本牧jack『意外と身近にある歴史散歩』日々是好日 心灯 頬笑

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吉行 エイスケ(よしゆき えいすけ、本名:栄助、1906年明治39年)5月10日 - 1940年昭和15年)7月8日)は、日本ダダイスト詩人、小説家。[1]

概要

アナキズムに傾倒し、旧制第一岡山中学校(現・県立岡山朝日高校)を4年時に退学し詩作に励む。その翌年当時まだ学生の吉行あぐりと結婚し、長男の吉行淳之介が生まれるが暮らし向きは良くなかった。


上京後、詩人の辻潤清沢清志高橋新吉らと交友を通し、『ダダイスム』を発行、1926年『虚無思想』を新居格らと主宰し新興芸術派の旗手と目されるが、1933年には断筆した。1940年狭心症のため、34歳で急死した。

略歴

1906年 岡山県御津郡金川町(現在の岡山市北区御津金川)に土木請負業(吉行組)を営む吉行澤太郎、盛代の長男として生まれる。

  ・吉行組は、エイスケの弟が後継し、現在も盛業中。

1922年 第一岡山中学校(現在の県立岡山朝日高校)中退。東京の目白中学に在籍。

1923年 吉行あぐりと結婚し岡山市桶屋町(現在の岡山市北区平和町・磨屋町・野田屋町一丁目)に転居

1924年 『売恥醜文』創刊号を出す。長男吉行淳之介誕生。

1926年 東京に転居。『虚無思想』創刊号を出す。

1929年 『葡萄園』同人となる。この頃上海に数度渡っている。

1930年 『近代生活』同人となる。

1934年 文筆活動を辞め、株式を生業とする。

1935年 長女吉行和子誕生。

1939年 次女吉行理恵誕生。

1940年 狭心症で急死した。墓所は岡山市北区御津金川。

評価

この当時の厭世観・閉塞感から、ダダイスムが流行したが、第二次世界大戦に向かっていく時代もあり、徐々にその活躍を許される場は減っていった。そのために筆を折ったが、文筆活動そのものには未練が無かったようで死後の本棚には、文学関連の書籍はただの2冊しかなく、残りは全て株に関するものであった。エイスケのその生涯は、ダダイスムを実践するようなところがあり、退学以前には友人を東京まで連れてゆき、芸者と人力車を一日借り切って乗り回したり、不倫相手と子どもを一緒に旅行につれて行くなど破天荒であった。


自身の子どもに対して、気分次第で怒鳴り散らすことが多かったが、新作の玩具が出るとそれをもとに一緒に遊んだり、当時珍しかった車を購入してドライブにつれていく側面もあった。ただ、学歴に関してかなり軽視をしていたようで、淳之介に対し進学する必要はないと常々口にしていた。


急死する頃には、身上をほとんど食いつぶし、生活資金は妻のあぐりに頼っており、家屋敷は二重に抵当に入っていたように、株式には才覚がなかった。


新感覚派と新興芸術派が当時流行であり、新興芸術派の旗手として活動したが、新興芸術派自体が日本の文壇において、後世の評価としては極めて低いと言わざるを得ない。息子の淳之介ですら「父の小説を終わりまで読んだものは、一作もない」と言い、また冬樹社から全集を出したいので許可が欲しいといわれたときも「許可を出すのは構わないが、私は売れるとは思わない」と答えたという。妻のあぐりもその活動を評価をしていたが、作品そのものは「難解で分からなかった」と述懐している。同時代を生きた伊藤整は、「読むにたえる小説は新興芸術派にはなかった」と評している。

刊行物
冬樹社から全集が出ていたが、当時はまったく売れず、絶版となった。しかし、連続テレビ小説あぐり』で野村萬斎の演じた「エイスケさん」が注目された影響もあって、1997年、国書刊行会から『吉行エイスケ、作品と世界』、文園社から『吉行エイスケ作品集』が相次いで出版された。また、2001年より、ゆまに書房から、彼の著作である新興芸術派叢書の『女百貨店』、同じく『新種族ノラ』、紀行文集『新しき上海のプライヴェート』が復刻出版されている。

代表的な著作

・スポールティフな娼婦

・バルザックの寝巻姿

・女百貨店

・職業婦人気質

・新種族ノラ

・戦争のファンタジイ

・大阪万華鏡

・地図に出てくる男女

・東京ロマンティック恋愛記

・飛行機から墜ちるまで

・孟買挿話

・恋の一杯売

家族
美容師の吉行あぐりは妻。小説家の吉行淳之介は長男、女優の吉行和子は長女、詩人の吉行理恵は次女である。

出典
1. 文学者紹介→吉行エイスケ”. 吉備路文学館. 2016年6月23日閲覧。

外部リンク
吉行 エイスケ:作家別作品リスト - 青空文庫

吉行家津高郡草生村

吉行エイスケ - 吉備路文学館
(wikiより)

吉行エイスケ

吉行エイスケ

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吉行 淳之介(よしゆき じゅんのすけ、1924年大正13年)4月13日 - 1994年平成6年)7月26日)は、日本小説家岡山県生まれ。東京大学英文科中退。父は吉行エイスケ、母は美容師吉行あぐり、女優吉行和子と作家吉行理恵は妹。『驟雨』で芥川賞受賞。「第三の新人」の一人で、『砂の上の植物群』『暗室』など、性を媒介として人間を探求した作品で高い評価を受けた。また、自身の少年期に材をとった小説でも知られる。エッセイや対談も多い。他方で、文壇的活動も活発で、多くの文学賞の選考委員を務めた。芸術院会員。

来歴

岡山県岡山市に父・吉行エイスケモダニズムの詩人)、母・あぐり(美容師)の長男として生まれる。同じ町内には内田百閒がいた。2歳の時に両親が上京、東京麹町に育つ。府立一中武蔵高等学校尋常科府立高等学校尋常科の受験に失敗し[2][3]麻布中学に進学。


1940年に父・エイスケが急死した。しかし自身はその頃腸チフスにかかり入院していたため、死を知らされたのは退院後であった。翌1941年に旧制静岡高校(現静岡大学)文丙(文系仏語クラス)に進むが、2年進級時に「心臓脚気」という仮病で1年休学[注釈 1]、この頃より文学に関心を持つようになる。


1944年、徴兵検査を受け甲種合格、20歳で召集されるが、9月1日の入営直後に気管支喘息と診断され即日帰郷。翌年も徴兵検査を受け、再び甲種合格となったが召集前に終戦を迎えている。1945年4月、東京帝国大学に入学。5月25日の空襲で焼け出され自宅を失った。


大学の授業にはあまり出席せず、新太陽社で編集のアルバイトをしていた。社長の勧めで学業を放棄し(学費を一度も払わず、学費未納のため除籍処分)、1947年に新太陽社へ入社。『モダン日本』『アンサーズ』などの雑誌の編集に携わった。このときアルバイト編集者に澁澤龍彦がいた。『モダン日本』時代に小島功らと交流、赤川童太鈴木義司富永一朗らを抜擢し、新人漫画家の発掘の天才と言われた[4]


倒産寸前の会社で多忙を極めつつ、『世代』『新思潮』などの同人雑誌に年一作のペースで作品を発表。同人雑誌を通して安岡章太郎近藤啓太郎阿川弘之三浦朱門島尾敏雄らと知り合った。


1952年『原色の街』が芥川賞候補になり、その後も『谷間』、『ある脱出』が候補に上る。『谷間』発表後、空洞が肺に見つかり結核と診断され会社を休職、翌53年の春に退社した。退社後は千葉県佐原市の病院に夏まで療養し、11月に清瀬病院に入院。その間は生計のためにABC放送のラジオ原稿を書いていた。清瀬病院で療養中の1954年に『驟雨』で第31回芥川賞を受賞、収入の手段が他にないので、受賞を機に作家生活に入った。当時、同世代の作家である遠藤周作安岡章太郎三浦朱門近藤啓太郎らと共に「第三の新人」と呼ばれた。


1979年、日本芸術院賞を受賞し[5]、1981年、日本芸術院会員となる。晩年は数々の病気を克服しながら執筆を続けた。


1994年、肝臓癌のため聖路加国際病院で死去、70歳没[1]。戒名は清光院好文日淳信士[6]。墓所は岡山市北区御津金川(旧:御津郡金川町草生)の吉行家墓地にある。

作品

私小説的な純文学および芸術的傾向の作品として、『砂の上の植物群』『暗室』『夕暮まで』などの長編、『男と女の子』『焔の中』『出口・廃墟の眺め』などの中編、更に奇妙な味の短編『鞄の中身』など。大衆文学の方面では『すれすれ』『にせドンファン』『鼠小僧次郎吉』などがある。また、『軽薄のすすめ』など軽妙な随筆のファンも多い。


長年にわたって週刊誌に対談コーナーを連載し「座談の名手」としても知られ、それらは『軽薄対談』『恐怖対談』などにまとめられている。またヘンリー・ミラー『愛と笑いの夜』の翻訳、井原西鶴好色一代男』の現代語訳なども手がけている。阪神タイガースのファンで、『Number』誌上で山藤章二上岡龍太郎と鼎談を行ったこともある。

人物・エピソード
女性関係

文学のテーマ同様にその人生は常に女性に彩られていた。若い頃に結婚した妻の吉行文枝との間に女児が一人いた。後に別居し、結婚後約10年後に知り合った女優の宮城まり子は生涯に渡り同居した事実上の伴侶[注釈 2][注釈 3]となったが、妻は終生離婚に応じなかった。その他にも愛人がおり、死去後に大塚英子と高山勝美が名乗り出ている。大塚が『暗室のなかで 吉行淳之介と私が隠れた深い穴』[注釈 4]で、高山が『特別な他人』[注釈 5]で、宮城が『淳之介さんのこと』[注釈 6]で、そして本妻の文枝が『淳之介の背中』[注釈 7]で、それぞれの体験を公表している。


大層女性にモテたことで知られているが、奥本大三郎は吉行を「まぎれもなく女性嫌悪思想の系譜に連なる作家である」と指摘しており、また、「女性嫌悪思想の持ち主というのは、どうしても女に無関心でいられない」のが「弱点」であるとも記している[7][8]。奥本はまた、吉行に女性読者が増加していることを称して「猟師の鉄砲に小鳥が止まったような具合」と形容している[7]フェミニスト上野千鶴子は、ミソジニー(女性嫌悪、女性蔑視)傾向の強い作家として吉行以外に永井荷風を挙げており、ミソジニーの男性には「女好き」が多いと指摘している[8]。友人の遠藤周作は時おり随筆で「吉行世之介」と書いてからかっている。

家族・親族

作家・詩人の吉行エイスケは父。美容師の吉行あぐりは母。女優の吉行和子、詩人の吉行理恵は妹。生家の土建会社「株式会社吉行組」(岡山市)は、祖父の死去後、叔父が後を継いだ。淳之介自身も吉行組の無報酬重役を務めていた[9]


本妻との間に娘がいる。

吉行淳之介文学館
1999年静岡県掛川市にある、社会福祉施設ねむの木学園の敷地内に吉行淳之介文学館が開館した。

文学賞選考委員
吉行が選考委員をつとめた文学賞は以下の通り[10]。吉行は基本的に自身の創作の本道を純文学に置き、多くの文学賞で言及した選評を自ら実現・実行していた。

文学界新人賞:1966年 - 1970年(第22 - 30回)

文藝賞:1966年 - 1967年(第4 - 5回)

太宰治賞:1970年 - 1977年(第6 - 13回)

芥川賞:1972年 - 1993年(第66 - 110回)

泉鏡花文学賞:1973年 - 1993年(第1 - 21回)

川端康成文学賞:1974年 - 1993年(第1 - 20回)

谷崎潤一郎賞:1977年 - 1993年(第13 - 29回、ただし第28回は病気欠席)

群像新人文学賞:1978年 - 1980年(第21 - 23回)

野間文芸賞:1980年 - 1993年(第33 - 46回)

著書
小説

・『星の降る夜の物語』 作品社、1954年

・『驟雨』(『薔薇販売人』を含む) 新潮社、1954年、のち『薔薇販売人』は角川文庫

・『漂う部屋』 河出新書、1955年

・『原色の街』 新潮社、1956年、のち『原色の街』『驟雨』は新潮文庫

 向島 (墨田区)赤線地帯、鳩の街が舞台(新潮文庫に入っているものは芥川賞候補になった『原色の街』と『ある脱出』を組み合わせ、加筆訂正したもの)。

・『焔の中』 新潮社、1956年、のち中公文庫、旺文社文庫

・『悪い夏』 角川書店、1956年、のち角川小説新書

・『美女哄笑』 現代文芸社、1957年、のち新鋭作家叢書、『がらんどう』は中公文庫

・『男と女の子』 講談社、1958年、のち中公文庫、集英社文庫

・『二人の女』 平凡出版、1959年

・『すれすれ』 講談社、1959年–60年、のち角川文庫、光文社文庫

・『娼婦の部屋』 文藝春秋新社、1959年、のち角川文庫、新潮文庫、光文社文庫

・『風景の中の関係』 新潮社、1960年、のち『鳥獣蟲魚』は旺文社文庫

・『街の底で』 中央公論社、1961年、のち角川文庫

・『闇の中の祝祭』 講談社、1961年、のち光文社文庫、角川文庫、光文社文庫

 妻と恋人との間で振り回される男の姿を描いた作品。当時の宮城まり子との恋愛からディテールを構成したため「女優との交際の告白」として物議をかもした。のち『春夏秋冬女は怖い』で事実だと書いている。

・『コールガール』 角川書店、1962年、のち角川文庫

・『札幌夫人』 集英社、1963年、のち集英社文庫

・『雨か日和か』 講談社、1963年

・『花束』 中央公論社、1963年、のち中公文庫

・『女の決闘』 桃源社、1964年

・『ずべ公天使』 集英社、1964年、のち『にせドン・ファン』は角川文庫

・『砂の上の植物群』 文藝春秋新社、1964年、のち新潮文庫

・『夜の噂』 朝日新聞社、1964年、のち新潮文庫

・『痴・香水瓶』 学習研究社・芥川賞作家シリーズ、1964年

・『吉行淳之介短篇全集』全5巻  講談社・ロマンブックス、1965年

・『不意の出来事』 新潮社、1965年、のち『娼婦の部屋』『不意の出来事』は新潮文庫

 新潮社文学賞受賞。

・『技巧的生活』 河出書房新社、1965年、のち新潮文庫

・『怪盗ねずみ小僧』 講談社、1965年、のち『鼠小僧次郎吉』は角川文庫

・『唇と歯』 東方社、1966年、のち角川文庫

・『赤い歳月』 講談社、1967年

・『星と月は天の穴』 講談社、1967年、のち講談社文庫、文芸文庫

・『美少女』 文藝春秋、1967年、のち新潮文庫

・『女の動物園』 毎日新聞社、1968年

・『暗室』 講談社、1970年、のち講談社文庫、文芸文庫

 谷崎潤一郎賞受賞。

・『浅い夢』 毎日新聞社、1970年、のち角川文庫

・『小野小町』 読売新聞社、1970年、(小説選書)

・『吉行淳之介全集』全8巻  講談社、1971–72年

・『裸の匂い』 ベストセラーズ、1971年、のち集英社文庫

・『湿った空乾いた空』 新潮社、1972年、のち新潮文庫

・『一見猥本風』 番町書房、1973年、のち角川文庫

・『猫踏んじゃった』 番町書房、1973年、のち角川文庫

・『出口・廃墟の眺め』 講談社文庫、1973年

・『鞄の中身』 講談社、1974年、のち講談社文庫、文芸文庫

 読売文学賞受賞。

・『赤と紫』 角川文庫、1974年

・『吉行淳之介自選作品』全5巻  潮出版社、1975年

・『子供の領分』 番町書房、1975年、のち角川文庫、集英社文庫

・『童謡』 出帆社、1975年、のち集英社文庫

・『怖ろしい場所』 新潮社、1976年、のち新潮文庫

・『牝ライオンと豹』 角川文庫、1976年

・『吉行淳之介エンタテインメント全集』全11巻  角川書店、1976–77年

・『寝台の舟』 旺文社文庫、1977年

・『鬱の一年』 角川文庫、1978年

・『夕暮まで』 新潮社、1978年、のち新潮文庫

 「夕ぐれ族」の語源。社会現象となった。野間文芸賞受賞

・『菓子祭』 潮出版社、1979年、のち角川文庫、講談社文芸文庫

・『堀部安兵衛 黒鉄ヒロシえ』 集英社文庫、1980年

・『百の唇』 掌篇小説選、講談社、1982年

・『夢の車輪 パウル・クレーと十二の幻想』 掌篇小説集、文藝春秋、1983年

・『吉行淳之介全集』全17巻 別巻3巻  講談社、1983–85年

・『目玉』 新潮社、1989年、のち新潮文庫

・『吉行淳之介全集』全15巻  新潮社、1997–98年

・『悩ましき土地』 講談社文芸文庫、1999年

・『吉行淳之介娼婦小説集成』中公文庫、2014年

詳しいことは、「吉行淳之介ウィキペディア」をご覧ください。 ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%89%E8%A1%8C%E6%B7%B3%E4%B9%8B%E4%BB%8B
(wikiより)

吉行淳之介

吉行淳之介

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市村 宇左衞門 / 羽左衞門(いちむら うざえもん、新字体:羽左衛門)は、歌舞伎役者名跡。名の部分は七代目までが宇左衛門、以後が羽左衛門。


屋号
は七代目までは不詳、七代目から十六代目までは菊屋、十六代目以降は橘屋


十六代目以降の定紋根上り橘(ねあがり たちばな)、替紋は渦巻(うずまき)

解説

当初「市村宇左衛門」は江戸三座の一つ市村座の座元(座を主宰し芝居小屋を経営する者)の名跡だったが、元禄年間から座元が役者に転じたり、逆に役者が座元を兼ねたりすることが多くなる。そして明治末年に市村座の経営権が田村成義の手に渡ると、「市村羽左衛門」は単に役者の名跡となった。


市村座の歴史は、寛永年間に村山又三郎が江戸に出て、葺屋町村山座の櫓を上げたのに始まる。しかし村山座の経営は不振で、年を追うごとに負債がかさんでいく。又三郎のあと座元を継いだ女婿の村田九郎右衛門は、自らが病弱だったこともあり、又三郎が数ヵ月後に病死するとすぐに村山座の興行権を売却してしまう。これを買い取ったのが上州の人で村山又三郎の門人だった市村宇左衛門である。このとき座名も村山座から市村座に替わった。


2001年(平成13年)に死去した先代の市村羽左衛門は十七代目だった。しかしこれまでに「市村宇左衛門/羽左衛門」を実際に襲名した者は12名を数えるのみである。残りの5名は、いずれも死後に代々の「市村宇左衛門」に数えられた「贈何代目」の市村宇左衛門である。


そもそも「市村宇左衛門」とは、村山座の興行権を買い取って市村座を始めた上州の人・市村宇左衛門の本名である。にもかかわらず、彼は市村宇左衛門の宗祖としてではなく、三代目として数えられている。これは彼に先立って村山座の座元だった村山又三郎と村田九右衛門の両名にそれぞれ初代宇左衛門と二代目宇左衛門が追贈されているからである。また今日四代目・六代目・七代目の宇左衛門として知られる人物は、いずれも諸般の事情から市村座の座元は継いだものの「宇左衛門」の名跡を襲名するには至らなかった者で、死後にやはり市村宇左衛門が追贈されて代々に加えられたものである。

市村宇左衛門/羽左衛門 代々
十二代目 市村羽左衛門


・十一代目の次男、1812–51(座元 1821–51)。


・市村豊松 → 市村亀之助 → 十二代目市村羽左衛門 → 五代目市村竹之丞

〇 十二代目・市村羽左衛門

十二代目 市村羽左衛門(じゅうにだいめ いちむら うざえもん、文化9年〈1812年〉 - 嘉永4年8月20日1851年9月15日〉)とは、江戸時代後期の歌舞伎役者で江戸市村座の座元。俳名家橘屋号は橘屋。定紋は根上がり橘。


市村座の座元十一代目市村羽左衛門の次男。初め市村豊松、のち市村亀之助と名を改め、文政元年(1818年)11月に子役として舞台に立つ。文政3年(1820年)7月に父が死去し、同年11月に十二代目市村羽左衛門を襲名。以後座元と役者の双方を務めた。


天保
12年(1841年)10月、隣接する中村座が失火により全焼、隣接する市村座にも類焼し全焼した。これを機に森田座を含む三座は、町奉行所から浅草猿若町に移転を命じられる。嘉永4年(1851年)4月、実子の市村九郎右衛門に十三代目羽左衛門の名と座元を継がせ、自身は五代目市村竹之丞を襲名し舞台に専念するも同年6月、病により死去した。


上品な顔立ちで、私生活では成田山詣でをするのに大勢の幇間や芸者を伴い、そのついでに宴会をするなど、派手な遊びで江戸市中の話題を集めた。

参考文献
・野島寿三郎編 『歌舞伎人名事典』(新訂増補) 日外アソシエーツ、2002年

(wikiより)

十二代目・市村羽左衛門

十二代目・市村羽左衛門

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市村 宇左衞門 / 羽左衞門(いちむら うざえもん、新字体:羽左衛門)は、歌舞伎役者名跡。名の部分は七代目までが宇左衛門、以後が羽左衛門。


屋号
は七代目までは不詳、七代目から十六代目までは菊屋、十六代目以降は橘屋


十六代目以降の定紋根上り橘(ねあがり たちばな)、替紋は渦巻(うずまき)

解説

当初「市村宇左衛門」は江戸三座の一つ市村座の座元(座を主宰し芝居小屋を経営する者)の名跡だったが、元禄年間から座元が役者に転じたり、逆に役者が座元を兼ねたりすることが多くなる。そして明治末年に市村座の経営権が田村成義の手に渡ると、「市村羽左衛門」は単に役者の名跡となった。


市村座の歴史は、寛永年間に村山又三郎が江戸に出て、葺屋町村山座の櫓を上げたのに始まる。しかし村山座の経営は不振で、年を追うごとに負債がかさんでいく。又三郎のあと座元を継いだ女婿の村田九郎右衛門は、自らが病弱だったこともあり、又三郎が数ヵ月後に病死するとすぐに村山座の興行権を売却してしまう。これを買い取ったのが上州の人で村山又三郎の門人だった市村宇左衛門である。このとき座名も村山座から市村座に替わった。


2001年(平成13年)に死去した先代の市村羽左衛門は十七代目だった。しかしこれまでに「市村宇左衛門/羽左衛門」を実際に襲名した者は12名を数えるのみである。残りの5名は、いずれも死後に代々の「市村宇左衛門」に数えられた「贈何代目」の市村宇左衛門である。


そもそも「市村宇左衛門」とは、村山座の興行権を買い取って市村座を始めた上州の人・市村宇左衛門の本名である。にもかかわらず、彼は市村宇左衛門の宗祖としてではなく、三代目として数えられている。これは彼に先立って村山座の座元だった村山又三郎と村田九右衛門の両名にそれぞれ初代宇左衛門と二代目宇左衛門が追贈されているからである。また今日四代目・六代目・七代目の宇左衛門として知られる人物は、いずれも諸般の事情から市村座の座元は継いだものの「宇左衛門」の名跡を襲名するには至らなかった者で、死後にやはり市村宇左衛門が追贈されて代々に加えられたものである。

市村宇左衛門/羽左衛門 代々
十一代目 市村羽左衛門


・十代目の養子、1791–1819(座元 1800–16)。実父は親戚筋の四代目福地茂兵衛。


・初代市村萬次郎 → 十一代目市村羽左衛門
(wikiより)

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市村 宇左衞門 / 羽左衞門(いちむら うざえもん、新字体:羽左衛門)は、歌舞伎役者名跡。名の部分は七代目までが宇左衛門、以後が羽左衛門。


屋号
は七代目までは不詳、七代目から十六代目までは菊屋、十六代目以降は橘屋


十六代目以降の定紋根上り橘(ねあがり たちばな)、替紋は渦巻(うずまき)

解説

当初「市村宇左衛門」は江戸三座の一つ市村座の座元(座を主宰し芝居小屋を経営する者)の名跡だったが、元禄年間から座元が役者に転じたり、逆に役者が座元を兼ねたりすることが多くなる。そして明治末年に市村座の経営権が田村成義の手に渡ると、「市村羽左衛門」は単に役者の名跡となった。


市村座の歴史は、寛永年間に村山又三郎が江戸に出て、葺屋町村山座の櫓を上げたのに始まる。しかし村山座の経営は不振で、年を追うごとに負債がかさんでいく。又三郎のあと座元を継いだ女婿の村田九郎右衛門は、自らが病弱だったこともあり、又三郎が数ヵ月後に病死するとすぐに村山座の興行権を売却してしまう。これを買い取ったのが上州の人で村山又三郎の門人だった市村宇左衛門である。このとき座名も村山座から市村座に替わった。


2001年(平成13年)に死去した先代の市村羽左衛門は十七代目だった。しかしこれまでに「市村宇左衛門/羽左衛門」を実際に襲名した者は12名を数えるのみである。残りの5名は、いずれも死後に代々の「市村宇左衛門」に数えられた「贈何代目」の市村宇左衛門である。


そもそも「市村宇左衛門」とは、村山座の興行権を買い取って市村座を始めた上州の人・市村宇左衛門の本名である。にもかかわらず、彼は市村宇左衛門の宗祖としてではなく、三代目として数えられている。これは彼に先立って村山座の座元だった村山又三郎と村田九右衛門の両名にそれぞれ初代宇左衛門と二代目宇左衛門が追贈されているからである。また今日四代目・六代目・七代目の宇左衛門として知られる人物は、いずれも諸般の事情から市村座の座元は継いだものの「宇左衛門」の名跡を襲名するには至らなかった者で、死後にやはり市村宇左衛門が追贈されて代々に加えられたものである。

市村宇左衛門/羽左衛門 代々
十代目 市村羽左衛門


・九代目の子、1748–99(座元 1788−93、98–99)。


・市村七十郎 → 二代目市村亀蔵 → 十代目市村羽左衛門 → 五代目市村家橘

〇 十一代目・市村羽左衛門

十代目 市村羽左衛門(じゅうだいめ いちむら うざえもん、寛延元年〈1748年〉 - 寛政11年2月15日1799年3月20日〉)とは、宝暦期から寛政期にかけての歌舞伎役者屋号は菊屋、俳名は亀全。


九代目市村羽左衛門の息子。宝暦8年(1758年)11月、市村七十郎と名乗り初舞台を踏む。翌年11月に父市村亀蔵が九代目市村羽左衛門を襲名すると、その前名である亀蔵を襲名した。天明8年(1788年)9月、それまで控櫓だった桐座から興行権を取り戻して市村座を再興、十代目市村羽左衛門を襲名し晴れて座元となる。しかし前代からの市村座の負債はなお残り、一度は決着を見るもその後また大借金となった。その結果、寛政5年(1793年)には市村座はふたたび桐座に興行権を譲らざるを得なかった。そして十代目自身は退隠し、親類の福地茂兵衛の息子を養子にして十一代目市村羽左衛門の名を継がせている。寛政9年(1797年)、魚商をしていた老人という人物から借財整理の援助を受け翌年市村座は再興したが、その次の年に死去した。役者としてはあまり舞台に立たなかったという。

参考文献
・野島寿三郎編 『歌舞伎人名事典』(新訂増補) 日外アソシエーツ、2002年
(wikiより)

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市村 宇左衞門 / 羽左衞門(いちむら うざえもん、新字体:羽左衛門)は、歌舞伎役者名跡。名の部分は七代目までが宇左衛門、以後が羽左衛門。


屋号
は七代目までは不詳、七代目から十六代目までは菊屋、十六代目以降は橘屋


十六代目以降の定紋根上り橘(ねあがり たちばな)、替紋は渦巻(うずまき)

解説

当初「市村宇左衛門」は江戸三座の一つ市村座の座元(座を主宰し芝居小屋を経営する者)の名跡だったが、元禄年間から座元が役者に転じたり、逆に役者が座元を兼ねたりすることが多くなる。そして明治末年に市村座の経営権が田村成義の手に渡ると、「市村羽左衛門」は単に役者の名跡となった。


市村座の歴史は、寛永年間に村山又三郎が江戸に出て、葺屋町村山座の櫓を上げたのに始まる。しかし村山座の経営は不振で、年を追うごとに負債がかさんでいく。又三郎のあと座元を継いだ女婿の村田九郎右衛門は、自らが病弱だったこともあり、又三郎が数ヵ月後に病死するとすぐに村山座の興行権を売却してしまう。これを買い取ったのが上州の人で村山又三郎の門人だった市村宇左衛門である。このとき座名も村山座から市村座に替わった。


2001年(平成13年)に死去した先代の市村羽左衛門は十七代目だった。しかしこれまでに「市村宇左衛門/羽左衛門」を実際に襲名した者は12名を数えるのみである。残りの5名は、いずれも死後に代々の「市村宇左衛門」に数えられた「贈何代目」の市村宇左衛門である。


そもそも「市村宇左衛門」とは、村山座の興行権を買い取って市村座を始めた上州の人・市村宇左衛門の本名である。にもかかわらず、彼は市村宇左衛門の宗祖としてではなく、三代目として数えられている。これは彼に先立って村山座の座元だった村山又三郎と村田九右衛門の両名にそれぞれ初代宇左衛門と二代目宇左衛門が追贈されているからである。また今日四代目・六代目・七代目の宇左衛門として知られる人物は、いずれも諸般の事情から市村座の座元は継いだものの「宇左衛門」の名跡を襲名するには至らなかった者で、死後にやはり市村宇左衛門が追贈されて代々に加えられたものである。

市村宇左衛門/羽左衛門 代々
九代目 市村羽左衛門


・八代目の長男、1724–82(座元 1762–82)。


・市村満蔵 → 初代市村亀蔵 → 九代目市村羽左衛門

〇 九代目・市村羽左衛門
九代目 市村羽左衛門(くだいめ いちむら うざえもん、享保9年〈1724年〉 - 天明5年8月25日1785年9月28日〉)とは、享保の初期から天明初期にかけて活躍した歌舞伎役者屋号菊屋、俳名家橘

来歴

八代目市村羽左衛門の長男で、弟は三代目坂東彦三郎。享保16年(1731年)7月、市村満蔵を名乗り市村座で初舞台、延享2年(1745年)に市村亀蔵と改名。宝暦11年(1761年)3月、伊勢参りの名目で上方へ行き、伊勢参宮ののち大坂に行き、中山文七座に同座して五変化の所作事などを見せ、のちに京にも行きやはり五変化の所作を上演して名をあげる。同年11月江戸に戻った。


宝暦12年(1762年)、父八代目羽左衛門の死去により市村座の座元を相続すると同時に市村羽左衛門を襲名。しかしその後火事や先代からの借金に苦しめられ、天明4年(1784年)にはついに市村座は倒産閉場し、控櫓桐座に興行権を譲るに至った。その翌年、中村座の座元中村勘三郎の勧めにより羽左衛門は中村座に出演し、一世一代として変化舞踊を演じたが、そのなかで猿まわしの猿に扮し『娘道成寺』の所作事を演じた。同年8月に没す。


若いころは魚のような顔つきだと評され荒事ばかりを演じていたが、のちに和事実事、また女の役も演じるようになり、八代目に劣らず幅広い芸風を誇った。特に所作事においては名人との評判を得ている。子に十代目市村羽左衛門がいる。

参考文献
・渡辺保 『娘道成寺』(改訂版) 駸々堂、1992年
・野島寿三郎編 『歌舞伎人名事典』(新訂増補) 日外アソシエーツ、2002年
(wikiより)

九代目・市村羽左衛門

九代目・市村羽左衛門

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市村 宇左衞門 / 羽左衞門(いちむら うざえもん、新字体:羽左衛門)は、歌舞伎役者名跡。名の部分は七代目までが宇左衛門、以後が羽左衛門。


屋号
は七代目までは不詳、七代目から十六代目までは菊屋、十六代目以降は橘屋


十六代目以降の定紋根上り橘(ねあがり たちばな)、替紋は渦巻(うずまき)

解説

当初「市村宇左衛門」は江戸三座の一つ市村座の座元(座を主宰し芝居小屋を経営する者)の名跡だったが、元禄年間から座元が役者に転じたり、逆に役者が座元を兼ねたりすることが多くなる。そして明治末年に市村座の経営権が田村成義の手に渡ると、「市村羽左衛門」は単に役者の名跡となった。


市村座の歴史は、寛永年間に村山又三郎が江戸に出て、葺屋町村山座の櫓を上げたのに始まる。しかし村山座の経営は不振で、年を追うごとに負債がかさんでいく。又三郎のあと座元を継いだ女婿の村田九郎右衛門は、自らが病弱だったこともあり、又三郎が数ヵ月後に病死するとすぐに村山座の興行権を売却してしまう。これを買い取ったのが上州の人で村山又三郎の門人だった市村宇左衛門である。このとき座名も村山座から市村座に替わった。


2001年(平成13年)に死去した先代の市村羽左衛門は十七代目だった。しかしこれまでに「市村宇左衛門/羽左衛門」を実際に襲名した者は12名を数えるのみである。残りの5名は、いずれも死後に代々の「市村宇左衛門」に数えられた「贈何代目」の市村宇左衛門である。


そもそも「市村宇左衛門」とは、村山座の興行権を買い取って市村座を始めた上州の人・市村宇左衛門の本名である。にもかかわらず、彼は市村宇左衛門の宗祖としてではなく、三代目として数えられている。これは彼に先立って村山座の座元だった村山又三郎と村田九右衛門の両名にそれぞれ初代宇左衛門と二代目宇左衛門が追贈されているからである。また今日四代目・六代目・七代目の宇左衛門として知られる人物は、いずれも諸般の事情から市村座の座元は継いだものの「宇左衛門」の名跡を襲名するには至らなかった者で、死後にやはり市村宇左衛門が追贈されて代々に加えられたものである。

市村宇左衛門/羽左衛門 代々
八代目 市村羽左衛門


・贈七代目の弟、1699–1762(座元 1703–62)。実父は市村座の芝居茶屋・菊屋善兵衛。寛延元年 (1748) 「宇左衛門」を「羽左衛門」と改める。


・四代目市村竹之丞 → 八代目市村宇左衛門 → 八代目市村羽左衛門

〇 八代目・市村羽左衛門
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八代目 市村羽左衛門(はちだいめ いちむら うざえもん、元禄11年〈1698年〉 - 宝暦12年5月7日1762年6月28日〉)とは、江戸時代中期の歌舞伎役者。また市村座の座元。屋号菊屋俳名は可江。雅号橘中庵。


芝居茶屋
主人菊屋善兵衛の三男として江戸に生まれる。母が五代目市村宇左衛門の姉だったことから、元禄16年(1703年)、父を後見人として5歳で四代目市村竹之丞襲名し、市村座の座元となる。初舞台はそれから二年後の宝永2年(1705年)正月興行『万歳田村丸』の天童子だった。その後、座元と役者を兼ね江戸の芝居に重きをなすようになる。元文2年(1737年)、将軍家の若君竹千代の名を憚って八代目市村宇左衛門を襲名。寛延元年(1748年)さらに名を「羽左衛門」と改めた。以後市村座の座元は「羽左衛門」の名を代々名乗る。


座元を60年間勤める傍ら、舞台でも若衆、女形、実事、敵役など幅広い役柄をこなした。子に九代目市村羽左衛門三代目坂東彦三郎がいる。墓所は東京都江戸川区の大雲寺だが、ほかに江東区の自性院にも供養塔がある。なお八代目羽左衛門ゆかりの名所として、「曽我御霊社奉寄進石宝殿」がある。春の江戸の芝居に必ず取り上げられた「曽我物」の人物曽我兄弟を供養するため、八代目が駒込富士神社(東京都文京区本駒込五丁目)に寄進したものである。

参考文献
・野島寿三郎編 『歌舞伎人名事典』(新訂増補) 日外アソシエーツ、2002年
(wikiより)

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市村 宇左衞門 / 羽左衞門(いちむら うざえもん、新字体:羽左衛門)は、歌舞伎役者名跡。名の部分は七代目までが宇左衛門、以後が羽左衛門。


屋号
は七代目までは不詳、七代目から十六代目までは菊屋、十六代目以降は橘屋


十六代目以降の定紋根上り橘(ねあがり たちばな)、替紋は渦巻(うずまき)

解説

当初「市村宇左衛門」は江戸三座の一つ市村座の座元(座を主宰し芝居小屋を経営する者)の名跡だったが、元禄年間から座元が役者に転じたり、逆に役者が座元を兼ねたりすることが多くなる。そして明治末年に市村座の経営権が田村成義の手に渡ると、「市村羽左衛門」は単に役者の名跡となった。


市村座の歴史は、寛永年間に村山又三郎が江戸に出て、葺屋町村山座の櫓を上げたのに始まる。しかし村山座の経営は不振で、年を追うごとに負債がかさんでいく。又三郎のあと座元を継いだ女婿の村田九郎右衛門は、自らが病弱だったこともあり、又三郎が数ヵ月後に病死するとすぐに村山座の興行権を売却してしまう。これを買い取ったのが上州の人で村山又三郎の門人だった市村宇左衛門である。このとき座名も村山座から市村座に替わった。


2001年(平成13年)に死去した先代の市村羽左衛門は十七代目だった。しかしこれまでに「市村宇左衛門/羽左衛門」を実際に襲名した者は12名を数えるのみである。残りの5名は、いずれも死後に代々の「市村宇左衛門」に数えられた「贈何代目」の市村宇左衛門である。


そもそも「市村宇左衛門」とは、村山座の興行権を買い取って市村座を始めた上州の人・市村宇左衛門の本名である。にもかかわらず、彼は市村宇左衛門の宗祖としてではなく、三代目として数えられている。これは彼に先立って村山座の座元だった村山又三郎と村田九右衛門の両名にそれぞれ初代宇左衛門と二代目宇左衛門が追贈されているからである。また今日四代目・六代目・七代目の宇左衛門として知られる人物は、いずれも諸般の事情から市村座の座元は継いだものの「宇左衛門」の名跡を襲名するには至らなかった者で、死後にやはり市村宇左衛門が追贈されて代々に加えられたものである。

市村宇左衛門/羽左衛門 代々
・贈七代目 市村宇左衛門


・五代目の女婿で六代目の義兄・三代目市村竹之丞、1681–98(座元 1687–98)。実父は市村座の芝居茶屋・菊屋善兵衛。


・三代目市村竹之丞(=贈七代目市村宇左衛門)
(wikiより)

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市村 宇左衞門 / 羽左衞門(いちむら うざえもん、新字体:羽左衛門)は、歌舞伎役者名跡。名の部分は七代目までが宇左衛門、以後が羽左衛門。


屋号
は七代目までは不詳、七代目から十六代目までは菊屋、十六代目以降は橘屋


十六代目以降の定紋根上り橘(ねあがり たちばな)、替紋は渦巻(うずまき)

解説

当初「市村宇左衛門」は江戸三座の一つ市村座の座元(座を主宰し芝居小屋を経営する者)の名跡だったが、元禄年間から座元が役者に転じたり、逆に役者が座元を兼ねたりすることが多くなる。そして明治末年に市村座の経営権が田村成義の手に渡ると、「市村羽左衛門」は単に役者の名跡となった。


市村座の歴史は、寛永年間に村山又三郎が江戸に出て、葺屋町村山座の櫓を上げたのに始まる。しかし村山座の経営は不振で、年を追うごとに負債がかさんでいく。又三郎のあと座元を継いだ女婿の村田九郎右衛門は、自らが病弱だったこともあり、又三郎が数ヵ月後に病死するとすぐに村山座の興行権を売却してしまう。これを買い取ったのが上州の人で村山又三郎の門人だった市村宇左衛門である。このとき座名も村山座から市村座に替わった。


2001年(平成13年)に死去した先代の市村羽左衛門は十七代目だった。しかしこれまでに「市村宇左衛門/羽左衛門」を実際に襲名した者は12名を数えるのみである。残りの5名は、いずれも死後に代々の「市村宇左衛門」に数えられた「贈何代目」の市村宇左衛門である。


そもそも「市村宇左衛門」とは、村山座の興行権を買い取って市村座を始めた上州の人・市村宇左衛門の本名である。にもかかわらず、彼は市村宇左衛門の宗祖としてではなく、三代目として数えられている。これは彼に先立って村山座の座元だった村山又三郎と村田九右衛門の両名にそれぞれ初代宇左衛門と二代目宇左衛門が追贈されているからである。また今日四代目・六代目・七代目の宇左衛門として知られる人物は、いずれも諸般の事情から市村座の座元は継いだものの「宇左衛門」の名跡を襲名するには至らなかった者で、死後にやはり市村宇左衛門が追贈されて代々に加えられたものである。

市村宇左衛門/羽左衛門 代々
・贈六代目 市村宇左衛門


・五代目の子・二代目市川竹松、1680–86(座元 1685–86)。夭折。


・市村長太夫 → 二代目市川竹松(=贈六代目市村宇左衛門)
(wikiより)

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市村 宇左衞門 / 羽左衞門(いちむら うざえもん、新字体:羽左衛門)は、歌舞伎役者名跡。名の部分は七代目までが宇左衛門、以後が羽左衛門。


屋号
は七代目までは不詳、七代目から十六代目までは菊屋、十六代目以降は橘屋


十六代目以降の定紋根上り橘(ねあがり たちばな)、替紋は渦巻(うずまき)

解説

当初「市村宇左衛門」は江戸三座の一つ市村座の座元(座を主宰し芝居小屋を経営する者)の名跡だったが、元禄年間から座元が役者に転じたり、逆に役者が座元を兼ねたりすることが多くなる。そして明治末年に市村座の経営権が田村成義の手に渡ると、「市村羽左衛門」は単に役者の名跡となった。


市村座の歴史は、寛永年間に村山又三郎が江戸に出て、葺屋町村山座の櫓を上げたのに始まる。しかし村山座の経営は不振で、年を追うごとに負債がかさんでいく。又三郎のあと座元を継いだ女婿の村田九郎右衛門は、自らが病弱だったこともあり、又三郎が数ヵ月後に病死するとすぐに村山座の興行権を売却してしまう。これを買い取ったのが上州の人で村山又三郎の門人だった市村宇左衛門である。このとき座名も村山座から市村座に替わった。


2001年(平成13年)に死去した先代の市村羽左衛門は十七代目だった。しかしこれまでに「市村宇左衛門/羽左衛門」を実際に襲名した者は12名を数えるのみである。残りの5名は、いずれも死後に代々の「市村宇左衛門」に数えられた「贈何代目」の市村宇左衛門である。


そもそも「市村宇左衛門」とは、村山座の興行権を買い取って市村座を始めた上州の人・市村宇左衛門の本名である。にもかかわらず、彼は市村宇左衛門の宗祖としてではなく、三代目として数えられている。これは彼に先立って村山座の座元だった村山又三郎と村田九右衛門の両名にそれぞれ初代宇左衛門と二代目宇左衛門が追贈されているからである。また今日四代目・六代目・七代目の宇左衛門として知られる人物は、いずれも諸般の事情から市村座の座元は継いだものの「宇左衛門」の名跡を襲名するには至らなかった者で、死後にやはり市村宇左衛門が追贈されて代々に加えられたものである。

市村宇左衛門/羽左衛門 代々
五代目 市村宇左衛門


・四代目の弟、????–1691(座元 1679–91年)。


・初代市村竹松 → 五代目市村宇左衛門
(wikiより)

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市村 宇左衞門 / 羽左衞門(いちむら うざえもん、新字体:羽左衛門)は、歌舞伎役者名跡。名の部分は七代目までが宇左衛門、以後が羽左衛門。


屋号
は七代目までは不詳、七代目から十六代目までは菊屋、十六代目以降は橘屋


十六代目以降の定紋根上り橘(ねあがり たちばな)、替紋は渦巻(うずまき)

解説

当初「市村宇左衛門」は江戸三座の一つ市村座の座元(座を主宰し芝居小屋を経営する者)の名跡だったが、元禄年間から座元が役者に転じたり、逆に役者が座元を兼ねたりすることが多くなる。そして明治末年に市村座の経営権が田村成義の手に渡ると、「市村羽左衛門」は単に役者の名跡となった。


市村座の歴史は、寛永年間に村山又三郎が江戸に出て、葺屋町村山座の櫓を上げたのに始まる。しかし村山座の経営は不振で、年を追うごとに負債がかさんでいく。又三郎のあと座元を継いだ女婿の村田九郎右衛門は、自らが病弱だったこともあり、又三郎が数ヵ月後に病死するとすぐに村山座の興行権を売却してしまう。これを買い取ったのが上州の人で村山又三郎の門人だった市村宇左衛門である。このとき座名も村山座から市村座に替わった。


2001年(平成13年)に死去した先代の市村羽左衛門は十七代目だった。しかしこれまでに「市村宇左衛門/羽左衛門」を実際に襲名した者は12名を数えるのみである。残りの5名は、いずれも死後に代々の「市村宇左衛門」に数えられた「贈何代目」の市村宇左衛門である。


そもそも「市村宇左衛門」とは、村山座の興行権を買い取って市村座を始めた上州の人・市村宇左衛門の本名である。にもかかわらず、彼は市村宇左衛門の宗祖としてではなく、三代目として数えられている。これは彼に先立って村山座の座元だった村山又三郎と村田九右衛門の両名にそれぞれ初代宇左衛門と二代目宇左衛門が追贈されているからである。また今日四代目・六代目・七代目の宇左衛門として知られる人物は、いずれも諸般の事情から市村座の座元は継いだものの「宇左衛門」の名跡を襲名するには至らなかった者で、死後にやはり市村宇左衛門が追贈されて代々に加えられたものである。

市村宇左衛門/羽左衛門 代々
・贈四代目 市村宇左衛門


・三代目の甥で養子の二代目市村竹之丞、1654–1718(座元 1664−79)。延宝7年 (1679) 座元を弟に譲って出家


・二代目市村竹之丞(=贈四代目市村宇左衛門)
(wikiより)

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市村 宇左衞門 / 羽左衞門(いちむら うざえもん、新字体:羽左衛門)は、歌舞伎役者名跡。名の部分は七代目までが宇左衛門、以後が羽左衛門。


屋号
は七代目までは不詳、七代目から十六代目までは菊屋、十六代目以降は橘屋


十六代目以降の定紋根上り橘(ねあがり たちばな)、替紋は渦巻(うずまき)

解説

当初「市村宇左衛門」は江戸三座の一つ市村座の座元(座を主宰し芝居小屋を経営する者)の名跡だったが、元禄年間から座元が役者に転じたり、逆に役者が座元を兼ねたりすることが多くなる。そして明治末年に市村座の経営権が田村成義の手に渡ると、「市村羽左衛門」は単に役者の名跡となった。


市村座の歴史は、寛永年間に村山又三郎が江戸に出て、葺屋町村山座の櫓を上げたのに始まる。しかし村山座の経営は不振で、年を追うごとに負債がかさんでいく。又三郎のあと座元を継いだ女婿の村田九郎右衛門は、自らが病弱だったこともあり、又三郎が数ヵ月後に病死するとすぐに村山座の興行権を売却してしまう。これを買い取ったのが上州の人で村山又三郎の門人だった市村宇左衛門である。このとき座名も村山座から市村座に替わった。


2001年(平成13年)に死去した先代の市村羽左衛門は十七代目だった。しかしこれまでに「市村宇左衛門/羽左衛門」を実際に襲名した者は12名を数えるのみである。残りの5名は、いずれも死後に代々の「市村宇左衛門」に数えられた「贈何代目」の市村宇左衛門である。


そもそも「市村宇左衛門」とは、村山座の興行権を買い取って市村座を始めた上州の人・市村宇左衛門の本名である。にもかかわらず、彼は市村宇左衛門の宗祖としてではなく、三代目として数えられている。これは彼に先立って村山座の座元だった村山又三郎と村田九右衛門の両名にそれぞれ初代宇左衛門と二代目宇左衛門が追贈されているからである。また今日四代目・六代目・七代目の宇左衛門として知られる人物は、いずれも諸般の事情から市村座の座元は継いだものの「宇左衛門」の名跡を襲名するには至らなかった者で、死後にやはり市村宇左衛門が追贈されて代々に加えられたものである。

市村宇左衛門/羽左衛門 代々
三代目 市村宇左衛門


上州の人、初代の門人、1628–86(座元 1652–64)。村山座の興行権を買い取りこれを市村座と改める。


・初代市村竹之丞 → 三代目市村宇左衛門
(wikiより)

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市村 宇左衞門 / 羽左衞門(いちむら うざえもん、新字体:羽左衛門)は、歌舞伎役者名跡。名の部分は七代目までが宇左衛門、以後が羽左衛門。


屋号
は七代目までは不詳、七代目から十六代目までは菊屋、十六代目以降は橘屋


十六代目以降の定紋根上り橘(ねあがり たちばな)、替紋は渦巻(うずまき)

解説

当初「市村宇左衛門」は江戸三座の一つ市村座の座元(座を主宰し芝居小屋を経営する者)の名跡だったが、元禄年間から座元が役者に転じたり、逆に役者が座元を兼ねたりすることが多くなる。そして明治末年に市村座の経営権が田村成義の手に渡ると、「市村羽左衛門」は単に役者の名跡となった。


市村座の歴史は、寛永年間に村山又三郎が江戸に出て、葺屋町村山座の櫓を上げたのに始まる。しかし村山座の経営は不振で、年を追うごとに負債がかさんでいく。又三郎のあと座元を継いだ女婿の村田九郎右衛門は、自らが病弱だったこともあり、又三郎が数ヵ月後に病死するとすぐに村山座の興行権を売却してしまう。これを買い取ったのが上州の人で村山又三郎の門人だった市村宇左衛門である。このとき座名も村山座から市村座に替わった。


2001年(平成13年)に死去した先代の市村羽左衛門は十七代目だった。しかしこれまでに「市村宇左衛門/羽左衛門」を実際に襲名した者は12名を数えるのみである。残りの5名は、いずれも死後に代々の「市村宇左衛門」に数えられた「贈何代目」の市村宇左衛門である。


そもそも「市村宇左衛門」とは、村山座の興行権を買い取って市村座を始めた上州の人・市村宇左衛門の本名である。にもかかわらず、彼は市村宇左衛門の宗祖としてではなく、三代目として数えられている。これは彼に先立って村山座の座元だった村山又三郎と村田九右衛門の両名にそれぞれ初代宇左衛門と二代目宇左衛門が追贈されているからである。また今日四代目・六代目・七代目の宇左衛門として知られる人物は、いずれも諸般の事情から市村座の座元は継いだものの「宇左衛門」の名跡を襲名するには至らなかった者で、死後にやはり市村宇左衛門が追贈されて代々に加えられたものである。

市村宇左衛門/羽左衛門 代々
・贈二代目 市村宇左衛門


・贈初代の女婿・村田九郎右衛門、1622–52(座元 1652)。承応元年 (1652) に村山座の座元を継ぐとすぐにその興行権を売却、その後間もなく死去。


村田九郎右衛門(=贈二代目市村宇左衛門 =贈初代市村九郎右衛門
(wikiより)

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市村 宇左衞門 / 羽左衞門(いちむら うざえもん、新字体:羽左衛門)は、歌舞伎役者名跡。名の部分は七代目までが宇左衛門、以後が羽左衛門。


屋号
は七代目までは不詳、七代目から十六代目までは菊屋、十六代目以降は橘屋


十六代目以降の定紋根上り橘(ねあがり たちばな)、替紋は渦巻(うずまき)

解説

当初「市村宇左衛門」は江戸三座の一つ市村座の座元(座を主宰し芝居小屋を経営する者)の名跡だったが、元禄年間から座元が役者に転じたり、逆に役者が座元を兼ねたりすることが多くなる。そして明治末年に市村座の経営権が田村成義の手に渡ると、「市村羽左衛門」は単に役者の名跡となった。


市村座の歴史は、寛永年間に村山又三郎が江戸に出て、葺屋町村山座の櫓を上げたのに始まる。しかし村山座の経営は不振で、年を追うごとに負債がかさんでいく。又三郎のあと座元を継いだ女婿の村田九郎右衛門は、自らが病弱だったこともあり、又三郎が数ヵ月後に病死するとすぐに村山座の興行権を売却してしまう。これを買い取ったのが上州の人で村山又三郎の門人だった市村宇左衛門である。このとき座名も村山座から市村座に替わった。


2001年(平成13年)に死去した先代の市村羽左衛門は十七代目だった。しかしこれまでに「市村宇左衛門/羽左衛門」を実際に襲名した者は12名を数えるのみである。残りの5名は、いずれも死後に代々の「市村宇左衛門」に数えられた「贈何代目」の市村宇左衛門である。


そもそも「市村宇左衛門」とは、村山座の興行権を買い取って市村座を始めた上州の人・市村宇左衛門の本名である。にもかかわらず、彼は市村宇左衛門の宗祖としてではなく、三代目として数えられている。これは彼に先立って村山座の座元だった村山又三郎と村田九右衛門の両名にそれぞれ初代宇左衛門と二代目宇左衛門が追贈されているからである。また今日四代目・六代目・七代目の宇左衛門として知られる人物は、いずれも諸般の事情から市村座の座元は継いだものの「宇左衛門」の名跡を襲名するには至らなかった者で、死後にやはり市村宇左衛門が追贈されて代々に加えられたものである。

市村宇左衛門/羽左衛門 代々
・贈初代 市村宇左衛門


泉州の人・村山又三郎、1605–52(座元 1636–52)。京で座元をしていた村山又兵衛という者の弟。寛永11年 (1634) に江戸葺屋町に村山座の櫓をあげる。


・初代村山又三郎(=贈初代市村宇左衛門)
(wikiより)

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コンテナ船「らいん丸」搭載 蒸気タービンエンジン ( 高圧タービン )


この展示物は 1971年 ( 昭和46年 ) 三菱重工株式会社神戸造船所で建造され、翌年 1月 20日より神戸港起こしでヨーロッパ航路に就航していた大阪商船三井船舶株式会社のコンテナ船「らいん丸」( 51,041トン ) に搭載されていた船舶用蒸気タービンエンジンの高圧タービン部です。


タービン内部の仕組みが見えるように断面カットして、同社から神戸市に寄贈され、神戸海洋博物館の屋外展示物として設置しています。


蒸気タービンエンジンはボイラーで発生させた蒸気を羽根 ( ブレード )に吹き付けて回転体 ( ローター ) を回転させ、これによって生じた回転力を推進器 ( プロペラスクリュー ) に伝えて船を動かします。
 
この高圧タービンは、最初の勢いのある蒸気を受け入れるところで、通過した蒸気は低圧タービンに導かれ、効率よく動力を推進機に伝達します。


概要
形式:三菱ウエスティングハウス・マリン・スチームタービンエンジン(三菱衝動式復水タービン MS40)
  
最大出力:40,000PS×135RPM
 
長さ:約 4メートル


幅: 約 3m
  
高さ: 約 3m  重量: 約 12トン
 
寄贈:株式会社商船三井
  
展示協力:三井造船株式会社、三菱重工株式会社、井本商運株式会社、廣瀬造船株式会社、商船海運株式会社
(案内板より)

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有銲錨 ( ストック・アンカー )

この錨は十字に張り出した銲 ( ストック ) を持っていることから有銲錨 ( ストック・アンカー ) と呼ばれ、明治末期頃まで世界中の艦艇や商船に多く使用されていました。
 
その後、格納に便利な銲を持たない無銲錨 ( ストックレス・アンカー ) が一般の商船や艦艇に使用されるようになり、有銲錨は普通の船にはほとんど使われなくなりました。
 
しかし、有銲錨は重さの割に保持力が大きいことから、帆船や作業船、係船用ブイなどのほか、進水式で船台を抜き取るためのアンカーとして今でも使用されています。


この錨は建造中の船を係留するため、三菱重工業株式会社神戸造船所で永年使用されていたもので、銲を除いた重さが 4トンあり、明治時代の大型艦船に装備されていたものに匹敵する大きさです。


1987年寄贈:三菱重工業株式会社 神戸造船所
(案内板より)

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神戸は 1868年世界に門戸を開き、わが国の世界への窓口として役割を果たしてきた。


神戸港は、わが国を代表する国際貿易港として、世界中の人、もの、文化が神戸を経由して全国に広がり、同時に経済発展の牽引車として世界中に産品を輸出し、また移民船の基地として多くの移住者を世界に送り出した。


2001年 4月現在、全世界には 250万人を超える日系人がいる。


そのルーツは希望に燃えて我が国から世界中に出て行った 100万人を超える海外移住者である。


1908年 4月 28日に第 1回ブラジル移民船笠戸丸が神戸を出発し、1928年には、移住者保護と移住研修のための施設として、わが国初の「国立移民収容所」( 後に「神戸移住センター」と改称 ) が諏訪山の麓に設立された。
(案内板より)

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神戸開港 120周年 


メリケンシアター 


明治 29年 ( 1896 )


外国映画上陸第一歩


映画が最初に上陸したのも神戸。日本で最初の外国映画が神戸の花隈 神戸市中央区で 1896年に公開されたことを記念して、1987年「メリケン・シアター」の碑が作られる。


高さ 3m、横幅 4mの大きな石をスクリーンに見立てた前に、観客に見立てた映画スターの名前が刻まれた 42個の御影石が並んでいる。


国内外の有名映画スターは、神戸出身の評論家・故淀川長治氏により選ばれた。
 
神戸・メリケンパーク

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このトリガー装置は、船の進水式の際に船と船台をつなぐ滑り止め装置のような役割として使用されていました。


通常は船が勝手に滑り出さないよう、固定装置がしっかりと取り付けられていますが、進水が近づくと固定装置も取り外され、進水台上の船はトリガーのみで支えられます。


そしてトリガー装置の安全ピンを抜き、支綱切断と同時にトリガー用ジャッキを引き込むとトリガーが外れて、船は滑走台とともにボール上を滑り出し進水する仕組みになっています。


これは、三菱重工業株式会社神戸造船所で約60年にわたり


使用されていたもので、重さ約 25t、長さ約 9m、幅約 1mの大きさですが、同社の船舶・海洋事業の生産体制再編に伴い、2012年 3月 9日の同造船所の建造する最後の商船となった第 1296番船の進水式で、その役割を終えたものです。
(案内板より)

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徳川光圀公は元禄 4年 ( 1691年 ) 水戸の藩主を辞して西山荘に隠退し大日本史の編纂に着手されたが翌元禄 5年大楠公 ( 楠木正成公 ) を景仰して「嗚呼忠臣楠子之墓」を建立し其の御盛徳を天下に顕彰された。


湊川神社において此の御功績を追慕して御像の建立を発願し、委員長に小倉正恒氏を戴いて昭和 30年 7月 11日に完成したものである。



頌徳文寄稿  徳富蘇峰氏


銅像原型制作 平櫛田中氏


銅像鋳造   伊藤忠雄氏
(案内板より)

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史跡 楠木正則公戦没地


一、指定区域  四百十三坪九合


一、指定年月日 昭和二十六年六月九日


一、由緒

此の地は延元元年 ( 西暦 一三三六年 )

五月二十五日楠木正成公 ( 大楠公 ) が一族十六騎、郎党六十余人と共に自刃せられた所である。


明治元年 ( 一八六八年 ) 明治天皇は大楠公を千載の一人、臣子の亀鑑として鎮祭すべき旨仰せ出され此の地を含めたところに湊川神社が創建せられたのである。
(案内板より)

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楠木 正成(くすのき まさしげ)は、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての武将。出自不詳。自称は橘氏後裔。息子に正行正時正儀


元弘の乱1331年 - 1333年)で後醍醐天皇を奉じ、大塔宮護良親王と連携して、千早城の戦いで大規模な幕軍を千早城に引きつけて日本全土で反乱を誘発させることによって、鎌倉幕府打倒に貢献した。また、建武の新政下で、最高政務機関である記録所寄人に任じられ、足利尊氏らとともに天皇を助けた。延元の乱での尊氏反抗後は、新田義貞北畠顕家とともに南朝側の軍の一翼を担ったが、湊川の戦いで尊氏の軍に敗れて自害した。


南北朝時代
戦国時代江戸時代を通じて日本史上最大の軍事的天才との評価を一貫して受け、「三徳兼備」(『太平記』、儒学思想上最高の英雄・名将)、「多聞天王の化生(けしょう)」(『太平記評判秘伝理尽鈔』、「軍神の化身」の意)、「日本開闢以来の名将」(江島為信古今軍理問答』)と称された[4]。『太平記』では奇想天外な策と智謀に長けた「不敵」(無敵)の戦術家としての活躍が印象的に描かれるが、それは正成の軍才のごく限定された一面に過ぎず、史実では刀を振るえば電撃戦を得意とし六波羅探題を震撼させた猛将であり(『楠木合戦注文』『道平公記』)、築城・籠城技術を発展させ軽歩兵ゲリラ戦情報戦心理戦を戦に導入した革新的な軍事思想家であり(楠木流軍学の祖)、そして畿内にいながらにして日本列島の戦乱全体を俯瞰・左右した不世出の戦略家だった(『梅松論』『国史大辞典』)。


明治以降は「大楠公(だいなんこう)」と称され、明治13年(1880年)には正一位を追贈された。また、湊川神社の主祭神となった。


戦前までは、正成の忠臣としての側面のみが過剰に評価されたことで、対比として主君である後醍醐天皇やその建武政権の政策への低評価に繋がり、同時代への実証的研究を困難にさせた。しかし、2000年前後以降は、主君後醍醐の政策は前後の時代との連続性が見られることが指摘され、『太平記』で創作されたような暗君像は改められる方向にある。正成についても、何か一つの側面に縛られるような人間ではなく、武将・官僚・商人など、多面的な顔と才能を持つ人物であったことが明らかになってきている。

生涯
出自
自称
建武2年(1335年)8月25日、『法華経』の写経を完了し、奥書に「橘朝臣正成」と自著していることから、遅くともこの時期までには橘氏の後裔を自称していた[原文 1]

河内の土豪説

太平記』巻第三「主上御夢の事 付けたり 楠が事」には、楠木正成は河内金剛山の西、大阪府南河内郡千早赤阪村に居館を構えていたとある[5][6]


楠木氏
橘氏の後裔とされる[7]。正成の母は、橘遠保の末裔橘盛仲の娘。また、任官には源平藤橘の姓が必要であるため、楠木氏は橘氏を借りたとする説もある[7][8]。『太平記』巻第三には、楠木氏は橘諸兄の後裔と書かれており、楠木氏と関係の深い久米田寺の隣の古墳は橘諸兄の墓といわれ、楠木氏は橘氏を礼拝する豪族であったともいわれる[7]


また『観世系図』によれば、観阿弥の母は河内玉櫛荘の橘正遠(正成の父・楠木正遠)の娘すなわち正成の姉妹という記録があり、この玉櫛荘を正成の出身地とする推定もある[9]

得宗被官・御家人説

得能弘一が楠木氏駿河国出身説を提唱し(「楠木正成の出自に関する一考察」『神道学』128)、筧雅博新井孝重も楠木氏の出自は駿河国とした[7][10][11][12]。筧雅博はその理由として、以下を挙げている。


1. 楠木正成の地元である河内の金剛山西麓から観心寺荘一帯に「楠木」のあざはない。

2. 鎌倉幕府が正応6年(1293年)7月に駿河国の荘園入江荘のうち長崎郷の一部と楠木村を鶴岡八幡宮に寄進したと言う記録があり、楠木村に北条得宗被官の楠木氏が居住したと想定できる。

3. 観心寺荘の地頭だった安達氏は、弘安8年(1285年)に入江荘と深い関係にある鎌倉幕府の有力御家人長崎氏霜月騒動で滅ぼされ、同荘は得宗家に組み込まれたとみられる。それゆえ出自が長崎氏と同郷の楠木氏が観心寺荘に移ったのではないかと思われる[注釈 3]

4. 楠木正成を攻める鎌倉幕府の大軍が京都を埋めた元弘3年(正慶2年、1333年)閏2月の公家二条道平の日記である『後光明照院関白記』(『道平公記』)に くすの木の ねはかまくらに成ものを 枝をきりにと 何の出るらん という落首が記録されている[13]、この落首は「楠木氏の出身は鎌倉(東国の得宗家)にあるのに、枝(正成)を切りになぜ出かけるのか」という意とされ、河内へ出軍する幕府軍を嘲笑したものとされる[7]


網野善彦は、楠木氏はもともと武蔵国御家人北条氏被官御内人)で、得宗領河内国観心寺地頭職にかかわって河内に移ったと推定した[14]。正成は幼少時に観心寺で仏典を学んだと伝わる[10]

また、『吾妻鏡』には楠木氏が玉井、おし、岡部、滝瀬ら武蔵猪俣党とならぶ将軍随兵と記されている[15]

悪党・非御家人説

永仁3年(1295年)、東大寺領播磨大部荘が雑掌(請負代官)でありながら年貢を送らず罷免された垂水左衛門尉繁晶の一味として楠河内入道がおり、黒田俊雄はこの河内楠一族を正成の父と推定し、正成の出自は悪党的な荘官武士ではないかとした[16]


林屋辰三郎
は河内楠氏が散所民の長であったとした[17][18]兵藤裕己はこの説を有力とし、正成の行為も悪党的行為であるとした[18]


元徳
3年(1331年)9月、六波羅探題は正成が後醍醐天皇から与えられた和泉国若松荘を「悪党楠木兵衛尉跡」として没収した[10]。このことから、正成が反関東の非御家人集団とみなす説がある[10][19]佐藤和彦によれば、楠木氏は摂津から大和への交通の要衝玉櫛荘を支配し、近隣の和田(にぎた)氏、橋本氏らは同族で、楠木氏は摂津から伊賀にいたる土豪と商業や婚姻によって結びついていた[19]。また植村清二はこの「兵衛尉」官職名から幕府御家人とした[20]


正成を非御家人とみなす説について新井孝重は、楠木氏が「鎌倉武士のイメージと大きく異なるゆえに、もともと鎌倉幕府と関係のない、畿内の非御家人だろうと考えられてきた」が、「畿内のように交通と商業が盛んなところであれば、どこに暮らす武士であっても、生活のしかたに御家人と非御家人の違いはないとみたほうがよい。だから楠木氏その存在のしかたを理由に非御家人でなければならない、ということにはならない」と述べている[21]

挙兵以前

元亨2年(1322年)、正成は得宗・北条高時の命により、摂津国の要衝淀川河口に居する渡辺党を討ち、紀伊国安田庄司湯浅氏を殺害し、南大和越智氏を撃滅している[22]


この一連の状況は『高野春秋編年輯録』に詳しい[22]。渡辺党を討った正成は高野山領を通過して紀伊安田へと向かい、安田荘を攻撃した[12]。安田庄司は湯浅一族であり、当時湯浅氏は高野山との相論に負けて紀伊国阿弖河荘(阿瀬川荘)を没収されており、この正成の攻撃は没収地の差押さえであったとされる[12]。その結果、正成は幕府から得宗領となった阿弖河荘を与えられた[14][22]


その後、正成は越智氏の討伐へと向かった。越智氏は幕府に根成柿の所領を没収され、さらには北条高時が興じる闘犬の飼料供出まで求められ、憤った越智邦永が自領で六波羅の役人を殺害するに至った[22]。六波羅北方は討手として奉行人斎藤利行小串範行らを二度にわたって派遣したが、そのゲリラ戦に手痛い敗北を喫していた[23]。そのため、六波羅は正成を起用し、彼は越智氏を討つことに成功した[12]


新井孝重は、正成が渡辺党、湯浅氏、越智氏といった反逆武装民を討滅したことは非常に興味深いと述べている[23]。また、一連の軍事行動を否定する積極的な根拠は見いだせず、これらは本当にあったと考えている[22]。新井は、得宗被官であった正成が反逆武装民を討つのは当然の行為であると指摘し、この当時はまだ鎌倉幕府に忠実な「番犬」として畿内ににらみを利かせていたとしている[12]


正成による渡辺党、湯浅氏、越智氏の討滅に六波羅は感嘆の声を上げ、そして怖れたといい、世間の人々にもその強烈な印象を与えた[12]。当時、畿内では悪党が幕府への反逆、合戦を繰り返し、その支配に揺らぎが生じていた[12]。幕府は安藤氏の乱で手を焼かされており、合戦の名人である正成が悪党のエネルギーを吸収し、いずれ反逆した場合への不安を抱いたとされる[24]

挙兵から鎌倉幕府滅亡まで
後醍醐天皇に与する

その後、正成は得宗被官でありながら後醍醐天皇の倒幕計画に加担するようになった[14]。後醍醐天皇と正成を仲介したのは真言密教文観と醍醐寺報恩院道祐とされる[14][25]。ほか、伊賀兼光の関係も指摘されている。


元徳3年(1331年)2月、後醍醐天皇が道祐に与えた和泉若松荘を正成は所領として得た[14]。しかし、同年4月に倒幕計画が幕府側に知られると、8月に後醍醐天皇は笠置山に逃げ、その地で挙兵した(元弘の乱)。なお、正成はこのとき笠置山に参向している[26]。『増鏡』によると天皇側は前もって正成を頼りにしていたという[25]。正成は得宗被官から一転したため、鎌倉幕府からは「悪党楠兵衛尉」として追及を受けた[14]。同年9月、六波羅探題は正成の所領和泉国若松荘を「悪党楠木兵衛尉跡」として没収した[10]

赤坂城の戦い
詳細は「赤坂城の戦い」を参照


9月、笠置山の戦いで敗北した後醍醐天皇らは捕えられ、残る正成は赤坂城(下赤坂城)にて幕府軍と戦った(赤坂城の戦い)。幕府軍は当初、一日で決戦をつけることができると判断し、すぐさま攻撃を開始した[27]


だが、正成は寡兵ながらもその攻撃によく耐えた。敵が城に接近すれば弓矢で応戦し、その上城外の塀で奇襲を仕掛けた[27]。敵が堀に手を掛ければ、城壁の四方に吊るされていた偽りの塀を切って落として敵兵を退け、上から大木や大石を投げ落とした[28][29]。これに対し、敵が楯を用意して攻めれば、塀に近づいた兵に熱湯をかけて追い払った[30]。正成のこれらの一連の攻撃により、幕府軍の城攻めは手詰まりに陥った[30]


新井孝重は、一土豪に過ぎない正成に関東から上洛した軍勢が束になって攻撃を仕掛けたことに注目している[31]。単なる悪党の蜂起であるならばこれほどの大軍勢の投入は有り得ず、正成の尋常ならざる実力の証左であるとしている[31]。正成はかつて幕府に反逆した武士を次々に討伐した合戦の名人であり、鎌倉は明らかに正成を大いなる脅威と認識していたと考えられる[32]


しかし、赤坂城は急造の城であるため、長期戦は不可能と考えた楠木正成は、 同年10月21日夜に赤坂城に自ら火を放ち、幕府軍に城を奪わせた[14]。鎌倉幕府は赤坂城の大穴に見分けのつかない焼死体を20-30体発見し、これを楠木正成とその一族と思い込んで同年11月に関東へ帰陣した。


赤坂城には阿弖河荘の旧主湯浅宗藤(湯浅孫六入道定仏)が幕府によって配置され、その旧領である正成の領地を与えられた[22]。一方、正成は赤坂城の落城後、しばらく行方をくらました。同年末、後醍醐方の護良親王から左衛門尉を与えられた[14]

詳しいことは、「楠木正成ウィキペディア」をご覧ください。 ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A5%A0%E6%9C%A8%E6%AD%A3%E6%88%90
(wikiより)

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 お菊の墓は、神奈川県平塚市立野町 9番地・共同墓地にある眞壁家墓所に有ります。
「お菊墓」で検索してみてください。


この井戸は、播州皿屋敷 ( ばんしゅうさらやしき ) の怪談で知られる「お菊井戸」といわれています。


永正 ( えいしょう ) 年間 ( 1500年間 )、姫路城主・小寺則職の執権・青山鉄山は町坪弾四郎と語らい、城を奪おうと企てていました。


則職の忠臣・衣笠元信は、お菊を青山家に女中として住み込ませ、その企てを探らせました。


則職暗殺を探知したお菊は元信に知らせたため、則職は家島 ( 姫路 ) に逃げて殺されずにすみましたが、城は鉄山に乗っ取られました。


お菊の動きを知った弾四郎は、お菊を助ける代わりに結婚を強要しました。


元信を慕うお菊はそれを拒みました。


弾四郎はそんなお菊を憎み、青山家の家宝の 10枚揃いの皿の 1枚を隠し、その罪をお菊にかぶせて責めあげました。


それでも弾四郎を拒むお菊は、ついに切り殺されて井戸に投げ込まれました。


その後、毎夜この井戸から「1枚、2枚、3枚、…9枚」と 9枚目まで何度も数えるお菊の声が聞こえたといいます。


やがて元信らが鉄山一味を滅ぼし、お菊は「御菊大明神」として、十二所神社内に祀られました。
(案内板より)

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姫路城(ひめじじょう)は、兵庫県姫路市にある日本の城江戸時代初期に建てられた天守等の主要建築物が現存し、国宝重要文化財に指定されている。また、主郭部を含む中堀の内側は「姫路城跡」として国の特別史跡に指定されている[8][9]。また、ユネスコ世界遺産リストにも登録され[10][11]日本100名城[12]などに選定されている。別名を白鷺城(はくろじょう・しらさぎじょう。詳細は名称の由来と別名を参照)という。

概要

姫路城は播磨国飾磨郡[13]のち飾東郡姫路、現在の姫路市街の北側にある姫山および鷺山を中心に築かれた平山城で、日本における近世城郭の代表的な遺構である。江戸時代以前に建設された天守が残る現存12天守の一つで、中堀以内のほとんどの城域が特別史跡に、現存建築物の内、大天守・小天守・渡櫓等8棟が国宝に、74棟の各種建造物(櫓・渡櫓27棟、門15棟、塀32棟)が重要文化財に、それぞれ指定されている。1993年平成5年)12月にはユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録された[14]。この他、「国宝五城」[注釈 1]や「三名城」、「三大平山城・三大連立式平山城」の一つにも数えられている。 姫路城の始まりは、1346年南朝正平元年、北朝貞和2年)の赤松貞範による築城とする説が有力で、『姫路城史』や姫路市ではこの説を採っている。一方で赤松氏時代のものは砦や館のような小規模なもので、城郭に相当する規模の構築物としては戦国時代後期に西播磨地域で勢力を持っていた小寺氏[注釈 2]の家臣、黒田重隆職隆父子による築城を最初とする説もある[15]


戦国時代後期から安土桃山時代にかけて、黒田氏羽柴氏城代になると、山陽道上の交通の要衝・姫路に置かれた姫路城は本格的な城郭に拡張され、関ヶ原の戦いの後に城主となった池田輝政によって今日見られる大規模な城郭へとさらに拡張された。


江戸時代には姫路藩藩庁となり、更に西国外様大名監視のために西国探題が設置されたが、城主が幼少・病弱な場合には牽制任務を果たせないために城主となる大名が頻繁に交替している。池田氏に始まり譜代大名本多氏榊原氏酒井氏親藩松平氏が配属され、池田輝政から明治新政府による版籍奉還が行われた時の酒井忠邦まで約270年間、6氏31代(赤松氏から数えると約530年間、13氏48代)が城主を務めた。

明治時代には維新の初期に払い下げが行われ、百円で落札されたが、取り壊し費用が莫大であったことから落札者が願い下げした[16]。その後陸軍の兵営地となり、歩兵第10連隊が駐屯していた。この際に多くの建物が取り壊されたが、陸軍の中村重遠工兵大佐の働きかけによって大小天守群・櫓群などが名古屋城とともに国費によって保存される処置がとられた[2]


昭和に入り、太平洋戦争において姫路も2度の空襲被害があったものの、大天守最上階に落ちた焼夷弾不発弾となる幸運もあり奇跡的に焼失を免れ、現在に至るまで大天守をはじめ多くの城郭建築の姿を残している。昭和の大修理を経て、姫路公園の中心として周辺一帯も含めた整備が進められ、祭りや行事の開催、市民や観光客の憩いの場になっているほか、戦国時代江戸時代を舞台にした時代劇などの映像作品の撮影が行われることも多く、姫路市の観光・文化の中核となっている。

名称の由来と別名

姫路城天守の置かれている「姫山」は古名を「日女路(ひめじ)の丘」と称した。『播磨国風土記』にも「日女道丘(ひめじおか)」の名が見られる[17]姫山が多く咲いたことから「桜木山」、転じて「鷺山(さぎやま)」とも言った[18]。天守のある丘が姫山、西の丸のある丘が鷺山とすることもある。

橋本政次『姫路城の話』では、別名「白鷺城(はくろじょう)」の由来として、推論も含め、以下の4説が挙げられている[19]

・姫路城が「鷺山」に置かれているところから。

・白漆喰で塗られた城壁の美しさから。

ゴイサギなど白鷺と総称される鳥が多く住んでいたから。

・黒い壁から「烏城(うじょう)、金烏城(きんうじょう)」とも呼ばれる岡山城との対比から。


白鷺城は「はくろじょう」の他に「しらさぎじょう」とも読まれることがあり[注釈 3]村田英雄の歌曲に『白鷺(しらさぎ)の城』というものもある。これに対し、前出の橋本は漢学的な名称であることから、「しらさぎじょう」という読みを退け、「はくろじょう」を正しい読みとしている[19]。現在は、『日本歴史大事典』(小学館)、『もういちど読む山川日本史』(山川出版社)のように「しらさぎじょう」の読みしか掲載していないもの、『日本史事典』(三訂版、旺文社)、『ビジュアルワイド 日本名城百選』(小学館)のようにどちらかを正しいとせずに「はくろじょう」「しらさぎじょう」を併記しているものなども見られる。姫路市内では市立の白鷺(はくろ)小中学校のように学校名に使用されたり、小中学校の校歌でも「白鷺城」または「白鷺」という言葉が使われていることが多い[注釈 4]。戦前の姫路市内の尋常小学校で歌われていた『姫路市郷土唱歌』の歌詞にも「白鷺城」や「池田輝政(三左衛門)」などが使われている。

他にも以下のような別名がある。

不戦の城


幕末に新政府軍に包囲されたり、第二次世界大戦で焼夷弾が天守に直撃したりしているものの、築城されてから一度も大規模な戦火にさらされることや甚大な被害を被ることがなかったことから。

歴史・沿革
南北朝時代・戦国時代

1333年元弘3年)、元弘の乱護良親王令旨を奉じて播磨国守護赤松則村が挙兵し、上洛途中の姫山にあった称名寺[21][注釈 5]を元に縄張りし、一族の小寺頼季に守備を命じた[22][23]南北朝の争乱足利尊氏に呼応した則村が再度挙兵し、1346年南朝正平元年、北朝貞和2年)、次男の赤松貞範称名寺を麓に移し姫山に築城し姫山城とした[24][25][26]1349年(南朝:正平4年、北朝:貞和5年)、貞範が新たに庄山城(しょうやまじょう)[注釈 6]を築城して本拠地を移すと、再び小寺頼季が城代になって以後は小寺氏代々が城代を務める[27]


1441年嘉吉元年)、嘉吉の乱赤松満祐教康父子に対して山名宗全が挙兵、赤松父子は城山城で自害し赤松氏は断絶、赤松満祐に属していた城代の小寺職治討死した。その後、山名氏が播磨国守護に、山名氏の家臣・太田垣主殿佐が城代になった。1458年長禄2年)、長禄の変後南朝から神爾を取り戻した功績で赤松政則(満祐の弟の孫)の時に赤松氏再興が許された。1467年応仁元年)、応仁の乱で山名氏に対立する細川勝元方に与した政則が弱体化した山名氏から播磨国を取り戻し、当城に本丸・鶴見丸・亀居丸を築いた。


1469年
文明元年)、則村が隣国の但馬国に本拠地がある山名氏に備えるため新たに築いた置塩城に本拠地を移し、小寺豊職が城代になった。1491年延徳3年)、豊職の子・政隆が城代になり、御着城(姫路市御国野町御着)を築城開始。1519年永正16年)、政隆が御着城に本拠地を移し、子の則職が城代になった。


1545年
天文14年)、則職が御着城に移り、家臣の黒田重隆に城を預ける。黒田重隆・職隆父子が主君で御着城主の小寺政職(則職の子)の許可を受けて、御着城の支城として1555年(天文24年)から1561年永禄4年)の間に、現在よりも小規模ではあるが居館程度の規模であったものから姫山の地形を生かした中世城郭に拡張したと考えられている。姫路(姫山)に城があったと確認できる一次史料は、永禄4年の『正明寺文書』に「姫道御溝」の記述や『助太夫畠地売券』に城の構えがあるという記述で、これらを根拠に姫路城の始まりという説もある[28]。職隆は百間長屋を建てて貧しい者や下級武士、職人、行商人などを住まわせるなどして、配下に組み入れたり情報収集の場所としていた[29]


1567年(永禄10年)、職隆の子・孝高が城代になった。1568年(永禄11年)、青山・土器山の戦い赤松政秀軍の約3,000人に対して黒田軍(職隆・孝高父子)は約300人という劣勢で姫路城から撃って出て赤松軍を撃退する。以後、1573年天正元年)まで孝高(官兵衛・如水)が城代を務めた。

安土桃山時代

1576年(天正4年)、中国攻めを進める織田信長の命を受けて羽柴秀吉が播磨に進駐すると、播磨国内は織田氏につく勢力と中国路の毛利氏を頼る勢力とで激しく対立、最終的には織田方が勝利し、毛利方についた小寺氏は没落した。ただし小寺氏の家臣でありつつも早くから秀吉によしみを通じていた黒田孝高はそのまま秀吉に仕えることとなった。1577年(天正5年)、孝高は二の丸に居を移し本丸を秀吉に譲った。


1580年(天正8年)、三木城英賀城などが落城し播磨が平定されると孝高は秀吉に「本拠地として姫路城に居城すること」を進言し姫路城を献上、自らは市川を挟んで姫路城の南西に位置する国府山城(こうやまじょう)[注釈 7]に移った[30]。秀吉は、同年4月から翌年3月にかけて行った大改修により姫路城を姫山を中心とした近世城郭に改めるとともに、当時流行しつつあった石垣で城郭を囲い、太閤丸に天守(3層と伝えられる)を建築し姫路城に改名する[31][32][24]。あわせて城の南部に大規模な城下町を形成させ、姫路を播磨国の中心地となるように整備した。この際には姫路の北を走っていた山陽道を曲げ、城南の城下町を通るようにも改めている。同年10月28日、龍野町(たつのまち)に、諸公事役免除の制札を与える。この最初の条文において、「市日之事、如先規罷立事」とあることから、4月における英賀城落城の際に、姫路山下に招き入れ市場を建てさせた英賀の百姓や町人達が龍野町に移住したとする説がある[33]1581年(天正9年)、秀吉は姫路城で大茶会を催した後、鳥取城攻略へ出陣した(中国攻め#鳥取城攻めと淡路平定 /天正9年)。


1582年(天正10年)6月、秀吉は主君・信長を殺害した明智光秀山崎の戦いで討ち果たし、一気に天下人の地位へ駆け上っていく。このため1583年(天正11年)には天下統一の拠点として築いた大坂城へ移動、姫路城には弟・豊臣秀長が入ったが1585年(天正13年)には大和郡山へと転封。替わって木下家定が入った[注釈 8]


1600年(慶長5年)、池田輝政関ヶ原の戦いの戦功により三河吉田15万石から播磨52万石(播磨一国支配)で入城した。輝政は徳川家康から豊臣恩顧の大名の多い西国を牽制する命を受けて1601年(慶長6年)から8年掛けた大改修で姫山周辺の宿村・中村・国府寺村などを包括する広大な城郭を築いた[34][35][36]。中堀は八町毎に門を置き、外堀からは城下と飾磨津運河で結ぶ計画であったが輝政の死去と地形の高低差の問題を解決できず未完に終わる[37]。運河計画は後の本多忠政の時代に船場川を改修して実現することになる。普請奉行は池田家家老の伊木長門守忠繁、大工棟梁は桜井源兵衛である。作業には在地の領民が駆り出され、築城に携わった人員は延べ4千万人 - 5千万人であろうと推定されている[18]。また、姫路城の支城として播磨国内の明石城船上城)・赤穂城三木城利神城龍野城(鶏籠山城[注釈 9])・高砂城も整備された。

江戸時代
姫路藩の歴史も参照。


1617年(元和3年)、池田氏は跡を継いだ光政が幼少であり、山陽道の要衝を任せるには不安であることを理由に因幡鳥取へ転封させられ、伊勢桑名から本多忠政が15万石で入城した。忠政は城の西側を流れる妹背川を飾磨津までの舟運河川に改修し船場川と改名した[38][39]1618年(元和4年)には千姫本多忠刻に嫁いだ化粧料を元に西の丸が整備され[40]、全容がほぼ完成した。

城内の武士階級の人口は次の通り[41]


・池田氏時代(1603年頃):300石以上の中級武士が約500人。

・本多氏時代(1617年から1639年):忠政の家臣が700人以上、忠刻の家臣が500人以上、足軽や小者を含め約4000人。

・榊原氏時代(1649年から1667年、1704年から1741年):家臣・足軽など約3000人、

・酒井氏時代(1749年から1871年):家臣・足軽など約2200人


藩主は親藩および譜代大名が務めたが、本多家の後は奥平松平家越前松平家榊原家、再度越前松平家、再度本多家、再度榊原家、再々度越前松平家と目まぐるしく入れ替わる。1749年(寛延2年)に上野前橋城より酒井氏が入城してようやく藩主家が安定する。しかし、姫路城は石高15万石の姫路藩にとっては非常な重荷であり、譜代故の幕府要職の責務も相まって藩の経済を圧迫していた。


幕末期、鳥羽・伏見の戦いにおいて姫路城主酒井忠惇老中として幕府方に属し将軍徳川慶喜とともにあったため、姫路藩も朝敵とされ姫路城は岡山藩龍野藩を主体とする新政府軍の兵1,500人に包囲され、車門・市ノ橋門、清水門に兵を配置されている。この時、輝政の子孫・池田茂政[注釈 10]の率いる岡山藩の部隊が景福寺山に設置した大砲で姫路城に向けて数発空砲で威嚇砲撃を行っている。その中に実弾も混じっており、このうち一発が城南西の福中門に命中している。両者の緊張は高まり、新政府軍の姫路城総攻撃は不可避と思われたが、摂津国兵庫津の勤王豪商・北風荘右衛門貞忠が、15万両に及ぶ私財を新政府軍に献上してこれを食い止めた。この間に藩主の留守を預かる家老達は最終的に開城を決定し、城の明け渡しで新政府に恭順する。こうして姫路城を舞台とした攻防戦は回避された。

詳しいことは、「姫路城ウィキペディア」をご覧ください。 ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A7%AB%E8%B7%AF%E5%9F%8E
(wikiより)

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梅容童女

大石良雄の娘。

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 土日祭日のみの公開です。


5棟の堂は、本田忠勝・忠政・政朝・政長・忠国の墓です。


本多家は江戸時代、初期中期の二度、姫路城主となりました。


忠政・政朝・忠国の 3人です。


忠政は、池田家のあとをうけて 1617 ( 元和 3 ) 年、桑名より姫路へ移り、城を整備したり船場川の舟運を開いた城主です。


政朝は忠政の二男で、あとをつぎました。


忠国は、二度目の本田家の姫路城主で、1682 ( 天和 2 ) 年に福島より入封しました。


忠勝は忠政の父で平八郎と称し、幼少より家康に仕え徳川四天王の一人。


政長は政朝の子で、大和郡山城主となりました。


堂のない大きな 2基の五輪塔は、忠政の子・忠刻 ( ただとき ) と孫・幸千代の墓です。


忠刻は大阪落城後の千姫と結婚し、姫路で暮らしましたが、幸千代が 3歳で死去、忠刻も 31歳で没し、ここに葬られました。


忠刻の墓のうしろには、殉死した宮本三木之助と岩原牛之助、三木之助に殉死した宮田角兵衛の墓が並んでいます。


五棟の堂は、江戸時代の廟建築の推移を知るのに重要な建物で、昭和 45年に兵庫県指定文化財となっています。
(案内板より)

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圓教寺(円教寺、えんぎょうじ)は、兵庫県姫路市書写山(しょしゃざん)に位置する寺院で、天台宗別格本山である[1]。山号は書寫山(書写山)[2]。本尊は如意輪観世音菩薩(如意輪観音)。西国三十三所第27番[3][4]。現住職は第140世長吏(ちょうり)。宗教法人としての名称は常用漢字体の「円教寺」である[5]


写真撮影について、圓教寺では「ご自身の目で見えるものは自由にお撮りください」と告知されている。

本尊真言:おん ばだら はんどめい うん


ご詠歌
(西国第27番):はるばると登れば書寫の山おろし 松のひびきも御法(みのり)なるらん

概要

西国三十三所のうち最大規模の寺院で、「西の比叡山」と呼ばれるほど寺格は高く、中世には、比叡山大山とともに天台宗の三大道場と称された巨刹である[4]。京都から遠い土地にありながら、皇族や貴族の信仰も篤く、訪れる天皇法皇も多かった。


境内は、仁王門から十妙院にかけての「東谷」、摩尼殿(観音堂)を中心とした「中谷」、3つの堂(三之堂)や奥之院のある「西谷」に区分される[6]。伽藍がある標高371mの書写山は、兵庫県指定の書写山鳥獣保護区(特別保護地区)に指定されている[7]。撮影禁止の対象物はない。商業利用の撮影は申請を要する。


山内には、姫路藩本多氏の墓所である本多家廟所があり、そこには本多忠刻に仕え殉死した宮本武蔵の養子・宮本三木之助などの墓もある[8]室町時代応永5年(1398年)から明治維新まで女人禁制であったため、女性は東坂参道の入口にある女人堂(現・如意輪寺)に札を納めて帰った[9][10]


近年では、2003年平成15年)公開のハリウッド映画『ラスト サムライ[11]のほか、NHK大河ドラマ武蔵』(2003年〈平成15年〉)や『軍師官兵衛』(2014年 〈平成26年〉)、『3月のライオン』『本能寺ホテル』『関ヶ原』のロケ地にもなった。


書写山の山上にあり、康保3年(966年)、性空の創建と伝えられる[12][13][14]。もとは素盞嗚命が山頂に降り立ち、一宿したという故事により、「素盞ノ杣」といわれ、性空入山以前よりその地に祠が祀られていたといわれる。山号の由来はこの「素盞(すさ)」からのものといわれ、姫路市と合併する以前は、飾磨郡曽左村と呼ばれていたが、この「曽左(そさ)」も素盞に由来する[15]。創建当初は「書写寺」と称した。仏説において書写山は、釈迦如来による霊鷲山の一握の土で作られたと伝えられ、「書寫山」の字が当てられたのは、その山がまさに霊鷲山を「書き写した」ように似ることによるといわれる[15]。また一つに、その名は、山上の僧が一心に経典を書写する姿に、山麓の人たちが崇敬をもって称したとも伝えられる[11]


性空の生年については、西暦903年説、910年説、928年説があるが[16]、『性空上人伝記遺続集』(三千院所有、重要文化財[17])によれば、性空は延喜10年(910年)の生まれで、貴族の橘氏の出身であったという[16][18]。性空は出家した時、すでに36歳であり、それから約20年間、霧島山脊振山など九州で修行を積んだ後、霊地を求める旅に出て、康保3年(966年)の57歳の時、書写山に庵を結んだのが書写寺の始まりであるとされる[19][20]。入山して4年目の天禄元年(970年[21]、天人が書写山内のサクラの霊木を賛嘆礼拝するのを見た性空が、弟子の安鎮に命じて生木のサクラに如意輪観音の像を刻み、その崖に3間四方の堂を建てた[22]。これが如意輪堂(現・摩尼殿)の創建であるという[23]


性空の伝記や説話は『性空上人伝記遺続集』のほか、『元亨釈書』、『今昔物語集』などにも見られる[24]。それらによると、性空は俗事を厭い[25]、栄華や名声に関心がなかったが、都の皇族や貴顕の崇拝が篤かったという[26]。なかでも性空に対する尊崇の念が強かった花山法皇は、寛和2年(986年)に来山して、圓教寺の勅号を与え[27]、米100石を寄進。性空はこの寄進をもとに講堂(現・大講堂)を建立したとされる[28]。花山法皇以外にも、後白河法皇[29]後醍醐天皇[30]など多くの皇族が行幸、また勅願により建物の改築・改修、建立が行われている[31]


花山法皇勅願の「円教」という寺号には、輪円具足を教えるという意味がある。円の形(輪円)は欠けたところがなく、徳において最も成就した状態を象徴していることから、自己を完成する道を教える寺の意となる[32][33]

武蔵坊弁慶は、一時期、書写山で修行したとされており、机などゆかりの品も伝えられ公開されている[34]。ただし史実である確証はない。一遍一向俊聖国阿らの時衆聖らが参詣したことでも知られる。一遍は入寂直前に書写山の僧に、聖教を預けた。


天正6年(1578年)、織田信長より中国地方征伐を命じられた豊臣秀吉が、播磨制圧のため乱入し、摩尼殿の本尊である如意輪観音像などを近江の長浜に持ち帰った[1][35]。その後、天正8年(1580年)に、長浜より如意輪観音像だけが戻された[1]。この摩尼殿の本尊は、性空の如意輪観音像と同木同作の如意輪観音であり、性空の生木如意輪観音像は、延徳4年(1492年)の[36]真言堂からの火災により、蓮鏡院、如意輪堂とともに焼失している[37]

境内・伽藍

国の史跡に指定されている圓教寺の境内は[38]、姫路市街の北方およそ8kmに位置する書写山の山上一帯を占め、境内地は東西に長く広がる。市街地から近く、標高も371 mとそれほど高くないが、境内地には自然環境が良好に保持され、山岳寺院の様相を呈する[39]


古来、書写山への登山道として、東坂(ひがしざか)、西坂(にしざか)、六角坂(ろっかくざか)、刀出坂(かたなでざか)、鯰尾坂(ねんびざか)、置塩坂(おしおざか)の6つがあったが[39][40]1958年昭和33年)[10][41]、東坂に沿ってロープウェイが開通してからは、ロープウェイ山上駅から仁王門を経て、摩尼殿へ上る参道が主となっている。


境内地には、明確な境界線はないが、仁王門などのある「東谷」、摩尼殿付近の「中谷」、大講堂・食堂(じきどう)・常行堂(じょうぎょうどう)および奥之院などのある「西谷」に分けられる[42]。西国三十三所観音霊場の札所でもある摩尼殿が一山の中心となる堂であるが、圓教寺の本堂にあたる大講堂や、性空の像を祀る開山堂のある奥之院なども、信仰上重要である。

東谷

ロープウェイ山上駅から、ゆるやかに登る参道を歩み、仁王門を経て摩尼殿までは徒歩25分ほどである[43]。山上駅から仁王門へ至る参道は「西国巡礼の道」と称され[44]、左右に、西国三十三所の各札所本尊を表した銅像が設置されている[45]1989年完成)。仁王門を通り、寿量院、圓教寺会館、十妙院を過ぎると、参道は「権現坂」と称する下りの階段になり、下りきったところが摩尼殿の縁下である[33][46]


椎名麟三文学碑 - ロープウェイ山上駅近くの広場にある[47]。地元出身の作家・椎名麟三を記念して1980年(昭和55年)に建立されたもの。「言葉のいのちは愛である」の碑文は岡本太郎[47]

・慈悲(こころ)の鐘 - 山上駅近くにある鐘楼で、1992年(平成4年)10月建立。鐘は参拝者が自由に撞くことができる[44]

・如意輪観音像 - 銅製。本尊(摩尼殿安置)の分身像[48]1987年(昭和62年)11月造立。

・西国三十三観音像 - 銅製。慈悲の鐘から仁王門までの参道沿いに並ぶ西国三十三所の各本尊・観音像[45][49]

・仁王門 - 切妻造、本瓦葺、桁行(正面)3間、梁間(側面)2間。三間一戸の八脚門江戸時代初期、元和3年(1617年)再建。県指定文化財[50]。安置する木造金剛力士像(仁王像)2体は室町時代の作で、市指定文化財[51]

・圓教寺会館(宿坊) - 旧・金輪院。本尊は阿弥陀三尊

中谷

「権現坂」を下りきると、元和3年(1617年)に姫路城主となった本多忠政が寄進した湯屋橋という小さな石橋があり[52]、その先の崖上に観音堂である摩尼殿がある[53]


・摩尼殿
(兵庫県指定有形文化財) - 旧・如意輪堂。摩尼殿の号は承安4年(1174年)に参詣した後白河法皇による[1][54](「摩尼」(maṇi) は梵語で「如意」の意[36][55])。 入母屋造、本瓦葺。懸造の仏堂である[56]。旧堂が1921年大正10年)12月に焼失した後[57]、再建に着手され、1933年(昭和8年)に落慶したもので[56][58]、設計は武田五一である[59]。大工棟梁は帝室技芸員の伊藤平左衛門守道(九代)[60]である。近代の再建ではあるが、伝統様式による木造建築で、1999年(平成11年)、国の登録有形文化財に登録され[59]2015年(平成27年)、市指定文化財[61]を経て、2017年(平成29年)に兵庫県指定有形文化財となる。内陣に造り付けの大厨子は5間に分かれ、向かって左側の間から広目天増長天、如意輪観音(本尊)、多聞天持国天の各像を安置する。いずれも秘仏で、1月18日の修正会(しゅしょうえ)に開扉する[36][48]


  ・木造如意輪観音坐像 - 1933年(昭和8年)、石本暁海作。本尊の六臂(ろっぴ)の坐像である。像高97.0 cm[36]

  ・如意輪観音坐像 - 摩尼殿の厨子内から発見され[62]2006年(平成18年)の開山性空一千年忌に初めて公開された[36]。サクラの一木造[62]。像高は19.8 cm(台座含30.9 cm)で、像底の銘により延応元年(1239年[36][63]、当時の住僧・妙覚によって供養されたものと判明する。県指定文化財[64]

  ・木造四天王立像(重要文化財) - 持国天、増長天、広目天、多聞天の4体で、内陣厨子に安置する。4体ともヒノキ一木造[65]。摩尼殿再建前は大講堂の釈迦三尊像(釈迦如来および両脇侍像)の周囲に安置されていたもので[65]、寺の創建当時の10世紀(寛和2年〈986年〉[66])の作とみられる[62]

    ・持国天 - 像高131 cm。弘治2年(1556年)に修理された銘がある[65]

    ・増長天 - 像高127 cm[65]

    ・広目天 - 像高123 cm[65]

    ・多聞天 - 像高118 cm。治承3年(1179年)および享保17年(1732年)に修理された銘がある[65]


・三十三所堂 - 西国三十三所の観音像を安置。

・はづき茶屋 - 摩尼殿前。はづき(端月)の名は、和泉式部が性空に詠み送った「冥きより冥き道にぞ入りぬべき遙かに照らせ山の端の月」からとられた。

・本坊(事務所) - 旧・妙覚院。

・放生池(上下、二つの池)、いずれも弁天島がある。上池には辯財天像はない。

・石造笠塔婆 - 湯屋橋の手前参道脇にある。高さ137 cm[33][67](総高153 cm)。笠のような石が載る流紋岩質凝灰岩による塔で、上方に定印の阿弥陀坐像の浮き彫りがあり、下方に延慶4年(1311年)造立とわかる銘がある。上部の宝珠は後の時代のもの[68]。県指定文化財。

・護法石(弁慶のお手玉石) - 摩尼殿の手前にある[69]直径約1 mの2つの石で、不動明王の化身である乙天(おつてん)と毘沙門天の化身である若天(わかてん)の2童子が降り立ったと伝えられる。また、弁慶がお手玉にしたともいわれる[70][43]

・牛墓 - 永仁5年(1297年)から嘉元4年(1306年)にかけて5回、角の聞に「播州書寫山」の札をつけ、付き添いもない1頭の牛が、上野国群馬県)世良田の長楽寺から圓教寺まで仏具などを運び、5回目に戻った際、いつも休んだ杉の根元で落命。そこに牛を供養し墓標が設けられた[71]

詳しいことは、「圓教寺ウィキペディア」をご覧ください。 ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%93%E6%95%99%E5%AF%BA
(wikiより)

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姫路市指定史跡 黒田職隆 ( もとたか ) 廟所


黒田職隆は、安土桃山時代の武将 黒田孝高 ( 官兵衛、如水 ) の父である。


孫の長政は、初代筑前福岡藩主。


廟所は南北約十五m、東西十二mの規模で、中央の廟屋内に大型の五輪塔が建つ。


五輪塔は角礫質凝灰岩製で、地輪に刻銘がある。


江戸時代の古文書『播磨古事』等によれば、天明三年 ( 1783 ) 十月、姫路城下の心光寺住職入誉 ( にゅうよ ) が墓所発見を福岡藩に報告し、翌年十月、福岡藩が玉垣を巡らし、廟屋を整備するなどしたとされる。


現在の廟屋は昭和五十二 ( 1977 ) 年に地元自治会が修築したもの。


北約八〇〇mには、職隆が晩年に在城したとされる妻鹿国府山城 ( 功山城 )がある。
(案内板より)

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ここの墓所には、黒田孝高 ( よしたか )〈 官兵衛のちの如水 〉の祖父・重高 ( しげたか ) と生母 ( 明石氏 ) の 2人がまつってあります。


黒田家は御着城主小寺家の家老となり、重隆の時から姫路城を守って姫路城主となりました。


姫路城主むは子の職隆 ( もとたか )、孫の孝高とつぎましたが、1580 ( 天正 8 ) 年秀吉の播磨平定の時、孝高は姫路城を秀吉に譲り、父職高と自分は国府山城 ( 妻鹿 ) に移りました。


職高の墓所は妻鹿にあります。


のちに黒田家は筑前福岡の城主となったので、どちらの墓所も地元では「チクゼンサン」と呼んでいます。

ここの墓所は、1802 ( 享和 2 ) 年に資材を吸収から運んできて造られました。


廟屋を持つ立派なもので、周りの龍山石の石塀から内部は、昭和 56年に姫路市指定史跡となっています。
(案内板より)


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黒田官兵衛孝高と御着城


黒田家は、「寛政重修諸家譜」などによれば、近江国伊香郡黒田村 ( 現・滋賀県長浜市木之本町 ) の出身とされます。 


重隆の代に播磨に入り、御着城主小寺政職に仕えました。
 
御着城は永正 16年 ( 1519 ) に築城されたと伝わりますが、明応 4年 ( 1495 ) に小寺氏は御着納所で段銭を徴収しており、15世紀末には既にこの地域を拠点としていました。


羽柴秀吉による播磨侵攻で御着城は天正 7年 ( 1579 ) に陥落しました。
 
黒田官兵衛孝高は、羽柴秀吉の播磨侵攻、中国攻め、四国・九州遠征などで軍師として活躍し、天正 15年 ( 1587 ) に中津城 ( 現・大分県中津市 ) を与えられました。


孝高の嫡男長政は、慶長 5年 ( 1600 ) の関ヶ原合戦の戦功で筑前 52万 3千石を与えられ福岡城 ( 現・福岡県福岡市 ) の移りました。
 
この地は、かっての御着城本末付近に位置し、黒田官兵衛孝高の祖父重隆と父職隆の妻 ( 孝高の母 ) を祀った黒田家廟所 ( 姫路市指定史跡 ) があります。


また南側には小寺三代目城主を祀った小寺大明神があります。 


平成 21年 4月 姫路市教育委員会
(石碑文より)


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伊舟城 源一郎(いばらき げんいちろう、天保元年(1830年) - 元治元年12月26日1865年1月23日))は、幕末武士[1]。名は致美[1]。通称ははじめ宗一郎[1]

経歴・人物

播磨国姫路藩[1]文久2年(1862年)上洛[2]。他藩の尊攘派と交流し尊王攘夷運動に参加、文久3年1月29日賀川肇暗殺事件に関与[2]。元治元年(1864年)藩に戻るが、事件が発覚し処刑された[2]


明治31年(1898年)、正五位を追贈された[3]

脚注
1. a b c d デジタル版 日本人名大辞典+Plus(講談社)『伊舟城源一郎』 - コトバンク
2. a b c 朝日日本歴史人物事典(朝日新聞社)『伊舟城源一郎』 - コトバンク
3. 田尻佐 編『贈位諸賢伝 増補版 上』(近藤出版社、1975年)特旨贈位年表 p.10
(wikiより)

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池田 輝政(いけだ てるまさ)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将大名美濃池尻城主、同大垣城主、同岐阜城主、三河吉田城主を経て、播磨姫路藩初代藩主となる。姫路城を現在残る姿に大規模に修築したことで知られる。

生涯
織田家臣の時代と活躍
永禄7年(1564年)、織田信長の重臣・池田恒興の次男として尾張国清洲で生まれ[3]、幼名を古新といった[4]。元服してからは実名「照政」を称した。実名「照政」は慶長12年閏4月9日まで確認され、7月3日からは実名「輝政」に改名していることが確認される[4]。父や兄・元助と共に信長に仕え、輝政は信長の近習となる[5]天正元年(1573年)、母方の伯父・荒尾善久の養子となり木田城主となる。荒木村重が謀反を起こした有岡城の戦いでは天正7年(1579年)11月に父と共に摂津倉橋に在陣した[6]。天正8年(1580年)の花隈城(花熊城)攻略の際(花熊城の戦い)には北諏訪ヶ峰に布陣し[5]、閏3月2日に荒木軍の武士5、6名を自ら討ち取る高名を立てた[6]。その軍功により信長から感状を授けられた[5]

家督相続と豊臣家臣の時代

天正10年(1582年)2月、兄と共に甲州征伐に出陣する。同年6月、本能寺の変で信長が明智光秀に弑されると父兄と共に羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)に仕え、同年10月15日、秀吉が京都大徳寺で信長の葬儀を催すと、輝政は羽柴秀勝と共に棺を担いだ[7]


天正11年(1583年)、父が美濃大垣城主となると、自らは池尻城主となった[5]。天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いで、父の恒興と兄の元助が討死したため家督を相続し[注釈 1][8]、美濃大垣城主13万石を領した[5][6]。天正13年(1585年)には同じ13万石で岐阜城主となった[6]


その後も紀州征伐富山の役佐々成政征伐)、九州平定など秀吉の主要な合戦の大半に従軍した[6]。天正15年(1587年)6月21日から、羽柴岐阜侍従として所見される[4][9]天正16年(1588年)、従四位下侍従に叙任、豊臣姓を下賜された[9]。天正18年(1590年)の小田原征伐奥州仕置には2,800の兵を率いて参加した[6]。そのため戦後の同年9月、三河国の内、渥美宝飯八名設楽4郡(東三河)において15万2,000石に加増され、吉田城主となった[5][6]。また、在京の粮米として伊勢国小栗栖庄を与えられた。


吉田城主時代は[注釈 2]同時期に尾張に入部した豊臣秀次に付属させられたと見られており[6]、そのため文禄の役に際しては国内守備の任務にあった秀次に近侍して吉田城に留まり東国警衛の任にあたっている。朝鮮出兵に関する任務としては、大船建造や兵糧米の名護屋城回送を命じられている[10]。また、伏見城普請や豊臣秀保大和多内城普請を務めた[5]


豊臣時代、輝政は豊臣一族に準じて遇された。文禄3年(1594年)、秀吉の仲介によって、徳川家康の娘・督姫を娶る[11]。輝政の正室・糸姫は利隆を出産した際、出血が止まらずそれがもとで病気になり実家に帰ったとされる(『池田家履歴略記』)。中川家とはその後も関係が良好で、関ヶ原の戦いの前に糸姫の弟の中川秀成は輝政の仲介で家康に忠誠を誓った[12]文禄4年(1595年)、関白・豊臣秀次の失脚時、秀次の妻妾の多くが殺害されたものの、輝政の妹・若政所(秀次の正室)は例外的に助命されており、特別丁重に扱われている(秀次事件)。

関ヶ原と西国の太守

慶長3年(1598年)8月、秀吉が没すると家康に接近した。また、福島正則加藤清正武断派の諸将らと共に行動し、文治派石田三成らと対立し、慶長4年(1599年)閏3月3日、武断派と文治派の仲裁をしていた前田利家が死去すると、七将の一人として福島正則・加藤清正・加藤嘉明浅野幸長黒田長政らと共に石田三成襲撃事件を起こした[注釈 3]。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、前哨戦となった織田秀信の守る岐阜城攻略に参加し[5]、福島正則と共に功を挙げた(岐阜城の戦い)が、本戦では毛利秀元吉川広家南宮山の西軍の抑えを務めており、直接の戦闘はなかった。


慶長6年(1601年)2月8日、徳川秀忠が輝政邸を訪れたが、これは関ヶ原以後初めての外様大名の屋敷への御成であったとされる(『落穂集』)。


戦後、岐阜城攻略の功績から播磨姫路52万石[注釈 4]に加増移封され、初代姫路藩主となった[10][13]。ここに輝政は国持大名としての政治的地位を獲得したのであり、その知行方は当時でも八番目に高いものであった[4]。12月には従四位下・右近衛権少将に叙任された[4]。関ヶ原合戦以後における徳川氏一門以外の大名における少将以上の任官は、前年3月における福島正則に次いでのものであり、初期徳川政権における両者の政治的役割の高さを示すものである[4]


慶長6年(1601年)から慶長14年(1609年)にかけて姫路城を大規模に改修する。慶長11年(1606年)からは姫路城と同時進行で加古川流域の改修も始め、加古川の上流の田高川の河川開発事業や下流域の高砂の都市開発事業を行った。また、諸大名らと共に、慶長11年(1606年)の江戸城普請、同14年(1609年)の篠山城普請、翌15年(1610年)の名古屋城普請など、天下普請にも従事し、篠山城普請では総普請奉行を務めた。また慶長14年(1609年)には火災で焼失した伊勢神宮摩尼殿を再建している[14]


慶長16年(1611年3月には、二条城における家康と豊臣秀頼との会見に同席した。慶長17年(1612年)、正三位参議、および松平姓を許され「松平播磨宰相」と称された[注釈 5][15][5]。徳川政権下において、徳川一門以外の大名で参議に任官されたのは輝政が最初である[4]。また、五男・忠継備前岡山藩28万石、六男・忠雄淡路洲本藩6万石、弟・長吉因幡鳥取藩6万石を合せ、一族で計92万石(一説に検地して100万石)もの大領を有した。徳川家との縁組は家格を大いに引き上げ、明治維新に至るまで池田家が繁栄する基盤となった。


慶長17年(1612年)1月に輝政は中風にかかり、3月には徳川秀忠から息子の利隆に4通もの書状が送られている[16]。8月には回復し駿府、江戸を訪れた。23日に秀忠に拝謁した際松平氏を賜り参議に奏請された[17]。参議に任じられたことを謝するため、10月17日に参内し[18]、その後播磨へと帰国した。


慶長18年(1613年)1月25日に姫路にて亡くなる。死因は中風(『駿府記』)[19]。享年50。なお輝政が中風を患ったと本多正純から事情を聴いた家康は、中風の薬として烏犀円を遣わしている[20]豊臣秀頼の重臣らが輝政の死を聞いて愕然として「輝政は大坂の押へなり。輝政世にあらん限りは、関東より気遣ひなく、秀頼公の御身の上無事成るべし。輝政卒去の上は大坂は急に亡さるべし」(『埋礼水』)と語ったという逸話がある。

家督は長男(嫡男)の利隆が継いだ。

墓所・祭祀
・萬歳山国清寺岡山市中区小橋町)[注釈 6]

和意谷池田家墓所岡山県備前市吉永町和意谷)

・泰叟山国清寺(宮津市金屋谷)

姫路市増位山随願寺五輪塔

鏡石神社岡山県備前市)祭神(神号:日乃星照神)[2]

増位山随願寺の池田輝政五輪塔

和意谷池田家墓所池田輝政の墓

人物・逸話
人物像

輝政は「幼い時からはきはきした性格で、成長するに従い、雄々しく逞しくなった。人となりは剛直で、下の者に臨む態度は寛容で、徳行を賞して顕彰した」と評されている(『名将言行録』)。また、口数の少ない寡黙な人物だったといわれる。


あまり物事にはこだわらない性格で、家康から命じられた岐阜城攻めで、福島正則と激しい功名争いを演じたが、実際には一番乗りの手柄を上げたにも関わらず、あっさりと功を譲って、同時に城を落としたことにしたと伝わる。


輝政はが好きで、備前国御野郡に生えるものを上物としその芹を取ることを禁じていた。しかしある士がこれを盗んでしまったので百姓たちは池田家臣の萩田庄助に訴えた。そのことを聞かされた輝政が「それはただ取ったのか、あるいは盗んだのか」と問うと、庄助は「盗んだのです」と答えたので輝政は「芹を強引に取ったのなら憎いが、盗んだということならきっと私と同じ芹好きではないだろうか。そのままにせよ」と許したという。(『池田家履歴略記』)この逸話は輝政の寛容さを示す話であり、庄助が「取った」と答えても結局同様の理屈を付けて許し、処罰を避けたということであろう。

徳川家に関連する逸話

家康の娘・督姫を娶った際、伏見の徳川屋敷を訪れた輝政は長久手の戦いで父・恒興を討った永井直勝を召し出し、その最期を語らせた。しかし、直勝が5,000石の身上だと知ると輝政は不機嫌になり「父の首はたったの5,000石か」と嘆息したという(『甲子夜話』)。この後、輝政は家康に直勝への加増を言上をして、直勝は1万石の大名になった。後に永井家は7万2,000石を拝領する事になった。


督姫の菩提寺である鳥取の慶安寺の寺伝に池田輝政に嫁ぐ際の経緯が記されており、それによると元々秀吉は池田輝政に崇源院(秀吉の側室・淀殿の実妹)を嫁がせようと家康に相談したが、家康が「浅井の娘(崇源院)を秀忠と縁組させたいので、(その代わりに)輝政には私の娘(督姫)を嫁がせる」と頼んだため、秀吉が受け入れたという[21][注釈 7]

その他

通称の三左衛門は、姫路城の三左衛門堀(外堀川)、姫路市内の町名に三左衛門堀東の町・三左衛門堀西の町として名残がある。なお、名前は「輝政」で知られているが、これは彼が慶長12年(1607年)頃と晩年になって改名した名前であり、それまでは「照政」だった[4]


孫の光政は輝政の声望を尊敬していたという[注釈 8]

官歴
天正13年(1585年7月13日 従五位下

・天正15年(1587年九州征伐後 賜羽柴姓[22]

・天正16年(1588年4月11日 従四位下、侍従。賜豊臣姓[22]

慶長8年(1603年2月12日 正四位下、右近衛少将。

・慶長17年(1612年9月 賜松平姓[22]10月17日 正三位、参議。

明治43年(1910年11月16日 贈従二位

系譜

祖父母

・祖父:池田恒利(?-1538)

・祖母:養徳院(1515-1608) - 池田政秀の娘

両親

・父:池田恒興(1536-1584)

・母:善応院(?-1604) - 荒尾善次の娘

兄弟姉妹

池田元助(1559/64-1584)

池田長吉(1570-1614) - 因幡鳥取藩

池田長政(1575-1607)

・七条 - 織田信時と善応院の娘。善応院が恒興に再嫁した際に恒興の養女となった。飯尾敏成正室、後に下間頼龍正室

・安養院 - 森長可正室。長可の戦死後、中村一氏正室。

若政所(?-1601) - 豊臣秀次正室

・天球院 - 山崎家盛正室、のち離縁。

・慶雲院 - 浅野幸長正室

妻子

 ・正室:糸姫 - 中川清秀の娘

   ・長男:池田利隆(1584年 - 1616年) - 播磨姫路藩2代藩主

 ・継室:督姫(1565/75-1615) - ふう、富子、播磨御前、良正院、徳川家康の次女

   ・茶々姫(初め千)(1596年 - 1659年) - 京極高広正室

   ・五男:池田忠継(1599年 - 1615年) - 公式には次男。備前岡山藩

   ・六男:池田忠雄(1602年 - 1632年) - 公式には三男。淡路洲本藩主→備前岡山藩主

   ・池田輝澄(1604年 - 1662年) - 播磨山崎藩主→池田騒動により改易

   ・池田政綱(1605年 - 1631年) - 播磨赤穂藩

   ・振姫(1607年 - 1659年) - 伊達忠宗正室

   ・池田輝興(1611年 - 1647年) - 播磨平福藩主→播磨赤穂藩主

 ・側室:満願院

   ・次男:池田政虎(1590年 - 1635年) - 公式には七男。池田家家老

 ・側室:安藤氏

   ・四男:池田利政(1594年 - 1639年) - 公式には九男。池田家家老

 ・側室:某氏

   ・三男:池田輝高

 ・養女 

   ・万姫[23](1586年?[24] - 1602年) - 北条氏直督姫の娘。母の再嫁に伴い養女となった。

   ・日置忠俊(池田家臣)室 - 下間頼龍

   ・建部光重室 - 下間頼龍

   ・徳永昌重正室 - 下間頼龍

   ・大久保外記(大久保長安の次男)室 - 下間頼龍

   ・丹羽幸元(池田家臣)室 - 下間頼龍娘


七条については『寛政重修諸家譜』の池田氏の項から、養女に関しては論文を出典とした[25]

詳しいことは、「池田輝政ウィキペディア」をご覧ください。 ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%A0%E7%94%B0%E8%BC%9D%E6%94%BF
(wikiより)

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池田輝政

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清巌院殿

大石良雄の祖父。

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清凉院殿

大石良雄の祖母。

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本務院殿

大石良雄の父。

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西來院

大石瀬左右衛門の父であり、大石良雄の曽祖父・良勝の弟・大石信云の孫にあたり、大石家の分家にあたる。

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河合伝十郎 ( かわい - でんじゅうろう )
( 1841 - 1865 )

幕末の武士。

天保 ( てんぽう ) 12年生まれ。

境野求馬の次男。河合惣兵衛の養子。

播磨 ( はりま )( 兵庫県 ) 姫路藩士。

諸藩の尊攘 ( そんじょう ) 派とまじわる。

元治 ( げんじ ) 元年 ( 1864 ) 江坂栄次郎とともに脱藩。

大阪の高知藩邸に潜伏中、実父が自殺したのを聞き長門 ( ながと )( 山口県 ) におもむこうしたが、藩吏に捕らえられ、元治元年 12月 26日斬刑となった。 24歳。名は宗貞。

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時代江戸時代前期 - 中期
生誕寛文12年11月22日1673年1月9日
死没享保7年8月24日1722年10月4日
改名亀之助・帯刀(幼名)、長直
戒名鉄性院殿一峯浄空大居士
墓所兵庫県赤穂市加里屋の花岳寺
官位従五位下和泉守
幕府江戸幕府
主君徳川綱吉家宣家継吉宗
備中西江原藩主、播磨赤穂藩
氏族森氏
父母森長継、橋村氏
兄弟忠継長武長俊関長治長基長直衆利、万姫、鳥居忠則正室、一条冬経室、兼、関長政養女、瑞光院、大姫、
松平康雄正室
堀親貞鯰江氏
森長孝正室、関長広婚約者、長孝

森 長直
(もり ながなお)は、備中国西江原藩2代藩主、播磨国赤穂藩主。

略歴

寛文12年(1672年)11月22日、美作津山藩第2代藩主(後に西江原藩初代藩主)森長継の八男として生まれる。父は延宝2年(1674年)に隠居し、兄の長武が跡を継いだ。長武も貞享3年(1686年)に隠居し、長武と長直の甥である長成が跡を継いだ。長直は元禄7年(1694年)に長成から1500俵を分与されている。長成は生来虚弱であったが、中野村(現東京都中野区)の犬屋敷お手伝い普請に伴う、多大な借財が原因の藩内の混乱に心労を深め元禄10年(1697年)に死去した。しかし、嗣子がなかった。


隠居の長継は長直の弟である関衆利(森衆利)を長成の継嗣として認めてもらうよう幕府に訴え、幕府もこれを承諾した。しかし、衆利が継承挨拶のため江戸に出府途中、伊勢で乱心したため、幕府は家督相続承認を取り消し、元禄10年(1697年)8月2日に領地を召し上げ、津山藩森家は改易された。


ただし、幕府は長継に与えていた隠居料である美作国内の2万石を改めて安堵することで、森家の存続を許した。こうして長継は新たに西江原藩を立藩し、長直は8月26日に世子として指名された。そして元禄11年(1698年)に父が死去すると、家督を継いで西江原藩主となった。西江原では新田開発を積極的に行った。


宝永
3年(1706年)1月28日、播磨赤穂藩に同じく2万石で移封される。藩財政が早くから悪化したため、長直は今度は塩田開発に積極的に取り組んだ。享保7年(1722年)8月24日に死去した。享年51。跡を婿養子長孝が継いだ。

系譜
・父:森長継(1610-1698)

・母:橋村氏

・正室:堀親貞の娘

・継室:鯰江氏

・生母不明の子女

  ・女子:森長孝正室

  ・女子:関長広婚約者

・養子

  ・男子:森長孝(1694-1723) - 森三隆の三男
(wikiより)

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第一次世界大戦時にドイツ軍捕虜収容所として境内が使用され、300名以上の捕虜が収容されており、その捕虜達が故郷の城をイメージした噴水を制作したそうです。

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⇧ 中央の突起物。

 

河合 宗元(かわい むねもと)は江戸時代後期から幕末武士姫路藩士、尊王攘夷派志士である。初名は宗邦(むねくに)。惣兵衛、また勸次郎と称し、姫路藩尊攘派の首魁と目された。号は松塢。贈従四位。家紋は違い鷹の羽。替紋は銀杏打違。俸禄は250石。

経歴

文化13年(1816年2月5日播磨国飾東郡姫路城中曲輪内(現・兵庫県姫路市本町[1]に誕生し、勸次郎と名付けられる。河合惣兵衛家は雅楽頭酒井家家老職を務めた河合寸翁家から戦国時代に分家した家系で、本家と同じく代々酒井家に仕えていた。若年より藩校好古堂の学問所教員を勤め、嘉永5年(1852年)に父の病歿を受けて当主となった後は、安政2年(1855年)に惣兵衛と改称し、使番や宗門奉行、作事奉行、物頭、持筒頭を歴任する。同5年(1858年)には同志の一人、境野意英の次男宗貞を婿養子として迎え、次女さきに配した。


文久
2年(1862年)に酒井忠績が京都所司代不在中の同地取締りを命じられると、宗元も5月28日に出京を命じられ、入出京を繰り返しながら、同志と共に諸藩の尊攘派志士と交流を深めて行く。特に三條實美の邸には在京中、一日として伺候しない日は無く、實美も宗元が来ないことが有れば書を遣わして招いたという。


文久3年(1863年4月10日に禁裏御所御守衛人数組頭に任命された後は、6月6日姉小路公知の暗殺犯探索を命じられ、7月5日に組頭を罷免された。 八月十八日の政変時には實美に付き従って大佛妙法院に至り、京都に留まるように説得したという。自身もその後、京都を離れて大坂、次いで江戸に向かい、幕府に京都の動静を報告したとされる。江戸からの帰国途中には藩主の行列と行きあったため、暫く同道して11月13日に姫路へ帰着した。これ以降、彼は京都に向かうことは無かったとされている。


元治元年(1864年2月16日、京都に滞在していた婿養子宗貞と同志の江坂行正が脱藩し、同年4月1日に捕縛、翌日の明け方には宗貞の実父意英が自殺しているのが発見された。その影響からか宗元も同4日に眼病を理由として全ての役を退き、同日に謹慎を命じられる。これに先立って、姫路や京都では姫路藩尊攘派の関与した暗殺事件が発生し、前後して関係者の面々が処罰されていたが、6月28日には彼も親類預けとなり、9月6日に入獄。そして同年の12月26日に自殺刑を命じられ、宗元は姫路城中備前門内の牢舎に生涯を終えた。享年49。辞世として「ひをむしの 身をいかてかは 惜しむへき たゝ惜しまるゝ 御代の行末」の歌が伝わっている。宗貞も同日、斬首刑となり、河合家は家断絶を命じられた。同日には宗元父子のほか数十人の尊攘派志士とその関係者が処罰され、2人に斬首、6名に自殺刑、6名に終身禁獄の重罪が命じられたことから、この事件は同年の干支を採って、姫路藩甲子の獄と通称されている。

歿後

明治元年(1868年)、戊辰の獄を機に藩政が一新され、処罰された家々の再興が認められると、宗元の家も小林定修の三男で同志の一人だった宗孝が名跡養子に入って当主と成り、同家の菩提寺である姫路市坂田町の浄土宗西山禅林寺派寺院、悟真山善導寺に宗元の墓石を建立した。


その後、明治24年(1891年12月17日従四位を贈られ、同27年(1894年)に有栖川宮熾仁親王篆額、山田顕義撰、田所千秋書の記念碑が河合邸の側に完成する。大正3年(1914年)5月には同2年(1913年11月26日に行われた姫路藩勤王志士五十年祭の余資を以て宗元達8名が処刑された旧備前門内の獄舎跡に「姫路藩勤王志士終焉之地」碑が建設された。上記の碑は太平洋戦争終結後、勤王思想を想起させると言う事から引き倒され、城南練兵場(現大手前公園付近)、次いで姫路護国神社裏手に放置されていたが、昭和43年(1968年)、明治百年を記念して再建が決定し、前者は神屋町5丁目の外堀公園、後者は元の備前門跡に作られた大蔵前公園へ再設され、式典当日には宗元の玄孫が碑の除幕を行った。


この外、河合惣兵衛家に由来するものとしては、宗孝やさきが姫路鎮台設置後に移住した場所(現姫路市神屋町4丁目)の前に架かる橋が河合橋と名付けられており[2]、外堀公園は河合公園と通称されることがある。また、播磨国総社内の祖霊社と姫路護国神社は宗元と宗貞を祭神の一柱として祭祀している。


平成16年(2004年)12月には河合惣兵衛家墓所の整備を機として宗元の墓石が善導寺本堂の前に移設され、景福寺山に有った宗貞の墓石も墓所の中へ移された。同年からは12月第3、第4日曜日のどちらかに午後1時より宗元父子の法要が営まれ、関係者以外にも開放されている。

人物・逸話
・養嗣子宗孝が建立した墓石には、容貌は魁梧で、性格は激烈、終始尊攘の大義を以て自任していたと刻まれている。藩校の教員を務めた様に学問に優れる傍ら、武術にも秀でていたらしく、宗元在世当時に使用人を勤めていた人物の家には、襖を締め切った八畳間の中で八尺柄の槍を自由自在に使いこなしたとする話が伝わっていた。

・刀剣の鑑定を好み、良い品を売る者が有れば千嚢を傾けてでも購入した。物頭在職中には一日、配下の士を集めて佩刀を検め、鈍刀を帯びた者数名にその刀では功を挙げるに足らないと諭し、それぞれに蔵していた刀を贈ったという。

・婿養子の宗貞が同志と共に城下の商人児嶋政光を暗殺し、興奮して帰宅した際には事情を聞き、政光を斬った事よりも武士が一人を斬っただけで狼狽した事を叱責したとされる。

・文久3年8月17日に発生した鳥取藩士同士の暗殺事件の際には、知恩院内に於いて自殺しようとしていた河田景与らを同院に駈け付けて説得したとされる。また、自身の収獄までの謹慎中、景与(一説には長州藩士佐々木男也)より幾度も書状で鳥取藩に逃れる事を奨められたが、自分が脱藩すれば、老母に危害が加わる事かも知れず、獄に在る同志を死地に置いて自分だけ助かろうとすることは出来ないとして断ったという。

・自殺の際には普段の如く談笑して茶を喫し、筆を乞い辞世を認めて死に就いた。一説には刀で自ら首の少し後ろ側を突き刺して、両手で刃を前へ押し、その殆どを切り落としたとする。

脚注
1. 姫路公園
2. もっとも橋の欄干には誤って寸翁家や仁寿山黌に由来する熊鷹紋が附されているため、一見すると宗元とは関係が無い様に見える。

参考文献
・『舊姫路藩勤王志士五十年祭記事』(舊姫路藩勤王志士五十年祭事務所、大正2年12月)

・砂川雄健編『姫路藩勤王志士列傳』(播磨史談會、大正3年11月)

・穂積勝次郎著『姫路文化研究會叢書第四輯 姫路藩勤王志士の歌』(姫路文化研究會、昭和17年3月)

・ひめじ明治のかたりべ集編集委員会編『ひめじ・明治のかたりべ集』上巻(姫路市老人のための明るいまち推進協議会、昭和54年3月)「河合惣兵衛の話」

・津山邦寧著『景福寺とその周辺の史跡‐姫路藩と景福寺の歴史を考える‐』(景福寺山史跡研究会、平成27年7月)

関連項目
姫路藩

河合屛山

秋元安民

武井守正

酒井忠績

三条実美

仁寿山黌

朔平門外の変
(wikiより)

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⇧⇩ 墓地奥にある河合家総墓。

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お夏清十郎比翼塚の由緒
江戸時代の劇作家西鶴の五人女、近松の歌念仏で有名なお夏は、姫路城の大手門にあたる本町の米問屋但馬屋九左衛門の娘に生まれ、清十郎は姫路の西方、室津港造り酒屋和泉清左衛門の息子で、何不自由のない家庭に育ち、錦絵にも優る美男であったが、故あって清十郎は十九才の時、但馬屋に勤める身になり、明け暮れ律儀に勤めたので万人から好かれるようになった。


いつしかお夏と清十郎は深い相想の仲となったが、九左衛門はこれを許さなかった。


思いのよらぬ濡れ衣に依って、あたら二十五才の時清十郎ははかなくも刑場の露と消えたのである。


此の事を知ったお夏は、黒染の衣に身につつんで読経三昧に暮し、ひたすら清十郎の冥福を祈った。


但馬屋も二人の純愛に打たれ「比翼塚」をつくって、其の霊を慰めたと云う。

  むこうを通るは清十郎じゃないか 

                  笠がよう似た管笠が・・・・・・

と云う俗謡が大流行し、畏くも天皇上聞に達し、御製を賜わりたるもの。


御製
後水尾天皇
  
  清十郎 きけ 夏が来たりと 杜宇 ( ほととぎす )

後西天皇
  
 笠が よう似た ありあけの 月
(案内板より)

〇 お夏清十郎
お夏清十郎』(おなつ せいじゅうろう)は、寛文2年 (1662年) に播州姫路で実際に起きた駆落ち事件を題材にした一連の文芸作品の通称・総称。『お夏狂乱』(おなつ きょうらん)ともいう。

概要

伝承による事件のあらましは次の通り。姫路城下の旅籠の大店・但馬屋の娘・お夏は、恋仲になった手代・清十郎と駆け落ちするが、すぐに捕らえられてしまう。清十郎はかどわかしに加え店金持ち逃げの濡れ衣まで着せられ打ち首となる。お夏は狂乱して行方をくらませ、誰も二度とその姿を見ることはなかったという。姫路市内の慶雲寺には二人の墓があり、毎年8月9日に「お夏清十郎慰霊祭」が執り行われている。


お夏と清十郎の悲劇は、事件後各地でさまざまな小唄歌祭文に歌われて民間に浸透していった。そして早くも寛文年間には江戸中村座歌舞伎舞踊『清十郎ぶし』が上演され、以後この事件を題材にとった作品が次々と書かれていった。そのなかでも貞享3年 (1686年) に井原西鶴が著した浮世草子好色五人女』の第一章『姿姫路清十郎物語』(すがたひめじ せいじゅうろう ものがたり)と、それを宝永4年 (1707年) に近松門左衛門が脚色して世話物人形浄瑠璃に仕立てあげた『五十年忌歌念仏』(ごじゅうねんき うたねんぶつ)は、登場人物の繊細な心情にまで迫った物語性の高い秀作で、これ以降に書かれたものは概ねこの2作を下敷きにしているといって差し支えない。お夏の出自を姫路の旅籠の大店の娘から米問屋の主人の妹という設定に変えたのもこの西鶴である。

代表的作品については、「お夏清十郎ウィキペディア」をご覧ください。 ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%8A%E5%A4%8F%E6%B8%85%E5%8D%81%E9%83%8E

参考資料・外部リンク
『姿姫路清十郎物語』(丸諒の好色五人女)

『歌ごよみ  お夏清十郎』(雷蔵ワールド)

お夏・清十郎の墓(名所・旧跡を訪ねて)

真山青果『お夏清十郎』 - ウェイバックマシン(2016年3月4日アーカイブ分)(グルッポ・テアトロ)

菅笠節(兵庫県民謡)
(wikiより)

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・贈正四位河合屏山君霊位  :  河合宗元

河合 宗元(かわい むねもと)は江戸時代後期から幕末武士姫路藩士、尊王攘夷派志士である。初名は宗邦(むねくに)。惣兵衛、また勸次郎と称し、姫路藩尊攘派の首魁と目された。号は松塢。贈従四位。家紋は違い鷹の羽。替紋は銀杏打違。俸禄は250石。

経歴

文化13年(1816年2月5日播磨国飾東郡姫路城中曲輪内(現・兵庫県姫路市本町[1]に誕生し、勸次郎と名付けられる。河合惣兵衛家は雅楽頭酒井家家老職を務めた河合寸翁家から戦国時代に分家した家系で、本家と同じく代々酒井家に仕えていた。若年より藩校好古堂の学問所教員を勤め、嘉永5年(1852年)に父の病歿を受けて当主となった後は、安政2年(1855年)に惣兵衛と改称し、使番や宗門奉行、作事奉行、物頭、持筒頭を歴任する。同5年(1858年)には同志の一人、境野意英の次男宗貞を婿養子として迎え、次女さきに配した。


文久
2年(1862年)に酒井忠績が京都所司代不在中の同地取締りを命じられると、宗元も5月28日に出京を命じられ、入出京を繰り返しながら、同志と共に諸藩の尊攘派志士と交流を深めて行く。特に三條實美の邸には在京中、一日として伺候しない日は無く、實美も宗元が来ないことが有れば書を遣わして招いたという。


文久3年(1863年4月10日に禁裏御所御守衛人数組頭に任命された後は、6月6日姉小路公知の暗殺犯探索を命じられ、7月5日に組頭を罷免された。 八月十八日の政変時には實美に付き従って大佛妙法院に至り、京都に留まるように説得したという。自身もその後、京都を離れて大坂、次いで江戸に向かい、幕府に京都の動静を報告したとされる。江戸からの帰国途中には藩主の行列と行きあったため、暫く同道して11月13日に姫路へ帰着した。これ以降、彼は京都に向かうことは無かったとされている。


元治元年(1864年2月16日、京都に滞在していた婿養子宗貞と同志の江坂行正が脱藩し、同年4月1日に捕縛、翌日の明け方には宗貞の実父意英が自殺しているのが発見された。その影響からか宗元も同4日に眼病を理由として全ての役を退き、同日に謹慎を命じられる。これに先立って、姫路や京都では姫路藩尊攘派の関与した暗殺事件が発生し、前後して関係者の面々が処罰されていたが、6月28日には彼も親類預けとなり、9月6日に入獄。そして同年の12月26日に自殺刑を命じられ、宗元は姫路城中備前門内の牢舎に生涯を終えた。享年49。辞世として「ひをむしの 身をいかてかは 惜しむへき たゝ惜しまるゝ 御代の行末」の歌が伝わっている。宗貞も同日、斬首刑となり、河合家は家断絶を命じられた。同日には宗元父子のほか数十人の尊攘派志士とその関係者が処罰され、2人に斬首、6名に自殺刑、6名に終身禁獄の重罪が命じられたことから、この事件は同年の干支を採って、姫路藩甲子の獄と通称されている。

歿後

明治元年(1868年)、戊辰の獄を機に藩政が一新され、処罰された家々の再興が認められると、宗元の家も小林定修の三男で同志の一人だった宗孝が名跡養子に入って当主と成り、同家の菩提寺である姫路市坂田町の浄土宗西山禅林寺派寺院、悟真山善導寺に宗元の墓石を建立した。


その後、明治24年(1891年12月17日従四位を贈られ、同27年(1894年)に有栖川宮熾仁親王篆額、山田顕義撰、田所千秋書の記念碑が河合邸の側に完成する。大正3年(1914年)5月には同2年(1913年11月26日に行われた姫路藩勤王志士五十年祭の余資を以て宗元達8名が処刑された旧備前門内の獄舎跡に「姫路藩勤王志士終焉之地」碑が建設された。上記の碑は太平洋戦争終結後、勤王思想を想起させると言う事から引き倒され、城南練兵場(現大手前公園付近)、次いで姫路護国神社裏手に放置されていたが、昭和43年(1968年)、明治百年を記念して再建が決定し、前者は神屋町5丁目の外堀公園、後者は元の備前門跡に作られた大蔵前公園へ再設され、式典当日には宗元の玄孫が碑の除幕を行った。


この外、河合惣兵衛家に由来するものとしては、宗孝やさきが姫路鎮台設置後に移住した場所(現姫路市神屋町4丁目)の前に架かる橋が河合橋と名付けられており[2]、外堀公園は河合公園と通称されることがある。また、播磨国総社内の祖霊社と姫路護国神社は宗元と宗貞を祭神の一柱として祭祀している。


平成16年(2004年)12月には河合惣兵衛家墓所の整備を機として宗元の墓石が善導寺本堂の前に移設され、景福寺山に有った宗貞の墓石も墓所の中へ移された。同年からは12月第3、第4日曜日のどちらかに午後1時より宗元父子の法要が営まれ、関係者以外にも開放されている。

人物・逸話
・養嗣子宗孝が建立した墓石には、容貌は魁梧で、性格は激烈、終始尊攘の大義を以て自任していたと刻まれている。藩校の教員を務めた様に学問に優れる傍ら、武術にも秀でていたらしく、宗元在世当時に使用人を勤めていた人物の家には、襖を締め切った八畳間の中で八尺柄の槍を自由自在に使いこなしたとする話が伝わっていた。

・刀剣の鑑定を好み、良い品を売る者が有れば千嚢を傾けてでも購入した。物頭在職中には一日、配下の士を集めて佩刀を検め、鈍刀を帯びた者数名にその刀では功を挙げるに足らないと諭し、それぞれに蔵していた刀を贈ったという。

・婿養子の宗貞が同志と共に城下の商人児嶋政光を暗殺し、興奮して帰宅した際には事情を聞き、政光を斬った事よりも武士が一人を斬っただけで狼狽した事を叱責したとされる。

・文久3年8月17日に発生した鳥取藩士同士の暗殺事件の際には、知恩院内に於いて自殺しようとしていた河田景与らを同院に駈け付けて説得したとされる。また、自身の収獄までの謹慎中、景与(一説には長州藩士佐々木男也)より幾度も書状で鳥取藩に逃れる事を奨められたが、自分が脱藩すれば、老母に危害が加わる事かも知れず、獄に在る同志を死地に置いて自分だけ助かろうとすることは出来ないとして断ったという。

・自殺の際には普段の如く談笑して茶を喫し、筆を乞い辞世を認めて死に就いた。一説には刀で自ら首の少し後ろ側を突き刺して、両手で刃を前へ押し、その殆どを切り落としたとする。

脚注
1. 姫路公園
2. もっとも橋の欄干には誤って寸翁家や仁寿山黌に由来する熊鷹紋が附されているため、一見すると宗元とは関係が無い様に見える。

参考文献
・『舊姫路藩勤王志士五十年祭記事』(舊姫路藩勤王志士五十年祭事務所、大正2年12月)

・砂川雄健編『姫路藩勤王志士列傳』(播磨史談會、大正3年11月)

・穂積勝次郎著『姫路文化研究會叢書第四輯 姫路藩勤王志士の歌』(姫路文化研究會、昭和17年3月)

・ひめじ明治のかたりべ集編集委員会編『ひめじ・明治のかたりべ集』上巻(姫路市老人のための明るいまち推進協議会、昭和54年3月)「河合惣兵衛の話」

・津山邦寧著『景福寺とその周辺の史跡‐姫路藩と景福寺の歴史を考える‐』(景福寺山史跡研究会、平成27年7月)

関連項目
姫路藩

河合屛山

秋元安民

武井守正

酒井忠績

三条実美

仁寿山黌

朔平門外の変
(wikiより)

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・贈正五位境野求馬意英君霊位  :  境野求馬

境野求馬 ( さかいの - もとめ )
( 1810 - 1864 )

江戸時代後期の武士。

文化 7年 1月 6日生まれ。

河合道臣 ( ひろおみ ) の孫。

播磨 ( はりま )( 兵庫県 ) 姫路藩士。

文久 2年藩主・酒井忠績 ( ただしげ ) に従って京におもむき勤王のために活動するが、実子・河合伝十郎の脱藩がもとで、佐幕派の圧力が強まる。

その責任をとり、藩主に上書を残して元治 ( げんじ ) 元年 4月 2日自刃 ( じじん )。55歳。名は意英。

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・贈正五位秋元正一郎安民君霊位  :  秋元安民

秋元 安民(あきもと やすたみ、1823年2月11日文政6年1月1日) - 1862年9月22日文久2年8月29日))は播磨国姫路藩(現在の兵庫県姫路市藩士国学者。名は正一郎、正蔭、御民、逸民とも称した。字は正朔、号は空室。

生涯

文政6年(1823年1月1日、姫路藩士の秋元右源次の次男に生まれる。仁寿山黌で学ぶ。


小野藩
客員大国隆正に師事し国学和歌を学ぶとともに、隆正の養子になり野々口正蔭と名乗る[1]。後に伴信友にも師事する。


播磨国三木(兵庫県三木市)に私塾を開学、姫路藩の藩校教授になり姫路藩での尊王攘夷派の先駆者になる。西洋学問にも通じ、安政3年(1856年)、姫路藩主の酒井忠顕に大型西洋帆船の建造を進言する。遭難しアメリカ商船に救助された播磨の領民の情報を元に安政6年(1859年)に速鳥丸を建造・進水させると、続けて神護丸金花丸も建造する。


文久
2年(1862年)、藩主の酒井忠績に随従して上京。同年8月29日、京都で客死。享年39。墓地は廬山寺


明治36年(1903年)、正五位を追贈された[2]

著書
・『例語部類』

・『就中宇宙起源』

・『近世三十六歌撰』

・『大祓詞集疏』

・『神議』

・『古祝詞新疏』

・『古語拾遺異本考』

・『八岐大蛇変化考』


など

脚注
1. 大国隆正の別姓が野々口であるため。
2. 田尻佐 編『贈位諸賢伝 増補版 上』(近藤出版社、1975年)特旨贈位年表 p.20

参考文献
・『姫路城の基礎知識』(2009年、姫路市立城郭研究室

関連項目
姫路藩

速鳥丸

神護丸

河合惣兵衛
(wikiより)

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・従五位永田伴正君霊位  :  永田伴正

永田伴正 ( ながた - ともまさ )
( 1839 - 1903 )

幕末 - 明治時代の武士、実業家。

天保 ( てんぽう ) 10年 11月生まれ。

播磨 ( はりま )( 兵庫県 ) 姫路藩士。

河合惣兵衛らと尊攘運動に加わる。

文久 3年藩の御用商人紅粉屋 ( べにや ) 又左衛門を江坂栄次郎らと殺害、捕らえられ家名断絶・終身禁獄となる。

のち許され実業界に転じ明治 26年第三十八国立銀行頭取となった。明治 36年 12月 5日死去。65歳。

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・贈正五位市川豊次久明君霊位  :  市川豊次

市川豊次 ( いちかわ - とよじ )
( 1841 - 1865 )

幕末の武士。

天保 ( 天保 ) 12年生まれ。

播磨 ( はりま )( 兵庫県 ) 姫路藩士。

剣術にすぐれ、文久 2年京都御所を警備、尊攘 ( そんじょう ) 派とまじわる。

翌年千種 ( ちぐさ ) 家家臣の賀川肇 ( はじめ )、儒者家・里松嶹 ( しょうとう ) を暗殺 。

元治 ( げんじ ) 元年捕らえられ、12月 26日切腹。 24歳。名は久明。通称は豊二、豊治とも書く。

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・贈正五位江坂栄次郎行正君霊位  :  江坂栄次郎

江坂栄次郎 ( えさか - えいじろう )
( 1843 - 1865 )

幕末の武士。

天保 ( てんぽう ) 14年生まれ。

江坂元之助の弟。

播磨 ( はりま )( 兵庫県 ) 姫路藩士。

文久 3年佐幕派の家老とむすぶ御用商人紅粉屋又左衛門を河合伝十郎らと殺害。

翌年伝十郎とともに脱藩、大坂の高知藩邸に潜伏中、藩の役人に捕らえられ脱藩の罪で元治 ( げんじ ) 元年 12月 26日処刑された。22歳。名は行正。

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・贈正五位松下鉄馬綱光君霊位  :  松下鉄馬

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・贈正五位伊舟城源一郎致美君霊位  :  伊舟城源一郎

伊舟城 源一郎(いばらき げんいちろう、天保元年(1830年) - 元治元年12月26日1865年1月23日))は、幕末武士[1]。名は致美[1]。通称ははじめ宗一郎[1]

経歴・人物

播磨国姫路藩[1]文久2年(1862年)上洛[2]。他藩の尊攘派と交流し尊王攘夷運動に参加、文久3年1月29日賀川肇暗殺事件に関与[2]。元治元年(1864年)藩に戻るが、事件が発覚し処刑された[2]


明治31年(1898年)、正五位を追贈された[3]

脚注
1. a b c d デジタル版 日本人名大辞典+Plus(講談社)『伊舟城源一郎』 - コトバンク
2. a b c 朝日日本歴史人物事典(朝日新聞社)『伊舟城源一郎』 - コトバンク
3. 田尻佐 編『贈位諸賢伝 増補版 上』(近藤出版社、1975年)特旨贈位年表 p.10
(wikiより)

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・贈正五位江坂元之助行厚君霊位  :  江坂元之助

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