本牧jack『意外と身近にある歴史散歩』日々是好日 心灯 頬笑

本牧Jackで御座います
小生の拙ブログ『意外と身近にある歴史散歩』日々是好日 心灯 頬笑に御訪問頂き誠に有難う御座います。
歴史ドラマが流行っている昨今、身近に有って気が付かなかったりする様な物を取り上げたりしています。
たまに『 大人数で取材しているのか? 』との質問を戴きますが、小生と相方の二人三脚で御座います。
出来るだけ続けたいと思っていますが 膝・耳に問題が有って、いつまで出来るやら・・・説明も、やたら長いものから あっさりしたものまで有りますが、御付き合いの程 宜しく御願い致します。
御注意 . 少ないですが生前に建てられた『 生前墓 』の記事も有ります。 ※ 申し訳御座いませんが「画像の転用」は禁止とさせて頂きます。 コメントは原則公開させていただいております 質問等に対してはブログ記事で返信させていただきます 他の方法で連絡を取り合う等一切しません 場合によっては、「IPブロック」しますがブロックした場合解除する事は有りませんので宜しくお願いします。

2022/12

 この記事にて本年の記事のupが終了となります

来年は1月 5日よりupし行きますので、来年も宜しくお願いします。


〇 本徳寺
亀山本徳寺
(かめやまほんとくじ)は、兵庫県姫路市亀山にある浄土真宗本願寺派寺院。山号は「霊亀山」(れいきざん)。本尊は阿弥陀如来。「亀山御坊」・「亀山御堂」とも。

概要

永正12年(1515年)、蓮如の門弟空善飾磨郡英賀英賀城下に本堂(英賀御堂)を開山したのを始まりとする。その後、在地の勢力である播磨三木氏の庇護のもと発展したが、天正8年(1580年)の羽柴秀吉三木通秋の守る英賀城攻めに先立ち、戦火を避けるために秀吉に寄進された亀山へ移された。現在の伽藍の一部は、英賀から伽藍等を解体し亀山へと移したものという。


慶長
7年(1602年)に本願寺教団は東西に分裂。本徳寺は姫路城に入った池田輝政の政策の下で西本願寺に属した。池田氏に代わって本多氏が姫路城主になると、元和4年(1618年)に本徳寺が分立。東本願寺勢力は亀山から姫路城下の船場へ移った(現在の姫路船場別院 本徳寺)。その後亀山は、播磨国における本願寺派の根本道場として発展することになる。江戸時代には西国総録所として傘下に380余の寺院を擁した。


明治時代以降は本願寺派の別格別院となり、戦後は一般寺院ではあるが同派由緒寺の扱いとなって現在に至る。


なお、最寄駅の山陽電鉄亀山駅は、昭和19年(1944年)まで亀山御坊駅と称した。

伽藍

本堂・大広間・庫裡・経堂が兵庫県指定文化財となっている。本堂は妻入りとなっており、珍しい。この本堂は明治元年(1868年)に本堂が火災で焼失した際、西本願寺から北集会所の建物を移築したものだが、北集会所は不動村屯所へ移る前の新撰組が屯所として一時使用したこともある。

他に大玄関等15棟、「親鸞聖人絵巻」(全4巻)などが姫路市指定文化財となっている。

なお、松原八幡神社の祭礼である灘のけんか祭りの八家村地域の屋台の太鼓は元禄15年(1702年)作で、元は姫路城の登城太鼓だった。これを亀山本徳寺が譲り受け、のちに八家村へと贈られた、との由緒を持つ。


・本堂

・庫裡

・表書院

・奥書院

・内道場

・茶所

・経堂

・大玄関

・太鼓楼

・大門

・目隠し塀

・中宗堂(蓮如堂)

・鐘楼 

・納骨壇 

・亀山本徳寺廟所

文化財
県指定文化財

[1]


・本堂 - 元文三年(1738年)築、正面九間・側面十一間半、三間向拝付、入母屋造・本瓦葺妻入

・大広間 - 18世紀中頃(推定)築、正面七間・側面十間半、入母屋造妻入、唐破風付、本瓦葺

・庫裏 - 延享4年9月(1747年)築、主要部実長正面九間半・側面十間半、出入口唐破風付、入母屋造妻入、本瓦葺

・経堂 - 18世紀中頃(推定)築、方三間もこし付經堂、方形造、本瓦葺


本堂

経堂

市指定文化財

[2]


・大玄関 - 元禄4年8月(1691年)築、正面三間・側面五間・唐破風本瓦葺

・表書院 - 19世紀前半(推定)築、正面五間・側面十一間、入母屋造妻入、本瓦葺

・奥書院 - 天正14年(1586年)、主要部正面五間半・側面六間、入母屋造、桟瓦葺

・内道場 - 18世紀中頃(推定)築、正面五間・側面三間・切妻屋根

・太鼓楼 - 18世紀中頃(推定)築、下層正面三間・側面四間、上層方二間、上下層とも入母屋造、本瓦葺

・大門 - 嘉永年間(1848 ~1854)築、一間一戸四脚門、切妻造、本瓦葺

・茶所 - 主要部実長正面六間、側面四間、入母屋造、本瓦葺

・大広間北殿(桜の間) - 18世紀頃(推定)築

・中門 - 18世紀中頃(推定)築、切妻・本瓦葺

・長屋塀・北門・芝倉 - 18世紀中頃(推定)築、正面三間・側面十五間・切妻・本瓦葺

・米倉(穀物倉庫) - 18世紀中頃(推定)築、正面三間・側面五間・切妻・本瓦葺

・蔵2棟 - 18世紀中頃(推定)築、正面二間・切妻

大玄関

大門

太鼓楼

主な撮影地となった映画・テレビドラマ
NHK大河ドラマ新選組!」(2004年作品)、「軍師官兵衛」(2014年作品)

・映画「本能寺ホテル」(2017年公開)

・映画「関ヶ原」(2017年公開)

アクセス
山陽電鉄 亀山駅から東へ200m

神姫バス 西亀山バス停下車、東へ30

  ・94系統 姫路駅 ←→ 姫路港

周辺
灘菊酒造

・姫路恵美酒郵便局

手柄山中央公園

脚注
1. 亀山本徳寺(本坊)の文化財建造物仕様書(2017年3月5日閲覧)
2. 亀山本徳寺(本坊)の文化財建造物仕様書(2017年3月5日閲覧)

関連項目
真宗大谷派 姫路船場別院 本徳寺(船場御坊)

兵庫県指定文化財一覧

外部リンク
亀山本徳寺 新公式HP

真宗文化研究室(亀山本徳寺内)

亀山本徳寺関連のページ

新選組を歩く - 新撰組に絡む本堂内部の画像。

iタウンページ
(wikiより)

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初代忠恭 ( ただずみ ) 十男の酒井万駉之助 ( まきのすけ )( 宝暦六年 ( 一七五六 ) 十二月二日生、同十一年五月六日没 )
(案内板より)


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忠恭六女の酒井与曾 ( 寛延三年 ( 一七五〇 ) 十一月十五日生、同年十二月五日没 )
(案内板より)

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五代忠学二女で忠實の養女の鎚 ( 天保元年 ( 一八三〇 ) 七月九日生、同三年十一月八日没 )
(案内板より)

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八代忠績長女の鋋 ( 文久二年 ( 一八六二 ) 九月二十七日生、同三年六月二十七日没 )
(案内板より)

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酒井紓 ( 恵琳院殿珠巌貞寶大童女 )


姫路藩主・酒井忠学 3女・同忠実養女


天保 2年 ( 1831 ) ~ 天保 2年 ( 1831 )


天保 2年 8月 15日に酒井忠学の 3女として誕生し、その兄・忠実の養女となったが、同年 11月 27日に病没した。


〇 忠学三女で忠實の養女の紓 ( 天保二年 ( 一八三一 ) 八月十五日生、同年十一月二十七日没 )
(案内板より)

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酒井忠恭 9女 ( 浄池院殿蓮開妙薫大童女 )


姫路藩主・酒井忠恭 9女


宝暦 4年 ~ 宝暦 4年 ( 1754 )


宝暦 4年 5月 23日、酒井忠恭の 9女として側室・清原との間に誕生したが、同月の 25日に病没した。


〇 酒井忠恭 九女 ( 宝暦 4年 ( 1754 ) 五月二十三日生、同月二十五日没 )
(案内板より)

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喜代姫 ( 晴光院殿済月静允大姉 )


姫路藩主・酒井忠学正室・

同忠宝正室喜曽姫母・  徳川家斉 25女


文政元年 ( 1818 ) ~ 明治元年 ( 1868 )


徳川家斉の第 25女として誕生し、天保 3年姫路藩主・酒井忠学へ嫁いで、その間に一男一女をもうけている。


〇 姫路藩・酒井家五代忠学 ( ただのり ) 正室の喜代姫 ( 将軍家斉 二十五女、文政元年 ( 1818 ) 七月八日生、明治元年 ( 1868 ) 十二月二十四日没 )
(案内板より)

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喜曽姫 ( 喜光院殿常照妙大姉 )


姫路藩主・酒井忠宝正室・同忠学 4女


天保 5年 ( 1834 ) ~ 明治 3年 ( 1870 )


父は酒井忠学、母はその正室喜代姫。


天保 5年に江戸で生まれ、弘化元年婿養子として迎えた忠宝と婚姻した。


〇 六代忠宝 ( ただとみ ) 正室の喜曽姫 ( 喜代姫女、天保五年 ( 1834 ) 三月二日生 明治三年  ( 1870 ) 四月九日没 )
(案内板より)

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椀姫 ( 貞勝院殿恒徳順承大姉 )


姫路藩主・酒井忠績正室


文政 9年 ( 1826 ) ~ 慶応 3年 ( 1867 )


飯山藩主・本多助賢の娘として誕生し、のちに姫路藩主へ就任した当時 旗本・酒井忠績の正室となる。


文久 2年からは場内の東邸に住居した。


〇 八代忠績 ( ただしげ ) の正室・椀姫 ( 信州飯山藩主・本多助賢 ( すけとし ) 女、文政九年 ( 1826 ) 生、慶応三年 ( 1867 ) 七月八日没。
(案内板より)

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景福寺(けいふくじ)は、仏教寺院の名称。各地に同名の寺院が存在する。猪名川町、姫路市、岡山市、鳥取市にある4箇所の景福寺を合わせて曹洞宗四景福寺と呼ぶ。

景福寺 (姫路市) - 兵庫県姫路市にある曹洞宗の寺院。
(wikiより)

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〇 法華塔

弘化 2年 ( 1844 ) 以前


姫路の医師・橘遷喬が同志とともに発企して景福寺内に建立した一石一宇塔であり、基壇には船場を中心とする協力者の名が残っている。
(案内板より)

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 上から見ると『 米の文字 』に見える墓石です。

3代目桂 米朝(かつら べいちょう、1925年大正14年)11月6日 - 2015年平成27年)3月19日)は、日本落語家。本名、中川なかがわ きよし出囃子は『三下り鞨鼓』、『都囃子』[1]俳号は「八十八やそはち[2]。所属は米朝事務所。 現代の落語界を代表する落語家の一人で、第二次世界大戦後滅びかけていた上方落語の継承、復興への功績から「上方落語中興の祖」と言われた。


関東州満州大連市生まれ、兵庫県姫路市出身。1979年(昭和54年)に帝塚山学院大学非常勤講師を務めた。1996年(平成8年)に落語界から2人目の重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定され、2009年(平成21年)には演芸界初の文化勲章受章者となった。


若い頃から尼崎市武庫之荘に在住し[3]、同町の発展や景観維持などにも貢献していた[4][5]

生涯
生い立ち
1925年関東州大連普蘭店(現中華人民共和国遼寧省大連市普蘭店区)に生まれた。4歳のころに奉天(現瀋陽)ヘ転居。実家は兵庫県姫路市の九所御霊天神社の神職であり[6]、祖父の死去に伴い、父が1930年に実家を継承するために一家揃って姫路に帰郷した。米朝自身も上京前に周囲の勧めもあって神職の資格を取得しており、落語家になる前には実家の神社の禰宜(ねぎ)を務めたこともあったという[7]。幼少時代から落語浪曲に親しみ、父や演芸好きの叔父に連れられて西花月亭南地花月にもよく通っていた。

上京、正岡との出会い
旧制姫路中学(現在の兵庫県立姫路西高等学校)卒業後、1943年、大東文化学院(現大東文化大学)進学のため上京。在学中、作家であり落語・寄席研究家でもある正岡容(蓉)主催の珍しい落語会を見たことを機に正岡に入門。正岡一門の一番弟子となった。正岡を通じ5代目笑福亭松鶴や、大阪の映画館主の息子であった矢倉悦夫(のちの3代目桂米之助)と知り合いとなった。

太平洋戦争終りの前後
1945年2月に応召し、入隊するが急性腎臓炎に倒れて、3月には地元の陸軍病院に入院。三田の療養所に転院の後、8月12日に退院し、姫路の実家で太平洋戦争の終結を迎える。この頃、慰問で病院に訪れた橘ノ圓都と出会うことになる。大学には復学せず、神戸市の神戸生活用品商事で会社員となり一介の落語愛好家として落語会や素人落語の上演会を主催するなど、上方落語復興に力を入れていた。[8]

本格的に落語家へ

矢倉が3代目桂米之助となったことが縁で、後に師匠となる4代目桂米團治に教えを請う機会が生じた。この時に「高津の富」を教わる。


やがて、師・正岡の「いまや伝統ある上方落語は消滅の危機にある。復興に貴公の生命をかけろ」との言葉を受け、本格的に落語家を志すようになり、1947年9月に会社勤めをしながら米團治に入門。3代目桂米朝を名乗る[9][10]。一旦勤めを辞めて米團治宅の内弟子となるものの親戚から叱責を受け、姫路市内の広畑郵便局員として1年ほど勤務した[11]。その後、師・米團治の死に遭い、落語のみに精進する事を決意する。

初舞台
戎橋松竹で初舞台後、長年千土地興行(後の日本ドリーム観光)に所属し、千日劇場を本拠に道頓堀角座うめだ花月に出演したが、1968年3月以降はフリーとなり、ホール落語、独演会、一門会を中心に活動するようになる。ラジオパーソナリティーを務めていた近畿放送の「天壇ゴールデンリクエスト」の縁で1966年7月16日、初の独演会「米朝 スポットショー」を京都府立勤労会館で開催、その流れで10月25日に現在でも続く桂米朝落語研究会をスタート。1974年、千土地時代の担当マネージャーを社長に据え芸能事務所米朝事務所を設立。現在一門の多くがここに所属する。

テレビ出演と落語研究家活動
1958年頃には朝日放送専属となり、放送タレントとしても、1960年代以降は、『ハイ!土曜日です』、『お笑いとんち袋』(関西テレビ)や『味の招待席』、『和朗亭』(朝日放送)など多数の番組に出演して大人気を博した。一方で、落語研究家としても活動を行い、文献から発掘したり落語界の古老から聴き取り調査をしたりして、一度滅んだ噺を多数復活させている。彼によって復活した演目としては「算段の平兵衛」「風の神送り」「矢橋船」などがある。また上方文化の交流を深める「上方風流」を1963年から結成し「上方風流」を発行(1967年まで活動)。

上方落語四天王らの復興尽力
入門当時には衰微を来たしていた上方落語の復興を願い、共に上方落語四天王と讃えられた6代目笑福亭松鶴、3代目桂小文枝(後の5代目桂文枝)、3代目桂春団治らと東奔西走して尽力した。現在の上方落語の隆盛は米朝・松鶴らの功績であるというのが衆目の一致する処である。一言に東奔西走といっても、地方においては昭和40年代(1965年 - 1974年)であってもなお、落語に対する理解は低く、米朝が高座に上がって落語を始めても、客からは「何を一人で喋ってるんだ? 遊んでないで早く落語を始めろ!」と野次が飛んでくる有様だった。地方に於ける落語の一般的認知は複数の演者が舞台に上がり問答で笑いを取る大喜利、演芸テレビ番組の『笑点』が落語であると、その程度の認識であり、その苦労は並大抵のものではなかったのである。

文化貢献への評価
1987年4月29日紫綬褒章を受章する。1988年には上方落語協会の選挙で一旦は会長に選出されたが、当時相談役に退いていた米朝は「いまさら会長になる気持ちはない」と辞退したため、「米朝会長」は幻に終わっている[12]四天王としては唯一、会長に就任していない。1996年、落語家では5代目柳家小さんに続き2人目、上方落語界では初の重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定される。また、2002年11月3日には、演芸人として史上初の文化功労者顕彰を受ける。

晩年

2009年3月、医師から脳梗塞と診断され入院し、7月27日にも脳幹出血と診断され入院した[13]が、いずれも軽度で済み、早期に活動復帰している。同年11月3日、演芸人として史上初の文化勲章受章者となった[14]


2013年1月の米朝一門会を最後に高座から遠のき、2013年8月、肺炎のため入院。10月に退院するも、再び入院し2015年3月19日19時41分、肺炎のため死去[15]。89歳だった。諡は「中川清大人之命(なかがわきよしうしのみこと)」[16]。4月17日に日本政府は、三代目米朝が上方落語界発展に尽くした功績を讃え、没日に遡り従三位に追叙することを閣議決定した[17]


墓所は姫路市の名古山霊苑内。同市名誉市民として同霊園に築かれた「名誉市民墓」は、上から見ると「米」の字をかたどった形に石が配されている[18]

年譜
1925年関東州大連普蘭店(現中華人民共和国遼寧省大連市普蘭店区)に生まれる。旧制姫路中学(現在の兵庫県立姫路西高等学校)卒業。

1943年、大東文化学院(現大東文化大学)進学のため上京。

1944年2月に応召

1945年に入隊、病気により3月に入院、終戦直前に退院。

1947年9月に会社勤めをしながら米團治に入門。3代目桂米朝を名乗る。

1958年4月に元OSSK(大阪松竹少女歌劇団、のちのOSK日本歌劇団)の駒ひかると結婚[19]。同年12月に長男(米團治)、1960年12月に次男・三男が誕生。

1963年次代の上方文化を担う40歳以下の有志で「上方風流(かみがたぶり)」を結成。茂山千之丞、藤山寛美、大村崑、現在の坂田藤十郎や竹本住大夫とで同人誌を出版。

・1966年7月16日初の独演会「米朝スポットショー」京都会館にて開催。

 同年10月25日安井金比羅宮会館にて「桂米朝落語研究会」を開く。

1967年5月2日矢野誠一の企画で東京で初の独演会「桂米朝 上方落語の会」紀伊國屋ホールで開催。この会には安藤鶴夫、小沢昭一、永六輔立川談志ら著名人も会場に駆け付けた。この会がきっかけで米朝の名が東京でも知られるようになる。

1972年に正月と夏にサンケイホールで独演会を開催(その後も長年サンケイでは独演会を開く)。

1973年からは毎年、地元姫路市で「姫路落語会」を開催している[20]

テレビコマーシャルの出演は一切拒否していたが、『ハイ!土曜日です』でアイバンクを紹介した事が縁で、1983年放送の公共広告機構(現:ACジャパン)のアイバンクのCMに出演した。このCMは、ラジオ部門のACCグランプリ、秀作賞、タレント賞を受賞した。

1987年4月29日、紫綬褒章受章。

・1988年、上方落語協会の会長選挙に選出されるも、当時相談役に退いていた米朝は「いまさら会長になる気持ちはない」と辞退[12]

1996年、落語家では5代目柳家小さんに続き2人目、上方落語界では初の重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定される。

2002年の東京・歌舞伎座の口演を最後に一線を退く。11月3日、演芸人として史上初の文化功労者顕彰を受ける。

2007年は芸能生活60周年(米團治に入門してから数えて)であり桂米朝を祝う会なども行われ、退院以来のトリで落語『将棋小噺』を披露した。

2009年3月、医師から脳梗塞と診断され入院し、7月27日にも脳幹梗塞と診断され入院した[21]が、いずれも軽度で済み、早期に活動復帰している。同年11月3日、演芸人として史上初の文化勲章受章者となった[22]

2012年8月、数え年米寿を記念してサンケイホールブリーゼで「米寿記念 米朝展」を開催。会では石黒浩が制作した米朝アンドロイドロボットが公開された[23]。これは大阪大学石黒浩ロボット工学者)とスペシャル4Dクリエーターの遠藤慎也によって製作されたものである[24][25][26]

2013年8月、肺炎のため入院。10月に退院する。

・2015年3月19日19時41分、肺炎のため死去[27]。89歳没。同日付で従三位追叙[17]

2017年1月28日~3月20日、兵庫県立歴史博物館にて特別展「人間国宝・桂米朝とその時代」開催。企画した同館学芸員は米朝の三男。

人物
芸風及び落語への取り組み

  • 語り口調は端正で上品。容姿も端麗で人気を博した。
  • 「芸は最終的には催眠術である」が持論。お客さんを落語の世界へ引っ張り込むことを催眠術に例えている。
  • 滅びた噺の復活や当時の時代背景、風俗、流行などの研究のために多種多様な古書や文書を収蔵した書庫を自宅に持つ(孫弟子の桂吉弥曰く「米朝文庫」)。特に演目の登場人物が取る仕草の研究に余念がなく、酒席でのほろ酔いと酩酊の演じ分け(酒肴の口の運び方、酒の注ぎ方など)から縫い物の糸切りの位置に至るまで、日常生活上のさり気ない動作に徹底的なリアリティを追求している。
  • 持ちネタは多数あるが、代表的なところでは自ら掘り起こした「地獄八景亡者戯」や「百年目」、自作に「淀の鯉」(中川清時代)や「一文笛」がある。
  • 身近な存在だった実父、正岡、米團治が55歳で亡くなったので、自身も55歳で死ぬと断言していた。自らに課した55歳というタイムリミットに間に合わせるために、後進の育成に加え、書籍や音声資料による落語の記録に精力的に取り組んだ。
  • 古典落語を流暢に演じる正統派としての印象が強いが、時として艶笑落語も演じており、現在でもその音源がⅭⅮに録取され市販されている。特に「続いろはにほへとひとりでする噺篇」では、せんずり自慰などと言う卑猥な言葉も発するなど過激な内容になっている。
弟子との関わり
#主な門弟」および「米朝一門」も参照


・多くの弟子を育て、長男5代目桂米團治もその一人。特に初期の弟子には月亭可朝2代目桂枝雀2代目桂ざこばら異能派が多く、TVなどで売れっ子になっていった。むしろ後期の方に桂吉朝ら、師匠の端正な芸風の後継者と目される人材が多い。かつては芸に厳しく怒鳴ってはいたが、近年は大きな包容力で一門を育て上げた。

一門の弟子たちからは「ちゃーちゃん」と呼ばれている。5代目桂米團治の著書によると、米團治が幼少のころ、「おとーちゃん」と発音しようとして、「ちゃーちゃん」と言っていたものを当時の弟子たちがまねて使ったのが由来であるという。

・厳しい指導で知られていたが、一方では、破門者を一人も出さなかったとされ、人情味のある一面も見せていた。枝雀は「自分やったら兄弟弟子の内半分位は破門にしていただろう。」と述べたことがあるという。

家族

・中川絹子夫人は元OSSK(大阪松竹少女歌劇団、のちのOSK日本歌劇団)の「駒ひかる」である。十数年パーキンソン病で静養していたが2014年に死別[19]長男は5代目桂米團治。次男(高校の保健体育教諭から教頭)と三男(博物館の学芸員)は双子で、米朝一家と同じく武庫之荘に住んでいた大村崑の息子とは同級生。

・長男・5代目桂米團治によると「父の中川清」は、とりわけて子煩悩でも、教育熱心でもなく、かといって目立った諍いもなく、家に居ても丹念に落語の資料に目を通している父親で父子としては至って普通の淡白な関係であった。ただわからないことを訊ねると子供相手であっても順を追って理路整然と説明するなど、父親と本業の両面が出ていた。舞台での流暢な喋りと温厚そうな雰囲気の反面、TVや新聞を見て気に障ることがあると、途端に虫の居所が悪くなり、怒声や剣幕こそ出さないものの、険しい顔で所作が乱暴になり険悪な雰囲気を撒き散らすなど、子供にとっては居心地の悪くなってしまう気難しい面も持っていた。

その他

大塚徹が処女詩集「古城幻想」出版の寄付を募った際には、中川清名義で資金ではなく清酒一升を寄付した[28]

・ニュースなどで北朝鮮と米国を扱ったいわゆる「米朝問題」を聞くと「自分とは無関係なのにドキっとする」という。

・晩年、「稽古をつけていただけないでしょうか」と米朝の自宅に電話をいれたという桂歌丸は、米朝の訃報を聞き、「博学であることは言うに及ばず、我々は落語界の『百科事典』を失ったに等しい」と悼んだ。

幻の桂三木助の襲名

朝日放送社員の松本昇三(当時)が、香川登志緒(のちの香川登枝緒 作家)、三田純市(作家)とともに、米朝に対し、3代目の死後空き名跡となっていた「桂三木助」の襲名を提案した。米朝の芸風や風貌が2代目に似ているとされることがその理由だった[29]


やがて、3代目三木助の師匠であり落語芸術協会の会長であった6代目春風亭柳橋[30]、3代目が心酔していた落語協会8代目桂文楽[30]、3代目の遺族、在京の各寄席の席亭、安藤鶴夫久保田万太郎、テレビ局関係者の承諾がまとまったが、8代目文楽から[要出典]「襲名披露は角座で行うこと」との条件が出された。当時、角座は原則として松竹芸能が芸人の配給や番組の編成を取り仕切っており、一方の米朝は千土地興行所属であった(千土地と松竹との関係から定期的に角座に出演はしていた)。当時の上方芸界の慣習上、角座で襲名披露を行うためには、松竹へ移籍することが必須条件であった[31]。この話を聞いた米朝は「大きな名前がほしいために、今までお世話になって来た千土地さんを裏切ることは、わたしの良心が許しまへん[30]」と、断固拒否する姿勢を示した。その後、柳橋と文楽を呼び寄せて話し合いの場が設けられるなど、米朝への説得が続けられたが、松本の朝日放送退社などで襲名計画は立ち消えとなった。米朝自身は著書で「文楽さんにも私にも知らされていなかったが(中略)襲名を条件に私をある興行会社の専属にしようという計画だった」「三木助の名前で誘い込もうというのである。それを知った途端に私の思いは冷めた」[10]と回想している。


その後「三木助」の名跡は、3代目の実子が4代目を、3代目の孫で4代目の甥が5代目を襲名した。なお、米朝は4代目に稽古を付けていたことがある。


結局、米朝は改名・襲名を生涯行わなかった。

詳しいことは、「三代目・桂米朝ウィキペディア」をご覧ください。 ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A1%82%E7%B1%B3%E6%9C%9D_(3%E4%BB%A3%E7%9B%AE)
(wikiより)

087 三代目・桂米朝b

三代目・桂米朝

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上から見ると『 米の文字 』に見える墓石の配置です。

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町名由来 龍野町


揖保郡龍野 ( 龍野町 ) に通ずる道に当たるのでこの名あると言います。


また一説には龍野から移住した人々が住んだからとも言います。


秀吉が天正 8年 ( 1580 ) 姫路城と城下町を建設するに当たり、攻め落とした英賀城下の町民を移住させ、楽市を開いた「制札」が知られています。


以後、江戸時代には姫路の代表的な商店街として栄え、多くの有名商家が有りました。


今日でも、西国街道沿いの古い民家の残る貴重な街並みです。


車門前の一丁目から、車崎の六丁目まで続いています。
( 『妹背』より )
(案内板より)

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世一位侑徳稲荷大明神、延命地蔵菩薩、石仏三体 ( 首塚 )


首塚さん


この二つの石仏と石塔は岩山の岩山寺 ( 薬師屋敷 ) より新町長安寺 ( 薬師堂 ) に移築 ( 年代不詳 ) 後、昭和三十年頃 ( 一九五五 ) 区画整理に依り現地に移築。


左の石仏 : 六道の修生を救う地蔵菩薩で約六百年前の作


右の石仏 : 本尊は極楽世界を主宰する阿弥陀仏、下の三尊は弥勒・観音・勢至菩薩でしょう。
      約七百年前の作

「一部赤穂市史より」
(案内板より)

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赤穂義士が一息ついた井戸


江戸での浅野内匠頭による刃傷事件の第一報を知らせるため、元禄 14年 3月 14日の夕刻に赤穂藩士、早水藤左衛門、萱野三平が早かごで江戸を出発。


赤穂城下に着いたのは 3月 19日の早朝でした。


155里 ( 約 620km ) の行程を 4昼夜半早かごに揺られ続けた両人は、城下に入りこの井戸の水を飲んで一息ついたといわれ、以来、息継ぎ井戸と呼ばれています。
(案内板より)

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山鹿素行先生銅像
兵学者・儒学者として高名な山鹿素行 ( 一六二二 ~ 一六八五 ) は、承応元年 ( 一六五二 ) から万治三年 ( 一六六〇 ) の間、赤穂藩主浅野長直に千石で召し抱えられ、承応二年には赤穂城築城に参画して二の丸虎口 ( こぐち ) の縄張りを一部変更し、家中に兵法を指南した。
 
その後、寛文五年 ( 一六六五 ) に「聖教要録 ( せいきょうようろく )」の著述が幕府の忌諱に触れ、翌年から延宝三年 ( 一六七五 ) まで赤穂に配流 ( はいる ) され、二の丸内の家老大石頼母助 ( たのものすけ ) 邸の一隅に謫居 ( たっきょ ) した。


配流 ( はいる ) 中は、藩主や重臣のもてなしを受けることも多く、この間に「四書句読大全 ( ししょくとうたいぜん )」「中朝事実 ( ちゅうちょうじじつ )」「武家事紀 ( ぶけじき )」「謫居童問 ( たっきょどうもん )」など、素行の学問を代表する大著を完成している。
 
大正一四年 ( 一九二五 )、謫居 ( たっきょ ) 跡に建立された素行先生の銅像は、平成一〇年に赤穂城跡公園整備のため現位置に移転した。


 「謫居」とは「罰せられ遠方に配流されること」を意味します。
蟄居や閉門と同様に江戸時代における処罰のひとつですね。
(案内板より)

〇 山鹿素行
山鹿 素行(やまが そこう、元和8年8月16日1622年9月21日) - 貞享2年9月26日1685年10月23日))は、江戸時代前期の日本儒学者軍学者山鹿流兵法及び古学派の祖である。高祐(たかすけ)、また義矩(よしのり)とも。は子敬、通称は甚五右衛門。因山、素行とした。

経歴
陸奥国会津福島県会津若松市)にて浪人・山鹿貞以(山鹿高道とも[1])の子として生まれる[2]寛永5年(1628年)に6歳で江戸に出る。寛永7年(1630年)、9歳のとき大学頭を務めていた林羅山の門下に入り朱子学を学び、15歳からは小幡景憲北条氏長の下で甲州流の軍学を、廣田坦斎らに神道を、それ以外にも歌学など様々な学問を学んだ。[3]

朱子学を批判したことから播磨国赤穂藩へお預けの身となった。


承応
2年(1653年)に築城中であった赤穂城の縄張りについて助言したともいわれ、これにより二の丸門周辺の手直しがなされたという説があり、発掘調査ではその痕跡の可能性がある遺構が発見されている[4]


寛文2年(1662年)頃から朱子学に疑問を持つようになり、新しい学問体系を研究し、寛文5年(1665年)、天地からなる自然は、人間の意識から独立した存在であり、一定の法則性をもって自己運動していると考えた。この考えは、門人によって編集され『山鹿語類』などに示されている。


]延宝
3年(1675年)、許されて江戸へ戻り、その後の10年間は軍学を教えた。貞享2年(1685年)死去。墓所は東京都新宿区弁天町1番地の宗参寺曹洞宗)にある[5]

人物
地球球体説を支持し、儒教の宇宙観である天円地方を否定している[6]

・名言に「常の勝敗は現在なり」がある。

子孫

弘前藩(嫡流)
津軽藩主の津軽信政やその後見人である旗本(黒石藩)の津軽信英は素行に師事し、津軽藩は1万石をもって素行を招聘しようとしたが実現せず、代わりに素行の子の政実が登用されている。政実はのちに津軽姓を名乗ることを許され、家老職家となる。素行から6代後の子孫に山鹿流兵学者として活躍した山鹿素水が出ている。


・素行の嫡男・政実に学んだ津軽政兕は赤穂事件の直後に、真っ先に家臣らと吉良邸に駆けつけ、義央の遺体を発見し負傷者の救助に協力した。また赤穂浪士らは黒石津軽家弘前藩津軽家からの討手の追い討ちを警戒し、泉岳寺まで最短距離ではない逃走ルートを、かなりの早足で撤退したと伝わる。この様子は同じく山鹿流が伝わる平戸藩にも記されている[7]


・また、津軽藩士の喜多村宗則に素行の娘が嫁ぎ、宗則もまた津軽姓を許されて津軽政広と名乗り江戸家老となるが、若くして死去した。政広の遺児は素行の娘である母の手により山鹿流兵学や儒学を教育され、長じて津軽藩家老喜多村政方となる。政方の次男が国学者や画家として名高い建部綾足である[8]

平戸藩
・素行が平戸藩松浦鎮信と親しかった縁で、一族の山鹿平馬は松浦家に召し抱えられ、後に家老となっている。


・上杉家の千坂高房が山鹿流の達人であり、赤穂浪士と頭脳戦を展開する創作があるが[9]、千坂も松浦重信も赤穂事件との関わりはない。ただ、吉良氏秘伝の『吉良懐中抄』が山鹿素行によって書写されて、松浦家に現存しており、素行と吉良義央とは交流があったとされる[10]。また、『山鹿語類』には上杉謙信の「敵に塩を送る」の故事が記されている[11]。平戸藩の記録は歌舞伎の創作とは逆に吉良方寄りになっている[12]

創作・巷説と考察

山鹿素行といえば「山鹿流陣太鼓」が有名だが、実際には「一打ち二打ち三流れ」という「山鹿流の陣太鼓」というものは存在せず、物語の中の創作である[13]


石岡久夫は菅谷政利が山鹿流を学んだとしているが[14]赤穂市史編纂室は疑問視し、菅谷を「もっとも行動や考えのわかりにくい一人である」としている[15]。同様に同市編纂室は「一次資料である山鹿素行日記・年譜に全く記載がない」事を理由に大石良雄や大石良重が山鹿素行から山鹿流を学んだとする説をも記してない[16](wikipediaにおける両記事もこれに倣っている)。

石碑
福島県会津若松市山鹿町の直江兼続屋敷跡には、素行を記念する「山鹿素行誕生地」としるした石碑がある。文字は東郷平八郎による。

著書
・『聖教要録

・『中朝事実

・『配所残筆』

・『武教本論』

・『武教全書』

・『武家事紀

・『山鹿語類』

・『謫居童問』

刊行文献
・『山鹿素行全集』全15巻、岩波書店 1940年-1942年

・『聖教要録 配所残筆』岩波文庫 1940年 復刊1989年ほか。村岡典嗣校訂

・『日本思想大系〈32〉 山鹿素行』岩波書店 1970年。田原嗣郎・守本順一郎校注

・『日本の名著〈12〉 山鹿素行』中央公論社 1971年、新装版1983年。田原嗣郎責任編集

・『聖教要録・配所残筆』講談社学術文庫 2001年。土田健次郎全訳注

・『山鹿素行「中朝事実」を読む』致知出版社 2015年。荒井桂現代語訳



関連書籍
中山久四郎『山鹿素行』北海出版社(日本教育家文庫) 1937年

納富康之『山鹿素行の国体観』鶴書房 1943年

清原貞雄『山鹿素行の兵學』ダイヤモンド社(國防科學叢書) 1944年 

堀勇雄『山鹿素行』吉川弘文館(人物叢書) 1959年

佐佐木杜太郎『山鹿素行 叢書・日本の思想家 8』明徳出版社 1978年

石岡久夫『山鹿素行兵法学の史的研究』玉川大学出版部 1980年

・石岡久夫「兵法者の生活」(雄山閣出版)1981年

・山鹿光世『山鹿素行』 原書房 1981年

中山広司『山鹿素行の研究』神道史学会(神道史研究叢書) 1988年

・佐佐木杜太郎『武士道は死んだか 山鹿素行武士道哲学の解説』壮神社 1995年

・劉長輝『山鹿素行 「聖学」とその展開』ぺりかん社 1998年

・風間健「武士道教育総論」(壮神社)2000年

多田顕『武士道の倫理 山鹿素行の場合』永安幸正編集・解説 麗澤大学出版会 2006年

立花均『山鹿素行の思想』ぺりかん社 2007年

詳しいことは、「山鹿素行ウィキペディア」をご覧ください。 ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E9%B9%BF%E7%B4%A0%E8%A1%8C
(wikiより)

083 山鹿素行先生

山鹿素行

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春のあけぼの 花なら桜


              武士の鑑ぢゃ 赤穂義士


この碑文は昭和 11年、野口雨情が ( 1882 ~ 1945 ) 民謡行脚の道すがら、4月 18日から 3日間赤穂に滞在し詩作した十節よりなる赤穂民謡の冒頭第一節である。


代表作には「十五夜お月さん」「青い目の人形」「船頭小唄」「波浮の港」などがある。
(案内板より)

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赤穂最大の画人、法橋義信筆「竹に虎」。

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赤穂郊外にあった浅野家家中の人々のお墓 5基を昭和 35年 8月赤穂義士会の手を経て赤穂市役所の協力のもと宗派を超えて永く香華を絶やさぬよう旧主の菩提寺である花岳寺へ移遷改葬した。
(案内板より)

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長直公の御傅役として長重公に仕え、正保 2年、長直公赤穂入部より赤穂に定住した。


甲州流軍学を修めた軍師として赤穂城の縄張りに着手し、13年を費やし赤穂城を完成させた。
(案内板より)


〇 近藤正純

近藤 正純(こんどう まさずみ、慶長9年(1604年) - 寛文2年1月2日1662年2月20日))は、赤穂藩浅野家の家臣。甲州流軍学者小幡景憲の弟子であり、北条氏長富永勝由梶定良とともに「小幡門四哲同学」の一人に数えられている。通称は三郎左衛門。


赤穂の花岳寺所蔵の「愛宕岩山縁起」によると、11歳の時に当時常陸真壁藩の大名だった浅野家に仕えたとされる。浅野家仕官は慶長18年(1613年)頃と推測されている。 正保2年(1645年)、浅野長直の時代に浅野家は播磨赤穂藩へ転封し、慶安元年(1648年)に幕府から築城の許可を得て、翌年から近藤の指揮の下、赤穂城の築城が開始された。承応2年(1653年)からは師の一人である山鹿素行[1]も赤穂城築城に参加している。赤穂城は故に、山鹿流軍学の影響を受けているとされる。寛文元年(1661年)に城が完成し、翌年の寛文2年(1662年)に正純は死去した。享年59。


浅野家から支給されていた近藤家の1000石の家禄は養子の近藤正憲が継いた。正憲も甲州流兵学を受け継いで赤穂藩士に進講し、また藩の組頭などを勤めたが、長直の次の藩主である浅野長矩によって解任されている。


忠臣蔵』で有名な赤穂藩首席家老大石良雄(大石内蔵助)は近藤正純から甲州流兵学を教授されたと伝えられているが、大石は万治2年(1659年)の生まれであるから年齢が合わない。このため、正純の養子の近藤正憲から教授を受けたものが誤伝したのであろうとする説がある。

脚注
1. 素行は江戸幕府公認の学問・道徳である朱子学を批判したことから赤穂藩へ流罪(お預け)となった。
(wikiより)

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浅野 長友(あさの ながとも)は、江戸時代前期の大名播磨国赤穂藩2代藩主。官位従五位下采女正。

略歴

初代藩主・浅野長直の長男として誕生。幼名は又一郎。


明暦
3年(1657年)12月17日、祖父長重と同じ従五位下采女正に任官する。寛文11年(1671年)3月5日、父の隠居により家督を相続した。このとき父の命で5万3000石の所領のうち、3500石を義兄の長賢に、新田3000石を長恒にそれぞれ分与したため、赤穂藩は5万石となる。寛文12年(1672年)10月、赤穂に初めて入り、藩政を執り始めるが、延宝3年(1675年)正月26日、33歳で早世した。墓所は赤穂市花岳寺


跡は赤穂事件で知られる長男の長矩が9歳で継いだ。

系譜
・父:浅野長直(1610-1672)

・母:丹羽長重の娘

・正室:内藤波知(?-1673) - 戒珠院殿理庵栄智大姉、内藤忠政の娘

  ・長男:浅野長矩(1667-1701)

  ・次男:浅野長広(1670-1734) - 浅野長矩の養子
(wikiより)

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浅野長友

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若くして家老職を継いだ内蔵助の後見人。


祖父の弟にあたり前国家老。
(案内板より)

〇大石頼母助良重

大石良重(おおいし よししげ、元和5年(1619年) - 天和3年5月18日1683年6月12日))は、江戸時代前期の赤穂藩浅野家の家臣。通称頼母助(たのものすけ)。


赤穂浅野家筆頭家老大石良勝の次男として誕生する。兄の大石良欽が大石家1500石の家禄と筆頭家老職を継いだが、良重も藩主浅野長直の信任を得て450石取りの家老となり、長直の娘・鶴姫を妻にした。その間に、又太郎(早世)・亀之助(早世)・女(浅野長直養女として松平定逸の室)・浅野長恒(分地により3000石の旗本)・浅野長武(3000石の旗本浅野長賢の養子)が生まれている。なお、延宝3年(1675年)の「武鑑」に掲載されている家老に「同(大石)頼母」がいる。


延宝5年(1677年)に兄が死去すると、良重は19歳という若年で相続した良欽の子大石良雄の後見人についた。天和3年(1683年)2月に若き藩主浅野長矩がはじめて勅使饗応役に任じられたときには江戸にあり、長矩を補佐した。


同年5月18日に江戸で死去。享年65。芝二本榎の国昌寺に葬られた。
(wikiより)

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時代安土桃山時代 - 江戸時代前期
生誕天正16年(1588年
死没寛永9年9月3日1632年10月16日
改名又一郎(幼名)→長則(初名)→長重
別名長兵衛(通称
戒名華岳院殿鋳山道牛大居士
墓所茨城県桜川市真壁町桜井の伝正寺
兵庫県赤穂市加里屋の花岳寺
官位従五位下、采女
幕府江戸幕府
主君徳川家康秀忠家光
下野真岡藩主→常陸真壁藩主→笠間藩
氏族浅野氏
父母父:浅野長政
母:やや(長生院浅野長勝の娘)
兄弟幸長長晟長重
正室:徳川家康の養女(松平家清の娘)
長直、娘(浅野長治正室)、娘(桜井松平忠武室)ほか

浅野 長重
(あさの ながしげ)は、江戸時代初期の外様大名

生涯

浅野長政の三男として近江国に生まれる。母の姉・ねね(おね)豊臣秀吉に嫁いでいる関係で浅野家は豊臣時代に優遇され、秀吉は長重を嗣子がなかった宇都宮国綱の養子にさせようと宇都宮家に働きかけを行なった。文禄2年(1593年)5月に国綱は一度了承したものの、国綱の弟である芳賀高武の反対によりこの計画は中止となった。


慶長
4年(1599年)には徳川家康の命令で江戸へ移り、翌年1月から家康の三男秀忠小姓として仕えるようになった。この年春に従五位下・采女正に叙任された。また7月には秀忠が会津征伐のために出陣し、長重も従軍を希望したが、まだ15歳になっていないとの理由で江戸へ戻された。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでの浅野一族の戦功は著しかったので、慶長6年(1601年)に芳賀高武の旧領である下野真岡2万石が与えられた。さらに慶長7年(1602年)には家康の養女となっていた松平家清の娘と結婚。慶長10年(1605年)、秀忠の将軍宣下のための上洛に供した。慶長16年(1611年)に父・長政の死去に伴い、隠居料として与えられていた常陸真壁5万石を相続し、真岡2万石は幕府に返上する。

長政の跡を継ぎ、関ヶ原の戦いののち紀伊国を領していた長兄の幸長が慶長18年(1613年)に死去すると、重臣の浅野氏重は徳川家と親しい長重を後継に推すが、幸長の遺言と長政正室・長生院の周旋により浅野忠吉らが推す次兄の長晟が紀州藩主を継ぐこととなった。


慶長19年(1614年)に大久保忠隣改易された際には安藤重信本多忠朝とともに小田原へ赴いている。また同年の大坂冬の陣にも出陣し、夏の陣の天王寺・岡山の戦いでは先陣をきって毛利勝永ら豊臣方先鋒隊と戦い、浅野家は家臣30人・雑兵100人あまりを失い敗走するものの、豊臣方の首級60をあげて一矢報いた。また同戦では大石良勝が活躍し、この戦功をもって1500石を拝領し筆頭家老となった大石家は、(長重流)浅野家の永代家老家とされた。「赤穂浪士の大石内蔵助」で有名な大石良雄は、この家系から出ている。


元和
8年(1622年)に本多正純が改易となった際に宇都宮城の収城使を務める。また同年、加増転封させるという内意を受けたが、長重は真壁の領有を望んで認められ、真壁を含む5万3500石とされて笠間藩主に転じた。

寛永
4年(1627年)には陸奥国若松城に在番し、寛永6年(1629年)には江戸城西丸の普請に携わった。


寛永9年(1632年)9月3日に死去した。享年45。父・長政と同じ真壁伝正寺に葬られた。墓所は花岳寺にもある。家督は長男の長直が継いだ。
(wikiより)

076   浅野長重

浅野長重

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浅野 長直(あさの ながなお)は、江戸時代前期の外様大名常陸国笠間藩主、播磨国赤穂藩初代藩主。官位従五位下内匠頭

生涯

慶長15年(1610年)、下野国真岡藩主(のちに常陸国笠間藩主)である浅野長重浅野長政の三男、広島浅野家の傍流の一つ)の長男として誕生。幼名は又一郎。


寛永
8年(1631年)12月3日、従五位下内匠頭に叙任された。寛永9年(1632年)10月29日、父の跡を継いで笠間藩主となる。寛永11年(1634年)には幕府より駿府城城代に任じられ、寛永13年(1636年)には江戸城西の丸の普請を手伝い、さらに大坂城の加番を命じられた。この在番中、赤穂藩主の池田輝興が正室の黒田長政の娘を殺害する事件が起こり、池田家改易となった。この改易処分の際、幕命により城受け取りに赤穂へ赴いた浅野長直は、そのまま国替え・赤穂藩主を命じられ、以降は孫の長矩の代に改易されるまで浅野家が赤穂藩主となった。


慶安
2年(1649年)から赤穂城築城工事を開始し、寛文元年(1661年)に完成させた。城下の整備も進められ、上水道の設備などがおこなわれた。さらに姫路から浜人・浜子を入植させ、塩業村を興し、赤穂塩の経営を始めた。次いで、塩水濃縮法による入浜塩田法を導入して大量増産をはかり、やがて赤穂塩は日本全国の塩の7%のシェアを占めるようになる。この入浜塩田法は、赤穂のみならず瀬戸内の諸藩の塩田に伝わっていった。

寛文元年(1661年)に京都内裏が炎上した際には、長直が新内裏造営を命じられ、筆頭家老大石良欽を派遣の上、内裏を再建させている。


また承応元年(1652年) - 万治3年(1660年)にかけては山鹿素行を1,000石の高禄で赤穂へ招いて兵学を学び、家臣たちにも講義を受けさせた。これによって、山鹿流兵学や儒学は赤穂藩の学問の主流を形成することとなる。寛文5年(1665年)に山鹿素行が幕府に睨まれて赤穂に流罪にされたときも、罪人としてではなく師として迎え入れている。


また、江戸において赤穂藩は大名火消としても評判が高かった。『松雲公御夜話』には長直自らが陣頭指揮を執り、延焼を防いだ逸話が記されている[1]。寛文8年(1668年)の大火では、屋根上で指揮を取っていた長直が、燃え始めた物置の上へ家来と共に飛び降り、押し潰して消火した。孫の長矩が刃傷事件を起こした後、江戸の住人から同情を集めたのは、長直が率いた赤穂藩大名火消としての評判・功績があったからではないかという説もある[2]。寛永18年1月29日(1641年3月10日)、江戸京橋桶町から発生した大火災(桶町火事)は、江戸市中の消火防災体制が未熟だったために大被害をもたらした。幕閣は対策を講じるために、「奉書火消」の長直ら6人を招いて相談させ、2年後の寛永20年(1643年)に「大名火消」の制度が生まれた。


寛文11年(1671年)に長男長友に家督を譲り、翌年7月24日に死去した。享年63。墓所は赤穂の花岳寺

系譜
・父:浅野長重(1588-1632)

・母:徳川家康養女 - 松平家清の娘

・正室:丹羽長重の娘

  ・長男:浅野長友(1643-1675)

・生母不明の子女

  ・女子:鶴姫 - 大石良重

・養子

  ・男子:浅野長賢(1634-1687) - 松平清昌の末男

  ・男子:浅野長恒(1658-1732) - 大石良重の長男

  ・女子:松平定逸室 - 大石良重

脚注
1. 池上彰彦 「江戸火消制度の成立と展開」、西山松之助編 『江戸町人の研究』 第5巻 吉川弘文館、1978年、163頁。
2. 黒木喬『江戸の火事』同成社、1999年、45頁。
 

(wikiより)

075 浅野長直

浅野長直

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〇 大石家先祖の墓

梅容童女 : 大石良雄 娘


清巌院殿 : 同 祖父


清凉院殿 : 同 祖母


本務院殿 : 同 父


西來院 : 同 瀬左右衛門 父
(案内板より)

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森 長武、森 長直 他。

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源五は俳諧を子葉という。


26歳秋、浅野長矩公に従い江戸よりの帰路の途中、大津市の義仲寺にある松尾芭蕉の墓前で句を詠んだ。


「 こぼるるを許させ給へ萩の露 」


源五は茶道に通じ、山田宗徧の門に入り吉良公の在邸日を探知して 12月 14日が討ち入りの日となる。


この碑は源五自筆のものを写刻し、昭和 47年 6月に茶道宗徧流の家元、山田宗囲宗匠が寄進したものである。
(案内板より)

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森家霊廟 ( 現開山堂 ) は宝暦 9年 ( 1759 ) 赤穂森家 第五代藩主・忠洪公の建立による、方三間総けやき造りの壮麗なものであり、開山並びに歴代住職・森家および歴代檀家の位牌を祀る。


この役瓦は、昭和 50年 10月屋根改修により展示する。
(案内板より)

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 此方のお墓は、遺髪墓となっております。

吉田 兼亮(よしだ かねすけ、寛永17年(1640年) - 元禄16年2月4日1703年3月20日))は、江戸時代前期の武士赤穂浪士四十七士の一人。通称は忠左衛門(ちゅうざえもん)。吉田之貫の子。本姓藤原氏家紋は丸の内花菱。

生涯

寛永17年(1640年)、笠間藩主・浅野長直の家臣・吉田之貫の長男として笠間に生まれる。母は備中松山藩水谷家家臣貝賀左門の娘。弟に貝賀友信がいる。


正保2年(1645年)に浅野家が赤穂へ移封されたので、吉田家もこれに従った。兼亮も赤穂藩に仕え、足軽頭となった。また、浅野家中の甲州流軍学者近藤正純近藤正憲甲州流軍学水沼久太夫から槍をそれぞれ学んだ。寛文3年(1663年)には熊井新八の娘と結婚、吉田九助(長男・早世)、吉田成重(次男・早世)、吉田兼貞(三男・嫡男)、吉田兼直(四男・吉田伝内)、吉田さん(長女・伊藤治興室)、吉田すえ(次女・那須高矩室)の四男二女を儲けた。また、寛文12年(1672年)には8歳の寺坂信行の世話をし吉田家の奉公人とした。貞享3年(1686年)には、赤穂浅野家の飛領の播磨国加東郡の郡代となり、200石役料50石を知行した。このときに寺坂もお供して加東郡へ向かい、この際に吉田配下の浅野家の足軽としている。


元禄14年(1701年)3月14日、主君・浅野長矩江戸城松之大廊下で吉良義央に刃傷に及び、浅野長矩は即日切腹、赤穂藩は改易となった。この事件の報が赤穂に伝えられるとすぐに赤穂城へ駈けつけ、以後一貫して筆頭家老大石良雄派として行動する。なお、赤穂城での会議中に他藩の間者(スパイ)竹井某を捕らえる働きがあったといわれる。開城後は大石良雄とともに藩政残務処理を命じられ、遠林寺で事務にあたった。この間は江戸幕府より十人扶持が支給されたといわれる。残務処理が終わったのちには播磨国三木町(現:兵庫県三木市)に移る。


元禄15年(1702年)3月、近松行重とともに江戸に下り、吉良義央への仇討ちを強硬に主張する堀部武庸ら急進派の説得にあたっている。その後も田口一真の変名で江戸に留まり、江戸の情報を京都の大石に伝える役目を果たす。同年7月、長矩の弟・浅野長広広島浅野宗家に永預けの処分を受けたことを大石に伝える。これにより浅野家再興が絶望的となり、大石は円山会議において以降は仇討一本とすることを決定した。大石の江戸下向の際には鎌倉まで迎えに出迎え、また大石が関東で最初に滞在した川崎平間村軽部五兵衛宅離れも兼亮が手配したものである。


12月15日未明、赤穂浪士は吉良義央の屋敷へ討ち入り、兼亮は裏門隊の大将大石良金の後見にあたった。なお、討ち入りの最中に吉良の姿が見当たらず、浪士たちは焦りの色を見せるが、兼亮は同志を叱咤して探させたといわれる。討ち入り後、浪士たちは浅野長矩の墓所のある泉岳寺へ引き揚げるが、途中、大石の命により富森正因とともに一行から離れて大目付仙石久尚の屋敷へ出頭して討ち入りの口上書を提出する役割を任された。また吉良家の隣家土屋逵直邸にも兼亮が吉良を討ち取った旨の報告をしている。その後、幕府の命により大石良雄とともに熊本藩細川綱利の下屋敷にお預けとなる。


元禄16年(1703年)2月4日、細川家家臣・雨森房親の介錯で切腹。享年64。主君浅野長矩と同じ高輪泉岳寺に葬られた。戒名は刃仲光剣信士。

備考

・兼亮は小柄な大石良雄と違って大柄な体格で容貌魁偉であった。よほど体が大きかったらしく、細川家家臣・堀内重勝が書き遺したところによると兼亮は「自分の体は大きく、切腹後には無様な姿になりそうなのですぐに風呂敷で包んでしまってほしい」といって費用のお金を細川家に渡したという。


・石高は200石と原元辰(300石)や片岡高房(350石)に劣るが、武芸にも秀でて人望もあり、年齢も高かったので同士の間では大石に次ぐ人物として重んじられた。

小説
・「赤穂浪士の参謀」(菊池道人、廣済堂出版、1999年、ISBN 978-4331607244

関連項目

大石神社

本妙寺 ‐ 境内に墓がある。
(wikiより)

44 吉田忠左衛門兼亮

吉田兼亮

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 此方のお墓は、遺髪墓となっております。

原 元辰(はら もととき、慶安元年(1648年)- 元禄16年2月4日1703年3月20日))は、江戸時代前期の武士赤穂浪士四十七士の一人。通称は惣右衛門(そうえもん)。変名は、和田元真、前田善蔵[1]

生涯

慶安元年(1648年)、米沢藩主・上杉綱勝家臣(馬廻り100石)のち大聖寺藩主・前田利治家臣(長松院付き)・原定辰[2]の長男として誕生。母は和田将監(小笠原家家臣)の娘。弟に岡島常樹


父・定辰は承応3年(1654年)頃にゆえあって前田家ならびに上杉家を離れて浪人するが、延宝3年(1675年)、元辰は赤穂藩主・浅野長直に仕官し、後に弟の常樹も赤穂藩に仕えた。延宝7年(1679年)、赤穂藩士・長沢六郎右衛門の娘を妻に迎え、彼女との間に4女を儲けたが、元禄5年(1692年)に妻は双生児出産のために死去したという。後妻として水野七郎右衛門姫路藩本多家家臣)の娘を迎えた。元禄6年(1693年)の分限帳には250石を受けており、元禄10年(1697年)8月14日、50石加増されて都合300石、また足軽頭に就任した。


元禄14年(1701年)3月14日、勅使御馳走役にあたっていた主君・浅野長矩江戸城松之大廊下吉良義央に刃傷に及んだ。事変が起きたときは伝奏屋敷に詰めており、伝奏屋敷からの退去の指揮をとり、浅野家の什器類を運び出した。その手際のよさに江戸幕府目付は感心したという。その夜、大石信清とともに第二の使者として早駕籠で赤穂へ向かった。通常15日の道程を4日で走破し、3月19日、浅野長矩切腹の報を赤穂へ知らせた。家老大石良雄は総登城を命じ、連日評定が行われた。評定は篭城討死か開城恭順かで対立し、元辰は開城恭順を主張して大石に異議を申し立てる家老・大野知房に詰め寄り退去させている。


赤穂城明け渡し後は大坂に住み、大石良雄の御家再興運動を補佐し、同年9月には仇討ちを主張する急進派を説得するため大高忠雄らと江戸へ下った。ところが逆に堀部武庸らに同調して急進派の中心となり、京都山科に赴き大石に仇討ちの決行を迫っている。なお、仇討ちを決行しようとしない大石に業を煮やした急進派は一時、元辰を旗頭に討ち入りを図ったといわれている。元禄15年(1702年)7月、幕府は浅野長矩の実弟・浅野長広広島宗家永預けの処分を決め、御家再興の望みはなくなった。これを受けて、京都円山の会議にて大石は仇討ちを決定すると、同年10月に元辰は岡島常樹、間光延らと江戸へ下る。


12月14日の吉良邸討ち入りでは、表門隊に属し、大石良雄を助けて司令にあたった。邸内侵入の際に屋根から滑って足を捻挫したため、泉岳寺への引き上げの際は駕籠に乗せられている。


細川綱利
屋敷へお預けとなり、元禄16年(1703年)2月4日、幕府の命により細川家家臣増田貞右衛門の介錯により切腹。享年56。法名は、刃峰毛劔信士。

子孫
・切腹の折、3歳だった息子は出家して「春好」と名乗る。享保8年(1725年)広島藩浅野本家に250石にて召抱えられる。菩提を弔うための供養墓が福昌山 圓隆寺にある。後年の広島藩浅野家「侍帳」に原氏がみられないため、絶家もしくは上杉家中のように山田姓などに改めた可能性がある。

・赤穂事件により罪が及ぶ連座を避けるため、元辰は上杉家に残る原一族を義絶している。従兄弟の子孫が米沢藩士として続いている(原姓のほか鳥羽・山田氏がみられる)[3]

遺品
・元辰の遺品は泉岳寺の住職が無断で売却し、寺の費用に充てたため散逸した。21世紀になり、元辰が使った可能性のある脇差が発見され、赤穂大石神社は真贋鑑定ののち公開予定と発表した[4]

創作・巷説
仇討ちを決行しない元辰を老母が自害して諌めたという話がこんにちに伝わっているが、後世の創作である。

脚注
1. 父・定辰は元辰生誕時、前田家家臣。浪人は承応3年(1654年)頃とされる。
2. 上杉綱勝の姫が加賀大聖寺藩前田家に嫁ぐ際に 付き人となり前田家に派遣された。(『国宝 上杉家文書』より「上杉家御年譜」)
3. 同「上杉候家士分限簿」(写しが米沢市立図書館所蔵)
4. 「読売新聞・地方版」(2009.11.14)

関連項目
大石神社

大石良雄外十六人忠烈の跡

福昌山 圓隆寺
(wikiより)

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原元辰

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 此方のお墓は、遺髪墓となっております。

片岡 高房(かたおか たかふさ 寛文7年(1667年) - 元禄16年2月4日1703年3月20日))は、江戸時代前期の武士赤穂浪士四十七士の一人。赤穂藩では側用人・児小姓頭をつとめ、浅野長矩から最大の寵愛を受けた。通称は、はじめ新六(しんろく)、のちに源五右衛門(げんごえもん)と称した。本姓近江源氏家紋は瓜の内釘貫。

生涯

寛文7年(1667年)、尾張藩徳川家の家臣・熊井重次(知行300石御蔵米120石)の長男として名古屋に生まれる。生母が側室であったため、寛文10年(1670年)に正室の子である熊井次常が生まれると、嫡男たる地位を奪われた。高房は弟ながら正室の子である次常に対しては「兄上」と呼ばされたといわれる。なお他にも熊井重康熊井重長など弟2人、妹2人がいる。


延宝2年(1674年)、親戚の赤穂藩士・片岡六左衛門(知行100石)に養子に入った。父・熊井重次の弟・長左衛門の娘が片岡六郎左衛門に嫁いでいたという関係にあったためである。


延宝3年(1675年)、養父・六左衛門が死去したため、9歳にして片岡家100石の家督を相続。この年のうちから小姓として浅野長矩の側近くに仕えている。長矩とは同い年であったこともあり、非常に気が合ったようである。また長矩からの信任が深かったため、長矩とは男色の関係にあったともいわれた。


そのため、しばしば家禄の加増を受けており、貞享3年(1686年)4月9日と元禄4年(1691年)1月12日にそれぞれ100石の加増があった。なお、この際のいずれも「片岡六」名義になっており、これ以降の段階で源五右衛門に改名したとみられる。またこの頃には浅野家臣・八嶋惣左衛門の娘を妻に迎え、元禄5年(1692年)に長男新六、元禄8年(1695年)に次男六之助、元禄10年(1697年)に長女るい子(津金善次郎室)、元禄12年(1699年)、次女の片岡中右衛門室を儲けた。元禄12年(1699年)1月12日にはさらに50石加増され、都合350石を知行した。これは赤穂浪士の中では1500石の大石良雄に次いで家禄の高かった。


元禄14年(1701年)3月14日、主君・浅野長矩が江戸城松之大廊下で吉良義央に刃傷に及んだ際には城内に供待ちをしていた。長矩は陸奥国一関藩田村建顕屋敷にお預けとなり、即日切腹と決まったが、切腹の副検死役である多門重共(幕府目付)が記した『多門筆記』によると、高房は最期に一目浅野長矩と会うことができたとされている。また田村家の資料である『内匠頭お預かり一件』によると、浅野長矩は高房と礒貝正久に宛てて「孤の段、兼ねて知らせ申すべく候得共、今日やむ事を得ず候故、知らせ申さず候、不審に存ず可く候」という謎めいた遺言を田村家臣の口述筆記で残したことが記されている(ただし、文章がしり切れてしまっており不自然な内容であるため、この後に続く文は江戸幕府を憚って田村家で消された可能性が高い)。


高房は礒貝正久や田中貞四郎ら長矩の側用人たちと一緒に長矩の遺骸を泉岳寺に葬り、その墓前で髻を切って吉良義央への仇討ちを誓った。吉良への仇討ちの同志を募るため、赤穂へ赴いたが、このとき赤穂藩では殉死切腹が藩士達の主流意見であったため、仇討ちの同志は集まらなかった。赤穂で同志を募ることを諦めた高房らは、大石良雄の義盟にも加わらず、開城後に江戸に戻っていった。しかし、堀部武庸ら江戸急進派ともうまくいかず、礒貝ら長矩側近たちと一緒に独自のグループをつくって、吉良義央の首を狙った。結局、元禄15年(1702年)3月、江戸急進派鎮撫のために江戸に下ってきた吉田兼亮から説得を受けたのを機に、ようやく大石の義盟に加わる決意をした。その後、吉岡勝兵衛と称して江戸南八丁堀湊町に借家。閏8月には尾張の父や兄(本当は弟だが)達に連座しないように義絶状を送っている。


12月15日未明の吉良屋敷討ち入りにおいては、高房は表門隊に属して屋内において十文字槍で戦った。また富森正因武林隆重と組にされていた(山鹿流兵法に基づいて三人一組の編成になっていた)。2時間あまりの激闘の末に、吉良義央を討ち取って本懐を果たした。赤穂浪士一党は泉岳寺へ引き上げ、吉良義央の首級を浅野長矩の墓前に供えて仇討ちを報告している。

討ち入り後に、高房は大石良雄らとともに熊本藩主・細川綱利の中屋敷に預けられた。元禄16年(1703年)2月4日、幕命により、切腹。介錯人は細川家家臣の二宮久重享年37。主君浅野長矩と同じ高輪泉岳寺に葬られた。戒名は刃勘要剣信士。なお名古屋の乾徳寺にも墓が置かれた。この墓はのちに平和公園に移されている。


男子の新六と六之助は、同年5月に出家したため、連座を免れた。

内匠頭最期の目通り

片岡高房といえば、浅野長矩との最期の目通りでよく知られ、長矩が切腹の坐に向かうときに、高房が庭先にひかえて涙ながらに無言の別れをする場面は、『忠臣蔵』を題材にしたドラマなどではよく描かれている。この場面の根拠となっているのは、浅野長矩切腹の副検死役だった幕府目付・多門重共(多門伝八郎)が記した『多門筆記』である。


それによると、高房は「最期に一目我が主にお目通りを」と田村邸の家臣達に懇願したが、このことを田村建顕が、正検死役の庄田安利(幕府大目付)に告げ対応を伺ったが、庄田は取り合おうとしなかった。そこへ副検死役の多門と大久保忠鎮が現れ、2人は庄田に「内匠頭に判決を読み渡している内にその者をつれて来なさい。内匠頭と距離をとらせ、刀を持たせず、その者の周りを取り囲んでいれば一目見るぐらいならば問題はない。もしその者が主君を助けようと飛び出したとしても田村家の家臣も大勢いるのだから、取り押さえられないことはないだろう。最後に一目会いたいという願いを叶えてやるのは人間として当然の慈悲であると心得るが、いかがか?」と迫ったところ、庄田は「お好きにされよ」とだけ答えた。こうして高房は最期に一目浅野長矩に目通りできた、とされている。


ただしこれらは多門の自称であり、『内匠頭お預かり一件』はじめ田村家の資料からそのような情報は引き出せない。元禄赤穂事件研究家の間では「多門伝八郎には虚言癖がある」とする説が主流になっている。田村家が幕府に遠慮して資料を残さなかった可能性もあるので、この一件に関しても、多門の虚言であるとは断定できない。

関連項目

大石神社

大石良雄外十六人忠烈の跡
(wikiより)

46 片岡源五右衛門高房

片岡源五右衛門

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 此方のお墓は、遺髪墓となっております。

間瀬 正明(ませ まさあき、寛永18年(1641年) - 元禄16年2月4日1703年3月20日))は、江戸時代前期の武士赤穂浪士四十七士の一人。通称は久大夫久太夫(きゅうだゆう)。間瀬の読みは一説に「まなせ」。

生涯

寛永18年(1641年)、赤穂浅野家臣・間瀬権大夫の長男として誕生。母は浅野家家臣多川九左衛門の娘。正保2年(1645年)に父が隠居したため家督相続。赤穂藩では200石の藩大目付(役料10石)。刈部弥次郎の娘を妻に迎え、その間に間瀬正辰間瀬正岑を儲けた。


元禄14年(1701年)3月14日、主君・浅野長矩吉良義央に刃傷に及んだ際には赤穂にいた。4月18日には収城目付荒木政羽らの城検分の案内をしている。大石良雄に神文血判を提出して赤穂藩の飛び領の加東郡の本徳寺領へ移った。老齢ながら忠義の心は厚く、大石にたびたび決起を迫った。元禄15年(1702年)8月には一族の多川九左衛門が脱盟しているが、間瀬親子は残った。9月には息子の正辰が江戸へ下向し、10月には久大夫も江戸下向した。三橋浄貞と称して新麹町四丁目の中村正辰の借家に入った。なお、三橋は祖父の苗字であった。


吉良邸へ討ち入りし吉良義央の首をあげたあとは、熊本藩細川綱利の屋敷へ預けられた。元禄16年(1703年)2月4日に細川家家臣・本庄喜助の介錯で切腹した。享年63。主君・浅野長矩と同じ高輪泉岳寺に葬られた。法名は刃誉道剣信士。


なお、次男の間瀬正岑は幼いため討ち入りには加わらなかったが、父や兄の切腹後、一族連座して伊豆大島へ流された。その後、伊豆大島へ流された赤穂浪士の遺児(ほかに吉田兼直中村忠三郎村松政右衛門)は、瑤泉院(浅野長矩正室)の赦免運動などが功を奏して、宝永3年(1706年)8月に赦免されたが、正岑だけはそれを目前にして大島で死去している。

関連項目
大石神社
(wikiより)

47 間瀬久太夫正明

間瀬久太夫正明

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 此方のお墓は、遺髪墓となっております。

小野寺 秀和(おのでら ひでかず、寛永20年(1643年)- 元禄16年2月4日1703年3月20日)))は、江戸時代前期の武士赤穂浪士四十七士の一人。小野寺又八の子。通称は十内(じゅうない)、雅号は里竜悦貫本姓藤原氏家紋は木瓜。

生涯

寛永10年(1643年)、浅野家家臣・小野寺又八の長男として常陸国笠間(赤穂移封前の浅野家城地)に誕生。母は多川九左衛門女。弟に岡野包住岡野包秀の父)、姉に貞立尼大高忠晴の室。大高忠雄小野寺秀富の母)がいる。また間瀬正明正辰父子、中村元辰なども縁戚にあたる。


赤穂藩士として仕え、150石を知行。寛文末から延宝初年ごろの間に灰方佐五右衛門の娘のと結婚し、丹と秀和は仲睦まじいことで知られ、丹の妹・いよも秀和の養女に迎えられた。また、秀和は武道のみならず和歌古典儒学にも通じ、元禄7年(1694年)に京都留守居役(役料70石)を拝命したのを機に、京で儒者伊藤仁斎に経史を学び、さらに夫婦で歌人・金勝慶安に師事して数々の和歌を残している。


元禄14年(1701年)3月14日、主君・浅野長矩江戸城松之大廊下で吉良義央に刃傷に及び、浅野長矩は即日切腹、赤穂藩は改易と決まった。京都でこの凶報に接した秀和は老母と妻を残し、鎧一領、槍一筋を具して篭城討死覚悟で赤穂へ駆けつけた。赤穂城開城では大石良雄の右腕として活動。江戸幕府目付荒木政羽榊原政殊の接待役にあたった。


赤穂城明け渡し後、6月に京都に戻った。基本的にはその後も大石派(お家再興優先派)として行動し、7月に大石が長矩の親族である戸田氏定大垣藩主)に主家再興の嘆願に訪れた時も同道している。その後、長矩の実弟・浅野長広に広島本家お預りが決まり、主家再興の望みが消えると、大石良雄は仇討ちを確定し、元禄15年(1702年)10月に秀和も瀬尾孫左衛門とともに江戸へ下り、大石の嫡男・大石良金や養子秀富と麹町中村宿宅にて同居した。偽名として「仙北十庵」と名乗る。その後も討ち入りまでの間、大石良雄をよく補佐し続けた秀和だが、元禄15年(1702年)4月21日には養女いよ、9月5日には弟の岡野包住、9月9日には母と、この頃立て続けに血縁を失っている。


12月14日の吉良邸討ち入りでは裏門隊に属して吉田兼亮間光延とともに裏門隊大将大石良金の後見にあたった。邸内に侵入すると二人の敵が現れ、吉田とともにこれにあたり、秀和は槍でひとりを討ち取っている。邸の裏口を巡視すると隣家の土屋逵直邸で家士が騒いでいるので、秀和は大声を上げて、自分たちが浅野家家臣であること土屋家には迷惑をかけないので静観して欲しいことを頼んだ。秀和はその後、二人の敵を倒している。


討ち入り後は大石良雄らとともに熊本藩主・細川綱利の下屋敷へお預けとなる。細川家にお預け中は、妻丹と折に触れて和歌のやりとりをしている。元禄16年(1703年)2月4日、幕府の命により細川家家臣・横井時武の介錯で切腹。享年61。主君浅野長矩と同じ高輪泉岳寺に葬られた。戒名は刃以串剣信士。


なお妻の丹は、秀和の死後の6月18日、京都本圀寺で絶食して自害し、夫の後を追った。

関連項目
大石神社
(wikiより)

48 小野寺十内秀和

小野寺秀和

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 此方のお墓は、遺髪墓となっております。

間 光延(はざま みつのぶ、寛永12年(1635年)-元禄16年2月4日1703年3月20日))は、江戸時代前期の武士赤穂浪士四十七士の一人。通称喜兵衛

生涯

寛永12年(1635年)、誕生。子に長男・間光興、次男(妾腹)に間光風がいる。


赤穂藩
では勝手方吟味役(100石)として仕えた。また、武芸は父より天流剣術を学び、諸流の剣術流派の系譜をまとめた『剣術系図』を著わしている。


元禄14年(1701年3月14日、主君の浅野長矩江戸城松之大廊下吉良義央に刃傷に及んで切腹、赤穂藩は改易と決まった。このとき光延は赤穂におり、長男・光興とともに大石良雄の義盟に加わった。また、次男の光風は故あって江戸へ出奔していたが、後に義盟に加わった。元禄15年(1702年10月原元辰らとともに江戸へ下り、杣庄喜斎と変名して光興、光風とともに新麹町の借家に潜伏する。


同年12月14日吉良邸討ち入りでは、裏門隊に属して吉田兼亮小野寺秀和とともに大石良金の後見にあたる。この際、に「都鳥いざ言とはん武士の恥ある世とは知るや知らずや」と書いた短冊を付けていたという。また、老齢ながら敵のひとりを槍で倒している。


討ち入り後は細川綱利屋敷にお預けの身となる。細川家の接判役の堀内重勝の覚書によれば、光延は物堅い性格で皆と話もせず、いつも黙って座っていたという。


元禄16年(1703年)2月3日、江戸幕府の命により切腹。享年69。戒名は刃泉如劔信士。

関連項目
大石神社
(wikiより)

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間光延

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 此方のお墓は、遺髪墓となっております。

礒貝 正久(いそがい まさひさ、延宝7年(1679年) - 元禄16年2月4日1703年3月20日))は、江戸時代前期の武士赤穂浪士四十七士の一人。通称は十郎左衛門(じゅうろうざえもん)。 

生涯

延宝7年(1679年) 、礒貝正次の子として誕生。母は貞柳尼


父・正次は幕臣・松平隼人正に仕えていたが、主家が断絶して浪人になると、正久は京都愛宕山教学院の稚児小姓となった。14歳のとき、父と懇意だった赤穂藩士・堀部武庸の推挙によって浅野長矩に側小姓として仕えた。美童で利発だったことから長矩に寵愛され、物頭側用人(150石)にまで引き立てられた。


元禄14年3月14日1701年4月21日)、長矩が江戸城松之大廊下で吉良義央に刃傷に及んだ。長矩は切腹を命じられ、田村建顕の屋敷に預けられ、その日のうちに切腹した。長矩は正久と側用人・片岡高房に宛てて「このたびのこと、かねてより知らせおくべきであった」との遺言を残している。正久は高房らとともに長矩の遺体を引き取り、泉岳寺に葬って、髻を切って仇討ちを誓った。その後、正久は高房とともに赤穂へ赴き、筆頭家老大石良雄に仇討ちを説いた。浅野家再興を第一と考えていた良雄はこれに同意せず、失望した正久は江戸に戻り独自の行動を取った。江戸では内藤十郎左衛門と変名し、酒屋を表向きの生業にして仇討ちの機会をうかがった。元禄15年(1702年)3月、江戸に下った吉田兼亮の説得により、良雄の義盟に加わる。なお、『忠臣蔵』の物語では美男であったので吉良家の女中に近づき内情を探ったという。


12月15日1703年1月31日)未明、47人の赤穂浪士が吉良屋敷へ討ち入り、正久は裏門隊に属して手槍を持って屋内へ突入した。夜中だったため屋敷内は暗く浪士たちの進退は自由でなかったが、正久が機転を働かせて吉良家の台所役を脅して蝋燭を出させ、それを各室に立てて屋敷内を灯した。後の取調べで、江戸幕府大目付仙石久尚はその機転を大いに褒めたという。赤穂浪士は義央を討ち取って本懐を果たし、泉岳寺へ引き揚げる際に、正久の家が往路にあったため大石良雄に病床の母・貞柳尼を見舞うよう勧められるが、正久は固持している。


その後、正久は細川綱利の屋敷にお預けとなる。元禄16年2月4日(1703年3月20日)、幕府の命により切腹。享年25。戒名は、刃周求劔信士。


なお、正久は幼少より太鼓に秀でていたが、主君の長矩が芸事を好まないことを知りやめている。しかし、だけはひそかに続けており、切腹後の遺品に琴の爪があったといわれる。

関連項目

大石神社

忠臣蔵の恋 - 諸田玲子の小説『四十八人目の忠臣』のドラマ化
(wikiより)

50 礒貝十郎左衛門正久

礒貝正久

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 此方のお墓は、遺髪墓となっております。

堀部 金丸(ほりべ かなまる(あきざね)、寛永4年(1627年)-元禄16年2月4日1703年3月20日))は、江戸時代前期の武士赤穂浪士四十七士の一人。通称は弥兵衛(やへえ/やひょうえ)。堀部勝綱の子。本姓は源氏(近江源氏)。家紋は四ツ目結二ツ。

生涯

寛永4年(1627年)、浅野長重の家臣・堀部綱勝の子として常陸国笠間に生まれる。母は不詳。


堀部家は祖父・助左衛門以来、浅野家に仕える譜代の臣下の家である。幼少の時に父が死去したため、若年より播磨国赤穂藩士として浅野長直長友長矩の3代に仕え、祐筆を経て江戸留守居となり300石を知行した。


妻に山田氏の女、後妻として忠見氏の女・わかを迎えており、先妻の山田氏の女との間には弥一兵衛ほりの一男一女をもうけた。ところが、元禄5年(1692年)12月に長男・弥一兵衛が男色関係のもつれから妻の縁戚の本多喜平次に殺され(本多は金丸が討ち取ったという)、後妻わかの弟・忠見政常の次男・堀部言真を養子に迎えたが、藩主・浅野長矩から却下されたため、赤穂藩の家禄を相続させる養子とすることはできなかった。元禄7年(1694年)、高田馬場の決闘で活躍した浪人・中山安兵衛(堀部武庸)を見込み、娘・ほりと娶わせ婿養子に迎える。この養子縁組は長矩も許可し、金丸は隠居(隠居料20石)して、代わりに安兵衛が家督を継いで長矩に仕えることになった。


元禄14年(1701年)3月14日、長矩が江戸城松之大廊下で吉良義央に刃傷に及び、即日切腹、赤穂浅野家は改易となった。金丸は藩邸を引き払い馬淵一郎右衛門、本所にある越前松平家の家老・本多長員屋敷内に住居を持つ江戸常府の本多家次席留守居・忠見政常宅に仮住まいした後、両国橋の西にある矢之御蔵跡地にできた米沢町の二階建ての長屋に引っ越した。


金丸は婿養子の武庸とともに仇討ちを主張する急進派の中心となった。元禄15年(1702年)、大石良雄は仇討ちを決定して江戸に下り、金丸は「浅野内匠家来口上書」の草案を書いた。討ち入りの前夜、討ち入り参加者は金丸宅に立ち寄ってからそれぞれの集合場所に行くことになった。なお、吉田兼亮らは金丸宅を辞してから本所林町五丁目に武庸が借りていた相宅に行く途中、両国橋の東の竪川の川岸にある「亀田屋」という茶屋(遊女屋)に寄り、最後の宴を催した。なお、そのときにでた蕎麦のことから、「討ち入り前に蕎麦屋の二階に集合した」という話が創作されたといわれる。


12月15日未明、大石ら47人の赤穂浪士は吉良義央の屋敷に討ち入る。金丸は表門隊に属していたが、自宅から出て遅れて東門前に到着した。高齢のため、梯子を使って屋根に上るにも連れてきた家僕の助けを借りたという。討ち入り後は、武庸の従兄(佐藤条衛門)に付き添われて両国橋前の広場まで行き、そこからは泉岳寺まで籠に乗って行った。泉岳寺からお預け先の細川綱利屋敷に行く予定が変更になり、大目付の仙石久尚屋敷まで行ってそこから細川屋敷に行った。両行程とも金丸は籠に乗って行った。


元禄16年(1703年)2月4日、江戸幕府の命により、切腹した。享年77。戒名は、刃毛知劔信士。同志のうち最年長者だった。


なお、もう一人の養子・言真もに討ち入りへの参加を望んだが、浅野家臣ではなかったので金丸から拒否され、連座を避けるため忠見姓に戻して忠見家へもどされた。金丸と武庸の切腹後は堀部家を継ぎ、熊本藩主・細川綱利に召抱えられ、その子孫は熊本藩士として存続した。

参考文献

根岸鎮衛 『耳嚢』全3冊 長谷川強校注、岩波書店岩波文庫〉、1991年。 - 江戸時代の随筆。堀部弥兵衛についての逸話を収録。

・『忠臣蔵』巻三・史料集(赤穂市)。

・福井県『南条郡史』。

・『日本随筆大成』(吉川弘文館)

・『佐藤条衛門覚書』(討ち入りを援助した堀部武庸の従兄の記録/翻刻出版・中央義士会)。

・『御府内場末往還其外沿革図書』(幕府普請方作成)

関連項目

高田馬場の決闘

大石良雄外十六人忠烈の跡
(wikiより)

51 堀部弥兵衛金丸

堀部金丸 ( 弥兵衛 )

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 此方のお墓は、遺髪墓となっております。

富森 正因(とみのもり まさより、寛文10年(1670年) - 元禄16年2月4日1703年3月20日))は、江戸時代前期の武士赤穂浪士四十七士の一人。通称は助右衛門(すけえもん)。

生涯

寛文10年(1670年)、赤穂藩御留守居役・富森助太夫の子として誕生。母は山本源五右衛門の娘。


父が早くに死去したため幼くして浅野長矩に仕え、天和3年(1683年)に小姓になり、元禄3年(1690年)に江戸詰馬廻兼使番200石となった。いついかなる御用を仰せ付かってもよいように20両の金子を常に懐に入れていたという。また、俳諧をたしなみ宝井其角に師事し、春帆と号した。


元禄6年(1693年)12月、備中松山藩水谷家改易となり、浅野長矩が収城使に任じられると、江戸から国許へ下準備を知らせる急使に任じられ、通常15日かかるところ6日で赤穂に到着し、家中の者たちを驚かせている。浅野長矩が勅使御馳走役に任じられ、元禄14年(1701年)3月、勅使が江戸へ下向すると高田郡兵衛と供に品川まで出迎え、伝奏屋敷まで案内している。しかし、同年3月14日、江戸城松之大廊下での吉良義央への刃傷により、浅野長矩が切腹。この時、正因の母は深く憤り、不公平な裁きをした御政道を批判して、復仇をして武士としての本懐を果たすよう正因にいったとされる。


赤穂藩改易後は川崎の平間村に母の隠居所を建てて移り、山本長左衛門と変名して隠れ住んだ。仇討ちが決まると、江戸の新麹町五丁目の借家へ移った。平間村の隠居所は、元禄15年(1702年)10月、大石良雄の江戸下向に際しての宿に活用されている。新麹町五丁目に移ると吉良邸の探索を行い、屋敷の構造から屋内での戦いが主体となると考え、屋内戦に有利な9尺の短槍を考案した。


同年12月14日の吉良邸討ち入りでは表門隊に属して戦った。母から贈られた女小袖を肌につけ、姓名を記した合符の裏に「寒しほに身はむしらる丶行衛哉」と書いていた。吉良を討ち取り、赤穂浪士一行は浅野長矩の墓所のある泉岳寺へ向かったが、正因は吉田兼亮とともに一行から離れて大目付仙石久尚の屋敷へ出頭して討ち入りの口上書を提出した。その後、大石良雄らとともに細川綱利の屋敷にお預けとなる。


元禄16年(1703年)2月4日、江戸幕府の命により切腹。享年34。戒名は、刃勇相剣信士。


事件当時2歳だった長男の富森長太郎は母方の叔父に預けられ、大赦後に壬生藩加藤家に仕えた。

関連項目
大石神社
(wikiより)

54 冨森助右衛門正因

冨森助右衛門正因

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近松 行重 (ちかまつ ゆきしげ、寛文10年(1670年) - 元禄16年2月4日1703年3月20日))は、江戸時代前期の武士赤穂浪士四十七士の一人。通称は勘六(かんろく)。

生涯

寛文10年(1670年)、近松行生の子として誕生。異父弟に奥田行高がいる。


源義高の末流を称し、先祖は近江国佐々木六角家の典医・近松家を継いだ。祖父の近松伊看豊臣秀頼に仕えて、後に法眼に叙せられる医師となり、三次浅野家に仕えた。その後、浅野長直の懇願により赤穂藩の典医として仕えた。伊看は山鹿素行と親交があり、子の行生に山鹿流兵学を修めさせて士分として仕えさせた。行重も赤穂藩士として馬廻(250石)として仕え、また山鹿流兵学も修めた。


元禄14年(1701年)3月14日、江戸城松之大廊下で主君・浅野長矩吉良義央へ刃傷におよび、浅野長矩は即日切腹、赤穂藩は改易となった。赤穂城開城後、早水満尭高野山へ登り、浅野長矩の碑を建立している。その後、近松家本家がある近江国野洲郡蛭田(現・滋賀県野洲市)へ隠れ住み、一時本家近松伊井の猶子となり[1]大石良雄ら同志と連絡をとりあった。元禄15年(1702年)2月、江戸急進派の鎮撫のため吉田兼亮とともに江戸へ下る。田口三介と変名して吉田とともに新麹町に借家を借りて潜伏した。8月に京都へ戻り、大石良雄に江戸の状況を報告。10月、大石に同行して江戸へ下った。江戸に着くと、三浦十右衛門と変名して石町三丁目に潜んだ。


12月14日の吉良邸討ち入りでは表門隊に属して屋外の守りについた。その際に敵と激しく斬り結んだが泉水に叩き落され、味方が駆けつけ危ういところを救われている(この相手は山吉盛侍ともいわれる)。また、泉水に落ちたときに左股に深手を負い、引き上げの際には駕籠に乗せられている。


その後、細川綱利の屋敷にお預けとなる。元禄16年(1703年)2月4日、江戸幕府の命により切腹。享年34。戒名は、刃随露劔信士。墓所は徳島県徳島市慈光寺滋賀県野洲市錦織寺

備考
行重には甚三郎という家僕がおり、浪人となった行重は暇を出そうとしたが、あくまでも参仕するよう願い、常に付き従った。討ち入り前夜には大石良雄に命じられて、瑤泉院に「金銀請払帳」その他の書類を届けている。討ち入り当夜は門外で周辺を警備し、赤穂浪士一行が泉岳寺へ引き揚げる際、祝意を表しながら浪士たちに蜜柑や餅を手渡して回った。そのため後世、義僕と呼ばれた。

脚注
1. 「野洲郡史 下巻」(滋賀県野洲郡教育会 1927年)

関連項目

野洲市 旧中主町比留田。

大石神社
(wikiより)

52 近松勘六行重

近松行重

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 此方のお墓は、遺髪墓となっております。

潮田 高教(うしおだ たかのり、寛文9年(1669年) - 元禄16年2月4日1703年3月20日))は、江戸時代前期の武士赤穂浪士四十七士の一人。通称は又之丞(またのじょう)。

生涯

寛文9年(1669年) 、赤穂藩浅野氏家臣の潮田作右衛門の子として誕生。


延宝3年(1675年)に200石の家督を相続し、藩内では郡奉行・絵図奉行を兼任した。槍が得意で、東軍流の奥村無我に剣術も習った。大石良雄の叔父・小山良師の娘ゆうを妻に迎えており、藤之助を儲けた。親戚筋にあたるため大石からの信頼が厚く行動を共にすることが多かった。元禄7年(1694年)の備中松山城受取にも従軍。元禄13年(1700年)3月15日には嫡男・潮田藤之助浅野長矩にはじめて拝謁を許された。


元禄14年(1701年)3月14日に浅野長矩が吉良義央に殿中刃傷に及んだ際には、国許の赤穂にいた。赤穂城明渡しの際に赤穂城絵図領内絵図をして江戸幕府目付に提出し、4月19日の赤穂城開城後も藩政残務処理のため大石良雄のもとで働いた。また、この間家族は姉の嫁ぎ先である加西郡の豪農・渡辺家に預けている。9月下旬には大石から堀部武庸ら江戸急進派を鎮撫の特命を受けて原元辰中村正辰大高忠雄らとともに江戸へ下向するが、逆に丸め込まれて急進派になる。その後、業を煮やした大石自身の江戸下向があり、11月23日に大石が江戸を発つ際に供して、12月には京都へ帰った。12月9日には中村正辰とともに神文血判書を提出した。元禄15年(1702年)7月、浅野長広に広島藩お預り処分が決まった後、円山会議において大石が仇討ちを決意したので、これを江戸の同志達に伝えるべく、7月29日、堀部武庸(円山会議出席のため上洛中だった)とともに江戸へ下向した。8月12日の隅田川舟中会議にてこれを同志達に伝えた後、9月までに近松行重とともに京都へ帰った。その後、10月7日に大石良雄にお供して江戸へ下向し、10月24日に江戸到着すると、大石と同じ小山屋の借家に入った。


12月15日未明、吉良邸討ち入りでは裏門隊に属して庭で戦い、吉良義央を討ち取るとその首級を槍先に括りつけ引き揚げた。泉岳寺の浅野長矩墓前にて報告後、熊本藩細川綱利の屋敷に預けられた。


元禄16年(1703年)2月4日、細川家家臣・一宮源四郎の介錯で切腹した。享年35。主君・浅野長矩と同じ高輪泉岳寺に葬られた。法名は刃胸空劔信士。辞世は「もののふの道とはかりを一すしに思ひ立ぬるしての旅路に」

関連項目
大石神社
(wikiより)

55 潮田又之丞高教

潮田高教

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 此方のお墓は、遺髪墓となっております。

堀部 武庸(ほりべ たけつね、寛文10年(1670年)- 元禄16年2月4日1703年3月20日))は、江戸時代前期の武士赤穂浪士四十七士の一人。四十七士随一の剣客であり、高田馬場の決闘で名を馳せた。吉良邸討ち入りでは江戸急進派と呼ばれる勢力のリーダー格となった。通称の安兵衛(やすべえ/やすびょうえ)で知られる。

生涯
浪人

寛文10年(1670年)、越後国新発田藩(現在の新潟県新発田市)溝口家家臣の中山弥次右衛門(200石)の長男として新発田城下外ヶ輪中山邸にて誕生した。母は同藩士・溝口盛政の六女[1]。姉が3人おり、長女・ちよは夭折、次女・きんは蒲原郡牛崎村の豪農の長井弥五左衛門に嫁ぎ、三女は溝口家家臣・町田新五左衛門に嫁いだ。


母は、武庸を出産した直後の同年5月に死去したため、しばらくは母方の祖母のところへ送られて、祖母を母代わりにして3歳まで育てられたが、祖母が死去すると再び父のところへ戻り、以降は男手ひとつで育てられる。しかし、武庸が13歳のときの天和3年(1683年)、父は溝口家を追われて浪人となる(浪人については諸説あるが、櫓失火の責を負って藩を追われたという『世臣譜』にある説が有力とされる)。


浪人後、ほどなくして父が死去。孤児となった武庸は、はじめ母方の祖父・盛政に引き取られたが、盛政もその後2年ほどで死去したため、姉・きんの嫁ぎ先である長井家に引き取られた。元禄元年(1688年)、19歳になった武庸は、長井家の親戚・佐藤新五右衛門を頼って江戸へ出て、小石川牛天神下にある堀内正春の道場に入門した。天性の剣術の才で頭角をあらわし、すぐさま免許皆伝となって堀内道場の四天王(他の3人は奥田孫太夫菱沼式兵衛塩入主膳)と呼ばれるようになり、大名屋敷の出張稽古の依頼も沢山くるようになった。そのため収入も安定するようになり、元禄3年(1690年)には、牛込天龍寺竹町(現・新宿区納戸町)に一戸建ての自宅を持った。

高田馬場の決闘から赤穂藩へ仕官

そのようななか、元禄7年2月11日1694年3月6日) 、同門の菅野六郎左衛門伊予国西条藩松平家家臣。武庸と親しく、甥叔父の義理を結んでいた)が、高田馬場で果し合いをすることになり、武庸は助太刀を買って出て、相手方3人を斬り倒した(高田馬場の決闘)。


この決闘での武庸の活躍が「18人斬り」として江戸で評判になり、これを知った赤穂浅野家家臣・堀部金丸が武庸との養子縁組を望んだ。初め武庸は、中山家を潰すわけにはいかないと断っていたが、金丸の思い入れは強く、ついには主君の浅野長矩に「堀部の家名は無くなるが、それでも中山安兵衛を婿養子に迎えたい」旨を言上した。長矩も噂の剣客・中山安兵衛に少なからず興味があったようで、閏5月26日1694年7月18日) 、中山姓のままで養子縁組してもよいという異例の許可を出した。


これを聞いてさすがの武庸もついに折れ、中山姓のままという条件で堀部家の婿養子に入ることを決める。7月7日8月27日)、金丸の娘・ほりと結婚して、金丸の婿養子、また浅野家家臣に列した。元禄10年(1697年)に金丸が隠居し、武庸が家督相続。このとき、武庸は先の約束に基づいて中山姓のままでもいいはずであったが、堀部姓に変えている。譜代の臣下である堀部家の養子である武庸は家中では新参(外様の家臣)に分類されており、異例の養子入りであるから武庸は金丸の堀部家とは事実上別家扱いだったものと考えられる。


赤穂藩での武庸は、200石の禄を受け、御使番、馬廻役となった。元禄11年(1698年)末には尾張藩主・徳川光友正室・千代姫(江戸幕府3代将軍徳川家光長女)が死去し、諸藩大名が弔問の使者を尾張藩へ送ったが、長矩からの弔問の使者には武庸が選ばれ、尾張名古屋城へ赴いた。

吉良邸討ち入り

ところが、元禄14年3月14日1701年4月21日)、主君・長矩が江戸城松之大廊下高家吉良義央に刃傷に及び、長矩は即日切腹、赤穂浅野家は改易と決まった。武庸は江戸詰の藩士・奥田重盛(武具奉行・馬廻150石)、高田郡兵衛(馬廻200石)とともに赤穂へ赴き、国許の筆頭家老大石良雄と面会。篭城さもなくば義央への仇討を主張したが、長矩からは浅野長広による浅野家再興を優先することを諭されて、赤穂城明け渡しを見届けた後、武庸らは江戸に戻ることとなった。


武庸はそれ以降も強硬に義央への敵討を主張。江戸急進派のリーダー格となり、京都山科に隠棲した良雄に対して江戸下向するよう書状を送り続けた。8月19日9月21日)付けの書状では「亡君が命をかけた相手を見逃しては武士道は立たない。たとえ大学様に100万石が下されても兄君があのようなことになっていては(浅野大学も)人前に出られないだろう」とまで主張。良雄は、武庸ら江戸急進派を鎮撫すべく、9月下旬に原元辰(300石足軽頭)、潮田高教(200石絵図奉行)、中村正辰(100石祐筆)らを江戸へ派遣、続いて進藤俊式(400石足軽頭)と大高忠雄(20石5人扶持腰物方)も江戸に派遣した。しかし彼らは全員武庸に論破されて急進派に加わったため、良雄自らが江戸へ下り、武庸たちを説得しなければならなくなった。元禄14年11月10日(1701年12月9日)、良雄と武庸は、江戸三田(東京都港区三田)の前川忠大夫宅で会談に及んだ。良雄は、一周忌となる元禄15年3月14日1702年4月10日)の決行を武庸に約束して京都へと戻っていった。


しかし帰京した良雄は主君・長矩の一周忌が過ぎても決起はおろか江戸下向さえしようとしなかった。再び良雄と面会するために武庸は、元禄15年6月29日(1702年7月23日)に京都に入った。事と次第によっては良雄を切り捨てるつもりだったともいわれており、実際、武庸は大坂にもよって元辰を旗頭に仇討ちを決行しようと図っている。そのようななか、7月18日8月11日)、長広の浅野宗家への永預けが決まり浅野家再興が絶望的となると、良雄も覚悟を決めた。京都円山に武庸も招いて会議を開き、明確に仇討ちを決定した。武庸はこの決定を江戸の同志たちに伝えるべく、京都を出て、8月10日9月1日)に江戸へ帰着し、12日3日)には隅田川の舟上に同志たちを集めて会議し、京での決定を伝えた。


そして元禄15年12月14日1703年1月30日)、良雄・武庸ら赤穂浪士四十七士は本所松阪の義央の屋敷へ討ち入った。武庸は裏門から突入し、大太刀を持って奮戦した。1時間あまりの戦いの末に赤穂浪士は義央を討ち取り、その本懐を遂げた。

討ち入り後、赤穂浪士たちは4つの大名家の屋敷にお預けとなり、武庸は良雄の嫡男・大石良金らとともに、伊予松山藩主・松平定直江戸屋敷大石主税良金ら十士切腹の地 )へ預けられた。


元禄16年2月4日(1703年3月20日)、幕府より赤穂浪士へ切腹が命じられ、屋敷にて松平家家臣・荒川十大夫の介錯により切腹した。享年34。主君・長矩と同じ江戸高輪の泉岳寺に葬られた。法名は刃雲輝剣信士。堀部家の名跡は親族の堀部言真が継ぎ、堀部家は熊本藩士として存続する。

堀部氏
堀部氏は滋賀県に栄えた近江源氏である。近江源氏嫡流の佐々木家から、鎌倉時代初期に馬淵家が分かれた。馬淵家は近江守護代を務めるなどした佐々木家一門中の有力豪族であったが、この馬淵家から堀部家はさらに分かれた(潜伏中武庸も馬淵姓を名乗ったともいう)。

その他

・討ち入りから70年後の安永3年(1774年)、武庸の妻を名乗る妙海尼という老女が泉岳寺に庵を結んで、赤穂浪士の昔語りを始めて、江戸で評判になった。しかし、武庸の妻・ほりは享保5年(1720年)に45歳で死去しており、この老女は偽物である。その墓碑は泉岳寺の浪士たちの墓のかたわらに残っている。


・武庸は赤穂義士研究の重要資料である『堀部武庸日記』を残した人物でもある。武庸が討ち入りに関する重要書類をまとめて編集してあったもので、討ち入り直前に堀内道場同門の親友である儒学者・細井広沢に編纂を委ね、今日に伝えている(岩波書店『近世武家思想』に収録)。


・高田馬場の決闘での剣豪としての活躍(四十七士の中で、討ち入り以前に実戦で人を斬った経験がある確実な資料が存在するのは、彼一人である)や、養父・金丸との微笑ましい関係があったりするせいか、四十七士のなかでも特に人気が高い。近年では武庸を主人公にした『忠臣蔵』のドラマなども制作されている。


・養父・金丸とは血統上の関係は一切ないが、2人の仕草や物腰は大変よく似ていたという(『堀内伝右衛門覚書』より)。


・生誕地である新潟県新発田市では、武庸を偲んで毎年12月14日に義士祭 (新潟県新発田市)が開催されている。

顕彰施設
堀部安兵衛伝承館新潟県新発田市

堀部武庸を扱った作品
高田馬場の決闘#作品」を参照

脚注
1. 溝口盛政の先妻は新発田藩初代藩主・溝口秀勝の五女・糸姫である。このことから武庸が秀勝の曾孫にあたると言われているが、武庸の生母は盛政と後妻との間に生まれているため、2人の間に血縁関係は無い。

関連項目

高田馬場の決闘

大石神社

新発田城
(wikiより)

61 堀部安兵衛武傭

堀部武傭 ( 右側 )

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 此方のお墓は、遺髪墓となっております。

赤埴 重賢(あかばね/あかはに しげかた[1]寛文9年(1669年) - 元禄16年2月4日1703年3月20日))は、江戸時代武士赤穂浪士四十七士の一人。通称は源蔵(げんぞう)。後年語られる「忠臣蔵」の物語の中では「赤垣源蔵」(あかがき げんぞう)の名でも呼ばれる[1]

生涯

寛文9年(1669年)、誕生。父は赤埴一閑あるいは塩山十左衛門[2]とされる。母は高野忠左衛門の娘。播磨国赤穂藩士として仕え、馬廻(200石)をつとめた。


元禄14年(1701年)3月14日、主君・浅野長矩江戸城松之大廊下で吉良義央に刃傷に及び、長矩は即日切腹、赤穂藩は改易となった。重賢は堀部武庸らとともに急進的な仇討ち論者で、江戸に潜伏して個人で吉良義央への復讐を狙っていた。元禄15年(1702年)7月、大石良雄が京都円山会議で仇討ちを決定。大石は江戸に下り、吉良屋敷討ち入りは12月14日夜に決まった。


重賢は妹の嫁ぎ先の阿部対馬守家臣・田村縫右衛門の家に暇乞いに訪ね、縫右衛門の父から美服を着ていたことを咎められ、赤穂の浪人たちに仇討ちの動きがないことを罵倒された。重賢はただ遠方へ向かうので暇乞いに来たとだけ告げて、差し出された杯を受けて辞去した。その後、縫右衛門たちは赤穂浪士が吉良屋敷へ討ち入り、仇討ちを遂げたことを知り、重賢の真意を汲み取れなかった事を悔やんだという。なお、『忠臣蔵』の物語では、討ち入りの前夜に兄・塩山与左衛門の家に暇乞いに訪ね不在だったため兄嫁に頼んで兄の羽織を出してもらい、これを兄に見立ててを酌み交わし別れを告げる「徳利の別れ」の場面として描かれるようになった。しかし実際には重賢に兄はおらず、また下戸であったといわれる。弟と妹がおり、史実において赤埴は元禄15年12月12日に妹の夫である田村縫右衛門のもとを訪ねている。その日赤埴が普段より着飾ってた事に関して縫右衛門の父から苦言を呈されたが、赤埴は苦言に感謝の意を述べ、一両日中に遠方に参るためあいさつに来た旨を述べた。そして縫右衛門と杯を交わして別れている。


吉良屋敷への討ち入りでは裏門隊に属して戦った。この時、菅谷政利と屋内に討ち入り、小者の着物を着た男と出会い見逃すが、後にこの男が吉良家の家老斎藤宮内と知り大いに悔やんだという。また、引き上に際して、火事にならぬよう吉良屋敷の火の始末をしている。討ち入り後に、重賢は大石良雄らとともに細川綱利の屋敷に預けられた。

脚注
元禄16年(1703年)2月4日、江戸幕府の命により、同志とともに切腹。享年35。戒名は、刃廣忠劔信士。

脚注
1. a b 赤埴源蔵”. デジタル版 日本人名大辞典+Plus. コトバンク. 2015年1月10日閲覧。

2. 龍野藩

関連項目
大石神社

関連作品
浪曲

・長編歌謡浪曲 元禄花の兄弟 赤垣源蔵 (三波春夫

・長編歌謡物語 赤垣源蔵(2005年) (山口瑠美

映像

戦前・戦後問わず、下記の作品以外にも多くの作品で登場している。

忠臣蔵 花の巻・雪の巻(1962年、演:岩本弘司

大忠臣蔵1971年、演:フランキー堺

元禄太平記1975年、演:長沢大

ご存知女ねずみ小僧1977年、演:林与一

赤穂城断絶1978年、演:志茂山高也

赤穂浪士1979年、演:藤沢徹夫

峠の群像1982年、演:若狭厚

忠臣蔵1985年、演:あおい輝彦

忠臣蔵 風の巻・雲の巻1991年、演:渡辺謙

四十七人の刺客1994年、演:保木本竜也

忠臣蔵1996年、演:勝野洋

元禄繚乱1999年、演:中村仲助

赤穂浪士1999年、演:初代市川右近

忠臣蔵〜決断の時2003年、演:船越英一郎

忠臣蔵2004年、演:永島敏行

忠臣蔵 瑤泉院の陰謀2007年、演:北川隆一

忠臣蔵〜その男、大石内蔵助2010年、演:勝村政信


外部リンク
赤埴源蔵・徳利の別れ(芳野金陵作)@日本漢文の世界
(wikiより)

57 赤埴源蔵重賢

赤埴源蔵重賢

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 此方のお墓は、遺髪墓となっております。

奥田 重盛(おくだ しげもり、正保4年(1647年) - 元禄16年2月4日1703年3月20日))は、江戸時代前期の武士赤穂浪士四十七士の一人。通称孫太夫(まごだゆう)で、最初は兵右衛門を名乗った。

生涯

正保4年(1647年)、奥田孫太夫の子として誕生。母は久米半右衛門相馬長胤家臣)女。


はじめ、志摩国鳥羽藩内藤家に仕えたが、寛文2年(1662年)に内藤忠政の娘・波知赤穂藩主・浅野長友浅野長矩の父)に嫁したとき付人として赤穂藩に移り江戸藩邸でつとめた。延宝8年(1680年)、内藤忠勝が芝増上寺での江戸幕府4代将軍徳川家綱の葬儀の場で永井尚長を殺害し鳥羽藩は改易となると、父・孫太夫は浪人となったが、重盛はそのまま赤穂藩に仕えた。赤穂藩では武具奉行(150石)をつとめた。


重盛は江戸で剣客として知られた堀内正春に学び、堀部武庸とともに高弟に数えられ、大太刀の使い手であった。また、重盛には男子がなかったため、近松行重の弟・奥田行高を養子に迎えた。


元禄14年(1701年)3月14日、主君・浅野長矩が江戸城松之大廊下吉良義央に刃傷に及び、浅野長矩は即日切腹、赤穂藩は改易と決まった。重盛は江戸詰の藩士の堀部武庸、高田郡兵衛とともに赤穂へ赴き、家老大石良雄に篭城を迫っている。赤穂城開城後に江戸へ戻り、重盛は堀部、高田とともに強硬に仇討ちを主張する急進派の中心となる。


同年6月、浅野長矩の百カ日法要が行われ、重盛は高田、堀部と供に泉岳寺に参詣して仇討ちを誓った。彼らはその帰りに元家老の安井彦右衛門を訪ねて仇討ちへの助力を談じ込んだ。安井は態度をあいまいにして言い逃れたが、後で安井が陰口を言ったことを知り、重盛は大変に怒ったという。江戸の急進派を鎮撫するために大石良雄は原元辰大高忠雄らを送るが重盛たちは彼らを説得して急進派に加えたため、大石自らが江戸へ下り、重盛たちを説得せねばならなかった。


元禄15年(1702年)3月頃に父の名を継いで孫太夫と改める。深川八幡町続いて黒江町へ移り、医師、西村清右衛門を名乗って養子の行高と潜伏した。


同年7月の円山会議で仇討ちが決定。12月14日の討ち入りでは表門隊に属し、二尺余の大太刀を持って屋内で奮戦した。


討ち入り後、細川綱利屋敷にお預けとなる。元禄16年(1703年)2月3日、幕府は赤穂浪士46人へ切腹を申し付けた。なお切腹に際して、重盛は細川家接待役の堀内重勝に切腹の稽古をしたことがなくどうすればよいのかと大真面目に尋ね、富森正因がただ首を差し出せばよいと答えたという話が『堀内覚書』に残っている。享年57。戒名は、刃察周劔信士。

関連項目
大石神社
(wikiより)

58 奥田孫太夫重盛

奥田重盛

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矢田 助武 (やだ すけたけ、延宝3年(1675年) - 元禄16年2月4日1703年3月20日))は、江戸時代前期の武士赤穂浪士四十七士の一人。通称は五郎右衛門(ごろうえもん)。

生涯

延宝3年(1675年)、赤穂藩浅野氏家臣・矢田利兵衛の子として誕生。母は田中安兵衛の娘。


貞享3年(1686年)に父の死去により家督相続、江戸詰めの藩士となり馬廻役をつとめた(150石)。元禄8年(1695年)には伊丹宇右衛門の娘を娶り、その間に矢田作十郎を儲けた。元禄14年(1701年)3月14日に主君・浅野長矩吉良義央に刃傷に及んだ際にも江戸にいた。藩邸を召し上げられたため、ここを出て芝浜松町三丁目の借家に移った。江戸急進派の一人として活躍し、討ち入り直前の元禄15年(1702年)11月に本所林町の堀部武庸の借家に移った。


吉良邸討ち入りでは表門隊に属して戦い、本懐後は熊本藩細川綱利の屋敷へ預けられた。元禄16年(1703年)2月4日に細川家家臣竹田平大夫の介錯で切腹した。享年29。戒名は、刃法参劔信士。


なお息子の作十郎は妻の伯父にあたる旗本岡部勝重に預けられていたが、この事件のため町奉行保田越前守より呼び出された。作十郎は当時9歳ながら毅然とした態度でこれに臨んだといわれ、周囲に評価された。その後、作十郎は親戚の吉川家の養子に入って吉川藤之丞と改めている。岡部家が長く面倒を見ていたらしいが、その後の詳細は不明である。

関連項目
大石神社
(wikiより)

59 矢田五郎右衛門助武

矢田助武

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 此方のお墓は、遺髪墓となっております。

大石 信清 (おおいし のぶきよ、延宝5年(1677年) - 元禄16年2月4日1703年3月20日))は、江戸時代前期の武士赤穂浪士四十七士の一人。通称は、はじめ源蔵(げんぞう)、のちに瀬左衛門(せざえもん)。

生涯

延宝5年(1677年) 、赤穂藩浅野氏家臣・大石信澄の次男として誕生。母は小田貞守近衛家家臣)の妹・外山局。幼名は八三郎(はちさぶろう)。兄に大石信興がいる。信清は、国家老・大石良雄の曽祖父・良勝の弟大石信云の孫にあたり、大石家の分家にあたる。


元禄2年(1689年)12月24日に父が大坂にて死去し、長男の信豊が300石、次男の信清が150石をそれぞれ継ぎ、馬廻役として仕えた。元禄13年(1700年)頃に源蔵から瀬左衛門へ改名している。また大石本家の当主・大石良雄とともに奥村無我に弟子入りして東軍流剣術を習っている。


元禄14年(1701年)3月14日に主君・浅野長矩吉良義央に刃傷に及んだとき、信清は藩主の参勤交代にお供していたため、江戸にあった。3月14日夜には第二の使者として原元辰とともに江戸をたって赤穂へ向かった。赤穂城開城後は兄・信豊とともに奈良京都で暮らしていたが、元禄15年(1702年)8月の大石の神文返しを機に兄が脱盟したため、兄とは義絶。9月19日に大石良金間瀬正明らとともに江戸へ下向。江戸到着後は、母方の氏をとって「小田権六」と変名して麹町六丁目吉田兼亮借家に入ったが、まもなく大石良雄の石町三丁目の小山屋借家に移った。しかし江戸ではだいぶ金に困ったらしく、伯父の大石無人に借金をしており、また討ち入りの装束も無人に作ってもらっている。


吉良邸討ち入りでは裏門隊に属した。本懐後、熊本藩細川家へお預りとなり、元禄16年(1703年)2月4日に細川家家臣吉田近貞の介錯で切腹した。享年27。主君浅野長矩と同じ高輪泉岳寺に葬られた。法名は刃寛徳剣信士。妻も子もなかったが、従兄弟にあたる大石良麿の子良饒が養子に入り、瀬左衛門信清家の家名を今日まで残している。


なお、切腹前に討ち入りの装束など遺品を大石無人に預けており、この装束は無人の子孫である津軽大石家により代々伝承され、現在は大石神社に納められている。

関連項目
大石神社
(wikiより)

60 大石瀬左衛門信清

大石瀬左衛門信清

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 此方のお墓は、遺髪墓となっております。

早水 満尭 (はやみ みつたか、寛文4年(1664年) - 元禄16年2月4日1703年3月20日))は、江戸時代前期の武士赤穂浪士四十七士の一人。通称は藤左衛門(とうざえもん)。

生涯

備前国岡山藩池田家)家臣の山口家常の三男として誕生。山口家の家督は兄の和夷が継いだため、元禄元年(1688年)に播磨国赤穂藩(浅野家)の家臣・早水満輝(200石)の婿養子になる。元禄12年(1699年)8月22日、養父の隠居により家督相続し150石の相続が許された、馬廻役として仕えた。


元禄14年(1701年)3月14日の主君・浅野長矩の殿中刃傷の際には江戸にいた。その後、萱野重実とともに、長矩の養子(血縁上は弟)の浅野長広の書状を携え、赤穂へ第一報を伝える急使となる。赤穂城到着後は大石良雄派として行動し、赤穂城開城後の5月3日に大石良雄へ指令不背の誓約書を提出した。しばらく赤穂に住んでいたが、8月には京都へ移った。11月に大坂橋本平左衛門遊女はつと心中した際には同じ岡林直之の組に属していた藩士である満尭がその後始末をした。また元禄15年(1702年)2月と3月の二度にわたって、兄に金の無心をしており、このあたりから金が尽きたと思われる。10月7日、大石良雄の供をして江戸へ下向し、

良雄と同じ日本橋石町三丁目小山屋で暮らした。

吉良邸討ち入りでは、表門隊に属し弓矢で戦った。早水は、弓術では海内無双と称えられた星野茂則に師事した弓の名手であり、吉良家家臣たちも早水の弓の命中率の高さに怯えたという。討ち入り終了後は、熊本藩細川家)の上屋敷に預けられた。元禄16年(1703年)2月4日、細川家家臣・魚住惣右衛門介錯切腹享年40。主君・浅野長矩と同じく泉岳寺に葬られた。法名は刃破了剣信士。


なお現在、「早水」と書いて「はやみ」と読む一族は、全て同じ一族(血縁)との説もある。

関連項目
大石神社
(wikiより)

56 早水藤左衛門満堯

早水藤左衛門満堯

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中村 正辰(なかむら まさとき、万治2年(1659年) - 元禄16年2月4日1703年3月20日))は、江戸時代前期の武士赤穂浪士四十七士の一人。通称は勘助(かんすけ)。

生涯

万治2年(1659年)、越後村上藩松平家家臣・三田村小大夫の子として誕生。母は同家臣・井上源右衛門の娘。

延宝4年(1676年)、播磨赤穂藩浅野家家臣の中村庄助の娘婿となった。家督を継いだのは、天和2年(1682年)と伝わるが、正確には不明。赤穂藩では祐筆兼馬廻役(100石)として仕えた。元禄2年(1689年)には長男忠三郎を儲けた。元禄7年(1694年)の備中松山城受取の軍にも従軍し、そのまま一年半にわたり松山に在番した。元禄8年(1695年)には養父・庄助が死去。元禄12年(1699年)には次男中村勘次が生まれた。


元禄14年(1701年)3月14日、主君・浅野長矩吉良義央に殿中刃傷に及んだ際、正辰は赤穂にいた。4月19日の赤穂城開城後も藩政残務処理のため大石良雄のもとで働き、江戸幕府からもこの間7人扶持を支給された。9月下旬には大石から堀部武庸ら江戸急進派を鎮撫の特命を受けて原元辰潮田高教大高忠雄らとともに江戸へ下向するが、逆に丸め込まれて急進派になってしまう。その後、業を煮やした大石自身の江戸下向があり、11月23日に大石が江戸を発つ際に中村もお供して、12月には京都へ帰っていった。12月9日に潮田高教とともに神文血判書を提出し、元禄15年(1702年)5月には家族を陸奥白河藩の親戚に預けた。10月21日、江戸下向中の大石と鎌倉で合流した。


吉良邸討ち入りの際には裏門隊に所属。本懐後、伊予松山藩主・松平定直の屋敷に預けられ、2月4日に松平家家臣大島半平の介錯にて切腹した。享年45。主君浅野長矩と同じ高輪泉岳寺に葬られた。法名は刃露白剣信士。


なお、長男・忠三郎は一族連座して伊豆国大島へ流罪にされた。その後、赤穂浪士を絶賛する世論の後押しなどもあって、瑤泉院(浅野長矩の正室)の赤穂浪士遺児たちの赦免嘆願が認められ、宝永3年(1706年)8月に幕府は徳川家綱の二十七回忌法事による特赦として忠三郎を赦免した。忠三郎は浅草曹源寺で出家して白河で僧となった。次男・勘次も曹源寺で出家して僧になっている。

関連項目
大石神社
(wikiより)

62 中村勘助正辰

中村勘助正辰

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菅谷 政利(すがや まさとし、万治3年(1660年) - 元禄16年2月4日1703年3月20日))は、江戸時代前期の武士赤穂浪士四十七士の一人。通称は半之丞(はんのじょう)。

生涯

万治3年(1660年)、赤穂藩浅野家譜代家臣・菅谷平兵衛の次男として生まれる。母は津田五郎左衛門の娘。兄に岡本松之助がいたが、この兄は菅谷家の家督を継がず備後国三次で浪人したため、政利が菅谷家の嫡男となった。


政利は家老の大石良重に山鹿流兵学を学び、免許皆伝を受けていたといわれる。元禄6年(1693年)に父・平兵衛が死去したため家督もこのあたりと思われる。赤穂藩では馬廻り役また郡代として仕えた(100石)。元禄7年(1694年)に主君・浅野長矩備中松山城受け取りのために出陣した際には政利は赤穂留守部隊に編入されていた。


元禄14年(1701年)3月14日、主君・浅野長矩吉良義央に殿中刃傷に及び、赤穂藩が改易されると、備中国足守や備後国三次へ赴いたとみられる(おそらく兄を頼ったのであろうと思われる)。また伏見に住んでいた時期もあったといわれる。元禄15年(1702年)10月7日に大石良雄にお供して江戸へ下向した。江戸到着後は大石良金の借家石町小山屋へ入るが、一時は谷中長福寺の近松行重の弟のところへも身を寄せていた。


吉良邸討ち入りの際には裏門隊に属した。本懐後は松平定直の屋敷にお預かりとなり、同家家臣加藤斧右衛門の介錯で切腹した。享年43。主君・浅野長矩と同じ江戸の高輪泉岳寺に葬られた。法名は刃水流剣信士。

関連項目

大石神社

菅谷定彦
(wikiより)

63 菅谷半之丞政利

菅谷半之丞政利

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不破 正種(ふわ まさたね 寛文10年(1670年)-元禄16年2月4日1703年3月20日))は、江戸時代前期の武士赤穂浪士四十七士の一人。通称は数右衛門(かずえもん)。本姓平氏家紋隅角切横一

生涯

寛文10年(1670年)、赤穂藩浅野家家臣・岡野正治(のち変名して佐倉新助)の長男として生まれた。母は同家臣の長沢六郎右衛門の娘。弟に佐倉慶也佐介亀八。妹に笹川只右衛門(本多忠孝家臣)室、上島弥介(浅野長矩家臣)がいる。


元禄3年(1690年)頃に浅野家家臣の不破数右衛門の婿養子に入った。養父・数右衛門が死去して不破家家督を相続し、数右衛門の通称も継いだ。赤穂藩では100取りの馬廻役・浜辺奉行をつとめた。


しかし、それから間もなく主君・浅野長矩の勘気を受けて藩を追われ浪人した。これは正種が家僕を斬ったのが原因のようで、那波屋記録には「元禄10年8月18日不破数右衛門が家僕を斬って閉門を仰せ付けられ、11月晦日閉門御免」とある(なお、実父の岡野も赤穂藩を追われているため正種と連座したものと思われる)。その後は江戸へ移り住んだが、元禄14年(1701年)3月14日、浅野長矩が江戸城松之大廊下で吉良義央に刃傷に及び、即日切腹、赤穂浅野家は断絶となった。篭城になるとの噂を耳にした正種は数人の元赤穂藩士の浪人とともに赤穂城へ馳せ参じたとされるが、この浪人は父の佐倉新助で、家老大石良雄に断られて帰されている。赤穂城引渡し後、大石良雄が中心となって旧藩士の間で義盟が結ばれた。良雄が江戸へ下った際に、正種は義盟への参加を懇願。吉田兼亮のとりなしで正種の長矩の墓への墓参がかない、帰参した家臣として義盟への参加を許された。その後、松井仁太夫と変名して他の同志とともに江戸に潜伏した。


元禄15年(1702年)12月15日未明の吉良屋敷への討ち入りでは、裏門隊に属して屋外に配置されたが、こらえがたく持ち場を離れて屋内に突入している。一党中もっともめざましい働きをし、数人の敵を倒しその刀はささらのようになっていたと伝えられる。なお、吉良を討ち取り、泉岳寺への引き上げに際して、大石良雄に進言して大目付仙石久尚へ出頭して口上書を差し出すべきであると主張したともいわれている。その後、伊予松山藩松平定直の中屋敷へ預けられた。


元禄16年(1703年)2月4日、江戸幕府の命により松平家家臣の荒川十大夫の介錯で切腹。享年34。主君浅野長矩とおなじ高輪泉岳寺に葬られた。戒名は刃観祖剣信士。


なお、幼い遺児不破大五郎がいたが、父の本懐後に出家し、古川永昌寺の僧となっている(後に還俗)。

映画

正種を主人公とし、通称の「不破数右衛門」をタイトルとした日本映画が7作製作・公開されている[1]。いずれも現在、東京国立近代美術館フィルムセンターには所蔵されてはいない[2]

・『不破数右衛門』:監督・主演不明、M・パテー商会、1911年

・『不破数右衛門』:監督不明、主演尾上松之助横田商会、1912年

・『不破数右衛門』:監督牧野省三、主演尾上松之助、日活京都撮影所、1913年

・『不破数右衛門』:監督不明、主演尾上松之助、日活京都撮影所、1920年

・『不破数右衛門』:監督長尾史録、原作竹井諒、主演団徳麿東亜キネマ京都撮影所、1928年

・『不破数右衛門』:監督池田富保、原作・脚本長谷部武臣(池田富保)、主演新妻四郎日活太秦撮影所、1928年

・『不破数右衛門』:監督・脚本勝見正義、主演根岸東一郎マキノ・プロダクション御室撮影所、1928年

関連項目
大石神社

脚注
1. 日本映画データベース 「不破数右衛門」検索結果、2010年2月18日閲覧。

2. 所蔵映画フィルム検索システム東京国立近代美術館フィルムセンター、2010年2月18日閲覧。
(wikiより)

64 不破数右衛門正種

不破数右衛門正種

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 此方のお墓は、遺髪墓となっております。

千馬 光忠(せんば[1] みつただ、承応2年(1653年) - 元禄16年2月4日1703年3月20日))は、江戸時代前期の武士赤穂浪士四十七士の一人。通称は、三郎兵衛(さぶろべえ)。

生涯

承応2年(1653年)、摂津高槻藩永井家家臣の千馬求之助光久の次男として誕生。母は播磨赤穂藩浅野家家臣の筑間三右衛門の女子。兄の荊木貞右衛門がいる。


同族で同藩家臣の千馬光利の養子に入った。寛文11年(1671年)8月17日に養父・光利が死去すると、この時に家督を継いだものと考えられる。


赤穂藩では馬廻り役・宗門改役をつとめ、100石を食んだ。しかし、実直で融通が利かない性格だったため、主君の浅野長矩にさえしばしば直言したため不興を買い、ついに元禄10年(1697年)8月18日には閉門を命じられ、禄高も30石に減知される。それでも光忠の直言癖は直らず、長矩との関係は悪くなる一方だったので、元禄14年(1701年)3月初めには光忠の方から浅野家に暇願いを出した。しかしその許しが出る前の3月14日に浅野長矩は吉良義央に刃傷に及び切腹となった[2]


どんなに嫌われていても主君には違いないため、吉良を討つことを決意し、筆頭家老大石良雄の盟約に加わった。赤穂城開城後は大坂の兄のもとに身を寄せ[3]、元禄15年(1702年)1月に大石に正式に神文血判書を提出した。9月7日に江戸へ下向し、新麹町四丁目の借家に住んだ。変名は原三助。吉良屋敷討ち入りの際には裏門隊に属した。本懐後、伊予松山藩主・松平定直の三田中屋敷にお預けとなり、同家家臣・波賀清大夫の介錯で切腹した。享年51。他の浪士とともに主君・浅野長矩と同じ江戸の高輪泉岳寺に葬られた。法名は刃道互剣信士。

1. 遺児の千馬宣忠は、世間の赤穂浪士英雄化が後押しもあり備前岡山藩池田家に召抱えられたという。

脚注
1. 千馬の読みは「ちば」という説もある。

2. 一説に、浅野長矩は光忠の暇願いを即座に受理したので、14日の時点ではすでに浪人していたともいう。
3. 兄の荊木貞右衛門は高槻藩を追われ浪人中だった。

関連項目

大石神社

池宮彰一郎ー短編集『その日の吉良上野介』に収録された「千里の馬」は光忠を主役としている。
(wikiより)

66 千馬三郎兵衛光忠

千馬光忠

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