鈴木 孝雄(すずき たかお、明治2年10月29日(1869年12月2日) - 1964年(昭和39年)1月29日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍大将。栄典は勲一等功三級。砲兵監・第14師団長・陸軍技術本部長・軍事参議官を歴任。
現役を退いてから靖国神社第4代宮司及び大日本青少年団長を務め、戦後は偕行社会長となる。
経歴
旧関宿藩士鈴木由哲の子として東京に生まれ、前橋中学校・成城学校を経て1889年(明治22年)11月、陸軍士官学校に入校し、1891年(明治24年)7月30日卒業する。士官候補生(士候)2期。1892年(明治25年)3月21日、陸軍砲兵少尉に任官し、野砲兵第1連隊附を命ぜられる。鈴木の士候2期の同期生には台湾軍司令官菅野尚一大将、朝鮮軍司令官森岡守成大将、中国で軍事顧問を務めた坂西利八郎中将や、侍従武官の山根一貫少将がいる。
1894年(明治27年)10月に中尉に進級した鈴木は日清戦争に出征し、帰還後の1896年(明治29年)11月、陸軍砲工学校を卒業し独立野戦砲兵大隊附を命ぜられる。1897年(明治30年)4月から第7師団副官となり、1902年(明治35年)12月から陸軍大学校教官を兼ねる。1904年(明治37年)3月、野砲兵第8連隊附となり、同年6月に日露戦争の動員下令と共に野砲兵第8連隊補充大隊長を命ぜられる。1905年(明治38年)1月、野砲兵第10連隊大隊長を命ぜられ2月に出征する。同年11月から関東総督府砲兵部員に移り、1907年(明治40年)2月、野砲兵監部附、同年11月、砲兵中佐に進級し近衛野砲連隊附を命ぜられる。
1909年(明治42年)4月、陸軍省軍務局課員の後、1911年(明治44年)9月からヨーロッパ出張を命ぜられる。
1912年(明治45年)5月8日に野砲兵第21連隊長に任命され、7月15日、砲兵大佐に進級し、同8月に帰国する。1914年(大正3年)5月11日から陸軍省軍務局砲兵課長に就任、同6年8月6日には陸軍少将に進級して野砲兵第1旅団長、1919年(大正8年)2月20日、野戦重砲兵第1旅団長、1921年(大正10年)3月11日から陸軍士官学校長を務める。同年7月20日、陸軍中将に進級、1922年(大正11年)8月15日、砲兵監を拝命する。
1924年(大正13年)2月4日、第14師団長に親補され、同年8月20日、陸軍技術本部長に移る。1926年(大正15年)7月28日に軍事参議官に親補され、兼勤として引き続き陸軍技術本部長を命じられた[1]。1927年(昭和2年)7月26日、陸軍大将に親任される。1928年(昭和3年)3月8日、陸軍技術本部長の兼勤を免じられる。1933年(昭和8年)3月30日、予備役、1935年(昭和10年)4月、後備役。
1938年(昭和13年)4月21日から靖国神社宮司を務め、1942年(昭和17年)8月には大日本青少年団長を兼ねる。青少年団長は1945年(昭和20年)6月に退任、靖国神社宮司は1946年(昭和21年)1月17日に退任する。同年、公職追放される[2]。
戦後になって1952年(昭和27年)3月に追放解除[3]。1954年(昭和29年)4月から旧陸軍将校たちでつくる偕行社会長に就任し、1958年(昭和33年)7月に退任する。
1964年(昭和39年)1月29日死去。
栄典
位階
・1892年(明治25年)7月6日 - 正八位[4]
勲章等
・1927年(昭和2年)9月6日 - 勲一等瑞宝章
・功三級金鵄勲章
親族
・内閣総理大臣鈴木貫太郎(男爵・海軍大将)は兄。永田茂陸軍中佐は末弟。
・妻 鈴木モト 立見尚文陸軍大将の娘。
・娘の夏子は小田村有芳長男・嘉穂の妻。
脚注
1. 帝国陸軍では、親補職にあった中将が、親補職でない職に就く際に、一定の基準で、親補職たる軍事参議官を本職、親補職でない職を兼勤させる慣習があった。額田坦『陸軍省人事局長の回想』芙蓉書房、1977年(昭和52年)、227頁。
2. 『朝日新聞』1946年2月10日一面。
3. 『朝日新聞』1952年3月10日夕刊一面。
4. 『官報』第2707号「叙任及辞令」1892年7月7日。
5. 『官報』第1967号「叙任及辞令」1933年7月22日。
(wikiより)
鈴木孝雄