本牧jack『意外と身近にある歴史散歩』日々是好日 心灯 頬笑

本牧Jackで御座います
小生の拙ブログ『意外と身近にある歴史散歩』日々是好日 心灯 頬笑に御訪問頂き誠に有難う御座います。
歴史ドラマが流行っている昨今、身近に有って気が付かなかったりする様な物を取り上げたりしています。
たまに『 大人数で取材しているのか? 』との質問を戴きますが、小生と相方の二人三脚で御座います。
出来るだけ続けたいと思っていますが 膝・耳に問題が有って、いつまで出来るやら・・・説明も、やたら長いものから あっさりしたものまで有りますが、御付き合いの程 宜しく御願い致します。
御注意 . 少ないですが生前に建てられた『 生前墓 』の記事も有ります。 ※ 申し訳御座いませんが「画像の転用」は禁止とさせて頂きます。 コメントは原則公開させていただいております 質問等に対してはブログ記事で返信させていただきます 他の方法で連絡を取り合う等一切しません 場合によっては、「IPブロック」しますがブロックした場合解除する事は有りませんので宜しくお願いします。

2023/03

出雲街道の標石


尾道は古くから海陸交通の要衝として栄えてきた。


この道標は旧出雲街道に立っていたもので、かっては車馬絡驛として石見 ( 島根県 ) 大森銀山の銀を運んだシルバーロードの繁昌を物語るものである。


この道標の前からいづも往来を北へ辿ると、先づ美郷の三成、ついで木の庄の市原と畑の一里塚を経て、道は市村 ( 現御調町 ) に入る


この街道の道幅は七尺 ( 約二.一二m ) のきまりであった
(石碑文より)

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陣幕久五郎の子孫。

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初汐久五郎の師匠。

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初汐久五郎の兄弟子。

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陣幕久五郎の師匠。

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第十二代横綱陣幕久五郎百回忌法要記念碑。

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⇧ 陣幕久五郎

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遥かなる


樹海の果ての


湖一つ天の雫の


ごとく光れる


山下陸奥 ( 歌人 ) 一八九〇 - 一九六七

 
山下伊太郎、光栄の息として、
 
尾道市千光寺通り茶園に生まれる。

 
歌誌『一路』を主宰。

 
歌集出版六回のほか、歌論出版も多く、現在も初学者の指導者として読み継がれている。

 
一九六六年・一九六七年、宮中歌会始選者。

 
一九六七年没。

 
尾道市東土堂町の天寧寺に眠る。

 
碑の一首は、一九五五年の作品。

 
陸奥が富士五湖のひとつを眺望した折の作品であり、第六歌集『生滅』より採る。
(案内板より)

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第十二代横綱 陣幕久五郎の手形
(石碑文より)

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⇧ 陣幕久五郎

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尾道陣幕久五郎会


柳 創立十五年記念植樹


二〇十二年四月吉日
(案内板より)

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 画像左端。



陣幕 久五郎(じんまく きゅうごろう、文政12年5月3日1829年6月4日) - 明治36年(1903年10月21日)は、出雲国意宇郡意東村(現・島根県松江市東出雲町下意東)出身の元大相撲力士。第12代横綱(江戸最後の横綱)。本名は石倉 槇太郎(いしくら まきたろう)。「負けず屋」と言われた強豪で、明治維新の後に大阪頭取総長となり横綱の代数を創案した[1]

来歴
文政12年5月3日(1829年6月4日)に、出雲国意宇郡意東村の農家に生まれる。14歳だったある日、兄と友人の3人で小舟に乗って海釣りを楽しんでいると、昇った月が3個に分割してその間に3個の星が出ているのが見え、左から右へ旋回する様子が15分ほど見られた。3人の中で自分だけが見えたため、愼太郎は以前から好きだった相撲で名を挙げなければならないと決心して力士を志した。弘化4年(1847年)、大坂相撲の巡業へ飛び入り参加して自信を持ち、尾道の土地相撲へ加入してその力量を認められると同時に、黒縅槙之助と名乗って同郷の力士・初汐久五郎の弟子となった。


嘉永元年(1848年)に初汐が没すると、巡業に飛び入り参加したことがある大坂相撲に戻り、朝日山四郎右衛門の門人となって嘉永3年(1850年)11月場所に初土俵を踏む。安政4年(1858年)1月場所で新入幕を果たすと、江戸相撲へ加入して秀ノ山部屋に所属する。当初は徳島藩の抱え力士として出発したが、途中で松江藩の抱え力士となり、元治元年(1864年)10月以降は薩摩藩の抱え力士となった。この所属替えが、後に明治以降における陣幕の活動を助けることとなるが、度重なる所属替えは徳島藩士の陣幕への嫌悪へ繋がった。


慶応
2年(1866年)11月場所で大関へ昇進し、慶応3年(1867年)正月に五条家から、同年10月に吉田司家から江戸時代で最後となる横綱免許が授与された。


同年4月場所7日目、陣幕は徳島藩の抱え力士で、かつては共に「阿波の四天王」と称されたこともある強豪力士・鬼面山谷五郎と対戦。土俵脇の砂かぶりでは徳島・薩摩の両藩士が刀の柄に手をかけ、立行司・式守伊之助も顔面蒼白になるという一触即発の重々しい雰囲気の中、両者は待った2度、水入り2度の後に引き分けた。水入りの際の場内の大騒ぎは、天地も崩れるほどだったと伝わる。


陣幕が横綱として相撲を取ったのは同年11月場所までと非常に短期間で、その後は明治維新の動乱に巻き込まれていく。


慶応3年12月25日1868年1月19日)、江戸・三田で発生した薩摩藩邸焼討事件の直前に偶然近くを通ると、たむろする武士達を見て即座に藩邸への襲撃を予知し、汐留の船宿から早船で本所の自宅に戻り、藩抱えの力士全員を召集した上で、妻と別れの盃を交わすと早船で芝の藩邸に戻った。しかし、藩邸は既に庄内藩士らの手によって焼き討ちされたため、陣幕は川崎の漆田の家まで走って向かい、知人に対して大坂にいる西郷隆盛へ急を知らせる手紙を送るように頼んだ。この手紙は慶応4年1月2日(1868年1月26日)に西郷の元へ届けられた。戊辰戦争では官軍の荷駄掛かりや、京都に上って薩摩藩主・島津忠義の護衛を担当した。


その後は東京相撲を離れ、年寄・陣幕として大阪相撲の頭取総長を務め、大阪相撲を東京相撲と同等にまで引き上げる活躍を見せた。明治6年(1873年6月6日には大阪造幣寮での天覧相撲において大阪相撲頭取総長として取組を編成したが、陣幕が決めた編成に西郷隆盛が納得せず、強引に大関・八陣の対戦相手を務めるように命じられた。当時既に引退から3年が経過していたために勝利することなど出来ず、『行在所日記』には「東方薩摩の陣幕は 大坂の八陣に負けたりければ 流石の西郷も座に耐えずして 蒼惶として拝辞して退きけるとぞ」と書かれている。これが元で明治13年(1880年)9月場所限りで廃業し、実業家へ転身した。


明治21年(1888年)5月には、靖国神社での大祭奉納大相撲で横綱土俵入りを奉納したほか、明治29年(1896年)には力士として初の自伝「陣幕久五郎通高事跡」を著した。実業家としては、とりわけ相撲関係の建碑事業に奔走し、明治33年(1900年)に竣工した東京・深川の富岡八幡宮の「横綱力士碑」を建てるなど、全国各地に相撲に関する碑を建てた。元勲元老を始めとする政財官界の大物が陣幕の建碑活動に全面的に協力しており、かつて薩摩藩抱えだった経歴を十二分に活用する形となった。


晩年は相撲興行中に限って、東両国の日除地の一角で横綱煎餅を販売していたと伝わる。明治36年(1903年10月21日に死去、74歳没。陣幕は遺言通り、生前に作らせた75kgの檜製の棺に横綱を巻き付けて葬られた。

陣幕の墓は東京都品川区の光取寺と、広島県尾道市光明寺にある。

詳しいことは、「陣幕久五郎ウィキペディア」をご覧ください ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%99%A3%E5%B9%95%E4%B9%85%E4%BA%94%E9%83%8E
(wikiより)

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⇧ 陣幕久五郎

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宝土寺の境内に建立されている石碑で、尾道で活躍した刀匠たちを供養するものです。


石碑裏面説明文

尾道刀匠の祖古く桓武皇帝の御宇天平年間京都より西下す正家重利まで遡る後三条の御宇正和年間六代の時時宗二祖他阿上人尾道遊行の砌 


御切札小刀を献上この縁に其阿弥の姓を拝受し爾来尾道に住す


備後国鍜治部類に其阿弥 三原 鞆 木梨 法花一乗辰房の名を見る


其阿弥長行天文二十四年国家安穏祈願し吉備津神社に毛抜形太刀二振り奉納 

国の重要文化財に指定される 


其阿弥先祖墓多く昔の鍛冶屋町を臨むこの地に備後刀匠全ての霊を供養す碑を建立致す


維持 平成二十年 元旦


施主 廿日市市 其阿弥 覚
(石碑文より)

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おれに似よ俺に

     似るなと子をおもい

             路郎

飲んで欲し

   やめてもほしい酒をつぎ

             葭乃

麻生路郎 ( 本名 幸二郎 ) 一八八八 - 一九六五

尾道市十四日町に生まれる

 
一九一四年、河盛葭乃 ( 一八九四 - 一九八一 ) と結婚。

 
一九二四年、川柳雑誌 ( 現「川柳塔」) 創刊。

 
戦後の川柳界をリードした六大家の中心となった。
(案内板より)

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〇 おのみち文学の館
おのみち文学の館(おのみちぶんがくのやかた)は、広島県尾道市千光寺山中腹にある尾道市立の文学館。「文学記念室」、「中村憲吉旧居」、「志賀直哉旧居」とその建物南側に記念碑がたつ「尾道市文学公園」の4つの施設からなる。

概要

尾道は旧来より港町・商業・工業都市として栄え、財をなしたものや文人墨客が市街地北の風光明媚なこの場所に居を構えることもあった。


市はその中の一つである志賀直哉旧居を買い取り、その南側に「文学公園」を整備し、「文学記念室」として公開した。そのときは林芙美子の資料展示や書斎を再現、大林宣彦の尾道ロケ写真などを展示していた。志賀旧居なのに志賀以外の資料が展示されていたことに、一部から批判もされたようである。その後、「中村憲吉旧居」も同様に整備された。


1998年に尾道市制100周年、翌1999年に西瀬戸自動車道(しまなみ海道)開通を機に、「まちごと芸術・文化館構想」事業が推進された。市はその事業の一つとして、それまで混在していた資料を再整理し、文学記念室を本来の「志賀直哉旧居」として志賀のみの資料室とし、さらに尾道ゆかりの作家の発掘・伝承作業を行い福井邸を新たな文学記念室として公開した。 それら4つの施設を一つにまとめ、1999年3月に「おのみち文学の館」として再開館した。


展示されている資料の他に、日本百景にも選ばれているこの地から絶景を楽しむことができる。周辺には映画ロケ地(特に大林の尾道三部作)が点在している。

文学記念室

東土堂町13-28(北緯34度24分33秒 東経133度11分57秒 / 北緯34.40917度 東経133.19917度 / 34.40917; 133.19917)。


元々は地元企業役員の福井邸。庭付きの木造平屋建、桟瓦葺で数寄屋造りの建物で、東棟・西棟・茶室からなり、いくつかの部屋では当初から茶会ができるように設計されている。1912年(大正元年)に東棟、1927年(昭和2年)に西棟、1928年(昭和3年)に茶室と増改築を行い現在の形となった。福井家の希望により、1998年に市が建物並びに庭園を整備し、文学記念室として公開した。


尾道ゆかりの作家である林芙美子・高垣眸横山美智子行友李風、歌人である中村憲吉・山下陸奥麻生路郎の愛用品や書簡、直筆原稿等を展示している。特に、林芙美子については東京の家にあった書斎が再現されている。中村憲吉の遺作も展示している。


ちなみにこの建物は、映画「太陽は泣かない」(1976年飯塚二郎)「あの、夏の日」(1998年大林宣彦)のロケ地でもある。


2004年9月10日、旧福井家住宅(尾道市文学記念室)主屋・茶室・土蔵として、国の登録有形文化財に登録された。

志賀直哉旧居

東土堂町8-28(北緯34度24分31秒 東経133度11分57秒 / 北緯34.40861度 東経133.19917度 / 34.40861; 133.19917)。


1912年(大正元年)11月、白樺のありかたへの疑問と父との不和から東京を離れ、友人がほめていたというこの地に移住。6畳3畳の2部屋と土間の台所だけの平屋の三軒棟割長屋で、ここで代表作・暗夜行路の構想を練り起稿した。ちなみに、暖をとるためにガス会社からストーブを借りていたが、そのガス使用量は尾道中で2番目であったという。その後1914年(大正3年)中ごろまで在住した。


おのみち文学の館として整備される前は、ここが文学記念室として林芙美子の書斎や資料、大林宣彦の尾道ロケ写真などを展示していた。のちに林のものは新しい文学記念室に移り大林のものはなくなって、現在では志賀のみの資料を展示している。


一軒目(写真手前にあたる)と二軒目が受付および展示場、三軒目に志賀が住んだ当時の部屋の様子が再現されている。南側の縁側から景色を楽しめる。

文学公園はこのすぐ南側にあり、文学の館を整備された経緯が記載された記念碑などがたっている。

中村憲吉旧居

東土堂町15-10(北緯34度24分36秒 東経133度11分57秒 / 北緯34.41000度 東経133.19917度 / 34.41000; 133.19917)。


1933年(昭和8年)12月25日に病気療養のためにこの地を訪れ、1934年(昭和9年)5月5日に亡くなった。斎藤茂吉をはじめとする多くの文人たちが見舞いに訪れたといわれている。


ここでは他の施設と違い、離れの建物のみ見学できる。中村の資料などは文学記念室の方で展示されている。

ちなみに、他の施設から少し離れたところにある。


前には文学碑が立ち、そこから「文学のこみち」へと続いている。

閉鎖
・近年入場者数の減少で、文学記念室と志賀直哉旧居が2020年3月末で閉館。市議会の議決を経て、所有者に返還。中村旧居と公園は引き続き活用する[1]

交通
・JR山陽本線尾道駅から

  ・徒歩で10分

  ・おのみちバス「渡し場」バス停下車、徒歩5分

関連項目
千光寺 (尾道市)

千光寺公園

脚注
1. 中国新聞

外部リンク
おのみち文学の館 尾道市文化振興課
(wikiより)

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⇧ 尾道市文学公園

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⇧ 志賀直哉旧居

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「尾道志稿」の著者であり尾道の名門である油屋亀山士綱その他亀山一統の墓がある。
(案内板より)


亀山士綱 ( かめやま - ことつな )
( 1770 - 1827 )


江戸時代後期の豪商。


明和 7年生まれ。


備後 ( びんご )( 広島県 ) の人。


菅茶山 ( かん - ちゃざん ) らに師事し、のち京都で若槻幾斎 ( わかつき - きさい ) に学ぶ。


帰郷して尾道の組頭、年寄を務めた。


文政 10年 7月 27日死去。58歳。


字 ( あざな ) は紀卿。通称は元助。

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幕末維新の頃、尾道大阪間の船使を開いた回船問屋・竹内要助一門の累代墓。
(案内板より)

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尾道文治の墓碑

尾道文治こと落語家・桂文治は、師弟関係などは不明だが、六代目・桂文治と親しくしていた。


落語の舞台からおりてから旅回り専門の芸人としている頃から尾道に居ついた。


舞台では「お岩」が十八番であった。


尾道では久保一丁目丹花小路に住み当寺の檀家で地元の豪商であった田坂卯三郎の支援を受け、時折宴の席などで芸を披露し易学や占いなどで生計を立て過ごした。


一九〇五年 ( 明治 38年 ) 七月に九十三歳で生涯を閉じ、田坂卯三郎によって当寺に葬られた。


この墓は戦前まで国道二号線上にあったが、戦後まもなく永代供養塔に移った。


しかし平成二十八年初代・桂文治没後二百年にあわせてこの場所に移してお祀りした。


戒名は「辨誉秀音信士」、横には「丹頂文治藝姓桂 享年九十三才」とある。


なお千光寺にも桂文治之碑がある。
(案内板より)

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当山境内の黒松と赤松は根元から絡み合ってます。


これは古来より「相老 ( 夫婦が共に長生きする ) の松」として珍重される生え方です。


このように幾重にも巻きついたものは大変珍しく当山では「夫婦松」と呼ばれています。


ご夫婦・恋人同士の御縁ほ一層深める絵馬の奉納もおすすめです。
(案内板より)

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慈観寺 (時宗)


貞和四年 ( 1348 ) に慈観上人が開いたもので、はじめは栗原の世計橋付近に建立したが、元和 ( 1615 ) の頃、現在地に移した。


本尊は、阿弥陀如来で宗旨は時宗一遍上人、本山は神奈川県藤沢遊行寺である。


江戸時代、天保の大飢饉の際、尾道地方にも困窮の難民が多く出たが、当時の町年寄橋本竹下は、その救済事業として本堂の改築を発願し、天保五年 ( 1834 ) 工を起し同八年 ( 1837 ) 竣工したのが現在の本堂である。


竹下はこの工事に難民を妊婦として雇用し、尾道では一人の餓死者も出さなかった。


またこの寺は、毎年櫻の季節の過ぎた後、住職・河野恵良老僧の丹誠による牡丹が寺域一面に咲き乱れ"牡丹寺"ともしょうされている。
(案内板より)


慈観寺は別名「牡丹寺」と呼ばれ春には境内の牡丹が咲き乱れます。


本堂の襖絵「桐に鳳凰図」は江戸時代末期の女流画家 平田玉蘊の代表作で尾道市の重要文化財です。


境内には黒松と赤松が絡み合った大変珍しい夫婦松もあります。


健康長寿、智恵と子供の守護仏である虚空蔵菩薩もお堂でお祀りしています。
(案内板より)

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天正十六年 ( 1588 ) と慶長二年 ( 1597 ) の二度、六十六州廻国を果たした小川道海の納経立石や同人夫妻をはじめ小川家累代の墓がある。


この小川氏は笠岡屋を屋号とした桃山時代以来の尾道の豪商である。
(案内板より)

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応永元年 ( 一三九四 ) の開基で、もとは禅宗であったが、慶長年中 ( 一五九六 - 一六一四 ) 純誉によって浄土宗に改宗された。


本尊は阿弥陀如来 ( 大像 )。


元祿 ( 一六九六 - 一七〇三 ) の頃、中興諦誉良頓が発願し常念仏を始めた。


江戸増上寺法王祐天上人がこのことを賞し、家康、秀忠、家光、家綱の歴代将軍とその御台所の尊牌、仏像並びに葵紋付香爐などを下賜された。


また宝永元年 ( 一七〇四 ) には、芸州藩主浅野侯の母堂月桂院が、常念仏信仰のためこの寺に再度参籠したことがある。


更にこの寺の了般は累進して増上寺四十二世の法王となり大僧正に昇爵した。


境内には天正十六年 ( 一五八八 ) と慶長二年 ( 一五九七 ) の二度、六十六州廻国を果した小川道海の納経立石や同人夫妻はじめ小川家累代の墓がある。


この小川氏は笠岡屋を屋号とした桃山時代以来の尾道の豪商である。


また鐘楼の南には常念仏一万日ごとに一基、合わせて五基の石柱が並び立ち五万日常念仏成就の功を物語っている。


その側には江戸時代の俳人で、芭蕉の研究家長月庵若翁の詠んだ追善句のある墓もある。
(案内板より)

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水盤「離垢」の銘文は頼山陽の筆で「文政之七」 ( 1824 ) の年号や「浄泉即是萬却不乾」などの句が読まれる。


また元禄時代尾道には石工の名工があり、雨受盤をささえている「天邪鬼」は有名である。
(案内板より)

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奉行所があった場所だそうです 

いまは尾道商業会議所記念館となっております。

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「海が見えた 海が見える 五年振りに見る尾道の海は懐かしい」の一節で有名な「放浪記」。
(案内板より)


〇 林 芙美子

林 芙美子(はやし ふみこ、1903年明治36年〉12月31日 - 1951年昭和26年〉6月28日)は、日本小説家。本名フミコ。山口県生まれ。尾道市立高等女学校卒。複雑な生い立ち、様々な職業を経験した後、『放浪記』がベストセラーとなり、詩集『蒼馬を見たり』や、『風琴と魚の町』『清貧の書』などの自伝的作品で文名を高めた。その後、『牡蠣』などの客観小説に転じ、戦中は大陸や南方に従軍して短編を書き継いだ。戦後、新聞小説で成功を収め、短編『晩菊』や長編『浮雲』『めし』(絶筆)などを旺盛に発表。貧しい現実を描写しながらも、夢や明るさを失わない独特の作風で人気を得たが、心臓麻痺により急逝。


その生涯は、「文壇に登場したころは『貧乏を売り物にする素人小説家』、その次は『たった半年間のパリ滞在を売り物にする成り上がり小説家』、そして、日中戦争から太平洋戦争にかけては『軍国主義を太鼓と笛で囃し立てた政府お抱え小説家』など、いつも批判の的になってきました。しかし、戦後の六年間はちがいました。それは、戦さに打ちのめされた、わたしたち普通の日本人の悲しみを、ただひたすらに書きつづけた六年間でした」[1]と言われるように波瀾万丈だった。

生涯

当人は、生まれは下関と言い、生年は明治37年、誕生日は5月5日などとも書いて語っていたが、没後20年余り経って、誕生の地は門司市小森江(現、北九州市門司区)との説が発表された[2][3]。(ただし出生届は叔父の家の現・鹿児島市に明治36年12月31日誕生として翌1月に出ている[4][5]。)


実父は宮田麻太郎、母はキク。麻太郎が認知しなかったので、娘は『林フミ子』として、母方の叔父の戸籍に入った。麻太郎は下関で競り売りやテキ屋をやって当て、1907年若松市(現・北九州市若松区)へ移って繁盛したが、浮気して、母子は1910年、番頭の沢井喜三郎と家を出た。 養父と母は北九州の炭坑町を行商して回り、芙美子の小学校は長崎佐世保・下関と変わった。 喜三郎は下関で古着屋を営んで小康を得たが1914年倒産し、11歳の芙美子は本籍地の鹿児島に預けられたのち、旅商いの両親に付いて山陽地方木賃宿を転々した。


1914(大正3年)年10月(11歳)、石炭産業で栄えていた現在の福岡県直方市に移り住む。 「放浪記」の冒頭で、直方での日々を赤裸々に記している。 <砂で漉した鉄分の多い水で舌がよれるような町であった> <門司のように活気あふれる街でもない。> <長崎のように美しい街でもない。> <佐世保のように女のひとが美しい町でもなかった>


1916年(大正5年)(13歳)、尾道市にしばらく落ち着き、1918年市立尾道小学校(現・尾道市立土堂小学校)を2年遅れで卒業した。

1918年(大正7年)(15歳)、文才を認めた訓導の勧めで尾道市立高等女学校(現・広島県立尾道東高等学校)へ進学した。図書室の本を読み耽り、夜や休日は働いた。女学校の教諭も文才を育んだ。18歳のときから『秋沼陽子』の筆名で、地方新聞に詩や短歌を載せた。尾道では親友たちに恵まれ、後年もしばしば「帰郷」した。

1922年(19歳)、女学校卒業直後、遊学中の恋人を頼って上京し、下足番、女工、事務員・女給などで自活し、義父・実母も東京に来てからは、その露天商を手伝った。翌1923年、卒業した恋人は帰郷して婚約を取り消した。9月の関東大震災を、3人はしばらく尾道や四国に避けた。この頃から筆名に『芙美子』を用い、つけ始めた日記が『放浪記』の原型になった。


1924年
、親を残して東京に戻り、再び3人の生計を稼いだ。壺井繁治岡本潤高橋新吉小野十三郎辻潤平林たい子らを知った。同棲しては別れることを繰り返した。詩のパンフレット『二人』を、友谷静栄と3号まで出した。原稿を雑誌社・出版社に売り込んで回り、ときに拾われた。


1926年
(23歳)、画学生の手塚緑敏(まさはる、通称りょくびん)[6]と内縁の結婚をし、落ち着いた。緑敏は実直で、妻の執筆を助ける人であった。


1928年
(昭和3年)2月、長谷川時雨主宰の女人芸術誌が芙美子の詩『黍畑』を載せ、10月から翌々年10月まで20回、自伝的小説『放浪記』を連載した。その間の1929年6月には友人の寄金を受けて、初の単行本の、詩集『蒼馬を見たり』を自費出版した。『放浪記』は好評で、1930年改造社刊行の『放浪記』と『続放浪記』とは、昭和恐慌の世相の中で売れに売れ、芙美子は流行作家になった。印税で中国へ一人旅した。講演会などの国内旅行も増えた。


1931年11月、朝鮮シベリヤ経由でパリへ一人旅した。既に満州事変は始まっていた。金銭の余裕があれば旅に出て、向こう見ずな単独行を怖じなかった。ロンドンにも住み、1932年6月に帰国した。旅先から紀行文を雑誌社に送り続けた。


1935年
(昭和10年)(32歳)の短編『牡蠣』は、私小説的な作風を離れた本格的な小説として、評価された。


1937年
南京攻略戦には、毎日新聞特派員として現地に赴いた。1938年の武漢作戦には、内閣情報部の『ペン部隊』役員に選出され(女性作家は林と吉屋信子の2人のみ)、男性陣を尻目に陥落後の漢口へ一番乗りした(『戦線』、『北岸部隊』)。「共産党にカンパを約した」との嫌疑で、1933年中野警察署に留置された。

おもな文業」の項からうかがえる活発な文筆活動を続けながら、1940年には北満州と朝鮮に行った。1941年には、「ついのすみか」となった自宅を下落合に新築し、飛行機で満州国境を慰問した。『放浪記』『泣虫小僧』などが発売禁止処分を受けた。日米交渉が難航していた。


太平洋戦争
前期の1942年10月から翌年5月まで、陸軍報道部報道班員としてシンガポールジャワボルネオに滞在した。戦局が押し詰まって出版界も逼塞し、1944年4月から、綠敏の故郷に近い長野県上林温泉、次いで角間温泉に疎開した。疎開の間二階を借りた民家(長野県下高井郡山ノ内町角間)が、林芙美子文学館になっている。


下落合の自宅は空襲を免れ、1945年(昭和20年)10月に帰京した。自由に書ける時代を喜んだ。用紙事情は厳しかったものの、人は活字に飢えていて、翌1946年から新旧の出版社が動き始めた。


かって原稿の売り込みに苦労したが故に、人気作家になってからも執筆依頼を断らなかった芙美子は、ジャーナリズムに便利だった。書きに書いた。その中に『晩菊』や『浮雲』などの名品もあった。1948年の女流文学者賞は『晩菊』で受賞した。私用や講演や取材の旅も繁くした。1949年から1951年に掛けては、9本の中長編を並行に、新聞・雑誌に連載した。

1951年(昭和26年)、6月27日の夜分、『主婦の友』の連載記事のため料亭を2軒回り、帰宅後に苦しみ、翌28日払暁心臓麻痺で急逝した。47歳没。『ジャーナリズムに殺された』と、世間は言った。


なお、急逝の直前、6月24日には、NHKラジオの生放送「若い女性-会ってみたい人の頁」にゲスト出演し、女子大生数人に対し質疑応答をおこなっている。この中で芙美子本人が「すでに晩年であると思い、むだな球は投げない」とも語っていた。この放送時の一部が当時の番組広報用として映像保存されており、NHKアーカイブスのサイト「NHK名作選-若い女性」で動画公開されている。(外部リンク参照)放送音声は録音保存され、直近では2016年1月26日にNHK第1ラジオで放送された。


7月1日、自宅で告別式が執り行われた。近在の市民が大勢参列した。葬儀委員長の川端康成[注 1]は、『故人は、文学的生命を保つため、他に対して、時にはひどいこともしたのでありますが、しかし、後二、三時間もすれば、故人は灰となってしまいます。死は一切の罪悪を消滅させますから、どうか故人を許して貰いたいと思います』と弔辞の中で述べたという[7]


戒名は『純徳院芙蓉清美大姉』。萬昌院功運寺に埋葬された。享年47。生前、色紙などに好んで、『花の命は短くて苦しきことのみ多かりき』と書いた。


1943年
に新生児を貰い受けて養子にした泰は、1959年、事故死した。芙美子を支え続けた夫緑敏は、彼女の文業の整理に長く協力して、1989年物故した。


旧宅が新宿区立林芙美子記念館になっている。

2010年2月、桐野夏生が評伝小説『ナニカアル』を上梓している[8]

おもな文業
多作で、また組み合わせを変えた短編集も出ており、書誌は膨大である[注 2]

詳しいことは、『林 芙美子ウィキペディア』をご覧ください。 ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9E%97%E8%8A%99%E7%BE%8E%E5%AD%90
(wikiより)

077 林芙美子像

⇧ 林 芙美子

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天寧寺 ( 曹洞宗 )

開基は貞治六年 ( 一三六七 ) に尾道の人万代道円の発願により、足利二代将軍義詮が父尊氏の遺志をついで工費を寄進し、普明国師を講じて開山したもので、宗旨は臨済宗、創建当時は東西三町にわたる宏壮な大寺院であった。


本尊は宝冠の釈迦如来。


康応元年 ( 一三八九 ) 三月、足利三代将軍義満は厳島参詣の帰途、船を天寧沖にとどめ船橋をかけさせて上陸し、この寺に一泊して備後の守護山名氏の餐応を受けた。


永禄 ( 一五五八 ~ 一五六九 ) の頃、足利十五代将軍義昭の帰依を受け、歳米、禁札、下馬札を下賜された。


元禄年間 ( 一六八八 ~ 一七〇三 ) に、三原の宗光寺の一雲椿道によって再興され、そのとき改宗して曹洞宗になたが、天和二年 ( 一六八二 ) 雷火のため全山焼亡、わずかに後山の海雲塔を残すのみであった。


この塔はもと五重塔で嘉慶二年 ( 一三八八 ) の造立であるが、元禄五年 ( 一六九二 ) に至って、永年の風雪のため上層部を損じたので、五層を改めさせ現在の三層の姿とした。塔前の碑は広島県下で最初の女性教師植村雅子先生の記念碑である。


また本堂前の羅漢堂には、江戸中期から明治期にかけて檀信徒から寄進された五百羅漢像があり、本堂西側には古の山門の礎石という巨石をのこしている。


天寧寺五百羅漢
羅漢とは、人々の供養を受けるに値する悟りを得た人という意味があり、釈尊入滅後、仏典編集に釈尊直弟子が五百人集まったところから、五百羅漢の像や画が作られて崇拝の対象となったと言われている。


当寺五百羅漢は木彫彩色で、江戸時代、文化年間 ( 1804 ~ 1824 ) から明治の初期迄の六十年に亘って、宗派、地域を超えて、檀信徒、信者より巾広く一体一体寄進されたものである。


最前列に大阿羅漢と言われ、数限りない功徳を備えた十六羅漢、二列目に釈尊の十大弟子、三列目より五百羅漢、五百二十六体を完全に備えている。
(案内板より)

〇 天寧寺
天寧寺(てんねいじ)は広島県尾道市東土堂町にある曹洞宗の寺院[3]

歴史
・開基:1367年貞治6年)[3]

1389年康応元年)、足利義満が宿泊。備後守護山名氏の饗応を受ける[3]

文化財
重要文化財(国指定)
・天寧寺三重塔:1388年(嘉慶2年)に足利義詮が五重塔として建立。元禄5年(1692年)老朽化したため上部の2層(四重目・五重目)を取り除き、現在の三重塔(高さ約20m)の姿になった。弥勒菩薩が安置されている。別名海雲塔[3][4]

交通アクセス
・JR尾道駅から国道2号線を東へ、千光寺新道を徒歩30分[5]

出典
1. a b c d 『尾道の寺々 58ヶ寺』 11ページ
2. 『心のふるさと 第一集 寺』 21ページ
3. a b c d 『尾道の本Ver.2』備後レポート社、2016年、34頁。ISBN 9784-905-34625-8
4. 財間八郎 (1970). 心のふるさとシリーズ第三集 『文化財あれこれ』. 山陽日日新聞社. p. 73 
5. みわ明編『古寺名刹みどころ事典』東京堂出版、2014年、336頁。

参考文献
・『尾道の寺々 58ヶ寺 第三版【改訂】』(2010年、尾道文化財協会)

・『心のふるさと 第一集 寺』(1968年復刻(1898年創刊)、山陽日日新聞創刊70周年記念)

外部リンク
尾道観光協会

尾道七佛めぐり
(wikiより)

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広島県で最初の女性教師 植村雅子先生の記念碑。

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中村憲吉歌碑

昭和九年五月五日、アララギ派の代表的歌人中村憲吉はこの寓居で四十六才の短い生涯を終えた。


平成九年、終焉の家の修復が成った。


十年、尾道市制施行百周年を記念し歌碑三基を建て、また療養中の二首を陶板に刻み、旧居白壁の塀に埋める。


・歌碑三首

岩かげの光る潮より風は吹き
   幽(かす)かに聞けば新妻のこゑ   (新婚当時、夫人の郷里、鞆での作)


秋浅き木(こ)の下道を少女(おとめ)らは
   おほむねかろく靴ふみ来るも     (上京後、3年目、お茶の水での作)


おく山の馬棚戸(ませど)にくれば霧ふかし
   いまだ咲きたる合歓(ねむ)の淡紅(うす)はな   (郷里布野での作)


第一首は新婚当時、夫人の郷里、鞆での作。


第二首は上京後、三年目、、お茶の水での作。


第三首は郷里布野での作。


・白壁陶板の二首
病むわれに妻が屠蘇(とそ)酒をもて来れば
   たまゆら嬉し新年にして


病む室の窓の枯木の桜さへ
   枝つやづきて春はせまりぬ

(案内板より)


〇  中村憲吉
中村 憲吉(なかむら けんきち、1889年1月25日 - 1934年5月5日)は、広島県生まれの歌人

来歴
生い立ち

1889年(明治22年)1月25日、広島県三次郡上布野村(現・三次市)に、後に三次銀行初代頭取を務めた他に多くの田畑・山林を所有し醸造業も営む地元名望家の父・修一の次男[1]として生まれる。


1894年、布野尋常小学校に入学。1898年、布野尋常小学校卒業、同高等科に入学。1900年、祖母の異父妹で、三次で旅館業を営んでいた香川八重の養子となる。香川家へは後に弟で倉田百三と親交のあった三之助が入り、憲吉は中村姓に復する。9月、三次小学校高等科に転校。


1901年、三次中学に入学。四年時には倉田百三が一年生として入学。校友雑誌の『白帆』の編集を行い自身も投稿するなど、創作活動を開始。「香川霧村」という筆名を使う。憲吉が養子に入っていた香川旅館には憲吉の文学同好の友人が多く出入りし、中でも近くに住んでいた船越象一(榊屋酒店)は親友であった。また、近所の森盛文堂は中学生の交流の場にもなっていたという。


1906年、三次中学校卒業。4月、上京し正則英語学校に通学。9月、鹿児島第七高等学校造士館七高)第一部甲類に入学。


1907年、在学中に文学上の友として堀内卓造、橋田東聲岩谷莫哀らとの交流がはじまる。堀内卓造の誘いにより「万葉集」、正岡子規伊藤左千夫の歌風を知り、作歌をはじめる。兄・純造が早世し、家を継ぐために中村姓に復する。


1908年、日本新聞の伊藤左千夫選歌、課題「竹」に応募して数首が採用される。作歌の一部12首が「アララギ」第1巻第3号に掲載される。

上京とアララギへの参加

1909年、上京し、伊藤左千夫を訪ねて入門。「アララギ」に参加、斎藤茂吉古泉千樫らと交流がはじまる。


1910年7月、第七高等学校造士館を卒業。9月、東京帝国大学大学法科大学経済科に入学。本郷の追分にある富士見軒に下宿。子規九周忌歌会に出席して石原純土屋文明山宮允らと相知る。10月、盟友・堀内卓造急逝。


1911年、「アララギ」諸同人との交流が深まり、作歌にも熱心になる。1913年島木赤彦との合著歌集『馬鈴薯の花』刊行。『中村憲吉全集』がある。深川不動尊境内の下宿に移る。


1914年(大正3年)、本郷の菊富士本店に下宿。


1915年(大正4年)、東京帝大を卒業。11月、帰郷し、広島県福山市倉田岩太郎の長女・倉田静子と結婚。静子の母・きくは福山郊外深津の石井英太郎の娘。石井英太郎は広島県議会議員福山誠之館中学校の初代校長を勤め、きくの妹・大原寿恵子大原孫三郎の妻となり、後に和歌に興味を持ち1925年には憲吉に師事する。


1916年1月、上京して新居を構えるが、10月に帰郷して家務に就く。11月、第二歌集『林泉集』(アララギ発行所)刊行。


1920年4月、兵庫県西宮市に居を定める。1921年、大阪毎日新聞の経済部記者となる。1923年11月、京都へ行き桂離宮修学院離宮を拝観。1924年7月、第三歌集『しがらみ』(岩波書店)刊行。1926年4月、大阪毎日新聞社を退社。6月帰郷し、家督を相続して実家の酒造業に携わる。実家の大資産を、惜しみなく「アララギ」への精神的・物質的支援に注ぎ込んだ。また、広大な山林に目を向け、檜、杉の植林にも取り組む。1928年2月、岡山医科大学附属病院を訪れる夫人に同道して岡山へ。その際に弟子で助教授の上代皓三の案内で後楽園を廻る。

晩年

1930年11月、『現代短歌全集「中村憲吉集・土屋文明集」』刊行。肋膜の病気に罹る。1931年7月、第四歌集『軽雷集』(古今書院)刊行。1932年、広島市郊外の五日市で病気療養。


1934年(昭和9年)5月5日、肺結核と急性感冒のため尾道市の仮寓で死去[2][3]。享年46歳。戒名は林泉院釈浄信憲吉居士。なお、妻・静子は1973年まで生き、長女・良子、四女・裕子(-2018年)、五女・礼子(-2013年)がいる。また、生家は現在、中村憲吉文芸記念館(2012年開館)となっている。

著書
・馬鈴薯の花 久保田柿人(島木赤彦) 東雲堂書店, 1913

・林泉集 アララギ発行所, 1916

・中村憲吉選集 アルス, 1921

・しがらみ 岩波書店, 1924

・松の芽 改造社, 1925

・軽雷集 古今書院, 1931

・軽雷集以後 岩波書店, 1934

・中村憲吉全集 第1-4巻 岩波書店, 1937-1938

・中村憲吉歌集 岩波文庫, 1941

・中村憲吉全歌集 白玉書房, 1966

関連項目
おのみち文学の館 - 晩年過ごした旧居の離れが公開されている。

脚注
1. 田辺良平 『ふるさとの銀行物語[備後編]』菁文社、2004年、p.179。
2. 服部敏良『事典有名人の死亡診断 近代編』付録「近代有名人の死因一覧」(吉川弘文館、2010年)20頁
3. 岩井寛『作家の臨終・墓碑事典』(東京堂出版1997年)240頁

外部リンク
中村 憲吉:作家別作品リスト - 青空文庫

中村憲吉 - 吉備路文学館
(wikiより)

074 中村憲吉

⇧ 中村憲吉

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⇧ 門から入ると有る石塔

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除虫菊發祥之碑


上山英一郎君紀功碑


余嘗遊紀之白濱興上山英一郎君邂逅於白砂青松之際一見如舊結編紵之交君和歌山人少以濟世自期日方今急務在國産率國本以大興貿易之利也明治十九年獲除蟲菊種於米國始培育之歴游諸國精覈地味投私費以頒種苗於廣島岡山愛媛香川諸縣奨励其栽培自是中國諸方生産増進三十一年属桑港領事陸奥廣吉発招販路竟至輸出之米國其額及一千萬圓本邦輸出品中合優位者君興有力焉三十九年大日本農會総裁負受親王嘉其功績授綠有功章越四十三年賜勅定藍綬章君之名遠聞海外廬額斯拉維國以君有功扚斯業特嘱叙日本駐剳名譽領事葢異數也項者同志之士相發祥地欲建碑於千光寺山圖其不朽属予為之文君平生以光公益開民利為志四十餘年終始靡渝予之所取乎君者不獨為其れ除蟲菊之始祖也已喜有其れ徳之孚于人也廼叙其梗槩係銘日


厚生利用 自見眙謀 開物成務 以賛皇献

卓卓之子 經營有術 作事堅忍 計算縝密

殖産致富 維彌維綸 名馳域外 利及四隣

千光寺阿 山靈水碧 爰稱厥徳 鐫名於石


昭和五年龍集庚午八月上浣


蘓峰徳富猪一郎撰 黄山中川吉郎書


〇 上山英一郎
上山 英一郎(うえやま えいいちろう、1862年文久2年) - 1943年昭和18年)9月7日)は、日本実業家篤農家[1]蚊取線香の発明者。また、「金鳥」の商標で知られる大日本除虫菊の創業者。向島亀森八幡神社「除虫菊神社」の祭神[2]ユーゴスラビア国名誉領事[3][4]。前名・秀之助[3][4]

経歴

1862年(文久2年)、紀伊国有田郡山田原村(現・和歌山県有田市)の蜜柑農家に生まれる。上山長八の四男で先代彌兵衛の養子となり、1878年家督を相続し前名秀之助を改めた[3][4]。上山家は日本有数の蜜柑農家であり、上山家の蜜柑は紀州山勘蜜柑(当主が上山勘太郎と称していたため)と呼ばれていた。


16歳の時に上京して神田の進徳館に入り学を修めて後、立教学校に転じて英国人に就いて語学を学び、さらに慶應義塾に教育を受けた[5]。しかし病気になり、涙を飲んで帰郷した[5]。病が癒えると再度上京し勉学を切願したが、近親者が許さなかったので、方向を転じて「産業界に貢献しよう」と深く決意した[5]


1885年
サンフランシスコで植物の販売を行う植物輸入会社を営むH.E.アモアが、福澤諭吉の紹介状を携え、日本の珍しい植物を求めて上山の農家を訪ねた。上山はアモアに棕櫚秋菊などを進呈し、その見返りとしてビュハークという除虫菊の種子を譲り受けることとなる。翌1886年より上山は除虫菊の種子の栽培研究を開始した。


1887年、除虫菊の栽培に成功した上山は、全国各地を講演して回り、この種の普及に努めた。1890年仏壇線香からヒントを得、持続時間1時間ほどの棒状の蚊取り線香を考案、発売する[6]1895年、妻・ゆきの「渦巻き型にすればよいのでは」というアイデアに着想を得て、蚊取り線香の改良に着手、1902年に日本初の渦巻き型蚊取り線香を発売開始した。1919年、大日本除虫菊株式会社を設立。1929年、大阪駐在ユーゴスラビア名誉領事に任命された。1943年昭和18年)9月7日、死去。享年82。

人物

趣味は書画、骨董[3][4]。宗教は浄土宗[3][4]。和歌山県在籍で住所は和歌山県有田郡保田村[3][4]


英一郎は遺徳を称えられ、除虫菊神社に神として祀られている、所在地は広島県尾道市向島町名郷丸の亀森八幡神社境内、創建は1930年(昭和5年)、英一郎の存命中であった。1886年(明治19年)に英一郎が初めて除虫菊を植えたのが向島の干汐であるためここが選ばれた。現在でも毎年5月8日に例祭が営まれている[7]


1910年藍綬褒章[3][4][5]

1943年勲六等瑞宝章

家族・親族

上山家

英一郎の長男・英之助は、先代勘太郎の養子となり、1908年、上山家15代の家督を相続[4]。1942年、社長を務めていた勘太郎は、東南アジアに出張中、シンガポールで航空機事故のため死去した。1943年、副社長を務めていた英一郎の三男・英夫は勘太郎を襲名し、社長に就任した。


・父・長八[3][4]

・姉・てい1851年 - ?、和歌山、玉置傳三郎の母)[3][4]

・妹・ひさ1867年 - ?、和歌山、御前喜八郎の妻)[3][4]

・妻・ゆき(1862年 - ?、和歌山、上山市郎兵衛の養叔母)[3][4]

・長男・十五代勘太郎1889年 - 1942年、前名は英之助、大日本除蟲菊社長)

・二男・英三1893年 - 1981年台湾銀行頭取)

・三男・十六代勘太郎1899年 - 1984年、前名は英夫、大日本除虫菊社長)

  ・同妻・昌子

  ・同養子・直武1924年 - 1997年、長女の夫)

  ・同長女・同二女

  ・同長男・英介1937年 - 2015年

系譜

━ 英一郎 ┳ 勘太郎
       ┣ 英三
       ┗ 英夫

親戚

上山市郎兵衛(南海水力電気社長)

上山薫(内外除蟲菊社長)

山口孫七(紀伊貯蓄銀行頭取)

脚注
1. 大日本篤農家名鑑』119頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2017年7月21日閲覧。
2. スポット3 瀬戸内の除虫菊発祥の地に祭られる「除虫菊神社」”. 大日本除虫菊. 2010年4月4日時点のオリジナル[リンク切れ]よりアーカイブ。2013年6月25日閲覧。
3. a b c d e f g h i j k 人事興信録 第12版 上』ウ38頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2018年12月5日閲覧。
4. a b c d e f g h i j k l 人事興信録 第13版 上』う33頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2016年1月3日閲覧。
5. a b c d 非常時日本と人物』91-98頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2016年1月3日閲覧。
6. ただしこの線香は、持続時間が短いことや運搬中の破損が多いなどといった欠点が指摘されていた。
7. 亀森八幡神社”. 尾道市観光協会. 2021年7月28日閲覧。 8.

参考文献
・大日本篤農家名鑑編纂所編『大日本篤農家名鑑』大日本篤農家名鑑編纂所、1910年。

・原静村『非常時日本と人物』南海新聞社、1935年。

・人事興信所編『人事興信録 第12版 上』人事興信所、1940年。

・人事興信所編『人事興信録 第13版 上』人事興信所、1941年。

神坂次郎 『熊野まんだら街道』 新潮社新潮文庫〉、2000年6月。ISBN 4-10-120923-5。ISBN-13: 978-4-10-120923-4。 

  ・「白い除虫菊の花」(249-251頁)のタイトルで上山英一郎の生涯と業績を紹介

町田忍 『蚊遣り豚の謎 - 近代日本殺虫史考』 新潮社〈ラッコブックス〉、2001年6月。ISBN 4-10-447501-7。ISBN-13: 978-4-10-447501-8。 

佐藤朝泰『豪閥 地方豪族のネットワーク』立風書房、2001年。

関連項目
蚊取線香

大日本除虫菊

外部リンク
公文書にみる発明のチカラ - 42. 蚊取り線香の発明(上山英一郎) - 国立公文書館

上山 英一郎 - 和歌山県文化情報アーカイブ
(wikiより)

073   上山英一郎

⇧ 上山英一郎

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恋人の聖地 Lovers Sanctuary
千光寺公園(せんこうじこうえん)は、平成21年に「恋人の聖地」として認定されました。千光寺山頂の展望台からは、尾道市内が一望できるとともに、瀬戸内海の島々が眺められ、天気の良い日には四国連山をも遠望することが出来ます。


尾道といえば坂道と猫
平成26年5月に「恋人の聖地広場」を「恋人の広場」に名称を変更し、ピンク色のハート型花壇が設置されるなどリニューアルオープンしました。


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足利尊氏の弟直義の供養塔と伝える石造五輪塔で、尊氏塔と同時期のものと考えられる。
(案内板より)


〇 足利直義

足利 直義(あしかが ただよし)は、鎌倉時代末期から南北朝時代初期にかけての武将公卿・政治家・歌人。鎌倉幕府の有力御家人足利貞氏の三男[2]室町幕府初代将軍足利尊氏の同母弟。養子に直冬


元弘の乱
で兄の尊氏に従って北条氏から離反し、後醍醐天皇や兄と共に鎌倉幕府を滅ぼした。建武の新政では兄と同様、後醍醐から多大な恩賞を受け、後醍醐皇子の成良親王を奉戴して鎌倉将軍府の事実上の長を務めた。中先代の乱では北条時行に敗退し、鎌倉撤退の混乱の中、後醍醐皇子で前征夷大将軍護良親王を殺害した。建武の乱湊川の戦いでは足利方陸軍の主将を務め、陸軍副将の高師泰と共に建武政権軍の名将楠木正成を討ち取る武功をあげた。


室町幕府
草創期においては、「三条殿」と称されて実質的な幕政の最高指導者となり、公卿の地位に登った。卓越した政治的手腕によって幕政の礎を築き、北朝光厳上皇との関係強化にも努めた。是円らによる幕府基本法『建武式目』も直義の意向が大きく反映されているとされる。政策は保守的で、鎌倉幕府の古法を多く模倣した。その後、革新派の執事高師直との間で、政策や養子の直冬の処遇を巡る対立関係が発生、観応の擾乱という武力闘争に発展し、最終的に薩埵峠の戦いで実兄の尊氏に敗れた。鎌倉に蟄居の後、政敵の師直が暗殺された丁度一年後という日付に急死を遂げた。


冷静沈着・謹厳実直な人間であったとされ[注釈 6]、室町幕府の成立は名政治家である直義の手腕に大きな部分を負っている。禅宗を篤く敬って庇護し、 臨済宗高僧の夢窓疎石(夢窓国師)との対話は『夢中問答集』として出版された。また後醍醐帝鎮魂のため、尊氏・夢窓と共に天龍寺を創建した。兄に次ぐ優れた武家歌人でもあり、『風雅和歌集』以下の勅撰和歌集に26首が入集した。

生涯

誕生

次兄の高氏(尊氏)と同じく父・足利貞氏の側室である上杉清子が産んだ子で、母は北条氏ではない。


生年は古くは『公卿補任貞和5年(1349年)条等から徳治元年(1306年)とするのが通説だった[4]。しかし、『三宝院賢俊僧正日記』の暦応5年(1342年)2月条に「三条殿 卅六 丑未」とあり、これにしたがえば逆算して徳治2年(1307年)となり、通説とは1年異なる[5]。賢俊という尊氏・直義兄弟に近い人物による証言であり、さらに「門葉記130」(『大正新脩大蔵経 図像12』)という傍証もある[5]。2010年代時点で新説の徳治2年(1307年)説を採用する研究者には、森茂暁[5]清水克行[6]亀田俊和[4]等がおり、森・亀田は新説が有力であると述べている[4][5]

倒幕から幕府創設まで

足利氏の慣例に従い、二人の兄同様に初めは、得宗鎌倉幕府執権)・北条高時より賜った偏と祖先にあたる源義国の一字により高国(たかくに)と名乗るが、桓武平氏を称した北条氏(本来であれば家格が劣る)が実権を握る幕府に叛旗を翻した後は、河内源氏の通字である「義」を用いた忠義(ただよし)、直義(ただよし)に改名する。元弘3年/正慶2年(1333年)、後醍醐天皇が配流先の隠岐島を脱出して鎌倉幕府打倒の兵を挙げると、兄の高氏とともにこれに味方し六波羅探題攻めに参加する。


建武の新政では左馬頭に任じられ、鎌倉府将軍成良親王を奉じて鎌倉にて執権となり、後の鎌倉府の基礎を築く。建武2年(1335年)、中先代の乱が起こり、高時の遺児時行信濃国に挙兵し関東へ向かうと、武蔵国町田村井出の沢(現東京都町田市本町田)の合戦にて反乱軍を迎撃するが敗れる。反乱軍が鎌倉へ迫ると、幽閉されていた護良親王を配下の淵辺義博に命じて混乱の中で殺害させ、足利氏の拠点となっていた三河国矢作(愛知県岡崎市)へと逃れた[7][8][9]。もっとも、成良親王は無事に京都に送り返されており、護良親王殺害も建武政権の立場に立った行動であった[10]


同年、後醍醐天皇に無断で来援した尊氏と合流すると東海道を東へ攻勢に転じ、反乱軍から鎌倉を奪還する。奪還後も鎌倉に留まった尊氏は付き従った将士に独自に論功行賞などを行うが、これは直義の強い意向が反映されたとされている。しかし、建武政権から尊氏追討令が出、新田義貞を大将軍とする追討軍が派遣されるや、尊氏は赦免を求めて隠棲する。直義らは駿河国手越河原(静岡県静岡市駿河区)で義貞を迎撃するが敗北する(手越河原の戦い)。これに危機感を持った尊氏が出馬すると、これに合して箱根・竹ノ下の戦いで追討軍を破って京都へ進撃する。足利軍は入京したものの、延元元年/建武3年(1336年)に陸奥国から上洛した北畠顕家楠木正成、新田義貞との京都市街戦に敗れる。再入京を目指すも、またしても摂津国豊島河原での戦いに敗れて九州へと西走する(豊島河原の戦い)。道中の備後国鞆の浦にて光厳上皇院宣を得て、多々良浜の戦いで建武政権側の菊池武敏に苦戦を強いられながらもこれを撃破するなど、西国の武士の支持を集めて態勢を立て直して東上を開始。海路の尊氏軍と陸路の直義軍に分かれて進み、湊川の戦い兵庫県神戸市)で新田・楠木軍を破って再び入京する。

二頭政治から観応の擾乱へ

尊氏は光明天皇を擁立し、明法家(法学者)の是円(中原章賢)・真恵兄弟らへの諮問のもと『建武式目』を制定して幕府を成立させるが、この式目の制定には直義の意向が強いとされる。延元3年/暦応元年(1338年)に尊氏は征夷大将軍に、直義は左兵衛督に任じられ、政務担当者として尊氏と二頭政治を行い「両将軍」と併称された。


興国2年/暦応4年(1341年3月24日には、出雲隠岐両国守護の有力武将塩冶高貞を謀反人と責め、桃井直常山名時氏を主将とする追討軍を派兵して数日のうちに自害に追い込んだ(『師守記』暦応4年3月25日条および29日条)[11][12][13]鈴木登美恵亀田俊和らの主張によれば、高貞謀反が事実の可能性は十分にあり、皇族早田宮出身という説もある妻を介して、義弟(義兄?)に当たる南朝公卿で九州方面軍を指揮する源宗治らと内通していたのではないかという[12][13]


しかし、正平3年/貞和4年(1348年)頃から足利家の執事を務める高師直と対立するようになり、幕府を直義派と反直義派に二分する観応の擾乱に発展し、さらに吉野へ逃れていた南朝も混乱に乗じて勢力を強める。直義派からの讒言を受けて尊氏が師直の執事職を解任すると、正平4年/貞和5年(1349年)に師直とその兄弟の師泰は直義を襲撃し、直義が逃げ込んだ尊氏邸をも大軍で包囲した。高兄弟は直義の罷免を求め、直義が出家して政務から退く事を条件に和睦する。直義は出家し、三条坊門殿の邸宅を鎌倉から上洛してきた足利義詮に譲って恵源(えげん)と号した。


翌 正平5年/観応元年(1350年)、尊氏・師直らが直義の養子直冬を討つために中国地方へ遠征すると、その留守に乗じて京都を脱出、師直討伐を掲げて南朝へ降る。しかし直義は、南朝に降ったのちも発給文書には北朝で用いられた観応の年号を使用しており、降伏は便宜的なものであったと解釈されている[14]


一方、京都の北朝は直義追討令を出すに至る。南朝に属した直義は尊氏勢を圧倒し、正平6年/観応2年(1351年)に播磨国光明寺城光明寺合戦)や摂津国打出浜(兵庫県芦屋市)で尊氏方を破る(打出浜の戦い)。尊氏方の高師直師泰兄弟とその一族は2月26日、直義派の上杉能憲に殺害された。


師直
兄弟を闇討ちで排除した後は、尊氏の嫡子義詮の補佐として政務に復帰したが、尊氏・義詮父子との仲は良くならず、ついに尊氏父子は出陣と称して京都から出ていきそれぞれ近江と播磨で反直義勢の態勢を整え始めた。それを見た直義は8月1日に京都を脱して北陸信濃を経、鎌倉を拠点に反尊氏勢力を糾合した。これに対して尊氏父子は南朝に降り、正平一統が成立して新たに南朝から直義追討令を出してもらう。


しかし、駿河国薩埵山(静岡県静岡市清水区)、相模国早川尻(神奈川県小田原市)などの戦いで尊氏に連破され、正平7年(1352年1月5日、鎌倉にて武装解除される。浄妙寺境内の延福寺に幽閉された直義は、同年2月26日に急死した。『太平記』巻第三十では「俄に黄疸と云ふ病に犯され、はかなく成らせ給ひけりと、外には披露ありけれ共、実には鴆毒の故に、逝去し給ひけるとぞささやきける」と、毒殺の噂が流れたことを記述している。研究者の中には毒殺説を支持するものも多いが、峰岸純夫亀田俊和は自然死であると見ている[15]。 直義が没した日は奇しくも、自身の宿敵であった高師直師泰兄弟の一周忌に当たり、早世した実子・如意丸(如意王)の一周忌の翌日でもあった。享年47。


観応の擾乱は直義の死により終わりを告げた[16]。ただし、直義派の武士による抵抗は、その後直冬を盟主として1364年頃まで続くことになった。


なお、尊氏はその死の直前の正平13年/延文3年(1358年)に、直義を従二位に叙するよう後光厳天皇に願い出ている。その後、年月日は不詳であるが更に正二位を追贈された[17]。正平17年/康安2年(1362年)7月22日には「大倉宮」の神号が贈られ、「大倉二位明神」として直義の邸宅であった三条坊門殿の跡地に三条坊門八幡宮(現・御所八幡宮社)を創建して祀った他、直義が失脚後に滞在していた綾小路邸にも祀った。さらに天龍寺の付近に直義を祀る仁祠(寺)が建てられている[18]

人物
性格

尊氏が激しい感情の起伏がある人物とされるのに対し、直義は冷静沈着であったとされる。また『太平記』などでは汚いやり口(時として必要な場合がある)を嫌う兄の尊氏に代わって自ら手を汚す役割を務めたとされており、同書では親王の毒殺や天皇との折衝における背反行為などは尊氏ではなく、直義が果たしたものとされている。


尊氏が山のように贈られてきた品物を部下たちにすべて分け与えたほど無欲だったという逸話は有名であるが、直義はそもそもそういう贈り物を受け取ること自体を嫌った、と言われている(『太平記』)。


直義は足利一門の渋川貞頼の娘を正室とした他に側室を迎えなかった。二人の間には長く子が生まれず、尊氏の庶子直冬を養子にしたが、夫婦ともに40歳を過ぎてから思いがけず男子(如意丸(如意王))が誕生した。このことが直義に野心を芽生えさせたと『太平記』は描いている。

政治家として

降伏した後醍醐から光明に三種の神器が引き渡され、武家政権(室町幕府)が開始するにあたり、その基本方針を示す建武式目が制定されたが、その内容は直義の意思を反映したものだと言われる。


1338年
、尊氏が征夷大将軍に就くと、直義は左兵衛督に任ぜられ、「征夷将軍と武衛将軍、兄弟両将軍」と称せられた(「武衛将軍」は兵衛督の唐名)。副将軍とも言われる。


数々の武功を立てた土岐頼遠が光厳上皇に狼藉を働いて捕らえられた際、頼遠の軍才や数々の武功を惜しんで助命を嘆願する声が上がり続けても、朝廷の権威を重んじる直義は断固として耳を貸さずに頼遠を斬首した。光厳上皇の権威を軽視ないし否定することは、上皇から征夷大将軍を与えられた尊氏と、そして室町幕府の権威をも否定することになりかねず、情に流されない冷徹な判断によるものであった。もっとも一方では頼遠の武功に免じて、土岐家そのものは取り潰さず彼の甥に継がせて存続させているなど、現実的な折衝を試みている。


観応の擾乱において将軍尊氏と対立した後も、一貫して幕府の正統性を擁護し続けた。直義と南朝との和議交渉を記録した「吉野御事書案」(『群書類従』所収)において、直義勝利の暁には幕府は北朝の解体と大政奉還をすべきであると要求する南朝側に対して、実際に天下の秩序を守っているのは幕府を筆頭とした武士であるため南朝こそ要求に従って無条件で京都に帰還すべきであると直義は論じ、和議後も両者の相互不信は続いた。その後、尊氏が南朝と和議を交渉した際に、直近の課題である直義討伐を優先して南朝側の要求を全面的に受け入れて「降伏」し、南朝は京都に進出して北朝を廃し、尊氏に直義討伐を命じた。直義は幕府の正統性を守ろうとして却って幕府の首長(将軍)である尊氏との外交戦争に敗れることになり、諸国の武士からはもちろん大高重成のような側近からも離反される結果を招いた。

尊氏との関係

観応の擾乱で天下を巻き込んで争った尊氏と直義だが、1歳違いの同母兄弟ということもあって元来仲はすこぶる良かった。幕府滅亡後の鎌倉を預かっていた直義が中先代の乱で敗走したときには、尊氏は後醍醐天皇勅許を得ぬまま軍勢を催して東国に下り、直義を救援した。


直義は、乱の平定後帰京しようとする尊氏を説き鎌倉に留まらせた。これを警戒する反尊氏派の運動によって追討令が出ると、尊氏は後醍醐の恩を思い出家して恭順の意を示そうとするが、直義らは尊氏の罪を一切許さないとする偽の綸旨まで示して翻意させようとした。さらに軍勢を率いて西上した直義らが敗北すると、これを救うべく尊氏もついに官軍に立ち向かうことになった。このように建武政権に対抗し、積極的に武家政権の再興を推し進めたのは直義以下の武士たちで、弟想いの尊氏は板挟みの末に後醍醐に反旗を翻す決断に至ったといえる。


京都を手中に収めた足利方の推す光明天皇が践祚してわずか2日後、尊氏が石清水八幡宮に奉納した願文には「尊氏に道心給ばせ給候て、後生助けさせおはしまし候べく候。猶々、とく遁世したく候。道心給ばせ給候べく候。今生の果報に代へて、後生助けさせ候べく候」とある。持明院統の天皇・上皇を擁して逆賊の名を一応逃れたとはいえ、後醍醐を逐ったことは尊氏を沈鬱にし、出家遁世の志を起こさせた。これに続けて「今生の果報をば、直義に給ばせ給ひて、直義安穏に守らせ給候べく候」と、弟想いの心情が現れるとともに、新たな政治の現実は直義が担っていくものという意識も滲ませている。

教養

大歌人だった兄の足利尊氏には及ばないとはいえ、武家歌人としては兄に次ぐ和歌の力量を持っていた[19]。特に、兄が隠居していた康永貞和年間(1342年 - 1350年)のころは、直義が武家歌壇を統率する存在だった[19]。『風雅和歌集』以下の勅撰和歌集に、26首が入集している[20]。その歌風は二条派に近い平明なものであったという[19]


和歌における直義の主要業績は、武家歌人として史上初めて政治を詠んだ歌が勅撰和歌集に収録されたことである[21]鎌倉時代までは武人の政治詠歌は勅撰集にとられない慣例だったが、光厳上皇親撰による『風雅和歌集』で慣例を破って直義の政治詠歌が入集した[21]。この背景には、光厳上皇個人から直義への大きな信頼があったことや、北朝が幕府への依存を強めていく当時の政治状況があったことなどがあると指摘されている[21]


宗教政策においては、禅宗を手厚く庇護した[22]。政治上は禅僧の夢窓疎石との関わりが深く、天龍寺造営のために貿易船である天龍寺船を派遣した。また、夢想との対話は『夢中問答集』として刊行されている[22]。ただし、信仰的にも夢想に深く崇敬した後醍醐天皇や兄の尊氏とは違い、直義個人としてはそこまで夢想を高く評価していなかったようである[22]。夢窓疎石に始まる夢想派は旧仏教とも親和性の高い折衷主義的な禅風をとっていたが、直義は純粋禅である無学祖元に始まる仏光派に帰依しており、その点で不満を抱いていたという[22]

『太平記』の祖形となった史書の誤りを訂正させた話なども伝えられる。

詳しいことは、『足利直義ウィキペディア』をご覧ください。 ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B6%B3%E5%88%A9%E7%9B%B4%E7%BE%A9
(wikiより)

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⇧ 足利直義

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初代竹本弥太夫の墓は、当初門人によって建てられている。


その文政三年 ( 1820年 ) は、初代文楽の文化七年 ( 1810年 ) から十年後である。


それを思い合わせると、初代文楽の没後に、その代わりに師匠として大阪から招かれてようになったのが初代弥太夫ではあるまいか。そうすると、初代文楽は、尾道の素人浄瑠璃連を教えに時々来ていたのであってその墓は没後間もなく弟子達によって追慕のために建てられたものであろう。


尾道は文化、文政の頃港商都として非常に栄えていたのであるから、大阪から師匠を招く財力は十分にあったものと思える。


浄るりが盛んであった昭和の初め頃まで、その伝統は栄えていたのであって、浄るり会がしばしば催された。


初代文楽軒の事蹟は非常に資料が少なくてよくわからないのであるが、尾道に墓があることによって少なくとも晩年の様子が推察されることとなった。


文学史の上からも大切な資料となる文化財である。


広島大学 教授 角田一郎文学博士
(昭和四十二年論文発表)


右側のお経の塚に、手をあてて願いを念じてください
(案内板より)

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尾道海龍寺の文楽の墓 人形浄瑠璃文楽座の創始者


国指定重要無形文化財の文楽人形浄るりの文楽 ( ぶんんらく ) という名は、大阪の人形浄るりの劇場文楽座を意味する。


その劇場は今は存在しないが、文部省、大阪府、大阪市、NHKの四者の補助金による社団法人文楽協会という組織でもと文楽座の太夫、三味線弾、人形遣の一座を運営している。


アメリカにも出張して、ニューヨークなどで絶賛を浴び近くフランスのパリにも迎えられることになっていて、我国の誇るべき芸能文化である。


国内では、東京の国立劇場、大阪道頓堀の朝日座、京都の南座で定期の本興行をし、その中間には地方を巡業して広く全国の鑑賞に供することになっている。


この人形浄るりのはじめの劇場文楽座は、江戸時代、今から百録、七十年前の文化年間に興されたものであるが、初代の座主を上村文楽軒と言った。


その初代文楽軒の墓が、尾道市東久保の海龍寺の境内にある。


これはわが芸能文化史上絶好の記念物でなければならない。


海龍寺の文楽の墓は、高さ 74センチ、巾 30センチ、 横 25センチで、当時としては立派なものである。


正面に「釈楽道善男」とある。 これは初代文楽軒の法名である。


右側に「大阪、文楽墓」左側に「文化七午七月十日」とある。


大阪にある墓には、七月九日に没したことになっているので、一日の差がある。


背面には「湊 幸助、文重 忠三郎、大阪 猪文」と記されていて、これは建碑者の名である。


子の墓と並んで、初代竹本弥太夫という大阪の有名な浄るり太夫の墓がある。


正面に「法室清住信士」右側に「大阪 北新地 竹本弥太夫」左側に、「文政三庚辰五月十日 当所門人中幸建之」とあって、背面には文字はない。墓の大きさもほぼ文楽のと同じである。


大阪には、天王寺区下寺町三丁目七番地遊行寺円成院に墓がある。


しかしそれは三代目文楽軒が改造した墓で、初代の没時に近いのは尾道市の海龍寺の墓である。


その意味で、たとえ大阪に本来の墓があっても、尾道の墓は貴重である。


三代目は初代の孫で、明治 20年に没したが、この時期が文楽座の最盛期であった。


その没後に高大な記念碑「文楽翁之碑」が建てられた。


文楽翁とは三代目を指し、同じ遊行寺にある。


その碑文によると、初代の名は嘉兵衛で、淡路の人である。


幼時から浄るりの語りが上手で、文楽軒と号したのは十三歳の時であった。


特に注目せられるのは、その碑文に中国筋の巡業が記されていることである。


「かつて中国に歴遊し、諸大姓の招請に倚ってこれを演ず。その音調凡ならず、聞く者感賞せざるなし。すなわち名を添加に顕はす」とある。


諸大姓というのは、姓を名に置きかえると、諸大名である。


だから、姫路、岡山、広島などの城内でも演じたものらしい、それが人形浄るりであったか、人形なしであったかはわからないが、とにかく自身で語りをした様である。


大阪では素浄るりの席を経営することから身を起こしたように伝えられている。


人形浄瑠璃の太夫でないことは、竹本とか豊竹という芸名を持っていないから明らかである。


しかし半くろうとで素人相手の師匠はできたことであろうと思われる。


初代竹本弥太夫の墓は、当初門人によって建てられている。


その文政三年 ( 1820年 ) は、初代文楽の文化七年 ( 1810年 ) から十年後である。


それを思い合わせると、初代文楽の没後に、その代わりに師匠として大阪から招かれてようになったのが初代弥太夫ではあるまいか。そうすると、初代文楽は、尾道の素人浄瑠璃連を教えに時々来ていたのであってその墓は没後間もなく弟子達によって追慕のために建てられたものであろう。


尾道は文化、文政の頃港商都として非常に栄えていたのであるから、大阪から師匠を招く財力は十分にあったものと思える。


浄るりが盛んであった昭和の初め頃まで、その伝統は栄えていたのであって、浄るり会がしばしば催された。


初代文楽軒の事蹟は非常に資料が少なくてよくわからないのであるが、尾道に墓があることによって少なくとも晩年の様子が推察されることとなった。


文学史の上からも大切な資料となる文化財である。


広島大学 教授 角田一郎文学博士
(昭和四十二年論文発表)


右側のお経の塚に、手をあてて願いを念じてください
(案内板より)


〇 植村文楽軒
初世植村 文楽軒(うえむら ぶんらくけん、宝暦1年(1751年) - 文化7年7月9日1810年8月8日))は、人形浄瑠璃文楽座(劇場名および団体名)の源流。本名は正井与兵衛。

初代
淡路国津名郡仮屋浦(現:兵庫県淡路市仮屋)の出身。寛政頃に大坂高津橋南詰西の浜側に浄瑠璃稽古場を開場。1805年に資財をなげうって新地に立人形興行を始める。これが、後の「文楽座」という名称の源流になる。のち1809年堀江に転移。植村文楽翁を名乗る。墓所は大阪市天王寺区下寺町にある円成院。戒名は「釋樂徹」。
(wikiより)

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〇 阿弥陀種子板碑

室町時代後期 ( 推定 ) 高さ0.9M 花崗岩製


上部に阿弥陀如来の種子「キリーク」が陰刻されている。


〇 像容板碑
南北朝時代後期 ( 推定 ) 高さ0.60M 花崗岩製


南北朝時代の特徴である蓮華座の蓮弁上に合掌した仏像が陰刻してある。


〇 像容板碑

室町時代後期 ( 推定 ) 高さ0.52M 花崗岩製


石質が荒く風化剥離がすすみ、現在はほとんど見えない蓮華座の上に、合掌した仏像が想像できる。
(案内板より)

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南北朝時代 ( 推定 ) 高さ 一、〇一M 花崗岩製


地輪・水輪・火輪に四方梵字 ( 種子 ) が陰刻され、県史蹟 世羅町東上原久代谷郡にある、南北朝時代の五輪塔に酷似している。
(案内板より)

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⇧ 右端から 2番目。

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安土桃山時代 ( 天正十六年 一五八八 ) 高さ0.80M 花崗岩製


空・風輪を欠失しているが、地輪中央上部に「通種子」の一文字を陰刻し、「徳順居士」が天正十六年四月廿三日の生前に像率した逆修塔である。
(案内板より)

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⇧ 右端から 3番目。

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南北朝時代 ( 推定 ) 高さ 1.67M 花崗岩製


基壇の上面は整形され、基礎は上二段で格狭間はなく素面である。


塔身は、四面に月輪が陰刻され、下部には南北朝時代の特徴を示した蓮華座を刻出し、その上部に大きく薬研彫りで金剛界四分仏の種子が現わされている。


隅飾は、二狐の輪郭付きで、塔身同様、南北朝時代の特徴をよく現わしている。
(案内板より)

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⇧ 右端。

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重要文化財

浄土寺納経塔 一基

   
昭和二十八年 ( 1953 ) 八月二十九日指定


石造宝塔 基壇付 高さ二.七m


弘安元年 ( 1278 ) 戌寅十月十四日 の刻銘がある


紀年名をもつ 尾道最古の石造物 定証上人による浄土寺再興前に同寺を修造した尾道の長老光阿弥陀仏のために 子息の光阿吉近が建てた供養塔と伝える


「沙弥光阿弥陀」「孝子光阿吉近敬白 大工形部安光」などの文字を読むことができた
(案内板より)

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重要文化財

浄土寺宝篋印塔 一基

昭和二十八年 ( 1953 ) 八月二十九日指定


石造宝篋印塔 高さ三.二m


貞和四年 ( 1348 ) 戌子十月一日 の刻銘がある


沙弥行円など四名の逆修塔で光孝の追善のために建立された


伊予・備前地方を代表する宝篋印塔 


基礎と塔身の間に方形の受台を入れる地方の特色をとどめる
(案内板より)

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1803 ( 享和 3 ) 年 ~ 1886 ( 明治 19 ) 年
 
江戸時代から明治にかけての学者で、糸崎に港を開いた人です。
 
伊予 ( 愛媛県 ) で生まれ、幼いころ父が亡くなりました。
 
早くから学問の道を志し、大洲 ( 現在の愛媛県大洲市 ) で学び、その後大洲藩のすすめにより江戸に出て勉強をしました。
 
このころ,母が手足の不自由な難病にかかり、龍山は 20年間にわたり介抱しました。その親孝行ぶりは,誰もが頭の下がる思いでした。
 
1838 ( 天保 9 ) 年に母が亡くなり、龍山は翌年から尾道に住むようになりました。
 
42歳のとき、龍山は 11代三原城主の浅野忠助にたのまれて、城内の明善堂 ( 学校 ) の先生になりました。
 
また学問だけでなく、藩の政治にも参加し活躍しました。


とくに糸崎の松浜港の開港については,どうしても必要であるとの意見を出し、ついに1864 ( 元治元 ) 年に工事がはじまり,翌年に開港することができました。
 
開港以後、北前船なども寄港するようになり、三原の商人もここに店をかまえ,町は繁栄していきました。
 
龍山は、現在の糸崎港の基を開いたわけです。
 
1868 ( 明治元 ) 年に三原を退いてからは、尾道に私塾「 朝陽館」を設けて子弟を育成しました。

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浄土寺(じょうどじ)は、広島県尾道市東久保町にある真言宗泉涌寺派大本山の寺院。山号は転法輪山(てんぽうりんざん)。院号は大乗院。本尊は十一面観音で、中国三十三観音霊場第九番札所である。

歴史

推古天皇24年(616年)、聖徳太子が開いたとも伝えられる。この寺が文書等にあらわれるのは鎌倉時代中ごろからのことで、鎌倉時代の初めには堂塔を守る人さえないという惨状だったが、徳治元年(1306年)に真言律宗系の僧で叡尊の弟子・定証によって中興された[1]。その後、正中2年(1325年)に焼失したが、尾道の有徳人道蓮・道性夫妻によって復興された。現存する国宝の本堂・多宝塔、重要文化財の阿弥陀堂はこの時再興された建物である。


南北朝時代
に入ると、各勢力が浄土寺を味方につけようと外護に努めた。元弘の乱の際後醍醐天皇は、住職に綸旨を下して祈祷を命じるとともに、因島の地頭職を寄進した。足利尊氏建武3年(1336年)2月、九州に落ち延びる際、浄土寺本堂で戦勢挽回を祈願し、幾つかの地頭職を寄進。更に九州での戦いに勝利再起した同5月5日に再び浄土寺本堂に参籠して、1万巻の観音経を読経し、足利直義や道謙法師と共に観音経にちなんだ33首の和歌を詠じて戦勝を祈願している。尊氏はその後、備後国利生塔を浄土寺境内(元尾道市立筒湯小学校校庭)に建立し、寺では今も足利氏家紋「二つ引門」を寺紋として使い続けている。今川了俊も九州へ下る際、数か月浄土寺に滞在し、軍備を整えたという。


室町時代も下ると、足利氏と関係の深かった浄土寺の寺運も衰えていった。近世に入ると落ち着きを取り戻し、泉涌寺派に属しながら尾道在住の豪商から外護を受けるようになり、庶民の信仰を中心とする寺院へ変貌していく。当地の豪商らによって、元禄3年(1690年)、方丈(重要文化財)、正徳年間には護摩堂・経堂、享保4年(1719年)、食堂(現在の庫裏及び客殿、重要文化財)が建立された。

境内
山門を入ると正面に本堂、その右手に阿弥陀堂と多宝塔が建つ。これらの中世仏教建築群に対し、境内西側には方丈、庫裏及び客殿など、僧の生活空間である近世建築群があり、庭園や茶室(露滴庵)もある。近世以前の寺院景観を良好に残す境内地は、本堂とともに国宝に指定されている[2]

文化財
国宝
・本堂(附:厨子、棟札2枚、境内図2枚) - 嘉暦2年(1327年)の建立。入母屋造本瓦葺き。和様を基調として大仏様、禅宗様の細部を取り入れた、中世折衷様仏堂建築の代表作。なお、平成6年(1994年)7月、境内地全域が「建造物と一体をなしてその価値を形成している土地その他の物件」(文化財保護法第2条参照)として本堂とともに国宝に指定されている。

・多宝塔 - 嘉暦3年(1328年)建立の和様の多宝塔。中国地方における古塔の一つとして、また鎌倉時代末期にさかのぼる建立年代の明らかな多宝塔として貴重。

重要文化財(国指定)
・山門 - 室町前期

・阿弥陀堂 - 貞和元年(1345年)

・納経塔 - 石造宝塔。弘安元年(1278年)の銘あり。

・宝篋印塔 - 貞和四年(1348年)の銘あり。

・宝篋印塔 (足利尊氏供養塔)- 南北朝時代

・「浄土寺」6棟(附中門・棟札・旧食堂厨子及び須弥壇)

  ・方丈 - 元禄3年(1690年)

  ・唐門 - 正徳2年(1712年)

  ・庫裏及び客殿 - 享保4年(1719年)

  ・宝庫 - 宝暦9年(1759年)

  ・裏門 - 江戸時代 商人がここで違法な伝書鳩を飼っていたといわれる。

  ・露滴庵 - 江戸時代(海物園跡参照)

・絹本著色仏涅槃図

・絹本著色両界曼荼羅図 附:旧軸木2本(文保元年(1317年)二月益円の銘がある)

・木造十一面観音立像 - 平安後期の作。本堂本尊で「身代わり観音」とも呼ばれる秘仏

・木造聖徳太子立像 院憲作 乾元二年銘(1303年)

・木造聖徳太子立像 暦応二年銘(1339年)

・木造聖徳太子立像(南無仏太子像) 院勢作 建武五年銘(1338年)

・孔雀鎗金経箱 延祐二年銘(1315年)[3]

・孔雀文沈金経箱

・観世音法楽和歌 建武三年五月五日尊氏証判あり

・定証起請文 嘉元四年とあり(1306年) 附:同案文(残簡)

・浄土寺文書(11通)1巻(寺領注文(建武四年十月日とあり)、尊氏寄進状、ほか9通)

・紺紙金銀泥法華経 巻第七 天暦三年奥書(949年)

   
出典:2000年までの指定物件については、『国宝・重要文化財大全 別巻』(所有者別総合目録・名称総索引・統計資料)(毎日新聞社、2000)による。

広島県指定重要文化財
・絹本著色弘法大師絵伝

・絹本著色如意輪観音像 建武元年(1334年)7月 文観房弘真[4]

・絹本著色千手観音像

・絹本著色浄土曼荼羅

・絹本著色釈迦八相図

・絵馬

・木造文殊菩薩坐像

・木造阿弥陀如来坐像

・木造大日如来坐像 金剛界 附:台座

・木造大日如来坐像 胎蔵界 附:光背

・木造千手観音立像

・銅製鰐口

・鉄製燈籠

・太鼓

・法華経版木

・梵網経版木

・浄土寺文書

名勝(国指定)
・庭園

所在地
・広島県尾道市東久保町20-28


前後の札所

中国三十三観音霊場

  8 明王院 -- 9 浄土寺 -- 特別霊場 西國寺

脚注
1. 網野善彦『蒙古襲来(下)』小学館、1992年、P.111。
2. 土地の国宝指定は平成6年7月12日文部省告示第111号による。
3. 鎗金の「鎗」は重要文化財指定名称では「戧」(扁は「倉」、旁は「戈」)
4. 内田啓一 『文観房弘真と美術』 法藏館、2006年。ISBN 978-4831876393  p. 314。

参考文献
・『週刊朝日百科 日本の国宝』29号、朝日新聞社、1997

・「新指定の文化財」『月刊文化財』372号、第一法規、1994

広島県立歴史博物館編集・発行 『広島県立歴史博物館平成27年度企画巡回展 広島県立歴史民俗資料館平成27年度秋の特別企画巡回展 尾道・浄土寺の寺宝展 -瀬戸内の精華-』 2015年4月24日

関連項目
日本国指定名勝の一覧

東京物語(劇中に登場)

ハッサク



外部リンク
大本山浄土寺

広島県の文化財

浄土寺のパノラマ
(wikiより)

061a

061b

061c



浄土寺宝篋印塔 一基


昭和三十六年 ( 1961 ) 三月二十三日指定


花崗岩製 石造宝篋印塔 高さ一.九m


足利尊氏の墓と伝える


基礎・基壇の間に反花座を設け 基礎側面には大きくみごとな格狭間を作る


相輪も完備し 彫り 全体の均整ともに洗練され 南北朝時代における中国地方の宝篋印塔の代表作といわれる。
(案内板より)


〇 足利尊氏
足利 尊氏(あしかが たかうじ)は、鎌倉時代末期から室町時代(南北朝時代)前期の武将鎌倉幕府御家人

足利貞氏の次男。室町幕府初代征夷大将軍(在職:1338年 - 1358年)、足利将軍家の祖。姓名は源 尊氏(みなもと の たかうじ)。

概要
河内源氏義国足利氏本宗家の8代目棟梁。足利貞氏の次男として生まれる。歴代当主の慣例に従い、初めは得宗北条高時偏諱を受け氏(たかうじ)と名乗っていた。元弘3年(1333年)に後醍醐天皇が伯耆船上山で挙兵した際、その鎮圧のため幕府軍を率いて上洛したが、丹波国篠村八幡宮で幕府への反乱を宣言、六波羅探題を滅ぼした。幕府滅亡の勲功第一とされ、後醍醐天皇の諱・尊治(たかはる)の偏諱を受け、高氏の名を氏(たかうじ)に改める。


後醍醐天皇の新体制である建武の新政下で、公卿西園寺公宗の反乱計画発覚など政情不安が続く中、鎌倉方の残党北条時行が起こした中先代の乱により窮地に陥った弟・足利直義救援のため東下し、乱を鎮圧したあとも鎌倉に留まり、恩賞を独自に配布した。これを独自の武家政権を樹立する構えと解釈した天皇との関係が悪化、建武の乱が勃発した。箱根・竹下の戦いでは大勝するが、第一次京都合戦および打出・豊島河原の戦いで敗北し、一時は九州に都落ちしたものの、再び太宰府天満宮を拠点に上洛して京都を制圧、光明天皇を擁立して征夷大将軍補任され新たな武家政権室町幕府)を開いた。一度は京に降った後醍醐天皇は、すぐ後、吉野に脱出し南朝を創始することになった。


幕府を開いてのち、是円真恵兄弟らへの諮問のもと、その基本方針となる『建武式目』を発布。弟・足利直義と二頭政治を布き、保守派の直義に対して、尊氏は革新派の執事高師直を通じて政治改革を行ったが、後に尊氏・師直派と直義派との間で観応の擾乱が起こった。師直・直義の死により乱は終息したが、その後も南朝や実子の足利直冬など反対勢力の打倒に奔走し、統治の安定に努めた。後醍醐天皇の崩御後は、その菩提(ぼだい)を弔うため天竜寺を建立した。


勅撰歌人である武家歌人としても知られ、『新千載和歌集』は尊氏の執奏により後光厳天皇が撰進を命じたものであり、以後の勅撰和歌集は、二十一代集の最後の『新続古今和歌集』まですべて将軍の執奏によることとなった。

生涯

誕生と家督相続
尊氏は嘉元3年(1305年)7月27日に足利貞氏の次男として生まれた。生誕地は母の実家、上杉氏の本貫地である丹波国何鹿郡八田郷上杉荘(現・京都府綾部市)とされる[注釈 3]。また、旧来は栃木県の足利荘(足利市)出生とされる事が多かったが、足利荘説は傍証資料に乏しく近年(90年代以降)では概ね否定されている。


母は貞氏側室の上杉清子(兄に貞氏正室の北条顕時の娘が産んだ足利高義がいる)。後世に編纂された『難太平記』では尊氏が出生して産湯につかった際、2羽の山鳩が飛んできて1羽は尊氏の肩に止まり、1羽は柄杓に止まったという伝説を伝えている。元応元年(1319年10月10日、15歳にして従五位下に叙し治部大輔に任ぜられる。また、同日に元服をし、得宗北条高時の偏諱を賜り高氏(通称は又太郎)と名乗ったとされる[注釈 4]

15歳での叙爵は北条氏であれば得宗家・赤橋家に次ぎ、大仏家・金沢家と同格の待遇であり、北条氏以外の御家人に比べれば圧倒的に優遇されていた[1]。そして北条氏一族の有力者であった赤橋流北条氏赤橋(北条)守時の妹赤橋登子を正室に迎える。その後、守時は鎌倉幕府の執権となる。元弘元年/元徳3年(1331年)、父・貞氏が死去する。足利氏の家督は一旦は兄の高義が継いでいたが、父より先(高氏の元服以前)に亡くなっていたため、高氏が継ぐことになった。

元弘の乱
詳細は「元弘の乱」を参照


元弘元年/元徳3年(1331年)、後醍醐天皇が2度目の倒幕を企図し、笠置で挙兵した(元弘の乱)。鎌倉幕府は高氏に派兵を命じ、高氏は天皇の拠る笠置と楠木正成の拠る下赤坂城の攻撃に参加する。このとき、父貞氏の喪中であることを理由に出兵動員を辞退したが許されなかった。『太平記』は、このことから高氏が幕府に反感を持つようになったとする。また、足利氏は承久の乱で足利義氏が大将の1人として北条泰時を助けて勝利を導いて以来、対外的な戦いでは足利氏が大将を務めるのが嘉例とされ、幕府及び北条氏はその嘉例の再来を高氏に期待したもので、裏を返せば北条氏が足利氏に圧力を加えても決して滅ぼそうとはしなかった理由でもあった[1]。勝利に貢献した高氏の名声は高まったが、不本意な出陣だったためか、同年11月他の大将を置いて朝廷に挨拶もせずさっさと鎌倉へ戻っており、花園上皇を呆れさせている(『花園天皇宸記』)。


元弘の乱は結局失敗に終わり、倒幕計画に関わった貴族・僧侶が多数逮捕され、死刑・配流などの厳罰に処された。後醍醐天皇も廃位され、代わって持明院統光厳天皇践祚した。元弘2年/正慶元年(1332年)3月には後醍醐天皇は隠岐島に配流された。幕府は高氏の働きに、従五位上の位階を与えることで報いた(『花園天皇宸記』裏書)。

元弘3年/正慶2年(1333年)後醍醐天皇は隠岐を脱出して伯耆国船上山に籠城した。高氏は当時病中だったが再び幕命を受け、西国の討幕勢力を鎮圧するために名越高家とともに司令官として上洛した。このとき、高氏は妻登子・嫡男千寿王(のちの義詮)を同行しようとしたが、幕府は人質としてふたりを鎌倉に残留させている。


名越高家が緒戦で戦死したことを踏まえ、後醍醐天皇の誘いを受けていた高氏は天皇方につくことを決意し、4月29日、所領の丹波国篠村八幡宮京都府亀岡市)で反幕府の兵を挙げた。諸国に多数の軍勢催促状を発し、播磨国赤松円心近江国佐々木道誉らの反幕府勢力を糾合して入洛し、5月7日に六波羅探題を滅亡させた。関東では、同時期に上野国の御家人である新田義貞を中心とした叛乱が起こり、鎌倉を制圧して幕府を滅亡に追い込んだ。この軍勢には、鎌倉からの脱出に成功した千寿王も参加している。一方で、高氏の庶長子・竹若丸は伯父に連れ出され、鎌倉を出たが、脱出に失敗して途中で北条の手の物に捕まり殺害されている。

建武の新政
詳細は「建武の新政」および「後醍醐天皇」を参照


鎌倉幕府の滅亡後、高氏は後醍醐天皇から勲功第一とされ、従四位下に叙され、鎮守府将軍左兵衛督に任ぜられ、また30箇所の所領を与えられた。元弘3年/正慶2年(1333年8月5日には従三位昇叙武蔵守を兼ねるとともに、天皇の諱「尊治」から偏諱を受け尊氏と改名した[注釈 5]。尊氏は建武政権では自らは要職には就かなかった一方、足利家の執事である高師直、その弟・師泰をはじめとする家臣を多数政権に送り込んでいる。これには、天皇が尊氏を敬遠したとする見方と、尊氏自身が政権と距離を置いたとする見方とがある。世人はこれを「尊氏なし」と称した。


元弘3年/正慶2年(1333年)、義良親王(のちの後村上天皇)が陸奥太守に、北畠顕家鎮守府大将軍に任じられて陸奥国に駐屯することになると、尊氏も、成良親王上野太守に擁立して直義とともに鎌倉に駐屯させている。また、鎌倉幕府滅亡に大きな戦功をあげながら父に疎まれ不遇であった護良親王は、尊氏をも敵視し政権の不安定要因となっていたが、建武元年(1334年)には父の命令で逮捕され、鎌倉の直義に預けられて幽閉の身となった。

中先代の乱
詳細は「中先代の乱」を参照


建武2年(1335年信濃国で北条高時の遺児北条時行を擁立した北条氏残党の反乱である中先代の乱が起こり、時行の軍勢は鎌倉を一時占拠する。直義は鎌倉を脱出する際に独断で護良を殺害している。尊氏は後醍醐天皇に征夷大将軍の官職を望んだが許されず、8月2日、天皇の許可を得ないまま軍勢を率いて鎌倉に向かった。天皇はやむなく征東将軍の号を与えた。尊氏は直義の軍勢と合流し相模川の戦いで時行を駆逐して、8月19日には鎌倉を回復した。

建武の乱
詳細は「建武の乱」を参照


足利直義(尊氏の弟)の意向もあって尊氏はそのまま鎌倉に本拠を置き、独自に恩賞を与えはじめ、京都からの上洛の命令も拒んで、独自の武家政権創始の動きを見せはじめた。11月、尊氏は新田義貞を君側の奸であるとして天皇にその討伐を要請するが、天皇は逆に義貞に尊良親王をともなわせて尊氏討伐を命じた。さらに奥州からは北畠顕家も南下を始めており、尊氏は赦免を求めて隠居を宣言し寺にひきこもり断髪する[注釈 6] が、直義・師直などの足利方が各地で劣勢となると、尊氏は彼らを救うため天皇に叛旗を翻すことを決意し「直義が死ねば自分が生きていても無益である」と宣言し出馬する。12月、尊氏は新田軍を箱根・竹ノ下の戦いで破り、京都へ進軍を始めた。この間、尊氏は持明院統の光厳上皇と連絡を取り、叛乱の正統性を得る工作をしている。建武3年(1336年)正月、尊氏は入京を果たし、後醍醐天皇は比叡山へ退いた。しかしほどなくして奥州から上洛した北畠顕家と楠木正成・新田義貞の攻勢に晒される。1月30日の戦いで敗れた尊氏は篠村八幡宮に撤退して京都奪還を図る。この時の尊氏が京都周辺に止まって反撃の機会を狙っていたことは、九州の大友近江次郎に出兵と上洛を命じた尊氏の花押入りの2月4日付軍勢催促状(「筑後大友文書」)から推測できる。だが、2月11日に摂津豊島河原の戦いで新田軍に大敗を喫したために戦略は崩壊する。尊氏は摂津兵庫から播磨室津に退き、赤松円心の進言を容れて京都を放棄して九州に下った。


九州への西下途上、長門国赤間関(山口県下関市)で少弐頼尚に迎えられ、筑前国宗像大社宗像氏範の支援を受ける。延元元年/建武3年(1336年)宗像大社参拝後の3月初旬、筑前多々良浜の戦いにおいて天皇方の菊池武敏らを破り、大友貞順(近江次郎)ら天皇方勢力を圧倒して勢力を立て直した尊氏は、京に向かう途中ので光厳上皇の院宣を獲得し、西国の武士を急速に傘下に集めて再び東上した。5月25日の湊川の戦いで新田義貞・楠木正成の軍を破り、6月には京都を再び制圧した(延元の乱)。


尊氏は洛中をほぼ制圧したが、このころ再び遁世願望が頭を擡げ8月17日に「この世は夢であるから遁世したい。信心を私にください。今生の果報は総て直義に賜り直義が安寧に過ごせることを願う」という趣旨の願文を清水寺に納めている[注釈 7]。足利の勢力は、比叡山に逃れていた天皇の顔を立てる形での和議を申し入れた。

和議に応じた後醍醐天皇は11月2日に光厳上皇の弟光明天皇に神器を譲った。その直後の11月7日、尊氏は、明法家(法学者)の是円(中原章賢)・真恵兄弟らへ諮問して『建武式目』十七条を定め、政権の基本方針を示し、新たな武家政権の成立を宣言したが、これは直義の意向が強く働いたものとされる。実質的には、このときをもって室町幕府の発足とする。尊氏は源頼朝と同じ権大納言に任じられ、自らを「鎌倉殿」と称した。一方、後醍醐天皇は12月に京を脱出して吉野(奈良県吉野郡吉野町)へ逃れ、光明に譲った三種の神器は偽物であり自らが帯同したものが本物であると称して独自の朝廷(南朝)を樹立した。

観応の擾乱
詳細は「観応の擾乱」を参照


延元3年/暦応元年(1338年)、尊氏は光明天皇から征夷大将軍に任じられ、室町幕府が名実ともに成立した。

翌年、後醍醐天皇が吉野で崩御すると、尊氏は慰霊のために天龍寺造営を開始した。造営費を支弁するため、天龍寺船が派遣されている。さらに諸国に安国寺利生塔の建立を命じた。南朝との戦いは基本的に足利方が優位に戦いを進め、北畠顕家、新田義貞、楠木正成の遺児正行などが次々に戦死し、小田治久結城親朝は南朝を離反して幕府に従ったほか、正平3年/貞和4年(1348年)には高師直が吉野を攻め落として全山を焼き払うなどの戦果をあげている。


新政権において、尊氏は政務を直義に任せ自らは軍事指揮権と恩賞権を握り武士の棟梁として君臨した。佐藤進一はこの状態を、主従制的支配権を握る尊氏と統治権的支配権を所管する直義との両頭政治であり、鎌倉幕府以来、将軍が有していた権力の二元性が具現したものと評価した(「室町幕府論」『岩波講座日本歴史7』岩波書店、1963年)。しかし、二元化した権力は徐々に幕府内部の対立を呼び起こし、高師直らの反直義派と直義派の対立として現れていく。この対立はついに観応の擾乱と呼ばれる内部抗争に発展した。尊氏は当初、中立的立場を取っていた。正平4年/貞和5年(1349年)、直義が師直を襲撃しようとするも師直側の反撃を受けた直義が逃げ込んだ尊氏邸を師直の兵が包囲し、直義の引退を求める事件が発生した。直義は出家し政務を退くこととなった。直義の排除には師直・尊氏の間で了解があり、積極的に意図されていたとする説もあるが、後の直義の言動より、直義の師直襲撃にも尊氏は言質を与えていたものと思われ、尊氏は優柔不断に直義にも師直にもいい顔をしていたとの説もある。


師直は直義に代わって政務を担当させるため尊氏の嫡男・義詮を鎌倉から呼び戻し、尊氏は代わりに次男・基氏を下して鎌倉公方とし、東国統治のための鎌倉府を設置した。直義の引退後、尊氏庶子で直義猶子の直冬が九州で直義派として勢力を拡大していたため、正平5年/観応元年(1350年)、尊氏は直冬討伐のために中国地方へ遠征した。すると直義は京都を脱出して南朝に降伏し、桃井直常畠山国清ら直義派の武将たちもこれに従った。直義の勢力が強大になると、義詮は劣勢となって京を脱出し、京に戻ろうとした尊氏も光明寺合戦打出浜の戦いで敗れた。尊氏は高師直・師泰兄弟の出家・配流を条件に直義と和睦し、正平6年/観応2年(1351年)に和議が成立した。この交渉において尊氏は寵童饗庭氏直を代理人に立てたが、氏直には直義に「師直の殺害を許可する」旨を伝えるように尊氏は命じたという記録が残っている[注釈 8]。和睦後、師直兄弟とともに京に戻るが、この時尊氏は出家姿になってみすぼらしい二人と一緒に上洛するのは「見苦しい」と言って嫌い、彼らに行列の後ろから3里(約2km)ばかり離れてついてくるようにと指示を出していた(『観応二年日次記』)。師直ら高一族は尊氏に見捨てられたような形で、護送中に彼らを父の敵として恨んでいた上杉能憲により殺害された。


直義は、義詮の補佐として政務に復帰した。上記の通り、この一連の戦闘の勝者は直義、敗者は尊氏であり、尊氏の権威は大きく失墜してもおかしくないはずである。ところが尊氏は全く悪びれる様子もなく、むしろ以前より尊大に振る舞うようになる。論功行賞では尊氏派の武将の優先を直義に約束させ、高氏を滅ぼした上杉能憲の死罪を主張し、直義との交渉の末これを流罪にした。また、謁見に現れた直義派の細川顕氏を降参人扱いし、太刀を抜いて縅すなどまるで勝者のように振る舞い、勝ち戦で上機嫌だった顕氏は尊氏の不思議な迫力に気圧され一転して恐怖に震えたという。そもそも尊氏は細かいことに拘らない性格だったが、今回の敗戦も尊氏と直義の戦いではなく、あくまで師直と直義の戦いだと、自分の都合のいいように考えていたようだ[2]。更に、直義の北条泰時を理想とする守旧的な政治は、幾度の戦乱を経て現実に即しているとは言い難かったため、尊氏派に宗旨替えする武将が続出し、敗者だった尊氏側が実際には優勢であるという情勢ができてゆく。このような情勢の中で、直義派の武将が殺害されたり襲撃されたりするなど事件が洛中で続発し、終には直義は政務から再び引退するに至る。


尊氏は佐々木道誉の謀反を名目に近江へ、義詮は赤松則祐の謀反を名目として播磨へ、京の東西へ出陣する形となったが、佐々木や赤松の謀反の真相は不明で(後に彼らは尊氏に帰順)、実際には尊氏はむしろ直義追討を企てて南朝と和睦交渉を行った。この動きに対して直義は京を放棄して北陸を経由して鎌倉へ逃亡した。

尊氏と南朝の和睦は同年10月に成立し、これを正平一統という。この和睦によって尊氏は南朝から直義追討の綸旨を得たが、尊氏自身がかつて擁立した北朝の崇光天皇は廃されることになった。そして尊氏は直義を追って東海道を進み、薩埵峠の戦い (南北朝時代)静岡県静岡市清水区)、相模早川尻(神奈川県小田原市)の戦いなどで撃ち破り、直義を捕らえて鎌倉に幽閉した。直義は、正平7年/観応3年(1352年)2月、高師直の一周忌に急死した。『太平記』の物語では、尊氏による毒殺の疑いを匂わせるように描かれた。尊氏は直義の死後病気がちになり、以後政務は義詮を中心に執られることになった。

晩年
尊氏が京を不在にしている間に南朝方との和睦は破られた。宗良親王新田義興義宗・北条時行などの南朝方から襲撃された尊氏は武蔵国へ退却するが、すぐさま反撃し関東の南朝勢力を破って鎌倉を奪還した(武蔵野合戦)。一方、畿内でも南朝勢力が義詮を破って京を占拠し、北朝の光厳・光明・崇光の三上皇と皇太子直仁親王を拉致し、足利政権の正当性は失なわれるという危機が発生する。しかし近江へ逃れた義詮はすぐに京を奪還し(八幡の戦い)、佐々木道誉が後光厳天皇擁立に成功した為北朝が復活、足利政権も正当性を取り戻した。しかし今度は、佐々木道誉と対立して南朝に下った山名時氏楠木正儀が京を襲撃して、義詮を破り京を占拠した。尊氏は義詮の救援要請をうけ京へ戻り義詮とともに京を奪還した。


正平9年/文和3年(1354年)には直冬を奉じた旧直義派による京への大攻勢を受ける。翌年には尊氏は京を放棄するが、結局直冬を撃退して京を奪還した。この一連の合戦では神南での山名氏勢力との決戦から洛中の戦に到るまで道誉と則祐の補佐をうけた義詮の活躍が非常に大きかったが、最終的には東寺の直冬の本陣に尊氏の軍が自ら突撃して直冬を敗走させた。尊氏はこの際自ら直冬の首実検をしているが結局討ち漏らしている。


尊氏は島津師久の要請に応じて自ら直冬や畠山直顕懐良親王の征西府の討伐を行なうために九州下向を企てるが、義詮に制止され果せなかった[3]。正平13年/延文3年(1358年)4月30日、先の直冬との合戦で受けた矢傷による背中の腫れ物がもとで、京都二条万里小路第(現在の京都市下京区)にて死去した[3]。享年54(満52歳没)[3]。 『後深心院関白記』によると延文3年(1358年)5月2日庚子の条に、尊氏の葬儀が真如寺 (京都市) で行われたとあり、5月6日甲辰の条の初七日からの中陰法要は、等持院において行われたことがわかる。 墓所は京都の等持院と鎌倉の長寿寺。これを反映して死後の尊氏は、京都では「等持院」、関東では「長寿院」と呼び表されている。 そして、尊氏の死から丁度百日後に、孫の義満が生まれている。

詳しいことは、「足利尊氏ウィキペディア」をご覧ください。 ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B6%B3%E5%88%A9%E5%B0%8A%E6%B0%8F
(wikiより)

74   Ashikaga_Takauji_Jōdo-ji

足利尊氏


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浅利 慶太(あさり けいた、1933年3月16日 - 2018年7月13日[1])は、日本の演出家実業家である。劇団四季創設者の一人で、劇団の運営・管理に当たる「四季株式会社」の代表取締役社長・会長・芸術総監督をつとめた[2]

劇団四季、四季株式会社を、商業主義ミュージカル劇団としても企業としても成長させた。


東京都
出身。永田町小学校(現麹町小学校[3]慶應義塾高等学校慶應義塾大学文学部仏文学専攻中退[4]。特選塾員。慶應義塾評議員

来歴・人物

1953年7月、慶應義塾大学東京大学の学生を中心に劇団四季を結成した[5]。主に、ジャン・アヌイジャン・ジロドゥ等フランス文学作品を上演する。その後東京田辺製薬(現:田辺三菱製薬)にて宣伝・広告などのアルバイトをしながら[6]日本テレビの「ジャングル・ジム」の吹き替えアテレコに劇団として参加した[7]。劇団四季は、もともとは文化・芸術志向の良質な劇団だった。60年安保の際には、安保反対の劇団四季の学生もいて、寺山修司は「安保反対のデモに行きたいという劇団四季の学生をぶん殴って、デモへ行くな、俺の演劇こそ世界を変える」と語ったと、自身の著書で述懐している。だが浅利の右派への転向もあり、劇団四季は70年代にはミュージカルを上演する国内有数の商業主義劇団へと変化した。


また、1958年には、石原慎太郎江藤淳谷川俊太郎寺山修司永六輔黛敏郎福田善之ら若手文化人らと「若い日本の会」を結成し、60年安保に反対した。だが、後に思想的には保守化する[8][9]


1961年、日生劇場製作営業担当取締役に就任。1969年、日本ゼネラルアーツを設立。1966年から1980年に越路吹雪が逝去するまで、「越路吹雪リサイタル公演」[10]を日生劇場において演出した。


浅利は、もともとは左翼だった。実姉と共に日本共産党員で、選挙戦や山村工作隊時代を戦ってきたが、実姉が左翼演劇人の劇団で交際していた男性と離別し自殺。浅利慶太は左翼陣営を離れた理由に姉の自殺をあげている。1970年代から海外ミュージカルの翻訳上演を始め、中曽根康弘[11]石原慎太郎[注 1]などの右派政治家との関係[注 2]を背景とした莫大な集金、集客力により、劇団四季を商業主義の企業型劇団へと成長させる。浅利は20代後半で日生劇場の取締役にも就任したが、これは異例のことであった。


1972年5月には、政府の中央教育審議会の委員に就任[13]。1975年の東京都知事選挙では、石原慎太郎の選挙参謀を務め、飯島清、中曽根康弘、深谷隆司とともに石原を熱心に応援した[14]。だが、石原はあえなく落選してしまう。興行面においては1983年『キャッツ』初演において日本で初めて無期限ロングラン公演を成功させた[15]。中曽根や石原のブレーンや佐藤栄作のなまりを治す家庭教師であったことや、財界人の五島昇など財界人[16]と親しい事実のほか、先述どおり政界との繋がりを利用して劇団を躍進させたことから、「政商」と批判された[17]


このように権力との関わりが密接である[18][19]にも関わらず、勲章などの顕彰を拒否しており、過去に紫綬褒章文化功労者の内示も辞退している[20]


ミラノ・スカラ座での『蝶々夫人』『トゥーランドット』、ザルツブルク音楽祭での『エレクトラ』の演出や、長野オリンピック開会式の総合プロデューサーを担当。また、創立当初からのポリシーであるアヌイ、ジロドゥ作品の上演や、太平洋戦争日中戦争を題材とした「昭和三部作」(李香蘭異国の丘南十字星)の上演を行っている。

2006年10月、政府の「教育再生会議委員」に就任。


2014年
6月、四季株式会社の取締役社長を退任[5]


2015年3月、新事務所の浅利演出事務所を設立し社長就任。劇団四季とは別に独自の演劇活動を開始[21]。第1弾公演は劇団四季でも公演した『オンディーヌ』で、劇団四季はJR東日本アートセンター自由劇場を提供し協力[21]


2018年7月13日、17時33分、悪性リンパ腫のため、東京都内の病院で死去[22]。85歳没。

家族

3度の結婚歴がある。最初の妻は藤野節子、2度目の妻は影万里江。2人とも劇団四季における浅利の同志だった。影の墓所は、浅利の実家の墓(谷中霊園内)である。2度目の離婚後は長く独身だったが、2003年、野村玲子を3度目の妻に迎えていた。


大叔父は二代目市川左團次。父は小山内薫らと築地小劇場の設立に参画し、三田英児の名で映画俳優として活躍した浅利鶴雄。鶴雄の母浅利たけの妹登美が左団次の妻で、左団次に子がなかったため慶太に左団次を継がせる話もあり、幼い頃は左団次の家にいたこともある[23]。母方は江戸時代から薬種商を営む田辺家の一族で、祖父は製薬会社を経営し、戦前からサロメチールやエバクレームなどを開発・販売していた[24][25][26]。その他、叔父(田辺五兵衛の次男)に旧:東京田辺製薬元会長の田辺元三郎がいる[6]

主な受賞歴
・1974年・51年 紀伊國屋演劇賞

・1976年 芸術選奨文部大臣賞

・1984年 テアトロ演劇賞

・1985年 アッビアーティ賞

・1986年 経済界大賞特別賞

・1993年 日本シェイクスピア賞シェイクスピア演劇賞

テレビ出演番組
TBSいのちの響

NHK教育訪問インタビュー


著作・評伝
・『浅利慶太の四季』慶應義塾大学出版会 全4巻、1999年

・浅利慶太『時の光の中で 劇団四季主宰者の戦後史』文藝春秋、2004年/文春文庫、2009年

・浅利慶太『劇団四季メソッド「美しい日本語の話し方」』文春新書、2013年

・梅津齊『浅利慶太-叛逆と正統 劇団四季をつくった男』日之出出版、2020年

関連項目
黒幕

政商

右派

メセナ

詳しいことは、「浅利慶太ウィキペディア」をご覧ください。 ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%85%E5%88%A9%E6%85%B6%E5%A4%AA
(wikiより)

222  淺利慶太

⇧ 浅利慶太

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222b

222c



 ほぼほぼ撮影は可能ですが、場所により撮影不可の場所あります

係の方にお聞きしてから撮影される事をお勧めします。



三菱重工業長崎造船所史料館
(みつびしじゅうこうぎょうながさきぞうせんじょしりょうかん)は長崎県長崎市飽の浦町にある、三菱重工業長崎造船所飽の浦本工場内の企業博物館


三菱重工業発祥の地で、日本の近代化に貢献した同造船所の歴史を振り返る。

概要

もともとは1898年(明治31年)に鋳物(エンジンなど)鋳造用の木製鋳型を作る工場(木型場)として建設され[1]1982年(昭和57年)に新しい木型場が完成したため、1985年10月に史料館として開館した。


また、被爆建造物でもある[2]ほか、「三菱長崎造船所 旧木型工場」の名称で、明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業の構成資産として世界遺産に登録されている[3]


2015年6月19日付で開館時間が9時から16時30分に、施設維持管理費は大人800円、小中学生400円(要予約)に変更された[4]。長崎駅からの送迎シャトルバスが一日6便運行しており、休館日は毎月第2土曜日およびよ2017年12月29日(金曜日)~2018年1月4日(木曜日)。

主な収蔵品
岩崎家コーナー[5]
岩崎弥太郎岩崎弥之助岩崎久弥岩崎小弥太書簡

代表的記念物[6]

泳気鐘 - 1793年徳川家斉により出島オランダ商館に注文され1834年に長崎に到着した英国製の潜水器具。長崎鎔鉄所施工工事のときに使用された。


日本最古の工作機械 - 1857年長崎鎔鉄所建設にあたり徳川幕府がオランダから購入した竪削盤 - 文化遺産オンライン文化庁)。国の重要文化財


日本初の国産陸用蒸気タービン - 1908年(明治41年)にイギリスのパーソンス社との技術提携により製作された。


鋳鉄柱 - 明治初期(1868年〜1912年)に長崎造船所内工場に使用されたものと推定されている。

戦艦武蔵コーナー[7]

武蔵油絵(第18代所長古賀繁一寄贈)

武蔵に使用された大型鋲締機(武蔵の鋲締数は6,491,248本)

武蔵建造日誌

武蔵竣工記念品(香盒

武蔵進水時に使用された支綱切断用斧

会社生活コーナー[8]

1871年(明治4年)10月時点の工部省長崎造船所の就業規則

昭和初期(1926年〜1989年)まで用いられた工員永年勤続表彰記章

所属、職務により記章の形、色が異なる記章類

発電プラントコーナー[9]
乗用車用液圧式タイヤ加硫機(PC-X)初号機

その他の展示物[10]

九一式航空魚雷カットモデル

北斗丸500馬力オープンサイクルガスタービン - 日本初の船舶用ガスタービンエンジン

2サイクルユニフローUEV30/40実験機関 - 1963年(昭和38年)完成、護衛艦主機として採用された

スペイン向けタービンローター破片 - 1970年(昭和45年)のタービン破損事故の際の破片で、破壊力学上貴重な資料

白鷹丸の主機 - 1928年(昭和3年)から55年間、長崎造船所曳船として活躍した白鷹丸の主機

東京電力鶴見第二発電所1号タービン溶接ローター

221   明治三十一年銘のキーストーン

⇧ 明治三十一年銘のキーストーン

221   木骨レンガ造り構造

⇧ 木骨レンガ造り構造

221   木型を鋳物工場へ牽引する懸垂式クレーンのレール

⇧ 木型を鋳物工場へ牽引する懸垂式クレーンのレール


脚注
1. 長崎観光お客様ネット事業実施委員会. “旧木型場〈三菱重工業(株)長崎造船所「史料館」〉(キュウキガタバ(ミツビシジュウコウギョウカブシキガイシャナガサキゾウセンジョシリョウカン))”. 長崎市. 2017年8月24日閲覧。
2. 長崎の声 Messages from Nagasaki”. 朝日新聞社 (2012年). 2017年8月24日閲覧。
3. 企画財政部 世界遺産推進室 (2015年7月2日). “長崎市にある8つの構成遺産”. 長崎市. 2017年8月24日閲覧。
4. 長崎造船所史料館(旧木型場)の一般公開方法の変更について (PDF)”. 三菱重工業 (2015年6月19日). 2017年8月24日閲覧。
5. 長崎造船所 史料館 岩崎家コーナー”. 三菱重工業長崎造船所史料館. 2017年8月24日閲覧。
6. 長崎造船所 史料館 代表的記念物”. 三菱重工業長崎造船所史料館. 2017年8月24日閲覧。
7. 長崎造船所 史料館 戦艦武蔵コーナー”. 三菱重工業長崎造船所史料館. 2017年8月24日閲覧。
8. 長崎造船所 史料館 会社生活コーナー”. 三菱重工業長崎造船所史料館. 2017年8月24日閲覧。
9. 長崎造船所 史料館 発電プラントコーナー”. 三菱重工業長崎造船所史料館. 2017年8月24日閲覧。
10. 長崎造船所 史料館 その他の展示物”. 三菱重工業長崎造船所史料館. 2017年8月24日閲覧。

関連項目
三菱重工業下関造船所史料館

三菱重工名古屋航空宇宙システム製作所史料室

三菱高速ディーゼル史料室

和田岬砲台三菱重工神戸造船所) - 兵庫県指定県史跡第1号

外部リンク
三菱重工 長崎造船所|史料館
(wikiより)

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大屋 明啓(おおや みつよし、生年不詳 - 嘉永3年5月21日1850年6月30日))は、江戸時代後期の旗本。幼名は右京、通称は図書。官途は従五位下遠江守。


先手鉄砲頭天保12年(1841年)8月10日から天保13年(1842年)9月30日まで火付盗賊改方を勤めたのち、同年10月3日に佐渡奉行を拝命し、同14年5月28日に相川に着任した。

佐渡奉行在任中は、知行1150石、役料1500俵100人扶持。

弘化2年(1845年)4月小普請奉行となる。


嘉永元年(1848年)11月1日に長崎奉行(第102代)に就任し、翌年3月28日に着任。

同年6月には地役人に学問に励むよう命を出した。

嘉永3年5月21日、在任中に長崎で没した(喪を発したのは25日)。墓所は本蓮寺

参考文献
・牧田利平編 『越佐人物誌』野島出版 昭和47年

外山幹夫著 『長崎奉行』中央公論社 昭和63年
(wikiより)

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元和 6年 ( 1620 ) 、大村本経寺住職の日恵 ( にちえ ) が開創。


サン・ジョアン・バプチスタ教会、サン・ラザロ病院の跡地でした。


慶安元年 ( 1648 ) 、朱印地 ( しゅいんち ) に指定され、長崎三大寺の一つでした。


江戸時代末、大乗院 ( だいじょういん ) と一乗院 ( いちじょういん ) という塔頭 ( たっちゅう ) があり、大乗院には、勝 海舟が 4年ほど滞在し、海軍伝習所で航海術や砲術などを学びました。


近所に住むお久 ( 梶クマ ) とのロマンスは、切れた下駄の鼻緒を直してくれたのが始まりといわれています。


一乗院には、シーボルトが息子アレキサンダーと滞在し、おタキや娘のおイネと会った場所です。


写真の二天門は原爆で焼失しましたが、往時の礎石の跡が残っています。
(案内板より)

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⇧ 往時の礎石。


11人の方が合祀されています。


なかには、関 雄之助 ( 沢村 惣之丞 / 海援隊士 ) の名前もあります。

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三浦 梧門(みうら ごもん、文化5年1月4日1808年1月31日) - 万延元年11月9日[1]1860年12月20日))は、江戸時代後期の長崎南画家鉄翁祖門木下逸雲と共に長崎三大家とされる。


は惟純、を宗亮。通称は総助もしくは惣吉。梧門はで別号に秋声・荷梁・香雨など。

略伝

長崎本興善町乙名の三浦総之丞の長男。先祖は平戸藩家臣で代々興善町乙名を任される。号の梧門は邸内に植えた梧桐(梧桐)の美しさを愛でたことに由来するという。梧梧門は本興善町の乙名から長崎会所目付役となっている。


画は最初、唐絵目利渡辺秀実石崎融思に学び、その後、舶載される中国の古書画・名品に臨んでその画法を独学した。米法山水を得意とし作品数も最も多く、中でも「雪景山水図」が目立つ。人物図花鳥図も能くし、他に土佐絵風の画も見られる。特に「鍾馗図」は、山水画に次いで人気があり、病気除け、平癒に効果があると評判で、梧門も好んで描いた。更に伊藤若冲の「乗興舟」のような正面摺り(正面版[2])の花卉図も確認されており、梧門の多様な作画と当時の長崎文化の成熟ぶりが伝わってくる。


享年53。墓所は本蓮寺。門弟に伊藤深江がいる。

代表作
・「鍾馗禳魔図」 長崎歴史文化博物館蔵 1858年(安政5年)

関連項目

長崎派
亀山焼

脚注
1. 墓石の記載より。ただし、10月8日とする説もある。
2. 日本の印刷史において正面版は珍しいが、中国文化の影響が強い長崎ではしばしば見られ、長崎版画にも用いられる技法である。

出典
・阿野露団『長崎の肖像 長崎派の美術家列伝』 形文社、1995年

・植松有希 「長崎の南画家・三浦梧門について」『長崎歴史文化博物館 研究紀要』第8号、2014年3月、pp.15-30
(wikiより)

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高木家は、初め頭人 ( とうにん / のちの町年寄 ) の家柄で、4代宗能 ( むねよし ) の時に御用物役 ( ごようもつやく ) に昇格、元文 ( げんぶん ) 4年 ( 1739 ) 9代忠興 ( ただよ ) の時、長崎代官 3,000石をたまわり、代々勝山町に住み代官職をつとめた。


この墓地は、寛文 ( かんぶん ) 11年 ( 1671 ) 没の 4代宗能以後に作られたものであろう。


墓碑は、宗能から 8代忠栄 ( ただえ ) 、代官墓碑として、9代忠興と 10代忠興 ( ただおき ) のもので寛政 10年 ( 1798 ) までみられる。


これは享保 6年 ( 1721 ) 御用物役であった 8代忠栄が本蓮寺二天門横に位牌所達心院 ( いはいしょたっしんいん ) を創設し、11代忠任以後の墓碑はその場所に建てられたからであろう。


ただし、達心院墓碑群は明治以後別地に移され今はない。


墓碑は、五輪形式のもので、江戸時代における長崎町年寄と代官の墓碑としては、長崎では稀である。
(案内板より)

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勝 海舟 ( 1823 ~ 1899 ) は、勝 小吉の長男として江戸本所亀沢町 ( 現 : 東京都墨田区 ) に生まれました。


安政 2年 ( 1855 ) から約 4年間、長崎奉行所西役所に置かれた海軍伝習所の伝習生となり、オランダ海軍士官カッテンディケらの指導を受けました。


長崎滞在中は、この地にあった大乗院に宿泊し、長崎の女性、梶くまとの間に一男一女をもうけました。


くま ( 法名は容誉智顔麗光大姉 ) の墓は、本蓮寺隣の聖無動寺の梶家墓地にあります。
(案内板より)

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天正 8年 ( 1580 ) 長崎はイエズス会領として寄進され、イエズス会本部が置かれるなど、わが国におけるキリスト教の一大中心地となり、数々の教会が建てられました。


その様子はのちに、日本における小ローマと称されるほどでした。


天正 19年 ( 1591 ) に渡来したローケ・デ・メロベレイラは、この地 ( 本蓮寺 ) に住民のための病院を開きました。


そのかたわらにフランシスコ会司祭のパウチスタが壮大なサンジョアン・バウチスタ教会 ( 司祭は日本人 ) を立てました。


しかし、慶長 19年 ( 1614 ) に禁教令により破壊されてしまいました。
(案内板より)

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山本森之助 ( やまもと - もりのすけ )

( 1877 - 1928 )

明治 - 大正時代の洋画家。

長崎県出身。


明治 10年 4月 2日生まれ。


山内愚仙 ( ぐせん ) に師事し、上京して黒田清輝らの天真道場、東京美術学校 ( 現東京芸大 ) に学ぶ。


白馬会、文展、帝展で入賞をかさねて文展審査員となる。


明治 45年中沢弘光らと光風会を創立した。


昭和 3年 12月 19日死去。52歳。長崎県出身。

作品に「曲浦」「丘」など。

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