本牧jack『意外と身近にある歴史散歩』日々是好日 心灯 頬笑

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2022/06

呉鎮守府第6特別陸戦隊(呉6特)は、1942年(昭和17年)11月1日に編成。 

1943年(昭和18年)1月バラレ島に進出。 

配備後は連日の戦闘および補給の途絶で戦力を消耗。 

その後ブインに一部を派遣。 残存部隊はバラレ島で終戦を迎えた。

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(くわ)は、大日本帝国海軍駆逐艦[2]松型駆逐艦(丁型)の5番艦である[3]。艦名は楢型駆逐艦2番艦「[4]に続いて2代目[5]

概要
一等駆逐艦は、1944年(昭和19年)7月25日藤永田造船所で竣工した松型駆逐艦[6]。竣工後は訓練部隊の第十一水雷戦隊に所属した[7]8月3日から8月30日にかけて第十一水雷戦隊旗艦を務めた[注 1]。 同年10月4日第三十一戦隊を基幹とする敵潜掃蕩部隊に編入される[11][12]。出動準備中に捷一号作戦が発動されると、小沢機動部隊に編入されてレイテ沖海戦に参加した[13][14]10月25日の戦闘で空母瑞鳳が沈没すると[15]、同艦乗組員847名を救助した[16]


11月上旬より第三十一戦隊[注 2]第四航空戦隊日向伊勢)を護衛して内地を出撃[18]、「桑」は馬公南沙諸島を経由してフィリピン方面に進出した[6]。 同年11月15日[19]、新編成の第52駆逐隊に所属する[20]12月2日深夜、姉妹艦「[21](第43駆逐隊)と輸送艦3隻を率いて多号作戦を実施中[22](第七次作戦)[23]、日付変更後の12月3日未明にフィリピンレイテ島オルモック湾米軍大型駆逐艦3隻と交戦する[24]。この戦闘で「桑」は沈没した[25]

戦歴
建造
仮称艦名、第5485号艦[5]。 1943年(昭和18年)12月20日、藤永田造船所で起工[26]。 1944年(昭和19年)4月5日、「」と命名される[2]。 同5日付で各艦(桑、奄美粟国伊号第三百五十二潜水艦伊号第三百六十七潜水艦)等は艦艇類別等級表に類別される[27]5月25日、進水[26]。 6月20日、日本海軍は海軍兵学校教官大熊安之助少佐(スラバヤ沖海戦時の軽巡那珂水雷長)を、桑艤装員長に任命する[28]。 6月24日、藤永田造船所の桑艤装員事務所は事務を開始する[29]


7月2日、大熊(桑艤装員長)は白露型駆逐艦五月雨艦長[30]へ転任した[注 3]。 駆逐艦文月艦長[35][36]等を歴任した山下正倫(やました まさとも)中佐(当時、海軍艦政本部部員)が、桑艤装員長に補職される[30]。この人事は「海上勤務となって最前線で戦いたい」と山下が熱望した結果だったという[37]7月25日、「桑」は竣工した[26]

山下正倫中佐は正式に桑駆逐艦長となる[38]。主な初代幹部は、航海長小平清人中尉、砲術長北村徹大尉、水雷長三谷與司夫中尉[38]。同25日付で松型2隻(桑、)は、呉鎮守府籍となる[39]

訓練
就役後、訓練部隊の第十一水雷戦隊(司令官高間完海軍少将海軍兵学校41期)に編入される[40]。瀬戸内海に移動し、十一水戦僚艦と合流した[41][42]


8月1日、連合艦隊は新たな兵力部署を発令[43]第二遊撃部隊を新編して機動部隊に編入した[44]。 第二遊撃部隊は第五艦隊を基幹とする[注 4]。 ほかに第十一水雷戦隊[注 5]、扶桑型戦艦2隻[注 6]、航空戦艦2隻(伊勢日向)、第21駆逐隊(若葉初春初霜[注 7]、第61駆逐隊(秋月、涼月、初月、若月)などが第二遊撃部隊に組み込まれた[48]8月3日、高間司令官は十一水戦旗艦を「扶桑」から「桑」に変更した[9][49] [注 8]。 この頃、秋月型駆逐艦「涼月」が修理を終えて戦線に復帰、十一水戦各艦と訓練をおこなった[50][53]。 また「清霜」と「竹」は8月10日に内海西部を出撃、南西方面にむかった[50][54]


8月30日、軽巡「多摩」が十一水戦に編入される[46]。高間少将は十一水戦旗艦を「桑」から「多摩」に変更した[10][55]。これ以降、十一水戦旗艦は「多摩」になった[56][57]。 以降の「桑」は10月中旬まで十一水戦僚艦や[56][58]、内海西部所在だった第二遊撃部隊と[59][60]、訓練をおこなう[58][11]。内海西部所在の他部隊所属艦も第二遊撃部隊の訓練に同行することがあり、9月上旬には駆逐艦「初月」と「雪風」が訓練に協力した[61][62]


日本海軍は8月20日付で対潜機動部隊の第三十一戦隊(司令官江戸兵太郎少将、旗艦「五十鈴」)を編成した[63]。第三十一戦隊は連合艦隊に編入された[64]。9月7日、豊田副武連合艦隊司令長官は第三十一戦隊と第21駆潜隊で「敵潜掃蕩部隊」の編成を命じ、9月中旬以降の活動を命じた[65]。 10月4日、「桑」は敵潜掃蕩部隊に編入された[11]。第二遊撃部隊としての訓練を切り上げ、呉で整備を実施する[66]大鷹型航空母艦の「海鷹」とともに対潜掃討任務に従事する予定だった[66][67]。 10月10日、アメリカ海軍機動部隊は沖縄方面に来襲[68]十・十空襲[69]、日本海軍は基地航空隊により反撃を試みた[70]

レイテ沖海戦
10月17日[71]アメリカ軍がフィリピン、レイテ湾スルアン島に上陸した[72]。翌18日夕刻、日本軍捷一号作戦を発動した[73][74]。 本作戦は、第一機動艦隊司令長官小沢治三郎中将(海兵37期)が率いる機動部隊第三艦隊)が囮となって第38任務部隊マーク・ミッチャー中将)をひきつけ[75]、その隙に第二艦隊司令長官栗田健男中将(海兵38期)率いる第一遊撃部隊がレイテ湾に突入し、アメリカ軍の上陸部隊を撃破するというものであった[76][77]


第三艦隊の本来の護衛部隊は第二遊撃部隊[注 9]だったが[78]台湾沖航空戦の「残敵掃討」に駆り出されてしまった[79][80]。 さらに秋月型駆逐艦「冬月[81]と「涼月[82]が日本近海で相次いで被雷、修理を余儀なくされた。 そこで練習部隊の第十一水雷戦隊から「多摩」と「杉」を[83][注 10]、内地所在の第三十一戦隊と軽巡「大淀」を、それぞれ機動部隊の護衛部隊に編入した[85]


当時、第三十一戦隊司令官は旗艦を「五十鈴」から「槇」に移し、「五十鈴」は呉で整備を実施、「槇」と「桑」は大分県佐伯において訓練中を実施していた[13]。このあと第三十一戦隊旗艦は「大淀」に変更された[86][87]。また四航戦のうち空母「隼鷹」と「龍鳳」は搭載する航空隊がなく、出撃しなかった[88]。「海鷹」は台湾への航空機輸送任務を命じられた[89]。出撃各艦は内地残留の「隼鷹」から燃料を補給した[90]


10月20日夕刻[14]、小沢機動部隊、すなわち第三航空戦隊瑞鶴瑞鳳千代田千歳)、第四航空戦隊航空戦艦2隻(日向伊勢)、軽巡洋艦3隻(大淀五十鈴多摩)、秋月型駆逐艦4隻(初月秋月若月霜月)、松型駆逐艦4隻()は豊後水道を出撃した[注 11][注 12]


22日に空母千歳から重油の洋上補給を行うも[93]、予定の100トンに対して75トンしか補給できなかった[94]。 機動部隊は23日に兵力を二分して2つの輪形陣を形成し[95]、これにより「桑」は空母「瑞鳳」の左後方に位置することとなった[96][注 13]10月24日[98]、松型2隻(桐、杉)は小沢機動部隊から分離、沖縄方面に退避した[99]


10月25日
朝、小沢機動部隊はエンガノ岬沖でついに第38任務部隊の艦上機による空襲を受ける[100]エンガノ岬沖海戦[101]。数度にわたる空襲により空母4隻と護衛艦2隻を喪失した[注 14]。 本艦の損傷は最少だった[105][106]


対空戦闘の最中、「桑」は小沢中将の命を受けて沈没空母の生存者救助任務を行った[107][108]。「桑」と「伊勢」は空母「瑞鳳」の救助をおこなう[109]。 17時20分までの救助作業の結果、「桑」は瑞鳳艦長の杉浦矩郎大佐以下847名を救助した[16][注 15]。また被弾して速力低下中の「槇」と遭遇し、山下(桑艦長)が「いかがなりや」と気遣う場面もあった[111]。 続いて「桑」は第61駆逐隊(初月若月)と共に更に救助作業を行うも、ローレンス・T・デュボース少将率いる巡洋艦部隊の攻撃を受け避退する[112]。生存者救出中の小沢機動部隊各艦は「初月」(第61駆逐隊司令天野重隆大佐)の奮戦と沈没により窮地を脱した[113][114]。 10月26日に中城湾に到着、瑞鳳生存者の一部を2隻(五十鈴、槇)に移し、「桑」は「槇」を率いて奄美大島へ移動する[108](同地でさらに瑞鳳生存者を戦艦日向に移乗)[108][115]。10月29日から30日にかけて、小沢部隊残存艦は呉に帰投した[116][117]


小沢機動部隊が避退中だった10月27日、連合艦隊はレイテ島決戦に関する基本方針を発令した[118]。第三十一戦隊はフィリピン方面緊急輸送と、同地進出後の南西方面部隊[119](指揮官:南西方面艦隊司令長官)編入を命じられた[注 16]11月2日付で、十一水戦の松型2隻(杉、桑)は第三十一戦隊の指揮下に入った[121][122]11月5日、第三十一戦隊(五十鈴、梅、桃、桐)と松型2隻(桑、杉)はマニラ方面緊急輸送作戦を下令されるとともに、マニラ到着をもって南西方面部隊編入を命じられた[123](GF電令作第515号)[18]。 第三十一戦隊司令官指揮下の各艦(軽巡五十鈴、駆逐艦霜月[124]、桑、杉、桐、)は南方に進出する第四航空戦隊(司令官松田千秋少将。日向伊勢[125]を護衛して、11月9日に門司を出撃する[126][17]。 この輸送部隊を南方輸送部隊H部隊と呼称する[注 17][注 18]澎湖諸島馬公を経由して南下中の11月13日マニラは米軍機動部隊艦上機の襲撃をうけて在泊艦艇に大損害をうけた[130][131]。H部隊はマニラ直行をやめていったん南沙諸島に入泊した。


11月15日
[19]、日本海軍は松型5隻()により第52駆逐隊を編成した[20][132][133]。 第四航空戦隊と護衛の姉妹艦(梅、桐)とは南沙諸島長島で別れ[134]、第三十一戦隊旗艦の軽巡「五十鈴」を護衛してマニラに向かい、11月18日に到着した[135]。またマニラ脱出後に四航戦と合流していた駆逐艦3隻(朝霜)のうち[136]、便乗中の宇那木勁少佐が「竹」に移乗[137]、竹駆逐艦長の交代が行われた[注 19]。 同方面行動中の11月19日未明、マニラ沖合でアメリカ潜水艦ヘイクの雷撃により「五十鈴」が損傷する一幕もあった[140]。「五十鈴」は舵をうしなった[141]。 「五十鈴」は「桃」に護衛されてシンガポールに退避した[123][142][注 20]


同時期[145]、第三十一戦隊は第五艦隊に編入された[133]。また11月25日付で第52駆逐隊は第三十一戦隊に編入され[19][146]、駆逐隊司令には岩上次一大佐(当時、第7駆逐隊司令)が任命されている[147]。 この頃、日本軍はマニラからレイテ島西岸オルモック湾への輸送作戦「多号作戦」を依然として継続していた[148][149]。本艦は第七次多号作戦に参加することになった[150]。本来の参加予定艦は「桐」だったが、座礁して修理にまわされた為、「桑」が代艦として参加することになったという[151]

多号作戦

詳細は「多号作戦」を参照


11月30日午前[152]、第七次多号作戦が発令された[注 21]。 松型駆逐艦2隻()、第9号輸送艦第140号輸送艦第159号輸送艦は「第三/第四梯団」を構成し[22]、マニラを出撃した[160][161]。部隊指揮官は山下正倫中佐(桑駆逐艦長)[162]。僚艦の松型2番艦「竹」は、これまでに第三次[163]、第五次の多号作戦に参加していた[23][164]。 出撃前、山下艦長は「犬死は許さん。一人となっても敵陣に踏みこむべし」と激励した[165][166]。また輸送戦隊司令部の機関参謀が各輸送艦をまわって「任務を果たさずして、絶対に帰ってくるな」と訓示しており[162]、宇那木少佐(竹駆逐艦長)は「陸上にいる参謀というものは無責任なものだ」[167]、志賀博大尉(旧姓保坂、竹水雷長)は「輸送戦隊司令官か南西方面艦隊司令長官の意向であろう」と回想している[37]。 午前6時30分、第七次多号作戦部隊の第三梯団はマニラを出航した[168]。出港直後、船団は日本陸軍潜水艦(三式潜航輸送艇、通称まるゆ)と遭遇した[165][169]


この頃になると、アメリカ軍は妨害のためにレイテから魚雷艇隊をはるばるオルモック方面に派遣するようになっており、11月28日夜半のオルモック襲撃に成功するなど戦果を挙げていた[170]第7艦隊司令官のトーマス・C・キンケイド中将は続いてオルモック方面に駆逐艦と掃海艇を派遣することとし[170]、これも過去二度の作戦で潜水艦と小型貨物船を破壊する戦果を挙げていた[170]。そして、三度目の作戦[170]としてアレン・M・サムナー (USS Allen M. Sumner, DD-692)、モール (USS Moale, DD-693) そしてクーパー (USS Cooper, DD-695) がオルモック湾に差し向けられる事となったのである[171]。 アレン・M・サムナー、モールおよびクーパーの第120駆逐群(ジョン・C・ザーム大佐)[172]は18時30分にレイテ湾を出撃し[172]、オルモック湾に急行した[173]。だが、第120駆逐群はとにかく運がよくなかった。出撃して間もなくセブから飛来してきた戦闘八〇四飛行隊月光に付きまとわれ、爆撃と機銃掃射によりモールは2名の戦死者と22名の負傷者を出した[174]。また、アレン・M・サムナーおよびモールの船体にも若干の損傷が生じた[172]

クーパー (駆逐艦)」も参照


12月2日午後、第七次多号作戦部隊(第三、第四梯団)は敵機に発見されるが、空襲を受けなかった[175]同2日夜、船団5隻はオルモック湾に到着して揚陸を開始した[176]大発が輸送艦と陸上を往復して物資を揚陸させている頃、「桑」は船団南側を、「竹」は船団南西側の哨戒を開始した[173][177]。しかし、その南方からは第120駆逐群がオルモック湾に入りつつあり、ザーム大佐は日本側の雷撃を警戒して、艦を横に広がらせた横陣の隊形で湾内に入っていった[178]。 オルモック湾に入った第120駆逐群は11,000メートル先の目標を狙い、まずクーパーが砲撃を開始した[178]。オルモック港(揚陸地点)より「竹」-「桑」-米駆逐艦3隻という位置関係になる[179]。 「桑」は第120駆逐群のオルモック湾侵入を確認するや、発光信号で敵艦発見を「竹」に知らせた[180]。「桑」は電気系統に故障をかかえており、砲側照準での戦闘となった[181]。山下(桑艦長)は米艦隊を軽巡洋艦3隻と判断、魚雷を発射する[注 22]。敵艦2隻撃沈を確認したあと[184]、続いて砲撃戦を行う[185]。だが最初の交戦はおよそ9分で決着がつき[186]、「桑」は大破して炎上[187]。艦尾から沈没した[188]。山下艦長は体当たりを命じて「桑」は突撃を敢行したが、魚雷艇の魚雷攻撃で沈没したとの証言もある[184]。 その後、「竹」の雷撃によりクーパーは沈没し[189](桑生存者は「桑」の雷撃と回想)[190]、潜水艦の襲撃と誤認して浮き足立った第120駆逐群は南方へ去っていった[191][192]


この戦闘における「桑」沈没により[25]、第三梯団の指揮官を兼ねていた山下正倫中佐(桑駆逐艦長)[193]以下、桑乗組員約250名が戦死した[194]。海上に放り出された桑生存者は「竹」に対して声をかけたり[195](志賀によれば、桑艦長ここにありとの声もあったという)[196]、撃沈されたクーパーの乗員と英語で会話したという[197]。救助をもとめられた「竹」も被弾して左舷に傾斜[198]、機関部に損傷を受けてマニラにたどりつけるか否かという状態で、救助を行う余裕はなかった[196][199]。宇那木勁少佐(竹艦長)は生存者の救助をオルモックの陸上部隊に依頼した[200][201]。桑生存者によれば「竹」から「大発動艇から助けに来るから頑張れ」と声がかけられたという[188]。この時、最後尾の輸送艦が独断でカッターボートをおろし、桑乗組員8名(重傷2名)を救助した[202]。また救助された少数名は、現地の海軍陸戦隊に編入された[203][204]。だが陸上に上陸した乗組員のうち大部分は米軍や現地ゲリラに殺害されたという[194]。桑生存者の一人は入院治療を余儀なくされ、1945年(昭和20年)1月5日マニラへ入港した病院船第二氷川丸[205](元オランダ病院船「オプテンノール」)に乗船してフィリピンを離れた[202]


2月10日、松型4番艦「」と本艦は松型駆逐艦[206]、 帝国駆逐艦籍[207]より除籍。 「桃」は第43駆逐隊から、「桑」は第52駆逐隊から除かれた[208]


2005年(平成17年)、オルモック湾の深海108メートルの海底にて旧日本軍の艦艇とおぼしき残骸が発見された。香港のマンダリン・ダイバーズによって潜水調査が行われた。撮影された映像を見た乗員遺族の造船技師が、全弾射出済みの九二式 61cm4連装魚雷発射管と松型駆逐艦特有の船体の溶接痕を確認した。これにより、ほぼ「桑」と特定されたと香港ラジオテレビ(RTHK)は伝えた。

歴代艦長
艤装員長
1. 大熊安之助 少佐: 1944年6月20日[28] - 1944年7月2日[30]

2. 山下正倫 少佐/中佐:1944年7月2日[30] - 1944年7月25日[38]

駆逐艦長
1. 山下正倫 中佐:1944年7月25日[38] - 1944年12月2日 戦死認定、同日付任海軍大佐[193]

詳しいことは、「桑 (松型駆逐艦)ウィキペディア」をご覧ください。 ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A1%91_(%E6%9D%BE%E5%9E%8B%E9%A7%86%E9%80%90%E8%89%A6)
(wikiより)

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    〇 第六三四海軍航空隊
    第六三四海軍航空隊だい634かいぐんこうくうたい)は、日本海軍の部隊の一つ。航空戦艦を母艦として運用する変則的水上機・艦上機部隊として整備されたが、母艦と連携する機会がないまま、小規模の水上機基地航空隊として終戦まで運用された。

    沿革
    機動部隊の再建を急ピッチで進めていた海軍は、既に航空母艦9隻を3隻ずつ振り分け、各集団ごとに1個航空隊を充当した3個航空戦隊の編制を終えていた。六三四空は再建・増強策の第二段として、航空戦艦伊勢日向を母艦とする艦載機航空隊として編制された。割り当てられたのは水上偵察機瑞雲と艦上爆撃機彗星で、着水能力がない彗星は、基地または空母に着陸・着艦する片道運用を想定していた。


    1944年5月1日岩国飛行場を原隊とし、呉飛行場で開隊。第四航空戦隊隷下。定数瑞雲18・彗星18。瑞雲は呉、彗星は岩国で練成開始(実機不足のため九九式艦上爆撃機を使用)。5月22日母艦決定。瑞雲は伊勢(天谷司令直卒)、彗星は日向(江村日雄飛行長指揮)。6月15日サイパン島派遣命令。のちに中止。6月23日カタパルト射出実験開始。全機成功。7月5日東号作戦発令、瑞雲隊は横須賀飛行場、彗星隊は香取飛行場に進出。8日原隊復帰。8月1日解隊した第六五二海軍航空隊より戦闘機隊・攻撃隊編入。10月12日台湾沖航空戦勃発。瑞雲隊は指宿飛行場、艦上機隊は鹿屋飛行場に進出。10月15日瑞雲隊に原隊復帰命令。機動部隊参加の是非が検討されたが、搭載見送りが決定。10月19日母艦伊勢・日向、六三四空艦載機を搭載せずフィリピンに向け別府湾出航。10月22日フィリピンに進出、キャビテに駐留。以後、夜間対艦攻撃、多号作戦対艦哨戒に従事。


    10月末フィリピンで神風特攻隊が開始すると、11月634空も梅花隊を編成して特攻を命じた[1]


    11月15日 第二航空艦隊に編入。艦上機隊を廃止(第二〇一海軍航空隊第七〇一海軍航空隊に譲渡)、偵察機隊を増強。以後、従来の夜間対艦攻撃に加え、サンホセ飛行場爆撃に従事。


    1945年1月8日第一航空艦隊に転籍。台湾東港飛行場に撤退。以後、東港より淡水飛行場に拠点を移し、台湾・沖縄近海の哨戒に従事。3月26日「菊水一号作戦」発動。沖縄近海で夜間対艦攻撃に従事。4月台湾より本土に撤退。 福岡、鹿児島に偵察301、偵察302を展開して奄美大島の古仁屋を前進基地に沖縄に反復攻撃を行った[2]


    8月3日第五航空艦隊に編入、第三十二航空戦隊を編制。


    8月15日終戦。

    主力機種
    瑞雲 - 伊勢を母艦とする水上偵察機

    彗星 - 日向を母艦とする艦上爆撃機


    その他、慣熟練成用の九九式艦上爆撃機、六五二空から譲渡された零式艦上戦闘機天山、その他偵察航空隊から編入された各種偵察機が含まれている。


    歴代司令
    ・天谷孝久 大佐:昭和19年5月1日 -

    ・江村日雄:昭和19年11月15日 -

    ・立見孝六郎:昭和20年8月 - 解隊

    脚注
    1. 木俣滋郎『日本空母戦史』図書出版社
    2. 渡辺洋二『日本本土防空戦』徳間書店183頁

    関連項目
    大日本帝国海軍航空隊一覧


    〇 九三四海軍航空隊
    第三十六航空隊[1] (だい36こうくうたい)および昭和17年11月1日に改称した第九三四海軍航空隊(だい934かいぐんこうくうたい)は、日本海軍の部隊の一つ。太平洋戦争序盤から中盤にボルネオ島から西ニューギニアにかけての東インドネシア航路の防衛を担当し、ダーウィンを基地とする連合軍航空部隊の哨戒・迎撃にも従事した。

    沿革
    ダーウィンを最前線基地とする連合軍航空部隊の撃滅は、ケンダリー飛行場に駐留する陸上攻撃機部隊の高雄海軍航空隊が担当したが、双方の拠点が離れているために散発的なものとなり、膠着状態であった。また、監視基地としてアル諸島・ケイ諸島・タニンバル諸島の占領も急がれた。そこで最前線の哨戒部隊として、三十六空の編制が昭和17年6月にようやく開始された。


    ・昭和17年(1942年)

      6月20日 佐伯を原隊とし、第二南遣艦隊附属水偵隊を改変し、バリクパパンで開隊。第二十四特別根拠地隊隷下。(水上偵察機8) 

      7月4日 セラム島アンボンに進出。タニンバル諸島の哨戒・残敵掃討に従事。

      7月30日 タニンバル諸島上空で敵爆撃隊と遭遇、1機撃墜。

      11月1日 「第九三四海軍航空隊」に改称。

      12月1日 特設水上機母艦相良丸の運送船転用に伴い、艦載機6機を編入。


    ・昭和18年(1943年)

      4月頃  アル諸島マイコール基地竣工。派遣隊が進出。

       派遣隊に二式水上戦闘機投入、本隊に連絡用九七式飛行艇投入。

      4月25日 マイコールに敵機襲来、水戦隊が迎撃しボーファイター1機撃墜。

      4月29日 アンボンに敵機襲来、整備員全員が死傷し、補給機能壊滅。

       以後、連日マイコールに敵機襲来、5月上旬まで迎撃に従事。偵察隊への戦闘機護衛開始。

      5月下旬 連日、ニューギニア方面を攻撃、戦果なし。

      6月3日 マイコールへの敵機襲来再開。

      8月6日 哨戒中、アラフラ海で敵輸送船団発見、1隻撃沈。

      11月1日 第四南遣艦隊を編制、艦隊附属に転籍。

        ニューギニアに進出。偵察機はカウ、戦闘機はマノクワリに駐留。

      11月24日 ニューギニアの敵地攻撃に出撃。

      12月10日 ニューギニアに全機移転、マイコール基地放棄。


     ・昭和19年(1944年)

      3月5日 セレベス海の掃討作戦に出撃。

      3月30日 ホーランディアに敵上陸。哨戒・迎撃に出撃。

      5月27日 ビアク島に敵上陸。哨戒・迎撃に出撃。

      6月4日 第二次渾作戦発動。船団護衛に従事するも8日に中止。

      8月頃  マカッサルに撤退。

      10月1日 解隊。


    消耗に加え、捷一号作戦発動にともなうフィリピン方面の増強のために部隊は解散となった。アンボンをはじめ各地の飛行場・水上機基地に残された地上要員は、アンボンに司令部を置く乙飛行隊の濠北海軍航空隊の統率下で自活自給した。濠北空が20年5月に解散した後は現地根拠地帯に合流。バリクパパンなど一部では地上戦も展開された。

    主力機種
    零式三座水上偵察機

    零式水上観測機

    二式水上戦闘機

    九七式飛行艇

    歴代司令
    ・木村健二(昭和17年6月20日‐)

    ・時永逢之助(昭和18年3月10日‐)

    ・中島第三(昭和19年7月頃‐昭和19年10月1日解隊)

    脚注
    1. 内令、達号、辞令公報ほか「海軍省が発行した公文書」では、海軍航空隊番号附与標準制定(1942年11月1日)前の2桁番号名航空隊は航空隊名に「海軍」の文字が入らず漢数字の「十」を使用する。海軍航空隊番号附与標準制定後の2桁番号名航空隊は他の3桁番号名航空隊と同様、航空隊名に「海軍」の文字が入り漢数字の「百」や「十」は使用しない。


    関連項目
    大日本帝国海軍航空隊一覧

    参考文献
    ・『日本海軍編制事典』(芙蓉書房出版 2003年)

    ・『航空隊戦史』(新人物往来社 2001年)

    ・『日本海軍航空史2』(時事通信社 1969年)

    ・『戦史叢書 海軍航空概史』(朝雲新聞社 1976年)

    ・『戦史叢書 南西方面海軍作戦 第二段作戦以降』(朝雲新聞社 1972年)

    ・『連合艦隊海空戦戦闘詳報別巻1』(アテネ書房 1996年)
    (wikiより)

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    大井(おおい/おほゐ)は、大日本帝国海軍軽巡洋艦球磨型の4番艦。その艦名は、静岡県の中部を流れる大井川から因んで命名された。大井の艦名はローマ字表記(英語表記)にした場合「Oi」と僅か2文字であるため、鵜来型海防艦の伊王と並び、艦名としては世界一短いものだとされている。

    概要
    大井は就役から長らく練習艦として使用された。以降、同型艦の北上と共に改装されたが、太平洋戦争開戦後は航空主兵の流れから艦隊決戦は起こらなかったため、重雷装の発射管を一部撤去して高速輸送艦へ改装され、その後は輸送任務に従事した。

    艦歴
    初期
    大井は1919年11月24日に川崎造船所において起工し[1]、 1920年7月15日(午前6時前後)に進水[2]、 1921年10月3日に竣工した[3]


    1921年10月5日、第二艦隊第四戦隊に編入[5]。12月1日、第一艦隊第三戦隊に編入[5]。1923年12月1日、馬公要港部に編入[5]。1924年12月1日、第一艦隊第三戦隊に編入[5]。1925年12月1日、予備艦となる[5]。1926年12月1日、馬公要港部に編入[5]


    1928年
    12月10日から1937年8月まで、江田島海軍兵学校の練習艦として使用された。


    1937年8月、大井は第二次上海事変の際に中国沿岸の哨戒に当たった。その後、日中戦争の拡大に伴い、大井は中国中部への日本軍部隊の輸送の掩護を行ったが、1937年12月から1939年末までは再び海軍兵学校の練習艦として使用された[6]


    1941年重雷装艦への改装工事を受けた。九三式魚雷の威力を最大限度まで高めるために、4連装魚雷発射管を10基40門を搭載した。これは、重雷装艦による特別夜戦部隊を作るという海軍の計画によるものであった。工事は呉工廠で10月15日から12月30日まで行われたとされるが、重雷装艦としての公試と思われる機関確認運転を12月31日に行った記録がある[7]


    11月20日、「大井」と「北上」で第九戦隊(第一艦隊[5])が編成された[8]

    太平洋戦争緒戦
    1941年12月7日真珠湾攻撃で大井は、広島湾柱島泊地から小笠原諸島まで連合艦隊戦艦の護衛を行った。


    1942年1月12日、連合艦隊参謀長の宇垣纏少将が大井を視察し、重雷装艦を使用した海軍の計画に強い不同意を示し、海軍の戦術の変更を求めた[9]軍令部がこの件について協議している間、大井は1月末から4月半ばまで広島港澎湖諸島馬公の輸送の護衛任務に就いた。


    4月15日に呉に入港し、4月23日から5月9日まで入渠した[8]。この際に13ミリ連装機銃2基が装備された[8]


    5月29日のミッドウェー海戦では北上とともに第一艦隊(司令長官:高須四郎中将)第九戦隊に配属され、無事に横須賀鎮守府に6月17日に帰投した。

    高速輸送艦として
    1942年9月8日、第九戦隊は舞鶴鎮守府第四特別陸戦隊のトラックへの輸送命令を受けた[8]。そのため、「大井」と「北上」は9月10日に横須賀に着き、後部の魚雷発射管4基を陸揚げした[8]。そして、大発動艇2艘、3連装九六式25mm機銃2基、爆雷投下軌条を装備した[10]。9月12日から「大井」と「北上」はトラックへの陸戦隊輸送を行った[11]


    10月末から12月にかけて、部隊や物資をトラックやマニラからニューブリテン島ラバウルブーゲンビル島ブインへ輸送した。この頃、更に4連装魚雷発射管を4基下ろして4基16門とし、大発を増設したとされる[10]。12月24日、大井は呉海軍工廠へ整備のために帰投した[6]


    1943年
    1月12日から、ニューギニアの戦いにおける日本軍の増援作戦に関わった。1月には陸軍第20師団釜山からパラオ経由でニューギニア島ウェワクへ輸送、2月には第41師団青島からウェワクへ輸送した[6]


    3月15日、大井は南西方面艦隊に配属された。4月にスラバヤからニューギニア島カイマナ英語版への輸送船2隻の護衛、5月にスラバヤからアンボン島とカイマナへの輸送船2隻の護衛を行った。


    6月23日、軽巡洋艦4隻(「大井」と「北上」、「鬼怒」、「球磨」)が入港していたマカッサルがダーウィンより発進したアメリカ陸軍航空隊第5空軍第90爆撃団第319爆撃隊の17機のB-24による攻撃を受け、「鬼怒」や「球磨」に被害が生じた[12]。「大井」自体には被害はなかったが、上陸していた「大井」機関長三浦少佐が死亡した[12]


    7月1日より、スラバヤを拠点として警備を行った。ジャワ海の哨戒の後、8月にシンガポールセレター英語版海軍基地で補修を受けた。

    インド洋での活動
    1943年8月末から1944年1月末まで、大井と北上は4個部隊をシンガポールとペナンからインド洋アンダマン諸島ニコバル諸島へ輸送した。


    2月27日から、大井は軽巡洋艦鬼怒、駆逐艦浦波天霧敷波とともにインド洋で通商破壊に従事する重巡洋艦利根筑摩青葉の護衛を行ったが、4月末まではほとんどシンガポール近郊やボルネオ島バリクパパンタラカンにいた。5月は主としてタラカン・パラオ・ソロンの間で部隊の輸送を行った[6]


    6月の渾作戦には赤痢患者発生のため参加できず[13]、復帰後は南西方面艦隊の移転輸送のためスラバヤからマニラへ2度航海[14]。その任務終了後、大井は7月18日にシンガポールへ向けマニラを離れた[15]。だが7月19日、香港の南570海里の南シナ海でアメリカの潜水艦フラッシャー(USS Flasher, SS-249) から発見された。大井が距離1400ヤード(1300m)を通過したところでフラッシャーが艦尾から魚雷を4発発射し、2発が大井の左舷に命中、1発は不発だったがもう1発が大井の機関室で爆発した。フラッシャーはさらに、距離3500ヤードで艦首から4発の魚雷を撃ったが、それは全て外れた。駆逐艦の敷波が大井を曳航しようとしたが、17時25分、北緯13度12分 東経114度52分 / 北緯13.200度 東経114.867度 / 13.200; 114.867の地点において大井は艦尾から沈没した[16]。敷波は大井の柴勝男艦長と368人の大井の乗組員を救助したが、153人が戦死した。

    1944年9月10日、大井は除籍された。

    歴代艦長
    ※『艦長たちの軍艦史』141-143頁、『日本海軍史』第9巻・第10巻の「将官履歴」及び『官報』に基づく。

    艤装員長
    1. 丸尾剛 大佐:1920年9月1日 - 1921年9月20日[17]


    艦長
    1. 丸尾剛 大佐:1921年9月20日[17] - 1922年11月10日[18]

    2. 浜野英次郎 大佐:1922年11月10日[18] - 1923年12月1日

    3. 橋本才輔 大佐:1923年12月1日 - 1924年5月10日

    4. 松下薫 大佐:1924年5月10日 - 1924年12月1日

    5. 枝原百合一 大佐:1924年12月1日 - 1925年5月1日[19]

    6. 東林岩次郎 大佐:1925年5月1日[19] - 1925年11月20日[20]

    7. 秋山虎六 中佐:1925年11月20日 - 1927年11月15日

    8. 日比野正治 大佐:1927年11月15日 - 1928年12月10日

    9. 糟谷宗一 大佐:1928年12月10日 - 1929年4月1日

    10. 片桐英吉 大佐:1929年4月1日 - 1929年11月30日

    11. 塚原二四三 大佐:1929年11月30日 - 1930年12月1日

    12. 岡田偆一 大佐:1930年12月1日 - 1931年4月1日

    13. 新見政一 大佐:1931年4月1日 - 1931年10月15日

    14. 太田泰治 大佐:1931年10月15日 - 1932年12月1日

    15. 山内大蔵 大佐:1932年12月1日 - 1934年6月1日

    16. 平岡粂一 大佐:1934年6月1日 - 1935年11月15日

    17. 山口儀三朗 大佐:1935年11月15日 - 1936年12月1日

    18. 志摩清英 大佐:1936年12月1日 - 1937年12月1日

    19. 安場保雄 大佐:1937年12月1日 - 1939年1月10日

    20. 武田勇 大佐:1939年1月10日 - 1939年11月15日

    21. 殿村千三郎 大佐:1939年11月15日 - 1940年11月15日

    22. 金桝義夫 大佐:1940年11月15日 - 1941年9月1日

    23. 森下信衛 大佐:1941年9月1日 - 1942年4月10日

    24. 成田茂一 大佐:1942年4月10日 -

    25. 長井武夫 大佐:1942年10月3日 -

    26. 相馬信四郎 大佐:1942年12月24日 - 1943年7月23日

    27. 川井繁蔵 大佐:1943年7月23日 - 1944年2月12日

    28. 柴勝男 大佐:1944年2月12日 -

    50 軍艦大井

    軍艦大井

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    球磨(くま[31])は、日本海軍の二等巡洋艦[2](軽巡洋艦)。 球磨型1番艦[4]熊本県を流れる球磨川に因み球磨と命名[32]。 帝国海軍の命名慣例については日本艦船の命名慣例を参照。

    概要
    水雷戦隊の旗艦を担うため球磨は14隻の5500トン型軽巡洋艦(球磨型5隻、長良型6隻、川内型3隻)の最初の艦。


    主砲には14センチ単装砲を7門装備、3番・4番の砲が両舷に分かれて設置されている為、片舷への同時砲撃は6門。1~4番までの4門が前部に5~7番までの3門が後部に配置されている。


    長門型戦艦でさえ竣工時は80,000馬力だった中、完成当初90,000馬力という大出力を活かして36ノットという高速を誇り、14センチ砲を7門・53センチ魚雷連装発射を4基備えた当時としては強武装を誇ったが、建造からかなりの年数が経過していたこともあり、太平洋戦争には改装を経て参加した。

    艦型
    竣工時
    球磨型軽巡洋艦#艦型を参照。前部マスト横桁の位置が多摩などと違いがあり、若干高い位置に設置された[33]

    竣工後
    1924年(大正13年)頃、魚雷戦指揮用の測的所が前部マスト上に設置された[34]

    1929年(昭和4年)から翌年頃に球磨は特別修理を行ったが、この時に3本の煙突のトップに雨水除け装置を装着した[34]。球磨に装着された装置は開発初期のもので煙突のトップが3本共に膨らみが出来た[34]。5,500トン型では他に煙突のトップが膨らみのあるのは木曽の1番煙突、2番煙突のみで、他の同型艦との大きな識別点になった[34]

    近代化改装
    1932年(昭和7年)9月8日から12月1日にかけて球磨は呉海軍工廠[35][36]近代化改装を受けた[37]。主眼の一つは航空兵装の充実で、5番砲と6番砲の間に呉式二号(一型[35][36])射出機を装備し、九〇式水上偵察機1機を搭載した[37]。水偵の揚げ降ろし用に後部マストにデリックが設けられ、後部マストは基部が三脚式になった[37]。また作業用に射出機付近のシェルター甲板が右舷側に拡大された[37]


    艦橋は羅針艦橋の側壁と天蓋が固定式となり、ガラス窓が設置された[37]。また艦橋上に3.5m測距儀が設置され、艦橋の側面左右に見張所が新設された[37]。 上部艦橋平面(羅針艦橋の1甲板下)は後方に拡大されて士官休憩室や作戦室を設置、旗甲板は羅針艦橋レベルに上げられた[38]。 また旗甲板の後方、前部マスト三脚内に無線電信室が新設された[38]。その他に前部マスト中段の測的所の1段上に前部見張所が新設された[38]


    後部マスト三脚部に須式90cm探照灯2基(従来は1基)が装備され、その下に見張所も設置された[36]。 その他に短艇甲板が後方(後部魚雷発射管上)に延長され、長良型・川内型と同様に7番砲まで甲板が続く形になった[38]

    1941年まで
    1935年(昭和10年)11月から翌年2月に3年式機砲を(留式[39])7.7mm機銃に換装した[40]。同時期に友鶴事件による復元性能改善工事と第四艦隊事件による船体補強工事を行い[41]、固定バラスト200トンを搭載した[42]。またボイラーの重油専焼化も行った[41]。この時点(1937年8月5日調査)で公試排水量7,151トン(平均吃水5.670m)、満載排水量7,823トン(平均吃水6.050m)になっていた[42]

    1936年(昭和11年)6月から翌年3月の間に前部マストのトップが短縮された[38]

    1937年(昭和12年)11月から12月に射出機を呉式二号三型に換装した[35]。同時に8cm高角砲2門を25mm機銃連装2基に換装した[40]

    1940年(昭和15年)8月から翌年1月に後部マスト上に装備の90cm探照灯2基を九二式110cm探照灯1基を換装[38]、後部マスト探照灯下にあった見張所が撤去され、その位置に探照灯が下げられた[37][43]

    1941年(昭和16年)夏に舷外電路が設置された[44]

    太平洋戦争時
    ・1942年(昭和17年)夏には14cm砲の上に留式7.7mm機銃を装備した[45]

    1943年(昭和18年)10月23日から11月12日にシンガポールの第101工作部で5番14cm砲、射出機と後部マストのデリックを撤去、後部発射管上に左右舷各1基ずつの25mm3連装機銃を装備した[46]。25mm機銃は3連装2基、連装2基となった[47]

    艦歴
    建造
    球磨は1917年(大正6年)7月31日に製造の訓令が出された[8]。計画時の名称は「第1号中型巡洋艦」[48]。同年8月20日附達で()()と命名される。1918年(大正7年)8月29日佐世保海軍工廠で起工[9]1919年(大正8年)7月14日午前9時進水[49]1920年(大正9年)8月31日に竣工した[11]呉鎮守府[6]

    竣工後
    竣工後すぐにシベリア出兵のためのシベリアへの日本軍の上陸を掩護する任務に就いた。続いて、旅順を拠点として関東州から青島にかけての中国沿岸の哨戒に当たった。


    1920年12月1日、第二艦隊第四戦隊に編入[50]。1921年12月1日、第一艦隊第三戦隊に編入[50]。1923年12月1日、予備艦となる[50]。1926年12月1日、第一艦隊第三戦隊に編入[50]。1927年6月20日、予備艦となる[50]。12月1日、第二遣外艦隊に編入[50]。1928年12月1日、予備艦となる[50]。1930年5月1日、第二遣外艦隊に編入[50]。1932年9月8日、予備艦となる[50]。12月1日、第二艦隊第二潜水戦隊に編入[50]。第二潜水戦隊旗艦となった[51]。1933年11月1日、馬公要港部に編入[50]。1934年11月15日、第三艦隊第十戦隊に編入[50]。1936年12月1日、予備艦となる[50]。1937年11月20日、第四艦隊附属となる[50]。12月1日、第四艦隊第三潜水戦隊に編入[50]。1938年6月20日、第四艦隊第四航空戦隊に編入[50]。 6月26日、第四航空戦隊司令官鮫島具重少将は、第四航空戦隊旗艦を水上機母艦能登呂から球磨に変更した[52]。 8月1日、第四航空戦隊は第十三戦隊に改編される形で解隊された[53]。鮫島少将は第十三戦隊(球磨、第11掃海隊、第2砲艦隊)司令官に補職され[54]、球磨を第十三戦隊旗艦とした[53]。 12月15日、第四艦隊第十二戦隊に編入[50]。1939年11月15日、特別役務艦となる[50]。1940年8月1日、予備艦となる[50]

    フィリピン侵攻
    1941年(昭和16年)4月10日、「球磨」は第三艦隊第十六戦隊に編入された[50]


    太平洋戦争緒戦では軽巡洋艦長良を除いた第十六戦隊は重巡洋艦摩耶、特設水上機母艦讃岐丸、駆逐艦2隻と共に比島部隊主隊としてフィリピン進攻作戦に参加した[55]。主隊の任務はフィリピンのビガン攻略を行なう第二急襲隊の支援であった[56]。「讃岐丸」を除く主隊の球磨、重巡洋艦足柄、摩耶、駆逐艦朝風松風は12月7日に澎湖諸島馬公から出撃[57]。12月10日、主隊はアメリカ海軍第10哨戒航空団のPBYに発見され、続いて哨戒航空団の飛行艇(500ポンド爆弾4発搭載)5機による攻撃を受けたが命中弾はなかった[58]。この後、主隊は碣石湾を経て12月14日に馬公に帰投した[57]


    12月17日、主隊からは駆逐艦2隻が抜け特設水上機母艦山陽丸が加わった[59]。足柄、摩耶と球磨は12月19日に馬公から出撃してリンガエン湾上陸作戦支援にあたり、12月23日に馬公に帰投した[60]


    1942年(昭和17年)1月3日、日本海軍はフィリピン攻略・警備・海上交通保護のため球磨、敷設艦八重山、砲艦隊1隊、特別根拠地隊2隊と附属隊をもって第三南遣艦隊を編成した[61][62]。艦隊の当初の任務は、マニラ湾口の封鎖や、フィリピン各地の制圧・占領であった[61][63]。 第三南遣艦隊令長官に親補された杉山六蔵海軍中将は[61][64]、1月6日に高雄市で球磨に将旗を掲げた[65]。艦隊司令部は1月9日にマニラへ進出、陸上に司令部を置いた[62]。球磨は1月10日に高雄市を出港し[66]、2月27日までフィリピン諸島の哨戒に当たった[67]


    同年3月、球磨は南フィリピンの侵攻の掩護に就き、3月1日にセブ港を砲撃し3月3日にミンダナオ島サンボアンガへの上陸を掩護した。球磨に乗船していた特設鎮守府特別陸戦隊が、抑留されていた80人の日本人を救出した[67]。同時期、日本海軍は第三南遣艦隊を増勢し、2月中旬に水雷艇3隻(13日〈雉・鴻〉、15日〈粟〉)、3月6日に第6駆逐隊()を編入した[63]。 当時、アメリカ軍のコレヒドール要塞は陥落しておらず、日本海軍は日本陸軍の第14軍に協力してフィリピン各地の作戦に従事した[68]。またフィリピン各地の島嶼を占領するため、護衛艦艇として第二水雷戦隊と第四水雷戦隊から駆逐隊が第三南遣艦隊に増強された。


    4月初旬、日本陸軍はビサヤ諸島とミンダナオ島の攻略を企図した[69]。4月5日、川口支隊は第2駆逐隊(第四水雷戦隊)の護衛下でリンガエン湾を出撃した[69]。 4月9日未明、フィリピンタノン海峡南側出口で球磨と水雷艇はアメリカの魚雷艇PT-34およびPT-41英語版と交戦した。PT-34の発射したMk18魚雷英語版8発のうち1発がおそらく球磨に命中したが、爆発しなかった[70]。PT-34は水上機母艦讃岐丸から発進した零式水上観測機により撃沈された[71]


    4月10日[69]、球磨は川口支隊(第2駆逐隊護衛)歩兵第35旅団司令部及び歩兵第124連隊のセブ島上陸を支援した。同日、日本海軍は南方方面を統轄する南西方面艦隊を新編した[72]。第三南遣艦隊も南西方面艦隊の麾下に入った[72]。 4月12日、河村支隊は第24駆逐隊(海風、山風、江風)に護衛されてリンガエン湾を出撃し、パナイ島へむかった[69]。4月16日、球磨は河村支隊(第24駆逐隊護衛)の歩兵第9旅団司令部及び歩兵第41連隊パナイ島への上陸を援護した。 5月6日、球磨は、マニラ湾コレヒドール島のアメリカ軍要塞への最終的な攻撃を援護した。 要塞が陥落してフィリピンの米軍が降伏すると[73]、増援の駆逐隊[68](第2駆逐隊〈村雨五月雨夕立春雨〉、第24駆逐隊〈海風山風江風〉、第15駆逐隊〈親潮黒潮早潮〉)は原隊に復帰してミッドウェー作戦に参加した(フィリピンの戦い)。


    球磨は8月上旬までマニラの哨戒に当たった[67]。 8月7日、マニラを出発、12日にに帰港した[74]呉海軍工廠で整備(8月29日から9月10日まで入渠[75])を行った後、 9月15日呉を出港、9月20日にマニラに到着した[76]

    蘭印・ニューギニアでの活動
    球磨は9月22日にマニラを出港、9月24日香港に着いた[77]。 9月25日附で第三南遣艦隊を除かれ、第16戦隊(第二南遣艦隊所属)に編入される[78][79]。 香港で第38師団を乗船させ (球磨には153名乗船)[80] 万光丸と共に[81] 26日香港を出港、パラオを経由し10月10日にニューブリテン島ラバウル[77]、部隊を下船させた。 球磨は同日ラバウルを出港し[77]バリクパパンを経由[81]、 18日にセレベス島マカッサルに到着し[77]、第16戦隊に合流した[81]


    そして1943年(昭和18年)4月13日までマカッサルでの哨戒と、ラバウルやニューギニア島カイマナ英語版カブイ英語版への増援の輸送を行った[67]。1943年1月9日、アンボン沖で軽巡洋艦名取がアメリカの潜水艦の雷撃で損傷した。その直後、対潜哨戒中であった球磨搭載機が潜航中の潜水艦を発見して爆撃を行い1発が至近弾となったが爆発しなかった[82]。長期間の使用により信管内の火薬が湿ったことが不発の原因であると推定された[82]


    1943年4月28日から5月25日まで、球磨はシンガポールの第101工作部(セレター英語版海軍基地)で整備工事を行い[75]、6月23日まで蘭印諸島周辺の哨戒を行った。


    1943年6月23日、マカッサルで第16戦隊の鬼怒大井北上および球磨はアメリカ第5空軍第319飛行中隊第90爆撃隊(H)のB-24爆撃機17機による攻撃を受けた[67]。翌6月24日、第16戦隊の旗艦は鬼怒から球磨に移され、鬼怒は修理のため日本へ帰投した。球磨は10月23日まで蘭印諸島周辺の哨戒を行った。


    球磨は10月23日よりシンガポールの第101工作部で改装工事を行い、5番(14cm)主砲、射出機とデリックを撤去、25mm3連装機銃2基装備し[46]、25mm機銃は合計で10挺(3連装2基、連装2基)となった[47]。球磨の改装工事は11月12日に完了した[46]

    沈没
    1943年12月31日、ラムリー島がイギリス軍の小規模な部隊による襲撃を受けた[83]。そのため、独立混成第24旅団の一部のメルギーへの輸送が決定され、球磨と重巡洋艦足柄、青葉、駆逐艦浦波が1944年1月3日にシンガポールから出航し、ペナンで陸兵約2000名を乗せ1月6日にメルギーに到着した[83]。また、この機会に航空部隊の雷爆撃訓練が3度実施された[84]。続いて4回目の訓練のため球磨は浦波とともに1月11日にペナンから出航しペラク島沖へと向かった[84]。その途中、ペナン島北西端ムカヘッド岬の270度17カイリで球磨はイギリスの潜水艦タリホーの雷撃に遭った[84]。タリホーは距離1700メートルで7本の魚雷を発射し[85]、雷跡を発見した球磨は取舵一杯で避けようとしたが、11時45分に魚雷2本が命中した[84]。タリホーの発射した魚雷は右舷側から球磨の後部機械室と艦尾の艦長室の前に命中し[85]、11時52分には爆雷のものと思われる爆発が起き、午前11時57分(日本時間)に球磨は北緯05度26分 東経99度52分 / 北緯5.433度 東経99.867度 / 5.433; 99.867で艦尾から沈没していった[84][86]。球磨の杉野修一艦長を含む生存者は浦波により救助されたが、乗員138人が戦死した[87][88]


    球磨は1944年(昭和19年)3月10日に除籍された[5]

    船体の発見と違法サルベージ
    海底の球磨の船体は、2004年3月にオーストラリア人のダイバー・フォトジャーナリスト Kevin Denlayとシンガポールを拠点とする調査船Empressのダイバーたちによって発見された[67]。しかし、2014年になってからマレーシアのサルベージ業者が屑鉄目当てに球磨の残骸の引き揚げ作業を行っている。近海に沈んでいる羽黒も同様の被害に遭っている[89]。サルベージ作業は違法なもので、クレーン船を使って脆くなった船体を部分的に数十トンずつ千切って引き上げ、トンあたり2万円前後で売却された[89]


    詳しいことは、「球磨 (軽巡洋艦)ウィキペディア」をご覧ください。 ⇩
    https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%90%83%E7%A3%A8_(%E8%BB%BD%E5%B7%A1%E6%B4%8B%E8%89%A6)
    (wikiより)

    49 軍艦球磨

    球磨

    49a



    三隈(みくま)は[3]、旧日本海軍重巡洋艦[4]最上型重巡洋艦(二等巡洋艦最上型)の2番艦[5][6]

    概要
    軍艦(ぐんかん)三隈(みくま)は[3]、日本海軍が三菱造船長崎造船所1931年(昭和6年)12月から1935年(昭和10年)8月にかけて建造した巡洋艦[7]。 艦名は大分県日田盆地を流れる三隈川筑後川の一部)に因る[8][9]艦内神社大原八幡宮[10]。 建造時は15.5㎝三連装砲塔5基(計15門)を搭載した二等巡洋艦(軽巡洋艦)だったが[11]太平洋戦争前に主砲を20㎝連装砲塔5基(計10門)に換装し、一等巡洋艦(重巡洋艦)となった[12]


    太平洋戦争開戦時、三隈は最上型4隻の第七戦隊(司令官栗田健男少将)に所属し、南遣艦隊司令長官小沢治三郎中将(馬來部隊指揮官)の指揮下で南方作戦マレー作戦蘭印作戦)に参加[4]1942年(昭和17年)3月1日のバタビヤ沖海戦[13][14]、4月のベンガル湾機動作戦で活躍した[4][15]。 同年6月上旬のミッドウェー作戦ミッドウェー島砲撃作戦に従事中、6月5日夜に姉妹艦最上と衝突[4][14]。同艦および護衛の駆逐艦2隻(朝潮荒潮)と共に退却中、米軍機動部隊艦載機の攻撃を受け[4]6月7日に撃沈された[13][16]


    三隈は太平洋戦争で最初に失われた日本海軍の重巡洋艦となった。艦名は海上自衛隊護衛艦に継承された。

    艦歴
    建造
    日本海軍は艦齢を重ねた旧式艦の代艦を建造することになり、軽巡の場合は最初に4隻(龍田天龍球磨多摩)を以下4隻(最上鈴谷三隈熊野)と置換することにした[17]。 軍艦三隈は1931年(昭和6年)12月24日[7][18]三菱造船長崎造船所(現・三菱重工長崎造船所)にて[19]、計画排水量8,636トン、水線全長190.5m、60口径15.5cm3連装砲塔5基を備えた二等巡洋艦として起工[20][21]電気溶接を多用している[22]


    1932年
    (昭和7年)8月1日、正式に『三隈』と命名された[3]。同日附で姉妹艦『最上』や[3]駆逐艦3隻(初春子日若葉)、水雷艇2隻(千鳥真鶴)、夏島型敷設艇夏島伊六八《伊168》伊六九《伊169》等も命名されている[23]。 各艦は艦艇類別等級表に類別、二等巡洋艦最上型一等駆逐艦初春型千鳥型水雷艇一等潜水艦海大六型等が新設された[24]


    1934年
    (昭和9年)5月31日[25][26]、三隈は米内光政佐世保鎮守府長官や皇族伏見宮博恭王(軍令部総長、昭和天皇名代)が見守る中で進水する[27][28][29]。三隈進水式前日に東郷平八郎元帥が死去したので[28]、伏見宮は予定を早めて帰京、東郷の葬儀に参列した[29]


    6月1日、日本海軍は吉田庸光大佐(当時第7駆逐隊《》司令)を、三隈艤装員長に任命する[30]。 6月14日、艤装員事務所を設置[31]。 翌年5月末の完成を目指して艤装工事が行われていたが[32]藤本喜久雄少将 が設計した千鳥型水雷艇友鶴が転覆する友鶴事件が発生し、藤本の設計による最上型二等巡洋艦の工事も急遽中断された[33]。最上を調査したところ船体推進軸付近や内部構造に破損が見つかり、三隈も補強工事を行う[34]。 7月4日、三隈艤装員長と軽巡洋艦川内艦長を入れ替える人事が行われる(吉田大佐は川内艦長へ。川内艦長鈴木田幸造大佐が三隈艤装員長へ)[35]。なお吉田大佐は11月20日より最上型3番艦鈴谷艤装員長に任命された[36]


    三隈は1935年(昭和10年)8月29日に就役[7][37]。初代の幹部は、鈴木田幸造大佐(艦長)、松田平重朗中佐(副長)、高橋三治少佐(運用長)、中島民部少佐(砲術長)、小原尚少佐(航海長)、桝本要少佐(水雷長)、高内和義少佐(通信長)、指山辰雄機関中佐(機関長)、古河兼義主計少佐(主計長)[38]。同日附で艤装員事務所を撤去[39]。 この時点で基準排水量は1万トンを超えていたが、対外的には8,600トン公表のままだった[11][40]

    太平洋戦争まで
    竣工した三隈は第四艦隊に編入されたが、1ヵ月後の9月26日三陸沖にて第四艦隊事件に遭遇した[41]。 11月15日、三隈は第2予備艦に指定[18]。鈴木田(三隈艦長)は重巡洋艦愛宕艦長に補職[42]武田盛治大佐(当時、重巡衣笠艦長)が三隈艦長として着任する[42]。三隈は11月30日より呉工廠に入渠、修理や調整を行う[18]


    1936年
    (昭和11年)2月5日に出渠、4月1日より第3予備艦となる[18]。12月1日、武田大佐(三隈艦長)は重巡洋艦足柄艦長へ転任、岩越寒季大佐が三隈艦長に任命される[43]


    1937年
    (昭和12年)5月7日から10月31日にかけて呉工廠に入渠[18]。12月1日、最上型巡洋艦からなる新鋭の第七戦隊が編制され、日本海軍は沢本頼雄少将(当時、海軍艦政本部総務部長)を第七戦隊司令官に任命する[44][18]。同日附で、岩越大佐(三隈艦長)は重巡洋艦那智艦長へ転任[44]入船直三郎大佐(当時、海軍砲術学校教頭)が三隈艦長となる[44]


    1938年(昭和13年)11月15日、入船大佐(三隈艦長)は海軍艦政本部総務部第二課長へ転任[45]。練習戦艦比叡艦長平岡粂一大佐は、比叡艦長と三隈艦長の兼務を命じられた[45]。 12月15日附で第七戦隊司令官沢本頼雄中将は軍令部出仕となり、海軍省人事局長清水光美少将が後任の七戦隊司令官に補職[46]。同日附で平岡大佐(比叡艦長)の艦長兼務は、三隈から戦艦日向に変更(平岡の職務は、比叡艦長・日向艦長兼務)[46]阿部孝壮大佐(当時、軽巡天龍艦長)が三隈艦長に任命された[46]

    1939年(昭和14年)5月20日、第七戦隊司令官清水光美少将は第六戦隊(利根筑摩)司令官へ転任[47][48]。第七戦隊の残務処理は第六戦隊司令部でおこなわれる[49]。本艦は第3予備艦に指定された[18]7月20日、阿部大佐(三隈艦長)は重巡妙高艦長へ転任、姉妹艦鈴谷艦長久保九次大佐が、鈴谷艦長と三隈艦長を兼務する[50]。 7月24日附で、当時の三隈砲術長志柿謙吉少佐(後日、空母飛鷹沈没時副長)は上海海軍特別陸戦隊へ転任、後任の三隈砲術長は田代格少佐となる(太平洋戦争開戦時、大本営海軍報道部所属)[51]


    同年11月15日、三川軍一少将(当時、軍令部第二部長)が第七戦隊司令官に任命される[52]。第七戦隊旗艦は「熊野」に指定された[53]。 同日附で、久保九次大佐(鈴谷・三隈艦長兼務)は空母加賀艦長および戦艦霧島艦長の兼務を命じられる[52]。そのため高柳儀八大佐(当時、海軍砲術学校教頭)が鈴谷艦長に、木村進大佐(当時、横須賀海軍工廠航海実験部長)が三隈艦長に、小西要人中佐(当時、潜水母艦迅鯨副長)が三隈副長に、それぞれ任命された[52]。 本艦は特別役務艦となり、主砲換装工事にとりかかる[18]12月30日、5基の15.5cm三連装砲塔を、他の日本軍重巡洋艦と共通する五十口径三年式二〇糎砲(20.3cm連装砲塔)5基に換装する。15.5cm砲は用兵側からの評価が高く、後に砲塔のみ新造して大和型戦艦の副砲や軽巡大淀の主砲に流用している。


    1940年
    (昭和15年)5月1日、工事を終えた三隈は第七戦隊に復帰[18]。10月19日、三隈副長小西要人中佐は第21水雷隊司令へ転任(開戦時の第7駆逐隊司令。第9駆逐隊司令、阿武隈艦長を経て空母雲龍艦長)、山岡昭一中佐(当時、軽巡多摩副長)が三隈副長となる[54]。 11月1日、三川軍一少将(第七戦隊司令官)は金剛型戦艦で編制された第三戦隊司令官へ転任、三川の後任として第四水雷戦隊司令官栗田健男少将が第七戦隊司令官に任命される[55]。同日附で三隈艦長は木村進大佐から崎山釈夫大佐(当時、軽巡阿武隈艦長)に交代した(木村は戦艦榛名艦長に補職)[55]


    1941年
    (昭和16年)8月11日、山岡(三隈副長)は戦艦金剛副長へ転任、高嶋秀夫中佐(当時、軽巡阿武隈副長)が後任の三隈副長となる[56]

    緒戦
    太平洋戦争(大東亜戦争)緒戦において、最上型4隻(熊野[57]、鈴谷[58]、三隈[4]、最上[57])は第七戦隊(司令官栗田健男少将、旗艦熊野)を編成し、南方作戦に投入された[59]。第七戦隊はマレー作戦蘭印作戦に従事し、船団護衛や上陸支援を行う[4][58]1942年(昭和17年)3月1日のバタビア沖海戦において、第七戦隊第2小隊(三隈最上)および同行駆逐艦敷波(第19駆逐隊)は海戦後半になり戦場へ到着、崎山(三隈艦長)は「われ今より敵に止めを刺す」と宣言[60]。共同でアメリカの重巡ヒューストンとオーストラリアの軽巡パースを撃沈した[61][59]。この戦果に対し、連合艦隊司令長官山本五十六大将は後日感状を授与した[62]


    続いて生起したセイロン沖海戦(ベンガル湾通商破壊作戦)では[15]、馬来部隊指揮官小沢治三郎中将(旗艦鳥海)の指揮下、北方隊(熊野、鈴谷、白雲)、中央隊(鳥海、龍驤由良夕霧朝霧)、南方隊(三隈、最上、天霧)という部隊編成で通商破壊作戦に従事する。本艦を含む南方隊は商船約10隻撃沈を記録した[63]。 内地帰投後の5月1日、栗田少将(第七戦隊司令官)は海軍中将に昇進する[64][59]。整備後、5月中旬に内海西部へ移動、訓練に従事した[65]

    ミッドウェー海戦

    詳細は「ミッドウェー海戦」を参照


    1942年(昭和17年)6月上旬に生起したミッドウェー海戦で、三隈は近藤信竹中将指揮する第二艦隊、第七戦隊三番艦として参加し[66]、第七戦隊司令官栗田健男中将を指揮官とする支援隊(輸送船団護衛艦隊。第七戦隊〔第1小隊《熊野、鈴谷》、第2小隊《三隈、最上》〕、第8駆逐隊〔《司令小川莚喜中佐》、朝潮、荒潮〕、給油艦〔日栄丸〕)として行動し[65]、攻略部隊本隊(第二艦隊基幹)とは別行動をとった[67][68]。 5月26日、支援隊はグァム島に到着(本来はサイパン島進出予定)[65]。給油艦2隻(日栄丸、あけぼの丸)は第16駆逐隊(雪風、天津風)に護衛され、サイパン島に進出した[65]。 5月28日夕刻、支援隊はグアム島を出港[69]。29日にミッドウェー島占領部隊(輸送船団、第二水雷戦隊)と合流し、作戦海域へ向かう[70][71]。写真からは1番砲塔の天蓋に日の丸を描いていたのが確認できる。だが30日夜に支援隊は船団を見失い、別行動をとった[69]。輸送船団(護衛部隊指揮官田中頼三少将、第二水雷戦隊司令官)が潜水艦回避のために予定航路を変更したこともあるが[71]、栗田(支援隊指揮官)は輸送船団の位置を確認しようとせず、また6月4日に船団位置判明後も合流する努力をしなかった[69]

    ミッドウェー島砲撃命令
    日本時間6月5日午前7時25-30分、南雲忠一中将指揮する南雲機動部隊の主力空母3隻(赤城加賀蒼龍)はレイモンド・スプルーアンス少将率いるアメリカ軍第16任務部隊第17任務部隊の空母ヨークタウン(USS Yorktown, CV-5)、空母エンタープライズ(USS Enterprise, CV-6)、空母ホーネット(USS Hornet, CV-8)艦載機の攻撃で致命傷を負った[72]。 この時点で日本軍は、試作彗星爆撃機の偵察結果やアメリカ軍搭乗員捕虜の尋問結果からアメリカ軍戦力の正確な情報を得た[73]。主隊の連合艦隊司令部(山本五十六司令長官、宇垣纏参謀長、黒島亀人参謀等、戦艦大和座乗中)は、日本軍3空母被弾時点で健在だった空母飛龍第二航空戦隊司令官山口多聞少将)の攻撃で米空母に損害を与えたのち夜戦に持ち込めば「勝利の望みあり」と判断する[74][75]旗艦・赤城から脱出後、軽巡洋艦長良(第十戦隊旗艦)に移乗していた南雲司令部(南雲中将、草鹿龍之介参謀長)も連合艦隊司令部と同じ認識を持っていた[75][76]


    ここでミッドウェー島飛行場が問題となった[77]。ハワイから増援航空兵力がミッドウェー基地飛行場に飛来し、同島基地飛行隊とアメリカ軍機動部隊により日本軍艦隊が挟み撃ちにされる可能性が生じたのである[78]。宇垣参謀長は南雲艦隊に『ミッドウェーに対する成果、特に敵機が明朝同基地を使用し得るかにつき報告ありたし』と照会するが、南雲司令部からの返答はなかった[79][80]黒島亀人参謀達は夜間のうちに第二艦隊(近藤艦隊)の巡洋艦部隊でミッドウェー島を砲撃することを提案し、宇垣纏参謀長は最初反対したが、最終的に同意した[81]。 日本時間午前10時10分、山本長官は連合艦隊電令作第156号『攻略部隊は一部の兵力を以って今夜AF陸上航空基地砲撃破壊すべし。AF、AO攻略は一時延期す』と発令する[82][80][83]。 三空母炎上および山本長官の命令を受けた前進部隊指揮官近藤信竹中将(第二艦隊司令長官)は[75]栗田健男中将の支援部隊(第七戦隊《熊野鈴谷三隈最上》、第8駆逐隊《荒潮朝潮》)に対し、6月6日夜明け前のミッドウェー島進出と砲撃を命じた[80][84]。 近藤中将(第二艦隊司令部)は、栗田少将の第七戦隊が予定どおり水上艦艇部隊の中で最も前方に進出しており「ミッドウェー島に近い距離にいる」と考えていたが[80][85]、実際にはかなり後方に離れていた(近藤の予想位置より80浬以上遅れていたという)[80][86]。 鈴木正金(中佐・七戦隊首席参謀)は「連合艦隊は空母をやられて血迷ったか」と発言し、山内正規(最上航海長)は「横暴」という表現を使っている[87]。近藤中将は第七戦隊からの報告で同戦隊の正確な位置情報(愛宕の真南120浬。上陸船団のはるか後方)を入手し[83]中島親孝(第二艦隊通信参謀)は『いつもながら困った戦隊である』と述べている[88]。第七戦隊が夜明けまでにミッドウェー島に到着するのは困難と判断した近藤は、暗に連合艦隊に砲撃中止を求めたが、連合艦隊司令部は特に対策を講じず、返信もなかった[83][89]。逆に、ミッドウェー島航空基地制圧を企図して、第七戦隊と伊168潜水艦に基地砲撃命令を出している(後述)[90][91]


    支援隊(第七戦隊、第8駆逐隊)は攻略部隊本隊(第二艦隊)に合流するため針路35度・速力28ノットで航行していた[91]。第二艦隊からの砲撃命令を受け、支援隊はミッドウェー島へ向かって35ノットという最大戦速で南進した[92][93]。栗田指揮官は、第七戦隊の重巡洋艦の突進についてゆけない第8駆逐隊(荒潮、朝潮)を分離[91][94]。同時刻、のちに空母ヨークタウンを撃沈する潜水艦「伊一六八」も、午後5時30分に『伊168は午後11時までミッドウェー(イースタン島)敵航空基地を砲撃すべし。2300以後は第七戦隊とす』という連合艦隊命令を受信している(電令作第159号、22時24分に同島砲撃を敢行)[95][90][91]


    この間、第二航空戦隊司令官山口多聞少将率いる空母飛龍は米空母ヨークタウンに二波の攻撃隊を送り込んで撃破・航行不能としたが、飛龍もまたアメリカ軍機動部隊艦載機の攻撃により被弾して炎上した[80][96]。空母2隻(加賀、蒼龍)は既に沈没し、南雲機動部隊の残存空母2隻(赤城、飛龍)も沈没は時間の問題だった[96]。 日本時間午後9時15分、山本長官はGF機密第303番電で『第七戦隊を含む攻略部隊(第二艦隊)、南雲機動部隊は連合艦隊主力部隊に合同せよ』と命じた[90][97]。事実上のミッドウェー島砲撃中止命令である[98][99]。攻略部隊各部隊は、連合艦隊主力部隊と合流すべく反転した[100][98]。支援隊の場合、ミッドウェー島砲撃可能距離まで、あと2時間程だった[101][102]。日本時間午後11時55分、山本長官はGF電令作第161号で明確にミッドウェー攻略作戦の中止と、各艦隊の撤退を命じた[98][103]。七戦隊の空気は、一般的には「やれやれ」というものだったという[102]

    詳しいことは、「三隈 (重巡洋艦)ウィキペディア」をご覧ください。 ⇩
    https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E9%9A%88_(%E9%87%8D%E5%B7%A1%E6%B4%8B%E8%89%A6)
    (wikiより)
     
    48 軍艦三隈

    三隈

    48a

    48b

    48c



    初鷹(はつたか)は、日本海軍敷設艦(急設網艦)[2][5]初鷹型敷設艦の1番艦[5]。急設網艦に分類する文献もあるが[4]、日本海軍の法令上は敷設艦である[3][5]

    概要
    軍艦初鷹」は1939年(昭和14年)10月に竣工した日本海軍の敷設艦(急設網艦)[23]。艦名は鷹狩りにもちいるに依る[24]潜水艦に対する港湾防御の一つとして防潜網(機雷が付いた網)が開発され、これを短時間で敷設する艦艇が求められた[25]。初鷹型は「白鷹」や燕型敷設艇に続いて完成した急設網艦である[25]。初鷹型は小型軽快で対潜能力も有し、船団護衛任務にも投入された[4][25]


    太平洋戦争開戦時の「初鷹」は南遣艦隊・第九根拠地隊に所属しており、マレー作戦南方作戦)に従事[23]。水路啓開や船団護衛任務に従事した[23]1942年(昭和17年)9月からラバウル方面に進出して、護衛任務・哨戒任務に従事した[23]1944年(昭和19年)中旬以降、再び東南アジア方面での船団護衛・哨戒・機雷敷設任務に従事[23]1945年(昭和20年)5月16日、米潜水艦の雷撃で沈没した[23]

    艦型
    マル3計画艦で、「白鷹」の改良型[4][26]。石炭燃料・レプシロ機関の白鷹型(速力16ノット)に対し、初鷹型(速力20ノット)は石炭・重油混燃(重油節約のため)・タービン機関となった[4][26]。九六式防潜網24組6カイリ分、または九三式一型機雷100個を搭載可能[26]


    先行2隻(初鷹、蒼鷹)は、連装毘式四十粍機銃を艦前部と後部に一基ずつ装備[4][26]。対空・対潜水艦戦闘に対応可能という触れ込みだったが、低性能のため「若鷹」は四十口径三年式八糎高角砲を搭載した[1][4]

    艦歴
    1938年(昭和13年)3月29日、「初鷹」は播磨造船所相生市)で起工[9]。同造船所は、本艦を含む敷設艦複数隻(沖島、初鷹、蒼鷹若鷹)を建造した[4][27]1939年(昭和14年)1月20日、本艦は「初鷹」と命名される[2][28]。同日附で4隻(初鷹、伏見雪風伊号第15潜水艦)はそれぞれ艦艇類別等級表に類別される[3]。 「初鷹」は4月28日、進水[9][29]。同年8月、初鷹艤装員事務所を設置[30]10月31日、竣工[9][31]。同日附で艤装員事務所を撤去する[32]呉鎮守府[31]


    1940年
    (昭和15年)5月1日、呉鎮部隊に編入後、11月15日より第一根拠地隊(第二艦隊)に編入[31]1941年(昭和16年)4月10日、第一根拠地隊(第三艦隊)に編入[31]。同年10月31日、第九根拠地隊(南遣艦隊)に編入[31]


    第九根拠地隊は11月8日に呉を出港し、11月17日に三亞に到着[33]。「初鷹」などは馬来部隊の根拠地部隊として[34]太平洋戦争緒戦ではマレー作戦に参加した。「初鷹」の任務は輸送船護衛、防潜網設置や泊地警戒であった[35]。12月3日、「初鷹」は低速の輸送船「関西丸」と「浅香山丸」を護衛して他より早く三亞から出撃[36]。12月6日に3隻は主船団と合流した[37]。12月7日、船団は目的地ごとに別れ、「初鷹」はシンゴラ・パタニ方面へ向かう船団を護衛した[38]。12月8日、マレー半島のシンゴラ、コタバルなどへの上陸が行われた。続いて第二次マレー上陸作戦が行なわれ、このときは「初鷹」はシンゴラ方面に配置されていた[39]


    1942年1月、「初鷹」は海防艦「占守」などとともにアナンバス基地占領作戦に参加した[40]。攻略部隊は1月24日にプロコンドル島から出撃し、1月26日に占領は完了した[41]。2月、パレンバン攻略作戦に参加。「初鷹」などからなるパレンバン遡行部隊の任務はパレンバン遡行水路啓開などであり、2月15日にムシ川遡行を開始して2月16日にパレンバンに到着し掃海を完了した[42]。次いでシンガポールおよびマラッカ海峡の水路啓開作戦に参加した[43]


    3月は、まず北部スマトラ攻略作戦に参加。「初鷹」は「占守」などとともに第二護衛隊となり、任務はラブハンルク、イヂ方面上陸部隊の護衛であった[44]。第二護衛隊は3月10日にシンガポールから出撃[45]。3月12日上陸は行われ、無血上陸であった[45]。第二護衛隊は3月14日にシンガポールへ向かい[45]、続いてビルマへ陸軍部隊を運ぶ輸送船の護衛に従事した。ビルマ輸送作戦では第二護衛隊は「初鷹」、「占守」、練習巡洋艦「香椎」、駆逐艦4隻などとなった[46]。輸送作戦は3月19日から4月28日まで4次にわたって行われ、馬来部隊は134隻の輸送船を護衛した[47]。なお、4月10日に第二護衛隊は解散され、代わりに彼南根拠地部隊が編成されている[48]

    1942年(昭和17年)9月11日、「初鷹」はシンガポールを出発し、スラバヤやアンボンを経由して9月30日にラバウルニューブリテン島)到着[31][49]カビエンニューアイルランド島)やショートランド泊地およびブインブーゲンビル島)で対潜警戒任務に従事した[31]


    1943年(昭和18年)3月15日、ラバウルを出発し、アンボン、マカッサル、スラバヤを経由して4月4日にシンガポール到着[31]。その後はペナン方面での船団護衛に従事した[31]1944年(昭和19年)8月3日、シンガポール方面で触雷して小破[31]。修理後もシンガポールやペナン方面で補給や船団護衛任務に従事した[31]1945年(昭和20年)5月3日頃、アメリカ潜水艦「ラガート」を撃沈したものと思われる[50]。5月14日、「鳥取丸」護衛中、攻撃してきたアメリカ潜水艦「コビア」に対して爆雷攻撃を行い損害を与えた[51]


    5月16日、船団護衛任務に従事中の「初鷹」はイギリス領マラヤ附近北緯4度49分 東経103度31分 / 北緯4.817度 東経103.517度 / 4.817; 103.517地点で、米潜水艦ホークビル (USS Hawkbill, SS-366) の魚雷攻撃により沈没した[23]8月10日附で「初鷹」は帝国軍艦籍[10]および初鷹型敷設艦[52]のそれぞれから除籍された。

    年表
    1938年3月29日 播磨造船所で起工。

    1939年4月28日 進水。

      ・10月31日 竣工。

    1942年2月26日 第1南遣艦隊第9根拠地隊に編入、以後はペナン、シンガポール方面で主に船団護衛任務。

    1945年5月3日 アメリカ海軍の潜水艦ラガート (Lagarto, SS-371)をタイランド湾(北緯07度55分 東経102度00分)で撃沈。

    1945年5月16日 マレー沖にてアメリカ海軍潜水艦ホークビルの雷撃により戦没。

      ・8月10日、除籍。

    歴代艦長
    ※『艦長たちの軍艦史』212頁、『日本海軍史』第9巻の「将官履歴」に基づく。

    艤装員長
    ・稲垣義龝 大佐:1939年8月1日 -


    艦長
    ・稲垣義龝 大佐:1939年10月31日 - 1939年11月15日[53]

    ・門前鼎 大佐:1939年11月15日 - 1940年10月15日[54]

    ・松下武雄 中佐:1940年10月15日[54] - 1941年8月15日[55]

    ・吉川唯喜 中佐:1941年8月15日 -

    ・土井申二 大佐:1942年12月22日 -

    ・尾崎隆 少佐:1944年10月10日 -

    同型艦
    蒼鷹

    若鷹

    詳しいことは、「初鷹 (急設網艦)ウィキペディア」をご覧ください。 ⇩
    https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%88%9D%E9%B7%B9_(%E6%80%A5%E8%A8%AD%E7%B6%B2%E8%89%A6)
    (wikiより)

    47 軍艦初鷹

    初鷹

    47a



    呉海軍工廠を主体とし艦船修理、小型艦船建造等の技術部隊として、1942年(昭和17年)1月、フィリピンのキャビテ軍港に設置。


    1945年(昭和20年)1月、アメリカ軍の反攻上陸作戦により、工作部200名の本部隊員は、早川第103部隊となり北部山岳地帯に転進。 残余工作部隊員約1500名は、マニラ防衛部隊に編入されて各種武器の製造に従事、マニラ陥落寸前に脱出、東部山岳地帯を転戦したが、食糧事情悪化で部隊は解散した。

    46a



    朝日(あさひ)は、日本海軍戦艦[2]

    概要
    軍艦(ぐんかん)朝日(あさひ)は、日本海軍の戦艦で[3]日露戦争時代の主力艦[2]敷島型戦艦の2番艦である。イギリスで建造され[4][5]、1900年(明治33年)7月末に竣工した[6][7]日露戦争における海上戦闘(黄海海戦日本海海戦等)では、主力艦として参加する[8][9]。 なお旅順港閉塞作戦で戦死した広瀬武夫少佐は、朝日の水雷長であった[10][11]


    1920年(大正10年)9月、朝日は戦艦から海防艦へ類別変更された[7][12]。 1922年(大正12年)4月、ワシントン海軍軍縮条約に伴い、練習特務艦となる[9][13]。後日、潜水艦救難艦に改造される[7][9]1937年(昭和12年)8月、工作艦に類別変更された[7][14]。 工作艦として日中戦争太平洋戦争に参加する。南方作戦が一段落したあとの1942年(昭和17年)5月下旬、シンガポールから日本本土へ帰投中に米潜水艦の魚雷攻撃を受け、沈没した[7]。船籍港は横須賀港。後に呉鎮守府所属[15]


    朝日(旭日)の艦名は[9]本居宣長の和歌の

    敷島のやまと心を人問はば朝日ににほふ山ざくら花


    の歌からと思われる。当時大和は既に艦名として使われていたため敷島に続いて朝日が艦名に選ばれたと推測される[16]

    艦歴
    戦艦として
    1897年(明治30年)度の「第一、二期海軍拡張計画」により第二号甲鉄戦艦として、イギリスのクライド・バンクのジョン・ブラウン社で建造された[17]。 同年10月18日、第二号甲鉄戦艦は「朝日」と命名される[3][18]1898年(明治31年)3月21日、日本海軍は海軍軍艦及び水雷艇類別標準を制定し、1万トン以上の戦艦を一等戦艦と定義する[19]。該当する4隻(富士、八島、敷島、朝日)が一等戦艦に類別された[20][21]。 同年8月18日、朝日はジョン・ブラウン社で起工した[17][22]1899年(明治32年)3月13日、進水[9][22]1900年(明治33年)5月、西洋滞在中の秋山真之広瀬武夫が竣工間際の朝日を見学している[23][24]。 また公試の帰りに座礁する事故があり、竣工が予定より約3カ月遅れたという[25]。 7月31日、朝日は竣工した[9][22]。引き渡し当日にイギリスを出発した[26]。 同年10月23日、朝日は横須賀に到着した[9]。日本海軍としては竣工順で4隻目(富士、八島、敷島、朝日)の近代的戦艦となった[27]


    1902年(明治35年)4月22日、広瀬武夫大尉は朝日水雷長兼分隊長を命じられた[24]。広瀬は『朝日艦の歌』を作った[28]。  1904年(明治37年)からの日露戦争では第一艦隊第一戦隊として[29]旅順口攻撃旅順港閉塞作戦黄海海戦日本海海戦に参加した[9]。日露開戦時の朝日水雷長は、引続き広瀬武夫少佐であった[30]。旅順閉塞作戦では朝日からも決死隊志願者が殺到するなど、本艦を含めて連合艦隊の士気は極めて高かったという[31]。3月27日、広瀬水雷長は閉塞船福井丸を指揮して第二次旅順閉塞作戦に従事して戦死[32]、のちに軍神と謳われた[33][34]。 8月10日の黄海海戦では、発射した弾丸が砲身内で早期爆発する膅発(とうはつ)に見舞われ、主砲の一部が使用不能となった[35]


    1905年(明治38年)5月27日の日本海海戦当日、本艦は第一戦隊(三笠〈連合艦隊司令長官東郷平八郎大将〉、敷島、富士、朝日、春日、日進〈第一戦隊司令官三須宗太郎少将〉、龍田〈通報艦〉)[36]の4番艦であった[37]。 同海戦勝利後の朝日と装甲巡洋艦浅間[38]、降伏したロシア戦艦オリョールの護衛を担当している[39][40]。朝日はオリョールの乗組員を収容した[41]。回航中の5月16日、戦闘で負傷していたオリョール艦長のニコライ・ユーンク大佐が死去、水葬に伏された[42]。またオリョールの浸水が増したため[43]、3隻(朝日、浅間、オリョール)[44] は予定を変更して舞鶴港に入港した[43][45]。 後日、オリョールは戦艦石見と改名された[43][46]


    1905年(明治38年)12月12日、日本海軍は艦艇類別等級表を改定する[47]。戦艦の等級廃止にともない、日本海軍保有の9隻(富士敷島、朝日、三笠石見相模丹後肥前周防)が『戦艦』に類別された[48][49]


    1910年(明治43年)12月、皇族軍人伏見宮博恭王(当時、36歳)は大佐へ昇進するとともに、朝日艦長に任命された[50]。のちに条約派として知られる堀悌吉(当時、海軍大尉)も、朝日分隊長として本艦に勤務していた[51][52]1911年(明治44年)10月中旬以降、明治天皇皇太子(即位前の大正天皇)は愛知県や広島県に行啓する[53]。20日、皇太子は宮島で戦艦富士に乗艦し、以降豊後水道での艦隊演習や佐伯湾大入島視察などの行事をこなす[54][55]。24日、朝日艦長伏見宮博恭王大佐は富士を訪問し、皇太子と昼食を共にした[56]。翌年3月、博恭王は巡洋戦艦伊吹艦長に任命され、朝日を離れた[54]


    第一次世界大戦では1918年(大正7年)に第三艦隊第五戦隊の旗艦として、ウラジオストック方面の警備に従事した。同方面の警備には石見(元オリョール)も加わっている[46]


    1921年(大正10年)9月1日、日露戦争時の主力艦艇は海防艦に類別され、朝日も海防艦(一等)となる[12][57]

    練習特務艦として
    1923年(大正12年)にワシントン軍縮条約により練習艦として保有が許されたので兵装、装甲を撤去し練習特務艦となった[9]。 同年4月1日、3隻(敷島、朝日、須磨)は軍艦籍より除籍された[58]。 艦艇類別等級表からも削除[59][60]。 2隻(敷島、朝日)は練習特務艦に類別された[13][61]1924年(大正13年)7月、海防艦石見(元ボロジノ級戦艦オリョール)が航空機(基地航空隊や空母鳳翔航空隊)の標的として処分されることになった[43][62]。演習海域の三浦半島城ヶ島西方まで、朝日は石見を曳航した[63]。沈まない場合は、駆逐艦浦風による撃沈処分が予定されていた[64]。だが7月9日以降の爆撃実験で大破、石見は沈没した[63]


    このころに第70潜(呂31)、第43潜(呂25)と潜水艦事故が続けて起こった為、1925年(大正14年)に潜水艦救難設備を設置した[65]。これは舷側にブラケットを設置し、これを支点として片舷に沈没潜水艦を位置させ、反対舷に廃潜水艦を置いてワイヤで結び、つるべ式に比較的少ない力で沈没潜水艦を浮上させようという原理だった[2][65]。 改造の際に機関部の改装をおこない、一本煙突となっている[66]。 朝日はに常駐し潜水艦事故に備えていた。


    1927年昭和2年5月19日からは〇一潜水艦を沈没潜水艦を浮揚する際の(沈錘船)として改装し[67]1932年(昭和7年)4月1日に雑役船公称第2929号が登場してからは〇一潜水艦改め公称第2900号を重錘に、公称第2929号を沈没潜水艦に仕立てての潜水艦救難実験・訓練に従事する。


    1937年(昭和12年)5月31日、沈錘船2隻が老朽化したことや、朝日が工作艦へ改装される際に救難設備を撤去することが決まったため、沈錘船は製鋼材料とすることとなった[68]。朝日は工作艦への改装と同時に救難設備を撤去し[65][69]、公称第2900号、公称第2929号は同年6月26日に廃船となった[70]。朝日の救難設備が事故に使用されることはなかった。朝日にかわり、知床型給油艦佐多が潜水艦救難艦に改造された[65]


    また、朝日は1928年(昭和3年)には試製呉式一号射出機を仮装備し、日本海軍で初の射出実験を行った[65][71]。 撤去された前部主砲は、海軍砲術学校の教材として泊浦海岸に据え付けられた[2]

    工作艦として
    工作艦関東1924年(大正13年)12月に座礁放棄されて以降、日本海軍は工作艦を保有していなかった[72][73]。 朝日は1931年(昭和6年)頃に簡単な工作設備を設置した[2][73]1937年(昭和12年)7月には日華事変の勃発により中国での損傷艦が増加、また無条約時代に入っていたので、日本海軍は正式に朝日を工作艦に改造する[65][73]。艦橋前にはダミーの木製30cm砲を装備した[74]呉海軍工廠で改装工事を実施、8月15日に工事を完了した[74]。朝日水雷長広瀬武夫少佐(戦死後、中佐)が使用していた私室は、工作艦に改造後も記念室として残されていたという[11]。 8月16日、海軍は朝日の類別を練習特務艦から工作艦に変更する[14]。 朝日は中国へ進出、主に上海方面で修理任務に従事した[65][75]1939年(昭和14年)11月には、上海方面根拠地隊旗艦となっている[75]


    1940年
    (昭和15年)11月1日、朝日工作部は上海陸上に移り第一海軍工作部と改称したため[65][75](昭和15年11月1日、発足)[76]、朝日は日本へ戻った[75]。 11月15日からは連合艦隊付属となった[77]。新鋭工作艦明石(昭和14年7月竣工)[78] と共に、連合艦隊各艦の故障修理や整備をおこなう[65][79](練習戦艦から戦艦に改装された比叡など)[80]

    詳しいことは、「朝日 (戦艦)ウィキペディア」をご覧ください。 ⇩
    https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%9D%E6%97%A5_(%E6%88%A6%E8%89%A6)
    (wikiより)

    45 工作艦朝日

    朝日

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    ・1942年(昭和17年)12月1日 呉海兵団で仮編成。


    ・1942年(昭和17年)12月5日 横須賀久里浜で開隊。 隊長桝谷亀太郎中尉以下327名で編成され、 25mm連装機銃12基24門、機銃車、四輪駆動車各1台、貨物自動車6台を装備した。


    ・1942年(昭和17年)12月30日 ニューブリテン島ラバウルに進出後、1個小隊をブーゲンビル島ブインに派遣、本隊はサンタイサベル島レガタに転進し、ソロモン方面の対空戦闘に従事した。

    44a



    叢雲(むらくも)[1]は、大日本帝国海軍吹雪型駆逐艦5番艦[2][3]。叢雲の艦名は、帝国海軍の艦船として東雲型駆逐艦・叢雲に続いて2代目である[4]1929年(昭和4年)5月に竣工した。同型5-8番艦は艦名に雲がつき(叢雲、東雲薄雲白雲)、4隻は吹雪型駆逐艦の「雲級」とも呼ばれた[5]1942年(昭和17年)10月、サボ島沖海戦で沈没した重巡洋艦古鷹の乗員捜索後に米軍機の空襲を受けて大破し、雷撃処分された。

    艦歴
    建造から開戦まで
    1927年(昭和2年)4月25日、藤永田造船所で起工された[6]。翌26日、第39号駆逐艦の艦名が与えられた[7][8]1928年(昭和3年)8月1日、叢雲と改名され[9][10]、9月27日に進水[11]1929年(昭和4年)5月10日に竣工した[6]。同型6-8番艦の東雲、白雲、薄雲は前年7月に竣工しており、叢雲が第二艦隊第二水雷戦隊の第12駆逐隊に編入されて雲級4隻が揃った [12]。他の3隻は駆逐隊を転じた時期もあったが[13]、叢雲は太平洋戦争開戦まで第12駆逐隊に所属した[14]


    竣工2か月後の7月9日、第二水雷戦隊が豊後水道で演習中、午後10時頃に駆逐艦望月が叢雲の右舷に衝突した[15][16][17]。叢雲乗員1名が死亡し、2名が負傷した[18]。望月は駆逐艦三日月に、叢雲は白雲に曳航され、呉に帰投した[16]


    1931年(昭和6年)12月1日、東雲が第20駆逐隊に編入し、第12駆逐隊は叢雲、薄雲、白雲となった[19]1934年(昭和9年)6月29日、演習中に駆逐艦の深雪が衝突した。叢雲と駆逐艦初雪が切断された深雪の艦首部分の曳航を試みたが濃霧で見失い、翌日も捜索したが発見できなかった[20][21]


    1935年
    (昭和10年)4月、満州国皇帝の溥儀が戦艦比叡を御召艦として来日することになり、第12駆逐隊が比叡の供奉艦に指定された[22]。第12駆逐隊は比叡を護衛して日本と中国大陸を往復した。9月26日、叢雲は三陸沖で演習中、台風により多数の艦が損傷する第四艦隊事件に遭遇し[23]、甲板などが損傷した[24]。10月10日から呉海軍工廠に入渠した[14]


    1936年(昭和11年)12月1日、東雲が第12駆逐隊に戻って再び4隻体制になった[25]。第12駆逐隊は1937年(昭和12年)12月1日に第二水雷戦隊、1938年(昭和13年)12月15日に第二航空戦隊1940年(昭和15年)5月1日に第一艦隊・第三水雷戦隊に編入された[14][13]。7月以降は第二遣支艦隊に編入され、日中戦争にともなう華中での沿岸作戦、北部仏印進駐作戦などに参加した[26][27]莆田市の興化湾・南日水道で海上封鎖の任務中、薄雲が日本軍機雷に触雷して大破し[13]、叢雲は薄雲を台湾まで曳航した[28][注釈 1]。薄雲は10月15日に第12駆逐隊から除かれ[13][29]、12駆は3隻となった。興化湾に停泊中の叢雲には海賊が度々訪問し、中杉清治艦長や士官が海賊の根拠地を視察するなどの交流があったという[注釈 2][30]。11月3日、叢雲は呉に戻った[31]


    1941年
    (昭和16年)4月下旬から8月上旬まで、内海西部で訓練を実施[32]。8月13日から第12駆逐隊3隻は佐世保海軍工廠で修理と整備を行った[33]。9月12日、叢雲と東雲が次年度に第12駆逐隊として空母 蒼龍飛龍と第二航空戦隊を編制する内示があった[34][35]が、太平洋戦争の開戦で実現しなかった。9月26日、佐世保を出発して瀬戸内海に移動し、訓練に従事した[36]。11月20日、第12駆逐隊の叢雲、東雲、白雲はマレー作戦に参加するため桂島沖を出発した[37][38]

    太平洋戦争
    太平洋戦争開戦時に第12駆逐隊は第三水雷戦隊に所属しており、小沢治三郎中将(南遣艦隊司令長官)指揮下でマレー作戦に従事した[14]12月17日、ボルネオ島攻略作戦に従事していた東雲がセリア附近でオランダ軍飛行艇に空襲され沈没した[39]。叢雲は捜索を行うが乗員は全員戦死し、沈没の痕跡しか確認できなかったという[39][40]。第12駆逐隊は叢雲、白雲の2隻となった[40]南方作戦が一段落した後、軽巡由良や第五水雷戦隊と共に蘭印作戦に参加した[41]

    詳細は「バタビア沖海戦」を参照


    3月1日のバタビア沖海戦で、第12駆逐隊は第五水雷戦隊や重巡三隈、重巡最上、第11駆逐隊(初雪、白雪吹雪)、駆逐艦敷波等と共同し、連合軍艦隊の重巡ヒューストンと軽巡パースを共同で撃沈した[42][43]。東日出夫艦長は軍装を整え、軍刀を持って艦橋に立ち指揮を執ったという[38]。両艦撃沈後の午前3時30分、第12駆逐隊はソワートウェー島西方約5カイリでオランダ海軍駆逐艦エヴェルツェン(エヴェルトセン)を発見、砲撃した[44][45]。エヴェルツェンは煙幕を張り逃走したがセブク島で座礁、放棄された[45][46]。朝、エヴェルツェンを発見した叢雲は装載艇を派遣して無人の艦内を調査し[47]、ビールやジャガイモを見つけて食卓に供したという[38]。調査隊が離艦直後、エヴェルツェンは爆発して失われた[48]


    3月10日、白雲は第20駆逐隊に編入、叢雲は第三水雷戦隊の第11駆逐隊(初雪、白雪、吹雪)に編入された[49]。6月上旬のミッドウェー海戦で、第三水雷戦隊は戦艦大和などの主力部隊に随行した[50]が、叢雲が交戦する機会はなかった。


    7月15日、第11駆逐隊司令に杉野修一大佐が就いた[51]。同月中旬、インド洋方面通商破壊作戦「B作戦」が発動され、第三水雷戦隊など参加艦艇が マレー半島西岸メルギーに招集された[52][53][54]。空母の援護もなく、商船拿捕を目的とした作戦に水雷戦隊の士気は下がったという[55]。8月8日、アメリカ軍がガダルカナル島に上陸したため作戦の中止が決定し、集結した各隊はダバオを経由してトラック泊地やソロモン諸島へ向かった[54]。8月24日、第三水雷戦隊は第八艦隊(司令長官三川軍一中将)・外南洋部隊に編入された[56]。25日、叢雲など第11駆逐隊はラバウルに到着した[57]

    ガダルカナル島の戦い
    8月24-25日の第二次ソロモン海戦でガダルカナル島への輸送船団が撃退された日本軍は、高速の駆逐艦で物資の輸送を行う通称鼠輸送を余儀なくされた[58]。8月28日14時、叢雲と駆逐艦 、駆逐艦弥生と哨戒艇3隻は呉鎮守府第三特別陸戦隊(海軍陸戦隊)約770名を輸送するためラバウルを出撃した[59]。軽巡天龍、第17駆逐隊の浦風谷風が護衛し、29日18時にパプアニューギニアミルン湾ラビ東方で揚陸に成功した[60]。30日、叢雲と浦風、谷風は順次ラビを発ち、それぞれショートランド泊地へ向かった[61]


    9月1日、叢雲と駆逐艦夕立は陸軍川口支隊の舟艇ガ島揚陸作戦(蟻輸送)を支援するため、輸送船2隻(佐渡丸、浅香山丸)を護衛してショートランド泊地を出撃し、途中まで同行した[62]。この大発動艇による輸送作戦は、波浪とアメリカ軍機の襲撃により大損害を出した。 9月4日午前3時30分、夕立隊(夕立、初雪、叢雲)と浦波隊(浦波、敷波、有明)の駆逐艦6隻はショートランド泊地を出撃、同日8時54分には第三水雷戦隊の軽巡川内、駆逐艦涼風、駆逐艦江風、駆逐艦海風がショートランド泊地を出撃、それぞれガ島へ輸送作戦を実施した[63]。作戦と並行して夕立隊はルンガ泊地に突入して飛行場を砲撃、さらに駆逐艦(高速輸送艦グレゴリーリトルを撃沈した[64][65]


    9月7日、涼風、江風、海風、叢雲、初雪はガ島への輸送を実施した[66]。ガ島第十三設営隊長岡村徳長少佐は叢雲に陸軍舟艇機動隊の窮状を伝え、報告を受けた第八艦隊が対応に追われた[67]。 9月10日夜、叢雲、浦波、敷波は遭難した陸軍川口支隊の舟艇を収容するためショートランド泊地を出撃してサボ島〜ガ島方面を捜索、叢雲は収容した陸兵を11日夜にガ島カミンボへ揚陸した[68]。 9月13日、江風、海風、浦波、叢雲、夕立はガ島へ突入するが敵艦隊は発見できず、対地砲撃を実施した[69]。 9月14日深夜、川内と嵐、江風、海風、浦波、敷波、白雪、叢雲はガ島輸送のためショートランド泊地を出撃し、川内と嵐を除く駆逐艦6隻で揚陸を行った[70][71]。 9月18日、嵐、海風、江風、涼風がガ島輸送を実施し、川内と駆逐艦浜風、浦波、白雪、叢雲はガ島砲撃をおこなった[72]。同時期に行われた日本陸軍のガ島総攻撃は失敗し、日本軍は高速輸送船団による大規模な輸送とヘンダーソン基地艦砲射撃を計画した[73]


    10月1日、初雪、白雪、叢雲、吹雪でガ島輸送作戦を実施するが、空襲回避中に初雪が舵故障を起こしたため[74]、残る3隻で陸軍青葉支隊司令部80名、糧食等のガ島輸送を実施した[75]。 10月4日、時雨、吹雪、白雪、叢雲、駆逐艦綾波はガ島輸送を実施した[76][77]。 10月7日朝、水上機母艦日進と駆逐艦6隻(秋月、時雨、吹雪、白雪、叢雲、綾波)はショートランド泊地を出撃したが、天候不良で零式艦上戦闘機の直衛ができず、日進と秋月は帰投し叢雲など5隻でガ島輸送を実施した[78][79]

    沈没
    10月上旬、ガダルカナル島で苦戦する日本陸軍第17軍司令官百武晴吉中将は、「兵員の増援より食糧弾薬こそ必要」と各方面に要請した[80]。そのため車輌・重火器を搭載可能な日進と水上機母艦千歳を輸送作戦に投入し[81][82]、護衛に叢雲、秋月、綾波、朝雲夏雲、白雪の計6隻の駆逐艦が指定された[83][84]。10月11日朝、叢雲など8隻はショートランド泊地を出撃し、ガダルカナル島へ向かった[85][注釈 3]。援護の零式艦上戦闘機のうち6機が日没まで直衛し予定通り海上に着水したが、2名が死亡した[86]。揚陸作戦は成功した[87]


    輸送作戦と並行してヘンダーソン基地艦砲射撃が計画されたが、11日夜のサボ島沖海戦で吹雪と古鷹が沈没した[88]。報告を受けた三川司令長官は、『第六戦隊及駆逐隊は速に突撃 敵を攻撃撃滅すると共に日進、千歳を収容すべし』と指示し、ショートランド泊地の川内など第三水雷戦隊にも日進隊の支援を命じた[89]。日進は10月12日未明、第9駆逐隊の朝雲と夏雲には重巡衣笠と合同して敵艦隊の攻撃を指令し[90]、叢雲と白雪には古鷹乗員の救援を命じた[91][92]。 白雪と叢雲は現場に向かったが古鷹や乗員を発見できず、敵の大型艦を認めて雷撃したが命中しなかった[93]。2隻はヘンダーソン飛行場の空襲圏内から離脱を試みたが夜明けと共にアメリカ軍機の空襲を受け、叢雲は艦尾に被弾してスクリューを喪失し、続いて一番砲塔・魚雷発射管への直撃弾等で上部構造物を破壊され、戦闘不能となった[94][95]。初雪が救援に到着し、東日出夫艦長と本多敏治水雷長以外の乗組員を収容して退避した[94]。朝雲と夏雲が到着したが、夏雲は空襲を受けて沈没し[92]、朝雲が乗組員を救助して避退した[96]


    12日午前7時頃に第三水雷戦隊が日進に合流して護衛し、川内と第19駆逐隊の秋月、綾波が正午頃、叢雲の救援に向かった。16時40分に朝雲、白雪と合流して両艦が叢雲を曳航することになり[89]、日没後に炎上する叢雲を発見した[92]。叢雲に第11駆逐隊司令の杉野が改めて総員退去を命令したが、東は退艦しなかった[97][98]。白雪の菅原六郎艦長が説得に赴き、東を連れ帰った。東は杉野の手を握りしめて泣きながら謝罪していたという[98]。白雪、朝雲は炎上し艦尾が切断された叢雲の曳航を断念し、白雪が雷撃で処分した[92][注釈 4]。米軍が記録した沈没地点南緯08度40分 東経159度20分 / 南緯8.667度 東経159.333度 / -8.667; 159.333。11月15日、叢雲は除籍された[99] [100]。一命を保った東はその後、駆逐艦親潮、駆逐艦花月艦長を歴任し、終戦後は駆逐艦雪風の艦長等で復員業務で活躍した[101][102]

    詳しいことは、「叢雲 (吹雪型駆逐艦)ウィキペディア」をご覧ください。 ⇩
    https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%A2%E9%9B%B2_(%E5%90%B9%E9%9B%AA%E5%9E%8B%E9%A7%86%E9%80%90%E8%89%A6)
    (wikiより)

    43 駆逐艦叢雲

    叢雲

    43b



    天津風(あまつかぜ)は、大日本帝国海軍駆逐艦[1]。 艦名は初代天津風の襲用[2]天を吹く風の意味から[3]

    概要
    一等駆逐艦天津風(あまつかぜ)は、日本海軍が舞鶴海軍工廠1939年(昭和14年)2月から1940年(昭和15年)10月にかけて建造した陽炎型駆逐艦[4][5]。 日本海軍の駆逐艦としては、初代「天津風」(天津風型駆逐艦[2][6]に続いて2代目。 本艦は、陽炎型駆逐艦の9番艦である[7][8]。天津風のみ次世代型駆逐艦島風用の試作機関を搭載していた[9]


    竣工後、第16駆逐隊に所属[10]太平洋戦争開戦以後、同駆逐隊の陽炎型4隻(初風[11]、雪風[12]、天津風[5]、時津風[13])は南方作戦フィリピン攻略戦蘭印作戦スラバヤ沖海戦)、クリスマス島攻略作戦(天津風のみ)、ミッドウェー海戦(輸送船団護衛)、第二次ソロモン海戦等、数々の海戦に参加[10]1942年(昭和17年)8月下旬の第二次ソロモン海戦における第16駆逐隊2隻(天津風、時津風)は[5][13]、重巡利根と共に沈没した空母龍驤を救援。10月下旬の南太平洋海戦における16駆4隻は南雲機動部隊の直衛艦として参戦[5]。 11月中旬、16駆2隻(天津風、雪風)は第三次ソロモン海戦に参加[12]。天津風は夜戦で損傷し、内地に帰投した[5]


    1943年(昭和18年)1月に修理完了[5]、その後は主に輸送船団や艦隊の護衛任務に従事した[5]。姉妹艦浦風と共に行動中の2月中旬、ウェワクからトラック泊地まで白露型駆逐艦春雨を救難するが、曳航中に春雨の船体は断裂した[14]。 同年、第16駆逐隊僚艦時津風(3月4日沈没)[15]初風(11月2日沈没)[16]喪失により、16駆は陽炎型2隻(天津風、雪風)となる[10]。12月上旬より海上護衛総司令部の作戦指揮下に入る[17]


    1944年(昭和19年)1月初頭、第16駆逐隊2隻(天津風、雪風)は空母千歳と共に第一海上護衛隊に所属してヒ31船団を護衛中[18][19]、天津風は1月16日に米潜水艦の雷撃を受けて大破[20][21]。船体の前半部分(艦首〜艦橋)を喪失し、船体後部のみ駆逐艦朝顔に曳航されてサイゴンに到着した[5]。第16駆逐隊は3月31日附で解隊[10][22]。応急修理後の天津風はシンガポールで修理を行う[5]1945年(昭和20年)3月下旬、天津風は仮艦首を装備してヒ88J船団に加わり日本本土へ帰投中、4月上旬にアメリカ軍機の攻撃を受け大破[5]アモイで座礁し、自沈した。戦後、艦名は海上自衛隊護衛艦あまつかぜ」に引き継がれた。

    高温高圧缶の採用
    天津風は後に次世代型駆逐艦島風で採用した高温高圧缶(ボイラー)をテストケースで搭載したことで知られる[23]。他の陽炎型駆逐艦の缶の発生する蒸気は圧力30 kgf/cm² (430 psi)、温度350℃であったが、天津風のそれは圧力40 kgf/cm² (570 psi)、温度400℃であった[24]。高温高圧の缶を採用することで機関はコンパクトになり、燃費も向上する。天津風は全速発揮時1時間1馬力あたり0.305kgの燃料を消費するが、陽炎の消費量に比べて0.040kg少なく、吹雪20 kgf/cm² (280 psi)より0.135kg少なかった[25]。天津風の試作機関は小型の大出力機関を開発するのに必要な技術であった。ただし、天津風の機関出力は他の陽炎型と同じく5万2000馬力に設定され、巡航時の燃料消費量もさほどかわらなかった[23]


    艦歴
    太平洋戦争
    舞鶴海軍工廠1939年(昭和14年)2月14日起工[4]8月25日、天津風(アマツカゼ)と命名された[1]。同時に姉妹艦の時津風も命名された[1]。同日附で3隻(隅田、天津風、時津風)は艦艇類別等級表に類別される[8]


    同年10月19日、天津風は進水。1940年(昭和15年)10月26日に竣工[4]呉鎮守府籍。同年1月27日編制(初代駆逐隊司令島崎利雄大佐)[26]の第16駆逐隊は陽炎型2隻(黒潮、雪風)だったが、2月15日に初風、11月15日に時津風、12月15日に天津風がそれぞれ編入され[10]、それにともない黒潮は11月15日附で第15駆逐隊へ転出した[27]


    1941年(昭和16年)7月25日、島崎司令は軽巡川内艦長へ転任、渋谷紫郎大佐(前職第7駆逐隊司令)が第16駆逐隊新司令として着任した[28]。第16駆逐隊は渋谷司令指揮下のもと、陽炎型4隻(雪風、時津風、天津風、初風)で編成され、第二水雷戦隊に所属して開戦を迎えた[29]。第16駆逐隊はさらに第一小隊(雪風、時津風)、第二小隊(天津風、初風)で構成されていた。第二水雷戦隊(司令官田中頼三少将:旗艦神通)は第8駆逐隊(朝潮荒潮大潮満潮)、第15駆逐隊(親潮黒潮早潮夏潮)、第16駆逐隊、第18駆逐隊(陽炎不知火、《朝潮型駆逐艦:》)から編制されており、15駆・16駆・18駆が陽炎型を主力としていた[30]。だが第18駆逐隊は第一水雷戦隊(司令官大森仙太郎少将:旗艦阿武隈)の指揮下に属して南雲機動部隊警戒隊となり真珠湾攻撃に参加、16駆以下の二水戦各艦とは別行動であった。


    太平洋戦争における天津風の最初の任務は第四航空戦隊(司令官角田覚治少将)空母「龍驤」航空隊の支援であった[31][32]。第二水雷戦隊旗艦神通、初風と共に飛行機帰投線を構成し、12月8日のダバオ空襲を終えて帰投する龍驤航空隊を誘導している[33]。11-12日、第2小隊(天津風、初風)は第五戦隊(重巡妙高那智羽黒)と合流してそれらの直衛艦となり、レガスピー攻略作戦を支援する[34]。16日、パラオに帰投した。 陸軍輸送船団を護衛してパラオを再出撃、12月20日のダバオ攻略作戦において姉妹艦の親潮と共に陸軍輸送船団の護衛を行った[35]。上陸作戦が開始されると天津風は湾内に突入、内火艇を派遣してダバオ市南岸の桟橋一帯掌握を試みる[36][37]。陸軍に先んじて海軍側で桟橋を確保しようという企図で、中国大陸ではよくある事例だったという[32]。だが天津風内火艇は連合軍兵の反撃により危機に陥り、天津風が支援砲戦を開始したところ、ダバオ市内で爆発が発生する[38]。流れ弾がガソリンタンクを破壊したと見られる[39]。この上陸作戦で天津風は小型艇1隻を撃沈、桟橋付近の数十隻を拿捕という戦果を上げ一名の戦死者を出した[40]。のちに陸軍側から抗議されたが、戦時中のため有耶無耶となった[32]。ダバオ占領後は、メナド、ケンダリーアンボン、クーパンの各攻略作戦に参加している。また各地区において、開戦と同時に拘束されていた在フィリピン邦人の救出も行った[41][32]

    詳細は「スラバヤ沖海戦」を参照


    1942年(昭和17年)2月26日、原艦長の回想によれば天津風はスラバヤ方面でオランダの病院船オプテンノールを臨検し拿捕する[42][43]。ただしオランダ側の記録では、26日のオプテンノールはスラバヤ港に停泊中であった[44]。 2月27日、天津風以下第二水雷戦隊はスラバヤ沖海戦に参加して砲戦雷撃戦を行うが、第五戦隊(那智、羽黒)、第二水雷戦隊(神通、雪風、時津風、天津風、初風、江風、山風、潮、漣)、第四水雷戦隊(那珂、村雨、五月雨、夕立、春雨、朝雲、峯雲)各艦が発射した酸素魚雷はほとんど自爆してしまった。戦史叢書では『魚雷爆発尖が鋭敏だった事による早爆説』を採っているが、天津風水雷長は疾走中の魚雷同士が衝突して爆発した可能性を指摘している[45]。戦闘後、天津風はオプテンノールをバンジャルマシン基地へ連行した(天津風水雷長の回想では3月9日拿捕)[46][47]。 これは天津風の独自判断ではなく、第四水雷戦隊・第2駆逐隊(村雨夕立)が臨検していたオプテンノールへの護送を引き継いだだけである[48][49]。後日、オプテンノールは日本海軍に編入され特設病院船天応丸(最終的に第二氷川丸)となった[50][47]。村雨(天津風)によるオプテンノールの臨検・拿捕・抑留そのものは『病院船は戦闘の妨害をしてはならない/重大な事情があり必要なときは病院船を抑留することができる』ため、国際法には違反していないとみられる[51]


    その後天津風は対潜哨戒任務に従事し、3月3日、他艦と共同でアメリカの潜水艦パーチを砲撃により撃沈した[52]。また、当時艦長であった原為一中佐は自著の中で、3月8日に米潜水艦シャークを撃沈したと記述している(アメリカ軍記録と異なる)[53]。3月下旬、クリスマス島攻略作戦に参加[54]。4月1日、物資揚陸中に軽巡那珂がアメリカの潜水艦シーウルフ (USS Seawolf, SS-197) の雷撃で大破、天津風は軽巡名取に曳航される那珂を護衛して帰投した[55]日本軍のクリスマス島占領)。 ミッドウェー作戦では攻略部隊を乗せた輸送船の護衛に当たり、5月28日にサイパンを出撃する[56]。6月4日、アメリカ軍哨戒機の雷撃により輸送船1隻が小破したが、輸送船団が本格的にアメリカ軍と交戦することはなかった[57]。 6月13日、二水戦(神通、初風、雪風、天津風、時津風)はトラックを発ち、21日横須賀へ帰投している[58]。8月1日、第16駆逐隊司令は渋谷大佐から荘司喜一郎大佐に交代した[59]

    ガダルカナル島の戦い

    詳細は「龍驤 (空母)#第二次ソロモン海戦」を参照

    8月7日、アメリカ軍はフロリダ諸島ガダルカナル島に上陸を開始、ガダルカナル島の戦いがはじまった。8月11日、天津風は日本本土を出港してソロモン方面へ進出した[60]第二次ソロモン海戦では、空母龍驤、重巡洋艦利根(第八戦隊)、16駆2隻(天津風、時津風)により機動部隊支隊(陽動部隊)を編制、8月24日に第三艦隊本隊より分離してガダルカナル島へ向かう[61]。同日、龍驤が米空母サラトガ艦載機の攻撃により沈没した。天津風は支隊指揮官(第八戦隊司令官原忠一少将)より龍驤曳航を下令されていたが浸水により実施できなかった[62]。支隊各艦は龍驤乗組員と不時着機搭乗員の救助を行った[63]。 10月11日-12日のサボ島沖海戦時、第16駆逐隊(天津風、雪風)はヌデニ島のグラシオサ湾(サンタクルーズ諸島)を偵察しており、同海戦には参加しなかった[64]。 10月24日-26日、南太平洋海戦に参加。第三艦隊司令長官南雲忠一中将指揮下の機動部隊本隊(第一航空戦隊翔鶴瑞鶴瑞鳳》、重巡《熊野》、第4駆逐隊《舞風》、第16駆逐隊《雪風、初風、時津風、天津風》、第17駆逐隊《浜風》、第61駆逐隊《照月》)を編成。天津風は空母翔鶴の護衛として活動し、不時着した機体から搭乗員13名を救助した[65]

    詳細は「第三次ソロモン海戦#11月13日第1夜戦」を参照


    11月12日、天津風は第十一戦隊司令官阿部弘毅少将の指揮下、挺身攻撃隊(第十一戦隊《比叡霧島》、軽巡洋艦《長良》、第6駆逐隊《》、第16駆逐隊《雪風、天津風》、第61駆逐隊《照月》、第四水雷戦隊〔旗艦《朝雲》、第2駆逐隊《村雨五月雨夕立春雨》、第27駆逐隊《時雨白露夕暮》〕)はガダルカナル島ヘンダーソン飛行場基地砲撃のため出動する。後方警戒に第27駆逐隊を残してルンガ泊地への突入を企図したが、アメリカ軍巡洋艦部隊に迎撃されてしまう。大混戦となった第三次ソロモン海戦第一夜戦では、雷撃により少なくとも駆逐艦バートンを撃沈した[66][67][68]。続いて探照灯を照射して米艦隊を砲撃したが[注 1]、逆に目標とされて被弾[69]。第二缶室に被弾・浸水して左舷に14度傾斜、艦上部構造物にも多数の命中弾があり、戦死者45名、負傷者31名を出した[70]。この際、舵故障を起こすも応急人力操舵で鉄底海峡からの離脱に成功している[71]。司令部からは沈没したと思われており、艦隊と合流すると祝福の通信があったという[72]。 一連の戦闘で天津風も砲弾151発(残745発)、魚雷16本(残0本)を発射し、巡洋艦1隻・輸送船1隻轟沈、巡洋艦1隻・魚雷艇1隻大破確実を報告した[73]。トラックに帰投後は工作艦明石に接舷して応急修理を行なったのち、単艦で日本本土へ帰投[74]。12月20日、呉軍港に帰還し翌年1月まで呉工廠で修理が行われた。


    1943年(昭和18年)1月10日、第16駆逐隊僚艦2隻(初風、時津風)は第6次ガダルカナル島輸送作戦に参加したが、アメリカ軍魚雷艇の襲撃で姉妹艦の初風が大破、長期修理となった[11]。 1月26日、天津風の修理完成[5]。2月4-5日、天津風と重巡鈴谷は内地を出撃[10][75]。2月10日、トラック諸島へ進出した[76]。以降はトラックを中心に各地への船団護衛に従事した。

    2月15日、天津風と第17駆逐隊の姉妹艦浦風は空母瑞鳳飛行機隊基地員180名と各種物資をパプアニューギニアウェワクへ輸送すべくトラック泊地を出発、17日に到着して任務を終えた[14][77]。 帰路、2隻および救難船兼曳船雄島は、1月24日にウエワクでアメリカの潜水艦ワフー (USS Wahoo, SS-238)の雷撃で大破した駆逐艦春雨(第2駆逐隊)をトラック諸島まで曳航することになった[78][79]。 19日、天津風と春雨を結ぶ曳航索が切断され、春雨曳航は浦風が担当することになった[80]。21日、悪天候により春雨の艦橋部より前部が分断されて水中につかり、船体切断を余儀なくされる[81]。23日、4隻はトラック泊地に到着し、春雨は工作艦明石による修理を受けた[82]


    天津風が護衛任務従事中の3月3日パプアニューギニア方面でビスマルク海海戦が生起、姉妹艦時津風が沈没した[13](4月1日附で第16駆逐隊より除籍)[10][15]。第16駆逐隊は3隻(初風、雪風、天津風)となる[15]

    3月31日、「天津風」は姉妹艦「谷風」(第17駆逐隊)と共に南東方面部隊に編入された[83]。「天津風」はハンサ、ウエワクパラオへの輸送任務に従事した[5]


    4月以降「天津風」は以下のような輸送船団護衛に従事した。


    ・第二次ハンサ輸送 - 独立工兵3個連隊と第二十師団の一部のハンサ湾[84]への輸送で、駆逐艦「谷風」、「第二十六号駆潜艇」、「第三十四号駆潜艇」とともに輸送船6隻[85]を護衛[86]。船団は4月6日にパラオから出発し、4月12日にハンサ湾に到着[87]。同日、爆撃を受けて輸送船「しどにい丸」が被弾し擱坐した[88]。翌日は悪天候のため揚陸作業は打ち切られ、「天津風」は「第三十四号駆潜艇」とともに輸送船2隻[89]を護衛してパラオへ向かった[87]。他はウェワクへ向かい、残りの物件を揚陸した[87]


    ・第三次ウェワク輸送 - 第四十一師団歩兵第二百三十七連隊などのウェワクへの輸送で、駆逐艦「浦風」、「第二十六号駆潜艇」、「第三十四号駆潜艇」とともに輸送船5隻[90]を護衛[87]。4月26日にパラオから出発し、5月1日にウェワク到着[87]。同日揚陸を完了しパラオへ向かった[87]


    ・第四次ウェワク輸送 - 野戦高射砲第六十二大隊などのウェワクへの輸送で、「浦風」、「第三十四号駆潜艇」とともに「新玉丸」ほか輸送船4隻を護衛[91]。5月8日にパラオから出発し、5月13日にウェワクに到着して揚陸し、5月17日にパラオに帰投[91]


    ・第三次ハンサ輸送 - 第二十師団歩兵第七十八連隊第一大隊、野戦高射砲第六十三大隊などのハンサ湾への輸送で、「浦風」とともに輸送船3隻を護衛[92]。5月23日にパラオから出発し、5月28日にハンサ湾に到着[91]。翌日揚陸完了し、6月3日にパラオに帰投[91]


    ・第四次ハンサ輸送 - 歩兵第七十八連隊主力などのハンサ湾への輸送で、「浦風」とともに輸送船5隻[93]を護衛[94]。6月21日にパラオから出発し、6月27日にハンサ湾に到着[94]。同日中に揚陸完了し、7月2日にパラオに帰投[94]


    ・第六次ウェワク輸送 - 「浦風」、「白鷹」とともに輸送船3隻[95]を護衛して7月6日にウェワクに到着[94]。帰路、輸送船「東豊丸」が故障のため航行不能となり「天津風」が曳航した[94]


    この間の5月1日、第16駆逐隊司令は荘司大佐(5月20日附で軽巡川内艦長)から鳥居威美大佐に交代した[96]。 7月下旬、陽炎型2隻(天津風、浦風)は重巡青葉、給糧艦伊良湖を護衛して内地へ帰投する[97]。8月1日、4隻は呉に到着した[98]。整備、補給、乗組員の休養を行う。


    8月17日、主力部隊(戦艦3隻《大和長門扶桑》、空母《大鷹[99]、巡洋艦3隻《愛宕高雄能代》、駆逐艦部隊《涼風海風秋雲夕雲若月、天津風、初風》)として呉を出撃し、23日トラックへ進出[100][101]


    9月、第16駆逐隊(天津風、初風)は、第三水雷戦隊、第10駆逐隊、第17駆逐隊(磯風松風《臨時編入》)と共にコロンバンガラ島守備隊救出作戦(「セ」号作戦)を支援する[102]。 11月1日、軽巡阿賀野(第十戦隊旗艦)、麾下駆逐艦(初風、若月、涼月、長波)等は第一航空戦隊(翔鶴、瑞鶴、瑞鳳)の基地物件をラバウルへ輸送した[103][104]。11月2日、駆逐艦3隻(天津風、島風)はタンカー2隻(日章丸、日栄丸)を護衛してトラックを出発、ラバウルへ向かった[105]。だが日章丸は空襲により損傷、島風は日栄丸を護衛してラバウルへ向かった[106]。2隻(天津風、日章丸)はトラックへ戻った[107]


    この時、ラバウル方面ではブーゲンビル島沖海戦が生起、軽巡川内が沈没し、十戦隊からは初風が沈没した[10][11]。初風は翌年1月15日附で除籍され、第16駆逐隊は2隻(天津風、雪風)に減少した[10][16]


    12月3日、軽空母千歳、第16駆逐隊(天津風、雪風)は第三艦隊より海上護衛総司令部(司令長官及川古志郎大将)へ臨時編入され、附属部隊となった[17][108]。12月6日附で第16駆逐隊司令は鳥居大佐から古川文次大佐に交代[109]。 12月7日、3隻(千歳、天津風、雪風)は船団2隻(伊良湖、靖国丸)を護衛してトラック泊地を出発[110]、14日に横須賀へ帰投した[111][112]。12月16日、3隻(千歳、天津風、雪風)は呉鎮守府司令長官の指揮下に入る[113]。翌日、呉に到着した[114]

    船体断裂
    1944年(昭和19年)1月4日[20]、3隻(千歳、天津風、雪風)は呉鎮守府部隊より除かれ[115]第一海上護衛隊の指揮下に入り高速石油船団(ヒ船団)の護衛に投入される[116][117]。 1月11日門司を出港、3隻(空母《千歳》、駆逐艦《天津風、雪風》)は『ヒ31船団』[19][118](運航指揮官細谷資彦大佐。御宝山丸、厳島丸、北陸丸、建川丸)を護衛しシンガポールに向かう[20][119]。天津風には第16駆逐隊司令古川文次大佐が乗艦していた。 1月16日夕刻、本艦は南シナ海で浮上していたアメリカの潜水艦レッドフィン (USS Redfin, SS/SSR/AGSS-272) を発見した[120]。天津風は単艦で追撃・砲撃を行うも、船団護衛に戻ろうと左に転舵したところレッドフィンの雷撃に遭った[121][122]。 被雷地点北緯14度40分 東経113度50分 / 北緯14.667度 東経113.833度 / 14.667; 113.833[21][123]。 魚雷1本が左舷1番煙突直下に命中して第一罐室は全滅、荒れた天候のため前後に船体切断、艦橋を含む前部船体を喪失し、艦後部は応急処置に成功して沈没を免れたが後部缶室に浸水したため、残り1基のボイラーも停止して航行不能となる[122]。古川大佐を含む船体前部乗組員34名は船体後部へ泳いで合流しようとしたが、水雷長・航海長・下士官1名以外行方不明となり田中正雄艦長は切断前に後部へ移動しており無事だった[124][122]。 戦死者は86名(第16駆逐隊司令、砲術長、便乗者含む)[125]。 天津風は直ちに救援緊急電を発信したが、艦橋を失って海図がないため被雷位置が100浬ずれており、友軍捜索機に発見されなかった[126]。一週間ほど漂流[20][125]。やむを得ず天津風より電波を発射して高雄市-マニラ-サイゴン無線所による方位測定をおこない[127]、1月23日になって第705海軍航空隊所属の一式陸上攻撃機に『後部』を発見される[128]。航空隊の誘導により駆逐艦朝顔、第十九号駆潜艇が到着し[129][130]、朝顔の曳航によりサンジャックを経由して1月30日サイゴンに入港した[131]


    2月5日、3隻(千歳、天津風、雪風)は第一海上護衛隊より除かれ[132]、7日には海上護衛総司令部の作戦指揮下を離れた[133]。 3月31日をもって第16駆逐隊は解隊[10]、雪風は陽炎型(不知火型)4隻(浦風磯風浜風谷風)編制の第17駆逐隊に編入された[134][22]。 天津風は11月8日までサイゴンで応急修理に従事した[131]。天津風の修理中に生起したマリアナ沖海戦レイテ沖海戦多号作戦で日本海軍は事実上壊滅し、不知火型の残存艦も4隻(雪風、天津風、磯風、浜風)を残すのみとなった。

    11月15日よりシンガポールの第101工作部で、1945年(昭和20年)1月まで修理を行う[24]。修理内容は切断箇所から先に仮艦首を建造・装着して、その上に仮設の操舵艦橋と前部マストが設置された[135]。これにより後部主砲2基の戦闘能力を取戻し、さらに13mm単装機銃3門と25mm単装機銃2門を増設、主ボイラー1基の復旧により20ノット強の速力が出せるようになった[136]。その一方で本来の艦橋を喪失した事で、射撃指揮装置となる方位盤が無い為に砲側で照準・射撃を行う他無く、実際の砲撃力は4分の1以下と見るべきであった。また、水測兵器も使えず目視に依る見張に頼るしかなくなり、爆雷も全くの目算で投下するより他なかった[137]。応急修理後の船型は第一罐室以前を失った為に第一煙突後部にあった魚雷発射管のところに艦橋を仮設、そのすぐ前方が仮艦首となり全長は72.4mとなった[138]。この応急艦首は15ノットで航行していても30ノットのような凄い艦首波が発生する錯覚効果を産み、これに依り的針・的速を見誤らせる効果が起り、後に潜水艦の雷撃が回避運動を行う必要が無い程前方を通過する事が何度も起った[139]。日本海軍は高性能の機関を搭載した天津風の本国修理を決定し、既に艦首と罐が舞鶴海軍工廠で製造中との連絡が入る[24]第十方面艦隊司令長官福留繁中将は天津風が日本に辿りつけるか懸念してシンガポールに残ることを薦めたが、新たに就任した森田艦長は内地での修理を決意した[136]

    詳しいことは、「天津風 (陽炎型駆逐艦)ウィキペディア」をご覧ください。 ⇩
    https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E6%B4%A5%E9%A2%A8_(%E9%99%BD%E7%82%8E%E5%9E%8B%E9%A7%86%E9%80%90%E8%89%A6)
    (wikiより)

    42 駆逐艦天津風

    天津風

    42a



    本慰霊碑は大東亜戦争に於いて第三十一潜水艦基地隊員としてフィリピンに出撃し赫々たる戦果を揚げ戦没せる将兵の霊を慰めると共にその武勲を末永く後世に伝える為戦友と遺家族が協力して建立す。

    41a



    明石(あかし)は、日本海軍唯一の新造工作艦[25]。艦名は兵庫県明石市の名所、明石の浦にちなみ、明治中期の防護巡洋艦明石に続いて2代目[26]アメリカ海軍の工作艦『メデューサ (USS Medusa, AR-1)』並みの修理能力を持つ特務艦として建造された[27]。 艦内神社は柿本神社 (明石市)及び明石神社

    計画
    1924年に商船改造の工作艦関東が沈没して以降、長らく新型工作艦建造が熱望されていたが、予算難から中々実現しなかった。当時の日本海軍が運用する最大の工作艦は、日露戦争で活躍した敷島型戦艦朝日を改装したものであった[28]。このような状況下、昭和6年度(1931年)に10,000トン型(計画番号J2)1隻整備の構想が提出され、新型工作艦(J2c)の建造は1934年(昭和9年)[29]の『マル2計画』[3]でようやく承認された。


    日本海軍では本格的な工作艦の建造経験がなかったので、アメリカ海軍やイギリス海軍の工作艦などに関する発表論文等を詳細に調べ、設計に際しての参考としたという[30]。 1934年頃の商議での当初の要求は、基準排水量約10,000トン、速力18ノット、12.7cm高角砲4門、対空機銃4挺以上、航続力14ノットで8,000カイリであった[30]。 工作能力は米工作艦「メデューサ」程度、補給無しで3カ月間活動可能を目途とし、1936年4月に艦型が決定した[31]

    艦型
    専従艦種として建造されたため、艦内に17ある工場[注釈 4]には海軍工廠にすら配備していないドイツ工作機械など最新[32]の114台[注釈 5](144台[要出典])が設置されていた。そのため修理能力は非常に優れ、連合艦隊の平時年間修理量35万工数の約40%を処理できる計算であり[33]、文字通り『移動する海軍工廠』であった。小倉竜朗技術大尉(明石造船主任)は「あらゆる修理工事が可能だった」と回想している[27]


    船体は平甲板型として艦内の工場面積を稼ぐと共に、上甲板に構造物をなるべく置かず、露天作業場の面積を確保した[33]。 上甲板に設置された作業用の電動デリック(クレーン)は、前部マストに10トン1台、艦橋後壁の両舷に5トン1台ずつ、後部マストに揚艇用を兼ねて10トン1台、中央部右舷に23トン1台の計5台を配置した[21]。 また艦内の工場にも第1機械工場に3トン天井クレーン、第1鋳造工場に5トン天井クレーン、鍛冶および鈑金工場に3トンジブクレーンがそれぞれ1台設置された[34]。 煙突は2本あり、後部は主機であるディーゼル機関の排気用の消音器2本と補助缶煙突1本を1つにまとめたもの、前部は艦内各工場からの排気用だった[19][注釈 6]

    自衛用の武装として、艦首尾甲板に12.7cm連装高角砲各1基計4門を装備、その他に艦橋直後のシェルター甲板上に25mm連装機銃を左右1基ずつ装備した[19][注釈 7]


    明石には艦自体の乗員のほか、工作に従事する工作部員(造船科員、機関科員、海軍技師[18])も乗艦していた。

    艦歴
    1936年(昭和11年)10月22日、明石、駆逐艦朝雲山雲の3隻にそれぞれ艦名が与えられた[25]1937年(昭和12年)1月18日に佐世保工廠にて起工、1938年(昭和12年)6月29日進水、1939年(昭和13年)7月31日竣工[22]呉鎮守府籍、連合艦隊付属となった。


    1940年(昭和15年)10月11日、紀元二千六百年特別観艦式に参加している。その際、呉への帰途で艦名の由来となった兵庫県明石市に停泊しており、当時の明石市長であった青木雷三郎らの表敬を受けている[35][36]

    太平洋戦争
    太平洋戦争の開戦と同時に南方に進出すると、工作艦朝日等と艦艇修理任務に従事する。当時の日本海軍が保有していた工作艦は、明石、朝日および特設工作艦松栄丸、山彦丸の4隻で、のちに特設工作艦浦山丸、八海丸、山霜丸、白沙が就役した[27]パラオ諸島、フィリピンダバオスラウェシ島のスターリング湾[37]モルッカ諸島アンボン[38]など、南洋の各地を駆け回り多くの艦を修理した。だが、朝日は1942年(昭和17年)5月26日に米潜水艦サーモンの雷撃で沈没した。6月上旬のミッドウェー海戦では、近藤信竹中将指揮下の攻略部隊(旗艦愛宕)に所属していた[39]。同海戦での大敗後、明石はトラック泊地において大破した重巡最上に仮艦首を装着する修理をおこなう。8月5日、最上、明石は第16駆逐隊(雪風[要出典]時津風)に護衛されて内地へ帰投、8月11日に呉へ到着した[40]


    8月18日、明石は豊後水道を通過[41]、日本本土を離れ8月23日トラック島へ到着する。進出直後の8月28日には、第二次ソロモン海戦で中破した軽巡神通の修理を行った[42]。以後、同泊地を拠点にして修理・工作に従事する。戦艦大和、空母大鷹、重巡青葉、軽巡阿賀野、駆逐艦春雨秋月等々、あらゆる艦種・艦艇の修理に従事した。くわえて第四工作部は3000トンの浮きドックを所有しており、小型艦の修理に役立った[27]。これらの整備・補修能力の高さから、明石はアメリカ海軍から『最重要攻撃目標』としてマークされるほどであった[27][注釈 8]9月9日朝、駆逐艦秋風がトラック泊地に接近する空母雲鷹を米潜水艦と誤認して対潜警報を発令、戦艦大和、練習巡洋艦香取以下、トラック在泊艦艇が一斉に停泊地を変更する騒動が起きる[43][44]。この時点で、明石は既に3隻の損傷艦を横抱きにして修理していたという[44]

    詳細は「トラック島空襲」を参照


    1944年(昭和19年)2月17日、明石は米機動部隊(第38任務部隊)のトラック島空襲に遭遇した。空襲を受け爆弾1発が命中したが、不発弾のため損傷は軽微であった[45][46]。ただし、同空襲で駆逐艦追風が撃沈された際、追風に収容中の本艦乗員数十名(もとは内地回航中の軽巡阿賀野に便乗していて同艦沈没時に追風が救助)が戦死している[45]。その後、明石と標的艦波勝は駆逐艦秋風(第三水雷戦隊)、藤波(第二水雷戦隊)に護衛され19日-20日トラックを出港[47]、21日にはトラックから脱出していた第27駆逐隊春雨が合流した[48]、明石船団は24日パラオ諸島へ到着した[49][50]。同地で、第三水雷戦隊の駆逐艦夕月水無月[51]、トラック島空襲で損傷した27駆の時雨、さらに空襲以前にトラックから退避していた連合艦隊戦艦重巡洋艦水雷戦隊部隊と合流した。

    詳細は「パラオ大空襲」を参照


    1944年(昭和19年)3月30日、アメリカ軍の第58任務部隊パラオ大空襲を敢行した。連合艦隊の主力(戦艦武蔵等)は事前に退避しており、泊地に取り残されていた明石以下多数の補助艦艇や商船は次々に撃沈されていった。マラカル島ウルクターブル諸島の間に避泊する明石の周囲には、安宅丸、勝栄丸、吉備丸、第3玉圜丸、昭和丸といった特設掃海艇駆潜艇が停泊していた[52]。当時乗り組みの造船官の記憶によると「朝からの空襲により、昼頃に高角砲が故障、その間に500ポンド爆弾と思われる1発が命中して火災が発生、その後も次々と爆弾が命中したという[53]。被弾した明石は夕刻になると激しく炎上し[54]、闇夜に浮かび上がっていた[55]。周囲の掃海艇が明石に接舷して消火に協力するが、重油タンクにも引火、消火の見込みがなくなる[56]。ここに至って明石は放棄され、御真影や生存者は周囲の小型艇に収容された[54][57]。」


    明石の喪失は、南方における日本海軍の艦艇修理の要が失われた事を意味した。海軍は特設測量艦白沙(6,800トン)を改造し[58]、5月1日附で特設工作艦とする[59]。白沙はシンガポールに配備されたが、その能力は明石に劣った。このため南方で損傷した艦の修理に際しては、設備の整った内地への帰還を余儀なくされる。

    同年5月10日、明石は帝国特務艦籍より除籍された[6]1954年(昭和29年)、大破着底した明石の解体処分が完了した[5]

    艦長
    艤装員長
    1. 森良造 大佐:1938年12月15日[60] - 1939年6月15日[61]

    特務艦長
    1. 森良造 大佐:1939年6月15日[61] - 1939年11月1日[62]

    2. 宮里秀徳 大佐:1939年11月1日[62] - 1940年7月15日[63]

    3. 伊藤義一 大佐:1940年7月15日[63] - 1941年9月25日[64]

    4. 福沢常吉 大佐:1941年9月25日[64] - 1942年9月12日[65]

    5. 江口松郎 大佐:1942年9月12日[65] - 1943年10月21日[66]

    5. 亀山峯五郎 大佐:1943年10月21日[66] - 1944年4月15日[67]

    詳しいことは、「明石 (工作艦)ウィキペディア」をご覧ください。 ⇩
    https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%8E%E7%9F%B3_(%E5%B7%A5%E4%BD%9C%E8%89%A6)
    (wikiより)

    40 工作船明石

    明石

    40a



    鵜来型海防艦(うくるがたかいぼうかん)は、大日本帝国海軍太平洋戦争において運用した海防艦のひとつ。主に船団護衛に用いられた。基本計画番号はE20b、日振型海防艦の準同型艦である。日振型からの振り替えにより、1944年昭和19年)から1945年(昭和20年)にかけて同型艦20隻が就役している。

    戦後ネームシップ以下4隻が従来の艦名に丸を付けた定点観測船を経て、1954年から海上保安庁おじか型巡視船として再就役した。

    概要
    日本海軍は、択捉型海防艦以降、対潜対空性能および量産性を重視した海防艦を建造しようとしていたが、御蔵型海防艦は、戦時急造を要する護衛艦としてはまだ工数が多く量産性に欠けるものであった。本型は、日振型海防艦とほぼ同型の艦であり、各所の構造が大幅に簡易化、従来の曲面部分を平面化するなど簡略設計がなされ、量産性に優れている。日振型との差異は、単艦式大型掃海具を装備せず、三式爆雷投射機を片舷8基(計16基)搭載し、投下軌条2基と合わせて対潜攻撃能力が大幅に向上していることにある。総合的にみて、日本海軍が大戦中に建造した海防艦のうち、生産性、攻撃力など、もっともバランスのとれた艦であり、就役した海防艦中、喪失率の低かった艦級でもある。


    艦政本部4部の遠山光一海軍技術中佐(後の日本鋼管副社長)指揮の下、当初、日本鋼管浦賀船渠が中心となって建造にあたった。のちに日本鋼管が丙型海防艦の増産対応に移ったため、残りの建造計画は、三井造船佐世保海軍工廠が担当した。ネームシップの鵜来は、遠山中佐と魚住順治海軍少佐(艦政本部5部員、後に海上自衛隊海将、日本鋼管顧問)、日本鋼管鶴見造船所技師の石井利雄海軍中尉が、艦政本部の設計図をもとに量産化に向けて一層の工数削減を試みながら、艦の性能を低下させないよう苦心して建造された。日本初のブロック工法により建造された艦艇であり、現代の造船手法の先駆的な功績を残した艦といえる。本艦級のプロトタイプは、艦政本部と日本鋼管の技師たちがとくに力を入れて建造にあたり、日本鋼管で建造された鵜来以下4隻は、奇跡的に大戦を生き抜いている(うち二番艦沖縄1隻のみ大破着底ののち、終戦解体)。


    甲板12センチ高角砲の単装砲塔を備え、後部甲板に防盾なしの12センチ連装高角砲を備えている。

    同型艦
    鵜来(うくる) - 1944年(昭和19年)6月5日竣工(日本鋼管鶴見造船所)。ネームシップ。連合艦隊泊地演習に利用していた高知県宿毛湾鵜来島の名から命名された。日本海で行動中に終戦を迎える。掃海艦、1947年(昭和22年)11月1日より定点気象観測船任務の後、1954年(昭和29年)1月1日付で海上保安庁に所管替えとなり[2]巡視船さつまとなる。1965年(昭和40年)解役となった。


    沖縄
    (おきなわ) - 1944年(昭和19年)8月16日竣工(日本鋼管鶴見造船所)。1945年(昭和20年)6月19日、富山湾沖にて僚艦4隻と共にアメリカの潜水艦ボーンフィッシュ (SS-223)を撃沈する。7月30日、舞鶴にて空襲を受け大破着底、後に解体された。


    奄美
    (あまみ) - 1945年(昭和20年)4月8日竣工(日本鋼管鶴見造船所)。終戦時残存。復員輸送任務の後、イギリス賠償艦として引渡し。


    粟国
    (あぐに) - 1944年(昭和12年)12月2日竣工(日本鋼管鶴見造船所)。釜山にて終戦。


    新南
    (しんなん) - 1944年(昭和19年)10月21日竣工(浦賀船渠)。佐世保にて終戦を迎えた。掃海艦、磁気掃海隊の母艦、定点気象観測船任務の後、海上保安庁巡視船つがるとなる。1966年(昭和41年)8月3日解役。その後、深田サルベージに売却され、1967~1971年春までインドネシアの石油開発公団が被曳倉庫兼宿泊船として使用。要務終了帰国後、1971年(昭和46年)秋に江田島の深田サルベージ作業場において解体された[3]


    屋久
    (やく) - 1944年(昭和19年)10月23日竣工(浦賀船渠)。1945年(昭和20年)2月23日、南号作戦でヒ88H船団護衛中、米潜水艦ハンマーヘッド雷撃により沈没した。


    竹生
    (ちくぶ) - 1944年(昭和19年)12月31日竣工(浦賀船渠)。終戦時残存。掃海艦、定点気象観測船任務の後、海上保安庁巡視船あつみとなる。1962年(昭和37年)解役。


    神津
    (こうづ) - 1945年(昭和20年)2月7日竣工(浦賀船渠)。終戦時残存。ソ連へ賠償艦として引渡し。1969年除籍解体。


    保高
    (ほたか) - 1945年(昭和20年)3月30日竣工(浦賀船渠)。終戦時残存。アメリカへ賠償艦として引渡し。1948年(昭和23年)、日本にて解体。


    伊唐
    (いから) - 1945年(昭和20年)3月24日竣工(浦賀船渠)。終戦時残存。復員輸送任務の後、解体。船体は秋田県秋田港防波堤となるが、1975年(昭和50年)、港の外港展開とともに取り除かれた。


    生野
    (いきの[4]) - 1945年(昭和20年)7月17日竣工(浦賀船渠)。終戦時残存。復員輸送任務の後、ソ連へ賠償艦として引渡し。


    稲木
    (いなぎ) - 1944年(昭和19年)12月16日竣工(三井玉野造船所)。1945年(昭和20年)8月9日、八戸にて空襲を受けて沈没した。


    羽節
    (はぶし) - 1945年(昭和20年)1月10日竣工(三井玉野造船所)。終戦時残存。復員輸送任務の後、アメリカへ賠償艦として引渡し。


    男鹿
    (をじか[5]) - 1945年(昭和20年)2月21日竣工(三井玉野造船所)。1945年(昭和20年)5月2日、潜水艦の雷撃により沈没した。


    金輪
    (かなわ) - 1945年(昭和20年)3月15日竣工(三井玉野造船所)。終戦時残存。復員輸送任務の後、イギリスへ賠償艦として引渡し、1947年(昭和22年)解体。


    宇久
    (うく) - 1944年(昭和19年)12月30日竣工(佐世保海軍工廠)。終戦時残存。復員輸送任務の後、アメリカへ賠償艦として引渡し、1947年(昭和22年)解体。


    高根
    (たかね) - 1945年(昭和20年)4月26日竣工(三井玉野造船所)。終戦時残存。その後、1947年(昭和22年)解体。


    久賀
    (くが) - 1945年(昭和20年)1月25日竣工(佐世保海軍工廠)。舞鶴にて終戦。その後、1948年(昭和23年)解体。


    志賀
    (しが) - 1945年(昭和20年)3月20日竣工(佐世保海軍工廠)。終戦時残存。掃海艦、定点気象観測船任務の後、海上保安庁巡視船こじまとなる。海上保安大学校練習船として運用された後に、1965年(昭和40年)岸壁係留された状態で千葉市の海洋公民館となり、周囲が埋め立てられてからも公民館施設として利用されたが、1998年平成10年)解体された。


    伊王
    (いおう) - 1945年(昭和20年)3月24日竣工(佐世保海軍工廠)。終戦時残存。復員輸送任務の後、1948年(昭和23年)解体。


    蔚美
    (うるみ) - 1945年(昭和20年)5月26日進水(浦賀船渠)。同年8月17日工事中止、工程90 %。その後解体。


    室津
    (むろつ) - 1945年(昭和20年)6月15日進水(浦賀船渠)。同年8月17日工事中止、工程92 %。1948年6月から10月に解体。

    脚注
    1. a b c d e f g h i j 北の巡視船78頁。
    2. 新南、竹生、志賀、生名も同日移管。
    3. 写真集北の巡視船79頁。
    4. 昭和20年1月8日付 達第5号。いくのではない。
    5. 昭和19年10月5日付 達第341号。おしかではない。

    出典
    ・森仁 写真集北の巡視船 1978年

    関連項目
    大日本帝国海軍艦艇一覧
    (wikiより)

    39a



    1980年 ( 昭和 55年 ) 10月 10日建立。 合祀者 84柱。

    38a

    38b

    38c



    伊号第十一潜水艦(いごうだいじゅういちせんすいかん)は、日本海軍潜水艦伊九型潜水艦(巡潜甲型)の3番艦。1944年(昭和19年)フナフチ南方方面で沈没認定。

    艦歴
    1939年昭和14年)の第四次海軍補充計画(マル4計画)により川崎造船所1939年(昭和14年)4月10日起工[1]1941年(昭和16年)2月5日進水、1942年(昭和17年)5月16日に竣工した。竣工と同時に呉鎮守府籍となり、第六艦隊第3潜水戦隊旗艦となる。


    習熟訓練を行った後、6月7日にを出港後、16日にクェゼリンに到着し、訓練を行う。この訓練中、カタパルトが誤動作を起こし乗員1名が負傷した。7月8日、読売新聞の報道特派員が乗艦。翌9日には第3潜水戦隊司令河野千万城少将と幕僚6名が乗艦し、クェゼリンを出港。オーストラリア東方沖に進出する。20日2301、南緯35度00分 東経151度00分 / 南緯35.000度 東経151.000度 / -35.000; 151.000ジャービス湾沖15浬地点付近で浮上航走中、陸軍車両87台を輸送中のギリシャ貨物船ジョージ・S・リヴァノス(George S. Livanos、5,882トン)を発見し、雷撃。魚雷1本が命中した同船は7分で沈没した。21日0204、南緯35度23分 東経151度00分 / 南緯35.383度 東経151.000度 / -35.383; 151.000のジャービス湾沖10浬地点付近で浮上航走中、米貨物船コースト・ファーマー(Coast Farmer、3,290トン)を発見し、魚雷2本を発射。中央部に2本とも命中した同船は20分で沈没した。伊11は救命ボートを簡単に調査したあと生存者を捜索。その後海岸沿いに南西に向かった。22日0545、南緯36度47分 東経150度16分 / 南緯36.783度 東経150.267度 / -36.783; 150.267のトゥーフォールド湾東方25浬地点付近で浮上航走中、ジープ82台、ピックアップトラック72台、牽引車60台、ハーフトラック救急車を輸送中の米リバティ船ウィリアム・ドーズ(William Dawes、7,176トン)を発見し魚雷3本を発射。うち2本が命中した同船は炎上しながら1620に沈没した。その後、豪空軍ブリストル ボーフォートに発見され攻撃を受けるも、損害はなかった。24日1200、軽巡洋艦2、駆逐艦2に護衛された輸送船8隻からなる輸送船団を発見するも、距離が遠かったため攻撃を断念。27日0406、ハウ岬沖30浬地点付近で浮上航走中、豪貨物船クノラ(Coolana、2,197トン)を発見。魚雷1本を発射するも外れたため、時化る海上で砲撃準備を行う。その後、クノラが救難信号を発信したため潜航し、魚雷を発射するも命中しなかった。29日0500、ディザスター湾南方7km地点で浮上航走中、豪空軍のブリストル ボーフォートの攻撃を受け、250ポンド爆弾6発を投下されるも、相手が爆弾倉扉の開放に手間取ったため急速潜航して回避に成功。その後浮上したところ、後部甲板に多数の爆弾の断片が突き刺さっているのが発見された。30日2330、タスマン海を浮上航走中、前方に小型船数隻で護衛された輸送船団を発見し、追尾する。31日0250、エヴェラード岬南西15浬沖で、輸送船団を護衛する護衛船1隻へ向けて魚雷2本を発射し、1回の爆発音を聴取。敵に見つかることのないまま、伊11は離脱した。8月1日、バス海峡に到達した伊11は哨戒区域を離れる。11日、トラックに到着し、便乗者を降ろした。


    20日、伊11はトラックを出港し、ソロモン諸島周辺海域に進出。31日0405、ツラギ島南東146浬地点付近で、駆逐艦1隻の護衛がついた1万トン級輸送船を発見し、魚雷2本を発射するも命中しなかった。9月6日1149、南緯13度20分 東経162度40分 / 南緯13.333度 東経162.667度 / -13.333; 162.667エスピリトゥサント島北西沖で、潜航中に米機動部隊を探知。伊11は輪形陣の内部に侵入後に潜望鏡深度に浮上し、700m先に航行中のヨークタウン級空母を発見する。1249、伊11は艦首から魚雷4本を発射して深度61mまで潜航し、無音航行を行った。3分後、2回の爆発音を聴取した。この艦隊はソロモン諸島に向かっていた空母ホーネット(USS Hornet, CV-8)、戦艦ノースカロライナ(USS North Carolina, BB-55)、重巡2、軽巡1、駆逐艦6からなる艦隊だった。1251、哨戒中のTBF アヴェンジャーが、駆逐艦とノースカロライナの間で浮上する潜水艦の司令塔らしきものを発見。ほぼ同時に、ホーネットは右舷船尾に接近する魚雷1本を発見した。アヴェンジャーは爆雷を投下し、魚雷2本を1本ずつ破壊した。最後の魚雷はノースカロライナの左舷366mの位置を通過してホーネットに向かったが、回避された。1452、米駆逐艦ラッセル英語版(USS Russell, DD-414)は潜航中の伊11を探知し、爆雷6発を投下。1513、長さ、幅共に1600mの重油の帯を確認するが、640mの距離で伊11を見失った。深度30mの地点を航行中の伊11は接近する駆逐艦のスクリュー音を探知して深度60mに潜航するが、艦後部至近で爆雷が爆発し蓄電池の8割が破損し、停電。燃料と空気が若干漏れたほか聴音器が一時使用不能となり、推進軸にも損傷を受けた。伊11は艦首を上にして深度149mの地点まで沈んだ後、艦は水平となった。乗員はガスマスクを着用し、無傷の蓄電池を使って配線し直すことで、電力は部分的に復旧した。7時間後、伊11は浮上して被害を調査。艦尾の空気漏れを起こした部分を応急処置でふさいだが、潜航不能となってしまった。7日午後、南緯07度12分 東経163度14分 / 南緯7.200度 東経163.233度 / -7.200; 163.233サンタイサベル島北東沖合を浮上航走中に米PBY カタリナに発見され攻撃を受ける。接近するカタリナに対し伊11は主砲と機銃、3挺の三八式歩兵銃、さらには搭載していた零式小型水上機の7.7mm機銃まで使って激しく抵抗。カタリナは3つの爆弾を投下し、至近弾となったもののそれ以上の損傷は受けなかった。翌8日1400にもカタリナに発見され、複数回の機銃掃射と至近弾を受けた。11日、トラックに到着。同日、第3潜水戦隊旗艦は伊11から特設潜水母艦靖国丸(日本郵船、11,933トン)に変更となった。応急修理の後15日にトラックを出港し、23日に呉に到着した。


    修理完了後の1943年(昭和18年)1月9日、伊11は呉を出港し、15日にトラックに到着。19日にはトラックを出港し、ガダルカナル島南方沖に進出。その後サンクリストバル島東方沖に進出して哨戒する。7日1000には南下する米護衛空母スワニー(USS Suwannee, CVE-27)を発見し、魚雷1本を発射。魚雷は深度調整が正しくなかったため命中しなかった。2月21日、ヌーメアの飛行場と港を航空偵察し、空母1、戦艦2、小型船若干の在泊を確認する。3月1日、チェスターフィールド諸島を航空偵察するも、揚収中にフロートを損傷させてしまう。10日、トラックに到着。


    4月10日、伊11はトラックを出港し、オーストラリア東海岸沖に進出。27日、ガボ島北方70浬地点付近で、メルボルンからニューキャッスルに向かっていたOC90船団を発見するも、うまく攻撃することができなかった。5月29日、シドニー北東150浬地点付近で、米リバティ船シェルドン・ジャクソン(Sheldon Jackson、7,176トン)へ魚雷2本を発射するも、命中しなかった。6月10日、トラックに到着。


    7月1日、伊11はトラックを出港し、ニューカレドニア周辺海域に進出。20日、サンクリストバル島近海で、重巡オーストラリア、軽巡ホバート、米駆逐艦ラドフォード(USS Radford, DD-446)、ニコラス(USS Nicholas, DD-449)、オバノン(USS O'Bannon, DD-450)からなる艦隊がエスピリトゥサント島に向かっていた。伊11は南緯15度07分 東経163度43分 / 南緯15.117度 東経163.717度 / -15.117; 163.717の地点でこの艦隊を発見し、魚雷2本を重巡オーストラリアへ向け発射するも、敵速を遅く見積もっていたためオーストラリアには命中しなかった。1845、ホバートの左舷後部に魚雷1本が命中。被雷による爆発でホバートは後部甲板がめくれ上がり。スクリュー2つが脱落した他、4番砲塔が持ち上げられた。ホバートは一時航行不能となり、左舷に傾斜。大破したホバートはその後動力が復旧し、翌日にエスピリトゥサント島に到着。応急修理の後シドニーに回航され、修理に17カ月を要した。25日にはヌーメアを航空偵察し、複数の巡洋艦と輸送船の在泊を報告。8月11日、南緯22度30分 西経165度59分 / 南緯22.500度 西経165.983度 / -22.500; -165.983のヌーメア沖で米リバティ船マシュー・リヨン(Matthew Lyon、7,176トン)を発見し、雷撃。同船の左舷3番船倉に魚雷1本が命中。撃破されて11mの穴が開いたマシュー・リヨンは後にエスピリトゥサント島に到着した。9月13日、トラックに到着。18日にはトラックを出港し、26日に呉に到着して整備を受ける。トラック停泊中の15日、第3潜水戦隊の解隊に伴い、第1潜水戦隊付属となる。


    12月4日、伊11は呉を出港し、トラックに移動。21日にトラックを出港し、エリス諸島方面に向かった。31日フナフチを潜望鏡で偵察し、戦艦2、巡洋艦2、その他戦闘艦2の在泊を報告する。1944年(昭和19年)1月11日の報告を最後に消息不明。


    アメリカ側にも記録はないが、1943年11月に米機雷敷設艦テラー英語版(USS Terror, CM-5)がフナフチ周辺で機雷を敷設しており、伊11はこの機雷に触れて沈没したものと推定された。艦長の伊豆壽市中佐以下乗員114名全員行方不明(戦死認定)。


    3月20日、フナフチ南方で沈没と認定され、4月30日に除籍された。

    撃沈総数は3隻で、撃沈トン数は16,348トンである。撃破総数は2隻で、撃破トン数は14,281トンである。

    歴代艦長
    艤装員長
    1. 七字恒雄 中佐:1942年2月20日[3] - 1942年5月16日[4]

    潜水艦長
    1. 七字恒雄 中佐:1942年5月16日[4] - 1943年7月7日[5]

    2. 田上明次 中佐:1943年7月7日[5] - 1943年10月10日[6]

    3. 伊豆壽市 中佐:1943年10月10日[6] - 1944年3月20日 戦死認定、同日付任海軍大佐[7]

    脚注
    1. a b 『昭和造船史』によると1940年4月10日起工。
    2. 昭和17年5月16日付 内令第868号。この数字は法令上の定員数であり、航空関係要員を含み、特修兵その他臨時増置された人員を含まない。戦隊司令部の定員は別に定められるものであって、潜水艦の定員には含まれない。
    3. 昭和17年2月21日付 海軍辞令公報(部内限)第815号」 アジア歴史資料センター Ref.C13072084300 
    4. a b 昭和17年5月18日付 海軍辞令公報(部内限)第861号」 アジア歴史資料センター Ref.C13072085400 
    5. a b 昭和18年7月8日付 海軍辞令公報(部内限)第1168号」 アジア歴史資料センター Ref.C13072092100 
    6. a b 昭和18年10月13日付 海軍辞令公報(部内限)第1237号」 アジア歴史資料センター Ref.C13072093800 
    7. 昭和19年6月24日付 海軍辞令公報 甲(部内限)第1519号」 アジア歴史資料センター Ref.C13072099600 

    参考文献
    ・雑誌「丸」編集部『写真 日本の軍艦 第12巻 潜水艦』光人社、1990年。ISBN 4-7698-0462-8

    外部リンク
    I-11(英語) - 伊11の艦歴を紹介。
    (wikiより)

    37 伊号第十一潜水艦

    伊号第十一潜水艦の後甲板部(1942年7月、南太平洋


    37a

    37b

    37c



    呂号第百四潜水艦(ろごうだいひゃくよんせんすいかん)は、日本海軍潜水艦呂百型潜水艦(小型)の5番艦。

    艦歴
    1941年昭和16年)の昭和16年度計画(マル臨計画[1]により、1941年11月19日、川崎重工業神戸造船所 [3]で起工。1942年(昭和17年)7月11日進水。1943年(昭和18年)2月25日に竣工し、二等潜水艦に類別[1]。同日、呉鎮守府籍に編入[4]され、訓練部隊である呉鎮守府呉潜水戦隊に配属された。

    4月1日、呉潜水戦隊は第11潜水戦隊に改編され、第一艦隊所属となる。

    6月5日、南東方面艦隊第7潜水戦隊に編入[4][5]

    7日、呂104はを出港し、13日に幌筵に到着。14日、特設運送船(給油船)帝洋丸(日東汽船、9,850トン)から給油を受ける。19日、幌筵を出港し、アッツ島西方のあ哨戒線に進出[5]。29日早朝、大型貨物船を発見し、追尾する。0645、浮上航走中に敵潜を発見、魚雷1本を発射するも命中しなかった。その後、輸送船はソ連船と確認された。30日、幌筵に到着。

    7月6日、呂104は幌筵を出港し、あ哨戒線に進出して哨戒。21日、幌筵に到着。22日に出港し、28日に横須賀に到着した[5]

    8月14日、呂104は横須賀を出港し、26日にラバウルに到着。航海中の20日、呂100呂101呂105呂106と共に第51潜水隊を編成する。

    9月4日、呂104はラバウルを出港。同日、ラエ・サラモアの戦いラエ東方40kmのホポイに豪軍が上陸したため、その偵察に向かった[5]。17日、ラバウルに到着。

    23日、呂104はラバウルを出港し、フィンシュハーフェン方面に向かう。30日、ラバウルに到着。

    10月9日、呂104は輸送物資を積んでラバウルを出港し、スルミに向かう。11日にスルミに到着し、輸送物資を降ろした後出港。13日にラバウルに到着。10月16日、輸送物資を積んでラバウルを出港し、スルミに向かう。18日にスルミに到着し、輸送物資を降ろした後出港。20日にラバウルに到着。10月25日、輸送物資を積んでラバウルを出港し、スルミに向かう。27日にスルミに到着し、輸送物資を降ろした後出港。ブーゲンビル島沖に進出。31日、ろ号作戦の支援のため、モノ島沖に移動。11月3日、ブーゲンビル島沖海戦で沈没した軽巡洋艦川内の生存者、第3水雷戦隊司令の伊集院松治少将他第3水雷戦隊要員及び川内乗員75名を救助。5日にラバウルに到着。

    11月9日、呂104はラバウルを出港し、空爆により損傷した米軽巡洋艦バーミングハムの捜索を行った。13日にはブーゲンビル島近海で撃墜された第702航空隊搭乗員の救助を行った。23日にラバウルに到着。

    12月4日、呂104はラバウルを出港し、ブーゲンビル島沖合に進出して哨戒を行う。13日、ラバウルに到着。

    26日、輸送物資を積んでラバウルを出港し、スルミに向かう。28日にスルミに到着し、輸送物資を降ろした後出港。ダンピール海峡に進出して哨戒に向かう[5]。30日から1944年(昭和19年)1月1日までグロスター岬周辺を哨戒。4日、ラバウルに到着。

    13日、甲板上に積まれたゴム容器入りの食糧5トンを含む11トンの弾薬他輸送物資と便乗者7名を乗せてラバウルを出港し、ニューギニアのガリに向かった[5]。同日、米軍はこの行動を暗号解読により察知したため、呂104を撃沈するべく駆逐艦を派遣した。16日夕方、ガリに到着するも、米駆逐艦の哨戒が厳しく、近づくことができなかった。18日、輸送物資と便乗者をガリで降ろした後出港。22日にラバウルに到着。31日にはラバウルを出港し、2月12日に呉に到着して整備を受ける[5]。3月1日、第7潜水戦隊は第六艦隊所属となる。

    4月2日、呂104は呉を出港し、サイパンを経由して18日にトラックに到着。4月20日、トラックを出港し、トラック南方沖に進出して哨戒[5]。その後サイパンに到着。

    5月17日、呂104はあ号作戦のためにナ散開線に向かうべくサイパンを出港していくのを最後に消息不明。

    アメリカ側の記録によると、18日、米軍はナ散開線の存在を暗号解読により認識したため、米護衛駆逐艦イングランド(USS England, DE-635)、ジョージ英語版(USS George, DE-697)、ラビー英語版(USS Raby, DE-698)の3隻からなる対潜部隊が向かった。23日、南太平洋で対潜哨戒機が5ノットで浮上航走中の潜水艦を発見し、対潜部隊に通報。0604、ラビーは6400mの距離で潜水艦をレーダー探知する。5500mまで接近したところで、潜水艦は速度を8ノットに上げ、0610に急速潜航していった。0619、ラビーは再度潜水艦を探知し、ヘッジホッグによる攻撃を4回ほど行った。潜水艦はジグザグ航行でラビーの後方に回り、ラビーの放つ音で見失わせようとした。0639、ラビーは潜水艦を見失う。その後、ジョージがヘッジホッグ攻撃を行ったが、撃沈には至らなかったうえ、潜水艦を見失ってしまう。その後、北西へ5ノットで向かう潜水艦を探知してヘッジホッグ攻撃を3回行うも失敗し、潜水艦を見失う。このため、部隊は輪形陣を組んで潜水艦を捜索。0819、イングランドが潜水艦を探知する。イングランドはヘッジホッグ攻撃を2回、48発ずつ投下。0834、2回目の攻撃の後、イングランドは水深91mの地点で大爆発音を聴取。潜水艦に10~12発が命中したものと考えられた。イングランドは念のために107mから137mまでの深度に設定した爆雷13発を投下し、攻撃を終えた。1045、潜水艦のものと思われる破片と重油が海面に浮かび上がってきた。潜水艦捜索は夕方ごろまで続けられたが、反応はなかった。その後、部隊はいくつかの釘がついたままの木製甲板の破片、コルク栓、日本語が書かれた木片等潜水艦のものと思われる破片12個と、サンプルとして海上を漂う重油の一部を回収した。これが呂104の最期の瞬間であり[1][5]、艦長の出淵愈大尉以下乗員58名全員戦死[6]。沈没地点はカビエン北北西250浬地点付近、北緯01度26分 東経149度20分 / 北緯1.433度 東経149.333度

    6月25日、アドミラルティ諸島北方方面で亡失と認定され、8月10日に除籍された。

    歴代艦長

    艤装員長
    ・不肖

    艦長
    ・浜住芳久 大尉:1943年2月25日 - 3月16日[6]

    ・正田啓治 大尉:1943年3月16日 - 1944年1月20日[6]

    ・出淵愈 大尉:1944年1月20日 - 5月23日戦死[6]   

    脚注

    1. a b c d e f g h i j 『日本海軍史』第7巻、377頁。
    2. 『ハンディ版 日本海軍艦艇写真集20巻』73頁。
    3. 『写真日本海軍全艦艇史』資料篇「主要艦艇艦歴表」18頁。
    4. a b 『ハンディ版 日本海軍艦艇写真集20巻』97頁。
    5. a b c d e f g h i 『日本海軍の潜水艦 - その系譜と戦歴全記録』160頁。
    6. a b c d 『艦長たちの軍艦史』456頁、『日本海軍の潜水艦 - その系譜と戦歴全記録』160頁。

    参考文献

    ・雑誌「丸」編集部『ハンディ判 日本海軍艦艇写真集20巻』潜水艦伊号・呂号・波号・特殊潜航艇他、光人社、1998年。
    ・勝目純也『日本海軍の潜水艦 - その系譜と戦歴全記録』大日本絵画、2010年。

    ・『写真日本海軍全艦艇史 Fukui Shizuo Collection』資料編、KKベストセラーズ、1994年。

    ・海軍歴史保存会『日本海軍史』第7巻、第一法規出版、1995年。

    ・外山操『艦長たちの軍艦史』光人社、2005年。 ISBN 4-7698-1246-9
    (wikiより)


    36a

    36b

    36c



    熊野(くまの)は、大日本帝国海軍重巡洋艦最上型の4番艦[6]。15.5cm砲搭載の二等巡洋艦(軽巡洋艦)として建造され[7]、後に主砲を20cm砲に換装し重巡洋艦となった。一方、日本海軍の書類上の分類は戦没まで二等巡洋艦(軽巡洋艦)だった[6]

    艦名
    重巡洋艦『熊野』の艦名は奈良県和歌山県三重県を流れる熊野川から因んで命名された[8][9]。大日本帝国海軍(以下日本海軍)軍艦としての『熊野』は、明治時代の水雷母艦熊野丸、大正3年に日本郵船から購入した水雷母艦熊野丸に使用されている。またロシア帝国バヤーン級装甲巡洋艦1番艦「バヤーン」を日本海軍が鹵獲・編入時の候補艦名でもあった(実際は一等巡洋艦阿蘇と命名)[10]


    重巡洋艦熊野の艦内神社熊野坐神社(現・熊野本宮大社)[11]。本艦建造時、熊野坐神社本殿を模した艦内神社が寄贈されたという[12]。毎月1日には熊野神社例祭が行われていた[13]

    艦型
    日本海軍は艦齢を重ねた旧式艦の代艦を建造することになり、軽巡の場合は最初に4隻(龍田天龍球磨多摩)を以下4隻(最上鈴谷三隈熊野)と置換することにした[14]。建造中、第四艦隊事件により最上型の船体強度に問題があることが判明したため、船体線図が改正され1番艦(最上)、2番艦(三隈)とは船体形状に違いがあり、鈴谷型(鈴谷・熊野)と分類されることもある。ただし日本海軍の分類は4隻とも最上型二等巡洋艦である[6]。またボイラーは先行2隻(最上、三隈)の重油専焼罐大型8基小型2基・計10基から、重油専焼罐大型8基に変更されている。そのため、第3砲塔と艦橋構造物との間の大型吸気トランクがなく、一番煙突の太さもボイラー数の減少の分だけ径が細くなっている。

    艦歴

    建造経緯
    仮称艦名、第4号中型巡洋艦[15]1934年(昭和9年)3月10日、日本海軍は建造予定の二等巡洋艦を『熊野[16]敷設艦を『沖島[17]と命名した。同日附で2隻(熊野、沖島)は艦艇類別等級表に類別される[18]。 本艦は同年4月5日川崎重工業神戸造船所にて起工[1][19][20]


    1936年(昭和11年)10月15日伏見宮博恭王[21]永野修身海軍大臣[22]列席のもとに進水[1][23]。呉海軍工廠で製造された熊野用15.5cm三連装砲塔5基は、知床型給油艦1番艦知床が呉から神戸へ輸送した[24]。 12月1日、日本海軍は須賀彦次郎大佐(美保関事件の駆逐艦菫艦長)を熊野艤装員長に任命した[25]。 12月7日、藤永田造船所に江風艤装員事務所を、神戸川崎造船所に熊野艤装員事務所を設置する[26]


    1937年(昭和12年)7月上旬、熊野は神戸川崎造船所から呉海軍工廠へ移動、艤装員事務所も移転した[27]。8月8日、熊野艤装員事務所を神戸川崎造船所に戻す[28]。9月下旬から10月上旬にかけて、艤装員事務所を呉海軍工廠に移転[29]。10月9日、艤装員事務所を神戸に戻す[30]


    10月31日就役[1][20]。その姿は一般にも公開された[31]。また熊野は、鈴谷以下3隻(鈴谷、大潮満潮)と同日附の竣工だった[32][33][34]。 竣工と同時に須賀彦次郎艤装員長は軍令部出仕となり、西村祥治大佐が熊野艦長(初代)に任命された[35]。後日、須賀(海軍少将)は海軍大将大角岑生(元海軍大臣)と共に中国方面で飛行機墜落事故に遭遇、事故死した(1941年2月5日、死亡認定。海軍中将)[36]

    竣工後
    熊野の竣工から約一ヶ月後の1937年(昭和12年)12月1日、日本海軍は沢本頼雄少将(海軍艦政本部総務部長)を司令官とする第七戦隊を編制[37]。第七戦隊は、最上型巡洋艦4隻(最上、三隈、鈴谷、熊野)からなる新鋭戦隊となる。沢本司令官は、七戦隊初代旗艦を熊野に指定[38]。12月6日、将旗を本艦に掲げた[39]


    1938年(昭和13年)11月15日、当時の戦艦日向艦長宇垣纏大佐が軍令部出仕となり、西村大佐(熊野艦長)は熊野艦長と日向艦長を兼務する[40]。 12月15日、第七戦隊司令官沢本頼雄中将は退隊、後任司令官は清水光美少将(海軍省人事局長)[41]。同日附で平岡粂一大佐(戦艦比叡艦長、重巡三隈艦長)の艦長兼務が比叡及び日向となり、西村(熊野、日向艦長)は日向艦長の任を解かれた[41]

    1939年(昭和14年)5月18日、西村祥治(熊野艦長)は戦艦榛名艦長へ転任、軽巡洋艦球磨艦長八代祐吉大佐が熊野艦長となる[42]。5月20日、第七戦隊司令官清水光美少将は第六戦隊(利根筑摩)司令官へ転任した[43][44]。第七戦隊の残務処理は第六戦隊司令部でおこなわれた[45]。 熊野は5月20日より予備艦に指定され[20]、同年、最上型各艦は当初主砲として搭載されていた15.5cm3連装砲塔を20.3cm連装砲塔に換装する。


    11月15日
    附で日本海軍は第七戦隊を再編し、三川軍一少将(軍令部第二部長)を第七戦隊司令官に任命[46]。同日附で八代大佐(熊野艦長)は重巡洋艦那智艦長へ転任し、有馬馨大佐(海軍省教育局第二課長)が熊野艦長として着任する[46]第二艦隊司令長官古賀峯一中将は第七戦隊旗艦を熊野に指定した[47]


    1940年
    (昭和15年)10月11日、第七戦隊と第八戦隊の重巡5隻(熊野、鈴谷、最上、利根、筑摩)は紀元二千六百年記念行事に伴う紀元二千六百年特別観艦式に参加した[48]。10月15日、熊野艦長は有馬馨大佐(戦艦比叡艦長補職[49]。後日、大和型戦艦2番艦武蔵初代艦長等を歴任)から敷設艦沖島艦長小畑長左衛門大佐に交代[49]。 11月1日、第七戦隊司令官も三川軍一少将から栗田健男少将(当時、第四水雷戦隊司令官)に代わった[50]


    1941年(昭和16年)5月24日、小畑(熊野艦長)は戦艦山城艦長へ転任、田中菊松大佐(当時、海軍砲術学校教頭)が後任の熊野艦長に補職される[51]。 8月20日、当時の熊野水雷長前田実穂少佐は駆逐艦三日月艦長へ転任(前田はレイテ沖海戦時の駆逐艦磯風艦長)[52]。軽巡神通水雷長瀧川孝司大尉が熊野水雷長に補職される[52]。 9月20日、左近允尚正少将の長男左近允正章少尉候補生(練習巡洋艦鹿島乗組)は熊野乗組を命じられる[53]。11月1日、正章は海軍少尉に任官し、ひきつづき熊野乗組[54]。正章少尉は翌年8月まで熊野で勤務し[55]、その後白露型駆逐艦2番艦時雨砲術長に任命された[56]

    太平洋戦争序盤
    1941年(昭和16年)12月の太平洋戦争開戦時、第七戦隊(司令官栗田健男少将)は第一小隊(熊野、鈴谷)、第二小隊(三隈、最上)で編成されていた[57][58]。しかし本艦から指揮をとる栗田少将の作戦指導には問題があった[59]。12月8日以降、マレー上陸作戦に参加する。蘭印作戦中に生起した1942年(昭和17年)3月1日のバタビア沖海戦には、第2小隊(三隈、最上、駆逐艦敷波)のみ参加する[59]。本海戦直前、連合軍艦隊との決戦をのぞむ第五水雷戦隊司令官原顕三郎少将(軽巡洋艦名取座乗)と、敵艦隊と距離をとろうとする栗田少将(熊野座乗)は一日近く電文の応酬をくりひろげた[59]。みかねた連合艦隊司令部が『バタビヤ方面ノ敵情ニ鑑ミ第七戦隊司令官当該方面ノ諸部隊ヲ統一指揮スルヲ適当ト認ム』と発令し、仲裁に入る一幕もあったほどである[59]。第七戦隊(栗田司令官)の行動について小島秀雄(海軍少将)は『あとで第七戦隊の先任参謀に、(バタビア沖海戦時)いったいどこにおったんだと聞いた。先任参謀いわく、軍令部に、第七戦隊を大事にしてくださいと言われたというんだ。大事にしてくださいと言われて、後におるやつがあるものか』と批評している[60]


    4月1日より、第七戦隊(熊野、鈴谷、三隈、最上)はインド洋作戦の一環として通商破壊作戦に従事[61]。第七戦隊は栗田少将直率の北方部隊(熊野、鈴谷、駆逐艦白雲)、三隈艦長指揮の南方部隊(三隈、最上、駆逐艦天霧)に分割されてベンガル湾で活動し、小沢治三郎中将直率の中央隊(鳥海由良龍驤夕霧朝霧)と共に商船多数を撃沈した[62][63]。4月22日、第七戦隊は第19駆逐隊(綾波、敷波、磯波、浦波)と共に内地へ帰投した[64]。 5月1日、栗田少将(第七戦隊司令官)は海軍中将に昇進[65]。 日本帰還後、第七戦隊はミッドウェー作戦に向けて準備を行う。第七戦隊(熊野、鈴谷、三隈、最上)は第8駆逐隊(荒潮朝潮)及び日栄丸を指揮下に入れ、護衛隊支援を任ぜられた[66][67]。5月22日から6月22日にかけてミッドウェー作戦に参加する[68][69]

    詳細は「三隈 (重巡洋艦)」を参照


    6月5日、日本海軍は主力空母4隻(赤城加賀蒼龍飛龍)を喪失、制空権をうしなった[69][70]。残存する日本艦隊はアメリカ軍機動部隊とミッドウェー島基地航空隊に挟み撃ちにされる危険性が高くなった。この為、山本五十六連合艦隊司令長官(戦艦大和座乗)および攻略部隊指揮官近藤信竹第二艦隊司令長官(重巡愛宕座乗)は、第七戦隊(最上型重巡4隻)の艦砲射撃によるミッドウェー島基地(飛行場)破壊を命じる[70][71]。近藤長官は第七戦隊がミッドウェー島に一番近い位置にいると思っていたが、本当の七戦隊は長官の予想位置より80浬後方にいた[69]。第七戦隊は35ノットで9時間も突進したため、第8駆逐隊(朝潮、荒潮)は落伍してしまう[70][72]。だがミッドウェー島飛行場砲撃2時間前(同島より西方90浬地点)に作戦中止命令がだされ、第七戦隊は反転した[70][73]


    この作戦過程で、浮上中のアメリカの潜水艦タンバー(USS Tambor, SS-198)を回避しようとした単縦陣先頭艦(旗艦熊野)の航海信号が、後続艦(鈴谷、三隈、最上)に誤って伝達された[74][75]。結果、七戦隊3番艦(三隈)と4番艦(最上)が衝突[76][77]。栗田司令官は損傷の大きい最上に3隻(三隈、荒潮、朝潮)の護衛をつけ、第七戦隊第1小隊(熊野、鈴谷)を率いて主力部隊との合流を急いだものの[78]、そのまま所在不明となった[71][79]。6月6日から6月7日にかけて、最上以下4隻はアメリカ軍機動部隊艦載機とミッドウェー基地航空隊の波状攻撃を受け三隈沈没、最上大破、朝潮・荒潮も小破という損害を受けている[80][81]。この間、栗田及び第1小隊(熊野、鈴谷)はミッドウェー基地空襲圏外にでるため西方に向けて航行しており(連合艦隊司令部の命令も無視)、6月7日になって近藤信竹攻略部隊指揮官より三隈・最上救援作戦に呼応するよう命じられて、やっと自隊の位置を報告した[71][79][82]。戦後、栗田は「そんな情況だったのには気付かなかった」、田中(当時熊野艦長)は「(栗田は主力艦隊と)合同すれば、第2小隊(三隈、最上)救援を命ぜられる事を懸念したからだ」と答えている[79][82]


    6月8日午前4時頃、攻略部隊は損傷艦(最上、朝潮、荒潮)を収容、すると行方不明の第1小隊(熊野、鈴谷)が『まったく思いがけなく反対側の西方』から出現し、攻略部隊に合同した[71][83]。本海戦における栗田中将の行動や指揮に対し、日本海軍は特に問題視しなかった[80]。一方、鈴谷艦長木村昌福大佐は栗田(熊野座乗)の行動について、珍しく批判的なメモを残した[84]。また当時の鈴谷運用長前田一郎少佐は、「鈴谷は熊野と分離して単艦で三隈・最上救援にむかった」と回想しているが、確実な証拠はない[85]。 同日、第二水雷戦隊所属の第18駆逐隊(第1小隊《不知火》、第2小隊《陽炎》)は[86]、第七戦隊司令官(栗田中将、熊野)の指揮下に入る[87][88]。6月14日から17日までトラック泊地所在[89]。6月23日、第七戦隊第1小隊(熊野、鈴谷)[90]と第18駆逐隊(不知火、霞、陽炎、霰)は呉に到着した[88][91]。 最上は8月25日をもって第七戦隊から外れた[92][93]

    ガダルカナル島の戦い
    1942年(昭和17年)6月25日、第七戦隊司令官は栗田健男中将から第四水雷戦隊司令官西村祥治少将(熊野初代艦長)に代わった[94]。栗田は7月13日より金剛型戦艦2隻(金剛榛名)で編制された第三戦隊司令官となり[80][95]、前任の三戦隊司令官三川軍一中将(昭和14年当時の第七戦隊司令官)は第八艦隊司令長官に補職されている[95]。本艦は引き続き第七戦隊(熊野、鈴谷)の旗艦を務め、作戦準備をおこなう[96]。 7月17日、インド洋での通商破壊作戦(B作戦)に従事するため[97]、第七戦隊(熊野、鈴谷)、第2駆逐隊(村雨春雨五月雨夕立)、第15駆逐隊(親潮早潮黒潮)等と共にマレー半島のメルギーに向かった[98][99]。 同部隊はB作戦機動部隊指揮官原顕三郎少将指揮のもと、中央隊(司令官原少将兼務、十六戦隊、第11駆逐隊)、北方隊(第三水雷戦隊、第11駆逐隊)、南方隊に別れ、熊野以下七戦隊・2駆・15駆は南方隊に所属していた[100][101]


    B作戦実施前の8月7日、アメリカ軍はガダルカナル島フロリダ諸島ツラギ島)に上陸を開始し、ガダルカナル島の戦いが始まる[102]。メルギー待機中のB作戦参加各隊は、通商破壊作戦を中止してトラック泊地へ向かう[103]。 その途中の8月14日、給油のため立ち寄ったバリクパパンで海図の不備により座礁[104]。復水器の冷却海水ポンプに泥を吸い込み使用不能となるという事態が発生したが復旧に成功し、8月16日に出港できた[104]。 第七戦隊は8月22日に南雲忠一中将率いる第三艦隊(南雲機動部隊)と合流した[105]。機動部隊における第七戦隊の役割は、第十一戦隊(戦艦《比叡霧島》)や第八戦隊(利根、筑摩)等と共に前衛部隊としてアメリカ軍の攻撃を通報・吸収する役目だった。田中(熊野艦長)は「駆逐艦兼おとり」と表現している[106]。8月24日の第二次ソロモン海戦ではB-17爆撃機と交戦し、戦果も被害もなかった[107]。 9月、ソロモン諸島で適宜行動[108]。 10月11日、機動部隊前衛はトラック泊地を出撃[109]。 10月13日、熊野で機関故障が続出したため18日附で第七戦隊旗艦は鈴谷に変更される[110][111]。20日、本艦は機動部隊前衛から機動部隊本隊に編入され[112]、熊野水偵3機(搭乗員含む)は前衛(第八戦隊《利根、筑摩》、霧島)等に派遣された[113][114]


    10月26日南太平洋海戦における熊野は護衛部隊(熊野、照月浜風舞風雪風時津風初風天津風)を編成し、第三艦隊司令長官南雲忠一中将直率の第一航空戦隊空母3隻(翔鶴瑞鶴瑞鳳)と共にアメリカ軍機と交戦した[115]。この戦闘で熊野はSBDドーントレス急降下爆撃機の空襲により至近弾を受ける。10月30日、トラック泊地に帰投[116]。 11月2日、損傷した軍艦4隻(空母2隻《翔鶴、瑞鳳》、重巡《筑摩、熊野》)は駆逐艦部隊(第4駆逐隊《嵐、野分、舞風》、第17駆逐隊《谷風、浦風、浜風、磯風》、第10駆逐隊《秋雲》、第61駆逐隊《秋月》)に護衛され、日本本土へ向った[117][118]。 11月7日、回航部隊のうち4隻(重巡《熊野、筑摩》、第17駆逐隊第1小隊《浦風、谷風》)は呉に到着[119][120]。まもなく瑞鶴と第16駆逐隊(初風、時津風)も呉に到着し[121][122]、熊野ふくめ各艦は修理に従事した[123]


    11月22日、熊野は駆逐艦谷風(第17駆逐隊)と共に呉を出撃する[120][124]。翌日、第九戦隊(司令官岸福治少将:軽巡洋艦2隻《北上大井》)の指揮下に入った(「夏輸送」)[125][126]。 輸送作戦参加艦艇(大井、北上、球磨、熊野、谷風)は27日までにマニラへ集結[127][126]。陸兵や物資を積載して出港[128]。各隊は12月3〜4日、ラバウルに到着して輸送任務を終えた[129][130][126]。この航海中、「熊野」は鯨と衝突するという出来事があった[131]。 同日附で2隻(熊野、谷風)は外南洋部隊(指揮官三川軍一第八艦隊司令長官)に編入された[132]。さらに、熊野は外南洋支援部隊に復帰した[133]。 それまで支隊と行動を共にしていた重巡摩耶、駆逐艦春雨をトラックに帰投させた後の12月6日[134]、熊野は第七戦隊旗艦に復帰した[133][135]。 その後、第七戦隊(熊野、鈴谷)は駆逐艦望月等と共にソロモン諸島での輸送任務や支援行動、ニューアイルランド島カビエン周辺警戒任務に従事した[136][137][138]。また重巡3隻(鳥海、熊野、鈴谷)の水上偵察機がR方面航空部隊に編入され、駆逐艦部隊の上空警戒やガ島基地夜間爆撃に従事した[139]


    1943年(昭和18年)1月4日、熊野の姉妹艦鈴谷が整備修理のためカビエンを出発した(1月12日、内地着)[140]。1月下旬、日本軍はガダルカナル島撤退作戦(ケ号作戦)を発動。同時期、第七戦隊と共にカビエンで待機していた重巡鳥海が正式に外南洋部隊支援隊に編入される[141]。1月27日にも軽巡川内(第三水雷戦隊)が同地に到着したので、支援部隊指揮官西村祥治少将は所在先任指揮官として、3隻(熊野、鳥海、川内)を指揮下においた[142][143]。 2月上旬、カビエンで待機[144]。2月9日附で機動部隊への復帰を下令され、4隻(重巡2隻《熊野、鳥海》、第17駆逐隊《谷風、浦風》)は2月11日にカビエンを出発、13日トラック泊地到着[145]。トラック着と共に鈴谷と合流し、3隻(鳥海、谷風、浦風)は西村少将の指揮下を離れた[146]。 2月17日、熊野艦長は田中菊松大佐[147]から藤田俊造大佐(2月12日まで軽巡神通艦長)に交代[147][148]


    3月中はトラック泊地で待機[149]。3月22日、熊野機関に故障が発生、西村司令官は旗艦を鈴谷に変更した[150]。24日、駆逐艦天津風(第16駆逐隊)に警戒されつつ3隻(鈴谷、熊野、浦風)はトラック泊地を出発(天津風は途中で分離)[151]豊後水道では駆逐艦萩風(第4駆逐隊)と合同し[151]、4隻(熊野、鈴谷、浦風、萩風)は29日に呉へ到着した[152][153]。 4月、熊野は呉で待機した[154]

    詳しいことは、「熊野 (重巡洋艦)ウィキペディア」をご覧ください。 ⇩
    https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%86%8A%E9%87%8E_(%E9%87%8D%E5%B7%A1%E6%B4%8B%E8%89%A6)
    (wikiより)

    35 軍艦熊野

    熊野

    35a

    35b

    35c




    海軍設営隊(かいぐんせつえいたい)とは、日本海軍に属した基地施設建築や陣地築城を任務とした部隊である。太平洋戦争中に200隊以上が編成され、南方の最前線を含め各地で飛行場などの建設を行った。初期には設営班(せつえいはん)と呼ばれた。軍属主体であったが、徐々に軍人による編制が増えた。

    沿革
    日本海軍では、基地建築などを行う部門として海軍建築局を置き、実働組織として各軍港に建築部を配置していた。しかし、日米関係が悪化し太平洋戦争の勃発が予期されるようになると、前線で連合艦隊などの作戦部隊の指揮下で基地建築を行う部隊が、新たに必要となった。そこで、1941年(昭和16年)8月に建築局を海軍施設本部に発展的に解消すると共に、前線で作戦部隊の下に活動する特設海軍建築部(1943年8月以降は特設海軍施設部に改称)の制度が設けられた。以後、施設本部が全体計画を立て、各鎮守府の建築部(1943年8月以降は施設部に改称)で設営隊などの部隊編成が行われて、作戦部隊指揮下に編入されるという方式が取られていくことになる。設営の専門科として技術科士官制度も創設され、海軍工作学校での技術士官養成が始まった。


    そして、最初の実働部隊として、1941年10月頃に第1設営班から第8設営班までの特設設営班が編成され、各艦隊の隷下に編入された。特設設営班は、文官である海軍技師・技手(ぎて)を幹部として、作業員も徴用工員のみから成る純然たる軍属部隊であった。これらは開戦後は占領した飛行場の整備に当てられた。さらに開戦後に、港湾設備の整備を任務として2個の臨時設営班が増設された。各設営班は1942年半ばには、占領地の特設建築部に編入・解隊された。


    1942年(昭和17年)4月頃からは、新たに軍人の指揮する特設設営隊が編成された。工作学校卒の技術士官に加え、文官の技師からの技術士官採用が進んでいる。ただし、陸海軍の兵力量問題から技術下士官の整備ができず、設営隊の主力は依然として軍属であった。ミッドウェー島攻略作戦などに参加し、占領後に直ちに飛行場などの整備を行うことが計画された。ガダルカナル島の戦い以後、連合軍の反抗が本格化すると、飛行場建築のほか工兵に近い防御陣地築城を任務とした設営隊が次々と増設されて、南方各地へ送られた。


    1944年5月に、下士官兵についても技術下士官および技術兵の制度ができ、従来は軍属であった作業員も軍人による編成へと移行することとなった。技術下士官兵の教育のため、同年6月、各鎮守府の施設部に教導設営班が置かれた[1]。もっとも、軍属の作業員を置くこともでき、人員不足等から依然として軍属主体の丙編制も存在した。以後150隊以上が編成され、フィリピンを中心とした南方及び台湾沖縄、日本本土各地へ配備された。神風特攻隊用の飛行場建設のほか、日本本土では工場の地下疎開なども任務としながら終戦まで活動を続けた。太平洋戦争全期間での編成総数は、第11設営隊以降の番号設営隊215隊及び「横須賀設営隊」などの地名呼称設営隊8隊[2]、合計223隊に上った。うち74隊が南方へ派遣され、残りの149隊は内地で飛行場建設(60隊)とその他の建築任務(89隊)に従事した[3]


    なお、以上のような正規の設営隊のほか、各施設部で編成された施設関係の部隊も多数存在した。しかしながら、主に軍属部隊であることや臨時に編成される場合が多いことから史料が極端に少なく、その組織や活動地域は不明なものが多い。タラワの戦いに参加した第4艦隊設営派遣隊(第4施設部で編成)、テニアン島の飛行場建設を目的として1943年11月に横須賀で編成された第4施設部増強第2部隊(後に第203設営隊に改編)などが確認されている[4]

    編制例
    軍人編成となった後の特設設営隊のうち、甲編制と称する最も本格的な編制である。このほか乙から丁の編制が存在した。また、具体的な任務が飛行場設営であるのか、築城であるのかなどにより詳細は異なる。部隊番号が100番以降は築城任務、300番以降はトンネル・地下工場疎開任務の編制となっている[5]


    ・設営隊本部 - 甲編制では隊長は佐官。乙編制では尉官でも可で、技術大尉を長とすることが多かった。

    ・第1中隊 - 建設機械担当。ブルドーザー牽引式スクレイパーなど十数両。トラック約20両(うちダンプカー数両)。

    ・第2中隊 - 飛行場・運搬路担当。

    ・第3中隊 - 居住施設・耐弾施設・桟橋担当。

    ・第4中隊 - 隧道(ずいどう=トンネル)など担当。

    ・その他 - 運輸隊(大発動艇9隻)、医務隊、主計隊、通信隊


    計:1054名。ほかに甲編制では軍属1000名以内を置くことができる。

    武装:小銃829丁、軽機関銃24丁、重擲弾筒48門。(理論上の装備数で実際には大幅に不足。)

    実戦と評価
    アメリカ海軍シービーと比較され、しばしば能力不足が指摘される。特に、当時の日本の土木作業は機械化が遅れていたことをそのまま反映し、機械化の遅れが目立った。ウェーク島の戦いなどで鹵獲したブルドーザーなどの配備が行われ、国産化の努力も進められたが、他の車両製造と競合して生産は十分ではなかった。性能でも国産品は劣っていた。おまけに、海上輸送力の不足から機械類の携行が制限される場合もあった。また、作業機械そのものの配備はある程度された場合でも、熟練した運転手がいないために、効率的な運用が難しい面もあった。


    それでも、1943年頃には一定の機械化が達成されている。1943年末に編成の甲編制部隊の場合、ブルドーザーやスクレイパー十数両、ロードローラー数両などの建設重機を装備していた[6]千葉県内で大規模な実験も行われ、鉄板や鉄網を用いた滑走路の急速設営の研究がされた。これらの成果を生かし、ニューギニアワクデ島の第103設営隊の場合、上陸後25日間で飛行場を建設し航空隊の進出に成功している。1944年2月のハルマヘラ島の第224設営隊のように、着工後およそ20日間で戦闘機の発着に成功した記録もある。


    なお、設営隊は戦闘部隊ではなく、自衛用のわずかな小火器しか持たなかったが、ガダルカナル島の戦いをはじめ各地で地上戦への加入を余儀なくされた。戦史に「陸戦隊」「海軍部隊」として登場する中には、しばしばこうした設営隊を戦闘任務にあてたものも含まれる。発破作業用の爆薬や竹槍などを武器に戦い、多大な犠牲を出した。ビアク島の戦い硫黄島の戦いなどのように全滅した例もあり、1944年以降のみでも14隊に上る。

    徴用工員
    海軍設営隊の特色として、徴用工員と称した軍属が非常に多かったことが挙げられる。特に、朝鮮台湾出身の工員の割合が高かった。通常は日本本土の各鎮守府の施設部の所管で教育された後に、設営隊などとして組織され出動した。給与は軍人に比べて高給であったが、生活待遇は良好とは言いがたかった。最前線では地上戦への戦力化を余儀なくされ、多くの犠牲を出した。なお、玉砕戦となったケースでは、軍人に比べて生存者が多い。


    このほか、必要に応じて現地労務者を雇用することも認められていた[7]

    注記
    1. 海軍歴史保存会(1995)、234頁。
    2. 鎮守府施設部の教導設営班を1945年6月に実戦部隊に改編したもの。
    3. 海軍歴史保存会(1995)、247頁。
    4. 佐用(2001)、31頁。
    5. 防衛研修所戦史室『海軍軍戦備(2)開戦以後』 朝雲新聞社〈戦史叢書〉、1975年、451頁。
    6. 佐用(2001)、228頁。
    7. 佐用(2001)、240頁。

    参考文献
    ・海軍歴史保存会 『日本海軍史 第6巻』 第一法規出版、1995年。

    ・佐用泰司 『海軍設営隊の太平洋戦争』 光人社、2001年 ISBN 4-7698-2315-0

    関連項目
    海軍陸戦隊

    海軍工作学校

    シービー - アメリカ海軍の同種部隊。

    飛行場設定隊 - 日本陸軍の飛行場建設部隊。
    (wikiより)

    34a

    34b

    34c



    古鷹(ふるたか)は大日本帝国海軍古鷹型重巡洋艦1番艦である[5]。艦名は江田島海軍兵学校そばにある古鷹山に由来する[6]平賀譲造船官が設計し、世界で最初に20cm砲を搭載した巡洋艦となった[7][8][9]。1942年10月、サボ島沖海戦で沈没した。

    艦歴
    建造経緯
    大正時代中期までの日本海軍の主力巡洋艦は5500トン型軽巡洋艦で、同じ太平洋で強力な海軍を持つ米国のオマハ級軽巡洋艦に比べて軍艦性能で大きく後れを取っていた。平賀は基準排水量2890トンの船体に5500トン型軽巡洋艦に匹敵する兵装を備えた軽巡洋艦夕張を設計し、軍艦設計技術の高さを世界に示した[10]。平賀は夕張に引き続き、米国の15cm砲搭載軽巡洋艦に対抗できる兵装を備えつつ、快速で中部太平洋まで行動できる高い航海性能を備えた偵察巡洋艦として、夕張のコンパクトな設計思想を引き継いだ7100トン級巡洋艦を設計した[11]。これが古鷹型である。当初の計画では14cm砲を搭載する予定だったが、1922年(大正11年)2月に終了したワシントン海軍軍縮条約で、巡洋艦が「排水量10,000トン以下、砲口径5インチ以上8インチ以下」と定義された一方、保有トン数の制限は設定されなかった。そのため搭載する主砲は、条約下で米国巡洋艦を上回る20cm単装砲6基6門に変更された。


    1922年(大正11年)8月11日、1番艦に衣笠、2番艦に古鷹の艦名が与えられた[12]。10月9日、1番艦の艦名が加古に変更された(詳細は加古参照)。12月5日、加古より18日遅れて三菱造船長崎造船所(現・三菱重工長崎造船所)で起工した[1]1925年(大正14年)2月25日に進水[1][13]1926年(大正15年)3月31日に竣工し[1]、横須賀鎮守府籍となった[14]。竣工時点で加古はクレーンの事故などで竣工しておらず、加古の竣工は7月20日と約4か月遅れた[15]。この結果、11月29日の艦艇類別等級表の改訂で古鷹が1番艦となった[16]。ただ計画段階から加古型(加古級)の呼称が浸透しており、改訂後も古鷹型と並んで加古型の表記が広く使われた。


    古鷹と加古は20cm単装砲を前甲板と後甲板の中心線上に3基ずつ並べ、煙突を巨大化し、航行性を高めるために波型の甲板を採用した事に特徴がある[17]。ただ主砲の装填は人力式で、機械式に比べて給弾の遅さが建造当初から問題視されていた。準同型艦の青葉型重巡洋艦では機械装填式の20cm連装砲塔3基6門に変更されており、建造当初の古鷹型と青葉型の外見上の大きな違いとなった。

    竣工後
    1926年(大正15年)4月1日、古鷹は第五戦隊に編入された[18]。当初は古鷹、軽巡名取、軽巡由良、軽巡川内と5500トン型軽巡洋艦と戦隊を編制していた。9月25日、乗艦中の高松宮宣仁親王(海軍少尉)が長崎造船所で行われた青葉の進水式に立ち会うため、古鷹も進水式に参加した[19][20]。12月1日、第五戦隊は古鷹、加古、軽巡神通、軽巡那珂となった[18]


    1927年
    (昭和2年)8月24日、第五戦隊は島根県美保関沖で演習中に僚艦が衝突する美保関事件に遭遇した。神通、那珂などが大破したが、古鷹は各艦と協力して沈没した駆逐艦と損傷艦の救援に従事した[21]。古鷹は戦艦比叡と共に損傷した那珂を護衛して舞鶴へ移動した[22]。 那珂乗艦中の皇族博義王が古鷹に移乗した[23]


    1927年(昭和2年)12月1日の再編で、第五戦隊に古鷹、加古青葉衣笠の重巡洋艦4隻が初めて揃った[24][25]。古鷹は以降、太平洋戦争開戦まで3艦と共に第五、第六、第七戦隊を歴任した。1932年(昭和7年)2月1日、呉鎮守府籍に転籍した[14]1934年(昭和9年)6月29日、済州島沖で行われた演習に参加し、駆逐艦深雪と駆逐艦が衝突して深雪が沈没した。


    1936年
    (昭和11年)8月14日午前4時、訓練終了後に青葉、衣笠、古鷹が縦列で航行中、衣笠が青葉の艦尾に衝突事故した[26]。後続の古鷹は衝突せず、同年度では無事故で演習でも優秀な成績をおさめた古鷹の評価が高まったという[27]


    完成時に優秀な巡洋艦とされた古鷹型も、妙高型重巡洋艦高雄型重巡洋艦など1万トン級巡洋艦の就役と、大正~昭和初期の兵装や主機関、軍事装備品の急速な進歩に伴い、昭和10年代には重巡洋艦として性能や装備の遅れが目立ってきた。このため古鷹と加古は日本の重巡洋艦としては例外的に大規模な近代化改修を施し、船体、主機関や主砲塔の全換装、上部構造の大幅な改装が施された。古鷹は加古より遅れて1937年(昭和12年)3月16日に呉海軍工廠で着手し[14]1939年(昭和14年)4月30日に完成した。主砲塔は青葉型とほぼ同じ20.3cm連装砲3基6門で、魚雷発射管を艦内から甲板上に移設し61cm4連装魚雷発射管2基8門、九三式魚雷16本としたほか、高楼式の艦橋が連結構造になり、主機関の変更に伴って煙突が構造変更された(詳細は古鷹型重巡洋艦参照)。


    ・古鷹と加古の排水量は竣工時、当初計画から1割増えてほぼ8000トンとなり、喫水線が上がって舷窓が常に波浪をかぶるため「水族館」とも呼ばれたが、近代化改修でさらに1割増えて8700トンとなった。日本海軍は1934年に友鶴が転覆する友鶴事件が発生した後、艦艇全体で復原力の見直しが計られたが、事件後に大規模な改修を行った古鷹型の復原性能対策は排水量の増加に伴うバルジの増設程度にとどまり、平賀の造船設計思想の正しさを裏付けた。一方で古鷹型の設計当時の艦艇は、船体の強度を維持するため船体中心線上に隔壁を設置することが多く、古鷹も船体の軽量化と強度の両面から船体中央に隔壁が設置されていた。太平洋戦争開戦時には大口径の砲弾や爆発力の高い魚雷の開発が進み、命中した場合に片舷のみが浸水し傾斜が復原できなくなる危険性が指摘されていた。この問題は解消される機会がないまま古鷹は開戦を迎え、サボ島沖海戦で左舷への集中砲火を受けて沈没する一因になった[28]


    1940年(昭和15年)5月2日、内閣首脳の体験航海のため横浜に入港[29]。10月11日、紀元二千六百年特別観艦式で加古と共に供奉艦として参列した。1941年(昭和16年)3月1日の戦隊編制変更で、第一艦隊第六戦隊に古鷹、加古、青葉、衣笠の4隻が再び揃い、太平洋戦争開戦時の態勢が整った。9月15日、第六戦隊司令官に 五藤存知少将が就任した[30]

    太平洋戦争緒戦
    1941年11月7日に第六戦隊(「青葉」、「加古」、「衣笠」、「古鷹」)は南洋部隊に編入され、グァム島攻略支援部隊としてグアム島攻略作戦に参加した[31]。第六戦隊は11月30日に柱島泊地を出港して12月2日に母島に到着[32]。12月4日の攻略部隊の母島出撃に続いて第六戦隊も出撃して敵水上部隊に備え、上陸成功後はトラックへ向かい12月12日に到着した[33]


    グアム島攻略と同じ頃行なわれたウェーク島攻略作戦は失敗に終わっており、第二次攻略作戦には第六戦隊も投入されることとなった。第六戦隊はウェーク島攻略支援部隊となった[34]。第六戦隊は12月13日にトラックを出港して12月16日にルオットに到着[35]。12月21日に攻略部隊などが出撃し、第六戦隊もそれに続いて出撃した[36]。ウェーク島は12月23日に攻略された[37]。第六戦隊はウェーク島東方を行動し、攻略後は南下して攻略部隊の支援にあたり、12月25日にルオットに帰投[38]。1942年1月7日にルオットを出港し、1月10日にトラックに到着した[39]

    詳細は「珊瑚海海戦」を参照


    1942年(昭和17年)5月上旬、古鷹以下第六戦隊はMO(ポートモレスビー)攻略部隊に所属し、珊瑚海海戦に参加した。五藤少将が指揮するMO攻略部隊主隊は青葉、加古、衣笠、古鷹、空母祥鳳、駆逐艦で編制されていた。5月7日、MO攻略部隊は空母ヨークタウンレキシントン攻撃隊の空襲を受けた。祥鳳が沈没し、第六戦隊は乗員の救助を行ったが、退避命令が出たため現場海域を離れた[40]。20時40分、第六戦隊から古鷹と衣笠がMO機動部隊に編入され[41]、青葉、加古と分かれた。5月8日朝、古鷹と衣笠はMO機動部隊(空母瑞鶴、空母翔鶴、重巡妙高、重巡羽黒、駆逐艦6隻《有明夕暮白露時雨》)と合流した[42]。ただ「第六戦隊ハ航空戦隊ノ後方五キロニ続行セヨ」以外の指示がなく、また空母を中心とした輪形陣を組まなかったため、各艦は単独で米軍機動部隊艦載機の空襲に対処する事になった[43]。古鷹と衣笠は翔鶴の後方約8000m地点を航行中に空襲を受けた[44]。翔鶴が大破したため、古鷹は衣笠、夕暮、潮と共に、戦場を離脱する翔鶴を一時的に護衛した[45]。珊瑚海海戦の結果、ポートモレスビーの攻略は延期となり、第六戦隊は本土で整備を行うことになった。古鷹は6月5日に呉に到着した[14]ミッドウェー海戦で大敗した日本海軍はソロモン諸島防備を強化する方針を打ち出し、第六戦隊4隻は南方へ戻った。古鷹は7月4日、トラック泊地に到着した[14]

    ガダルカナル島の戦い

    詳細は「第一次ソロモン海戦」を参照


    1942年(昭和17年)8月7日、米軍はツラギ島ガダルカナル島に上陸し、南太平洋での本格的な反攻に転じた。ラバウルに向かっていた第六戦隊はガダルカナル島上陸の急報を受け、急きょ三川軍一中将の指揮下で重巡鳥海、軽巡天龍、夕張、駆逐艦夕凪と共に「挺身艦隊(挺身攻撃隊)」を編制した。艦隊は単縦陣を採り、鳥海、青葉、加古、衣笠の後に古鷹が続いた。8月8日深夜、同島北部のサボ島南側水道に突入し、午後11時43分に輸送船団を護衛していた米豪連合軍艦隊と最初の夜戦に入った。直後に雷撃を受けた豪重巡キャンベラが炎上して古鷹に接近し、さらに右舷から魚雷2本が接近したため、古鷹は左に転舵した。この結果、古鷹は先行艦と分離し、天龍、夕張が古鷹の後に続いた[46]。午後11時53分、鳥海がサボ島北側水道の別艦隊を発見し、米重巡アストリアに砲撃を加えた。この戦闘で、先行艦4隻と、分離した古鷹など3隻が期せずして左右から連合軍艦隊を挟撃する陣形となった。連合軍は重巡4隻が沈没し、日本が勝利を収めた。記録によれば、古鷹は主砲153発、高射砲94発、25粍機銃147発を発射した[47]


    海戦後、第六戦隊4隻は鳥海、天龍、夕張、夕凪と分かれ、ニューアイルランド島カビエンへ向かった[48][49]。8月10日朝、加古が米潜水艦S-44の魚雷攻撃により沈没した[48]。第六戦隊各艦はカッターボートなどを降ろしてカビエンへ向かった[50]。その後、古鷹など第六戦隊3隻はカビエンで加古の乗員を収容した[51]


    8月、古鷹、青葉、衣笠の第六戦隊と鳥海はガダルカナル島に兵員の揚陸を目指す輸送船団を支援するため、同島北方に向かった[52]が、8月24-25日に起きた第二次ソロモン海戦で第六戦隊が交戦する機会はなかった[52][53]。8月27日夕刻、古鷹は青葉と共にショートランド泊地に到着した[54]

    沈没

    詳細は「サボ島沖海戦」を参照


    第二次ソロモン海戦に敗れて兵員揚陸に失敗した日本軍は、ガダルカナル島への昼間の大規模な輸送揚陸が困難になったことを認識し、高速の駆逐艦による反復輸送(鼠輸送)への転換を余儀なくされた。さらに米軍が同島に完成させたヘンダーソン飛行場の無力化が、戦略上の喫緊の課題となった。ヘンダーソン基地艦砲射撃の作戦が立案され、10月11日、五藤少将が率いる第六戦隊と第11駆逐隊の初雪吹雪がガダルカナル島に向かった[55][56]。第三戦隊(司令官栗田健男中将)の戦艦金剛榛名、第二水雷戦隊の軽巡五十鈴などによる第二次飛行場砲撃隊も準備され、10月11日、第二航空戦隊の隼鷹飛鷹と共にトラック泊地を出撃した[57][58]。飛行場砲撃に先行してガダルカナル島への揚陸作戦が行われ、周辺海域には水上機母艦日進千歳、駆逐艦秋月綾波白雪叢雲朝雲夏雲の輸送隊が行動中だった[59]。当時、輸送隊や基地航空隊は米艦隊の動向をつかんでおらず[60]、日本側は米軍が水上部隊で反撃する可能性は低いと判断していた[61]。だが米軍は重巡洋艦2隻、軽巡洋艦2隻、駆逐艦5隻が迎撃の態勢を整え、10月11日夜間に第六戦隊をサボ島沖で迎え撃った[62][63]


    10月11日夜、旗艦青葉は第六戦隊の左前方に出現した米艦隊を、日進などの輸送隊と誤認し、「我レ、アオバ」と発信。21時43分、青葉は米軍が放った照明弾下で砲撃を受け、初弾が艦橋を貫通して五藤少将らが戦死した[64][65]。青葉は右に転舵し、煙幕を張って避退した[66]。後続の古鷹は吊光弾を見て左に転舵し右砲戦に備えたが、青葉の右転舵を見て右に変針した[67][65]。しかし古鷹は煙幕に入りきれず、米艦隊の砲撃で魚雷の酸素が誘爆して大火災となり、夜間で格好の射撃目標となった結果、三番砲塔旋回不能、魚雷発射管破壊、機関室砲弾貫通、左舷浸水、機関故障と被害が拡大した[62]。古鷹は主に高射砲で応戦、主砲発射弾数は40発以下だったが、第二射以後で敵3番艦に損害を与えたという[62][65]。青葉は古鷹に砲火が集中する間に海戦域から離脱した[68]。青葉の右前方にあった吹雪は集中砲火を受けて沈没し、古鷹に後続していた衣笠と初雪は米重巡ソルトレイクシティー、軽巡ボイシと砲戦して損傷を与えた[69]が、サボ島沖海戦は日本軍の敗北に終わった。


    ・当時の古鷹主計長だった立野良郎によると、荒木伝艦長は第一次ソロモン海戦で夜戦中に隊列を二分した行動を以後も気にしていたという。この経験がサボ島沖海戦で古鷹の左転舵を中止し、青葉に続いて右に変針した判断につながったと推測している[53]


    青葉、衣笠、初雪が離脱して海戦が終了した後も古鷹は海上に浮かんでいたが、水線下への被弾による浸水が進み、22時40分頃に航行不能となった[69]。米駆逐艦とみられる艦が接近したが反転し、交戦はなかった[53]。救援に向かっていた初雪との交信に成功し[70][53]、報告した位置より西に流されていた古鷹を初雪が発見した[71]。すでに左舷への傾斜が激しく、初雪は接舷を断念した[69][53]軍艦旗を降ろした後、古鷹は艦尾から沈没した[62]。沈没時刻10月12日午前0時28分、沈没地点サボ島の310度22浬[69]。荒木艦長ほか生存者は初雪[72]に救助されたが、日の出以降に空襲が予想されたため救助活動は午前2時で打ち切られた[69][73]。初雪はカッターボート2隻と円材を海上に残して帰投した[71][74]


    古鷹の救援に日進輸送隊から第9駆逐隊の朝雲と夏雲、第11駆逐隊の白雪 [75]、叢雲が向かったが、夏雲と叢雲が空襲で沈没した[76][77]。10月16日時点での古鷹乗員の戦死者は33名(内士官2)、行方不明者は225名(内士官16)、救助518名(内士官34)[62][78]で、生存者の一部はニュージーランドの収容所と米軍捕虜尋問所「トレイシー」に移送された[79]。11月10日、古鷹は除籍された[2]。同日、第六戦隊は解隊[80][81]。古鷹の乗員は青葉に乗艦し呉に帰投した[82]。 11月14日、第三次ソロモン海戦で衣笠が米軍機の空襲を受けて沈没した。古鷹型と青葉型はソロモン海で3か月間に3隻を喪失し、青葉1隻となった。

    詳しいことは、「古鷹 (重巡洋艦)ウィキペディア」をご覧ください。 ⇩
    https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%A4%E9%B7%B9_(%E9%87%8D%E5%B7%A1%E6%B4%8B%E8%89%A6)
    (wikiより)

    33 軍艦古鷹











    古鷹

    33a

















    33b

















    33c



















    鬼怒(きぬ)は、日本海軍軽巡洋艦長良型の5番艦である。その艦名は、栃木県茨城県を流れる鬼怒川より名づけられた。

    艦歴
    鬼怒は、大正年間に多数建造された5500トン型軽巡洋艦の長良型の一艦として1922年(大正11年)11月に神戸川崎造船所で完成した。


    1922年
    12月、第2艦隊第5戦隊に編入され、その後、第1艦隊第3戦隊、第2艦隊第2水雷戦隊に属した。


    1930年10月、完成したばかりの呉式二号二型射出機が、艦艇では初めて鬼怒に装備されて射出実験が繰り返された。この呉式二号二型は小型機用の火薬式射出機であり、後に呉式二号三型改一として実用化され5500トン型軽巡各艦に装備されることとなる射出機の原型である。冒頭の写真はこの呉式二号二型射出機を装備していた時点の写真である。1年間の実験ののち、1931年10月に同装置は神通に移設された。


    1934年
    4月、5番主砲と6番主砲の間に呉式二号三型改一射出機を装備し艦載機を水上機1機とする。不要となった滑走台跡に保式13mm四連装機銃1基を装備(のちに滑走台は完全に撤去され改めて艦橋中央前部に機銃台が設けられて保式13mm四連装機銃はここに設置された)。


    1934年
    11月から一年間、海軍機関学校の練習艦となった。


    1935年11月、第2艦隊第2潜水戦隊(司令官大和田芳之介少将)の旗艦となり、翌年12月、第1艦隊第8戦隊に編入された。


    1937年8月、支那事変日中戦争)のため中国沿岸に出動した。


    1941年4月、連合艦隊附属第四潜水戦隊(司令官吉富説三少将)の旗艦となる。

    太平洋戦争
    太平洋戦争開戦時は「鬼怒」(旗艦)、第十八潜水隊、第十九潜水隊、第二十一潜水隊、特設潜水母艦「名古屋丸」からなる第四潜水戦隊は第五潜水戦隊第六潜水戦隊第十三潜水隊とともに馬来部隊の潜水部隊(指揮官は第四潜水戦隊司令官吉富説三少将)を構成していた[3]。修理中であった第二十一潜水隊を除く第四潜水戦隊は11月20日に広島湾から出航し、11月26日に三亞に着いた[3]。第十八潜水隊と第十九潜水隊は12月1日に三亞から出撃し、「鬼怒」も12月4日に出撃した[4]。「鬼怒」と12月5日に出撃した第五水雷戦隊旗艦「由良」はともにプロコンドル島南方で行動した[5]


    12月8日に戦艦「プリンス・オブ・ウェールズ」、巡洋戦艦「レパルス」を中心とするイギリス艦隊がシンガポールから出撃し、12月9日に潜水艦「伊号第百六十五潜水艦」がこれを発見した[6]。「鬼怒」は九四式水偵を発艦させ、この機はイギリス艦隊を発見した[7]。馬来部隊指揮官小沢治三郎中将は水上部隊を集結させて夜戦を行なおうとし、第三水雷戦隊と軽巡洋艦「鬼怒」、「由良」の第七戦隊への合流を命じた[8]。同日、「鬼怒」は小沢中将直率の馬来部隊主隊(重巡洋艦「鳥海」、駆逐艦1隻)と合流した[9]。しかし、イギリス艦隊の反転により水上部隊による攻撃は断念され、[10]「プリンス・オブ・ウェールズ」と「レパルス」は12月10日のマレー沖海戦で基地航空隊の攻撃により撃沈された。12月15日、第十三潜水隊は馬来部隊から除かれた[11]


    次いで英領ボルネオ作戦、第二次マレー上陸がおこなわれた。英領ボルネオ攻略部隊、マレー上陸部隊は12月13日にカムラン湾から出撃し、「鬼怒」も「鳥海」とともに出撃した[12]。「鬼怒」は12月17日にボルネオ攻略作戦支援を命じられて12月19日に第七戦隊第一小隊と合流し、クチン攻略部隊を護衛した[13]


    12月26日、第五潜水戦隊は南方部隊潜水部隊に移された[14]


    12月末から第二十五軍および第十五軍の一部のシンゴラバンコクへの輸送が行われ、「鬼怒」は主隊と共に1942年1月5日にカムラン湾から出撃して1月8日まで支援を行なった[15]。1月30日からはボルネオのレド飛行場への人員、物件の輸送が行われ、それらを運ぶ「富士川丸」と「辰宮丸」を「鬼怒」と駆逐艦「叢雲」、第四十四掃海隊が護衛[16]。1月30日にサイゴンから出発し、2月2日にパマンカットに着いた[16]。2月11日、「鬼怒」はカムラン湾に帰投した[17]。2月17日に「鬼怒」は出撃し、第二十一航空戦隊が進出するケンダリーへの人員、物件を運ぶ「名古屋丸」をスターリング湾まで護衛した[18]


    1942年
    3月1日、鬼怒はジャワ作戦に協力中、敵機の爆撃を受けて4名が戦死した。同月、第2南遣艦隊第16戦隊旗艦となった。


    3月15日に水上機母艦「千歳」や駆逐艦「雪風」、「時津風」などとともにN攻略部隊を編成し、同月末から西部ニューギニア戡定作戦に従事[19]。N攻略部隊はアンボンに集結し、3月29日夜から30日早朝にかけて出撃した[20]。「鬼怒」は3月31日のブラ攻略、4月4日のソロン掃蕩、4月19日のサルミ掃蕩に参加[21]。4月22日にN攻略部隊はマノクワリに集結完了して作戦を終了し、翌日N攻略部隊の編制が解かれた[22]


    5月、に帰投して入渠整備を行った。


    1943年4月、鬼怒は南西方面艦隊に編入される。5月、リンガ泊地の調査を行った[23]。続いて第5師団の兵員などをバボへ輸送し、6月10日にマカッサルに入港[24]。6月23日、鬼怒を含め軽巡洋艦4隻が在泊していたマカッサルにアメリカ第5空軍第90爆撃団のB-24が16機来襲[25]。鬼怒は左舷側に至近弾があり、多数の破口が生じて後部の倉庫や機械室に浸水した[26]。人的被害は戦死3名、負傷者17名であった[26]。旗艦は球磨に変更となり、鬼怒は球磨と駆逐艦敷波の護衛でスラバヤへ移動し、6月25日に入港[27]。同地で7月20日まで修理を行い、それからマカッサルとタラカン経由で8月2日に呉に到着し、本修理が行われた[27]


    1944年、数度に分けて鬼怒の対空兵装の強化改装が行われ、5番主砲の撤去、7番主砲の撤去と跡に12.7cm連装高角砲の装備、射出機の撤去と跡に25mm三連装機銃の装備、25mm機銃を三連装・連装・単装多数装備などが行われた。なお、鬼怒への酸素魚雷搭載については計画のみあったものの魚雷発射管の換装も改造も行われず、沈没まで九〇式空気魚雷を使用していた。


    1944年1月、鬼怒と北上はポートブレアへの陸兵輸送を行った[28]。2隻は1月23日にシンガポールを出港し[29]、1月25日にポートブレアに到着[28]。陸兵を降ろし、同日シンガポールへの帰途についたが、27日にマラッカ海峡の入り口でイギリスの潜水艦テンプラーの雷撃により北上が被雷して航行不能となり、鬼怒は北上をシンガポールまで曳航した[30]


    1944年10月18日、捷一号作戦により栗田艦隊とともにリンガ泊地から出撃[31]。途中のブルネイで、レイテ島への兵員輸送に従事するため鬼怒、重巡洋艦青葉、駆逐艦浦波からなる第16戦隊は栗田艦隊と別れてマニラへ向かった[32]。しかしその途中の10月23日に青葉がアメリカの潜水艦ブリームの雷撃により損傷し、鬼怒は航行不能となった青葉を曳航して同日中にマニラに着いた[33]。鬼怒が参加する輸送作戦はミンダナオ島カガヤンからの歩兵第41連隊の輸送であり、鬼怒と浦波の他輸送艦5隻が参加した[34]。鬼怒と浦波は10月24日6時30分にマニラを出発したが、7時から10時にかけてアメリカ空母搭載機による3次に渡る空襲を受けて鬼怒では死傷者47名を出した[35]。翌日にはB24爆撃機による空襲があったが鬼怒に損害は無かった[36]。鬼怒と浦波は3時間遅れの25日16時にカガヤンに到着し、兵員を乗せると17時30分に出港した[37]。鬼怒は340名を乗せていた[38]。輸送艦は鬼怒と浦波の到着前にすでにオルモックへ向けて出港していた[38]。鬼怒と浦波はボホール島の西側を通る迂回航路を取って[39]10月26日4時にレイテ島オルモックに着き兵員を下ろした[40]。鬼怒と浦波は5時にオルモックを離れてマニラへ向かい、続いて輸送艦も出港し内3隻は鬼怒と浦波に続航した[40]。同日10時15分、パナイ島マスバテ島の間に達したころからアメリカ第7艦隊の護衛空母搭載機による攻撃を受けまず浦波が沈没[41]、鬼怒も14時過ぎには航行不能となり17時30分ごろに沈没した[42]。後続の輸送艦が2隻の生存者を救助し、第9号輸送艦が鬼怒乗組員129名、第10号輸送艦が第16戦隊司令官左近允尚正中将以下350名以上を救助した[43]。もう1隻、第6号輸送艦も生存者を救助したと思われるが記録がない[43]

    歴代艦長
    ※『艦長たちの軍艦史』157-159頁、『日本海軍史』第9巻・第10巻の「将官履歴」及び『官報』に基づく。

    艤装員長
    1. 矢野馬吉 大佐:1922年5月10日 -


    艦長
    1. 矢野馬吉 大佐:1922年11月10日 - 1923年12月1日
    2. 及川古志郎 大佐:1923年12月1日 - 1924年1月10日
    3. 竹内正 大佐:1924年1月10日 - 1924年11月10日
    4. 松崎直 大佐:1924年11月10日 - 1925年12月1日
    5. 瀬崎仁平 大佐:1925年12月1日 - 1926年11月1日
    6. 小野弥一 大佐:1926年11月1日 - 1927年11月15日
    7. 小籏巍 大佐:1927年11月15日 - 1928年12月10日
    8. 田尻敏郎 大佐:1928年12月10日 - 1929年11月30日
    9. 中島隆吉 大佐:1929年11月30日 - 1930年12月1日
    10. 坂本伊久太 大佐:1930年12月1日 - 1931年12月1日
    11. 佐倉武夫 大佐:1931年12月1日 - 1933年11月15日
    12. 木幡行 大佐:1933年11月15日 - 1934年11月1日
    13. 遠藤喜一 大佐:1934年11月1日 - 1935年11月15日
    14. 三輪茂義 大佐:1935年11月15日 - 1936年12月1日
    15. 石川茂 大佐:1936年12月1日 - 1937年12月1日
    16. 田代蘇平 大佐:1937年12月1日 - 1938年12月15日
    17. 渡辺清七 大佐:1938年12月15日 - 1939年11月15日
    18. 橋本愛次 大佐:1939年11月15日 - 1940年4月20日[44]
    19. 伊藤徳堯 大佐:1940年4月20日 - 1940年12月2日[45
    ]
    20. 矢牧章 大佐:1940年12月2日 - 1941年3月15日
    21. 鍋島俊策 大佐:1941年3月15日 - 1941年8月11日
    22. 加藤与四郎 大佐:1941年8月11日 - 1942年12月12日
    23. 上原義雄 大佐:1942年12月12日 - 1943年3月22日
    24. 板倉得止 大佐:1943年3月22日 - 1944年2月4日
    25. 川崎晴実 大佐:1944年2月4日 -

    同型艦
    長良 - 五十鈴 - 名取 - 由良 - 阿武隈


    詳しいことは、「鬼怒 (軽巡洋艦)ウィキペディア」をご覧ください。 ⇩
    https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AC%BC%E6%80%92_(%E8%BB%BD%E5%B7%A1%E6%B4%8B%E8%89%A6)
    (wikiより)

    32 軍艦鬼怒










    鬼怒

    32a

















    32b

















    32c



















    隼鷹(じゅんよう)は、大日本帝国海軍航空母艦[23][24]。 艦名は猛禽類ハヤブサタカに由来する[24]隼鷹型航空母艦1番艦[25]。 飛鷹の建造番号(仮称艦名)は1001号艦、隼鷹の建造番号(仮称艦名)は1002号艦である[26]。一部の資料(文献)では、隼鷹を飛鷹型航空母艦の2番艦とする[27][28]

    概要
    軍艦隼鷹(じゅんよう)は、日本海軍の航空母艦。 有事の空母改造を前提に、1939年(昭和14年)3月から三菱長崎造船所で建造中だった日本郵船橿原丸級貨客船1番船橿原丸(かしはらまる)を[29][30]、航空母艦(空母)へ改装した艦船である[31][32]


    1942年(昭和17年)5月3日に特設航空母艦として竣工[26][33]第四航空戦隊龍驤、隼鷹)としてAL作戦(アリューシャン攻略作戦)に従事した[34][35]。 同時期に行われたミッドウェー海戦で日本海軍は大敗。AL作戦終了時点で残った中型以上の高速正規空母翔鶴型航空母艦2隻(翔鶴瑞鶴)のみであった[36]。隼鷹と姉妹艦飛鷹の速力は正規空母の30kt以上に比較して遅く、鋼板も薄く防御能力でも見劣りしたが[37]、中型の正規空母蒼龍なみの航空機搭載量を持つ貴重な戦力であり[36][38]、日本海軍航空戦力の一翼を担った[33][34]


    軍艦籍に編入された隼鷹は、姉妹艦の飛鷹と共に第二航空戦隊を編成[33][39]。しばらく内海西部で訓練を実施した。 10月以降、隼鷹は南太平洋に進出して10月26日の南太平洋海戦に参加した[32]。11月中旬の第三次ソロモン海戦では、損傷した戦艦比叡の上空援護をおこなった。ウェワク輸送作戦従事後、1943年(昭和18年)2月に内地へ帰投。その後、内地とトラック泊地を往復した。同年後半は、シンガポールやトラック泊地への輸送任務に従事する[32]11月5日、隼鷹は日本本土近海で米軍潜水艦ハリバットの魚雷攻撃により損傷[32][40]。重巡洋艦利根に曳航され、呉に帰投した[32]


    修理後の1944年(昭和19年)6月、第二航空戦隊(隼鷹、飛鷹、龍鳳)はマリアナ沖海戦に参加[4][32]。同海戦で飛鷹が撃沈され[39]、隼鷹も損傷した[41]。修理と共に対空火器を増設[33]。10月下旬よりフィリピン方面輸送作戦に従事、レイテ沖海戦には参加していない[33]12月9日、長崎沖合でアメリカの潜水艦の雷撃で損傷し佐世保に帰投した[32]。 その後、佐世保港に係留されたまま終戦を迎える[33]。機関部の損傷により復員船として運用されることなく、また客船に戻されることもなく解体された[42][43]

    特徴
    第1002号艦(隼鷹)は、日本の空母として初めて島型艦橋と上方煙突が一体化した大型艦橋を有していた[44]。これは建造中の大鳳型航空母艦の実験を兼ねており、煙突は外側へ26度傾斜している[44][45]レーダー二式二号電波探信儀一型)の装備も日本空母初の試みであった[44]。また商船としてある程度建造が進んでいた隼鷹は、姉妹艦の飛鷹にくらべて木製部分が多く、戦争後半の出火対策で苦労する事になった[46]


    竣工の1942年5月に対し、21号電探を艦橋上に装備したのは同年7月であり、電探を装備した最も早い艦艇の1隻である[47]


    対空火器は、1943年に飛行甲板前部の両側に25mm3連装機銃を2基づつ、計4基を増備、計12基になっていたと推定される[18]。この時の機銃座はまだ円形であり、同時に射撃指揮装置2基も追加された[18]。また同時期に飛行甲板後方左舷の4番探照燈を撤去し、代わりに隠顕式の21号電探1基を追加した[18]マリアナ沖海戦直前の1944年5月には、25mm機銃3連装16基、同単装(移動式)12挺を装備した[14]。追加の3連装機銃4基は艦尾に機銃座を設けて2基、艦橋構造物の前後に1基ずつが確認される[18]。単装機銃は飛行甲板上に移動式を装備した[18]。当時の写真では飛行甲板前端に2挺、後端に3挺の装備が確認される[48]。また艦橋構造物上にも装備したらしい[18]。13号電探はまだ装備しておらず、逆探は既に装備していた[18]。竣工時の公式図によると高角砲指揮装置は4.5m高角測距儀であった[49] が、この時点で九四式高射装置に交換されている[50]


    マリアナ沖海戦では隼鷹も損傷し、復旧工事を行った。この時に煙突のサポート形状が変化し[18]、艦橋構造物は後方に延長され、信号マストはその上に設置された。対空兵装の増備も実施され、「あ号作戦後の兵装増備の状況調査」によると1944年7月の時点で25mm3連装機銃19基、同連装2基、同単装27挺、他に単装機銃座4基とされる[51]。増備した3連装機銃は、艦橋構造物上の前後に1基ずつ、艦首に1基の計3基がその後の写真でも確認される。連装機銃2基に関しては、同調査の図では右舷は艦橋側面にあった探照燈座を拡大して1基を設置した[52]。左舷は発動機試運転場の甲板を拡大して1基となっている[52] が、戦後を含めてその付近の鮮明な写真が無く、位置が明らかでないとされる[18]。同時に信号マスト上に13号電探1基を追加した[53]


    1944年12月に隼鷹は雷撃により損傷したが、その時の写真から飛行甲板前方の両舷、前部高角砲の前方に28連装噴進砲が3基ずつ、計6基装備されているのが確認される[18]。右舷最後方の25mm3連装機銃2基を撤去、機銃座を後方へ延長して噴進砲4基を設置、左舷は起倒式クレーンの側方、発動機試運転場の上に砲座を設けて4基の噴進砲を装備した[17]。この時に舷側は対潜迷彩の塗装を行っていた[18]

    歴史
    建造
    大型高速客船を有事に際し、空母に改造する発想はイギリスからもたらされた。1923年(大正12年)末、第一次大戦後の欧州視察のためイギリスを訪問した平賀譲造船少将に対し、イギリス海軍造船局長サー・ユースタス・テニスン・ダインコートは大型商船を空母化する利点について熱心に説いた[54]。当時のイギリスが保有する150隻以上の1万トン以上大型客船は、有事に際し兵員輸送船や特設巡洋艦に転用できるため、列強(特にアメリカ)から重大な脅威とみなされていた[55]。サー・ユースタス・ダインコートの提案は日本海軍の構想と一致した。アメリカを仮想敵とした場合に求められたのは、兵員輸送力ではなく、洋上決戦を挑むための航空戦力とそれを運用する航空母艦だったからである[56]


    こうして帝国海軍は有事空母化を前提とした商船や客船の建造を模索、1929-1930年に日本郵船の秩父丸(鎌倉丸)浅間丸龍田丸が完成した[57]。続いて大阪商船あるぜんちな丸級貨客船2隻(あるぜんちな丸海鷹〉、ぶらじる丸)が三菱重工業長崎造船所で1938年-1939年にそれぞれ進水、竣工する[58][59]。さらに1940年東京オリンピックにそなえるべく日本郵船の新田丸級貨客船3隻(新田丸〈冲鷹〉、八幡丸〈雲鷹〉、春日丸〈大鷹〉)が計画され、いずれも三菱重工業長崎造船所で建造された[59][60]。太平洋戦争と共に各船は日本海軍に徴用され、大鷹型航空母艦として再就役している[61]


    1939年(昭和14年)3月20日、橿原丸は三菱重工業長崎造船所において起工[44][62]。完成した場合には、2万7700トン、最大発揮速力25.5ノット(航海速力24ノット)、旅客定員890名という、太平洋航路最大級の客船となるはずだった[29][63]。だが機関部や客室部分など、設計段階から空母に改造することを前提とした構造となっていた[64]。また当時の長崎造船所は、橿原丸の隣の船台で大和型戦艦2番艦武蔵を建造中である(1938年3月29日起工)[65]。 1940年(昭和15年)1月6日、新田丸級貨客船3番船春日丸が橿原丸の隣で起工(同年9月15日進水)[62]。11月1日、武蔵は橿原丸より一足先に進水した[65]。だが、武蔵進水後の造船台は依然として簾で隠されたままで、長崎の住民は「武蔵はもう1隻いる」と噂していた[66]。造船所の火災で橿原丸の姿が簾越しに浮かびあがると、住民達は同船を第二の武蔵と錯覚した[66]。橿原丸は昭和17年1月の竣工を予定していた[29]

    1941年(昭和16年)1月21日、日本海軍は橿原丸を買収する[4]。 福井静夫(海軍技術将校、艦艇研究家)によれば2月10日買収[26][28]。 日本海軍は橿原丸の空母改造に着手した[32]。仮称艦名、第一〇〇二番艦[44][67]6月24日、川崎重工業神戸造船所で出雲丸/1001番艦(飛鷹)が進水[62][68]6月26日[62]、三菱長崎造船所で橿原丸/1002号艦(隼鷹)が進水した[4][44]


    10月1日、日本海軍は石井藝江大佐を隼鷹艤装員長に任命する[69]。10月6日、長崎海軍監督官事務所の隼鷹艤装員事務所は、事務を開始する[70]。 12月8日、日本とアメリカは太平洋戦争に突入する。


    1942年(昭和17年)3月下旬、豊田副武呉鎮守府司令長官は第1002号艦(隼鷹)の諸公試実施を命じる[71][72]。 4月6日、隼鷹艤装員事務所を艦内に移転する[73]。同日より駆逐艦呉竹(第13駆逐隊)に護衛され、佐世保から呉に回航されることになった[74]。第1002号艦(隼鷹)は九州沿岸を航海、諸試験を実施した[67]。 4月下旬、長崎から呉に移動する[75]

    AL作戦
    1942年(昭和17年)5月3日、第1002号艦(隼鷹)は竣工[4][76]。隼鷹艤装員事務所を撤去する[77]特設航空母艦隼鷹として呉鎮守府所管[78][79]。この時点では特設航空母艦(特設艦船)であるため、まだ艦首の菊御紋章がついていなかった[80][81]。主要初代幹部は、石井藝江大佐(隼鷹艦長)、副長羽田次郎中佐、飛行長崎長嘉郎少佐、航海長鈴木荘少佐、砲術長吉野富大尉、通信長佐伯洋大尉、機関長村田利男中佐[82]


    隼鷹は竣工と同日附で第四航空戦隊(司令官角田覚治少将)に編入された[83][84][85]。 四航戦は軽空母2隻(龍驤祥鳳)で編成されていたが、祥鳳は5月7日の珊瑚海海戦で沈没していた[84]。隼鷹は内海西部で訓練に従事したが、艦・飛行機隊とも訓練期間が極めて短かった[76]。 5月19日、隼鷹は広島湾那沙美水道の最狭部で軍艦大和(連合艦隊旗艦)と反航してすれ違い、宇垣纏連合艦隊参謀長(大和座乗)は「無謀とや云はん。禮儀を知らずとや云はん。」と隼鷹艦長(石井大佐)に怒っている[86]。同日、隼鷹は基地航空隊用の零式艦上戦闘機12機を搭載した[76][87]


    5月20日附で、四航戦(龍驤、隼鷹)、第四戦隊第2小隊(摩耶高雄)、第一水雷戦隊(旗艦〈阿武隈〉、第6駆逐隊〈〉、第21駆逐隊〈若葉初霜子日初春〉、第7駆逐隊〈〉)は北方部隊に編入された。隼鷹は第二機動部隊に所属し、四航戦(龍驤、隼鷹)、重巡洋艦2隻(摩耶、高雄)、駆逐艦3隻(潮、曙、漣)、補給船「帝洋丸」と共にアリューシャン方面作戦に参加する[4][88]。 5月22日、各隊(四戦隊、21駆)・(四航戦、6駆)は瀬戸内海を出撃後、下関海峡を通過し[89][90]、訓練を実施しながら日本海を北上する[76]。 5月25日、大湊到着[4][91]。翌日、第二機動部隊(四航戦、第四戦隊、第7駆逐隊、帝洋丸)は大湊から川内湾へ移動[91][92]ダッチハーバーウナラスカ島)に向かった[93]


    6月3日2300よりダッチハーバーや同方面所在の小型艦艇に対し空襲を行う(第一次攻撃隊〔龍驤艦攻14・艦戦3、隼鷹艦爆15・艦戦13〕、第二次攻撃隊〔艦攻14、艦爆15、艦戦12、水上偵察機4〕)[93][94]。だが天候不良に加え小数兵力のため大きな戦果をあげることが出来なかった(水偵1喪失、水偵1を回収後放棄)[94][95]


    6月5日、ミッドウェー海戦南雲機動部隊からは主力空母4隻(赤城加賀蒼龍飛龍)が沈没した[96][97]。並行して実施されていたミッドウェー海戦の敗北報告を受けた角田司令官は、ダッチハーバーへの第三次攻撃(艦攻9、艦爆11、艦戦11)を実施してからミッドウェー方面に向かう事を決定[94]。天候悪化により隼鷹艦爆1機が行方不明となった[98]。龍驤所属の零戦が不時着し、アメリカ軍に鹵獲されたのも、この作戦中の出来事だった(アクタン・ゼロ[94]。同方面行動中[99]、隼鷹は雲間より出現したPBYカタリナ飛行艇に雷撃されるが、投下位置が隼鷹に近すぎたため魚雷は飛行甲板を越えて反対舷に落下、その後PBYは高雄に撃墜されたという[100]。また索敵行動中、軽空母の龍驤(四航戦旗艦)の航空燃料が不足したため、龍驤艦載機を隼鷹に着艦させて補給することになったという[101]


    6月14日、攻略部隊に所属していた空母瑞鳳、第三戦隊第1小隊(比叡金剛)等が北方部隊に合流した[102]。隼鷹は駆逐艦から蒼龍の搭乗員を受け入れたという[103]。また本土からも空母瑞鶴が出撃し、6月23日に大湊で四航戦と合流した。17日附で北方部隊指揮官(第五艦隊司令長官)が発令した第二軍隊区分の主要兵力は、主隊(那智)、支援部隊(第一支援隊〈比叡、利根、筑摩〉、第二支援隊〈妙高、羽黒、木曾、多摩、阿武隈、駆逐隊1〉)、第二機動部隊(第一空襲部隊〈龍驤、隼鷹、高雄〉、第二空襲部隊〈瑞鶴、瑞鳳、摩耶〉)というものだった[104]。 作戦行動中、隼鷹は機関故障を起こす[105]。 6月24日、隼鷹は大湊に到着[4]。29日、駆逐艦(第6駆逐隊)に護衛されて大湊を出発[106]下関海峡を通過し[107][108]、7月3日に呉へ帰投した[4]。同日、「隼鷹」は機動部隊に復帰した[109]。 後日、山本五十六連合艦隊司令長官は、第二機動部隊に感状を与えた[110]

    ラバウル方面
    1942年
    1942年(昭和17年)7月14日、隼鷹は軍艦籍に加入し軍艦(ぐんかん)隼鷹(じゅんよう)と命名された[111][112]。 本籍は呉鎮守府[113][114]。同日附で第二航空戦隊(司令官角田覚治少将)に編入される[4]。 7月20日、隼鷹艦長は石井藝江大佐から岡田為次大佐に交代した[115]


    7月31日、同型艦の飛鷹(出雲丸)が竣工する[68][116]。軍艦籍に加入した[117]。 空母3隻(隼鷹、飛鷹、龍驤)は再編成された第二航空戦隊に所属し[88][118]第三艦隊の構成艦として出撃準備を行う[119]。 当時の二航戦搭載機数(常用機・補用機合計)は、隼鷹と飛鷹は1隻あたり艦戦21(改訂前16)、艦爆18(前24)、艦攻9(前0)[120]。龍驤は艦戦24(改訂前16)、艦攻9(前20)である[120]


    8月7日、アメリカ軍のガダルカナル島フロリダ諸島への上陸を契機にガダルカナル島の戦いが始まった。 8月12日、二航戦旗艦は飛鷹に移った[121][122]。この時、第一航空戦隊の空母瑞鳳は練度不足と判断された。そのため、瑞鳳の代艦として龍驤が第一航空戦隊(翔鶴、瑞鶴)に編入され、ソロモン諸島へ進出した[123]。龍驤は8月24日の第二次ソロモン海戦で撃沈された[88]

    詳細は「南太平洋海戦」を参照


    10月4日、第二航空戦隊(飛鷹、隼鷹)[4][68] と駆逐艦2隻(第6駆逐隊〈〉、第19駆逐隊〈磯波〉)は内地を出発[124][125]。9日、トラック泊地へ進出した[126]。10月11日、二航戦はトラック泊地を出撃[68]。 ガダルカナル島アメリカ軍ヘンダーソン飛行場への日本陸軍総攻撃(10月24-25日予定)に呼応すべく、日本海軍は空母機動部隊、水雷戦隊(軽巡由良、駆逐艦秋月村雨春雨夕立五月雨白露等)を派遣する。ところが10月20日[68]、飛鷹(二航戦旗艦)の機関室で火災が発生[127]。飛鷹は戦闘航海不能となりトラックへ撤退した[118][128]。角田少将および二航戦関係者は隼鷹に移動[105]。隼鷹は二航戦旗艦となり、飛鷹艦載機の一部を臨時編入した。

    10月26日、隼鷹は第一航空戦隊(翔鶴、瑞鶴、瑞鳳)と共に米艦隊(第11任務部隊・第16任務部隊・第64任務部隊)と交戦する[129]。空母ホーネットの撃沈、エンタープライズの撃退に貢献したが[130]、多くの航空機と熟練搭乗員を失った。第一航空戦隊(翔鶴、瑞鶴、瑞鳳)は損傷の修理と航空隊補充のため随時内地へ回航され、トラック泊地に残る作戦行動可能な空母は隼鷹1隻となった[131]。10月29日、対潜哨戒中の隼鷹搭載機はアメリカの潜水艦プランジャーを発見し爆撃した[132]

    詳細は「比叡 (戦艦)」を参照


    11月9日、隼鷹(二航戦)はトラック泊地を出撃した[4]。 11月12日以降の第三次ソロモン海戦では、第一夜戦で行動不能となった挺身艦隊旗艦比叡と護衛駆逐艦(第16駆逐隊〈雪風〉、第61駆逐隊〈照月〉、第27駆逐隊〈時雨白露夕暮〉)を掩護する必要が生じ、隼鷹は零式艦上戦闘機を派遣する[4]。だが数機単位でしかなく、ヘンダーソン基地から次々に飛来するF4Fワイルドキャット戦闘機と交戦して身を守るのがやっとだった。B-17爆撃機TBFアベンジャー雷撃機の波状攻撃を受けた比叡はアイアンボトム・サウンドに沈んだ。ヘンダーソン基地に対する艦砲射撃は中止、ガダルカナル島へ向かう増援部隊輸送船団も大損害を受け、日本海軍はガダルカナル島を巡る決定的な戦闘に敗北した[133]。11月18日、隼鷹はトラック泊地に帰投[4]

    詳しいことは、「隼鷹 (空母)ウィキペディア」をご覧ください。 ⇩
    https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9A%BC%E9%B7%B9_(%E7%A9%BA%E6%AF%8D)
    (wikiより)

    31 軍艦隼鷹

    隼鷹

    31a

    31b



    秋風(あきかぜ)は、日本海軍駆逐艦[1]峯風型駆逐艦(一等駆逐艦)の9番艦である[2][3]。艦名は立秋に秋の気配を感じさせる風を意味する。

    艦歴
    太平洋戦争開戦まで
    「秋風」は1919年(大正8年)5月24日、峯風型姉妹艦や樅型駆逐艦と共に命名された[4]。同日附で一等駆逐艦に類別[5][6]。 「秋風」は三菱長崎造船所で建造[7]1920年(大正9年)6月7日に起工[7]。同年12月14日に進水[7]1921年(大正10年)4月1日、竣工[7][8]横須賀鎮守府籍に編入[9]


    1933年
    (昭和8年)3月3日に発生した昭和三陸地震のとき、秋風は第4駆逐隊に属して青森県の大湊要港部にあり、僚艦とともに出動した。羽風は岩手県の宮古で救援にあたった[10]


    日中戦争支那事変)に際して、1938年(昭和13年)以降は華中の沿岸作戦に参加した。 1940年(昭和15年)末、峯風型4隻(羽風[11]、秋風、太刀風[12]夕風[13])による第34駆逐隊新編にともない、4隻は舞鶴鎮守府に転籍した(夕風と太刀風は11月15日附、羽風と秋風は12月1日附)[9]。 同年11月15日、第34駆逐隊は空母2隻(鳳翔龍驤)と共に第三航空戦隊(司令官角田覚治少将)を編制する[14]


    1941年(昭和16年)4月10日、「夕風」は第34駆逐隊から除籍されて第三航空戦隊に残り[13][15](同時に睦月型駆逐艦三日月を三航戦に編入)[16][17]、34駆は峯風型3隻(羽風、秋風、太刀風)となった[18][19]。 同日附で第一航空戦隊の編制がかわり、大型空母2隻(赤城加賀)と第34駆逐隊(羽風、秋風、太刀風)になった[20]。また日本海軍の空母機動部隊構想により第一航空艦隊(司令長官南雲忠一中将/第一航空戦隊司令官兼任)が新編され、一航戦も組み込まれた。


    5月1日、第一航空戦隊の駆逐隊は、最新の陽炎型駆逐艦(磯風[21]浦風[22]谷風[23])で編制された第17駆逐隊に変更された[24]。 第34駆逐隊は第二遣支艦隊に編入され、しばらく中国方面で活動した[25]。 9月15日、第34駆逐隊は第十一航空艦隊(司令長官塚原二四三中将)に編入された[26][27]。基地航空部隊である第十一航空艦隊は南方作戦で重要な役割を担っており、「秋風」も司令部や基地要員の移動のため、南方へむかった[28][29]

    太平洋戦争前半
    1941年(昭和16年)12月8日の太平洋戦争大東亜戦争)開戦時、「秋風」は台湾高雄市所在で、不時着機の救難任務に従事した[9]。秋風駆逐艦長は、森卓次少佐(海兵56期)であった[28]。緒戦における第34駆逐隊(羽風、秋風、太刀風)は第十一航空艦隊に所属し、南方作戦マレー作戦比島作戦蘭印作戦)における輸送や海上護衛作戦など[30][31][32]、おもに後方での支援作戦に従事する[33][28]。この頃になると峯風型は老朽化が進み、各艦とも最大発揮速力32ノット前後まで落ち込んでいた[34]


    1942年(昭和17年)2月、「秋風」は蘭印作戦にともないインドネシアバンダ海アンボン島方面に進出した[9]。4月22日、アンボンを出発して内地にむかう[9]。5月4日、秋風は舞鶴に帰投して、舞鶴海軍工廠で修理と整備をおこなった[9][30]。 6月8日、舞鶴を出発する[9]。船団護衛をおこないつつ南東方面にむかい、6月22日にニューブリテン島ラバウルに進出した[9]。 8月7日以降ガダルカナル島の戦いが始まると、第34駆逐隊(秋風、羽風、太刀風)もラバウルを拠点にして、護衛任務や強行輸送任務(鼠輸送)に投入された[9][11][12]第一次ソロモン海戦における「秋風」は、水上機母艦「秋津洲」と共に日本軍基地航空隊(十一航空艦隊)不時着機の救助任務に従事している。9月1日、「秋風」はブカ島近海で空襲を受け小破[35]。10月25日、空襲を受け中破[35]。本艦は損傷を受けながら、最前線で活動を続けた[36]


    1942年(昭和17年)12月24日、日本海軍は南東方面艦隊(司令長官草鹿任一中将、参謀長中原義正少将)を編制するが、同艦隊司令部は第十一航空艦隊と兼務であり、「秋風」以下第34駆逐隊もひきつづき南東方面艦隊/第十一航空艦隊直属隊として行動した[37][38]。12月17日、僚艦「太刀風」は空襲をうけて損傷、いったん佐世保に戻って修理をおこなう[12][32]


    1943年
    (昭和18年)1月23日、第34駆逐隊僚艦「羽風」が水上機母艦「秋津洲[39]を護衛中に米潜水艦ガードフィッシュに撃沈され[11][40]、同隊は2隻編制(秋風、太刀風)となった[37][35]。 3月14日、「秋風」はニューアイルランド島要港カビエンを出発、15日にカイリル島、16日にロレンガンに立ち寄り、17日カビエン着、18日迄にはラバウルへ戻った[41]。この航海中、下記の虐殺事件が発生した。

    太平洋戦争中盤の行動
    1943年(昭和18年)4月1日、第34駆逐隊(司令天谷嘉重大佐)は解隊され[37]、「秋風」は第十一航空艦隊直属となった[42]。隻数の減少にくわえ、もともと単艦行動が多かったため駆逐隊を編制する意味が薄れたためと思われる[37]。「秋風」は4月3日に佐世保へ帰投し[9]、続いて舞鶴海軍工廠で整備をおこなった[30]


    5月25日、「秋風」は横須賀を出撃し、6月3日ラバウルに進出した[9]。6月下旬以降、日本軍はニュージョージア島の戦いブーゲンビル島の戦いなどで、米軍に圧倒されつつあった。7月27-28日にはニューブリテン島グロスター岬で駆逐艦2隻(睦月型駆逐艦三日月[43][44]初春型駆逐艦有明[45][46])が座礁と空襲により沈没した[17][47]。救助のため「秋風」が派遣され、2隻の乗組員を救助した[48]。 8月2日、秋風はラバウル南方で空襲を受け[9]、大破する[8][49]。佐部鶴吉少佐(秋風艦長)を含め秋風の主要幹部はほぼ戦死、兵曹長(掌砲長)が指揮をとってラバウルに戻った[50]。宮田敬助(当時、駆逐艦水雷長。秋風水雷長の寺田武夫中尉は、海兵同期)によれば、「秋風」の艦橋はつぶれ、マストと一番煙突は跡形もなかったという[50]。 後任の秋風駆逐艦長は、三日月沈没時の艦長だった山崎仁太郎少佐(海兵58期)になった[37]


    9月6日に佐世保へ帰投、つづいて舞鶴に回航されて修理をおこなった[9]。11月4日、「秋風」は舞鶴を出撃し、11月18日にラバウルへ到着した[9]。ふたたび南東方面の最前線で、輸送任務や護衛任務に従事する[49]。12月7日、「秋風」は吹雪型駆逐艦「天霧」(駆逐艦長花見弘平少佐)と衝突して損傷する[8]。12月21日にもラバウルで空襲を受けて損傷し、トラック泊地で応急修理をおこなった[9]

    太平洋戦争終盤の行動
    1944年(昭和19年)1月23日、「秋風」はトラック泊地を出撃、ラバウルに進出して輸送任務に従事した[9]。 2月17日、中部太平洋における日本海軍の最大拠点トラック泊地は、米軍機動部隊艦載機による大規模空襲を受け、停泊していた艦艇や地上基地航空隊は大損害を受ける[30][49]トラック島空襲。峯風型では太刀風が沈没)[32][51]。米軍機動部隊が去ったあと損傷艦を退避させることになり、駆逐艦複数隻(秋風、藤波春雨〈途中合流〉)は工作艦「明石[9]、標的艦「波勝」を護衛してパラオ泊地へむかった[52][53]。 これ以降、「秋風」はパラオ、トラック泊地、サイパン島方面の船団護衛任務に従事した[9]。4月22日、「秋風」はサイパンを出発し、4月26日に横須賀へ到着、続いて舞鶴に移動した[9][30]


    5月1日、「秋風」(舞鶴鎮守府籍)[9]と「松風」(横須賀鎮守府籍)は佐世保鎮守府に転籍した[54]。 同時に卯月型駆逐艦2隻(卯月夕月)の第30駆逐隊に編入され、同隊は駆逐艦4隻(卯月、夕月、秋風、松風)となった[55]。第30駆逐隊は第三水雷戦隊(司令官中川浩少将)の麾下であった[9]。「秋風」は機動部隊(指揮官小沢治三郎海軍中将、第一機動艦隊司令長官)附属となり、フィリピン方面で船団護衛任務に従事した[30]


    この時期、第30駆逐隊の駆逐艦は次々に失われた。6月9日、30駆僚艦「松風」は第3606船団を護衛中に米潜水艦ソードフィッシュに撃沈される[56][57]。 そこで日本海軍は8月20日附で第22駆逐隊を解隊し、同隊所属だった駆逐艦2隻(皐月夕凪)を第30駆逐隊に編入する[58]。また先のサイパン島地上戦で第三水雷戦隊司令部は玉砕しており[59]、日本海軍は軽巡洋艦五十鈴と三水戦の残存艦艇、さらに新造の松型駆逐艦海防艦をくわえ、連合艦隊の隷下に第三十一戦隊(司令官江戸兵太郎少将)を新編した[60]。第30駆逐隊(卯月、夕月、秋風[9]、皐月、夕凪)も第三十一戦隊に所属する[60][61]。 第三十一戦隊新編から間もない8月25日、「夕凪」は米潜水艦ピクーダに撃沈され[62][63]、9月21日には「皐月」がマニラで空襲を受け沈没した[64][65]。第30駆逐隊は駆逐艦3隻(卯月、夕月、秋風)編制となった[66][67]


    9月26日、「秋風」は佐世保にもどった[9][30]捷一号作戦にともなうレイテ沖海戦では、小沢機動部隊のタンカー「仁栄丸」を護衛している[68]。第二補給部隊(タンカー〈仁栄丸〉、駆逐艦〈秋風〉、海防艦〈31号、43号、132号〉)という編成である[68]。10月24日、秋風駆逐艦長指揮下の第二補給部隊は呉を出撃、豊後水道を南下した[68]。 10月25日、高知県足摺岬沖合で第132号海防艦が米潜水艦に雷撃されて大破(船体切断)、呉に引き返した[68]。続いて米潜水艦スターレットが補給部隊を襲撃し、「仁栄丸」を撃沈する[68]。護衛対象の消滅により、連合艦隊は海防艦2隻(31号、43号)に台湾への移動とタンカー「良栄丸」の護衛を命じた[68]

    沈没
    仁栄丸の護衛に失敗したあと、「秋風」はフィリピン方面への『緊急輸送作戦』に従事する空母「隼鷹」を護衛することになった[69]。この任務における「隼鷹」は空母でありながら航空機をまったく搭載せず、その格納庫に戦艦「大和」を含む第二艦隊(栗田艦隊)用の砲弾、第三十一根拠地隊向けの砲弾、第1挺進集団の一部、第七震洋隊の水上特攻艇震洋」50隻と基地隊員130名を搭載したという[69]。 輸送部隊は隼鷹艦長を指揮官とし、軍艦2隻(空母〈隼鷹〉、軽巡洋艦〈木曾〉)[70]、第30駆逐隊(司令澤村成二大佐:夕月卯月、秋風)で編制されている[71]。しかし艦隊の動向は米軍に察知されており、米潜水艦複数(ジャラオアトゥル、ピンタド等)からなるウルフパックが「隼鷹」を狙っていた[72]


    隼鷹隊は10月30日に佐世保を出発[70]、「秋風」は31日になって合流した[71]。台湾・馬公市に立ち寄ったのちブルネイに向け移動中の11月3日夜、米潜水艦ピンタド(USS Pintado, SS-387)[49][8]が「隼鷹」に対して魚雷6本を発射した[72]。ピンタドの魚雷は「隼鷹」ではなく「秋風」に命中し、22時53分の大爆発により「秋風」の艦体は分断され、艦尾部分は22時58分に沈没した[73]。「夕月」が救援にあたるが[74]、秋風乗組員は山崎艦長ふくめ全員行方不明(戦死認定)となった[75]。ピンタドは護衛艦艇(卯月、夕月)の爆雷攻撃を受けて退避し、「隼鷹」は難を逃れた。「秋風」の沈没地点はルソン島サンフェルナンド西方北緯16度50分 東経117度11.9分 / 北緯16.833度 東経117.1983度 / 16.833; 117.1983[72]。「秋風」が「隼鷹」の楯となったのか、「隼鷹」を狙って外れた魚雷が偶然「秋風」に命中したのかは定かではない[72]


    1945年(昭和20年)1月10日、「秋風」は 峯風型駆逐艦[76]、 帝国駆逐艦籍[77] のそれぞれから除籍された。また多号作戦で第30駆逐隊残存の2隻(夕月[78]、卯月[79])も沈没しており[80][81]、同日附で第30駆逐隊も解隊された[82]


    現在、「秋風」の慰霊碑呉海軍墓地にあり、隣には空母「隼鷹」の慰霊碑が建立されている。

    駆逐艦秋風虐殺事件
    1943年(昭和18年)3月18日、南東方面艦隊(司令長官草鹿任一中将)の指揮下で行動中、ニューギニアの戦いにおいて日本軍が進出したニューギニア島東部(東部ニューギニア)から、南東方面における日本軍の中心基地ニューブリテン島ラバウルへ向け、欧米各国などの現地在住民間人を「秋風」にて移送中、秋風艦上において乗員がその全員を処刑した事件[83]


    北東部ニューギニアは古くはドイツ植民地帝国植民地であり(ドイツ領ニューギニア第一次世界大戦によるドイツ敗戦以降は同島南東部を領有していたオーストラリア委任統治領となる)、現地には宣教師や農園主等としてドイツ人ら欧米各国人が入植していた。当時、ラバウル方面の作戦全般を指揮していた南東方面艦隊(司令長官草鹿任一中将、参謀長中原義正少将)は[84]、東部ニューギニア・中部ソロモンの防備をかためるため航空基地整備を企図しており、3月9日に「南東方面基地設営計画」、14日に「南東方面基地整備計画」を発令し、4月15日を目標に21ヶ所の陸上基地(新設10)・12ヶ所の水上機基地(新設6)を整備しようとしていた[85]

    被害者の内訳は以下の通り。


    カイリルー島の26名(修道士12名、修道女11名、2〜7歳の中国人児童3名)

    マヌス島の40名(神父と修道女各3名、ドイツ人宣教師夫妻2組と子供1名、ドイツ人農園主2名、中国人2名と原住民3名)

    ・ほか、少なくとも5名のオランダ人、1名のハンガリー人、1名のアメリカ人[86]


    戦後、連合国は本事件を調査。「秋風」が所属していた当時の第八艦隊司令長官三川軍一海軍中将および、参謀長大西新蔵海軍少将B級戦犯に指名、1947年(昭和22年)1月に拘束した[87]。事件当時の秋風艦長である佐部鶴吉海軍少佐をふくめ秋風主要士官は1943年(昭和18年)8月2日の秋風大破時に戦死[50]、また「秋風」自体も乗員諸共に戦没(事件当時の秋風乗組員は転勤のため生存者がいる)、裁判の焦点は事件当時の「秋風」所属および命令元となった[83]


    裁判において第二復員省および草鹿任一(当時の南東方面艦隊司令長官)や第八艦隊関係者は事件当時の「秋風」が第八艦隊(三川長官、大西参謀長)の指揮下にあったと主張した[83]。 これに対し三川・大西の両名は、事件当時の「秋風」が南東方面部隊(指揮官草鹿任一中将、南東方面艦隊司令長官)の指揮下、南東方面艦隊の命令を受けて行動していたと反論する(両名の主張が正しかった場合、草鹿任一元中将が秋風事件の戦犯となる)[83][88]。当時の軍隊区分において、「秋風」は南東方面艦隊/第十一航空艦隊(第八艦隊の上部組織)附属であるため、第八艦隊とは別の命令系統に所属していた[89][90]。また1943年3月〜4月のラバウル方面は、第81号作戦(ビスマルク海海戦)や『い号作戦』実施のため、連合艦隊、南東方面艦隊(第十一航空艦隊)、第三艦隊、第八艦隊、日本陸軍の指揮系統が複雑に絡み合っていた。


    1948年
    (昭和23年)10月上旬、小口茂秋風機関長や秋風乗組員等が被告側の証人となる[88]。10月15日、土肥一夫(海軍兵学校54期)は南東方面艦隊の戦時日誌を裁判に提出した[88]。これにより虐殺事件時の「秋風」が南東方面艦隊(司令長官草鹿任一中将。第十一航空艦隊司令長官兼務)の命令を受けていたことが明らかになる[88]。同年10月18日、三川と大西の2名は起訴却下となった[88]。大西は、冷戦によりアメリカの対日政策がかわり、草鹿が起訴される恐れがなくなったことが、第二復員省による南東方面艦隊の戦時日誌提出につながったと推測している[88]


    軍事評論家の伊藤正徳は著書『連合艦隊の栄光』の中で、以下のようなエピソードを紹介している。アメリカ軍はソロモン諸島における日本軍(航空隊、艦隊)の動向をいち早く察知するため、多数のコースト・ウォッチャーズ(沿岸監視員)を配置して諜報活動を行っていた[91]。沿岸監視員は軍人だけでなく民間人も多く、無線機でアメリカ軍に連絡をとっていた[91]。ソロモン作戦の後期、日本軍は電波探知により諜報網を検挙、スパイとみなしたドイツ人、オーストラリア人、豪州人等、現地人、すくなくとも60名以上を駆逐艦の甲板上で処刑したという[91]

    詳しいことは、「秋風 (駆逐艦)ウィキペディア」をご覧ください。 ⇩
    https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A7%8B%E9%A2%A8_(%E9%A7%86%E9%80%90%E8%89%A6)
    (wikiより)

    30 駆逐艦秋風

    秋風

    30a

    30b



    飛鷹(ひよう)は、日本海軍航空母艦[20]隼鷹型航空母艦の2番艦[21][22][23]。 飛鷹の建造番号(仮称艦名)は1001号艦、隼鷹の建造番号(仮称艦名)は1002号艦である[24]。一部の資料(文献)では、飛鷹を飛鷹型航空母艦1番艦とする[25][26]

    概要
    軍艦飛鷹(ひよう)は[27]、日本海軍の航空母艦[20]。その艦名は、空を飛ぶ鷹の意味から取った。日本郵船が川崎重工業神戸造船所で建造中の橿原丸級貨客船出雲丸(いずもまる)を日本海軍が徴傭および買収、航空母艦に改造した艦艇である[28][29]。 日本海軍の公的な分類は隼鷹型航空母艦の2番艦[21]


    1942年(昭和17年)7月31日に竣工後[24]、姉妹艦隼鷹と共に第二航空戦隊に所属した[29]。10月、トラック泊地に進出してガダルカナル島攻防戦に参加するが、南太平洋海戦直前の10月20日に機関故障を起こしてトラック泊地に後退した[20][30]。 修理後の1943年(昭和18年)6月10日、飛鷹は三宅島東方海域で米潜水艦に雷撃され大破した[20][30]


    修理完了後、第二航空戦隊(隼鷹、飛鷹、龍鳳)は1944年(昭和19年)6月中旬以降の「あ号作戦」(マリアナ沖海戦)に参加[29]。6月20日、飛鷹は米軍機動部隊艦載機の空襲により大破炎上、沈没した[31][32]

    特徴
    隼鷹型航空母艦2番艦[21]飛鷹(ひよう)は、日本郵船が北米航路用に新造した橿原丸級貨客船の2番船出雲丸(いずもまる)を、日本海軍が1941年(昭和16年)1月に買収、川崎重工業神戸造船所で建造途中に航空母艦へ改装した軍艦である[20][33]。橿原丸、出雲丸とも日本政府が戦時に航空母艦に改造することを条件に建造費が補助されている[33][34]。改造は徹底しており、外観から見ると客船であった頃の面影はほとんどない[33][35]。 飛鷹と隼鷹とでは機関の仕様に差異が認められる[23]。飛鷹は川崎七号罐(ラモント罐)六基、隼鷹は三菱式三胴水管罐六基と補助罐二基である[26]


    2隻とも商船改造空母であるため速力は25-26ノットほど[35]正規空母の30kt以上に比較して遅く、鋼板も薄く防御能力でも見劣りしたが、船体や格納庫の大きさは正規空母に引けを取らず、航空機搭載能力は中型空母の蒼龍に匹敵した[33][36]。 また商船改造空母であるが右舷側に煙突と一体となった艦橋を有し、且つ飛行甲板への排煙の影響を避けるため煙突を外側へ26度傾けて設置した最初の艦である[35][37]。 艦橋と煙突を一体化した構造は空母大鳳採用にあたっての試験的意味があり[23]、実際に大鳳や大和型戦艦3番艦を改造した空母信濃でも採用されている[37]二号一型電探(対空レーダー)も装備されており、対空兵装は正規空母に見劣りしない[37]

    歴史
    建造
    詳細は「橿原丸級貨客船」を参照


    旅客船出雲丸は、最初から航空母艦化を想定した設計で、川崎重工業神戸造船所で建造されることになった[38]翔鶴型航空母艦2番艦瑞鶴1939年昭和14年)11月27日に進水した後、出雲丸は同一船台で11月30日に起工[26][39]。空母への改造は1940年(昭和15年)10月に決定[38]。当時の出雲丸は上甲板附近まで工事が進んでいた[26][38]。仮称艦名(建造番号)第1001号艦[35][39]


    1941年
    (昭和16年)1月21日、日本海軍は橿原丸級2隻(橿原丸、出雲丸)を買収する[39]。福井静夫(海軍技術将校、艦艇研究家)によれば2月10日買収[24][26]6月24日、出雲丸は進水[28][40]。出雲丸進水後の船台では、直ちに空母大鳳の建造がはじまった(7月10日、起工)[35]。 同年11月15日、別府明朋大佐は、飛鷹艤装員長に任命される[41][42]。川崎重工業神戸造船所に艤装員事務所を設置する[43]。 12月8日、日本とアメリカは太平洋戦争に突入する。

    竣工後

    1942年
    1942年(昭和17年)7月31日、竣工[35][20]。軍艦籍に入る[27][26]。航空母艦に類別[44]。軍艦(ぐんかん)飛鷹(ひよう)と命名された[27]呉鎮守府[45][46]。 別府大佐(飛鷹艤装員長)は飛鷹艦長(初代)となった[47]。主な初代幹部は、副長青山茂雄中佐(元鳳翔副長)[48][47]、機関長坂尾満太郎中佐、飛行長三重野武少佐、航海長山本繁一少佐、飛行長寺島美行少佐、砲術長成谷昇少佐、通信長八角高士大尉ほか[47]


    日本海軍の軍艦となった飛鷹は、同日附で第二航空戦隊(司令官角田覚治少将)に編入された[49]。 二航戦は空母3隻(飛鷹、隼鷹、龍驤)となったが、訓練中の1942年(昭和17年)8月7日にガダルカナル島の戦いがはじまる。隼鷹型2隻(飛鷹、隼鷹)は内地で訓練を続け、龍驤のみ第一航空戦隊翔鶴瑞鶴)に臨時編入されてソロモン諸島へ進出。8月24日の第二次ソロモン海戦で撃沈され[50]、二航戦は空母2隻(飛鷹、隼鷹)になった。 飛鷹は8月12日より第二航空戦隊旗艦となる[51][52]。同時期の飛鷹は駆逐艦雪風(第16駆逐隊)を随伴艦(トンボ釣り)として、訓練に従事した[50]。9月上旬、雪風は空母雲鷹を護衛して、トラック泊地に向かった[50]


    10月3日-4日[40]、二航戦(飛鷹、隼鷹)、駆逐艦2隻(磯波)は内海西部を出発、豊後水道を通過してトラック島に向かった[53][54]。10月9日、トラック泊地に到着[40]。 同泊地着後の10月11日、二航戦は前進部隊指揮官近藤信竹第二艦隊司令長官(旗艦・愛宕)の指揮下、前進部隊と共に出撃した[55]。別所(当時の飛鷹艦長)によれば、最大速力26ノット程度の飛鷹は甲板上風速・秒速15mを得るために苦心したという[56]。最初の任務は第三戦隊(司令官栗田健男少将:金剛、榛名)と第二水雷戦隊によるヘンダーソン基地艦砲射撃の上空警戒だった[57]。二航戦(飛鷹、隼鷹)は駆逐艦3隻(電、磯波、陽炎)と行動を共にした[58]


    10月17日、飛鷹、隼鷹は零戦18機(飛鷹、隼鷹各9機)、艦攻18機(飛鷹10機、隼鷹8機)でルンガ泊地を攻撃、艦攻8機を失い、零戦1機、艦攻3機はブインに不時着した[59]飛鷹では未帰還3機(うち2機は損傷して味方陣地に不時着)であったが、隼鷹の攻撃機は1機を除きすべて撃墜されたという[60]


    10月20日、飛鷹は右舷発電機室で火災が発生し発電機と主蒸気管を焼損[61]。最高速力16ノットとなり、また罐水の塩分も増加した[61]。第二航空戦隊旗艦は隼鷹に変更され、飛鷹は駆逐艦電、磯波に護衛されてトラックへ向かった[61]。また、その搭載機は零戦16機と艦爆17機が陸揚げされ、一部は隼鷹にも移された[61]。飛鷹航空隊関係者や物件は、軽巡大井によりラバウル方面に移動した[62]。一方、別府明朋は次のように書いている。まず復水器が破損し、司令部を隼鷹に移して修理を行ないながら片舷航行中に発電機室で火災が発生[63]。鎮火したものの砲戦用の動力発電機焼失で砲戦不能となった[64]。帰投して修理を行なうこととなり、搭載機は全機ブインへ送った[64]。このため、飛鷹は数日後に生起した南太平洋海戦には参加することができなかった[64]


    11月22日、飛鷹艦長は別府大佐から澄川道男大佐に交代[65]。 応急修理を実施したのち、12月5日にトラック泊地を出発[40]奥宮正武少佐(当時、第二航空戦隊参謀)によれば、トラック泊地に放置されていた要修理機約50機を飛鷹に搭載している[66]。12月10日[67]、飛鷹および駆逐艦2隻(雪風初雪)は内海西部に到着[68][69]。翌日、呉到着[40]。同日、豊田穣中尉(鹿屋海軍航空隊附)は飛鷹乗組を命じられた[70]

    1943年
    1943年(昭和18年)初頭の飛鷹は瀬戸内海や呉軍港で訓練や整備に従事した[40]。 1月中旬、大和型戦艦2番艦武蔵[71][72]、第一航空戦隊(瑞鶴瑞鳳)や軽巡神通、駆逐艦雪風等と共に瀬戸内海より出撃する[73][74]。飛鷹航空隊は豊後水道を航行する武蔵や瑞鶴の対潜警戒直衛を実施した[75]


    3月22日、第二航空戦隊司令官角田覚治少将指揮のもと[76]、二航戦(隼鷹、飛鷹)、第八戦隊(利根、筑摩)、護衛の駆逐艦(第61駆逐隊〈初月涼月〉、第27駆逐隊〈夕暮〉、第15駆逐隊〈陽炎〉)は大分県佐伯市を出港した[77][78]。28日、トラック泊地に到着[79]。航空隊のみい号作戦に参加[40][20][80]


    4月18日、い号作戦後の視察中だった連合艦隊司令長官山本五十六大将が海軍甲事件で戦死した[81]。 連合艦隊旗艦武蔵は山本長官(死後元帥)の遺骨を乗せて日本に帰投することになり、飛鷹も同行する[82]。飛鷹および戦艦3隻(武蔵(新任の連合艦隊司令長官古賀峯一大将座乗)、金剛榛名[82][83]、重巡2隻(利根、筑摩)、駆逐艦5隻(第27駆逐隊〈時雨有明〉、第24駆逐隊〈海風〉、第61駆逐隊〈初月涼月〉)は5月17日にトラックを出港した[84][85]。 5月22日、内地(横須賀)到着[82][86]。同日附で第二航空戦隊司令官は角田覚治中将[87]から第三艦隊司令部附の酒巻宗孝少将に交代した[87]。なお航海中の5月18日、連合艦隊司令部はアッツ島増援中止方針の内定を知った[88]


    その後、日本海軍はアリューシャン方面のアメリカ軍の動向を踏まえた上で、日本本土の飛鷹に出動準備を命じる[89]。飛鷹は駆逐艦2隻と共にマーシャル諸島へ進出することになった[89]6月8日、当初護衛艦に指定されていた時雨(第27駆逐隊)が機関故障のため修理にまわされ、代艦として同駆逐隊の2隻(有明、夕暮)が選ばれた[90]


    6月10日[40]、3隻(空母〈飛鷹〉、駆逐艦〈有明夕暮〉)は午後2時に横須賀を出港したが[91]、夕刻、三宅島沖合にて暗号解読により待ち伏せていたアメリカの潜水艦トリガー(USS Trigger, SS-237)の雷撃に遭った[89][92]。被雷時刻は18時35分で[93]、発射された魚雷6本のうち4本の魚雷が飛鷹に命中したが、起爆した魚雷は1本のみ[94]。沈没には至らなかったが、飛鷹は自力航行不能となった[95]。乗り組んでいた山西義政によると、数人の死者が出たという[96]。 19時37分[97]、飛鷹は夕暮を浮上した敵潜水艦と錯覚し誤射、軽微な損害を与えた[98][99]。夕暮戦死者2名、軽傷者5名[97]。 危機に陥った飛鷹に対し、呉から横須賀へ回航中だった軽巡洋艦五十鈴(第十四戦隊)が救援に赴き、飛鷹を曳航して横須賀に向かった[100][101]。横須賀停泊中の戦艦山城と駆逐艦萩風(第4駆逐隊)にも飛鷹曳航のため出撃命令が下されるが、飛鷹側は曳航状態良好のため「山城の曳航は必要なきものと認む」と発信した[102][103]。6月12日、飛鷹隊は横須賀に到着する[40][104]


    飛鷹の行動不能により、錬成部隊として運用されていた第五十戦隊の軽空母2隻(鳳翔龍鳳)のうち、龍鳳が第二航空戦隊に編入される[89][105]。空母3隻(龍鳳、大鷹冲鷹)、第三戦隊(金剛、榛名)、第七戦隊(熊野、鈴谷)、五十鈴、駆逐艦部隊(時雨、有明、夕暮、雪風浜風谷風清波新月)は16日に横須賀を出港、南方へ進出していった[106][107]。 龍鳳は小型空母であるため搭載機数も隼鷹型航空母艦に比べて少なく、したがって飛鷹航空隊の一部は龍鳳に収容しきれず空輸によりトラックへ進出した[89]


    横須賀海軍工廠で修理を行う飛鷹では、まず7月1日に青山茂雄大佐(飛鷹副長)が霞ヶ浦海軍航空隊へ転任[108]。同月中旬、飛鷹航空隊関係者が龍鳳へ異動(小林哲雄少佐〈飛鷹飛行長〉を龍鳳飛行長へ、岡嶋清熊大尉〈飛鷹飛行長〉を龍鳳飛行隊長へ)[109]。 8月15日附で澄川道男大佐(飛鷹艦長)は、神戸川崎造船所で建造中の空母大鳳艤装員長を命じられる[110]別府朋郎大佐(元飛鷹艦長[65]。昭和18年1月9日より千代田艦長)[111]は、千代田および飛鷹艦長を兼務することになった[110]。当時の千代田は横須賀海軍工廠で水上機母艦から航空母艦へ改造工事中である(昭和18年2月1日から12月21日まで)[112]


    9月1日、古川保大佐(当時、博多海軍航空隊司令)が飛鷹艦長に補職[113]。別府大佐(千代田艦長)は兼務を解かれた[113]。同日附で、城島高次少将(当時、第五十航空戦隊司令官)は第二航空戦隊司令官に任命された[113]。 10月21日、志柿謙吉中佐(当時、空母雲鷹副長)は飛鷹副長を命じられる[114]。 当時の飛鷹では、ダメージコントロールの一環として、艦内調度品、木製品一切を撤去している[115]。ただし客船としての建造が進んでから空母に改造された隼鷹に対し、飛鷹は下甲板段階で改装したのでほとんど軍艦に近かったという[116]


    10月26日、飛鷹は横須賀を出港[40]。翌日、3隻(空母〈飛鷹〉、駆逐艦〈浜風澤風〉)は内海西部到着[117]


    11月、航空機輸送任務に従事[20]。11月下旬より、飛鷹と龍鳳は南方への輸送作戦を実施した[118]。 11月25日、空母2隻(飛鷹、龍鳳)と第21駆逐隊(初春若葉初霜)は豊後水道を出撃[119][120]。マニラを経由し、12月3日から9日までシンガポール停泊[40]。12月22日から27日までトラック泊地に滞在[40][121]。この際に航空隊をラバウル方面へ転用するためにおろす[122]。 護衛部隊を駆逐艦3隻(第6駆逐隊〈〉、第17駆逐隊〈浜風〉)に改め、27日にトラック泊地を出発する[123][124]。12月29日、サイパン寄港[40]

    1944年
    1944年(昭和19年)1月1日、飛鷹隊(飛鷹、龍鳳、雷、響、浜風)は豊後水道を通過[125][126][127]。2日、本艦は呉へ到着した[40]。 1月26日、古川大佐(飛鷹艦長)は霞ヶ浦海軍航空隊へ転任[128]。後任の飛鷹艦長は、横井俊之大佐となる[128]。 5月11日、戦艦武蔵と空母6隻(第二航空戦隊隼鷹、飛鷹、龍鳳〉、第三航空戦隊千歳千代田瑞鳳〉)は[129]、駆逐艦(秋霜早霜時雨玉波満潮野分山雲)に護衛されて佐伯を出撃し、タウイタウイに向かった[130][131]。 5月16日、武蔵および第二航空戦隊・第三航空戦隊はタウイタウイへ到着し、小沢機動部隊の全空母(一航戦〈大鳳、翔鶴、瑞鶴〉、二航戦〈隼鷹、飛鷹、龍鳳〉、三航戦〈千代田、千歳、瑞鳳〉)がそろった[129][132]


    沈没
    詳細は「マリアナ沖海戦」を参照


    1944年(昭和19年)6月、第二航空戦隊(隼鷹、飛鷹、龍鳳)はマリアナ沖海戦に参加[133]。 「あ号作戦」における飛鷹は第二航空戦隊(司令官城島高次少将:空母3隻〈隼鷹飛鷹龍鳳〉)[134]、戦艦長門、重巡洋艦最上、駆逐艦部隊(第4駆逐隊〈野分、満潮、山雲〉、第27駆逐隊〈時雨、五月雨〉、第17駆逐隊〈浜風〉、夕雲型駆逐艦〈秋霜、早霜〉)等と、小沢機動部隊・乙部隊を編成していた[135][136]。6月19日から6月20日のマリアナ沖海戦に参加。飛鷹は6月20日の対空戦闘で被弾および被雷、沈没した[137][138]。沈没に至る経過は以下のとおり。


    1944年(昭和19年)6月13日、飛鷹含め小沢機動部隊はタウイタウイ泊地を出港しマリアナ沖へ進出する[139][140]。18日、夜間航行中に飛鷹は長門と衝突しかけた[141]。また横井艦長、志柿副長とも、旗艦(大鳳)が無線封止をやぶって未帰還索敵機を呼び、探照灯を照射して誘導を試みたことを「米潜水艦を引き寄せる一因になった」と批判している[142]。 6月19日、マリアナ沖海戦に参加[143]。空母大鳳の沈没(アメリカ潜水艦アルバコアの雷撃に起因する)を10浬離れた地点から目撃した[144][145]。飛鷹が収容した航空機はアメリカの潜水艦カヴァラの雷撃で撃沈された空母翔鶴の3機、飛鷹所属2機、計5機程度だった[146]


    6月20日、小沢機動部隊は燃料補給のため、甲部隊(小沢治一郎中将)、乙部隊、前衛部隊(栗田健男中将)、燃料補給部隊が同一海面に集結したところ、アメリカ軍機動部隊艦載機の襲撃を受ける[31]。アメリカの空母レキシントン (CV-16)艦上機が飛鷹を攻撃したとされる[95][147]。飛鷹幹部による分析によれば、隼鷹を襲撃した雷撃機隊を長門が砲撃して4機を撃墜した際、残2機が目標を旋回運動中の飛鷹に変更した[148]。1機を撃墜したが、まず魚雷1本が右舷後部機械室付近に命中した[149]。機関科兵は全員脱出したが、連動して左舷の機械も止まって航行不能となる[149]。同時に、注排水指揮所が有毒ガスで全滅した[149]。被雷とは別に、急降下爆撃機が投下した爆弾が艦橋後部マストに命中し、弾片で航海長を含む見張所・飛行指揮所の艦橋要員に多数の死傷者が出る[150][151]。横井(飛鷹艦長)は、爆弾命中により艦橋要員多数死傷(艦長負傷、航海長重傷他)、続いて魚雷が命中したと回想している[152]。副長はガソリンタンク外側の空所に注水を命じた[150]


    空襲が終わったため長門に曳航準備をさせていたところ(飛鷹艦長は片舷18ノット可能のため、曳航命令は出していないと回想)[153]、突然前後のエレベーターが煙突の高さ以上に飛び上がり、また元の孔に落ちて傾斜が復元した[154]。飛鷹砲術長は、アメリカの潜水艦が発射した魚雷が後部ガソリンタンク付近に命中したと証言、戦闘詳報にも採用されている[155]。横井(飛鷹艦長)も爆発直前に雷跡を発見し、艦後部に魚雷2本が命中したと回想している[153][156]。 だが、このガソリンタンクの爆発が飛鷹の致命傷となった。志垣(飛鷹副長)は「火災全て鎮火」の報告もあって消火に希望をもっていたが、消火ポンプの故障により艦を救うことを諦めている[157]。一方、長門では飛鷹の曳航準備が進み、長門の四番砲塔と飛鷹間にワイヤーロープが渡された[158]。しかし長門が微速前進したところ、ワイヤーは切断されてしまったという[159]。 曳航作業の失敗により、飛鷹の救援の見込みはなくなった。軍艦旗降下と総員退去の後、飛鷹は左舷に傾斜し、艦尾側から直立するような姿で[160]沈没した[153][161]。 沈没時刻は19時32分と記録されている[162]。 乙部隊所属の時雨(第27駆逐隊)によれば19時26分[163]。乗組員は随伴駆逐艦(浜風[164][165]浜波秋霜早霜満潮)等に救助された[163]。 飛鷹の御真影勅諭は秋霜に奉移された[162]。横田艦長は満潮に救助された[166]。救助に尽力した満潮に志垣(飛鷹副長)は「感謝のほかなかった」と述べている[167]


    その後、飛鷹の乗員は機動部隊が寄港した沖縄中城湾にて隼鷹に移乗し、本土へ向かった[168]。7月1日附で横井(飛鷹艦長)[169]、志柿(飛鷹副長)[170][171]とも職務を解かれた。7月10日附で第二航空戦隊も解隊、城島司令官や奥宮正武少佐も転任する[172]。 8月10日、飛鷹は航空母艦[173]、 帝国軍艦籍[4]のそれぞれより除籍された。

    詳しいことは、「飛鷹 (空母)ウィキペディア」をご覧ください。 ⇩
    https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A3%9B%E9%B7%B9_(%E7%A9%BA%E6%AF%8D)
    (wikiより)

    29 航空母艦飛鷹

    飛鷹

    29a

    29b

    29c



    青葉(あおば/あをば)は[1][2]日本海軍重巡洋艦[3]青葉型重巡洋艦(青葉型一等巡洋艦)1番艦[4]三菱造船長崎造船所(現・三菱重工長崎造船所)で建造された[5][6]。 その艦名は、京都府福井県の境に位置する青葉山から因んで名付けられた[7][8][9][10]艦内神社は青葉山の青葉神社。

    艦歴
    建造経緯
    古鷹型重巡2隻・青葉型重巡2隻のうち、加古・衣笠は神戸川崎造船所で、古鷹・青葉は三菱長崎造船所で建造されている。大正時代の日本海軍は、7000トン以上の巡洋艦を「一等巡洋艦」、7000トン未満の巡洋艦を「二等巡洋艦」と類別していた(大日本帝国海軍艦艇類別変遷[11]。 1922年(大正11年)8月11日、建造予定の一等巡洋艦2隻に『衣笠』と『古鷹』の艦名が与えられた[12]。 10月9日、川内型軽巡洋艦として建造予定だった『加古』の艦名を一等巡洋艦1番艦に流用する事が決定する[13]。それと共に加古・古鷹・衣笠は一等巡洋艦に類別された[14][15]。 この変更により衣笠はどの造船所で建造するかも『未定』となってしまった[16]


    1923年(大正12年)9月18日、建造予定の一等巡洋艦に『青葉』の艦名が与えられ[1]、加古・古鷹・衣笠に続く4隻目の一等巡洋艦として登録された[17]。同日附で衣笠を川崎重工業神戸造船所で建造する事が正式に決まった[18]


    軍艦青葉は仮称艦名第4甲級巡洋艦として1924年(大正13年)2月4日、起工[19][20]1926年(大正15年)9月25日、進水[5][21]。進水式には皇族高松宮宣仁親王海軍少尉が立ち会っており[22]、進水式に派遣された第五戦隊(重巡〈加古、古鷹〉、軽巡〈川内由良〉)のうち古鷹に乗艦している[23][24]。加古・古鷹も参加した進水式は無事に終了した[25][26]


    1927年
    (昭和2年)4月11日、三菱造船所に青葉艤装員事務所を設置[27]。 青葉は9月20日に竣工した[5]。同日附で艤装員事務所を撤去[28]。 なお姉妹艦衣笠は1924年(大正13年)1月23日に起工、1925年(大正15年)10月24日進水、1926年(昭和2年)9月30日竣工[29][30]。青葉と比べて起工は衣笠の方がはやかったが、進水(青葉9月25日/衣笠10月24日)・竣工(青葉9月20日/衣笠9月30日)ともに青葉からやや遅れている[5][30]


    後日、ロンドン海軍軍縮会議の結果『ロンドン海軍軍縮条約』が1930年(昭和5年)10月2日に締結されて日本が批准すると、加古型(古鷹型)・青葉型の計4隻(加古、古鷹、青葉、衣笠)は甲巡洋艦(重巡洋艦)に定義され、これにともない日本海軍の「一等巡洋艦・二等巡洋艦」の定義も変更された[31]

    竣工後
    1927年(昭和2年)9月20日の竣工と共に、青葉は佐世保鎮守府籍に編入された[20]。同年12月1日、青葉型2隻(青葉、衣笠)は第二艦隊・第五戦隊に編入[20][30]。第五戦隊は一等巡洋艦4隻(加古、古鷹、青葉、衣笠)を揃えた。旗艦は加古から衣笠に交代している[32][33]


    1928年
    (昭和3年)12月4日、第五戦隊(衣笠、青葉、加古、古鷹)は御大礼特別観艦式(横浜沖、御召艦榛名)に参加した[34]。同年度の艦隊編制替でも第五戦隊の構成は変わらず、引き続き重巡4隻(加古、古鷹、衣笠、青葉)を揃えた[35]


    1929年(昭和4年)11月7日、古鷹は第五戦隊から除かれた[36][37]。第五戦隊は重巡3隻(加古、衣笠、青葉)となった[37]


    1930年(昭和5年)12月1日、重巡2隻(加古、衣笠)が予備艦となり第五戦隊から除かれ[30][38]、古鷹を編入[36]。第五戦隊は2隻(青葉、古鷹)となった[39]


    1931年
    (昭和6年)5月8日、カタパルト(呉式二号射出機)の不調により[40]、青葉の搭載飛行機(一五式水上偵察機)が墜落事故を起こした[41]。12月1日、重巡2隻(青葉、古鷹)は予備艦となる[20][36]。第五戦隊は当分編制しないことになった[42]


    1932年
    (昭和7年)12月1日、重巡3隻(青葉、衣笠、加古)[43]で第五戦隊を編制[20][30][38]


    1933年(昭和8年)5月20日、ふたたび第五戦隊は当分編制しないことなり[44]、重巡3隻(加古[38]、青葉[20]、衣笠[30])は第六戦隊を編制する[44]。 11月15日、第六戦隊から加古が外れ[38]、古鷹が編入された[36]。同隊は重巡3隻(古鷹、衣笠、青葉)となった[45]


    1934年(昭和9年)11月15日、青葉型2隻(青葉、衣笠)は呉鎮守府籍へ転籍した[20][30]。同日附で三川軍一大佐(青葉艦長)は重巡鳥海艦長へ転任[46]。軍令部副官伍賀啓次郎大佐が青葉艦長に補職される[47]


    1935年
    (昭和10年)11月15日、青葉型2隻(青葉、衣笠)は第七戦隊に編入された[20][30]


    1936年(昭和11年)2月15日、古鷹が第七戦隊に編入される[36]。当時は古賀峯一少将を司令官として第七戦隊(青葉〈旗艦〉、衣笠、古鷹)を編制していた[48]。10月、青葉と衣笠は夜間航行中に衝突事故を起こした[49]。訓練終了後、青葉・衣笠・古鷹の単縦陣は速度を6ノットに減速することになったが、衣笠は青葉の信号を見落とし9ノットで直進、誰一人気付かないまま青葉の艦尾に衝突した[50]。衣笠の艦首は潰れてしまったが、深刻な損害ではなかった[51]。 12月1日、重巡3隻(青葉、衣笠、古鷹)は予備艦となる[20][30][36]


    太平洋戦争
    開戦以前は日中戦争に出動し、上海上陸作戦の支援などを行っている。 1938年(昭和13年)6月3日、松山光治大佐(衣笠艦長)は重巡高雄艦長へ転任[52]。姉妹艦である青葉艦長広瀬末人大佐が青葉艦長と衣笠艦長を兼務することになる[52]。6月15日、佐藤勉大佐(当時、軽巡球磨艦長)が衣笠艦長に任命されたことで、広瀬大佐は衣笠艦長の兼務を解かれた[53]。 同年11月〜1940年10月まで改装工事を行い、主砲の口径を20.3cmに変更した。


    1940年(昭和15年)11月15日、青葉は第六戦隊(加古、古鷹)に編入[54][20]。同隊は重巡3隻(青葉、加古、古鷹)となり、引き続き第一艦隊に所属した[55]


    1941年(昭和16年)3月1日、衣笠が第六戦隊に編入される[54][30]。第六戦隊は重巡4隻(青葉、加古、衣笠、古鷹)を揃えた[54]。 第六戦隊旗艦は3月下旬に一時加古から古鷹に変更された[56][57]。続いて加古から青葉に替わるが[58]、4月10日に加古に戻った[59]。 8月12日、第六戦隊旗艦を青葉に変更する[60]。 9月15日、第六戦隊司令官は牧田覚三郎少将から五藤存知少将に交代する(五藤少将は、当時の第二水雷戦隊司令官。後任は田中頼三少将)[61]。五藤少将は正式に第六戦隊旗艦を加古から青葉に変更した[62]

    太平洋戦争緒戦
    1941年(昭和16年)11月7日、第六戦隊(第1小隊〈青葉、加古〉、第2小隊〈衣笠、古鷹〉)は南洋部隊(指揮官井上成美第四艦隊司令長官、旗艦「鹿島」)に編入され、グァム島攻略支援部隊としてグアム島攻略作戦に参加した[63][64]。第六戦隊は11月30日に柱島泊地を出港、12月2日母島に到着した[65][66]。12月4日の攻略部隊の母島出撃に続いて第六戦隊も出撃、敵水上部隊に備えた[67]。グァム島上陸成功後はトラックへ向かい、12月12日トラック泊地に到着した[68][69][70]


    グアム島攻略と同じ頃行なわれたウェーク島攻略作戦(攻略部隊指揮官は梶岡定道第六水雷戦隊司令官)[71]は失敗した[72]。第二次ウェーク島攻略作戦には、第二航空戦隊等と共に第六戦隊も投入される[73]。第六戦隊はウェーク島攻略支援部隊となった[74]。第六戦隊は12月13日にトラックを出港し、12月16日ルオットに到着する[69]。12月21日に攻略部隊などが出撃し、第十八戦隊(天龍、龍田)と第六戦隊もそれに続いて出撃した[75]

    12月23日、南洋部隊はウェーク島の占領に成功した[76]。支援部隊(第六戦隊)はウェーク島東方を行動し、攻略後は南下して攻略部隊の支援にあたり、12月25日ルオットに帰投した[77]。第六戦隊4隻は、1942年(昭和17年)1月10日までにトラック泊地に戻った[78]


    内南洋方面の攻略を終えた南洋部隊(第四艦隊)各部隊はいったんトラック泊地に集結し[79]ビスマルク諸島ニューブリテン島ニューアイルランド島)の攻略を開始した[80]。第六戦隊はひきつづき支援部隊として南洋部隊の作戦に従事、1月下旬にはラバウル攻略戦に参加した[81]。ラバウル攻略作戦には南雲機動部隊が加わっており[82]、ビスマルク諸島や東部ニューギニアへの空襲をおこなっている[83]


    その後、1942年(昭和17年)2月に海軍従軍作家の海野十三が青葉に乗艦し、将兵の生活を従軍記にまとめている[84]。海野は青葉将兵の勤務態度に強い感銘を受けると同時に、居住環境の悪さについても言及している[85]。2月下旬から3月上旬にかけて、南洋部隊はニューギニア島東部のラエサラモアを攻略することになり、支援部隊(第六戦隊〈青葉、加古、衣笠、古鷹〉、第十八戦隊〈天龍、龍田〉、第23駆逐隊〈菊月、卯月、夕月〉)として行動した[86][87]。南洋部隊のパプアニューギニア進攻に対して[88]、アメリカ軍も空母レキシントンヨークタウンを基幹とする空母機動部隊を投入、3月10日にはラエとサラモアを空襲して第六水雷戦隊に大損害を与えた(ラエ・サラモアへの空襲[89]

    詳細は「珊瑚海海戦」を参照


    1942年(昭和17年)4月下旬、ポートモレスビー攻略を目指してMO攻略部隊が編制される[90]。青葉以下第六戦隊重巡4隻、空母祥鳳(南洋部隊所属)、駆逐艦(第7駆逐隊)、第六水雷戦隊(旗艦夕張)等は、第四艦隊司令長官井上成美中将を総指揮官として作戦に参加する(ポートモレスビー作戦[91]。 5月7日、第六戦隊の水上偵察機はアメリカ軍機動部隊の位置把握に貢献したが[92]、一方でMO攻略部隊はアメリカ軍機動部隊艦上機の攻撃を受けた[93]。第六戦隊と漣は祥鳳を護衛しきれず、祥鳳は集中攻撃を受けて撃沈された[94][95]。五藤司令官(青葉座乗)はアメリカ軍の第二次空襲を回避するため北東への退避を決定、このため六戦隊は約300名ほどの祥鳳脱出者を救助することが出来なかった[96]内火艇をおろしかけていた青葉では退避決定を受けて救助作業を中止、漂流する生存者たちに『ユックリヤッテレアトデムカエニクル』の手旗信号が送られたという[97]。空襲の危険が去ったのち漣が反転して祥鳳の沈没現場に戻り、203名を救助した[96]。 5月8日、第六戦隊第2小隊(衣笠、古鷹)はMO機動部隊に編入される[98]。第2小隊はMO機動部隊(第五戦隊、第五航空戦隊、護衛駆逐艦)と合流するため攻略部隊から分離(8日0550に合流)[99]、六戦隊第1小隊(青葉、加古)は引き続き第六水雷戦隊や輸送船団と行動を共にした[100][101]


    5月下旬から6月上旬にかけて、第六戦隊は日本本土へ回航されで整備に従事していた[102]。6月5日、日本海軍はミッドウェー海戦で大敗を喫し、連合国軍の重要拠点ポートモレスビーの攻略とソロモン諸島における基地航空兵力の拡充は急務とされた[103]。第六戦隊および第十八戦隊(天龍、龍田)は各隊・各小隊ごとに南方へ出撃し、7月上旬までにソロモン諸島へ進出した[104][20]第四艦隊(司令長官井上成美中将)は『SN作戦』(南太平洋方面の航空基地適地調査・設営・各航空基地強化)と『「リ」号研究作戦』を下令する[105]。ガダルカナル島航空基地の設置、ラエ、カビエン、ツラギ、ラバウル各基地の強化、またソロモン諸島航空基地適地の捜索等の諸任務に、第六戦隊・第十八戦隊・第六水雷戦隊等を投入する[106]。第六水雷戦隊はガダルカナル島の基地設営輸送船団を護衛、ガダルカナル島へむかった[107]。 7月14日、連合艦隊第二段作戦第二期の兵力部署改編により第八艦隊(司令長官三川軍一中将)が新編される[108][109]。第六戦隊は外南洋部隊(指揮官は第八艦隊司令長官)に編入された[110][注 1]

    ガダルカナル島の戦い
    1942年(昭和17年)8月7日、東部ニューギニア方面の「レ」号作戦支援、SN作戦支援のため六戦隊第1小隊(青葉、加古)はアドミラルティ諸島方面へ、第2小隊(衣笠、古鷹)はラバウルに向けて出発した[114]。同日、アメリカ軍はウォッチタワー作戦を発動しガダルカナル島フロリダ諸島に上陸を開始、ガダルカナル島の戦いが始まった[115]。五藤司令官は独断で作戦を中止し、六戦隊4隻を率いて第八艦隊旗艦鳥海(司令長官三川軍一中将)と合流すべくラバウルへ急行した[116]。夕刻、ラバウル港外で重巡5隻(鳥海青葉加古衣笠古鷹)、軽巡2隻(天龍夕張)、駆逐艦夕凪という艦艇が集結する[117]。回転整合すら行っていない「烏合の衆」であったが、ガダルカナル島方面へ出動した[118]

    詳細は「第一次ソロモン海戦」を参照


    8月8日-9日、第六戦隊は外南洋部隊指揮官三川軍一第八艦隊司令長官(元鳥海・元青葉艦長)の指揮下で第一次ソロモン海戦に参加する[119]。夜戦突入前の8日早朝、外南洋部隊重巡(鳥海、青葉、衣笠、加古)は各艦水上偵察機1機(計4機)を発進させ、ガ島周辺の偵察を実施した[120]。青葉1号機はガ島方面の偵察を実施、ツラギ南西90浬に戦艦らしきもの1隻、ツラギ沖に大巡1・商船4・駆逐艦3、ガ島泊地に商船15・駆逐艦4・軽巡2を報じた[121]。この情報と基地航空隊の報告を総合し、第八艦隊はガダルカナル島のアメリカ軍勢力を戦艦1・巡洋艦4・駆逐艦9・輸送船15と判断し、突入を決断している[122]。夜戦においては、本艦の魚雷発射管への被弾で小火災が発生するが、大事には至らなかった[123]。本戦闘で魚雷のほかに20cm砲183発、12cm高角砲84発、25mm機銃190発を発射した[124]。 8月9日午前8時、三川長官直率隊(鳥海、天龍、夕張、夕凪)が分離してラバウルとショートランド泊地へ向かい、六戦隊の重巡4隻はカビエンへ向かった[125]。しかし10日午前7時15分、青葉の後方800mを航行していた加古がアメリカの潜水艦S-44の雷撃で撃沈された[126][38]。青葉水上偵察機1機が戦隊前路を警戒していたが、S-44を阻止できなかった[127]。また六戦隊も之字運動を実施しておらず、乗組員の疲労も頂点に達していたという事情もある[127]。第六戦隊は3隻(青葉、古鷹、衣笠)となった[128]


    8月24-25日、鳥海及び第六戦隊は第二次ソロモン海戦に際し、増援部隊輸送船団(指揮官/第二水雷戦隊司令官田中頼三少将:旗艦神通[129][130]支援のために出動した[131][132]。だが戦局には全く関与しなかった。この海戦で日本軍輸送船団は撃退され、ガ島への増援は急務となる[133]。第六戦隊は、駆逐艦による輸送作戦(鼠輸送)を支援した[134]

    詳細は「サボ島沖海戦」を参照


    10月3日、ショートランド基地に連合軍双発爆撃機 3機が来襲し、1機を青葉が撃墜、生存者2名を捕虜とした[注 2]。 10月11日、水上機母艦2隻(日進千歳)および護衛の駆逐艦複数隻(秋月型〈秋月〉、第19駆逐隊〈綾波〉、第11駆逐隊第1小隊〈白雪[注 3]叢雲〉、第9駆逐隊〈朝雲夏雲〉)はガダルカナル島へ物資を揚陸[137]、それと並行して第一次挺身攻撃隊(第六戦隊部隊)および第二次挺身攻撃隊(指揮官/第三戦隊司令官栗田健男中将:戦艦〈金剛榛名〉、第二水雷戦隊〈軽巡五十鈴、第15駆逐隊、第24駆逐隊、第31駆逐隊〉)によるヘンダーソン基地艦砲射撃を実施するため出撃する[138][139]。第六戦隊は10月上旬からヘンダーソン飛行場基地に対する砲撃に備え、訓練をおこなっていた[140]


    第六戦隊司令官五藤存知少将を指揮官とする外南洋部隊支援隊は、重巡3隻(青葉、古鷹、衣笠)、第11駆逐隊第2小隊の駆逐艦2隻(吹雪初雪)という戦力であった[141]。だが10月11日夜、待ち伏せていたノーマン・スコット少将ひきいる米艦隊(重巡洋艦2、軽巡洋艦2、駆逐艦5)との間にサボ島沖海戦が勃発する[142][143]。第六戦隊首脳は日進隊や基地航空隊の偵察結果から「敵艦隊は存在しない」と判断して事前の索敵を十分におこなっておらず、左舷前方から出現した艦影(米艦隊)を日進隊と誤認する[144][145]。気付いた時には米艦隊に丁字を描かれた状態であった[146]。先制攻撃により、敵重巡の初弾が青葉艦橋を貫通して五藤司令官や青葉副長中村謙治中佐[147](元不知火初代艦長)など幹部を殺傷[148]。さらに二番・三番砲塔破壊、前檣、主砲方位盤、二番高角砲、左舷13mm機銃、射出機、兵員室一部浸水、機関部に損害を受けた[149][150]。青葉は『我青葉……』を連送しながら面舵に変針し、戦闘能力を失いつつも煙幕を展開して戦場を離脱した[151][148]。主砲発砲数は7発[146]、戦死79名(士官、五藤司令官を含む)であったという[152]。また本海戦で米艦隊との交戦により古鷹と吹雪が沈没[153]、救援にむかった駆逐隊からも空襲により叢雲と夏雲が沈没した[154][155]。なお損害を受けた米艦隊もルンガ沖から撤退したため、翌13日の第三戦隊によるヘンダーソン基地艦砲射撃は成功した[156][157]


    10月15日午後、青葉はトラック泊地へ帰投した[151]山本五十六連合艦隊司令長官が青葉を訪問し、損傷状況を視察している[151]。命中弾は不発弾が多く、のちに修理時に検分した造船士官は「仮に全砲弾が炸裂していれば沈んでいた」と述べている[158]。不発弾の多さに対し山本長官は「もふ此の戦には決して負けないと云ふ自信が出来た」と周囲に語っている[151]。 10月16日には青葉艦長久宗米次郎大佐と古鷹艦長荒木伝大佐が連合艦隊司令部(戦艦大和座乗)を訪れ、連合艦隊参謀長宇垣纏少将のみ報告を聴く[151]。サボ島沖海戦の敗因について宇垣参謀長は「事前の偵察不充分、第十一航空艦隊の航空活動の失敗、第八艦隊司令部が陸上勤務でソロモン方面の実状を知らない、酸素魚雷の誘爆」の四点を挙げている[151]。 大破した青葉は内地へ回航され、10月22日、内海西部に到着した[159][20]。第二次ソロモン海戦で損傷した軽巡神通や駆逐艦各艦(白雲夕霧)等と共に、呉海軍工廠で修理を受けた[160][161]。 修理にあたって、前檣を三脚檣に改修、艦橋構造物を改修、対空機銃の強化を実施[54]。また予備砲身がないため大破した三番砲塔は撤去され、25mm3連装機銃1基を装備した[54]


    11月10日、第六戦隊は解隊された[162]。健在だった衣笠は第八艦隊直属[30]、修理を要する青葉は呉鎮守府部隊に編入という配備が決まった[163]。同日附で古鷹と龍驤は軍艦籍より除籍された[163][164]。 11月14日[165]第三次ソロモン海戦に参加中の衣笠が撃沈された[166]。古鷹型・青葉型計4隻は加古・古鷹・衣笠が立て続けに沈没し、青葉1隻を残すのみとなった[54]。 11月18日、青葉にて第六戦隊の残務整理を開始する[167]、12月5日をもって残務処理事務所は呉海兵団へ移転した[168]

    詳しいことは、「青葉 (重巡洋艦)ウィキペディア」をご覧ください。 ⇩
    https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9D%92%E8%91%89_(%E9%87%8D%E5%B7%A1%E6%B4%8B%E8%89%A6)
    (wikiより)

    28 軍艦青葉戦没者慰霊碑

    青葉

    28a

    28b



    信濃(しなの)は、日本海軍航空母艦[1][36]。艦名は旧国名信濃国から採られた。第二次世界大戦の最大航空母艦だった。[37]

    概要
    軍艦信濃(しなの)は[1]、日本海軍が建造した航空母艦[36]マル4計画にもとづき横須賀海軍工廠1940年(昭和15年)5月に起工した大和型戦艦3番艦(110号艦)を[36]ミッドウェー海戦以降の戦局の変化に伴い戦艦から航空母艦に設計変更したものである[38][39]


    1944年(昭和19年)11月19日、航空母艦として竣工[40]11月28日、空襲を避けるため未完成[41]のまま横須賀から呉へ回航される[36]。第十七駆逐隊(磯風浜風雪風)に護衛されて航行中の11月29日午前3時20分[42]、信濃は紀伊半島潮岬沖合で米潜水艦アーチャーフィッシュ」の魚雷攻撃を受ける[43]。魚雷4本が命中[42]、浸水が止まらず、午前10時50分頃に転覆して沈没した[44]。 竣工から沈没まで艦命は僅か10日間であった[36]

    艦歴
    建造
    大和型戦艦

    第一次世界大戦後締結されたワシントン海軍軍縮条約及びロンドン海軍軍縮条約で海軍力を制限された日本海軍は、国力・経済力で圧倒的優位に立つアメリカに対し量を質で凌駕するという発想から、46cm砲を搭載した大和型戦艦を計画する。条約明けの1937年(昭和12年)、第1号艦大和・第2号艦武蔵・第5号艦日進等は第70回帝国議会に提出された第三次海軍軍備補充計画(マル3計画)により予算が承認され、建造が始まった。

    翌年、日本海軍は第四次海軍軍備充実計画(マル4計画)を立ち上げ、艦齢30年が経過した金剛型戦艦3番艦榛名、4番艦霧島の代艦として大和型戦艦建造番号第110号艦第111号艦、計2隻の建造を決定した。この2隻は、先に建造された第1号艦(大和)、第2号艦(武蔵)の不具合を改善し、より完成度の高い戦艦となるはずだった[45][46][47]

    詳細は「横須賀海軍施設ドック」を参照

    第110号艦は横須賀海軍工廠第六船渠を新造し、そこで建造されることが決まった[48]。大和型戦艦の排水量は7万トンを超える。このクラスの超大型艦が合計4隻も建造される予定に対して、将来的に発生するであろう修理・改造工事に使用可能なのが呉にある1つの船渠(ドライドック)だけでは順番待ちなどの恐れが生じることや、横須賀を呉に並ぶ海軍の重要拠点としたいという意向があったため、姉妹艦の武蔵(長崎、三菱重工)のように船台での建造を選ばず、大和型戦艦用の第6船渠を新たに作る事になった[49][50]。当時の横須賀最大のドックは、長門型戦艦2番艦「陸奥」が建造中に入渠した第5船渠だった[51]。2年3ヶ月の期間と約1,700万円(当時)の費用をかけて全長336m、全幅62m、深さ18mのドックが完成した[52]。この時に排出した土砂は、隣接していた海軍砲術学校の海岸埋め立てに使用され[53]、広いグラウンドとなった。


    第二復員局がまとめた資料では、110号艦の起工日は1940年(昭和15年)4月7日となっている[7][8]

    5月4日、ドックの完成と同時に第110号艦の起工式が行われる[54]。第110号艦自体の予算は約1億4770万円(当時)で、国会議事堂(2570万円)が6つ建設できる計算となる[55]。この時のお祓いも機密保持を考慮し、外部から本職の神主を呼ぶのではなく、工廠の関係者の中から神主の資格を持っていた足場組長の大須賀種次が選ばれ、大役が任された[56][57]。大和、武蔵が予算計上時は一号艦、二号艦と呼ばれていたことから、本艦にも三号艦の俗称があった[58]。また工員達の間では第110号艦を略して「110」と呼ばれていた[59]


    第110号艦は1943年(昭和18年)10月進水、1944年(昭和19年)4月主砲積込み、1945年(昭和20年)3月末の完成を目指し工事が進められていた[60]。だが、艦底防御の計画変更などにより建造工程は遅れ気味であった[61]。建造中、アメリカとの開戦が決定的となった。1941年(昭和16年)11月、戦艦を含めた艦艇建造計画の見直しが行われ、潜水艦と航空機の生産優先が決定し、大型艦の建造が中止となる[62]第111号艦はミッドウェー海戦後に正式に建造中止となり即時解体[63][39]。後日、資材や艦体の一部は伊勢型戦艦2隻(伊勢日向)の航空戦艦[64]、ドイツ客船シャルンホルスト(空母「神鷹」)の空母改造工事に利用された[65]。甲鉄のうち製造済みのものは横須賀に運ばれ、110号艦にも利用されたという[66]


    開戦時(12月8日)の第110号艦は、船体工事は前後部が弾薬庫床部分まで、中央部は下甲板附近まで、全体としては下部構造の工事進行中だったという[61]。そこで「本艦は戦艦としての工事を中止し、浮揚出渠せさるに必要な工事のみを進め、なるべく速やかに出渠(しゅっきょ)せしむべし」として船体のみを建造し、ドックを中型空母建造や損傷艦修理のために開けるよう命じられる[67]。1942年(昭和17年)10月の船体完成を目指すが、建造資材を損傷艦に廻されたり、工員の士気も下がるなどして、工事は停滞状態となった[68]。連合艦隊参謀長宇垣纏少将の陣中日誌戦藻録には、4月23日に杉浦軍令部第三課長と神重徳軍令部一課部員が連合艦隊司令部を訪れ、「戦艦建造を『第三号艦』迄とし、其余力を空母建造に集中するを可とす」とした他、超甲巡の建造見送り、潜水艦と航空機の増産などが話し合われたと記されている[69]

    空母化
    1942年(昭和17年)春、アメリカが両洋艦隊法により大型航空母艦多数を建造しているという情報を得た日本軍は、改マル5計画改大鳳型航空母艦改飛龍型航空母艦など、空母の保有数を増やすことを検討していた[70]。 4月18日、空母ホーネット(USS Hornet, CV-8)から発進したB-25爆撃機16機が日本を空襲した(ドーリットル空襲[71]。横須賀にも1機が飛来し、第110号艦の近くで空母に改造中だった潜水母艦大鯨(後の空母龍鳳)に爆弾1発が命中した[72][73]。第110号艦に被害はなく、またアメリカ軍機にも発見されなかった[73]。 このドーリットル空襲は6月上旬に実施予定であったミッドウェー作戦にも影響を与えたが[74]、作戦中に発生したミッドウェー海戦で日本軍は、主力空母4隻(赤城加賀蒼龍飛龍)を失った[75][76]。 日本海軍は空母機動部隊を再建すべく、戦時急造空母(商船改造空母、雲龍型航空母艦改大鳳型航空母艦等)の急造を計画[77]、6月30日に海軍大臣の即時決裁をうけ建造を決定・開始する[78][79]。 その一環として横須賀第6ドックから第110号艦をどかし、中型空母「飛龍」を改修した雲龍型航空母艦(17,500トン)2隻を同時建造する意向を示した[80]。しかし2年をかけて船体進行率70%という状態まで形状が出来ていた第110号艦の解体はそれだけでも大事業となり、横須賀工廠の現場からは机上の空論とみなされている[80]。だが大和型戦艦の象徴でもある46cm砲を呉工廠から横須賀工廠へ運搬するために必要な専用輸送船樫野」が9月4日に米潜水艦グロウラー(USS Growler, SS-215) に撃沈され、第110号艦を大和型戦艦として建造することも難しくなっていた[81][82]。仮に第110号艦(信濃)を大和型戦艦として完成させる場合、46cm主砲塔を細かく分解して特務艦「知床」(戦艦砲塔運搬可能)で輸送するか、第110号艦(信濃)を横須賀から呉に回航して主砲塔搭載工事を行わねばならなかった[82]


    ここに至り日本海軍は大和型戦艦・第110号艦を航空母艦へ設計変更し、1944年(昭和19年)12月末を目指し空母として就役させることを決定する[79][83]。第110号艦は、タービン機械、ボイラー9基、艦前方の弾火薬庫の床の取り付けが完了し、船体中央は中甲板レベルの隔壁の組立中、艦尾は弾火薬庫の床が完成して、その上の構造物に取り掛かった状態であった[84]。 第110号艦の空母改装に当たっては「航空母艦艤装に関しては完成期を遅延せしめざる範囲に於いて、戦訓に基づく改善事項を実施し、また出来得る限り艤装簡単化に関し研究実行す」と軍令部艦政本部の空母急速増産計画には記載されている[85]。1942年7月16日、軍令部次長が海軍次官に宛てた「第110号艦(改装)主用要目に関する件協議」では、排水量や速力の他、以下の項目を記載している[86]


    ・主用兵装搭載機は艦戦36、艦攻18、艦偵9。但し格納庫は艦戦18に対する分を完備し、艦攻18以上なるべく多数の応急格納し支障なからしめ、その余は甲板繋止めとす。


    ・飛行甲板防御は500kg爆弾の急降下爆撃に対し安全ならしむ。但し後部飛行機格納庫は800kg急降下爆撃に対し安全ならしむ。


    ・舷側防御:第130号艦に準ず(第130号艦は大鳳のこと。同艦は巡洋艦20cm砲弾防御)。


    ・爆弾、魚雷、航空燃料の搭載量は第130号艦程度とし、飛行機に対する補給を急速容易に実施可能ならしむ。


    第110号艦の航空母艦への設計変更と改造にあたっては、艦政本部、軍令部(航空関係者)、航空本部員の間に、基本構想と意見の食い違いがあった[87]艦政本部長の岩村清一中将より「本艦の空母としての性能は従来の空母を一変せしめ、洋上の移動航空基地たらしめる。すなわち原則として飛行機格納庫を備えず、従って固有の艦上攻撃機艦上爆撃機を搭載しない。本艦は最前線に進出し、後方の空母より発艦した飛行機は本艦に着艦し、燃料、弾薬、または魚雷を急速に補給して進発する。しかして巨大な飛行甲板に充分な甲鈑防御をほどこし、敵の空襲下にあくまで洋上の基地として任務を達成する。しかし自艦防衛上、直衛機(戦闘機)のみは搭載し、この分の格納庫だけは設ける」という案が示された[88][61]。「戦艦としての防御力を持つ船体に重防御を施した飛行甲板を装備して不沈空母化し、格納庫も搭載機も持たない」との意見さえあったとする主張もある[89]大鳳型航空母艦があくまで『既存の空母の弱点である飛行甲板の防御』という構想から建造されたのに対し[90]、この初期案ではあくまで『洋上の航空基地』であることを第一として考えられている。また、ミッドウェー海戦での「航空母艦は被弾損傷に脆弱である」という戦訓から、爆弾や魚雷を装備した攻撃機や爆撃機を艦内に搭載しないという発想でもある[91]


    しかしこの初期案は軍令部や航空本部側からの反発を招いた[61]神重徳(軍令部参謀)はアウトレンジ戦法に強く反対し、第110号艦を攻撃用空母とするよう強く主張している[92]。結局、「万が一敵からの攻撃をある程度受けても戦艦構造や強固な飛行甲板によって継戦能力を失わない。仮に他の空母が攻撃を受けて航空機の母艦としての能力を失っても、それらの空母に所属していた航空機を受け入れることで、艦隊としての航空戦闘能力を保持し続け」、搭載・運用する直衛機に加えて攻撃用の航空機を搭載し、さらに他の空母の航空機用の燃料や爆弾、魚雷までも用意しておくという大鳳型の着想と似たものとなった[93]


    全面的に変更された空母用の最終的な設計は、この構想を実現するために、装甲飛行甲板と航空機用格納庫に加えて、燃料庫や弾火薬庫が拡充されることになった。1942年(昭和17年)7月末、空母への設計変更が決定し、1ヶ月で基本計画完了、9月早々海軍大臣に報告がおこなわれた[94]。艦政本部の基本設計が終わったのは11月、横須賀工廠で詳細設計を進め、工事再開は1943年初頭となった[95]


    第110号艦(信濃)の建造が再開されたのは1942年(昭和17年)9月、竣工は1945年(昭和20年)2月末の予定だった[96]。ところが、日本海軍はガダルカナル島をめぐる戦いから多数の艦艇を喪失し、損失艦が続出した。

    1943年(昭和18年)3月25日、嶋田繁太郎軍令部総長は各工廠に「損傷艦の修理を優先し、新造艦は松型駆逐艦及び潜水艦に限定せよ」と通達[96]。同年8月、「第110号艦」の建造は再度中断されることとなる[97]。その上、横須賀工廠は雲龍型航空母艦1番艦(雲龍[98]阿賀野型軽巡洋艦2番艦(能代[99]松型駆逐艦[100]丙型海防艦[101]の建造や艤装工事、水上機母艦千代田軽空母に改造する作業、空母翔鶴修理作業(南太平洋海戦で大破)、空母飛鷹修理作業(昭和18年6月、潜水艦雷撃で大破)、軽巡洋艦「大淀」や重巡「摩耶」等各種艦艇の修理整備作業を抱えており[102]、工員4,000人を増員しても手一杯であった[103]。不思議なことに、竣工時期は1945年(昭和20年)1月と1ヶ月以上早められている[96]


    1943年(昭和18年)6月24日、昭和天皇は横須賀沖に停泊中の大和型戦艦2番艦「武蔵」(連合艦隊旗艦)に行幸する[104][105]。これに先立ち、高松宮宣仁親王(天皇弟宮、海軍大佐)が110号艦を視察している[106]


    1944年(昭和19年)6月19日から20日にかけて発生したマリアナ沖海戦において、日本海軍は大敗北を喫した[107]。主力空母3隻(翔鶴大鳳飛鷹)を一挙に失ったのである。特に第110号艦(信濃)の原型となった大鳳喪失は関係者に衝撃を与えた[108]。その後、進攻してくるアメリカ軍に対抗するために110号艦(信濃)が必要との意見があがった[109][102]。 7月1日附達212号をもって第110号艦は軍艦 信濃と命名され[1][17]、航空母艦として登録される(以後、110号艦は信濃と表記)[2]。同時に「1944年(昭和19年)10月15日までに竣工させよ」との命令が下る[17]。また「一度戦闘に参加し得るに必要なる設備のみ取りあえず完成せしめ、その他は帰港の上工事」と定められた[17]。『海軍造船技術概要』によれば、軍令部が横須賀海軍工廠長に命じた内容は以下の項目である[110][17]


    1. 居住設備は士官より兵員に至るまで簡素にして最小限のものとする。

    2. 事務倉庫以外の倉庫設備も極力簡単にする。

    3. 戦闘時の火災を防ぐため、木材部分を極力少なくする。

    4. 防毒区画の気密試験を省略する。

    5. 中甲板以上の区画の気密試験を省略する。

    6. 造機、造兵関係工事もできるだけ後回しとする。

    7. 工期目標、10月5日進水。10月8日、命名式後沖繋留。10月15日、竣工。

    8. 周辺県の造船所から工員を借り受け、海軍工作学校からの応援も受ける。


    建造予定が遅れているにもかかわらず、大鳳喪失を補うためにも初期の竣工時期より5ヶ月近く短縮された[111]。熟練工を兵役で取られ、その不足を補うために民間造船所の工員や海軍工機学校の生徒のみならず、畑違いともいえる他の学部の生徒を学徒勤労報国隊で集め、朝鮮人工員や台湾人工員、女子挺身隊も狩り出された[112]。「110号(信濃)の完成が日本を救うこととなる」「信濃がなければ、戦争に負ける」等の決意が作業を促進したという指摘もある[113][114]。 だが大和型戦艦2番艦武蔵で19ヶ月かかった艤装を3ヶ月で強行した仕上がりには問題があった[115]。海軍省関係の性能審議委員会の参加者であった牧野茂 (海軍技術大佐、大和型戦艦設計者)は、信濃/第110号艦の居住区には調度品が一切なく殺風景で、気密試験は続行中、まるで「鉄の棺桶」だったと述べている[116]。このように工事の簡略化のため、兵装や艦内装備は最小限にとどめ、艦内の水密試験も最低限(一説では省略)しか行われなかった[117]。その一方で、燃料タンク周辺にコンクリートを流し込む作業は行われた[118]。信濃は同海軍工廠で建造された最後の艦艇であり、文字どおり死力を尽くして作業が進められた[114]

    進水式
    信濃は過労や事故により10名以上の殉職者を出しながら軍艦として形を整えた。軍需省航空兵器総局総務局長大西瀧治郎中将は、110号艦(信濃)を油槽船に改造し、スマトラ島より燃料を運ぶ計画を立てていた[119]8月15日、日本海軍は阿部俊雄大佐(軽巡洋艦大淀艦長)を、信濃艤装委員長に任命する[120]8月17日、横須賀海軍工廠に信濃艤装員事務所を設置[121]10月1日、阿部艤装員長は制式に信濃艦長となる[122]。 同日附で第一航空戦隊(司令官古村啓蔵少将)が新設される[123][124][125]。当事は雲龍型空母3隻(雲龍天城葛城)という戦力だった[126]


    10月5日、信濃艤装員事務所を撤去[127]。 同日午前8時から8時30分頃、ドックに注水を開始[128]。予定では、ドックに半注水し艦を浮揚、その段階で艦のバランス等を確認・調整することなっていた[102]。その作業中、注水予定10mのところ推定8mまで達したところで突然ドックの扉船が外れ、外洋の海水が流れ込んだ[129][130]。この海水の奔流に乗って艦体は前後に動きだし、艦を固定する100本以上のワイヤーロープと50本の麻ロープが切れた[131][130]。これにより甲板上にいた技術士官等が海上に放り出されると同時に、艦首のバルバス・バウがドックの壁面に何度も繰り返し激突する事態が生じ、バルバス・バウと内部の水中ソナー、プロペラ翼端が破損した[132]


    調査の結果、単純なミスが発覚した。扉船内部のバラストタンクへおもりとして海水を注水しなければならない筈が、それを忘れるという人為的ミスであった[133]。バラストタンクへも海水を入れなければならないのに、全く注水されていないという人為的ミスという異説もある[134]。作業ミスではあるが、性急すぎる工期短縮が招いた結果ともいえる[135]。10月6日命名式の予定は延期(軍艦籍登録のみ10月6日附)[136][137]10月8日に命名式は行われ[40]、昭和天皇の代理として米内光政海軍大臣が式場に臨席した[138]皇族の派遣はなかった[139]。命名式では阿部艦長が「未完成の空母・信濃」と発言しようとしたという[140]。ここに「信濃」は正式に横須賀鎮守府籍と定められた[4]。起工以来約4年5ヶ月が経過していた[102]


    その後は再びドックに戻され、第111号艦の資材を一部使用して修理が行われた[141]。修理は10月23日に終わり、ドックを出て沖合いに繋留された[142]。だが竣工は1ヶ月遅れた11月19日となる[17][143]。その間、日本海軍最後の大規模艦隊戦であるレイテ沖海戦(捷一号作戦)が起こり、連合艦隊は壊滅状態となる[144]。 しかし仮にレイテ沖海戦に参戦できていても、本艦に乗せる航空機はすでになかった。実際、健在だった第四航空戦隊(龍鳳隼鷹)は搭載機がなく、海戦に投入されなかった。横須賀で建造された空母雲龍も同様であり、特攻兵器桜花」の輸送船として使用され、潜水艦の雷撃で沈没した[145]。第111号艦の資材を流用して航空戦艦に改造された戦艦2隻(伊勢日向)も搭載する航空機がなく、通常の戦艦としてレイテ沖海戦に参加した。


    同年11月、信濃は航空公試で各種艦載機の離着艦実験を行った。戦況の悪化から東京湾外での実験は危険として湾内で実施、横浜本牧沖から千葉市の沖に向かい、その間に着艦実験をすることになったが、信濃が速いのですぐに千葉沖に達してしまい、何回も往復することになった[146]。11月11日には零戦天山艦上攻撃機などの在来機[147][148]、11月12日には横須賀航空隊により局地戦闘機紫電改を艦上型に改造した「試製紫電改二(N1K3-A)」や流星彩雲等による発着艦実験が実施され、いずれも成功を収めている[148][149]。ただし監督していた川西航空機の菊原静男技師は、信濃乗組員の技量や動作に不安の念を覚えている[149]。これが本艦で航空機が発着艦を行った唯一の事例であった。11月15日、志賀淑雄少佐は信濃飛行長に任命される[150]

    詳しいことは、「軍艦信濃ウィキペディア」をご覧ください。 ⇩
    https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BF%A1%E6%BF%83_(%E7%A9%BA%E6%AF%8D)
    (wikiより)

    27 軍艦信濃戦没者

    信濃

    27a

    27b



    第参号輸送艦は第一号型輸送艦の1艦である。


    海洋に囲まれた日本は、外征ま場合には陸上兵力の洋上輸送が必要であり、このため日本陸軍は戦前より、大発動艇(上陸用舟艇)や神州丸(揚陸艦)のような上陸作戦支援艦艇を整備していた。 日本海軍においても、旧式駆逐艦を転用した哨戒艇の艦尾にスリップ・ウェイを設けて、大発を発進させる機能を持たせ、緒戦の島嶼攻略戦に使用した、 1942年(昭和17年)8月に始まったガダルカナル戦では敵制空権下での兵員物資輸送が実施された。 これは、夜間に駆逐艦などの高速艦艇で突入し、夜明けまでに敵制空権外に脱出する任務であり、多くの駆逐艦を喪失することとなった。 このような背景から、高速大量輸送ができる輸送専門の艦艇が要求され、1943年(昭和18年)中期ごろに軍令部より2種の輸送艦の計画要求があり、これにより出現したのが第一号型輸送艦(一等輸送艦)および第百一号型輸送艦(二等輸送艦)である。


    第一号型輸送艦の当初案では、松型駆逐艦を1軸にして、空いたスペースを船倉として物件搭載にあてようとしたものであったが、新しい艦を計画したほうが得策であるとされ、新規計画となった。 設計にあたっては、戦時急造に適するように簡易化につとめ、兵装や艤装も最低限にとどめられた。 また、船体線図も簡易型が採用され、ブロック建造方式に適するように考慮されて、電気溶接が大幅に使用された。 本型は艦尾にスリップ・ウェイを設けて、ここから兵員物資を搭載した大発を発進させる仕組みで、このための喫水調整用タンクや注排水装置を有した。 搭載できるのは14m大発4隻、補給物件260トンであった。 兵装は12.7cm連装高角砲1基、25mm3連装機銃15挺(後に増強)、爆雷18個を搭載した。


    46隻が計画され、21隻が完成し、16隻が戦没した。 竣工後に充分な訓練が行われないまま南方方面の輸送作戦に投入され、その多くが極めて短期間に失なわれた。 第三号輸送艦は竣工後78日で沈没したが、短いものでは28日(十四号、十五号)というものがある。

    26a

    26b

    26c



    衣笠(きぬがさ/きぬかさ)は日本海軍青葉型重巡洋艦2番艦。 1927年(昭和2年)9月に竣工した[3][4]1942年(昭和17年)11月、第三次ソロモン海戦で空襲を受け沈没した。

    艦名について
    由来には諸説ある。竣工直前の1927年(昭和2年)8月1日、田村重彦艤装員長が軍務局に「艦名は横須賀の衣笠山で良いのか」と問い合わせ、軍務局が「御考察ノ通リ」と返答した記録が現存する[5]。一方、海軍士官の親睦・研究団体水交社(東京水交社)が1928年(昭和3年)に出版した『日本海軍艦船名考』には、すでに「徳島県(阿波国)の麻植郡美馬郡にまたがる高越山(通称、阿波富士、衣笠山)に由来とする」との記載があり、海軍省の見解が統一されていたかは明確ではない。財団法人海軍有終会が1935年(昭和10年)に出版した『幕末以降帝国軍艦写真と史実』は神奈川県の衣笠山とする一方、徳島県の衣笠山も否定せずに付記している[6]。艦船研究家の福井静夫は高越山の由来と断定し「横須賀にも衣笠の地名があることの奇縁が考慮されたのかもしれない」と記述している[7]


    また艦内神社には神奈川県横須賀市走水神社京都市平野神社があり、平野神社の近くには衣笠山がある[8]。衣笠竣工後の1928年(昭和3年)1月12日、衣笠副長は平野神社、走水神社、衣笠神社(横須賀市)に奉納額用と絵葉書用の艦写真を送付しようとしている[9]

    艦歴

    太平洋戦争開戦まで
    1922年(大正11年)8月11日、新造の一等巡洋艦が1番艦衣笠、2番艦古鷹と命名された[10]。10月9日、軽巡として建造が中止になった加古が1番艦になり、衣笠の艦名は3番艦以降となった[11] [12][13](詳細とその後の経緯は加古参照)。1923年(大正12年)9月18日、4隻目の一等巡洋艦に青葉の艦名が与えられ[14]、衣笠を川崎重工業神戸造船所で建造する事が決まった[15]。1924年(大正13年)1月23日に起工[1][16]。1926年(大正15年)10月24日、伏見宮博恭王臨席のもと進水し[17][18][1]、1927年(昭和2年)9月30日に竣工した[1][19]。起工は同型の青葉より早かったが、進水時に約1か月、竣工は10日遅れ、青葉型2番艦となった[20][21]


    ・衣笠の艦名は、ネームシップになる機会を2度逃したことになる。


    1927年(昭和2年)10月30日、完成1か月後の衣笠と青葉は大演習観艦式(横浜沖)に参加した[22]。12月1日に第五戦隊に編入され[23]、古鷹型と青葉型の計4隻が同一戦隊に初めて揃った[24]。最新造の衣笠が戦隊旗艦となり、約2年間務めた[25][26]。その後、衣笠は太平洋戦争開戦まで第七、第六戦隊などに所属した。


    1928年
    (昭和3年)に日本海軍の艦艇として初めて航空機用カタパルトを装備した[27]。12月4日、第五戦隊は御大礼特別観艦式に参加した[28]1929年(昭和4年)5月28日、昭和天皇は関西方面への行幸のため横須賀で重巡那智に乗艦し、衣笠と加古が満艦飾で奉迎した[29]。7月11日、演習中の衣笠は浮上してきた潜水艦伊55と接触し[30]、艦首艦底附近を損傷した[31]


    1936年
    (昭和11年)8月14日午前4時頃、訓練終了後の青葉と衣笠、古鷹が縦列で航行中、青葉が6ノットに減速する旨の信号を衣笠が見落とし、9ノットで直進した衣笠が青葉に追衝突した[32]。両艦に深刻な損傷はなかったが、衣笠は応急修理後も大きな艦首波を出すようになったという[33]。10月29日、神戸沖の観艦式に参加した[34]


    1938年
    (昭和13年)10月から改修工事に入り、タービンを重油・石炭混焼から重油専焼缶に交換してバルジを増設するなど、大規模な改装を行った。1940年 (昭和15年)10月、工事が完了した。1941年(昭和16年)3月1日、衣笠は第一艦隊所属の第六戦隊に編入し、近代化改装を終えた古鷹型、青葉型の4隻が揃った[23]。9月15日、第六戦隊司令官に五藤存知少将が就任した[35]


    太平洋戦争緒戦
    1941年11月7日に第六戦隊(「青葉」、「加古」、「衣笠」、「古鷹」)は南洋部隊に編入され、グァム島攻略支援部隊としてグアム島攻略作戦に参加した[36]。第六戦隊は11月30日に柱島泊地を出港して12月2日に母島に到着[37]。12月4日の攻略部隊の母島出撃に続いて第六戦隊も出撃して敵水上部隊に備え、上陸成功後はトラックへ向かい12月12日に到着した[38]


    グアム島攻略と同じ頃行なわれたウェーク島攻略作戦は失敗に終わっており、第二次攻略作戦には第六戦隊も投入されることとなった。第六戦隊はウェーク島攻略支援部隊となった[39]。第六戦隊は12月13日にトラックを出港して12月16日にルオットに到着[40]。12月21日に攻略部隊などが出撃し、第六戦隊もそれに続いて出撃した[41]。ウェーク島は12月23日に攻略された[42]。第六戦隊はウェーク島東方を行動し、攻略後は南下して攻略部隊の支援にあたり、12月25日にルオットに帰投[43]。1942年1月7日にルオットを出港し、1月10日にトラックに到着した[44]


    1942年(昭和17年)1月以降はニューギニア方面に移動しラバウル攻略を支援、3月にはラエ・サラモア攻略ブーゲンビル島攻略作戦、4月にはアドミラルティ諸島攻略作戦を支援した。いずれの戦いでも衣笠や第六戦隊が本格的な水上戦闘をする機会はなかった[45]

    詳細は「珊瑚海海戦」を参照


    第六戦隊はポートモレスビー攻略を企図するMO攻略部隊に加わり、4月30日にトラック泊地を出撃した。第六戦隊と駆逐艦が空母祥鳳を護衛したが、5月7日に米機動部隊艦載機の空襲で祥鳳が沈没した[46]。第六戦隊は乗員の救出を行ったが、再度の空襲を避けるため海域を離れた[47]。祥鳳を失ったため衣笠と古鷹がMO機動部隊の護衛に編入され[48]、青葉、加古と分かれた。5月8日朝、衣笠と古鷹は空母瑞鶴、空母翔鶴、重巡妙高、重巡羽黒、駆逐艦6隻(時雨白露有明夕暮)と合流した[49]。同日、MO機動部隊攻撃隊は米空母レキシントンを撃沈しヨークタウンに損傷を与えたが翔鶴が大破したため、衣笠と古鷹、夕暮、潮が戦場を離脱する翔鶴を一時的に護衛した[50]。5月12日に青葉、加古と合流し、17日にトラック泊地に帰投した[23][45]。6月上旬、衣笠と古鷹は日本本土に戻った[23][51]。6月、ミッドウェー海戦に敗れた日本軍はソロモン諸島の防衛を強化するため、同戦域を担当する外南洋部隊の中核となる第八艦隊(司令官三川軍一中将)を編制した。外南洋部隊支援隊に編入された第六戦隊は、再び南方へ移動した[23][45]

    ガダルカナル島の戦い

    詳細は「第一次ソロモン海戦」を参照


    8月7日、アメリカ軍はガダルカナル島ツラギ島に上陸し、ガダルカナル島の戦いが始まった。ラバウルに向かっていた衣笠など第六戦隊は重巡鳥海、軽巡天龍、軽巡夕張、駆逐艦夕凪 と合流し、8月8~9日の夜間にガダルカナル島北方水域に突入した。この第一次ソロモン海戦で、衣笠を含む日本艦隊は米重巡アストリア、米重巡ヴィンセンス、米重巡クインシー 、 オーストラリア重巡キャンベラを共同で撃沈し、ほぼ完勝した。しかし第六戦隊の4隻でニューアイルランド島カビエンに帰投中の8月10日、加古が米潜水艦の雷撃で沈没した。加古の乗員は後に衣笠、古鷹、青葉に収容された後[52]、ラバウルへ向かった[53]


    8月18日、ガダルカナル島に陸軍一木支隊が上陸し、兵員と物資の輸送作戦が本格化した。3隻となった第六戦隊は8月19日、サンタイサベル島レカタ湾に進出して臨時水上機基地を設置したが[23]、8月20日に米機動部隊が出現して撤収した[54]。同日、ガダルカナル島ヘンダーソン飛行場が稼働し、8月21日に一木支隊が壊滅して、同島の戦局は急速に悪化した。第六戦隊は輸送作戦を支援し、同日に鳥海、駆逐艦磯風と合流した[55]。8月23~24日の第二次ソロモン海戦には参加せず、衣笠、鳥海、青葉、古鷹は8月25日未明、搭載する水上偵察機計6機でヘンダーソン飛行場を攻撃した[56]。飛行場は健在で同日中に輸送船団と護衛する第二水雷戦隊が空襲を受け、揚陸も失敗した。衣笠と鳥海は8月26日にラバウルに帰投した[57]


    8月25日の空襲で増援部隊の第二水雷戦隊旗艦神通が損傷したため、三川中将は8月27日附で衣笠を増援部隊に編入した。輸送船団が退避したショートランド泊地に移動し[58]、8月28日から第二水雷戦隊旗艦となった[59][60]。しかし田中頼三第二水雷戦隊司令官が海軍艦艇による輸送作戦の中止と、増援部隊輸送基地のラバウルへの後退を主張したため、8月31日、増援部隊はショートランドに到着した第三水雷戦隊に変更された[61]。衣笠は4日で旗艦を外れ、支援隊に復帰した[61]


    9月12日朝、ヘンダーソン飛行場への日本陸軍の攻撃を支援するため、主隊(鳥海、青葉、衣笠、古鷹、駆逐艦天霧)、奇襲隊(軽巡川内、駆逐艦敷波吹雪涼風)、駆逐艦部隊(漣、潮、陽炎白雪浦波夕立叢雲)がショートランド泊地を出撃し、ガ島ルンガ泊地へ向かった。しかし陸軍が飛行場の占領に失敗したため後退し[62]、各隊は9月15日-16日にかけてショートランドやラバウルへ戻った[63]

    サボ島沖海戦

    詳細は「サボ島沖海戦」を参照


    10月11日、ヘンダーソン基地艦砲射撃を実行するため、第六戦隊と吹雪、駆逐艦初雪がガダルカナル島に向かった[64]。米軍は重巡洋艦2隻、軽巡洋艦2隻、駆逐艦5隻でサボ島沖で迎撃した[65]。日本側は敵艦隊が不在と信じていたため、夜間に近づいた米艦隊を自軍の輸送艦隊と誤認し、先制攻撃を受けた[66]。吹雪が沈没、旗艦の青葉が大破して五藤少将が戦死し、青葉は海域を離脱した。さらに後続の古鷹が集中砲火を浴びて航行不能(12日未明沈没)に陥ったが、衣笠と初雪は果敢に応戦した。この戦闘で米駆逐艦ダンカンが沈没、米軽巡ボイシと米駆逐艦ファーレンホルトが大破、米重巡ソルトレイクシティが小破し、衣笠は軽い損傷で切り抜けた[67]。その後、米軍機5機の空襲を受けたが被害はなく、12日午前9時頃ショートランド泊地に戻った[68]


    ・サボ島沖海戦について連合艦隊参謀長宇垣纏少将は陣中日誌戦藻録に『当時の戦況を仄聞するに無用心の限り、人を見たら泥棒と思へと同じく、夜間に於て物を見たら敵と思へと考へなく、一、二番艦集中攻撃を蒙るに至れるもの、殆ど衣笠一艦の戦闘と云ふべし。』と記述し、戦隊指導部の油断を断罪する一方で、衣笠の勇戦を評価している[69]


    10月13日、第三戦隊の戦艦金剛、戦艦榛名などが飛行場を艦砲射撃し、衣笠は水偵で照明弾を投下する任務を受けた[70]。同日夜、三川中将はガ島揚陸作戦を支援するため、鳥海、衣笠、駆逐艦望月、天霧を率いてショートランド泊地を出撃した[71][72]。10月14日-15日にかけて鳥海と衣笠は艦砲射撃(20cm砲弾752発)を実施した[73]が、飛行場の運用に支障はなく、日中の空襲で輸送船3隻を喪失、揚陸した物資もほとんど焼失した[74][75]


    10月17日朝、鳥海、衣笠、天霧、望月はショートランド泊地を出撃し、ガ島輸送作戦を行う軽巡3隻(川内、由良龍田)と秋月など駆逐艦12隻を支援した[76]。10月24-25日に日本陸軍によるガ島飛行場総攻撃が行われ、両艦隊が支援したが[77]総攻撃は失敗し、空襲で由良が沈没、秋月が中破した(南太平洋海戦[78]。各隊は26日から28日までにショートランド泊地に帰投した[77]


    11月1日、衣笠は第三水雷戦隊旗艦となり、川内、天霧、初雪と共に第一攻撃隊を編成した[79]。第一攻撃隊と第四水雷戦隊、第19駆逐隊の増援隊は同日深夜にショートランド泊地を出撃、11月2日深夜にガ島揚陸を実施するが、悪天候で一部の物資を揚陸できなかった[79]。衣笠の水偵は11月2日夜のガ島偵察で米軍艦爆3機と交戦、行方不明になった[79]。11月4日、次の輸送作戦に備えて旗艦が衣笠から浦波に変更された[80]。輸送作戦は成功し、各隊は11月6日朝にショートランド泊地へ帰投した[80]

    沈没
    11月10日、第六戦隊が解隊され[81][82]、衣笠は第八艦隊直属となった[83]。外南洋部隊は新たに配属された第七戦隊の重巡鈴谷、重巡摩耶に、ヘンダーソン飛行場の砲撃任務を与えた[84]

    詳細は「第三次ソロモン海戦」を参照


    11月12日夜、飛行場砲撃に向かった日本艦隊(挺身攻撃隊)と迎撃した米艦隊との間で第三次ソロモン海戦(第一夜戦)が勃発し、戦艦比叡、駆逐艦、夕立が沈没して、砲撃は中止となった[85]。11月13日午前3時-4時30分、外南洋部隊主隊(鳥海、衣笠、軽巡五十鈴)は、飛行場砲撃を行う外南洋部隊支援隊(鈴谷、摩耶、天龍、駆逐艦夕雲巻雲風雲朝潮)と共にショートランド泊地を出撃した[84][86]。前夜の海戦で米艦隊はいったん撤収したため水上戦闘はなく、同日23時30分から鈴谷と摩耶が20cm砲弾合計989発を打ち込んだ。攻撃は成功し、地上の十数機を破壊したが、飛行場の作戦能力に大きな影響はなかった[87]


    11月14日午前5時50分、支援隊は主隊と合流し、駆逐艦4隻が横一列で艦隊前方、左に主隊の鳥海―衣笠―五十鈴、右に支援隊の鈴谷―摩耶―天龍が並列してショートランド泊地に向かった[87][88][89]。しかし艦隊は米軍機に発見され、直後にニュージョージア諸島南方で空襲を受けた[87]。最初にヘンダーソン基地のF4Fワイルドキャット戦闘機7機、 SBDドーントレス急降下爆撃機7機、TBFアベンジャー雷撃機6機が襲来した。米軍の記録によると衣笠の右舷に魚雷3本、左舷に魚雷1本が命中した[90]。午前6時38分、右舷に傾斜し重油を流出させた衣笠にSBD2機が急降下爆撃を行い、艦橋前部の右舷一番高角砲附近に500ポンド爆弾1発が直撃、1発が至近弾となって前部揮発油庫が炎上、発電機室が浸水した[88][91][87][92]。この爆撃で沢正雄艦長ら艦橋の指揮系統が壊滅した[93]。水雷長・田中弘国大尉が指揮権を継ぎ、注水による傾斜回復と消火活動を行って鎮火させた[94]。しかし空母エンタープライズのSBD16機が続いて襲来し、速度が落ちて艦隊から落伍した衣笠を攻撃した。
    夕雲と巻雲が随伴・護衛したが、衣笠は至近弾などで浸水が進んで機関と舵が故障し、航行不能になった[87][95]。9時22分、衣笠は転覆した後、沈没した(海域は南緯09度15分 東経157度45分 / 南緯9.250度 東経157.750度 / -9.250; 157.750[87]南緯09度06分 東経157度14分 / 南緯9.100度 東経157.233度 / -9.100; 157.233[23]南緯08度45分 東経157度00分 / 南緯8.750度 東経157.000度 / -8.750; 157.000《米軍記録》など記録に若干の違いがある)。511名が戦死したとされ[96]、生存者は夕雲と巻雲に救助された[97][98]。11月15日、飛行場砲撃に向かった戦艦霧島と駆逐艦綾波が夜戦で沈没し、揚陸した輸送船と物資も破壊されて、ヘンダーソン飛行場の制圧にも失敗した。多大な犠牲を払った第三次ソロモン海戦は、日本海軍の完敗で終わった[99]


    12月15日、衣笠は軍艦籍から除籍された[100]

    詳しいことは、「衣笠 (重巡洋艦)ウィキペディア」をご覧ください。 
    https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A1%A3%E7%AC%A0_(%E9%87%8D%E5%B7%A1%E6%B4%8B%E8%89%A6)
    (wikiより)

    25 軍艦衣笠慰霊碑

    衣笠 (重巡洋艦)

    25a

    25b



    浦波(うらなみ)は日本海軍駆逐艦(2代目)[1][2]吹雪型駆逐艦の10番艦[3]。 特型駆逐艦の波級[4]浦波級として紹介されたこともある[5]。 当初の艦名は第四十四号駆逐艦[6][7]。 「磯波」までの特I型と煙突基部の缶室給気路が改正され異なっており、特改I型と呼ばれる場合がある(日本海軍の法令上は吹雪型駆逐艦[3]。吹雪型1番艦吹雪[8]と吹雪型2番艦白雪[9]沈没後は初雪型駆逐艦[10]

    概要
    一等駆逐艦「浦波」(建造時艦名、第四十四号駆逐艦)は[2][1]1929年(昭和4年)6月に竣工した日本海軍の駆逐艦[11]。吹雪型4隻(磯波、浦波、綾波、敷波)による第19駆逐隊を編成[12]日中戦争を経て、太平洋戦争に突入[11]。大戦中盤までの第19駆逐隊は第三水雷戦隊に所属[11]。1943年(昭和18年)9月より第十六戦隊に所属した[11]1944年(昭和19年)10月26日、「浦波」はレイテ沖海戦に伴う輸送作戦に従事中[13]、米軍機の空襲により長良型軽巡洋艦5番艦「鬼怒」等と共に撃沈された[11][14]。 「浦波」が参加した主な作戦は、南方作戦ミッドウェー海戦(主力部隊護衛)、ガダルカナル島の戦い駆逐艦輸送)、第三次ソロモン海戦ビスマルク海海戦渾作戦レイテ沖海戦多号作戦)。

    艦名
    艦名の「浦波」はに寄せる波に由来し、初代は神風型駆逐艦 (初代)の「浦波[15][16]1926年(大正15年)11月、初代神風型駆逐艦(三等駆逐艦)は掃海艇への艦種変更時に潮型掃海艇に改称[17]、まもなく浦波型掃海艇へ改称された[18]。 初代「浦波」は1924年(大正13年)12月1日附で駆逐艦から掃海艇へ類別変更[19]1928年(昭和3年)8月1日附で本艦(第44号駆逐艦)が「浦波」と改名されると[1][20]、同日附で初代「浦波」は第8号掃海艇と改名された[21][22]


    本艦沈没後、「浦波」の艦名は、海上自衛隊あやなみ型護衛艦3番艦「うらなみ」に継承された。

    艦歴
    建造
    佐世保海軍工廠で建造[23]1927年(昭和2年)4月26日、日本海軍は横浜船渠で建造の駆逐艦を第三十六号駆逐艦(白雪)[24][7]浦賀船渠で建造の駆逐艦を第三十八号駆逐艦(深雪)[7]藤永田造船所の駆逐艦を第三十九号駆逐艦(叢雲)[7]、佐世保海軍工廠の駆逐艦を第四十四号駆逐艦と命名する[25][2]。 第44号駆逐艦は、同日附で第三十五号型駆逐艦に類別される[26]。 命名から2日後の4月28日、第44号駆逐艦は佐世保海軍工廠で起工[23]


    1928年
    (昭和3年)8月1日附で第44号駆逐艦は「浦波」に改名[27]。同日附で第三十五号型駆逐艦も吹雪型駆逐艦に改訂され、「浦波」は吹雪型10番艦となる[3]。同年11月29日、進水[23][28]


    1929年
    (昭和4年)1月15日、五藤存知中佐(当時、駆逐艦灘風艦長)は浦波艤装員長に任命される[29]。4月25日、五藤存知中佐(浦波艤装員長)は制式に浦波駆逐艦長(初代)となる[30]。主要初代幹部は、水雷長桝本要大尉、砲術長井筒義三大尉、航海長宮雄次郎大尉、浦波機関長森本芳夫機関大尉[30]。 6月10日、佐世保海軍工廠の浦波艤装員事務所を撤去[31]。6月30日、浦波は竣工した[23][32]

    竣工後
    1929年(昭和4年)11月30日、日本海軍は吹雪型2隻(磯波、浦波)により第19駆逐隊を編制(昭和4年12月24日敷波編入。昭和5年4月30日綾波編入)[12]。第19駆逐隊司令神山忠大佐は、司令駆逐艦を「浦波」に指定した[33]。 同日附で行われた艦隊編制替えにより、第19駆逐隊は第二艦隊第二水雷戦隊に所属[34]。この時点の第二水雷戦隊は、長良型軽巡洋艦5番艦「鬼怒」以下第11駆逐隊(吹雪白雪初雪深雪)、第12駆逐隊(叢雲東雲薄雲白雲)、第19駆逐隊(磯波、浦波、敷波、綾波)という編制だった[34][12]


    1930年
    (昭和5年)11月2日、五藤存知中佐(浦波駆逐艦長)は樅型駆逐艦で編制された第27駆逐隊()司令へ転任(太平洋戦争開戦時、第六戦隊司令官。サボ島沖海戦で旗艦「青葉」大破時に戦死)[35][36]江戸兵太郎少佐(当時、駆逐艦追風艦長)が浦波駆逐艦長に任命される[35]。 12月1日の艦隊再編でも、第二水雷戦隊(旗艦「鬼怒」)は前年度の編制を維持する[37]


    1931年(昭和6年)12月1日、吹雪型駆逐艦3隻(東雲吹雪磯波)による第20駆逐隊の編制により、第19駆逐隊は3隻(浦波、綾波、敷波)となった[38]。 同日附で行われた艦隊再編で、第二水雷戦隊旗艦は「鬼怒」から川内型軽巡洋艦2番艦「神通」に交代[39]。 第二水雷戦隊は神通以下第7駆逐隊()、第8駆逐隊(天霧朝霧夕霧)、第19駆逐隊(浦波、敷波、綾波)、第20駆逐隊(東雲、吹雪、磯波)となった[39][38]


    1932年
    (昭和7年)12月1日、江戸兵太郎中佐(浦波駆逐艦長)は姉妹艦の薄雲艦長へ転任[40]八島元徳中佐(当時、特務艦鳴門副長)が浦波駆逐艦長となる[40]。同日附の艦隊再編で、第19駆逐隊は第二水雷戦隊より除かれた[41]


    1933年(昭和8年)5月1日、八島元徳中佐(浦波艦長)は海軍航空廠総務部部員となり、海軍砲術学校教官木村進中佐が浦波駆逐艦長に補職[42]。 同年11月15日、木村進中佐(浦波駆逐艦長)は姉妹艦駆逐艦長へ転任[43]古木百蔵中佐(当時、砲艦二見艦長)が後任の浦波駆逐艦長として着任した[43]。 同年12月11日より各鎮守府(横須賀鎮守府呉鎮守府佐世保鎮守府)に警備戦隊が新設され、第19駆逐隊(浦波、敷波、綾波)は呉警備戦隊に所属[44]。 編制直後の呉警備戦隊は、巡洋艦5隻(加古妙高那智阿武隈神通)、第13駆逐隊(呉竹若竹早苗)、第19駆逐隊(浦波、敷波、綾波)、第20駆逐隊(東雲、磯波、吹雪)、第18潜水隊、練習特務艦「朝日」など[45][46][44]


    1934年
    (昭和9年)11月15日附で実施された艦隊再編により第二水雷戦隊旗艦は軽巡洋艦神通となり[47]、麾下駆逐隊も第6駆逐隊()、第10駆逐隊(狭霧)、第19駆逐隊(浦波敷波綾波)、第20駆逐隊(東雲吹雪磯波)となった[48][49]


    1935年(昭和10年)1月15日、古木百蔵中佐(浦波駆逐艦長)は新高型防護巡洋艦2番艦対馬副長へ転任[50]久宗米次郎中佐(当時、姉妹艦初雪駆逐艦長)が浦波駆逐長となる[50]。 3月4日夜、第二水雷戦隊(旗艦《神通》、第6駆逐隊《響、雷》、第10駆逐隊《漣、暁》、第19駆逐隊《綾波、浦波》、第20駆逐隊《東雲、吹雪、磯波》)は第二艦隊夜間演習のため種子島沖合を航行中だった[51]。 午後8時、姉妹艦「吹雪」(艦長平井恭次中佐)が航行中に突如操舵不能となり、「浦波」(艦長久宗米次郎中佐)の右舷に衝突する[52]。前年の吹雪型2隻衝突(深雪沈没、大破)程ではなかったが、衝突艦2隻(浦波、吹雪)は呉海軍工廠で修理することになった[53]

    同年11月1日、久宗米次郎中佐(浦波駆逐艦長)は二等駆逐艦3隻(夕顔、菊、葵)の第14駆逐隊司令へ転任(後日、久宗はサボ島沖海戦時の重巡青葉艦長。同海戦で吹雪沈没、元浦波初代艦長の五藤存知少将戦死。)[36][54]田原吉興中佐(当時、駆逐艦初春艦長)が、久宗の後任の浦波駆逐艦長に任命される[54]。 11月15日の艦隊再編で、第二水雷戦隊旗艦は軽巡洋艦那珂となる[55]。 那珂麾下の第二水雷戦隊所属駆逐隊は、第6駆逐隊(雷、電、響)、第8駆逐隊(天霧、朝霧)、第19駆逐隊(浦波、敷波、綾波)、第20駆逐隊(東雲、吹雪、磯波)となった[55][56]


    1936年
    (昭和11年)12月1日、田原中佐(浦波駆逐艦長)は青葉型重巡洋艦1番艦「青葉」副長へ転任[57]。当時の大湊要港部参謀島崎利雄中佐が浦波駆逐艦長となる[57]。また、かつての浦波艦長木村進大佐(当時、第30駆逐隊司令)が第19駆逐隊司令に補職され、西村祥治大佐(第19駆逐隊司令)は軍令部出仕となる(西村は翌年10月31日より最上型4番艦「熊野」初代艦長)[57]。 同日附で行われた艦隊編制変更により第20駆逐隊は除籍され、「吹雪」は第11駆逐隊、「東雲」は第12駆逐隊、「磯波」は第19駆逐隊にそれぞれ編入[58][59]。第19駆逐隊は波級4隻(磯波、浦波、綾波、敷波)に戻った[59]


    日中戦争に際しては1937年(昭和12年)、上海杭州湾上陸作戦に参加。


    1937年(昭和12年)8月19日日付変更直後、佐世保から横須賀に向けて航海中の「浦波」は前方から接近するさんとす丸級貨客船1番船「さんとす丸」(大阪商船)を発見[60]。これを回避すべく左に舵をとったところ、後続していた「磯波」が浦波左舷三番砲塔附近に追突した[61][62]。同日夕刻、損傷した「浦波」は横須賀に到着[63]。本格的な修理に入る。 同年12月1日、島崎利雄中佐(浦波駆逐艦長)は若竹型駆逐艦3隻(朝顔芙蓉刈萱)の第16駆逐隊司令へ転任[64]。「浦波」を退艦した(本艦は予備艦となる)[65]。日本海軍は、吹雪型駆逐艦12番艦「敷波」駆逐艦長折田常雄少佐に対し、敷波艦長と浦波艦長の兼務を命じた[64]。 また木村進大佐(第19駆逐隊司令)は軽巡洋艦川内艦長へ転任、金桝義夫中佐(当時第26駆逐隊司令)が第19駆逐隊司令として着任する[64]


    1938年(昭和13年) 10月5日、折田常雄少佐(敷波・浦波艦長)は姉妹艦白雪駆逐艦長へ転任(後日、駆逐艦浜風初代艦長、駆逐艦照月初代艦長等を歴任)[66]。敷波艦長には大原利道少佐(当時艤装員長)、浦波艦長には野間口兼知少佐(当時山風艦長。後任は吉川潔少佐)が任命される[66]


    1939年(昭和14年)11月15日、浦波駆逐艦長は野間口兼知中佐から仙波繁雄中佐(当時、姉妹艦磯波艦長)に交代[67]。野間口中佐は翌年5月より陽炎型駆逐艦夏潮艤装員長[68]および初代艦長となった[69]


    1940年
    (昭和15年)11月15日の艦隊再編で、第19駆逐隊は第三水雷戦隊(旗艦「川内」)に所属。 1941年(昭和16年)4月15日、仙波繁雄少佐(浦波艦長)は呉鎮守府附となる[70](同年7月1日より夕雲型駆逐艦1番艦夕雲艤装員長[71]および初代艦長[72])。萩尾力少佐(当時、駆逐艦追風艦長)が浦波駆逐艦長に任命される[70]。 8月11日、第19駆逐隊司令橘正雄大佐は白露型駆逐艦4隻(村雨夕立春雨五月雨)の第2駆逐隊司令へ転任[73]。第3駆逐隊司令大江覧治大佐が、後任の第19駆逐隊司令となる[73]。第19駆逐隊は大江大佐の指揮下で太平洋戦争に突入した。

    太平洋戦争緒戦
    1941年(昭和16年)12月8日太平洋戦争開戦時、第三水雷戦隊はマレー作戦南方作戦)に参加。


    12月19日、コタバル沖で軽巡洋艦「川内」搭載機がオランダ潜水艦「O20」を発見して爆撃し、その後駆逐艦などが爆雷攻撃を行った[74]。損傷させた潜水艦が夜間浮上するであろうとの判断から、それに対するため「浦波」が配置された[75]。日没後、「浦波」は「O20」を発見して砲撃を開始[76]。先の爆雷攻撃で潜航不能となっていた「O20」も応射し、魚雷も2本発射したが命中しなかった[77]。艦影を見失った後、「浦波」は爆雷2個を投下した[75]。翌朝、泳いでいた「O20」乗員を発見し、先任将校以下32名を救助した[78]。「浦波」乗員は「O20」に乗り込み、同艦はすぐに沈んでしまったものの機密文書を回収している[79]


    1942年
    (昭和17年)1月18日から19日にかけて、悪天候により「浦波」は船体に軽度の被害を受けた[80]。 6月上旬のミッドウェー作戦における第三水雷戦隊(軽巡川内、第11駆逐隊《吹雪、白雪、初雪、叢雲》、第19駆逐隊《磯波、浦波、敷波、綾波》)は、連合艦隊旗艦大和以下主力隊(本隊《大和、陸奥、長門》、空母隊《鳳翔、夕風》、特務隊《千代田、日進》、第一補給隊《鳴戸、東栄丸、有明》)の警戒隊として参加[81][82]。同ミッドウェー作戦中の6月9日、「浦波」は「磯波」に衝突されて損傷(磯波は艦首損傷により速力11ノットに低下)[83][84]。6月11日、2隻(川内、浦波)は主力艦隊から落伍・行方不明となり、空母「鳳翔」の九六式艦上攻撃機によって発見され、大和以下主力部隊に合流することができた[83][85]。その後、ガダルカナル島の戦いにともなう駆逐艦輸送作戦(鼠輸送)に従事する。

    詳細は「第三次ソロモン海戦」を参照


    1942年(昭和17年)11月14日深夜、前進部隊指揮官近藤信竹第二艦隊司令長官麾下の日本艦隊(重巡2隻《愛宕〔第二艦隊旗艦〕、高雄》、戦艦1隻《霧島》、軽巡2隻《長良川内》、駆逐艦《朝雲照月五月雨白雪初雪、浦波、綾波、敷波》)はウィリス・A・リー少将指揮下の米艦隊(戦艦2隻《ワシントンサウスダコタ》、駆逐艦4隻)と交戦、米戦艦1隻損傷(サウスダコタ)・駆逐艦3隻沈没(撃沈《ウォーク、プレストン》、自沈《ベンハム》)と引き換えに日本側2隻(戦艦《霧島》、駆逐艦《綾波》)が沈没[86]。「浦波」は綾波乗組員の救助を行った[11]。第19駆逐隊は3隻(磯波、浦波、敷波)に減少する[87]。本艦は、一旦日本本土に帰投した[11]

    昭和18年の行動
    1943年(昭和18年)1月25日、第19駆逐隊司令大江覧治大佐は横須賀鎮守府附となる[88](大江は2月3日より第61駆逐隊司令)[89]。第19駆逐隊司令には、1月10日まで陽炎型駆逐艦9番艦「天津風」艦長だった原為一中佐が任命された[88]2月1日原為一中佐は第19駆逐隊司令の職務を解かれ[90]、横須賀鎮守府附となる(3月8日より駆逐艦時雨以下の第27駆逐隊司令)[91]。当時の第一掃海隊司令福岡徳治郎中佐が第19駆逐隊司令に任命された[90]

    詳細は「ビスマルク海海戦」を参照


    3月3日
    南東方面艦隊司令長官草鹿任一中将指揮下の第三水雷戦隊(司令官木村昌福少将。旗艦「白雪」)は、駆逐艦8隻(白雪型3隻《白雪、敷波、浦波》、朝潮型3隻《朝潮荒潮朝雲 》、陽炎型2隻《雪風時津風》)、輸送船8隻をもってラバウルよりニューギニア島ラエおよびサラモアへの輸送作戦を実施中、米軍基地航空隊の大規模空襲を受ける(ビスマルク海海戦)。一連の空襲により駆逐艦4隻(白雪、朝潮、荒潮、時津風)と輸送船8隻が沈没[92]。白雪沈没により木村司令官(負傷中)は「敷波」に将旗を掲げ、残存駆逐艦4隻と応援の「初雪」(第11駆逐隊)で沈没艦生存者の救助を行った[93]。ラバウル帰投後、第三水雷戦隊司令官は3月6日附で木村昌福少将から江戸兵太郎少将(浦波2代目艦長)に交代した[94]。 3月10日、第19駆逐隊は第八艦隊の指揮下を離れた[95]


    なおサボ島沖海戦における吹雪沈没[96]により吹雪型駆逐艦は白雪型駆逐艦と改定されていたが[8]、白雪沈没により初雪型駆逐艦に改訂されている[9]


    4月2日、「浦波」はセレベス島マカッサルの南西約60浬のデプリン礁附近で座礁[97]。4月21日に離礁し[98]、スラバヤで8月13日まで修理を行った[11]4月9日、第19駆逐隊僚艦「磯波」は米潜水艦トートグに撃沈される[99]。第19駆逐隊は初雪型2隻(浦波、敷波)となった[100]。 5月15日、田中知生少佐(当時、駆逐艦帆風艦長)は浦波駆逐艦長に任命される[101]。萩尾中佐(元浦波艦長)は駆逐艦舞風艦長に任命され[102]トラック島空襲における同艦沈没時に戦死した[103]


    9月20日、3隻(重巡《足柄》、第19駆逐隊《浦波、敷波》)は第十六戦隊に編入[104][105]。 第十六戦隊(同戦隊司令官は9月16日附で志摩清英中将から左近允尚正少将に交代)[106]の所属艦艇は、巡洋艦5隻(足柄大井北上球磨鬼怒《呉所在、修理中。10月中旬[107]シンガポール着》)、駆逐艦2隻(浦波、敷波)となった[108][109]。 9月25日、スラバヤにおける「浦波」の修理完了[108]。以後、東南アジア方面で護衛任務に従事した[110][111]。 また基地航空隊の訓練にも協力した[107][112][113]


    12月10日、第19駆逐隊司令は福岡徳治郎大佐から大原利道大佐に交代[114]。12月15日、大修理を終えた重巡洋艦青葉は呉を出撃[115]。第十六戦隊に編入され、シンガポールに進出した。

    詳しいことは、「浦波 (吹雪型駆逐艦)ウィキペディア」をご覧ください。 ⇩
    https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%A6%E6%B3%A2_(%E5%90%B9%E9%9B%AA%E5%9E%8B%E9%A7%86%E9%80%90%E8%89%A6)
    (wikiより)

    24 駆逐艦浦波慰霊碑

    浦波 (吹雪型駆逐艦)

    24a

    24b

    24c

    24d



    ・1943年(昭和18年)4月20日 横須賀海軍砲術学校において編成。 第八艦隊第七連合特別陸戦隊に編入。 

    隊員は鹿山誉大尉以下302名、装備は八八式野戦高射砲6門、25mm連装機銃、110cm探照灯等を装備した。


    ・1943年(昭和18年)5月20日 ニューブリテン島ラバウルに進出。


    ・1943年(昭和18年)6月26日 イサベル島レガタに転進。


    ・1943年(昭和18年)8月28日 ブーゲンビル島ブインに転進。 コロンバンガラ撤収作戦に従事。


    ・1943年(昭和18年)11月25日 トノレイ湾で解隊。 佐世保第6特別陸戦隊に編入となり、、エルハート山の陣地で終戦を迎えた。

    23a

    23b



    呉竹(くれたけ)は、日本海軍駆逐艦若竹型駆逐艦の2番艦である。

    艦歴
    株式会社川崎造船所で建造。1922年(大正11年)10月、進水。進水時の名称は「第四駆逐艦」であった。12月21日、竣工。


    1924年
    (大正13年)4月1日、「第四号駆逐艦」に艦名変更。1928年(昭和3年)8月1日、「呉竹」に艦名変更。


    1941年(昭和16年)の太平洋戦争開戦時は呉鎮守府所属。大戦中はシンガポール方面の船団護衛に従事する。


    1943年11月13日、船団護衛中にアメリカ潜水艦「トリガー」に対して爆雷攻撃を行い、被害を与えた[1]


    1944年(昭和19年)12月30日、バシー海峡にてアメリカの潜水艦「レザーバック」の雷撃により沈没。

    歴代艦長
    ※『艦長たちの軍艦史』377-378頁による。階級は就任時のもの。

    艤装員長
    ・佐野哲 少佐:1922年11月1日[2] - 12月21日[3]


    駆逐艦長
    ・佐野哲 少佐:1922年12月21日[3] - 1923年8月13日[4]

    ・戸須賀千之 少佐:1923年8月13日 - 1924年12月1日

    ・森口重市 少佐:1924年12月1日 - 1925年12月1日

    福田良三 少佐:1925年12月1日 - 1926年12月1日

    ・(兼)野末信次郎 少佐:1926年12月1日[5] - 1927年3月15日[6]

    ・藤田俊造 大尉:1927年3月15日[6] - 1929年11月30日[7]

    古村啓蔵 少佐:1929年11月30日 - 1930年11月15日

    ・(兼)倉永恒記 大尉:1930年11月15日 - 1931年4月1日[8]

    ・市坪正雄 大尉:1931年4月1日 - 1931年10月12日[9]

    ・北村昌幸 少佐:1931年10月12日 - 1934年11月15日[10]

    ・馬場曻 大尉:1934年11月15日[10] - 1935年10月31日[11]

    ・勝見基 少佐:1935年10月31日 - 1936年12月1日

    ・小滝久雄 少佐:1936年12月1日 - 1937年12月15日[12]

    ・(兼)吉井五郎 少佐:1937年12月15日[12] - 1938年1月2日[13]

    ・井手元男 少佐:1938年1月2日 - 1938年6月1日[14]

    ・橋本金松 大尉:1938年6月1日 - 1939年7月20日[15]

    ・藤田淳 大尉:1940年10月15日 - 1941年9月10日[16]

    ・鹿嶋正徳 少佐:1941年9月10日[16] -

    ・古谷卓夫 少佐:1942年10月20日 -

    ・田中弘国 大尉:1943年1月13日 -

    吉田宗雄 少佐(海兵62期):1944年3月10日 - 1944年12月30日戦死

    脚注
    1. 潜水艦攻撃、229ページ
    2. 『官報』第3077号、大正11年11月2日。
    3. a b 『官報』第3120号、大正11年12月23日。
    4. 『官報』第3312号、大正12年8月14日。
    5. 『官報』第4283号、大正15年12月2日。
    6. a b 『官報』第61号、昭和2年3月16日。
    7. 『官報』第878号、昭和4年12月2日。
    8. 『官報』第1275号、昭和6年4月2日。
    9. 『官報』第1439号、昭和6年10月14日。
    10. a b 『官報』第2364号、昭和9年11月16日。
    11. 『官報』第2651号、昭和10年11月2日。
    12. a b 海軍辞令公報 号外 第107号 昭和12年12月15日」 アジア歴史資料センター Ref.C13072072900 
    13. 
    海軍辞令公報 号外 第116号 昭和13年1月6日付」 アジア歴史資料センター Ref.C13072073300 
    14. 海軍辞令公報(部内限)号外 第189号 昭和13年6月1日」 アジア歴史資料センター Ref.C13072073900 
    15. 海軍辞令公報(部内限)第361号 昭和14年7月20日」 アジア歴史資料センター Ref.C13072076000 
    16. a b 海軍辞令公報(部内限)第708号 昭和16年9月10日」 アジア歴史資料センター Ref.C13072082000 

    参考文献
    ・外山操『艦長たちの軍艦史』光人社、2005年。 ISBN 4-7698-1246-9

    木俣滋郎『潜水艦攻撃 日本軍が撃沈破した連合軍潜水艦』光人社、2000年、ISBN 4-7698-2289-8

    関連項目
    大日本帝国海軍艦艇一覧

    やなせたかし - 乗艦していた弟が沈没時に戦死している。
    (wikiより)

    22 駆逐艦呉竹慰霊碑

    呉竹 (駆逐艦)

    22a

    22b

    22c



    磯波(いそなみ)は、大日本帝国海軍駆逐艦。特型(吹雪型)の9番艦である。当初の艦名は、第43号駆逐艦。艦名はに打ち寄せる波から由来し、この名を持つ帝国海軍の艦船としては神風型駆逐艦 (初代)磯波」に続き2代目にあたる。

    艦歴
    浦賀船渠で建造。一等駆逐艦に類別された。1928年(昭和3年)8月1日、「第43号駆逐艦」を磯波と改名した。同年12月1日、浦波、敷波、綾波と第19駆逐隊(第2艦隊第2水雷戦隊)を編成した。


    日中戦争に際しては1937年(昭和12年)、上海杭州湾上陸作戦に参加。1940年(昭和15年)には華南での沿岸作戦に参加した。


    太平洋戦争
    では南方進攻、ミッドウェー海戦ソロモン諸島ニューギニアの諸作戦に参加。その後、南方で海上護衛、哨戒活動に従事した。1943年(昭和18年)4月9日、船団護衛中、セレベス南東でアメリカの潜水艦トートグ (USS Tautog, SS-199)の雷撃で戦没した。

    歴代艦長
    ※『艦長たちの軍艦史』273-274頁による。

    艤装員長
    ・有馬直 中佐:1928年2月15日 -


    艦長
    ・有馬直 中佐:1928年6月30日 - 1929年11月30日

    原顕三郎 中佐:1929年11月30日 - 1930年11月21日[1][2]

    ・難波祐之 少佐:1930年11月21日[2] - 1932年12月1日[3]

    ・安富芳介 少佐:1932年12月1日 - 1933年9月30日[4]

    ・(兼)横山茂 中佐:1933年9月30日[4] - 1933年11月15日[5]

    ・酒井一雄 中佐:1933年11月15日 - 1934年11月1日

    ・吉村真武 少佐:1934年11月11日 - 1936年12月1日

    ・大原利通 少佐:1936年12月1日 - 1938年3月15日[6]

    ・岡部三四二 少佐:1938年3月15日 - 1938年12月15日[7]

    ・仙波繁雄 少佐:1938年12月15日 - 1939年11月15日[8]

    ・緒方友兄 中佐:1939年11月15日 - 1941年9月20日[9]

    ・菅間良吉 少佐:1941年9月20日 -

    ・西村正夫 少佐:1942年7月1日 -

    ・荒木政臣 少佐:1943年3月26日 -

    脚注
    1. 『日本海軍史』第9巻、360頁。
    2. a b 『官報』第1172号、昭和5年11月24日。
    3. 『官報』第1778号、昭和7年12月2日
    4. a b 『官報』第2027号、昭和8年10月2日。
    5. 『官報』第2064号、昭和8年11月16日。
    6. 海軍辞令公報(部内限)号外 第149号 昭和13年3月15日付」 アジア歴史資料センター Ref.C13072073500 
    7. 海軍辞令公報(部内限)号外 第273号 昭和13年12月15日」 アジア歴史資料センター Ref.C13072074800 
    8. 海軍辞令公報(部内限)第402号 昭和14年11月15日」 アジア歴史資料センター Ref.C13072076700 
    9. 「海軍辞令公報(部内限)第716号 昭和16年9月20日」 アジア歴史資料センター Ref.C13072082100 

    参考文献
    ・雑誌「丸」編集部『ハンディ版 日本海軍艦艇写真集16 駆逐艦 吹雪型[特型]』光人社、1997年。

    ・外山操『艦長たちの軍艦史』光人社、2005年。 ISBN 4-7698-1246-9

    ・海軍歴史保存会編『日本海軍史』第7巻、発売:第一法規出版、1995年。
    (wikiより)

    21 駆逐艦磯波戦没者慰霊碑

    磯波 (吹雪型駆逐艦)

    21a

    21b



    第百十三號輸送艦は第百一号型輸送艦の1艦である。


    海洋に囲まれた日本は、外征ま場合には陸上兵力の洋上輸送が必要であり、このため日本陸軍は戦前より、大発動艇(上陸用舟艇)や神州丸(揚陸艦)のような上陸作戦支援艦艇を整備していた。 日本海軍においても、旧式駆逐艦を転用した哨戒艇の艦尾にスリップ・ウェイを設けて、大発を発進させる機能を持たせ、緒戦の島嶼攻略戦に使用した、 1942年(昭和17年)8月に始まったガダルカナル戦では敵制空権下での兵員物資輸送が実施された。 これは、夜間に駆逐艦などの高速艦艇で突入し、夜明けまでに敵制空権外に脱出する任務であり、多くの駆逐艦を喪失することとなった。 このような背景から、高速大量輸送ができる輸送専門の艦艇が要求され、1943年(昭和18年)中期ごろに軍令部より2種の輸送艦の計画要求があり、これにより出現したのが第一号型輸送艦(一等輸送艦)および第百一号型輸送艦(二等輸送艦)である。


    第百一号型輸送艦は「戦車輸送」の要求を受けて計画されたもので、海岸へ直接接岸して戦車などを揚陸する機能を持った艦である。 海軍ではこれをSB艇と称し、Sは戦車、Bは海軍の意味(当時の徴用船はAが陸軍、Bが海軍)であった。 設計にあたっては、戦時急造に適するように簡易化につとめ、兵装や艤装も最低限にとどめられた。 また、船体線図は曲線を用いず、船体3個のブロックに分けて建造する方式により、建造期間を3ヶ月に短縮することができた。 計画に当っては、適当な機関が無かったため、中速ディーゼル3基3軸としたSB(D)艇を6隻建造し、その後は艦本式タービン1基1軸としたSB(T)艇の建造に切り換えた。 尚、タービン推進艦を第百三号型輸送艦として区別する場合がある。


    本型は、船体前半部を搭載用船倉とし、艦首前面に門扉と揚陸用道板を兼ねたランプが設けられている。 搭載能力はSB(T)艇で220トン(九七式戦車9両、人員120名、貨物22トン)、機関区画が短いSB(D)艇では250トン(九七式戦車9両、人員320名、貨物26トン)であった。 兵装は8cm単装高角砲1門、25mm3連装機銃2基を搭載、機銃は後に増備された。


    103隻が計画され、69隻が完成。 完成艦のうち20席が陸軍にSB艇として引き渡された(後に6隻が海軍に返還)。 海軍所属艦のうち40隻が戦没した。 竣工後に充分な訓練が行われないまま南方方面の輸送作戦に投入され、その多くが極めて短期間に失なわれた。 第百十三号輸送艦は竣工後41日で沈没したが、短いものでは31日(百三十号、百三十三号)というものがある。

    20a

    20b



    白雲(しらくも)は[1]日本海軍駆逐艦[2]吹雪型駆逐艦8番艦[3]。日本海軍の艦船名としては1902年(明治35年)竣工の白雲型駆逐艦白雲に続いて2隻目。

    概要
    駆逐艦白雲(しらくも)は、日本海軍の駆逐艦[4]吹雪型駆逐艦の8番艦。吹雪型の5番艦から8番艦までは艦名に「」が含まれるため、雲級(くもクラス)と呼称されることもある[注 1]。 1928年(昭和3年)7月28日の竣工時は第42号駆逐艦だったが、8月1日に「白雲」と改名された[2]太平洋戦争開戦時、引き続き第三水雷戦隊麾下の第12駆逐隊に所属し[注 2]南方作戦にともなうマレー作戦蘭印作戦に従事した[注 3]1942年(昭和17年)3月1日、バタビア沖海戦に参加した[2]。3月10日に第12駆逐隊が解隊され、「叢雲」は第11駆逐隊に[9]、「白雲」は第20駆逐隊に編入された[10]。 20駆はベンガル湾機動作戦[4]ミッドウェー作戦に従事した[2]。7月中旬以降、B作戦に従事した[11]


    連合軍のソロモン諸島反攻作戦開始にともないB作戦は中止され[12]、三水戦もガダルカナル島攻防戦に投入される。同年8月28日[13]、第20駆逐隊は川口支隊先遣隊をガダルカナル島へ輸送中[14][15]SBD ドーントレスの空襲を受けて「白雲」は損傷した[注 4]。 第20駆逐隊は10月1日に解隊され[19][20]、「白雲」と「夕霧」は警備駆逐艦となった[21]。「白雲」は呉や大阪で修理をおこなう[4][22]


    1943年(昭和18年)4月1日、「白雲」と「薄雲」は第9駆逐隊に編入され[2][6]、駆逐艦3隻[23](朝雲[24]、白雲、薄雲)となって第五艦隊隷下の第一水雷戦隊に所属した[4][25]。 6月6日深夜[26]、「白雲」は駆逐艦「沼風」と衝突し[27]、艦首部を損傷した[注 5]大湊函館で修理した後は、千島列島北海道周辺での哨戒や船団護衛任務に従事した[4]。 1944年(昭和19年)3月16日[29]、第9駆逐隊(、白雲、薄雲)は陸軍輸送船4隻を護衛中[30]釧路沖の太平洋で米潜水艦[31]トートグに襲撃される[2]。魚雷攻撃により「白雲」は沈没[32]、全乗組員が戦死した[33]

    艦歴
    太平洋戦争まで
    1926年(大正15年)9月29日、藤永田造船所で建造予定の駆逐艦に第四十二号駆逐艦の艦名が与えられる[34][35]。第42号駆逐艦は藤永田造船所で10月27日に起工[36]1927年(昭和2年)12月27日に進水した[37]1928年(昭和3年)7月28日、竣工した[36]。8月1日附で「白雲」と改名され[1]、新編の第12駆逐隊(白雲、薄雲、東雲)に所属した。12月1日、第12駆逐隊は第二艦隊第二水雷戦隊に編入された。


    1935年(昭和10年)4月、満州国皇帝の溥儀が練習戦艦「比叡」を御召艦として来日することになり、第12駆逐隊(叢雲薄雲、白雲)は「比叡」の供奉艦に指定された[38]。第12駆逐隊は比叡を護衛して日本と中国大陸を往復した。9月26日、第12駆逐隊は三陸沖で台風により多数の艦が損傷する第四艦隊事件に遭遇し、「白雲」は魚雷格納庫などに軽微な損傷を受けた[39]


    1940年(昭和15年)5月1日、日本海軍は軽巡洋艦「川内」および第12駆逐隊(叢雲、東雲、薄雲、白雲)と第20駆逐隊(天霧朝霧夕霧狭霧)により第三水雷戦隊を新編した[40]第一艦隊所属)[41][注 6]。 同年7月以降、第三水雷戦隊は第二遣支艦隊(司令長官高須四郎中将)[43]に編入され、中国大陸へ進出する。日中戦争における華中での沿岸作戦[44]、北部仏印進駐作戦などに参加した[45]。 同年8月、姉妹艦「薄雲」が機雷で損傷し、第12駆逐隊から除かれた[46]。 同年11月15日、白雲駆逐艦長は前川新一郎中佐から人見豊治中佐に交代した[注 7]


    1941年(昭和16年)9月12日に内示された昭和17年度海軍戦時編制によれば、駆逐艦「白雲」は姉妹艦「薄雲」と第51駆逐隊を編制する[49]。さらに第51駆逐隊(薄雲、白雲)は空母「赤城」および「加賀」と共に第五航空戦隊を編制する予定とされた[50]。しかし太平洋戦争の勃発により本編制は実現せず、第51駆逐隊(薄雲、白雲)が「赤城、加賀」と行動する事はなかった。

    太平洋戦争開戦~1942年中盤まで
    太平洋戦争開戦時、第12駆逐隊(白雲、叢雲東雲)は引き続き第一艦隊隷下の第三水雷戦隊(司令官:橋本信太郎少将)に所属していた[51]。三水戦は馬来部隊[52](馬來部隊指揮官:南遣艦隊司令長官小沢治三郎海軍中将)に編入され[53]南方作戦にともなうマレー作戦に従事した[54][55]


    12月17日、12駆僚艦「東雲」がボルネオ島攻略作戦で空襲により沈没[55][注 8]、翌年1月15日に12駆から除かれた[8]。12駆(白雲、叢雲)は引き続き馬來部隊としてシンガポール周辺掃蕩戦蘭印作戦に従事し、1942年(昭和17年)3月1日にはバタビア沖海戦に参加する[4][54]。第七戦隊第2小隊(三隈最上)を含む馬來部隊からの派遣部隊は第五水雷戦隊と協力し[58]、米重巡洋艦ヒューストン、オーストラリア軽巡パース、オランダ駆逐艦エヴェルトセン(エベルツェン)を撃沈した[59][60]


    3月10日、第12駆逐隊は解隊された[10]。「叢雲」は第11駆逐隊[54]、「白雲」は第20駆逐隊に編入された[10]。第20駆逐隊(朝霧天霧夕霧、白雲)を含め馬來部隊はスマトラ島攻略作戦と[61]アンダマン・ニコバル諸島攻略作戦[62]、ビルマ輸送作戦[63]等を実施した[64]。 3月下旬、馬來部隊指揮官(第一南遣艦隊司令長官小沢治三郎中将)は臨時部隊を編制し[65]ベンガル湾で独自の作戦を行う方針を示した(ベンガル湾機動作戦[66]。馬來部隊は5分割され、北方隊は第七戦隊司令官栗田健男少将の指揮する重巡「熊野」と「鈴谷」(鈴谷艦長木村昌福大佐)[67]および駆逐艦「白雲」であった[注 9]。4月1日、馬來部隊機動部隊メルギーから出撃する[69]。北方隊は輸送船8隻を撃沈した[70]


    4月10日、第二段作戦第一期兵力部署の発動により馬來部隊に派遣されていた部隊や艦艇は小沢長官の指揮下を離れ[71]、三水戦も内地にもどった[70]。5月下旬から6月上旬のミッドウェー作戦における第三水雷戦隊は、連合艦隊司令長官山本五十六大将と第一艦隊司令長官高須四郎中将の戦艦部隊を護衛した[72]。この頃、舞鶴海軍工廠では夕雲型駆逐艦「巻波」を建造していた[73]。 6月30日、白雲駆逐艦長人見豊治中佐は巻波艤装員長に任命される[74]。後任の白雲艦長は佐藤重吉少佐であった[74]ミッドウェー海戦の敗北後、第七戦隊や第三水雷戦隊は7月下旬のインド洋方面通商破壊作戦(B作戦)に転用された[11][75]

    1942年中盤以降の行動
    連合軍は1942年(昭和17年)8月7日にガダルカナル島フロリダ諸島に上陸し、ガダルカナル島の戦いが始まった[76][77]。 連合艦隊はB作戦を中止し、南東方面部隊を編成した[注 10]大本営(陸軍部、海軍部)と現地陸海軍(第十一航空艦隊第八艦隊第十七軍)は各種状況を検討し[79]グアム島所在の一木支隊と、パラオ諸島所在の歩兵第35旅団(川口支隊)および海軍陸戦隊をガ島奪回のため投入することにした[80][81][82][83]。 三水戦は、川口支隊の輸送船の護衛を命じられた[84][85]


    B作戦のためマレー半島メルギーに進出していた各部隊(第七戦隊、三水戦、第2駆逐隊、第15駆逐隊、タンカー2隻)は、作戦中止によりトラック泊地に向け移動を開始した[86][87]スラウェシ島ミンダナオ島を経由してトラック泊地にむかった[88]。8月19日午後2時、外南洋部隊指揮官(第八艦隊司令長官三川軍一海軍中将)は、川口支隊輸送船のガ島輸送と護衛を三水戦がおこなうよう下令した[注 11]


    ガダルカナル島ではアメリカ海兵隊ヘンダーソン飛行場の整備を急いでおり[90]、8月20日に急降下爆撃機と戦闘機が進出した[91][92]。ガ島に上陸した一木支隊先遣隊は飛行場奪回を目指したが、イル川渡河戦で全滅状態となり一木清直大佐も戦死した[93]。8月24日の第二次ソロモン海戦で日本海軍機動部隊は米軍機動部隊の撃滅に失敗し[94][95]、連合軍はヘンダーソン基地を拠点に同島周辺の制空権を握っていた[96]。 一方、三水戦(川内、夕霧、朝霧、天霧、白雲)は8月23日トラック泊地に到着した[97]。歩兵第35旅団長川口清健陸軍少将の川口支隊約5,000名を乗せた輸送船2隻(佐渡丸、浅香丸)は、既にトラック泊地に到着していた[98]。24日、三水戦(川内、第20駆逐隊)は輸送船2隻(佐渡丸、浅香丸)を護衛し、トラック泊地を出発した[14]。だが25日、ガダルカナル島へ向かった第二水雷戦隊と輸送船団が、ヘンダーソン基地のSBD ドーントレスエスピリトゥサント島B-17重爆から攻撃される[99]。駆逐艦「睦月」と輸送船「金龍丸」が沈没し、軽巡「神通」も中破[100]一木支隊第二梯団と海軍陸戦隊の揚陸を断念する事態となっていた[101][102]。 連合艦隊は一木支隊第二梯団のガ島直行を中止し、軽快艦艇によるガ島急速輸送「鼠輸送」の実施を決定した[103][104][注 12]


    8月26日午前7時50分[106]、南東方面部隊指揮官(十一航艦長官)は三水戦にガ島直行中止と、川口支隊一個大隊の27日夜ガ島揚陸を命じた[注 13]。また外南洋部隊および同部隊増援部隊(指揮官:第二水雷戦隊司令官田中頼三海軍少将)にも鼠輸送と27日夜ガ島揚陸を命じた[注 14]。 南東方面部隊の命令をうけた三水戦と川口支隊は協議をおこなう[108]。 26日夜半に洋上(北緯1度5分 東経156度35分 / 北緯1.083度 東経156.583度 / 1.083; 156.583)で陸兵一個大隊約600名を輸送船から第20駆逐隊に移乗させ、軽巡「川内」(第三水雷戦隊旗艦)が輸送船2隻(佐渡丸、浅香丸)を護衛してラバウルに送り、高速の駆逐艦4隻は27日夜にガ島揚陸をおこなう事になった[109][注 15]


    8月27日朝、第20駆逐隊は飛行艇に触接された[98]。外南洋部隊指揮官(第八艦隊長官)は日本軍基地航空隊(第十一航空艦隊)のヘンダーソン基地空襲が不徹底と判断しており[98]「川口支隊の揚陸を28日夜に変更し、第20駆逐隊はブーゲンビル島ショートランド泊地に寄港、第24駆逐隊司令村上暢之助大佐の駆逐艦3隻と合同せよ」と下令した[109][111]。 この時、第20駆逐隊はサンタイサベル島北方沖まで移動しており、ショートランド泊地に寄港すると燃料が不足する状態だった[109]。そのため第20駆逐隊司令山田雄二大佐は、イサベル島北側で適宜待機し、28日午後にフロリダ諸島周辺で合流する方針を伝えた[109][112]


    8月28日午前6時、第24駆逐隊司令指揮下の輸送隊(海風江風磯風)と[注 16]、第六戦隊司令官五藤存知少将が指揮する支援部隊(青葉古鷹)はショートランド泊地を出撃した[115][注 17]。 第20駆逐隊は、フロリダ諸島沖で第24駆逐隊と合流すべく南下を開始した[13]。 燃料不足のため低速で行動を開始したが[注 18]、これが敵機の空襲を受ける要因となった[118]


    午前8時、第24駆逐隊司令は第20駆逐隊に対し、ガ島での揚陸方法を下令した[注 19]。 直後の午前8時20分、第20駆逐隊はB-17に触接される[115]。午後2時30分、イサベル島東海上のラモス島付近でヘンダーソン飛行場から飛来したSBDドーントレス急降下爆撃機[96](米軍の記録で11機)の攻撃を受けた[118][119]。約2時間の戦闘で、「白雲」は軽負傷2名だったが機関室浸水により航行不能に陥った[118][120]。 また「朝霧」が沈没[121]、「夕霧」も至近弾で損傷し[122]、山田司令らが戦死した[123]。無傷なのは「天霧」だけだった[124]。第20駆逐隊の苦境は青葉偵察機も報告している[118]


    3隻となった第20駆逐隊は揚陸を断念した[124]。「白雲」は「天霧」に曳航され、「夕霧」と共にイサベル島北側からショートランドへ向かった[118][125]。救援の駆逐艦「陽炎」(二水戦、第15駆逐隊)は8月29日昼に第20駆逐隊と合流し[126]、30日朝に4隻でショートランド泊地に到着した[127]。この状況を受けて、第24駆逐隊司令は指揮下3隻(海風、江風、磯風)のガ島行を中止した[98][128]。連合艦隊や外南洋部隊は第24駆逐隊のガ島突入を命じたが、24駆司令は独断で引き返した[126]田中頼三少将は24駆司令の行動を黙認し、連合艦隊と第八艦隊から訓戒された[124]。輸送作戦は失敗し、当時の連合艦隊参謀長宇垣纏少将は陣中日誌『戦藻録』に「 別働隊たる二十四駆逐隊は敵に発見せらるる所なかりしも、右報に依り引返し、第八艦隊は強行を下令、又之を取消す等の挙に出で茲に鼠上陸の第一日は見事に失敗せり。如何にするとも此敵機を壊滅するに非ざれば目的を達し難し 」と記述した[126]。連合艦隊は第20駆逐隊の陸兵を健在の「陽炎」と「天霧」に移すよう命令していたので[注 20]、外南洋部隊指揮官は敷設艦「津軽」に「白雲」曳航を命じた[127][129]。このあと損傷艦(白雲、夕霧)はトラック泊地での応急修理と内地回航を下令された[130]


    10月1日、第20駆逐隊は解隊された[19][131]。「白雲」と「夕霧」は共に呉鎮守府警備駆逐艦となり[21][132]、呉鎮守府部隊に編入される[20][133]。2隻は修理のため日本に戻ることになった[134]。 10月7日、軽巡洋艦「神通」と駆逐艦「白雲」は入泊した[135]。翌8日、呉軍港に到着した[136]。「白雲」の修理は呉海軍工廠と、藤永田造船所で行われた[22]。 この頃、藤永田造船所では夕雲型駆逐艦「大波」を建造していた[137]。11月15日、平山敏夫少佐は白雲駆逐艦長と大波艤装員長の兼務を命じられた[138]。11月23日、大波艤装員事務所は事務を開始する[139]。 12月20日、吉川潔中佐が大波艤装員長に任命される[140][注 21]。平山少佐(白雲駆逐艦長、大波艤装員長)は兼務を解かれた[140]


    なお『戦史叢書83巻』200-202ページでは『1942年10月11日-12日のサボ島沖海戦に「白雲」が参加し、輸送隊の「夏雲」が沈没したあと[143]、「白雲」と「朝雲」が「叢雲」の救援と処分を行った』としている[144]。このうち「白雲」は修理が必要な状態であり[145]、実際にサボ島沖海戦に参加したのは「白雪」であった[146]。 「白雲」と「叢雲」は吹雪型駆逐艦[54]、「朝雲」と「夏雲」は朝潮型駆逐艦である[147]。 さらに「白雲」と「白雪」は字体が似ている[148]。 このサボ島沖海戦で駆逐艦「吹雪」が沈没し[149]ネームシップを失った吹雪型駆逐艦は「白雪型駆逐艦」に改称された[150]

    詳しいことは、「白雲 (吹雪型駆逐艦)ウィキペディア」をご覧ください。 ⇩
    https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BD%E9%9B%B2_(%E5%90%B9%E9%9B%AA%E5%9E%8B%E9%A7%86%E9%80%90%E8%89%A6)
    (wikiより)

    19 駆逐艦白雲慰霊碑

    白雲 (吹雪型駆逐艦)

    19a

    19b

    19c



    初風(はつかぜ)は、日本海軍駆逐艦[1]一等駆逐艦陽炎型の7番艦である[2]1943年(昭和18年)11月上旬のブーゲンビル島沖海戦で戦没した。

    艦歴
    陽炎型駆逐艦全19隻のうち、神戸川崎造船所で建造されたのは初風1隻である[3]1937年(昭和12年)12月3日起工[4]1938年(昭和13年)9月20日、初風は姉妹艦2隻(親潮夏潮)と共に命名された[1]。同日附で、各艦(親潮、夏潮、初風、伊号第十八潜水艦伊号第二十潜水艦伊号第二十二潜水艦第十一号掃海艇第十二号掃海艇)は、それぞれ艦艇類別等級表に登録[5]1939年(昭和14年)1月24日進水[4]。同年11月15日附で高橋亀四郎中佐(吹雪型駆逐艦駆逐艦長)は初風の艤装員長に任命された[6]。11月20日、初風艤装員事務所を設置[7]


    1940年(昭和15年)1月20日、姉妹艦の雪風は竣工と共に佐世保から呉へ回航される[8]。 1月27日附で第16駆逐隊(司令島崎利雄大佐)が編制された[9]。初代司令駆逐艦は雪風[10]。 初風は2月15日に竣工した[4][11]。同日附で高橋中佐は本艦初代駆逐艦長となる[12]呉鎮守府籍。神戸から呉に移動して雪風に合流した。また黒潮は2月24日になり、大阪から呉に回航されている[13]。 当初の第16駆逐隊は、陽炎型3番艦黒潮、陽炎型8番艦雪風、陽炎型9番艦初風で編制され、第二水雷戦隊に所属[14]。10月11日に実施された紀元二千六百年記念行事に伴う紀元二千六百年特別観艦式では、初風は第16駆逐隊司令駆逐艦として式典に臨んだ[15]。11月15日、黒潮は第15駆逐隊に編入されて16駆を離れたが、陽炎型9番艦天津風と陽炎型10番艦時津風が漸次16駆に編入される[16]


    1941年(昭和16年)7月25日、島崎司令は軽巡川内艦長へ転任、渋谷紫郎大佐(前職第7駆逐隊司令)が第16駆逐隊新司令として着任した[17]。第16駆逐隊は渋谷司令指揮下のもと、陽炎型4隻(初風、雪風、天津風、時津風)編成で開戦を迎えた。第二水雷戦隊(司令官田中頼三少将:旗艦神通)所属。同水雷戦隊は第8駆逐隊(朝潮荒潮大潮満潮)、第15駆逐隊(親潮黒潮早潮夏潮)、第16駆逐隊、第18駆逐隊(陽炎不知火、《朝潮型駆逐艦:》)から編制されており、15駆・16駆・18駆が陽炎型を主力としていた[18]。だが第18駆逐隊は第一水雷戦隊(司令官大森仙太郎少将:旗艦阿武隈)の指揮下に属して南雲機動部隊警戒隊となり、真珠湾攻撃に参加。16駆以下の二水戦各艦とは別行動であった。

    太平洋戦争
    太平洋戦争開戦時の第16駆逐隊は、第1小隊(雪風〔駆逐隊司令艦〕、時津風)と、第2小隊(初風、天津風)に分離して行動していた。開戦劈頭、3隻(神通、初風、天津風)は第四航空戦隊の空母龍驤航空隊のダバオ空襲を支援した。その後、16駆4隻は南方作戦に従事してフィリピン〜東南アジアを行動する。レガスビー攻略作戦、ダバオ、メナド、ケンダリーアンボン、クーパンの各攻略作戦に参加する。1942年(昭和17年)2月27日、スラバヤ沖海戦に参加。蘭印作戦終了後、内地へ戻った。


    6月上旬のミッドウェー海戦では攻略部隊を乗せた輸送船の護衛に当たった。7月14日、艦隊の再編にともない、第16駆逐隊は第三艦隊(司令長官南雲忠一中将)麾下の第十戦隊に所属する[19]。当時の戦力は以下の通り。


    ・第10戦隊:長良(旗艦。司令官木村進少将)

      ・第4駆逐隊舞風野分萩風

      ・第10駆逐隊秋雲夕雲巻雲風雲

      ・第16駆逐隊:雪風、時津風、天津風、初風

      ・第17駆逐隊:浦風磯風谷風浜風


    8月1日、第16駆逐隊司令は渋谷大佐(9月20日より軽巡阿武隈艦長[20])から、荘司喜一郎大佐(7月15日まで第11駆逐隊司令)[21])に交代した[22]。 第十戦隊所属各隊・各艦は8月上旬よりソロモン方面へ進出、ガダルカナル島の戦いに参戦した。初風は第二次ソロモン海戦南太平洋海戦に参加。10月26日の戦闘で南雲機動部隊の空母2隻(翔鶴瑞鳳)が被弾損傷すると、2隻(初風、舞風)は空母2隻を護衛して避退(指揮官瑞鳳艦長)[23]。28日15時、トラック泊地に到着した[23]。 11月4日、第16駆逐隊(初風、時津風)は大型艦2隻(瑞鶴妙高)を護衛して内地に帰投することになった[24]。9日、瑞鶴隊(瑞鶴、初風)は豊後水道にて佐世保へ向かう妙高隊(妙高、時津風)と分離、呉に到着した[25]。このため第16駆逐隊第1小隊(雪風、天津風)が活躍した11月中旬の第三次ソロモン海戦に、16駆2小隊(初風、時津風)は参加していない。


    に帰港後、初風は呉工廠で修理に当たった。だが12月12日、日本陸軍の九九式双軽爆撃機を輸送中の空母龍鳳と16駆僚艦時津風は米潜水艦から襲撃され、被雷した龍鳳も中破した[26]。そこで龍鳳が輸送する筈だった九九式双軽爆を空母瑞鶴に移載する[26]。 12月15日附で初風駆逐艦長は高橋中佐(後日、第4駆逐隊司令として駆逐艦満潮沈没時に戦死)から岡三知夫中佐に交代する[27]。 12月28日附で高橋中佐(本艦初代駆逐艦長)は第6駆逐隊()司令に転出[28]。初風駆逐艦長も岡中佐から、前月まで陽炎型16番艦駆逐艦長[29]を務めていた渡邉保正中佐に交代した[28]。 12月31日、4隻(瑞鶴、秋月、初風、時津風)は横須賀を出港、1943年(昭和18年)1月4日トラックへ進出した[30]。同地で駆逐艦3隻(秋月、初風、時津風)は前進部隊に編入[31]。1月6日には修理を要する駆逐艦(長波親潮陽炎涼風)の代艦として南東方面部隊に編入され、各艦は順次ショートランド泊地へ移動した[32]


    1943年
    (昭和18年)1月10-11日、初風は第六次ガダルカナル島輸送作戦(鼠輸送)に参加する。駆逐艦8隻(黒潮《旗艦》、巻波江風大潮荒潮、初風、時津風)は、警戒隊4隻(黒潮、江風、初風、時津風)と輸送隊4隻(嵐、巻波、大潮、荒潮)、泊地待機隊(長波)に区分[32]。輸送隊は小発動艇2隻を曳航しドラム缶150個を積み込んでいた[33]。指揮官は第二水雷戦隊司令官小柳冨次少将で、第15駆逐隊黒潮を旗艦としていた[34]。警戒隊(江風→黒潮→初風→時津風)と輸送隊(嵐→巻波→大潮→荒潮)は、それぞれが単縦陣を形成していた[35]。 午後10時以降、ガダルカナル島エスペランス岬周辺海域で時津風や荒潮と共にアメリカ軍魚雷艇と交戦中、初風は22時47分に魚雷1本を左舷艦橋附近に被雷、戦死者8名・負傷者12名を出して大破した[36]。通信装置と操舵装置が故障[37]。 小柳司令官は初風の自沈あるいはガダルカナル島への擱座を検討していたが、嵐(第4駆逐隊司令有賀幸作大佐)とやりとりした結果、離脱命令を出す[38]。 初風は駆逐艦3隻(嵐、江風、時津風)に護衛されて約16ノットで退避[32]零式艦上戦闘機7機、零式水上観測機11機に掩護されつつ、11日夕刻ショートランド泊地へ到着した[39][32]。4隻(初風、嵐、江風、時津風)の帰還は小柳司令官に大きな感銘をあたえ、各艦乗組員と司令を『功績極めて顕著なり』と賞賛している[40][41]。初風の大破を代償とした輸送量は301トンであった[42]


    3月3日、ビスマルク海海戦で輸送船団護衛部隊(白雪〔第三水雷戦隊司令官木村昌福少将〕、浦波朝雲朝潮荒潮、時津風、雪風)に加わっていた時津風がアメリカ軍機の空襲で撃沈され、第16駆逐隊は陽炎型3隻(初風、雪風、天津風)になった[43][44]。 4月上旬、練習巡洋艦鹿島第四艦隊旗艦)の修理が必要となり[45]、初風は鹿島と共に呉へ帰投[46]、7月12日まで修理に当たった[47]。 5月1日、第16駆逐隊司令は荘司大佐(5月20日附で軽巡川内艦長)から島居威美大佐に交代した[48]。修理完成直前の7月1日附で初風駆逐艦長は蘆田部一中佐(睦月型駆逐艦長月艦長[49]、吹雪型駆逐艦天霧艦長[50]等)に交代した[51]


    7月31日、大和型戦艦2番艦武蔵(連合艦隊旗艦、古賀峯一司令長官座乗)、第五戦隊(妙高、羽黒)、駆逐艦3隻(野分白露、初風)という編制で内地を出発[52][53]。8月1日、横須賀発の3隻(軽巡洋艦長良、空母雲鷹、駆逐艦)と途中合流する[54]。合流後は長良座乗の第二水雷戦隊司令官高間完少将が警戒隊指揮官となった[55]。8月4日深夜、米潜水艦スティールヘッド (USS Steelhead, SS-280) が「戦艦3隻」を含む日本艦隊を発見、翌日未明に計10本の魚雷を発射したがいずれも命中しなかった[56]。8月5日トラック着[57]。初風は一旦内地へ戻った。


    8月17日、主力部隊(戦艦3隻《大和長門扶桑》、空母《大鷹[58]、巡洋艦3隻《愛宕高雄能代》、駆逐艦部隊《涼風海風秋雲夕雲若月天津風、初風》)として呉を出撃し、23日トラックへ進出[3][59][60]。以降はトラック泊地を中心に各地への船団護衛に従事する。


    10月6日、給油艦風早スティールヘッド (USS Steelhead, SS-280)とティノサ (USS Tinosa, SS-283) の2隻の米潜水艦に襲撃され、16時30分に沈没した[61][62]。 初風と白露型駆逐艦7番艦海風は急遽第十四戦隊司令官伊藤賢三少将の指揮下に入る[63]。同戦隊はトラック泊地で輸送作戦の準備に従事していたが、伊藤司令官は旗艦を川内型軽巡那珂から長良型軽巡五十鈴に変更となり[61]、まず海風が先行し、初風は五十鈴と共に風早遭難現場へ向かった[61]。3隻(五十鈴、海風、初風)は10月7日早朝に風早の遭難現場に到着したが風早はすでに沈没しており、海風は風早乗組員154名、初風は98名を救助した[64]。 10月30日、ラバウルへ物件輸送[65]。11月1日、『ろ号作戦』に参加する第一航空戦隊(瑞鶴、翔鶴、瑞鳳)航空隊基地人員・物件を搭載した第十戦隊・第二水雷戦隊各艦はラバウルおよびカビエンに到着した[66]

    沈没
    11月2日、初風は軽巡洋艦/第十戦隊旗艦阿賀野の指揮下でブーゲンビル島沖海戦に参加、重巡妙高と衝突し、米艦隊の集中砲火を受けて沈没した[3]。経過は以下の通り。

    詳細は「ブーゲンビル島沖海戦」を参照


    11月1日、連合艦隊は第五戦隊司令官大森仙太郎少将を指揮官とする連合襲撃隊を編制し、本隊(大森少将直率:第五戦隊《妙高羽黒》)、第一警戒隊(第三水雷戦隊司令官伊集院松治少将:川内〔旗艦〕、第27駆逐隊《時雨五月雨白露》)、第二警戒隊(十戦隊司令官大杉守一少将:阿賀野〔旗艦〕、駆逐艦《長波初風若月》)、輸送隊(指揮官山代勝守大佐:駆逐艦《天霧文月卯月夕凪水無月》)という戦力を揃える[67]。連合襲撃隊はブーゲンビル島タロキナ岬に上陸したアメリカ軍に対し、逆上陸計画を企図していた[67]。だが輸送隊の準備は遅れたこと、アメリカ軍機の触接を受けたことから逆上陸作戦は中止され、輸送隊はラバウルへ避退した[67]。連合襲撃隊そのものは、アメリカ軍輸送船団を撃滅すべく進撃を続けた[68]。一方のアメリカ軍は日本艦隊の接近を知ると、輸送船団を護るためアーロン・S・メリル少将率いる巡洋艦4隻・駆逐艦8隻の艦隊を派遣した[69]


    11月2日00時45分、時雨の敵艦隊発見報告をきっかけに約2時間におよぶ夜戦がはじまった。当時の隊形は、主隊(妙高、羽黒)が中央、第一警戒隊(川内、時雨、白露、五月雨)が主隊左前方、第二警戒隊は(阿賀野、長波、初風、若月)の順番で主隊右前方を航行していた[69]。最初に米艦隊と交戦したのは第一警戒隊で、主隊と第二警戒隊は回避行動に専念し、妙高と艦位を失った初風の衝突を招いた[70]。妙高と初風の衝突時間は午前1時7分[70][69]。 その後、主隊(妙高、羽黒)は午前1時16分に射撃を開始したが、時雨の報告から26分も経過しており、主隊と第二警戒隊(阿賀野、長波、若月)は戦局にまったく貢献できなかった[70]。午前1時34分、大森司令官は『明日ノ敵機ノ来襲ヲ顧慮シ、全軍ニ対シ315度方向ニ避退スベキ』を電令して戦場からの離脱をはかり、米艦隊は敗走する日本艦隊を追撃する[69]。艦首を失い、戦場に取り残されていた初風はアメリカ軍駆逐隊の集中砲火を浴び[71]、午前2時57分に南緯06度00分 東経153度58分 / 南緯6.000度 東経153.967度 / -6.000; 153.967地点で沈没した[69]。艦長以下164名が戦死した。川内は漂流したのち、午前5時30分に沈没した[72]。翌朝、重巡羽黒からは僚艦妙高の前部左舷に初風の甲板がぶらさがっている光景が見られたという[73]。目撃した羽黒の下士官は「初風の額の皮」という表現を使っている[73]


    本海戦は2隻(川内、初風)を喪失した上に、アメリカ軍輸送船団の撃破に失敗した日本艦隊の完敗で終わり[70]、阿賀野以下日本艦隊は11月2日午前9時以降、順次ラバウルへ帰投した[72]。 12月6日、第16駆逐隊司令は島居大佐から古川文次大佐[74]に交代する(島居は12月22日より軽巡龍田艦長[75]。龍田沈没まで同職)。 駆逐艦初風は1944年(昭和19年)1月5日附で 不知火型駆逐艦[76]、 帝国駆逐艦籍[77]、 第16駆逐隊[78] のそれぞれから除籍された。初風の除籍から約2週間後の1月16日、第16駆逐隊僚艦の天津風が米潜水艦の雷撃で大破して長期離脱を余儀なくされ(古川第16駆逐隊司令戦死)、健在艦は雪風1隻となってしまった[79]。3月31日附で第16駆逐隊は解隊され、雪風は陽炎型4隻編制の第17駆逐隊(磯風、谷風、浦風、浜風)に編入された[80]

    歴代艦長
    艤装員長
    1. 高橋亀四郎 中佐:1939年11月15日[6] - 1940年2月15日[12]

    駆逐艦長
    1. 高橋亀四郎 中佐:1940年2月15日[12] - 1942年12月15日[27]
    2. 岡三知夫 中佐:1942年12月15日[27] - 1942年12月28日[28]
    3. 渡邉保正 中佐:1942年12月28日[28] - 1943年7月1日[51]
    4. 蘆田部一 中佐:1943年7月1日[51] - 1944年1月5日[81](1943年11月2日 戦死、同日付任海軍大佐)[82]

    詳しいことは、「初風 (駆逐艦)ウィキペディア」をご覧ください。 ⇩
    https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%88%9D%E9%A2%A8_(%E9%A7%86%E9%80%90%E8%89%A6)
    (wikiより)

    18a

    18b

    18c



    第六三四海軍航空隊だい634かいぐんこうくうたい)は、日本海軍の部隊の一つ。航空戦艦を母艦として運用する変則的水上機・艦上機部隊として整備されたが、母艦と連携する機会がないまま、小規模の水上機基地航空隊として終戦まで運用された。

    沿革
    機動部隊の再建を急ピッチで進めていた海軍は、既に航空母艦9隻を3隻ずつ振り分け、各集団ごとに1個航空隊を充当した3個航空戦隊の編制を終えていた。六三四空は再建・増強策の第二段として、航空戦艦伊勢日向を母艦とする艦載機航空隊として編制された。割り当てられたのは水上偵察機瑞雲と艦上爆撃機彗星で、着水能力がない彗星は、基地または空母に着陸・着艦する片道運用を想定していた。


    1944年5月1日岩国飛行場を原隊とし、呉飛行場で開隊。第四航空戦隊隷下。定数瑞雲18・彗星18。瑞雲は呉、彗星は岩国で練成開始(実機不足のため九九式艦上爆撃機を使用)。5月22日母艦決定。瑞雲は伊勢(天谷司令直卒)、彗星は日向(江村日雄飛行長指揮)。6月15日サイパン島派遣命令。のちに中止。6月23日カタパルト射出実験開始。全機成功。7月5日東号作戦発令、瑞雲隊は横須賀飛行場、彗星隊は香取飛行場に進出。8日原隊復帰。8月1日解隊した第六五二海軍航空隊より戦闘機隊・攻撃隊編入。10月12日台湾沖航空戦勃発。瑞雲隊は指宿飛行場、艦上機隊は鹿屋飛行場に進出。10月15日瑞雲隊に原隊復帰命令。機動部隊参加の是非が検討されたが、搭載見送りが決定。10月19日母艦伊勢・日向、六三四空艦載機を搭載せずフィリピンに向け別府湾出航。10月22日フィリピンに進出、キャビテに駐留。以後、夜間対艦攻撃、多号作戦対艦哨戒に従事。


    10月末フィリピンで神風特攻隊が開始すると、11月634空も梅花隊を編成して特攻を命じた[1]


    11月15日 第二航空艦隊に編入。艦上機隊を廃止(第二〇一海軍航空隊第七〇一海軍航空隊に譲渡)、偵察機隊を増強。以後、従来の夜間対艦攻撃に加え、サンホセ飛行場爆撃に従事。


    1945年1月8日第一航空艦隊に転籍。台湾東港飛行場に撤退。以後、東港より淡水飛行場に拠点を移し、台湾・沖縄近海の哨戒に従事。3月26日「菊水一号作戦」発動。沖縄近海で夜間対艦攻撃に従事。4月台湾より本土に撤退。 福岡、鹿児島に偵察301、偵察302を展開して奄美大島の古仁屋を前進基地に沖縄に反復攻撃を行った[2]


    8月3日第五航空艦隊に編入、第三十二航空戦隊を編制。


    8月15日終戦。

    主力機種
    瑞雲 - 伊勢を母艦とする水上偵察機

    彗星 - 日向を母艦とする艦上爆撃機


    その他、慣熟練成用の九九式艦上爆撃機、六五二空から譲渡された零式艦上戦闘機天山、その他偵察航空隊から編入された各種偵察機が含まれている。

    歴代指令
    ・天谷孝久 大佐:昭和19年5月1日 -

    ・江村日雄:昭和19年11月15日 -

    ・立見孝六郎:昭和20年8月 - 解隊

    脚注
    1. 木俣滋郎『日本空母戦史』図書出版社
    2. 渡辺洋二『日本本土防空戦』徳間書店183頁

    関連項目
    大日本帝国海軍航空隊一覧
    (wikiより)

    17a

    17b

    17c



    1991年(平成3年)4月23日建立。 合祀者2962柱。(1)

    潜水艦名をクリックすると、艦歴および要目の紹介ページへジャンプ。

    巡潜型

    ・巡潜3型

      ・伊号第八潜水艦


    ・巡潜甲型

      ・伊号第十一潜水艦


    ・巡潜乙型
    伊号第二十七潜水艦

    伊号第二十八潜水艦

    伊号第二十九潜水艦

    伊号第三十潜水艦

    伊号第三十一潜水艦

    伊号第三十二潜水艦


    ・巡潜乙型

      ・伊号第三十三潜水艦

      ・伊号第三十四潜水艦

      ・伊号第三十五潜水艦

      ・伊号第三十七潜水艦

      ・伊号第三十八潜水艦


    ・巡潜乙型改2

      ・伊号第五十四潜水艦

      ・伊号第五十六潜水艦


    ・巡潜丙型改

      ・伊号第五十二潜水艦

      ・伊号第五十五潜水艦

    海大型
    ・海大6型a 

      ・伊号第七十潜水艦

      ・伊号第七十三潜水艦

      ・伊号第百六十八潜水艦


    ・海大6型a

      ・伊号第百六十九潜水艦

      ・伊号第百七十一潜水艦

      ・伊号第百七十二潜水艦


    ・海大6型b

      ・伊号第百七十四潜水艦

      ・伊号第百七十五潜水艦


    ・海大7型
      ・ 伊号第百七十六潜水艦

    機雷潜型
      ・伊号第百二十二潜水艦

      ・伊号第百二十三潜水艦

    潜補型
      ・伊号第三百五十一潜水艦

    小型
      ・呂号第百三潜水艦

      ・呂号第百四潜水艦

      ・呂号第百五潜水艦

      ・呂号第百十二潜水艦

      ・呂号第百十三潜水艦

      ・呂号第百十四潜水艦

    参考資料
    1. 梶本光義(編集責任者).呉海軍墓地誌海ゆかば:合祀碑と英霊.呉海軍墓地顕彰保存会,2005,p69-83

    16a

    16b

    16c

    16d



     詳細不明。

    15a

    15b



    第十八日東丸は徴傭漁船を改造した特設駆潜艇である。


    特設駆潜艇は、主として潜水艦の駆逐および防材の監視に任じ、必要に応じ哨戒に従事する300トン級の捕鯨船および100トン内外の発動機漁船である。 第十八日東丸は1934年(昭和9年)6月に藤永田造船所で完成した日東漁業(下関)所有の底曳網漁船で、以西底曳漁業に従事していた。 以西底曳漁業とは、沿岸漁業との紛争を避けるため設定された禁止線の東経130度「以西」の東シナ海・黄海での操業をさす。


    1941年(昭和16年)8月28日に徴傭された第十八日東丸は、佐伯防備隊に配属され内海西部~日向灘での哨戒任務に従事していたが、1942年(昭和17年)9月に外南洋部隊指揮官(第八艦隊司令長官)の指揮下に入り、ラバウルに進出した。 同年12月には第125駆潜隊に編入され、フィリピン、インドネシア方面で船団護衛や対潜掃蕩に従事した。 終戦時には残存しており、1945年(昭和20年)12月31日に解傭されている。

    14a

    14b



    ・ ショートランド島戦没者慰霊碑
    1971年 ( 昭和 46年 ) 9月 4日建立。 合祀者 128柱。(1)

    大東亜戦争中ソロモン諸島ショートランド島にて戦没せる旧呉鎮十三防空隊員及六特南海砲台員の英霊を謹んで慰霊の為建立


    ソロモン群島ショートランド会

    ショートランド島戦没者 ( 第 13防空隊 ) について(1)

    ・1942年 ( 昭和 17年 ) 12月 5日
    呉で編成。 隊員は奥田末三郎中尉以下 300余名 6個小隊、。装備は当初 13mm連装機銃であったが、後に 25mm連装機銃 12基 24門に換装された。 ソロモン群島ショートランド島の防空隊となり、呉鎮守府第六特別陸戦隊の重砲隊と共に布陣した。

    ・1943年 ( 昭和 18年 ) 11月 25日
    解隊。 ブインに転進。 呉鎮守府第7特別陸戦隊に編入され、終戦を迎える。

    参考資料
    1. ab梶本光義(編集責任者).呉海軍墓地誌海ゆかば:合祀碑と英霊.呉海軍墓地顕彰保存会,2005,p9

    13a

    13b

    13c



    陽炎(かげろう/かげろふ)は、日本海軍陽炎型駆逐艦1番艦である[3]1939年(昭和14年)11月に竣工した。日本海軍の艦船名としては1899年(明治32年)竣工の東雲型駆逐艦陽炎に続いて2隻目。1943年(昭和18年)5月、ソロモン諸島ブラケット海峡で触雷し沈没した。


    ネームシップであるにもかかわらず、現存する写真が非常に少ないとされる[4]

    艦歴

    建造~第18駆逐隊時代
    1934年(昭和9年)12月に日本がワシントン海軍軍縮条約の破棄を通告し2年後の失効が決まると、海軍は太平洋広域での活動を想定した大型駆逐艦の整備に着手した。1937年(昭和12年)からの第三次軍備補充計画(マル3計画)で、新型駆逐艦18隻の建造が承認された(同計画での建造は15隻)。陽炎は同型艦で3番目となる1937年(昭和12年)9月3日に舞鶴海軍工廠で起工[2]し、1938年(昭和13年)4月15日に命名され[5]、同日附で艦艇類別等級表に陽炎型駆逐艦が新設された[6]


    9月27日に進水[2][7]1939年(昭和16年)8月10日、艤装員長山本岩多中佐が正式に初代駆逐艦長となった[8]。11月6日に同型艦で最も早く竣工した[2]。兵装は朝潮型駆逐艦と同程度ながら、18ノットで航続距離5000カイリの優秀な遠征能力を備えた。


    陽炎は朝潮型駆逐艦2隻の第18駆逐隊()に編入し、11月15日に同駆逐隊が第二艦隊第二水雷戦隊に編入した。12月20日、2番艦不知火が竣工し、第18駆逐隊は4隻体制となった[9]。1940年(昭和15年)10月11日、横浜港沖で行われた紀元二千六百年特別観艦式に18駆の僚艦と共に参加[10]。18駆は第三列(金剛、榛名、熊野、鈴谷、最上、利根、筑摩、《陽炎》、大潮、朝潮、荒潮、満潮、《霰、霞、不知火》、黒潮、雪風、初風)に配置された。


    太平洋戦争の開戦が迫った1941年(昭和16年)、航続距離が長い陽炎型2隻を揃えた第18駆逐隊は、真珠湾攻撃に備えて第二水雷戦隊の指揮を離れて第一航空艦隊の警戒隊(第一水雷戦隊司令官大森仙太郎少将)に編入された[11]。警戒隊には他に第一水雷戦隊旗艦の軽巡阿武隈、第17駆逐隊(谷風浦風浜風磯風)、駆逐艦秋雲第五航空戦隊所属[12])が加わっていた。1941年(昭和16年)11月26日、機動部隊(赤城加賀蒼龍飛龍翔鶴瑞鶴)の護衛として単冠湾を出発し、真珠湾攻撃に参加した。帰投後、開戦時の艦長だった横井稔中佐が脳溢血で倒れ[13]、12月22日附で有本輝美智中佐に交代した[14]


    1942年
    (昭和17年)1月5日に呉を出港し、第一航空艦隊に随行してラバウル攻撃に従事した。1月29日、浜風と共に翔鶴を護衛して横須賀に向かい、2月3日に到着した[15][16]。2月には第二航空戦隊(蒼龍、飛龍)のポート・ダーウィン攻撃を護衛し、ジャワ南方機動作戦、4月のセイロン沖海戦にも参加した。4月23日、呉に入港し入渠整備を行った[17]


    5月1日、第18駆逐隊は第二水雷戦隊の麾下に復帰した[18]。5月下旬、第二水雷戦隊はミッドウェー攻略作戦に参加するためサイパンに進出し、6月のミッドウェー海戦では攻略隊の護衛として参加した[19][20][21]。空母4隻を失って上陸作戦は中止となり、第18駆逐隊は6月8日、重巡三隈が沈没した第七戦隊(栗田健男少将)の指揮下に入った[22]。大破した重巡最上を護衛し、同戦隊の重巡熊野、重巡鈴谷と共にをトラック泊地に寄港した。6月23日、第18駆逐隊は熊野と鈴谷を護衛して呉に帰投した[23]


    第18駆逐隊は北方海域を担当する第五艦隊の指揮下に入った[24]。日本軍は、ミッドウェー作戦の陽動作戦として占領に成功したアッツ島キスカ島を維持する方針を決め、第18駆逐隊が呉に帰投した6月23日に輸送部隊(水上機母艦千代田あるぜんちな丸、鹿野丸、菊川丸、第18駆逐隊)を編制した[25]。第18駆逐隊は千代田を護衛して横須賀に寄港し、あるぜんちな丸と合流した。28日、陽炎を除く3隻が一足先に千代田、あるぜんちな丸を護衛して横須賀を出撃した。残る輸送船の出発が遅れたため陽炎は対潜作戦を行い、他の部隊と共に米潜水艦ノーチラスを攻撃して損傷を与えた[23]


    7月5日、キスカ島に到着した不知火と霞、霰が米潜水艦グロウラーに攻撃され、霰が沈没、不知火と霞が大破した[26][27]。出港が遅れて難を逃れた陽炎は9日、輸送船菊川丸の護衛として横須賀を出発し[28]、19日にキスカ島へ到着した[29]。第18駆逐隊の健在艦が陽炎1隻となったため駆逐隊の編制が変更となり、陽炎は20日に南方に展開する第二水雷戦隊・第15駆逐隊(黒潮親潮早潮)に編入した[30]。キスカ島に投錨していた陽炎は28日、駆逐艦が曳航する霞を護衛し、同島を出発した[31][32]。8月3日、3隻(陽炎、雷、霞)は幌筵島片岡湾に到着した[33]。陽炎は霞と分かれて横須賀に向かい、8日に到着した[34]。同日附で第二水雷戦隊の指揮下に復帰した[35]

    ガダルカナル島の戦い
    1942年(昭和17年)8月7日、米軍はガダルカナル島ツラギ島に上陸し、ガダルカナル島の戦いが始まった。陽炎は、整備を終えた第二水雷戦隊旗艦の軽巡神通を護衛して15日にトラック泊地に入り、16日にソロモン海方面を担当する外南洋部隊(三川軍一第八艦隊司令長官)の指揮下に入った[36][37]。18日夜、陽炎は他の駆逐艦5隻(萩風谷風浦風浜風)と共に陸軍一木支隊をガダルカナル島に揚陸させた[38]。第17駆逐隊の浦風、谷風、浜風がラバウルに戻り、19日昼にB-17の空襲で萩風が大破し、嵐が護衛してトラック泊地に避退したため、同島付近に残る駆逐艦は陽炎1隻となった。陽炎は米軍機の空襲を受けたがツラギ方面の偵察と対地砲撃を実施した。第二水雷戦隊から交代の駆逐艦江風が派遣され、陽炎は21日にショートランド泊地へ向かった[39]

    詳細は「第二次ソロモン海戦」を参照


    8月22日、外南洋部隊は陽炎、夕凪、江風、睦月望月の駆逐艦5隻にガダルカナル島に対する米軍の補給・増援の阻止を、駆逐艦卯月には日本軍守備隊への補給を命じた[40]。陽炎は単艦で出撃し、23日深夜にガ島とツラギ島を砲撃するが、敵艦とは遭遇しなかった[41]


    24日午後10時、陽炎、睦月、弥生、江風、磯風の駆逐艦5隻でガダルカナル島ヘンダーソン飛行場基地を10分間砲撃し、陽炎は潜水艦1隻の撃沈を報告した。5隻は北上し、25日午前5時40分に陸軍一木支隊第二梯団を輸送する第二水雷戦隊(田中頼三少将)の旗艦神通、海風涼風哨戒艇4隻、輸送船3隻(ぼすとん丸、大福丸、金龍丸)と合流した。直後、急降下爆撃機SBDドーントレスとB-17の空襲を受け、睦月と金龍丸が沈没、神通が大破した[42][43]。陽炎は涼風と共に神通を護衛して輸送船団から離脱したが、田中少将は陽炎を旗艦として再び船団に戻り、神通を涼風に護衛させてトラックに退避させた[43][44]。輸送作戦は失敗し、26日夕、陽炎は燃料不足の海風を護衛してショートランド泊地へ向かった。28日朝、旗艦は重巡衣笠に移った[45]


    同日、ガダルカナル島に陸軍川口支隊の揚陸を目指していた天霧朝霧夕霧白雲の駆逐艦4隻が空襲を受け、朝霧が沈没した。陽炎は救援のため出動し、29日昼に無傷の天霧と航行不能になった白雲、小破した夕霧と合流した。30日朝、陽炎は3隻を護衛しショートランド泊地に戻った[46][47]。31日以降、第三水雷戦隊(橋本信太郎少将)を中心とする増援部隊に加わり、鼠輸送作戦に従事した。


    9月2日深夜、陽炎、駆逐艦夕暮、敷設艦津軽哨戒艇1号2号による輸送作戦が行われ、駆逐艦3隻(吹雪白雪、天霧)が援護と飛行場砲撃を行った[48]。5日、駆逐艦5隻(吹雪、白雪、天霧、陽炎、夕暮)でガ島揚陸が実施された[49]。8日、ガ島に増援の米軍が上陸し、から米軍が川口支隊の背後に上陸したと報告が入った。第三水雷戦隊の旗艦軽巡川内と駆逐艦5隻(陽炎、吹雪、白雪、天霧、夕暮)が夜に到着したが、上陸船団は撤収しており、掃海艇1隻を座礁させたにとどまった[50][51]。13日にはヘンダーソン飛行場への日本陸軍総攻撃を支援するため出撃したが、攻撃が失敗し引き返した。


    21日、大江覧治大佐の指揮で駆逐艦4隻(陽炎、浦波、白雪、浜風)が出撃、夜にガダルカナル島揚陸に成功するが、月明下で米軍機の夜間空襲を受けた。陽炎は機銃掃射をうけて艦首の水線上に穴が空き、浸水して揚錨機が使用不能になった[52][53][54]。この戦闘で、日本は月明下での鼠輸送を避けるようになった。22日、損傷した陽炎はいったん増援部隊から外されることになり、25日にトラック泊地に到着[53][55]。工作艦明石で修理した[56]


    10月11日、前線に復帰した[57]。13日に計画された大規模な飛行場砲撃作戦では前進部隊に編入し、駆逐艦磯波と共に第二航空戦隊の空母隼鷹、空母飛鷹を護衛した[58]。10月26日の南太平洋海戦に参加し、米艦隊を追撃した陽炎と駆逐艦巻波が27日、空母エンタープライズホーネットの搭乗員各1名を捕虜にした[59][60]

    第三次ソロモン海戦
    11月3日、第二水雷戦隊(田中頼三少将)が再び増援部隊の中心となった[61]。6日、駆逐艦11隻(陽炎、親潮、早潮、海風、江風、涼風、巻波、高波長波夕雲風雲)がショートランド泊地を出撃しガダルカナル島に輸送し、作戦は成功した[62]

    詳細は「第三次ソロモン海戦」を参照


    11月、再びヘンダーソン飛行場への大規模な艦砲射撃と上陸作戦が計画され、第38師団佐野忠義中将)を乗せた輸送船11隻を、第二水雷戦隊が指揮する駆逐艦11隻(陽炎、早潮、親潮、海風、江風、涼風、高波、長波、巻波、天霧、望月)が護衛し、11月12日にショートランドを出撃した。しかし13日の第三次ソロモン海戦第一夜戦と昼間の空襲で戦艦比叡、重巡衣笠、駆逐艦夕立を失って砲撃が中止となり、船団はいったんショートランド泊地に戻った。14日に再出撃するがエンタープライズ艦載機やB-17重爆の攻撃で輸送船6隻が沈没、輸送船佐渡丸は天霧と望月の護衛で退避した。残る輸送船4隻(廣川丸、山浦丸、鬼怒川丸、山東丸)を護衛し揚陸を目指したが、15日に同海戦第二夜戦に遭遇した。田中少将は陽炎と親潮に突撃を命じ、戦艦霧島と交戦中の米戦艦ワシントンに遭遇した。親潮は魚雷1本を発射したが外れ(命中と誤認)、陽炎は夜戦の混乱で敵味方が識別できず攻撃できなかった。輸送船は15日午前2時頃、ガダルカナル島に座礁させ揚陸をめざしたが、昼間の空襲で全隻炎上し、輸送作戦は完全に失敗した[63]


    ・陽炎は15日の第二夜戦の混乱の中で金剛型戦艦らしい艦影に識別信号を送った。さらに距離1000mで米戦艦(サウスダコタと推量される)が反航しすれ違ったが、攻撃できなかった。当時の高田俊夫・陽炎水雷長は「魚雷を発射しなくても大砲や機銃を撃てば良かったのかもしれないが、日本海軍は事前にそういう訓練はしてないので、撃つという発想がなかった」と回想している[64]

    連合軍は16日にパプアニューギニアブナに上陸した。17日夜、駆逐艦5隻(夕雲、風雲、巻雲、陽炎、親潮)で陸兵1000名のブナ輸送に成功した。別の輸送作戦で海風が空襲で航行不能となり、19日に親潮と陽炎がラバウルから救援に向かった[65][66]。24日、第15駆逐隊の僚艦早潮が空襲で沈没し、同隊は3隻(親潮、黒潮、陽炎)になった。外南洋部隊は東部ニューギニアとガダルカナル島の二正面作戦を強いられることになり、第二水雷戦隊はガ島へのドラム缶輸送計画に参加することになった[67]

    詳細は「ルンガ沖夜戦」を参照


    11月29日夜、田中少将が指揮する第二水雷戦隊の駆逐艦8隻(長波、高波、親潮、黒潮、陽炎、巻波、江風 、涼風)が、第一次のドラム缶輸送のためガダルカナル島ルンガ沖に到着した。日本の輸送作戦を察知したカールトン・ライト少将率いる米艦隊は重巡3隻、軽巡1隻、駆逐艦6隻で急襲し、ルンガ沖夜戦が勃発した。陽炎はこの時、輸送任務のため魚雷16本のうち予備魚雷8本を降ろしていた[68]。陽炎は攻撃命令を受けてドラム缶投下を中止、魚雷戦を準備した。しかし後続の巻波と行動中に僚艦を見失ったため、他艦より遅れて米艦隊を追撃し、巻波と共に魚雷を発射した。このうち2本が重巡ノーザンプトンに命中し、まもなく沈没した。日本は高波を失ったが、重巡ミネアポリス、 重巡ニューオーリンズ、重巡ペンサコラを大破させ、日本が海戦に勝利した。ただ輸送は失敗した[69][70]


    第二次輸送は野分が加わった駆逐艦9隻で実施され、12月3-4日にドラム缶1500個を投下したが、陸軍が回収したドラム缶は310個にとどまった[71][72]。7-8日、第三次輸送が駆逐艦11隻(親潮、黒潮、陽炎、長波、江風、涼風、嵐、野分、浦風、谷風、有明)で実施された。空襲で野分が航行不能となり、長波、嵐、有明と共に撤退した。残る駆逐艦はガ島付近で魚雷艇と夜間空襲を受け、揚陸を断念した[71]。11-12日の第四次輸送は野分を照月に交代して実行されたが、揚陸中に魚雷艇の襲撃で照月が沈没し、投下したドラム缶1200個中220個しか回収されなかった[73]


    16-17日には駆逐艦6隻(長波、巻波、親潮、黒潮、陽炎、谷風)でニュージョージア島ムンダに輸送を実施、揚陸中の夜間空襲で陽炎は重軽傷6名を出した。21日には駆逐艦4隻(浦風、谷風、巻波、陽炎)でムンダ輸送を実施した[74]1943年(昭和18年)1月2-3日、駆逐艦10隻(長波、江風、涼風、巻波、荒潮、親潮、黒潮、陽炎、磯波、電)でガ島への輸送し成功した。この頃、第二水雷戦隊の各艦が激戦で故障を抱えたため艦の交代が行われ、陽炎と親潮、涼風、長波はトラック泊地に戻った[75]


    ガダルカナル島からの撤退が決まり、陽炎は2月上旬、敵艦隊の出現に備える本隊の支援隊として参加した(編制はケ号作戦参照)。2月8日までに撤退は成功し、トラック泊地の主力艦艇はいったん内地に帰投が決まった[76]。陽炎と黒潮は悪天候で航空隊の収容が遅れた隼鷹を護衛するため、主力艦艇に1日遅れて2月16日にトラックから内地に向かった。到着後、陽炎は入渠整備を行った[77][78]

    沈没
    3月22日、陽炎と駆逐艦涼月、駆逐艦初月、夕暮は、隼鷹、飛鷹、重巡利根、重巡筑摩を護衛して本土を出撃し、28日にトラック泊地に到着した[79][80]。4月24日、トラックで合流した第十五駆逐隊(親潮、黒潮、陽炎)は外南洋部隊に編入された[81]。4月26日、ラバウルに到着[82]。この頃ムンダやコロンバンガラ島の部隊が栄養不良などのために戦力が低下していたため部隊の補充交代が実施されることになり、この任務に第十五駆逐隊などが投入された[83]。4月29から5月8日までに6回のコロンバンガラ島輸送を実施することが計画され、第15駆逐隊(親潮、黒潮、陽炎)は奇数回の輸送を担当した[84]。第1回(4月29日)、第3回(5月3日)の輸送は成功したが、毎回ブラケット水道を通過する同じ航路をとったため、日本軍の補給部隊がブラケット水道を通っていることを知ったアメリカ軍は5月6日に敷設駆逐艦「ブリーズ」、「プレブル」、「ガンブル」によりブラケット水道に機雷[85]を敷設した[86]


    5月7日17時(日本時間)、「親潮」、「黒潮」、「陽炎」はブインから5回目の輸送に出撃した[84]。「陽炎」は八連特の人員や軍需品などを搭載していた[84]。5月8日1時ごろにコロンバンガラ島ヴィラ泊地に入泊し、揚陸およに交代人員の収容を終えて3時10分頃に出港[87]。ブラケット水道を通過し、ファーガスン水道に向かおうとしていたとき、先頭の「親潮」が触雷した[88]。時刻は3時59分であった[88]。これを潜水艦の雷撃によるものと判断した「黒潮」と「陽炎」は爆雷を投射[88]。それから「陽炎」は「親潮」の周囲で潜水艦の捜索を行っていたところ、フェアウェイ島の37度約2000メートル付近で触雷した[89]。その時刻は4時11分頃[88]か4時6分[89]、または「親潮」触雷の11分後[90]であった。「陽炎」は第一缶室と第二缶室に浸水し航行不能となった[91]。この後さらに「黒潮」も触雷し爆沈した[88]


    沿岸監視員から日本駆逐艦が航行不能となって漂流中との報告を受けたマーク・ミッチャー少将はSBD19機、TBF3機、F4U32機、P-40を8機攻撃に向かわせた[92]。F4UとTBFは荒天のため引き返したが残りは攻撃を行い、「親潮」に爆弾1発が命中[93]。「陽炎」も至近弾や機銃掃射で負傷者を出し、火災も発生したがすぐに消火された[94]。「陽炎」は北西に流され[88]、浸水が進んで沈み始めたため18時ごろ艦長は総員離艦を下令[95]。18時17分、「陽炎」はフェアウェイ島の0度1200メートルで沈没した[95]。「陽炎」での人的被害は戦死者18名、重傷者11名、軽傷者25名であった[95]。「陽炎」の生存者はフェアウェイ島に上陸し、5月9日の日没後に救出に着た大発により救助された[96]


    6月20日、陽炎は帝国駆逐艦籍から除籍され、第15駆逐隊も解隊した[97][98]

    詳しいことは、「陽炎 (陽炎型駆逐艦)ウィキペディア」をご覧ください。 ⇩
    https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%99%BD%E7%82%8E_(%E9%99%BD%E7%82%8E%E5%9E%8B%E9%A7%86%E9%80%90%E8%89%A6)
    (wikiより)

    12a

    12b

    12c



    鹿島 (かしま)は大日本帝国海軍戦艦[14]香取型戦艦の2番艦。 艦名は茨城県鹿島神宮に由来する[15]。 艦名は香取型練習巡洋艦2番艦「鹿島[16]海上自衛隊の練習艦「かしま」に引き継がれた。

    艦歴
    建造
    英国アームストロング社エルジック工場で建造され、アームストロング式(安式)の砲を備えた[17]。なお、「香取」はヴィッカーズ式(毘式)であった。煙突の配置、艦各部の要目等を始めとして細部は異なるが、2隻は姉妹艦として扱われる[18]。 第三期海軍拡張計画の一艦として計画され、当初は「香取」の三年遅れで建造される予定であったがロシアとの関係悪化により計画が繰り上げられ、同時に建造されることになった。


    1904年(明治37年)2月13日、日本海軍はイギリスで建造の第一号甲鉄艦を香取第二号甲鉄艦鹿島と呼称することを内定[19]2月29日、「鹿島」は起工[15]1905年(明治38年)3月22日、進水[15]。同日附で制式に「鹿島」と命名される[20][14]1906年(明治39年)5月23日、竣工[15]。5月28日、2隻(香取、鹿島)は戦艦に類別される[21][2]


    完成は日露戦争後となったが、到着当時、戦争による損耗(「八島」と「初瀬」の触雷沈没)と事故(「三笠」の火薬庫爆発)により日本には使える戦艦が3隻しかなく、

    1907年
    1907年(明治40年)5月13日(14日)、籠神社参拝や天の橋立見学等を終えた明治天皇皇太子(嘉仁親王。後の大正天皇)は舞鶴港で「鹿島」(艦長小泉鑅太郎大佐)に乗艦[22][23]。舞鶴を出発する[24][25]。5月15日、皇太子は境港市鳥取県)で「鹿島」を降りた[26][27]出雲大社参拝[28]等の山陰地方行啓を終えた皇太子は6月3日に浜田市で「鹿島」に再乗艦(宿泊)[29][30]。6月4日、隠岐諸島に移動して後鳥羽天皇火葬塚(隠岐神社)等を訪問[23][31]。6月5日、隠岐を出発し、舞鶴で「鹿島」を下艦した[32][33]

    1911年
    1911年(明治44年)3月下旬から4月上旬にかけて、明治天皇皇太子(のち大正天皇)は「鹿島」を御召艦として呉軍港・佐世保軍港を巡啓、軍艦2隻(摂津、筑摩)の進水式に臨席することになった[34][35]3月27日午前11時、皇太子は横須賀軍港の逸見波止場より「鹿島」に乗艦[36](供奉艦は薩摩[37]。 3月29日、鹿島は宮島沖合に到着した[38][39]3月30日、皇太子は「鹿島」より呉軍港に上陸[40]河内型戦艦2番艦「摂津」進水式に臨んだ[41][42][43]。 午後2時、艦隊(鹿島、薩摩)は呉軍港を出発、佐世保へ向かう[44][45][46]。 4月1日、艦隊(鹿島、薩摩)は佐世保軍港に到着[47]、皇太子は巡洋艦「筑摩」進水式に臨んだ[48][49]。 午後2時、御召艦鹿島は佐世保を出発する[50][49]。 4月2日夜、御召艦隊は遣英艦隊(巡洋戦艦鞍馬、巡洋艦利根)と合同した[51]。 4月3日午後、御召艦鹿島は神戸港に到着[52][53]。翌4日、皇太子は神戸で「鹿島」を離れ[52]、予定をこなしつつ鉄道を利用して東京に戻った[54][55][56]

    1915年
    1915年(大正4年)3月まで、大修理(大改装)を施行した[4]

    1918年
    1918年(大正7年)、第3艦隊第5戦隊としてシベリア出兵に参加。沿海州警備、デカストリ湾上陸支援に従事。

    遣欧艦隊
    1921年(大正10年)には大正天皇皇太子(後の昭和天皇渡欧に際し戦艦2隻(香取、鹿島)は遣欧艦隊を編成し、皇太子は「香取」を御召艦とする[57]。「鹿島」(随艦)は旗艦を務めた(第三艦隊司令長官小栗孝三郎中将座乗)[15]。この際イギリスに対する好誼の表現として国産主力艦によらずわざわざイギリス製の戦艦を使用したのである。 3月3日、香取〔御召艦〕と鹿島〔随艦〕は連合艦隊各艦(長門扶桑)等に見送られて横浜を出発する[58][59][60]。 コロンボ出発後の4月2日、「鹿島」の機関部でパイプが破裂、死者3名を出す[58][61]。4月7日には「香取」でも機関部事故が起こり死者2名・負傷者2名を出した[62][63]。4月16日、スエズ運河通過中に「鹿島」が座礁、「香取」と衝突しかけている[64]ジブラルタル海峡を通過して、2隻(香取、鹿島)は5月7日スピットヘッド(ポーツマス軍港沖投錨地)へ到着[58]クイーン・エリザベス級戦艦1番艦「クイーン・エリザベス」(大西洋艦隊旗艦)は21発の皇礼砲で2隻を出迎えた[65][66]。5月9日、ポーツマス軍港で皇太子は「香取」を降りる[67][68]。 なお訪英中の5月25日、皇太子は本艦を建造したアームストロング・ホイットワース社工場を見学、社長グリン・ハミルトン・ウエストより「鹿島」模型の献上を受けた[69]


    7月18日、「香取」と「鹿島」はナポリ(イタリア)を出港、帰路に就いた[70][71]。8月1日、ソコトラ島近海で大阪商船の「シャム号」が座礁し、手違いにより「鹿島」がシャム号救援に向かうことになった[72][73]。「鹿島」は解列して救助に赴き、乗組員59名の救助に成功した[74]。両艦は火薬庫爆発事故を懸念して航海中に火薬を海中投棄しており[75]、「鹿島」は無防備の状態だったという[76]。 8月3日、悪天候により鹿島水兵1名が転落して行方不明になる(殉職認定)[77]。 8月21日、カムラン湾で巡洋艦「新高」と給炭艦「室戸」(侍従甘露寺受長乗艦)の出迎えを受ける[78][79]。8月28日には台湾海峡通過中に巡洋艦「利根[80]、8月31日には栃内曽次郎連合艦隊司令長官指揮下の主力艦隊が奉迎[81]、9月2日に戦艦「山城」(奉迎艦)が出迎える中で館山市(千葉県)入港[82][83]。9月3日、香取と鹿島は横浜港に到着、皇太子は「香取」を退艦した[84][85]

    廃艦
    1923年(大正12年)9月20日、除籍[8]。艦艇類別等級表からも削除[86][87]ワシントン海軍軍縮条約により廃艦とされた[15]。香取と鹿島は舞鶴要港部工作部で解体された[88]


    解体後、12インチ主砲塔2基は沿岸防備用の陸上砲台へと転用された[89]。中間砲(45口径10インチ砲)も、同様に引き渡されている[90]

    艦長
    ・伊地知季珍 大佐:1906年1月15日 - 1906年11月22日

    ・小泉鑅太郎 大佐:1906年11月22日 - 1907年11月15日

    加藤定吉 大佐:1907年11月15日 - 1908年4月2日

    ・福井正義 大佐:1908年4月2日 - 1908年12月10日

    土屋光金 大佐:1908年12月10日 - 1910年3月9日

    ・小花三吾 大佐:1910年3月9日 - 1911年9月2日

    ・上村翁輔 大佐:1911年9月2日 - 1912年12月1日

    岡田啓介 大佐:1912年12月1日 - 1913年12月1日

    ・水町元 大佐:1913年12月1日 - 1914年12月1日

    下村延太郎 大佐:1915年3月17日 - 1916年12月1日

    ・三村錦三郎 大佐:1916年12月1日 - 1917年12月1日

    ・田口久盛 大佐:1917年12月1日 - 1918年11月10日

    大谷幸四郎 大佐:1918年11月10日 - 1919年11月20日

    ・安村介一 大佐:1919年11月20日 - 1920年1月8日

    ・小山武 大佐:1920年1月8日 - 1921年11月20日

    ・有田秀通 大佐:1921年11月20日[91] - 1922年11月10日[92]

    ・(兼)森脇栄枝 大佐:1922年11月10日[92] - 1923年4月1日[93]

    ・(兼)山口権平 大佐:1923年4月1日[93] - 1923年9月1日[94]

    参考文献
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    宮内庁図書寮編『大正天皇実録 補訂版 第三 自明治四十一年至明治四十四年』株式会社ゆまに書房、2018年8月。ISBN 978-4-8433-5041-6

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    詳しいことは、「鹿島 (戦艦)ウィキペディア」をご覧ください。 ⇩
    https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B9%BF%E5%B3%B6_(%E6%88%A6%E8%89%A6)
    (wikiより)

    11 軍艦鹿島有終之碑

    鹿島 (戦艦)

    11a

    11b



    特務艦間宮戦没者慰霊碑(呉市上長迫町・旧海軍墓地)

    概要
    八八艦隊計画内で能登呂型給油艦の1艦として予算が成立したが、海軍の強い要望で連合艦隊随伴用の給糧艦が1隻、その予算で建造された[11]。それが間宮である。船体は商船構造とし、設計は川崎造船所に委託。設計は同社がかつて手がけた大阪商船の北米航路向け貨客船はわい丸(大阪商船[注 1]、9,467トン)の設計を手直ししたものであり、就役当時の間宮は世界最大の給糧艦であった。1924年(大正13年)7月15日に竣工後、戦時、平時問わず日本海軍の補給の要として活動した[12]。太平洋戦争終盤の1944年(昭和19年)12月下旬、アメリカ海軍の潜水艦シーライオンⅡの魚雷攻撃を受け沈没した[4]

    性能
    食料供給能力
    間宮は純商船式の船体に各種の倉庫・食料貯蔵および製造設備を持ち、平時には艦隊への、戦時には戦地への食料補給が期待された[13]


    艦内の最新式の巨大な冷蔵庫冷凍庫設備で肉、魚、野菜など18,000人の3週間分の食料を貯蔵できた。寄港先現地での調達も行い、屠殺製肉設備もあったため、牛馬を生きたまま積み込んだのちに食肉加工し、保存しておくことも可能だった[12]。またパンなどの一般的な食料だけではなく、アイスクリームラムネ最中饅頭などの嗜好品からこんにゃく豆腐油揚げなどの日本固有の食品まで多くの加工食品を製造できた[13]。これらの製造のために間宮の艦内には部屋ごとに分かれたキッチンが多数あり、それぞれに腕の立つ専門職人が乗船し、軍属として働いていた[13]。軍属としての職人らの待遇は良かったとされている。大量の食料を扱うことから衛生面においても特別な配慮がなされており、他艦艇においては航海中は入浴・洗濯とも数日に1回、さらに風呂の湯は海水を用いるなど真水の節約に努めていたが、間宮では風呂でも洗濯でも真水をふんだんに用いることができた。


    間宮が入港すると新鮮な食料が各艦に補給されるため、艦隊の酒保として非常に人気が高く、帝国海軍の中では最も有名な艦だったという[13]。艦内で製造される羊羹は「間宮羊羹」として人気が高く[13]、老舗羊羹店が海軍に納入した羊羹をさばくのに苦労した、などの話が伝わる。

    運用
    運送艦間宮はその性質上、巡航速度が非常に低速であったため艦隊に随伴せず単独に近い航行が多かったが、沈没は前線の将兵の士気に多大な影響を与えることから、駆逐艦側も厳重に護衛を行ったとされる[14]。武装がささやかながら備わっていたが、平時は砲台のみが設置されており、砲本体は取り外し、陸上に保管することで食料等の搭載量を増やす運用を行っていった。


    食糧補給以外にも訓練時に曳航標的船を搭載したり、分解した水上偵察機などの軍事物資の輸送に従事した[15]。間宮固有の糧食配給艇も数隻搭載[15]。これらの小型艇や物資積込み作業を行うため、上甲板前部に15トン重デリック、後部に20トン重デリックを装備している[15]。医療施設のない小型艦艇の傷病者を受け入れる病院船としての役割も担った[15]。また強力な無線通信設備を搭載し、艦隊の無線検知艦(無線監査艦)としても行動したため、間宮の艦長は通信のベテラン将校が多かったという[15]


    泊地に停泊中、当艦の食料供給能力を利用し、士官室を使用して海軍兵学校同窓会の会場として使用されたこともある[15]

    艦歴
    建造経緯
    1921年(大正10年)10月17日神戸川崎造船所加賀型戦艦1番艦加賀が進水した[16]。 川崎造船所は、ただちに次の船の建造にとりかかる。だが同時期に開催されたワシントン海軍軍縮会議およびワシントン海軍軍縮条約により、1922年(大正11年)2月5日に加賀および天城型巡洋戦艦4番艦愛宕の建造中止が通達される[17]。 加賀建造中止命令より間もない2月15日、建造予定の水雷母艦に長鯨、特務艦2隻に隠戸間宮の艦名が与えられた[18]。 9月15日、間宮と隠戸は艦艇類別等級表に運送艦として登録[19]。間宮と隠戸は、いずれも神戸川崎造船所で建造することになった[20]。各艦は建造中止の新造艦より機械や部品を流用することになっており、大正11年3月19日の段階で間宮に搭載予定ボイラー八缶のうち四缶は愛宕(巡洋戦艦)から、四缶は加賀(戦艦)からのものを搭載予定だった[21][22]


    同年(大正11年)10月25日午前10時、間宮は神戸川崎造船所で起工された[23][24]。当初、間宮は1923年(大正12年)10月31日の竣工を予定していた[25]。前述のように、廃艦解体予定の加賀よりボイラー四缶を転用する計画だったがそのボイラーが届かず、1923年(大正12年)6月上旬進水の見込みが立たなくなった[26]。加賀は1922年(大正11年)7月に特務艦富士によって横須賀に曳航され、そのまま同地で廃艦処分を待っていたのである[27]1923年(大正12年)9月1日横須賀海軍工廠航空母艦へ改造予定の天城型巡洋戦艦1番艦天城が、関東大震災により大破する[27]。修理不能となった天城の廃艦処分にともない、横須賀で処分保留状態だった加賀の空母改造が決定した[27]。そこで天城搭載用ボイラーが浮いたため、天城の機関部を間宮に転用することになった[28][29]


    同年10月26日午前8時、間宮は進水した[30][31]。 12月1日、日本海軍は大谷四郎大佐(当時、通報艦満州艦長)を間宮艤装員長に任命した[32][33]。 12月6日、神戸川崎造船所内に間宮艤装員事務所を設置する[34]1924年(大正13年)7月12日、間宮艤装員事務所は閉鎖された[35]

    竣工後
    1924年(大正13年)7月15日、間宮は竣工した[9][23]。大谷も間宮特務艦長(初代)となった[36]呉鎮守府籍。 10月25日、間宮特務艦長は大谷大佐から片山登中佐[37]に交代する。間宮は翌年より連合艦隊に編入されて行動した[13]。本艦は太平洋戦争以前の日本海軍において、ほぼ唯一の給糧艦[注 2]だったため、修理、整備以外の全ての期間で連合艦隊の付属として食糧の補給任務に従事した[39]


    1925年(大正14年)12月1日、片山登大佐(間宮特務艦長)は軍令部出仕となった[40]山口清七大佐(当時、給油艦早鞆特務艦長)が間宮特務艦長に任命された[40]


    1926年(大正15年)11月1日、間宮特務艦長は山口大佐から藤沢宅雄中佐に交代した[注 3]


    1927年(昭和2年)11月15日、間宮特務艦長は藤沢大佐から入江淵平中佐となる[42][注 4]


    1928年(昭和3年)12月10日、入江大佐(間宮特務艦長)は軽巡阿武隈艦長へ転任[43]。合葉庄司大佐が間宮特務艦長となる[43]


    1929年
    (昭和4年)11月30日、合葉大佐(間宮特務艦長)は朝日特務艦長へ転任[44]。後任の間宮特務艦長は小島謙太郎大佐[44]


    1930年(昭和5年)11月15日、戦艦伊勢副長の藤森清一朗中佐は間宮特務艦長を命じられる[45]


    1931年(昭和6年)12月1日、藤森大佐(間宮特務艦長)は朝日特務艦長に補職される[46]。後任の間宮特務艦長は富田貴一大佐[46]


    1932年
    (昭和7年)12月1日、富田大佐(間宮艦長)は軽巡由良艦長へ転任[47]加藤正大佐が間宮特務艦長に任命された[47]。また、この時点での間宮副長は丸山茂富中佐から東郷実中佐(当時、戦艦榛名運用長)に交代した[47]。東郷実中佐は、東郷平八郎元帥の二男である。


    1933年
    (昭和8年)11月15日、間宮特務艦長は加藤正大佐から、鈴木義尾大佐(当時、第二艦隊参謀長)に交代した[48]。東郷(間宮副長)は潜水母艦長鯨副長へ転じ、後任の間宮副長は藤井音四郎中佐となる[48]


    1934年(昭和9年)5月25日、間宮特務艦長は鈴木大佐から佐々木清恭大佐に交代した[49][注 5]。 11月15日、間宮特務艦長は、海軍艦政本部部員・海軍大学校教官・海軍省軍需局局員青柳宗重大佐に交代し、佐々木(前間宮艦長)は青柳の後任となる[53]


    1936年(昭和11年)3月2日、間宮特務艦長は青柳大佐から、柿本權一郎大佐に交代した[54][注 6]。 12月1日、間宮特務艦長は柿本大佐から、星野応韶大佐に交代した[55][注 7]


    1937年(昭和12年)11月15日、戦艦榛名副長秋山門造中佐は間宮特務艦長に任命された[50]


    1938年(昭和13年)12月15日、秋山中佐(間宮艦長)は呉海兵団副長兼教官に転じ、後任の間宮特務艦長は三坂直廉大佐となる[57]


    1939年(昭和14年)12月15日、三坂(間宮艦長)は佐世保海軍軍需部総務課長へ転じ、後任の間宮特務艦長は野村留吉大佐となる[58]


    1940年(昭和15年)10月11日、横浜港沖で行われた紀元二千六百年特別観艦式に参加[59]。10月15日、間宮特務艦長は、野村大佐から田村保郎大佐に交代した[60][注 8]


    1941年(昭和16年)7月1日、田村艦長は佐世保海軍通信隊司令兼佐世保通信部部員を命じられ、後任の間宮特務艦長は福吉保夫大佐(当時、横須賀海軍通信隊司令兼横須賀通信部部員)となる[63]。 11月5日、萬膳三雄大佐は間宮特務艦長[64]に任命される。間宮は萬膳艦長の元で太平洋戦争に突入した[注 9]


    太平洋戦争
    1941年(昭和16年)12月上旬の太平洋戦争開戦時、間宮(連合艦隊附属)はパラオに進出して糧食補給をおこない、しばらく南方作戦蘭印作戦)に従事した[12]1942年(昭和17年)4月から内地とトラック泊地間を往復して補給任務に従事、その後も各地への食糧輸送に活躍した[12]。 同年10月3日、間宮特務艦長は萬膳三雄大佐から大藤正直大佐[注 10]に交代した[67]


    1943年
    (昭和18年)以降アメリカ海軍潜水艦の活動により日本軍輸送船の被害も増えはじめ、間宮も輸送船団に加わって航海する機会が増えてきた。一例として同年5月21日、間宮以下輸送船6隻は駆逐艦3隻(駆逐艦春雨[注 11]、駆逐艦大波[注 12]、駆逐艦夕月〈第二海上護衛隊所属〉)に護衛され、トラック泊地から横須賀に帰投している[71][72]。 それでも幾度か被害を受けた。[73]


    1943年
    (昭和18年)10月9日、第3009甲船団(間宮、朝風丸、北江丸、日威丸)は横須賀を出港し、トラックに向かった[74][75]。駆逐艦追風(第二海上護衛隊)が護衛についていた[75][76]。翌10月12日未明、父島の西南西300海里北緯28度30分 東経137度28分 / 北緯28.500度 東経137.467度 / 28.500; 137.467地点[77]でアメリカ軍潜水艦セロ (USS Cero, SS-225)に発見される。セロは9,500トン級輸送船、6,000トン級輸送船および5,000トン級輸送船に対し魚雷を6本発射し、3つの命中を確認する[78]。深深度潜航で爆雷攻撃に備えたのち、正午前の二度目の攻撃で、最初の攻撃で航行不能となった9,500トン級輸送船に対して魚雷を3本発射し、3本とも命中させたが沈む気配も何も起こらなかった[79]。 この9,500トン級輸送船が間宮であり、被雷した間宮は航行不能となった[80][81]。追風は間宮の周囲を警戒し、燃料補給のため小笠原諸島父島に立ち寄ったあと[76]、間宮と朝風丸の護衛を続けた[75]。追風が不在の間、駆逐艦(第7駆逐隊)が間宮を護衛した[82]


    同日夜、連合艦隊司令長官古賀峯一大将の命令を受けた第十四戦隊司令官伊藤賢三少将は、トラック泊地を出発して上海市にむかっていた丁四号輸送部隊第二輸送隊[83](軽巡洋艦那珂五十鈴、駆逐艦山雲、輸送船護国丸清澄丸)より[84]、軽巡五十鈴を派遣する[85][86]10月15日正午、追風[82]およびに護衛され、間宮は速力4.5ノットで朝風丸(山下汽船、6,517トン)に曳航されて呉にむかった[87]。 同日午後に間宮隊と合流した五十鈴は燃料不足となっており[81]、1日だけ間宮を護衛した[88][89]徳山(瀬戸内海)で燃料補給中の16日午後、間宮警戒任務を解かれて上海にむかった[88][90]。 一方の間宮は朝風丸[91](17日より潜水母艦迅鯨)に曳航され[92]、水雷艇や海防艦壱岐等に護衛されて航海を続け[93]、19日呉に帰投した[75][88]


    なお第十六戦隊(司令官左近允尚正少将)所属の軽巡洋艦大井は10月上旬シンガポールからアンダマン・ニコバル諸島への輸送任務に従事したあと[94]、間宮被雷時および救援時(10月12日-16日)の時点で第十六戦隊僚艦(足柄北上球磨敷波浦波)と共に、マラッカ海峡ペナン島に停泊していた[95]


    同年11月5日[96]、第十一水雷戦隊司令官木村進少将指揮下の艦艇(伊勢山城雲鷹龍田)等と共に輸送任務に従事していた空母隼鷹がアメリカ軍潜水艦ハリバット (USS Halibut, SS-232)の雷撃で大破、重巡利根に曳航されて呉に帰投した[97]12月25日長井満大佐(隼鷹艦長)は佐伯海軍航空隊司令へ転任する[98]。それにともない、大藤大佐(間宮特務艦長)は間宮特務艦長と隼鷹艦長を兼務することになった[98]


    1944年(昭和19年)2月21日、渋谷清見大佐は隼鷹艦長に任命される[99]。隼鷹は戦線に復帰。大藤大佐は間宮特務艦長と隼鷹艦長の兼務を解かれた[99]

    松輸送」も参照


    4月1日より、本艦はマリアナ諸島への輸送を目的とした松輸送に参加する(東松4号船団)[100]。第2護衛船団司令官清田孝彦少将は白露型駆逐艦6番艦五月雨(第27駆逐隊)を旗艦とし、護衛艦10隻[注 13]と間宮以下輸送船26隻(途中合流1隻を含む)を指揮して東京湾を出撃した[102]。 4月3日午後[103]、貨物船東征丸(岡田商船、2,814トン)[104]がアメリカ軍潜水艦ポラック(USS Pollack, SS-180)の雷撃で沈没した[105][106]。同日には、貨物船はあぶる丸(大阪商船、5,652トン)も米潜水艦から雷撃されたものの、不発弾であった[107]。 4月8日、間宮以下パラオ行輸送船団は護衛艦3隻(海防艦福江第二号海防艦第三号海防艦)と共に五月雨指揮下の本隊と分離、パラオに向かった[108][109]。 4月13日、間宮以下のパラオ進出隊は、パラオに到着した[110]


    4月18日、東松四号船団を護衛していた海防艦福江第二号海防艦第一海上護衛隊の作戦指揮下となり、ひきつづき間宮と行動を共にした[111][112]。19日、パタ09船団部隊はパラオを出発した[112][113]。4月27日、パタ09船団は台湾高雄市に到着した[112][113]。 ここでタモ18船団が編成され、同27日に高雄を出発、翌日基隆市に到着した[112][114]。 5月3日、間宮をふくめたタモ18船団は、ひきつづき海防艦福江[115][116]等に護衛されて台湾基隆市を出発、門司にむかった[117]。 航海中、タモ18船団部隊は男女群島近海でアメリカ軍潜水艦スピアフィッシュ (USS Spearfish, SS-190)に発見される。スピアフィッシュは追跡を開始し、翌5月6日未明に魚雷攻撃を敢行、貨物船豊浦丸(日本郵船、2,510トン)が狙われた[117][118]。最初に発見した魚雷は回避したが、続く2本の魚雷が命中。豊浦丸は北緯32度18分 東経127度11分 / 北緯32.300度 東経127.183度 / 32.300; 127.183地点で沈没した[119]。間宮も北緯32度12分 東経127度2分 / 北緯32.200度 東経127.033度 / 32.200; 127.033地点で被雷したが、沈没は免れた[116][120]。間宮は警備艦海威(元樅型駆逐艦の樫)に曳航され、佐世保に帰投した[12]。 本艦修理中の6月10日、大藤(間宮艦長)は呉海軍港務部員を命じられ、佐世保海軍港務部長清水正心大佐が、港務部長と間宮特務艦長を兼務する[121]


    8月29日加瀬三郎大佐(軽巡洋艦北上艦長)が間宮特務艦長に任命される[122][注 14][注 15]


    1944年(昭和19年)12月、間宮はサイゴンからマニラ方面へ糧食輸送に従事した[12]12月20日海南島東方の南シナ海においてアメリカの潜水艦シーライオンⅡ (USS Sealion, SS-315)に発見される。1937、シーライオンは魚雷を6本発射し、4つの命中を得た。間宮は航行不能となる[124]。シーライオンは護衛艦の反撃を回避し、次回攻撃の準備を行った。2時間半後観測すると、間宮は依然として浮いていた。日付が変わって12月21日0032(日本時間、午前1時37分)[4]、シーライオンは間宮に向けて魚雷を3本発射。うち2本が命中し、間宮は沈没した。凍てつく海に投げ出された船員のほとんどが低体温症のため命を落とし、救助された間宮の船員も次々と命を落とした結果、生還できたのはわずか6人だった。間宮を護衛していた第十七号海防艦は、23日になってカムラン湾に到着した[125]


    1945年(昭和20年)2月10日、間宮は運送艦籍より削除[126]。また帝国特務艦籍より削除された[127]

    戦後
    1983年(昭和58年)11月20日、間宮の生存者ら有志の手により間宮の慰霊碑呉市長迫公園に建てられた。間宮の建造から沈没までの犠牲者502柱が合祀されている。


    2015年(平成27年)12月2日放送の歴史秘話ヒストリア『お菓子が戦地にやってきた~海軍のアイドル・給糧艦間宮~』で間宮が取り上げられ、間宮の生存者と戦死した船員の家族が出演した[128]

    詳しいことは、「間宮 (給糧艦)ウィキペディア」をご覧ください。 ⇩
    https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%96%93%E5%AE%AE_(%E7%B5%A6%E7%B3%A7%E8%89%A6)
    (wikiより)

    10 特務艦間宮戦没者慰霊碑

    間宮 (給糧艦)

    10a

    10b



    天龍(てんりゅう[36]/てんりう[37])は、日本海軍の二等巡洋艦[37](軽巡洋艦)で、二等巡洋艦天龍型1番艦である[38]。艦名は遠州灘に注ぐ天竜川にちなんで名づけられた[39]。帝国海軍の軍艦としては初代天龍木造巡洋艦)に続き2隻目となる[40]。 戦後、海上自衛隊訓練支援艦てんりゅう[注釈 3] が就役した。

    概要
    八四艦隊案の1隻として[6]第一次世界大戦直後(1919年11月20日[12])、横須賀海軍工廠で竣工した[2] 小型軽巡洋艦[41]龍田と共に日本海軍の最初の軽巡洋艦となる[36][42]。軽巡夕張をのぞけば、軽巡洋艦中で最小の艦である[43]。 主に夜戦に際して駆逐艦を率いて敵主力艦に雷撃を行う水雷戦隊の旗艦としての役割を期待された[41]


    竣工直後の同年12月1日に第二水雷戦隊[44] の旗艦となり、その後も1928年(昭和3年)まで第一水雷戦隊旗艦を3度務めた[45][46]。また竣工直後から沿海州方面の警備を数回行い、日華事変以後は華南方面で行動した[36]


    太平洋戦争では姉妹艦の龍田と共に第18戦隊を編成し、ウェーク島攻略作戦や南方の諸作戦、珊瑚海海戦に参加、第一次ソロモン海戦にも参加した[36]。マダン上陸作戦支援中の1942年(昭和17年)12月18日にアメリカの潜水艦アルバコアの雷撃で沈んだ[36]

    艦歴
    建造
    八四艦隊案の一部として長門、谷風など共に予算が成立した[6]。仮称艦名「第1号小型巡洋艦」[41]1916年(大正5年)5月12日製造訓令[9]、5月13日、建造予定の戦艦に長門、二等巡洋艦(軽巡洋艦)2隻にそれぞれ天龍と龍田、大型駆逐艦に谷風(江風型)の艦名が与えられる[37][47]。6月26日、長門、天龍、龍田、谷風は艦艇類別等級表に登録された[3]。天龍は1917年(大正6年)5月17日に起工、1918年(大正7年)3月11日に進水、1919年(大正8年)11月20日に竣工[48]呉鎮守府[49]。佐世保工廠で建造された姉妹艦龍田(大正8年3月31日竣工)よりやや遅れての竣工だった[50]。 同年4月30日の全力公試中に左舷低圧タービンのブレード(翼)が折れ、6月26日の開放検査でも再度ブレードの折れているのが発見されたため[51]、竣工が大きく遅れていた。


    1919年12月1日、第二艦隊第二水雷戦隊に編入[49]。1921年4月20日、予備艦となる[49]。同年12月1日、第一艦隊第一水雷戦隊に編入[49]。1922年12月1日、予備艦となる[49]

    関東大震災
    1923年(大正12年)9月1日に関東大震災が発生、被害の深刻さを伝える電信が2日朝6時に呉に到着、呉鎮守府はまず天龍を横須賀に急行させることにした[52]。 午前10時に出勤命令が下り、天龍は糧食8,000貫、毛布100枚、天幕12幕、医療品37個、救護班を搭載し(その他便乗者20名[53])、午後8時に出港した[54]。 4日午前8時に品川着、艦長らは海軍省での打ち合わせの後、午後4時横須賀に到着した[55]。 同乗していた救護班(呉海軍病院の村田文雄[56] 軍医少佐以下全19名)は同日から救護作業を開始した[57]。 5日に横浜へ回航、全部の食料品や毛布、その他を神奈川県宛てに揚陸した[58]。 同日山城艦長と協議し、天龍は5日6日と揚陸作業と夜間の警戒を行った[59]。 7日連合艦隊司令長官からの訓令により避難民2,050名の収容して、午後1時30分横浜を出港、清水港で避難民を降ろし、8日午後3時横浜に帰着した[60]。 また同日避難民1,050名を収容し、9日午前6時横浜を出港、同じく清水で避難民を降ろし、10日午後6時横浜に帰着した[61]。 この時は静岡県から神奈川県宛ての食糧27,000貫、静岡県救護班60名と医療品を横浜まで搬送した[62]。 12日品川に回航、13日まで東京方面の被災調査を行い、14日に海軍の便乗者を乗せ横浜に回航した[63]。 15日避難民302名を収容し、16日午前10時出港、午後5時清水港に到着[64]、 横浜から清水へ輸送した避難民(軍人等の便乗者は除く)は3回で計3,402名に達した[65]。 17日午前8時清水港を出港、18日午後3時呉に帰港し、天龍の救援作業は終了した[66]


    1923年12月1日、第一艦隊第一水雷戦隊に編入[49]。1924年12月1日、予備艦となる[49]。1927年2月5日、第一遣外艦隊に編入[49]。6月3日、予備艦となる[49]。12月1日、第一艦隊第一水雷戦隊に編入[49]。1928年12月1日、呉鎮守府部隊に編入[49]。1930年12月1日、予備艦となる[49]。1931年10月9日、第一遣外艦隊に編入[49]。1932年2月2日、第三艦隊第一遣外艦隊に編入[49]。8月1日、第三艦隊に編入[49]。1933年5月20日、第三艦隊第十戦隊に編入[49]。11月15日、旅順要港部に編入[49]。1934年11月15日、呉警備戦隊に編入[49]。1935年11月15日、予備艦となる[49]。1936年11月20日、第三艦隊第十戦隊に編入[49]。1937年10月20日、第四艦隊第十四戦隊に編入[49]。1938年7月1日、第五艦隊第十戦隊に編入[49]。12月15日、予備艦となる[49]。1939年11月15日、舞鶴鎮守府部隊に編入[49]。12月1日、舞鶴鎮守府に転籍[49]


    1940年11月15日付の昭和16年度艦隊編制で「天龍」は第四艦隊第十八戦隊所属となった[67]。第十八戦隊は「鹿島」「天龍」と「龍田」の3隻であった[67]。1941年12月1日付の戦時編制改定で第十八戦隊は改編されて「天龍」、「龍田」の2隻となり、丸茂邦則少将が司令官となった[68]。丸茂少将は12月2日に着任し、「天龍」を旗艦とした[69]。同日第十八戦隊はトラックを出港し、12月5日にクェゼリンに到着した[70]

    太平洋戦争緒戦
    第十八戦隊はウェーク島攻略掩護隊として[71]としてウェーク島攻略作戦に参加した。 開戦を確認して第十八戦隊および第六水雷戦隊(攻略部隊)はクェゼリン環礁を出撃、ウェーク島へ向かう[72]


    第十八戦隊(天龍、龍田)はウェーク島に対地砲撃を行うが、同時刻、攻略部隊本隊/第六水雷戦隊(旗艦:軽巡洋艦夕張、駆逐艦《追風疾風睦月如月弥生望月》)は陸上砲台の反撃と残存した数機のF4Fワイルドキャット戦闘機の反撃で疾風と如月の2隻の駆逐艦を撃沈され大混乱となっていた[73]。天龍は旗艦夕張に経過を尋ねるが詳しい応答はなく、夕張からの避退命令と、アメリカ軍の砲台に狙われたことにより対地砲撃を中止[74]。だが両艦とも離脱中にF4Fの空襲を受ける[75]。F4Fが投下した爆弾は至近弾となったが、機銃掃射で天龍、龍田とも損害を受けた[73]。天龍の人的被害は負傷者5名であった[76][77]。第六水雷戦隊と合流後、天龍は夕張に対し『貴部隊ニ対シ援助ヲ要スルコトアラバ知ラサレ度』と通信するが、応答はなかった[78]。各艦はクェゼリン環礁へ帰投した。


    12月21日の第二次攻略作戦では南雲機動部隊より派遣された第二航空戦隊の空母2隻(飛龍蒼龍)、重巡2隻(利根筑摩)、第17駆逐隊(谷風浦風)が航空支援をおこない、第六戦隊の重巡4隻(青葉衣笠加古古鷹)が陸上支援に加わった[79]。天龍、龍田は再び14cm主砲で対地砲撃をおこなうが、ウェーク島残存砲台の反撃で夾叉弾を受けた[79]。陸上戦闘に派遣した天龍の海軍陸戦隊から3名の負傷者が出た[80]


    1942年1月3日、第十八戦隊はトラックに入港[81]。1月、ラバウルとカビエンの攻略作戦が行われた。第十八戦隊は第二十三駆逐隊などと共にR攻略部隊の支隊となり、カビエン攻略を行うこととなった[82]。R攻略部隊支隊は1942年1月20日にトラックより出撃し、1月22日にカビエンに到着[83]。敵のいないカビエンを占領した[84]。1月25日からは周辺地域の掃蕩が行われた[85]。「天龍」は1月25日にスリーアイランド付近、1月26日にムッソウ島、1月28日にレマス島とパチオ島の掃蕩を行った[86]。2月9日にはスルミ、ガスマタ上陸が行われ、第十八戦隊はその掩護にあたった[87]。2月11日、カビエンに帰投[88]。以後、周辺の残敵掃蕩を行った[88]


    2月17日、第十八戦隊はトラックに向けカビエン発[88]。2月19日にトラックに到着し、「天龍」と「龍田」では13ミリ単装機銃2基の25ミリ連勝機銃2基への換装と5センチ礼砲の撤去が行われた[89]


    次はラエサラモア攻略作戦(SR作戦)で、第十八戦隊は第六戦隊、第二十三駆逐隊と共に支援部隊となった[90]。支援部隊は3月2日にトラックを発し、3月5日にラバウル着[91]。ラエ・サラモア攻略にあたるSR方面攻略部隊は3月5日にラバウルを出撃し、3月8日日にラエ・サラモアに上陸した[92]。支援部隊も攻略部隊に続いて3月5日に出撃し、攻略部隊の間接支援を行った後ブカ島へ向かった[93]。3月9日にブカ島沖に着き、翌日にかけて掃蕩や内火艇によるクインカロラ湾の測深などを実施[94]。3月10日にラバウルへ向かって翌日到着[95]。その後、敵機動部隊来襲に備えて再びクインカロラ湾に進出するが、3月18日にカビエンに移った[96]


    MO攻略作戦では祥鳳を初めとするMO攻略部隊の援護に就き、作戦が一段落したところでMO攻略部隊と別れるが直後に起きた珊瑚海海戦では祥鳳が撃沈され、第23駆逐隊からは菊月がツラギで撃沈された。

    5月23日、天龍は日本本土へ回航され舞鶴に帰港した[97]。舞鶴で修理が行われ、その際に25ミリ連装機銃2基増備、舷外電路装備、探照灯の移設や換装などが行われた[98]


    十八戦隊司令官も丸茂少将から松山光治少将に交代した[99]。 入渠整備後、天龍、龍田は第六戦隊第1小隊(青葉、衣笠)と合同して内地を出発、6月23日にトラック泊地へ到着した[100][101]。同時期、第四艦隊(司令長官井上成美中将)は『SN作戦』(南太平洋方面の航空基地適地調査・設営・各航空基地強化)と『「リ」号研究作戦』(ニューギニア東部北岸から陸路ポートモレスビー攻略作戦に関する事前準備・研究)を発動[102]。ガダルカナル島航空基地の設置、ラエ、カビエン、ツラギ、ラバウル各基地の強化、またソロモン諸島航空基地適地の捜索等の諸任務に、第六戦隊・第十八戦隊・第六水雷戦隊(夕張、第29駆逐隊)・第30駆逐隊を投入した[103]。第六戦隊第2小隊(加古、古鷹)は7月4日にトラックへ進出、10日にレガタで青葉、衣笠、天龍、龍田に合流した[101]。各隊はガダルカナル島への飛行場基地建設を支援する。つづいて第十八戦隊はニューギニア島ブナ攻略作戦(「リ」号研究作戦)に従事する[101]

    詳細は「ポートモレスビー作戦」を参照


    7月14日、連合艦隊第二段作戦第二期の兵力部署改編により、第六戦隊・十八戦隊・夕張・各駆逐隊は外南洋部隊に編入された[101]


    7月20日、天龍、龍田は陸軍の南海支隊のブナ上陸を支援した。この部隊はそのままココダへ進撃して行った。

    ガダルカナル島の戦い

    詳細は「第一次ソロモン海戦」を参照


    8月7日、アメリカ軍はウォッチタワー作戦を発動、ガダルカナル島フロリダ諸島に上陸を開始、ガダルカナル島の戦いが始まった。外南洋部隊指揮官三川軍一第八艦隊長官は重巡鳥海、第六戦隊(青葉、加古、古鷹、衣笠)を率いてガダルカナル島ルンガ泊地への突入を企図する。当初、軽巡天龍、夕張、駆逐艦夕凪は作戦から外されていたが、十八戦隊司令部や各艦の熱意により、突入艦隊に参加することになった[104]。松山司令官と篠原参謀長は三川中将に作戦参加をもとめて直談判したため、のちに「松山光治の坐り込み」として有名になったという[104]。この後の第八艦隊幕僚会議で天龍、夕張、夕凪の作戦参加が決まった[104]。また龍田、卯月、夕月はブナへの輸送作戦に従事していたため、泊地突入作戦に参加できなかった[105]


    8月8-9日の第一次ソロモン海戦において、天龍は連合国軍艦隊の撃破に貢献した。この時の天龍は旗艦の鳥海や第六戦隊と全く通信できない状態で夜戦に突入している[106]。天龍には探照灯附近に若干の被弾命中があった[107]。自艦の発砲の衝撃でジャイロコンパスが破損するという一幕もあった[108]


    8月下旬以降のポートモレスビー作戦にともなうラビの戦いでは、従来からの第30駆逐隊(弥生望月)に加えて第4駆逐隊、第17駆逐隊(浦風谷風浜風磯風)等が第十八戦隊の指揮下に入る。

    詳細は「ラビの戦い」を参照


    8月24日、海軍陸戦隊を乗せた輸送船二隻の護衛としてブナを出撃。8月25日夜にミルン湾へ上陸作戦を行う。だが誤って予定地点から10km以上も東にずれた位置への上陸となってしまった。その後上陸部隊は連合軍の反撃と疫病の蔓延により後退、幾度か天龍や龍田らも出撃してニューギニア島ミルン湾への強行輸送・艦砲射撃を実施した。8月28日14時、天龍、浦風は増援部隊である呉鎮守府第三特別陸戦隊(海軍陸戦隊)約770名を乗せた嵐、叢雲、弥生および哨戒艇3隻を護衛しラバウルを出撃、29日18時にパプアニューギニアのミルン湾ラビ東方に到着して陸戦隊を揚陸した。その後第8艦隊司令部はラビからの撤退を決め、9月5日に天龍と哨戒艇2隻が、翌6日夜龍田と駆逐艦嵐がミルン湾に上陸し撤退作戦を行った。 9月11日には、沈没した弥生の乗組員捜索のため天龍、浜風が出動している[109]。この出撃では弥生乗組員を発見できなかった。9月25日、弥生生存者は磯風、望月に救助され、ラバウルへ戻った[110]


    9月下旬、第十八戦隊によるツラギ沖への機雷敷設が計画された[111]。9月20日に「天龍」はトラックに入港し、機雷搭載後ラバウルへ向かって9月24日に到着[112]。10月2日、ラバウルにB-17重爆3機が来襲し艦艇を攻撃[113]。艦艇[注釈 4]に被害が生じた。「天龍」は左舷後甲板に命中弾1発、右舷前部に数発の至近弾を受け、死者21名、負傷者26名を出したが、機雷は降ろしていたため、それが誘爆することは免れた[112]。応急修理は特設工作艦「八海丸」によって行われた[112]。爆撃により後甲板の8センチ高角砲が大破していたため、かわりに第八根拠地隊の8センチ高角砲が仮装備された[112]


    その後天龍はガダルカナル島への輸送任務に投入され、11月1日ショートランド泊地に進出した[115]。増援部隊指揮官橋本信太郎第三水雷戦隊司令官は旗艦を軽巡川内から重巡衣笠に変更、ガダルカナル島への全力輸送を実施する[115]


    11月1日夜、甲増援隊(朝雲《第四水雷戦隊旗艦》、村雨、夕立、春雨、時雨、白露、有明、夕暮、白雪、暁、雷、軽巡《天龍》)、乙増援隊(満潮、浦波、敷波、綾波)、第一攻撃隊(衣笠、川内、天霧、初雪)はガダルカナル島への輸送作戦を実施する[115][116]。前述のように天龍はショートランド泊地に進出したばかりで、出撃直前に甲増援隊へ編入された[117]。 11月2日夜、各部隊はガ島へ到着。乙増援隊の揚陸は順調に進んだが、甲増援隊は強風と波浪により全物資を揚陸できなかった[115]。天龍のカッターボートを含め9隻の装載艇を失い、天龍7名・村雨5名・暁5名・雷6名のボートクルーはガダルカナル島に取り残された[118]。天龍は有明、村雨、夕立、春雨に護衛されて帰投している[119]


    11月4日、天龍は甲増援隊から乙増援隊へ所属変更となり[120]、また外南洋増援部隊指揮官(三水戦司令官)は衣笠から駆逐艦浦波に旗艦を変更し、乙増援隊を指揮することになった[121]。甲増援隊(朝雲《旗艦》、村雨、春雨、夕立、時雨、白露、有明、夕立、朝潮、満潮)、乙増援隊(浦波、敷波、綾波、白雪、望月、天龍)は同日深夜にショートランド泊地を出撃、両隊とも輸送に成功した[121]。帰路、天龍はアメリカの潜水艦に雷撃されたが被害はなかった[121]。11月6日朝、各隊はショートランド泊地に帰投[121]。この輸送作戦終了をもって外南洋部隊増援部隊指揮官は橋本三水戦司令官から第二水雷戦隊司令官田中頼三少将に交代し、橋本司令官は川内以下第三水雷戦隊各艦をひきいてトラック泊地へ向かった[121]


    外南洋部隊の兵力再編にともない、増援部隊指揮官(田中二水戦司令官)は甲増援隊と乙増援隊の戦力を再編した[122]。11月7日、第四水雷戦隊司令官高間完少将は駆逐艦朝雲から軽巡天龍へ移乗、天龍を第四水雷戦隊(第2駆逐隊《村雨五月雨夕立春雨》・第9駆逐隊《「朝雲」、峯雲》・第27駆逐隊《時雨白露有明夕暮》)旗艦とした[123]。11月9日、四水戦旗艦は再び「朝雲」に戻った[124]。10日、天龍は第七戦隊(司令官西村祥治少将:旗艦鈴谷)の指揮下に入った[125]。11日、朝雲と四水戦各艦はショートランド泊地を出撃、第十一戦隊(比叡霧島)以下挺身艦隊と合流して第三次ソロモン海戦に臨んだ[126]

    詳細は「第三次ソロモン海戦」を参照


    11月12日夜、挺身艦隊はアメリカ艦隊と交戦、比叡、夕立、暁が沈没した(第三次ソロモン海戦第一夜戦)。これを受けて第七戦隊にヘンダーソン飛行場砲撃命令が出される。11月13日午前5時40分、重巡2隻(鈴谷摩耶)、軽巡天龍、駆逐艦4隻(夕雲巻雲風雲朝潮)および主隊(鳥海、衣笠、五十鈴)はショートランド泊地を出撃したが、満潮は泊地で空襲を受け損傷し、作戦に同行できなかった[127][128]。同日深夜、鈴谷、摩耶はガ島海域に突入して飛行場砲撃を敢行、天龍、夕雲、巻雲、風雲、朝潮はアメリカ軍の魚雷艇から七戦隊を護衛した[129][130]。だが飛行場の機能を奪うことは出来ず、14日昼間の空襲により西村部隊と行動を共にしていた重巡衣笠が沈没、鳥海、摩耶、五十鈴が損傷した[131][132]

    詳しいことは、「天龍 (軽巡洋艦)ウィキペディア」をご覧ください。 ⇩
    https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E9%BE%8D_(%E8%BB%BD%E5%B7%A1%E6%B4%8B%E8%89%A6)
    (wikiより)

    9 軍艦天龍遭難死者記念碑

    天龍 (軽巡洋艦)

    9a

    9b



    広丙(こうへい、廣丙)は、清国海軍英語版防護巡洋艦広乙級の2番艦。日清戦争の際に降伏、日本海軍に編入され、新鋭艦として期待されていたが、1年足らずで座礁、沈没した。

    艦歴
    1891年光緒17年)4月11日 清国の福州船政局馬尾造船所で進水。

    1892年(光緒18年) 広丙(Kwang-Ping)として竣工、広東水師に所属。

    1894年(光緒20年・明治27年)

      ・日清戦争開戦直前に北洋水師に編入。

      ・9月17日黄海海戦に参加、海戦後は旅順に回航。旅順陥落後は威海衛へ移動。

    1895年(明治28年)

      ・2月17日 威海衛で日本軍に降伏。

      ・3月16日 戦利艦として日本海軍の艦籍に入る[2]

      ・12月21日 台湾方面で任務中、澎湖島南岸で座礁、沈没[3]

    1896年(明治29年)2月18日 除籍

    艦長
    清国海軍
    ・林承謨:1891年4月26日 - 1892年秋

    程璧光:1892年秋 - 1895年2月17日

    日本海軍
    藤田幸右衛門 少佐:1895年8月23日[4] -

    脚注
    1. #信号符字点附 画像1『四月四日 軍艦須磨其他ノ艦舩ヘ點附ノ信號符字 逓信省告示 ○逓信省告示第七十一號 軍艦須磨其他ノ艦船ヘ點附ノ信號符字ハ左ノ如シ 明治二十八年四月四日 逓信大臣渡邊国武 信号符字 艦船名 … GQHL 廣丙 Ko-hei. …(以下略)…』
    2. #編入 画像1『三月十六日 捕獲清國軍艦鎮遠以下十艘ヲ帝國軍艦トス 海軍省達 ○海軍省遠第十六號 捕護清國軍艦鎭遠、濟遠、平遠、廣丙、鎭東、鎭西、鎭南、鎭北、鎭中、鎭邊ノ十艘ヲ帝國軍艦ト定メラル 明治二十八年三月十六日 海軍大臣伯爵西郷從道』
    3. #公文備考C儀制巻9 画像2『事件 発端ノ日 場所 起因 … 軍艦廣丙沈没 明治二十八年十二月二十一日 澎湖島沖 危険ニ非ズト信シ速力ヲ緩メザリシ為澎湖島沖ニ於テ坐礁沈没』
    4. 『日本海軍史』第10巻、398頁。

    参考文献
    ・雑誌「丸」編集部『写真 日本の軍艦 第5巻 重巡I』(光人社、1989年) ISBN 4-7698-0455-5

    福井静夫『福井静夫著作集第4巻 日本巡洋艦物語』新装版(光人社、2008年)ISBN 978-4-7698-1394-1

    福井静夫『福井静夫著作集第8巻 世界巡洋艦物語』(光人社、1994年)ISBN 4-7698-0656-6

    ・海軍歴史保存会『日本海軍史』第7巻、第10巻、第一法規出版、1995年。

    ・陳悦 『清末海軍艦船志』(山東画報、2012年) ISBN 9787547405345

    アジア歴史資料センター(公式)

      ・『公文類聚・第十九編・明治二十八年・第二十四巻・軍事二・陸軍二・海軍:捕獲清国軍艦鎮遠以下十艘ヲ帝国軍艦トス』。Ref.A01200839500。

      ・『公文類聚・第十九編・明治二十八年・第二十七巻・交通(郵便~船車):軍艦須磨其他ノ艦船ヘ点附ノ信号符字』。Ref.A15113036900。

      ・『公文備考 C儀制 巻9:神社祭神神避原因其の他調査に関する件』。Ref.C04016574900。

    関連項目
    大日本帝国海軍艦艇一覧

    清国海軍艦艇一覧

    外部リンク
    北洋水師(中文)

    (wikiより)

    8 軍艦廣丙遭難哀悼碑

    広丙 (防護巡洋艦)

    8a

    8b



    鈴谷(すずや)は、日本海軍重巡洋艦[3][4]最上型重巡洋艦(二等巡洋艦最上型)の3番艦である[5]。その艦名は、樺太鈴谷川から取って名付けられた[6][7]。 日本海軍の軍艦としては、通報艦防護巡洋艦鈴谷[8](旧ロシア帝国軍艦ノーヴィック)に続いて二代目[6][9][10]。 15.5cm砲搭載の二等巡洋艦(軽巡洋艦)として建造され[11]、後に主砲を20cm砲に換装し重巡洋艦となった。日本海軍の書類上の分類は、戦没まで二等巡洋艦(軽巡洋艦)だった[5]

    概要
    日本海軍は艦齢を重ねた旧式艦の代艦を建造することになり、軽巡の場合は最初に4隻(龍田天龍球磨多摩)を以下4隻(最上鈴谷三隈熊野)と置換することにした[12]第四艦隊事件により最上型の船体強度に問題があることが判明したため、船体線図が改正された。そのため1番艦(最上)、2番艦(三隈)とは船体形状に違いがあり、鈴谷型(鈴谷・熊野)と分類されることもあるが、日本海軍の書類上の分類は4隻とも二等巡洋艦最上型である[5]。また、ボイラーは初期2艦(最上、三隈)の重油専焼罐大型8基小型2基・計10基から、重油専焼罐大型8基に変更されている。そのため、第3砲塔と艦橋構造物との間の大型吸気トランクがなく、一番煙突の太さもボイラー減少の分だけ径が細くなっている。


    1937年竣工。太平洋戦争開戦時には第七戦隊に所属しており、マレー作戦蘭印作戦セイロン沖海戦(通商破壊活動)、ミッドウェー海戦(支援部隊)、第二次ソロモン海戦南太平洋海戦第三次ソロモン海戦(ヘンダーソン基地砲撃)、ニュージョージア島の戦いコロンバンガラ島沖海戦)、ラバウル空襲マリアナ沖海戦捷号作戦などに参加した。10月25日、サマール島沖追撃戦(レイテ沖海戦)で空襲を受け、酸素魚雷が誘爆、沈没した。

    艦歴

    建造経緯
    1933年(昭和8年)8月1日鈴谷と命名[3]。同日附で二等巡洋艦最上型に類別[13]。本艦建造のため、横須賀海軍工廠第二船台で建造中の潜水母艦大鯨(のち空母龍鳳)は建造を急ぐ必要にせまられ[14]、突貫工事の末同年11月16日に進水している[15]。だが当時の日本海軍としては例のない電気溶接を多用し、さらにディーゼルエンジン搭載の大型艦だったため、不具合が続出した。 12月11日[16]、鈴谷は大鯨と同じ船台で起工された[17]


    1934年
    (昭和9年)11月20日[18]午後3時[19]昭和天皇臨席の元で進水[20][21][22]。他に海軍大臣大角岑生、内務大臣後藤文夫、海軍大将加藤寛治、横須賀鎮守府司令長官末次信正、横須賀海軍工廠長村田豊太郎博義王他皇族多数が鈴谷進水式に参加した[23]。 昭和天皇即位後の進水式臨席は、妙高型重巡洋艦1番艦妙高(横須賀海軍工廠建造、昭和2年4月16日)に続いて二度目[24]。また天皇が行幸した最後の進水式となった[25]


    同日附で吉田庸光大佐が鈴谷艤装員長に任命された[26]。 鈴谷進水後の12月3日、同船台ではただちに潜水母艦剣埼(のち空母祥鳳)の建造がはじまり、さらに剣埼進水後は高崎(空母瑞鳳)も建造されている[27][28]。この第二船台は、4年間で1万トンを超える軍艦4隻(大鯨《龍鳳》、鈴谷、剣埼《祥鳳》、高崎《瑞鳳》)を建造することになった[15]。 12月5日、横須賀海軍工廠に鈴谷艤装員事務所を設置[29]


    1935年
    (昭和10年)9月下旬、第四艦隊事件が発生し、既に竣工していた最上型先行2隻(最上、三隈)は艦体を損傷、性能改善工事の実施に迫られる[30]10月10日附で、吉田大佐(鈴谷艤装員長)は鈴谷艦長に補職される[31]。だが第四艦隊事件を受けて最終艤装工事を中断する[30]


    1936年(昭和11年)3月6日、吉田大佐(鈴谷艦長)は鈴谷艤装員長に戻った[32]。鈴谷は横須賀工廠で性能改善にとりかかるが、搭載済みの上部構造物、兵器を外す大工事になった[30]。 12月1日、吉田大佐(鈴谷艦長)は戦艦扶桑艦長へ転任、後任の鈴谷艤装員長は水崎正次郎大佐(隠戸型給油艦2番艦早鞆特務艦長)となる[33]


    1937年(昭和12年)7月10日附で水崎大佐は制式に鈴谷艦長に補職[34]。 10月31日、鈴谷は竣工[17][35]。 なお本艦の就役にあたっては、今村武志樺太庁長官より樺太平野風景画(油絵)寄贈申し入れがあった[36]

    竣工後
    1937年
    (昭和12年)12月1日附で沢本頼雄少将(海軍艦政本部総務部長)は第七戦隊司令官に補職[37]。第七戦隊は、最上型巡洋艦4隻(最上、三隈、鈴谷、熊野)からなる新鋭戦隊となる。同日附で、鈴谷艦長も水崎大佐から柴田弥一郎大佐に交代した[37]


    1938年(昭和13年)11月15日、鈴谷艦長は柴田大佐から久保九次大佐(佐世保防備隊司令)に交代[38]。 12月15日、第七戦隊司令官は沢本頼雄中将から清水光美少将(海軍省人事局長)に変わる[39]。鈴谷は予備艦に指定された[35]

    1939年(昭和14年)1月、横須賀海軍工廠で、15.5cm主砲を20cm砲に換装する工事がはじまった[40]。 5月20日、第七戦隊司令官清水光美少将は、竣工したばかりの利根型重巡洋艦2隻(利根筑摩)で編制された第六戦隊司令官へ転任[41][42]。 7月20日、姉妹艦三隈艦長阿部孝壮大佐が妙高型重巡洋艦1番艦妙高艦長へ転任、久保大佐(鈴谷艦長)が三隈艦長を兼務することになった[43]。9月30日、主砲の工事完了[44]


    11月15日、三川軍一少将(軍令部第二部長)が第七戦隊司令官に補職[45]。同日附で、日本海軍は久保九次大佐(鈴谷・三隈艦長兼務)に対し、空母加賀および金剛型戦艦4番艦霧島艦長の兼務を命じた[45]。久保の後任として木村進大佐(横須賀海軍工廠航海実験部長)が三隈艦長に、高柳儀八大佐(海軍砲術学校教頭)が鈴谷艦長に、それぞれ任命された[45]。鈴谷は再び第七戦隊に編入された[35]。第七戦隊旗艦は熊野に指定[46]


    1940年(昭和15年)10月15日、高柳大佐(鈴谷艦長)は伊勢型戦艦1番艦伊勢艦長に補職(後日、高柳は太平洋戦争開戦時の大和型戦艦1番艦大和艦長)、川内型軽巡洋艦2番艦神通艦長木村昌福大佐が、高柳の後任として鈴谷艦長に任命された[47]。 11月1日、第七戦隊司令官は三川軍一少将(補第五戦隊司令官)から栗田健男少将(当時、第四水雷戦隊司令官)に交代した[48]

    太平洋戦争緒戦
    1941年(昭和16年)12月8日の太平洋戦争勃発後、第七戦隊(第1小隊《熊野、鈴谷》、第2小隊《三隈、最上》)は南遣艦隊司令長官小沢治三郎中将(旗艦鳥海座乗)の指揮下で行動し、マレー作戦に従事する[49][50]。第七戦隊司令官は引続き栗田健男少将だったが、栗田少将の指揮には問題が続出することになる[51]


    つづいて蘭印作戦従事中の1942年(昭和17年)2月下旬、第七戦隊は西部ジャワ攻略部隊(輸送船56隻)と第三護衛隊(指揮官原顕三郎第五水雷戦隊司令官)を支援することになった[52]。2月27日、ABDA艦隊(連合軍艦隊)が出現したため、第五水戦司令官(軽巡名取座乗)は南下攻撃を決意した[52]。しかし熊野座乗の栗田七戦隊司令官は第五水雷戦隊の意見具申を無視、第七戦隊と第五水雷戦隊は電文の応酬を繰り広げた[52]。みかねた連合艦隊司令部が仲裁に乗り出す始末であり、このあと栗田少将は七戦隊第1小隊(熊野、鈴谷)をひきいて戦闘海域を離れ適宜行動し、バタビア沖海戦(3月1日)には第2小隊(三隈、最上、駆逐艦敷波)のみ参加した[52]。前田一郎(当時鈴谷運用長)は第1小隊(熊野、鈴谷)も砲戦・魚雷戦に参加して重巡洋艦ヒューストン(USS Houston, CL/CA-30) を撃沈したと回想している[53]。一方で、三隈航海長は、第2小隊(三隈、最上)が第1小隊と合流した際に、鈴谷(木村艦長)より『ご健闘を祝す。われに敵の配給なく面白くなし』の祝辞があったと回想している[54]


    4月1日より、鈴谷はインド洋作戦の一環として通商破壊作戦に従事[55]。第七戦隊は栗田少将直率の北方部隊(熊野、鈴谷、白雲)、三隈艦長指揮の南方部隊(三隈、最上、天霧)に分割されてベンガル湾で活動し[56]小沢治三郎中将直率の中央隊(鳥海由良龍驤夕霧朝霧)と共に商船多数を撃沈した[57][58]。4月下旬、第七戦隊は第19駆逐隊(綾波、敷波、磯波、浦波)と共に内地へ帰投した[59][35]。 5月1日、栗田少将(第七戦隊司令官)は海軍中将に昇進[60]


    6月上旬、第七戦隊司令官栗田健男中将はミッドウェー攻略部隊支援隊(第七戦隊《熊野、鈴谷、三隈、最上》、第8駆逐隊《司令小川莚喜大佐:朝潮荒潮》、給油艦《日栄丸》)を指揮してミッドウェー海戦に参加した[61][62]。 6月5日-6日、南雲機動部隊は主力空母4隻(赤城加賀蒼龍飛龍)を喪失[63]。連合艦隊司令部はミッドウェー島のアメリカ軍基地(飛行場)を艦砲射撃で破壊することを企図し、下令を受けた攻略部隊指揮官近藤信竹第二艦隊司令長官は、指揮下の栗田部隊に砲撃任務を与えた[64][61]。栗田は命令を受ける前に自発的に七戦隊の位置を報告したが、戦史叢書は『自隊(七戦隊)がこの任を命ぜられるだろうが、艦位が遅れているので不適当であると考え、(栗田は)あらかじめその状況を近藤長官に知らせたのである』と記述している[63]。だが砲撃命令は撤回されず、第七戦隊は35ノットを発揮、第8駆逐隊(朝潮、荒潮)を置き去りにしてミッドウェー島に向かった[63]

    詳細は「三隈 (重巡洋艦)」を参照


    6月6日未明、第七戦隊によるミッドウェー島砲撃に中止命令がだされ、4隻は反転退避にうつった[61]。この時、浮上中のアメリカ軍潜水艦タンバー(USS Tambor, SS-198)を回避しようとした単縦陣先頭艦(旗艦熊野)の航海信号が、後続艦(鈴谷、三隈、最上)に誤って伝達される[65][66]。結果、三番艦(三隈)と四番艦(最上)が衝突[67][68]。栗田司令官は損傷の大きい最上に3隻(三隈、荒潮、朝潮)の護衛をつけ、第七戦隊第1小隊(熊野、鈴谷)を率いて主力部隊との合流を急いだものの、そのまま行方不明となった[69][61]。6月6-7日、最上以下4隻はアメリカ軍機動部隊艦載機とミッドウェー基地航空隊の波状攻撃を受け三隈が沈没、3隻(最上、朝潮、荒潮)損傷の被害を出した[70][71]。 この間、栗田及び第1小隊(熊野、鈴谷)はミッドウェー基地空襲圏外にでるため西方に向けて航行しており、6月7日に近藤信竹攻略部隊指揮官より三隈・最上救援作戦に呼応するよう命じられて、やっと自隊の位置を報告した[69][72]。戦後、田中(当時熊野艦長)は「(栗田は主力艦隊と)合同すれば、第2小隊(三隈、最上)救援を命ぜられる事を懸念したからだ」と答えている[69][73]。 6月8日午前4時頃、攻略部隊は損傷艦(最上、朝潮、荒潮)を収容、すると行方不明の第1小隊(熊野、鈴谷)が『まったく思いがけなく反対側の西方』から出現し、攻略部隊に合同した[72][74]。鈴谷は第8駆逐隊(朝潮、荒潮)より三隈生存者を収容[75][注釈 1]。鈴谷艦長木村昌福大佐は栗田(熊野座乗)の行動について「ミッドウェー作戦ノ戦闘詳報閲読」というメモを書き、心情を顕わにしている[73]


    また当時の前田一郎少佐(当時鈴谷運用長)によれば、三隈・最上衝突事故後の第七戦隊司令官栗田健男中将(熊野座乗)は「我に続け」の信号旗を掲げ、衝突損傷した第2小隊(三隈、最上)をその場に残し西進離脱した[76][77]。しかし鈴谷の木村艦長は、「我機関故障」と旗艦(熊野)に伝達して意図的に速度を落とし、独断で第2小隊の救助に向かったとされる[76][77]。三隈生存者の救助後、鈴谷は三隈を魚雷により自沈処分としたという[76][注釈 2]。 6月7日午前11時頃、朝潮は『敵ラシキ艦見ユ』を打電しているが、鈴谷との関係は不明である[76]。大破した最上はトラック泊地で応急修理をおこなったあと内地へ回航され[78]、8月25日をもって第七戦隊から外れた[79]


    6月25日、第七戦隊司令官は栗田健男中将から西村祥治少将(前職第四水雷戦隊司令官)に代わった[80](栗田は7月13日より第三戦隊司令官、前任の三戦隊司令官三川軍一中将は第八艦隊司令長官に補職)[81]。西村新司令官のもとで本艦は作戦準備をおこなう[82]。7月13日、鈴谷航海長は柴田音吉少佐から長益少佐(空母飛龍沈没時航海長)に交代[83]


    7月中旬、日本海軍はインド洋方面通商破壊作戦「B作戦」を発動[84]。同作戦参加戦力は第七戦隊(熊野、鈴谷)、第三水雷戦隊(川内、第11駆逐隊、第19駆逐隊、第20駆逐隊)、第2駆逐隊、第15駆逐隊等によって構成されていた[84]。 7月17日[35]、第七戦隊(熊野、鈴谷)、第2駆逐隊(村雨春雨五月雨夕立)、第15駆逐隊(親潮早潮黒潮)等と共に内地を出発、7月30日にマレー半島西岸メルギーen:Myeik, Burma)へ進出した[85][86]。 同部隊はB作戦機動部隊指揮官原顕三郎少将指揮のもと、中央隊(司令官原少将兼務、十六戦隊、第11駆逐隊)、北方隊(第三水雷戦隊、第11駆逐隊)、南方隊に別れ、七戦隊・2駆・15駆は南方隊に所属していた[87][88]。 B作戦実施前の8月7日、アメリカ軍はガダルカナル島フロリダ諸島ツラギ島)に上陸を開始し、ガダルカナル島の戦いが始まる[89]。メルギー待機中のB作戦参加各隊は、通商破壊作戦を中止してトラック泊地やソロモン諸島へ向かう[90][84]


    ガダルカナル島の戦い
    1942年(昭和17年)8月22日、第七戦隊は南雲忠一中将率いる第三艦隊(南雲機動部隊)と合流した[91]。機動部隊における第七戦隊の役割は、第十一戦隊(戦艦《比叡霧島》)や第八戦隊(利根、筑摩)と共に前衛部隊としてアメリカ軍の攻撃を通報・吸収する役目だった。8月24日の第二次ソロモン海戦における機動部隊前衛は、戦局に関与しなかった[92]。 9月、ソロモン諸島で適宜行動[93]


    10月11日、機動部隊前衛はトラック泊地を出撃[94]。 10月13日、熊野で機関故障が続出したため西村司令官は10月18日に七戦隊旗艦を鈴谷に変更した[95][96]。20日、「熊野」は機動部隊前衛から機動部隊本隊に編入され[97]、熊野水偵3機(搭乗員含む)は前衛(第八戦隊《利根、筑摩》、霧島、鈴谷)に派遣された[98][99]。 10月26日の南太平洋海戦における鈴谷は、第十一戦隊司令官阿部弘毅少将(旗艦比叡)を指揮官とする機動部隊前衛(第十一戦隊《比叡霧島》、第七戦隊《鈴谷》、第八戦隊《利根筑摩》、第十戦隊《長良秋雲風雲巻雲夕雲浦風磯風谷風》)を編成し、アメリカ軍機(空母エンタープライズホーネット艦載機)と交戦した[100]。 前衛部隊に到来したアメリカ軍機の大半は重巡3隻(筑摩、利根、鈴谷)を集中して攻撃して筑摩が大破、駆逐艦2隻(谷風、浦風)に護衛されて避退した[101]。また鈴谷の左右から魚雷が迫ったため長益(鈴谷航海長、前職飛龍航海長)少佐が木村(鈴谷艦長)に判断をあおぐと、木村艦長は「まっすぐいけ」と命じ、これが好判断となって雷撃回避に成功したという[102]。10月30日、第七戦隊はトラック泊地に帰投[103]


    11月2日、損傷した4隻(翔鶴瑞鳳、筑摩、熊野)は駆逐艦部隊に護衛され、日本本土へ向った[104][105]。同時に兵力部署の変更が発令され、第七戦隊は外南洋部隊(指揮官三川軍一第八艦隊司令長官)に編入される[106]。 あらたに編入された部隊・艦は11月5日にショートランド諸島(ショートランド泊地)に進出[107]。西村司令官は外南洋部隊支援隊(重巡2隻《鈴谷、摩耶》、軽巡《天龍》、駆逐艦4隻《夕雲巻雲風雲満潮〔のち朝潮に変更〕》)の指揮官となった[108]。支援部隊は泊地で飛行場砲撃準備をおこない[109]、重巡2隻(鈴谷、摩耶)は同2隻(鳥海、衣笠)から20cm主砲弾零式弾の補充を受けた[110]

    詳細は「第三次ソロモン海戦」を参照


    南太平洋海戦でアメリカ軍機動部隊を撃滅したと信じた日本軍は、ガダルカナル島に対する大規模な輸送作戦と、飛行場基地砲撃を同時に実施することにした[111][112]11月12日夜、ガダルカナル島ヘンダーソン飛行場基地砲撃にむかった挺身攻撃隊(指揮官阿部弘毅第十一戦隊司令官)はアメリカ艦隊と交戦、夜戦および夜明け後の空襲により3隻(比叡夕立)を喪失して飛行場砲撃に失敗した(第三次ソロモン海戦第一夜戦)[113]。これを受けて山本五十六連合艦隊司令長官と三川第八艦隊長官は、支援隊にヘンダーソン飛行場砲撃を、増援部隊(指揮官田中頼三第二水雷戦隊司令官)には14日のガ島到達・物資揚陸命令を出した[110]11月13日午前5時40分、支援隊(鈴谷、摩耶、天龍、夕雲、風雲、巻雲)および三川軍一長官直率の主隊(鳥海衣笠五十鈴、朝潮)はショートランド泊地を出撃した[110]。支隊護衛艦に予定されていた満潮は泊地で空襲を受け、作戦行動不能となる[114]。そこで飛行場砲撃時は「朝潮」が支援隊に加わった[115]。 同日深夜、重巡2隻(鈴谷、摩耶)はガ島海域に突入して飛行場砲撃を敢行(鈴谷504発、摩耶485発発射)、護衛部隊(天龍、夕雲、巻雲、風雲、朝潮)はアメリカ軍の魚雷艇から七戦隊を護衛した[116][117][110]。だが飛行場の機能を奪うことは出来ず(急降下爆撃機1、戦闘機17破壊、戦闘機32機以上損傷)[110]、14日昼間になり主隊と支援隊はニュージョージア島南方海面でエンタープライズ艦載機の空襲をうけた[118][119]。重巡衣笠が沈没、3隻(鳥海、摩耶、五十鈴)が損傷した[120][110][121][122]。同時刻、増援部隊(輸送船11隻)もアメリカ軍小型機とB-17大型爆撃機の空襲で輸送船6隻沈没・1隻大破という大損害を受ける[123]。主隊・支援隊は夕刻になりショートランド泊地から再出撃したが、第二夜戦(霧島綾波沈没)に参加することはなかった[110][117]


    第三次ソロモン海戦に勝利した連合軍は、11月16日にパプアニューギニアブナへ上陸作戦を敢行した(ブナとゴナの戦い[124][125]。外南洋部隊各艦は急遽ラバウル・ニューギニア方面へ転用されることになり、支援隊(鈴谷、摩耶、天龍、涼風、早潮)はショートランド泊地からニューアイルランド島カビエンへ移動した[126][124]。 11月22日、天龍、早潮は支援隊から除かれ、カビエンを去った[127]。 11月24日[128]、木村少将は鈴谷艦長職を大野竹二大佐(大野は9月20日まで軽巡木曾艦長)に引き継ぎ[129][130]、本艦を離れた[131][132](翌年2月14日より第三水雷戦隊司令官)[133]


    12月2日、支援隊(鈴谷、摩耶、有明夕暮)はショートランド泊地へ進出し、ガ島へ向かう駆逐艦輸送作戦(第二次ドラム缶輸送作戦、3日〜4日に実施)を支援した[134][135]。12月4日、輸送任務に従事していた2隻(熊野、谷風)がラバウルに到着[136]。12月6日、支隊と行動を共にしていた2隻(摩耶、春雨)がトラック泊地へ帰投し、第七戦隊旗艦も鈴谷から熊野に変更された[137][135]。 その後、第七戦隊(熊野、鈴谷)は駆逐艦望月等と共にソロモン諸島での輸送任務や支援行動、ニューアイルランド島カビエン周辺警戒任務に従事した[138][139][140]。また重巡3隻(鳥海、熊野、鈴谷)の水上偵察機がR方面航空部隊に編入され、駆逐艦部隊の上空警戒やガ島基地夜間爆撃に従事した[141]。27日には、2隻(鳥海、望月)がカビエンに到着、西村少将の指揮下に入った[140][142]


    1943年(昭和18年)1月4日、「鈴谷」は駆逐艦2隻(磯波)に護衛されてカビエンを出発、トラック泊地に向かった[143][144]。本艦の内地整備修理にあたって、南太平洋海戦や第三次ソロモン海戦で最上型重巡洋艦の対空火器の貧弱さを痛感した西村司令官は、各方面に本型の防空能力向上を訴えている[145]。 1月7日、軍艦3隻(空母瑞鶴、戦艦陸奥、重巡鈴谷)は駆逐艦6隻(有明夕暮磯波天霧朝潮)と共にトラックを出発、内地へ向かう[146]。陸奥隊は横須賀へ、瑞鶴隊(瑞鶴、鈴谷、天霧、有明、夕暮)は呉へ向かい[147]、12日に到着した[148]


    2月4日、鈴谷は駆逐艦天津風(第16駆逐隊)を率いて呉を出発した[149]。2月10日、トラック泊地到着[150]。2月13日、西村司令官指揮下の4隻(熊野、鳥海、谷風、浦風)がカビエンよりトラック泊地に回航される[151]。トラック泊地で七戦隊(鈴谷、熊野)が揃うと同時に、3隻(鳥海、谷風、浦風)は西村少将の指揮下を離れた[152]。 3月中はトラック泊地で待機[153]。3月22日、熊野機関に故障が発生、西村司令官は旗艦を鈴谷に変更する[154]。24日、天津風に警戒されつつ3隻(鈴谷、熊野、浦風)はトラック泊地を出発、豊後水道では駆逐艦萩風(第4駆逐隊)と合同し、29日呉に到着した[155][156]。 4月は呉で待機[157]

    詳しいことは、「鈴谷 (重巡洋艦)ウィキペディア」をご覧ください。 ⇩
    https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%88%B4%E8%B0%B7_(%E9%87%8D%E5%B7%A1%E6%B4%8B%E8%89%A6)
    (wikiより)

    7 軍艦鈴谷戦没者慰霊碑

    鈴谷 (重巡洋艦)

    7a

    7b

    7c



    扶桑(ふそう/ふさう)は、日本海軍戦艦[19][20][21]扶桑型戦艦1番艦[22]。日本独自の設計による初の超弩級戦艦である。扶桑の名の由来は日本国の古い異名の一つであり[23]、同名を頂く艦としては二代目となる[24](初代扶桑1878年竣工の装甲フリゲート[25])。 艦内神社男山八幡宮(石清水八幡宮)および伊勢神宮[26]

    概要
    建造経緯
    日露戦争
    後の1906年(明治39年)、イギリス弩級戦艦ドレッドノートを就役させると、列強各国の間で建艦競争が勃発した。弩級戦艦はすぐに超弩級戦艦へ進化し、日本海軍も金剛型巡洋戦艦1番艦金剛をイギリスに発注し、ヴィッカース社の指導・支援の下その同型艦を国産で建造することでイギリスより新たな技術を学ぶ事に成功した。扶桑型戦艦は日本海軍最初の超弩級戦艦である。


    艦歴
    扶桑は第三号戦艦として1912年(明治45年)3月11日呉海軍工廠で起工された[1]1914年(大正3年)3月28日に第三号戦艦は扶桑と命名[19]伏見宮博恭王立会いのもと進水[27][1]。同日附で戦艦に類別される[2]1915年(大正4年)11月8日に竣工した[28][1]。3万t級の巨艦をドックで建造することは、世界初の試みであった[29]。ドック方式の進水式は船台進水より派手さがないため、扶桑の場合は圧縮空気で紙吹雪を飛ばしている[30]


    竣工後
    1923年
    (大正12年)9月1日、関東大震災が発生[31]。9月3日、扶桑は東京出身の海軍兵学校生徒41名をのせて東京へ向かった[31][32]1924年(大正13年)7月、高松宮宣仁親王源田実など海軍兵学校52期生235名が卒業するに際し[33]、摂政宮(大正天皇皇太子、即位前の昭和天皇。高松宮兄宮)が海軍兵学校卒業式に行啓する予定が組まれた[34]。摂政宮の御召艦は扶桑(艦長米内光政大佐)に指定された[34]。7月22日横須賀出発、24日江田島着(卒業式出席)、25日佐伯湾にて戦艦長門陸奥による廃艦実弾射撃(薩摩安芸)視察、27日横須賀帰投の予定であった[34][35]。だが行啓直前に扶桑で腸チフス患者が発生、摂政宮行啓は中止になった[34]。薩摩と安芸の処分は、9月上旬に摂政宮臨席のもと東京湾で行われた[35]


    第一次近代化改装
    扶桑はワシントン軍縮条約後に主砲天蓋の強化や主砲指揮所の新設などの改装を受けた[36]1930年(昭和5年)4月に呉海軍工廠で近代化改装に入り、1933年(昭和8年)5月12日にその工事は完了した。問題となっていた主砲発射による爆風の対策として、艦橋部分の新設と改装、装甲防御の増設と改善、更に7.6センチ砲等対空砲の搭載と、主砲仰角の引き上げという具合に攻防両面の能力向上が図られた[37]。機関部は艦本式タービンや重油専焼缶への換装が行われ最大速力が24.7ノットへ向上、前部缶室区画が居住区や燃料タンクにされ航続距離が16ノットで11,800浬になった[38]。この時に増設した艦橋の頂上までの高さは、およそ水面から50m以上にも達し、同型艦の山城と共に日本戦艦中最高となった。全長11m級の巨大な精密模型も製作され、海軍兵学校の「扶桑講堂」に展示された[39]


    高い艦橋が不安定に見えるようになったが、艦橋形状と三番砲塔の向きの違いが山城との区別点となっている。なお建造から第ニ次改装までは扶桑の三番砲塔も砲口が艦尾方向を向いていた[40]。第一次改装後に機関出力がほぼ倍増され、速力も公試時には24ktを発揮したが、実速は21.5ktに留まり[要出典]、安定して24.5ktの速力を出せる伊勢型戦艦2隻(伊勢日向)、最高速力25kt強の長門型戦艦2隻(長門陸奥)と戦隊を組む事には支障があったともされるが、長門型や伊勢型と同じ戦隊を組むことができたという当時の艦長の証言もある[41]

    なお、ワシントン軍縮条約の前後に扶桑型を41cm砲搭載艦にする改装案があったが、条約で主砲や舷側装甲の変更が禁止されたため実現しなかった[42]


    1933年(昭和8年)11月15日附で、高松宮宣仁親王(海軍大尉、昭和天皇弟宮)が扶桑分隊長(主砲後部砲台長)[43]として配属される[44][45]。荒木艦長以下が特別待遇をするので、親王が呆れる事もあった[46]。謎の自殺者が出た際には『いやはや不景気な艦である』と評している[47] 1934年(昭和9年)2月4日、連合艦隊司令長官末次信正中将が巡視に訪れて激励した[48]。4月1日、戦艦の魚雷装備廃止にともない、有田雄三(扶桑水雷長)は重巡摩耶に転任した[49]。6月29日、演習中に駆逐艦深雪の衝突事故が発生、深雪は扶桑の目の前で沈没した[50]。 9月11日、扶桑以下第一艦隊は舞鶴を出発[51]。連合艦隊演習にともない、北海道、朝鮮半島各地、大連(旅順港)等を航海する[44]。26日より第一戦隊旗艦は扶桑から日向に変更となった[52]。艦隊は青島市を経由して、10月5日佐世保に戻った[53]。11月、高松宮は海軍大学(甲種学生第34期)入学のため、扶桑を退艦した[44][54]

    第二次近代化改装
    詳細は「扶桑型戦艦#第二次近代化改装と、その結果」を参照


    第二次近代化改装は、第一次から僅か一年後の1934年(昭和9年)10月下旬から実施され、1935年(昭和10年)2月19日まで、同じく呉で行われた[55]。この時にバルジを増設、艦尾を約5メートル程延長し、全長も212.75mとなった。水平防御の強化された他、艦橋上の測距儀も8mのものに換装され射撃指揮装置も一新された。対空火器の増設や水上偵察機の搭載を行った。後年のレイテ沖海戦には電探も搭載された。機関も改修され出力が5000馬力増加し、改装後の公試では24.7ktを発揮した。外観上の特徴としては、煙突が1本になった[56]。 捷一号作戦の頃は扶桑型が示した速力は改装前と変わらない18kt〜21.5kt程度に止まり[57]、日本戦艦中最も遅い戦艦となったとされる。一方で、戦闘運転で26ノットを出したという証言もある[58]。主砲一斉射撃時の爆風についても鶴岡信道(第33代扶桑艦長。当時大佐)は特に問題なかったとするが、遠距離射撃時の散布界が広くなる傾向は否めなかったとしている[58]。また水平防御(対250kg爆弾)については不安を抱えており、『結果的には、扶桑、山城という戦艦は、本来、太平洋戦争で使ってはならないフネだったわけですね。』と回想している[59]


    太平洋戦争序盤から中盤まで
    太平洋戦争緒戦では、真珠湾攻撃に向かった南雲機動部隊の後詰め・曳航艦として山本五十六連合艦隊司令長官が座乗する第一戦隊(長門、陸奥)他第一艦隊各艦と共に出撃した。北緯30度、東経160度の「K点」まで進出する予定だったが、12月11日に反転、12月13日に日本・柱島泊地に戻った[60]。扶桑乗組員への功績評価は「功労甲」であった。


    1942年(昭和17年)のミッドウェー作戦では5月29日に日本を出撃[61]、6月4日に第一戦隊(大和、長門、陸奥)以下主隊と分離しアリューシャン諸島へ向かった[62]。だがアメリカ軍と交戦することはなく、6月17日に日本へ戻った。それ以降の4隻(扶桑、山城、伊勢、日向)は出撃機会もなく、いわゆる『柱島艦隊』として、実弾射撃訓練に従事したり、海軍兵学校の練習艦として使用された[63]


    このミッドウェー海戦で日本軍は主力空母4隻(赤城加賀蒼龍飛龍)を喪失する[64]。空母不足に陥った日本軍は、金剛型戦艦、扶桑型戦艦、伊勢型戦艦、青葉型重巡洋艦、利根型重巡洋艦を航空母艦へ改造することを検討する[65]。工事が長引く全通飛行甲板型の空母への改造案は破棄され、航空戦艦への改造計画がまとまる[66]。検討の結果、日向の五番砲塔爆発事故の関係から伊勢型戦艦のみを航空戦艦に改造した[67]


    1943年(昭和18年)6月1日、扶桑艦長は古村啓蔵大佐から鶴岡信道大佐に交代[68](古村大佐は、6月9日附で大和型戦艦2番艦武蔵艦長[69])。 6月8日瀬戸内海柱島泊地に停泊していた扶桑および長門、大淀、龍田や第十一水雷戦隊等は戦艦陸奥の爆沈に遭遇した[70][71]。陸奥艦長三好輝彦大佐は、扶桑艦長室にて鶴岡(扶桑)艦長(6月1日発令[68]。6月7日扶桑に到着。三好大佐とは海軍兵学校の同期)と歓談したあと陸奥に戻り、爆発にまきこまれて戦死した[72]。扶桑や長門以下各艦は共同で陸奥生存者の救助をおこなった[72][73]


    7月には、長門と共に航空隊の演習目標艦となった[74]。なお、同型艦の山城が練習艦として日本本土にとどまっていたのに対し[75]、扶桑はトラック泊地に進出することになった[76]。 8月17日、連合艦隊司令長官古賀峯一大将直率の主力部隊(戦艦3隻〈大和長門、扶桑〉、空母大鷹[77]、巡洋艦3隻〈愛宕高雄能代〉、駆逐艦部隊〈涼風海風秋雲夕雲若月天津風初風〉)として呉を出撃し、23日トラックへ到着[78][79]。以降はトラック泊地で待機した[80][81]。 10月下旬、山城や航空戦艦に改造されたばかりの伊勢が、扶桑用36cm主砲弾や大和型戦艦用の46cm砲弾を運搬している[82]。姉妹艦達が輸送任務を終えて日本に戻っても扶桑はトラック泊地にとどまり[83]、1944年(昭和19年)2月のトラック島空襲直前にリンガ泊地へ移動している[76]

    昭和19年の行動
    1944年5月中旬、長門とともに機動部隊・乙部隊に臨時編入[84]。5月14日にタウイタウイへ進出[85]
    詳細は「渾作戦」を参照


    1944年(昭和19年)6月初旬の渾作戦に、渾部隊指揮官左近允尚正第十六戦隊司令官指揮のもと、扶桑は第十六戦隊(青葉鬼怒)、第五戦隊(妙高羽黒)、第十駆逐隊(風雲朝雲)、第十九駆逐隊(浦波敷波)、第二十七駆逐隊(春雨五月雨白露時雨)と共に出撃する[86]。渾作戦部隊は、ビアク島に上陸したアメリカ軍を撃退すべく同方面に進出した[87][88]。間接護衛隊(扶桑、風雲、朝雲)は、アメリカ艦隊を誘い出すための陽動部隊(囮)であった[89]。重巡洋艦羽黒から扶桑を目撃した福田幸弘主計科士官は、『大正六年竣工のこの旧式戦艦が、その特色のある前のめりの前檣楼を高々と聳えさせて、南海の前線に参加している孤影には何か哀感があった』と回想している[90]


    6月3日、アメリカ軍哨戒機に発見された事、アメリカ軍機動部隊出現の報告(誤認)など受けて退避、間接護衛隊(扶桑、風雲、朝雲)および各隊はミンダナオ島ダバオへ戻った[88]。扶桑の士官によれば、扶桑と重巡青葉がいち早く退避したことで司令官は叱責されたという[91]。扶桑はマリアナ沖海戦には参加せず、そのままダバオで待機を続けた[92][93]。 7月1日、第四駆逐隊(山雲野分満潮)に護衛され、扶桑はダバオを出港する[94][95]。野分士官は「この戦艦の乗員にすれば鶴首久しく、まことに心強い味方の来訪であったろう」と回想している[96]。 7月上旬、タウィタウィ島からボルネオ島バリクパパンにむかう機動部隊補給部隊(タンカー船団)はセレベス海で単独航行中の扶桑と遭遇する[97]。海防艦三宅の乗組員は、羽黒主計科士官と同様の感想を扶桑に抱いたという[97]。 扶桑隊はタラカン島タラカンに寄港して燃料を満載しつつ(2日〜8日)[95]、日本本土へ向かった[98]。 14日、敵潜水艦と思しき存在に対し照射射撃を行う[99][100]。第四駆逐隊とは宿毛湾で分離した[101][100]。扶桑は呉工廠にて修理と機銃の増設工事を行った。


    扶桑がダバオで待機中の6月27日、第三艦隊司令長官小沢治三郎中将は次期作戦において『長門ハ速力、戦力ノ関係上 大和、武蔵ト別個ノ行動ヲトラシメ、山城、扶桑ト共ニ第二戦隊ヲ編成 遊撃部隊ニ編入スルヲ可ト認ム 戦隊編成困難ナルトキハ機動部隊附属ニテ可ナリ』と意見具申した[102]。これに対し軍令部は、第二戦隊(長門、扶桑、山城)を第二遊撃部隊(第五艦隊基幹)(指揮官 第五艦隊司令長官志摩清英中将)の直率にする意向を示した[103]。協議の結果、軍令部は小沢中将の主張を容れる[103]。 9月4日、軍令部総長は昭和天皇に戦時編制の改定について上奏、この中で戦艦長門を第二戦隊に編入予定であると述べた[104]。 9月10日附で第二戦隊(司令官西村祥治少将:山城、扶桑)が編制される[105]。長門は第二戦隊(山城、扶桑)のシンガポール進出をもって第一戦隊(大和、武蔵、長門)から外されて第二戦隊に増強され[106]、第二戦隊および第一遊撃部隊第三部隊旗艦の予定となる[103]。ところが9月16日、第一戦隊司令官宇垣纏中将は長門第二戦隊編入計画に対し『此の切迫せる時機は全く不適當にして長門の戦力を發揮せしむる所以に非ず』と反発する[107]。第二艦隊(司令長官栗田健男中将、参謀長小柳冨次少将)も17日に「長門の第二戦隊編入は戦局が一段落した後にするよう」意見具申した[106]。結局、長門が西村艦隊旗艦としてスリガオ海峡に突入する事はなかった[103]


    9月22日、第二戦隊(山城、扶桑)は第十七駆逐隊(浦風浜風雪風磯風)に護衛されて内地を出撃、ブルネイを経由してリンガ泊地にむかう[108]。航海中の24日、第二戦隊は第一遊撃部隊(指揮官栗田健男第二艦隊司令長官)に編入された(連合艦隊電令作第431号)[106]。10月上旬、第二戦隊はリンガ泊地に到着した[106]

    詳しいことは、「扶桑 (戦艦)ウィキペディア」をご覧ください。 ⇩
    https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%89%B6%E6%A1%91_(%E6%88%A6%E8%89%A6)
    (wikiより)

    6 戦艦扶養戦没者慰霊碑

    扶桑 (戦艦)

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    「第八十二号海防艦」は、偶数番号型海防艦として、昭和19年12月31日三菱長崎造船所で竣工、急速訓練ののち翌20年2月15日第一海防隊に編入された。


    船団護衛任務につき南に北に奮戦し、終戦を目前にした7月5日、第二海防隊に編入され隠岐島に移動した。


    8月9日羅津、清津方面上空に猛火煙を望見、攻撃中の100余機視認、ソ連参戦の電報受信で、攻撃の飛行機はソ連機と判明した。


    8月10日最後の避難船(向日丸)を護衛して南下中、ソ連雷撃機隊24機が来襲、次いで第二波が来襲、魚雷が後部に命中、瞬時に沈没した。93名が向日丸に救助されたが、機関長田島長次郎大尉以下117名が終戦を目前にして散華した。


    戦後、27年たって生存者の間で、共に戦って散華した戦友の英霊を鎮魂をする声があがり、この碑をお参りに来る人々と共に永遠の平和を願ってこの〃碑〃を建立した。                                 


    第82号海防艦は昭和19年暮当時東南アジアから南北太平洋全域に拡大された戦線の随所において戦況極めて不利の状況に転じていた頃三菱長崎造船所で竣工直ちに第一線部隊に編入せられ就役したものである。


    乗組総員215名、明けて昭和20年初頭から船団護衛対潜掃蕩作戦に従事し終戦直前の同年8月10日日本海方面において単艦作戦行勤中ソ連機の来襲を受け、これを多数撃墜せるも間断なき敵機の攻撃により遂に被雷爆沈117名将兵の尊い命を一瞬のうちに失ったのである。


    爾来27年平和と繁栄の時代を迎えた今日生存者相寄り、かねて念頭の慰霊碑を此所ゆかり地に建立し心からなる祈りを捧げて戦没者の霊を慰め且つこの地を訪れる人々と共に永遠の平和を希うものである。(航海長 歴 義一郎)

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    最上(もがみ)は、日本海軍重巡洋艦最上型重巡洋艦の1番艦[4]。日本海軍の艦名としては1908年(明治40年)竣工の通報艦最上に次いで2代目[5]第四艦隊事件後の船体強化、太平洋戦争前の主砲の換装、ミッドウェー海戦後の航空巡洋艦改装と3度の大幅な改修が行われ、戦闘中に二度の衝突事故に見舞われた艦でもある。1944年10月のレイテ沖海戦で西村艦隊の一員としてスリガオ海峡に突入して大破し、雷撃処分された。

    艦歴
    建造~太平洋戦争開戦まで
    1922年(大正11年)のワシントン海軍軍縮条約で戦艦や空母に保有制限がかかった結果、日欧米の加盟各国は制限のない条約型巡洋艦の建造を進めた。日本海軍は旧式艦の軽巡龍田天龍球磨多摩を重巡4隻に置換する計画を進めたが[6]、1930年(昭和5年)のロンドン海軍軍縮会議で重巡の保有トン数が制限されたため、主砲を50口径20.3cm連装砲塔から60口径三年式15.5cm3連装砲に変更し、将来的に主砲を換装できる巡洋艦の建造を計画した[7]。これが最上型である。前型の高雄型重巡洋艦に比べて艦橋を小型化し、機関部や61cm三連装魚雷発射管など最新の技術を導入した[2]。同様の経緯および本型に対抗する意味を含め、イギリスはサウサンプトン級軽巡洋艦を、アメリカはブルックリン級軽巡洋艦を建造した[7]


    こうして最上は二等巡洋艦として、呉海軍工廠で1931年(昭和6年)10月27日に起工した[1][8]1932年(昭和7年)8月1日、山形・最上川から最上と命名され、艦艇類別等級表の二等巡洋艦に最上型が新設された[9][10]

    1934年(昭和9年)3月14日に進水した[1]が、2日前に水雷艇友鶴が転覆する友鶴事件が発生し、友鶴と同じ藤本喜久雄少将が設計した最上型の工事も急遽中断され確認を行った。1935年(昭和10年)3月20日の公試運転で排水量12,669トン、154,266軸馬力で36ノットを発揮するが、推進器附近の外鈑に亀裂が見つかり砲塔が旋回困難となった[11]。最上型は敷設艦八重山や潜水母艦大鯨等の建造で得た電気溶接の技術を艦全体で採用したが技術的に途上の部分があり、砲塔のリングサポート(リングバルクヘッド)を高角砲甲板に直接溶接した結果、船体の歪みが甲板を伝ってリングサポートを変形させたと判明した[12][2]


    その後の公試運転では4月10日に66,009馬力で30.868ノット、6月10日に100,403馬力で33.522ノットを記録した。竣工は約2か月遅れて7月28日になり、呉鎮守府籍に編入した。8月10日の公試では128,989馬力で35.036ノットを記録した[2][1]。竣工後、呉警備戦隊の旗艦を重巡加古と交代で務めた。


    最上は第四艦隊に所属したが、9月26日に三陸沖での演習で第四艦隊事件に遭遇しカタパルトに固定していた水上機が大破、前部構造物の垂直鋼板がひずんで第二砲塔が旋回不能となった[13][12]。このため竣工からわずか2か月で大改修が必要になった。1936年(昭和11年)3月-4月、呉警備戦隊の旗艦を潜水母艦長鯨と交代で務めた。

    1939年(昭和14年)、最上は呉海軍工廠で主砲を50口径20.3cm連装砲塔5基に換装する工事に着手した[14][15]。この工事で性能上は一等巡洋艦(重巡洋艦)になったが、対外的には戦没まで15.5センチ砲搭載の二等巡洋艦(軽巡洋艦)で通した。この換装工事で2番砲塔の砲身が1番砲塔との間に入りきらなくなり、常に軽い仰角をかけることになった[16]1940年(昭和15年)5月1日、第七戦隊に編入された。1941年(昭和16年)に海南島に進出し、仏印進駐作戦を支援した[14]

    太平洋戦争緒戦
    太平洋戦争開戦時、熊野、鈴谷、三隈、最上の第七戦隊(栗田健男少将)は第二艦隊(南方部隊、近藤信竹中将)指揮下で南方作戦に投入された[17]南遣艦隊(馬來部隊、小沢治三郎中将)に所属し、マレークチンボルネオ島)、パレンバンなど、マレー作戦蘭印作戦における上陸作戦を支援した。

    詳細は「バタビア沖海戦」を参照


    1942年(昭和17年)3月1日未明、ジャワ島への上陸作戦を支援するため三隈、駆逐艦敷波とバンタム湾を警戒中、所属する第三護衛隊の軽巡名取が輸送船団に接近する米重巡ヒューストンと豪軽巡パースを発見、各艦に集合を命令した。最上は三隈と共に両艦を捕捉、砲雷撃し撃沈した。この際、最上が発射した魚雷が今村均陸軍中将らが乗る陸軍特殊船神州丸と輸送船2隻に命中し大破、輸送船佐倉丸と第二号掃海艇が沈没した。山本五十六大将は後日、最上と三隈、敷波に感状を贈った[18]

    詳細は「セイロン沖海戦」を参照


    馬来部隊は4月6日、ベンガル湾で通商破壊作戦に従事した。三隈、駆逐艦天霧と共に南方隊を編制、商船5隻を撃沈した。4月22日、呉に帰投した[14]

    ミッドウェー海戦
    詳細は「ミッドウェー海戦」を参照


    日本海軍は5月にミッドウェー島攻略作戦を発動し、最上は第二艦隊(攻略部隊・近藤信竹中将)の支援隊(第七戦隊、駆逐艦荒潮朝潮、給油艦日栄丸)に配属された。5月26日にグァム島に到着、28日に出航し、29日に占領部隊(輸送船団、第二水雷戦隊)と合流し、ミッドウェー島へ向かった[19][20]。写真からは1番砲塔の天蓋に日の丸を描いていたのが確認できる。


    6月5日のミッドウェー海戦で、日本軍は空母赤城加賀蒼龍飛龍を失った。連合艦隊は夜戦で米機動部隊の撃滅を企図し、ミッドウェー島の航空戦力を夜間のうちに破壊することを第二艦隊に命じ、近藤中将は支援部隊に実行を命じた。第七戦隊は支援隊は最大戦速(35ノット)で進撃し、外洋での高速航行に同行できない荒潮、朝潮は、遅れて追随した[21][22]


    だが午後9時15分、山本五十六連合艦隊司令長官は第七戦隊を含む攻略部隊と南雲機動部隊に連合艦隊主力部隊との合流を命じ、午後11時55分にミッドウェー攻略作戦の中止と各艦隊の撤退を命じた。第七戦隊は反転から約1時間20分後、アメリカの潜水艦タンバーと遭遇し、回避運動中に最上と三隈が衝突した(後述)。栗田中将は連合艦隊に『最上前進の見込み立たず、三隈支障なし』と報告し、三隈と最上にトラック島への退避を命じた[23][24][25]


    最上は艦首が圧壊したが、猿渡正之運用長らの応急作業で速力14ノット程度で前進可能となった[26][27]。6月6日、ミッドウェー島からB-17爆撃機SB2Uビンジゲーター6機、SBDドーントレス6機が爆撃し、至近弾1発で戦死2名・負傷者数名が出た。7日午前5時、最上と三隈は荒潮朝潮と合流した[28][29][30]


    空母ホーネットからF4Fワイルドキャット8機、SBDドーントレス26機、空母エンタープライズからF4F12機、SBD31機が発進した[31]。一連の空襲で三隈が沈没、最上は爆弾5発(資料によっては6発)を被弾した。1発目は五番砲塔に命中し砲員全員が戦死、四番砲塔の砲員18名中無傷は2名だけだった。飛行甲板に命中した一弾は水上偵察機3機を吹き飛ばし、火災を発生させた。内籐力水雷長が飛行甲板下の全魚雷を射出放棄し、誘爆を回避した。最上では乗員91名が死亡している。最上と朝潮、荒潮は三隈の乗員を救助し、8日午前4時に第二艦隊と合流した[32][33][34]


    近藤長官は損傷した最上・朝潮・荒潮に、熊野、鈴谷、第18駆逐隊(不知火陽炎)の護衛をつけてトラック泊地回航を命じ、14日朝に到着した。最上は工作艦明石の支援で、仮設艦首を装着するなどの応急修理に入った[35][36]。6月25日、戦隊司令官に西村祥治少将が就いた[37]。8月5日、最上と明石は駆逐艦雪風時津風の護衛で出港、最上は11日に佐世保に到着した[38][39]。最上は25日に第七戦隊を外れ、艦首の修理やレーダー装備の増設などの工事に入った[40][41]

    航空巡洋艦への改装
    ミッドウェー海戦で主力空母4隻を喪失した日本海軍は12月下旬、最上の航空巡洋艦改造の工事命令を出した。佐世保工廠で後部の四、五番砲塔を撤去し、水上偵察機繋止用航空甲板や航空機用の燃料タンクを増設し、搭載機は瑞雲11機を予定した。発艦はカタパルトで30分以内に全機発進可能な能力を計画していた。水上機待機甲板と発艦甲板に段差があった利根型重巡洋艦と異なり、本型の艦体後部は平坦で、近代の駆逐艦や巡洋艦のヘリ甲板を彷彿させる外観になった。改造にあたって、スウェーデン海軍の航空巡洋艦ゴトランド(1934年竣工)を参考にした可能性がある。また25mm三連装機銃を10機装備(改造前より18挺増備)した[42][43][44]


    ・実際に搭載したのは1944年(昭和19年)中頃までは零式水上偵察機4機、零式水上観測機3機の計7機で、上限の11機を搭載したことはなかったとみられる。マリアナ沖海戦とレイテ沖海戦では5機だった[45][36]


    ・日本海軍は空母不足を補うため、最上型と利根型の空母改装も検討していた。完全改装した場合は飛行甲板195×23.5m、搭載機數約30機、改装予定9か月

    中南太平洋での戦い
    1943年(昭和18年)4月末に工事は完了した。第一艦隊に配属された後、5月1日に佐世保から呉に回航し、17日に第三艦隊第七戦隊に復帰した。アリューシャン方面作戦のため横須賀に移動後、再び内海西部へ戻った。6月8日、柱島泊地で戦艦陸奥の爆沈に遭遇、米潜水艦の奇襲と判断して対潜攻撃を行うが、誤って爆雷2個を投下した[47][14][48]


    6月30日、アメリカ軍はニュージョージア諸島レンドバ島に上陸を始めた。7月8日、第三艦隊(小沢治三郎中将)指揮下の空母4隻(瑞鶴翔鶴瑞鳳沖鷹)、水上機母艦日進、重巡3隻(利根筑摩、最上)、軽巡2隻(大淀阿賀野)、駆逐艦6隻(萩風磯風涼月初月玉波)は内地を出撃、15日にトラック泊地に到着した。このうち玉波を除く駆逐艦と巡洋艦はラバウルに進出したが、萩風と嵐をラバウルに残して他はトラックに戻った[49][50]。以後、最上は主に中部太平洋で行動した。

    詳細は「ラバウル空襲」を参照


    ブーゲンビル島の戦いを支援するため第二艦隊(栗田健男中将)の指揮する遊撃部隊(重巡愛宕高雄摩耶・鈴谷・最上・筑摩、軽巡能代、駆逐艦藤波早波・玉波)が11月5日にラバウルへ進出したが、直後に米機動部隊(サラトガ、プリンストン)による大規模な空襲を受けた。最上は爆弾1発を1-2番砲塔間の上甲板右舷に被弾し、戦死19名、負傷者37名(または41名[51])を出した[52][53][36]。前部右舷水線付近に破孔が生じたため高速を出すことができず、昼間は12ノット、夜間は10ノットでトラックへと向かった[54]。8日に鈴谷、駆逐艦島風・玉波と共にトラック泊地に戻り、明石の支援で修理を行った[55][14]。12月16日、駆逐艦・玉波と共にトラック泊地を出発。最上と玉波は21日に呉に到着し、最上は22日から呉工廠で修復に入った[56]1944年(昭和19年)1月1日、第七戦隊から外れた。


    2月17日に修理が完成し、3月8日に物資を搭載して呉を出港、シンガポールを経て16日にリンガ泊地に到着した[14]。同日、第七戦隊(利根、筑摩、熊野、鈴谷)に復帰し、23日に同戦隊第二小隊4番艦となった[57]。25日、戦隊司令官に白石萬隆少将が就いた[58]


    6月中旬のマリアナ沖海戦で最上は小沢機動部隊に配備された(編制はマリアナ沖海戦参照)。24日、呉に帰投した。7月8日に呉を出撃し、20日にリンガ泊地に進出。重巡妙高羽黒と訓練を行った[14][59]

    レイテ沖海戦、沈没
    10月中旬以降の捷号作戦は、第一遊撃部隊第三部隊(西村祥治中将)に戦艦山城扶桑、駆逐艦4隻(満潮山雲朝雲時雨)と共に参加した。1944年(昭和19年)10月22日午後3時、第三部隊はブルネイを出撃し、速力18ノットでスリガオ海峡へ向かった[60][61]


    24日午前2時と午前7時未明、最上は計3機の水上偵察機を射出した。午前10時前、第三部隊は米機動部隊艦載機約26機の空襲を受け、最上は機銃掃射で戦死傷者8名を出した。最上は水偵の残り2機を発進させ、ミンドロ島に向かわせた。偵察機は正午にレイテ湾で戦艦4、巡洋艦2、駆逐艦2、輸送船80、南部に飛行艇母艦1、飛行艇15、その南方に魚雷艇14、駆逐艦4隻と報告し、ミンドロ島の基地に帰投した[62][36]


    同日午後7時、最上は湾口の魚雷艇を掃討するため満潮、山雲、朝雲と共に艦隊を先行。午後11時過ぎに交戦し、魚雷艇を撃退した。この時山城または扶桑から誤射され、戦死者3名を出した。25日未明、艦隊は米魚雷艇等から雷撃を受け、午前3時半までに扶桑と満潮、山雲が沈没、朝雲が大破した。山城と最上、時雨が前進を続けたが、アメリカ軍はジェシー・B・オルデンドルフ提督の戦艦・巡洋艦・駆逐艦がレーダー射撃で迎撃し、山城は沈没、時雨も撤退した。最上は魚雷は回避したが、直撃弾で3番主砲を破壊され、艦中央部は大火災となった[63][64][36]

    3時45分、最上は前方の発砲閃光に向けて魚雷4本を発射し、煙幕を張って3時57分に反転、南下退却を始めた。炎上する艦で藤間良艦長は、レイテ島に座礁して乗組員を陸戦隊とする方針を告げた。中野信行航海長は「われわれは、海峡に入口まで来ていると思います。われわれは船乗りです。艦を捨てることはできません」と北上を上申したが、藤間艦長は「そんなこと言っても君、たいまつを背負って(炎上した状態で)突入は無理だ」と諭した。4時2分、艦橋に直撃弾を受け、藤間艦長以下司令部が壊滅した。砲術長の荒井義一郎少佐が指揮を執ったが、機関が故障して速力が低下し、魚雷や弾丸が誘爆を起こした[65][66]


    志摩清英
    中将の指揮する第二遊撃部隊がスリガオ海峡に到着したが、旗艦の重巡那智が最上と衝突した(後述)。志摩中将は第二遊撃部隊の反転を決断し、駆逐艦を最上の護衛に就けた。最上の通信装置は壊れていたため、曙が通信を代行した。日の出後、両艦は断続的に空襲を受けた。蒸気が噴出して機関科員は退去し、8時30分頃に航行不能、消火の手立てもなくなった。9時以降の空襲で爆弾2発が命中(米軍は魚雷2本も命中と報告)、重油タンクが破壊され前部が炎上。10時30分、総員退去が決まった。曙は危険を冒して最上の左舷後部に接舷、乗組員を移乗させ、午後0時30分に魚雷1本を発射。午後1時7分、最上は左舷から転覆して沈没した[67][66][68][69]


    最終的に最上の戦死者は190名、負傷者は125名に達した[70]。10月26日、曙はマニラに到着し、最上生存者は同地に上陸した。その後、最上乗員のうち595名がフィリピンの地上戦に投入された(マニラの戦い[71][72]


    11月21日、第七戦隊は解隊された[73]。12月20日、最上は帝国軍艦籍から除籍された[74]


    2019年9月9日、海底の最上の残骸が調査船ペトレルにより同年5月8日にスリガオ海峡の海底1450メートル地点にて発見されたことが発表された。

    二度の衝突事故
    最上は太平洋戦争中、二度の衝突事故に見舞われた。1度目はミッドウェー海戦で第七戦隊で行動中だった。

    先頭の旗艦熊野が右45度前方にアメリカの潜水艦タンバーを発見、左45度一斉回頭を命令。回頭後に再び潜水艦を発見し、二度目の左45度緊急回頭を命じた。しかし、後続艦が2度目の回答が新規命令か1度目の命令の確認かで混乱し、後続の鈴谷は45度、熊野と3番手の三隈は90度転針した。隊列が乱れ、三隈の左舷中央部に最上の艦首が衝突した[24][23]


    2度目はレイテ沖海戦で、スリガオ海峡に到着した志摩艦隊が午前4時15分、炎上する最上を発見した。志摩艦隊の那智は、最上が停止していると誤認し、面舵を取って前を通過しようとしたが、最上は8ノットで前進しており、那智の左舷に艦首が接触した。衝突は那智の誤射が原因という証言もある。当時、那智艦内で『敵の戦艦らしき艦影、左前方大火災。止めをさす』という放送があり、那智は右に回頭しつつ魚雷8本を発射、最上が魚雷を回避するため面舵に転舵し衝突したという[75][76][77]。最上は羅針盤を応急修理する間、志摩艦隊とも離れてしまった。発令所長は「陸戦隊にはなれない。海軍軍人は艦に乗ってこそ役に立つ人々であり、艦を乗り換えて奉公したい」と上申し、荒井砲術長も同意して南進を続けた[66]

    詳しいことは、「最上 (重巡洋艦)ウィキペディア」をご覧ください。 ⇩
    https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%80%E4%B8%8A_(%E9%87%8D%E5%B7%A1%E6%B4%8B%E8%89%A6)
    (wikiより)

    4 重巡最上

    最上 (重巡洋艦)

    4a

    4b

    4c



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