本牧jack『意外と身近にある歴史散歩』日々是好日 心灯 頬笑

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小生の拙ブログ『意外と身近にある歴史散歩』日々是好日 心灯 頬笑に御訪問頂き誠に有難う御座います。
歴史ドラマが流行っている昨今、身近に有って気が付かなかったりする様な物を取り上げたりしています。
たまに『 大人数で取材しているのか? 』との質問を戴きますが、小生と相方の二人三脚で御座います。
出来るだけ続けたいと思っていますが 膝・耳に問題が有って、いつまで出来るやら・・・説明も、やたら長いものから あっさりしたものまで有りますが、御付き合いの程 宜しく御願い致します。
御注意 . 少ないですが生前に建てられた『 生前墓 』の記事も有ります。 ※ 申し訳御座いませんが「画像の転用」は禁止とさせて頂きます。 コメントは原則公開させていただいております 質問等に対してはブログ記事で返信させていただきます 他の方法で連絡を取り合う等一切しません 場合によっては、「IPブロック」しますがブロックした場合解除する事は有りませんので宜しくお願いします。

2022/04

太田六右衛門 ( おおた - ろくえもん )
( 1823 ‐ 1865 )

幕末の尊攘 ( そんじょう ) 運動家。

文政 6年 3月 4日生まれ。

但馬 ( たじま )( 兵庫県 ) 朝来郡竹田町の庄屋。

文久 3年生野 ( いくの ) の変の際、沢 宣嘉 ( のぶよし ) の密書を持って出石 ( いずし ) に向かう途中、出石藩兵に捕らえられる。

慶応元年 4月 24日京都の獄で病死した。43歳没。名は雅義。

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福浦元吉 ( ふくうら - もときち )
( 1829 - 1863 )

幕末の商人。

文政 12年生まれ。

淡路 ( あわじ )( 兵庫県 ) 洲本 ( すもと ) の米屋。

古東領左衛門 ( ことう - りょうざえもん ) の指導を受け尊攘 ( そんじょう ) 運動に奔走。

天誅 ( てんちゅう ) 組の大和挙兵に加わり、文久 3年 9月 25日鷲家 ( わしか ) 口で戦死。35歳没。

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藤本 鉄石(ふじもとてっせき、文化13年3月17日1816年4月14日) - 文久3年9月25日1863年11月6日))は、幕末志士書画家は真金。通称を学治・津之助、を鋳公。鉄石・鉄寒士・吉備男子・柳間契民・海月浪士・取菊老人・都門売菜翁など多数のがある。


岡山藩脱藩し、諸国を遊歴して書画や軍学を学ぶ。京都で絵師として名をなし、尊攘浪人と交わり志士活動を行った。大和行幸の先駆けとなるべく大和国で挙兵して天誅組を結成し、吉村虎太郎松本奎堂とともに天誅組三総裁の一人となる。その後、幕府軍の討伐を受けて天誅組は壊滅し、藤本も戦死した。

生涯
備前国御野郡東川原村(岡山県岡山市中区)の片山佐吉の四男として文化13年(1816年3月17日に生まれる。後に藩士藤本彦右衛門の養子となり、農事掛り、手代を務めていたが、天保11年(1840年)に脱藩して京都へ出る。この頃伊藤花竹に就いて画を学ぶ。その後、売書・売画を続けて諸国を遊歴して、書・画・和歌漢詩の修行をした。画ははじめ北宗画風であったが、後に南宗画に転じ山水画花鳥画が最も巧みだった。また長沼流軍学を修め、剣術は一刀新流の免許を得ている。少年時代に鉄石に接した清河八郎山岡鉄舟は彼の影響を大いに受けた。


京都伏見に居を定め私塾を開いて学問と武芸を教授した。黒船来航以来の国難の中で藤本も慷慨の志を持ち、清河八郎を介して尊攘派志士たちと交わりを持つようになる。


文久2年(1862年)、薩摩藩国父島津久光が率兵上京することになり、世間はこれを倒幕のための上洛だと解して、平野国臣、清河八郎、吉村虎太郎らは上方に浪士を集めて、有馬新七ら薩摩藩士の過激派と結託して挙兵を策した(伏見義挙)。藤本もこの動きに加わる。だが、島津久光の真意は公武合体であり、藤本は薩摩藩邸に軟禁され、ほどなく挙兵計画から離脱して去っている。結局、寺田屋事件で薩摩藩士の過激派は粛清され、平野、吉村らも捕えられて国許へ送還された。


文久3年(1863年)2月、京都守護職松平容保は朝廷に浪士の言論洞開策を勅栽を得て京都市中に布告した。ただし、これには黒谷の会津藩本陣に出頭する必要があり、応じた浪士は3人しかいなかったが、そのうちの一人が藤本だった。容保に奉公を願い出た浪士35人を記した会津藩の記録の「京方浪人別」に「浪士頭」として藤本の名が見える。この時の藤本の真意は不明である。


同年8月13日に孝明天皇の大和行幸の詔が発せられると。藤本は吉村虎太郎(土佐脱藩)、松本奎堂(刈谷脱藩)とともに行幸の先駆けとして大和国で挙兵することを計画。藤本は挙兵の軍資金調達のために河内へ先行した。14日に吉村は前侍従中山忠光を迎えて浪士39人が方広寺に結集して京都を出立。一行は海路に入り、河内へ進んで狭山藩から銃器武具を差し出させた。17日に一行は河内檜尾山観心寺に逗留し、ここへ藤本が合流。浪士たちは後に天誅組と称されるようになる。


天誅組は大和国五条天領へ入り、代官所を襲撃して炎上させ、代官鈴木正信(源内)の首を刎ねて挙兵した。天誅組は桜井寺に本陣を定め、自らを「御政府」と称し、中山忠光を主将、藤本、松本、吉村を総裁とする職制を定めた。


だが、直後の18日になって八月十八日の政変が起きて政情は一変。三条実美ら攘夷派公卿は失脚し、長州藩は京都からの撤退を余儀なくされた。大和行幸の詔は偽勅とされ中止となった。


突然、孤立無援となった天誅組は要害の天ノ辻に本陣を移し、十津川郷士を募兵して1000人を集めた。26日に高取城を攻撃するが敗北し、この戦いで吉村は重傷を負ってしまう。


9月、周辺諸藩が討伐に動員され、天誅組は善戦するものの多勢に無勢の上に装備も貧弱で、次第に追い詰められた。藤本は紀州新宮へ突破して四国九州へ逃れ再挙することを策すが叶わず、遂には十津川郷士たちも離反し、天誅組は実質的な戦闘力を失った。


天誅組残党は山中の難路を進んで脱出を試みる。三総裁のうち吉村は傷が悪化して歩行困難となり脱落、もう一人の松本は負傷して失明状態になっていた。


24日、藤本ら天誅組残党は鷲尾峠を経た鷲家口(奈良県東吉野村)で紀州彦根藩兵と遭遇。藤本は敵中突破に成功したが、逃げ延びるのを潔しとせず、翌25日、彼の弟子福浦米吉とともに再び敵陣まで引き返し、紀州藩本陣に猛烈な切り込みをかけた。不意をつかれた紀州藩軍は混乱に陥ったが、所詮多勢に無勢であり壮絶な討ち死にを遂げた。享年48。辞世の句は、

    雲をふみ 岩をさくみし もののふの 鎧(よろひ)の袖に 紅葉かつちる

だった。


主将の中山は脱出するが、松本は自刃し、他の者たちもほとんどが戦死するか捕縛され天誅組は壊滅した。吉村も27日に藩兵に発見され射殺されている。

彼が忠兵衛宛に書いた手紙は小判や掛け軸の彩色した絵を書いて「ほしい、ほしい、ほしい、ほしい」と援助の依頼を楽しく書いていて、ユーモアにあふれていて彼の人柄を思わせる。

詳しいことは、「藤本鉄石ウィキペディア」をご覧ください。 ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E6%9C%AC%E9%89%84%E7%9F%B3
(wikiより)

299 藤本鉄石

藤本鉄石

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柳 楢悦(やなぎ ならよし、天保3年9月15日1832年10月8日) - 明治24年(1891年1月15日)は、日本海軍軍人・和算家[2]数学者測量学者政治家。最終階級は海軍少将錦鶏間祗候元老院議官貴族院議員


江戸(現・東京)生まれ。津藩の下級藩士・柳惣五郎の長男。嘉納治朗作希芝(嘉納治五郎の父)の娘を後妻としている。

略歴
・天保3年(1832年) - 江戸染井の安濃津藩下屋敷にて産まれる、幼名芳太郎

弘化3年(1846年) - 和算家・村田恒光(佐十郎)に入門

嘉永3年(1853年) - 藩命により伊勢湾沿岸を測量(指揮は村田恒光)

安政元年(1855年) - 長崎海軍伝習所へ派遣

明治3年(1870年) - 海軍に出仕

・明治5年(1872年) - 海軍大佐

・明治9年(1876年) - 水路局

・明治10年(1877年) - 神田孝平と共に、日本初の学会・東京数学会社(現・日本数学会)を設立

・明治11年(1878年) - 天文学天文台の実情視察のために欧米視察

・明治13年(1880年) - 海軍少将

・明治15年(1882年) - 大日本水産会創立に尽力し、名誉会員に推される[3]

・明治21年(1888年) - 予備役編入、元老院議官

・明治23年(1890年) - 貴族院議員

  ・10月20日 - 錦鶏間祗候[4]

・明治24年(1891年) - 肺炎のため没、青山霊園に埋葬

栄典・授章・授賞
位階
・明治4年2月17日 - 正七位

・明治4年12月14日 - 従六位

・明治5年10月5日 - 正六位

1873年(明治6年)6月25日従五位[5]

・1880年(明治13年)10月5日 - 正五位

1886年(明治19年)10月28日 - 従四位[6]

1889年(明治22年)11月5日 - 従三位[7]

1891年(明治24年)1月15日 - 正三位[8]

勲章等
1880年(明治13年)8月5日 - 勲四等旭日小綬章

1882年(明治15年)11月1日 - 勲三等旭日中綬章

1888年(明治21年)5月29日 - 勲二等旭日重光章[9]

1889年(明治22年)11月25日 - 大日本帝国憲法発布記念章[10]

1890年(明治23年)11月1日 - 藍綬褒章[11]


海洋測量において
若き日より和算に熟達し、さらに長崎海軍伝習所ではオランダ式の航海術を学ぶとともに、西洋数学に基づく測量術も習得した。明治時代からはイギリス海軍と共同で海洋測量の経験を積み、海洋測量術の技術向上を目指した。柳は海軍での測量事業の創業当時より、日本人による測量を強く念頭に置き、他国の援助やお雇い外国人などを極力用いない方針を貫いた。日本における海洋測量の第一人者として測量体制を整備・統率し、日本各地の沿岸・を測量し、海図を作成した。その功績から「日本水路測量の父」「海の伊能忠敬」と称される。


美食家として
柳楢悦は美食家としても知られており、「割烹研究会」(後に「食物研究会」,「大日本食物會」と改称)という食物に関する研究会の中心的な人物として活動していただけでなく、『山陰落栗』という食に関する本を書いている[12]

著書・訳書
・『航海或問』(ピラール著)

・『量地括要』(全2巻)

・『山陰落栗』

親族
・三男 - 柳宗悦美術評論家

・孫 - 柳宗理プロダクトデザイナー)・柳宗玄美術史家)・柳宗民園芸評論家)・柳悦孝染織家

脚注
1. 『官報』第2182号、明治23年10月6日。
2. 「柳は、長崎海軍伝習所で幕末当時、日本で最高水準の西洋数学を学んだ人物であるが、本来は和算書を著すほどの和算家であった。写本『新巧算法』の第三編(1850)は柳の編となっている」(佐藤英二『東京数学会社訳語会における「算数学」と「算術」をめぐる論争』東京大学大学院教育学研究科紀要35、1995年、註18)
3. 海上保安庁水路部編『日本水路史 1871~1971』財団法人日本水路協会、1971年、25頁。
4. 『官報』第2195号、明治23年10月22日。
5. 甲1番大日記 式部寮達 赤塚真成外15名叙位の件」 アジア歴史資料センター Ref.C09111306600 
6. 『官報』第1003号「叙任及辞令」1886年11月1日。
7. 『官報』第1911号「叙任及辞令」1889年11月9日。
8. 『官報』第2263号「叙任及辞令」1891年1月17日。
9. 『官報』第1473号「叙任及辞令」1888年5月30日。
10. 『官報』第1928号「叙任及辞令」1889年11月30日。
11. 『官報』第2205号「彙報 - 官庁事項 - 褒章 - 藍綬褒章下賜」1890年11月4日。
12. 『美味求真』 柳楢悦”. 2019年11月20日閲覧。

関連項目
肝付兼行

外部リンク
美味求真.com「柳楢悦」
(wikiより)


1810 柳楢悦

柳楢悦

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横田 秀雄(よこた ひでお、文久2年8月19日1862年9月12日) - 1938年昭和13年)11月16日)は、日本裁判官大審院長)。法学博士明治大学総長。帝国学士院会員。雅号は鵠山


第4代最高裁判所長官横田正俊は長男。元鉄道大臣小松謙次郎は実弟。

経歴
信濃国埴科郡松代城下代官町(後の長野市松代町)に、松代藩士の父・横田数馬、母・亀代子の長男として生まれる。長じて1877年長野県師範学校に入学し、同年第十八番変則中學校の英学専門生となるが、翌年中退。上京して1880年司法省法学校に入学。


1888年
(明治21年)帝国大学法科大学(のち東京大学法学部)を卒業。判事になる。


1899年(明治32年)慶應義塾大学法学部政治科教授(物権担当)。1923年大正12年)から1927年(昭和2年)まで大審院長を務めた。


1924年(大正13年)11月から翌年2月まで明治大学学長、5月復職、1932年(昭和7年)3月同大学総長、1934年(昭和9年)3月辞任[1]


1938年(昭和13年)11月16日死去。享年77。青山墓地に眠る。

栄典
1910年(明治43年)6月24日 - 勲三等瑞宝章[2]

1914年(大正3年)5月11日 - 正四位[3]

1915年(大正4年)11月10日 - 大礼記念章[4]

1924年(大正13年)6月30日 - 勲一等瑞宝章[5]

人物像
横田は乃木希典を非常に尊敬していた。長男の正俊によると、「軍人や役人は乃木さんのようでなければならない。」というのが口癖で、乃木将軍殉死の報に接したときは、正座してハラハラと涙を流したという。


横田は寄席が好きだった。寄席について「一体講談や落語はいいものです。世間の事情、下層階級の生活状態がよくわかる。裁判官はこういう処へ行って見るのもいいですね。私がよく通った頃は円朝の全盛時代でしてね、その頃橘之助という三味線の爪弾などをよくやる女がいて書生に人気があった…」と述べている(『国民新聞』昭和2年8月)。


退職後の横田は明治大学学長、総長のかたわら郷里に象山神社を建設しようと奔走した。横田は「七十五歳になった今日しなければならないことが二つある。その一つは同郷の先輩である佐久間象山先生のことで、神社建設のために狂奔していること、今一つは、今少し先生の事蹟を世間に発表したいこと」と述べている(『文藝春秋』昭和11年8月)。

家族・親族
実家
・父・数馬(信州松代藩士

・母・亀代子

・姉・(『富岡日記』の著者)

・弟・謙次郎(元鉄道大臣)、俊夫(元朝鮮高等法院判事)

・妹・志能武(長野県士族・間庭延俊に嫁す)ほか

自家
・妻・秀野( 岡山県士族・元大審院長霜山精一の姉)

・長男・正俊(裁判官・元最高裁判所長官

・次男・光俊(元一橋大学教授)

・三男・保俊

・四男・雄俊(弁護士) - 華族赤化事件に関与する

・五男・明俊

系譜

横田家

横田家の先祖は奥会津横田の住人・山内大学と伝えられ、江戸時代には信州松代藩士として150石の禄を受けていた中級武士であった。[6]

系図については、「横田秀雄ウィキペディア」をご覧ください。 ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A8%AA%E7%94%B0%E7%A7%80%E9%9B%84

脚注
1. 『明治大学小史―人物編』 35頁
2. 『官報』第8105号「叙任及辞令」1910年6月29日。
3. 『官報』第534号「叙任及辞令」1914年5月12日。
4. 『官報』第1310号・付録「辞令」1916年12月13日。
5. 『官報』第3559号「叙任及辞令」1924年7月4日。
6. 信州の旅.com/真田十万石の城下町/旧横田家住宅

参考文献
慶應義塾百年史.別巻,大学編

・明治大学史資料センター 『明治大学小史―人物編』 学文社、2011年 ISBN 978-4-7620-2217-3

外部リンク
国指定文化財一覧 旧横田家住宅
(wikiより)

1809 横田秀雄

横田秀雄

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岡部 長職(おかべ ながもと、1855年1月3日嘉永7年11月15日) - 1925年大正14年)12月27日)は、和泉国岸和田藩13代(最後の)藩主。明治大正時代の政治家外交官。英国公使館参事官、外務次官、司法大臣東京府知事枢密顧問官法律取調委員会会長などを歴任。岸和田藩岡部家14代。官位は正二位勲一等子爵

略歴
1854年(嘉永7年)11月15日、江戸藩邸にて生まれる。幼名は弥次郎。父の長発は長職が生まれた翌年2月に早世し、家督は伯父の長寛が継いだ。長職は長寛の養嗣子となり、成長した後に家督を譲られることとなった。そして1868年明治元年)12月28日、長寛の隠居により家督を継いだ。1869年(明治2年)、版籍奉還により知藩事となり、藩政改革を行なった。1871年(明治4年)の廃藩置県で免官となり、東京へ移る。


1874年(明治7年)慶應義塾に入学し、福澤諭吉が「行状宜敷人物」と評して1875年(明治8年)11月、渡米させる。イェール大学へ入学するが中退しており、その理由はあきらかでない。1878年(明治11年)アメリカでリバイバリストドワイト・ライマン・ムーディーの説教を聞いて回心し、キリスト教信仰を持つことになる。手紙で、日本基督組合教会新島襄沢山保羅に手紙で、故郷の岸和田の伝道を依頼する。新島と沢山の伝道の結果、1885年(明治18年)に岸和田教会が誕生した[1]


ケンブリッジ大学に数年間学ぶ。その後もヨーロッパ各国を歴訪した。帰国後は、三好退蔵の自宅で聖書研究に参加していたが、近所にあった霊南坂教会(現・日本基督教団霊南坂教会)に合流して教会員になる。


1884年
(明治17年)7月8日、子爵を叙爵[2]1886年(明治19年)3月、公使館参議官となる。翌年12月からはイギリス公使館に勤務し、臨時代理公使を務めた。1889年(明治22年)12月には外務次官となり、1890年(明治23年)7月には子爵の貴族院議員となった。青木周蔵外相の下、条約改正に尽力。しかし1891年(明治24年)、大津事件が起こると、その事件の責任を取る形で外務次官を辞任した。


1897年
(明治30年)10月、高等官一等に叙任し、東京府知事となる。この頃には貴族院会派・研究会の幹事長を務めるなど、貴族院議員の中心人物として活躍していた。そのため、1908年(明治41年)7月には第2次桂太郎内閣司法大臣に任じられ、1911年(明治44年)の大逆事件では、その処理に務めている。1916年(大正5年)4月8日には枢密顧問官となり[3]、同月11日、貴族院議員を辞職した[4]


その他、南満州鉄道株式会社設立委員、鉄道国有調査会副会長、宗秩寮審議官、東京保善商業学校校長等の要職を歴任。晩年は一木喜徳郎と共に大正天皇の側近として宮内省にあった。1925年(大正14年)12月27日、かねてより患っていた脳梗塞が再発し、72歳で死去。両陛下より祭資が執り行われる。

墓所は東京都港区青山墓地


身の丈180cmを超えるという、当時としてはもちろん、現代人と比較しても大柄な人物であった。

栄典
位階
1890年(明治23年)1月16日 - 従四位[5]

1925年(大正14年)12月27日 - 正二位[6]

勲章等
1873年(明治6年)12月8日 - 木盃一個[7]

1906年(明治39年)4月1日 - 勲四等旭日小綬章[8]

1909年(明治42年)12月25日 - 勲三等瑞宝章[9]

1910年(明治43年)12月26日 - 勲二等瑞宝章[10]

1912年(大正元年)8月1日 - 韓国併合記念章[11]

1916年(大正5年)4月1日 - 旭日重光章[12]

1920年(大正9年)6月25日 - 勲一等瑞宝章[13]

1925年(大正14年)12月27日 - 旭日大綬章[14]帝都復興記念章[15]

家族
・父:岡部長発(1834-1855)

・母:鳥居忠挙の娘

・養父:岡部長寛(1809-1887)

・最初の妻:錫子 - 青山幸哉の娘

  ・長女:清子(すがこ) - 戸田忠義夫人、のち離縁

  ・女子:鍾子(まさこ) - 井上辰九郎夫人

  ・長男:岡部長景(1884-1970)

・2番目の妻:坻子(1867-1943) - 前田斉泰の四女

・生母不明の子女

  ・男子:長剛

  ・三男:村山長挙(1894-1977) - 村山龍平の婿養子

  ・女子:栄子(さきこ) - 三井弁蔵夫人

  ・三女:豊子 - 尾高豊作夫人

  ・女子:盈子 - 新井米男夫人

  ・男子:小林長世

  ・男子:長量

  ・女子:久子 - 川崎芳熊夫人

  ・男子:長建(ながたつ)

  ・男子:長伸

  ・八男:岡部長章(ながあきら)


11代藩主・岡部長発の長男。母は鳥居忠挙の娘。最初の妻は青山幸哉の娘・錫子。2番目の妻は前田斉泰の娘・坻子(おかこ)。坻子は1867年生まれで学習院[16]有栖川宮威仁親王妃慰子の叔母にあたり、1892年に長職と結婚、1909年には愛国婦人会長就任[17]。子は岡部長景(長男)、村山長挙(三男)、岡部長章(八男)。尾高豊作の妻(三女)。 後に長男・長景は、東条英機内閣のもとで文部大臣となっている。三男・長挙は朝日新聞創設者の村山龍平の婿養子となった。八男・長章は侍従京都外国語大学教授を歴任した。長景は加藤高明三菱財閥の創業者・岩崎弥太郎の娘婿)の長女・悦子と結婚しており、長章は岩崎輝弥岩崎弥之助の三男)の長女・妙子と結婚したので、岡部家は三菱の創業者一族・岩崎家と二重の姻戚関係を持っているといえる。娘・盈(みつ)は新井領一郎の長男・米男に嫁いだ。

脚注
1. 『沢山保羅』1977年、127頁
2. 『官報』第308号、明治17年7月9日。
3. 『官報』第1104号、大正5年4月10日。
4. 『官報』第1107号、大正5年4月13日。
5. 『官報』第1966号「叙任及辞令」1890年1月21日。
6. 官報』第4005号「叙任及辞令」1925年12月29日。
7. 『太政官日誌』明治6年、第157号
8. 『官報』第7272号「叙任及辞令」1907年9月23日。
9. 『官報』第7954号「叙任及辞令」1909年12月27日。
10. 『官報』第8257号「叙任及辞令」1910年12月28日。
11. 『官報』第205号・付録「辞令」1913年4月9日。
12. 『官報』第1218号「叙任及辞令」1916年8月21日。
13. 中野文庫 - 旧・勲一等瑞宝章受章者一覧(戦前の部)
14. 『官報』第4005号「叙任及辞令」1925年12月29日。
15. 『官報』第1499号・付録「辞令二」1931年12月28日。
16. 岡部長景『華族家庭録. 昭和11年12月調』
17. 婦女新聞社『婦人界三十五年』(1935.05)

参考文献
小川原正道評伝 岡部長職 明治を生きた最後の藩主慶應義塾大学出版会、2006年7月。ISBN 4-7664-1291-5

外部リンク
慶應義塾大学出版会|人文書|評伝 岡部長職

岡部長職(おかべながもと)1854~1925 - 大阪府岸和田市公式ウェブサイト:祭都きしわだ
(wikiより)

1808 岡部長職

岡部長職

1808a

1808b



俵 孫一(たわら まごいち、1869年6月16日明治2年5月7日) - 1944年昭和19年)6月17日)は、日本官僚政治家衆議院議員商工大臣立憲民政党幹事長などを歴任した。従二位勲一等


冶金学者俵国一は弟。浜田市長を務めた俵三九郎は甥。政治評論家の俵孝太郎は孫。

経歴・
1869年明治2年)5月7日石見国浜田(現・島根県浜田市)に俵家の3代目・三九郎、ミナの五男として生まれる。幼少の頃から家業の醤油醸造ろうそくの製造販売等を手伝う。


浜田中学(現・島根県立浜田高等学校)、泊園書院(現・関西大学[1]、共立学校(現・開成中学校)、第一高等学校を経て1895年(明治28年)帝国大学法科大学英法科(現東京大学法学部)を卒業する。卒業後は内務官僚として官界に入り、1907年(明治40年)大韓帝国の学部次官、1910年(明治43年)同国の土地調査局副総裁(後の朝鮮総督府臨時土地調査局副総裁)に就任。本国に帰国した後、三重県知事宮城県知事、北海道庁長官、拓殖事務局長を歴任する。


1924年
大正13年)憲政会から衆議院議員総選挙に立候補し当選する。以後、憲政会、民政党に所属し、通算6期当選。加藤高明内閣鉄道政務次官内務政務次官に就任し、1929年昭和4年)には民政党幹事長。浜口雄幸内閣で商工大臣となる。浜口内閣総辞職後は、民政党の重鎮として、総務、政策調査会長を務めた。太平洋戦争中の1942年(昭和17年)に実施された翼賛選挙では、推薦候補となるも落選し、1944年(昭和19年)6月17日に死去した。

人物
・大政翼賛会の成立に際し、俵は「政党の解消と単一政党の出現は国民の正しき判断力を相殺するもので、批判なき所には必ず腐敗が伴う」と語った[2]

栄典
位階
1896年(明治29年)12月25日 - 従七位[3]

1907年(明治40年)12月10日 - 正五位[4]

勲章等
1909年(明治42年)4月18日 - 皇太子渡韓記念章[5]

1912年(大正元年)8月1日 - 韓国併合記念章[6]

1915年(大正4年)11月10日 - 大礼記念章(大正)[7]

1929年(昭和4年)8月1日 - 勲一等瑞宝章[8]

1930年(昭和5年)12月5日 - 帝都復興記念章[9]

1944年(昭和19年)6月17日 - 旭日大綬章[10]

外国勲章佩用允許
1910年(明治43年)4月26日 - 大韓帝国:韓国皇帝陛下南西巡幸記念章[11]

脚注
1. 俵 孫一(たわら・まごいち 1869-1944)関西大学 東西学術研究所 2020年6月17日閲覧
2. 田中隆吉『敗因を衝く』山水社、1946年、33頁。
3. 『官報』第4050号「叙任及辞令」1896年12月26日。
4. 『官報』第7337号「叙任及辞令」1907年12月11日。
5. 『官報』第7771号「叙任及辞令」1909年5月24日。
6. 『官報』第205号・付録「辞令」1913年4月9日。
7. 『官報』第1310号・付録「辞令」1916年12月13日。
8. 『官報』第779号「叙任及辞令」1929年8月3日。
9. 『官報』第1499号・付録「辞令二」1931年12月28日。
10. 
『官報』第5230号「叙任及辞令」1944年6月22日。
11. 『官報』第8068号「叙任及辞令」1910年5月17日。

関連項目
大日本運動

外部リンク
俵孫一 銅像
(wikiより)


1806 俵孫一

俵 孫一

1806a

1806b

1806c



松平 慶憲(まつだいら よしのり)は、江戸時代後期の大名播磨国明石藩9代藩主。官位従四位上兵部大輔左近衛権中将。直良系越前松平家10代。

生涯
文政9年(1826年)、7代藩主・松平直韶の長男として江戸藩邸にて誕生。幼名は濤次郎。文政10年(1827年)、父・直韶は11代将軍・徳川家斉より自身の二十六男・周丸(ちかまる、後の8代・斉宣)を養嗣子として強要され、翌文政11年(1828年)に周丸が明石藩の世嗣となる。文政13年(1830年)、母・至誠院は実子の濤次郎が次期藩主となれず苦悶のうちに死去する(一説に自殺)。天保9年(1838年)、元服し、父・斉韶(直韶)より直憲(なおのり)と名付けられる。


弘化
元年(1844年)4月、8代藩主・斉宣が病気重篤になり、急遽、世嗣となる。6月2日に斉宣が死去し、7月17日に家督を相続する。8月15日、12代将軍・徳川家慶に初めて御目見する。翌月、家慶の偏諱を授かり慶憲と改名する。従四位下に叙され、兵部大輔に任官する。弘化4年(1847年)、侍従に任官する。嘉永5年(1852年)、奥平昌高の十一女・鍼姫と婚姻する。


嘉永6年(1853年)、外国船の来航が頻繁になったため、明石海岸に12箇所の砲台を築く。ペリー浦賀に来航し、明石藩は品川警備を命じられる。翌安政元年(1854年)、明石藩、神奈川の警備を担当する。安政3年(1856年)、鍼姫と離婚する。この年、左近衛権少将に任官する。文久元年(1861年)、従四位上に昇叙する。

慶応2年(1866年)、第二次長州征討に参陣する。左近衛権中将に任官する。翌慶応3年(1867年)、長州征討より帰参。幕府より京都警備を命じられる。明治元年(1868年)、鳥羽・伏見の戦いには幕府方として参陣したが遅参し、大坂城にあった15代将軍・徳川慶喜の救出が出来ず明石に引き返す。明石城に官軍の山陽鎮撫使が進軍したため、本家筋の前福井藩松平春嶽の取り成しで恭順の意を表し、城を明け渡す。官軍に従軍し姫路まで進軍する。戊辰戦争に参戦し、藩兵を越後方面へ派兵する。この年、藩校・敬義館が開かれる。


明治2年(1869年)に隠居し、家督を長男・直致に譲る。明治3年(1870年)、鶴雲と号する。明治17年(1884年)、直致が病没し、次男・直徳が家督を継ぐ。この年、華族令制定により直徳が子爵となり華族に列する(のち貴族院議員)。明治30年(1897年)死去。

官歴
日付は旧暦。

1838年天保9年)12月12日、元服し、諱を直憲と名乗る。

1844年弘化元年)7月17日、家督を相続し、明石藩主となる。9月11日、従四位下に叙位。兵部大輔に任官。将軍徳川家慶の諱を賜わり、慶憲と名乗る。

1847年(弘化4年)12月16日、侍従に任官し、兵部大輔の兼任如元。

1856年安政3年)12月16日、左近衛権少将に転任し、兵部大輔の兼任如元。

1861年文久元年)12月16日、従四位上に昇叙し、左近衛権少将・兵部大輔如元。

1865年慶応元年)12月16日、左近衛権中将に転任し、兵部大輔の兼任如元。(諸侯年表では慶応2年1月16日)

1869年明治2年)2月8日、隠居。

1870年(明治3年)3月1日、鶴雲を号す。

系譜
・父:松平斉韶(1803-1868)

・母:季遠姫 - 至誠院、松平直恒の娘

・養父:松平斉宣(1825-1844)

・正室:鍼姫 - 奥平昌高の十一女

・側室:古満子 - 小林氏

  ・長男:松平直致(1849-1884)

・生母不明の子女

  ・次男:松平直徳(1869-1931) - 松平直致の養子

参考文献
・黒田義隆編著『明石藩略史』明石葵会、1981年

・日本史籍協会編「増補幕末明治重職補任 附諸藩一覧」(続日本史籍協会叢書)東京大学出版会

・児玉幸多監修・新田完三編「内閣文庫蔵・諸侯年表」東京堂出版
(wikiより)

1805  松平慶憲

松平慶憲

1805a

1805b



真田 幸貫(さなだ ゆきつら)は、江戸時代後期の大名老中信濃松代藩の第8代藩主。徳川吉宗の曾孫に当たる。老中として天保の改革の一翼を担ったほか、藩政改革にも多くの成果を上げた。江戸時代後期における名君の一人として評価されている。

生涯
寛政3年(1791年)9月2日、老中首座として寛政の改革を主導した松平定信の長男として白河藩江戸藩邸で生まれる。ただし、側室の子であったこともあり、幼名を次郎丸と名付けられて、公的には次男とされた。定信の正室の子(松平定永)がわずか11日後に生まれており、こちらは太郎丸と名付けられて長子・嫡男と扱われた。


文化12年(1815年)、松代藩7代藩主・真田幸専の養嗣子となった。翌文化13年(1816年)には真田幸善と名乗り、先々代の幸弘の娘が遠州浜松藩主・井上正甫に嫁いで生んだ雅姫を正室とした。


文政6年(1823年)の幸専の隠居により家督を継ぎ、藩政を担当する。天保の改革が始まると水野忠邦によって外様席から譜代席に移され[1]、老中に抜擢されて改革の一翼を担った。藩政においても佐久間象山をはじめとする有能な人材を多く登用して洋学の研究に当たらせ、幕末における人材の育成を行った。また殖産興業、産業開発、文武奨励などにも努め、藩校としては文武学校開設の基礎を築いている。 1832年(天保3年)には産物会所を設置した(明治2年に松代商法社に改める)。また文人としても優れ、画や和歌に秀逸は作品を数多く残した。しかし晩年には、藩政改革の路線を巡る対立から重臣達による内紛を招き、これが幕末まで尾を引いた。


弘化4年(1847年)3月24日には善光寺地震が発生し、松代藩領内でも大きな被害が生じた。幸貫が御用番牧野忠雅に宛てた報告書や、月番家老河原綱徳の手記『むしくら日記』は被害状況を知る上で貴重な記録となっている。


江戸
在府中には、府内をお忍びで歩くことを好んだという。真田家への養子入りの話が出た折には浪人姿になって松代藩の隅々を見聞して回ったともいうが、こちらは伝説の域を出ない。


幸貫は正室・雅姫との間に4男5女を儲けたが、いずれも夭折・早世した。そこで真田家の血筋を求め、幸専の妹が肥前島原藩主・松平忠馮に嫁いで生んだ十男・幸忠を養嗣子に迎えたが、これも数え15歳で早世する。幸貫には実子として幸良がいたが、真田家に養子入りする前年に生まれたため、幕府には実父・定信の末子と届け出ていた。結局この実子を養嗣子として迎え入れたが、数え30歳で先立たれたため、その長男・幸教が嫡子となった。嘉永5年(1852年)5月6日、幸貫は隠居して孫の幸教に家督を譲ると、6月8日に62歳で死去した。


窪田清音に刀工の源清麿を弟子入り斡旋したのは幸貫である。

年譜
寛政3年(1791年) 誕生。

文政6年(1823年) 松代藩を相続、帝鑑間詰。

天保12年(1841年) 任老中

弘化元年(1844年) 免老中。

嘉永5年(1852年) 隠居。死去、62歳。

官歴
文化13年(1816年) 従五位下豊後

・文政6年(1823年) 伊豆守

・天保8年(1837年) 信濃守

・天保12年(1841年) 従四位下侍従

脚注
1. 長野県史 通史編 第6巻 近世3』
(wikiより)

1804  真田幸貫

真田幸貫

1804a

1804b



山本 実彦(やまもと さねひこ、1885年明治18年〉1月5日 - 1952年昭和27年〉7月1日)は、日本ジャーナリスト改造社社長。雅号亀城

経歴
1885年(明治18年)1月、北薩川内(現在の鹿児島県薩摩川内市)にて鍛冶屋山本庄之助の長男として出生する。実彦が小学生の頃に生家の経済状況が悪化、困窮を極めたことから旧制鹿児島県立川内中学校[1]自主退学。自ら働くことを決意して沖縄に渡り、離島にて1902年(明治35年)に代用教員の職を得る。


1904年
に19歳で上京、郵便及び筆耕屋の仕事の傍ら日本大学法律科を卒業[2]。『門司新報』『やまと新聞』記者を経て、1915年大正4年)に東京毎日新聞社(現在の毎日新聞とは資本関係はない)社長に就任。


1919年
(大正8年)には改造社を創業し、総合雑誌『改造』を創刊。大正期最大のベストセラーとなった賀川豊彦の「死線を越えて」、志賀直哉の「暗夜行路」や林芙美子の「放浪記」、火野葦平の「麦と兵隊」など堂々たる作家人達がこぞって執筆し『中央公論』と併称される知識人に圧倒的に支持され、必読の総合雑誌となる。また1927年(昭和2年)、世間を一世風靡した「円本」の先駆けとなった『現代日本文学全集』全63巻を刊行し、それまで経済的に困窮していた作家たちの生活は、それによって大いに潤うこととなった。1930年(昭和5年)、立憲民政党から衆議院選挙に当選し、戦後中道主義を掲げた協同民主党を結成し委員長に就任。三木武夫を入党させるなどしたが、公職追放となる[3]1951年(昭和26年)追放解除[4]。翌1952年(昭和27年)7月死去。総合雑誌『改造』は山本亡きあと、3年で労働争議の末、廃刊となる。


アルベルト・アインシュタイン
バートランド・ラッセルの来日招聘にも尽力し、日本の科学界や思想界にも貢献した。

著書
・『政府部内人物評』政府研究会 1909

・『政界の寧馨児』博文館 1910

・『我観南国』東京堂書店 1916

・『川崎正蔵』吉松定志 1918

・『人を見よ山を見よ』吉松定志 1918

・『満・鮮』改造社 1932

・『小閑集』改造社 1934

・『蒙古』改造社 1935

・『支那』改造社 1936

・『支那事変 北支の巻』改造社 1937

・『人と自然』改造社 1937

・『大陸縦断』改造社 1937

・『興亡の支那を凝視めて』改造社 1938

・『渦まく支那』改造社 1939

・『新欧羅巴の誕生』改造社 1940

・『歐洲の現勢と獨英の將來』改造社 1940

・『蘇聯瞥見』改造社 1941

・『巨いなる歩み』改造社 1942

・『世界文化人巡礼』改造社 1948

関連書籍
松原一枝『改造社と山本実彦』南方新社 2000

脚注
1. 『鹿児島大百科事典』(1981年 南日本新聞社)「川内高等学校」
2. 法政大学専門部とする資料もあるが、松原一枝『改造社と山本実彦』43pによれば、戦後公職適否審査委員会提出のために本人が書いた履歴書を見た木佐木勝が、日大卒と記入されているのを確認したという。
3. 総理庁官房監査課編 『公職追放に関する覚書該当者名簿』 日比谷政経会、1949年、690頁。NDLJP:1276156 
4. 「朝日新聞」1951年8月7日二面 「第二次追放解除者」「放送出版社役員」の部

外部リンク
山本 実彦:作家別作品リスト - 青空文庫

山本實彦顕彰委員会 - 出生地薩摩川内市で山本實彦顕彰碑建立の活動を行っている団体
(wikiより)

1803 山本実彦

山本実彦

1803a

1803b



伊東 義五郎(いとう よしごろう、1858年6月26日安政5年5月16日) - 1919年2月22日)は、日本海軍軍人、最終階級は海軍中将男爵

経歴
信濃国松代城下石切町に松代藩士・伊東賢治の四男として生まれる。藩校文武学校を経て、1872年9月、海軍兵学寮5期)に入学。1877年西南戦争に従軍。1881年1月、海軍少尉任官。フランスドイツ差遣(1884-1888)、海軍参謀部第3課員、「高千穂」副長心得、海軍参謀部第2課員、常備艦隊参謀、「比叡」「大和」「葛城」の各副長、佐世保水雷隊司令、「高千穂」副長、海軍省軍務局第1課員などを歴任。1894年9月、海相秘書官となり西郷従道大臣に仕えた。日清戦争では西海艦隊参謀長として出征した。


さらに、海軍省主事、フランス公使館付、「敷島艦長などを経て、1901年7月、海軍少将に進級。常備艦隊司令官横須賀鎮守府艦政部長などを歴任し、日露戦争時は横須賀工廠長であった。1905年11月、海軍中将となり、竹敷要港部司令官、将官会議議員を務め、1909年5月、予備役に編入された。1918年5月16日、後備役となる[1]


1907年
9月、男爵を叙爵し華族となる。1911年から1919年まで貴族院議員を務め、大日本石油鉱業(現・帝国石油)社長にも就任した。

栄典・授章・授賞
位階
1886年(明治19年)7月8日 - 正七位[2]

1891年(明治24年)12月16日 - 従六位[3]

1895年(明治28年)1月23日 - 正六位[4]

1898年(明治31年)3月8日 - 従五位[5]

1905年(明治38年)11月30日 - 従四位[6]

1909年(明治42年)7月10日 - 正四位[7]

勲章等
1895年(明治28年)

  ・9月27日 - 単光旭日章功四級金鵄勲章[8]

  ・11月18日 - 明治二十七八年従軍記章[9]

1901年(明治34年)11月30日 - 勲四等瑞宝章[10]

1905年(明治38年)5月30日 - 勲三等瑞宝章[11]

1906年(明治39年)4月1日 - 勲二等旭日重光章功三級金鵄勲章明治三十七八年従軍記章[12]

1907年(明治40年)9月21日 - 男爵 [13]

外国勲章佩用允許
1895年(明治28年)10月18日 - フランス共和国レジオンドヌール勲章シュヴァリエ[14]


親族
・妻 伊東満里子(1871-1945)- フランス海軍軍人テオドール・フラパース(Theodore Frappaz)の娘、フランス名マリ・ルイーズ・フラパース。1888年に16歳で伊東と結婚[15]。日本の軍人初の国際結婚[16]。義五郎がフランス公使館付海軍大佐(1896-1900)として再滞仏の際には長女・次女・三女を連れ同行。


・子供

  ・イザベル・ベルト・マリー桜子(1889年生)- 1909年にフランス海軍軍人Marcel ROUVIER(1881-1920)と結婚、息子にGuy(1911-1995)[17]

  ・シュザンヌ・マリー・アメリー不二子(1893年生)- 武者小路公共外交官)妻

  ・レネー・マリー清子(1895年生)- 本野盛一(外交官。本野一郎長男)妻

  ・ギー・イチ(1898年生)- パリ生まれの男児[18]。日本の資料に義五郎の子は一男五女の記述あり[19]、夭折等したか下記の義節と同一人物か。

  ・義節(よしのり、1900年生-1976年没)- 男爵継承者[20]。園芸・畜犬場「昭芳園」経営[21][22]。娘4人あり。

  ・マルゲリート千代子(1902年生)- フランス海軍軍人Emmanuel ANDRIEU d'ALBAS(1894-1969)妻[23]。夫のダルバは東京のフランス大使館勤務経験があり、日本海軍の艦隊を解説した著作などもある[24]

  ・文子(あやこ、1912年生)[20]

・孫 武者小路公秀本野盛幸

脚注
1. 『官報』第1736号、大正7年5月18日。
2. 『官報』第929号「叙任」1886年8月5日。
3. 『官報』第2541号「叙任及辞令」1891年12月17日。
4. 『官報』第3469号「叙任及辞令」1895年1月24日。
5. 『官報』第4402号「叙任及辞令」1898年3月9日。
6. 『官報』第6729号「叙任及辞令」1905年12月4日
7. 『官報』第7813号「叙任及辞令」1909年7月12日。
8. 『官報』第3676号「叙任及辞令」1895年9月28日。
9. 『官報』第3838号・付録「辞令」1896年4月18日。
10. 『官報』第5525号「叙任及辞令」1901年12月2日。
11. 『官報』第6573号「叙任及辞令」1905年5月31日。
12. 『官報』第7072号「叙任及辞令」1907年1月28日。
13. 『官報』第7272号「授爵敍任及辞令」1907年9月23日。
14. 『官報』第3694号「叙任及辞令」1895年10月21日。
15. Marie ItoMy Heritage
16. 『国際結婚第1号 明治人たちの雑婚事始』小山騰、講談社、1995.12
17. Isabelle Sakurako ITOGeneanet.org
18. Le Commandant et Madame Yoshigoro ITO annoncent la naissance de leur fils Guy-Itchi à Paris (1898).AMBASSADEURS AU PAYS DU SOLEIL LEVANT DANS L’ANCIEN EMPIRE DU JAPON
19. 伊東義五郎『大日本人名辞書』上卷、(大日本人名辞書刊行会, 1926)
20. 
a b 伊東義節『現代華族譜要』日本史籍協会, 1929
21. 伊東義節『日本紳士録』33版(交詢社, 1929)
22. 『日本地名学硏究』中島利一郎、日本地名学硏究所, 1959,p43
23. 
Emmanuel ANDRIEU d'ALBASGeneanet.org
24. THE BRITISH PACIFIC FLEET JOINS INAustralian War Memorial

参考文献
秦郁彦編『日本陸海軍総合事典』第2版、東京大学出版会、2005年。

・外山操編『陸海軍将官人事総覧 海軍篇』芙蓉書房出版、1981年。

・福川秀樹『日本海軍将官辞典』芙蓉書房出版、2000年。
(wikiより)

1802a

1802b

1802c



中 勘助(なか かんすけ、1885年明治18年)5月22日 - 1965年昭和40年)5月3日)は、日本小説家詩人随筆家明治末期から大正初頭にかけて執筆した小説『銀の匙』が、学生時代の恩師である夏目漱石の推挙を受けて「東京朝日新聞」に連載されたことで文壇に認められる。漱石門下のひとりに位置づけられる一方で、文壇の潮流とは一線を画した文学活動を維持したことから「孤高の作家」と評される[1][2]

生涯
幼少期
1885年明治18年)5月22日東京府神田区東松下町7番地(現・東京都千代田区神田東松下町14付近[注釈 1])の旧今尾藩邸で、今尾藩士の父・勘弥(当時43歳)と母・[4][5](志やう[6]、しょう[3]、当時37歳)の五男として生まれた。出生当時、中家には両親のほか、祖母のみき(当時74歳)、次兄の金一(当時14歳)、長姉のはつ(当時7歳)、次姉のちよ(当時5歳)、寄留していた母方の伯母[注釈 2](母の一番上の姉[4][6])がいた。兄姉のうち、長兄・三兄・四兄は夭逝していた。勘助が生まれた3年後の1888年(明治21年)には妹の、翌1889年(明治22年)には末妹のやすが生まれた。


勘弥は今尾藩士として藩主・竹腰正旧に仕え、今尾藩の権大属に任命されていた。しかし、廃藩置県のため1872年(明治5年)に藩主とともに東京に移住した。勘弥は家令として竹腰正旧・正己父子に仕え、輸入商会などを営んで主家の財政再建に努めた。


1889年7月、やすが生まれる少し前に母と勘助の健康のために東京府東京市小石川区小日向水道町92番地[4][6](現・東京都文京区小日向2丁目11番地付近)の新築の家に一家で転居した。幼い勘助は、鐘が産後の肥立ちが悪く病弱だったため、代わりに伯母によって育てられた。生まれつき体が弱く、神経過敏で頭痛に悩まされる子供だった勘助は、外で遊ぶことはなく、幼少期のほとんどを伯母以外の人と接することなく育った。

学生時代
東京府立第四中学校(現・東京都立戸山高等学校)を経て、1902年(明治35年)9月、第一高等学校に進学した。同級には、江木定男(江木鰐水の孫)、山田又吉、安倍能成小宮豊隆野上豊一郎尾崎放哉藤村操らがいた[6]。翌1903年4月には、イギリス留学から帰国した夏目漱石が講師として第一高等学校に着任し、漱石の講義を受けた。同年5月には藤村操が華厳滝から投身自殺して社会問題となった。この頃、兄・金一は子爵野村靖の娘・野村末子(当時19歳)と結婚した[4]。結婚後まもなくして金一は単身でドイツに留学した。


1904年(明治37年)には留年した岩波茂雄荻原井泉水らが同級となる。安倍や岩波などとは卒業後も交流が続いた[7]


1905年(明治38年)、東京帝国大学英文科に進学。第一高等学校と兼任で東京帝国大学でも講師として勤めていた漱石から引き続き講義を受けた。翌1906年(明治39年)10月15日、父・勘弥が死去した。1907年(明治40年)には国文科に転科している。


卒業を半年後に控えた1909年(明治42年)1月、野村靖が死去した。同月末には野村の初七日のため福岡から上京してきていた金一が、突然脳溢血を起こして倒れ、失語症などを患う重症を負う。結果として、金一は九州帝国大学での教授職を辞任せざるを得ず、小石川の自邸で末子や家族に介護されることになった。家長たる金一が倒れたことにより、事実上の次兄である勘助には金一の代わりに一家の大黒柱として家族を支えることが求められるようになった。しかし、勘助は同年7月に東京帝国大学を卒業するも、家族のいる実家に戻らず、家から逃げるように各地を転遷するようになる。

放浪生活のはじまりと『銀の匙』
大学卒業後、1910年(明治43年)に勘助は一年志願兵として近衛歩兵第四聯隊に入隊するが、翌1911年(明治44年)4月に衛戍病院に入院することになり、同年6月頃には除隊となった。同年9月、除隊となった勘助は野尻湖弁天島に向かい、そこに籠もるようになる。


1912年(大正元年)夏から秋にかけて、野尻湖畔で「銀の匙」を執筆する。同年7月には、小宮豊隆の勧めで「夢の日記」を雑誌『新小説』に大内生名義で発表し、作家としての一歩を踏み出した。その後、「銀の匙」の前篇部分を書き上げた勘助は、学生時代の恩師である漱石にその原稿を送付した。「銀の匙」は漱石から高く評価され[8]、漱石の推薦もあり1913年(大正2年)4月から同年6月にかけて「東京朝日新聞」上に那珂名義で連載される。


1914年(大正3年)6月末には、比叡山横川・慧心院で「つむじまがり[注釈 3]」を執筆し、同じく漱石の推薦で翌1915年(大正4年)4月から同年6月にかけて「東京朝日新聞」上で連載された。

放浪と断筆の時代
勘助は『銀の匙』によって一躍注目を集める作家となったが、その後6年近くほとんど作品を発表せず[注釈 4]、作家として沈黙を保った。そして、私生活の上では病兄や老母のいる小石川の実家には戻らず、各地を転遷し続ける隠遁生活を送った。


1920年(大正9年)2月、千葉県我孫子町我孫子(現・千葉県我孫子市)の高嶌貰治郎方に仮寓。当時、近辺に居住していた志賀直哉と交流を深める。この頃から我孫子を引き払うあたりの1923年11月までの日記は、のちに日記体随筆「沼のほとり」となる。同年4月17日、「提婆達多」を脱稿した。


同年11月、兄の発病を契機とした家庭内紛糾は、最終的に勘助が生家の世話を引き受けることで一応の収束を迎える。勘助は、家の基盤を整えるための財産整理として、小石川の実家を岩波茂雄に買い取ってもらった。そのため、家族を一時的に東京府東京市四谷区元町59番地に移らせたが、勘助は家族とともに四谷には移らず、我孫子に留まった。

作家活動の再開
1921年(大正10年)5月、森田草平の紹介で新潮社から『提婆達多』を刊行したのを皮切りに、同年12月には『銀の匙』を岩波書店から刊行するなど、作家としての活動を再開した。翌1922年(大正11年)には、初めて実名の中勘助名義で「犬(未定稿)」を岩波書店から刊行されている文芸誌『思想』にて発表した。しかし、同作は性欲描写などを理由に問題視され、『思想』は発禁処分を受け、岩波茂雄が警視庁に呼び出される事態に発展した。岩波の取りなしもあり、性欲描写に該当すると指摘された箇所を伏字にする処置で一応の解決がなされた[注釈 5]。ただ、勘助が晩年「作者の本意がわからない人びとの軽蔑や、嫌悪や、邪推や、憤慨や、大変だった」[9]と述懐するほど、発禁処分を受けたという事実は周囲や世間から非難される要因となった。


1922年7月、東京府東京市赤坂区表町二丁目13番地[4](現・東京都港区[5])に家を購入し、四谷へ一時的に移していた家族を引っ越させる。四谷のときと同じくそのときは勘助は我孫子に留まった[4]が、翌1923年(大正12年)12月に我孫子を引き払い赤坂へ移った[6]


1924年
(大正13年)5月、『犬 附 島守』を岩波書店から刊行。赤坂とは別に神奈川県平塚町西海岸[4](現・神奈川県平塚市)に家族の避暑避寒のため家を建て、夏期・冬期以外を平塚の家で暮らすようになる。この平塚で暮らした期間の日記はのちに「しづかな流」となる。

平塚時代
1925年(大正14年)4月、発表していた『銀の匙』の改稿に着手する。同年7月、『沼のほとり』を岩波書店から刊行。翌1926年(大正15年)4月、改稿した『銀の匙』を岩波書店から刊行する。1928年昭和3年)、猪谷妙子(旧友・江木定男の長女、猪谷善一の妻)のために「菩提樹の蔭」を執筆し、翌1929年(昭和4年)10月には『思想』に発表した。


1931年(昭和6年)1月、この頃から和辻哲郎の長女・和辻京子のために童話『鳥の物語』の構想が生まれる。同年4月、『菩提樹の蔭』を、翌1932年(昭和7年)6月、『しづかな流』をともに岩波書店より刊行した。同年9月、平塚の家を売却し、赤坂の家に家族と同居するようになる。この頃から1936年(昭和11年)9月までの日記がのちに日記体随筆『街路樹』となる。

詩人として
1934年(昭和9年)10月、母・鐘が老衰のため死去した。同年12月、「母の死」を『思想』に発表する。『銀の匙』以来長らく小説や日記体随筆を書く作家だったが、1935年(昭和10年)に発表した詩集『琅玕』を端緒に、詩人としての文芸活動を開始した。1936年(昭和11年)に詩集『機の音』と『海にうかばん』、1937年(昭和12年)に詩集『吾往かん』、1938年(昭和13年)に詩集『大戦の詩』、1939年(昭和14年)に詩集『百城を落す』をそれぞれ岩波書店より立て続けに刊行した。

愛する人たちの死
1940年(昭和15年)、勘助とともに家族を支えてきた嫂の末子が蜘蛛膜下出血を起こして倒れる。末子を看病しながら、のちに日記体随筆となる「氷を割る」を書く。1942年(昭和17年)4月、末子が死去する。同年7月には、猪谷妙子も35歳で死去した。立て続けに愛する人たちを亡くし、勘助は病床の金一とともに残された。自身も老いてきたなかで不仲である兄の介護をひとりで行うのは困難と勘助は判断し、知人の紹介を受けて嶋田正武の娘・嶋田和子と結婚することを決意する。


1942年
(昭和17年)10月12日[注釈 6]、結婚式当日、勘助と和子の結婚式は予定通りに執り行われる運びだった。しかし、挙式当日に長い闘病生活に苦しんだ金一が自殺[注釈 7]した。当日予定通りに結婚式は挙行されている。


結婚後、末子や妙子を追慕する随筆「蜜蜂」、「妙子の手紙」を執筆する。1943年(昭和18年)5月、『蜜蜂』を筑摩書房より刊行した。

服織時代
1943年、静養のため静岡県安倍郡服織村(はとりむら)新間字樟ヶ谷(現・静岡市葵区新間)に移り、戦況の悪化にともない疎開も兼ねてしばらく移住することになる[注釈 8]1945年3月には同村羽鳥(現・静岡市葵区羽鳥本町)に移る。詩集『藁科』、随筆「樟ヶ谷」「羽鳥」など、この地を題材にした作品を著す。1945年(昭和20年)、服織で終戦を迎える。終戦後、1948年に勘助夫妻は服織を去り、赤坂の自邸が戦火に焼かれたことなどもあり、勘助は夫妻は東京都中野区新井町にある和子の実家に身を寄せる。


晩年
勘助は、和子の実家で義妹である嶋田豊子、秀とともに亡くなるまで暮らした。1949年(昭和24年)5月、『鳥の物語』を山根書店より刊行する。1951年1月、『白鳥の話』を角川書店より、同年6月に詩集『藁科』を山根書店より刊行した。


1956年(昭和31年)、胆嚢その他の病気のため東京都千代田区飯田橋にある日本医科大学附属第一病院に入院した。同年6月に退院するも9月に再入院し20日後再退院する。1958年(昭和33年)には感冒から肺炎を併発し、一時危篤となるなど、老衰から健康を損なうようになる。


1960年
(昭和35年)12月、角川書店から『中勘助全集』の刊行を開始する。当初は全11巻予定だったが、のち2巻増補され、全13巻で1965年(昭和40年)1月に完結した。同年「全集」完結と多年の業績により朝日文化賞を受賞した。


同年4月28日午前3時台、就寝していた勘助が突然大声を上げ和子を呼び起こした。そして「頭が痛い。父のようだ[注釈 9]。あわてるな! 豊[注釈 10]はすばやいから、豊を起せ。」と話したのち昏睡し、意識が戻らなくなった[12]。勘助は、すぐに日本医科大学附属第一病院に搬送されたが、病状は回復せず昏睡状態が続いた。


1965年5月3日、脳出血のため、飯田橋の日本医科大学附属第一病院で死去した。享年79歳。戒名は慈恩院明恵勘真居士[13]

略年譜
1885年

  ・5月22日 - 東京府神田区東松下町7番地今尾藩邸にて、今尾藩士の父・勘弥と母・鐘の五男として生まれる。

1889年

  ・7月 - 母と勘助の健康のため、小石川区小日向水道町に一家で転居する。

1891年

  ・4月 - 正規の学齢より1年早く市立黒田尋常小学校に入学。

1897年

  ・9月 - 城北中学校(現・都立戸山高等学校)に入学。

1902年

  ・9月 - 第一高等学校第一部に入学。

1905年

  ・9月 - 東京帝国大学文科英文学科に入学。

1907年

  ・9月 - 国文学科に転科。

  ・10月、父・勘弥が死去。

1909年

  ・1月 - 兄・金一が脳溢血で倒れて失語症など重症を負う。

  ・7月 - 東京帝国大学国文学科を卒業。

1910年

  ・12月 - 一年志願兵として近衛歩兵第四聯隊に入隊。

1911年

  ・4月 - 衛戍病院に入院。2ヶ月後、除隊。

  ・夏 - 野尻湖畔の安養寺に仮寓。9月からは弁天島に籠もる。

1912年

  ・夏から秋にかけて、野尻湖畔に滞在。「銀の匙」を執筆する。

1913年

  ・4月 - 夏目漱石の推薦により「銀の匙」が「東京朝日新聞」に連載される。

1914年

  ・6月 - 比叡山横川で「銀の匙」後篇を執筆する。

1915年

  ・4月 - 「銀の匙」後篇が「東京朝日新聞」に連載される。

1917年

  ・6月 - 「漱石先生と私」を『三田文学』に発表。

1920年

  ・2月 - 千葉県我孫子町に仮寓。

  ・11月 - 生家の世話を見ることになり、財産整理のため小石川の実家を岩波茂雄に売却する。

1921年

  ・4月 - 『提婆達多』を新潮社より刊行。『銀の匙』を岩波書店より刊行。

1922年

  ・4月 - 「犬(未定稿)」を『思想』に発表し、発禁処分を受ける。

1924年

  ・5月 - 『犬 附 島守』を岩波書店より刊行。

  ・12月 - 平塚に家を建て、我孫子から転居して主にそこに暮らす。

1925年

  ・7月 - 『沼のほとり』を岩波書店より刊行。

1926年

  ・4月 - 『銀の匙』を岩波書店より再度刊行。

1931年

  ・4月 - 『菩提樹の蔭』を岩波書店より刊行。

1932年

  ・6月 - 『しづかな流』を岩波書店より刊行。

1933年

  ・4月 - 『提婆達多』を岩波書店より刊行。

1934年

  ・10月 - 母・鐘が死去。

1935年

  ・3月 - 詩集『琅玕』を岩波書店より刊行。

1936年

  ・5月 - 詩集『機の音』を岩波書店より刊行。

  ・12月 - 詩集『海にうかばん』を岩波書店より刊行。

1937年

  ・6月 - 『街路樹』を岩波書店より刊行。

  ・10月 - 詩集『吾往かん』を岩波書店より刊行。

1938年

  ・12月 - 詩集『大戦の詩』を岩波書店より刊行。

1939年

  ・9月 - 詩集『百城を落す』を岩波書店より刊行。

1940年

  ・5月 - 『逍遥』を岩波書店より刊行。嫂・末子が蜘蛛膜下出血で倒れる。

1941年  
  ・10月 - 『鳩の話』を岩波書店より刊行。

1942年

  ・3月 - 詩集『飛鳥』で筑摩書房より刊行。

  ・4月 - 嫂・末子が死去。

  ・7月 - 猪谷妙子が死去。

  ・10月12日 - 嶋田和子と結婚。同日、兄・金一が自殺。

1943年

  ・5月 - 『蜜蜂』を筑摩書房より刊行。

  ・10月 - 静岡県安倍郡服織村に疎開。

1945年

  ・3月 - 服織村羽鳥に移る。

1947年

  ・7月 - 『余生』を八雲書店より刊行。

1948年

  ・2月 - 『鶴の話』を山根書店より刊行。

  ・4月 - 東京都中野区新井町にある妻の実家に移る。

1949年

  ・5月 - 『鳥の物語』を山根書店より刊行。

1951年

  ・1月 - 『白鳥の話』を角川書店より刊行。

  ・6月 - 詩集『藁科』を山根書店より刊行。

1953年

  ・11月 - 『中勘助自選随筆集』上巻が創元文庫に入る(下巻は翌1月)。

1956年

  ・胆嚢ほかの病気のため日本医科大学附属第一病院に入院。入退院を繰り返す。

1958年

  ・2月 - 感冒より肺炎を併発し、一時危篤となる。

1960年

  ・12月 - 『中勘助全集』を角川書店から刊行開始。

1965年

  ・1月 - 『中勘助全集』完結。朝日文化賞を受賞。

  ・5月3日 - 日本医科大学附属第一病院にて死去。享年79歳。

詳しいことは、「中 勘助ウィキペディア」をご覧ください。 ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%8B%98%E5%8A%A9
(wikiより)

1801  中勘助

中 勘助

1801a

1801b



得能 良介(とくのう りょうすけ、文政8年旧暦11月9日1825年12月18日)- 明治16年(1883年12月27日)は、幕末明治初期の薩摩藩士大蔵官僚通生通称は新右衛門。は薫山。初代印刷局長・初代大蔵技監

来歴
鹿児島の城下新屋敷にて薩摩藩士・得能直助の長男として生まれるが、誕生2ヶ月前に父は急死していた。そこで藩は母の吉(阿吉)及び直助の母・藤に良介の養育を命じた。17歳で藩の御記録所書役助として出仕し、安政2年(1855年)より2年間江戸藩邸詰となった。御側御用人座書役として島津斉彬久光に近侍して、文久2年(1862年)の久光の上洛に随行している。その後、小松清廉大久保利通西郷隆盛と結び、慶応3年(1867年)には長崎御付人格として長崎に駐在した。


明治3年(1870年)旧暦4月8日、大久保利通の推挙によって大蔵大丞民部大丞に任じられる。当時の民部大蔵省(民部省大蔵省の統合体)は、大隈重信伊藤博文ら急進的な中央集権論者が要職を占め、大久保と度々対立していた。このため、そこに大久保が薩摩出身者を送り込んで巻き返しを図ろうとしたと言われている。大久保が得能を推挙したことを薩摩藩庁に伝えた書簡(同年4月14日付)では、得能と黒田清隆開拓使)は政府における薩摩出身者の今後を左右する重要人物なので、薩摩への帰国を命じないように要請している。だが、大久保のこの戦略は失敗に終わり、大久保によって同時期に推挙された多くの薩摩出身者のうち大蔵省の要職に至ったのは得能と松方正義のみであった。明治4年(1870年)、民部省が大蔵省に合併されたことによる人事異動により出納頭(現在の主計局長)に任じられた。ところが翌明治5年(1872年)5月、会計簿記の洋式切替を主張する紙幣頭(現在の印刷局長)渋沢栄一とその是非を巡って口論となり、得能が興奮のあまり渋沢に暴力を振るおうとしたことが問題となり、免官処分となる。だが、間もなく司法省に招かれて司法大丞などを歴任する。

明治7年(1874年)1月15日に渋沢の後任であった芳川顕正の後を受けて第3代の紙幣頭として大蔵省に復帰する。その後、明治10年(1877年)1月11日官制改革による局制度導入によって紙幣局長、同年12月10日には初代の印刷局長に就任した。因縁の渋沢栄一とも和解して、その第一国立銀行頭取就任を推挙したほか、銀行経営に必要な人材を育成する銀行学局を設立して渋沢がやり残していた洋式簿記の普及に尽力した。更にイタリア人版画家のエドアルド・キヨッソーネらを招聘して、近代的な国営の印刷・抄紙工場建設に尽力、明治10年10月15日には国産第1号紙幣である国立銀行券1円紙幣の印刷を開始した。近代日本の高度な紙幣製造・印刷技術の確立に果たした功績は大きく、また部下の信望も厚く多くの技術者を育成した。1879年5月1日-9月19日、印刷局長としてキヨッソーネを帯同して伊勢神宮・正倉院・桂宮など中部・関西・関東各地の古社寺・宝物調査[1]


こうした功績によって明治16年(1883年)6月に印刷局長兼務のまま初代大蔵技監に就任するが、その年の12月に職務中に倒れて死去、満78歳。墓所は青山霊園、墓石は親交があったキヨッソーネが自らデザインによるものである。

栄典
1874年(明治7年)2月18日 - 従五位[2]

家族
長男の得能通昌も大蔵省に入り、明治21年(1888年)から19年間にわたって印刷局長を務めている。長女は西郷清子(西郷従道の妻)。

脚注
1. 巡回日記 得能良介
2. 『太政官日誌』 明治7年 第1-63号 コマ番号109

参考資料・外部リンク
国立国会図書館 憲政資料室 得能良介関係文書
(wikiより)


1800 得能良介

得能良介

1800a

1800b

1800c



郷 純造(ごう じゅんぞう、文政8年4月26日1825年6月12日)- 明治43年(1910年12月2日)は、日本武士幕臣大蔵官僚政治家である。男爵

人物
美濃国黒野(現在の岐阜市黒野)の豪農の三男として生まれる。弘化元年(1845年江戸に出て大垣藩用人に武家奉公した後に旗本など奉公先を転々とするが、長崎奉行牧義制の納戸役として嘉永5年(1853年)のオランダ使節来訪問題に対応し、続いて箱館奉行堀利煕の用人としてその樺太蝦夷地巡回に随行するなど対外問題に遭遇、更にその経験を大坂町奉行鳥居忠善に買われて貿易問題を担当して同家の家老として抜擢された。鳥羽・伏見の戦い直前に撒兵隊に属する御家人の株を買って幕臣となり、程なく差図役(士官)に登用され、最終的には撒兵隊差図役頭取、旗本となる。江戸開城前後、同隊の新政府に対する徹底抗戦路線には従わずに江戸開城後は新政府軍に従った。明治維新後は新政府に入り大蔵官僚として活躍する。特に渋沢栄一前島密杉浦愛蔵ら旧幕臣の登用を大隈重信伊藤博文らに薦めた功績は特筆すべきである。だが、それが原因で幕臣嫌いの大久保利通から憎まれていた(明治3年10月25日の大久保から岩倉具視あての書簡には郷を「断然免職か転勤ニならす」と名指しで明記されているほどである)。そのため、大久保が大蔵卿に就任して政権の中枢を担った時代には重要ポストから外されて干されることになった。大久保の没後、大隈や伊藤が政権の中枢に立つようになると漸く再評価されて大蔵大輔(後に初代大蔵次官と改称)を務めたが、実務官僚の地位に留まった背景には大久保政権下の不遇時代が尾を引いたからと言われている。退官後は貴族院議員となった。

略歴
1868年慶応 4年) - 5月、工兵差図役頭取。8月鎮将府会計局組頭

1869年(明治 2年) - 大蔵少丞

1870年(明治 3年) - 大蔵大丞

1872年(明治 5年) - 負債取調掛

1874年(明治 7年) - 国債頭

1877年(明治10年) - 国債局長

1882年(明治15年) - 大蔵少輔心得

1884年(明治17年) - 大蔵少輔兼主税局長

1886年(明治19年) - 大蔵次官

1888年(明治21年) - 退官

1891年(明治24年)4月15日 - 貴族院勅選議員[1]

1899年(明治32年)8月14日 - 錦鶏間祗候[2]

1900年(明治33年)5月9日 - 勳功特授 男爵[3][4]

栄典
位階
1886年(明治19年)7月8日 - 従四位[5]

1886年(明治19年)10月20日 - 従三位[6]

1888年(明治21年)11月28日 - 正三位[7]

1900年(明治33年)6月20日 - 従二位[3][8]

1910年(明治43年)12月2日 - 正二位[9]

勲章等
1887年(明治20年)9月29日 - 銀製黄綬褒章[10]

1888年(明治21年)11月28日 - 勲二等瑞宝章[7]

1900年(明治33年)5月9日 - 男爵[4]

1906年(明治39年)4月1日 - 旭日重光章[11][12]

1910年(明治43年)12月2日 - 勲一等瑞宝章[13]

家族・親族
実業家郷誠之助は次男。四男・昌作は数え2歳で三菱財閥の創業者・岩崎弥太郎の養子となると同時に岩崎 豊弥(いわさき とよや)と改名、実兄の誠之助同様実業界で活動した。昭和天皇侍従長を務めた入江相政は岩崎豊弥の娘婿(すなわち郷純造及び岩崎弥太郎の義理の孫)であり、実業家の岩崎勝太郎は豊弥の長男(従って純造及び弥太郎の孫)である。九男の朔雄は兄・誠之助の養子となって男爵を継ぎ、稲葉正縄の娘を妻とした。


長女の幸子は東京川崎財閥の2代目当主・2代目川崎八右衛門(東京川崎財閥創業者・初代川崎八右衛門の三男)に嫁いでおり、東京川崎財閥の3代目当主・川崎守之助(2代目八右衛門の長男)は純造の孫にあたる。また茶道宗徧流四方庵8代家元の石原恵香も純造の孫にあたる。次女の英子は学習院女学部卒業後、大東海上火災保険(のち東京海上に吸収)社長・北田彦三郎に嫁いだ[14]


甥(妹の子)に十勝経済界の重鎮となった中島武市シンガーソングライター中島みゆきの祖父)がいる。

系譜
・郷氏 大江広元の後裔を称し、先祖がまず出羽国左沢(あてらざわ、現山形県大江町)に居住し、後に室町末期に美濃国方縣郡(現岐阜市)に遷住し、江(ごう)氏を名乗ったという[15]


 系図については、「郷 純造ウィキペディア」をご覧ください。 ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%83%B7%E7%B4%94%E9%80%A0

脚注
1. 『官報』第2335号、1891年4月16日。
2. 『官報』第4837号、明治32年8月15日。
3. a b 『帝国議会会議録』貴族院議員の異動
4. a b 『官報』号外、明治33年5月9日。
5. 『官報』第907号「叙任及辞令」1886年7月10日。
6. 『官報』第994号「叙任及辞令」1886年10月21日。
7. a b 『官報』第1629号、1888年12月3日。
8. 『官報』第5089号「叙任及辞令」1900年6月21日。
9. 『官報』第8236号、1910年12月3日。
10. 『官報』第1278号「彙報 - 褒章」1887年9月30日。
11. 『官報』第7272号「叙任及辞令」1907年9月23日。
12. 『帝国議会会議録』貴族院議員の異動
13. 『官報』第8237号、1910年12月5日。
14. 北田彦三郞 (男性)『人事興信録』第4版 [大正4(1915)年1月]
15. 
明治の華族の呈譜


参考文献
郷男爵記念会編『男爵 郷誠之助君伝』1943年発行、1988年復刻・大空社。




佐藤朝泰『豪閥 地方豪族のネットワーク』2001年、406-407頁。

関連項目
岩崎家 - 三菱の創業者一族。純造の四男・昌作(岩崎豊弥)の養父の一族でもある。

東京川崎財閥 - 純造の娘・幸子の嫁ぎ先がオーナーの金融財閥。

外部リンク
郷純造書簡

黒野村郷家家系図
(wikiより)





1799a

1799b



尾崎 忠治(おざき ただはる、天保2年2月2日1831年3月15日) - 1905年明治38年)10月16日)は、日本武士政治家正二位勲一等男爵

生涯
土佐藩士尾崎源之丞の次男として生まれ、奥宮慥斎に学ぶ。


維新後の明治3年(1870年)12月、刑部大解部に就任。翌年7月に刑部省司法省と名を変え、司法大解部、同年10月に司法少判事、同8年(1875年)5月に長崎上等裁判所長心得、同17年(1884年)12月に東京控訴院長、同19年(1886年)8月には大審院長などの司法ポストを歴任した。 同23年(1890年)8月に枢密顧問官。同33年(1900年)5月、男爵を授爵。


同38年(1905年)に死去、享年75。青山霊園に葬られた。

栄典
位階
1886年(明治19年)7月8日 - 従四位[1]

1886年(明治19年)10月20日 - 従三位[2]

1897年(明治30年)12月27日 - 従二位[3]

1905年(明治38年)10月16日 - 正二位[4]

勲章等
1888年(明治21年)5月29日 - 勲二等旭日重光章[5]

1889年(明治22年)11月25日 - 大日本帝国憲法発布記念章[6]

1891年(明治24年)3月30日 - 勲一等瑞宝章[7]

1898年(明治31年)12月28日 - 旭日大綬章[8]

1900年(明治33年)5月9日 - 男爵[9]

逸話
囲碁の腕が相当なものであったらしい。

親族
・長男 尾崎麟太郎(貴族院男爵議員)[10]

脚注
1. 『官報』第907号「叙任及辞令」1886年7月10日。
2. 『官報』第994号「叙任及辞令」1886年10月21日。
3. 『官報』第4349号「叙任及辞令」1897年12月28日。
4. 『官報』第6692号「叙任及辞令」1905年10月18日。
5. 『官報』第1473号「叙任及辞令」1888年5月30日。
6. 『官報』第1928号「叙任及辞令」1889年11月30日。
7. 『官報』第2322号「叙任及辞令」1891年3月31日。
8. 『官報』第4651号「叙任及辞令」1899年1月4日。
9. 『官報』号外「授爵叙任及辞令」1900年5月9日。
10. 『平成新修旧華族家系大成』上巻、379頁。

参考文献
霞会館華族家系大成編輯委員会『平成新修旧華族家系大成』上巻、霞会館、1996年。
(wikiより)

1798 尾崎忠治

尾崎忠治

1798a

1798b



小牧 昌業(こまき まさなり、天保14年9月12日1843年10月5日) - 大正11年(1922年10月25日)は、日本の漢学者官僚貴族院議員

経歴
薩摩藩鹿児島県)生まれた。明治期に官僚として黒田清隆に仕え、開拓幹事・文部大臣秘書官・内閣総理大臣秘書官[1]内閣書記官長明治天皇侍講、奈良県知事、愛媛県知事などを歴任した。1897年12月23日には貴族院議員に勅選された[2]1903年7月30日、錦鶏間祗候に任じられた[3]。 ドイツ文学者の小牧健夫は子。

栄典
位階
1888年(明治21年)6月1日 - 従四位[4]

勲章等
1888年(明治21年)12月26日 - 勲三等瑞宝章[5]

1896年(明治29年)12月25日 - 勲二等瑞宝章[6]

外国勲章佩用允許
1887年(明治20年)5月7日 - ロシア帝国:アンナ第二等勲章[7]

著作
・『順聖公事蹟 附・年譜』講話会 1910 

・『薩藩史談集』重野安繹共著 求信堂 1912 

・『国訳漢文大成 経子史部 1 大学,中庸』校註、国民文庫刊行会 1920 

・『書経講義』行道学会 1916-20

脚注
1. 『日本官僚制総合事典:1868 - 2000』25頁。
2. 『官報』第4346号、明治30年12月24日。
3. 『官報』第6024号、明治36年7月31日。
4. 『官報』第1478号「叙任及辞令」1888年6月5日。
5. 『官報』第1650号「授爵叙任及辞令」1888年12月27日。
6. 『官報』第4051号「叙任及辞令」1896年12月28日。
7. 『官報』第1156号「叙任及辞令」1887年5月10日。
(wikiより)


1797 小牧昌業

小牧昌業

1797a

1797b



野村維章 ( のむら ‐ これあき )
( 1844 ‐ 1903 )

幕末 - 明治時代の武士、司法官。


天保 ( てんぽう ) 15年 4月 8日生まれ。

土佐高知藩士。

長崎で坂本竜馬 ( りょうま ) に会い、慶応 2年脱藩して海援隊に加わる。

戊辰 ( ぼしん ) 戦争には長崎振遠隊軍監として従軍。

維新後は茨城県令を経て検事となり、東京控訴院検事長、函館控訴院長などを歴任した。

明治 36年 5月 8日死去。60歳。通称は要輔。

1796a

1796b



丸岡九華 ( まるおか - きゅうか )
( 1865 - 1927 )


詩人・小説家。

本名は久之助、別号は春亭・九春亭・延春亭・山茶花 ( サザンカ )・礫川 ( レキセン ) 魔王・桂堂・梅の舎薫 ( ウメヤノカオル )。

江戸生れ。

一橋高等商業学校に学ぶ。

1885年、大学予備門の学生であった尾崎紅葉の硯友社創立に参加。

1795a

1795b



岡崎 久次郎(おかざき きゅうじろう、1874年1月14日[1] - 1942年3月20日)は、日本実業家政治家衆議院議員(通算6期)。

経歴
神奈川県出身。1895年高等商業学校(現一橋大学)卒。同期に佐野善作(経済学者)、石井健吾(元第一銀行頭取)など[2]。卒業後三井物産に入り、その後退職して大日本自転車、日米商店(のち日米富士自転車)を創業する。相模鉄道初代社長。


1912年
第11回衆議院議員総選挙岐阜県から無所属で立候補して当選する。1915年第12回衆議院議員総選挙では立憲同志会公認で立候補して当選。その後一旦政界から引退し、時をおいて1928年第16回衆議院議員総選挙で神奈川3区(当時)から立憲民政党公認で立候補して当選し政界に復帰、以降4期務めた。


1940年
2月、衆議院本会議で斎藤隆夫が「支那事変処理を中心とした質問演説」(いわゆる反軍演説)をした際に所属していた民政党が斎藤の議員除名に賛成する方針を取ったのに対し岡崎はこれに反対し離党して、決議では反対票を投じた[3]。この時除名反対票を投じたのは岡崎を含めて7名であり[3]、そのうち斎藤の所属政党である民政党に所属していたことがある議員は岡崎以外では1930年に行われた第17回衆議院議員総選挙に民政党公認で立候補して初当選した北浦圭太郎のみであった。なお北浦は1939年に行われた衆議院議員選挙の再選挙に無所属で立候補して2度目の当選を果たす前に民政党を離党しており、反軍演説のときは院内会派の第一議員倶楽部に所属していた[3]


後に同交会に入り、1942年に死去した。

家族
・弟 岡崎勝男外務大臣


脚注
1. 『第拾壱回改選 代議士銘鑑』、国華新聞社、1912年。
2. 「十五 石井健吾/42」人物評論社編『財界巨星二十人伝』 (人物評論社, 1937)(国立国会図書館デジタルコレクション)
3. a b c 『昭和の政党』、364頁。

参考文献
・『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』(衆議院、1990年)


粟屋憲太郎 著 『文庫版 昭和の歴史 第6巻 昭和の政党』 小学館1988年11月1日第1版第1刷発行、ISBN 4-09-401106-4
(wikiより)

1794  岡崎久次郎


岡崎久次郎


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浅田 信興(あさだ のぶおき、嘉永4年10月12日[1][2]1851年11月5日) - 1927年(昭和2年)4月27日[1][2])は、日本の陸軍軍人華族。最終階級は陸軍大将男爵

経歴
武蔵国出身。川越藩士・坂口朗忠の三男として生まれ、同藩士・浅田順信の養子となる[1]。江川塾にて砲術を学ぶ[1]明治3年12月(1871年)、陸軍兵学寮生徒となる[1]。明治5年(1872年)3月、陸軍少尉に任官し歩兵5番大隊付となる[1]1877年(明治10年)、第4旅団に編入し西南戦争に出征[1]1878年(明治11年)10月、陸軍士官学校教官となり、熊本鎮台参謀などを経て、1884年(明治17年)3月、陸軍少佐に進級し歩兵第2連隊大隊長に就任[1]


1885年
(明治18年)5月、陸軍教導団歩兵大隊長となり、参謀本部陸軍部第2局第2課長、参謀本部第2局員を経て、1888年(明治21年)6月から9月まで清国に派遣された[1]1889年(明治22年)5月、歩兵第21連隊第1大隊長となり、1891年(明治24年)6月、陸軍中佐に昇進し第3師団参謀となる[1]。歩兵第2連隊長、屯田兵参謀長を歴任し、1894年(明治27年)11月、陸軍大佐に進級した[1][3]


日清戦争には臨時第7師団参謀長[1][2]として動員されたが、戦争終結のため現地に赴くことはなく復員した[要出典]1896年(明治29年)5月、第7師団が編成され初代参謀長に就任[1][3]東部都督部参謀長を経て、1897年(明治30年)9月、陸軍少将に昇進[1][3]1898年(明治31年)10月、歩兵第20旅団長に就任し、歩兵第5旅団長を経て、日露戦争近衛歩兵第1旅団長として出征[1][2][3]1904年(明治37年)9月、陸軍中将に進級し近衛師団長に親補され、沙河会戦以降の緒戦に従軍した[1][2][3]


1906年(明治39年)7月6日に久留米第12師団長に転じる[1][2][3]1907年(明治40年)9月、日露戦争の功績により男爵を授けられ華族に列せられる[1][3]1910年(明治43年)8月26日に大阪第4師団長となり、1911年(明治44年)9月に教育総監に就任(~1914年[1][2][3]1912年(大正元年)8月、陸軍大将に親任される[1][2][3]軍事参議官東京衛戍総督を経て、最終官職は軍事参議官[3]1916年(大正5年)10月12日、後備役に編入され[4]1921年(大正10年)4月に退役[1]し、1927年(昭和2年)に77歳で死去。


1918年
(大正7年)から1923年(大正12年)、大日本武徳会第7代会長。[要出典]

栄典
位階
1897年(明治30年)10月30日 - 正五位[5]

1902年(明治35年)12月10日 - 従四位[6]

1904年(明治37年)12月16日 - 正四位[7]

1907年(明治40年)12月27日 - 従三位[8]

1912年(大正元年)9月10日 - 正三位[9]

勲章等
1889年(明治22年)11月29日 - 大日本帝国憲法発布記念章[10]

1893年(明治26年)11月29日 - 勲三等瑞宝章[11]

1903年(明治36年)5月16日 - 勲二等瑞宝章[12]

1906年(明治39年)4月1日 - 功二級金鵄勲章勲一等旭日大綬章明治三十七八年従軍記章[13]

1907年(明治40年)9月21日 - 男爵 [14]

1915年(大正4年)

  ・11月7日 - 金杯一組大正三四年従軍記章[15]

  ・11月10日 - 大礼記念章[16]

1927年(昭和2年)4月27日 - 旭日桐花大綬章[17]


親族
・妻 浅田きの 斎藤伊三郎の娘[1]

・養嗣子 浅田良逸(陸軍中将)[1]

・娘 中島幸子 中島正武(陸軍中将)の妻[1]

逸話
・第5師団歩兵大隊長時代、一戸兵衛上原勇作と同僚であり、彼らとは気さくに話し合う関係であった。上原が次の教育総監に決まると、引き継ぎの際に大勢の前で「次が誰になるか不安だったが、和尚が来たので安心した。」と言って周囲を笑わせている。以後、上原の渾名は「和尚」になってしまった。[要出典]

脚注
1. a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x 『日本陸海軍総合事典』第2版、7-8頁。
2. a b c d e f g h 『日本陸軍将官辞典』24頁。
3. a b c d e f g h i j 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』30-31頁。
4. 『官報』第1262号、大正5年10月13日。
5. 『官報』第4302号「叙任及辞令」1897年11月1日。
6. 『官報』第5833号「叙任及辞令」1902年12月11日。
7. 『官報』第6445号「叙任及辞令」1904年12月22日。
8. 『官報』第7352号「叙任及辞令」1907年12月28日。
9. 『官報』第37号「叙任及辞令」1912年9月11日。
10. 『官報』第1938号「叙任及辞令」1889年12月12日。
11. 『官報』第3131号「叙任及辞令」1893年12月5日。
12. 『官報』第5960号「叙任及辞令」1903年5月18日。
13. 『官報』号外「叙任及辞令」1906年12月30日。
14. 『官報』第7272号「授爵敍任及辞令」1907年9月23日。
15. 『官報』第1187号「叙任及辞令」1916年7月15日。
16. 『官報』第1310号・付録「辞令」1916年12月13日。
17. 『官報』第99号「叙任及辞令」1927年5月2日。

参考文献
秦郁彦編『日本陸海軍総合事典』第2版、東京大学出版会、2005年。

・福川秀樹『日本陸軍将官辞典』芙蓉書房出版、2001年。

・外山操編『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』芙蓉書房出版、1981年。

関連作品
翔ぶが如く1990年、演:小田島隆
(wikiより)

1793 浅田信興

浅田信興

1793a

1793b



司馬 凌海(しば りょうかい、天保10年2月28日1839年4月11日) - 明治12年(1879年3月11日)は、医学者語学者。愛知医学校校長。佐渡島新町(現:新潟県佐渡市真野新町)生まれ。は盈之(みつゆき)、凌海は通称。幼名、島倉伊之助[1]


語学の天才と言われ、独・英・蘭・仏・露・中の6か国語に通じていた。松本良順ヨハネス・ポンペ・ファン・メーデルフォールトに師事していたことから、特に医学用語の日本語訳を多く作っている。


ドイツ語学者司馬亨太郎は長男、囲碁棋士喜多文子は二女。

略歴
天保10年(1839年)2月28日、島倉栄助・ラクの長男として佐渡島雑太郡新町村に生まれる。

・6歳で佐渡の相川学館に入塾。

嘉永3年(1850年)11歳で、祖父伊右衛門に連れられ江戸に出て唐津藩儒者山田寛漢学を学び、13歳で奥医師松本良甫、松本良順のもとでオランダ語医学を学ぶ。

・下総国印旛郡佐倉の佐藤泰然の私塾順天堂蘭学蘭方を学ぶ。

・佐渡に帰島。

安政4年(1857年)、師の松本順と長崎へ行きオランダ軍医ポンペに学ぶ。

文久元年(1861年)、ポンペに破門される。

・文久2年(1862年)、『七新薬』を著し、尚新堂から刊行。

・肥前国松浦郡平戸で平戸藩医師・岡口等伝の娘の婿になる。長男・司馬亨太郎が生まれる。

・祖父伊右衛門により佐渡に連れ戻される。

・横浜に出る。

江戸の下谷練塀町で私塾「春風社」を開く。

  ・教え子に生田秀(ビール醸造)、清水郁太郎(医学者、東京大学教授)。

明治元年(1868年)、医学校(現・東京大学医学部)三等教授。

・明治3年(1870年)3月、少博士・正七位。

・明治3年(1870年)7月、少助教。

・明治5年(1872年)1月、大学大助教。

・後に文部大教授。

・明治5年(1872年)、日本最初のドイツ語辞典『和訳独逸辞典』を出版。

  ・但し、『孛和袖珍字書』という辞典も同時期に出ている。日本初というのは辞典、辞書の定義によると思われる。

・明治8年(1875年)5月、元老院少書記官

・明治8年(1875年)12月、辞職。

・明治9年(1876年公立医学所(後に愛知医学校愛知県立医学校愛知県立愛知医科大学名古屋医科大学と改称。現・名古屋大学医学部)教授。

  ・教え子に後藤新平

・明治10年(1877年)名古屋で開業。

・明治12年(1879年)3月11日、肺結核で神奈川県戸塚にて死去。享年40(満39歳没)。

著書
・七新薬(司馬凌海 著、関寛斎 校)

・和訳独逸辞典(日本最初のドイツ語辞典)

・独逸文典字類(明治4年)

  ・ドイツ語はドイツ草書体で表記され、品詞も記載されている。アルファベット順(ドイツ語)で記載。

・朋百氏薬論(訳、明治2年)

  ・ポンペの薬物学講義を翻刻したもの

・薬物学(別題「百氏薬性論」)

エピソード
・医学校時代に指定した教科書を買い占め、原価より高く売り利益を得ていた。その金で放蕩していたので、謹慎処分になる。

・医学校に教師として来たドイツ人医師レオポルト・ミュルレルテオドール・ホフマンと話したとき、あまりに上手に話すので「あなたはドイツに何年いましたか」などと聞かれた。しかし、実際には日本から出たことはない。

・医学校に外国の教師を呼んだが、凌海以外に通訳できる者がいなかった。したがって好きの凌海が二日酔いで休むと自然と休講になった。

・通訳するときに、日本語にない単語はその場で即座に造語した。漢文に精通していたため、的確な訳語だったといわれている。蛋白質(Eiweiss)、窒素(Stickstoff)、十二指腸(Zwölffingerdarm)などがそうであるといわれている。

その他
・出身地にある佐渡市立真野小学校の校庭に記念碑がある。

・墓碑は東京都港区の青山霊園(一種イ6号4側)に「司馬家・小池家」として現存

司馬遼太郎の小説『胡蝶の夢』の主人公の一人として描かれている。

脚注
1. ブリタニカ国際大百科事典


関連項目
順天堂大学

フェルディナント・フォン・リヒトホーフェン

松本良順

関寛斎
(wikiより)

1791 司馬凌海

司馬凌海

1791a

1791b



赤井 東海(あかい とうかい、天明7年[1][注 1]1787年)- 文久2年11月14日[1][注 2]1863年1月3日))は、江戸時代後期の儒学者漢学者高松藩儒。名・縄(強)、字・士巽、通称・秀之助、巌三[2][3]。号・東海[2][3]

経歴
高松藩士・赤井十郎左衛門直通の嫡子として生まれる[1]。武術を好んでいたが、二十歳頃に学問の道を志し、家督を弟に譲って江戸に出て古賀精里に入門し、昌平黌でも学んだ[1][2]


5年間の学びの後、文化10年(1813年)昌平黌を出て開塾[1][2]文政12年(1829年)高松藩に十人扶持で仕官して世子の侍読となり[2]、使番として百俵を賜るまで累進した[1]尚歯会に加わり[3]渡辺崋山高野長英とも交際し、洋学の必要性を認め、高松藩執政に対して藩内の子弟に洋学を学ばせることを勧めた[1]


学風は朱子学を元とし諸家の説を折衷したもので、進歩的開化思想も持っていた[1][2]

著作
・『四経質疑』

・『学庸質疑』

・『戦国策遺考』

・『海防論』

・『東海文鈔』

・『昔昔春秋』青藜閣 : 名山閣、1800年。

親族
・子息 坂本政均(元老院議官)

・孫の米子は日銀初代総裁・吉原重俊の妻。

脚注
注釈
1. 『日本洋学人名事典』7頁では天明6年。
2. 『日本洋学人名事典』7頁では11月4日没。

出典
1. a b c d e f g h 『江戸文人辞典』7-8頁。
2. a b c d e f 『日本漢文学大事典』4頁。
3. a b c 『日本洋学人名事典』7頁。

参考文献
・石山洋他編『江戸文人辞典 国学者・漢学者・洋学者』東京堂出版、1996年。ISBN 978-4-490-10427-1

・武内博編『日本洋学人名事典』柏書房、1994年。ISBN 4-7601-1104-2

近藤春雄『日本漢文学大事典』明治書院、1985年。
(wikiより)


1789a

1789b



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湯地 定基(ゆち / ゆじ[1] さだもと、1843年9月27日(天保14年9月4日)- 1928年昭和3年)2月10日[2])は、幕末薩摩藩士明治から昭和期の開拓使内務官僚政治家農業経営者。根室県令元老院議官貴族院勅選議員。通称・治右衛門[3]、治左衛門[2]。偽名・工藤十郎(Zuro Kudo)[2]、通称・いも判官[4]

薩摩藩士として生まれ、勝海舟の私塾で学んだ後、アメリカに密留学し、ウィリアム・クラークの下で農政学を学んだ。帰国後、根室県令として北海道ジャガイモを普及し、いも判官と呼ばれた。妹は乃木希典の妻、静子

生涯
生誕から密航まで
薩摩国鹿児島郡鹿児島城新屋敷町で、薩摩藩士で奥医師の湯地定之とその妻貞の長男として生まれる[2][5]


元治2年2月(1865年3月)から慶応2年1月(1866年3月)まで、勝海舟の私塾にて学んだ[6]。当時、薩摩藩は薩英戦争を機に、藩士を密かに欧米へ留学させようとしていたことから、仁礼景範江夏嘉蔵吉原重俊種子島敬輔木藤市助(準備のため事前に渡米)とともに薩摩藩第二次米国留学生に選出される。


慶応2年3月28日1866年5月12日)、グラバーの援助で長崎からポルトガル船に乗りイギリス経由でアメリカへ密航した[7]


このとき、藩主から工藤十郎(Zuro Kudo)という変名を授かり、留学中に使用している。

米国留学と新島襄との出会い
藩命による密留学という性質から、十分な経済援助の無いまま、湯地らはモンソン・アカデミー(Monson Academy)で学んだ[8]。また湯地は、一時モンソン・アカデミーを退学し、神秘主義者トマス・レイク・ハリスの教団コロニーにて仁礼、江夏らと半年ほど共同生活を送った。その後モンソン・アカデミーに復学し、1868年(明治元年)、先に留学していた(後の同志社大学創設者である)新島襄を訪ね、キリスト教について熱心に話し合い、この後会衆教会にて洗礼を受けている[9]

一時帰国と海舟への懇願

経済的困窮から、留学を継続できなくなったため、一時帰国した。1869年12月28日に帰国のためサンフランシスコに到着、1870年1月1日に日本へ出航予定との手紙が、種子島からの書簡として吉田清成関係文書にある。


帰国した際、湯地は恩師である勝海舟と面会し、「洋行之事 必死之話」をして費用の工面について助けを求め、薩摩藩による密留学から、明治新政府の官費留学生となった[10]

再渡米、クラークとの出会い
その後、再度アメリカへ留学、農政学研究に専念する。明治3年9月1870年)マサチューセッツ農科大学(現マサチューセッツ大学アマースト校)に入学し、ウィリアム・スミス・クラークの指導を受けて農政学を学ぶ[1][4]。明治4年12月1872年)に帰国した[4]

北海道へ

明治5年1月7日(1872年2月15日)、黒田清隆に取り立てられ、開拓使八等出仕となり[11] ホーレス・ケプロンなどの外国人顧問の通訳を担当した[1][4]。同年8月25日(9月27日)大主典に就任[11]1875年2月4日、亀田郡七重村(現七飯町)勤務となり七重開墾場の経営を担当[4][11]1877年1月23日、開拓権少書記官に就任[11]

1878年
7月13日、七重勧業試験場長に発令され[11]、アメリカでの学びを実践し、多くの伝習生を育成した[4]。以後、兼農業仮博覧会監督、兼函館支庁民事課勧業掛、開拓少書記官、兼第二回函館農業仮博覧会監督などを歴任[11]1882年2月8日、開拓使が廃止され、同日設置された根室県の県令に就任[11]。農水産業の振興と改良に努め、特にジャガイモの栽培を奨励し、北海道にジャガイモを普及させ、「いも判官」と呼ばれた[4]


1886年1月26日、根室県が廃止され北海道庁の設置に伴い同庁理事官に発令され、同年2月16日、土木課長に就任[11]1887年から1889年までドイツ、アメリカに出張し殖民区画制度の調査・研究を行う[4][11]。このとき、帰国後、1889年3月12日、道庁第二部長に就任し[11]、五町歩区画制度を立案実施して拓殖を推進した[4]

1890年3月4日、第二部長を退任[11]

元老院、貴族院時代
1890年6月12日、元老院議官に就任[11]。同年10月20日、元老院の廃止に伴い非職となる[11]1891年12月22日、貴族院勅選議員に任じられ[11]茶話会に所属して東京で死去するまで在任した[12]

栄典・授章・授賞
位階
1928年(昭和3年)2月14日 - 従三位[13]

勲章等
1916年(大正5年)4月1日 - 勲二等瑞宝章[14]

外国勲章佩用允許
1894年(明治27年)3月6日 - ロシア帝国:神聖アンナ第二等勲章[15]


逸話
・幼少を過ごした薩摩の湯地家は、父定之が薩摩藩主に直言し、勘気に触れたことで減禄処分となり、困窮していた。定基の姉(妹)の貞子は当時、賃仕事や米つきをして、その日その日の食費の足しにしたという。他方、当時の薩摩藩では男尊女卑の風潮があったところ、妹の静子を積極的に学ばせる等、定之は子の教育に熱心だった[16][17]

・米国留学中の1867年(明治3年)、共に留学していた木藤市助が自殺している。7月22日、朝8時半に木藤が行方不明になったことがわかり、午後6時ごろまで湯地ら残りの留学生で山野を探し回っていたところ、前方から村人らのただならぬ声が聞こえ、駆けつけた先に、木で首をくくっている木藤が発見された。木藤の葬儀の際、棺の中の木藤は甚だ美麗で、日本人に見えなかった、と仁礼は叙情的に書き残している。湯地は、夜になるとしばしば仁礼らと木藤の墓参りをしており、湯地ら若き留学生に影響を与えたことが伺える[7]

・留学中、アマーストで湯地が新島襄を訪ねた際、湯地は約束も取り付けずに新島の居室のドアをたたき、「Nee・Sima, Gokigen Yoroshika(新島、ご機嫌よろしいか?)」と日本語で新島を呼んだことから、突然の来訪に新島は驚いたという[18]。新島はこの後、モンソンで学ぶ薩摩藩第2次留学生の中では,「工藤(湯地)と大原(吉原)が優秀であり,彼らはまだ英語は自由に話せないが,英語をよく理解している」との印象をもっていた[9]

・七重勧業試験場長時代、エドウィン・ダンの指導の元、競馬馬術)の普及も行い、函館海岸町競馬場では、自ら審判をしている。

・1876年春の明治天皇の箱館御巡幸の際には、案内役を務め、祝詞を奏上している。

クラークは、1877年に札幌農学校教頭を辞して離日する際、わざわざ七重で奮闘するかつての教え子である湯地を訪ね、激励している。

・根室県令時代、ジャガイモの普及のため、県令の身ながらジャガイモの種芋を持ち各戸を説いて回り、農具を与えたという。また、ジャガイモのほか、コンブ・サケ・マス漁や魚かす製造の改善、アイヌの移住、北海道初の公共図書館の設立等にも尽力している[19]

・1887年のドイツ出張の際、乗っていた船がアラビア海で座礁し、「将サニ潰裂セントスル」状況になり、金品すべて失ったが、辛くも身一つで通行船に救助されたという[20]

・1899年(明治32年)に勝海舟が死去した際、勝の棺を運んだのは、かつての門下であり、当時既に貴族院勅選議員であった湯地であるといわれている[21]

・退官後、石狩郡夕張角田村(現栗山町)で農場経営を行い[1][4]、現在も栗山町に湯地の地名が残っている。

1885年根室の市街地拡大に伴い、新町名の一つとして湯地の名にちなんで「定基町」が設けられた[4]

乃木希典静子が殉職した際、希典は、湯地家の総領である定基宛に遺書を残した[22]

親族
・妻 - 福子:江戸屋敷詰めの薩摩藩士の娘。明るく献身的な性格で、希典との婚礼前に同居していた義妹お七(乃木静子)と非常に仲が良く、お七、女中と3人で針縫いを競争のようにしていたという。婚礼は、湯地が米国から持ち帰ったビールで三々九度を行った[23]

・次弟 - 湯地定廉(さだかど):海軍大尉[24]。三兄弟一の秀才ともいわれたが、大尉で早世[17]

・末弟 - 湯地定監(海軍機関中将・貴族院勅選議員)

・妹 - 乃木静子乃木希典の妻)

・義弟 - 乃木希典陸軍大将、学習院長)・め甥 - 湯地孝:国文学者。定監の子。

・大甥 - 湯地朝雄:文芸評論家。孝の子。

詳しいことは、「湯地定基ウィキペディア」をご覧ください。 ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B9%AF%E5%9C%B0%E5%AE%9A%E5%9F%BA
(wikiより)

1787 湯地定基

湯地定基

1787a

1787b



河瀬 真孝(かわせ まさたか)、天保11年2月9日1840年3月12日) - 大正8年(1919年9月29日[1])は日本武士長州藩士)、官僚。はじめ石川新五郎、石川 小五郎(いしかわ こごろう)と称したが、のちに河瀬真孝、河瀬安四郎と改名。位階勲等は正二位勲一等、爵位は子爵

生涯
周防国吉敷郡佐山に、長州藩士の子弟として生まれる。萩の明倫館に学ぶ。文久2年(1862年)、先鋒隊に入隊 。文久3年(1863年)の朝陽丸事件での幕府使節団暗殺の首魁とされる。元治元年(1864年)、御楯隊に入隊。禁門の変では、戦死した来島又兵衛の指揮権を引き継いで遊撃隊の指揮を執り、のちに遊撃隊総督となる。慶応元年(1865年)、高杉晋作による功山寺挙兵では、遊撃隊を率いて参加した。第二次長州征伐では芸州口を攻撃するなど活躍した。


慶応3年(1867年)、トーマス・ブレーク・グラバーの協力の下イギリスに渡り、明治4年(1871年)まで滞在する。

帰国後は工部少輔、ついで侍従長に就任するも、明治6年(1873年)にはイタリアオーストリアに赴任。在任中にヴィンチェンツォ・ラグーザ工部美術学校彫刻科の講師として日本へ招く事に成功している。明治16年(1883年)、司法大輔。明治17年(1884年)より明治26年(1893年)まで公使としてイギリス在住。1887年(明治20年)5月24日、子爵を叙爵[2]。明治27年(1894年)に枢密顧問官となり、死去まで務めた。

栄典・授章・授賞
位階
1886年(明治19年)10月20日 - 従三位[3]

1894年(明治27年)6月30日 - 正三位[4]

1899年(明治32年)12月20日 - 従二位[5]

1916年(大正5年)2月21日 - 正二位[6]

勲章等
1887年(明治20年)11月25日 - 勲二等旭日重光章[7]

1894年(明治27年)12月26日 - 勲一等瑞宝章[8]

1901年(明治34年)12月27日 - 旭日大綬章[9]

1915年(大正4年)11月10日 - 大礼記念章[10]

1919年(大正8年)9月29日 - 旭日桐花大綬章

親族
・妻:河瀬 英子…(かわせ ひでこ、1855年 - 1911年)旧名・清。江川英龍二女。明治4年10月、木戸孝允の養女となり、河瀬に嫁いだのち、英子と改名。イギリス赴任中は留学生の世話をし、イタリアでは通訳を介さず国王と会談するなど、賢夫人として知られた[11]

・三男:河瀬真(海軍少将、貴族院子爵議員)[12]

脚注
1. 『官報』第2148号「彙報」1919年10月1日。
2. 『官報』第1169号、明治20年5月25日。
3. 『官報』第994号「叙任及辞令」1886年10月21日。
4. 『官報』第3301号「叙任及辞令」1894年7月2日。
5. 『官報』第4943号「叙任及辞令」1899年12月21日。
6. 『官報』第1065号「叙任及辞令」1916年2月22日。
7. 『官報』第1325号「叙任及辞令」1887年11月28日。
8. 『官報』第3451号「叙任及辞令」1894年12月27日。
9. 『官報』第5548号「叙任及辞令」1901年12月28日。
10. 『官報』第1310号・付録「辞令」1916年12月13日。
11. 企画展示 侯爵家のアルバム-孝允から幸一にいたる木戸家写真資料-国立歴史民俗博物館
12. 『平成新修旧華族家系大成』上巻、462頁。

参考文献
霞会館華族家系大成編輯委員会『平成新修旧華族家系大成』上巻、霞会館、1996年。
(wikiより)

1786 河瀬真孝

石川小五郎

1786a

1786b



松岡 洋右(まつおか ようすけ、1880年明治13年)3月4日 - 1946年昭和21年)6月27日)は、日本外交官政治家


南満州鉄道
(満鉄)総裁を務め、満州国の実力者「弐キ参スケ」の一人とされた。第2次近衛内閣では外務大臣に就任し、日独伊三国同盟日ソ中立条約締結を推進。しかしドイツのソ連侵攻後は南進論が大勢を占める政府で北進論を主張し、第3次近衛内閣発足を機に事実上外相を解任された。アメリカ合衆国外交官ジョセフ・グルーと親交があり、佐藤栄作は義理の甥にあたる(妹の娘婿で養子)。

生涯

アメリカ留学
1880年(明治13年)3月4日廻船問屋の四男として、山口県熊毛郡室積村(のちの光市室積)で生まれた。


洋右が11歳の時、父親が事業に失敗し破産したこと、親戚が既に渡米して成功を収めていたことなどから、1893年(明治26年)に留学のため渡米する。アメリカでは周囲の人々からキリスト教の影響を受け、入信に至る。特に来日経験のあるオレゴン州ポートランドのアメリカ・メソジスト監督教会牧師メリマン・ハリス(Merriman Colbert Harris)のあたたかい信仰に見守られつつ、日本自由メソヂスト教会の指導者となる河辺貞吉から大きな影響を受け、洗礼(記録では1893年とある)を受けた。彼は河辺を信仰の父、実父に代わる第二の父とし、終生交わりを大切にした。後年に至っても米国ではメソジスト派の信者と述べ、「キリストの十字架と復活を信じている」と公言していた。アメリカでの生活は苦しく、最初の寄宿先に到着した早々薪割りを命じられるなど、使用人としてのノルマをこなしながら学校へ通わなくてはならなかった。また、たびたび人種差別の被害にあった。この頃の体験が「アメリカ人には、たとえ脅されたとしても、自分が正しい場合は道を譲ってはならない。対等の立場を欲するものは、対等の立場で臨まなければならない。力に力で対抗する事によってはじめて真の親友となれる。」を信条とする彼の対米意識を育んでいった。


ポートランド、カリフォルニア州オークランドなどで勉学の末、オレゴン大学法学部に入学、1900年(明治33年)に卒業する。オレゴン大学と並行して早稲田大学の法学講義録を取り寄せ勉強するなど、勉学心旺盛であった一方、学生仲間によると、ポーカーの名手だったともいう。


卒業後も滞米して様々の職種で働いていることから、アイヴィー・リーグなどの大学院に進学することを目指していたとも考えられるが[1]、母親の健康状態悪化などを理由に1902年(明治35年)、9年振りに帰国する。松岡はアメリカを第二の母国と呼び、英語を第二の母語と呼んでいたが、これは終生変わらなかった[2]

外務省時代
帰国後は、東京麹町に山口県人会の寮があったこともあり、駿河台明治法律学校明治大学の前身)に籍を置きながら東京帝国大学を目指すことにした[3][4]。しかし帝国大学の授業内容を調べ、物足りなさを感じた洋右は、独学で外交官試験を目指すことを決意する。1904年(明治37年)に外交官及領事官試験に首席で合格し(一番だったのは英語だけという説もある[5])、外務省に入省する。なお、この外務省入りはそれほど積極的な動機に基づくのでなく、折からの日露戦争に対する一種の徴兵忌避的意味合いがあったのではないかとの説もある[6]


外務省では、はじめ領事官補として中華民国上海、その後関東都督府などに赴任する。その頃、満鉄総裁だった後藤新平三井物産山本条太郎の知遇を得る。松岡の中国大陸での勤務が長かったのは、一説には一旦はベルギー勤務を命ぜられたものの「これからの日本には大陸が大切だから」といって中華民国勤務の継続を望んだともいう。短期間のロシアアメリカ勤務の後、寺内内閣(外務大臣は後藤新平)のとき総理大臣秘書官兼外務書記官として両大臣をサポート、特にシベリア出兵に深く関与した。1919年(大正8年)からのパリ講和会議には随員(報道係主任)として派遣され、日本政府のスポークスマンとして英語での弁舌に力を発揮、また同じく随員であった近衛文麿とも出会う。帰国後は総領事として再び中華民国勤務となるが、1921年大正10年)、外務省を41歳で退官した。

満鉄から代議士へ
退官後山本条太郎の引き抜きにより、南満州鉄道(満鉄)に理事として着任。1927年(昭和2年)に副総裁(総裁は山本)。松岡本人も撫順炭鉱での石炭液化プラント拡充などを指導していた。


1930年
(昭和5年)、満鉄を退職する。2月の第17回衆議院議員総選挙に郷里の山口2区から立候補(政友会所属)。衆議院議員に初当選する。議会では対米英協調路線と対支那の中国内政不干渉を方針とする幣原外交を厳しく批判し、国民から喝采を浴びることとなる。


ただし、当時の松岡は対中国に対する外交姿勢はあくまでも経済的なアプローチを基本とするものであった。そのため、1931年(昭和6年)9月19日、前日に起きた柳条湖事件を報道する新聞を読んだ松岡は、「砲火剣光の下に外交はない、東亜の大局を繋ぐ力もない。休ぬるかな」と自らの対中外交方針が破綻したことに落胆している。そして10月15日に内大臣牧野伸顕に対して「今日は私を捨てて協力内閣に依るの外なし」と語るなど、満州事変勃発当初は、事態の収束を図るために民政党との協力内閣構想を積極的に主張した。しかし協力内閣構想は、民政党の若槻内閣の拒否により挫折する。その後は対外方針を一転させ、満州国の早期承認を主張するようになった[7]


ジュネーブ総会派遣・連盟脱退
満州事変(1931年9月18日)勃発直後の1931年9月21日中国国民政府は、日本の軍事行動について国際連盟に提訴し、連盟理事会は1931年12月10日、事実関係調査のための調査団(リットン調査団)派遣を決定した。こうしてリットン調査団が、日本と中国に派遣されることとなり、翌1932年(昭和7年)10月、その調査結果をまとめたリットン報告書が連盟に提出された。リットン報告書は、2か月後に始まる連盟総会の審議の基礎データとなった。報告書の内容は日本の満州における特殊権益の存在を認めるなど、日本にとって必ずしも不利な内容ではない。しかし報告書は、「9月18日以前までの原状復帰は現実にそぐわないという認識・満州の自治・日本権益の有効性」を認めながらも結果として「満州を国際管理下に置く事」を提案し、満州を満州国として認めない内容だったため日本国内の世論は硬化。さらに国際協調派から満州国承認の強硬派に転じた内田康哉外相の「焦土演説」に押し切られ、政府は報告書正式提出の直前(9月15日)に満州国を正式承認するなど、政策の選択肢が限定される状況であった。


派遣にあたり日本政府と外務省は、全権松岡に訓令(1932年10月21日 閣議決定)を発した。松岡はその訓令により職務を遂行した[8] [9]。松岡が選ばれた理由は、類いまれな英語での弁舌を期待されたものである。「日本の主張が認められないならば国際連盟脱退はやむをえない」は松岡全権の単独行為ではなく、あくまでも外務省が想定した最悪のケースであり、脱退を既定路線としてジュネーブに赴いたわけではなく、松岡たちはできうる限り脱退を避ける方針で連盟総会に臨んだ。


リットン報告書を受理するための理事会が1932年11月21日に開かれ日本政府全権の松岡と中国政府全権の顧維鈞が演説した。また11月28日の理事会では、日中双方の意見と共に「報告書」が総会に上程されることが決まった[10]


12月8日、総会が開かれ松岡は1時間20分にわたる原稿なしの大演説を行う。それは「十字架上の日本」とでも題すべきもので、「欧米諸国は20世紀の日本を十字架上に磔刑に処しようとしているが、イエスが後世においてようやく理解された如く、日本の正当性は必ず後に明らかになるだろう」、との趣旨のものだった。しかし、日本国内では喝采を浴びたこの演説も、諸外国、特にキリスト教国においてはむしろ逆効果的だったともいわれる。もっとも、会議場での松岡の「十字架上の日本」と題せられる演説に関しては絶賛の拍手で渦巻いた。仏国代表ボンクール陸相が握手を求めたのを皮切りに、多数の代表・随員が握手を求め、英国代表サイモン外相、陸相ヘールサム卿が松岡に賛辞の言葉を述べた。これら各国代表の賛辞は、演説の内容もさることながら、松岡の英語能力に驚嘆し「日本にもこれほど外国語が堪能な人物がいたのか」と感心した面にもよるものだった。連盟総会において対日批判の急先鋒であったのは、中華民国、スペイン、スイス、チェコスロバキア、東南アジアに植民地である「オランダ領東インド」を有するオランダであった。


松岡の「十字架上の日本」の演説の後、「リットン卿一行の満州視察」という満鉄広報課の作成した映画が上映され、各国代表を含め約600人程が観覧した。併合した朝鮮や台湾と同じく多大な開発と生活文化振興を目標とする日本の満州開発姿勢に、日本反対の急先鋒であったチェコスロバキア代表ベネシュも絶賛と共に日本の対外宣伝の不足を感じ、松岡にその感想を伝えるほどであった。当時の文藝春秋の報道[要文献特定詳細情報]によると「松岡が来てから日本はサイレント版からトーキーになった」と会衆は口々に世辞を言ったという。


1933年(昭和8年)2月20日、日本政府は閣議を開き、リットン報告書をベースにした「勧告」が連盟総会で採択された場合、連盟を脱退することを決定した。2月24日、総会において勧告案への採決がなされ、賛成42票、反対1票(日本)、棄権1票(シャム)の圧倒的多数で勧告が採択された[11]。松岡はあらかじめ準備していた宣言書を朗読して会場から退場した。その際松岡が日本語で「さよなら!」と叫んだといわれることもあるが、これは別の事実[注 1]との混同によって発生した誤りである。

「勧告」が採択された翌日の1933(昭和8)年2月25日には、読売新聞が朝刊2面[注 2]で『日本と連盟遂に事実上絶縁 42対1で総会報告書採択 我代表席を蹴って退場 歴史的総会の大詰め』、夕刊1面で『日本、事実上脱退へ 最終総会 けふ閉会 松岡代表堂々反対宣言 四十五対一位で報告書採択か 日支問題 劇的大詰め』と報じるなど、国際連盟脱退の方向性が既に報じられていた。また、同日の東京朝日新聞が朝刊2面[注 2]で『連盟よさらば! 遂に協力の方途尽く 総会、勧告書を採択し、我が代表堂々退場す 四十二対一票、棄権一』と報じ、中外商業新報も2月中に『聯盟よさらば わが代表決然議場を去る』[12]と報じるなど、従前から連盟脱退を支持していた新聞各紙[13]は、松岡洋右に対して好意的な報道を行った。「英雄」として迎えられた帰国後のインタビューでは「私が平素申しております通り、桜の花も散り際が大切」、「いまこそ日本精神の発揚が必要」と答えている。


その後、ジュネーヴからの帰国途中に松岡はイタリアイギリスを訪れ、ローマでは独裁体制を確立していたベニート・ムッソリーニ首相と会見している。ロンドンでは、満州における日本の行動に抗議する英国市民から「日本は賊の国だ」と罵られた。


3月8日に日本政府は脱退を決定(同27日連盟に通告)した。

議員辞職・再び満鉄へ
帰国した松岡は「言うべきことを言ってのけた」「国民の溜飲を下げさせた」初めての外交官として、国民には「ジュネーブの英雄」として、凱旋将軍のように大歓迎された。言論界でも、清沢洌など一部の識者を除けば、松岡の総会でのパフォーマンスを支持する声が大だった。もっとも本人は「日本の立場を理解させることが叶わなかったのだから自分は敗北者だ。国民に陳謝する」との意のコメントを出している。


帰国後は「国民精神作興、昭和維新」などを唱え、1933年(昭和8年)12月には政友会を離党、「政党解消連盟」を結成し議員を辞職した。それから1年間にわたって全国遊説を行い、政党解消連盟の会員は200万人を数えたという。このころからファシズム的な論調を展開し、「ローマ進軍ならぬ東京進軍を」などと唱えた。特にみるべき政治活動もないまま1935年(昭和10年)8月には再び満鉄に、今度は総裁として着任する(1939年(昭和14年)2月まで)。1938年(昭和13年)3月のオトポール事件では樋口季一郎と協力してユダヤ人難民を保護している。

外務大臣就任
1940年(昭和15年)、近衛文麿大命降下を受け、外務大臣として松岡を指名した。松岡は軍部に人気があり、また彼の強い性格が軍部を押さえるであろうという近衛の目算があった[14]


外相就任が内定した松岡は「私が外相を引き受ける以上、軍人などに外交に口出しはさせません」と大見得を切った[14]。内閣成立直前の7月19日、近衛が松岡、陸海軍大臣予定者の東條英機陸軍中将、吉田善吾海軍中将を別宅荻外荘に招いて行ったいわゆる「荻窪会談」で、松岡は外交における自らのリーダーシップの確保を強く要求、近衛や東條・吉田も了承した。ところが翌日に東條が持ち込んだ「協議事項」の大部分は外交案件であり、軍部の外交介入は以降も続くことが明白であった[14]。7月22日に成立した第2次近衛内閣で松岡は外相に就任した。


20年近く遠ざかっていた外務省にトップとして復帰した松岡はまず、官僚主導の外交を排除するとして、赴任したばかりの重光葵(駐イギリス特命全権大使)以外の主要な在外外交官40数名を更迭、代議士や軍人など各界の要人を新任大使に任命、また「革新派外交官」として知られていた白鳥敏夫を外務省顧問に任命した(「松岡人事」)。更に有力な外交官たちには辞表を出させて外務省から退職させようとするが、駐ソ連大使を更迭された東郷茂徳らは辞表提出を拒否して抵抗した。また松岡は以前から外交官批判を繰り広げており、就任直後には公の場で外交官を罵倒した[15]


当時の大きな外交問題は、泥沼となっていた日中戦争、険悪となっていた日米関係、そして陸軍が主張していたドイツ・イタリアとの三国同盟案であった。松岡は太平洋を挟んだ二大国が固く手を握って、世界の平和を確立すべきと唱えていた。


松岡は就任後、早速香港工作とよばれる重慶国民党政府と汪兆銘政権の合体工作を行った。しかしこの政策は汪兆銘政権を支援していた陸軍の猛反発にあい、工作は打ち切られた[16]。日本が汪兆銘政権を正当な中国政府として承認したのは、松岡の外務大臣在任時である。松岡は「外交がむづかしいことを今更知ったわけではないが、外交一文化の四巨頭会談の了解事項が踏みにじられたのは残念だ。満州国だけを確保して、中国からは全面的に撤退するのが一番良いかと思うが、それは少なくとも当分実行不可能である」と嘆いた[17]

四国同盟構想とその失敗
松岡は世界を、それぞれ「指導国家」が指導する4つのブロック構造(西欧、東亜、アメリカ、ロシア)に分けるべきと考えており[18]、日本・中国・満州国を中核とする東亜ブロック、つまり大東亜共栄圏(この語句自体、松岡がラジオ談話で使ったのが公人の言としては初出)の完成を目指すことを唱えていた。松岡は世界各国がブロックごとに分けられることでナショナリズムを超越し、やがて世界国家に至ると考えていた[19][20]。この説は満鉄時代からの彼の持論であり、内外の研究者に協力を仰いで研究を進めていた[21]。松岡はこの構想を実現させるためには、各ブロックを形成する他の指導国家と協調する必要があると考えていた。


松岡は外相就任当時、「独逸人ほど信用のできない人種はない」と語っており[22]、ドイツに対して好感を持っていたわけではなかった。しかし就任当初から日本・ドイツ・イタリアによる三国同盟を唱える陸軍の使者が松岡の元を訪れ、三国同盟を推進するよう働きかけていた[23]。軍務局長・武藤章もその一人であり、もし承諾せねば内閣をつぶすまでだと意気込んで松岡の元を訪れた。対談後、武藤は松岡も三国同盟に賛成であるかのように認識していたが、松岡自身は武藤を丸め込んだと考えていた。しかし松岡は自分の議論に酔う悪癖があり、度重なる陸軍の接客と「議論」を行う中で、次第に三国同盟に傾斜していった[23]


当時ヨーロッパはドイツの軍事力に席巻されており、松岡は遠からず西欧ブロックがドイツの指導の下形成されるであろうと考え、1940年(昭和15年)の8月頃から三国同盟案を検討するようになった[24]。一方で当時中国問題を巡って日米・日英関係が悪化していたことも影響した。ドイツはたびたび日中和平の仲介を行うよう松岡に働きかけ、ドイツに対する松岡の心証は改善されていった[25]。陸海軍からの三国同盟推進の動きが活発となる中で、小幡酉吉松平恒雄吉田茂といったOB達をふくむ外務省の一部は日独提携に強く反発していた[17]。しかし松岡の方針はなかなか定まらず、推進派の白鳥敏夫は「松岡の三国条約に対する態度はちっともはっきりしない」といらだちをみせ、辞職をちらつかせて松岡の決断を迫った[17]。松岡はこの時期暴漢に襲われることもあり、外務省顧問を務めていた斎藤良衛は陸軍や右翼の指示によるものであったと考えている[26]


一方で松岡は、伊藤博文の影響もあって昔から親ロシアを唱えており、伊藤門下の親露派の首領を自ら任じていた[26]。松岡はロシアブロックの指導国家ソビエト連邦にパキスタン・インドへの進出を認めることで、その東進を防げると考えていた[27]。松岡は「軍部の主張する三国同盟に乗ったと見せかけ、ドイツが日ソの仲介を買って出れば、軍部の反対を抑えたまま日ソ関係を構築できる」とし、「ドイツを通じてソ連と手を結ぶには、今を置いては好機はない」と語っている[26]


8月13日、松岡はドイツの使者ハインリヒ・ゲオルク・スターマーと会談し、三国同盟への交渉を本格的に開始した。ドイツの外相ヨアヒム・フォン・リッベントロップもまたソ連を加えた日独伊ソ四カ国同盟を構想しており、スターマーに託されたリッベントロップのメモでは日ソ関係の仲介が提案されていた[28]。自らの構想と同様の提案に、松岡はドイツ側に好感を抱いた。また松岡は日独の提携はアメリカに脅威を与え、西欧や東亜への介入を防ぐことができると考えるようになった[29]。また条約締結後にアメリカの世論は沸騰するだろうが、日本の真意がわかればアメリカ人の心証は一転するであろうと極めて楽観的であった[22]。以降、一刻も早く同盟を成立させるよう促したドイツや陸軍の運動もあり、松岡は三国同盟成立に邁進することとなった[30]。松岡は極端な秘密主義をとり、交渉は松岡の私邸で行われた。しかも出入りに用心させたため、新聞記者やアメリカ大使館関係者ですら同盟交渉に気づかなかった[31]


日独伊三国軍事同盟は1940年(昭和15年)9月27日に成立した。しかし、その後の独ソ関係は急速に悪化し、その情報が日本にも伝えられ、四国連合はおろか、日ソ関係の改善の橋渡しをドイツに期待することもむずかしくなってしまった。これはソビエトが四国連合参加の条件として、多数の領土要求をドイツに出してドイツの怒りを買ったためである。


この状況の急変に直面し、松岡は自ら赴いて外交的駆け引きをすることを決意し、1941年(昭和16年)3月、同盟成立慶祝を名目として独伊を歴訪、ヒトラーとムッソリーニの両首脳と首脳会談を行い大歓迎を受け、両国との親睦を深めた。この際、ドイツから、対イギリスへの軍事的圧力の確約を迫られるが、「私は日本の指導者ではないので確約はできない。帰国後貴国の希望を討議する」と巧みにかわしている。往路と帰路の2度モスクワに立ち寄り、帰路の4月13日には日ソ中立条約を電撃的に調印、日本が単独でソビエトとの相互不可侵を確約する外交的成果をあげた。シベリア鉄道で帰京する際には、きわめて異例なことに首相ヨシフ・スターリン自らが駅頭で見送り、抱擁しあうという場面があった。この時が松岡外交の全盛期であり、首相の座も狙っていたと言われている。日ソ中立条約締結前、イギリスのチャーチルは松岡宛に「ヒトラー(ドイツ)は近いうちに必ずソ連と戦争状態へ突入する」とMI6から仕入れた情報を手紙として送ったが松岡はこれを無視し日ソ中立条約を締結したとされる。これは後年、極東国際軍事裁判の公判でイギリス側の証拠としてこの手紙が提示され明らかにされた。

詳しいことは、「松岡洋右ウィキペディア」をご覧ください。 ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E5%B2%A1%E6%B4%8B%E5%8F%B3
(wikiより)

1785  松岡洋右

松岡洋右

1785a

1785b



鮫島 尚信(さめしま なおのぶ、弘化2年3月10日1845年4月16日) - 明治13年(1880年12月4日)は明治時代日本外交官。旧薩摩藩士通称誠蔵鮫島武之助の兄。台湾で植民地貿易やレンガ製造を行った鮫島盛は弟。

人物・来歴
薩摩国鹿児島城下山之口馬場町薩摩藩藩医鮫島淳愿の子として生まれる。15歳で石河確太郎に蘭学を学んだあと、藩命により文久元年(1861年)に蘭医研究生として長崎に学び、医学のほか、瓜生寅が主宰する英学塾培社で英語を学んだ[1]元治元年(1864年)に設立された藩立洋学校「開成所」で訓導(句読士)を務める。この時、長崎の培社の実質的な運営者だった前島密を英語講師に招いている。慶応元年(1865年)、薩摩藩の留学生として森有礼長澤鼎吉田清成五代友厚ら15名でイギリスに留学しロンドン大学法文学部に約1年間学ぶ。慶応3年(1867年)、森有礼、長沢鼎、吉田清成、畠山義成松村淳蔵ら6名で渡米しトマス・レイク・ハリスの結社「新生社」に入り、ブドウ園で働きつつ学んだ。途中意見対立があり、森と鮫島は帰国、吉田、畠山、松村はフェリス牧師の仲介でニュージャージー州ニューブランズウィックのラトガース大学へ移った。


ハリスは王政復古後の日本政府で働くことを勧めたので鮫島は森有礼ともに帰国することとし、翌明治元年(1868年)、両名は日本に到着した。長澤鼎のみは、アメリカに残り、ブドウ栽培に携わった。同年10月、外国官権判事、東京府判事などを経て、翌年7月に東京府権大参事となり、明治3年(1870年)8月に外務大丞、同年の欧州差遣、少弁務使を経て、明治4年(1871年)にロンドンに着任した。明治5年(1872年)、中弁務使に進んだのちパリに着任し、弁理公使、特命全権公使と昇進した。この間、お雇い外国人フレデリック・マーシャルとともに若い日本の外交官向けに『Diplomatic Guide』(邦題は鮫島が「外国交法案内」と命名)を作成した。明治7年(1874年)4月、帰国。翌年に外務省の次官である外務大輔となった。


明治11年(1878年)1月、再び在仏特命全権公使を任じられフランスに駐在した。このとき、外務卿の寺島宗則から条約改正交渉に入るよう訓令されている[注釈 1]。 このときはベルギー公使を兼務した。条約改正については、ひとえにイギリスの意向にかかっており、鮫島はイギリスが同意するならばフランスもそれに倣うとの情報を得ている[3]


在仏公使在任中にパリで持病の肺病に倒れ、35歳で病没した。終世友人だった森有礼はその葬儀にかけつけ、弔辞で「気高き働き人」と述べたという[4]

墓所・霊廟・銅像

墓所は青山霊園。 パリのモンパルナス墓地に日本式の墓がある[5]

昭和57年(1982年)、鹿児島中央駅前東口広場に彫刻家の中村晋也が制作した薩摩藩英国留学生の像『若き薩摩の群像[6]』の一人として銅像が建てられている。

著作
・鮫島文書研究会編 『鮫島尚信在欧外交書簡録』 思文閣出版、2002年5月、ISBN 478420962X


編書

Diplomatic Guide. drawn up by the Legation of Japan in Paris, William Blackwood and Sons, 1874.

脚注
注釈
1. 鮫島は寺島より、日本は当初、ヨーロッパの外交法を知らず、列国の勧めるままに不平等条約を結んでしまい、国家主権が侵害されたことは「一大過失」であったとして、民心を安定させ、貿易を活発化させて外国との修好を深めるためには関税自主権の回復が必要であることをフランスに対し説明するよう、訓令されている。[2]

出典
1. 『薩摩と西欧文明: ザビエルそして洋学、留学生』第二章近代西洋文明と鹿児島(三)鹿児島の英学ザビエル渡来450周年記念シンポジウム委員会図書出版 南方新社, 2000
2. 
犬塚『ニッポン青春外交官』(2006)p.156

3.犬塚『ニッポン青春外交官』(2006)p.162

4.犬塚『ニッポン青春外交官』(2006)p.4

5.犬塚『ニッポン青春外交官』(2006)p.3

6. 若き薩摩の群像”. 鹿児島県観光連盟. 2014年5月14日閲覧。

参考文献
犬塚孝明著 『ニッポン青春外交官 : 国際交渉から見た明治の国づくり』 日本放送出版協会、2006年12月、ISBN 4140910739

関連文献
・「故特命全権公使鮫島尚信ヘ贈位宣下ノ儀」(国立公文書館所蔵 「公文録・明治十四年・第二百八十六巻」)

・「鮫島尚信」(大塚武松編輯 『百官履歴 下巻』 日本史籍協会、1928年2月)

  ・日本史籍協会編 『百官履歴 2』 東京大学出版会〈日本史籍協会叢書〉、1973年7月

  ・日本史籍協会編 『百官履歴 2』 北泉社、1997年1月

・犬塚孝明著 『薩摩藩英国留学生』 中央公論社中公新書〉、1974年10月、ISBN 4121003756

・中林隆明 「鮫島文庫目録稿」(『参考書誌研究』第30号、国立国会図書館参考書誌部、1985年9月NAID 40001480010

・横山伊徳 「パリ駐在日本公使館「外交入門」 : Diplomatic Guide(一八七四年刊)」(『東京大学史料編纂所研究紀要』第4号、1994年3月NAID 110000538969第5号、1995年3月NAID 110000538985

三浦篤 「特使全権公使鮫島尚信の肖像 : 蘇った山本芳翠の作品をめぐって」(明治美術学会編 『近代画説 7』 明治美術学会、1998年12月、ISBN 4938740303

・犬塚孝明 「明治初期対ヨーロッパ外交の形式と在外公館実務 : 初代駐仏公使鮫島尚信を中心に」(明治維新史学会編 『明治維新史研究 5 明治維新と西洋国際社会』 吉川弘文館、1999年2月、ISBN 4642036407

・犬塚孝明 「黎明期日本外交と鮫島尚信」(前掲 『鮫島尚信在欧外交書簡録』)

横山俊夫 「フレデリック・マーシャルと鮫島尚信」(前掲 『鮫島尚信在欧外交書簡録』)

・犬塚孝明 「鮫島尚信」(伊藤隆季武嘉也編 『近現代日本人物史料情報辞典』 吉川弘文館、2004年7月、ISBN 4642013415

・犬塚孝明著 『明治外交官物語 : 鹿鳴館の時代』 吉川弘文館、2009年10月、ISBN 9784642056809

外部リンク
憲政資料室の所蔵資料 鮫島尚信・武之助関係文書(寄託) - 国立国会図書館リサーチ・ナビ

憲政資料室の所蔵資料 鮫島尚信・武之助関係文書(所蔵) - 国立国会図書館リサーチ・ナビ

博士の肖像 東京大学所蔵肖像画・肖像彫刻 - 東京大学総合研究博物館山本芳翠作「鮫島尚信像」が閲覧できる。

(wikiより)

1783  鮫島尚信

鮫島尚信

1783a

1783b

1783c



木村 鷹太郎(きむら たかたろう、明治3年9月18日1870年10月12日) - 昭和6年(1931年7月18日)は主に明治・大正期に活動した日本の歴史学者哲学者言語学者思想家翻訳家。独自の歴史学説「新史学」の提唱者として知られる。愛媛県宇和島市出身。


明治学院
を経て、帝国大学文科大学(現・東京大学文学部)史学選科課程に入学、後に同学哲学選科課程に転じて修了。陸軍士官学校英語教授職等を務める。


1897年(明治30年)に井上哲次郎湯本武比古らと大日本協会を組織、同年5月に機関誌『日本主義』を創刊し、日本主義を提唱する。


『日本主義』の継続後誌である『新天地』が1902年に廃刊となってからはバイロンプラトンなどの翻訳に勤しむが、1910年代に入ると、日本を世界文明の起源と位置づけ、かつて日本民族が世界を支配していたとする「新史学」を熱烈に唱えた。他にも邪馬台国エジプト説や、仏教・キリスト教批判などの独創的な主張で知られる。異論に対して徹底的に反撃・論破する過激な言論人でもあり、論壇において「キムタカ」と通称されて恐れられ、忌避された。


その研究の多くは存命中から異端学説と見なされてきた。代表的著作に『世界的研究に基づける日本太古史』(1911年(明治44年))など、翻訳に『プラトン全集』などがある。与謝野鉄幹夫妻の媒酌人である。東洋大学創立者井上円了とは親友であった[疑問点]

著書
・排仏教 道徳国家及東亜問題上 松栄堂 1894.5

・万国史 松栄堂 1897.2

・西洋小史 松栄堂 1898.3

・東洋西洋倫理学史 井上哲次郎閲 博文館 1898.4 (帝国百科全書)

・日本主義国教論 開発社 1898.5

・耶蘇教公認可否論 松栄堂 1899.1

・鳴潮余沫 読書百感 松栄堂 1900.1

・東洋倫理学史 上巻 松栄堂 1900.6

アナクレオン 快楽詩人 松栄堂 1902.1

・人物養成譚 孔子孟子荀子 大学館 1902.9

荘子人物養成譚 大学館 1902.12

・文界之大魔王バイロン 大学館 1902

王陽明人物養成譚 大学館 1902

・大日本建国史 尚友館 1905.11

・日本語は希臘系羅典系なり 真善美協会 1906

・真善美 美の巻 真善美協会 1907.2

・美的道徳 大日本図書 1908.1

・東西古今娘子軍 一名・女子兵役論 日吉丸書房 1909.11

・世界的研究に基づける日本太古史 私家版 1911、1912

・兵部卿護良親王 清水孝教共著 明治出版社 1912.4

・在五中将業平秘史 春秋堂書店 1912

・日本太古小史 日本の使命世界の統一 私家版 1913

・統合世界史 以文館 1914

・哲学と人生 日進堂 1915

・日本書紀仁徳帝の埃及難波 日本民族研究叢書 日本民族協会 1915

・常世の國-何處? 日本民族研究叢書 日本民族協會 1917.5

・日本民族祖先の雄図 日本民族研究叢書 日本民族協会 1919

・為朝とタメルラン 日本民族研究叢書 日本民族協会 1921

・日本が世界に与へたる世界平和の理想 日本民族研究叢書 日本民族協会 1921

・世界の三大宴会 附・天文学史に於ける太古日本 日本民族研究叢書 日本民族協会 1921

・希臘羅馬神話 白兎社 1922

・天地開闢と高天原 日本民族研究叢書 日本民族協会 1922

・日本建国と世界統一の天照大御神 日本民族研究叢書 日本民族協会 1922

・東亜及び全米国の父継体天皇 日本民族研究叢書 日本民族協会 1923

・星座と其神話 東盛堂 1923

・偉大不思議の繼體天皇 繼體天皇の大研究 日本民族研究叢書 日本民族協會 1923.3

・オノコロ島及び国生み神生み 日本民族研究叢書 日本民族協会 1926

・太平洋太古史上日本民族の誇り 日本民族研究叢書 日本民族協会 1927

・一天四海五大洲の大日蓮 教文社 1928

・世界思想の源泉 一名・希臘哲学は日本主義及び日本仏教史の西伝 教文社 1928

・日本民族東漸史 日本民族研究叢書 日本民族協会 1929

・高千穂天降の天孫と吾田・鹿葦津姫 希臘高千穂とカアシズ国 日本民族研究叢書 日本民族協会 1929

・天孫降臨史の世界的研究、世界的意義 日本民族研究叢書 日本民族協會 1929.3

・世界の驚異宇和島の古代毬歌及び童謡俚謡 日本民族研究叢書 日本民族協会 1930

・旧約聖書日本史 八切止夫編 日本シェル出版 1981

・海洋渡来日本史 八切止夫編 日本シェル出版 1981.5

論説
・東西両大学及び修史局の考証を駁す 読売新聞 1910

・倭女王卑弥呼地理に就いて 読売新聞 1910

翻訳
・ソクラテース人物養成譚 キセノフォーン 大学館 1901.4

・パリシナ 艶美の悲劇詩 バイロン 松栄堂 1903.3

・海賊 バイロン 尚友館 1905.1

・天魔の怨 宇宙人生の神秘劇 バイロン 二松堂 1907.1

・マゼッパ 汗血千里 バイロン 真善美協会 1907.3

・含羞草 シエレー 武林堂 1907.9

・プラトーン全集 冨山房 1903-1911

・バイロン傑作集 後藤商店出版部 1918

・政治哲学 アリストテレース 興亡史論刊行会 1919 (興亡史論)

・アヴェスタ経 世界聖典全集 世界聖典全集刊行会 1920-1921

・バイロン 評伝及詩集 東盛堂 1923

関連書籍
・卑弥呼とセベクネフェル女王 稲羽太郎著,鳥影社,2010年2月

・歴史は西から東へ: 古代オリエント史と古代中国史は実は同一の歴史だった (卑弥呼とセベクネフェル女王) 稲羽太郎著,鳥影社,2013年3月

・地底獣国(ロスト・ワールド)の殺人 芦辺拓著,講談社ノベルス,1997年9月 のち講談社文庫(木村鷹太郎がモデルのキャラクターが登場)

・浮世絵師の遊戯 新説東洲斎写楽 高井忍著,文芸社,2016年11月(同書所収の短編「阿波徳島伝東洲斎」に木村鷹太郎が登場)

外部リンク
松本亦太郎・木村鷹太郎訳 プラトーン全集 - 物語倶楽部インターネットアーカイブ
(wikiより)

1782  木村鷹太郎

木村鷹太郎

1782a

1782b



斎藤 茂吉(さいとう もきち、1882年明治15年)5月14日[1] - 1953年昭和28年)2月25日)は、日本歌人精神科医伊藤左千夫門下であり、大正から昭和前期にかけてのアララギの中心人物。精神科医としては青山脳病院(現在の都立梅ヶ丘病院や斉藤病院)の院長を務めた。長男は精神科医で随筆家の「モタさん」こと斎藤茂太、次男は精神科医・随筆家・小説家の「どくとるマンボウ」こと北杜夫で、随筆家の斎藤由香はこの北杜夫の娘にあたる。

概要
1882年明治15年)、守谷伝右衛門熊次郎の三男として、山形県南村山郡金瓶(かなかめ)村(現在の上山市金瓶)に生まれた。


守谷家には、茂吉が小学校卒業後に進学するだけの経済面の余裕が無く、茂吉は、画家になるか寺に弟子入りしようかと考えたが、東京・浅草で医院を開業するも跡継ぎの無かった同郷の精神科医、斎藤紀一の家に養子候補として厄介になることとなった。上京したのは15歳の時で、途中の仙台の旅館では菓子、もなかを生まれて初めて食べ、「こんなうまいものがあるのか」と思い、夜に到着した東京・上野駅では、「こんなに明るい夜があるものだろうか」と驚いたという[2]。 1905年斎藤家に婿養子として入籍。当時、妻となる輝子は9歳であった。


医師となった後、31歳のときに紀一の次女・輝子と結婚して斎藤家の婿養子となった。しかしながら東京のお嬢さん育ちであった輝子は派手好きで活発な女性で、律儀な茂吉とは価値観や性格があわず、輝子の男性問題もあって、別居していたこともある。


守谷家は隣接する時宗(のち浄土宗)宝泉寺の檀家であり、茂吉も40世住職・佐原窿応の薫陶を受けた。第一歌集『赤光』の題名は「阿弥陀経」に因んでいる。また時宗大本山(のち浄土宗本山蓮華寺49世貫主となった晩年の窿応を訪ねている。養子に入った斎藤家は、皮肉にも、蓮華寺の一向派を抑圧する側であった遊行派の檀林日輪寺の檀家であった。茂吉の分骨が宝泉寺境内に遺されている。生前自ら作っていた戒名は、一向派の法式になっている。

創作活動
中学時代、佐佐木信綱の『歌の栞』を読んで短歌の世界に入り、友人たちの勧めで創作を開始する。高校時代に正岡子規の歌集を読んでいたく感動、歌人を志し、左千夫に弟子入りした。


精神科医としても活躍し、ドイツオーストリア留学や青山脳病院院長の職に励む傍ら旺盛な創作活動を行った。また、文才に優れ、柿本人麻呂源実朝らの研究書や、『ドナウ源流行』『念珠集』『童馬山房夜話』などのすぐれた随筆も残しており、その才能は宇野浩二芥川龍之介に高く評価された。芥川が一番小説を書かせたいのは誰かと聞かれた際には、即座に茂吉の名を出したという。1923年ミュンヘン留学中には長年憧れの対象であったエミール・クレペリンの臨床講義を聴きに行った際に握手を求めたところ、他の東南アジアの留学生とはにこやかに握手をしたにもかかわらず、握手を拒否され(西丸四方は、大戦での敵国であった日本への遺恨が取らせた反応と推理している[3])、その無念の思いを歌と随筆に残した[4]


太平洋戦争
中の創作活動は積極的に戦争協力していた。


生涯に全17冊の歌集を発表し、全17,907首の歌を詠んだ。ただし、あくまでも精神科医を本来の生業とする姿勢は崩さず、「歌は業余のすさび」と称していた。しかし、息子の北杜夫は「心の九割は歌に、文学に打ち込んでいたと思う。」とし、茂吉の性格上、臨床医は合わず口説療法を主とする診察は苦手であったと評している。

年譜
1882年明治15年):5月14日、山形県南村山郡堀田村大字金瓶に出生(戸籍上は届出遅れにより7月27日)


1896年(明治29年):上山尋常高等小学校高等科卒業。恩師佐原窿応の紹介と東京浅草で開業していた親戚の医師斎藤紀一の勧めで医者を志す。8月父に連れられ上京し斎藤方に寄寓。9月東京府開成中学校(現・開成高校)に編入


1898年(明治31年):同級生に刺激され、このころから歌を詠むようになる。幸田露伴森鷗外などを愛読。とくに露伴の影響は大きかった。


1901年(明治34年):3月開成中学校を卒業。7月第一高等学校を受験して失敗、開成中学校補習科、正則中学校(現・正則学園高校)に通う。


1902年(明治35年):第一高等学校(現在の東京大学教養学部)第三部入学


1905年(明治38年):正岡子規遺稿第一篇『竹の里歌』を読み、歌の師を見出す。第一高等学校卒業。東京帝国大学医科大学に入学。


1906年(明治39年):伊藤左千夫の門下となる


1907年(明治40年):古泉千樫と相識る


1908年(明治41年):子規派の雑誌「馬酔木」廃刊、かわって創刊された「アララギ」に短歌を発表するようになる。同人の中村憲吉土屋文明と相識る


1909年(明治42年):森鴎外の観潮楼歌会に初めて出席、与謝野鉄幹北原白秋石川啄木上田敏佐佐木信綱などの歌人を知る。チフスに罹り卒業を一年延期。


1910年(明治43年):東京帝国大学医科大学(現在の東大医学部)医学科卒業


1911年(明治44年):東大医科大学副手となり、精神病学を学ぶかたわら付属病院に勤務。7月より東京府巣鴨病院勤務。授業と診療の生活が始まる。(死に近き狂人を守るはかなさに己が身すらを愛(は)しとなげけり)この年から大正3年まで「アララギ」の編集を担当。島木赤彦を知る


1912年(明治45年/大正元年):学会で「麻痺性痴呆とワッセルマン反応」の研究報告。東大医科大学助手となる


1913年(大正2年):4月、連作「おひろ」を「アララギ」に発表。5月、生母いく死去。連作「死にたまふ母」を発表。7月、師・伊藤左千夫死去。(ひた走るわが道暗ししんしんと怺へかねたるわが道暗し)10月処女歌集「赤光」刊行。歌壇のみならず文壇内外に大きな反響を巻き起こす。


1914年(大正3年):4月、斎藤紀一の長女、13歳年下の齋藤輝子(19歳)と結婚、斎藤家の婿養子となる


1917年(大正6年):1月、医科大学助手、付属病院、巣鴨病院をすべて辞職。官立長崎医学専門学校(現在の長崎大学医学部)精神病科第2代教授(先輩で文学を通じて交流のあった石田昇のあとをうけたもの)


1919年(大正8年):歌論集「童馬漫語」刊行。長崎を訪れた芥川龍之介菊池寛と知り合う


1920年(大正9年):「短歌における写生の説」を「アララギ」に連載。6月喀血し県立長崎病院に入院、7月退院の後九州各地に転地療養。

  ・9月27日:七級俸下賜[5]


1921年(大正10年):第二歌集「あらたま」刊行。医学論文「緊張患者のえるごぐらむニ就キテ」を完成。10月、精神病学研究のため欧州留学に出発。11月1日神戸を出航、香港シンガポールマラッカコロンボスエズから陸路カイロ往復、マルセイユパリを経て12月20日ベルリンに到着。


1922年(大正11年):ウィーン大学神経学研究所に入る。(ドウナウの流れの寒さ一めんに雪を浮べて流るるそのおと)11月論文「植物中枢神経ホルモンによる昂奮性について」完成。


1923年(大正12年):学位論文「麻痺性痴呆者の脳図」完成。(誰ひとり此処にゐざれば論文の頁を閉ぢて涙ぐみたり)イタリア旅行を経て7月、ミュンヘン大学に転学。エミール・クレペリンの臨床講義を聴きに行き握手を求めたが拒否される[4]。実父守谷伝衛門死去。11月、アドルフ・ヒトラーミュンヘン一揆に遭遇する。(行進の歌ごゑきこゆHitlerの演説すでに果てたるころか)


1924年(大正13年):5月「家兎の大脳皮質における壊死、軟化及組織化に就ての実験的研究」を完成。兎の脳を解剖し組織を顕微鏡で観察し写生するという地味で根気のいる作業の日々だった。10月、医学博士の学位を得て帰国の途に就く。12月、青山脳病院全焼の電報を船上で受け取る。(もの呆けしごとくになりし吾と妻と食卓に少しの蕎麦を食ひたり)


1925年(大正14年):1月、帰国。病院の焼け跡に帰るとヨーロッパで買い集めて送った膨大な書物もすべて焼失していた。(とどろきてすさまじき火をものがたるをさなごのかうべわれは撫でたり) 同病院の再建に奔走[6]


1926年(大正15年):3月、共に「アララギ」の編集に携わった島木赤彦死去。4月、現・世田谷区松原に青山脳病院復興。5月、再び「アララギ」の編集発行人となる。


1927年昭和2年):4月、養父紀一が引退し、青山脳病院院長の職を継ぐ[6]。5月、次男宗吉(北杜夫)誕生。7月芥川龍之介が茂吉にもらっていた睡眠薬を飲み自殺。大きな衝撃を受ける。


1928年(昭和3年):11月、養父紀一死去。以後病院経営はすべて茂吉が負うこととなった。(おしなべてつひに貧しく生きたりしものぐるひ等はここに起臥す)


1929年(昭和4年):11月、朝日新聞社機コメット102号機で東京、箱根等の上空を約2時間飛翔。(電信隊浄水池女子大学刑務所射撃場塹壕赤羽の鉄橋隅田川品川湾)


1930年(昭和5年):10月、満鉄の招きで満州、北支方面を2ヶ月旅行。


1931年(昭和6年):「正岡子規」「明治大正和歌史」執筆。


1932年(昭和7年):「源実朝」「近世歌人評伝」執筆。8月、次兄富太郎を訪ね、北海道旅行。


1933年(昭和8年):「柿本人麿研究」の執筆開始。以後詳細な評釈に心血を注ぐのみならず実地踏査のため山陰、四国、大和などをしばしば訪れ、最終的に3000枚の大作となった。


1935年(昭和10年):「アララギ」に「童馬山房夜話」の連載開始。以後10年近くほぼ毎号休まず執筆する。


1937年(昭和12年):帝国芸術院会員となる。日中戦争勃発以後数多くの愛国歌を詠むようになる。(直心(ただごころ)こぞれる今かいかづちの炎と燃えて打ちてしやまむ)


1938年(昭和13年):「万葉秀歌」刊行。文部省の委嘱により国民歌「国土」を作る。


1940年(昭和15年):3月、歌集「寒雲」刊行。5月、『柿本人麿』の業績により帝国学士院賞受賞。6月、1935,6年(昭和10,11年)の歌を集めた歌集「暁光」を刊行。


1942年(昭和17年):2月、1934,5年(昭和9,10年)の歌を収めた歌集「白桃」を刊行。「作歌四十年」執筆。「伊藤左千夫」刊行。


1943年(昭和18年):歌集「のぼり路」刊行。


1945年(昭和20年):太平洋戦争の悪化による人員や資材不足で経営困難となり病院を東京都に移譲し(後の東京都立梅ヶ丘病院)院長職を辞職。4月、郷里である山形県上ノ山町金瓶(かなかめ)に疎開[6]。5月、青山脳病院および東京の自宅が、アメリカ軍による東京大空襲により全焼。(のがれ来し吾を思はばうしろぐらし心は痛し子等し思ほゆ)


1946年(昭和21年):2月、山形県大石田町に移る[6]。(最上川の上空にして残れるはいまだうつくしき虹の断片)8月、歌集「つゆじも」刊行。1947年(昭和22年)度以降1951年(26年度)迄歌会始選者。


1947年(昭和22年):8月、ウィーン留学中の歌を収めた「遠遊」を刊行。11月、大石田を引き上げ、東京の世田谷区代田に移る[6]


1948年(昭和23年):朝日新聞歌壇選者。ミュンヘン滞在中の歌を収めた「遍歴」を刊行。青山脳病院院長を引退。


1949年(昭和24年):金瓶疎開中の歌を収めた「小園」を刊行。日本芸術会員となる。8月、大石田時代の歌を収めた「白き山」。


1950年(昭和25年):1月、歌集「ともしび」(帰朝後から昭和4年までの歌)刊行。これにより第1回読売文学賞詩歌賞受賞。6月、1929・1930年(昭和4,5年)の歌を収めた「たかはら」刊行。11月、1930年(昭和5年)の満州旅行の歌を収めた「連山」を刊行。同年、新宿区大京町の新居に移る[6]


1951年(昭和26年):6月、1932年(昭和7年)の北海道旅行の歌を収めた「石泉」刊行。11月、文化勲章受章。12月、1941,2年(昭和16,17年)の歌を収めた「霜」刊行。


1952年(昭和27年):「斎藤茂吉全集」(岩波書店)配本開始。全56巻は1957年(昭和32年)に完結。このころから痴呆が進み創作活動がとみに衰退


1953年(昭和28年):2月25日、心臓喘息のため新宿区大京町の自宅で死去


1953年(昭和28年):3月2日築地本願寺にて葬儀及び告別式。戒名は自ら作っておいた「赤光院仁誉遊阿暁寂清居士」。墓地は青山霊園にある

私生活
1914年(大正3年)4月、養父・斎藤紀一の長女で13歳年下で当時19歳だった齋藤輝子と結婚、斎藤家の婿養子となった。結婚2年後の1916年(大正5年)には、長男茂太が誕生している。


養父・紀一は茂吉の才能を早くから見抜いており、愛娘輝子に、婚約者茂吉は「変わっているが、きっと偉くなる。お前は看護婦のつもりで仕えなさい。」と諭していたという。


しかしながら、性格や育ち、価値観の違いから、夫婦の関係は芳しくなかった[7]。輝子は茂吉の体臭を嫌い、「おお臭い」と舌打ちしてこれ見よがしに部屋を出たり、娘の百子の育児を放棄して映画を見に行くなどし、これら輝子の自分勝手な行為には茂吉も憤慨、しばしば衝突し家庭内暴力に及ぶことも度々であった。


欧州留学中の1924年大正13年)7月には現地に輝子を迎え、共にヨーロッパ各地を旅行(「歯をもちて割るはしばみの白き実を従ひてくる妻に食はしむ」)、滞欧中は各地で美術作品を実見し詳細な描写を手帳に記している。帰国後の1925年大正14年)2月には長女百子、1929年昭和4年)10月には次女昌子が誕生した。次男宗吉は年譜の通り。


1933年
昭和8年)、ダンス教師が華族や上流階級の婦人らとの不倫や集団遊興を繰り広げていたとするスキャンダル、「ダンスホール事件」が発生した。この事件では、逮捕されたダンス教師を取り巻いていた女性のひとりとして輝子がいたことが大新聞をはじめとするメディアに報じられ[8]、実際に輝子も警察の取調べを受けるなどに至った。


この事件の結果、夫婦は以後約10年ほどに渡って別居することになった。輝子は、母の生家がある秩父や、茂吉の実弟・高橋四郎兵衛が経営する山形・上山の旅館 「山城館」に預けられ、最終的には母や弟の西洋らと共に松原の青山脳病院本院で生活、一方の茂吉は青山の分院での生活を続けた[9]。この事件について茂吉は、「精神的負傷」と記している。


1934年(昭和9年)9月、傷心の茂吉は正岡子規三十三回忌の歌会で松山出身の永井ふさ子(1910年生~1993年没)と出会う。ふさ子は前年にアララギに入会したばかりの美貌の未婚女性であった。茂吉はふさ子の才能を愛で、ふさ子も茂吉に尊崇の念を抱き、程なく二人は師匠と弟子の間柄を越えて深い仲になった。合作の歌が遺っている。「(茂吉)光放つ神に守られもろともに (ふさ子)あはれひとつの息を息づく」[10]。さらに茂吉は短歌ばかりでなく、青年のように赤裸々で率直な恋文を贈っている。「ふさ子さん! ふさ子さんはなぜこんなにいい女体なのですか。何ともいへない、いい女体なのですか。」「銀座などでどんなひとにあひましても体に変化は起こらないのに、お手紙の一行でも読んでゐるうちに体に変化が起こつてまゐります。」[11]

茂吉とふさ子の逢瀬は誰に知られる事も無く続けられていたが、三年後、ふさ子は岡山の医師との縁談話を受け茂吉への想いを断とうとした。しかし翌年婚約を破棄し、その後生涯独身を貫いた[12]。茂吉ほどの人に愛された以上、他の人の愛を受け入れることはできない、というのがふさ子の信念であった[13]


輝子とは太平洋戦争中に茂吉の故郷・山形疎開することになったのを機に1945年(昭和20年)から同居を再開した。茂吉はふさ子と会うことも文をやり取りすることも無くなり、戦後、輝子は晩年の茂吉を献身的に看護していた。ふさ子が茂吉の死を知ったのはテレビの報道で、ということである。茂吉はふさ子に、自分からの手紙は読み終えたら直ちに焼却するよう念を押していたが、ふさ子が焼いたのはごく一部で、120通以上の手紙を大切に手元に置いていた。「先生の死を知って、魂のぬけがらになった私に長く虚しい年月が流れました」[13]。そして茂吉の十周忌を機に、雑誌上で公開に踏み切った。この事は茂吉の遺族をはじめ世間にも非常な驚きを持って迎えられた[10]。晩年の輝子は、80歳を超えても世界中を旅行し、エベレスト登山にまで挑むような活発な老後を送った。ふさ子は晩年、「茂吉から受けた愛のよろこびは一瞬のように短かったのに反して、その後の耐え難かった苦悩を思うと、よくぞ生きのびてきたと思う」と語っていた[11]

性格
・かなりの食いしん坊であった。中でもが大好物で、戦時中戦後の物不足の時期にも事前に購入して蓄えていた鰻の缶詰を食べていた[14]味噌汁の具にも口うるさく注文し、家人からネギもあるので入れるかと聞かれた時は「うーむ。」としばらく熟考するほど拘った。

・非常な癇癪持ちであったが、患者の前では温厚に振舞っていた。その反動で家族には怒りを露わにすることも多かった[15]。茂吉が風邪で寝ていた時、是非ともお目にかかりたいという来客の希望に激怒し、病床から起き上がって客のもとに来て「俺が本当に風邪で寝ているのがわからんのか。」と怒鳴りつけた。あまりの剣幕に客が驚いて帰ったが、翌日、その客の土産のカステラを食べた茂吉は「あんまり叱るんじゃなかったな。」と反省したという。

・癇癪をおさえるためによく神田の古書店に行き、好きな本を物色することで気を紛らわせた。だが、包装のパラフィン紙が上手くケースに収まらず再び癇癪を起して紙を丸めて捨てたこともあった。

・根に持つタイプで、「病雁論争」では自身の作品をこき下ろした太田水穂に対し「水穂征伐」なる反論を書き「僕にかりそめにも刃向かうごとき者がゐたなら必ず死ぬ。水穂もそろそろ要心せよ。」「そんな低級魯鈍者流ではもはや僕の論敵にはなれぬ。」などと云ったかなりどぎつい表現を用いて相手に挑んだことがあった。入院患者に頬を平手打ちされたとき、どのようにして仕返ししてやろうか一人妄想にふけっていたと随筆「瞬間」に記している。留学時代ミュンヘンでエミール・クレペリンに握手を求めて拒絶されたことを晩年まで恨みに思い、「毛唐め!」と悪口を言い続けていた。

・粘着性気質で、ウイーン滞在中、偶然にキスする男女を見つけ、あまりの長さに「長いなあ。実に長いなあ。」と独り言を言いながら物陰から一時間近くも覗いていた。

・子供のころ質素倹約を旨とした農村社会の生活をしていたので、物を大事にする傾向が強かった。妻との旅行中、ドイツの山間の駅で絵葉書を物色中に、汽車が妻を乗せたまま出発、慌てた茂吉は猛スピードで追いかけ辛うじて飛び乗った。この時もきちんと金を払って絵葉書を買ってから汽車を追いかけたという。

詳しいことは、「斎藤茂吉ウィキペディア」をご覧ください。 ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%8E%E8%97%A4%E8%8C%82%E5%90%89
(wikiより)

1781  斎藤茂吉

斎藤茂吉

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1781c



松尾相永 ( まつお - すけなが )
生年:文政 11( 1828 )
没年:明治 10. 12( 1877 )

幕末の非蔵人。

公家と地下官人の間にあり、御所内の雑務担当を職務とする身分の出身。

通称但馬。

安政 5 ( 1858 ) 年 3月、同志の非蔵人 50名余と条約調印反対を建議。

のち尊攘運動に接近し、文久 3 ( 1863 ) 年の 8月 18日の政変で参朝停止の処分を受ける。

慶応 3 ( 1867 ) 年 1月処分解除、同年 12月、王政復古の前日には岩倉邸にあり、鴨脚光長、松尾相保、中川元績、吉田良栄ら非蔵人と共に政変の準備に当たる。

翌明治 1 ( 1868 ) 年参与、嘉仁親王に従い会津攻撃に参画。次いで宮内省に入る。

同 10年王政復古の功を追賞され、500円を下賜された。

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坂田 警軒(さかた けいけん、天保10年5月5日1839年6月15日) - 明治32年(1899年8月15日)は、明治期の漢学者衆議院議員。名は丈、は夫卿、初名は丈助、のち丈平。警軒または九邨とした。

経歴
備中国川上郡九名村(現・岡山県井原市)に生まれる。阪谷朗廬の甥。嘉永6年(1853年)に藩校・興譲館で学び、都講まで進む。万延から肥後国に遊学し、木下犀潭に入門。井上毅竹添進一郎と共に木門の三才と称されるようになった。慶応元年(1865年)に江戸に出て安井息軒に師事し、慶応3年(1867年)に帰郷して岡山藩家老池田氏の賓師から、明治元年(1868年)に阪谷朗廬の後をうけて第2代興譲館館長に就任。


明治23年(1890年)に岡山県選出で第1回衆議院議員総選挙に当選(以後2回当選)。明治26年(1893年)には東京に移り、慶應義塾及び高等師範学校で講師を務めた。死没に際して従五位に叙される。

参考文献
いばらの偉人バックナンバー
(wikiより)

1779a

1779b



文政 10年 ( 1828 ) ~ 明治 39年 ( 1906 )


五太夫、直道。

中村藩士。

嘉永 5年御仕法掛見習代官次席。

安政 1年二宮尊徳に随身。

同 3年御仕法掛中頭次席。

同 5年日光今市詰めとなり、妻子ともに日光役宅に住まいました。

小説家志賀直哉の祖父。

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内藤 政義(ないとう まさよし)は、日向国延岡藩7代藩主。延岡藩内藤家宗家12代。

生涯
近江彦根藩主・井伊直中の十五男。井伊直弼(直中の十四男)の異母弟に当たる。


文政3年(1820年)3月3日に生まれ、彦根での元服後の初名は直恭といった。天保5年(1834年)7月、藩主であった兄・直亮(直中の三男)の招きで、兄・直弼とともに彦根から江戸へ赴く。嗣子のいなかった延岡藩主内藤政順の養子候補者に挙げられたためである。その結果、選ばれた直恭は政順と養子縁組し、政義と改名した。なお、直弼は翌年8月に彦根へ帰国し、以後は長らく部屋住みとなった。


天保5年(1834年)10月13日、養父・政順の死去により、家督を相続した。同年12月、従五位下能登守に叙任された。藩政においては天保12年(1841年)、嘉永元年(1848年)の相次ぐ飢饉における救済対策、軍制改革、学制改革、新田開発などの改革に従事している。嘉永3年(1850年)、藩校学寮を「廣業館」と改称した。


文久
2年(1862年)10月24日、養嗣子の政挙に家督を譲って隠居した。


明治21年(1888年)11月18日に69歳で死去した。

系譜
・父:井伊直中(1766-1831)

・母:不詳

・養父:内藤政順(1796-1834)

・正室:豊姫 - 菊姫、溝口直諒の三女

・継室:立花鑑賢の娘

・養子

  ・男子:内藤政挙(1852-1927) - 太田資始の六男
(wikiより)

1777  内藤政義

内藤政義

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手塚 律蔵(てづか りつぞう、文政5年6月8日1822年7月25日) - 明治11年(1878年11月29日)は、日本幕末から明治初期の洋学者外交官である。名は謙。別名に瀬脇良弼、瀬脇寿人と呼ばれる。父は医師の手塚治孝(寿仙)、母は瀬脇氏。17歳からの4年間、長崎高島秋帆に砲術を、21歳からの4年間は江戸坪井信道蘭学を学んだ。

経歴・人物
周防国
熊毛郡周防村(現山口県光市小周防)に医師手塚寿仙の次男として生まれる。天保9年(1838年)、長崎において高島秋帆シーボルトに蘭学、造船術などを学び、のち英学にも長じた。嘉永3年(1850年)江戸に出たが、国粋論者の追及を逃れるため母方の姓を名のって瀬脇(せわき)寿人と変名し、下総国(千葉県)佐倉に移り、嘉永4年(1851年佐倉藩に仕え、蘭書の翻訳に従事した。嘉永6年(1853年)、私塾又新堂を江戸本郷に開き、神田孝平らを教えた。西周津田仙らはその門人。安政3年(1856年)江戸の蕃書調所の教授手伝いとして出仕した。維新後は開成学校教授を経て、外務省に出仕して外務省貿易事務官となり、ロシアや朝鮮の事情を視察した。明治9年(1876年)外務省七等出仕貿易事務官として、ロシアウラジオストクに往来し、日本とロシアの貿易の振興に尽力したが、明治11年(1878年)1月29日帰国の船中で病死した。著訳書には『海防火攻新覧』『泰西史略』『熕手(こうしゅ)要覧』『万国図誌』があり、また『伊吉利(イギリス)文典』The Elementary Chatechismus, English Grammar1850年版を復刻した[1]

親族
長女の富子は高木兼寛の妻。

脚注
1. Yahoo!百科事典

参考文献
・『明治維新人名辞典』吉川弘文館、1981年。

・『幕末維新大人名事典 下巻』新人物往来社、2010年。

外部リンク
手塚律蔵が木戸孝允におくった書簡 - 文化遺産オンライン

青山霊園- 手塚律蔵の墓(瀬脇寿人の名になっている。)

松田誠「成医会講習所の設立と福沢諭吉」 - 慈恵医大学術リポジトリの論文。手塚律蔵の写真入りの紹介。
(wikiより)

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時代江戸時代末期(幕末) - 明治時代
生誕弘化2年9月16日1845年10月16日
死没明治15年(1882年8月1日
墓所東京都港区南青山青山霊園
官位従五位下、伊勢
幕府江戸幕府
越後三根山藩主→三根山藩(嶺岡藩)知事
氏族五島氏三河牧野氏
父母父:五島盛保、養父:牧野忠興
正室:総子牧野忠恭の娘)
継室:牧野康哉の娘
継々室:内藤政又の娘
千代子

牧野 忠泰
(まきの ただひろ)は、越後三根山藩(嶺岡藩)主。

生涯
旗本から大名へ
五島盛保肥前福江藩五島盛繁の三男)の長男。天保6年(1835年)生まれとも。安政元年(1854年)に越後三根山を領していた大身旗本牧野忠興の養子となる。安政4年(1857年)2月、忠泰の襲封とともに義父の宗家長岡藩牧野忠恭の願いにより、それまで6000石の家格寄合の旗本であったが、新田分5000石を加えて1万1000石に高直しされて大名となり、従五位伊勢守に叙任される。

戊辰戦争

慶応4年(1868年)の戊辰戦争では奥羽越列藩同盟に参加し、本家の長岡藩とともに派兵させた。しかし長岡城が陥落すると、官軍側であった与板藩に家老の神戸十郎右衛門を派遣して援助を仰いだが、与板藩にも余裕はなく、新政府軍の出雲崎屯所に出兵する旨を伝えていた。しかし、その翌日に出羽庄内藩兵が三根山藩領内に侵攻、大砲を向けて威嚇した。宗家の長岡城が落城しても傍観したことに対して、進退を明らかにするよう脅しをかけたのである。三根山藩には庄内藩に抗する力は無く、野積・寺泊・出雲崎に奥羽越列藩同盟側として三根山藩兵を出兵させている。


新潟に新政府軍が上陸すると戦局は決した。新潟・長岡が陥落すると同盟軍側は退却を開始、三根山藩兵は藩内に帰還したが、長岡・新潟の双方からの新政府軍に挟撃される形となった。弥彦口、赤塚口から挟撃する新政府軍に対して、「新政府軍に加担したかったが庄内藩に抗することができず、やむを得ず戦った」旨の嘆願書を提出した。忠泰と藩兵は新潟に出兵し、新政府軍に恭順した。ここで三根山藩、そして忠泰の罪は赦されるものの、謹慎処分を受けた。また、83名の藩兵を与板藩等とともに派遣して庄内藩と戦った。


庄内口での働きぶりが認められ、忠泰の謹慎が解かれることとなった。そして、賊軍とされた宗家長岡藩への寛大な処置を願う嘆願書を新政府軍に提出した。また、三根山藩は降伏後の働きにより500石減封に留まった。しかし、12月に本家の長岡藩に連座する形での転封命令が出た。翌明治2年(1869年)に信濃国伊那に決定したが、長岡藩と一緒に懇願して、転封の撤回に成功した。

明治維新後
明治3年(1870年)5月、忠泰は長岡藩の窮状に心を痛めて米百俵を送った。同年10月29日、丹後峰山藩と紛らわしいため、嶺岡(峰岡)藩と改称した。忠泰の没後は長女の千代子が家督を継いだ。明治24年(1891年)に忠良(旧宇和島藩伊達宗城の七男)が千代子の養子となって家督を継ぎ、子爵の爵位が授けられた。
(wikiより)

1775  牧野忠泰

牧野忠泰

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周布 政之助(すふ まさのすけ)は、幕末長州藩士。政之助は通称であり、兼翼(かねすけ)という。また、変名に麻田公輔、松岡敬助などがある。

略歴
周布氏益田氏の支流にあたり、近世以降は代々長州藩毛利家に仕えた家柄である。


政之助(兼翼)もこの一族の出身者であり、文政6年(1823年)、長州藩士(大組219石)・周布吉左衛門兼正村田伝左衛門信嘉の娘竹の五男として生まれる。父と長兄が相次いで歿したことによる末期養子であったため、家禄を68石に減ぜられ、わずか生後6ヵ月で家督を相続した。


来原良蔵
松島剛蔵らと嚶鳴社を結成して政治を論じたが、弾圧されることなく、弘化4年(1847年)に祐筆・椋梨藤太の添役として抜擢された。政之助は天保の藩政改革を行った家老村田清風の影響を受けており、この抜擢は村田の政敵である坪井九右衛門派の椋梨との連立政権を意味していた。財政再建や軍制改革、殖産興業等の藩政改革に尽力し、また桂小五郎高杉晋作吉田松陰の門下を中枢に登用したが相州防備の藩財政の悪化により失脚。しかし政権を握った坪井派が京都と長州の交易を推進したことが藩内の会所において疑心暗鬼をうみサボタージュが発生して失敗したことで再び藩政に復帰[要出典]文久2年(1862年)頃に藩論の主流となった長井雅楽航海遠略策に藩の経済政策の責任者として同意したが久坂玄瑞松下村塾の藩士らに説得され藩論統一のために攘夷を唱えた[1]守旧派に抗し藩政改革の起爆剤とする意図があったとされるが、ここにおいて村田派と坪井派の禅譲は終わった[要出典]


元治元年(1864年)、高杉晋作とともに長州藩士の暴発を抑えようとしたが失敗[2]、その結果起こった禁門の変第一次長州征伐に際しても事態の収拾に奔走したが、次第に椋梨ら反対派に実権を奪われることとなった。同年9月、責任を感じて山口矢原(現・山口市幸町)の庄屋吉富藤兵衛邸にて切腹した。享年42。

備考
・酒癖が悪かったともいわれ、愚直ともいえる一途な性格から多くの舌禍事件を起こしてたびたび逼塞処分を受けたが、その都度、その有能さから政治へ復帰している。舌禍事件の一つとして、文久2年(1862年)に土佐藩前藩主・山内容堂に対して暴言を吐いて謹慎となった。その際、「麻田公輔」と改名している。また、高杉晋作が脱藩の罪で投獄された時にも、酒に酔って馬で野山獄に抜刀して乱入したとも言われる。


明治期、政之助の偉業を知る有志の手により、切腹の地の近隣に顕彰碑が建立された。のちに顕彰碑の周囲は周布公園として整備され、さらに一帯の地名は山口市周布町となっている。

親族
周布藤吾 - 長男、第二次長州征伐で戦死

周布公平 - 次男

周布兼道 - 孫 (公平の長男)

杉孫七郎 - 甥

脚注
1. 村上一郎『草莽論』ちくま学芸文庫、2018年、P.272。
2. 村上一郎『草莽論』ちくま学芸文庫、2018年、P.273。

関連作品
竜馬がゆく(NHK大河ドラマ)-演:渥美国泰NHK大河ドラマ、1968年)

天皇の世紀 (テレビドラマ) - 演:高津住男ABCテレビ国際放映、1971年)

花神 - 演:田村高廣NHK大河ドラマ、1977年)

奇兵隊 - 演:津川雅彦日本テレビ年末時代劇スペシャル、1989年)

炎の如く 吉田松陰 - 演:山口崇 (日本テレビ時代劇スペシャル、1991年)

長州ファイブ - 演:矢島健一リベロ、2006年)

花燃ゆ - 演:石丸幹二 (NHK大河ドラマ、2015年)

関連項目
村田清風記念館
(wikiより)

1774  周布政之助

周布政之助

1774a

1774b



真鍋 斌(まなべ あきら/さかり、1851年3月7日嘉永4年2月5日) - 1918年12月14日)は、日本の陸軍軍人政治家。最終階級は陸軍中将貴族院議員男爵。幼名・熊槌。

経歴
長州藩中士・真鍋安信の長男として生まれる。明倫館で学び、1866年、干城隊に入隊。1870年、大坂兵部省屯所に入営し、1871年、陸軍青年学舎を卒業。陸軍教導団出仕を経て、1872年、陸軍少尉任官。以後、陸軍兵学寮付、陸軍省第1局第3課などを経て、1877年4月から10月まで西南戦争に出征した。


陸軍省第1局第3課長心得、総務局武学課長、同局第3課長心得、同課長、歩兵第3連隊長、第1軍事課長、第4師団参謀長、第1軍事課長、総務局人事課長などを歴任し、1897年7月、陸軍少将に進級。1900年7月から10月まで義和団の乱に歩兵第9旅団長として出征した。その際、清国馬蹄銀を横領した嫌疑が明るみとなり、1902年6月に休職となった(馬蹄銀事件)。将来の陸軍大臣とも嘱望されていたが、その道は馬蹄銀事件により閉ざされた。1904年4月、留守第5師団長を経て、1905年2月、陸軍中将となり翌年7月に休職、1907年11月13日、予備役に編入された[1]1914年4月1日、後備役となる[2]1918年4月1日に退役した[3]


1907年9月、男爵を叙爵し華族となり、貴族院議員(1911年7月 - 1918年7月)、陸軍参政官1915年7月 - 1916年10月)を歴任。

栄典
位階
1891年(明治24年)12月28日 - 従五位[4]

1897年(明治30年)2月10日 - 正五位[5]

1902年(明治35年)3月31日 - 従四位[6]

1907年(明治40年)12月10日 - 正四位[7]

1916年(大正5年)12月20日 - 従三位[8]

1918年(大正7年)12月14日 - 正三位[9]

勲章等
1889年(明治22年)11月29日 - 大日本帝国憲法発布記念章[10]

1892年(明治25年)11月29日 - 勲三等瑞宝章[11]

1895年(明治28年)

  ・10月18日 - 旭日中綬章功四級金鵄勲章[12]

  ・11月18日 - 明治二十七八年従軍記章[13]

1906年(明治39年)4月1日 - 勲一等旭日大綬章功二級金鵄勲章明治三十七八年従軍記章[14]

1907年(明治40年)9月21日 - 男爵 [15]

1915年(大正4年)11月10日 - 大礼記念章[16]


外国勲章佩用允許
1903年(明治35年)3月9日 - 大清帝国第二等第一竜宝星[17]

親族
・養子 真鍋十蔵(司法官)

・娘婿 小出覚之助(陸軍少佐)・林二輔(陸軍少将)

脚注
1. 『官報』第7315号、明治40年11月14日。
2. 『官報』第503号、大正3年4月6日。
3. 『官報』第1701号、大正7年4月8日。
4. 『官報』第2551号「叙任及辞令」1892年1月4日。
5. 『官報』第4081号「叙任及辞令」1897年2月12日。
6. 『官報』第5619号「叙任及辞令」1902年4月1日。
7. 『官報』第7337号「叙任及辞令」1907年12月11日。
8. 『官報』第1317号「叙任及辞令」1916年12月21日。
9. 『官報』第1912号「叙任及辞令」1918年12月17日。
10. 『官報』第1936号「叙任及辞令」1889年12月10日。
11. 『官報』第2828号「叙任及辞令」1892年11月30日。
12. 『官報』第3693号「叙任及辞令」1895年10月19日。
13. 『官報』第3824号・付録「辞令」1896年4月1日。
14. 『官報』号外「叙任及辞令」1907年1月28日。
15. 『官報』第7272号「授爵敍任及辞令」1907年9月23日。
16. 『官報』第1310号・付録「辞令」1916年12月13日。
17. 『官報』第5948号「叙任及辞令」1903年5月4日。

参考文献
秦郁彦編『日本陸海軍総合事典』第2版、東京大学出版会、2005年。

・福川秀樹『日本陸軍将官辞典』芙蓉書房出版、2001年。

・外山操編『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』芙蓉書房出版、1981年。

関連項目
義和団の乱
(wikiより)

1773  真鍋斌

真鍋 斌

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1773b



沖 牙太郎(おき きばたろう、1848年5月10日嘉永元年4月8日) - 1906年明治39年5月29日))は、明工舎(沖電気の前身)創業者[1]。日本で初めて電気通信機器の製造・販売事業を興した技術者実業家

略歴
1848年5月10日安芸国沼田郡新庄村(現在の広島市西区新庄町)の農家に生まれる[2]。因みに、同日に資生堂創業者の福原有信も産まれている。


1874年(明治7年)実家の農業を嫌い、27歳で銀細工師の腕だけを頼りに文明開化東京に飛び出し[3]工部省電信寮(1877年電信局)で電信技術に携わる。電信寮の同僚に田中大吉三吉正一[4]


1877年(明治10年)西南戦争を機に電信事業の必要性が増大すると、政府からの電信機国産化の要請を受けて電信用の電気針や電極器などの製作に努力し、同年米国から渡来した電話機の国産製造実験にも参加[1]。この頃から電信局の三吉ら若手技術者達を糾合し、同局内に電気機械の国産化を試みる研究グループを設立した[1][5]。 狩野タケと結婚[2]


1879年(明治12年)電信局に所属のまま、東京・芝西久保桜川町(現在の港区虎ノ門)の長屋で電信局の下請け工場を始め、新製品の研究に没頭[3]


1881年(明治14年)電信機・電話機・電線・電鈴等の製造、販売を目的として東京・銀座に日本初の通信機器メーカー「明工舎」(後の沖電気工業)を設立[6][7]、同年、国産第1号電話機を製造[6]


1882年(明治15年)松方財政によるインフレーションで一時経営危機に陥るが、陸軍省に納品した軍用携帯印字機と軍用電池が高い評価を受け、政府が打ち出した将来の対清戦争を前提にした軍備拡張計画も相まって受注が増大。東京~横須賀間の海軍専用の電話線を架設し、軍用電話も納入した[3]。また浅草凌雲閣の電話設備を請け負うなど広告戦略も導入し、会社の基礎を確立した[1][5][8]。明治20年前後には、電灯に比べて電話の進歩は遅れていたが、牙太郎の宣伝の上手さもあって電話機において東京では独占的な地位を得る[3]


1889年(明治22年)明工舎を沖電機工場と改称。


1899年(明治32年)逓信省のバックアップで中国に進出し、広東市で電話局開設に乗り出すが、輸出がうまくいかず撤退[3]


1904年(明治37年)日露戦争では前線の連絡に沖の携帯電話機が多く使われた[3]


1906年(明治39年5月29日)死去。

脚注
1. a b c d 『日本の創業者 近現代起業家人名事典』63-65頁
2. a b 『沖電気100年のあゆみ』
3. a b c d e f #流される18-26頁
4. 港区ゆかりの人物データベースサイト・人物詳細ページ (沖 牙太郎)
5. a b 第2回 起業、そして事業拡大へ|時代とOKI|OKI
6. a b わが国初の通信機器メーカー「明工舎」
7. 最初の197回線 - NTT
8. 沖のあゆみ 電話拡張計画実施でトップメーカーに/WE社との提携交渉

参考文献・ウェブサイト
・『日本の創業者 近現代起業家人名事典』2010年、日外アソシエーツ

時代とOKI|OKI

最初の197回線 - NTT

沖牙太郎と 岩垂邦彦―(日本の企業家活動シリーズNo.50) - 法政大学イノベーション・マネジメント研究センター

小林信彦『流される』文藝春秋、2011年。

関連項目
岩垂邦彦

小林信彦

外部リンク
朝日日本歴史人物事典『沖牙太郎』 - コトバンク

沖のあゆみ

港区ゆかりの人物データベースサイト・人物詳細ページ (沖 牙太郎)
(wikiより)

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静間 知次(しずま ともじ、1876年明治9年)5月5日[1][2] - 1926年大正15年)12月7 日[1][2])は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。旧姓・高柳。

経歴

山口県出身[1][2][3]。高柳致知の二男として生れ、静間大輔の養子となる[1]陸軍幼年学校を経て、1896年(明治29年)5月、陸軍士官学校(7期)を卒業し[2]、翌年1月、工兵少尉に任官し工兵第6大隊付となる[1][3]。1899年(明治32年)12月、陸軍砲工学校高等科(7期)を優等で卒業[1][2][3]。1900年(明治33年)3月から1903年(明治36年)までフランスに留学した[1]。1904年(明治37年)5月、大連野戦鉄道提理部員に発令され、同年7月から1905年(明治38年)12月まで日露戦争に出征した[1][4]

1907年(明治40年)11月、工兵少佐に昇進し砲工学校教官に就任[1]。1910年(明治43年)12月、イタリア大使館付武官となり、1912年(明治45年)5月、工兵中佐に進んだ[1]。1914年(大正3年)3月、砲工学校教官に転じて帰国[1]。1915年(大正4年)5月、第一次世界大戦欧州戦線に従軍した[1][4]。1916年(大正5年)8月、工兵大佐に昇進し陸軍技術審査部付となる[1][3]。技術審査部審査官を経て、1918年(大正7年)11月、浦塩派遣軍司令部付に発令されシベリア出兵に出征[1][2][3]。1919年(大正8年)4月、第1鉄道連隊長に転じ、1920年(大正9年)7月、参謀本部付となり、同年8月、陸軍少将に進級[1][2][3]。同年9月、国際連盟空軍代表に就任した[1][2][3][4]

1923年(大正12年)12月、参謀本部付となり、第17師団司令部付を経て、1924年(大正13年)12月、砲工学校長に就任[1][2][3]。1925年(大正14年)5月、陸軍中将に進級し、1926年(大正15年)3月、工兵監に就任[1][2][3]。同年8月、熊本工兵第6大隊の視察のため出張中に発病し、熊本衛戍病院(現国立病院機構熊本医療センター)に入院し療養していたが同年12月に死去した[5]

栄典
1920年(大正9年)9月10日 - 正五位[6]

脚注
1. a b c d e f g h i j k l m n o p q r 『日本陸海軍総合事典』第2版、78-79頁。
2. a b c d e f g h i j 『日本陸軍将官辞典』365頁。
3. a b c d e f g h i 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』124-125頁。
4. a b c 『朝日日本歴史人物事典』784頁。
5. 『大正過去帳』353頁。
6. 『官報』第2434号「叙任及辞令」1920年9月11日。

参考文献
秦郁彦 編『日本陸海軍総合事典』第2版、東京大学出版会、2005年。

・福川秀樹『日本陸軍将官辞典』芙蓉書房出版、2001年。

・外山操 編『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』芙蓉書房出版、1981年。

・『朝日日本歴史人物事典』朝日新聞社、1994年。

・『大正過去帳 物故人名辞典』東京美術、1973年。
(wikiより)

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渡辺 沙鷗(わたなべ さおう、文久3年12月21日1864年1月29日) - 大正5年(1916年10月15日)は、名古屋生まれの書家。名は沙鷗で、別号に飛清閣主清華道人東海道人などがある。若い頃は清華と号した。

業績
明治時代に活躍した能書で、鶴門四天王の一人。明治時代後期、を芸術に組み入れようと、「日本書道会」などで展覧会を主宰し、後人の育成にも尽力した。

略歴

文久3年12月(1864年1月)名古屋に生まれる。幼いときから書を水谷魯堂に学び、12歳のとき中京でその名も高い恒川宕谷(1819年 - 1907年)に師事した。天与の才があり、15歳にして早くも数多い門弟中、助教授に抜擢され、手本を執筆した。明治22年(1889年)上京し、日下部鳴鶴の門に入り、その後、鳴鶴の勧めで、巖谷一六中林梧竹を訪ねる。日本郵船に勤務の傍ら、鳴鶴・梧竹の益を受け、特に梧竹の書論の影響を受けた。そ
して中国の碑帖より六朝に至る古典を探究し、格調の高い独自の書風を確立した。

明治40年(1907年)7月、「日本書道会」が創立し、沙鷗は野村素軒中根半嶺久志本梅荘らとともに幹事に選ばれた。そして、明治44年(1911年)6月、沙鷗主宰の「日本書道会」第1回展覧会が、両国の回向院で開催された。40歳代に書いた楷書体の代表作『詩小雅天保』(ししょうがてんぽう)の明るく素朴な書風から、その手腕のほどが窺える。大正5年(1916年)東京にて52歳で没した。

梧竹の影響
沙鷗は『筆之友』(明治33年(1900年)に創刊された「書道奨励協会」発行の書道雑誌)で、「余の書道研究と梧竹先生の書論」と題して次のように中村梧竹の書論を紹介している。

「現今、師匠の流儀によって型の如き書で満足している者の多いのは誠に遺憾である」
「人にはそれぞれ個性がある。書には筆者の個性が表現されていなければならない」
「書に限らずすべての芸術は人格の表現である。書学を修むる者は徒らに筆論の末技のみに腐心せず、その根本たる精神修養の一大事に考え及ばねばならない」
「書の研究方法としては、日本は勿論、唐宋、六朝辺の大家の書を自分の血肉とし、その後においてはじめて自己の本領を発揮すべきである」

また、文中、沙鷗は、「梧竹先生の説に従い、先生の指導を仰ぎながらその通り学んだ」と述べている。

門人
門人に大橋不染(1873年 - 1922年)がいる。沙鷗同様、50歳という若さで他界しているが、比田井天来は、「大橋君は立派に完成して居った」と賛辞を惜しまなかったという。

関連項目
日本の書道史

参考文献
・書道専門誌 『』 - 芸術新聞社発行 - 1981年10月臨時増刊 近代日本の書

・『書道講座8 書道辞典』 二玄社発行 - 編集責任者 西川寧など - 1969年7月

季刊墨スペシャル第12号『図説 日本書道史』 - 芸術新聞社発行 - 1992年7月
(wikiより)


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牛島 満(うしじま みつる、1887年(明治20年)7月31日 - 1945年(昭和20年)6月23日)は、日本陸軍軍人陸士20期恩賜陸大28期。最終階級は陸軍大将(自決直前の6月20日付で中将から昇進[1])。鹿児島県鹿児島市出身。日本陸軍の大将に昇進した最後の軍人。


沖縄戦
において、第32軍を指揮し自決した。温厚な性格で知られ教育畑を歴任したが、指揮官としても沖縄戦以前に歩兵第36旅団長として武漢市南京市攻略戦に参加し、武功を挙げた。

生涯
生い立ち
牛島満は1887年7月31日薩摩藩士出身の陸軍中尉の父牛島実満と、同じく薩摩藩の武家の出である母牛島竹子との間に4人目の子として生まれた。兄に茨城県知事を務めた牛島省三がいる。牛島家は他の薩摩藩士の多くと同様に、明治維新による秩禄処分で家禄を失ったため上京し軍職に就いた。1887年に満は牛島家の四男として東京で誕生した、満が生まれてすぐ父が急逝したため、母は子ども達を連れて郷里である鹿児島に帰郷している。牛島家は薩摩藩で中クラスの家柄の士族で鹿児島に広大な土地、屋敷などの資産があったこと[2]、また、母竹子は薩摩藩士松元家の次女で、松元家の庇護も受けたので、牛島家は生活に困ることはなく、子供らは十分な教育を受けることができた[3]


牛島兄弟は皆優秀であったが、なかでも満は1894年に山下尋常小学校に入学すると、翌年には3年生に特進し10歳で卒業、1898年に他の生徒より1年早く鹿児島市尋常高等小学校に入学した。そして1900年に鹿児島県内の秀才が集まる第一鹿児島中学校を受験し、最年少でありながら10倍の競争倍率の難関を突破し入学した[4]


その後は亡き父の後を継ぐために軍人への道を志し、1901年に熊本陸軍地方幼年学校(熊幼)に入校した。熊幼入校時に年齢13歳だった牛島の愛読書は、尊敬する鹿児島の偉人西郷隆盛の愛読書言志四録であったが、牛島は後年、同じ薩摩藩の西郷によく例えられている[5]。幼年学校は全寮制で上下関係が厳しく、下級生は上級生を恐れていたが、当時の牛島は物静かな優等生であり、後輩であった神田正種は「牛島先輩はいつもニコニコして、親しみやすい先輩だった」と述べている[6]


1904年
に熊幼を卒業して東京の陸軍中央幼年学校に進み、1906年陸軍士官学校に進んだ。士官学校でも勉強熱心さは変わらず、特に指揮刀をたずさえての部隊の指揮や号令のかけ方などに秀でており、戦術学と教練の成績は常にトップであった[7]。また身体を使うことに優れ、器械体操は最優秀、剣道も幼いころから郷里鹿児島で叩き込まれた示現流を駆使し、その激しい掛声もあって目立っていた。食欲も旺盛で、士官学校時代のあだ名は『牛』であったという[8]1908年に士官学校を第20期生として卒業したが、牛島と下村定吉本貞一は成績優秀で20期の三羽烏と呼ばれた[9]。歩兵科の卒業席次2位、恩賜の銀時計を拝受[10]


同年12月少尉に進級し、近衛歩兵第4連隊附となった。大柄で容姿端麗だった牛島は連隊旗手に抜擢された[11]


1911年12月、中尉に進級。1912年陸軍大学校に入校し、1916年に卒業(28期、56名)[12]。陸大28期の同期には山下奉文田中静壱らがいる[12]。牛島の卒業席次は51位であった[12]


1918年
8月、シベリア出兵が始まり、シベリア派遣軍野戦交通部参謀としてウラジオストクに赴任した。牛島の仕事は広大なシベリアに部隊の配置を手配することであったが、目配り気配りの牛島にはうってつけの仕事で、緻密な輸送計画で円滑に部隊の配置や物資の支給を行った。同年12月大尉に進級し、シベリアからの帰国後は功績から功五級金鵄勲章を授与された[13]


1919年
4月、原隊である近衛歩兵第4連隊の中隊長を務めた後、1920年8月から陸軍歩兵学校教官となったが、同年に同郷の君子と結婚している[14]1924年少佐に進級すると歩兵第43連隊大隊長を拝命し、1925年4月には、歩兵第45連隊附の配属将校として、母校である第一鹿児島中学校に配属された。配属将校とは加藤高明内閣の宇垣一成陸軍大臣が実施したもので、全国の大学、中学校師範学校などで、生徒を相手に学校教練部隊教練や軍事講話などの軍事的な教育を行うため、それまでの予備役将校に変えて牛島らのような若手の現役将校を配属する制度であった[15]。中学校に配属された将校の中で陸大卒は牛島だけで、また母校への凱旋ということもあり、大変な歓迎を受けている[16]


当時の第一鹿児島中学校の石田校長は教育界で著名な人物でもあり、牛島は石田から教育者として影響を受けている[17]。牛島はエリート軍人ながら気取ることなく生徒と接し、体操や剣道といった体育の授業では、自ら得意の鉄棒大車輪や逆車輪を生徒の目の前でやってみせて模範を示したり、相撲のときは軍服を脱ぎ捨て、裸となって生徒と相撲をとった。また座学においても、難解な軍隊符号を解りやすく丁寧に生徒に教えている[18]


授業が終わると生徒と一緒に甲突川に繰り出して、得意の魚釣りをして川遊びを楽しんだ。生徒らも最初は教練中の軍服姿のいかつい姿を思い出し打ち解けるまでに時間がかかったが、日がたつにつれてすっかりと馴染んでしまった。牛島は3年間母校に勤務したが、このときの教育者としての経験が、後の牛島の軍歴に役立つこととなった[19]。当時、学校教練査察官をしていた永田鉄山大佐が一中を視察に来た際に、生徒を教育する牛島の姿を見て「学校教練の先駆けであるのみならず、将来の日本陸軍の柱石になるに違いない」と称賛している[20]

日中戦争に従軍
1928年3月、歩兵第23連隊附となり、同年8月中佐に進級。1930年には下関要塞参謀、1932年には陸軍戸山学校教育部長となり、大佐に進級する。陸軍戸山学校でも第一鹿児島中学校勤務時と同様に、学生と一緒になって剣術や体育で汗を流した。45歳を過ぎていた牛島であったが、鉄棒や走り幅跳びで牛島に敵う生徒はおらず、腕相撲も学校で一番強かった。当時は北一輝の『日本改造法案大綱』に影響された若手将校が政治を語ることが多くなっていたが、牛島は、教官生徒らに軍務に集中するよう強く指導し、北らの政治主張には絶対反対の立場をとった[21]


1933年、牛島が幼年学校に在学中、区隊長を務めていた山岡重厚陸軍省軍務局長の推薦により、牛島は陸軍省高級副官に就任。荒木貞夫林銑十郎川島義之と三代の陸軍大臣に仕えた。牛島が陸軍大臣に仕えていた時は、陸軍内での派閥争いがもっとも激烈な時期であったが、牛島が仕えた3陸相はいずれもその派閥の頂点に立つ人ばかりで、武人を絵に描いたような牛島だからこそ、この時期の陸軍大臣副官を務めあげることができたとも言われた[22]。荒木によれば「大きくことを処理し、いわゆる小役人的な事務をとらないが、諸事に細心の注意がゆきとどいている」仕事ぶりで、荒木が在任中に病臥した際も、牛島が荒木の病中病後の処理をしっかりと取り仕切ったので安心して静養できたと回想している[23]。また歴代の高級副官の中でもっとも靖国神社の祭典に力を入れていたとの神社側の証言もあり、幕末動乱期から第一次上海事変まで靖国神社に合祀されている戦没者の一覧表『靖国神社忠魂史』を編纂できたのは牛島の力に寄るところが大きかった[24]


1936年2月26日に起こった二・二六事件の際には、牛島は中国大陸に出張中だったため事件には遭遇しなかったが、反乱は間もなく鎮圧され、翌3月、牛島は事件の首謀者の一人、栗原安秀中尉らの所属部隊である歩兵第1連隊長に任ぜられた。すっかり混乱した部隊をまとめられるのは牛島が適任と見なされての抜擢であった[25]。5月8日からは第1連隊は二・二六事件前から内定していた北部満州に派遣され、治安維持任務に就くこととなった。 軍の関係者や兵士らは、牛島の前任の小藤恵連隊長が引責で更迭されており、懲罰の派遣と考えていたが[26]、牛島は荒んだ兵士らの激励と慰問を兼ねて8か所の分屯地を大隊長らとトラックで巡回し、兵士らに「手足を見せてみろ、不潔にしていると凍傷になるぞ」と声をかけて回り、顔色が悪い兵士を見かけると「風邪をひいているのではないか?無理をするな」と軍医に診せるなど兵士にきめ細かい心遣いを見せている[27]。兵士らは懲罰と思い込んでいたのと、匪賊との戦闘で死傷者が出たこともあり意気消沈していたが、牛島連隊長の心配りに絆されて兵士の士気は上がり、牛島に対する景仰と信頼も高まった[28]。その後、新兵多数も配属されたが、牛島に影響を受けていた古参兵らは、新兵に心配りをするようになり、小銃の手入れを手伝い、文盲の新兵の代わりに家族に手紙を書いてやり、官給品のランプを破損した新兵には古参兵が破損したことにして新品を支給している。このように牛島の連隊の運営方針が末端の兵士まで行き届いており、連隊の雰囲気は改善されていった[28]。これは、同じく反乱部隊の中枢となった歩兵第3連隊が、新連隊長の方針で「二・二六事件の汚名をそそげ」と反乱に参加した古参兵中心に徹底的にしごかれたのとは対照的であった[29]

チェスト部隊

1937年3月、少将に進級し、第6師団歩兵第36旅団長に任ぜられる。第36旅団は都城歩兵第23連隊鹿児島歩兵第45連隊で編成されており、牛島が郷土部隊の指揮官となったというニュースは地元を賑わせた[30]。まもなく支那事変が勃発し、牛島率いる歩兵第36旅団も出陣することとなった。歩兵第36旅団は8月初旬に鹿児島を出立し、海路朝鮮半島に渡ると、後は鉄道で華北にある山海関に到着した。既に戦況は激しく動いており、北京近郊に展開する蔣介石精鋭の中国国民政府軍第14軍の3個師団約12,000名が、八達嶺方面を進撃していた第5師団の側面を脅かすこととなっていたため、第6師団長谷寿夫中将は牛島に第36旅団の2個連隊で、中国軍の3個師団を撃破することを命じた。歩兵第23連隊と45連隊は、兵力では遥かに勝る中国軍が固く陣地化していた下馬嶺千軍台の攻略をしなくてはならなかったが、8月30日に、下馬嶺を守る中国軍を偵察したところ、中独合作で中国を支援していたドイツ国軍の軍事顧問団の姿も確認できた[31]。9月5日に牛島は陸軍飛行戦隊に航空支援を要請し、中国軍の陣地を九三式重爆撃機九三式双発軽爆撃機が爆撃した後、2個連隊は激しく攻撃した。兵力に勝り火砲も充実していた中国軍の反撃は激しく死傷者が続出したが、着実に中国軍の陣地を攻略していき。9月8日には反撃してきた3,000人の中国兵を壊滅させると、9月13日には標高1,100mの再重要拠点千軍台を攻略し中国軍の敗残部隊は退却した。牛島は緒戦を華々しい勝利で飾ったが部隊の損害も大きく、第36旅団だけで将校7名、准士官以下170名が戦死し、将校13名、准士官以下358名が負傷している[32]


その後、牛島率いる36旅団は、9月中旬に保定、10月8日に正定、10月14日には石家荘南郊の内邸まで進撃し、牛島旅団の凄まじい突進ぶりに敵味方も舌を巻いて驚き、敵の中国軍からは「鬼将軍」とあだ名され恐れられた[33]。旅団司令部は前線から遥か後方にあったが、牛島は幕僚を連れてよく最前線に出ていた。敵弾がとんでくるところで旅団長自ら偵察を行うこともあり、副官が危険だと告げると「おいばっかりに、弾丸めがけてきやせんぞ」と全く意に介さなかった。前線の兵士らと食事を共にすることもあり、兵士らと弁当のおかずの交換するなど気さくに接していた[34]


11月には、膠着状態にある上海方面の戦勢を打開するため、第6師団が同方面に投入された。第36旅団は上海上陸後、崑山から蘇州の線に沿って進撃し、12月11日に始まった南京攻略戦に参加した。牛島旅団は南京城から退却する中国軍の退路を絶ち、20,000名もの大量の捕虜と膨大な武器弾薬を捕獲し、ここでも勇名を轟かせている[35]。南京戦後は、南京郊外の蕪湖地区に駐屯し、1938年7月に始まった武漢作戦にも、中核部隊として参加し、8月に要衝の黄梅を攻略した。中国軍は牛島らの急進撃に対抗するため、揚子江の堤防を決壊させて洪水作戦を行ない足止めしようとしたが、牛島旅団は洪水をものともせずに突進し、9月には難攻不落といわれていた広済要塞を攻略した。その勢いのまま10月に漢口市内に進撃すると、その勢いに押された中国軍は武漢三鎮を放棄し退却した。同年12月には第11軍司令官岡村寧次から牛島に感状が授与されている[36]。牛島の第36旅団は、牛島が、関ヶ原の戦いのとき、島津義弘率いる島津軍が西軍敗戦後に敵中突破をしたときのかけ言葉と言われている「チェスト!行け!」(それ行けという意味)[37]で将兵を激励することから『チェスト部隊』と呼ばれ、将兵らも誇りに思っていた[38]


南京攻略直前の11日の朝、突如一頭の鹿が迷い込み右往左往するのを見て牛島は傍らの旅団副官の江口中佐に命じ、この鹿を一発で仕留めさせた。その後、10分間黙考に至った牛島は旅団に攻撃命令を下達した

一、中原に鹿を見たり

二、敵首都南京は指呼の間にあり

三、三洲健児

(熊本・鹿児島・宮崎)

チェストイケ

 旅団長 牛島 満

教育者として
1939年3月、牛島は歩兵第36旅団長を転出し、陸軍予科士官学校校長兼陸軍戸山学校校長に就任。同年8月には中将に進級した。同年12月第11師団長に親補されて満洲国ソ連国境の町、虎林に赴任し、対ソ防衛の任にあたる。翌1941年10月には陸軍公主嶺学校校長となる。この年の12月8日、真珠湾攻撃によって太平洋戦争が開戦するが、牛島は日米開戦の報告を聞くと驚愕し落胆している。牛島は日中戦争の長期化に矛盾を感じており、戦争を早く終結させ、日本陸軍創設以来の仮想敵国であるソ連に対し万全の備えを講ずるべきという持論を持ち、太平洋で米英相手に戦うのは無謀だと考えていた。陸軍中央部も、部下の信任が厚く影響力が大きい牛島が、陸軍の方針と反対の意見を持っていることがわかっていたため、第一線から遠ざけて陸軍公主嶺学校の校長にしたともいわれている[39]


1942年4月、牛島は陸軍士官学校校長に就任する。これは軍事参議官の土肥原賢二、山田乙三教育総監が強く牛島を推薦したからだと言われている。当時の世相はシンガポールが陥落し、国内が軍民共に戦勝気分に酔っていた時期であるが、牛島は、士官候補生や教官の間にも驕りや楽観的空気が蔓延していると感じ、陸士の全教官を召集し「戦局全般を冷静に判断したが、前途は極めて厳しい。特に米軍を中心とする連合国の豊富な物資と強大な兵力は、警戒を要するところである。日本軍の先制攻撃による戦果を過大に評価してはならん」と訓示している。この牛島の正確な情勢分析による予想は後に的中することとなった[40]


また牛島は、陸士の教授部戦術課長をしていた加藤道雄大佐に対し、従来のマンネリ的な戦術教育を改めて、圧倒的物量を誇るアメリカ合衆国を想定した実戦既応の教育方針を打ち出すよう指示しており、加藤は牛島の方針を厳守し、マンネリ感やぬるま湯的な体質は改められ、実戦的な戦術教育に一変された。後に加藤が第8方面軍の参謀長として、最前線のラバウルに赴任することとなった際には、牛島は予想通りに連合軍の物量に押され苦戦を続けている現状を嘆きながらも、加藤に見聞した米軍の戦法を具体的に知らせるよう頼んでいる。加藤は参謀長としての軍務の合間を見て牛島に米軍の情報を知らせ続けたが、牛島は情報を受け取る都度に、丁寧なお礼の言葉と追加の質問事項を送っている[41]

沖縄の戦い
沖縄戦」も参照

住民の疎開
戦況が日々悪化する中、牛島は妻女に「私だけがのうのうと教壇に立っていては相すまぬ。戦死覚悟で御奉公したい」ともらしていたが、1944年8月、第32軍司令官に親補され、沖縄に赴任することとなった[42]羽田空港から東京を出発する際には、すでに死を覚悟していたが、妻女に「きみがいるから、子供のことも家のことも心配ない、じゃあ行ってくる」とだけ言って飛行機に乗り込んでいる[43]


前任の渡辺正夫 中将がやや神経質な性格で、沖縄県民への講演会などで危機感を煽りすぎて、かえって恐怖心を起こさせたのに対し、第32軍航空担当参謀の神直道少佐によれば後任の牛島は、「常に悠々として迫らず、几帳面、面上微笑の絶えたことなし」といった風格を備えており、沖縄県民に安心感と軍に対する信頼感を大いに増大させている[44]


沖縄県民を島外に疎開させようという計画は渡辺が軍司令官の時から進められ、沖縄に兵士や軍需物資を輸送してきた軍用輸送船の帰路に、老人、学童、幼児、婦女子などを乗せて日本本土や台湾に疎開させようとしていたが、沖縄県民が続々と到着する増援を見て恐怖感が薄れたこともあり、軍や沖縄県の説得にも関わらず、なかなか疎開が進まなかった。そのため、住民疎開を主導していた荒井退造沖縄県警察部長が第32軍に「軍隊が戦いに勝つ勝つと宣伝するので、住民が動かないので困る。なにとぞ駐屯の将兵は、景気のいい言葉を慎み、疎開に協力してもらいたい」と陳情している[45]。その後、軍と沖縄県の尽力もあって、牛島が着任した8月には一旦疎開は軌道に乗ったかに見えたが、8月22日に疎開学童を乗せた「対馬丸」が撃沈され、学童多数を含む約1,400名が海没した。牛島は対馬丸撃沈の報を聞くと瞑目、合掌したが、手が震えていたという[46]。それでも、連合軍上陸直前の1945年3月までに、沖縄本島より延べ187隻で約80,000名[47]八重山列島より約30,000名の住民を疎開させている。特に大東諸島は殆ど全島民を疎開させている[48]


12月になって軍中央より『皇土警備要領』が示達された。これは台湾と南西諸島を最前線と位置付けて、戦地となる地域の住民を戦力化し、食糧を1年間分確保の上で、戦力化できない老若婦女子をあらかじめ退避させるというものであったが[49]、第32軍の高級参謀八原博通大佐はより具体化した「南西諸島警備要領」を作成し、牛島はこれを裁可した[50]

1. およそ戦闘能力、もしくは作業力のある者はあげて戦闘準備及び戦闘に参加する。


2. 60歳以上の老人、国民学校以下の児童、ならびにこれを世話するに必要な女子は、昭和20年3月までに、戦闘の予期せざる島の北半部に疎開させる。


3. 各部隊は所属自動車、その他の車輌、並びに所属舟艇を以て極力右疎開を援助する。


4. 爾余の住民中、直接戦闘に参加せざる者は、依然戦闘準備作業、農耕その他生業に従事し、戦闘開始直前急速に島の北半部に疎開させる。


5. 県知事は島の北半部に、疎開民のための食糧や居住施設を準備する。


八原はこの要領を作成するにあたって「サイパンの二の舞は厳に慎むべき、アメリカは文明国でよもや非戦闘民を虐殺することはないはず。主戦場となる島の南部に非戦闘民をとどめておけば、剣電弾雨のなかを彷徨する惨状になる」と牛島に進言したが、牛島も『一億総玉砕』が呼号されている時勢であったのにも関わらず、八原の意見に大いに賛同している[51][48]。 しかし、この結果、17歳~45歳までの青壮男子が根こそぎ防衛召集され戦力化されるとともに、およそ戦闘能力、もしくは作業力のある者として中学生や沖縄師範学校の生徒、高等女学校生徒らも通信兵や看護婦として軍に徴集されたが、これが後の『鉄血勤皇隊』や『ひめゆり学徒隊』の悲劇を生むことになってしまった[52]


第32軍参謀長の長勇少将は1945年1月31日に着任した島田叡新沖縄県知事に、「南西諸島警備要領」に沿って、半年分の沖縄県民の食糧を確保するよう指示した。着任早々にも関わらず島田は非常な熱意で食糧確保に奔走し[53]、2月には危険を冒して台湾に飛んで、台湾米を10万袋確保することに成功した。しかし、その後台湾と沖縄間の海上輸送がアメリカ軍潜水艦により断絶し、せっかく確保した台湾米も一部しか沖縄に届かなかった[54]


食糧の備蓄も少なく、また「やんばる」と呼ばれるマラリア発症地の沖縄北部山岳地帯にすすんで避難しようという住民は少なく、沖縄県の必死の呼びかけや、軍用車両を提供するなどの軍の努力にも関わらず、疎開は遅々として進まなかった。沖縄県は家畜の餌として豊富にあった甘藷を人用の食糧として転用するなどの策を講じ、戦闘開始前までに85,000名を沖縄北部に疎開させたが、これは予定の1/3に過ぎなかった[55]


老若婦女子以外の県民は、陣地構築などの軍の作業に従事したが、牛島自らも県民と共に、首里司令部洞窟壕作りを手伝った。牛島は暇があるたびに作業現場を視察し、中学生や住民にまじって壕掘りの手伝いをした。県民の献身に感動した牛島は軍経理部に出来うる限りの給与を与えるよう指示している[56]

詳しいことは、「牛島 満ウィキペディア」をご覧ください。 ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%89%9B%E5%B3%B6%E6%BA%80
(wikiより)

1768 牛島満

牛島 満

1768a

1768b



大久保 春野(おおくぼ はるの、弘化3年8月18日[1][2]1846年10月8日) - 1915年(大正4年)1月26日[1])は、日本の陸軍軍人華族朝鮮駐剳軍司令官第3師団長第6師団長等を歴任する。階級は陸軍大将従二位勲一等功二級男爵

経歴
大久保氏は古代孝昭天皇の子孫で、和邇部臣の流れにある。古くは西尾氏を称していた。相州小田原藩主大久保氏は同族。大久保家は代々式内社である県社淡海国玉神社静岡県磐田市)祠官家で、父の大久保忠尚もやはり宮司であった。春野は忠尚の長男として生まれ、遠州報国隊として父と共に戊辰戦争に従軍する[1]


維新後、明治3年(1870年)5月、大阪兵学校内幼年校生徒となる[1]。同10月からフランスに留学し、1875年(明治8年)7月帰国[1]陸軍省七等出仕に命ぜられる[1]1877年(明治10年)4月、陸軍歩兵少佐に任官され[3]陸軍省第2局第5課長、1879年(明治12年)1月、第2局第1課長に移り、同10月呼称変更となり人員局歩兵課長となる[1]1880年(明治13年)5月に熊本鎮台歩兵第14連隊大隊長となり、1882年(明治15年)12月、参謀本部管西局員に移る[1]1885年(明治18年)、中佐に進み7月24日から参謀本部編纂課長兼第2局第3課長に就任する[1][3]1886年(明治19年)3月19日、歩兵第12連隊長に移り、1889年(明治22年)、歩兵大佐に進級する[1][3]1890年(明治23年)6月13日、茨木惟昭の後を受け陸軍戸山学校長に就き、1891年(明治24年)6月15日、陸軍士官学校長に移る[1][3]


翌年11月24日、第2師団参謀長に就任し、1894年(明治27年)には陸軍少将に任命され歩兵第7旅団長を補され、日清戦争に出征する[1][3]。日清戦争では海城方面守備隊司令官、鳳凰城方面守備隊司令官を務め、続く台湾出兵に参加し1897年(明治30年)12月、近衛歩兵第1旅団長に就任する[1][2][3]


1900年(明治33年)4月に陸軍中将に進級し教育総監部参謀長(後の教育総監部本部長)を経て1902年(明治35年)5月5日、第6師団長に親補され、第2軍隷下として日露戦争に従軍する[1][2][3]沙河会戦を経て第4軍隷下に移り奉天会戦に参加する[2]。戦後、功により1906年(明治39年)4月1日、勲一等旭日大綬章及び功二級金鵄勲章を受章、同7月6日、第3師団長に移り[2]1907年(明治40年)9月21日、男爵を授けられ華族に列せられる[1][3]

1
908年
(明治41年)8月7日、陸軍大将に進み同12月から韓国駐剳軍司令官に就任する[1][2][3]1910年(明治43年)10月、先の韓国併合に伴い呼称変更され朝鮮駐剳軍司令官[1][2][3]1911年(明治44年)8月18日、後備役[1][2][3][4]。1915年(大正4年)1月26日薨去。特旨により従二位に叙される。

栄典
位階
1885年(明治18年)7月25日 - 正六位[5]

1895年(明治28年)1月21日 - 正五位[6]

1900年(明治33年)3月10日 - 従四位[7]

1902年(明治35年)8月20日 - 正四位[8]

1905年(明治38年)8月26日 - 従三位[9]

1908年(明治41年)9月30日 - 正三位[10]

1915年(大正4年)1月26日 - 従二位[11]

勲章等
1887年(明治20年)5月27日 - 勲四等旭日小綬章[12]

1895年(明治28年)

  ・5月23日 - 勲三等瑞宝章[13]

  ・12月4日 - 旭日中綬章[14]

1905年(明治38年)11月30日 - 勲一等瑞宝章[15]

1906年(明治39年)4月1日 - 功二級金鵄勲章旭日大綬章明治三十七八年従軍記章[16]

1907年(明治40年)9月21日 - 男爵 [17]

1912年(大正元年)8月1日 - 韓国併合記念章[18]

1915年(大正4年)

  ・1月26日 - 旭日桐花大綬章[19]

  ・4月20日 - 御紋付銀杯[20]

外国勲章等佩用允許
1910年(明治43年)

  ・4月26日 - 大韓帝国:韓国皇帝陛下南西巡幸記念章[21]

  ・8月28日 - 大韓帝国:瑞星大勲章[22]

伝記
・中村修二『大久保春野』奉公会、1920年。

親族
・養子:大久保光野川村鉄太郎三男)

・娘婿:金井延東京帝国大学教授・初代経済学部長)[1]一戸寛(陸軍少佐・黒羽藩主大関増徳六男・陸軍大将一戸兵衛嫡養子)[1]、川村鉄太郎(伯爵・貴族院議員)、和田三造(洋画家・版画家)

脚注
1. a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t 『日本陸海軍総合事典』第2版、34頁。
2. a b c d e f g h 『日本陸軍将官辞典』143-144頁。
3. a b c d e f g h i j k 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』23頁。
4. 『官報』第8449号、明治44年8月19日。
5. 『官報』第672号「叙任」1885年9月25日。
6. 官報』第3467号「叙任及辞令」1895年1月22日。
7. 『官報』第5005号「叙任及辞令」1900年3月12日。
8. 『官報』第5740号「叙任及辞令」1902年8月21日。
9. 『官報』第6650号「叙任及辞令」1905年8月29日。
10. 『官報』第7581号「叙任及辞令」1908年10月1日。
11. 『官報』第745号「叙任及辞令」1915年1月28日。
12. 
『官報』第1173号「叙任及辞令」1887年5月30日。
13. 『官報』第3578号「叙任及辞令」1895年6月5日。
14. 『官報』第3732号「叙任及辞令」1895年12月5日。
15. 『官報』第6727号「叙任及辞令」1905年12月1日。
16. 『官報』号外「叙任及辞令」1906年12月30日。
17. 『官報』第7272号「授爵敍任及辞令」1907年9月23日。
18. 『官報』第205号・付録「辞令」1913年4月9日。
19. 官報』第745号「叙任及辞令」1915年1月28日。
20. 『官報』第813号「宮廷録事 - 恩賜並追賜」1915年4月21日。
21. 『官報』第8068号「叙任及辞令」1910年5月17日。
22. 『官報』第8331号「叙任及辞令」1911年4月4日。

参考文献
秦郁彦編『日本陸海軍総合事典』第2版、東京大学出版会、2005年。

・福川秀樹『日本陸軍将官辞典』芙蓉書房出版、2001年。

・外山操編『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』芙蓉書房出版、1981年。
(wikiより)

1767 大久保春野

大久保春野

1767a

1767b



河合 栄治郎(かわい えいじろう、1891年2月13日 - 1944年2月15日)は、日本の社会思想家、経済学者第二次世界大戦前夜における、著名な自由主義知識人の一人。

経歴
教職に就くまで
東京府南足立郡千住町(現在の東京都足立区千住2丁目)の酒屋を営んでいた家に生まれる。戸籍には誤りで「栄次郎」と記載されるが、本人は「栄治郎」で通した[1]尾崎行雄を崇拝していた父親の影響で、少年時代から社会的関心が強く、特に徳富蘇峰平民主義に惹かれていた。


東京府立第三中学校(現・東京都立両国高等学校)、第一高等学校をへて、1915年東京帝国大学法科大学政治学科卒業[2]銀時計受領。在学中に農商務省が刊行した『職工事情』を読み、「労働問題は人間の問題である」と感奮し、労働問題に生涯を捧げる決意をもって農商務省に入省する。1918年、工場法の研究のため米国に出張し、ジョンズ・ホプキンス大学に滞在、米国労働総同盟(AFL-CIO)会長のサミュエル・ゴンパーズら労働運動の指導者と会見する。帰国後第1回ILO(国際労働機関)会議に対する日本政府方針草案の起草に尽力したが、その改革案は容れられず辞職した。この間の経緯を『朝日新聞』紙上に1919年11月17日から12月2日まで「官を辞するに際して」として連載し、自己の所信を論じて世上の話題となった。

学問研究
1920年に東京帝大助教授となり[3]経済学史を担当する。1922年よりイギリスに留学し、イギリス理想主義、とりわけトーマス・ヒル・グリーンの社会哲学に強い感銘を受ける。1925年8月に帰国し[4]、翌1926年に教授となり[5]社会政策講座を受け持った。河合の学問の対象はアダム・スミスベンサムJ・S・ミル、グリーン、を経てフェビアン協会イギリス労働党に至るイギリスの社会思想史であり、それに基づいて社会政策学を構築した。その成果は『社会思想史研究』(1923年)、『トーマス・ヒル・グリーンの思想体系』(1930年)、マルクス経済学も取り入れた[6]『社会政策原理』(1931年)であった。


また、河合門下三羽烏と呼ばれる大河内一男安井琢磨木村健康らを育てた[7]。河合は、以前より存在した東大経済学部の勢力争いの中、多数派の領袖格として行動し、少数派のマルクス主義派と対峙していた。1936年3月31日から1年間、経済学部長。妻、国子は初代経済学部長であった金井延の娘である。

河合栄治郎事件
詳細は「河合栄治郎事件」を参照


その後、ファシズムが勢力を伸ばしてくると、河合はファシズム批判の論陣を張った。それがために、右派陣営からの攻勢は強まり、かつて河合についていた教授も国家主義派(革新派)土方成美の派閥に鞍替えするなど、学部では勢力を失いつつあった。1938年に『ファッシズム批判』など4点の著作が内務省により発売禁止処分[8]に付され、翌年これらの著作などにおける言論が「安寧秩序を紊乱するもの」として、出版法違反に問われ起訴された。また学内においても、河合の対立勢力であった土方らとの対立が激しくなり、1939年総長平賀譲の裁定により、1月31日、河合は休職を発令されるに至った(平賀粛学)。この過程で、「粛学抗議の辞表を撤回するべからず」との師の言に逆らって経済学部に残留した大河内・安井は事実上の破門となった。退官後は裁判闘争に明け暮れることとなったが、1943年大審院の上告棄却により、有罪が確定した。以上が河合栄治郎事件と呼ばれる。


晩年
晩年は1940年(昭和15年)に『学生に与う』を箱根の旅館で執筆するなど、学生叢書の刊行を継続しながら学生・青年に理想主義を説き続けた。また、河合と共に辞職した山田文雄木村健康、門下の猪木正道、関嘉彦土屋清らと定期的に勉強会を開き、研究を継続していた。1944年バセドウ病による心臓麻痺のため逝去した[1]。2日前に53歳の誕生日を迎えたばかりであった。

思想
教養主義
河合は、日本人には珍しい、自己の哲学を持つ思想家であった[9]。その思想は哲学分野では理想主義人格主義教養主義であった。河合は教養主義者として、学外では『学生叢書』『教養文献解説』を編集発行し、『学生に与う』を著し、学内では社会科学古典研究会を主催して、人格陶冶と教養の意義を説いた(昭和教養主義)[10]

自由主義
河合は社会思想を、現実社会に対する保守、改良、変革などの態度とし、そのために現実社会の科学的分析と、どのような社会が望ましいのかの社会哲学とが必要であるとした(社会思想モデルを提示)[11]


河合は自らの自由主義を「第三期自由主義」と称していた。河合によると、それは資本主義を無条件で肯定する第一期自由主義とも、資本主義の弊害を認め適宜是正していく改良主義=第二期自由主義とも異なり、個々人の人格の成長に最高の価値を置く理想主義を根底とし、社会の成員全ての人格の成長が実現される社会を理想とするものであり、共産主義社会主義とは鋭く対立する、というものであった。また、多元的国家論も主張した。

マルクス主義批判
河合は早くから、理想主義(イデアリスム)、人格主義、自由主義の立場から、マルクス主義の否を打ち鳴らし、コミンテルンの批判、マルクス主義理論の批判を行った[12]

ファシズム批判
さらに時代状況が軍国主義の色合いを濃くする中、次第にファシズム批判の立場を強めていった。1936年二・二六事件が起こると、河合は『帝大新聞』に軍部批判論文「二・二六事件の批判」を寄稿し、軍部批判・抵抗の姿勢を明確にした[13]。ファシズム最盛期において、面と向かってファシズム批判論を展開したことは画期的なことである。満州事変以降、日中戦争太平洋戦争直前まで時局評論も行った[14]

影響と意義
戦後十数年間は別として、その後は河合の名前はほとんど忘れられたに等しい。例外として、河合の後継者たちが社会思想研究会、社会思想社、民社社会主義研究会を創始し、河合の精神を受け継ごうとした。関嘉彦はその後民社党参議院議員となり、猪木正道、土屋清も民社党のブレーンになっている。渡部昇一は河合を尊敬し、朝日新聞批判を行ったときに河合を追想していた。また、1972年三國一朗司会の東京12チャンネル(現在のテレビ東京)の番組『私の昭和史』に木村健康が出演し、河合のことを語った[要出典]


理想主義人格主義教養主義は、価値観の多様化、科学主義の隆盛、マルクス主義の拡大などによって戦後廃れた。しかしながら、河合がなした社会思想モデルの創出、マルクス主義批判ファシズム批判は史上長く記憶され得る功績とされる[誰によって?]


著書
単著
・労働問題研究(岩波書店, 1922年)

・社会思想史研究(岩波書店, 1923年)

・在欧通信(改造社, 1926年)

・英国労働党のイデオロギー(千倉書房, 1929年)

・トーマス・ヒル・グリーンの思想体系(1,2巻)(日本評論社, 1930年/改装版, 1938年)

・社会政策原理(日本評論社, 1931年)

・大学生活の反省(日本評論社, 1931年)

・書斎の窓から(日本評論社, 1932年)

・学生思想問題(岩波書店, 1932年)

・マルキシズムとは何か(タイムス出版社, 1932年)

・欧州最近の動向(日本評論社, 1934年)

・ファッシズム批判(日本評論社, 1934年)

・第一学生生活(日本評論社, 1935年)

・社会思想家評伝(日本評論社, 1936年)

・時局と自由主義(日本評論社, 1937年)

・第二学生生活(日本評論社, 1937年)

・英国社会主義史研究(日本評論社, 1938年)

・金井延の生涯と学績(日本評論社, 1939年)

学生に与う(日本評論社, 1940年/オンデマンド版「学生に与う」文元社, 2004年)

・国民に愬う(日本評論社, 出版差止, 全集収録, 1941年)

・明治思想史の一断面(日本評論社, 1941年)

・自由主義の擁護(白日書院, 1946年)

・社会思想と理想主義(実業之日本社, 1947年)

・教壇生活二十年(鬼怒書房, 1948年)

・学問と政治(社会思想研究会出版部, 1948年)

・自由主義の歴史と理論(社会思想研究会出版部, 1948年)

・唯一筋の路(日本評論社, 1948年)

・学窓記(社会思想研究会出版部, 1948年)

・自由に死す――河合栄治郎法廷闘争記(中央公論社, 1950年)

・私の社会主義(社会思想研究会出版部, 1950年)[15]

共編著
・学生叢書(河合単独編集、全12巻、日本評論社, 1936~1941年)

 1. 学生と教養

 2. 学生と生活

 3. 学生と先哲

 4. 学生と社会

 5. 学生と読書

 6. 学生と学園

 7. 学生と科学

 8. 学生と歴史

 9. 学生と日本

 10. 学生と芸術

 11. 学生と西洋

 12. 学生と哲学


・教養文献解説(木村健康との共著、日本評論社, 1941年)

詳しいことは、「河合栄治郎ウィキペディア」をご覧ください。 ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B2%B3%E5%90%88%E6%A0%84%E6%B2%BB%E9%83%8E
(wikiより)

1766a

1766b



萩駅(はぎえき)は、山口県萩市大字椿字濁渕にある、西日本旅客鉄道(JR西日本)山陰本線である。

概要
「萩駅」を名乗っているが、萩市役所へは隣の東萩駅のほうが近く、またかつてこの区間に運行されていた特急・急行列車も東萩駅に停車し、ごく一部の急行を除いて当駅は通過していた。JTB時刻表でも萩市の中心駅は当駅ではなく東萩駅としている。

2017年6月17日に運行を開始したTWILIGHT EXPRESS 瑞風(山陰コース(下り)1泊2日)において、当駅からでもコースルートとして乗車可能となっている[2]

歴史
1925年大正14年)
 ・4月3日 - 国有鉄道美禰線(当時)が長門三隅駅から延伸し、その終着駅として開業[1]。客貨取扱を開始[1]
 ・11月1日 - 美禰線が東萩駅まで延伸し、途中駅となる。
1933年昭和8年)2月24日 - 当駅を含む美禰線の一部区間が山陰本線に編入され、山陰本線所属駅となる。
1977年(昭和52年)3月31日 - 貨物取扱を廃止[1]
1985年(昭和60年)3月14日 - 荷物扱い廃止[1]駅員無配置駅となる[3]
1987年(昭和62年)4月1日 - 国鉄分割民営化により、西日本旅客鉄道(JR西日本)の駅となる[1]
1996年平成8年)12月20日 - 駅舎が登録有形文化財に登録される[4]
2013年(平成25年)7月28日 - 豪雨災害により線路が被災し、一時当駅を含む益田駅 - 長門市駅間が運休(※当駅を含む奈古駅 - 長門市駅間については8月4日に運行再開)。
2016年(平成28年)10月14日 - 駅前に井上勝の銅像が建立され、除幕式が行われる[5][6]

駅構造
相対式ホーム2面2線の構造を持ち、交換設備を備えた地上駅

駅舎は上りホーム側にあり、下りホームへは益田寄りの跨線橋で連絡している。長門鉄道部管理[7]無人駅となっており、自動券売機等の設備はない。

現在駅舎半分西側は萩市自然と歴史の展示館(資料館)となっている。

のりば
ホーム路線方向行先
駅舎側山陰本線上り東萩・益田方面
反対側下り長門市下関方面

・※案内上ののりば番号は設定されていない。

駅の様子
駅舎構内は2分割されている。東萩駅寄りの部分が現在の駅であり、自動販売機、待合用の椅子と時刻表が設置されているだけである。かつてはキヨスクも存在した。

一方、区切られた部分から西側は、「萩市自然と歴史の展示館」となっており、萩の自然や歴史を紹介する展示と、萩市出身で日本の「鉄道の父」と称される井上勝に関する資料なども展示してある。 また国鉄時代に使用されたものが置いてあり、さながら鉄道博物館のようになっている。

12月下旬から1月上旬はイルミネーションが飾られている。

利用状況

1日の平均乗車人員は以下の通りである[8]

乗車人員推移
年度1日平均人数
199999
2000不明
200197
200295
200389
200486
200581
200664
200759
200859
200964
201062
201147
201240
201344
201443
201566
201661
201789
201850
201950
202037


駅周辺
萩市の中心市街地より南側に位置する。国道262号がすぐ近くを走る。同道の橋本橋を渡ると、市の中心部のある阿武川の三角州にはいる。

大照院萩藩毛利家墓所)
・涙松跡
・萩市立萩市民体育館
・萩市立椿西小学校
・萩市民病院
金谷天満宮
・国道262号
山口県道64号萩三隅線
山口県道293号萩長門峡線

バス路線
中国ジェイアールバス防長線
 ・佐々並・山口駅、湯田温泉方面
 ・東萩駅 萩・明倫学舎経由
防長交通(JRバスと違いバス停が駅舎から若干離れている)
 ・大田中央・湯の口経由新山口駅
 ・東萩駅
萩循環まぁーるバス

隣の駅
西日本旅客鉄道
山陰本線
東萩駅 - 萩駅 - 玉江駅

脚注
1. 
a b c d e f 石野哲(編) 『停車場変遷大事典 国鉄・JR編 Ⅱ』JTB、1998年、315頁。ISBN 978-4-533-02980-6。2. “TWILIGHT EXPRESS 瑞風 お客様をお迎えする立ち寄り駅の改修などについて〜広島・山口エリア〜” (日本語) (プレスリリース), 西日本旅客鉄道, (2016年7月8日), オリジナルの2016年7月8日時点におけるアーカイブ。 2016年7月9日閲覧。
3. 
「通報 ●福知山線石生駅ほか147駅の駅員無配置について(旅客局)」『鉄道公報号外』日本国有鉄道総裁室文書課、1985年3月12日、15-16面。
4. 
萩駅舎1996年〈平成8年〉12月20日指定、登録有形文化財)、国指定文化財等データベース文化庁) 2022年1月25日閲覧。
5. 
“「鉄道の父」井上勝の像 萩駅前で除幕式”. 読売新聞. (2016年10月15日). オリジナルの2016年10月18日時点におけるアーカイブ。 2016年10月15日閲覧。
6. 
“井上勝の銅像 JR萩駅前に建立”. 交通新聞 (交通新聞社). (2016年11月15日)
7. 
データで見るJR西日本2021 - 西日本旅客鉄道 p.94
8. 
山口県統計年鑑 - 山口県

関連項目
日本の鉄道駅一覧
鉄道と政治

外部リンク
萩駅|駅情報:JRおでかけネット - 西日本旅客鉄道
萩市観光協会「萩市自然と歴史の展示館」
(wikiより)

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御木本 幸吉(みきもと こうきち、安政5年1月25日1858年3月10日) - 昭和29年(1954年9月21日)は、日本の実業家。真珠の養殖とそのブランド化などで富を成した人物である。御木本真珠店(現・ミキモト)創業者。ミキモト・パール真珠王とも呼ばれた。

生涯
誕生
志摩国
答志郡鳥羽城下の大里町(現在の三重県鳥羽市鳥羽一丁目)で代々うどんの製造・販売を営む「阿波幸」の長男として生まれた。父は音吉、母はもと。幼名は吉松と名付けられた。父は商売よりも機械類の発明・改良に関心があり、1881年(明治14年)には粉挽き臼の改良により三重県勧業課の表彰を受け賞金100円を授与されている。祖父・吉蔵は「うしろに目があるような人」と言われたように、先が見え商才に恵まれていた。大伝馬船を10艘も持ち石材の運送で儲ける一方、家業のうどん屋のほか薪、炭、青物などの販売を手広く営み財をなしたと伝えられる。幸吉は晩年、「三つ子の魂は祖父に育てられた」と述懐している。正規の教育は受けていないが、明治維新によって失業した士族の栗原勇蔵、岩佐孝四郎らに読み書きソロバン、読書などを習った。

商才と向上心と社交性
早くから1杯8厘のうどんでは身代を築くのは無理と分かっていたようで、14歳で家業の傍ら青物の行商を始める。大きな目標を掲げる事で自分自身に課題を与え自らを鼓舞するところがあり、時として大法螺吹きといわれた。足芸(仰向けに寝て足の平で蛇の目傘を回す芸)の披露で、イギリスの軍艦・シルバー号へ青果や卵を売り込むのに成功した。また、マスコミを利用する点では今で言うやらせにあたるようなことも考え出し、実行するような勇み足もあったともいわれている。

真珠に到る助走路
1876年(明治9年)の地租改正で、納税が米納から金納に変わったのを機会にが商売の種になるとみて青物商から米穀商に転換。1878年(明治11年)には20歳で家督を相続、御木本幸吉と改名する。同年3月東京、横浜への旅により天然真珠など志摩の特産物が中国人向けの有力な貿易商品になりうることを確信、海産物商人へと再転身した。海産物商人としての幸吉は自らアワビ天然真珠ナマコ伊勢海老牡蠣天草サザエハマグリ泡盛など種々雑多な商品を扱う一方、志摩物産品評会、志摩国海産物改良組合の結成などに参加、地元の産業振興に尽力した。その後、志摩国海産物改良組合長、三重県勧業諮問委員、三重県商法会議員、などを務め地元の名士になっていた。

時代の転換期に
幸吉の飛躍の始まりは明治維新という時代背景がきっかけである。職業選択の自由、身分を越えた結婚が可能になり富国強兵のスローガンの下で海国日本の殖産興業政策により1882年(明治15年)、大日本水産会が創設された。1881年(明治14年)、結婚。妻・うめは当時17歳。鳥羽藩士族・久米盛蔵の娘で新しい学制の小学校とその高等科をでた才女であり、維新以前ではこの結婚は考えられなかった。1883年(明治16年)、父・音吉が54歳で死去。

アコヤ貝の養殖
世界の装飾品市場では、天然の真珠が高値で取引されており海女が一粒の真珠を採ってくると高額の収入を得られる事から、志摩ばかりでなく全国のアコヤ貝は乱獲により絶滅の危機に瀕していた。この事態を憂慮して1888年(明治21年)6月、第2回全国水産品評会の為上京した折、主催者である大日本水産会の柳楢悦を訪ね指導を仰いだ。幸吉は同年9月11日に貝の養殖を開始したが、真珠を生まない限り商品としての価値が低く経費倒れに終わった。この為発想を転換し「真珠の養殖」を最終目的に変え、その過程でアコヤ貝の生態を調べながら貝の養殖をすることで当初の目的が採算的にも果たされる事を計画。この目的の為に柳の紹介で東京帝国大学箕作佳吉と当時大学院生だった岸上謙吉1890年(明治23年)に訪ね、学理的には養殖が可能なことを教えられた。

外国での養殖例
中国で実際行われた方法は乾道3年(1167年)に公刊された『文昌雑録』巻第一にその記述がある。仏像真珠(胡州珍珠)と称されて、浙江省で養殖され続けてきたものである。人工で作った珠を貝の中に入れるという方法で、貝付き真珠、一種の半円真珠である。この仏像真珠に関しては清に滞在したキリスト教の神父B.E.X.アントレコールが1734年にフランス本国に報告している。また、イギリスのD.T.マッゴーワンは1853年にこの方法を詳しくロンドンの芸術協会に報告している。これらの報告によりヨーロッパでは多数の人々が研究実験を行った。


日本では、1881年(明治14年)11月発行の海産論に中国の仏像真珠が図示されていることでもわかるように、ヨーロッパ経由での中国の方法が公知されており、課題は真珠養殖の産業化であった。産業化という国家の要請を背景に、幸吉の情熱と周囲の協力体制での取り組みが結果的に勝っていた事になる。

養殖実験開始
1890年(明治23年)、神明浦と相島(おじま、現在のミキモト真珠島)の2箇所で実験を開始した。この時小川多門猪野三平等が協力した。問題は山積しておりアコヤ貝についての問題、どんな異物を貝に入れるか、貝は異物を吐き出さないか、貝は異物を何処に入れるか、その結果死なないか、貝そのものの最適な生育環境、赤潮による貝の絶滅への対応策等々である。その他の問題としては、海面及び水面下を利用する為の地元漁業者や漁業組合との交渉や役所との折衝には大変な苦労が伝えられている。


1891年
(明治24年)、農商務省技手・山本由方による広島県厳島での真珠養殖実験を直接見聞。この時のアコヤ貝は英虞湾から幸吉らが移送に協力した。


1892年(明治25年)7月、東京帝大の佐々木忠次から貝の生存環境・養成上多くの示唆を得た。

縁者の協力
1893年(明治26年)7月11日、実験中のアコヤ貝の中に半円真珠が付着している貝を発見した。


1896年(明治29年)1月27日、半円真珠の特許(第2670号)取得で世の中に認知された第一歩となった。同年4月21日、妻・うめが32歳で死去。開拓者として当然の事ながら周囲は途方も無い事と感じ直接的に幸吉の作業を手伝う者は身近な親族だけであったが、特許取得をきっかけにまず親族が積極的に関わった。妻の兄であった久米楠太郎、幸吉の次弟・御木本松助夫妻、三弟・森井常蔵夫妻、須藤卯吉1897年(明治30年)秋には幸吉の五弟・斎藤信吉、1899年(明治32年)には竹内久吉猪野若造猪野三平の子息)、藤田嘉助大谷幸助らが従業員として田徳島(現・多徳島)に移住、「海のものとも山のものともわからぬ事業に一身をかける人間は身内以外にはいなかった」と幸吉の四女・乙竹あいが後に語っている。対して、大林日出雄『御木本幸吉』には「『ヒモのつく恐れのある出資は彼の事業独占を制約することがある』と考えたのではないか」と書かれていて、幸吉が大口出資を断った事実があることを記している。


その他研究には元歯科医だった桑原乙吉、次女みねの夫・西川藤吉が加わる。西川は東京帝大動物学科卒、農商務省に在籍し、箕作の下で真円真珠の科学的研究を行っていたが、1905年(明治38年)の赤潮の調査をきっかけに御木本の元で研究をはじめた。しかし1909年(明治42年)6月、35歳で死去。同時代の研究者に見瀬辰平西川藤吉の研究を引き継いだ藤田輔世藤田昌世らがいる。


出店の歩み
1899年(明治32年)、東京府東京市京橋区弥左衛門町に御木本真珠店(本店)を開設。

1902年(明治35年)、御木本真珠店を京橋区元数寄屋町に移転。

1906年(明治39年)、御木本真珠店を京橋区銀座四丁目に移転。

1907年(明治40年)、市川源次郎専属下請工場を買収し、京橋区築地に御木本金細工工場を開設。

1908年(明治41年)、御木本金細工工場を東京市麹町区内幸町に移転。

1913年(大正2年)、ロンドン支店を開設。大阪府大阪市東区淡路町に大阪支店を開設。

1916年(大正5年)、中国視察にでかけ、上海支店を開設。

1919年(大正8年)、東京市芝区三田豊岡町に貴金属第二工場を開設。

1921年(大正10年)、本店横に御木本装身具店を開設。

1923年(大正12年)、貴金属工場を統合して真珠店工場とする。

1927年(昭和2年)、ニューヨーク支店を開設。

1928年(昭和3年)、パリ支店を開設。

1929年(昭和4年)、ボンベイ支店を開設。

1931年(昭和6年)、ロサンゼルス支店を開設。大阪支店を閉鎖し、兵庫県神戸市神戸区仲町に神戸支店を開設。

1933年(昭和8年)、シカゴ支店を開設。

1937年(昭和12年)、ロサンゼルス支店を閉鎖し、サンフランシスコ支店を開設。

1942年(昭和17年)、内幸町工場を東京市目黒区上目黒に移転。

特許取得
1896年(明治29年)、特許第2670号真珠素質被着法の特許権を取得した。半円真珠の特許といわれているものである。


「真珠と甚だしく等差のない物質、例えば貝殻、硝子、陶磁器または下等の真珠を球形の小粒と成したるものを核となし、これを球のまま、または一部切り落としを設けてその転動することを防ぐようにし食塩にて振揺するか又は濃厚な食塩水に浸したあと、生活せる貝の外套膜に接して挿入し、この核に真珠質を被着せしめ真珠を形成せしむるにあり」(特許第2670号 明治29年1月27日 明治27年11月出願)


この特許取得によって真珠事業の独占が可能となり、御木本は他の事業を整理し、真珠事業に専念することとなった。この後、これにならって真珠養殖を行う者が現れ、幸吉は北村幸一郎他2名を特許侵害で訴えたが大審院で無罪判決が下った。裁判の過程でこの特許の大部分は幸吉が出願した以前から公刊物により周知の事実であったとされた。この無罪判決によって、御木本幸吉の独占の時代が終わり、真珠養殖が大きく広まったとされる。紛争は続いたが特許の存続期間が終了して問題はなくなった。


1916年
(大正5年)、特許第3002号真珠素質被着法の特許権を取得。


「本発明は適宜の核を貝の真珠素質分泌細胞組織の皮膜に被包し之を生活せる真珠貝の外套膜の表皮を剖き其部分に密接して圧着し適当時間之を放置したる後海中に放養するときは植皮的に付着発育せしめて容易に真珠袋を形成せしめ核を排出することなく完全なる球形真珠を作り得るにあり。(下略)」(特許第3002号 大正5年9月11日、大正5年5月3日出願)


なお真円真珠についての特許は幸吉の次女の婿である西川藤吉が出願し、相続人である西川真吉が取得したものがある。また桑原乙吉の発明が御木本幸吉名義で出願登録されたものも多い。


御木本幸吉が取得した主要な特許をたどると、


1. 半円真珠から真円真珠に到る特許

2. 特に半円真珠に関わる加工上の特許(容飾真珠)

3. アコヤ貝養殖方法に関する特許(養殖籠・海底いけ籠)

4. 1924年(大正13年)、母貝が子貝を生み育てる為の《仔蟲(しちゅう)被着器》の特許(この発明によって、アコヤ貝の全滅を救う当初の目的が達成されるようになった)

がある。

人々の協力
1896年(明治29年)4月の妻・うめの死は痛手であったが、天性の社交性と熱意により多数の人々が幸吉を応援している。養殖に関して一目置いていたのは、7歳年下の小川小太郎1865年 - 1889年)であった。小川は早くから真珠の養殖に関心を持ち実験もしていたが、24歳で没した。


志摩国答志郡の郡長であった河原田俊蔵は勧業に熱心だった事から勧業郡長とあだなされ、柳に紹介状を書いてくれた。


四日市万古焼商人だった親友の川村又助はアコヤ貝の中に入れる核の製造に関し協力を惜しまなかった。藤田四郎1861年 - 1934年)は同郷で藩校・尚志館の句讀師(漢学者)龍蔵の四男、東京帝大卒、農商務省特許局長で(のち事務次官、日本火災社長、台湾精糖社長)、宮内省御用達となる際の保証人になった。


他にも愛知県出身の農商務省局長・織田一1865年 - 1914年)、埼玉県深谷出身の財界の重鎮・渋沢栄一は幸吉の渡米にあたって発明王・エジソンらに紹介状を書いた。エジソンとの会見では、真珠養殖を驚嘆すべき発明と讃えられたことに対し幸吉はエジソンを巨星に例え、自分は数ある発明家の星の一つに過ぎないと返答したと伝えられている。土佐出身の森村市左衛門1875年(明治8年)、森村組を創設し日米貿易協会長、日本銀行監事などを務め、当時対米貿易の第一人者といわれていた。その組織を通じて輸出市場の調査や販売の拠点作りに協力した人など多くが助力した。

詳しいことは、「御木本幸吉ウィキペディア」をご覧ください。 ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%A1%E6%9C%A8%E6%9C%AC%E5%B9%B8%E5%90%89
(wikiより)


1763 御木本幸吉

御木本幸吉

1763a

1763b

1763c



富小路敬直 ( とみのこうじ ‐ ひろなお )
( 1842 ‐ 1892 ) 幕末 - 明治時代の公家、華族。


天保 ( てんぽう ) 13年 5月 12日生まれ。

文久元年和宮 ( かずのみや )( 静寛院宮 ) の降嫁にしたがい江戸へ行く。

公武合体を画策する者として尊攘 ( そんじょう ) 派から弾劾され、2年蟄居 ( ちっきょ ) を命じられ落飾、さらに謹慎処分を受ける。のち許されて明治天皇の侍従を勤めた。

子爵。

明治 25年 10月 28日死去。51歳没。

1764a

1764b



伊原 敏郎(いはら としお)、1870年5月24日明治3年4月24日) - 1941年昭和16年)7月26日)は、日本の演劇評論家、劇作家。青々園(せいせいえん)という筆名を使用したため、伊原青々園としても知られる。

来歴
松江生まれ。第一高等学校中退、1893年二六新報に入社、青々園の名で劇評を書く。坪内逍遥と親しくなる。1896年都新聞に入社した。1900年三木竹二と『歌舞伎』を創刊、さらに『日本演劇史』『近世日本演劇史』『明治演劇史』三部作で1933年朝日文化賞を受賞した。また新聞小説や戯曲『出雲の阿国』を書いた。

著書
絶版
・『欝金しごき』探偵實話 (金槇堂、1901年)

・『自轉車お玉』探偵實話 (金槇堂、1901年)

・『新比翼塚 吉原心中』(金槇堂、1900–01年)

・『市川團十郎』(エックス倶樂部、1902年)

・『強盜士官』探偵實話(金槇堂、1902年)

・『爲朝重太郎』實事小説』(駸々堂、1902年)

・『三升格子』(金槇堂、1902年)

・『日本刀』(駸々堂、1903年)

・『後の爲朝』(駸々堂、1902–03年)

・『日本演劇史』(早稻田大學出版部、1904年)

・『影法師』(春陽堂、1906年)

・『戀の闇』(近藤新榮堂、1906年)

・『唾玉集』後藤宙外共編(春陽堂、1906年、のち平凡社東洋文庫)

・『夫さだめ』(春陽堂、1907年)

・『子煩惱 戀の闇續編』(近藤新鋭堂、1907年)

・『新朝顏日記 春陽堂、1907年)

・『寶息子』(春陽堂、1908年)

・『若狹物語』(春陽堂、1908年)

・『縁の絲 新講話』(畫報社、1909年)

・『出雲の阿國』(同文館、1910年)

・『新桂川』(畫報社、1909–11年)

・『房州義民傳』(岡村書店、1911年)

・『人と人』(新鋭堂、1911–12年)

・『迷ひ子』(樋口隆文館、1911年)

・『大將の家』(春陽堂、1913年)

・『近世日本演劇史』(早稻田大學出版部、1913年)

・『火の玉小僧』(大川屋書店、1915年)

・『市川團十郎の代々』(市川宗家、1917年)

・『後の強盜士官』(大川屋書店、1919年)

・『舞臺之團十郎』 安部豊共編(舞臺之團十郎刊行會、1923年)

・『白魚河岸』(新作社、1924年)

・『現代大衆文學全集』 第25卷、伊原集(平凡社、1929年)

・『歌舞伎通』(四六書院、1930年)

・『明治演劇史』(早稻田大學出版部、1933年)

・『演劇談義 隨筆集』(岡倉書房、1934年)

・『團十郎の芝居』(早稻田大學出版部、1934年)

・『團菊以後 正・續』(相模書房、1937年)

・『伊原集』歌舞伎座劇評集、昭和2年1月〜昭和16年2月(坂上書院、1941年)

・『歌舞伎年表』全8卷(岩波書店、1956–63年)

復刻版
・『日本演劇史』近世文芸研究叢書(クレス出版、1996年)

・『明治演劇史』近世文芸研究叢書(クレス出版、1996年)

・『近世日本演劇史』近世文芸研究叢書(クレス出版、1996年)

・『市川団十郎の代々・市川団十郎』近世文芸研究叢書(クレス出版、1997年)
(wikiより)

1762a

1762b



丸岡 桂(まるおか かつら、1878年10月7日 - 1919年2月12日)は、歌人能楽研究者、能楽書林創業者。

概要
丸岡莞爾の子として東京市麹町に生まれる。落合直文門下の歌人となり、曙会、莫告藻会(なのりそかい)を結成し『あけぼの』『なのりそ』を刊行した。また観世喜之とともに謡本改訂を行い、1907年観世流改訂本刊行会を創業(次男の丸岡大二が後を継ぎ、1936年丸岡出版社と改称、1949年能楽書林と改称)。スペイン風邪で死去。長男は作家の丸岡明、国文学者の松下大三郎は義弟[1]


また、1902年から1903年にかけて松下大三郎とともに製作した「丸岡式人力ヘリコプター」は、飛行には至らなかったが日本初の重航空機ヘリコプターとなった[2]

著書
・『曙集』丸岡桂(月の桂のや) 姫百合社 1901

・『古今謡曲解題』観世流改訂本刊行会 1919

編纂
・『国文大観』全10篇 松下大三郎共編 板倉屋書房 1903-1906

・『観世流改訂謡本』観世清之共訂 観世流改訂本刊行会 1908

・『謡曲全集』新訂 大町桂月共校 至誠堂 学生文庫 1912

・『解説参考謡本』訂 観世流改訂本刊行会 1913

・『観世流改訂謡本』訂 観世流改訂本刊行会 1918-21

・『観世流小謡全集 類題索引』訂 観世流改訂本刊行会 1920

・『観世流改訂謡本 初心者稽古用』訂 観世流改訂本刊行会 1921

・『観世流旅之友』訂 観世流改訂本刊行会 1922

・『観世流改訂謡本百二十番集』全11巻 訂正 観世流改訂本刊行会 1926

・『観世流謡曲全集』訂 観世流改訂本刊行会 1926

・『観世流改訂謡本解説』訂 観世流改訂謡本刊行会 1926

・『観世流独吟全集 附・仕舞謡全集』訂 観世流改訂本刊行会 1926

脚注
1. 稲岡勝監修『出版文化人物事典』日外アソシエーツ
2. 野沢正 『日本航空機総集 九州・日立・昭和・日飛・諸社篇』 出版協同社、1980年、137・138頁。全国書誌番号:81001674

外部リンク
国立国会図書館デジタルコレクション検索結果
(wikiより)

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丸岡 莞爾(まるおか かんじ、1836年7月11日天保7年5月28日) - 1898年明治31年)3月6日)は、幕末土佐藩士、明治期の官僚歌人。官選県知事。旧姓・吉村、字・山公。通称・三太、長俊。号・建山、掬月、蒼雨など。

経歴
土佐藩士・吉村三助の長男として生まれる[1]鹿持雅澄から国学を学んだ。坂本龍馬とも交際した。


明治3年4月1870年5月)、土佐藩大従事となり、さらに権大属を務める。明治4年3月1871年4-5月)、大阪府に転じ権大属に就任し、大属、権典事を歴任。


明治4年11月4日(1871年12月15日)、左院に転じ、中議生となり、大議生、四等議官を歴任。1874年9月、海軍省五等出仕に就任した。


1875年、式部権助に就任。以後、兼一等掌典、式部助、式部権頭を歴任。1883年内務省に転じ内務大書記官となる。以後、兼造神宮奉行、内務省社寺局長、兼造神宮支庁副使などを歴任した。


1888年9月、沖縄県知事に就任。皇民化教育を推進。1892年7月、高知県知事へ転任。同年11月に同知事を退任した。

年譜
1870年明治3年4月)5月 - 土佐藩大従事

1871年明治4年3月)4-5月 - 大阪府権大属

1871年(明治4年11月4日)12月15日 - 左院中議生

1872年明治5年)- 左院四等議官[1]教部省六等出仕[要出典]

1874年(明治7年)9月 - 海軍省五等出仕[2]さらに海軍省権大書記官を務めた[要出典]

1876年(明治9年)5月 - 式部寮に転属。式部助[3][注釈 1]

1877年11月頃 - 権助(ごんのすけ)に降格[4]

1878年(明治11年)1月 - 権助兼一等掌典職[5][注釈 1]

1880年(明治13年)6月 - 天皇の甲州方面への行幸に随行[6][注釈 2]

  ・7月21日 - 楠木正成に対する贈正一位の勅使となる。時に、式部助兼一等掌典従五位。(湊川神社史)

1881年(明治14年)- 3月に来日するハワイ王カラカウアの接待役にくわわる[7][8][注釈 3][注釈 4]

  ・9月16日 - 上司である式部頭(かみ)坊城俊政が死没。その後、その職位は欠員。

1882年(明治15年)4月か5月 - 権頭に昇任[9][注釈 5]

  ・9月 - 鍋島直大が式部頭に就任し、上司となる。

1883年(明治16年)- 内務大書記官[1]

1884年(明治17年)- 兼造神宮奉行[1]

1887年(明治20年)- 内務省社寺局長兼造神宮支庁副使[1]

1888年(明治21年)9月 - 沖縄県知事

1892年(明治25年)7月 - 高知県知事

  ・11月 - 高知県知事退任

栄典・授章・授賞
1886年(明治19年)11月16日 - 正五位[10]

1893年(明治26年)6月20日 - 正四位[11]

外国勲章佩用允許
1884年(明治17年)8月20日 - イタリア王国:イタリア王冠勲章コマンダトレ[12]

親族
・長男の丸岡桂は歌人・能楽書林創業者、孫の丸岡明は作家。

・妹 吉村まき(吉村は莞爾の旧姓)は、武市半平太の甥、島村衛吉に嫁いだ。

・妹 西山千賀 その息子西山麓という人物についても含めて、一族のことは安岡章太郎『鏡川』に書かれているが、作家の安岡も一族とは縁戚である[13]

著作
・歌集『蒼雨余滴』。丸岡桂『長恨 丸岡桂全集』(観世流改訂本刊行會、1921年)に所収。

参考文献
安岡, 章太郎鏡川』新潮社、2000年、41頁。ISBN 4-103-21910-6 ISBN 978-4-103-21910-1

  ・『新潮』2000年3月号に掲載:snippet1 snippet2

・上田正昭他『日本人名大辞典』講談社、2001年。

・歴代知事編纂会『日本の歴代知事』3、東京堂出版、1982年、396・525頁。ASIN B000J7L0TO

  ・『新編日本の歴代知事』、1991年。

・太政官「職務進退・元老院 勅奏任官履歴原書 転免病死ノ部 丸岡莞爾」明治3年。国立公文書館 請求番号:本館-2A-031-09・職00148100 件名番号:077

補注
1. a b 日本の歴代知事』(1982年)、525頁では「八年頃式部権助兼一等掌典に任じ、九年頃式部助に、十二年頃式部権頭に進み」とはあるが、すべて「頃」という表現をつけたところから、年代や歴任した順序を推論して間違えたようである(例えば「一等掌典」は「大掌典」から1878年(明治11年1月)に切り替わったのであるから「八年頃」はありえない)。官員録に照らすと、『官員録 明治8年11月改』(1875年)では、「海軍省」(47頁)の籍より抹消されているが、「式部寮」(85頁)にも名がみえない。その後しばらく官員録に名が見えないが、『官員録. 明治9年5月』(1876年)に「式部寮の助」として登場する。
2. 山岡鉄太郎(宮内大書記官)、西村捨三(内務少書記官)が先発組で公布に行き、行幸は三条実美らを含めて6月16日に東京を発し、19日に到着。甲府略志』甲府市、西村組出版局、第四章 行幸啓/明治天皇御巡幸、1918年、199-。NDLJP:1907734には、その旨が述べられ、四等掌典小西有勲の名はあるが、丸岡の名は見えない。
3. ハワイ王を国賓に迎える接伴掛は、山下草園(1942年)によれば2月26日付で、東伏見宮二品嘉彰親王蜂須賀茂韶以下、式部助の莞爾も含めて10名が任命された。(荒俣訳注『仰天旅行記』150頁注は、莞爾の名前を挙げてないが、10名のうち蜂須賀、長崎省吾(四等掌典)、通詞をつとめた外務権大書記官石橋政方を挙げる。)
4. 『鏡川』(61頁)がいう2月は、まだカラカウア王が来日していないが、それに備えて2月27日のうちに接待準備班が横浜へ出張し、蜂須賀茂韶はじめ、莞爾もこれにくわわっている。(「外国貴賓ノ来朝関係雑件」、荒俣、281頁)
5. 日本の歴代知事』(1982年)、525頁によれば明治12年頃式部権頭と推定しているが、ここでは官員録にもとづいた明治15年。国立図書館蔵書本では15年4月に欠ページがあり未確認。

出典
1. a b c d e 日本の歴代知事』(1982年)、525頁
2. 日本の歴代知事』(1982年)、525頁では「七年頃海軍省五等出仕」とあるが月までは指定されない。『掌中官員録. 明治8年』(1875年)NDLJP:993586、59頁、の時点では「海軍省五等出仕」は確認できる。
3. 式部寮の助:西, 隼太郎『官員録. 明治9年5月』西村組出版局、1877年、5-。NDLJP:779242
4. 式部寮 権助:官員録. 明治10年11月』拡隆舎、1877-1878、144頁。 (NDLJP:779256)
5. 権助/兼/一等掌典:官員録. 明治11年1月』拡隆舎、1877-1878、146頁。 (NDLJP:779258)
6. 安岡章太郎『鏡川』(2000年)、61頁「まづ明治十三年には天皇の甲州方面への巡幸があり、莞爾はそれに供奉してゐる。翌明治十四年(莞爾四十六歳)二月、ハワイ皇帝の来航に際し、その接待役をつとめる。」
7. 「外国貴賓ノ来朝関係雑件」。『カラカウア王のニッポン仰天旅行記』樋口あやこ、小学館、1995年。ISBN 4-093-87116-7の巻末資料p.281-に関連部分を抜粋掲載。
8. 山下, 草園『日本人のハワイ』世界堂、1942年、205頁、5-。NDLJP:1459442
9. 権頭:彦根, 正三 (Hikone, Shōzō), ed (1880-1884). 改正官員録. 明治15年5月. 博公書院. p. 215. https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/779309/217  (NDLJP:779309)
10. 『官報』第1019号「叙任」1886年11月20日。
11. 『官報』第2992号「叙任及辞令」1893年6月21日。
12. 『官報』第376号「賞勲叙任」1884年9月27日。
13. 安岡章太郎『鏡川』(2000年)、41頁「丸岡莞爾には、千賀の下にもう一人の妹がゐて、まきといふ。そのまきは武市半平太の甥、島村衛吉に嫁した。」
(wikiより)


1761 丸岡莞爾

丸岡莞爾

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黒田 清隆(くろだ きよたか、旧字体黑田 淸隆[注釈 1]1840年11月9日天保11年10月16日〉- 1900年明治33年〉8月23日)は、日本武士薩摩藩士)、陸軍軍人政治家階級陸軍中将栄典従一位大勲位伯爵通称仲太郎了介


薩摩藩士として、幕末に薩長同盟のため奔走し、明治元年(1868年)から明治2年(1869年)の戊辰戦争に際しては北越から庄内までの北陸戦線と、箱館戦争で新政府軍の参謀として指揮を執った。開拓次官、後に開拓長官として明治3年(1870年)から明治5年(1872年)まで北海道の開拓を指揮した。開拓使のトップを兼任しつつ、政府首脳として東京にあり、明治9年(1876年)に日朝修好条規を締結し、同10年(1877年)の西南戦争では熊本城の解囲に功を立てた。翌年に大久保利通が暗殺されると、薩摩閥の重鎮となった。しかし、開拓使の廃止直前に開拓使官有物払下げ事件を起こして指弾された。明治21年(1888年)4月から内閣総理大臣。在任中に大日本帝国憲法の発布があったが、条約交渉に失敗して翌年辞任した。その後元老となり、枢密顧問官、逓信大臣、枢密院議長を歴任した。1900年に死亡したため、19世紀に亡くなった唯一の内閣総理大臣である。

生涯
生い立ちと幕末の活動
天保11年(1840年)に、薩摩国鹿児島城新屋敷通町(現在の鹿児島県鹿児島市新屋敷町)で薩摩藩士・黒田仲佐衛門清行の長男として生まれた。黒田家は家禄わずか4石の下級武士だった。なお、明治期に子爵になった黒田清綱の家(記録奉行や教授を輩出していた。代々小番。)と同族であるが、遠縁であるという。


幕臣・江川英龍に学び、長じて砲手になった。文久2年(1862年) 6月の生麦事件には、随行の一人として居合わせたが、自らは武器を振るわず、抜刀しようとした人を止めたという。なお、黒田自身は示現流門下でも有数の使い手で、後年宗家の東郷重矯より皆伝を受けている。


文久3年(1863年)、薩英戦争に参加した後、江戸で砲術を学び、皆伝を受けた。慶応2年(1866年)の薩長同盟に際しては、盟約の前に薩摩側の使者として長州で同盟を説き、大坂で西郷吉之助桂小五郎の対面を実現させた後、再び長州に使者として赴いた。

戊辰戦争
慶応4年(1868年)の鳥羽・伏見の戦いでは薩摩藩の小銃第一隊長として戦った。同年3月、北陸道鎮撫総督・高倉永祜の参謀に、山縣有朋とともに任命され、鯨波戦争に勝利した。北越戦争に際しては、黒田は長岡藩を降伏させて河井継之助を登用すべきと考え、河井に書簡を送ったが届かなかった。長岡城を占領したとき、黒田は海路新潟に出て敵の背後を脅かし、武器弾薬の補給を断つ作戦を立て、山縣に新政府軍主力を預けて自らは松ヶ崎に上陸した。このとき長岡城が夜襲され、新政府軍主力は一時潰走したが、黒田は新発田藩を降し、新潟を占領して所期の目標を達した。


越後の戦闘が決してから、黒田は秋田に上陸して庄内藩を背後から攻略する作戦を立てた。ここに西郷が合流して秋田藩兵の疲弊を告げ、米沢を先に攻めるよう変更した。西郷と黒田は寛大策をもって臨み、米沢藩と庄内藩を帰順させた。9月27日に庄内の鶴岡城を接収してこの方面の戦闘を終わらせた。


いったん鹿児島に帰り、翌明治2年(1869年)1月に軍務官出仕に任命された。箱館戦争が始まると、黒田は2月に清水谷公考中将の参謀を命じられ、3月に東京を出港した。途中、宮古湾停泊中に宮古湾海戦に際会した。4月9日に上陸した山田顕義に続き、黒田も19日に江差に上陸して旧幕府軍との最後の戦いの総指揮を執った。5月に旧幕府軍が箱館に追い詰められたのを見て、助命のための内部工作を手配した。11日の箱館総攻撃では、自ら少数の兵を率いて背後の箱館山を占領し、敵を五稜郭に追い込んだ。榎本武揚に降伏を勧め、17日に降した。


戦後は榎本助命を強く要求して、厳罰を求める者と長い間対立し、榎本のために丸坊主に剃髪したこともある。榎本問題は明治5年(1872年)1月6日にようやく、榎本らを謹慎、その他は釈放として決着した。

開拓使
戦後まもなく、明治2年(1869年)11月22日に黒田は中山清(せい)と結婚した。樺太でのロシアの圧力が増したため、明治3年(1870年)5月に樺太専任の開拓次官となった。7月から樺太に赴き、現地のロシア官吏との関係を調整し、北海道を視察して、帰京した。10月20日に建議して、樺太は3年も保たないとし、北海道の開拓に本腰を入れなければならないと論じた。


明治4年(1871年)1月から5月まで、アメリカ合衆国とヨーロッパ諸国を旅行した。旅行中、米国の農務長官ホーレス・ケプロンが黒田に会って顧問に赴くことを承諾し、他多数のお雇い外国人の招請の道を開いた。帰国後、10月15日に開拓長官東久世通禧が辞任した後は、次官のまま開拓使の頂点に立った。明治7年(1874年)6月23日、陸軍中将となり、北海道屯田憲兵事務総理を命じられた。同年8月2日、参議兼開拓長官となった。黒田は榎本ら箱館で降った旧幕臣を開拓使に登用した。


黒田はケプロンの献策にもとづき基盤整備事業を起こしたが、たちまち支出超過を招いた。これに苦慮した黒田は、明治6年(1873年)に事業を縮小し、即効性を求めて産業振興に重点を移した。

外交と西南戦争
明治6年(1873年)の征韓論に際して、黒田は内治重視の立場から西郷らに反対した。明治7年(1874年)の台湾出兵に際してもロシアの脅威を挙げて不可の立場をとり、出兵後には清国との全面戦争を避けるため速やかに外交交渉に入ることを唱えた。この年、ロシアとの交渉にあたって黒田は榎本武揚を使節に推薦して容れられ、榎本が特命全権公使として樺太・千島交換条約の交渉と締結にあたった。黒田の方は、明治8年(1875年)の江華島事件をきっかけに、同9年(1876年)2月に朝鮮と交渉する全権弁理大臣となり、日朝修好条規を締結した。


樺太と千島は開拓使の管轄であるから、受理と明け渡しは黒田の職務であった。このとき黒田は樺太アイヌを北海道に強制移住させた。札幌本庁を預かっていた松本十郎は、強制移住に反対して辞任した。


明治10年(1877年)に西南戦争が起きると、黒田は2月に海路鹿児島に至ってここを確保し、いったん長崎に引き上げた。3月14日に征討参軍に任命された。このとき熊本城は包囲され、北から来る山縣有朋の主力軍が解囲戦に苦戦していた。黒田は敵の背後を衝くため八代付近に上陸し、3月30日から交戦をはじめ、前進を続けて4月15日に熊本城に入った。翌16日、山縣と合流した当日に自らの辞任を請い、23日に辞令を受け取った。開拓使で黒田が育てた屯田兵は、入れ替わりに戦線に到着し、以後の戦闘で活躍した。

薩閥の重鎮
明治11年(1878年)3月28日、肺を患っていた妻の清が死んだ。ところが酒に酔って帰った黒田が、出迎えが遅いと逆上し妻を殺したのだという記事が新聞に載った。黒田は辞表を提出したが大久保利通の説得でこれを撤回した。岩倉具視の秘書の覚書によると、伊藤博文大隈重信が法に則った処罰を主張したのに対して、大久保は黒田はそのようなことをする人間でないと保証すると述べ自身の腹心である大警視川路利良に調査を命じた。川路は医師を伴って清の墓を開け、棺桶に身を乗りだして中を確認したのみでこれを病死であると結論付けた[注釈 2]。黒田はこの頃より酒が過ぎることが多く、酔って怒気を発することがあった。開拓長官時代にも商船に乗船した際に、酒に酔って船に設置されていた大砲(当時は海賊避けのため商船も武装していた)で面白半分に岩礁を射撃しようとして誤射し、住民を殺害したことがあり、これは示談金を払って解決した。同年5月に大久保が暗殺されると、黒田は薩摩藩閥の最有力者とみられるようになった。


明治14年(1881年)に開拓使の廃止方針が固まると、黒田は開拓使の官営事業の継続のため、官吏を退職させて企業を起こし、これに官営事業の設備を払い下げる計画を立てた。このとき事業が赤字であったことを理由に、非常な安値を付けた。黒田は、事業には私利で動かない官吏出身者を充てるべきだとして優遇を弁護したが、払い下げの規則を作った大隈重信が反対した。黒田の払い下げ計画が新聞報道されると、在野はこれを薩摩出身の政商・五代友厚の企みによるものだとして、激しく非難した(開拓使官有物払下げ事件)。大隈が情報を流したせいだと考えた伊藤・黒田ら薩長閥は、明治十四年の政変で大隈を失脚させた。しかし払い下げは中止になり、黒田は開拓長官を辞めて内閣顧問の閑職に退いた。


醜聞と疑獄事件は後々まで世人に記憶され、黒田の名声を傷つけた。しかし薩摩閥の重鎮たることは変わらず、明治20年(1887年)に第1次伊藤内閣農商務大臣となり、伊藤の後をうけて同21年(1888年)4月に第2代内閣総理大臣となった。在任中もっとも大きな事件は、大日本帝国憲法の発布であったが、黒田自身は憲法制定に深く関与しなかった。この憲法公布の翌日、鹿鳴館において、「政府は議会・政党の意思に制約されることなく独自性を貫くべき」とする主張、いわゆる超然主義を表明する超然主義演説を行っている。黒田内閣は、大隈重信が主導した不平等条約改正交渉の失敗によって大隈が襲撃され、翌 明治22年(1889年)10月に倒れた。改正の条件に外国人の裁判官を置くという別の不平等を持ってきたことが、国内の反対を受けたのである(辞職後2か月間三条實美内大臣が首相を兼任)。なお、この時に、条約改正案に反対した井上馨への鬱積から、酒に酔ったまま井上邸内に忍び込むという事件(明治22年(1889年)12月15日夜)を起こして政府内から非難を浴びて謹慎している。

晩年
首相辞任後、黒田は枢密顧問官になった。明治25年(1892年)8月8日、第2次伊藤内閣逓信大臣になった。伊藤内閣のもとで日清戦争が起こったが、特に活躍することなく、明治28年(1895年)に枢密院議長となった。明治26年(1893年)から体の不調が募り、仕事に支障をきたすことが多くなった。明治33年(1900年)8月23日、脳出血のため薨去[2]。享年59。葬儀委員長は榎本武揚であった。


薩摩閥の重鎮とはいえ、醜聞と疑獄事件で晩年は浮いた存在となり、同郷の人々は離れていった。代わって旧幕臣との付き合いが濃密となり、特に外交分野などでは榎本武揚を重用するようになった。黒田の死に際し榎本が葬儀委員長を務めたのも、薩摩の人々が黒田を敬遠したためとも言われている。

親族
妻の清は旗本の中山勝重の長女で、1869年、黒田が29歳の時に数え年16で輿入れした。清の産んだ長男と長女はいずれも夭折しており、黒田は1868年生まれの清の妹・百子を養女にしている。百子は成人後に陸軍軍人である黒木為楨に嫁いだ。1878年3月、清は24歳で肺の病により亡くなるが、その死に際しては黒田が殺害したなどと団々珍聞という新聞に書かれた[注釈 3]。その後、黒田は41歳で材木商丸山伝右衛門の娘・滝子と再婚。娘の梅子・竹子と嗣子の清仲を授かり、梅子は後に榎本武揚の長男・武憲と、竹子は伊地知貞馨の孫・貞一と結婚している。


清隆の死後、子の黒田清仲が爵位を襲爵したが、32歳で死去した。生来病弱で独身だった清仲には嫡子がなかったため、黒木為楨の三男にあたる黒木清を養嗣子として迎えた。

人物像
黒田清隆は、伊藤博文など他の総理大臣経験者に比較すると政策立案能力の点では劣っていたが、他に追随を許さない独特の人心掌握力を持った人物であった[3]。度量が広く、明治十四年の政変で対立した大隈重信の入閣交渉や自由民権運動のリーダーであった後藤象二郎の丸め込み工作など、フェイス・トゥ・フェイスの説得交渉では卓越した能力を発揮した[3]。必要があれば、相手がたとえ政敵であっても懸命に説得し、最終的には協力を約束させられる優れた調整能力の持ち主であった[3]。一方、愚直で頑固な硬骨漢という面を併せ持っており、開拓使官有物払下げ事件でも自らの意志を曲げることなく、結局辞任に追い込まれた[3]

酒乱
平生はその手腕を買われていた黒田だが、一度酒を飲むと必ず大暴れする酒乱であったと言われている。前述のように酔って大砲を誤射して死亡者を出したほか、最初の妻を切り殺した疑いもかけられた。また、酒席で暴れ武術家(柔術家)としても知られていた木戸孝允に取り押さえられ、毛布でくるまれたうえ紐で縛られて、簀巻き[4]のまま自宅へ送り返された。以来、「木戸が来た」というと大人しくなったという。


黒田の名言
・「榎本を殺すのなら、そんな新政府、自分は辞めて坊主になる」― 五稜郭の戦いで降伏した榎本武揚の処分に際し、黒田が同郷の西郷隆盛に榎本の助命嘆願した際のことば[3]


・「大隈どん、貴君の片足を失ったのは、私の片足を失ったより残念じゃ」― 大隈遭難事件(爆弾テロ事件)で右足を切断した大隈重信を見舞ったときのことば[3]

他者の黒田評
岡本柳之助 「なにしろ黒田は恐ろしく腕力が強かったので俺もなかなか勝てなかった」[5]


詳しいことは、「黒田清隆ウィキペディア」をご覧ください。 ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BB%92%E7%94%B0%E6%B8%85%E9%9A%86
(wikiより)

1760 黒田清隆

黒田清隆

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佐藤 政養(さとう まさやす、文政4年12月1821年) - 明治10年(1877年8月2日)は、江戸時代末期(幕末)から明治初期の蘭学者、鉄道技術者。通称は与之助。号は李山。

経歴
出羽国飽海郡升川村(→直世村升川→現・遊佐町直世升川)の農民佐藤与兵衛の長男。


幼い頃から才気煥発で、弘化元年(1844年)に出羽庄内藩の選抜で江戸に上り、広木貫助砲術を、勝海舟蘭学を、伊藤鳳山に漢籍を、佐藤恒俊彫刻を学んだ。安政4年(1857年)、長崎海軍伝習所の生徒として長崎に至り、安政6年(1859年)秋に来日したグイド・フルベッキに測量や軍艦操練を学ぶ。同年に庄内藩組外徒士格、江戸幕府軍艦操練所蘭書翻訳方として役付きとなった。


文久
2年(1862年)に大坂台場詰鉄砲奉行、元治元年(1864年)に神戸海軍操練所を司り、14代将軍徳川家茂の大坂港視察に帯同した。また幕閣に神奈川に代わる横浜開港を建議した。


明治維新後は民部省の初代鉄道助となり、日本初の鉄道路線となる新橋 - 横浜間の鉄道敷設に尽力した。また、明治3年(1870年)に小野友五郎と共に東海道の調査を行い、中山道の線路敷設を提案した調査報告書を上申、この案が中山道幹線敷設に繋がった。


明治9年(1876年)5月、病気により依願免官し翌10年(1877年)8月2日に55歳で死去。墓所は東京都港区青山霊園にある。


昭和
39年(1964年)、国鉄吹浦駅前に銅像が建てられ、それ以来、鉄道の日である毎年10月14日に地元では顕彰祭を行っている。

関係資料
・参考文献『日本国有鉄道百年史 2』口絵に佐藤の写真と文書が紹介されており、「鉄道助佐藤政養が高級技術者として新橋・横浜間および大阪・神戸間の鉄道建設に従事していたとき書き残した意見書類は、当時の鉄道建設事情を知るうえに貴重な資料である。この佐藤政養文書(8巻)は、昭和38年鉄道記念物に指定され、現在交通博物館に保存されている」と記されている。

参考文献
・『日本国有鉄道百年史 第2巻』日本国有鉄道、1970年。

・『明治過去帳』大植四郎(編)、東京美術、1971年(原著私家版1935年)。

・『洋学史事典』日蘭学会(編)、雄松堂出版、1984年。

・『新編 庄内人名辞典』庄内人名辞典刊行会(編刊)、1986年。

・『坂本龍馬』松浦玲、岩波書店<岩波新書1159>、2008年。

国内初の鉄道開設に尽力 佐藤政養の功績学ぶ 山形・遊佐 (河北新報 2010年10月16日)

『飽海郡誌. 巻之10』(国立国会図書館デジタル化資料)

・鉄道史学会編『鉄道史人物事典』日本経済評論社、2013年、214-215頁

・丸山健夫 『筆算をひろめた男-幕末明治の算数物語』 臨川書店 平成27年(2015年) ISBN 978-4-653-04225-9
(wikiより)

1759  佐藤政養

佐藤政養

1759a

1759b



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