本牧jack『意外と身近にある歴史散歩』日々是好日 心灯 頬笑

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2022/11

 此方のお墓は、遺髪墓となっております。

勝田 武尭(かつた たけたか、延宝8年〈1680年〉 - 元禄15年2月4日1703年3月20日〉)は、江戸時代前期の武士赤穂浪士四十七士の一人。通称は新左衛門(しんざえもん)。

生涯

延宝8年(1680年)、赤穂藩浅野家家臣の勝田重尭の子として誕生。母は佐藤甚右衛門の娘。


元禄元年(1688年)に父と母が相次いで死去したため、9歳で勝田家の家督を相続。赤穂藩では札座横目兼中小姓(15石3人扶持)として仕えた。元禄7年(1694年)、備中松山城受け取りの軍にも従軍している。


元禄14年(1701年)3月、浅野長矩の殿中刃傷時には赤穂にいた。4月、大石良雄の神文血判を提出した一人。赤穂城開城後はすぐに江戸へ下向し、堀部武庸ら江戸急進派と合流した。元禄15年(1702年)6月、浅草茶屋において親しくしていた前原宗房倉橋武幸杉野次房不破正種武林隆重らとともに同盟の誓約をした。特に杉野次房とは親しく、8月からは本所の杉野の借家に住ませてもらった。


吉良邸討ち入りでは表門隊に所属した。元禄15年(1703年)2月4日、長府藩毛利家上屋敷で同家家臣の進藤為右衛門の介錯で切腹した。享年24。主君長矩と同じ泉岳寺に葬られた。法名刃量霞劔信士。

関連項目
大石神社
(wikiより)

72 勝田新左衛門武堯

勝田武堯

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 此方のお墓は、遺髪墓となっております

前原 宗房 (まえはら むねふさ、寛文4年(1664年) - 元禄16年2月4日1703年3月20日))は、江戸時代前期の武士赤穂浪士四十七士の一人。通称は伊助(いすけ)。

生涯

寛文4年(1664年)、浅野家家臣・前原自久の長男として赤穂藩浅野家江戸上屋敷に生まれる。


延宝4年10月9日1676年11月14日)、父・自久の死により元服のうえ家督を継いだ(10石3人扶持)。宗房は江戸詰めの金奉行(蔵奉行とも)として勤仕したため、財政に明るかった。これが後に商人に成りすます際に大いに役に立った。


元禄
14年3月14日1701年4月21日)に起きた主君・浅野長矩吉良義央への刃傷の際に前原は江戸にいた。その後、江戸急進派として行動し、はじめ大石良雄らの盟約に加わらず、別行動をとった。はじめ日本橋あたりに住んでいたが、9月には吉良邸裏門近くの本所相生町二丁目に移住して「米屋五兵衛」と称して店を開業しながら吉良家の動向をさぐった。11月に良雄が第一次江戸下向をした際にその盟約に加わる。元禄15年(1702年)4月には「小豆屋善兵衛」と称していた神崎則休と合流して一緒に暮らした。6月には浅草茶屋にて杉野次房武林隆重倉橋武幸不破正種勝田武尭らと同盟の誓約をする。また討ち入りの直前には亡君刃傷から討ち入りまでの経過を漢文体で書き綴った『赤城盟伝』を著しており(則休が注釈をいれ、木村貞行が序文を寄せた)、このなかで脱盟者のことを辛らつに評している。


吉良邸討ち入りの際には裏門隊に属した。本懐後は長府藩毛利家に預けられ、元禄16年2月4日1703年3月20日)に毛利家家臣・榊政右衛門の介錯で切腹した。享年40。主君・長矩と同じ高輪泉岳寺に葬られた。法名は刃補天剣信士。


なお、『忠臣蔵』のドラマでは、宗房は吉良邸探索中に小林平八郎清水一学に察知されて拷問を受ける場面を描かれること多いが、特に史実に基づく確証がある話ではない。

関連項目
大石神社
(wikiより)

73 前原伊助宗房

前原伊助宗房

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 此方のお墓は、遺髪墓となっております。

小野寺 秀富(おのでら ひでとみ、延宝4年(1676年) - 元禄16年2月4日1703年3月20日))は、江戸時代前期の武士赤穂浪士四十七士の一人。通称は幸右衛門(こうえもん)。大高忠晴の二男。本姓藤原氏家紋は木瓜。

生涯

延宝4年(1676年)、赤穂藩浅野氏家臣の大高忠晴の次男として赤穂にて誕生。母は貞立尼小野寺秀和の姉)。幼名は小二郎(こじろう)。兄に大高忠雄がいる。


母が小野寺家の血統であるため、同じく浅野家臣の小野寺秀和の養子に入ったが、正確な時期はわからない。ただ小野寺家の通し字の「秀」の字を使った「秀富」を諱にしているので、まだ諱を得ていない元服前に養子入りしたのであろう。家督前の部屋住みとして過ごした。


元禄14年(1701年)3月の主君・浅野長矩が江戸城松之大廊下で吉良義央に刃傷に及び、浅野長矩は即日切腹、赤穂藩は改易と決まった。以来、常に養父秀和と行動を共にしていたようである。元禄15年(1702年)9月に大石良金にしたがって江戸に下向し、江戸では麹町の中村正辰の借家に住んだ。変名は仙北又四郎。


討ち入りの際には表門隊に属し、太刀を武器に使い、真っ先に吉良邸内に切り込みをかけ、吉良家番人たちを斬り捨てるという勇猛果敢さを見せた。さらに吉良邸内では弓が並べて置かれているのを発見して弦を切って全て使えなくするという戦功もあった。仇討ち後、長府藩主・毛利綱元の上屋敷にお預かりとなり、同家家臣田上五左衛門の介錯で切腹した。享年28。主君・浅野長矩と同じ江戸の高輪泉岳寺に葬られた。法名は刃風颯剣信士。


なお、秀富は兄・忠雄と同様に俳諧をたしなみ、漸之という雅号を持っていた。子葉(大高忠雄)の編著である俳諧集『二ツの竹』にも漸之の句が載せられている。

関連項目
大石神社
(wikiより)

74 小野寺幸右衛門秀富

小野寺幸右衛門秀富

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間瀬 正辰(ませ まさとき、天和元年(1681年)-元禄16年2月4日1703年3月20日))は、江戸時代前期の武士赤穂浪士四十七士の一人。通称は孫九郎(まごくろう)。間瀬の呼び方は一説に「まなせ」。

生涯

天和元年(1681年)、赤穂藩大目付の間瀬正明(四十七士の一人)の長男として誕生。母は刈部弥次郎の娘。


家督は継いでおらず部屋住みの身であったが、元禄14年(1701年)3月14日に主君・浅野長矩吉良義央に刃傷に及んで切腹改易となると、父とともに大石良雄に誓書を提出して主君の仇討ちを志した。父とともに赤穂藩飛び領の加東郡に滞在していたが、元禄15年(1702年)9月には江戸へ下向し、10月には父の正明も江戸下向した。三橋小一郎と称して新麹町四丁目の中村正辰の借家に入った。なお、三橋は曽祖父の苗字であった。


吉良邸へ討ち入りし吉良義央の首をあげたあとは、水野忠之の屋敷へ預けられた。元禄16年(1703年)2月4日に水野家家臣・小池権六の介錯で切腹した。享年23。主君・浅野長矩と同じ高輪泉岳寺に葬られた。法名は刃太及剣信士。

関連項目
大石神社
(wikiより)

84 間瀬孫九郎正辰

間瀬孫九郎正辰

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間 光興(はざま みつおき、延宝6年(1678年) - 元禄16年2月4日1703年3月20日))は、江戸時代前期の武士赤穂浪士四十七士の一人。通称十次郎もしくは重次郎(じゅうじろう)。

生涯

延宝6年(1678年)、播磨国赤穂藩士・間光延の長男として誕生。弟に間光風がいる。


元禄14年(1701年)3月14日、主君の浅野長矩江戸城松之大廊下で吉良義央に刃傷に及んだことで切腹となり、赤穂藩が改易となったとき、光興はまだ部屋住みの身分だった[1]


吉良への仇討ちを決定した円山会議の後に江戸へ下向。杣荘十次郎(そまのそう じゅうじろう)を名乗って潜伏した。元禄15年(1703年)12月15日の吉良屋敷討ち入りには父や弟とともに参加し、表門隊に属している。大高忠雄とともに邸内へ一番乗りし、忠雄と近松行重と組んで屋敷内で奮戦した。光興たちが炭小屋を探索し、中にいた人物の一人に光興が初槍をつけ、武林隆重が斬殺した。死体を改めると吉良義央と判明、光興が首をはねた。


浪士たちは浅野長矩の墓所・芝泉岳寺へ引き揚げ、一番槍をつけた光興が最初に焼香した。三河岡崎藩水野忠之の芝中屋敷にお預けとなり、元禄16年(1703年)2月4日、幕命により光興は、水野家家臣・青山武助の介錯により切腹した。享年26。戒名は刃澤藏劔信士。

武芸
光興は間家伝来の天流剣術を父から、起倒流柔術を藩士の平野頼建からそれぞれ学んだ。江戸の著名な剣客であった堀内正春の道場では堀部武庸奥田重盛とともに堀内流剣術を学んで高弟に数えられ[2]、さらには槍術を水沼久太夫に学んだ武芸者だった[3]

遺品
・「渡辺半右衛門宛書簡抄(十一月五日付)」 - 「私共居候処は麹町新五丁目にて候。千馬三郎、同名喜齋、私、弟四人居申候」など、江戸における長屋住まいの生活が記されている。

・「脇差 吉光二尺」は泉岳寺の住職が無断で売却、寺の費用に充てたため、現存しない[4]

子孫
独身 であり妻子はいない。弟・間光風 も独身であった。妾や愛人、猶子・養子がいた記録もない。

  ・間氏が藤原朝臣で近江国膳所を出自とし、大阪・兵庫などに分布するのに対し、羽佐間氏は田中氏庶流の橘宿禰で肥前国羽佐間を本拠としており、姓氏としては別族である [5]

脚注
1. 一説には中小姓近習。
2. 遺言で「剣の同門である細井広沢に鉄帽を贈る」と述べたとされる。
3. 『堀部安兵衛日記』
4. 「堀内伝右衛門覚書」に「神かけて泉岳寺が左様な事はないだろうと思ったが、事実であった」旨の記述
5. 
 「日本姓氏語源辞典」

関連項目
大石神社
(wikiより)

070 間 光興

間十次郎 光興

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 此方のお墓は、遺髪墓となっております。

奥田 行高(おくだ ゆきたか、延宝6年(1678年) - 元禄16年2月4日1703年3月20日))は、江戸時代前期の武士赤穂浪士四十七士の一人。通称は貞右衛門(さだえもん)。


生涯

延宝6年(1678年)に赤穂藩浅野家家臣の近松行生の五男として誕生。母は徳島藩蜂須賀家家臣の仁尾官右衛門の娘・かめ。異父兄に近松行重がいる。元禄7年(1694年)、奥田重盛の婿養子に入った。家督前の部屋住みとして過ごした。


元禄14年(1701年)3月14日、主君・浅野長矩吉良義央に刃傷に及んだ際には江戸にあり、4月に養父・重盛が堀部武庸らとともに国許の赤穂に向かった後も行高は江戸の深川八幡町にあり、この頃に奥田清十郎を儲けた。その後は父とともに行動し、深川黒江町に住んだ。変名は西村丹下。


吉良邸討ち入りの際には裏門隊に属した。本懐後、水野忠之の屋敷にお預かりとなり、同家家臣横山笹右衛門の介錯で切腹した。享年26。主君浅野長矩と同じ江戸の高輪泉岳寺に葬られた。法名は刃秋跳剣信士。


行高は、遺児である清十郎を気遣い、自分の死後、その脇差を売ってかまわないと言い残している。清十郎は、のちに親戚の仁尾家に養子に入り、その家督を継いで徳島藩士となっているが、享保9年に24歳で死去した。

関連項目
大石神社
(wikiより)

87 奥田貞右衛門行高

奥田行高

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矢頭 教兼(やとう のりかね、貞享3年(1686年) - 元禄16年2月4日1703年3月20日))は、江戸時代前期の武士赤穂浪士四十七士の一人。通称右衛門七(えもしち)。四十七士の中では大石良金に次いで若年であり、母妹の世話に苦難したことで知られる。『仮名手本忠臣蔵』の佐藤与茂七(さとう よもしち)のモデルとなった。

生涯

貞享3年(1686年)、赤穂藩浅野家家臣・矢頭長助(勘定方)の子として播磨国赤穂に生まれる。母は播磨国姫路藩松平家(松平直基)家臣の中根弥兵衛の女子。幼名は亀之丞(かめのじょう)。


元禄
14年(1701年)3月、主君・浅野長矩吉良義央に刃傷に及んだ時、教兼はまだ家督前の部屋住みだった。4月19日には赤穂城が開城されたが、父はその後も大石良雄のもとで藩政残務処理にあたった。残務処理が終わった後、矢頭一家は6月4日に大坂堂島へ移ったが、この頃から父は病に冒され寝たきりになったため、元禄15年(1702年)1月の赤穂旧臣による山科会議や7月の円山会議には17歳の教兼が父親の代理として出席している。


同年8月15日、父が病床に教兼を呼び、くれぐれもその遺志を継いでくれるよう嘆願しつつ死去。討ち入りに加わるためには、残される母と妹3人をどこかに預けなければならなかった。教兼は母と妹を連れて大坂を出ると、母の実家がある陸奥国白河藩(祖父の仕える松平家はこの地に転封となっていた)へと向かったが、旅慣れない少年だった教兼は母子の女人通行手形を用意していなかったため、東海道荒井関所を通過することができず、大坂へ帰って知人に母子を預けた。


9月に千馬光忠間光興らとともに江戸へ入り、南八丁堀で潜伏生活をする。


討ち入り事件時

吉良邸討ち入り時は表門隊に属し奮戦。事件後、三河岡崎藩水野忠之の芝中屋敷にお預けとなり、元禄16年2月4日に水野家家臣・杉源助の介錯で切腹した[1]。享年18。他の浪士とともに主君・浅野長矩と同じ芝泉岳寺に葬られた。法名は刃擲振劔信士。また、大阪市北区堂島の浄祐寺には父と共に墓が存在し、教兼の顕彰碑も建てられている。碑は元は別の場所に建てられていたが、破損したため幕末に再建され、さらに同寺に移された。


討ち入り時は父の戒名を懐に忍ばせていたと伝わる。また、美少年であったとされ、討ち入り後に世間に「義士の中に男装の女がいた」という噂話が流れたとも伝わる。


事件後

この討入りののち、右衛門七父子やその家族の苦難が世間に知られるようになり、母と妹3人は奥州白河藩(松平基知)の親族・矢頭庄左衛門に迎えられた。のちに長妹が多加谷致泰(奥州白河藩松平家家臣)、次妹が多加谷勝盛(多加谷致泰の男子)、三妹が柳沢家の家臣山村氏にそれぞれ嫁いでいる。母も娘達の嫁ぎ先の多加谷家で暮らした。


なお、『忠臣蔵』を題材にした物語では、右衛門七/与茂七の家族は母だけの場合が多く、息子の足手まといになることを嫌って母が自害して果てるという筋書きに脚色されることがある。

脚注
1. 源助は後に、愛知県岡崎市にある菩提寺「大林寺」に右衛門七の供養塔を立てて菩提を弔ったという。

関連項目

大石神社

岡野包秀 - 同じく父が討ち入り前に病死したため志を託された赤穂四十七士
(wikiより)

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 此方のお墓は、遺髪墓となっております。

村松 高直(むらまつ たかなお、延宝5年(1677年) - 元禄16年2月4日1703年3月20日))は、江戸時代前期の武士赤穂浪士四十七士の一人。通称は三太夫 三大夫(さんだゆう)。

生涯

延宝5年(1677年)、赤穂藩士・村松秀直の長男として誕生。母は村松茂清の娘。赤穂藩では家督前の部屋住みの身であった。


元禄14年(1701年)3月14日に主君・浅野長矩吉良義央に刃傷に及んだ際、高直は父・秀直と江戸にあった。そしてともに赤穂へ行き、大石良雄に神文血判書を提出して江戸へ戻った。その後しばらくは秀直と行動を共にしていたようであるが、やがて秀直とは別に芝源助町の借家に移り住み、礒貝正久茅野常成と同居した。荻野十左衛門・植松三太夫などの変名をつかっている。父とともに吉良邸討ち入りに参加し、裏門隊に所属(秀直は表門隊)。


本懐後、水野忠之の屋敷に預かりとなり、同家家臣広瀬半助の介錯で切腹した。享年27。浅野長矩と同じ江戸の高輪泉岳寺に葬られた。法名は刃清元剣信士。

関連項目
大石神社
(wikiより)

85 村松三太夫高直

村松三太夫高直

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 此方のお墓は、遺髪墓となっております。

神崎 則休(かんざき のりやす、寛文6年(1666年) - 元禄16年2月4日1703年3月20日))は、江戸時代前期の武士赤穂浪士四十七士の一人。通称は与五郎(よごろう)。本姓源氏家紋は蛇の目。大高忠雄萱野重実と並んで浅野家中きっての俳人として知られた。赤穂浪士の中でも随一の酒豪として伝わっている[1]

生涯

寛文6年(1666年)、美作国津山藩森家家臣の神崎光則(直段奉行13石3人扶持)の長男として津山に生まれた。母は下山六郎兵衛(森家家臣)の娘とされるが、年齢の計算が合わないため、恐らくこの女性は後妻で則休は先妻の子と思われる。


はじめ津山藩に仕えるが、その後、則休は森家を離れて浪人。いつ浪人したかには諸説ある。第一説に延宝7年(1679年)に男色を原因として叔母の夫にあたる箕作義林 (同年の従弟箕作十兵衛)が暴漢に襲われ、則休がこの連中を切り捨てたため、藩を追われたという説[2]。第二説は天和元年(1681年)に藩主・森長武寵臣横山刑部左衛門が津山藩政において専横を極めた際に藩を追われたという説。第三説に元禄10年(1697年)6月20日に森家18万石が2万石に減封された際に藩からリストラされたという説があるが、則休は元禄6年(1693年)の時点にはすでに浅野家に仕官していることが確認されている[要出典]ため、第三説はありえない。


森家を離れて赤穂藩浅野家に仕官した神崎家は、津山から赤穂へ移住、則休は河野九郎左衛門の娘おかつを妻に迎えた[2]。また赤穂藩への仕官の折り、同郷の津山出身で先に赤穂藩士となっていた茅野常成が仲介したと推測されている[2]。赤穂藩では徒目付5両3人扶持であり、しかも譜代の臣下ではない新参であるから最も下位の藩士の一人に過ぎなかった。しかし、神崎は風流人で知られ、「竹平」という俳号を持つほど俳人としての才能があった。同じく俳人として著名な大高忠雄や萱野重実と並んで浅野家中三羽烏と呼ばれている[2]。また、荻生徂徠の門人である儒学者松崎観瀾の随筆『窓のすさみ』によると「神崎与五郎は浅野内匠頭(浅野長矩)の乳兄弟であった」と記している。


元禄14年(1701年)3月14日、主君・浅野長矩が吉良義央に殿中刃傷に及んだ際には則休は赤穂にあり、大石良雄に神文血判を提出した。赤穂城開城後は那波に住み、ここで那波十景を詠んだ。元禄15年(1702年)4月、病にかかって寝込んでいた岡島常樹にかわって江戸へ下向した。


このときの神崎の東下りについて有名な逸話がある。道中に丑五郎というヤクザ者の馬子が「馬に乗れ」とからんできたが、則休が断っていると、腰抜け侍と見て調子に乗った丑五郎が「詫び証文を書け」と無理難題をいってきた。騒動になることを懸念した則休は、おとなしくその証文を書く。これを見た丑五郎は笑って立ち去った。その後、赤穂浪士の討ち入りがあり、そのなかに神崎がいたことを知った丑五郎は己を恥じて出家の上、神崎を弔ったという話である。この話は大高忠雄の逸話にもあり(こちらでは馬子の名は団蔵)、大高の詫び証文が三島の旧本陣世古家に所蔵されて現存している。そのため則休の逸話は、大高の逸話が転化して伝わったと思われる(なお、大高の詫び証文も後世の創作といわれている)。


江戸到着後は、扇子売りの商人になりすまし、吉良家親族上杉家の中屋敷に近い麻布谷町で扇子屋「美作屋善兵衛」として開業。さらに8月頃には「米屋五兵衛」と称した前原宗房と合流して「小豆屋善兵衛」と称して吉良邸のある本所近くで開業して吉良の動向を探った。吉良邸討ち入りの際には表門隊に属する。本懐後は水野忠之の中屋敷に預けられた。元禄16年(1703年)2月4日、水野家家臣・稲垣左助の介錯で切腹享年38。主君・浅野長矩と同じ泉岳寺に葬られた。法名は刃利教剣信士。 辞世は「梓弓春近ければ小手の上の雪をも花のふぶきとや見ん」と伝わる。

備考

・元禄赤穂事件の資料のひとつ『赤城盟伝』の著者である(前原宗房との共著)。


・江戸時代の扇子屋は、役者が内職でやっていることが多く美男のイメージが強かったことから、そのため扇子屋に変装した則休は美男だったのではないかといわれる。


・則休の切腹順は水野家で最後であった。切腹は家格の高い者から順に行うのが武家の習しであり、つまり則休は台所役三村包常よりも格下にされたことになる。則休は「やや閉口でござる」と不満の言葉を残している。なぜ水野家がこの2人の順番を取り間違えたかは不明。

脚注
1. 清水・100頁
2. a b c d 清水・96頁

参考文献
清水昇「江戸の隠密・御庭番」(河出書房新書 ISBN 978-4-309-22516-6

関連項目

大石神社

徳守神社(岡山県津山市)
(wikiより)

43 神崎与五郎則休

神崎則休

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 此方のお墓は、遺髪墓となっております。

茅野 常成(かやの つねなり、寛文7年(1667年) - 元禄16年2月4日1703年3月20日))は、江戸時代前期の武士赤穂浪士四十七士の一人。通称は和助(わすけ)。

生涯

寛文7年(1667年)、美作国津山藩森家家臣の茅野武助常宣(200石)の次男として津山に生まれる。母は津山藩森家家臣富田加兵衛の娘。父・常宣は、天和元年(1681年)、藩主森長武の寵臣横山刑部右衛門が津山藩政において専横を極めていた際に森長武に藩の惨状を訴え出たため追放されたという。なお、赤穂浪士の1人である神崎則休も津山藩森家の浪人であったが、神崎もこの時に追放されたという説がある。


その後、子の常成が播磨国赤穂藩主・浅野長矩に拾われて再仕官できた。元禄10年(1697年)頃から赤穂藩の書留に名が見えるのでその頃の仕官と見える。赤穂藩内では横目5両3人扶持役料5両であり、譜代の臣下ではないのでもっとも身分の軽い藩士の1人であった。しかし武術の達人で自眼流居合いをよくしていたという。また、のち吉良邸討ち入りの際には弓で戦っているので弓も得意だったと思われる。


元禄14年(1701年)3月14日に主君・浅野長矩が吉良義央に刃傷に及んだ際には赤穂にあった。すぐに大石良雄の盟約に加わり、母は美作の実家へ、妻いとと生まれたばかりの子茅野猪之吉は赤穂に残した。元禄15年10月4日に大石良金に従って江戸へ下向。江戸では芝源助町の礒貝正久宅に同居していた。


吉良邸討ち入りの際には裏門隊に属し半弓で戦った。本懐後、水野忠之の屋敷にお預かりとなり、元禄16年(1703年)に同家家臣値賀又蔵の介錯で切腹した。享年37。主君・浅野長矩と同じ江戸の高輪泉岳寺に葬られた。法名は刃響機信士。


俳人としての才能もあり、禿峰という雅号を持つ。泉岳寺の僧・白明から辞世の句を所望され、「天の外はあらじな千種たに 本さく野辺に枯るると思へは 世や命咲野にかかる世や命」を残している。


なお、赤穂藩士で討ち入りを前にして自害した萱野重実(三平)は、茅野とは関係はない。しかし苗字の読みが同じ「かやの」なせいで「二人は兄弟で、自害した三平の無念は弟の和助が晴らした」などという事実と異なる逸話が残っている。

関連項目
大石神社
(wikiより)

83 茅野和助常成

茅野和助常成

070a12



 此方のお墓は、遺髪墓となっております。

横川 宗利(よこかわ むねとし、寛文7年(1667年) - 元禄16年2月4日1703年3月20日))は、江戸時代前期の武士赤穂浪士四十七士の一人。通称は勘平(かんぺい)。

生涯

寛文7年(1667年)、浪人の横川祐悦の子として誕生。祖父各務宗右衛門津山藩森家に仕えていた。宗利は森家の名臣として知られる各務元正の曽孫に当たる。


貞享4年(1687年)頃に播磨国播磨赤穂藩主・浅野長矩に仕えたとみられる。役職は徒目付(5両3人扶持)であった。元禄7年(1694年)の備中松山城受け取りの際には長矩に随って従軍している。


元禄14年(1701年)3月14日に浅野長矩が吉良義央に刃傷に及んだ際には江戸にあったが、江戸屋敷が召し上げられたのちはすぐに赤穂城へ戻った。原元辰などに同調して殉死切腹を唱え、大石良雄の盟約に加わった。赤穂城開城後はすぐに江戸へ下向した。元禄15年7月の円山会議で仇討ちが決定されたあと、大石良雄は関西一帯の同志達に大高忠雄貝賀友信を使って神文返しをさせたが、横川は江戸の同志達に対して同じ神文返しを任されている。大石の信頼がかなり厚い人物であることが分かる。また討ち入り直前に知己への手紙の中で脱盟した同志たちのことを徹底的に罵っている。


吉良邸討ち入りの際には表門隊に属した。本懐後、水野忠之の屋敷にお預かりとなり、元禄16年(1703年)に同家家臣山中団六の介錯で切腹した。享年37。主君・浅野長矩と同じ江戸の高輪泉岳寺に葬られた。法名は刃常水信士。

関連項目
大石神社
(wikiより)

82 横川勘平宗利

横川勘平宗利

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 此方のお墓は、遺髪墓となっております。

間 光風(はざま みつかぜ、延宝8年(1680年)-元禄16年2月4日1703年3月20日))は、江戸時代前期の武士赤穂浪士四十七士の一人。通称新六(しんろく)、新六郎(しんろくろう)。

生涯

延宝8年(1680年)、赤穂藩士・間光延の次男として妾腹に生まれる。兄に間光興がいる。


祖父以来、間家に伝わっていた天流剣術を父より学んだ。はじめ、赤穂藩舟奉行・里村津右衛門の養子に出されるが養父との折り合いが悪く、出奔して浪人となり、秋元但馬守の家臣・中堂又助に嫁いだ姉を頼って江戸へ出た。


元禄14年(1701年)3月14日、藩主・浅野長矩高家肝煎吉良義央に殿中で刃傷に及んだことで、長矩は即日切腹、赤穂藩はお取り潰しとなった。光風は仇討ちの義盟に父と兄が加わっていることを知り、大石良雄に帰参と義盟への参加を懇願したが断られたため、堀部武庸奥田重盛らを通じて重ねて願い出た結果、許された。その後、光風は江戸へ下った父と兄と共に新麹町四丁目大屋七郎右衛門店に潜伏し、杣荘新六郎(そまのそう しんろくろう)と名乗った。


元禄15年(1702年)12月14日の吉良屋敷討ち入りでは裏門隊に属し、屋外で戦った。討ち入り後は長門長府藩毛利綱元の麻布上屋敷にお預けとなる。


元禄16年(1703年)2月3日、江戸幕府は赤穂浪士に切腹を命じた。当時の切腹はすでに様式化しており、自身では実際に腹は切らず、切腹の座について短刀に手をかけたところで介錯人が首を落としたが、光風は短刀を手に取るや腹に突き刺し、横一文字に切り裂いた。驚いた介錯人の江良清吉が急ぎ首を落としたが、検視役の斎藤治左衛門らは駆け寄ると見事と褒め称えることを惜しまなかった。享年24。戒名は刃模唯劔信士。


遺骸は義兄の中堂又助に引き取られ築地本願寺に葬られたため、討入りに参加したのち切腹した46人の浪士の中では唯一泉岳寺の墓所にない。

関連項目
大石神社
(wikiより)

80 間 新六光風

間 新六光風

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 此方のお墓は、遺髪墓となっております。

三村 包常(みのむら かねつね、寛文7年(1667年) - 元禄15年2月4日1703年3月20日))は、江戸時代前期の武士赤穂浪士四十七士の一人。通称は次郎左衛門(じろうざえもん)。

生涯

寛文7年(1667年)、誕生。播磨赤穂藩に仕え、役職は台所役人(7石2人扶持)で、寺坂信行を除けば四十七士の中では最も身分が低かった。


元禄14年(1701年)3月14日に江戸城で主君浅野長矩吉良義央に刃傷に及び赤穂藩は改易された。赤穂城が開城された後も赤穂にあったが、この間、包常は浪人した赤穂藩士たちの薪炭などの世話をしたことが、元禄14年(1701年)5月20日の中村正辰の書簡にあり、大石良雄からも感謝状を受けたという。元禄15年(1702年)1月に山科へ赴いて良雄に神文血判書を提出した。10月に大石とともに江戸へ下向し、日本橋石町三丁目の小山屋弥兵衛方に大石らとともに同宿した。身分が低いこともあって基本的に同志たちの間の連絡役に使われていたようだ。吉良邸討ち入りの際には裏門隊に所属し、杉野次房とともに裏門を木づちで破る役割を担った。


その後、三河国岡崎藩主・水野忠之の中屋敷に預けられ、元禄15年(1703年)2月4日、水野家家臣田口安左衛門の介錯で切腹した。享年37。主君長矩と同じ泉岳寺に葬られた。法名は刃珊瑚劔信士。

関連項目
大石神社
(wikiより)

81 三村次郎左衛門包常

三村包常

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 此方のお墓は、遺髪墓となっております。

寺坂 信行(てらさか のぶゆき、寛文5年(1665年) - 延享4年10月6日1747年11月8日))は、江戸時代前期の人物。赤穂浪士四十七士の一人。通称は吉右衛門(きちえもん)。のち麻布山内家の家臣。

生涯

寛文5年(1665年)、赤穂藩浅野家家臣で船方役人・寺坂吉左衛門の子として赤穂若狭野に生まれた。母は川端与右衛門女。


寛文12年(1672年)、8歳の時に吉田兼亮の家で奉公のうえ世話になるようになった。元禄4年(1691年)、兼亮が加東郡郡代となった際に赤穂藩の足軽浅野長矩直臣)とされた。赤穂藩内では兼亮の組下で3両2分2人扶持を支給された。またこの年に浅野家小役人下村長次郎の娘と結婚している。また、元禄7年(1694年)には吉田兼亮の娘が伊藤治興姫路藩士)に嫁ぎ、翌年には2人は長男伊藤治行を儲けたが、この介抱を寺坂夫婦が任されている。


元禄14年3月14日(1701年4月21日)、主君・浅野長矩が江戸城松之大廊下で吉良義央に刃傷に及んで切腹し、赤穂藩は改易となったが、この際に寺坂は兼亮とともに加東郡におり、ともに赤穂城へ駆け付けた。赤穂城明け渡しを前に家老大石良雄が同志と血判の義盟を交わしたが、この義盟に足軽の身分の寺坂は加わっていない。その後、上司の吉田兼亮が播州三木(現:兵庫県三木市)へ退くとこれに従う。寺坂は同志に加えて貰えるよう強く願い、大石良雄は最初は寺坂の身分を考えて躊躇したが、その熱意にほだされて義盟に加えた。寺坂は吉田兼亮に付き従い、足軽の身分ながら同志との会合にも出席している。


元禄15年12月14日(1703年1月30日)の吉良邸討ち入りでは裏門隊に属していた。しかし、討ち入り後に赤穂浪士一行が泉岳寺へ引き上げたときには寺坂の姿はなかった。討ち入り直前に逃亡したという説、討ち入り後に大石良雄から密命を受けて一行から離れたという説、足軽の身分の者が討ち入りに加わっていることを大石が公儀に憚りがあるとして逃したという説があるが、真相は不明である。『忠臣蔵』の物語では討ち入りの様子について、浅野家のゆかりの者へ伝えるよう大石から命を受けて瑤泉院広島に蟄居していた浅野長広の元へ行ったように描かれ、吉田兼亮が寺坂を「不届き者」呼ばわりしたのは、公儀に追手を出されない為の配慮であったなどという描写も見られる。


討ち入り後の寺坂には、大目付仙石久尚の決定により一切の追手はかからなかった。そのまま吉田兼亮の娘婿の伊藤治興に奉公している。伊豆大島に遠島に処された兼亮の遺児吉田兼直にも忠義を尽くしている。遠島の際の見送り、赦免後の出迎え、伊藤家までの護送、すべて寺坂が行っている。その後、仙石久尚の元に出頭したと言われるが、久尚は一切罪を問わず、逆に金子を与えて送り出した。


しかしその後伊藤家を離れたようで享保8年(1723年)3月頃には江戸麻布の曹渓寺で寺男をつとめている。さらに同年6月頃には曹渓寺の口利きで、土佐藩主山内家の分家麻布山内家の第3代山内豊清(主膳)に仕えて士籍を得た[1]。このときに今日にまで残る寺坂の「親類書」が提出されたという。


延享4年(1747年)に病死。曹渓寺に葬られる。戒名は節岩了貞信士。享年83。後年、慶応年間に入ってから泉岳寺の義士墓所に供養墓が建てられており、ここでの戒名は、遂道退身信士となっている。


映画・ドラマなどフィクションでは大石良雄の従者として描かれる事が多い。また、柴田錬三郎小説『裏返し忠臣蔵』などでは寺坂を忍びの者として描かれており、必殺仕事人のスペシャル版である『必殺忠臣蔵』では寺坂は仕事人であったとしている。

四十七士か四十六士か

寺坂信行は士分ではなく足軽身分である。また寺坂は討ち入り後、泉岳寺に行くまでに姿を消している。そのため、彼を赤穂浪士の一人として加えるべきかどうかが、事件当時から論争の火種になってきた。

後に上司の吉田兼亮も「吉右衛門は不届き者である。二度とその名を聞きたくない」と語り、大石良雄は「軽輩者であり、構う必要はない」と書き残している。一方、伊藤家の資料から四十六士が四家にお預かりになった後、寺坂が浅野長広がいる広島へ行っていることが確認できる。堀部言真の書簡からも討ち入り後、寺坂が寺井玄渓(赤穂藩医)のもとへ行っていることが確認されている。

なお、寺坂が討ち入りに加わりながら幕府の追手に掛らなかったのはすべて仙石久尚の意向による。浅野長矩の親戚である仙石は、大石が出頭した大目付であり、評定所では浅野びいきの判決を出した人物である。

寺坂吉右衛門の墓

曹渓寺東京都港区

泉岳寺(東京都港区)

実相寺宮城県仙台市泉区

慈眼寺静岡県賀茂郡西伊豆町

一運寺大阪府大阪市住吉区)- 元は天野屋利兵衛の菩提寺であった龍海寺にあったものを明治期に移設したとの記録が寺に残されている。

信行庵島根県江津市[2][3]

一念寺福岡県八女市

恵剣寺長崎県五島市

・島根県益田市

鹿児島県出水市美原町

補注

1. 『土佐史壇』青木義正著、第2号(大正7年)による。
2. “特集-石見のお宝紹介-(96)信行庵(江津)”. 山陰中央新報 (山陰中央新報社). (2017年9月7日). http://www.sanin-chuo.co.jp/www/contents/1504758908735/index.html 2018年3月20日閲覧。 
3. 寺坂吉右衛門の墓”. 江津市観光サイト. 江津市観光協会. 2018年3月20日閲覧。

関連項目

大石神社

最後の忠臣蔵 - 池宮彰一郎が著した寺坂を主人公とする歴史小説。2004年にNHKで連続ドラマ化、2010年に映画版も公開された。

山内豊清 - 晩年、寺坂が仕えた主君。

日本最後の一覧

(wikiより)

75 寺坂吉右衛門信行

寺坂信行

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 此方のお墓は、遺髪墓となっております。

大石 良金(おおいし よしかね、元禄元年(1688年) - 元禄16年2月4日1703年3月20日))は、江戸時代前期の武士赤穂浪士四十七士の一人。幼名は松之丞(まつのじょう)、通称は主税(ちから)。父は大石良雄。母はりく。弟に大石吉之進大石大三郎。また妹に大石くう大石るりがいる。本姓藤原氏家紋は右二ツ巴。

生涯
討ち入り前後

元禄元年(1688年)に播磨国赤穂藩筆頭家老大石良雄の嫡男として赤穂に誕生。幼いころには疱瘡を患ったという。


元禄14年(1701年3月14日4月21日)、主君浅野長矩江戸城松之大廊下吉良義央に刃傷に及び、浅野長矩が即日切腹、赤穂藩が改易となった時、良金は数え年で14歳であり、元服前だった。


赤穂城幕府の収城使脇坂安照に引き渡した後、良金の父の良雄は遠林寺において藩政残務処理にあたったが、この間の、5月11日6月16日)、良金は生母りくや弟吉之進、妹くうとるりの四人を連れてりくの実家但馬豊岡藩家老石束毎公の屋敷へ向かった。この豊岡滞在中に良金は毎公より脇差を与えられた。


その後、7月に良雄が京都山科へ移り住むと、りくや良金たちも山科へ移る。このとき良雄は浪人となった旧赤穂藩士たちから誓紙血判状を受けて、浅野家御家再興運動に尽力中であった。良金は、12月に元服して義盟に加わった。翌元禄15年(1702年)4月、良雄は妻りくを離別して幼い子どもたちとともに再び実家の豊岡へ帰したが、良金は山科に残り父と行動を共にする。


7月、浅野長矩の弟浅野長広広島浅野宗家への永預けが決まり、浅野家再興が絶望的となると、良雄は円山会議において吉良義央への仇討ち一本に決定。9月19日11月8日)、良金は良雄に先立って江戸に下り[1]、垣見左内と名乗って江戸では日本橋石町三丁目(現東京都中央区日本橋本町)の宿屋小山屋弥兵衛店に滞在。続いて下向してきた大石良雄もここに入った。


12月15日未明。47名の赤穂浪士は吉良義央の屋敷へ討ち入り、良金は裏門隊の大将を務めた。激闘の末に浪士たちは吉良を討ち果たして、本懐を果たした。赤穂浪士一行は泉岳寺へ引き上げ浅野長矩の墓前に吉良義央の首級を供え仇討ちを報告した。


幕府は赤穂浪士を四大名家にお預けとし、良金は堀部武庸大高忠雄ら9名と共に松平定直久松松平家・伊予松山藩)屋敷へ預けられた。翌元禄16年(1703年)2月4日、公儀により赤穂浪士へ切腹が命じられ、良金は同家お預けの10人のうち最初に切腹を仰せ付かった。松平家家臣波賀朝栄の介錯で切腹。享年16。最年少の浪士だった。主君浅野長矩と同じ高輪泉岳寺に葬られた。

逸話

・戒名は刃上樹剣信士。なお大石親子は、家格が殿様の名代が務める譜代の城代家老(代々世襲)のため、別格扱いで赤穂藩での菩提寺花岳寺では、良金の戒名には院号の超倫院が付されている。


・子供のいない長矩からも、学の深い聡明さを愛でられ(良金は、藤江熊陽という学者に付き学んでいた)幼い時からわが子同然に可愛いがられたため、終生その恩を忘れなかった。元服間もないため、良金に子はなく次弟も出家中に若くして病死したため、父と兄良金の顔を知らない(討ち入り当時は、幼児だった)三男・大三郎良恭(よしやす)が、後に六代将軍家宣に代替わりに際し大赦され、浅野家芸州広島本家で仕官して大石姓に戻ることになった。


・幼少時に、お城で拝謁の折に馬を拝領したいと堂々と請願し流石は武士の子である、と殿様に褒められたという逸話がある。家老になっていたら、父以上の能力があったといわれた。反目して父のもとから離脱しようとした堀部ら急進派の江戸組に対し、自ら人質志願し、父に先立ち江戸入りするほどの判断力と統率力があった。良雄が江戸入りするまで、よく江戸若手チームの暴発を防ぎ、偵察などに全力するよう老将とともに指導した。討ち入りの戦闘は剣豪といわれた若手が多く配属された裏門で殆ど行われ、将としての責任は良金のほうが、父より重かった。抜け穴を見つけ自分からとっさに飛び込むなどもして、後にその機転は上に立つ者として預かり先で、その器を高く信任された。


・良金は両親の離婚を知らず切腹している。証拠として良雄は、預け先の熊本藩邸経由で大目付(公儀最高の評定所)宛てに提出した自筆親類書では、妻りくを離縁した者として書いているが(連座回避のための離婚)、良金が久松松平家経由で提出した親類書には、りくを母として認定し「両親」扱いで記載されている。大名家預かりとなったことは、幕府にとって「またもの(大名である、殿様の更に「目下」の家来だから)」に過ぎぬ浪士たちが、「旗本格」として貴賓待遇の扱いとなった。


・当時としては稀な罪人扱いでは無く、縄も格子もかけられず、邸内なら散策も自由に出来たという。また、良金は年末に預け先で流行風邪で高熱を発して接待役を慌てさせたことが細川邸に伝えられるなど、他の大名家同士で情報が伝達されあっていた。2汁5菜に加え夜食や寝酒など寝食相当なご馳走攻めに辟易した様子を記した預かり先の記録も有名である。


・切腹当日は将として最期まで扱われ、真っ先に切腹し首実検を受けた。若年にも関わらず堂々として余裕ある態度に、検視役人が泣いたという逸話がある。切腹後は、大目付邸出頭の際に押収された大小の刀や采配、袖の白布に名前入りの討ち入り装束や預かり中に拝領した着用衣類や、切腹の際の死装束などが、大目付・仙石久尚の好意で、当時としても異例ながら幕府に没収処分されず遺族に形見として下げ渡された。


・浪士全員が生前に泉岳寺埋葬を、願書をもって希望し叶えられ、遺体は直接寺へ運ばれ、遺髪とともに預かり先の接待役が、それぞれの遺族の居場所を調べて四家担当者が別々に訪ね歩いては渡したという。預け先でも末端身分の者ではなく、家老格に接待させる等、破格待遇であった。

その他

・当時としては大柄であり、身長は五尺七寸(172cm前後)あったという。身長145cm程度が平均身長といわれた時代なので、弁慶さながらの大男に見られたそうで原元辰の堀部武庸宛書簡に「主税、年ぱいよりひね申し候」というくだりがある。若いが、早くからしっかり者であった。


・京都滞在中の元禄15年(1702年)、四条河原色子歌舞伎役者相山幸之助衆道男色)の契りを結んだという。


1. この時期親族(母りくの叔母香で、大和高取藩筆頭家老の中谷清右衛門の妻)に送った書状が、近年判明している。「共同通信」2010年1月30日付

関連項目

大石主税良金ら十士切腹の地

大石神社

仮名手本忠臣蔵
(wikiより)

42 大石主税良金

大石良金

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 此方のお墓は、遺髪墓となっております。

大石 良雄(おおいし よしお/よしたか 万治2年(1659年)~元禄16年2月4日1703年3月20日))は、江戸時代前期の武士播磨国赤穂藩の筆頭家老赤穂事件で名を上げ、これを題材とした人形浄瑠璃・歌舞伎『仮名手本忠臣蔵』で有名となる。


「良雄」はで、通称(仮名)は「内蔵助」。一般にはこの大石 内蔵助(おおいし くらのすけ)の名で広く知られる。

出自

大石家は藤原秀郷の末裔小山氏の一族である。代々近江国守護佐々木氏のもとで栗太郡大石庄(滋賀県大津市大石東町・大石中町)の下司職をつとめていたため、大石を姓にするようになった。その後、大石氏は応仁の乱などで没落したが、大石良信の代には豊臣秀次に仕えた。秀次失脚後、良信の庶子にして次男の大石良勝(良雄の曽祖父)は京で仏門に入れられたが、京を脱走し江戸で浪人した後、浅野家に仕えるようになった。

良勝は、大坂夏の陣での戦功が著しかったため、浅野長政の三男・長重(長矩の曽祖父で常陸国真壁・笠間藩主)の永代家老に取り立てられる。長重の長男・長直は赤穂に転封されたので、大石家も赤穂に移ることになる。


良勝の長男・大石良欽赤穂藩浅野家の筆頭家老となる。また良勝の次男・大石良重も家老となり、浅野長直(長矩の祖父)の息女・鶴姫を妻に賜っており、その子の二人はいずれも浅野長直に分知されて幕府旗本(浅野長恒浅野長武)になった。


大石良欽は鳥居忠勝鳥居元忠の子)の娘を娶り、その間に大石良昭を長男として儲けた。その良昭と備前国岡山藩の重臣・池田由成[注釈 1]の娘・くまの間に長男として、播州赤穂城内に生まれたのがこの大石良雄である。幼名は松之丞(一説に竹太郎)。


第6代将軍御台所・近衛熙子とは大石氏の一族、小山氏が代々近衛家諸太夫を勤める縁戚関係でもある。このため、熙子の弟・近衛家熈が義士碑に揮毫している。

家紋は右二ツ巴。

生涯
前歴

万治2年(1659年)、大石良昭の長男として生まれる。幼名は松之丞


延宝元年(1673年)9月6日、父・良昭が34歳の若さで亡くなったため、祖父・良欽の養子となった。またこの年に元服して喜内(きない)と称するようになる。延宝5年(1677年)1月26日、良雄が19歳のおりに良欽が死去し、その遺領1,500石と内蔵助(くらのすけ)の通称を受け継ぐ。また赤穂藩の家老見習いになり、大叔父・良重の後見を受けた。


延宝7年(1679年)、21歳のときに正式な筆頭家老となる。しかし平時における良雄は凡庸な人物だったようで、「昼行燈」と渾名されており、藩政は老練で財務に長けた家老大野知房が担っていた。貞享4年(1686年)には但馬豊岡藩筆頭家老・石束毎公の18歳の娘・りくと結婚。元禄元年(1688年)、彼女との間に長男・松之丞(後の主税良金)を儲けた。さらに元禄3年(1690年)には長女・くう、元禄4年(1691年)には次男・吉之進(吉千代とも)が生まれている。


元禄5年(1692年)より奥村重舊に入門し、東軍流剣術を学んでいる。また元禄6年(1693年)には京都伊藤仁斎に入門して儒学を学んだという。


元禄7年(1694年)2月、備中松山藩水谷家改易となった際、主君・浅野長矩が収城使に任じられた。良雄は先発して、改易に不満で徹底抗戦の姿勢を見せていた松山城に単身入り、水谷家家老鶴見内蔵助を説得して無事に城を明渡させた。二人が偶然同じ「内蔵助」であったことから「両内蔵助の対決」として世間で評判になったという逸話もあるが、これは討ち入り事件後に創作された話らしく、明確な資料に基づいているわけではない。城の受け取りが無事に済むと長矩は赤穂へ帰国したが、良雄は在番として留まり、翌年に安藤重博が新城主として入城するまでの一年半余り、松山城の管理を任せられた。元禄8年(1695年)8月に赤穂へ帰国。元禄12年(1699年)には次女・るりが生まれている。元禄13年(1700年)6月には長矩が参勤交代により赤穂を発つ。

松の廊下の刃傷と赤穂浅野家断絶

元禄14年(1701年)2月4日、浅野長矩は江戸へ下向する東山天皇の勅使の接待役を幕府より命じられた。接待指南役は高家肝煎吉良義央であった。


3月14日、江戸城では勅旨に対して将軍が奉答する勅答の儀が執り行われるはずであった。しかし儀式が始まる直前、松之大廊下において長矩は吉良義央に対して刃傷におよんだ。尊皇心の厚い将軍徳川綱吉は朝廷との儀式を台無しにされたことに激怒し、長矩を大名としては異例の即日切腹に処し、さらに赤穂浅野家をお家断絶とした。一方、吉良には何の咎めもなかった。

早水満尭萱野重実の第一の急使、足軽飛脚による第二の急使、原元辰大石信清の第三の急使、町飛脚による第四・第五・第六の急使、と次々に赤穂藩邸から国許赤穂へ情報が送られ、3月28日までには刃傷事件・浅野長矩切腹・赤穂藩改易といった情報が出揃った。3月27日、家臣に総登城の号令がかけられ、3日間にわたって評定が行われたが、藩士たちは幕府の処置に不満で徹底抗戦を主張する篭城派と、開城すべきとする恭順派に分かれて議論は紛糾した。恭順派の大野知房は、篭城派の原元辰・岡島常樹などと激しく対立し、4月12日には赤穂から逃亡した。こうした中、良雄は篭城殉死希望の藩士たちから義盟の血判書を受け取り、城を明け渡した上で長矩の弟・浅野長広を立てて御家再興を嘆願し、あわせて吉良義央の処分を幕府に求めることで藩論を統一する。また良雄は、紙くず同然になるであろう赤穂藩の藩札の交換に応じて赤穂の経済の混乱を避け、また藩士に対しても分配金を下に厚く上に軽くするなどの配分をおこなって、家中が分裂する危険の回避につとめた。


また、良雄は物頭の月岡治右衛門多川九左衛門を江戸に派遣して、幕府収城目付・荒木政羽らに浅野家再興と吉良上野介処分を求めた嘆願書をとどけさせた[注釈 2]。 4月18日、荒木らが赤穂に到着すると、良雄自身も浅野家再興と吉良義央処分について3度の嘆願を行っている。こうした良雄の努力もあって荒木個人の協力は得られたようで、江戸帰還後に荒木は老中にその旨を伝えている。翌日4月19日、隣国龍野藩藩主・脇坂安照と備中足守藩藩主・木下公定率いる収城軍に赤穂城を明け渡した。赤穂城退去後は遠林寺において藩政残務処理にあたり、この間は幕府から29人扶持を支給された。5月21日に残務処理もあらかた終わった6月25日、ついに良雄は生まれ故郷赤穂を後にした。

お家再興運動と江戸急進派との軋轢

赤穂退去後、良雄は家族とともに京都山科に隠棲した。良雄が山科を選んだのは、大石家が近衛家の遠縁であるとともに、大石家の縁戚・進藤俊式の一族で近衛家家臣の進藤長之が管理していた土地だったことや、大津の錦織にいた従叔父(母の従兄弟)・三尾正長と行き来し、浅野家再興の政界工作をするためでもあったと考えられる。


また、大石家の外戚にあたる卓巖という人物が、泉涌寺塔頭来迎院の住職をしており、この人物を頼って良雄は来迎院の檀家となって寺請証文を受け、いわば身分証明書を手に入れた形となった。そして、山科の居宅と来迎院を行き来し、来迎院にしつらえた茶室「含翆軒」にて茶会を行いながら、旧赤穂藩士たちと密議をおこなったといわれる[1][注釈 3]


しかし、この頃から早くも浅野家遺臣たちの意見は二つに分かれはじめていた。一つは奥野定良(1,000石組頭)・進藤俊式(400石足軽頭)・小山良師(300石足軽頭)・岡本重之(400石大阪留守居役)ら高禄取りを中心にしたお家再興優先派、もう一つは堀部武庸(200石江戸留守居役)・高田郡兵衛(200石馬廻役)・奥田重盛(150石武具奉行)ら腕自慢の家臣を中心に、小禄の家臣たちに支持された吉良義央への仇討ち優先派である。それぞれの派の特徴として、前者は赤穂詰めの家臣が多く、後者は江戸詰めの家臣であることが多かったため、後者を江戸急進派とも呼んだ。


一党の頭目たる良雄自身は、どっちつかずの態度で分裂を回避しながら、実際にはお家再興に力を入れて、江戸急進派に時節到来を待つよう促すという立場をとった。赤穂を立ち去る前には遠林寺住職・祐海を江戸へ送って、将軍・綱吉やその生母桂昌院に影響力を持っていた神田護持院隆光大僧正などに浅野家再興の取り成しを依頼し、7月には小野寺秀和とともに浅野長矩の従兄弟にあたる美濃大垣藩主・戸田氏定と浅野家再興を議するために、大垣を訪れている。また先に嘆願した荒木政羽からも良雄へ「浅野家お家再興の望みあり」という書状が届いていた。


しかし、お家再興よりも吉良義央の首を挙げることを優先する堀部武庸ら江戸急進派は、この間も良雄に江戸下向を促す書状を再三にわたり送り付けている。良雄は江戸急進派鎮撫のため、9月下旬に原元辰(300石足軽頭)・潮田高教(200石絵図奉行)・中村正辰(100石祐筆)らを江戸へ派遣、続いて進藤俊式と大高忠雄(20石5人扶持腰物方)も江戸に派遣した。しかし彼らは逆に堀部に論破されて急進派になってしまったため、10月、良雄が自身で江戸へ下向した(第一次大石東下り)。良雄は江戸三田(東京都港区三田)の前川忠大夫宅で堀部と会談し、浅野長矩の一周忌になる明年3月に決行を約束した。またこの時、かつて赤穂藩を追われた不破正種が一党に加えてほしいと参じている。良雄は長矩の眠る泉岳寺へ参詣した際に主君の墓前で不破の帰参と同志へ加えることの許可を得た。この江戸下向で荒木や長矩の瑤泉院とも会っている。江戸で一通りやるべきことを終えた良雄は、12月には京都へ戻った。帰京後、嫡男大石良金を元服させている。大石良金は盟約に加わることを望み、良雄はこれを許した[注釈 4]


しかし、この帰京後から、良雄の廓などでの放蕩がひどくなった。『仮名手本忠臣蔵』の影響で、これは吉良家や上杉家の目を欺くための演技であるというのが半ば定説化している。しかし良雄はもともと赤穂藩時代から自由気ままな遊び人であり、本当に楽しんでいた面もあった可能性は高い[要出典]。近年の『忠臣蔵』のドラマでも、「人間内蔵助」を描こうとして後者に描かれることが多い。一方で、良雄放蕩の根拠とされる『江赤見聞記』は、脱盟者の進藤俊式と小山良師が言ったことをそのまま載せたものとみられており、『堀部筆記』にもまるで出てこないことから、そもそも放蕩の事実はないとする説も有力[要出典]


この年の年末からは脱盟者も出始めており、その一人は江戸急進派の中心人物・高田郡兵衛であった。これは江戸急進派の顔を失わせる結果となり、その発言力を弱めさせた。良雄はこれを好機として元禄15年(1702年)2月の山科と円山での会議において「大学様の処分が決まるまで決起しない」ことを決定。吉田兼亮(200石加東郡郡代)と近松行重(馬廻250石)を江戸に派遣して江戸急進派にこれを伝えた。しかし江戸急進派は納得せず、良雄をはずして独自に決起することを模索しつつ、ついに6月には江戸急進派の頭目・堀部武庸が自ら京都へ乗り込んでくる。「もはや大石は不要」として良雄を斬り捨てるつもりだったとも言われる[要出典]。しかしちょうどこの頃、遠林寺の祐海などを通じて良雄もお家再興が難しい情勢を知らされていた。7月18日、ついに幕府は浅野長広にたいして広島藩お預かりを言い渡した。ここにお家再興は絶望的となり、幕府への遠慮は無用となった。

討ち入り

御家再興は絶望的となったのを受けて、7月28日、良雄は堀部武庸なども呼んで円山会議を開催し、吉良義央を討つことを決定した。また8月には貝賀友信(蔵奉行10両2石3人扶持)、大高忠雄らに神文返し(盟約の誓紙=神文の返還)を実施し、死にたくない者は脱盟するようそれとなく促した。このときに奥野定良・進藤俊式・小山良師・岡本重之長沢六郎右衛門・灰方藤兵衛・多川九左衛門ら、お家再興優先派が続々と脱盟していった。

一方、なお盟約に残った同志たちは次々と江戸へ下向していった。9月19日には大石良金が山科を発ち、さらに10月7日には良雄自身も垣見五郎兵衛と名乗って江戸へ下向した。『忠臣蔵』を題材にした物語では、「道中で本物の垣見五郎兵衛が出現して良雄と会見、五郎兵衛は良雄たちを吉良義央を討たんとする赤穂浪士と察して、自分が偽物だと詫びる」という挿話が入るが、これは創作である。


良雄は10月26日には川崎平間村軽部五兵衛宅に滞在して、ここから同志達に第一訓令を発した。さらに11月5日に良雄一行は江戸に入り、日本橋近くの石町三丁目の小山屋に住居を定めると、同志に吉良邸を探索させ、吉良邸絵図面を入手した。また吉良義央在邸確実の日を知る必要もあり、良雄旧知の国学者・荷田春満や大高忠雄が脇屋新兵衛として入門していた茶人・山田宗偏から12月14日に吉良邸で茶会がある情報を入手させた。良雄は確かな情報と判断し、討ち入りは同日夜と決する。討ち入りの大義名分を記した口上書を作成し、12月2日、頼母子講を装って深川八幡の茶屋で全ての同志達を集結させた。これが最終会議となる。討ち入り時の綱領「人々心覚」が定められ、その中で武器、装束、所持品、合言葉、吉良の首の処置など事細かに定め、さらに「吉良の首を取った者も庭の見張りの者も亡君への御奉公では同一。よって自分の役割に異議を唱えない」ことを定めた。


12月15日未明。47人の赤穂浪士は本所吉良屋敷に討ち入った。表門は良雄が大将となり、裏門は嫡男大石良金が大将となる。2時間近くの激闘の末に、浪士たちは遂に吉良義央を探し出し、これを討ち果たして、首級を取った。本懐を果たした良雄たち赤穂浪士一行は江戸市中を行進し、浅野長矩の墓がある泉岳寺へ引き揚げると、吉良義央の首級を亡き主君の墓前に供えて仇討ちを報告した。

詳しいことは「大石良雄ウィキペディア」をご覧ください ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E7%9F%B3%E8%89%AF%E9%9B%84

(wikiより)

41 大石内蔵助良雄

大石良雄

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 此方のお墓は、遺髪墓となっております。

浅野 長矩
(あさの ながのり)は、播磨赤穂藩の第3代藩主。官位従五位下 内匠頭官名から浅野内匠頭(あさの たくみのかみ)と呼称されることが多い。赤穂事件を演劇化した作品群『忠臣蔵』を通じて有名。

生涯
赤穂藩主

寛文7年8月11日1667年9月28日)、浅野長友の長男として江戸鉄砲洲(現東京都中央区明石町)にある浅野家上屋敷(現在聖路加国際大学がある場所)において生まれる。母は長友正室で鳥羽藩主・内藤忠政の娘・波知。幼名は祖父・長直、父・長友と同じ又一郎


寛文11年(1671年)3月に父・長友が藩主に就任したが、その3年後の延宝3年1月26日1675年2月20日)に長友が死去。また生母である内藤氏の波知も寛文12年12月20日1673年2月6日)に亡くなっており、長矩は幼少期に父も母も失った。


延宝3年3月25日(1675年4月19日)、長矩は9歳で赤穂浅野家の家督を継ぎ、第3代藩主となる。同年4月7日5月1日)には4代将軍・徳川家綱に初めて拝謁し、父の遺物備前守家の刀を献上。さらに同年閏4月23日(6月16日)には、三次藩主・浅野長治の娘・阿久里姫との縁組が江戸幕府に出願され、8月8日9月27日)になって受理された。これにより阿久里は延宝6年(1678年)より赤穂藩の鉄砲洲上屋敷へ移った。

延宝8年8月18日1680年9月10日)に従五位下に叙せられ[注釈 1]、さらに21日には祖父・長直と同じ内匠頭の官職を与えられた[注釈 2]


天和
元年(1681年)3月、幕府より江戸神田橋御番を拝命。またこの年の8月23日1684年10月4日)、15歳にして山鹿素行に入門して山鹿流兵学を学ぶようになる。天和2年3月28日1682年5月5日)には幕府より朝鮮通信使饗応役の1人に選ばれ、長矩は、来日した通信使の伊趾寛(通政大夫)らを8月9日に伊豆三島(現静岡県三島市)にて饗応した。なおこの時三島宿で一緒に饗応にあたっていた大名は、のち赤穂藩が改易された際に城受け取り役となる備中足守藩主・木下公定であった。


天和3年2月6日1683年3月4日)には、霊元天皇勅使として江戸に下向予定の花山院定誠千種有能饗応役を拝命し、3月に両名が下向してくるとその饗応にあたった。このとき高家吉良義央が勅使饗応指南役として付いていたが、浅野は勅使饗応役を無事務め上げている。なおこの際に院使饗応役を勤めたのは菰野藩主・土方雄豊であった。雄豊の娘は後に長矩の弟・浅野長広と結婚している。この役目の折に浅野家と土方家のあいだで縁談話が持ち上がったと考えられる。


勅使饗応役のお役目が終わった直後の5月に阿久里と正式に結婚。またこの結婚と前後する5月18日には家老・大石良重大石良雄の大叔父、また浅野家の親族)が江戸で死去している。大石良重は若くして筆頭家老になった大石良雄の後見人をつとめ、また幼少の藩主浅野長矩を補佐し、二人に代わって赤穂藩政を実質的に執ってきた老臣である。


しかしこれによって長矩に藩政の実権が移ったとは考えにくい。長矩は依然数え年で17歳(満15歳)であり、国許の大石良雄もすでに筆頭家老の肩書は与えられていたとはいえ、数え年で25歳にすぎない。したがって藩の実権は大石良重に次ぐ老臣・大野知房(末席家老)に自然に移っていったと考えられる。

この年の6月23日8月15日)にはじめて所領の赤穂に入り、大石良雄以下国許の家臣達と対面した。以降、参勤交代で一年交代に江戸と赤穂を行き来する。


江戸在留中の貞享元年8月23日(1684年9月24日)に弟の長広とともに連名で山鹿素行に誓書を提出しているが、翌年に素行は江戸で亡くなる。


江戸在留中の元禄3年12月23日1691年1月21日)に本所の火消し大名に任命され、以降、しばしば火消し大名として活躍した[注釈 3]


元禄6年(1693年12月22日1694年1月17日)には備中松山藩水谷家が改易になったのを受けて、その居城である松山城の城請取役に任じられた。これを受けて長矩は、元禄7年2月18日1694年3月24日)に総勢3500名からなる軍勢を率いて赤穂を発ち、備中松山(現在の岡山県高梁市)へと赴いた。2月23日3月18日)、水谷家家老・鶴見内蔵助より同城を無血で受け取った。長矩は開城の翌日には赤穂への帰途についたが、名代として筆頭家老・大石良雄を松山城に在番させ、翌年に安藤重博が新城主として入城するまでの1年9か月の間、浅野家が松山城を管理することになる。


また元禄7年8月21日(1694年10月9日)、阿久里との間に子がなかったため、弟の長広を仮養子に迎え入れるとともに新田3,000石を分知して幕府旗本として独立させた。さらに翌元禄8年12月29日1696年2月2日)には長矩が疱瘡をわずらって一時危篤状態に陥ったため、長広を正式に養嗣子として万が一に備えた。なお「長矩危篤」の報は原元辰(足軽頭)を急使として大石良雄ら国許の重臣にも伝えられた[注釈 4]


しかしその後、長矩は容態を持ち直して、元禄9年5月頃(1696年6月頃)には完治した。この前後の5月9日6月8日)火消し大名としての活躍から本所材木蔵火番に任じられる。元禄11年8月1日(1698年9月4日)に再び神田橋御番を拝命。さらに元禄13年6月16日1700年7月31日)には桜田門御番に転じた。同年11月14日12月23日)には弟・長広と土方雄豊の娘の婚儀が取り行われた。


そして元禄14年2月4日1701年3月13日)、二度目の勅使饗応役を拝命することとなる。

殿中刃傷

浅野長矩は、幕府から江戸下向が予定される勅使の御馳走人に任じられた。その礼法指南役は天和3年(1683年)のお役目の時と同じ吉良義央であった。しかしこの頃、吉良は高家の役目で上京しており、2月29日まで江戸に戻ってこなかった。そのため吉良帰還までの間の25日間は、長矩が自分だけで勅使を迎える準備をせねばならず、この空白の時間が浅野に「吉良は不要」というような意識を持たせ、二人の関係に何かしら影響を与えたのでは、と推測する説もある。


一方、東山天皇の勅使の柳原資廉高野保春、霊元上皇の院使・清閑寺熈定の一行は、2月17日3月26日)に京都を立った。勅使の品川(現東京都品川区)到着の報告を受けて長矩も3月10日4月17日)、伝奏屋敷[注釈 5]へと入った。3月11日4月18日)、勅使が伝奏屋敷へ到着した。まず老中・土屋政直と高家・畠山基玄らが勅使・院使に拝謁し、この際に勅使御馳走人の浅野も紹介された。翌3月12日4月19日)には勅使・院使が登城し、白書院において聖旨・院旨を将軍・徳川綱吉に下賜する儀式が執り行われた。さらに翌日の3月13日4月20日)、将軍主催の能の催しに勅使・院使が招かれた。この日までは長矩は無事役目をこなしてきた。


そして元禄14年3月14日(1701年4月21日)。この日は将軍が先に下された聖旨・院旨に対して奉答するという儀式(勅答の儀)がおこなわれる幕府の一年間の行事の中でも最も格式高いと位置づけられていた日であった。この儀式直前の巳の下刻(午前11時40分頃)、江戸城本丸大廊下(通称松の廊下)にて、吉良義央が留守居番梶川頼照と儀式の打ち合わせをしていたところへ長矩が背後から近づき、吉良義央に対して小サ刀(実戦用ではなくアクセサリー的な刀)で切りつけた。梶川が書いた『梶川筆記』に拠れば、この際に浅野は「この間の遺恨覚えたるか」と叫んだとされる。しかし浅野は本来突くほうが効果的な武器であるはずの脇差で斬りかかったため、義央の額と背中に傷をつけただけで致命傷を与えることはできず、しかも側にいた梶川頼照が即座に浅野を取り押さえたために第三撃を加えることはできなかった。騒ぎを見て駆けつけてきた院使饗応役の伊達宗春(村豊)や高家衆、茶坊主達たちも次々と浅野の取り押さえに加わり、高家の品川伊氏畠山義寧の両名が吉良を蘇鉄の間に運んだ。長矩もまたその場から連行された。こうして浅野の吉良殺害は失敗に終わった。長矩が連れて行かれた部屋は諸書によって違いがあるが、おそらく中の口坊主部屋と考えられる(『江赤見聞記』『田村家お預かり一件』などが「坊主部屋」と明記している)。

取調

捕らえられた長矩が取り調べに対し、何と答えたかについては確かな史料は無い。それどころか取り調べが行われたかどうかすら確かな史料からは確認できない。


幕府目付多門重共が書いた『多門筆記』(多門は虚言癖があると言われており、その筆記の取扱いには注意を要する)によると、多門が目付として長矩の取り調べを行った。その際に長矩は「上へ対し奉りいささかの御怨みこれ無く候へども、私の遺恨これあり、一己の宿意を以って前後忘却仕り討ち果たすべく候て刃傷に及び候。此の上如何様のお咎め仰せつけられ候共、御返答申し上ぐべき筋これ無く、さりながら上野介を打ち損じ候儀、如何にも残念に存じ候。」とだけ述べ、吉良に個人的遺恨があって刃傷に及んだことは述べたが、刃傷に至る詳しい動機や経緯は明かさなかったという。あとは「上野介はいかがに相成り候や」と、吉良がどうなったかだけを気にしている様子だったという。これに対して多門は長矩を思いやって「老年のこと、殊に面体の疵所に付き、養生も心もとなく」と答えると、長矩に喜びの表情が浮かんだとも書いている。

処断決定

午の下刻(午後1時50分頃)、奏者番陸奥一関藩主・田村建顕の芝愛宕下にあった屋敷にお預けが決まり、田村は急いで自分の屋敷に戻ると、桧川源五・牟岐平右衛門・原田源四郎・菅治左衛門ら一関藩藩士75名を長矩身柄受け取りのために江戸城へ派遣した。未の下刻(午後3時50分頃)、一関藩士らによって網駕籠に乗せられた長矩は、不浄門とされた平川口門より江戸城を出ると芝愛宕下(現東京都港区新橋4丁目)にある田村邸へと送られた。


この護送中に江戸城では、長矩の処分が決定していた。将軍・綱吉は朝廷と将軍家との儀式を台無しにされたことに激怒し、長矩の即日切腹と赤穂浅野家五万石の取り潰しを即決した。前述の『多門筆記』によると、若年寄加藤明英稲垣重富がこの決定を目付の多門に伝えたが、多門は「内匠頭五万石の大名・家名を捨て、お場所柄忘却仕り刃傷に及び候程の恨みこれあり候は、乱心とても上野介に落ち度これあるやも測りがたく(略)大目付併私共再応糾し、日数の立ち候上、いか様とも御仕置き仰せつけられるべく候。それまでは上野介様も、慎み仰せつけられ、再応糾しの上、いよいよ神妙に相い聞き、なんの恨みも受け候儀もこれなく、全く内匠頭乱心にて刃傷に及び候筋もこれあり候はば、御称美の御取り扱いもこれあるべき所、今日に今日の御称美は余り御手軽にて御座候」と抗議したと書いている。これを聞いて加藤と稲垣も「至極尤もの筋。尚又老中方へ言上申すべし」と答え、慎重な取り調べを老中に求めてくれたというが、結局は大老側用人柳沢吉保が「御決着これ有り候上は、右の通り仰せ渡され候と心得べし」と称して綱吉への取次ぎを拒否したため、即日切腹が確定したのだと同書中で述べている。


江戸城内や幕府の行事における刃傷事件はこれまでにも何件も発生していたが、即日切腹の例は浅野長矩が初めてであった。ここまで綱吉が切腹を急いだのは、政治的意味合いがあったとする説がある。長矩の母方の叔父・内藤忠勝が同じような事件を起こしたことがあるにも拘わらず、近親者が同様の事件を起こしたことから、これまでの処罰の軽さが今回の事件の一因となったと考え、苛烈な処断となった、とする説がある。

長矩切腹

以下は一関藩の『内匠頭御預かり一件』による。

申の刻(午後4時30分頃)に田村邸についた長矩は出会いの間という部屋の囲いの中に収容され、まず着用していた大紋を脱がされた。その後1汁5菜の料理が出されたが、長矩は湯漬けを二杯所望した。田村家でも即日切腹とは思いもよらず、当分の間の預かりと考えていたようで、長期の監禁処分を想定し、長矩の座敷のふすまを釘付けにするなどしていたという。申の下刻(午後6時10分頃)に幕府の正検使役として大目付庄田安利、副検使役として目付・多門重共、同・大久保忠鎮らが田村邸に到着し、出合の間において浅野に切腹改易を宣告した。これに対して浅野は「今日不調法なる仕方いかようにも仰せ付けられるべき儀を切腹と仰せ付けられ、有難く存知奉り候」と答えたという。


宣告が終わると直ちに障子が開けられ、長矩の後ろには幕府徒目付が左右に二人付き、庭先の切腹場へと移された。庄田・多門・大久保ら幕府検使役の立会いのもと、長矩は磯田武大夫(幕府徒目付)の介錯で切腹して果てた。享年35。


『多門筆記』によれば、切腹の前に長矩は「風さそふ 花よりもなほ 我はまた 春の名残を いかにとかせん」という辞世を残したとしている。さらに多門の取り計らいにより、片岡高房が主君・長矩に最後に一目、目通りできたともしている。

しかし、これはいずれも『多門筆記』にしか見られない記述である。『多門筆記』では、柳沢出羽守とかくべきところを美濃守と書いてあったり仙石伯耆守であるべきところを後に改名した丹後守になっていたり、刃傷事件現場について「畳に夥しいほどの血が」というように大げさな記述があったりと、信用出来ない記述があまりにも多い。「多門筆記は後世の別人の作」という見方はかなり有力であり、この辞世は、春風に吹かれて夜桜が散っているという情景と自らの心境を重ねたものであるが、前日の雨と強風で桜はすでに散ってしまった後の可能性が高い。


さらに『多門筆記』によれば長矩の切腹場所が一国一城の主にあるまじき庭先である事について多門は庄田安利に抗議したという。しかし庄田は「副使のくせに正使である拙者に異議を唱えるな」とまともに取り合わなかったのだという。例によって多門の自称なので疑わしく見えてくるが、庄田は翌年高家・大友義孝(吉良義央の同僚で友人)や東条冬重(吉良義央実弟)など吉良派の旗本たちと一緒に呼び出され、「勤めがよくない」として解任されてしまっていることから、どうやら庄田が吉良寄りと思われるような態度をとったことは間違いないようだ。

なお比較的資料の価値が高い『内匠頭御預かり一件』の方には長矩の側用人片岡高房と礒貝正久宛てに長矩が遺言を残したことが記されている。それによれば「此の段、兼ねて知らせ申すべく候得共、今日やむことを得ず候故、知らせ申さず候、不審に存ず可く候」という遺言であったという。尻切れになっている謎めいた遺言であるが、これが原文なのか、続く文章は幕府をはばかって田村家で消したのか、真相は不明である。


その後、田村家から知らせを受けた浅野家家臣の片岡高房、糟谷勘左衛門(用人250石役料20石)、建部喜六(江戸留守居役250石)、田中貞四郎(近習150石)、礒貝正久(近習150石)、中村清右衛門(近習100石)らが長矩の遺体を引き取り、彼らによって高輪泉岳寺に埋葬された。

長矩の遺臣たちのその後は、赤穂事件の項を参照のこと。

詳しいことは、「浅野長矩ウィキペディア」をご覧ください ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%85%E9%87%8E%E9%95%B7%E7%9F%A9
(wikiより)

39 浅野内匠頭長矩

浅野長矩

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 此方のお墓は、遺髪墓となっております。

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浅野内匠頭 長矩

赤穂藩主。松之大廊下で吉良義央に刃傷に及び即日切腹。
辞世は「風さそふ花よりも猶我はまた春の名残をいかにとか(や)せん」というがこれは「多門伝八郎筆記」にあるだけで、多門の創作と考えられる。(「元禄赤穂事件」p122)

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大石内蔵助 良雄
国家老、1500石(譜代)。討ち入りの指導者。享年45。
辞世は「あら楽や思ひは晴るゝ身は捨つる浮世の月にかゝる雲なし」。

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大石主税 良金
部屋住み。大石良雄の長男。
討ち入りのときは裏門の大将をつとめる。最年少の同志。享年16。
辞世は「あふ時はかたりつくすとおもへども別れとなればのこる言の葉」。

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寺坂吉右衛門 信行
吉田兼亮の足軽、3両2分2人扶持。足軽では唯一の参加者。
討ち入り後に一行から立ち退いている。討ち入り時は38歳。
事件後に幾つかの家に仕えた後、江戸で没。享年83。

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三村次郎左衛門 包常
台所奉行・酒奉行、7石2人扶持(二代)。享年37。

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間新六郎 光風
間光延の次男。養子に出されたが養父と折り合いが悪く江戸に出て浪人になっていた。願い出て義盟に加えられた。享年24。
辞世は「思草茂れる野辺の旅枕仮寝の夢は結ばざりしを」。

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横川勘平 宗利
徒目付、5両3人扶持(新参)。
12月14日に吉良屋敷で茶会があることを調べる。享年37。
辞世は「まてしばし死出の遅速はあらんともまつさきかけて道しるべせむ」。

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茅野和助 常成
横目付、5両3人扶持(新参)。享年37。
辞世は「天の外はあらじな千種たに本さく野辺に枯るると思へは世や命咲野にかかる世や命」。

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神崎与五郎 則休
徒目付、5両3人扶持(新参)。享年38。
辞世は「余の星はよそ目づかひや天の川」。

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村松三太夫 高直
部屋住み。
村松秀直の長男。享年27。
辞世は「極楽を断りなしに通らばや弥陀諸共に四十八人」。

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矢頭右衛門七 教兼
部屋住み(譜代)。
父長助ともに義盟に加わったが仇討ち決行前に父は病死した。享年18。

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奥田貞右衛門 行高
部屋住み。
奥田重盛の養子。近松勘六の異母弟。享年26。

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間十次郎 光興
部屋住み。
間光延の長男。吉良上野介に一番槍をつけ、その首級をあげた。享年26。
辞世は「終にその待つにぞ露の玉の緒のけふ絶えて行く死出の山道」。

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間瀬孫九郎 正辰
部屋住み。間瀬正明の長男。享年23。

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小野寺幸右衛門 秀富
部屋住み。
小野寺秀和の養子。享年28。
辞世は「今朝もはやいふ言の葉もなかりけりなにのためとて露むすぶらん」。

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前原伊助 宗房
金奉行・中小姓、10石3人扶持(二代)。
江戸で呉服屋を開き吉良屋敷を探索した。享年40。
辞世は「春来んとさしもしらじな年月のふりゆくものは人の白髪」。

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勝田新左衛門 武尭
札座横目、15石3人扶持(譜代)。享年24。

070a22

杉野十平次 次房
札座横目、8両3人扶持(二代)。享年28。

070a23

村松喜兵衛 秀直
扶持奉行・江戸定府、20石5人扶持(二代)。享年62。
辞世は「命にもかえぬ一をうしなはば逃げかくれてもこゝを逃れん」。

070a24

倉橋伝助 武幸
扶持奉行・中小姓、20石5人扶持(二代)。享年34。

070a25

武林唯七 隆重
馬廻、15両3人扶持(二代)。
吉良義央の養子吉良義周と切り結び負傷させ、炭小屋に隠れていた吉良義央を討ち取った。享年32。
辞世は「三十年来一夢中 捨レ身取レ義夢尚同 双親臥レ病故郷在 取レ義捨レ恩夢共空」(「レ」は漢詩文訓読の返り点)。

070a26

吉田沢右衛門 兼貞
部屋住み。
蔵奉行吉田兼亮の長男。享年29。

070a27

岡嶋八十右衛門 常樹
札座勘定奉行、20石5人扶持(二代)。原惣右衛門の弟。享年38。

070a28

大高源五 忠雄
金奉行・膳番元方・腰物方、20石5人扶持。
小野寺秀富の兄。吉良家出入りの茶人に接近して12月14日の吉良屋敷で茶会があることを聞きつけた。
俳諧をよくして俳人宝井其角と交流があり、これをもととして「松浦の太鼓」の外伝が作られた。享年32。
辞世は「梅で呑む茶屋もあるべし死出の山」。

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貝賀弥左衛門 友信
中小姓・蔵奉行、10両3人扶持(新参)。吉田兼亮の弟。享年54。

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貝賀弥左衛門 友信
中小姓・蔵奉行、10両3人扶持(新参)。吉田兼亮の弟。享年54。

070a30

岡野金右衛門 包秀
部屋住み。
美男で忠臣蔵の物語では大工の娘を通じて吉良屋敷の図面を手に入れている。享年24。
辞世は「その匂ひ雪のあさぢの野梅かな」。

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木村岡右衛門 貞行
馬廻・絵図奉行、150石(譜代)。享年46。
辞世は「おもひきや我が武士の道ならで御法のゑんにあふとは」。

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千馬三郎兵衛 光忠
馬廻、100石(二代)。享年51。

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不破数右衛門 正種
元馬廻・浜奉行、元100石(譜代)。
浪人していたが懇願して義盟に加わる。討ち入りでは最もめざましい働きをしたと伝わる。享年34。

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菅谷半之丞 政利
馬廻・郡代、100石(譜代)。享年44。

070a35

中村勘助 正辰
書物役、100石(譜代)。享年46。
辞世は「梅が香や日足を伝ふ大書院」。

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早水藤左衛門 満尭
馬廻、150石(二代)。
刃傷事件の第一報を江戸から赤穂へ伝える。享年40。
辞世は「地水火風空のうちより出し身のたどりて帰るもとのすみかに」。

070a37

大石瀬左衛門 信清
馬廻、150石(譜代)。享年27。

070a38

矢田五郎右衛門 助武
馬廻・江戸定府、150石(二代)。享年29。

070a39

奥田孫太夫 重盛
武具奉行・江戸定府、150石(新参)。
仇討ち急進派の中心人物。享年57。

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赤埴源蔵 重賢
馬廻、200石(譜代)。
忠臣蔵では「徳利の別れ」で有名。享年35。

070a41

堀部安兵衛 武庸
馬廻、200石。
越後国新発田藩出身、旧姓中山。
父の代に新発田藩を放逐となり浪人していたが、高田馬場の決闘での活躍により、堀部金丸の婿養子となり、赤穂浅野家の家臣となる。仇討ち急進派の中心人物。討ち入りでは大太刀を持って大いに奮戦したと伝わる。享年34。
辞世は「梓弓ためしにも引け武士の道は迷はぬ跡と思はば」。

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潮田又之丞 高教
郡奉行、絵図奉行、200石(譜代)。享年35。
吉良義央を討ち取るとその首級を槍先に括りつけ引き揚げた。
辞世は「武士の道とばかりを一筋に思ひ立ぬる死出の旅路を」。

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近松勘六 行重
馬廻、250石(譜代)。討ち入りの際に負傷する。享年34。

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富森助右衛門 正因
馬廻・使番、200石(二代)。享年34。
辞世は「先立し人もありけりけふの日をつひの旅路の思ひ出にして」。

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堀部弥兵衛 金丸
前江戸留守居、前300石、隠居料20石(譜代)。同志のうち最年長者。享年77。
辞世は「雪はれて思ひを遂るあしたかな」。

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礒貝十郎左衛門 正久
物頭・側用人、150石(新参)。享年25。

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間喜兵衛 光延
勝手方吟味役、100石(二代)。享年69。
辞世は「草枕むすぶ仮寐の夢さめて常世にかへる春の曙」。

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小野寺十内 秀和
京都留守居番、150石役料70石(譜代)。享年61。
辞世は「今ははや言の葉草もなかりけり何のためとて露結ぶらむ」。

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間瀬久太夫 正明
大目付、200石役料50石(二代)。享年63。

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片岡源五右衛門 高房
側用人・児小姓頭、350石(譜代)。
忠臣蔵では浅野長矩切腹の際に最後の対面をした。仇討ちを強硬に主張し独自の行動をとっていた。享年37。

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原惣右衛門 元辰
足軽頭、300石(新参)。早くから江戸の急進派に同調していた。享年56。
辞世は「君がため思もつもる白雪を散らすは今朝の嶺の松風」。

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吉田忠左衛門 兼亮
足軽頭・郡奉行、200石役料50石(譜代)。
浪士の中では大石内蔵助に次ぐ人物として、これを補佐した。享年64。
辞世は「かねてより君と母とにしらせんと人よりいそぐ死出の山道」。


『 亀の首が容易に動くくせに、決して抜けない 』


寛延 3年 ( 1750年 ) 義士の 50回忌を前にして ( 48年目 ) 義士を追慕の人々が建てたもの。


碑文は大石主税 ( 1688 ~ 1703年、16歳没 ) と幼な友達であった龍野の藩儒・藤江熊陽 ( ゆうよう、1683 ~ 1751年、播州赤穂郡志の著者 ) が撰び、赤穂の藩医で能書家であった藤田東閣が書いたもので、この碑文は大変な名文であり、東京泉岳寺にある亀田鵬斎 ( ほうさい ) の赤穂四十七義士碑と、江州大石荘 ( 滋賀県大津市の南部 ) にある栗山潜鋒 ( せんぽう ) の忠義碑と並んで、義士に関する三大碑文と称されています。

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この松の木も凄いですが、先代の松の木 ( 初代 ) も樹齢 310年で枯死しました。

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当山は曹洞宗に属し、正保 2年 ( 1645 ) 赤穂藩祖・浅野長直公によって建立された寺である。


元禄事件後は、歴代藩主の菩提寺となる。


宝物館・義士木像堂・義士墓所があり赤穂義士ゆかりの史跡ともなっている。


新西国第 31番・瀬戸内観音第 7番の霊場でもある。
(案内板より)

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内藤 波知(ないとう はち、? - 寛文12年12月20日1673年2月6日))は、播磨赤穂藩主・浅野長友の正室。

志摩鳥羽藩主・内藤忠政の娘。

母は板倉重宗の娘。

弟に内藤忠勝。姉妹に安部信友室、戸田氏西室、岩城秀隆室などがいる。


長友に正室として嫁ぎ、寛文7年(1667年)8月11日に長男・長矩、寛文10年(1670年)10月29日に次男・長広を出産したが、寛文12年(1672年)12月20日に浅野家の江戸藩邸において死去した。

赤穂の照満山大蓮寺に葬られた。戒珠院殿理庵栄智大姉。


ちなみに長友も延宝3年(1675年)に死没したため、長矩・長広兄弟は幼少にして父母を失うことになった。

長矩は赤穂事件のきっかけとなった刃傷事件を起こし切腹させられた。

また波知の弟・忠勝は芝増上寺の刃傷事件永井尚長を殺害し切腹させられている。
(wikiより)

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当寺は約五百年前、乗蓮社台誉上人朝阿察道和尚 〈 天文元年 ( 1532 ) 寂 〉 により開かれた。


当初は現在地ではなく、現JR播州赤穂駅北方の山麓にあったといわれる。


現在地に移った時は定かではないが、藩主・池田輝興時代〈 寛永八年~正保二年 ( 1631 ~ 1645 ) 〉の城下絵図には現在地に記されている。


第四世楊蓮社称誉上人務白西碩和尚 ( 元禄四年寂 ) の代に赤穂浅野第二藩主・長友婦人波知の方 ( 戒名・戒珠院殿理庵栄智大姉 ) の菩提寺となった。


波知の方は、志摩国鳥羽藩主・内藤忠政侯の娘として生まれ、浅野長友侯に嫁いだ。


内藤家の宗旨が浄土宗であったため、当寺を菩提寺としたのである。


波知の方は、寛文十二年 ( 1672 ) 十二月二十日江戸にて寂。


長子長矩五歳の時であり、短い生涯の薄幸の女性であった。


浅利家断絶の当寺は、藩主・森家の家臣を中心とした浄土念仏信仰の菩提寺として現在に至っている。


本堂は、第九世普誉上人の代、寛政年間に建立されたものである。


境内には、戒珠院殿の墓、大石内蔵助寄進の稲荷神社と石灯篭、当寺で得度された浄土宗総本山知恩院第七十八世門跡野上運海上人の墓、儒学者・赤松蘭室師の墓等がある。
(案内板より)

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昔なつかし メリケン桟橋


ころは目筋のはじめ


ここに小さな突堤があり


その先に浮き桟橋があった


近くに、アメリカ領事館があったので


人びとはアメリカ桟橋と呼ぶようになった


のち、神戸港は出船入船が繁くなり


世界的に発展したので


その玄関口として


長い立派な突堤を築いた


世人は、ここを神戸の名所の一つとして


メリケン波止場とよんで親しんでいる


洲崎喜夫
小野米吉
(石碑文より)


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高光院殿は赤穂藩初代藩主浅野長直公の正妻であり、あの赤穂浪士討ち入りの発端となった浅野内匠頭の祖母にあたる方である。


熱心なお題目の信者であった高光院殿は赤穂城下に法華経の寺院を移転することとし、これが現在の高光寺の前身となっている。


高光院殿蓮心日澄大姉。

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法耀山高光寺は、もと大津村にあって妙典寺と称されていたが、寛永十七年 ( 1640 ) に現在地に移された日蓮宗寺院である。


明暦三年 ( 1657 ) 赤穂藩主浅野長直侯から御本尊の寄進を受け、寛文二年 ( 1662 ) 奥方、高光院殿蓮心日澄大姉の菩提寺となるよう仰せ付けられた。


延宝二年 ( 1674 ) に浅野長友侯が願主となり、当山を大改築して、高光寺と改称。


竹万村大乗寺と、大津村に新たに建立された妙典寺を高光寺の末寺とし、延宝四年に日蓮宗中本山となった。


元禄十四年 ( 1701 ) の浅野家断絶に際しては、家臣から高光院殿御墓料として田地五反二畝九歩を寄進された。


当山壇越、原惣右衛門寄進の七面大天女を祀り、毎年九月十九日に火伏祭を営んでいる。


なお義士関係の寺宝としては、原惣右衛門直筆の「法華経」八巻、大石良雄筆「大黒天画像」、浅野家寄進の「三十番神画像」「鬼子母神・十羅刹女画像」等が保存されている。
(案内板より)

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守護神は竜神です。


法華経護法の竜神で、水の神とも、雨乞いの神とも言われ、霊験あらたかな福泉寺の守護神として、勧請するものである。
(案内板より)

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赤穂義士 茅野和助の子供。

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河原翠城は、文久事件で暗殺された村上真輔の実子で、六歳のときに河原家の養子となった。


翠城は号。幼名は駱之助、字は士栗と称した。


十九歳のときに広島に出て、藩儒・坂井虎山に師事。


以後、大阪、京都、伊勢、江戸で遊学し、各地の名儒の門を叩いた。


安政四年 ( 1857 ) 帰藩して藩学教授となると同時に、私塾を開いて多くの子弟を教えた。


文久二年 ( 1862 )、藩の勘定奉行も兼ねた。


文久事件で実父・村上真輔が暗殺されると、汚名を晴らそうと画策するが、上意により追放処分を受けた。


進退極まった翠城は、福泉寺にて自刃して果てた。三十六歳であった。

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赤穂 森家藩士 野山斧右衛門は文武練達・信義に篤い武士である。


幼少の頃より義士のの墓に、寺坂吉右衛門の墓が無いのを嘆いていた。


寺坂吉右衛門は律儀で篤実そのものであり義士快挙後も死ぬ迄信念を通し続けた人であった。


斧右衛門は天保の初年、藩庁の許可を得て自費で墓碑を建立した。


寺坂吉右衛門の忠節と野山斧右衛門の義は誰知らぬ者はなく


これにより花岳寺の義士墓に詣でる人もふえ、全国の義士墓は四十七士碑に定着した。


義人 大塩平八郎の臥薪嘗胆で始まる「四十七士」の詩は有名である。
(案内板より)


( 原文 )
四十七士

臥薪嘗膽幾辛酸

一夜劍光映雪寒

四十七碑猶護主

凛然冷殺奸臣肝


( 訓読 )
四十七士

臥薪嘗胆 幾辛酸

一夜の剣光 雪に映じて寒し

四十七碑 猶ほ主を護り

凛然として冷殺す 奸臣の肝


( 訳 )
赤穂四十七士

赤穂浪士たちは薪の上に寝、苦い胆をなめるような辛く苦しい思いを幾度味わったことであろう

討ち入りのその夜、彼らの刀の光は雪を冷え冷えと照らしていた

四十七士は死して墓となっても今なお揃って主君を守っており

その凛々しく厳しいさまを見れば、よこしまな思いをいだく臣は肝を冷やさずにはおれないのだ


( 注 )
四十七士:忠臣蔵で有名な赤穂四十七士。

亡き主君浅野長矩 ( 内匠頭 ) の仇を討つため、元禄 15年 12月 14日 ( 1703年 1月 30日 )、吉良義央 ( 上野介 ) の屋敷に乗り込み、吉良の首を取った。事件後、幕府の命により切腹、主君と同じ江戸高輪の泉岳寺に葬られた。


・臥薪嘗胆:毎日、薪の上で寝て痛みを感じたり、肝をなめて苦みを感じたりすることによって、恨みや恥を忘れず雪辱やかたき討ちの決意を堅くすること。中国の春秋時代、激しく抗争した呉王夫差と越王勾踐の故事から。


・辛酸:つらく苦しいこと。


・四十七碑:赤穂四十七士の墓。
「碑」は事跡を彫って建てておく石のことだが、ここでは墓碑のこと。

「四十七墓」とすると「墓」が仄声のため平仄に合わず、平声の「碑」を用いたものであろう。

実際には、泉岳寺には、討ち入り後切腹した四十六人の墓に加え、討ち入り後 ( 討ち入り前という説もある ) に姿を消して切腹をまぬかれた寺坂信行 ( 吉右衛門 ) と、討ち入り前に切腹した萱野重実 ( 三平 ) の供養塔を含む四十八基の墓がある。


・凛然:凛々しく厳しいさま


・冷殺:「冷」は動詞の「冷やす」。「殺」は意味を強調するための助字。


・奸臣:よこしまな思いをいだく臣下。


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日蓮宗寺院の福泉寺は、長遠山と号します。福泉寺の創建年代等は不詳ながら、寛文5年(1665)に日進上人が開山、赤穂藩主浅野長直の家臣大石頼母より寺地を受領、浅野藩・森藩家中より檀信徒を擁していたものの、明治維新後は檀家の没落と共に当寺も荒廃、当寺31世により復興したといいます。


〇 文久事件と福泉寺
日本最後の仇討ち、高野の復讐とも呼ばれる 文久事件は文久二年(1862)十二月九日に赤穂森藩国家老森主税と用人村上真輔を藩政の主導権争いから藩士十三人が襲い暗殺します。


事件により藩政(博文館教授)から追放された村上真輔の次男河原駱之助は暗殺の企てがあることを知り逃れるすべもなく菩提寺の福泉寺で親戚列座読経のうちに自刃して果て、境内に墓があります。


明治4年に維新政府は村上真輔に雪冤無罪を達し、それを受けた息子ら七人が高野山にある森家廟所の守護を命じられた暗殺に加わった六名を途中の作水峠で待ち伏せして殺害し仇を討ちました。


この事件が契機となり時の政府により「仇討禁止令」が発布されます。


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昭和 20年 3月 9日夜半過ぎより 10日未明にかけて東京大空襲により江東・城北地区は一夜にして悉く灰燼に帰す


当夜の犠牲者は 9万余命に達し痛恨の限りなし


当今戸周辺の殉職者も数千名を数え墨田公園及びその他に仮埋葬をなし


且つ今戸周辺の犠牲者数百名の遺体はこの地に埋葬した


その後上野寛永寺並びに震災記念堂に合祀した結果


その後に町会有志発願主となり犠牲者の冥福を祈り地蔵尊を建立した


以来毎年 3月慰霊祭を行い今日に至る


昭和 44年

       今 3町会 合掌

( 所在地 台東区今戸 2丁目 26番地 )

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黒川 紀章(くろかわ きしょう、本名:くろかわ のりあき、1934年昭和9年)4月8日 - 2007年平成19年)10月12日)は、日本建築家一級建築士)、思想家実業家政治活動家。株式会社黒川紀章建築都市設計事務所代表取締役社長を務めた。日本芸術院会員。1986年にフランス建築アカデミーのゴールドメダルを受賞[1]

来歴

愛知県海部郡蟹江町生まれ。

1953年昭和28年)東海高等学校卒業。1957年(昭和32年)京都大学工学部建築学科卒業。在学中は西山卯三に師事。卒業制作の題目は「A Project for Shopping Center」であった。同年東京大学大学院工学研究科建築学専攻修士課程へ進学。東大では丹下健三研究室に所属し指導を受ける[2]。東大在学中に「株式会社黒川紀章建築都市設計事務所」を設立。1964年(昭和39年)東京大学大学院工学系研究科建築学専攻博士課程単位取得退学。1969年(昭和44年)に株式会社アーバンデザインコンサルタントと社会工学研究所を設立。


槇文彦
磯崎新谷口吉生らと共に丹下健三の門下生である。1959年(昭和34年)に建築理論メタボリズム浅田孝大高正人槇文彦菊竹清訓粟津潔栄久庵憲司川添登らと提唱した。1960年(昭和35年)、メタボリズム・グループとして世界デザイン会議に参加。社会の変化や人口の成長に合わせて有機的に成長する都市や建築を提案した。メタボリズムに基づいた増築・取替えの可能な建築として中銀カプセルタワービル(1972年)などの作品がある。


博士課程時代の数々の構想案や、磯崎新の代理でアスペン学生デザイン会議に参加するなどの結果、学生時代から国際的に著名で、[3]のちも海外の作品も数多い。


2007年平成19年)、共生新党を結党して、4月の東京都知事選挙、7月29日の参院選に立候補していずれも落選するが、バラエティ番組への出演と合わせて耳目を集めた。


院選2ヵ月後の10月12日午前8時42分に、東京女子医科大学病院で死去した。73歳没。死の2年ほど前にすい臓がんが見つかり手術をしていたが公表しておらず、死の直前まで夫人の若尾文子にもがんであることを明かしていなかった[4][5][6][7]青山の梅窓院に埋葬され、戒名は至聖院範空功道居士である。


フランス
建築家協会正会員、日本景観学会会長などを務めた。

主な作品については、「黒川紀章ウィキペディア」をご覧ください。 ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BB%92%E5%B7%9D%E7%B4%80%E7%AB%A0

賞歴
1965年昭和40年) - 高村光太郎賞(造型部門)

1978年(昭和53年) - 毎日芸術賞

1986年(昭和61年) - フランス建築アカデミーゴールドメダル

1988年(昭和63年) - リチャード・ノイトラ賞(米国)

1989年平成元年) - 世界建築ビエンナーレ・グランプリ・ゴールドメダル、フランス芸術文化勲章

1990年(平成2年) - 日本建築学会賞作品賞(広島市現代美術館

1992年(平成4年) - 日本芸術院賞(奈良市写真美術館)

2002年(平成14年) - 国際都市賞(スペイン、メトロポリス協会)

2003年(平成15年) - 第1回世界都市賞

2006年(平成18年) - 文化功労者

2007年(平成19年) - 正四位旭日重光章(逝去後の叙位・叙勲)

海外の学会における顕彰を受けており、

アメリカ建築家協会名誉会員

英国王立建築家協会名誉会員

ブルガリア建築家協会名誉会員

カザフスタン建築家協会名誉会員

である。

都市計画への取り組み

他の丹下研究室出身の建築家と同様、“都市”について意識的な建築家である。東京計画1960は磯崎新とともに主担当したが、それまでは丹下研究室での設計実務も磯崎とともに極力拒否していた[8][9][10]


ポンピドゥ・センター
コンペでドミノ1971を提案し、大阪府立国際会議場のコンペでスーパードミノ2000を提案した[11]


以下に手がけた具体的事案を「主な都市計画」、構想を「主な都市構想」、で示す。

主な都市計画
1959年昭和34年) - 戸山ハイツ計画案

1962年(昭和37年) - 磯子団地計画

1964年(昭和39年) - 堺・泉北臨海工業地帯緑地計画

・1964年(昭和39年) - 札幌大通公園改造計画

1965年(昭和40年) - 丸亀市法定都市計画案策定[12]

1966年(昭和41年) - 愛知県菱野ニュータウン基本計画

1967年(昭和42年) - 藤沢市西部開発湘南ライフタウン

1968年(昭和43年) - 佐倉市都市計画策定

・1968年(昭和43年) - 北湘南開発基本計画

1969年(昭和44年) - 根岸駅前再開発計画

・1969年(昭和44年) - 鴻巣ニュータウン基本設計

1970年(昭和45年) - 小田急奥蓼科あけぼの計画インスタントビレッジ

・1970年(昭和45年) - 川崎駅前再開発計画

1971年(昭和46年) - 清川村総合計画

・1971年(昭和46年) - 鳥取駅前再開発

・1971年(昭和46年) - 国鉄飯田町操車場再開発基本構想

1973年(昭和48年) - 稲山総合開発計画

1974年(昭和49年) - 南青山一丁目再開発計画、

1979年(昭和54年) - イタリアヴァスト市とサンサルヴォ市都市計画のほか、リビア・アー・サリール・ニュータウン(1979年(昭和54年) - 1984年(昭和59年))

カザフスタン新首都アスタナ計画

シンガポール実験特区フュージョンポリス

マレーシア・バイオバレー都市計画

タンザニア新首都計画

中華人民共和国杭州市都市計画設計競技

・中国・鄭州市のマスタープラン(河南省新都市)

・中国・焦作市新都市都市計画

・中国・上海嘉定新都市都市計画

・中国・昆明市新空港都市都市計画

主な都市構想
1959年昭和34年) - 新東京計画案:50年後の東京

1960年(昭和35年) - 垂直壁都市 丸の内再開発計画

・1960年(昭和35年) - 農村都市計画

1961年(昭和36年) - 東京計画1960サイクルトランスポーテーションシステム

・1961年(昭和36年) - 霞ヶ浦計画

・1961年(昭和36年) - 丸の内業務地域再開発計画

・1961年(昭和36年) - 東京計画1961<ヘリックス計画>

1962年(昭和37年) - 箱型量産アパート計画

・1962年(昭和37年) - 西陣地区再開発計画

1965年(昭和40年) - メタモルフォーゼ計画1965

1966年(昭和41年) - 山形HD計画

1969年(昭和44年) - 海洋工業基地メタボナート'69

1976年(昭和51年) - 吉備高原都市計画

1987年(昭和62年) - 東京2025計画(グループ2025)

1989年平成元年) - ニーム副都心計画コリゼ

政治活動

かねてから日本会議で代表委員を務めるなど、保守派の論客として知られていた。2007年平成19年)に共生新党を発足して党首に就任し、4月の東京都知事選挙、7月の第21回参議院議員通常選挙に出馬したが落選した。建築で世界的に著名な人物の初出馬は、派手なパフォーマンスが世間の注目を集めた。


建築家磯崎新は黒川の死後、彼の立候補によるアイデア表明はメディア型建築家として当然のことと見なし「(都知事選の)マニフェストは群を抜いていた」「そのアイデアは誰かが実現させることだろう」と述べた[13]

経緯

2007年平成19年)2月21日、「石原氏とは親しいが、議会無視、側近政治、無意味な五輪招致など目に余る」と2007年東京都知事選挙に出馬を表明。本人は石原を応援していた8年前から出馬を考えていたと発言した。3月16日には共生新党を立ち上げた。


主要4候補の一人としてテレビ討論に出演するなどメディアに取り上げられるも落選(票数:159,126、得票率:2.9%)。


選挙翌日のフジテレビのインタビューでは、浅野史郎が敗因や感想を述べ総括をしていたのとは対照的に、都政の具体的な話題に熱弁をふるい、次の都知事選に触れた。


選挙の2日後に、共生新党として参院選に出馬する意志があることを明らかにした。

マニフェスト

以下は2007年平成19年)3月5日に都庁で発表したマニフェストである。


・任期中の給与は1円。

東京都庁舎や、江戸東京博物館東京国際フォーラムの民間売却。

オリンピック招致中止。

・学校現場での日の丸君が代の強制を改める。

築地市場豊洲新市場移転は反対。

東京23区の市昇格を行い、行財政権力を強化する。

首都機能の一部を移転し、霞が関に緑地を増やす。


都知事選立候補時の記者会見では、日本会議で代表委員も務めた保守派言論人というイメージにも関わらず、「僕は社会主義に対する幻影がいまだにある。具体的に支援しているのは中国。ロシアは本気で亡命しようとしたこともあった」と発言して話題となった[14]

パフォーマンス

自らがデザインした円形のガラス張り選挙カーを使用、クルーザーから手を振る、ヘリコプターで都知事選候補者では初めて離島へ向かうなどの選挙活動を黒川自らが「陸海空作戦」と称した。当初は飛行船から桜吹雪を撒き散らすというアイデアもあったが、選挙管理委員会の許可が下りなかった。


他の主要候補者が演説している場所に突然現れ、対話しようとする選挙活動を一部のメディアが「奇襲作戦」と称した。選挙戦の最終日は新宿西口で演説中の石原慎太郎候補の近くに来て、「石原裕次郎の名前を出さないと当選できない石原慎太郎さんには、この歌を送ります」といい、妻と共に石原裕次郎の「銀座の恋の物語」を歌った。しかし、その後は夫婦で石原の演説に聞き入り、最後に拍手を送っていた。


参議院選挙から関口忠相を選対副本部長
[要出典]に据え、最終日の和太鼓・ほら貝・松明に武田信玄のテーマをバックミュージックにした新宿駅東口の打ち上げ演説の様子は、多くのテレビで放映されたが、黒川本人は体調不良で参加しなかった。


詳しいことは、「黒川紀章ウィキペディア」をご覧ください。 ⇩

011 黒川紀章

黒川紀章

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的場 幸雄(まとば さちお、1899年3月23日 - 1987年9月28日)は、日本の金属工学者。東北大学名誉教授。元富士製鐵代表取締役副社長。元日本金属学会会長。元日本鉄鋼協会副会長。

人物・経歴
1924年九州帝国大学工学部冶金学科卒業、東北帝国大学工学部金属工学科講師。1927年東北帝国大学工学部金属工学科助教授[1]。1935年九州帝国大学工学博士[2]。1936年東北帝国大学工学部金属工学科教授[1]。1955年日本金属学会会長[3]。1959年東北大学工学部長。1962年東北大学名誉教授[1]、富士製鐵代表取締役副社長、富士製鐵中央研究所所長[4]。1971年日本工学会会長[5]日本鉄鋼協会副会長、日本学術会議会員なども務めた[1]

脚注
1. a b c d 選鉱製錬研究所前併任教授 的場幸雄博士 東北大学
2. 的場幸雄, 「熔鋼ニ於ケル炭素ト酸素トノ平衡ニ就テ」 九州帝国大学 博士論文, [報告番号不明] , 1935年, NAID 500000487621
3. 「歴代会長」日本金属学会
4. 「富士製鐵有価証券報告書」 東京大
5. 「日本工学会会長・副会長等」日本工学会
(wikiより)

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的場 中(まとば なか、安政3年10月12日1856年11月9日) - 1933年昭和8年)4月20日[1])は、日本冶金学者

経歴
伊勢国山田(現在の三重県伊勢市)出身。1882年明治15年)、工部大学校鉱山学科を卒業。工部大学校助教授、東京帝国大学工科大学助教授を歴任した。1890年(明治23年)から1893年(明治26年)まで冶金鉱山学研究のためドイツに留学した。1894年(明治27年)、東京帝国大学工科大学教授となり、1899年(明治32年)に工学博士の学位を得た。1909年(明治42年)に退官した後は、私立明治専門学校(現在の九州工業大学)校長・教授となり、九州帝国大学工科大学講師を兼ねた。1914年大正)3年、東京帝国大学名誉教授の称号を得た。1921年(大正10年)4月に明治専門学校が官立に移管した後も校長を務め、7月に退官した。

栄典
位階
1894年(明治27年)10月30日 - 従七位[2]

著書
・『通気論』(丸善、1903年)

脚注
1. 『昭和9年版 朝日年鑑』朝日新聞社、1933年。
2. 『官報』第3404号「叙任及辞令」1894年10月31日。

参考文献
・井関九郎『大日本博士録 第五巻』発展社、1930年。
(wikiより)

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的場 中

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正親町三条 実愛(おおぎまちさんじょう さねなる)は、江戸時代後期から明治期にかけての公卿政治家麝香間祗候権中納言正親町三条実義の子。官位従一位権大納言。維新後、改名して嵯峨実愛

経歴

文政5年(1822年)に叙爵。以降累進して、侍従右近衛権少将・右近衛権中将・新清和院別当・奉幣使次官。嘉永元年(1848年)に従三位参議となって公卿に列する。丹波権守権中納言踏歌節会外弁・右衛門督などを歴任した。安政2年(1855年)の孝明天皇遷幸の際、馬副6名・舎人2名・副舎人1名・雑色6名・居飼1名・傘1名を随えて供奉している。


安政5年(1858年)、江戸幕府朝廷に対して通商条約締結の勅許を求めた際、廷臣八十八卿の一人として反対論を展開した。これによって井伊直弼による安政の大獄に連座する。安政6年(1859年)、権大納言万延元年(1860年)に議奏文久2年(1862年)に国事御用掛に就任。しかし、薩摩藩の主導する公武合体運動を支持して「航海遠略策」に賛同したため、尊皇攘夷派の志士から敵視された結果、翌文久3年(1863年)に失脚する。


同年の八月十八日の政変で朝廷に復帰した後は、薩摩藩に接触して討幕派公卿の一人として朝廷を主動した。明治元年(1868年)に新政府の議定、同2年(1869年)には刑部卿に就任。その後も内国事務総督教部卿等などを歴任した。明治3年(1871年)12月、家名を嵯峨に改姓。明治13年(1880年)、勲一等旭日大綬章。明治16年(1883年)には、滋宮韶子内親王明宮嘉仁親王の御用掛を拝命した。明治21年(1888年)、従一位。明治42年(1909年)、90歳で薨去。

備考

・「討幕の密勅」を薩摩藩に伝達する役割を担った。

・一説に孝明天皇は暗殺されたのであり、共謀実行者は実愛と岩倉具視とするものもある。しかしながら、平成元年(1989年)と同2年(1990年)に当時名城大学商学部教授であった原口清が発表した論文『孝明天皇の死因について』『孝明天皇は毒殺されたのか』によると、死因が天然痘であることは病理学的にも明白であり、この著作の登場以降は否定されるのが通説である。

・「嵯峨日記」と総称される膨大な日記を残した。現在、写本が宮内庁書陵部に保存されている。

華族令制定により当主・公勝に伯爵に叙されたが、それへの不満が「嵯峨日記」に残されている。大臣家ながら平堂上貴族と同じ叙爵となったこと、やはり討幕の密勅に関わった中山忠能侯爵となるなど勲功の扱いが不公平に映ったことが原因と思われる。嵯峨は4年後に侯爵となったが、その間の動きなどは浅見雅男『華族誕生』に詳しい。

系譜

・父:正親町三条実義

・母:松姫 - 松平光年

・養父:正親町三条公厚

・妻:鶴

  ・男子:嵯峨公勝

・生母不明の子女

  ・男子:嵯峨公平

  ・長女:眉延子 - 冷泉為柔

  ・次女:保子 - 毛利敬親の養女、毛利元敏正室

  ・七女:餘年子 - 野宮定穀後室
(wikiより)

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嵯峨実愛

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千古を経たる 


この巨大な樹の根は浮木となり七色の木を宿して永く湖を漂流し、月にうつりて龍神辰子姫に見えたり、実に奇しき神霊のあらわれてあり昭和四十八年七月十九日浄暗の裡に共栄パレスが御座の石神社の辰子姫龍神を分霊しここに奉齊する


霊験あらたかにしてすべて大願成就


一、御祭神 辰子姫明神
一、御縁日祭 毎年七月二十日
(案内板より)

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明治四十二年 ( 1909 ) の再建。


中尊寺の山中十七ヶ院を包括する中心道場。


奥州藤原氏の追善、天台宗各祖師の御影供、正月修正会など、一山の法要はほとんどがここで厳修される。


「中尊寺建立供養願文」に記され、歴史の中で失われた丈六の釈迦如来を、平成二十五年 ( 2013 ) 、再び本尊として造顕した。


壇の両脇には、総本山比叡山延暦寺より分灯された「不滅の法灯」が護持されている。
(案内板より)

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「奥の細道」中ほどの「平泉の条」が刻まれた句碑。

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五月雨の降り残してや光堂


松尾芭蕉 元禄二年五月十三日詠


同七年十月十二日没 五十一歳
(案内板より)

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中尊寺七重の舎利の小塔


中尊寺
            宮沢賢治

七重 ( じゅう ) の舎利の小塔 ( こたう ) に
蓋 ( がい ) なすや緑 ( りょく ) の燐光


大盗は銀のかたびら
おろがむとまづ膝だてば
赭 ( しゃ ) のまなこたゞつぶらにて
もろの肱映 ( は ) えかゞやけり


手触 ( たふ ) れ得ね舎利の宝塔
大盗は礼 ( らい ) して没 ( き ) ゆる

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福地直哉


眼にうれしこころに寒し光堂


伊藤雅休


なな重八重の霞をもれて光堂
(案内板より)

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中尊寺金色堂(ちゅうそんじこんじきどう)は、岩手県西磐井郡平泉町中尊寺にある平安時代後期建立の仏堂である。奥州藤原氏初代藤原清衡天治元年(1124年)に建立したもので、平等院鳳凰堂と共に平安時代の浄土教建築の代表例であり、当代の技術を集めたものとして国宝に指定されている。堂の所有者は宗教法人金色院である[1]。なお、中尊寺の歴史や金色堂以外の建築、文化財等については別項「中尊寺」を参照。

建築と堂内装飾
概要
金色堂は、中尊寺山内のやや西寄りに東を正面として建つ、方三間(正面、側面共に柱間が3間)、平面の1辺が5.5メートルの小型の仏堂である。堂は、1965年建設の鉄筋コンクリート造覆堂内にあり、ガラスケースに納められて外気と遮断されている。金色堂は奥州藤原氏の初代藤原清衡により建立された。棟木に天治元年(1124年)の年次と共に「大檀散位藤原清衡」「女檀 安倍氏 清原氏 平氏」が物部清国を大工として建立した旨の墨書があり、この年が建立年とされている。2006年奈良文化財研究所は、解体修理時に取り外されていた金色堂の部材をデジタルカメラを使用した年輪年代測定法で調査した。その調査報告によれば、金色堂に使用された木材の伐採年代は1114年から16年頃とされ、上記の建立年代は科学的にも裏付けられた。奥州藤原氏滅亡直後の文治5年(1189年)、中尊寺経蔵別当心蓮源頼朝に差し出した「寺塔已下注文」(『吾妻鏡』所収)には、当時残存していた中尊寺の堂宇が書き出されているが、その中に「金色堂 上下四壁は皆金色なり」云々の記載があり、当時から「金色堂」と称されていたことが分かる。

建築形式
平面は正面、側面とも3間で、正面の柱間全てと、側面の前端の間、背面の中央の間を板扉両開きとし、残りの柱間は横板壁とする。柱は円柱で、地長押、内法長押(うちのりなげし)、頭貫(かしらぬき)を用い、組物は三斗、中備(なかぞなえ)は蟇股(かえるまた)とする。軒は二軒繁垂木(ふたのきしげだるき)。屋根は宝形造(ピラミッド状の屋根形)で瓦形の木材で葺いた木瓦葺きとする。建物周囲には縁をめぐらすが、高欄や階段はない。内部には4本の柱(入側柱)が立ち、その内側が内陣、外側を外陣とする。間面記法(けんめんきほう)で表記すれば「一間四面」であり、典型的な阿弥陀堂建築である。内陣には金工や漆芸で飾られた須弥壇を、前方2本の柱よりやや後退した位置に設ける。外陣の右奥と左奥(西北隅と西南隅)にもそれぞれ須弥壇を設けるが、これらは後設されたものである。入側柱間は無目(扉や戸のない鴨居)、長押、頭貫で繋ぎ、各柱上に三斗の組物を置き、組物間には蟇股を置く。入側柱・側柱間は繋虹梁(つなぎこうりょう)で繋ぐ。天井は内陣が折上小組格天井(おりあげこぐみごうてんじょう)、外陣は垂木をそのまま見せた化粧屋根裏とする。3つの須弥壇の上には阿弥陀三尊像等の仏像を安置する(詳しくは後述)。須弥壇内には藤原四代のミイラ化した遺体が安置されており、中央壇に清衡、右壇(向かって左)に基衡、左壇(向かって右)に秀衡の遺体が納められ、右壇には泰衡首級も納められている。遺体は土中に埋葬されているのではなく、木製金箔張りの棺に納められて、堂内に安置されていた。このように、金色堂は阿弥陀堂建築であると共に、藤原清衡(後にはその子孫も)の遺体を安置する墓堂、廟堂としての性格を有している。なお、左壇、右壇のいずれが先に増設されたか、いずれの遺体が基衡及び秀衡のものであるか等については後世に混乱が生じているが、これについては後述する。

装飾

金色堂の名のとおり、堂は内外共に総金箔貼りで、扉、壁、軒から縁や床面に至るまで漆塗りの上に金箔を貼って仕上げられている。ただし、木瓦部分のみは解体修理時に金箔の痕跡が確認できなかったため、金箔貼りとしていない。堂内に立つ4本の柱(入側柱)は「巻柱(まきばしら)」と称し、ヒバ材の八角柱の周囲にかまぼこ状の形をした杉材を貼り付けて円柱に仕立てている。これは、柱の表面を漆工芸で装飾するためであると共に、干割れを避けるための措置である。巻柱には蒔絵螺鈿で宝相華文(ほうそうげもん)と仏像が表されている。仏堂内部に壁画ではなく漆工芸で仏像を表現しているのは日本でも珍しい。各柱は、床に接する部分に蓮弁形の根巻金具がある。柱本体は、沃懸地(いかけじ)に螺鈿で宝相華文を表した細い帯が5か所にあり、これによって4つの区画に分けられている。このうち、上の3つの区画には研出蒔絵(とぎだしまきえ)で菩薩像が表され、一番下の区画には螺鈿で大ぶりの宝相華円文が表されている。各柱に表された菩薩像は4体×3段、計12体で、堂内の柱4本に計48体が表されている。これらの菩薩像の尊名や主題については諸説あり明らかではない。なお、4本の柱のうち、後方の2本は解体修理時の復元である。オリジナルの柱は、腐朽が進んでいたため解体修理後に再使用されず、別途保管されている。内陣の無目、長押、頭貫(かしらぬき)、三斗、蟇股(かえるまた)などの部材には沃懸地(いかけじ)に螺鈿で宝相華文を表す。無目と長押は螺鈿のほか、両端と中央に銅板透彫宝相華文の飾金具を取り付けている。天井は全面金箔貼りの上に各辻(縦横の部材の交点)には銅板透彫宝相華文の飾金具を取り付け、その中央に白銅鏡を飾る。中央壇・左壇・右壇の各天井中央には木造透彫の天蓋を吊るが、これは解体修理時の復元で、オリジナルの天蓋は別途保管されている。


須弥壇の側面は格狭間(ごうざま)を設け、銅板打ち出しの孔雀文で飾っている。なお、須弥壇の側面の装飾は、中央壇と左右壇とで技法が異なっている。中央壇では金工による装飾が主で、上框、下框、束(つか)は鍍金銀の宝相華透彫金具で飾られ、格狭間周囲の羽目板も銅板打ち出しで装飾されている。これに対し、左右壇では以上の部材の装飾は主に螺鈿で表されている。須弥壇上の高欄については、中央壇ではヒノキの芯材の上に紫檀を貼った紫檀地螺鈿とするのに対し、左右壇では堂内の他の場所と同様の沃懸地螺鈿が用いられている。中央壇の高欄では、角材の辺の部分に線状に切った象牙を貼っているが、これらの象牙が、鑑定の結果アジアゾウではなくアフリカゾウのものであることが判明している。これは北方貿易により大陸経由で輸入されたもので、このことからも当時の奥州藤原氏の財力と勢力の高さを窺い知ることができる。

建物の保存

堂は建立当初は屋外に建っていたが、建立の数十年後には建物を風雨から守るための「霧よけ」のような施設が造られ、やがて正応元年(1288年)鎌倉将軍惟康親王の命令で金色堂を外側からすっぽり包む形で覆堂が建設された。現在の金色堂覆堂は1965年に建設された鉄筋コンクリート造のもので、金色堂はこの覆堂内のガラスケースに収められ、温度・湿度が調整されている。様式的に室町時代の建築と考えられている木造の旧覆堂(重要文化財)は金色堂の北西に移築されている。金色堂は、長年の間にネズミなどの害にあったり、金箔が剥げるなど劣化が進んでいたため1962年から1968年にかけて解体修理が実施され、建立当初の姿に復元されている。解体修理後、強度の点で再使用できなかった部材は別途保管され、一部は覆堂内に保管されている。1986年から1990年にかけて、覆堂の改修工事が行われ、ガラスケースも更新された。金色堂は1897年(明治30年)、当時の古社寺保存法によって「特別保護建造物」(現行法の重要文化財に相当)に指定。1951年、文化財保護法による国宝に指定された。


なお、金色堂については、しばしば「国宝建造物第1号」として紹介されるが[2]、金色堂と同じく1951年6月9日付けで国宝に指定された建造物は他に36件ある[3]。同日付けで国宝に指定された建造物のうち、地理的にもっとも北に位置する金色堂の指定番号が「1」になったものである。

藤原4代のミイラと副葬品
ミイラ

金色堂の須弥壇内には、藤原清衡、基衡、秀衡のミイラ化した遺体と泰衡の首級が納められている。金色堂には「中央壇」「左壇」「右壇」の3つの須弥壇があり、各壇に1体ずつの遺体を安置する。寺伝では中央壇・左壇・右壇の遺体が順に清衡、基衡、秀衡のものとされていたが、1950年に実施された学術調査の結果からは寺伝と逆に、左壇の被葬者が秀衡、右壇の被葬者が基衡であるとするのが定説となっている[4]。泰衡の首級(寺伝では弟の忠衡の首級とされていた)を納めた首桶は右壇に安置されていた。なお、ここで言う「左壇」「右壇」は本尊から見ての「左」「右」であり、拝観者の視点では向かって左が右壇、向かって右が左壇である。また、方位を冠して左壇を「西北壇」、右壇を「西南壇」と呼ぶ場合もある。3つの須弥壇のうち、中央壇が最初に造られ、左壇・右壇が後設であることについては研究者の間で異論がない。しかし、左右壇の増設時期については、右壇が先に造られ、左壇は後に造られたとする説と、左右壇とも同時に増設されたとする説がある。さらに後者の説については、左右壇とも基衡の時代に造られたとする説と、左右壇とも秀衡の時代に造られたとする説とがあり、いずれも定説とはなっていない。基衡は保元2年(1157年)頃に没し、秀衡は文治3年(1187年)に没しているので、各人の没年前後に右壇・左壇がそれぞれ増設されたとすると、両者の間には約30年間の開きがあることになる。右壇と左壇とを比較すると、格狭間の意匠や天井の施工方法などに差異が見られるものの、その差異は微妙なもので、これを時代の差か、工人の個性や技量の差と見なすかは意見が分かれている。


藤原4代の遺体と副葬品については、1950年に朝日新聞文化事業団による学術調査が実施された。調査は朝比奈貞一(理学博士)を団長とする調査団によって行われ、美術史のみならず、人類学者の長谷部言人、微生物学者の大槻虎男ハスの研究で知られる植物学者の大賀一郎、地元岩手県の郷土史における先駆者として知られた社会経済史学者の森嘉兵衛などの専門家が参加し、遺体についてもエックス線撮影を含む科学的な調査が実施された。調査の結果は『中尊寺と藤原四代』という報告書にまとめられている。エックス線画像診断を担当した足澤三之介(たるざわさんのすけ)の所見によれば、中央壇の遺体が最も高齢で死亡した推定年齢は70歳を越え、死因は脳溢血等の疾患で、左半身に麻痺があったとみられる。年齢的には右壇の遺体がこれに次ぎ60歳から70歳、死因は骨髄炎性脊椎炎と推定される。左壇の遺体は3体の中では比較的若く60歳前後で、長期間患っていた形跡がなく、壮年期に卒中などの疾患で急死したとみられる。今日では中央壇の遺体は清衡、右壇の遺体は基衡、左壇の遺体は秀衡のものとするのがほぼ定説で、これが正しいとすれば、寺伝とは左壇・右壇が逆となっている。ただし、基衡は正確な生年は不明ながら、50歳代で死亡したとみられ、上述の診断結果と合致しないことから、遺体に関しては所伝どおり左壇 = 基衡、右壇 = 秀衡とする見方もある[5]


遺体がミイラ状になって保存されていることについて、何らかの人工的保存処置によるものか、自然にミイラ化したものかは解明されていない。学術調査団の一員である長谷部言人は報告書『中尊寺と藤原四代』の中で、遺体に人工的処置が加えられた形跡はないという見解を述べている。それに対し古畑種基は人工加工説を唱えている。遺体には内臓や脳漿が全く無く腹部は湾曲状に切られ、後頭部には穴が開いていた。裂け目にはネズミの歯形が付いていたが、木棺3個とも後頭部と肛門にあたる底板に穴が開けられており、その穴の切り口は綺麗で、腐敗した内臓・体液をはじめとする汚物が流出した痕跡はなかった。男性生殖器も切除されており、加工の痕跡は歴然であるとした。「古代文明の謎と発見5 ミイラは語る」(毎日新聞出版)の中では、内臓が残っていないのをネズミに食べられたためとするなら内臓の小片(食べ残し)すら残っていないのはむしろ不自然である事、葬る際に遺体が腐敗して堂内に腐敗臭が充満する事や、等が発生して堂内に溢れる可能性を全く考慮せずにただ棺に入れて納めたら都合よくミイラになっていた、という事があるだろうかという点で、自然ミイラという説に疑問を呈している。これは、3体のミイラとも指紋には渦紋が多く、頭が丸顔でかみ合わせも日本人的で、3体とも日本人の骨格であると推定されたことから、極めてアイヌ民族に似た慣行である有力者のミイラ作りと藤原氏のミイラを関連付けるかの問題が関わっている。森嘉兵衛は、何代かの和人との婚姻で藤原氏の骨格は日本人化したが、精神や葬祭の慣行でアイヌ民族の風習が残ったのではないかとしている[6]


遺体を納めていた棺(木製金箔押)や副葬品については、調査結果から右壇が基衡、左壇が秀衡のものである可能性が高いとみられている(寺伝とは左右逆)。上記学術調査に参加した石田茂作(美術史)によると、左壇の木棺のみ、漆塗りの前に砥粉下地を施しているが、これは進んだ技法であり、3つの棺の中で最も時代が下がるとみられることから、これが3代秀衡の棺である可能性が高い。なお、遺体や棺が人目に触れたのは1950年の学術調査時が初めてではなく、江戸時代にも堂の修理時などに棺が点検された記録がある。相原友直が安永年間(1772 - 1780年)に著した『平泉雑記』によれば、元禄12年(1699年)、金色堂の修理時に棺を移動している[7]。なお、中尊寺側では遺体について「ミイラ」という呼称は用いず、一貫して「御遺体」と表現している。

中尊寺蓮
1950年の調査において泰衡の首桶から100個あまりのハスの種子が発見された。種子はハスの権威であった大賀一郎(1883 - 1965年)に託されたが発芽は成功せず、その後1995年に大賀の弟子にあたる長島時子が発芽を成功させた。泰衡没811年後、種子の発見から50年後にあたる2000年には開花に至り、中尊寺ではこのハスを「中尊寺蓮」と称し栽培している[1]

その他副葬品
棺と共に納められていた副葬品には、白装束と枕のほか、刀剣類、念珠などがあり、他に類例のない貴重な学術資料として、一括して重要文化財に指定されている。副葬品には都風のものと、鹿角製の刀装具のような地方色の現れたものがある。棺はヒバ材で、内外に金箔を押す。金箔の使用には、金色堂の建物自体に使用された金箔と同様、遺体の聖性、清浄性を保つ象徴的意味があると見なされている。中央壇の赤木柄短刀(あかぎつかたんとう)は、刀身に金銀象嵌を施したものである。刀身への象嵌は上古刀には散見されるが、平安時代には珍しい。錦などの裂類も、断片化してはいるが、染織遺品の乏しい平安時代の作品として貴重である。

仏像

堂内安置の仏像について見ると、中央壇、右壇、左壇共に阿弥陀三尊像(阿弥陀如来坐像、観音菩薩立像、勢至菩薩立像)を中心に、左右に3躯ずつ計6躯の地蔵菩薩立像(六地蔵)、手前に二天像(持国天増長天)を配し、以上11躯の仏像から構成される群像を安置している。なお、ここで言う「右壇」「左壇」は本尊から見てのそれであり、拝観者からの視点では向かって左が「右壇」、向かって右が「左壇」であることは前述のとおりである。右壇の二天像のうち右方(向かって左)の増長天像は失われ、現在安置されている同像は近年の補作である[8]。また、右壇の阿弥陀如来像は金色堂本来の像でなく、後世他所から移入された像であると見なされている。したがって、金色堂本来の仏像で現存するものは計31躯である。中央壇と左壇の阿弥陀如来像は膝前で両手を組む定印(じょういん)を結ぶが、右壇の阿弥陀如来像は右手を挙げ左手を下げる来迎印で、像高も一回り小さく、金色堂本来の像でないことは明らかである。像高は中央壇阿弥陀如来像が62.5センチメートル、左壇阿弥陀如来像が66.1センチメートル、右壇阿弥陀如来像が49.0センチメートルで、その他の諸像の像高は60 - 70センチメートル台である[9]。金色堂は江戸時代にも修理が行われ、元禄17年(1704年)には江戸にて金色堂諸仏の出開帳が行われており(仙岳院文書)、こうした機会に仏像を移動した際に混乱の生じた可能性がある。また、江戸時代に阿弥陀如来像のうちの1躯が盗難に遭ったことも記録されている(平泉雑記)。須弥壇内に安置される遺体は、中央壇が藤原清衡、右壇が2代基衡、左壇が3代秀衡とするのが通説である。清衡は大治3年(1128年)没、基衡は保元2年(1157年)頃没、秀衡は文治3年(1187年)没で、約30年の間隔を置いて没している。須弥壇上の3組の仏像群も、上記3名の没年の前後に造立されたものと推定されているが、現状の仏像の配置は必ずしも平安時代のままではなく、後世に入れ替わった部分が多いと見なされている。各像はいずれも寄木造または一木割矧造で、漆箔を施し、用材はカツラ、ヒバ、ヒノキの3種がある。各像の様式、用材、木寄せ法等から、おおよその制作年代が推定されている。


上述のとおり、金色堂内の中央壇、右壇、左壇に安置された仏像群の配置は当初のままではなく、後世に一部が入れ替わっている。諸像の国宝指定(2004年)時の文化庁の解説によると、仏像群の本来の組み合わせと配置は以下のように考えられている。


中央壇の阿弥陀如来像は丸顔で典型的な定朝様(じょうちょうよう)を示し、定朝から3代目の円勢などの円派仏師の作風に通ずるところがあり、12世紀前半の制作と見なされることから、中央壇の本来の本尊と思われる。中央壇の両脇侍像も阿弥陀如来像と一具の作とみられる。一方、二天像に着目すると、中央壇の二天像は全体に細身で、腰を強く捻り、片脚と片手を高く上げ、袖を大きくひるがえすなど、激しい動きを表すつくりである。これに対して、左壇の二天像は穏やかな体勢である。右壇の二天像(1躯のみ現存)はこれらの中間的作風を示す。福島県いわき市白水阿弥陀堂の二天像(永暦元年・1160年頃の作)が金色堂中央壇像に類似することが指摘されており、様式からみれば、中央壇の二天像は12世紀半ばの作と推定される。左壇の、穏健な作風の二天像は、これより時代が上がり、中央壇の阿弥陀三尊像と一具のものと考えられる。一方、右壇の二天像(1躯のみ現存)は平安時代最末期の造像とみられる。六地蔵像については、作風や木寄せの技法などからみて、左壇の六地蔵像が中央壇の阿弥陀三尊と一具であったものとみられる。以上のことから、中央壇の阿弥陀如来像と両脇侍像、現・左壇の六地蔵像、現・左壇の二天像の11躯が本来の一具であり、金色堂上棟の1124年頃の作とみられる。これら11躯はいずれもヒノキ材の寄木造または一木割矧造(いちぼくわりはぎづくり)であり[10]、丸顔で腹部に厚みをもたせた造形で、作風や材質にも共通性がある。中央壇の阿弥陀如来像は頭体を通じ正中線で左右に2材を矧ぐ寄木造である。一方、左壇の六地蔵像のうち1躯はやはり左右2材による寄木造、残りの5躯は一木を左右に割った一木割矧造であり、このように正中線で左右に割る技法も共通している。[9][11]


残りの像についてみると、左壇の阿弥陀如来像の細面の面相は、右壇の両脇侍像のそれに通ずるところがあり、これらが本来の一具であったとみられる。また、右壇の両脇侍像の細身、腰高で頭部を小さく造るプロポーションは、中央壇六地蔵像および中央壇二天像と共通するものがある。したがって、左壇阿弥陀如来坐像、右壇両脇侍像、中央壇六地蔵像、中央壇二天像の11躯が本来の一具と推定される。これらの像はいずれもカツラ材の一木割矧造で、材質・構造の点でも共通性がある。これらは基衡が没した1157年頃の作とみられる。[9][11]


したがって、残る左壇両脇侍像、右壇二天像(2躯のうち持国天像のみ現存)、右壇六地蔵像が本来の一具となり、これらは平安時代最末期、秀衡が没した1187年頃の作ということになる。これらの像はいずれも一木割矧造であるが、用材はまちまちである。すなわち、両脇侍像はヒバと思われる材、持国天像はヒノキまたはヒバと思われる材、六地蔵はカツラ材が4躯、ヒノキ材とヒバ材が各1躯となっている。[9][11]


以上を整理すると、中央壇の阿弥陀三尊像と、左右壇の両脇侍像は本来の位置にあるが、本来右壇にあった阿弥陀如来像が左壇に移動しており、六地蔵像と二天像については、本来中央壇にあった像が左壇に、本来右壇にあった像が中央壇に、本来左壇にあった像が右壇にそれぞれ移動していることになる。なお、以上の説明は右壇を基衡壇、左壇を秀衡壇とした場合のものであり、寺伝どおり左壇を基衡壇、右壇を秀衡壇と見なした場合は説明が異なってくる。中尊寺刊行の図録『世界遺産中尊寺』の解説(浅井和春執筆)では、寺伝どおり左壇を基衡壇、右壇を秀衡壇と見なしているが、いずれの像を本来の一具とみなすかについては国宝指定時の文化庁の解説と同様である。[11]

詳しいことは、「中尊寺金色堂ウィキペディア」をご覧ください。 ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%B0%8A%E5%AF%BA%E9%87%91%E8%89%B2%E5%A0%82
(wikiより)

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嵯峨 公勝(さが きんとう)は、江戸時代末期から昭和初期にかけての華族侯爵正親町三条実愛(嵯峨実愛)の子。母は鶴。妻は中山忠光の娘・南加愛新覚羅溥傑夫人の祖父。

経歴

明治14年(1881年)4月、父より家督を譲られる。明治17年(1884年)7月7日、華族令に基づき伯爵に叙爵した。明治21年(1888年)1月17日、父の実愛の維新の功績により侯爵となる[1]。明治23年(1890年)、貴族院侯爵議員。


ただ終身ながら無報酬の議員職には不満(伯爵までは互選で選ばれる代わりに歳費が支給されたが、侯爵となると自動的に議員に任命される代わりに歳費が支給されなかった)で、明治31年(1900年)には品川弥二郎宛に侯爵への新たな爵禄を求める文書(公爵には爵禄があり、諸侯華族の侯爵はもともと金を持っている。公卿侯爵だけが貧しくて貴族院議員の職務が果たせないという内容[2])を提出したが、反映されなかった。新たな賜金がないと見るや公勝は以後の政治活動をろくに行わなくなった。


昭和10年(1937年)に、貴族院議員在職30年以上で30回以上の議会に出席した議員を永年在職議員として表彰する制度ができたが、公勝は現役議員でありながら対象から外された。議会開設以来70回の議会があったにもかかわらず、出席率が悪かったためである[3]


孫の浩は普段、実勝の妻の実家に住んでいた。公勝は浩を嫁ぐ直前に呼び寄せ、昭和12年(1937年)4月3日、公勝の杉並大宮邸より出立させた。侯爵としての体面を保つためだったと思われる。

栄典
位階
1902年(明治35年)6月20日 - 正三位[4]

勲章等
1884年(明治17年)7月7日 - 伯爵[5]

1889年(明治22年)11月29日 - 大日本帝国憲法発布記念章[6]

1906年(明治39年)4月1日 - 勲四等旭日小綬章[7]

1914年(大正3年)6月18日 - 勲三等瑞宝章[8]

1915年(大正4年)11月10日 - 大礼記念章[9]

1938年(昭和13年)2月11日 - 金杯一個[10]

脚注
1. 『官報』第1363号、明治21年1月18日。
2. 浅見雅男 『華族誕生 名誉と体面の昭和中公文庫 ISBN 978-4122035423、243-245p
3. 浅見、252p
4. 『官報』第5688号「叙任及辞令」1902年6月21日。
5. 『官報』第307号「叙任及辞令」1884年7月8日。
6. 『官報』第1943号「叙任及辞令」1889年12月18日。
7. 『官報』第7272号「叙任及辞令」1907年9月23日。
8. 『官報』第565号「叙任及辞令」1914年6月19日。
9. 『官報』第1310号・付録「辞令」1916年12月13日。
10. 『官報』号外「叙任及辞令」1938年2月11日。
(wikiより)

019d  嵯峨公勝

嵯峨公勝

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角田 竹冷(つのだ[注 1] ちくれい、1857年6月4日安政4年5月2日) - 1919年大正8年)3月20日)は、明治・大正期の俳人政治家。本名は真平(しんぺい)。駿河国加島(現静岡県富士市)生れ。東京に出て代言人弁護士)となり、東京府会議員、東京市会議員、衆議院議員を歴任した。

経歴

農業・角田彦右衛門の二男として生まれる[1]。1874年(明治7年)に上京し法律学を修めた[1][2]。1880年(明治13年)、代言人試験に合格した[1]。東京府会議員、同副議長、神田区会議員、同議長、牛込区会議員、東京市会議員、同参事会員、東京市臨時市区改正局長兼水道局長などを歴任[2]


その他、跡見女学校理事、秀英舎取締役、中央窯業取締役、帝国劇場取締役、東京株式取引所理事などを務めた[2]


1892年
(明治25年)に衆議院議員に当選(計7回当選)。1895年(明治28年)、39歳で尾崎紅葉巖谷小波森無黄大野洒竹らとともに正岡子規と並ぶ新派の秋声会の創設に関わった。1919年、脳溢血のため死去[3]

句集に『竹冷句鈔』(星野麦人編・大正9年)古俳諧の収集家としても知られ、その蔵書は現在東京大学総合図書館に「竹冷文庫」として蔵されている。

代表句
・草餅や二つ並べて東山     

・水はりて春を田に見る日ざし哉

・傘さして小舟出しけり春の海

親族
・子息 俳人・角田竹涼など。

・息女 萬代(第一銀行頭取・石井健吾弟孝の妻)など[4]

脚注
注釈
1. 角川書店『俳文学大辞典』・三省堂『現代俳句大辞典』では姓を「かくた」が正しいとするが、本人自筆の履歴書等は「つのだ」となっており、衆議院に本人から提出された履歴書にもとづいて編纂された『議会制度百年史 衆議院議員名鑑』415頁でも「つのだ」とフリガナが振ってある。東京大学竹冷文庫では「すみだ」を正としているが根拠は不明である。明治期の新聞等でも「つのだ」とルビが振られている。

出典
1. a b c 『大日本人物誌』つ4頁。
2. a b c 『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』415頁。
3. 服部敏良『事典有名人の死亡診断 近代編』付録「近代有名人の死因一覧」(吉川弘文館、2010年)18頁
4. 石井健吾 (男性)人事興信録第4版 [大正4(1915)年1月](名古屋大学)

参考文献
・衆議院・参議院『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。

・成瀬麟、土屋周太郎編『大日本人物誌 : 一名・現代人名辞書』八紘社、1913年。

外部リンク
東京大学総合図書館の俳書
(wikiより)

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角田竹冷

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角田竹涼 ( つのだ - ちくりょう )


明治 〜 昭和期の俳人


生年明治 25 (1 892 ) 年 5月 16日
没年昭和 5 ( 1930 ) 年 5月 11日


出生地 : 東京・神田


本名 : 角田 龍雄


経歴 : 父・竹冷、母・栄子の影響で早くから俳句に親しんだ。

また古俳書に関心、昭和 3年「俳句講座」に「俳書解題」を連載し、のちまとめて出版した。

他に「竹冷文庫」「俳書集覧」などを校訂。

どの結社にも属さず、研究に専心。

没後父の弟子の麦人が「竹涼集」を刊行。

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塩谷 宕陰(しおのや とういん、文化6年4月17日1809年5月30日) - 慶応3年8月28日1867年9月25日))は、江戸末期の儒学者

江戸愛宕山下に生まれる。名は世弘、字は毅侯、別号は九里香園、悔山、晩薫廬。文政7年(1824年昌平黌に入門し、また松崎慊堂に学んだ。

遠江掛川藩主の太田氏に仕え、嘉永6年(1853年ペリー来航の際に献策し、海防論を著す。
文久2年(1862年)昌平黌教授に抜擢され修史に携わる。

甥に漢学者・塩谷青山で、その子は支那学者の塩谷温である。

没後刊行の著書
・宕陰存稿 山城屋政吉, 1870
・大統歌 名山閣, 1873
・昭代記 塩谷時敏, 1879
・茗黌廿勝小記 高美書店, 1890
・宕陰〔ヨウ〕稿 谷門精舎, 1931
・丕揚録 近藤出版社(日本史料選書), 1971
(wikiより)

373 塩谷宕陰

塩谷宕陰

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作詞:代田銀太郎作曲:伊藤正康 歌:渡辺はま子・宇都美清


1952年 12月 25日 ( 国交が無いフィリピン政府に対し、戦犯慰問の渡航を嘆願し続けて半年後の事だった )


フィリピンのニュービリビット刑務所で、59人の死刑囚を含む 109人の戦犯たちを前で渡辺はま子が歌った。


みな涙を流し最後は大合唱だった。


その後わずか 6ヵ月後死刑囚は恩赦で日本へ返された。


作詞者作曲者がいずれも死刑囚だった。


戦争で戦犯死刑囚とされて 8年間フィリピン、モンテンルパの収容所に、苦難の歳月を過ごされた飯田市出身の旧軍人代田銀太郎さんの獄舎での望郷詩。


作曲の伊藤正康という方も友因と碑陰に刻まれています。


昭和 59年戦争責任反省が問われる時代に至って長野県日比協会創立 10周年を記念しての建立碑。

昭和 59年建立。

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〇 伊奈節歌碑
( 天龍下れば、飛沫 ( しぶき ) に濡れる持たせやりたや、桧笠 ) 上伊奈から木曽谷への権兵衛峠の馬子唄が由来といわれるこの古謡に、伊奈風景探勝会によって新歌詞募集されたのが大正 5年。


の唄は、応募 1300余篇からの一等入選作品。


作詞の小笠原秀雄は下條村生まれ、十余年来の教職を去って、ブラジル移民の先駆となった方で、皃山はその雅号。


渡航に先立って書き残された自筆の書の拡大による建碑。


昭和 34年建立。

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〇 飯田娘の歌碑

飯田町の実業家で詩人の多田二十一という方の作詞。


明治 40年生まれ。


本名が襲名の多田三七、ここから二十一と称されたのでしょうか。


詩誌 ( 山並 ) を主宰し、山田耕作・西條八十・堀口大学そして服部嘉香などの音楽家、詩人と広く交流されたロマンのかたでした。


昭和 62年建立。

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