本牧jack『意外と身近にある歴史散歩』日々是好日 心灯 頬笑

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歴史ドラマが流行っている昨今、身近に有って気が付かなかったりする様な物を取り上げたりしています。
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2022/02

児玉 誉士夫(こだま よしお、1911年明治44年)2月18日 - 1984年昭和59年)1月17日)は、日本右翼運動家。自称CIAエージェント[1][2][3][4]暴力団錦政会[注釈 1]顧問[5]。戦争中、海軍航空本部のために物資調達を行い、終戦時までに蓄えた物資を占領期に売りさばいて莫大な利益を得た。この豊富な資金を使って、戦後分裂状態にあった右翼を糾合し、鳩山一郎など大物政治家に政治資金を提供した[6]。「政財界の黒幕」、「フィクサー」と呼ばれた。日韓国交正常化交渉に関与した[7]1960年生前葬を行う。河野一郎大野伴睦といった大物政治家が児玉のための葬儀に集まり、焼香した[要出典]

三男はTBSサービス社長を務めた児玉守弘[注釈 2]

出生
戸籍上は、福島県安達郡本宮町(現本宮市)中条45番地に生まれた[8]。父の酉四郎の旧姓は山田といい、上杉家の家臣であった山田彦右衛門の子兵太夫が丹羽長重に仕え、以降、兵蔵-為貞-貞常-為英-為栄-為芳と続いた[9]。祖父山田兵太夫は明治維新後、二本松の副参事になったが、父の代になって、同じ二本松藩御典医児玉家から望まれて養子となったため、児玉姓にかわった[10]。ただし、これらの家系は後に児玉誉士夫自身によって作られた「設定」のようである。実際のところ、児玉誉士夫の出自は全く不明である。幼少時は酷い貧乏暮らしで、父親と二人で掘っ立て小屋に住んでいたとされる。7歳で母親を亡くし、8歳で朝鮮に住む親戚の家に預けられ、京城商業専門学校を卒業した後、来日して[注釈 3]向島 (墨田区)の鉄工所に住み込んだ。それからは様々な右翼団体を転々とすることになる。

右翼活動
児玉は1929年、赤尾敏が結成した「建国会」に入会。18歳で天皇直訴事件により服役。釈放後に津久井龍雄の急進愛国党に入会。1931年、日本主義陣営の統一組織「全日本愛国者共同闘争協議会(日協)」が結成され急進愛国党も参加(三月事件の民間動員計画)。児玉は前衛部隊の一員になった。国会ビラ撒き事件井上準之助蔵相脅迫事件を起こし服役。1932年2月、釈放。同月9日、血盟団事件が起き、同日、警視庁は児玉を含めた国家主義運動の関係者を拘引した。釈放後、渡満。満州自治運動をしていた笠木良明[11]大雄峯会に参加。同年、帰国。独立青年社を設立し右翼浪人の岡田理平に誘われ頭山秀三(頭山満の三男)が主宰する天行会に出入りをした。頭山が逃げざるを得なくなり[12]、後事を託された児玉、岡田、天行会のメンバー二人の四人で1932年、天行会独立青年社事件を起こす。当時は23歳だった児玉は3年半の判決を裁判で受けた。服役中にニ・二六事件が起きた。


出所後、笠木が編集発行する『大亜細亜』に関わる。1937年、笠木から紹介された外務省情報部河相達夫より勧められ、中国各地を視察[13]。上海副総領事の岩井英一東亜同文書院出身)を知り、岩井が1938年に領事館内に設置した「特別調査班」の嘱託となる。岩井の推薦で、1939年4月に陸軍参謀本部の嘱託となりハノイにいた汪兆銘の護衛を任された。石原莞爾の紹介で支那派遣軍総司令部参謀の辻政信を知り、同司令部の嘱託となる。しかし東亜連盟の動きが陸軍の方針に反すると東条英機の逆鱗に触れたことで、児玉は嘱託を解かれ1941年5月に帰国した。

児玉機関
1941年11月、児玉が属した国粋大衆党を主宰する笹川良一の紹介で海軍省(海軍大臣は嶋田繁太郎)の外局である航空本部(本部長は山本五十六)より招かれた。ここから児玉は海軍航空本部のため航空機に必要な物資を調達する。戦時下の外地はインフレ状態で物流も滞り、国民感情ではナショナリズムの高まりによる排日排日貨(日貨とは日本製品)運動が起きていた。目的の重なる陸軍、艦本の機関と競合するため各方面からの干渉も予想されたが児玉は承諾し、総務部長(山縣正郷)と上海へ飛び、ここに児玉機関の本部を置いた。児玉は海軍の嘱託(佐官待遇)となる。


1942年3月、総務部長は大西瀧治郎となり、特攻生みの親とされる大西中将が敗戦後に自決する場に立ち会う縁が繋がった[注釈 4]


ここで源田実と知り合い、戦後に源田が児玉に瀬島龍三を紹介した[14]1941年真珠湾攻撃の直前、海軍航空本部独自の物資調達の為に笹川が山縣正郷少将に紹介、その後任者が大西瀧治郎少将(当時)で、後に大西中将が自決する日まで、親しい間柄となる[注釈 5]。この縁で上海児玉機関[注釈 6]と呼ばれる店を出した。これは、タングステン[注釈 7]ラジウムコバルトニッケルなどの戦略物資を買い上げ、海軍航空本部に納入する独占契約をもらっていた[注釈 8]。よく、児玉はこの仕事でダイヤモンドプラチナなど、1億7500万ドル相当の資金を有するに至ったと言われている[注釈 9]。アメリカ陸軍情報局の報告では、児玉機関は鉄と塩およびモリブデン[注釈 7]鉱山を管轄下におさめ[注釈 10]、農場や養魚場、秘密兵器工場も運営。戦略物資、とくにタングステンを得るため、日本のヘロインを売っていた[15]


児玉の行動について憲兵の監視はあったが、大西瀧治郎のような大物が庇護しているため逮捕してもすぐに釈放されるという結果となった。この間、1942年4月30日に行われた第21回衆議院議員総選挙(いわゆる翼賛選挙)に5人当選区の東京5区から非推薦候補として立候補をして8位落選をしている。

終戦と「逆コース」

終戦を迎えた翌日、1945年8月16日に児玉と懇意にしていた大西が遺書を残し割腹自決した。児玉も急行し、駆けつけた児玉に「貴様がくれた刀が切れぬばかりにまた会えた。全てはその遺書に書いてある。厚木小園に軽挙妄動は慎めと大西が言っていたと伝えてくれ。」と話した。児玉も自決しようとすると大西は「馬鹿もん、貴様が死んで糞の役に立つか。若いもんは生きるんだよ。生きて新しい日本を作れ。」といさめた。


終戦後、講和内閣の首班として東久邇宮稔彦王が組閣した時には東久邇宮自身は児玉を知らなかったが内閣参与となっていた[要出典]。1946年初頭、A級戦犯の疑いで占領軍に逮捕され、巣鴨プリズンに送られた。その間、ジャパン・ロビーの暗躍により右翼をパージするSCAPの方針が批判され、アメリカの占領政策は協力的な戦犯を反共のために利用する「逆コース」を走るようになった。1948年12月24日に釈放され、そこでCIAに協力するようになったかが今でも議論されている[注釈 11]。確かなのは、拘留中に昭和通商との関係を暴かれていたことと[16]、釈放後も続く調査で吉田彦太郎が児玉機関の所有した国内鉱山を明らかにしていること[注釈 10]、そして後にCIAが、児玉を反共思想・軍閥構想の持ち主であると分析していること[注釈 12]である。この間に公職追放となった[17]

「フィクサー」へ

児玉は児玉機関が管理してきた旧海軍の在留資産をもって上海から引き上げていた[注釈 13]。児玉は、巣鴨拘置所に共にいた辻嘉六[注釈 14]に勧められて、1946年初頭、逮捕される直前に、この資金の一部を自民党の前身にあたる鳩山ブランドの日本民主党(鳩山民主党)の結党資金として提供した。


1950年、北炭夕張炭鉱の労組弾圧のため明楽組を組織して送り込んだ[注釈 15]。G2[注釈 16]と多くの暴力団の中心的仲介者としての地位を築き、十数年後には児玉は来たるべき闘争に備えて右翼の結集を目論んだ。暴力団との仲介には児玉機関にいた村岡健次が大きな役割を果たすことになる。

岸信介
1954年には、鳩山一郎を総理大臣にするために三木武吉の画策に力を貸した。1955年には自由党(緒方自由党)と合併して自民党になった。誠心誠意嘘をつくなど名言を残した三木武吉は病の床で「こだまをよろしく」との言葉を残した。


後その後も自民党と緊密な関係を保ち、長らく最も大きな影響力を行使できるフィクサー黒幕)として君臨した。岸信介が首相になる際にもその力を行使した。


岸首相の第1次FX問題をめぐる汚職を社会党今澄勇が追及していた時には等々力の児玉の私邸へ二度も呼び、児玉は追及をやめるように説得した。しかし、今澄が聞き入れないため、身上調書を渡した。それには今澄の政治資金の出所、その額、使っている料理屋、付き合っている女が全て書かれていた。児玉は東京スポーツを所有する他[注釈 17]に、腹心をいくつもの雑誌社の役員に送り込んでいた。それらに書き立てられることは脅威となった。

日米安保条約改定のため党内協力が必要となった岸信介は1959年1月16日、次期総理大臣を党人派の大野伴睦に譲り渡す誓約をした[注釈 18]。その立会人が児玉であり、河野一郎や佐藤栄作も署名した誓約書が残されている。改定に反対する安保闘争[注釈 19]を阻止するため、岸信介首相は自民党木村篤太郎らにヤクザ・右翼を動員させたが[注釈 20]、児玉はその世話役も務めた[注釈 21]


1962年
(昭和37年)の夏頃から、「(安保闘争のような)一朝有事に備えて、全国博徒の親睦と大同団結のもとに、反共の防波堤となる強固な組織を作る」という構想のもと、児玉誉士夫は東亜同友会の結成を試みた。結局、同会は結成されなかった。しかし、錦政会稲川裕芳会長、北星会岡村吾一会長、東声会町井久之会長らの同意を取り付けていた。昭和38年(1963年)には、関東と関西の暴力団の手打ちを進め、三代目山口組田岡一雄組長と町井会長との「兄弟盃[注釈 22]」を実現させた。

裏社会活動

60年代初期には15万人以上の会員がいた日本最大の右翼団体全日本愛国者団体会議全愛会議)を支える指導者の一人であった[注釈 23]。1961年、この全愛会議内に児玉に忠実な活動グループ青年思想研究会(青思研)が誕生した[注釈 24]。60年代終わりには青思研を全愛会議から脱退させた。裏社会の人物の中では特に稲川聖城と親しく稲川は児玉を兄貴分として慕っていた。60年安保闘争の際には児玉の呼びかけで稲川の配下の組員をデモ隊潰しに利用する計画もあったとされている。(詳細は岸信介の項目も参照。)


1967年
7月、笹川良一の肝煎りで、「第一回アジア反共連盟[注釈 25]結成準備会」が開催された[注釈 26]。この時、市倉徳三郎、統一教会の劉孝之らが集まったが、児玉も自分の代理として白井為雄を参加させた。

1969年、青思研より独立した右翼団体日本青年社[注釈 27]が結成。これはヤクザと見分けが付かない任侠右翼の始まりであった。


児玉は1965年日韓国交回復にも積極的な役割を果たした。国交回復が実現し、5億ドルの対日賠償資金が供与されると、韓国には日本企業が進出し、利権が渦巻いていた。児玉誉士夫もこの頃からしばしば訪韓して朴政権要人と会い、日本企業やヤクザのフィクサーとして利益を得た。児玉だけではない。元満州国軍将校、のちに韓国大統領となる朴正煕[注釈 28]とは満州人脈が形成され、岸信介[注釈 29]椎名悦三郎らの政治家や元大本営参謀で商社役員の瀬島龍三が日韓協力委員会まで作って、韓国利権に走った。


日本国内では企業間の紛争にしばしば介入した。1972年河本敏夫率いる三光汽船ジャパンラインの乗っ取りを計画して同社株の買占めを進めた。困惑したジャパンラインの土屋研一は児玉[注釈 30]に事件の解決を依頼した[注釈 31]。しかし、児玉が圧力をかけても、河本はなかなかいうことを聞かなかった。そこで、児玉はそごう会長の水島廣雄に調停を依頼。水島の協力により、河本は買い占めた株の売却に同意する。児玉は水島に謝礼として1億円相当のダイヤモンドを贈った。こうして児玉の支配下に収まったジャパンラインは、昭和石油の子会社だった日本精蠟を1974年夏に買収した[注釈 32][注釈 33]


児玉が圧力をかける時は今澄のときのように傘下のメディアを駆使した。利用された大手メディアに博報堂がある。その中に児玉は次の二つの目的を持ったセクションを作った。一つは、博報堂の取引先を児玉系列に組み込む。もう一つは、その系列化された企業に持ち込まれるクレームを利用してマスコミを操作し、なびかないメディアには広告依頼を回さない[注釈 34]。このセクションは広告会社として品位に欠けた。そこで、当時の博報堂の持ち株会社であった伸和[注釈 35]の商号を、1975年に博報堂コンサルタントへ変えて、また、定款にも「企業経営ならびに人事に関するコンサルタント業務」の項目を加えて、この元親会社に業務を請け負わせた[注釈 36]。役員は、広田隆一郎社長の他に、町田欣一、山本弁介、太刀川恒夫が重役として名を連ねた。広田は、福井純一[注釈 37]博報堂社長の大学時代ラグビー関係者で、警視庁が関西系暴力団の準構成員としてマークしていた人物。町田は、元警察庁刑事部主幹。山本は元NHK政治部記者。太刀川は塚本素山ビルの等々力産業社長で児玉側近の第一人者であった[18]

ロッキード事件
ロッキード事件と児玉の関わりは、しばしばロッキード社または日本の政界という事件の帰着点ばかりが焦点化して報道・出版される傾向がある。しかし、ロッキード社が児玉へ秘密送金する窓口として、元OSS 員が社長だったディーク・ペレラ社を利用したという興味深い事実がある[19]。ディークは外国為替と貴金属取引に特化した企業であるが、21世紀に数件の訴訟を提起されている。その一方、今日ヨーロッパではHSBCドイツ銀行がやはり外国為替と貴金属取引をめぐり不祥事を露呈している。

ロッキード社の秘密代理人

児玉はすでに1958年昭和33年)からロッキード社の秘密代理人となり、日本政府に同社のF-104“スターファイター”戦闘機を選定させる工作をしていた。児玉が働きかけた政府側の人間は自民党の大野伴睦河野一郎岸信介らであった。1960年代末の契約が更新され、韓国も含まれるようになった。児玉は親しい仲にあった韓国の朴政権にロッキード社のジェット戦闘機を選定するよう働きかけていたのである。韓国に対する影響力の大きさが窺える。しかし、この頃、大野も河野も死亡しており、新しい総理大臣の佐藤栄作田中角栄にはあまり影響力をもっていなかった[注釈 38]


そこで児玉は田中との共通の友人、小佐野賢治に頼るようになった。小佐野は日本航空全日本空輸の大株主でもあり、ロッキード社製のジェット旅客機の売り込みでも影響力を発揮したが、すでに日本航空はマクドネル・ダグラス社製のDC-10型機の購入を決定していたこともあり、その矛先を全日空に向けた。


この頃深い関係を作り上げていた田中角栄が1972年昭和47年)に首相になると児玉の工作は功を奏し、その後全日空は同機種を21機購入し、この結果ロッキード社の日本での売上は拡大した。さらに全日空は、ロッキードから得た資金を自社の権益の拡大を図るべく航空族議員や運輸官僚への賄賂として使い、その後このことはロッキード事件に付随する全日空ルートとして追及されることとなった。


ロッキード社社長のアーチボルド・コーチャンが「児玉の役割はP-3C導入を政府関係者に働きかけることだった。児玉は次の大臣に誰がなりそうか教えてくれた。日本では大臣はすぐに代わるから特定の大臣と仲良くなっても無駄である。彼は私の国務省だった。」と調書で語っている。

ロッキード裁判

しかし1976年昭和51年)、アメリカ上院で行われた公聴会で、「ロッキード社が日本の超国家主義者を秘密代理人として雇い、多額の現金を支払っている」事実が明らかにされ、日本は大騒ぎとなった。その後、三木武夫首相によってこの事件の捜査が開始され、すでにこの事件の中心人物と目されていた65歳の児玉は衆議院での証人喚問が行われる直前に「発作」を起こし、床についた[注釈 39]


しかし、間もなく児玉は脱税と外為法違反で在宅起訴され、裁判に臨むことになった。1977年昭和52年)6月に一度公判に出廷した後は病気と称して自宅を離れなかった。元総理の田中角栄は収賄容疑で逮捕され、1983年昭和58年)10月に有罪判決が出された。児玉は死期が近づいた時、「自分はCIAの対日工作員であった」と告白している。72歳の児玉は判決が出る直前の1984年昭和59年)1月に再び発作を起こして没し、裁判は打ち切りとなった。


当時、児玉が経営する企業の役員を務めていた日吉修二(2016年7月11日に死去。『NHKスペシャル』『未解決事件』File.5 「ロッキード事件」でのインタビューが生涯で最後のインタビューとなった)によると、事件発覚直後、児玉の秘書から急遽呼ばれ、段ボール5箱分の書類をすぐに焼却するよう指示されたという。日吉はインタビューの中で「これが天下の児玉だと思ってますよ。それはやっぱり日本の為の国士ですから、何か事を起こすのにはやっぱ資金がないとね。(資金の)必要があったんじゃないかなと思う。これやっぱりロッキード事件に絡んだ書類くらい思ってますよ。伝票みたいなものもあったし、色んな綴じてある書類もあったし、そんないちいちね見ながらこれは焼いていいか、それはやらない。私、意外と忠実だから言われたらピッと焼いちゃう。ただ燃やしているチラチラ見える中には、英語の物もあったと思います。」と述べている。

児玉の通訳の福田太郎も死ぬ直前、次のような供述をしている。


・福田「アメリカの公聴会で領収書の一部が公表されることになりました。ロッキード社から児玉さんに謝っておいてくれと電話がありました。」


・児玉「それは話が違う。私に迷惑をかけないようにすると言っていたではないか。」


・秘書「それを否定しなければなりません。先生は知らないと言えばいい。判子と書類は燃やしてしまいます。」


2016年に放送されたNHKスペシャル・未解決事件のインタビューに応じた堀田力元検事は「核心はP3Cではないか。P3Cで色々あるはずなんだけど。(児玉誉士夫がロッキード社から)金を上手に取る巧妙な手口は証言で取れている。(そこから先の)金の使い方とか、こっちで解明しなきゃいけないけど、そこができていない。それはもう深い物凄い深い闇がまだまだあって、日本の大きな政治経済の背後で動く闇の部分に一本光が入ったことは間違いないんだけど、国民の目から見れば検察、もっともっと彼らがどういう所でどんな金を貰ってどうしているのか、暗闇の部分を全部照らしてくれって。悔しいというか申し訳ない」と語っている。

詳しいことは、「児玉誉士夫ウィキペディア」をご覧ください。 ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%90%E7%8E%89%E8%AA%89%E5%A3%AB%E5%A4%AB
(wikiより)

1609 児玉誉士夫

児玉誉士夫

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七代目 松本幸四郎(しちだいめ まつもと こうしろう、1870年6月10日明治3年5月12日) - 1949年昭和24年)1月27日)は、明治から昭和前期の歌舞伎役者、日本舞踊藤間流家元。本名、藤間金太郎(ふじま きんたろう)。舞踊の名跡は三代目藤間勘右衛門 → 藤間勘斎。屋号高麗屋俳名錦升・琴松・紫香、雅号に白鸚がある。

来歴
1870年明治3年)、伊勢国員弁郡長深村(現:三重県員弁郡東員町長深)で、土建屋[1]「福田屋」の親方・秦専治と妻りょうの三男として生まれた(幼名・豊吉)。


秦家の菩提寺真宗高田派南松山大雲寺。秦家は豊吉の長姉の婿が継ぎ、その曾孫の娘にシンガーソングライター岡村孝子(母方が秦家)がいる[2]秦豊吉は、幸四郎の長兄の息子であり、甥にあたる[3]


1874年
(明治7年)に一家で上京し、饅頭を商っていたところ、店の常連客になっていた舞踊の藤間流家元である振付師・二代目藤間勘右衛門に請われて数え3歳で養子となり、藤間金太郎と改名[2]


1880年(明治13年)、九代目市川團十郎の門弟となり、市川金太郎を名乗る。翌年4月、東京春木座における『近江源氏先陣館・盛綱陣屋』の小四郎で初舞台を踏む。


1889年
(明治22年)3月、新富座で四代目市川染五郎を襲名。1903年(明治36年)5月には歌舞伎座で八代目市川高麗蔵を襲名。このころから團菊を継ぐ次世代の有望株として注目を集めるようになる。


1911年(明治44年)11月、帝国劇場(帝劇)で七代目松本幸四郎を襲名。以後、明治末から昭和初めまでは副座長として同劇場を拠点に活躍、新作や翻訳劇にも挑戦する。1930年(昭和5年)、帝劇が松竹傘下になったことに伴って、同社と専属契約を結ぶ。


晩年になっても積極的に舞台に出演し、1946年(昭和21年)には生涯最後の『勧進帳』の弁慶を、また翌年の東京劇場、翌々年の大阪歌舞伎座では『仮名手本忠臣蔵』の通し上演も勤め上げた。1948年(昭和23年)12月、新橋演舞場での大岡越前役が最後の舞台となった。


1949年(昭和24年)1月27日、死去。享年80(満78歳没)。門弟の前で振付を見せた翌日に亡くなるという、壮絶な最期だった(後述)。

芸風
恵まれた容貌、堂々たる口跡に裏打ちされた風格のある舞台で、時代物や荒事に本領を発揮した。また舞踊にも秀で、藤間流の家元として活躍した。


当たり役の筆頭に挙げられるのが『勧進帳』の弁慶で、師匠・團十郎以後の第一人者として、生涯に約1600回演じた。殊に1943年(昭和18年)歌舞伎座にて、六代目尾上菊五郎義経十五代目市村羽左衛門富樫と共演した舞台は映画に残され、今日でも往時の舞台ぶりを知る貴重な記録となっている。辛口の劇評で知られた岡鬼太郎をして「風貌音声の堂々たる、先づ当代での随一。誰がどの件で立ち向はうと、此の金城鉄壁には矢も立たぬ」(「演芸画報」昭和7年12月号)[4]と評したほど、近代随一の弁慶役者であった。


他には『大森彦七』、『菅原伝授手習鑑・車引』の梅王丸、『一谷嫩軍記』や『源平魁躑躅』(扇屋熊谷)の熊谷直実、『博多小女郎波枕』(毛剃)の毛剃、『暫』の鎌倉権五郎、『矢の根』の曾我五郎、舞踊で『積恋雪関扉』(関の扉)の関守関兵衛実は大伴黒主、『茨木』の渡辺綱、『素襖落』などが当り役である。


一方で、音楽劇や翻訳劇を上演するという、進歩的な側面もあった。1905年(明治38年)には北村季晴の叙事唱歌『露営の夢』を舞台上演。後にはシェイクスピアの『オセロ』や『ジュリアス・シーザー』も演じている。


こうした、歌舞伎と西洋(洋物)の演劇に取り組む姿勢は、次男の初代松本白鸚や三男の二代目尾上松緑、さらにその後裔たちにも受け継がれている。

人物
十三代目片岡仁左衛門の自伝『仁左衛門楽我記』には「どんな役でも持って来られたら私は快く出る。人は高麗屋はなんだってあんな役にまで出るのだろう? あんな役はことわればいいとごひいき筋でも言ってくださるが、出てくださいと言われることは、仲間にきらわれていない証拠ですよ。私の演し物の幕に幸四郎はださないように、と言われるようになっちゃおしまいだ。私のような者でも出て欲しいと頼まれることは、ありがたいことだと思うの」 と、その温厚な人柄を表す言葉が記されている。


非常に生真面目な上に辛抱強く、文字通り「体を張る」人物でもあった。三男である二代目松緑の著書『松緑芸話』(講談社、1989年/講談社文庫、1992年)には、『茨木』の渡辺綱を演じた際に、幕切れの見得で体を伸ばし過ぎて心筋梗塞を起こしたことが紹介されている。 


その性格のためか、若い頃はあまり俊才とは見られていなかったようで、田村成義著「藝界通信 無線電話」中で、著者は冥界から電話で呼び出された師匠・九代目市川團十郎に「あれがもう少し物を早く呑み込んでくれると、ちょっと見られるようになりましょう」「少しはセリフ覚えがよくなりましたか?」などと心配させている。


さらに、1949年(昭和24年)2月の大阪歌舞伎座『助六』で三代目市川壽海助六を勤めた際には、幸四郎は以前から出端の唄の振りの稽古をつけに行くことを約束していた。しかしその時体調を崩して寝込んでいたので、名代として門弟振付師の藤間良輔が出向くことになり、師匠に伺いをたてに行ったが、「聞いて分かるものじゃない、なまじっかなものを伝えては済まないから」と、わざわざ床から起き上がって下駄を履き、振りの要を幾度も見せた。その翌日に世を去った。

家族・親族
子孫の多くが歌舞伎役者であり、今日の歌舞伎に与えた影響は計り知れない[2]


十一代目市川團十郎(長男)

初代松本白鸚(次男)

二代目尾上松緑(三男)


女婿
四代目中村雀右衛門



十二代目市川團十郎(十一代目團十郎の子)
初代市川壽紅(十一代目團十郎の子)
二代目松本白鸚(初代白鸚の子)
二代目中村吉右衛門(初代白鸚の子)
初代尾上辰之助(二代目松緑の子)
八代目大谷友右衛門(四代目雀右衛門の子)
五代目中村雀右衛門(四代目雀右衛門の子)


曾孫
十一代目市川海老蔵(十二代目團十郎の子)
四代目市川翠扇(十二代目團十郎の子)
十代目松本幸四郎(二代目白鸚の子)
松本紀保(二代目白鸚の子)
松たか子(二代目白鸚の子)
四代目尾上松緑(初代辰之助の子)
三代目大谷廣太郎(八代目友右衛門の子)
二代目大谷廣松(八代目友右衛門の子)


玄孫
四代目市川ぼたん(十一代目海老蔵の子)
八代目市川新之助(十一代目海老蔵の子、2020年襲名予定)
八代目市川染五郎(十代目幸四郎の子)
三代目尾上左近(四代目松緑の子)
七代目尾上丑之助(二代目吉右衛門の孫)

脚注・出典
1. 中川右介著『歌舞伎座物語: 明治の名優と興行師たちの奮闘史』より
2. a b c 第13回北勢線の魅力を探る報告書 松本幸四郎墓・歌舞伎公園・まちかど博物館 西村 健二北勢線の魅力を探る会、2009年10月27日
3. 小谷野敦『忘れられたベストセラー作家』(イースト・プレス)P.110
4. 松井俊諭著『歌舞伎 家の藝』(演劇出版社)より

外部リンク
歌舞伎俳優名鑑 想い出の名優篇 「七代目松本幸四郎」 - 歌舞伎 on the web

松本 幸四郎:作家別作品リスト - 青空文庫
(wikiより)

1607  七代目・松本幸四郎

七代目・松本幸四郎

1607a

⇧ 墓所全景 ( 七代目・松本幸四郎 右、二代目・藤間勘右衛門 )

1607b



深徳院(しんとくいん、元禄元年(1688年) - 正徳3年10月24日1713年12月11日))は、紀州藩第5代藩主徳川吉宗(後の江戸幕府第8代将軍)の側室で、第9代将軍徳川家重の生母。


父は紀州藩士の大久保忠直。母は同じく紀州藩士内藤幸右衛門守政の娘。俗名は須磨(須摩)。

生涯

吉宗の側室となり、正徳元年(1711年)12月21日に家重を生んだ。正徳3年(1713年)にも懐妊したが、同年10月24日[1]赤坂の紀州藩邸において難産のため母子ともに死去した。享年26。戒名は深徳院妙順日喜大姉。墓所は池上本門寺


宝暦13年(1763年4月16日従二位が追贈された。

関連作品
映画
天下御免1960年松竹 演:宇治みさ子) ※役名は須磨の方

テレビドラマ
新吾十番勝負1970年関西テレビ 演:荒木雅子) 

大奥恋物語1971年フジテレビ 演:加賀ちかこ) 

・新吾十番勝負(1981年1982年・フジテレビ 演:藤宏子) ※役名は於須磨の方

八代将軍吉宗1995年NHK大河ドラマ 演:賀来千香子) ※役名は須磨

徳川風雲録 八代将軍吉宗2008年・テレビ東京 演・井上和香) ※役名は須磨

漫画
よしながふみ大奥』(白泉社

脚注
1. 『ビジュアル日本史ヒロイン1000人』178頁
(wikiより)

1606a



山川 浩(やまかわ ひろし、1845年12月4日弘化2年11月6日) - 1898年明治31年)2月4日)は明治時代の日本軍人。旧会津藩士。最終階級は陸軍少将位階勲等爵位従三位勲三等男爵


陸軍省人員局長兼輜重局長、総務局制規課長、高等師範学校筑波大学の前身の一つ)校長、貴族院議員を歴任した。明治初年までのは重栄、は士亮、通称大蔵(おおくら)、与七郎。は屠竜子。

生涯
幕末

父は会津藩国家老・山川重固(家禄は1,000[1])。母は会津藩士・西郷近登之の娘・えん。姉に山川二葉、弟に山川健次郎、妹に山川常盤、大山捨松らがいる。


万延
元年(1860年)、父の死去により家督を相続する。文久2年(1862年)、藩主・松平容保京都守護職拝命に伴って上洛した。慶応2年(1866年)には幕府の遣露使節団の一員としてフランスへ渡航し、陸路プロシアなどを経てロシアを訪問した。この際にヨーロッパ諸国の発展ぶりを見聞して世界の大勢を知り、劣勢である自国を省みて、攘夷の非を悟ったと伝えられている。(「樺太島仮規則」)


戊辰戦争
では、鳥羽・伏見の戦いを経て江戸会津へと転戦するなど、若年寄として戦費調達や藩兵の西洋化などに尽力した。日光口の戦いでは、土佐藩谷干城が率いる部隊を相手に戦うも敗北し、会津西街道の藤原まで撤退した。藤原では追撃してくる敵軍を敗走させた。その後敵軍は、中村半次郎が来るまで日光口からは会津に突入することは出来なかった[2]。続く会津戦争では撤兵が遅れたため、既に包囲されていた会津若松城に入城できなかったため、会津地方の伝統芸能彼岸獅子を先頭で舞わせながら、この勢いに紛れて入城するという奇策を使った。籠城中は防衛総督として戦った。若松城落城の際に妻・トセが爆死している。戦後は禁固謹慎に処せられ、明治3年(1870年)には会津藩が転封された先の斗南藩権大参事に就いた。しかし斗南藩の実収は少なかったため藩士らの生活は困窮し、自身も妹・咲子(捨松)を函館里子に出すなどの苦労を重ねている。

明治時代
廃藩置県後は青森県に出仕したが、戊辰戦争での活躍を識る谷干城の推薦により、明治6年(1873年)に陸軍に八等出仕した。同年陸軍少佐として熊本鎮台に移り、明治7年(1874年)には佐賀の乱で左腕に重傷を負ったが、軍功により中佐に昇進した。明治10年(1877年)の西南戦争では、陸軍中佐・征討軍団参謀として出征した。熊本鎮台司令長官・谷干城が立て篭もる熊本城は西郷軍が攻撃中であったが、選抜隊を率いた山川は戦火の中を熊本城へ入城し、救援部隊第1号となった[3]。西南戦争を「会津藩名誉回復の戦争」と捉えており、「薩摩人 みよや東の丈夫(ますらお)が 提げ佩く太刀の 利(と)きか鈍きか」という歌を詠んでいる。明治13年(1880年)には陸軍大佐に進級した。


明治19年(1886年)、文部大臣森有礼の命により高等師範学校の校長に任じられた。附属中学の校友会である「桐陰会」の会長も務めた。


明治20年(1887年)、高等師範学校の附属学校について次のように述べている。

「附属校園は全国学校の模範たるべきものである。然るに規律なく乱雑では仕方ないから、之を改革するために努力せよ。その為には全生徒に退学を命ずるもよし、或いは授業料を三倍にし、従来の生徒の此の校に居るのをひかせるのもよい」[4]


当時の授業料は50で、生徒は六百数十名だったが、授業料を値上げしてもほとんどが在学を望んだため、増収により良い教師を招聘して大いに校風を振起することができた。山川は軍人であったため校内規律を厳しく締め上げた。このため校内は秩序整然としたものになった[4]


その後は陸軍少将に進級したが、陸軍省総務局制規課長を最後に予備役に編入された。明治23年(1890年)7月、第1回衆議院議員総選挙に旧会津藩領である福島4区から立候補したものの落選するが[5]、同年の9月29日に貴族院議員に勅選された[6]。谷や曾我祐準とともに院内会派懇話会を旗揚げして「貴族院三将軍」の異名をとった。


明治31年(1898年1月26日、軍務等の功により男爵に叙せられた。同年2月4日薨去。戒名は忠烈院殿靖誉桜山大居士。墓は青山霊園にある。


山川男爵家は、妹の常盤と妹婿(婿養子)山川徳治の息子の戈登、次いで戈登の弟の、次いで浩の弟健次郎の四男のと、養子入りにより名跡を保った。

人物
・腕っぷしが強く強情な性格だった。エジプトでピラミッドを見学した際、東洋人をさげすむ態度をとった現地ガイドを殴りつけたという。


・妹・捨松が旧友アリス・ベーコンに送った手紙や柴五郎の回顧などによると、邸宅には常に元会津藩関係者が寄宿しており、また出世した浩に対してたかりのように仕送りをせがむ親戚もいたらしく、晩年まで生活は非常に苦しかったという。また、生涯にわたって会津藩に尽くしたが、一方で非常に反骨心のある人物で、藩学だった朱子学を嫌って陽明学を学んでいたという。


・幕末の一級史料である『京都守護職始末』を記したことで有名だが、自身は草稿段階で死去したため、実際は弟・健次郎が完成させたとするのが定説となっている。

栄典・授章・授賞
位階
1874年(明治7年)

  ・3月26日 - 従六位

  ・6月14日 - 正六位

1880年(明治13年)6月8日 - 従五位

1886年(明治19年)10月28日 - 従四位[7]

1891年(明治24年)8月13日 - 従三位[8]

勲章等
1878年(明治11年)1月31日 - 勲四等旭日小綬章

1885年(明治18年)4月7日 - 勲三等旭日中綬章[9]

1889年(明治22年)11月25日 - 大日本帝国憲法発布記念章[10]

1898年(明治31年)1月26日 - 男爵[11]

著作
さくら山集高木盛之輔編纂、長谷川調七、1902年9月

  ・『山川浩』 櫻井懋編、1967年12月 / 『復刻版 山川浩』 歴史春秋出版、2016年6月、ISBN 9784897578811

・『京都守護職始末』 沼沢七郎ほか、1911年11月

  ・『京都守護職始末』 沼沢七郎ほか、1912年9月増訂再版 / マツノ書店、2004年7月

  ・『京都守護職始末』 郷土研究社、1930年6月

  ・『京都守護職始末 : 旧会津藩老臣の手記』2冊、遠山茂樹校注、金子光晴訳、平凡社東洋文庫〉、1965年8月-1966年2月、ISBN 4582800491 4582800602

・「詩文」「唐依の歌」(前掲 『山川浩』)

脚注
1. 『慶應年間 会津藩士人名録』勉強堂書店
2. 中村(2007)、205p.
3. 中村(2007)、208p.
4. a b 『桐陰会創立二十周年記念号』(明治43年12月)p. 8、『創立百年史 筑波大学附属中学校・高等学校』(昭和63年10月08日)p. 12に再録
5. 『ザ・選挙』第1回衆議院議員選挙福島4区
6. 『官報』第2182号、明治23年10月6日。
7. 『官報』第1003号「叙任及辞令」1886年11月1日。
8. 『官報』第2439号「叙任及辞令」1891年8月15日。
9. 『官報』第527号「賞勲叙任」1885年4月8日。
10. 『官報』第1929号「叙任及辞令」1889年12月2日。
11. 『官報』 第4368号 1898年1月27日 「授爵叙任及辞令」

参考文献
中村彰彦著 『会津武士道 : 侍たちは何のために生きたのか』 PHP研究所、2007年1月、ISBN 4569657095 / PHP研究所〈PHP文庫〉、2012年11月、ISBN 9784569679099

星亮一著 『偽りの明治維新 : 会津戊辰戦争の真実』 大和書房〈だいわ文庫〉、2008年1月、ISBN 9784479301516

関連文献
・「従三位勲三等 貴族院議員陸軍少将 山川浩」(杉本勝二郎編纂 『国乃礎後編 下編』 国乃礎編輯所、1895年4月 / 霞会館、1991年10月)

・「山川浩君之伝」(前掲 『さくら山集』)

・「陸軍少将山川男伝」(三島毅著 『中洲文稿第四集 三』 二松学舍、1917年4月)

・櫻井懋編 『山川浩』 1967年12月

  ・『続山川浩』 続山川浩伝刊行会、1974年3月

  ・『復刻版 山川浩』 歴史春秋出版、2016年6月、ISBN 9784897578811

・今田二郎 「父勝與の 山川将軍に関する思い出」(『会津史談』第56号、会津史談会、1982年7月)

  ・「長篠古戦城と山川浩歌碑」(『会津史談』第58号、1984年5月)

  ・「山川浩将軍を偲ぶ」(『会津史談』第59号、1985年5月)

  ・「続・山川浩将軍を偲ぶ」(『会津史談』第60号、1986年5月)

・「山川健重(男爵)」(霞会館華族家系大成編輯委員会編 『平成新修 旧華族家系大成 下巻霞会館、1996年11月、ISBN 9784642036719

中村彰彦著 『逆風に生きる : 山川家の兄弟』 角川書店、2000年1月、ISBN 4048732064

  ・改題 『山川家の兄弟 : 浩と健次郎』 学陽書房〈人物文庫〉、2005年11月、ISBN 4313752072


関連作品
小説
星亮一 『会津将軍山川浩』 新人物往来社、1994年5月、ISBN 440402102X

秋山香乃 『獅子の棲む国』 文芸社、2002年11月、ISBN 4835549589中央公論新社中公文庫〉、2012年11月、ISBN 9784122057203

漫画
如月弘鷹 『死にたがりの獅子 : 山川大蔵 幕末異聞』 KADOKAWA、2013年10月、ISBN 9784041208663

映画
花の白虎隊(1954年、演:尾上栄五郎
吶喊(1975年、演:田中邦衛

テレビドラマ
獅子の時代NHK大河ドラマ、1980年、演:倉石功
白虎隊日本テレビ系、1986年、演:堤大二郎
白虎隊テレビ朝日系、2007年、演:松尾敏伸
八重の桜(NHK大河ドラマ、2013年、演:玉山鉄二

ドラマCD
・彼岸獅子の入城(花春酒造、2014年、演:保志総一朗

関連項目
佐川官兵衛
斎藤一
山川建(山川男爵家の第4代当主)
長谷川戍吉(山川家家僕)
町野武馬(山川家書生)

外部リンク
帝国議会会議録検索システム - 国立国会図書館
お茶の水女子大学デジタルアーカイブズ - 肖像画・肖像写真が閲覧できる。
(wikiより)

1605 山川浩

山川浩

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狩野 周信(かのう ちかのぶ、万治3年7月2日1660年8月7日〉 - 享保13年1月6日1728年2月15日〉は、日本江戸時代前期から中期にかけて活躍した絵師江戸幕府に仕えた御用絵師で、最も格式の高い奥絵師4家のひとつ木挽町狩野家の3代目。幼名は生三郎、初名は右近で、如川、泰寓斎と号した。父は狩野常信、弟に狩野岑信、子に狩野古信がいる。

略伝
常信の長男として生まれる。延宝6年(1678年)19歳の時、4代将軍徳川家綱にお目見え。宝永7年(1710年)10人扶持を受け、正徳3年(1713年)に常信が没したため跡を継いだ。享保4年(1719年法眼に叙せられ、中務卿と称する。『徳川実紀』「有徳院殿御実紀附録」には、「養朴うせぬる後は、其子如川周信を召して、常にとひはからわせ玉ひしが」とあり、常信没後、有徳院・徳川吉宗の絵画指導をしていた。一方、将軍の寵愛は周信に慢心を生んだらしく、湯浅常山が纏めた『文会雑記』には、弟子の長谷川如辰の言葉として「近頃周信が書崩して、埒もなき絵になりたるは、最早我を圧す絵はなきと云ひ誇る心より、大事の戒を忘れて、散々のことになりたると也」といった悪評も伝えられる。享保13年(1728年)69歳で没。墓は池上本門寺平成14年(2002年)に同寺の五重塔が解体・修理された際の周辺整備事業として、周信の墓が発掘調査され、筆箱、香箱、眼鏡、煙管、毛抜き、印籠、刀子、銭貨などの副葬品が確認されている[1]


上記の悪評は事実の一面を表しているらしく、父常信に比べると繊細で筆力が弱く見るべき絵は少ない。弟子に、鳥山石燕理豊女王仙台藩お抱え絵師の荒川周良(如慶)など。

作品については、「狩野周信ウィキペディア」をご覧ください。 ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8B%A9%E9%87%8E%E5%91%A8%E4%BF%A1

脚注
1. 立正大学博物館編集・発行 『第3回特別展 江戸狩野とその世界 (PDFファイル)』 2006年10月16日
2. 田島達也 「作品紹介 光明寺蔵 旧内裏障壁画」『美術史』No.132、1992年4月15日、pp.260-272。
3. 栃木県立博物館編集・発行 『平成二十一年度秋季企画展 狩野派 ―四〇〇年の栄華―』 2009年10月10日、pp.68-69,111、ISBN 978-4-88758-055-8
4. 『秘蔵日本美術大観 二 大英博物館 2』 講談社、1990年3月25日。
5. 周南市立図書館|郷土資料ギャラリー|中央図書館所蔵書画類|狩野周信 寿老松鶴梅鶴図(三幅対)
6. 奥平俊六 門脇むつみ 森道彦 『公益財団法人 渡辺美術館所蔵品調査報告書 狩野派絵画』 2015年3月、第37図。
7. 奥平俊六 門脇むつみ 森道彦 『公益財団法人 渡辺美術館所蔵品調査報告書(第二回) 狩野派絵画』 2016年3月、第20図。
8. 姫路市|龍門寺大方丈襖絵
9. a b 東京都江戸東京博物館編集・発行 『狩野派の三百年』 1998年7月22日、pp.50-53。
10. 折井貴恵(川越市立美術館)編集 『開館10周年・市制施行90周年記念特別展 小江戸川越江戸絵画 職人尽絵と三十六歌仙額』 川越市立美術館、2012年11月6日、第6図。

参考文献
・静岡県立美術館編集・発行 『狩野派の世界 ─静岡県立美術館蔵品図録』 1999年7月24日

・佐々木英理子(板橋区立美術館)編集 『板橋区立美術館所蔵 狩野派全図録』 板橋区立美術館発行、2006年4月
(wikiより)

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狩野 常信(かのう つねのぶ、寛永13年3月13日1636年4月18日) - 正徳3年1月27日1713年2月21日))は、江戸時代前期の江戸幕府に仕えた御用絵師。父は狩野尚信。幼名は三位、右近と称し、養朴・朴斎・耕寛斎・紫薇翁・古川叟・青白斎・寒雲子・潜屋・弄毫軒、篁渚山人などと号した。子に後を継いだ長男・周信、別に浜町狩野を興した次男・岑信、さらにそれを継いだ甫信がいる。

略伝
京都出身。1650年慶安3年)4月父の尚信が没した後、15歳で狩野派(木挽町狩野家)を継いだ。同年12月剃髪、養朴と号し家光にお目見え、後に家綱の御用を勤めた。父没後は狩野探幽に画を学んだとされる。古来より狩野元信狩野永徳・狩野探幽とともに四大家の一人とされ高く評価されてきたが、狩野派内での地位が上がるのは遅かった。これは叔父で妻の父でもある狩野安信に疎んじられたからだと言われる。


その間に中院通茂に和歌を学び、幕末に著された『古画備考』や『文翰雑編』には多くの歌が収録されている[1]。また、徳川光圀の愛顧を得て、近衛家熈の言行を記録した『槐記』には、しばしば近衛家の画事を勤めた記事が載る。その一方で、探幽同様に古画の学習に努め、後に「常信縮図」(60巻、東京国立博物館蔵)と呼ばれる膨大な古画鑑定控え、粉本・画稿を残した。印章にも凝り、その数は150夥にも及んだという。そうした甲斐もあってか、天和2年(1682年)20人扶持を拝領、同年朝鮮通信使に贈る屏風二双を制作、更に訳官・洪世泰の肖像画を描いた。洪世泰は常信の画を「絶代奇筆」と最大限の賛辞を送った。宝永元年(1704年)10月12日、孔子廟に七十二賢像を描いた功で法眼に叙される[2]。同5年(1708年内裏造営で賢聖障子を描き、翌年(1709年)11月3日に前年の画事と江戸城修理の功績を賞され中務卿法印位を得て、翌年12月19日には200石を加増された[2]。正徳元年(1711年)の通信使来日の際には、前より増えた屏風三双を手掛けた。


弟子に常信門下四天王と呼ばれた新井寒竹常償(津軽藩御用絵師)、長谷川養辰常時、大石古閑常得、永井慶竺常喜(薩摩藩御用絵師)をはじめ、福岡藩御用絵師の上田永朴など。

画風
画風は探幽に学んだためか、探幽のそれに近い。探幽様式の絵師の殆どは探幽の描き方を上辺だけなぞり、余韻がなく平板でつまらない絵となることが多いが、常信は探幽の意図を理解し再現できる画力をもった数少ない絵師である。ただし両者を比較すると、常信には探幽のような幽遠さは無いが、モチーフの位置関係の整理・合理化、装飾性の増加と細密化が指摘でき、より明快で華やかな印象な画面となっている。また、若年から壮年期には狩野永徳に学んだと思われる力強い大作が複数残っている。一方、常信は多くの古画粉本を蓄え、200石という他の奥絵師家を超える知行地を得るなど、狩野派、特に木挽町狩野家の繁栄の基礎を固めたと評価される。反面、晩年の画風は穏やかで繊細なものに変わり、以降の狩野派が弱体化し絵の魅力が失われる原因となった。

代表作については、「狩野常信ウィキペディア」をご覧ください。 ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8B%A9%E9%87%8E%E5%B8%B8%E4%BF%A1

脚注
1. 中部義隆 「江戸時代前期における江戸狩野派」(大和文華館編集・発行 『特別展 大倉集古館所蔵 江戸の狩野派 ─武家の典雅─』 2007年9月、所収)の註(pp.74-76)には、常信が呼んだ和歌が纏められている。
2. 
a b 徳川実紀
3. 埼玉県立歴史と民俗の博物館編集・発行 『特別展「徳川家康 -語り継がれる天下人-」』 2016年10月15日、p.46。
4. 東京国立博物館 京都国立博物館 朝日新聞社編集 『亀山法皇七〇〇年御忌記念 南禅寺』 朝日新聞社、2004年1月20日、pp.194、279。
5. 高崎市タワー美術館編集・発行 『香る大名文化 ─旧高崎藩主・安藤家の至宝』 2009年、pp.10-11、94。
6. 愛知県史編さん委員会編集 『愛知県史 別編 文化財2 絵画』 愛知県、2011年3月31日、p.470。
7. 「大徳川展」主催事務局編集・発行 『大徳川展』 2007年10月10日、pp.89、232
8. 『永慶寺殿公御実録』。福留真紀 『将軍側近 柳沢吉保 いかにして悪名は作られたか新潮社新潮新書419〉、2011年、pp.7-11、ISBN 978-4-10-610419-0
9. 姫路市史編集専門委員会編集 『姫路市史 第十五巻 中 別編 文化財1』 1995年3月28日、pp.191-195。
10. 弘前市立博物館 館蔵品紹介No.3 狩野常信筆「山水図」PDF
11. 公益財団法人馬事文化財団編集 『図録『馬の博物館開館40周年記念所蔵名品展 馬の美術150選 ―山口晃「厩図2016」完成披露―』』 2017年9月9日、第18図。
12. 静岡県立美術館編集 『日本絵画修復協力企画 ホノルル美術館展 ー平安~江戸の日本絵画ー』 ホノルル美術館名品展日本実行委員会、1995年、pp.54,185-186。
13. 宮内庁三の丸尚蔵館編集 『江戸の美意識―絵画意匠の伝統と展開 三の丸尚蔵館展覧会図録No.28』 宮内庁、2002年3月26日、pp.28-29。
14. 宮内庁三の丸尚蔵館編集 『旧桂宮家伝来の美術―雅と華麗 三の丸尚蔵館展覧会図録No.13』 財団法人 菊葉文化協会、1996年9月21日、第10図。
15. 宮内庁三の丸尚蔵館編集 『名所絵から風景画へ―情景との対話 三の丸尚蔵館展覧会図録No.76』 宮内庁、2017年3月25日、pp.10-11。
16. 大分市美術館編集・発行 『富春館作品集─戸次帆足家伝来─』 1999年2月、pp.84-85、124。
17. 公益財団法人 徳川記念財団 徳川家広編 『徳川家康没後四〇〇年記念 天下太平 徳川名宝展』 講談社、2016年4月1日、pp.150-151、ISBN 978-4-06-219868-4
18. a b 京都国立博物館編集 『特別展覧会 菅原道真公1100年記念 北野天満宮神宝展』 東京新聞、2001年4月10日、第15,58図。
19. 石川県立歴史博物館編集発行 『源平合戦と北陸 ―義経伝説を育んだふるさと―』 2005年7月23日、第20図。

参考資料
単行本
安村敏信 『もっと知りたい狩野派 探幽と江戸狩野派』 東京美術、2006年 ISBN 978-4-8087-0815-3

山下裕二監修 安村敏信・山本英男山下善也執筆 『別冊太陽 狩野派決定版』 平凡社、2004年 ISBN 978-4-5829-2131-1

展覧会図録
福岡県立美術館編集・発行 『狩野探幽と近世のアカデミズム 特別展 御用絵師』 1987年3月3日
・『元禄繚乱展』 江戸東京博物館1999年1-3月、岡崎市美術館4-5月、兵庫県立歴史博物館9-11月

論文
・松嶋雅人 「狩野常信とその画業に関する研究」『鹿島美術研究』年報第13号別冊、鹿島美術財団、1996年11月
・安部美貴子 「木挽町狩野家における常信の功績」『聖心女子大学大学院論集』第31巻1号(通巻36号)、2009年7月
・薄田大輔 「狩野常信様式の成立について ―「吉野図屏風」(徳川美術館蔵)の紹介をかねて―」『金鯱叢書 第四十六輯 ―史学美術史論文集―』 公益財団法人 徳川黎明会、2019年3月30日、pp.23-39

関連項目
狩野派
(wikiより)

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狩野 養信(かのう おさのぶ)(1796年8月18日(寛政8年7月26日)-1846年6月12日(弘化3年5月19日))は、江戸時代の絵師。

略歴
伊川院栄信の長男として江戸で生まれる。母は稲葉丹後守家来、松尾多宮直常の娘。通称、庄三郎(しょうざぶろう)。は玉川・晴川院・会心斎。もともと、彼の名「養信」の読みは「たけのぶ」であったが、1813年(文化10年)、将軍徳川家慶に長男竹千代が生まれると、「たけ」の音が同じでは失礼であるとして「おさのぶ」に読み改めた。さらに、竹千代が翌年亡くなり、玉樹院と呼ばれたため、それまでの号・玉川を避けて「晴川」とした[1]


15歳で初めて江戸城に出仕した。その前日から、没する前日までの、36年間にわたる『公用日記』56冊[注釈 1]には、御用絵師の業務やそれ以外の日常を知ることが出来る。


1819年(文政2年)に法眼の称号を得、1828年(文政11年)には父の死を受けて家督を相続し、木挽町狩野派9代目となる。1834年(天保5年)、法印に叙せられた。1838-39年(天保9-10年)には、江戸城西の丸御殿、1844-45年(天保15-弘化2年)には本丸御殿の障壁画再建の指揮をとった[1]。障壁画は現存しないが、上述の『公用日記』に淡彩下図が残る[3]


子に狩野雅信、弟に『古画備考』を著した朝岡興禎、浜町狩野家の狩野董川中信、中橋狩野家の狩野永悳立信らがいる[要出典]


なお、弟子に明治期の日本画家である狩野芳崖橋本雅邦がいる。橋本雅邦は、その父・橋本養邦が狩野養信の高弟であったのに加え、雅邦自身、木挽町狩野家の邸内で生を受けている。幼少期は父から狩野派を学んで育ち、わずかに最後の一ヶ月のみながら最晩年の養信に師事してもいる。芳崖と雅邦は同日の入門であり[要出典]、実質の師匠は養信の子・雅信であったと考えられている。他の弟子に、阿波藩御用絵師の中山養福、松代藩絵師の三村晴山弘前藩の御用絵師の新井晴峰、糺晴岱、狩野養長、岩崎信盈、林伊教など[要出典]


2003年(平成15年])、東京都大田区池上本門寺にある、養信の墓が移転される際、遺骨が掘り出され、頭蓋骨から、生前の頭部復元模型が制作された。この模型は、池上本門寺に保管されている[4]

模写

養信は、職務とは別に、古画の模写に力を入れた。東京国立博物館所蔵分だけで、絵巻約130巻以上、和漢古画550点以上ある[5]。詞書の書風は勿論、絵具の剥落や虫損まで忠実に写し取る、「現状復元」を行っている。彩色が省略されたものは、摸本からの摸写と推測される[6]


養信は模写の為、徳川将軍家はもちろん、『集古十種』などの編纂で模本を多く所蔵していた松平定信の白河文庫、狩野宗家中橋家や、住吉家らを始めとする諸家から、原本や模本を借りて写した。公務で江戸を離れられない為、京都・奈良に弟子を派遣して写させたり、ついにはどこの寺からでも宝物を取り寄せられるよう、寺社奉行から許可を得た[7]。死の12日前まで、細川家蒙古襲来絵詞を写した[8]


最も早い時期の模写は、数え年11歳の「保元平治物語物語図屏風」右隻(東京国立博物館蔵)である。父栄信の指導が考えられる[9]

作品群については、「狩野養信ウィキペディア」をご覧ください。 ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8B%A9%E9%87%8E%E9%A4%8A%E4%BF%A1

脚注
注釈
1. 53冊は東京国立博物館蔵、3冊は国立国会図書館[2]。但し、未記録の時期があるので、実際には倍以上の冊数があったのではと推察される[2]

出典
1. a b 松原 1995, p. 99.
2. a b 池田 1999, p. 105.
3. 松原 1995, pp. 74-85.
4. 安村 2004, p. 136.
5. 松原 1979, p. 15.
6. 松原 1995, pp. 96-98.
7. 松原 1995, p. 96.
8. 松原 1995, p. 97.
9. 松原 1995, p. 98.
10. 四季耕作図屛風 コレクションデータベース サントリー美術館
11. 波涛図屛風 コレクションデータベース サントリー美術館
12. 円浄寺 紙本金地著色四季花鳥図 (市指定)
13. 遠山記念館 秋田市立千秋美術館編集 『至高の日本美術 遠山記念館名品選』 秋田市立千秋美術館、2017年9月23日、pp.64-65。
14. 日本画 - 島田市博物館
15. 島田市博物館編集発行 『島田市博物館収蔵品目録』 2006年3月30日、p.24。
16. Screen with Scene from the Tale of Genji _ TriArte_ Art & Artifacts Database
17. a b 富山市佐藤記念美術館編集発行 『特別展 とやまの寺宝 ―花鳥山水 お寺に秘された絵画たち―』 2014年10月4日、第25図。
18. 竹雀図屏風 館蔵品検索|コレクション|静岡県立美術館|日本平のふもと、緑に囲まれた美術館.mht
19. https://trc-adeac.trc.co.jp/WJ11E0/WJJS06U/1620295100/1620295100200010/ht010090 刑和璞百鶴百猿図 - ADEAC(アデアック):デジタルアーカイブシステム
20. 富山県高岡市教育委員会文化財課編集 『重要文化財勝興寺本堂落慶記念 勝興寺宝物展図録』 勝興寺、財団法人勝興寺文化財保存・活用事業団、高岡市発行、2005年10月、pp.62、151。
21. 白畑よし 切畑健監修 『江戸期に開いた日本の美 花展 ―松坂屋 会社創立80周年記念―』 朝日新聞名古屋本社企画部、1990年、第17図。
22. 長尾直茂 「江戸時代の漢詩文に見る羽扇綸巾の諸葛孔明像―『三国志演義』との関連において」『漢文學 解釋與研究』第七輯、漢文学研究会、2004年12月10日、pp.73-74,92。なお同図は、細野正信 『江戸の狩野派』 至文堂〈日本の美術262号〉、1988年、p.78、第99図で「孔子像」として紹介されているが、同論文では方孝孺の賛及び図様から誤りだとしている。
23. (いすみ市)絹本 極彩色額装 弁財天図/千葉県
24. (いすみ市)絹本 極彩色軸装 山水図/千葉県

参考文献
松原茂「狩野晴川院と絵巻」『Museum』第344号、1979年1月、 15-24頁。

東京国立博物館神戸市立博物館編『江戸城障壁画の下絵 大広間・松の廊下から大奥まで』、1988年2月。

・松原茂『断面日本絵画史』、1988年11月。

・東京国立博物館編『江戸城障壁画の下絵』第一法規出版、1989年。ISBN 4-474-06205-1

池田宏「狩野晴川院『公用日記』にみる諸相」『東京国立博物館紀要』第28号、1993年、 105-497頁。

松原茂「狩野晴川院の業績」『狩野晴川院養信の全貌』板橋区立美術館編、1995年、89-102頁。

・安村敏信「骨から顔が…復元された養信の顔」『狩野派決定版』山下裕二監修、平凡社別冊太陽131〉、2004年、136頁。ISBN 978-4-5829-2131-1

安村敏信 『もっと知りたい狩野派-探幽と江戸狩野派』、東京美術、2006年。ISBN 978-4-8087-0815-3
(wikiより)

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幸田 露伴(こうだ ろはん、1867年8月22日慶応3年7月23日) - 1947年昭和22年)7月30日)は、日本小説家。本名は成行(しげゆき)。別号に蝸牛庵(かぎゅうあん[1])、笹のつゆ、雷音洞主、脱天子など多数。江戸(現東京都下谷生れ。帝国学士院会員。帝国芸術院会員。第1回文化勲章受章。娘の幸田文随筆家・小説家。高木卓の伯父。


『風流仏』で評価され、『五重塔』『運命』などの文語体作品で文壇での地位を確立。尾崎紅葉とともに紅露時代と呼ばれる時代を築いた。擬古典主義の代表的作家で、また漢文学・日本古典や諸宗教にも通じ、多くの随筆や史伝のほか、『芭蕉七部集評釈』などの古典研究などを残した。

生涯

1867年8月22日慶応3年7月23日)、武蔵国江戸下谷三枚橋横町(現・東京都台東区)に、四男として生を受ける。父は幕臣幸田利三(成延(しげのぶ))で、母は猷(ゆう)。幸田家は江戸時代、大名の取次を職とする表御坊主衆であった[2]。幼名は鉄四郎[2]。 もともと病弱であり、生後27日目にして医者の世話になるなど、幼時は何度も生死の境をさまよったことがあった。翌年、上野戦争が起こったため、浅草諏訪町に移る。


下谷に戻った後、神田に落ち着いた。下谷泉橋通りの関千代(書家関雪江の姉)の塾で手習い、御徒士町の相田氏の塾で素読を学んだ。1875年明治8年)、千代の勧めで東京師範学校附属小学校(現・筑波大附属小)に入学。このころから草双紙、読本を愛読するようになった。


卒業後の1878年(明治11年)、東京府第一中学(現・都立日比谷高校)正則科に入学する。尾崎紅葉上田萬年狩野亨吉らと同級生であった。のちに家計の事情で中退し、数え年14歳で、東京英学校(現在の青山学院大学)へ進むが、これも途中退学。東京府図書館に通うようになり、淡島寒月を知った。また兄・成常の影響で俳諧に親しみ、さらに菊地松軒の迎羲塾では、遅塚麗水とともに漢学、漢詩を学んだ。


数え年16歳の時、給費生として逓信省官立電信修技学校(後の逓信官吏練習所)に入り、卒業後は官職である電信技師として北海道余市に赴任。現地の芸者衆に人気があったと伝えられるが、坪内逍遥の『小説神髄』や『当世書生気質』と出会った露伴は、文学の道へ志す情熱が芽生えたと言われる。そのせいもあり、1887年(明治20年)職を放棄し帰京[2]。この北海道から東京までの道程が『突貫紀行』の題材である。また、道中に得た句「里遠し いざ露と寝ん 草枕」から「露伴」の号を得る[3]


免官の処分を受けたため父が始めた紙店愛々堂に勤め、一方で井原西鶴を愛読した。この頃「好色五人女」の写本を書いている[4]1889年(明治22年)、露伴は「露団々」を起草し、この作品は淡島寒月を介して『都の花』に発表された[5] 。これが山田美妙の激賞を受け、さらに『風流佛』(1889年)、下谷区の谷中天王寺をモデルとする『五重塔』(1893年)などを発表し、作家としての地位を確立する。


1894年
(明治27年)、腸チフスにかかり死にかけるが、翌年に結婚。それ以降の数年で『ひげ男』(1896年)『新羽衣物語』(1897年)『椀久物語』(1899年1900年)を発表。また当時としては画期的な都市論『一国の首都』(1899年)『水の東京』(1901年)も発表する。


この頃に同世代の尾崎紅葉ととも「紅露時代」と呼ばれる黄金時代を迎える。「写実主義の尾崎紅葉、理想主義の幸田露伴」と並び称され明治文学の一時代を築いた露伴は、近代文学の発展を方向づけたとされる。また尾崎紅葉・坪内逍遥・森鷗外と並んで、「紅露逍鴎時代」と呼ばれることもある。


1904年
(明治37年)、それまで何度も中絶のあった「天うつ浪」の執筆が途絶えた。これ以後、主に史伝の執筆や古典の評釈に主眼を移した。史伝の作品としては「頼朝」「平将門」「蒲生氏郷」などがある。一方、井原西鶴や『南総里見八犬伝』を評釈し、沼波瓊音太田水穂ら芭蕉研究会の6人との共著『芭蕉俳句研究』を出した。1920年大正9年)には『芭蕉七部集』の注釈を始め、17年かけて晩年の1947年昭和22年)に評釈を完成させている。


1907年
(明治40年)、の伝奇小説『遊仙窟』が万葉集に深い影響を与えていることを論じた『遊仙窟』を発表。1908年(明治41年)には京都帝國大学文科大学初代学長の旧友・狩野亨吉に請われて、国文学講座の講師となった。同時期に内藤湖南も東洋史講座の講師に招聘されている。この両名はそれぞれ小説家として、ジャーナリストとして当時から有名であったが学者としての力量は未知数であり、狩野の招聘は破天荒とさえいわれた。


露伴の指導を仰いだ青木正児によると、日本文脈論(日本文体の発達史)・『曽我物語』と『和讃』についての文学論・近松世話浄瑠璃などの講義内容で、決して上手な話し手ではなかったが学生の評判は非常によかったという。ただし、黒板の文字は草書での走り書き、しかも体格ががっちりして頭が大きいのでその文字を覆ってしまい学生達はノートを取ることが難しかったという。露伴は学者としても充分な素養があったのだが、何かの事情により夏季休暇で東京に戻ったまま、僅か一年足らず(京都へ移り住んだのは当年初めだった)で大学を辞してしまった。露伴自身は冗談めかして、京都は山ばかりで釣りが出来ないから、と述べているが、官僚的で窮屈な大学に肌が合わなかったようだ。また、妻の幾美が病気がちであったことも理由に考えられる(幾美は翌1910年に亡くなっている)。皮肉なことに、大学を辞めた翌年の1911年(明治44年)に文学博士の学位を授与されている(『遊仙窟』が主要業績)。


しばらく作品を発表しなかった時期の後、『幽情記』(1915年から1917年の作品をまとめた短編集)『運命』(1919年)を発表し、大好評を博して文壇に復活する。これらは中国の古典を踏まえた作品であり、これ以降も中国から素材をとった作品を多く発表している。小説を書くだけではなく、道教研究でもパイオニアの一人であり、世界的にまだほとんど道教が研究されていない時期に幾つかの先駆的な論文を表している。これらの評価については、『運命』は谷崎潤一郎らの絶賛を博したが、高島俊男は中国の史書の丸写しに過ぎないと批判している。道教研究に関しては南條竹則が「道教の本を色々漁ったが、最も感銘を受けたものは露伴とマスペロのものだった」と述べており、アンリ・マスペロの『道教』と並んで未だに道教研究の古典として名高い。

1937年(昭和12年)4月28日には第1回文化勲章を授与され、帝国芸術院会員となる。1947年(昭和22年)7月30日肺炎狭心症を併発し[6]、戦後移り住んだ千葉県市川市大字菅野(現:菅野四丁目)において、満79歳で没。

葬儀は、三間しかない小さな自宅でささやかに行われたが、片山哲(現職首相)と安倍能成が出席、衆議院参議院からは弔詞が捧げられた[7]。墓所は池上本門寺戒名は、露伴居士。死後、墨田区寺島町にあった露伴が長く住んでいた民家の老朽化が進み取り壊された時に、その跡地に公園が建設される事となった。公園は1963年(昭和38年)4月24日に完成し5月上旬に開園式が行われ、「露伴公園」の名前が付けられた。 この公園は、2020年現在も「墨田区立露伴児童遊園」として現存する[8]

家族・親族・

露伴は幸田成延、猷夫妻の四男である。長兄の成常は実業家で相模紡績専務などを務めた。次兄の成忠(しげただ)は海軍軍人、探検家で、郡司家へ養子に出された。弟は歴史家の成友(しげとも)で、妹の(のぶ)はピアニスト・バイオリニスト、(こう)はバイオリニストである[2]


幸田家は法華宗を宗旨としていたが、罷免された成延が延の学友である岩城寛と植村正久の勧めによりキリスト教へ改宗、他の家族も入信させた。余市の赴任から帰京した露伴も植村に改宗を勧められたが、これを拒絶している。そのため父母兄弟の中で露伴だけがキリスト教徒ではない。


数え年29歳の時に山室幾美(きみ)と結婚。よき理解者であり、長女歌、次女、長男成豊(しげとよ)が生まれた。幾美は1910年(明治43年)にインフルエンザで亡くなり、その2年後の1912年(大正元年)に歌が若くして亡くなる[2]。この年キリスト教徒の児玉八代(やよ)と再婚している。文は八代の計らいでミッション系の女子学院へ通った。1926年(大正15年)、成豊が肺結核で亡くなる[9]。八代は1933年(昭和8年)から別居し、1945年(昭和20年)に亡くなった[2]


文は、露伴の死の直前に随筆を寄稿し[10]、さらに露伴没後には父に関する随筆で注目を集め、その後小説も書き始め作家となった 。文の一人娘青木玉も随筆家、またその子青木奈緒はドイツ文学畑のエッセイストである。

その他
1897年(明治30年)から約10年間住んでいた「向島蝸牛庵」(東京府南葛飾郡寺島村)は、博物館明治村に移設保存されており、登録有形文化財(建造物)である[11][12]


未来学者としての一面も持ち合わせており、1911年に発表された『滑稽御手製未来記』では無線送電動く歩道モノレール電気自動車等が記されていた。

主な作品
露伴全集』は生前に弟子の漆山又四郎を中心に編まれた。没後は塩谷賛等により2度にわたり全集(岩波書店、第2次版(全44巻)は増補巻を追加し1978年から80年にかけ刊)が編まれた。

小説

・露団々(1889年、金港堂)


・風流仏(ふうりゅうぶつ)(1889年9月「新著百載」。1889年、吉岡書籍店) - 若い彫刻家珠運は、修行のため奈良に行く途中、木曾須原の宿で、花漬売お辰に熱烈に恋をする。宿の主人の助力で、邪悪な伯父からお辰をすくい、主人がなかに立って2人の婚礼の日、お辰のまだ見ぬ父の使いが来て、お辰を連れて行く。お辰の父は華族で政府の顕官、維新のときに京都の愛妓に生ませたお辰をさがしていた。お辰は父の命に背けず、心ならずも須原の地を去る。残された珠運が絶望の淵に沈むのを、宿の主人がなぐさめて、腕いっぱいの彫刻を作ってはと白木の檜板をくれる。珠運はお辰を神化した女神像を刻み、ある日、新聞でお辰が華族と結婚したと知り、怒りから像を砕こうとすると、なんと像が珠運に微笑し話しかける。気の迷いとふたたび壊そうとすると、玉の腕で温く珠運を抱き、髪の毛も匂やかに頬をこするので、はっとしてお辰かとおもわず抱き締める。「彫像がうごいたのやら、女が来たのやら、問はば拙く語らば遅し、玄の又玄、摩訶不思議」。


・縁外縁(1890年1月、「日本之文華」に掲載。6月「対髑髏(たいどくろ)」と改題して短篇集『葉末集』に収録) - 明治22年4月ころ、「露伴」は病気になり、中禅寺の奥、白根嶽の下、湯の湖のほとりで静養する。病気が治り、同じ道を引き返すのもいとわしく、血気に任せて金精峠という木叢峠をめざして分け登る。雪はまだ深いうえに、道に踏み迷い、ようやく目指す湖のほとりに来るころには、日はとっぷりと暮れている。足は痛み、雪沓は破れ、困り果ててたたずみ、ふと灯火を見つけて、たどり行くと、その家は、お妙という美女の独り住まい。泊まりを許されて、一夜、女の昔語りを聞く。彼女は東京の豪家の育ちであるが、早くに父を亡くし、18歳で母も亡くす。悲しみも失せぬ彼女の上には縁談が降るようで、そのなかで或る貴公子に深く思われ、彼女も嫌いではないが、亡母の遺言を守り、心を鬼に結婚を拒む。彼女に焦がれ死にしそうになった貴公子の臨終の際に、一目見てから男が恋しくなり、悲しみのあまり狂いだし、この山中に迷い入り、或る高僧に巡り会い、悟りを開き、ここに草庵をむすんだという。朝日紅々とさしのぼり、家も人も雲霧と消え去り、枯れ残った去年の萱薄のなかにただひとり、足下には白い髑髏が1つ転がっている。村里に下り、温泉宿の主人にきくと、去年、気の狂った癩病の女乞食が、山に入って帰らないが、たぶんその女が山中で死んだのであろうという。


・いさなとり(1891年前編、1892年後編、青木嵩山堂


五重塔(1892年、青木嵩山堂『小説 尾花集』収録)


・風流微塵蔵(ふうりゅうみじんぞう)(1893年 - 1895年「国会」に連載。未完。第1巻1895年12月刊、第2巻1896年2月刊、第3巻4月刊、第4巻8月刊) - 卯月なかば、豊前小倉在の禅僧栽松道人が青柳村をひょっこり訪れる。彼はもと久留里の藩中の良い家柄の生まれであったが、若気の至りで家出して、漂白のあげく僧になった。25年ぶりの故郷には、叔母おとわがいるだけ。昔話ののち、評判の美人だった真理谷お静のことにふれると、僧の顔色が一変する。自分の家の後裔にしようと思っている玉之助のことで、お静に相談したいと出かけるが、お静に会わずに立ち去る。おとわは裁松と別れてから、老衰し、無慈悲な養子新右衛門の後妻お力のために虐待され、孫新三郞が祖母を守ろうとするそのけなげな姿を、親戚のお静があわれみ、新三郞を養子にむかえ、ゆくゆくはお小夜と結婚させたいと申し込む。お静の家では、江戸に遊学していたお静の兄の子雪丸が帰っていて、もう学問はつまらない、これから中国大陸へ出かける、と語り、お静の説諭もきかず、いきおいよく家を飛び出す。雪丸が希望どおり中国にわたるとき、お静は雪丸に同情し、老僕を横浜に送り、固辞する雪丸に旅費として300円を贈る。雪丸が埠頭に出ると、若い女が駆けつけ、別れを惜しみ、雪丸は彼女にかねを与え、そっけなく袖を振り払って出発する。おとわは新三郞とともにお静のもとに引き取られ、病死し、新三郞は父の家に引き戻されるが、邪魔者扱いされ、江戸の商家へ奉公にだされる。金仙寺の栽松が話していた玉之助は、小坊主玉山となって、海音禅師に仕えていたが、絵は天才的である。玉山がたびたび使いに行く筆屋の主人正太郎は25歳、両親に死別して以来、丁稚とふたりで商売に励んでいた。近所の世話好きな老婆がしきりに結婚を勧めるので、迷った末にその婆の姪おはつと結婚した後、おはつが新入りの弟子と恋仲であったことなどが判明し、別れた。玉山はそのことを知り、諷した「ゑしやじやうりの図」を金仙寺の壁に落書きする。新三郞は江戸に出て、阪本屋に奉公する。その主人喜蔵は先代のとき番頭から出世したなかなかのしっかり者だが、田舎者の新三郞は何事にも慣れず、辛い思いをしつつ日を過ごす。先代の喜蔵は、番頭喜蔵を娘おこのの夫にと遺言して死亡したが、美しいおこのは早くから美男の手代栄吉と恋仲で、母と一緒になって喜蔵を追い出すが、栄吉は商売にうとく、家運もかたむき、江戸にいられず、姉お須磨・弟栄太郎を連れて栄吉の故郷浦和へ引っ込むが、ますます困窮し、栄吉は病死し、お須磨は家のためやむなく酌婦になり、おこのは勇造に横恋慕され脅され、自殺未遂するが、栄太郎がたまたま姉お須磨を千住に訪ねたとき、路上で義賊蠣崎十郎にすくわれ、十郎の言うまま江戸へ出て、阪本屋喜蔵(前の番頭で旧主ののれんを継いでいたもの)の家に忍び込む。十郎は大金を盗み、そのかねで栄太郎および姉お須磨をすくうことにしたとき、悪事が露見し、栄太郎が捕まる。お須磨は酌婦業から十郎によってすくわれ、ひさしぶりの一家団欒のとき、十郎が来て母子に150円をわたし、東京へ出るように勧めて姿をくらます。十郎は栄吉の兄弟分であった。栄太郎は喜蔵の努力で釈放され、おこのは、喜蔵が栄太郎と知って故意に訴えたものと誤解し、そのまま別れる。(未完)


・ひげ男(1896年、博文館


・新羽衣物語(1897年8月、村井兄弟商会) - たばこの新製品の景品として公刊された。


・天うつ浪(1903年1月 - 05年1月、春陽堂) - 水野はことし24歳、東京市外のとある小学校に勤め、もともと詩人肌で、まじめなしっかり者だ。水野が同じ学校の、才気と美貌の女教師岩崎五十子に恋しているが、五十子はきらっているようにみえる。五十子の継母はわざと水野にこびてときどき小遣いをもらったりする。五十子が腸チフスにかかると、継母は世話をせず、水野だけが心配し、遠くから名医を呼んだり、100円余の療養費をつくったり、徹夜で看護したり。五十子はそれでも水野に好意をもたないが、水野はますます愛を深め、完治を浅草観音に祈ったりする。継母の家にいるお龍という女が見舞いに来て、水野の親切に感動する。のちにお龍は、浅草観音参詣の水野にあい、姉のようにしているお彤といっしょに水野とかたらう。いっぽう五十子は病気がよくなっても冷たいままであるが、水野は腹も立てず、親切のかぎりをつくす。お龍は水野を気の毒におもい、ひそかに思いを寄せるようになる。水野は同僚から観音祈願など時代遅れだと非難のまとになり、ついには校長からせまられていさぎよく辞職する。お龍はこれを知りいっそう同情し、お彤に話し、お彤は水野に同情するのはよいが、恋してはいけないと忠告し、水野の一身を世話しようという。お龍はもともと男で一回失敗し、おばがえらんだ夫をふりすてたというたちだ。当時三味線の師匠の、五十子の継母のところにいたが、そのなかに筑波という有力な旦那をもつお彤のもとに引き取られていたのである。(未完)


・滑稽御手製未来記 (1911年)

・雪たたき(1939年、『日本評論』)

・連環記(1941年、『日本評論』)

史伝
二宮尊徳翁(1891年、博文館)

・頼朝(1908年、東亜堂)

運命(1919年、雑誌『改造』4月創刊号)

 建文帝永楽帝に追われて、何十年も潜伏して生活していたという伝説について書かれた話、他にも中国を舞台にした文語体作品が多数ある。


・蒲生氏郷


・平将門

随筆・評論

・一国の首都(1899年 - 1901年、雑誌『新小説』)

・水の東京(1901年、雑誌『文芸倶楽部』)

・潮待ち草(1906年、東亜堂)

・蝸牛庵夜譚(1907年11月、春陽堂)


「遊仙窟」を収録

・小品十種(1908年6月、成功雑誌社)

・普通文章論(1908年10月、博文館) - 「文章は楽しく書くべきである」など初学者向けの文章指南。

・努力論(1912年、東亜堂)

・変更も保存も(1921年、国本社

俳諧評釈
・冬の日記抄(1924年9月、岩波書店)
・春の日・曠野抄(1927年6月、岩波書店)
・ひさご・猿蓑抄(1929年12月、岩波書店)
・炭俵・続猿蓑抄(1930年1月、岩波書店)
・評釈 芭蕉七部集(1947年完成)。岩波書店7巻組、復刻1983年、1993年

紀行・日記
・枕頭山水(1893年9月、博文館)
・蝸牛庵日記(1949年8月、中央公論社

戯曲
・名和長年

校歌
・東京都立墨田川高等学校校歌

詳しいことは、「幸田露伴ウィキペディア」をご覧ください。 ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B8%E7%94%B0%E9%9C%B2%E4%BC%B4
(wikiより)

1599  幸田露伴

幸田露伴

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鶴原 定吉(つるはら さだきち、1857年1月10日安政3年12月15日) - 1914年大正3年)12月2日)は、日本官僚実業家政治家。第2代大阪市長韓国統監府初代総務長官衆議院議員

経歴

福岡藩士鶴原道室の長男として、福岡雁林町(現福岡市中央区)に生まれる。藩校修猷館大学予備門を経て、1883年(明治16年)7月、東京大学文学部(政治科および理財科)を卒業し、同年10月、外務省御用掛となり公信局に勤務する。


外務省では、1885年(明治18年)5月、外務書記生としてロンドン領事館に在勤し、1887年(明治20年)12月、天津領事1890年(明治23年)6月、上海領事を歴任したが、1892年(明治25年)6月、外務省を退官し、同月、日本銀行大阪支店筆頭書記に転身する。


日本銀行では、1893年(明治26年)9月、支配役・大阪支店長に就任し、1896年(明治29年)4月から営業局長を兼務、1897年(明治30年)2月から更に株式局長を兼務し、1899年(明治32年)2月には理事に就任するが、山本達雄総裁と衝突して、ストライキの主導者として、同月、日本銀行を辞職する[1]


1900年(明治33年)、立憲政友会創立委員、同年11月から関西鉄道社長を務め、その在任中には周辺諸鉄道との連帯輸送を推進し、後の近畿鉄道合同の動きを醸成する先駆となった。


1901年
(明治34年)8月、第2代大阪市長に就任し、1905年(明治38年)7月まで務めた。


1905年(明治38年)12月、伊藤博文の推薦で、同年設立された韓国統監府の初代総務長官となり、1907年(明治40年)7月の第三次日韓協約の締結を推進した。1907年(明治40年)8月からは韓国宮内次官を兼務する。


その後、1909年(明治42年)7月、東京人造肥料会社社長、蓬莱生命保険相互会社社長、1910年(明治43年)5月、中央新聞(立憲政友会機関紙)社長を歴任し、1912年(明治45年)5月、第11回衆議院議員総選挙に、福岡県福岡市区で立憲政友会から立候補し、安川財閥創始者安川敬一郎の支援も得て当選し衆議院議員となり、1914年(大正3年)10月26日に辞職した[2]

大阪市長として

助役に菅沼達吉を指名。


第五回内国勧業博覧会を開催、報奨契約制の制定、行政改革などで活躍する。


大阪港
の建設促進にも力を入れ、さらに市街地から港へのアクセスとして市電を開通させる。


「市街鉄道のような市民生活に必要な交通機関は、利害を標準に査定されるものではなく、私人や営利会社に運営を委ねるべきではない」などと市会で市内交通を公営で行うことを主張した(市営モンロー主義も参照のこと)。

栄典
1903年(明治36年)12月14日 - 双光旭日章[3]

1908年(明治41年)

  ・6月25日 - 勲三等瑞宝章[4]

  ・10月27日 - 勲二等旭日重光章[5]

1909年(明治42年)

  ・4月18日 - 皇太子渡韓記念章[6]

親族
・三男 鶴原浩二(日本銀行理事)

・娘 安川松子(実業家・安川第五郎の妻)

脚注
1. 「日銀幹部ストライキ事件」については「植村俊平」の項目も参照。
2. 『官報』第672号、大正3年10月27日。
3. 『官報』第6138号「叙任及辞令」1903年12月16日。
4. 『官報』第7499号「叙任及辞令」1908年6月26日。
5. 『官報』第7604号「叙任及辞令」1908年10月29日。
6. 『官報』第7771号「叙任及辞令」1909年5月24日。

参考文献
・『大阪市の歴史』(大阪市史編纂所 1999年4月 創元社 ISBN 4422201387
(wikiより)


1596 鶴原定吉

鶴原定吉

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相楽 総三(さがら そうぞう、天保10年(1839年) - 慶応4年3月3日1868年3月26日))は、江戸時代末期(幕末)の尊皇攘夷志士江戸出身。赤報隊隊長。

生涯
天保10年(1839年)、下総相馬郡(現茨城県取手市)の郷士で大富豪の小島兵馬(父)・やす(母)の四男として江戸・赤坂に生まれる[注釈 1]。本名は小島四郎左衛門将満。


四男であったが、兄らが養子に出たり事故死したりしたため、小島家の家督を継ぐことになった。国学兵学を学び、若くして私塾を開いて多くの門人を抱えていたが、文久元年(1861年)、23歳の時、上野国信濃国羽州秋田藩などを遊歴し、尊王攘夷活動に身を投じて多くの同志を得た[1]。文久3年(1863年)、小島家から5000両もの資金を与えられて関東方面の各義勇軍の組織化に尽力し、桃井可堂慷慨組の赤城山挙兵を援助したが失敗、元治元年(1864年)の天狗党の乱にも参戦したが、これにも失敗して江戸に帰った[1]


慶応
2年(1866年)、28歳にして京都に上り志士活動を続けた際、西郷隆盛大久保利通らと交流を持つようになり、慶応3年(1867年)、西郷の命を受けて、江戸近辺の倒幕運動に加わった[1]


慶応3年(1867年)10月、討幕の密勅が薩摩藩と長州藩に下されたが、大政奉還が実現したことによりそれは取消された。あくまで武力倒幕を目指す西郷隆盛は、倒幕の大義名分を失い、幕府を挑発して開戦に導こうとした。西郷の指示により、益満休之助伊牟田尚平、そして相楽が中心となって、江戸の薩摩藩邸を拠点とし、同志を募って関東の擾乱を企てた[2]。相楽らは江戸で放火や、掠奪・暴行などを繰り返して幕府を挑発した。その行動の指針となったお定め書きにあった攻撃対象は「幕府を助ける商人と諸藩の浪人、志士の活動の妨げになる商人と幕府役人、唐物を扱う商人、金蔵をもつ富商」の四種に及んだ。加えて、出流山事件を始めとする3つの騒擾を起こしたが、いずれも渋谷和四郎らが率いる幕府の軍勢に鎮圧された[3]。なお、相楽たちの軍資金は豪商を襲って得たものであった。


相楽たちの挙兵は目論見どおり旧幕府方を刺激し、庄内藩と旧幕府軍による江戸薩摩藩邸の焼討事件に発展した。相楽を始めとする28-29名は辛くも藩邸を脱出し、品川沖に停泊する薩摩藩の運搬船翔凰丸に乗って紀伊国に逃れた[4]。焼き討ちは鳥羽・伏見の戦いのきっかけとなった。水原二郎らから焼き討ちの報告を受けた西郷は、相楽たちの功を称賛したという[5]


江戸を脱出した相楽たちは、慶応4年(1868年)1月、戊辰戦争が勃発すると、近江の金剛輪寺で赤報隊を結成し、赤報隊一番隊は東海道先鋒総督府の指揮下に入り、桑名への進軍を指令された[6]。しかし相楽は、東山道鎮撫総督府への所属替えを希望し、2月上旬には薩摩藩兵の付属になるよう指示を受けていたが、ここでも相楽は独断で東山道に進んで「御一新」と「旧幕府領の当年分、前年未納分の年貢半減」を布告している[6]。年貢半減の布告は朝廷の了解を得ていたが、のちに撤回されている[6]


相楽は指示に従わず独立行動を続行し、碓氷峠を目標に進軍する。相楽たち赤報隊の度重なる独立行動や独断専行を危惧した新政府は赤報隊に帰還を命じたが、相楽たちは命令に従わなかった。これにより、相楽たち赤報隊は官軍の名を利用して沿道から勝手に金穀を徴収し、略奪行為を行う「偽官軍」と見なされることになる[6]。東山道軍は、赤報隊捕縛命令を信州諸藩に通達し、かねてより赤報隊の振る舞いに反感を抱いていた小諸藩など近隣諸藩が連合を組んで赤報隊を攻撃した。このとき相楽は、今まで無視してきた東山道総督府からの召喚にようやく応じて隊を留守にしていた[6]。小諸藩から赤報隊による勝手な金策や、暴行行為を通報されたことにより、出頭した相楽は信濃国下諏訪宿で捕縛される(相楽総三・赤報隊史料集)[6]


同年3月、相楽を含む赤報隊幹部8人は、下諏訪で処刑された。相楽は享年30。妻の照はこれを聞き、息子の河次郎を総三の姉に託し、総三の後を追って自殺した[1]。後に総三の首級は地元出身の国学者で総三とも親交があった飯田武郷の手によって盗み出され、秘かに葬られた。


明治3年(1870年)、下諏訪に相楽塚(魁塚)が建立された。長い間、偽官軍の汚名を受けていたが、孫の木村亀太郎の努力により名誉が回復された。昭和3年(1928年)に正五位が贈られ、翌昭和4年(1929年)、靖国神社に合祀された。


青山霊園
立山墓地に墓所がある。

演じた俳優
映画
田村高廣(『赤毛』(岡本喜八監督)、1969年

テレビドラマ
浜田晃(『勝海舟』(大河ドラマ / NHK総合)、1974年

・田中健(『命もいらず名もいらず~西郷隆盛伝』(TBS)、1977年)

宮川一朗太(『竜馬におまかせ!』(日本テレビ)、1996年) - 役名は「小島四郎」。

その他
井上和彦(『るろうに剣心 -明治剣客浪漫譚-』オーディオブック)

喜多川拓郎(『るろうに剣心 -明治剣客浪漫譚-』(フジテレビジョン))

菊池英博(『るろうに剣心 -明治剣客浪漫譚-』(フジテレビジョン))

香取慎吾 (『日本の歴史』 (ミュージカル))

脚注

注釈
1. 父の小島兵馬は下総相馬郡の豪農で、旗本への金貸しで資産家となり、郷士身分を得た人物。江戸に出て、赤坂に豪壮な屋敷を構えた。総三はこの屋敷で生まれた。

出典
1. a b c d 『ビジュアル幕末1000人』「相楽総三」(2009)p.135
2. 長谷川、p.77
3. 長谷川、p.197
4. 長谷川、p.317
5. 長谷川、p.379
6. a b c d e f 『ビジュアル幕末維新 「日本の夜明け」を目指した激動の時代を追う!!』pp.76-77

参考文献
『ビジュアル幕末1000人』歴史スペシャル編集部、世界文化社、2009年12月。ISBN 978-4-418-09234-5

・『ビジュアル幕末維新 「日本の夜明け」を目指した激動の時代を追う!!』 Gakken

長谷川伸『相楽総三とその同志』講談社学術文庫、2015年2月10日。ISBN 978-4-06-292280-7

関連書籍
・「相楽総三 赤報隊史料集」西澤朱実マツノ書店2008年

・「新・歴史群像シリーズ 幕末諸隊録―崛起する草莽、結集する志士」Gakken2008年 ISBN 978-4056051681

・「相楽総三とその同志」長谷川伸1943年中公文庫1981年 / 講談社学術文庫2015年 ISBN 978-4-06-292280-7

・「いい話ほどあぶない ―消えた赤報隊―」野口達二さ・え・ら書房1978年 ISBN 978-4378020266

・「草莽枯れ行く」北方謙三集英社文庫2002年 ISBN 978-4087474428

・「夜明け前」第二部上 島崎藤村

・「青い空 ―幕末キリシタン類族伝―」(下) 海老沢泰久文春文庫2009年 ISBN 978-4167414139

・「皇国の緋色スクウェア・エニックス〈ガンガンコミックスIXA〉、全4巻(完結) 原作:月岡帆恣郎・作画:田中ひかる


1. 2013年 ISBN 978-4-7575-4141-2

2. 2014年 ISBN 978-4-7575-4227-3

3. 2014年 ISBN 978-4-7575-4375-1

4. 2015年 ISBN 978-4-7575-4141-2

外部リンク
・『相楽総三関係史料集』 - 国立国会図書館デジタルコレクション

・『史蹟名勝天然紀念物調査報告 第二十三輯(「維新勤皇之志士贈正五位相楽総三等の墓 一名魁塚」のページ)』 - 国立国会図書館デジタルコレクション
(wikiより)

 墓石側面には相楽の本名である小島将満の刻あり。

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小宮山 綏介(こみやま やすすけ、1830年2月10日文政13年1月17日) - 1896年(明治29年)12月24日)は水戸藩士(大番組・東扱郡奉行弘道館助教)で後期水戸学の代表格。明治時代前期の代表的な漢学者地理学者歴史学者中国史学者。維新後に官吏を経て慶應義塾大学文学科理財科法律科教授。南梁伯亀、幼名を酒之介、昌玄

経歴
代々儒学をもって水戸に仕えた藩士・小宮山昌堅の子として誕生。祖父は『大日本史』編纂に従事した小宮山楓軒。弟は小説家・新聞記者の小宮山天香。幼少時に足を患う。安政5年(1857年)の父の死により家督200石を継ぎ、小普請組となる。慶応元年(1865年)に大番格をもって弘道館助教、翌3月郡奉行に任ぜられたが、藩内の権力闘争が激しくなり、諸生党天狗党の「弘道館の戦」に連座して4年間の幽閉を命ぜられる。


1874年
(明治7年)に上京して大蔵省から東京府の史職として聘され、東京府地理志編纂総修となる。明治22年(1889年)に「江戸会」を発足させ、栗本鋤雲内藤耻叟高瀬眞卿らを幹事として迎え、『江戸会雑誌』(『江戸会誌』)を創刊。幕府の制度および沿革、外交、財務、宗教等のほか江戸時代の学術、社会の組織、風俗等江戸時代の歴史を深く掘り下げ、のちに小宮山は『江戸旧事考』、『江戸会編纂雑誌集成』を発刊するに至る。旧幕府人たちの江戸への懐古であり、武家生活への郷愁を集成した。


1890年(明治23年)に慶應義塾大学部が発足するにあたって講師に就任し、1896年(明治29年)まで在任。法律科・理財科では「日本経済」を、文学科では「漢文学」を担当する。講義の様子は『時事新報』に掲載されており、老子呉子孫子列子の講義や詩経の講義等、中国古典の注釈本を精力的に出版。代表的な著書である『韓非子講義』を公刊した。また、慶應義塾内にオフィスのあった日本亜細亜協会(Asiatic Society of Japan)内の、古文書機関・民族誌委員会(The Committee of Ethnography)という組織で、その解読に尽力した。『徳川太平記』と福澤諭吉が尊敬していた大槻磐水緒方洪庵及び青木昆陽から中村敬宇までを論じた『洋学大家列伝』は小宮山の没後に書生たちが完成させた。


1890年(明治23年)から皇典研究所の『古事類苑』編纂に、栗田寛久米幹文小中村義象落合直文萩野由之増田于信松本愛重宮地厳夫深江達広内藤耻叟と共に参加。のち副編修となる。

著書
・国立国会図書館蔵書

  ・『南梁年録


・近代デジタルライブラリー

  ・『韓非子講義

  ・『近世豪傑譚

  ・『詩経講義

  ・『天正日記

  ・『徳川太平記

  ・『日本貨幣年表

  ・『老子・列子・孫子・呉子講義


・その他

  ・『洋学大家列伝』 博文館 1897年

参考文献
小宮山 綏介 - Bibliographical Database of Keio Economists - 人物詳細

関連項目
江戸の人口

神田上水

外部リンク
江戸会編纂雑誌集成

・朝日日本歴史人物事典『小宮山綏介』 - コトバンク
(wikiより)

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大角 岑生(おおすみ みねお、明治9年(1876年5月1日 - 昭和16年(1941年2月5日)は、大正から昭和にかけての日本海軍軍人政治家華族海軍大将男爵愛知県出身で本籍は高知県

経歴
愛知県中島郡三宅村(現稲沢市平和町)で、農業・大角藤平の長男として生まれる[1]幼名は親一[1]


愛知一中(現・愛知県立旭丘高等学校)より攻玉社を経て海軍兵学校に入校。


明治30年(1897年24期を3位の成績で卒業。同期の次席は山本英輔大将。


比叡」での遠洋航海を終えて「厳島」・「八島」・「千代田」・「吾妻」に乗組。中尉に進級してから「天龍」・横須賀海兵団・「浅間」で分隊長を歴任した。


明治35年(1902年)1月に「済遠」航海長に任じられ、日露戦争を迎えた。


開戦3か月目の明治37年(1904年)5月に「松島」航海長に転任するが、その直前の第3次旅順口閉塞作戦に際し、「釜山丸」の沈船命令を受ける。しかし出撃した「釜山丸」はエンジンが故障し、船団から脱落した。初志貫徹を叫ぶ乗組員を説得し、大角は「釜山丸」を引き返させ、適切な判断と後に評価された。


「松島」・「満洲丸」航海長を歴任し、日本海海戦後の明治38年(1905年)8月に兵学校教官、翌年1月に海軍大学校甲種学生に転じ、航海術の指導および研修に励んだが、大角の現場勤務は大正2年度の、「筑波」副長、6年度の「朝日」艦長、12年度の第3戦隊司令官、昭和3年度の第2艦隊司令長官の合計4年間に過ぎない。海軍生活のほとんどを軍政官として過ごすことになる。


明治40年(1907年)12月に海軍省軍務局に呼ばれ、軍政官の第一歩を踏み出す。


明治42年(1909年)より2年間ドイツに駐在し、帰国とともに中佐に進級し、東郷平八郎元帥の副官となる。1年近く東郷の側近として修行し、「筑波」副長を経て再び軍務局に戻る。


大正3年(1914年)から6年(1917年)までの3年間、シーメンス事件を処理した八代六郎八八艦隊計画を実行に移した加藤友三郎の両大臣の側近となった。


しかし加藤が自ら推進した八八艦隊計画を捨ててワシントン軍縮条約受諾を決意した際、大角はフランス大使館附武官として加藤のもとから離れていたため、何も加藤から学ぶことはできなかった。


大正7年(1918年)から2年間、フランスに滞在した。ジュネーヴに本部を置く国際連盟に最も近く、連盟の状況をいち早く把握できる重要なポストである。大角はパリ講和会議に随員として列席しており、日本の南洋諸島獲得が承認されたその現場にいた。


大正9年(1920年)に少将へ進級し、翌年7月に帰国した。


しばらく無任所であったが、大正11年(1922年)5月、軍務局長、12年(1923年)12月、第3戦隊司令官、14年(1925年)4月、海軍次官、昭和3年(1928年)12月、第二艦隊司令長官と、連合艦隊・海軍省の重要ポストを交互に経験した。


次官進級の直前に中将へ進級している。次官として大角が補佐した大臣は財部彪大将だった。大角は軍縮条約にまったく関与していないため、条約派艦隊派の対立には関心がなく、次官時代はワシントン条約受諾はやむを得ないとする空気があったため、大角自身も問題にしていなかった。


昭和4年(1929年)の定期異動で横須賀鎮守府司令長官に任命され、2年間勤めた。


この間、昭和6年(1931年)4月に山本英輔と同時に大将に進級した。


昭和6年(1931年)12月、第2次若槻内閣が総辞職し、前任の安保清種が慣例に従って横須賀鎮守府長官の大角を犬養内閣海軍大臣に指名した。


艦隊派と条約派の抗争が続き、強硬な条約派だった軍令部長・谷口尚真の更迭を決めた矢先に、安保は大臣を大角に譲らざるを得なくなり、後任人事を託した。


大角は、陸軍参謀総長に閑院宮載仁親王元帥が就いていることを勘案して、伏見宮博恭王大将を軍令部長に推した(陸軍が皇族総長の威光で海軍を圧迫する可能性を封じる意図もあったという。昭和7年(1932年)に伏見宮は元帥となり、東郷平八郎の死後は海軍最長老となる)。これが後に自らを窮地に追い込むことになる。


着任から半年後、首相・犬養毅五・一五事件で海軍将校に暗殺されたため、大角は引責辞任を余儀なくされた。現役海軍将校が徒党を組んで首相を暗殺した際の海相ということを考えれば予備役になってもおかしくなかったが、世論に暗殺犯への同情が強かったこともあり現役にはとどまることができた。

犬養の後継に首班指名されたのが海軍の重鎮である斎藤実大将であったことと五・一五事件の収拾を図る必要があったことから、大角はあえて長老の岡田啓介大将を後任に指名した


しかし、岡田には定年退職(65歳)の期限が迫っていた。これが計算ずくなのかは不明だが、岡田の定年に合わせて大角は昭和8年(1933年)1月に海軍大臣の座に復帰した。この復帰により、大角は後世から数々の批判を受ける決断を重ねる。


まず強硬な艦隊派の領袖であった軍令部次長・高橋三吉が、戦時のみ軍令部に移譲されていた海軍省の権限の一部を平時にも軍令部に引き渡すよう要求してきた。当然ながら官僚気質の大角は、既得権を放棄する気はない。


しかし、局長部長や次官次長の激論は平行線で終わるものの、大臣・部長級の議論となれば、大角の相手は皇族である伏見宮である。部下たちの議論は平行線が続き、最高責任者同士の交渉に持ち越された。


伏見宮の威光を前に、大角は艦隊派(軍令部側)の要求を次々と認めていく(伏見宮はこの件について「私の在任中でなければできまい。是非やれ」と部下を督励しており、皇族の威光で押せば大角は折れると読んでいたようである)。


かくて、軍令部からは将来の軍拡路線を妨害する恐れのある将官の追放を要求された。谷口尚真のほか、山梨勝之進左近司政三寺島健堀悌吉ら次官、軍務局長経験者、軍事普及部委員長・坂野常善らを、大角は自らの署名つき辞令で追放した。これが「大角人事」と呼ばれる恣意的な条約派追放人事である。


海軍内で弾圧の片棒を担がされている頃、外交問題で重大な局面を迎えていた。リットン調査団の報告に日本は反発し、国際連盟脱退も辞さない空気がみなぎった。


枢密院
の実力者であった伊東巳代治は、大角がパリ講和会議で獲得した南洋の委任統治領を返還したくないと判断するものと期待し、大角に脱退阻止行動を起こすよう訴えた。


しかし陸軍が熱河省に進出する計画を察知していた大角は、海軍だけが反対するのは政治混乱を招くので好ましくないと反論し、激怒した伊東は脱退阻止行動そのものを放棄してしまった。


また、関東軍司令官・本庄繁陸軍大臣荒木貞夫が、満洲事変の戦功により男爵に叙せられた際に、事変には何も関与していなかったにもかかわらず、事変勃発時の海軍大臣という理由で大角も男爵に叙せられた。海軍部内では失笑され、陸軍部内では憤慨する者が続出した。

確固たる信念を持たず、指導力に欠け、ただ内外と波風を立てぬように腐心してきた大角が遂に馬脚を現したのが、二・二六事件の処理であった。


海軍出身の首相・岡田啓介、内大臣・斎藤実、侍従長鈴木貫太郎が襲撃されたため(斎藤は死亡、鈴木は重傷、岡田は死亡と報道されたが無事であった)、海軍省内では反乱軍との徹底抗戦論が沸き起こった。しかし大角は的確な処理を下せず狼狽するばかりだった。大角を尻目に、連合艦隊司令長官高橋三吉東京湾第一艦隊を進入させ、反乱軍の占拠拠点に艦砲の照準を合わせて臨戦態勢を取った。


横須賀鎮守府でも、留守の長官・米内光政に代わって参謀長・井上成美が陸戦隊の編制を命じ、戻った米内も後押しして東京突入の準備が早々に完了した。


しかし現場の的確・迅速な行動に反して、大角は命令を下せなかった。暗殺されたと思われた岡田の生存情報を受け取った大角は「何も聞かなかったことにする」と返答し、岡田を救出しようとはしなかった。反乱鎮圧後、大角は海軍大臣を永野修身大将に譲り、軍事参議官となる。二・二六事件後、荒木貞夫真崎甚三郎ほか多数の大将を予備役に編入した陸軍とのバランスを取るために、海軍からも3名の大将を予備役に編入する事になったが、山本英輔・中村良三小林躋造(中村は大角より3期下、小林は2期下)がその対象となり、この時も大角は現役にとどまることができた。したがって、大角の現役大将の中での序列は伏見宮に次ぐもの、皇族以外では最古参であることには変わりなかった。


昭和15年(1940年)末頃から、体調を崩した伏見宮は軍令部総長を辞職する意向を固めていた。序列に従えば、次期総長は大角か永野に禅譲される。海軍大臣・連合艦隊司令長官を歴任して実績を積んでいる永野に対し、大角は過去の人と見なされていた上に定年間近であった。


大角は挽回のために中国視察を決意し、大陸に渡った。昭和16年(1941年)2月5日[2]、大角は随員(須賀彦次郎少将、角田隆雄中佐、白浜栄一中佐、松田英夫大尉)等とともに広州から飛行機日本航空)で飛び立ち、消息不明となる[3][4]


その後、広東省西江下流西岸の黄揚山にて墜落した機体が発見され[5]、乗員全員の死亡が確認された[6][7]。2月17日、大角の遺体は羽田飛行場に到着した[7][8]。 2月20日[9]築地本願寺で葬儀が行われた[7]及川古志郎海軍大臣より報告を受けた昭和天皇香淳皇后は、大角の葬儀に勅使として徳大寺実厚侍従・入江相政事務官・他を派遣した[7][10]

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大角岑生

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芝木 好子(しばき よしこ、1914年5月7日 - 1991年8月25日)は、日本小説家。生まれ育った東京下町への哀惜を託した文章で知られ、芸術と恋愛の相克に苦しむ女性の生き方を描いた小説に独自の境地を拓いた。戦後の女流文学を代表する作家の一人である。芸術院会員。文化功労者

経歴

東京府王子町大字王子(現在の東京都北区王子)生まれ、7歳から浅草区浅草東仲町(現在の台東区雷門)に移住。東京市田原尋常小学校(現在の台東区立田原小学校)卒。東京府立第一高等女学校(現在の東京都立白鷗高等学校)卒。1941年5月に経済学者大島清と結婚、本姓を芝木から大島へと変える。大島清については『丸の内八号館』に当時の様子が書かれている。


1941年
に発表した戦時下の統制された築地青果市場を舞台に家運再興の為懸命に生きる八重の姿を描く『青果の市』で、1942年に第14回芥川賞受賞。大正生まれ初の受賞であった。戦後に書いた『湯葉』(1960年)、『隅田川』(1961年)、『丸の内八号館』(1962年)の 3作品は自伝三部作と言われ、作風が確立される。


他の作品に『隅田川暮色』(1982-83年)、『洲崎パラダイス』(1954年)、『夜光の女』(1955年)『葛飾の女』(1966年)等。『洲崎パラダイス』は新珠三千代主演で『洲崎パラダイス赤信号』として映画化された。また、同じく洲崎の歓楽街を舞台にした『洲崎の女』が、溝口健二の遺作『赤線地帯』の原作の一つとなっている。

工芸や美術などに打ち込む女性と、それら芸術を通じた男性との恋情を哀感豊かに描く作品が多い。


1983年
日本芸術院会員、1989年(平成元年)文化功労者。1991年8月25日、乳癌のため国立がんセンターで死去[1]

受賞
・1941年下期 芥川賞「青果の市」

・1960年「湯葉」で女流文学者賞

・1965年『夜の鶴』で小説新潮賞

・1972年『青磁砧』で女流文学賞

・1981年日本芸術院賞恩賜賞(1982年[2]

・1984年『隅田川暮色』で日本文学大賞

・1987年『雪舞い』で毎日芸術賞

著書
・『希望』和田堀書店 1946

・『支柱 小説』文化交流社 文学パンフレット 1946

・『流れる日』万里閣 1946 のち集英社文庫

・『真実』世界社 文芸叢書 1947

・『波紋』京都印書館 1947

・『六年の夢』労働文化社 1948

・『愛情区々』パトス社 1948

・『流離の唄』婦人春秋社 1948

・『緑の小筥』宮田たず子絵 偕成社 1950

・『洲崎パラダイス』大日本雄弁会講談社 1955 のち集英社文庫

・『夜光の女』河出新書 1955

・『女の青春』角川小説新書 1956

・『女一人』現代社 現代新書 1956 「女ひとり」集英社文庫

・『海のない町』現代社 現代新書 1957

・『慕情の旅』現代社 1957 のち集英社文庫

・『仮面の女』講談社 1959

・『薔薇の木にバラの花咲く』光文社 1959

・『湯葉・隅田川』講談社 1961 のち新潮文庫

・『狂った時計』集英社 1963

・『跳んでる娘』東方社 1964

・『流れる日』東方社 1964

・『丸の内八号館』講談社 1964 『湯葉・隅田川・丸の内八号館』講談社文庫 1987

・『夜の鶴』河出書房新社 1964 のち角川文庫、集英社文庫

・『海の匂い 芝木好子自選集』冬樹社 1965 のち集英社文庫

・『葛飾の女』河出書房新社 1966

・『奇妙な仲』東方社 1966 改題『花霞』集英社文庫

・『女家族』東方社 1967

・『染彩』中央公論社 1967 のち文庫

・『巴里の門』新潮社 1967 のち集英社文庫

・『下町の空』講談社 1968 のち文庫

・『明日を知らず』河出書房新社 1969 のち中公文庫

・『面影筑摩書房 1969 のち集英社文庫

・『冬の椿』講談社 1970 のち集英社文庫
・『幻華』文芸春秋 1971 のち集英社文庫

・『女の庭』読売新聞社 1972 のち集英社文庫

・『青磁砧』講談社 1972 のち集英社文庫

・『築地川』講談社 1972 『築地川・葛飾の女』講談社文庫 1977

・『女の橋』新潮社 1973 のち集英社文庫

・『心づくし』読売新聞社 1973

・『日本の伝統美を訪ねて』日本交通公社出版事業局 1974 のち河出文庫

・『鹿のくる庭』中央公論社 1975 のち文庫

・『芝木好子作品集』全5巻 読売新聞社、1975-76

 第1巻 (湯葉・隅田川)1975

 第2巻 (夜の鶴・葛飾の女)

 第3巻 (面影・築地川)

 第4巻 (染彩・幻華) 1976

 第5巻 (青磁砧・牡丹寺 短編集)1976

・『火の山にて飛ぶ鳥』中央公論社 1975 のち文庫

・『黄色い皇帝』文芸春秋 1976 のち文庫、集英社文庫(昆虫研究家の五十嵐邁をモデルとした小説)

・『杏の花』芸術生活社 1977

・『牡丹の庭』講談社 1977 のち文庫

・『折々の旅』読売新聞社 1978

・『女の肖像』新潮社 1979 のち集英社文庫

・『光琳の櫛』新潮社 1979 のち文庫

・『羽搏く鳥』中央公論社 1980 のち文庫

・『玉の緒』河出書房新社 1981 のち文庫

・『貝紫幻想』河出書房新社 1982 のち文庫

・『紫の山』講談社 1983 のち文庫

・『ガラスの壁』新潮社 1984 のち文庫

・『隅田川暮色』文芸春秋 1984 のち文庫

・『落葉の季節』読売新聞社 1985 のち集英社文庫

・『京の小袖』講談社 1985 のち文庫

・『春の散歩』講談社 1986 のち文庫

・『華やぐとき』読売新聞社 1987

・『雪舞い』新潮社 1987 のち文庫

・『奈良の里』文芸春秋 1988

・『美の季節』朝日新聞社 1988 のち文庫

・『群青の湖』講談社 1990 のち文庫

・『冬の梅』新潮社 1991 のち文庫

・『別れの曲』集英社文庫 1991

・『芝木好子名作選』上下巻 新潮社 1997

・『湯葉/ 青磁砧』講談社文芸文庫 2000

編纂
・『日本の名随筆 39 芸』編 作品社 1986

・『古美術読本 陶磁』編 淡交社 1987

再話
シェークスピア原作『ベニスの商人田村耕介偕成社 世界名作文庫 1951

フランシス・エリザ・ホジスン・バーネット小公女高畠華宵絵 偕成社 世界名作文庫 1953

脚注
1. 岩井寛『作家の臨終・墓碑事典』(東京堂出版、1997年)163頁
2. 『朝日新聞』1982年3月3日(東京本社発行)朝刊、22頁。
(wikiより)

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芝木好子

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長岡 半太郎(ながおか はんたろう、1865年8月19日慶応元年6月28日) - 1950年(昭和25年)12月11日)は、日本物理学者


土星型原子モデル
提唱などの学問的業績を残した。また、東京帝国大学教授として多くの弟子を指導し、初代大阪帝国大学総長や帝国学士院院長などの要職も歴任した。


1937年
(昭和12年)、第一回文化勲章受章。正三位勲一等旭日大綬章追贈


本多光太郎鈴木梅太郎と共に理研の三太郎と称される。

生涯
幼少期と学生時代

肥前国大村藩(現・長崎県大村市)で大村藩藩士長岡治三郎の一人息子として生まれ、幼少期には大村藩藩校五教館長崎県立大村高等学校の前身)で学んだ。


長岡家は1874年(明治7年)に上京し、半太郎は本郷区湯島小学校に入学。小学校では成績が悪かった方で、落第したこともあった[注釈 1]共立学校から東京英語学校(東京大学予備門)に進学。父治三郎の転勤などに伴い、大阪英語学校(大阪専門学校)に転校後、東京大学予備門に再入学している。


1882年
(明治15年)9月に東京大学理学部(1886年から帝国大学理科大学)に進学。在学中、1年休学している。休学中は、東洋人(日本人)に欧米人に劣らない独創的見識があるのかについて悩み、漢学の道に進むことも考えていた。物理学科に進んでからは、教授山川健次郎や助教授田中舘愛橘、イギリス人教師ノットのもとで学んでいる。

東京帝国大学教授

1887年(明治20年)に大学院に進学後、そのまま大学に残り1890年(明治23年)に助教授就任。 1890年9月、磁気歪を研究してニッケル線に圧と捩りを与えると反磁性化することを確定した[1]。1892年7月25日、田中館愛橘と長岡は「濃尾地震に伴ふ等磁力線の変位」を発表[2]。1902年8月4日、長岡と本多光太郎は「鋼、Ni、Co、Ni鋼の磁歪」を発表[3]


1893年
(明治26年)から1896年(明治29年)にかけドイツに留学し、ルートヴィッヒ・ボルツマンのもとで学ぶ。帰国後、教授に就任。以来、1926年(大正15年)に60歳で定年退職するまで東京帝国大学(1897年に帝国大学から改名)教授を勤めた。

要職の歴任

東京帝国大学教授を定年退職したあとも理化学研究所主任研究員として研究を続ける一方で、次の要職を歴任した。

1931年-1934年 初代大阪帝国大学総長

・1934年-1947年 貴族院議員(帝国学士院会員議員)

1939年-1947年 日本学術振興会理事長

・1939年-1948年 第13代帝国学士院院長


その間、1937年に第一回文化勲章を受章している。


長岡は1939年(昭和14年)、スウェーデンノーベル委員会湯川秀樹への授賞を推薦している。この推薦は第二次世界大戦を挟んだ10年後の1949年(昭和24年)に実り、湯川は中間子理論が認められて日本人初のノーベル賞(物理学賞)を受賞した。


1950年
12月11日、満85歳で死去。死の当日も地球物理学の本を広げて研究を続けていた。

家族

1892年(明治25年)に箕作麟祥の三女・操子と結婚し、3男1女をもうけた。長男治男理化学研究所理事長、次男正男日本光学工業社長を勤め、長女は半太郎の弟子岡谷辰治と結婚した。半太郎の孫の長岡延子はピアニストとして将来を嘱望されたが、東京大空襲で死亡している。また、延子の義妹の長岡純子(旧姓長松)もピアニスト。


妻・操子が1902年(明治35年)に亡くなるとまもなく、平川登代と再婚。登代との間には5男をもうけた。五男・嵯峨根遼吉実験物理学者、八男・長岡振吉は、工作機械技術者(オークマ常務取締役、豊橋技術科学大学教授を歴任)[4]

最後
1950年12月11日、東京都文京区の自宅で脳出血により病死。葬儀は本人の意思により、神式にも仏式によらず同月16日に行われた[5]

業績

長岡は大学院時代から磁歪の実験研究に取り組み、並行して回折の数理物理学的な研究も行った。また、地震地球物理学の研究にも携わり、地磁気の測量、流星による電波の散乱の報告[6]などをしている。その後、研究の対象は原子構造論や分光学、水銀還金などに広がった。


1900年(明治33年)にフランスパリで開催された万国物理学会には、アンリ・ポアンカレやキュリー夫妻(ピエール・キュリーマリ・キュリー)、アンリ・ベクレルなどといった当時の有名物理学者とともに参加。磁歪の研究成果を報告している。


また、世界の物理学の最新情勢を日本に紹介する仕事も積極的に行なっている。1888年(明治21年)には、ハインリヒ・ヘルツの実験について特別講演を行い、紹介記事を執筆した。留学中の1895年には、ヴィルヘルム・レントゲンによるX線発見の報告を日本に送った。また、1922年(大正11年)にアルベルト・アインシュタインが来日し、日本中でアインシュタインブームが起こった際は、宮中にて相対性理論の講義を行なった。

土星型原子モデルの提唱
1900年代初頭、原子が不可分の粒子ではなく、正電荷に帯電する粒子と負電荷に帯電する粒子の集まりであるらしいということが判明していた。当時著名な物理学者であった英国のJ・J・トムソンは、1904年に、正に帯電した球の内部を負電荷の粒子が自由に運動しているという、ブドウパンのような原子モデルを提唱した。それに対して長岡は、同じく1904年(明治37年)[7]に、中央に正電荷を帯びた原子核があり、その周りを負電荷を帯びた電子がリング状に回っている土星型の原子モデルを発表した[8]。原子核の周りを電子が回っている原子模型は、長岡より2年前にジャン・ペランも提唱していたが定性的なものであり、長岡の論文はマクスウェル土星の環の安定性についての研究に影響を受けた、より精巧なものだった[9]


長岡のモデルにおいては、中心に重くて電荷の大きい核があり、その周りに数千~数万個の電子が回っていると仮定をすることで、原子はある程度の安定性を得られたが、最終的には電子が電磁波を放射してエネルギーを失って核と合体してしまう懸念点があり[10]、当初はあまり注目されなかった。また原子のスペクトル線を説明できるとしたが、実験とは上手く合わなかった。 しかし1911年アーネスト・ラザフォードがα線の散乱実験を行い、原子核を発見(→ラザフォード散乱)。この実験結果に基づいてラザフォードの原子模型を発表した。これは原子核があり、その周りを電子が回っているという点は、長岡の土星模型と似たものであった。


原子核の周りを回る電子の問題については、ニールス・ボーアによる1913年ボーアの原子模型で、ある規則にもとづく場合に安定して電子が存在していることが仮定された。「どうして加速度運動をしているのに、電磁波を放射してエネルギーを失わないのか」については、前期量子論(ボーアの原子模型もこれに含まれる)を経て、量子論に至って電子は「点のようなもの」ではない、とする事で最終的に結論された。

長岡係数の提唱
1909年5月6日電気工学において、有限長ソレノイドコイル)のインダクタンスを求めるための係数、長岡係数を発表した[11]

水銀還金

1924年9月20日に発表された水銀に変えることを可能にする夢の研究である[12]。水銀は原子番号80、金は原子番号79であるから、「水素元子」(陽子)1個を除去すると金が得られるとし、水銀の「核を攪乱」したところ金が見つかったとされる。長岡の目的は原子を改変して原子の理解を深めることで水銀から金を作る研究は部分的な応用例であったが、理化学研究所の広報が報道をあつめて発表し、この研究は資源の少ない日本に多大な恩恵をもたらす「錬金術」であるとセンセーショナルに報じられた。しかしその後10年研究が続けられたが成果なく、誤りであったのだが、長岡半太郎は認めることはなかった。また他の学者も物理学の重鎮に対して批判をすることはなかった[13][14][15][16]

主な弟子
長岡の東京帝国大学教授時代の主な弟子は、次のとおり。


本多光太郎 - 物理学者、冶金工学者。KS鋼の開発者。

日下部四郎太 - 地球物理学者。岩石や地震波の研究者。

愛知敬一 - 物理学者。若くして死去。

寺田寅彦 - 物理学者、エッセイストとしても知られる。
石原純 - 物理学者。歌人としても知られる。

・岡谷辰治 - 物理学者、数学者。

仁科芳雄 - 物理学者。量子力学の研究、粒子加速器(サイクロトロン)製作等の業績を上げた。


長岡は土星型原子模型(長岡模型)を提唱したとき、保守的な先輩世代から、実証的でない長岡模型の研究をやめるように言われた。長岡は後に、やめたことを悔やむ。


仁科はコペンハーゲン学派(ニールス・ボーアらが中心)の自由な学風を日本に持ち帰り、仁科と交流のあった朝永振一郎や、坂田昌一はその学風を受け継ぐ。


なお、朝永の父朝永三十郎は同じ大村市出身ということで、長岡とは旧知の仲であった(幼少期の実家は、隣家)。その他、長岡の助手をつとめた清水荘平東京理科大学出身)は、後に北辰電機製作所(後に横河電機製作所と合併し、横河北辰電機となり、現在は横河電機として存続)を創業している。ほか、のちに長岡の後任となった大阪帝国大学二代総長楠本長三郎は、旧制大村中学校(長崎県立大村高等学校の前身)で朝永三十郎と同期であった。

詳しいことは、「長岡半太郎ウィキペディア」をご覧ください。 ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E5%B2%A1%E5%8D%8A%E5%A4%AA%E9%83%8E
(wikiより)

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長岡半太郎

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湯浅 一郎(ゆあさ いちろう、明治元年12月18日1869年1月30日) - 昭和6年(1931年6月23日)は、明治・大正・昭和戦前期の日本の洋画家。政治家・湯浅治郎の長男。湯浅八郎は弟。上野国(現・群馬県安中市)出身。

経歴
同志社英学校(現・同志社大学)、東京美術学校(現・東京藝術大学)卒業。黒田清輝の天真道場に学び、大正時代の日本の洋画界の重鎮だった。1888年(明治21年)に山本芳翠の生巧館画塾に入塾して芳翠から洋画を学び、1896年(明治29年)には白馬会の結成に加わった。1906年(明治39年)にジブラルタル経由でスペインに渡り、アルヘシーラスグラナダセビリアに滞在した後、マドリードプラド美術館ではいくつかの作品を模写している[1]。特にディエゴ・ベラスケスの『ラス・メニーナス』については「これを見たいためにまずスペインに行ったのであった。この部屋に入ったときは、これを見ればほかに絵を見る必要がないとまで思わせた」と語っている[1]。マドリードには約1年、スペイン全体には約1年半滞在してからフランスに渡り、1908年(明治41年)の第2回文展にはパリで制作した『イスパニア国風景』を出品した[1]。1914年(大正3年)には二科会の結成に参加。1931年(昭和6年)死去。

主な作品
・徒然

・画室

・村娘

・室内婦人像


その他、新島襄の肖像画(安中教会)を描く。

脚注
1. a b c 坂東省次 2013, pp. 276-277.

参考文献
坂東省次戸門一衛碇順治『現代スペインを知るための60章』明石書店〈エリアスタディーズ〉、東京、2013年。
(wikiより)

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山路 愛山(やまじ あいざん、元治元年12月26日1865年1月23日) - 大正6年(1917年3月15日)は、日本明治から大正初期に活躍した評論家歴史家。本名は彌吉。愛山はその号である。初め如山と号したが、静岡の愛鷹山に由来する愛山の名は明治20年(1887年)頃から用いられた。

生涯
幼少期
幕臣山路一郎の子として、江戸淺草の天文屋敷に生まれた。山路家は幕府の天文方を代々歴任した。最後の天文方の一人山路彰常(金之丞)は祖父にあたる。愛山の母である奥留種敏の娘・けい子は彰常の従妹(一郎から見れば大叔母の娘)にあたった。


慶応
3年(1867年)に母が病死する。翌年、一郎は幕府方として彰義隊に加わり、上野戦争に従軍する。さらに、箱館に転戦し函館戦争に従軍する。政府軍と戦うが、降伏し捕虜になる。釈放されて後、祖父母とともに静岡に移った。


戊辰戦争に敗れた失意の中で、一郎は酒癖が悪く、家庭を省みなかったため、愛山は幼くしてみずから家を支えなければならなかった。愛山は初め奥村孚について漢学を修め、静岡警察署の雇吏となりつつ、学問を好み倦むところを知らなかったという。

キリスト教入信
カナダ・メソジスト教会監督・平岩愃保、宣教師D・マクドナルドらに英語を学び、キリスト教に入信した。静岡教会に所属し、静岡バンドの一員になる。


明治19年(1886年)10月31日 静岡教会平岩愃保牧師より高木壬太郎らとともに洗礼を受ける[1]


明治21年(1888年)2月には『國民之友』が創刊される。『國民之友』に有名な徳富蘇峰の「嗟呼國民之友生れたり」が掲載された。


愛山は「これを越前福井の足羽山上に読み、山に上り山を下るの間遂に山光水色の何たるを知るに及ばなかつた」と言い大きな影響を受けたという。同年、上京して東洋英和学校神学部に入り神学教育を受ける。卒業の後、静岡教会で伝道師として3年働いた。この間初めて愛山の名で『女學雑誌』に投書した。

國民新聞記者時代
ふたたび上京し、徳富蘇峰の知遇を得、民友社に入り、『國民新聞』記者として、政治および史論に筆をとった。主として『國民之友』『國民新聞』に筆をふるい、キリスト教メソジスト派の雑誌『護教』の主筆であった。


明治23年(1890年)東洋英和学校神学部を卒業[1]柳田國男らと共に、慶應義塾大学部文学科史学科教授に就任。のちの『三田文学』創刊にも携わる。


明治24年(1891年)キリスト教メソジスト派の雑誌『護教』の最初の主筆となる[1]


明治26年(1893年)には民友社より『荻生徂徠』を、翌27年(1894年)には『新井白石』を刊行。


明治30年(1897年)に、末松謙澄が主宰する毛利家の『防長回天史』編集所に入り、その編集主任となった。この時、一緒になったのが堺利彦(枯川)で、以後親しい友人となった。


明治31年(1898年4月9日信濃毎日新聞より主筆として招聘された。愛山は、信州人の豪放な気質を心から愛し、死の直前には「我らの信州に住み若くは信州に来往したること足掛十九年なり」と述懐している。

『獨立評論』主幹
明治33年(1900年)には『高山彦九郎』を、翌34年(1901年)には『青年立身録』『読史論集』を刊行。明治35年(1903年)には『懺悔』を刊行。同年には信濃毎日新聞をやめて上京、1月より雑誌『獨立評論』を創刊した。


創刊号には、内村鑑三への公開状ともいうぺき「余は何故に帝国主義の信者たる乎」が掲載された。これは内村が明治28年(1895年)に発表していた「余は如何にして基督信徒となりし乎」をもじった題であった。


内村はこの愛山の公開状に対して『正教新報』において、『獨立評論』第1号の書評を試みつつこの論文に言及し、愛山を徳富蘇峰とともに「君子豹変の実例」ときめつけた。内村は日清戦争については「義戦」として評価していたが、その後の戦禍について平和主義に傾き、日露戦争開戦前には非戦論を主張していた。


明治37年(1904年)2月、日露戦争勃発と同時に『日露戦争實記』を発刊し、「草木皆兵」を論じ、愛国心の鼓舞につとめた。4月には『戦争に於ける青年訓』を刊行した。


明治38年(1905年)2月には『孔子論』を出版。以降41年に至るまで中国思想史に関する論文が連続『獨立評論』に掲載されている。

国家社会党
明治38年(1905年)8月には、斯波貞吉中村大八郎らと「国家社会党」を創立した。その宣言書には、古代における我国の皇室が或る意味における社会主義の実行者であると説き、「我国民は宜しく皇室の力に依りて官費の専横を抑制すべし」と論じた。


明治39年(1906年)3月には旧友の堺利彦がつくった日本社会党と共同戦線を張って、東京市内電車の電車賃値上反対運動をおこなったが、国家社会党はこれだけで自然消滅したようである。同年6月には『社会主義管見』を発表したが発禁となった。国体論と社会主義の野合として、北一輝は痛烈な批判を加えている。


明治40年(1907年)、『支那思想史・日漢文明異同論』を発表。

『國民雑誌』主筆
明治41年(1908年)以降は、雑誌『太陽』に人物月旦の筆をとり、また『國民雑誌』の主筆として活動した。同年5月、『現代金権史』発表。


明治42年(1909年)には『足利尊氏』『加藤清正』『豊太閤』『源頼朝』、翌43年(1910年)には『西郷隆盛』 など英雄列伝を発表。明治43年(1910年)10月に『武家時代史論』 、翌44年(1911年)5月『勝海舟』、同8月に『佐久間象山』を発表している。


明治45年(1912年)1月『國民雑誌』誌上で、唯物史観をめぐって、山路と堺利彦との間で論争があった。同年には『伊達騒動記』『加賀騒動記』の御家騒動叢書を刊行。


大正2年(1913年)、『為朝論 附・義経論』『日本歴史 家庭講話』『書斎独語』『愛山史論』を刊行。同年頃より未完の『日本人民史』の著作の準備をはじめ、『獨立評論』を再興し、その言論活動は晩年まで活発であった。

大正3年(1914年)には『偉人論』 『岩崎弥太郎』 『現代富豪論』、同4年(1915年)には『徳川家康』 を刊行。

同年、丹毒で一時危篤となるがその後回復した。


大正5年(1916年)『支那論』 発表。同年秋に『信濃日々新聞』が発刊されると、これに主筆として多大の援助を与えた。


大正6年(1917年)3月15日、疫痢のため死去[2]。享年54歳だった。辞世の一首、「この娑婆はとても去られぬ世なれども、生れぬさきの國へ行かなむ」。同年5月には『世界の過去現在未来』 が刊行された。

政治と思想
山路愛山の文学観は、明治26年(1893年)に『國民の友』誌上で北村透谷との間に展開された、「人生に相渉るとは何の謂ぞ」という論争に見られる。愛山が「文章即ち事業なり。……もし世を益せずんば空の空なるのみ。


文章は事実なるがゆえに崇むべし」と論じたのに対し、透谷が「〔愛山は〕「史論」と名くる鉄槌を以て撃砕すべき目的を拡めて、頻りに純文学の領地を襲わんとす」と反発し、文学者が史論家のように「事業」をなすために文を作るのではないこと、「勝利」を至上目的にするわけではないことを弁護しようとしたのである。

この論争は、愛山が文学と政治を同一視し、さらには個人と国家の目的を分けようとしないこと、思想とは行動を引き起こさなければ無益であると考えていることを示した。


キリスト教に対する愛山の態度もこの通りであり、「余は正義と人情とを世界に植ゆる最後の手段はただ腕力に頼るの外なきを信ずる者なり」と考えていた。愛山の宗教上の模範は、鉄騎隊を率いたクロムウェルである。


平和にして無為な宗教ではなく、事業と行動を伴い思想を剣で強要する宗教である。このようにしてかれにとって帝国主義や社会主義は、国民を一致団結させ国家に事業を興させる手段であり、マキャヴェッリのように、祖国のために個人の意志は吸収され、国家そのものが崇拝の対象となる。

史論
内村鑑三と同様、イギリスの思想家トーマス・カーライルに影響を受けた[3]。カーライルは1881年に没したが、没後間もない明治20年代半ば(1880年代後半)には民友社平田久『カーライル』が、丸善で石田羊一郎ほか訳『英雄崇拝論』が出版され、同書は詩人・土井晩翠訳が、春陽堂より明治31年(1898年)に刊行している。


実学
として歴史を考えた愛山には、「古は猶今の如く、今は猶古の如く、人生は同じ法則に因りて動き、國は同じ運命を循環して盛衰する」という信念があった。従って歴史上の偉人は模範としての個人であって、時代をもっともよく表現し、ヘーゲルの絶対精神のような存在であった。


愛山の史論は、荻生徂徠の『政談』を経て、マキャヴェッリの『ディスコルシ』のような政論とも比べられる。史実に関する博学・考証より、歴史人物のうちに生動する時代の本質への洞察を尊ぶ。時代への感情移入と、政論家としての国家独立への志が、徳富蘇峰をして「もし君の勝ち場を求めば、史論に如くはなし」といわせた叙述となった。


思想・政治は、愛山にとって「密着して離れざるもの」であり、歴史をそうした全体として考え、経済社会の背景にも特に関心を払っていた。明治42年(1909年)『太陽』に掲載された「日本現代の史学及び史家」のなかで、歴史を経済の観点から見る新しい傾向に期待を寄せ、「此の如き研究方法は即ち新しき目を以て過去を読むものにして、将来の史学はおそらくは此の傾向に依りて新時期を作るに至らんか」と言っている。

詳しいことは、「山路愛山ウィキペディア」をご覧ください。 ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E8%B7%AF%E6%84%9B%E5%B1%B1
(wikiより)

1584 山路愛山

山路愛山

1584a

1584b



植木 枝盛(うえき えもり、安政4年1月20日1857年2月14日) - 明治25年(1892年1月23日)は、日本の思想家政治家自由民権運動の理論的指導者。

略歴
生い立ち〜青年時代
土佐藩士・植木直枝(小姓組格、4人扶持24石)の嫡男として、土佐国土佐郡井口村(高知県高知市中須賀町)に生まれる。8歳から習字を学ぶ。藩校致道館に学び、明治6年(1873年)には土佐藩海南私塾の生徒として抜擢されるが、9月に退学し帰郷する。


明治六年政変
(征韓論政変)に触発されて上京を決意し、傍らキリスト教関係書物『天道溯原』を読む。明治8年(1875年)、19歳で上京し慶應義塾内や三田演説館の「三田演説会」に頻繁に通い[1]明六社に参加し、福澤諭吉に師事して学ぶ。自ら修文会を組織して奥宮荘子会(奥宮慥斎)にも参加する。明治8年(1875年)から『郵便報知新聞』『朝野新聞』『東京日日新聞』などに投書を始め、明治9年(1876年)3月15陽、投書『猿人君主』(『郵便報知』2月15日)のために、讒謗律による筆禍事件で5月13日まで2ヶ月入獄する。キリスト教に興味を持ち始め、耶蘇教会に通う。10月、『思想論』などを書く。

自由民権運動〜政界へ

明治10年(1877年)、板垣退助に従って帰郷し書生となる。『無天雑録』を執筆し始める。立志社に参加し、立志社建白書を起草。西南戦争による立志社の獄では逮捕されず、高陽社が創立され、機関紙『土陽新聞』『海南新誌』の編集・執筆にあたる。明治11年(1878年)4月29日、愛国社再興のために四国、中国地方に遊説に出発。8月、『尊人説』を執筆。12月、頭山満に招聘され福岡に向かい、向陽義塾の開校式に出席して演説した。1979年4月福岡で、6月大阪で、『民権自由論』刊行。11月5日、高知立志社での演説が集会条例にふれ、以後同趣旨の演説を禁止され、12月27日解禁。


愛国志林』『愛国新誌』の主筆として論陣を張り、明治14年(1881年)に私擬憲法の中では最も民主的、急進的な内容とされる『東洋大日本国国憲按』を起草。この草案は、ジョン・ロックの影響が大きいと思われる。11月1日、酒税増税に反対し、1882年5月1日を期して大阪に酒屋会議を開く旨の檄文を発表。


明治15年(1882年)4月8日、板垣の岐阜遭難を受けて大阪での酒屋会議に出席。5月に上京し自由党臨時会に出席し、馬場辰猪中江兆民田中耕造田口卯吉末広重恭と共に『自由新聞』社説を担当。板垣外遊をめぐる内紛のためのちに分裂。明治17年(1884年)、東海・北陸地方を遊説して帰郷。代言人試験に遅刻してあきらめる。 『土陽新聞』明治18年(1885年)9月20日-10月11日に、「貧民論」を発表。 明治19年(1886年)、高知県会議員に当選。明治21年(1888年)、大阪に向かい、中江兆民の『東雲新聞』を手伝い、幸徳秋水らと知り合う。京都で馬場辰猪の追悼会と同志社設立のための会合に出席する傍ら遊説。10月1日には上京し、後藤象二郎の労をねぎらい、大同団結運動では大同倶楽部に所属し、大隈重信条約改正問題を攻撃するため、福澤諭吉・寺島宗則副島種臣を訪問して反対運動の工作をし、建白書を執筆。直後に玄洋社による「大隈重信爆殺未遂事件」が起こったが、条約案は葬り去られた。


愛国公党設立に尽力し、明治23年(1890年)の帝国議会開設にあたり、高知県から第1回衆議院議員総選挙に立候補し当選[2]。明治24年(1891年)2月24日、板垣や栗原亮一らとの意見の違いから立憲自由党を脱党、愛国公党(土佐派)系を率いる。8月、富士山に登山。


明治25年(1892年)、第2回衆議院議員総選挙を前に胃潰瘍の悪化により36歳(数え年)で死去。その突然の死から、毒殺説もある。墓地は青山霊園にある。

死後の再評価

自由民権運動当時は知名度が高かったが、早世したことでその後は忘れられた存在となる。憲法学者で法制史家の鈴木安蔵が昭和11年(1936年)に高知県立図書館に保存されていた植木の文書類を調査し、その内容を新聞に発表した[3]。 これにより、植木の業績に再び光が当てられることになった。鈴木は終戦後に民間の有識者で結成された憲法研究会に参加し、研究会が昭和20年(1945年)12月に発表した「憲法草案要綱」では植木の憲法案を参考の一つとしたと証言している[3]


戦後は家永三郎によって研究が進められた。家永が昭和30年(1955年)に刊行した『革命思想の先駆者 - 植木枝盛の人と思想』(岩波新書)は植木の業績や生涯を広く知らしめ、昭和35年(1960年)に刊行した『植木枝盛研究』(岩波書店)はその後の研究の基礎文献となった。

アジア主義
植木は青年時代から独自のアジア主義(小国主義、アジア連合論)を説き、興亜会の会報をよく読み、アジア侵略をする欧米を「大野蛮」と言い、アジアの被抑圧からの独立振興を主張し、戦争にも反対であった。基本的には武力行使による国権拡張に反対して平和を志向し、日本国家の経済権益の拡張を支持した。改革アジア同士の連携を志向し、具体的には通商貿易という手段でのアジアの独立振興を志向した。被抑圧アジアの欧米からの独立志向性は、アジア主義を否定的媒介として、世界の被抑圧地域・国家の独立開放を望むインターナショナリズムに結晶し、日本青年に被抑圧アジアや世界の被抑圧王国の独立支援者(盟主ではなく「興臣」)になることを呼びかけた。

エピソード
・『日記』にもあるように思想や著書は福澤諭吉の民権的な著書(『通俗民権論』、『通俗国権論』)の影響が強いが、『赤穂四十七士論』のように思想家として自立した著作も多く残している。


・明治12年(1879年)2月1日、天皇と一体化する夢を見た。同月10日に「我ハ気違ナリ」の文を書く。


・『伝習録』に影響を受けて、新聞でキリスト教を痛烈に批判した。


後藤象二郎を「後藤伯ハ平民ノ伯ナリ」と絶賛する一方、大隈重信を「主義なき政治家はあらず」と痛烈に批判した。


・明治23年(1890年)12月に出版された 『国会傍聴 議場の奇談』[4]にはこう記されている「怒り上戸の随一人は誰ぞ 二十二番議員植木枝盛氏なり 氏は一言一語既に怒調を帯ぶるが上に何かに附けて直に腹を立て憤然として怒鳴り激然として拳を打振り以て他を嚇し去らんとするより」。また、こう心配されてもいる。「のべつに遣らかしては怒りの効能追々薄くも為らずや 氏が嚇然大怒せねばならぬ事今後続々出で来るべし 今少しく其鋭気を蓄へて可なり」。この二年後に胃潰瘍で死去している。

旧居
『東洋大日本国国憲按』を起草し、亡くなるまで14年間暮らした旧居が高知市桜馬場に残っていた。しかし、老朽化のため平成22年(2010年)に取り壊しが決まった。建物のうち書斎部分については、高知市が1600万円をかけて高知市立自由民権記念館に移設されることとなった[5]。移設工事後、平成23年(2011年)8月20日より公開されている[6]

著作

主な著作に『赤穂四十七士論』『報国纂録』『植木枝盛日記』『国家主権論』『勃爾咢(ボルク)ヲ殺ス』『民権自由論』『言論自由論』などがある。


日記書簡を含めたその多くは1945年昭和20年)7月4日の高知大空襲で焼失しているが、『植木枝盛集』(岩波書店、全10巻、1990 - 1991年)に収録されている。

参考文献
米原謙『植木枝盛―民権青年の自我表現』中公新書、1992年、ISBN 4121010868

・『新訂 政治家人名事典 明治〜昭和』(2003年、編集・発行 - 日外アソシエーツ、81頁)

脚注
1. 河野健二『福沢諭吉 生きつづける思想家』講談社現代新書、1967年4月。ASIN B000JA8BRK
2. 『衆議院議員総選挙一覧 明治45年2月』衆議院事務局、1912年、p.56
3. a b 田村貞雄「民権百年の橋渡し――鈴木安蔵氏の私擬憲法研究の意義」『日本史を見なおす』青木書店、1986年(時代をくぐりぬけた憲法草案:戦時下の民権憲法研究 - ウェイバックマシン(2010年10月28日アーカイブ分))
4. 岡田常三郎編『議場の奇談 : 国会傍聴』大日本書籍行商社、1890年、p.3
5. 高知新聞2010年9月3日
6. 枝盛の書斎を復元 高知市(高知新聞2011年8月21日) - ウェイバックマシン(2012年1月27日アーカイブ分)

関連項目
明六社

頭山満

馬場辰猪

外部リンク
明治ひとけた年代における暗誦教育 - ウェイバックマシン(2015年1月13日アーカイブ分)

興亜会のアジア主義と植木枝盛のアジア主義

第2章 署名(1) | あの人の直筆 - 国立国会図書館
(wikiより)

1583 植木枝盛

植木枝盛

1583a

1583b



入江 文郎(いりえ ぶんろう / ふみお[1]1834年5月16日天保5年4月8日) - 1878年明治11年)1月30日)は江戸時代末期から明治時代初期にかけての日本フランス学者。旧松江藩士。旧名・泉、を原伯といい、観寮(かんりょう)とした。本姓は劉[2]


幕末におけるフランス学先駆者の一人であり[3]幕府蕃書調所(のち開成所)教授方となってフランス語の翻訳と指導に従事。明治に入ると新政府大学教官としてフランスに派遣され、研究のかたわら留学生総代を務めたが、病のためパリで客死した。

来歴
天保5年4月8日1834年5月16日)、松江藩医入江元範の子として出雲国島根郡松江に生まれる。支藩広瀬藩の藩儒山村黙斎、次いで松江藩儒妹尾謙三郎(雨森精斎)に学び、嘉永7年(1854年)から江戸に遊学。奥医師竹内玄洞に就いて蘭学を修めた。安政4年(1857年)、父・元範が重病との知らせを受けて帰国。父の死去により家を継いで藩医となったのち、翌安政5年(1858年)から再び江戸に遊学した。万延元年(1860年)の冬には50日間横浜に遊学し、フランスの通訳官アンリ・ヴーヴ(Henri Weuve)からフランス語を学んでいる[4]


文久
元年(1861年)、幕府洋学研究教育機関・蕃書調所(文久2年5月に洋書調所、文久3年8月に開成所と改称)の教授手伝出役に採用され、林正十郎小林鼎輔とともにフランス学を担当。翌文久2年(1862年)3月に幕府外国方翻訳掛を兼ねた[5]。また文久2年中には再び横浜のヴーヴのもとに100日間遊学[6]。12月に江戸に戻ると藩からも洋学教授方を命じられ、同じ蕃書調所教授方の松江藩士間宮観一布野雲平の2人とともに江戸藩邸で指導に当たった[7]慶応2年12月(1866年2月)、旗本に取り立てられ開成所教授職並に昇進[8]。次いで三兵伝習所での翻訳業務のため林正十郎とともに横浜への派遣を命じられ、教授方のまま開成所勤務を離れた[9]。三兵伝習所江戸移転後の慶応3年(1867年)10月には陸軍所勤務となり、翌慶応4年(明治元年・1868年)3月に陸軍御用兼勤を免じられるまでフランス軍事顧問の文書翻訳に従事[10]。幕府崩壊後の同年7月、職を辞して松江藩籍に戻った[11]


明治元年12月、新政府により開成所の官制が改められると開成学校二等教授として復職。翌明治2年(1869年)、寄宿寮総取締を命じられた[12]。開成学校を包括する大学校(ほどなく大学と改称)の官制が定められた同年7月には大学中博士に就任。大学南校の変則課程でフランス学を担当した[13]。その後、大学に代わり文部省が新設された明治4年(1871年)7月に文部中教授に更任されたのち、翌年9月の官制改革で文部省六等出仕となった[14]


この間、明治4年1月に大学中博士鈴木暢(唯一)、大学大助教小林儀秀(小太郎)とともに学術研究のため1年ほどの予定で欧州派遣を命じられ[15]、翌2月に横浜を出港。マルセイユを経て7月(1871年8月)にパリに到着し、はじめ第1区アルジェ通りフランス語版に滞在。ほどなく第6区カジミール・ドラヴィーニュ通りフランス語版のホテル・サン=シュルピスに移った[16]。既にオーギュスト・コントに傾倒し哲学を研究していた入江は、パリではコントの定めた修学順序に従って諸学科を復習したという[17]。また岩倉使節団の文部理事官随員今村和郎がフランスでの学制調査のため米国を後にした明治5年1月(1872年3月)には、文部理事官が担当する調査の分担を命じられた[18]。同年6月(1872年7月)、入江、鈴木、小林の3人に帰国命令が発せられたが、入江は2年間の延長を願い出て滞在を継続[19]。明治6年(1873年)2月に在仏弁理公使鮫島尚信から栗本貞次郎の後任として留学生総代を命じられ、以後フランス留学生たちの世話に当たったほか[20]、文部理事官帰国後もパリ東洋語学校教員としてフランスに残っていた今村とともに、同年9月にパリで開かれた第1回国際東洋学者会議に参加している[21]


明治6年12月、海軍省派遣をのぞく官費海外留学生の一斉召還が決定され[22]、翌明治7年(1874年)6月には入江にも再び帰国命令が発せられたが、病のため出発を延期。療養のため私費で滞在を続けた。しかし、ついに帰国することなく明治10年(1877年)1月の官制改革の際に文部省を退官[23]。明治11年(1878年1月30日、喉頭結核のため宿舎のホテル・サン=シュルピスで死去し、パリのモンパルナス墓地に葬られた。享年45[24]。没後、モンパルナス墓地と島根県能義郡広瀬町の洞光寺に墓碑が、東京青山墓地に記念碑が建設された[25]


入江は生涯独身であったため、入江家は姉・しずの三男美弥三郎が相続し、のちに入江元義と名乗った[26]陸軍軍人であった元義の子には、陸軍少将入江元、陸軍中将堀井富太郎夫人知恵子がいる[27]。なお、留学生名簿や『西航備忘録』を含む文書、写真、名刺などの入江関係資料が現存しており、これらは入江家から島根県立博物館(現・島根県立古代出雲歴史博物館)に寄贈されている[28]。また国立国会図書館憲政資料室が所蔵する辻新次関係文書にも関係資料が含まれている[29]

著作
市川文吉送別文(山岸光宣編 『幕末洋学者欧文集』 弘文荘、1940年11月)

日本学士院 「『市川文吉送別文集』について : いわゆる幕末洋学者欧文集」(『日本学士院紀要』第35巻第2号、1978年3月、NAID 40002849203)、田中貞(1988・2014)に翻刻されている。

・『西航備忘録』

田中隆(1999)に影印が収録されている。

・留学生名簿

4種類の名簿が残されており[30]、藤田(1940・1948)、田中隆(1999)、小川などに一部が翻刻されている。

・書簡下書

田中貞(1988・2014)、田中隆(1999)に翻刻されている。

・"De la prononciation japonaise des signes chinois." in Congrès international des Orientalistes (ed.), Congrès international des Orientalistes: Compte-rendu de la première session, Paris 1873, Tome premier, Maisonneuve et Cie, 1874.

・"Les Peuples ètrangers connus des anciens Chinois." in Congrès international des Orientalistes (ed.), op. cit..

翻訳
フランス軍事顧問作成文書(勝安芳 『陸軍歴史 下』巻二十五巻二十六

  ・勝安芳著 『陸軍歴史 下改造社、1928年8月 / 原書房〈明治百年史叢書〉、1967年11月、ISBN 9784562001378

  ・勝海舟全集刊行会編 『勝海舟全集 14 陸軍歴史IV』 講談社、1975年1月

  ・勝部真長ほか編 『勝海舟全集 17』 勁草書房、1977年11月、ISBN 978-4326398591

  ・「シャノワンヌ、ブリューネ、メッスローの意見書」(篠原宏著 『陸軍創設史 : フランス軍事顧問団の影』 リブロポート、1983年12月、ISBN 4845701014

・「ウスリ地方ノ説」(『中外新聞』第12号、慶応4年4月10日

  ・吉野作造編輯代表 『明治文化全集 第十七巻 新聞篇』 日本評論社、1933年6月 / 明治文化研究会編 『明治文化全集 第四巻 新聞篇』 日本評論新社、1955年3月 / 明治文化研究会編 『明治文化全集 第十八巻 新聞篇』 日本評論社、1992年10月、ISBN 4535042586

  ・明治文化研究会編 『幕末明治 新聞全集 第三巻』 大誠堂、1934年12月 / 世界文庫、1961年11月

  ・北根豊監修 『日本初期新聞全集 13』 ぺりかん社、1988年8月、ISBN 4831590134

詳しいことは、「入江文郎ウィキペディア」をご覧ください。 ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%A5%E6%B1%9F%E6%96%87%E9%83%8E
(wikiより)

1582  入江文郎

入江文郎

1582a



永山 盛輝(ながやま もりてる、1826年9月16日(文政9年8月15日) - 1902年明治35年)1月18日[1][2])は、幕末薩摩藩士、明治期の官僚政治家筑摩県権令、新潟県令元老院議官貴族院勅選議員錦鶏間祗候男爵。通称・清右衛門、左内、正蔵[3]長野県の近代教育に尽力した。

経歴
薩摩藩士・永山盛広の息子として生まれる[3]。勘定奉行、江戸留守居役を務め藩政改革に尽力した[4]戊辰戦争では東征軍の薩摩藩兵監軍として従軍し各地に転戦した[3]


明治2年2月28日1869年4月9日)会計官御東幸中用度司判事に就任。その後、大蔵省用度権大佑、民部省監督権大佑を歴任。明治3年6月23日1870年7月21日)伊那県出仕に転じ、租税大佑と同県少参事心得を兼任。同県少参事、同大参事を歴任。明治4年11月20日1871年12月31日)伊那県が廃止となり新たに設けられた筑摩県参事に就任し、1873年3月、同権令に昇進[5]。筑摩県では教育の普及に尽力し、県内を巡回し学制前に郷学校百数十校を設置した[6]1875年10月、新潟県令に転任。戊辰戦争からの復興のため士族女子の救済施設「女紅場」の設置や、小学校の就学率の向上に尽力[4]


1885年4月18日、元老院議官に就任。1890年10月20日、元老院が廃止され非職となり錦鶏間祗候を仰せ付けられ[5]1891年4月21日、非職元元老院議官を依願免本官となる[7]。同年4月15日、貴族院勅選議員に任じられ[8]、死去するまで在任した[9]1900年5月9日、勲功により男爵を叙爵[10]

1902年、死去。

幕末明治の木曽を舞台とした島崎藤村の『夜明け前』に登場する本山盛徳のモデルとされる[11]

栄典
位階
1885年(明治18年)6月5日 - 従四位[12]

1886年(明治19年)10月20日 - 従三位[13]

1894年(明治27年)5月21日 - 正三位[14]

勲章等
1888年(明治21年)5月29日 - 勲二等旭日重光章[15]

1889年(明治22年)11月25日 - 大日本帝国憲法発布記念章[16]

1900年(明治33年)5月9日 - 男爵[17]

1902年(明治35年)1月18日 - 勲一等瑞宝章[18]

親族
・長男 永山盛興

・弟 永山武四郎

・娘婿 柴田駒三郎

脚注
1. 『平成新修旧華族家系大成』下巻、257-258頁。
2. 『明治維新人名辞典』719頁では「1月17日」没。
3. a b c 『明治維新人名辞典』719頁。
4. a b 『新編日本の歴代知事』399頁。
5. a b 「職務進退・元老院 勅奏任官履歴原書 永山盛輝」
6. 『朝日日本歴史人物事典』1227頁。
7. 『官報』第2340号、明治24年4月22日。
8. 『官報』第2335号、明治24年4月16日。
9. 『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』148頁。
10. 『明治過去帳』新訂初版、644頁。
11. 「夜明け前」と馬籠をめぐって有賀光良、日本共産党長野県委員会 『民主長野』2005年1月号
12. 『官報』第578号「賞勲叙任」1885年6月6日。 13. 『官報』第994号「叙任及辞令」1886年10月21日。
14. 『官報』第3266号「叙任及辞令」1894年5月22日。
15. 『官報』第1473号「叙任及辞令」1888年5月30日。
16. 『官報』第1928号「叙任及辞令」1889年11月30日。
17. 『官報』号外「授爵叙任及辞令」1900年5月9日。
18. 中野文庫・旧・勲一等瑞宝章受章者一覧(戦前の部)

参考文献
・歴代知事編纂会編『新編日本の歴代知事』歴代知事編纂会、1991年。

秦郁彦編『日本官僚制総合事典:1868 - 2000』東京大学出版会、2001年。

・衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
霞会館華族家系大成編輯委員会『平成新修旧華族家系大成』下巻、霞会館、1996年。
・『朝日日本歴史人物事典』朝日新聞社、1994年。

・日本歴史学会編『明治維新人名辞典』吉川弘文館、1981年。

安岡昭男編『幕末維新大人名事典』下巻、新人物往来社、2010年。

・大植四郎編『明治過去帳』新訂初版、東京美術、1971年(原著私家版1935年)。

・太政官「職務進退・元老院 勅奏任官履歴原書 永山盛輝」明治2年。国立公文書館 請求番号:本館-2A-031-09・職00149100
(wikiより)

1581 永山盛輝

永山盛輝

1581a

1581b



稲田 龍吉(いなだ りょうきち、1874年明治7年)3月18日 - 1950年昭和25年)2月27日)は、愛知県名古屋市出身の細菌学者九州帝国大学医学部第一内科初代教授、恩賜財団母子愛育会愛育研究所(現・日本総合愛育研究所)初代所長を歴任。東京大学名誉教授医学者

来歴・人物

洋学校を経て上京し、共立学校などの予備校に在籍した後、第一高等中学校を経て1895年(明治28年)帝国大学医科大学(現 東京大学医学部)に入学、1900年(明治33年)に首席で卒業し、青山胤通教授の内科教室に入局。


1902年(明治35年)からドイツに留学。1905年(明治38年)京都帝国大学福岡医科大学内科学第一講座初代教授に着任(現九州大学医学部第一内科(病態修復内科))。


ワイル病
の病原体スピロヘータを発見し、1919年(大正8年)には共同研究者の井戸泰とともにノーベル生理学・医学賞の候補となる[1]。また、九州四国風土病だった出血性黄疸の病原体もワイル病病原体と同じであることを立証した。


1920年(大正9年)、東京帝国大学教授に就任。1928年(昭和3年)、帝国学士院会員。1934年(昭和9年)に癌研究会附属病院が開設された時に初代院長となった。1938年(昭和13年)には恩賜財団母子愛育会愛育研究所の開所に伴いその初代所長に就任し、日本の児童と母性に関する研究の発展に尽力した。1942年(昭和17年)より日本医療団総裁、1943年(昭和18年)より新正日本医師会会長を務める。また結核予防会副会長も兼務。1944年(昭和19年)文化勲章受章。 1949年(昭和24年)日本初の一般向け医学書として「家庭の医学」を 東京帝国大学の同級生だった日本医大学長の塩田広重とともに責任編集を行い、時事通信社より発行した。

九州大学馬出地区には稲田の業績を称えた「稲田通り」がある。

栄典
1940年(昭和15年)8月15日 - 紀元二千六百年祝典記念章[2]

親族
稲田三之助 - 弟。逓信官僚。早稲田大学理工学部教授。

注釈
1.  Nomination Database for the Nobel Prize in Physiology or Medicine, 1901-1953ノーベル財団(英語)。この推薦はこの年の受賞者であるのジュール・ボルデを加えた3名を対象に、フランス人学者からなされている。
2. 『官報』第4438号・付録「辞令二」1941年10月23日。

外部リンク
九州大学第一内科 初代・稲田龍吉教授の研究内容
(wikiより)

1580 稲田龍吉

稲田龍吉

1580a

1580b



高木 兼寛(たかき かねひろ[注 1]嘉永2年9月15日1849年10月30日) - 大正9年(1920年4月13日)は大日本帝国の海軍軍人、最終階級は海軍軍医総監少将相当)。医学博士男爵東京慈恵会医科大学の創設者。脚気の撲滅に尽力し、「ビタミンの父」とも呼ばれる。それまでの日本の食文化では、馴染みの薄かったカレーライスを『脚気予防策』として、大日本帝国海軍給食に取り入れた(海軍カレー)。

略歴
薩摩藩郷士・高木喜助兼次の長男[1][2][3]として日向国諸県郡穆佐郷(現:宮崎県宮崎市高岡町[注 2])に生まれる。通称は藤四郎。穆園と号す。18歳のときから薩摩藩蘭方医石神良策に師事、戊辰戦争の際には薩摩藩兵の軍医として従軍した。明治2年1869年)、開成所洋学局に入学し英語西洋医学を学ぶ。明治3年1870年)、薩摩藩によって創設された鹿児島医学校に入学すると、校長のイギリス人ウィリアム・ウィリスに認められて教授に抜擢された[4]


明治5年
1872年)、海軍医務行政の中央機関・海軍軍医寮(後の海軍省医務局)の幹部になった石神の推挙により一等軍医副(中尉相当官)として海軍入り。海軍病院勤務のかたわら病院や軍医制度に関する建議を多数行い、この年に大軍医(大尉相当官)に昇進。


軍医少監(少佐相当官)であった明治8年(1875年)、当時の海軍病院学舎(後の海軍軍医学校)教官のイギリス海軍軍医アンダーソンに認められ、彼の母校聖トーマス病院医学校英語版(現キングス・カレッジ・ロンドン)に留学。在学中に最優秀学生の表彰を受けるとともに、英国外科医・内科医・産科医の資格と英国医学校の外科学教授資格を取得し明治13年(1880年)帰国。


帰国後は東京海軍病院長、明治15年(1882年)には海軍医務局副長兼学舎長(軍医学校校長)と海軍医療の中枢を歩み、最終的に明治16年(1883年)海軍医務局長、明治18年(1885年)には海軍軍医総監少将相当官。海軍軍医の最高階級)の役職を歴任した。


明治21年(1888年)日本最初の博士号授与者(文学法学工学医学各4名)の列に加えられ、医学博士号を授与された。さらに日露戦争麦飯の有効性が注目されていた明治38年(1905年)には、華族に列せられて男爵位を授けられた。この時、人々は親愛と揶揄の両方の意味を込めて彼のことを「麦飯男爵」と呼んだと伝えられる(死去の直後に従二位勲一等旭日大綬章追贈された)。


明治25年(1892年予備役となったが、その後も「東京慈恵医院」「東京病院」[注 3]等で臨床に立ちつつ、貴族院議員、大日本医師会会長、東京市教育会会長などの要職に就いた。1914年(大正3年)3月1日に退役した[5]

大正9年(1920年)4月13日、自邸内で散歩中に脳溢血を起こして倒れ、死去した[6]


長男は医学者の高木喜寛、次男は医学者の高木兼二。その長女・直子は小坂善太郎[7]

栄典
位階
1886年(明治19年)7月8日 - 正五位[8]

1886年(明治19年)10月28日 - 従四位[9]

1892年(明治25年)2月13日 - 正四位[10]

1900年(明治33年)6月30日 - 従三位[11]

勲章等
1889年(明治22年)11月25日 - 大日本帝国憲法発布記念章[12]

1891年(明治24年)6月27日 - 勲二等瑞宝章[13]

1915年(大正4年)11月10日 - 大礼記念章[14]勲一等瑞宝章[15]

医学・看護教育
高木は日本の医学界が東京帝国大学医学部・陸軍軍医団を筆頭にドイツ医学一色で学理第一・研究優先になっているのを憂い、英国から帰国後の明治14年(1881年)、前年に廃止された慶應義塾医学所初代校長・松山棟庵らと共に、臨床第一の英国医学と患者本位の医療を広めるため医学団体成医会と医学校である成医会講習所を設立する。当時講習所は夜間医学塾の形式で、講師の多くは高木をはじめとする海軍軍医団が務めた。成医会講習所は明治18年(1885年)には第1回の卒業生(7名)を送り出し、明治22年(1889年)には正式に医学校としての認可を受け成医学校と改称した。


さらに明治15年(1882年)には天光院に、貧しい患者のための施療病院として有志共立東京病院を設立、院長には当時の上官である海軍医務局長・戸塚文海を迎え自らは副院長となった。そして徳川家の財産管理をしていた元海軍卿・勝海舟の資金融資などを受け、払い下げられた愛宕山下の東京府立病院を改修し有栖川宮威仁親王を総長に迎えて明治17年(1884年)移転、明治20年(1887年)には総裁に迎えた昭憲皇太后から「慈恵」の名を賜り、東京慈恵医院と改称して高木が院長に就任した。


一方、ナイチンゲール看護学校を擁する聖トーマス病院で学んだ経験から、医療における看護の重要性を認識し、その担い手となる看護婦の育成教育にも力を尽くした。陸軍卿・大山巌の夫人・捨松ら「婦人慈善会」(鹿鳴館のバザーで知られる)の後援もあって、明治18年(1885年)日本初の看護学校である有志共立東京病院看護婦教育所を設立し米国宣教師リードらによる看護教育を開始。明治21年(1888年)には昭憲皇太后臨席のもと第1回卒業生5名を送り出した。


この3つはそれぞれ後に東京慈恵会医科大学東京慈恵会医科大学附属病院慈恵看護専門学校となり現在に至っている。

兵食改革と脚気論争
日本軍で流行していた脚気について、大日本帝国海軍医務局副長就任以来、本格的にこの解決に取り組み、海軍では兵食改革(洋食+麦飯)の結果、脚気新患者数、発生率、および死亡数が明治16年(1883年)から同18年(1885年)にかけて激減した[16](詳細は「日本の脚気史#高木兼寛の兵食改革」を参照のこと)。


高木は、明治17年(1884年)の軍艦「筑波」による航海実験も行って、この兵食改革の必要性を説いた。この航海実験は日本の疫学研究のはしりであり、それゆえ高木は日本の疫学の父とも呼ばれる[17]。その後、いわゆる海軍カレーが脚気撲滅に一役買ったともいわれている[18]


明治18年(1885年)3月28日、高木は『大日本私立衛生会雑誌』に自説を発表した。しかし、高木の脚気原因説(タンパク質の不足説)と麦飯優秀説(麦が含むタンパク質は米より多いため、麦の方がよい)は、「原因不明の死病」の原因を確定するには、根拠が少なく医学論理が粗雑だった。


このため、東京大学医学部から次々に批判された。特に同年7月の大沢謙二(東京大学生理学教授)による反論の一部、消化吸収試験の結果により、食品分析表に依拠した高木の説は、机上の空論であることが実証された。その大沢からの反論に対し、高木は反論できず、大日本帝国海軍での兵食改革の結果をいくつか公表して沈黙した。


のちに高木は「当時斯学会に一人としてこの自説に賛する人は無かった、たまたま批評を加へる人があれば、それはことごとく反駁の声であった」と述懐している。当時の医学界の常識としては、「食物が不良なら身体が弱くなって万病にかかりやすいのに、なぜ食物の不良が脚気だけの原因になるのか?」との疑問をもたれ、高木が優秀とした麦飯の不消化性も、その疑問を強めさせた。このように高木の説は、海軍軍医部を除き、国内で賛同を得ることがほとんどできなかった[注 4]


一説には、海軍軍医部は、日露戦争の戦訓もふまえ、海軍の兵食(洋食+麦飯)で脚気を「根絶」したと過信してしまったのではないかとの見解もある[19]


しかし現実には、高木とその後任者たちのような薩摩閥ではなく、東京大学医学部卒の医学博士・本多忠夫が海軍省医務局長になった大正4年(1915年)12月以後、海軍の脚気発生率が急に上昇した。昭和3年(1928年)には1,153人、日中戦争が勃発した昭和12年(1937年)から同16年(1941年)まで1,000人を下回ることがなく、12月に太平洋戦争が勃発した昭和16年(1941年)は3,079人(うち入院605人)の患者が発生した[注 5]


一説には、その理由として、兵食そのものの問題(実は航海食がビタミン欠乏状態)[注 6]、艦船の行動範囲拡大、高木の脚気原因説(タンパク質の不足説)が医学界で否定されていたにもかかわらず、高木説の影響が残り、タンパク質を考慮した航海食になっていたこと、「海軍の脚気は根絶した」という信仰が崩れたこと[注 7]、脚気診断の進歩もあって見過ごされていた患者を把握できるようになったこと(それ以前、神経疾患に混入していた可能性がある)、などが原因とする見解もある[20]


麦飯を推奨していた高木が再評価されるのは日露戦争後であり、また脚気と食事の関係に着目した取り組みの延長線上に、ビタミンの発見があった。欧米においては高木の業績に対する評価はきわめて高く、フィラデルフィア医科大学コロンビア大学ダラム大学から名誉学位を授与されており[21]、ビタミン、栄養学に関する著名な書物の多くで、高木の業績が詳しく紹介されている[22]

貧民散布論
高木は都市衛生において「貧民散布論」を提唱している。「下等貧民ノ市内ニ、住居ニ堪ヘサルモノハ、皆去リテ田舎ニ赴クベシナリ」[23]という、東京から貧民を追放しようという今日からみれば非人道的なものであった。それに対して人道的立場から反対したのが、海軍の兵食改革を批判する陸軍軍医・森林太郎(森鴎外)であった。


その他の功績
宮崎神宮の社殿の大造営を行った中心的な人物でもある[4]。明治31年(1898年)に神武天皇御降誕大祭会を設立しその幹事長に就任、神武天皇が祭神である宮崎宮を、豪華な社殿に大改装するために全国から寄付を集めた。これは毎年恒例である宮崎神宮大祭(神武さま)をスタートさせるきっかけにもなった。


南極大陸南緯65度33分・西経64度14分に高木岬があるが、これは彼の名に因んで付けられた地名である。


・海外での脚気業績に対する高木の評価は高い。「独創を尊び成果を重んする西洋医学からみると、高木の『食物改良による脚気の撲滅』は、発想の独自性と先見性、成果の素晴らしさから、まさしく画期的な業績であった。ビタミンが広く知られた後には、さらにその先見性が高く評価され、ビタミンの先覚者と位置づけられている。」(山下 (2008) pp.454-455)


・明治22年(1889年)に大隈重信来島恒喜が投じた爆弾により負傷した直後に現場を通りかかり、大隈の最初の処置を行った。その後に駆け付けたエルヴィン・フォン・ベルツ佐藤進伊東方成岩佐純池田謙斎らとの協議により右足の切断を決定した[24]

詳しいことは、「高木兼寛ウィキペディア」をご覧ください。 ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E6%9C%A8%E5%85%BC%E5%AF%9B
(wikiより)

1578 高木兼寛

高木兼寛

1578a

1578b



添田 壽一(そえだ じゅいち、元治元年8月15日1864年9月15日) - 昭和4年(1929年7月4日)は、明治大正期の財政家(大蔵官僚)・銀行家実業家経済学者・官庁エコノミスト。法学博士(1899年)。筑前福岡県)の出身。日本法律学校(現日本大学)の設立に加わった。


近代日本における財政確立の功労者の一人であるとともに、経済学の教育・普及に尽力した「官庁エコノミスト」の先駆け的人物として知られている。

経歴
東大卒業まで
1864年、筑前国遠賀郡広渡村(現・福岡県遠賀郡遠賀町)の職人・添田新三郎の三男として生まれる。出生当時は添田家は相当の資産家であったが、父新三郎が私欲が無く慈善を好んだため資産を使い果たし、家族と共に7歳から諸国を流浪することとなる。幼少より書道の才能があり、わずか8歳にして号を「筑紫山濤」と称し書によって家計を助けており、書の神童と言われたほどであったが、時の大阪府知事渡辺昇に書いた書を見せたところ、渡辺はそのあまりの才能を惜しみ添田の硯と落款を庭の敷石に叩き付け、書などではなく学業に専心し大成せよと諭した。これにより、添田は書の道ではなく学業によって立身することを志すことになった。上京した添田は小舟町の鰹節問屋の小僧として働きながら外国語学校の夜間部に通い、旧福岡藩主黒田家の給費生となって東京大学予備門を経て、東京大学に入学した。東大ではフェノロサ田尻稲次郎のもとで「理財学」(経済学)を学び、1884年(明治17年)政治学理財学科を卒業した。

大蔵官僚として
東大卒業後は、先に入省していた旧師・田尻の勧めにより、同期卒業の阪谷芳郎とともに大蔵省に入省したが、同年非職となりヨーロッパに自費留学した。これは黒田家の私学である藤雲館(現・福岡県立修猷館高等学校)において教鞭を執っていた関係から、黒田家13代目当主黒田長成の洋行に同行したものである。イギリスではケンブリッジ大学に入学し政治経済学を学び、マーシャルの講義を受講している。1887年ドイツハイデルベルク大学で学んだ後、約3年にわたる留学から帰国して大蔵省に復帰、主税官に命じられた。大蔵省では旧師であり上司でもある田尻の知遇も得て、入省後しばらくは主税畑を歩き1890年以降は銀行行政に携わり国立銀行処分に関与した。1893年には貨幣制度調査会特別委員となり、日清戦争後の賠償金により金本位制への移行がなされた際には、金本位制実施を主張する復命書の起草にあたり、これを基にした貨幣法の国会審議のなかで政府委員として田口卯吉など反対派への説得に努め同法の制定に貢献した。1898年隈板内閣が成立すると、田尻の後任として大蔵次官に就任するが、同年末の倒閣により次官辞任とともに大蔵官僚としての生活も終えることになった。

学究・エコノミストとして
添田は現役の大蔵官僚としての生活の傍ら、東京帝国大学、東京専門学校(現・早稲田大学)、専修学校(現・専修大学)、学習院などで経済学を講じており(恩師・上司であった田尻稲次郎が設立した専修学校では、同僚・同期の阪谷芳郎とともに出講し商業史などを担当)、1889年には、山田顕義宮崎道三郎金子堅太郎らと共に日本法律学校(現・日本大学)の創立に参加している。同時にまた雑誌で経済問題を論じるなど、経済学の啓蒙普及活動に務め、当時においては単なる官僚でなくエコノミストとして一般に知られる存在であった。1890年、英で雑誌『エコノミック・ジャーナル』が創刊されると日本通信員を委嘱され、日本の経済学の現状に関するレポートなどを寄稿している。

社会政策への関心

添田はまた、日清戦争後、社会問題の顕在化を背景に結成された社会政策学会に参加している。彼は「健全なる国民の発育」の観点から工場法の制定の必要を認めており、1896年の農商工高等会議ではこれに反対する渋沢栄一(のち賛成に転じた)らを前に自説を強く主張した。退官後に開催された1907年の社会政策学会第1回大会では資本と労働の調和の重要性を説いている。


社会政策学会における添田は、「主従の情誼」や家族主義・温情主義に基づく政策を唱道する最右派とされ、先述の第1回大会でもより急進的な部分を代表する高野岩三郎福田徳三からの批判を受けている。しかし早くから社会政策の必要に着目した先見性は師の田尻や同僚の阪谷には見られないものであり、幅広い視野をもつ開明派官僚であったといえる。

退官後から死まで

退省後の添田は、銀行家・実業家・政治家・学究として多彩な活動を続けた。法学博士の学位(当時は経済学博士の学位が存在しなかったため)を受けた1899年、同郷の友人である杉山茂丸の推薦により、日本統治下にあった台湾の中央銀行である台湾銀行の設立に参画し、自ら初代頭取に就任した。その後、1902年日本興業銀行設立、1912年日仏銀行設立にもそれぞれ参画し、前者については初代総裁を務めた。


大正期に入って、いわゆる排日法と言われるカリフォルニア州外国人土地法のロビー活動にあたったが、力及ばず1913年に同法は可決した。1914年には第2次大隈内閣鉄道院総裁となり、前任の仙石貢を引き継ぎ鉄道広軌化を目指したが、実現には至らなかった。1925年には勅選貴族院議員となり、その死まで在任していた。また友愛会設立(1912年)への関与と同会顧問就任、労資協調の調査機関である協調会1919年発足)への参加、志を同じくする実業家・武藤山治1923年に結成した実業同志会への参加は、先述した社会問題への関心の延長線上にあるものだった。


1929年昭和4年)胃癌から癌性腹膜炎を併発して死去(享年66)[1]。通信員として関わった『エコノミック・ジャーナル』には、添田に対する追悼文が掲載された(同誌に追悼文が掲載された日本人は彼だけであり、ケインズが追悼文を書いた唯一の日本人でもある)。墓は青山霊園にある。

年譜
・1864年:出生。

・1884年:東京大学政治学理財学科卒業。大蔵省に入省し、主税局御用掛。

・1884年:非職。英ケンブリッジ大学などに留学。

・1887年:留学から帰国。主税官となり主税局調査課。

・1890年:同局監査課。ついで大蔵省参事官。

・1891年:大蔵大臣秘書官。

・1893年:監査局長心得。ついで大蔵書記官兼参事官・官房第三課長となる。

・1897年:大蔵省監督局長。

・1898年:大蔵次官。同年末に辞職し大蔵省も退職。

・1899年:法学博士号授与。台湾銀行初代頭取( - 1901年)。

・1902年:日本興業銀行初代総裁( - 1913年)。

・1913年:中外商業新報(現・日本経済新聞)社長

・1915年:鉄道院総裁( - 1916年)。

・1916年:報知新聞社長。

・1925年:貴族院議員(12月1日[2])、ついで台湾銀行監査役となり、ともに死去まで在任。

・1929年:死去。

親族
坂口康蔵 - 三女の夫。医師。東京帝国大学教授。貴族院勅選議員。

五十嵐敬止 - 長女・いちの養父。貴族院多額納税者議員衆議院議員

栄典
位階
1890年(明治23年)10月8日 - 従六位[3]

1898年(明治31年)12月10日 - 従四位[4]

勲章等
1911年(明治44年)8月24日 - 金杯一組[5]

1915年(大正4年)11月10日 - 大礼記念章[6]

1916年(大正5年)1月19日 - 勲一等瑞宝章[7]

1921年(大正10年)7月1日 - 第一回国勢調査記念章[8]

主要な著作
・『豫算論綱』(完) 博文館、1891年

・『歳計論』(政治學經濟學法律學講習全書:第22編) 博文館、1891年

・『財政通論』(上下編) 金港堂書籍、1892年

・『法制経濟大意』(法制篇・経濟篇) 金港堂書籍、1899年

・『破壞思想と救治策』 博文館、1911年

・『富國策論』(述 / 菊池暁汀:編) 丸山舎、1911年

・『實用一家經濟法』(述 / 菊池曉汀:編) 大學館、1913年

・『最新通俗經濟講話』(菊池曉汀:編) 大學館、1914年

・『國家個人富強策』(菊池曉汀:編) 大學館、1914年

・『戰後國民經濟策』 大鎧閣、1919年

・『財政經濟講話』 日本書院、1924年

脚注
1. 服部敏良『事典有名人の死亡診断 近代編』(吉川弘文館、2010年)159頁
2. 『官報』第3982号、大正14年12月2日。
3. 『官報』第2187号「叙任及辞令」1890年10月11日。
4. 『官報』第4636号「叙任及辞令」1898年12月12日。
5. 『官報』第8454号「叙任及辞令」1911年8月25日。
6. 『官報』第1310号・付録「辞令」1916年12月13日。
7. 『官報』第1038号「叙任及辞令」1916年1月20日。
8. 『官報』第2858号・付録「辞令」1922年2月14日。

関連文献
・大輪董郎『財界の巨人』昭文堂、1911年

・杉原四郎『日本のエコノミスト』日本評論社1984年

・西村紀三郎「添田寿一」『国史大辞典吉川弘文館

秦郁彦『日本近現代人物履歴大事典』東京大学出版会2000年

関連項目
田尻稲次郎 - 阪谷芳郎

金本位制 - 台湾銀行 - 日本興業銀行

社会政策学会 (日本 1897年) - 工場法

日本の改軌論争

相翁松の碑

信玄公旗掛松事件


外部リンク
米国加州日本移民排斥問題 添田寿一・神谷忠雄報告書日米同志会、1913年
(wikiより)

1577 添田壽一

添田壽一

1577a

1577b



有松 英義(ありまつ ひでよし、1863年7月25日文久3年6月10日)- 1927年昭和2年)10月24日)は、日本の官僚寺内内閣法制局長官を務めた。通称は梅次郎。は子華。

来歴・人物
備前国御野郡岡山藩士有松正義の子として生まれる。1881年(明治14年)、岡山師範学校を卒業後、窪屋郡帯江小学校の教員をしながら漢学者西毅一の門下となる。陸奥宗光の著書を読んで上京して洋学を学ぶことを志した。相談を受けた同門の先輩である小松原英太郎は師である西が自由民権運動に没頭するのを憂慮して、1884年(明治17年)有松を獨逸学協会学校専修科に入学させた(小松原は同校の母体である獨逸学協会の会員であった)。そこで有松は同校の教師であるゲオルク・ミヒャエリスの影響を強く受けた。卒業後の1888年(明治21年)に行われた第1回高等文官試験において私立学校卒業者の合格第1号の1人となる。


だが、行政職ではなく、判事補に補されたことを不服としてその1ヶ月足らずで辞任して(ただし、辞表は司法大臣預かりのまま休職扱いとなる)、井上馨が構想していた自治党機関誌に予定されていた『自治新報』の記者となる。ところが自治党は成立せず、同誌も2年後に廃刊となると、司法大臣命令によって判事として復帰することとなり、そこでの実績が抜群であるとして司法省参事官に転じた。大日本帝国憲法第67条を巡る議論では政府の立場から論争に参加し、そこでの活躍が評価されて農商務省参事官、更に内務省書記官兼法制局参事官に転じる。治安警察法行政執行法著作権法出版法の立案・草案作成にあたり、第1次第2次桂内閣警保局長を務め、途中1904年(明治37年)には三重県知事を務めた。この間1910年(明治43年)には大逆事件の捜査指揮にあたり、幸徳秋水らを逮捕して、後に死刑に追い込んだ。この功績によって1911年8月24日、貴族院議員に勅選[1]されて研究会に属した。


1912年(大正元年)に帝室林野管理局長官、1914年(大正3年)に枢密院書記官長1916年(大正5年)に寺内内閣の法制局長官を務め、1918年(大正7年)には拓殖局長官1920年(大正9年)には枢密顧問官を歴任、晩年は経営破綻寸前であった獨逸学協会学校の後援会理事長として母校再建に尽力した。

栄典
位階
1891年(明治24年)12月23日 - 正八位[2][3]

1892年(明治25年)12月12日 - 従七位[2]

1895年(明治28年)6月21日 - 正七位[2]

1897年(明治30年)7月10日 - 従六位[2]

1899年(明治32年)6月20日 - 正六位[2]

1901年(明治34年)10月30日 - 従五位[2]

1903年(明治36年)9月22日 - 正五位[2]

1908年(明治41年)11月10日 - 従四位[2][4]

1915年(大正4年)3月1日 - 正四位[2][5]

1918年(大正7年)

  ・9月20日 - 従三位[2]

  ・10月10日 - 正三位[2][6]

1927年(昭和2年)3月1日 - 従二位[2]

勲章等
1902年(明治35年)6月30日 - 勲六等瑞宝章[2]

1903年(明治36年)

  ・5月15日 - 単光旭日章[2]

  ・5月21日 - 銀杯一個[7]

1904年(明治37年)6月28日 - 勲五等瑞宝章[2]

1905年(明治38年)12月22日 - 勲四等瑞宝章[2]

1906年(明治39年)4月1日 - 勲三等旭日中綬章[8]明治三十七八年従軍記章[2][9]

1914年(大正3年)6月29日 - 勲二等瑞宝章[2]

1915年(大正4年)11月10日 - 大礼記念章[2][10]

1916年(大正5年)4月1日 - 旭日重光章[2][11]

・・1917年(大正6年)11月29日 - 金杯一個[2]

1919年(大正8年)5月24日 - 金杯一組[2]

1920年(大正9年)11月1日 - 勲一等瑞宝章[12]

1921年(大正10年)

  ・3月23日 - 金杯一組[2]

  ・7月1日 - 第一回国勢調査記念章[13]

1927年(昭和2年)10月24日 - 旭日大綬章[2]帝都復興記念章[2][14]

脚注
1. 『官報』第8454号、明治44年8月25日。
2. a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y 有松英義」 アジア歴史資料センター Ref.A06051176700 
3. 『官報』第2547号「叙任及辞令」1891年12月24日。
4. 『官報』第7614号「叙任及辞令」1908年11月11日。
5. 『官報』第772号「叙任及辞令」1915年3月2日。
6. 『官報』第1858号「叙任及辞令」1918年10月11日。
7. 『官報』第5964号「叙任及辞令」1903年5月22日。
8. 『官報』号外「叙任及辞令」1907年3月31日。
9. 『官報』第7777号・付録「辞令」1909年5月31日。
10. 『官報』第1310号・付録「辞令」1916年12月13日。
11. 『官報』第1218号「叙任及辞令」1916年8月21日。
12. 『官報』第2640号「叙任及辞令」1921年5月21日。
13. 『官報』第2858号・付録「辞令」1922年2月14日。
14. 『官報』第1499号・付録「辞令二」1931年12月28日。

外部リンク
国立国会図書館 憲政資料室 有松英義関係文書(寄託)

(wikiより)

1576 有松英義

有松英義

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1576b



大野 洒竹(おおの しゃちく、明治5年11月19日1872年12月19日) - 大正2年(1913年10月12日)は、俳人医師

概要
熊本県出身、本名は豊太。東京帝国大学医学部で土肥慶蔵に師事、卒業後に大野病院を開業。


明治27年(1894年)、佐々醒雪笹川臨風らと筑波会を結成。明治28年(1895年)には、尾崎紅葉巖谷小波森無黄角田竹冷らとともに正岡子規と並ぶ新派の秋声会の創設に関わった。明治30年(1897年)、森鷗外に先駆けて『ファウスト』の部分訳を公表している。


俳諧を研究し、古俳書の収集にも熱心であり、「天下の俳書の七分は我が手に帰せり」と誇ったという。約4000冊の蔵書は東京大学総合図書館の所蔵となっている。洒竹のコレクションは同図書館の竹冷の蔵書とあわせ「洒竹・竹冷文庫」として、「柿衞文庫」、天理大学附属天理図書館「綿屋文庫」とともに三大俳諧コレクションと評価されている。


妻は岸田吟香の娘(劉生の姉)。叔母に横井玉子、従兄に戸川秋骨がいる。長姉は寺尾寿夫人、次姉は中島力造夫人。


なお、号は竹(瀟洒の洒)であるが竹と誤記されやすく、戦前の俳諧関連書籍からそうであった。

著書
『俳家系譜』大野洒竹撰、経済雑誌社、1896年1月。NDLJP:992481

・『鬼貫全集』大野洒竹編、春陽堂、1898年5月。NDLJP:874888

・『与謝蕪村』大野洒竹編、春陽堂、1897年9月。NDLJP:875927

・『芭蕉以前俳諧集』上巻、大野洒竹編纂校訂、博文館〈俳諧文庫 第2編〉、1897年10月。

・『芭蕉以前俳諧集』下巻、大野洒竹編纂校訂、博文館〈俳諧文庫 第3編〉、1897年12月。

・『許六全集』大野洒竹校訂、博文館〈俳諧文庫 第5編〉、1898年4月。

・『鬼貫全集』大野洒竹編、春陽堂、1898年5月。

・『元禄名家句集』大野洒竹校訂、博文館〈俳諧文庫 第10編〉、1898年10月。

・『蕪村暁台全集』大野洒竹校訂、博文館〈俳諧文庫 第12編〉、1898年12月。

・『素堂鬼貫全集』大野洒竹校訂、博文館〈俳諧文庫 第14編〉、1899年4月。

・『俳諧珍本集』大野洒竹編纂校訂、博文館〈俳諧文庫 第18編〉、1900年5月。

・『芭蕉句選年考』上巻、大野洒竹・沼波瓊音校訂、文成社、1911年9月。NDLJP:991654

・『芭蕉句選年考』下巻、大野洒竹・沼波瓊音校訂、文成社、1911年12月。NDLJP:991655

参考文献
『大辞泉』小学館、2012年。

・『日本人名大辞典』平凡社、1979年。

・反町重雄 編『紙魚の昔がたり 明治大正史』八木書店、1990年。

外部リンク
洒竹文庫 | 東京大学附属図書館
(wikiより)

1575a



樺山 資雄(かばやま すけお、1839年5月27日天保10年4月15日) - 1899年明治32年)11月16日)は、幕末薩摩藩士明治期の官僚。官選県知事。旧姓・春山。

経歴
薩摩藩士・春山休兵衛の四男として鹿児島城下で生まれる。幼名は八十次。嘉永3年(1850年)元服し春山直在(なおあきら)と名乗る。文久2年(1862年)、樺山弥左衛門資始の娘・直子と結婚して、直子の祖父・樺山十郎太資容の養子となり、樺山平左衛門資雄と改名した。ちなみに妻・直子の母である阿幾は大久保利通の母・福の実妹。


明治5年1月15日1872年2月23日)、新政府に出仕し都城県大属に就任。同年8月27日(9月29日)、陸軍省に転じ十等出仕となり、さらに陸軍会計軍吏補に就任。


1876年
1月、地租改正事務局九等出仕となる。1878年7月、茨城県一等属に任じられ、租税課長兼土木課長を務めた。1881年5月、内務一等属となり、以後、内務省御用掛、秋田県少書記官、栃木県少書記官、同県大書記官などを歴任。


1885年
1月、栃木県令に就任。以後、栃木県知事、佐賀県知事を歴任。1892年2月の第2回衆議院議員総選挙において選挙干渉を行い死傷者を出し、同年8月に非職となる。1895年3月、岐阜県知事として復帰し、さらに宮城県知事を務める。1898年6月、宮崎県知事に任じられたが、1899年8月、病のため休職。栃木県上都賀郡鶴田の別荘で療養したが、同年11月16日に死去した。

栄典・受章・受賞
位階
1890年(明治23年)11月1日 - 従四位[1]

1898年(明治31年)4月30日 - 正四位[2]

1899年(明治32年)10月26日 - 従三位[3]

勲章等
1888年(明治21年)5月29日 - 勲六等単光旭日章[4]

1889年(明治22年)11月29日 - 大日本帝国憲法発布記念章[5]

1890年(明治23年)12月26日 - 勲五等瑞宝章[6]

1892年(明治25年)6月29日 - 勲四等瑞宝章[7]

1898年(明治31年)12月28日 - 勲三等瑞宝章[8]

1899年(明治32年)10月26日 - 旭日中綬章[9]

親族
・二男 樺山資英貴族院議員


脚注
1. 『官報』第2207号「叙任及辞令」1890年11月6日。
2. 『官報』第4448号「叙任及辞令」1898年5月2日。
3. 『官報』第4898号「叙任及辞令」1899年10月27日。
4. 『官報』第1476号「叙任及辞令」1888年6月2日。
5. 『官報』第1932号「叙任及辞令」1889年12月5日。
6. 『官報』第2254号「叙任及辞令」1891年1月7日。
7. 『官報』第2703号「叙任及辞令」1892年7月2日。
8. 『官報』第4651号「叙任及辞令」1899年1月4日。
9. 『官報』第4900号「叙任及辞令」1899年10月30日。

参考文献
・『樺山資英傳』樺山資英伝刊行会、1942年。

・歴代知事編纂会編『新編日本の歴代知事』歴代知事編纂会、1991年。

・内閣「休職宮崎県知事正四位勲三等樺山資雄特旨叙位ノ件」明治32年。アジア歴史資料センター レファレンスコード:A10110627000
(wikiより)

1574 樺山資雄

樺山資雄

1574a

1574b



長岡 外史(ながおか がいし、安政5年5月13日1858年6月23日) - 昭和8年(1933年4月21日)は明治大正期の陸軍軍人政治家


陸士旧2期
陸大1期。栄典は正三位勲一等功二級。最終階級は陸軍中将

経歴

周防国都濃郡末武村(現・山口県下松市)出身。父は大庄屋・堀三右衛門で、徳山藩士・長岡南陽の養子。明倫館を経て、明治11年(1878年)、陸軍士官学校(旧2期)卒。明治18年(1885年)に陸軍大学校を一期生として卒業。


日清戦争
では大島混成旅団の参謀、明治30年(1897年)には軍務局第2軍事課長を勤め、ドイツ派遣を経験する。明治35年(1902年)には陸軍少将となり、歩兵第9旅団長を務める。明治37年(1904年)からの日露戦争では大本営陸軍部参謀次長として行動した。明治38年(1905年)、5月末の日本海海戦における圧倒的な勝利ののち、ロシア帝国との講和条件を少しでも日本側に有利なものとするため、講和会議に先立って樺太を占領すべきであると考え、長岡は樺太占領作戦を軍首脳に上申したが、海軍は不賛成であり、陸軍参謀総長の山縣有朋もこれに同意しなかった。そのため長岡は、満州軍児玉源太郎手紙を書いて伺いを立て、その返信を論拠に説得作業を展開、これにより7月以降の樺太作戦が決まった[1][注釈 1]。結果的に、この作戦は9月5日成立のポーツマス条約における講和条件のひとつである南樺太割譲に大きな影響をあたえた。

明治41年(1908年)には軍務局長となり、明治42年(1909年)には陸軍中将に昇進。同年7月30日付で臨時軍用気球研究会の初代会長を兼務した。明治43年(1910年)6月1日付で第13師団長に栄転[2]。在任中の1909年、東京振武学校第11期卒業の清国留学生62名が師団隷下の歩兵・騎兵・砲兵各連隊に隊附士官候補生として勤務する事となる。この留学生の中には後の中華民国総統となる蔣介石がおり、長岡邸に「不負師教(師の教えに背かず)」との書を書き残している[3]。1911年10月、清国で辛亥革命が起こる。張群陳星枢とともに休暇帰国を陳情するが長岡に拒絶された蔣介石は、連隊長に48時間の休暇を申し出るとそのまま日本を飛び出し、革命に参加した[4]。11月になると他の留学生らも各連隊長に帰国を集団陳情するなど動揺が広がり、11月4日には2名が脱走騒ぎを起こした[5]。事態を案じた長岡は、偕行社に留学生を集めると軽挙妄動をすべきでないと慰撫に努めたがなおも動揺は収まらず、月末に陸軍大臣の指示を得て全員を脱隊させた[5]


大正2年(1913年)から16師団長を務め[2]大正5年(1916年)には予備役となる。大正13年(1924年)5月、第15回衆議院議員総選挙に山口県第7区から出馬して当選し議員となる。


昭和
8年(1933年)1月11日、膀胱腫瘍のため慶應義塾大学病院に入院、治療を受けていたが、4月11日午前8時半頃、容態が急変。手当の甲斐なく、22日9時50分頃死去した[6]。享年76。


墓所は青山墓地。山口県下松市笠戸島の国民宿舎大城に長岡を顕彰する外史公園があり、長岡の銅像が建てられている。下松市内には「長岡外史顕彰会」があり、顕彰活動に取り組んでいる。関係文書マイクロフィルムは国立国会図書館に所蔵。

飛行機とのかかわり
日清戦争中の明治27年(1894年)8月19日、大島混成旅団の参謀隷下の衛生兵飛行機の開発に軍の協力を求め、略図を添えて大島義昌旅団長宛に『軍用飛行器(飛行機)考案之儀二付上申』を提出してきた[2]。参謀であった長岡は人が乗って自在に空中を移動する機械という当時としては奇想天外な研究の意義を理解することができず、「今は戦時である」「外国で成功していないことが日本で出来るはずがない」「成功したとしても戦争には使えない(上申では偵察に使えるとされていた)」と一蹴した。この衛生兵こそが、後に日本の飛行機開発の先駆者として知られることになる二宮忠八であった。


二宮は日露戦争臨時気球隊旅順攻囲戦で実戦投入された)終結後にも再び上申を行うが、大島中将からは「本当に空を飛んだら聞いてもよい」という返答であった。二宮は軍が飛行機開発に乗り気ではないと感じ、自力で研究資金を調達するため退役し大日本製薬株式会社へ入社した。業績を挙げて1906年(明治39年)に支社長にまで昇進するも資金をまかなえず、スポンサーも現れなかったため開発は停滞し、漸く自作のめどが付いたところで1903年12月17日にライト兄弟による有人動力飛行がすでに行なわれていた事が判明(兄弟らは情報秘匿のため積極的な公表を控えたため、暫くの間世界的にこの偉業が伝わっていなかった)。二宮は飛行機の開発をやめてしまう[2]


日清戦争中の上申時点では二宮の飛行機の着想はライト兄弟に先行しており、結果として長岡ら軍上層部の冷淡な態度が日本人による飛行機の発明の機会を失った一因とされている。その後白川義則中将と二宮の対談が新聞や雑誌に取り上げられてこの事実が世間に知られることになると、長岡は自らの先見のなさを嘆いて長文の詫び状を送り[2]、二宮に面会して謝罪したという。


軍務局長であった明治42年(1909年)8月には、初代の臨時軍用気球研究会の会長を兼務し、日本軍の航空分野の草創期に貢献した。当初、同会長には陸軍次官である石本新六を据えることが検討されていたが、石本は飛行機など飛ぶわけがないとこれを拒否し、対して長岡が実際に飛行機を見たことはないが将来の戦争に役立つような気がすると答えたことによる抜擢であった。しかし、長岡は初飛行に立ち会うことことのないまま翌年に第13師団長へ転出し、後任会長には石本が就任した[2][7]


16師団長在任中の大正2年(1913年)、師団が駐屯する深草練兵場で発生した武石浩玻の墜落事故(日本初の民間飛行家死亡事故)に接し、その処理に当たる[2]


大正3年(1914年)に開戦した第一次世界大戦では、二宮が予想していた通り、観測気球に代わり固定翼の偵察機が実戦投入された。


予備役となった長岡は、二宮の研究と功績を後世に伝えるとともに飛行機の普及を計るため、大正4年(1915年)1月に日本飛行研究会を母体とする国民飛行協会を創設し、人材の顕彰・育成、啓蒙活動を精力的に行った。来日する外国人飛行家を積極的に歓迎し、アート・スミスが来日すると飛行機の歌を作詞して披露した[2]

大正7年(1918年)6月に国民飛行協会が帝国飛行協会に併合されるとその副会長となる[2][8]


大正8年(1919年)10月に東京・大阪間第一回懸賞郵便飛行大会の審査委員長を努め、12月には欧米へ視察旅行にでかけ、航空関係者やフランスのエースパイロットのルネ・フォンク英語版大尉と面会したほか、アブロ三葉機旅客機やデ・ハビランドのD・H・4戦闘機に搭乗し、曲芸飛行も体験した[2]


大正10年(1921年)に航空映画『悪夢』を上映させている[2]


大正12年(1923年)の関東大震災に際しては、自宅を東京・大阪郵便飛行仮事務所として開放し、国際飛行場として羽田飛行場の必要性を説いている[2][8]


政界に進出した長岡は「飛行事業拡張に関する建議案[9]」「飛行機製造奨励法」「航空省の設置」等の議案を提出している[2]


人物像・評価
長岡は、先入観や慣例にとらわれず新しいものを受け入れる柔軟な思考能力を有していた。

新潟県高田(現在の新潟県上越市)の第13師団長時代、訪欧した際にスキーの存在を知っていた長岡は軍隊への普及を促進し、師団内でオーストリア=ハンガリー帝国から派遣されてきたテオドール・エードラー・フォン・レルヒ少佐による指導が行われた(これが日本スキー発祥と言われている)[10]


旅順港攻略に際しても、海岸砲の導入を具申され、積極的に後押しをしたなどの功績がある[11]。しかしながら発想が奇抜で、思いつきに過ぎない現実性のない構想を実行しようとして周囲を混乱させたこともあった。この一方、飛行機の開発について自身の先見性のなさに後で気が付くと、一兵卒出身であった二宮に対しわざわざ出向いて謝罪するなど、内省的で自分に厳しく他人への配慮を忘れなかった。常に周囲の意見に耳を傾け、自身の誤りに気づくと反省し、自ら即時に改めたので大過なく職責を全う出来た[12]。これによって多くの人に慕われ敬愛された。


一方、「プロペラ」と呼ばれる長大な口髭を蓄えており、本気で自慢するなど、不可解な面もあった。 この自慢の髭は最長で70cm弱にも達したという。


内田百閒は、教鞭を執った法政大学の航空研究会顧問としての活動を通じて、日本航空界に関わりの強かった晩年の長岡と接する機会があった。百閒の観察によれば、長岡は写真撮影される際には、平常は垂れ下がっている長い髭を丁寧にひねってしごき上げ、顔の両横に水平に張り出すほどの堂々たる「プロペラ髭」に仕上げてから、カメラマンに向かって「よし」と命じ、撮影させていたという。


年譜
明治8年(1875年

  ・2月 - 陸軍兵学寮入学・臨時士官生徒

  ・12月 - 陸軍士官学校入学

・明治11年(1878年)12月 - 陸軍士官学校卒(旧2期)

・明治12年(1879年)2月1日 - 歩兵少尉歩兵第13連隊

・明治13年(1880年)6月 - 東京陸軍教導団小隊

・明治14年(1881年)1月 - 月曜会第1回会合出席

・明治16年(1883年)4月 - 陸軍大学校入学

・明治17年(1884年)5月31日 - 歩兵中尉

・明治18年(1885年)12月 -陸軍大学校卒(1期)、参謀本部出仕

・明治19年(1886年)5月 - 参謀本部第2局員

・明治20年(1887年

  ・4月27日 - 歩兵大尉

  ・5月 - 朝鮮ウラジオストクハバロフスク視察( - 11月)

・明治21年(1888年)5月 - 参謀本部第2局員

・明治22年(1889年)2月 - 歩兵第4連隊中隊

・明治24年(1891年)12月16日 - 一等給[13]

・明治25年(1892年)1月 - 第1師団参謀

・明治26年(1893年)4月27日 - 歩兵少佐近衛歩兵第4連隊

・明治27年(1894年

  ・6月 - 混成第9旅団参謀

  ・11月 - 第1軍兵站部参謀長

・明治28年(1895年)5月10日 - 歩兵中佐

・明治29年(1896年

  ・1月 - 近衛歩兵第4連隊附

  ・3月 - 参謀本部第1局員

  ・3月24日 - 正六位[14]

  ・5月 - 参謀本部第4局員

・明治30年(1897年

  ・1月 - 朝鮮出張(- 4月)

  ・4月13日 - 海軍大学校教官(- 9月18日)[15][16]

  ・7月 - 陸軍省軍務局第2軍事課長

  ・9月 - 軍務局歩兵課長(第2軍事課の名称変更)

  ・10月11日 - 歩兵大佐

・明治31年(1898年)3月 - 軍務局軍事課長

・明治32年(1899年)8月 - 軍務局出仕(欧州出張)( - 明治35年(1902年)10月)

・明治35年(1902年)6月11日 - 陸軍少将・歩兵第9旅団長

・明治37年(1904年

  ・3月 - 参謀本部付仰附( - 明治39年(1906年)7月)

  ・4月 - 大本営陸軍幕僚附( - 6月)

  ・6月 - 大本営陸軍部参謀次長仰附( - 明治38年(1905年)12月)

・明治38年(1905年)12月 - 満州出張( - 明治39年(1906年)2月)

・明治39年(1906年)7月 - 歩兵第2旅団長

・明治41年(1908年)12月28日 - 軍務局長

・明治42年(1909年

  ・8月1日 - 陸軍中将

  ・8月29日 - 臨時軍用気球研究会長[17]

・明治43年(1910年)6月 - 第13師団長

大正2年(1913年)1月 - 第16師団長

・大正3年(1914年)8月8日 - 待命

・大正4年(1915年)8月8日 - 休職[18]

・大正5年(1916年

  ・8月8日 - 予備役[19]

  ・9月30日 - 正三位[20]

・大正7年(1918年)6月 - 帝国飛行協会副会長( - 昭和2年(1927年)9月)

・大正8年(1919年)12月 - 欧州出張( - 大正9年(1920年)5月)

・大正10年(1921年)4月1日 - 後備役

・大正13年(1924年)5月 - 衆議院議員( - 昭和3年(1928年)1月)

昭和4年(1929年

  ・6月 - 飛行館長( - 昭和5年(1930年)4月)

  ・11月 - 国民飛行会会長

栄典
位階
1884年(明治17年)7月8日 - 従七位[21]

1896年(明治29年)3月24日 - 正六位[22]

1897年(明治30年)10月30日 - 従五位[23]

1902年(明治35年)10月20日 - 正五位[24]

1907年(明治40年)11月11日 - 従四位[25]

1910年(明治43年)7月11日 - 正四位[26]

1913年(大正2年)8月20日 - 従三位[27]

1916年(大正5年)9月30日 - 正三位[28]

勲章等
1895年(明治28年)

  ・10月18日 - 単光旭日章功四級金鵄勲章[29]

  ・11月18日 - 明治二十七八年従軍記章[30]

1896年(明治29年)11月25日 - 勲五等瑞宝章[31]

1902年(明治35年)11月29日 - 勲四等瑞宝章[32]

1905年(明治38年)5月30日 - 勲三等瑞宝章[33]

・1906年(明治39年)4月1日 - JPN Kyokujitsu-sho 2Class BAR.svg 勲二等旭日重光章JPN Kinshi-kunsho 2Class BAR.svg 功二級金鵄勲章明治三十七八年従軍記章[34]

1914年(大正3年)5月16日 - JPN Zuiho-sho (WW2) 1Class BAR.svg 勲一等瑞宝章[35]

1915年(大正4年)11月10日 - 大礼記念章(大正)[36]

1930年(昭和5年)12月5日 - 帝都復興記念章[37]

1933年(昭和8年)4月21日 - 旭日大綬章[38]

外国勲章佩用允許
・1906年(明治39年)8月21日 - PRU Roter Adlerorden BAR.svg 2等赤鷲勲章en[39]

・1910年(明治43年)3月17日 - POL Krzyz Wielki Orderu Sw Stanislawa BAR.png 1等聖スタニスラウス勲章en[40]

・勲一等八卦章朝鮮語版

PER Order of the Sun of Peru - Knight BAR.png 第一等第三品御賜双龍宝星zh

Legion Honneur GO ribbon.svg レジオンドヌール勲章グラントフィシエ

Order of the Osmanie lenta.png 2等オスマニエ勲章en

・ドイツ赤十字社勲章(de

その他
・新潟県体育協会体育功労賞[41]

家族・親族
長女磯子三越常務や王子製紙重役等を歴任した朝吹常吉に嫁いだ。フランス文学者朝吹三吉とフランス文学者で翻訳家朝吹登水子は孫、フランス文学者で詩人朝吹亮二は曾孫、小説家で第144回芥川龍之介賞を受賞した朝吹真理子は玄孫。


次女京子: 園田武彦に嫁ぐが後に離婚。


長男護一: 孫に護一の長男 長岡忠一、長女由美子(マルハニチロの前身であるマルハ元社長の中部慶次郎中部謙吉の三男で、同社創業者中部幾次郎の孫)に嫁ぐ)次女和子。

      玄孫(忠一の長男)長岡由木彦

その他
2010年4月19日、陸上自衛隊高田駐屯地(山内邦彦司令)は25日の駐屯地創設60周年を記念して、長岡をモデルとしたオリジナルキャラクター「がいし君」を作成[42]。県スキー発祥100周年プロジェクトメインキャラクター「レルヒさん」とのコラボ企画も催された[43]

関連作品
二百三高地(1980年、配給:東映、演:平田昭彦

坂の上の雲 (テレビドラマ)(2009年~2011年、制作局:NHK、演:的場浩司

詳しいことは、「長岡外史ウィキペディア」をご覧ください。 ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E5%B2%A1%E5%A4%96%E5%8F%B2
(wikiより)

1573 長岡外史

長岡外史

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⇧ 右から2基目。


相馬 永胤(そうま ながたね、1850年12月25日嘉永3年11月22日) - 1924年大正13年)1月26日)は日本の政治家、法学者、経済学者、代言人横浜正金銀行頭取、専修学校創立者の一人・校長、専修大学創立者・初代学長。専修大学第7代総長の相馬勝夫は孫。

人物
近江国犬上郡彦根尾末町で、彦根藩士の家に生まれる。この相馬氏は下総相馬氏の一族で、代々彦根藩(井伊家)に仕えていた。戊辰戦争では官軍として奮闘。明治維新後、安井息軒に学び、1870年に彦根藩費留学生(欧米視察員)として渡米。ミシガン州農学校で学ぶが、1873年文部省からの一斉帰国命令により止む無く一時帰国する。


再渡米後、1875年にコロンビア法律学校(現コロンビア大学ロー・スクール)に入学。同期の日本人留学生に、徳川御三卿の清水家当主徳川篤守鳩山和夫文部省の留学生監督に目賀田種太郎がいた。図書館で判例を精読し、模擬裁判では米人学生に伍して活躍した。その後、エール大学大学院に進学し、経済学を修めるとともに、田尻稲次郎と出会う。内務省からアメリカの商業事情調査に派遣されていた神鞭知常や、ラトガース大学で経済学を学んでいた駒井重格とも出会う。


再渡米中の間には法学徒のクラブ「日本法律会社」(専修学校の土台ともいわれる)や、さまざまな学問分野の留学生による学術クラブ「興学社」の結成に関わるなど、社交的な人物であった。


1879年に帰国後は、福澤諭吉や目賀田と親しくし、慶應義塾夜間法律科の初代講師となった。その後、1880年6月に司法省附属代言人(弁護士)への就任を経て、同年9月に田尻・目賀田・駒井と共に、専修学校(後の専修大学)を創立。初代校長ならびに初代学長を勤めた。


なお、司法省附属代言人(弁護士)は、最初の三人のうちの一人であった。


また、横浜正金銀行(後の三菱UFJ銀行)の取締役(1882年1888年1890年1924年)、同銀行内外法律顧問(1888年)、頭取1897年1906年)を歴任した。

略歴
・1850年 生まれる

・1870年 彦根藩費留学生(欧米視察員)として渡米

・1873年 文部省からの帰国命令により一時帰国

・1875年 コロンビア法律学校入学。卒業後はイェール大学の大学院へ進学

・1879年 帰国。慶應義塾夜間法律科の講師となる

・1880年

  ・6月 司法所附属代言人に就任

  ・9月 専修学校創立。初代校長に就任

・1881年 横浜始審裁判所判事に就任

・1882年 横浜正金銀行の官選取締役に就任(~1888年)し、外国公債の募集や同銀行のロンドン支店開設などに尽力

・1887年 東京高等商業学校で法律を講じる(~1890年)

・1888年 横浜正金銀行の内外法律顧問に就任

・1890年

  ・横浜正金銀行の取締役に再就任(~1924年)

  ・第1回衆議院議員選挙に郷里の滋賀県から出馬し、当選

・1891年 衆議院議員を辞任(2月27日[1]

・1897年 横浜正金銀行の頭取に就任(~1906年)

・1913年 専修学校を私立専修大学と改めるにあたり、初代学長に就任

・1922年 文部省の学制頒布50年記念祝典にて、専修学校を創立した田尻とともに「教育功労者」として表彰される

・1924年 尿毒症のため沼津の別荘で歿する[2]

栄典
位階
1900年(明治33年)6月6日 - 従五位[3]

勲章
1902年(明治35年)12月28日 - 勲五等瑞宝章[4]

1924年(大正13年)1月28日 - 勲二等瑞宝章[5]

著書
・『英米売買法』

・『米国訴訟法』

脚注
1. 『官報』第2297号、明治24年2月28日。
2. 
服部敏良『事典有名人の死亡診断 近代編』付録「近代有名人の死因一覧」(吉川弘文館、2010年)16頁
3. 『官報』第5077号「叙任及辞令」1900年6月7日。
4. 『官報』第5848号「叙任及辞令」1902年12月29日。
5. 『官報』第3428号「叙任及辞令」1924年1月30日。

外部リンク
相馬永胤 ─専修大学創立者の一人として知られる─|近代名士家系大観

4人の創立者|専修大学
(wikiより)

1572  相馬永胤

相馬永胤

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横田 正俊(よこた まさとし、1899年明治32年)1月11日 - 1984年昭和59年)7月1日)は、日本裁判官。第4代最高裁判所長官を務めた。位階勲等従二位勲一等旭日大綬章。なお、前任の最高裁判所長官横田喜三郎と同姓だが、縁戚関係はない。

人物
1925年(大正14年)4月から裁判官生活に入り、東京地裁、東京控訴院、大審院判事等を務め、1943年(昭和18年)3月に甲府地裁所長に就任[1]。戦後、司法省臨時企画部長に就任[1]1947年(昭和22年)7月に公正取引委員会委員、昭和27年2月に同委員長に任命されるなど、同委員会に11年間勤務した[1]1958年(昭和33年)に最高裁事務総長となり、裁判官の報酬引き上げに尽力した[1]


1962年(昭和37年)2月28日に最高裁判所判事に就任[1]


最高裁長官の就任の際の記者会見では「訴訟の促進」を延べ、就任後の高裁長官・地裁所長会合でもその趣旨を訓示し、在任中に成果を上げた[2]。普通、長官は司法行政事務や外部の公式行事があるので、小法廷事件には関与しないのが普通だが、横田は長官になっても、所属する第三小法廷の事件処理にあたった[2]。この理由について「当時、第三小法廷には沢山の事件があり、長官が大法廷事件だけやるのは間違いだと思った。書面審理だけなので、書類を見るため目を傷めたが、これも長官の重要な仕事だと思って頑張った」と説明した[2]。裁判でも司法行政でも比較的柔軟な姿勢を見せ、官公労働者争議権の問題では刑事処罰に反対し、青年法律家協会(青法協)の問題については穏健な意見を持っていた[3]。一方で、最高裁長官時代の1968年6月10日に裁判所構内でのプラカードや集会を規制する裁判所庁舎管理規程を制定している[4]


最高裁長官退官後に官公労働者争議権の問題では刑事処罰肯定に逆転するが、横田は「非常に残念だ」と語った[5]。青法協の問題については、横田長官在任中は平穏な時でもあったため「少なくとも裁判官については、そう神経質になる必要はない」と、石田長官時代に起こった青法協問題に絡む平賀書簡問題や鹿児島地裁所長発言については「心配のしすぎ、それが一般に強く響いた」とそれぞれ話した[5]


歴代の最高裁判所長官で唯一、長官親任式皇居宮殿でなく那須御用邸にて執り行った人物でもある。

略歴
・1899年1月11日 父横田秀雄が函館控訴院判事のときに北海道函館市で生まれた。

学習院第一高等学校卒業。一高では撃剣部(剣道部)に籍を置き、剣道四段

1923年3月 東京帝国大学法学部卒業。5月 司法官試補 東京地方裁判所

1925年3月 判事 東京地方裁判所予備判事。

1926年7月 東京地方裁判所判事。

・東京控訴院判事、東京控訴院部長を歴任。民事畑の裁判官の道を歩む。

1946年2月 大審院判事に就任。

1947年7月14日 公正取引委員会発足とともに委員に就任。

1952年2月4日 公正取引委員会第2代委員長に就任。

1958年3月25日 最高裁判所事務総長田中耕太郎最高裁判所長官の引きによる)

1960年5月17日 東京高等裁判所長官に就任。

1962年2月28日 最高裁判所判事に就任。

1966年8月6日 横田喜三郎長官の後を継ぎ、第4代最高裁判所長官に就任。

1969年1月10日 最高裁判所長官を定年退官。一高撃剣部の後輩で、最高裁判所事務総長、東京高等裁判所長官、最高裁判所判事と横田と同じコースを歩んできた石田和外に第5代最高裁判所長官を引き継ぐ(翌11日就任)。

1969年4月29日 勲一等旭日大綬章受章。

1984年7月1日 逝去。従二位に叙され、銀杯一組を賜る。

系譜
横田家
横田家は長野県埴科郡松代町(現在の長野市)出身。先祖は奥会津横田の住人山内大学と伝えられ、江戸時代には信州松代藩士として150の禄を受けていた中級武士であった。父の秀雄大審院長を務めた。元鉄道大臣の小松謙次郎は叔父。元一橋大学教授吾妻光俊は正俊の弟[6]

系図については、「横田正俊ウィキペディア」をご覧ください。 ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A8%AA%E7%94%B0%E6%AD%A3%E4%BF%8A


横田正俊記念賞
公益財団法人公正取引協会独占禁止法を中心とした経済法学の振興を図るため、昭和60年度「横田正俊記念賞」を設置し、「横田正俊記念賞」の贈呈を行っている。

選考対象
毎年度発表される経済法の若手研究者(原則として大学助手講師助教授になって4~5年まで)の論文のうち最優秀と認められるものに同賞を授与する。

選考委員
舟田正之立教大学名誉教授)

川濵昇京都大学教授)

金井貴嗣中央大学教授)

賞金
・金30万円

参考文献
山本祐司『最高裁物語(上・下)』(日本評論社、1994年)(講談社+α文庫、1997年)

・「郷土歴史人物事典 長野」第一法規 1978年


脚注
1. a b c d e 野村二郎「最高裁全裁判官」(三省堂)99頁
2. a b c 野村二郎「日本の裁判史を読む事典」(自由国民社)45頁
3. 野村二郎「日本の裁判史を読む事典」(自由国民社)45・46頁
4. 野村二郎「日本の裁判官」(講談社現代新書)151頁
5. a b 野村二郎「日本の裁判史を読む事典」(自由国民社)46頁
6. 信州の旅.com/真田十万石の城下町/旧横田家住宅


外部リンク
公正取引協会 横田正俊記念賞


長野市ホームページ - 課・支所別メニュー - 旧横田家住宅
(wikiより)


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西 寛二郎(にし かんじろう、弘化3年3月10日1846年4月5日) - 1912年(明治45年)2月28日)は、日本の陸軍軍人教育総監遼東守備軍司令官、軍事参議官等を歴任する。官位は陸軍大将正二位勲一等功一級子爵

経歴
薩摩藩士、西太郎兵衛の長男として生まれ、幼少の頃から島津久光の下に仕えた。戊辰戦争鳥羽・伏見の戦い等転戦し明治4年(1871年)7月、陸軍に入る。初任は陸軍中尉御親兵2番大隊付を命ぜられた。同年12月、陸軍大尉に進み1873年(明治6年)12月、陸軍少佐に任ぜられる。1874年(明治7年)の佐賀の乱には征討参謀として出征、続く台湾出兵にも従軍し1877年(明治10年)の西南戦争では別働第1旅団参謀として参戦するが、この時負傷する。


その後、近衛幕僚参謀・参謀本部管東局員を経て1881年(明治14年)2月、歩兵第11連隊長に就任し、翌年、陸軍大佐に進む。大佐として名古屋鎮台参謀長、東京鎮台参謀長、参謀本部第1局長等を経験し1889年(明治22年)8月、陸軍少将に任ぜられ歩兵第11旅団長に補される。翌年6月に歩兵第2旅団長に移り、この時日清戦争に出征する。この戦役では山地元治中将指揮の下金州旅順田庄台を攻略し、その功をもって1895年(明治28年)8月、男爵を授けられ華族に列せられる。


1896年(明治29年)5月に威海衛占領軍司令官となり、同10月、陸軍中将に進み、乃木希典の後任として第2師団長に就任する。1904年(明治37年)2月の日露戦争に出征し功を挙げ同年6月に陸軍大将に進級する。同年9月の遼東守備軍司令官を経て1905年(明治38年)5月9日陸軍三長官の一角教育総監に就任する。翌年4月には功一級金鵄勲章を受章し、1907年(明治40年)の伏見宮貞愛親王の渡欧に当たっては随員を仰せ付けられる。帰国後の9月子爵に陞爵し、1908年(明治41年)の軍事参議官の後1911年(明治44年)3月後備役となる。1912年(明治45年)2月28日薨去。没後に勲一等旭日桐花大綬章を贈られる。


墓所は東京都港区南青山青山霊園

軍歴
・明治 4年(1871年

  ・7月25日 - 中尉

  ・12月 4日 - 大尉

・明治 6年(1873年)12月14日 - 少佐

・明治12年(1879年) 3月20日 - 中佐

・明治15年(1882年) 2月 6日 - 大佐

・明治22年(1889年) 8月24日 - 少将

・明治29年(1896年)10月14日 - 中将

・明治37年(1904年)6月 - 大将

・明治38年(1905年5月9日 - 教育総監

・明治44年(1911年)3月10日 - 後備役[1]

栄典
位階
1874年(明治7年)2月18日 - 従六位[2]

1889年(明治22年)9月27日 - 従四位[3]

1894年(明治27年)10月26日 - 正四位[4]

1899年(明治32年)11月30日 - 従三位[5]

1904年(明治37年)6月16日 - 正三位[6]

1909年(明治42年)7月10日 - 従二位[7]

1912年(明治45年)2月28日 - 正二位[8]

勲章等
1885年(明治18年)4月7日 - 勲三等旭日中綬章[9]

1889年(明治22年)11月25日 - 大日本帝国憲法発布記念章[10]

1895年(明治28年)

  ・5月23日 - 勲二等瑞宝章[11]

  ・8月20日 - 男爵功三級金鵄勲章旭日重光章[12]

  ・11月18日 - 明治二十七八年従軍記章[13]

1903年(明治36年)5月16日 - 勲一等瑞宝章[14]

1906年(明治39年)4月1日 - 功一級金鵄勲章旭日大綬章明治三十七八年従軍記章[15]

1907年(明治40年)9月21日 - 子爵[16]

1912年(明治45年)2月28日 - 旭日桐花大綬章[17]

親族
・後を嗣子の鯱男が継いだ。陸軍歩兵中尉となるが、1915年に隠居した[18]

・六男 勝男 - 兄・鯱男の隠居後、家督を継承[18]。勝男は陸軍士官学校を28期で卒業し階級は陸軍大佐に至る。

・長女 アイ - 佐治喜一陸軍少将に嫁ぐ[18]。佐治は会津藩所縁の人物で稚松会会員[19]。 

・三女 ハル - 若尾謹之助(実業家・甲州財閥若尾家)に嫁ぐ[18]

出典
1. 『官報』第8313号、明治44年3月11日。
2. 『太政官日誌』 明治7年 第1-63号 コマ番号110
3. 『官報』第1878号「叙任及辞令」1889年10月1日。
4. 『官報』第3401号、1894年10月27日
5. 『官報』第4926号「叙任及辞令」1899年12月1日。
6. 『官報』第6288号「叙任及辞令」1904年6月17日。
7. 『官報』第7813号「叙任及辞令」1909年7月12日。
8. 『官報』第8606号「叙任及辞令」1912年2月29日。
9. 『官報』第548号「賞勲叙任」1885年5月2日。
10. 『官報』第1929号「叙任及辞令」1889年12月2日。
11. 『官報』第3578号「叙任及辞令」1895年6月5日。
12. 『官報』第3644号「叙任及辞令」1895年8月21日。
13. 『官報』第3862号・付録「辞令」1896年5月16日。
14. 『官報』第5960号「叙任及辞令」1903年5月18日。
15. 『官報』号外「叙任及辞令」1906年12月30日。
16. 『官報』第7272号「授爵敍任及辞令」1907年9月23日。
17. 『官報』第8606号「叙任及辞令」1912年2月29日。
18. a b c d 『平成新修旧華族家系大成』下巻、298頁。
19. 『稚松会名簿』(昭和12年12月)

参考文献
・『日本の名家・名門 人物系譜総覧』 新人物往来社 2003年 378頁

霞会館華族家系大成編輯委員会『平成新修旧華族家系大成』下巻、霞会館、1996年。
(wikiより)

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伊地知 正治(いじち まさはる / しょうじ、文政11年6月10日1828年7月21日) - 明治19年(1886年5月23日)は、日本武士薩摩藩士)、政治家伯爵は季靖。通称は竜右衛門、後に正治、は一柳。

来歴
薩摩藩士伊地知季平の次男として鹿児島城下千石馬場町に生まれる(幼名は竜駒)。3歳の時に文字を読んで「千石の神童」と呼ばれるが、幼い頃に大病を患ったために片目と片足が不自由となる。


剣術を薬丸自顕流薬丸兼義に、合伝流兵学を初め伊敷村の石沢六郎、後に荒田村の法亢宇左衛門に学んで奥義を極めた。合伝流の弟子に西郷従道高崎五六淵辺群平三島通庸がいる。池上四郎有馬藤太も薫陶を受けている。のち藩校造士館の教授となる。


安政
6年(1859年)には精忠組に参加。文久2年(1862年)、島津久光の上洛に従って京都に上った功績により軍奉行となる。伊地知は類稀な軍略家であり、禁門の変戊辰戦争で大きな功績を挙げた。白河口の戦いではわずか700の兵で白河城に拠る旧幕府軍2,500に圧勝し、また土佐藩板垣退助と共に母成峠の戦いで旧幕府軍を大破して会津若松城開城に大きく貢献した。伊地知の兵法の特徴は、徹底した少数精鋭主義(薩摩藩兵では城下士の部隊、長州藩兵では奇兵隊系の部隊を選抜して率いた)、合伝流の伝統である火力絶対主義、そして時に拙速ともいえる速戦主義にあった。


戦後は薩摩藩の藩政改革に臨んだが、中央の太政官政府と海軍予算拠出を巡って対立し勝手に帰郷するなど騒動を起こしてもいる。廃藩置県後は薩閥の有力者として太政官政府に入った。


征韓論争では征韓側につく。板垣とともに派兵計画を立てるが、明治六年政変では下野しなかった。対立していた左院議長の後藤象二郎が下野したことで、同副議長の伊地知が代わって議長に就任したためである。のちに参議を兼任し、修史館総裁、一等侍講、宮中顧問官などを歴任。西南戦争では早々に薩軍の敗北を予見したが、戦後は帰郷して郷里の復興に尽力。1884年(明治17年)7月17日、伯爵を叙爵。明治19年(1886年)に59歳で死去。激烈な性格で頭脳は優れていたというが奇人としての逸話も多い。

評価
岡本柳之助 「怖ろしく唇の引きつった男で、みなりなど頭から構わぬ。なにしろ薩摩の伊地知といえば、当時人も知る学者で戦上手な名士であった。舌端迸る胸中の学量には、すくなからず敬服した。伊地知さんは薩摩切っての豪物であった。薩摩軍制の改革者で胸底縦横な軍略のある人であった。当時伊地知さんぐらい本当の戦争の出来る人はすくなかったのは武人仲間の定評である」[1]


勝海舟 「伊地知は、西郷について、参謀のような事をしていた。恐ろしい智者であったが、また気違いのような男であった」[2]

栄典
1884年(明治17年)7月17日 - 伯爵[3]


親族
・長男:伊地知正一郎 - 伯爵

・次男:伊地知正輔 - 伯爵

系譜
伊地知氏の祖は、桓武天皇7代の子孫である秩父氏の祖・秩父将恒(平将恒)で、越前国伊知地(現・福井県勝山市伊知地)を領したことから伊地知氏を称した。将恒より13代の子孫伊地知季随島津氏5代貞久と同番の足利尊氏の内臣であったが、尊氏によって罪人とされたのを貞久の執り成しにより許され、その貞久が許しを得て薩摩国へ下向すると、その臣下となって共に下向、その際に下大隅を拝領したのが大隅国に土着する始めとなった[4][5]


白虎隊1986年日本テレビ年末時代劇スペシャル、配役:徳川龍峰
獅子の時代1980年NHK大河ドラマ、配役:田口計
伊地知正治が登場する作品
花の白虎隊1953年大映映画、配役:光岡龍三郎

翔ぶが如く1990年、NHK・大河ドラマ、配役:安藤一夫

白虎隊2007年テレビ朝日・新春スペシャルドラマ、配役:六平直政

篤姫2008年、NHK・大河ドラマ、配役:三宅弘城

八重の桜2013年、NHK・大河ドラマ、配役:井上肇

「系譜図」については、『 伊地知正治ウィキペディア 』をご覧ください。 ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8A%E5%9C%B0%E7%9F%A5%E6%AD%A3%E6%B2%BB

脚注
1. 『風雲回想録』p85
2. 『海舟座談』p203
3. 『官報』第316号「叙任及辞令」1884年7月18日。
4. 本藩人物誌』 鹿児島県史料集(13)(鹿児島県史料刊行委員会)
5. 『「さつま」歴史人名集』稲葉行雄著、高城書房出版、ISBN 4-924752-28-2
(wikiより)

1536 伊地知 正治

伊地知正治

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川島 義之(かわしま よしゆき、明治11年(1878年5月25日 - 昭和20年(1945年9月8日)は日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍大将愛媛県生まれ。

経歴
松山市外側尋常小学校愛媛県尋常中学校を経て、明治31年(1898年)、陸軍士官学校(10期)卒業。明治41年(1908年)、陸軍大学校(20期)卒業。作戦資材整備会議幹事長、陸軍省人事局長、近衛歩兵第1旅団長、第19師団長、第3師団長を歴任。教育総監部本部長、朝鮮軍司令官、軍事参議官を経て陸軍大臣に就任。


二・二六事件予備役に編入。終戦の年の昭和20年(1945年)9月8日死去。

人物

・陸士10期卒業時110位。同期に松木直亮西義一植田謙吉などがいる。陸大20期卒業時6位。


岡田内閣で陸相に就任したが、当時の陸軍は統制派皇道派の対立が激化しており、川島はどちらにも属していなかったため陸相に選ばれた。相沢事件の責任を取って辞任した前任の林銑十郎陸相は、後任について当初は渡辺錠太郎教育総監、川島、植田謙吉朝鮮軍司令官西義一東京警備司令官の順に考えていたが、最も問題の無さそうな川島を選び、岡田首相も川島を無色で適任と評価した[1]。しかし、中間派故に両派の統制を取り得なかったことで二・二六事件を防ぐことができなかった。両派はおろか青年将校までもが彼を傀儡として用いようと企んでいたところに川島の周囲からの評価が窺える。


・二・二六事件の黒幕とされる真崎甚三郎と親しかったようである。


・二・二六事件時、陸相として反乱部隊に理解を示すかのような陸軍大臣告示を東京警備司令部から出した。その後、昭和天皇の意向によって反乱部隊は鎮圧されることになった。事件をうまく処理できなかったため、事件後に予備役に編入されることになった。


・松山中学で夏目漱石の教え子だった。ただし、当の川島はそれほど偉い先生だとはちっとも思っていなかったようである。

栄転
1927年(昭和2年)12月28日 - 従四位[2]

出典
1. 大前信也「陸軍の政治介入の淵源について(Ⅱ)-陸軍予算と二・二六事件-」(『政治経済史学541』)
2. 『官報』第358号「叙任及辞令」1928年3月10日。
(wikiより)

1535 川島 義之

川島義之

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門野 幾之進(かどの いくのしん、1856年4月18日安政3年3月14日) - 1938年昭和13年)11月18日)は、日本の実業家、貴族院勅選議員千代田生命保険初代社長。勲四等

経歴
志摩鳥羽藩の家老・門野豊右衛門の長子。実弟に大倉組副頭取の門野重九郎がいる。慶應義塾中上川彦次郎らと同門になる。1878年(明治11年)板垣退助の知遇により土佐の共志舎の教頭となり、慶應義塾に戻る。1893年(明治26年)自由党の候補者として討って出る。1904年(明治37年)に阿部泰蔵らと共に千代田生命保険を創立。1932年(昭和7年)3月15日、貴族院議員に勅選された[1]


明治6年に慶應義塾の教師となった後は、同教頭、同評議員、同理事、同臨時塾長となり、千代田生命保険社長、豊国銀行監査役、時事新報会長、交詢社会長のほか、日本無線電信設立委員、国際観光委員会、臨時ローマ字調査会委員等となる。

脚注
1. 官報』第1561号、昭和7年3月16日。

参考文献
慶應義塾出身名流列伝』三田商業研究会編、実業之世界社、1909年(明治42年)6月、261-262頁。近代デジタルライブラリー

・衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』1990年。

外部リンク
門野幾之進 (男性)『人事興信録』データベース、第4版 [大正4(1915)年1月]

門野重九郞 (男性)『人事興信録』データベース、第4版 [大正4(1915)年1月]

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1534  門野幾之進

門野幾之進

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三島 彌太郎(みしま やたろう、慶応3年4月1日1867年5月4日) - 1919年大正8年)3月7日)は、日本の銀行家。子爵三島通庸の長男であり、徳富蘆花の小説『不如帰』の登場人物、川島武夫のモデルでもある。

生涯
薩摩国鹿児島郡鹿児島城高麗町上の園(現在の鹿児島県鹿児島市上之園町)出身。7歳のとき東京神田の小川町学校入学、その後すぐに同人社分校に通い、9歳のとき近藤真琴の塾で学ぶ。13歳のときに山形県師範学校へ。15歳のときに同校を卒業し、17歳のとき駒場農学校に入学。18歳のとき成績首位により官費生として渡米、西フィラデルフィア中学を経てマサチューセッツ農科大学(現在のマサチューセッツ大学アマースト校)に入学し、農政学を学ぶ。同大学卒業後、コーネル大学大学院で害虫学を学び修士の学位を受けるが、神経痛を発症して退学した。


帰国後、1897年明治30年)の第2回伯子男爵議員選挙で貴族院議員に当選し、桂太郎の後押しで最大会派研究会の代表者を務め、桂の主唱する鉄道国有化を実現させた。また議員生活の傍ら金融業に深く関与。横浜正金銀行頭取を経て、1913年(大正2年)2月28日第8代日本銀行総裁に就任。日本で初めての市中銀行の預金金利協定の成立にも尽力した。第一次世界大戦戦中戦後の激務をこなすも、1919年(大正8年)急病により現職のまま逝去した。


親族
三島彌彦
は弟。最初の妻は大山巌の長女信子、離別後四条隆謌侯爵の三女加根子と再婚。長男は三島通陽、娘寿子の夫は阪谷希一、娘梅子の夫は土方与志

栄典
1915年(大正4年)11月10日 - 勲三等旭日中綬章[1]

1916年(大正5年)4月1日 - 勲二等旭日重光章[2]

脚注
1. 『官報』号外「叙任及辞令」1915年11月10日。
2. 『官報』第1218号「叙任及辞令」1916年8月21日。

参考文献
・三島義温編『三島弥太郎の手紙―アメリカへ渡った明治初期の留学生』学生社、1994年

横田順彌『明治おもしろ博覧会』、西日本新聞社、1998年、168-171頁

外部リンク
第8代総裁:三島彌太郎 - 日本銀行

国立国会図書館 憲政資料室 三島弥太郎関係文書

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1532 三島 彌太郎

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奥 保鞏(おく やすかた、弘化3年11月19日1847年1月5日) - 昭和5年(1930年7月19日)は、明治陸軍軍人。官位は元帥陸軍大将従一位大勲位功一級伯爵

生涯
豊前(現在の福岡県小倉藩小笠原家家臣の奥利右衛門保矩の長男として小倉(現在の北九州市)に生まれる。幼名為次郎。15歳のとき本家・奥保義の養子となり家督を継ぎ、馬廻・知行300石となって七郎左衛門と改名。小姓、物頭を務める。


幕末幕府側に立つ主家に従い、長州征討に参加。明治2年(1869年)1月に足軽隊長となり、翌月、東京に遊学。明治4年(1871年)5月、常備4番小隊長に就任。同年6月、陸軍に入営し西海鎮台2番大隊小隊長に着任。同年11月、陸軍大尉心得となり鎮西鎮台(後の熊本鎮台)に所属。明治5年(1872年)4月、陸軍大尉に昇進し鹿児島分営所に配属。


明治6年(1873年)8月、熊本鎮台中隊長に異動し、佐賀の乱に出征し戦傷を受けた。明治7年(1874年)6月、陸軍少佐に進級し歩兵第11大隊長に就任。同年8月、台湾出兵に従軍。明治8年(1875年)2月、歩兵第13連隊大隊長となり神風連の乱の平定に参加。


明治10年(1877年)2月、西南戦争に出征し、2月21日からの熊本城籠城戦に参加。4月8日未明、歩兵1個大隊を率いて薩摩軍の包囲を突破し、薩摩軍の後方に上陸した政府軍(衝背軍)との連絡に成功した。この際、敵弾が口から頬にかけて貫通したが、左手で傷口を押さえ右手で軍刀を持ってひるまず指揮した。4月20日、熊本鎮台歩兵第14連隊長心得となる。


明治11年(1878年)11月、陸軍中佐に進級し歩兵第14連隊長に就任。歩兵第10連隊長に異動し、明治15年(1882年)2月、陸軍大佐に昇進。近衛歩兵第2連隊長を経て、明治18年(1885年)5月、陸軍少将に進級し歩兵第7旅団長に着任。近衛歩兵第1旅団長、東宮武官長、近衛歩兵第2旅団長を歴任。明治27年(1894年)2月から9月まで欧州に出張。


明治27年(1894年)11月、野津道貫の後任として第5師団長となり、翌月、日清戦争に出征。明治28年(1895年)8月、軍功により男爵を叙爵し華族となる。明治29年(1896年)10月14日に第1師団長、明治30年(1897年)10月27日に近衛師団長に発令。その後、東京防御総督東部都督を歴任。明治35年(1902年)10月、インドに出張し、翌年3月に帰国。明治36年(1903年)11月、陸軍大将に進級。


明治37年(1904年)1月、軍事参議官に就任したが、同年3月、日露戦争開戦に伴い第2軍司令官として出征(戦歴は後述)。


明治39年(1906年)1月、軍事参議官となり、同年7月、急逝した児玉源太郎の後任として参謀総長に就任。明治40年(1907年)9月、伯爵に叙せられ、明治44年(1911年)10月、元帥府に列せらる。明治45年(1912年)2月、議定官に就任。


昭和5年(1930年)7月19日、脳出血により薨去[1]。享年85(数え)。

日露戦争での戦歴
南山の戦い
南山の戦い」を参照


第2軍は第1師団第3師団第4師団騎兵第1旅団で編成され、遼東半島における拠点として大連を確保することを目的とした。


5月5日から13日にかけて遼東半島に上陸し、5月26日午前5時からロシア軍の陣地である南山への攻撃を開始した。第2軍はロシア軍の堅固な防塁と機関銃の斉射により大苦戦となったが、奥は攻撃を断念せず苛烈に攻めた。午後5時になり海軍砲艦による艦砲射撃も加えた突撃を行い、午後8時にようやく南山を占領した。この時の死傷者は4,387名にのぼり、損害数を聞いた東京の大本営は「ゼロが1つ多すぎるのではないか」と耳を疑ったという。この戦いにより、「南山の奥」としてさらに勇名を馳せることになった。

得利寺の戦い
得利寺の戦い」を参照


大連占領後、旅順攻撃を行う第3軍へ第1師団が移り、編成替えにより第3師団、第4師団、第5師団、野戦砲兵第1旅団、騎兵第1旅団を指揮下とし、第2軍は遼陽を目指して北上した。6月14日、旅順援護のため南下してきたロシア軍4万と遼陽南方210キロメートルにある得利寺で激突した。2日間にわたる戦闘で、第2軍は側面攻撃を有効に用いて自軍より兵力の大きいロシア軍を撃退した。これにより、旅順要塞の孤立が決定的になった。

遼陽会戦
遼陽会戦」を参照


得利寺での勝利後、新たに第6師団を指揮下に加え、蓋平、大石橋での戦闘に勝利した。その後第5師団が第4軍指揮下となって去ったが、8月4日までに遼陽をうかがう位置まで前進した。24日の第1軍に続き、第2軍は第4軍とともに25日に作戦行動を開始した。鞍山站は抵抗なく占領でき、続いて攻めかかった首山堡は頑強な抵抗に遭遇し、屍山血河の惨烈な戦闘となった。後に陸軍の軍神第1号となった第3師団歩兵第34連隊第1大隊長の橘周太少佐が戦死したのも、この首山堡であった。31日朝に1度占領するも奪還され、第2軍は崩壊の危機に面したが、9月1日の第1軍によるロシア軍左翼への側面攻撃に動揺したロシア軍を追撃し、4日朝までに遼陽一帯を占領することができた。

沙河会戦
沙河会戦」を参照


10月2日、日本軍の補給欠乏を見越したロシア軍が反転攻勢に出た。迎え撃つ日本軍は右翼第1軍を軸とした旋回包囲作戦を開始し、左翼の第2軍は10日より果然前進した。特に13日から14日にかけて、沙河左岸一帯において夜襲につぐ夜襲という猛烈な攻撃をかけた。この攻撃により、ロシア軍首脳部は大きな誤解をした。日本軍には豊富な予備隊があるに違いないと判断したのである。さらに17日まで攻撃を続行すると、ロシア軍は退却を開始した。しかし戦力の限界にあった第2軍に追撃する余力はなかった。

黒溝台会戦
黒溝台会戦」を参照


1月25日、日本軍最左翼を守備していた第2軍所属の秋山支隊8,000(秋山好古少将指揮、騎兵第1旅団を中核とした歩・砲・工兵混成部隊)にロシア軍10万が攻撃を開始した。秋山支隊は右翼から李大人屯、韓山台、沈旦堡、黒溝台の4陣地を軸として頑強に抵抗し、満州軍総司令部は予備隊の第8師団を援軍として急派したが、第8師団司令部の敵情誤断により黒溝台陣地の放棄を強制され、しかも第8師団自体も26日に逆襲包囲されるという事態に陥った。第2軍は靡下の第3師団を派遣したが、満州軍総司令部の兵力逐次投入、急遽臨時軍(臨時立見軍:第8師団長・立見尚文中将が臨時司令官)編成という愚策に踊らされ、速やかな作戦行動ができなくなった。ようやく28日にいたり、第3師団と第5師団が秋山支隊右翼陣地のロシア軍を撃退した。黒溝台陣地も第8師団及び第5師団による大夜襲を決行し、ロシア軍は潰走した。

奉天会戦
奉天会戦」を参照


2月22日に鴨緑江軍による行動開始に始まり、第2軍は第3、第4、第6、第8師団、秋山支隊及び3個後備旅団を指揮下におき、日本軍中央左翼を担当して2月27日から砲撃を開始、3月7日まで攻撃を続行したが、ロシア軍の抵抗は激しく前進がままならなかった。ところが7日深夜になり、突如ロシア軍が退却を始めた。日本軍に包囲されると勘違いしたロシア軍首脳部が、中央の部隊に退却命令を出したのである。8日から猛烈に追撃戦を行い、10日に第2軍は第4軍とともに奉天を占領した。しかし、それ以上の攻撃余力がなく、この会戦が事実上日露戦争最後の陸戦となった。

人物像
佐幕側であった小倉藩出身であり、しかも長州藩と直接戦火を交えた立場であったにもかかわらず、陸軍内で異例の抜擢を受け続けた。これはひとえに奥自身の指揮統帥能力及び古武士に例えられる謙虚な性格によるものである。後年、薩長・皇族以外の出身者としてはじめて元帥となったが、この時も異論を唱えるものが誰もいなかったと言う。


・日露戦争において、軍司令官参謀長人事は薩長出身者がほとんど独占したが、「奥だけは外せまい」というのが陸軍部内の一致した見方であった。4人の軍司令官のうち、作戦参謀の補佐がなくても作戦計画を立案出来るのは奥だけだった。奥は難聴であったが、指揮采配に支障をきたすことはなく、司令部では幕僚と筆談で意見交換を行ったと言われている。


・生涯自分の戦功などを語ったことがなく、むしろ功績を消そうとすることもあったらしい。日露戦争終戦後凱旋した際、日の丸を揚げてバンザイを叫ぶ人々の姿を見て、「済まぬ、許してくれ」(多くの将兵を戦死させてしまった自責の念と思われる)と呟いたという逸話が残っている。天性の軍人らしく、政治向きのことには一切興味を示さず、静かな晩年を過ごした(第5師団長時代、桂太郎台湾総督を辞任した際に後任を打診されたが断った事もある程)。それ故世間からは忘れ去られがちで、死去したときも「まだ生きていたのか」と驚く人が少なくなかったという。

栄典・授章・授賞
位階
1874年(明治7年)

  ・3月23日 - 正七位[2]

  ・11月5日 - 従六位[2]

1879年(明治12年)12月20日 - 正六位[2]

1882年(明治15年)4月3日 - 従五位[2]

1885年(明治18年)7月25日 - 正五位[2]

1886年(明治19年)10月28日 - 従四位[2][3]

1892年(明治25年)2月13日 - 正四位[2][4]

1897年(明治30年)5月31日 - 従三位[2][5]

1902年(明治35年)8月20日 - 正三位[2][6]

1907年(明治40年)8月30日 - 従二位[2][7]

1914年(大正3年)9月10日 - 正二位[2][8]

1916年(大正5年)7月19日 - 従一位[9]

勲章等
1878年(明治11年)1月31日 - 勲四等旭日小綬章[2]

1885年(明治18年)4月7日 - 勲三等旭日中綬章[2][10]

1889年(明治22年)11月25日 - 大日本帝国憲法発布記念章[11]

1893年(明治26年)5月26日 - 勲二等瑞宝章[2][12]

1895年(明治28年)

  ・8月20日 - 男爵功三級金鵄勲章旭日重光章[2][13]

  ・11月18日 - 明治二十七八年従軍記章[2][14]

1900年(明治33年)5月31日 - 勲一等瑞宝章[2][15]

1905年(明治38年)5月30日 - 旭日大綬章[2][16]

1906年(明治39年)4月1日 - 功一級金鵄勲章旭日桐花大綬章明治三十七八年従軍記章[2][17]

1907年(明治40年)9月21日 - 伯爵[2][18]

1911年(明治44年)10月24日 - 元帥元帥徽章[2]

1915年(大正4年)

  ・4月20日 - 御紋付銀杯[19]

  ・11月7日 - 金杯一組大正三四年従軍記章[2][20]

  ・11月10日 - 大礼記念章(大正)[21]

1920年(大正9年)11月1日 - 金杯一組大正三年乃至九年戦役従軍記章[2][22]

1925年(大正14年)1月14日 - 御紋付銀杯[2][23]

1928年(昭和3年)11月10日 - 大勲位菊花大綬章[2][24]大礼記念章(昭和)[2]

外国勲章等佩用允許
1891年(明治24年)

  ・5月9日 - 勲二等タイ王冠勲章[25]

  ・6月1日 - 第二等オスマニエ勲章英語版 - [26]

レジオンドヌール勲章グラントフィシエ

1909年(明治42年)12月6日 - 第一等第二品御賜双龍宝星中国語版[27]

1926年(大正15年)3月26日 - 2等ヴィルッチ・ミリタリ勲章英語版[28]

レオポルト勲章英語版グロースクロイツ

武功勲章英語版グロースクロイツ

親族
・長男 奥保夫(陸軍少将)

脚注
1. 服部敏良『事典有名人の死亡診断 近代編』付録「近代有名人の死因一覧」(吉川弘文館、2010年)7頁
2. a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z 元帥陸軍大将正二位大勲位功一級伯爵奥保鞏特旨叙位ノ件」 アジア歴史資料センター Ref.A11114015000 
3. 『官報』第1003号「叙任及辞令」1886年11月1日。
4. 『官報』第2584号「叙任及辞令」1892年2月15日。
5. 『官報』第4172号「叙任及辞令」1897年6月1日。
6. 『官報』第5740号「叙任及辞令」1902年8月21日。
7. 『官報』第7253号「叙任及辞令」1907年8月31日。
8. 『官報』第635号「叙任及辞令」1914年9月11日。
9. 『官報』第1068号「叙任及辞令」1930年7月22日。
10. 『官報』第562号「賞勲叙任」1885年5月19日。
11. 『官報』第1929号「叙任及辞令」1889年12月2日。
12. 『官報』第2971号「叙任及辞令」1893年5月27日。
13. 『官報』第3644号「叙任及辞令」1895年8月21日。
14. 『官報』第3900号・付録「辞令」1896年6月30日。
15. 『官報』第5072号「叙任及辞令」1900年6月1日。
16. 『官報』第6573号「叙任及辞令」1905年5月31日。
17. 『官報』号外「叙任及辞令」1906年12月30日。
18. 『官報』第7272号「授爵敍任及辞令」1907年9月23日。
19. 『官報』第813号「宮廷録事 - 恩賜並追賜」1915年4月21日。
20. 『官報』第1187号「叙任及辞令」1916年7月15日。
21. 『官報』第1310号・付録「辞令」1916年12月13日。
22. 『官報』第2612号「叙任及辞令」1921年4月19日。
23. 『官報』第3717号「宮廷録事 - 恩賜」1925年1月15日。
24. 『官報』号外「授爵・叙任及辞令」1928年11月10日。
25. 『官報』第2357号、明治24年5月12日。
26. 『官報』第2378号「叙任及辞令」1891年6月5日。
27. 『官報』第7940号、明治42年12月10日。
28. 『官報』第4077号、大正15年3月30日。

参考文献
秦郁彦編『日本陸海軍総合事典』第2版、東京大学出版会、2005年。

『陸軍現役将校同相当官実役停年名簿』(昭和3年9月1日調)16コマに記載あり。

関連書籍
秋山香乃『群雲に舞う鷹』日本放送出版協会、2009年
(wikiより)

1530 奥 保鞏

奥保 鞏

1530a

1530b



有馬 良橘(ありま りょうきつ、文久元年11月15日1861年12月16日) - 昭和19年(1944年5月1日)は、日本軍人。最終階級は海軍大将和歌山県和歌山市出身。養子に海軍中将有馬寛がいる。

経歴

文久元年11月15日1861年12月16日)、紀州藩士・有馬元函の長男として生まれる。父の元函は紀州徳川家家臣として幕府軍側に参戦転戦したために、良橘が幼少の頃は朝敵扱いされ、良橘の尋常小学校入学が12歳まで遅延する結果を招く。旧制三田英学校より海軍兵学校第12期入校。入校時成績順位は44名中第16位、卒業時成績順位は19名中16位。


有馬の職歴の特徴として明治天皇東郷平八郎との関わりが深く、日清戦争でも東郷が艦長を務める防護巡洋艦「浪速」の航海長として東郷の指揮下で従軍した。豊島沖海戦では「高陞号事件」にも関わっている。東郷の側近中の側近として、東郷が昭和9年(1934年)に没した際は葬儀委員長も務めた(明治神宮宮司との兼務が問題となり途中辞任[1])が、政治的には全くの無色な態度を通した。


日露戦争
では連合艦隊参謀として旅順港閉塞作戦を立案し、2度指揮官の1人として自ら参加した(3回目の作戦時には本国へ戻っていた)。この実績から日露戦争を代表する勇士の一人として、海軍の後輩からの信望が厚かった。参謀職は途中で殖田謙吉と交代し(事実上の更迭ともされる)、残りは防護巡洋艦「音羽」艦長として日本海海戦を戦う。大正初期のシーメンス事件では、当時の海軍大臣八代六郎から請われ査問委員を務め公正な判断を下す。


昭和期に入り条約派対艦隊派間の紛争となった際は艦隊派が、有馬が東郷の側近の1人と知って担ぎ出そうとした際も「一介の軍人が介入すべき事項では無い」と一切拘わりを拒絶した。ただし有馬が理事長であった海軍予備役士官の団体である有終会は軍縮会議に反対を唱えている[2]


晩年は明治天皇の侍従武官を務めた経歴から明治神宮宮司を務めた。

人物像
幼少の頃から苦労を強いられた人生を送ったために、普段の私生活は海軍将官とは想像もできない清貧を極めたものだった。また、明治、大正昭和各天皇の信任が篤かった。

年譜
文久元年11月15日1861年12月16日) - 紀伊国和歌山城下(現在の和歌山県和歌山市)生


明治6年(1873年4月1日 - 広瀬尋常小学校入学


・明治9年(1876年

  ・3月31日 - 広瀬尋常小学校卒業

  ・4月1日 - 私立同志社英学校自修舎入学


・明治14年(1881年)4月1日 - 三田英学校(現・錦城学園高等学校)入学


・明治15年(1882年9月30日 - 海軍兵学校入校 入校時成績順位44名中16位


・明治18年(1885年10月24日 - 砲艦「筑波」乗組


・明治19年(1886年

  ・2月9日 - 練習艦遠洋航海出発 ニューカッスルシドニーウェリントンフィジーサモアホノルルアピア(サモア)〜パンゴパンゴ(サモア)方面巡航

  ・11月12日 - 帰着

  ・12月7日 - 海軍兵学校卒業 卒業時成績順位19名中第16位・任 海軍少尉候補生2等巡洋艦高千穂」乗組


・明治21年(1888年

  ・1月13日 - 任 海軍少尉・2等巡洋艦「高千穂」分隊士

  ・4月9日- 砲艦「天城」分隊士兼航海士


・明治22年(1889年6月25日 - 砲艦「天城」航海長心得


・明治23年(1890年

  ・1月10日 - 3等巡洋艦千代田」回航委員

  ・4月6日 - 日本出発


・明治24年(1891年

  ・1月26日 - イギリス出発

  ・4月11日 - 横須賀回着

  ・4月21日 - 2等巡洋艦「千代田」航海長心得

  ・12月14日 - 任 海軍大尉・2等巡洋艦「千代田」航海長


・明治25年(1892年9月10日 - 常備艦隊軍艦通則取調委員


・明治27年(1894年4月23日 - 2等巡洋艦「浪速」航海長兼分隊長


・明治28年(1895年11月16日 - 横須賀鎮守府参謀


・明治29年(1896年10月24日 - 侍従武官


・明治30年(1897年12月1日 - 任 海軍少佐


・明治32年(1899年9月29日 - 任 海軍中佐

  ・12月21日 - 常備艦隊参謀


・明治33年(1900年

  ・5月15日 - 戦艦三笠」回航委員

  ・6月15日 - 出発


・明治34年(1901年5月1日 - 戦艦「三笠」航海長


・明治35年(1902年

  ・3月6日 - イギリス出発

  ・5月18日 - 横須賀回着


・明治36年(1903年

  ・2月7日 - 病気に依り待命

  ・4月22日 - 装甲巡洋艦常磐」副長

  ・10月27日 - 常備艦隊参謀

  ・12月28日 - 第一艦隊参謀


・明治37年(1904年

  ・4月18日 - 大本営

  ・5月7日 - 横須賀海軍工廠艤装委員

  ・5月24日 - 3等巡洋艦「音羽艦長

  ・7月13日 - 任 海軍大佐


・明治38年(1905年

  ・6月14日 - 2等巡洋艦「笠置」艦長

  ・12月12日 - 竹敷要港部参謀長


・明治39年(1906年11月22日 - 装甲巡洋艦「磐手」艦長


・明治40年(1907年12月20日 - 第二艦隊参謀長


・明治41年(1908年

  ・4月17日 - 大韓帝国皇帝謁見

  ・5月1日 - 大清帝国皇帝謁見

  ・11月20日 - 海軍砲術学校


・明治42年(1909年)12月1日 - 任 海軍少将


・明治43年(1910年)12月1日 - 海軍省軍令部第1班長


大正元年(1912年

  ・9月10日 - 明治天皇霊柩供奉

  ・12月1日 - 第一艦隊司令官


・大正2年(1913年

  ・10月22日 - 佐世保海軍病院入院

  ・11月19日 - 病気に依り待命

  ・12月1日 - 任 海軍中将


・大正3年(1914年

  ・1月28日 - 海軍将官会議議員 シーメンス事件査問委員

  ・3月25日 - 海軍兵学校校長


・大正5年(1916年)12月1日 - 海軍教育本部長兼海軍将官会議議員


・大正6年(1917年4月6日 - 第三艦隊司令長官


・大正7年(1918年

  ・12月1日 - 海軍将官会議議員

  ・12月11日 - 海軍省軍令部次長代理


・大正8年(1919年

  ・11月25日 - 任 海軍大将

  ・12月1日 - 海軍省教育本部長兼海軍将官会議議員


・大正9年(1920年)12月1日 - 免 海軍省教育本部長


・大正10年(1921年8月1日 - 待命


・大正11年(1922年)4月1日 - 予備役編入


昭和2年(1927年9月1日 - 海軍有終会理事長


・昭和6年(1931年

  ・9月14日 - 明治神宮宮司

  ・11月15日- 退役編入


・昭和7年(1932年12月26日 - 枢密顧問官


・昭和9年(1934年5月30日 - 元帥東郷平八郎海軍大将葬儀委員長


・昭和12年(1937年10月12日 - 国民精神総動員中央連盟会長


・昭和14年(1939年

  ・4月1日 - 大日本青年団長

  ・10月21日 - 議定官


・昭和15年(1940年1月15日 - 特旨を以って宮中杖差許


・昭和17年(1942年11月3日 - 昭和天皇香淳皇后に『明治天皇を偲び奉る』談話を言上


・昭和18年(1943年8月27日 - 免 明治神宮宮司


・昭和19年(1944年5月1日 - 死去 享年84

栄典
位階
1891年(明治24年)1月29日 - 正八位[3][4]

1892年(明治25年)3月23日 - 正七位[3][5]

1897年(明治30年)5月31日 - 従六位[3][6]

1899年(明治32年)11月7日 - 正六位[3][7]

1904年(明治37年)8月30日 - 従五位[3][8]

1909年(明治42年)10月20日 - 正五位[3][9]

1913年(大正2年)12月27日 - 従四位[3]

1917年(大正6年)4月20日 - 正四位[3]

1919年(大正8年)12月10日 - 従三位[3]

1922年(大正11年)4月20日 - 正三位[3]

1937年(昭和12年)1月15日 - 従二位[3]

1944年(昭和19年)2月1日 - 正二位[3]

勲章等
1895年(明治28年)11月18日 - 勲六等瑞宝章功五級金鵄勲章[10]明治二十七八年従軍記章[3]

1896年(明治29年)6月26日 - 単光旭日章[3]

1900年(明治33年)11月30日 - 勲五等瑞宝章[3]

1904年(明治37年)11月29日 - 勲四等瑞宝章[3]

1906年(明治39年)4月1日 - 功三級金鵄勲章勲三等旭日中綬章明治三十七八年従軍記章[3][11]

1909年(明治42年)4月18日 - 皇太子渡韓記念章[3][12]

1914年(大正3年)11月30日 - 勲二等瑞宝章[3][13]

1915年(大正4年)11月10日 - 大礼記念章[3][14]

1920年(大正9年)

  ・1月30日 - 勲一等瑞宝章[3][15]

  ・11月1日 - 旭日大綬章[3]

1928年(昭和3年)11月10日 - 大礼記念章(昭和)[3]

1934年(昭和9年)4月29日 - 金杯一組[3]

1940年(昭和15年)8月15日 - 紀元二千六百年祝典記念章[3][16]

1944年(昭和19年)5月1日 - 旭日桐花大綬章[3]

外国勲章佩用允許
1934年(昭和9年)3月1日 - 満州帝国大満洲国建国功労章[3]

1938年(昭和13年)7月9日 - 満州帝国:勲一位景雲章[3][17]

1941年(昭和16年)12月9日 - 満州帝国建国神廟創建記念章[3]

脚注
1. アジア歴史資料センター第一編 第三章 第三節 宮司ノ葬儀委員長 第一 序説 レファレンスコード:A10110735000
2. 池田清『海軍と日本』朝日ソノラマ(下)p.122
3. a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac 有馬良橘」 アジア歴史資料センター Ref.A06051181600 
4. 『官報』第2276号「叙任及辞令」1891年2月3日。
5. 『官報』第2617号「叙任及辞令」1892年3月24日。
6. 『官報』第4172号「叙任及辞令」1897年6月1日。
7. 『官報』第4907号「敍任及辞令」1899年11月8日。
8. 『官報』第6355号「敍任及辞令」1904年9月3日。
9. 『官報』第7899号「叙任及辞令」1909年10月21日。
10. 『官報』第3727号「叙任及辞令」明治28年11月29日。
11. 『官報』7005号・付録「叙任及辞令」1906年11月2日。
12. 『官報』第7771号「叙任及辞令」1909年5月24日。
13. 『官報』第700号「叙任及辞令」1914年12月1日。
14. 『官報』第1310号・付録「辞令」1916年12月13日。
15. 『官報』第2246号「叙任及辞令」1920年1月31日。
16. 『官報』第4438号・付録「辞令二」1941年10月23日。
17. 『官報』第3457号「叙任及辞令」1938年7月13日。

参考文献
・有馬良橘伝(佐藤栄祐編・有終会刊)

・三田の政官界人列伝 士官教育に傾倒野村英一編・慶應義塾大学出版会ISBN 4-7664-1249-4 C0031

坂の上の雲司馬遼太郎著・文藝春秋) 第6巻 ISBN 4-16-360180-5

・日本陸海軍の制度・組織・人事(日本近代史料研究会編・東京大学出版会

・海軍兵学校沿革・第1巻(海軍兵学校刊)

・海軍兵学校出身者名簿(小野崎 誠編・海軍兵学校出身者名簿作成委員会)

関連項目
大日本帝国海軍軍人一覧

和歌山県出身の人物一覧
(wikiより)

1529 有馬良橘

有馬良橘

1529a

1529b



双葉山 定次[3](ふたばやま さだじ、1912年2月9日 - 1968年12月16日)は、大分県宇佐郡天津村布津部(現:大分県宇佐市下庄)出身の元大相撲力士。第35代横綱。本名は龝吉 定次(あきよし さだじ)[1]

来歴
定次少年の角界入り

1912年2月9日に大分県宇佐郡天津村布津部(現:大分県宇佐市下庄)で生まれる。5歳の時に吹き矢が自身の右目に直撃して負傷し、これが元で右目が半失明状態になった[4][5]ただ一人父親は吹き矢を誰が吹いたか知っていたが、定次が傷つかないように、また吹き矢を吹いた者を恨むことが定次にとってマイナスになるかもしれないため、相手の名前を言わなかった、と横綱審議委員長の舟橋聖一は分析している[6]。少年時代は成績優秀で普通に進学を目指していたが、父親が営む海運業が失敗して5000円(現在の2億5000万円に相当する)の借金を負い[7]、兄と妹と母親も早くに亡くしている事情から、次男坊でありながらも一家の家計を支えるべく父の手伝いをしながらたくましく育つ[8]浪曲研究家の芝清之が作成した『双葉山物語』では、この海運業の手伝いをしているときにの巻上げ作業で右手の小指に重傷を負ったとしている[4]。定次が14歳の頃、父と乗っていた船が大波を受けて転覆、龝吉父子は海に投げ出されたが、たまたま近くを通っていた船に助けられて九死に一生を得た。その後定次は別の業者に雇われることになった[9]


定次は相撲の方はそれほど気持ちを入れていたわけではなかったが、初めて出場した相撲大会で畳屋の男と取組むことになった。だが、定次は相撲を取ったことがなかったため相手に食いつかれてしまい動けなくなった。見物人から「押せ、押せ」の声が聞こえたため、定次は相手を上から押さえつけて倒した。しかし、相手はしばらく起き上がれなかったという[9]。逆にこのことが地元の新聞に載り、この記事を見た大分県警察部長の双川喜一(のちに明治大学専務理事となる)の世話で立浪部屋に入門する。1927年3月場所に初土俵四股名の双葉山は「栴檀は双葉より芳し」から命名し、入門時に世話になった双川部長の一字も含まれる[8][10]。双川は大分県に赴任する前、立浪の出身地の富山県で学務部長を務めていた。そのような関係から立浪とは昵懇の間柄で、かねてから全国を転勤して回る双川に新弟子を見つけたら入門の世話をするように頼みこんでいた。そのことから、立浪が弟子勧誘の網を全国に張り巡らせていたことが窺える[8]

双葉山の苦労時代

出身地である宇佐市で双葉山を研究している市民グループ「豊の国宇佐市塾」の平田崇英塾長が語るところによると、新弟子時代の双葉山は同期入門の大八洲晃と午前6時から開始される朝稽古に競って早起きし、とうとう午前4時から稽古を始めたことで「早すぎて眠れない」と親方から苦情が来たという。こうした稽古熱心さから、当時は兄弟子が双葉山に対してかわいがりを加えることも日常茶飯事だったとされており、を盛ったバケツを持って200回の屈伸を行った後、兄弟子のぶつかり稽古の格好の標的となるといった猛稽古を課されることも珍しくなかったという。それでも入門前に海運業に従事して精神と肉体を鍛えていたこともあって、こうした苦行を力に変えていった[11]。下積み時代の双葉山の指導係だった旭川幸之丞(当時「高浪」)に言わせると「相撲っぷりは平凡だった。ただ、稽古熱心で、どんなにたたきつけられても、決して弱音を吐いたことがなかった」とのことであり、その高浪も「でも、まさかあんな大横綱になるとは」とその出世ぶりに驚いている[8]


入幕
以前は目立った力士ではなかったが、成績は4勝2敗(当時幕下以下は1場所6番)が多く大きく勝ち越すことがない一方で負け越しもなく(3勝3敗は何度かあった)、年寄春日野(元横綱栃木山)や常ノ花[12]から「誰とやってもちょっとだけ強い」と評されたという。1931年5月場所には19歳3ヶ月で新十両に昇進(西5枚目)、この場所で3勝8敗と初めて負け越した。


1932年1月場所は東十両6枚目で迎えるはずだったが、場所前に春秋園事件が発生した。天竜三郎ら脱退力士の主張には共感するものもあり、その勧誘には大いに迷ったが、部屋の女将の「(脱退力士らは)主張はいいのだが本当に変えたいことがあるなら内部にいてやるべき」との言葉に残留を決意。再編された2月場所の番付で西前頭4枚目と繰り上げ入幕となる。


入幕後しばらくは、相撲が正攻法すぎて上位を脅かすまでには至らなかった。ただ足腰は非常に強い(船に乗っているうちに自然と鍛えられたらしい)ため、攻め込まれても簡単には土俵を割らずに土俵際で逆転することが多く「うっちゃり双葉」と皮肉られていた[1][13][14]。「相撲が雑で工夫がない」という批判も多かったが、若い頃から双葉山を可愛がっていた玉錦三右エ門だけは「双葉(山)の相撲はあれで良いのだ。いまに力がつけば欠点が欠点でなくなる」と評価したという[10]


1935年1月場所には小結に昇進するが、4勝6敗1分と負け越して前頭筆頭に転落。5月場所も4勝7敗と負け越し、この頃までは苦労の連続だった。

69連勝

1935年蓄膿症の手術を機に体重が増え、それまでの相撲ぶりが一変した[13]。取り口そのものは正攻法で変わらなかったが、それまでは力不足で土俵際まで押し込まれることが多かったのに対し、立合いから「後の先をとる」を地で行き相手より一瞬遅れて立つように見えながら先手を取り、右四つに組み止めた後に吊り出し、寄り、または左からの上手投げで相手を下すようになった[1][10]。なお、この年に「相撲には未練はございません」と言って相撲界を辞める決心をして仙台に行ったが、この時は後援者に諭されて戻った。[15]


1936年
1月場所は初日の新海戦で敗れて黒星発進だったが、横綱武藏山から初金星を奪い、清水川男女ノ川(場所後横綱)の両大関も破るなど2日目から4連勝、6日目全勝の玉錦との対戦を迎える。この玉錦戦は落として4勝2敗とするが(玉錦はそのまま全勝優勝)、7日目瓊ノ浦を下すと、これから双葉山の69連勝がスタートする。双葉山はこの場所を5連勝で終えて9勝2敗[16]、翌場所の関脇昇進を決めた。


新関脇で迎えた同年5月場所では、9日目に玉錦を初めて破って11戦全勝で初優勝、場所後に大関へ昇進した。これ以降、双葉山は本場所で玉錦に負けることがなかった[17]。玉錦は前々場所(1935年5月場所)4日目から双葉山に敗れるまで27連勝しており[18]、その連勝の1勝目が他ならぬ双葉山だった。玉錦の最後の優勝と双葉山の初優勝を跨いで二度以上優勝した力士はおらず、玉錦の現役死もあるが明確な覇者交代の一番として現在まで語り継がれている。


1937年
1月場所を11戦全勝。この場所では玉錦は初日から6連勝しながら左上腕骨骨折のために途中休場しており、双葉山の5連覇中唯一玉錦戦のなかった場所となっている。先場所初白星をあげたとはいえまだ地力では玉錦が上をいっており、玉錦にすればこの時が双葉を倒す最後のチャンスだったのではないかという見方もある。


同年5月場所を13戦全勝で連続での全勝優勝を果たし、横綱に推挙される[19]。玉錦、武蔵山、男女ノ川とともに1918年5月場所(2代西ノ海大錦、栃木山)以来の史上3例目の4横綱となり、系統別総当たり制ということで初めての4横綱総当たりもあると話題を呼んだが、武蔵山が休場がちだったことや玉錦の現役死もあって、1938年5月場所で一度実現しただけで終わってしまった。


新横綱で迎えた1938年1月場所、9日目の両國戦では、両國を寄り倒したかに見えたが、控えの玉錦と男女ノ川から勇み足ありと物言いが付いた。検査役は両者に経過を説明したが玉錦があくまで双葉の負けを主張して納得せず、揉めに揉めた。後年、双葉の大連勝が48で止まっていたかもしれない大物言いとして語り継がれることになる。これには双葉人気への両横綱のひがみからの物言いではないかという声も当時あったが、両國は明らかに体勢を崩して死に体だったものの、双葉山も大きく右足を踏み越してしまっており、さほど無理のある物言いでもなかった。結果、取直しとなり双葉山が吊り出しで勝利し49連勝、この場所でも13戦全勝で優勝した。

続く5月場所も千秋楽、玉錦戦との水入りの大相撲を制して13戦全勝、5場所連続全勝優勝を果たす。この記録を受けて協会から"古今に例がない"と表彰されたが、本人は「これからまだやるんですから、そんなことをしないでください」と言ったという。[20]この時点で66連勝、谷風梶之助の63連勝を、約150年ぶりに塗り替えている。谷風の記録はを挟み純然たる連勝記録ではなかったが(また幕下力士を相手に五人掛けを行い5人抜きを果たして1勝に代えられた星が二つ含まれる)、逆に双葉山が江戸時代の力士であれば両國との物言い相撲や玉錦との水入りはそれぞれ預と分にされていた可能性もあり、いずれにしても単純比較は難しい。


当時の相撲ファン達の間では、双葉山の連勝がどこまで続くかという話題で大いに盛り上がっていた一方、誰が双葉山の連勝を止めるかという点にもファン達の注目が集まるようになり、「双葉よ負けるな双葉を倒せ」という相矛盾する流行語が生まれた。この当時、武蔵山は休場続きで、男女ノ川は好不調の波が大きく、衰えたとはいえ前の第一人者である玉錦がやはり双葉山の連勝を止める有力候補とも目されたが、その玉錦が現役のまま病死すると、もはや双葉山の連勝を止める力士はいないと思われ、100連勝まで予想する声も出始めた。

70連勝ならずの一番

1939年1月場所、前年の満州大連の巡業でアメーバ赤痢に感染して体重が激減[21]、体調も最悪だったので、双葉山は当初休場を考えていた。しかし、力士会長の玉錦が前年に虫垂炎を悪化させて現役死した(双葉山が2代会長に就任)のと、武蔵山も休場し、不振続きで前場所負け越した男女ノ川しか横綱がいなくなるため、責任感の強い双葉山は強行出場した。双葉山は調子が悪いながらも初日から3日目まで連勝を重ね、70連勝を賭けて1月場所4日目(1月15日)を迎える。


この場所で初日から4日目までの実況中継を担当した和田信賢は、「不世出の名力士・双葉、今日(15日)まで69連勝。果たして70連勝なるか?70は古希、古来稀なり!」とのアナウンスで放送を開始した。対戦相手は前頭4枚目の安藝ノ海。この取組前まで、双葉山が連勝記録を更新し続ける中で、出羽海一門では「打倒双葉」を合言葉に、笠置山を作戦本部長として毎日、双葉山に対する戦略・戦術を練った。笠置山は当時としては珍しい大学(早稲田大学)出身の関取で、自身が記した「横綱双葉山論」では、双葉山の右目が前述の吹き矢によって半失明状態であることを知っていたことから、対策の結論として「双葉山の右足を狙え」とした[10]。この右足対策を十分に身に付けたまま、安藝ノ海は本番を迎えた。


安藝ノ海は立合いから突っ張り双葉山を寄せ付けようとしなかったが、双葉山は右手で安藝ノ海の左ひじを跳ね上げて右四つに組んだ。安藝ノ海は左に回り込み双葉山の右に食い下がり、双葉山の右掬い投げに対して左外掛けを掛けた。両者の身体が大きく傾いたが一度堪えた後、双葉山が安藝ノ海の身体を担ぎあげるようにして外掛けを外し、再度右から掬い投げにいったので、安藝ノ海の身体は右側に傾きながら双葉山と共に倒れた[22][23]。双葉山の身体が先に土俵に付いていたため、双葉山の連勝は69で止まり、安藝ノ海は金星を挙げた。実況を担当していた和田は、当然4日目に連勝が途切れるなどとは予想しておらず、双葉山が倒れた時に、控えにいた山本照に対して「負けましたね!?確かに負けましたね!?」と確認してから「双葉敗れる!」と叫んだ。しかし、万一双葉山が敗れた場合に備えて用意していた言葉は霧散し、ただマイクに向かって何度も「双葉山敗れる!」を繰り返したと自著に記している。この相撲を見ていた歌舞伎役者の6代目澤村田之助(当時6歳)の証言によると、館内は座布団だけでなく、酒瓶、暖房用の火鉢や煙草盆などが投げられ、興奮の坩堝と化した。[22][24][8]


28代木村庄之助は、2000年に放送されたNHKの特別番組にゲスト出演した際に「付け人の仕事で直接見られなかったが、津波が押し寄せてくるような地鳴りのような轟音がした。すると、庄之助親方(20代)も伊之助親方(17代、のち21代庄之助)もみんな口を利かない、厳しい表情で戻ってきた。それで、『あ、双葉(山)関が負けたんだ』と思った」と回想している。


この69連勝は現在まで最多連勝記録[25]である。双葉山が三役に上がった頃、一場所の取組日数は11日だったが、双葉山人気が凄まじく、1月場所でも徹夜で入場券を求めるファンが急増したため、日数が13日となり(1937年5月場所から)、さらに現在と同じ15日(1939年5月場所から)となった。

安藝ノ海戦の取組後

双葉山は約3年ぶりとなる黒星を喫し、連勝を69で止められたにも関わらず、悔しさや絶望感などを表情に見せることなく普段通り一礼し、東の花道を引き揚げて行った。同じ東方の支度部屋を使っており、この後の結びの一番のために土俵下で控えていた男女ノ川は、取組後に「あの男(双葉山)は勝っても負けても全く変わらないな」と語っているが、支度部屋では「あー、クソッ!」と叫んだと新聞記事に書かれている。


双葉山は、その日の夜に師と仰ぐ安岡正篤に対して「イマダモッケイタリエズ(未だ木鶏たりえず)」と打電した[8]。これには双葉山の言葉を友人が取り次いだものという説もある。その日、双葉山は以前から約束していた大分県人会主催の激励会に出席しており、後者の説を採るなら、同会で発せられた言葉であったことになる。70連勝を阻止された当日の夜だったことで、急遽敗戦を慰める会の雰囲気になったが、いつもと変わらない態度で現れた双葉山に列席者は感銘を受けたという。なお、双葉山自身は著書の中で、友人に宛てて打電したもので、友人が共通の師である安岡に取り次いだものと見える、と述べている。


一方、安藝ノ海は、土俵下でこの取組を見ていた後の27代木村庄之助によれば「勝ち名乗りを受けるための蹲踞をためらっているように見え、心ここにあらずという表情だった」という[26]。この後安藝ノ海は次の一番で取る鹿嶌洋力水を付け、勝ち残りで控えに座り、結びの一番が終わって支度部屋に引き上げた(現在ならインタビュールームでアナウンサーから殊勲インタビューを受け、支度部屋では大勢の記者に囲まれる)。取組を終えた安藝ノ海は出羽海部屋に帰ろうとしたが、国技館を出た瞬間から双葉山に勝った彼を見ようとした多くの群衆に取り囲まれもみくしゃにされた。[27]そのため部屋へほんの数分で帰れる時間を1時間以上もかかってしまい、部屋へ着いた安藝ノ海の着物はボロボロになった。部屋へ戻ってから師匠の出羽海に報告した際、出羽海は「勝って褒められる力士になるより、負けて騒がれる力士になれ」と諭したという。これには、安藝ノ海の入門を世話した藤島(この時は中耳炎で入院中)の言葉だとの説もある。当時部屋の豆行司だった28代庄之助は、出羽海の付け人をしながらこの時の言葉を聞いたと証言しており、後者の藤島発言説を否定している。

詳しいことは、「双葉山定次ウィキペディア」をご覧ください。 ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%8C%E8%91%89%E5%B1%B1%E5%AE%9A%E6%AC%A1
(wikiより)

2193  双葉山定次

双葉山定次

2193a

2193b



名寄岩 静男(なよろいわ しずお、1914年9月27日 - 1971年1月26日)は、北海道名寄市出身(出生地は北海道小樽市)の元大相撲力士。本名は岩壁 静雄(いわかべ しずお)[1][2]

来歴
鍼灸師から角界入り

1914年9月27日に家伝のを用いた治療業を営む家に生まれる。両親と同じ鍼灸師を目指すべく、1931年の春に上京して東京・両国の東京鍼灸医学校へ進学し、1932年に鍼灸師の免許を取得して帰郷しようとしていたところ、体格の良い岩壁を見つけた立浪から強引にスカウトされた。最初はせっかく鍼灸師の免許を取得したために断ったが、弟子勧誘に対する執念に定評があった立浪が岩壁の父親へ向けて手紙を書いて送ったところ、許可されたことで立浪部屋へ入門した[3]


1932年5月場所において初土俵を踏むと、部屋の1年後輩で、各段優勝を果たしてスピード出世で追いかけてくる羽黒山をライバル視していた。新入幕1937年1月場所)までは全て名寄岩が先を越していたが、大関昇進争いでついに羽黒山に先を越された。逆に言えば、何人もの部屋や角界の先輩をごぼう抜きにしてきた羽黒山には、三役昇進まで先を譲らなかったことになる。大横綱の双葉山よりも5年初土俵が遅く、各段優勝して破竹の勢いで番付を駆け上がった羽黒山よりも1年早いという微妙な立場が名寄岩を稽古の虫に仕立て上げることになった[3]


1938年1月場所は2日目に男女ノ川に一蹴されたが、7日目には武蔵山を得意の左四つから、右上手を引いて軽々と吊り上げ運び出した。右肘を怪我して以降も二枚腰と評される強靭な足腰を誇っていた武蔵山が吊り出されたのは現役中この1番のみである[2]


1939年1月場所7日目、この場所4日目に双葉山の連勝を69で止めた安藝ノ海に対していつも以上に闘志を剥き出しにして勝ち、仇を取っている[3]

病との戦い

立浪部屋に双葉山・羽黒山の横綱・大関が存在していたため、名寄岩は関脇で10勝を挙げながら据え置かれた不運もあった[4]が、1942年5月場所で11勝を挙げ、場所後に照國・安藝ノ海が揃って横綱へ昇進したことで、大関前田山ただ一人になることから、1943年1月場所で念願の大関昇進を果たした[4]


新大関の場所こそ9勝6敗と勝ち越すが、その後は連続で負け越すなど不振で、大関在位僅か3場所で1944年5月場所では関脇に陥落した。その関脇でも一度だけ負け越したが(1945年6月場所で3勝4敗)、当時の日本は第二次世界大戦の真っ只中で混乱期に陥っていたことから番付面で幸いにも小結に陥落することが無かった。1946年11月場所で大関復帰を果たすが、糖尿病胃潰瘍腎臓疾患関節炎・神経病などの様々な病気を患い[3]、「病気のデパート」との愛称まで付くほど[4]で、9勝4敗と勝ち越したものの全盛期の活躍は見られなくなった。1947年6月場所ではついに初の幕内全休となり、同年11月場所では11戦全敗で再び関脇へ陥落した[5]

現役引退~晩年

二回目の大関陥落後も様々な病気・怪我が減る気配は一向に無く、幕内も前頭下位にまで落ちていたが、名寄岩は懸命に土俵を務めていた。1950年5月場所では西前頭14枚目の地位で土俵に上がり、9勝6敗の成績で2度目の敢闘賞を受賞[3]し、「涙の敢闘賞」として映画にもなった[4]1952年9月場所では千代の山から金星を奪うなど健在ぶりを発揮し、再び敢闘賞を受賞した。1954年5月場所千秋楽には、全力士の鑑として日本相撲協会から特別表彰を受けた。同年9月場所を最後に現役を引退したが、若い頃からのライバルだった羽黒山より1年遅い引退となった。最後の土俵となった1954年9月場所千秋楽には40歳と6日で、これはちょうど60年後の2014年9月場所7日目に旭天鵬に更新されるまで、戦後の最高齢幕内出場記録だった[6]


現役引退後は年寄・春日山を襲名して春日山部屋を再興。旧・春日山部屋閉鎖後に立浪部屋預りとなっていた前頭・大昇充宏を育成し、直弟子からは白法山旺三が十両昇進を果たした。協会内では長く勝負検査役を務めていたが、1965年脳出血で倒れ1966年参与に退いた[7]。その後肝臓癌になり白法山が関取昇進を決めた1971年初場所千秋楽から2日後の1月26日に肝臓がんで死去。56歳没[3]


名寄岩の死去から10年が経過した1981年、故郷の名寄市に名寄岩の銅像が建てられた。また、2006年には孫(長女の子)が「片桐」の四股名で松ヶ根部屋に入門して祖父(名寄岩)に続く関取昇進を目指したが、幕下昇進を間近にしながら網膜剥離ドクターストップとなり、2010年11月場所を最後に現役を引退している。

人物

左を差し相手の左を引っ張り込んでから極め出すか、吊り出すか、掬い投げる一本調子の取り口で、相手の上手が取れなければ相手の肉を掴んでまでも吊り上げる強引なものだった。また、立合いで相手力士にじらされると顔を真っ赤にして怒り出すほどの直情な人柄から「怒り金時」と呼ばれた。


大関から二度の陥落を経験しているが、金星・三賞(敢闘賞)を受賞した上に関脇まで返り咲き、40歳まで現役で土俵に上がるなど劇的な土俵人生を送った。この件から「涙の敢斗賞」として舞台や映画になり、戦後の日本を沸かせた[3]


天真爛漫・純情で一途な性格で、双葉山を終生敬愛してやまなかったという。

エピソード
・性格のためか妥協を許さないことで師匠・立浪から叱られたり兄弟子から反感を買ったことがある。特に同部屋の羽黒山との不仲は異様な域に達しており、互いに入門から死去まで一切口を聞かなかったとされている[4]。本名の「岩壁」が本人の頑固さを喩える単語のように見られることもあった[3]


  ・ある日行われた花相撲で、本場所とは異なり優勝争いなどに全く関与しない取組にも関わらず、双葉山に勝利したことで師匠・立浪から厳しく叱られた。


  ・四股名の「名寄岩」は、師匠の現役時代の一字を取った「緑川」を用意した師匠に対して「そんな弱そうな名前は嫌だ」と言って押し通したものである[3]。しかし、時期が入門直後かつ、言い争いで師匠を負かしたことで兄弟子から悪く思われ、いじめられたと伝わる。それでも早い出世でいじめを封じるだけの地位と実力をものにした[4]


  ・春日山親方時代はしばしば高血圧で倒れそうになるほど熱を入れて指導していた。黒姫山は「『他の誰にも指導させない、自分が教えるんだ』という雰囲気が伝わってくる」と当時を後に振り返っており、そんな名寄岩を羽黒山は「この野郎、うるさいんだよ!」と怒鳴ったという[8]。ただこの話が本当なら、羽黒山と名寄岩は生涯に渡って一度も口を聞かなかったと言いつつも、どちらかがもう一方に対して一方的に怒鳴りかける程度の事はあったということになる。


1936年の雪が降った寒い暮れのある日、部屋の門限である22時に遅れてしまい、いつも鍵を開ける女中が帰ってしまっていたため、寒さ凌ぎに四股を踏みながら門前で徹夜していた。翌朝、部屋の若い衆が玄関を開けた時、名寄岩は雪達磨と化して直立不動の状態だった[3]


・涙の敢闘賞の受賞を確定した時、日本人ハリウッドスター早川雪洲花道を引き上げる名寄岩へゆで卵を20個手渡したという。


・1958年1月場所6日目、この日の十両最初の取組であった伊勢錦柏竜の取組で物言いが付いたが、この場所の5日目の大相撲運営審議会の定例会議で決定した「協議の内容の公表」の一環で検査役・春日山として当時1台20万円もしたワイヤレスマイクで検査役の協議の内容を集音しようとした。ところがマイクのセッティングにもたついている間に協議が終了し、あっさりと取り直しになった。11日目、十両の平鹿川神生山の一番で物言いが付き、検査役の競技が集音できるまでは良かったが、肝心の春日山の歯切れが悪く、効果を発揮したとは言い難かった。天竜三郎は「喋れない検査役が尻込みしていい相撲にますます物言いがつかなくなってしまう恐れがある」とこの制度の難点を指摘し、相撲協会は1965年1月場所からマイクでの集音による協議の公表の中止を決定した[9]


・1968年名寄市に100万円を寄付し、名寄市は名寄岩基金を設立した[7]

詳しいことは、「名寄岩静男ウィキペディア」をご覧ください。 ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%8D%E5%AF%84%E5%B2%A9%E9%9D%99%E7%94%B7
(wikiより)

2194  15代・春日山(名寄岩静男)

名寄岩静男

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若浪 義光(わかなみ よしみつ、1914年5月6日 - 1982年12月30日)は、樺太恵須取郡恵須取町(現在のサハリンウグレゴルスク)出身で1940年代に活躍した立浪部屋所属の元大相撲力士。最高位は東前頭19枚目(1940年5月場所)。本名は若林 義光(わかばやし よしみつ)。現役時代の体格は身長176cm、体重94kg。得意手は右四つ、寄り[1]

人物

1914年5月6日北海道上川郡東川町にて生まれたが、本人は9歳のとき渡った樺太で育ったことから、日本相撲協会には樺太を出身地として届け出ていた。


1935年
5月場所初土俵。入門前に軍隊に所属しており満州事変に出征した経験がある年長入門ということもあって出世も早く幕下まで各段1場所で通過し、1938年5月場所には十両に昇進した。しかしその後、心臓脚気を患い、1940年5月場所に入幕を決めたものの5勝10敗で1場所で陥落。若乃森と改名した十両でも3場所連続して負け越し、幕下陥落が決定的になった1942年1月場所限りで現役を退く[1]


年寄株
を持っていなかったが、在郷軍人会の副分会長も務め、事務的能力に優れていたこともあって、協会に必要な人材として認められ、東西合併の際に廃家となっていた大坂相撲の『藤島』の年寄名跡を復活させ、『大島』と改めて、彼が襲名することになった。立浪部屋付の年寄として後進を指導し、1979年5月の停年(定年)まで相撲協会に在籍していた。名跡は立浪部屋の後輩で、同じ北海道上川郡出身の大関旭國に譲った。

「 主な成績 」については、「若浪義光ウィキペディア」をご覧ください ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8B%A5%E6%B5%AA%E7%BE%A9%E5%85%89

改名歴
四股名
・若浪 義光(わかなみ よしみつ)1935年5月場所 - 1940年5月場所

・若乃森 義光(わかのもり -)1941年1月場所 - 1942年1月場所

年寄名
・大島 正義(おおしま まさよし):1943年2月 - 1979年5月

脚注
1. a b c d e f ベースボールマガジン社『大相撲名門列伝シリーズ(4) 立浪部屋』p25

関連項目
大相撲力士一覧

外部リンク
若乃森 義光
(wikiより)

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斉藤正言 ( さいとう - しょうげん / まさこと )    
天保 6年 ~ 大正 2年 9月 23日 ( 1835 - 1913 )

    
兵隊に麦飯給食を始めた陸軍大佐。

父、斉藤民右衛門 ( 長男 )。

東京出身。

兵隊に脚気が多いので麦飯を用いる。これが兵営における麦飯給与のはじまり。「麦少佐」と呼ばれた。

明治 16年 ( 1883 ) 退役。

心理学に興味を持ち、幽霊を研究し話題となった。愛刀家でもある。

フランス兵学校を開設し、島田一郎らが学んだ。正五位勲二等。79歳没。

正面「故陸軍歩兵大佐 正五位勲三等斉藤正言之墓」。

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杉山 寧(すぎやま やすし、1909年10月20日 - 1993年10月20日)は、日本画家日本芸術院会員、文化勲章受章者。

来歴

東京府東京市浅草区浅草西三筋町(現在の東京都台東区三筋一丁目、二丁目西側辺り)に文房具店を営む杉山卯吉の長男として生まれる。本籍神奈川県1928年東京美術学校(現在の東京芸術大学美術学部)に入学。山本丘人高山辰雄らと「瑠爽画社」(るそうがしゃ)を結成、日本画の革新をめざす運動に携わる。1929年帝展に出品、1931年、美校日本画科卒、結城素明に師事。1934年、第1回日独交換留学生に選ばれベルリン大学に学ぶ。だが1938年肺結核を病む。1943年、朝鮮満洲支那へ取材旅行。その後は病のために長く創作活動が止まる。


1947年
日展特選、1950年、日展審査員。1951年に「エウロペ」を日展に出展して本格的に画壇に復帰。以降、作風を一新した絵画を意欲的に発表する。1957年日本芸術院賞受賞[2]1958年、日展評議員。1970年、日本芸術院会員。1974年文化功労者文化勲章受章。


1958年
6月、長女・瑤子三島由紀夫と結婚。三島は瑤子を選んだ理由について「芸術家の娘だから、芸術家に対して何ら幻想を抱いていないこと」を挙げた。実際は瑤子は見合いの際に一目で三島を気に入り、結婚を強く希望した為に、両家話し合いの末結婚と成った(媒酌人は川端康成夫妻)。


1969年
に日展常務理事となり、1974年に日展理事長に就任。この間、1970年に娘婿の三島が割腹自殺。1976年、西ドイツより大功労十字勲章受章。1977年東京国立近代美術館評議員。1991年東京都名誉都民になる。 1956年から1986年12月号まで『文藝春秋』の表紙画を描いた。1993年の誕生日の朝、心不全のため[3]没した(生没同日)。死後、従三位に叙せられる。墓は寛永寺谷中墓地にある[1]


戦前は日本画の技法を極めた技巧で知られたが、戦後は岩絵具を用いながらも線描などの日本画の技法を一新し、メチエールにこだわった独自の作風を確立した。また。エジプトインドなどの古代遺跡や神像、抽象画や裸婦など従来の日本画にはなかった題材も手掛けた。亡くなる直前まで、納得いくまで絵を修正し続けるなど完璧主義者としても知られた。

代表作品
・「野(の)」(1933年)(東京藝術大学大学美術館):大学の卒業習作で、首席を獲得した。

・「穹(きゅう)」(1964年)(東京国立近代美術館):スフィンクスが題材となっている。

・「洸(こう)」(1992年)(ポーラ美術館

 

著書、画集
・杉山寧 三彩社 1959年

・日本の名画 29 杉山寧 講談社 1974年

・現代日本の美術 6 杉山寧 座右宝刊行会編 集英社 1976年

・日本の名画 26 杉山寧 中央公論社 1977年

・杉山寧自選画集 芸術新聞社 1989年

・画作の余白に 美術年鑑社 1989年

・現代の日本画 8 杉山寧 学習研究社 1991年

・杉山寧 日経ポケット・ギャラリー 日本経済新聞社 1991年

・杉山寧素描聚成 小学館 1992年


脚注
1. a b c d e f g h i 東京文化財研究所刊「日本美術年鑑」より:「杉山寧」(2015年12月14日)、2016年10月13日閲覧。
2. 『朝日新聞』1957年2月28日(東京本社発行)朝刊、11頁。
3. 服部敏良『事典有名人の死亡診断 近代編』付録「近代有名人の死因一覧」(吉川弘文館、2010年)15頁

関連項目
東京都出身の人物一覧

田中健五

東山魁夷

外部リンク
杉山寧: 絵画作品と所蔵美術館

杉山寧 - 東京文化財研究所
(wikiより)

2197  杉山寧

杉山 寧

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阿部 正邦(あべ まさくに)は、江戸時代前期から中期にかけての大名武蔵国岩槻藩5代藩主、丹後国宮津藩主、下野国宇都宮藩主、備後国福山藩初代藩主。官位従四位下備中守。阿部家宗家5代。

生涯

岩槻藩3代藩主・阿部定高の次男として誕生。幼名は作十郎。


父・定高は万治2年(1659年)に25歳で死去するが、嫡子である正邦は僅か2歳と幼少であったため、定高の弟・正春が家督を継いだ。しかし家臣内の反発もあり、寛文11年12月19日(1672年)、正春は14歳の正邦に家督を譲り、支藩上総国大多喜藩を自ら分知して立てた。


正邦は幕府に疎んじられたらしく、10年後の天和元年(1681年)に丹後宮津藩(旧領と同じ9万9000石)へ転封され、それから16年後の元禄10年(1697年)には下野宇都宮藩に1000石増加の10万石で移され、さらに13年後の宝永7年(1710年)、備後福山藩(石高同じ)に転封された。福山藩への入封時には正邦は既に53歳になっていて、「至極ニ能所」であるが「只今ハ困窮いたし」と、宇都宮から遠く離れた福山への転封に困惑する心境を述べている。以後は正邦一代にとどまらず、幕末まで阿部家に転封はなく、福山藩に定着した。


正邦は福山転封の翌年、正徳元年(1711年)3月28日に福山へ入部し、「指出帳」(宝永差出帳)を全村から提出させて、領内の実情を把握した。この差出帳には、各村の石高、寺社、商品作物、鉄砲など村の概要と年貢納入の方法や、五人組などの諸制度が載せられている。同年9月には各郡奉行から村々へ、治安に関する条項を中心とした「条々」35ヵ条を公布して、領主交替時に起こる動揺を抑えようとし、正徳2年(1712年)には年貢の納め方についての請書を出させた。また、正徳3年(1713年)には村入用に関する規定を定め、節約と村政の公正を命令している。商業統制では宝永7年(1710年)に升改めを実施している。こうして、正徳3年(1713年)頃までに正邦は福山藩領内を掌握し、西国街道筋の譜代大名としての存在意義を定着化させていった。


このように正邦は、阿部家の福山藩主では藩政に比較的積極的に取り組んでいたが、転封から5年後の正徳5年(1715年)、江戸において死去した。家督は四男・正福が継いだ。は長生院殿尋誉耀海踞岸。墓地は西福寺台東区浅草)、のち谷中墓地(台東区谷中)に改葬。

官位
1671年寛文11年)従五位下・対馬守。

1700年元禄13年)従四位下。

1711年正徳元年)備中守。

系譜
・父:阿部定高(1635-1659)

・母:不詳

・正室:山内豊昌の娘

・継室:春日氏

・室:中村氏

  ・四男:阿部正福(1700-1769)

・生母不明の子女

  ・三男:阿部正羽

  ・五男:阿部正容

  ・女子:榊原政倫婚約者 - 早世

  ・女子:土井利実正室

  ・女子:丹羽秀延正室

  ・女子:昭覚院 - 井伊直矩正室

  ・女子:六郷政長正室

転載元
福山誠之館同窓会 阿部正邦(転載許可)

外部リンク
福山城(福山城博物館)

備後歴史探訪倶楽部特別版「福山城」 - ウェイバックマシン(2005年4月7日アーカイブ分)

福山誠之館同窓会
(wikiより)

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二代目・西川喜洲 ( にしかわ - きしゅう )    
明治 37年 ~ 平成 5年 5月 23日 ( 1904 - 1993 )

    
日本舞踊正派西川流宗家。

本名、堀口敏子。

東京出身。

初代西川喜州 ( 喜代春 ) の幼女となり、日本舞踊を師事。

6歳で神田南明倶楽部で初舞台。

大正 12年 ( 1923 ) 初代が隠居し喜州を名乗ると、2代西川喜代春を襲名。

養母没後昭和 7年 ( 1932 ) 2代喜州を襲名。

昭和 38年栄寿と改名。

正派西川流は、初代の西川喜州 ( 1875 - 1931 ) が大正 5年 ( 1916 ) 西川流宗家西川扇藏家と分かれて創流、西川喜州を名乗り初代家元となる。

「栄寿院妙遠日久大姉」。

正面「堀口家之墓」が 2代の墓。墓誌には「俊子」とある。

隣接する大きな碑は、初代の碑。

初代の墓は、足立区千住長円寺。

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初代 桂 小南(しょだい かつら こなん、1880年5月24日 - 1947年11月21日)は、日本の落語家。本名: 岩田 秀吉

略歴

東京府東京市下谷区生まれ。幼少時に大阪に移り、1890年5月の11歳の時、2代目桂南光(後の桂仁左衛門)に入門。前座名として小南を名乗った(1907年に2ヶ月だけ桂小南光を名乗ったのを例外に生涯改名をしなかった)、瓢亭で初舞台。18歳で真打昇進。1905年、師・南光の後を追い上京し、三遊派に所属。しかし、同年に始まった第一次落語研究会には参加せず、別行動を取っている。


東京で上方落語はなかなか理解されなかったため、2世曽呂利新左衛門が曲書き(踊りながら和歌等を書く芸)で喝采を得たのをヒントに、「松づくし」(2代目笑福亭松鶴の項を参照)や「電気踊り」(豆電球を体中に巻きつけて常磐津の『奴凧』のほか、『玉兎』『勢獅子』『夜這星』などを踊るのだが、舞台上に陰陽の電極板が仕掛けてあり、これを裏に金属板の入った足袋で踏むと、体中の電球が点滅する、というもの。感電の危険性があり、命がけの芸でもあった)といったケレン芸で名を売った。また、背後の幕に昇降機が隠してあり、これに背中の金具を引っ掛けて、天井へ向かって上がってゆく、という仕掛けを用いたり、映画の連鎖劇をヒントに一本のネタの前半は口演し、後半は撮影したフィルムを高座で上映するという手法を用いたりもした。これらの芸は、「八丁荒らし」として同業者に恐れられた。


後に3代目三遊亭圓橘月の家圓鏡(のちの3代目三遊亭圓遊)らと三遊分派を設立。しかし、座組に変化がなく、次第に客に飽きられ、同業者の信用も失った。ついには多額の借金を背負い、地方巡業に出たが、失敗の連続で帰阪。しかし、その人気から見捨てられることはなく、再び上京し、睦会から東京落語協会へ移るなど、所属を変えながらも、最後まで上方落語を演じ続けた。


1947年
11月21日に没した。67歳没。墓所は谷中興禅寺


弟子には桂南馬(のちの7代目都家歌六)、桂一奴8代目桂文楽らがいる。

芸風

3代目桂米朝は、東京で下宿生活を送っていた際、初代小南の追っかけをしており、その際の見聞を書き留めている。


「小南の芝居噺は私も大分見ている。もはや老人ではあったが、何とも言えぬ柔らかさと華やかな雰囲気を持った人で、かつて寄席のスター的存在であったことは、げに尤も…とうなずけるものがあった」「長い顔で大きな眼で、ニコリと笑うと実に愛嬌があった。ゆっくりとした大間なしゃべりで関西弁でも東京人にもよく解った」「初代桂小南はたしかに巧い人であった。ひと口に言って、実に間の良い人であったと言える[1]


「私はこの人を追いかけたおかげで、短時日にいろんなものを学べて幸せであった[2]

エピソード
・ある時、さる華族子爵であったという)出身の未亡人と、亡夫と似ているという理由で深い仲となり、一人娘を生した。汽車で移動する時などは、駅長が見送りに来るため、周囲の者の驚きを誘ったという。


・当時珍しかった電話をいち早く自宅に設け、電話番号の下谷の一八二四に、得意の『鏡山』から思い付いた「いはふし」という振り仮名を付けた名刺を作るなど、ハイカラな面を持つ人でもあった。


大西信行は、戦時中に小沢昭一と友人の3人で神楽坂の寄席に行き、初代小南の『児雷也』を見ている。ネタの最中に空襲警報が鳴り、3人は慌てて逃げたという[3]


・2代目山遊亭金太郎は、8代目文楽が持っていた「右女助」の名跡を引き継ごうと文楽と交渉に臨んだところ、文楽に見込まれ、「小南」が譲られることとなった(2代目桂小南)。

脚注
1. 『上方落語ノート』pp.104-108
2. 『続・上方落語ノート』p.111
3. 2008年11月16日米朝よもやま噺』(ABCラジオ

出典
・古今東西落語家事典(平凡社、1989年)

・上方落語ノート(桂米朝著、青蛙房、1978年)

・続・上方落語ノート(桂米朝著、青蛙房、1985年)

・落語案内 楽屋への招待(桂小南著、立風書房、1982年)


外部リンク
桂小南:作家別作品リスト - 青空文庫
(wikiより)

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あとやさき

       百寿も露の

               いのち哉


河野静雲の句碑です。


〇 河野静雲
俳人。

福岡市生。

時宗総本山執事・宮城県亘理町専念寺住職等務める。

俳句は虚子に師事し、『ホトトギス』同人。

句風は滑稽味にあふれ軽妙。

句集に『閻魔』等。

昭和 49年 ( 1974 ) 寂、86才没。
 
2202 河野静雲

河野静雲

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渡辺文三郎 ( わたなべ - ぶんざぶろう )
嘉永 6年 ~ 昭和 11年 2月 1日 ( 1853 - 1936 )


洋画家。

号、薇山。

岡山出身。


子供のとき円山派の日本画を学ぶ。


上京して五姓田芳柳に師事。


第 1回・ 2回の内国勧業博覧会に出品し受賞。


東京英語学校教授・東京大学予備門画学教授。


第一高等学校図画教員。明治美術会創立評議員。文部省中等教員検査委員。太平洋画会・文展で活躍。


作品:「多摩川夕照」、「洋灯下青年勉学図」、「春景山水」など。

共著書;図画教科書「習画自在」、「中学臨画帳」など。84歳没。「大仙院祥堂薇山居士」。

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峯廻武平

十津川郷士。

御親兵として上京。

明治元 ( 1868 ) 年 12月 4日病死。享年不詳。

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佐古武五郎

十津川郷士。

明治元 ( 1868 ) 年 10月 19日病死。

御親兵として上京。享年不詳。

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中勘二郎

十津川郷士。

御親兵として上京。

慶応四 ( 1868 ) 年 4月 10日病死。享年不詳。

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鎌塚久米吉

十津川郷士。

御親兵として上京。

慶応四 ( 1868 ) 年 8月 25日病死。享年不詳。

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小林 良典(こばやし よしすけ、文化5年3月28日1808年4月23日) - 安政6年11月19日1859年12月12日))は、幕末地下人小林元次の長男、母は小森頼望の娘・叙子。


鷹司家
諸大夫正四位下民部権大輔と筑前守を兼ねた。


尊皇の志篤く、青蓮院宮尊融法親王近衛忠熙三条実万らと交流する一方で、日下部伊三治橋本左内ら志士たちとも接点を持ち国事に奔走した。

将軍継嗣問題水戸藩への密勅降下では主家鷹司政通を説いて攘夷派の重鎮へと転換させた。

また一橋派に属して政通・輔煕父子を補佐する。

しかし安政5年(1858年安政の大獄に連座して江戸に捕えられる。

翌安政6年(1859年)水戸・福井藩を密勅降下のために入京させたとして遠島刑となる。

後に肥後人吉藩預かりに減刑されるも、江戸に獄中で病没した。享年52。


墓所は東京都世田谷区松蔭神社。そのほか、京都府京都市京都霊山護国神社長徳寺にも墓石が建つ。

外部リンク
小林良典』 - コトバンク   
(wikiより)

0181   小林良典

小林良典

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