本牧jack『意外と身近にある歴史散歩』日々是好日 心灯 頬笑

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2023/02

グラバー・ツル: Glover Tsuru1851年(1848年説も) - 1899年3月23日)は、江戸時代末期(幕末)から明治にかけての女性。幕末に長崎を拠点としたイギリス商人トーマス・ブレーク・グラバー(Thomas Blake Glover)の妻。家紋は、芸者がよく使っていた女紋「揚羽蝶」である。

生涯

大阪の造船屋「淡路屋」に生まれる。豊後竹田(現大分県竹田市)の岡藩士・山村国太郎と結婚し、娘・センをもうけるも離縁し、芸者となる[1](なお、センは祖母の元で育ち、1年ほどグラバー邸で暮らすがなじめず祖母の元に戻り、以後ツルとは断絶した)[1]。いつ頃トーマス・ブレーク・グラバーと結ばれたかは不明だが、戸籍によると長女ハナを明治9年(1876年)に出産している。グラバーの長男倉場富三郎とはハナの異母兄弟になる。ツルとグラバーは五代友厚に紹介されたといわれるが、根拠はない。


明治32年(1899年)、死去。大平寺にあるツルの墓には、揚羽蝶の紋が添えられている[1]

『蝶々夫人』のモデル説
 詳細は「蝶々夫人#「蝶々さん」は誰か?」を参照


ジャコモ・プッチーニオペラ蝶々夫人』の蝶々さんのモデルとされる説がある。これは、長崎の武士の出身であることや、「蝶」の紋付をこのんで着用し「蝶々さん」と呼ばれたことに由来する。


しかし、オペラの原作であるジョン・ルーサー・ロングの小説『マダム・バタフライ』では、蝶々夫人は自殺しておらず、ロングはのちに『マダム・バタフライ その20年後』という戯曲を書いている[2]。ロングはアメリカ人で来日経験はなく、宣教師の妻として長崎にいた姉からの話をもとにして書いたと推測されている[3]


『蝶々夫人を探して』の著者B・バークガフニ氏はモデル説を否定し、旧グラバー住宅とオペラ蝶々夫人の関連は、同住宅がアメリカ進駐軍に接収されていた時に初めて言われるようになったと指摘する。

参考文献
・野田平之助『グラバー夫人』新波書房 (1972) - 著者はセンの子孫

・ブライアン・バークガフニ『蝶々夫人を探して』クリエイツかもがわ(2000)

脚注
1. a b c 明治維新と新国家を支えた長崎の男グラバーの日本人妻と『蝶々夫人』のなぞを追う日経ビジネス、2009年10月30日
2. 女一人、執念で突きとめた真実 父の遺志をつぎ汚名と誤解を晴らすために戦い続けた人生日経ビジネス、2009年11月13日
3. 蝶々さんとピンカートン朝日新聞、2007年11月10日

関連項目
楠本瀧

斎藤きち
(wikiより)

201 グラバー・ツル

⇧ グラバー・ツル

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トーマス・ブレーク・グラバー: Thomas Blake Glover1838年6月6日 - 1911年12月16日)は、スコットランド出身の商人トマス・ブレイク・グローバーとも表記。


武器商人
として幕末日本で活躍した。日本で商業鉄道が開始されるよりも前に蒸気機関車の試走を行い、長崎に西洋式ドックを建設し造船の街としての礎を築くなど、日本の近代化に大きな役割を果たした。


維新
後も日本に留まり、高島炭鉱の経営を行った。造船採炭製茶貿易業を通して、日本の近代化に貢献。国産ビールの育ての親。

生涯

スコットランド・アバディーンシャーで沿岸警備隊の1等航海士トーマス・ベリー・グラバー(Thomas Berry Glover)とメアリー(Mary)の間に8人兄弟姉妹の5人目として生まれる。ギムナジウムを卒業した後、1859年上海へ渡り「ジャーディン・マセソン商会」に入社。同年9月19日安政6年8月23日)、開港後まもない長崎に移り、2年後にはフランシス・グルームと共に「ジャーディン・マセソン商会」の長崎代理店[1]として「グラバー商会」を設立し、貿易業を営む。当初は生糸の輸出を中心として扱ったが八月十八日の政変後の政治的混乱に着目して討幕派の藩、佐幕派の藩、幕府問わず、武器や弾薬を販売した[2]亀山社中とも取引を行った。また、薩摩藩の五代友厚森有礼寺島宗則長澤鼎らの海外留学、長州五傑のイギリス渡航の手引きもしている。


1865年4月12日(元治2年3月17日)[3]には、大浦海岸において蒸気機関車(アイアン・デューク号)を走らせた。本業の商売にも力を注ぎ、1866年(慶応2年)には大規模な製茶工場を建設。1868年明治元年)には肥前藩(=佐賀藩との合弁)と契約して高島炭鉱開発に着手。さらに、長崎の小菅に船工場(史跡)を造った。


明治維新後も造幣寮の機械輸入に関わるなど明治政府との関係を深めたが、武器が売れなくなったことや諸藩からの資金回収が滞ったことなどで1870年(明治3年)、グラバー商会は破産。グラバー自身は高島炭鉱(のち官営になる)の実質的経営者として日本に留まった。1881年(明治14年)、官営事業払い下げで三菱の岩崎弥太郎が高島炭鉱を買収してからも所長として経営に当たった。また1885年(明治18年)以後は三菱財閥の相談役としても活躍し、経営危機に陥ったスプリング・バレー・ブルワリーの再建参画を岩崎に勧めて後の麒麟麦酒(現・キリンホールディングス)の基礎を築いた。


私生活では五代友厚の紹介で、ツルと結婚。長女ハナをもうけている。また、息子に倉場富三郎(Tomisaburo Kraba Glover)がいる。(ツル以前に内縁の広永園との間に梅吉をもうけているが生後4ヶ月程で病死している)。


晩年は東京で過ごし1908年(明治41年)、外国人として破格の勲二等旭日重光章を授与された。1911年(明治44年)に死去。墓は長崎市内の坂本国際墓地にある。ツルとともに埋葬されており、息子の倉場富三郎夫妻の墓とは隣同士である。邸宅跡がグラバー園として一般公開され、現在は長崎の観光名所となっている。

人物

太宰府天満宮にある麒麟像をたいそう気に入っていたらしく、何度も譲ってほしいと打診していた。

・キリンビールの麒麟は麒麟像と坂本龍馬を指しているとの説もある。

・彼をスコットランド系のフリーメイソンリーとする説があるが、記録はない。グラバー邸内にはコンパスと定規を組み合わせたフリーメイソンリー特有のマークが刻まれた石柱があるが、これはもともとグラバー邸にあったものではない。フリーメイソンリーのロッジ(集会所)にあったものが1966年昭和41年)に長崎市に寄贈され、長崎市によって観光目的で移設されたものである。長崎市もこの経緯を認めている[2]

関連書籍
野田平之助『グラバー夫人』新波書房, 1972 改訂新版 野田和子改訂 1994

・ブライアン・バークガフニ『花と霜 グラバー家の人々』平幸雪 訳. 長崎文献社, 1989

多田茂治『グラバー家の最期 日英のはざまで』葦書房, 1991

杉山伸也『明治維新とイギリス商人 トマス・グラバーの生涯』(岩波新書) 1993

・山崎識子『隠れ間のあるじ トーマス・ブレイク・グラバー』栄光出版社, 1994.

・アレキサンダー・マッケイ『トーマス・グラバー伝』平岡緑訳. 中央公論社, 1997

楠戸義昭『もうひとりの蝶々夫人 長崎グラバー邸の女主人ツル』毎日新聞社, 1997

内藤初穂「トーマス・B・グラバー始末 明治建国の洋商』アテネ書房, 2001

山口由美『長崎グラバー邸父子二代』集英社新書 2010

・マイケル・ガーデナ『トマス・グラバーの生涯 大英帝国の周縁にて』村里好俊, 杉浦裕子訳. 岩波書店, 2012

山口幸彦「明治維新の大功労者トーマス・グラバー :フリーメーソンとしての活躍』長崎文献社, 2014

脚注
1. グラバーの肩書きは「マセソン商会・長崎代理人」

2. a b 片桐三郎 『入門 フリーメイスン全史 --- 偏見と真実』 アム アソシエイツ、2006年11月, p211-212
3. 唐津材木町年寄の平松儀右衛門の旅日記による(長崎県参与の本馬貞夫によって発掘された)。

関連項目
幕末の人物一覧

日英関係

死の商人

ジャーディン・マセソン商会

旧ジャーディン・マセソン商会ビル - ジャーディン・マセソン商会中国本社(上海支店)

天津ジャーディン・マセソン商会ビル - ジャーディン・マセソン商会天津支店

英一番館 - ジャーディン・マセソン商会横浜支店

明治維新以前に日本に入国した欧米人の一覧

外部リンク
三菱人物伝 トマス・グラバー(上)

三菱人物伝 トマス・グラバー(下)
(wikiより)


200  Thomasglover

⇧ トーマス・ブレーク・グラバー

200  グラバー(右)と岩崎弥之助

⇧ グラバー(右)と岩崎弥之助

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ここには 1900年 ( 明治 33年 ) に中国で起きた義和団事件で、フランス軍に雇われた下働きのベトナム人 4人が戦死。

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長崎に住んでいたユダヤ人の墓です


画像中央の胸像はジークムント・D・レスナー ( 1920年 2月 24日死亡・61歳 )。

ユダヤ人 ( 帰化オーストラリア人 ) の商人だそうです。


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1900年 ( 明治 33年 )、フランスが兵士のための墓地を購入。


中国の義和団事件で戦死した兵士や船員が多く眠っている。


中央には大きな石造の記念碑がある。

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坂本国際墓地(さかもとこくさいぼち)は、長崎県長崎市坂本町・目覚町[1]にある外国人墓地。長崎市が管理している[2]


ここでは、坂本国際墓地に隣接する外国人墓地である新坂本国際墓地(しんさかもとこくさいぼち)についても記述する

概要
坂本国際墓地

埋葬者が増えて手狭になった大浦国際墓地の代わりとして、1888年明治21年)4月に浦上山里村に開設された外国人墓地である[3][4][5]。敷地面積5,594平方メートル、区画数は337[3]で、日本人を含む14か国の325名が埋葬されており[6]、埋葬者の数では長崎で最も大規模な外国人墓地である[7]


墓地は入口と通路からの距離から1等・2等・3等の3等級に区画が分けられており[3]、イギリス人やアメリカ人などの他、ユダヤ人義和団事件で犠牲となったベトナム人・フランス水兵がそれぞれの区域に分けて埋葬されている[8]。また、原爆投下後の救護活動に尽力した元長崎医科大名誉教授で、長崎市名誉市民永井隆 (医学博士)と、その妻緑(原爆で爆死)も共に埋葬されている[8]

新坂本国際墓地

坂本国際墓地が手狭になったことから、1903年(明治36年)に道路を挟んで隣接する敷地に開設された[10][11]。 1908年(明治41年)より供用が開始され、近代日本において様々な分野で功績を残した著名人が埋葬されている[12][11]。2004年(平成16年)にはトーマス・ブレーク・グラバー夫妻の墓碑が、長崎市の史跡に指定された[11]

日本人を含む13か国・117名が埋葬されており[6]、1991年(平成3年)現在で約70基ほど墓碑が現存する[3]。入口左手のレンガ塀に囲まれた敷地はユダヤ人区域として準備されたもので、61区画が準備されていたが、長崎のユダヤ人コミュニティの衰退もあり[13]、実際には僅か5区画のみの利用に留まった[3]

開設までの経緯

長崎における外国人墓地の歴史は、1602年慶長7年)、貿易の基盤を築くべく来日した中国人が、当時市街地に唯一存在した仏寺で長崎港西岸にある悟真寺檀家となり、彼らがその周辺に築いた唐人墓地がそのはじまりであるとされる[14]1654年承応3年)に出島に住むオランダ人のためのオランダ人墓地が[15]、また1858年安政5年)にはロシアの軍艦で発生したコレラ犠牲者のためのロシア人墓地が悟真寺の周辺に開設された[15][16][14]1859年(安政6年)の開国後には、居留地や航海中に亡くなったイギリス人やアメリカ人といった西洋人のために稲佐国際墓地が開設されている[14]稲佐悟真寺国際墓地)。


開国後、長崎の在留外国人が増加するにつれて、彼らの生活圏である長崎港東岸の外国人居留地から対岸に位置する稲佐国際墓地は遠く離れていて不便だったこと。また、稲佐国際墓地の敷地が狭く拡張の余地がなく、居留地では稲佐に代わる国際墓地開設を求める機運が高まった[15]。居留地の領事代表であるイギリス領事は、居留地の近隣にある妙行寺の持地に、新たな外国人墓地の開設を求めて日本側と交渉[3][4]1861年文久元年)、江戸幕府は居留地近隣の大浦郷字山仁田(現在の川上町)に大浦国際墓地を開設した[3][17][4]


明治時代になると、長崎在留の外国人は増加の一途をたどり、大浦国際墓地の埋葬者数も増加した。1884年(明治17年)に敷地を拡張するもののすぐ手狭となり、このままでは隣接する住居・住民の衛生面に影響を及ぼす可能性が生じたことから、明治政府は長崎県を通じて各国領事館と交渉[4]。大浦国際墓地を閉鎖する代わりとして1888年明治21年)、浦上山里村(現在の坂本町・目覚町)に坂本国際墓地が開設された[4][5]


なお、坂本国際墓地開設と同時に伝染病患者専用として、浦上渕村(現在の竹の久保町)に伝染病墓地が開設されたが[5]、火葬であれば坂本国際墓地に埋葬可能で利用が伸び悩んだことから1920年(大正9年)に閉鎖となった[5][3]。伝染病墓地に埋葬済みの遺体は坂本国際墓地や悟真寺国際墓地に移されている[3][5]

埋葬されている著名人

坂本国際墓地

・イライザ・グッドオール - Eliza Goodall - (1893):イギリス人宣教師[18]1875年に来崎し、CMS長崎教区で献身的に活動[19]1879年に女子寄宿学校「ガールズ・トレーニング・ホーム」を開設した[19]


・ジークムント・D・レスナー - Sigmund David Lessner - (1920):オーストリア国籍のユダヤ人実業家[20]。長崎のユダヤ人社会の中心的人物で、食料品の小売・卸売店を経営する傍ら、新坂本国際墓地のユダヤ人区域やシナゴーク(梅香崎に存在。現存せず)の建設に尽力した[21][22]


・ジョン・C・デビソン - John Carroll Davison - (1928):アメリカ人宣教師[23]。1873年に来崎し、1876年に「出島メソジスト教会」を開設[24]。キリスト教布教への教育の重要性に気づき、活水女学校(後の活水学院)や加伯利英和学校(後の鎮西学院)開設に貢献[25]1928年アメリカカルフォルニア州で死去[26]遺言に基づき坂本国際墓地に埋葬されていた妻エリザベス(1915年に長崎で死去[27])の墓に合葬された[26][28]


永井隆 (1951)・永井緑 (1945)[2]

新坂本国際墓地

・ロバート・I・ボウイ - Robert I. Bowie - (1911):アメリカ人医師・実業家[29]。個人経営の診療所や石炭を扱う商社を経営する傍ら、専務居留地住人や外国人旅行者向けの病院「聖ベルナルド病院」(小菅町に存在。現存せず)を開設した[30][29]


・ウィルソン・ウォーカー - Wilson Walker - (1914):イギリス人実業家[31][12]。1868年に船員として来崎し、「ホーム・リンガー商会」で船長を務める[31]岩崎弥太郎率いる商船会社「郵便汽船三菱会社」(後の日本郵船)で実績を上げ、同社の船長兼取締役となり、同社退社後はビール製造会社「ジャパン・ブルワリー」(後のキリンビール)の筆頭株主として、一時期支配人も務めた[31]。晩年は長崎でホテルを経営する傍ら、弟ロバート・ウォーカーと共に日本初の清涼飲料水製造会社「バンザイ炭酸飲料社」を設立した[31][12]


トーマス・ブレーク・グラバー - Thomas Blake Glover - (1911)・淡路屋ツル(1899)[32]


・2004年(平成16年)長崎市の文化財に指定された[11]


倉場富三郎 (1945)・倉場ワカ (1943)[2][32]

詳しいことは、「坂本国際墓地ウィキペディア」をご覧ください。 ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9D%82%E6%9C%AC%E5%9B%BD%E9%9A%9B%E5%A2%93%E5%9C%B0
(wikiより)

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明治 37年 ( 1904 ) に竣工したこの建物は、 明治~昭和初期の建築界の偉才、下田菊太郎が設計した現存する唯一の遺構であり、国指定重要文化財となっています。


長崎市内の洋館群の中にあっては最大級であり、1階部分を連続アーチのアーケードとして、2・3階部分にコリント式の円柱を通した大オーダーとし、その上に三角破風の屋根をのせるなど、海側の正面性を重視したデザインとなっています。


香港上海銀行長崎支店は当時神戸以西唯一の外国銀行で、在留外国人、なかでも貿易商を主な取引先として外国為替やロンドン・上海・香港における外貨の売買を主要業務とした特殊為替銀行でした。


「長崎近代交流史と孫文・梅屋庄吉ミュージアム」を併設し、中国革命の父孫文とその革命を支えた長崎出身の実業家・梅屋庄吉の国境を越えた友情や、国際貿易港であった長崎の歴史等を紹介しています。


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上野彦馬は、天保 9年 ( 1838 )、銀屋町 16番 ( 現、長崎市銀屋町 ) に生まれた。


父・俊之丞 ( しゅんのじょう ) は、長崎奉行所の御用時計師で、ダゲレオダイプ・カメラ ( 銀板写真機 ) を日本で初めて輸入した。


彦馬は 16歳から広瀬淡窓 ( ひろせ - たんそう ) の私塾・咸宜園 ( かんぎえん ) で関学を学び、その後、長崎に戻り、オランダ海軍医ポンペのもとで舎蜜学 ( せいみがく )( 化学 ) を学んだ。


このとき湿板写真術に興味を示し、津藩士堀江鍬次郎とともに、フランス人ロッシェについて、写真術を学んだ。


文久 2年 ( 1862 )、彦馬は、中島川河畔に商業写真館・上野撮影局を開設。


高杉晋作ら著名人の肖像や各地の風景を撮影し、貴重な写真を後世に残すとともに、多くの門人を育成し、わが国写真業界の基礎を築いた。


また、明治 7年 ( 1874 ) 金星観測の写真撮影に参加。


さらに、明治 10年 ( 1877 ) には西南の役に従軍し、日本初の従軍写真家として活躍し、明治 37年 ( 1904 ) 65歳でこの世を去るまで、写真技術の発展に多大な功績を残した。
(案内板より)

〇 上野彦馬
上野 彦馬(うえの ひこま、天保9年8月27日1838年10月15日) - 明治37年(1904年5月22日)は幕末期から明治時代にかけて活動した日本写真家(写真師)。


日本における最初期の写真家で、日本最初の戦場カメラマン(従軍カメラマン)としても知られる。号は季渓。家紋は桔梗の二引。


生涯
天保9年(1838年)、長崎の蘭学者・上野俊之丞(しゅんのじょう)の次男として生まれる。広瀬淡窓の私塾、咸宜園で2年間学び、咸宜園を離れた後の安政5年(1858年)にはオランダ軍医ポンペ・ファン・メールデルフォールトを教官とする医学伝習所の中に新設された舎密試験所に入り、舎密学化学)を学んだ。このとき、蘭書から湿板写真術を知り、大いに関心を持つ。同僚の堀江鍬次郎らとともに蘭書を頼りにその技術を習得、感光剤に用いられる化学薬品の自製に成功するなど、化学の視点から写真術の研究を深める。また、ちょうど来日したプロの写真家であるピエール・ロシエにも学んだ。その後、堀江とともに江戸に出て数々の写真を撮影して耳目を開き、文久2年(1862年)には堀江と共同で化学解説書『舎密局必携』を執筆する。


同年、故郷の長崎に戻り中島河畔で上野撮影局を開業した。ちなみにこれは日本における最初期の写真館であり(ほぼ同時代に鵜飼玉川下岡蓮杖が開業)、彦馬は日本における最初期の職業写真師である。同撮影局では坂本龍馬高杉晋作ら幕末に活躍した若き志士や明治時代の高官、名士の肖像写真を数多く撮影した。


維新後の明治7年(1874年)には金星の太陽面通過の観測写真を撮影(日本初の天体写真)、明治10年(1877年)には西南戦争の戦跡を撮影(日本初の戦跡写真)、同年に開催された第1回内国勧業博覧会では鳳紋褒賞を受賞するなど、その写真は歴史的、文化的にも高く評価されている。


一方で海外に支店を持つ(ウラジオストク上海香港)など写真業繁栄の傍ら後進の指導にもあたり、富重利平田本研造ら多くの門人を輩出した。明治37年(1904年)、長崎で死去。享年67。

ギャラリーについては「上野彦馬ウィキペディア」をご覧ください ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8A%E9%87%8E%E5%BD%A6%E9%A6%AC

参考文献
鈴木八郎小澤健志、八幡政男、上野一郎監修『写真の開祖 上野彦馬』 産業能率短期大学出版部,1975年
・八幡政男『幕末のプロカメラマン 上野彦馬』 長崎書房,1976年
・八幡政男『写真術師 上野彦馬』 マルジュ社,1986年
・八幡政男『評伝上野彦馬 日本最初のプロカメラマン』 武蔵野書房,1993年
・安田克廣編『幕末維新-写真が語る-』 明石書店,1997年
長野重一飯沢耕太郎木下直之編『上野彦馬と幕末の写真家たち』 岩波書店,1997年
・馬場章編『上野彦馬歴史写真集成』 渡辺出版,2006年
・本馬貞夫「上野彦馬-化学者でもあった写真師」(Wolfgang Michel、鳥井裕美子、川嶌眞人編『九州の蘭学-越境と交流-』所収) 思文閣出版,2009年
・小澤健志、上野一郎監修『レンズが撮らえた幕末の写真師上野彦馬の世界』 山川出版社,2012年


関連項目
日本写真史
三谷幸喜 - 上野をモデルにした写真家が主人公の演劇『彦馬がゆく』を上演した。
グイド・フルベッキ
上野陽一 - 「能率の父」と呼ばれる経営学者、産業心理学者。彦馬の甥(彦馬の実弟・幸馬の長男)。
上野彦馬賞


外部リンク
写真の開祖 上野彦馬(産業能率大学)

上野彦馬賞(九州産業大学)

長崎大学付属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース 上野彦馬

早稲田大学図書館 古典籍総合データベース 「舎密局必携-前篇」

『舎密局必携』巻三 附録「撮形術」(上記の付録をひらがな・読み仮名付きにしたもの)

ダルメイヤー B-3(上野が最初使ったものと同型のレンズ)

NHK福岡制作ミニ番組「維新の傑物たち 上野彦馬」公開中
(wikiより)

西南戦争…熊本城攻防戦…官軍側から写真師・上野彦馬が撮影

⇧ 西南戦争、熊本城攻防戦 官軍側から写真師・上野彦馬が撮影。


1210 上野彦馬

⇧ 上野彦馬

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豊澤家は浄瑠璃 ( 三味線などを弾き物語を語るもの ) などを伝える家柄で、豊澤仙糸は明治から大正にかけて活躍した人物でした。


この碑はその豊澤仙糸を称えたもので文字は漢学者で初の長崎市議会議長となった西道仙によって書かれました。

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犯科帳とは長崎奉行所で取り扱った密貿易、汚職、心中などの事件判決記録をまとめた記録のことで、この犯科帳被処刑者之霊碑はその犯科帳に記載の被害者や加害者を慰霊するため昭和 36年 ( 1961 ) 当時の長崎県立教育研究所所長の森永種夫によってに建てられたものです。

江戸時代の長崎奉行所の判決記録。

1666年 − 1867年分の 145冊が現存する。

長崎奉行は直轄地の長崎および周辺の長崎代官管地の事件のほか、西国の宗門・抜荷関係について大坂町奉行と分掌していた。

森永種夫編《犯科帳》全 11巻で刊行された。

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六十一長崎奉行・大岡美濃守忠移墓碑 ( おおおかみののかみ - ただより )
享保 5年 ~ 明和元年 ( 1720 ~ 1764 )

大岡氏は藤原鎌足の支流で、三河国八名郡宇利郷に居住以来、「大岡」の姓を称した。

忠移は享保の改革に尽力した大岡越前守忠相と同族にあたり、元文元年 ( 1736 ) に小普請であった大岡隼之助忠斟の遺跡を継ぐ。

忠移は、幼名を忠禁、通称を吉次郎、諱が忠移、従五位下美濃守を称した。

宝暦 5年 ( 1755 ) 目付に転じ、同 11年山田奉行、同 13年 ( 1763 ) に長崎奉行となった。

石谷備後守と中国貿易の再編に着手したが、在任中 ( 1763 ~ 64 ) の明和元年 ( 1764 ) に長崎で死去。墓所は正覚山大音寺。行年 45歳。

神奈川県高座郡寒川町に菩提寺の浄見寺がある。

( 墓碑正面 ) 敬光院殿?譽心巌大居士
( 右 ) 明和元年龍飛甲申夏六月十二日
( 左 ) 従五位下大岡美濃守藤原忠移墓

 長崎奉行・寺沢志摩守広高を初代長崎奉行としている。

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百二代長崎奉行・稲葉出羽守正申墓碑 ( いなばでわのかみ - まさのぶ )
寛政 6年 ~ 嘉永元年 ( 1794 ~ 1848 )

稲葉氏は河野主流 ( 越智氏 ) で、伊予国越智郡拜志村に居住。

拜志村をとり、のち「林」に改め、佐渡守正成のとき「稲葉」の姓に改称。
 
正申は、飯室太郎左衛門昌親の二男にあたるが、小普請組の稲葉来応正方の養子になった。

通称を清次郎、諱が正申、従五位下出羽守を称した。
 
弘化 2年 ( 1845 ) 目付になると同時に、幕府の対外問題処理のために設けられた海防掛を兼職した。

嘉永元年 ( 1848 ) 5月 26日長崎奉行となったが、在任中の嘉永元年 ( 1848 ) 10月 3日長崎で死去。墓碑は正覚山大音寺、行年 54歳。菩提寺は霊光寺 ( 東京都江東区深川 )

( 墓碑正面 ) 敬徳院殿従五位下前出羽守越智真譽正由大居士
( 右 ) 嘉永元年戊申
( 左 ) 十月三日卒

 長崎奉行・寺沢志摩守広高を初代長崎奉行としている。

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六十八代長崎奉行・戸田出雲守氏孟墓碑 ( とだいずものかみ うじたけ )
元文 3年 ~ 天明 5年 ( 1738 ~ 1785 )

戸田氏は三条家支流で、三河国戸田郷に住み、「戸田」の姓を称した。

氏孟は新庄源六郎直良の二男であったが、小姓組番士の戸田半弥氏喜の養子となり、明和 3年 1766に家督を継いだ。
 
幼名を吉五郎、通称を主膳、諱が氏孟、従五位下出雲守を称した。
 
天明元年 ( 1781 ) 佐渡奉行、同 4年 ( 1784 ) に長崎奉行となった。

在任中 ( 1784 ~ 1785 ) には長崎会所に調役を置き、町年寄の久松半右衛門、薬師寺久左衛門を調役として任じた。
 
天明 5年 ( 1785 ) 10月 4日長崎で死去、墓所は正覚山大音寺。行年 48歳。

菩提寺は蓮光寺(東京都文京区)。

( 墓碑正面 ) 高岳院殿顕譽氏孟宗俊大居士
( 右 ) 従五位下戸田前出雲守藤原氏孟墓
( 左 ) 天明五乙巳歳十月上四日

 長崎奉行・寺沢志摩守広高を初代長崎奉行としている。

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松平 康英(まつだいら やすひで、明和5年2月5日1768年3月23日) - 文化5年8月17日1808年10月6日))は、江戸時代後期の旗本長崎奉行高家旗本前田清長の三男。別名は康秀、康平。幼名は栄之助、仮名は伊織。

官位
従五位下、図書頭

生涯

公的には宝暦11年(1761年)生まれとしていたが、実際には明和5年2月5日生まれである(「前田家系譜」)。安永6年(1777年)7月11日、幕府小普請組戸川山城守支配松平舎人康疆松井松平家分家)の婿養子となり、2000石取りの旗本松平家の家督を相続する。天明8年(1788年)12月24日、中奥番士となる。寛政6年(1794年)11月17日、御徒頭となる。同年12月16日、布衣を許される。寛政8年(1796年)5月24日、西丸目付となる。

文化4年(1807年1月30日、長崎奉行に就任する。文化5年(1808年)6月に長崎でのロシア船処分法、8月初めにロシア船渡来の際の港湾警備法を定める。


同年8月15日、イギリス船フェートン号がオランダ船拿捕のためにオランダ国旗を掲げて長崎港に入り、オランダ商館員2人の捕縛・長崎港内の捜索を行う事件を起こした(フェートン号事件)。これに際し康英は、福岡藩佐賀藩大村藩などの藩兵に打払いを命じるものの、有事に対する備えのなかった当時の藩兵の動きは著しく遅く、特に長崎警衛当番を請け負っていた佐賀藩は経費節減を名目に藩兵を削減していたことも重なってうまくいかなかった。それに加え、翌16日にフェートン号側から薪水と食料を提供しなければ長崎港内の船舶や長崎の町を焼き討ちすると脅迫を受けたため、やむなくこれに従う。この際、康英自身は武力衝突になったとしても相手側の要求をあくまでも退ける姿勢を示していたが、オランダ商館長(カピタン)であったヘンドリック・ドゥーフの説得によりやむなくフェートン号の要求を受け入れるに至った。そしてイギリス船が人質を解放して長崎を去った17日、自身の意に反して他国の脅迫に屈してしまった国辱の責任を取り、切腹して自害した。享年41。長崎奉行の切腹が幕閣に与えた衝撃は大きいものであった。


墓所は長崎県長崎市大音寺。また、地元民により諏訪神社に祀られた。


実家である高家の「前田家系譜」「前田家先祖書」によれば、康英の読み方は「やすひで」でなく「やすふさ」と記されている。また、康英の死については「長崎奉行勤役中文化5年戊辰8月26日病死す。勤役中につき、長崎において埋葬す。墓所は天徳寺東京都港区虎ノ門)にあり。法号・現光院」となっている。幕府への公式な届け出は、切腹による自害でなく、病死として扱われ、死亡日も自害した17日でなく、26日となっている。
(wikiより)

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⇧ 墓所入り口 ( 入って右側 )

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岡本安太郎 ( 1850年頃生まれ ) は、明治・大正の長崎の港湾に出入りする荷の一切をとりしきっていた、当時、 岡本組には、四、五百人の仲仕が常にいた。


仲仕たちは荒っぽくて博打好き、それではいけないと いうので安太郎は相撲を奨励した 。


岡本組の草相撲というのは有名だった。


ある時、寺町でやくざのケンカがあって、警察も手におえなくなり、岡本家へ人力車が迎えに来た。


安太郎が「お前らは何してるか!」と一喝すると、そのケンカはピタッとやんだ という。


今でも、大音寺幼稚園前には 「岡本安太郎翁の碑」がある。

 さだまさしの母の祖父 ( さだまさしの母方の曽祖父 )

岡本安太郎も明治時代、長崎港で港湾荷役を取り仕切った「岡本組」の元締。

最盛期には気性の荒い沖仲仕 ( おきなかし ) 500人を束ね、任侠 ( にんきょう ) の大親分として地元で語り継がれている。


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長崎の代表的料理しっぽく料理その他会席料理等、一力ならではの味覚、老舗ならではの雰囲気を体感頂きたいと存じます。


又、小唄辰巳誕生の処。


歴史的著名人の曽遊の処だともいわれております。


明治大正の日本洋画壇に名を馳せた山本森之助の生家であり、その作品は宮内庁お買上げが多くございます。

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延命寺は、元和二年 ( 一六一六年 ) 岡山より訪れた龍宜和尚が、当時長崎で流行していた疫病を治す事と港を出入りする多種の船舶の海上安全を祈願する為に建立されました。


その後まもなく、長崎奉行直々のお達しで「長崎界隈総祈願所」として宗旨・宗派にこだわらず、今でいう全市民的な盛り上がりを見せて参りました。


京都総本山 仁和寺 との関係も深く、代々住職は、真言宗発展の為多大な貢献をして来た事もつとに知られております。


又、入口の山門は、明暦三年 ( 一六五七年 ) 第二世住職尊覚和尚の時、長崎奉行所立山役所の門をそのまま移築したもので ( 形式は変わっていないが、現存は門扉のみ )、当時の奉行所との親交も深かった事がうかがえます。


平成十五年五月十日 新本堂落慶に際して


医王山 延命寺第二十四世住職 堤 祐敬 謹白
( 案内板より)

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端島(はしま)※軍艦島は、長崎県長崎市(旧西彼杵郡高島町)にあるである。軍艦島(ぐんかんじま)の通称で呼ばれている[2]。「羽島」とも書いていた[3]


明治時代
から昭和時代にかけて海底炭鉱によって栄え、1960年代には東京以上の人口密度を有していた。日本初の鉄筋コンクリート造の高層集合住宅がある。


1974年
昭和49年)の閉山にともなって島民が島を離れてからは、無人島である。

2015年、国際記念物遺跡会議(イコモス)により、軍艦島を構成遺産に含む「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業」が世界文化遺産に登録された[4][5]

184  端島(軍艦島)の位置

184  左下が端島、右上が中ノ島。閉山の1974年撮影。

⇧ 左下が端島、右上が中ノ島。閉山の1974年撮影。(国土交通省 国土地理院 地図・空中写真閲覧サービスの空中写真を基に作成)


同じく炭鉱で栄えていた高島の南端からは南西に約2.5キロメートル[2]の距離にあり、長崎半島(野母半島)からは約4.5キロメートル離れている。端島と高島の間には中ノ島という小さな無人島があり、ここにも炭鉱が建設されたが、わずか数年で閉山となり、島は端島の住民が公園や火葬場・墓地として使用していた。そのほか端島の南西には「三ツ瀬」という岩礁があり、端島炭鉱から坑道を延ばしてその区域の海底炭鉱でも採炭を行っていた。


端島は本来は、南北約320メートル、東西約120メートル[6]の小さな瀬だった[7]。その小さな瀬と周囲の岩礁・砂州を、1897年(明治30年)から1931年(昭和6年)にわたる6回の埋め立て工事によって、約3倍の面積に拡張した[6][8]。その大きさは南北に約480メートル[6][8]、東西に約160メートル[6][8]で、南北に細長く、海岸線は直線的で、島全体が護岸堤防で覆われている。面積は約6.3ヘクタール[9]、海岸線の全長は約1,200メートル[10]。島の中央部には埋め立て前の岩山が南北に走っており、その西側と北側および山頂には住宅などの生活に関する施設が、東側と南側には炭鉱関連の施設がある。


高島町の年間平均気温は15 - 16[11][12]。平均降水量は2,000ミリメートル[11]、冬は比較的雨量が多い[12]。夏は南東風・南風、冬は北西風・北風が多い[12]


この島には植物が非常に少なく、端島を舞台とした1949年(昭和24年)の映画『緑なき島』のタイトルにも現れている。住民は本土から土砂を運んで屋上庭園を作り、家庭でもサボテンをはじめ観葉植物をおくところが多かった。また、主婦には生け花が人気だったという。西山夘三も草木はほとんどないと述べているが、これについては誇張的という指摘がある[13]。閉山後の調査では二十数項目の植物が確認されており、特にオニヤブマオイラクサ科)、ボタンボウフウセリ科)、ハマススキイネ科)の3種が端島の主な植物として挙げられている[13]

歴史
端島炭坑の歴史区分は大まかに、第一期・原始的採炭期(1810 - 1889年)、第二期・納屋制度期(1890 - 1914年)、第三期・産業報国期(1914 - 1945年)、第四期・復興・近代化期(1945 - 1964年)、第五期・石炭衰退・閉山期(1964 - 1974年)、第六期・廃墟ブームと産業遺産期(1974年 - )に分けられる[14]

第一期・原始的採炭期(1810 - 1889年)

端島の名がいつごろから用いられるようになったのか正確なところは不明だが、『正保国絵図』には「はしの島」、『元禄国絵図』には「端島」と記されている[15]。『天保国絵図』にも「端島」とある[16]


184  端島(軍艦島)の埋立の歴史

⇧ 端島(軍艦島)の埋立の歴史

184  明治後期の端島

⇧ 明治後期の端島

184  長崎で建造された戦艦「土佐」

⇧ 長崎で建造された戦艦「土佐」

184  昭和初期の端島

⇧ 昭和初期の端島




端島での石炭の発見は一般に1810年文化7年)のこととされる(発見者は不明)[17][18][19]が、『佐嘉領より到来之細書答覚』によると、1760年宝暦10年)に佐賀藩深堀領の蚊焼村(旧三和町・現長崎市)と幕府領の野母村高浜村(旧野母崎町・現長崎市)が端島・中ノ島・下二子島(のちに、埋め立てにより高島の一部となる)・三ツ瀬の領有をめぐって争いになり[20]、その際に両者とも「以前から自分達の村で葛根掘り、茅刈り、野焼き、採炭を行ってきた」と主張[20]、特に後者は「四拾年余以前」に野母村の鍛冶屋勘兵衛が見つけ、高浜村とともに採掘し、長崎の稲佐で売り歩いていたと述べている[20][15]。なお当時は幕府領では『初島』と、佐賀領では『端島』と書いていたようである(『佐嘉領より到来之細書答覚』『安永二年境界取掟書』『長崎代官記録集』)[15]

このように石炭発見の時期ははっきりしないが、いずれにせよ江戸時代の終わりまでは、漁民が漁業の傍らに「磯掘り」と称し、ごく小規模に露出炭を採炭する程度であった[17]1869年(明治2年)には長崎の業者が採炭に着手したものの、1年ほどで廃業し、それに続いた3社も1年から3年ほどで台風による被害のために廃業に追い込まれた[21]。36メートルの竪坑が無事に完成したのは1886年(明治19年)のことで、これが第一竪坑である[21]

第二期・納屋制度期(1890 - 1914年)

1890年(明治23年)、端島炭鉱の所有者であった鍋島孫太郎(鍋島孫六郎、旧鍋島藩深堀領主)が三菱社へ10万円で譲渡[22]。端島はその後100年以上にわたり三菱の私有地となる。譲渡後は第二竪坑と第三竪坑の開鑿もあって[23]端島炭鉱の出炭量は高島炭鉱を抜くまでに成長した(1897年)[23]。この頃には社船「夕顔丸」の就航、製塩・蒸留水機設置にともなう飲料水供給開始(1891年。1935年に廃止)[24]、社立の尋常小学校の設立(1893年)など基本的な居住環境が整備されるとともに、島の周囲が段階的に埋め立てられた(1897年から1931年)。


1890年代には隣の高島炭鉱における納屋制度が社会問題となっていたが、端島炭坑でも同様の制度が敷かれていた。高島同様、端島でも労働争議がたびたび起こった[25]。納屋制度期における軍艦島の生活は以下の通り。端島における納屋制度の廃止は高島よりも遅かったが、段階的に廃止され、全ての労働者は三菱の直轄となった。

三菱端島労働状況(1907(M40)3〜8月ごろ) 日本労務管理年誌・労務管理資料編纂会 S37〜S39


1. 坑夫募集人は応募者1人に付3円ずつの手数料を得る。炭坑を楽園のごとく吹聴し、世人を欺瞞。

2. 坑夫は何れも故郷忘れがたく、募集人の舌端に欺されたるを悔いている。

3. 会社は淫売婦を雇い随所に淫売店を開業させ更に賭博を奨励。

4. 坑夫はあわれこの陥穽に陥入り、前借の弱身に自由を縛し去られている。[26]

第三期・産業報国期(1914 - 1945年)

納屋制度の廃止・三菱による坑夫の直轄化がRCアパートの建造とともに進められ、1916年(大正5年)には日本で最初の鉄筋コンクリート造の集合住宅「30号棟」が建設された。この年には大阪朝日新聞が端島の外観を「軍艦とみまがふさうである」と報道[27]しており、5年後の1921年(大正10年)に長崎日日新聞も、当時三菱重工業長崎造船所で建造中だった日本海軍戦艦土佐」に似ているとして「軍艦島」と呼んでいる[27][18]ことから、「軍艦島」の通称は大正時代ごろから用いられるようになったとみられる。ただし、この頃はまだ鉄筋コンクリート造の高層アパートは少なく(30号棟日給社宅のみ)、大半は木造の平屋か2階建てであった。


RC造の30号棟が完成した1916年までに、まず世帯持ち坑夫の納屋(小納屋)が廃止されたが、1930年の直営合宿所の完成以降には、単身坑夫の納屋(大納屋)も順次廃止され、1941年にはついに端島から納屋制度が全廃される。しかし、代わって登場した三菱の直轄寄宿舎も、劣悪であった。例えば1916年に建設された30号棟は、世帯持ち坑内夫向けの6畳一間の小住居がロの字プランの一面に敷き詰められ、その狭さから建設当初から評判が良くなかった。一方で、後に建設された坑外夫向けの16号 - 20号棟は、6畳+4.5畳というやや広めの間取りで、端島における坑内夫と坑外夫の差別がそのままRC化されていた[28]

端島炭鉱は良質な強粘炭が採れ、隣接する高島炭鉱とともに、日本の近代化を支えてきた炭鉱の一つであった。それを支える労働者のための福利厚生も急速に整えられ、1937年の時点で、教育、医療保険、商業娯楽等の各施設は、既に相当なレベルで整備されていた[28]。一方で仕事は非常にきつく、1日12時間労働の2交代制で、「星を頂いて入坑し星を頂いて出坑する。陽の光に当ることがない」[29]との言葉がある。


1916年(大正5年)以降から少年および婦人の坑内使役が開始され、大正中期からは内地人の不足を補充するために朝鮮人労働者の使役が開始される[28]。1939年(昭和14年)からは朝鮮人労働者の集団移入が本格化し、最重労働の採鉱夫のほとんどが朝鮮人に置き換えられたほか、1943年(昭和18年)から中国人捕虜の強制労働が開始された[30]。朝鮮人労働者は納屋、中国人捕虜は端島の南端の囲いの中にそれぞれ収容されたという[30]。戦後、高島・端島・崎戸の3鉱の華人労務者やその遺族らが国・長崎県・三菱マテリアル・三菱重工を相手に損害賠償を求めて起こした訴訟では、長崎地裁が2007年3月27日に、賠償請求自体は請求権の期限(20年)が経過しているとして棄却したものの、強制連行・強制労働の不法行為の事実については認定した[31][32]

1939年には坑内でガス爆発事故が発生し、死傷者34名を出した[3]


戦時中の1941年から始まった「産業報国戦士運動」の結果、石炭出炭量が最盛期を迎えた1941年(昭和16年)には約41万トンを出炭[33](端島の歴史における年間最高出炭)、1943年には第2立坑より1日に2,062トンを出炭した。この時期の端島の生活は極めて劣悪で、高浜村端島支所に残された1939年 - 1945年の『火葬認可証下付申請書』によると、この時期の端島における死亡者は日本人1162人、朝鮮人122人、中国人15人であり、朝鮮人や中国人だけでなく日本人も相当な人数が死んでいる[34]。死因は主に爆焼死・圧死・窒息死などで、1940年の端島の推定人口が3,333人なので、住人の40%近くが死んでいる計算になる。


1945年
(昭和20年)6月11日にアメリカの潜水艦「ティランテ」が、停泊していた石炭運搬船「白寿丸」を魚雷で攻撃し撃沈したが、このことは「米軍が端島を本物の軍艦と勘違いして魚雷を撃ち込んだ」という噂話になった[35]。1945年には高島二子発電所が空爆を受け、第2立坑が水没する。1945年(昭和20年)に完成した65号棟(報国寮)北棟の防空用偽装塗装にこの時期の記憶が残る。

第四期・復興・近代化期(1945 - 1964年)

終戦直後、朝鮮人・中国人の帰国や生活に困窮した労働者の島外離脱のために一時的に人口が激減するが(なお、1945年当時の端島の人口データは、終戦の混乱期ということもあり、国勢調査のデータで1,656人、高島町端島支所のデータで4,022人と大きな乖離があり、あまりあてにならない)、1945年10月の石炭生産緊急対策要綱による復興資金の供給、さらに1948年にGHQによって輸入砂糖の出炭奨励特配が行われ、また復員者の帰還によって1948年以降には逆に人口が急激に増加する。同時に住宅不足が深刻化する。


この時期には設備の近代化と同時に、労使関係の近代化が行われた。1946年には端島炭鉱労働組合が結成され[3]、組合闘争の結果として賃金が上がり、ますます転入者が増えた。賃金の上昇と同時に炭坑の稼働率は下がり、余暇が増えた。遊び場にブランコも設置され、住みやすくなった。特に1955年の海底水道開通[24]で、いつでも真水の風呂に入れるようになるなど生活環境は劇的に改善した。島内には3つの共同浴場が存在し、職員風呂と坑員風呂の区別があったが、これも労働組合結成直後に起こった差別撤廃闘争で解消するなど、戦前からあった職員と坑員の差別は戦後から閉山期にかけて段階的に解消されていった。


しかし、住宅問題は労使のタブーであり、会社の職員に上層の広い部屋があてがわれ、一般の坑員に中層のやや狭い部屋があてがわれ、下請け労働者に下層のとても狭い部屋があてがわれる、と言う区分は労働組合に黙認された[37]。住宅規模は住人の家族数にはあまり考慮が払われておらず、勤続年数や職階など住人のランクに応じたものがあてがわれており[38]、住宅に関しては歴然とした階級社会であった。海が荒れると潮が建物を乗り越えて上から降る「塩降街」の狭い坑員合宿で単身坑夫らが共同生活をしている一方で、砿長の自宅(5号棟)は波のかからない高台の一軒家にあり、全ての一般坑員が3つの浴場を共同で利用している一方で、砿長の自宅には個人用の風呂があった(1952年当時の端島における風呂の数は、一般坑員・職員向けの共同風呂が3か所、上級職員・来客向けのクラブハウス(7号棟)の風呂、砿長の自宅の風呂、計5か所)。


また、会社の立場からは、稼働率の低さ、労働者の流動性の高さ、出炭量の低さが問題となった。労働法の整備などによって、労働者の労働時間が制限されたため、戦時中と比べて人口が急激に増加したにもかかわらず、石炭の生産量は大きくダウンした。「食ったり遊んだりする分しか働かない単身者ではなく、家族持ちを多く採用する」「掛売制の採用(商品の代金を後払いとすることで、代金を払いきるまで半永久的に島外に出られなくする、納屋制度期の手法)」「設備の機械化による合理化」などの対策が提案されたが、労働組合との関係もあり、この時期はあまりうまくいかなかった[39]


人口が最盛期を迎えた1960年(昭和35年)には5,267人の人口があり、人口密度は83,600人/km2と世界一を誇り東京特別区の9倍以上に達した[40]。炭鉱施設・住宅のほか、高浜村役場端島支所(1947年 - 1955年)→高島町端島支所(1955年 - )[3]・小中学校・店舗(常設の店舗のほか、島外からの行商人も多く訪れていた)・病院(外科や分娩設備もあった)・寺院「泉福寺」(禅寺だがすべての宗派を扱っていた[41])・映画館「昭和館」・理髪店・美容院・パチンコ屋・雀荘・社交場(スナック)「白水苑」などがあり、島内においてほぼ完結した都市機能を有していた。ただし火葬場墓地、十分な広さと設備のある公園は島内になく、これらは端島と高島の間にある中ノ島に(端島の住民のためのものが)建設された[42]


1951年
には坑内でガス突出事故が発生している[3]

詳しいことは、「端島 (長崎県)ウィキペディア」をご覧ください。 ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AB%AF%E5%B3%B6_(%E9%95%B7%E5%B4%8E%E7%9C%8C)
(wikiより)

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⇧ 軍艦島クルーズで乗船した船。

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⇧ 軍艦島



渡辺秀石(わたなべ しゅうせき、寛永16年(1639年) - 宝永4年1月16日1707年2月18日))は、江戸時代前期に長崎で活躍した画家。逸然に就いて画を修め、長崎奉行所から唐絵目利を命ぜられると写生画を基調とする唐絵目利派の祖となった。


本姓
は岩川氏。を元章、仁寿斎・嬾道人などとし、師の画号である煙霞比丘も襲名している。通称は甚吉。

略伝

肥後国菊池氏を祖という。商人岩川甚吉の子であったが渡辺に改姓。正保元年(1645年)逸然について北宗画を修め、河村若芝とともに長崎漢画の代表的な画人となる。ともに師と共通の画号である煙霞比丘を襲名している。


元禄
10年(1697年)唐絵目利職と御用絵師長崎奉行所に命ぜられ、唐絵目利派の元祖となる。逸然を通じて中国から伝わった北宗画風の絵画が、公に長崎の独自な画風として認められたのである。


秀石は長崎土産となるような異国情緒あふれる長崎の風俗図や細密な花鳥図を画いている。作品は無落款のものが多く、伝存作品が少ない。その人柄は温厚で慎ましく、画神と称賛された。


秀石の一族は代々唐絵目利職を世襲し、2世秀朴・3世元周・4世秀渓・5世秀彩・6世秀詮・7世秀実(鶴洲)・8世元洲と続いた。秀石の弟の渡辺秀岳も画家。


法号
は仁寿院元章秀石居士。東林山深崇寺に一族と共に葬られている。

183   布袋渡水図 伝渡辺秀石筆 隠元賛 1672年 絹本着色 萬福寺

⇧ 布袋渡水図 伝渡辺秀石筆 隠元賛 1672年 絹本着色 萬福寺

183   双鶴図 渡辺秀石筆 絹本着色

⇧ 双鶴図 渡辺秀石筆 絹本着色

作品
・「野稲群雀図」伝秀石 長崎歴史文化博物館

・「寿老図」伝秀石 長崎歴史文化博物館

・「唐夫人図」長崎歴史文化博物館

・「雪中梅鶴図」

・「布袋渡水図」伝秀石 寛文12年(1672年)萬福寺 

・「出島・十善寺絵巻」

・「老松双鶴図」

参考文献
渡辺秀実『長崎画人伝』

田能村竹田『屠赤瑣瑣録』

・『瓊浦画工伝』』(文化元年 春孔撰 文化10年 今井孝寛増訂)

・古賀十二郎『長崎画史彙伝』1983年 大正堂書店

出典
成澤勝嗣「物はやりの系譜」(「隠元禅師と黄檗宗の絵画展」所載  1991年 神戸市立博物館)

・阿野露団『長崎の肖像 長崎派の美術家列伝』1995年 形文社

183  異国人図巻(琉球人・朝鮮人・韃靼人)

⇧ 異国人図巻(琉球人・朝鮮人・韃靼人)

183  異国人図巻(阿蘭陀人・毛留人・咬𠺕吧人)

⇧ 異国人図巻(阿蘭陀人・毛留人・咬𠺕吧人)
(wikiより)

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打橋半雨 ( うちはし - はんう ) 名は喜衡。通称は小野次。別号に竹里。
( 1804 - 1847 )

江戸時代後期の画家。


文化元年生まれ。

打橋竹雲の子。


家は代々長崎の北瀬崎御用米蔵預役。


石崎融思に師事。

鉄翁 ( てっとう ) 祖門、木下逸雲とは融思門の同門。

隠元、木庵、即非の書を学び、書家としても知られた。


弘化 ( こうか ) 4年 4月 5日死去。44歳。名は喜衡。


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・ 四代目・向井文平
・ 五代目・向井元仲


松尾芭蕉の門人だった俳諧師「向井去来」の父。


「向井元升」が正保 4年 ( 1847 ) 長崎聖堂 ( 孔子廟 ) を創建。


元升自ら所長となり、傍ら私塾を開いて儒学を講じます。


その後、向井家の子孫が代々所長を勤め、明治 4年 ( 1871 ) 聖堂が廃止されるまでの間、実に創立以来 220年も続きます。


この聖堂は広く一般にも開放され、かの坂本龍馬・上野彦馬も受講。


向井家は学問・思想の中心として、多くの人材育成に取り組み長崎の儒学の振興に大きく寄与した一家です。


お寺には、「長崎聖堂 向井家之墓」の碑、4代目・向井文平、5代目・向井元仲の墓があります。
(案内板より)

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⇧⇩ 四代目・向井文平墓

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⇧⇩ 五代目・向井元仲墓

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吉雄 耕牛(よしお こうぎゅう、享保9年(1724年) - 寛政12年8月16日(1800年10月4日))は、日本江戸時代中期のオランダ語通詞幕府公式通訳)、蘭方医。は永章、通称は定次郎、のち幸左衛門。幸作とも称する。号は耕牛のほか養浩斎など。父は吉雄藤三郎。吉雄家は代々オランダ通詞を務めた家系。

生涯

享保9年(1724年)、藤三郎の長男として長崎に出生。幼い頃からオランダ語を学び、元文2年(1737年)14歳のとき稽古通詞、寛保2年(1742年)には小通詞に進み、寛延元年(1748年)には25歳で大通詞となった。年番通詞、江戸番通詞(毎年のカピタン(オランダ商館長)江戸参府に随行)をたびたび務めた。


通詞の仕事のかたわら、商館付の医師やオランダ語訳の外科書から外科医術を学ぶ。特にバウエル(G.R.Bauer)やツンベリー(C.P.Thunberg。スウェーデン人でリンネの高弟)とは親交を結び、当時日本で流行していた梅毒の治療法として水銀水療法を伝授され、実際の診療に応用した。


オランダ語、医術の他に天文学、地理学、本草学なども修め、また蘭学を志す者にそれを教授した。家塾である成秀館には、全国からの入門者があいつぎ、彼が創始した吉雄流紅毛外科楢林鎮山の楢林流と双璧を為す紅毛外科(西洋医学)として広まった。吉雄邸の2階にはオランダから輸入された家具が配され「阿蘭陀坐敷」などと呼ばれたという。庭園にもオランダ渡りの動植物にあふれ、長崎の名所となった。同邸では西洋暦の正月に行われる、いわゆる「オランダ正月」の宴も催された。


吉雄邸を訪れ、あるいは成秀館に学んだ蘭学者・医師は数多く、青木昆陽野呂元丈大槻玄沢三浦梅園平賀源内林子平司馬江漢合田求吾永富独嘯庵亀井南冥など当時一流の蘭学者は軒並み耕牛と交わり、多くの知識を学んでいる。大槻玄沢によれば門人は600余を数えたという。中でも前野良沢杉田玄白らとの交流は深く、2人が携わった『解体新書』に耕牛は序文を寄せ、両者の功労を賞賛している。また江戸に戻った玄沢は、自らの私塾芝蘭堂で江戸オランダ正月を開催した。若くして優れた才覚を発揮していたため、上記に記している青木昆陽・野呂元丈・三浦梅園・合田求吾・前野良沢など、自身よりも年上の弟子が何人も存在する。


寛政2年(1790年)、樟脳の輸出に関わる誤訳事件に連座し、蘭語通詞目付の役職を召し上げられ、5年間の蟄居処分を申し渡されたが、復帰後は同8年(1796年)蛮学指南役を命じられた。


寛政12年(1800年)に平戸町(現在の長崎市江戸町の一部)の自邸で病没。享年77。法名は閑田耕牛。


訳書には『和蘭(紅毛)流膏薬方』、『正骨要訣』、『布斂吉黴瘡篇』、『因液発備』(耕牛の口述を没後に刊行。のちに江馬蘭斎が『五液診方』として別に訳出)など。名古屋市博物館には荒木如元筆の「吉雄耕牛像」が所蔵されている。


通訳・医術の分野でともに優れた耕牛であったが、子息のうち医術は永久が、通詞は権之助(六二郎)がそれぞれ受け継いだ。権之助の門人に高野長英らがいる。


大正4年(1915年)、正五位を追贈された[1]

耕牛を演じた役者
小日向文世 - 風雲児たち

脚注
1. 田尻佐 編『贈位諸賢伝 増補版 上』(近藤出版社、1975年)特旨贈位年表 p.37

関連文献
・片桐一男 『江戸の蘭方医学事始 阿蘭陀通詞・吉雄幸左衛門耕牛』丸善ライブラリー、2000年

勝盛典子 「吉雄耕牛-豪邁にして名声高きオランダ通詞・蘭方医」、『九州の蘭学─越境と交流』、94-101頁。
  ヴォルフガング・ミヒェル鳥井裕美子川嶌眞人共編、思文閣出版、京都、2009年。(ISBN 978-4-7842-1410-5) 

関連項目
オランダ正月

出島

通詞

長崎屋源右衛門

長崎奉行

カピタン

カール・ツンベルク

青木昆陽

野呂元丈

前野良沢

杉田玄白

大槻玄沢

三浦梅園

平賀源内

林子平

司馬江漢

合田求吾

永富独嘯庵

亀井南冥
(wikiより)

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柴田方庵墓碑銘

柴田方菴先生墓誌銘

先生諱海、字谷王、姓柴田氏、号方菴、常州水戸人。父曰傳左衛門、母某氏。爲人正實、處事周密、夙爲醫。天保二年辛卯六月、來游長崎、學于蘭医。悉逸僕兒禿者術益精。常起幾死。輿論稱爲醫中巨擘。仰治受業者爭援止之終留家焉。先生有兄嗣家。然毎寄二親以奉養之資。聞及珍異。又造其退老之宅。嘗歸省見其國君 齊昭公。頗見優待。爾後屡受寵賜器物金帛之外至手寫聖語短刀等。後特命班中士餼禀五口以便遠使。先生家事簡而富。室石崎氏無子。養馬田氏兒以爲嗣。曰大介。慈愛過所生。安政三年丙辰十月八日病卒。享年五十有七。遺言贈宗家以金若干及前賜刀。葬禪林寺後新塋。大介請銘。銘曰創業之易固是其人。特厚丘首不啻術仁。

  安政四年丁巳十月    山本晴海謹撰

〇 柴田 方庵

(しばた ほうあん、寛政12年(1800年)-安政3年10月8日1856年11月5日))は、江戸時代蘭学者医師。方庵は号、本名は昌敦、字は谷王。日本で牛痘接種に尽力した人物として、またビスケットゆかりの人物として知られている。

経歴

常陸国多賀郡会瀬村(現在の茨城県日立市)に柴田伝左衛門昌俊の次男として生まれる。14歳の時江戸に出て、儒学者であり養父が医師でもある朝川善庵儒学と医学を師事する。


天保
2年(1831年)には西洋医学を学ぶとともに国外の情勢を伝えるよう水戸藩の命を受けて長崎に出る[1]。長崎ではシーボルトの門人たちやオランダ軍医オットー・モーニッケに最新の西洋医学を学び開業。一方で、水戸藩へ長崎や海外の情報をいろいろ伝えており御目見得格五人扶持に遇された。郷里の常陸国に戻ることなく長崎に没した。


長崎滞在中の日記である「日録」は同時代の貴重な資料となっている[1]。1984年から日立市の古文書学習会が日録の翻刻に着手し、計41人が参加し、2021年に翻刻事業が完了して関連史料とともに全8巻にまとめられた[1]

牛痘
日本で最初の牛痘の接種を行ったのは、オランダ軍医オットー・モーニッケであり、嘉永2年(1849年鍋島藩医、楢林宗建の子などに接種した。モーニッケは阿蘭陀通詞会所に伝習所兼種痘所を置き、吉雄圭斎と柴田方庵を実地に指導し牛痘接種を行わせた。方庵は自宅に種痘所を開設するなど種痘の普及に努めた[1]

ビスケット
柴田方庵は、安政元年(1854年)に郷里の水戸藩の役人萩信之助から兵糧になる西洋の保存食として「パン・ビスコイト製造」を習得し報告するよう依頼を受け、オランダ人からビスケットの製法を学んだ。安政2年(1855年)にその製法書を送ったと方庵の日記に記されている2月28日を、社団法人全国ビスケット協会では「ビスケットの日」と定めている。

出典
1. a b c d “江戸期に種痘を普及させた蘭方医 柴田方庵の「日録」翻刻完成”. 長崎新聞. (2021年8月29日). https://nordot.app/804545590847684608 2021年8月29日閲覧。 


参考文献
・日立市史(日立市)

・柴田方庵日録撮要(日立市郷土博物館)

関連項目
蘭学

種痘

外部リンク
社団法人 全国ビスケット協会
(wikiより)

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柴田 昌吉(しばた まさよし[1][2]/しばた しょうきち[3]天保12年12月27日1842年2月7日) - 明治34年(1901年10月8日)は、日本の英語学者。長崎生まれ。長崎英語伝習所で学び、幕府、明治政府で通訳を務めた。

著書
共著
柴田昌吉、子安峻『英和字彙』日就社、1873年1月。NDLJP:870052 NDLJP:1871572 NDLJP:2938261

  ・柴田昌吉、子安峻『英和字彙』日就社、1882年8月、増補訂正第2版。NDLJP:870057

  ・柴田昌吉、子安峻『英和字彙』浜田健次郎増補、桃林堂、1888年11月、増補版。NDLJP:1085242

・柴田昌吉、子安峻『英和字彙』輿論社、1885年12月。NDLJP:870053

・柴田昌吉、子安峻『英和字彙』文学社、1885年11月。NDLJP:870058

・柴田昌吉、子安峻『英和字彙』織田純一郎校正、積善館、1886年12月。NDLJP:870060

・柴田昌吉、子安峻『英和字彙』共立活版部、1886年2月。NDLJP:870055

・柴田昌吉、子安峻『英和字彙』天野為之訂正、鈴木重陽増補、同盟書房、1887年7月。NDLJP:870059

・柴田昌吉、子安峻『英和字彙』佐藤乙三郎、1887年2月。NDLJP:870054

・柴田昌吉、子安峻『英和字彙』栗野忠雄増訳、坪井九馬三校閲、中村順三郎、1888年6月。NDLJP:870061

共訳
・『英国海軍律令全書』巻之1、子安宗峻・柴田昌吉訳、松陰山房、1870年。NDLJP:797664

  ・『英国海軍律令全書』巻之2、子安宗峻・柴田昌吉訳、松陰山房、1870年。NDLJP:797665

校閲
・『和訳 英小文典』賀島尚太郎訳、翠柳堂、1889年9月。NDLJP:870419

伝記
岩崎克己『柴田昌吉伝』岩崎克己、1935年9月。

脚注
1. 子安峻(こやす・たかし)”. 港区ゆかりの人物データベースサイト. 港区立図書館. 2020年11月5日閲覧。
2. 『附音挿図英和字彙』初版本”. 玉川大学教育博物館. 2020年11月5日閲覧。
3. 柴田, 昌吉, 1841-1901”. Web NDL Authorities. 国立国会図書館 (1999年7月5日). 2020年11月5日閲覧。

参考文献
『明六雑誌』上巻、山室信一中野目徹校注、岩波書店岩波文庫〉、1999年5月。ISBN 9784003313015

・『明六雑誌』中巻、山室信一・中野目徹校注、岩波書店〈岩波文庫〉、2008年6月。ISBN 9784003313022

・『明六雑誌』下巻、山室信一・中野目徹校注、岩波書店〈岩波文庫〉、2009年8月。ISBN 9784003313039

関連項目
明六社
明六雑誌

外部リンク
柴田昌吉』 - コトバンク
柴田 昌吉:作家別作品リスト - 青空文庫
(wikiより)

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180  吉雄流写本「吉雄 外科聞書」





島谷市左衛門 ( しまや - いちざえもん )

( ? - 1690 )

江戸時代前期の探検家。

肥前長崎出身。


貿易商の父に航海術を習い、オランダ流の測量術も学ぶ。


寛文 9年長崎代官の末次平蔵の命で唐船造りの船を江戸へ回航。


延宝 3年 ( 1675 ) 幕命によりその船で中尾庄左衛門らと小笠原諸島を探検し、「延宝無人島巡見記」を著した。


元禄 ( げんろく ) 4年 7月 16日死去。

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池原日南 ( いけはら - にちなん ) 名は香穉 ( かわか ) 。
( 1830 - 1884 )

幕末 - 明治時代の医師、国学者。


天保 ( てんぽう ) 元年生まれ。


備前岡山藩の上田及淵 ( しきぶち ) に学ぶ。


安政 3年郷里の肥前長崎で眼科医を開業、かたわら国学を教えた。のち宮内省文学御用掛。


明治 17年 7月 14日死去。55歳。

著作に「みとものかず」。

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木下 逸雲(きのした いつうん、寛政12年8月1日1800年9月19日) – 慶応2年8月4日1866年9月12日))は、江戸時代後期の長崎南画家鉄翁祖門三浦梧門と共に長崎三大家とされる。


幼名弥四郎といい、のちに通称を志賀之介とした。を相宰。逸雲は、ほかに如螺山人・物々子。室号を養竹山房・荷香深処とした。

略伝

長崎八幡町、木下勝茂の3男に生まれる。文化14年(1817年)、18歳で木下家代々の乙名(名主)の役を引き継ぐも、文政12年(1829年)にその役を兄の子に譲り、自身は元来関心のあった医師を生業とし、医門名を得生堂と称した。蘭医オットー・モーニケによって伝えられた種痘術の普及に努めている。「霧島山に登るの記」(文政11年(1828年))の小文がある。


画は、はじめ唐絵目利石崎融思に学び、来舶清人江稼圃張秋穀からは南画の技法を修めた。その後も清人陳逸舟徐雨亭にその画風を学んだ。さらに雪舟狩野派大和絵円山四条派などの諸派や西洋画の画法を熱心に研究し、様々な技法を取り入れた。画僧鉄翁祖門と画を共に学び生涯の友となった。逸雲は筆が早く、遅筆の鉄翁と対極をなした。田能村竹田頼山陽広瀬淡窓など文人と交わった。


逸雲は多芸多才で知られ、篆刻を能くし、琵琶の演奏・制作に巧みで、煎茶をたしなみ、藤原相宰の名で優れた和歌を詠んだ。また白磁染付で知られる亀山焼の発展に尽くし、自ら絵付けも行っている。長崎円山花月楼清譚会の世話役を務め、日中文化交流を促した。


慶応
2年(1866年)4月、京阪江戸に漫遊し、同年8月横浜から長崎行きのイギリス船黒龍号に乗船するも、玄界灘で海難事故に遭い、帰らぬ人となった。享年68。門人に、河村雨谷津田南竹池島邨泉長井雲坪など。また姉の小蘭、甥の秋塘も画家である。

176 秋景山水図 1854年 絹本墨画

⇧ 秋景山水図 1854年 絹本墨画

作品
・「秋景山水図」1830年 長崎歴史文化博物館

・「秋景山水図」1854年

・「山水図」1861年

・「花鳥図(牡丹に猫)」1862年

・「水墨林巒重畳図」1863年

・「桃花源図」1864年

・「蘭水仙図」1864年

・「蓮塘図」1865年

出典
・阿野露団 『長崎の肖像 長崎派の美術家列伝』 形文社、1995年12月22日、pp.123-127

・『文人画の近代 鉄斎とその師友たち』 京都国立近代美術館、1997年

・関啓治編集 『長崎南画三筆のひとり 木下逸雲 ~南画と印影を楽しむ~』 長崎新聞社、2012年10月15日、ISBN 978-4-904561-60-7

関連項目
小曽根乾堂

長崎派
(wikiより)

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越前福井の人。 

医者。

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海雲山 晧臺寺は、今からおよそ400年前、慶長13年(1608)、備前国松浦郡山口村(佐世保市相浦町)飯盛山洪徳寺の七世であった亀翁良鶴により創建されました。


当時、長崎は領主をはじめ住民の殆どがキリシタン信者であり、仏法復興のために奮闘した亀翁の苦心は想像に余りあるものでした。


慶長18年(1613)、キリシタン禁教例の発令により全盛を誇ったキリシタンにも次第にかげりが見え始めました。 そこで亀翁は、後任に美全国上佐嘉春日村(佐賀県佐賀郡大和町)玉林寺住持一庭融頓を迎え、その法席を譲りました。


一庭は、鈴木正三と共にその実弟で天草代官である鈴木重成の招請に応じ島民の教導に努めるなど、 キリシタン転宗教化に一層努力するとともに、長崎に光雲寺・永昌寺・高林寺の三ヵ寺を開創し、晧臺寺の末寺としました。


三世月舟宗林の時、庫裡ならびに方丈・禅堂・衆寮・本堂などが建立され、禅寺としての体裁が整えられました。


明治29年(1896)、二十七世金峰玉仙は、曹洞宗認可僧堂を開単し雲衲の接化の努めました。


以後多くの修行僧が全国より集まり、現在の晧臺寺専門僧堂の基礎を築くこととなりました。
(晧臺寺ホームページより)


当時の小曽根家墓所内には、亀山社中の近藤長次郎と海援隊士・小曽根英四郎が葬られています。


近藤長次郎は、坂本龍馬が組織した亀山社中の一員として、慶応元年 ( 1865 ) 、長州藩のための軍艦・武器購入に活躍しましたが、隊規違反の罪を問われて翌 2年 1月 14日ら小曽根邸内で切腹しました。


碑銘「梅花書屋氏墓」は、竜馬筆とも言われています。


また小曽根英四郎 ( 1841 ~ 1890 ) は長崎商人・小曽根乾堂の弟で、竜馬の活動に支援を惜しまず、海援隊の簿籌 ( ぼちゅう ) 官 ( かいけいかん ) としても活躍しました。
(案内板より)

〇 晧台寺

晧台寺(こうたいじ)は、長崎県長崎市にある仏教寺院曹洞宗)。正式には海雲山普昭晧台禅寺という。

長崎三大寺(皓台寺・本蓮寺大音寺)の一つで、長崎市内外に末寺が14ヶ寺ある。

歴史

1608年慶長13年)、肥前国松浦郡相神浦村山口村(現在の佐世保市相浦)の洪徳寺住持亀翁良鶴により笠頭山洪泰寺として風頭山麓に創建されたのを始まりとする。1615年元和元年)に佐賀玉林寺住持の一庭融頓が当寺住持を兼ね、1619年(元和5年)より玉林寺の末寺となる。


1626年
寛永3年)に現在地に移った。1642年(寛永19年)には一庭が将軍徳川家光、さらに明正天皇への拝謁を許され、この時に天皇より現在の山号寺号を下賜された。


境内には歴代長崎奉行で在任中に長崎で没した者のうち4名を始め、唐通事の林家・宮梅家、長崎町年寄の高木家・薬師寺家の代々、シーボルトの娘楠本イネの墓がある。修行道場として僧堂を設置している。

文化財等
長崎県指定有形文化財
・山門

・仁王門 - 1680年(延宝8年)建築と伝えられており、長崎県内に現存する社寺の門としては最古とされる。

・大仏殿

長崎市指定有形文化財
・梵鐘 - 1702年(元禄15年)谷口安左衛門により改鋳のもの。

アクセス
長崎電気軌道思案橋電停めがね橋電停より各徒歩5分、市民会館電停より徒歩8分。

長崎自動車道長崎インターチェンジよりながさき出島道路国道324号経由。

周辺
・晧台寺幼稚園

中島川

眼鏡橋

長崎市立諏訪小学校

関連項目
精霊流し - 2003年公開の映画でロケ地となった。

外部リンク
海雲山 晧臺寺 公式ページ

晧台寺ブログ
(wikiより)

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清風亭の主。


〇 清風亭址
慶応 3年 ( 1867 ) 1月頃、幕末の志士・坂本龍馬が、土佐藩士・溝渕広之丞と松井周助の斡旋により、土佐藩参政・後藤象二郎と会談を行った「清風亭」という料亭が、この場所にありました。


龍馬と象二郎は仇敵同士でしたが、この会談で意気投合。


以後共同して政治活動にまい進することを約束し、同年 4月には海援隊が成立、10月には大政奉還が実現しました。


このことから、この「清風亭会談」は幕末史上の重要な出来事のひとつに挙げられます。


なおこの会談には、後藤象二郎の計らいで、長崎の芸妓・お元も同席していたといわれています。


お元の名は、大江卓の追憶談「長崎見聞」に龍馬馴染みの芸妓として記されています。
 
清風亭は、土佐藩士・佐々木高行らの日記にもしばしば登場しており、土佐藩とは関係深い料亭でした。


また、明治初年、大隈重信が長崎から上京する際には、送別の宴が開かれています。

幕末頃には吉岡兵助という人物が主人をつとめ、従来、12畳の部屋と 8畳の部屋が 1室ずつあったといわれますが、同料亭で使用された食器の箱書には吸物膳 40客、小菜皿 100枚とあることから、もっと大きな料亭であったとも考えられます。


長い間、正確な場所は不明でしたが、大光寺 ( 鍛冶屋町 ) の過去長や明治初期の地図などから、平成 21年にこの場所 ( 旧榎津町 65番地、現在の万屋町 5番 11号一帯 ) が特定されました。
『清風亭跡 板碑より抜粋』

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坂本 天山[1](さかもと てんざん、延享2年5月22日1745年6月21日) - 享和3年2月29日1803年4月20日))は、江戸時代砲術家。信濃国高遠藩士。は俊豈(としやす)、通称孫八。遊臥楼と号す。


高遠藩士・坂本運四郎英臣の長男として高遠城下の荒町に生まれる。明和5年(1768年)、大坂の荻野照良に砲術を学び、帰郷して『銃陣詳説』などを著す。同7年(1770年)に藩主内藤頼由参勤交代に随行して江戸に出府し、荻生徂徠門下の大内熊耳に入門し復古学を修める。のち荻野流を研鑽して「荻野流増補新術」として「周発台」を発明し、自藩の砲術に採用された。天明3年(1783年)から藩の郡代も務め、治山治水に努めたが、反対派のために失脚し、三年間蟄居閉門となった。


のち脱藩して大坂彦根藩長州藩大村藩などで砲術と儒学を教授し、享和2年(1802年)、平戸藩松浦清から招待され藩士の教育にあたった。同3年(1803年)長崎で病没。『紀南遊嚢』などの漢詩集を残した。


1915年(大正4年)に従五位を遺贈された[2]。孫娘の桂が島崎重韶(島崎藤村の祖父)の後妻となった[3]


1. 「阪本」表記も
2. 『贈位諸賢伝 増補版 上』 特旨贈位年表 p.38
3. 「人づくり風土記 長野」1988年 組本社

参考文献
・『坂本天山先生遺墨集』(信濃偉人遺墨顕彰会、1933年)

・『三百藩家臣人名事典 3』(新人物往来社、1988年)

・角憲和『阪本天山―信州高遠の生んだ明治維新の先覚者』(岳風書房、2000年)
(wikiより)

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時代江戸時代中期
生誕寛保2年(1742年
死没寛政11年11月25日1799年12月21日
改名亀五郎(幼名)→貴強
別名通称:次郎兵衛
戒名恭徳院殿義嶽静貞大居士
墓所長崎の海雲山皓台寺
官位従五位下石見守
幕府江戸幕府 旗本
主君徳川家治家斉
氏族竹谷松平家支流
父母父:松平親賢、養父:松平親房

松平 貴強
(まつだいら たかます)は、江戸時代中期の旗本。通称は次郎兵衛。官位従五位下石見守

略歴

竹谷松平家支流。松平大進親賢の次男として誕生。幼名は亀五郎。松平伊織親房の養子となる。


明和
8年(1771年)に家督を継ぐ。天明7年(1787年)大坂町奉行、寛政9年(1797年長崎奉行となった。翌年に勘定奉行兼帯となった。


寛政11年(1799年)在任中に長崎で58歳で没す。墓所は長崎の海雲山皓台寺。法名は恭徳院殿義嶽静貞大居士。

参考文献
寛政重修諸家譜
(wikiより)

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永井 直廉(ながい なおかど、元文4年(1739年) - 寛政4年閏2月6日1792年3月28日[1])は、江戸幕府旗本。通称は主計、弾正、伊織、官位は従五位下筑前守[2][3]


永井直允の孫で、永井直令の長男。母は土屋利起の養女(土屋利意の娘)。遠山景晋の兄で、遠山景元の伯父に当たる。妻は島津久芬の娘[2][4]。子に娘(平賀貞愛妻)、娘(窪田正扶妻)、娘(永井直堯妻)、養子に永井直堯(吉益忠徴次男)。

略歴

宝暦4年(1754年)10月15日、16歳の時に将軍徳川家重に初の御目見得を果たす[2]。同12年(1762年)9月28日、書院番になる[2]


天明
2年(1782年)12月4日に永井家を継ぐ。同6年(1786年)1月11日に使番になり、同年12月18日に布衣の着用を許される[2]


天明7年(1787年)10月15日、田沼意次が城地を没収されることになった際、久留敬武とともに任務を受けて、田沼氏領地の遠江国相良藩に赴く[2]


天明8年(1788年)6月18日に目付に就任[2]


寛政元年(1789年)閏6月12日、長崎奉行に就任。同年7月1日従五位下に叙任して筑前守を名乗る[2][3]

同4年(1792年)閏2月6日、長崎にて死去。享年54。法名は良義。長崎の哠台寺に葬られる[2][3]。墓石には「朝散大夫長崎尹大江公之墓」と彫られている[5]


奉行在職当時、経済的に疲弊していた長崎のため、同僚の水野忠通とともに、


1. 石銭徴収の廃止

2. 貧困者に資金を貸して仕事に就かせる「市中産業方」の設置

3. 凶作に備えて籾米を購入して貯蔵

4. 80歳以上の高齢者に銀1枚を支給


などの施策をし、長崎住民たちから感謝されていた。永井が病気になった際、社寺には全快を祈願する町民が絶えず、在留唐人たちも諏訪社に永井の全快を祈ったという[6]

脚注
1. 「永井直廉」『日本人物レファレンス事典 江戸時代の武士篇』日外アソシエーツ、715頁。

2. a b c d e f g h i 『新訂 寛政重修諸家譜』第十 株式会社続群書類従完成会、286頁。

3. a b c 『国史大辞典』第10巻 吉川弘文館、581頁。
4. 『新訂 寛政重修諸家譜』第十 株式会社続群書類従完成会、284頁。岡崎寛徳著 『遠山金四郎』 講談社現代新書、37頁。藤田覚著 『遠山景元 老中にたてついた名奉行』 山川出版社、5頁。
5. 
本田貞勝著 『長崎奉行物語 サムライ官僚群像を捜す旅』 雄山閣、115頁。
6. 本田貞勝著 『長崎奉行物語 サムライ官僚群像を捜す旅』 雄山閣、114頁。

参考文献
岡崎寛徳著 『遠山金四郎』 講談社現代新書 ISBN 978-4-06-287974-3

木村直樹著 『長崎奉行の歴史 苦悩する官僚エリート』 角川選書 ISBN 978-4-04-703574-4

藤田覚著 『遠山景元 老中にたてついた名奉行』 山川出版社 ISBN 978-4-634-54853-4

・本田貞勝著 『長崎奉行物語 サムライ官僚群像を捜す旅』 雄山閣 ISBN 978-4-639-02346-3

・『新訂 寛政重修諸家譜』第六 株式会社続群書類従完成会

・『国史大辞典』 第10巻 吉川弘文館ISBN 4-642-00510-2

・『日本人物レファレンス事典 江戸時代の武士篇』日外アソシエーツ ISBN 978-4-8169-2632-7
(wikiより)

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岡田篁所 ( おかだ - こうしょ )
( 1821 - 1903 )

江戸後期-明治時代の儒者、医師。

名は穆。字(あざな)は清風。通称は恒庵。 別号に大可山人。著作に「滬呉 ( こご ) 日記」。


文政 4年生まれ。

肥前長崎出身。


少年のころ大坂で宇津木静区に師事。


大塩平八郎の乱で師を失い、野田笛浦に儒学を、多紀氏に医術を学んだ。


明治 36年 2月 19日死去。83歳。

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楠本たき、イネ、二宮敬作、三人の顕彰碑

〇 楠本たき

楠本たき ( くすもと - たき )

( 1807 - 1869 )

江戸時代後期,P.F.シーボルトの愛人。


文化 4年生まれ。


肥前長崎の人。


遊女名は其扇 ( そのぎ )。


文政 6年出島行きの遊女としてシーボルトと知りあい、10年いねを生む。


12年シーボルト事件でシーボルトが国外退去、のち俵屋時治郎と結婚した。


その名はシーボルトの命名したアジサイの学名にのこる。


明治 2年 4月 12日死去。63歳。

〇 楠本イネ

楠本 イネ(くすもと いね、文政10年5月6日1827年5月31日)- 明治36年(1903年8月26日[1])は、日本医師。現在の長崎県長崎市出身。


フィリップ・フランツ・フォン・シーボルトの娘。日本人女性で初めて産科医として西洋医学を学んだことで知られる。“オランダおいね”の異名で呼ばれた[注 1]

〇 二宮敬作
二宮 敬作(にのみや けいさく、文化元年5月10日1804年6月17日) - 文久2年3月12日1862年4月10日))は、江戸時代後期の蘭学者医学者。日本初の女医(産科医)となったシーボルトの娘・楠本イネを養育したことでも知られる。

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二宮 敬作(にのみや けいさく、文化元年5月10日1804年6月17日) - 文久2年3月12日1862年4月10日))は、江戸時代後期の蘭学者医学者。日本初の女医(産科医)となったシーボルトの娘・楠本イネを養育したことでも知られる。

生涯

文化元年(1804年)、伊予国宇和郡磯崎浦(現・愛媛県八幡浜市保内町磯崎)に生まれる。


文政2年(1819年)、医師を志し長崎へ留学。吉雄権之助や美馬順三に師事し、蘭語・蘭方医学を学んだ後、文政6年(1823年)、ドイツ人医師フィリップ・フランツ・フォン・シーボルトの門弟となり鳴滝塾で学ぶ。文政9年(1826年)、シーボルトの江戸行きに同行し、測量器(水銀気圧計と推察される)を用いて富士山の高度を日本で初めて測量した(シーボルトの母国の恩師への報告によると測量結果は4982mである(『江戸参府紀行』東洋文庫 - シーボルト著))。また、シーボルト著の『日本植物誌』(Flora Japonica)によると、敬作が九州の高山から採取した植物にシーボルトが「ケイサキイアワモチ」(Corylopsis Kesakii)と命名したとされる。


ところが、文政11年(1828年)にシーボルト事件が起き、シーボルトは長崎を去るが、敬作は弟子の高良斉(こうりょうさい)とともに漁師に変装して小舟に乗り、シーボルトを見送ったという。この際に、シーボルトの娘イネの養育を託された。その後、敬作は事件に連座し、半年の入獄ののち、江戸立ち入り禁止され長崎からも追放され、故郷・磯崎に戻った。


天保元年(1833年)、宇和郡卯之町で町医者となり、イネを呼び寄せ養育する。安政5年(1858年)に再び長崎へと赴き、開業医となった。なお、その後敬作が故郷へ帰ることはなかった。


安政6年(1859年)、長崎に再来日したシーボルトと再会した。産科医を開業している娘イネをみて、敬作の義侠に感涙したという。江戸に赴くシーボルトに同行するつもりであったが、病に倒れ果たせなかった。


文久
2年(1862年)、長崎にて死去。享年59。墓は長崎の寺町の皓台寺。大正13年(1924年)、正五位を追贈された[1]

人物
・情にあつく、貧しい人にも献身的な活動で地元民から「医聖」として慕われたほか、宇和島藩伊達宗城に重用された。医者らや高野長英、村田蔵六(後の大村益次郎)とも親交があった。一方酒乱であり、酔って刃物を抜き家人を追い回すこともあったと言う。そのためか後年脳溢血で倒れた。その後右腕に障害が残ったが手術には誤りがなかったという。

備考
・日本人としてはただ一人だけ『ライプツィヒ版ドイツ百科事典』に「日本の俊才、二宮敬作伝」と記されて、その名を留めている。

・敬作の生まれた八幡浜市保内町磯崎(いさき)には、国道沿線に「二宮敬作記念公園」がつくられている。

・敬作の甥でその門人であった三瀬周三は、イネの娘・楠本高子の婿にあたる。

・大村益次郎を主人公にしたNHK大河ドラマ花神』では、益次郎と楠本イネを結び付ける重要な役どころとして登場している。演じたのは大滝秀治

脚注
1. 田尻佐 編『贈位諸賢伝 増補版 上』(近藤出版社、1975年)特旨贈位年表 p.51
(wikiより)

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楠本 イネ(くすもと いね、文政10年5月6日1827年5月31日)- 明治36年(1903年8月26日[1])は、日本医師。現在の長崎県長崎市出身。


フィリップ・フランツ・フォン・シーボルトの娘。日本人女性で初めて産科医として西洋医学を学んだことで知られる。“オランダおいね”の異名で呼ばれた[注 1]

生涯
幕末

1827年(文政10年)、ドイツ人医師であるフィリップ・フランツ・フォン・シーボルトと、丸山町遊女であった瀧(1807年 - 1869年)の間に生まれる。


母の瀧(お滝)は商家の娘であったが、実家が没落し、源氏名「其扇(そのおうぎ、そのぎ)」として、日本人の出入りが極限られていた出島にてシーボルトお抱えの遊女となり、彼との間に私生児としてイネを出産した。イネの出生地は長崎市銅座町で、シーボルト国外追放まで出島で居を持ち、当時の出島の家族団欒の様子が川原慶賀の絵画に残っている。ところが父シーボルトは1828年(文政11年)、国禁となる日本地図、鳴滝塾門下生による数多くの日本国に関するオランダ語翻訳資料の国外持ち出しが発覚し(シーボルト事件)、イネが2歳の時に国外追放となった。


イネは、シーボルト門下で卯之町(現在の西予市宇和町)の町医者二宮敬作から医学の基礎を学び、石井宗謙から産科を学び、村田蔵六(後の大村益次郎)からはオランダ語を学んだ。1859年安政6年)からはヨハネス・ポンペ・ファン・メーデルフォールトから産科・病理学を学び、1862年文久2年)からはポンペの後任であるアントニウス・ボードウィンに学んだ。後年、京都にて大村が襲撃された後にはボードウィンの治療のもと、これを看護しその最期を看取っている。1858年(安政5年)の日蘭修好通商条約によって追放処分が取り消され、1859年(安政6年)に再来日した父シーボルトと長崎で再会し、西洋医学(蘭学)を学ぶ。シーボルトは、長崎の鳴滝に住居を構えて昔の門人やイネと交流し、日本研究を続け、1861年(文久元年)には幕府に招かれ外交顧問に就き、江戸でヨーロッパの学問なども講義している。

明治

ドイツ人と日本人の間に生まれた女児として、当時では稀な混血であったので差別を受けながらも[要出典]宇和島藩主・伊達宗城から厚遇された。宗城よりそれまでの「失本イネ」という名の改名を指示され、楠本伊篤(くすもと いとく)と名を改める。1871年(明治4年)、異母弟にあたるシーボルト兄弟(兄アレクサンダー、弟ハインリヒ)の支援で東京は築地に開業したのち、福澤諭吉の口添えにより宮内省御用掛となり、金100円を下賜され明治天皇女官葉室光子の出産に立ち会う(葉室光子は死産の後死去)など、その医学技術は高く評価された。

異母弟ハインリヒとその妻岩本はなの第一子の助産も彼女が担当した(その子は夭折)。その後、1875年(明治8年)に医術開業試験制度が始まり、女性であったイネには受験資格がなかったためと、晧台寺墓所を守るため、東京の医院を閉鎖し長崎に帰郷する。1884年(明治17年)、医術開業試験の門戸が女性にも開かれ、既に57歳になっていたため合格の望みは薄いと判断し、イネはこの試験を受験しなかったとする通説があるが、当該試験は新たに開業を志すものを対象とした試験であったため、町医者として豊富な経験を持つイネは受験する必要がなかったというのが実情である[2]。この試験に合格し開業した荻野吟子が「日本初の女医」として話題になるが、あくまで国家試験に合格した女医一号であり、イネを含め野中婉稲井静庵松岡小鶴榎本住光後玉江高場乱など多数の女性医者がすでに存在していた[2][3]。62歳の時、実の娘の楠本高子(タダ、後述)一家と同居のために長崎の産院も閉鎖し再上京、医者を完全に廃業した。以後は弟ハインリヒの世話となり余生を送った。1903年(明治36年)、鰻と西瓜の食べ合わせによる食中毒(医学的根拠はない)のため、東京麻布で死去した。享年77。墓所は長崎市晧台寺にある。


なお、イネは生涯独身だったが、宗謙との間に儲けた娘・タダがいた。タダ自身の手記によれば、イネは宗謙によって船中で強姦されて妊娠した[4]。手記の中でいう船中とは、母たきが長崎に帰った際の下津井港から出ていたとされる北前船の定期航路便を見送った船ということになるため、高梁川から下津井港を結ぶ高瀬舟を指すと考えられる。このため、宇神幸男は自著の中で、強姦自体はあったものの、船頭や他の乗客がいる中での船中強姦は現実的ではなかったのではないかと考察している[5]

タダの手記は以下のとおりである。

母イネト石井宗謙トノ関係ヲ申シマセウ.母イネハ,石井宗謙ヲ頼リテ医術ノ研究ニ従事スルコトニナリマシタ.祖母タキ(其扇)ハ,私ノ母イネノ落付具合ヲミル為ニ,石井ノ宅ヘ(長崎カラ岡山ニ)遙々タズネテ参リマシタ.而シテ母イネノ修行スルサマヲ見届ケ,漸ク安心致シマシテ天神丸ト云ウ船ニ乗ッテ長崎ヘ帰リマシタ.其際母イネハ,石井ト共ニ船ニ乗リマシテ,母(タキ)ヲ見送リマシテ,天神丸ガ帆ヲアゲテ出船ヲスル,母ハ石井ト二人帰リマス途中,船中デ石井ニ口説カレマシタガ,母ハ石井ヲキライマシテ,懐中ニシタ短刀ヲ以テ野獣ノヤウナ石井ヲ防ギマシタケレドモ,石井ノ暴力ニ抵抗デキズ,トウトウ処女ノ誇リヲ破ラレマシタ.母ハ一度石井宗謙ニ姦淫サレマシテカラ,其後ハ一度モ石井ト肉交ハアリマセンデシタ.母ハ,石井ヲ蛇蝎ノヤウニキラッテイタノデス.処ガ母ハ遂ニ妊娠イタシマシタ.而シテ私ヲ生ンダノデス.カウシタ因果デ,私ハ生マレマシタ.母ハ何モ天意デアラウ,天ガタダ子トシテ私ヲ授ケタノデアラウト,アキラメマシテ,私ヲタダト名ヅケマシタ.母ガ分娩イタシマシタ際ニハ,産婆ヲ使ワズ,自分デ臍ノ緒ヲ切ッタサウデス.母ハ私ヲ分娩イタシマシテ後,長崎ヘ帰リマシタ.母ガ出立ノ時ニ石井ハ見送リヲイタシマシタガ,母ハ人デナシノ石井ト大イニ恨ミ罵リマシタサウデス.母ガ石井ヲ厭フタコトハ並大抵ノ事デハゴザイマセンデシタ.母ハ石井ヲ甚ダ恨ンデヰマシタ」.— 山脇タカ、(松田誠「かつて慈恵に在学した興味ある人物 その一 シーボルトの曾孫・楠本周三」『高木兼寛の医学』東京慈恵会医科大学、2007年に掲載)

その後、宗謙は師匠のシーボルトの娘に手をつけていたとして他のシーボルト門下生から非難され、イネは彼のことを激しく憎んだ。彼女は未婚のまま一人出産し、生まれてきた私生児を「天がただで授けたもの」という意味をこめてタダと名付けたとされる。後年、タダも母と同じく伊達宗城により改名を指示され、「高」「高子」と名乗った[6]


なお、楠本高子はその美しい容貌から、後に明治の美人写真を見ていた松本零士が『銀河鉄道999』のメーテルや『宇宙戦艦ヤマト』のスターシャのモデルにしたと言われている。なお、高子も医師に強姦されて出産しており、親子2代にわたって悲劇に見舞われた[4]


日本での子孫は楠本家、米山家。資料については叔父ハインリヒ・フォン・シーボルトの子孫でシーボルト研究家の関口忠志を中心に設立された日本シーボルト協会、子孫及び研究者より資料を委託されたシーボルト記念館、イネの師で鳴滝塾生である二宮敬作の出身地愛媛県西予市の資料館が研究を進めている。

イネの改姓改名について

シーボルトが日本において「施福多」や「失以勃児杜」といった当て字を使用していたことから、イネがそこから「失」の字を拝借し、「失本」(しいもと、しもと)と名乗っていたとされ、呉秀三の『シーボルト先生 其生涯及功業』ではイネが宇和島を訪れた際に伊達宗城が失本伊篤(姓を「失本」から「楠本」に、名を伊達の一字を与えて「伊篤」に)という姓名に改めさせたと記している[7]。しかし、『藍山公記』や三瀬諸淵がイネに宛てた書簡などでは「矢本」となっており、そもそも「失本」という名乗りはしていなかったという可能性が指摘されている[7]。また、楠本姓や伊篤という名に関してもシーボルト記念館の館長を務めた織田毅は伊達宗城と出会う前より名乗っていたと指摘しており、イネが厚遇された伊達家への恩を強調し、先祖美化の意図をもって呉に語ったのではないかとする歴史家も存在する[7]


吉村昭
の『ふぉん・しいほるとの娘』の中で古賀十二郎はイネが「志本」「矢本」という姓、「伊篤」という名を折々名乗ったとしており、シーボルトの「Si」、「bo」を転化させた「mo」、「d」の音「to」の三音を合わせたものを姓とし、「i」と「d」の発音のままに「イト」を充てた名を使用し、矢本(あるいは志本)伊篤はどちらも父であるシーボルトから着想を得た姓名だったのではないかとしている[7]

異名について
楠本イネの存命中において、「オランダおいね」という呼称が存在したことを裏付ける資料は存在しておらず、宇神幸男は1970年3月30日から9月26日までTBSポーラテレビ小説として放送されたテレビタイトル『オランダおいね』が初出であり、同作品の脚本を手掛けた横光晃の造語であるとしている[8]。その後、シーボルトの玄孫にあたるクラウディア・シーボルトが来日し、シーボルトの足跡を辿ったことを報じた新聞のなかで楠本イネに対して「オランダおいね」という名称が充てられるなど、異名として一般的に普及したと見られている[8]

脚注
注釈
1. 実際は日独混血であるが、オランダ政府に雇用されていたシーボルトが江戸幕府に対し、自分をオランダ人と偽っていたため、こう呼ばれた。ドイツ人なら当時は上陸が許されなかった。


出典
1.  楠本イネ(くすもとイネ)とは”. コトバンク. 朝日新聞社. 2019年4月10日閲覧。

2. a b 宇神幸男『幕末の女医 楠本イネ シーボルトの娘と家族の肖像』p.236
3. 宇神幸男『幕末の女医 楠本イネ シーボルトの娘と家族の肖像』p.59-p.60
4. a b 松田誠「かつて慈恵に在学した興味ある人物 その一 シーボルトの曾孫・楠本周三」『高木兼寛の医学』東京慈恵会医科大学、2007年。2016年1月21日閲覧。
5. 宇神幸男『幕末の女医 楠本イネ シーボルトの娘と家族の肖像』p.72
6. 母いねのこと”. 2015年6月10日時点のオリジナルよりアーカイブ。2008年8月30日閲覧。
7. a b c d 宇神幸男『幕末の女医 楠本イネ シーボルトの娘と家族の肖像』p.139
8. a b 宇神幸男『幕末の女医 楠本イネ シーボルトの娘と家族の肖像』p.52-p.53

関連文献
呉秀三『シーボルト先生 その生涯及び功業』吐鳳堂書店、1926年10月4日、再版。NDLJP:1020882

 ・呉秀三『シーボルト先生 その生涯及び功業』第1巻、岩生成一 解説、平凡社東洋文庫 103〉、1967年11月。ISBN 4-582-80103-X

 ・呉秀三『シーボルト先生 その生涯及び功業』第2巻、岩生成一 解説、平凡社〈東洋文庫 115〉、1968年5月。ISBN 4-582-80115-3

 ・呉秀三『シーボルト先生 その生涯及び功業』第3巻、平凡社〈東洋文庫 117〉、1968年6月。ISBN 4-582-80117-X

イネが登場する作品
小説
司馬遼太郎花神』。新潮文庫ほか、主人公大村益次郎に恋するヒロインとして描かれている

吉村昭『楠本いね』(短編小説、『日本医家伝』収録)。新潮社「自選作品集」に収録

・吉村昭『ふぉん・しいほるとの娘』(長編小説、主人公)。新版は、新潮文庫(上下)、岩波書店「歴史小説集成6」

宇神幸男『幕末の女医楠本イネ シーボルトの娘と家族の肖像』現代書館、2018年

漫画
庄野ひろ子『オランダお稲』 - ロマンコミックス 人物日本の女性史28

ジョージ秋山浮浪雲

村上もとかJIN-仁-

みなもと太郎風雲児たち』『風雲児たち 幕末編』

黒沢明世 / 横内謙介、『幕末ガール〜ドクトル☆おイネ物語〜』

あおきてつお、シナリオ:神鷹史こんぺいとう〜おいね診療譚』 - 『コミック乱』(リイド社)にて偏月連載(2013年 -)

テレビドラマ
・『オランダおいね』(ポーラテレビ小説 TBS1970年、演:丘みつ子

・『花神』(大河ドラマ NHK1977年、演:浅丘ルリ子

・『奇兵隊』(日本テレビ年末時代劇スペシャル、1989年、演:セーラ(セーラ・ロウエル

・『おいね 父の名はシーボルト』(NHK、2000年市川森一脚本、演:宮沢りえ

ミュージカル
・『幕末ガール』(2012年、脚本・演出・作詞/横内謙介、演:五十嵐可絵

・『オランダおイネあじさい物語』(2017年RSK山陽放送開局60周年記念市民ミュージカル、演:小松千絵

外部リンク
朝日日本歴史人物事典『楠本イネ』 - コトバンク
(wikiより)


166  楠本イネ

楠本イネ

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楠本たき ( くすもと - たき )

( 1807 - 1869 )

江戸時代後期,P.F.シーボルトの愛人。


文化 4年生まれ。


肥前長崎の人。


遊女名は其扇 ( そのぎ )。


文政 6年出島行きの遊女としてシーボルトと知りあい、10年いねを生む。


12年シーボルト事件でシーボルトが国外退去、のち俵屋時治郎と結婚した。


その名はシーボルトの命名したアジサイの学名にのこる。


明治 2年 4月 12日死去。63歳。

165  Kusumoto_Otaki

楠本 滝

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美馬 順三(みま じゅんぞう、寛政7年(1795年) - 文政8年6月11日1825年7月26日))は、江戸時代後期の蘭学者阿波国羽浦(現徳島県阿南市羽ノ浦町)出身。

生涯

美馬茂則の次男として阿波国羽浦で生まれる。名は茂親、号は如柳。


文政6年(1823年)に来日直後のシーボルトに入門し鳴滝塾の塾頭となる。その際に賀川玄悦の『産論』や石坂宗哲の『鍼灸知要一言』などの要旨を蘭訳してシーボルトに提出した。またシーボルト著書の『日本』古代史編の史料は、順三提出の蘭文「日本書紀神武天皇紀」によるといわれる[1]


文政8年6月11日(1825年7月26日)、流行していたコレラに罹患して病没。墓碑は長崎県長崎市大音寺徳島県阿南市羽ノ浦町岩脇にある[2]

脚注
1. 『朝日日本歴史人物事典』(朝日新聞出版
2. 『日本大百科全書』(小学館
(wikiより)

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イチョウは、中国原産の落葉高木で、中国安徽省南部と浙江省北部に自生が見られるという。


日本には鎌倉時代に渡来したといわれ、昔から神社や寺院に植えられているが、近年は街路樹としても使われている。


ここのイチョウは、大音寺本堂裏の墓地にあるもので胸高幹囲 3.9m、樹高 20mほどである。


地上 6mほどから 5本の支幹に分かれ、それぞれの支幹は大小の枝を斜上させて、雄大な樹形をつくる。


雄株のためか、多くの乳・乳柱を幹につけ、樹勢も旺盛である。


イチョウの平均生長は、直径 1mで 300年といわれるので、このイチョウも樹齢は 300年をこえているものと思われる。
(案内板より)

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阿蘭陀 ( オランダ ) 通詞中山家の墓地には、中山家一族の墓碑 25基と、シーボルトの高弟であった美馬順三 ( みま - じゅんぞう ) ( 1795 ~ 1825 ) の墓碑 1基がある。


中山家は始祖 ( しそ ) 作左衛門が寛文 3年 ( 1663 ) に稽古 ( けいこ ) 通詞 ( 後に小 ( こ ) 通詞 ) に任ぜられて以来、8代にわたって阿蘭陀通詞を勤めたが、2代・喜左衛門政純、3代・喜左衛門正紀、5代・作三郎武成、6代・三郎武徳は大通詞に、8代・六左衛門武和は通弁役頭取に進んでいる。


また、6代・作三郎武徳は御用和蘭 ( おらんだ ) 字書翻訳認掛として、ヘンドリック・ドゥフの指導で行われた蘭日対訳辞典「ドゥフ・ハルマ」の編纂 ( へんさん ) に従事し、これを完成させた。
(案内板より)

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荒木宗太郎 ( あらき - そうたろう ) ( ? ~ 1636 ) は名を一清 ( いっせい ) といい、通称を惣右衛門と改めた。


肥後熊本の武士であったが、天正 ( てんしょう ) 16年 ( 1588 ) 長崎に移住し現在の飽の浦 ( あくのうら ) 公園の地に壮大な屋敷を構え、※ 朱印船貿易商として活躍した。


荒木船の船旗 ( せんき ) は連合阿蘭陀東印度 ( いんど ) 会社のVOCのマークを逆にした図柄であった。


宗太郎の妻は、王加久戸女 ( わかくとめ ) と称し、交趾 ( こうち ) 国 ( ベトナム ) の王族阮 ( ぐえん ) 氏の娘であった。


長崎の人達は、彼女のことをアニオさんと呼んだが、その豪華な輿入 ( こしい ) れの有様は、現在でも「くんち」の奉納踊 ( ほうのうおどり ) の随所に取り入れられている。


なお、荒木家は 3代・伊太郎好信から 13代・惣八郎春章まで、西築 ( にしつき ) 町の乙名 ( おとな ) を勤めている。
(案内板より)


 朱印船貿易商
豊臣秀吉から朱印状を交付されて朱印船貿易商となる。

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中村三郎 ( なかむら - さぶろう )


大正期の歌人、画家


生年 : 明治 24 ( 1891 ) 年 3月 28日
没年 : 大正 11 ( 1922 ) 年 4月 18日


出生地 : 長崎県


別名: 号 = 末の郎子 ( スエノイラツコ )


経歴 : 英字新聞の解版小僧を手はじめに新聞記者、新劇団員、医学校助手など多くの仕事を転々とし、そのかたわら絵画研究をする。

大正 6年創作社に入社し、7年上京して若山牧水の助手を務めた。

没後「中村三郎集」が刊行された。


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近藤 長次郎(こんどう ちょうじろう、天保9年3月7日1838年4月1日) - 慶応2年1月14日1866年2月28日))は、幕末日本政治家。名を春宗。別名は上杉宋次郎、近藤昶次郎、梅花道人。

生涯

高知城下の饅頭商人の息子として生まれ、長次郎自身も饅頭を売り歩いていたため、はじめは苗字がなく饅頭屋長次郎と呼ばれた。幼少期から聡明で土佐では河田小龍の塾に入門し、その後岩崎弥太郎に師事。安政6年(1859年)、藩の重役由比猪内の従僕として江戸に留学し、儒学安積艮斎洋学手塚玄海砲術高島秋帆に学んだ。文久2年、勝海舟に入門した。その才能を山内容堂にも認められて文久3年(1863年)に名字帯刀を許され、同年6月、神戸の勝私塾に入門して航海術を学んだ。元治元年(1864年)5月、神戸海軍操練所が開設され、「勝阿波守家来」として聴講生のような形で入所した。その後、勝が失脚したため、行き場を失い脱藩した[1]


勝は薩摩藩に援助を要請し、薩摩藩も軍艦の乗組員が不足していたので、近藤らは薩摩藩に取り込まれることになり、元治2年2月、鹿児島に向かい、小松帯刀の下で艦船の運用に従事したりする、土佐藩を中心とする脱藩浪士の集団となり、社中と自称した。この段階では坂本龍馬とは一切関係がない。慶応元年(1865年)7月21日、小松帯刀と井上馨伊藤博文との歴史的会談によって、薩摩藩の名義貸しによる長州藩の武器購入が決定したが、井上が小松に同道して鹿児島に行き、軍艦購入の根回しをした際、そのサポートにあたった。近藤が中心となって武器を長崎から長州藩に運搬した際、長州藩主・毛利敬親に謁見を許され、ユニオン号購入への尽力を依頼された。さらに武器購入と運搬への尽力に謝意を示されて三所物を下賜され、藩主父子から島津久光茂久父子に対する礼状を託された。近藤は土佐藩浪士ではなく、薩摩藩士と認識されていた[2]


岩崎弥太郎
とは知己で、土佐を立つ際には餞別として刀を貰っている。同じく土佐藩出身である坂本龍馬とは仲が良く、龍馬と共に海援隊の前身である亀山社中を設立した。また龍馬の命令で長州藩に赴き、小銃を売り渡している。このとき、長次郎は長州藩主毛利敬親から謝礼の言葉を直々に受けている。


そして長次郎は汽船・ユニオン号を購入したが、この時に長州藩とユニオン号の引渡し条件をめぐって諍いが起こってしまう。しかし龍馬が仲介したため、長州藩は謝礼金を支払ったといわれている。

その後長次郎は、薩摩藩家老の小松清廉が費用を出し英商人トーマス・ブレーク・グラバーが船の手配をしてイギリスへ留学する予定であったが[3]、亀山社中の社中盟約書に違反したとして仲間たちより追及を受けたのち責任をとって小曽根乾堂邸で切腹した。なお、このとき切腹を命じたのは龍馬自身であったという説が一部にあるが、当時龍馬は薩長同盟締結のため京都に赴いていて長崎には不在であり、長次郎の切腹は、龍馬不在中に社中の隊士が決定したことである可能性が高い。享年29。


龍馬の妻であるお龍は後に回顧録『千里駒後日譚』(せんりのこまごじつのはなし)の中で長次郎の訃報を聞いた龍馬が「己が居ったら殺しはせぬのぢゃった」とその死を悼んでいたという証言を残している。 なお、龍馬本人の手帳には「術数有り余って至誠足らず。上杉氏身を亡ぼす所以なり」(「坂本龍馬手帖摘要」)と批判的に記されているとも言われるが、この「上杉氏」が長次郎のことを指しているという証拠はない。


葬儀は社中の者であげた。墓は皓台寺墓地内の高島秋帆(幕末期砲術家)の墓の裏手(山側)にひっそりと建てられていたが、現在では大浦お慶とともに志士たちを援助した小曾根家の墓地内に移設されている。墓碑には、小曾根邸の離れの屋敷名をとって「梅花書屋氏墓」と記されている。筆跡は龍馬のものとされている。


明治31年(1898年)、正五位を追贈された[4]

関連作品
テレビドラマ
天皇の世紀 第二部 第11回「長崎と亀山社中」(1973年、朝日放送テレビ、演:沖田駿一郎

勝海舟(1974年、NHK大河ドラマ、演:北村総一朗

竜馬がゆく(1968年、NHK大河ドラマ、演:北浦昭義

竜馬がゆく(1982年、テレビ東京、演:原田大二郎

幕末青春グラフィティ 坂本竜馬(1982年、日本テレビ、演:室積光

坂本龍馬(1989年、TBS、演:香川照之

勝海舟(1990年、日本テレビ、演:大倉順憲

竜馬におまかせ!(1996年、日本テレビ、演:北原雅樹

竜馬がゆく(2004年、テレビ東京、演:長谷川朝晴

龍馬伝(2010年、NHK大河ドラマ、演:大泉洋

映画
幕末(1970年、演:中村嘉葎雄

幕末青春グラフィティ Ronin 坂本竜馬(1986年、演:倉崎青児

テレビドラマ
お〜い!竜馬(1992年 - 1993年、NHK総合テレビ、声:鈴木晶子(幼年期)、三木眞一郎(青年期))

脚注
1. 町田明広『新説 坂本龍馬』集英社2019年
2. 町田明広『新説 坂本龍馬』集英社2019年
3. 
『坂本龍馬関連文書 第二』p.328
4. 田尻佐 編『贈位諸賢伝 増補版 上』(近藤出版社、1975年)特旨贈位年表 p.11

参考文献
・吉村淑甫『龍馬の影を生きた男 近藤長次郎』(平成22年、宮帯出版社
(wikiより)

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近藤長次郎

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小曽根 英四郎(こぞねえいしろう、1840年 - 1890年3月6日)は、江戸時代から明治時代まで活躍した長崎の豪商。

人物

長崎の豪商・小曽根六左衛門の四男として生まれる。長兄は小曽根乾堂

1866年坂本龍馬楢崎龍は長崎へ到着した後に出会い、楢崎龍は英四郎のあう別邸に預けられ、ピストルの操作を教わった。


1867年
に龍馬と交友を持ち当邸宅に土佐海援隊を設置し支援を行い、大洲藩からチャーターした蒸気船「いろは丸」の会計官として担当した。


生涯独身を貫き、1890年に51歳の生涯を終えた。

参考文献
文藝春秋増刊くりま「坂本龍馬がゆく」(2010年1月号)[1]


脚注
1. 目次に「『龍馬伝』を楽しむための坂本龍馬入門」に紹介している。

外部リンク
Golden Cadillac(小曽根英四郎)

海援隊(社中)

(wikiより)

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道富丈吉は、寛政 12年 ( 1800 ) から 17年間に渡り、出島オランダ商館長を勤めたヘンドリック・ドーフと、丸山遊女・瓜生野 ( うりうの ) との間に生まれた人物。

ドーフは丈吉を溺愛したが、任期を終え帰国。

ドーフは、長崎奉行・遠山景晋に願い出て白砂糖 300籠を長崎会所に寄託することによって、その利子を生活費として瓜生野親子に毎年渡してもらうようにとり計らった。

長崎の人々もドーフの願いに応え、丈吉を奉行所の役人 ( 唐物目利 ) に育て上げたが、丈吉は 17歳の若さでこの世を去り、長崎の人々はその短い人生を惜しんだという。

墓石前に 2つの花立石がある。右の花立石には、母の紋である揚げ羽蝶、そして左の花立石には、父であるヘンドリック・ドーフの頭文字、HとDを組み合せた花文字の紋は刻まれている。

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町年寄。

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晧臺寺 ( こうたいじ ) の後山にある向井家墓地には、4基の墓碑がある。

長崎の向井家は、長崎奉行直属の書物改役 : あらためやく ( キリスト教関連書籍の流入を防止するために、輸入された書籍をチェックする役職 ) を世襲した家系である。

長崎聖堂 ( 孔子廟 ) の創始者で、祭酒 : さいしゅ ( 学長 ) を勤めた向井元升 ( むかい・げんしょう ) の三男 元成 ( げんせい ) は、貞享 ( じょうきょう ) 2年 ( 1685 ) 中国からの輸入書物の中にイエズス会司祭が漢訳した禁書に価するものを発見し、その功績により代々役職を勤める家柄となった。

元成は、延宝 8年 ( 1680 ) から聖堂の祭酒を勤め、兄・去来 ( 元淵 : げんえん ) とともに、松尾芭蕉に師事し、魯町 ( ろちょう ) の俳号をもつ。

元成の墓碑は儒式、元升の兄・嘉兵衛の三男・道悦の墓は両部神道 ( ※ ) の形式であり、極めて稀な例として文化的価値が高いものである。

真言密教の立場から神道解釈した神仏習合思想
(案内板より)

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高島家は、代々大村町 ( 現在の万才町 ) に住む町年寄の家柄であった。

初祖、氏春は天正 2年 ( 1574 ) 長崎に移住し、初代・茂春が頭人 ( 後に町年寄と改称 ) となった。

中央正面が 3代・茂卿の墓碑であるが、茂卿は寛文 13年 ( 1673 ) に没しており墓の配列から考えて墓域設置は寛文前後と思われる。

当主の墓碑は、6代を除いて、初祖から 11代までがあり、この中には、慶応 4年 ( 1868 ) 門人たちが建てた茂敦 : しげよし ( 秋帆 : しゅうはんと号した ) とその家族 3人の墓碑もある。
(案内板より)

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後藤家は、代々島原町 ( 現在の万才町 ) に住む町年寄の家柄で、その初代は、海外貿易に従事した御朱印船主の五島宗印 ( そういん ) である。

宗印はキリシタンで、洗礼名を「トマス」といい、「ドチリナ・キリシタン」「オラショの翻訳」などを出版するとともに、ミゼリコルディアの組に関係し、慈善事業にも奉仕した。

宗印は、文禄 ( ぶんろく ) 元年 ( 1592 ) 頭人 ( 後に町年寄と改称 ) であったが、寛永 3年 ( 1626 ) 80余歳の老齢ながら、キリシタンで江戸に召喚され、翌年病死した。

2代貞朝 ( さだとも ) 以後明治維新まで 14代にわたって町年寄を勤めた。

墓地の形成は、墓石の配列と様式から寛文 ( かんぶん ) 前後と考えられ、正面中央に宗印 ( 貞之 : さだゆき ) を祀り、向かって右 ( 南 ) から 2代・3代と墓碑が配列されている。 ( 5代茂直 : しげなお 、14代貞紀 : さだのり、の墓碑はなし。 )
(案内板より)

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