年(明治8年)2月 - 陸軍士官学校入校
・1877年(明治10年)2月 - 西南戦争出征
・3月 - 歩兵第9連隊付
・4月 - 少尉試補
・7月3日 - 陸軍少尉
・8月18日 - 戦傷
・12月 - 陸軍士官学校卒業(旧1期)・歩兵第1連隊付
・1878年(明治11年)6月 - 陸士教官
・9月 - 陸士生徒大隊付
・1883年(明治16年)1月 - ドイツ留学(陸大入学)
・2月28日 - 歩兵大尉
・1886年(明治19年)7月 - 帰国
・9月 - 陸軍大学校教授心得
・1887年(明治20年)4月 - 参謀本部陸軍部第1局員・兼陸大教官(- 1888年2月)
・1888年(明治21年)2月17日 - 歩兵少佐・近衛歩兵第3連隊付
・11月 - 近衛歩兵第4連隊付
・1892年(明治25年)9月 - 第3師団参謀
・1894年(明治27年)7月 - 第3師団参謀長心得
・8月 - 日清戦争出征(- 1895年6月)
・11月16日 - 歩兵大佐・第3師団参謀長
・1897年(明治30年)10月 - 陸軍省軍務局軍事課長
・1898年(明治31年)3月3日 - 陸軍少将・台湾陸軍補給廠長
・10月 - 台湾総督府陸軍幕僚参謀長
・1900年(明治33年)4月 - 軍務局長
・1901年(明治34年)2月 - 歩兵第23旅団長
・1904年(明治37年)2月5日 - 兼韓国臨時派遣隊司令官(- 2月20日)
・7月 - 満州軍総司令部付
・10月13日 - 陸軍中将・後備第1師団長
・11月2日 - 第5師団長
・1907年(明治40年)4月 - アメリカ出張(- 6月)
・9月 - 男爵
・1912年(大正元年)
・12月21日 - 陸軍大臣
・12月28日 - 正三位[1]
・1913年(大正2年)6月 - 待命
・1920年(大正9年)5月 - 貴族院議員
栄典
位階
・1880年(明治13年)
・1893年(明治26年)4月11日 - 正六位[4][7]
・1895年(明治28年)2月13日 - 従五位[4][8]
・1898年(明治31年)4月30日 - 正五位[4][9]
・1903年(明治36年)7月10日 - 従四位[4][10]
・1905年(明治38年)7月20日 - 正四位[4][11]
・1908年(明治41年)8月20日 - 従三位[4][12]
・1912年(大正元年)12月28日 - 正三位[4][13]
・1916年(大正5年)4月10日 - 従二位[14]
勲章等
・1889年(明治22年)
・1894年(明治27年)5月29日 - 勲五等瑞宝章[4][16]
・1895年(明治28年)10月18日 - 双光旭日章・功四級金鵄勲章[4][17]
・1898年(明治31年)5月23日 - 勲四等瑞宝章[4][18]
・1900年(明治33年)5月31日 - 勲三等瑞宝章[4][19]
・1901年(明治34年)12月27日 - 勲二等瑞宝章[4][20]
・1906年(明治39年)4月1日 - 功二級金鵄勲章・
勲一等旭日大綬章・明治三十七八年従軍記章[4][21]
・1907年(明治40年)9月21日 - 男爵[4][22]
・1915年(大正4年)11月10日 - 大礼記念章[23]
外国勲章佩用允許
・ 3等寛大公フィリップス勲章(de)
・ レジオンドヌール勲章コマンドゥール
・ 1等鉄冠勲章
・大勲位李花大綬章
親族
・妻 木越美津(みつ、坊城俊政の娘)[24]
・長男 木越専八(陸軍少将・男爵)- 妻の節は伊藤軍兵衛の孫。
・二男 木越二郎(陸軍大佐)
・娘婿 村上啓作(陸軍中将)
・義弟 柳田國男(民俗学者)
詳しいことは、「木越安綱ウィキペディア」をご覧ください。 ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%A8%E8%B6%8A%E5%AE%89%E7%B6%B1
(wikiより)
木越安綱
6618 肝付兼行墓(港区南青山2-32-2・青山霊園)
生涯
鹿児島藩士・肝付兼武の長男[1]。特に測量の分野で活躍した。明治初め、北海道開拓使において測定分野に秀で、水路局に転じ、測量課副長、量地課長を務める。後の日本経緯度原点の基となる、港区麻布台にあった海軍観象台の地点(肝付点)の緯度を測定し、初めて国内経度電信測定を実施した。その後、水路局が海軍水路部になり、測量課長に就任。第2代と第4代の水路部長も務める。柳楢悦とともに、東京数学会社に参加した。
大日本教育会・帝国教育会の役員として海事思想涵養のため、また、水難救済会理事として救難所新設のため、全国各地で講演を行った。1904年(明治37年)から翌年まで海軍大学校長を兼任。1905年(明治38年)には海軍中将。1906年(明治39年)5月28日、予備役に編入[2]。1914年(大正3年)3月1日に後備役となり[3]、1918年3月16日に退役した[4]。
退官後は1907年(明治40年)に男爵、1911年(明治44年)に貴族院議員に勅選[1]、土曜会に所属した。そして1913年(大正2年)には第5代大阪市長に就任したが、間もなく辞任。1917年(大正6年)以降、大日本水産会顧問。
青山墓地に、水路会員が建立した「肝付兼行閣下墓碑」がある。
栄典
位階
・1885年(明治18年)9月16日 - 正六位[5]
・1916年(大正5年)9月30日 - 従三位[8]
勲章等
・1889年(明治22年)11月29日 - 大日本帝国憲法発布記念章[9]
・1890年(明治23年)11月27日 - 勲五等瑞宝章[10]
・1906年(明治39年)4月1日 - 勲二等旭日重光章・明治三十七八年従軍記章[11]
・1907年(明治40年)9月21日 - 男爵 [12]
系譜
肝付氏は本姓大伴氏であるため、大伴兼行とも称した[13]。通称は船太郎。
祖先は天明年間に日置郡串木野の肝付家から分家し、鹿児島城下に移り住んだ。父親は肝付兼武。兼行は兼武の次男であるが、長男は早世した。妻は伯父(兼武の兄)肝付兼赫の二女ムツ。子は肝付兼英(貴族院男爵議員)、孫は肝付兼一(内閣調査室員)。桐野利秋の姻戚にあたる。
著作等
・「本邦沿海ノ大勢ヲ知ラシムルノ教科ヲ小学校ニ設クルノ必要ヲ論シ併セテ該書編輯ノ意見ヲ述フ」大日本教育会雑誌54、1887年4月30日 (1886年5月9日常集会演説)
・「海上の権力 肝付海軍大佐の意見」(1)~(8)、国民新聞1894年10月24、25、26、27、28、30、31日、11月1日号
・「二十世紀の軍事(肝付兼行氏談)」連載、読売新聞1900年1月2、3、4日号
・「我が海国的価値を論じて国民の覚悟に及ぶ」帝国水難救済会機関誌『海』1、1900年7月18日
・「我が海国民の前途」帝国海事協会機関誌『海事雑報』202、1905年7月10日 (沖縄県師範学校での講話)
・「港湾設備の急要」帝国海事協会機関誌『海事雑報』210、1906年3月10日
・「肝付兼行書翰(史料翻刻)」大阪工業大学紀要59巻1号、2014年9月。辻新次、徳富蘇峰宛書翰を収録。
脚注
1. a b c d 『人事興信録 第6版』き55頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2018年11月16日閲覧。
2. 『官報』第6872号、明治39年5月29日。
3. 『官報』第476号、大正3年3月3日。
4. 『官報』第1685号、大正7年3月18日。
5. 『官報』第695号「賞勲叙任」1885年10月23日。
6. 『官報』第2207号「叙任及辞令」1890年11月6日。
7. 『官報』第4046号「叙任及辞令」1896年12月22日。
8. 『官報』第1252号「叙任及辞令」1916年10月2日。
9. 『官報』第1933号「叙任及辞令」1889年12月6日。
10. 『官報』第2229号「叙任及辞令」1890年12月2日。
11. 『官報』号外「叙任及辞令」1907年1月28日。
12. 『官報』第7272号「授爵敍任及辞令」1907年9月23日。
13. 1879年(明治12年)1月6日付、大伴から肝付への改姓届が残る。アジア歴史資料センターRef:C09113398400
参考文献
・『現代名士の演説振』小野田亮正著、博文館、1908年
・人事興信所編『人事興信録 第6版』人事興信所、1921年。
・「肝付男爵薨去」水産界473(大日本水産会)、1922年
・『日本水路史 1871~1971』海上保安庁水路部、1971年
・平間洋一「『陸奥海王国』の建設と海軍 - ウェイバックマシン(2008年9月23日アーカイブ分)」政治経済史学370、1997年
・コヴァルチューク・マリーナ「日清戦争期の日本の新聞に見るA.マハンの『シーパワー』論の展開」大阪大学言語文化学14、2005年
・柴崎力栄「海軍の広報を担当した肝付兼行」大阪工業大学紀要人文社会篇55-2、2011年
・1937年刊行 雑誌「伝記」収録、広瀬豊著「肝付兼武伝」
関連項目
・水路部 (日本海軍)
・柳楢悦
外部リンク
・肝付兼行:作家別作品リスト - 青空文庫
(wikiより)
肝付兼行
6617 仁尾惟茂墓(港区南青山2-32-2・青山霊園)
経歴
土佐藩士仁尾宗直の子として生まれた。安岡良亮の門に学んだ後、戊辰戦争に従軍した。1872年(明治5年)より熊本県に出仕したが、1876年(明治9年)に神風連の乱に遭い、戦いで負傷した。後に福岡県に転じ、福岡収税長に進み、1887年(明治20年)からは大蔵省参事官を兼ねた。
日清戦争がおきると、李氏朝鮮に度支部顧問として派遣され[4]、財政改革にあたった。帰国後は専売事業を手掛け、専売局長、煙草専売局長、煙草専売局長官[5]、専売局長官[6]を歴任した。
1907年(明治40年)に退官し[7]、貴族院議員に勅選された[8]。1916年(大正5年)3月27日、錦鶏間祗候を仰せ付けられる[9]。
栄典
位階
・1907年(明治40年)12月27日 - 正四位[10]
勲章等
・1906年(明治39年)4月1日 - 勲二等旭日重光章[11]
・1921年(大正10年)7月1日 - 第一回国勢調査記念章[12]
・1922年(大正11年)11月14日 - 勲一等瑞宝章[13]
脚注
1. 『大正人名辞典』P.1269
2. 『官報』第1585号、昭和7年4月14日
3. 『官報』第1586号、昭和7年4月15日
4. 『官報』第3440号、明治27年12月14日
5. 『官報』第6275号、明治37年6月2日
6. 『官報』第7279号、明治40年10月2日
7. 『官報』第7342号、明治40年12月17日
8. 『官報』第7337号、明治40年12月11日
9. 『官報』第1094号、大正5年3月28日。
10. 『官報』第7352号「叙任及辞令」1907年12月28日。
11. 『官報』号外「叙任及辞令」1907年3月31日。
12. 『官報』第2858号・付録「辞令」1922年2月14日。
13. 中野文庫 - 旧・勲一等瑞宝章受章者一覧(戦前の部)
参考文献
・五十嵐栄吉『大正人名辞典』東洋新報社、1917年。
(wikiより)
仁尾惟茂
6616 道家斉墓(港区南青山2-32-2・青山霊園)
6615 原口兼済墓(港区南青山2-32-2・青山霊園)
経歴
森藩士・林寛吾の四男として生まれ、同藩士・原口等の養子となる。1870年、陸軍兵学寮青年学舎に入り、1872年、陸軍少尉に任官し5番大隊付となる。歩兵第1連隊大隊副官、陸軍士官学校付などを経て、1877年3月から9月まで西南戦争に出征した。
歩兵第3連隊大隊長、陸士生徒司令官、陸軍戸山学校次長、ドイツ差遣、戸山学校長、近衛歩兵第1連隊長などを歴任し、日清戦争末に第4師団参謀長として出征したが終戦となった。再度、戸山学校長となり、1897年9月、陸軍少将に進級。歩兵第20旅団長、台湾守備混成第1旅団長、歩兵第17旅団長、留守第1師団長、韓国駐剳軍司令官、大本営付、教育総監部参謀長などを経て、1905年1月、陸軍中将となった。日露戦争では第13師団長として樺太作戦を遂行、樺太全土を占領した。1906年7月に休職し、翌年11月13日、予備役に編入された[1]。1909年4月1日、後備役となる[2]。1914年4月1日に退役した[3]。
1907年9月、男爵を叙爵。1910年8月から1918年7月まで貴族院議員を務めた。
親族
・杉栄三郎 - 二女の夫。帝室博物館総長。
栄典
・1889年(明治22年)11月29日 - 大日本帝国憲法発布記念章[4]
・1892年(明治25年)11月29日 - 勲三等瑞宝章[5]
・1899年(明治32年)11月10日 - 勲二等瑞宝章[6]
・1905年(明治38年)
・1906年(明治39年)4月1日 - 功三級金鵄勲章、旭日大綬章、明治三十七八年従軍記章[9]
・1907年(明治40年)
・1915年(大正4年)11月10日 - 大礼記念章[12]
脚注
1. 『官報』第7315号、明治40年11月14日。
2. 『官報』第7754号、明治42年5月4日。
3. 『官報』第503号、大正3年4月6日。
4. 『官報』第1936号「叙任及辞令」1889年12月10日。
5. 『官報』第2828号「叙任及辞令」1892年11月30日。
6. 『官報』第4910号「叙任及辞令」1899年11月11日。
7. 『官報』第6582号「叙任及辞令」1905年6月10日。
8. 『官報』第6727号「叙任及辞令」1905年12月1日。
9. 『官報』号外「叙任及辞令」1906年12月30日。
10. 『官報』第7272号「授爵敍任及辞令」1907年9月23日。
11. 『官報』第7337号「叙任及辞令」1907年12月11日。
12. 『官報』第1310号・付録「辞令」1916年12月13日。
参考文献
・秦郁彦編『日本陸海軍総合事典』第2版、東京大学出版会、2005年。
・福川秀樹『日本陸軍将官辞典』芙蓉書房出版、2001年。
6614 片山潜墓(港区南青山2-32-2・青山霊園)
生涯
美作国久米南条郡羽出木村(後の弓削町、現在の岡山県久米郡久米南町羽出木)に庄屋藪木家の次男として生まれる。幼名は菅太郎(すがたろう)。
1877年(明治10年)10月、神目村(現在の久米南町神目中)の親戚・片山幾太郎の養子となる。この養子縁組は兵役忌避が目的だったと言われている。安達清風の私塾で学んだのち、1880年(明治13年)に岡山師範学校(現在の岡山大学教育学部)に入学するが、翌1881年(明治14年)に退学して上京。攻玉社にて塾僕として勤務し、1884年(明治17年)、友人岩崎清七に続いてアメリカ合衆国へ渡る。岩崎とは、岡鹿門の私塾で塾僕をしていたときに知り合い、岩崎の故郷の森鴎村の塾僕を務めたり、潜に続いて岩崎も攻玉社で学ぶなど親しい間柄だった[2]。留学中も金欠の片山のためにイェール大学学友の大久保利武や松方幸次郎に寄付を頼んで仕送りするなど生涯にわたって支援した[2]。
サンフランシスコ郊外サンラフェールという村の小さな家塾で皿洗いをして働く。その後、サンフランシスコ下町の大工の家、ポノマの宿屋、アラメダの家庭にコックをして住み込む。アラメダで中国人のキリスト教会に通い英語とキリスト教を学ぶ[注釈 1]。そして、1886年11月組合教会の教会でキリスト教の洗礼を受ける[3]。その後、苦学してメリーヴィル大学、グリンネル大学、アンドーヴァー神学校、イェール神学校で学び社会的キリスト教の感化を受ける。また、プラトンやソフォクレスなどの原典を通じて、西洋古典学を修め[4]、学位を取得して1896年(明治29年)、帰国した。
帰国後、東京専門学校の英語学部の主任講師として英語を教えるも、3カ月で解職となる[5]。
1896年、『六合雑誌』明治29年10月15日号の社告によれば、189号から片山が編集員になった。
その後は牧師か伝道師を志望したが叶わず、イギリスを源流とするアメリカのセツルメント運動に共感。宣教師ダニエル・クロスビー・グリーンの支援を受け、友人である高野房太郎とともに神田区三崎町の自宅を改良し、キリスト教社会事業の拠点として1897年(明治30年)3月1日、日本最初の隣保館である「キングスレー館」を設立した[6]。
キングスレー館の運営の傍らで片山は労働運動に力を尽くし、1897年(明治30年)12月1日『労働世界』を創刊し主筆を務め、日本で最初の労働組合である職工義勇会(労働組合期成会)の設立に大きな役割を果たす。1897年(明治30年)4月に中村太八郎の社会問題研究会(後の社会主義研究会)結成に加わり、1901年(明治34年)5月20日に社会主義研究会を改組した日本で最初の社会主義政党である社会民主党(即日禁止)に幸徳秋水らとともに入党した。1897年10月3日、社会政策学会加入を認められる(1999年5月以後自然的に脱会)[7]。1899年7月9日、活版工同志懇話会主催演説会で、労資協調主義を脱却しはじめた片山と高野房太郎・金井延との対立が明確化[8]。1901年9月21日、大日本労働団体連合本部の労資協調論を批判し脱退[9]。1903年4月19日『都市社会主義』刊行。
また1903年(明治36年)12月に再度渡米し、翌1904年(明治37年)、第二インターナショナルの第五回大会で安部磯雄とともに本部員に選ばれていた片山はアムステルダムで開催した万国社会党の第六回大会に出席。折しも日露戦争の最中にあって、ロシア代表のプレハーノフとともに労働者の反戦を訴えた。8月14日副議長に選出された。
1906年(明治39年)、日本社会党結党に参加。しかし、片山と安部らは議会政策論を説き[10]、直接行動論を採る幸徳秋水らと対立し袂を分けた。1907年6月25日、片山・田添鉄二ら、日本社会平民党を結成、6月27日、結社禁止[11]。1911年(明治44年)12月31日から元日夕刻までの、市営に合併した旧東京鉄道会社の解散手当分配金を不満とした1000人余の東京市電ストライキの指導を行ったとして逮捕され投獄された。1912年(大正元年)9月、大正天皇即位の大赦[12]によって出獄。その後、1914年(大正3年)9月9日にアメリカへ亡命し、1917年(大正6年)のロシア革命により、マルクス・レーニン主義に傾倒。アメリカ共産党、メキシコ共産党の結党に尽力するなど北米での共産主義活動を行った。
1921年(大正10年)、ソビエト連邦に渡り、コミンテルン常任執行委員会幹部となる。国外にあって日本共産党結党の指導を行い、また国際反帝同盟を指導し反戦運動に従事した。
任務の秘匿ができない人物であると同時に、あまりに業務遂行が非効率と判断され、数度の海外任務のあと、モスクワにとどめられた。晩年は重病だったことから二人の娘の世話になることが多く、既婚者だったことを報告すらされていなかったコミンテルンから不審に思われ結果として娘たちが粛清を受ける一因になった。1922年1月22日、モスクワで開催の極東民族会議に片山・高瀬清・徳田球一らが出席。1933年(昭和8年)11月5日に敗血症のため[13]モスクワの病院で死去。9日に行われた葬儀には15万人のソビエト市民やコミンテルン指導者らが集まった。棺に付き添った14人には、ミハイル・カリーニン、ヨシフ・スターリン、ヴィルヘルム・ピーク、クン・ベーラ、野坂参三たちがいた。遺骨はクレムリン宮殿の壁に他の倒れた同志たちと共に埋葬されたほか、脳は頭脳研究所の解剖学的材料にされた[14]。
親族
実父の国平は、潜が3歳のときに離婚して僧侶となった[15]。潜は19歳で片山幾太郎と、37歳で片山常吉と養子縁組した[15]。妻の横塚フデ(筆子)は、岩崎清七の遠縁(実弟亀次郎の妻の親戚)で[2]、1897年に結婚し、1899年に長女やす(安子)、1901年に長男幹一をもうけた[15]。1903年にフデが死去したため、1907年に後妻として原たま(賜子)を迎え、翌年次女の千代が生まれる[15]。
幹一は、フデ没後に岩崎の弟亀次郎や後妻のたまの実家で育ち慶応義塾大学予科に入学するも22歳で病死[2]。安子は大正初期に父とともに渡米し従姉にあたる原信子と知己になる。日本に帰国して仏英和女学校を卒業するも潜が亡命によって再度アメリカに出国すると父を追い、アンナ・パヴロワに師事。バレリーナとして渡欧しオペラ歌手として実績を積み上げていた原とも共演をこなした[2]が、父の病状悪化に伴いソ連に入国。看病による過労でバレリーナの道を諦めるものの、父の死後に日本語講師となりながら日本共産党幹部でソ連に滞在していた伊藤政之助と結婚した。千代は昭和初期にソ連の父の許に赴き、身の回りのお世話をしながら働いた[2]。同居している女性についてコミンテルンから問い合わされた際には潜は娘だと説明していたが、コミンテルンは潜が既婚者だということすら把握しておらず、日本共産党でもこの「娘」の存在を把握していなかったことで千代を日本の秘密警察のスパイであると確信したとされる[16]。父の死後、千代は各地を転々としながら重労働に従事し、日本への帰国もかなわぬまま1946年にモスクワの精神病院で死去。安子も夫の伊藤が大粛清の犠牲となったが、スターリン批判後の1956年にモスクワ大学アジア・アフリカ研究所に職を得、1958年からはソ日友好協会副会長として日ソ交流に大きく関わる。1988年に死去。
比叡山の大僧正から善光寺大勧進の院主となった水尾寂暁は潜の実弟[2]。
脚注
注釈
1. 阿川尚之『アメリカが見つかりましたか(戦前篇)』都市出版、1998年。阿川によると、『渡米案内』という片山の『自伝』引用される書物よると、「日曜日に教会に行く機会を得遂に耶蘇教徒となると得たり」と記しているのに、『自伝』では「予は耶蘇教徒になっても熱したこともなく、冷めたこともなかった、アンドーヴァー神学校に学んだ時は聖書を八つ裂きにして研究もしたが、耶蘇に対して変わった感情も持たなかった。最初から、余は耶蘇を神と思わなかったからであらう。」と記している。阿川は、モスクワに身を寄せたマルキスト片山によって、若いころ熱心なキリスト教徒であったのは具合が悪かったのだろうと述べている。
出典
1. 『国民年鑑 昭和10年』国民新聞社、1934年、p.550
2. a b c d e f g 『欧米遊蹤』岩崎清七、アトリエ社、1933、p139-
3. 辻野功「片山潜」『日本キリスト教歴史大事典』教文館、1988年、p297
4. Watanabe, A. (2008). “Classica Japonica: Greece and Rome in the Japanese Academia and Popular Literature”. Amphora 7: 6f.
5. 社会問題の顕在化と早稲田大学
6. 労働世界6号
7. 日本社会政策学会史 関谷耕一
8. 片山潜 隅谷三喜男
9. 日本労働運動史料1 労働運動史料委員会編
10. 東京朝日新聞1933年11月7日付
11. 社会主義者沿革 明治文献資料刊行会
12. 『官報』第55号、大正元年10月5日、p.141
13. 服部敏良『事典有名人の死亡診断 近代編』付録「近代有名人の死因一覧」(吉川弘文館、2010年)8頁
14. ドミトリー・ヴォルコゴーノフ (1995). レーニンの秘密(下). 日本放送出版協会
15. a b c d 片山潜記念館(久米南町)津山瓦版、2017年09月21日
16. Aino Kuusinen (1974). Before and After Stalin. Michael Joseph
回想
・新版『片山潜 歩いてきた道』日本図書センター「人間の記録」、2000年
・片山やす『わたしの歩んだ道 父片山潜の思い出とともに』成文社、2009年
エリザヴェータ・ジワニードワ編/小山内道子編訳
参考文献
・辻野功「片山潜」『日本キリスト教歴史大事典』教文館、1988年、p.297
・阿川尚之『アメリカが見つかりましたか』都市出版、1998年11月。ISBN 4-924831-79-4。
・「初期コミンテルンと東アジア」研究会 編著『初期コミンテルンと東アジア』不二出版、2007年2月。ISBN 978-4-8350-5755-2。
・山内昭人『初期コミンテルンと在外日本人社会主義者 越境するネットワーク』ミネルヴァ書房「西洋史ライブラリー」、2009年
・第2章「片山潜、在米日本人社会主義団と初期コミンテルン」
・第4章「片山潜、在露日本人共産主義者と初期コミンテルン」
外部リンク
・『片山潜』 - コトバンク
・岡山県久米南町の紹介(郷土の偉人)
関連項目
・勝野金政
・松本武一郎(松本重雄の伯父) - 1899年に片山らと蓄音機とレコードの店「三光堂」開業した
(wikiより)
片山 潜
6613 岡田庄次墓(谷中7-17-2・了ごん寺)
6612 高木背水墓(港区南青山2-32-2・青山霊園)
6611 高橋良明墓(横浜市港北区篠原町2777・観音寺)
来歴・人物
東京都で生まれ、神奈川県横浜市で育つ。1984年(昭和59年)に児童劇団東京宝映(宝映テレビプロダクションの前身)に入所し、子役として芸能界デビュー。1985年(昭和60年)に出演したテレビドラマ『うちの子にかぎって2』(TBS系列)で人気を博し、1987年(昭和62年)には『オヨビでない奴!』(同)でドラマ初主演。また、同年11月21日には「天使の反乱」(キングレコード)でアイドル歌手としてもデビュー。同楽曲はオリコンランキングの9位にランクインした。歌手デビューから1年間で発表したレコードの総売上は81万枚に達した[1]。
1989年(昭和64年)1月5日夜、横浜市青葉区から川崎市麻生区にかけてオートバイで走行中、車道を横断してきた歩行者(中学生)に接触。バランスを崩して路上駐車していた自動車に激突、負傷した。事故後高橋は東京都稲城市内の脳神経外科病院に救急搬送された。
4日後の(平成元年)1月9日には意識が回復した[2] が、同月22日に容態が急変、意識不明となり、翌23日午前2時46分に死亡した。死亡当日、聖マリアンナ医科大学にて司法解剖が行われ、死因は頭部打撲による小脳くも膜下出血及び中脳出血と診断された。
この事故の際、高橋は中型バイクを運転していたが、前年(1988年(昭和63年))10月に原付免許を取得していたものの、普通自動二輪車の免許は取得していなかったため無免許運転をしていたことになる[注 1]。被害者である中学生は大腿部を骨折して全治2カ月の重傷を負った。高橋の死後、被疑者死亡による不起訴処分とされた。高橋は免許条件違反を犯していたため、事故前に収録されていた出演テレビドラマ『春日局』(NHK大河ドラマ)の「総集編」放送(1989年12月)では、高橋の全出演シーンがカットされるという措置がとられた。また、事故後の急死は医療事故であり、高橋の遺体に病院の浴衣を着せることを高橋の家族が拒否したとの報道もあった。また、この報道によって病院側が高橋家を名誉棄損で訴えた。結果は病院側の敗訴に終わった。
高橋の葬儀には女子中高生などをはじめとするファン5000人が押しかけた。追悼ライブでは1万5000人のファンが集まった。その後も追悼アルバムやベストアルバムなどが発売されている。
家族
兄弟は、2歳年下の弟と4歳年下の妹がいる。そのうち弟である高橋知秀は良明の死後にシンガーソングライターとして活動していた。知秀は2005年(平成17年)12月4日に東京都立日比谷高等学校の星陵会館(東京・永田町)にて行われた『高橋良明17回忌メモリアルライブ』にも出演。同日、知秀は良明の持ち歌の『天使の反乱』をカバー収録したオリジナルアルバム『希望の歌』(ベルウッドレーベル)を発売した。
知秀自身も2008年(平成20年)10月末、交通事故により重傷を負った。一命は取り留めたものの、それ以降は音楽活動から退いたままとなり、復帰の目処は立っていない。
広島東洋カープなどに所属していた元プロ野球選手の高橋慶彦は高橋良明・知秀兄弟の従兄にあたる。
2013年8月16日の『爆報! THE フライデー』に母親と妹が出演した。
エピソード
ドラマ『オヨビでない奴!』の主演が評価され、共演者である植木等・所ジョージとの3ショットがきっかけで、「第二の植木等」・「第二の所ジョージ」と評された[2]。
『オヨビでない奴!』『五稜郭』などで共演した石川博之とは横浜市立すすき野中学校の同級生であり友人だった。なお、石川もまた、高橋が事故死した翌1990年(平成2年)10月末、同じくバイク運転中にトラックと衝突し死亡した。
様々な番組で共演した松本留美を母親のように慕っており、笑っていいとも!の出演時の次回のゲスト紹介の時も松本を紹介した。さらに、生涯最後の出演作である『春日局』で共演したガッツ石松とは親子盃を誓った仲だと証言されているが、後にガッツ石松はそれを否定している[2]。
主な出演作品
テレビドラマ
・ポーラテレビ小説「夢かける女」(1985年、TBS)
・電撃戦隊チェンジマン(1985年、テレビ朝日)
・うちの子にかぎって2(1985年、TBS) - 羽田功 役
・うちの子にかぎって…スペシャル1(1986年4月18日、TBS) - 羽田功 役
・うちの子にかぎって…SpecialII(1987年4月1日、TBS) - 羽田功 役
・月曜ドラマランド(フジテレビ)
・「おとぼけ駅員 キップくん」(1985年6月24日)
・「おとぼけ駅員 キップくん2」(1986年2月17日)
・巨獣特捜ジャスピオン 第42話(1986年、テレビ朝日)
・夏休み特別企画「十五少年漂流記 忘れられない夏休み」(1986年、TBS)
・土曜グランド劇場「新・熱中時代宣言」(1986年、日本テレビ)
・痛快!OL通り(1986年、TBS) - 与那嶺サチオ 役
・金曜女のスペシャル「その年の冬」(1986年11月21日、フジテレビ)
・ママはアイドル 第9話、第10話(1987年、TBS) - サッカー部員 役
・オヨビでない奴!(1987年、TBS) - 主演・風間遊介 役
・パパはニュースキャスタースペシャル 摩天楼はバラ色に(1987年10月2日、TBS) - 竹田トオル 役
・痛快!ロックンロール通り(1988年、TBS)
・土曜スーパースペシャル「キャッツ・アイ」(1988年7月23日、日本テレビ) - 河野哲 役
・避暑地の猫(1988年、テレビ朝日) - 主演・久保修平(少年期) 役
・年末時代劇スペシャル「五稜郭」(1988年12月30日・31日、日本テレビ) - 玉置良三 役
・NHK大河ドラマ「春日局」(1989年、NHK) - 斎藤利宗〈少年時代〉 役
・他にもツヨシしっかりしなさい(1989年、日本テレビ) に主演予定で全キャスト発表済だったが、他界により主演は森且行に急遽変更された。
映画
・コミック雑誌なんかいらない!(1986年)
バラエティー番組
・森田一義アワー 笑っていいとも!(1988年5月18日、フジテレビ)※テレフォンショッキング初登場
CM
・NTT東日本(1986年)
・オドイーター(1987年)
ラジオ
・一輝と良明 どんまいフレンド(1988年、ニッポン放送)
楽曲
シングル
1. 天使の反乱/Let's Dance(1987年11月21日、キングレコード)オリコンチャート最高位 9位
2. 恋の3.2.1/マドンナをおとせ(1988年4月21日、キングレコード)最高位 6位
3. ヴィーナスの失敗/STAND UP!(1988年7月11日、キングレコード)最高位 7位
4. 悲しきバッド・ボーイ/突然…KISS!(1988年10月21日、キングレコード)最高位 23位
5. 抱きしめて…サンライズ/夢で逢えるさ(1989年1月1日、キングレコード)最高位 43位
6. 夢で逢えるさ/抱きしめて…サンライズ(1989年2月25日、キングレコード)※追悼シングル 最高位 54位
アルバム
・もうちょっとでヒーロー(1988年2月10日) - ミニアルバム
・夏物語へようこそ!(1988年7月11日)
・Stay With Me(1988年12月16日) - 限定版
・夢で逢えるさ(1989年3月21日) - 追悼アルバム
・高橋良明 FOREVER(1990年2月21日)
・高橋良明パーフェクトベスト(2010年7月7日) - ベストアルバム(ASIN B003I8WZMM)
参考文献
・週刊明星(1989年2月9日)
脚注
注釈
1. オートバイは近く中型免許を取得する予定でいた高橋本人が事前に購入していた所有物である。借りていたビデオを返却しに行く途中の事故だった
出典
1. 【プレイバック芸能スキャンダル史】 トップアイドル高橋良明がバイク事故死、日刊ゲンダイ、2013年10月31日 掲載。
2. a b c 2013年8月16日放送の「爆報! THE フライデー」での証言[信頼性要検証]
関連項目
・辻本祐樹 - 宝映テレビプロダクションに所属していたジュニアアイドル時代の2002年(平成14年)10月にキングレコードよりCDデビューしている。
外部リンク
・高橋良明 WEB SITE - 公式サイト
(wikiより)
高橋良明
6610 大場久八墓(静岡県田方郡函南町間宮193・広渡寺)
来歴
伊豆国間宮村の百姓栄助とのぶの倅に生まれる。天保13年(1842年)、28歳の時に野天バクチで捕まり「五人組」から追放され、無職渡世の門をくぐる。その後、甲斐国都留郡下吉田村(山梨県富士吉田市下吉田)の人切り長兵衛の元を訪ね、渡世人としての修業を積んだ。
この頃に兄弟分の契りを結んだ者が甲斐国八代郡竹居村(笛吹市八代町竹居)の博徒・竹居安五郎(吃安)と都留郡境村(山梨県都留市境)の名主にして豪商の天野海蔵である。後に伊豆に戻り結婚をしているが、妻(志津)の弟が、東海道随一の貸元とされた丹波屋伝兵衛(半田竹之助)である。下田の赤鬼金平、弁天安太郎、甲州の石和廣吉、吉田近之助(長兵衛の子)、相州の小田原集月ら名のある貸元を率いて博徒としての地盤を築く。
嘉永2年(1849年)4月、35歳の時に、兄弟分である桐生半兵衛を殺害した田中村岩五郎、石原村幸次郎らと遠江国岡田村(現・磐田市)で決闘を行い、両名に深手を追わせた。(ただし久八側も子分伊達五郎を討ち取られた)また同年8月には上野国の博徒の巨魁である大前田英五郎の暗殺を謀った御宿の惣蔵を殺害し、英五郎と兄弟分になった。この関係で、後に大前田一家の江戸屋虎五郎の舎弟である保下田久六が駿河国の清水次郎長に殺された際には、富士の大宮(現・静岡県富士宮市)まで軍団を動員した。(『東海遊侠伝』)
嘉永6年(1853年)に品川台場の工事人足の間で賃金不払いによる紛争が起こると、天野海蔵を介して江川代官から請われ、その懐柔役として働いた。久八の採った方法は、人足に毎度食と日当を提供し、銭樽の懸賞を付けて士気を上げるというものだったと言う。この時の働きにより、人足たちから「台場の親分」と尊敬され、これに出生地に近い「大場村」が混同されて「大場久八」と呼ばれるようになった。
明治元年(1868年)甲州の旅先で官軍に御用弁になり、甲府の牢へ収監されるが、ほどなくして解放された。明治維新後、跡目を三島の玉屋佐十郎に譲り、博徒の足を洗う。以降百姓として余生をすごす。
明治25年12月、上州への旅の途中、山梨県南都留郡谷村町(都留市谷村)の旅籠で中風を発して同月3日亡くなった。墓は静岡県田方郡函南町の広渡寺。
逸話
・素人衆には常にへりくだった態度で接し、百姓と同席するに際しては「私どもにはお座敷が違います」と辞退して、決して同席したことがなかったという。
・6尺2寸の大男で右目が斜視、強力(ごうりき)で健脚の持ち主とされ、三島と江戸を1日で往復して、平気な顔をして畑仕事をしていたという。
・台場の工事を進展を図るために、片手が入るだけの穴をあけた銭樽を何個も現場に備え付け、人足たちが土を一荷担いで来る毎に、一回ずつ樽の銭を掴ませた。この際、欲の深い者は一度に多くの銭を掴み過ぎ、手を抜くことができなかったという。
・食事、服装は質素を重んじ、食事は常に一汁一菜、服は木綿着で生涯を通した。これに驚いた武州の小金井小次郎が村山織二反を送り届けたが、ただ有り難く頂戴したでけで一向に着ることはなかったという。
・慶応四年には、武州と甲州の子分30人から成る「辰巳隊」を構成し、甲陽鎮撫隊に加わったという。当初「辰巳隊」は食料運搬等が任務の部隊であったが、本隊の相次ぐ脱走にともなって戦争にも参加することになった。久八は八王子の亀吉、石和の廣吉らと共に銃を握って奮戦したという。(「駿遠豆遊侠伝」)
参考文献
・放牛舎桃湖(講談)『侠客大場久八』朗月堂, 1897年
・戸羽山瀚「海道筋の侠客」(『日本の風俗』第二巻・第五号 pp77-81)、日本風俗研究所、1939年
・『三島市誌』(中巻)、三島市誌編纂委員会、1959年
・戸羽山瀚「駿遠豆遊侠伝」(『ふるさと百話 第7巻』、静岡新聞社、1972年)
・高橋敏『博徒の幕末維新』 筑摩書房、2004年
(wikiより)
⇧ 大場久八
6609 こはぐら荘(竹富町小浜)
6608 小浜島大岳展望台(小浜島)
小浜島大岳展望台入り口に、小浜節の歌碑が有ります
大岳 ( うふだき ) 展望台には、5 ~ 10分ほどで登れます
大岳 ( ウフダキ ) は海抜 99mの山です。
頂上にある展望台からは 360°広がる大パノラマの景色を見ることができます。
小浜島は八重山諸島の真ん中にあるため、展望台からは石垣島、竹富島、黒島、新城島、西表島、鳩間島、嘉弥真島、そして、天気がよければ波照間島まで見ることができます。
また眼下には牧草地とさとうきび畑ののどかな風景が広がります。(画像 5~8枚目)
⇧ 展望台に向かって登ります。
⇧ 展望台に到着です。
⇧⇩ 展望台からの眺めです。
⇧⇩ 展望台裏手にも、小浜節の歌碑が有ります。
6607 日本最西端の碑(与那国島)
6606 なごみの塔(竹富島)
島の集落中央付近に赤山公園という小さな公園がありますが、その小高くなっている真ん中あたりにコンクリート製の展望台があります。
由来はわかりませんが、なごみの塔という名前が付けられています。
良くパンフレットなどで赤瓦の家並の写真が載せられている事がありますが、その多くはこの塔から撮ったものです。
上に上がると 360度視野が開けて良い眺めなのですが、登るまでが大変。
人が 1人やっとの幅の階段は、傾斜もきつくて人間工学的ではない手すりにつかまって登るにしても、スリル満点です。
もちろん人がすれ違う幅はありませんので、順番よく譲り合うしかありません。
それで、なごみの塔なのかも。
一番上も、どう見ても 2,3人が乗ったら満員です。
この公園には、昔の星座観測に使われたという星見石や叩くと音のする太鼓石などもあります。
〇 赤山丘の設置に至るまで
文治二年 ( 1185年 ) 壇の浦の海戦にやぶれた平家の落武者・赤山王は遠くこの地に漂着し地の利を占めるここを要害とした
1953年にこの由緒ある地を一和会が買収し部落へ寄贈したので西部落会では巨費を投じここに塔を建てて『なごみの塔』と名づけ部落の集会に或はこどもの遊び場として年々施設が増設されつつ今日に至っている。
一九五八年十一月八日 竹富壮年会
(碑文より)
〇 なごみの塔
なごみの塔(なごみのとう)は、沖縄県八重山郡竹富町字竹富(竹富島)にある展望塔である。2006年(平成18年)3月27日に国の登録有形文化財に登録されている。老朽化のために閉鎖されており、登り降りはできない[1][2]。
概要
竹富島の玻座間西集落のほぼ中心にある赤山公園の中の高さ約6mの丘に築かれた鉄筋コンクリート構造の塔で、塔自体の高さは4.5m[3]、歩道からの高さは約8.7m[4]。
隆起サンゴ礁でできた全体が平坦な島の中で、最も高い場所のひとつであり、重要伝統的建造物群保存地区に選定された集落の赤瓦の家並みを一望する絶好の場所として観光名所となっている[1]。
頂上の展望台までは8段の階段が設けられているが、幅約45cm、奥行き約16cmで、段差が約35cmと高く、斜度が約60度もある急なもので、ひとりずつしか昇り降りすることはできない[4]。また、展望台部分も狭く、成人2人分程度のスペースしかない。
2014年(平成26年)3月にトリップアドバイザーが公表した「行ってよかった日本の展望スポット 2014」では、18位にランクインした[5]。
2016年(平成28年)9月20日から、老朽化のために閉鎖され、登降が禁止されている。改修の予定は立っておらず、再開の見通しも不明であった[1]が、2019年(令和元年)10月から2019年度(令和元年度)末まで保存修繕工事が行われることとなった。この塔は文化財に指定されており建て替えはできないため、保存修繕工事では、高圧洗浄、躯体の剥落や鉄筋のさびの補修、表面から剥離したモルタルの修理、亀裂修理等が行われ、さらに、階段や塔上部への手すりの追加や、階段下への門扉の設置も行われる。なお、国や県は、改修したとしても不特定多数の人の利用は難しいとの見解を示しており、改修後も利用は制限される予定である[6][2]。
沿革
1953年(昭和28年)に、西集落の有志が赤山周辺を買い取り公園化した際に、西集落の住民総出で建てられた[3][4][7]。銘文によると、1953年(昭和28年)6月25日建立[8]。当初は、この台の上から、集落内に連絡事項を伝えるために放送施設として用いられた[2]。なお、赤山は、平家の落人で、竹富島に流れ着いた赤山王の居城跡であるとの言い伝えがある[7]。
⇧ なごみの塔からの眺望(2011年)
脚注
1. a b c “なごみの塔が老朽化で閉鎖 再開見通し立たず”. 八重山毎日新聞. (2016年9月23日)
2. a b c “なごみの塔 保存修繕工事へ”. 八重山毎日新聞. (2019年10月8日)
3. a b “登録有形文化財に「なごみの塔」”. 八重山毎日新聞. (2006年1月21日)
4. a b c “「階段怖い」でも改修できず 国有形文化財「なごみの塔」”. 琉球新報. (2006年2月6日). オリジナルの2009年12月6日時点におけるアーカイブ。
5. Narinari.com. (2014年3月13日). http://www.narinari.com/Nd/20140325097.html
6. “旧与那国家の保存活用計画策定へ 竹富町議会3月一般質問最終日 「なごみの塔」修繕も登頂できず”. 八重山毎日新聞. (2018年3月16日)
7. a b “西桟橋と「なごみの塔」”. 琉球新報. (2006年5月29日). オリジナルの2009年12月6日時点におけるアーカイブ。
8. 「竹富島における石碑・記念碑等の調査報告」『竹富島総合調査報告書』、沖縄県立博物館・美術館、2012年3月30日。
外部リンク
・なごみの塔 - 文化遺産オンライン(文化庁)
・なごみの塔 360度全球パノラマ写真 - 石垣島360パノラマ写真館
(wikiより)
⇧⇩ なごみの塔からの眺め
6605 ティンダハナタ・ティンダバナ展望台(与那国島)
〇 ティンダハナタ(県名勝)
ティンダハナタは、標高百メートルの自然展望台になっている。
台上からは、眼下に赤瓦の家並やナンタ浜が、遠くには東シナ海が広がる。
島を見守るようにたたずむティンダハナタは景勝地で、島人たちの憩いの場所である。
展望台近くの岩陰に豊富な湧き水がある。
この水は神聖な水とされており、島の祭事で一番目に行われるアラミディの際供えられる。
(案内板より)
この展望台入り口には、『てんじゃはなの歌碑』も有る。
てんじゃはな 石島 英文
あの日登った てんじゃはな
雲もほうやり 浮かんでいた
ハンジュロの花も 咲いていた
あの日登った きりぎしに
今日はぺタコが 鳴いている
チロチロ清水の 音もして
いつかのぼった てんじゃはな
ナンタの離れに チラチラと
花のすすきも ゆれていた
(案内板より)
〇 ティンダバナ ( 天蛇鼻 )
字祖納の南西に屏風のようにそそり立つ標高 100mのティンダバナは、台形状の地形をなしている。
眼下には祖納集落の家並が展開し、東にウラブ岳、西には雄大な東支那海が一望され、天然の展望台になっている。
展望台近くの岩陰には、豊富な湧水があり、岩壁には八重山の生んだ詩人・伊波南哲の詩も刻まれていて、「歴史の丘」として島人たちのいこいの場所にもなっている。
ティンダバナに続く南野傾斜面には、与那国島の英雄の一人サンアイ・イソバが出生した古邑サンアイ村が立地し、彼女にまつわる旧跡も多く残されている。
彼女は、16世紀の末頃に与那国島に君臨した女酋とされる人物であるが、巨体で剛力の持主であったといわれ、政治をよくし島人から尊崇を集めたと語り伝えられている。
(案内板より)
〇 讃・興那国島 ( 与那国島 ) 伊波南哲
荒潮の息吹きに濡れて
千古の伝説をはらみ
美と力を兼ね備えた
南海の防壁与那国島
行雲流水
己の美と力を信じ
無限の情熱を秘めて
太平洋の怒涛にに拮抗する
南海の防壁与那国島
宇良部岳の霊峰
田原川の尽きせぬ流れ
麗しき人情の花を咲かせて
巍然とそそり立つ与那国よ
おお汝は
黙々として
皇国南海の鎮護に挺身する
沈まざる二十五万噸の航空母艦だ
6604 イヌガン(与那国島)
6603 濱田鋹子墓(港区南青山2-32-2・青山霊園)
濱田 鋹子の碑
高顕院法壽妙操大姉
安政六年十月二十日 生
昭和二十一年一月二十日 没
享年 八十六才
ジョセフヒコ氏墓地保存会をつくられた近盛晴嘉氏の尽力により昭和 31年 5月 30日に田端大龍寺から改葬し亡夫の墓則に埋葬しました
昭和 41年 5月
鋹子の姪 馬場キミ 誌す
(石碑碑文より)
墓石横部分には、ジョセフ・ヒコの戒名 : 高智院法憧浄弁居士とジョセフ・ヒコの一生について書かれていました。
「浄世夫彦ハ元名ヲ浜田彦蔵ト云フ。
天保七年 ( 1836 ) 播磨国農家ニ生ル。
嘉永三年 ( 1850 ) 漂流ノ難ニ遭ヒ米圀 ( べいこく ) ニ到ル。
翌年 ( 1851 )、軍艦ニ乗セラレ香港ニ到ルモ時来ラズ。
故ニ立志シテ米圀華聖頓 ( わしんとん ) ニ往キ、大統領ニ接スル三回。
千八百五十四年 学ヲ初ム。同年 ( 1854 ) 十一月ジョセフヒコ之名ヲ得、千八百五十七年海軍書記官ヲ命ゼラレ、帰化シテ合衆国民トナル。
千八百五十八年 日本開港成ルト聞キ、同年 ( 1858 ) 六月十七日長崎ニ入艦、同三十日神奈川ニ投錨ス。
安政六年 ( 1859 ) 六月米圀旗神奈川ニ建テ、領事ト共ニ開国ノ為ニ労ヲ取ル事四年、又米圀ニ往ク。
復テ ( かえって ) 千八百六十四年七月十六日馬関海峡丘陵ヨリ乱射する六砲台三軍船ヲ沈黙セシム。
元治二年 ( 1865 ) 六月海外新聞ト名付ケ日本新聞ヲ発行シタル開祖也。
后チ長崎ニ到リ元勲等ト会合公議上、二年間長州代理ヲ為シ、開国ノ為メ東西ニ奔走ス。
明治四年 ( 1871 ) 八月、時ノ大蔵卿ニ属シ銀行規ヲ編纂セリ。
官ヲ辞シ仮名書新聞ヲ発行ス。
亦商業ヲ起シテ神奈川ニ間散シ、製茶直輸出ノ為メ神戸港ニ住ス。
明治廿一年 ( 1888 ) 東京小石川ニ新築シテ住居ス。
明治三十年十二月十二日齢六十二遂ニ寂」
刻印の判読が困難な為、『近盛晴嘉著 クリスチャン ジョセフ彦より引用しました。』
6602 土佐藩邸跡碑(京都市中京区木屋町通蛸薬師西南角)
此付近土佐藩邸址
高瀬川を渡った西側、河原町通に至る間の元立誠(りっせい)使用学校の辺りには、江戸時代、土佐藩(現在の高知県)の藩邸があった。
当時は高瀬川に面しても門が開かれ、高瀬川には土佐橋が架かっていた。
藩邸が始めて置かれたのは江戸時代で、元禄三年(1690)には、京都藩邸の守るべき法律が詳しく定められている。
藩邸は藩の京都連絡事務所で、留守居役が詰め、町人の御用係を指定して、各種の連絡事務に当った。
土佐藩は、薩摩(現在の鹿児島県)、長州(現在の山口県)と並んで幕末政局の主導権を握った雄藩で、武市瑞山、坂本龍馬、中岡慎太郎、後藤象二郎らの志士が活躍した。
藩邸は、土佐藩の活躍の京都における根拠地であった。
なお、この西側に鎮座する土佐稲荷・岬神社は、もと藩邸に鎮守社として祀られたもので、同社に参詣する町人のために藩邸内の通り抜けが許されていた。
(案内板より)
6601 板谷波山墓(北区田端4-18-4・大竜寺)
板谷 波山(いたや はざん、1872年4月10日〈明治5年3月3日〉 - 1963年〈昭和38年〉10月10日)は、明治後期から昭和中期にかけて活動した日本の陶芸家。本名は板谷 嘉七(いたや かしち)。号は、始め「勤川」、のち「波山」。「勤川」は故郷を流れる五行川の別名「勤行川(ごんぎょうがわ)」に、「波山」は故郷の名山である「筑波山」に因む。
日本の近代陶芸の開拓者であり、陶芸家としては初の文化勲章受章者である。理想の陶磁器づくりのためには一切の妥協を許さなかった波山の生涯は映画化もされている。
日本の陶芸は縄文時代からの長い歴史をもつが、「職人」ではない「芸術家」としての「陶芸家」が登場するのは近代になってからであった。波山は、正規の美術教育を受けた「アーティスト」としての陶芸家としては、日本における最も初期の存在である。陶芸家の社会的地位を高め、日本近代陶芸の発達を促した先覚者として高く評価されている。
来歴
のちの板谷波山こと板谷嘉七は、1872年(明治5年)、茨城県真壁郡の下館城下(町制施行前の真壁郡下館町字田町、現在の筑西市甲866番地)にて、醤油醸造業と雑貨店を営む旧家・板谷家の主人であり、商才のみならず文化人としても多才であった善吉(板谷増太郎善吉)とその妻・宇多(うた)の三男として生まれた。
上京して2年後の1889年(明治22年)9月、18歳の嘉七は東京美術学校(現・東京芸術大学)彫刻科に入学し、岡倉覚三(天心)、高村光雲らの指導を受けた。1894年(明治27年)に東京美術学校を卒業した後、1896年(明治29年)、金沢の石川県工業学校に彫刻科の主任教諭として採用された。同校で陶芸の指導を担当するようになった嘉七は、このことをきっかけとしてようやく本格的に作陶に打ち込み始め、1898年(明治31年)もしくは翌1899年(明治32年)には最初の号である「勤川」を名乗り始めた。1903年(明治36年)に工業学校の職を辞し、家族と共に上京した彼は、同年11月、東京府北豊島郡滝野川村(現・東京都北区田端)に極めて粗末な住家と窯場小屋を築き、苦しい生活の中で作陶の研究に打ち込み始めた。1906年(明治39年)4月、初窯を焼き上げて好成績を得る。号を「勤川」から終生用いることとなる「波山」に改めたのはこの頃であった。
波山は1908年(明治41年)の日本美術協会展における受賞以来、数々の賞を受賞し、1917年(大正6年)の第57回日本美術協会展では、出品した「珍果花文花瓶」が同展最高の賞である1等賞金牌(きんはい、金メダル)を受賞している。その後、1929年(昭和4年)には帝国美術院会員、1934年(昭和9年)12月3日には帝室技芸員になっている[1]。第二次世界大戦後の1953年(昭和28年)には陶芸家として初めて文化勲章を受章。1960年(昭和35年)には重要無形文化財保持者(いわゆる人間国宝)の候補となるが、これは辞退している。波山の「自分は単なる伝統文化の継承者ではなく、芸術家である」という自負が辞退の理由であったと言われている。
1963年(昭和38年)1月6日、53年の長きにわたって助手を務めてきた片腕というべき轆轤師(ろくろし)・現田市松(げんだ いちまつ)が満78歳(数え年79)で死去すると、波山は仕事の上でも精神的打撃を受けたと見られ、春のうちに病いを得て、4月2日、順天堂病院に入院する。手術を経て6月に退院するも、10月10日、工房のある田端にて生涯を終えた。波山は1964年東京オリンピックの開幕を楽しみにしていたが、開会式のちょうど1年間前に息を引き取った[2]。享年92、満91歳没。絶作(最後の作品)となった「椿文茶碗」は没年の作品であり、彼の技巧が死の直前まで衰えていなかったことを示している。墓所はJR山手線田端駅近くの大龍寺[3]境内にある。
轆轤(ろくろ)師・現田市松
波山の作品には青磁、白磁、彩磁(多色を用いた磁器)などがあるが、いずれも造形や色彩に完璧を期した格調の高いものである。波山の独自の創案によるものに葆光釉(ほこうゆう)という釉(うわぐすり)がある。これは、器の表面に様々な色の顔料で絵付けをした後、全体をマット(つや消し)の不透明釉で被うものである。この技法により、従来の色絵磁器とは異なった、ソフトで微妙な色調や絵画的・幻想的な表現が可能になった。前述の第57回日本美術協会展出品作「珍果文花瓶」もこの技法によるもので、美術学校時代に習得した彫刻技術を生かして模様を薄肉彫で表した後、繊細な筆で絵付けをし、葆光釉をかけたものである。波山は完璧な器形を追求するため、あえて轆轤師を使っていた。初窯制作期の1903年(明治36年)から中国に招聘される1910年(大正9年)まで勤めた佐賀県有田出身の深海三次郎(ふかみ みつじろう)と、その後任に当たった石川県小松出身の現田市松(前述)がそれで、とりわけ現田は波山の晩年に至るまで半世紀以上にわたるパートナーであった。
前述の「珍果文花瓶」は2002年(平成14年)、国の重要文化財に指定された。これは、同年に指定された宮川香山の作品と共に、明治以降の陶磁器としては初めての国の重要文化財指定物件となった。また、茨城県筑西市にある波山の生家は茨城県指定史跡として板谷波山記念館内で保存公開されている。
代表作
・葆光彩磁珍果文花瓶 :1917年(大正6年)作の花瓶。国の重要文化財。泉屋博古館分館所蔵[4]。
・彩磁禽果文花瓶 :1926年(大正15年)作の花瓶。国の重要文化財。敦井美術館所蔵[5]。
・彩磁延寿文花瓶 :1942年(昭和17年)作の花瓶。出光美術館所蔵[6]。
・彩磁椿文茶碗 :1963年(昭和38年)作の茶碗。出光美術館所蔵。
人物
1958年(昭和33年)に妻を亡くして以降の波山は、住み込みのお手伝いさん2人と暮らしていた[7]。8時頃に朝食としてご飯、味噌汁、お新香、海苔、納豆を食べ、作陶し、昼食はパンを食べ、夕食は御用聞きに来る魚屋から買った魚で刺身・煮魚・焼き魚などを摂った[8]。故郷の下館からの来客があった時には、出前で蕎麦取って歓待するのが常であった[2]。おいしいものを贈られると皆に分け、下館にも送った[2]。
性格は穏やかであったが、若い頃は怒りっぽく、自らを律して穏やかな性格を身に付けたという[2]。日常生活は質素であったが、外出時には正装し、おしゃれにも気を遣った[2]。作陶しない時は、読書やテレビ鑑賞、趣味の日本刀の手入れをしていた[8]。テレビ番組は好きなものしか見ず、特にプロレスを好み、力道山のファンであった[7]。
田端の波山邸の隣には弥生荘という四畳半のアパートがあり、渥美清が5年ほど住んでいた[9]。渥美が住んでいたことは弥生荘の住人にも知られていなかったが、波山はお手伝いさんを通して茶菓を贈るなど親交があった[9]。
観音像・香炉と鳩杖
波山は、東京田端で長きにわたり陶芸品の制作活動に打ち込みながら、生まれ故郷の下館にも想いを寄せ続けていた。故郷に帰省した際には、文化財の修復や保存、工芸展や観能会の開催、小学校の運動会への寄付をしたり、祇園祭のお囃子の伝授を行ったりもしていた[10]。
1937年(昭和12年)に日中戦争が勃発し、下館の町で戦死者が出始めた(下館から出征した最初の戦死者は波山の実家「板善」の縁者であったといわれる)。波山は各遺族宅へ自ら弔問に訪れ、「忠勇義士」の文字を刻んだ自作の白磁香炉を霊前に供えた(その数は42点にものぼるといわれる)。その後戦死者はさらに増え続けていったため、波山は香炉の贈呈について中断し、あらためて戦後に自作の白磁観音像を贈ることとし、1951年(昭和26年)4月29日と1956年(昭和31年)7月10日の2回にわたり、故人の名前と波山の銘が記された桐箱に収められた観音坐像が、計271名の遺族へ贈られた[11]。
また1933年(昭和8年)、実家「板善」を継いだ義兄が82歳となり、自作の鳩杖を祝物として贈ろうと考えたことをきっかけとして「兄だけでなく故郷旧知の方々にも同じく祝物を」と考え、下館町の80歳以上すべての高齢者に自作の鳩杖が贈呈された。こちらも、絹の袋に入れてから桐箱へ収め、さらに熨斗付きの奉書でつつみ水引で結んだものを、自らが一軒一軒を回り、直接本人に手渡している。鳩の部分には鋳物と白磁の2種類あるが「最初は私得意の焼物で鳩を作ろうかと思いましたが疵(きず)でも出来るといけぬと(思い)、合金の鋳物にしました。杖は狂いの出ぬよう南洋産の木を用い、女の方には赤みのところ、男の方には黒味を使いました」と波山は語っている(太平洋戦争中、鋳物から白磁に、桐箱から和紙の袋に変わった)。以来、自らの住まいと窯が東京大空襲で破壊され、故郷へ疎開していたあいだも含めて休むことなく、自らが80歳となる1951年(昭和26年)まで私費で毎年続けた[12][13]。
関連施設
・板谷波山記念館 :1980年(昭和55年)開業(開館)。茨城県筑西市田町甲866番地1に所在。
・しもだて美術館 :2003年(平成15年)開業(開館)。茨城県筑西市丙372(アルテリオ3階)に所在[14]。
・田端文士村記念館 :東京都北区田端6丁目1-2(田端駅北口至近)に所在。田端界隈に集まり住んでいた芥川龍之介、菊池寛、田河水泡その他の芸術・文筆家らとともに、波山の文化芸術活動を記念して紹介されている。
関連作品
板谷波山を描いた映画
・『HAZAN』 :2004年(平成16年)公開。桜映画社[15]。
・『波山をたどる旅』 :2013年(平成25年)公開。企画:陶芸WEB、製作:プロジェクト茨城[16]。
映画「HAZAN」
2004年(平成16年)には、波山の生涯を題材にした映画『HAZAN』(監督:五十嵐匠、主演〈波山役〉:榎木孝明)が公開された[15]。この映画は、ブルガリア・ヴァルナの国際映画祭でグランプリを受賞している。
脚注
注釈・出典
1. 『官報』第2378号、昭和9年12月4日。
2. a b c d e 渡辺 2020, p. 43.
3. 真言宗霊雲寺派和光山大龍寺。通称:田端大龍寺、子規寺(俳人・正岡子規の墓があることに由来)。
4. “重文 葆光彩磁珍果文花瓶”. 住友コレクション 泉屋博古館(公式ウェブサイト). 泉屋博古館. 2013年1月8日閲覧。:■画像と解説あり。
5. “板谷波山・彩磁禽果文花瓶”. (公式ウェブサイト). 敦井美術館. 2013年1月8日閲覧。:■画像あり。
6. “彩磁延寿文花瓶”. 出光コレクション(公式ウェブサイト). 出光美術館. 2013年1月8日閲覧。:■画像と解説あり。
7. a b 渡辺 2020, p. 42.
8. a b 渡辺 2020, pp. 42-43.
9. a b 渡辺 2020, p. 44.
10. 「『故郷・下館と板谷波山 - ふるさとへの贈り物 -』波山 鳩杖80年展」資料 一木努(下館・時の会 会長)著 - しもだて美術館 2013年10月開催
11. 「『故郷・下館と板谷波山 - ふるさとへの贈り物 -』波山 鳩杖80年展」資料 一木努(下館・時の会 会長)著 - しもだて美術館 2013年10月開催
12. 板谷波山記念館 板谷波山について :■波山が愛した故郷・下館 の項を参照
13. 「『故郷・下館と板谷波山 - ふるさとへの贈り物 -』波山 鳩杖80年展」資料 一木努(下館・時の会 会長)著 - しもだて美術館 2013年10月開催
14. “しもだて美術館”. (公式ウェブサイト). しもだて美術館. 2013年1月8日閲覧。
15. a b “HAZAN”. (公式ウェブサイト). 桜映画社. 2013年1月8日閲覧。
16. “波山をたどる旅”. (公式ウェブサイト). 陶芸WEB. 2013年1月8日閲覧。
参考文献
・渡辺朝子「板谷波山先生と田端のこと」『TABATA 批判と創造 経済地域研究所研究誌』第5号、経済地域研究所、2020年6月1日、 42-45頁、 NAID 40022265548。
関連項目
・下館市
外部リンク
・板谷 波山:作家別作品リスト - 青空文庫
・板谷波山 :: 東文研アーカイブデータベース - 東京文化財研究所
・板谷 波山 : 北区文化振興財団
・板谷波山 - 会津人物伝
(wikiより)
板谷波山





6600 横山作次郎墓(北区田端4-18-4・大竜寺)
年譜
・1864年(元治元年)、江戸の鷺宮で生まれる。
・井上敬太郎(道場は湯島天神下)に天神真楊流を学び、他に起倒流を修行していた。兄弟子に三上富治(後、山形県警の師範となる。京都武徳殿で磯貝一、永岡秀一に勝ったこともある。また大東流合気柔術の武田惣角の弟子となった。)がいる。
・1886年(明治19年)、23歳、4月に嘉納治五郎の講道館に入門。5月初段、9月二段。10月向ヶ丘弥生社警視庁武術大会で、1883年(明治16年)に初代警視庁柔術世話掛4人のうちの1人であった良移心当流柔術の中村半助(弘化2年11月16日(1845年(弘化2年) - 1897年(明治30年)で当時41歳)と55分試合し、三島通庸警視総監の裁定により引き分けとなる。
・1887年(明治20年)、1月三段、同年警視庁柔術世話掛となる。
・1888年(明治21年)、3月四段。
・このころ、警視庁柔術世話掛となった竹内流柔術の金谷仙十郎(養子前名は片岡仙十郎 1890年(明治23年)上京)と数十分試合をするが引き分けとなったことが有名となる[2]。
・1893年(明治26年)、1月五段。
・1896年(明治29年)、東京高等師範学校で柔道を教授。成績により級を決めた。
・1898年(明治31年)、1月六段。
・1904年(明治37年)、10月七段。
・1908年(明治41年)、『柔道教範』出版。
・1912年(大正元年)9月23日没。享年49歳。墓は東京都北区田端の大龍寺わきの墓地にある。
モデルとしたフィクション
映画
・柔道一代 - 横山をモデルにした横川次郎作が登場する
脚注
1. 嘉納行光・川村禎三・中村良三・醍醐敏郎・竹内善徳『柔道大事典』佐藤宣践(監修)、アテネ書房、日本(原著1999年11月21日)、391頁。ISBN 4871522059。「回込み払腰」
2. 金光弥一兵衛『岡山縣柔道史』1958年(昭和33年)から。
関連項目
・柔道家一覧
外部リンク
・横山作次郎の墓 - ウェイバックマシン(2011年9月28日アーカイブ分)
・外編2-古流と講道館流
(wikiより)
横山作次郎
6599 女医・右田朝子之碑(北区田端4-18-4・大竜寺)
島根県益田市出身でわが国初の女性眼科医、右田アサの活躍を描いた『高津川 日本初の女性眼科医 右田アサ』という小説があります。
執筆されたのは、東京都内で眼科医をしている若倉雅登さん。
右田アサは明治 4年 ( 1871 ) 年、寺井孫一郎の長女として島根県益田市に生まれます。
5歳の時、代々続く地方の名家・右田隆庸の養女となりますが、右田家は没落しかけていました。
アサは自分で家事を取り仕切って家運を回復しようとして医学を志し、明治 20年 ( 1887 ) に上京。
長谷川泰によって設立されたわが国最古の私立医科大学で、西洋医学による医師養成学校の済生学舎 ( 現、日本医科大学 ) に入学し、のちに日本女医会の初代会長になった前田園子女史や同県人で津和野町出身の女医・千坂竹子女史と一緒に学び合い、同 26年 ( 1893 ) に医術開業試験 ( 前期・後期 ) に合格。
同 14年 ( 1881 ) に井上達也によって民間の眼科専門病院として開業した井上眼科病院で 3年間修業した後に医籍登録して眼科医となり、将来を嘱望され活躍しますが、ドイツ留学を目前にした同 31年 ( 1898 ) 8月、肺病のため 26歳の若さで亡くなります。
地元の益田でも右田アサの事は余り知られていなかったのですが、右田アサを研究する方によって「女醫右田朝子之碑」と呼ばれる石碑が正岡子規が眠る大龍寺 ( 東京都北区田端 ) で発見されたのです。
碑文をしたためたのは、陸軍省医務局長・石黒忠悳 ( ただのり )。
研究者からの問い合わせで初めて郷土のアサの存在を知った益田市は、アサの子孫や東京益田会などの協賛の下でアサの足跡を辿り、「日本眼科女医第一号・右田アサ展」という展示会も平成 14年 ( 2002 ) に催しています。
アサは、自分が病気で回復の見込みがないと判った時に残した遺言の中で「自分の眼球を摘出して病院に保存し、眼科研究の資料としてして下さい」と国内初の眼球献体をした事でも知られています。
物語では、右田アサと共に現代の女性眼科医も登場させ、現在いまもなお潜在する女医蔑視、差別と闘う姿や眼科医療が抱える問題の数々をモチーフに、高津川で 2人が時空を越えて出会うなど、2人の人生が重なり合う様に描かれています。
若倉さんは、アサが勤めた井上眼科病院の名誉院長。「アサは苦学して、誰も踏み入れた事のない分野に挑戦しました。それだけに夭折ようせつしたのが残念で、小説を書く事で彼女を生き返らせたかった」と仰おっしゃっています。
※ ( 参考 ) 益田市総務部「日本の眼科第 1号右田アサの碑発見」 ( 『広報ますだ』 2001年 2月 15日号 )
〇 「女醫右田朝子之碑」の碑文
右田朝子碑 陸軍軍醫総監正四位勲二等功三級男爵石黒忠悳題額
朝子右田氏石見国益田町の人なり父を隆庸と曰ふ其先周防大内氏に
出づ世々群中の名家たり中ごろ微にして振はず朝子之を憂ひ躬ら薪水
の労をとりてひたすら家道の興復に志し十七歳の時決然家を辞して
東京に到り具に辛苦を嘗め明治二十二年濟生學舎に入りて孜孜醫術
を講究し卒業の後更に外科を専攻し又我先考甘泉先生に従ひて眼科
を修め頗る得るところあり後出でて静岡県復明館の聘に應じ其醫員
となる実に我邦眼科女醫の祖と謂ふべし余の帰朝を聴くや再び我院
に来りて眼科の蘊奥を究めんとせり而して未だ幾ならずして病没す
年二十八実に明治三十一年八月五日なり朝子幼にして穎悟気節あり
常に虚飾を斥け小故に泥ます其操守の高潔にして進取の気性に富め
るに至ては真に懦夫をして起たしむるに足るものあり其疾みて自ら
起たざるを知るや則ち遺言して曰く我眼球を剔出して醫院に供え以
て眼科攻究の料に資せんと其斯道に熱心にして神気の壮烈なる盖し
之を古今東西に求るも復多く得へからず茲に知人相謀りて碑を甘泉
先生の墓則に建て永く追慕の念を紀す
明治三十二年二月五日 友人徳鐸井上達七郎撰 北条和楽書
井亀泉刻
6598 大川平三郎墓(北区田端4-18-4・大竜寺)
略歴
大川平三郎は、川越藩三芳野村(現・埼玉県坂戸市横沼)で剣道場を構えていた大川修三の次男として生まれる。道場は修三の父である剣豪・大川平兵衛の興したものである。平三郎の母は富岡製糸場を作った尾高惇忠の妹・みち子である。惇忠やみち子の妹の千代は、渋沢栄一の最初の妻であった。また、後に平三郎が妻とした照子は渋沢の庶子の一人である。惇忠の息子で平三郎の従弟にあたる銀行家の尾高次郎も、栄一の庶子で照子と同母姉妹の文子を妻とし、さらに2人の次男である鉄雄が平三郎夫妻の養子となっている。
剣道が顧みられなくなった時勢で、大川家の家計は苦しく、平三郎の母・みち子はよく妹の千代に金を無心した。平三郎は、13歳で東京に出て渋沢栄一の書生として渋沢家の掃除など雑用をこなしながら、本郷の壬申義塾や大学南校(現在の東京大学)でドイツ語や英語、歴史を学んだ。収入を稼いで実家に仕送りをするのが急務であった平三郎は、栄一が中心となり創立した抄紙会社(後の王子製紙(初代))に16歳で入社、月給は全て仕送りにした。抄紙会社では図工の職であったが、「紙を抄く技術が最も大切な仕事であるはずだ」と志願して職工になり、努力を重ね外国人技師の技術を全て習得、日本人で最初の製紙技師となった。
1879年(明治12年)、大川は会社不振の原因を分析した建白書を提出、それが会社に認められ、20歳で社命でアメリカに渡り、シャワンガム社・モンテギュー社などで製紙技術を修得した。大川は逐一、栄一に状況を手紙で報告した。
1年半の留学を終え帰国した大川は、パルプの原料を藁に替えるコストダウンを実行、21歳にして会社の副支配人に就いた。1884年(明治17年)、化学パルプの技術革新が起こった欧州に調査に赴いた。帰国後の1890年(明治23年)、試行錯誤の末、日本で最初の亜硫酸法による木材パルプの製造に成功、さらに木材チップを煮る釜を改良して「大川式ダイゼスター」を考案した。1893年(明治26年)に技術部門を担当する専務取締役に就任。しかし、1898年(明治31年)三井財閥が経営に参画したことから渋沢栄一は会長を退任、大川も王子を去った。
大川は、彼と行動を共にした技術者・職工らと四日市製紙(三重県)に移籍。1901年(明治34年)に上海の製紙会社に招かれ、1903年(明治36年)に帰国した後は九州製紙(熊本県)の社長に就任。次いで1906年(明治39年)中央製紙(岐阜県)を、1908年(明治41年)木曽興業(長野県)を設立し、1908年四日市製紙の役員に復帰(1918年社長に就任)、1909年(明治42年)には中之島製紙(大阪府)の会長にも就任した。1914年(大正3年)樺太工業を設立、1919年(大正8年)には大手製紙会社富士製紙の社長に就任。この結果大川が経営する製紙会社は合計で国内市場の45%を握り[2]、大川は「日本の製紙王」と呼ばれた。1933年(昭和8年)に王子製紙・富士製紙・樺太工業の3社が合併(「大王子製紙」発足)した際は、同社の相談役に就任した。さらに浅野セメント(後の日本セメント、現・太平洋セメント)、札幌ビール、東洋汽船、日本鋼管、鶴見臨港鉄道[3](JR鶴見線)など80余の企業経営に携わり「大川財閥」を作り上げた。鶴見線の大川駅は彼の名前にちなんで命名された[4]。
濱口政権による金解禁に対しては、時期尚早として反対の立場をとった[5]。
大川平三郎は、1928年(昭和3年)には貴族院議員となった[6]。
1936年(昭和11年)12月30日死去、享年78。「大川財閥」は平三郎個人のカリスマ性を基盤にしていたため、平三郎一代で終焉を迎えた[7]。孫には、競馬評論家の大川慶次郎がいる[8]。
郷里への貢献
埼玉県の産業界の要請で、銀行統合が行われ武州銀行が誕生すると、大川は請われて頭取に就任した。郷里の三芳野村(現・坂戸市)の困窮を救うため、財政支援を続け、教育や消防の施設購入に私財を注ぎ込んだ。
特に郷里の学校の校舎の建築・校庭の整備に幾度なく巨費を投じた。坂戸市立三芳野小学校など数箇所に頌徳碑がある。
祖父・大川平兵衛の開いた道場は小畔川沿いの低地で、小畔川や越辺川は度々氾濫を繰り返した。1910年(明治43年)にも大洪水を引き起こした。このため1924年(大正13年)、全額私費で地元の原次郎の協力を得て、1.1kmの堤防を建設した。当時は、大河でさえ国の河川管理は稀であった。今日、それは「大川堤」と呼ばれ、大川道場跡は坂戸市の「大川平三郎翁記念公園」となっている。
また自身が貧しい幼年時代で、農村の衰退した現状を憂い、1924年(大正13年)に私財で「大川育英会」を立ち上げた。渋沢栄一もこの財団を創設から支えた。大川育英会は埼玉県出身の学生に奨学金を提供、就学の機会を与えている。
栄典
・1928年(昭和3年)11月10日 - 勲三等瑞宝章[9]
脚注
1. 『官報』第3002号、昭和12年1月8日、p.112
2. 四宮俊之 『近代日本製紙業の競争と協調』、日本経済評論社、1997年
3. “鶴見臨港鉄道物語”. 鶴見臨港鉄道. 2019, 7, 2閲覧。
4. “鶴見臨港鉄道物語”. 鶴見臨港鉄道. 2019, 7, 2閲覧。
5. 中村隆英 『昭和恐慌と経済政策』、講談社学術文庫、1994年、89頁
6. 衆議院; 参議院編 『議会制度七十年史 第1』 大蔵省印刷局、1960年、100-101頁。
7. 菊池浩之『47都道府県別 日本の地方財閥』平凡社新書、2014年、78-79頁
8. 平三郎の実子である大川義雄の二男。菊池浩之『47都道府県別 日本の地方財閥』平凡社新書、2014年、79頁
9. 『官報』号外、「授爵・叙任及辞令」1928年11月10日。
関連項目
・藤原銀次郎
・渋沢栄一
6597 井上達也墓(北区田端4-18-4・大竜寺)
6596 石川忠総・他累代墓(北区田端3-21-1・大久寺)
生涯
天正10年(1582年)、徳川氏の家臣・大久保忠隣の次男として誕生。徳川秀忠より名前の一字を拝領し忠総を名乗った。
慶長3年(1598年)から徳川家康の小姓頭となって仕えた。慶長5年(1600年)、会津征伐のため下野小山に在陣したおり、堀尾忠氏より家康に対し異心無い証として家康近臣に妹を嫁がせたい旨の申出があり、家康の命により忠総が忠氏の妹との婚を約した。関ヶ原の戦い後同年冬、家康の命により外祖父である石川家成の養子となり、慶長8年(1603年)には従五位下主殿頭に叙任し5,000石を賜った(なお、家成の母・芳春人妙西尼は家康の母・於大の方の姉妹にあたる)。慶長12年(1607年)、家成の嗣子・石川康通が死去すると、康通の子で幼い忠義に代わり家成が家督を再び継ぐが、その家成も慶長14年(1609年)に死去し、未だ忠義は幼少であったことから家康の命で忠総が石川家の家督(美濃大垣藩5万石)を継いだ。
慶長19年(1614年)に実父・忠隣が改易されると、連座により忠総も駿河で蟄居を命じられた。しかし大坂冬の陣が起こると「忠総は石川の家督相続人で忠隣の縁座に掛からない」とすぐその罪を許されて従軍し、功を挙げた。翌年の大坂夏の陣においても戦功を挙げている。元和2年(1616年)9月、1万石加増の上で豊後日田へ移封された。元和6年(1620年)の大坂城修築でも功を挙げ、そして肥後熊本藩の加藤忠広が改易されると、その後の処理を取り仕切った。寛永10年(1633年)6月7日、下総国佐倉7万石へ加増移封。翌年には近江国膳所へ移封され従四位下に叙爵、江戸幕府3代将軍・徳川家光上洛時には参内の供奉に列した。
慶安3年12月24日(1651年2月14日)、69歳で死去。嫡男の廉勝が早世していたため、廉勝の長男で嫡孫の憲之が膳所藩石川家第2代藩主となり跡を継いだ。翌、慶安4年遺領の内より次男・総長に1万石、四男・貞當に4,000石、七男・総氏に3,000石が分与された。忠総の子孫は伊勢亀山藩主、常陸下館藩主、旗本3家が明治維新まで存続した。
逸話
・石川家成の外孫で大久保忠隣の子という譜代家臣の家柄ということもあるが、才能に優れ功績も多かったため、徳川家康や秀忠から大いに信任を受けた。家康は病床にある時、秀忠に忠総を大切に扱えと遺したとまで言われている。
・慶長17年(1612年)、忠総の依頼によって作られた『源氏物語手鑑』(土佐光吉筆、斡旋した中院通村ら公家18人が詞書。和泉市久保惣記念美術館蔵、重要文化財)が完成する。詞書を記した1人山科言緒の日記『言緒卿記』によって制作経緯も辿れ、依頼者、斡旋者、絵師、制作年代が詳しく分かる貴重な作品である。また、膳所藩主時代には、特産品として遠州七窯の一つとして評判を上げた膳所焼隆盛にも力を注いだ。
系譜
・父:大久保忠隣(1553-1628)
・母:石川家成娘
・養父:石川家成(1534-1609)
・正室:堀尾吉晴娘
・長男:石川廉勝(1604-1650)
・次男:石川総長(1605-1661)
・四男:石川貞當(1613-1653)
・七男:石川総氏(1626-1702)
・継室:前田玄以娘
・生母不明の子女
・男子:石川泰総
・男子:石川邦総
・女子:中川久清正室
(wikiより)
⇧⇩ 東日本大震災で崩れてしまいました ( 撮影時 2012年 10月 )
6595 上山満之進翁像(防府市)
経歴
周防国(後の山口県佐波郡江泊村、現・防府市大字江泊)出身。庄屋格・上山与左衛門の二男として生まれる。周陽学舎)、山口中学、山口高等中学を経て、1895年(明治28年)7月、帝国大学法科大学法律学科(英法)を卒業。内務属となり内務省県治局勤務となる。1895年11月、文官高等試験に合格。同年12月、青森県参事官に就任し、同県内務部第1課長を経て、1896年(明治29年)5月、山口県参事官に転じた。1897年(明治30年)12月、同県内務部第3課長に異動。
1898年(明治31年)12月、法制局参事官に就任し同第1部勤務を経て、1906年(明治39年)10月、行政裁判所評定官兼法制局参事官に就任。1908年(明治41年)8月、農商務省に転じ山林局長となる。1912年(大正元年)12月、熊本県知事に就任し、1913年(大正2年)6月まで在任し休職した。1914年(大正3年)4月、農商務次官となり、1918年(大正7年)10月、寺内内閣の総辞職に伴い次官を辞した。
1918年9月21日、貴族院勅選議員に任命され[1]、同和会に属し1935年(昭和10年)12月まで活動した。1926年(大正15年)7月、第11代台湾総督に就任。1928年(昭和3年)6月、台中不敬事件により台湾総督を辞任。
1935年(昭和10年)12月、枢密顧問官となり、1938年(昭和13年)7月まで在任した。
晩年は、生まれ故郷に図書館を建てることを計画。資金や蔵書を寄付するが、工事が遅延した為に図書館の完成を待たずに1938年に病没。子の上山勝と甥の小野幸吉が図書館建設の意志を引き継ぎ、1941年4月1日に引き継がれ、防府市立三哲[2]文庫(現・防府市立図書館)として開館した。その後、防府市立図書館が移転したため、三哲文庫跡地は公園となって記念碑が建てられている。
栄典
位階
・1906年(明治39年)11月20日 - 正五位[3]
・1918年(大正7年)10月21日 - 従三位[4]
勲章等
・1910年(明治43年)12月26日 - 勲三等瑞宝章[5]
・1916年(大正5年)
・1921年(大正10年)7月1日 - 第一回国勢調査記念章[10]
著書・関係文献
著書・
・『地方制度通』金港堂、1899年。
・『立木不動産法通解』大日本山林会、1911年。
・『国民生活の安危』文化生活研究会出版部、1922年。
・『米穀問題』農村問題体系 第8編、日本評論社、1926年。
伝記
・上山君記念事業会編『上山満之進』上下、成武堂、1941年。
脚注
1. 『官報』第1843号、大正7年9月23日。
2. 満之進が尊敬していたという山口県出身の哲人[1]3名(吉田松陰・品川弥二郎・乃木希典)に由来する。
3. 『官報』第7020号「叙任及辞令」1906年11月21日。
4. 『官報』第1866号「叙任及辞令」1918年10月22日。
5. 『官報』第8257号「叙任及辞令」1910年12月28日。
6. 『官報』第1310号・付録「辞令」1916年12月13日。
7. 『官報』第1038号「叙任及辞令」1916年1月20日。
8. 『官報』第1218号「叙任及辞令」1916年8月21日。
9. 『官報』第2640号「叙任及辞令」1921年5月21日。
10. 『官報』第2858号・付録「辞令」1922年2月14日。
参考文献
・秦郁彦編『日本近現代人物履歴事典』東京大学出版会、2002年。
・衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』1990年。
・児玉識著、防府市立防府図書館編『上山満之進の思想と行動』防府市立防府図書館、2016年。
外部リンク
・ふるさと人物伝 上山満之進 (PDF) - 防府市立図書館
・三哲文庫 - 防府Web歴史館(防府市教育委員会文化財課)
(wikiより)
6594 男爵 楫取素彦・美和子終焉の地(防府中央市)
~窪田耕二氏が『男爵楫取素彦の生涯』に寄稿の「防府と楫取素彦」から抜粋~
〇 岡村町の男爵邸
岡村町にあった楫取男爵邸は五百坪敷地の大邸宅、迫戸川から三田尻港に流れる小川に架かる御影石の立派な石橋をわたると大きな門があり、高さ六尺以上の重量感のある土塁が家を囲んでいた。
玄関にいたる広い前庭の左側には築山のある大きな池があり、築山にいたる太鼓橋の下には大鯉が泳いでいた。
庭には椎の大木が数本鬱蒼と茂っていて、奥に古色蒼然とした建物 ( 二階建て ) があった。
戦前は福島人絹の工場長、戦後は県立中央病院の先生が在住していた。
昭和十年代、近所の子どもたちにとっては楫取邸大門前の広場は恰好の遊び場、門内にも自由に出入り出来、秋には椎の実をひろって持ち帰り、炒っておやつにしたという。
近所に住んでいた藤本傅治氏が旧宅の見取り図を描いてくれた。
⇧ 上の絵画は、防府市在住の画家・岡部忠則氏が、中央町在住の藤本傅治氏と上山忠男氏から過去の様子を聞き取りつつ徐々に描いていき、両氏の記憶をさらに引き出すことにより、何度も修正を行って行って再現した作品です。
(案内板より)
6593 鋳物師・山田雪斎碑(山口県防府市鋳物師町11)
6592 三田尻御茶屋旧構内(山口県防府市お茶屋町10-21)
三田尻御茶屋は、承応三年( 1654 )二代萩藩主・毛利綱広によって建設された藩の公館で、藩主の参勤交代や領内巡視の際、あるいは公式賓客の旅館にあてられたものです。
現在まで数度の改修が行われ、規模や間取りは様々な変遷をたどってますが、県内に残る御茶屋として唯一、区画の明瞭なものです。
幕末の文久三年( 1863 )八月には、京都の政変の難を逃れた三条実美ら七卿が相次いで御茶屋に入れられ、多くの勤王の志士を交え国事が談じられました。
昭和十四年( 1939 )に毛利家より防府市に寄贈を受け、三田尻塩田をはじめ産業の振興に尽力し、藩の財政再建に努めた七代藩主・重就の法名にちなんで「英雲荘」と命名されています。
(案内板より)
〇 三田尻御茶屋
三田尻御茶屋(みたじりおちゃや)は、江戸時代に毛利綱広によって建てられた長州藩の公館。現在では英雲荘(えいうんそう)と呼ばれており、萩往還関連遺跡三田尻御茶屋旧構内英雲荘として国の史跡に指定されている。三田尻御殿とも呼ばれていた時期もある。また、三田尻茶屋の敷地の一角に、招賢閣(しょうけんかく)が建てられていたが、現在は残っていない。
歴史
1654年(承応3年)に、長州藩2代藩主・毛利綱広によって周防国防府(現・山口県防府市)の三田尻に建築される[1]。当時の三田尻は、萩城から続く萩往還の終点として、瀬戸内海側における長州藩の玄関口であった。三田尻御茶屋は参勤交代や領内巡視時の藩主の宿泊・休息施設、そして迎賓などの為に造られた。
7代藩主の重就は、防府の塩田を度々視察するなどして防府の発展に寄与していたが、家督を譲って隠居した翌年の1783年(天明3年)には三田尻御茶屋の大規模な改築を行った。大観楼などの建設はこの時に行われた[2]。改修後に重就が三田尻御茶屋へ移住して、晩年の6年間を防府で過ごしている。この時、三田尻茶屋は「三田尻御殿」と呼ばれた[1]。ただし、藩財政が厳しい中で行った大きな改築に反発があったのか、重就の死後には三田尻御殿の名称は廃され[3]、御殿も一部を解体するなどして、規模は縮小された[2]。
1851年(嘉永4年)に、13代藩主・敬親が行った改築により、現在とほぼ同じ規模になった[1]。
1863年(文久3年)には、京都の政変で三条実美ら7人の公卿が長州へ逃れてきた(七卿落ち)。三条らは三田尻御茶屋の大観楼棟に約2ヶ月滞在して、その時に敬親や高杉晋作らと面会している[2]。さらに、敷地の北側に招賢閣(しょうけんかく)が建てられ(三田尻御茶屋の一時的な別称という説もある)、三条らの会議場所となった。招賢閣には幕末の志士達が足繁く立ち寄ったが、翌1864年(元治元年)の禁門の変の後には廃止され、さらに明治維新後に解体された。一方で、三田尻御茶屋そのものは明治時代以降も毛利家の別邸として使用されている[1]。なお、1916年(大正5年)に、公爵毛利家の新たな本邸が防府市多々良に完成しており、これを多々良邸と呼ぶのに対して、三田尻茶屋は三田尻邸とも呼ばれていた。
1939年(昭和14年)に、毛利家から防府市に寄付され、防府の産業振興に尽力した重就の法名から「英雲荘」と名付けられた[1]。
太平洋戦争終結後は、進駐軍将兵らの集会所となった[2]。大観楼棟1階をダンスホールとするため、畳を取り外して絨毯敷きにするなどの大改築が行われた[2]。
その後、市の公民館などとして使われてきた[2]が、1989年(平成元年)9月3日には、萩往還関連遺跡三田尻御茶屋旧構内として、国の史跡に指定される。そして、1996年(平成8年)に修復保存作業が始まり、各棟を往年の姿に復元し、2011年(平成23年)9月より一般に公開された[4][5]。
建築物
三田尻茶屋の敷地面積は約9530平方メートル、主な建築物は木造平屋2階建ての本館が延べ937平方メートル、木造平屋建ての離れの茶室が延べ139平方メートルである[5]。
本館を構成する主な棟は、江戸時代に建てられた大観楼棟、明治時代に建てられた奥座敷棟、大正時代に建てられた玄関棟と台所棟に区分される[6]。三田尻茶屋に現存する建造物では最古のものである大観楼棟は、かつては2階から海が見える眺望だったことから付けられた名前である。
1996年からの保存修理工事では、全体としては明治から大正時代の状態としているが、建物の各部分を前述の各建築時期にあわせて復元している[4]。玄関や廊下、奥座敷棟にあるシャンデリアなどの内装などは防府市多々良の毛利邸に現存しているものを参考にし、襖模様はそれまでの模様替えで何度も貼り重ねられていた襖紙の調査から復元し、その他も文献や絵図を参考に往年の姿を復元している[7]。 茶室の花月楼は、江戸千家の祖である川上不白(かわかみふはく)の弟子であった重就が、不白が献上した茶室の差図(図面)を元に1776年(安永5年)に建築していた[8]が、重就の没後に、重就の茶道指南役であった竹田休和が9代藩主斉房から貰い受けて萩に移築したとされる[9]。そのため、現在の三田尻茶屋にある花月楼は、周防国分寺に建てられていた茶室を、明治時代に移築したものである[6]。
また、修復工事中には、佐野焼[10]のかめを使った水琴窟が敷地内から発見されており、手を洗う時の水の滴で響きを楽しんだと思われる(その他の遺構が見つかっていないため、設置時期などの詳細は不明)[11]。
所在地
山口県防府市お茶屋町10番21号
脚注
1. a b c d e 三田尻御茶屋 - ほうふWeb歴史館
2. a b c d e f 国指定史跡 萩往還関連遺跡「三田尻御茶屋」の変遷 - 元気になるメールマガジン!!山口きらめーる2012年8月24日号 vol.235
3. 15年間の修理を経てついに完成・英雲荘が29日オープン - 防府日報2011年9月28日
4. a b 英雲荘の一般公開について - 防府市
5. a b 英雲荘の一般公開始まる 防府市 - 山口新聞2011年9月30日
6. a b 三田尻御茶屋旧構内「英雲荘」(国指定史跡萩往還関連遺跡) - 山口県フィルムコミッション
7. 山口県防府市 英雲荘 歴史上重要な役割を果たした萩藩の公館 - 自治体の仲間2012年8月号(日本自治体労働組合総連合)
8. 『英雲公と防府(1936年・著/香川正一)』(目で見る 毛利家あれこれ ~毛利博物館収蔵資料と歴史ばなし~第125回 - 地域情報新聞ほっぷ 2013年1月10日)
9. 花月楼 - おいでませ山口へ(山口県観光連盟)
10. 佐野焼 - ほうふWeb歴史館
11. 旧三田尻御茶屋敷地内で水琴窟公開へ―防府 - 山口新聞2008年9月6日
関連項目
・本陣
・武家屋敷
・茶屋
・松陰神社 - 茶室花月楼の現存地(最終的な移築先)
外部リンク
・三田尻御茶屋 - ほうふWeb歴史館(防府市教育委員会)
・英雲荘の一般公開について - 防府市
・国指定史跡 萩往還関連遺跡「三田尻御茶屋」の変遷 - 元気になるメールマガジン!!山口きらめーる2012年8月24日号 vol.235(山口県広報広聴課)
(wikiより)
6591 正福寺(山口県防府市お茶屋町7-26)
6590 史跡・野村望東尼終焉の宅(防府市岡村町5-3)
6589 御堀耕助墓(防府市護国神社)
生垣の奥、神殿の横に御堀耕助の墓があります。
幅 30cm 角、高さ 107cm のいわゆる軍人墓と呼ばれている仏石に「贈正四位御堀耕助直方の墓」と彫られています。
長州藩士・大田要蔵の長男・市之進として萩に生まれ、18歳のとき江戸に出て、神道無念流の斎藤弥九郎道場で剣術を修業 ( 塾頭を務めるほどの腕前 ) します。
四年後、命令により帰国し、世子・毛利定広の小姓役に抜擢され、ついでに京都に上がり尊王攘夷活動に奔走します。
天誅組の変の挙兵に失敗し大阪の長州藩邸に逃れた中山忠光を助け、下関まで警護し、途中、今の防府市富海の大和屋政助の船蔵の三階に匿いました。
元治元年 ( 1864 ) 七月には、浪士隊の参謀として禁門の変 ( 蛤御門の変 ) に参戦して勇名を轟かせ、同年八月の四ヶ国連合艦隊との戦闘に従軍した後、山田顕義や品川弥二郎らと御楯隊を結成して総督となり、幕府に恭順しようとする俗論党と戦います。
また、いまの山口市大内御堀に住んでいたところから御堀耕助と名乗り、慶應二年 ( 1866 ) の第二次長州征伐では芸州口で防戦、戦功を挙げます。
慶應三年 ( 1866 ) には、26歳の若さで長州藩の参政となり、京都において薩摩藩の小松帯刀、西郷隆盛、大久保利通らと討幕について話し合うなど、維新の大業に尽力しています。
明治二年 ( 1869 ) 、藩命により山形有朋と共に欧州視察に向かいますが、渡航中、肺を患い帰国します。病状は回復せず、明治四年 ( 1871 ) に三田尻で亡くなります。享年31歳。
(案内板より)
〇 御堀耕助
御堀 耕助(みほり こうすけ、天保12年7月7日(1841年8月23日) - 明治4年5月13日(1871年6月30日))は、幕末期の長州藩士。前名:太田市之進。御楯隊総督。諱は直方。
略歴
長州藩士・太田要蔵の長男として萩に生まれる。18歳で江戸の斎藤弥九郎道場に入門、塾頭を務める。帰藩後、世子毛利定広の小姓となる。
文久3年(1863年)5月、長州藩による馬関海峡(関門海峡)での米仏商船砲撃に参加。同年、中山忠光が大和国での挙兵に失敗し(天誅組の変)、敗走して大阪の長州藩邸に逃れてくると、下関までの警護を務める。
元治元年(1864年)7月の禁門の変に参加、破れて帰藩。四国連合艦隊との戦闘に参加後、山田顕義・品川弥二郎らと御楯隊を結成し総督となる。同年12月(1865年1月)、高杉晋作が決起(功山寺挙兵)すると、これに呼応して御楯隊を率いて俗論党と戦い、呑水、赤村の戦いなどで活躍。
慶応元年(1865年)、太田市之進から御堀耕助に改名。
慶応2年(1866年)の第二次長州征伐に対して、御楯隊を指揮し芸州口方面で戦う。
慶応3年(1867年)、参政となる。同年8月、柏村数馬と共に京都に赴き、薩摩藩の小松清廉・西郷隆盛・大久保利通らと倒幕の実施計画について会談。
明治2年(1869年)、藩命により山縣有朋、西郷従道と共に欧州視察に向かうが、香港まで行って病気のためいったん帰国し、同年11月、日本公務弁理職(総領事)に任命されて渡仏するモンブラン伯爵と秘書の前田正名とともに横浜を発ち、パリで山縣たちに合流した[1]。 帰国後、薩摩で治療を受けていたが病状が悪化して三田尻へ帰り、病床を見舞った従兄弟の乃木希典(乃木の父・希次が御堀の父・要蔵の弟)を黒田清隆に紹介し、乃木が陸軍で栄達するきっかけを作った。
明治4年(1871年)、三田尻において病死。享年31。山口県防府市の防府市護國神社境内の桑山招魂場に墓所がある。
脚注
1. 『木戸孝允日記』、『元帥公爵 山県有朋』、ベルギー貴族モンブラン伯と日本人
参考文献
・蒲生重章「御堀耕助傳」:『近世偉人傳・初編』(明治10年)より
(wikiより)