本牧jack『意外と身近にある歴史散歩』日々是好日 心灯 頬笑

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2022/10

ウィリアム・アダムス(William Adams, 1564年9月24日 - 1620年5月16日元和6年4月24日))は、江戸時代初期に徳川家康に外交顧問として仕えたイングランド人航海士・水先案内人・貿易家。三浦 按針(みうら あんじん)の日本名でも知られる。

生涯
生い立ちと青年時代

1564年イングランド南東部のケント州ジリンガムの生まれ。船員だった父親を亡くして故郷を後にし、12歳でロンドンテムズ川北岸にあるライムハウス英語版に移り、船大工の棟梁ニコラス・ディギンズに弟子入りする。

造船術
よりも航海術に興味を持ったアダムスは、1588年に奉公の年限を終えると同時に海軍に入り、フランシス・ドレークの指揮下にあった貨物補給船リチャード・ダフィールド号の船長としてアルマダの海戦に参加した。


1589年にはメアリー・ハインと結婚し、娘デリヴァレンスと息子ジョンを設けている。しかし、軍を離れてバーバリー会社ロンドン会社の航海士・船長として北方航路やアフリカへの航海で多忙だったアダムスは、ほとんど家に居つかなかったといわれている。

リーフデ号の航海
航海で共に仕事をする中でオランダ人船員たちと交流を深めたアダムスは、ロッテルダムから極東を目指す航海のためにベテランの航海士を探しているという噂を聞きつけ、弟のトマスらと共にロッテルダムに渡り志願する。航海は5隻からなる船団で行われることになっていた。


・ホーぺ号("希望"の意・旗艦

リーフデ号("愛"の意)

・ヘローフ号("信仰"の意・ロッテルダムに帰還した唯一の船)

・トラウ号("忠誠"の意)

・フライデ・ボートスハップ号("良い予兆"あるいは"陽気な使者"の意)


司令官のジャック・マフ英語版はアダムスをホープ号の航海士として採用する。こうして1598年6月24日、船団はロッテルダム港を出航した。


しかし航海は惨憺たる有様で、マゼラン海峡を抜けるまでにはウィリアムとトマスの兄弟はリーフデ号に配置転換されていたが、トマスが最初乗船していたトラウ号はポルトガルに、フライデ・ボートスハップ号はスペインに拿捕され、1隻はぐれたヘローフ号は続行を断念してロッテルダムに引き返した。生き残った2隻で太平洋を横断する途中、ホープ号も沈没してしまい、極東に到達するという目的を果たしたのはリーフデ号ただ1隻となった。その上、食糧補給のために寄港した先々で赤痢壊血病が蔓延したり、インディオの襲撃に晒されたために次々と船員を失っていき、トマスもインディオに殺害されてしまう。こうして出航時に110人だった乗組員は、日本漂着までには24人に減っていた。

日本漂着、家康の引見
関ヶ原の戦いの約半年前の1600年4月29日慶長5年3月16日)、リーフデ号は豊後臼杵黒島に漂着した。自力では上陸できなかった乗組員は、臼杵城主・太田一吉の出した小舟でようやく日本の土を踏んだ。一吉は長崎奉行寺沢広高に通報した。広高はアダムスらを拘束し、船内に積まれていた大砲火縄銃弾薬といった武器を没収したのち、大坂城豊臣秀頼に指示を仰いだ。この間にイエズス会宣教師たちが訪れ、オランダ人やイングランド人を即刻処刑するように要求している。


結局、五大老首座の徳川家康が指示し、重体で身動きの取れない船長ヤコブ・クワッケルナックに代わり、アダムスとヤン=ヨーステン・ファン・ローデンスタインメルキオール・ファン・サントフォールトらを大坂に護送させ、併せて船も回航させた。


5月12日(慶長5年3月30日)、家康は初めて彼らを引見する。イエズス会士の注進でリーフデ号を海賊船だと思い込んでいた家康だったが、路程や航海の目的、オランダやイングランドなどプロテスタント国とポルトガル・スペインらカトリック国との紛争を臆せず説明するアダムスとヤン=ヨーステンを気に入って誤解を解いた。しばらく乗組員たちを投獄したものの、執拗に処刑を要求する宣教師らを黙殺した家康は、幾度かにわたって引見を繰り返した後に釈放し、城地である江戸に招いた。

三浦按針となる
江戸でのアダムスは帰国を願い出たが、叶うことはなかった。代わりに家康は米や俸給を与えて慰留し、外国使節との対面や外交交渉に際して通訳を任せたり、助言を求めたりした。またこの時期に、幾何学数学、航海術などの知識を家康以下の側近に授けたとも言われている。


やがて江戸湾に係留されていたリーフデ号が沈没すると、船大工としての経験を買われて、西洋式の帆船を建造することを要請される。永らく造船の現場から遠ざかっていたアダムスは、当初は固辞したものの受け入れざるを得なくなり、伊東に日本で初めての造船ドックを設けて80tの帆船を建造した。これが1604年(慶長9年)に完成すると、気をよくした家康は大型船の建造を指示、1607年(慶長12年)には120tの船舶を完成させる[注釈 1]


この功績を賞した家康は、さらなる慰留の意味もあってアダムスを250石取りの旗本に取り立て、帯刀を許したのみならず相模国逸見采地も与えた[1]。また、三浦按針("按針"の名は、彼の職業である水先案内人の意。姓の"三浦"は領地のある三浦郡にちなむ)の名乗りを与えられ、異国人でありながら日本の武士として生きるという数奇な境遇を得たのである。のち、この所領は息子のジョゼフが相続し、三浦按針の名乗りもジョゼフに継承されている。


1613年(慶長18年)にイギリス東インド会社クローブ号が交易を求めて日本に来航した際、一行に付き添い、家康らとの謁見を実現させ、貿易を許可する朱印状を取りつけるなどの手助けをした。1614年(慶長19年)のクローブ号帰還の際には、一緒に帰国できる許可が日英両方から出たが、同船司令官のジョン・セーリスと馬が合わず、帰国を見送った。セーリスは何事も日本式を強要するアダムズが気に入らず、アダムズはセーリスを生意気で無礼な青二才として嫌っていた。一行が去ったあとは、それまで手伝っていたオランダ商館より安い賃金だったが、母国イギリス商館の仕事を手伝った[2]

家康の死後
家康に信頼された按針だったが、1616年元和2年)4月に家康が死去し、跡を継いだ徳川秀忠をはじめ江戸幕府幕臣たちの方針で貿易を平戸のみに制限し鎖国体制を敷いたため、按針の立場は不遇となった。以降の按針の役目は天文官のみとなり、幕臣や次期将軍候補の徳川家光らに警戒された。按針は憂鬱な状態のまま、1620年5月16日元和6年4月24日)に平戸で死去した。(享年55歳)

夫人について
帰国を諦めつつあったアダムスは、1602年(慶長7年)頃に大伝馬町名主で家康の御用商人でもあった馬込勘解由平左衛門の娘・お雪(マリア)と結婚したとされてきた。しかし、馬込勘解由の娘とする説は1888年(明治21年)の「横須賀新報」、1892年(明治25年)の菅沼貞風『日本商業史』[3]が初出であり、現実的に勘解由本人の娘とは考えられず、実際の出自は不明である。また、お雪という名前も1973年(昭和48年)石一郎の小説『海のサムライ』を初出とし、牧野正『青い目のサムライ三浦按針』の英訳書を通じて誤って広まったものであり、史料上夫人の名前は残っていない[4]


彼女との間には、息子ジョゼフと娘スザンナが生まれている。

記念する場所・行事など
横須賀
神奈川県横須賀市逸見には三浦按針の領地があった。同地(横須賀市西逸見)にある濤江山浄土寺が三浦按針の菩提寺となっており、按針が東南アジアからもたらしたという唄多羅葉や、念持仏が納められている[5]

横須賀市西逸見町の「塚山公園」には、按針夫妻の慰霊のために作られた2基の供養塔(宝筺印塔)があり[6]、「安針塚(按針塚)」「三浦按針墓」と呼ばれる。江戸時代後期には浄土寺や日本橋按針町の人々によって、按針の法要が行われた[5]


日本の開国後、ウィリアム・アダムスの墓探しが行われた。1874年(明治7年)、横浜に住む実業家ジェームズ・ウォルタースによって、逸見の浄土寺から古い2基の宝筺印塔が見いだされたウォルタースは「按針塚」周辺の荒廃を憂いて修復を行い、横浜居留のイギリス人や地元の人々などからも支援が行われた[5]。1902年(明治35年)に結ばれた日英同盟を契機に「安針塚(按針塚)」周辺の大規模な整備が行われ、塚山公園が作られたが、これに際して発掘調査が行われ、埋葬地ではないことが確認された[5]1923年大正12年)3月7日、「三浦按針墓」として国の史跡に指定された。


塚山公園では第二次世界大戦以前から「按針祭」が挙行されていた。日英間で交戦状態になった第二次世界大戦期の中断を挟み、「三浦按針墓前祭」「三浦按針祭」などの名称で記念行事が行われた[7]。1997年(平成9年)以後は「三浦按針祭観桜会」の名称で、毎年4月8日[注釈 2]に挙行されている[7]

1982年(昭和57年)に横須賀市とジリンガム市は姉妹都市提携をおこなった。ジリンガム市側の自治体合併によってメドウェイ英語版[注釈 3]が発足したため、1999年(平成11年)以降はメドウェイ市と姉妹都市関係にある[8]


2019年10月25日、浄土寺本堂でアダムスの400回忌法要が営まれ、徳川宗家18代当主の徳川恒孝も参列した[9]

伊東
按針が洋式船を建造した静岡県伊東市では、「按針メモリアル公園」が作られ、銅像がある。


毎年夏には「按針祭」が開催され、日程の最後には「按針祭海の花火大会」が挙行される。


1982年(昭和57年)に伊東市とジリンガム市は姉妹都市提携をしており、1999年(平成11年)以降はメドウェイ市と姉妹都市関係にある[10]

その他
その後、キリスト教弾圧の中で商館とともに外国人墓地の破壊が行われたため、埋葬地の正確な場所ははっきりしない。1931年、崎方にほど近い三浦家で「安針墓」として伝えられてきた墓から、遺骨と遺品の一部が発掘される。三浦家は通詞の末裔であり、ひそかに按針の遺骨の一部をもらいうけて埋葬したという口伝があった。


1954年(昭和29年)、イギリス商館跡近くの崎方公園(平戸市大久保町)に「三浦按針の墓」が建立された。

1964年(昭和39年)、アダムスの生誕400年に際し、イングランドの妻の墓地より小石を取り寄せ、夫婦塚とした[11]。毎年5月下旬には墓前で「按針忌」が催される。


・アダムスの江戸屋敷があった地区は按針町と呼ばれた(現在の東京都中央区日本橋室町)。同地(日本橋室町1-10-8)には、「三浦按針屋敷跡の碑」が立つ。

・リーフデ号が漂着した大分県臼杵市佐志生海岸黒島には「三浦按針上陸記念碑」が立つ。「三浦按針記念公園」や「リーフデ号到着記念公園」が整備されている。

・リーフデ号の船尾像であったエラスムス像は、旗本・牧野成里の菩提寺である栃木県佐野市の龍江院に「貨狄尊者」として伝えられた。エラスムス像は国の重要文化財に指定され、東京国立博物館に収蔵されている。

・出生地であるメドウェイでは、毎年9月中旬に「Will Adams Festival」が開催される[12]

・アダムスが浦賀外交の顧問として迎えられたことの周知のため、浦賀住民の熱意によって賛助金が集められ、2019年平成31年)4月25日、横須賀市東浦賀の東叶神社境内に「日西墨比貿易港之碑」が建碑され、除幕式が行われた[13]

関連図書
・『按針と家康: イギリス人侍 三浦按針

・P・G・ロジャーズ『日本に来た最初のイギリス人 ウイリアム・アダムズ=三浦按針』幸田礼雅訳(新評論、1993年)

・ファン・ヒル『イダルゴとサムライ16・17世紀のイスパニアと日本』平山篤子訳(法政大学出版局 2000年)

鈴木かほる『徳川家康のスペイン外交 向井将監と三浦按針』新人物往来社 2010年

フレデリック・クレインス『ウィリアム・アダムス 家康に愛された男・三浦按針』ちくま新書 2021年

歴史小説
白石一郎『航海者 三浦按針の生涯』幻冬舎、1999年 のち同・文庫/文春文庫、2005年。歴史小説、各上・下

大島昌宏『海の隼 参謀・三浦按針』学陽書房、1999年

ジャイルズ・ミルトン英語版『さむらいウィリアム 三浦按針の生きた時代』築地誠子訳(原書房、2005年)

佐々木裕一『青い目の旗本 ジョゼフ按針』光文社文庫 全3巻、2014-16年 

仁志耕一郎『按針』ハヤカワ文庫、2020年

脚注
注釈
1. この船は1610年(慶長15年)になって、上総国御宿海岸で遭難し地元民に救助された前フィリピン総督ロドリゴ・デ・ビベロに家康から貸し出され、サン・ブエナ・ベントゥーラと名付けられた。
2. 後述する1982年のジリンガム市との姉妹都市提携日。
3. 1998年、ジリンガム市と隣接するロチェスター市と合併して発足。

出典
1. ウィリアム・アダムス|人物事典 - 三浦半島観光地図”. そらいろネット. 2019年5月30日閲覧。
2. Saris John; Sir Ernest Mason Satow (1900). The voyage of Captain John Saris to Japan. 1613. London : Printed for the Hakluyt Society. http://archive.org/details/captainjvoyageof00saririch [要ページ番号]
3. 菅沼貞風『大日本商業史東邦協会、1892年、389頁。
4. 森良和「ウィリアム・アダムズの日本人妻 ―その出自と名前をめぐって― (PDF) 」 『玉川大学教育学部紀要』第2016号、玉川大学教育学部、2017年3月31日。[要ページ番号]
5. a b c d 横須賀市政策推進部文化振興課: “三浦按針と横須賀 (PDF)”. 横須賀市. 2016年3月4日時点のオリジナルよりアーカイブ。2013年9月21日閲覧。
6.三浦按針祭観桜会 (William Adams Cherry Blossom Party)”. 横須賀市. 2013年9月21日閲覧。
7. a b 三浦按針祭観桜会 (William Adams Cherry Blossom Party)”. 横須賀市. 2017年12月8日時点のオリジナルよりアーカイブ。2013年9月21日閲覧。
8. 姉妹(友好)提携情報”. 自治体国際化協会. 2017年3月12日時点のオリジナルよりアーカイブ。2013年9月21日閲覧。
9. “按針の功績、再考の日に あす横須賀の浄土寺で400回忌法要”. 東京新聞神奈川版. (2019年10月25日). https://www.tokyo-np.co.jp/article/kanagawa/list/201910/CK2019102502000131.html 2020年2月24日閲覧。 
10. 姉妹(友好)提携情報”. 自治体国際化協会. 2017年3月12日時点のオリジナルよりアーカイブ。2013年9月21日閲覧。
11. 三浦按針の墓”. 平戸観光協会. 2016年3月5日時点のオリジナルよりアーカイブ。2013年9月21日閲覧。
12. 三浦按針祭観桜会 (William Adams Cherry Blossom Party)”. 横須賀市. 2017年12月8日時点のオリジナルよりアーカイブ。2013年9月21日閲覧。
13. 「神奈川新聞」横須賀版、2019年4月27日付。[要ページ番号]

関連項目
安針塚駅 - 京急線の駅で横須賀市にある。

将軍 SHOGUN - ウィリアム・アダムスをモデルとした、アメリカのドラマ

ヤン・ヤンセ・ウェルテフレー - 同時代の朝鮮半島に漂着し、朝鮮王朝に仕えたオランダ人

仁王 - ウィリアム・アダムスを主人公とした、PlayStation 4向けアクションRPG

・『まんが日本史 (日本テレビ)』 - 演じている声優は村松康雄

明治維新以前に日本に入国した欧米人の一覧

有史時代における各国の出身人物による最初期の来日の年表

海外出身の武士の一覧



外部リンク
按針のまち逸見を愛する会

涛江山 浄土寺 公式ホームページ

三浦按針と横須賀 - 横須賀市市政策推進部文化振興課
"ウィリアム・アダムス". Find a Grave. 2016年6月12日閲覧



(wikiより)


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この地に石川啄木の住まいがありました。


その家で啄木が最後に創作した歌が2首です。


歌碑の解説等がありますのでご覧ください。


北岩手郡渋民村 ( 現在は盛岡市内 ) を故郷とし、この地でその生涯を閉じた石川啄木。


ゆかりの深い文京区と盛岡市では平成19年より啄木の顕彰等を通じて交流を深めてきました。


啄木の没後100年を迎えた平成24年、啄木を愛する方々による「啄木終焉の地に歌碑を」との声を受け、文京区は隣接する国有地の取得を発表。


建碑に向けて検討を開始しました。


平成25年、隣接地への高齢者施設の開設にあわせて啄木歌碑と顕彰室の設置を決定。


文京区石川啄木基金を設けて、広く寄附を呼びかけました。


平成27年3月、多くの方々からご協力をいただき、この歌碑が誕生しました。


碑材 : 姫神小桜 ( 啄木のふるさとの山・姫神山産 )
揮毫 ( 啄木直筆原稿の左 ) : 楢崎華祥氏
(案内板より)


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伊藤 梅子(いとう うめこ、嘉永元年11月8日1848年12月3日) - 大正13年(1924年4月12日[1])は、伊藤博文の継妻、女流歌人[1]

生涯

1848年、木田久兵衛の長女として長門国(現山口県)で誕生。赤間関(下関)稲荷町の置屋「いろは楼」の養女となり、芸妓となって「小梅」を名乗る。1864年(元治元年)頃、イギリスからの帰国間もない伊藤博文と出会う。

当時、博文は既に入江九一野村靖の妹であるすみ子と結婚していたが、博文とすみ子は1866年(慶應2年)に離婚し、梅子が継妻となった。その後、同年長女貞子(1868年没)、次女生子(1868年9月19日 - 1934年1月2日)を生み、養女朝子(1876年 - 1944年)、養子博邦(幼名勇吉、井上光遠の子、1870年 - 1931年)、眞一(1890年 - 1980年)、文吉らを育て上げた。


夫の博文が初代内閣総理大臣となったことにより、梅子もまた初の内閣総理大臣夫人となった。その様子は芥川龍之介の『花火』に記述されている。梅子は勝気で向学心に富み克己心が強く、下田歌子に和歌を学び、英語の習得にも心がけた。常々身だしなみに気を配り、婦徳の鑑と称された。


1909年10月26日に博文が暗殺された際には、梅子は涙ひとつ見せなかったが、自室で「国のため光をそえてゆきましし 君とし思へどかなしかりけり」と詠んだとされる。その後、滄浪閣神奈川県中郡大磯町)を出て東京の生子の嫁ぎ先の末松謙澄邸などを転々とし、1924年4月12日に死去した。

脚注
1. a b 国学関連人物データベース「伊藤梅子」 | 國學院大學

参考
・「伊藤梅子」『日本女性人名辞典』[普及版]、日本図書センター、1998年 ISBN 4-8205-7881-2

・父逝いて五十年 伊藤博文小伝記 伊藤眞一1959年 伊藤博文追頌会

やっぱり妻には かないません! 初代総理大臣 伊藤博文の妻 梅子 歴史ヒストリア NHK 2015年8月26日
(wikiより)

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伊藤 博文(いとう ひろぶみ、1841年10月16日天保12年9月2日〉- 1909年明治42年〉10月26日)は、日本政治家位階勲等爵位従一位大勲位公爵


明治時代
に4度にわたって内閣制度発足以降の内閣総理大臣初代[2]1885年-1888年5代1892年-1896年7代1898年10代1900年-1901年)を務めたことで知られる。1次内閣時には明治憲法の起草の中心人物となり、2次内閣では日清講和条約の起草にあたった。4次内閣の組閣に際して立憲政友会を結党して初代総裁(在職1900年-1903年)となり、政党政治に道を開いた[3]。他、初代枢密院議長(在職1888年-1889年)、初代貴族院議長(在職1890年-1891年)、初代韓国統監(在職1905年-1909年)、元老などを歴任した[4][3]


博文(ひろぶみ、「ハクブン」と読むこともある)。幼名利助(りすけ)、後に吉田松陰から俊英の俊を与えられ、俊輔(しゅんすけ)とし、さらに春輔(しゅんすけ)と改名した。春畝(しゅんぽ)で、春畝公と表記されることも多い。また小田原の別邸・滄浪閣を所持していたことから滄浪閣主人(そうろうかくしゅじん)を称して落款としても用いた。

概要

周防国百姓の子として生まれる。父が長州藩足軽伊藤家に入ったため、父とともに下級武士の身分を得る。吉田松陰私塾である松下村塾に学んだ。尊王攘夷運動に参加したが、1863年には藩命により井上馨らとともにイギリスに密航して留学して開国論者となる[5][4]1864年ロンドンで四国連合艦隊の長州藩攻撃の計画を知り、急遽帰国し、藩主毛利敬親に開国への転換の必要を説いたが、受け容れられなかった。同年幕府による第一次長州征伐に対する藩首脳の対応に憤慨した高杉晋作が起こした功山寺挙兵に参加。この藩内戦の勝利により藩主流派となり、藩政改革に参画するようになり、主に藩の対外交渉の任にあたった[4]


明治維新後の1868年から政府に出仕し、外国事務掛、参与、外国事務局判事、初代兵庫県知事などを歴任。1869年(明治2年)には陸奥宗光らとともに当面の政治改革の建白書を提出して開明派官僚として頭角を現した。また大蔵少輔民部少輔として貨幣制度の改革を担当し、1870年(明治3年)には財政幣制調査のために渡米し、翌年の金本位制の採用と新貨条例の公布を主導した。1871年(明治4年)の岩倉使節団にも参加し、副使として米欧に渡る。この間に大久保利通の信任を得た[4]


1873年(明治6年)の帰国後には大久保らとともに内政優先の立場から西郷隆盛征韓論に反対し、同年10月に西郷らが下野すると大久保の片腕として参議工部卿に就任した[3]1878年(明治11年)に大久保が不平士族に暗殺された後、その後を継いで内務卿に就任し、政府の中心人物となった。琉球処分侍補制度の廃止、教育令の制定などを推進した。1881年(明治14年)に大隈重信からイギリス型議会政治を目指す急進的憲法意見が出されると伊藤が反対し、大隈ら開明派官僚が下野するという明治十四年の政変が発生した[4][3]1882年(明治15年)にドイツオーストリアの憲法調査を行い、1884年に宮中に制度取調局を創設してその長官に就任し、立憲体制への移行に伴う諸制度の改革に着手[4]


1885年
太政官にかえて内閣制度を創設し、内閣発足以後[2]の初代内閣総理大臣に就任した(第1次伊藤内閣)。井上毅伊東巳代治金子堅太郎らとともに憲法や皇室典範貴族院令衆議院議員選挙法の草案の起草にあたり、1888年枢密院が創設されるとその議長に就任し、憲法草案の審議にあたった。1889年に日本最初の近代憲法明治憲法を制定。君主大権の強いドイツ型の憲法だったが、伊藤は立憲政治の意義が君権制限と民権保護にあることを強調し、立憲主義的憲法理解を示した[4][3]


1890年(明治24年)に帝国議会が創設されると初代貴族院議長に就任(最初の議会のみ)。1892年(明治25年)に第2次伊藤内閣を組閣し、衆議院の第一党だった自由党に接近。日清戦争では首相として大本営に列席するとともに日清講和条約に調印した。戦後は自由党と連携して連立政権を組織[3]1898年(明治31年)に第3次伊藤内閣を組閣したが、自由党や進歩党との連携に失敗し、地租増徴が議会の反発で挫折したことで総辞職。他の元老たちの反対を押し切って大隈重信と板垣退助を後継に推して日本最初の政党内閣(第1次大隈内閣)を成立させた。さらに1900年(明治33年)には立憲政友会を結党して、その初代総裁となり、第4次伊藤内閣を組閣。明治立憲制のもとでの政党政治に道を開いた[3]。しかし1901年(明治34年)に貴族院の反発と財政問題をめぐる閣内不一致で総辞職[4]


同年に起こった日英同盟論には慎重でロシアとの協商を模索して訪露したが、具体的成果を得られず、結果的に日英同盟が促進された。帰国後は野党の立場を貫こうとする政友会の指導に苦慮し、1903年(明治36年)に総裁を辞し、元老の立場に戻った[4]


日露戦争
開戦には慎重だったが[6]、日露戦争後の朝鮮満州の処理問題に尽力し、1905年(明治38年)には初代韓国統監に就任[4]韓国の国内改革と保護国化の指揮にあたり、3度にわたる日韓協約で漸次韓国の外交権や内政の諸権限を剥奪した[7]。伊藤は日本政府内では対韓慎重派であり、保護国化はやむなしとしたが、併合には慎重だったといわれる[6]。しかし韓国民族運動との対立の矢面に立つ形となり、1909年(明治42年)に韓国統監を辞職した後、ハルビン駅において韓国の民族主義運動家の安重根に狙撃されて死亡した[3]


開明派として日本の近代化、特に憲法制定とその運用を通じて立憲政治を日本に定着させた功績が評価される[3]

生涯
生い立ち
天保12年(1841年)9月2日、周防国熊毛郡束荷村字野尻(現・山口県光市束荷字野尻)の百姓・林十蔵(のちに重蔵)の長男として生まれる。母は秋山長左衛門の長女・琴子。弘化5年(1846年)に破産した父がへ単身赴任したため母とともに母の実家へ預けられたが、嘉永2年(1849年)に父に呼び出され萩に移住した。萩では久保五郎左衛門の塾に通い(同門に吉田稔麿)、家が貧しかったため、12歳ごろから父が長州藩蔵元付中間水井武兵衛養子となり、武兵衛が安政元年(1854年)に周防佐波郡相畑村の足軽・伊藤弥右衛門の養子となって伊藤直右衛門と改名したため、十蔵・博文父子も足軽となった[8]

松下村塾入門

安政4年(1857年2月江戸湾警備のため相模に派遣されていたとき、上司として赴任してきた来原良蔵と昵懇となり、その紹介で吉田松陰松下村塾に入門する。伊藤は友人の稔麿の世話になったが、身分が低いため塾の敷居をまたぐことは許されず、戸外で立ったままの聴講に甘んじていた。


渡邊嵩蔵 「伊藤公なども、もとより塾にて読書を学びたれども、自家生活と、公私の務に服せざるべからざる事情のために、長くは在塾するを得ざりしなり」[9]


翌安政5年(1858年)7月から10月まで松陰の推薦で長州藩の京都派遣に随行、帰藩後は来原に従い安政6年(1859年)6月まで長崎で勉学に努め、10月からは来原の紹介で来原の義兄の桂小五郎(のちの木戸孝允)の従者となり、長州藩の江戸屋敷に移り住んだ。ここで志道聞多(のちの井上馨)と出会い、親交を結ぶ。


松陰が同年10月に安政の大獄で斬首された際、桂の手附として江戸詰めしていた伊藤は、師の遺骸を引き取ることなる。このとき、伊藤は自分がしていた帯を遺体に巻いた。このあと、桂を始め久坂玄瑞高杉晋作・井上馨らと尊王攘夷運動に加わる一方で海外渡航も考えるようになり、万延元年12月7日1861年1月17日)に来原に宛てた手紙でイギリス留学を志願している。


文久2年(1862年)には公武合体論を主張する長井雅楽の暗殺を画策し、8月に自害した来原の葬式に参加、12月に品川御殿山英国公使館焼き討ちに参加し、山尾庸三と共に塙忠宝[注釈 1]加藤甲次郎を暗殺する[11]など、尊王攘夷の志士として活動した[12]。筋肉質の体躯であったとされる。

イギリス留学

文久3年(1863年)には井上馨の薦めで海外渡航を決意、5月12日に井上馨・遠藤謹助・山尾庸三・野村弥吉(のちの井上勝)らとともに長州五傑の一人としてイギリスに渡航する。伊藤の荷物は文久2年に発行された間違いだらけの『英和対訳袖珍辞書』1冊と寝巻きだけであったという。しかも途中に寄港した上海で別の船に乗せられた際、水兵同然の粗末な扱いをされ苦難の海上生活を強いられた。


9月23日ロンドン到着後、ヒュー・マセソンの世話を受け化学者アレキサンダー・ウィリアムソンの邸に滞在し、英語や礼儀作法の指導を受ける。ロンドンでは英語を学ぶとともに博物館美術館に通い、海軍施設、工場などを見学して見聞を広めた。留学中にイギリスと日本との、あまりにも圧倒的な国力の差を目の当たりにして開国論に転じる。


元治元年(1864年)3月、4国連合艦隊による長州藩攻撃が近いことを知ると、井上馨とともに急ぎ帰国した。


6月10日
横浜上陸後長州藩へ戻り、戦争回避に奔走する。英国公使オールコックと通訳官アーネスト・サトウと会見したが、両名の奔走も空しく、8月5日に4国連合艦隊の砲撃により下関戦争(馬関戦争)が勃発、長州の砲台は徹底的に破壊される。


伊藤は戦後、宍戸刑馬こと高杉晋作の通訳として、ユーリアラス号で艦長クーパーとの和平交渉にあたる。藩世子・毛利元徳へ経過報告したときには、攘夷派の暗殺計画を知り、高杉とともに行方をくらましている。そして、この和平交渉において、天皇将軍が長州藩宛に発した「攘夷実施の命令書」の写しをサトウに手渡したことにより、各国は賠償金江戸幕府に要求するようになる[13]

挙兵

オールコックらとの交渉で伊藤は井上馨とともに長州藩の外国応接係を任されるが、下関戦争と禁門の変で大損害を被った藩は幕府への恭順を掲げる俗論派が台頭、攘夷派の正義派(革新派)との政争が始まった。伊藤は攘夷も幕府にも反対でありどちらの派閥にも加わらなかったが、9月に井上が俗論派の襲撃で重傷を負うと行方をくらました。


11月、長州藩が第一次長州征伐で幕府に恭順の姿勢を見せると、12月に高杉らに従い力士隊を率いて挙兵(功山寺挙兵)。このとき、高杉のもとに一番に駆けつけたのは伊藤だった。その後、奇兵隊も加わるなど各所で勢力を増やして俗論派を倒し、正義派が藩政を握った。のちに伊藤は、このときのことを述懐して、「私の人生において、唯一誇れることがあるとすれば、このとき、一番に高杉さんのもとに駆けつけたことだろう」と語っている。


それからは目立った活躍は見られず、翌慶応元年(1865年)に藩の実権を握った桂の要請で行った薩摩藩や外国商人との武器購入および交渉がおもな仕事で、第二次長州征伐にも戊辰戦争にも加勢できずに暇を持て余していた。だが、慶応4年(明治元年、1868年)に外国事務総裁東久世通禧に見出され神戸事件堺事件の解決に奔走したことが出世の足がかりとなった[14]

明治維新

明治維新後は伊藤博文と改名し、長州閥の有力者として、英語に堪能なことを買われて参与外国事務局判事大蔵少輔民部少輔、初代兵庫県知事(官選)、初代工部卿宮内卿など明治政府のさまざまな要職を歴任する。これには木戸孝允の後ろ盾があり、井上馨や大隈重信とともに改革を進めることを見込まれていたからであった。


兵庫県知事時代の明治2年(1869年1月、『国是綱目』いわゆる「兵庫論」を捧呈し、


1. 君主政体

2. 兵馬の大権を朝廷に返上

3. 世界万国との通交

4. 国民に上下の別をなくし「自在自由の権」を付与

5. 「世界万国の学術」の普及

6. 国際協調・攘夷の戒め

を主張した。


明治3年(1870年)に発足した工部省の長である工部卿として、殖産興業を推進する。のちにこれは、内務卿大久保利通のもとで内務省へと引き継がれる。また同年11月から翌年5月まで、財政幣制調査のため芳川顕正福地源一郎らと渡米。中央銀行について学び、帰国後に伊藤の建議により、日本最初の貨幣法である新貨条例が制定される。


明治4年(1871年11月には岩倉使節団の副使として渡米、サンフランシスコで「日の丸演説」を行う[15][注釈 2]

明治6年(1873年)3月にはベルリンに渡り、ドイツ皇帝ヴィルヘルム1世に謁見。宰相ビスマルクとも会見し、ビスマルクから強い影響を受けた。

The red disc in the centre of our national flag shall no longer appear like a wafer over a sealed empire, but henceforth be in fact what it is designed to be, the noble emblem of the rising sun, moving onward and upward amid the enlightened nations of the world.
(国旗の中央なる吾等が緋の丸こそ最早閉ざされし帝国の封蝋の如く見ゆらざれ、将にその原意たる、旭日の貴き徽章、世界の文明諸国の只中に進み昇らん。)

                                                                                   — Hirobumi Ito, 23rd of January 1872.

大蔵兼民部少輔を務めた際には、大隈重信とともに殖産興業政策の一環として鉄道建設を強力に推し進め、京浜間の鉄道は、明治5年5月7日1872年6月12日)に品川 - 横浜間で仮営業を始め、同年9月12日(1872年10月14日)、新橋までの全線が開通した[16]


当初、伊藤が新政府に提出した『国是綱目』が当時新政府内では極秘裏の方針とされていた版籍奉還に触れていたために大久保利通や岩倉具視の不興を買い、大蔵省の権限をめぐる論争でも大久保とは対立関係にあった。また、岩倉使節団がアメリカで不平等条約改正交渉を始めた際、全権委任状を取るため一旦大久保とともに帰国したが、取得に5か月もかかったことで木戸との関係も悪化した(改正交渉も中止)。


だが、大久保・岩倉とは西欧旅行を通して親密になり、木戸とものちに和解したため、明治6年(1873年)に帰国して関わった征韓論では「内治優先」路線を掲げた大久保・岩倉・木戸らを支持して大久保の信任を得るようになった(明治六年政変)。このあと木戸とは疎遠になる代わりに、政権の重鎮となった大久保・岩倉と連携する道を選ぶ一方、盟友の井上馨とともに木戸と大久保の間を取り結び、板垣退助とも繋ぎを取り明治8年(1875年)1月の大阪会議を斡旋する。明治10年(1877年)に木戸が死去、同年に西南戦争西郷隆盛が敗死、翌11年(1878年)に大久保も暗殺されたあとは内務卿を継承し、維新の三傑なき後の明治政府指導者の1人として辣腕を振るう[17]


明治12年(1879年)9月に「教育議」を上奏し、教育令発布となる[18]


明治14年(1881年)1月、日本の立憲体制をどう作るか井上馨や大隈重信と熱海で会談。しかし大隈が急進的な構想を内密に提出、独走するようになると、政界追放を決め工作に取りかかり、10月14日の大隈下野で目的を果たし、明治23年(1890年)に国会を開設することを約束する(明治十四年の政変)。伊藤の漸進的な提案が通り、黒田清隆西郷従道ら薩摩派とも提携したことで事実上伊藤が中心となる体制ができあがった。一方で井上毅が岩倉の指示を受け、大隈案への対抗からプロイセン憲法を元にした憲法の採用を提案したときは退けたが、これは井上が憲法制定を焦り、外国憲法をどう日本に定着させるかについて具体的に論じていないことと、上役の伊藤に憲法制定を促すなど分を越えた動きをしていたからであった。


明治15年(1882年)3月3日、明治天皇憲法調査のための渡欧を命じられ、3月14日、河島醇平田東助吉田正春山崎直胤三好退蔵岩倉具定広橋賢光西園寺公望伊東巳代治ら随員を伴いヨーロッパに向けて出発した。はじめベルリン大学公法学者、ルドルフ・フォン・グナイストに教示を乞い、アルバート・モッセからプロイセン憲法の逐条的講義を受けた。のちにウィーン大学の国家学教授・憲法学者であるローレンツ・フォン・シュタインに師事し、歴史法学行政について学ぶ。これが帰国後、近代的な内閣制度を創設し、大日本帝国憲法の起草・制定に中心的役割を果たすことにつながる。


明治18年(1885年)2月、朝鮮で起きた甲申政変の事後処理のため清に派遣され、4月18日には李鴻章との間に天津条約を調印している[19]

初代内閣総理大臣就任

明治18年(1885年)12月の内閣制度移行に際し、誰が初代内閣総理大臣になるかが注目された。衆目の一致する所は、太政大臣として名目上ながらも政府のトップに立っていた三条実美と、大久保の死後事実上の宰相として明治政府を切り回し内閣制度を作り上げた伊藤だった。しかし三条は、藤原北家閑院流の嫡流で清華家の一つ三条家の生まれという高貴な身分、公爵である。一方伊藤といえば、貧農の出で武士になったのも維新の直前という低い身分の出身、お手盛りで伯爵になってはいるものの、その差は歴然としていた。


太政大臣に代わる初代内閣総理大臣を決める宮中での会議では、誰もが口をつぐんでいるなか、伊藤の盟友であった井上馨は「これからの総理は赤電報(外国電報)が読めなくてはだめだ」と口火を切り、これに山縣有朋が「そうすると伊藤君より他にはいないではないか」と賛成、これには三条を支持する保守派の参議も返す言葉がなくなった。つまり英語力が決め手となって伊藤は初代内閣総理大臣となったのである。以後、伊藤は4度にわたって内閣総理大臣を務めることになる。


なお、44歳2か月での総理大臣就任は、2018年現在日本の歴代総理大臣の中でもっとも若い記録である(2番目は近衛文麿の45歳、現行憲法下では安倍晋三の52歳)。維新以来、徐々に政府の実務から外されてきた公卿出身者の退勢はこれで決定的となり、以降、長きにわたって総理大臣はおろか、閣僚すらなかなか出せない状態となった。


第1次伊藤内閣では憲法発布前の下準備の機関創設に奔走、明治19年(1886年)2月には各省官制を制定し、3月には将来の官僚育成のため帝国大学(現・東京大学)を創設し、翌年3月には国家学会が創設、これを支援した。一方、井上馨を外務大臣として条約改正を任せたが、井上馨が提案した改正案に外国人判事の登用などを盛り込んだことが問題になり、閣内分裂の危機を招いたため、明治20年(1887年)7月に外国へ向けた改正会議は中止、9月に井上馨が辞任したため失敗に終わった。同年6月から夏島で伊東巳代治・井上毅・金子堅太郎らとともに憲法草案の検討を開始する。


またイギリス自由党議員で鉄道事業家のジャスパー・ウィルソン・ジョーンズの義理の息子である法曹のフランシス・ピゴットを憲法を含む法制顧問に迎えるなどし、のちに刊行した『秘書類纂』にも数々のピゴットの論文(和訳)を納めた[20]。なおジョーンズの娘マーベルは1896年に植民地看護協会を設立しており、ウィンストン・チャーチルは新人議員のときに同協会を支援した。 明治21年(1888年)4月28日、枢密院開設の際に初代枢密院議長となるために首相を辞任[21]

詳しいことは、「伊藤博文ウィキペディア」をご覧ください。 ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8A%E8%97%A4%E5%8D%9A%E6%96%87
(wikiより)

046 伊藤博文

伊藤博文

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⇧⇩ 伊藤博文墓。

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⇧⇩ 伊藤梅子墓。

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園田 実徳(そのだ さねのり、1849年1月14日嘉永元年12月20日) - 1917年(大正6年)2月18日)は、日本実業家政治家薩摩国出身、明治維新開拓使として北海道函館に渡り、同市をはじめとする道南地方の経済発展に貢献した。函館船渠(現・函館どつく)函館電燈所(現・北海道電力)および北海道銀行[注 1]創業者。

経歴・人物

薩摩国鹿児島郡鹿児島近在荒田村(現・鹿児島県鹿児島市下荒田)にて、薩摩藩士の園田彦右衛門・シン夫妻の長男として生まれる[1]。藩主島津忠義小姓となった彼は1866年(慶応2年)、藩主に従い上洛し鳥羽・伏見の戦い黒田清隆の部下として参加した[1][2]1872年(明治5年)、北海道開拓使に出仕した後、1874年(明治7年)に起こった佐賀の乱では大久保利通の密使となり、1877年(明治10年)の西南戦争に参加した[1]彼は功をあげて勲六等に叙せられた[2]


1882年(明治15年)、北海道運輸会社の創立に関って同社函館支店長となり、函館-根室間の航路を開いた[1]北海道炭礦鉄道の創立発起人となり理事に就任、現函館本線函館駅-小樽駅間の鉄道開発に尽力した[1]。その後も阿部興人らとともに北海道セメント会社(後の太平洋セメント)や函館船渠会社の創設に参加し、1913年(大正2年)には函館水電株式会社運営の東川町湯川間に北海道で初めて路面電車を走らせ(現在の函館市企業局交通部北海道遺産の一つに選ばれている)、翌1914年(大正3年)4月の北海道函館外各支庁選挙区で行われた衆議院補欠選挙に立候補して当選した[1][3]


日本の近代競馬黎明期の有力者でもあり、1900年に発足した北海道共同競馬会社の発起人の一人に名を連ねている[4]。また東京馬匹改良会社にあって目黒競馬場の建設に携わり[5]、同場を使用した公認競馬会のひとつである日本競馬会[注 2]の会長も務めた[6]。馬主としても目黒の大鳥神社近辺に厩舎を構え、菅野小次郎を専属騎手として雇用した[7]。主な所有馬に、1910年の目黒帝室御賞典(秋)に優勝、当時随一の名馬と謳われたシノリがいる。また、菅野の弟子である後の「大尾形」こと尾形藤吉(当時は大河原藤吉)が騎手として初勝利を挙げたホクエンも実徳の所有馬であった[8]1887年(明治20年)には、亀田郡桔梗村(現在の函館市桔梗町)にあった北海道庁桔梗野牧羊場の払い下げを受けて園田牧場を経営[9]、同場で生まれた騎手の武邦彦は実弟・彦七の孫で又甥にあたる[2]


長女のノブは西郷隆盛の息子、西郷寅太郎に嫁いだ[2]

栄典
1917年(大正6年)2月19日 - 旭日小綬章[10]


注釈
1. 戦後地銀北海道銀行とは異なる。1944年に北海道拓殖銀行と合併。
2. 1937年に発足した全国組織日本競馬会とは異なる。

出典
1. a b c d e f はこだて人物誌 園田実徳”. 函館市文化・スポーツ振興財団. 2017年4月18日閲覧。
2. a b c d 武彦七と園田実徳”. 2010年4月19日閲覧。
3. 官報. 1914年5月15日”. 国立国会図書館近代デジタルライブラリー. 2015年1月18日閲覧。
4. 札幌競馬場馬主協会編『北ぐにの競馬』(札幌競馬場馬主協会、1983年)301頁。
5. 日本中央競馬会編『日本競馬史(3) - 各競馬場のあゆみ』(日本中央競馬会、1968年)47頁。
6. 日本中央競馬会編『日本競馬史(2) - 明治・大正の競馬』(日本中央競馬会、1967年)457頁。
7. 尾形藤吉『馬ひとすじ』(徳間書店、1967年)56頁。
8. 尾形藤吉『馬ひとすじ』(徳間書店、1967年)73頁。
9. 『角川日本地名大辞典 1 北海道 上巻』角川書店、2003年、改、436頁。ISBN 4-04-001011-6
10. 『官報』第1365号「叙任及辞令」1917年2月21日。

関連項目
武家 (家族)
(wikiより)

047   園田実徳

園田実徳

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吉田 久(よしだ ひさし、1884年明治17年)8月21日[1] - 1971年昭和46年)9月20日[2])は、日本裁判官貴族院議員、大学教授である。福井県出身。

出生と経歴
1884年8月21日、福井市佐佳枝上町の八百屋の長男として出生する[1]番町高等小学校尋常科中退[3]。福井に戻り裁判所の給仕をして生計を立てていた[4]。のち、弁護士の書生をしながら東京法学院(のちの中央大学)にて学ぶ[5]1905年(明治38年)に東京法学院を卒業し判事検事登用試験に次席合格する[6]。司法官試補、検事を経て判事となる[7]

横濱専門学校(現神奈川大学)創立に協力
神奈川大学創設者米田吉盛が1927年(昭和2年)の神田錦町の錦城中学校の校舎の一部を借りて、巡査及び看守に民事法学及び刑事法学の一般を授けることを目的とする特殊学校を創めたが、当初より、吉田久は林頼三郎からの委嘱で、同僚西川一男と民事法を担当して学生の指導に当たった。翌1928年(昭和3年)には、横浜駅(現在の桜木町駅)側のコンクリート建物桜木会館二階に移転し、横浜学院と称し。1930年(昭和5年)には六角橋に移転、1942年(昭和17年)に母校中央大学の教務が多忙になったので、教授職を退いた。

翼賛選挙無効判決

1942年(昭和17年)に行われた第21回衆議院議員総選挙翼賛選挙)をめぐって提起されていた選挙無効訴訟(鹿児島2区選挙無効事件)において1945年(昭和20年)3月1日、大審院第三民事部の部長判事(裁判長)だった吉田は「鹿児島2区の選挙は無効」とする判決を下した[8]。同事件の審理に際して吉田は4人の陪席裁判官と共に鹿児島へ出張して鹿児島県知事の薄田美朝を含む187人もの証人を尋問しており[9]、この出張尋問は大審院内部でも「壮挙」と評された[10]


なお同判決の判決原本は東京大空襲の際に焼失したとされており、大審院民事判例集にも登載されておらず「幻の判決文」とされていたが2006年平成18年)8月、最高裁判所の倉庫で61年ぶりに発見された[11]

その後の人生

翼賛選挙無効判決宣告の4日後、吉田は司法大臣 松阪広政に辞表を提出し裁判官を辞職した[12]。その後は大審院判事在職中より出講していた(当時は裁判官が大学や専門学校で教鞭をとることが認められていた)中央大学の講師を続けていたが、終戦時まで「危険人物」として特高警察の監視下に置かれていた[13]


戦後は鳩山一郎の推薦により日本自由党政務調査会顧問に就任し、同党の憲法改正要綱中の司法権に関する規定(司法権の独立強化と大審院長の天皇直隷、大審院長の下級裁判所に対する独立監督権、検察庁の裁判所からの分離を規定)を起草した[14]


1946年
(昭和21年)8月21日には貴族院議員に勅選され[15]参議院議員選挙法の立案などに携わる[16]。翌年貴族院の廃止により議員を退任した吉田は中央大学に復帰し、教授として迎えられる[17]


60年安保の当時、吉田は大学院の研究科長をしており安保闘争に学生が参加することについては批判的な意見を持っていたが、指導していた院生の吉田豊(現在 東京学芸大学名誉教授、元中央大学法学部教授)が読んでいた『アサヒグラフ』に座り込みをする学生を殴打する警官隊の写真が掲載されているのを見て、法学部に貸切りバスを呼んで「学生も教員もこれに乗って国会に行け」と言ったという[18]。吉田は思想的には保守派に属していたが、戦時中の体験から権力の横暴やファシズムを嫌っており、いかなる思想も暴力で弾圧されてはならないという信条の持ち主だったと、吉田豊は回顧している[19]


中央大学退職後は千葉商科大学で教鞭をとる[20]

1971年(昭和46年)9月20日に老衰により日本大学附属病院にて逝去[21]。87歳没。墓所は青山霊園に在する[22]

注釈
1. a b 清永『気骨の判決』57頁。
2. 清永『気骨の判決』180頁。
3. 清永『気骨の判決』58頁。
4. 清永『気骨の判決』59頁。
5. 清永『気骨の判決』60頁。
6. 清永『気骨の判決』61頁。
7. 清永『気骨の判決』62-65頁。
8. 清永『気骨の判決』152-153頁。
9. 清永『気骨の判決』80-82、97頁。
10. 清永『気骨の判決』81頁。
11. NHK終戦ドラマ『気骨の判決』(平成21年8月16日放送)エンディング字幕
12. 清永『気骨の判決』161頁。
13. 清永『気骨の判決』165頁。
14. 清永『気骨の判決』166-169頁。
15. 『官報』第5883号、昭和21年8月23日。
16. 清永『気骨の判決』170-171頁。
17. 清永『気骨の判決』173頁。
18. 清永『気骨の判決』174-175頁。
19. 清永『気骨の判決』175-176頁。
20. 清永『気骨の判決』179頁。
21. 清永『気骨の判決』180頁。
22. 清永『気骨の判決』181頁。

参考文献
・清永聡『気骨の判決』新潮社、2008年。ISBN 978-4-10-610275-2

  出版から1年後に2009年に『NHKスペシャル』の終戦企画ドラマ『気骨の判決』として放送された。

清永聡矢澤久純『戦時司法の諸相-翼賛選挙無効判決と司法権の独立』渓水社、2011年。

関連項目
久野修慈(中央大学前理事長、学生時代に吉田のもとで書生を務めていた)


外部リンク
「吉田久先生について知りたい。神奈川大学で教鞭を取っていたころの様子や学生からの評判などを調べている。」 - レファレンス協同データベース
(wikiより)


048   吉田久

吉田 久


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048b



山県 治郎(やまがた じろう、1881年1月6日 - 1936年1月9日)は、日本の内務官僚県知事

経歴

山口県出身。庄屋・山県政吉の長男として生まれる。山口高等学校(旧旧山高)を経て、1907年月、東京帝国大学法科大学を卒業。同年11月、高等文官試験行政科試験に合格。内務省に入り警保局属となる。石川県事務官警察部長、神奈川県事務官・警察部長、福岡県警察部長、兵庫県警察部長などを経て、1915年に内務監察官に就任。内務省参事官大臣官房会計課長地理課長を経て、1922年都市計画局長となる。


1922年10月、石川県知事に就任。広島県知事兵庫県知事を歴任し休職。1929年7月、神奈川県知事として復帰。1930年11月の北伊豆地震の被災地の復興に尽力。神奈川県道片瀬大磯線の建設、県営水道事業などを推進した。1931年12月18日、犬養内閣の成立により知事を休職[1]1932年1月29日、依願免本官となり退官した[2]


1936年1月9日死去。享年55。

栄典
1930年(昭和5年)12月5日 - 帝都復興記念章[3]

伝記
山根真住編『山県治郎伝』山県治郎氏伝記編纂所、1940年。

脚注
1. 『官報』第1493号、昭和6年12月19日。
2. 『官報』第1523号、昭和7年1月30日。
3. 『官報』第1499号・付録「辞令二」1931年12月28日。

関連項目
山口県出身の人物一覧

参考文献
上田正昭他『日本人名大辞典』講談社、2001年。

・『日本の歴代知事 第1巻』歴代知事編纂会、1980年。

・神奈川県県民部県史編集室編『神奈川県史 別編1』人物 : 神奈川県歴史人名事典、神奈川県、1983年。

秦郁彦編『日本官僚制総合事典:1868 - 2000』東京大学出版会、2001年。
(wikiより)

049   山縣治郎

山縣治郎

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乃木 希次(のぎ まれつぐ )は、幕末武士長府藩定府藩士乃木希典の父。


石高は初め80石、後に150石。一時期50石に減俸。小笠原流松岡辰方(清助)門人。のちの長州藩毛利定広の正室・銀姫の守役や、藩の諸礼法師範、藩校敬業館の講師を勤める。

経歴

文化2年(1805年)、乃木宗家の分家である長州藩士・乃木希建の4男として誕生。母は小田原藩士野村利久(才右衛門)の娘[1]。なお、分家の乃木家も侍医の家であった。


文化6年(1809年)、本家である乃木周久(隆玄)の養子になっていた兄希幸(惣吉)の死去に伴い、その養子となって乃木本家を相続する。文化13年2月28日(1816年)、深川三十三間堂通し矢を射、これを賞した藩主毛利元義の命により藩医を解かれ、禄高80石の御馬廻に編入される。


後に毛利元運の娘、銀姫の守役となり、安政5年(1858年)1月の銀姫と長州藩養嗣子定広との婚礼一切を取り仕切る。同年2月、政務に関する建白書を提出したことで藩主の忌諱に触れ、帰藩を命じられる。同年12月、長府外浦に到着し、閉門100日と50石への減禄を命じられる。


閉門が解かれて後、100石を給されて再仕し、長府藩藩校敬業館で藩主毛利元周の養子毛利元敏とその実弟毛利元功に礼法及び武芸を授ける。元敏、元功兄弟が長州藩藩校の明倫館に移った際に同行している。慶応元年(1865年)、藩首脳部と対立して切腹した泉十郎の処置に立腹した長府藩報国隊の桂弥一が脱藩して吉田駐屯の奇兵隊に投じた際、説得して帰藩させている。


明治7年(1874年)に家族とともに東京に戻り、東京の乃木家と同居。明治10年(1877年)10月31日、東京で死去。

家族
・実祖父 - 希和(道伯、長州藩士の乃木氏祖)

・養祖父 - 周久(龍玄、長府藩士、文化2年に死去)

・実父 - 希健(次郎左衛門、長州藩士、天保4年に死去)

・養父 - 希幸(惣吉、長府藩士、文化6年に9歳で死去)

・妻 - 秀(先々代乃木本家当主の乃木周久の次女、離婚)

・後妻 - 寿子(常陸国土浦藩士長谷川金大夫の娘、明治29年12月27日に死去)

・子

  1. 乃木信通(秀との子、通称は源太郎、毛利元周の近習役。嘉永2年(1849年)に23歳で死去)

  2. 乃木次郎(寿子との子、早死)   

  3. 乃木希典(寿子との子)    

  4. キネ(寿子との子、幼少期に小笠原家へ養子となる)

  5. 玉木正誼(眞人、寿子との子、乃木家分家の長州藩士玉木文之進《本名は正韞》の養子になる)

  6. イネ(寿子との子、長谷川家の嫁ぐ)

  7. 大館集作(寿子との子、長府藩士大館甚五左衛門の養子になる)

人物 、逸話
・長府藩士の乃木氏は、天和2年(1682年)に先祖の乃木傳庵毛利綱元に侍医として仕えて以来、代々江戸定府の侍医であったが、希次は医学を好まず、幼少より文武の学を修め、弓馬術流鏑馬)に長じていたという。

故実家で小笠原流礼法の大家である久留米藩士松岡辰方の門人となって、その高足となる。辰方死去後、その嗣子の松岡明義を希次が指導したという。

・帰藩を命じられた際に改易を覚悟したが、結局、減禄と閉門で済んだため、平素信仰していた王子稲荷神社の加護であるとして感泣したという。

・閉門の刑期満了後、当時痔疾に苦しんでいた希次は一時菅野清右衛門の家に僑居していたが、希次の回復後に城下の横枕小路にある江木傳右衛門の邸宅を25両で購入して、そこに移る。現在、この邸宅は長府の有志者によって保存されている。

・性格は剛毅厳格で、古武士の風格を備えていたという。また、長州藩士の大組士で、分家筋である玉木家とは代々交流があったが、玉木文之進と希次とは5歳しか歳が離れていない上に、性格も似ていたので平素互いに推服していたという。

脚注
1. 『乃木大将事跡』の系図参照。しかしながら、野村氏は同系図で1794年(寛政6年)6月4日に死去しており、希建の後妻、吉村氏の娘の竹が実母の可能性がある。

参考文献
塚田清市『乃木大将事跡』乃木十三日会

・『三百藩家臣人名事典 6』(新人物往来社
(wikiより)

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⇧ 奥様のお墓。


乃木 勝典(のぎ かつすけ、1879年明治12年)8月28日 - 1904年(明治37年)5月27日))は、明治時代の陸軍軍人で、乃木希典静子夫妻の長男戦死時の階級は陸軍歩兵少尉。戦死による一階級特進により、最終階級は陸軍歩兵中尉

生涯
学才・性格など

1879年(明治12年)8月28日、乃木希典・静子夫妻の長男として出生。


父親と母親の良い面・悪い面をそれぞれ受け継いだ典型的な人物で、元来、父方の乃木家は学問的な分野に乏しく(希典が漢詩で有名であるが)、一方で母方の湯地家は学問的な分野に秀でており、母・静子およびその両親・兄姉らは学問的に優秀であった。病弱であったようだが、母の事を普段より気遣う優しい性格であったと言われる。


勝典は学識面での才能はあまり芳しくなく、陸軍士官学校の採用試験に2度不合格になっており、3度目で辛うじて合格した。当時、陸軍士官学校は一生涯のうち3度しか受験することが出来ず、勝典は最後のチャンスで希望を果たした(弟の保典は1度目で合格している)。陸士13期で建川美次と同期。

日露戦争に出征

日露戦争には陸軍少尉、第二軍歩兵第1連隊第9中隊第1小隊長として出征。出征前に、静子が東京銀座にある高級化粧品店「資生堂」で1つ9円の高級香水を購入し、勝典・保典の二人に渡している。静子が香水を渡したのは、もしも戦死した場合、遺体から異臭が放たれれば大事な愛息子が不憫であるという親心からであった。勝典はそれをお守りとして大切にしていた。


戦場では何日も風呂に入られないという激戦の日々が続いたため、戦死を覚悟した勝典は、戦死の覚悟を悟られないように記した内容の手紙を静子に宛てて送っている。


南山の戦いに参加していた1904年(明治37年)5月27日、ロシア軍が放った銃弾が勝典の腸部に直撃、向こう側が丸見えになるほどの風穴が開き、数時間の間、従軍していた陸軍軍医による手術・治療を野戦病院にて受けたが、出血多量で死亡した。享年26(満24歳没)。

死後

勝典が戦死したことは数日後に静子の耳に届けられた。静子にとって勝典は第一子、それも病弱で常に心配して大事に育ててきた子どもであり、姑・壽子(久子表記の文献有り)との確執に耐え切れず、別居生活をしていた時も気遣い、優しく守ってくれた勝典が戦死したと聞いた時、静子は我を忘れて三日三晩号泣したという。


戦死後、1階級特進で陸軍中尉に昇進。青山霊園納骨された。


勝典の死から6ヶ月後の11月30日に弟・保典も203高地で後備第1旅団の副官任務中、ロシア軍の砲弾を至近に受け、岸壁から滑落し岩場に頭部が激突、頭が砕けて戦死した(即死)。享年24(満22歳没)。


勝典・保典兄弟は未婚で死去したため、子を残すことはなかった。これにより、希典・静子夫妻の子女は全員死去。夫妻はその後、養子を迎えることをしなかったため、乃木伯爵家と夫妻の血筋は断絶した。

逸話
・陸軍士官学校に3度目で漸く合格した時、父希典から合格祝いとして1000円を貰うが、当時の1000円は陸海軍の各大将クラスが給与で貰う数ヶ月分であり、それだけの額を貰ってしまえば生活が傾き、静子に多大な迷惑を掛けると考えた勝典は、500円の雙眼鏡を購入し残りの金は返したと言われる。

・南山の戦いでの勝典の負傷は、父希典の指揮する第三軍に配属されていた弟保典にも伝わり、進軍途中でありながら時間を見つけては兄を見舞いに訪れている。その際、勝典は保典に母・静子のことを頼んだといわれる。しかし、この兄との約束は後に保典が戦死したため、果たされることはなかった。

戦死の場所

乃木勝典は金州城の東北、閻家楼会閻家楼屯七十二番地(現・大連市金州区小閻家楼)にあった「閻家楼第二野戦病院」に収容され、27日午後死亡した。野戦病院があった閻家楼屯の裏山にはその後、慰霊碑が建立され、現在もその台石が残っている。


また一時遺体を葬った馬家屯會八里庄警察官吏派出所の後方一松林中にも、金州軍政署が1905年春に墓標を建立、1909年11月1日、静子が慰霊に訪れた。[1]

閻家楼の慰霊碑跡

慰霊碑跡から閻家楼の集落と大黒山を望む

閻家楼の集落と裏山

家族・親族
・祖父:乃木希次長府藩士

・祖父:湯地定之薩摩藩士)

・父:乃木希典陸軍軍人教育者

・母:乃木静子

・弟:乃木保典(陸軍軍人)

・伯父:湯地定基(薩摩藩士、政治家

・伯父:湯地定監海軍軍人、政治家)

・叔父:玉木正誼長州藩士)

・従弟:湯地孝(日本近代文学研究者)

脚注
1. 亜細亜写真大観社(編)『亜細亜大観. 第11輯の2』亜細亜写真大観社(昭10至17)
(wikiより)

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乃木 保典(のぎ やすすけ、1881年明治14年)12月16日 - 1904年明治37年)11月30日)は、明治期の日本陸軍軍人陸軍大将乃木希典静子夫妻の次男。陸士15期[1]


日露戦争旅順攻囲戦で戦死。最終階級は陸軍歩兵少尉[1]

生涯

1881年(明治14年)12月16日乃木希典静子夫妻の次男として誕生。成城学校(現在の成城中学校・高等学校)から陸軍士官学校へ進む。陸士15期の同期生には、梅津美治郎(陸軍大将)・蓮沼蕃(陸軍大将)・多田駿(陸軍大将)・谷寿夫(陸軍中将)・河本大作(陸軍歩兵大佐)らがいる[2]


日露戦争が開戦されると、歩兵第15連隊小隊長として出征。


出征前に母・静子は、戦死した際に遺体から異臭が放たれぬようにと銀座にある高級化粧品店・資生堂で1つ9円(当時の一般の成人女性の給与の約2か月分)もする香水を買って来て渡し、保典はそれをお守りとして持って行った。


1904年(明治37年)5月27日、兄・勝典南山の戦いに参加し、腹部に重傷を負って野戦病院に運ばれ、手術・治療を受けたが、出血多量で戦死した。

その後、保典も203高地で後備第1旅団の副官任務中、ロシア軍の砲弾を至近距離に受け、岩壁から滑落し岩場に頭部が激突、頭が砕けて即死した。兄・勝典の死から6か月後のことだった。享年24(満22歳没)。

死後

1904年(明治37年)11月30日、特旨を以て位一級進められ正五位に昇叙[3]


勝典と同じく青山霊園に葬られた。


勝典・保典兄弟は未婚で死去したため、子を残すことはなかった。これにより、希典・静子夫妻の子女は全員死去。夫妻はその後、養子を迎えることをしなかったため、乃木伯爵家と夫妻の血筋は断絶した。

人物・逸話
・兄の勝典と違い、両親の良い面を受け継いだ人物といわれる。

・父親に似て前向きで明るく人懐こい性格で学才も母方に似て優秀であり、難関である陸軍士官学校の入学試験にも1発で合格している。兄の勝典は陸軍士官学校の入学試験に2度落ち、「3度目の正直」で漸く合格。それに対して勝典は僻むこともなく、二人の兄弟間の仲は良かったといわれる。

・兄の勝典の負傷の知らせを受けた保典は比較的近い場所(203高地)を攻めていた為、進軍しながら幾度か勝典の様子を見に見舞っており、生きている勝典と最後に会った時、母・静子のことを頼まれた。しかし、この約束は後に保典が戦死したため、果たされることはなかった。

森鷗外は、詩集『うた日記』に収録した「乃木将軍」の中で、希典が保典の死を知らされた際の反応について「将軍は睫毛ひとつさえ動かさなかった」と記している。

家族・親族
・祖父:乃木希次長府藩士

・祖父:湯地定之薩摩藩士)

・父:乃木希典陸軍軍人教育者

・母:乃木静子

・兄:乃木勝典(陸軍軍人)

・伯父:湯地定基(薩摩藩士、政治家

・伯父:湯地定監海軍軍人、政治家)

・叔父:玉木正誼長州藩士)

・従弟:湯地孝(日本近代文学研究者)

演じた人物
高島忠夫 (明治天皇と日露大戦争、1957年、新東宝

橋爪遼:NHKスペシャルドラマ「坂の上の雲」(2010年)

出典
1. a b 秦 2005, p. 121, 第1部 主要陸海軍人の履歴-陸軍-乃木希典
2. 秦 2005, pp. 269-288, 第1部 主要陸海軍人の履歴-期別索引
3. 『官報』第6438号、「叙任及辞令」1904年12月14日。

参考文献
秦郁彦 編著 『日本陸海軍総合事典』(第2版) 東京大学出版会、2005年。
(wikiより)

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平山 増之助(ひらやま ますのすけ、1861年9月5日文久元年8月1日) - 1914年大正3年)6月29日)は、明治期の薬学博士日本陸軍一等薬剤正。下総国出身。族籍は東京府士族[1]

経歴

1861年9月5日((旧暦)文久元年8月1日)、下総多古藩(現千葉県香取郡多古町)藩医平山玄益の次男として生まれ[2]1872年(明治5年)東京横浜に遊学し東京大学予備門を経て1882年(明治15年)東京大学医学部製薬学科を卒業して製薬士称号を得た[3]


直後に日本陸軍剤官副となり熊本鎮台病院に勤務し[2]1888年(明治21年)1月熊本薬学専門学校初代校長となる(ドイツ留学により退任)。1889年(明治22年)7月にドイツに留学した[4]。近代薬学を学んだ陸軍薬剤監として1891年(明治24年)12月帰国後すぐに東京衛戍病院付き陸軍軍医学校教官を命じられ、日清戦争時には大本営付きとして戦地衛生材料補給計画を立案した[2]1897年(明治30年)2月には軍医学校教官兼務のまま薬剤監唯一の陸軍省医務局課員となり[5]、同年5月には薬剤監初の衛生会議議員に命じられ[6]1900年(明治33年)より始まった『第三改正日本薬局方』日本薬局方調査会においては委員となり[2]、終了間際の1906年(明治39年)9月には主査委員となった[7]


1902年(明治35年)7月には陸軍内の衛生材料管理の責任である陸軍衛生材料廠長心得(代理)に起用され[8]日露戦争時において衛生材料廠長として戦線全体に円滑な衛生材料補給を実施し、それらの功績から1906年(明治39年)4月陸軍一等薬剤正(大佐相当)に昇任した[2]1907年(明治40年)11月20日、薬学研究における成果も認められ薬学博士学位を授与された[9]。翌年には薬剤師試験における試験委員に任じられた[10]


1909年(明治42年)11月、病から陸軍を辞した後、1910年(明治43年)9月富山県立薬学専門学校校長に就任し、病の進行から1914年大正3年)に退官し帰京、同年6月29日死去した[2]。陸軍薬局方ばかりでなく日本薬局方の改正に深く関与し、晩年は日本薬学会編纂委員・同会議員、後に会長として日本の薬学発展に寄与した。

人物
住所は東京市赤坂区青山南町[1][11]

栄典
位階
1902年(明治35年)12月24日 - 従五位[12]

1908年(明治41年)1月31日 - 正五位[13]

1910年(明治43年)4月30日 - 従四位[14]

勲章等
1895年(明治28年)11月18日 - 明治二十七八年従軍記章[15]

1906年(明治39年)4月1日 - 功四級金鵄勲章勲三等旭日中綬章明治三十七八年従軍記章[16]

家族・親族

平山家

・父・玄益(千葉県士族)[1]

・妻・きい1868年生、長野県平民、清水信夫の長女)[1]

・男・増雄1890年生)[1]

・長女、二女[1]

・二男(1900年生)[1][11]

著書
・「独墺陸軍薬剤制度一斑」(平山増之助編 平山増之助 1892年)

・「薬物名彙」(相模嘉作・中馬泰造著 平山増之助閲 丸善 1899年)

・「博士の売薬研究」P25「有効売薬意見 薬学博士平山増之助」の項(岩本新吾編 春泥書房 1908年)

・「陸軍薬制沿革」(平山増之助著 陸軍省 1910年)

・「葡萄酒試験法 (附・清酒試験法)」(平山増之助著 半田屋医籍 1910年)

・「藥學雜誌 1892年5月26号」 P405「檢尿ノ要訣 平山増之助」(社団法人日本薬学会)

・「藥學雜誌 1892年10月26号」 P996「有機質中炭素定量ノ一新法 平山増之助」(社団法人日本薬学会

・「藥學雜誌 1896年3月26号」 P288「鯤嶋雜記 平山増之助」(社団法人日本薬学会)

・「藥學雜誌 1898年9月26号」 P925「檢尿要訣 平山増之助」(社団法人日本薬学会)

・「藥學雜誌 1899年8月26号」 P787「贋造藥品ニ就キテ(三十二年七月日本藥學會例會ニ於ケル演舌ノ大意) 平山増之助」(社団法人日本薬学会)

・「藥學雜誌 1901年4月26号」 P363「故マクス、フォン、ペッテンコヲフェル先生 平山増之助」(社団法人日本薬学会)

・「藥學雜誌 1902年1月26号」 P42「獨逸劇毒藥及容器取締規則(千八百九十六年十月一日發布) 平山増之助」(社団法人日本薬学会)

・「藥學雜誌 1902年11月26号」 P1089「二三水族ノ「プトマイネ」ニ就キテ 平山増之助」(社団法人日本薬学会)

・「藥學雜誌 1904年2月26号」 P93「新案消毒車ニ就キテ 平山増之助」(社団法人日本薬学会)

・「藥學雜誌 1905年5月26号」 P401「水中ノ生物 平山増之助」(社団法人日本薬学会)

・「藥學雜誌 1905年6月26号」 表紙裏「編輯委員岸田吟香君逝矣 平山増之助」(社団法人日本薬学会)

・「藥學雜誌 1908年5月26号」 P486「アウタン Autan ニ就テ 平山増之助」(社団法人日本薬学会)

・「藥學雜誌 1909年11月26号」 P1233「ラヂウムノ昨今 平山増之助」(社団法人日本薬学会)

・「藥學雜誌」 P61「「ピロカルピン」ノ製法 平山増之助」(社団法人日本薬学会)

・「藥學雜誌」 P147「牛乳論 平山増之助」(社団法人日本薬学会)

脚注
1. a b c d e f g 『人事興信録 第2版』ひ1369頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2016年11月7日閲覧。
2. a b c d e f 羽田益吉「故藥學博士平山増之助君小傅」『藥學雜誌』第1914巻第389号、日本薬学会、1914年、 i、 doi:10.1248/yakushi1881.1914.389_iISSN 0031-6903NAID 110006665229
3. 「東京帝国大学一覧 従明治20年至明治21年」 P260「製薬士 明治15年卒業 平山増之助(東京帝国大学)
4. 1889年(明治22年)7月13日付け『官報』 7月10日付け独逸国留学を命ずる 平山増之助
5. 1897年(明治30年)2月22日付け『官報』 2月19日付け陸軍予備病院付き兼軍医学校教官を免ず・医務局兼軍医学校教官を命ず 平山増之助
6. 1897年(明治30年)5月19日付け『官報』 5月14日付け陸軍衛生会議議員 平山増之助
7. 1906年(明治39年)9月29日付け『官報』 9月28日付け日本薬局方調査会主査委員を命ず 日本薬局方調査会委員平山増之助
8. 1902年(明治35年)7月14日付け『官報』 7月12日付け陸軍衛生材料廠長心得兼務を命ず 陸軍三等薬剤正平山増之助
9. 1907年(明治40年)11月21日付け『官報』 11月20日付け薬学博士学位授与 平山増之助
10. 1908年(明治41年)2月1日付け『官報』 1月31日付け薬剤師試験委員を仰せ付ける 薬学博士平山増之助
11. a b 『薬業年鑑 昭和14年度』339頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2016年11月6日閲覧。
12. 『官報』第5845号「叙任及辞令」1902年12月25日。
13. 『官報』第7377号「叙任及辞令」1908年2月1日。
14. 『官報』第8055号「叙任及辞令」1910年5月2日。
15. 『官報』第3824号・付録「辞令」1896年4月1日。
16. 『官報』号外「叙任及辞令」1906年12月11日。

参考文献
・『東京帝国大学一覧 明治27-28年』東京帝国大学、1886 - 1912年。

・人事興信所編『人事興信録 第2版』人事興信所、1903 - 1911年。

・薬石日報社編『薬業年鑑 昭和14年度』薬石日報社、1938年。
(wikiより)

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前田孝階 ( まえだ - こうかい )

( 1858 - 1910 )

明治時代の司法官。

安政 5年 1月 10日生まれ。

明治 19年ヨーロッパに留学。

東京地方裁判所長、宮城控訴院長をつとめた。

明治 43年 4月 13日死去。53歳。

加賀 ( 石川県 ) 出身。

司法省法学校卒。

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永田 熊吉(ながた くまきち、天保6年(1835年)? - 明治33年(1900年12月25日)は、幕末から明治時代にかけての西郷氏の家人。西郷隆盛に仕えた人物である。

概説
西郷家にて
父親の永田熊次郎が西郷家に仕えていたこともあり、鹿児島市加治屋町に住んでいた。元々は西郷家の下男として働いていたが、西郷が江戸や京都に行ってた時には西郷家全般をとりしきり、食糧が足りない時には家から野菜などを持ってきたり、西郷が沖永良部島に流されていた時には、鹿児島城の御庭方の人足として働き、西郷家の家計を助けていた。

戊辰戦争から西南戦争まで

西郷隆盛に同行し、京都江戸鹿児島を往来した。戊辰戦争では江戸城無血開城に向けての西郷隆盛と勝海舟との会談の際に西郷に同伴して薩摩藩の蔵屋敷に行っている。 長岡山の戦いでは撃たれた仲間を助けようとした際に左大腿部を貫通する銃撃を受けたことが「西郷隆盛一代記」に書かれている。


明治維新
後、西郷が明治政府に呼ばれた時には日本橋の西郷邸(現在の中央区立日本橋小学校付近)に住み、身の回りの世話から金銭管理、下男の雇用までを任されていた。西郷が征韓論で下野し、東京から鹿児島に戻る際には日本橋の土地や家を売るのに尽力した。


西南戦争でも西郷に同行し、延岡和田越えの際には右足に銃弾を受け膝下を切断する負傷をおった西郷菊次郎を背負い、隆盛の弟である西郷従道のもとへ投降したことで知られる。従道は甥の投降を喜び、熊吉に礼を言ったとされる。その時は熊吉も額に軽い怪我を負っていた。

西南戦争後

西郷隆盛が亡くなった後、しばらく鹿児島で西郷家に仕え、川口雪篷とともに西郷家を支えていた。明治19年(1886年)には西郷従道に呼ばれ、再上京し、以後、目黒の西郷従道邸に住み、西郷邸の管理や庭師などをして、現在の西郷山公園菅刈公園の原形を作ったと言われる。また御殿山にあった西郷従道邸でも働いたり、大田原市加治屋の開拓にも参画したことがある。


明治33年(1900年)12月25日、死去。墓は東京青山霊園にある。

子孫
東京歯科大学教授の村松敬玄孫にあたる。

エピソード

馬場祿郎の『南洲手抄言志録解詁』によると西郷隆盛と勝海舟との江戸城無血開城に向けての会談の際に、勝海舟が陣中見舞いとして持ってきた江戸前寿司を皆で一緒に食べたと熊吉が証言している。

河村定靜の『西郷南州翁百話』によると、西郷隆盛とともに太政官から帰宅する途中、西郷の言動に腹を立て3日程、西郷の身の回りの世話をしなかったという。その後、西郷が熊吉に謝罪し、仲が戻ったことが書かれている。

・『西郷隆盛一代記』には明治5年(1872年)の明治天皇西国巡幸で西郷に同伴したことが書かれている。明治天皇が伊勢神宮に参拝される姿を見て、有難さ勿体なさのあまりに涙をこぼしたという。

・鹿児島県教育会の『南洲翁逸話』によると、明治6年(1873年)に鹿児島に戻った西郷隆盛が、川邊郡萬世町小松原(現在の南さつま市加世田小松原)に「雪」という優秀な猟犬がいると聞き、弟の西郷小兵衛と熊吉を遣わせて借り受けたという。

・西郷隆盛が西南戦争で亡くなった翌年の明治11年(1878年)3月、得能良介(従道の妻清子の父、大蔵省印刷局長)が人に託して香典700円(当時)を置いていったが、西郷糸子は受け取ることを拒み、熊吉に東京まで返しに行かせたという。

・勝海舟の日記によると熊吉は明治16年に西郷菊次郎とともに上京し、勝海舟と面会した記録が残っている。

安田直の『西郷従道』によると、従道は熊吉だけではなく、熊吉の家族も鹿児島から呼んで目黒の西郷邸に住まわせ、熊吉の孫には学費を与えて教育を受けさせた。目黒の西郷邸では従道から「熊吉さん、爺様(じっさま)」と呼ばれ、家族同様に扱われていた。熊吉が明治33年に65歳で亡くなった時には従道が葬儀の主宰者となり、手厚く葬ったとされている。後日、従道は西郷邸を訪ねてきた人に「先日は兄を旅立せ残念なことをしました」と語ったそうで、「兄とは誰のことですか?」と聞かれ、涙ながらに「熊吉です」と答えたという。

登場作品
テレビドラマ
・『田原坂』(1987年、年末時代劇スペシャル 演:高品格

・『翔ぶが如く』(1990年、NHK大河ドラマ 演:車だん吉

・『西郷どん』(2018年、NHK大河ドラマ、演:塚地武雅

  ・NHK大河ドラマ「西郷どん」のオリジナルサウンドトラックの中に「熊吉さぁ」という曲がある。
(wikiより)

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嵯峨三郎麿の墓。

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明治 20年 ( 1887 年 ) 9月 16日


井上円了は民衆に教育の機会を開放し


かつ哲学を中心とする教育を行うことを


目的として、 東洋大学の前身である哲学館を


 この地に創立した
   
昭和 62年 9月 16日
       
東洋大学創立 100周年記念建立
(石碑文より)

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大安楽寺(だいあんらくじ)は、東京都中央区日本橋小伝馬町にある高野山真言宗仏教寺院である。山号は新高野山。本尊は十一面観世音菩薩江戸三十三観音札所第五番札所。

歴史
かつては一帯が伝馬町牢屋敷であり、当寺にも「江戸伝馬町処刑場跡」の碑が残っている。牢屋敷は1875年(明治8年)5月に市ヶ谷(市谷監獄)へと移ったものの、跡地は処刑場跡であることが嫌われ、荒れ果てたままであった。遡って1872年(明治5年)、この地に燐火が燃えるのを見た五大山不動院の住職であった大僧正の山科俊海は処刑場で亡くなった者たちを慰霊せんと勧進し、1875年(明治8年)に大倉喜八郎安田善次郎らの寄進を受け創建されたのが大安楽寺である。寺名の大安楽寺の「大」は大倉、「安」は安田の名に由来する。翌1883年(明治16年)には高野山より弘法大師の像を遷座し、新高野山の山号を称した。しかし、1923年(大正12年)の関東大震災による火災で堂宇は焼失。1929年(昭和4年)に現在の規模で再建されたという。1954年(昭和29年)、都の史蹟指定をうける。

境内
・延命地蔵

・江戸八臂辯財天

・宝安稲荷

交通
東京メトロ日比谷線小伝馬町駅より徒歩2分(2番線側エレベーター正面すぐ)

関連項目
江戸三十三箇所

吉田松陰 - 伝馬町牢屋敷にて処刑された。

高島秋帆 - 伝馬町牢屋敷に投獄されていた。

身延別院 - 隣にある寺。

十思公園 - 道を挟んで向かい側

十思スクエア - 道を挟んではす向かい

ウィキメディア・コモンズには、大安楽寺に関するカテゴリがあります。
(wikiより)

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身はたとひ 武蔵の野辺に朽ちぬとも 留め置かまし 大和魂

(吉田松陰辞世の句)


獄中にて遺書として門弟達に向けて『留魂録』を書き残しており、その冒頭に記された辞世は“身はたとひ 武蔵の野辺に朽ちぬとも 留め置かまし 大和魂”。また、家族宛には『永訣書』を残しており、こちらに記された“親思う心にまさる親心けふのおとずれ何ときくらん”も辞世として知られている。


〇 吉田松陰
吉田 松陰(よしだ しょういん)は、日本武士長州藩士)、思想家教育者山鹿流兵学師範。一般的に明治維新の精神的指導者理論者・倒幕論者として知られる。私塾「松下村塾」で、後の明治維新で重要な働きをする多くの若者に思想的影響を与えた。

名前

幼時の名字は杉(本姓不明)。幼名は寅之助。吉田家に養子入り後、大次郎と改める。通称は寅次郎。矩方(のりかた)。は義卿、は松陰の他、二十一回猛士


安政元年11月20日に「二十一回猛子説」(遺書『留魂録』に収録)で、松陰はこう記している。

文に曰く、二十一回猛子と、忽ち覚(さ)む。因て思ふに杉は二十一の象あり。吉田の字も亦二十一回の象あり。我が名は寅、寅は虎に属す。虎の特は猛なり。


二十一回猛子の「二十一」の由来は、杉の木を分解すると「十」と「八」で18、三が3で計21。吉田は士と十で21、ロと口で回という意味である[2]

生涯
文政13年(1830年)8月4日(西曆9月20日)、長州萩城下松本村(現:山口県萩市)で長州藩士・杉百合之助の次男として生まれる。天保5年(1834年)、叔父で山鹿流兵学師範である吉田大助養子となり、兵学も修める。天保6年(1835年)に大助が死亡したため、同じく叔父の玉木文之進が開いた松下村塾で指導を受けた。9歳のときに明倫館の兵学師範に就任。11歳のとき、藩主・毛利慶親への御前講義の出来栄えが見事であったことにより、その才能が認められた。13歳のときに長州軍を率い西洋艦隊撃滅演習を実施。15歳で山田亦介より長沼流兵学の講義を受け、山鹿流、長沼流の江戸時代の兵学の双璧を収めることとなった。松陰は、子ども時代、父や兄の梅太郎とともに畑仕事に出かけ、草取りや耕作をしながら四書五経の素読、「文政十年の詔」[注 1]「神国由来」[注 2]、その他頼山陽の詩などを、父が音読し、後から兄弟が復唱した。夜も仕事しながら兄弟に書を授け本を読ませた[3]


しかしアヘン戦争が西洋列強に大敗したことを知って山鹿流兵学が時代遅れになったことを痛感すると、西洋兵学を学ぶために嘉永3年(1850年)に九州に遊学する。ついで、江戸に出て佐久間象山安積艮斎に師事する。嘉永4年(1851年)には、交流を深めていた肥後藩宮部鼎蔵山鹿素水にも学んでいる[4]


嘉永5年(1852年)、宮部鼎蔵らと東北旅行を計画するが、出発日の約束を守るため、長州藩からの過書手形通行手形)の発行を待たず脱藩。この東北遊学では、水戸会沢正志斎と面会、会津日新館の見学を始め、東北の鉱山の様子等を見学。秋田では相馬大作事件の現場を訪ね、津軽では津軽海峡を通行するという外国船を見学しようとした。江戸に帰着後、罪に問われて士籍剥奪・世禄没収の処分を受けた。


嘉永6年(1853年)、ペリー浦賀に来航すると、師の佐久間象山と黒船を遠望観察し、西洋の先進文明に心を打たれた。この時、同志である宮部鼎蔵に書簡を送っている。そこには、「聞くところによれば、彼らは、来年、国書の回答を受け取りにくるということです。その時にこそ、我が日本刀の切れ味をみせたいものであります」と記されていた[5]。その後、師の薦めもあって外国留学を決意。同郷で足軽の金子重之輔長崎に寄港していたプチャーチンロシア軍艦に乗り込もうとするが、ヨーロッパで勃発したクリミア戦争イギリスが参戦した事から同艦が予定を繰り上げて出航していた為に果たせなかった。


嘉永7年(1854年)にペリーが日米和親条約締結の為に再航した際には、金子重之輔と二人で、海岸につないであった漁民の小舟を盗んで下田港内の小島から旗艦ポーハタン号に漕ぎ寄せ、乗船した。しかし、渡航は拒否されて小船も流されたため、下田奉行所に自首し、伝馬町牢屋敷に投獄された[注 3]。幕府の一部ではこのときに象山、松陰両名を死罪にしようという動きもあったが、川路聖謨の働きかけで老中の松平忠固老中首座の阿部正弘が反対したために助命、国許蟄居となった。長州へ檻送された後に野山獄に幽囚された。ここで富永有隣高須久子と知り合う。この獄中で密航の動機とその思想的背景を『幽囚録』に記した。


安政2年(1855年)に出獄を許されたが、杉家に幽閉の処分となる。


安政4年(1857年)に叔父が主宰していた松下村塾の名を引き継ぎ、杉家の敷地に松下村塾を開塾する。この松下村塾において松陰は久坂玄瑞高杉晋作伊藤博文山縣有朋吉田稔麿入江九一前原一誠品川弥二郎山田顕義野村靖渡辺蒿蔵、河北義次郎などの面々を教育していった[注 4]。なお、松陰の松下村塾は一方的に師匠が弟子に教えるものではなく、松陰が弟子と一緒に意見を交わしたり、文学だけでなく登山や水泳なども行なうという「生きた学問」だったといわれる。


安政5年(1858年)、幕府が無勅許で日米修好通商条約を締結したことを知って激怒し、間部要撃策を提言する。間部要撃策とは、老中首座間部詮勝孝明天皇への弁明の為に上洛するのをとらえて条約破棄と攘夷の実行を迫り、それが容れられなければ討ち取るという策である。松陰は計画を実行するため大砲などの武器弾薬の借用を藩に願い出るも拒絶される。次に伏見にて大原重徳と参勤交代で伏見を通る毛利敬親を待ち受け京に入る伏見要駕策への参加を計画。 しかし野村和作らを除く、久坂玄瑞、高杉晋作や桂小五郎ら弟子の多くは伏見要駕策に反対もしくは自重を唱え松陰を失望させた。松陰は、間部要撃策や伏見要駕策における藩政府の対応に不信を抱くようになり草莽崛起論を唱えるようになる[6]。さらに、松陰は幕府が日本最大の障害になっていると批判し、倒幕をも持ちかけている。結果、長州藩に危険視され、再度、野山獄に幽囚される。


安政6年(1859年)、梅田雲浜が幕府に捕縛されると、雲浜が萩に滞在した際に面会していることと、伏見要駕策を立案した大高又次郎平島武次郎が雲浜の門下生であった関係で、安政の大獄に連座し、江戸に檻送されて伝馬町牢屋敷に投獄された。評定所で幕府が松陰に問いただしたのは、雲浜が萩に滞在した際の会話内容などの確認であったが、松陰は老中暗殺計画である間部要撃策を自ら進んで告白してしまう[7]。この結果、松陰に死刑斬首刑)が宣告され、安政6年10月27日(グレゴリオ暦1859年11月21日)、伝馬町牢屋敷にて死刑が執行された。享年30(満29歳没)。

ゆかりの地
・故郷である山口県萩市には、誕生地、投獄された野山獄、教鞭をとった松下村塾があり、死後100日目に遺髪を埋めた遺髪塚である松陰墓地(市指定史跡)、明治23年(1890年)に建てられた松陰神社(県社)がある。ほかにも、山口県下関市桜山神社には、高杉晋作発案で招魂墓がある。

・静岡県下田市には、ペリー艦隊へ乗艦し密航を試みた場所であり、数多くの吉田松陰に関する史跡が点在している。

・処刑直後に葬られた豊国山(ほうこくさん)回向院。小塚原回向院とも(東京都荒川区)の墓地に現在も墓石が残る。

・文久3年(1863年)に改葬された東京都世田谷区若林の現在の墓所には、明治15年(1882年)に松陰神社が創建された。

・松陰が収容されていた伝馬町牢屋敷跡の「十思公園(東京都中央区日本橋小伝馬町)」には「吉田松陰終焉乃地碑」と「留魂碑」がある。

・松陰が弟子の金子重之輔を従えてペリー艦隊を見つめている姿を彫刻したという銅像が、山口県萩市椿東の吉田松陰誕生地にある。題字は、佐藤栄作が書いた。

・松陰は嘉永4年(1851年)12月19日から翌年1月20日にかけて水戸の永井政介宅に約1カ月余り滞在している。その際、会沢正志斎、豊田天功等に師事、また、水戸の青年有志と交わり水戸の学問の真髄を学んだといわれる。松陰が滞在した永井政介宅跡に石碑は建てられている。

思想

一君万民論

「天下は万民の天下にあらず、天下は一人の天下なり」と主張して、藩校明倫館の元学頭・山県太華と論争を行っている。「一人の天下」ということは、国家は天皇が支配するものという意味であり、天皇の下に万民は平等になる。


一種の擬似平等主義であり、幕府(ひいては藩)の権威を否定する過激な思想であった。ただし、天下は万民の天下なり、という国家は国民の共有であり、君主はその国民に支えられて存在するという点からすれば、吉田松陰には天皇があっても国民がないのではという批判もある。ちなみに「一君万民」の語を松陰が用いたことはない
[要出典]

飛耳長目
塾生には、常に情報を収集し将来の判断材料にせよと説いた。これが松陰の「飛耳長目(ひじちょうもく)」である。自身東北から九州まで脚を伸ばし各地の動静を探った。萩の野山獄に監禁後は、弟子たちに触覚の役割をさせていた。長州藩に対しても主要藩へ情報探索者を送り込むことを進言し、また江戸や長崎に遊学中の者に「報知賞」を特別に支給せよと主張した。松陰の時代に対する優れた予見は、「飛耳長目」に負うところが大きい。

草莽崛起
詳細は「草莽」を参照


「草莽(そうもう)」は『孟子』においては草木の間に潜む隠者を指し、転じて一般大衆を指す。「崛起(くっき)」は一斉に立ち上がることを指し、「在野の人よ、立ち上がれ」の意。


安政の大獄で収監される直前(安政6年(1859年)4月7日)、友人の北山安世に宛てて書いた書状の中で「今の幕府も諸侯も最早酔人なれば扶持の術なし。草莽崛起の人を望む外頼なし。されど本藩の恩と天朝の徳とは如何にして忘るゝに方なし。草莽崛起の力を以て、近くは本藩を維持し、遠くは天朝の中興を補佐し奉れば、匹夫の諒に負くが如くなれど、神州の大功ある人と云ふべし」と記して、初めて用いた。

対外思想
『幽囚録』で「今急武備を修め、艦略具はり礟略足らば、則ち宜しく蝦夷を開拓して諸侯を封建し、間に乗じて加摸察加(カムチャッカ)・隩都加(オホーツク)を奪ひ、琉球に諭し、朝覲会同すること内諸侯と比しからめ朝鮮を責めて質を納れ貢を奉じ、古の盛時の如くにし、北は満州の地を割き、南は台湾、呂宋(ルソン)諸島を収め、進取の勢を漸示すべし」と記し、北海道(当時の蝦夷地)の開拓、琉球王国(現在の沖縄県。当時は半独立国であった)の日本領化、李氏朝鮮の日本への属国化、そして当時は領だった満洲台湾・「スペイン領東インド」と呼ばれていたフィリピンロシア帝国領のカムチャツカ半島オホーツク海沿岸という太平洋北東部沿岸からユーラシア大陸内陸部にかけての領有を主張した。その実現に向けた具体的な外交・軍事策を松陰は記さなかったものの、松下村塾出身者の何人かが明治維新後に政府の中心で活躍したため[注 5]、松陰の思想は日本のアジア進出の対外政策に大きな影響を与えることとなった。

吉田松陰に影響を与えた中国の思想家
魏源

清代の思想家。アヘン戦争でイギリスと対峙した清の政治家林則徐の側近。則徐が戦時下で収集した情報をもとに東アジアにおける当時の世界情勢を著した『海国図志』の中で、魏は「夷の長技を師とし以て夷を制す」と述べ、外国の先進技術を学ぶことでその侵略から防御するという思想を明らかにしており、松陰の思想に影響を与えたとされる。


王陽明

松陰は王が創始した陽明学に感化され、自ら行動を起こしていく。『伝習録』は陽明学の入門書として幕末日本でも著名であった。


文天祥

南宋末期の軍人。松陰の生き方、死に方もまさしく文天祥そのものであり、松陰は自作の「正気の歌」を作って歌っている。この「正気の歌」の思想が幕末・明治維新の尊王攘夷の思想になり、それが昭和の軍人たちにまでつながった[10]

発言

・立志尚特異 (志を立てるためには人と異なることを恐れてはならない)

・俗流與議難 (世俗の意見に惑わされてもいけない)

・不思身後業 (死んだ後の業苦を思い煩うな)

・且偸目前安 (目先の安楽は一時しのぎと知れ)

・百年一瞬耳 (百年の時は一瞬に過ぎない)

・君子勿素餐 (君たちはどうかいたずらに時を過ごすことなかれ)

・至誠にして動かざる者は未だこれ有らざるなり(本当の誠実さを持ちながら行動を伴わない人はいない、本物の誠実さがあるというのであれば、行動しなさい)

志を立てて以って万事の源となす

志士は溝壑に在るを忘れず

万巻の書を読むに非(あら)ざるよりは、寧(いずく)んぞ
   一己(いっこ)の労を軽んずるに
非ざるよりは、寧んぞ兆民の安きを致すを得ん。

仁とは人なり。人に非ざれば仁なし、禽獣これなり。
仁なければ人に非ず。禽獣に近き是なり。
必ずや仁と人と相合するを待ちて道と云うべし。

仮令獄中にありとも敵愾(てきがい)の心一日として忘るべからず。
苟(いやしく)も敵愾の心忘れざれば、一日も学問の切磋怠るべきに非ず。

己に真の志あれば、無志はおのずから引き去る
恐るるにたらず

凡そ生まれて人たらば宜しく人の禽獣に異なる所以を知るべし

体は私なり、心は公なり
公を役にして私に殉う者を小人と為す

人賢愚ありと雖も各々一二の才能なきはなし
湊合して大成する時は必ず全備する所あらん

死して不朽の見込みあらばいつでも死ぬべし
生きて大業の見込みあらばいつでも生くべし

先生から何のために学問するかと問われた事を記憶す。先生曰く、学者になるのはつまらない。
学者になるには本を読みさえすれば出来る。学問するには立志という事が大切である。[11]

肖像
松陰の「写真」なるものが存在するが[12]、松下村塾生のなかでも昭和時代まで生きた渡辺蒿蔵が、松陰のものではないと否定している[注 6]。ただし、この「写真」は「絵画を撮影したもの」[14] の一つである。

容姿
品川弥二郎 「温順にして怒るといふことのなき体格の小兵の人であった」


世古格太郎 「その人短小にして背かがみ、容貌醜く色黒く、鼻高にして痘痕あり。言語甚だ爽かにして、形状温柔に見えたり」[15]


渡辺蒿蔵 「丈高からず、瘦形であり、顔色は白っぽい。天然痘の痕があった」[16]


正木退蔵 「吉田は醜く、おかしな程痘瘡の痕が残っていた。自然は初めから彼に物惜しみした」


野村靖 「小男の痩せた赤あばたのある余り風采の掲った人とは思われなかった。併し其炯々たる眼光は直に人の肺腑を貫くといふ概があった」

詳しいことは、「吉田松蔭ウィキペディア」をご覧ください ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%89%E7%94%B0%E6%9D%BE%E9%99%B0
(wikiより)

119   吉田松蔭の陰墓

吉田松蔭

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忠魂碑の書は乃木希典の文字を刻してあります。


写真右後ろに隠れている表忠碑は元の陸軍大将で帝国在郷軍人会会長も務めた鈴木荘六の書です。

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山口 二矢(やまぐち おとや、1943年(昭和18年)2月22日 - 1960年(昭和35年)11月2日)は、日本右翼活動家民族主義者および反共主義者で、1960年(昭和35年)10月12日に発生した浅沼稲次郎暗殺事件の実行犯である。


1960年(昭和35年)10月政党代表放送で演説中の日本社会党の党首浅沼稲次郎脇差様の刃物で殺害した。逮捕後、「後悔はしていないが償いはする」と口にして裁判を待たず、東京少年鑑別所内で「天皇陛下万才、七生報国」との遺書を残して首吊り自殺した。

略歴
生涯前半

1943年(昭和18年)、後の陸上自衛隊員山口晋平と大衆作家村上浪六の三女の次男として東京都台東区谷中で生まれた。次男として生まれたことから、晋平が姓名判断をした上で、「二の字に縁が多い」ことによって名前を二矢と名付けた。晋平は東北帝国大学出身の厳格な人物で、兄も学業に秀でていた。文化史家の村上信彦は伯父にあたる。


幼年時代から新聞ニュースを読み、国体護持の闘争に身を投じて政治家たちを激烈に批判し、早くから右翼思想を持った兄の影響を受けて右翼活動に参加することになった。中学から高校の初めまでは晋平の勤務地の関係で、札幌で生活した。1958年(昭和33年)玉川学園高等部に進んだが、晋平の転勤が発令されたため、札幌の光星学園へ転校。しかし、再び東京へ戻って玉川学園に転入した。

民族主義運動

1959年(昭和34年)5月10日、16歳で愛国党総裁赤尾敏の演説を聞いて感銘を受け、赤尾敏率いる大日本愛国党に入党し、愛国党の青年本部員となった。赤尾の「日本は革命前夜にある。青年は今すぐ左翼と対決しなければならない!」という言葉に感動し、赤尾が次の場所に移動しようとした時、トラックに飛び乗り、「私も連れて行って欲しい」と頼み込んだ。しかし、この時には赤尾に静かに拒絶された。その後、玉川学園高等部を中退。山梨県北巨摩郡小淵沢町(現・北杜市)で嶽南義塾をしていた杉本広義のもとでしばらく厄介になり、杉本の紹介で大東文化大学聴講生となった。


赤尾の演説に対して野次を飛ばす者がいると、野次の者に殴りかかっていくこと等を継続した。左派の集会解散と右派人士保護を率先して行った。ビラ貼りをしているときに、警察官と取っ組み合いの乱闘をしたこともあった。愛国党の入党後半年で、10回も検挙された。1959年(昭和34年)12月保護観察4年の処分を受けた。


1960年(昭和35年)5月29日、同志党員2人らとともに愛国党を脱党した。

左翼指導者を倒せば左翼勢力をすぐ阻止できるとは考えないが、彼らが現在までやってきた罪悪は許すことはできないし、1人を倒すことで、今後左翼指導者の行動が制限され、扇動者の甘言に付和雷同している一般の国民が、1人でも多く覚醒してくれればよいと思った。できれば信頼できる同志と決行したいと考えたが、自分の決意を打ち明けられる人はいず、赤尾先生に言えば阻止されるのは明らかであり、私がやれば党に迷惑がかかる。私は脱党して武器を手に入れ決行しようと思いました。

                                                         — 山口の供述


1960年(昭和35年)6月17日右翼青年たちが社会党顧問である河上丈太郎を襲撃する事件が起こった時、「自分を犠牲にして売国奴河上を刺したことは、本当に国を思っての純粋な気持ちでやったのだと思い、敬服した。私がやる時には殺害するという徹底した方法でやらなくてはならぬ」と評価した。


7月1日、同志たちと一緒に全アジア反共連盟東京都支会の結成に参加した。


10月4日、自宅でアコーディオンを探していたところ、偶然脇差を見つけた。鍔はなく、白木の鞘に収められているもので、「この脇差で殺そうと決心した」という。明治神宮を参拝し、すぐに小林武日教組委員長、野坂参三日本共産党議長宅にそれぞれ電話。「大学の学生委員だが教えてもらいたいことがある」と面会を申し込む計画だったが、小林委員長は転居、野坂議長は旅行中だったので、共にすぐに実行できず、失敗した。


10月12日、自民・社会(現在の社会民主党)・民社の三党の党首立会演説会において、当時、日本社会党の委員長だった浅沼稲次郎を殺害する計画を立て、刀袋などを準備し、東京都千代田区日比谷公会堂に向かって歩いていった。

浅沼稲次郎の暗殺事件
詳細は「浅沼稲次郎暗殺事件」を参照


1960年(昭和35年)10月12日に日比谷公会堂で演説中の浅沼稲次郎を刺殺、現行犯逮捕された。山口は当時17歳で少年法により実名非公開対象[1] であったが、事件の重大さから名前が公表されている。


浅沼殺害時に山口がポケットに入れていたとされる斬奸状の文面は以下の通りである。

汝、浅沼稲次郎は日本赤化をはかっている。自分は、汝個人に恨みはないが、社会党の指導的立場にいる者としての責任と、訪中に際しての暴言と、国会乱入の直接のせん動者としての責任からして、汝を許しておくことはできない。ここに於て我、汝に対し天誅を下す。 皇紀二千六百二十年十月十二日 山口二矢。


山口は自決を試みたが、すぐに飛びついた巡査によって逮捕された。事件直後、警察は「背後関係を徹底的に洗う」としたが、山口はあくまで単独犯行だと供述した。


一方自衛隊は、父親の晋平が自衛官1等陸佐)であることから批判の累が及ぶことを恐れ、晋平の辞職を望んだ。晋平は親と子は別と考え当初は拒んでいたが、結局事件3日後の10月15日依願退職した。

自決

山口は11月2日、東京少年鑑別所の東寮2階2号室で、支給された歯磨き粉で壁に指で「七生報国 天皇陛下万才」(原文ママ)と記し[2]、シーツを裂いて縄状にして天井の裸電球を包む金網にかけ、首吊り自殺した(若松孝二監督の映画、「11・25自決の日 三島由紀夫と若者たち」の冒頭に、このシーンが再現されている)。なお、辞世の句「国のため 神州男児 晴れやかに ほほえみ行かん 死出の旅路に」「大君に 仕えまつれる 若人は 今も昔も 心かわらじ」も残している[3]


右翼団体は盛大な葬儀を行い山口を英雄視した。また沢木耕太郎の『テロルの決算』によれば、山口はテロの標的として浅沼委員長のほか河野一郎野坂参三など政治家もリストに加えていた。

死後
毎年山口が死亡した11月2日右翼団体が追慕祭(山口二矢烈士墓前祭)を開催している。党総本部の祭壇には、山口のデスマスクが祀られている[3]

影響
山口二矢が所属していた大東文化大学では、この事件が起きた後、世間の批判を恐れ「《大東文化大学は新聞紙上に社会党委員長浅沼稲次郎氏刺殺の山口二矢は本大学、学生委員と自称しておりますが、同人は本大学の学生ではありませんので、ここに通告いたします》と「急告」を出した」り、二矢の在籍を否定したりした(出典文藝春秋第 56 巻、第 3~5号、1978年)。一方、学校法人玉川学園小原國芳は事件後も二矢を自分の大切な生徒とみなし、少しも変わらぬ態度で接した(出典:沢木耕太郎「テロルの決算(P.302)」文春文庫、1978)より)。三島由紀夫は「学生とのティーチ・イン」に収録される一橋大学での学生との対話で、山口二矢について「非常にりっぱだ。あとでちゃんと自決しているからね。あれは日本の伝統にちゃんと従っている。」と評している[4]

家族・親族
・山口晋平(父)

村上浪六(母方の祖父)

村上信彦(母方のおじ)

関連作品
小説
大江健三郎セヴンティーン文學界1961年1月号(新潮文庫『性的人間』所収)
・大江健三郎『政治少年死す―セヴンティーン第二部』文學界1961年2月号(『大江健三郎全小説 3』講談社、2018年7月、所収)[5]

演じた俳優
タモト清嵐 11・25自決の日 三島由紀夫と若者たち若松孝二監督、2012年)

脚注
1. 少年法では家庭裁判所の審判に付された少年又は少年のとき犯した罪により公訴を提起された者の実名報道を禁止しているだけで逮捕者や指名手配者の実名報道を禁止していない。山口は逮捕はされたが家裁審判に付されたり公訴提起されたりしていないため、厳密に言えば少年法の実名報道禁止規定には抵触していない。
2. 一部で「血書」とされているが誤りである。
3. a b 山口二矢烈士墓参 - 大日本愛国党(2015年11月2日付)2017年11月1日 (水) 閲覧。
4. 「学生とのティーチ・イン」、ちくま文庫の「文化防衛論」に収録。p.206 ISBN 4-480-42283-8
5. 発表直後に抗議を受けて『文學界』1961年3月号に謝罪広告が掲載される事態となり、公式には2018年の『大江健三郎全小説 3』まで一度も単行本に再録されたことがなかった。なお、非公式には『スキャンダル大戦争2』(鹿砦社)などに再録されたことがある。

参考文献
赤塚行雄 『戦後欲望史 黄金の六〇年代篇』、(講談社文庫、1984年)

礫川全次 『戦後ニッポン犯罪史』、(批評社、2000年)

田中清松 『戦中生まれの叛乱譜―山口二矢から森恒夫』、(彩流社、1985年)

沢木耕太郎 『テロルの決算』、(文春文庫、1982年、2008年)、ISBN 978-4167209148。(単行本は1979年刊行。大宅壮一ノンフィクション賞

・山口二矢顕彰会『山口二矢供述調書』、(展転社、2010年)

関連項目

赤尾敏

浅沼稲次郎暗殺事件

三島由紀夫

村上浪六

大江健三郎 - 山口をモデルにして小説「セヴンティーン」を執筆。山口の人格を否定するような描写が右翼から抗議を受けた。

沢木耕太郎 - 浅沼事件に関して「テロルの決算」を執筆。

学生運動

外部リンク
“火車頭人”——浅沼稻次郎 日本新華僑報 2009/06/19

Tokyo rewind: Right-wing groups commemorate assassination of politician Inejiro Asanuma 50 years later The Tokyo Reporter 2011/11/21 (英語)

浅沼稲次郎社会党委員長刺殺事件 - 1960
(wikiより)

012  山口二矢

山口二矢

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佐倉藩堀田家


堀田正俊の正室 ( 稲葉正則の娘 ) の墓。


戒名 : 栄昌院華隂宗融尼大姉

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加藤 大治郎(かとう だいじろう、1976年7月4日 - 2003年4月20日)は、埼玉県浦和市(現さいたま市)出身のオートバイロードレースレーサー。血液型A型。


愛称は「加藤くん」「大ちゃん」「大治郎くん」「大治郎」。以下、「大治郎」と表記する。

来歴

ポケバイ・ミニバイクレース時代

3歳の誕生日に両親からポケットバイクをプレゼントされたことをきっかけに[1]、5歳の時にポケバイでレースに初出場[1]。自宅近くのサーキット秋ヶ瀬に通うことになる[1]武田雄一亀谷長純(大治郎の従兄弟)、阿部典史といった後のロードレースライダーが秋ヶ瀬に集っており、大治郎は彼らと競うことで腕を磨いていった。秋ヶ瀬のオーナーの息子であり、後のフォーミュラ・ニッポンチャンピオンとなる本山哲を兄のように慕っていた。


11歳のときにミニバイクレースにステップアップ、連戦連勝を誇った。

ノービス時代

1992年にロードレースにデビューする[1]。16歳になりバイクの免許とロードレースライセンスを取得。1993年に九州・熊本のホンダ系名門チーム「Team高武」に加入。九州選手権の3クラス(GP250、GP125、SP250)で出場した全てのレースで優勝し、3クラス全てでチャンピオンを獲得。関東選手権、鈴鹿選手権でも勝利を重ねた。Team高武には先輩に柳川明宇川徹、同年代に玉田誠、後輩に中冨伸一清成龍一がいる。


当時高校生だった大治郎は、レースの度に住んでいた埼玉と熊本を往復していた。両親の方針もあってレースがあるからといって高校を休むことは無かったという。

全日本選手権時代

1994年、2階級の特別昇格により国際A級ライセンスを取得する[1]。Team高武から全日本ロードレース選手権GP250クラスにフル参戦。マシンはホンダRS250R。転倒の相次ぐシーズンだったが、終盤のTIサーキット英田で初優勝をとげる。鈴鹿8耐にも初参戦。辻本聡とのペアで挑むもリタイアに終わる。


1995年、前年の活躍を受けてHRCからワークスマシン・ホンダNSR250(型落ち)を貸与される。2勝を上げランキング5位。1996年には4勝でランキング2位。ロードレース世界選手権日本GP鈴鹿)にスポット参戦、3位に入る。


1997年、ホンダワークスのカストロール・ホンダに加入、チャンピオン候補の筆頭となる[1]。シーズン開幕前に交通事故に遭った大治郎は全日本開幕戦を欠場、スポット参戦予定の日本GPへの参戦も危ぶまれたが、大治郎は欠場を促す医師を「絶対に勝つから」と説得、骨折を抱えた体で日本GPに臨んだ。予選3位からスタートし、ホンダの先輩でGPレギュラーの宇川徹、1993年GP250クラス世界王者の原田哲也とトップ争いを繰り広げ、最終ラップの最終コーナーでトップに立ち、優勝。全日本でも8勝を上げ、初の全日本チャンピオンに輝く[1]


チャンピオンとして臨んだ1998年、HRCがNSR250をフルモデルチェンジ、熟成が進まず大治郎のみならず世界選手権でもホンダGP250勢は不振に陥った。その中でも日本GPを連覇、改めてその才能を世界にアピールするも、全日本では1勝も上げることなくランキング8位に低迷してしまう。


前年の苦悩を繰り返すまいと、1999年はNSR250の開発に尽力した。ヤマハ松戸直樹とのタイトル争い。後半戦に4連勝と巻き返したが、最終的に松戸とポイント・勝利数・上位順位獲得回数で並び、レギュレーションによって前年のランキングが上位だった松戸にチャンピオンの座を奪われた。

世界GP250ccクラス時代

2000年、イタリアのグレシーニ・レーシングに加入し、GPライダーとしてロードレース世界選手権GP250クラスにフル参戦。第3戦日本GP(鈴鹿)で宇川徹、中野真矢との三つ巴を制してシーズン初勝利[2]、シーズン終盤にも3勝をあげ計4勝、ランキング3位[1]。第15戦パシフィックGP(もてぎ)では、ヤマハの中野真矢ファステストラップの応酬によるハイレベルなトップ争いを展開し優勝。この年の鈴鹿8耐には宇川と組んで出場し、最多周回記録を更新しての初優勝[1]。表彰台で宇川とともにツナギを脱いでファンにプレゼントした。


GP2年目の2001年、前年チャンピオンのオリビエ・ジャックをはじめ中野・宇川らランキング上位のライダーがGP500にステップアップ。GP250は大治郎の独擅場かと思われたが、前年までGP500に参戦していたアプリリアの原田哲也と一騎討ちとなる。開幕4連勝でダッシュをかけた大治郎に対し、原田は2位に入ることが多く、大治郎の落としたレースを拾ってなんとか喰らいついている状態だった。徐々に2人のポイント差は広がり、第15戦マレーシアGPで大治郎は自身初の世界チャンピオンに輝く。最終戦リオGPにも勝利し、GP250クラスの年間最多勝記録に並ぶ11勝を上げ、チャンピオン獲得に花を添えた[3] 。翌年、この功績を称え、文部科学省から「スポーツ功労者顕彰」が贈られた[3]

MotoGPクラス時代
2002年、最高峰クラスにステップアップ。最高峰クラスはこの年から「MotoGPクラス」と名称が変わり、それまでの2st500ccマシンに加え、4st990ccマシンが参戦できるようになった。チャンピオン、バレンティーノ・ロッシの乗るホンダ・RC211Vなど、4stマシンの多くは大治郎の乗るホンダ・NSR500をはじめとする2stマシンの能力を大きく上回り、ほとんどのレースにおいて2st勢は優勝争いに加わることは無かった。スペインGPでは2st勢としてのシーズン最上位タイとなる2位を獲得するなど活躍。第10戦チェコGPからRC211Vを供給されるに至る[1]

チェコGPでいきなり2位に入り、パシフィックGPではポールポジションを獲得。MotoGPクラス初優勝が期待されたがリタイア、それ以降も優勝できないままシーズンを終えた。

前年、体の小さい大治郎は大きくパワーのあるMotoGPマシンを扱いきれなかったことから、2003年初優勝を遂げるべく、オフシーズンに肉体改造に取り組んだ。ウィンターテストにも熱心に取り組み、王者ロッシから最大のライバルとして名前をあげられた。


確たる自信をつかめないままスタートしたシーズン開幕戦、日本GP(鈴鹿)、予選は好調といえない状態で11位。決勝ではまずまずのスタートをきり、4位争い集団につけた。3周目、130Rの立ち上がりでマシンが左右に激しく揺さぶられ、コントロールを失い、立て直そうと試みたもののその先のシケインのスポンジバリアに激突した。発生から激突までわずか2秒ほどであった。ヘリコプターで病院に搬送され意識不明の状態が2週間ほど続いたが、4月20日未明、脳幹梗塞のため夭折する。26歳[4]


2004年5月8日、イタリアミサノ市で、ミサノ・サーキットのメインゲートに通じる新しい道路が完成し、加藤大治郎を称えて「viale daijiro kato」(加藤大治郎通り)と命名された[5][6]

その他
・生前、野球チームを作りたいと話していたことから、彼の仲間が集まり「レーサーズ」という野球チームが結成されている。将来は本山哲の後を追うように四輪レースに転向したいという事もほのめかしていたが、叶わなかった。

・愛車はポルシェ・911ターボ。事故で亡くなった後は、本山が所有している。

・自身が優勝した2000年の第15戦パシフィックGP(もてぎ)のレース後、2位に敗れたヤマハの中野真矢はインタビュー中に涙を浮かべるほど悔しがっていた。後日中野は「レース中、周りの風景がゆっくり流れるように見えた。それくらい集中していた。それでも勝てなかった。」とコメントした。

・2001年のシーズンオフ、欧州から帰国した加藤と、日本での親善試合を終えたサッカーイタリア代表成田空港で鉢合わせた際、加藤のファンだったアレッサンドロ・デル・ピエロがサインを求め、加藤も快く応じた。しかしながら報道陣の多くが加藤のことを認知しておらず、サッカー界の世界的なスタープレイヤーが、日本人の若者にサインを求める様子を見た日本のサッカーの番記者達は、「あの日本人は何者だ?」と騒然となった。このエピソードは、欧州における2輪レースの人気が日本ではほとんど知られていないことや、チャンピオンですら一般的には殆ど知名度が無いという状況を象徴するものとして、しばしば紹介される。ただしこれについては、デル・ピエロが大の親日家であった点には留意する必要がある。

・元チームメイトのセテ・ジベルナウ選手は、加藤選手の死後、優勝した時は天に指を指して加藤大治郎氏に優勝を捧げるポーズを行なっていた。

詳しいことは、「加藤大治郎ウィキペディア」をご覧ください。 ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8A%A0%E8%97%A4%E5%A4%A7%E6%B2%BB%E9%83%8E
(wikiより)

08 加藤大治郎

加藤大治郎

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松代城(まつしろじょう)は、信濃国埴科郡 海津[1](現・長野県長野市松代町松代)にあった日本の城跡である。

元々は海津城(かいづじょう)と呼ばれていたが貝津城とも言われた。また茅津城(かやつじょう)とも言われ茅の生い茂った地であったと伝える説もある。形式は輪郭式平城。国の史跡に指定されている。なお、越後国頚城郡にある松代城の読みは、「まつだい」である。

歴史・沿革
戦国時代・安土桃山時代

正確な築城時期は不明。戦国期には甲斐国の武田晴信(信玄)が信濃侵攻を開始し、北信豪族を庇護した越後国の長尾景虎(上杉謙信)との北信・川中島地域をめぐる川中島の戦いへと発展する。千曲川河畔の海津城は川中島地域の拠点城郭として整備され、『甲陽軍鑑』に拠れば武田氏は北信国衆である清野氏の館を接収し、武田家足軽大将山本勘助に命じて築城され、『軍鑑』に拠れば本城には小山田虎満(備中守)、二曲輪に市川等長・原与惣左衛門が配置されたという。


文書上においては海津城の築城は1559年(永禄2年)から開始され(『信濃史料』12巻 - 250号)、翌年には完成している(『軍鑑』)。築城は屋代氏香坂氏ら川中島四郡(更級郡、埴科郡、高井郡、水内郡)の国衆が担ったという。


海津城は東条城尼飾城とともに上杉氏への最前線に位置する。永禄4年(1561年)9月に上杉氏が川中島へ侵攻すると、海津城の城代である武田家臣・春日虎綱(高坂昌信)は海津城において篭城し信玄本隊の到着を待ち、9月10日には八幡原において両軍の決戦が行われたという(第四次川中島の戦い)。


また海津城は川中島四郡における領国支配・国衆支配の拠点としても機能し、城代である春日虎綱郡代的権限を持っていたと考えられている。


天正10年(1582年)3月の武田氏滅亡後には、武田遺領のうち信濃川中島四郡を支配した織田氏家臣の森長可の居城となる。森長可は武田遺臣の子息や近隣の村から人質を集めたが彼らを住まわせたのがこの海津城、あるいは海津城下であったという。同年6月に本能寺の変が起こると森長可は信濃を放棄して退却する事を決断し、海津城の人質を盾にして美濃へと退却し海津城も無人のまま捨て置かれた。以後は空白地帯となった信濃へと侵入した上杉氏の支配となったが、1598年(慶長3年)に上杉景勝会津に転出の後は豊臣秀吉の蔵入地となり、城主には田丸直昌が任じられた。


甲州流築城術
の特徴を強く持ち、武田氏築城の代表的な城の一つである。千曲川を背後に控え、本曲輪を三方から二の曲輪が囲み、甲州流築城術の特徴である丸馬出及び三日月堀を有す。平城としては駿河江尻城が、平山城としては信濃岡城が海津城(松代城)と構造的に非常に似通っている。

江戸時代

1600年(慶長5年)2月に田丸直昌4万石と領地を交換する形で森忠政が13万7500石で兄の森長可所縁の土地へ入封し、同時に豊臣家の蔵入地9万石は廃止された。この時、海津城から待城(まつしろ)へと改名された[2]1603年(慶長8年) - 森忠政は美作一国(津山藩)18万6500石へと加増転封され、松平忠輝が14万石(12万石?)で入封した。忠輝は加増されて越後高田藩主75万石となるが旧領も引き続き領有したため、家老花井吉成が城代として統治して領内の整備に尽力した。1616年元和2年)松平忠輝改易。代わって松平忠昌が12万石で入り、この忠昌領主時代に待城から松城へと改名された。1619年(元和5年)松平忠昌、越後高田25万9000石へ転封。酒井忠勝10万石が入封。1622年(元和8年)酒井忠勝、出羽国庄内藩13万8千石に転封。真田信之が13万石で入城。以後、松代藩の藩庁として明治維新まで真田氏の居城となった。松代城は松代藩の政治の中心となったが、商人たちは善光寺門前から動こうとしなかったため松代城下は商業の中心地にはならなかった。


1711年
正徳元年)幕命により松代城と名を改められた。


1717年
享保2年)火災により本丸、二の丸、三の丸を焼失したが、幕府より1万両借財し1718年享保3年)に再建した。


1742年寛保2年) - 戌の満水により被害を受け、城主が松代南にある開善寺へ船で避難した。1752年(宝暦3年) - 藩の執政原八郎五郎により城の北側を流れていた千曲川を瀬直しし、旧流路は百間堀となった。


1770年
(明和7年)花の丸に御殿を移した。


1804年(文化元年)御蔵屋敷北側に新堀が造られた。


1828年
(文政11年)城地北側に佐久間一学(象山の父)により土手を築く。幸貫により「不崩(かけ)ずの土手」と名付けられた。


1847年(弘化4年)善光寺地震が発生し、本丸・二の丸・三の丸の囲い塀、櫓、番所などが大破し倒壊した。
詳細は「むしくら日記」を参照


1853年
(嘉永6年)火災により花の丸御殿を焼失するがその後再建された。


1864年(元治元年)城外御殿として新御殿(真田邸)が建てられた。

近世以後

1872年(明治5年)に廃城となり、跡地は藩士に払い下げられ畑に変えられた。1873年(明治6年)火災により再び花の丸御殿を焼失し多くが宅地となった。北西に戌亥隅櫓台(天守台)があるが天守相当の櫓は近世初頭には失われたようで、本丸には幕末まで四隅に二重櫓が上がっていた。


1879年
(明治12年)旧花の丸の一部に「松代城花之丸旧跡」という石碑が建てられた。1904年(明治37年)藩士に分け与えられていた土地を真田幸正が買い取り、本丸跡地を遊園地として開放した。1921年(大正10年) - 松代町長・矢沢頼道により「松代開府300年祭」が行われ、本丸に「海津城址之碑」が建立された。1925年(大正14年)海津城址公園内に4000円の巨費を投じ噴水、番所を建設し、掃除人を常駐させ公園の維持管理に努めた。その後、二の丸に市民プール、グランドが整備された。1951年(昭和26年)真田幸治により本丸が寄付され、公用地となった。1964年(昭和39年)本丸を中心とした城址の一部が県の史跡に指定された。1981年(昭和56年)本丸を中心とした城址の一部と新御殿が国の史跡に指定された。2004年(平成16年)太鼓門、堀、石垣、土塁などが復元された。2006年(平成18年)4月6日日本100名城(26番)に選定された。

城内構造

・本丸  内堀より中は総石垣で囲われ、1770年(明和7年)に花の丸御殿が造られるまで、藩の政庁及び藩主の住宅である本丸御殿が置かれていた。櫓門は3カ所、北不明門、東不明門、太鼓門。櫓はいずれも二重で4カ所にあった。

・二の丸 東側の区域には1759年(宝暦9年)まで二の丸御殿が置かれていて、その後、土蔵が建てられる。
西側の区域には石造りの煙硝蔵が建てられていた模様である。
門は西不明門、石場門、南門があった。

・三の丸 三日月堀の外の曲輪で、材木小屋、屋根師、大工、畳師などの作業所や物置、武具奉行役所が置かれていた。
東側に大御門(大手門)が置かれていた。

・花の丸 三の丸の西側にあり、茶屋、草木が植えられ、藩主の遊園地として機能していたが、1770年(明和7年)に花の丸御殿が建てられ、幕末まで藩の政庁及び藩主の住居が置かれた。

・水の手 本丸の北側一帯。吾妻番所、土蔵が置かれていた。宝暦年間に千曲川の瀬替え工事が行われ、新堀が造られた。1828年(文政11年)佐久間一学が命を受け、花の丸西から水の手まで土手を築き、「不崩の土手」と命名された。

・御蔵屋敷 城の東側一帯、石場門の外(牛堀の東)を御蔵屋敷と呼んでいた。構内には、御蔵奉行役所、郡奉行役所、勘定奉行役所、評定所などが置かれていた。

・馬場 花の丸南側に「桜の馬場」、御蔵屋敷の北側に「紅葉の馬場」があった。

・演武場 文政年間頃、「桜の馬場」より南清須町の間に造られた。

・総構え 城下町(町八町)を取り囲むように江戸の初め頃造られたが、人口の増加とともに崩され、現在では長国寺の裏側(東側)に高い盛り土が残っているのみである。

・内堀 本丸を囲っている堀。

・外堀 二の丸を囲っている堀。

・三日月堀 二の丸南門南側にあった堀。

・三の堀 三の丸と花の丸の一部を囲っていた堀。

・牛堀 外堀の東側の堀をこう呼んでいた。

・百間堀 千曲川瀬直しにより旧流路を利用した堀。

・新堀 曲川瀬直し後、造られた堀

城内茶室
・城内いたる所に茶室が存在した。九扈(きゅうこ)亭、知身貴(ちしんき)亭の額のみ現存する。

  ・九扈亭 初代藩主真田信之によって芝の隠居所(現大鋒寺)に建てられたが、後花の丸西側に移築された。

  ・信玄茶屋 花の丸南西にあり、武田菱がついていたことから命名される。

  ・知身貴亭 文政11年に本丸の北西に建てられた。

  ・一圭(いちけい)楼 文政12年に桜の馬場の脇に建てられた。

遺構
藩校文武学校が現存する。敷地内には往時の建物がほぼ完存しており、極めて稀な例である。

・城外御殿新御殿(真田邸)が現存する。これは、1862年(文久2年)、文久の改革の一環で参勤交代制度の緩和にともなって、妻子の帰国が許されたことから、松代場外に住まいとした屋敷である。明治期以降は真田家の私邸として利用された。又、敷地には、長屋番所庭園などが完存している。

鐘楼が現存する。

稲荷神社が現存する。千曲川の瀬替え前よりあり、御船屋のそばにあったことから御船屋稲荷と呼ばれている。

移築現存建物等
・松代城城門 廃城後に長野市内の民家の表門として移築される。(どこの門か不明)

・秋葉大明神・稲荷大明神(城の鎮守) 三の丸にあったが廃城後、長野市の民家に移される。

・大御門の鯱 廃城後、長国寺の本堂に乗せられる。

・花の丸御殿の一部(淵玄亭) 9代幸教の実母順操院の住居で、近年、松代の民家に移築されていたものが発見される。現在、解体保存される。

・伝花の丸御殿の一部 廃城後、真田勘解由家の表門(薬医門)と母屋(長局と伝わる)が花の丸より移される。

・伝花の丸御殿の一部 廃城後、花丸院(長野市松代)として移築された。

・物見櫓 鐘楼隣に建てられていたが移築現存する。


江戸時代に松代藩の江戸屋敷となっていた建物は、昭和初年に神奈川県藤沢市龍口寺大書院として移築された。また、関東大震災にも無事であった江戸中屋敷が一旦長野県佐久市野沢の中島公園に移築されたが、現在は長野県上田市丸子のホテル天竜閣裏に移築されている(再建中)。

詳しいことは、「松代城ウィキペディア」をご覧ください。 ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E4%BB%A3%E5%9F%8E
(wikiより)

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汽車 汽車 ポッポ ポッポ シュッポ シュッポ シュッポッポ 
 
  僕らをのせって シュッポ シュッポ シュッポッポ   

  スピード スピード 窓の外 畑もとぶとぶ 家もとぶ  

  走れ 走れ 走れ 鉄橋だ 鉄橋だ たのしいな


この歌は最初「兵隊さんの汽車」という題で発表された曲との事で、原詩を探したところ、作詞の富原薫が駅から出征する兵隊を見て書き上げたもので次のような詩であることが判った。

  汽車 汽車 ポッポ ポッポ  シュッポ シュッポ シュッポッポ

  兵隊さんをのせて シュッポ シュッポ シュッポッポ

  僕等も 手に手に 日の丸の 旗をふりふり おくりませう

  万才 万才 万才 兵隊さん 兵隊さん 万々才

この詩が上記の様になったのは、1945年の大晦日に行われた戦後初の紅白歌合戦において、川田正子が歌うにあたって歌詞が時代にそぐわないという事で急據、作詞家の富田薫の許に改作の依頼が有ったためで、その際に題も現在のように改められたものである。

汽車ポッポ
  作詞 富原 薫
  作曲 草川 信

この歌は大正十三年に「兵隊さんの汽車」という題名で発表され戦後「汽車ポッポ」に改名された躍動感がみなぎり明るく戦後の童謡の中でも傑作と言われている
 
作曲の草川 信は長野市の生まれで他にも「夕焼小焼」「どこかで春が」「揺籃の歌」等多くの童謡を作曲している
 
作詞の富原 薫は静岡県御殿場市の生まれで「早起き時計」等の詩を書いている
 
この歌碑は「唱歌と童謡を愛する会」が詩情豊かな街づくりの一環として建立したものである
(石碑文より)

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昭和四十四年NHK大河ドラマ「天と地と」放映の翌年に建立された古戦場の一騎打ちの銅像は、この碑が原画となっています。
(案内板より)

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武田 信繁(たけだ のぶしげ)は、戦国時代武将甲斐武田氏18代・武田信虎の子で、武田信玄の同母弟。


官職である左馬助の唐名から「典厩(てんきゅう)」と呼ばれ、嫡子・武田信豊も典厩を名乗ったため、後世「古典厩」と記される。武田二十四将においては武田家の副将として位置づけられている。

生涯

高白斎記』に拠れば、信繁は大永5年(1525年)、武田信虎の子として生まれる。幼名は次郎。武田氏では天文10年(1541年)に信虎の嫡男晴信が信虎を駿河国の今川氏のもとに追放しているが、『甲陽軍鑑』によれば、信繁は幼少期から信虎に寵愛され、信虎は嫡男である晴信(後の信玄)を廃して信繁に家督を譲ろうとしていたという逸話を記している。


また、文書上では確認されていないが、『高白斎記』に拠れば天文20年(1551年)2月1日に信繁は武田氏庶流の吉田氏を襲名したという[2]


晴信期に武田氏は信濃侵攻を本格化させ、村上義清をはじめとする信濃国衆や越後国上杉謙信との甲越対決が発生するが、晴信の家督相続時には姉婿の穴山信友とともに信繁は唯一御一門衆の中で成人とみなし得る立場にあり、晴信の補佐役として信濃経略に従事している。


『甲陽軍鑑』に拠れば、天文11年の諏訪侵攻において信繁は大将として宿老の板垣信方とともに諏訪出兵を主導し、同年9月の高遠頼継の反乱に際しても鎮圧の大将を務めたとしており、晴信からの勘気を受けた長坂虎房(光堅)は頼継弟の蓮芳斎を討ち取り、信繁が取次となり赦免されたという逸話を記している。諏訪を制圧した武田氏は信方を郡代とし、信繁にも諏訪衆を同心として付属させたという[3]。天文13年には信虎の高野山参詣に際して宿坊となった引導院への礼状を発給しており、対外交渉への携わりも確認される。


天文20年(1551年)7月には村上攻めのため先衆として出陣しており(「恵林寺旧蔵文書」)、天文22年(1553年)4月には甲斐衆今井岩見守に対し落城した信濃国苅屋原城主任命を通達し、同じく4月には攻略した村上方の葛尾城に在城していた秋山虎繁(信友)に対しても上位を通達した他(ともに『高白斎記』)、恩賞の付与などを行っている。武田氏はやがて北信地域を巡り越後国の長尾景虎(上杉謙信)と抗争を繰り広げるが(川中島の戦い)、天文24年には景虎の越後帰陣を報告している。


武田氏は征服した信濃諸族に対し一族を養子にし懐柔させる方策を取っているが、信繁の子も信濃佐久郡望月氏の養子となっている。


永禄4年(1561年)9月10日、第4次川中島の戦いで討死する。享年37[4]


信繁は『武田法性院信玄公御代惣人数之事』『甲陽軍鑑』等における武田家臣団において、同母弟である信廉とともに武田姓の称号を免許される御一門衆に属し、信繁・信豊の武田典厩家は信廉の武田逍遥軒家とともに御一門衆の筆頭に位置する。信繁は武田領国内において城番として領域支配を行っていることが確認されず、基本的には甲府に在住して武田家の外交に参与し、合戦の際には信玄名代として軍事指揮権を発動し、先衆を統制する立場で出陣していたと考えられている[5]

人物
武田氏では晴信をはじめ一族には文人的業績を残している人物がいるが、信繁は天文17年には四辻季遠らが甲斐を訪れた際に和歌を詠んでいる。また、永禄元年(1558年)4月には、99箇条の家訓を作成し、嫡子長老(信豊)に対し与えている。これは序文を長禅寺住職の春国光新が撰文しており、内容も『論語』をはじめ中国古典から引用された箇所があり、信繁の教養を物語るものとして注目されている。


信玄は、戦死した信繁の遺体を抱くと号泣したと伝えられ、敵軍の上杉謙信らからもその死は惜しまれたという。武田家臣団からも「惜しみても尚惜しむべし」と評され、もし信繁が生きていたら、後年の信玄と武田義信の対立はなかったといわれるほどである。山県昌景は「古典厩信繁、内藤昌豊こそは、毎事相整う真の副将なり」と評したという(『甲陽軍鑑』)。真田昌幸は後に生まれた次男に「信繁」と名づけている。


江戸時代においても「まことの武将」との評価があるほど人気があり、嫡子武田信豊に残した99ヶ条にわたる『武田信繁家訓』(甲州法度之次第の原型)は、江戸時代の武士の心得として広く読み継がれており、江戸時代の儒学者である室鳩巣は「天文、永禄の間に至って賢と称すべき人あり。甲州武田信玄公の弟、古典厩信繁公なり」と賞賛している(『駿台雑話』)

関連作品
天と地と(1969年、NHK大河ドラマ、演:浜畑賢吉

武田信玄(1988年、NHK大河ドラマ、演:若松武

天と地と(1990年、映画(旧)角川春樹事務所、演:石田太郎

風林火山(2007年、NHK大河ドラマ、演:嘉島典俊、幼少期:園部豪太

脚注
1. 柴辻俊六「武田信玄とその一族」柴辻編『新編武田信玄のすべて』(2008、新人物往来社)
2. 信玄期には武田一族においても武田姓を免許される家は御一門衆においても限られており、信繁については吉田姓を襲名した記録が見られるものの文書上からは確認されず、信繁は御一門衆筆頭としての特別な立場にあったと考えられている(平山優「武田信玄の家臣団編成」『新編武田信玄のすべて』)。なお、同時期には晴信嫡男の義信が元服しており、信繁の吉田氏継承は武田宗家から外れ庶流家当主となることで義信の武田宗家後継者としての立場を明確にするための政治的配慮であった可能性も考えられている(丸島 2007)。
3. 『甲陽軍鑑』における諏訪侵攻の経緯は年次の誤りを多く含み評価は慎重視されるが、高遠蓮芳斎の討取や虎房の活躍は『高白斎記』においても確認され、丸島和洋は信繁が甲信国境の武川衆を率いていることからも、諏訪侵攻において大将を務めていた可能性には一定の信憑性があると評している(丸島 2007)。
4. 勝山記』に拠る。第四次川中島の戦いについては文書・記録史料ともに少なく合戦の実情が不明であるが、信繁をはじめとする武田重臣の戦死から激戦であったと考えられており、近世に成立した『甲陽軍鑑』をはじめ江戸時代には様々な軍記物において合戦に関する虚実入り交じった逸話が流布するが、信繁の戦死については『上杉謙信申状』、『北越軍談』、『武辺咄聞書』などにおいて、かつての宿敵である村上義清の手によって討ち取られた、あるいは死の直前に討死を覚悟し春日源之丞に形見を託したなどの逸話を記している。
5. 平山(2008)

参考文献
平山優「武田信繁」『新編武田信玄のすべて』新人物往来社、2008年

・平山優「武田信玄の家臣団」『新編武田信玄のすべて』新人物往来社、2008年

丸島和洋「戦国大名武田氏の一門と領域支配」『戦国史研究』第53号、2007年

関連項目
川中島の戦い
(wikiより)

280  武田信繁

武田信繁

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川中島の合戦で亡くなった両軍戦死者慰霊碑、左側に信玄やかたの庭石、右側に謙信の力試しの石、これは、東郷平八郎・伊東・上村の三元帥が、武田信繁の尊霊参拝時に建立。
(説明書より)

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典厩寺(てんきゅうじ)は長野県長野市篠ノ井杵淵にある曹洞宗寺院である。山号松操山(しょうぞうさん)。川中島の戦いで討ち死にした武田信繁の墓がある。

概要

かつては瑠璃光山鶴巣寺と号して薬師如来を本尊としていた。


1561年
(永禄4年)の川中島の戦いで、武田信玄の弟・武田信繁が当地八幡原で討死したことに因み、合戦から60年後、松代藩真田信之が信繁の官職「左馬助(さまのすけ)」の唐名典厩」から寺号を典厩寺と改めて菩提を弔った。本堂の左手には自然石の墓があり、落命した甲越両軍戦死者の弔魂碑もある。信繁は討死して上杉方に首級を取られたものの、信繁の家臣らが追撃して取り返したが、首級は領地であった小諸に持ち帰ったため、当寺の墓は胴体だけと伝えられる。 また墓の脇に佇む小さな供養塔は信之が幕府に遠慮して密かに弔った真田信繁の供養塔であると伝えられてる。


本堂の前には閻魔堂があり、川中島合戦後300年を記念して造られた閻魔大王像は日本一大きいとされる(2丈(約6m)もあり、東洋一大きいと紹介する書籍もある[1])。境内の川中島合戦記念館(1966年(昭和41年)4月完成)では、寺宝60余点を収蔵展示している。

交通アクセス
北陸新幹線長野駅より川中島バスで「水沢典厩寺」下車、徒歩8分。

上信越自動車道長野インターチェンジより車で3分。

脚注
1. 『城下町 松代』 松代文化財ボランティアの会 /著 ISBN 4-434-04454-0

関連項目
松代城

川中島古戦場

武田信繁

外部リンク
典厩寺 /【川中島の戦い】史跡ガイド

八幡原史跡公園(川中島古戦場) /【川中島の戦い】史跡ガイド
(wikiより)

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鈴木 忠重(すずき ただしげ、天正12年(1584年) - 万治元年10月19日1658年11月14日))は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将。松代藩家老真田氏家臣の名胡桃城鈴木重則の子。通称は右近。幼名は小太郎。号は閑斎。


天正17年(1589年)6歳の時、上野名胡桃城が北条家臣で沼田城猪俣邦憲に奪われ、父・重則が自害した名胡桃事件の際には、母とともに北条氏に捕われる。城から解放された後は真田昌幸に引き取られその家臣となった。


19歳の時に出奔、その際に柳生宗章と出会い、弟子となった。また柳生の庄で柳生宗厳にも剣を学んだと言う。7年間漂泊の後に帰参したが、関ヶ原の戦いの前後に再度出奔した。理由はよくわからない。十余年後に真田氏に帰参しの伏見真田屋敷留守居役を務める。昌幸死後は沼田城主・真田信之の家臣として、真田氏の松代転封後は重臣に名を連ねた。主君・信之が参勤交代で江戸に向かった後には藩政を司るため松代城に残っていたとされる。
[要出典]


元和2年(1616年)、信之の長男信吉沼田城主となると、その補佐役となった。しかし、信吉に対して憚らずに諫言したことにより疎まれ、出奔して浪人となった。信吉が死去した後、忠重が江戸で浪人として生活していることを聞いた信之は、家臣に命令して忠重を説得させて呼び返し、忠重は正保3年(1646年)に信之の元に復帰した[1]


明暦
元年(1656年)の信之隠居後、忠重も法泉寺の付近で隠棲し、ここから許可を得て信之の隠居所に伺候した。万治元年(1658年)10月17日に信之が病没した後、10月19日に法泉寺で殉死した。享年75。信之は殉死を禁じていたが、忠重だけには生前に許可を出していた[2]


出奔・帰参の前後に大きな戦い(関ヶ原・大坂の陣)があることから、真田氏の諜報官であったとする説があるが、証拠になるような史料は見当たらない。
[要出典]

脚注
1. 『真田信之 父の知略に勝った決断力』405頁
2. 『真田信之 父の知略に勝った決断力』404・406頁

参考文献
平山優『真田信之 父の知略に勝った決断力』 PHP新書、2016年
(wikiより)

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真田 信之(さなだ のぶゆき)は、戦国時代から江戸時代前期の武将大名信濃上田藩の初代藩主、後に信濃松代藩の初代藩主。信幸と表記される場合もある。

生涯
武田家臣時代

永禄9年(1566年)、武藤喜兵衛(後の真田昌幸)の長男として生まれる[2]。父は三男であったため武田家の親類衆・武藤家を継承していたが、天正3年(1575年)5月21日の長篠の戦いで兄の信綱昌輝がともに戦死したことから真田姓に復姓して家督を継承した。信幸(信之)は信綱の嫡女である清音院殿を妻に迎えているが、この従兄弟同士の婚姻の背景には、昌幸が真田家当主としての正当性を確保する意図があったことが指摘される[3][4]。昌幸は庶流家ということもあり、永禄10年(1567年)3月頃までの真田信綱の家督相続後に幸綱・信綱宛の文書は、福井藩士となった昌輝子孫に「越前真田家文書」として伝来しており、昌幸は「家伝文書」を相続することができない事情があったと考えられている[3]。なお、婚姻時期も速やかに家督継承を行う為、信綱の戦死から間を開けず、比較的早い段階であったと推測される。ただし、天正3年には信幸もまだ幼年(10歳)であったので、婚約という形をとった可能性が高い。


その後、信幸は武田家の人質として過ごした[5]。『加沢記』に拠れば、天正7年(1579年)に武田勝頼の嫡男・信勝元服と同時に元服を許され、信玄の1字を賜って信幸と名乗ったとされるが[5]、「信」の偏諱は勝頼からとする説もある[6]。初見史料は天正6・7年の『真田氏給人知行地検地帳』で、「若殿様」として名が見られる。


天正10年(1582年)3月に武田家が織田信長武田征伐によって滅ぼされると、同じく人質だった母の山手殿と共に上田の父の元へと逃れた[5]

武田滅亡後

信長が本能寺の変(1582年6月)で死去した後に甲斐・信濃の武田遺領を巡る天正壬午の乱が発生した。相模国北条氏直は織田家臣・滝川一益神流川の戦いで破ると、真田家は後北条氏に臣従の構えを見せた(このため北条氏は川中島まで侵出し上杉氏と対峙することになる)。この時、上野を放棄して織田領へ逃走する滝川を支援し、途中まで見送ったという[5]


同じ頃、越後国上杉景勝が信濃へ進出していたが、信幸は川中島へ度々出陣し上杉領の海津城を撹乱した。だが、やがて徳川家康に臣従した武田遺臣・依田信蕃や叔父の真田信尹らの誘いにより、沼田城を北条方から奪還し、真田家は北条氏と敵対する。信幸は手勢800騎を率い、北条方の富永主膳軍5,000が防衛する手子丸城を僅か一日で奪還し、武功を挙げたという(『加沢記』)。依田信蕃らのゲリラ戦も功を奏し、真田家は北条方を沼田から駆逐することに成功する。


天正12年(1584年)、真田家は信濃小県郡の国人室賀氏と争い、小規模戦闘にて勝利を重ね、和睦に持ち込む。直後に信幸は父・昌幸と共謀して当主・室賀正武を暗殺し、小県郡の同族であった根津昌綱を懐柔し真田氏は小県を支配下に治めた。同年、なおも真田領を狙う北条氏の侵攻に対し、北条氏邦の奇襲を察知した信幸は吾妻仙人窟にてこれを撃退している(『松城通記』)。

徳川氏の与力

天正13年(1585年)、徳川・北条同盟による上野沼田領の割譲を巡って真田氏は徳川氏と断交し上杉氏に臣従した。信幸は昌幸に従い、徳川軍と戦った(第一次上田合戦)。信幸は支城の戸石城に兵300余名で着陣した。徳川軍が神川を渡河すると、神川まで出陣して軽く一戦を交えたのち、城に向けて退却し、徳川軍の主力部隊を巧みに奥地に誘き寄せたり、城から撤退してきたところを側面から攻撃するなどして勝利に貢献した。


その後、昌幸は上杉景勝を介して豊臣秀吉に臣従し、天正17年(1589年)には家康とも和睦が成立すると、真田家は徳川氏の与力大名となった。信幸の才能を高く評価した家康は重臣の本多忠勝の娘・小松姫を養女とし、駿府城に信幸を出仕させて娶らせた[5]


天正18年(1590年)、沼田領割譲問題から発生した小田原征伐で信幸は上野松井田城攻めで戦功をあげ、戦後に沼田領が真田家の所領として確定すると沼田城主となる[7]


文禄3年(1594年)11月2日には従五位下伊豆守に叙任される[7](同日、弟・真田信繁は従五位下左衛門佐に叙任)。その後、年月日不詳ながら従四位下に昇叙し、侍従を本官に伊豆守を兼任する。文禄・慶長の役では肥前名護屋まで赴いている。

関ヶ原の戦い

秀吉死後、慶長5年(1600年)に失脚していた五奉行石田三成が挙兵する。父(妻の山手殿は石田三成の妻と姉妹という説があり、この山手殿は信之信繁の兄弟にとって実母でもある)と弟の信繁(妻が西軍幹部の大谷吉継の娘である竹林院)は三成らの西軍に付いたのに対し、家康の養女かつ徳川重臣の本多忠勝の娘の小松姫を妻とする信之は家康らの東軍に参加することを決め、家康の息子で東軍主力隊の徳川秀忠軍に属して上田城攻め(第二次上田合戦)に参加する。戦いの前に本多忠勝の息子で信之の義弟(妻小松姫の弟)である本多忠政と共に父昌幸の説得に赴いたが、結局失敗に終わったとされる。


信幸は信繁が防衛する戸石城の攻略を命じられたが、真田兵同士の消耗を避けるため開城請求の使者を派遣、弟信繁も信之の意を汲み開城に応じた。信之は入城後守備し、信繁は昌幸のいる上田城へ撤退した。なお、秀忠軍本隊は家康の使者の遅れもあって、家康本体との合流に遅れて関ヶ原の戦いには遅参し、本戦には参加できなかった。

幕藩体制下

戦後、昌幸の旧領に加え3万石を加増されて9万5,000石(沼田3万石を含む)となり上田藩主となったが、上田城は破却を命じられた(上田城の再建修築は、後に上田藩主として入った仙石氏が行う)。引き続き沼田城を本拠とした。信幸は昌幸らの助命を嘆願し、西軍に付いた父との決別を表すために、名を信幸から信之に改めている(なお、慶長13年(1608年)から17年(1612年)までは再び「信幸」と文書に署名していることを踏まえて、平山優は単純に家康を憚って父の名に由来する「幸」を捨てたとは言えないとしている[8])。義父・本多忠勝の働きかけもあり、昌幸らは助命され紀伊国九度山へ流罪となる。その後、父が亡くなった折に父の葬儀を執り行えるよう幕府に許可を願い出たが、許されなかった。


信之が上田領を継いだ頃、第二次上田合戦や相次いだ浅間山の噴火で領内は荒廃しており、その後も浅間山の噴火や気候不順など天災が相次いだが、信之は城下町の整備や堰や用水の開削、年貢の減免など様々な政策を行って領内の再建に苦闘する一方、九度山にいる父や弟への援助を続けていた[9]


慶長19年(1614年)からの大坂の陣では病気のために出陣できず、長男の信吉と次男の信政が代理として出陣した。元和8年(1622年)10月、信濃松代に加増移封され[7]、13万石(沼田3万石は継承)の所領を得る。


明暦元年(1656年)、長男の信吉や嫡孫で信吉の長男・熊之助が既に死去していたため、次男の信政に家督を譲って隠居する。しかし万治元年(1658年)2月に信政も死去した。この時、真田家では後継者争いが起こり、長男の血統(信吉の次男)である沼田城主・信利が次男の血統(信政の六男)である幸道の家督相続に異議を唱えて幕府に訴える事態となり、幕府や縁戚の大名を巻き込んだ騒動となる。最終的には幸道が第3代藩主となり、2歳の幼少のために信之が復帰して藩政を執った(この騒動により信利の領地は沼田藩として独立し、松代藩は10万石となる)。


同年10月17日に死去[7]。享年93。辞世は「何事も、移ればかわる世の中を、夢なりけりと、思いざりけり 」。


墓所は長野県長野市の大鋒寺にあり、肖像画も所蔵されている。また、真田家の菩提寺真田山長国寺には、藩祖信之の霊屋など歴代藩主の墓所が設けられている。真田家は江戸時代を通じて存続し、途中で養子が入り信之の系統は断絶したものの、幕末に幸貫老中となっている。明治維新後に子爵(後に伯爵)家となった。

人物・逸話

・93歳と非常に長命であった信之だが、30代の頃から病気がちであり、40代以降は「手の痛み」「疲れ」「腫れ物」などで病に臥せっていることが多かった[10]。元和2年、51歳の時にはマラリアを病み、徳川家康の病気見舞いに行けずに、代わりに長子の信吉を駿河に遣わしている[11]。翌年の5月16日にも江戸への参勤を一日延ばしており、周期的にマラリアの発作を起こしていたとみられる[12]。76歳の寛永18年2月には腫物に苦しめられている[11]

前田利益とは懇意の仲であり、信長の死も利益から聞かされたという。その時、信幸は大将となって佐久・小県をおさえるため軍勢を率いて進んでいたが、敵か味方かも定かではない真田軍を相手に信長の死を明かした利益の態度に感心し、軍勢を引き上げた(『加沢記』『滝川一益事書』)。

・天正10年(1582年)10月、離反した真田氏征伐の為、北条氏は沼田へと軍を向ける。当時17歳の信幸を大将とし真田軍800は手子丸城救援の為に駆けつけるも、時既に遅く城は陥落、城主・大戸真楽斎とその弟(子とも)・但馬守は自害してしまう。信幸は真田氏家臣の唐沢玄蕃に命じて北条軍前衛を挑発、誘導し伏兵によりこれらを掃討する。真田軍の巧妙な戦術に対応しきれないまま、北条軍は兵力の消耗を恐れ篭城を選択した。正面に比べ警戒の薄い北の丸に着目した信幸は工作部隊を派遣。北の丸より侵入した工作部隊は「裏切者が出た」と叫びながら放火し、不意を突かれた北条軍は同士討ちを行う程の混乱に陥った。信幸はこの機を逃すことなく50人の決死隊を率い、自らも槍を取って突入する。前備の鎌原幸重を失うも正面に展開していた兵100名が挟撃し、ついに手子丸城本丸の奪取に成功した。世に平穏が訪れたのち、かつて手子丸城の守将であり、徳川将軍家旗奉行となっていた富永主膳は自身を打ち負かした信之の采配を絶賛し、昔話として幾度も語ったという。

・第一次上田合戦の頃、徳川軍と連携して塩田平の土豪・杉原四郎兵衛が一揆を起こし、冠者ヶ嶽城などを根拠として真田氏に抵抗した際、敵方の城を巡見した信之は、身分の低い水出大蔵という馬丁の意見を容れて城を攻め落とし、水出には褒美を与えた。後年、信之はこの時のことを振り返って「水出は馬丁の立場で出過ぎた行動だったかもしれない。しかし彼は、あの地域のことを良く知っていた者である。戦場ではまず人の区別なく意見を聞き、道理に従い行動すべきである。身分が低いからといって、相手を侮り、水出の献策を用いなければ、あの城は一時で落とすことはできなかったであろう」と述べており、相手の身分に関係なく有用な意見は用いようとしていた[13]

豊臣政権時代、信之が最も親しく交流していた秀吉の家臣は真田氏の取次を担当していた石田三成であり、その交友関係は他の大名にも知られるところであった。「真田家文書」には14通もの三成からの書状が残されている[14]。家康に対して決起した三成は当然信之も味方に付いてくれると予想していたが、結局信之は徳川方に付いている[15]

・いわゆる「真田の赤備え」は弟・信繁が大坂の陣で用いたのが有名だが、文禄2年(1593年)に秀吉から「武者揃」を命じられた信之が「いつものことくあか武者(赤備え)たるへく、指物はあかね」という指示を家臣に出しており、既に文禄年間には真田氏は甲冑と指物には赤を使用していた[16]

・2度の上田合戦大坂の陣において真田家が徳川軍を苦しめたことや、大坂の陣の際には上田藩内から豊臣方に付いた弟・信繫に内通したり、信繫の下に馳せ参じた者がいた(信之はこれらの者を厳しく断罪している[17]。)ことから幕府に睨まれることが多く、そのために献身的に幕府の公役を務めたといわれる。

・松代への転封に不服を持ち[注釈 1]、検地資料などの重要書類を焼き捨てた上で、さらに上田城の植木や燈籠などを全て引き抜き、持ち去ったと言われる。しかし、これらの逸話は出典がはっきりしておらず、実際は後に入った仙石氏には引継書類が引き渡されている。原則として転封の際の引継書類は前の藩主が一度幕府に提出し、検分を受けてから次の藩主に引き渡される(幕府への引き渡しがないと、家の存続にかかわる重大な事態になりかねない)ため、重要書類を破却したのは事実ではない[19]。また松代への移封は加増されているとは言え、徳川秀忠の嫌がらせの1つとされているが、実際は松代城は祖父・幸隆が参戦した川中島ゆかりの城で、信之以前は家康の子・松平忠輝越前松平氏松平忠昌、左衛門尉系酒井氏酒井忠勝といった親藩譜代の名門が配された要衝であることから、むしろ秀忠が信之を要地を任せるに足る人物だと評価していたことを示すものである。信之自身も重臣の出浦昌相に「誠に家の面目であり、何も言うことがないほど光栄なことだ(「誠家之面目外実共残無仕合ニ而」)」と書き送っている[20]。ただ、同時期に小野お通(初代)へ当てた手紙では故郷の地を離れる心細さが吐露されている[21]

・信之は書や詩歌に通じていた京都の才女・小野お通(初代)と親交があった。信之が上田から松代へ転封になった際、お通から見舞状を受け取った信之は、返書に松代藩領の川中島西行が歌に詠んだ地であり、他にも姥捨山や更科の月、善光寺といった名勝が領内にあるので、ぜひとも松代に下って来てほしいと綴っている[22]。信濃の自然や名所旧跡への思い入れが深く、信之にとっての癒しの元といえる[12]

・信之の保養法は、湯治と信濃の自然鑑賞で、療養や江戸詰めの後などにしばしば草津温泉を利用している。効能を熟知していたとみえ、知人らにも勧めて幕臣の島田利正が湯治を計画するや、その面倒をみている[12]

・明治になって真田家伝来の家康拝領の短刀が入っていると思われていた長持に、三成からの書状など真田家にとって不利になる危険な機密書類が納められていた事実が判明した。生前から叔母の夫である三成とは懇意の仲で手紙のやり取りが多かった。これらを寝ずの番を付けてまで保管しており、松代移封を不服に思い藩政の重要書類を焼き捨てた信之が、徳川に対する反骨の意味で隠したものだと言われている[23]。ただし、上述のように松代への移封を信之が不満に思っていたというのは事実ではない。

徳川頼宣[24]は信之の事を尊敬しており、自邸に招いては武辺話を熱心に聞いたという。後に信之は頼宣の子の具足親になったとされる逸話が残っている。

・老境に入った信之はしばしば隠居願を幕府に出していたが、その度に酒井忠世酒井忠勝から将軍・徳川家綱が幼少なので、隠居せずに幕府を支えて欲しいと慰留され、結局91歳になるまで隠居できなかった。隠居を認める際、家綱は信之を「天下の飾り」と表現している[25]。しかし、後継者となった信政はいつまでも家督が譲られないため父に恨みを抱き、家督相続後間もなく死去した際の遺言でも残った老父のことには一切触れなかった。この遺言を読んだ信之は、大いに立腹したと伝えられている[26]

・信之が死去した際は、家臣のみならず百姓までもが大いに嘆き、周囲の制止を振り切って出家する者が続出したという。百姓や町人も思い思いに冥福を祈る仏事を行ったとされ、家臣や領民にも慕われる名君であったと伝えられている[27]

詳しいことは、「真田信之ウィキペディア」をご覧ください。 ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9C%9F%E7%94%B0%E4%BF%A1%E4%B9%8B
(wikiより)

276  真田信之

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松代初代藩主・真田信之の隠居所書院跡に建てられた霊屋。


信之は明暦二年 ( 一六五六 ) 隠居し、翌三年七月、新造の隠居所に移った。


同四年 ( 万治元年 ) 九十三歳の天寿を全うして没し、遺命により、隠居所を寺とし、真田林 ( しんでんりん ) 大鋒寺と号した。


大鋒は信之の院号である。


二代・信政は父より先に没したので、三代・幸道の時、伽羅が建てられた。


霊屋は書院の場所に建てられ、信之の信仰していた阿弥陀三尊を本尊とした。


正面三間、奥行五間、奥行きの柱間は狭く、四、五尺である。


宝形造・カヤ葺きである。


外陣の欄間には三十六歌仙画が飾られているが、残っているのは二十四枚である。


内外陣の柱二本が円柱で、その上に木鼻付の出組があり、ここだけが仏寺用の木組になっている。


内陣奥中央に阿弥陀三尊、向って左に信之像 ( 厨子入 ) 、右に二代・信政の画像を安置してあったが、明治四年、松代花の丸御殿にあった八代・幸貫の像を移し、内陣奥に出張りを新造して三尊を安置し、幸貫像を左、信之厨子を中央に、信政画像を右に安置した。


この霊屋は由緒がはっきりしており、近世初期の建築で、文化的価値の高い建築物である。
(案内板より)

276  真田信之

真田信之

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山本 勘助(やまもと かんすけ)は、戦国時代武将

甲陽軍鑑』においては名を勘助晴幸、出家後道鬼を称したという。勘助の諱・出家号については文書上からは確認されていなかったが、近年、沼津山本家文書「御証文之覚」「道鬼ヨリ某迄四代相続仕候覚」により、江戸時代段階で山本菅助[2]子孫が諱を「晴幸」、出家号を「道鬼」と認識していたことは確認された。ただし「晴幸」の諱については、明治25年(1892年)に星野恒が「武田晴信(信玄)が家臣に対し室町将軍足利義晴偏諱である「晴」字を与えることは社会通念上ありえなかった」とも指摘している。


『甲陽軍鑑』巻九では天文16年に武田晴信が『甲州法度之次第』を定めた際に勘助の年齢を55歳としており、これに従うと生年は明応2年(1493年)となる[3]。一方、『甲陽軍鑑』末書下巻下の「山本勘介うハさ。五ヶ条之事」によれば、勘助の生年を明応9年(1500年)としている[3]。「五ヶ条之事」では勘助が本国を出て武者修行を行い、駿河で滞在し今川家に仕官を望み、甲斐へ移り武田家に仕官し、出家し川中島の戦いで戦死する一連の履歴の年齢を記しているが、これには矛盾が存在していることが指摘される[1]。生年には、文亀元年(1501年)説もある。『甲陽軍鑑』によれば、没年は永禄4年(1561年9月10日川中島の戦いで討死したとされる。

近世には武田二十四将に含められ、武田の五名臣の一人にも数えられて、武田信玄の伝説的軍師としての人物像が講談などで一般的となっているが、「山本勘助」という人物は『甲陽軍鑑』やその影響下を受けた近世の編纂物以外の確実性の高い史料では一切存在が確認されていないために、その実在について長年疑問視されていた。しかし近年は「山本勘助」と比定できると指摘される「山本菅助」の存在が複数の史料で確認されている[2]

生涯

以下に記述する勘助の生涯は江戸時代前期成立の『甲陽軍鑑』を元にするが、山本勘助の名は(戦後に発見された市河文書を除き)『甲陽軍鑑』以外の戦国時代から江戸時代前期の史料には見えない。勘助の生涯とされるものは全て『甲陽軍鑑』およびこれに影響を受けた江戸時代の軍談の作者による創作であると考えられている。各地に残る家伝や伝承も江戸時代になって武田信玄の軍師として名高くなった勘助にちなんだ後世の付会である可能性が高く、武蔵坊弁慶の伝承・伝説と同様の英雄物語に類するものとするのが史家のあいだでは通説である(実在を巡る議論参照)。


甲斐国誌の山本勘助の紹介 甲陽軍鑑、北越軍談を引用している。

生誕地

『甲陽軍鑑』などには三河国宝飯郡牛窪愛知県豊川市牛久保町)の出とある。


江戸時代後期成立の『甲斐国志[注釈 1]によれば、勘助は駿河国富士郡山本(静岡県富士宮市山本)の吉野貞幸の三男に生まれ、三河国牛窪城牧野氏の家臣大林勘左衛門の養子に入っている。大河ドラマ風林火山』(NHK)もこの説を採用している。甲斐国志は、甲陽軍鑑、北越軍談の記述を引用している。

北越軍談では愛知県豊田市寺部(本国三州賀茂郡に帰り、という記述)。


日本中世史研究の第一人者で、静岡大学教育学部名誉教授の小和田哲男によると、信憑性が低いとされるが、『牛窪密談記』に初出の[4]愛知県豊橋市賀茂(三河国八名郡加茂村)。

牢人

※「牢人」は「浪人」と同じ意味。江戸時代以前に主に使われていた。山本勘助の原典史料である『甲陽軍鑑』ではこちらが使われており、本項目でもこれを用いる。


勘助は26歳(または20歳)のときに武者修行の旅に出た。『武功雑記』によれば、剣豪上泉秀綱が弟子の虎伯と牛窪の牧野氏を訪ねたときに、若き勘助と虎伯が立会い、まず虎伯が一本取り、続いて勘助が一本を取った。しかし、勘助を妬む者たちが勘助が負けたと誹謗したため、いたたまれず出奔したという。上泉秀綱が武者修行に出たのは勘助の死後の永禄7年(1564年)以後とされており、この話は剣豪伝説にありがちな創作である。


勘助は10年の間、中国四国九州関東の諸国を遍歴して京流(または行流)兵法を会得して、城取り(築城術)や陣取り(戦法)を極めた。後に勘助が武田信玄に仕えたとき、諸国の情勢として毛利元就大内義隆の将才について語っている(萩藩の『萩藩閥閲録遺漏』の中に子孫を称する百姓・山本源兵衛が藩に提出した『山本勝次郎方御判物写(山本家言伝之覚)』がある。それによると勘助は大内氏に仕えていたが天文10年に妻子を残して出奔したとあるが、その後の話に辻褄が合わない部分もあり裏付けに乏しい)。


天文5年(1536年)、37歳になった勘助は駿河国主今川義元に仕官せんと欲して駿河国に入り、牢人家老庵原忠胤の屋敷に寄宿し、重臣朝比奈信置を通して仕官を願った。だが、今川義元は勘助の異形を嫌い召抱えようとはしなかった。勘助は色黒で容貌醜く、隻眼、身に無数の傷があり、足が不自由で、指もそろっていなかった。今川の家中は小者一人も連れぬ貧しい牢人で、城を持ったこともなく、兵を率いたこともない勘助が兵法を極めたなぞ大言壮語の法螺であると謗った。兵法で2、3度手柄を立てたことがあったが、勘助が当時流行の新当流塚原卜伝が創設)ではなく京流であることをもって認めようとはしなかった。勘助は仕官が叶わず牢人の身のまま9年にわたり駿河に留まり鬱々とした日々を過ごした。

武田家足軽大将

勘助の兵法家としての名声は次第に諸国に聞こえ、武田家の重臣板垣信方は駿河国に「城取り(築城術)」に通じた牢人がいると若き甲斐国国主武田晴信(信玄)に勘助を推挙した[注釈 2]。天文12年(1543年)、武田家は知行100貫で勘助を召抱えようと申し入れて来た。牢人者の新規召抱えとしては破格の待遇であった。取り消されることを心配した庵原忠胤はまずは武田家から確約の朱印状をもらってから甲斐へ行ってはどうかと勧めるが、勘助はこれを断りあえて武田家のために朱印状を受けずに甲府へ赴くことにした。晴信は入国にあたって牢人の勘助が侮られぬよう板垣に馬や槍それに小者を用意させた。勘助は躑躅ヶ崎館で晴信と対面する。晴信は勘助の才を見抜き知行200貫とした。なお、『甲陽軍鑑』には駿河滞在は「九年」とあるが、駿河入国(1536年)と武田家仕官(1543年)の年月が7年しかなく、年数が合わない。


晴信は「城取り」や諸国の情勢について勘助と語り、その知識の深さに感心し、深く信頼するようになったが新参者への破格の待遇から妬みを受けて、家中の南部下野守が勘助を誹謗した。晴信はこれを改易して、ますます勘助を信頼した。南部下野守は各地を彷徨い餓死したという。


同年、晴信が信濃国へ侵攻すると勘助は九つの城を落とす大功を立てて、その才を証明した。勘助は100貫を加増され知行300貫となった。


天文13年(1544年)、晴信は信濃国諏訪郡へ侵攻して諏訪頼重を降し、これを殺した。なお、史実では晴信の諏訪侵攻と頼重の自害は天文11年(1542年)である。


頼重には美貌の姫がいた。翌天文14年(1545年)、晴信は姫を側室に迎えることを望むが、重臣たちは姫は武田家に恨みを抱いており危険であるとこぞって反対した。だが、勘助のみは姫を側室に迎えることを強く主張する。結局は諏訪家も後継ぎが欲しいであろうという根拠から、姫が晴信の子を生めば武田家と信濃の名門諏訪家との絆となると考えた。晴信は勘助の言を容れ姫を側室に迎える。姫は諏訪御料人と呼ばれるようになる。翌年、諏訪御料人は男子を生んだ。最後の武田家当主となる四郎勝頼(諏訪勝頼、武田勝頼)である(勝頼が武田家滅亡の際に、子息の信勝に家督を譲る儀式を行った事から、信勝が最後の当主になったという説もある)。

天文15年(1546年)、晴信は信濃国小県郡村上義清戸石城を攻めた。戸石城の守りは固く武田勢は大損害を受けた。そこへ猛将・村上義清が救援に駆けつけて激しく攻め立て、武田勢は総崩れとなり撤退し、その間に追撃を受けて全軍崩壊の危機に陥った。勘助は晴信に献策して50騎を率いて村上勢を陽動。この間に晴信は体勢を立て直し、武田勢は勘助の巧みな采配により反撃に出て、村上勢を打ち破ったという。武田家家中は「破軍建返し」と呼ばれる勘助の縦横無尽の活躍に「摩利支天」のようだと畏怖した。この功により勘助は加増され知行800貫の足軽大将となる[注釈 3]。この功績により、武田家の家臣の誰もが勘助の軍略を認めるようになった。なお、史実では戸石城攻防戦は天文19年(1550年)である。


立身した勘助は暇を受けて駿河の庵原忠胤を訪ね、年来世話になった御礼言上をして、主君晴信を「名大将である」と褒め称えた。


晴信は軍略政略について下問し、勘助はこれに答えて様々な治世の献策をした。優れた「城取り」で高遠城小諸城を築き、勘助の築城術は「山本勘助入道道鬼流兵法」と呼ばれた[6]。また、勘助の献策により有名な分国法甲州法度之次第」が制定された。


晴信と勘助は諸国の武将について語り、毛利元就、大内義隆、今川義元、上杉憲政松平清康について評し、ことに義元に関しては討死を予見した。後年、義元は桶狭間の戦いで敗死している。


天文16年(1547年)、晴信は上田原の戦いで村上義清と決戦。重臣・板垣信方が戦死するなど苦戦するが、勘助の献策により勝利した。村上義清は越後国へ走り、長尾景虎(後の上杉謙信)を頼った。以後、謙信はしばしば北信濃の川中島へ侵攻して晴信と戦火を交えることとなる。なお、史実では上田原の戦いは天文17年(1548年)であり、戸石城攻防戦の前である。また、村上義清は上田原の戦いで勝利して一時反撃に出ており、越後国へ逃れたのは天文22年(1553年)である。


天文20年(1551年)、晴信は出家して信玄を名乗る。勘助もこれにならって出家して法号を道鬼斎と名乗った。史実では晴信の出家は永禄2年(1559年)とされる。


天文22年(1553年)、信玄の命により、謙信に備えるべく勘助は北信濃に海津城を築いた。城主となった春日虎綱(高坂昌信)は、勘助が縄張りしたこの城を「武略の粋が極められている」と語っている。


真田三代記』によると、勘助は真田幸隆と懇意であり、また馬場信春に対して勘助が築城術を伝授している。


これらの『甲陽軍鑑』に書かれた勘助の活躍から、江戸時代には勘助は三国志諸葛孔明のような「軍師」と呼ばれるようになる。なお、『甲陽軍鑑』では勘助を軍師とは表現していない。 「山本勘介由来」、「兵法伝統録」によると勘助の兵法の師は鈴木日向守重辰(家康が初陣で討った人物)と伯父山本成氏、「吉野家系図」では父貞幸が軍略の師範となっている。

川中島の戦い・勘助の死

永禄4年(1561年)、謙信は1万3000の兵を率いて川中島に出陣して妻女山に入り、海津城を脅かした。信玄も2万の兵を率いて甲府を発向し、海津城に入った。両軍は数日に及び対峙する。軍議の席で武田家の重臣たちは決戦を主張するが、信玄は慎重だった。信玄は勘助と馬場信春に謙信を打ち破る作戦を立案するようを命じる。勘助と信春は軍勢を二手に分けて大規模な別働隊を夜陰に乗じて密に妻女山へ接近させ、夜明けと共に一斉に攻めさせ、驚いた上杉勢が妻女山を下りたところを平地に布陣した本隊が挟撃して殲滅する作戦を献策した。啄木鳥が嘴で木を叩き、驚いた虫が飛び出てきたところ喰らうことに似ていることから後に「啄木鳥戦法」と名づけられた。信玄はこの策を容れて、高坂昌信、馬場信春率いる兵1万2000の別働隊を編成して妻女山へ向かわせ、自身は兵8000を率いて八幡原に陣をしき逃げ出してくる上杉勢を待ち受けた。だが、軍略の天才である謙信はこの策を見抜いていた。夜明け、高坂勢は妻女山を攻めるがもぬけの殻であった。


夜明けの濃霧が晴れた八幡原で、信玄と勘助は驚くべき光景を目にした。いるはずのない上杉勢1万3000が彼らの眼前に展開していたのである。謙信は勘助の策を出し抜き、一切の物音を立てることを禁じて深夜に密に妻女山を下って千曲川を渡り八幡原に布陣していた。武田勢は上杉勢の動きに全く気がつかなかった。謙信は信玄を討ち取るべく車懸りの陣で武田勢に猛攻をかける。信玄はこれに抗すべく鶴翼の陣をしくが、武田勢は押しまくられ、武田家の武将が相次いで討ち死にした。その中に勘助がいた。『甲陽軍鑑』は勘助の死について「典厩(武田信繁)殿討ち死に、諸角豊後守討死、旗本足軽大将両人、山本勘助入道道鬼討死初鹿源五郎討死」とのみ信繁(信玄の弟)ら戦死者と列挙して簡単に記している。

江戸時代の軍記物『武田三代軍略』によれば、勘助は己の献策の失敗によって全軍崩壊の危機にある責に死を決意して、敵中に突入。奮戦して13騎を倒すが、遂に討ち取られた。『甲信越戦録』では、死を決意した勘助は僅かな家来と敵中に突入して獅子奮迅の働きをするが、家来たちは次々に討ち死にし、それでも勘助は満身創痍になりながらも大太刀を振るって戦い続けるが、上杉家の猛将柿崎景家の手勢に取り囲まれ、四方八方から槍を撃ち込まれ落馬したところを坂木磯八に首を取られている。享年69。


勘助らの必死の防戦により信玄は謙信の猛攻を持ちこたえた。乱戦の最中に謙信はただ一騎で手薄になった信玄の本陣に斬り込みをかけた。馬上の謙信は床机に座った信玄に三太刀わたり斬りかかったが、信玄は軍配をもって辛うじてこれを凌いだ。ようやく別働隊の高坂勢が駆けつけ上杉勢の側面を衝く。不利を悟った謙信は兵を引き、戦国時代未曾有の激戦である川中島の戦いは終わった。この両雄の決戦を『甲陽軍鑑』は前半は謙信の勝ち、後半は信玄の勝ちとしている。


なお、当て推量なことを「山勘」「ヤマカン」と言うが、一説には助の名前が由来とされている(大言海、辞海)。

その他
詳細は「川中島の戦い」を参照


永禄4年(1561年)4月、武田信玄割ヶ嶽城(長野県上水内郡信濃町)を攻め落とした。その際、武田信玄の信濃侵攻の参謀と言われた原虎胤が負傷した。これに代わって、山本勘助が参謀になる。

詳しいことは、「山本勘助ウィキペディア」をご覧ください。 ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E6%9C%AC%E5%8B%98%E5%8A%A9
(wikiより)

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⇧ 奥の林の向うが千曲川です。



信州柴阿弥陀堂は、親鸞聖人 ( 見真大師 ) 真筆の「十字名号」を本尊として、文明年間 ( 1469年 ~ 1486年 ) に吉池彦四郎重行 ( 法名 行西 ) によってこの地に開基された。


1561年 ( 永禄 4年 ) の第 4次川中島戦没後、武田信玄は武運長久を祈願していた当堂に陣小屋を寄進・改築し、冑中の守護仏「善光寺如来御分身仏」を奉安して両軍の戦死者の霊を祀った。


それを聞いた上杉謙信は家臣を遣わして礼拝した。


当堂は歴代松代藩の援助により改築された。


全国各地から多くの人々が参詣に訪れ、地域の人からは「お柴様」と親しまれていた。


その後、昭和初期の千曲川築堤により移転を余儀なくされ、現在はこれより東方約 300メートル、国道 403号線沿いに移築されている。
(案内板より)

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恩田 民親(おんだ たみちか、享保2年(1717年) - 宝暦12年1月6日1762年1月30日))は江戸時代中期の松代藩家老百官名は木工。恩田木工(おんだ もく、「杢」とも記される)として知られる。幼名は佐吉。通称は靱負。

経歴

松代藩家老として1千知行する恩田民清の長男として、信濃国松代城下(現・長野県長野市松代町)に生まれる。享保20年(1735年)に家督を相続。延享3年(1746年)に家老となる。


松代藩の財政は、江戸幕府に命じられた度重なる手伝普請助役などによって、3代藩主真田幸道の時代より徐々に困窮し、民親が家督を相続した頃にはかなりの財政難に陥っていた。寛保2年(1742年)には松代城下を襲う大水害(戌の満水)に見舞われ、復旧のため幕府より1万の借財を受けた。そこで、5代藩主真田信安小姓より登用した原八郎五郎を家老に抜擢し、藩政改革に当たらせた。原は享保14年(1729年)より始まっていた家臣の知行・俸禄の半知借上を踏襲し、更に、領民より翌年・翌々年分の年貢を前納させるという藩政改革を実行した。しかしこれが家臣の反発を招き、延享元年(1744年)に足軽によるストライキという事態となった。


宝暦元年(1751年)には原八郎五郎を罷免し、代わって赤穂藩浪人と称する田村半右衛門[1]を勝手方として召し抱え、財政再建に当たらせた。しかし、性急な改革は農民の反発を招き、同年には「田村騒動」と呼ばれる藩内初の一揆が起こった。田村は同年に失脚した。原や田村の時代、贈賄を行った者には納税が目こぼしされたり、商人からの寄付の一部を横領したりするなどの汚職が横行した。彼らはこれにより失脚したが、汚職の横行により藩内の風紀は乱れていた。


宝暦2年(1752年)に信安の死に伴い藩主となった真田幸弘により、民親は宝暦7年(1757年)に「勝手方御用兼帯」に任ぜられて藩政の改革を任された。民親は、幸弘から「国元の政道は心一杯に」と全権を委任され、家老以下の藩士にも民親に従うという誓詞の提出を求めた。一方で「虚言申すまじく候」「申したること再び変替致さず候」と自らも律し、藩士だけでなく領民とも直接面談して、反発を受けずに改革を進めるよう配慮した[2]

藩政自体は概ね原八郎五郎の政策を踏襲し、多少の手直しを加えたにとどまったが、質素倹約を励行し、贈収賄を禁止、不公正な民政の防止など前藩主時代に弛んだ綱紀の粛正に取り組んだ。年貢の前納や御用金賦課を廃止し、貢租の怠納を清算し、新たに年貢上納を容易にする月割上納制を導入した。さらに山野や荒地の新規開墾や殖産興業に力を入れた。また、宝暦8年(1758年)に藩校「文学館」を開き、文武の鍛錬を奨励した。逼迫した藩財政自体は改善しなかったが、民親の取り組んだ公正な政治姿勢や文武の奨励は、藩士・領民の意識を改革した。


宝暦12年(1762年)正月、病を得て死去。享年46。彼の意思は、藩主幸弘や、民親の妻の弟である望月治部左衛門により受け継がれた。


後世の松代藩士・馬場正方によって書かれたとされる『日暮硯』は、半知借上を廃止したなどと民親の仁政を讃えた著書である。しかし、半知借上は民親の時代はもちろん後世まで続いており、この著書の内容には脚色も多く見られる。


墓所は、藩主真田家菩提寺長国寺の境内にある。大正7年(1918年)に正五位を遺贈された[3]

脚注
1. 浅野家の家老であった大野知房の子・大野群右衛門と同一人物とも言われる。
2. 川口素生『江戸諸藩 中興の祖』p.36-38(2005年、河出書房新社)ISBN 4-309-22425-3
3. 田尻佐 編『贈位諸賢伝 増補版 上』(近藤出版社、1975年)特旨贈位年表 p.45

参考文献
西尾實林博校註『日暮硯』(岩波文庫、1941年)

滝沢七郎『日暮硯 恩田木工』(明徳出版、1957年)

恩田恒久『「日暮硯」の謎をとく』(信濃教育会出版部、1977年)

堤清二『現代語で読む 日暮硯』(三笠書房、1983年)

池波正太郎『真田騒動-恩田木工』(新潮文庫、1984年)

奈良本辰也『日暮硯-信州松代藩 奇跡の財政再建』(講談社、1987年)

笠谷和比古『新訂 日暮硯』(岩波文庫、1988年)

川村真二『誠心の指導者 恩田木工』(PHP研究所、1993年)

川村真二『恩田木工―真田藩を再建した誠心の指導者』(PHP研究所、1997年)

笠谷和比古『「日暮硯」と改革の時代 恩田杢にみる名臣の条件』(PHP新書、1999年)

関連項目
藩政改革

佐久間象山

外部リンク
国柄探訪:恩田杢~財政改革は信頼回復から
(wikiより)

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四代目・子息墓。

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四代目・子息墓。

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八代目・嫡子墓。

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時代江戸時代後期 - 明治時代初期
生誕嘉永3年4月17日1850年5月28日
死没明治36年(1903年9月8日
改名保麿(幼名)
墓所長野県長野市松代町松代の長国寺
青山霊園
官位従二位信濃
信濃松代藩
氏族真田氏
父母伊達宗城
養父:真田幸教
兄弟幸民伊達宗敦柳原初子、武丸、奥平昌邁松根敏、理、三井照子瀧脇信広松田幾牧野忠良伊達宗倫阪田泰伊達宗曜、伊達方正、蒔田広城伊達善重、園子
最初の妻:大村純熈の次女・隆子利宇真隆院
2度目の妻:伊東祐相の娘・宏子
3度目の妻:島津久光の養女(竹内治則の娘)・輯子おさこ真浄院
幸正(長男)、幸久(次男)、清棲幸保(三男)、松子(島津忠麿正室)、田鶴子(大村純英正室)、信子(藤堂高紹正室)

真田 幸民
(さなだ ゆきもと)は、信濃松代藩の第10代(最後)の藩主。日本の華族、爵位は伯爵。血統上は伊達政宗の男系子孫である。

生涯

伊予宇和島藩主・伊達宗城の長男。幼名は保麿。先代藩主・真田幸教の養嗣子となる。慶応2年(1866年)3月9日、養父幸教の隠居により、家督を相続した。同年4月25日、従五位下信濃守に叙任した。慶応4年(1868年)1月19日、旧幕府から甲府城代を命じられる。同年1月25日、辞退する。戊辰戦争に際しては、2月頃から新政府側として行動する。同年3月3日、新政府から甲府城代を命じられる。また、北越戦争会津戦争へ出兵し、重要な戦功を挙げた。これにより新政府から賞典禄3万石を加増された。


明治2年(1869年)1月、上洛する。同年6月、版籍奉還により知藩事となった。明治3年(1870年)、松代騒動が勃発し、一揆勢の説諭にあたる。明治4年(1871年)、廃藩置県で免官となる。


明治5年(1872年)4月、横浜港を出発し、欧米各国を視察した。明治6年1月、帰国した。明治17年(1884年)に子爵、明治24年(1891年)に伯爵となった。明治36年(1903年)9月8日、東京で死去した。享年54。

栄典
1884年(明治17年)7月8日 - 子爵[1]

1885年(明治18年)7月13日 - 勲三等旭日中綬章[2]

1891年(明治24年)- 伯爵

系譜
・実父:伊達宗城

・養父:真田幸教

・最初の妻:隆子(大村純熈の次女)

・2度目の妻:伊東祐相の娘

・3度目の妻:島津久光の養女(竹内治則の娘)

  ・真田幸正

  ・真田幸久

  ・清棲幸保清棲家教養子)

脚注
1. 『官報』第308号、1884年7月9日。
2. 『官報』第610号「賞勲叙任」1885年7月14日。
(wikiより)

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真田幸民

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真田 幸貫(さなだ ゆきつら)は、江戸時代後期の大名老中信濃松代藩の第8代藩主。徳川吉宗の曾孫に当たる。老中として天保の改革の一翼を担ったほか、藩政改革にも多くの成果を上げた。江戸時代後期における名君の一人として評価されている。従三位(1912年)。

生涯

寛政3年(1791年)9月2日、老中首座として寛政の改革を主導した松平定信の長男として白河藩江戸藩邸で生まれる。ただし、側室の子であったこともあり、幼名を次郎丸と名付けられて、公的には次男とされた。定信の正室の子(松平定永)がわずか11日後に生まれており、こちらは太郎丸と名付けられて長子・嫡男と扱われた。

文化12年(1815年)、松代藩7代藩主・真田幸専の養嗣子となった。翌文化13年(1816年)には真田幸善と名乗り、先々代の幸弘の娘が遠州浜松藩主・井上正甫に嫁いで生んだ雅姫を正室とした。


文政6年(1823年)の幸専の隠居により家督を継ぎ、藩政を担当する。天保の改革が始まると水野忠邦によって外様席から譜代席に移され[1]、老中に抜擢されて改革の一翼を担った。藩政においても佐久間象山をはじめとする有能な人材を多く登用して洋学の研究に当たらせ、幕末における人材の育成を行った。また殖産興業、産業開発、文武奨励などにも努め、藩校としては文武学校開設の基礎を築いている。 1832年(天保3年)には産物会所を設置した(明治2年に松代商法社に改める)。また文人としても優れ、画や和歌に秀逸は作品を数多く残した。しかし晩年には、藩政改革の路線を巡る対立から重臣達による内紛を招き、これが幕末まで尾を引いた。


弘化4年(1847年)3月24日には善光寺地震が発生し、松代藩領内でも大きな被害が生じた。幸貫が御用番牧野忠雅に宛てた報告書や、月番家老河原綱徳の手記『むしくら日記』は被害状況を知る上で貴重な記録となっている。


江戸
在府中には、府内をお忍びで歩くことを好んだという。真田家への養子入りの話が出た折には浪人姿になって松代藩の隅々を見聞して回ったともいうが、こちらは伝説の域を出ない。


幸貫は正室・雅姫との間に4男5女を儲けたが、いずれも夭折・早世した。そこで真田家の血筋を求め、幸専の妹が肥前島原藩主・松平忠馮に嫁いで生んだ十男・幸忠を養嗣子に迎えたが、これも数え15歳で早世する。幸貫には実子として幸良がいたが、真田家に養子入りする前年に生まれたため、幕府には実父・定信の末子と届け出ていた。結局この実子を養嗣子として迎え入れたが、数え30歳で先立たれたため、その長男・幸教が嫡子となった。嘉永5年(1852年)5月6日、幸貫は隠居して孫の幸教に家督を譲ると、6月8日に62歳で死去した。


窪田清音
に刀工の源清麿を弟子入り斡旋したのは幸貫である。

年譜
寛政3年(1791年) 誕生。

文政6年(1823年) 松代藩を相続、帝鑑間詰。

天保12年(1841年) 任老中

弘化元年(1844年) 免老中。

嘉永5年(1852年) 隠居。死去、62歳。

官歴
文化13年(1816年) 従五位下豊後

・文政6年(1823年) 伊豆守

・天保8年(1837年) 信濃守

・天保12年(1841年) 従四位下侍従

脚注
1. 長野県史 通史編 第6巻 近世3』
(wikiより)

267  真田幸貫

真田幸貫

267b

267a



真田 幸弘(さなだ ゆきひろ)は、江戸時代中期の大名信濃松代藩の第6代藩主。第5代藩主・真田信安の長男。従三位(1918年)。

生涯

宝暦2年(1752年)6月10日、父信安の死去により家督を相続して藩主となる。宝暦5年10月1日、将軍徳川家重御目見する。同年12月18日、従五位下伊豆守に叙任する。後に従四位下へ昇進する。信安の代に起こった田村騒動の余波もあり、藩主になった頃、藩財政は藩主の生活費も事欠き、破綻寸前であった。幸弘は藩財政再建のために恩田民親(木工)を登用した。木工は、「改革担当者として生命を賭けて成就させたい。ただし、私の政策に藩の家臣一同の信任を条件とする。異議を唱えない条件として誓書を出して欲しい」という条件を提示した。重臣たちは大反対したが、木工を信頼していた幸弘は、これを諒とした。


木工はまず倹約令を出したが、周囲から不満が出ない限度にとどめた。また、木工の改革は庶民や身分の低いものと直結していた点が特筆される。普通、藩主に継ぐ実力者となれば、下の身分の者から話を聞くことはほとんどないが、木工は藩の重臣や豪商とはもちろんのこと、百姓とも対話をして不平不満を聞く一方、「改革に失敗すれば、私は切腹である。皆も協力して欲しい」と百姓の理解を求めた。この頃、松代藩では代官の不正が相次ぎ、藩は民心を失い、年貢の未納者もいた。そこで木工は、「既往の未納の年貢分は免責する。今後は間違いなく納めて欲しい」と頼み込んだ。彼の誠実で謙虚な態度により、領民は素直に年貢を納めるようになったという。また、百姓の訴えを聞き入れて、不正を行なっている代官らを処罰し、領民への労役を軽減した。


木工の改革は、他藩のような商業的な改革ではなく、領民の人心を得ることで解決する改革であった。これは財政改革に当たらないとする見解もあるが、松代藩は木工の政策により財政を多少持ち直し、また当時の封建社会において百姓領民から直接話を聞くという率直な態度をとった木工の改革は、後世からは高く評価されている。


宝暦12年(1762年)に木工が46歳で病死すると、幸弘自身が藩政を主導した。幸弘は藩校文学館を創設して教育の普及を図り、文化政策を奨励した。さらに自らも優れた教養人であり、多くの俳句に関する著作を残している。


幸弘は5男6女を儲けたが、自身が結核であったことで結核菌が幼少の子供たちに移り、女子2人を除いて大半は結核を発症して死んでいる。そのために男子の実子がなく、寛政10年(1798年)8月21日に家督を養嗣子の幸専近江国彦根藩主・井伊直幸の四男)に譲って隠居し、文化12年(1815年)に76歳で死去した。

関連作品
荒野の用心棒1973年NET三船プロダクション) - 第38話「暗殺の凶弾は暁に炸裂して…」

同名の人物(真田信濃守幸弘)が登場する(演:森次晃嗣)。ただし、この作品の時代設定は天保年間とされており、実在の幸弘とは全くの別人である(ちなみに天保期の松代藩主は、娘婿・幸専の養嗣子で松平定信の次男、真田信濃守幸貫である。幸貫は天保末期に老中職も務めている)。
(wikiより)

266b

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真田 信安(さなだ のぶやす)は、江戸時代中期の大名信濃国松代藩5代藩主。官位従五位下豊後守伊豆守

生涯

4代藩主・真田信弘の三男(四男とも)。


元文
元年(1736年)3月1日、兄・幸詮の早世により嫡子となった。3月23日、将軍徳川吉宗御目見する。12月16日、従五位下豊後守に叙任する。元文2年(1737年)2月18日、父で前藩主の信弘の跡を継いだ。松代藩ではこの頃、家老や家臣たちが不正を働いて財政は極度に悪化していた。寛延3年(1750年)には家臣がサボタージュを企てるという事件が発生するまでに至っていた。このような中、信安は勝手掛(財政担当官)に田村半右衛門を登用して藩財政改革に取りかかった。


この田村半右衛門は、播磨赤穂藩浅野家の家老だった大野知房の子・大野群右衛門だったとも言われる。半右衛門はまず、それまで不正を行なっていた家老や役人に対して、その罪の代償として御用金を何年かけても支払わせるようにした。次に百姓に対し、100石ごとに籾15俵を増税として課した。これに百姓らの不満は高まった。不正を行なった家老や家臣たちは、御用金のみが課せられ、それ以上の罰は与えられなかった。一方で咎のない百姓にも重い負担が課せられたのである。この結果、松代藩は4700両の蓄えができた。しかし、百姓の怒りがおさまらず、宝暦元年(1751年)には百姓一揆が発生する。信安もここに至って半右衛門を罷免して投獄し、獄死に追い込んだ。これを「田村騒動」という。


宝暦2年(1752年)に死去し、長男の幸弘家督を相続した。

系譜
・父:真田信弘

・母:冷台院 - 冷厳院、藤田氏娘

・正室:典 - 匡章院、前田利章

・室:慈明院 - 伊東甚五右衛門の娘

  ・長男:真田幸弘(1740-1815)

・生母不明の子女

  ・女子:松浦政信正室 - のち建部政賢正室

  ・女子:松平忠恕正室
(wikiより)

265b

265a



時代江戸時代前期 - 中期
生誕明暦3年2月22日1657年4月5日
死没享保12年5月27日1727年7月15日
改名信房(初名)→幸道
戒名真常院殿全山一提大居士
墓所長野県長野市松代町松代の長国寺
官位従四位下、伊豆
幕府江戸幕府
主君徳川家綱綱吉家宣家継吉宗
信濃松代藩
氏族真田氏
父母父:真田信政、母:松寿院(高橋氏)
兄弟信就信守信武信福幸道
正室:豊姫伊達宗利の娘)
源次郎
養子:信弘

真田 幸道
(さなだ ゆきみち)は、信濃松代藩の第3代藩主。

生涯

第2代藩主・真田信政の六男(五男とも)。万治元年(1658年)6月14日、父が死去したため、2歳で家督を継ぐ。
しかし従兄の沼田藩主・信利がこれに不満を抱いて家督争いが起こった。これは祖父の信之が幸道の後見人となることで鎮めたが、信之も同年のうちに死去したため、内藤忠興が後見人となった。


寛文4年(1664年)1月13日、将軍徳川家綱御目見する。寛文9年12月25日、従五位下伊豆守に叙任する。

後に従四位下へ昇進する。延宝2年(1674年)6月28日、初めてお国入りする許可を得る。藩主としては領内の検地を行い、幕府から命じられた江戸城普請、朝鮮通信使の饗応役などで活躍している。しかしこれらの相次ぐ出費のために、藩財政が悪化した。


武に優れ、自らは関口流柔術神道流剣術の使い手であった。また、その武道を蔵書にしてまとめている(代表作は『松代侯詩集』)。また、松城を松代と改めた。元禄7年(1694年)8月21日、一族の真田信親へ新田2千石を分知する。ただし、元禄16年12月25日(西暦では1704年)、信親の養子であった信弘と養子縁組したことで、新田2千石は戻される。享保12年(1727年)5月27日、江戸で死去した。享年71。


幸道の実子・源次郎は早世していたため、甥(長兄で旗本寄合の信就の七男)の信弘を養嗣子として迎え、跡を継がせた。


後継者から外された長兄の信就と幸道は仲が良かったとされている。

関連項目
あんずの里
(wikiより)

264  真田幸道

真田幸道

264b

264a



真田 信之(さなだ のぶゆき)は、戦国時代から江戸時代前期の武将大名信濃上田藩の初代藩主、後に信濃松代藩の初代藩主。信幸と表記される場合もある。

生涯
武田家臣時代

永禄9年(1566年)、武藤喜兵衛(後の真田昌幸)の長男として生まれる[2]。父は三男であったため武田家の親類衆・武藤家を継承していたが、天正3年(1575年)5月21日の長篠の戦いで兄の信綱昌輝がともに戦死したことから真田姓に復姓して家督を継承した。信幸(信之)は信綱の嫡女である清音院殿を妻に迎えているが、この従兄弟同士の婚姻の背景には、昌幸が真田家当主としての正当性を確保する意図があったことが指摘される[3][4]。昌幸は庶流家ということもあり、永禄10年(1567年)3月頃までの真田信綱の家督相続後に幸綱・信綱宛の文書は、福井藩士となった昌輝子孫に「越前真田家文書」として伝来しており、昌幸は「家伝文書」を相続することができない事情があったと考えられている[3]。なお、婚姻時期も速やかに家督継承を行う為、信綱の戦死から間を開けず、比較的早い段階であったと推測される。ただし、天正3年には信幸もまだ幼年(10歳)であったので、婚約という形をとった可能性が高い。


その後、信幸は武田家の人質として過ごした[5]。『加沢記』に拠れば、天正7年(1579年)に武田勝頼の嫡男・信勝元服と同時に元服を許され、信玄の1字を賜って信幸と名乗ったとされるが[5]、「信」の偏諱は勝頼からとする説もある[6]。初見史料は天正6・7年の『真田氏給人知行地検地帳』で、「若殿様」として名が見られる。


天正
10年(1582年)3月に武田家が織田信長武田征伐によって滅ぼされると、同じく人質だった母の山手殿と共に上田の父の元へと逃れた[5]

武田滅亡後

信長が本能寺の変(1582年6月)で死去した後に甲斐・信濃の武田遺領を巡る天正壬午の乱が発生した。相模国北条氏直は織田家臣・滝川一益神流川の戦いで破ると、真田家は後北条氏に臣従の構えを見せた(このため北条氏は川中島まで侵出し上杉氏と対峙することになる)。この時、上野を放棄して織田領へ逃走する滝川を支援し、途中まで見送ったという[5]


同じ頃、越後国上杉景勝が信濃へ進出していたが、信幸は川中島へ度々出陣し上杉領の海津城を撹乱した。だが、やがて徳川家康に臣従した武田遺臣・依田信蕃や叔父の真田信尹らの誘いにより、沼田城を北条方から奪還し、真田家は北条氏と敵対する。信幸は手勢800騎を率い、北条方の富永主膳軍5,000が防衛する手子丸城を僅か一日で奪還し、武功を挙げたという(『加沢記』)。依田信蕃らのゲリラ戦も功を奏し、真田家は北条方を沼田から駆逐することに成功する。


天正12年(1584年)、真田家は信濃小県郡の国人室賀氏と争い、小規模戦闘にて勝利を重ね、和睦に持ち込む。直後に信幸は父・昌幸と共謀して当主・室賀正武を暗殺し、小県郡の同族であった根津昌綱を懐柔し真田氏は小県を支配下に治めた。同年、なおも真田領を狙う北条氏の侵攻に対し、北条氏邦の奇襲を察知した信幸は吾妻仙人窟にてこれを撃退している(『松城通記』)。

徳川氏の与力

天正13年(1585年)、徳川・北条同盟による上野沼田領の割譲を巡って真田氏は徳川氏と断交し上杉氏に臣従した。信幸は昌幸に従い、徳川軍と戦った(第一次上田合戦)。信幸は支城の戸石城に兵300余名で着陣した。徳川軍が神川を渡河すると、神川まで出陣して軽く一戦を交えたのち、城に向けて退却し、徳川軍の主力部隊を巧みに奥地に誘き寄せたり、城から撤退してきたところを側面から攻撃するなどして勝利に貢献した。


その後、昌幸は上杉景勝を介して豊臣秀吉に臣従し、天正17年(1589年)には家康とも和睦が成立すると、真田家は徳川氏の与力大名となった。信幸の才能を高く評価した家康は重臣の本多忠勝の娘・小松姫を養女とし、駿府城に信幸を出仕させて娶らせた[5]


天正18年(1590年)、沼田領割譲問題から発生した小田原征伐で信幸は上野松井田城攻めで戦功をあげ、戦後に沼田領が真田家の所領として確定すると沼田城主となる[7]


文禄
3年(1594年)11月2日には従五位下伊豆守に叙任される[7](同日、弟・真田信繁は従五位下左衛門佐に叙任)。その後、年月日不詳ながら従四位下に昇叙し、侍従を本官に伊豆守を兼任する。文禄・慶長の役では肥前名護屋まで赴いている。

関ヶ原の戦い

秀吉死後、慶長5年(1600年)に失脚していた五奉行石田三成が挙兵する。父(妻の山手殿は石田三成の妻と姉妹という説があり、この山手殿は信之信繁の兄弟にとって実母でもある)と弟の信繁(妻が西軍幹部の大谷吉継の娘である竹林院)は三成らの西軍に付いたのに対し、家康の養女かつ徳川重臣の本多忠勝の娘の小松姫を妻とする信之は家康らの東軍に参加することを決め、家康の息子で東軍主力隊の徳川秀忠軍に属して上田城攻め(第二次上田合戦)に参加する。戦いの前に本多忠勝の息子で信之の義弟(妻小松姫の弟)である本多忠政と共に父昌幸の説得に赴いたが、結局失敗に終わったとされる。


信幸は信繁が防衛する戸石城の攻略を命じられたが、真田兵同士の消耗を避けるため開城請求の使者を派遣、弟信繁も信之の意を汲み開城に応じた。信之は入城後守備し、信繁は昌幸のいる上田城へ撤退した。なお、秀忠軍本隊は家康の使者の遅れもあって、家康本体との合流に遅れて関ヶ原の戦いには遅参し、本戦には参加できなかった。

幕藩体制下

戦後、昌幸の旧領に加え3万石を加増されて9万5,000石(沼田3万石を含む)となり上田藩主となったが、上田城は破却を命じられた(上田城の再建修築は、後に上田藩主として入った仙石氏が行う)。引き続き沼田城を本拠とした。信幸は昌幸らの助命を嘆願し、西軍に付いた父との決別を表すために、名を信幸から信之に改めている(なお、慶長13年(1608年)から17年(1612年)までは再び「信幸」と文書に署名していることを踏まえて、平山優は単純に家康を憚って父の名に由来する「幸」を捨てたとは言えないとしている[8])。義父・本多忠勝の働きかけもあり、昌幸らは助命され紀伊国九度山へ流罪となる。その後、父が亡くなった折に父の葬儀を執り行えるよう幕府に許可を願い出たが、許されなかった。


信之が上田領を継いだ頃、第二次上田合戦や相次いだ浅間山の噴火で領内は荒廃しており、その後も浅間山の噴火や気候不順など天災が相次いだが、信之は城下町の整備や堰や用水の開削、年貢の減免など様々な政策を行って領内の再建に苦闘する一方、九度山にいる父や弟への援助を続けていた[9]


慶長19年(1614年)からの大坂の陣では病気のために出陣できず、長男の信吉と次男の信政が代理として出陣した。元和8年(1622年)10月、信濃松代に加増移封され[7]、13万石(沼田3万石は継承)の所領を得る。


明暦
元年(1656年)、長男の信吉や嫡孫で信吉の長男・熊之助が既に死去していたため、次男の信政に家督を譲って隠居する。しかし万治元年(1658年)2月に信政も死去した。この時、真田家では後継者争いが起こり、長男の血統(信吉の次男)である沼田城主・信利が次男の血統(信政の六男)である幸道の家督相続に異議を唱えて幕府に訴える事態となり、幕府や縁戚の大名を巻き込んだ騒動となる。最終的には幸道が第3代藩主となり、2歳の幼少のために信之が復帰して藩政を執った(この騒動により信利の領地は沼田藩として独立し、松代藩は10万石となる)。


同年10月17日に死去[7]。享年93。辞世は「何事も、移ればかわる世の中を、夢なりけりと、思いざりけり 」。


墓所は長野県長野市の大鋒寺にあり、肖像画も所蔵されている。また、真田家の菩提寺真田山長国寺には、藩祖信之の霊屋など歴代藩主の墓所が設けられている。真田家は江戸時代を通じて存続し、途中で養子が入り信之の系統は断絶したものの、幕末に幸貫老中となっている。明治維新後に子爵(後に伯爵)家となった。

人物・逸話
・93歳と非常に長命であった信之だが、30代の頃から病気がちであり、40代以降は「手の痛み」「疲れ」「腫れ物」などで病に臥せっていることが多かった[10]。元和2年、51歳の時にはマラリアを病み、徳川家康の病気見舞いに行けずに、代わりに長子の信吉を駿河に遣わしている[11]。翌年の5月16日にも江戸への参勤を一日延ばしており、周期的にマラリアの発作を起こしていたとみられる[12]。76歳の寛永18年2月には腫物に苦しめられている[11]

前田利益とは懇意の仲であり、信長の死も利益から聞かされたという。その時、信幸は大将となって佐久・小県をおさえるため軍勢を率いて進んでいたが、敵か味方かも定かではない真田軍を相手に信長の死を明かした利益の態度に感心し、軍勢を引き上げた(『加沢記』『滝川一益事書』)。

・天正10年(1582年)10月、離反した真田氏征伐の為、北条氏は沼田へと軍を向ける。当時17歳の信幸を大将とし真田軍800は手子丸城救援の為に駆けつけるも、時既に遅く城は陥落、城主・大戸真楽斎とその弟(子とも)・但馬守は自害してしまう。信幸は真田氏家臣の唐沢玄蕃に命じて北条軍前衛を挑発、誘導し伏兵によりこれらを掃討する。真田軍の巧妙な戦術に対応しきれないまま、北条軍は兵力の消耗を恐れ篭城を選択した。正面に比べ警戒の薄い北の丸に着目した信幸は工作部隊を派遣。北の丸より侵入した工作部隊は「裏切者が出た」と叫びながら放火し、不意を突かれた北条軍は同士討ちを行う程の混乱に陥った。信幸はこの機を逃すことなく50人の決死隊を率い、自らも槍を取って突入する。前備の鎌原幸重を失うも正面に展開していた兵100名が挟撃し、ついに手子丸城本丸の奪取に成功した。世に平穏が訪れたのち、かつて手子丸城の守将であり、徳川将軍家旗奉行となっていた富永主膳は自身を打ち負かした信之の采配を絶賛し、昔話として幾度も語ったという。

・第一次上田合戦の頃、徳川軍と連携して塩田平の土豪・杉原四郎兵衛が一揆を起こし、冠者ヶ嶽城などを根拠として真田氏に抵抗した際、敵方の城を巡見した信之は、身分の低い水出大蔵という馬丁の意見を容れて城を攻め落とし、水出には褒美を与えた。後年、信之はこの時のことを振り返って「水出は馬丁の立場で出過ぎた行動だったかもしれない。しかし彼は、あの地域のことを良く知っていた者である。戦場ではまず人の区別なく意見を聞き、道理に従い行動すべきである。身分が低いからといって、相手を侮り、水出の献策を用いなければ、あの城は一時で落とすことはできなかったであろう」と述べており、相手の身分に関係なく有用な意見は用いようとしていた[13]

豊臣政権時代、信之が最も親しく交流していた秀吉の家臣は真田氏の取次を担当していた石田三成であり、その交友関係は他の大名にも知られるところであった。「真田家文書」には14通もの三成からの書状が残されている[14]。家康に対して決起した三成は当然信之も味方に付いてくれると予想していたが、結局信之は徳川方に付いている[15]

・いわゆる「真田の赤備え」は弟・信繁が大坂の陣で用いたのが有名だが、文禄2年(1593年)に秀吉から「武者揃」を命じられた信之が「いつものことくあか武者(赤備え)たるへく、指物はあかね」という指示を家臣に出しており、既に文禄年間には真田氏は甲冑と指物には赤を使用していた[16]

・2度の上田合戦大坂の陣において真田家が徳川軍を苦しめたことや、大坂の陣の際には上田藩内から豊臣方に付いた弟・信繫に内通したり、信繫の下に馳せ参じた者がいた(信之はこれらの者を厳しく断罪している[17]。)ことから幕府に睨まれることが多く、そのために献身的に幕府の公役を務めたといわれる。

・松代への転封に不服を持ち[注釈 1]、検地資料などの重要書類を焼き捨てた上で、さらに上田城の植木や燈籠などを全て引き抜き、持ち去ったと言われる。しかし、これらの逸話は出典がはっきりしておらず、実際は後に入った仙石氏には引継書類が引き渡されている。原則として転封の際の引継書類は前の藩主が一度幕府に提出し、検分を受けてから次の藩主に引き渡される(幕府への引き渡しがないと、家の存続にかかわる重大な事態になりかねない)ため、重要書類を破却したのは事実ではない[19]。また松代への移封は加増されているとは言え、徳川秀忠の嫌がらせの1つとされているが、実際は松代城は祖父・幸隆が参戦した川中島ゆかりの城で、信之以前は家康の子・松平忠輝越前松平氏松平忠昌、左衛門尉系酒井氏酒井忠勝といった親藩譜代の名門が配された要衝であることから、むしろ秀忠が信之を要地を任せるに足る人物だと評価していたことを示すものである。信之自身も重臣の出浦昌相に「誠に家の面目であり、何も言うことがないほど光栄なことだ(「誠家之面目外実共残無仕合ニ而」)」と書き送っている[20]。ただ、同時期に小野お通(初代)へ当てた手紙では故郷の地を離れる心細さが吐露されている[21]

・信之は書や詩歌に通じていた京都の才女・小野お通(初代)と親交があった。信之が上田から松代へ転封になった際、お通から見舞状を受け取った信之は、返書に松代藩領の川中島西行が歌に詠んだ地であり、他にも姥捨山や更科の月、善光寺といった名勝が領内にあるので、ぜひとも松代に下って来てほしいと綴っている[22]。信濃の自然や名所旧跡への思い入れが深く、信之にとっての癒しの元といえる[12]

・信之の保養法は、湯治と信濃の自然鑑賞で、療養や江戸詰めの後などにしばしば草津温泉を利用している。効能を熟知していたとみえ、知人らにも勧めて幕臣の島田利正が湯治を計画するや、その面倒をみている[12]

・明治になって真田家伝来の家康拝領の短刀が入っていると思われていた長持に、三成からの書状など真田家にとって不利になる危険な機密書類が納められていた事実が判明した。生前から叔母の夫である三成とは懇意の仲で手紙のやり取りが多かった。これらを寝ずの番を付けてまで保管しており、松代移封を不服に思い藩政の重要書類を焼き捨てた信之が、徳川に対する反骨の意味で隠したものだと言われている[23]。ただし、上述のように松代への移封を信之が不満に思っていたというのは事実ではない。

徳川頼宣[24]は信之の事を尊敬しており、自邸に招いては武辺話を熱心に聞いたという。後に信之は頼宣の子の具足親になったとされる逸話が残っている。

・老境に入った信之はしばしば隠居願を幕府に出していたが、その度に酒井忠世酒井忠勝から将軍・徳川家綱が幼少なので、隠居せずに幕府を支えて欲しいと慰留され、結局91歳になるまで隠居できなかった。隠居を認める際、家綱は信之を「天下の飾り」と表現している[25]。しかし、後継者となった信政はいつまでも家督が譲られないため父に恨みを抱き、家督相続後間もなく死去した際の遺言でも残った老父のことには一切触れなかった。この遺言を読んだ信之は、大いに立腹したと伝えられている[26]

・信之が死去した際は、家臣のみならず百姓までもが大いに嘆き、周囲の制止を振り切って出家する者が続出したという。百姓や町人も思い思いに冥福を祈る仏事を行ったとされ、家臣や領民にも慕われる名君であったと伝えられている[27]

詳しいことは、「真田信之ウィキペディア」をご覧ください。 ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9C%9F%E7%94%B0%E4%BF%A1%E4%B9%8B
(wikiより)

263  真田信之

真田信之

263b

263a



真田 信繁(さなだ のぶしげ)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将大名[10]真田昌幸の次男。通称左衛門佐で、輩行名源二郎(源次郎)。真田 幸村(さなだ ゆきむら)の名で広く知られている。


豊臣方の武将として大坂夏の陣において徳川家康の本陣まで攻め込んだ勇敢な活躍が、江戸幕府や諸大名家の各史料に記録され、「日本一の兵(にほんいちのつわもの)」と評される[11]などした。後世、そこから軍記物講談草双紙(絵本)などが創作され、さらに明治-大正期に立川文庫の講談文庫本が幅広く読まれると、真田十勇士を従えて宿敵である家康に果敢に挑む英雄的武将というイメージで、庶民にも広く知られる存在となった。今でも多くの人に愛され続けている。

「真田幸村」の由来

「真田幸村」の名が広く知られているが、は「信繁」が正しい[12]。直筆の書状を始め、生前の確かな史料で「幸村」の名が使われているものは無い。信繁は道明寺の戦いで勇戦した家臣6名に対して、将棋の駒型の木片に戦功を書き記した感状を与えている[13]。「繁」の字の下半分に花押を重ね書きする信繁の書き癖から翻刻された際に「信仍」「信妙」と誤写されているが、花押の形が信繁のものであると断定でき、死の前日まで「信繁」と名乗っていたことが確認できる[14]。また、幸村と署名された古文書は2通現存している[15]が、いずれも明らかな偽文書で、信繁が幸村と自称したことの証明にはならない[16]


「幸村」の名が見られるようになったのは夏の陣が終わってから60年近く経った、寛文12年(1672年)に刊行された軍記物の『難波戦記[注釈 4]がその初出であるとされる。『難波戦記』では昌幸の次男「左衛門佐幸村」[18]や「眞田左衛門尉海野幸村」[19][注釈 5]との名乗りで登場するが、前述のようにこの名乗りを実際に使用した形跡はなく、大坂入り後の書状でも「信繁」を用いている[12]


しかし「幸村」という名前にも説得力があった。「幸」は真田家や(真田家の本家にあたる)海野家通字であり、また「村」については徳川家に仇なす妖刀村正が由来に利用された。俗説ではあるが、村正は幸村の佩刀であったとか、介錯に村正が用いられたとかいう話がある。もちろんこれらは誤伝であるが、話に尾ひれがついたことで「幸村」の名は元禄時代には広く知られていた[6]。 そのため、元禄14年(1701年)に書かれた『桃源遺事』(徳川光圀の言行録)では既にもう、編集者の三木之幹、宮田清貞、牧野和高らがわざわざ、幸村は誤り、信仍が正しい[20]と書き記したほどである(もっとも、信仍というのも誤っている)。


時代が下るにつれて「幸村」の名があまりに定着したため、江戸幕府編纂の系図資料集である『寛政重修諸家譜』や兄・信之の子孫が代々藩主を務めた松代藩の正式な系図までもが「幸村」を採用した[12]。 松代藩が作成した系図の『真田家系図書上案』では信繁だけだが、『真田家系譜』になると幸村が現れる[21]。大坂夏の陣から200年近く後、文化6年(1809年)、徳川幕府の大目付から「幸村」名についての問い合わせを受けた松代藩・真田家は、「当家では、『信繁』と把握している。『幸村』名は、彼が大坂入城後に名乗ったもの」との主旨で回答している[22]


篠原幸久
は論文で、武田信玄の同母弟に典厩信繁がおり、難波戦記の作者らには真田信繁の活躍を描く効果上、その旧主家一門の著名な同名者の呼称を避ける意図があり、信繁の名乗りが否定されて幸村が案出されたのであろうと主張する[23]


信繁の発給文書は20点が確認でき、花印は9回変えている[24]

生涯
出生から真田氏の自立

永禄10年(1567年)または元亀元年(1570年)[注釈 1][注釈 2]、真田昌幸(当時は武藤喜兵衛を名乗る)の次男として生まれた。母は正室の山手殿[注釈 6]。通称は、長男の信幸が源三郎を称し、信繁は源二郎を称した。


真田氏は信濃国小県郡国衆で、信繁の祖父にあたる幸隆(幸綱)のころに甲斐国武田晴信(信玄)に帰属し、伯父の信綱は先方衆として信濃侵攻越後国上杉氏との抗争、西上野侵攻などにおいて活躍している。父の昌幸は幸隆の三男で、武田家の足軽大将として活躍し武田庶流の武藤氏の養子となっていたが、天正3年(1575年)の長篠の戦いにおいて長兄・信綱、次兄・昌輝が戦死したため、真田氏を継いだ。


幸隆は上野国岩櫃城代として越後上杉領を監視する立場にあったが、昌幸も城代を引き継いだ。信繁は父に付き従い甲府甲府市)を離れ岩櫃に移ったと考えられている。天正7年(1579年)には武田・上杉間で甲越同盟が締結され上杉方との抗争は収束するが、一方で相模後北条氏との甲相同盟が破綻したため、上野国は引き続き緊張状態にあった。


天正10年(1582年)3月には織田徳川連合軍の侵攻により武田氏は滅亡し、真田氏は織田信長に恭順して上野国吾妻郡利根郡、信濃国小県郡の所領を安堵され、信繁は関東管領として厩橋城に入城した滝川一益のもとに人質として赴く[27]。同年6月に本能寺の変により信長が横死すると武田遺領は空白域化し、上杉氏・後北条氏・三河国徳川家康の三者で武田遺領を巡る争いが発生する(天正壬午の乱)。滝川一益は本能寺の変によって関東を離れる際に信繁も同行させ、木曾福島城で信繁を木曾義昌に引渡した[27]


真田氏は上杉氏に帰属して自立し、天正13年(1585年)には第一次上田合戦において徳川氏と戦っている。従属の際に信繁は人質として越後国に送られ、信繁には徳川方に帰属した信濃国衆である屋代氏の旧領が与えられたといい、天正13年(1585年)6月24日に屋代氏旧臣の諏訪久三宛に安堵状を発給している。慶長5年以前の信繁領は上田市西塩田の前山村で、上田領全体で千貫以上を所持していた[28]

豊臣秀吉の馬廻衆

織田家臣の羽柴秀吉(豊臣秀吉)が台頭すると昌幸はこれに服属し、独立した大名として扱われる。信繁は人質として大坂に移り、のちに豊臣家臣の大谷吉継の娘、竹林院を正妻に迎えている。


天正17年(1589年)、秀吉の命で、信幸は沼田城を後北条氏へ引き渡したが、北条氏直が裁定に逆らって名胡桃城を攻めたことで、12月に小田原征伐が号令される。翌年の遠征に際しては、昌幸・信幸は前田利家・上杉景勝らと松井田城箕輪城攻めに、信繁・吉継は石田三成の指揮下で忍城攻めに参戦したと伝えられる。


文禄の役においては、『大鋒院殿御事跡稿』によれば、昌幸・信幸とともに肥前名護屋城に700名の指揮を執って在陣している。『松浦古事記』によると、三ノ丸御番衆の御馬廻組の中に信繁の名がある。


文禄
3年(1594年)11月2日、従五位下左衛門佐に叙任されるとともに、豊臣姓を下賜される[29]。この信繁の立身には、岳父の吉継とその母である東殿の意向が反映されていた[30]


豊臣政権期の信繁の動向は史料が少なく、詳細はわかっていない。文禄3年の叙任も史料自体はあるものの、さらに確認するための別の史料による裏付けは困難でもある。


ただし、近年の研究によって信繁が秀吉の馬廻衆であり、昌幸とは別に1万9000石の知行を有していたことがわかっている[10]。信繁は豊臣政権から伏見城の普請役を課され、大坂・伏見に屋敷を与えられるなど独立した大名として遇されていた[10]。一方で知行地の支配については原昌貞ら昌幸の家臣に任せていた[10]

関ヶ原の合戦

秀吉死後の慶長5年(1600年)に五大老の徳川家康が、同じく五大老の一人だった会津の上杉景勝討伐の兵を起こすとそれに従軍し、留守中に五奉行石田三成らが挙兵して関ヶ原の戦いに至ると、父と共に西軍に加勢し、妻が本多忠勝の娘(小松殿)であるため東軍についた兄・信之と袂を分かつことになる。

東軍の徳川秀忠(家康の三男)勢は中山道制圧を目的として進軍し、昌幸と信繁は居城上田城に籠り、38,000の徳川軍を城に立て籠もって迎え撃った[31]。少数の真田隊に手こずった秀忠勢は家康からの上洛を命じられ、攻略を諦めて去った[注釈 7]

    詳細は「上田合戦#第二次上田合戦」を参照


また、秀忠勢が去った後も海津城将の森忠政葛尾城井戸宇右衛門配下の兵を置いて上田城の動きを監視させていた。これに対して信繁は9月18日と23日の2度討って出て、夜討と朝駆けを敢行している。


9月15日、西軍は秀忠が指揮を執る徳川軍主力の到着以前に関ヶ原で敗北を喫する。昌幸と信繁は本来なら敗軍の将として死罪を命じられるところだったが、信之とその舅である本多忠勝の取り成しがあって、高野山配流を命じられるにとどまり、12月12日に上田を発して紀伊国に向かう[32]。初め高野山にある蓮華定院に入り、次いで九度山[注釈 8]に移った。


蟄居中の慶長16年(1611年)に昌幸は死去。慶長17年(1612年)に信繁は出家し、好白と名乗った[注釈 9]


大坂城入城

慶長19年(1614年)、方広寺鐘銘事件をきっかけに徳川氏と豊臣氏の関係が悪化する。

大名の加勢が期待できない豊臣家は浪人を集める策を採り、九度山の信繁の元にも使者を派遣して黄金200枚、銀30貫を贈った[33]。信繁は国許(上田)にいる父・昌幸の旧臣たちに参戦を呼びかけ、九度山を脱出して嫡男大助幸昌と共に大坂城に入った[注釈 10]。大坂で信繁が指揮を執っていた軍は、鎧を赤で統一していたという[34]

    「赤備え#真田の赤備え」も参照

大坂冬の陣

慶長19年(1614年)の大坂冬の陣では、信繁は当初からの大坂城籠城案に反対し、先ずは京都市内を支配下に抑え、近江国瀬田(現在の滋賀県大津市。瀬田川の瀬田橋付近)まで積極的に討って出て徳川家康が指揮を執る軍勢を迎え撃つよう主張した。その作戦案に浪人衆は賛成を表明するが結局受け入れられずに終わる[35]


大坂城への籠城策が決定すると、信繁は大坂城の最弱部とされる三の丸南側、玉造口外に真田丸と呼ばれる土作りの出城を築いたが、千田嘉博によると大坂城の実際の最弱部は、上町台地の中央部、真田丸の西のあたりであるとされる。信繁は、地形の高低差が少なく惣堀の幅も狭い真田丸という突出部を築くことで真田丸に敵の注意を引きつけ、大坂城の真の弱点を見逃しやすくしたのである。さらに真田丸の背後には幅200メートルにもおよぶ深い谷があり、信繁は、真田丸がたとえ落とされたとしても、その谷が大坂城を守りつづけてくれると見越して、この場所に真田丸を築いたのであると指摘している[36]。さらに半円形といわれてきた真田丸は『浅野家文庫諸国古城之図』が採録した『摂津 真田丸』の絵図を調査した千田嘉博により、不定形であったことが判明した[37]


この戦闘で信繁は、寄せ手を撃退し、初めてその武名を天下に知らしめることとなる[38]。なお、この真田丸を造る際、大野治長を始めとする豊臣方の他の武将は、これを信繁が徳川方に寝返るための下準備と疑っていた[39]

    詳細は「真田丸の戦い」を参照


冬の陣の講和後、この真田丸は両軍講和に伴う堀埋め立ての際に取り壊されてしまった。そして豊臣方の弱体化を謀る家康は慶長20年(1615年)2月に、使者として信繁の叔父である真田信尹を派遣し、「信州で十万石下さるべく候旨」条件を提示し、承知をするならば、本多正純から誓詞を与えると寝返るように説得している [40][11]。信繁が秀頼には恩があると言ってこれを断ると、正純から再び信尹を使者として差し向け、今度は「信濃一国を与える」と説得に出たが、これを聞いた信繁は「信濃一国などで裏切るような者だと思ったか。」と立腹して対面をしなかったという[11]

大坂夏の陣

    「天王寺・岡山の戦い」も参照

慶長20年(1615年)の大坂夏の陣では、道明寺の戦い(5月6日)に参加。伊達政宗隊の先鋒(片倉重長ら)を銃撃戦の末に一時的に後退させた。

ただし、この道明寺の戦いでは、先行した後藤基次(通称又兵衛)隊が真田隊が駆けつける前に壊滅し、基次は討死している。この大幅な遅れの要因としては、当日の濃霧のため、真田隊が行路を誤ったためとする史料がある。また、毛利勝永隊はこの時、真田隊より早く戦闘現場に着陣済みで、真田隊の到着を待っていた。しかも当日の指揮権は、大坂城内の譜代の大野治長が持っていた。そのため、後藤基次討死の責任が、信繁や勝永ら現場の武将にあるとは断定できない。しかし、所定の時間に着陣できなかった信繁は毛利勝永に向かって「濃霧のために味方を救えず、みすみす又兵衛(後藤基次)殿らを死なせてしまったことを、自分は恥ずかしく思う。遂に豊臣家の御運も尽きたかもしれない」と嘆き、この場での討死を覚悟した。これを聞いた毛利勝永は「ここで死んでも益はない。願わくば右府(豊臣秀頼)様の馬前で華々しく死のうではないか」と信繁を慰留、自らは退却に移った。ここで真田隊は殿軍(しんがり)を務め、追撃を仕掛ける伊達政宗隊を撃破しつつ、豊臣全軍の撤収を成功させた。この撤退戦の際には、「関東勢百万と候え、男はひとりもなく候」(「関東武者は百万あっても、男子は一人も居ないものだな」)と徳川軍を嘲笑しながら馬に乗り、悠然と撤収したといわれている。この言葉は後世にまで語り継がれた[41]


信繁は兵士の士気を高めるためには、豊臣秀頼本人の直接の出陣を訴えたが、豊臣譜代衆や、秀頼の母・淀殿に阻まれ、秀頼の出陣は困難を極めた[注釈 11]

5月7日、信繁は大野治房明石全登・毛利勝永らと共に最後の作戦を立案する。それは右翼として真田隊、左翼として毛利隊を四天王寺茶臼山付近に布陣し、射撃戦と突撃を繰り返して家康の本陣を孤立させた上で、明石全登の軽騎兵団を迂回・待機させ、合図と共にこれを急襲・横撃させるというものだった、とされている[42][注釈 12]


先鋒の本多忠朝の部隊が毛利隊の前衛に向けて発砲し、射撃戦を始めた。信繁は、かねての作戦計画に齟齬をきたすため、毛利隊に射撃中止の伝令を遣わし、勝永自身も中止を促したが、射撃戦は激しくなるばかりで、ついに本格的な戦闘へと突入したため、作戦を断念せざるを得なくなった[43]。これを受けて信繁は、軍目付の伊木遠雄に向かって武運拙きことを嘆き、己の死を覚悟したという[43][44]。そして死を覚悟した信繁は徳川家康本陣のみを目掛けて決死の突撃を敢行した。この突撃は真田隊のみではなく、毛利・明石・大野治房隊などを含む豊臣諸部隊が全線にわたって奮戦し、徳川勢は総崩れの観を呈するに至った[45]。信繁が指揮を執る真田隊は、越前松平家松平忠直隊・15,000の大軍を突破、合わせて10部隊以上の徳川勢と交戦しつつ[46]、ついに家康本陣に向かって突撃を敢行。精鋭で知られる徳川の親衛隊・旗本・重臣勢を蹂躙し、家康本陣に二度にわたり突入した。真田隊の攻撃のあまりの凄まじさに家康は自害を二度も覚悟したほどだった。

なお、家康の本陣が攻め込まれ馬印が倒されたのは「三方ヶ原の戦い」以来二度目であり、家康は武田家ゆかりの武将に二度馬印を倒されたこととなる[47]


大野治長は秀頼の出馬は今しかないと考え、自ら言上しようと大坂城に引き返した。しかしこの時、治長は秀頼の馬印を掲げたまま帰ろうとしたため[注釈 13]、退却と誤解した大坂方の人々の間に動揺が走り、落胆が広がった。さらに城内で火の手が上がったことで、前線で奮闘していた大坂方の戦意が鈍った。徳川家康はこれを見逃すことはなく、全軍に反撃を下知した。東軍は一斉に前進を再開し、大坂方は崩れ始めた。


この時、真田隊は越前・松平隊と合戦を続けていたが、そこへ岡山口から家康の危機を知って駆けつけた井伊直孝の軍勢が真田隊に横槍を入れて突き崩したという。真田隊は越前・松平隊の反撃によって次々と討ち取られて数が減っていき、遂には備えが分断されてしまった。数度に渡る突撃で信繁の疲弊も頂点に達した。兵力で勝る徳川勢に押し返され、信繁は家康に肉薄しながら、ついに撤退を余儀なくされたのである。真田隊が撤退をはじめたのを見た毛利隊も攻撃続行をあきらめた。こうして大坂方は総崩れとなって大坂城への退却を開始し、天王寺口の合戦は大坂方の敗北が決定的となった[48]


信繁は四天王寺近くの安居神社大阪市天王寺区)の境内で木にもたれて傷つき疲れた身体を休ませていた[注釈 14][注釈 15]ところを、越前松平家鉄砲組頭の西尾宗次に発見され、「この首を手柄にされよ」との最後の言葉を残して討ち取られた[49]。享年49。実際は、真田信繁という首が多数あったと言われている。一方、近年発見された[50]新史料[注釈 16]では、生玉(生國魂神社の周辺)と勝鬘(勝鬘院の周辺)の間の高台で身を休めていた信繁に、西尾が相手を知らずに声をかけ、互いに下馬して槍で戦った末に討ち取り、後に陣中見舞いに来た知人が過去に真田家に仕えていたことから信繁の首と判明したと記述されている[51]

詳しいことは、「真田信繁(幸村)ウィキペディア」をご覧ください。 ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9C%9F%E7%94%B0%E4%BF%A1%E7%B9%81
(wikiより)

262  真田幸村

真田信繁

262a



真田 幸昌(さなだ ゆきまさ)は、江戸時代前期の武将である。真田信繁(幸村)の嫡男、母は竹林院大谷吉継の娘)。通称は大助で、講談では真田 大助の名で登場する。

生涯

父・信繁が関ヶ原の戦いの後に高野山に流され、紀伊国九度山[7]に蟄居していた時期に生まれる。


慶長19年(1614年)、父とともに九度山を脱出して大坂城へ入った。翌年の大坂夏の陣道明寺の戦いに出陣して、敵の武将の首を取ったが、手傷を負い、主君の豊臣秀頼が和議を検討しているという噂があるからそれを阻止するようにと父に言い含められて、秀頼を見届けるように命じられた。この時、幸昌は父とともに最後まで付き従うつもりだったが、父の命令には逆らえず、やむなく大坂城に引き返したとされる。


大坂城落城時、まだ若年であり、また豊臣に特別な恩顧もないことから速水守久らから脱出を勧められたが拒絶して、秀頼の切腹に殉ずることにした。死の経緯については諸説あるが、幸昌は「我は真田左衛門佐信繁の倅なり」と叫んで介錯を加藤弥平太にして切腹したとも、加藤と刺し違えたとも云う。また別説の『武辺咄聞書』『老将座談』では(幸昌は13歳の児小姓とされているため)秀頼の命で加藤と武田左吉が介錯をするように定められたともする。いずれにしても、幸昌の殉死は美談として有名である。


また享年についても13から16の間で諸説ある。


墓所は和歌山県九度山町の善名称院ほか。また、父の信繁同様に各地に生存伝説が残る。


現在の大阪城の淀殿、豊臣秀頼らの自害の地に建てられた地蔵の前に、淀殿や秀頼、大野治長と並んで真田幸昌(大助)の名前も記されている。鹿児島市谷山には幸昌が逃がしたとされる秀頼の墓が残されている。

登場する作品
・小説

  ・都筑道夫『魔海風雲録』(1954年


・映画ドラマ

  ・『風雲急なり大阪城 真田十勇士総進軍』(1957年、映画、演:湊幹

  ・『風雲真田城』(1964年TBS、演:千草健

  ・『真田十勇士』(1975年、NHK人形劇、声:里見京子

  ・『真田太平記』(1985年、NHK木曜時代劇、演:小野隆(少年期)→ 片岡孝太郎

  ・『家康が最も恐れた男 真田幸村』(1998年テレビ東京、演:目黒正樹

  ・『真田十勇士』(2013年、舞台、演:渡部秀

  ・『真田十勇士』(2014年、舞台、演:中村蒼

  ・『真田十勇士』(2016年、舞台、演:望月歩

  ・『真田丸』(2016年NHK大河ドラマ、演:浦上晟周

脚注
1. 『仙台真田系譜』
2. 『信濃郷土叢書』第一期上巻
3. 『蓮花定院書面』
4. 小林計一郎 1989, p.96
5. デジタル版 日本人名大辞典+Plus
5. 小林計一郎 1989, pp.95, 187-188
6. 現在の和歌山県伊都郡九度山町。近くに歴史資料館九度山・真田ミュージアムがある。配所であった真田庵は同町の善名称院であり、九度山は高野山の表参道口にあたる場所の地名であって、山があるわけではない。

参考文献
小林計一郎編 『真田幸村のすべて』 新人物往来社、1989年。ISBN 440401614X 

・岡谷繁実 国立国会図書館デジタルコレクション 『日本偉人言行録. 地ノ巻』 大日本良書普及会、1934年https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1112446/184 国立国会図書館デジタルコレクション
(wikiより)

261 真田大助
真田幸昌

261a



時代江戸時代後期
生誕明和7年(1770年
死没文政11年7月27日1828年8月27日
改名順介(幼名)→幸専
戒名大暁院殿聖諦一義大居士
墓所

長野県長野市松代町の長国寺

神奈川県伊勢原市上粕屋 盛徳寺
官位従四位下、豊後守、伊豆守、弾正少弼、弾正忠
幕府江戸幕府
主君徳川家斉
信濃松代藩
氏族井伊氏真田氏
父母父:井伊直幸、母:坂本氏
養父:真田幸弘
兄弟井伊直尚井伊直寧井伊直富井伊直中井伊直広幸専土井利義井伊直明井伊直容井伊直致俊姫
正室:三千姫真田幸弘の娘)
養子 : 幸貫


真田 幸専
(さなだ ゆきたか)は、信濃松代藩の第7代藩主。近江彦根藩主・井伊直幸の九男。

生涯

天明5年(1785年)11月4日、4人の男子にいずれも先立たれた第6代藩主・真田幸弘の養子となった。幸弘は、真田一族からでなく幕閣有力者の子弟を養子として迎えることで、幕府との結び付きを強め、財政危機を招く課役を避けようと考え、井伊家から幸専を娘婿として迎え養嗣子としたという。


同年11月15日、将軍・徳川家斉御目見し、同年12月18日に従五位下豊後守に叙任した。寛政4年(1792年)に松代に入った。寛政10年(1798年)8月21日、養父の隠居により家督を継いだ。この頃、松代藩では財政が極度に悪化していたため、幸専も財政再建を主とした藩政改革を余儀なくされた。しかし幕府から江戸隅田川の工事などを命じられ、さらに財政が逼迫した。


幸専もまた後継者となる男子に恵まれなかった。そのため参勤交代に際して、はじめは柳沢保光の六男・久次郎(後の柳生俊豊)、次いで松平忠馮の次男・政之助(後の井上正廬)を仮養子にした。文化12年(1815年)、松平定信の次男・幸貫を養嗣子として迎えた。文政6年(1823年)8月20日、幸貫に家督を譲って隠居した。文政11年(1828年)7月に江戸藩邸にて逝去、大暁院と号した。享年59。
(wikiより)

260  真田幸専

真田幸専

260a



真田 幸教(さなだ ゆきのり)は、信濃松代藩の第9代藩主。従三位(1918年)。

生涯

真田幸良の長男として生まれる。父幸良は早くに死去していたため、庶子ではあったが祖父・幸貫の嗣子となる。


嘉永
5年(1852年)5月6日、幸貫の隠居により家督を継ぐ。翌年、ペリー浦賀に来航すると、横浜の応接場の警備を務めた。その後も江戸湾の第六台場や本牧などの警備などを務めている。藩政では、財政再建のため安政2年(1855年)に藩士の知行借上を行った。しかし祖父と違って若年で統率力に乏しく、しかも病気がちで、藩内で佐幕派の恩田派と尊王派の真田派が争うのを制すことができず、結果として幸貫が登用した佐久間象山などの優秀な人材を使いこなすことが出来なかった。象山が尊王派の刺客によって暗殺されるに及んで、松代藩では真田桜山率いる真田派が実権を掌握する。


文久3年(1863年)、将軍徳川家茂の上洛に際し松代藩が将軍留守中の横浜港警備を命じられると、藩内では病弱な幸教の隠居が議論されるようになる。そこではじめ下野佐野藩堀田正衡の七男・智七郎を仮養子として届け出、そののち養子候補として日向高鍋藩秋月種任の三男・政太郎肥後熊本藩細川斉護の三男・澄之助の名が上がるが、結局伊予宇和島藩伊達宗城の長男・幸民が養嗣子に迎えられた。


慶応2年(1866年)3月9日、幸民に家督を譲って隠居する。隠居後、側室との間に4人の子を儲け、このうち幸世は成人の後別家を立て、男爵となっている。


明治
2年(1869年)10月18日死去。享年35(満34歳没)。

系譜
・祖父:真田幸貫

・父:真田幸良

・母:順操院(心戒) - 村上英俊の妹

・正室:晴姫 - 松平頼恕の娘

  ・四男(長男?):真田幸世 - 後に分家して男爵となる

  ・長女:満佐 - 石川成徳正室

  ・次女:与志 - 本多忠敬正室

  ・養嗣子:真田幸民 - 伊達宗城の長男

・側室:山本久(多喜)

・側室:土屋久米

・側室:前嶋勝

・側室:児玉直
(wikiより)

259  真田幸教

真田幸教

259a

259b



真田 信綱(さなだ のぶつな)は、戦国時代武将武田信玄勝頼の2代に仕える。幼名は源太郎。官途は左衛門尉。武田家の騎馬200騎持の侍大将。武田二十四将にも数えられる。

家系
甲斐国守護武田氏に仕える他国衆・真田幸隆(幸綱)の嫡男。母は真田家の譜代家臣・河原隆正の妹・恭雲院(『仙台真田代々記』では飯富虎昌の娘とも)。正室は「於北様」と呼ばれ、北信濃の旧族・高梨政頼井上次郎座衛門の娘とする説がある。子に真田与右衛門真田信興真田信光らがいる。与右衛門は越前松平家へ仕官した。信光は孫との説もある(信興の息子?)。『滋野世記』によると、娘の清音院殿は信綱の弟・真田昌幸の嫡男・信之の正室(のちに側室)になったという。

生涯
武田家の家臣時代

天文6年(1537年)生まれであることは『信綱寺殿御事蹟稿』で明らかである。同母弟の昌幸・信尹らが幼年期から武田信玄に近侍しているため、信綱も早い時期から信玄に出仕していたと考えられている[3]


確実な初出史料は真田氏の氏神四阿山白山神社奥宮に奉納された父・幸隆と連名の連署で[4]、武田家へ仕えているが初陣や出仕時期など前半生は不明[3]。これは父・幸隆と生涯が重なるためで、前半生の大半は幸隆が前面に出ていたため、信綱の記録はほとんど見られない[3]。父と連署していることから、この時点で既に嫡子・家督相続者としての地位を固めていたとされている[4]


甲陽軍鑑』によれば永禄4年(1561年)の第4次川中島の戦いでは父・幸隆と共に妻女山攻撃の別働隊に加わっていたという。永禄6年(1563年)の岩櫃城攻略の前後から、幸隆は上野吾妻郡での活動が主となっており、信濃の本願地は後継者である信綱が事実上支配していたと思われる。『軍鑑』に拠る元亀3年(1572年)、「信玄惣人数書上」によれば幸隆に代わって信濃先方衆の筆頭に挙げられており、この頃には世代交代が済んでいると推測されており、史料の検討から西上野侵攻作戦が行われていた永禄10年(1567年)までには継承が行われていたと考えられている[5]


戦場では専ら父・幸隆や弟の真田昌輝らと共に行動しており、幸隆と共に信濃国や上野国を転戦し、永禄11年(1568年)には昌輝と兄弟で駿河国攻めの先鋒を担い、永禄12年(1569年)の三増峠の戦いでは昌輝や内藤昌豊とともに殿軍を務めて戦功を挙げている。その後も主要な戦いには必ず名を連ね、主に先鋒として活躍している。また近年では箕輪城城代であったとする説も有力で、準譜代としての待遇を得ていたようである。元亀3年(1572年)の信玄の西上作戦にも従軍し、三方ヶ原の戦いでは武田軍の先手を務めて奮戦した。

最後

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⇧ 設楽原決戦場三子山に残る真田信綱、昌輝兄弟の墓。(愛知県新城市浅谷)

天正2年(1574年)5月に幸隆の死去に伴い正式に真田家の家督を継いだ信綱は[4]、その一年後、天正3年(1575年)5月21日の長篠の戦いに真田の兵を率いて参戦した。三尺三寸の陣太刀・青江貞を振って奮戦し、馬防柵を次々なぎ倒しながら敵陣に迫るが鉄砲部隊の銃撃によって弟の昌輝と共に戦死した[4][1]享年39。設楽原古戦場に残る墓碑には、『真田源太左衛門尉信綱の碑』と刻まれている。


真田家の家督は勝頼の命令により信綱の遺児らに受け継がれることは認められず、武藤家を継いでいた同母弟の昌幸が継承した。法名は信綱寺殿天室道也大禅定門。


信綱を討ったのは徳川方の渡辺半十郎政綱渡辺半蔵守綱の実弟)だと言われるが(『三河後風土記』)、実際には織田信長配下の柴田勝家丹羽長秀羽柴秀吉ではないかとする説もある。信綱の首は着用していた陣羽織に包まれて、家臣(近習)の北沢最蔵白川勘解由が甲斐に持ち帰ったといい、この「血染めの陣羽織」は上田市の信綱寺に収蔵されている。なお、この2人は信綱を追って殉死し、その忠義を賞されて北沢家には300石、白川家にも200石が与えられた。


なお、信綱寺は、信綱の弟・昌幸が、位牌所として建立した寺で、この南には古城と呼ばれる尾根がある。ここは中世に真田氏が居館を構えていたと言われる由緒のある地である。

人物

信綱は信玄に将来を嘱望されるほどの豪勇の持ち主で、弟の昌幸も信綱の勇を尊敬していたという。甥(昌幸の次男)の真田信繁に信綱と同じ「左衛門」を名乗らせているのは信綱のように剛勇になってほしいという昌幸の期待があったといわれる。


初陣である信濃小岩嶽城攻めで一番槍の功名を挙げるなど豪勇の士であり、「若年より武勇抜群、信玄・勝頼両代のうち、攻城、野戦、その功すこぶる多し」と評されている(『真田家譜』)。

脚注
1. a b 柴辻 1996, p. 69.
2. 柴辻 1996, p. 70.
3. a b c 柴辻 1996, p. 68.
4. a b c d 柴辻 1996, p. 67.
5. 柴辻 1996, p. 68-69.

参考文献
柴辻俊六 『真田昌幸』 吉川弘文館〈人物叢書〉、1996年。

関連作品
近衛龍春『真田信綱 弟・昌幸がもっとも尊敬した武田家随一の剛将』PHP研究所、2013年。
(wikiより)

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真田 幸隆 / 幸綱(さなだ ゆきたか / ゆきつな)は、戦国時代武将信濃の在地領主で、甲斐国戦国大名である武田氏の家臣。息子三人と共に、武田二十四将にも数えられる。


幼名は次郎三郎、通称は源太左衛門、剃髪して一徳斎と号す。諸系図では幸隆と記されるが、確実な同時代史料においては幸綱と記され[2]、また子に“隆”を通字とする者がまったく居ない事などから、永禄5年頃までは幸綱と名乗り、幸隆は晩年に改めたものであると考えられている[3] 。「幸隆」の名に関して、『高野山蓮華定院過去帳』では一徳斎道号に伴い「一徳斎幸隆」と記されており、道号は原則として音読みされることから、「幸隆」の読みは「こうりゅう」であるとも考えられている[4]


出身は信濃小県郡の名族海野氏で、海野平合戦でいったん所領を失うが信濃に侵攻した武田晴信に仕えて旧領真田本城(松尾城)(長野県小県郡真田町)を回復。以後も武田家の信濃先方衆として活躍し、後の真田氏の礎を築いた。

生涯
信濃国小県郡(現在の長野県東御市)の豪族海野棟綱の子[5]、あるいは棟綱の娘婿真田頼昌の子[6]として生まれたとされている。幸綱の出自については様々な家系図とともに諸説あり、真田氏自体も幸綱以前の記録が少ないとはいえ存在しているため、真田頼昌を棟綱の娘婿とする説や、海野棟綱の子である幸綱が頼昌の養子になったなど、様々な見解があり確定していない。

上野国へ亡命

甲斐国では守護武田氏による国内統一が行われ信濃への進出を開始しており、武田信虎天文10年(1541年)に同盟関係にある信濃諏訪郡の諏訪頼重や、信濃小県郡の村上義清と共に信濃小県郡・佐久郡へ侵攻する。同年5月23日の海野平の戦いにより海野一族は敗北して上野へ亡命している。真田幸綱が合戦に参加していたことを示す史料は無いものの、共に箕輪城主・長野業正を頼って上野国に逃れている。


武田信虎海野平合戦から帰国した同年6月14日に嫡男・武田晴信(信玄)により駿河へ追放され、晴信が家督を継承する。晴信はまず天文11年(1542年)に独断で関東管領上杉憲政と和睦して領地を割譲した諏訪頼重を滅ぼすと、本格的な佐久小県郡侵攻を再開する。

旧領回復時期

幸綱は晴信期の武田氏に帰属して旧領を回復しているが、その帰属時期は諸説ある。『高白斎記』に拠れば、幸綱は調略を用いて佐久で抵抗を続ける望月氏の一部を武田氏方に臣従させたという。江戸時代初期の『甲陽軍鑑』に拠れば、天文17年(1548年)の上田原の戦い板垣信方の脇備として参戦している。一方、江戸時代に成立した真田家史料では、『真武内伝』が天文13年説とともに武田家の足軽大将である山本勘助(菅助)の推挙があったとする伝承を伝え、『沼田記』が天文14年説、『滋野世記』が天文15年説を伝えている。初期の軍役は10騎程度と推定する説があり動員兵力は300 - 400人程度と考えられるが功名を重ねた後年は200騎程であっただろうとされている。


近年の研究では、猪坂直一は諏訪氏の娘(諏訪御料人)が武田晴信の側室となる際に、同じ滋野一族禰津氏の養女となっていることから禰津氏が幸綱を推挙したと推測して天文12年説を提唱し[7][注釈 1]、柴辻俊六は武田の佐久侵攻と平行して相模の後北条氏が関東へ侵攻し、関東管領である上杉憲政を天文15年(1546年)4月に河越夜戦上杉氏勢を上野国から駆逐していることから、幸綱の帰属を天文15年としている。笹本正治は天文17年の上田原の戦い敗戦を契機に、晴信が村上義清対策に人材を求めてそれに応じた、或いは自分から売り込んだのが幸綱であったと推測している。

武田氏へ臣従

武田氏臣従した後は、信濃先方衆として軍役を務め、村上義清方の望月氏の調略などを行っている。天文19年(1550年)7月には小県郡諏訪に知行を約束されており[8][注釈 2]、同年9月の戸石城砥石城)攻めは真田幸綱の要請にもよるものと言われている[要出典]。戸石城攻めで幸綱は村上方の清野氏寺尾氏などを調略するが、戸石崩れ砥石崩れ)と呼ばれる大敗で一時は失敗する。


天文
20年(1551年)に再び戸石城攻めが行われ、『高白斎記』に拠れば真田幸綱の調略で同年5月26日に城はわずか1日で攻略されたという。

第一次川中島合戦

天文22年(1553年)、葛尾城が落城した村上義清越後国へ逃れ、真田幸綱は旧領を完全に回復する。義清は越後国の長尾景虎上杉謙信)を頼り、甲越両国は信濃の領有を巡って対峙し、川中島の戦いを展開することとなる。幸綱は対長尾氏上杉氏)の最前線に置かれることとなり、引き続き真田本城を本拠地とし、戸石城番を兼ねた。


この頃、関東へ進出した後北条氏は上野国で上杉憲政を庇護した長尾景虎と対峙するが、幸綱は天文23年(1554年)に甲相駿三国同盟に基づく北条氏康吾妻郡在城を求める出兵要請を受けており[10]、永禄4年からはじまる西上野侵攻など関東方面の戦略に関わっていたと考えられている[要出典]

弘治2年(1556年)9月8日には埴科郡東天飾城を攻略し、小山田虎満(備中守)とともに城番を務める。

出家
『甲陽軍鑑』に拠れば、永禄2年(1559年)に晴信が出家して信玄と名乗ると、自身も剃髪して一徳斎と号したという。

第四次川中島の戦い
詳細は「川中島の戦い」を参照


『甲陽軍鑑』によれば、永禄4年(1561年の、第4次川中島の戦いでは、嫡男・真田信綱とともに妻女山の上杉本陣への夜襲に加わっていたという。川中島の戦いの後、武田信玄西上野侵攻を開始するが、武田氏に提訴されていた吾妻郡内での鎌原氏羽尾氏の所領抗争は、双方が真田氏の同族でもあることから、真田幸綱が調停に関わっている。永禄6年(1563年)には羽尾氏を支援した上杉氏方の斎藤氏の居城・岩櫃城を、永禄8年(1565年)には嵩山城を、永禄10年(1567年)には白井城を攻略している。近年の柴辻俊六らの研究によると、嫡男・信綱と共に、武田氏の上野攻略の拠点・箕輪城代であった時期もあるようである。これは譜代衆並みの扱いである[要出典]

隠居
永禄10年(1567年)、病気のために家督を真田信綱に譲って隠居したとされている。このため、信玄の駿河侵攻西上作戦には加わらず、もっぱら信濃北部及び上州方面の抑えとして活動した。

死去
天正2年(1574年)5月19日、戸石城で病死した。享年62。墓所は長野県上田市真田町の曹洞宗真田山長谷寺 (上田市)にある。肖像は長野県長野市松代町長国寺 (長野市)所蔵。

人物・逸話
・幸綱の智略と功績は信玄に高く評価され、外様衆でありながら譜代家臣と同等の待遇を受け、甲府に屋敷を構えることを許された。武田家中でも一目置かれていたと言われており、戦国三弾正の一人として、「攻め弾正」の異名で呼ばれている。ただし現在のこうした幸綱像は、19世紀前半に近世の松代藩主真田氏の業績を記した『先公御事蹟稿』などを土台にしており、真田家の主張を前提として過大評価されたものであるともされている。

・真田家の旗印である「六文銭」は三途の川を渡るための船賃という不吉な意味であるが、幸綱はかつて仕えていた山内上杉家を見限り、身命を賭して武田家に仕えて家名を残す覚悟で、この旗印を用いたとされる。(家紋・旗印に関しては「真田氏の家紋」を参照)

詳しいことは、「真田幸隆ウィキペディア」をご覧ください。 ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9C%9F%E7%94%B0%E5%B9%B8%E9%9A%86
(wikiより)

257  真田幸隆

真田幸隆

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真田 昌幸(さなだ まさゆき)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将大名


甲斐国
武田信玄の家臣となり信濃先方衆となった地方領主真田氏の出自で、真田幸隆(幸綱)の三男。信玄・勝頼の2代に仕え、武田氏滅亡後に自立。織田信長の軍門に降り、滝川一益の与力となったが、本能寺の変後に再び自立し、近隣の北条氏徳川氏上杉氏との折衝を経て、豊臣政権下において所領を安堵された。上田合戦で2度にわたって徳川軍を撃退したことで、徳川家康を大いに恐れさせた逸話で知られるが、関ヶ原の戦いで西軍についたために改易された。


軍記物
講談小説などに登場したことで、後世には戦国時代きっての知将・謀将としての人物像としてよく知られ、武田二十四将の一人にも数えられることがある。子に真田信之上田藩初代藩主)、真田信繁(真田幸村)ほかがいる。

生涯
出自

天文16年(1547年[注釈 3]、真田幸隆(真田幸綱)の三男として生まれる[4][3]。生誕月日は不明[4]。幼名は源五郎[5]


真田昌幸
は三男であり、同母兄に真田信綱真田昌輝がいたため、生まれた時点で真田氏の家督相続の権利は無かった。

武田信玄の時代
天文22年(1553年)8月、甲斐武田家への人質として7歳で甲斐国へ下り、武田晴信(武田信玄)の奥近習衆に加わった[5][6]。なお、『甲陽軍鑑』(以下『軍鑑』)によれば、この時の奥近習衆は昌幸の他に金丸平八郎曽根与一三枝勘解由三枝新十郎曽根総次郎が挙げられている[5]

武田氏親族衆の武藤氏を継ぐ

真田昌幸永禄年間に信玄の母系・大井氏の支族である武藤氏の養子となり、武藤喜兵衛を称し足軽大将に任じられ、その軍役は騎馬15騎、足軽30人と伝えられている[注釈 4]。 なお、武藤氏武藤三郎左衛門尉の時に実子の武藤与次が早世したため、真田昌幸を養子にとったとされている[8]


永禄
7年(1564年)頃に、山手殿(山之手殿、真田信之、真田信繁らの母)を妻に迎えている。山手殿は公家・菊亭晴季の娘とされているが、晴季の生年などから否定的見方がなされており、出自には諸説がある(山手殿の項を参照)。

第四次川中島の戦い

初陣は『甲陽軍鑑』によれば、永禄4年(1561年)9月の第四次川中島の戦いと言われ、足軽大将として武田家奉行人にも加わったと言われている。ただし『軍鑑』以外の史料が無く、昌幸が川中島に出陣したかどうかの傍証は無い。ただし昌幸は15歳であり、元服前後の年齢で出陣していた可能性も否定はできない[9]


永禄9年(1566年)春、甲府一蓮寺で歌会が開かれた際には奥近習衆として信玄の配膳役を勤めた。永禄10年(1567年)11月に武田勝頼の嫡男・武田信勝が生まれた際には山県昌景馬場信春内藤昌豊(昌豊)・土屋昌続(昌次)と共に信玄の使者として高遠城の武田勝頼の下に出向いた。昌幸以外の顔ぶれはいずれも武田氏の譜代宿老・重臣クラスであり、この頃の昌幸は武藤氏を継いで既に重臣クラスかそれに準ずる地位にあったと見られている。ただし出典が『軍鑑』のみで傍証が無いのも事実である[9]

武田信玄の小田原攻め
永禄12年(1569年)10月6日、北条氏康氏政氏照親子との三増峠の戦いでは先陣の馬場信春への使番を務めた[10]。『軍鑑』によれば北条氏との戦いで一番槍の高名を挙げたとされている。

武田信玄の駿河侵攻
武田信玄は昌幸の父・幸隆にも劣らぬ才能を見抜いていた。『軍鑑』によれば、元亀元年(1570年)に武田軍が伊豆に侵攻して韮山城を攻めている時、北条氏政が援軍の指揮を執り箱根を越えて三島に着陣したので、信玄は決戦を主張した。これに状況を見極めるべきではと慎重論を唱えた馬場信春に、「信玄の両眼の如き者たちを物見に派遣しておる」と信玄は答えた。諸将が信玄の両目に比肩される武将は誰なのかと訝しんでいると、まもなく曽根昌世と昌幸が帰還して報告をして、その両名が両眼であることがわかった[11]。 この話に出てくる昌世がそうであるように、昌幸も、父と兄の信綱、昌輝と並び、武田二十四将にも数えられる事があり、父と兄弟3人が武田二十四将に数えられるような家は、この真田家だけである。

武田信玄の西上作戦

元亀3年(1572年)10月から武田信玄の西上作戦に参陣し、12月の三方ヶ原の戦いにも参加しているが[12]、この際に昌幸は浜松城に敗走した徳川家康らを追撃・総攻撃すべきという意見に反対したとされている[13]。『甲陽軍鑑』によれば、昌幸は「武藤喜兵衛尉、騎馬15騎、足軽30人」の指揮を執って出陣したとされている。当時の昌幸の所領の場所や規模は明らかではないが、武田家の親族衆である信玄の弟・武田信実が昌幸とほぼ同じ規模の兵を保有しており、信実は397貫文を知行としていたため、昌幸も同等かそれより上くらいと推測されている。なお、この頃には養父の武藤三郎左衛門尉は戦死していたとされており、昌幸がその遺領を継いでいたと見られている[14]


なお、信玄の晩年には武田氏の奉行人に列されており、元亀3年(1572年)2月4日の佐久郡岩村田の龍雲寺宛の竜朱印状の奉者として確認できる[15]

武田勝頼の時代

元亀4年(1573年)4月、信玄が病死すると家督を継いだ武田勝頼に仕えた[16]


天正2年(1574年)には父・幸隆が死去する。この時、既に真田氏の家督は長兄・真田信綱が継いでいた。しかし天正3年(1575年)5月21日の長篠の戦いで信綱と次兄・昌輝が討死したため、昌幸は真田氏に復して家督を相続した[17]。これには武田家の重臣で川中島海津城主であった高坂昌信の支援があったとされ、勝頼も昌幸の復姓と家督相続を認めたとされる。なお、昌幸も長篠合戦には参加していたが、勝頼旗本衆として参加していたため、戦死は免れていた[18]。なお、武藤家の家督は武藤一族の武藤常昭が継承したと考えられており、武藤領と真田領を併せて相続したわけでは無かったようで、所領に関しては真田領のみの相続であった[18]。家督相続後、昌幸は真田領の仕置のために在国し、あるいは勝頼への甲府出仕も多かったとされ、本領と甲斐を往復する事を繰り返したようである[19]。真田氏の本拠の展開は戸石城を中心とした一帯を掌握したことを第一の画期としており、居館を核としてはいるが、山城(詰の城)・寺院・市町などはいずれも多元的で家臣の集住はほとんど見られないことから[20]、昌幸の支配領域では兵農未分離のまま、在地の中小領主層が戦国期以来の郷村支配を続けており[21]、上田に移住するまで昌幸は、小県郡と西上野に独自の領域支配を展開していくことになる[22]


天正6年(1578年)3月、越後上杉謙信死後に御館の乱を経て甲越同盟が成立するが、この時の上杉景勝との交渉は親族衆の武田信豊・譜代家老の小山田信茂・勝頼側近の跡部勝資らが担当しており、昌幸は蚊帳の外に置かれていた[23]。この同盟成立により、天正7年(1579年)9月に昌幸は勝頼の命令で北条氏政の所領であった東上野の沼田領へ侵攻した。昌幸は沼田衆を調略によって切り崩し、叔父の矢沢頼綱沼田城を攻めさせ[23]、一方で現在の利根郡みなかみ町にある名胡桃城鈴木重則小川城小川可遊斎を誘降させて両城を手に入れた[24]。そしてこれらを拠点にして沼田城を攻撃したが、北条氏邦が援軍に駆け付けたために撤退した。天正8年(1580年)閏3月から沼田城攻撃を再開し、金子泰清藤田信吉らを投降させて5月に沼田城を開城させた。この時、同時に利根郡みなかみ町にあった猿ヶ京城も攻め落とした[24]。同年、武田信勝元服祝儀の名目で喜兵衛尉を改め、安房守の名乗りを許された[25]。この時点では、勝頼から与えられた私称である[26]。これは、北条方の上野担当である藤田(北条)氏邦が、安房守を受領名としていたことへの対抗である[27][注釈 5]


天正9年(1581年)には、勝頼の命で新たに韮崎へ築城された新府城の人夫動員を通達している。新府城築城に関しては昌幸は作事奉行であったとする説もあるが、昌幸は麾下の諸将に人夫動員を通達しているに過ぎず、作事奉行であったとする見方を慎重視する説もある[30]。同年、元沼田城主・沼田景義が旧領奪回を図ったが、昌幸は家臣の金子泰清に命じて景義を討ち取った。


天正10年(1582年)3月、織田信長徳川家康連合軍による甲州征伐が開始され本格的な武田領国への侵攻が行われた。なお江戸期編纂の文書に拠れば、このとき昌幸は武田勝頼に甲斐国を捨てて上野国吾妻地方に逃亡するように進言し岩櫃城へ迎える準備をしていたが勝頼は郡内領主・小山田信茂の居城である岩殿城を目指して落ち、その結果途中で信茂の裏切りに遭って最期を遂げることになったと言われている。このような武田家への忠誠を示す逸話が知られるが、一方で武田滅亡以前から北条氏邦、徳川家康、上杉景勝との接触を示す史料もあり、氏邦からは北条への降伏をするよう返信を受けている。


武田氏滅亡後、天正10年4月8日、昌幸は織田信長から、旧領のどの部分かは不明だが安堵をされ、織田政権に組み込まれ[31]織田氏の重臣・滝川一益の与力武将となった。また沼田城には滝川益重が入った。昌幸は次男の信繁を人質として滝川一益に差し出した[32]

天正壬午の乱
詳細は「天正壬午の乱」を参照


織田氏に従属してから僅か3ヶ月後の天正10年(1582年)6月2日に本能寺の変で信長が横死する。甲斐・信濃の旧武田領はこの事変で騒然たる状態となり、森長可毛利秀頼道家正栄ら信長から旧武田領の統治を任されていた織田家臣らは相次いで美濃方面に逃走し、甲斐・信濃諏訪郡支配を担っていた河尻秀隆は殺害された。こうして無主となった旧武田領を巡り、徳川家康・上杉景勝・北条氏直らが熾烈な争奪戦を繰り広げた(天正壬午の乱)。


昌幸もこの好機を見逃さず、信濃小県郡佐久郡における旧武田家臣の取り込みを策した。織田信長の苛烈な仕置のために武田家臣の多くは潜伏していたが、本能寺の変により彼らは自由の身となった。しかし主家である武田家は既に滅亡しており、彼らは6月12日に小県郡海野郷に鎮座する白鳥明神の祭礼に事寄せて神前で会合し、酒を酌み交わしながら将来について話し合った。昌幸はこの会合には参加していないが、会合参加者の一部をこの時に既に調略しており、この会合で調略していた一部が昌幸を総大将に仰ぐ事を表明すると他もそれに続くようになった。そして彼らの代表者が岩櫃城にいた昌幸の下を訪れ、昌幸は快諾して砥石城に移り、彼らと主従の契りを結んだ。この2日前の6月10日には真田領の四阿山白山神社の宝蔵院に寺領を寄進し、武田家臣時代の与力衆だった吾妻衆の家臣団化を推し進めている。6月12日付で吾妻郡の地侍・恩田伊賀に30貫文、6月16日には吾妻郡の豪族・鎌原重春に1,000貫文、6月21日には湯本三郎右衛門に所領を与え、吾妻郡有力者の人心収攬に務めている。


6月19日、北条氏直が上野に侵攻し、滝川一益を破った(神流川の戦い)。この時、昌幸は滝川一益を諏訪まで送り届けた[33]。昌幸は一益がいなくなり上野も無主になると、6月21日に叔父の矢沢頼綱を送り込んで沼田城を奪回した。また、嫡男の信幸を岩櫃城に送って上野方面の守備を固めた。


同時期、越後の上杉景勝も北信に進軍し、6月24日に長沼城に入った。これに対し、昌幸はまず上杉景勝に臣従したが、7月9日には北条氏直に降った[34][35]。7月12日、北条氏直は川中島に進軍し、上杉景勝と対峙したが決戦を避け、徳川家康が侵攻した甲斐に向かった。この時、松田憲秀と真田昌幸を殿として残している[36]。一方、上杉景勝は8月9日に新発田重家に対処する為に越後に帰国した。沼田城に戻った昌幸は9月25日、佐久郡において北条氏直に抵抗していた春日城主・依田信蕃を介して徳川家康方となり、突如、北条氏を裏切る[34]。10月19日に禰津昌綱を攻めたのを手始めに、信蕃と連合軍を形成して小諸で軍事行動を行うが、信蕃と組むのは北条氏を裏切った証として家康から求められていたものであった[37]。昌幸離反の情報は、10月初旬に北条氏に伝わったとみられる[37]藤田氏邦は昌幸をけん制するため沼田城を攻めるが、成功しなかった[38]。これが契機となって、若神子で徳川軍と対陣する北条氏直は10月29日に和睦の途を選択する。しかし、北条氏との同盟を選択した家康は氏直に和睦の条件として上野国の沼田領を譲渡するという条件を出した。昌幸は自力で獲得した沼田割譲について代替地が不明瞭だったことに反発し、徳川・北条と敵対していた越後の上杉景勝に臣従する[39]。これは徳川・北条連合と対立する上杉・羽柴陣営への参加に他ならない。この時、厩橋城北条高広も真田昌幸や上杉景勝に通じ北条氏と敵対するが、翌年9月頃、厩橋城は落城している。

徳川家康との対立
詳細は「上田合戦」を参照


天正11年(1583年)、昌幸は上杉氏に対する千曲川領域を抑える城が必要になり、徳川家康の命で川の北岸、沼、崖などの自然を要害とする地に松尾城(後の上田城)と、その周囲に当時流行の城下町も築いた[40]。また、同時期には北条氏と通じていた一族である根津昌綱を懐柔、近隣の屋代秀正室賀満俊らを調略し、丸子氏を滅ぼしている。これら一連の活動は徳川家の家臣として行なっているが、昌幸は家康との和睦条件の齟齬から独立を策していたとされている。


天正12年(1584年)3月に小牧・長久手の戦いが起こり、家康は主力の指揮を執り尾張国に向かい、昌幸は越後の上杉景勝を牽制するために信濃に残留した。昌幸は家康の注意がそれたのを見て、吾妻衆に上野白井城を計略を以て攻めさせ[41]、沼田城周辺で北条氏と小競り合いを繰り返している間に、知行宛行状を濫発して沼田・吾妻の所領を改めて確保し、さらに室賀正武を殺害し、徳川を刺激しないため正武の妻子の命は助けて、上杉に引渡した。この事件は真田による謀殺ではなく、昌幸を暗殺しようとした室賀を返討ちにした事件として噂が広められた[42]。 こうして沼田・吾妻・小県を完全に真田領として掌握した。当時佐竹義重宇都宮国綱の連合軍と沼尻の合戦を展開していた氏政、氏直父子は、昌幸の動きを警戒しており、主要街道の確保に躍起になっていた[43]


家康は12月に羽柴秀吉と和議を結んで尾張から撤兵する。そして北条氏直から和議の条件の履行を迫られたため、天正13年(1585年)4月、甲府に軍を進めて昌幸に対し沼田領を北条氏に引き渡すように求めた。しかし昌幸は相応の替地が宛がわれない限りは引き渡しに応じないと拒否[注釈 6]。 家康は浜松城に引き返した。


昌幸は家康との手切れを決断し、徳川軍の侵攻に備えて7月15日に次男の信繁を人質にして上杉景勝に従属する。閏8月、真田領の制圧を狙った徳川家康と北条氏直は、鳥居元忠大久保忠世平岩親吉ら約7,000の兵力を昌幸の居城・上田城に、藤田氏邦を沼田城に侵攻させた[注釈 7]。 昌幸はわずか2,000の兵力[注釈 8]で徳川軍に1,300人もの死傷者を出させるという大勝をおさめている(第一次上田合戦)。結城晴朝のもとに上田の戦勝の知らせが届いた時にはその数字は2千人に膨れ上がり、晴朝は「誠に心地好き次第」として喜んだ[44]。この上田合戦を契機に真田氏は、武田の旧臣から信濃の独立勢力(大名)として豊臣系大名の間で認知されることになった。同様の構図による戦いは幾度か再戦があり、少なくとも2度以上あったとされる。一方、家康は上田の敗戦を受けて、北条氏との同盟強化に乗り出さなければならなかった[44]。また、氏直は沼田攻めを手掛けるも、落とせなかった[45]

豊臣政権時代
詳細は「小田原征伐」を参照


天正13年(1585年)冬、次男の信繁が上杉景勝の人質から、盟主である豊臣秀吉の人質として大坂に出仕し、昌幸は豊臣家に臣従した。


天正14年(1586年)には佐久に侵攻する。5月25日には北条氏直に沼田城を攻撃されるが撃退した。7月には家康が昌幸征伐のために甲府に出陣する。しかし8月7日に秀吉の調停を受けて真田攻めを中止。その代わりに11月4日、秀吉の命令で昌幸は家康の与力大名となった[46]


天正15年(1587年)2月に上洛。3月18日に昌幸は小笠原貞慶とともに駿府で家康と会見し[47][48]、その後上坂して大坂で秀吉と謁見し、名実ともに豊臣家臣となった[46]。なお、真田氏は上杉氏を介して豊臣大名化を遂げたのではなく、上杉氏には真田氏を豊臣大名化させる意志はなかったため、昌幸が独力で交渉窓口を切り開いたが、有力な取次と関係を構築できなかったので、豊臣大名化が遅れた[49]


天正17年(1589年)には秀吉による沼田領問題の裁定が行われ、北条氏には利根川以東が割譲され昌幸は代替地として伊那郡箕輪領を得る。この頃、昌幸は在京していたが、11月には北条氏家臣の猪俣邦憲名胡桃城を攻め、これが惣無事令違反とみなされた[50]。この名胡桃城奪取事件の際、昌幸から同城代に任命されていた鈴木重則は昌幸に対して責任を取る形で自害した。この名胡桃城奪取事件は天正18年(1590年)の小田原征伐の原因となる[注釈 9]


小田原征伐に際しては、天正18年(1590年)1月8日に秀吉から3か条の条目を与えられている[51]。3月上旬には上杉景勝・前田利家ら北陸の豊臣軍と共に北条領の上野に攻め入り、北条家重臣の大道寺政繁が守る松井田城を攻めた[51]。この小田原征伐の間、昌幸は秀吉・石田三成らと相互に情報交換を繰り返しており、松井田城包囲中に三成宛に「上野国中に悉く放火仕る」と報告している[51]。松井田城攻略後は上野における北条家の属城を次々と落とし、4月29日付の秀吉の昌幸宛書状では北条属城の攻略を受けてその仕置を命じられて、武器・兵糧・弾薬の没収を務めている[注釈 10]。 以後、北陸軍は上野・武蔵など関東北部の北条属城を落としながら南下する[52]石田三成の指揮下で大谷吉継らと忍城攻めに加わったと伝えられ、浅野長政らと持田口攻めを担当したが甲斐姫らに撃退されたとされている。


北条家が降伏すると、家康は関東に移され、関東の周囲には豊臣系大名が配置されて家康の牽制を担った。昌幸は秀吉から旧領を安堵され、同じく家康牽制の一端を担った。昌幸は秀吉から家康の与力大名とされていたが、沼田問題で昌幸の在京期間が長期に及んで秀吉の信任を得る事になり、正式に豊臣系大名として取り立てられていた可能性が指摘されているが、それを示す直接的史料は無い[53]。なお安堵された領地の内、沼田領は嫡子の信幸に与えられ、信幸は家康配下の大名として昌幸の上田領から独立した[54]


文禄元年(1592年)、文禄の役では肥前名護屋城に在陣した[55]。昌幸は秀吉の命令で500人の軍役が課されており、16番衆組として徳川家康ほか関東・奥羽諸大名の中に編成された[56]。昌幸は渡海命令を与えられる事の無いまま、家康と共に文禄2年(1593年)8月29日に大坂に帰陣した[55]。この1年半の間、上田領内に発給した昌幸の文書は皆無であり[55]、上田統治は家臣に任せていた可能性が高い。


大坂に帰陣した後、渡海しなかった代償として昌幸らには秀吉の隠居城である伏見城の普請役の負担を命じられた[55]。そのため昌幸は上京してその指揮を務め、資材や労働力を負担したが、この間に豊臣秀頼が生まれたため、一応は完成していた伏見城の更なる拡張工事を命じられて普請に当たっている[55]。昌幸は普請役では知行高の5分の1の人数負担が割りふられており、その人数は270人を数えている[57]。ただし扶持米は豊臣家から支給された[57]。また、築城工事の最終段階で木曽材の運搬役を秀吉から命じられている[注釈 11]


この軍役や普請の負担の功労により、文禄3年(1594年)11月2日に秀吉の推挙で信幸に従五位下伊豆守と豊臣姓[58]、信繁に従五位下左衛門佐と豊臣姓が与えられた[57]。なお、信繁はこの頃になると昌幸の後継者としての地位を固めつつあった[57]。また、同年4月には、昌幸は自称だった安房守に正式に任官されている(従五位下安房守)[26]


慶長2年(1597年)10月、秀吉の命令で下野宇都宮城主の宇都宮国綱が改易されると、その所領没収の処理を浅野長政と共に担当した[58]


時期不明であるが、秀吉から羽柴の名字を与えられたのであろう「羽柴昌幸」の文書が残っている[59]

詳しいことは、「真田昌幸ウィキペディア」をご覧ください。 ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9C%9F%E7%94%B0%E6%98%8C%E5%B9%B8
(wikiより)

256  真田昌幸

真田昌幸

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九代目・息女。

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