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7280 長国寺(長野市松代町松代1015・長国寺)
歴史
この寺は、天文16年(1547年)真田幸隆が開基となり伝為晃運を開山として信濃国小県郡真田(現在の長野県上田市真田町長(さなだまちおさ))に建立した長谷寺に始まる。江戸時代に入り真田信之が元和8年(1622年)信濃国埴科郡松代に移されると、当時の長谷寺の住職を開山として松代に建立されたのがこの寺である。真田家からは黒印地として200石が与えられていた。
寛永5年(1628年)には信濃国における曹洞宗の僧録所となり、禅僧の修行道場でもあった。慶安2年(1649年)には江戸幕府からも朱印地100石が安堵された。当初は七堂伽藍が立ち並んでいたが、享保2年(1717年)の大火で全焼。寛保2年(1742年)の大洪水(戌の満水)で本堂が大破するなどしたが、文化7年(1810年)復元された。しかし、明治5年(1872年)本堂から出火し、寺宝・経巻・文書などほとんどを焼いてしまった。現在の本堂は明治19年(1886年)に再建された。庫裏は当時廃校になっていた旧松代藩の文武学校の槍術所を移築したものであったが、文武学校の完全復元のため旧地に再移築し、平成9年(1997年)新しい庫裏が建設された。
このように何回か災害にあったが、霊屋は離れた場所にあったため、江戸時代に建てられた5棟の霊屋全部が幕末まで残り、うち真田信之(松代藩初代藩主)、真田幸道(3代藩主)、真田信弘(4代藩主)の霊屋3棟は長国寺に現存する。真田信之霊屋は万治3年(1660年)の建立とされ、入母屋造で正面に千鳥破風と軒唐破風付きの向拝を設けている。建物内外を極彩色と装飾彫刻で飾っており、表門とともに国の重要文化財に指定されている。真田信弘霊屋は元文元年(1736年)の建立とされ、方三間、宝形造、向拝付の簡素な建築で、表門とともに長野県宝に指定されている。
本堂裏にある開山堂(長野県宝)は、もとは真田幸道霊屋として建てられたが、明治19年(1886年)の本堂再建の際に移築された。方三間、宝形造で、回縁と前面の向拝は撤去されている。表門は西寺尾典厩寺に移された。このほか2代藩主信政の霊屋と表門は、昭和27年(1952年)清野(長野市松代町)の林正寺に移築され、同寺の本堂およびと門として現存する。なお、幸道の母松寿院の霊屋は御安町(長野市松代町)の孝養寺の本堂として移築後、明治24年(1891年)焼失した。真田信之霊屋の裏手が真田家墓所となっており、入部以来の歴代当主とその家族の墓や真田幸隆・信綱・昌幸3代の供養塔、大正時代に建立された真田信繁(幸村)・大助父子の供養塔が立ち並んでいる。松代藩の家臣などの墓も多く、次席家老小山田家累代の墓(真田信之の姉・村松殿の墓は夫・小山田茂誠と並んで建てられている)や家老勝手係恩田民親の墓、幕末の家老真田志摩の墓、中級武士長谷川昭道の墓、囲碁の名人関山仙太夫の墓、早撃ち銃考案の片井京助の墓、エノキタケの栽培に成功した長谷川五作の墓がある。
沿革
・1547年(天文16年) 真田幸隆が開基となり伝為晃運を開山として信濃国小県郡真田(現在の長野県上田市真田町)に長谷寺を建立
・1622年(元和8年) 真田信之が信濃国埴科郡松代に移されると、当時の長谷寺の住職を開山として松代に建立
・1660年(万治3年) 真田信之霊屋建立、真田信政霊屋建立
・1727年(享保12年) 真田幸道霊屋建立
・1736年(元文元年) 真田信弘霊屋建立
・1742年(寛保2年) 戌の満水で本堂大破
・1803年(享和3年) 霊屋、鐘楼を残し大火で全焼
・1810年(文化7年) 伽藍修復される
・1872年(明治5年) 霊屋を残し大火で全焼
この頃、松寿院霊屋は御安町(長野市松代町)の孝養寺の本堂として移築
・1952年(昭和27年) 真田信政霊屋、清野の林正寺本堂として、表門とともに移築
・1966年(昭和41年) 真田信弘霊屋が長野県宝に指定される
・1967年(昭和42年) 恩田木工民親の墓が長野市の史跡に指定される
・1976年(昭和51年) 真田信之霊屋が国の重要文化財に指定される
・1979年(昭和54年) 真田信之霊屋の保存修理工事が実施される
・1983年(昭和58年) 真田信弘霊屋の保存修理工事が実施される
・1987年(昭和62年) 松代藩真田家墓所が国の史跡に指定される
・1997年(平成9年) 文武学校槍術所を復元のため、庫裏を移築して新築
文化財
重要文化財(国指定)
・真田信之霊屋(宝殿、表門)
万治3年(1660年)の建立。建物は個人所有で、文化財保護法の規定に基づき、長国寺が重要文化財の管理団体に指定されている。
史跡(国指定)
・松代藩真田家墓所
長野県宝
・開山堂(もと真田幸道霊屋)
・真田信弘霊屋及び表門
長野市指定史跡
・恩田木工民親の墓(宝篋印塔)
参考文献
・松代観光事業振興会『松代の史跡と文化財』1982年4月30日
・信濃毎日新聞社編『松代ーその歴史と文化ー』1985年7月20日
・松代文化財ボランティアの会編『城下町松代』2004年5月5日ISBN 4-434-04454-0
・『探訪 信州の古寺 浄土教・日蓮宗』1996年 郷土出版社
外部リンク
・長国寺
・長野市HP 国指定文化財一覧 真田信之霊屋 松代藩主真田家墓所
・長野市HP 市指定文化財一覧2 恩田木工民親の墓
(wikiより)
⇧ 長国寺
⇧⇩ 工事中でした。
7279 和田英墓(長野市松代町松代・蓮乗寺)
経歴
1857年 信濃国埴科郡松代(現・長野市松代町松代)に松代藩士横田数馬の次女として生まれる。
1873年 松代町から英を含む16人が富岡製糸場へ伝習工女として入場する。
1874年 富岡製糸場を退場し、長野県埴科郡西條村(現・長野市松代町西条)に建設された日本初の民営機械製糸場・六工社の創業に参画するとともに、その後も教授として指導的な役割を果たす。
1878年 和田盛治と結婚。
1905年 富岡製糸場での日々を回顧して『富岡日記』を著す。
墓所は、長野市松代町の蓮乗寺。
人物・逸話
・英は17歳で故郷を離れ富岡に着任するが、工女募集責任者である父・横田数馬の影響をうけ、国益と家名のために自ら進んで工女となっている。
・『富岡日記』の前半は伝習生として、後半は技術者としての記録であるが、どちらも国家的視点から展開されている。新版はちくま文庫(2014年6月)、ほかにみすず書房〈大人の本棚〉、中公文庫などで刊行された。
・横田家の先祖は奥会津横田の住人山内大学と伝えられ、江戸時代には信州松代藩士として150石の禄を受けていた中級武士であった。英の実弟である横田秀雄(横田正俊の父)は大審院長、同じく小松謙次郎は鉄道大臣を務めた。
・『富岡日記』や『我母乃躾』に示されている英の母・横田亀代子(きよこ)の躾は、儒教精神に裏付けられた独自の教えであり、学習教材に広く使われている。
・長野市松代町の生家は「旧横田家住宅」として国の重要文化財に指定され、保存、公開されている。
・富岡製糸場の工女姿のキャラクター「おエイちゃん」(現:富岡市イメージキャラクター「お富ちゃん」)のモデルとなった。
参考文献
・和田英『富岡日記―定』創樹選書、1976年
・上條宏之『絹ひとすじの青春-『富岡日記』にみる日本の近代』日本放送出版協会(NHKブックス320)、1978年
外部リンク
・富岡日記
・『富岡後記』 - 国立国会図書館デジタルコレクション
(wikiより)
生家(旧横田家住宅)
明治時代の富岡製糸場
六工社
和田 英
7278 佐久間象山墓(長野市松代町松代・蓮乗寺)
家系
『真武内伝』を著した竹内軌定によると佐久間家の祖は戦国時代の北信濃葛尾城主で武田信玄を2度にわたって破った名将として名高い村上義清に8,000石で仕えた佐久間大学という。大学の孫である与左衛門国政の時に松代藩の連枝(分家)である上野沼田藩3万石の藩主である真田信政の下で馬役を務めて250石を食んだ。その後、信政が真田信之の世継として松代藩を継いだため、国政も松代に移ったが間もなく家は絶えた。しかし岩間二郎左衛門清村の次男である岩間三左衛門国品が名跡を継いで佐久間と称して真田信弘に仕えて100石を食んだ[注 1]。 この国品が佐久間家中興の祖とされている。
しかし佐久間象山が自ら著した『佐久間氏略譜』によると家系は桓武平氏であり、桓武天皇の曾孫である高望王の末裔に佐久間家村という者がいた(安房国佐久間荘に居住したことから佐久間を姓にしたという)。家村から14代目の孫が佐久間盛次であり、その盛次の長男が尾張国の戦国大名として有名な織田信長に仕えた盛政である。盛次の4男で盛政の実弟である勝之は信濃長沼藩で1万3,000石を領したが罪を得て改易された。この勝之の家臣に岩間又兵衛清重という400石取りがいて勇気も才能もあったので勝之の兄である安政の娘婿になった。しかし清重には男子が無かったため、鶴田清右衛門の子の与作を養子に迎え、その孫が前述した佐久間国品にあたるという[2]。だが国品に男子が無かったため、林覚左衛門の子の幾弥を婿養子に迎えた。だが、その子の岩之進が夭折したため佐久間家は改易された。しかし松代藩は国品の長年の功績を評価して国品の甥である村上彦九郎の息子である彦兵衛国正を養子にして家名を再興させ5人扶持とした(のちに5両5人扶持)。しかし国正にも子が無く、松代藩士であった長谷川千助善員の次男である佐久間一学国善を養子にして家督を継がせた。この国善が佐久間象山の実父である[3]。
このように『真武内伝』と『佐久間氏略譜』では家系やその経歴が大いに異なりどちらを信ずべきかは不明である。佐久間家の菩提所を調査した大平喜間太は国品以前の墓所が一基もないことから国品以前の家系には多くの疑問があり信を置くに足らないとしている[4]。
象山の父・国善の父である長谷川善員は斎藤仁左衛門の次男であり、この斎藤家は越後国の上杉謙信に仕えて「越後の鍾馗」と謳われた斎藤朝信を祖としており、象山の書状によると国善は朝信から数えて6代の孫であり、象山は7代目の孫であると称している[注 2]。
生涯
幼少期
文化8年(1811年)2月28日、信濃松代藩士・佐久間一学国善の長男として信濃埴科郡松代字浦町で生まれる[注 3]。
前述したように佐久間家は5両5人扶持という微禄であったが、父は藩主の側右筆を務め、卜伝流剣術の達人で藩からは重用されていた。母は松代城下の東寺尾村に住む足軽の荒井六兵衛の娘でまんといい、国善の妾に当たる。象山は父が50歳、母が31歳の時に生まれた男児であったが、養子続きの佐久間家では久しぶりの男児だったため国善は大変喜び、将来に大きな期待をかけるつもりで詩経の「東に啓明あり」から選んで幼名を啓之助と名づけたという[7]。
門下生だった久保茂によると、象山は5尺7寸から8寸(約175㎝)くらいの長身で筋骨逞しく肉付きも豊かで顔は長く額は広く、二重瞼で眼は少し窪く瞳は大きくて炯炯(けいけい)と輝きあたかも梟の眼のようであった[8]ため子供の頃はテテツポウ(松代における梟の方言)と渾名された。
学者への道、そして 仕官 - 国元での活動
象山の烏帽子親は窪田岩右衛門馬陵恒久という郷里の大先輩で藩儒を務め、象山の才能を高く評価した人物である[注 4]。
1824年、藩儒の竹内錫命に入門して詩文を学び、1826年、佐藤一斎の門下生であった鎌原桐山に入門して経書を学んだ。また同年、藩士の町田源左衛門正喜に会田流の和算を学び、象山は数学を「詳証術」と称したという。また水練を河野左盛から学んだ。この中で最も象山に影響を与えたのは鎌原桐山だったという[10]。
文政11年(1828年)、家督を継いだ[11]。天保2年(1831年)3月に藩主の真田幸貫の世子である真田幸良の近習・教育係に抜擢された。だが高齢の父に対して孝養ができないとして5月に辞任している[12]。しかし幸貫は象山の性格を癇が強いとしつつも才能は高く評価していた。20歳の時、象山は漢文100篇を作って鎌原桐山に提出すると、桐山ばかりか幸貫からも学業勉励であるとして評価されて銀3枚を下賜されている。
天保3年(1832年)4月11日、藩老に対して不遜な態度があったとして幸貫から閉門を命じられた。これは3月の武芸大会で象山が国善の門弟名簿を藩に提出した所、序列に誤りがあるとして改めるように注意を受けたにも関わらず、象山は絶対に誤りなしとして自説を曲げなかったため、長者に対して不遜であるとして幸貫の逆鱗に触れたものである[13]。この閉門の間に国善の病が重くなったため、幸貫は8月17日付で象山を赦免した。国善はその5日後に死去している。
江戸出府と兵学家の地位確立
天保4年(1833年)11月に江戸に出て、当時の儒学の第一人者・佐藤一斎に詩文・朱子学を学び[14]、山田方谷と共に「佐門の二傑」と称されるに至る。ただ、当時の象山は、西洋に対する認識は芽生えつつあったものの、基本的には「伝統的な知識人」であった。天保10年(1839年)には江戸の神田於玉ヶ池で私塾「象山書院」を開いているが、ここで象山が教えていたのは儒学だった。
天保13年(1842年)、象山が仕える松代藩主真田幸貫が老中兼任で海防掛に任ぜられると象山は顧問に抜擢され、アヘン戦争 (1840 - 42) での清とイギリスとの混沌した海外情勢を研究することとなり、魏源『海国図志』などを元に『海防八策』を上書、さらにこれを機に蘭学の修得の必要に目覚め、弘化元年(1844年)、オランダ語をはじめ、オランダの自然科学書、医書、兵書などの精通に努めた。これにより主君幸貫から洋学研究の担当者として白羽の矢を立てられ、象山は塾を閉じ江川英龍の下で兵学を学ぶことになる。
温厚で思慮深い江川は象山のことを嫌っていたようである。洋式砲術を使った戦略を短期間で習得することは江川の「伝授」「秘伝」といった旧来の教育方法では支障があった。このため象山は、意を汲んだ同じ高島流の下曽根信敦から文書を借り学習を進めた。象山の教育に対する態度は近代的で、自分が書物から学んだことは、公開を基本とした。象山自身の門弟から「免許皆伝」を求められた時も、その必要がないことを説明した上で断っている。
学問に対する態度は、小林虎三郎へ送った次の文書からも窺うことができる。
宇宙に実理は二つなし。この理あるところ、天地もこれに異なる能わず。
鬼神もこれに異なる能わず。百世の聖人もこれに異なる能わず。
近来西洋人の発明する所の許多の学術は、要するに皆実理にして、
まさに以って我が聖学を資くる足る。
しかし真理に忠実であろうとする象山の態度は、当時の体制及び規範から見れば誤解を受ける要因ともなった。
象山は大砲の鋳造に成功し西洋砲術家としての名声を轟かすと、蘭学を背景に、ガラスの製造や地震予知器の開発に成功し、更には牛痘種の導入も企図していたという。嘉永4年(1851年)には、再び江戸に移住して木挽町に「五月塾」を開き、砲術・兵学を教えた。ここに勝海舟、吉田松陰、坂本龍馬ら後の俊才が続々と入門している[15]。
嘉永6年(1853年)にペリーが浦賀に来航した時も、象山は藩の軍議役として浦賀の地を訪れた。この報告は江戸幕府老中阿部正弘に『急務十条』として奏上され、この機に松陰に暗に外国行きを勧めたとされる[15]。
失脚からその死まで
嘉永7年(1854年)、門弟の吉田松陰が再び来航したペリーの艦隊で密航を企て失敗するという事件を起こした。松陰から相談をもちかけられた象山もこの事件に連座し、伝馬町牢屋敷に入獄する羽目となり、更にその後は文久2年(1862年)まで、松代での蟄居を余儀なくされる。
元治元年(1864年)、象山は一橋慶喜に招かれて上洛し、慶喜に公武合体論と開国論を説いた。しかし当時の京都は尊皇攘夷派の志士の潜伏拠点となっており、「西洋かぶれ」という印象を持たれていた象山には危険な行動であった(しかも京都の街を移動する時に供も連れなかった)。7月11日、三条木屋町で前田伊右衛門、河上彦斎等の手にかかり暗殺される。享年54。
現在、暗殺現場には遭難之碑が建てられている。
人物・逸話
・象山は自信過剰なところがあり、それ故に敵が多かった。数々の多大な業績を残したにも関わらず現在に至るまで彼の評価が低いのもその性格に由来するところが大きいともいわれる。しかし当時の日本において象山は紛れもない洋学の第一人者だった。彼を暗殺した河上彦斎は後に象山の事歴を知って愕然とし、以後暗殺をやめてしまったという。更に彼の門弟には前述の松陰をはじめ、小林虎三郎や勝海舟、河井継之助、橋本左内、岡見清熙、加藤弘之、山本覚馬、坂本龍馬などと、及び他にも多数の日本を担う人材を輩出し、幕末の動乱期に多大な影響を与えたことも事実である。象山が横浜開港を徳川幕府に主張したことにより横浜港が開かれた。後に幕末の志士たちにより徳川幕府が倒され明治の世が到来するきっかけを残した人物である。その他、福沢諭吉が慶應義塾を創設するにあたっても象山の功績の影響があった。その影響は今日の日本の姿にまで及ぶといって過言ではない。
・自らを「国家の財産」と自認しており、坂本龍馬に「僕の血を継いだ子供は必ず大成する。そのため、僕の子供をたくさん生めるような、大きな尻の女を紹介してほしい」と頼んだこともある。しかし、象山の子・啓之助は素行が悪く、大成するどころか新選組を脱走するなど失態が多かった。
・勝海舟の妹、順が嘉永5年(1852年)に象山に嫁いだので勝は義兄となったが、傲慢な象山を『氷川清話』の中では、あまり高く評価していない。「あれはあれだけの男で、ずいぶん軽はずみの、ちょこちょこした男だった。が、時勢に駆られて」云々とけなしている。だが、象山暗殺の報を聞いたときは「蓋世の英雄」と評価し「この後、吾、また誰にか談ぜむ。国家の為、痛憤胸間に満ち、策略皆画餅。」とその死を悼んでおり、西郷隆盛や山岡鉄舟を「殿」「氏」と付けていたのを、象山だけに「先生」と敬称をつけていた。また自らの号とした、象山揮毫の「海舟書屋」の扁額を掲げ続けたことも事実で、勝の象山に対する評価はひと通りではない。
・和歌や漢詩、書画に長じていた。岸辺成雄著『江戸時代の琴士物語』によれば、七絃琴や一絃琴も好んで奏でていたという[16]。
・嘉永4年(1851年)に松前藩からの依頼で鋳造した洋式大砲の演習を江戸で行ったが、砲身が爆発して大砲は全壊してしまい、観衆から大笑いされ、立ち会っていた松前藩の役人達からは「鋳造費用が無駄になった」と責め立てられてしまう。しかし象山は「失敗するから成功がある」と述べて平然としており、更には「今の日本で洋式大砲を製造できるのは僕以外にいないのだから、諸大名はもっと僕に金をかけて(大砲の)稽古をさせるべきだ」と豪語して役人達を呆れさせたという。この事件を笑った落首に、「大玉池 砲を二つに 佐久間修理 この面目を なんと象山」というものがある。「大玉池」は、象山の住む「お玉が池」に「おおたまげ」をかけた洒落である。
評価
・勝海舟
・「佐久間象山は物識りだったよ。学問も博し、見識も多少持っていたよ。しかし、どうも法螺吹きで困るよ。あんな男を実際の局に当らしめたらどうだろうか・・・。何とも保障ができない。顔つきからして既に一種奇妙なのに、平生緞子の羽織に古代模様の袴をはいて、如何にもおれは天下の師だというように、厳然と構えこんで、元来覇気の強いおとこだから、漢学者が来ると洋学を以て威しつけ、洋学者が来ると漢学を以て威しつけ、一寸書生が尋ねてきても、直きに叱り飛ばすという風でどうも始末にいけなかったよ」[17]
・「あれだけの男で、随分軽率のチョコチョコした男だったが、時勢に駆られたからでもあろう」[18]
・石黒忠直 「先生は総髪にして、美しき鬚長く、色白くして、眼は四方白にて面長なり。年五十二なれど、打見には四十七八と見ゆ。白の下着の上に、丸に二ッ引の黒紋付の小袖を重ね、紫色の被布の如きものをその上に着し、短刀をその傍らに置き、身辺、書籍短銃、もしくは文具等雑然たり」[20]
詳しいことは、「佐久間象山ウィキペディア」をご覧ください ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%90%E4%B9%85%E9%96%93%E8%B1%A1%E5%B1%B1
(wikiより)
佐久間象山
7277 寒松院山手殿墓(長野市松代町松代1224・大林寺)
生涯
出生は不詳。永禄7年(1564年)頃に武藤喜兵衛(後の真田昌幸)に嫁ぐ。これは永禄9年(1566年)に誕生する嫡男・信之の前に生まれた女子(村松殿)がいるため、昌幸と山手殿の結婚は遅くてもこの頃と推測されているためである[3]。
昌幸が甲斐武田氏に仕えていた際には人質として新府城にあり、天正10年(1582年)3月に織田信長による甲州征伐で武田氏が滅亡した際には九死に一生を得て新府城から脱出して上田へ帰還した[4]。
慶長5年(1600年)7月、関ヶ原の戦いの直前に大坂にいたため、西軍の人質となった。7月30日付の大谷吉継書状によると、吉継の娘で信繁の妻である竹林院とともに吉継のもとで無事保護されたという[5][6](大坂城に抑留されるが、真田家臣・河原綱家の機転により逃れて上田に帰還したとの説もある[4])。ただし、人質とは形式だけの事で、慶長5年8月6日付で石田三成が昌幸に宛てた書状で「御内儀も大坂へ入り候、何事もなく候、宇多河内父子(宇多頼忠・頼重)も当城(佐和山城)留守居として今日当地へ参り候」とある事からも明らかである。
関ヶ原終結後の同年12月13日、昌幸・信繁親子は16人の家来と信繁の妻女を伴って、九度山に幽閉されることになったが、山手殿は信之に引き取られ、上田に留まった。この後、出家して名を寒松院と改める。
慶長18年(1613年)6月3日に死去[7]。夫の昌幸の死からちょうど2年後のことであった。
法名・寒松院殿宝月妙鑑大姉[7]。墓所は大輪寺[7](長野県上田市)、大林寺(長野県長野市)。
山手殿と昌幸の間に生まれた確実な子女は、長女の村松殿、嫡男の真田信之(信幸)、次男の真田信繁(幸村)であり、他の子女に関しては不明である。
山手殿の出自に関して
山手殿の出自については、以下の説がある。
1. 菊亭晴季の娘 - 山手殿の出自は真田氏関係の編著では公家の清華家菊亭晴季の娘とされている[注釈 1]。しかし当時の真田昌幸の身分は武田信玄の下級家臣に過ぎず、上級公家である菊亭家の娘を妻に迎えるとはまず考えられない。なお、主君である武田信玄の正室の実家・三条家と菊亭家は同格であり、この点からもあり得ない。このため、菊亭家の娘としたのは後世の格付けを意識したものとされている[3]。なお、菊亭晴季の娘だったとしても、晴季の生年から実娘とは考え難い。
2. 宇多頼忠の娘 - これは石田氏の系図である『石田氏系図』から見られ、宇多頼忠の別の娘が石田三成の正室になっているために記載されている事である[3]。また、江戸時代の『尾張藩石河系図』にも、寒松院が宇多頼忠の娘と明記されている。先述の関ヶ原合戦時の昌幸宛三成書状にも、山手殿の後に宇多頼忠・頼重の動向に触れ、両者の縁戚関係を伺わせる。宇多氏説を主張する白川亨は、遠山氏なら真田氏自身が公式系図でそう書くのに何の不都合もなかったはずで、客観的理由であり得ない菊亭氏説としているのは、徳川幕府体制下で悪人とされた三成と縁戚であることを隠したかったからであり、宇多氏説が最も妥当であると主張している(『石田三成とその一族』)。柴辻俊六は石田氏と真田氏が深い関係にあった事は事実であるが、永禄年間に昌幸・頼忠・石田氏等を結びつける背景が無いため、確実な説とは言えない[7]とし、丸島和洋は昌幸の娘・趙州院が宇多頼次[注釈 2]に嫁いでいることから出た誤伝であるとしている[1]。
3. 遠山右馬助の娘 - 武田信玄の家臣・遠山右馬助の娘とする説である。この人物は騎馬10騎、足軽30人持の足軽大将であると『沼田記』には紹介されているが、実名も系譜も不明である。武田氏滅亡後は徳川氏に仕えたとされるが、『寛政重修諸家譜』には記載が無い。『甲陽軍鑑』には遠山の名は数か所確認されており、昌幸とも知己があった可能性は高く、昌幸の正室の出自としては最も説明が付く人物であると柴辻俊六は主張している[7]。
4. 武田信玄の養女 - 高野山蓮華定院(高野山に流された真田昌幸・信繁親子が仮寓していた寺院)に残る過去帳には山手殿は「武田信玄公養女」と記されている。
5. 正親町実彦の姪 - これは『滋野世記』の一説に見られ、正親町実彦の姪で菊亭家の養女としている。正親町家は、清華家である菊亭家・三条家より家格の低い羽林家で、両家と同じ閑院流である。実彦(季秀)の養父・正親町公叙は天文5年(1536年)に甲斐に下向している(『御湯殿上日記』天文5年9月23日)[注釈 3]。河原綱徳が編纂した『真田家御事跡稿』では、「小県郡御図帳」に「京之御前様御料所」とあること、真田信之の遺言記に「正親町西三条殿」の名があることから、正親町家の娘で武田信玄の養女としている。これから派生して正親町三条家、三条西家の娘という説もある。当時の正親町三条公兄、三条西実枝は、ともに駿河での長期滞在があり、甲斐への下向の記録もある[8]。
6. 公家ゆかりの女性 - 天正6年~7年(1578年~1579年)頃に成立した真田氏の検地帳の写本(『真田氏給人知行地検地帳』『小県郡御図帳』)において山手殿を指したとみられる「京之御前様」との記載があり、公家出身との説は脚色があるにせよ、三条の方のゆかりの侍女など京から来た女性ではないかとの考え方である[1]。
いずれにしても信頼に足る同時代の歴史史料がないため、研究者によって様々な意見がある。
登場する作品
・『真田太平記』(NHK新大型時代劇、1985年、演 : 小山明子)
・菊亭晴季の娘を自称しているが、実際は侍女であるという設定。
・『戦国大戦』(アーケードゲーム、2014年、演 : 三澤紗千香、早見沙織)
脚注
注釈
1. 池波正太郎の小説「真田太平記」でもこの説が採られている。
2. 石田三成の妻の従兄弟(頼忠の兄・尾藤知宣の子)で三成の父・石田正継の猶子であった。
3. 武田晴信(信玄)の従五位下叙位の伝達役、または三条の方との婚儀の見届け役と見られる。
出典
1. a b c 丸島 2015, pp. 84-89.
2. “寒松院の墓(大輪寺)”. 上田市文化財マップ. 2020年6月2日閲覧。
3. a b c 柴辻 1996, p. 74.
4. a b 柴辻 1996, p. 76.
5. 丸島和洋『真田信繁の書状を読む』〈星海社新書〉、2016年、136-147頁。
6. 平山優『真田信之』〈PHP新書〉、2016年、148頁。
7. a b c d e 柴辻 1996, p. 75.
8. 井原今朝男「真田氏二代の閨閥」『歴史読本』54巻4号、2009年4月、 78-83頁。
参考文献
・柴辻俊六 『真田昌幸』 吉川弘文館〈人物叢書〉、1996年。ISBN 464205202X。
・丸島和洋 『真田四代と信繁』〈平凡社新書〉、2015年。ISBN 978-4582857931。
(wikiより)
7276 矢沢頼道墓(長野市松代町松代1224・大林寺)
7275 鎌原桐山墓(長野市松代町松代1224・大林寺)
7274 豊姫( 真田家 )墓(長野市松代町西条・象山恵明禅寺)
経歴
万治2年12月10日、宇和島藩2代藩主伊達宗利の娘として江戸藩邸で生まれる。延宝元年(1673年)7月26日、真田幸道に嫁ぐ。
長野市松代町西条の象山恵明禅寺に霊屋がある。
逸話
豊姫が嫁いだ際、故郷を偲ぶ品としてアンズの種子を持参したのが、松代名産のアンズの始まりとする説がある。
杏仁が咳止め薬として珍重され、松代藩は東条村(現在の長野市松代町東条)で栽培を始め、森村・倉科村・生萱村(以上は現在の千曲市の一部)・石川村(現在の長野市篠ノ井の一部)などへ苗木を配布し、栽培を奨励した。
今日に至るまで生産が盛んになったと言われている(松代藩は1848年(嘉永元年)に杏仁の専売を開始)。
関連項目
・あんずの里
参考文献
・絵本『伊達宗利の娘 豊姫物語〜家と故郷つなぐ「あんず」の縁〜』(宇和島信用金庫 企画制作、2017年)
(wikiより)
7273 豊姫の御霊屋(長野市松代町西条・象山恵明禅寺)
第三代松代藩主・真田幸道公の正室 豊姫の御霊屋
豊姫は伊予 ( 愛媛県 ) 宇和島第二代藩主・伊達宗利公 ( 仙台藩祖・伊達政宗公の孫 ) の息女として万治 2年 12月 10日 ( 1659年 ) 江戸藩邸で生まれる。
延宝元年 7月 26日 ( 1673年 ) 15歳にて幸道公 ( 17歳 ) に嫁ぐ。
江戸藩邸で「鉢植えの杏 ( あんず )」を愛賞されていたことがあって、これが後に杏の木が松代に来た始めであると言われている。
以来、杏が薬用樹として松代藩の殖産興業の一つとして藩内に広く栽植されるに至った。
享保 18年 7月 5日 ( 1733年 ) 73歳で死去する。
7272 貫綜院墓(長野市松代町松代表柴町・大英寺)
7271 見樹院墓(長野市松代町松代表柴町・大英寺)
見樹院殿貞誉英庵大禅定尼の墓
見樹院は真田信之と小松姫 ( 大蓮院 ) の二女で幼名は千代、まさなどと呼ばれていたが、近江の領主・佐久間安次 ( 後に飯山城主となる ) の嫡子、民部少輔勝次に嫁す。
勝継は大阪夏の陣で戦功を立てるが翌年に病死。
このため見樹院は信之のもとに帰り、上田城の西の台に住んだので「西の台殿」と呼ばれた。
父・信之が柴村に隠居したときには屋敷を隣り合わせに住んでいたと伝えられる。
見樹院は仏に帰依することが篤く、寺院を開基、中興、寄進したりすることが多く、父の助力もあってその数二十ケ寺におよんでいる。
寛文十三年 ( 1673 ) 六月十日 七十九歳の生涯を閉じ母のそばへと、ここに葬られた。
領地だった倉科村では年貢を量る枡を小さくした ( お情け枡 ) の話がある。
7270 松代製糸改良組跡地(松代町松代表柴町)
7269 宮島春松墓(長野市松代町西条・象山恵明禅寺)
7268 長岡助治郎墓(長野市松代町西条・象山恵明禅寺)
7267 恵明寺(長野市松代町西条・象山恵明禅寺)
7266 努力 勇気 情熱の碑(長野市松代町松代竹山町1502)
7265 桜賦(長野市松代町松代竹山町1502)
7264 高義亭(長野市松代町松代竹山町1502)
もと松代藩家老望月主水 ( もんど ) 貫怒の下屋敷にあった建物である。
安政元年 ( 1854 ) 佐久間象山は吉田松陰の渡航事件に連座し、国元蟄居 ( ちっきょ ) を命じられ望月氏の下屋敷聚遠楼に住んでいたが、来客があるとしばしばこの高義亭の二階七畳半の間で応対し、国家の時勢を論じたという由緒深い建物である。
木造二階建ての寄せ棟造りで、屋根は桟瓦葺 ( さんかわらぶ ) きとする。
下屋根も瓦葺きであるが、一部鉄板を用い、東に切妻屋根を出す。
一階は、玄関 ( 二坪 )・取り次ぎの間 ( 六畳 )・次の間 ( 九畳 )・客間 ( 十畳 )・茶の間 ( 六畳 )・勝手 ( 四畳半 ) と、西に納戸を造り出す。
玄関は土間と式台からなり、次の間き南に明障子、外に縁を付す。
客間と取り次ぎ間は襖 ( ふすま ) で仕切り、外側に明障子を立てて縁を回す。
取り次ぎの間から北に通る廊下で客間・茶の間・勝手に通じ、茶の間わきに階段を付けて二階の昇り口とする。
二階は、階段を昇ったところに踊り場、南に控えの間、東に六畳間、北に置床付き七畳半の間がある。
ここが象山が来客と対応した間である。
明治以後住人が替わり、原形も一部変更した所もあったが、現在地に移築の際、当時の構造に復元したものである。
(案内板より)
7263 象山神社(長野市松代町松代竹山町1502)
概要
1913年(大正2年)の象山殉難五十年祭を機に、地元松代町出身の大審院長・横田秀雄を中心に神社建立が計画され、1938年(昭和13年)に創建された[1]。
社地は旧佐久間象山邸であり、境内には象山ゆかりの建物が松代町内や京都から移築されている。
なお、佐久間象山の名は一般的には「しょうざん」と読まれるが、地元長野県では「ぞうざん」と呼び習わされている。神社の名もこれに習い「ぞうざんじんじゃ」と読む[2]。
歴史
・1913年(大正2年) - 象山殉難五十年祭。神社建立の機運が盛り上がる。同年、佐久間象山宅跡が埴科郡松代町(当時)に寄付される[3]。
・1960年(昭和35年)2月11日 - 佐久間象山宅跡が長野県指定史跡に指定[4]。
・1964年(昭和39年)11月11日 - 省諐録の碑を建立。
・1973年(昭和48年)11月9日 - 望岳賦の碑を東京都杉並区から移築。
・1978年(昭和53年) - 高義亭を松代町内から移築。
・1979年(昭和54年)3月12日 - 高義亭が長野市指定有形文化財に指定[5]。
・1981年(昭和56年) - 煙雨亭を京都市中京区から移築。
・2005年(平成17年)12月26日 - 本殿、宝殿、拝殿・祝詞殿、斎館、社務所、絵馬殿が国の登録有形文化財に登録。
・2008年(平成20年)7月28日 - 園池が国の登録記念物に登録。
・2010年(平成22年)9月26日 - 翌年の佐久間象山先生生誕二百年大祭に先立ち、佐久間象山銅像を建立[6]。
・2018年(平成30年)11月25日 - 幕末に活躍した松代藩主・真田幸貫(江戸幕府老中)と志士・英傑(小林虎三郎、吉田松陰、勝海舟、坂本龍馬、橋本左内)の銅像除幕式[7]。
境内
・本殿 - 国の登録有形文化財[8]
・宝殿 - 国の登録有形文化財[9]
・斎館 - 国の登録有形文化財[11]
・絵馬殿 - 国の登録有形文化財[12]
・高義亭 - 松代藩家老望月主水下屋敷(佐久間象山蟄居先)の別棟。松代町松代御安町から移築。長野市指定有形文化財[13]。
・煙雨亭 - 象山が暗殺までの2か月を過ごした煙雨楼の茶室。昭和56年(1981年)に京都市中京区木屋町通三条から移築。この家から東山や八坂の塔を眺めることができ、その雨に煙る風情を象山が愛でたことが名前の由来。
・佐久間象山宅跡 - 当時のものは井戸のみ残り、「象山先生誕生地」の碑が建つ。長野県指定史跡[14][15]。
・碑石
・望岳賦
・桜賦
・省諐録(せいけんろく)
・佐久間象山銅像 - 佐久間象山先生生誕二百年大祭に先立ち建立された(田畑功の作品)[6]。
・横田秀雄顕彰碑
・社務所 - 国の登録有形文化財[17]
交通
・JR・長野電鉄長野駅からアルピコ交通(川中島バス)30・48系統に乗車、「松代八十二銀行前」下車
・JR・しなの鉄道篠ノ井駅からアルピコ交通(川中島バス)130系統に乗車、「紺屋町」下車
・文武学校
・旧真田邸
・松代大本営跡
脚注
1. 象山神社御由緒 - 象山神社
2. 象山神社公式サイト(トップページの題字には、「ぞうざん」と振り仮名が振られている)
3. 文化財めぐり 佐久間象山宅跡 - 『広報ながの』
4. 佐久間象山宅跡(公益財団法人八十二文化財団)
5. 市指定文化財一覧(長野市公式サイト)
6. a b 象山先生銅像建立 - 象山神社
7. 長野)佐久間象山と勝海舟ら門下生が銅像に朝日新聞デジタル(2018年11月26日)2019年2月27日閲覧。
8. 象山神社本殿 - 国指定文化財等データベース(文化庁)
9. 象山神社宝殿 - 国指定文化財等データベース(文化庁)
10. 象山神社拝殿・祝詞殿 - 国指定文化財等データベース(文化庁)
11. 象山神社斉館 - 国指定文化財等データベース(文化庁)
12. 象山神社絵馬殿 - 国指定文化財等データベース(文化庁)
13. 高義亭 Kogitei arbour - 長野市教育委員会文化財課
14. 佐久間象山宅跡(公益財団法人八十二文化財団)
15. 佐久間象山宅跡 Remains of the Sakuma Zozan's former residence - 長野市教育委員会文化財課
16. 象山神社園池 - 国指定文化財等データベース(文化庁)
17. 象山神社社務所 - 国指定文化財等データベース(文化庁)
関連項目
・佐久間象山
・横田秀雄
7262 馬場家長屋門(長野市松代町)
7261 松井須磨子墓(長野県長野市松代町清野1543)
二度の離婚、整形とその後遺症に苦しめられながらの名演、島村抱月とのスキャンダル、日本初の歌う女優としてのヒット曲と発禁騒動、そして抱月死後の後追い自殺と、その波乱の短い生涯は多くの小説や映画、テレビドラマとなっている。
生涯
離婚、女優への執念
長野県埴科郡清野村(現・長野市松代町清野)に士族小林藤太(旧松代藩士)の五女(九人兄妹の末っ子)、小林正子として生まれる。数え年6歳の時、上田町の長谷川家の養女となり、1900年上田の尋常小学校を卒業する。しかし養父が亡くなったため実家に戻る。実家に戻った年、実父も亡くなった。数え年17歳の春に麻布飯倉の菓子屋「風月堂」に嫁いでいた姉を頼って上京した後、戸板裁縫学校(現・戸板女子短期大学)に入学する[2]。
1903年親戚の世話で最初の結婚をするが、病気がちを理由に舅に疎まれ[3]、1年で離婚している。この頃から平凡な日常から脱却したいと思うようになり女優を志す。この時期に俳優養成学校に願書を提出し面接も受けるが、鼻が低くて顔全体の印象が平坦で華やかさがないことを理由に入学を拒否される。しかし女優の夢が諦めきれなかった須磨子は当時としては最新の技術であった、鼻筋に蝋を注入する隆鼻術(美容整形手術)を受けている。これにより、現在までに知られる顔になった。その後、俳優養成学校へ入学し念願の女優となった。
日本初の整形美人女優と称されることもある。しかし、後年はその後遺症に苦しめられる。注入した蝋は比較的軟らかいもので、体温程度でも不安定な状態になり鼻筋からずれてしまうことも多かった。その度に自らの手で押さえていたという。そのようなことが頻繁にあったため体も拒絶反応を起こして鼻を中心に顔全体が腫れて炎症を起こすこともあり、時には痛みで寝込むほどであったが、当時は抜去する手術が確立されていなかったため冷水で絞った手拭いで患部を冷やすことしか出来ず耐えるしかなかった。恋仲にあった島村抱月にもその醜態を指摘されることもあったという。
二度目の離婚、日本初の「歌う女優」と発禁騒動
1908年同郷の埴科坂城町出身の前沢誠助と結婚する。東京高師地歴科を卒業した前沢は、その年の11月に「東京俳優養成所」の講師になり、日本史を担当した。
1909年、坪内逍遥の文芸協会演劇研究所第1期生となる。家事がおろそかになることも多く、1910年10月、前沢と離婚。
1911年、『人形の家』の主人公ノラを演じて認められ、1913年、島村抱月と芸術座を旗揚げし、『復活』(トルストイ原作、抱月訳)のカチューシャ役が大当たりし、人気女優となった。須磨子が歌った主題歌『カチューシャの唄(復活唱歌)』(抱月作詞・中山晋平作曲)のレコードも当時2万枚以上を売り上げる大ヒットとなった。須磨子は日本初の歌う女優となった。
1915年、島村抱月ともにロシア帝国のウラジオストクを訪れ、ロシアの劇団との合同講演をプーシキン劇場で行い大好評を博した。また後に流行歌となる『ゴンドラの唄』(吉井勇作詞・中山晋平作曲)も歌唱した[4]。
1917年に発売したレコード『今度生まれたら』(北原白秋作詞)では、歌詞の中にある「かわい女子(おなご)と寝て暮らそ」の部分が当時の文部省により猥褻扱いされ、日本における発禁レコード第1号となった。
自殺
1918年11月5日、スペイン風邪で抱月が病死すると、2ヶ月後の1919年1月5日、東京市牛込区横寺町(現・東京都新宿区横寺町)にあった芸術倶楽部の道具部屋において自殺(縊死)した[5][6]。
抱月と不倫関係にあった須磨子は、遺書で抱月の墓に一緒に埋葬されることを望んでいたがそれは叶わず、須磨子の墓は長野市松代町清野の小林家墓所(生家の裏山)に、また、新宿区弁天町の多聞院には分骨墓がある。
主な出演記録
文芸協会時代
明治44年(1911年)
・5月 -『ハムレット』(シェイクスピア作、坪内逍遥訳)オフヰリア役。第1回公演、帝国劇場
・9月 -『人形の家』(イプセン作、島村抱月訳)ノラ役;『鉢かつぎ姫』(坪内逍遥作)宰相役。文芸協会私演。
・11〜12月 -『人形の家』再演。第2回公演、帝国劇場。
明治45年(1912年)
・5月 -『故郷』(ズーダーマン作、島村抱月訳)マグダ役。第3回公演、有楽座。
・6月 -『運命の人』(バーナード・ショー作、楠山正雄訳)不思議な旅の貴婦人役。文芸協会私演。
・6月 -『故郷』再演。大阪帝国座。
・11月 -『二十世紀 [7]』(バーナード・ショー作、楠山正雄訳)グラントン夫人役。第4回公演、有楽座。
大正2年(1913年)
・2月 -『思ひ出』(マイヤー=フェルスター作、松居松葉訳)ケティ役。第5回公演、有楽座。
芸術座時代
大正2年(1913年)
・7月 -『モンナ・ヴァンナ』(メーテルリンク作、島村抱月訳)モンナ・ヴァンナ役;『内部』(メーテルリンク作、秋田雨雀訳)母親役(台詞なし)。第1回公演、有楽座。
・12月 -『サロメ』(オスカー・ワイルド作、中村吉蔵訳)サロメ役。帝国劇場。
大正3年(1914年)
・1月 -『海の夫人』(イプセン作、島村抱月訳)エリーダ役;『熊』(チェーホフ作、楠山正雄訳)ヘレエネ役。第2回公演、有楽座。
・3月 -『復活』(トルストイ原作、アンリ・バタイユ脚色、島村抱月訳)カチューシャ役;『嘲笑』(中村吉蔵作)お千代役。第3回公演、帝国劇場。
・7月 -『復讐』(島村抱月作)女・役。第1回研究劇、福澤桃介邸内試演場。
・8月 -『マグダ(故郷)』再演;『ヂオゲネスの誘惑』(シュミットボン作、森鴎外訳)イノ役。夏期臨時公演、歌舞伎座。
・10月 -『剃刀』(中村吉蔵作)お鹿役;『クレオパトラ』(シェイクスピア原作、島村抱月脚色)クレオパトラ役。第4回公演、帝国劇場。
・12月 -『人形の家』『剃刀』再演;『結婚申込』(チェーホフ作、仲木貞一訳)娘・役。特別公演、本郷座。
大正4年(1915年)
・4月 -『飯』(中村吉蔵作)お市役;『その前夜』(ツルゲーネフ作、楠山正雄脚色)エレエナ役[8];『サロメ』再演。第5回公演、帝国劇場。
・5月より第1回長期巡演(大阪、京都、神戸、名古屋、北陸、信州、東北、北海道、台湾、朝鮮、ハルピン、ウラジオストク)。
大正5年(1916年)
・1月 -『真人間』(中村吉蔵作)お品役;『清盛と仏御前』(島村抱月作)仏御前役。大阪浪花座。
・3月 -『お葉 [9]』お葉役;『清盛と仏御前』再演。第6回公演、帝国劇場。
・4月 -『復活』『嘲笑』 [10] 再演。第1回新劇普及興行、浅草常磐座。
・4~5月 -『復活』『サロメ』再演。特別公演、明治座。
・5月 -『エジポス王』(ソポクレス作、中村吉蔵訳)王妃ヨカスタ役。寄付興行、牛込河田町小笠原伯爵庭園。
・7月 -『闇の力』(トルストイ作、林久男訳)アニッシャ役。第2回研究劇、牛込横寺町芸術倶楽部。
・8月 -『マクベス』(シェイクスピア作、坪内逍遥訳)マクベス夫人役。特別公演、両国国技館。
・9月 -『アンナ・カレニナ』(トルストイ原作、松居松葉脚色)アンナ・カレニナ役。第7回公演、帝国劇場。
・10月 -『飯』『サロメ』再演。第2回新劇普及興行、常磐座。
大正6年(1917年)
・1月 -『思い出』『剃刀』再演。二の替り、『爆発』(中村吉蔵作)近子役;『お葉』再演 [11]。
・3月 -『ポーラ』(アーサー・ピネロ作、島村抱月訳)ポーラ役。第8回公演、新富座。
・4月より第2回長期巡演(信州、甲府、名古屋、伊勢、奈良、満州、朝鮮、山陽、山陰、四国)。
・10~11月 -『お艶と新助』(谷崎潤一郎原作、島村抱月脚色)お艶役;『生ける屍』(トルストイ原作、川村花菱・島村抱月脚色)マーシャ役[12];『帽子ピン』(中村吉蔵作)お竹役。第9回公演、明治座。
大正7年(1918年)
・1月より第3回長期巡演(京都、中国、四国、九州)。
・9月 -『沈鐘』(ハウプトマン作、楠山正雄訳)森の精ラウテンデライン役;『神主の娘』(松居松葉作)朝江役。第10回合同公演、歌舞伎座。
・10月 -『死と其前後』(有島武郎作)妻・役。第3回研究劇、牛込芸術倶楽部。
・11月 -『緑の朝』(ダヌンチオ作、小山内薫訳)狂女イサベルラ役。第11回合同公演、明治座。
大正8年(1919年)
・1月 -『肉店』(中村吉蔵作)お吉役;『カルメン』(メリメ原作、川村花菱脚色)カルメン役。第12回公演、有楽座。
詳しいことは、「松居須磨子ウィキペディア」をご覧ください。 ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E4%BA%95%E9%A0%88%E7%A3%A8%E5%AD%90
(wikiより)
松居須磨子
⇧ ここを登ります。
⇧ ここが御実家になります。
⇧⇩ 御実家から少し登るとお墓があります。
⇧ 新宿区弁天町100・多聞院にも、お墓があります。
7260 北の国からのロケ地セット巡り(富良野市東麓郷1-1)
場所としては、最寄り駅の富良野からタクシーで30分ほどの場所にある麓郷という街です。
若干安価に済ませたいのなら、タクシーを2時間貸し切った方が ( ちょっと足早の見学になりますが ) お安く済むと思います ( 2022年 6月 26日当時 )
ただ車内に虫等がいる場合も有りますのでご注意ください。
※ セットのご紹介は順不同となりますがご了承下さい。
〇 五郎の終の家になる「石の家」
石の家に行くまでに入場口が有り「入場料」を払います。( 3か所のセット入場券を購入した方が割安となります。)

⇧⇩ セットに行くまで、山道を登っていくのですが回りは自然なのでクマが出没したりします。
熊が出ると入場できなくなることも有ります。



⇧ そりゃあ、熊も出ます。

⇧ この時には、炭焼き材料小屋、炭焼き小屋、羊小屋は有りませんでした。

⇧ 石の家が見えてきました。

⇧⇩ この場所に、炭焼き材料小屋、炭焼き小屋が有りました。

〇 現時点では不確定なのですが、後々に田中邦衛さんのお墓が建設されるとの情報有り。

⇧ 石の家に向かって歩いていくと、左側に続く道が有ります。

⇧⇩ 「黒板五郎 此処に眠る」という石碑が有りました。
現在、これを田中邦衛さんのお墓だと言っている人がいますが違います。




⇧ 黒板五郎は昭和の男だった 文明に頼らず金に頼らず 家族を守りきり 原野を駆け抜けた
倉本聰

⇧ 「石の家」




石の家を出て左方向に歩くと・・・




⇧ 「最初の家」が有りました。






⇧ ちょっとボケちゃいましたが、お風呂です。

⇧ ここで薪をくべて

⇧ 湯舟
と、以上が「石の家」でのセットとなります。
これで1か所目の見学が終わりました。
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次は「麓郷の森」セットになります
こちらも入り口で入場料払ってからの入場です。

⇧ 麓郷の森
こちらには、3番目の家、丸太小屋の2棟のセットが有ります。



⇧ 「丸太小屋」











⇧ お風呂です。

⇧ 「3番目の家」









これで2か所目のセット見学終了です。
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最後のセットは「拾ってきた家~やがて町~」、こちらでは4棟のセットが有ります。
入り口で入場料を払うのですが、「セット券」の購入をお勧めします。

⇧ 北の国からが好きな人は、涙腺崩壊してしまうかもしれませんね。


⇧






⇧⇩ 「4番目の家」












4番の家は以上です。

⇧⇩ これからのセットは「拾ってきた家~やがて町~」がテーマとなっています。
廃材利用してのセットとなります。



⇧

⇧⇩ 「純と結の家」です。







⇧ お風呂です。





これで「純と結の家」のセット終了です。

⇧⇩ 「正彦とすみえの家」です。





「正彦とすみえの家」は以上です。

⇧⇩ 「雪子さんのアトリエと住居」になります。










以上で「雪子さんのアトリエと住居」セット終了です。
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次に番外編として「布部駅」の画像も入れておきます。
ドラマ北の国からも、布部駅から始まったので印象深いのですが、いまは廃線となって駅舎とホームが残るだけです。


⇧ 北の国 ここから始まる 倉本聰








最後に、新富良野プリンスホテルから、布部駅、麓郷の北の国からセット ( 3か所 ) を駆け足気味に見学して ( 2時間貸し切り ) 1万2千円でした。( 2022年 6月 26日当時 )
正直バスの本数も多いわけでもないので、タクシー貸し切りがコスパが良いと思います。
7259 鴫の井戸(神奈川県大磯町大磯1289)
7258 第十七世庵主・神林時處人句碑(神奈川県大磯町大磯1289)
7257 第九世庵主・遠藤雉啄句碑(神奈川県大磯町大磯1289)
7256 五智如来(神奈川県大磯町大磯1289)
7255 第十六世庵主・高瀬蘇迷句碑(神奈川県大磯町大磯1289)
7254 鴫立沢標石(神奈川県大磯町大磯1289)
7253 第十四世庵主・二宮松汀句碑(神奈川県大磯町大磯1289)
7252 第十五世庵主・原 昔人句碑(神奈川県大磯町大磯1289)
7251 第十四世庵主・二宮松汀墓碑(神奈川県大磯町大磯1289)
7250 第十三世庵主・間宮宇山墓碑(神奈川県大磯町大磯1289)
7249 宝篋印塔(神奈川県大磯町大磯1289)
7248 宇山碑(神奈川県大磯町大磯1289)
7247 第十三世庵主・間宮宇山句碑(神奈川県大磯町大磯1289)
7246 第十二世庵主・管喜田松頂墓碑(神奈川県大磯町大磯1289)
7245 高橋那保女墓碑(神奈川県大磯町大磯1289)
7244 佳宇墓碑(神奈川県大磯町大磯1289)
7243 第十一世庵主・大澤壽道墓碑(神奈川県大磯町大磯1289)
7242 第十七世庵主・神林時處人墓碑(神奈川県大磯町大磯1289)
7241 第七世庵主・三浦柴居句碑(神奈川県大磯町大磯1289)
7240 百歳坊歌碑(神奈川県大磯町大磯1289)
7239 第六世庵主・西奴墓碑(神奈川県大磯町大磯1289)
7238 百歳坊墓碑・墓誌銘碑(神奈川県大磯町大磯1289)
7237 第八世庵主・倉田葛三墓碑(神奈川県大磯町大磯1289)
第八世庵主・倉田葛三墓碑
※ 墓碑に句を刻まず
〇 倉田葛三
倉田 葛三(くらた かっさん、宝暦12年(1762年) - 文政元年6月12日(1818年7月14日))は江戸時代後期の俳人。諱は覃。通称は久右衛門。別号に騎鯨、黙斎、秋暮亭など。
地元信州で宮本虎杖、江戸で加舎白雄に師事した。白雄創立の春秋庵、相模大磯宿の名門鴫立庵、松代の虎杖庵主を兼任し、信州や関東地方を精力的に行き来し、東北地方や九州へも遊んだ。
生涯
宝暦12年(1762年)、信濃国埴科郡松代城下荒町(長野県長野市松代町東条字荒町)の塩入家に生まれる。
鼠屋と号する豪商だったとも、松代藩士だったともいう。姉と妹が一人ずついた。僧門を志望し東条村の観喜寺に入った。ある日、師に加持祈祷の利益を問うたところ、方便と答えられ、それ以上の説明がなかったため、還俗を決意した。
千曲川を下った戸倉村(千曲市戸倉)の宮本虎杖に入門し、天明7年(1787年)春、虎杖編『天明七未年 虎杖庵草稿』弐巻に騎鯨として七句初入句した。寛政2年(1790年)中、 江戸に出て、春秋庵加舎白雄に執筆として師事したが、白雄は寛政3年(1791年)死去し、常世田長翠が春秋庵二世となった。寛政4年(1792年)11月、長翠に独立を許され、寛政6年(1794年)春、長翠を継いで三世春秋庵主となった。同年東北地方を巡った。
11月18日、相模国大磯宿鴫立庵主三浦柴居が病死したため、これも継いで八世鴫立庵主に就任した。寛政10年(1798年)春、春秋庵を年々庵帰童に譲った。
文化6年(1809年)、京、大坂、広島、小倉を経て長崎まで旅をし、『筑紫みやげ』を著した。文化8年(1811年)其堂(帰童)が春秋庵を放棄したため、この頃春秋庵主に再任したと思われる。文化9年(1812年)5月初旬、国元の師の要請により虎杖庵主にも就任した。
文政元年(1818年)6月10日、辞世「六月や十日暮らせし一手柄」「身の上の夏や蓮の一枚葉」を詠み、12日死去した。法号は一阿葛三居士。大磯地福寺にて葬儀が行われた。墓碑は円覚寺誠拙周樗の揮毫で鴫立庵に建てられた。
死後、松代城外新田村(千曲市新田)伊勢社に辞世「六月や十日くらせし一手柄」、松島瑞巌寺に「松風はたねんのはしよ子雋」の句碑が建てられた。文政2年(1819年)11月、門下遠藤雉啄により『葛三句集』が刊行された。
明治24年(1891年)4月24日、松代は大火に見舞われ、生家、遺品が焼失した。
昭和22年(1947年)8月、地元松代の俳人清水瓢左により葛三顕彰会が設立され、11月12日松代城巽櫓跡に「月夜よし行/\あてはなかりけり」の句碑が建てられた。昭和42年(1967年)11月には同会より『葛三全集』が刊行された。
参考文献
・矢羽勝幸「俳人倉田葛三年譜―春秋庵・鴫立庵時代を中心として―」『二松學舍大学論集』第50号、2007年
・矢羽勝幸「俳人倉田葛三年譜―虎杖庵時代以後を中心として―」『二松学舎大学東アジア学術総合研究所集刊』第37集、2007年
関連項目
・加舎白雄
・鴫立庵
(wikiより)