2022/03
6813 小林隼太墓(京都市東山区・東福寺長州墓地)
6812 久保直吉墓(京都市東山区・東福寺長州墓地)
6811 上山讃五郎墓(京都市東山区・東福寺長州墓地)
6810 植田滝之助墓(京都市東山区・東福寺長州墓地)
6809 吉田順之助墓(京都市東山区・東福寺長州墓地)
6808 宮本万蔵墓(京都市東山区・東福寺長州墓地)
6807 福島男也墓(京都市東山区・東福寺長州墓地)
6806 入江勝馬墓(京都市東山区・東福寺長州墓地)
6805 石川伊三郎墓(京都市東山区・東福寺長州墓地)
6804 藤村英次郎墓(京都市東山区・東福寺長州墓地)
6803 戸沢竹二郎墓(京都市東山区・東福寺長州墓地)
6802 河東三郎墓(京都市東山区・東福寺長州墓地)
6801 黒瀬千代太郎墓(京都市東山区・東福寺長州墓地)
6800 周田半蔵墓(東山区清閑寺霊山町1・霊山護国神社)
6799 松尾甲之進(望月亀弥太)墓(東山区清閑寺霊山町1・霊山護国神社)
望月 亀弥太(もちづき きやた/かめやた) 天保9年10月7日(1838年11月23日) - 元治元年6月5日(1864年7月8日))は、幕末の土佐藩士で、土佐勤皇党の一人。神戸海軍操練所生。諱は義澄。
文久元年(1861年)、兄・望月清平と共に武市半平太の尊皇攘夷思想に賛同して土佐勤王党に加盟し、文久2年(1862年)10月、尊攘派組織五十人組の一人として、江戸へ向かう旧藩主山内容堂に従って上洛する。
文久3年(1863年)、藩命を受けて幕臣・勝海舟の下で航海術を学び、その後、坂本龍馬の紹介で勝が総監を務める神戸海軍操練所へ入所するが、元治元年(1864年)、藩より帰国命令が出されたため脱藩して長州藩邸に潜伏。長州藩の過激尊皇志士達と交流を続けていたため、池田屋事件に遭遇した。池田屋を脱出した望月は幕府方諸藩兵によって取り囲まれて深手を負い、かろうじて長州藩邸に辿り着いたものの中へ入る事を許されずに門前で自刃した。享年27。明治31年(1898年)、従四位を贈られる。
坂本龍馬も勝海舟も、その死を嘆いた。
関連作品
テレビドラマ
・『新選組!』(2004年、NHK大河ドラマ 演:三宅弘城)
・『龍馬伝』(2010年、NHK大河ドラマ 演:音尾琢真)
(wikiより)
6798 松浦亀太郎墓(東山区清閑寺霊山町1・霊山護国神社)
生涯
魚商人の子として生まれる。のちに才覚を認められ、長州藩寄組・根来主馬の家臣として仕える。安政3年(1856年)吉田松陰の松下村塾に入り、尊王攘夷運動に参加。江戸に出て漢学を修める。安政5年(1858年)江戸で渡米を企てるものの、松陰が「勤皇倒幕の大事は目前に迫っており、今、海外に出るのは正しい策ではなく、時機ではない」と反対したため、取り止めている。文久2年(1862年)4月13日、久坂玄瑞らと上洛し、公武合体・開国派であった長州藩士・長井雅楽暗殺を計画したが、翻意を促されて断念し、京都粟田山にて切腹した。切腹の原因は、栗田宮(中川宮)が最初は尊攘派の旗を掲げていたにもかかわらず、幕府の懐柔策に乗り、佐幕派の支柱となって、尊攘志士を弾圧するようになったことへの抗議として、死を以って諌めたとも言われている。
幼少より絵画を志し、画家としては四条派の羽様西崕に師事しており、安政6年(1859年)安政の大獄によって江戸護送が決定した吉田松陰の肖像画を残している。
登場する作品
・『花燃ゆ』 - 2015年、NHK、演:内野謙太
参考文献
・『日本人名大辞典』講談社
・『コンサイス日本人名事典』三省堂
(wikiより)
6797 船越清蔵墓(東山区清閑寺霊山町1・霊山護国神社)
船越 清蔵(ふなこし せいぞう、文化2年8月23日(1805年9月15日) - 文久2年8月8日(1862年9月1日))は、幕末の長門国清末藩出身の陽明学者。諱は守愚。号は豊浦山樵。別名は小出勝雄。
経歴
豊浦郡岡枝村(現在の下関市菊川町)で船越孟正の子として生まれる。藩校育英館で学んだ後、文政年間に諸国を遊学して帆足万里・広瀬淡窓の元で学んだ後に長崎で蘭学と医学を学んだ。更に蝦夷地まで足を伸ばした後、大津更に京都で塾を開いて尊皇攘夷を論じた。
嘉永年間に上洛した久坂玄瑞は清蔵と会って意気投合し、長州にいた師の吉田松陰に清蔵の事を知らせた。松陰は清蔵と手紙や著書を遣り取りしているうちに、長州の有能な人間が京都で埋もれている事を憂慮して長州藩に清蔵の登用を進言したが、安政の大獄で松陰が処刑されたために実現しなかった。
万延元年(1860年)に桜田門外の変後の政情不安により故郷に戻って長府藩に仕官して、周防国佐波郡右田村(現在の防府市)に塾を開いた。平田銕胤門下で、文久2年(1862年)、上京した銕胤嫡男平田延胤に対し、長州藩内外の情勢、とりわけ航海遠略策を唱えた長井雅楽の藩内での地位などについて報告している[1]。同年、長州藩主毛利敬親の命で藩校明倫館に召された清蔵は萩城で敬親に歴史を講じた際に、朝廷を守るべき公家の身でありながら鎌倉幕府に仕えた大江広元を非難する論を述べた。だが、これに激昂した長州藩士に毒を盛られ、帰途に美祢郡で倒れて急死したのである[注釈 1]。(病死説もある)。
脚注
注釈
1. 長州藩主毛利家は、大江広元の子・毛利季光を初代としている。
出典
1. 天野「幕末平田国学と秋田藩」
外部リンク
天野真志「幕末平田国学と秋田藩:文久期における平田延太郎(延胤)の活動を中心に」 2011年7月(東北大学機関リポジトリ TOUR、pdfファイル)
(wikiより)
6796 河野理兵衛墓(東山区清閑寺霊山町1・霊山護国神社)
6795 野原彦之進墓(東山区清閑寺霊山町1・霊山護国神社)
6794 堀田音三郎墓(東山区清閑寺霊山町1・霊山護国神社)
6793 大町国太郎墓(東山区清閑寺霊山町1・霊山護国神社)
6792 幸吉墓(東山区清閑寺霊山町1・霊山護国神社)
6791 吉岡庄助招魂碑(東山区清閑寺霊山町1・霊山護国神社)
6790 河上四郎墓(京都市東山区・東福寺長州墓地)
6789 伊藤京次墓(京都市東山区・東福寺長州墓地)
6788 山下翠墓(京都市東山区・東福寺長州墓地)
6787 原川金蔵墓(京都市東山区・東福寺長州墓地)
6786 片山金次墓(京都市東山区・東福寺長州墓地)
6785 尾川猪三郎墓(京都市東山区・東福寺長州墓地)
6784 三浦龍助墓(京都市東山区・東福寺長州墓地)
6783 宇佐川熊太郎墓(京都市東山区・東福寺長州墓地)
6782 相木岡四郎墓(京都市東山区・東福寺長州墓地)
6781 石川厚狭介墓(京都市東山区・東福寺長州墓地)
6780 吉永道雄墓(台東区谷中1-2-14・天眼寺)
大正 6年 4月 29日 ~ 昭和 61年9月 6日 ( 1917 - 1986 )
日本で初めてガスライターを製品化した人。
昭和 9年 ( 1934 ) 東京都立工芸卒業。
昭和 13年 ( 1938 ) 家業の機械製作業を継ぎ、のち「吉永商店」を創設。
昭和 23年 ( 1948 ) 8月 31日吉永プリンス株式会社に改組して社長に就任。
東京都喫煙具商業共同組合理事長・日本喫煙具協会長・日本軽工業品団体連合会長を歴任。
昭和 36年 ( 1961 ) オイルライター全盛の時代にガスライターを草加市にある自社工場で完成させた。この時のモデル「プロナ 61」は、プリンスガスライター第1号機として発売された。69歳没。
※ 吉永プリンス ( 株 ) は、ライターを主要商品とした喫煙具の会社であったが、のちに平成 4年 ( 1992 ) ハンドバッグや日用品に商品を拡大し、ヨシナガ ( 株 ) となり、さらに平成 17年 ( 2005 ) スタイル・インデックス株式会社となっている。
台石「吉永家」。「慈眼院殿玄道雄峯大居士」。


6779 潮田千勢子墓(港区南青山2-32-2・青山霊園)
潮田千勢子 ( うしおだ - ちせこ )
( 1844 - 1903 )
社会運動家。
信州 ( 長野県 ) 飯田 ( いいだ )藩侍医丸山龍眠 ( りゅうみん ) の次女として江戸藩邸で生まれる。
1865年 ( 慶応 1 ) 同藩の潮田健次郎と結婚、3男 2女をもうけた。
82年 ( 明治 15 ) キリスト教に受洗。
83年夫健次郎に死別し、翌年子女とともに上京。
桜井女学校附属保母科および横浜聖純女学校を卒業し、幼児保育や伝道師として活躍。
86年東京婦人矯風会設立に参与。
公娼 ( こうしょう ) 制廃止、女子授産場を開設するなど社会事業に尽くし、97年東京婦人矯風会の会頭となる。
足尾銅山鉱毒問題が起こると、1901年 ( 明治 34 ) 鉱毒地救済婦人会を組織し、救済活動に晩年の生命を燃焼させた。
6778 佐佐木行忠墓(港区南青山2-32-2・青山霊園)
来歴
1893年、東京府(現・東京都)に生まれる。1914年、学習院高等科を卒業して京都帝国大学法科大学政経科に進み、1917年、東京帝国大学文科大学に転入学。在学中の1918年に貴族院議員となり、以後は国政に専念、1937年と1944年には貴族院副議長も務めた。1946年4月25日、貴族院議員を辞職[1]。
1934年から皇典講究所所長・1942年から國學院大學学長を歴任。戦後GHQの指令によって皇典講究所が解散した際には國學院の財団創立に奔走、理事長に就任したが公職追放を受ける。1946年に神社本庁顧問、1951年に伊勢神宮大宮司、1959年に神社本庁統理を務めた。1959年からは國學院大學の理事長・学長に復帰した。
栄典
・1916年(大正5年)8月21日 - 正五位[2]
家族・親族
祖父は佐佐木高行。父は佐佐木高美。妻・米子は元宮内省大膳頭・上野季三郎の四女[4][5]。行忠・米子夫妻の長男・行美は東京大学理学部の教授を務め[4]、住友財閥の16代目当主・住友吉左衛門友成の長女と結婚した[4]。長女・美枝子は串田孫一の妻、串田和美の母[6]。行忠の義兄に服部金太郎の長男で服部時計店の2代目社長を務めた服部玄三と加藤高明の次男で東明火災海上保険(現・日新火災海上保険)の取締役を務めた加藤厚太郎が[脚注 1]、義弟に團琢磨の長男で九州朝日放送会長を務めた團伊能がいる[脚注 2]。元東洋レーヨン会長・伊藤與三郎の妻・志保子は従妹[10]。
脚注
注釈
1. 玄三の妻・英子は上野の次女であり[4]、厚太郎の妻・冨美子は上野の三女である[4][7][8][9]。
2. 伊能の妻・美智子は上野の五女である[4]。
出典
1. 『官報』第5797号、昭和21年5月15日。
2. 『官報』第1219号「叙任及辞令」1916年8月22日。
3. 『官報』第1499号・付録「辞令二」1931年12月28日。
4. a b c d e f 『門閥』、449-451頁。
5. 『昭和人名辞典 第1巻 東京編』、427頁。
6. 『人事興信録』1995「串田孫一」の項。
7. 『昭和人名辞典 第1巻 東京編』、258頁。
8. 『大正人名辞典 III 上巻』、カ - 5頁。
9. 『池上彰と学ぶ日本の総理 22』、26頁。
10. 「伊藤與三郞 (男性)」人事興信録データベース(名古屋大学)
参考文献
・佐藤朝泰 著 『門閥 旧華族階層の復権』 立風書房、1987年4月10日第1刷発行、ISBN 4-651-70032-2
・『昭和人名辞典 第1巻 東京編』 日本図書センター、1987年10月5日発行、ISBN 4-8205-0693-5
・『大正人名辞典 III 上巻』 日本図書センター、1994年9月25日発行、ISBN 4-8205-2381-3
・『週刊 池上彰と学ぶ日本の総理 22 加藤友三郎・清浦奎吾・加藤高明』小学館、2012年6月19日発行
(wikiより)
佐佐木行忠
6777 安藤太郎墓(港区南青山2-32-2・青山霊園)
来歴
安藤太郎は、1910年1月3日、安藤源治郎の長男として宮城県刈田郡七ヶ宿町にて出生。仙台二中、旧制水戸高校を経て、1934年(昭和9年)東京帝国大学法科を卒業して、住友銀行へ入行。
住友銀行では、東京副支店長、東京事務所次長、本店営業部次長、そして銀座・日本橋の各支店長を歴任。
1959年(昭和34年)6月には東京事務所長、同11月取締役に就任する。1962年(昭和37年)4月に常務へ昇格、1967年(昭和42年)5月には専務、1972年(昭和47年)5月副頭取に就任する。副頭取は1974年(昭和49年)5月まで2年1期務め、その後住友不動産へ転じて社長、会長を務めた。
2008年(平成20年)6月27日付で健康上の理由で取締役を退き、相談役となった。
2010年(平成22年)5月9日、老衰の為、東京都内の自邸にて逝去[1]。100歳没。
都銀懇話会の三羽烏
安藤太郎が、金融界で注目されるようになったのは、東京事務所所長時代である。当時住友銀行は大阪が本店所在地であり、銀行のみならず、住友系企業グループの経営基盤は関西が多かった。その意味において住銀の東京事務所は、東京を中心とする政財界の動きはもとより、各方面のさまざまな情報を収集する「東京探題」として重要な役割を担っていた。
いわば東京事務所は、秘書室と広報室と総務部をいっしょにしたような機能を持っていたわけである。安藤は常務時代、「都銀懇話会」での活躍が特筆される。当時、都市銀行がしょって立つ経営基盤の戦略は、すべて「都銀懇話会」で生み出されたものといっても過言でなく、都銀の経営ビジョンづくりのタスクフォースとして注目された。当時「都銀懇話会」で「三羽烏」と呼ばれていたのは、富士銀行の松沢卓二常務、三菱銀行の黒川久専務、それに安藤であった。松沢は後に、富士銀行の頭取、黒川は副頭取から三菱油化社長に転出した。
家族
安藤太郎の妻満寿子は、山口県旧家の二代目百合本安太郎の二女。満寿子の姉香代子は元福岡県弁護士会長の白川慎一に、妹の直子はダイワ精工顧問秋庭正義に嫁いでいる。秋庭正義の叔父にあたる、秋庭義衛の妻千重子は、旧子爵、第一銀行頭取渋沢栄一の孫娘で旧子爵、大蔵大臣や貴族院議員、東京市長を歴任した阪谷芳郎の四女。したがって阪谷芳郎の孫娘らを娶っている大島寛一(元農中金副総裁)や経団連会長植村甲午郎の長男植村泰恵(東大理学部教授)らは甥にあたる。
安藤太郎の長姉みゆきの女婿、安藤秀夫は、日本出版販売相談役相田岩夫の実弟である。相田岩夫の妻静は、元内閣総理大臣濱口雄幸の二女。濱口雄幸の長男濱口雄彦(元国際電信電話会長)の二女淑は、上皇后美智子の兄である正田厳に嫁いでいる。
・勲一等瑞宝章(1990年)
関連項目
・住友家評議員会
脚註
1. “住友不中興の祖、安藤太郎氏死去 多角化経営で立て直す”. 共同通信. (2010年5月12日) 2014年5月21日閲覧。
2. 『官報』第301号「叙任及辞令」1884年7月1日。
3. 『官報』第2591号「叙任及辞令」1892年2月23日。
(wikiより)
安藤太郎
6776 島村速雄墓(港区南青山2-32-2・青山霊園)
島村 速雄(しまむら はやお、安政5年9月20日(1858年10月26日) - 大正12年(1923年)1月8日)は、日本の海軍軍人。元帥海軍大将正二位勲一等功二級男爵。高知県出身。海南学校出身。二男は立花和雄(立花伯爵家を継承)。
「非常な秀才で智謀は底が知れない、軍人には珍しいほど功名主義的な所が無い、生涯はつねに他者に功を譲ることを貫いた、天性のひろやかな度量のある人物」などと評される。
生涯
生い立ち
安政5年(1858年)、土佐藩の郷士・島村左五平と妻・鹿子の間に生まれる。幼名は午吉で、四人兄弟の次男であった。幼い頃から秀才ぶりを発揮していたが、9歳の時に父を亡くし、家計が厳しかったため、学費が不要な海軍兵学寮への進学を希望し、勉学に励んだ。16歳のとき、島村の才気を耳にした司法省の役人から養子の誘いがあったが、「男子たるもの、他人の力で出世するのは意気地の無いことだ」として断っている(このとき、彼の代わりとして末弟が養子入りした)。17歳のときに上京、海軍兵学寮を受験して合格した(島村の在学中に「海軍兵学校」に改称)。
兵学校から士官へ
海軍兵学寮でも、相変わらずの秀才であった島村は、本科では常に首席であり、「兵学校7期に島村あり」と言われるほど名を知られるようになった。この兵学校時代では、イギリス式の海軍規律に初めて触れるとともに、吉松茂太郎や加藤友三郎らとの親交を持った。
23歳で兵学校を卒業して海軍少尉補となり、軍艦「扶桑」の乗組員に任ぜられる。当時甲板掛士官であった、兵学校の1期先輩である斎藤実は、転任の際、後任として誰を推薦するかと問われ、島村と即答している。その後島村は少尉に昇り、軍艦「浅間」乗務に転任する。
当時、日本の隣国清の海軍は、二大戦艦「定遠」「鎮遠」を備え、生まれたばかりの日本海軍にとって多大な脅威であった。これに早くから危機感を抱いていた島村は、独学で砲術を学ぶようになる。戦術の専門家が軍内に育っていなかった当時のこと、島村は浅間乗務のまま砲術教授となり、その働きが認められて中尉に昇任する。島村は戦術をまとめた論文(アメリカ海軍軍人の著作の抄訳であったが)を発表したり、戦術の実地演習の演習法を考案したりと、海軍の戦術の進歩に貢献していく。それらの功績から大尉に昇った島村は、明治22年(1889年)からイギリスに3年間出張し、イギリス海軍のノウハウを学び、自らの戦術立案能力に磨きをかけることになる。
常備艦隊参謀
イギリスから帰国した島村は、巡洋艦「高雄」の分隊長兼砲術長を経て、明治26年(1893年)3月13日、常備艦隊の参謀に任命される。当時の島村の大尉という階級から考えて、これは異例の大抜擢であった。同年5月に常備艦隊司令長官に着任した伊東祐亨中将のもと、彼はイギリス仕込みの訓練法を徹底するなど辣腕をふるった(当時の常備艦隊には参謀は島村一人しか置かれておらず、また伊東司令長官の磊落かつ悠揚な性格もあって、彼の意見はそのまま採用されることが多かった)。翌年に常備艦隊が改組されて連合艦隊となり、伊東が司令長官に就任すると、島村もまた連合艦隊参謀となった。同年新たに鮫島員規大佐が参謀長に就任し、島村の直接の上官となったが、鮫島は職務を部下任せにする気質があったため、島村の意見が持つ影響力には変化はあまり無かったようである。また同年少佐に昇任している。
日清戦争
日清戦争においては、島村は参謀として、連合艦隊旗艦「松島」に乗り組んで参加した。途中で上役である参謀長が出羽重遠大佐(当時)に交代した。鮫島とは異なり、謹厳かつ豪胆な性格の出羽であったが、島村とは気が合い、関係は良好であった。
日清戦争における島村のはたらきとしては、作戦立案面では坪井航三が主張していた単縦陣戦法を支持して黄海海戦を勝利に導いたほか、艦隊首脳部の間を取り持つ調停役としての活躍もある。敗戦の責任をとって清国の提督・丁汝昌が自害した際、清から没収した艦船の中から商船「康済号」を返し、丁の亡骸を送らせるという伊東の行動は世界各国から賞賛を受けたが、これにも島村の助言があったと言われる。
結婚
日清戦争終結後、島村は軍令部局員として働く傍ら、海軍大学校で教鞭を執ったり、イタリアへ駐在武官として派遣されたりと忙しい毎日を送っていたが、同居している母の鹿子が高齢になっていることもあり、身を固める意味で結婚を決意した。しかしそれまで結婚には一切興味が無かった島村には想う相手などおらず、親戚に紹介された20歳以上年下の女性に、写真すら見ないまま決めてしまった。実際に二人が顔を合わせたのは結納の日が初めてであった。結婚は明治31年(1898年)、島村41歳のときで、花嫁の近藤菅尾は当時19歳。結果的に結婚生活は上手くいき、夫婦仲は生涯円満であった。
義和団の乱
明治32年(1899年)、大佐にまで昇っていた島村は、防護巡洋艦「須磨」の艦長に任じられる。下士官まで懇ろに労り、しばしばポケットマネーで催しを開いたり、士官を食事に誘ったりして、艦内の空気を良くすることに尽力する彼の勤務態度は高い評価を受けた。
翌年義和団の乱が勃発すると、澎湖島の馬公にいた須磨は直ちに大沽に派遣されて警備についた。島村は当時の海軍大臣山本権兵衛から、大沽に派遣された日本海軍の司令官役として推され、指揮を執った。迅速かつ的確な判断で指示を出す一方で、自ら哨兵として立つなど率先して働き、その目覚しい活躍から、英国海軍中将シーモアから感謝のメッセージを貰っている。
日露戦争
義和団の乱が終結すると、日本とロシアの対立がいよいよ鮮明となった。明治36年(1903年)、来るべきロシアとの戦争に備えて連合艦隊が再び組織され、東郷平八郎中将が司令長官に任命されたが、島村は幕僚のトップである参謀長となった。これには日清戦争での経験から伊東祐亨が強く推挙したことも大きい。
日露戦争には旗艦「三笠」に乗り組み、旅順港封鎖に参加。連合艦隊は機雷によってロシア海軍の名将ステパン・マカロフを戦死させたが、このときに機雷敷設の指揮をとった小田喜代蔵に対し、作戦の訓令を起草したのは島村であった(他にも東郷名義の報告書を代筆するなど、文章力についても評価されていたようである)。この間に少将に昇任している。
秋山真之や有馬良橘ら幕僚たちをまとめ、東郷をよく補佐する島村の働きぶりは目覚しく、東京朝日新聞や読売新聞に彼を称賛する記事が大きく取り上げられるなど海軍外にもその活躍は知れ渡ったが、彼は旅順封鎖作戦終了後に参謀長の座を降り、第二艦隊第二戦隊司令官に転任となっている。理由としては、旅順口閉塞作戦の失敗や、駆逐隊司令の一斉交代(黄海海戦での駆逐艦隊の働きが悪かったので、人心の一新が図られたため。島村もこれに賛同していた)などの責任を被る形で自ら辞職したと言われている。後任の参謀長として、海軍兵学校時代からの旧友である加藤友三郎を指名した。また秋山真之の能力を早くから高く買っていたようで、「作戦は彼に任せておけば問題ない」と太鼓判を捺しているが、秋山の功績とされているものの中には島村の発案を継承したものも少なくなかったことが最近の研究で明らかになってきている。このように島村は自分の周囲の不始末については自ら責任をとりつつ、業績については他に譲ることを常としていた。
転任後は第二戦隊旗艦「磐手」に坐乗して指揮を執ったが、連合艦隊における発言力は変わらなかったようで、バルチック艦隊をどこで迎え撃つかについて、当初作戦会議ではバルチック艦隊が津軽海峡もしくは宗谷海峡を通るものと踏んで、連合艦隊を北上させるべきであるとの意見が大勢を占めていたが、最終的には島村が賛同していた対馬海峡での迎撃案が採用され、日本海海戦での大勝への第一歩となった。
日本海海戦においては、自ら常に艦橋に立って戦況を具に眺めていた。戦闘終了後に妻に宛てた手紙には、「拙者儀はこのたびは別して閑にて何の御用もなく、ただ空前の大海戦の光景と大勝利を拝見いたし候のみにて、生来これくらい愉快を覚え候事はこれなく候」と認めている。
後進の育成
日露戦争終結直後の明治38年(1905年)12月19日に、日本に初めて練習艦隊が正式に組織されることとなり、島村は初代司令官となった。また翌年には海軍兵学校の校長に、明治41年(1908年)には中将に昇るとともに海軍大学校の校長に補されている。数年のうちに海軍士官の育成に関わる重職を三つ歴任したことになり、彼の手腕が評価されていたことが窺われる(大正3年(1914年)には海軍教育本部長にもなっている)。
また、この間に第二回万国平和会議に、日本海軍の代表として列席するためハーグへ出張している。
軍令部長
明治42年(1909年)に第二艦隊司令長官、明治44年(1911年)に佐世保鎮守府司令長官、と転属を繰り返した後、大正3年(1914年)に東京に戻って海軍教育本部長となったが、シーメンス事件のあおりを受けて伊集院五郎が軍令部長を辞職、その後任となった。当時の海軍大臣は島村の親友・加藤友三郎であり、海軍省との連携は非常に円滑であった。軍令部長在任時、日本は第一次世界大戦に参戦し勝利、また彼自身大将に昇任となった。
大正9年(1920年)、八八艦隊の予算案が通過したのを見届けて軍令部長を退くことを決意、山下源太郎を後任に推薦して自らは軍事参議官となった。
晩年
参議官は閑職であり、以降は穏やかな晩年を送った。次第に脳血栓の症状が出るようになり、大正12年(1923年)1月8日、脳梗塞により薨去。享年66。葬儀委員長は旧友の吉松茂太郎が務めた。死後元帥位が追贈され、土佐出身者として初の元帥となった。
エピソード
・同郷の吉松茂太郎大将とは生涯を通じた友人だった。漢学者の家系である吉松は文系が得意で、島村は逆に理系に強かったが、海軍兵学校時代の試験で数学の問題を解き終えた島村が歌舞伎役者の落書きを書いて吉松に見せつけ、吹き出した吉松が教官から叱責された。吉松はその悪戯を本気で根に持っていたという。
・大尉時代には、仁礼景範中将の令嬢春子との縁談があった。しかし島村はイギリス留学中に落馬事故を起こし、耳鳴りの後遺症が残った。このことが大げさに日本へ報告されたため、結婚の話は沙汰止みとなった。ちなみに春子はのちに斎藤実大将に嫁いでいる。春子は二・二六事件で夫を失い、自らも夫をかばって銃弾を受けたが、98歳の長寿を全うした。
・この落馬事故の際に見舞った有馬良橘(のち海軍大将)を島村は終生かわいがった。この時には有馬が研究していた和文手旗信号の完成を大いに賞賛している。のちに日露戦争で有馬が陣頭指揮を執った旅順口閉塞作戦がことごとく失敗したため、有馬を連合艦隊参謀から更迭せざるを得なくなったが、島村も自ら連合艦隊参謀長の座から退いている。これは有馬を慮った行動ではないかと言われる。
・艦長職としては唯一、戦艦「初瀬」を担当している。操艦術は得意ではなく、石橋甫副長や千坂智次郎航海長ら現場経験の長いスタッフ任せだったと言われている。元山港入港時に石橋副長に無断で操艦し、係留ロープをスクリューに巻き込んでしまい、一晩かけてほどく羽目になったこともある。
・同期の藤井較一大将とは正反対の性格ながら馬が合った。日本海海戦直前の作戦会議では、対馬海峡残留を説く藤井に賛同する者はまったくなかったが、遅れて登場した島村が藤井と同意見を述べるや、会議の流れは一挙に対馬残留に変化したという。また私生活でも、借家の賃貸期限が切れそうになって途方に暮れる島村に、藤井が長らく住んでいた旧宅を提供している。ただし、実は藤井の旧宅も借家だった(藤井本人は戸建と信じて疑わなかった)ため、家主に乗り込まれた島村は大いに困惑したという。
・日露戦争中の旅順封鎖作戦終了後に島村から連合艦隊参謀長を引き継いだ加藤友三郎とは、海軍兵学校時代からの旧友であり無二の親友である。加藤の総理大臣就任については、加藤の健康状態を慮って頑強に反対している。しかし自らが先に脳梗塞で倒れ、病床のうわ言で加藤を案じながら逝去した。島村が厄年の頃に「若い女性と婚約した」と報道された際、加藤が新聞の切抜きを手に「この報道は事実か?」と尋ねたことがある。生涯家庭に恵まれなかった加藤に何か思うところがあったのではないかと島村は述懐している。
・家庭人としては温厚な家長であった。早くに父を亡くし、母との暮らしが長かった。姑との仲がよくやり繰り上手な妻を持ち、子供の教育にもおおらかであった。一方、客人を必要以上にもてなすために家計は苦しく、清貧生活を貫いた。
・千葉県一宮町に別荘を所有した。近隣には斎藤実、加藤友三郎や仁礼景範など海軍出身者の別荘が建ち並んでいた。
・海軍大学校校長時代、博文館の雑誌『太陽』が企画した「次代の適任者は誰か」という読者投票企画で、「次代の連合艦隊司令長官」部門で第一位となった。しかし島村は「日露戦争での戦勝はひとえに東郷司令長官と名参謀たちによるもので、自分は特段の働きをしておりません。もし将来自分が連合艦隊司令長官を拝命し、業績を残して職務を全うしたなら、そのときに初めてお受けします」と言って表彰を固辞したという。
詳しいことは、「島村速雄ウィキペディア」をご覧ください。 ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B3%B6%E6%9D%91%E9%80%9F%E9%9B%84
(wikiより)
島村速雄
6774 伊集院彦吉墓(港区南青山2-32-2・青山霊園)
経歴
伊集院彦吉は1864年7月22日(元治元年6月19日)に薩摩藩鹿児島城下高麗町において、藩士伊集院吉次の長男として生まれた。1890年7月に東京帝国大学法科大学政治科を卒業した後、すぐに外務省に入省した。同期には石井菊次郎がいる。1892年からは翻訳官となり、1893年には 芝罘(のち山東省煙台)の副領事として清朝支配下の中国大陸に渡った[2]。1894年にはロンドンの日本公使館の書記官としてイギリスに赴任し、1896年6月まで務めた[2]。9月には釜山一等領事として大韓帝国に赴任し、仁川の領事も務めた。
1901年2月には天津の領事となり、1902年1月には総領事に昇任した[2]。伊集院は豪放磊落な言動で知られ、周囲からは「伊集院公使」と呼ばれた[2]。彼の領事時代に天津の日本人居留地は拡大し、華北地方における日本の策源地へと成長した[3]。また、北洋大臣直隷総督の袁世凱、その部下の唐紹儀と親交を結んだ[4]。1908年6月には北京駐在の特命全権公使となった。しかし1911年に勃発した辛亥革命においては、立憲君主制が存続する見通しを持ち、袁世凱らを支援しようとしたが、袁世凱が革命派に寝返ったことで中華民国が成立した。伊集院は自らの政治的失敗を認め、公使の辞職を上申したが、「貴官ノ進退ハ時局ニ容易ナラサル関係ヲ有スル」という内田康哉外相の裁定によって却下された[4]。1916年にはイタリア特命全権大使として赴任し、15年間駐在した中国大陸を離れた。
第一次世界大戦後に開催されたパリ講和会議においては全権の一人となった。しかし会議の最中に行われた中華民国の猛烈な宣伝工作に対し、日本側は「サイレント・パートナー」と呼ばれる消極的な外交しかできなかった。外務省の若手官僚達は「革新同志会」を設立し、対外アピールのための組織改革を訴えた。1920年4月には外務省内に情報局が設立され[5]、伊集院をその局長とした[6]。
1922年には関東長官(関東庁の長官)に転じ、外務省を離れた。1923年9月に成立した第二次山本権兵衛内閣では外務大臣となったが、内閣が虎ノ門事件で総辞職したために3ヶ月の在任であった。1924年4月26日、胃ガンに依り薨去。
家族
・妻:芳子(大久保利通の長女)
・子:虎一、仁二、清三、清子、四郎、恭子、清彦、藤子
年譜
・1890年7月 東京帝国大学法科大学政治科卒業。同年外務省入省。
・1908年 英国大使館に参事官として勤務
・1920年9月 男爵
・1923年9月 第2次山本内閣外務大臣就任
栄典
位階
・1892年(明治25年)9月26日 - 従七位[7]
・1914年(大正3年)2月20日 - 正四位[13]
勲章等
・1895年(明治28年)10月31日 - 勲六等単光旭日章[14]
・1900年(明治33年)12月20日 - 勲五等瑞宝章[15]
・1902年(明治35年)12月28日 - 双光旭日章[16]
・1906年(明治39年)4月1日 - 勲二等旭日重光章[17]・明治三十七八年従軍記章[18]。
・1915年(大正4年)11月10日 - 大礼記念章[19]
・1924年(大正13年)4月26日 - 旭日桐花大綬章・帝都復興記念章[21]
脚注
1. 伊集院彦吉(いじゅういん ひこきち)とは - コトバンク
2. a b c d 松村正義 2010, pp. 85.
3. 松村正義 2010, pp. 85-86.
4. a b 松村正義 2010, pp. 86.
5. 官制上の設立は1921年8月15日
6. 松村正義 2010, pp. 87.
7. 『官報』第2776号「叙任及辞令」1892年9月27日。
8. 『官報』第3142号「叙任及辞令」1893年12月18日。
9. 『官報』第4004号「叙任及辞令」1896年10月31日。
10. 『官報』第4764号「叙任及辞令」1899年5月22日。
11. 『官報』第5628号「叙任及辞令」1902年4月12日。
12. 『官報』第7678号「敍任及辞令」1909年2月2日。
13. 『官報』第468号「叙任及辞令」1914年2月21日。
14. 『官報』第3704号「叙任及辞令」1895年11月1日。
15. 『官報』第5243号「叙任及辞令」1900年12月21日。
16. 『官報』第5848号「叙任及辞令」1902年12月29日。
17. 『官報』号外「叙任及辞令」1907年3月31日。
18. 『官報』第7578号・付録「辞令」1908年9月28日。
19. 『官報』第1310号・付録「辞令」1916年12月13日。
20. 『官報』第2431号「授爵・叙任及辞令」1920年9月8日。
21. 『官報』第1499号・付録「辞令二」1931年12月28日。
参考文献
・松村正義「決断の時・知られざる外交官の舞台(第4回)中国勤務を望んだ気概ある外交官 伊集院彦吉 駐清国(中国)公使」『外交』第4巻、外務省、2013年2月、 84-87頁、 NAID 40018927697。
6773 阪谷希一墓(台東区谷中・谷中霊園)
経歴
大蔵官僚阪谷芳郎の長男として生まれる。第二高等学校を経て、東京帝国大学法科大学政治科に入学[3]。在学中に高等文官試験に合格し、1914年(大正3年)に卒業した[3]。卒業後は日本銀行に勤務し、本店、名古屋支店を経て、1920年(大正9年)からはロンドン支店に赴任した[1][3]。1924年(大正13年)、関東庁に転じ、事務官・財務部財務課長を務めた[3]。1929年(昭和4年)からは拓務書記官、資源局事務官、拓務大臣秘書官、拓務省殖産局長心得・南満州鉄道監理官・東洋拓殖監理官を歴任した[3]。
退官後は満州国に招かれ、総務庁次長を務めた。1935年(昭和10年)に退任した後は、満州国協和会次長、満州中央銀行監事に就任し、翌年には南満州鉄道株式会社理事となった[3]。1939年(昭和14年)からは中国聯合準備銀行顧問を務めた[3]。
1943年(昭和18年)1月、貴族院議員に選出され[2][4]、1946年(昭和21年)4月24日に辞職した[5]。
栄典・授章・授賞・
1937年(昭和12年)2月23日 - 勲三等旭日中綬章・昭和六年乃至九年事変従軍記章[6]
親族
・阪谷朗廬 - 祖父。儒学者。
・阪谷芳直 - 子。エコノミスト、思想史家。
・娘の春子は東大理学部教授植村泰忠の妻。
・娘の朗子は新日本製鉄監査役大島寛一の妻。
・渋沢栄一 - 母方の祖父。実業家、子爵、貴族院議員。
・三島弥太郎 - 妻の父。日本銀行総裁。
・三島通陽 - 妻の兄。貴族院議員、参議院議員、文部政務次官。
系譜
2代四郎兵衛の頃、延宝8年(1680年)検地帳に、2町6反7畝2歩(2.65ha)の田と1町5反4畝2歩(1.53ha)の畑を所有とある。3代治兵衛の頃には、田畑4町9反8畝(4.94ha)の地主になった。5代甚平(甚八)は同村友成の伊達家から婿養子に迎えられ、“中興の祖”となった。2町7反6畝7歩(2.74ha)の田と1町1反9畝7歩(1.19ha)の畑を所有して高合計24石となった。延享2年(1745年)に酒造を始め、天明5年(1785年)に250石仕込んだが、天明の飢饉により同6年に半減、同7年には3分の1まで減少した。領主戸川氏から坊主格を賜り、“坂谷”から“坂田”と改姓した。寛延2年(1749年)に御札座役となり札屋と呼ばれるようになった。
※ 家計図については「阪谷希一ウィキペディア」をご覧ください。 ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%98%AA%E8%B0%B7%E5%B8%8C%E4%B8%80
脚注
1. a b 大衆人事録 1930.
2. a b 議会制度七十年史 1960.
3. a b c d e f g 人事興信録 第12版 1939.
4. 『官報』第4797号、昭和18年1月12日。
5. 『官報』第5794号、昭和21年5月11日。
6. 『官報』第3068号「敍任及辞令・二」1937年3月27日。
参考文献
・帝国秘密探偵社編『大衆人事録 第3版』帝国秘密探偵社、1930年。
・人事興信所編『人事興信録 第12版(上)』人事興信所、1939年。
6772 高橋丈雄墓(松山市御幸1-281・長建寺)
6771 奥平鶯居墓(松山市道後湯月町4・円満寺)
散と見し
幻消て花に月
奥平鶯居 ( おうきょ )
( 1809 - 1890 ) 文化六年 - 明治二三年
鶯居は貞臣 ( さだおみ )、通称は弾正、山城ともいい、梅滴とも号した。
松山藩の家老で藩政の首班に列した。
はじめ松山の塩見黙 ( しおみもく ) 翁について俳諧の指導を受けたが、後に田川鳳朗 ( ほうろう ) の俳風を慕って一家をなし、明治前期・大原基戎 ( きじゅう ) と地方俳壇の双璧といわれて中央俳壇にもその名はけんでんされた。
墓碑句。
(案内板より)
奥平鶯居 ( おくだいら - おうきょ )
( 1809 - 1890 )
江戸後期 - 明治時代の俳人、武士。
文化 6年 3月 17日生まれ。
伊予 ( いよ ) 松山藩筆頭家老。
江戸詰のとき田川鳳朗 ( ほうろう ) の門人となった。
明治 14年俳誌「俳諧 ( はいかい ) 花の曙」を創刊。
明治 23年 8月 25日死去。 82歳。
名は貞臣。通称は弾正。別号に梅滴庵。句集に「梅鶯集」。
6770 櫻井忠温墓(松山市祝谷東町442・道後鷺谷墓地)
経歴
1879年(明治12年6月11日、愛媛県松山城下の小唐人町(現・松山市大街道1丁目)に士族の3男として生まれる。1899年(明治32年)、松山中学校を卒業し、神戸税関に勤務。1901年(明治34年)11月、陸軍士官学校卒業(13期)。
松山の歩兵第22連隊旗手として日露戦争に出征。乃木将軍配下、旅順攻囲戦で体に8発の弾丸と無数の刀傷を受け(全身蜂巣銃創)、右手首を吹き飛ばされる重傷を負う。余りの重傷に死体と間違われ、火葬場に運ばれる途中で生きていることを確認されたという。
帰還後、療養生活中に執筆した実戦記録『肉弾』を1906年(明治39年)に刊行。戦記文学の先駆けとして大ベストセラーとなり、英国、米国、ドイツ、フランス、ロシア、中国など15カ国に翻訳紹介される。
1924年(大正13年)以降、陸軍省新聞班長を務め、1930年(昭和5年)、陸軍少将で退役。著作には『銃後』『草に祈る』『黒煉瓦の家』『大将白川』『将軍乃木』『煙幕』などのほか、晩年の自伝『哀しきものの記録』がある。また少年時代に画家を志し、四条派の絵師に学んだほど画技にも秀で、画集も出版している。
太平洋戦争時の活動から、1947年(昭和22年)公職追放に遭い、1952年(昭和27年)解除。長く東京で暮らしたが、1959年(昭和34年)に帰郷。
1962年(昭和37年)に松山坊っちゃん会[1]を設立、初代名誉会長となる[1]。
1965年(昭和40年)9月17日、松山市一番町の菅井病院で死去。86歳没。
坊っちゃん連載
1962年(昭和37年)に5月から7月までには愛媛新聞の夕刊として、かつて1906年(明治36年)に高浜虚子が主宰した雑誌「ホトトギス」に発表された夏目漱石の名作「坊っちゃん」の挿絵を担当した。夏目漱石が教師として松山時代に赴任した時、教え子となった[1]。「漱石赴任120年」として2015年2月22日から52年ぶりに愛媛新聞で再び掲載された[1]。
著書『肉弾』
詳細は「肉弾」を参照
難攻不落の要塞といわれた旅順口。ここに乃木希典大将率いる大日本帝国陸軍第三軍は、ステッセル司令官率いる強大国ロシア軍と壮烈な攻防戦を繰り広げた。
本書は、旅順要塞をめぐる日露両軍の激戦の模様を克明に伝えるほか、惨劇を極める戦場の極限状態にあって、なお部下や戦友の安否を気づかい、家族を想う兵士達の姿を感動的に描く。
日露戦争後、櫻井は明治天皇から破格の特別拝謁の栄誉に授かり、ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世は本書をドイツ全軍の将兵に必読書として奨励した。また日露戦争終結に尽力したアメリカ大統領セオドア・ルーズベルトは、櫻井宛に「予はこの書の数節を我が二児に読み聞かせたが、英雄的行為を学ぶことは一朝有事の時に際して、一般青年の精神を鼓舞すべきもの」という賞賛の書簡を寄せた。 英国・米国・フランス・ドイツ・ロシア・中国など、世界15カ国で翻訳出版され、近代戦記文学の先駆けとして世界的ベストセラーとなる。
脚注
1. a b c 愛媛新聞(2015年2月17日付、21面)
2. 愛媛新聞(2015年2月14日付、1面)
(wikiより)
櫻井忠温
6769 中村草田男墓(松山市祝谷東町442・道後鷺谷墓地)
経歴
清国(現中国)福建省廈門にて清国領事中村修の長男として生まれる。母方の祖父は松山藩久松家の重臣[1]。1904年、母とともに中村家の本籍地・愛媛県伊予郡松前町に帰国。2年後松山市に転居。1908年、一家で東京に移り赤坂区青南尋常小学校(のち港区立青南小学校)に通学する。1912年、再び松山に戻り松山第四小学校に転入。1914年、松山中学に入学。先輩に伊丹万作がおり兄事する存在となる。1916年、伊丹らとともに回覧同人誌「楽天」を制作。1918年、極度の神経衰弱にかかり中学を1年休学。復学した頃にニーチェの『ツァラトゥストラかく語りき』に出会い生涯の愛読書となる[2]。
1922年、松山高等学校入学。直後に可愛がられていた祖母に死なれたことで不安と空虚に襲われ、その解決の鍵として哲学・宗教に至る道を漠然と思い描く[3]。1925年、一家で東京に移転、4月に東京帝国大学文学部独文科に入学。チェーホフやヘルダーリンを愛読するが、1927年にふたたび神経衰弱に罹り翌年休学。このころに斎藤茂吉の歌集『朝の蛍』(自選歌集、改造社、1925年)を読んで詩歌に目を開き、「ホトトギス」を参考にしながら「平安な時間を持ち続けるための唯一の頼みの綱」となる句作を始め[4]、俳号「草田男」[5]を使い始める。
1929年、母び叔母の紹介で高浜虚子に会い、復学したのち東大俳句会に入会。水原秋桜子の指導を受け、「ホトトギス」9月号にて4句入選する。
1931年、国文科に転じ、1933年卒業。卒論は「子規の俳句観」。卒業後成蹊学園に教師として奉職。1934年、「ホトトギス」同人。1936年、縁談を経て福田直子と結婚。1938年より下北沢に住む。1939年、学生俳句連盟機関誌「成層圏」を指導。また『俳句研究』座談会に出席したことをきっかけに、石田波郷、加藤楸邨らとともに「人間探求派」と呼ばれるようになる。1945年、学徒動員通年勤労隊として福島県安達郡下川崎村に向かい、同地にて終戦を迎える。
1946年、「成層圏」を母体として「萬緑(ばんりょく)」を創刊、終生まで主宰。1949年、成蹊大学政経学部教授に就任、国文学を担当する。1954年下高井戸に転居。1959年、朝日俳壇選者。1960年、現代俳句協会幹事長となるが、現代俳句協会賞選考を巡って協会内で意見対立が起こったため、1961年に協会を辞し新たに俳人協会を設立、初代会長に就任する。1965年、成蹊大学文学部教授。1967年に定年退職後、非常勤講師となったのち、1969年に同名誉教授。1972年、紫綬褒章。1974年、勲三等瑞宝章。1978年、メルヘン集『風船の使者』により芸術選奨文部大臣賞受賞。
1983年8月5日、急性肺炎のため東京都世田谷区北烏山の病院で死去[6]。82歳没。死の前日洗礼を受けた。洗礼名「ヨハネ・マリア・ヴィアンネ・中村清一郎」。墓は東京都あきる野市の五日市霊園にある。没後の1984年、日本芸術院恩賜賞が贈られた[7]。
妻直子との間に四人の娘をもうけている。お茶の水女子大学教授(フランス哲学)の中村弓子は三女。
作品
代表的な句としては、
・蟾蜍(ひきがえる)長子家去る由もなし(『長子』所収)
・降る雪や明治は遠くなりにけり(1931年作。『長子』所収)
・冬の水一枝の影も欺かず(『長子』所収)
・玫瑰(はまなす)や今も沖には未来あり(同)
・萬緑(ばんりょく)の中や吾子の歯生え初むる(1940年作。『火の島』所収)
・勇気こそ地の塩なれや梅真白(1944年作。『来し方行方』所収)
・葡萄食ふ一語一語の如くにて(1947年作。『銀河依然』所収)
などがある。自己流で「ホトトギス」の客観写生を学んだのち、季語の象徴性を生かし、西洋近代文学の思想性を日本的な情感に解かしこむ表現を模索[8][1]。「金魚手向けん肉屋の鉤に彼奴(きゃつ)を吊り」など、時にその表現は難解な語句や大胆な字あまり・破調となり「難解派」と呼ばれる一因ともなった[9]。同じく難解派・人間探求派と呼ばれた加藤楸邨、石田波郷が「ホトトギス」を離反した「馬酔木」に拠ったのに対し、草田男は「ホトトギス」に残り続け、俳句の伝統性固有性の枠内に止まろうとしたが、「ホトトギス」のスローガンである「客観写生」「花鳥諷詠」を安易に運営すれば自己不在、人生逃避に陥りかねないという危惧も持っていた[10]。戦時になると時局に便乗した年長の俳人からの圧力もあり、1943年より「ホトトギス」への投句を断念している[11][12]。
一方で日野草城のフィクション的な連作「ミヤコホテル」を強く批判したのを初め、新興俳句運動に対しては強い興味を示しつつも楸邨らとともに強力な批判者としての立場に身を置く[13]。「海紅」を去った河東碧梧桐や風間直得が提唱したルビ俳句運動に対しても「日本語そのものの破壊のわざ」と痛烈に批判した[14]。戦後も第二芸術論、「天狼」の根源俳句論、前衛俳句や山本健吉の「軽み」論をめぐる論争でこれらを批判、ほか自身の『銀河依然』(1953年)の序が俳句の社会性の問題を惹起するなど、戦後の俳句論争史において常に主導的な役割を果たした[1]。また草田男の戦中の作「壮行や深雪に犬のみ腰をおとし」について、この句の犬を戦中の熱狂に対する批判的精神が見出した「写実的象徴」として評価する赤城さかえと、そのような曖昧な手法は否定すべきだとする芝子丁種との間で1947年から翌年にかけて論争があり「草田男の犬論争」と呼ばれている[15]。
掲句の「蟾蜍」は第一句集『長子』を代表する句で、自解によれば「『宿命の中における決意』に近いもの」を暗示しているという(山本健吉はニーチェの「運命愛」と結び付けて論じている)。「由もなし」を「術もなし」に類するような意味で解釈されたことがあったが、字義どおり「そのようなことは起こりえない」の意であると草田男自身が抗議している[16]。「降る雪や」の句は大学時代、母校の青南小学校を訪ねたときの感慨を詠んだ句で、草田男の名を離れて広く知られている句である[17][1]。1977年には同校に句碑が建てられている[2]。
「萬緑の」は「萬緑(万緑)」という語を季語として初めて用い定着させた句[18]。この語は王安石の詩(作者は別人説もある)「咏柘榴詩」の「万緑叢中紅一点、動人春色不須多」などに見られる。「勇気こそ」の「地の塩」は、聖書の「汝らは地の塩なり。塩もし効力を失わば、何をもてか之に塩すべき」(マタイ伝福音書5章13節)という一節に由来する熟語で、他者から価値付けられるのではなく、自らが価値の根元となるものの意に用いられる言葉である。句は教え子たちの学徒動員に際して作られた[19]。
著作リスト
句集
・『長子』第一句集。初版は1936年、沙羅書店。338句収録。
・『火の島』1939年、龍星閤。553句。題箋は高村光太郎。
・『萬緑』1941年、甲鳥書林。昭和俳句叢書中の一冊として刊行された。232句。他に前二冊から自選した句も叢書に収められた。装丁は武者小路実篤。
・『来し方行方』1947年、自文堂。715句。
・『銀河依然』1953年、みすず書房。近作788句に『長子』時代のもの13句を加えた。
・『母郷行(ぼきょうこう)』1956年、みすず書房。653句。
・『美田(びでん)』1967年、みすず書房。239句。
・『時機(とき)』1980年、みすず書房。1960年前後の作品439句に72年の群作37句を加えた。
・『大虚鳥(おほをそどり)』 2003年、みすず書房。遺句集。1963年から没年までの『萬緑』発表句5000句あまりから765句を選んだもの。
選句集・全句集・全集
・二百句撰 榛の木書房 1949
・草田男自選句集 河出書房 1951 (市民文庫)
・中村草田男句集 山本健吉編 角川文庫 1952
・新編中村草田男句集 香西照雄編 角川文庫 1965
・定本中村草田男全句集 集英社 1967
・中村草田男全集 全18巻別巻1 みすず書房 1984 - 91
・草田男俳句365日 梅里書房 1996 (名句鑑賞読本)
・季題別中村草田男全句 角川文化振興財団 2017
随筆、評論、メルヘン集など
・永き午前 三省堂 1940 (俳苑叢刊)
・やさしい短歌と俳句 谷馨共著 天平堂出版社 1948 (学童文庫)
・新しい俳句の作り方 同和春秋社 1955 のち角川文庫
・俳句入門 みすず書房 1959
・俳句の作り方 ポプラ社 1965
・ビーバーの星 福音館書店 1969
・万緑季語撰 刀江書院, 1972
・風船の使者 メルヘン集 みすず書房 1977
・魚食ふ、飯食ふ エッセイ集 みすず書房 1979
・俳句と人生 講演集 みすず書房 2002
・子規、虚子、松山 みすず書房 2002
1971年にテイチクレコードから『俳句の世界』というレコードが発売されており、ここでは本人が自作を朗誦・解説している。
脚注
1. a b c d 横澤放川 「中村草田男」『現代俳句大事典』 391-392頁。
2. a b 『中村草田男集』略年譜 317-320頁。
3. 『中村草田男集』三橋敏雄解説 322頁。
4. 『中村草田男集』三橋敏雄解説 323-324頁。
5. 三女の中村弓子によれば、この頃草田男は父の死後も休学などでぐずぐずしていたことで親戚の一人から「お前は腐った男だ」と痛罵された。「草田男」はこの「腐った男」のもじりであるとともに、音読みの「そうでん」には「俺は確かに腐った男かもしれん。だが、そう出ん(そうそう現われない)男なのだぞ」という自負が込められているという。(『中村草田男全集別巻』)
6. 岩井寛『作家の臨終・墓碑事典』(東京堂出版、1997年)239頁
7. 『朝日新聞』1984年4月5日(東京本社発行)朝刊、22頁。
8. 『中村草田男集』三橋敏雄解説 325頁。
9. 『図説 俳句』 170頁。
10. 『中村草田男集』三橋敏雄解説 324-326頁。
11. 『定本 現代俳句』 332頁。
12. 『中村草田男集』三橋敏雄解説 328-329頁。
13. 『中村草田男集』三橋敏雄解説 326頁。
14. 『俳句研究』瓜生鐵ニ「ルビ俳句 ルビ俳句のこと 碧梧桐・直得を中心に」富士見書房1993年2月号65頁。
15. 『現代俳句大事典』川名大「草田男の犬論争」 198-199頁。
16. 『定本 現代俳句』 316-318頁。
17. 『定本 現代俳句』 321-322頁。
18. 『定本 現代俳句』 328-329頁。
19. 『定本 現代俳句』 331-333頁。
参考文献
・『現代俳句大事典』 三省堂、2005年
・『中村草田男集』 朝日俳句文庫、1984年
・坂口昌弘著『毎日が辞世の句』東京四季出版
・山本健吉 『定本 現代俳句』 角川書店、1998年
・あらきみほ 『図説俳句』 日東書院、2012年
関連文献
・香西照雄 『中村草田男』 桜楓社、1963年
・坂口昌弘著『毎日が辞世の句』東京四季出版
・宮脇白夜 『中村草田男論』 みすず書房、1984年
・『中村草田男読本』 角川書店、1980年
・中村弓子 『わが父 草田男』 みすず書房、1993年
関連項目
・寺山修司
外部リンク
・増殖する俳句歳時記 中村草田男
・現代俳句データベース 中村草田男
(wikiより)
6768 足立重信墓(松山市御幸町1・来迎寺)
時代 | 安土桃山時代 - 江戸時代前期 |
---|---|
生誕 | 不明 |
死没 | 寛永2年11月17日(1625年12月16日) |
別名 | 兼清、元清、通称:半助、半右衛門 |
墓所 | 愛媛県松山市の山越来迎寺 |
主君 | 加藤嘉明 |
藩 | 伊予松山藩士 |
氏族 | 足立氏 |
足立 重信(あだち しげのぶ)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将・伊予松山藩士。加藤嘉明の家臣。
生涯
美濃国の出身で、若い頃より加藤嘉明に小姓として仕えた。主君・嘉明の転封に伴い、伊予国正木(松前)城に入った後、文禄・慶長の役に従軍し功を立て、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、佃十成らと共に主君嘉明の留守居として、毛利氏らの支援を受けて蜂起した河野氏の旧臣らの軍勢を撃退する(三津浜夜襲)。これら戦功によって家老に任ぜられ、5000石の所領を与えられた。
その後は、主に領内開発に奉行として従事し、中でも暴れ川として有名だった伊予川の灌漑工事では下流に新たな流路12キロに渡って開削し堤防を築いて大改修を行い、流域に広大な耕作地を生み出した。さらに松山城の南麓を流れる湯山川(現在の石手川)の流路を変更して伊予川と合流させ、旧流路を城の堀として活用する等、堅固な築堤と水制工事、城下開発に卓越した手腕を見せた。この重信の工事により、領内では水害がなくなり、収穫も潤ったという。それ以来伊予川は「重信川」と呼ばれ、国内でも珍しい個人の業績を名に残す川となった。
その後も松山城の城郭や堀割などの構築に尽力し、伊予松山藩の初期土木行政に活躍したが、寛永2年(1625年)に松山城の完成を待たず死去した。生前望んだ松山城下を見渡せる愛媛県松山市の山越来迎寺に葬られた。
関連項目
・重信川
・三津浜夜襲
(wikiより)
6767 青地林宗墓(松山市御幸町1・来迎寺)
生涯
経歴
林宗は安永4年(1775年)伊予松山藩に生まれた。父は松山藩医青地快庵[2]。家業の漢方医学を修得したのち、20歳で江戸に出て幕府通詞馬場佐十郎に弟子入り、天文学や蘭語を学ぶ[2]。杉田立卿の私塾・天真楼、宇田川玄真の私塾・風雲堂にも学んだ。26歳の時、父快庵が亡くなると松山藩医の家を継ぐ為一時帰郷。5年間松山に落ち着いたが蘭学への想いから松山藩での職を辞し遊学の旅に出る。大坂、長崎など蘭学の地を回りながら再度江戸に戻る。47歳の時に幕府の招聘を受け天文台訳員となり、蘭書(西洋の学術書)の翻訳に従事した。ゴローニンの『日本幽囚記』も翻訳している。その後、水戸藩主徳川斉昭に請われ召し抱えられたが4年後、天保4年(1833年)2月22日死去[1]。享年59。
功績
オランダのヨハネス・ボイス(Johannes Buijs、1764-1838)が著した書籍を多く訳し、1827年に日本初の物理学書「気海観瀾」を刊行[2]。日本物理学の祖と称された。また蘭学の訳書が増えるにつれ日本にない言葉を訳す際、個々人で訳語、造語が出来ることに早くから懸念を抱き、訳語の適正化と統一を目的とした組織「同志會」を提唱し日本の翻訳事業に大きな道筋を指し示した。
エピソード
林宗には五人の娘がいて、長女粂の夫は坪井信道[1]、次女三千子の夫は伊東玄晁[1]、三女秀子の夫は川本幸民[1]、四女宮子の夫は高野長英(宮子は結婚後半年目の嘉永2年4月7日 (旧暦)(1849年4月29日)、32歳で早世)と高名な蘭学者に嫁いる。(五女信子は11歳で病没)
主な著作
・「格物綜凡」
・「気海観瀾」(日本初の物理学書)[1]
・「気海観瀾補数」
・「万国地志」(杉田立卿との共著)
・『輿地誌』(地誌、65巻の大著)
・「輿地誌略」[1]
・「医学集成」
・「依百乙薬性論」
・「和蘭産科全書」
・「居家備要」
・「金備輿地誌」
・「工斯牛痘編」
・「工斯貌爾觚
・「公私貌爾内科書」
・「昆斯貌觚凡例」
・「衆家経験千方」
・「製剤篇」
・「西洋奇器叢記」
・「遭厄日本紀事」[1]
・「泰西医家書目」
・「地学示蒙」[1]
・「内科嚢記」
・「訶倫(ほーるん)産科書」[1]
・「奉使日本紀行」
交流
・杉田玄白
・伊東玄朴
・青木周弼
・坪井信道
・高橋景保
出典
1. a b c d e f g h i j k l 『江戸時代人物控1000』、山本博文監修 小学館、2007年、10頁。ISBN 978-4-09-626607-6。
2. a b c d 白井俊明『化学大辞典』1、化学大辞典編集委員会(編)、共立、1981年10月、縮刷版第26版、24頁。
外部リンク
・愛媛の偉人・賢人の紹介(青地林宗)
(wikiより)
6766 芳澤謙吉墓(港区南青山2-32-2・青山霊園)
家族・親族
父は諏訪村初代村長の芳澤襄良。 妻の操は内閣総理大臣等を務めた犬養毅の長女であり、犬養内閣では外務大臣に起用された。 外務事務次官や駐アメリカ合衆国特命全権大使を務めた井口貞夫は娘婿。 孫に国際協力機構理事長や国際連合難民高等弁務官事務所弁務官等を歴任した国際政治学者の緒方貞子、国際法学者で元ニュージーランド大使の井口武夫、元外務省事務次官や侍従長を務めた川島裕、数学者の芳沢光雄等がいる。
略歴
・1874年1月24日 - 新潟県中頸城郡諏訪村に生まれる。
・旧制新潟県立高田中学校、成立学舎、東京英語学校、旧制第二高等学校を経て、東京帝国大学文科大学英文科卒業。
・1899年 - 外務省に入省。以後、人事課長、政務局長、欧米局長を歴任。
・1920年 - 亜細亜局長、後に欧米局長を務める。
・1925年1月20日 - ロシア代表カラハンとの間に日ソ基本条約を締結、日ソ間の国交を樹立する。
・1929年 - 中華民国公使免官。
・1930年 - 駐仏国特命全権大使に任命。
・1932年
・7月1日 - 貴族院勅選議員に勅任[1]。立憲政友会に入党。
・1939年 - 政友会分裂に伴い、久原房之助、三土忠造らとともに政友会正統派の総裁代行委員に就任(その後久原が総裁に就任)。
・1940年11月26日 - 蘭印経済交渉特命全権に任命。
・1941年 - 駐仏印特命全権大使に任命。
・1945年8月7日 - 枢密顧問官に任命。
・1946年1月4日 - 公職追放に該当、枢密顧問官を免官。
・1951年8月 - 公職追放解除。
・1952年8月25日 - 駐中華民国特命全権大使に任命。
・1956年12月 - 退官。
・1965年1月5日 - 死去(満90歳)。
栄典・授章・授賞
位階
・1899年(明治32年)12月21日 - 従七位[2]
・1925年(大正14年)12月28日 - 正四位[2][3]
・1965年(昭和40年)1月5日 - 従二位
勲章等
・1902年(明治35年)12月28日 - 勲六等単光旭日章[2]
・1904年(明治37年)5月20日 - 勲五等瑞宝章[2][5]
・1906年(明治39年)4月1日 - 双光旭日章・明治三十七八年従軍記章[2][6]
・1907年(明治40年)9月14日 - 勲四等瑞宝章[2]
・1911年(明治44年)8月24日 - 旭日小綬章[2][7]
・1915年(大正4年)
・1916年(大正5年)1月19日 - 旭日中綬章[2][8]
・1918年(大正7年)9月29日 - 勲二等瑞宝章[2][9]
・1920年(大正9年)9月7日 - 旭日重光章・大正三年乃至九年戦役従軍記章[2]
・1924年(大正13年)5月31日 - 勲一等瑞宝章[2]
・1926年(大正15年)2月10日 - 旭日大綬章[2][10]
・1928年(昭和3年)11月10日 - 大礼記念章(昭和)[2]
・1965年(昭和40年)1月5日 - 旭日桐花大綬章
外国勲章佩用允許
・1907年(明治40年)10月23日 - フランス共和国:レジオンドヌール勲章オフィシエ[2]
・1908年(明治41年)4月29日 - ロシア帝国:神聖アンナ第二等勲章[2]
・1910年(明治43年)2月14日 - 大韓帝国:勲三等太極章[2][11]
・1911年(明治44年)10月5日 - イギリス帝国:皇帝皇后陛下戴冠記念章[2]
・1912年(大正元年)10月9日 - イギリス帝国:ヴィクトリア勲章コマンダー[2]
・1918年(大正7年)4月16日 - 支那共和国:二等大綬嘉禾章[2]
・1921年(大正10年)2月5日 - ルーマニア王国:王冠第二等勲章[2]
・1927年(昭和2年)5月27日 - ドイツ国:赤十字第一等名誉章[2]
・1932年(昭和7年)1月17日 - フランス共和国:レジオンドヌール勲章グランクロワ[2]
・1934年(昭和9年)
脚注
1. 『官報』第1651号、昭和7年7月2日。
2. a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac ad ae af ag ah ai 「芳澤謙吉」 アジア歴史資料センター Ref.A06051182700
3. 『官報』第4045号「叙任及辞令」1926年2月20日。
4. 『官報』第1518号「叙任及辞令」1932年1月25日。
5. 『官報』第6265号「叙任及辞令」1904年5月21日。
6. 『官報』第7578号・付録「辞令」1908年9月28日。
7. 『官報』第8454号「叙任及辞令」1911年8月25日。
8. 『官報』第1038号「叙任及辞令」1916年1月20日。
9. 『官報』第1850号「叙任及辞令」1918年10月2日。
10. 『官報』第4038号「叙任及辞令」1926年2月12日。
11. 『官報』第7992号「叙任及辞令」1910年2月16日。
・外交六十年 (中公文庫、1990年) ISBN 412201767X、なお初版は自由アジア社
関連項目
・新潟県出身の人物一覧
(wikiより)
芳澤謙吉
6765 神鞭知常墓(港区南青山2-32-2・青山霊園)
経歴
・嘉永元年(1848年)に神鞭重蔵の長男として京都に生まれる。後に、漢学、蘭学、英学を修め、学ぶ。
・明治2年(1869年)2月に神宮司別当、同年8月に宣教科となる。
・明治3年(1870年)1月に権大属となる。同年7月に辞職した。
・明治6年(1873年)に大蔵省を経て、翌年の明治7年(1874年)にアメリカ合衆国に出張。明治9年(1876年)3月~翌年の明治10年(1877年)まで、フィラデルフィア博覧会御用掛をつとめる。その間の明治9年の5月に内務省勤務となる。
・明治12年(1879年)に再び大蔵省勤務となる。ともに、商務局勤務となる。
・明治14年(1881年)に横浜正金銀行管理掛、同年4月に農商務権少書記官、8月に大蔵少書記官、同月から12月まで再び、農商務権少書記官、10月に書記局兼議案局勤務となる。
・明治17年(1884年)2月に租税局、同年6月に主税局本部勤務となる。
・明治23年(1890年)~明治27年(1894年)まで衆議院議員をつとめる。
・明治29年(1896年)~明治30年(1897年)10月までに内閣法制局長官兼内閣恩給局長をつとめた。
・明治31年(1898年)7月~同年11月までは法制局長官だった。
・明治31年8月~明治35年(1902年)8月までと、明治36年(1903年)3月~明治38年(1905年)6月まで再び衆議院議員をつとめた。同月21日に死去。
栄典
・1884年(明治17年)6月30日 - 正六位[1]
・1889年(明治22年)11月29日 - 大日本帝国憲法発布記念章[2]
・1896年(明治29年)10月10日 - 正五位[3]
親族
・長男 神鞭常孝(大蔵官僚)
・娘婿 山座円次郎(外交官)
脚注
1. 『官報』第301号「叙任及辞令」1884年7月1日。
2. 『官報』第1935号「叙任及辞令」1889年12月9日。
3. 『官報』第3988号「叙任及辞令」1896年10月12日。
関連項目
・西原亀三
・対外硬
・徳川篤守
・硬六派
・黒部進 - テレビドラマ『明治の群像 海に火輪を』で神鞭を演じた。
(wikiより)