本牧jack『意外と身近にある歴史散歩』日々是好日 心灯 頬笑

本牧Jackで御座います
小生の拙ブログ『意外と身近にある歴史散歩』日々是好日 心灯 頬笑に御訪問頂き誠に有難う御座います。
歴史ドラマが流行っている昨今、身近に有って気が付かなかったりする様な物を取り上げたりしています。
たまに『 大人数で取材しているのか? 』との質問を戴きますが、小生と相方の二人三脚で御座います。
出来るだけ続けたいと思っていますが 膝・耳に問題が有って、いつまで出来るやら・・・説明も、やたら長いものから あっさりしたものまで有りますが、御付き合いの程 宜しく御願い致します。
御注意 . 少ないですが生前に建てられた『 生前墓 』の記事も有ります。 ※ 申し訳御座いませんが「画像の転用」は禁止とさせて頂きます。 コメントは原則公開させていただいております 質問等に対してはブログ記事で返信させていただきます 他の方法で連絡を取り合う等一切しません 場合によっては、「IPブロック」しますがブロックした場合解除する事は有りませんので宜しくお願いします。

2022/08

鈴木英子句碑。

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第二十一世庵主・草間時彦句碑


大磯に一庵のあり西行忌


草間時彦 ( くさま - ときひこ ) 在庵十五年 平成十五年五月二十六日没


平成 17年 ( 2005 )。


〇 草間時彦
草間 時彦(くさま ときひこ、1920年大正9年)5月1日 - 2003年平成15年)5月26日)は、神奈川県出身(実際は東京生まれ)の俳人

経歴

東京府に生まれ、神奈川県鎌倉で育つ。祖父・草間時福は愛媛県松山英学校(のちの松山中学)の校長を務めた後、東京で民権派ジャーナリストとして活躍した人物で、「渋柿」の俳人でもあった。父草間時光水原秋桜子に師事した俳人で鎌倉市長を務めたこともある。


結核のため20歳で学業を断念、旧制武蔵高等学校中退。逗子にて療養し文学に熱中。1949年、水原秋桜子に師事して俳句を始める。同年結婚。1951年、三井製薬に入社、25年の間サラリーマンとして勤める。1953年、秋桜子の「馬酔木」を退会、55年、復刊した「」に入会し石田波郷に師事。1955年、第2回鶴賞受賞。俳句のほか随筆、評論でも健筆をふるう。


1975年、俳人協会常務理事。1976年、「鶴」同人を辞し無所属。1978年、俳人協会理事長に就任(93年まで)、俳句文学館の建設に尽力。1987年、鴫立庵第21世庵主。同年に訪米、以後たびたび欧米を訪れ、、国際俳句交流協会顧問も務めた。1999年、句集『盆点前』により第14回詩歌文学館賞、2002年、句集『瀧の音』により第37回蛇笏賞受賞。2003年5月26日、腎不全により鎌倉の病院にて死去。


代表句に「冬薔薇や賞与劣りし一詩人」「大粒の雨が来さうよ鱧の皮」など。勤め人としての自身の生活を詠んだ句が「サラリーマン俳句」と呼ばれ、また無所属となって以降好んで作った料理に関する句が「グルメ俳句」と呼ばれ親しまれた。句風は軽妙洒脱ながら、その底流には病や戦争、肉親との死別を経たことによる、死を近しく感じて生きる態度がある。晩年は久保田万太郎風のしみじみとした句境に至った(『現代俳句大事典』「草間時彦」より)。

句集

序数句集
・『中年』 竹頭社、1965年

・『淡酒』 私家版、1971年

・『櫻山』 永田書房、1974年

・『朝粥』 東京美術、1979年

・『夜咄』 東京美術、1986年

・『典座』 永田書房、1992年

・『盆点前』 永田書房、1998年

・『瀧の音』 永田書房、2002年

選集など
・『草間時彦集』 俳人協会〈自註現代俳句シリーズ〉、1981年

・『花神コレクション〔俳句〕 草間時彦』 花神社、1994年

・『草間時彦集』 俳人協会〈自註現代俳句シリーズ続編〉、1998年

・『池畔』 ふらんす堂〈ふらんす堂文庫〉、2003年

・『草間時彦集』 俳人協会〈脚註名句シリーズ〉、2007年

参考文献
・草間時彦 『池畔』 ふらんす堂〈ふらんす堂文庫〉、2003年

・『現代俳句大事典』三省堂、2005年

外部リンク
草間時彦の俳句(現代俳句人名事典)

増殖する俳句歳時記-草間時彦

鴫立庵と草間時彦(広渡敬雄。週刊俳句)

俳句オデッセイ-草間時彦 - ウェイバックマシン(2019年11月1日アーカイブ分)(林誠司)

草間時彦句集『池畔』をめぐって - ウェイバックマシン(2014年5月12日アーカイブ分)(吉野裕之
(wikiより)

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天條とし子歌碑


平成 6年 ( 1994 )。

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清虚洞一絃琴碑


平成 5年 ( 1993 )。

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西行上人歌碑


昭和 26年 ( 1951 )。

〇 西行
西行
(さいぎょう、元永元年〈1118年〉 - 文治6年2月16日1190年3月31日〉)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての日本武士であり、僧侶歌人。俗名は佐藤 義清(さとう のりきよ)[1]。憲清、則清、範清とも記される。西行は号であり僧名は円位[1]。後に大本房、大宝房、大法房とも称す。

和歌は約2300首が伝わる[2]勅撰集では『詞花集』に初出(1首)。『千載集』に18首、『新古今集』に94首(入撰数第1位)をはじめとして二十一代集に計265首が入撰。家集に『山家集』(六家集の一)、『山家心中集』(自撰)、『聞書集』。その逸話や伝説を集めた説話集に『撰集抄』『西行物語』があり、『撰集抄』については作者と目される。

生涯

誕生は元永元年(1118年)[1]。父は左衛門尉佐藤康清、母は監物源清経女である。


父系は藤原魚名藤原北家藤原房前の子)を祖とする魚名流藤原氏[1]佐藤氏は義清の曽祖父・公清の代より称す。祖父の佐藤季清も父の康清も衛府に仕え、紀伊国田仲荘(和歌山県紀の川市、旧那賀郡打田町竹房)を知行地としていた[1]。母系についてはよくわかっていないが、源清経については考証があり文武に秀でた人物だったとされている[1]


祖父の代から徳大寺家に仕えており、『古今著聞集』の記述から自らも15〜16歳頃には徳大寺実能に出仕していた[1]。『長秋記』によると保延元年(1135年)に左兵衛尉(左兵衛府第三等官)に任ぜられ、さらに鳥羽院下北面武士としても奉仕していた(同時期の北面武士に平清盛がいる)[1]。この頃、徳大寺公重の菊の会に招かれ、藤原宗輔が献上した菊の歌を詠んでおり、既に歌人としての評価を得ていたとされる[1]


保延6年(1140年)10月、出家して西行法師と号した(『百錬抄』第六)[1]。出家後は東山、嵯峨、鞍馬など諸所に草庵を営んだ[1]。30歳頃に陸奥に最初の長旅に出る[1]。その後、久安4年(1149年)前後に高野山和歌山県高野町)に入った。


仁安3年(1168年)には崇徳院白峯陵を訪ねるため四国へ旅した(仁安2年とする説もある)[3]。これは江戸時代上田秋成によって『雨月物語』中の一篇「白峯」に仕立てられている。また、この旅は弘法大師の遺跡巡礼も兼ねていたようである[3]


高野山に戻り、治承4年(1180年)頃に伊勢国に移った[3]文治2年(1186年)、東大寺再建の勧進のため2度目の陸奥行きを行い藤原秀衡と面会[3]。この途次に鎌倉源頼朝に面会し、歌道や武道の話をしたことが『吾妻鏡』に記されている。


伊勢国に数年住まった後、河内国石川郡弘川(中世以降の同郡弘川村、現在の大阪府南河内郡河南町弘川[gm 1])にある弘川寺(龍池山瑠璃光院弘川寺)[gm 2]に庵居し、建久元年(1190年)にこの地で入寂した[3]享年73。かつて「願はくは花の下にて春死なん そのきさらぎの望月のころ」と詠んだ願いに違わなかったとして、その生きざまが藤原定家慈円の感動と共感を呼び、当時名声を博した。

生誕の地
西行の生誕地は佐藤氏の支配した紀伊国田仲荘(紀の川市)であるとする説と、佐藤氏の生活の基盤は京都にあり京都が生誕地であるという説がある[4]

出家の動機

友人の急死説
『西行物語絵巻』(作者不明、二巻現存。徳川美術館収蔵)では、親しい友の死を理由に北面を辞したと記されている。

失恋説
・『源平盛衰記』に、高貴な上臈女房と逢瀬を持ったが「あこぎ」の歌を詠みかけられて失恋したとある。
・近世初期成立の『西行の物かたり』(高山市歓喜寺蔵)には、御簾の間から垣間見えた女院の姿に恋をして苦悩から死にそうになり、女院が情けをかけて一度だけ逢ったが、「あこぎ」と言われて出家したとある。
瀬戸内寂聴は自著『白道』の中で待賢門院への失恋説をとっているが、美福門院説もあるとしている。
五味文彦院政期社会の研究』(1984年)では恋の相手を上西門院に擬している。

妻子・兄弟

妻子の存在については否定説と肯定説がある[1]。『尊卑分脈』では「権律師隆聖」という男子があるとする[1]。また『西行物語絵巻』では女子があるとする[1]西行の娘を参照)。


さらに『尊卑分脈』には兄弟に仲清がみえるが西行の兄とする説と弟とする説がある[1]

評価

後鳥羽院御口伝』に「西行はおもしろくてしかも心ことに深く、ありがたく出できがたきかたもともにあひかねて見ゆ。生得の歌人と覚ゆ。おぼろげの人、まねびなどすべき歌にあらず。不可説の上手なり」とあるごとく、藤原俊成とともに新古今の新風形成に大きな影響を与えた歌人であった。歌風は率直質実を旨としながら、強い情感をてらうことなく表現するもので、季の歌はもちろんだが恋歌や雑歌に優れていた。院政前期から流行し始めた隠逸趣味、隠棲趣味の和歌を完成させ、研ぎすまされた寂寥、閑寂の美運子をそこに盛ることで、中世的叙情を準備した面でも功績は大きい。また俗語や歌語ならざる語を歌の中に取り入れるなどの自由な詠み口もその特色で、当時の俗謡や小唄の影響を受けているのではないかという説もある。後鳥羽院が西行をことに好んだのは、こうした平俗にして気品すこぶる高く、閑寂にして艶っぽい歌風が、彼自身の作風と共通するゆえであったのかも知れない。


和歌に関する若年時の事跡はほとんど伝わらないが、崇徳院歌壇にあって藤原俊成と交を結び、一方で俊恵が主催する歌林苑からの影響をも受けたであろうことはほぼ間違いないと思われる。出家後は山居や旅行のために歌壇とは一定の距離があったようだが、文治3年(1187年)に自歌合『御裳濯河歌合』を成して俊成の判を請い、またさらに自歌合『宮河歌合』を作って、当時いまだ一介の新進歌人に過ぎなかった藤原定家に判を請うたことは特筆に価する(この二つの歌合はそれぞれ伊勢神宮の内宮と外宮に奉納された)。


しばしば西行は「歌壇の外にあっていかなる流派にも属さず、しきたりや伝統から離れて、みずからの個性を貫いた歌人」として見られがちであるが、これは明らかに誤った西行観であることは強調されねばならない。あくまで西行は院政期の実験的な新風歌人として登場し、藤原俊成とともに『千載集』の主調となるべき風を完成させ、そこからさらに新古今へとつながる流れを生み出した歌壇の中心人物であった。


後世に与えた影響は極めて大きい。後鳥羽院をはじめとして、宗祇芭蕉にいたるまでその流れは尽きない。特に室町時代以降、単に歌人としてのみではなく、旅の中にある人間として、あるいは歌と仏道という二つの道を歩んだ人間としての西行が尊崇されていたことは注意が必要である。宗祇、芭蕉にとっての西行は、あくまでこうした全人的な存在であって、歌人としての一面をのみ切り取ったものではなかったし、『撰集抄』『西行物語』をはじめとする「いかにも西行らしい」説話や伝説が生まれていった所以もまたここに存する。例えばに『江口』があり、長唄に『時雨西行』があり、あるいはごく卑俗な画題として「富士見西行」があり、各地に「西行の野糞」なる口碑が残っているのはこのためである。

逸話
出家

出家の際に衣の裾に取りついて泣く子(4歳)を縁側から蹴落として家を捨てたという逸話が残る。この出家に際して以下の句を詠んだ。


「惜しむとて 惜しまれぬべき此の世かな 身を捨ててこそ 身をも助けめ」

崇徳院

ある時(1141年以降)西行にゆかりの人物(藤原俊成説がある)が崇徳院の勅勘を蒙った際、院に許しを請うと崇徳院は次の歌を詠んだ(山家集)。


最上川 つなでひくとも いな舟の しばしがほどは いかりおろさむ」


意:最上川では上流へ遡行させるべく稲舟をおしなべて引っ張っていることだが、その稲舟の「いな」のように、しばらくはこのままでお前の願いも拒否しよう。舟が碇を下ろし動かないように。

対して西行は次の返歌を詠んだ。


「つよくひく 綱手と見せよ もがみ川 その稲舟の いかりをさめて」


意:最上川の稲舟の碇を上げるごとく、「否」と仰せの院のお怒りをおおさめ下さいまして、稲舟を強く引く綱手をご覧下さい(私の切なるお願いをおきき届け下さい)。

旅路において

西行戻し

各地に「西行戻し」と呼ばれる逸話が伝えられている。共通して、現地の童子にやりこめられ恥ずかしくなって来た道を戻っていく、というものである。

松島「西行戻しの松」

秩父「西行戻り橋」

日光「西行戻り石」

甲駿街道「西行峠」


鴫立沢

奥州下りの折、神奈川県中郡大磯町の旧宿場町江戸時代における相模国淘綾郡大磯宿幕藩体制下の相州小田原藩知行大磯宿)の西端(江戸時代における淘綾郡西小磯村付近、幕藩体制下の寺社領相州西小磯村付近、鎌倉時代における相摸国餘綾郡内)の海岸段丘を流下する渓流にて[5][gm 3]、下記を詠んだと伝えられる[6]

原歌》 ※字は旧字体振り仮名歴史的仮名遣。振り仮名とスペースは現代の補足。 
心なき 身にもあはれは しられけり しぎさはの 秋のゆふぐれ
口語解釈例1:一般的解釈》 角括弧[ ]内は補足文。
[私のような]風流を解する心まで捨てたはずの出家の身であっても、しみじみとした趣は自然と感じられるものだなあ。鴫(しぎ)が飛び立つ夕暮れよ。
《口語解釈例2:白洲正子の解釈》 角括弧[ ]内は補足文。
物の哀れを知ることが不十分な[私のような]身であっても、しみじみとした趣は自然と感じられるものだなあ。鴫が飛び立つ沢の夕暮れよ。


「鴫立沢(しぎたつさわ、旧字体表記:鴫立澤、古訓:しぎたつさは)」は「鴫の飛び立つ沢」を意味するだけの、ありふれた地名であったろうが、いつしかこの地は西行の歌にちなんでその名で呼ばれるようになったと思われる。時を下り、伝承にあやかって江戸時代初期の寛永年間(1624-1645年間)に結ばれた「鴫立庵」が今も残る[7]

伊勢神宮で詠んだとされる歌

伊勢神宮を参拝した時に詠んだとされる歌は、日本人の宗教観を表す一例に挙げられる。古来、西行の歌か否か真偽のほどが問われていた歌であるが、延宝2年(1674年)板本系統の『西行上人集』に収録されている。

何事なにごとの おはしますをば しらねども かたじけなさに なみだこぼるる  ──『西行上人集』

源頼朝との出会い
・頼朝に弓馬の道のことを尋ねられて、「一切忘れはてた」ととぼけたといわれている。
・頼朝から拝領した純銀の猫を、通りすがりの子供に与えたとされている。

晩年の歌
以下の歌を生前に詠み、その歌のとおり、陰暦2月16日釈尊涅槃の日に入寂したといわれている。

ねかはくは 花のしたにて 春しなん そのきさらきの もちつきのころ  ──『山家集

ねかはくは はなのもとにて 春しなん そのきさらきの 望月の比  ──『続古今和歌集

花の下を“した”と読むか“もと”と読むかは出典により異なる。なお、この場合の花とはのことである。その欲望の意味するところは、下の句の、如月(きさらぎ)の満月(望月)の頃つまり涅槃の頃に朽ち果てたいということである。(あくまで日本仏教の文脈における後世の解釈)

伝説

撰集抄』に西行が「人造人間を作ろう」としていた記述がある。“鬼の、人の骨を取集めて人に作りなす例、信ずべき人のおろ語り侍りしかば、そのままにして、ひろき野に出て骨をあみ連らねてつくりて侍りしは〜”。


<要約>(西行が)高野山に住んでいた頃、野原にある死人の体を集め並べて骨に砒霜(ひそう)という薬を塗り、反魂の術を行い人を作ろうとした。しかし見た目は人ではあるものの血相が悪く、声もか細く魂も入っていないものが出来てしまい、高野山の奥に捨ててしまったという記述がある。伏見前中納言師仲に会い作り方を教わるものの、つまらなく思い、その後、人を作ることはなかった[8]


西行の子・隆聖の子孫・佐藤正岑の子が長束正家であるという伝説がある。

詳しいことは、「西行ウィキペディア」をご覧ください。 ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E8%A1%8C
(wikiより)

024   西行

西行

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025b

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西行銀猫碑


源 頼朝より貰い受けた銀猫の置物を、門外で遊んでいた子供に与えたという故事にちなみ、無我無欲の心をもつよう建てられた。

〇 西行
西行
(さいぎょう、元永元年〈1118年〉 - 文治6年2月16日1190年3月31日〉)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての日本武士であり、僧侶歌人。俗名は佐藤 義清(さとう のりきよ)[1]。憲清、則清、範清とも記される。西行は号であり僧名は円位[1]。後に大本房、大宝房、大法房とも称す。

和歌は約2300首が伝わる[2]勅撰集では『詞花集』に初出(1首)。『千載集』に18首、『新古今集』に94首(入撰数第1位)をはじめとして二十一代集に計265首が入撰。家集に『山家集』(六家集の一)、『山家心中集』(自撰)、『聞書集』。その逸話や伝説を集めた説話集に『撰集抄』『西行物語』があり、『撰集抄』については作者と目される。

生涯

誕生は元永元年(1118年)[1]。父は左衛門尉佐藤康清、母は監物源清経女である。


父系は藤原魚名藤原北家藤原房前の子)を祖とする魚名流藤原氏[1]佐藤氏は義清の曽祖父・公清の代より称す。祖父の佐藤季清も父の康清も衛府に仕え、紀伊国田仲荘(和歌山県紀の川市、旧那賀郡打田町竹房)を知行地としていた[1]。母系についてはよくわかっていないが、源清経については考証があり文武に秀でた人物だったとされている[1]


祖父の代から徳大寺家に仕えており、『古今著聞集』の記述から自らも15〜16歳頃には徳大寺実能に出仕していた[1]。『長秋記』によると保延元年(1135年)に左兵衛尉(左兵衛府第三等官)に任ぜられ、さらに鳥羽院下北面武士としても奉仕していた(同時期の北面武士に平清盛がいる)[1]。この頃、徳大寺公重の菊の会に招かれ、藤原宗輔が献上した菊の歌を詠んでおり、既に歌人としての評価を得ていたとされる[1]


保延6年(1140年)10月、出家して西行法師と号した(『百錬抄』第六)[1]。出家後は東山、嵯峨、鞍馬など諸所に草庵を営んだ[1]。30歳頃に陸奥に最初の長旅に出る[1]。その後、久安4年(1149年)前後に高野山和歌山県高野町)に入った。


仁安3年(1168年)には崇徳院白峯陵を訪ねるため四国へ旅した(仁安2年とする説もある)[3]。これは江戸時代上田秋成によって『雨月物語』中の一篇「白峯」に仕立てられている。また、この旅は弘法大師の遺跡巡礼も兼ねていたようである[3]


高野山に戻り、治承4年(1180年)頃に伊勢国に移った[3]文治2年(1186年)、東大寺再建の勧進のため2度目の陸奥行きを行い藤原秀衡と面会[3]。この途次に鎌倉源頼朝に面会し、歌道や武道の話をしたことが『吾妻鏡』に記されている。


伊勢国に数年住まった後、河内国石川郡弘川(中世以降の同郡弘川村、現在の大阪府南河内郡河南町弘川[gm 1])にある弘川寺(龍池山瑠璃光院弘川寺)[gm 2]に庵居し、建久元年(1190年)にこの地で入寂した[3]享年73。かつて「願はくは花の下にて春死なん そのきさらぎの望月のころ」と詠んだ願いに違わなかったとして、その生きざまが藤原定家慈円の感動と共感を呼び、当時名声を博した。

生誕の地
西行の生誕地は佐藤氏の支配した紀伊国田仲荘(紀の川市)であるとする説と、佐藤氏の生活の基盤は京都にあり京都が生誕地であるという説がある[4]

出家の動機

友人の急死説
『西行物語絵巻』(作者不明、二巻現存。徳川美術館収蔵)では、親しい友の死を理由に北面を辞したと記されている。

失恋説
・『源平盛衰記』に、高貴な上臈女房と逢瀬を持ったが「あこぎ」の歌を詠みかけられて失恋したとある。
・近世初期成立の『西行の物かたり』(高山市歓喜寺蔵)には、御簾の間から垣間見えた女院の姿に恋をして苦悩から死にそうになり、女院が情けをかけて一度だけ逢ったが、「あこぎ」と言われて出家したとある。
瀬戸内寂聴は自著『白道』の中で待賢門院への失恋説をとっているが、美福門院説もあるとしている。
五味文彦院政期社会の研究』(1984年)では恋の相手を上西門院に擬している。

妻子・兄弟

妻子の存在については否定説と肯定説がある[1]。『尊卑分脈』では「権律師隆聖」という男子があるとする[1]。また『西行物語絵巻』では女子があるとする[1]西行の娘を参照)。


さらに『尊卑分脈』には兄弟に仲清がみえるが西行の兄とする説と弟とする説がある[1]

評価

後鳥羽院御口伝』に「西行はおもしろくてしかも心ことに深く、ありがたく出できがたきかたもともにあひかねて見ゆ。生得の歌人と覚ゆ。おぼろげの人、まねびなどすべき歌にあらず。不可説の上手なり」とあるごとく、藤原俊成とともに新古今の新風形成に大きな影響を与えた歌人であった。歌風は率直質実を旨としながら、強い情感をてらうことなく表現するもので、季の歌はもちろんだが恋歌や雑歌に優れていた。院政前期から流行し始めた隠逸趣味、隠棲趣味の和歌を完成させ、研ぎすまされた寂寥、閑寂の美運子をそこに盛ることで、中世的叙情を準備した面でも功績は大きい。また俗語や歌語ならざる語を歌の中に取り入れるなどの自由な詠み口もその特色で、当時の俗謡や小唄の影響を受けているのではないかという説もある。後鳥羽院が西行をことに好んだのは、こうした平俗にして気品すこぶる高く、閑寂にして艶っぽい歌風が、彼自身の作風と共通するゆえであったのかも知れない。


和歌に関する若年時の事跡はほとんど伝わらないが、崇徳院歌壇にあって藤原俊成と交を結び、一方で俊恵が主催する歌林苑からの影響をも受けたであろうことはほぼ間違いないと思われる。出家後は山居や旅行のために歌壇とは一定の距離があったようだが、文治3年(1187年)に自歌合『御裳濯河歌合』を成して俊成の判を請い、またさらに自歌合『宮河歌合』を作って、当時いまだ一介の新進歌人に過ぎなかった藤原定家に判を請うたことは特筆に価する(この二つの歌合はそれぞれ伊勢神宮の内宮と外宮に奉納された)。


しばしば西行は「歌壇の外にあっていかなる流派にも属さず、しきたりや伝統から離れて、みずからの個性を貫いた歌人」として見られがちであるが、これは明らかに誤った西行観であることは強調されねばならない。あくまで西行は院政期の実験的な新風歌人として登場し、藤原俊成とともに『千載集』の主調となるべき風を完成させ、そこからさらに新古今へとつながる流れを生み出した歌壇の中心人物であった。


後世に与えた影響は極めて大きい。後鳥羽院をはじめとして、宗祇芭蕉にいたるまでその流れは尽きない。特に室町時代以降、単に歌人としてのみではなく、旅の中にある人間として、あるいは歌と仏道という二つの道を歩んだ人間としての西行が尊崇されていたことは注意が必要である。宗祇、芭蕉にとっての西行は、あくまでこうした全人的な存在であって、歌人としての一面をのみ切り取ったものではなかったし、『撰集抄』『西行物語』をはじめとする「いかにも西行らしい」説話や伝説が生まれていった所以もまたここに存する。例えばに『江口』があり、長唄に『時雨西行』があり、あるいはごく卑俗な画題として「富士見西行」があり、各地に「西行の野糞」なる口碑が残っているのはこのためである。

逸話
出家

出家の際に衣の裾に取りついて泣く子(4歳)を縁側から蹴落として家を捨てたという逸話が残る。この出家に際して以下の句を詠んだ。


「惜しむとて 惜しまれぬべき此の世かな 身を捨ててこそ 身をも助けめ」

崇徳院

ある時(1141年以降)西行にゆかりの人物(藤原俊成説がある)が崇徳院の勅勘を蒙った際、院に許しを請うと崇徳院は次の歌を詠んだ(山家集)。


最上川 つなでひくとも いな舟の しばしがほどは いかりおろさむ」


意:最上川では上流へ遡行させるべく稲舟をおしなべて引っ張っていることだが、その稲舟の「いな」のように、しばらくはこのままでお前の願いも拒否しよう。舟が碇を下ろし動かないように。

対して西行は次の返歌を詠んだ。


「つよくひく 綱手と見せよ もがみ川 その稲舟の いかりをさめて」


意:最上川の稲舟の碇を上げるごとく、「否」と仰せの院のお怒りをおおさめ下さいまして、稲舟を強く引く綱手をご覧下さい(私の切なるお願いをおきき届け下さい)。

旅路において

西行戻し

各地に「西行戻し」と呼ばれる逸話が伝えられている。共通して、現地の童子にやりこめられ恥ずかしくなって来た道を戻っていく、というものである。

松島「西行戻しの松」

秩父「西行戻り橋」

日光「西行戻り石」

甲駿街道「西行峠」


鴫立沢

奥州下りの折、神奈川県中郡大磯町の旧宿場町江戸時代における相模国淘綾郡大磯宿幕藩体制下の相州小田原藩知行大磯宿)の西端(江戸時代における淘綾郡西小磯村付近、幕藩体制下の寺社領相州西小磯村付近、鎌倉時代における相摸国餘綾郡内)の海岸段丘を流下する渓流にて[5][gm 3]、下記を詠んだと伝えられる[6]

原歌》 ※字は旧字体振り仮名歴史的仮名遣。振り仮名とスペースは現代の補足。 
心なき 身にもあはれは しられけり しぎさはの 秋のゆふぐれ
口語解釈例1:一般的解釈》 角括弧[ ]内は補足文。
[私のような]風流を解する心まで捨てたはずの出家の身であっても、しみじみとした趣は自然と感じられるものだなあ。鴫(しぎ)が飛び立つ夕暮れよ。
《口語解釈例2:白洲正子の解釈》 角括弧[ ]内は補足文。
物の哀れを知ることが不十分な[私のような]身であっても、しみじみとした趣は自然と感じられるものだなあ。鴫が飛び立つ沢の夕暮れよ。


「鴫立沢(しぎたつさわ、旧字体表記:鴫立澤、古訓:しぎたつさは)」は「鴫の飛び立つ沢」を意味するだけの、ありふれた地名であったろうが、いつしかこの地は西行の歌にちなんでその名で呼ばれるようになったと思われる。時を下り、伝承にあやかって江戸時代初期の寛永年間(1624-1645年間)に結ばれた「鴫立庵」が今も残る[7]

伊勢神宮で詠んだとされる歌

伊勢神宮を参拝した時に詠んだとされる歌は、日本人の宗教観を表す一例に挙げられる。古来、西行の歌か否か真偽のほどが問われていた歌であるが、延宝2年(1674年)板本系統の『西行上人集』に収録されている。

何事なにごとの おはしますをば しらねども かたじけなさに なみだこぼるる  ──『西行上人集』

源頼朝との出会い
・頼朝に弓馬の道のことを尋ねられて、「一切忘れはてた」ととぼけたといわれている。
・頼朝から拝領した純銀の猫を、通りすがりの子供に与えたとされている。

晩年の歌
以下の歌を生前に詠み、その歌のとおり、陰暦2月16日釈尊涅槃の日に入寂したといわれている。

ねかはくは 花のしたにて 春しなん そのきさらきの もちつきのころ  ──『山家集

ねかはくは はなのもとにて 春しなん そのきさらきの 望月の比  ──『続古今和歌集

花の下を“した”と読むか“もと”と読むかは出典により異なる。なお、この場合の花とはのことである。その欲望の意味するところは、下の句の、如月(きさらぎ)の満月(望月)の頃つまり涅槃の頃に朽ち果てたいということである。(あくまで日本仏教の文脈における後世の解釈)

伝説

撰集抄』に西行が「人造人間を作ろう」としていた記述がある。“鬼の、人の骨を取集めて人に作りなす例、信ずべき人のおろ語り侍りしかば、そのままにして、ひろき野に出て骨をあみ連らねてつくりて侍りしは〜”。


<要約>(西行が)高野山に住んでいた頃、野原にある死人の体を集め並べて骨に砒霜(ひそう)という薬を塗り、反魂の術を行い人を作ろうとした。しかし見た目は人ではあるものの血相が悪く、声もか細く魂も入っていないものが出来てしまい、高野山の奥に捨ててしまったという記述がある。伏見前中納言師仲に会い作り方を教わるものの、つまらなく思い、その後、人を作ることはなかった[8]


西行の子・隆聖の子孫・佐藤正岑の子が長束正家であるという伝説がある。

詳しいことは、「西行ウィキペディア」をご覧ください。 ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E8%A1%8C
(wikiより)

024   西行

西行

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円位堂は、初代庵主の大淀三千風が元禄時代に建てたままのもので、平安・鎌倉時代の代表的な歌人である西行法師の等身大座像を安置しています。


西行の俗名は佐藤義清。

ニ十三歳の時に出家し、円位と名乗りましたが、後に西行と改めました。


このことに因み、円位堂とされています。


諸国を巡る旅の中で大磯を訪れたとされ、『新古今和歌集』において「三夕の歌」と呼ばれるうちの一首を詠みました。


心なき身にもあはれは知られけり 鴫立沢の秋の夕暮れ

( ものの情緒を感じる心を絶った出家の身にも、しみじみとした情緒はおのずから知られることだ。 鴫の飛び立つ秋の夕暮れよ )
(案内板より)

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芭蕉句碑


安永 9年 ( 1780 )。

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宝篋印塔


元禄 10年 ( 1697 )造。

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鴫立澤碑


鴫立澤碑 ( 西行五百年忌記念碑 )。

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初代庵主である大淀三千風が在庵の頃、江戸新吉原からの寄進により建てられたと伝えられるお堂です。


お堂には、仇討物語として有名な『曽我物語』の主人公である曽我十郎の恋人、虎女の十九歳の姿を写した木造を安置しています。


大磯の遊女として有名であった虎女は、十七歳で十郎と出会い、恋に落ちましたが、十郎父の仇討を遂げた後、命を落としました。


悲しんだ虎女は箱根山で出家し、生涯にわたり各地の寺社を巡礼し曽我兄弟を弔ったといわれています。
(案内板より)

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虎御前碑


元禄 14年 ( 1701 )。

〇 虎御前
虎御前(とらごぜん、安元元年(1175年) - ?)は、鎌倉時代初期の遊女曾我祐成の妾。お虎さん、虎女(とらじょ)とも呼ばれる。富士の巻狩りの際に起こった曾我兄弟の仇討ちを描いた『曽我物語』で、この物語を色づけ深みを持たせる役割をしている。『吾妻鏡』にも出てくることから実在した女性とされる。 江戸期に制作された多数の曾我物にも登場し、虎御前の名は広く知られることとなった[1]

経歴
『吾妻鏡』における虎
『吾妻鏡』によると、建久4年(1193年5月28日に曾我兄弟による仇討ち事件が起こった後、6月1日に曾我祐成の妾である虎という名の大磯の遊女を召し出して訊問したが、無罪だったため放免したと記されており(建久4年6月1日条)、6月18日には虎が箱根で祐成の供養を営み、祐成が最後に与えた葦毛の馬を捧げて出家を遂げ、信濃善光寺に赴いた。その時19歳だったと記されている(建久4年6月18日条)。

『曽我物語』における虎
出自
虎女の出自については諸説あるが、『重須本曽我物語』では、虎女の母は平塚の遊女・夜叉王で、父は都を逃れて相模国海老名郷にいた宮内判官家永だとされている。虎女は平塚で生まれ大磯の長者のもとで遊女になった。


虎の母の夜叉王がいた平塚の遊女宿は現在の平塚市の黒部が丘あたりにあったと言われている。大磯の長者は高麗山の近く(現在の平塚市山下)であるので余り離れた場所ではない。花水川が間にあるが歩いても一時間は掛からない距離関係である。

生涯
十郎祐成と弟の五郎時致は早くから父の仇を討とうと考えていたので妻妾を持つことを考えなかったが、五郎の勧めもあり妾を持つことになった十郎は、自分が死んだ後のことを考え遊女を選んだといわれる。虎と十郎は会ってすぐに恋に落ちる。虎17歳、十郎20歳の時であった。


虎が19歳の年、建久4年(1193年5月28日源頼朝が催した富士の裾野での狩りに夜陰に乗じて忍び込んだ兄弟は、父の仇の工藤祐経を討ち取る。しかし、十郎はその場で新田忠常に切り殺され、五郎も生け捕りになった後、頼朝直々に取り調べられて処刑される。


十郎の死後、虎は兄弟の母を曾我の里に訪ねたあと箱根に登り箱根権現社別当の手により出家する。熊野や諸国の霊場を巡りながら兄弟の菩提を弔い、兄弟の一周忌を曾我の里で営んだ。その後兄弟の供養のため信州の善光寺に参り、首にかけた2人の遺骨を奉納した[2]。大磯にもどった後、高麗寺山の北側の山下に庵を結び菩薩地蔵を安置し夫の供養に明け暮れる日々を過ごした事が山下(現、平塚市)に現存する高麗寺の末寺であった荘巌寺に伝わる「荘巌寺虎御前縁起」に記されている。虎女は兄弟の供養を片時も忘れることなく、『曽我物語』の生成に深く関わりながらその小庵で63年と言われるその生涯を閉じる(虎女の生涯は嘉禄3年(1227年2月13日没、享年53といわれてきたが、最近の研究では没年は嘉禎4年(1238年)とされる)。

名前についての考察
寅年の寅の日の寅の刻に生まれたので三寅御前と名づけたと『曽我物語』にあるが、実際には虎女は未(ひつじ)年の生まれである。なぜ虎という名前をつけたのか本当のところはわからないが、柳田國男は『妹の力』で、虎御前を引き「嘗てトラ トウロ トランと呼ばれた、仏教道教を修めた巫女がいて、トラ石と呼ばれる石のある場所で修法をしていたのでは」と推測している。虎が生まれた場所は近くにもろこしが原があり、その向こうには高麗寺山があるという異国の面影があった。唐(もろこし)の枕詞は虎であるがその為かどうかも判らない。虎御前の「御前」は当時、遊女や白拍子などにつけて呼ぶ呼称であり、静御前巴御前などと同じである。当時の呼び方として「ごぜん」ではなく短く「ごぜ」としたようで、後の瞽女(ごぜ)に通ずる。山本吉左右は『日本架空伝承人物事典』で、「トラゴゼ」という瞽女がいたのではという説を唱えている。また、俳句などでは虎御前と書いて「とらごぜ」と読ませることもある。

虎が石と伝承
各地には虎御前の伝承と結び付けられた虎が石が存在する。大磯町の延台寺に伝わる虎が石は、子宝祈願のため虎池弁財天を拝んだ山下長者の妻に与えられ、やがて夫妻は虎御前を授かった。虎の成長とともにこの石も成長し、祐成を賊の矢から防いだことで身代わり石とも呼ばれる。静岡県足柄峠に伝わるものは、兄弟の仇討ちの成功を案じた虎御前が、仇討ちの場所となる富士の裾野を常々眺め暮らすうちにその念が石と化して残ったもので、美男が持てば軽く上がるという。 大分市に伝わる虎御前石は、兄弟の菩提を弔うため尼となって諸国を巡った虎御前が、この石に座って体を休めたと伝えている[3][4]


また、山梨県南アルプス市芦安安通では虎御前はこの地の出生と伝えられ、祐成の死後は同地に帰って亡くなったという。兵庫県朝来市では虎御前がこの地を訪れた際に足を患い、同地で没したとの伝えがあり、虎御前の墓が存在する[5]


こうした虎御前の伝承が諸国に広くみられるのは、曽我伝説を流布していた各地のトラと呼ばれた巫女達の行為及び活躍が、虎御前そのものとして後世に伝わったものと民俗学者野村純一は推測している[4][5]

虎が雨
俳句の夏の季語に「虎が雨(とらがあめ)」という言葉があるが、旧暦の5月28日に降る雨に後世の人びとが虎御前の悲しみを重ねたものである。この日は曾我兄弟の仇討ち決行の日であり、祐成の命日に当たる。この雨は祐成の死を悲しんだ虎御前の流す涙が雨となって降り注ぐものとされ、曾我の雨、虎が涙ともいう。元来、5月28日には少量でも雨が降ると伝えられており、それに仇討ち決行が大雨の中で行われたこと、曽我物においての虎御前の貞女な様が涙雨を呼び起こすことなどと結び付けられたものと考えられている[6]

脚注
1. “虎御前 とらごぜん”, ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典, Britannica Japan, (2014), http://archive.is/bTnar#7 
2. 小田雄三 (2015), “とらごぜん【虎御前】”, 世界大百科事典 (2 ed.), 日立ソリューションズ・クリエイト, http://archive.is/bTnar#39% 
3. 「虎御石」の特別開帳”. タウンニュース. タウンニュース社 (2017年5月19日). 2017年7月20日時点のオリジナルよりアーカイブ。2017年7月20日閲覧。
4. a b 野村純一, “虎が石 とらがいし”, 日本大百科全書(ニッポニカ), 小学館, http://archive.is/vBWSC#50% 
5. a b 野村純一, “虎御前 とらごぜん”, 日本大百科全書(ニッポニカ), 小学館, http://archive.is/bTnar#55% 
6. “虎が雨 とらがあめ”, ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 (2 ed.), Britannica Japan, (2014), http://archive.is/Sf7Bn#15% 

関連項目
延台寺

島田髷祭
(wikiより)

018  虎御前

虎御前

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俳諧道場 ( 秋暮亭 )。

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鴫立庵室 ( 東住舎 )。

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蛙鳴蝉操 ( あめいせんそう ) の蛙オブジェ


鴫立庵の歴代庵主の中で、大磯出身である第 15世の原 昔人 ( はら - せきじん ) ( 大正 15年入庵、在庵 4年 ) という人物は、俳人であると同時に彫金家でもありました。


「蛙鳴蝉操の蛙」オブジェは、その原 昔人が、自ら鋳造して、当時親交の深かった俳人・正岡子規に送った高さ 7センチの蛙の置物を、高さ 1メートル大に拡大復元したものです。


正岡子規は、原 昔人から送られた蛙の置物に対して歌を詠んでいます。


「蛙鳴蝉操彼モ一時ト蚯蚓 ( みみず ) 鳴ク」


晩年、病床にいることの多かった正岡子規は、この蛙の置物を見て、元気で覇気に満ちていた自分の姿を思い浮かべ、実際に蛙や蝉が勢い良く鳴いている声まで聞こえてくるような感覚にとらわれました。


しかし、はっと現実にかえれば今は秋で、耳をすませば土の中から「ジー」と切れ目なく鳴く蚯蚓の声が聞こえてきます。


蛙や蝉がやかましいほどに鳴くのは命の営みであり、その時期が過ぎれば「死」が待っていて、その「死」に対するわびしさ子規は「蚯蚓鳴く」に託しました。


蚯蚓は実際は鳴かず、この声の主は螻蛄 ( おけら ) でありますが、「死」に裏打ちされた「生」のありようを「蚯蚓鳴く」という空想の季語によって滑稽味のある句として詠んでいます。
(説明版より)

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第一世庵主 大淀三千風句碑


大本朱人句碑


江戸中期の俳人。伊勢生。号は大箭数・寓言堂・無不非軒・呑空法師等。


仙台に住したのち諸国を行脚、その行程は四国・九州にも及ぶ。


独特の用字・用語を用いた奇抜な作風で知られる。


著書に『日本行脚文集』『仙台大矢数』等がある。


宝永6年(1709)歿、69才。

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大磯八景歌碑


昭和 12年 ( 1937 ) 造。

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第三世庵主 白井鳥酔追善句碑


安永 4年 ( 1775 ) 造。

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鴫立澤標石 B


一番最初に建てられた鴫立澤の標石。


標石の下部に、初代庵主三千風は 1695年 ( 元禄 8年 ) ころ入庵されたと刻まれている。

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鴫立澤標石 A


昭和 48年 3月 1日に大磯町により建てられた。

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文政 8年 ( 1825 ) 造。

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これからは、鴫立庵の特集をします
最終的に3つ撮影落としが有り残念ですが、俳諧界では超有名な場所であります。



鴫立庵(しぎたつあん)は神奈川県大磯町にある俳諧道場。京都の落柿舎、滋賀の無名庵と並び、日本三大俳諧道場の一つとされる。敷地内に建てられた石碑にある銘文「著盡湘南清絶地」から、「湘南発祥の地」とされることもある。場所は大磯の国道1号線(旧・東海道)沿いの鴫立沢にある。


名称は西行の歌「こころなき 身にもあはれは 知られけり 鴫立沢の 秋の夕暮」(『新古今和歌集』)による。

歴史
寛文4年(1664年)、崇雪が草庵を結んだのがはじまりで、元禄8年(1695年)、俳人・大淀三千風が入り、第一世庵主となる。明和5年(1768年)3月、白井鳥酔が再興し、庵主となる。現庵主は鍵和田秞子(第22代。平成14年(2002年)より)。

歴代庵主
1. 大淀三千風

2. 朱人

3. 白井鳥酔

4. 杉坂百明

5. 加舎白雄

6. 西奴

7. 三浦柴居

8. 倉田葛三

9. 遠藤雉啄

10. 島田立宇

11. 大沢寿道

12. 菅喜田松頂

13. 間宮宇山

14. 二宮松汀

15. 原昔人

16. 高瀬蘇迷

17. 神林時処人

18. 鈴木芳如

19. 山路閑古

20. 村山古郷

21. 草間時彦

22. 鍵和田秞子

位置情報

・神奈川県中郡大磯町大磯1289

  ・アクセス - JR東海道本線大磯駅から徒歩5分

外部リンク
鴫立庵(大磯町ホームページ)

大磯町の名所「鴫立庵」の歴史を紐解く(塩谷卓也、マイナビニュース 2007年11月22日)
(wikiより)

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⇧ 入口

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⇧ 鴫立沢の中流は国道1号線(写真後方)の下を流れて、さらに鴫立庵入口の橋(写真右)の下を流れ下って、相模湾へそそぐ。

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⇧⇩ 昔は一般的だった鍵ですが、今は見なくなりました。

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      宿場で参勤交代の大小名や公用の幕府役人、勅使、公家、宮門跡などが旅の宿泊に用いる 大旅館を本陣という。
       
      本来本陣とは、軍陣における総大将のいる本営であるが、大名旅行も軍陣に見立てて 此の名称が用いられた。


      1803年 ( 享和 3年 ) 大磯宿には小嶋、尾上、石井の 3箇所に本陣があり、その建坪は 夫々 246,238,235坪であった。


      本陣の建物は平屋造りで多くの座敷、板の間、土間などがあり、奥には大名の寝所となる 床の間との違い棚のある書院造りの御上段の間があり、その前には庭園がある。


      大名と側近は 本陣に泊まるが、その他の者は宿内の旅籠に泊まる。


      大行列の場合は隣の宿まで使用しなければならなかった。
       
      尾上本陣は小嶋本陣の西隣に置かれていた。


      石井本陣は東海道に面した尾上本陣の筋向いの 現在の大内館 ( 旅館 ) の場所にあった。
       
      これ等の本陣は 1836年 ( 天保 7年 ) の大磯の大火で焼失した。


      再建されたが建坪は縮小している。


      後 1865年 ( 慶応元年 ) の書状によれば、ほぼ享和の姿に戻ったとあり、本陣の経営の 並々ならぬ努力が偲ばれる。
      (案内版より)

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      高田公園は相模湾を一望でき、湘南平へと続く坂田山の一角にあります。


      「海のいろは日ざしで変る」 と、 高田保の直筆で刻まれており、分骨と随筆『ブラリひょうたん』で愛用した筆などが納められています。


      墓碑は昭和29年5月31日建立、設計は谷口吉郎氏。

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      高田 保(たかた たもつ[1] / たかだ たもつ[3]1895年明治28年)3月28日[1][註 1] - 1952年昭和27年)2月20日[1])は、茨城県出身の劇作家随筆家。俳号は羊軒[1]。母方の従兄に近世文学研究者の山口剛がいる。

      略歴

      1895年、茨城県新治郡土浦町(現在の土浦市)の旧家に生まれる。子供の頃より気遣いが出来てまた話も面白く、同級の者以外とも交流するなど人望が厚かったという[5]。旧制土浦中学校(現在の茨城県立土浦第一高等学校)を経て早稲田大学英文科へと進んだ。大学在学中から新劇運動に参加して宇野浩二を知るようになる。また、在学中に創立者・大隈重信夫人の銅像を建てるかの問題で「銅像事件」と呼ばれる騒動が起きるが、その時代を描いた尾崎士郎の小説『人生劇場・青春編』に、高田をモデルとした「吹岡早雄」という人物が登場している。上京した高田はモダンボーイとなるべく頻繁に銀座へ通って学生生活を謳歌した[5]1917年大正6年)に早稲田大学を卒業する[1]


      卒業後はペラごろとなって浅草公園の興行街で居所を転々とした後、「活動倶楽部」や「オペラ評論」の雑誌記者となる[1][6][7]。この頃に古海卓二根岸寛一と知り合い映画に接する様になり[1]1922年(大正11年)に根岸興行部の経営する浅草オペラの代表格である「金龍館」の文芸部に入った[8]。この年、『案山子』で帝国劇場の戯曲懸賞に入選する[6]。このとき他の入選者に永井龍男川口松太郎がいた。高田は戯曲の本場の地であるパリに対して憧憬の念を抱き、パリが舞台の作品を読み漁った。演劇修養のためパリへの留学を切望していたが、資金不足によりこれは果たせなかった[8]1924年(大正13年)、文芸雑誌「新小説」に戯曲「天の岩戸」を発表して劇作家として認知されるようになった[1][7]


      1927年(昭和2年)には戯曲集「人魂(ひとだま)黄表紙」を刊行する[1]1929年(昭和4年)に新築地劇団に加わってプロレタリア劇作家として活躍するが、翌1930年(昭和5年)に特高による検挙を受けて転向して新劇運動からは退いた[1][6][7]。また、この頃の高田は映画監督としても活動し、1925年(大正14年)の「水の影」、1932年(昭和7年)の「少年諸君」など3本の映画を製作している。しかしながら、これらの映画は高評価を得ることは出来なかった[1]1933年(昭和8年)、大宅壮一木村毅とともに『東京日日新聞』に学芸部長の阿部真之助の招きで入社、軽妙な雑文を書いた。だが、1938年(昭和13年)には退社し、新派新国劇の脚色家・演出家となり商業演劇に活躍の場を移した[6][7]


      1943年(昭和18年)、病気の進行により知人の勧めで大磯へ移住、その後再び転居して大磯内の旧島崎藤村邸へと移る[8]。戦後は結核療養を経た後、1948年(昭和23年)から『東京日日新聞』に社友として随筆『ブラリひょうたん』を連載する[6][7]。軽妙な文体ながら、「単独講和」「天皇制」「再軍備」などの政府の方針に反対する論を展開した。高田の庶民的文化人としての立場からの風刺は、ウィットとユーモアも含んでおり好評を博した[1][6][7][9]


      高田は「昭和斎藤緑雨」と称えられた。また、『とばした紙鳶』『トスナキアの娘』『トルとドス』などの小説も著している。また、大宅壮一はその文章を「マクラの阿部真之助、オチの高田保」と評したことでよく知られる[1]


      1952年2月20日、学生時代から罹患していた肺結核により、かつて藤村が住んでいた神奈川県中郡大磯町の自宅で死去した。56歳没。戒名は清閑院文誉秀保居士[2][8][10]。高田の没後に大宅は、高田の話術の上手さを讃えつつ、その話術を助けているものは高田の才智ではなく顔にあるとしたうえで、高田のテレビ出演が実現しないことを残念がった[11]

      著書
      ・人魂黄表紙 戯曲集 原始社 1927 

      ・宣伝 塩川書房 1930 (プロレタリア前衛小説戯曲新選集)

      ・舗道雑記帳 時潮社 1933 

      ・有閑雑記帳 改造社 1934 

      ・其日以後 汎洋社 1943 

      ・風話 和敬書店 1948

      ・二つの椅子 対談集 朝日新聞社, 1950

      ・ブラリひょうたん 1-3 創元社 1950-51 のち角川文庫 のち毎日新聞社刊

      ・河童ひようろん 要書房 1951

      ・青春虚実 創元社 1951

      ・いろは歌留多 文藝春秋新社 1952

      ・我輩も猫である 要書房 1952

      ・人情馬鹿 創元社 1952

      ・高田保著作集 全5巻 創元社 1952-53

      ・ブラリひようたん日記 要書房 1953

      翻訳

      ・自動車の一生 イリヤ・エレンブルグ 内外社 1930

      脚注
      注釈
      1. 日付については3月27日とする記載もみられる[4]

      出典
      1. a b c d e f g h i j k l m n o “高田 保 タカタ タモツ”, 20世紀日本人名事典, 日外アソシエーツ, (2004), http://archive.is/Q1Cad#8% 
      2. a b c 大磯町. “高田公園 ~高田保の墓碑~”. 2013年12月15日時点のオリジナルよりアーカイブ。2017年8月13日閲覧。
      3. 高田, 保 タカダ, タモツ”. CiNii. 2019年8月31日閲覧。
      4. “高田保 たかた-たもつ”, デジタル版 日本人名大辞典+Plus, 講談社, (2015-9), http://archive.is/qgkkS#23% 
      5. a b 高田保 (PDF) 」 『Acanthus』第18号、茨城県立土浦第一高等学校 進修同窓会旧本館活用委員会、2009年11月24日、2019年8月31日閲覧。
      6. a b c d e f “たかたたもつ【高田保】”, 世界大百科事典 (2 ed.), 平凡社, http://archive.is/qgkkS#33% 
      7. a b c d e f 藤木宏幸, “高田保 たかたたもつ”, 日本大百科全書(ニッポニカ), 小学館, http://archive.is/qgkkS#43% 
      8. a b c d 高田保後編 (PDF) 」 『Acanthus』第20号、茨城県立土浦第一高等学校 進修同窓会旧本館活用委員会、2010年1月26日、2019年8月31日閲覧。
      9. “高田保 たかたたもつ”, ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典, Britannica Japan, (2014), http://archive.is/qgkkS#9% 
      10. 岩井寛『作家の臨終・墓碑事典』(東京堂出版、1997年)181頁
      11. 田村茂 撮影『現代日本の百人』大宅壮一 寄稿、文芸春秋新社、1953年4月、初版、103頁。全国書誌番号:53003431

      参考文献
      夏堀正元「風来の人 小説・高田保」文藝春秋社 1971年

      外部リンク
      高田保:作家別作品リスト - 青空文庫

      「ブラリひょうたん」 (1948年12月~49年7月分)

      旧島崎藤村邸

      高田保 - 日本映画データベース
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      相良 俊輔(さがら しゅんすけ、1920年 - 1979年8月)は、児童文学者、編集者漫画原作者東京都出身。

      来歴
      1920年、東京都生まれ。文芸誌、娯楽誌の編集者を十数年務め、山手樹一郎山本周五郎牧野吉晴らと親交を深める。文芸誌「不同調」に処女作「虚構の夜」を発表。以後、戦記物の著作を多く手掛ける。1979年8月没。墓所は大磯町妙大寺

      著書
      ・「機関車大将」

      ・「大雪原鉄道」

      ・「少年会津藩士秘録」

      ・「人類愛に生きた将軍」

      ・「ジュニア版太平洋戦争」

      ・「暁の攻撃隊」

      ・「ああ厚木航空隊―あるサムライの殉国」

      ・「夏の空」

      ・「海原が残った(上・下)」

      ・「流氷の海―ある軍司令官の決断」

      ・「菊と龍―祖国への栄光の戦い」

      ・「赤い夕陽の満州野が原に―鬼才河本大作の生涯」

      ・「怒りの海―戦艦比叡・西田艦長の悲劇」

      ・「魔神の使者」毎日小学生新聞連載(全150回)

      漫画原作
      ・「あかつき戦闘隊

      ・「どどぶ木戸

      外部リンク
      あかつき戦闘隊 著者紹介 相良俊輔 - マンガショップ
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      福田 恆存(ふくだ つねあり、1912年大正元年)8月25日 - 1994年平成6年)11月20日)は、日本評論家翻訳家劇作家演出家現代演劇協会理事長、日本文化会議理事、日本芸術院会員[1]


      平和論
      への批判を早くから行った保守派の文化人で、同時期よりシェイクスピア戯曲作品の翻訳、演劇上演も行った。産経新聞の論壇誌「正論」は、福田と田中美知太郎小林秀雄等の提唱によって創刊された。文藝春秋社の「文藝春秋」、「諸君」、自由社の「自由」などの保守派雑誌への寄稿でも知られた。


      「レトリシャン」とか「論争の手品師」といわれ、一流のリフレーミングの使い手でもあった[3]

      経歴

      1912年大正元年)8月25日、東京市本郷区(現在の東京都文京区東部)にて、東京電燈株式会社の社員であった父・幸四郎、母・まさの長男として生まれる。「恆存」は石橋思案の命名で、『孟子』に由来する[1][4]。第二東京市立中学校(現:東京都立上野高等学校)で高橋義孝と同級。旧制浦和高等学校を経て1936年昭和11年)に東京帝国大学文学部英吉利文学科卒。卒業論文は「D・H・ロレンスに於ける倫理の問題」。


      大学卒業後は中学教師、出版社、団体職員などで勤務した[1]1937年(昭和12年)に第一次『作家精神』の後継誌である『行動文学』の同人となり、「横光利一と『作家の秘密』」などを発表、文芸評論を始めた。他に戦前や戦後間もない時期に発表された嘉村礒多芥川龍之介らに関する論考が文芸評論での主な作品である。また、1947年(昭和22年)に『思索』春季号に発表された「一匹と九十九匹と」は、政治文学の峻別を説く内容で、「政治と文学」論争に一石を投じた。この作品を福田の代表作とみなす見解も多い。『群像』1948年6月-7月に「道化の文学―太宰治論」を発表。1949年(昭和24年)より日英交流のための団体、あるびよん・くらぶに参加[5]


      昭和20年代後半期より、文学への関心は次第に個別の作家論や文芸批評を離れていった。この時期の代表作は、芸術をより根本的に論じた1950年(昭和25年)の『藝術とは何か』(要書房)や、芸術・演劇論から人間論にまで展開した1956年(昭和31年)の『人間・この劇的なるもの』(新潮社)などの著作である。


      福田恆存の名を世間で有名にしたのは、進歩派全盛のなかでの保守派の論争家としての活動であった。1954年(昭和29年)に『中央公論』12月号に発表した「平和論の進め方についての疑問」で、進歩派の平和論を批判。また戦後の国語国字改革を批判し、1955年(昭和30年)から翌年にかけての金田一京助たちとの論争で(「国語改良論に再考をうながす」「知性」1955年10月号など)「現代かなづかい」・「当用漢字」の不合理を指摘した。その集大成が歴史的仮名遣のすすめを説く『私の國語教室』(新潮社、初版1960年(昭和35年)、読売文学賞受賞)である。著書全ては歴史的仮名遣で書かれたが、出版社の意向で文庫再刊の一部等は現代かなづかいを用いている。1969年(昭和44年)から1983年(昭和58年)にかけては荒木俊馬が創設した京都産業大学教授を務めた。


      翻訳家としての代表作は、シェイクスピア「四大悲劇」を初めとする主要戯曲、ヘミングウェイ老人と海』、D・H・ローレンス最晩年の評論『アポカリプス論』(初版は邦題『現代人は愛しうるか』白水社、1951年(昭和26年)に初刊)、ワイルドサロメ』、『ドリアン・グレイの肖像』である。


      劇作家、演出家としても活躍。1952年(昭和27年)に文学座に入り、『ハムレット』、自作の『龍を撫でた男』などの演出を担当するが、文学座の看板女優・杉村春子との意見の相違から、1956年(昭和31年)に退座。1963年(昭和38年)、かつて福田が手がけた『ハムレット』で主演を務めた芥川比呂志や、仲谷昇岸田今日子神山繁ら文学座脱退組29名と財団法人現代演劇協会を設立し、理事長に就任。同協会附属の「劇団雲」では、シェイクスピア劇の作・演出を担当する。


      やがて芥川と対立すると、協会内で新たに「劇団欅」を設立し、「劇団雲」から手を引いて芥川らと一線を画するようになった。1975年(昭和50年)に芥川、仲谷、岸田、中村伸郎ら「劇団雲」の大部分が現代演劇協会を離脱し、「演劇集団 円」を設立すると、「劇団雲」の残留派と「劇団欅」を統合し、「劇団昴」を結成した。1977年(昭和52年)から1979年(昭和54年)には、フジテレビ系列の政治討論番組『福田恆存の世相を斬る』の司会進行でテレビ出演もしていた。この時期には韓国大統領朴正煕と親交があり、没時に回想記も発表した。


      1987年(昭和62年)から1988年(昭和63年)にかけ『福田恆存全集』を刊行したが、平成に入ってからは、いくつかの雑誌に数ページ分の随筆・所感を書いた以外は執筆発表を行わず、『福田恆存翻訳全集』が完結した翌年の1994年(平成6年)11月20日に、肺炎により東海大学医学部付属大磯病院で没した[1]。享年82。戒名は実相院恆存日信居士[6]12月9日青山葬儀所で本葬・告別式が行われた。葬儀委員長は作家阿川弘之で、林健太郎久米明等が弔辞を述べた。


      主な業績は、前記の『全集』や『翻訳全集』にまとめられた。ただ自選のため、短編の論文随想に加え唯一の新聞連載小説である『謎の女』(新潮社1954年(昭和29年))をはじめ、生前刊行の全集・著作集には、未所収のままの論考著作も多い。


      2007年(平成19年)11月より、福田逸(次男・明治大学商学部教授。また演出家翻訳家財団法人「現代演劇協会」[7]理事長として演劇活動を継いだ)等の編集により、『福田恆存評論集』(麗澤大学出版会、カバー装丁)が刊行完結した(下記の全集・著作集を参照)。

      福田恆存と論壇

      福田は、「平和論の進め方についての疑問」以降、論壇から「保守反動」呼ばわりされ、「村八分」の処遇を受けたと述懐している[8]。『朝日新聞』論壇時評(1951年10月〜1980年12月)では、「平和論の進め方についての疑問」以降、言及が即座に無くなったわけではなく、1966年までは比較的言及されているが(言及数24)、しかし肯定的に取り上げられているのは17で31人中第28位となり、中野好夫(49)、小田実(40)、清水幾太郎(39)の半分以下となる[9]。さらに、否定的に取り上げられているのは7であり、否定的に取り上げられる割合は30・8%となり、31人中のトップとなる[9]


      例えば都留重人は以下のように取り上げている[10]

      ベトナム問題が論壇をにぎわしているのは、これで四ヶ月目だが、今月になって目立つことは、アメリカの政策を支持する論文の登場である。中でも、一番むきになってこの役をはたそうとしているのは、福田恒存の「アメリカを孤立させるな」(文芸春秋)であろう。福田はいろいろなことを、いわば文学者的特権で、証明なしに言っている(後略)

                                             — 『朝日新聞』論壇時評1965年6月22日

      しかし1967年以降からは、肯定的・否定的に関わらず言及されなくなり、竹内洋は「『保守反動』評論家というレッテルが定着したのだろう」と述べている[9]。このように福田は論壇では否定、そして無視されていくようになる[11]坪内祐三は、福田が『問ひ質したき事ども』(1981年)を刊行したころは保守論壇からも完全に孤立していた、と評している[12]

      翻訳に対する評価

      堀内克明は著書『誤訳パトロール』(1989年、大修館書店)の中で『恋する女たち』(新潮文庫)の福田のテキストから、「a long , slow look」を「遠いどんよりしたまなざし」としている語その他を「初歩を誤った」という誤訳として紹介している(正しくは「ゆっくり、じっと」という、距離ではなく時間としてのlongとslowである)。


      小川高義は『老人と海』の新訳(光文社文庫、2014年)あとがき解説で、老人の「aloud」を「叫ぶ、ののしる」など感情的に翻訳している福田の訳を批判し、老人の性格描写および近現代の用法からその語は単に「口にした」程度のものである、と述べている。

      詳しいことは、「福田恆存ウィキペディア」をご覧ください。 ⇩
      https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A6%8F%E7%94%B0%E6%81%86%E5%AD%98
      (wikiより)

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      樋口 季一郎(ひぐち きいちろう、Kiichiro Higuchi、1888年8月20日 - 1970年10月11日)は、日本陸軍軍人。最終階級は陸軍中将兵庫県淡路島出身。歩兵第41連隊長、第3師団参謀長ハルピン特務機関長、第9師団等を経て、第5方面軍司令官兼北部軍管区司令官。

      経歴

      1888年淡路島にある兵庫県三原郡本庄村上本庄(町村制後:阿万村、現:南あわじ市阿万上町戈の鼻)に父・奥濱久八、母・まつの5人兄弟(9人とも言われている)の長男として出生。奥濱家は廻船問屋で代々続く地主であったが、明治以降、蒸気船の普及に伴い時代の流れに取り残され父・久八の代で没落した。11歳の時、両親が離婚し、母・まつの阿萬家に引き取られる。


      1901年、三原高等小学校2年終了後、私立尋常中学鳳鳴義塾に入学。1902年大阪陸軍地方幼年学校を経て、18歳で岐阜県大垣市歩行町の樋口家の養子(父・久八の弟・勇次が樋口家の婿養子となり季一郎を勇次夫妻の養子として迎え入れた)になった。1909年陸軍士官学校第21期)に進む一方で東京外語学校ロシア語を徹底的に学ぶ。陸軍士官学校を優秀な成績で卒業、陸軍大学校第30期)を経て、ロシア語が堪能であることもあって、卒業後すぐ1919年ウラジオストクに赴任(シベリア出兵) 。満州ロシアソビエト連邦)方面部署を転々と勤務。1925年公使館駐在武官(少佐)としてソ連西隣のポーランドにも赴任している。歩兵第41連隊長時代に起きた相沢事件は、直前まで部下だった者が起こした不祥事であったため進退伺いを出した。しかし、上官の小磯国昭に慰留され、満洲国のハルビンに赴任する。

      オトポール事件

      1937年昭和12年)12月26日、第1回極東ユダヤ人大会が開かれた際、関東軍の認可の下で3日間の予定で開催された同大会に、陸軍は「ユダヤ通」の安江仙弘陸軍大佐をはじめ、当時ハルピン陸軍特務機関長を務めていた樋口(当時陸軍少将)らを派遣した。この席で樋口は、前年に日独防共協定を締結したばかりの同盟国であるナチ党政権下のドイツ反ユダヤ政策を、「ユダヤ人追放の前に、彼らに土地を与えよ」と間接的に激しく批判する祝辞を行い、列席したユダヤ人らの喝采を浴びた[1]


      そうした状況下、翌1938年(昭和13年)3月、ユダヤ人18人がドイツの迫害下から逃れるため、ソ満国境沿いにあるシベリア鉄道・オトポール駅(Otpor、現在のザバイカリスク駅)まで逃げて来ていた。しかし、亡命先である米国上海租界に到達するために通らなければならない満州国の外交部が入国の許可を渋り、彼らは足止めされていた。


      極東ユダヤ人協会の代表のアブラハム・カウフマン博士から相談を受けた樋口はその窮状を見かねて、直属の部下であった河村愛三少佐らとともに即日ユダヤ人への給食と衣類・燃料の配給、そして要救護者への加療を実施。更には膠着状態にあった出国の斡旋、満州国内への入植や上海租界への移動の手配等を行った。日本は日独防共協定を結んだドイツの同盟国だったが、樋口は南満州鉄道(満鉄)総裁だった松岡洋右に直談判して了承を取り付け、満鉄の特別列車で上海に脱出させた[2]。その後、ユダヤ人たちの間で「ヒグチ・ルート」と呼ばれたこの脱出路を頼る難民は増え続け、東亜旅行社(現在の日本交通公社)の記録によると、ドイツから満州里経由で満州へ入国した人の数は、1938年だけで245人だったものが、1939年には551人、1940年には3,574人まで増えている[3]。ただし、早坂隆によると1941年(昭和16年)の記録がなく、数字のうち少なくない割合でユダヤ人が含まれていると考えられるが、その割合が不明であり累計が2万に到達したかは不明としている[3]。また、松井重松(当時、案内所主任)の回想には「週一回の列車が着くたび、20人、30人のユダヤ人が押し掛け、4人の所員では手が回わらず、発券手配に忙殺された」と記されている[4]。そのほかの証言として松岡総裁の秘書だった庄島辰登は、最初の18人(1938年3月8日)のあとに毎週、5あるいは10人のユダヤ難民が到着し3月-4月の累計で約50人を救ったという[5]しかし、ドイツへの外交的配慮からか、多数の難民が殺到した際の具体的な人数に関する公的文書は残されていない。[独自研究?]1941年に書かれたKeren Kayemeth Lelsrael Jewish National Fund(KKL-JNF)本部に現存する6冊目の「栄誉の書」には「樋口将軍-東京、在ハルビン極東国家ユダヤ総領事-エイブラハム・カウフマンの銘入り」とその功績が記されている[6]


      「ヒグチ・ルート」で救われたユダヤ人の数は、総数は最大で2万-3万人であった可能性があるとされていた[注 1][注 2]が、研究が進みほとんどの研究者・ジャーナリストが信じていない[8]。1939年当時の有田八郎外務大臣の公式見解では「80人強」とされている[9]。2万人のユダヤ系難民が救われたとも伝えられていた中で、あまりの数の多さに事件の存在自体を疑問視する歴史家も現れた[10]。この2万人という数字は、樋口の回顧録を出版する際の誤植などから流布したものと考えられている[8]。樋口自身の原稿では「彼ら(ユダヤ人)の何千人が例の満洲里駅西方のオトポールに詰めかけ、入満を希望した」と書き記されていたものが、芙蓉書房版の『回想録』にある数字では「二万人」に変わっており、これが難民の実数検証に混乱をきたす原因になっていると指摘されている[11]。早坂は上記東亜旅行社の記録の多くがユダヤ人ではないかと考え、数千人と推定している[12]。松浦寛は、当時の浜洲線の車両編成や乗務員の証言から割り出された100-200人という推計[13] を追認している[8]。満鉄会では、ビザを入手できなかった厳密な意味での人数は100人程度と推計しているという[14]


      樋口がユダヤ人救助に尽力したのは、彼がグルジアを旅した際の出来事がきっかけとされている。ポーランド駐在武官当時、コーカサス地方を旅行していた途中チフリス郊外のある貧しい集落に立ち寄ると、偶然呼び止められた一人の老人がユダヤ人であり、樋口が日本人だと知ると顔色を変えて家に招き入れたという。そして樋口に対し、ユダヤ人が世界中で迫害されている事実と、日本の天皇こそがユダヤ人が悲しい目にあった時に救ってくれる救世主に違いないと涙ながらに訴え祈りを捧げた。オトポールに辿り着いたユダヤ人難民の報告を受けたとき、樋口はその出来事が脳裏をよぎったと述懐している[15]


      この事件は日独間の大きな外交問題となり、ドイツのリッベントロップ外相(当時)からの抗議文書が届いた[16]。また、陸軍内部でも樋口に対する批判が高まり、関東軍内部では樋口に対する処分を求める声が高まった[16]。そんな中、樋口は関東軍司令官植田謙吉大将(当時)に自らの考えを述べた手紙を送り、司令部に出頭し関東軍総参謀長東条英機中将(当時)と面会した際には「ヒットラーのおさき棒を担いで弱い者苛めすることを正しいと思われますか」と発言したとされる[17]。この言葉に理解を示した東条英機は、樋口を不問とした[18]。東条の判断と、その決定を植田司令も支持したことから関東軍内部からの樋口に対する処分要求は下火になり[19]、独国からの再三にわたる抗議も、東条は「当然なる人道上の配慮によって行ったものだ」と一蹴した[20]


      孫の樋口隆一明治学院大名誉教授は2018年6月15日にイスラエルテルアビブKeren Kayemeth Lelsrael Jewish National Fund本部において「ヒグチ・ルート」で逃れた生存者カール・フリードマン氏の息子から「季一郎氏のユダヤ人コミュニティーに対する前向きな姿勢がユダヤ人救出を可能にした」事により「ゴールデンブック」証書を授与している[2][21][22]


      ちなみに、樋口に関してよく言及される「ゴールデンブック」とは、パレスチナで土地購入、植林、イスラエル国家の境界線の設定などを主な業務とする組織Keren Kayemeth Lelsrael Jewish National Fund(ユダヤ民族基金)が管理する貢献者や献金者の名簿である[23][24][25]

      アッツ島玉砕、キスカ島撤退
      太平洋戦争開戦翌年の1942年昭和17年)8月1日札幌に司令部を置く北部軍(のち北方軍第5方面軍と改称)司令官として北東太平洋陸軍作戦を指揮。1943年アッツ島玉砕、キスカ島撤退(いずれも対アメリカ)を指揮した。キスカ島撤退作戦に際しては、海軍側からの要請に応じ、陸軍中央の決裁を仰がずに自らの一存で「救援艦隊がキスカに入港し、大発動艇に乗って陸を離れ次第、兵員は携行する小銃を全て海中投棄すべし」という旨をキスカ島守備隊に命じ、収容時間を短縮させ、無血撤退の成功に貢献した[26]。帝国陸軍では菊花紋章の刻まれた小銃を神聖視しており[27]、撤退成功の後、小銃の海中投棄が陸軍中央に伝わり、陸軍次官の富永恭次中将がこれを問題視したが、富永は陸士の4期先輩である樋口を以前から苦手にしていたため、小銃の海中投棄を命じたのが樋口であると知ると矛を収めたという[26]

      終戦後、対ソ連占守島・樺太防衛戦

      日本の降伏直前、ソ連対日参戦が発生。樋口は1945年8月18日以降、占守島南樺太におけるソ連侵攻軍への抗戦を指揮した。そのため極東国際軍事裁判に際し、スターリンは当時軍人として札幌に在住していた樋口を「戦犯」に指名した。


      世界ユダヤ人会議
      はいち早くこの動きを察知して、世界中のユダヤ人コミュニティーを動かし、在欧米のユダヤ人金融家によるロビー活動も始まった。世界的な規模で樋口救済運動が展開された結果、日本占領統治を主導していた連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)のダグラス・マッカーサーはソ連からの引き渡し要求を拒否、樋口の身柄を保護した[28][29][注 3]

      戦後
      極東国際軍事裁判で無罪となった樋口は1946年、北海道小樽市外朝里に隠遁。1947年宮崎県小林市(その後、都城市)へ転居する。1970年東京都文京区白山に転居し、その年に死去した。墓所は神奈川県大磯町妙大寺

      人物
      橋本欣五郎と共に桜会の中心的人物であったが、意見の相違から喧嘩別れした。また、二・二六事件を起こした青年将校らとも懇意で、武力に訴えて行動を起こすことを諌めていたと言う。さらに、相沢事件が起きたとき、樋口は、永田鉄山を惨殺した相沢三郎の直接の上官であった。血盟団事件では大蔵栄一から血盟団員の古内栄司を匿うよう依頼を受け了承している。

      石原莞爾阿南惟幾とは友人だった。また、ミハエル・コーガンとも親交があった。

      安江仙弘らと共に河豚計画を進めるが、シベリア出兵に参加した軍関係者の多くがユダヤ陰謀論に傾くなか、彼は「『排ユダヤ主義』否定だけで十分であろう」という立場であった。彼は、酒井勝軍日ユ同祖論を一笑に付する一方で、極めて反ユダヤ的な偽書シオン賢者の議定書』を当初から眉唾物としており、ユダヤ主義とマルキシズムを同一視できないとしている。樋口は、当時の軍人たちが陥った陰謀論、あるいは過度のユダヤ贔屓から離れ、極めて冷静な判断をしている。

      ・樋口季一郎の孫の樋口隆一明治学院大学名誉教授が、祖父に関する調査を行っており、日本で講演などを行ったり2018年にイスラエルを訪問したりしている[30]。隆一は24歳まで季一郎と同居していた[31]


      年譜
      明治21年 (1888年) 淡路島の阿万村に生まれる(旧姓奥浜)

      ・明治34年 (1901年) 三原高等小学校2年終了後、篠山の私立尋常中学鳳鳴義塾に入学。

      ・明治35年(1902年)9月 - 大阪陸軍地方幼年学校に入校。

      ・明治42年(1909年)5月 - 陸軍士官学校卒業(21期)。

        ・12月25日 - 陸軍歩兵少尉に任官。歩兵第1連隊附。

      大正2年(1913年)2月 - 陸軍歩兵中尉に進級。

      ・大正7年(1918年)11月 - 陸軍大学校卒業(30期)。

      ・大正8年(1919年)7月 - 陸軍歩兵大尉に進級、参謀本部附勤務。

        ・12月 - ウラジオストク特務機関員として派遣軍司令部附(シベリア出兵)。ロシア系ユダヤ人ゴリドシュテイン家の一室に住む(同家はキャディラックを扱う貿易商)。

      ・大正9年(1920年) - ハバロフスク特務機関長として孤立(無責任な上層部への義憤)。

      ・大正11年(1922年)4月 - 参謀本部部員。

      ・大正12年(1923年)12月 - 朝鮮軍参謀。

      ・大正13年(1924年)8月20日 - 陸軍歩兵少佐に進級[32]

      ・大正14年(1925年)5月 - ポーランド公使館附武官ウクライナほかを視察。

      ・昭和3年(1928年)2月 - 中華民国山東省青島に駐留。歩兵第45連隊附。

        ・7月 - 帰朝。

        ・8月10日 - 陸軍歩兵中佐に進級[32]

      ・昭和4年(1929年)8月 - 技術本部附(陸軍省新聞班員)。

      ・昭和5年(1930年)8月1日 - 東京警備参謀。

      ・昭和8年(1933年

        ・3月18日 - 陸軍歩兵大佐に進級、東京警備司令部附。

        ・8月1日 - 歩兵第41連隊長(福山)。

      ・昭和10年(1935年)8月1日 - ハルビン第3師団参謀長。

      ・昭和12年(1937年)3月1日 - 参謀本部附(ナチス・ドイツの首都ベルリンへの出張)。

        ・8月2日 - 陸軍少将に進級、ハルピン特務機関長。

        ・12月26日・27日 - 第1回極東ユダヤ人大会がハルビンで開催。

      ・昭和13年(1938年

        ・3月 - ユダヤ人難民事件(オトポール事件)。

        ・7月15日 - 参謀本部第二部長。

        ・12月 - ユダヤ人対策要綱。汪兆銘重慶から脱出させ、1939年5月、ハノイ経由で東京に迎えた。滝野川の古河虎之助男爵別邸に匿う(日中戦争の和平工作)。

      ・昭和14年(1939年

        ・5月~9月 - ノモンハン事件 停戦努力。「臆病軍人」と呼ばれる。

        ・10月2日 - 陸軍中将に進級。

        ・12月1日 - 第9師団長(石川県金沢市)。

      ・昭和17年(1942年)8月1日 - 札幌北部軍司令官[33]

      ・昭和18年 (1943年) - 北方軍司令官として太平洋戦争アリューシャン方面の戦いを指揮(アッツ島玉砕キスカ島撤退作戦)。

      ・昭和19年(1944年)3月10日 - 第五方面軍司令官。

      ・昭和20年(1945年)2月1日 - 兼北部軍管区司令官。

        ・日本のポツダム宣言受諾後も続いた、8月18日以降の占守島・南樺太防衛戦を指揮。

        ・12月1日 - 予備役編入。

      ・昭和21年(1946年) - 北海道小樽市外朝里に隠遁。

      ・昭和22年(1947年) - 宮崎県小林市(その後、都城市)に転居。

      ・昭和45年(1970年) - 東京都文京区白山に転居し、老衰のため死去。82歳没。墓所は妙大寺(神奈川県大磯町)。

      詳しいことは、「樋口季一郎ウィキペディア」をご覧ください。 ⇩
      https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A8%8B%E5%8F%A3%E5%AD%A3%E4%B8%80%E9%83%8E
      (wikiより)

      02   樋口季一郎

      樋口季一郎

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      「湘南」は現在の鴫立庵 ( しぎたつあん ) の中にある「鴫立沢」の標石に鴫立庵の創設者である祟雪という人物が、「著盡湘南清絶地」と刻んだことに始まるといわれています。


      これは、「清らかで清々しく、このうえもない所、湘南とはなんと素晴らしいとこ」という意味で、中国湖南省の洞庭湖の沿岸にある「著盡湘南 ( しょうなんこなん )」の景勝地に似ていることから「湘南」と名づけられたともいわれており、これをもって大磯町が「湘南発祥の地」とする所以となっています。


      この石碑は、「湘南発祥の地 大磯」を多くの方にご紹介するため、平成 28年 2月に建立されました。
      (案内板より)

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      時代安土桃山時代 - 江戸時代前期
      生誕天正17年(1589年
      死没慶安3年閏10月23日1650年12月16日
      改名幸千代(幼名)、家政
      別名新六郎(通称
      諡号芦羽
      戒名了覚日栄本真院
      墓所東京都港区の如来寺
      官位従五位下、志摩守、出羽
      幕府江戸幕府
      主君徳川秀忠家光
      大和国高取藩
      氏族植村氏
      父母父:植村家次、母:依田信蕃の娘
      兄弟家政直宗
      正室植村泰忠の娘
      家俊(長男)、八助、家貞政春(四男)、娘(安部信之正室)、娘(三宅重吉室)、娘(中根正勝正室)

      植村 家政
      (うえむら いえまさ)は、江戸時代初期の旗本。のちに大和高取藩の初代藩主

      来歴

      天正17年(1589年)、徳川家の家臣・植村家次の長男として生まれる。慶長4年(1599年)10月19日、家督を継いで500石の旗本となり、徳川秀忠付の小姓に任じられた。慶長13年(1608年)、御徒頭に任じられ、従五位下、志摩守に叙位・任官される。慶長19年(1614年)からの大坂の陣では徳川方の斥候を務め、戦後にその功績で1000石を加増され、出羽守に遷任された。


      寛永
      2年(1625年)、第3代将軍・徳川家光付となり、大番頭に任じられ、3500石の加増を受ける。寛永10年(1633年)4月には4000石を加増されて9000石の旗本となる。寛永17年(1640年)10月19日、1万6000石を加増されて2万5000石の大名、大和高取藩の初代主となった。


      慶安3年(1650年)閏10月23日に死去した。享年62。跡を三男の家貞が継いだ。

      関連項目
      高取城
      (wikiより)

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      平林九兵衛 ( ひらばやし - きゅうべい )
      天保 8年 9月 9日 〜 明治 42年 6月 14日 ( 1837年 10月 8日 〜 1909年 6月 14日 )


      職業・政治家


      品川の素封家鳥山又七の子で、平林家の当主であった伯父の養子となる。


      嘉永 4年 ( 1851 )、家督を相続。


      維新後は、区総代、東京府会議員を務める。


      明治 25年 ( 1892 ) には、衆議院議員に当選。


      政治家として活躍する一方、資財を投げ打って地元の発展にも尽力した。


      その功により、33年藍綬褒章を授けられている。

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      平林九兵衛

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      いつの頃からか、この力石 ( ちからいし ) は海雲寺ま境内にあり、若者達の力競 ( ちからくら ) べに大正の中頃まで、使われていた。


      当時門前には多勢 ( おおぜい ) の漁師や親船から積荷を小舟に移し取る瀬取 ( せどり 沖仲仕 ) がいて、この石を何回持ち上げられるか、門と本堂の間を何回持って歩けるかと競ったものである。


      力つきて放り出し大地に落ちるときのドスンという鈍い音は、騒音のなかった当時、静けさを破る心持ちよい響きであった。


      昭和六十一年十月 福沢嘉吉 記す


      この石はその当時からこの場所にあり、元気な若者の汗が染みこんだものです。


      石にふれてお元気を出してください。


      文字は寄せ文字家元・橘右近師匠の奉納揮毫てす。
      (案内板より)

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      其形陋シトイウトモ此心ヲ発セバ已ニ一切衆生ノ導師ナリ 道元禅師


      江戸の末 1860年頃、鈴ヶ森刑場の番人をしながら交代で町に出て施しを受けて暮していた三人連れの乞食がいた。


      その一人平蔵は或る日、多額の金を拾ったが落とし主を探し当然のこととして金を返し、お礼の小判を断った。


      そのことを知らされた仲間の者は金を山分けすれば三人とも乞食を止めて暮らせたのにと腹を立てて正直者の平蔵を自分たちの小屋から追い出し凍死させてしまった。


      これを聞いた金の落とし主である仙台屋敷に住む若い侍は、平蔵の遺体を引きとり、青物横丁の松並木の所に手厚く葬りそこに石の地蔵尊をたて、ねんごろに供養しつづけた。


      明治三十二年十月、京浜電車が開通することになったが生憎その線路に地蔵尊の土地がかかり、時の海雲寺住職 横川得諄和尚が、菩薩のような功徳の君子 平蔵を長く社會の木鐸たらしめんと願望して当寺境内に移してもらい回向した。


      いつの世も人は利害得失を先とし他人の迷惑を考えず、金銭のために大切な人の命さえとる者がいて憂慮にたえない。誠心で浄く正しい平蔵の心に感銘し、その死後、報恩感謝供養の誠をつくした若い侍の敬虔な態度にも教え導かれるものがある。


      物足りて心貧しい今日 得諄和尚の主旨に生きる法孫として、かねてより多くの人々が平蔵地蔵尊にあやかり浄く正しい心で和平な日々を送って明るい社会づくりに役立たんことを願っていた。


      たまたま篤信者あり平蔵地蔵尊の信仰こそ荒んだ人心を洗う甘露の法乳であると賛同と援助を得たので海雲寺並に荒神王を参詣する總ての人にお参りいただくため本尊前庭に移し奉安することとなった。


      ここに平蔵地蔵の由来を略記し讃仰の資とす。


      南無地蔵願王尊伏して願わくば尊像を拝し奉るわれ等を憐愍せられ、誠實な心 健全な体もて世のため人のためにつくせる力を与え給え。


      昭和六十一年十月吉日

      龍吟山 海雲寺二十三世 如雲裕生 謹誌
      (石碑文より)

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      寛文二年 ( 1662年 ) 関東郡代であった伊奈半十郎により、中之郷 ( 現在の吾妻橋 ) から向島に通じる源森川に源森橋が架けられた。


      またその北側にあった水戸屋敷内に大川 ( 隅田川 ) から引き入れた小さな堀があり、これに架かる小橋を新小梅橋と呼んでいた。


      この二つの橋は並んで架けられていたため、いつの頃からか枕橋と総称されるようになった。


      その後、堀は埋められ新小梅橋もいつしか消滅した。


      明治八年残った源森橋は正式に枕橋と呼ばれることとなった。


      現在の枕橋は、昭和三年に架け替えられたものである。


      昭和六十三年、本橋は東京都著名橋にしていされた。


      平成四年三月
      (石碑文より)

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      宝暦 7年 ( 1757 ) 8月 25日、当地 ( 旧浅草新堀端天台宗龍宝寺前 ) 里正 柄井八右衛門、無名庵川柳と号し,、初めて万句合を開巻す。


      爾来文運旺んに、逐には文芸の名をもって呼ばれ、今日に至る川柳隆盛の礎を開く。


      本年その 250年に当たって後学相諮り、一碑を 建てて開祖の遺業を顕彰し、永く歴史 に留めんと祈念するものなり。
      (案内板より)

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      土岐 頼稔(とき よりとし)は、江戸時代中期の大名駿河国田中藩の第2代藩主上野国沼田藩の初代藩主。沼田藩土岐家4代。官位従四位下丹後守侍従

      生涯

      元禄8年(1695年)2月6日、または2月8日に田中藩初代藩主土岐頼殷の長男(3男だったが、2人の兄が早世したために世子となる、との説もある)として大坂で生まれる。正徳3年(1713年)7月、父の隠居により家督を相続する。奏者番寺社奉行大坂城代などを歴任した。享保17年(1732年)の享保の大飢饉における窮民対策で尽力したため、徳川吉宗に賞賛されている。享保19年(1734年)6月に京都所司代となる。寛保2年(1742年)6月に老中となり、同年8月に田中から上野沼田へ移封された。


      延享元年(1744年)9月12日、50歳で江戸にて死去した。跡を長男の頼煕が継いだ。

      系譜
      ・父:土岐頼殷(1642-1722)

      ・母:渡辺氏

      ・正室:松平忠雄

      ・生母不明の子女

        ・長男:土岐頼煕(1719-1755)

        ・次男:菅沼定興

        ・四男:土岐定則

        ・五男:土岐定経(1728-1782) - 土岐頼煕の養子

        ・女子:松平康福正室

        ・女子:智峰院 - 加藤泰温正室

        ・女子:木下俊泰正室

        ・女子:織田輔宜正室
      (wikiより)

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      土岐頼稔

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      土岐 定政(とき さだまさ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将土岐氏明智氏の系統であり、祖父頼明の兄で大伯父・頼典明智光秀の祖父とされる光継と同一人物とする説もある。また明智光秀を伯父(定明の兄)とする説もあり、真偽の程は定かではない。

      人物

      天文21年(1552年)6月に、父定明が惣領家の美濃守護土岐頼芸と家臣の斎藤道三の間の内紛に巻き込まれて、それに乗じた弟の定衡(定政の叔父)によって殺害される事変が起こり[1]、さらに御嵩城主の小栗教久(信濃守)の攻撃を受けて落城したために、幼い愛菊丸(定政)は一族とともに家臣に護衛されて、外祖父の菅沼定広を頼って落ち延びた。


      やがて、近隣の奥平貞勝への母の再嫁により生き別れ、母方の叔父・菅沼定仙の養嗣子とされた。そのため、菅沼藤蔵と称することになった。


      永禄
      7年(1564年)に徳川家康に招聘されてその家臣となり、永禄8年(1565年)の初陣を皮切りにして姉川の戦いをはじめ、徳川家の主要な合戦の多くに参戦して武功を挙げ、家康から武勇に優れた武将として賞賛された。それらの功績から天正10年(1582年)に、甲斐巨摩郡切石に1万石を与えられて大名となり、亡父の跡を継ぐ形で明智定政と改称した。


      天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いや天正18年(1590年)の小田原征伐でも軍功を挙げたため、征伐後に家康が関東に移されると、下総相馬郡守谷に1万石を与えられた。豊臣秀吉からもその武勇を賞賛された。

      文禄
      2年(1593年)には、従五位下、山城守に叙任された上、鈞命により[1]惣領家の土岐頼芸によって没落した土岐家の跡を継いで、大名として再興することが許され、明智定政から土岐定政に改名した。

      慶長2年(1597年)3月3日に47歳で死去し、跡を嫡男の定義が継いだ。

      脚注
      1. a b 『上野沼田 土岐家譜』
      (wikiより)

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      139b

      139c



      土岐 頼行(とき よりゆき)は、摂津高槻藩の第2代藩主。後に下総相馬藩主を経て、出羽上山藩の初代藩主となる。沼田藩土岐家2代。松本一指に学び、自得記流を創始した槍術家でもある。

      生涯

      慶長13年(1608年)、初代藩主土岐定義の長男として生まれる。元和5年(1619年)、父が死去したために家督を継いだが、幼少を理由に摂津高槻2万石から下総相馬1万石に減封された。寛永元年(1624年)10月28日、従五位下山城守に叙位・任官する。寛永5年(1628年)2月10日、1万5000石を加増されて出羽上山2万5000石へ加増移封された。


      その後は検地や羽州街道の整備、城下町の整備を実施して藩政の基礎を固める一方で、朝鮮通信使の饗応役、大坂城番、甲府勤番などを歴任している。寛永6年(1629年)から寛永9年(1632年)まで紫衣事件で処罰された沢庵宗彭の身柄を預かり手厚く保護している。


      はじめ次男の頼長を嫡男としたが、不行跡かつ病弱であったため廃嫡した。延宝6年(1678年)8月16日、家督を長男の頼殷に譲って隠居し、入道して宗是と号した。貞享元年(1684年)12月10日に死去した。享年77。
      (wikiより)

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      末松 謙澄(すえまつ けんちょう、安政2年8月20日1855年9月30日) - 大正9年(1920年10月5日)は、日本明治から大正期のジャーナリスト政治家歴史家


      位階勲等爵位正二位勲一等子爵。幼名は千松(または線松)。帝国学士院会員。

      生涯

      豊前国前田村(後に福岡県行橋市)に大庄屋末松房澄(通称七右衛門、号は臥雲)・伸子の4男として生まれる。


      慶応
      元年(1865年)に地元の碩学村上仏山の私塾水哉園で漢学国学を学び、明治4年(1871年)に上京して佐々木高行の元へ書生として住み込み、佐々木の娘・静衛がグイド・フルベッキの娘に英語を教わっていた縁で、フルベッキ家に居候となっていた高橋是清と親交を結んだ。高橋から英語を教わる代わりに漢学の教授を引き受けて互いに勉強する日々を送り、明治5年(1872年)に東京師範学校東京教育大学筑波大学の前身)へ入学した。しかし学校生活に不満を感じて同年に中退、高橋と協力して外国新聞の翻訳で生計を立てつつ東京日日新聞社へ記事を売り込み、明治7年(1874年)に同社の記者となり笹波萍二のペンネームで社説を執筆。同時期にアメリカ合衆国に留学していた箕作佳吉の記事を東京日日新聞に掲載させたといわれる。


      やがて明治8年(1875年)に社長・福地源一郎の仲介で伊藤博文の知遇を得て正院御用掛として政府へ入り、同年の江華島事件による李氏朝鮮との交渉へ赴く黒田清隆の随行および日朝修好条規の起草に参加、帰国した翌9年(1876年)に工部省権少丞、明治10年(1877年)に西南戦争が勃発すると陸軍省出仕となり、山縣有朋の秘書官として九州を従軍、9月に西郷隆盛へ宛てた降伏勧告状を起草した。同年太政官権少書記官に転じたのもつかの間、翌明治11年(1878年)にイギリス留学を命じられ、駐在日本公使館付一等書記官見習となって2月10日に渡欧、4月1日ロンドンへ到着、外交官として赴任することになった[1]


      イギリス滞在中はしばらく公使館に勤務していたが、歴史の勉強に集中するため明治13年(1880年)12月に依願免官、翌明治14年(1881年)10月からケンブリッジ大学セント・ジョンズ・カレッジへ入学し、法学部を専攻した(箕作佳吉の兄菊池大麓の紹介があったとされる)。留学中はラテン語ギリシャ語が課題の試験勉強に苦しみ、留学費用を賄うため三井財閥からの借金と前田利武の家庭教師代で悪戦苦闘していたが、明治17年(1884年)5月に法律の試験に合格、12月に法学士号を取得して卒業した。在学中は文学活動が顕著で、明治12年(1879年)に「義経=ジンギスカン説」を唱える論文『義経再興記』をイギリスで発表し、日本で大ブームを起こす。また明治15年(1882年)に最初の「源氏物語」の英訳を書いたり、イギリス詩人の詩を多数邦訳したりしている。1884年にケンブリッジ大学を卒業した。


      第1次伊藤内閣鹿鳴館時代の明治19年(1886年)に日本へ帰国、伊藤の意向を受けて歌舞伎の近代化のため福地源一郎・外山正一と共に演劇改良運動を興し、明治天皇の歌舞伎見物(天覧歌舞伎)を実現させた。明治21年(1888年)に法学修士号を取得、同年から明治23年(1890年)の2年がかりでバーサ・クレイの『ドラ=ソーン』を翻訳、『谷間の姫百合』と題して発表。明治22年(1889年)4月に伊藤の次女・生子と結婚。この間文部省参事官内務省参事官、内務省県治局長を歴任、明治23年の第1回衆議院議員総選挙で福岡県から当選して衆議院議員となり政界入りした。大成会中央交渉会に属し政治姿勢は政府寄りの立場を取った。


      明治25年(1892年)に第2次伊藤内閣が成立すると伊藤の引き立てで法制局長官に就任、在任中の明治28年(1895年)に男爵に叙せられ、翌明治29年(1896年)に互選で貴族院議員となった。同年に法制局長官を辞任するも明治31年(1898年)の第3次伊藤内閣逓信大臣になり、明治33年(1900年)に伊藤が創立した立憲政友会へ入会、同年に成立した第4次伊藤内閣内務大臣を歴任した。辞任後は明治29年から毛利氏および家政を統括していた井上馨の依頼で、長州藩の歴史を調べ毛利氏の歴史編纂事業を開始したが、他藩出身であったことと山路愛山笹川臨風堺利彦斎藤清太郎ら新規採用組も長州藩士でなかったため長州藩出身者から嫌われ、井上に更迭された前総裁の宍戸璣が新聞に更迭された不満を暴露した記事が掲載されるなど編纂事業は凍結、日露戦争開始による新たな任務遂行のため一時中断となった[2]


      明治37年(1904年)に日露戦争が勃発すると、伊藤を含めた政府・元老達からヨーロッパに対する日本の立場を説明し好意的な世論形成、および日本への悪感情を和らげるため黄禍論の拡大防止を含めた広報活動を命じられ、宣戦布告した2月10日カナダ・アメリカ経由で渡欧(2月24日に伊藤から同様の命令を受けた金子堅太郎が渡米)、3月にイギリスに到着すると広報を開始、イギリス・フランスを主として戦争に対する日本の弁護論と偏見に対する反論演説を展開した。明治38年(1905年)までに黄禍論は沈静化したことを政府に打電しつつ、なおもヨーロッパに留まり新聞取材や演説・論文寄稿などを続け、明治39年(1906年)1月にフランスを出発して2月に帰国、海外の功績を認められ3月に枢密顧問官、翌明治40年(1907年)に子爵に昇叙、帝国学士院会員にも選ばれた。


      明治44年(1911年)、中断していた毛利氏歴史編纂事業が明治維新全体の歴史を纏めた一級資料『防長回天史』として初版脱稿された。ローマ法も研究するようになり大正2年(1913年)に『ユスチニアーヌス帝欽定羅馬法提要』、大正4年(1915年)に『ガーイウス羅馬法解説』『ウルピアーヌス羅馬法範』を翻訳・刊行した。大正9年(1920年)9月に『防長回天史』修訂版を脱稿するが、10月5日、全世界で大流行していたスペインかぜに罹患したことが原因で死去。享年65。子が無かったため、甥の春彦が爵位を相続した[3]


      墓は東京都品川区北品川4丁目の清光院法名は蓮性院殿古香青萍大居士。

      栄典
      位階
      1876年(明治9年)6月3日 - 正七位[4]

      1886年(明治19年)7月8日 - 従五位[5]

      1898年(明治31年)2月14日 - 正三位[6]

      1912年(明治45年)3月20日 - 従二位[7]

      1920年(大正9年)10月6日 - 正二位[8]

      勲章等
      1889年(明治22年)11月29日 - 大日本帝国憲法発布記念章[9]

      1890年(明治23年)6月30日 - 勲五等瑞宝章[10]

      1893年(明治26年)12月28日 - 勲四等瑞宝章[11]

      1895年(明治28年)10月31日 - 男爵勲三等旭日中綬章[12]

      1906年(明治39年)4月1日 - 勲一等旭日大綬章[13]

      1907年(明治40年)9月23日 - 子爵[14]

      1915年(大正4年)11月10日 - 大礼記念章(大正)[15]

      1920年(大正9年)10月6日 - 旭日桐花大綬章[16]


      家族・親族
      ・妻:生子(1868年 - 1934年) - 初代内閣総理大臣伊藤博文の次女

      ・養子:春彦(1896年 - 1977年) - 甥、弟凱平の次男

      ・養女:澤子(1899年 - 1942年) - 義妹、伊藤博文の庶子で生子の異母妹。会津藩出身の工学者大竹多気の長男虎雄に嫁ぐ[17]。虎雄は大蔵官僚で会津会会員

      末松謙一(元さくら銀行頭取) - 大甥(謙澄の弟の孫)

      出典
      1. 松村、P7 - P10、P39、P53 - P56、P240 - P244、P305 - P306、臼井、P546、小山、P134 - P135、伊藤、P159。 2
      .

      松村、P39 - P40、P53 - P69、P306 - P310、臼井、P546、小山、P135 - P147、伊藤、P229、P309 - P310、P393、P438、P444。
      3.

      松村、P11 - P51、P250 - P285、P310 - P317、霞会館、P768、臼井、P546、小山、P224 - P225、伊藤、P486 - P487。
      4.

      『太政官日誌』明治9年1月-6月
      5.

      『官報』第907号「叙任及辞令」1886年7月10日。
      6.

      『官報』第4383号「叙任及辞令」1898年2月15日。
      7.

      『官報』第8624号「叙任及辞令」1912年3月22日。
      8.

      『官報』第2455号「叙任及辞令」1920年10月7日。
      9.

      『官報』第1932号「叙任及辞令」1889年12月5日。
      10.

      『官報』第2100号「叙任及辞令」1890年7月1日。
      11.

      『官報』第3152号「叙任及辞令」1893年12月29日。
      12.

      『官報』第3704号「叙任及辞令」1895年11月1日。
      13.

      『官報』号外「叙任及辞令」1907年3月31日。
      14.

      『官報』第7273号「授爵・叙任及辞令」1907年9月25日。
      15.

      『官報』第1310号・付録「辞令」1916年12月13日。
      16.

      『官報』第2455号「叙任及辞令」1920年10月7日。
      17. 大竹多気展 大竹家・松田家東の家系”. 山形大学工学部広報室. 2014年6月4日閲覧。霞会館、P768、伊藤、P378。

      参考文献
      玉江彦太郎『若き日の末松謙澄-在英通信』海鳥社1992年1月ISBN 4874150071

      松村正義『ポーツマスへの道-黄禍論とヨーロッパの末松謙澄』原書房1987年1月ISBN 4562018453

      鳥谷部春汀『明治人物評論・正』博文館、1898年。

      Japanese Students at Cambridge University in the Meiji Era, 1868-1912: Pioneers for the Modernization of Japan, by Noboru Koyama, translated by Ian Ruxton, Lulu Press, September 2004, ISBN 1411612566

      ・"Suematsu Kencho, 1855-1920: Statesman, Bureaucrat, Diplomat, Journalist, Poet and Scholar," by Ian Ruxton, Chapter 6, Britain & Japan: Biographical Portraits, Volume 5, edited by Hugh Cortazzi, Global Oriental, 2005, ISBN 1901903486

      霞会館華族家系大成編輯委員会編『平成新修旧華族家系大成 上巻』吉川弘文館、1996年。

      小山騰『破天荒<明治留学生>列伝』講談社選書メチエ、1999年。

      臼井勝美高村直助鳥海靖由井正臣編『日本近現代人名辞典』吉川弘文館、2001年。

      伊藤之雄『伊藤博文 近代日本を創った男講談社、2009年。

      ・城戸淳一著『京築の文学散歩』花乱社、2020年

      関連項目
      日英関係

      太陽 (博文館)

      法典調査会

      演劇改良運動

      源氏物語

      外部リンク
      末松謙澄について

      末松 謙澄:作家別作品リスト青空文庫

      ・Suyematz, Kenchio (1882). Genji Monogatari : The Most Celebrated of the Classical Japanese Romances. London: Trubner  (源氏物語英訳。17帖のみの抄訳。Hathi Trust リンクは米国内のみ有効?色刷り扉絵の画像は無い)

      Japanese Literature - Including Selections from Genji Monogatari and Classical Poetry and Drama of Japan - プロジェクト・グーテンベルク (同上の電子プレーンテキストを収録)
      (wikiより)

      137  Suematsu_Kencho

      末松謙澄

      137a

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      137c

      ⇩ 末松謙澄碑

      137d

      137e

      137f



      奥平 昌能(おくだいら まさよし)は、江戸時代前期の大名下野国宇都宮藩主、出羽国山形藩初代藩主。中津藩奥平家3代。官位従五位下大膳亮徳川家康の玄孫。

      生涯
      奥平忠昌の長男として誕生。


      寛永17年10月28日1640年12月11日)、父忠昌に伴われて将軍徳川家光に拝謁する。正保3年11月9日1646年12月15日)、元服。翌正保4年12月12日1648年1月6日)、榊原忠次とともに幼年の徳川家綱の傅役を仰せ付けられた。すでに曽祖父・信昌の功績が認められるばかりか、大叔父・松平忠明の威光が轟いており、譜代の重鎮ともいえる家柄であった。


      寛文8年(1668年)に父・忠昌の死により家督を継ぐ。


      亡父の法要を営む寛文8年3月2日1668年4月13日)、城下にある菩提寺の興禅寺において、重臣間の私怨から刃傷沙汰に発展したが(宇都宮興禅寺刃傷事件[1]、昌能は片方の家臣に肩入れし、両成敗とはしなかった[2]。さらに、後に「追腹一件」と呼ばれる国禁に触れる重大な殉死騒ぎも重なり、8月に宇都宮から出羽山形への2万石の減転封処分を受ける。ただし、将軍家綱の傅役であったため比較的軽い処分で済まされた[2]


      ところが、両成敗にならない藩の裁定に、家臣間では不満が爆発、主君を見限る多数が家中を立ち去った[3]。しかも、怨恨を抱いたままの彼らの行動は、後年に江戸の三大仇討に数えられる浄瑠璃坂の仇討にまで発展した[4]


      寛文12年閏6月25日1672年8月17日)には危篤に陥った昌能であったが、長女ばかりか嫡男の千福丸にも先立たれており、嗣子が居なかった[5]。ちょうど甥(妹婿で肥前福江藩主の五島盛勝の次男)で5歳の小次郎を絶家の重臣に取り立てるつもりで貰い受けていたため、翌月7月1日8月23日)、家臣の島田出雲守が5歳の小次郎を伴って老中へ養嗣子願いを内申した。すると、末期養子の条件を十分に満たしていないまま、即日の許しを得た。翌日の2日に昌能は死去した。享年40。5歳の小次郎は、昌能の三女・菊姫(9歳)の婿として家督を継いだ。後の奥平昌章である。

      昌能の人格に関する逸話

      昌能の性状は粗暴で、影では「荒大膳」と呼ばれていた[6]。追腹一件で殉死した杉浦右衛門兵衛も殉死が禁止されていたことは知っていたが、昌能が促したために殉死したという[7]。興禅寺事件での公平を欠く仕置に対して、昌能を見限って離れた家臣は40人以上に及んでいる[3]


      世子時代から既に粗暴だったようであり、次のような逸話が伝わる。城近くの田川で釣りをしていると、いつもと違って川が濁って魚がとれなかった。家臣に上流を調べさせると、山伏数人が水垢離をしていたためだったが、昌能は激怒して2人の山伏を処刑した。斬られた山伏の弟子9人はこれを恨みに思って幕府に訴えようとしたが、その前に昌能は弟子も全て処分した[3]

      系譜
      ・父:奥平忠昌

      ・母:桂岳院 - 鳥居忠政

      ・室:不詳

        ・男子:千福丸

        ・次女:くら姫 - 松平乗春正室

        ・三女:菊姫(1664-?) - 奥平昌章正室

      ・養子

        ・男子:奥平昌章(1668-1695) - 五島盛勝の次男または三男

      脚注
      1. 坂本 2011, p. 46.
      2. a b 坂本 2011, p. 48.
      3. a b c 坂本 2011, p. 50.
      4. 坂本 2011, p. 49.
      5. 坂本 2011, p. 61.
      6. 坂本 2011, p. 40.
      7. 坂本 2011, p. 45.

      参考文献
      ・坂本俊夫 『宇都宮藩・高徳藩』 現代書館〈シリーズ藩物語〉、2011年9月。
      (wikiより)

      136   Okudaira_Masayoshi

      奥平昌能

      136a

      136b



      奥平 昌成(おくだいら まさしげ)は、江戸時代中期の大名下野国宇都宮藩主、丹後国宮津藩主を経て、豊前国中津藩初代藩主。中津藩奥平家5代。

      生涯

      元禄7年(1694年)11月6日、宇都宮藩主・奥平昌明(昌章)の次男として生まれる。長兄の次郎吉が早世したために世子となり、元禄8年(1695年)に昌明の死去により2歳で家督を継いだ。


      元禄10年(1697年)2月11日に宮津藩へ移封される[1]。同16年9月28日1703年)、10歳で綱吉将軍に初御目見する。宝永4年(1707年)12月23日、従五位下・大膳大夫に叙位・任官する。


      正徳
      3年(1713年)、宮津で領内巡検を行う。同年10月26日老中阿部正喬の娘と婚姻する。


      享保2年(1717年)2月11日に1万石加増の上で、豊前中津10万石に移封となる。同7年(1722年)3月、藩士に対し、中津藩庁へ先祖書を提出させた。これが、現在に伝わる奥平家臣に関する資料の元となる。


      延享元年(1744年)12月16日に従四位下に昇叙する。延享3年(1746年)11月14日に死去した。享年53。跡を次男の昌敦が継いだ。

      系譜
      ・父:奥平昌章(1668-1695)

      ・母:岡見氏

      ・正室:阿部正喬の娘

      ・室:松嶺院 - 沢渡氏

        ・次男:奥平昌敦(1724-1758)

      ・生母不明の子女

        ・男子:豊太郎

        ・三男:奥平昌純

        ・男子:万之丞

        ・六男:竹谷松平義峯

        ・女子:内藤信興正室

        ・女子:建部長教婚約者

        ・女子:土屋篤直正室

        ・女子:堀田正邦継室

      脚注
      1. 坂本俊夫『宇都宮藩・高徳藩』現代書館〈シリーズ藩物語〉、2011年9月、61頁。
      (wikiより)

      135  Okudaira_Masashige

      奥平昌成

      135a

      135b

      135c



      奥平 家昌(おくだいら いえまさ)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将大名下野国宇都宮藩主(第26代宇都宮城主)。

      家系
      美濃加納藩主・奥平信昌の長男。母は徳川家康の長女・亀姫(加納御前)松平家治奥平忠政松平忠明の兄。正室は本多忠勝の次女・法明院。子は奥平忠昌(長男)、ビン姫徳川秀忠の養女、堀尾忠晴正室)の姉弟で、いずれも正室の所生である。

      生涯
      世子の時代

      元服の時、家康から偏諱を受けて家昌と名乗った。家康の外孫に当たる上に家康にとっても最年長の男孫であったこと(叔父・秀忠よりも年長)から、刀や鷹を与えられるなど重用された。文禄4年(1595年)、豊臣姓を下賜された[2]


      慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは木曾路を進む秀忠に従い、真田昌幸信濃上田城を攻めた[1]

      宇都宮藩主

      慶長6年2月6日1601年3月10日)、関ヶ原の戦いの勝利後に命ぜられた京都治安活動を高く評価された父・信昌が美濃加納10万石を与えられた。そのため、それまでの上野宮崎領に家昌を残し、父母は弟の忠政を伴って配地へ赴任した。同年12月28日1602年2月19日)、家昌も父に遅れて北関東の要地・下野宇都宮10万石を与えられると、翌月1月25日(1602年3月18日)、入国を果たした。これは、家康が北関東の要衝である宇都宮藩に誰を配するべきかと天海僧正に諮問した際、天海は誰彼と論ずる必要はなく奥平大膳に与えるべきと答え、家康も我が意を得たりとして家昌に10万石を与えたものである[3]。宇都宮への加増転封にともない、文武一芸に秀でた浪人を多く召抱えて新たな家臣団を編成した[3]ものの、三河時代からの家臣団制度が機能的でなくなったのを痛感した家昌は、重臣制度改正に着手した。この奥平家では、長篠の戦いで父を援けた重臣12家を「七族五老」と呼んでいた。元々は跡継ぎとなれずに支族として宗家を支え、軍務を担当していた7家に、重臣に抜擢して政務を担当させた小領主たち5家を加えた12家の総称である。長篠の戦いの勝利後には、陪臣でありながら家康から直々に労われた上に、彼らの子々孫々に至るまで厚遇を約束された、御墨付きを拝領したという重臣たちであった。戦乱に明け暮れた時勢であればまだしも、平穏な治世に移り変わっていくと、七族五老は軍務の負担が減る一方で政務の負担が激増していた。そこで、族臣7家と老臣5家を合一して「大身衆」と呼称変更した上で、その12家の中から5、6家が毎月交代で国政を担当し、有事には12家が協力して対応するように改めたのである。その12家は平等ではなく、指導的立場にある2家が2000石以上を食み、序列によって俸禄が定められた(末席でも1000石であった)。なお、戦時の先手を担当する山崎家と生田(しょうだ)家だけには、大手門内に邸宅を構えさせている[注釈 1]


      家昌は以後、宇都宮の城下町整備に尽力して毎月5日と10日に市を開催し(大膳市)、幕府が宇都宮大明神の社殿造営を始めると伊奈忠次と共に奉行を務めた[4]慶長16年10月13日1611年11月17日)、正室・本多氏(もり姫と言ったらしい)が死去した。慶長19年(1614年)には堀利重の身柄を預かった[1]

      最後

      家昌は小鼓を嗜んだという。また、父譲りの武勇を持っていたが、慶長19年10月6日(1614年11月7日)、大坂冬の陣のため出兵を命ぜられるも病を患い、遠征には不参となる[4]。そのため、3日後の同月9日には出兵を免ぜられた分、鳥居忠政らと共に江戸城の本丸留守居役を命ぜられた。ところが10月10日、父母に先立って宇都宮で死去した。享年38歳[1]


      嫡男の千福ことわずか7歳の忠昌が11月18日に跡を継いだが[4]、5年後の元和5年(1619年)に下総古河藩へ移封された[5]本多正純が代わって宇都宮藩主となったが、元和8年(1622年)の宇都宮城釣天井事件で改易されたため、忠昌が宇都宮へ戻った[6]

      系譜
      ・父:奥平信昌(1555-1615)

      ・母:亀姫(1560-1625) - 加納御前・加納の方、盛徳院殿香林慈雲大姉、徳川家康の長女

      ・正室:もり姫 - 法明院、本多忠勝の次女

        ・女子:ビン姫(1607-1652) - 雲松院長天正久大姉、徳川秀忠の養女、堀尾忠晴正室

        ・長男:奥平忠昌(1608-1668)

      脚注
      注釈
      1. 子の忠昌の代で山崎家が絶えると、雨山奥平家に担わせている。

      出典
      1. a b c d 阿部 & 西村 1990, p. 206.
      2. 村川浩平『日本近世武家政権論』、近代文芸社、2000年、40頁。
      3. a b 坂本 2011, p. 19.
      4. a b c 坂本 2011, p. 22.
      5. 坂本 2011, p. 23.
      6. 坂本 2011, p. 43.

      参考文献
      坂本俊夫『宇都宮藩・高徳藩』現代書館〈シリーズ藩物語〉、2011年9月。ISBN 978-4-7684-7128-9

      阿部猛; 西村圭子編 『戦国人名事典コンパクト版』 新人物往来社、1990年9月。ISBN 4-404-01752-9
      (wikiより)

      134  Okudaira_Iemasa

      奥平家昌

      134a

      134b

      134c



      周囲を瓦積みの土塀で囲み、入り口には石門のある約五百五十平方メートルに及ぶこの地が奥平家歴代の墓域である。


      墓域内には二代藩主・奥平家昌 ( いえまさ ) 以下各代らわたる八十九基の墓碑が配列されており、とくに家昌夫妻と姉・雲松院 ( うんしょういん ) の墓三基は三メートルを超える見事な五輪塔である。


      この墓域は都内でも数少なくなった大名墓地として、また十万石級譜代 ( ふだい ) 大名の墓地様式をよくとどめるものとして貴重である。


      奥平家は徳川家の譜代大名で、初代・定昌 ( さだまさ ) は美濃において十万石を領した。


      その後、古河 ( こが )・宇都宮・山形・再度宇都宮に転封され、さらに九州・豊前 ( ぶぜん ) の中津藩主として幕末まで続いた大名である。
      (案内板より)

      133b

      133a



      金春流(こんぱる-りゅう)は能楽の流派の一。古い文献には「今春」とも。シテ方と太鼓方がある。また、かつては大鼓方にも金春流があったが明治期に廃絶した。

      シテ方
      伝説の上では聖徳太子に近侍した秦河勝を初世としているが、実質的には室町時代前期に奈良春日大社興福寺に奉仕した猿楽大和四座の一、円満井座に端を発すると考えられている。特に同座の中心的な太夫として活躍した毘沙王権守、およびその子金春権守が流儀の基礎を築き、権守の金春禅竹(五十七世宗家)にいたって飛躍的な深化を遂げた。下掛りに分類される。

      円満井座創座を巡る伝承

      禅竹は、自家に伝わる伝承を基に『明宿集』を物し、猿楽の創始について述べている。


      「明宿集」によれば、日本における猿楽の創始者は聖徳太子の寵臣・秦河勝であったとされる。河勝は太子に従って物部守屋討伐などに功を挙げる一方、太子に命じられて猿楽の技を行い、天下の太平を祈願した(禅竹は河勝を「」の化身とし、また始皇帝の転生と見た)。その後河勝の三人の子のうち、末子が猿楽の芸を引き継ぎ、代々継承したといい、村上天皇の代にはその末裔・秦氏安が紫宸殿で「翁」を演じた。この氏安が円満井座の中興の祖となり、以下禅竹に至るまで代々猿楽の徒として活躍したという。

      金春禅竹の活躍
      金春流と金剛流は、観阿弥らが京都に進出したのちもながらく奈良を本拠地とし、そこにとどまっていたが、禅竹のころから徐々に京都に進出していった。世阿弥に師事し、その娘婿となった禅竹は、世阿弥から「拾玉得花」「花鏡」等の伝書を相伝するとともに、その演技によって当時の知識人たちから人気を集めた。また禅竹は作能にもすぐれた手腕を見せ、「定家」「芭蕉」「杜若」など現在でも演じられる佳曲を次々と生みだした。さらに「六輪一露の説」を中心とする芸論においても後代に大きな影響を与えた。

      金春禅鳳
      このように世阿弥没後の猿楽にあって、禅竹を中心とする金春流はひろい人気を集め、大勢力となった。この時期特に活躍した人物としては禅竹の孫にあたる金春禅鳳(五十九世宗家)がいる。禅鳳は風流能の流行を担った中心的な作者であり、「生田敦盛」「初雪」などを書いた。

      全盛期

      金春流がその全盛期を迎えたのは、戦国時代末期、特に豊臣秀吉天下統一を果たしてからである。金春安照(六十二世宗家)に秀吉が師事したために、金春流は公的な催能の際には中心的な役割を果たし、政権公認の流儀として各地の武将たちにもてはやされることとなった。秀吉作のいわゆる「太閤能」も安照らによって型付されたものである。安照は小柄で醜貌と恵まれない外見だったと伝えられるが、重厚な芸風によって能界を圧倒し、大量の芸論や型付を書残すなど、当時を代表する太夫の一人であった。


      この当時の金春流を代表する人物として、もう一人下間少進が挙げられる。本願寺坊官である少進は金春喜勝(笈蓮。安照の父。六十一世宗家)に師事した手猿楽の第一人者で、各地の大名を弟子に持ち、金春流では長らく途絶していた秘曲「関寺小町」を復活させ、「童舞抄」などの伝書を記すなどの活躍を見せた。

      近世期

      江戸幕府開府後も、金春流はその勢力を認められて四座のなかでは観世流に次ぐ第二位とされたものの、豊臣家とあまりに親密であったことが災いし、流派は停滞期に入ってゆく。その一方で観世流徳川家康が、喜多流徳川秀忠が、宝生流徳川綱吉が愛好し、その影響によって各地の大名のあいだで流行していった。


      この時期、金春流は特に奈良と深い関係を持ち、領地を拝領し(他の流派は扶持米)、ほかの流儀が興福寺との関係をうすれさせゆくなかで薪能に謹仕するなど、独特の態度を見せた。地方で行われる神事の中には、金春流の影響を受けたものが少なくない。また大和の所領では幕末、兌換紙幣である金春札を発行するなど、経済的にも恵まれていた。しかしこの金春札は、維新後の混乱で価値を失い、金春家が経済的に没落する原因の一つともなった。[1]

      維新後

      明治維新後、金春宗家は奈良などで細々と演能を続けているにすぎなかったが、こうした流儀の危機にあって一人気を吐いたのが、宝生九郎梅若実とともに「明治の三名人」といわれた桜間伴馬(後に左陣)である。熊本藩細川家に仕えていた桜間家は維新後に上京。能楽全体が危殆に瀕していた時期にあって、舞台装束、面などが思うように手に入らない劣悪な環境のなかで、宝生九郎らの援助によって演能をつづけ、東京における金春流の孤塁を守った。伴馬の子・桜間弓川も父の後を承けて活躍した。


      その後は桜間道雄のほか、七十八世宗家金春光太郎(八条)の長男・金春信高が上京し、奈良にとどまった叔父・栄治郎(七十七世宗家)などともに流儀の頽勢を挽回すべくつとめた。七十九世宗家を襲った信高は、他流に比べて整備の遅れていた謡本を改訂し(昭和版)、復曲などによる現行曲の増補につとめ(金春流の所演曲は五流のなかでももっとも少なく、大正末年の時点で153曲しかなかった。しかもこのなかには「姨捨」「砧」など多くの秘曲・人気曲が含まれておらず、この点が流勢低迷の要因の一ともなっていた)、積極的に女流能楽師を認めるなど、多くの改革を行った。

      現状
      現在、シテ方金春流は東京、奈良、熊本名古屋などを主たる地盤として活動し、能楽協会に登録される役者は100名強である。型、謡とも濃厚に下掛りの特色を残し、芸風は五流のなかでももっとも古風と評される。宗家は信高の長男八十世金春安明(こんぱるやすあき)が継承した後に、現在安明の長男金春憲和(こんぱるのりかず)が八十一世宗家を継承している。

      宗家代々
      ・七十四世 金春広成

        ・七十三世の養子。生家は別家金春八左衛門家。

      ・七十五世 金春八郎義広

        ・七十四世の三男。

      ・七十六世 金春七郎広運

      ・七十七世 金春栄治郎

        ・七十六世の次男。

      ・七十八世 金春八条

        ・七十六世の長男。

      ・七十九世 金春信高

        ・七十八世の長男。

      ・八十世 金春安明

        ・七十九世の長男。

      ・八十一世 金春憲和

        ・八十世の長男。

      大鼓方
      大鼓方金春流は太鼓方金春又右衛門の子三郎右衛門が、大鼓方大倉流五世大蔵源右衛門に師事して一流を立てたものである。明治後に廃絶した。

      太鼓方

      太鼓方金春流(一名・惣右衛門流)は、金春禅竹の伯父金春豊氏(?~1458年)を流祖とする。代々金春座の座付として一族内で世襲し、二世金春勝国(豊氏の甥にあたる)は「吉備津宮」など謡曲作者としても活躍した。


      座内の分業が定着する室町時代後期ごろからは、親子間の世襲が多くなり、『四座役者目録』などに多くの逸話を残す三世勝氏(豊氏の子)、金春禅鳳・氏照らの舞台につきあい権守に任せられた四世氏重(勝氏の子)の二代は際だった名人として知られる。五世長詰(宗意)に至って名を川井惣右衛門と改め、六世一峰(宗岸)の代に徳川家康に出仕して以後、江戸時代を通じて専ら惣右衛門流の名により金春座の座付となる。


      維新後の能楽衰退期に一時宗家の家系が途絶えたが、熊本から上京した増見仙太郎が流儀の孤塁を守り、多くの高進を育成した。後に増見の子・林太郎が1917年に宗家を復興して、金春惣右衛門国泰(二十一世)を名乗り、柿本豊次人間国宝)らとともに活躍した。直近の宗家(二十二世)は国泰の子・金春惣右衛門国長(人間国宝、2014年没)。能楽協会には20名弱の役者が登録されている。


      元来は朴強な芸風であったと言われるが、二十一世惣右衛門によって近代的な軽快さが加味されるようになった。観世流に比べて撥の扱いが軟らかく、掛け声の多いことが特色。譜そのものも手数が多く、全体に華やかな印象がつよい。

      宗家代々
      ・初世 金春豊氏

        ・シテ方金春禅竹の伯父。

      ・二世 金春勝国

        ・金春禅竹の弟。

      ・三世 金春勝氏

        ・二世の子。

      ・四世 金春氏重

      ・五世 金春長誥

        ・四世の養子。

      ・六世 金春惣右衛門

        ・金春長誥の子。

      ・十世 金春国尚

      ・十九世 高安泰三

        ・十八世の養子。嗣子がおらず断絶。

      ・二十一世 金春惣右衛門国泰

        ・二十世 川井彦兵衛の女婿の増見仙太郎の長男。

      ・二十二世 金春惣右衛門国長

        ・二十一世の長男。


      又右衛門流

      太鼓方金春又右衛門流は、惣右衛門家の分家として活動した太鼓方の流儀。三右衛門流とも呼ぶ。初世又右衛門は金春岌蓮の甥で、似我与左衛門に師事し、「又右衛門台」と呼ばれる太鼓の台を考案したことでも有名。


      豊臣秀吉徳川家康に仕え、後に上意によって観世流の座付きとなって、姓も一時「観世」に改めた。江戸後期には宗家は「観世与左衛門」とも名乗った。


      初世以来観世流の芸系に属し、金春流の太鼓とはまったく異なる。現在では廃絶。


      金春座の構成
      ・シテ方-金春流

      ・ワキ方-春藤流

      ・小鼓方-幸流、大倉流

      ・大鼓方-大倉流、金春三郎右衛門流(金春三郎右衛門家)

      ・太鼓方-金春流、金春三郎右衛門流(金春又右衛門家)、金春流(金春惣右衛門家・増見家)

      ・狂言方-大蔵流

      金春家伝来の能面・能装束

      明治維新後、困窮した金春家は家伝の能面・能装束類の一部を京都や大阪で売却した。能面や装束がなければ、春日若宮おん祭での演能ができなくなってしまうことから、明治9年(1876年)、春日神社(現・春日大社)は、金春家に残った面・装束類を引き取った。これらの面・装束類は、諦楽舎(ていらくしゃ)という民間団体が管理することとなった。この諦楽舎とは、奈良の実業家今村勤三が中心になり、地元の有志が結成した保存会である。昭和25年(1950年)、これらの面・装束類(能狂言面47面、装束類190件余[2])は東京国立博物館によって購入された。[3]


      東京国立博物館所蔵の金春家伝来品のうち、能狂言面は47面が一括して重要文化財に指定され、装束は能衣装7件(2018年現在)が重要文化財に指定されている[4]。能面は大部分が江戸時代の作品だが、南北朝から室町時代にさかのぼるものもあり、猩々(しょうじょう)、曲見(しゃくみ)などは金春家の本面(後世、多くの写しが作られるもととなったオリジナルの名物面で、多くは室町時代の作)の可能性が高い。そのほか、翁、尉(じょう)、鬼神、男面、女面などの代表的な面種が一通りそろっている[5]

      詳しいことは、「金春流ウィキペディア」をご覧ください。 ⇩
      https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%91%E6%98%A5%E6%B5%81
      (wikiより)

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      大藏流(おおくらりゅう)は、狂言の流派のひとつ。猿楽の本流たる大和猿楽系の狂言を伝える唯一の流派。

      歴史

      大藏流の歴史は、流祖玄恵法印(1269-1350)。二世日吉彌兵衛から二十五世大藏彌右衛門虎久まで700年余続く。

      猿楽の本流たる大和猿楽系の狂言を伝える能楽狂言最古の流派で、代々金春座で狂言を務めた。大藏彌右衛門家が室町後期に創流した。


      江戸時代には鷺流とともに幕府御用を務めたが、狂言方としての序列は2位と、鷺流の後塵を拝した。宗家は大藏彌右衛門家。分家に大藏八右衛門家(分家筆頭。幕府序列3位)、大藏彌太夫家、大藏彌惣右衛門家があった。大藏長太夫家や京都の茂山千五郎家、茂山忠三郎家をはじめとして弟子家も多く、観世座以外の諸座の狂言のほとんどは大藏流が務めていた。


      明治維新に伴い、職分の廃業などが相次ぎ、一時衰微したが、東京では初世・山本東次郎(則正。隠居名:東〈あずま〉)が大藏流の孤塁を死守し、京都では「お豆腐主義」を標榜する茂山千五郎家の正虎(九世千五郎。初世千作)、正重(十世千五郎、二世千作)が庶民的な狂言を演じて、東西で流派を支えた。昭和16年(1941年)には茂山千五郎家の分家の二世茂山忠三郎(良豊)の養子であった茂山久治(後の善竹彌五郎。狂言界初の人間国宝)の次男・吉二が、大藏虎一姉センの孫、安と結婚。虎一の養子となり、二十四世大藏彌太郎(のち大藏彌右衛門)として宗家を継ぎ、宗家は再興された。


      現在大藏流には、東京を本拠とする宗家大藏彌右衛門家・山本東次郎家、京都を本拠とする茂山千五郞家・茂山忠三郞家、大阪・神戸を本拠とする善竹彌五郎家の五家がある。神戸に本家のある善竹家の中にも、関東を拠点とする善竹十郎は、彌五郎の五男、圭五郎の嫡男。


      台本は、宗家の台本のほか、京都を本拠としてきた茂山千五郞家のものと、江戸の大藏宗家の芸系を受け継ぐ山本東次郞家のものとに大別される。


      京都と関東では芸風も対照的で、京都・千五郞家の庶民的な親しみやすい芸風と、関東山本家の武家式楽の伝統を今に残す、古風で剛直な芸風がある。


      過去に大藏流から人間国宝に認定されたのは善竹彌五郞・三世茂山千作四世茂山千作四世山本東次郞の4名。四世茂山千作は2000年に文化功労者、2007年には狂言界で初の文化勲章を受章している。

      歴代宗家
      1. 玄恵法印 日吉神社神職ナリシガ後 僧籍二入リ比叡山北畠ニ住

        ・流祖。
      2. 日吉彌兵衛 近江国山王日吉神社神職(坂本住)

      3. 日吉彌太郎

      4. 日吉彌次兵衛

      5. 日吉彌右衛門

      6. 日吉彌太郎  (金春座へ出 後 和州奈良住)

      7. 日吉彌右衛門

      8. 金春四郎次郎(氏信) (金春禅竹末子 世阿弥の外孫にあたる)

      9. 宇治彌太郎(政信)-大藏彌右衛門 (宇治に二年住 後金春座へ帰参)

      10. 金春彌太郎-大藏彌右衛門 (観世座へ 後金春座へ帰参)

      11. 大藏彌右衛門(虎政)1531-1596

      12. 大藏彌右衛門(虎清)1566-1646

      13. 大藏彌右衛門(虎明)1597-1622

      14. 大藏彌右衛門(栄虎)1629-1676

      15. 大藏彌右衛門(緑虎)1650-1704

      16. 大藏彌右衛門(虎純)1682-1748

      17. 大藏彌右衛門(虎教)1708-1740

      18. 大藏彌右衛門(虎里)1728-1804

      19. 大藏彌右衛門(虎寛)1758-1805

      20. 大藏彌右衛門(虎文)1763-1834

      21. 大藏彌右衛門(虎武)1820-1849

      22. 大藏彌太郎(虎年) 1841-1881

      23. 大藏虎一       1867-1941

      24. 大藏彌右衛門(虎智)1912-2000

      25. 大藏彌右衛門(虎久)1948-


      現在の大藏流五家

      大藏彌右衛門家(宗家。東京を本拠)

      茂山千五郎家(京都を本拠)

      茂山忠三郎家(京都を本拠)

      山本東次郎家(東京を本拠)

      善竹彌五郎家(大阪・神戸を本拠、関東に善竹十郎)

      大藏彌右衛門家

      家伝によれば、大藏流は14世紀に後醍醐天皇の侍講を務めていた比叡山の学僧・玄恵法印を流祖とする。玄恵は戦乱の世の中において、立派な人格の養成と人としての生きる道を説くために狂言を創始したという。その狂言は坂本在住で近江猿楽の猿楽師であった二世日吉彌兵衛に伝えられ、三世彌太郎、四世彌次兵衛、五世彌右衛門と受け継がれた。


      六世彌太郎の代には大和猿楽金春座に属し、七世彌右衛門の後に世阿彌の外孫にあたる八世金春四郎次郎が芸系を受け継いだ。四郎次郎の死後、吉野猿楽出身の日吉万五郎が一時家を継いだが、最終的には養子の宇治彌太郎が9世を継ぎ、十世彌右衛門の代に「大藏」と姓を改めた。十一世彌右衛門は織田信長より虎の字を拝領し虎政と名乗り、その子十二世彌右衛門は虎清と名乗り豊臣秀吉・徳川家康に仕えた。十三世彌右衛門虎明(とらあきら)は万治3年(1660年)大藏流最古の狂言伝書『わらんべ草』を著わし、元禄7年(1694年)になると五代将軍徳川綱吉の上意により江戸屋敷を拝領し、それまでの奈良住まいから江戸住まいとなった。


      その後も二十二世・彌太郎虎年まで代々幕府の俸禄を受け、最古の伝統を持つ大藏流の宗家として狂言を着々と守り続けてきたが、明治維新により大きな打撃を受ける。徳川幕府や諸大名のお抱えとして、長年にわたり手厚い庇護を受けていた大藏流の狂言師たちはみな俸禄を失い、転業・転職を余儀なくされた。宗家もその例外ではなく、明治維新後奈良に移住していた虎年が明治14年(1881年)に41歳で死去すると、 跡を継ぐ二十三世虎一(14歳)は苦しい時代の中、一時消息不明となり、京都で催された虎年追善会の節に姿を現わすまで、宗家不在の数年が続く事となる。


      しかしその間も、茂山千五郎、茂山忠三郎、山本東次郎、善竹彌五郎といった大藏流の狂言師たちは各家の芸を磨き、大藏流を支え、昭和16年(1941年)、善竹彌五郎(当時・茂山久治)の次男・茂山吉二が虎一の養子に入り、虎年の娘の外孫にあたる安と結婚し、二十四世大藏彌太郎(のち彌右衛門)を名乗り、宗家を再興した。


      現在大藏家では二十四世の長男、二十五世宗家・大藏彌右衛門虎久(基嗣)と、その弟の吉次郎(基義)、彼らの子である『大藏三兄弟』、大藏彌太郎千虎(虎久の長男)・大藏基誠(虎久の次男)・大藏教義(吉次郎の長男)。『OHKURA BROS』、大藏康誠(基誠の長男)、大藏章照(千虎の長男)の7人が大藏の名を名乗り東京を中心に活躍している。

      狂言わらんべ

      江戸時代初期に十三世大藏虎明(とらあきら)が、狂言の理念・心得などを説いた「わらんべ草(ぐさ)」という伝書が大藏家に伝わっている。


      「狂言わらんべ」とは、大藏彌太郎千虎が弟子達と共に舞台に立つにあたって、いつ何時も、この先人の教えを忘れないという気持ちと、「我々はいつまでも狂言の童(わらべ)である」という思いが込められている。


      毎年、12月の最終日曜日に行われている。

      吉次郎狂言会
      二十四世宗家故大藏彌右衛門虎智の次男、二世大藏吉次郎が運営する狂言会。狂言の原点である「平和祈念」を理念とする。また狂言の世界が描く、人の優しさや大らかさ、そして「可笑しみ」を追求するとともに、老若男女問わず、多くの方々に狂言の魅力と感動を伝えるべく、日々普及活動に全力で取り組んでいる。

      外部リンク
      吉次郎狂言会
      (wikiより)

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      「一心寺」の由来には江戸時代末期、安政 2年 ( 1855年 ) に大老・井伊直弼が建立したという説と、同年に成田山分身の不動明王を本尊として洲崎弁天境内にお堂を建てて安置したことがはじまりという 2つの説があります。


      真言宗智山派のお寺で、本堂には不動尊や聖観音菩薩像、東海七福神の寿老人を安置。


      延命と商売繁盛の寺として知られ、古くから「品川の不動様」として庶民の信仰を集めてきました。


      毎月 28日が縁日で、多くの人で賑わいます。


      ユニークなのは、昭和 6年 ( 1931年 ) から続いている「ほうろく灸」。

      素焼きの皿 ( ほうろく ) を裏返しにして頭にのせて灸をすえ、悪邪霊を除くという祈祷で、縁日の日に体験できます。

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      この花壇に使用されている石材は、品海公園北隣の民家の基礎として使われていたものです。


      かつて東海道品川宿の街道筋の土留めと目黒川の護岸を兼ねた石垣として組まれていました。


      石材は千葉県鋸山産の凝灰岩 ( 房州石 ) であり、幕末から明治時代の加工と考えられます。


      品川宿の護岸は、もともと伊豆半島産の安山岩 ( 伊豆岩 ) で構築されていましたが、江戸時代後期に房州石が加わるようになります。


      房州石は産地も近く、柔らかく切り出しやすい石質のため、次第に伊豆石に取って代わっていきました。


      海に接していた品川宿の歴史を伝える貴重な文化財です。
      (案内板から)

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      かって海岸先に波止場があり、3代将軍徳川家光が東海寺に入るとき、沢庵和尚が迎え出て問答をした故事にちなむ。


      将軍「海近くして東(遠)海寺とはこれ如何に」


      和尚「大軍を率いても将(小)軍と言うが如し」


      この東海寺、今は海岸線からずいぶんと離れた位置にあるが、何ともほほえましい情景が浮かぶ。

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      今戸中学校は終戦後すぐの昭和 22年 4月 29日に開校され、平成 14年 4月に蓬莱中学校と統合して桜橋中学校となるまでの 55年間を、この隅田川のほとりにあって、11,376人の卒業生を輩出してきました。


      歴代の教職員、保護者、地域の方々のご尽力で、幾多の有為な人材、輝かしい歴史と伝統を育んでまいりました。


      卒業生それぞれの心にある今戸中学校への思いと、われらの母校がこの地に存在したことを永遠に残すために記念碑を建立しました。


      記念碑に刻まれている「われら若し ああ今戸」は歌い継がれていた校歌の一節で、第 4期卒業生で数々の国務大臣を歴任された深谷隆司先生の揮毫によるものです。


      平成 27年 12月 今戸中学校同窓生
      (案内板より)

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      東武鉄道・浅草駅の北。浅草小学校に隣接して “花川戸公園”がある。


      公園は 中央を道路が横切るため 南北に分断されているが, その 北側のブロックの 道路際に 大きな自然石の 発祥碑が建っている。

      浅草周辺には いろいろな問屋街がある。


      蔵前の 玩具問屋街, 人形問屋街。 合羽橋の 料理道具問屋街。それに 花川戸周辺の 履物問屋街。


      戦前は ほとんど 下駄・草履 などが中心だったが, 現在は 靴・サンダル などが中心となり, 履物関連の問屋が およそ70軒 集まっているという。

      12月には 履物問屋発祥の地で『花川戸はきだおれ市』が開催される。


      浅草花川戸
      履物問屋街発祥碑
          内山栄一書


      (裏面)
        浅草履正会協同組合(五十音順)
        理事長発起人 田中 亨
        発起人    青山 古
          《以下約70名の氏名 省略》
                 平成2年6月5日

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