本牧jack『意外と身近にある歴史散歩』日々是好日 心灯 頬笑

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2022/07

鈴木 孝雄(すずき たかお、明治2年10月29日1869年12月2日) - 1964年(昭和39年)1月29日)は、日本陸軍軍人。最終階級は陸軍大将。栄典は勲一等功三級砲兵監第14師団長・陸軍技術本部長・軍事参議官を歴任。


現役を退いてから靖国神社第4代宮司及び大日本青少年団長を務め、戦後は偕行社会長となる。

経歴

関宿藩鈴木由哲の子として東京に生まれ、前橋中学校成城学校を経て1889年(明治22年)11月、陸軍士官学校に入校し、1891年(明治24年)7月30日卒業する。士官候補生(士候)2期。1892年(明治25年)3月21日、陸軍砲兵少尉に任官し、野砲兵第1連隊附を命ぜられる。鈴木の士候2期の同期生には台湾軍司令官菅野尚一大将、朝鮮軍司令官森岡守成大将、中国軍事顧問を務めた坂西利八郎中将や、侍従武官山根一貫少将がいる。


1894年
(明治27年)10月に中尉に進級した鈴木は日清戦争に出征し、帰還後の1896年(明治29年)11月、陸軍砲工学校を卒業し独立野戦砲兵大隊附を命ぜられる。1897年(明治30年)4月から第7師団副官となり、1902年(明治35年)12月から陸軍大学校教官を兼ねる。1904年(明治37年)3月、野砲兵第8連隊附となり、同年6月に日露戦争の動員下令と共に野砲兵第8連隊補充大隊長を命ぜられる。1905年(明治38年)1月、野砲兵第10連隊大隊長を命ぜられ2月に出征する。同年11月から関東総督府砲兵部員に移り、1907年(明治40年)2月、野砲兵監部附、同年11月、砲兵中佐に進級し近衛野砲連隊附を命ぜられる。


1909年
(明治42年)4月、陸軍省軍務局課員の後、1911年(明治44年)9月からヨーロッパ出張を命ぜられる。

1912年(明治45年)5月8日に野砲兵第21連隊長に任命され、7月15日、砲兵大佐に進級し、同8月に帰国する。1914年(大正3年)5月11日から陸軍省軍務局砲兵課長に就任、同6年8月6日には陸軍少将に進級して野砲兵第1旅団長、1919年(大正8年)2月20日、野戦重砲兵第1旅団長、1921年(大正10年)3月11日から陸軍士官学校長を務める。同年7月20日、陸軍中将に進級、1922年(大正11年)8月15日、砲兵監を拝命する。


1924年(大正13年)2月4日、第14師団長に親補され、同年8月20日、陸軍技術本部長に移る。1926年(大正15年)7月28日に軍事参議官に親補され、兼勤として引き続き陸軍技術本部長を命じられた[1]1927年(昭和2年)7月26日、陸軍大将に親任される。1928年(昭和3年)3月8日、陸軍技術本部長の兼勤を免じられる。1933年(昭和8年)3月30日、予備役1935年(昭和10年)4月、後備役。


1938年
(昭和13年)4月21日から靖国神社宮司を務め、1942年(昭和17年)8月には大日本青少年団長を兼ねる。青少年団長は1945年(昭和20年)6月に退任、靖国神社宮司は1946年(昭和21年)1月17日に退任する。同年、公職追放される[2]


戦後になって1952年(昭和27年)3月に追放解除[3]1954年(昭和29年)4月から旧陸軍将校たちでつくる偕行社会長に就任し、1958年(昭和33年)7月に退任する。


1964年
(昭和39年)1月29日死去。

栄典
位階
1892年(明治25年)7月6日 - 正八位[4]

勲章等
1927年(昭和2年)9月6日 - 勲一等瑞宝章

1933年(昭和8年)7月21日 - 旭日大綬章[5]

功三級金鵄勲章

親族
内閣総理大臣鈴木貫太郎男爵海軍大将)は兄。永田茂陸軍中佐は末弟。

・妻 鈴木モト 立見尚文陸軍大将の娘。

・次男 鈴木英(海軍中佐海将

・娘は建設大臣衆議院議員始関伊平に嫁ぐ。

・娘の夏子は小田村有芳長男・嘉穂の妻。

脚注
1. 帝国陸軍では、親補職にあった中将が、親補職でない職に就く際に、一定の基準で、親補職たる軍事参議官を本職、親補職でない職を兼勤させる慣習があった。額田坦『陸軍省人事局長の回想』芙蓉書房、1977年(昭和52年)、227頁。
2. 『朝日新聞』1946年2月10日一面。
3. 『朝日新聞』1952年3月10日夕刊一面。
4. 『官報』第2707号「叙任及辞令」1892年7月7日。
5. 『官報』第1967号「叙任及辞令」1933年7月22日。
(wikiより)

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鈴木孝雄

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鈴木 貫太郎(すずき かんたろう、1868年1月18日慶応3年12月24日〉- 1948年昭和23年〉4月17日)は、日本海軍軍人政治家。最終階級海軍大将栄典従一位勲一等功三級男爵


海軍士官として海軍次官連合艦隊司令長官海軍軍令部長(第8代)などの顕職を歴任した。予備役編入後に侍従長に就任、さらに枢密顧問官も兼任した。枢密院副議長(第14代)、枢密院議長(第20・22代)を務めたあと、小磯國昭の後任として内閣総理大臣第42代)に就任した。一時、外務大臣第70代)、大東亜大臣(第3代)も兼任した。陸軍の反対を押し切って、ポツダム宣言受諾により第二次世界大戦終戦に導いた。

生涯

生い立ちから海軍時代

1868年1月18日慶応3年12月24日)、和泉国大鳥郡伏尾新田(現在の大阪府堺市中区伏尾で、当時は下総関宿藩飛地)に関宿藩士で代官鈴木由哲と妻・きよの長男として生まれる。1871年明治4年)に本籍地である千葉県東葛飾郡関宿町(現・野田市)に居を移す。


1877年
(明治10年)、群馬県前橋市に転居し、厩橋学校前橋中学攻玉社を経て、1884年(明治17年)に海軍兵学校に入学(14期)。1895年(明治28年)、日清戦争に従軍。第三水雷艇隊所属の第五号型水雷艇第6号艇艇長として威海衛の戦いに参加し、発射管の不備もあって夜襲では魚雷の発射に失敗したものの(戦後、部下の上崎辰次郎上等兵曹が責任を感じ自決している)、湾内の防材の破壊や偵察などに従事した。その後、海門航海長として台湾平定に参加、次いで比叡金剛を経て、1897年(明治30年)海軍大学校入学、砲術を学んだ後、1898年(明治31年)甲種学生として卒業。


1888年
(明治21年)に、旧会津藩士・大沼親誠の娘・とよと結婚した。とよの姉は出羽重遠夫人である[2][3]


ドイツ
駐在中だった1903年(明治36年)9月26日に鈴木は中佐に昇進したが、一期下の者たちより低いその席次[注 1]に腹をたて退役まで検討したが、「日露関係が緊迫してきた、今こそ国家のためにご奉公せよ」という手紙を父親から受けたことにより、思いとどまったという[4]。同年末に日本海軍は対ロシア戦のため、アルゼンチンの発注でイタリアにおいて建造され竣工間近であった装甲巡洋艦「リバタビア」を急遽購入し[5]、同艦は「春日」と命名され、鈴木がその回航委員長に任じられた[5]


「春日」とその僚艦「日進」が日本に近付いた1904年(明治37年)2月、日本が仕掛ける形で日露戦争が始まった。日本に到着した鈴木はそのまま「春日」の副長に任命され[6]黄海海戦にも参加している[7]。その後第五駆逐隊司令を経て[8]、翌1905年(明治38年)1月に第四駆逐隊司令に転じ[9]、持論だった高速近距離射法を実現するために猛訓練を行い[8]、部下から鬼の貫太郎、鬼の艇長、鬼貫と呼ばれたが、自らの駆逐隊で敵旗艦である戦艦「クニャージ・スヴォーロフ」、同「ナヴァリン」、同「シソイ・ヴェリキィー」に魚雷を命中させるなどの戦果を挙げ[10]日本海海戦の勝利に貢献した。日露戦争後の海軍大学校教官時代には駆逐艦、水雷艇射法について誤差猶予論、また軍艦射法について射界論を説き、海軍水雷術の発展に理論的にも貢献している[11]。この武勲により、功三級金鵄勲章を受章する。


1914年
大正3年)、海軍次官となり、シーメンス事件の事後処理を行う。1923年(大正12年)、海軍大将となり、1924年(大正13年)に連合艦隊司令長官に、翌年海軍軍令部長に就任。

海軍出の侍従長

1929年昭和4年)に昭和天皇皇太后・節子(貞明皇后)の希望で、予備役となり侍従長に就任した。鈴木自身は宮中の仕事には適していないと考えていた。鈴木が侍従長という大役を引き受けたのは、それまで在職していた海軍の最高位である軍令部長よりも侍従長が宮中席次にすると30位くらいランクが下だったが、格下になるのが嫌で天皇に仕える名誉ある職を断った、と人々に思われたくなかったからといわれる。[4]


宮中では経験豊富な侍従に大半を委ねつつ、いざという時の差配や昭和天皇の話し相手に徹し、「大侍従長」と呼ばれた。また、1930年(昭和5年)に、海軍軍令部長・加藤寛治ロンドン軍縮条約に対する政府の回訓案に反対し、単独帷幄上奏をしようとした際には、後輩の加藤を説き伏せ思い留まらせている[12]。本来、帷幄上奏を取り次ぐのは侍従武官長であり、当の奈良武次が「侍従長の此処置は大に不穏当なりと信ず」と日記に記しているように、鈴木の行動は越権行為のおそれがあった[13]


昭和天皇の信任が厚かった反面、国家主義者・青年将校たちからは牧野伸顕と並ぶ「君側の奸」と見なされ、このあと命を狙われることになった[14]。一方で宮内省側でも青年将校らの動向は当時懸念されており、「若し軍人が宮中に武装してきたらどうするか」が論議されたときには、鈴木は即座に「軍人でもなんでも無法の者は撃て」と述べたという[15]

二・二六事件

1936年(昭和11年)2月26日に二・二六事件が発生した。事件前夜に鈴木はたか夫人と共に駐日アメリカ大使ジョセフ・グルーの招きで夕食会に出席した後、11時過ぎに麹町三番町の侍従長官邸に帰宅した。


午前5時頃に安藤輝三陸軍大尉の指揮する一隊が官邸を襲撃した[16]。はじめ安藤の姿はなく、下士官が兵士たちに発砲を命じた。鈴木は四発を肩、左脚付根、左胸、脇腹に被弾し倒れ伏した[16]。血の海になった八畳間に現れた安藤に対し、下士官の一人が「中隊長殿、とどめを」と促した[16]。安藤が軍刀を抜くと、部屋の隅で兵士に押さえ込まれていた妻のたかが「おまちください!」と大声で叫び、「老人ですからとどめは止めてください。どうしても必要というならわたくしが致します」と気丈に言い放った[16]。安藤はうなずいて軍刀を収めると、「鈴木貫太郎閣下に敬礼する。気をつけ、捧げ銃」と号令した[16]。そしてたかの前に進み、「まことにお気の毒なことをいたしました[16]。われわれは閣下に対しては何の恨みもありませんが、国家改造のためにやむを得ずこうした行動をとったのであります」と静かに語り、女中にも自分は後に自決をする意を述べた後、兵士を引き連れて官邸を引き上げた[16]


反乱部隊が去った後、鈴木は自分で起き上がり「もう賊は逃げたかい」と尋ねた。たかは止血の処置をとってから宮内大臣の湯浅倉平に電話をかけ、湯浅は医師の手配をしてから駆けつけた[17]。鈴木の意識はまだはっきりしており、湯浅に「私は大丈夫です。ご安心下さるよう、お上に申し上げてください」と言った[4][17]。声を出すたびに傷口から血が溢れ出ていた[17]。鈴木は大量に出血しており、駆けつけた医師がその血で転んだという風評が立った[17]


近所に住んでいた日本医科大学学長・塩田広重とたかが血まみれの鈴木を円タクに押し込み日医大飯田町病院に運んだが、出血多量で意識を喪失、心臓も停止した[18]。直ちに甦生術が施され、枕元ではたかが必死の思いで呼びかけたところ[注 2]、奇跡的に息を吹き返した[18]。頭と心臓、及び肩と股に拳銃弾を浴び瀕死の重症だったが、胸部の弾丸が心臓をわずかに外れたことと頭部に入った弾丸が貫通して耳の後ろから出たことが幸いした[20]


安藤輝三は以前に一般人と共に鈴木を訪ね時局について話を聞いており面識があった[20]。安藤は鈴木について「噂を聞いているのと実際に会ってみるのでは全く違った。あの人は西郷隆盛のような人だ。懐の深い大人物だ」と言い[21]、後に座右の銘にするからとを鈴木に希望し、鈴木もそれに応えて書を安藤に送っている[21]。安藤が処刑された後に、鈴木は記者に「首魁のような立場にいたから止むを得ずああいうことになってしまったのだろうが、思想という点では実に純真な、惜しい若者を死なせてしまったと思う」と述べた[21]。決起に及び腰であった安藤に対して磯部浅一は死ぬまで鈴木を憎み続け、獄中で残した日記で他の「君側の奸」たちとともに繰り返し罵倒している。


1937年(昭和12年)1月、鈴木の生地に鎮座する多治速比売神社に二・二六事件での負傷からの本復祝としてたか夫人と参拝し「重症を負った時、多治速比売命が、枕元にお立ちになって命を救われました。そのお礼にお参りに来ました。」と語ったと、当時の宮司夫人等により伝えられている[22]

内閣総理大臣に就任

1941年12月に日本は大東亜戦争に参戦したが、戦況が悪化した1945年(昭和20年)4月、枢密院議長に就任していた鈴木は、戦況悪化の責任をとり辞職した小磯國昭の後継を決める重臣会議に出席した[23]

構成メンバーは6名の総理経験者と内大臣木戸幸一、そして枢密院議長の鈴木であった[23]若槻禮次郎近衛文麿岡田啓介平沼騏一郎らは首相に鈴木を推したが[24]、鈴木は驚いて「とんでもない話だ。お断りする」と答えた[4][25]。しかし既に重臣の間では昭和天皇の信任が厚い鈴木の首相推薦について根回しが行われていた。


東條英機は、陸軍が本土防衛の主体であるとの理由で元帥陸軍大将畑俊六を推薦し[26]、「陸軍以外の者が総理になれば、陸軍がそっぽを向く恐れがある」と高圧的な態度で言った[27]。これに対して岡田啓介が「陛下のご命令で組閣をする者にそっぽを向くとは何たることか。陸軍がそんなことでは戦いがうまくいくはずがないではないか」と東條をたしなめ[28]、東條は反論できずに黙ってしまった[24]。こうして重臣会議では鈴木を後継首班にすることが決定された[25]


重臣会議の結論を聞いて天皇は鈴木を呼び、組閣の大命を下した[29]。この時の遣り取りについては、侍立した侍従長の藤田尚徳の証言がある[29]。「軍人は政治に関与せざるべし」という信念があったことなどから[30]あくまで辞退の言葉を繰り返す鈴木に対して[31]、「鈴木の心境はよくわかる。しかし、この重大なときにあたって、もうほかに人はいない。頼むから、どうか曲げて承知してもらいたい」と天皇は述べた[32][33]。鈴木は自分には政治的手腕はないと思っていたが、天皇に「頼む」とまで言われそれ以上固辞しなかった[33]皇太后は天皇よりも30歳以上年上の鈴木に対し、「どうか陛下の親代わりになって」と語った。


鈴木は非国会議員[注 3]江戸時代生まれ[注 4]という二つの点で、内閣総理大臣を務めた人物の中で、最後の人物である(但し鈴木が亡くなった時点で平沼のほか、岡田や若槻も存命していたため江戸時代生まれの首相経験者で最後の生き残りではない)。また満77歳2ヶ月での就任は、日本の内閣総理大臣の就任年齢では、最高齢の記録である(2020年8月現在)[注 5]


鈴木は総理就任にあたり、メディアを通じて次のように表明した[34]


今日こんにち、私に大命が降下いたしました以上、私は私の最後のご奉公と考えますると同時に、まず私が一億国民諸君の真っ先に立って、死に花を咲かす。国民諸君は、私の屍を踏み越えて、国運の打開に邁進されることを確信いたしまして、謹んで拝受いたしたのであります。

                                   — 昭和20年4月7日、内閣総理大臣 鈴木貫太郎

日米関係への姿勢
鈴木の就任後、まもなく死亡したアメリカ大統領ルーズベルトの訃報を知ると、同盟通信社の短波放送により、

今日、アメリカがわが国に対し優勢な戦いを展開しているのは亡き大統領の優れた指導があったからです。私は深い哀悼の意をアメリカ国民の悲しみに送るものであります。しかし、ルーズベルト氏の死によって、アメリカの日本に対する戦争継続の努力が変わるとは考えておりません。我々もまたあなた方アメリカ国民の覇権主義に対し今まで以上に強く戦います。

                      — 内閣総理大臣 鈴木貫太郎

という談話を、世界へ発信している[35]。1945年4月23日のTIME誌の記事では、以下のように発言が引用されている。

I must admit that Roosevelt's leadership has been very effective and has been responsible for the Americans' advantageous position today. For that reason I can easily understand the great loss his passing means to the American people and my profound sympathy goes to them.


翻訳:大日本帝国としては、ルーズベルト大統領のリーダーシップが優れており、それが現在のアメリカ優勢の戦況をもたらしていることを認めざるを得ません。よって彼の死去はアメリカ人にとって大きな損失であることを理解し、これに哀悼の意を表します。

同じ頃、同盟国であるドイツ総統アドルフ・ヒトラーも敗北寸前だったが、ラジオ放送でルーズベルトを口汚く罵っていた[32]。アメリカに亡命していたドイツ人作家トーマス・マンが鈴木のこの放送に深く感動し、イギリスBBCで「ドイツ国民の皆さん、東洋の国・日本には、なお騎士道精神があり、人間の死への深い敬意と品位が確固として存する。鈴木首相の高らかな精神に比べ、あなたたちドイツ人は恥ずかしくないですか」と声明を発表するなど、鈴木の談話は戦時下の世界に感銘を与えた[36]


一方、ドイツの首脳であるヨーゼフ・ゲッベルスは日記において「日本大使も認めているように降伏のための内閣で、期待はできない」、「最近のヨーロッパについての言及ではドイツがまるで出てこない」など新内閣が降伏を前提として誕生したものと早くから見破っていた。鈴木の側も国家元首であるヒトラーの自殺には追悼声明もせずに、東京のドイツ大使館で行われた追悼式典に儀典課長を派遣した程度に留めていた。
[要出典]

戦局が悪化し決戦態勢構築が進められていた1945年(昭和20年)6月9日、貴族院および衆議院本会議の演説で、鈴木は徹底抗戦への心構えを述べる中でアメリカの「非道」に触れるに際し、1918年(大正7年)のサンフランシスコ訪問時に「太平洋は名の如く平和の洋にして日米交易のために天の与えたる恩恵である、もしこれを軍隊搬送のために用うるが如きことあらば、必ずや両国ともに天罰を受くべしと警告した」というエピソードを紹介した。


2日後の衆議院の委員会で、質問に立った小山亮から「国民は詔勅にある『天佑』を信じて戦いに赴いているのであり、天罰を受けるなどという考えは毛頭持っていないだろう」として、演説での発言が国民に悪影響を与えるのではないかという疑念を打ち消すような釈明を求められた。これに対する鈴木の答弁(発言を後から取り消したため会議録では抹消されている)に議場は紛糾し、その後の再度の鈴木の釈明に「これでは内閣に信を置けない」として、小山は質問を打ち切り、退席する事態となった(天罰発言事件)。


議会召集に最初から反対していた和平派の海軍大臣・米内光政は、内閣を反逆者扱いする議会に反発して、閉会を主張するとともに辞意を表明、内閣は瓦解の危機に瀕した[37]。抗戦派と目された陸軍大臣・阿南惟幾は、鈴木とともに米内を説得し、内閣瓦解をなんとか防いだ[37]


この鈴木の国会演説に関して半藤一利は、鈴木が日本の立場(平和を愛する天皇と国家)を訴えて、連合国の無条件降伏の主張を変えさせることが目的だったと記している[38]。これに対し保阪正康は、鈴木の意図は天皇との暗黙の了解のもと、議会に真意を汲ませて和平へと国論を向ける助力とすることにあったと述べている[37]

終戦工作

1945年(昭和20年)6月6日、最高戦争指導会議に提出された内閣総合企画局作成の『国力の現状』では、産業生産力や交通輸送力の低下から、戦争継続がほとんどおぼつかないという状況認識が示されたが、「本土決戦」との整合を持たせるために「敢闘精神の不足を補えば継戦は可能」と結論づけられ、6月8日の御前会議で、戦争目的を「皇土保衛」「国体護持」とした「戦争指導大綱」が決定された[39]


この日の重臣会議で、若槻禮次郎から戦争継続についての意見を尋ねられた時、鈴木は「理外の理ということもある。徹底抗戦で利かなければ死あるのみだ!」と叫びテーブルを叩いた。このとき同席した東條英機は満足してうなずいたが、近衛文麿は微笑しており若槻が不審に思った。


これは、東條ら戦争継続派に対する鈴木のカムフラージュと言われており、内大臣(木戸幸一)に会いに行くと、「皇族をはじめ、自分たちの間では和平より道はもうないといふ事に決まって居るから、此事、お含み置きくださいといふ話。若槻さんは首相はどうなのですかと訊くと、勿論、和平説ですといふ内大臣の返事で、初めて近衛さんの微笑の謎が解けたといふ」[40]という若槻の証言が残っている。前記の「天罰」発言がなされたのはその翌日であった。


「戦争指導大綱」に従い、国民義勇戦闘隊を創設する義勇兵役法など、本土決戦のための体制作りが進められた。7月に陸軍将校の案内で、鈴木は内閣書記官長迫水久常とともに、国民義勇戦闘隊に支給される武器の展示を見学したが、置かれていたのは、鉄片を弾丸とする先込め単発銃・竹槍・刺又など、全て江戸時代の代物で、迫水が後年の回想(『機関銃下の首相官邸』)で「陸軍の連中は、これらの兵器を、本気で国民義勇戦闘隊に使わせようと思っているのだろうか。私は狂気の沙汰だと思った」と記すほどのものであった[41]


こうした状況で、木戸幸一と米内光政の働きかけにより、6月22日の御前会議でソ連に米英との講和の仲介を働きかけることが決定された[42]。ソ連は日ソ中立条約の延長を拒否したが、条約は規定に従い1946年(昭和21年)春まで有効となっていた。「日本軍の無条件降伏」を求めたポツダム宣言に、ソ連が署名していなかったことも政府側に期待を持たせた。鈴木は「西郷隆盛に似ている」と語るなど秘書官の松谷誠らとともに、ソ連のヨシフ・スターリンに期待していた[43]


一方でスターリンは、1945年2月のヤルタ会談で、ルーズベルトとの会談でヨーロッパ戦線が終わった後に「満州国千島列島樺太に侵攻する」ことを約束しており、3週間前のポツダム会談において、アメリカ大統領トルーマンに、日本から終戦の仲介依頼があったことを明かし、「日本人をぐっすり眠らせておくのが望ましい」ため「ソ連の斡旋に脈があると信じさせるのがよい」と提案しており、トルーマンもこれに同意していた[44]


ポツダム宣言
発表翌日の7月27日未明、外務省経由で宣言の内容を知った政府は、直ちに最高戦争指導会議及び閣議を開き、その対応について協議した[45]。その結果、外務大臣・東郷茂徳の「この宣言は事実上有条件講和の申し出であるから、これを拒否すれば重大な結果を及ぼす恐れがある。よって暫くこれに対する意見表示をしないで見送ろう。その間に対ソ交渉を進めソ連の出方を見た上で何分の措置をとりたい」という意見で合意し[46]、政府の公式見解は発表しないという方針を取った[47]


翌28日付の各紙朝刊では、「帝国政府としては、米・英・重慶三国の共同声明に関しては、何等重大なる価値あるものに非ずしてこれを黙殺するであろう」等の論評が付せられたものの、その他は宣言の要約説明と経過報告に終始し、扱いも小さなものであった[48]


ところが、継戦派の梅津美治郎阿南惟幾豊田副武らが、宣言の公式な非難声明を出すことを政府に強く提案し[49]、これに押し切られる形で米内が「政府がポツダム宣言を無視するという声明を出してはどうか」と提案して認められた[49][50]


28日午後におこなわれた記者会見において、鈴木は「共同聲明はカイロ會談の焼直しと思ふ、政府としては重大な價値あるものとは認めず默殺し、斷乎戰爭完遂に邁進する」というコメントを述べた[51]


鈴木は、ポツダム宣言に対しては意見を特に言わない、との態度をとったつもりであり、「黙殺」という言葉についても「no comment(ノーコメント、大人びた態度でしばらく賛否の態度を表明しない)」という意図をこめていたが[52]、翌日新聞各紙に「黙殺する」という言葉を大きく取り上げられ、結果的にこの発言が連合国側にポツダム宣言に対する reject(拒否)と解されたことは誤算となった[52]。この「黙殺」は同盟通信社により「ignore it entirely(全面的に無視)」と翻訳され、ロイターAP通信では「reject(拒否)」と報道された。


記者会見に出席した同盟通信国際局長の長谷川才次は、「政府はポツダム宣言を受諾するのか」という質問に対して鈴木が「ノーコメント」と回答したことをはっきり記憶していると戦後に述べている[53]。また、鈴木の孫の哲太郎は1995年(平成7年)の8月のNHKラジオの戦後50年特集番組において、「祖父の本心は『ノーコメント』と言いたかったのだと思うが、陸軍の圧力で『黙殺』になってしまったのだろう。祖父は後で、あの『黙殺』発言は失敗だった、もっと別の表現があったと思うと漏らしていた」と語っている。


ポツダム宣言に対する大日本帝国政府の断固たる態度を見たアメリカが、日本への原子爆弾投下を最終的に決断したとの見方もある[注 6]。鈴木自身は自叙伝のなかで、「(軍部強硬派の)圧力で心ならずも出た言葉であり、後々にいたるまで余の誠に遺憾とする点」であると反省している[55]


高木惣吉海軍少将は米内に対して「なぜ総理にあんなくだらぬことを放言させたのですか」と質問したが、米内は沈黙したままで、鈴木のみが責をとった形となった。


トルーマンの日記には7月25日に「この兵器(原爆)は日本の軍事基地に対して今日から8月10日までの間に用いられる」と記しており、鈴木の発言とは関わりがない[56]。この7月25日は原爆投下の正式な日取りが決定された日で、長谷川毅は、トルーマンが日本のポツダム宣言拒否後に原爆投下を決定したというのは歴史的事実に反し、宣言発表前に原爆投下は既に決定されており、むしろ投下を正当化するためにポツダム宣言が出されたのだと述べている[57]


一方で、同時期にポツダム宣言を受諾するよう促された鈴木が、内閣情報局総裁下村宏等に、「今戦争を終わらせる必要はない」との発言をしたという記録もある[58]。また、トルーマンは「今のところ最後通牒に正式な返答はない。計画に変更はなし。原爆は、日本が降伏しない限り、8月3日以後に(軍事基地に)投下されるよう手配済みである」と述べており、原爆投下の決定は「黙殺」発言に影響を受けていないにせよ、原爆投下計画は、日本側の沈黙を受けてのものであることにかわりはない。


8月6日の広島市への原子爆弾投下、9日のソ連対日参戦長崎市への原子爆弾投下、15日の終戦に至る間、鈴木は77歳の老体を押して不眠不休に近い形で終戦工作に精力を尽くした。昭和天皇の希望は「軍や国民の混乱を最低限に抑える形で戦争を終らせたい」というものであり、鈴木は「天皇の名の下に起った戦争を衆目が納得する形で終らせるには、天皇本人の聖断を賜るよりほかない」と考えていた。


8月10日未明[注 7]から行われた天皇臨席での最高戦争指導会議(御前会議)では、ポツダム宣言受諾を巡り、東郷茂徳が主張し米内光政と平沼騏一郎が同意した1条件付受諾と、本土決戦を主張する阿南惟幾が参謀総長・梅津美治郎と軍令部総長・豊田副武の同意を受け主張した4条件付受諾との間で激論がたたかわされ、結論がでなかった[59]


午前2時頃に鈴木が起立し、「誠に以って畏多い極みでありますが、これより私が御前に出て、思召しを御伺いし、聖慮を以って本会議の決定と致したいと存じます」と述べた[60]。昭和天皇は涙ながらに、「朕の意見は、先ほどから外務大臣の申しているところに同意である」と即時受諾案に賛意を示した[60]


昭和天皇の聖断が下ったが、ポツダム宣言に記された国体に関する条文の解釈について、外務省と軍部の間で見解が分裂し[61]、8月14日に再度御前会議が招集され天皇の聖断を再び仰ぐことになった[62]。御前会議は8月14日正午に終わり、日本の降伏が決まった[63]


8月15日の早朝、佐々木武雄陸軍大尉を中心とする国粋主義者達が総理官邸及び小石川の私邸を襲撃し(宮城事件)、鈴木は警護官に間一髪救い出された[64]。正午、昭和天皇の朗読による玉音放送がラジオで放送された。この日の未明、阿南惟幾が自刃した。同日、鈴木は天皇に辞表を提出し鈴木内閣は総辞職したが、東久邇宮内閣が成立する8月17日まで職務を執行している。

詳しいことは、「鈴木貫太郎ウィキペディア」をご覧ください。 ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%88%B4%E6%9C%A8%E8%B2%AB%E5%A4%AA%E9%83%8E
(wikiより)

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鈴木貫太郎

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この地は 江戸時代の処刑場跡と伝えられています。 


石碑はもともと小高い土手の上にありましたが 今では土手が削られて現在のような形になってしまいました。


石碑には南無妙法蓮華経と刻まれており また側面には享和元年 ( 1801 ) とありますので 石碑の建立年代は この時であったと思われます。


しかし処刑場が出来たのか それ以前にあったのかは 判然としていません 


また この処刑場に関しては別な話も伝わっていて、実際に処刑したのはここではなく もっと東の利根川べりで、ここには首だけを持ってきて埋葬した場所だという話もあります。


江戸時代の刑罰の中で引回しは、死罪の中で重いものに付加刑として行なわれるもので 獄門 ( ごくもん ) 磔 ( はりつけ ) 火焙 ( ひあぶり ) の刑にはだいたい付加刑として 引回しがつきものでした 図のような 斬首 ( 首切り ) の刑には 下手人から始まり 死罪・獄門・磔・鋸引き・火焙りと 6段階の刑があり また他に武士だけに許された切腹もありました。


罪の重さによって決められて行きますが斬首には変わりありません。

 今では心霊スポットとして紹介されているようです。

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晩年をこの地で過ごした鈴木貫太郎翁は、地元の農家の若者を教育するために、指導者を招いたり尽力しました。


その影響もあり、関宿地域で酪農がさかんになったといわれています。


この碑は、昭和 29年 ( 1954 )、鈴木家の敷地に集乳所が新設されたのを記念して、関宿町酪農組合によって建てられた記念碑です。


タカ夫人により書かれた貫太郎翁の日常訓「以和為貴 ( 和をもって貴しとなす )」の文字が刻まれています。
(案内板より)

 鈴木貫太郎記念館の隣にあります。

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鈴木貫太郎記念館(すずきかんたろうきねんかん)とは、大日本帝国海軍軍人で第42代内閣総理大臣を務めた鈴木貫太郎ゆかりの品を展示する千葉県野田市立の記念館である。

解説

1963年昭和38年)、鈴木の本籍地であり、幼少期と最晩年を過ごした地でもある千葉県東葛飾郡関宿町に開館した。所在地は鈴木の旧宅があった場所の隣に当たる。鈴木の遺品など1,000点以上を所蔵するほか、昭和天皇臨席で鈴木内閣が太平洋戦争日本の降伏を決めた場面を描いた油絵「最後の御前会議」(白川一郎画)が展示されている[2]2019年二・二六事件に関与した安藤輝三の遺品が遺族によって寄贈された[3]


2011年9月、遺品のすずり箱と銀製のたばこ入れ、銀製のウサギの置物の3点が盗難被害に遭った[4]

鈴木貫太郎の詳細は鈴木貫太郎を参照。

施設概要
・所在地 270-0200 千葉県野田市関宿町1273 地図(MapFan Web)

・駐車場 一般:12台、障害者用:2台

利用情報
アクセス
東武鉄道野田線 川間駅から朝日バス「関宿城博物館」「境車庫」行きで「関宿台町」下車、徒歩1分

・東武鉄道伊勢崎線 東武動物公園駅から朝日バス「境車庫」行きで「関宿台町」下車、徒歩1分

開館時間
・9時〜16時30分

定休日
月曜日祝日振替休日の場合は翌日)

・祝日の翌日

年末年始

入館料
・無料

周辺スポット
千葉県立関宿城博物館

関根金次郎墓碑

・實相寺:鈴木貫太郎の墓がある。

脚注
1. 野田市鈴木貫太郎記念館の設置及び管理に関する条例
2. 【ミュージアムへ行こう】鈴木貫太郎記念館(千葉県野田市)したたかに国救った宰相『読売新聞』夕刊2018年8月14日(6面)
3. 千葉)鈴木貫太郎記念館に 2・26事件将校の遺品寄贈:朝日新聞デジタル” (日本語). 朝日新聞デジタル. 2020年6月25日閲覧。
4. 鈴木貫太郎記念館で遺品3点盗難 終戦時の首相” (日本語). 日本経済新聞 (2011年9月2日). 2020年6月25日閲覧。

関連項目
房総の魅力500選

外部リンク
紹介ページ(野田市ホームページ内)

紹介ページ(infoちば内)
(wikiより)

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尚志道人は、寛延四年 ( 1751 ) 生まれ、天明宿成就院山崎氏の養子となり観純と称した。


勤王思想の高揚につとめ、尚志堂塾を開いて多くの子弟を教育した。


また活字を作って「閑居筆録」などの著書も出版した。


さらに、剣道に長じ、医学にも通じた。


尚志道人の活躍は、安永年間から文化十二年 ( 1815 ) に六十四歳で没するまでの四十年余にわたり、その間、尚志堂塾へは「山陵志」の著書である蒲生君平なども訪れている。
(案内板より)

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秋山 要助(あきやま ようすけ、安永元年11月25日1772年12月19日) - 天保4年8月25日1833年10月8日))は江戸時代剣客扶桑念流(扶桑無念流)を開いた。正武[1]通称要助[1]雲嶺雷角斎入道


1772年
安永元年)、武蔵国埼玉郡箱田村(現 埼玉県熊谷市箱田)の農民の子として生まれる[1]。父・善太郎から鹿島新当流を学び、その後、神道無念流第2代の戸賀崎暉芳に学び、神道無念流の印可を授かった。次に同流の江戸の神田猿楽町の岡田吉利(初代 岡田十松)の撃剣館に入門した[1]。さらに近藤三助より天然理心流も学んだ。


1800年
寛政12年)、常陸国多賀郡平潟村(現 茨城県北茨城市)で撃剣館の同門の大橋平吉の仇討に助勢し、剣名をあげた[1]


弟子の大川平兵衛に神道無念流を継がせ、1811年文化8年)、故郷の箱田と武蔵国飯能(現 埼玉県飯能市)に道場「扶桑館」を開き、自らの流儀を扶桑念流(扶桑無念流)と称した。


50歳頃、高田藩士・酒井良祐直心影流)との試合に敗れた。


1827年
文政10年)、53歳で剃髪し雲嶺と号した。


1830年、上野国佐野の山崎観純と郷学「講武堂」を設け、水戸高崎伊勢崎にも道場を開いた[1]

秋山要助が登場する作品
小説
・幕末浪漫剣(鳥羽亮

・秘剣風哭 剣狼秋山要助(鳥羽亮)

・武蔵野水滸伝(山田風太郎

・狼の眼(隆慶一郎)※短編

関連項目
大川平兵衛

脚注
1. a b c d e f 『江戸時代人物控1000』、山本博文監修 小学館、2007年、11頁。ISBN 978-4-09-626607-6 
(wikiより)

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田中 正造(たなか しょうぞう、天保12年11月3日1841年12月15日) - 1913年大正2年)9月4日)は、日本政治家。日本初の公害事件と言われる足尾鉱毒事件の重鎮であり[1]明治天皇直訴しようとしたたことで有名。衆議院議員選挙に当選6回。幼名は兼三郎下野国安蘇郡小中村(現・栃木県佐野市小中町)出身。

生涯
生い立ち

生まれは名主の家ではあったが、田中本人によれば村では中流で、それほど裕福な家ではなかったという。


父の跡を継いで小中村の名主となり、幕末から村民らと領主である高家六角家に対して政治的要求を行っていたが、このことがもとで明治維新直前の慶応4年(1868年)に投獄された。なお、この時のは縦横高さともに1mほどしかない狭いもので、立つことも寝ることもできない過酷な構造だった。翌年に出所。


明治3年1870年)、江刺県花輪支庁(現・秋田県鹿角市)の官吏となった。翌年、上司の木村新八郎殺害の容疑者として逮捕され、投獄されている。これは物的証拠もなく冤罪だったと思われるが、正造の性格や言動から当時の上役たちに反感を持たれていたのが影響したらしい。


1874年
明治7年)に釈放されて小中村に戻り、1876年(明治9年)まで隣の石塚村(現・佐野市石塚町)の造り酒屋蛭子屋の番頭を務めた。幕末に大沢カツと結婚しているが、その結婚の年については諸説ある。

初期の政治活動

1878年(明治11年)、区会議員として政治活動を再開。『栃木新聞』(現在の『下野新聞』)が創刊されると、翌年には同紙編集長になり、紙面上で国会の設立を訴えた。また、嚶鳴社交詢社に社員として参加している。


1880年
(明治13年)、栃木県議会議員。1882年(明治15年)4月、立憲改進党が結党されると、その年の12月に入党している。県令(現在の知事)だった三島通庸と議会で対立。自由民権運動のなかで、加波山事件に関係したとして1885年(明治18年)逮捕されるが、三島が異動によって栃木県を去ると年末に釈放された。1886年(明治19年)4月1日開会の第13回臨時県会で議長に当選する[2]

足尾銅山鉱毒事件
詳細は「足尾鉱毒事件」を参照

衆議院議員

1890年(明治23年)、第1回衆議院議員総選挙に栃木3区から出馬し、初当選する[3]。田中は帝国議会でも当初は立憲改進党に属していた。この年渡良瀬川で大洪水があり、上流にある足尾銅山から流れ出した鉱毒によってが立ち枯れる現象が流域各地で確認され、騒ぎとなった。


1891年
(明治24年)、鉱毒の害を視察し、第2回帝国議会で鉱毒問題に関する質問を行った[4]1896年(明治29年)にも質問を行い、群馬県邑楽郡渡瀬村(現・群馬県館林市)の雲龍寺で演説を行った。


1897年(明治30年)になると、農民の鉱毒反対運動が激化。東京へ陳情団が押しかけた。当時このような運動には名前がついておらず、農民らは「押出し」と呼んだ。田中は鉱毒について国会質問を行ったほか、東京で演説を行った。農商務省と足尾銅山側は予防工事を確約[5]脱硫装置など実際に着工されるが、効果は薄かった。


1900年
(明治33年)2月13日、農民らが東京へ陳情に出かけようとしたところ、途中の群馬県邑楽郡佐貫村大字川俣村(現・明和町川俣)で警官隊と衝突。流血の惨事となり、農民多数が逮捕された(川俣事件)。この事件の2日後と4日後、田中は国会で事件に関する質問を行った。これが「亡国に至るを知らざれば之れ即ち亡国の儀につき質問書」[6]で、日本の憲政史上に残る大演説であった。2日後の演説の途中で当時所属していた憲政本党を離党した。当時の総理大臣山縣有朋は「質問の意味がわからない」として答弁を拒否した。この年の川俣事件公判の傍聴中、田中があくびをしたところ、態度が悪いとして官吏侮辱罪に問われ、裁判にかけられた。なお、川俣事件は仙台控訴審での差し戻し審で、起訴状に担当検事の署名がないという理由で1902年(明治35年)に公訴不受理(一審で無罪だった者については控訴棄却)という判決が下り、全員が釈放された。


議員辞職 - 直訴

1901年(明治34年)10月23日、田中は議員を辞職[7]したが、鉱毒被害を訴える活動は止めず、主に東京のキリスト教会などで鉱毒に関する演説を度々行った。


12月10日
、東京市日比谷において、帝国議会開院式から帰る途中の明治天皇に足尾鉱毒事件について直訴を行った[8]。途中で警備の警官に取り押さえられて直訴そのものには失敗したが、東京市中は大騒ぎになり、新聞の号外も配られ、直訴状の内容は広く知れ渡った。直訴状は、幸徳秋水が書いたものに田中が加筆修正したと伝えられる。田中は即拘束されたが、政府は単に狂人が馬車の前によろめいただけだとして不問にすることとし(田中本人の言及による)、即日釈放された。田中は死を覚悟しており、釈放後、妻カツ宛に自分は(12月)10日に死ぬはずだったという意味の遺書を書いている。また直訴直前に迷惑がかからないようにとカツに離縁状を送っているが、カツ本人は離縁されてはいないと主張している。


1902年(明治35年)、川俣事件公判の際にあくびをした罪で重禁固40日の判決を受け服役。このとき聖書を読み、影響を受けた。この後の田中の言葉には「悔い改めよ」など、聖書からの引用が多くなる。ただし、キリスト教への改宗はしなかった。

その後の活動

1902年(明治35年)、渡良瀬川下流に貯水池をつくる計画が浮上。建設予定地となっていた埼玉県川辺村・利島村の反対運動に参加し、計画は白紙になった。


1903年
(明治36年)には栃木県下都賀郡谷中村が貯水池になる案が浮上。田中は1904年(明治37年)7月から実質的に谷中村に住むようにしている。同年、栃木県会は秘密会で谷中村買収を決議。貯水池にするための工事が始められた。


1906年
(明治39年)、谷中村議会は藤岡町への合併案を否決するが、栃木県は「谷中村は藤岡町へ合併した」と発表。谷中村は強制廃村となるが、田中はその後も谷中村に住み続けた。1907年(明治40年)、政府は土地収用法の適用を発表。「村に残れば犯罪者となり逮捕される」と圧力をかけ、多くの村民が村外に出たが、田中は強制破壊当日まで谷中村に住み続けて抵抗した。結局この土地が正造の終の棲家となる。


1908年
(明治41年)、政府は谷中村全域を河川地域に指定。1911年(明治44年)4月、旧谷中村村民の北海道常呂郡サロマベツ原野への移住が開始された[9]

正造の最期とその後

土地の強制買収を不服とする裁判などがあり、この後も精力的に演説などを行ったが、自分の生命が先行き長くないことを知ると、1913年大正2年)7月、古参の支援者らへの挨拶回りに出かける(運動資金援助を求める旅だったともされる)。その途上の8月2日、足利郡吾妻村下羽田(現・佐野市下羽田町)の支援者・庭田清四郎宅で倒れ、約1ヵ月後の9月4日に同所で客死した。71歳没。『下野新聞』によれば、死因は胃ガンなど。


財産は全て鉱毒反対運動などに使い果たし、死去したときは無一文だったという。死亡時の全財産は信玄袋1つで、中身は書きかけの原稿と『新約聖書』、鼻紙、川海苔、小石3個[10]、日記3冊、帝国憲法と『マタイ伝』の合本だけであった。なお、病死前の1月22日に、小中の邸宅と田畑は地元の仮称旗川村小中農教会(現・小中農教倶楽部)に寄付していた。邸宅は現在、小中農教倶楽部が管理している。

雲龍寺9月6日に密葬が行われ、10月12日に佐野町(現・佐野市)惣宗寺で本葬が行われた。参列者は20万人ともいわれる。


田中の遺骨は栃木・群馬・埼玉県の鉱毒被害地計6箇所に分骨された。このため、墓は6箇所にある。なお、このうち1箇所は1989年平成元年)に公表されたもので、それ以前の文献では5箇所とされていた。被害地では現代も偉人として尊崇されており、特に佐野市では田中思想や活動を伝える市民団体「田中正造大学」が活動しているほか、佐野市郷土博物館が関連資料を保存・展示している[9]


足尾銅山は1973年昭和48年)に閉山となり、輸入鉱石の製錬も1988年(昭和63年)に終わった。燃料調達のための伐採と煙害によって樹木が失われた山は現在でも禿山が広がり、緑化作業が続けられている[9]。そして田中が明治天皇へ行おうとした直訴状は、2013年平成25年)に渡良瀬遊水地や田中の出生地である佐野市を訪れた125代天皇明仁(当時)へと伝えられることとなった。直訴未遂から実に112年後のことであった。

正造の墓の所在地
・佐野町(現・栃木県佐野市) 惣宗寺 - 正造の本葬が行われた寺。

・渡瀬村(現・群馬県館林市) 雲龍寺 - 正造の密葬が行われた寺。また、足尾銅山鉱業停止請願事務所が置かれていた[9]

・旗川村(現・栃木県佐野市) 浄蓮寺 - 田中家の菩提寺

・藤岡町(現・栃木市) 田中霊祠 - 田中を葬るために谷中村跡につくられた。後に藤岡町堤外に移転。

・利島村(現・埼玉県加須市) - 川辺村民と利島村民が協力し、利島小学校敷地内に造営(現・加須市立北川辺西小学校[11]。加須市麦倉所在)。

・久野村(現・栃木県足利市) 寿徳寺 - 1989年に公表された6番目の分骨地。

正造の祖について
『姓氏』(樋口清之監修・丹羽基二著)によると、『尊卑分脈』に記している岩松氏の一族という。足利義純の子の時朝(岩松時兼の弟、畠山泰国の兄)が田中次郎と称し、足利郡田中郷に定着したと伝わる。子の田中時国、孫の満国は足利尊氏に従い、戦功を立てて正造の代まで至ったという。

その他のエピソード
・正造の天皇直訴の当時、盛岡中学(現・岩手県立盛岡第一高等学校)の学生であった石川啄木は、天皇直訴の報を聞いて、「夕川に 葦は枯れたり 血にまどふ 民の叫びのなど悲しきや」と、その思いを三十一文字に託した。

1973年画仙紙に書かれた田中正造直筆の書などが「田中正造の墨跡」として栃木県有形文化財に指定された。なお、この文化財は2018年時点、所在が不明となっている[12]

詳しいことは、「田中正造ウィキペディア」をご覧ください。 ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B0%E4%B8%AD%E6%AD%A3%E9%80%A0
(wikiより)

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田中正造

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法華堂跡に残されている三浦泰村一族を葬ったとされる「やぐら」。


1247年 ( 宝治元年 )、五代執権北条時頼と戦って敗れた三浦泰村一族ら約 500人は、源頼朝の法華堂で自刃した( 宝治合戦 )。


「やぐら」前面の平場は、北条義時の法華堂跡と考えられている。

〇 三浦泰村
三浦 泰村(みうら やすむら)は、鎌倉時代中期の武将鎌倉幕府の有力御家人三浦義村の次男。館は、鶴岡八幡宮の東。筋替橋の近く。

経歴

当時の三浦氏は、源頼朝の挙兵に参加して大功を挙げた経緯から、相模国河内国に広大な所領を持つ有力御家人の一人であった。当初は遥かに弱小の勢力であった北条氏が急速に力を伸ばし、二代将軍源頼家を失脚させたあたりから幕府第一の実権を握るが、三浦氏はその後もなおこれに拮抗する勢力を維持し続けたとも言われている。


武勇(特に弓術)に優れた泰村は承久3年(1221年)の承久の乱では、父・義村と共に幕府軍の一軍として参戦して活躍した。泰村の生年については諸説ある(後述参照)が、有力とされる『承久記』の説に従えばおおよそこの頃に元服したと考えられる。その際に烏帽子親であった執権・北条氏得宗家当主の北条泰時から偏諱(「泰」の字)を賜って[7]泰村と名乗る。弓馬に卓越した泰村は、放生会での流鏑馬や、正月の弓始などの儀礼において射手の役割をしばしば担当した[8]


泰村は前述の通り烏帽子親である泰時の娘を娶って[3]北条氏の一門衆となり[3]暦仁元年(1238年)には幕府の評定衆の一人にまでなって幕政に参与するようになる。泰時の娘は寛喜2年(1230年)8月に病死して、その後には土御門定通の妹を娶ったとする説もあるが、その定通の妻である竹殿は泰時の異母妹であった[9]

さらに泰村は三浦氏の幕府内における権勢を強めようと、鎌倉幕府第4代将軍・九条頼経に接近して親密な間柄にまでなるようになり、その権勢は北条氏をも凌ぐようになったと言われている。


さらに弟・光村が5代将軍・九条頼嗣との仲を深めるようにまでなったため、執権・北条時頼(泰時の孫)から三浦氏は危険視されるようになる。ただ、時頼本人は泰村と三浦氏に政権中枢からの穏便な引退を望んでいた。

寛元4年(1246年)、時頼は六波羅探題に赴任させていた北条重時を招来することを打診したが、評定の場で泰村のみは承諾せず、頑なにこれを拒んだ。重時が帰参することで自らの政治的地位が低下することを懸念したようだが、これによって時頼や北条一門らの心証をより悪化させた。もし重時の招来を承諾していれば、温厚な重時は三浦氏に穏便な措置を計らってくれたかも知れず、穏健派の重時を遠ざけた事で、三浦氏排斥の過激派である安達景盛が積極的に干渉する機会を与えてしまい、結果として泰村は自ら墓穴を掘ったとも指摘される[10]。一方で、京都でこのことを知った重時に三浦氏排除の必要性を認識させ、安達氏ら反三浦氏勢力と結んだのが宝治合戦の原因と考える研究者[11]もおり、その観点から見ても結果として泰村は自ら墓穴を掘ったと見ることができる。


宝治元年(1247年)、時頼と安達景盛の策謀にかかった泰村は鎌倉で挙兵した。しかしこの反乱は結果的に失敗で、北条軍と安達軍の前に三浦軍は大敗し、追いつめられた泰村は妻子一族郎党と共に鎌倉の法華堂で自害して果てた(宝治合戦)。

人物

生年については『関東評定伝』〈宝治元年条〉に64歳とあるが、『承久記』〈古活字本〉の宇治橋合戦の場面で泰村が「生年18歳」と名乗る場面がある。宝治合戦で死亡した泰村の次男景泰が13歳、九男皆駒丸が4歳である事から、『承久記』の年齢が妥当と考えられる。烏帽子親として「泰」の字を与えた北条泰時得宗家当主であった1224年から1242年の間に元服[注 5]したことが「泰村」の名から明らかであることからもこの説を裏付けることができる。『承久記』の年齢に従えば元久元年(1204年)生まれで享年は44歳[2]。近世以降の書籍では、『北条氏系譜人名事典』が1184年生まれ説を、『鎌倉・室町人名事典』や上横手雅敬著『北条泰時』が『承久記』の記述を採用して1204年生まれ説をそれぞれ主張している。


泰村は承久の乱における宇治川渡河で足利義氏と共に果敢に攻め込むなど武威に優れた人物であったが、他の御家人と諍いを起こしたり、北条氏に対する方針を巡り弟光村と齟齬を来すなど、政治家としての立ち回りには拙い部分があり、優柔不断なところがあった。また、安達氏が北条氏の外戚になったことで、幕府における枢要な地位が三浦から安達へと推移していったことを把握できていなかった[12]。そのことが、安達家との軋轢激化、そして三浦家の孤立を助長し[13]、滅亡へと誘引することとなった。また、安達氏以外にも、下河辺氏に対して強い対抗意識を燃やし、幾度か対立したことが、『吾妻鏡』に書かれている[14]。例えば、1241年に泰村と下河辺行光[注 6]が駿河国で相論を起こしている。これは、秀郷流の故実に精通している下河辺氏が台頭してきたことについて、弓馬に通じ、幕府内でそれに関する儀礼を取り仕切ってきた泰村が危機感を覚えたがゆえに起こった出来事だと言われる[15]。さらに同年には三浦氏と小山氏の郎党が酒の席で乱闘騒ぎを起こし、当事者として泰村の弟の一人、三浦家村と、小山家の小山朝村[注 7]が出仕停止処分となり、泰村と小山長村結城朝広も叱責された[17]。1247年(宝治元年)3月3日には、泰村自身が闘鶏会の席で喧嘩騒ぎを起こしたと伝わる[18]


有名な話として、宝治合戦の直前、一旦北条時頼らとの間に和睦が成立しかけていた時、緊張のあまり食べていた湯漬けを嘔吐したという話がある。これは恐怖からではなく、合戦の回避を模索する為に精神を働かせた結果生じた、極度の緊張からの嘔吐であろうと解釈されている[19]。承久の乱や儀礼の場で武術の達者ぶりを披露している泰村だが、非常時・切迫した状況では判断力が鈍くなる人物であった[20]永井晋は「武者としては一流であるが、武将としての才能には恵まれていなかったのであろう」と評している[21]

詳しいことは、「三浦泰村ウィキペディア」をご覧ください。 ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E6%B5%A6%E6%B3%B0%E6%9D%91
(wikiより)

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君出でて民もしづまり


九重の塵もをさまる


世とはなりにけり


歌碑は我が国中世史の権威であり源頼朝研究の第一人者でもあった大森金五郎氏によるものである。


戦乱の中世を鎮定して民百姓の生命財産を保証すると共に時の朝政を恣しいままにしていた公家衆の特権をはく奪して我が国最初の武家政権を鎌倉の地に創設した不世出の英雄源頼朝公も讃えたものである。


顕彰碑裏面には源頼朝公の偉業を讃える八百余名の顕彰者名が刻銘されている。
(案内板より)

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「鎌倉の御事蹟を探り探りて 清風 むかし語りきくきくむしる尾花哉」


( 裏面 ) 明治 23年 9月 発起人 大石湘湖、大沢游雅、冨田鶴山、細野一井
(案内板より)

〇 村田清風
村田 清風(むらた せいふう)は、江戸時代後期の長州藩士(家老)。家格大組(別名馬廻)。藩主毛利敬親の信任の下で、長州藩の藩政改革を主導した。

生涯
生い立ち

天明3年(1783年)、長門国大津郡三隅村沢江に長州藩士村田光賢賀屋武矩の子、91石)の長男として生まれた。弟・山田龔之の子に山田亦介、孫に山田顕義がいる。また、妹・秀の孫に河上弥市がいる。


藩校
明倫館では優秀な成績を修め、学費免除の上、明倫館書物方となる。文化5年(1808年)、藩主毛利斉房の小姓として仕える。以後、斉房から毛利敬親まで5代の藩主の下で要職を歴任した。江戸にて塙保己一などから兵法や海防策を、また海保青陵の著述から経世論を学ぶなど、さらに知識を広げた。文政2年(1819年)に家督を相続し、祐筆添役や当職手元役、撫育方頭人となる。

藩政改革

天保9年(1838年)、表番頭と江戸仕組掛を兼任して藩政の実権を掌握し、藩主毛利敬親のもとで天保の改革に取り組んだ。敬親は政治的に暗愚で、何事も消極的[要出典]で「そうせい侯」とまで呼ばれたが、それが逆に幸いして清風は何一つ遠慮することなく、藩政改革に手腕を振るうことができたとされる。


清風は財政再建政策に取り組んだ。長州藩は慢性的な借財に苦しんでいたが、清風は天保14年(1843年)に三七ヵ年賦皆済仕法(家臣団の負債を借銀1貫目につき30目を37年間支払えば元利完済とするもの)を採った。これは家臣と商人との癒着を防ぎ、身分の上下の区別を付ける目的もあった。次に、藩はそれまで特産物である蝋を専売制にしていたが、清風はこれを廃止して商人による自由な取引を許した。その代わり、商人に対しては運上銀を課税した。さらに、この頃の下関海峡は西国諸大名にとっては商業・交通の要衝であったが、清風はこれに目をつけた。豪商の白石正一郎中野半左衛門らを登用して、越荷方を設置したのである。越荷方とは藩が下関で運営する金融兼倉庫業であり、いわば下関を通る貿易船などを保護する貿易会社である。このような清風の財政改革により、長州藩の財政は再建されていった。また、清風は教育普及においても力を注ぎ、庶民層に対しても教育を薦め、嘉永2年(1849年)には明倫館の拡大も行なっている。他にも、学問所である三隅山荘尊聖堂を建設している。

晩年

しかし、「三七ヵ年賦皆済仕法」は藩士が多額の借金をしていたことから商人らに反発を受け、また越荷方を成功させたことで、大坂への商品流通が著しく減少したことにより、幕府からの横槍が入って退陣する。さらに改革の途中で中風に倒れ、家老の坪井九右衛門に藩政の実権を譲って隠退した。その後、病から回復して子弟教育に力を注ぐ一方で、『海防糸口』『病翁寝言』『遼東の以農古』など、多くの著作を記している。安政2年(1855年)、清風を尊敬する家老・周布政之助の要請で再び藩政に携わったが、清風の改革に対して反対派である椋梨藤太の台頭などもあって、再びの改革には失敗する。同年、持病である中風が再発して73歳で死去した。晩年は161を給された。


再びの改革は失敗に終わったものの、清風の改革は幕末の長州藩における大きな財産となったとして、現在も評価されている。

関連項目
村田清風記念館

調所広郷

外部リンク
観光情報/村田清風 - 長門市

村田清風記念館 - ななび(ながと観光ナビ)
(wikiより)

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村田清風

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碑文
正治元年 ( 1199  )五月 頼朝の女 ( むすめ ) 三幡 ( さんまん ) 疾 ( 病 ) み 之を治せんが為 

当世の名医丹波時長京都より来れる事あり 東 ( 吾妻 ) 鑑に曰 ( いわ ) く七日 時長 掃部頭 ( かもんのかみ ) 親能 ( ちかよし ) が亀が谷 ( かめがやつ ) の家より  畠山次郎重忠が南御門 ( みなみみかど ) の宅に移住す 是と此の地即ち其の南御門の宅の蹟なり
(石碑文より)

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小田原北条氏の時代、須賀の地は交通・経済の要衝の地で、直轄地であったと思われる。


その頃、今でいう区画整理が行われ、寺院はすべて西北の地に寄せ集め「寺町」と命名し、「川端町」「北町」「横町」「仲町」「南町」「西町」の町名を用いたと考えられている。


そのほぼ中心に近い十字路に掟書の札をかけた掲示板のようなものを設け、ここを「札場」といい、その辻を「札の辻」とよんだ。


菅野証人が各地に向かった起点がここ「札の辻」であった。
(案内板より)

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河井酔茗 ( すいめい )文学碑

河井酔茗は、本名を又平といい、明治七年 ( 1874 ) 堺に生まれる。


幼時に両親・弟を失い、一六歳まで祖母に育てられ、一七歳の時、山田美沙に詩を認められ、以後一貫して近代詩の発展に尽くした。


同三三年上京し、のち詩草社を起こして自由詩運動の口火を切る。


大正一一年 ( 1922 ) 家族の罹病を憂い、平塚に移る。


平塚町の文学青年が発行する『湘南文芸』に毎号寄稿し、発展に寄与した。


震災後、上京し、昭和三七年に芸術院会員となり、同四〇年病没。享年九二歳。


昭和五三年に酔茗が居住した近くのこの地に「平塚たより」の一節を刻んだ文学碑が建立された。
(案内板より)

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高山樗牛 ( たかやま ちょぎゅう ) は、林次郎といい、山形県鶴岡の人でした。


ゆたかな学識と、すぐれた思想と美しい文章さをもって、明治文壇に不滅の足跡を印し随筆わが袖の記 小説瀧口入道等は、いまなお多くの人たちに愛読されています


樗牛は、明治二十三年文部省から美学の研究の為、ヨーロッパに遊学を命ぜられましたが、病にかかり たびたび平塚海岸の杏雲堂に診察をもとめ、渡欧の日を夢みつつ療養に専念しました


院長佐々木政吉副院長、佐々木森男両氏は、樗牛のために、懇篤な治療の方法を講じ、彼もまた再起を期しつつあったのですが、明治三十五年もおしつまった十二月二十四日、平塚の浜にうちよせる浪の音に耳かたむけながら、砂丘の病棟で不帰の人となりました。
(案内板より)

〇 高山樗牛
高山 樗牛(たかやま ちょぎゅう、 1871年2月28日(明治4年1月10日) - 1902年(明治35年)12月24日)は明治時代日本文芸評論家思想家東京大学講師文学博士明治30年代の言論を先導した。本名は林次郎。

年譜
・1871年2月28日(明治4年1月10日)、羽前国鶴岡(現・山形県鶴岡市)に生まれた。父は庄内藩士・斎藤親信。


・1872年(明治5年)、伯父・高山久平の養子になった。養父は山形県福島県警視庁などに勤務した。


福島中学中退、東京英語学校を経て仙台第二高等学校に入学、井上準之助が同級の友人であった。樗牛の号は「荘子」に因むもので高校時代から用いていたといい、同人誌や山形日報などに評論、紀行などを発表。


1893年東京帝国大学文科大学哲学科に入学。土井晩翠らが級友であった。徴兵忌避のため、本籍を北海道に移したという。


1894年読売新聞の懸賞小説に、『滝口入道』が入選[1]新聞連載された(『平家物語』から題材を取ったもので、生前は匿名であった)。『帝国文学』『太陽』などに盛んに文芸評論を発表した。


1896年に大学を卒業。第二高等学校の教授になった。


・1897年、校長排斥運動をきっかけに辞任。博文館に入社し『太陽』編集主幹になった。当時は三国干渉後で国粋主義的な気運が盛り上がっており、「日本主義」を鼓吹する評論を多く書いた。一方で『わがそでの記』のようなロマン主義的な美文を書いたり、美学をめぐっては森鴎外と論争を行った[2]


1900年文部省から美学研究のため海外留学を命じられた。夏目漱石・芳賀矢一らと同時期の任命であり、帰国後は京都帝国大学の教授が内定していた。しかし、洋行の送別会後に喀血し、入院。療養生活に入った。


1901年、留学を辞退した。病中に書いた『文明批評家としての文学者』ではニーチェの思想を個人主義の立場から紹介した。この年、東大の講師になり週1回、日本美術を講じた。『美的生活を論ず』(1901年)は、美の本質を本能の満足にあるとしたもの。北村透谷の影響が見られるが、透谷の近代的な恋愛観とは異なり、本能を肯定する内容になってしまっている。また、田中智學の影響を受け日蓮研究を進めた。


1902年(明治35年)、論文『奈良朝の美術』により文学博士号を授与された。肺結核の病状が悪化し、東大講師を辞任、12月24日に神奈川県平塚の杏雲堂病院分院で死去。墓所は静岡市清水区龍華寺で墓碑銘に「吾人は須らく現代を超越せざるべからず」とある。戒名は文亮院霊岱謙光日瞻居士[3]


評価
日本や中国古典に造詣が深く、の思想にも通じ、美文体を得意とし、文豪と呼ばれた。


日本主義、ロマン主義ニーチェ主義日蓮主義など主張の変遷が激しく、急激な近代化で変転した明治思想史の歩みを体現したともいえる。樗牛の説いた日本主義の優勝劣敗論の影響は大きく、当時の小学校教科書にまで樗牛流の表現が多く見られた[4]


若くして亡くなった点を差し引いても、北村透谷石川啄木らと比べて思想の浅さが指摘されている。自身が病弱であったため、ニーチェの説く超人や日蓮といった強者に憧れた。その一方、民衆を弱者と決めつけ[5]社会主義に対しても弱者の思想として否定的であった。

脚注
1. 「滝口入道の作者は高山樗牛」1894年4月17日読売新聞『新聞集成明治編年史. 第九卷』(国立国会図書館デジタルコレクション)
2. 鴎外樗牛対立期谷沢永一、樟蔭国文学,17,1-10 (1979-10-10)
3. 
岩井寛『作家の臨終・墓碑事典』(東京堂出版、1997年)187頁
4. 色川大吉『明治精神史』講談社学術文庫、下P133-134
5. 色川『明治精神史』下P128-129

関連項目
龍華寺

著書
・『新編倫理教科書』井上哲次郎共著 金港堂 1897

・『世界文明史』博文館 帝国百科全書 1908

・『論理学』博文館 帝国百科全書 1908

・『近世美学』編 帝国百科全書 1899

・『世界歴史譚 第1編 釈迦』博文館 1899

・『時代管見』博文館 1899

・『菅公伝』同文館 1900

・『文芸評論』博文館 1901

・『樗牛全集』全5巻 斎藤信策,姉崎正治共編 博文館 1904-1907

 第1巻 (美学及美術史)

 第2巻 文藝評論

 第3巻 (史論及史伝)

 第4巻 (時勢及思索)

 第5巻 (想華及消息)

・『樗牛全集 註釈 改訂』全7巻 姉崎正治,笹川種郎編 博文館 1925

 第1巻 (美学及美術史)

 第2巻 (文芸評論)

 第3巻 (史論及史伝)

 第4巻 時論及思索

 第5巻 (世界文明史及近世美学)

 第6巻 (想華及感激)

 第7巻 (日記及消息)

・『滝口入道』岩波文庫 1938

・『滝口入道』新潮文庫 1956

・『滝口入道』塩田良平校註 角川文庫 1958


関連人物
・実弟:斎藤野の人 - 評論家

・妻:里子 - 統計学者の杉亨二次女

・甥:齋藤求 - 画家

姉崎正治 - 『帝国文学』を共に創刊

外部リンク
高山樗牛:作家別作品リスト - 青空文庫

高山樗牛の墓(静岡市清水区 龍華寺)

書誌
(wikiより)

0507 高山樗牛


高山樗牛

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有島武郎集を見ると、夫人安子が大正四年 ( 1915 ) から五年にかけて杏雲堂平塚病院の別棟病室に在ったことが載っている。


その間武郎は病妻のために、愛情を傾けつつ詩作品を書き続けた。


「平凡人の手紙」「死とその前後」をはじめ感想、日記、書翰などかなりの量である。


また、病床の夫人には「松蟲」に著がある。


「召し給ふ星のまたたく遠方へ いざわれ行かん君と別れて」は夫人が武郎に贈った絶詠である。
(案内板より)

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有島武郎

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囲碁界に尽くされた木谷實九段は昭和十四年から昭和五十年まで、この地の自宅を木谷道場として多くの内弟子を育てた


現在、弟子、孫弟子を合わせると五百段を超える棋士達が、その遺志を継いで活躍中である
(案内板より)

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村井弦斎は本名を村井寛(ゆたか)といい、1863年(文久3年)豊橋に生まれました。1904年(明治37年)から63歳で死去する1927年(昭和2年)までを現在の平塚市八重咲町で過ごしています。


生涯に60編を越える小説を書き、明治・大正期に「当世第一」と謳われた超人気作家でした。また評論においても、時代を先取りした論説を展開していました。



村井弦斎まつりの会場である村井弦斎公園には、戦災復興土地区画整理事業により村井弦斎の住居が移築され、明治のベストセラー作家のくらしを偲ばせていましたが、1968年(昭和43年)冬に火災の難に遭い焼失しました。

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村井 弦斎(むらい げんさい 村井 弦齋、文久3年12月18日1864年1月26日) - 昭和2年(1927年7月30日)は、愛知県豊橋市出身の明治大正時代ジャーナリスト、小説家。は寛(ゆたか)。

略歴

三河吉田藩の武家の子。父も祖父も儒者として藩に使え、漢学をよくした家柄だった。父の村井清は著述家として『傍訓註釈 西洋千字文』など数冊の本を出版、また渋沢栄一の子息の家庭教師も勤めたほどの教養人であった。甥は作曲家の呉泰次郎である。


父は明治維新後、社会の身分の変動を目の当たりにしたことから「息子には漢学だけでなく洋学も早くから学ばせたい」と考えるようになり、1872年に一家の将来を9歳の弦斎に託し一家で上京した。


彼は幼少のころから、ロシア語の家庭教師をつけられたり、漢学の塾に入れられたりして、早期の英才教育を受けた。1873年に東京外国語学校(現・東京外国語大学)が開校すると、入学資格が13歳以上にもかかわらず、12歳で受験・入学させられた。猛勉強で首席にもなったものの健康を害し、1881年に露西亜語科を中退。その後、ロシア語の翻訳や著述で身を立てるようになる。しかし、家庭のしつけや猛勉強などがたたって、うつ病傾向などの神経性の疾患を抱え、しばらく療養した。病が癒えた後、新聞、雑誌の懸賞論文に応募を行い、毎日新聞に応募した論文が3等に入選したほか、いくつかの論文が活字になった。英字新聞の論文募集に入選し、アメリカ旅行の懸賞を得た。20歳で渡米し、アメリカではロシア系移民の家に住み込み英語を学び、働きながら社会制度などを学んだ。滞米中に報知新聞社長の矢野龍渓と知り合った[1]


1887年の帰国後、郵便報知新聞客員となり、1890年に郵便報知新聞正社員に、1895年同編集長。遅塚麗水原抱一庵村上浪六との四人で「報知の四天王」と呼ばれた[2]。明治から大正にかけて著述家として活躍した。

また、1887年には東京専門学校(後の早稲田大学)に入学して本格的に文学の道を歩む。『小説家』 (1890年~91年) で認められ、現代小説から未来戦争小説となる『小猫』 (1891年~92年) により小説家の地位を確立、発明小説『日の出島』 (1896年~1901年) でその人気は絶頂に達した。このころの未来戦記、政治小説、発明小説の発表により、「SF小説の先駆者」ともされる[3]


代表作とされるのは、報知新聞に1903年(明治36年)1月から12月まで連載された『百道楽シリーズ』で、『酒道楽』『釣道楽』『女道楽』『食道樂』が執筆された。他にも、玉突道楽、芝居道楽、囲碁道楽など案はあったようであるが、執筆したのは4作だけである。これらの作品は、食道楽の様な道楽にうつつを抜かす遊興の徒を描いたものではなく、その様な道楽をたしなめ、飲酒の健康被害を語り、正妻以外に愛人をかこう旧来の悪弊を糾弾する教訓・啓蒙小説である。その中の『食道楽』(くいどうらく)は、明治時代、徳冨蘆花の『不如帰』と並んで最もよく読まれ、小説でありながら、その筋のあちこちに600種以上の四季折々の料理や食材の話題が盛り込まれており、『美味しんぼ』や『クッキングパパ』などのグルメコミックの先駆けともいうべき作品である。ベストセラー作品として文学史的な評価も高い。また、「小児には德育よりも、智育よりも、躰育よりも、食育が先き。躰育、德育の根元も食育にある。」と食育という用語を記述した。続編も書かれたが、正編ほどの反響はなかった。


『食道楽』の執筆前後、弦斎は、大隈重信の従兄弟の娘である尾崎多嘉子と結婚している。また、彼女の母親の妹は、後藤象二郎の後妻であった。女性登山家の草分けとなった村井米子は娘。


1906年『婦人世界』編集顧問となり、初めて料理法、医療法などの実用記事を多く取入れ、現在の女性雑誌の原型をつくった。


結婚後、1904年から亡くなるまで神奈川県平塚市平塚駅の南側に居住した。『食道楽』の印税で屋敷の広大な敷地に和洋の野菜畑、カキビワイチジクなどの果樹園温室ヤギウサギなどの飼育施設、果ては厩舎を築造し、新鮮な食材を自給した。当時は珍しかったイチゴアスパラガスの栽培まで行った。また各界の著名人を招待したり、著名な料理人や食品会社の試作品などが届けられるという美食の殿堂のように取りざたされる優雅な暮らしを営んだ。ただし、彼は一連の『食道楽』ものを終了した後に断筆、報知新聞をも辞職してしまう。その後、脚気治療のために玄米食の研究に没頭し、また断食自然食を実践した。また、自ら竪穴住居に住み、生きた虫など、加工しない自然のままのものだけを食べて暮らし、奇人、変人扱いされた。本人の死後、自宅一部、東側を河野一郎に、西側を小平浪平に売却している。

家族
村井多嘉子(1880年 - 1960年):弦斎の妻。『弦斎夫人の料理談』などの著作がある[4]

村井米子(1901年 - 1986年):弦斎の長女。

備考
平塚市では、2000年以降、毎年秋に弦斎の住まい趾(村井弦斎公園)で「村井弦斎まつり」を開催している。

主な著書
入手しやすい書目のみ。
・『酒道楽』新人物往来社(上下) 1977年(村井米子編)

・『釣道楽』新人物往来社(上下) 1977年

・『定本食道楽』上-春の巻、夏の巻/下-秋の巻、冬の巻 新人物往来社 1978年(村井米子編)

・『台所重宝記』平凡社ライブラリー 2001年(村井米子編訳)

・『食道楽の献立』角川春樹事務所 1997年(ランティエ叢書)

・『食道楽』岩波文庫(上下) 2005年

・『酒道楽』岩波文庫 2006年

・『台所重宝記』中公文庫 2017年8月(村井米子編訳)ISBN 4122064473

・『食道楽』中公文庫 2018年9月(村井米子編訳)

研究書
黒岩比佐子『「食道楽」の人村井弦斎』岩波書店 2004年

弦斎を主人公とした小説
火坂雅志『美食探偵』(講談社文庫, 2003年)ISBN 4062738252

  ・2008年12月に角川文庫で新版刊行、ISBN 4043919034


脚注
1. 『百年前の二十世紀』 横田順彌(著)ちくまプリマーブックス
2. 長山靖生『日本SF精神史 完全版』(河出書房新社)P.102
3. 横田順彌會津信吾『新・日本SFこてん古典』(徳間文庫)P.275
4. 「食道楽」の家系 村井弦斎、多嘉子、米子の著作 - 神奈川県平塚市北図書館(2020年8月24日閲覧)

関連項目
甘糟章小林信彦 - 甘糟が女性向け雑誌『クロワッサン』編集長時代に、『食道楽』の現代版をということで、小林に小説連載を依頼したのが、『ドジリーヌ姫の優雅な冒険』であった。

ごちそうさん(連続テレビ小説) - 弦斎をモデルとする文士「室井幸斎」なる人物が登場する(ただし活躍時期は史実とは異なる)。

婦人世界 - 創刊時の1906年から編集顧問を務めた婦人雑誌。

外部リンク
収蔵コレクション展8『食道楽』の人 村井弦斎神奈川近代文学館のページ

村井弦斎平塚市のページ

『食道楽』に学ぶ

『食道楽』の人 村井弦斎

1904年の英文小説『Hana』明治の奇才・村井弦斎の足跡 - archive.today(2013年4月27日アーカイブ分)

弦斎の住まい趾(現、弦斎公園)の地図

村井弦斎まつり公式ホームページ

村井弦斎:作家別作品リスト - 青空文庫
(wikiより)

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寺紋が伝えるように、戦国時代、当院は小田原北条家臣団の寺でした。


武田信玄は永禄十二年 ( 一五六九 ) 小田原北条氏を攻め、当院一帯も激しい戦場となりました。


この石塔はその時の戦いで死んだ、戦死者の霊を慰める為建立されたものです。


この塔は正しくは宝筐院陀羅尼塔と呼ばれます。


宝筐院陀羅尼という経文をこの塔の下に埋めるからです。


多くは、戦場に建立されました。


戦死者の浮かばれぬ霊魂は空中を漂い、この塔にあたって覚醒するとの信仰からです。


近代では日露戦争の旅順港攻略において多くの戦死者を出した二〇三高地に、我が真言宗はたくさんの宝筐院陀羅尼塔を建立しました。
(案内板より)

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すそはまだ くらきに あけて ゆきのみね

( 冬の朝 自宅前から雪の高麗山を見た風景)


斎藤麗山は ( さいとうれいざん ) は江戸時代末、当院檀家、平塚本宿の質商斎藤家に出生。


俳諧に優れ多くの門人弟子を教えました。


これは筆塚と称し古くなった筆を供養するところ。


この碑は門人弟子が師匠の供養の為建立しました。


平塚郷土史の泰斗 高瀬眞吾先生は江戸時代 平塚宿唯一の文学碑と説明されました。


伊豆韮山の代官、江川太郎佐衛門は平塚の代官も勤めましたが、よく似た歌が有ります。


「すそはまだ」とは開明以前の人民の民度をさします。
(案内板より)


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江戸時代の天保十一年幕府によって編纂された『新編相模国風土記稿 ( しんぺんさがみのくにふどきこう )』の中に里人 ( さとびと ) の言い伝えとして、「昔、桓武 ( かんむ ) 天皇の三代孫、高見王の娘政子が、東国へ向かう旅をした折、天安元年 ( 八五七 ) 二月この地で逝去した。


柩 ( ひつぎ ) はここに埋葬され、墓として塚が築かれた。


その塚の上が平らになったので里人はそれを『ひらつか』と呼んできた。」という一節があり、これが平塚という地名の起こりとなりました。


この事から平塚の歴史の古さが伝わります。
(案内板より)

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「安室貞心信女、明和 6年 ( 1769 ) 10月 9日」と彫られている浮彫の観世音の墓石が加賀見山錦絵という歌舞伎で活躍する「鏡山お初」のモデル、本名「たつ」の墓であると伝えられている。


おたつは、平塚宿の松田久兵衛の娘で、萩野山中藩大久保長門守の江戸屋敷の中臈 ( ちゅうろう ) 岡本みつ女の許に奉公にあがっていた。


主人みつ女が年寄沢野から侮辱を受け自害したため、ただちに、沢野を訪ねて、主 ( あるじ ) の自殺した小脇差で仇を討ったという烈女で、後に賞せられて年寄りとなったと伝えられている。


この墓の傍には、昭和 10年に「義女松田多津顕彰碑鏡山お初」の碑が建立された。
(案内板より) 

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市内に伝わる伝承によるとお菊は平塚宿宿役人眞壁源右衛門の娘で、江戸の旗本青山主膳の屋敷へ行儀見習い奉公に出ていた。

ある日主膳の屋敷内でお菊は主人愛玩の南京絵皿十枚組のうち一枚を無くしてしまった。

そのため主人の怒りを買い、お菊は屋敷内の井戸に投げ込まれて殺されてしまった。


お菊の遺体は引き上げられ、罪人の例に倣って長持に詰められて江戸から平塚宿まで送り返されてきた。

馬入の渡しで娘の遺体と対面した眞壁源右衛門(第4代目)は「もの言はぬ 晴れ着姿や菫草」とを詠んで悲しんだという。

真説によるとお菊はサラを無くしてはいない。

奉公先で言い寄って来た家来を突っぱねたので、この男に皿を隠されたという。

無実の罪で責めを受け悲しい最期を迎えたことになる。

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吉川朝衣画 菊女(「平塚市図録」より)

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⇧⇩ お菊の墓

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伝承によると、お菊は平塚宿役人・真壁源右衛門の娘で、行儀作法見習のため江戸の旗本青山主膳方へ奉公中、主人が怒むことあって菊女を斬り殺したという。


一説によると、旗本・青山主膳の家来が菊女を見染めたが、菊女がいうことを聞かないので、その家来は憎しみの余り家宝の皿を隠し、主人に菊女が紛失したと告げたので、菊女は手討ちにされてしまったが後日皿は発見されたという。


この事件は元文五年 ( 1740 ) 二月の出来事であったといい、のちに怪談「番町皿屋敷」の素材となったという。


また他の話によると菊女はきりょうが良く小町と呼ばれていたが、二四才のとき江戸で殺されたといわれている。


死骸は長持詰めとなって馬入の渡場で父親に引き渡された。


この時、父親・真壁源右衛門は「あるほどの花投げ入れよすみれ草」と言って絶句したという。


源右衛門は刑死人の例にならい墓をつくらず、センダンの木を植えて墓標とした。


昭和二七年秋、戦災復興の区画整理移転により現在の立野町晴雲寺の真壁家墓地に納められている。
(案内板より)

〇 お菊塚
お菊塚(おきくづか)は、神奈川県平塚市にある怪談番町皿屋敷」の主人公として有名なお菊の墓と伝えられるものである。

伝承

市内に伝わる伝承によるとお菊は平塚宿宿役人眞壁源右衛門の娘で、江戸の旗本青山主膳の屋敷へ行儀見習い奉公に出ていた。ある日主膳の屋敷内でお菊は主人愛玩の南京絵皿十枚組のうち一枚を無くしてしまった。そのため主人の怒りを買い、お菊は屋敷内の井戸に投げ込まれて殺されてしまった。


お菊の遺体は引き上げられ、罪人の例に倣って長持に詰められて江戸から平塚宿まで送り返されてきた。馬入の渡しで娘の遺体と対面した眞壁源右衛門(第4代目)は


「もの言はぬ 晴れ着姿や菫草」とを詠んで悲しんだという。真説によるとお菊はサラを無くしてはいない。奉公先で言い寄って来た家来を突っぱねたので、この男に皿を隠されたという。無実の罪で責めを受け悲しい最期を迎えたことになる。


その後、青山主膳の屋敷のお菊が投げ込まれた井戸には怨みを抱いたお菊の霊魂が留まり、幽霊となって夜な夜な井戸より現れたという噂がモチーフとなって怪談番町皿屋敷が生まれた。お菊の遺骸は平塚宿内の眞壁家先祖代々の墓地(70坪強)に葬られたが、これも罪人の例に倣って墓石は建立されず代わりに栴檀の木が植えられたという。


その後、昭和27年の区画整理事業に伴って眞壁家墓地は平塚市にて9尺の深さに全面すべて手掘りで作業され、遺骨はそれぞれ丁寧に集められ平塚市所有の墓地用地(平塚市立野町)と交換された眞壁家専属の墓地(平塚市立野町365-8 広さ22㎡)に移転された。手掘りされた時、多くの物見高い人々が見守る中、言い伝え通りせんだんの木の下3尺からお菊の遺骸は座り姿で現れたのであった。(この詳細は読売新聞 昭和56年8月25日版の「いま神奈川のこわーいお話 #6」に出ている)。 なお、昭和42年から眞壁家の菩提寺が光円寺から晴雲寺に変更になったが、お菊さんの墓地は眞壁家専属所有の墓地であるので光円寺や晴雲寺の霊園内ではない。


なお旧眞壁家墓地跡は整理されて平塚駅西口(北側)近くの紅谷町公園の一部になっており、ここに移転時、平塚市が立派なお菊塚を建立してくれた。横浜東京方面からも時折お参りに来る人がいる。


このお菊塚は現在も東海道本線平塚駅近くの紅谷町公園の片隅に存在している。また移転後の晴雲寺隣で光円寺北側道路の2列目奥にある3段の階段付き眞壁家墓所には「貞室菊香信女」と戒名が刻まれたお菊の墓石が現存し、その向いに墓標がある。

(wikiより)

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火坂 雅志(ひさか まさし、1956年5月4日 - 2015年2月26日)は、日本小説家。本名は中川 雅志(なかがわ まさし)[1]

来歴・人物

新潟県長岡市新潟市出身[2][3]長岡市立南中学校、新潟市内の公立中学校、新潟県立新潟高等学校を経て早稲田大学商学部卒業[2]


早稲田大学在学中よりサークル早稲田大学歴史文学ロマンの会に所属し、歴史文学に親しんだ。大学卒業後は、編集者として出版社に勤務し、1988年に『花月秘拳行』でデビュー[2]吉川英治文学新人賞候補の『全宗』で注目される。伝奇性の強い作品が多いが、近年は本格的な大型時代小説を発表している。主な作品に『覇商の門』『黒衣の宰相』『天地人』など。


『天地人』で中山義秀文学賞を受賞、2009年NHK大河ドラマ原作となった[2]


2014年10月に体調不良で入院[4]。2015年2月26日、急性膵炎のため神奈川県内の病院にて死去[5]。58歳没。

著書
作品
・『花月秘拳行』(1988年、講談社ノベルス)のち富士見書房時代小説文庫、角川文庫

 『花月秘拳行 2 北斗黒帝篇』(1989年、講談社ノベルス)のち時代小説文庫、「北斗秘拳行」と改題、廣済堂文庫

・『骨法秘伝』(1989年、Tokuma novels)のち徳間文庫

 『魔都殺拳 骨法シリーズ 2』(1990年、Tokuma novels)「骨法無頼拳」と改題、徳間文庫

 『骨法必殺』(1990年、Tokuma novels)

・『竜馬復活』(1991年、ノン・ノベル)のち時代小説文庫

・『戦国妖剣録』(1991年、Tokuma novels)「おぼろ秘剣帖」と改題、広済堂文庫、「おぼろ秘剣帳」学研M文庫

・『悪党伝説 外法狩り』(1991年、Futaba novels)

 『信長狩り 悪党伝説 2』(1992年、Futaba novels)「伊賀の影法師」と改題、廣済堂文庫

 『神君狩り 悪党伝説 3』(1993年、Futaba novels)

・『楠木正成異形の逆襲』(1991年、光栄、歴史ifノベルズ)

・『関ヶ原死霊大戦』(1991年、Tokuma novels)「関ケ原幻魔帖」と改題(2000年11月、ケイブンシャ文庫)

・『京都呪殺』(1991年、講談社ノベルス)のち時代小説文庫 「魔都秘拳行」と改題、廣済堂文庫

・『拳豪宮本武蔵』(1992年、Tokuma novels)のち時代小説文庫、「武蔵復活二刀流」と改題、祥伝社文庫

・『信長の密使 異聞・桶狭間の合戦』(1992年、ノン・ノベル)のち広済堂文庫、学研M文庫

・『京都秘密の魔界図 奇々怪々の13人の英雄に誰もが凍りつく』青春出版社(プレイブックス)1992 「魔界京都」青春文庫、「魔界都市・京都の謎」PHP文庫

・『神異伝 1 太子未来記』(1993年、Tokuma novels)のち徳間文庫

 『神異伝 2 闇の祭主』(1993年、Tokuma novels)同

 『神異伝 3 夢守の血脈』(1993年、Tokuma novels)同

 『神異伝 4 四海王復活』(1993年、Tokuma novels)同

 『神異伝 5 金人出現』徳間文庫

・『西行桜』(1994年、富士見書房)のち小学館文庫

・『柳生烈堂 十兵衛を超えた非情剣』(1995年、ノン・ポシェット)のち祥伝社文庫

 『柳生烈堂血風録 宿敵・連也斎の巻』(1996年、ノン・ポシェット)

 『柳生烈堂 対決服部半蔵』(1996年7月、ノン・ポシェット)

 『柳生烈堂 秘剣狩り』(1997年、ノン・ポシェット)

 『柳生烈堂 開祖・石舟斎を凌いだ無刀の剣』(1999、祥伝社文庫)

・『武蔵奇巌城』(1995年、Kosaido blue books)「武蔵二刀流」と改題、学研M文庫

・『鬼道太平記 風雲児・児島高徳』(1995年、PHP研究所)「太平記鬼伝」小学館文庫

・『家康外法首』(1996年、飛天文庫)「徳川外法忍風録」と改題(2001年4月、ケイブンシャ文庫)

・『新選組魔道剣』(1996年、光文社)のち文庫、文春文庫 

・『日本魔界探検』廣済堂出版、1996 「日本魔界紀行」と改題、青春文庫

・『霧隠才蔵』(1997年、ノン・ポシェット)のち角川文庫 

 『霧隠才蔵 紅の真田幸村陣』(1997年、ノン・ポシェット)

 『霧隠才蔵 血闘根来忍び衆』(1998年、ノン・ポシェット)

・『源氏無情剣』(1997年、青樹社)「源氏無情の剣」と改題、祥伝社文庫、「もうひとりの義経」学陽書房人物文庫

・『利休椿』(1997年、実業之日本社)のち小学館文庫

・『桂篭とその他の短篇』(1998年、講談社)「桂籠」文庫、「羊羹合戦」小学館文庫 

・『伊賀の影法師』廣済堂出版、1998 「黄金の牙」と改題、学研M文庫

・『全宗』(1999年、小学館、週刊ポストBOOKS)のち文庫

・『忠臣蔵心中』(1999年、講談社)のち文庫、角川文庫

・『壮心の夢』短編集(1999年、徳間書店)のち文庫、文春文庫

・『美食探偵』(2000年、講談社)のち文庫、角川文庫 

・『尾張柳生秘剣』(2000年、祥伝社文庫)

・『覇商の門』(2001年、祥伝社)のち文庫(今井宗久

・『骨董屋征次郎手控』(2001年、実業之日本社)のち講談社文庫

・『蒼き海狼』(2001年、小学館)のち文庫

・『黒衣の宰相』(2001年、幻冬舎)のち文春文庫

・『黄金の華』(2002年、日本放送出版協会)のち文春文庫(後藤庄三郎

・『武蔵と無二斎』(2003年、徳間書店)のち文庫、小学館文庫

・『家康と権之丞』(2003年、朝日新聞社)のち文春文庫

・『骨董屋征次郎京暦』(2004年、実業之日本社)のち講談社文庫

・『虎の城』(2004年、祥伝社)のち文庫(藤堂高虎

・『茶の湯事件簿』淡交社、2004 「豪快茶人伝」角川文庫

・『沢彦』(2006年、小学館)のち文庫 

・『天地人』(2006年、日本放送出版協会)のち文春文庫 

・『戦国武将勝利の実学』勉誠出版 2006 『戦国力 逆境を生きるということ』小学館文庫 2010

・『新潟樽きぬた 明和義人口伝』小学館 2007 のち文庫 

・『臥竜の天』祥伝社 2007 のち文庫(伊達政宗) 

・『軒猿の月』短編集(2007年、PHP研究所)のち文庫 

・『軍師の門』(2008年、角川学芸出版)のち文庫(黒田孝高竹中重治) 

・『「天地人」を歩く 原作者が旅する智将・直江兼続ゆかりの地』祥伝社 2008

・『直江兼続の義と愛』日本放送出版協会 2008 のち文春文庫

・『上杉かぶき衆』実業之日本社 2009 のち文庫

・『謙信びいき』PHP研究所 2009

・『墨染の鎧』文藝春秋 2009 のち文庫(安国寺恵瓊)

・『武者の習 時代小説』祥伝社文庫 2009

・『名将の品格』日本放送出版協会 生活人新書 2009

・『業政駈ける』角川学芸出版 2010 のち文庫

・『武士の一言 逆境を打ち破った男たちの名言』朝日新聞出版 2010 のち文庫

・『真田三代』NHK出版 2011 のち文春文庫

・『西行その「聖」と「俗」』PHP研究所 2012

・『気骨稜々なり』小学館 2013(島井宗室)

・『常在戦場 家康家臣列伝』文藝春秋 2013

共著編
・『実伝直江兼続』角川文庫、2008

・『天地人の戦国乱世名将・智将の時代』井沢元彦共著 ベストセラーズ ワニ文庫 2009

・『名将名言録一日一言』編 角川学芸出版 2009「武将の言葉 決断力が身に付く180のヒント」ソフィア文庫

・『実伝黒田官兵衛』編 角川文庫 2013

・『実伝石田三成』編 角川文庫 2014

・『実伝真田幸村』編 角川文庫 2014

・『北条五代』伊東潤共著 朝日新聞出版 2020 - 火坂の急逝で未完になった作品を伊東が完成させた[6][7]

編著
・火坂雅志編『実伝 直江兼続』 (角川文庫)新人物往来社, 2008年12月発行。ISBN 9784043919048

脚注
1. “作家の火坂雅志さんが死去”. YOMIURI ONLINE (読売新聞社). (2015年2月27日). http://www.yomiuri.co.jp/culture/20150227-OYT1T50125.html 2015年3月3日閲覧。 

2. a b c d “妻夫木聡、「天地人」原作者・火坂雅志さんに哀悼の意を捧げる<コメント全文>”. モデルプレス (ネットネイティブ). (2015年3月2日). http://mdpr.jp/news/detail/1471236 2015年3月3日閲覧。 
3. “訃報:「天地人」原作者の火坂雅志さん死去 妻夫木&常盤が哀悼”. 毎日新聞 (毎日新聞社). (2015年2月28日). http://mainichi.jp/sponichi/news/20150228spn00m200001000c.html 2015年3月3日閲覧。 
4. “火坂雅志さん死去 58歳、歴史小説「天地人」”. 日本経済新聞 (日本経済新聞社). (2015年2月27日). http://www.nikkei.com/article/DGXLASDG27H9V_X20C15A2CZ8000/ 2015年3月3日閲覧。 
5. “【速報】火坂雅志さん死去”. 新潟日報モア (新潟日報社). (2015年2月27日). オリジナルの2015年3月2日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20150302021023/https://www.niigata-nippo.co.jp/news/national/20150227165850.html 2019年6月3日閲覧。 
6. “異例のリレー小説! 亡き火坂雅志氏の思い引き継いだ伊東潤氏の覚悟”. AERA dot. (朝日新聞出版). (2017年3月24日). https://dot.asahi.com/dot/2017032200088.html?page=1 2020年12月9日閲覧。 
7. “火坂雅志急逝による未完の大作を伊東潤が引き継いだ奇跡の歴史巨篇が12月7日発売!” (プレスリリース), 株式会社朝日新聞出版, (2020年12月7日), https://prtimes.jp/main/html/rd/p/000001115.000004702.html 2020年12月9日閲覧。 

関連項目
かぶき者 慶次

天地人 (NHK大河ドラマ)

外部リンク
歴史小説家 火坂 雅志(ひさか・まさし)
(wikiより)


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火坂雅志

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海上自衛隊呉史料館(かいじょうじえいたいくれしりょうかん JMSDF Kure Museum)は、広島県呉市にある海上自衛隊の広報を目的とした施設で、愛称は「てつのくじら館」。2007年4月5日より一般公開されていて、入館料は無料である。

展示内容

海上自衛隊の歴史や装備品の紹介などが展示されており、1階部分では海上自衛隊の歴史について、2階では機雷の脅威と掃海艇の活躍、3階では潜水艦の活躍について、実物・模型・絵図や映像などの資料を用いて紹介している。


展示の目玉は国内では初めてとなる実物の潜水艦の屋外展示で、この潜水艦は実際に海上自衛隊で就役していたゆうしお型潜水艦の「あきしお」 (SS-579) である。「あきしお」は2004年3月に除籍となった後、展示用に内部機器の交換や汚れを落とすなどし、2006年9月24日から26日に建設中の呉史料館への搬入が実施された。

この様子はマスコミでも報じられ、巨大な船体などは関心をよんだ。この「あきしお」は展示の一環として艦内にも入ることができるが、公開されているのは発令所のある甲板のみであり、船殻や艤装は防諜の処置をしている他、案内係員が監視をしている。「あきしお」の推進器スクリュープロペラ)など、一部は防諜上ダミーのものに差し替えて展示されている。

所在地

広島県呉市宝町5-32

  ・斜向かいに呉市海事歴史科学館(大和ミュージアム)が、北隣にゆめタウン呉がある。

アクセス

・電車で

  ・JR呉線呉駅の改札口を出て連絡通路(もしくは営業時間内に限ってゆめタウン呉内を突っ切る)を徒歩約5分


・フェリー等で

  ・呉中央桟橋から徒歩約1分


・自家用車・バイクで

  ・岡山方面から

    ・山陽自動車道高屋ジャンクション東広島呉自動車道馬木インターチェンジ国道375号→東広島呉自動車道黒瀬インターチェンジ→東広島呉自動車道阿賀インターチェンジ国道185号

  ・山口方面から

    ・山陽自動車道広島東インターチェンジ広島高速1号線広島高速2号線広島呉道路

  ・松江方面から

    ・国道54号→国道375号→東広島呉自動車道黒瀬インターチェンジ→東広島呉自動車道阿賀インターチェンジ→国道185号

    ・国道54号中国自動車道三次インターチェンジ広島北ジャンクション広島自動車道広島ジャンクション山陽自動車道広島東インターチェンジ広島高速1号線広島高速2号線広島呉道路

出来事
2020年2月28日-2020年6月21日2019新型コロナウイルス感染拡大を受けて休館[1]

脚注
1. 「てつのくじら館 22日再開決まる」『中国新聞』2020年6月20日 呉・東広島版

関連項目
呉市海事歴史科学館(大和ミュージアム)- 隣接施設。

海上自衛隊佐世保史料館(セイルタワー)

鹿屋航空基地史料館

ゆめタウン呉 - 隣接施設

海事博物館

外部リンク
海上自衛隊

海上自衛隊呉史料館 てつのくじら館 - 公式サイト

潜水艦「あきしお」 海上自衛隊呉史料館へ陸揚げ移送[リンク切れ]

展示用潜水艦「あきしお」の陸揚げ日本船舶海洋工学会西部支部)

呉地方隊

てつのくじら館の紹介 - Hitachi Theater(日立グループの映像ポータルサイト)
(wikiより)

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⇧ 潜水艦あきしお

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⇧ 呉市のマンホールは、戦艦大和ですね。



呉市海事歴史科学館(くれし かいじれきしかがくかん)は、広島県呉市にある科学館愛称大和ミュージアム(やまとミュージアム)で、正式名称よりも愛称が広く定着している。

概要

呉市を設立主体とする博物館。戦前・戦後の呉市における船舶製造技術を主たる展示内容としている。愛称の「大和ミュージアム」が示すように、旧日本海軍の超大型軍艦大和」の建造と軍事活動が中心となっている[1]


明治時代
以降の造船の街あるいは軍港鎮守府としての呉の歴史や、基幹となった製鋼や造船などの科学技術を展示することを目的に、日露戦争日本海海戦から100年目、大東亜戦争太平洋戦争)終戦から60年目にあたる2005年4月23日に開館した。開館から668日目の2007年(平成19年)5月20日に来館300万人目を、1443日目の2009年(平成21年)7月4日に来館500万人目を迎えた。呉市は原子爆弾の被災地の広島市に近接し、海上自衛隊と在日アメリカ陸軍の施設が現役で稼働している安全保障問題の現場としての土地柄、修学旅行生の平和学習の場としても活用されている。


構想あるいは建設に関しては、「戦争責任」について様々な意見を向ける旨もあったが開館以来盛況を続けており、呉市の歴史的観光資源を再発見するきっかけとして呉市を全国的観光地に一躍押し上げた立役者である。呉市の経済社会にも影響を与えており、様々なイベントが行われる地域拠点の役割も果たしている[1]


初代館長の戸高一成は、当館の展示が戦争賛美ではなく、とくに戦艦大和建造など軍事や戦争によって発達した産業技術そのものとその使われ方(軍事目的)とは分けてとらえるべきだとしている[1]。館の方針としては、当館を「平和学習の場」として開放するため、実物の兵器や当時の映像フィルムなどの歴史的資料を淡々と提示するかたちで意見や注釈は付けず、政治的に中立的な立場をとるよう努めている。「歴史認識についての判断は来館者個々に任せる」という方針を採用している。


2008年度より指定管理者制度が導入され、学芸部門は引き続き呉市が、管理運営・広報などは「大和ミュージアム運営グループ」が担当している[1]

歴史
開館の経緯

呉市が造船業不況による経済停滞からの脱却を模索していた1980年代初頭、広島県は県立博物館建設を検討していた。1980年度より呉市も県に対して市内での県立博物館設置要望を出すようになった。この頃は「海に関する県立博物館」という構想であった。1990年度 - 1991年度にかけて呉市から業務委託を受けた財団法人日本博物館協会が博物館基本構想を策定し、「近代造船技術の進展」を展示する博物館が提唱された。こうして1991年度より資料収集・調査研究が開始された[1]


1993年11月、呉市長に前広島県副知事の小笠原臣也が就任する。小笠原は松山市助役を務めていたころ、同市の子規記念博物館設立にかかわった経験があり、文化行政のノウハウを理解していた。また、同博物館の資料を調べる際、司馬遼太郎坂の上の雲』などで自らの出身地・呉の「軍都」としての歴史を再確認していた。そのため、小笠原は積極的に博物館建設を推進していく[1]


1994年 - 1995年にかけて、戦艦大和を博物館の核としていくことに構想が固まっていった。しかし、県側は(海)軍事色が強い博物館を県立として開館することは難しいことを呉市に伝えた。そこで小笠原は1996年12月の市議会で、博物館建設に市主体で取り組むことを正式に表明した。1997年に呉市は主要プロジェクトの1つとして海事博物館建設を明記し、同年9月の市議会で呉駅南側の宝町地区を博物館の建設場所とすることが表明された。財源は国(防衛施設庁科学技術庁)・県への働きかけに加え、呉市博物館推進基金、呉商工会議所の募金委員会などを設立し民間資金の活用も行われた。最終的に事業費総額65億円のうち、国・県・地方交付税・募金等が約36億円、市負担が約29億円となった[1]


1999年10月 - 12月に呉市が博物館設立準備として設置していた収蔵仮展示施設で「戦艦大和展」が行われた。これには3カ月で累計1万人を超える来館者が訪れた。2000年大阪で開催された関西ミュージアムメッセで呉市が参加した戦艦大和関連の展示には、4日間で1万2000人以上が訪れ、そのアンケート結果(1300件分)では「印象に残った出展ブース」の第1位となった[1]


2003年初頭、広報活動の一環として名称募集を行い,同年8月に正式名称を「呉市海事歴史科学館」、愛称を「大和ミュージアム」とすることが公表された[1]


2005年1月、ガイドボランティアが組織された。マスコミの関心は高まっており、2005年3月の定例市議会では、入館者数の予想を当初の20万人から40万人へ引き上げられた。ただしこれらは、反対意見を抑えるための多めの見積もりであったと、小笠原らが後に明かしている[1]。2005年4月23日、開館を迎えた[1]。    

開館と反響

開館後、大和ミュージアムは大きな人気を博した。開館した2005年には来館者が122万9250人(開館日4月23日を起算日とした初年1年間の来館者数は161万4457人)と予想をはるかに上回り、地方都市の博物館としては類を見ないほど多くの人々が訪れた。地域・団体からの来館希望も多く、行政職員が旅行代理店業務をこなす有様であった。2005年12月公開の映画『男たちの大和』も大和ミュージアムの人気に大きく貢献した。また、これにより街全体の観光客数も大幅に増加し、呉市は年間300万人以上が訪れる観光都市に成長した[1]


なお一部からは批判も挙がった。開館直後の2005年5月、市民団体「ピースリンク広島・呉・岩国」は、展示の見直しを求める要請書を提出し、「軍事技術・戦争を美化している」と主張した。また中華人民共和国と、対戦国ではないにもかかわらず大韓民国でも一部に大和ミュージアムを批判する報道があり、日本共産党の呉市議が市議会でそれ引用した。ただし、大和ミュージアムへの批判やクレームはほとんどなく、具体的な行動を起こしたのは上記の市民団体にとどまった[1]

運営の沿革

開館から時間が経っても、年々漸減しているものの大和ミュージアムは多くの入館者が訪れている。4年目以降の来館者は90万人から74万人の間で安定的に推移しており、年間10万人で成功とされる地域の歴史博物館としては異例の多さである[1]。太平洋戦争に関連する映画が公開されると、来館者が増える傾向がある[2]


2007年には隣に海上自衛隊呉史料館(てつのくじら館)が併設され、大和ミュージアムと並んで多くの入館者を集めている[1]。同館のメインの展示物は、退役した海上自衛隊の展示用潜水艦あきしおの実物などである。


2008年度に指定管理者制度が導入され、学芸部門のみ呉市商工観光部(現・産業部)が管轄し、民間会社で構成される「大和ミュージアム運営グループ」が管理・運営・広報などを担当することとなった。2012年度からの2期目も同グループが引き続き管轄している[1]


大和ミュージアムの集客力は周辺の地域社会にも大きな影響を与え、単なる「戦争博物館」にとどまらない地域拠点になりつつあるとされる。2010年にはリニューアルオープンによって呉の戦後の歩みなど地域史を紹介するコーナーを拡充させた。2012年4月には「ミュージアムショップやまと」を中核として地元の業者・アーティストと共同で「Blue Project(ブループロジェクト)」という事業体が結成され、大和関連だけではなく、呉や瀬戸内海にちなんだオリジナル商品の開発・販売が行われている[1]

展示内容

入口を入ってすぐの『大和ひろば』には、実物の10分の1サイズの戦艦大和の模型[注 1]が展示されている。この模型は、大和の海底調査や発見された資料により判明した最新の情報に基づいて制作されており、新たに判明した史実や資料があれば随時それに合わせて改装されている(この変更点には、偵察機の追加搭載などがある)。また映画男たちの大和/YAMATO』の撮影の際、尾道市向島町にあった戦艦大和実寸大オープンロケセットの不足部分を補うため、CGの合成用素材として使用された。なお映画撮影後に解体されたロケセットの一部は呉市へ寄贈され、2006年(平成18年)6月29日、大和ミュージアムの資料修復保存施設(旧海事博物館推進室敷地内)に搬入され、同館の第2駐車場ビル2階に展示されている。ロケセットは「まちづくり」への利用を目的とする理由であれば、無償で貸出しをされる(ただし輸送・管理費は申請者負担)。


大和の模型の他、戦艦陸奥重巡洋艦青葉に実際に搭載されていた主砲身、戦艦金剛イギリスヴィッカース社から輸入した当時のボイラーや、戦艦陸奥の錨、航空戦艦日向 (戦艦)マストに掲揚されていた軍艦旗零式艦上戦闘機六二型、“人間魚雷回天10型(試作型)、特殊潜航艇海龍」を展示の主体として、海軍兵器の実物が数多く展示されている。その他、実物の潜水調査船である「しんかい」の屋外展示など、戦後の海事史についての展示物も充実している。


1階「展示室 呉の歴史」では、日本の幕末から太平洋戦争終結までの戦史呉海軍工廠の歴史、戦艦大和について、当時の記録映像の上映、海軍兵器の実物、戦没者の遺品などの歴史的資料の展示を通じて解説。呉軍港空襲広島市への原子爆弾投下に関しても、呉の人々の視点から見えた当時の様子などが詳細に展示されている。随時、ガイドや学芸員による解説を受けながら展示物を閲覧する機会も設けられている。


2階は吹き抜けとなっており、1/10大和を見下ろせるようになっている。


3階「船をつくる技術」では、船を中心とした科学技術の原理を紹介しており、操船シミュレータなど実際に体験ができるようになっている。ミニシアターがあり、企画展示などに使用されている。「未来へ」では、名誉館長の一人である松本零士の監督作品『宇宙戦艦ヤマト』関連の展示品があったが後に撤去されている。


4階には、図書館として「ライブラリー」が設けられており、収蔵資料のデータおよび安全保障問題に関する書籍やビデオ教材などを閲覧することができる。


2018年からスマートフォン・タブレットを用いた多言語音声ガイドが導入された。日本語ナレーションは、艦船擬人化ゲーム『艦隊これくしょん -艦これ-』で大和役を務めた竹達彩奈が担当する[4]


地域経済社会への影響

大和ミュージアムの盛況に伴い、呉も広島湾一帯の観光ツアーに組み込まれるようになった。そのため、岩国市錦帯橋)、廿日市市宮島)、広島市(原爆ドーム広島平和記念公園広島城)を訪れる前後に来館する観光客も少なくない。呉市は周辺都市と広域行政に取り組むようになり、広島市・廿日市市とともに修学旅行の誘致事業も行っている。また戦後の広島湾岸諸都市の間には、広島が「軍都」から「平和都市」となる一方、呉・岩国・江田島が、広島のみならず日本の平和を守る自衛隊在日米軍の拠点を担うという「分業」が存在した。広島は「軍事と平和」という二項対立のもと、「周辺都市の軍事拠点を隠し続けることで平和都市としての機能を維持している」という一部の政党や市民団体による見方もあった。しかし、多くの観光客が大和ミュージアムと平和記念公園を往来するようになると旧来の二項対立構造は瓦解し、この地域における「軍事と平和」は観光面で融合を果たしたとされる[1]


2005年には広島県の観光客数・観光客県内消費額が過去最高(当時)となり、大和ミュージアム開館が大きな一因であるとされた。呉市の観光客も2005年以降は年間300~350万人に増え、観光都市に成長した。この結果、県も大和ミュージアムを県観光の代表的・象徴的拠点として積極的に利用するようになり、2011年にはここで広島県と島根県の交流会議が開かれ、両県の観光ルート開拓が話し合われた[1]。一方で、呉市の宿泊客はほぼ増えておらず、大和ミュージアムを訪れた観光客も広島市などで宿泊している人が多いと考えられている。そのため経済効果を市全体に広げる必要があるとされている[5]


多くの人が訪れるようになった大和ミュージアムは呉の社会経済の中核的存在として機能するようになり、市の商業中心地は大和ミュージアムと呉駅の間に移動した。既存の文化施設・商店街は人通りが減ったため利用客数・店舗数等の減少が見られた。そのため、集客力ある大和ミュージアムの来館者を呼び込むために、れんが通り(旧中通り)で大和ミュージアムの姉妹館「ヤマトギャラリー零(ZERO)」がオープンした。ここでは大和ミュージアムの名誉館長・松本零士の漫画作品・収集コレクションなどを展示している[1]

館長
歴代館長
・初代 戸高一成 (2005年4月23日 - )


名誉館長
松本零士 - 漫画家[1]

阿川弘之

的川泰宣

半藤一利

石坂浩二 …… 戦艦長門軍艦旗を呉市に寄贈した縁で、2015年(平成27年)5月9日に行われた開館10周年記念イベントにて委嘱[6]

詳しいことは、「呉市海事歴史科学館(大和ミュージアム)ウィキペディア」をご覧ください。 ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%91%89%E5%B8%82%E6%B5%B7%E4%BA%8B%E6%AD%B4%E5%8F%B2%E7%A7%91%E5%AD%A6%E9%A4%A8
(wikiより)

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 この記事にて、旧海軍墓地は終了になります
時間の制約上、すべての墓碑等の撮影が出来なかったことが残念です。


旧海軍墓地は、1890(明治23)年に、戦没などによる海軍軍人などの埋葬地として開設、1986(昭和61)年に国から市に無償で譲与され、「長迫公園」として整備されました(公園全体面積-約2.90ha)。この墓地には、戦前に建立された墓碑が169基、「戦艦大和戦死者之碑」等80基の合祀(ごうし)碑が建立されています。

〇 長迫公園
長迫公園(ながさここうえん)は、広島県呉市にある公園。旧呉海軍墓地。

概要

1890年(明治23年)に開設された大日本帝国海軍墓地[1][2]。以降呉鎮守府が管理し毎年慰霊祭が行われていたが、1945年(昭和20年)呉軍港空襲枕崎台風被害によりこの地は荒廃した[3]。さらに終戦により慰霊行事自体も廃止された[3]。戦後国有地であったが、有志のみによる手入れが続いていた[3][4]。1965年(昭和40年)頃から更に慰霊碑が建立されていった[3]。1986年(昭和61年)旧軍港市転換法に基づき国から呉市に無償譲与されたことを受け、市が公園として再整備した[2]


敷地面積2.9ha[1]。所有は呉市、管理は公益財団法人呉海軍墓地顕彰保存会が行っている[3]


男たちの大和/YAMATO』のロケ地の一つ。

アクセス
・バス

  ・広電バス長の木長迫線「長迫町」バス停下車、徒歩約1分


・車

  ・広島呉道路呉インターチェンジから約15分

  ・駐車場は普通車10台分

脚注

1. a b 旧海軍墓地(長迫公園)”. ひろしま観光ナビ. 2016年11月28日閲覧。

2. a b 【13】長迫公園(旧海軍墓地)”. 呉市. 2016年11月28日閲覧。

3. a b c d e 呉海軍墓地について”. 呉海軍墓地顕彰保存会. 2016年11月28日閲覧。
4. 第4地区まちづくり委員会の組織概要”. 呉市. 2016年11月28日閲覧。

関連項目
呉市にある日本遺産に関連する文化財一覧

海上自衛隊呉史料館

呉市海事歴史科学館

海軍墓地

外部リンク
旧呉海軍墓地 長迫公園 - 呉市

呉海軍墓地- 呉海軍墓地顕彰保存会
(wikiより)

〇 呉海軍墓地合祀碑一覧

1. 軍艦厳島乗組員之碑 ( 軍艦厳島乗組員之碑 )


2. 軍艦比叡戦没者之碑 ( 軍艦比叡戦没者之碑 )


3. 軍艦天龍 ( 軍艦天龍遭難死者紀念碑 )


4. 軍艦廣丙 ( 軍艦廣丙遭難哀悼碑 )


5. 軍艦高砂 ( 軍艦高砂戦死下士卒墓 )


6. 軍艦矢矧 ( 軍艦矢矧殉職者之碑 )


7. 駆逐艦早蕨 ( 駆逐艦早蕨殉職者之碑 )


8. 上海満州事変 ( 上海満州事変戦没者之碑 )


9. 駆逐艦深雪 ( 駆逐艦深雪殉難者之碑 )


10. 第四艦隊 ( 第四艦隊遭難殉職者之碑 )


11. 軍艦吉野 ( 軍艦吉野戦死者之碑 )


12. 大東亜戦争戦没者 ( 大東亜戦争戦没者之碑 )


13. 戦艦日向 ( 軍艦日向慰霊碑 )


14. 戦艦伊勢 ( 軍艦伊勢慰霊碑 )


15. 戦艦大和 ( 戦艦大和戦死者之碑 )


16. 戦艦扶桑 ( 戦艦扶桑戦没者慰霊碑 )


17. 航空母艦信濃 ( 軍艦信濃戦没者之墓 )


18. 航空母艦雲鷹 ( 軍艦雲鷹戦没者之碑 )


19. 航空母艦隼鷹 ( 軍艦隼鷹慰霊碑 )


20. 航空母艦飛鷹 ( 航空母艦飛鷹の碑 )


21. 軍艦加古 ( 軍艦加古戦没者慰霊碑 )


22. 軍艦青葉 ( 軍艦青葉戦没者慰霊碑 )


23. 軍艦最上 ( 重巡最上戦没者慰霊碑 )


24. 軍艦古鷹 ( 軍艦古鷹戦没者慰霊碑 )


25. 軍艦阿賀野 ( 巡洋艦阿賀野慰霊碑 )


26. 軍艦鈴谷 ( 軍艦鈴谷戦没者慰霊碑 )


27. 軍艦熊野 ( 軍艦熊野慰霊碑 )


28. 軍艦鬼怒 ( 軍艦鬼怒慰霊碑 )


29. 軍艦衣笠


30. 軍艦三隈 ( 軍艦三隈戦没者慰霊碑 )


31. 軍艦球磨 ( 軍艦球磨慰霊碑 )


32. 軍艦神通 ( 軍艦神通戦没者慰霊碑 )


33. 軍艦大井 ( 軍艦大井戦没者慰霊碑 )


34. 軍艦鹿島 ( 軍艦鹿島有終之碑 )


35. 駆逐艦島風 ( 駆逐艦島風戦没者之碑 )


36. 駆逐艦綾波 ( 駆逐艦綾波戦没者之碑 )


37. 駆逐艦敷波 ( 駆逐艦敷波戦没者慰霊碑 )


38. 駆逐艦浜風 ( 駆逐艦浜風戦没者慰霊碑 )


39. 駆逐艦陽炎 ( 駆逐艦陽炎之碑 )


40. 駆逐艦谷風 ( 第17駆逐隊(谷風、浦風、浜風、磯風、雪風、初霜)之碑 )


41. 駆逐艦浦風 ( 第17駆逐隊(谷風、浦風、浜風、磯風、雪風、初霜)之碑 )


42. 駆逐艦桑 ( 駆逐艦桑戦没者之碑 )


43. 駆逐艦磯風 ( 第17駆逐隊(谷風、浦風、浜風、磯風、雪風、初霜)之碑 )


44. 駆逐艦雪風 ( 第17駆逐隊(谷風、浦風、浜風、磯風、雪風、初霜)之碑 )


45. 駆逐艦初霜 ( 第17駆逐隊(谷風、浦風、浜風、磯風、雪風、初霜)之碑 )


46. 駆逐艦浦波 ( 駆逐艦浦波慰霊碑 )


47. 駆逐艦椿 ( 駆逐艦椿戦没者慰霊碑 )


48. 駆逐艦叢雲 ( 駆逐艦叢雲慰霊碑 )


49. 駆逐艦東雲 ( 駆逐艦東雲慰霊碑 )


50. 駆逐艦天津風 ( 駆逐艦天津風之碑 )


51. 駆逐艦白雲 ( 駆逐艦白雲慰霊碑 )


52. 駆逐艦夏潮 ( 第15駆逐隊(夏潮、早潮、親潮、黒潮、陽炎)慰霊碑 )


53. 駆逐艦早潮 ( 第15駆逐隊(夏潮、早潮、親潮、黒潮、陽炎)慰霊碑 )


54. 駆逐艦親潮 ( 第15駆逐隊(夏潮、早潮、親潮、黒潮、陽炎)慰霊碑 )


55. 駆逐艦黒潮 ( 第15駆逐隊(夏潮、早潮、親潮、黒潮、陽炎)慰霊碑 )


56. 駆逐艦呉竹 ( 駆逐艦呉竹慰霊碑 )


57. 駆逐艦秋風 ( 駆逐艦秋風慰霊碑 )


58. 駆逐艦吹雪 ( 第11駆逐隊(吹雪、白雪、初雪、深雪)慰霊碑 )


59. 駆逐艦白雪 ( 第11駆逐隊(吹雪、白雪、初雪、深雪)慰霊碑 )


60. 駆逐艦初雪 ( 第11駆逐隊(吹雪、白雪、初雪、深雪)慰霊碑 )


61. 呉鎮守府潜水艦戦没者 ( 呉鎮守府潜水艦戦没者之碑 )


62. 伊号第8潜水艦 ( 伊号第8潜水艦之碑 )


63. 伊号第11潜水艦 ( 伊号第11潜水艦之碑 )


64. 伊号第27潜水艦 ( 呉鎮守府潜水艦戦没者之碑 )


65. 伊号第29潜水艦 ( 伊29潜戦没者慰霊碑 )


66. 伊号第30潜水艦 ( 呉鎮守府潜水艦戦没者之碑 )


67. 伊号第31潜水艦 ( 呉鎮守府潜水艦戦没者之碑 )


68. 伊号第32潜水艦 ( 呉鎮守府潜水艦戦没者之碑 )


69. 伊号第33潜水艦 ( 呉鎮守府潜水艦戦没者之碑 )


70. 伊号第34潜水艦 ( 呉鎮守府潜水艦戦没者之碑 )


71. 伊号第35潜水艦 ( 呉鎮守府潜水艦戦没者之碑 )


72. 伊号第37潜水艦 ( 呉鎮守府潜水艦戦没者之碑 )


73. 伊号第38潜水艦 ( 呉鎮守府潜水艦戦没者之碑 )


74. 伊号第52潜水艦 ( 呉鎮守府潜水艦戦没者之碑 )


75. 伊号第54潜水艦 ( 呉鎮守府潜水艦戦没者之碑 )


76. 伊号第55潜水艦 ( 呉鎮守府潜水艦戦没者之碑 )


77. 伊号第56潜水艦 ( 呉鎮守府潜水艦戦没者之碑 )


78. 伊号第70潜水艦 ( 呉鎮守府潜水艦戦没者之碑 )


79. 伊号第73潜水艦 ( 呉鎮守府潜水艦戦没者之碑 )


80. 伊号122潜水艦 ( 伊号第122潜水艦戦没者慰霊碑 )


81. 伊号第123潜水艦 ( 呉鎮守府潜水艦戦没者之碑 )


82. 伊号第168(68)潜水艦 ( 呉鎮守府潜水艦戦没者之碑 )


83. 伊号第169(69)潜水艦 ( 呉鎮守府潜水艦戦没者之碑 )


84. 伊号第171(71)潜水艦 ( 呉鎮守府潜水艦戦没者之碑 )


85. 伊号第172(72)潜水艦 ( 呉鎮守府潜水艦戦没者之碑 )


86. 伊号第174(74)潜水艦 ( 呉鎮守府潜水艦戦没者之碑 )


87. 伊号第175(75)潜水艦 ( 呉鎮守府潜水艦戦没者之碑 )


88. 伊号第176(76)潜水艦 ( 呉鎮守府潜水艦戦没者之碑 ) 


89. 伊号第351潜水艦 ( 呉鎮守府潜水艦戦没者之碑 )


90. 伊号363潜水艦 ( 伊363潜殉職者之碑 )


91. 呂号第103潜水艦 ( 呉鎮守府潜水艦戦没者之碑 )


92. 呂号第104潜水艦 ( 呂号第104潜水艦之碑 )


93. 呂号第105潜水艦 ( 呉鎮守府潜水艦戦没者之碑)


94. 呂号第112潜水艦 ( 呉鎮守府潜水艦戦没者之碑)


95. 呂号第113潜水艦 ( 呉鎮守府潜水艦戦没者之碑)


96. 呂号第114潜水艦 ( 呉鎮守府潜水艦戦没者之碑)


97. 潜水母艦長鯨 ( 潜水母艦戦没者慰霊碑 )


98. 第31潜水艦基地隊 ( 第31潜水艦基地隊戦没者慰霊碑 )


99. 敷設艦初鷹 ( 軍艦初鷹慰霊碑 )


100. 工作艦明石


101. 特務艦朝日 ( 工作艦朝日,山彦丸,山霜丸合同慰霊碑 )


102. 工作艦山彦丸 ( 工作艦朝日,山彦丸,山霜丸合同慰霊碑 )


103. 工作艦山霜丸 ( 工作艦朝日,山彦丸,山霜丸合同慰霊碑 )


104. 特務艦間宮 ( 特務艦間宮戦没者慰霊碑 )


105. 特務艦第3号輸送艦 ( 第参号輸送艦戦没者慰霊之碑 )


106. 特務艦第113号輸送艦 ( 第113号輸送艦慰霊碑 )


107. 海防艦第82号 ( 第82号海防艦戦没者慰霊碑 )


108. 海防艦稲木 ( 海防艦稲木戦没者慰霊碑 )


109. 駆潜艇第34号 ( 第34号駆潜艇戦没者慰霊碑 )


110. 特設駆潜艇第18日東丸 ( 特設駆潜艇第18日東丸戦没者慰霊碑 )


111. 掃海艇第13号(第11掃海隊)( 第11掃海隊13,14,15,16,17,18慰霊碑 )


112. 掃海艇第14号(第11掃海隊)( 第11掃海隊13,14,15,16,17,18慰霊碑 )


113. 掃海艇第15号(第11掃海隊)( 第11掃海隊13,14,15,16,17,18慰霊碑 )


114. 掃海艇第16号(第11掃海隊)( 第11掃海隊13,14,15,16,17,18慰霊碑 )


115. 掃海艇第17号(第11掃海隊)( 第11掃海隊13,14,15,16,17,18慰霊碑 )


116. 掃海艇第18号(第11掃海隊)( 第11掃海隊13,14,15,16,17,18慰霊碑 )


117. 呉6特レンドバ島派遣隊 ( レンドバ島派遣隊戦没者慰霊碑 )


118. 第32特別根拠地隊 ( 第32特別根拠地隊戦没者慰霊碑 )


119. 第33警備隊 ( 第33警備隊戦没者慰霊碑 )


120. 第531航空隊 ( 第531海軍航空隊慰霊碑 )


121. 第634,934航空隊 ( 第634、第934海軍航空隊慰霊碑


122. 呉海軍設営隊 ( 呉海軍設営隊顕彰慰霊碑 )


123. 第103工作部 ( 第103海軍工作部戦没者之碑 )


124. 呉第1特別陸戦隊(善本中隊)( 善本野戦高射砲中隊戦没者慰霊碑 )


125. 第12防空隊 ( ソロモン方面第12防空隊慰霊碑 )


126. ショートランド島(第13防空隊)( ショートランド島戦没者慰霊碑 )


127. 第16防空隊 ( 第16防空隊戦没者慰霊碑 )


128. 第17防空隊 ( 呉鎮守府第17防空隊慰霊碑 )


129. 呉6特(バラレ島)( 呉6特バラレ島戦没者慰霊碑 )


130. 昭和15年徴主主計科 ( 昭和15年徴募主計科戦没者慰霊碑 )


131. 第634航空隊(基地隊)( 第634海軍航空隊基地隊慰霊碑 )


132. 呉海軍看護合葬碑 ( 看護の碑 )


133. 柔道部員之碑 ( 大東亜戦争海軍戦没者柔道部員之碑 )


134. 英国水兵の墓 ( 英国水兵の墓碑 )

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⇧ パンフレットの地図

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雲鷹(うんよう)は、日本海軍航空母艦[5][22]

概要

軍艦雲鷹(うんよう)は日本海軍の航空母艦(空母)[23][24]1940年(昭和15年)7月末に竣工した日本郵船所有の新田丸級貨客船2番船八幡丸(やはたまる/やわたまる)を[25]太平洋戦争直前に日本海軍が徴用および買収、空母に改造した艦艇である[26]大鷹型航空母艦としても2番艦である[27]。八幡丸の建造費用は政府の優秀船舶建造助成施設の適用を受けており、有事には徴用・改装されることがあらかじめ決められていた[28][29]。なお大鷹型航空母艦は小型で速力も20-22ノット程しか発揮できず[30]太平洋戦争中盤までは航空機輸送任務に従事した[31]


八幡丸は1940年(昭和15年)7月31日に貨客船として竣工後、約一年間、商船として運用された[32]1941年(昭和16年)11月25日付で特設航空母艦に類別[2]呉海軍工廠で空母改造に着手し[32]1942年(昭和17年)5月末に竣工[23][33]。八幡丸の最初の任務は、第二航空隊零式艦上戦闘機九九式艦上爆撃機ラバウル輸送であった[34]


八幡丸は8月31日付で軍艦籍に編入され[5][35]、特設空母八幡丸から軍艦(航空母艦)雲鷹となった[32][36]。大鷹型空母は航空機輸送艦として奔走、雲鷹はトラック島に17回、ラバウル方面2回、東南アジア方面2回の輸送を実施した[37]


1943年
(昭和18年)11月15日に海上護衛総司令部が設立されると[38]、本艦以下大鷹型空母は同部隊に編入される[24][39]1944年(昭和19年)1月19日、雲鷹はアメリカ海軍潜水艦ハダックの魚雷攻撃を受けて大破[23][40]。辛うじて横須賀へ帰投後、8月まで修理を実施した[41]。同年8月24日のヒ73船団護衛が、護衛空母としての初任務になった[33][42]。日本からシンガポールへの往路は無事だったが、折り返して日本へ向かうヒ74船団を護衛中の9月17日[42]、南シナ海でアメリカの潜水艦バーブの雷撃で[32][33]沈没した[43][44]

歴史
建造前

雲鷹の前身である八幡丸(やはたまる)は[5]、昭和初期に好況を博していた欧州航路の老齢船を置き換える目的で、またドイツの新型貨客船3隻(シャルンホルストグナイゼナウポツダム)に対抗しつつ1940年(昭和15年)開催予定の東京オリンピックを見込んで、日本郵船が建造した豪華客船新田丸級三姉妹船の第3船であった[45][46]。新田丸級三姉妹船(新田丸、八幡丸、春日丸)は、日本郵船を象徴する客船であり、日本郵船株式会社のイニシャル“NYK”に因んでそれぞれNittamaru, Yawatamaru, Kasugamaruと命名されている[46]。建造費用は優秀船舶建造助成施設による補助を受けていた[46]。また3隻とも三菱長崎造船所で建造され、新田丸、八幡丸、春日丸の順番で建造された[46]。新田丸と八幡丸は短期間ながら客船として活動した[46]。春日丸は客船として就役することなく最初から空母として竣工したため[46]、本型は最初に完成した春日丸をネームシップとして春日丸級特設航空母艦と呼称されている[47]

詳細は「新田丸級貨客船」を参照


第二船の八幡丸は、三菱長崎造船所で1938年(昭和13年)12月14日に起工[48]1939年(昭和14年)10月31日、進水[48]。1940年(昭和15年)7月31日、竣工[48][49]。シアトル航路で一航海ののち、サンフランシスコ航路に就航した。予想される日米の艦隊決戦に際して、大鷹型航空母艦(春日丸級航空母艦)は艦隊用補助空母としての役割を期待されていた[50][51]。しかし本型は小型で速度も遅く[52]、さらに日本海軍が終戦まで空母用カタパルトを実用化できなかった事は、運用に大きな制約をあたえた[53][51]。空母用カタパルトを装備した連合国軍の軽空母護衛空母と比較して、本型の航空機運用能力は非常に見劣りするものとなり、本格的な海戦に投入される事は一度もなかった[53][51]


1941年(昭和16年)11月22日、日本海軍は八幡丸を徴用する[54]。11月25日、特設航空母艦として呉鎮守府所管となった[2]。 同日附で、駒澤克己大佐(当時、水上機母艦〈甲標的母艦〉日進艤装員長)は、日進艤装員長と八幡丸艤装員長の兼務を命じられた[55]。12月10日、駒澤大佐(日進艤装員長、八幡丸艤装員長)は兼務を解かれる[注釈 5]。八幡丸艤装員長は湊慶譲大佐となった[56]。 空母改造着手の時期について、1941年(昭和16年)11月下旬とする資料[46][57]、1942年(昭和17年)1月とする資料がある[52][58]

1942年

1942年(昭和17年)5月10日、井上良雄中佐(5月5日まで駆逐艦萩風艦長)[59]は、八幡丸副長に任命される[60]。5月31日、改造完成[49][61]。連合艦隊付属となる[57]


空母に改造され春日丸級特設航空母艦となった八幡丸の最初の任務は、1942年(昭和17年)7月末~8月上旬のラバウル向け第二航空隊の航空機輸送任務だった[62][注釈 6]。7月下旬、八幡丸と駆逐艦峯雲(第9駆逐隊)[注釈 7]は内海西部から横須賀へ移動する[65]。 7月29日、八幡丸は零式艦上戦闘機 16機と九九式艦上爆撃機 16機を搭載、第7駆逐隊([66]に護衛されて横須賀を出発する[57]8月6日ニューブリテン島ラバウル近海で、八幡丸は敵双発爆撃機(機種不明)から攻撃される[注釈 8]。 同6日、二空の零戦15(二号零戦)と艦爆16機はラバウル進出を完了した[34]。ラバウルから来た駆逐艦秋風(第34駆逐隊)は、二空の整備員を収容した[67][68]。 翌7日、連合軍はウォッチタワー作戦によりフロリダ諸島ガダルカナル島に来襲し、ガダルカナル島の戦いが始まった[69]。八幡丸が輸送した零戦と艦爆は、第五空襲部隊指揮官(第二十五航空戦隊司令官山田定義少将)の下令により、ただちにガ島戦に投入された[70][71]


なおラバウルを偵察したB-17は、この海域に日本軍の空母1隻を発見していた[72]。米海軍情報部は「この空母は改装空母で、航空機輸送艦だろう」と推定したが、連合国軍上陸部隊(アメリカ海兵隊)を支援していた第61任務部隊(司令官フランク・J・フレッチャー中将)は違う受け止め方をした[72]正規空母3隻(サラトガエンタープライズワスプ)を擁する第61任務部隊は、日本空母に対する攻撃準備や上空防衛に労力を割いた挙句[73]、上陸部隊と輸送船団に対する掩護を打ち切って撤退した[74][注釈 9]


ラバウルへの航空機輸送任務を終えた八幡丸は、8月9日ウルシー環礁へ到着、13日から14日、呉へ戻った[75][注釈 10]。 水雷艇の協力を得て[78]、8月末まで九州佐伯沖合で八幡丸は着艦訓練をおこなう[79][80]


8月31日[54]、特設航空母艦八幡丸と春日丸は、それぞれ軍艦雲鷹(ウンヨウ)および大鷹(タイヨウ)と改名される[5][61]。2隻は同31日付で正規の航空母艦となった[32][3]。雲鷹は呉鎮守府籍となる[35][81]。湊大佐の役職も、八幡丸艦長から雲鷹艦長になった[82]。 ひきつづき連合艦隊附属[83]。艦容に変化はなく、内地と前線を往復して航空機輸送任務に従事した[33]


9月初旬[84]、雲鷹と駆逐艦磯波(第19駆逐隊)は呉から横須賀に移動する[85][86]。9月4日、雲鷹は物資輸送を兼ねて横須賀を出港する[87][注釈 11]。第16駆逐隊の駆逐艦雪風に護衛され[61]、トラック泊地へ向かった[89]。 トラック泊地で、搭載中の陸軍兵や弾薬を第7駆逐隊に移載する予定であった[注釈 12]9日朝、第34駆逐隊の駆逐艦秋風はトラック泊地北方に潜望鏡を発見し対潜警戒警報を発令、連合艦隊は戦艦大和陸奥、巡洋艦香取(第六艦隊旗艦)以下トラック在泊艦艇に転錨を命じた[注釈 13][92]。哨戒機と駆逐艦は爆雷を投下する[93]。戦艦・機動部隊・重巡部隊の各隊各艦はただちに停泊地を変更し、宇垣纏連合艦隊参謀長が『最も難物』と心配していた工作艦明石も横抱きした損傷艦3隻を自力航行させたのち移動した[93]。午後3時、トラック泊地に到着した雲鷹も警戒機を発進させたが敵潜を発見できず、結局秋風がトラック泊地へ接近中の雲鷹のマストを潜望鏡と誤認したものであったという[94]18日[61]、雲鷹隊(雲鷹、)は呉に帰投した[95][96]


南東方面での戦闘が激しくなるにつれて航空機の消耗は甚大となり、大鷹型空母は航空機輸送任務に奔走する[97][98][99]。だが、航空機輸送任務中の航空母艦は、暗号解読により待ち伏せている米潜水艦に幾度も襲撃された。11月10日、ラバウルに派遣予定の一式戦闘機輸送任務[注釈 14]に従事していた雲鷹は、暗号解読により待ち伏せていたアメリカ潜水艦シーウルフ (USS Seawolf, SS-197) に狙われた[103]。雲鷹を翔鶴型航空母艦と誤認したシーウルフは追跡をおこなうが、同艦は機関故障をおこして襲撃を断念、各方面に情報を発信して真珠湾へ帰投した[103]。同海域にはシーウルフの他に潜水艦シール (USS Seal, SS-183) も行動していたが、雲鷹を襲うことはなかった[103]

1943年

1943年(昭和18年)1月28日、雲鷹艦長は湊大佐から相徳一郎大佐に交代[104]。4月14日、相徳大佐は重巡洋艦最上艦長へ転任、後任の雲鷹艦長は関郁乎大佐となる[105]


5月8日、大和型戦艦大和、第五戦隊(妙高羽黒)、空母2隻(雲鷹、冲鷹)、駆逐艦複数隻[注釈 15]はトラックを出発する[109]13日、横須賀着(大和は呉)[110][111]。5月下旬、大鷹型空母2隻(雲鷹、冲鷹)は横須賀~トラック間を往復する[112]


6月10日、横須賀を出港した空母飛鷹と駆逐艦2隻(有明夕暮)はアメリカ潜水艦トリガー (USS Trigger, SS-237) から襲撃され[113][114]、被雷して航行不能となった飛鷹は軽巡五十鈴[115](第十四戦隊)[116]に曳航されて横須賀へ帰投した[117][118]16日、第三戦隊司令官栗田健男中将の指揮下[119]、戦艦2隻(金剛榛名)、第七戦隊(熊野鈴谷[120]、軽巡五十鈴[115](第十四戦隊)[116]、空母3隻(龍鳳、雲鷹、冲鷹)、駆逐艦複数隻[注釈 16]は横須賀を出発する。 6月20日、暗号解読により待ち伏せていたアメリカ潜水艦スピアーフィッシュ (USS Spearfish, SS-190) が日本軍空母(個艦不明)に対し魚雷4本を発射するが、速力を見誤っていたので命中しなかった[注釈 17]。翌21日、日本艦隊はトラックに到着した[123]。空母2隻(雲鷹、冲鷹)等は、一旦横須賀に戻った。


7月上旬、雲鷹はマーシャル諸島への航空機輸送任務に従事する[124]。第二〇一海軍航空隊の零式艦上戦闘機 45機と、第五五二海軍航空隊の九九式艦上爆撃機 27機、計82機を搭載する[124]。7月6日[57]、特設巡洋艦愛国丸と共に横須賀を出発した[124][125]。7月10日、アメリカ潜水艦ハリバット (USS Halibut, SS-232) が愛国丸に魚雷6本を発射する[126]。魚雷1本が命中し、愛国丸が小破した[127]。翌11日、雲鷹隊はトラック泊地に到着した[126]19日、雲鷹は龍鳳と共にトラック泊地を出発、24日横須賀に到着した[57][124]


7月31日、雲鷹は第二水雷戦隊司令官高間完少将(旗艦長良)の指揮下に入り、3隻(長良、雲鷹、)で横須賀を出発する[128][129]。 8月1日、呉からトラックへむかう大和型戦艦武蔵(連合艦隊司令長官古賀峯一司令長官座乗)[130]と護衛部隊に合流する[注釈 18]4日、暗号解読により待ち伏せていたアメリカ潜水艦スティールヘッド (USS Steelhead, SS-280) に発見された[133]。翌日未明、スティールヘッドが雲鷹に対し魚雷6本、戦艦に対し魚雷4本を発射したものの早爆に終わった[133]。トラック泊地の九七式艦上攻撃機(対潜哨戒機、レーダー未搭載)は夜間のため基地で休息しており、敵潜の雷撃を防ぐことができなかった[133]5日、艦隊はトラックに到着した[134][135]。雲鷹と曙は連合艦隊附属となる[134]。雲鷹は重巡鳥海および野分と白露と行動を共にし[136]、一旦内地へ戻った[57]8月18日付で井上良雄大佐(雲鷹副長)は第9駆逐隊司令へ転任する[137][注釈 19]。後任の雲鷹副長は志柿謙吉中佐[137]。引き続き航空機輸送任務に従事する。


10月上旬、マーシャル諸島ギルバート諸島へ配備される日本陸軍の輸送作戦が実施されることになり[139]、雲鷹は輸送部隊指揮官木村進第十一水雷戦隊司令官の指揮下に入った[140]。同月13-14日[141]、空母2隻(隼鷹、雲鷹)と駆逐艦2隻(玉波)は内海西部を出発する[142]19日[57]、隼鷹隊はトラック泊地に到着した[143][144]。雲鷹は帰路も第十一水雷戦隊に同行することになった。21日付で志柿謙吉中佐(雲鷹副長)は、空母飛鷹副長を命じられる[145]


10月31日、第十一水雷戦隊司令官指揮下、戦艦山城、航空戦艦伊勢、空母2隻(隼鷹、雲鷹)[注釈 20]、重巡洋艦利根[注釈 21]、軽巡洋艦龍田、駆逐艦4隻(第24駆逐隊〈海風涼風〉、第17駆逐隊〈谷風〉、第7駆逐隊〈〉)はトラック泊地を出発した[148]11月5日午前5時、暗号解読により豊後水道近海で待ち伏せていたアメリカ潜水艦ハリバット (USS Halibut, SS-232) は、日本輸送艦隊を襲撃した[140]。午前5時35分、ハリバットが発射した魚雷1本が隼鷹の艦尾に命中する[149]。隼鷹は利根に曳航されて日本本土に向かった[146][150]


1943年(昭和18年)11月上旬のろ号作戦ブーゲンビル島沖航空戦)で、第一航空戦隊の母艦航空隊は大幅に消耗した[151]。航空機補充のため、瑞鳳がトラック泊地より横須賀に帰投した[152]。11月16日、空母3隻(瑞鳳、冲鷹、雲鷹)は駆逐艦(秋雲、曙、潮、漣)に護衛されて横須賀を出発、21日トラック泊地に到着した[注釈 22]11月30日、瑞鳳艦長が指揮する内地回航部隊 空母3隻(瑞鳳、雲鷹、冲鷹)、重巡洋艦摩耶[注釈 23]、第7駆逐隊、浦風(第17駆逐隊)はトラック泊地を出発した[154]。暗号を解読したアメリカ軍は、複数の潜水艦(スケートガンネル、セイルフィッシュ)に輸送船団の襲撃を命じた[152]12月4日、冲鷹がアメリカ潜水艦セイルフィッシュ[155](USS Sailfish, SS-192) の雷撃で沈没した[156][157][注釈 24]等に護衛された空母2隻(瑞鳳、雲鷹)は、横須賀に帰投した[159]


12月15日海上護衛総司令部麾下に第九〇一海軍航空隊が編制された[160]。同15日付で空母3隻(雲鷹、海鷹、大鷹)は海上護衛総司令部部隊に編入[161]12月20日には空母神鷹(ドイツ客船シャルンホルスト改造空母)も編入された[162][163]。だが雲鷹は連合艦隊の麾下にあって輸送任務に従事しており、この時点で海上護衛部隊として行動する機会はなかった[164]

1944年
航空機輸送

1944年(昭和19年)1月4日、瑞鳳と雲鷹は第6駆逐隊()に護衛されて横須賀を出発、9日トラック泊地に到着した[注釈 25]。空母2隻は零式水上偵察機4機、零式観測機8機、二式水上戦闘機6機、天山艦上攻撃機7機、合計25機を輸送した[166]。この後、雲鷹は第二水雷戦隊司令官早川幹夫少将の指揮下に入る[40]。 軽巡洋艦(二水戦旗艦)能代、空母2隻(瑞鳳、雲鷹)、駆逐艦3隻(早波若葉初霜)という編成で1月18日にトラック泊地を出発、先行隊(五十鈴、初春)を追って横須賀へ向かう[167]。日本空母出撃の情報を得たアメリカ海軍は、サイパン島東方で行動中の潜水艦3隻(ハリバット、タリビー、ハダック)に迎撃を命じた[168]


1月19日
10時37分[169]、雲鷹は米潜ハダック (USS Haddock, SS-231) の魚雷攻撃を受けた。魚雷6本を発射し、ハダックの艦長は翔鶴型航空母艦を撃破したと報告した[168]。被雷位置北緯12度52分 東経146度26分 / 北緯12.867度 東経146.433度 / 12.867; 146.433[170]。雲鷹には魚雷3本が命中[41]、特に艦首・艦前部の損傷により速力は4ノットに低下(機関部には異常なし)[40]、瑞鳳隊(瑞鳳、若葉)は先行して横須賀へ帰投する[171]。本艦は3隻(能代、早波、初霜)に護衛されてサイパンへ避退する[41](1月20日到着)[172]。同地で、雲鷹は能代に繋留された[171][173]。同日、工作艦明石の工員と排水ポンプを乗せた駆逐艦海風(第24駆逐隊)がサイパンに到着する[174]。また損傷状況調査のため連合艦隊司令部付の塩山策一技術大佐もサイパンへ派遣され、対応を協議している[175]21日、二水戦(能代、早波)は海風と哨戒護衛任務を交代し、横須賀へ向かった[176]22日朝、駆逐艦皐月(第22駆逐隊)がサイパンに到着した[177]


1月24日、連合艦隊は、駆逐艦海風、皐月を雲鷹の警戒に任じ、駆逐艦初霜のトラック帰投を発令する[178]。だが24駆司令の要請により海風と初霜を入れ替えることになった[179]25日、潜水艦ハリバットが泊地に侵入して雲鷹を雷撃しようとしたが、警戒が厳しく皐月にも攻撃されたため諦めて去った[180][166]26日、第7駆逐隊(潮、曙)がサイパンに到着、雲鷹に合同した[181]27日、雲鷹隊はサイパンを出発した[182]


一方、瑞鳳隊は横須賀へ帰投したのち、空母2隻(瑞鳳千代田)、重巡洋艦高雄、駆逐艦3隻(初春若葉玉波)という戦力で、1月29日に横須賀を出港した[183]。すると連合艦隊より重巡高雄に対し雲鷹救援命令が発せられ、高雄と玉波は瑞鳳隊から分離する[184]2月1日午前11時、高雄と玉波は、サイパンより内地へむかう雲鷹隊(雲鷹、潮、曙、初霜、皐月)と合同した[185]。玉波は瑞鳳隊の護衛に戻った[186]。雲鷹隊はアメリカの潜水艦2隻(ガジョンソーリー)に狙われて幾度も雷撃された[41]2日、初霜は雲鷹の警戒中、潜水艦と会敵し、爆雷攻撃を実施する[187]。これに悪天候も加わって、高雄による雲鷹曳航の試みは全て失敗した[188]。幾度も襲撃を行うアメリカ潜水艦に対し、高雄は戦闘詳報の中で「敵潜ハ盲目蛇ニ怖ジザル呆氣者カ或ハ人ヲ舐メテ懸ッタ勇敢ナル者カ」と前置きし、「おそらく後者であろう」と推測している[189]。雲鷹は前進することさえできず、ほとんど漂流状態であった[190]。このような状況下、敷設艇猿島や駆逐艦白雲等の支援艦艇が漸次雲鷹隊に合流するが[191]、当初の護衛部隊は燃料不足に陥り、また爆雷や食料品・燃料補給のため、次々に横須賀へ回航される[192][193]5日、白雲は北方部隊(第五艦隊)の命令により大湊へ回航された[194]6日、高雄も燃料不足になり、先行していた初霜と合流して横須賀へ戻った[195]夕雲型駆逐艦沖波岸波が雲鷹護衛を引き継ぎ[196]、横須賀からも第7駆逐隊(潮、曙)が再出撃する[197]。横須賀で補給を終えた高雄と初霜は、横須賀工廠の救難部隊をのせて7日早朝に雲鷹隊と合同する[198]。同日夜、雲鷹と高雄以下の護衛部隊は東京湾に到着した[199]。 高雄は雲鷹護衛時の経験から、大型囮艦(損傷艦に偽装)・精鋭護衛艦・利根型重巡洋艦の連繋により「潜水艦狩り」を行ってはどうかと提言している[200][注釈 26]

詳しいことは、「雲鷹 (空母)ウィキペディア」をご覧ください。 ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9B%B2%E9%B7%B9_(%E7%A9%BA%E6%AF%8D)
(wikiより)

79   軍艦雲鷹

雲鷹

79b

79c

79d



大和(やまと)[5]は、大日本帝国海軍が建造した大和型戦艦の1番艦[6]。2番艦の武蔵とともに、史上最大にして唯一46センチ砲を搭載した超弩級戦艦呉海軍工廠で建造。


昭和20年(1945年)4月7日、沖縄海上特攻作戦に旗艦として参加し、アメリカ軍艦載機約300機に攻撃され坊ノ岬沖で沈没した。

概要

戦艦 大和は、大和型戦艦1番艦[6]。大和の艦名は奈良県旧国名大和国、あるいは日本の古称・別称・雅称に由来する[7]。艦名は、明治・大正時代の海防艦/特務艦大和[8]に続いて二代目。


大和は、戦艦として史上最大の排水量に史上最大の46cm主砲3基9門を備え、防御面でも、指揮系統の集中する重要区画(バイタルパート)では対46cm砲防御を施した軍艦であった。設計はもちろん、ブロック工法の採用など施工においても当時の日本の最高の技術が駆使された。しかし、その存在で特に46cm主砲の搭載が最高軍事機密であったので、建設時から秘匿に力が注がれ、また完成が数日差ながらすでに戦時中になっていたことや、さらに敗戦前後に設計図含め多くの記録が焼却処分されたためにその姿をとらえた現存写真は非常に少なくなっている。


太平洋戦争
大東亜戦争)開戦直後の1941年(昭和16年)12月16日に就役[9]1942年(昭和17年)2月12日連合艦隊旗艦となった(司令長官山本五十六大将)[10]。6月上旬のミッドウェー作戦が初出撃となった。1943年(昭和18年)2月、司令部設備に改良が施された同型艦の武蔵がトラック島に進出し、武蔵に連合艦隊旗艦任務を移譲した。同年末、大和は輸送作戦中にアメリカの潜水艦の雷撃で小破した。 修理・改装後、1944年(昭和19年)6月の渾作戦マリアナ沖海戦に参加した。同年10月中旬以降の捷一号作戦で、アメリカ軍の護衛空母部隊(タフィー3)に対し46cm主砲砲撃を実施した(レイテ沖海戦)。1945年(昭和20年)4月7日天一号作戦において第二艦隊第一航空戦隊)旗艦として麾下の第二水雷戦隊と共に沖縄方面へ出撃したがアメリカ軍の機動部隊の猛攻撃を受け、坊ノ岬沖で撃沈された。爆撃や魚雷を多数受けたが、対空防御、対水雷防御の両面において、特攻作戦を行わなければ十分な防御能力があった。

大和・武蔵に共通する特徴については「大和型戦艦」を参照

沿革・艦歴
建造

大和型戦艦#建造」および「大和型戦艦#機密保持」も参照


ロンドン海軍軍縮条約の失効を1年後に控えた1937年(昭和12年)、失効後にアメリカ・イギリス海軍が建造するであろう新型戦艦に対抗しうる艦船を帝国海軍でも建造することが急務とみた軍令部は、艦政本部に対し主砲として18インチ砲(46センチ砲)を装備した超大型戦艦の建造要求を出した。この要求を満たすべく設計されたのが「A140-F6」、すなわち後の大和型戦艦である。「A140-F6」型は2隻の建造が計画され、それぞれ「第一号艦」「第二号艦」と仮称された[11]。しかし当時すでに航空主兵論が提唱され始めていたこともあり、山本五十六ら航空主兵論の将校からはそうした大型艦の建造が批判されていた[12]


1937年(昭和12年)8月21日、米内光政海軍大臣から第一号艦製造訓令「官房機密第3301号」が出ると[13]、5年後の1942年(昭和17年)6月15日[14]を完成期日としてここに第一号艦の建造が始動した。同年11月4日には広島県呉市呉海軍工廠造船船渠で起工[15]長門型戦艦1番艦長門天城型巡洋戦艦2番艦赤城(空母)を建造した乾ドックは大和建造のために1メートル掘り下げて[16]、長さ314メートル、幅45メートル、深さ11メートルに拡張された[17]。イギリスやアメリカにこの艦を超越する戦艦を作られないように建造は秘密裏に進められ、設計者たちに手交された辞令すらその場で回収される程だった[18]。また艦の性能値も意図的に小さく登録された[19]

機密保持は厳重を極めた[20]。造船所を見下ろせる所には板塀が設けられ、ドックには艦の長さがわからないよう半分に屋根を架け、船台の周囲には魚網などに使われる棕櫚(しゅろ)を用いたすだれ状の目隠しが全面に張り巡らされた[21]。全国から膨大な量の棕櫚を極秘に買い占めたために市場での著しい欠乏と価格の高騰を招き、大騒ぎになったという逸話が残っている[要出典]。建造に携わる者には厳しい身上調査が行われた上、自分の担当以外の部署についての情報は必要最小限しか知ることができないようになっていた[22]造船所自体が厳しい機密保持のために軍の管制下に置かれた[23]。建造ドックを見下ろす山でも憲兵が警備にあたっていた。しかし海軍関係者の間で巨大戦艦建造の事実そのものは公然の秘密だった[24]海軍兵学校の生徒を乗せた練習機が大和の上空を飛び、教官が生徒達に披露したこともあったという[25]。大和型戦艦建造の際の機密保持については、多くの建艦関係者が行き過ぎがあったことを指摘している[26]


1940年(昭和15年)3月3日、海軍はマル3計画1号艦の艦名候補として『大和』と『信濃』を挙げ、3月6日に昭和天皇は『大和』を選択した[27][28]。軍艦の命名は、海軍大臣が複数の候補を選定して天皇の治定を仰ぐことが定められていた[29]。天皇の決定をうけて吉田善吾海軍大臣は「第一号艦」を大和(やまと)と命名した[5]。なお同日附でマル3計画の各艦艦名、武蔵(2号艦)、翔鶴(3号艦)、瑞鶴(4号艦)も決定している[27]


同年8月8日進水[30][31]。ただし進水といっても武蔵(三菱長崎造船所建造)のように陸の船台から文字通り進水させるのではなく、大和の場合は造船ドックに注水してから曳船によって引き出す形で行われた[30]。しかも機密保持からその進水式は公表されることもなく、高官100名と進水作業員1000名が見守るだけで、世界一の戦艦の進水式としては寂しいものだった[32]昭和天皇海軍兵学校の卒業式出席という名目で大和進水式に行幸する予定が組まれ、造船関係者は社殿風の進水台を制作する[30]。結局は天皇の義兄にあたる久邇宮朝融王海軍大佐(香淳皇后の兄、当時海防艦八雲艦長)臨席のもとで進水式は行われた[30][33]。海軍大臣代理として式に臨んだ嶋田繁太郎海軍中将は、それまで仮称「一号艦」と呼ばれていたこの巨艦のことを初めて、ただし臨席者にも聞き取り難いほどの低い声で、大和と呼んだ[34]。造船関係者は葛城型スループ2隻(大和武蔵)が既に廃艦になっていることから新型戦艦(本艦)の艦名を大和と予測、橿原神宮千代田城二重橋を描いた有田焼風鈴を500個制作、関係者のみに配布した[35]。 8月11日、帰京した朝融王は天皇に大和進水式について報告した[33]


大和進水後のドックでは大和型4番艦111号艦の建造がはじまったが、大和の艤装工事に労力を割いたため111号艦の進捗は遅れた[36]。一方の大和は前述のように1942年6月の竣工を目指して艤装工事を続けたが、日本海軍は本艦の完成時期繰り上げを命令[14]

1941年(昭和16年)10月18日、土佐沖で荒天(風速南西20m)の中で速力27.4ノットを記録[14]。続いて30日に全力公試27.46ノットを記録[2]、11月25日には山本五十六連合艦隊司令長官が視察に訪れた[37]。12月7日、周防灘で主砲射撃を実施した[14]真珠湾攻撃の前日だった。12月8日、南雲機動部隊の収容掩護のため豊後水道を南下する戦艦6隻(長門、陸奥、扶桑、山城、伊勢、日向)、空母鳳翔、第三水雷戦隊以下連合艦隊主力艦隊とすれ違う[38]。 呉帰投後の第一号艦(大和)は12月16日附で竣工した[15]。同日附で第一戦隊に編入された[39]。艦艇類別等級表にも「大和型戦艦」が登録された[6]。大和の1/500模型は昭和天皇香淳皇后天覧ののち海軍省に下げ渡され[40][41]、海軍艦政本部の金庫に保管されたという[42]


大和には、当時の最新技術が多数使用されていた。日本海軍の軍艦では最初に造波抵抗を打ち消す球状艦首(バルバス・バウ)を用いて速力向上をはかり(竣工は翔鶴が先)、煙突などにおける蜂の巣構造の装甲、巨大な観測用の測距儀の装備など、進水時には世界最大最新鋭の艦型だった。就役当初レーダーは装備されていなかったが、その後電波探信儀が漸次装備されていった。 なお、副砲には条約型重巡の主砲がそのまま転用されたが、これは帝国海軍が海軍休日を破棄して条約型重巡の主砲を15センチ砲から20センチ砲に入れ替えるのを最初から計画していた、という説もある。

連合艦隊旗艦

1942年(昭和17年)2月12日、大和は連合艦隊旗艦となった[43]。参謀達はそれまで旗艦だった長門に比べ格段に向上した本艦の居住性に喜んでいる[44]。 3月30日、距離38100mで46cm主砲射撃訓練を行う[45]。第二艦隊砲術参謀藤田正路は大和の主砲射撃を見て1942年5月11日の日誌に「すでに戦艦は有用なる兵種にあらず、今重んぜられるはただ従来の惰性。偶像崇拝的信仰を得つつある」と残した[46]5月29日、大和はミッドウェー作戦により山本五十六連合艦隊司令長官が座乗して柱島泊地を出航したが、主隊として後方にいたため大和が直接アメリカ軍と砲火を交えることはなかった[要出典]。6月10日、アメリカ軍の潜水艦に対して二番副砲と高角砲を発砲した[47]。同6月14日柱島に帰投する[要出典]


大和が機動部隊と同行しなかったのは、戦前からの艦隊決戦思想と同じく空母は前衛部隊、戦艦は主力部隊という思想の元に兵力配備をしたからであり、艦艇の最高速度との直接的な関係はなかった。実際、主力空母のうち最も低速の空母加賀の速度差は殆ど0、飛鷹型航空母艦は25ノットで大和型戦艦より劣速である。ただ、飛鷹型空母は民間客船を改造した艦で、正規空母ではなく、航空母艦の護衛はより高速な艦が必要だったのは事実である。実際、空母の護衛には戦艦の中では高速戦艦に分類される金剛比叡榛名霧島が用いられることが多かった。日本海軍の主戦力が空母と認識されたのはミッドウェー海戦での敗戦を受けてのことであり、この時点では少なくとも編成上は戦艦が主力の扱いであった。


1942年(昭和17年)8月7日、アメリカ軍がガダルカナル島に来襲してガダルカナル島の戦いが始まった。8月17日、山本長官以下連合艦隊司令部を乗せた大和は、空母大鷹(春日丸)、第7駆逐隊(潮、漣、曙)と共にソロモン方面の支援のため柱島を出航する[48]。8月21日、グリメス島付近を航行し[49]、航海中に第二次ソロモン海戦が勃発した。航空機輸送のため2隻(大鷹、曙)をラバウルに向かわせたのち、3隻(大和、潮、漣)は8月28日にチューク諸島トラック泊地に入港したが[50]、入泊直前に大和はアメリカの潜水艦フライングフィッシュから魚雷4本を撃ち込まれた。2本は自爆、1本を回避している[51]。その後、トラック泊地で待機した。 9月24日、ガダルカナル島への輸送作戦をめぐって陸軍参謀辻政信中佐が大和に来艦、山本連合艦隊長官と会談する[52]。辻は大和の大きさに感嘆した[52]。だが、大和が最前線に投入されることはなかった。ヘンダーソン基地艦砲射撃に参加する案も検討されたが取りやめとなった[53]第三次ソロモン海戦では、老艦の金剛型戦艦霧島と比叡が大和と同世代のアメリカの新鋭戦艦であるサウスダコタワシントンとの砲撃戦により大破、自沈した。この点で大和型戦艦の投入をためらった連合艦隊の消極性とアメリカの積極性を比較する意見もある[54]

昭和18年の行動

1943年(昭和18年)2月11日、連合艦隊旗艦任務は大和の運用経験を踏まえて通信、旗艦設備が改良された大和型戦艦2番艦武蔵に変更された[55]。2月20日には第八方面軍司令官今村均陸軍中将が大和を訪問し、連合艦隊首脳陣と南東方面(ニューギニア方面、ソロモン諸島方面)作戦について懇談した[56]。第八方面軍は海軍の潜水艦による輸送を依頼した[56]。これは三式潜航輸送艇(通称「まるゆ」)開発につながる動きである。5月8日、空母2隻(冲鷹、雲鷹)、重巡2隻(妙高、羽黒)、駆逐艦4隻(潮、夕暮、長波、五月雨)と共にトラック出航、各艦は18日に呉や横須賀の母港へ戻った[57]。呉では対空兵器を増強し、21号電探22号電探などレーダーを装備する[58]


8月16日、主力部隊(戦艦3隻〈大和、長門扶桑〉、空母〈大鷹[59]、巡洋艦3隻〈愛宕高雄能代〉、駆逐艦部隊〈涼風海風秋雲夕雲若月天津風初風〉)は呉を出撃し、トラックへ向かう[60][61]。 ソロモン諸島では激戦が行われ戦局が悪化していたが、大和はトラック島の泊地に留まったまま実戦に参加できなかった。居住性の高さや食事などの面で優遇されていたこともあいまって、他艦の乗組員や陸軍将兵から「大和ホテル」と揶揄されている[62](当時満州に満鉄の経営する高級ホテルチェーン、ヤマトホテルがあった)。作戦行動を終えた駆逐艦が大和に横付けし、駆逐艦乗組員が大和の巨大で整った風呂を利用することも多かったという[63]。10月中旬、マーシャル諸島への出撃命令が下った[要出典]。アメリカ海軍の機動部隊がマーシャルに向かう公算ありとの情報を得たからである[要出典]。旗艦武蔵以下、大和、長門などの主力部隊は決戦の覚悟でトラックを出撃した。しかし、4日間米機動部隊を待ち伏せしても敵は来ず、10月26日にトラック島に帰港する[64][要出典]


1943年12月、大和は陸軍独立混成第一連隊をニューアイルランド島へ輸送する戊号輸送に参加[65]。大和は駆逐艦秋雲、谷風、山雲とともに戊一号輸送部隊として横須賀からトラックまでの輸送にあたることとなった[66]


12月12日、6隻(大和、翔鶴山雲秋雲風雲谷風)はトラックを出発、17日に横須賀へ帰着した[67]


人員物件を搭載して12月20日に大和、山雲、谷風は横須賀を出発したが、12月25日に大和はトラック島北西150浬でアメリカの潜水艦スケート (USS Skate, SS-305)より魚雷攻撃を受け、主砲3番砲塔右舷に魚雷1本を被雷した[68]。4度の傾斜を生じたが約770トンの注水で復元、速度を落とさず速力20ノット前後でトラック泊地へ向かった[68]。魚雷命中の衝撃を感じた者はおらず、わずかに傾斜したため異常に気づいたという[69]。一方、すぐに魚雷命中と気がついた、乗り込んだ陸軍の兵士が衝撃に驚いて大騒ぎになったという乗員の証言が残されている[70]。爆発の衝撃で舷側水線装甲背後の支持肋材下端が内側に押し込まれ、スプリンター縦壁の固定鋲が飛び、機械室と3番砲塔上部火薬庫に漏水が発生する被害を受けた[71]。浸水量は3000-4000トンである[72]。敵弾が水線鋼鈑下端付近に命中すると浸水を起こす可能性は、装甲の実射試験において指摘はされていたが重大な欠陥とは認識されていなかった[73]。工作艦の明石に配属されていた造船士官によれば、トラック泊地着後の大和は明石に「右舷後部に原因不明の浸水があり調査して欲しい」と依頼、工作部員達は注排水系統の故障を疑ったものの異常はなかった[74]。そこで潜水調査をしたところ右舷後部に長さ十数m・幅五mの魚雷破孔を発見し、驚いたという[74]。同日、トラックに到着[75]。大和から人員物件は戊三号輸送部隊へと移され、カビエンへ向かった[75]。大和はトラックで応急修理を受けた後、内地への帰還を命じられた。

レイテ沖海戦まで

1944年(昭和19年)1月10日、3隻(大和、満潮藤波)はトラック泊地を出発する[76]。15日に瀬戸内海へ到着した[77][78]。 被雷により明らかになった欠陥に対して、浸水範囲をせばめるための水密隔壁が追加されたが、装甲の継手と装甲の支持鋼材の継手とが一致してしまっているという根本的欠陥は補強する方法もなく(支持鋼材の継手に角度をつけることでクサビ効果があると設計では考えられていたが、そのとおりには機能しなかった)、元のとおりに修理されただけであった[79]。この工事と並行して、両舷副砲を撤去し、高角砲6基と機銃を増設して対空兵装の強化を図った[要出典]。 なお、スケートによる雷撃の2ヶ月後、トラック基地の偵察飛行で撮影されたネガフィルム上に見慣れぬ巨大な艦影を発見したアメリカ軍は[70]、捕虜の尋問によってそれが戦艦大和・武蔵という新型戦艦で主砲についても45cm(17.7インチ)であると資料を纏めている[70]


4月22日、大和と重巡洋艦摩耶は駆逐艦4隻(島風早霜雪風山雲)に護衛され瀬戸内海を出撃した[80]。山雲は豊後水道通過後に護衛をやめて平郡島に戻った[81][82]。早霜も途中で護衛を切り上げて横須賀に向かった[83]。 大和隊は4月26日マニラ着、29日に同地を出発する[84][85]。5月1日、リンガ泊地に到着した[86]


5月4日、第一戦隊司令官宇垣纏中将は長門から大和に移乗し、大和は第一戦隊旗艦となった[87]。6月14日、ビアク島に上陸したアメリカ軍を迎撃するため渾作戦に参加するが、アメリカ軍がサイパン島に上陸したことにより渾作戦は中止となった[88]。渾作戦部隊(第一戦隊〈大和、武蔵〉、第五戦隊〈妙高、羽黒〉、第二水雷戦隊〈能代、沖波、島風〉、第10駆逐隊〈朝雲〉、第4駆逐隊〈山雲、野分〉)は北上し、小沢機動部隊と合流した。6月15日、マリアナ沖海戦に参加。大和は栗田健男中将指揮する前衛艦隊に所属していた。6月19日、前衛艦隊上空を通過しようとしていた日本側第一次攻撃隊を米軍機と誤認、周囲艦艇とともに射撃して数機を撃墜するという失態も犯している[89]。大和は発砲していないという証言もある[90]。同日、日本軍機動部隊はアメリカ潜水艦の雷撃により空母2隻(大鳳翔鶴)を失った。 6月20日、アメリカ軍の攻撃隊に向けて三式弾27発を放った。大和が実戦で主砲を発射したのはこれが最初である[91]。6月24日に日本に戻る[92]。10日ほど在泊したのち、陸軍将兵や物資を搭載して第四戦隊・第七戦隊・第二水雷戦隊と共にシンガポールへ向かう[要出典]。7月16日、第一戦隊(大和、武蔵、長門)、駆逐艦3隻(時雨、五月雨、島風)はリンガ泊地に到着した[要出典]。この後3ヶ月間訓練を行い、10月には甲板を黒く塗装した[93]

詳しいことは、「大和 (戦艦)ウィキペディア」をご覧ください。 ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%92%8C_(%E6%88%A6%E8%89%A6)
(wikiより)

78   戦艦大和

大和

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日向ひゅうが、命名時のかな艦名表記はひうか[2])は、大日本帝国海軍戦艦伊勢型戦艦の2番艦。太平洋戦争中盤、航空戦艦に改造されたが、「航空戦艦」という呼称は便宜上のものであり、正式な艦籍は戦艦のままであった。艦名の由来は宮崎県旧国名からで、艦内神社宮崎神宮からの分神[3]。この艦名は帝国海軍ではこの艦のみで、戦後、海上自衛隊ひゅうが型護衛艦の1番艦「ひゅうが」に引き継がれた。

艦歴

海軍省は1914年(大正3年)10月12日に仮称艦名第六号戦艦を日向と命名[2]し、三菱合資会社三菱造船所(現・三菱重工長崎造船所)で1915年(大正4年)5月6日に起工[4]東伏見宮依仁親王立会いのもと1917年(大正6年)1月27日に進水[5]1918年(大正7年)4月30日、「軍艦 日向」として竣工した[6][1]


扶桑型戦艦
の4番艦として着工の予定が財政事情により大幅に遅れたため、扶桑型の欠点を改善し主砲の位置が変更されている。だが完成時には、38cm砲を搭載したクイーン・エリザベス級戦艦が既にイギリスで就役していた。歴代艦長には後に連合艦隊司令長官として捷一号作戦等を指揮した豊田副武や、航空戦艦改装案を推進し、後に第四航空戦隊司令官として日向に深く関わることになる松田千秋をはじめ、宇垣纏西村祥治など、戦史上著名な人物が多く名を連ねている。


竣工後、日向は第一艦隊第一戦隊に配備[7]1940年(昭和15年)6月22日から7月10日にかけて、満州国康徳帝(愛新覚羅溥儀)訪日の際の座乗艦としても使用された[8]。同年10月11日、横浜港沖で行われた紀元二千六百年特別観艦式に参加[9]太平洋戦争開戦時は、伊勢と共に第一艦隊第二戦隊にあり、その戦隊旗艦を務めた。

2度の砲塔爆発

就役直後の1919年(大正8年)10月24日房総沖で演習中第3砲塔の爆発事故を起こした[10]。そればかりか1924年(大正13年)9月17日には第4砲塔弾薬庫で火災が発生している[11]1942年(昭和17年)5月5日午後4時伊予灘で日向、伊勢、扶桑、山城による演習中、第七斉射を行った際に第5砲塔の爆発事故を起こした[12]。この筒内爆発事故については、その爆発の瞬間の映像が当時のニュースに現存している[注 1]。見た目では、発砲煙の様子がややおかしい程度で、外見上の損傷が目立ったものではなかった。艦橋にいた艦長や砲術科も、5番砲塔から発射された主砲弾が50mほど先の海面に落ちた事に違和感を覚えつつ、異変に気付かなかった[13]。直後、主砲発令所から5番砲塔火災発生の報告があり、直ちに火薬庫に注水して爆沈を免れるも、死者55名、重傷者8名(当初の報告では戦死51名、重傷11名。5月14日合同葬儀時は54名)を出した[14]。原因は主砲弾装填後、尾栓が完全に閉じないうちに火管から電流が流れて装薬に点火、弾丸を前方へ飛ばすはずの圧力が砲塔内に逆流したためであった[15]。火管から突然電流が流れることは、5番砲塔に特有の「癖」だったという[15]


多くの死傷者を出した日向は呉に戻り、損傷した第五砲塔を撤去。その跡に25ミリ3連装機銃を4基搭載し、また当時開発が進んでいた仮称二号電波探信儀二型(対水上22号電探)を試験的に搭載[16]。設置は5月27日に完了し、一連の作業を指導した海軍技術研究所の二階堂中将等が戦艦大和の連合艦隊司令部に挨拶している[16]。性能は良好で、宇垣纏連合艦隊参謀長は『三連装機銃四門の第五砲塔上の假装備と相俟つて、反つて現代化せるに非ずや』と感想を述べた[16]。 5月31日以降、日向はミッドウェー海戦の一環としてアリューシャン方面に進出した。この戦いで南雲機動部隊は主力空母4隻を喪失して壊滅、主力部隊は会敵することなく日本に帰還した。日向の電探は帰還途上の悪天候において艦隊の航路保持に役立ち、松田千秋艦長はレーダーの有効性を周囲に訴えている[17]


砲塔爆発2回、弾薬庫火災1回という危険極まりない事故を起こしながらも無事だったことは、戦艦河内陸奥などの爆沈の例と照らし合わせると非常に幸運であったと言える[注 2]。また、空母4隻を失うことになるミッドウェー海戦の時期に第五砲塔を事故で失ったことは、その後の日向と同型艦の伊勢の運命を大きく変えることになる。(詳細は伊勢型戦艦を参照。)

航空戦艦日向

空母戦力を補填すべく、日本海軍は扶桑型戦艦伊勢型戦艦の空母改装を決定した。だが時間的都合から扶桑型の改装は実施されず、伊勢型も全面空母改装は見送られ、後部の5番、6番の主砲を撤去して格納庫及び飛行甲板を設け、航空戦艦となった[18]。重量軽減のため、副砲の50口径三年式14cm砲を全て撤去した。副砲は陸上砲台に転用され、呉鎮守府第六特別陸戦隊重砲隊が編成されている[19]。ただし、通常の空母の半分以下の長さしかない飛行甲板では艦載機の着艦はできない。飛行甲板はもっぱら航空機整備・発艦作業用のスペースである。撤去された主砲弾薬庫の空間には、航空機用燃料と武器庫が設けられた[20]。飛行甲板は鋼板の上にコンクリートを流したものが設置された(木甲板ではない)[21]。「日向」を擁する第四航空戦隊に配備される予定の第六三四海軍航空隊は、水上偵察機瑞雲艦上爆撃機彗星二二型を主力とする部隊で、日向には彗星14機・瑞雲8機が配属される予定であった[22]。カタパルトで射出された彗星は攻撃後機体を消耗して空きのできた他空母や、近隣の陸上基地へ着陸するという運用が想定されていた。伊勢型航空戦艦とほぼ同速の空母信濃(大和型戦艦三番艦改造空母)と航空戦隊を組む予定だったという説もある[23]


日向の改装は1943年5月に開始、11月18日に完成した[24]。この間、先に航空戦艦改装を終えた伊勢は航空機格納庫に大和型戦艦の46cm砲弾を積み込み、トラック泊地に物資・弾薬輸送を行っている。日向の改造完成後は伊勢と共に第十一水雷戦隊に編入され、内地で訓練に明け暮れる日々が続いた。1944年5月1日第四航空戦隊を編成し、松田千秋少将座乗の第四航空戦隊旗艦となる[22]。6月7日に機銃増強のため呉工廠のドックに入るが、この間にアメリカ軍はサイパン島方面に来襲、日本軍との間にマリアナ沖海戦が勃発する[22]。日向と伊勢は急遽工事を中止して出撃準備を整えるが、同海戦には間に合わなかった[22]


10月、アメリカ軍はフィリピン方面に進攻を開始した。10月20日、日向は捷一号作戦に参加して日本を出撃したが、搭載予定の第634航空隊は先の台湾沖航空戦によりフィリピン方面に転用されたために、日向と伊勢は航空戦隊でありながら搭載機は1機もなかった[25]。小沢本隊の前衛部隊として松田支隊を編成、10月24日にはアメリカ艦隊との砲戦を試みるべく南下するも会敵機会に恵まれず、翌25日午前7時に本隊と再合流している[26]。25日のエンガノ岬沖海戦において本隊は空母4隻(瑞鶴瑞鳳千歳千代田)を失う大損害を被った。その後アメリカ軍機の攻撃は健在な日向と伊勢に集中したが、松田少将発案の航空攻撃回避術と、それによる両艦長の巧みな回避運動、さらに航空戦艦に改装された際に大幅に増強された対空火力の効果もあいまってアメリカ軍の攻撃を回避した。アメリカ軍機撃墜6機確実を記録、艦に重大損傷はなく1名が戦死、8名が負傷した[27]。日向は主砲三式弾112発、12.7cm高射砲弾659発、25㎜機銃弾28970発、噴進砲弾250発を発射した[28]。10月29日、日本に戻った[26]


1945年
(昭和20年)2月、戦略物資輸送作戦「北号作戦」で、カタパルトを撤去、更に機銃を一部撤去して現地部隊に引き渡し、石油・ゴム・錫などの希少な戦略物資を航空機格納庫のスペースを生かして満載した。全艦損害なく日本に戻るという奇跡的な成功を収めたが、物資総量は伊勢や軽巡洋艦大淀が輸送した分を含めても、中型貨物船1隻分に過ぎなかったという。

終焉

北号作戦を終えた日向は呉軍港に停泊していたが、3月1日に第一予備艦に指定され、直後の3月19日の呉軍港空襲で爆弾3発(二番砲塔左舷後部、左舷缶室、艦後部)が命中した[29]。損傷を受けた日向は4月20日に第四予備艦に指定され、5月1日に特殊警備艦となり、呉港外(情島沖)で浮砲台となった[29]。7月24日の呉軍港空襲でアメリカ軍空母機の波状攻撃を受け、日向の草川艦長も戦死した[30]。この年7月の時点で乗組員のうち約半数が退艦していたが、これらの攻撃による乗組員の被害は、残存乗組員千余名中戦死者204名、重軽傷者600余名に及んだ[30]。7月26日、日向は着底大破した[30]


戦後の1947年(昭和22年)7月、日向の解体が完了して艦歴を閉じた。なお、情島で着底した日向の様子を戦後にアメリカ軍が撮影したカラー映像が残っており、今日でもその被害の凄まじさを観察することができる。日向に装備されていた航海灯軍艦旗が広島県呉市の大和ミュージアムに所蔵されている。

詳しいことは、「日向 (戦艦)ウィキペディア」をご覧ください。 ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E5%90%91_(%E6%88%A6%E8%89%A6)
(wikiより)

77 軍艦日向

日向

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綾波(あやなみ)は大日本帝国海軍駆逐艦[1]。特型駆逐艦(吹雪型)の11番艦。艦名は重なりあって寄せる波から由来し、この名を受け継いだ日本の艦艇としては神風型駆逐艦 (初代)綾波」に続き2代目にあたる。


特型駆逐艦(一等駆逐艦吹雪型)
の11番艦であるが、実質吹雪型の改良艦となっており特型II型駆逐艦(綾波型)という分類に属する一番艦である。吹雪型(I型)との違いは主に煙突の形状の違いや、主砲のタイプの違いである(⇒参照:吹雪型駆逐艦 - 分類)。

艦歴

大阪の藤永田造船所1928年(昭和3年)1月20日に起工[2]。同年8月1日附で第四十五号駆逐艦から駆逐艦「綾波」となる[1]1929年(昭和4年)10月5日進水、1930年(昭和5年)4月30日に竣工した[2]第四艦隊事件などの教訓から主砲の換装等重心低下の為の改装を経て、日中戦争では上海杭州における上陸作戦を支援、1940年にも上陸作戦の支援に参加している。


太平洋戦争
では第1艦隊第3水雷戦隊に所属し、数々の戦闘に参加。開戦直後の1941年(昭和16年)12月8日にはマレー半島における上陸作戦を支援し、同年12月19日には「浦波」及び「夕霧」とともにオランダ海軍の潜水艦O-20を砲撃によって撃沈、僚艦と共に生存者32名を救助した。また、1942年(昭和17年)2月17日、馬来部隊の一艦としてシンガポールやスマトラ島方面で作戦中、海図未記載の暗礁によってスクリューを損傷する[3]。馬来部隊指揮官小沢治三郎中将は「綾波」の蘭印作戦参加は不可能と判断、「綾波」を主隊に残し、軽巡「由良」、第11駆逐隊(初雪、白雪、吹雪)、第12駆逐隊(白雲)、「磯波」(27日附編入)を蘭印部隊(第三艦隊)に編入した[3]。その後、「綾波」は馬来部隊旗艦の重巡「鳥海」と行動を共にした。4月上旬、小沢中将は空母「龍驤」を旗艦とする馬来部隊機動部隊のベンガル湾機動作戦を実施、「綾波」「汐風」は輸送船「日栄丸」と共に補給部隊として参加した[4]。内地帰投後、ミッドウェー海戦に主力艦護衛部隊として参加。


8月14日、トラックへ向けてマカッサル[5]。8月21日に到着し、機動部隊に編入された[5]


8月以降のガダルカナル島の戦いでは、ガダルカナル島への輸送任務(鼠輸送)に従事している。

第三次ソロモン海海戦

「綾波」の名を高めたのがこの海戦である。


1942年
11月14日から翌日にかけて行われた第三次ソロモン海戦の第二夜戦で「浦波」、「敷波」とともに第2艦隊第3水雷戦隊に所属していた「綾波」はガダルカナル島(図の下側の陸地)飛行場砲撃に向かうため、近藤信竹中将の麾下、戦艦霧島」と「高雄」「愛宕」の重巡2隻の射撃隊(図でE)、軽巡「長良」以下駆逐艦6隻の直衛隊(図でD)、そしてこの2隊の前路警戒にあたるための掃討隊として、軽巡川内」以下「綾波」、「敷波」、「浦波」の計4隻でサボ島(図の左上の小島)付近を航行していた。間もなく掃討隊はサボ島近海の哨戒にあたるべく、「川内」「綾波」がサボ島の西側へ、「敷波」「浦波」がサボ島東側へと2つに分離した。


ところがここでサボ島東側を航行していた「浦波」が単縦陣でサボ島南水道を西に向かって航行する敵艦隊らしきものを発見。「川内」に報告すると共に追尾を始めた。これが戦艦「サウスダコタ」(USS South Dakota, BB-57)、戦艦「ワシントン」(USS Washington, BB-56)を含む米主力艦隊(図でA)であった。「綾波」と航行していた「川内」は「浦波」隊支援のため分離、サボ島北側を通って「浦波」隊に合同すべく急速に「綾波」から離れていった。


こうして「綾波」のみで当初の予定通りサボ島西側を哨戒航行することとなり、予定では「綾波」(図でB)は単艦でサボ島南側を回って掃討隊主隊(図でC)と合同するはずであった。

そしてこの分離が「綾波」の運命を決めることとなる。


21:16、サボ島南水道に進入した「綾波」の見張員が艦首方向右寄り距離8000に単縦陣で航行する米艦隊を発見。この時点で既に米艦隊と交戦していた掃討隊主隊の「川内」から日本艦隊全艦へ通報した"敵艦隊発見"の報告が綾波には届いていなかった(サボ島に電波が遮られたものといわれている)。即座に艦長作間英邇中佐が「右砲戦、右魚雷戦」を命じ、主隊に「敵は駆逐艦4隻、重巡1隻」(戦艦ワシントンの誤認である)と通報した上で30ktに増速して突撃を開始した。 この時「綾波」にとって不運だったのがサボ島東側に展開していた掃討隊主隊の「川内」以下3隻が形勢不利とみて一時後退を始めた直後だったことである。従って「綾波」は戦艦2隻駆逐艦4隻の米艦隊に対し単艦で突入する格好になってしまったのである。


突撃してきた「綾波」に気づいた米艦隊が砲撃を始めた直後、21:20、距離5000になったとき艦長は砲撃開始を下令。初弾が敵3番艦「プレストン」(USS Preston, DD-379)を捉えさらに敵一番艦「ウォーク」(USS Walke, DD-416)にも命中。火災を発生させた。また、21:33には戦艦「サウスダコタ」(USS South Dakota, BB-57)に命中弾を与え、同艦は損傷と人的ミスによる電気系の故障により、副砲群とレーダーの大半が一時的に沈黙する。綾波はサボ島を背景にしていたため米海軍のレーダーは島と艦を同時に捉えて照準ができず、肉眼で見ても艦影が島に黒く滲んで視認は困難だった。


しかし「綾波」は21:22、敵艦隊からの集中砲撃に晒され第1煙突に命中した一弾によって魚雷発射前に1番連管が故障、3本の魚雷が装填された発射管は艦軸線を向いたまま旋回、発射不能となり、同時に左舷に積んでいた艦載内火艇のガソリンタンクから発生した火災によって魚雷が炙られる状態となった。2130、艦長は攻撃可能な2番、3番連管による攻撃を下令。発射した魚雷は21:33、米駆逐隊に次々と命中し、「ウォーク」の艦首部に命中した一本は前部主砲弾薬庫を誘爆させ、同艦は21:43に沈没。さらに2番艦「ベンハム」(USS Benham, DD-397)艦首部にも命中し、同艦は艦首が潰れて航行不能となり艦隊から落伍した。「ベンハム」は翌15日、応急修理に成功して5ktで「グウイン」と共にエスピリッツサントに向かうものの、13:37時に再び破口が開き、沈没した。


こうして戦果は挙げたものの、米駆逐艦の砲撃と戦艦「ワシントン」の副砲射撃による反撃で「綾波」は次々と命中弾を受け2番砲塔は被弾し沈黙、さらに機関室に2発被弾して航行、操舵共に不能となってしまった。ここで別働隊である直衛隊の軽巡「長良」以下駆逐艦「五月雨」「」「白雪」「初雪」の計5隻(「朝雲」「照月」は射撃隊の直衛で分離)が戦場に到着する。ここでも激しい戦闘が繰り広げられたが米艦隊の3番艦の「プレストン」は「綾波」の砲撃による火災が酷く、日本艦隊の格好の目標となり航行不能となって間もなく沈没してしまった。さらに直衛隊は4番艦「グウイン」(USS Gwin, DD-433)の機関部にも損傷を与え、、艦隊から落伍させる。


この後さらに「霧島」と「サウスダコタ」、「ワシントン」による戦艦同士による砲撃戦が行われることになるがここでは割愛する。


被害甚大となって漂流を始めた「綾波」ではあったが、喫水線下への被弾はなかったため浸水はしなかった。しかし上甲板の火災は既に消火不能となっており、魚雷の誘爆は時間の問題と見た艦長は総員退艦を下令。生存者は全員海へ飛び込み救助に駆けつけた浦波に収容された。「浦波」に生存者全員が救助された後、23:46に遂に魚雷が誘爆。翌15日の00:06、2度目の大爆発をおこした後綾波は沈んでいったという。戦闘での戦死者は27名。浦波に収容された後に死亡した者も含めて戦死者は42名であった。艦長の作間英邇中佐以下、生存者の一部はガダルカナル島へ渡った。その後、作間中佐は輸送任務のためにカミンボにやってきた伊17に便乗し、トラック経由で横須賀へ移動した。


沈没後に漂流していた兵士たちの士気は、大戦果を上げた(その当時は「綾波」と刺し違えに敵艦3隻を撃沈し、そのうち1隻は重巡洋艦だったと戦果を誤認していた)ため非常に高揚しており、沈没前に爆雷へ安全装置をつけて海に沈め、浮遊物を散々投げ込んだ後、海に飛び込んでいたため溺死、圧死の心配もなかった。そのため自艦が沈没したにもかかわらず漂流中に軍歌を合唱している兵士たちもいたほどだったという。


駆逐艦「綾波」は第三次ソロモン海戦で沈没した重巡「衣笠」、駆逐艦「」、「夕立」と共に12月15日附で除籍。 帝国駆逐艦籍[6]、 第19駆逐隊[7]、 白雪型駆逐艦[8] のそれぞれから削除された。

戦果
・日本艦隊の中では際立つ、日本艦隊の戦果(撃沈破5)の半分を単艦で挙げ、活躍をした。戦艦を含む敵艦隊に単艦で挑み、敵駆逐艦2隻を屠り、1隻を炎上させ、戦艦サウスダコタの電気系統を断ち切り(「重巡」撃沈と判断した「重巡からの砲撃が止んだ」(実際はサウスダコタの両用砲だと思われる。)から。ただし明確な根拠が無いので異説扱い。)一時砲戦不能にさせたという、駆逐艦1隻としては異例の大戦果を挙げた。

・自身は沈んだものの、それだけの奮戦に関わらず乗員の生存者が極めて多かった。乗員の8割以上が生還している上、特に艦長が生還したことにより、その証言が公になっている。

・近藤中将の拙劣な指揮が目立ち、リー中将の名を上げる戦いとなり、日本軍は戦艦「霧島」を失い、さらにレーダー射撃の有効性を実証させてしまう戦い(これが後にスリガオ海峡海戦等の夜戦での日本海軍の一方的な敗北に繋がる)となったという、戦没艦の数以外では米軍に軍配の上がった(日本軍の戦術的勝利、米軍の戦略的勝利、総合的に見て米軍の勝利というのがこの海戦の一般的評価)この戦いで、際立った活躍をした。


等が挙げられる。

発見
タイタニック、戦艦ビスマルクを発見した、海洋研究者ロバート・バラードらのチームによる、1992年(平成4年)夏のアイアンボトム・サウンド調査で、サボ島海面400m地点に眠る「綾波」を発見した。当初、同じ特型駆逐艦の「暁」と思われていたが、「暁」の元水雷長である新屋徳治は「綾波」であると指摘した。

歴代艦長
※『艦長たちの軍艦史』276-277頁による。

艤装員長
1. 後藤鉄五郎 中佐:1929年11月30日 -

艦長
1. 後藤鉄五郎 中佐:1930年4月30日 - 1931年12月1日

2. 河原金之輔 中佐:1931年12月1日 - 1933年11月15日

3. 藤田俊造 中佐:1933年11月15日 - 1935年11月15日

4. 崎山釈夫 中佐:1935年11月15日 - 1936年12月1日

5. 杉野修一 中佐:1936年12月1日 - 1937年11月15日[9]

6. 白石長義 少佐:1937年11月15日 - 1938年4月15日[10]

7. (兼)岡部三四二 少佐:1938年4月15日[10] - 1938年12月1日[11]

8. 原為一 中佐:1938年12月1日 - 1939年11月15日[12]

9. 有馬時吉 少佐:1939年11月15日 - 1941年9月12日[13]

10. 作間英邇 中佐:1941年9月12日 -

詳しいことは、「綾波 (吹雪型駆逐艦)ウィキペディア」をご覧ください。 ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B6%BE%E6%B3%A2_(%E5%90%B9%E9%9B%AA%E5%9E%8B%E9%A7%86%E9%80%90%E8%89%A6)
(wikiより)

76   駆逐艦綾波

綾波

76b

76b2



第十一掃海隊は第十三号型掃海艇6隻で編成された掃海隊である。


1933年(昭和8年)9月30日 第十三号掃海艇、第十四号掃海艇で編成。 呉防備隊所属。

1934年(昭和9年)8月31日 第十五号掃海艇を編入。

1934年(昭和9年)9月29日 第十六号掃海艇を編入。

1936年(昭和11年)1月15日 第十七号掃海艇を編入。

1936年(昭和11年)4月30日 第十八号掃海艇を編入。

1941年(昭和16年)5月15日 第十七号掃海艇および第十八号掃海艇は第三十掃海隊を新編、第三艦隊第二根拠地隊に所属。

1942年(昭和17年)1月12日 ボルネオ攻略作戦。 タラカン泊地掃海中、第十三号掃海艇および第十四号掃海艇がオランダ軍陸上砲台の攻撃を受け沈没。

1942年(昭和17年)1月31日 第十三号掃海艇、第十四号掃海艇を除く。

1942年(昭和17年)3月10日 解隊。 

第十三号型掃海艇について

日本海軍が最初に機雷戦を経験したのは日露戦争の時で、このときは艦載艇や徴用漁船などが用いられた。 1913年(大正2年)になって旧式駆逐艦を掃海艇に改装することが要求され、6隻が改装された。 本格的な新造掃海艇は、1920年(大正9年)の八八艦隊完成案で計画された第一号型掃海艇6隻である。 本型の艦型は当時建造中の吹雪型駆逐艦に類似したもので、構造そのものも類似していた。 主機は製造費の安価な往復動機関とし、缶は燃料国策上から石炭専焼とされた。 兵装は、12cm単装砲2門、8cm単装高角砲1門、爆雷投射機2基、爆雷18個を装備した。 掃海兵装は単艦式大掃海具1組または機雷50個(第五号、第六号は単艦式大掃海具2組または機雷50個、対艦式大掃海具2組)を装備した。 尚、既成艦の実績により改正を加えた第五号および第六号を第五号型掃海艇に分類する場合もある。


第十三号型掃海艇は第五号型掃海艇の改正型で、昭和6年度の第一次補充計画で6隻が計画された。 艦型をいくぶん小型化し、必要な兵装を装備し、居住性を改善したものであった。 主機は往復動機関であったが、缶は混焼式とされた。 兵装は、12cm単装砲2門、13mm単装機銃2門、爆雷投射機2基、爆雷18個を装備した。 掃海兵装は単艦式大掃海具1組または八六式機雷26個(五号機雷の場合50個)、対艦式大掃海具2組を装備した。  しかしながら艦の割には重兵装で上構の大きな、トップヘビーな艦となった。 このため第十三号および第十四号の2艦は、1934年(昭和9年)に発生した友鶴事件により性能改善工事が実施され、艦橋を1甲板低め、煙突と前檣マストも短縮、艦底にバラストキールを装着するなどの改装を施した。 第十五号および第十六号は同様の改正を施し竣工した。


第十七号および第十八号は第十三号型の5、6番艦として計画されていたが、友鶴事件などにより、未着工だった2隻について再設計したものである。 このため、第十七号型掃海艇にに分類する場合もある。 艦型的には大差はないが、線図そのものは新たなものとなっている。 艦は混焼式のままであったが、主機はコストの低下してきたタービンに改められている。 兵装は、12cm単装砲2門、13mm連装機銃1基2門、爆雷投射機1基、爆雷36個を装備した。 掃海兵装は単艦式大掃海具1組または八六式機雷26個(五号機雷の場合50個)、対艦式大掃海具2組を装備した。(5)

75a

75b

75c



深雪(みゆき)は大日本帝国海軍駆逐艦[1][2]

概要

一等駆逐艦「深雪」は吹雪型駆逐艦の4番艦[3][4]。 吹雪級の1隻[5]。 当初の艦名は第38号駆逐艦[1][6]浦賀船渠1927年(昭和2年)4月30日に起工、1928年(昭和3年)6月26日に進水、1929年(昭和4年)6月29日に竣工[7][8]。竣工と共に第11駆逐隊に編入され、同駆逐隊は雪級4隻(吹雪、白雪、初雪、深雪)を揃えた[9][10]


1934年
(昭和9年)6月29日、第11駆逐隊(深雪、白雪、初雪)は第二水雷戦隊に所属して済州島沖合で行われた連合艦隊の演習に参加、本艦は吹雪型駆逐艦24番艦「」(第6駆逐隊)と衝突、艦首部(艦橋より前部)を喪失した[2][11]。「深雪」の艦体後部は軽巡「那珂」(第二水雷戦隊旗艦)に曳航されて佐世保港へ帰投中、浸水により沈没した[12][13]。浮いていた深雪前部も、間もなく沈没した[13][14]

艦歴
建造経緯

1927年(昭和2年)4月26日、日本海軍は建造予定の駆逐艦4隻を、それぞれ第三十六号駆逐艦(横浜船渠。後の白雪)、第三十八号駆逐艦(後の深雪)、第三十九号駆逐艦(藤永田造船所。後の叢雲)、第四十四号駆逐艦(佐世保海軍工廠。後の浦波)と命名する[15][16][17]。 第三十八号駆逐艦は、同年4月30日浦賀船渠で起工[18][19][7]1928年(昭和3年)6月26日午前11時30分、第三十八号駆逐艦は無事進水[20][21]。 8月1日附で第三十八号駆逐艦は深雪と改称[1][18]。 12月10日、日本海軍は加藤仁太郎中佐(当時、駆逐艦如月艦長)を、深雪艤装員長に任命する[22]


1929年(昭和4年)2月12日午後、東京湾で試運転中に伊号第二十四潜水艦と衝突、スクリューに損傷を受けて4月30日の竣工予定を延期した[23][24]6月29日に竣工[7][25]呉鎮守府[8]。同日附で深雪艤装員事務所は撤去された[26]。加藤艤装員長も、正式に深雪駆逐艦長(初代)となった[27]

竣工後

深雪竣工後、吹雪型駆逐艦4隻(吹雪、白雪、初雪、深雪)は呉鎮守府所属の第11駆逐隊を編成(昭和3年12月18日附編成、駆逐隊司令千谷定衛大佐[28]。)[9]第二艦隊第二水雷戦隊に所属した[29][30]


第11駆逐隊編入から間もない1929年(昭和4年)8月2日午後9時、山口県油谷湾で第12駆逐隊の射撃訓練に協力中の「深雪」(曳的艦)は、流れ弾2発が命中して小破[31]。負傷者4名[32]。舞鶴要港部工作部で修理を実施した。 11月1日、第11駆逐隊司令駆逐艦が「初雪」から「深雪」に変更された[33]。 11月30日、千谷大佐(第11駆逐隊司令)は標的艦「摂津」特務艦長へ転任[34]森田重房大佐(当時、軽巡夕張艦長)が後任の第11駆逐隊司令となる[34]


1930年
(昭和5年)11月20日、加藤(深雪駆逐艦長)は第28駆逐隊司令に補職され、安富芳介中佐(当時、駆逐艦浜風艦長)が後任の深雪駆逐艦長となる[35]。 12月1日、第11駆逐隊司令は森田大佐から、南雲忠一大佐(当時、軽巡那珂艦長)に交代する[36]


1931年
(昭和6年)10月10日、南雲大佐(第11駆逐隊司令)は軍令部参謀へ転任、後任の第11駆逐隊司令は小沢治三郎大佐となる[37][38]。同月、深雪は呉工廠で缶用乙型1号噴燃器の換装等の工事に着手[8]。12月1日、第二予備艦となった[8]。 同日附で安富(深雪艦長)は姉妹艦朝霧駆逐艦長に任命される[39]。同時に姉妹艦初雪艦長河原金之輔中佐も、綾波駆逐艦長へ転任[39]。海軍は、直塚八郎中佐(当時、特務艦室戸運用長)に、深雪・初雪駆逐艦長兼務を命じた[39]。 また小沢大佐(第11駆逐隊司令)は海軍大学校教官を命じられて退任[38]、後任の第11駆逐隊司令は第28駆逐隊司令加藤仁太郎大佐(深雪の初代駆逐艦長)となる[40]。 さらに艦隊の再編により吹雪型3隻(東雲吹雪磯波)で第20駆逐隊が編成され[41][42][43]、第11駆逐隊は3隻となった[44][45]


1932年
(昭和7年)1月11日、直塚中佐(深雪艦長兼初雪艦長)は大湊防備隊副長へ転任[46]天津風型駆逐艦2隻(天津風、浜風)艦長を兼務していた金桝義夫中佐が、新たな深雪・初雪駆逐艦長となる[46]。 5月16日附で金桝(深雪・初雪)艦長は吹雪型姉妹艦天霧駆逐艦長[47]に補職される。姉妹艦白雪駆逐艦長中原達平中佐が、吹雪型3隻(深雪、初雪、白雪)艦長を兼務することになった[47]。 7月1日、山口次平中佐が初雪駆逐艦長に補職される[48]。これにともない、中原中佐の艦長兼務は2隻(深雪、白雪)となった[48]。 7月8日、工事を完了[8]


12月1日、第二水雷戦隊に復帰[8]。 同日附で、中原(深雪、白雪)艦長は姉妹艦敷波艦長へ転任[49]大森正直中佐(当時、姉妹艦吹雪艦長)が、深雪駆逐艦長に補職される[49]金桝義夫中佐(天霧艦長)は白雪駆逐艦長に補職された[49]。また第11駆逐隊司令も、加藤仁太郎大佐(深雪初代艦長)から後藤英次大佐に交代する[49]

1933年(昭和8年)11月15日、第11駆逐隊司令後藤英次大佐は川内型軽巡洋艦2番艦「那珂」艦長に補職[50]。後任の11駆司令は、第20駆逐隊司令と姉妹艦磯波駆逐艦長を兼務していた横山茂大佐となる[50]

沈没

1934年(昭和9年)4月7日から6月15日まで、「深雪」は呉海軍工廠で入渠整備を実施[8]。 6月下旬、連合艦隊済州島南方沖で演習を実施[51][52]。 6月28日、第二艦隊司令長官高橋三吉中将(旗艦「鳥海」)[53]指揮下の、第二水雷戦隊(司令官阿武清少将:旗艦《那珂》、第6駆逐隊《》、第10駆逐隊《狭霧》、第11駆逐隊《深雪白雪初雪》、第12駆逐隊《白雲叢雲薄雲》)、第四戦隊第1小隊(鳥海《第二艦隊旗艦》、摩耶)、第六戦隊(青葉古鷹衣笠)、第二潜水戦隊《軽巡由良、潜水母艦迅鯨、潜水艦部隊)[54]、第一戦隊(扶桑日向[55]、および龍驤航空部隊は乙軍を編成[56][57]


これに対し、連合艦隊司令長官末次信正中将(旗艦「金剛」)[51]指揮下の金剛型戦艦2隻(金剛霧島)、第四戦隊第2小隊(高雄愛宕)、第七戦隊(長良五十鈴名取)、第一水雷戦隊(旗艦「川内[58]、第30駆逐隊《睦月卯月弥生如月》、第5駆逐隊《松風春風旗風朝風》、第23駆逐隊《菊月夕月望月三日月》、第29駆逐隊《疾風追風朝凪夕凪》)、第一航空戦隊(空母《赤城》、第2駆逐隊《澤風沖風》)、第一潜水戦隊、補給部隊(鳴戸間宮)等[59][60][61]甲軍を編成[57][62]。 甲軍(第一艦隊基幹)、乙軍(第二艦隊基幹)はそれぞれ佐世保を出撃した。


6月29日午後1時、第四回連合艦隊基本演習(第一水雷戦隊、第二水雷戦隊の昼間襲撃)がはじまる[63][52]。午後5時頃より本格的な交戦がはじまるが、狭隘海面に多数の艦艇がひしめき、さらに天候と煙幕のため視界は極めて悪かった(約10-12km)[63][52]。鳥海座乗の第二艦隊参謀大西新蔵中佐(当時)は、演習条件(視界狭少、大部隊の襲撃)に多少無理があったが「これ位の無理はこの時に限ったことではなかった」と回想している[52]


午後6時頃、乙軍の第11駆逐隊(1番艦深雪、2番艦初雪、3番艦白雪)は甲軍(仮想敵)の第四戦隊第2小隊(高雄愛宕)に対し雷撃を敢行し、続いて煙幕(軽巡洋艦由良展開[64]、もしくは甲軍飛行機隊展開[52])を転舵で避け、たまたま発見した「衣笠」(乙軍)に続航しようとしていた[65]。 直後、煙幕の中から乙軍の第6駆逐隊(1番艦、2番艦、3番艦)が出現、回避できず「電」(第6駆逐隊司令駆逐艦)が「深雪」(第11駆逐隊司令駆逐艦)の左舷に衝突する[66][67][52]。 「深雪」の船体は艦橋直下の46番ビーム付近で断裂[68]。 後部船体に「那珂」が横付し、那珂・愛宕乗組員の応援を得て排水を試みたものの浸水が止まらず、第二水雷戦隊司令官阿部清少将(那珂座乗)は深雪乗組員の退去を命じた[69]。 深雪乗組員は「那珂」に移動[70][69]。軽傷者は戦艦「金剛」(連合艦隊旗艦)に収容された[71]。深雪乗組員総員退去完了後、「那珂」は「深雪」への横付を離す[69]。 午後9時53分[72]北緯32度51分 東経127度11分 / 北緯32.850度 東経127.183度 / 32.850; 127.183[73]もしくは北緯32度57分 東経127度14分 / 北緯32.950度 東経127.233度 / 32.950; 127.233地点で沈没した[8][69]。 深雪艦首部分は駆逐艦2隻(初雪、叢雲)で曳航を試みたが濃霧の中で見失い、翌日の捜索でも発見できず、沈没したものと推定された[14][74]。また「鳥海」(第二艦隊旗艦)も現場に残留し、翌朝には水上偵察機を投入して捜索に従事したが、深雪艦首を発見することは出来なかった[52]


深雪水兵2名と機関兵1名の3名が死亡、水兵2名が行方不明、電乗組員1名が行方不明となった[75]


戦艦「扶桑」分隊長として衝突を目撃した高松宮宣仁親王(海軍大尉、昭和天皇弟宮)は『もっと早く「日向」位が横抱きすればよかった』と評している[13]。 このあと艦首を喪失した「電」は姉妹艦「白雲」(第12駆逐隊)に曳航され[76]、6月30日朝以降は「那珂」に曳航され[77][52]、「響」や曳船の応援を得て7月1日午後3時、佐世保に帰投した[78][79]


7月3日
、第11駆逐隊司令駆逐艦は「深雪」から「初雪」に、第6駆逐隊司令駆逐艦は「電」から「響」に変更[80]。同日附で深雪残務整理事務所を設置する[81]7月5日附で第11駆逐隊より除かれ、同隊は吹雪型2隻(白雪、初雪)となる[82][83]。大森中佐(深雪駆逐艦長)、蘆田部一大尉(深雪航海長)、黒瀬淳大尉(深雪水雷長)、板垣金信大尉(深雪砲術長)、國末辰志機関大尉(深雪機関長)等も、それぞれの職務を解かれた[84]7月22日、事務所撤去[85]。 同年8月15日に除籍された[86][87]


「深雪」は吹雪型(特型)駆逐艦以降の日本海軍在籍駆逐艦の中で第二次世界大戦に参戦していない唯一の駆逐艦であり、また、特型駆逐艦として最初の喪失艦である[11]美保関事件に続く本艦沈没は艦隊乗組員に衝撃を与えたが、訓練は一層激しくなったという[52]。 なお、艦艇研究家の福井静夫は、「深雪」亡失の原因を、衝突後の応急処置失敗にあると評している[12]。「電」との衝突により深雪艦首切断後、深雪中央部以降では第一罐室こそ満水になったが、第二罐室は健在だった[12]。だが深雪乗組員が自艦の構造を把握しておらず、罐室の隔壁を補強せず別の部位を補強したため、浸水が進んで沈没に至ったとしている[12]。また応急の不徹底は当時の海軍でも重く受け止められ、これ以降日本海軍では応急教育の徹底化がなされたという[12]


大藤正直中佐(本艦沈没時の艦長)[84]太平洋戦争において給糧艦「間宮」特務艦長[88][89]や標的艦「摂津」特務艦長[90][91]等を歴任した。 また深雪沈没の要因となった「電」駆逐艦長平塚四郎中佐(深雪沈没当時)は、軽巡「球磨」艦長、空母3隻(雲鷹葛城天城[91])艦長等を歴任して終戦を迎えた。

歴代艦長
※『艦長たちの軍艦史』267頁による。

艤装員長
1. 加藤仁太郎 中佐:1928年12月10日[22] - 1929年6月29日[27]

艦長
1. 加藤仁太郎 中佐:1929年6月29日[27] - 1930年11月20日[35]

2. 安富芳介 中佐:1930年11月20日[35] - 1931年12月1日[39]

3. 直塚八郎 中佐:1931年12月1日[39] - 1932年1月11日[46]第二予備艦、初雪艦長兼務

4. 金桝義夫 少佐:1932年1月11日[46] - 1932年5月16日[47] ※第二予備艦、初雪艦長兼務

5. (兼)中原達平 中佐:1932年5月16日[47] - 1932年12月1日[49] ※第二予備艦、初雪・白雪艦長兼務

6. 大藤正直 中佐:1932年12月1日[49] - 1934年7月5日[84]

詳しいことは、「深雪 (駆逐艦)ウィキペディア」をご覧ください。 ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B7%B1%E9%9B%AA_(%E9%A7%86%E9%80%90%E8%89%A6)
(wikiより)

74   深雪

深雪

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74f



初雪(はつゆき)は大日本帝国海軍駆逐艦[1]。 特型(一等駆逐艦吹雪型)の3番艦[2]雪級の3番艦[3]。 「吹雪、白雪」沈没後は『初雪型駆逐艦』の1番艦(ネームシップ)である[4]。当初の艦名は、第37号駆逐艦[1]。この名を持つ帝国海軍の艦船としては神風型駆逐艦 (初代)初雪」に続いて2隻目。戦後、はつゆき型護衛艦はつゆき」としてその名は受け継がれた。

艦歴

1926年(大正15年)9月29日、「第三十七号駆逐艦」と命名[5]。同日附で一等駆逐艦に類別される[6]。 「第37号駆逐艦」は1927年(昭和2年)4月12日に舞鶴工作部で起工[7]1928年(昭和3年)8月1日附で、「第37号駆逐艦」は「初雪」と改名される[1]。同年9月29日に進水、1929年(昭和4年)3月30日に竣工[7]呉鎮守府所属。第二艦隊第二水雷戦隊・第11駆逐隊に編入。吹雪型初期姉妹艦(吹雪白雪、初雪、深雪)と共に第11駆逐隊を編制していた。 1931年(昭和6年)、「吹雪」は第11駆逐隊から除籍され、あらたに「吹雪、東雲磯波」の3隻で第20駆逐隊を編制することになった。さらに「深雪」は昭和9年の事故(駆逐艦と衝突)によって喪失、第11駆逐隊は3隻編制となった[8]


1935年
(昭和10年)9月26日、三陸沖で演習中に台風により艦首を切断(第四艦隊事件)。当時、第四水雷戦隊旗艦「那珂」は第11駆逐隊(初雪、白雪)、第12駆逐隊(白雲、薄雲、叢雲)、第7駆逐隊(潮、曙、朧)、第8駆逐隊(天霧、夕霧)を率いて演習をおこなっていた[9]。9月25日、「初雪」で溺者1名が発生、「那珂」は『此ノ際油断大敵ナル事ヲ銘記セヨ』と各艦に注意している[10]。 9月26日夕刻、荒天により駆逐艦「夕霧」が艦首切断(行方不明27名)、その救援中に「初雪」も艦首切断により行方不明24名を出した。夜が明けたのち「夕霧」は軽巡「大井」に、「初雪」は重巡「羽黒」に曳航され大湊へむかった[11]


1936年(昭和11年)年末の編制変更により第20駆逐隊は除籍され、「吹雪」は第11駆逐隊、「東雲」は第12駆逐隊、「磯波」は第19駆逐隊にそれぞれ復帰した[12]日中戦争に際しては1937年(昭和12年)以降、上海上陸、杭州湾上陸、北部仏印進駐作戦などに参加した。 1939年(昭和14年)11月、有賀幸作中佐が第11駆逐隊司令に着任。第11駆逐隊は空母2隻(蒼龍飛龍)と共に第二航空戦隊を編制(司令官戸塚道太郎少将)[13]。1940年(昭和15年)8月下旬以降、「飛龍、初雪、白雪」は北部仏印進駐に投入された[14]。その年の異動により第11駆逐隊は第三水雷戦隊に所属することになった。


1941年(昭和16年)9月12日に内示された昭和17年度海軍戦時編制によれば、第11駆逐隊(吹雪、白雪、初雪)は最新鋭の翔鶴型航空母艦翔鶴瑞鶴)と第一航空戦隊を編制予定だった[15]。しかし太平洋戦争の勃発により、「初雪」以下第11駆逐隊が同大戦で空母機動部隊に配属される事はなかった。

太平洋戦争緒戦

太平洋戦争における第11駆逐隊(初雪、白雪、吹雪)は、ひきつづき第三水雷戦隊(司令官橋本信太郎少将:旗艦「川内」:第11駆逐隊、第12駆逐隊、第19駆逐隊、第20駆逐隊)に所属、三水戦はさらに小沢治三郎中将(旗艦「鳥海)指揮下の馬来部隊(南遣艦隊)に編入されていた。 南方侵攻作戦、エンドウ沖海戦蘭印作戦バタビア沖海戦に参加する。1月27日エンドウ沖海戦では三水戦旗艦「川内」の指揮下、第20駆逐隊(朝霧夕霧天霧)、第11駆逐隊(初雪、白雪、吹雪)、第一掃海隊(掃海艇1号)に編制され、イギリス海軍駆逐艦「サネット」を撃沈した[16]戦闘後、「初雪」が乗員を救助し捕虜の英海軍少尉と会話したとの証言がある[要出典]が、第三水雷戦隊戦闘詳報によれば同海戦の連合軍捕虜は士官(中尉)1名、下士官5名、兵25名の計31名で、捕虜の救助と尋問は「白雪」で行ったとある[17]


3月10日、吹雪型「東雲」を喪失して「白雲、叢雲」の2隻編制になっていた第12駆逐隊が廃止される[18]。「白雲」は第20駆逐隊に編入[18]。「叢雲」は第11駆逐隊に編入され、開戦時以来吹雪型3隻体制だった第11駆逐隊は4隻となった[18]。その後も第11駆逐隊は第三水雷戦隊所属隊としてベンガル湾機動作戦ミッドウェー海戦(戦艦《大和長門陸奥扶桑山城伊勢日向》、空母「鳳翔」以下主隊護衛)、インド洋方面通商破壊作戦、ソロモン・ニューギニア作戦などに参加。

ガダルカナル島の戦い

インド洋通商破壊作戦(B作戦、指揮官西村祥治第七戦隊司令官)は米軍のガダルカナル島およびフロリダ諸島上陸にともなうガダルカナル島の戦い勃発(8月7日以降)により中止され、第七戦隊、第三水雷戦隊、第四水雷戦隊各艦はソロモン諸島方面へ移動した[19]。第三水雷戦隊の到着をもって第二水雷戦隊司令官田中頼三少将(重巡「衣笠」座乗)は外南洋部隊増援部隊指揮官を更迭され、増援部隊指揮官は三水戦司令官橋本信太郎少将(旗艦「川内」)となる[20]


8月31日-9月1日、第24駆逐隊(江風海風涼風)、第11駆逐隊(初雪、白雪、吹雪)は川口支隊1200名をガダルカナル島へ揚陸した[21][22]。 9月4日0330、「夕立、初雪、叢雲」隊、「浦波敷波有明」隊はショートランド泊地を出撃、同日0854には「川内、涼風、江風、海風」がショートランド泊地を出撃、それぞれガダルカナル島へ輸送作戦を実施した[23][24]。夕立駆逐艦長吉川潔中佐指揮のもと「夕立、初雪、叢雲」はルンガ泊地に突入し、駆逐艦(高速輸送艦)「グレゴリー」と「リトル」を撃沈した[23][25]。戦果報告を受けた宇垣纏連合艦隊参謀長は、陣中日誌『戦藻録』で夕立隊の行動を絶賛している[24]。両艦を撃沈した後、ガタルカナル島へ泳いで逃げようとする乗組員を銃撃して殺傷し[26]、帰路についた。この銃撃事件ではグレゴリーは11名の死者を出したもののほとんどの乗員が救助され[27]。、米太平洋艦隊司令長官はグレゴリーとリトルの勇敢さを讃えるコメントを出した。


9月7日、第24駆逐隊(涼風、江風、海風)と第11駆逐隊(初雪、叢雲)はそれぞれガ島への輸送を実施[28][29]。9月16日、戦闘詳報(戦史叢書)では駆逐艦「初風、夕立、浜風」がガ島ルンガ泊地に突入したと記録されているが[30][31]、第16駆逐隊(雪風、時津風、初風、天津風)は機動部隊所属で、外南洋部隊には編入されていない。


10月1日、第11駆逐隊(初雪、白雪、吹雪、叢雲)は陸軍青葉支隊司令部をガ島へ輸送したが、米軍機の空襲を回避中に「初雪」は舵故障を起こす[32]。このため司令駆逐艦を「白雪」に変更、「初雪」は単艦でショートランド泊地へ戻った[33]。「白雪、吹雪、叢雲」による輸送作戦は成功した[32]。10月4日の輸送(時雨、白雪、吹雪、叢雲、綾波)において、第八艦隊戦闘詳報では「白雪」のかわりに「初雪」が参加した事になっている[34][35]。実際の「初雪」は駆逐艦「綾波」と交替する形で挺身輸送隊(大発動艇小発動艇によるショートランド諸島からニュージョージア諸島経由のガ島輸送作戦)に編入された[36][37]。本輸送方式は蟻輸送と呼称されている[37]。「初雪」はニュージョージア島周辺を航海し、蟻輸送の拠点となりそうな基地(地形)の調査をおこなった[38]。また駆逐艦「天霧」と共に大発動艇の曳航や物資輸送に従事した[39][40]

詳細は「サボ島沖海戦」を参照


ガダルカナル島の戦いにおける日本軍苦戦の大きな要因が、米軍に奪取されたヘンダーソン飛行場だった。10月11日、ガダルカナル島ヘンダーソン基地艦砲射撃を目指す外南洋部隊支援隊(指揮官五藤存知第六戦隊司令官)は、第六戦隊の重巡3隻(青葉古鷹衣笠)、第11駆逐隊第2小隊(初雪、吹雪)という戦力でショートランド泊地を出撃[41][42]。並行して、水上機母艦2隻(日進千歳)、駆逐艦6隻(秋月型駆逐艦秋月》、綾波、第9駆逐隊《朝雲、夏雲》、第11駆逐隊第1小隊《白雪、叢雲》)によるガ島輸送作戦も実施されることになった[42]。 だが外南洋部隊支援隊は待ち伏せていた米艦隊(指揮官ノーマン・スコット少将:重巡洋艦2、軽巡洋艦2、駆逐艦5)と交戦[43]。五藤司令官は戦死、「吹雪」が轟沈、「古鷹」は航行不能(12日日付変更後に沈没)、「青葉」が大破という被害を受けた[44]。「初雪」は重巡「衣笠」と行動を共にし、砲撃により米艦隊に損害を与えたが、前部水線上に被弾して最大発揮速力24ノットとなる[45][44]


その後「初雪」は「衣笠」からの下令に従い、航行不能となった「古鷹」の救援に赴いた[46][44]。航行不能となった「古鷹」を発見するが、傾斜のため横付できず、同艦沈没後に救助作業を開始[44]。古鷹生存者513名を救助、短艇や円材を沈没現場に残して戦場を離脱した[47][44]。このあと一部の古鷹・吹雪生存者は米軍に救助されている。


なお「古鷹」救援のため日進輸送隊から派遣された朝潮型駆逐艦夏雲」と吹雪型駆逐艦叢雲」も、日中の空襲により撃沈された[48][49]。本多(叢雲水雷長)によれば、「叢雲」の救助と雷撃処分を実施したのは「初雪」と回想しているが[50]、実際に「叢雲」の救助および処分を担当したのは駆逐艦「朝雲」と「白雪」である[45]。また戦史叢書では「白雲、朝雲」とするが[48]、「白雲」は8月下旬の空襲で大破したため警備駆逐艦に格下げ[要出典]され[51]、サボ島沖海戦時には日本本土で修理中である>[52]


本海戦により吹雪型ネームシップ「吹雪」が沈没すると、吹雪型駆逐艦は『白雪型駆逐艦』に改定された[53]。 11月2日、増援部隊指揮官橋本信太郎第三水雷戦隊司令官は旗艦を軽巡「川内」から重巡「衣笠」に変更、第一攻撃隊(衣笠、川内、天霧、初雪)を率いて甲増援隊(旗艦「朝雲」)と乙増援隊(旗艦「浦波」)の輸送作戦を支援した[54]。 また「初雪」は「望月」と共に『蟻輸送』作戦中止にともなう基地撤収を行うよう下令されていた[55]。11月5日、撤収作戦を完了した[37][56][57]

詳細は「第三次ソロモン海戦」を参照


11月中旬、「初雪」は前進部隊指揮官近藤信竹第二艦隊司令長官(旗艦「愛宕」)の指揮下、第三次ソロモン海戦第二夜戦に参加した。同夜戦に参加した日本艦隊の戦力は、前進部隊指揮官直率の射撃隊(重巡「愛宕《近藤中将旗艦》、高雄」、戦艦《霧島》)、直衛隊(軽巡「長良」、駆逐艦「五月雨初雪、白雪》、朝雲、照月」)、掃蕩隊(軽巡「川内」、駆逐艦「浦波、敷波、綾波」)という編制である[58][59]。 一方の米軍は、ウィリス・A・リー少将率いる戦艦2隻(ワシントンサウスダコタ)、駆逐艦4隻(ウォークグウィンベンハムプレストン)である[60]。直衛隊は「長良、五月雨、電、白雪、初雪」の単縦陣で戦闘に突入[61]。「長良」と分離後は「白雪、初雪、電、五月雨」が一群となって行動したという[62]。本夜戦で米軍駆逐艦3隻(ウォーク、ベンハム、プレストン)が沈没、日本側は「霧島、綾波」を喪失して米新型戦艦2隻(ワシントン、サウスダコタ)と駆逐艦「グウィン」を取り逃がした[60]。 12月上旬、「初雪」は「雪風」と共に空母「飛鷹」を護衛して内地へ帰投した[63]

昭和十八年の戦い

1943年(昭和18年)1月、駆逐艦「初雪」は輸送船団を護衛して再びソロモン海へ進出する[64]。「初雪」が護衛する丙一号第二輸送隊(清澄丸、靖国丸、筥崎丸)には、増援として「朝雲、五月雨」が加わった[65]。2月上旬のガダルカナル島撤退作戦(ケ号作戦)における「初雪」は、前進部隊・警戒隊(軽巡《神通、阿賀野、長良》、駆逐艦《陽炎、朝雲、時雨、涼風、大波、初雪、敷波、嵐、五月雨》)に編入されている[66]。「初雪、」は航空部隊の空母2隻(隼鷹瑞鳳)を直衛し、1月31日にトラック泊地を出撃[66]。陽動部隊として行動した。


2月25日、駆逐艦「天霧夕霧」が第11駆逐隊に編入され、同隊は白雪型4隻(初雪、白雪、天霧、夕霧)となる[67]。だが3月3日ビスマルク海海戦で「白雪、朝潮荒潮時津風、輸送船8隻」がダンピール海峡に沈没すると、4月1日をもって『白雪型駆逐艦』は初雪型駆逐艦に改定された[4]。本海戦で「初雪」は輸送船団の救援におもむき、「敷波、浦波、雪風、朝雲」と合流すると各艦に燃料を補給、生存者2700名を「初雪、浦波」に移乗させラバウルへ送り届けた(3日1650現場発、4日1015着)[68]。「敷波、雪風、朝雲」は再び戦闘海域に戻ると遭難者を救助したのち、3月5日朝にラバウルへ戻った。

詳細は「クラ湾夜戦」を参照


6月30日、アメリカ軍はニュージョージア島ムンダ飛行場対岸のレンドバ島に上陸し、ニュージョージア島の戦いがはじまる。これに対し第八艦隊(司令長官鮫島具重中将)は第三水雷戦隊(秋山輝男少将)に対してレンドバ島突入と米軍輸送船団撃退を下令[69]。秋山少将直率部隊(秋月型駆逐艦新月》、卯月型《望月皐月》、神風型《夕凪》)、先行隊(指揮官第11駆逐隊司令:天霧、初雪、長月三日月水無月)はレンドバ島西方に進出したが、会敵しなかった[69]。 7月2日、秋山少将は突撃隊(旗艦「新月」、第11駆逐隊《天霧、初雪》、第22駆逐隊《長月、皐月》、第31駆逐隊《望月》)と陽動隊(軽巡《夕張》、駆逐艦《夕凪、三日月》)を率いて米軍上陸部隊砲撃に向かうが、米軍魚雷艇と交戦して2隻を撃沈、ブーゲンビル島ブインへ引き揚げた[70]。 7月4日-5日、コロンバンガラ島への輸送作戦が計画されるが、第一回輸送部隊(長月、皐月、新月、夕凪)は米軍機及び米艦隊と交戦、駆逐艦1隻を撃沈したものの輸送作戦は失敗した[70]。そこで南東方面部隊指揮官は第三水雷戦隊に増援駆逐艦を手配し、全力での輸送作戦を命じた[70]


7月5日夕刻、秋山少将は支援隊(新月《第三水雷戦隊旗艦》、第24駆逐隊《涼風》、第17駆逐隊《谷風》)、第一次輸送隊(第30駆逐隊《望月、三日月》、第17駆逐隊《浜風》)、第二次輸送隊(第11駆逐隊《天霧、初雪》、第22駆逐隊《長月、皐月》)を率い、それぞれショートランド泊地を出撃した[71]。日本艦隊は電波探知機で米艦隊の存在を察知、レーダーで日本艦隊をとらえた米艦隊(指揮官ウォルデン・L・エインズワース少将:軽巡3、駆逐艦4)も発砲し、交戦状態に入る(クラ湾夜戦)。「初雪」も砲撃戦を行い、不発弾2発を受けた[71]。本海戦で「新月、長月」が沈没(米艦隊は軽巡「ヘレナ」沈没)、「新月」と共に秋山少将以下第三水雷戦隊司令部が全滅、輸送物件の約半分(陸兵1,600名と物資90トン)を揚陸した[71]。損傷した「初雪、望月」はラバウルへ後退し、応急修理を実施する[72]。新司令官着任までの間、重巡「鳥海」艦長有賀幸作大佐(かつての第11駆逐隊司令)が数日間だけ増援部隊指揮官となった。


日本海軍は戦死した秋山少将の後任として伊集院松治大佐を第三水雷戦隊司令官に任命する人事を7月7日に発令、伊集院大佐は7月10日にラバウルへ到着すると軽巡「川内」に将旗を掲げた[73]。しかし新司令部をいきなり実戦に投入するわけにはいかず、第二水雷戦隊(司令官伊崎俊二少将:旗艦「神通」)が当面の指揮を執る[73]。第二水雷戦隊と第七戦隊(司令官西村祥治少将)は、7月7日附で南東方面部隊に編入されていた[74]。7月12日、コロンバンガラ島輸送作戦中の第二水雷戦隊は米艦隊と交戦、軽巡「神通」が沈没し、伊崎少将と二水戦司令部は全滅した(コロンバンガラ島沖海戦)。それでも日本海軍はクラ湾夜戦とコロンバンガラ島沖海戦で米軍水上部隊に大打撃を与えたと判断し、クラ湾方面での敵艦隊撃滅と輸送作戦を行う計画をたてる[73]。第七戦隊司令官西村少将を指揮官とし、主隊(熊野鈴谷)、水雷戦隊(川内、皐月、水無月、雪風、浜風、清波、夕暮)、輸送隊(三日月、夕凪、松風)という戦力が集結、16日2200にラバウルを進出してブインへむかった[75]。「初雪《第11駆逐隊司令山代大佐座乗》、望月」は西村艦隊に先行して16日夕刻にラバウルを出撃、17日午前5時にブインへ入港[76][77]。「初雪」は「水無月」に、「望月」は「皐月」に横付けして物件・重油の移載をおこなっていた[75]


7月17日朝、ブインは大型爆撃機19、戦爆約150機の大空襲を受ける[73][78]。至近弾多数と艦橋後部附近に被弾した「初雪」は、浸水により水平状態で沈没(山代司令によれば、浅い水深のためマストは海面上に出ていたという)[77]。他に「皐月、水無月」が小破、翌日にも空襲を受け「望月」が小破した[79][75]。これを受けて西村艦隊は一旦ラバウルへ帰投、重巡「鳥海」を加えるなど戦力を再編したのち18日に再出撃した[73]。19日-20日、輸送作戦には成功したものの、夜間空襲により重巡「熊野」小破、駆逐艦「清波夕暮」沈没という損害を受けて戦果はなかった[73]


10月15日、「初雪」は初雪型駆逐艦[80] 第11駆逐隊[81]、 帝国駆逐艦籍[82] のそれぞれから除籍された。なおネームシップの本艦沈没後も『初雪型駆逐艦』の名称は改定されずに用いられている。

歴代艦長
※『艦長たちの軍艦史』265-267頁による。

艤装員長
・石橋三郎 中佐:1928年12月10日 - 1929年2月7日[83]


艦長
・石橋三郎 中佐:1929年2月7日[83] - 1929年11月30日

・福原一郎 中佐:1929年11月30日 - 1930年12月1日

・河原金之輔 中佐:1930年12月1日[84] - 1931年12月1日 同日より第二予備艦

・(兼)直塚八郎 中佐:1931年12月1日 - 1932年1月11日

・(兼)金桝義夫 少佐:1932年1月11日 - 1932年5月16日[85]

・(兼)中原達平 中佐:1932年5月16日[85] - 1932年7月1日[86]

山口次平 中佐:1932年7月1日 - 1933年11月15日

久宗米次郎 中佐:1933年11月15日 - 1935年1月15日[87]

・(兼)杉本道雄 中佐:1935年1月15日 - 1935年4月1日

・有田貢 少佐:1935年4月1日[88] - 1936年3月11日[89]

・(兼)小川莚喜 少佐:1936年3月11日[89] - 6月15日

島居威美 少佐:1936年6月15日 - 1937年12月1日[90]

・広瀬貞年 中佐:1937年12月1日 - 1938年6月25日[91]

・一門善記 少佐:1938年6月25日 - 1938年12月1日[92]

・山隈和喜人 中佐:1938年12月1日 - 1939年12月1日[93]

・岩橋透 少佐:1939年12月1日 - 1941年8月20日[94]

・神浦純也 少佐:1941年8月20日 -

・山口達也 少佐:1942年5月12日 -

・杉原与四郎 少佐:1943年5月30日 -

詳しいことは、「初雪 (吹雪型駆逐艦)ウィキペディア」をご覧ください。 ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%88%9D%E9%9B%AA_(%E5%90%B9%E9%9B%AA%E5%9E%8B%E9%A7%86%E9%80%90%E8%89%A6)
(wikiより)

74   初雪

初雪

74a

74b

74c

74d

74e

74f



白雪(しらゆき)は、大日本帝国海軍駆逐艦[1]。特型駆逐艦こと一等駆逐艦吹雪型(白雪型・初雪型)の2番艦[2]。 雪級(ゆきクラス)の1隻[3][4]。 当初の艦名は第三十六号駆逐艦[1]。白雪の名を持つ日本海軍の艦船としては神風型駆逐艦 (初代)白雪」に続いて2隻目。名称ははつゆき型護衛艦(現:しまゆき型練習艦)2番艦「しらゆき」に受け継がれている。

艦歴

駆逐艦白雪は横浜船渠で建造された[5]1927年(昭和2年)3月19日に起工[5]4月26日、建造予定の一等駆逐艦4隻に、それぞれ第36号駆逐艦(のちの白雪)、第38号(〃深雪)、第39号(〃叢雲)、第44号(〃浦波)の艦名が与えられた[6]。第36号駆逐艦の艦名は浦風型駆逐艦江風(第36号駆逐艦)に使われた事がある[7][8]。 本艦は1928年(昭和3年)3月20日に進水[5]。同年8月1日、第36号駆逐艦を白雪と改名した[1]。12月18日に竣工した[5]。竣工後、第2艦隊第2水雷戦隊・第11駆逐隊に編入。呉鎮守府所属。


日中戦争
に際しては1937年(昭和12年)以降、上海上陸、杭州湾上陸、北部仏印進駐作戦などに参加した。この間、第二航空戦隊や第三水雷戦隊など、所属部隊は幾度もかわった。太平洋戦争直前の1941年(昭和16年)6月18日附で、第11駆逐隊司令は有賀幸作大佐から荘司喜一郎大佐に変わった[9]

太平洋戦争緒戦

太平洋戦争緒戦、第三水雷戦隊(司令官橋本信太郎少将:旗艦川内および第11駆逐隊《初雪、白雪、吹雪》、第12駆逐隊《白雲、叢雲、東雲》、第19駆逐隊《綾波、敷波、浦波、磯波》、第20駆逐隊《夕霧、狭霧、天霧、朝霧》)は南遣艦隊(司令長官小沢治三郎中将:旗艦鳥海)を基幹とする馬来部隊に所属され、南方作戦蘭印作戦に参加した。

詳細は「エンドウ沖海戦」を参照


1月27日、白雪はマレー半島南部エンドウ沖で発生したエンドウ沖海戦に参加する。日本軍輸送船団撃破を狙うオーストラリア海軍駆逐艦「ヴァンパイア」とイギリス海軍駆逐艦「サネット」が「白雪」に対して[10]夜間雷撃を実施(「ヴァンパイア」1本」[11]、「サネット」4本発射[12])、魚雷は白雪の艦底を潜り抜けていった[13][14]。「サネット」側は「白雪」を巡洋艦と誤認して魚雷の深度を巡洋艦用の設定としていた[12]。 「白雪」は探照灯を照射して応戦。「川内」以下第三水雷戦隊各艦と共に「サネット」を撃沈し「ヴァンパイア」を撃退したが、僚艦から砲火が集中して危険になる一幕もあった。「白雪」は「サネット」の生存者、水雷長以下31名を救助した[15]。「サネット」の生存者を救助した際には、勝ち戦のため余裕があったためか、可能な限り優遇した[13]。この海戦で「白雪」では1名が機銃弾で重傷をおっている[12]

詳細は「バタビア沖海戦」を参照


3月1日、白雪はジャワ島西部攻略作戦中に発生したバタビア沖海戦に参加する。当時の第11駆逐隊(初雪、白雪、吹雪)と第12駆逐隊(白雲、叢雲)は、軽巡洋艦由良等と共に第五水雷戦隊(司令官原顕三郎少将:旗艦名取)を基幹とする第三護衛隊に臨時編入されており、三水戦主力部隊とは別行動だった。第11駆逐隊は輸送船団を襲撃した重巡洋艦ヒューストン、軽巡洋艦パースの撃沈に大きな貢献を果たした。3月10日、第12駆逐隊(白雲叢雲)は解隊され、白雲は第20駆逐隊に編入。第11駆逐隊には叢雲が編入され、開戦時以来吹雪型3隻体制だった第11駆逐隊は4隻(吹雪、白雪、初雪、叢雲)に増強される[16][17]。第11駆逐隊の区分は、第1小隊1番艦初雪(駆逐隊司令艦)、2番艦白雪、第2小隊3番艦吹雪、4番艦叢雲であった。日本に帰投後、白雪は6月上旬のミッドウェー海戦に参加。7月15日附で第11駆逐隊司令として杉野修一大佐が着任[18]。つづいて印度洋通商破壊作戦に参加する。第三水雷戦隊各艦の士気はふるわなかったという[19]

ガダルカナル島の戦い

インド洋通商破壊作戦(B作戦、指揮官西村祥治第七戦隊司令官)はアメリカ軍のガダルカナル島およびフロリダ諸島上陸にともなうガダルカナル島の戦い勃発(8月7日以降)により中止され、第七戦隊、第三水雷戦隊、第四水雷戦隊各艦はソロモン諸島方面へ移動した[20]。第11駆逐隊(初雪、白雪、吹雪)は輸送船佐渡丸(陸軍川口支隊川口清健少将乗船)を護衛して、8月29日朝にショートランド着[20]。第三水雷戦隊の到着をもって第二水雷戦隊司令官田中頼三少将(重巡衣笠座乗)は外南洋部隊増援部隊指揮官を更迭され、増援部隊指揮官は三水戦司令官橋本信太郎少将(旗艦川内)となる[21]


8月31日-9月1日、第24駆逐隊(江風海風涼風)、第11駆逐隊(初雪、白雪、吹雪)は川口支隊1200名をガダルカナル島へ揚陸した[22][23]。 9月2日、敷設艦津軽および駆逐艦2隻(陽炎夕暮)、第一号型哨戒艇2隻(1号2号)のガ島輸送作戦が実施される[24][25]。駆逐艦3隻(吹雪、白雪、天霧)は津軽隊と共にガ島ルンガ泊地に突入、飛行場を砲撃しつつ掩護に任じた[26][25]。 9月5日、駆逐艦5隻(吹雪、白雪、天霧、陽炎、夕暮)はガ島輸送を実施[27][28]。 9月8日、アメリカ軍の輸送駆逐艦2隻・特設哨戒艇2隻が海兵隊二個大隊を輸送、上陸した部隊はガ島日本陸軍部隊に損害を与えたのち撤退した[29]。日本側はアメリカ軍輸送船団に零式水上観測機12機による空襲を実施するとともに、増援部隊指揮官直率部隊(川内、浦波、敷波、吹雪、白雪、天霧、陽炎、夕暮、《夕立》)も出動する[30][29]。だが米艦艇は撤収しており、大きな戦果をあげられなかった[29]。 9月12日、ガ島ヘンダーソン飛行場に対する日本陸軍総攻撃に呼応し、外南洋部隊も重巡鳥海以下所属艦多数を派遣する[31]。陽炎艦長指揮下の駆逐艦2隻(陽炎、白雪)は飛行場占領後の敵退路遮断を命じられたが、飛行場占領失敗の報告を受けて反転、外南洋部隊(主隊《鳥海等》・支援隊《青葉、古鷹、衣笠》)に収容されて引き返した[31]。あらためてガ島突入の命令を受けた橋本三水戦司令官将は、軽巡川内および駆逐艦7隻(海風、江風、浦波、敷波、嵐、叢雲、白雪)をひきいてショートランド泊地を出撃する[31]。アメリカ軍機の活動により川内は引き返し、駆逐艦部隊(大発動艇曳航)のみでガ島揚陸作戦を実施した[32][31]


日本陸軍のガ島飛行場占領失敗により、海軍側はひきつづき同島への増援輸送作戦を実施することになった[33]。9月18日、アメリカ軍輸送船団(巡洋艦3、駆逐艦10、輸送船6)のルンガ泊地入泊と揚陸の報告を受けた増援部隊指揮官(橋本三水戦司令官)は直率隊(川内、浦波、白雪、叢雲、浜風)をひきいてショートランド泊地を出撃、ルンガ泊地に突入したが敵影を見ず、アメリカ軍の物資集積場を砲撃して帰投した(効果不明)[34][33]。 9月21日夜、第19駆逐隊司令大江賢治大佐指揮下の駆逐艦4隻(浦波、白雪、陽炎、浜風)はガ島揚陸を実施[35][36]。月齢11のためアメリカ軍機は夜間空襲を敢行し、機銃掃射で陽炎に浸水被害を与えた[35]。執拗な空襲により、各艦は糧食の1/3程度を揚陸した時点でショートランド泊地へ避退した[35]


10月1日、第11駆逐隊(初雪、白雪、吹雪、叢雲)は陸軍青葉支隊司令部をガ島へ輸送したが、アメリカ軍機の空襲を回避中に初雪は舵故障を起こした[37]。このため司令駆逐艦を白雪に変更、初雪はショートランド泊地へ戻った[38]。白雪、吹雪、叢雲による輸送作戦は成功した[37]。 10月4日、第27駆逐隊司令瀬戸山安秀大佐(司令駆逐艦時雨)を指揮官とする輸送作戦(時雨、白雪、吹雪、叢雲、綾波)において、第八艦隊戦闘詳報では白雪のかわりに初雪が参加した事になっている[39][40]。実際の初雪は駆逐艦綾波と交替する形で蟻輸送大発動艇小発動艇によるショートランド諸島からニュージョージア諸島経由のガ島輸送作戦)に従事していた[41]。 10月8日、水上機母艦日進および秋月型駆逐艦1番艦秋月によるガ島輸送が実施されることになり、27駆司令指揮下の駆逐艦5隻(時雨、白雪、吹雪、叢雲、綾波)は護衛をかねて輸送作戦を実施することになった[42]。だが基地航空隊より天候不良のため零式艦上戦闘機を派遣できないとの報告があり、2隻(日進、秋月)はショートランドへ引き返した[43][42]。駆逐艦部隊はそのままガ島へ向かい、揚陸に成功して無事に帰投した[44]

サボ島沖海戦

詳細は「サボ島沖海戦」を参照


ガダルカナル島の戦いにおける日本軍苦戦の大きな要因が、アメリカ軍に奪取されたヘンダーソン飛行場だった。10月11日、ガダルカナル島ヘンダーソン基地艦砲射撃を目指す外南洋部隊支援隊(指揮官五藤存知第六戦隊司令官)は、第六戦隊(青葉古鷹衣笠)、第11駆逐隊第2小隊(初雪、吹雪)、計5隻(重巡3隻・駆逐艦2隻)という戦力でショートランド泊地を出撃[45]。並行して、水上機母艦2隻(日進千歳)、駆逐艦6隻(秋月型駆逐艦秋月》、第19駆逐隊《綾波》、第9駆逐隊《朝雲、夏雲》、第11駆逐隊第1小隊《白雪、叢雲》)によるガ島輸送作戦も実施されることになった[45][46][47]。 10月11日午前6時、日進輸送隊はショートランド泊地を出撃、零戦隊の援護をうけつつガダルカナル島へ向かった[48]。零戦隊の援護をうけつつ、夜になりガ島へ到着して揚陸に成功した[48]。だが日進隊に遅れてショートランド泊地を出撃[48]、後続していた外南洋部隊支援隊は待ち伏せていた米艦隊(指揮官ノーマン・スコット少将:重巡洋艦2、軽巡洋艦2、駆逐艦5)と交戦[49][50]。五藤司令官は戦死、吹雪が轟沈、古鷹も航行不能(古鷹は日付変更後に沈没、乗組員は初雪に救助された)、青葉が大破という被害を受けた(サボ島沖海戦[49]


衣笠より米艦隊との交戦報告をうけた外南洋部隊指揮官三川軍一第八艦隊司令長官は、米艦隊が日進輸送隊を攻撃することを懸念し、第六戦隊・日進輸送隊の援護を目的として、支援隊残存艦・増援部隊(第三水雷戦隊)に米艦隊撃滅を命じた[51]。同時刻、日進輸送隊も米艦隊撃滅と古鷹救援のため、第9駆逐隊の朝潮型駆逐艦2隻(朝雲夏雲)・第11駆逐隊第1小隊の吹雪型駆逐艦(白雪、叢雲)を派遣した[51][52]。 駆逐艦4隻は古鷹の救援のため行動したが同艦を認めず(すでに沈没)、退避中にニュージョージア島沖合でアメリカ軍機の空襲を受け[51]、まず夏雲が沈没した[47]。朝雲、白雪は夏雲、叢雲の生存者を収容後に一旦ひきあげ、増援部隊(川内、由良、時雨、白露、浦波、磯波、天霧)と合流後、夜陰に乗じて叢雲曳航のために現場へ戻った[53]。朝雲、白雪は19時に叢雲の傍にもどるが同艦は爆発炎上して曳航の手段がなく、白雪は叢雲を雷撃で処分した[51][54]


なお戦史叢書では呉鎮守府警備駆逐艦(豊田司令長官指揮下)の白雲が、10月11日-12日に生起した水上機母艦日進護衛および『サボ島沖海戦』に参加し、外南洋部隊(指揮官三川軍一第八艦隊司令長官)に所属する第11駆逐(白雪、叢雲、初雪、吹雪)の司令駆逐艦(駆逐隊司令杉野修一大佐)として、第11駆逐隊第1小隊2番艦の駆逐艦叢雲救援と雷撃処分を白雲が実施したことになっている[51]。だが白雲は8月28日の空襲で大破、第20駆逐隊の解隊にともない警備駆逐艦となって外南洋部隊(第八艦隊)から除かれ[55]、サボ島沖海戦時は日本本土に戻っていた(10月8日着)[56]。さらに大修理が必要な状態であり、最前線で戦闘に参加できる状態ではなかった[57]。水上機母艦日進の護衛および叢雲の処分を実施したのは、白雲と名前が似ている本艦(白雪)である[53][54]。 本海戦により吹雪型ネームシップ吹雪が沈没すると、吹雪型駆逐艦は『白雪型駆逐艦』に改定された[58]


10月13日、第四水雷戦隊(旗艦秋月)が高速輸送船6隻を護衛してガ島輸送を実施することになり、並行して外南洋部隊主隊(鳥海、衣笠、望月、天霧)・増援部隊(川内、由良、朝雲、白雪、暁、雷)も飛行場砲撃と輸送作戦を決行する[59][60]。外南洋部隊・増援隊の飛行場砲撃・輸送作戦は成功[61]。白雪は甲標的基地員と物件輸送を担当した[60]。だが高速輸送船団はアメリカ軍機の空襲を受け輸送船3隻を喪失、揚陸した物資もアメリカ軍機や米艦艇の攻撃で大部分を焼き払われてしまった[61]


水上機母艦2隻(日進、千歳)の投入は連合艦隊の指導により中止され、外南洋部隊増援部隊はガ島日本陸軍総攻撃(10月下旬予定)の前に、全力で輸送作戦を実施することになった[62]。増援部隊指揮官橋本三水戦司令官は軽巡3隻(川内、由良、龍田)を、第四水雷戦隊司令官高間完少将(旗艦秋月)は水雷戦隊(秋月、朝雲、白雪、暁、雷、村雨、夕立、春雨、五月雨、浦波、敷波、綾波、時雨、白露、有明)を指揮し、10月17日早朝にショートランド泊地を出撃[62]。由良に米潜水艦から発射した不発魚雷1発が命中しただけで、輸送作戦は成功した[62]


11月2日、増援部隊指揮官橋本信太郎第三水雷戦隊司令官は旗艦を軽巡川内から重巡衣笠に変更、第一攻撃隊(衣笠、川内、天霧、初雪)を率いて輸送作戦を支援する[63]。 第四水雷戦隊司令官高間完少将(旗艦「朝雲」)は甲増援部隊(朝雲村雨春雨夕立時雨白露有明夕暮、白雪、天龍)を[64]、乙増援隊(浦波、敷波、綾波、満潮、朝潮)は第19駆逐隊司令が指揮[65]、望月は挺身輸送隊(蟻輸送部隊)撤収のため、それぞれショートランド泊地よりガ島へ向かった[63]。甲増援隊は揚陸地点の天候不良に悩まされ、装載艇多数を喪失、物資を一部揚陸できないまま引き返した[63]。白雪はカミンボで入泊する際に艦底を触接、若干の浸水被害を受けている[63]。白雪は甲増援部隊本隊に合流せず、単艦で帰投した[63]。 11月5日、三水戦司令官は旗艦を重巡衣笠から駆逐艦浦波に変更する[66]。乙増援部隊(浦波、敷波、綾波、白雪、望月、天龍)を直率してショートランド泊地を出撃する[66]。甲増援隊(朝雲、村雨、春雨、夕立、時雨、白露、有明、夕暮、朝潮、満潮)は第9駆逐隊司令佐藤康夫大佐(司令駆逐艦朝雲)の指揮下でガ島へ向かう[66]。甲増援隊・乙増援隊とも被害なく輸送に成功[67]。6日朝にショートランドへ戻った[66]。三水戦司令官は旗艦を川内に復帰、増援部隊指揮官の職務を第二水雷戦隊司令官田中頼三少将(旗艦五十鈴)に引継ぐと、白雪以下第三水雷戦隊各隊・各艦をひきいてトラック泊地へ向かった[66]

詳細は「第三次ソロモン海戦」を参照


11月中旬、第11駆逐隊第1小隊(白雪、初雪)は前進部隊指揮官近藤信竹第二艦隊司令長官(旗艦「愛宕」)の指揮下、第三次ソロモン海戦第二夜戦に参加した。同夜戦に参加した日本艦隊の戦力は、前進部隊指揮官直率の射撃隊(重巡愛宕《近藤中将旗艦》、高雄、戦艦《霧島》)、直衛隊(軽巡《長良》、駆逐艦《五月雨、初雪、白雪、朝雲、照月》)、掃蕩隊(軽巡《川内》、駆逐艦《浦波、敷波、綾波》)という編制である[68]。 一方の米軍は、ウィリス・A・リー少将率いる戦艦2隻(ワシントンサウスダコタ)、駆逐艦4隻(ウォークグウィンベンハムプレストン)である[69]。直衛隊5隻(長良、五月雨、電、白雪、初雪)は単縦陣で戦闘に突入[70]。長良と分離後は駆逐艦4隻(白雪、初雪、電、五月雨)が一群となって行動したという[71]。本夜戦でアメリカ軍駆逐艦3隻(ウォーク、ベンハム、プレストン)が沈没、日本側は霧島、綾波を喪失して米新型戦艦2隻(ワシントン、サウスダコタ)と駆逐艦グウィンを取り逃がした[69][72]

ケ号作戦

1943年(昭和18年)1月17日、白雪は輸送船4隻(大井丸、乾坤丸、旭盛丸、はばな丸)のB船団を護衛してトラック泊地を出発、速力9ノットでショートランド泊地を目指した[73]。航海中の1月20日附で川内、白雪は南東方面部隊に編入される[74][75]。 21日夕刻、ブーゲンビル島ショートランド泊地近海でB-17重爆6機の空襲を受けた乾坤丸が大破炎上し(戦死62、行方不明29)[73]、自沈処理された[76]。白雪は残3隻を護衛して目的地にたどり着いた[73]。ブーゲンビル島への輸送作戦では、参加輸送船11隻(B船団含む)のうち、乾坤丸以下4隻が沈没、A船団掩護のため出撃した秋月型駆逐艦の秋月が大破(第十戦隊司令官木村進少将負傷)という被害を出している[73]


1月24日、第三水雷戦隊司令官橋本信太郎少将は川内、白雪をひきいてラバウルに到着、翌日には第八艦隊司令部・第三水雷戦隊司令部・第十戦隊司令部が合同してガダルカナル島撤退作戦の打ち合わせを行った[75]。26日、三水戦司令官は増援部隊指揮官を引き継ぎ、白雪に乗艦してショートランド泊地へ移動、夕雲型駆逐艦巻波に将旗を掲げた[75]。川内はカビエンに回航され、重巡2隻(鳥海、熊野)と共に待機する[75]。 ショートランド泊地では、駆逐艦輸送が失敗した場合の予備手段として大発動艇部隊による撤収作戦の準備が行われた[77]。第16駆逐隊司令荘司喜一郎大佐(司令駆逐艦「時津風」)指揮下の駆逐艦6隻(警戒隊《時津風、白雪、黒潮》、輸送隊《浦風、浜風、江風》)で作戦を実施、アメリカ軍機の空襲を排除して作戦は無事に成功した[78][77]

詳細は「ケ号作戦」を参照


2月上旬、白雪はガダルカナル島撤収作戦(ケ号作戦)に参加した[79]。 第一次撤収作戦は警戒隊(巻波親潮舞風江風、白雪、文月皐月長月)と輸送隊(風雲巻雲夕雲秋雲浦風磯風浜風谷風時津風雪風大潮荒潮)という区分で、2月1日9時30分にショートランド泊地を出撃、エスペランス岬とカミンボへ向かった[80]。だがアメリカ軍機の空襲で旗艦巻波が航行不能となり、同艦は文月に曳航されて引き返した[80]。三水戦司令官は白雪に移乗して撤収部隊をおいかけ、その間の指揮は第十戦隊司令官がとっている[80]。ガ島では夕雲型駆逐艦巻雲が触雷して航行不能となり、夕雲に処分されている[80]。それ以上の被害はなく、第一次撤収作戦は成功裡に終わった[80]


第二次撤収作戦は、沈没損傷艦(巻雲、巻波)の代替として駆逐艦2隻(朝雲、五月雨)を編入し、それ以外は第一次撤収作戦と同じ艦で実施することになった[81]。2月4日9時30分にショートランド泊地を出撃するが、往路の空襲で舞風が航行不能となり、長月に曳航されて避退した[81]。さらに白雪は機関故障を起こしたため、増援部隊指揮官は江風に旗艦を変更する[81]。白雪はショートランド泊地に引き返し、江風は第二次撤収部隊をおいかけてガ島へ向かった[81]。駆逐艦3隻(舞風、長月、白雪)の離脱という事態があったものの、第二次撤収作戦も成功裡に終わった[81]


2月7日の第三次ケ号作戦(第一連隊《白雪、黒潮、朝雲、五月雨、時津風、皐月、文月、大潮、荒潮》、第二連隊《風雲、夕雲、秋雲、長月、谷風、浦風、浜風、磯風》)では、当初第8駆逐隊(大潮、荒潮)は加わっておらず、海軍と日本陸軍の折衝によって参加が決まったという[82][83]。2月7日9時10分にショートランド泊地を出撃、往路の空襲で磯風が大破した[82]。長月が曳航しようとしたが自力航行可能となったため、長月は撤収部隊に復帰[82]、対潜哨戒任務中の江風がかけつけ磯風を護衛してショートランド泊地へ避退した[82]。白雪指揮下の撤収部隊はガ島に到着、第三次撤収作戦も成功のうちに終わった[82]

詳しいことは、「白雪ウィキペディア」をご覧ください。 ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BD%E9%9B%AA_(%E5%90%B9%E9%9B%AA%E5%9E%8B%E9%A7%86%E9%80%90%E8%89%A6)
(wikiより)

74   白雪

白雪

74a

74b

74c

74d

74e

74f



吹雪型駆逐艦(ふぶきがたくちくかん)は、大日本帝国海軍(以下「海軍」)の一等駆逐艦[3]の艦級である。同型艦24隻[3]特型駆逐艦(とくがたくちくかん)の名でも知られる。

概要

ワシントン海軍軍縮条約により、戦艦を始めとする主力艦等の保有制限を受けた日本海軍が、条約の制限を受けない補助艦艇の整備を強化する方針を打ち出したことにより建造された新型駆逐艦が本型である。 凌波性能を追求した船形による良好な航海性能と、艦橋を露天式から密閉式に改めるなどの居住性の改善、排水量に対して重武装(砲塔式12.7cm連装砲3基、61センチ魚雷9射線を中心に配備し予備魚雷も搭載した)の本型の出現は、当時の列強海軍に衝撃を与えた。

太平洋戦争では当初酸素魚雷こそ装備していなかったものの、水雷戦隊の主力や空母護衛、輸送船団護衛などで活躍し、結果として損害も多く、建造された24隻の中で終戦時まで残存した艦は2隻(潮、響)のみである。

ワシントン条約と睦月型駆逐艦
1921年(大正10年)のワシントン軍縮条約により、主力艦(戦艦巡洋戦艦)は保有比率が制限(英5:米5:日3)を受けた[25]。これにより主力艦の建造はいずれも中止され、日本海軍では主力艦の劣勢を補うため、条約で保有制限を受けない巡洋艦以下の補助艦艇を整備・強化する事に活路を見出す方針を打ち出した[25]。数的にはアメリカ海軍に及ばないため、必然的に個艦性能をアメリカより優勢にすることが求められた[25]。駆逐艦に関しては、それまでの八八艦隊計画では大型の一等駆逐艦と中型の二等駆逐艦の2系統で駆逐艦の建造を進めていた[26]が、条約後の計画見直し(大正12年度艦艇補充計画)で二等駆逐艦の建造を取りやめ、一等駆逐艦(1,400トン型)24隻の計画となった[27]。この計画では53cm魚雷搭載の神風型駆逐艦4隻と61cm魚雷搭載に兵装を強化した睦月型駆逐艦12隻の計16隻を建造した[28]。残り8隻の予算は計画が変更され、1,700トン型(本型)5隻として建造されることになる[29]

新型駆逐艦
睦月型駆逐艦は当時としては高性能かつ重武装艦(速力37.3kt 航続力14ktで4000浬 兵装:61糎三連装魚雷発射管/2基6射線 12糎単装砲四基)であるが、 1924年(大正13年)に出された軍令部の新型駆逐艦の要望はそれをはるかに上回る61cm魚雷発射管9射線(3連装3基)、12.7cm砲6門、速力37ノットというものだった[30]。 基本計画主任の藤本喜久雄造船大佐(当時)はそれを実現させるため、軽巡洋艦夕張の手法を取り入れ、新技術(半自動溶接等の新方式の電気溶接法など)を積極的に採用することによって徹底的な軽量化を試み、基準排水量1,700トン以下で要望通りの駆逐艦を設計した(実際の排水量は計画よりかなり重くなった)。固定天蓋付きの艦橋(ブリッジ)、防盾(シールド)付きの砲など、この後の日本海軍駆逐艦の基本形が本型できあがった。吹雪型は、国内外に衝撃を与え、海軍の分類に準拠した特型駆逐艦という呼称が有名になった。軽合金が多用されたのも初期の特徴だが、当時のアルミ合金は耐海水性が悪いうえ腐食が激しく使用を中止された[31]

建造

上述のように大正12年度(1923年)計画で5隻(吹雪、白雪、初雪、叢雲、深雪)[32]、大正15年度(1926年)成立の予算で4隻(磯波、東雲、薄雲、白雲)[33]、昭和2年度(1927年)計画により残り15隻が建造された[34]1928年(昭和3年)6月竣工の磯波から1933年(昭和8年)3月竣工の響で全艦24隻が竣工した。


本型は予想以上の好成績で、この事実が諸外国に知れた場合に大型駆逐艦の建艦競争が起きることを日本海軍は恐れ、建造の打ち切りを予定していた[35]1930年(昭和5年)のロンドン海軍軍縮条約で1,500トン以上の駆逐艦にも保有量の制限が課せられたため(後述)、予定通りの建造打ち切りが決定した[35]

竣工後から太平洋戦争開戦前まで

竣工後は続々と水雷戦隊、特に花形の第二水雷戦隊に配属されて日本海軍の主力を担った[35]。特に昭和9年度(1934年)の艦隊編成では第二水雷戦隊の全ての駆逐艦が本型だった[35]


大型かつ重武装である吹雪型の存在は当時の各国海軍に衝撃を与え、ロンドン海軍軍縮会議にて大型駆逐艦の保有枠が新たに設けられる事態や[36]、アメリカ海軍のポーター級、イギリス海軍のトライバル級等の特型駆逐艦に対抗した様々な駆逐艦が生まれる結果となった[37]

深雪 (駆逐艦)」、「友鶴事件」、および「第四艦隊事件」を参照


国外に様々な影響を与えた吹雪型であったが、国内においては訓練中に起こった事故や問題が発生していた。訓練中の事故で本級の電と衝突した深雪が沈没する事故や友鶴事件第四艦隊事件によって発覚した復元性不足、強度不足問題等である[38][39]。特に後者の2つの問題により性能改善工事が行われ、耐波性や凌波性は優秀なままであったが、重量が増大し速力が34ノットまで低下することとなった[39]

太平洋戦争時

太平洋戦争時には既に陽炎型駆逐艦等の最新鋭駆逐艦が主力となっていたが、吹雪型も最前線で運用された。なお陽炎型駆逐艦の18ノットで5,000海里に対して、1943年(昭和18年)9月時点での響の航続距離は17ノットで1,600海里と報告されている[15]


開戦時には23隻あった吹雪型であったが、終戦時には潮と響のみが残存していた。潮は後に解体され、響はソ連海軍へ賠償艦として引き渡され1970年代まで在籍していた。

特型駆逐艦

計画時の呼称は特型駆逐艦(とくがたくちくかん)。これは、1924年に艦政本部に対して要求された「新型駆逐艦」の過酷な要求を満たすため、艦政本部内に設けられた「特型駆逐艦対策委員会」の名称が基となっている。合計24隻が建造された[40]


ただし、特型は次級である初春型駆逐艦白露型駆逐艦[41]および朝潮型駆逐艦を含む呼称として使用された例もある[42]。あらたに登場した本型(特型駆逐艦)に対し、従来の睦月型駆逐艦峯風型駆逐艦神風型駆逐艦は『並型駆逐艦』と表現された事例もある[43]

艦級(クラス)

日本海軍での公式の艦型(艦級に相当)は艦艇類別等級表に記載され、あくまで全隻「吹雪型駆逐艦/白雪型駆逐艦/初雪型駆逐艦」である[44][45][3]


「吹雪型」命名前(後述)の呼称は第三十五号型駆逐艦(だいさんじゅうごごうがたくちくかん)[46]、命名後は「吹雪型駆逐艦」で統一しており[47]ネームシップの「吹雪」沈没後白雪型駆逐艦(しらゆきがたくちくかん)に改定され[48]、さらに初雪型駆逐艦(はつゆきがたくちくかん)と改められた[49]


その他の分類として、駆逐隊は4隻単位で本型の艦名も4隻ごとになっているので、吹雪から4隻ごとに雪級雲級波級霧級とする分類も見られた[41]ほか、吹雪型を16隻とし、後期型8隻(朧、曙、潮、漣、響、雷、電、暁)を朧型とする場合もあった[50]。なお吹雪型の次級である初春型駆逐艦の当時9隻(初春型《初春子日若葉初霜有明夕暮》、白露型白露時雨村雨》)も特型駆逐艦として分類している資料もある[41]。庭田尚三造船中将(呉海軍工廠造船部長として大和型戦艦1番艦大和の建造を指揮)は、初春型駆逐艦・白露型駆逐艦・朝潮型駆逐艦を『特型駆逐艦○○型』と分類している。


昭和造船史第1巻」巻末資料[11]や「世界の艦船」[51]では「吹雪」から「潮」までの20隻を「吹雪型」とし、機関を改良した「暁」以降4隻を暁型吹雪改型[52])として別のクラスに分類している(英語版ウィキペディアの暁型駆逐艦の記事を参照)。

分類

本型は建造期間が長いこともあり、いくつかの種類で分類される[53]。通常は外観の相違に基づいて3タイプ(+1タイプ)に分ける形になる[53]

I型[53](吹雪型[54]
大正12年度と大正15年度の計画で建造された9隻を指す[53]。昭和2年度計画の1番艦浦波を含める場合もある[53]。この10隻のみ12.7cm連装砲はA型を採用している[53]

改I型[53](浦波[53]
10番艦(昭和2年度計画の1番艦)の浦波は缶室吸気口形状などが後述のII型と同じであるが、艦橋構造物はI型と同じ、主砲はA型砲を搭載しており、I型とII型の折衷的な形態となっている。そのため「改I型」、もしくは 「IIA型」(II型の船体にA型砲を搭載していることから)[要出典]と呼ばれる[53]。当初はII型として完成する予定だったが折しもジュネーブ海軍軍縮会議が開かれておりその交渉の経過から急遽竣工を早めることとなった[53]。そのため新型砲(B型砲)が間に合わなくなり今までのA型砲を搭載して竣工した[53]

II型[53](綾波型[54]
昭和2年度に計画された15隻のうち、綾波以降潮までの10隻を指す[53]。艦橋構造物がI型より大型化し、缶室吸気口はI型(改I型を除く)のキセル型から荒天時海水の吸入を防ぐためにお碗型に変更された[53]。なお、このお椀型形状は以後日本海軍駆逐艦の標準となった[53]。また、I型に搭載されたA型砲が仰角40度なのに対し、75度にまで引き上げたB型砲を主砲に持つ[55]
朧、曙、漣、潮の4艦は他の綾波型の前期型6艦より煙突の高さが低く、その形状も若干変化していて「後期型」とする場合もある[56]。艦名は1文字の名が当てられた(後述のIII型も同様)[56]

III型[53](暁型[54]
吹雪型駆逐艦は当初から重量が計画より200トンほど超過しており、うち機関関係だけで100トン近くの超過があった[57]。これは当時の艦本第5部長(造機部長)が懲罰を受けるほどの大きな問題であった[57]。そこで缶(ボイラー)に空気余熱器を採用して効率を上ることにして、4基だった缶を3基に減らすことを画作した[57]。空気余熱器はII型の漣に搭載してテストされ、その結果が良好だったため、昭和2年度計画の最後の4隻は急遽缶を3基に変更した[57]。これにより細くなった一番煙突が、外見上の顕著な特徴である[52]。その他艦橋構造はII型より更に大型化し[56]、魚雷発射管に防盾を標準装備したのもこの型が最初である[58]友鶴事件第四艦隊事件による性能改善工事により、艦橋の小型化、魚雷発射管位置の変更等、事件の前後で最も艦容が変わった特型駆逐艦である[59]

詳しいことは、「吹雪型駆逐艦ウィキペディア」をご覧ください。 ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%B9%E9%9B%AA%E5%9E%8B%E9%A7%86%E9%80%90%E8%89%A6
(wikiより)

74   吹雪

吹雪

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深雪(みゆき)は大日本帝国海軍駆逐艦[1][2]

概要

一等駆逐艦「深雪」は吹雪型駆逐艦の4番艦[3][4]。 吹雪級の1隻[5]。 当初の艦名は第38号駆逐艦[1][6]浦賀船渠1927年(昭和2年)4月30日に起工、1928年(昭和3年)6月26日に進水、1929年(昭和4年)6月29日に竣工[7][8]。竣工と共に第11駆逐隊に編入され、同駆逐隊は雪級4隻(吹雪、白雪、初雪、深雪)を揃えた[9][10]


1934年(昭和9年)6月29日、第11駆逐隊(深雪、白雪、初雪)は第二水雷戦隊に所属して済州島沖合で行われた連合艦隊の演習に参加、本艦は吹雪型駆逐艦24番艦「」(第6駆逐隊)と衝突、艦首部(艦橋より前部)を喪失した[2][11]。「深雪」の艦体後部は軽巡「那珂」(第二水雷戦隊旗艦)に曳航されて佐世保港へ帰投中、浸水により沈没した[12][13]。浮いていた深雪前部も、間もなく沈没した[13][14]

艦歴
建造経緯

1927年(昭和2年)4月26日、日本海軍は建造予定の駆逐艦4隻を、それぞれ第三十六号駆逐艦(横浜船渠。後の白雪)、第三十八号駆逐艦(後の深雪)、第三十九号駆逐艦(藤永田造船所。後の叢雲)、第四十四号駆逐艦(佐世保海軍工廠。後の浦波)と命名する[15][16][17]。 第三十八号駆逐艦は、同年4月30日浦賀船渠で起工[18][19][7]1928年(昭和3年)6月26日午前11時30分、第三十八号駆逐艦は無事進水[20][21]。 8月1日附で第三十八号駆逐艦は深雪と改称[1][18]。 12月10日、日本海軍は加藤仁太郎中佐(当時、駆逐艦如月艦長)を、深雪艤装員長に任命する[22]


1929年(昭和4年)2月12日午後、東京湾で試運転中に伊号第二十四潜水艦と衝突、スクリューに損傷を受けて4月30日の竣工予定を延期した[23][24]6月29日に竣工[7][25]呉鎮守府[8]。同日附で深雪艤装員事務所は撤去された[26]。加藤艤装員長も、正式に深雪駆逐艦長(初代)となった[27]

竣工後

深雪竣工後、吹雪型駆逐艦4隻(吹雪、白雪、初雪、深雪)は呉鎮守府所属の第11駆逐隊を編成(昭和3年12月18日附編成、駆逐隊司令千谷定衛大佐[28]。)[9]第二艦隊第二水雷戦隊に所属した[29][30]


第11駆逐隊編入から間もない1929年(昭和4年)8月2日午後9時、山口県油谷湾で第12駆逐隊の射撃訓練に協力中の「深雪」(曳的艦)は、流れ弾2発が命中して小破[31]。負傷者4名[32]。舞鶴要港部工作部で修理を実施した。 11月1日、第11駆逐隊司令駆逐艦が「初雪」から「深雪」に変更された[33]。 11月30日、千谷大佐(第11駆逐隊司令)は標的艦「摂津」特務艦長へ転任[34]森田重房大佐(当時、軽巡夕張艦長)が後任の第11駆逐隊司令となる[34]


1930年(昭和5年)11月20日、加藤(深雪駆逐艦長)は第28駆逐隊司令に補職され、安富芳介中佐(当時、駆逐艦浜風艦長)が後任の深雪駆逐艦長となる[35]。 12月1日、第11駆逐隊司令は森田大佐から、南雲忠一大佐(当時、軽巡那珂艦長)に交代する[36]


1931年
(昭和6年)10月10日、南雲大佐(第11駆逐隊司令)は軍令部参謀へ転任、後任の第11駆逐隊司令は小沢治三郎大佐となる[37][38]。同月、深雪は呉工廠で缶用乙型1号噴燃器の換装等の工事に着手[8]。12月1日、第二予備艦となった[8]。 同日附で安富(深雪艦長)は姉妹艦朝霧駆逐艦長に任命される[39]。同時に姉妹艦初雪艦長河原金之輔中佐も、綾波駆逐艦長へ転任[39]。海軍は、直塚八郎中佐(当時、特務艦室戸運用長)に、深雪・初雪駆逐艦長兼務を命じた[39]。 また小沢大佐(第11駆逐隊司令)は海軍大学校教官を命じられて退任[38]、後任の第11駆逐隊司令は第28駆逐隊司令加藤仁太郎大佐(深雪の初代駆逐艦長)となる[40]。 さらに艦隊の再編により吹雪型3隻(東雲吹雪磯波)で第20駆逐隊が編成され[41][42][43]、第11駆逐隊は3隻となった[44][45]


1932年(昭和7年)1月11日、直塚中佐(深雪艦長兼初雪艦長)は大湊防備隊副長へ転任[46]天津風型駆逐艦2隻(天津風、浜風)艦長を兼務していた金桝義夫中佐が、新たな深雪・初雪駆逐艦長となる[46]。 5月16日附で金桝(深雪・初雪)艦長は吹雪型姉妹艦天霧駆逐艦長[47]に補職される。姉妹艦白雪駆逐艦長中原達平中佐が、吹雪型3隻(深雪、初雪、白雪)艦長を兼務することになった[47]。 7月1日、山口次平中佐が初雪駆逐艦長に補職される[48]。これにともない、中原中佐の艦長兼務は2隻(深雪、白雪)となった[48]。 7月8日、工事を完了[8]


12月1日、第二水雷戦隊に復帰[8]。 同日附で、中原(深雪、白雪)艦長は姉妹艦敷波艦長へ転任[49]大森正直中佐(当時、姉妹艦吹雪艦長)が、深雪駆逐艦長に補職される[49]金桝義夫中佐(天霧艦長)は白雪駆逐艦長に補職された[49]。また第11駆逐隊司令も、加藤仁太郎大佐(深雪初代艦長)から後藤英次大佐に交代する[49]

1933年(昭和8年)11月15日、第11駆逐隊司令後藤英次大佐は川内型軽巡洋艦2番艦「那珂」艦長に補職[50]。後任の11駆司令は、第20駆逐隊司令と姉妹艦磯波駆逐艦長を兼務していた横山茂大佐となる[50]

沈没

1934年(昭和9年)4月7日から6月15日まで、「深雪」は呉海軍工廠で入渠整備を実施[8]。 6月下旬、連合艦隊済州島南方沖で演習を実施[51][52]。 6月28日、第二艦隊司令長官高橋三吉中将(旗艦「鳥海」)[53]指揮下の、第二水雷戦隊(司令官阿武清少将:旗艦《那珂》、第6駆逐隊《》、第10駆逐隊《狭霧》、第11駆逐隊《深雪白雪初雪》、第12駆逐隊《白雲叢雲薄雲》)、第四戦隊第1小隊(鳥海《第二艦隊旗艦》、摩耶)、第六戦隊(青葉古鷹衣笠)、第二潜水戦隊《軽巡由良、潜水母艦迅鯨、潜水艦部隊)[54]、第一戦隊(扶桑日向[55]、および龍驤航空部隊は乙軍を編成[56][57]


これに対し、連合艦隊司令長官末次信正中将(旗艦「金剛」)[51]指揮下の金剛型戦艦2隻(金剛霧島)、第四戦隊第2小隊(高雄愛宕)、第七戦隊(長良五十鈴名取)、第一水雷戦隊(旗艦「川内[58]、第30駆逐隊《睦月卯月弥生如月》、第5駆逐隊《松風春風旗風朝風》、第23駆逐隊《菊月夕月望月三日月》、第29駆逐隊《疾風追風朝凪夕凪》)、第一航空戦隊(空母《赤城》、第2駆逐隊《澤風沖風》)、第一潜水戦隊、補給部隊(鳴戸間宮)等[59][60][61]甲軍を編成[57][62]。 甲軍(第一艦隊基幹)、乙軍(第二艦隊基幹)はそれぞれ佐世保を出撃した。


6月29日
午後1時、第四回連合艦隊基本演習(第一水雷戦隊、第二水雷戦隊の昼間襲撃)がはじまる[63][52]。午後5時頃より本格的な交戦がはじまるが、狭隘海面に多数の艦艇がひしめき、さらに天候と煙幕のため視界は極めて悪かった(約10-12km)[63][52]。鳥海座乗の第二艦隊参謀大西新蔵中佐(当時)は、演習条件(視界狭少、大部隊の襲撃)に多少無理があったが「これ位の無理はこの時に限ったことではなかった」と回想している[52]


午後6時頃、乙軍の第11駆逐隊(1番艦深雪、2番艦初雪、3番艦白雪)は甲軍(仮想敵)の第四戦隊第2小隊(高雄愛宕)に対し雷撃を敢行し、続いて煙幕(軽巡洋艦由良展開[64]、もしくは甲軍飛行機隊展開[52])を転舵で避け、たまたま発見した「衣笠」(乙軍)に続航しようとしていた[65]。 直後、煙幕の中から乙軍の第6駆逐隊(1番艦、2番艦、3番艦)が出現、回避できず「電」(第6駆逐隊司令駆逐艦)が「深雪」(第11駆逐隊司令駆逐艦)の左舷に衝突する[66][67][52]。 「深雪」の船体は艦橋直下の46番ビーム付近で断裂[68]。 後部船体に「那珂」が横付し、那珂・愛宕乗組員の応援を得て排水を試みたものの浸水が止まらず、第二水雷戦隊司令官阿部清少将(那珂座乗)は深雪乗組員の退去を命じた[69]。 深雪乗組員は「那珂」に移動[70][69]。軽傷者は戦艦「金剛」(連合艦隊旗艦)に収容された[71]。深雪乗組員総員退去完了後、「那珂」は「深雪」への横付を離す[69]。 午後9時53分[72]北緯32度51分 東経127度11分 / 北緯32.850度 東経127.183度 / 32.850; 127.183[73]もしくは北緯32度57分 東経127度14分 / 北緯32.950度 東経127.233度 / 32.950; 127.233地点で沈没した[8][69]。 深雪艦首部分は駆逐艦2隻(初雪、叢雲)で曳航を試みたが濃霧の中で見失い、翌日の捜索でも発見できず、沈没したものと推定された[14][74]。また「鳥海」(第二艦隊旗艦)も現場に残留し、翌朝には水上偵察機を投入して捜索に従事したが、深雪艦首を発見することは出来なかった[52]


深雪水兵2名と機関兵1名の3名が死亡、水兵2名が行方不明、電乗組員1名が行方不明となった[75]

戦艦「扶桑」分隊長として衝突を目撃した高松宮宣仁親王(海軍大尉、昭和天皇弟宮)は『もっと早く「日向」位が横抱きすればよかった』と評している[13]。 このあと艦首を喪失した「電」は姉妹艦「白雲」(第12駆逐隊)に曳航され[76]、6月30日朝以降は「那珂」に曳航され[77][52]、「響」や曳船の応援を得て7月1日午後3時、佐世保に帰投した[78][79]


7月3日
、第11駆逐隊司令駆逐艦は「深雪」から「初雪」に、第6駆逐隊司令駆逐艦は「電」から「響」に変更[80]。同日附で深雪残務整理事務所を設置する[81]7月5日附で第11駆逐隊より除かれ、同隊は吹雪型2隻(白雪、初雪)となる[82][83]。大森中佐(深雪駆逐艦長)、蘆田部一大尉(深雪航海長)、黒瀬淳大尉(深雪水雷長)、板垣金信大尉(深雪砲術長)、國末辰志機関大尉(深雪機関長)等も、それぞれの職務を解かれた[84]7月22日、事務所撤去[85]。 同年8月15日に除籍された[86][87]


「深雪」は吹雪型(特型)駆逐艦以降の日本海軍在籍駆逐艦の中で第二次世界大戦に参戦していない唯一の駆逐艦であり、また、特型駆逐艦として最初の喪失艦である[11]美保関事件に続く本艦沈没は艦隊乗組員に衝撃を与えたが、訓練は一層激しくなったという[52]。 なお、艦艇研究家の福井静夫は、「深雪」亡失の原因を、衝突後の応急処置失敗にあると評している[12]。「電」との衝突により深雪艦首切断後、深雪中央部以降では第一罐室こそ満水になったが、第二罐室は健在だった[12]。だが深雪乗組員が自艦の構造を把握しておらず、罐室の隔壁を補強せず別の部位を補強したため、浸水が進んで沈没に至ったとしている[12]。また応急の不徹底は当時の海軍でも重く受け止められ、これ以降日本海軍では応急教育の徹底化がなされたという[12]


大藤正直中佐(本艦沈没時の艦長)[84]太平洋戦争において給糧艦「間宮」特務艦長[88][89]や標的艦「摂津」特務艦長[90][91]等を歴任した。 また深雪沈没の要因となった「電」駆逐艦長平塚四郎中佐(深雪沈没当時)は、軽巡「球磨」艦長、空母3隻(雲鷹葛城天城[91])艦長等を歴任して終戦を迎えた。

歴代艦長
※『艦長たちの軍艦史』267頁による。

艤装員長
1. 加藤仁太郎 中佐:1928年12月10日[22] - 1929年6月29日[27]

艦長
1. 加藤仁太郎 中佐:1929年6月29日[27] - 1930年11月20日[35]

2. 安富芳介 中佐:1930年11月20日[35] - 1931年12月1日[39]

3. 直塚八郎 中佐:1931年12月1日[39] - 1932年1月11日[46]第二予備艦、初雪艦長兼務

4. 金桝義夫 少佐:1932年1月11日[46] - 1932年5月16日[47] ※第二予備艦、初雪艦長兼務

5. (兼)中原達平 中佐:1932年5月16日[47] - 1932年12月1日[49] ※第二予備艦、初雪・白雪艦長兼務

6. 大藤正直 中佐:1932年12月1日[49] - 1934年7月5日[84]

参考文献
大西新蔵『海軍生活放談 日記と共に六十五年原書房、1979年6月。NCID BN09436350 大西は昭和8年11月15日から第二艦隊首席参謀。深雪沈没を鳥海艦橋で目撃。

・小沢提督伝刊行会編『回想の提督 小沢治三郎』原書房、1971年3月。

・重本俊一ほか『陽炎型駆逐艦 水雷戦隊の中核となった精鋭たちの実力と奮戦』潮書房光人社、2014年10月。ISBN 978-4-7698-1577-8

  ・戦史研究家伊達久『日本海軍駆逐艦戦歴一覧 太平洋戦争時、全一七八隻の航跡と最後

高松宮宣仁親王著、嶋中鵬二発行人『高松宮日記 第二巻 昭和八年一月一日~昭和十二年九月二十六日』中央公論社、1995年6月。ISBN 4-12-403392-3

・外山操『艦長たちの軍艦史』光人社、2005年。ISBN 4-7698-1246-9 
福井静夫福井静夫著作集 軍艦七十五年回想記 日本駆逐艦物語』第5巻、阿部安雄・戸高一成/編集委員、光人社、1993年1月。ISBN 4-7698-0611-6

・『写真 日本の軍艦 軽巡II 川内型・阿賀野型・大淀・香取型 砲艦』第9巻、雑誌『』編集部/編、光人社、1990年4月。ISBN 4-7698-0459-8

・『写真 日本の軍艦 駆逐艦 I 睦月型・神風型・峯風型』第10巻、雑誌『』編集部/編、光人社、1990年5月。ISBN 4-7698-0460-1

・歴史群像編集部編『水雷戦隊I 特型駆逐艦 米英を震撼させたスーパー・デストロイヤーの全貌』学習研究社〈歴史群像太平洋戦史シリーズ Vol.18〉、1998年5月。ISBN 4-05-601768-9

・Howarth, Stephen (1983). The Fighting Ships of the Rising Sun: The Drama of the Imperial Japanese Navy, 1895–1945. Atheneum. ISBN 0-689-11402-8 

・Jentsura, Hansgeorg (1976). Warships of the Imperial Japanese Navy, 1869–1945. US Naval Institute Press. ISBN 0-87021-893-X 

・Nelson, Andrew N. (1967). Japanese–English Character Dictionary. Tuttle. ISBN 0-8048-0408-7 

・Whitley, M J (2000-4) [1988]. Destroyers of World War Two: An International Encyclopedia. London: Arms and Armour Press. ISBN 1-85409-521-8 

・M.J.ホイットレー『第二次大戦駆逐艦総覧 (Destroyers of World War Two: An International Encyclopedia)』岩重多四郎訳、大日本絵画、東京、2000年2月(原著1988年)。ISBN 4-499-22710-0


国立国会図書館デジタルライブラリー - 国立国会図書館

  ・海軍研究社編輯部 編『ポケット海軍年鑑 : 日英米仏伊独軍艦集. 1935年版』海軍研究社、1935年5月。

  ・海軍研究社編輯部 編『ポケット海軍年鑑 : 日英米仏伊独軍艦集. 1937,1940年版』海軍研究社、1937年2月。

  ・海軍大臣官房『海軍制度沿革. 巻4(1939年印刷)』海軍大臣官房、1939年。

  ・海軍大臣官房『海軍制度沿革. 巻8(1940年印刷)』海軍大臣官房、1940年。

  ・海軍大臣官房『海軍制度沿革. 巻11(1940年印刷)』海軍大臣官房、1940年。


アジア歴史資料センター(公式)

  ・『昭和11年12月1日現在10版内令提要追録第1号原稿/ 巻1追録/第6類機密保護』。Ref.C13071968200。

  ・『昭和2年達完/4月』。Ref.C12070088000。

  ・『昭和3年達完/6月』。Ref.C12070089800。

  ・『第38号駆逐艦工事予定概括表の件』。Ref.C04016680000。

  ・『伊号第24潜水艦觸衝報告』。Ref.C04016970400。

  ・『予備推進器貸与の件』。Ref.C04021822700。

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  ・『駆逐艦深雪伊号第24潜水艦触衝に付査問会の件(1)』。Ref.C04016980200。

  ・『駆逐艦深雪伊号第24潜水艦触衝に付査問会の件(2)』。Ref.C04016980300。

  ・『駆逐艦深雪伊号第24潜水艦触衝に付査問会の件(3)』。Ref.C04016980400。

  ・『駆逐艦深雪工事予定概括表の件』。Ref.C04016680400。

  ・『深雪損傷に関する報告写送付の件(1)』。Ref.C04016971800。

  ・『深雪損傷に関する報告写送付の件(2)』。Ref.C04016971900。

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  ・『第1508号 7.4.22第11、第12駆逐隊各艦主錨鎖増設の件』。Ref.C05022097400。

  ・『第2953号 7.8.10重油専焼缶煙幕噴油器改造の件』。Ref.C05022082100。

  ・『第4764号 7.12.20呉軍需機密兵第3号の865号第11駆逐隊に兵器貸与の件』。Ref.C05022232300。

  ・『第3852号 8.7.21白雲、東雲、初雪、深雪野菜箱増設の件』。Ref.C05022852100。

  ・『第1035号 昭和9.3.9兵器貸与の件 第11駆逐隊』。Ref.C05023731200。

  ・『第2396号 9.8.15駆逐艦初雪、白雪酒保資金補填の件』。Ref.C05023855100。

  ・『第3457号 9.8.3保管金忘失の件』。Ref.C05023851000。

  ・『第4446号 9.10.12臨時被服手当支給の件(1)』。Ref.C05023846500。

  ・『第4446号 9.10.12臨時被服手当支給の件(2)』。Ref.C05023846600。

  ・『第4630号 9.8.15駆逐艦深雪嗜好食料補償の件』。Ref.C05023855100。

  ・『第4631号 9.8.15駆逐艦深雪士官室食卓債務補償の件』。Ref.C05023855900。

  ・『駆逐艦電嗜好糧食品忘失額補償の件 駆逐艦深雪酒保物品補償の件』。Ref.C05023855400。

  ・『事件 災害事故 衝突 深雪、電、衝突関係(1)』。Ref.C05023975100。

  ・『事件 災害事故 衝突 深雪、電、衝突関係(2)』。Ref.C05023975100。

  ・『事件 災害事故 衝突 深雪、電、衝突関係(3)』。Ref.C05023975200。

  ・『事件 災害事故 衝突 深雪、電、衝突関係(4)』。Ref.C05023975300。

  ・『事件 災害事故 衝突 深雪、電、衝突関係(5)』。Ref.C05023975400。

  ・『事件 災害事故 衝突 深雪、電、衝突関係(6)』。Ref.C05023975500。

  ・『事件 災害事故 衝突 深雪、電、衝突関係(7)』。Ref.C05023975600。

詳しいことは、「深雪 (駆逐艦)ウィキペディア」をご覧ください。 ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B7%B1%E9%9B%AA_(%E9%A7%86%E9%80%90%E8%89%A6)
(wikiより)

72 駆逐艦深雪

深雪

72a

72b



高砂(たかさご)は、日本海軍二等巡洋艦防護巡洋艦[1][2]。 艦名は加古郡加古川河口の高砂浦に由来する[3]日露戦争中の1904年(明治37年)12月13日旅順港閉塞作戦に従事中(旅順攻囲戦)、ロシア海軍の機雷により沈没した[4]

概要

日清戦争前の1893年に竣工した1番艦「吉野」より遅れること、日清戦争後の1896年に起工した。


一般には吉野と同型艦とされるが[5]、吉野型と独立して分類されることもある。吉野とは兵装、装甲などに違いがある。これは元々本艦が、1896年4月(もしくは5月29日)にアームストロング社エルジック造船所で起工された建造中の防護巡洋艦を、日本海軍が購入したものだからである。よって厳密には高砂は吉野の同型艦や準同型艦ではない。実際にはチリチャカブコ級防護巡洋艦の同型艦である。設計者は吉野と同じく、サー・フィリップ・ワッツである。

艦歴

1896年(明治29年)5月29日[3]イギリスニューカッスルアームストロング社エルジック造船所で起工[6]。1897年(明治30年)3月26日、日本海軍はイギリスとアメリカで建造の軍艦4隻を命名[1]。第三号二等巡洋艦は「高砂」と命名された[1][7]5月17日、「高砂」は進水[3]。 1898年(明治31年)3月21日、日本海軍は海軍軍艦及び水雷艇類別標準を制定し、3,500トン以上7,000トン未満の巡洋艦を「二等巡洋艦」と定義[8]。 該当する9隻(浪速高千穂厳島松島橋立吉野高砂笠置千歳)が二等巡洋艦に類別された[9][2]。 「高砂」は5月17日に竣工[6]。呉鎮守府籍[10]。同年5月25日、サウスシールズを出港し[11][3]。日本に回航され、8月14日横須賀港に到着した[3]。回航員には、石橋甫(当時、高砂航海長。後日、高砂沈没時艦長)も含まれていた[12]


1899年
(明治32年)10月19日より約一ヶ月間、明治天皇皇太子(嘉仁親王/大正天皇)は沼津御用邸を出発し、広島・兵庫両県下を行啓する[13]。海路での移動時には、装甲巡洋艦「浅間」を御召艦とし、供奉艦として巡洋艦3隻(常磐、高砂、明石)が同行した[13]。10月23日、皇太子は一時「高砂」に乗艦し、本艦を御召艦とした[14]

北清事変では1900年から翌年にかけて芝罘山海関大沽方面に出動した。


1902年
(明治35年)6月16日から同月18日にかけて行われた、エドワード7世戴冠記念観艦式に参列のため、小松宮彰仁親王明治天皇名代)および伊集院五郎少将指揮下の巡洋艦2隻(高砂、浅間)は[15][16]イギリスを訪問後、ヨーロッパ各国を歴訪した[3]


1903年(明治36年)10月、皇太子(嘉仁親王/大正天皇)は和歌山県および瀬戸内海を巡啓することになり、「高砂」は皇太子の御召艦となった[17][18]。 10月9日、皇太子は和歌浦で「高砂」に乗艦し、紀伊海峡を周遊する[19][20]由良要塞を巡視した[20]


翌日[21]、皇太子(高砂乗艦)は高松市に移動する[22][23]。 10月10日から13日まで香川県滞在後(金刀比羅宮参拝等)[19][24]、再び「高砂」に乗艦して松山市愛媛県)に移動[25]、同地に14日から16日まで滞在する[26][27]。 10月17日、皇太子は「高砂」に乗艦して四国を出発し[28]糸崎広島県)で下艦した[22][19][29]


日露戦争
における本艦は、第三戦隊(司令官出羽重遠少将:千歳、高砂、笠置、吉野)に所属しており[30]旅順要塞攻略作戦、黄海海戦に参加[3][31]1904年(明治37年)2月9日、旅順沖でロシア汽船マンチュリア(Manchuria)(後の工作艦関東」)を鹵獲した[32]


5月15日
未明、日本海軍は巡洋艦「吉野」を味方艦「春日」との衝突により喪失した[33][34]。 同日昼間にはロシア海軍が敷設した機雷により戦艦2隻(初瀬、八島)を一挙に喪失した[35][36][34]。 「高砂」は僚艦(笠置龍田須磨等)等と共に、触雷した戦艦「八島」(艦長坂本一大佐)の救援に従事した[37][38][39]


同年12月12日深夜、「高砂」(高砂艦長石橋甫大佐)は僚艦「音羽」(音羽艦長有馬良橘大佐)と共に旅順港閉塞作戦に従事中、旅順港外で機雷に触雷した[40][41]。被雷から約1時間15分後の12月13日未明、転覆して沈没した[42][12]。沈没の前後、僚艦2隻(八雲、音羽)が救援のため来着する[42][43]。高砂乗組員436名中、艦長以下生存者153名が「音羽」に救助され、副長以下283名が死亡した(行方不明者を含む)[42][44]


1905年
(明治38年)6月1日、日本海軍は本艦以下6隻(八島大島速鳥愛宕、高砂)の喪失を公表する[41]。 同年6月15日、日露戦争で沈没した高砂以下八島初瀬吉野等は軍艦籍[10]および艦艇類別等級表(軍艦及び水雷艇類別等級表)より除籍された[45][46]

艦長
※『日本海軍史』第9巻・第10巻の「将官履歴」及び『官報』に基づく。

回航委員長
内田正敏 大佐:1897年6月10日 - 12月10日

艦長
・内田正敏 大佐:1897年12月10日 - 1898年11月2日

・早崎源吾 大佐:1898年11月2日 - 1899年6月17日

・丹治寛雄 大佐:1899年6月17日 - 11月20日

・中山長明 大佐:1899年11月20日 - 1900年5月20日

滝川具和 大佐:1900年5月20日 - 9月25日

成川揆 大佐:1900年9月25日 - 12月6日

梨羽時起 大佐:1900年12月6日 - 1901年1月23日

・岩崎達人 大佐:1901年1月23日 - 9月10日

吉松茂太郎 大佐:1901年9月10日 - 1903年4月21日

・(心得)石橋甫 中佐:1903年7月7日 - 1904年1月17日

・石橋甫 大佐:1904年1月17日 - 12月23日

同型艦
吉野 (防護巡洋艦)


参考文献
・海軍歴史保存会『日本海軍史』第7巻、第9巻、第10巻、第一法規出版、1995年。

宮内庁図書寮編『大正天皇実録 補訂版 第一 自明治十二年至明治三十三年』株式会社ゆまに書房、2016年12月。ISBN 978-4-8433-5039-3

宮内庁図書寮編『大正天皇実録 補訂版 第二 自明治三十四年至明治四十年』株式会社ゆまに書房、2017年11月。ISBN 978-4-8433-5040-9

呉市海事歴史科学館編『日本海軍艦艇写真集・巡洋艦』ダイヤモンド社、2005年。

原武史『大正天皇 朝日選書663』朝日新聞社、2000年11月。ISBN 4-02-259763-1

正木生虎『正木義太傳および補遺 一海軍士官の記憶』文藝春秋、2009年11月。ISBN 978-4-16-371670-1
正木義太(当時海軍大尉)は明治36年12月28日、高砂分隊長。明治37年1月13日、高砂砲術長。第二回旅順口閉塞作戦で負傷。4月7日、佐世保鎮守府附。

・「巡洋艦の発達」『写真 日本の軍艦 重巡 I 妙高・足柄・那智・羽黒 巡洋艦の発達』第5巻、雑誌『』編集部/編、光人社、1989年11月、235-252頁。ISBN 4-7698-0455-5

・『官報

国立国会図書館デジタルコレクション - 国立国会図書館

  ・海軍有終会編『幕末以降帝国軍艦写真と史実』海軍有終会、1935年11月。

  ・海軍大臣官房『海軍制度沿革. 巻4(1939年印刷)』海軍大臣官房、1939年。

  ・海軍大臣官房『海軍制度沿革. 巻8(1940年印刷)』海軍大臣官房、1940年。

  ・海軍大臣官房『海軍制度沿革. 巻11(1940年印刷)』海軍大臣官房、1940年。

  ・川井裕『軍艦「足柄」の英国観艦式派遣及びドイツ訪問について』防衛省/戦史研究年報.(12)(国立国会図書館)

  ・藤田定市編『戦袍余薫懐旧録.第2輯』財団有終會、1926年12月。

アジア歴史資料センター(公式)(防衛省防衛研究所)

  ・『明治30年 達 完/3月(4)』。Ref.C12070038100。

  ・『明治31年 達 完/3月(1)』。Ref.C12070040500。

  ・『明治38年 達 完/6月』。Ref.C12070053000。

  ・『日露役旅順附近海戦一覧表(明治37年)』。Ref.C14120009300。

  ・『日露役(旅順附近黄海海戦)に於ける沈没艦船並戦死者一覧表(昭和10年6月7日旅順要港部港務部調製)』。Ref.C14120009400。

  ・『日露役旅順陥落迄の両国艦船勢力並亡失表(明治37年)』。Ref.C14120009500。

詳しいことは、「高砂 (防護巡洋艦)ウィキペディア」をご覧ください。 ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E7%A0%82_(%E9%98%B2%E8%AD%B7%E5%B7%A1%E6%B4%8B%E8%89%A6)
(wikiより)

73 軍艦高砂

高砂

73a



陽炎(かげろう/かげろふ)は、日本海軍陽炎型駆逐艦1番艦である[3]1939年(昭和14年)11月に竣工した。日本海軍の艦船名としては1899年(明治32年)竣工の東雲型駆逐艦陽炎に続いて2隻目。1943年(昭和18年)5月、ソロモン諸島ブラケット海峡で触雷し沈没した。


ネームシップであるにもかかわらず、現存する写真が非常に少ないとされる[4]

艦歴
建造~第18駆逐隊時代

1934年(昭和9年)12月に日本がワシントン海軍軍縮条約の破棄を通告し2年後の失効が決まると、海軍は太平洋広域での活動を想定した大型駆逐艦の整備に着手した。1937年(昭和12年)からの第三次軍備補充計画(マル3計画)で、新型駆逐艦18隻の建造が承認された(同計画での建造は15隻)。陽炎は同型艦で3番目となる1937年(昭和12年)9月3日に舞鶴海軍工廠で起工[2]し、1938年(昭和13年)4月15日に命名され[5]、同日附で艦艇類別等級表に陽炎型駆逐艦が新設された[6]


9月27日に進水[2][7]1939年(昭和16年)8月10日、艤装員長山本岩多中佐が正式に初代駆逐艦長となった[8]。11月6日に同型艦で最も早く竣工した[2]。兵装は朝潮型駆逐艦と同程度ながら、18ノットで航続距離5000カイリの優秀な遠征能力を備えた。


陽炎は朝潮型駆逐艦2隻の第18駆逐隊()に編入し、11月15日に同駆逐隊が第二艦隊第二水雷戦隊に編入した。12月20日、2番艦不知火が竣工し、第18駆逐隊は4隻体制となった[9]。1940年(昭和15年)10月11日、横浜港沖で行われた紀元二千六百年特別観艦式に18駆の僚艦と共に参加[10]。18駆は第三列(金剛、榛名、熊野、鈴谷、最上、利根、筑摩、《陽炎》、大潮、朝潮、荒潮、満潮、《霰、霞、不知火》、黒潮、雪風、初風)に配置された。


太平洋戦争の開戦が迫った1941年(昭和16年)、航続距離が長い陽炎型2隻を揃えた第18駆逐隊は、真珠湾攻撃に備えて第二水雷戦隊の指揮を離れて第一航空艦隊の警戒隊(第一水雷戦隊司令官大森仙太郎少将)に編入された[11]。警戒隊には他に第一水雷戦隊旗艦の軽巡阿武隈、第17駆逐隊(谷風浦風浜風磯風)、駆逐艦秋雲第五航空戦隊所属[12])が加わっていた。1941年(昭和16年)11月26日、機動部隊(赤城加賀蒼龍飛龍翔鶴瑞鶴)の護衛として単冠湾を出発し、真珠湾攻撃に参加した。帰投後、開戦時の艦長だった横井稔中佐が脳溢血で倒れ[13]、12月22日附で有本輝美智中佐に交代した[14]


1942年
(昭和17年)1月5日に呉を出港し、第一航空艦隊に随行してラバウル攻撃に従事した。1月29日、浜風と共に翔鶴を護衛して横須賀に向かい、2月3日に到着した[15][16]。2月には第二航空戦隊(蒼龍、飛龍)のポート・ダーウィン攻撃を護衛し、ジャワ南方機動作戦、4月のセイロン沖海戦にも参加した。4月23日、呉に入港し入渠整備を行った[17]


5月1日、第18駆逐隊は第二水雷戦隊の麾下に復帰した[18]。5月下旬、第二水雷戦隊はミッドウェー攻略作戦に参加するためサイパンに進出し、6月のミッドウェー海戦では攻略隊の護衛として参加した[19][20][21]。空母4隻を失って上陸作戦は中止となり、第18駆逐隊は6月8日、重巡三隈が沈没した第七戦隊(栗田健男少将)の指揮下に入った[22]。大破した重巡最上を護衛し、同戦隊の重巡熊野、重巡鈴谷と共にをトラック泊地に寄港した。6月23日、第18駆逐隊は熊野と鈴谷を護衛して呉に帰投した[23]


第18駆逐隊は北方海域を担当する第五艦隊の指揮下に入った[24]。日本軍は、ミッドウェー作戦の陽動作戦として占領に成功したアッツ島キスカ島を維持する方針を決め、第18駆逐隊が呉に帰投した6月23日に輸送部隊(水上機母艦千代田あるぜんちな丸、鹿野丸、菊川丸、第18駆逐隊)を編制した[25]。第18駆逐隊は千代田を護衛して横須賀に寄港し、あるぜんちな丸と合流した。28日、陽炎を除く3隻が一足先に千代田、あるぜんちな丸を護衛して横須賀を出撃した。残る輸送船の出発が遅れたため陽炎は対潜作戦を行い、他の部隊と共に米潜水艦ノーチラスを攻撃して損傷を与えた[23]


7月5日、キスカ島に到着した不知火と霞、霰が米潜水艦グロウラーに攻撃され、霰が沈没、不知火と霞が大破した[26][27]。出港が遅れて難を逃れた陽炎は9日、輸送船菊川丸の護衛として横須賀を出発し[28]、19日にキスカ島へ到着した[29]。第18駆逐隊の健在艦が陽炎1隻となったため駆逐隊の編制が変更となり、陽炎は20日に南方に展開する第二水雷戦隊・第15駆逐隊(黒潮親潮早潮)に編入した[30]。キスカ島に投錨していた陽炎は28日、駆逐艦が曳航する霞を護衛し、同島を出発した[31][32]。8月3日、3隻(陽炎、雷、霞)は幌筵島片岡湾に到着した[33]。陽炎は霞と分かれて横須賀に向かい、8日に到着した[34]。同日附で第二水雷戦隊の指揮下に復帰した[35]

ガダルカナル島の戦い

1942年(昭和17年)8月7日、米軍はガダルカナル島ツラギ島に上陸し、ガダルカナル島の戦いが始まった。陽炎は、整備を終えた第二水雷戦隊旗艦の軽巡神通を護衛して15日にトラック泊地に入り、16日にソロモン海方面を担当する外南洋部隊(三川軍一第八艦隊司令長官)の指揮下に入った[36][37]。18日夜、陽炎は他の駆逐艦5隻(萩風谷風浦風浜風)と共に陸軍一木支隊をガダルカナル島に揚陸させた[38]。第17駆逐隊の浦風、谷風、浜風がラバウルに戻り、19日昼にB-17の空襲で萩風が大破し、嵐が護衛してトラック泊地に避退したため、同島付近に残る駆逐艦は陽炎1隻となった。陽炎は米軍機の空襲を受けたがツラギ方面の偵察と対地砲撃を実施した。第二水雷戦隊から交代の駆逐艦江風が派遣され、陽炎は21日にショートランド泊地へ向かった[39]

詳細は「第二次ソロモン海戦」を参照


8月22日、外南洋部隊は陽炎、夕凪、江風、睦月望月の駆逐艦5隻にガダルカナル島に対する米軍の補給・増援の阻止を、駆逐艦卯月には日本軍守備隊への補給を命じた[40]。陽炎は単艦で出撃し、23日深夜にガ島とツラギ島を砲撃するが、敵艦とは遭遇しなかった[41]


24日午後10時、陽炎、睦月、弥生、江風、磯風の駆逐艦5隻でガダルカナル島ヘンダーソン飛行場基地を10分間砲撃し、陽炎は潜水艦1隻の撃沈を報告した。5隻は北上し、25日午前5時40分に陸軍一木支隊第二梯団を輸送する第二水雷戦隊(田中頼三少将)の旗艦神通、海風涼風哨戒艇4隻、輸送船3隻(ぼすとん丸、大福丸、金龍丸)と合流した。直後、急降下爆撃機SBDドーントレスとB-17の空襲を受け、睦月と金龍丸が沈没、神通が大破した[42][43]。陽炎は涼風と共に神通を護衛して輸送船団から離脱したが、田中少将は陽炎を旗艦として再び船団に戻り、神通を涼風に護衛させてトラックに退避させた[43][44]。輸送作戦は失敗し、26日夕、陽炎は燃料不足の海風を護衛してショートランド泊地へ向かった。28日朝、旗艦は重巡衣笠に移った[45]


同日、ガダルカナル島に陸軍川口支隊の揚陸を目指していた天霧朝霧夕霧白雲の駆逐艦4隻が空襲を受け、朝霧が沈没した。陽炎は救援のため出動し、29日昼に無傷の天霧と航行不能になった白雲、小破した夕霧と合流した。30日朝、陽炎は3隻を護衛しショートランド泊地に戻った[46][47]。31日以降、第三水雷戦隊(橋本信太郎少将)を中心とする増援部隊に加わり、鼠輸送作戦に従事した。


9月2日深夜、陽炎、駆逐艦夕暮、敷設艦津軽哨戒艇1号2号による輸送作戦が行われ、駆逐艦3隻(吹雪白雪、天霧)が援護と飛行場砲撃を行った[48]。5日、駆逐艦5隻(吹雪、白雪、天霧、陽炎、夕暮)でガ島揚陸が実施された[49]。8日、ガ島に増援の米軍が上陸し、から米軍が川口支隊の背後に上陸したと報告が入った。第三水雷戦隊の旗艦軽巡川内と駆逐艦5隻(陽炎、吹雪、白雪、天霧、夕暮)が夜に到着したが、上陸船団は撤収しており、掃海艇1隻を座礁させたにとどまった[50][51]。13日にはヘンダーソン飛行場への日本陸軍総攻撃を支援するため出撃したが、攻撃が失敗し引き返した。


21日、大江覧治大佐の指揮で駆逐艦4隻(陽炎、浦波、白雪、浜風)が出撃、夜にガダルカナル島揚陸に成功するが、月明下で米軍機の夜間空襲を受けた。陽炎は機銃掃射をうけて艦首の水線上に穴が空き、浸水して揚錨機が使用不能になった[52][53][54]。この戦闘で、日本は月明下での鼠輸送を避けるようになった。22日、損傷した陽炎はいったん増援部隊から外されることになり、25日にトラック泊地に到着[53][55]。工作艦明石で修理した[56]


10月11日、前線に復帰した[57]。13日に計画された大規模な飛行場砲撃作戦では前進部隊に編入し、駆逐艦磯波と共に第二航空戦隊の空母隼鷹、空母飛鷹を護衛した[58]。10月26日の南太平洋海戦に参加し、米艦隊を追撃した陽炎と駆逐艦巻波が27日、空母エンタープライズホーネットの搭乗員各1名を捕虜にした[59][60]

第三次ソロモン海戦

11月3日、第二水雷戦隊(田中頼三少将)が再び増援部隊の中心となった[61]。6日、駆逐艦11隻(陽炎、親潮、早潮、海風、江風、涼風、巻波、高波長波夕雲風雲)がショートランド泊地を出撃しガダルカナル島に輸送し、作戦は成功した[62]

詳細は「第三次ソロモン海戦」を参照


11月、再びヘンダーソン飛行場への大規模な艦砲射撃と上陸作戦が計画され、第38師団佐野忠義中将)を乗せた輸送船11隻を、第二水雷戦隊が指揮する駆逐艦11隻(陽炎、早潮、親潮、海風、江風、涼風、高波、長波、巻波、天霧、望月)が護衛し、11月12日にショートランドを出撃した。しかし13日の第三次ソロモン海戦第一夜戦と昼間の空襲で戦艦比叡、重巡衣笠、駆逐艦夕立を失って砲撃が中止となり、船団はいったんショートランド泊地に戻った。14日に再出撃するがエンタープライズ艦載機やB-17重爆の攻撃で輸送船6隻が沈没、輸送船佐渡丸は天霧と望月の護衛で退避した。残る輸送船4隻(廣川丸、山浦丸、鬼怒川丸、山東丸)を護衛し揚陸を目指したが、15日に同海戦第二夜戦に遭遇した。田中少将は陽炎と親潮に突撃を命じ、戦艦霧島と交戦中の米戦艦ワシントンに遭遇した。親潮は魚雷1本を発射したが外れ(命中と誤認)、陽炎は夜戦の混乱で敵味方が識別できず攻撃できなかった。輸送船は15日午前2時頃、ガダルカナル島に座礁させ揚陸をめざしたが、昼間の空襲で全隻炎上し、輸送作戦は完全に失敗した[63]


・陽炎は15日の第二夜戦の混乱の中で金剛型戦艦らしい艦影に識別信号を送った。さらに距離1000mで米戦艦(サウスダコタと推量される)が反航しすれ違ったが、攻撃できなかった。当時の高田俊夫・陽炎水雷長は「魚雷を発射しなくても大砲や機銃を撃てば良かったのかもしれないが、日本海軍は事前にそういう訓練はしてないので、撃つという発想がなかった」と回想している[64]


連合軍は16日にパプアニューギニアブナに上陸した。17日夜、駆逐艦5隻(夕雲、風雲、巻雲、陽炎、親潮)で陸兵1000名のブナ輸送に成功した。別の輸送作戦で海風が空襲で航行不能となり、19日に親潮と陽炎がラバウルから救援に向かった[65][66]。24日、第15駆逐隊の僚艦早潮が空襲で沈没し、同隊は3隻(親潮、黒潮、陽炎)になった。外南洋部隊は東部ニューギニアとガダルカナル島の二正面作戦を強いられることになり、第二水雷戦隊はガ島へのドラム缶輸送計画に参加することになった[67]

詳細は「ルンガ沖夜戦」を参照


11月29日夜、田中少将が指揮する第二水雷戦隊の駆逐艦8隻(長波、高波、親潮、黒潮、陽炎、巻波、江風 、涼風)が、第一次のドラム缶輸送のためガダルカナル島ルンガ沖に到着した。日本の輸送作戦を察知したカールトン・ライト少将率いる米艦隊は重巡3隻、軽巡1隻、駆逐艦6隻で急襲し、ルンガ沖夜戦が勃発した。陽炎はこの時、輸送任務のため魚雷16本のうち予備魚雷8本を降ろしていた[68]。陽炎は攻撃命令を受けてドラム缶投下を中止、魚雷戦を準備した。しかし後続の巻波と行動中に僚艦を見失ったため、他艦より遅れて米艦隊を追撃し、巻波と共に魚雷を発射した。このうち2本が重巡ノーザンプトンに命中し、まもなく沈没した。日本は高波を失ったが、重巡ミネアポリス、 重巡ニューオーリンズ、重巡ペンサコラを大破させ、日本が海戦に勝利した。ただ輸送は失敗した[69][70]


第二次輸送は野分が加わった駆逐艦9隻で実施され、12月3-4日にドラム缶1500個を投下したが、陸軍が回収したドラム缶は310個にとどまった[71][72]。7-8日、第三次輸送が駆逐艦11隻(親潮、黒潮、陽炎、長波、江風、涼風、嵐、野分、浦風、谷風、有明)で実施された。空襲で野分が航行不能となり、長波、嵐、有明と共に撤退した。残る駆逐艦はガ島付近で魚雷艇と夜間空襲を受け、揚陸を断念した[71]。11-12日の第四次輸送は野分を照月に交代して実行されたが、揚陸中に魚雷艇の襲撃で照月が沈没し、投下したドラム缶1200個中220個しか回収されなかった[73]

16-17日には駆逐艦6隻(長波、巻波、親潮、黒潮、陽炎、谷風)でニュージョージア島ムンダに輸送を実施、揚陸中の夜間空襲で陽炎は重軽傷6名を出した。21日には駆逐艦4隻(浦風、谷風、巻波、陽炎)でムンダ輸送を実施した[74]1943年(昭和18年)1月2-3日、駆逐艦10隻(長波、江風、涼風、巻波、荒潮、親潮、黒潮、陽炎、磯波、電)でガ島への輸送し成功した。この頃、第二水雷戦隊の各艦が激戦で故障を抱えたため艦の交代が行われ、陽炎と親潮、涼風、長波はトラック泊地に戻った[75]


ガダルカナル島からの撤退が決まり、陽炎は2月上旬、敵艦隊の出現に備える本隊の支援隊として参加した(編制はケ号作戦参照)。2月8日までに撤退は成功し、トラック泊地の主力艦艇はいったん内地に帰投が決まった[76]。陽炎と黒潮は悪天候で航空隊の収容が遅れた隼鷹を護衛するため、主力艦艇に1日遅れて2月16日にトラックから内地に向かった。到着後、陽炎は入渠整備を行った[77][78]

沈没

3月22日、陽炎と駆逐艦涼月、駆逐艦初月、夕暮は、隼鷹、飛鷹、重巡利根、重巡筑摩を護衛して本土を出撃し、28日にトラック泊地に到着した[79][80]。4月24日、トラックで合流した第十五駆逐隊(親潮、黒潮、陽炎)は外南洋部隊に編入された[81]。4月26日、ラバウルに到着[82]。この頃ムンダやコロンバンガラ島の部隊が栄養不良などのために戦力が低下していたため部隊の補充交代が実施されることになり、この任務に第十五駆逐隊などが投入された[83]。4月29から5月8日までに6回のコロンバンガラ島輸送を実施することが計画され、第15駆逐隊(親潮、黒潮、陽炎)は奇数回の輸送を担当した[84]。第1回(4月29日)、第3回(5月3日)の輸送は成功したが、毎回ブラケット水道を通過する同じ航路をとったため、日本軍の補給部隊がブラケット水道を通っていることを知ったアメリカ軍は5月6日に敷設駆逐艦「ブリーズ」、「プレブル」、「ガンブル」によりブラケット水道に機雷[85]を敷設した[86]


5月7日17時(日本時間)、「親潮」、「黒潮」、「陽炎」はブインから5回目の輸送に出撃した[84]。「陽炎」は八連特の人員や軍需品などを搭載していた[84]。5月8日1時ごろにコロンバンガラ島ヴィラ泊地に入泊し、揚陸およに交代人員の収容を終えて3時10分頃に出港[87]。ブラケット水道を通過し、ファーガスン水道に向かおうとしていたとき、先頭の「親潮」が触雷した[88]。時刻は3時59分であった[88]。これを潜水艦の雷撃によるものと判断した「黒潮」と「陽炎」は爆雷を投射[88]。それから「陽炎」は「親潮」の周囲で潜水艦の捜索を行っていたところ、フェアウェイ島の37度約2000メートル付近で触雷した[89]。その時刻は4時11分頃[88]か4時6分[89]、または「親潮」触雷の11分後[90]であった。「陽炎」は第一缶室と第二缶室に浸水し航行不能となった[91]。この後さらに「黒潮」も触雷し爆沈した[88]


沿岸監視員から日本駆逐艦が航行不能となって漂流中との報告を受けたマーク・ミッチャー少将はSBD19機、TBF3機、F4U32機、P-40を8機攻撃に向かわせた[92]。F4UとTBFは荒天のため引き返したが残りは攻撃を行い、「親潮」に爆弾1発が命中[93]。「陽炎」も至近弾や機銃掃射で負傷者を出し、火災も発生したがすぐに消火された[94]。「陽炎」は北西に流され[88]、浸水が進んで沈み始めたため18時ごろ艦長は総員離艦を下令[95]。18時17分、「陽炎」はフェアウェイ島の0度1200メートルで沈没した[95]。「陽炎」での人的被害は戦死者18名、重傷者11名、軽傷者25名であった[95]。「陽炎」の生存者はフェアウェイ島に上陸し、5月9日の日没後に救出に着た大発により救助された[96]


6月20日、陽炎は帝国駆逐艦籍から除籍され、第15駆逐隊も解隊した[97][98]

詳しいことは、「陽炎 (陽炎型駆逐艦)ウィキペディア」をご覧ください。 ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%99%BD%E7%82%8E_(%E9%99%BD%E7%82%8E%E5%9E%8B%E9%A7%86%E9%80%90%E8%89%A6)
(wikiより)

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黒潮(くろしお/くろしほ)は、日本海軍駆逐艦[1]

概要

一等駆逐艦「黒潮」は陽炎型駆逐艦の3番艦[2]。竣工直後は第二水雷戦隊麾下の第16駆逐隊、続いて第15駆逐隊に所属して、フィリピン攻略戦蘭印作戦スラバヤ沖海戦)、ガダルカナル島攻防戦鼠輸送南太平洋海戦第三次ソロモン海戦ルンガ沖夜戦)等に参加[3]。本艦は1943年(昭和18年)5月8日コロンバンガラ島への輸送作戦中に触雷し、第15駆逐隊の姉妹艦2隻(陽炎親潮)と同時に沈没した[3]


黒潮」の艦名は海上自衛隊の潜水艦として継承され、ガトー級潜水艦くろしお旧名ミンゴ)」、うずしお型潜水艦「くろしお」、おやしお型潜水艦「くろしお」が就役した。

艦歴
太平洋戦争以前

陽炎型駆逐艦3番艦「黒潮」は仮称19号艦として藤永田造船所1937年(昭和12年)8月31日に起工[4][5]。同年12月9日、藤永田造船所で陽炎型6番艦「夏潮」が起工される[6]


1938年(昭和13年)4月15日、日本海軍は舞鶴海軍工廠で建造中の駆逐艦を『陽炎』、浦賀船渠の同型駆逐艦を『不知火』、藤永田造船所の本艦を『黒潮』、東京石川島造船所測天型敷設艇2番艇を「白神」と命名する[7][1]。同日附で艦艇類別等級表に『陽炎型駆逐艦』が新設され、3隻(陽炎、不知火、黒潮)は同型に類別された[8]。 同年10月25日、「黒潮」は進水[5][9]


1939年(昭和14年)2月23日、藤永田造船所で「夏潮」が進水[6][10]。本艦と同時に艤装工事が進められる[11]。同年4月11日、藤永田造船所で陽炎型11番艦「浦風」が起工[12]。 10月16日、日本海軍は吹雪型駆逐艦22番艦「」駆逐艦長岡本次郎少佐を黒潮艤装員長に任命する(後任の響艦長は、白露型4番艦「夕立」艦長岡三知夫少佐)[13]。10月22日、藤永田造船所に設置した黒潮艤装員事務所は事務を開始する[14]


1940年
(昭和15年)1月20日、佐世保海軍工廠で陽炎型8番艦「雪風」が竣工[15]、呉へ回航される[16]。 「雪風」竣工から一週間遅れた1月27日、陽炎型3番艦「黒潮」は竣工[4][5][17]。岡本中佐も黒潮駆逐艦長(初代)に任命される[18]。藤永田造船所に設置されていた黒潮艤装員事務所を撤去[19]。 同日附で日本海軍は、陽炎型2隻(雪風、黒潮)により第16駆逐隊(司令島崎利雄大佐)を編制[18][20]。初代司令駆逐艦は「雪風」[21]2月15日、神戸川崎造船所で陽炎型7番艦「初風」が竣工[22]。同日附で第16駆逐隊に編入され[20]、呉に移動する。2月24日、「黒潮」も大阪から呉に回航[23]。第16駆逐隊は3隻(黒潮、初風、雪風)を揃えた[20]第二艦隊第二水雷戦隊に所属[24][25]


10月11日、第16駆逐隊3隻(初風《司令駆逐艦》、雪風、黒潮)は紀元二千六百年記念行事に伴う紀元二千六百年特別観艦式に参加する[26][5]。同駆逐隊は、第三戦隊、第七戦隊、第八戦隊、第8駆逐隊、第18駆逐隊と共に第三列に配置されていた[27]。10月26日に陽炎型9番艦「天津風」が、12月15日に陽炎型10番艦「時津風」が竣工して漸次第16駆逐隊に編入されると、「黒潮」は11月15日附で第15駆逐隊に転出した[20]。第15駆逐隊は8月31日附で、陽炎型3隻(4番艦親潮、5番艦早潮、6番艦夏潮)によって編制されていた[28]。黒潮編入時の第15駆逐隊司令は植田弘之介大佐[29]、本艦の編入で定数4隻を揃えた[30]。 同日附で岡本中佐(黒潮艦長)は海軍水雷学校教官へ転任、吹雪型8番艦「白雲」艦長前川新一郎中佐が、黒潮駆逐艦長(二代目)に任命される[31]。第15駆逐隊も第二艦隊・第二水雷戦隊所属となる[32]


1941年
(昭和16年)6月18日、第15駆逐隊司令は植田大佐から佐藤寅治郎大佐(前職、第4駆逐隊《野分萩風舞風》司令)[33][34]に交代した(植田は9月20日より日本丸監督官)[35]。 6月23日、連合艦隊の第16回応用訓練が終了した午後6時頃、日向灘で同型艦「夏潮」(15駆僚艦)、朝潮型駆逐艦8番艦「峯雲」(第9駆逐隊)、本艦の多重衝突事故が発生[36][3]。「黒潮」は後進をかけた「峯雲」に追突し、艦首部分に損傷を受けた[37]。修理は呉工廠において約1ヶ月間かけて行われた[38]。7月26日、修理完了[3]。 9月10日、前川中佐(黒潮艦長)は海軍兵学校副官に補職[39]。日本海軍は、睦月型駆逐艦6番艦「水無月」艦長[40][41]古鷹型重巡洋艦2番艦「加古」水雷長[41][42]峯風型駆逐艦12番艦「帆風」艦長[42][43]等を歴任し、当時は吹雪型13番艦「朝霧」艦長[43]だった宇垣環中佐を黒潮駆逐艦長(三代目)に任命する[39]。 9月15日、第二水雷戦隊司令官五藤存知少将は第六戦隊(青葉加古衣笠古鷹)司令官へ転任(翌年10月、サボ島沖海戦で青葉大破時に戦死)、後任の二水戦司令官は第六潜水戦隊司令官田中頼三少将となった[44]

太平洋戦争緒戦

1941年(昭和16年)12月8日太平洋戦争開戦時、「黒潮」は引続き同型艦3隻(親潮早潮夏潮)と共に第二水雷戦隊(司令官田中頼三少将:旗艦/「神通」)・第15駆逐隊(司令官佐藤寅治郎大佐)に所属、比島部隊(指揮官高橋伊望中将/第三艦隊司令長官)の指揮下にあった[45]。 第二水雷戦隊の麾下駆逐隊には、陽炎型編制の駆逐隊が15駆のほかに2つ所属していた。第16駆逐隊(初風天津風時津風雪風)と第18駆逐隊(陽炎不知火、《朝潮型駆逐艦:》)である。このうち第18駆逐隊は第一水雷戦隊(司令官大森仙太郎少将:旗艦阿武隈)の指揮下にあって南雲機動部隊警戒隊として真珠湾攻撃に参加しており、第二水雷戦隊本隊とは別行動であった[45]


開戦と同時に第15駆逐隊はダバオホロ攻略作戦に参加した[30][3]1942年(昭和17年)1月4日、メナド攻略作戦に参加し、以降、ケンダリー攻略作戦、アンボン攻略作戦、マカッサル攻略作戦に参加[30][3]。一連の任務に従事中の2月8日、マカッサル沖で輸送船団護衛中の第15駆逐隊(夏潮、親潮、黒潮)は米潜水艦「S-37」に襲撃される[46][47]。「黒潮」は、魚雷が命中して航行不能となった「夏潮」の曳航を行うも[48]2月9日朝になり浸水が進み「夏潮」は沈没した[49][47]。同艦は陽炎型はじめての喪失艦となる[50]。 第15駆逐隊は司令駆逐艦を「親潮」に変更し[51][52]、しばらく陽炎型3隻(黒潮、親潮、早潮)編制で行動を続ける(夏潮は2月28日附で第15駆逐隊より除籍)[53]。以後、クーパン攻略作戦、ジャワ南方機動作戦に参加[30][3]。 3月15日、スラウェシ島スターリング湾を出港し、日本本土まで空母「加賀」(前月、パラオ入港時に座礁して艦底を損傷中)を護衛した[30][54]。3月22日、佐世保に到着[54]


4月17日、呉を出撃[3]。フィリピン方面へ進出中の4月18日夕刻、第15駆逐隊はドーリットル空襲に遭遇[55]。「黒潮」は宮崎県都井岬沖でB-25爆撃機に対して主砲10発と機銃31発を発射したが、戦果は無かった[56]。一連の空襲に対処したあと、15駆はフィリピンカガヤン攻略作戦に参加[57]。5月10日、第15駆逐隊(親潮、黒潮、早潮)はマニラを出港し、内地帰投中の翔鶴型航空母艦1番艦「翔鶴」(同艦は5月8日の珊瑚海海戦で大破、損傷中)[58]及び同行駆逐艦2隻(夕暮)と合流、5月17日呉軍港に到着した[59][3]


6月上旬のミッドウェー海戦における第二水雷戦隊は、攻略部隊(指揮官近藤信竹第二艦隊司令長官)指揮下にあって、輸送船団の護衛に従事した[60]。6月20日、桂島泊地(瀬戸内海)に戻る[3]。7月16日、呉を出撃してB作戦に参加。ペナン沖で対潜警戒活動を実施[3]。 7月5日、アリューシャン方面作戦に従事中の二水戦・第18駆逐隊3隻(不知火、霞、霰)は、米潜水艦グロウラーUSS Growler, SS-215)に雷撃され[46]、大損害を蒙った(沈没、不知火大破航行不能)[61][62]。第18駆逐隊司令宮坂義登大佐は更迭される[63](後日、予備役に編入)[64]。 7月15日、陽炎型1番艦「陽炎」は第18駆逐隊から第15駆逐隊に編入され、15駆は再び陽炎型4隻(黒潮、親潮、早潮、陽炎)を揃えた[65][30]。第18駆逐隊は8月15日附で解隊された[66]

ガダルカナル島の戦い

1942年(昭和17年)8月7日以降、ガダルカナル島の戦いがはじまると、第15駆逐隊および第二水雷戦隊もソロモン諸島に投入される。ガダルカナル島への駆逐艦輸送作戦『鼠輸送』に10回従事した。10月、二水戦はヘンダーソン基地艦砲射撃南太平洋海戦に参加。11月10日、黒潮駆逐艦長は宇垣環中佐から竹内一中佐[67]に交代(竹内は11月6日まで吹雪型24番艦「」艦長)[68]。直後の第三次ソロモン海戦では、輸送船団の護衛部隊として参加する。 11月21日、陽炎型5番艦「早潮」(第15駆逐隊)は単艦で第十八戦隊の指揮下に入り、駆逐艦5隻(春雨白露磯波、早潮)によるパプアニューギニアラエ輸送作戦に投入される[30]。11月24日夜、「早潮」は空襲を受けて大破して沈没(白露による砲撃処分)[69]。第15駆逐隊は3隻編制(親潮、黒潮、陽炎)になった[70]


11月30日、第二水雷戦隊司令官田中頼三少将(駆逐艦「長波」座乗)が指揮する第二水雷戦隊(第31駆逐隊《高波長波巻波》、第15駆逐隊《親潮黒潮陽炎》、第24駆逐隊《江風涼風》)はルンガ沖夜戦で勝利を収めるが[71][72]、夕雲型6番艦「高波」(第31駆逐隊司令清水利夫大佐戦死)を喪失した[73][74]。15駆2隻(親潮《残魚雷0本》、黒潮《残魚雷2本》)は田中司令官より航行不能となった「高波」救援命令を受けたが[75]、救助活動開始寸前で米艦が接近してきたため、救援を中止して避退した[76]。 第二水雷戦隊は引続き、ガダルカナル島へのドラム缶輸送に従事。 12月26日、第15駆逐隊司令は佐藤寅治郎大佐から牟田口格郎大佐に交代(佐藤大佐は、翌年2月より二水戦旗艦神通艦長。コロンバンガラ島沖海戦で戦死)[77][78][79]。 12月29日附で第二水雷戦隊司令官も田中頼三少将から小柳冨次少将(前職、金剛型戦艦1番艦「金剛」艦長)に交代[77][80]。この後、田中少将は陸上部隊勤務となり、二度と海上で指揮を執ることはなかった[81][82]


1943年
(昭和18年)1月以降も第15駆逐隊は引き続きガダルカナル島輸送作戦を始め、各方面の作戦に参加[83]。1月2日の第五次ガ島輸送作戦(親潮、黒潮、陽炎、長波、巻波、江風、涼風、電、荒潮)では駆逐艦「涼風」(第24駆逐隊)が空襲により中破[84]1月10日の第六次ガ島輸送作戦では、小柳司令官が「黒潮」に座乗して指揮をとり、一時期的に「黒潮」が第二水雷戦隊旗艦となる[85]。この作戦では駆逐艦8隻(黒潮、巻波、江風、嵐、大潮、荒潮、初風、時津風)が参加して、第16駆逐隊の姉妹艦「初風」が米軍魚雷艇の雷撃を受け大破している[86]。11日以降、「黒潮」はトラック泊地で待機し、第二水雷戦隊各艦もトラック泊地に集結していった[87]。1月23日、修理を終えた軽巡「神通」がトラックに到着する。同時期、第十戦隊司令官に任命された小柳少将は第二水雷戦隊司令官職を離れ、後任の二水戦司令官は伊崎俊二少将となる[88]。また二水戦から長良型軽巡洋艦2番艦「五十鈴」(第三次ソロモン海戦で損傷)が外れ、二水戦旗艦は同隊に復帰した「神通」に変更された[89][90]


2月上旬、「黒潮」はガダルカナル島撤収作戦(ケ号作戦)に従事する[91]。第二次作戦と第三次作戦で、姉妹艦「舞風」(第4駆逐隊)・「磯風」(第17駆逐隊)がそれぞれ損傷したが、「黒潮」は第二次作戦で至近弾により多少被害を受けた程度であった[92]。作戦終了後、「黒潮」は輸送船と衝突した白露型駆逐艦9番艦「江風」(第24駆逐隊)を曳航してショートランド泊地からラバウルに向かう[93]。 2月15日にトラック帰投後、僚艦「陽炎」と共に空母「隼鷹」を護衛する事になった[94]。2月15日、隼鷹隊(隼鷹、黒潮、陽炎)は第三戦隊(金剛榛名)、空母「冲鷹」、水上機母艦「日進」、重巡2隻(鳥海利根)、護衛駆逐艦(時雨大波)と共にトラック泊地を出港するが、トラック陸上基地に展開中の「隼鷹」航空隊を悪天候のため収容することが出来ず、3隻のみトラック泊地に留まった[95]。2月16日、3隻は隼鷹航空隊を収容するとトラックを発ち、21日に呉へ到着した[96]。以後、呉工廠で修理に従事する[3]。 2月23日附で黒潮駆逐艦長は、竹内中佐から[97]、白露型1番艦「白露」艦長[98]や同型「海風」艦長[99]等を歴任した杉谷永秀中佐に交代した[97]

沈没

1943年(昭和18年)4月2日、15駆2隻(黒潮、親潮)は横須賀に到着[100]。4月4日、駆逐艦4隻(黒潮、親潮、)は、大鷹型航空母艦2隻(大鷹冲鷹)と高雄型重巡洋艦3番艦「鳥海」を護衛して横須賀を出発、トラックまで護衛した[101][102]。 同時期、ムンダやコロンバンガラ島の部隊が栄養不良などにより戦力が低下していたため部隊の補充交代が実施されることになり、4月29日から5月8日にかけて駆逐艦による6回のコロンバンガラ輸送が行われることになった[103]。第15駆逐隊もこの任務に投入され[104]、4月26日にラバウルへ移動した[105]。「黒潮」は4月29日の第一回、5月3日の第三回と参加したが[106]、毎回同じ航路を取ったため5月6日にアメリカの機雷敷設艦ブリーズ、プレーブル、ギャンブルがブラケット水道に機雷を敷設した[107]5月7日17時、第15駆逐隊(親潮黒潮陽炎)はブインから第五回の輸送に出発した[106]。3隻は前回同様ファーガスン水道、ブラケット水道を通って5月8日1時ごろにコロンバンガラ島ビラ沖に入泊し、搭載人員、物資を下ろして帰還者を乗せると3時10分ごろに出港した[108]。3時49分、アウェイ島北西約0.6海里で「親潮」が触雷[109]。それを潜水艦の雷撃と考えた2隻(黒潮、陽炎)は爆雷を投下したが、4時11分ごろに今度は「陽炎」が触雷し、5時6分に「黒潮」も触雷して瞬時に沈没した[109][110]。損傷した「親潮」と「陽炎」も、米軍機の空襲を受け沈没した[111][112]。「黒潮」では83名の戦死者が出た[109]。救助に向かっていた第4駆逐隊司令杉浦嘉十大佐指揮下の駆逐艦2隻(萩風海風)は速報を受けて遭難現場に到着したが、生存者より3隻沈没の報告を受けて引き返した[113]


6月1日、杉谷中佐は黒潮駆逐艦長[114]の職務を解かれた(後日、杉谷は秋月型駆逐艦3番艦「涼月」駆逐艦長[115]等を歴任)。 6月20日、陽炎型3隻(黒潮、親潮、陽炎)は帝国駆逐艦籍より除籍[116]。全滅した第15駆逐隊も同日附で解隊された[117][30]。陽炎型駆逐艦の名称も「不知火型駆逐艦」に改定され、3隻は不知火型駆逐艦籍からも削除された[118]

詳しいことは、「黒潮 (駆逐艦)ウィキペディア」をご覧ください。 ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BB%92%E6%BD%AE_(%E9%A7%86%E9%80%90%E8%89%A6)
(wikiより)

71  黒潮

黒潮

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親潮(おやしお/おやしほ)は、日本海軍駆逐艦[1]陽炎型駆逐艦4番艦である[2]。艦名は海上自衛隊の潜水艦「おやしお(初代)」、おやしお型「おやしお」に継承された。

艦歴
太平洋戦争前

「親潮」は舞鶴海軍工廠1938年(昭和13年)3月29日に起工[3]1938年(昭和13年)9月20日、日本海軍(米内光政海軍大臣)は舞鶴海軍工廠で建造の本艦を『親潮』、藤永田造船所の陽炎型6番艦を『夏潮』、川崎造船所の陽炎型7番艦を『初風』と命名した[1][4]。 同日附で、各艦(親潮、夏潮、初風、伊号第十八潜水艦伊号第二十潜水艦伊号第二十二潜水艦第十一号掃海艇第十二号掃海艇)は、それぞれ艦艇類別等級表に登録[5]。 同年11月29日舞鶴海軍工廠で本艦は進水[3][6]。同日の舞鶴港には、高雄型重巡洋艦2隻(高雄愛宕)、潜水母艦「長鯨」、駆逐艦「敷波」等が整備・修理中、朝潮型駆逐艦10番艦「」と陽炎型駆逐艦1番艦「陽炎」等を建造中だった[7]


1939年
(昭和14年)12月1日、吹雪型駆逐艦6番艦「東雲」艦長金岡国三中佐は親潮艤装員長に任命される(後任の東雲艦長は、叢雲艦長古閑孫太郎少佐)[8]。 12月7日、舞鶴海軍工廠に親潮艤装員事務所を設置、事務を開始する[9]


1940年(昭和15年)1月27日、藤永田造船所で陽炎型3番艦「黒潮」が竣工[10]、先に完成していた陽炎型8番艦「雪風」(1月20日竣工)と第16駆逐隊を編制する[11][12]。 5月1日、金国親潮艤装員長は、制式に親潮駆逐艦長(初代)に任命された[13]。 5月10日、親潮艤装員事務所を撤去[14]8月20日に竣工[3]呉鎮守府所属。

8月31日、姉妹艦2隻(早潮、夏潮)が同時に竣工する[15][16]。 同日附で日本海軍は、陽炎型3隻(親潮、早潮、夏潮)で第15駆逐隊を編制[17]。第15駆逐隊司令には、初春型駆逐艦2番艦子日初代艦長や同型吹雪艦長[18]、特務艦野島特務艦長[19][20]等を歴任した植田弘之介大佐が任命された[21]


11月15日、第15駆逐隊は第二艦隊・第二水雷戦隊(司令官五藤存知少将)に編入[17]。同時に、陽炎型9番艦「天津風」と10番艦「時津風」の竣工にともない、第16駆逐隊に所属していた姉妹艦「黒潮」が第15駆逐隊に編入される[17][12]。これをもって第15駆逐隊は(親潮、黒潮早潮夏潮)の陽炎型4隻編制となる[17]


1941年(昭和16年)6月18日、第15駆逐隊司令は植田大佐から佐藤寅治郎大佐(前職、第4駆逐隊《野分萩風舞風》司令)[22][23]に交代した(植田は9月20日より日本丸監督官)[24]。 9月10日、金岡(親潮艦長)は第30掃海隊司令へ転任(翌年3月、秋月型駆逐艦1番艦秋月艤装員長。第22駆逐隊司令、軽巡北上艦長《終戦時》、空母鳳翔艦長《復員船時代》等を歴任)[25][26]。後任の親潮駆逐艦長は、吹雪型「綾波」艦長有馬時吉中佐[25]。 9月15日、第二水雷戦隊司令官五藤存知少将は第六戦隊(青葉加古衣笠古鷹)司令官へ転任(翌年10月、サボ島沖海戦で青葉大破時に戦死)、後任の二水戦司令官は第六潜水戦隊司令官田中頼三少将となった[27]

太平洋戦争緒戦

1941年(昭和16年)12月8日の太平洋戦争開戦時、第二水雷戦隊(司令官田中頼三少将:旗艦神通)所属。二水戦には、「親潮」と同じ陽炎型編制の第16駆逐隊(初風天津風時津風雪風)、第18駆逐隊(陽炎不知火)が所属していたが、第18駆逐隊は第一水雷戦隊(司令官大森仙太郎少将:旗艦阿武隈)の指揮下にあって南雲機動部隊警戒隊として真珠湾攻撃に参加しており、別行動であった。12月、ダバオホロ攻略作戦に参加した[17]


1942年
(昭和17年)1月上旬、メナド攻略作戦に参加した[17]。以降、ケンダリー攻略作戦、アンボン攻略作戦、マカッサル攻略作戦、クーパン攻略作戦、ジャワ南方機動作戦に参加した。一連の任務従事中の2月8日、輸送船団護衛中に15駆僚艦「夏潮」が米潜水艦「S-37」に雷撃され航行不能となる[28]。「親潮」が護衛する中で「黒潮」による曳航が実施されたが、「夏潮」は2月9日に沈没[29][30]。陽炎型はじめての喪失艦となる。第15駆逐隊は司令艦を「親潮」に変更し[31][32]、当分3隻編制で行動を続けた[33]。 3月15日、スラウェシ島のスターリング湾を出港し、呉まで空母「加賀」を護衛した[17]。 4月18日のドーリットル空襲に対処したあと[34]、第15駆逐隊はフィリピン、カガヤン攻略作戦に参加[35]。5月10日、第15駆逐隊(親潮、黒潮、早潮)はマニラを出港し、内地帰投中の翔鶴型航空母艦1番艦「翔鶴」(同艦は5月8日の珊瑚海海戦で大破、損傷中)[36]及び同行駆逐艦2隻(夕暮)と合流、5月17日呉軍港に到着した[37]。6月上旬のミッドウェー海戦における第二水雷戦隊は輸送船団(ミッドウェー島占領部隊)の護衛を担当。第15駆逐隊は第十一航空戦隊(水上機母艦「千歳」)の護衛任務に就いた[38]


7月にはペナン沖で対潜警戒活動を実施。7月5日、アリューシャン方面作戦に従事中の二水戦・第18駆逐隊3隻(不知火、霞、霰)は、米潜水艦「グロウラー」に雷撃され、大損害を蒙った(沈没、不知火大破航行不能)[39][40]。第18駆逐隊司令宮坂義登大佐は更迭される[41](後日、予備役に編入)[42]。そこで「不知火」達とは別行動で無事だった陽炎型1番艦「陽炎」(第18駆逐隊)を3隻編制になっていた15駆に編入する事になり、7月20日附で第15駆逐隊は陽炎型4隻編制(親潮、黒潮、早潮、陽炎)となった[43]。第18駆逐隊は8月15日附で解隊された[44]

ガダルカナル島の戦い

8月7日以降、第15駆逐隊はガダルカナル島の戦いに投入された。駆逐艦によるガダルカナル島への輸送作戦『鼠輸送』に従事する。 10月13日、第三戦隊司令官栗田健男中将指揮下の挺身攻撃隊(第三戦隊《金剛榛名》、第二水雷戦隊《旗艦〔五十鈴〕、第15駆逐隊〔親潮、黒潮、早潮〕、第24駆逐隊〔海風江風涼風〕、第31駆逐隊〔高波巻波長波〕》)はガ島ヘンダーソン飛行場基地に対する艦砲射撃を実施、成功した(ヘンダーソン基地艦砲射撃[45]。 10月下旬、前進部隊(指揮官近藤信竹第二艦隊司令長官)に所属して南太平洋海戦に参加。 11月12-15日の第三次ソロモン海戦における第二水雷戦隊(早潮《二水戦旗艦》、親潮、陽炎、海風、江風、涼風、高波、長波、巻波、天霧望月)は輸送船団11隻を護衛して作戦に参加[46]。米軍機の空襲により輸送船10隻喪失(沈没6隻、4隻擱座)、輸送船1隻大破という大損害を受けた[47][48]


11月24日、ニューギニア島ラエ輸送作戦に従事していた15駆僚艦「早潮」がB-17型爆撃機の空襲を受けて沈没[49]、15駆は3隻編制(親潮、黒潮、陽炎)になった[50]。11月30日、二水戦司令官田中頼三少将(駆逐艦「長波」座乗)が指揮する第二水雷戦隊(第31駆逐隊《高波、長波、巻波》、第15駆逐隊《親潮、黒潮、陽炎》、第24駆逐隊《江風、涼風》)はルンガ沖夜戦で勝利を収めるが[51][52]、夕雲型6番艦「高波」(第31駆逐隊)を喪失した[53]。15駆2隻(親潮《残魚雷0本》、黒潮《残魚雷2本》)は田中司令官(長波)より航行不能となった「高波」救援命令を受けたが[54]、救助活動開始寸前で米艦が接近してきたため、「高波」を残して避退した[55]


11月28日附で東日出夫少佐(吹雪型5番艦叢雲沈没時の艦長)[56]が親潮駆逐艦長に補職[57]。前親潮艦長有馬時吉中佐は夕雲型駆逐艦8番艦「清波」艤装員長[58]および初代艦長[59]に補職され、同艦沈没時に戦死した(1943年7月20日)[60][61]


12月3日、田中少将の指揮下、駆逐艦10隻(31駆《長波、巻波》、15駆《親潮、黒潮、陽炎》、24駆《江風、涼風》、4駆《嵐、野分》、27駆《夕暮》)でガ島へのドラム缶輸送を実施、「巻波」が中破する[62][63]。 12月7日、佐藤大佐(第15駆逐隊司令)の指揮下[64]、駆逐艦9隻(親潮、黒潮、陽炎、江風、涼風、嵐、野分、有明)でガ島輸送を実施するが、空襲で「野分」が損傷、米軍魚雷艇の迎撃により輸送作戦も失敗した[65]


12月11日、二水戦司令官田中頼三少将の指揮下、駆逐艦部隊(秋月型2番艦照月《二水戦旗艦》、第4駆逐隊《》、第31駆逐隊《長波》、第24駆逐隊《江風涼風》、第15駆逐隊《親潮、黒潮、陽炎》、第17駆逐隊《谷風浦風》、第27駆逐隊《初春》)と共にガダルカナル島へ輸送作戦中、「照月」が魚雷艇に撃沈される[66]。その後、ムンダ輸送作戦に従事した。


12月26日、第15駆逐隊司令は佐藤寅治郎大佐から牟田口格郎大佐に交代(佐藤大佐は、翌年2月より二水戦旗艦神通艦長)[67][68][61]。12月29日附で第二水雷戦隊司令官も田中頼三少将から小柳冨次少将(前職、金剛型戦艦1番艦「金剛」艦長)に交代[67][69]。この後、田中少将は陸上部隊勤務となり、二度と海上で指揮を執ることはなかった[70][71]


1943年
(昭和18年)1月2日-3日、二水戦司令官小柳冨次少将の指揮下、駆逐艦10隻(長波、江風、涼風、巻波、親潮、黒潮、陽炎、荒潮磯波)はガ島ドラム缶輸送を実施する[72]。この作戦中に「涼風」が損傷[73]。続いて「親潮」も異常振動に見舞われ、以降の作戦に参加できなくなる[61]。 第15駆逐隊(親潮、陽炎)は「黒潮」を外南洋部隊(第八艦隊)に残して前進部隊(第二艦隊)に復帰[74]。1月9日、15駆(親潮、陽炎)は特設水上機母艦「山陽丸」を曳航する給油艦「鶴見」を護衛してショートランド泊地を出発[75]、17日トラック泊地到着[76][77]


1月17日からトラックで応急修理を受ける[74]。1月23日、小柳冨次少将は第二水雷戦隊司令官から第十戦隊司令官へ転任、後任の二水戦司令官は伊崎俊二少将となる [78]。また二水戦から長良型軽巡洋艦2番艦「五十鈴」(第三次ソロモン海戦で損傷)が外れ、二水戦旗艦は同隊に復帰した「神通」に変更された[79]。 2月1日、本艦は「箱崎丸」を護衛してトラック泊地を出発[80][81]、2月9日に呉到着[82][83]。 2月21日、空母「隼鷹」を護衛していた15駆2隻(陽炎、黒潮)も呉に戻る[82][81]。さらに呉工廠において3月22日まで修理を実施した。3月31日、2隻(親潮、黒潮)は内海西部を出発[84]、4月2日到着[85]。 4月4日、駆逐艦4隻(、黒潮、親潮)は大型艦3隻(空母《大鷹冲鷹》、重巡《鳥海》)を護衛して横須賀を出発[86][87]、4月8日夜、アメリカの潜水艦タニー(USS Tunny, SS/SSG/APSS/LPSS-282) が日本艦隊を発見、襲撃するが被害はなかった[86]。10日、トラック泊地に到着して任務を終える[88][89]。トラック泊地周辺の対潜掃蕩を実施したのち、4月24日附で二水戦4隻(親潮、黒潮、陽炎、海風)は南東方面艦隊(外南洋部隊)に編入される[90][91]。26日、第15駆逐隊はラバウルに進出した[89][92]

沈没

1943年(昭和18年)4月、ムンダやコロンバンガラ島の部隊が栄養不良などにより戦力が低下していたため部隊の補充交代が実施されることになり、4月29日から5月8日にかけて駆逐艦による6回のコロンバンガラ輸送が行われることになった[93]。「親潮」(第15駆逐隊司令駆逐艦)は4月29日の第一回、5月3日の第三回と参加したが[94]、毎回同じ航路を取ったため5月6日にアメリカの機雷敷設艦3隻(ブリーズ、プレーブル、ギャンブル)がブラケット水道に機雷を敷設した[95]。 5月7日17時、第15駆逐隊3隻(親潮、黒潮、陽炎)はブインから第五回の輸送に出発した[94]。3隻は前回同様ファーガスン水道、ブラケット水道を通って5月8日午前1時ごろにコロンバンガラ島ビラ沖に入泊し、搭載人員、物資を下ろして帰還者を乗せると3時10分ごろに出港した[96]。3時49分、「親潮」はアウェイ島北西約0.6海里で触雷、航行不能になった[97]。それを潜水艦の雷撃と考えた2隻(黒潮、陽炎)は爆雷を投射したが、4時11分ごろに今度は「陽炎」が触雷し、5時6分に「黒潮」も触雷して瞬時に沈没した[97]コースト・ウォッチャーズ(沿岸監視員)から日本駆逐艦が航行不能となって漂流中との報告を受けたマーク・ミッチャー少将は19機のSBD、3機のTBF、32機のF4Uおよび8機のP-40を攻撃に向かわせた[98]。F4UとTBFは荒天のため引き返したが残りは攻撃を行い、「親潮」の三番砲塔付近に爆弾1発が命中した[99]。「親潮」は南方に漂流し、同日17時5分にアンウィン諸島西端付近で沈没した[100]。「親潮」では91名の戦死者が出た(黒潮戦死者83名、陽炎戦死者18名)[97][101]。艦齢は約2年8ヶ月だった[102]。 第15駆逐隊司令牟田口大佐や東(親潮駆逐艦長)以下生存者は近くの島へ移動[103]。引き揚げ船でショートランド泊地に戻った[104]。 救助に向かっていた駆逐艦2隻(萩風海風)は速報を受けて遭難現場に到着したが、生存者より3隻沈没の報告を受けて引き返した[105]


同年6月1日、東日出夫中佐は親潮駆逐艦長の職務を解かれる[106]。東中佐は三重海軍航空隊教官を経て[107][108]、1944年(昭和19年)12月1日より秋月型駆逐艦13番艦「花月」艤装員長[108]、初代艦長[109]を歴任。終戦後、駆逐艦「雪風」艦長等を兼務して復員業務に従事した[110][111]


6月20日、陽炎型3隻(黒潮、親潮、陽炎)は同時に除籍[112]。また同日附をもって第15駆逐隊も解隊[113]。陽炎型駆逐艦の名称も『不知火型駆逐艦』に変更された[114]。 第15駆逐隊司令牟田口格郎大佐は横須賀鎮守府附となり[115]、8月18日より軽巡洋艦「大淀」艦長に補職された[116]。後日、伊勢型戦艦1番艦「伊勢」艦長へ転任し[117]呉軍港空襲にける同艦大破時に戦死した[118]

詳しいことは、「親潮 (駆逐艦)ウィキペディア」をご覧ください。 ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A6%AA%E6%BD%AE_(%E9%A7%86%E9%80%90%E8%89%A6)
(wikiより)

71   親潮

親潮

71a

71b

71c



早潮(はやしお/はやしほ)は[3]日本海軍駆逐艦[4]陽炎型駆逐艦の5番艦である[5]1942年(昭和17年)11月下旬、ラエ沖で空襲により大破、沈没した[6]。戦後、艦名は海上自衛隊はやしお型潜水艦はやしお」、はるしお型潜水艦はやしお」に継承された。

概要
駆逐艦早潮は、1940年(昭和15年)8月末に浦賀船渠で完成した陽炎型駆逐艦5番艦[5][7]太平洋戦争開戦時、第二水雷戦隊麾下の第15駆逐隊に所属して南方作戦にともなう比島作戦蘭印作戦に従事[7]1942年(昭和17年)6月上旬のミッドウェー作戦では第十一航空戦隊(千歳神川丸)の護衛に従事した[7][8]。 8月以降のガダルカナル島の戦いでは、第二次ソロモン海戦南太平洋海戦等に並行して、鼠輸送ガダルカナル島輸送作戦)に多数参加[7]。11月中旬の第三次ソロモン海戦では[9]第二水雷戦隊(司令官田中頼三少将)旗艦となる[10][11]。同海戦直後の11月24日、ニューギニア東部ラエ増援作戦従事中[12]フォン湾で連合軍重爆撃機の夜間空襲を受けて大破、炎上する[13]。僚艦「白露」の砲撃で自沈した[注 1]

艦歴
建造

1939年(昭和14年)3月31日、日本海軍は練習巡洋艦1番艦と2番艦にそれぞれ香取鹿島陽炎型駆逐艦5番艦に早潮(本艦)、測天型敷設艇巨済の艦名を与えた[3][15]。同日附で4隻(香取、鹿島、早潮、巨済)は艦艇(特務艇)類別等級表に類別される[16][17]。 本艦は浦賀船渠で建造されることになった[3][注 2]。早潮は1938年(昭和13年)6月30日、起工[1]1939年(昭和14年)4月19日、進水[1]


1940年(昭和15年)5月1日、日本海軍は朝潮型駆逐艦4番艦荒潮艤装員長[18]および初代艦長[19]、駆逐艦皐月初雪艦長等を歴任した山隈和喜人中佐を、早潮艤装員長に任命する[20]。 同日、浦賀船渠の早潮艤装員事務所は事務を開始する[21]。 8月31日[2]に竣工[注 3][注 4]。山隈中佐も制式に早潮駆逐艦長となった[23]。早潮艤装員事務所を撤去[24]呉鎮守府籍。

第15駆逐隊

1940年(昭和15年)8月31日、日本海軍は既に竣工していた陽炎型4番艦「親潮」[注 5]と、完成したばかりの「夏潮」[27]と「早潮」で第15駆逐隊を編制した[28]。初代駆逐隊司令には植田弘之介大佐が任命されている[23]。編制直後の第15駆逐隊は、呉鎮守府練習駆逐隊となる[29]。 11月15日、第15駆逐隊は第二艦隊(司令長官古賀峯一中将)・第二水雷戦隊(司令官五藤存知少将)に編入[30][31]。同時に第16駆逐隊に所属していた陽炎型3番艦「黒潮[注 6]が第15駆逐隊に編入され、15駆は定数4隻(黒潮、親潮、早潮、夏潮)を揃えた[30][33]

1941年(昭和16年)6月18日、第15駆逐隊司令は植田大佐から佐藤寅治郎大佐[34][注 7]に交代した[注 8]。 9月1日、山隈中佐(早潮艦長)は第11掃海隊司令[36]へ転任[37][注 9]金田清之中佐[注 10]が、早潮駆逐艦長(二代目)に補職される[36]

詳細は「南方作戦」および「フィリピンの戦い (1941-1942年)」を参照


太平洋戦争開戦時、陽炎型姉妹艦4隻(黒潮親潮早潮、夏潮)は引続き第15駆逐隊(司令佐藤寅治郎大佐)を編制、第二水雷戦隊(司令官田中頼三少将:旗艦神通)に所属し、比島部隊(指揮官高橋伊望中将/第三艦隊司令長官)の指揮下にあった[41][42]。また二水戦(神通、第8駆逐隊、第15駆逐隊、白鷹、哨戒艇2隻)で第五急襲隊を編成していた[43]。第五急襲隊は11月26日に内海西部を出発、南方部隊本隊と行動することになった第8駆逐隊を途中で分離し、12月2日パラオに到着した[44]


1941年(昭和16年)12月8日の開戦以後、第二水雷戦隊[注 11]は比島部隊に所属してダバオ[45][46]レガスピー[47]ホロ攻略作戦に参加した[48][49][50]。フィリピン方面の作戦が一段落すると比島部隊の大部分は12月28日付で「蘭印部隊」となり、東南アジアでの作戦に従事する[51][52]

詳細は「蘭印作戦」を参照


1942年(昭和17年)1月、第15駆逐隊はメナド攻略作戦に参加し、以降、ケンダリー[53]アンボン[54]マカッサル[55]、クーパンの各攻略作戦、ジャワ南方機動作戦に参加した[56]。 マカッサル攻略戦従事中の2月9日、アメリカ潜水艦(USS S-37,SS-142)の雷撃により僚艦「夏潮」が沈没[27][57]。陽炎型駆逐艦で最初の沈没艦となった[58]。佐藤司令は司令駆逐艦を「親潮」に変更した[59]。第15駆逐隊は陽炎型3隻(黒潮、親潮、早潮)編制になった[60]。 3月初頭、高雄型重巡洋艦3隻(愛宕〔第二艦隊旗艦、近藤信竹中将座乗〕、高雄摩耶)、第4駆逐隊(野分)はセレベス島スターリング湾を出撃してジャワ島南方に進出[61]、通商破壊作戦を実施する[62]。重巡部隊を支援していた「早潮」は、3月2日にオランダ船籍の輸送船(1,100トン)を拿捕した[63]。3月3日、重巡部隊は「早潮」と油槽船「東栄丸」と合同、補給を行う[64]。3月7日、各艦はスターリング湾に帰投した[65]


3月15日[66]、第15駆逐隊(黒潮、親潮、早潮)は空母「加賀[注 12]を護衛してスターリング湾を出港した[30][68]。途中、黒潮は二水戦旗艦神通護衛のため分離した[66][69]。 3月22日、「加賀」は佐世保に到着[68]佐世保海軍工廠で修理をおこなう[70]。同日、第15駆逐隊はに到着する[66][71]。3月23日から4月17日まで、「早潮」は呉で整備に従事した[72]

詳細は「ドーリットル空襲」を参照


4月上旬、フィリピンの連合軍残存部隊はバターン半島およびコレヒドール要塞に立てこもり、抵抗を続けていた[73](バターン半島の米軍部隊は4月9日降伏、4月13日大本営発表[74][75]。日本海軍は4月10日に南西方面艦隊を新編し、隷下の第三南遣艦隊は引き続き比島部隊としてマニラ湾の封鎖任務や陸軍輸送船護衛任務を続けていた[76][77][78]。 4月17日、第15駆逐隊(親潮、黒潮、早潮)は呉を出撃[79]、比島作戦に協力するためフィリピンへ向かう[80][81]。 翌4月18日、米軍はドーリットル空襲を敢行する[82][83]。第15駆逐隊は宮崎県沖合でドーリットル隊のB-25型爆撃機を発見、「黒潮」が対空射撃をおこなった[84]。また米軍機動部隊を邀撃するため、第15駆逐隊は警戒部隊に編入される[85][79]。警戒部隊指揮官高須四郎中将の指揮下兵力(戦艦〈扶桑山城伊勢日向〉、空母〈鳳翔瑞鳳〉、第6駆逐隊〈〉、第15駆逐隊〈親潮、黒潮、早潮〉、駆逐艦〈三日月夕風〉)として[85]、他部隊から派遣された艦艇や航空隊と共に日本列島沿岸の警備にあたるが、米軍機動部隊との交戦は起きなかった[86]。本作戦従事中の4月19日朝、「早潮」はソビエト商船の臨検を実施しているが、連行中に悪天候でソ連商船を見失い[注 13]、日本海軍は基地航空隊を投入して捜索活動をおこなっている[85][88]。4月20日夜、連合艦隊は作戦中止を発令する[89]。第二戦隊等は内海西部へ帰投、第15駆逐隊はフィリピンへ向かった[85]


当時、日本海軍の比島部隊(指揮官杉山六蔵第三南遣艦隊司令長官、旗艦「球磨」)は、ビサヤ諸島ミンダナオ島における日本陸軍の戡定作戦に協力していた[90][91]。フィリピン進出後の第15駆逐隊(親潮、黒潮、早潮)も戡定作戦に従事する。4月28日、第15駆逐隊第1小隊(親潮、黒潮)は陸軍輸送船の護衛を命じられてビサヤ諸島へ出撃[92]、第2小隊(早潮)はマニラ封鎖部隊に編入された[93]。 5月10日、第15駆逐隊は比島部隊から除かれた[93]。同日、マニラを出発する。同時期、珊瑚海海戦で損傷した第五航空戦隊の空母「翔鶴」は、駆逐艦「夕暮」(第27駆逐隊)と「」(第7駆逐隊)に護衛され、内地に向かっていた[94][95]。第15駆逐隊はサイパン島付近で翔鶴隊と合流する[96][94]。5月17日[97][98]、「翔鶴」[99]と護衛部隊は呉に帰投した[100][94]

ミッドウェー海戦

5月下旬から6月上旬にかけてのミッドウェー作戦における第15駆逐隊「親潮」と「黒潮」は輸送船団護衛隊(指揮官:第二水雷戦隊司令官田中頼三少将)に所属していたが[101]、「早潮」は第十一航空戦隊(司令官藤田類太郎少将)を基幹とする航空隊(水上機母艦千歳、特設水上機母艦神川丸、駆逐艦早潮、第35号哨戒艇〔旧駆逐艦〕、海軍第二聯合特別陸戦隊1個小隊)として行動した[72][102]。特設水上機母艦「神川丸」は第四艦隊附属だったが、潜水艦ドラムに撃沈された水上機母艦「瑞穂[103][104]の代艦として、5月20日付で航空部隊[105]および第十一航空戦隊[106]に編入されていた。「神川丸」には、キューア島攻略のため二聯特1個分隊が乗艦している[107]。 航空隊の主任務は、ミッドウェー島攻略部隊の対潜・対空警戒、キューア島の攻略、ミッドウェー占領後の水上機基地設営等であった[108]。「早潮」は呉で緊急整備をおこなったのち、佐世保に移動する[97]。同地より15駆は「千歳」を護衛する[97]。26日、「千歳」はサイパン島に進出した[109]


5月28日夕刻以後、ミッドウェー占領隊(輸送船12隻、補給船3隻。設営隊、第二聯合特別陸戦隊[注 14][110]、護衛隊(旗艦神通、第15駆逐隊、第16駆逐隊、第18駆逐隊など)、航空隊(千歳、神川丸、早潮、35号哨戒艇)はサイパン島を出撃、ミッドウェーに向かった[111][112]。航空隊は船団部隊と行動を共にし、水上機により対潜・対空哨戒をおこなった[113][114]。輸送船、護衛艦艇とも、対空火器は極めて貧弱であった[115]。 翌29日、船団部隊はグァム島からきた最上型重巡洋艦を基幹とする支援隊[注 15]と合流する[113]。30日夜、船団部隊は支援隊を見失い、そのまま連絡がとれなくなった[117][116]。 6月4日、航空隊(千歳、神川丸、早潮、35号哨戒艇)は事前の計画どおり船団部隊と分離して、ミッドウェー北西約17浬に位置するキューア島(クレ環礁)に向かった[118]。当時、船団はB-17重爆9機の空襲を受けたが、特に被害はなかった[119][120]。真夜中に飛行艇による夜間攻撃を受け、輸送船2隻が損傷した[121][122]


6月5日、南雲機動部隊の主力空母4隻は空襲を受けて炎上、戦闘不能となる[123][122]。同日1000、攻略部隊指揮官(第二艦隊司令長官近藤信竹中将)は船団部隊(指揮官田中頼三少将)に対し、第十一航空戦隊司令官指揮による輸送船団の避退と、第二水雷戦隊の攻略部隊本隊(第二艦隊)への合流を命じる[124]。キューア島に向かっていた航空部隊は反転、高速を発揮できる「千歳」と「早潮」は同日1630に、低速の「神川丸」と「第35号哨戒艇」は6月6日0400に、それぞれ船団部隊と合流する[125]。前述のように護衛部隊指揮官は指揮下部隊(神通、第16駆逐隊、第18駆逐隊)を率いて攻略部隊本隊にむけ進撃していたので、第15駆逐隊[126]を含め船団部隊の指揮は藤田少将(十一航戦司令官)がとった[125]。船団部隊(編隊速力11.5ノット)は藤田司令官の指揮下で南鳥島方面への退避を続けた[125][127]


6月7日、藤田司令官は重巡「三隈」と「最上」に対する米空母機の攻撃を知り、船団部隊も翌日には敵空母部隊に捕捉され空襲に晒されると判断した[128]。そこで速力を基準に船団部隊を三分割、一刻もはやく南鳥島の飛行威力圏内に避退することにした[注 16][128]。各船団の内訳は、一番隊(速力16ノット。駆逐艦親潮ぶらじる丸あるぜんちな丸、清澄丸)、二番隊(速力14ノット。駆逐艦黒潮第二号哨戒艇〈旧灘風〉第三十四号哨戒艇〈旧薄〉、南海丸、善洋丸、五洲丸、吾妻丸、北陸丸、霧島丸、鹿野丸、第二東亜丸)、三番隊(速力13ノット。第一号哨戒艇〈旧島風〉、あけぼの丸、慶洋丸)であった[128]。航空隊は、船団部隊二番隊と三番隊の中間付近に位置した[128]


6月8日朝、藤田司令官は敵機動部隊からの離脱に成功したと判断し、分割していた船団を合同した[129]。1710、「神川丸」は連合艦隊からの下令により船団部隊と分離、翌日には第三戦隊第1小隊(比叡、金剛)と合流して北方に向かった[107]。また船団部隊の指揮は藤田(第十一航戦司令官)から田中(二水戦司令官)に復帰する[107]。6月9日正午、「千歳」と「早潮」は船団部隊から分離する[130](船団部隊は6月13日グァム帰投)[131]。6月14日、2隻(千歳、早潮)は桂島泊地に入泊した[130][132]。同日夕刻には[133]、戦艦「大和」なども桂島泊地に帰投した[134][注 17]


7月5日、アリューシャン方面作戦に従事中の第18駆逐隊の駆逐艦3隻(不知火)は[136]、アメリカ潜水艦グロウラーの雷撃により「霰」沈没[137]、「不知火」大破[138]、「霞」大破[139]という損害を受ける[140]7月5日の海戦[141]。 駆逐隊として当分活動できないため[142][143]、残存かつ健在の駆逐艦「陽炎[144]は7月20日附で第15駆逐隊に編入された[30][145]。第15駆逐隊は再び陽炎型駆逐艦定数4隻となった[30][142]。艦隊の編制替えにより、二水戦も軽巡「神通」、第15駆逐隊(黒潮、親潮、早潮、陽炎)、第24駆逐隊(海風、江風、涼風)となった[136]

ガダルカナル島の戦い

1942年(昭和17年)6月末、連合艦隊司令長官山本五十六大将は南西方面艦隊に対し、7月下旬から8月下旬にかけてインド洋方面で通商破壊機動作戦を実施するよう命じた(連合艦隊電令作第174号)[146]。作戦名はB作戦であった[147]。南西方面艦隊の従来戦力(軽巡鬼怒、軽巡長良、練習巡洋艦香椎、駆逐艦春風、海防艦占守など)に加え、連合艦隊所属の一部戦力もB作戦に参加することになった[148]。 作戦全体の指揮官は第一南遣艦隊司令長官(旗艦「香椎」)[注 18]。本艦は、機動部隊南方隊(指揮官西村祥治第七戦隊司令官)第七戦隊(熊野、鈴谷)[注 19]、第2駆逐隊(村雨、五月雨、春雨、夕立)[149]、第15駆逐隊(親潮、早潮、黒潮)[注 20]に所属していた[150]。B作戦参加部隊は、7月31日までにマレー半島西岸メルギーに集結した[151][150]。7月にはペナン沖で対潜警戒活動を実施する。


8月7日、ガダルカナル島攻防戦の生起によりB作戦は中止され[152]、増援部隊はソロモン諸島への移動を開始した[153][154]第二艦隊(司令長官近藤信竹中将)と第三艦隊(司令長官南雲忠一中将)の大部分はトラック泊地を経由して南太平洋方面へ進出、8月下旬の第二次ソロモン海戦に至った[155][156]。同海戦で軽空母「龍驤」と駆逐艦「睦月」および輸送船「金龍丸」が沈没[157]、水上機母艦「千歳」と軽巡「神通」が損傷する[132][158]。 輸送船団によるガ島揚陸作戦は中止された[159]。「神通」はトラック泊地に後退して修理をおこない、二水戦は「早潮」を旗艦として9月上旬の川口支隊総攻撃掩護作戦に従事した[160][161][162]。9月25日[163]、二水戦旗艦は「神通」から軽巡「五十鈴」に交代した[164][165]


続いて二水戦の大部分はガダルカナル島輸送に投入される[136][166]。外南洋部隊増援部隊[注 21]に編入された各艦・各隊は[167]、トラック泊地からビスマルク諸島へ移動する[168]。9月30日、ニューアイルランド島カビエンで水上機母艦「日進」と合流、同艦を護衛して「親潮」と「早潮」はショートランド泊地に到着した[168][169]。10月3日以降、第15駆逐隊は外南洋部隊増援部隊の僚艦と共にガ島輸送作戦(鼠輸送)に従事した[170][171]。 10月9日、第15駆逐隊司令佐藤寅治郎大佐指揮下の6隻(親潮、黒潮、早潮、龍田、野分、舞風)はショートランド泊地を出撃[170]日本陸軍第十七軍(司令官百武晴吉陸軍中将以下770名)をガ島に輸送する[172][173]。第十七軍司令部(司令官、作戦主任参謀)と大本営陸軍部参謀辻政信中佐など、陸軍の高級将校はラバウルで駆逐艦「五月雨」(水上機母艦「千歳」を護衛中)に乗艦、ショートランド泊地移動後に「親潮」へ移乗した[174][175]。輸送作戦は成功し、百武中将や辻中佐はガ島に上陸した[176][177]。10日、輸送部隊はショートランド泊地に戻った[178]


10月中旬のヘンダーソン基地艦砲射撃では[179][180]、第三戦隊司令官栗田健男中将の指揮下[181]、第三戦隊(金剛榛名)、第二水雷戦隊(旗艦五十鈴、第15駆逐隊〈親潮黒潮、早潮〉、第24駆逐隊〈海風江風涼風〉、第31駆逐隊〈高波巻波長波〉)として参加する[182][183]。 飛行場砲撃実施のため第15駆逐隊は10月11日付で前進部隊に復帰[184]、ショートランド泊地帰投後に即日出港する[178]。10月12日1230、洋上で第三戦隊以下と合流した[178]。10月13日から14日にかけて、ガダルカナル島ヘンダーソン飛行場砲撃をおこなう第三戦隊を護衛した[185]。15日夜、第五戦隊(妙高、摩耶)と第31駆逐隊がガ島海域に突入し、ヘンダーソン飛行場を砲撃する[186][187]。二水戦(五十鈴、第15駆逐隊)は射撃隊の警戒に従事した[188]。続いて支援部隊・前進部隊(指揮官近藤信竹第二艦隊司令長官)に所属して南太平洋海戦に参加する[189][190]。26日の海戦当日、「黒潮」と「早潮」は第二航空戦隊(司令官角田覚治少将)旗艦「隼鷹」を護衛しており[191]、空母ホーネットの追撃には参加していない[192]


11月1日、連合艦隊は損傷艦の修理とガ島輸送部隊増強をかねて兵力部署の再編を実施する[193](11月1日0821、聯合艦隊電令作第366号)[194]。第二水雷戦隊は外南洋部隊(指揮官三川軍一第八艦隊司令長官)に編入され、3日にトラック泊地を出発、5日11時30分ショートランド泊地に進出した[195]。外南洋部隊増援部隊の職務は第三水雷戦隊司令官から第二水雷戦隊司令官に引き継がれ[196]、三水戦はトラック泊地に帰投した[197][198]。 6日から7日にかけて、甲増援隊(第15駆逐隊〈親潮、早潮、陽炎〉、第24駆逐隊〈海風、江風、涼風〉、第31駆逐隊〈巻波、長波、高波〉、第10駆逐隊〈夕雲、風雲〉)は15駆司令の指揮下でガ島輸送を実施する[195]。空襲で「長波」と「高波」が小破したが、作戦は成功した[199][200]。大本営陸軍部の辻政信陸軍中佐は駆逐艦(陽炎)に乗艦し、ガ島から生還した[201][202]

詳細は「第三次ソロモン海戦」を参照


11月12日、第二水雷戦隊司令官田中頼三少将(輸送部隊指揮官)は二水戦旗艦を「五十鈴」から「早潮」に変更する[203]。同日15時30分、第15駆逐隊(早潮〔第二水雷戦隊旗艦〕、親潮〔第15駆逐隊司令〕、陽炎)[注 22]、第24駆逐隊(海風、江風、涼風)、第31駆逐隊(高波、巻波、長波)、収容隊(望月、天霧)、第一分隊(長良丸、宏川丸、佐渡丸、かんべら丸、那古丸)、第二分隊(山月丸、山浦丸、信濃川丸、鬼怒川丸、ぶりすべん丸、ありぞな丸)[204][205]はショートランド泊地を出撃、ガダルカナル島に向かう[206][207][208]。 だが飛行場砲撃にむかった挺身攻撃隊(比叡、霧島、第十戦隊、第四水雷戦隊)が夜間水上戦闘に巻き込まれる[209][210]。挺身輸送船団(駆逐艦11隻、輸送船11隻)[211]は連合艦隊の命令により13日午前3時に反転し、午前11時頃ショートランド泊地に戻った[11](第三次ソロモン海戦・12日の夜戦)[212][213]


11月13日朝、外南洋部隊主隊[注 23]と支援隊(旗艦「鈴谷」)[注 24]はショートランド泊地を出撃[215]、支援隊は同日深夜にガ島ヘンダーソン飛行場砲撃を敢行した[213][216]。 挺身輸送船団(駆逐艦11隻、輸送船11隻)は同日15時30分、ショートランド泊地を再出撃した[212][217]。11月14日朝、輸送船団はニュージョージア島東方海域で索敵機に発見される[217]。以後、F4Fワイルドキャット戦闘機SBDドーントレス急降下爆撃機TBFアヴェンジャー雷撃機、B-17爆撃機の波状攻撃を受けた[注 25][219][220]。零式艦上戦闘機のべ36機、零式水上観測機14機が上空警戒をおこなったが、敵機を阻止できなかった[217]。 輸送船6隻が沈没[221]、「佐渡丸」のみ損傷避退した[222][223][注 26]。外南洋部隊も空襲を受けて損害を受けた[注 27]。 第二水雷戦隊と残存輸送船4隻(宏川丸、山月丸、山浦丸、鬼怒川丸)は進撃を続行する[226][227](この時、第三次ソロモン海戦・14日の夜戦生起)[228][229]。増援部隊指揮官(田中少将)は、輸送船4隻をガダルカナル島タサファロング沿岸に突入・擱座させた[230][10]。 約2000名が上陸したが[231]、無傷で揚陸できた物資・糧食・重火器は少量であった[232][233]。またガ島から生還できた輸送船4隻の乗組員も、小数であった[234][235]。15日夜、第二水雷戦隊はショートランド泊地に帰投した[236]。第三次ソロモン海戦は日本軍の大敗で終わり[222]、ガダルカナル島撤退の決定的要因となった[237]

詳しいことは、「早潮 (駆逐艦)ウィキペディア」をご覧ください。 ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A9%E6%BD%AE_(%E9%A7%86%E9%80%90%E8%89%A6)
(wikiより)

71  早潮

早潮

71a

71b

71c



夏潮(なつしお/なつしほ)は[3]藤永田造船所で建造された日本海軍駆逐艦[4]陽炎型駆逐艦(一等駆逐艦)の6番艦である[5]1942年(昭和17年)2月8日夜、「夏潮」は上陸船団護衛中にスラウェシ島マカッサル沖において潜水艦に雷撃されて大破[6][7]。姉妹艦「黒潮」による曳航中の2月9日、浸水が進んで沈没した[8][9]。なお、本艦は陽炎型全19隻のうち最初の沈没艦となった[10]。艦名は海上自衛隊のなつしお型潜水艦「なつしお」、はるしお型「なつしお」に継承された。

艦歴
太平洋戦争前

駆逐艦「夏潮」は[11]、陽炎型駆逐艦の6番艦[5]藤永田造船所1937年(昭和12年)12月9日に起工[1]1938年(昭和13年)9月20日、日本海軍(米内光政海軍大臣)は舞鶴海軍工廠で建造の陽炎型4番艦を『親潮』、藤永田造船所の陽炎型6番艦(本艦)を『夏潮』、川崎造船所の陽炎型7番艦を『初風』と命名した[3][12]。 同日附で、各艦(親潮、夏潮、初風、伊号第十八潜水艦伊号第二十潜水艦伊号第二十二潜水艦第十一号掃海艇第十二号掃海艇)は、それぞれ艦艇類別等級表に登録[13]


「夏潮」は1939年(昭和14年)2月23日進水[1][10]。本艦の建造は陽炎型3番艦「黒潮」と同時に進められた[14]。同年4月11日、藤永田造船所で陽炎型11番艦「浦風」が起工[15]。同年10月18日、藤永田造船所で陽炎型14番艦「谷風」が起工[16]。藤永田造船所は陽炎型4隻(黒潮、夏潮、浦風、谷風)を同時に建造することになった。


1940年(昭和15年)1月27日、藤永田造船所で姉妹艦「黒潮」が竣工する[17]。 5月1日、日本海軍は睦月型駆逐艦5番艦皐月艦長[18]白露型駆逐艦8番艦山風艦長[19]吹雪型駆逐艦浦波艦長[20]等を歴任した野間口兼知中佐を夏潮艤装員長に任命した[21]。同日附で早潮艤装員長も任命されている[21]。 5月3日、藤永田造船所に夏潮艤装員事務所を設置する[22]


同年8月31日、「夏潮」は竣工した[1][2]浦賀船渠で建造していた陽炎型5番艦「早潮」と同日付の竣工であった[23]呉鎮守府籍。野間口艤装員長は制式に夏潮駆逐艦長(初代)となる[24]。夏潮艤装員事務所も撤去された[25]。 同日(8月31日)付で、日本海軍は舞鶴海軍工廠で竣工していた陽炎型4番艦「親潮」[26][27]と、完成したばかりの「夏潮」と「早潮」で第15駆逐隊を編制した[28]。 駆逐隊司令には、初春型駆逐艦2番艦子日初代艦長や吹雪型1番艦吹雪艦長[29]、第7駆逐隊司令[30][31]、特務艦野島特務艦長[32][33]等を歴任した植田弘之介大佐が任命されている[34]。編成直後の第15駆逐隊は、呉鎮守府練習駆逐隊となる[35]。 11月15日、第15駆逐隊は第二艦隊(司令長官古賀峯一中将)・第二水雷戦隊(司令官五藤存知少将)に編入[36][37]。同時に第16駆逐隊に所属していた姉妹艦「黒潮」が第15駆逐隊に編入され、15駆は定数4隻(黒潮、親潮、早潮、夏潮)を揃えた[36]

1941年(昭和16年)6月18日、第15駆逐隊司令は植田大佐から佐藤寅治郎大佐(前職第4駆逐隊司令)[38][注 1]に交代した。 6月23日、日向沖で実施された演習で駆逐艦3隻(夏潮、峯雲、黒潮)が絡む多重衝突事故が発生する[40]。第9駆逐隊主計長によれば、夜戦演習を終えたあとの演習魚雷回収中、朝霧のなかで速力21ノットを発揮する第9駆逐隊朝雲夏雲峯雲山雲)と、速力18ノットで航行中の第15駆逐隊が遭遇した[41]。 「夏潮」は「峯雲」[注 2]に衝突され、「夏潮」は右舷中央部に損傷被害をうけた[43][44]。さらに後進をかけた「峯雲」と、前進してきた「黒潮」が衝突する多重事故が発生した[45]。損傷艦は呉海軍工廠で修理をおこなった[46]。 9月1日、第二艦隊司令長官は古賀峯一中将から近藤信竹中将に交代[47]。9月6日、本艦は修理を完了する[48]。 9月15日、第二水雷戦隊司令官五藤存知少将は第六戦隊司令官へ転任[注 3]、後任の二水戦司令官は田中頼三少将(当時、第六潜水戦隊司令官)となった[49]。 10月20日、野間口(夏潮艦長)は第5駆逐隊司令を命じられ、長井純隆中佐(当時、海軍省人事局局員)が二代目夏潮駆逐艦長となる[50]。長井は初春型2番艦子日二代目艦長だった事がある(前の15駆司令植田大佐は、子日初代艦長)[29]。 10月25日、佐藤(15駆司令)は司令駆逐艦を「早潮」から「夏潮」に変更した[51]

南方作戦

詳細は「南方作戦」および「フィリピンの戦い (1941-1942年)」を参照


太平洋戦争
開戦時、陽炎型姉妹艦4隻(黒潮親潮早潮、夏潮)は引続き第15駆逐隊(司令佐藤寅治郎大佐)を編制、第二水雷戦隊(司令官田中頼三少将:旗艦神通)に所属し[52]、比島部隊(指揮官高橋伊望中将/第三艦隊司令長官)の指揮下にあった[53][54]。 当事の第二水雷戦隊は、第15駆逐隊以外に第8駆逐隊(大潮朝潮満潮荒潮)、第16駆逐隊(雪風時津風初風天津風)、第18駆逐隊(不知火陽炎)が所属していたが、第8駆逐隊は南方部隊本隊(指揮官近藤信竹第二艦隊司令長官)[55]、第18駆逐隊は南雲機動部隊警戒隊(指揮官大森仙太郎第一水雷戦隊司令官)に所属しており[56]、第二水雷戦隊本隊とは別行動である[54]

1941年(昭和16年)12月上旬より、第15駆逐隊(夏潮、黒潮、親潮、早潮)と第16駆逐隊(雪風、時津風、天津風、初風)をふくむ南方部隊(指揮官近藤信竹中将、第二艦隊司令長官)は、南方作戦にともなうミンダナオ島ダバオルソン島レガスピー[57]ホロ島ホロ攻略作戦[58][59]に参加した[4][60]。パラオ出撃時の「夏潮」は、空母「龍驤」を護衛していたという[61]。12月25日のホロ島攻略時[58]、夏潮陸戦隊員から戦死者1名を出す[62]。比島作戦は順調に進み、日本軍は制空権・制海権を掌握した[63][64]

詳細は「蘭印作戦」を参照


フィリピン方面の作戦が一段落すると比島部隊の大部分は蘭印部隊となり、東南アジアでの作戦に従事する[65][66]。12月30日、第五戦隊(司令官高木武雄少将。妙高、羽黒、那智)がダバオに到着し、所在先任指揮官は田中頼三第二水雷戦隊司令官から第五戦隊司令官に交代した[67]


1942年(昭和17年)1月4日、連合軍のB-17重爆数機がダバオのマララグ湾に飛来し、在泊艦隊に空襲をおこなう[68]。蘭印作戦に関係する多くの艦艇がダバオに集結しており[69]、重巡「妙高」(第五戦隊旗艦)が被弾して死傷者多数を出した[68]。「妙高」被弾の様子は「夏潮」からも見えたという[70]。第五戦隊旗艦(蘭印部隊旗艦)は「那智」に変更された[71]。 1月7日、蘭印部隊は蘭印作戦を開始した[72]。東方攻略部隊(支援隊〈那智、羽黒、雷、電〉[注 4]、第二護衛隊〈神通、第15駆逐隊、第16駆逐隊、第21掃海隊、第5駆潜隊、哨戒艇3隻、佐世保聯合陸戦隊〉、第一根拠地隊〈長良、駆潜艇・掃海隊〉、第二航空部隊〈第十一航空戦隊〔千歳、瑞穂〕、哨戒艇、佐世保聯合陸戦隊、漁船部隊〉、横須賀第一特別逐戦隊/海軍空挺部隊)はスラウェシ島北東部ミナハサ半島メナドを攻略する[73][74][75]。メナド攻略は日本海軍単独で行われた[76]。メナドへの空挺降下は日本軍最初の空挺作戦であったが、日本陸軍の申し入れにより、海軍側は空挺作戦の実施報道を延期した[77][78]。 1月12日夕刻、メナドのオランダ軍守備隊は同地を放棄した[79]。1月15日から16日にかけて、第15駆逐隊(夏潮、親潮、黒潮、早潮)、第16駆逐隊(初風、雪風、時津風、天津風)、第21掃海隊は索敵機からの「敵潜水艦30隻発見」の報告をうけて、モルッカ海において対潜掃蕩を実施した[80][81]。この「敵潜水艦30隻」はの誤認であった[82]

1月21日以降、東方攻略部隊はスラウェシ島ケンダリー攻略作戦を実施した[83][84]。本作戦は、日本海軍単独で実施された[85]。兵力はメナド攻略時とほぼ同じであったが[86]、第15駆逐隊と第16駆逐隊は第一根拠地部隊(司令官久保九次少将、旗艦「長良」)の指揮下に入った[87]。攻略部隊は十一航戦(千歳、瑞穂)による哨戒・直衛下で1月21日にバンカ泊地を出撃、24日朝ケンダリーに上陸した[88][87]。同日、ケンダリーから南方へ逃走する水上機母艦チャイルズ英語版」(USS Childs, AVD-1)[注 5]を日本軍偵察機が発見、各艦(長良、第15駆逐隊、第16駆逐隊)で追撃したが捕捉できなかった[87][89]。25日、攻略部隊はケンダリー飛行場の占領に成功する[90]。だが、軽巡洋艦「長良」と駆逐艦「初春」(第21駆逐隊)の衝突事故が発生する[90][89]。損傷艦・護衛部隊の離脱により兵力部署に混乱が生じた[91]


つづいて東方攻略部隊はアンボン島アンボンを攻略することになり[92][93]、第二護衛隊指揮官(二水戦司令官田中頼三少将)が攻略の直接指揮をとる[94][95]。第15駆逐隊と第16駆逐隊は、第二護衛隊(二水戦)の指揮下にもどった[96][97]。第8駆逐隊(大潮、朝潮、満潮、荒潮)も第二護衛隊に編入されていた[97]。 従来の第二航空部隊(千歳、瑞穂)に加えて[98]、南方部隊航空部隊の母艦航空部隊[99]第二航空戦隊蒼龍飛龍〉、重巡〈摩耶〉、第7駆逐隊〈〉、第27駆逐隊第2小隊〈有明夕暮〉、タンカー国洋丸)が作戦を支援した[96][100]。アンボン攻略に投入された日本陸軍は、第三十八歩兵団長伊藤武夫陸軍少将を指揮官とする東方支隊であった[101]。東方支隊の輸送船5隻は第8駆逐隊に護衛されて香港を出発、19日までにダバオに到着していた[102]。 1月末から2月初旬にかけて、日本軍はアンボン攻略作戦を実施した[103][104]。掃海隊と駆逐隊は、オランダ軍が敷設した機雷の掃海作業をおこなった[105][106]。2月3日、日本軍はアンボンを占領した[7]


2月1日の時点で、第15駆逐隊は司令駆逐艦/第1小隊1番艦夏潮、2番艦黒潮、第2小隊3番艦親潮、4番艦早潮という編制であった[107]。2月4日夜、第15駆逐隊はマカッサル攻略作戦に従事するためスターリング湾に到着した[108]

沈没

スラウェシ島南部マカッサルの攻略は[109]、日本海軍が単独で攻略することになった[110]。マカッサル攻略部隊指揮官は、第一根拠地隊司令官久保九次少将(旗艦「長良」)と定められた[111]。第二航空部隊(千歳、瑞穂)はマカッサル作戦に従事することになったが、第二護衛隊(神通、第7駆逐隊、第16駆逐隊)はアンボン作戦を続行した[112]ボルネオ島東岸バリクパパン攻略作戦に従事していた第四水雷戦隊の駆逐艦5隻(朝雲、峯雲、夏雲、海風江風)はマカッサル作戦支援のため、バリクパパン沖からマカッサル沖に移動した[56]。 2月5日、マカッサル攻略部隊(軽巡長良、第8駆逐隊〈大潮朝潮満潮荒潮〉、第15駆逐隊〈夏潮、黒潮、親潮、早潮〉、第21駆逐隊〈若葉子日初霜〉等)はセレベス島スターリング湾に集結した[112][113]。前日には蘭印部隊主隊[注 6]に所属していた駆逐艦「涼風」(第24駆逐隊)[112][114]が米潜水艦スカルピン(USS Sculpin, SS-191)の雷撃で大破しており[113]、船団はすでに連合国軍潜水艦に狙われていた。2月6日夕刻、マカッサル攻略船団はスターリング湾を出撃する[112][115]。その前路掃蕩に従事していた駆逐艦「満潮」(第8駆逐隊)はスカルピンに爆雷攻撃を行うが、スカルピンを取り逃がした(満潮報告では効果確実)[113]


2月8日、船団はマカッサルに接近するが天候不良となり、攻略部隊指揮官久保九次少将は指揮下部隊・各艦に天候不良時の上陸方法について指示を行う[6]。マカッサル入港時、攻略船団は各艦相互に通信をおこなって識別灯を点灯しており、対潜警戒をおろそかにしていた[116]。 同日22時15分[117][118]、輸送船団後尾にいた「夏潮」はスラウェシ島のマカッサル沖南緯5度36分9秒 東経119度6分6秒 / 南緯5.60250度 東経119.10167度 / -5.60250; 119.10167で米潜水艦S37(USS S-37,SS-142)の雷撃に遭った[4][119]。 魚雷1本が艦中央前部機械室左舷に命中し船体に大破孔ができ、上甲板は膨れ上がった[120]。また爆発と同時に九三式魚雷を装填していた2番魚雷発射管と測量儀が吹き飛び、被害箇所に近い位置にあった内火艇や探照灯も破壊された[121]。これにより前部機械室と第三缶室が浸水、主機械破壊により航行不能となり左に2度傾斜したが、この時点では沈没せず僚艦「黒潮」の曳航でスラウェシ島ケンダリに退避する事になった[122]。 佐藤(第15駆逐隊司令)は司令駆逐艦を「夏潮」から「親潮」に変更する[123]。2隻(黒潮、夏潮)を「親潮」が護衛した[124]。黒潮駆逐艦長によれば、当初は機雷による被害だと考えていたという[8]。マカッサル上陸作戦そのものは成功した[56][116][125]


2月9日7時15分、「親潮」(第15駆逐隊司令)より緊急電が発信された[126]。タナケナ島の南で風向が急変、急速に浸水が進んだ[124]。手の施しようがなく[8]、「夏潮」は次第に中央部が沈降し、つづいて艦首と艦尾を持ち上げV字型に折れ曲がり、前後に分断[127]。8時43分に沈没した[128]。乗員は「親潮」と「黒潮」に収容された[128]。沈没時点の戦死者は8名、重傷者6名[129]。沈没地点南緯5度53分 東経119度26分 / 南緯5.883度 東経119.433度 / -5.883; 119.433[4]。曳航失敗の原因について夏潮駆逐艦長は「被害認定が甘かった」と回想している[124]


なお『このまま沈めてしまうのはかわいそうである。はなばなしく自爆して最後を飾ろう』という乗組員のはからいにより、爆雷に細工が行われた[130]。水雷科員は投下器に装填中の爆雷全てを起爆深度を30mに設定、船体水没後、「夏潮」は巨大な水柱を上げ自爆した[130]。僚艦に救助された夏潮乗員はセレベス島ケンダリに入港後、日本海軍初の生き残り[注 7]として珍しがられ各方面から見舞い品が届き、親切にされたという[131]。その後、玄洋丸と建洋丸を乗り継いで内地へ帰投した[132]。第二水雷戦隊司令官田中頼三少将(旗艦神通)は夏潮乗組員達に対し『開戦以来二ヶ月余ニ亘リ、艦長以下乗員一同ノ労苦ヲ多トシ、戦没セル勇士ノ英霊ニ衷心敬意ヲ表スルト共ニ、帰還後更ニ新任務ニ就カントスル諸子ノ自重自愛ヲ祈ル』との電文を送った[133]。長井(夏潮艦長)は2月14日附で呉鎮守府附となり、夏潮駆逐艦長の職務を解かれた[134]


駆逐艦「夏潮」は2月28日、 第15駆逐隊[135]、 帝国駆逐艦籍[136]、 陽炎型駆逐艦[137]、 それぞれから除籍された。夏潮残務処理は3月3日から呉海兵団内でおこなわれ[138]4月6日に終了した[139]。 第15駆逐隊は7月20日に陽炎型1番艦「陽炎」を編入するまでの間[140]、3隻編制で行動することになった[130][141]


詳しいことは、「夏潮 (駆逐艦)ウィキペディア」をご覧ください。 ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%8F%E6%BD%AE_(%E9%A7%86%E9%80%90%E8%89%A6)

71  夏潮 (駆逐艦)

夏潮

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71b

71c



早蕨(さわらび)は、日本海軍駆逐艦若竹型駆逐艦の4番艦である。

艦歴
1923年(大正12年)9月1日 - 進水(浦賀船渠建造)。進水時の名称は「第八駆逐艦」。

1924年(大正13年)4月1日 - 「第八号駆逐艦」に艦名変更。

  ・7月24日 - 竣工

1928年(昭和3年)8月1日 - 「早蕨」に艦名変更。

1932年(昭和7年) 12月5日 - 台湾海峡基隆北方120浬(推定)を荒天航行中に行方不明となった。竣工以来の上部重量増加による復元性悪化を原因とする転覆事故と推定された。

歴代艦長
※『日本海軍史』第9巻・第10巻の「将官履歴」及び『官報』に基づく。階級は就任時のもの。

艤装員長
・柳原信男 少佐:1923年8月13日[1] -

駆逐艦長
・柳原信男 少佐:1924年7月24日 - 1925年12月1日[2]

須賀彦次郎 少佐:1925年12月1日 - 1927年1月20日[3]

・(兼)藤田類太郎 少佐:1927年1月20日 - 6月20日[4]

・(兼)勝野実 少佐:1927年6月20日 - 8月10日

・手束五郎 少佐:1927年8月10日 - 1929年11月1日

秋山輝男 少佐:1929年11月1日 - 1930年11月20日

・(兼)橘正雄 少佐:1930年11月20日 - 1931年10月5日[5]

・門田健吾 大尉:1931年10月5日[5] - 1932年12月5日殉職

脚注
1. 『官報』第3312号、大正12年8月14日。
2. 『官報』第3982号、大正14年12月2日。
3. 『官報』第18号、昭和2年1月21日。
4. 『官報』第142号、昭和2年6月21日。
5. a b 『官報』第1432号、昭和6年10月6日。


参考文献
片桐大自『聯合艦隊軍艦銘銘伝』普及版、光人社、2003年。

・海軍歴史保存会『日本海軍史』第7巻、第9巻、第10巻、第一法規出版、1995年。

・『官報

(wikiより)

70 駆逐艦早蕨

早蕨

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70b



呉所管看護長・看護婦・看護手・看護の墓。

69a

69b



吉野(よしの)は、日本海軍巡洋艦二等巡洋艦[2][3]吉野型防護巡洋艦1番艦である。設計はフィリップ・ワッツが手掛けた。 艦名は奈良県の吉野山に由来する[4]日清戦争で活躍[4][5]日露戦争に従事中の1904年(明治37年)5月15日、味方艦「春日」と衝突して沈没[6][7][8]

艦歴

完成当時、世界最速の軍艦[9][10]1892年明治25年)3月1日、起工[4]。8月30日、「吉野」と命名される[2][11]。12月20日、進水[4]1893年(明治26年)9月30日、竣工[4]及び領収[12]イギリスから回航する時にのちに艦長となる河原要一とともに回航委員として秋山真之も同行した。1894年(明治27年)3月、に到着[13][4]

日清戦争においては、第一遊撃隊(司令官坪井航三少将)の旗艦であった(吉野艦長河原要一大佐)[4][5]豊島沖海戦黄海海戦で活躍[4]。『吉野桜に武士の姿』と謳われたという[5]

1898年(明治31年)3月21日、日本海軍は海軍軍艦及び水雷艇類別標準を制定し、3,500トン以上7,000トン未満の巡洋艦を「二等巡洋艦」と定義[14]。該当する9隻(浪速高千穂厳島松島橋立吉野高砂笠置千歳)が二等巡洋艦に類別された[15][3]


1903年(明治36年)4月、神戸沖で挙行された大演習観艦式に参列、第二列に配置された[16]。12月28日、常備艦隊が解隊され、戦艦を中心とする第一艦隊(司令長官:東郷平八郎海軍中将、旗艦:戦艦三笠)と巡洋艦が主体の第二艦隊(司令長官:上村彦之丞海軍中将、旗艦:装甲巡洋艦出雲)が設置される。第一・第二艦隊で連合艦隊(司令長官:東郷中将)を構成した。吉野は第一艦隊隷下の第三戦隊(司令官:出羽重遠海軍少将、防護巡洋艦《千歳笠置吉野高砂》)に配属される[17]


日露戦争
においては、第三戦隊所属艦として旅順口攻撃旅順港閉塞作戦)に従事し、任務を終えて旅順沖から裏長山列島へ向かう途中の1904年(明治37年)5月15日午前1時40分[18][5]千歳(出羽少将旗艦)・吉野春日八雲富士という編制の日本艦隊は濃霧に遭遇し、「春日」が「吉野」左舷後部に衝突する[4][5]。 本艦は吉野艦長佐伯誾大佐以下三百余名(将校31名、下士官以下286名、他)を乗せたまま沈没した[6][5]。戦死者319名、生存者約90名(計104名)[19][6][5]。 同日には戦艦2隻(初瀬八島)も機雷により沈没[20][21][7]5月15日は日本海軍厄災の日となった[22][23]


1905年
(明治38年)6月15日、「吉野」および「高砂」等は軍艦籍[24]および艦艇類別等級表(軍艦及び水雷艇類別等級表)より除籍された[25][26]

兵装

砲は全て防盾付きで上甲板に置かれており、アームストロング 40口径15.2cm単装速射砲は司令塔の前に1基、司令塔両脇の船橋の横に片舷1基ずつ両舷で2基、艦後部に1基。アームストロング 40口径12cm単装速射砲は片舷4基ずつ両舷で8基。片舷に5基並んでいる砲の内、先頭が15.2cm砲である。


「吉野」は、日本海軍において初めて無煙火薬の導入と測距儀(バー・アンド・ストラウド社製(海軍呼称:武式)1.5メートル測距儀)を搭載した艦であった[27][28]

年譜
1893年9月30日 - イギリス ウィリアム・アームストロングにて竣工。

1894年7月25日 - 豊島沖海戦に参加。

1894年9月17日 - 黄海海戦に参加。

1904年5月15日 - 装甲巡洋艦「春日」の艦首(衝角)が左舷中央部に衝突し沈没した。

1905年5月21日 - 除籍。

艦長

※『日本海軍史』第9巻・第10巻の「将官履歴」及び『官報』に基づく。

回航委員長
河原要一 大佐:1893年5月20日 - 1893年6月7日

艦長
・河原要一 大佐:1893年6月7日 - 1895年6月4日
諸岡頼之 大佐:1895年6月4日 - 1896年11月26日
・島崎好忠 大佐:1896年11月26日 - 1897年12月1日
植村永孚 大佐:1897年12月1日 - 1898年6月13日
・丹治寛雄 大佐:1898年6月13日 - 1899年6月17日
・大井上久麿 大佐:1899年6月17日 - 1900年2月13日
酒井忠利 大佐:1900年2月13日 - 1901年1月21日
寺垣猪三 大佐:1901年2月4日 - 1901年3月13日
・松本有信 大佐:1901年4月23日 - 1902年4月22日
佐伯誾 大佐:1903年4月12日 - 1904年5月15日戦死

同型艦
高砂


詳しいことは、「吉野 (防護巡洋艦)ウィキペディア」をご覧ください。 ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%89%E9%87%8E_(%E9%98%B2%E8%AD%B7%E5%B7%A1%E6%B4%8B%E8%89%A6)
(wikiより)

68 軍艦吉野

吉野

68a

68b



第参号輸送艦について

第参号輸送艦は第一号型輸送艦の1艦である。


海洋に囲まれた日本は、外征ま場合には陸上兵力の洋上輸送が必要であり、このため日本陸軍は戦前より、大発動艇(上陸用舟艇)や神州丸(揚陸艦)のような上陸作戦支援艦艇を整備していた。 日本海軍においても、旧式駆逐艦を転用した哨戒艇の艦尾にスリップ・ウェイを設けて、大発を発進させる機能を持たせ、緒戦の島嶼攻略戦に使用した、 1942年(昭和17年)8月に始まったガダルカナル戦では敵制空権下での兵員物資輸送が実施された。 これは、夜間に駆逐艦などの高速艦艇で突入し、夜明けまでに敵制空権外に脱出する任務であり、多くの駆逐艦を喪失することとなった。 このような背景から、高速大量輸送ができる輸送専門の艦艇が要求され、1943年(昭和18年)中期ごろに軍令部より2種の輸送艦の計画要求があり、これにより出現したのが第一号型輸送艦(一等輸送艦)および第百一号型輸送艦(二等輸送艦)である。


第一号型輸送艦の当初案では、松型駆逐艦を1軸にして、空いたスペースを船倉として物件搭載にあてようとしたものであったが、新しい艦を計画したほうが得策であるとされ、新規計画となった。 設計にあたっては、戦時急造に適するように簡易化につとめ、兵装や艤装も最低限にとどめられた。 また、船体線図も簡易型が採用され、ブロック建造方式に適するように考慮されて、電気溶接が大幅に使用された。 本型は艦尾にスリップ・ウェイを設けて、ここから兵員物資を搭載した大発を発進させる仕組みで、このための喫水調整用タンクや注排水装置を有した。 搭載できるのは14m大発4隻、補給物件260トンであった。 兵装は12.7cm連装高角砲1基、25mm3連装機銃15挺(後に増強)、爆雷18個を搭載した。


46隻が計画され、21隻が完成し、16隻が戦没した。 竣工後に充分な訓練が行われないまま南方方面の輸送作戦に投入され、その多くが極めて短期間に失なわれた。 第三号輸送艦は竣工後78日で沈没したが、短いものでは28日(十四号、十五号)というものがある。

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藤森稲荷跡


詳細不明。


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