本牧jack『意外と身近にある歴史散歩』日々是好日 心灯 頬笑

本牧Jackで御座います
小生の拙ブログ『意外と身近にある歴史散歩』日々是好日 心灯 頬笑に御訪問頂き誠に有難う御座います。
歴史ドラマが流行っている昨今、身近に有って気が付かなかったりする様な物を取り上げたりしています。
たまに『 多人数で取材しているのか? 』との質問を戴きますが、小生と相方の二人三脚で御座います。
出来るだけ続けたいと思っていますが 膝・耳に問題が有って、いつまで出来るやら・・・説明も、やたら長いものから あっさりしたものまで有りますが、御付き合いの程 宜しく御願い致します。
御注意 . 少ないですが生前に建てられた『 生前墓 』の記事も有ります。 ※ 申し訳御座いませんが「画像の転用」は禁止とさせて頂きます。 コメントは原則公開させていただいております 質問等に対してはブログ記事で返信させていただきます 他の方法で連絡を取り合う等一切しません 場合によっては、「IPブロック」しますがブロックした場合解除する事は有りませんので宜しくお願いします。

2023/04

黒田家の菩提寺であった崇福寺境内の西北に接して所在する、歴代の墓所である。
 
藩祖黒田如水、初代長政、四代綱政、六代継高、七代治之、九代斉隆とその一族、また直方藩主などを祭る。


昭和 25年改葬工事が行われ、二十数基あった石塔は如水、長政等の一部を除き廃され、新たに黒田家本家分、直方家分等の合葬碑を建て、現在 12基の石塔が並んでいる。
 
特に黒田如水の石塔には、景轍玄蘇 ( けいてつげんそ、聖福寺第百九世、日朝・日明交渉の掌にあった外交僧 ) の撰文が刻まれ、建碑当初のものとして、貴重である。
(福岡市公式ホームページ)


 祟福寺奥に扉は有りますが此方から行くことができません。

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⇧ 祟福寺表門

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⇧ 祟福寺北門

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⇧ 唐門

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⇧ 壊れた石灯籠なのかな?

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⇧ お墓の配置図

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⇧ 以上が『 北門側の黒田家墓所 』です。

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⇧⇩ こちらは祟福寺内の黒田家墓所です。

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崇福寺(そうふくじ)は、福岡県福岡市博多区にある臨済宗大徳寺派の寺院。同派三道場の一つ。九州触頭。当初は大宰府にあったが、黒田長政筑前の藩主になると、現在の千代町に移転させた。福岡藩黒田家菩提寺。かつての伽藍は海岸まで続き広大な寺域を誇ったが、福岡大空襲により灰燼に帰した。

沿革
1240年仁治元年)、太宰府の横岳に湛慧により建立される(現在の筑紫台高等学校近くに別院として現存)。


1241年(仁治2年)、円爾が開堂演法し、無準師範から与えられた「勅賜萬年崇福禅寺」の八大字を揚げて寺名とした。


1243年寛元元年)、承天寺と並んで官寺に列せられ、後嵯峨天皇より「西都法窟」の勅額を下賜される。


1272年文永9年)、南浦紹明興徳寺より転じ住持を務める。


1308年(延慶元年)、南浦紹明が亡くなり峰翁祖一が崇福寺の三世となる。


1586年天正14年)、島津氏大友氏の間でおこなわれた岩屋城の戦いの際に焼失するも再建される。


1600年慶長5年)、京都大徳寺住持を務めた春屋宗園の請を受け、福岡藩初代藩主・黒田長政によって現在地の福岡市千代町に移転、建立開基された。これ以降、福岡藩主黒田氏の菩提寺として庇護を受ける事となる。境内北側には藩祖黒田孝高や長政ら藩主代々の墓所がある。


1612年(慶長17年)、博多豪商の島井宗室の寄進により塔頭瑞雲庵が再建され、江月宗玩が開山。


1624年寛永元年)には長政から350石を寄進される。


明治時代廃仏毀釈運動の煽りを受けて荒廃する。


1895年(明治28年)、渡辺玄外が住職となって境内が再整備される。この際に時の旧福岡藩黒田家当主であった黒田長成侯爵が寺名を揮毫している。


1945年昭和20年)6月19日、宗室と並ぶ博多豪商の神屋宗湛所縁の茶室『湛浩庵』(戦前は国宝に指定されていた)など、多くの伽藍がアメリカ軍の空襲で焼失。


1950年昭和25年)戦後荒廃していた福岡藩黒田家墓所を整備、改葬。当初の五分の一の規模に縮小され、新たに土を盛り墓所を築造。土台に墓碑のみを整備した。当初は歴代藩主の埋葬地には御霊屋、石塔、灯篭他、二十数基の墓碑堂塔があったが風化や空襲などで焼失。


1963年昭和38年)元国宝の「湛浩庵」が『宗湛庵』として復元された。


2005年平成17年)5月9日、寺の修行僧によって放火され、隠寮や書院など3棟700平方メートルが全焼した。


2014年平成26年)境内にある歴代福岡藩主・黒田氏の墓所が黒田家16代、長高氏より福岡市に寄贈され、移管された。市の道路拡張工事に伴い山門前の参道を整備、隣に自動車専用道路も新たに整備され、饅頭店・参拝用品店などは境内へ移転した。

逸話
崇福寺には讃岐丸亀藩京極高豊(きょうごくたかとよ)正室、市子(松壽院)が寄進した荘厳具が伝わる。これは市子の母である前橋藩酒井忠挙(さかいただたか)正室、宝厳院筑姫(3代福岡藩主黒田光之の娘)が逝去した折、亡き母の実家である黒田家が、崇福寺にて法要を行った際に寄進したものである。この荘厳具は母と娘の絆を伝える貴重な物である。

文化財
・山門

県指定有形文化財。かつて福岡城の本丸表御門であったものを、1918年大正7年)に陸軍により払い下げられ、崇福寺境内に移築された。二層造で本瓦葺の切妻造


・唐門

県指定有形文化財。名島城遺構を移築したもの。


・仏殿

県指定有形文化財。


・紙本墨画出山釈迦像(県指定有形文化財)


・絹本著色黒田孝高・長政像(県指定有形文化財)


・旭地蔵尊

随乗坊湛慧が横穴を掘って隠棲しそのまま座位の姿で息絶えたとされる地に石塔が立てられ、のちに地蔵が祀られた。崇福寺が現在の地に移転した際に地蔵も共に移された。日切地蔵とも呼ばれ、願掛けのお地蔵さんとして崇敬を集めており百度参りの地としても有名。四がつく日(四日・十四日・二十四日)が縁日(または御日)とされており特に賑わっている。


黒田家歴代墓所

黒田孝高(如水)や正室の櫛橋光(照福院)、長政、弟の黒田熊之助をはじめ、4代藩主・綱政、6代藩主・継高、7代藩主・治之、9代藩主・斉隆、10代藩主・斉清の墓碑がある。藤水門で仕切られた一郭が黒田家の墓所となっている。なお、2代藩主・忠之、3代藩主・光之、8代藩主・治高の墓所は東長寺にある。11代藩主・長博以降は東京の青山霊園。当初の墓所は現在の5倍以上あったが戦災で焼失、戦後に改葬、合祀され縮小された。新たに墓所を北側に土を盛り築造。なお、長政の墓碑などはこの時に新しく作られた。後にまた再整備され、門(藤水門)、案内看板などが新しく設置された。現在福岡市に寄贈され、移管された為基本的に土日祝日の10時〜16時に限り、墓所の北門から入り参拝することができる。無料。(年末年始等については福岡市の担当部署へ確認を。)


島井宗室墓所


高場乱墓所


大森治豊墓所

周辺施設
福岡県庁舎

九州大学病院

福岡市立千代中学校

交通
福岡市地下鉄箱崎線千代県庁口駅5番出口

西鉄バス千代町(自治会館)バス停、千代町(今橋釣具店)バス停
(wikiより)

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江戸時代中期の国学の大家・本居宣長翁 ( 1730 ~ 1801 ) の歌碑で大正 13年 ( 1924年 ) に建立されました。

碑文には「海の外 おきつ千しまも 天皇の 御稜威かしこみ いつきまつろふ」と刻まれています。

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川江直種翁歌碑


現在、北九州市小倉北区に鎮座する篠崎八幡神社の宮司・川江直種翁が明治 12年 ( 1879年 ) に当社例大祭の折に詠んだ歌である「豊国の 門司の関やの 岩清水 くみて昔を 知るひともがな」が刻まれています。

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詳細不明です。

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日露戦没記念忠魂碑。

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小倉歩兵第百十四聯隊第七中隊


慰霊碑


杭州西湖の思ひ出に


西湖の水の

   青くして


紅木蓮の

   花咲けば


たづぬる春の

   身に近く


兵隊なれば

   楽しかる  


            葦平


( 左、中央の碑 )
日中戦争勃発により編成された歩兵第 114連隊第 7中隊の戦友諸氏により、昭和 43年 ( 1968年 ) に建立されました。

戦時中の門司港は将兵が出征する港であり、同連隊には「麦と兵隊」や「花と竜」などで知られる作家・火野葦平氏 ( 1907 ~ 1960 ) も所属しておりました。

その縁により「杭州西湖の思い出に 西湖の水の青くして 紅木蓮の花咲けば たづぬる春の身近く 兵隊なればたのしかる」の詩が刻まれています。


( 右の碑 )
昭和 57年 ( 1982年 )、芥川賞作家・火野葦平氏の母校である早稲田大学校友会により建立され、碑文には「足は地に、心には歌と翼を、ペンには色と肉を」と刻まれています。

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明治維新百年記念碑について

明治元年四月六日 明治天皇は天地神明に誓って五ヶ條の御誓文を発布されました


十月二十三日明治改元の詔下ろされひとえに わが国を近代国家建設のための国是を打ち立てたものといふべきです


以来齢を重ねること百歳 その間郷土門司をはじめとして 小倉など近郊の発展は日本国の発展とその軌を一つにし港都あるいは産業都市として国家社会への貢献は計り知ることはできません


明治百年を迎えるに当りこれを意義あらしめたるため産土甲宗八幡宮境内に記念碑を建て裏面に郷土の変遷発展の跡をたどり敬神祟祖報本反始の誠を尽くし この⇧ともに平和国家社会の基礎の確立を期する資としたいと思います。


昭和四十三年十月


國興す明治のこころ傳 ( つた ) えんと 甲宗の宮に いしぶみの建つ

劉 寒吉
(石碑文より)

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0哩

     谷 伝平 書

ここは 九州の鉄道の起点となったところです


明治 24年 4月 1日 この門司港駅 ( 当時の門司駅 ) から玉名駅 ( 当時の高瀬駅 ) まで鉄道が開通しました


このとき門司港駅に0哩 ( 0マイル ) 標が建植され九州の産業と文化は ここを起点として延びる鉄路とともに栄えてまいりました


その後 駅舎の移転により0哩標は撤去されて今日にいたりました


ここに 鉄道100執念を記念し先人の偉業をしのびつつ再び0哩標建立しました。


昭和 47年 10月 14日


日本国有鉄道九州総局
(案内板より)

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昔しを偲べば、大陸、欧州、台湾、国内航路の基幹と、九州鉄道の基地点として大いに発展した、ここ桟橋通りは住昔の絵巻の一こまとして、アセチレンの灯のにぶい光の下で、黄色くうれたバナナを戸板にならべ、だれとはなしに産まれ伝わる名セリフは大正初期~昭和十三、四年頃まで不夜城を呈し、日本国中の旅行者の、目を楽しませた。

バナナの叩き売りの風情は門司港のこの地桟橋通り附近を発祥の地と由来せし。


昭和五十三年四月吉日


門司港発展期成会
北九州門司区役所
(案内板より)

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この石塔は平 知盛 ( 1152 ~ 1185年 ) の墓として甲宗八幡神社に伝わるものです。


知盛は平 清盛の四男で、勇猛果敢な武将として能「船弁慶」などの芸能にも取り上げられております。


父 清盛亡き後、平家の総帥となった兄 宗盛を補佐し、平家一門の統率的存在となり、寿永三年 ( 1184年 )、所領の彦島に本拠地を置き、古城山山頂に門司城を築いて戦に備え、翌年の壇之浦の戦い ( 1185年 3月 24日 ) では田野浦に兵を集め、満珠・干珠島付近に布陣する源氏を攻めますが、義経戦略の前に武運なく敗れ、安徳天皇をはじめ平家一門の最後を見届けると「見るべき程の事は見つ ( 見るべきものはすべて見た )」と潔く入水してその一生を終えました。


墓は甲宗八幡神社が鎮座する筆立山山中にありましたが、昭和二十八年の門司の大水害により流れ、拝殿裏に傾いたままの状態でありましたので、ここに再祀しております。
(案内板より)


〇 平 知盛
平 知盛(たいら の とももり)は、平安時代末期の平家一門の武将平清盛の四男。母は継室平時子で、時子の子としては次男となる。同母兄に平宗盛、同母妹に平徳子がいる。世に新中納言と称された。

生涯
平氏全盛期

仁平2年(1152年)、父清盛35歳の時に継室時子を母として生まれる。同母兄の宗盛は6歳、異母長兄の重盛は15歳であった。翌年に祖父忠盛が死去し、清盛が平氏棟梁となる。


平治元年(1159年)正月に8歳で従五位下となる。同年12月の平治の乱で清盛が勝者となり、平氏一門と共に栄進していく。翌永暦元年(1160年)2月、平氏の戦功として東国の重要な武蔵国が清盛の知行国となり、知盛が武蔵守となった。その後再任して8年間同職にあり、治承4年(1180年)以降は武蔵国の知行国主となって長年同国を支配し、多数の平氏家人を獲得した。武蔵は河内源氏の勢力が強い地域であり、知盛の武将としての才能・人間的魅力が大きく作用したと思われる。


兄の重盛・宗盛は後白河院に対して優柔不断であったため、清盛は知盛に期待をかけたらしく25歳の頃「入道相国最愛の息子」(『玉葉』安元2年12月5日条)と呼ばれている。安元2年(1176年)7月に平氏と朝廷の調整役であった建春門院が死去した事で、清盛と後白河院との間で確執が生じ、その兆候は12月の蔵人頭の人事をめぐり、「無双の権勢」の知盛を超越して後白河法皇近臣藤原光能が蔵人頭に就任した事に表れている。翌安元3年(1177年)正月に従三位。同年6月、鹿ケ谷の陰謀が起こる。


治承2年(1178年)10月、同母妹である徳子が言仁親王(のちの安徳天皇)を出産、12月に立太子した。翌治承3年(1179年)2月、藤原殖子を母とする高倉天皇の第2皇子・守貞親王(のちの後高倉院)が誕生し、知盛に養育が任され妻の治部卿局が乳母となる。


治承3年(1179年)閏7月、平氏棟梁であった重盛が死去し、知盛は異母兄の死にあたり春宮権大夫を辞任している(9月に復帰)。同母兄宗盛が新たに棟梁となり、知盛は同母弟重衡と共に宗盛を補佐する。その3ヶ月後の11月14日、後白河院との対立が頂点に達した清盛は数千騎の兵を率いて治承三年の政変を起こし、後白河院政を停止、名実共に権力の頂点に立つ。

治承・寿永の乱
 詳細は「治承・寿永の乱」を参照


治承
4年(1180年)2月21日、高倉天皇が譲位して言仁親王(安徳天皇)が即位し、高倉院政の元、知盛は軍事部門の担当である御厩別当に就任した(『玉葉』3月4日条)。5月8日夜から知盛は「万死に一生」の重病となり、10日に清盛が福原から上洛して見舞っているが、12日には平癒している。『平家物語』で源平合戦の英雄として描かれる知盛であるが、平家全盛期の公達としての官歴は同母兄弟に比べてそれほど目覚ましいものはなく、足跡が比較的地味なのは、病持ちであったことに一因があるのではないかとの見方もある。


同時期に4月頃から進行していた以仁王の挙兵が起こり、清盛の上洛はその対処もあったと見られ、5月15日には以仁王の配流が決定された。21日に知盛は園城寺攻撃の大将軍の一人となる。反乱は平氏の精鋭家人と大将の重衡維盛らの派遣により短時間で鎮圧された。しかし山門の不穏な動きなど京の軍事的緊張は続き、6月2日、清盛による福原遷都が強行される。8月、源頼朝が挙兵し、10月の富士川の戦いで維盛率いる平氏軍は敗北を喫する。清盛は各地で相次ぐ反乱に対処するため、遷都から半年で都を平安京に戻し、知盛は数千の兵を率いる宗盛と共に安徳天皇を守護して京に戻った。

清盛の死と反乱の激化

同年12月、本格的に内乱鎮圧に乗り出した清盛の命により、知盛は甥・平資盛と共に大将軍として出陣し、京近郊の反乱軍を鎮圧した(近江攻防美濃源氏の挙兵)。同時期に重衡による南都焼討があり、治承5年(1181年)2月までに畿内の反平氏勢力は鎮圧された。翌治承5年(1181年)2月、清盛の命令で東国追討も命じられたが、この時に病に倒れて京都に戻ることを余儀なくされ、大将は重衡に交代となった。重衡の東国追討使は鎮西(九州)の情勢悪化により、鎮西への派遣に変更される。清盛は東国鎮圧に向けて宗盛を畿内惣官職として総力戦体制の構築を計り、2月上旬には宗盛を総大将として東国追討軍の派遣が予定されていたが、その準備の最中の2月26日、清盛が病に倒れて重衡の鎮西・宗盛の東国追討軍派遣は中止される。治承5年(1181年2月4日、清盛が死去する。その遺言は一門最後の1人まで頼朝と戦えというものであった。


棟梁宗盛は清盛の強硬路線を否定して後白河院に政権返上を申し出るが、朝廷による反乱源氏軍との和平案は拒否、軍事の実権は依然として平家が握り、実力による反乱鎮圧に固執する事になる。これは平家内では主戦論が大勢を占めており、一門結束のために清盛の遺言に従う必要があった事を物語っている。3月、墨俣川の戦いで平氏軍が勝利する。


惣官宗盛は4月に原田種直を太宰権少弐に補任し8月には家人の平貞能を鎮西に派遣して反乱鎮圧を図り、東国では城助職藤原秀衡ら地方の有力武士を国司に任じて反乱鎮圧を働きかけるが効果はなく、8月から10月にかけての北陸追討も失敗した。10月の平氏遠征軍の編成では最も重要な洛中守護には棟梁・宗盛のもと、叔父の教盛経盛頼盛と知盛が担当した(『玉葉』10月10日条)。この時、宗盛とともに洛中に留まった者が政権中枢にあったと考えられる。各地の反乱勢力が割拠する最中の7月頃、鎌倉で東国経営に専念している源頼朝から後白河院に密使が送られ、平氏との和平を提案されるが、平氏は清盛の遺言を盾に拒否している。この年の後半から、養和の大飢饉により一時事態は膠着する。


西国の飢饉の状況が落ち着いてきた翌寿永2年(1183年)4月、京の食料の生命線である北陸道平定のため、平維盛を大将として平氏の総力を結集した大軍を派遣する。しかし5月の倶利伽羅峠の戦いで壊滅的な敗北を喫し、木曾義仲ら反乱軍は勢いを得て京を目指して進撃してくる事になる。


7月半ば、平氏軍は京を目前にした義仲ら反乱軍を迎え撃つため、一門を畿内各所に派遣し、平忠度は100騎の軍勢で丹波国へ、平資盛平貞能は1,000騎で宇治田原に、平頼盛は山科へ、知盛は重衡と共に2,000騎の軍勢で勢多に向かった。しかし摂津国多田行綱が反乱軍に同調して西日本への海上ルートを封鎖する動きを見せると、宗盛は包囲される前に伝統的平氏の地盤である西国へ下向して態勢を立て直す方針へ転換、7月24日、各地に派遣されていた諸将は都に呼び戻される。


一門都落ち
寿永2年(1183年)7月24日夜半、都落ちを目前にして、平氏の正統性確保に同行が必須であった後白河法皇が比叡山に逃亡し、事態を予想せず法皇を取り逃がした宗盛は茫然自失であったという。25日、平氏一門は六波羅や西八条邸を焼き払い、安徳天皇建礼門院三種の神器を擁して都を落ちる。法皇を取り逃がしたことで、平氏は官軍から一転賊軍として追討を受ける立場となり、8月6日、平時忠を除く一門の官職は剥奪された。
その後、備前国児島を経て8月下旬に原田種直の協力のもと、鎮西(九州)の大宰府に入る。しかし他の在地豪族の緒方氏臼杵氏菊池氏は平氏に合力せず、逆に反平氏の緒方惟栄らの攻撃を受けて大宰府を退却、10月20日に九州を離れ四国・讃岐国屋島に入った。この時、譜代の有力家人で鎮西に影響力があった平貞能が離脱するなど、小松家(平重盛)系統の一族や家人の平氏本隊からの離脱が起こっている。

平氏反撃

規模は縮小されつつあったものの、瀬戸内海制海権を握る平氏は田口成良の協力のもと屋島に本営を起き、知盛は全軍の総指揮官として体勢の立て直しを図る。10月1日、平氏追討の院宣を受けて西国へ下向した源義仲水島の戦いで破り、京へ追い返した。11月29日の室山の戦いでも源行家を破り、後白河・義仲の対立、源頼朝が派遣した鎌倉軍の上洛など京が混乱する中、勝利に勢いづく平氏軍は福原の東方生田の森、西方の一ノ谷に山陽道を遮断する城郭を構え、清盛の三周忌を前に福原へ集結しつつあった。四面楚歌の義仲は平氏に和睦の使者を送ったが、平氏はこれを拒否している。京奪還を目指して即時上洛を訴える知盛と、それを押し止める宗盛とで口論に及んだという。寿永3年(1184年)1月19日、義仲は上洛した鎌倉軍の手勢によって粟津の戦いで敗死する。


1月26日、平氏は福原に入り、都の奪還を目指して上洛する噂が広まる。朝廷では平氏との和議と追討で意見が二分されるが、後白河院と院近臣ら強硬派の意見によって平氏追討は続行され、29日、源範頼源義経が在地武士を組織して西国へ向かった。


2月7日、一ノ谷の戦いで知盛は大将軍として生田の森に陣を敷き、源範頼率いる鎌倉方大手軍を迎え撃った。しかし一ノ谷側で搦手の源義経軍の逆落としを受けた平氏軍は混乱に陥り、生田側の軍も撤退して海上に逃れた。この戦いの敗北で平氏は知盛の嫡男知章を初め、一門の有力武将を多数失う甚大な被害を受け、弟重衡は捕虜となった。宗盛が朝廷に送った書状によれば、平氏側は神器の返還をめぐる和平交渉で後白河院から休戦の命を受けていたにも関わらず、鎌倉軍の奇襲を受けたため大敗に及び、平氏軍を油断させる院の奇謀によって多大な被害を被ったという。2月10日、朝廷との間で重衡の身柄と引き替えに神器返還の交渉が行われるが、和平案は成立せず、3月に重衡の身柄は鎌倉へ送られた。

終焉

寿永3年(1184年)8月、鎌倉から源範頼を総大将とする平氏追討の大軍が派遣される。一ノ谷で大きな打撃を受けるも、平氏軍は讃岐国屋島に城郭を築いて再起を図り、二箇所に陣を結び、宗盛が屋島にあり、知盛は彦島に軍営を置いた。知盛は九州の兵を率いて門司関を固め[1]、半年に渡って追討軍の九州・四国上陸を阻止する。しかし、知盛が彦島に釘付けとなっている間の寿永4年(1185年)2月19日、屋島の戦い源義経の急襲を受け、動揺した宗盛はほとんど戦闘を行う事なく安徳天皇と共に海上へ逃れ、平氏は瀬戸内海の制海権掌握に重要な拠点であった屋島を失う致命的な敗北を喫する。


さらに源範頼軍が1月末に在地武士の緒方氏・臼杵氏の協力を得て九州・豊後国に上陸し、2月1日には平氏方であった原田種直を討ち取っており、彦島に追い詰められた平氏一門は海上で孤立する事になる。


寿永4年(1185年)3月24日、壇ノ浦の戦いで鎌倉軍と最後の戦闘に及ぶが、田口成良ら四国・九州在地武士の寝返りにあい、追い詰められた一門は入水による滅びの道を選ぶ。安徳天皇二位尼らが入水し、平氏滅亡の様を見届けた知盛は、乳兄弟平家長と手を取り合って海へ身を投げ自害した。享年34。


妻の治部卿局は東宮として同行していた守貞親王と共に生き残り、都へ戻った。壇ノ浦から36年後、承久の乱によって後鳥羽院鎌倉幕府に敗れて配流となり、幕府によって守貞親王の皇子が後堀河天皇として擁立され、父である守貞親王は後高倉院として院政を行う治天の君となっている。


碇知盛

自害にあたり、知盛はを担いだとも、を二枚着てそれを錘にし、「見るべき程の事をば見つ。今はただ自害せん」と言い残して入水したとも言われている。共に入水後遺体となるか、あるいは生きたまま浮かび上がって晒し物になるなどの辱めを受けるのを避ける心得である。


これに想を得た文楽及び歌舞伎義経千本桜』の「渡海屋」および「大物浦」は別名「碇知盛(いかりとももり)」とも呼ばれ、知盛が崖の上から碇と共に仰向けに飛込み入水する場面がクライマックスとなっている。

詳しいことは、『平 知盛ウィキペディア』をご覧ください。 ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E7%9F%A5%E7%9B%9B
(wikiより)

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⇧ 平 知盛

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甲宗八幡神社(こうそうはちまんじんじゃ)は、福岡県北九州市門司区にある神社。通称は甲宗八幡宮。江戸時代までは「門司社(甲宗社)」、「門司八幡宮(門司関八幡宮)」とも呼ばれた。旧社格県社で、現在は神社本庁別表神社である。

祭神
第一殿に応神天皇、第二殿に神功皇后、第三殿に宗像三女神市寸島比売命多紀理比売命多紀津比売命)を祀る。

歴史

貞観元年(859年)、大和国(奈良県)大安寺の僧侶であった行教宇佐八幡宮に参籠した折、「八幡神が王城を鎮護する」という神託が降ったため、翌貞観2年(860年)、清和天皇は太宰大弐・清原岑成を勅使として派遣し、八幡神を山城国(京都府)男山へ遷座する(後の石清水八幡宮)事となった。その途次、勅使一行が門司関にて霊峰と崇められていた筆立山の山麓に駐留すると、上空に瑞雲がたなびき八流の幡を天降すという瑞兆が現れ、行教は「大神の出現疑うべからず」と朝廷に上奏し、この瑞兆を喜んだ清和天皇の勅願によりこの地に八幡神を分祀し、併せて神功皇后着用の(かぶと)を奉斎して創建されたのが始まりとされる。


以来、交通の要所である門司関の守護神として、平安時代末期においては寿永4年(1185年)に起こった壇ノ浦の戦いでは鎌倉方の大将である源範頼が参詣し重藤弓を奉納して必勝を祈願し、その戦勝後には副将で弟である源義経とともに社殿を造営したと伝わる。鎌倉時代に入ると門司一帯を所領とした門司氏が氏神とし、門司六ヶ郷(楠原・柳・大積・伊川・吉志・片野)の総社的な扱いを受け、南北朝時代初期の建武3年(1336年)には多々良浜の戦いに戦勝した足利尊氏より社殿造営および社領を寄進される等、武門の崇敬はますます高まった。室町戦国時代においても西国の大名大内氏より代々篤い崇敬を受け、大内義興義隆義長三代にわたって社領が寄進され、また大内氏の滅びた後に中国最大の大名となった毛利元就によっても社殿が造営されている。


近世に入ると社地は小倉藩に属し、細川氏、その後に小笠原氏の尊崇を受けた。特に小笠原藩政時代には藩内守護社(豊城鎮護社)の首座として歴代小倉藩主より重んじられ、例年の幣帛奉献はもちろん度々社殿造営および社領寄進が行われた。しかしながら幕末の第二次長州征討の際、小倉藩内へ侵略した長州兵により本殿を焼き払われ神宝等も略奪の憂き目にあった。


明治元年(1868年)、毛利元徳により本殿が再建され、拝殿が小倉藩造、本殿が長州藩造の越境型社殿となる。その後、明治5年(1872年)に郷社に列し、大正11年(1922年)には県社に昇格した。この間、門司港が全国有数の港町として発展したこともあり、大規模造営を行い、社殿・社務所の他に楼門・廻廊・奉幣殿・絵馬殿を備える県下有数規模の神社となったが、昭和20年(1945年)6月の門司を襲った空襲で全てを焼失した。

戦後、昭和33年(1958年)に神社の再建がなされ、神社本庁別表神社に列した。

その他
・特殊神事として50年に1度の式年大祭で神体(伝・神功皇后着用甲)の拝観が行われる。前々回は1958年(昭和33年)、前回は2008年平成20年)に執り行われた。次回は2058年予定。


・門司区でも最大の氏子区域を持つ神社として知られるが、本来の氏子区域はさらに広大で、小笠原時代以降に定められた氏子区域は、恒見地区を除く門司区全域、および小倉北区の足立・古船場町・馬借町・上城野水町周辺など、概ね現在の北九州市の紫川以東の地域に相当する。


・境内には壇ノ浦の戦いで入水した平知盛の墓と伝えられる石塔がある。合戦後に流れ着いた知盛の遺体を里人が哀れみ、八幡宮が鎮座する筆立山の山中供養したのが始まりといわれる。戦後に境内地に移され今に至る。


2010年(平成22年)1月16日2011年(平成23年)1月15日J2リーグギラヴァンツ北九州が必勝祈願を行なった[1] [2]。以降毎年選手が必勝祈願に参拝する。

神宝
・伝・神功皇后着用甲(神体)

・甲宗八幡宮文書(足利尊氏・大内義興・大内義隆文書等)

脚注
1. ニューウェーブ北九州(ギラヴァンツ北九州)最新ニュース
2. 毎日新聞オッショイ九州 - スポーツ

参考文献
門司郷土叢書 第七巻 神社編・寺院編1(『国書刊行会』)

外部リンク
甲宗八幡神社公式ホームページ
(wikiより)

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タイ王国・レムチャバン港と北九州港とは、1991年 ( 平成 3年 ) 7月 22日に姉妹港を締結しました。


レムチャバンは、タイ港湾庁 ( PAT ) が管轄する深海港であり、タイ王国最新鋭の国際貿易港として 1991年に開港しました。


同国で重要な港湾として位置付けられています。


姉妹港締結を記念したこのきねんひを、北九州開港 130年記念・姉妹港会議開催に合わせてリニューアルしました。


レムチャバン港とは、定期的な会議の開催や研修生の相互派遣など、両港の発展につながるような取り組みを行っています。


今後とも、さらなる交流を通して、両港の絆を深めてまいります。

2019年 3月 北九州港湾空港局
(石碑文より)

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和布刈る神の五百段ぬれてくらし

( わかめかる かみのいほだん ぬれてくらし )


・作者の紹介
横山白紅 ( 本名 : 健夫 )


明治三十二年東京に生まれる。


第一高等学校、九州大学医学部卒業、医学博士。


「九大俳句会」を創設、吉岡禅寺洞門下、「天の川」編集長。


小倉北区にて俳誌「自鳴鐘」を主宰創刊、現代俳句協会編集長。


小倉市議会議員、小倉市議会議長、全国市議会議長、五市合併委員長、小倉技術連合会長、北九州文化連盟会長。


昭和五十八年没。 八十四才。
(案内板より)

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門司港駅(もじこうえき)は、福岡県北九州市門司区西海岸一丁目にある、九州旅客鉄道(JR九州)鹿児島本線である。駅番号JA31。同線の起点駅[1]


関門トンネル
が開通するまで九州の鉄道の玄関口であり、対岸の下関駅との間に就航した関門連絡船との連絡中継駅として賑わった。駅舎は重要文化財に指定されており、重要文化財指定の駅舎は当駅と東京駅東京都千代田区丸の内駅舎のみである[1]日本経済新聞社の2007年アンケート「足を延ばして訪れて見たい駅」の全国第1位にランクされた。

歴史

当初は、九州鉄道の起点の駅、門司駅として1891年明治24年)4月1日に開設された。初代の駅舎が建てられたのは現在の門司駅舎が所在する地点よりも東側、今の北九州銀行門司支店の裏手に当たっていた。1901年(明治34年)5月27日には関門連絡船の運航が開始され、本州の鉄道と結ばれて多くの旅客と貨物がこの駅を経由することになった。しかし間もなく、1911年(明治44年)10月から下関 - 小森江間で貨車の車両航送が開始されて、貨車は直接連絡船に載せて本州と九州の間でやり取りされるようになり、当駅を経由するのは旅客が中心となった[1][2]


1914年
(大正3年)に現在の駅舎が完成し、移転開業した。その後も九州の鉄道の起点としての地位を保っていたが、関門トンネルの開通に伴って門司駅の名前は関門トンネルが接続することになる従来の大里駅に使うことになり、当駅は門司港駅へと改称した[1]。それまでは門司の埠頭にある貨物輸送用の駅が門司港駅(こちらの読みは「もじみなと」)と称しており、これに合わせて貨物駅は門司埠頭駅に改称された。それ以降の当駅は、本州と九州を連絡する鉄道輸送の流れから外れることになった。


第二次世界大戦に際しては、1945年(昭和20年)3月5日に米軍の空襲を受け、駅構内で3名が死亡した。21世紀になってからの駅舎復元工事の際には、駅舎に残されていた機銃や爆弾の痕跡が発見された[3]


門司港駅が輸送の流れから外れたのちも、門司鉄道管理局や国鉄九州総局などは引き続き門司港駅のそばに置かれ、国鉄分割民営化後もJR九州は異例の福岡と北九州の2本社体制を維持して、門司港駅脇に北九州本社が引き続き置かれていた。しかし福岡本社への統合に伴い2000年(平成12年)に北九州本社は閉鎖となっている。この建物は旧三井物産門司支店として現存する。


それ以降は門司港レトロへの観光客などが利用する駅となっている[1]


2012年より、開業当初への復原・耐震工事を行うために一度仮駅舎に移行したが、2019年に工事完了した[4]

年表

1891年(明治24年)4月1日 - 九州鉄道(初代)門司駅として開設[1]

1897年(明治30年)4月20日 - 門司 - 小倉間複線化[5]

1901年(明治34年)5月27日 - 山陽鉄道関門連絡船を就航[1]

1906年(明治39年)12月1日 - 山陽鉄道が国有化され関門連絡線も国有となる[1]

1907年(明治40年)7月1日 - 九州鉄道(初代)が国有化され帝国鉄道庁が所管[1]

1911年(明治44年)

  ・10月1日 - 下関 - 小森江間で貨車の車両航送開始[1]

  ・11月10日 - 構内でお召し列車の入換作業中に御料車の脱線事故が発生する[6]。この時に、当時の当駅の構内主任が自殺するという事件が起きている[7]

1914年(大正3年)

  ・1月15日 - 東方より200メートル移転し現在の駅本屋が完成[1]

  ・9月 - 関門連絡船用桟橋竣工[1]

1928年昭和3年) - 駅前の噴水が撤去される[8]

1930年(昭和5年)4月1日 - 門司 - 外浜間貨物支線開通[1]

1942年(昭和17年)4月1日 - 関門トンネル開通計画に伴い門司港駅に改称[1]

1945年(昭和20年)3月5日 - 米軍の空襲により、駅構内で3名が死亡する[3]

1953年(昭和28年)10月15日 - 17トン車以上の無蓋車積木材の取扱を廃止。

1964年(昭和39年)11月1日 - 国鉄関門航路が廃止[1]

1974年(昭和49年)10月1日 - 貨物営業廃止、旅客および手荷物扱いのみとなる[1]

1985年(昭和60年)6月1日 - 荷物扱い廃止。

1987年(昭和62年)4月1日 - 国鉄分割民営化により九州旅客鉄道が継承[1]

1988年(昭和63年)11月18日 - 駅舎が重要文化財に指定答申される[9]

1993年平成5年)

  ・6月10日 - 駅前のロータリーを移転し、噴水を復活させ広場とする工事が完了[8]

  ・11月14日 - オーストラリアフリンダース・ストリート駅姉妹駅締結[1]

2005年(平成17年)10月1日 - 外浜までの貨物支線営業休止[1]

2007年(平成19年)11月30日 - 近代化産業遺産(31.北九州炭鉱 - 筑豊炭田からの石炭輸送・貿易関連遺産)に認定[1]

2008年(平成20年)9月5日 - 外浜までの貨物支線廃止[1]

2009年(平成21年)

  ・2月6日 - 近代化産業遺産 続33(09.鉄道と港 - 関門航路関連遺産)に、関門連絡船通路跡とともに認定。

  ・3月1日 - ICカードSUGOCA」の利用が可能となる[10]

2012年(平成24年)9月29日 - 駅舎保存修理工事のため仮駅舎に移行。[11]

2018年(平成30年)11月10日 - 1階の一部(改札・コンコース・みどりの窓口)を先行リニューアル[12]。仮駅舎より駅機能を移転[13]

2019年(平成31年)3月10日 - グランドオープン。1階の残り(旧3等待合室等)と2階、駅前広場を開放[14][15][12][16][4]

歴代駅長
・初代:岸耕三郎

・第2代:橋口正ニ

・第3代:千布竹一郎

・第4代:石井良一

・第5代:千布竹一郎

・第6代:杉嘉十郎

・第7代:中村正登

・第8代:桐野利義

・第9代:渡辺六一郎

・第10代:福富孝嘉

・第11代:大角純

・第12代:武信吉

・第13代:前田房吉

・第14代:石橋栄太郎

・第15代:数山定太郎

・第16代:伊東信一

・第17代:伊東太郎

・第18代:井手誉

・第19代:土橋徳太郎

・第20代:前田重作

・第21代:原田謙一

・第22代:牧野珍一

・第23代:小林謙次郎

・第24代:安永義夫

・第25代:仁田亀禧

・第26代:日野岩三

・第27代:牟田口武一

・第28代:石松勝則

・第29代:田熊守

・第30代:戌谷光

・第31代:福本俊治

・第32代:寺崎優

・第33代:矢野眞

・第34代:古江哲夫

・第35代:徳重武雄

・第36代:萩原幸男

・第37代:井上一彦

・第38代:山本政巳

・第39代:川原得世

・第40代:富松修

・第41代:岡村昭

・第42代:津野典年

駅構造

頭端式ホーム2面4線を有する地上駅。3番線はホームに面していない留置線(もとは機回し線)に付けられているので南側から1 - 5番線となっている。2つのホームの間には日本の鉄道開業100周年を記念して建立された九州の鉄道起点を示す0哩(マイル)標がある。また、隣接して留置線(旧門司港運転区小倉総合車両センター門司港車両派出)や乗務員宿泊所が存在する。


直営駅
。また、みどりの窓口が設置されており、自動改札機もある。自動改札設置の提案が出たときには「レトロなイメージを壊す」として地元から反対意見が多数出たが、塗装を茶色にして目立たなくするということで同意を得て、稼働開始した。また、関門海峡花火大会など多客時の際には、自動改札機を除外して開きスペースにSUGOCA簡易リーダーを設置して対応する。かつてはキヨスクが営業していたが、当駅目の前の門司郵船ビル内に出店しているファミリーマートレトロ門司港駅前店(ファミリーマート社の直営店)との兼ね合いにより、閉店したため、構内売店は一店舗も存在しなかったが、時期は不明だが、JR九州リテールとの契約により、ファミリーマートが開店。ここも茶色をベースとした店舗で、景観とあっていることになっている。


駅の東側の車両留置線の中からさらに北の方向へ、かつては外浜駅まで鹿児島本線の貨物支線が伸びていた。この路線は2005年に営業が休止された後、線路はそのままになっていた。この線路を再利用する形で、2009年4月26日から第3セクター平成筑豊鉄道門司港レトロ観光線のトロッコ列車を運行している[1]


駅構内には戦前から使用されている洗面所、手水鉢、上水道など様々な歴史的資産が存在する。現在は別用途に使用されているが、「一・二等客待合室」・「チッキ(手荷物)取扱所」・「貴賓室」・「関門連絡船通路跡」等も残されている[1]。特に関門連絡船通路跡には旧日本軍の命令で設置された渡航者用監視窓の跡も残っている。これは当駅が外来航路の寄港地だったため、戦時下の不審者を発見する格好の場所だったとされるためである。

駅舎
1891年(明治24年)開業時の初代駅舎は木造平屋建、切妻造、瓦葺だった[17]。現在の二代目駅舎は、木造2階建、石盤葺。ネオ・ルネッサンス様式と呼ばれる左右対称の外観を持つ。1988年に駅舎として全国で初めて国の重要文化財に指定された。この駅舎は鉄道院九州鉄道管理局工務課設計開始1912年(大正元年)、翌年岡山市の菱川組により建設がはじまり、1914年(大正3年)1月竣工、2月から営業が開始された。

平成の大規模保存修理
開業後100年近くが経過し、シロアリ被害や老朽化による腐食でゆがみや亀裂が生じていることが分かったため[18]、国・福岡県・北九州市・JR九州が話し合いを行い、2012年9月から本格的な保存修理工事を開始した[19]。このため2012年9月28日限りで現在の駅位置での開業以来使われていた駅舎の営業を休止し、翌29日から仮駅舎に移行している。当初、工事完了は2017年度末を予定していたが、耐震補強工事等の実施により工事完了予定時期が変更され、駅機能の新駅舎への切り替えは2018年11月10日に行われた[13]。旧一等・二等待合室が「みどりの窓口」・「観光案内所」として供用開始となった[12]。2019年3月10日に復原工事が終了し、「グランドオープン」した[4]。 工事では、1914年(大正3年)竣工時の姿への復元と、耐震補強が行われた。1929年(昭和4年)につくられた正面のひさしは取り除かれたが、1918年(大正7年)に設置された大時計や正面向かって右側のひさし、倉庫は文化的価値と歴史保存の観点から残された[17]。一階の旧三等待合室部分に「スターバックスコーヒー門司港駅店」が、二階にはかつて当駅に存在した「みかど食堂」を成澤由浩のプロデュースによって復活させた「みかど食堂 by NARISAWA」が開業した[12][20][21][4]。また、「旧貴賓室」、「駅前広場」等が復元[15][20][16][12]、「旧貴賓室」を「みかど食堂」の団体客用個室に[22]、「小荷物取扱所」を待合室、「西側倉庫」を展示室として供用される[12]

詳しいことは、『門司港駅ウィキペディア』をご覧ください。 ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%96%80%E5%8F%B8%E6%B8%AF%E9%A7%85
(wikiより)

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明治 24年に開業し、九州の玄関口として、石炭や米等多くの物資をはじめ、本州や中国大陸へ渡る人の輸送駅として大いに繁栄した門司港駅。


現在の門司港駅は大正 3年に建てられ、昭和 63年に駅舎として初めて国の重要文化財に指定されました。


この門司港駅で、大正 3年の新駅舎開業以来列車の出発時に「出発合図の鐘」として使用され、昭和には「安全の鐘」として、お客さまの安全を見守ってきた鐘があります。


時代は平成に移り、この鐘は「旅立ちの鐘」として、結婚・進学・就職などを期に、鹿児島本線の起点である門司港駅から旅立って行くお客さまを見守るという願いを込め、この場所に蘇りました。


旅立つお客さまの夢や希望が流れ込む「幸福の泉」の脇でその実現を願い、「旅立ちの鐘」は門司港駅から旅立っていくお客さまをやさしく見守ります。
(案内板より)

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⇧ 旅立ちの鐘

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⇧ 幸福の泉

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月形鷦窠 ( つきがた - しょうか )
( 1757 - 1843 )

江戸時代中期 - 後期の儒者。

宝暦 7年生まれ。

月形漪嵐 ( きらん )、健助の父。

筑前 ( ちくぜん ) 福岡藩士。

真藤峨眉 ( がび )、竹田梅廬 ( ばいろ ) に師事し,藩校東学問所の指南加勢となる。

寛政 7年京都に行き西依 ( にしより ) 成斎らに学ぶ。

奥頭取、侍講などを勤めた。

天保 13年 12月 6日死去。86歳。

名は質 ( すなお )。字 ( あざな ) は君璞。通称は市平、七助。

著作に「山園雑興」。

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月形 深蔵(つきがた しんぞう、寛政10年3月3日1798年4月18日) - 文久2年4月5日1862年5月3日[1])は江戸時代後期の福岡藩士、儒学者。諱は弘。字は伯重。漪嵐(きらん)と号した。月形鷦窠の子で、月形洗蔵の父。


福岡藩士で100石を食んだ。17歳で江戸(現在の東京)に出て、古賀精里に学んだ。文政2年(1819年)帰国して馬廻り役となり、学校加勢小役となった。嘉永3年(1850年)致仕し、子の月形洗蔵(詳)が跡目を嗣いだ。深蔵は辺防の策一篇を著して、当今の急勢を論じた。文久元年(1861年)、深蔵は屏居を命ぜられ、洗蔵は秩禄(給与)を奪われて謫居させられた。深蔵はこれがため憂鬱ついに病気となり、文久2年(1862年)4月5日歿した。享年65。明治24年(1891年)11月5日靖国神社合祀。明治35年(1902年)11月正五位を贈られた。

脚注
1. デジタル版 日本人名大辞典+Plus

参考文献
・筑紫豊 編「福岡県に於ける明治維新の人柱」 福岡県護国神社、1968年10月8日(非売品)21ページ
(wikiより)

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月形 洗蔵(つきがた せんぞう、文政11年5月5日1828年6月16日) - 慶応元年10月23日1865年12月10日))は江戸時代末期(幕末)の福岡藩士薩長同盟の起草文を考案し、早川勇(早川養敬)と共に斡旋している。

生涯

文政11年(1828年)、福岡藩の藩儒・朱子学月形深蔵(漪嵐)の長男として誕生。祖父月形質叔父に長野誠・従弟に月形潔がいる(父・深蔵の末弟・春耕の子)。福岡藩士魚住明誠経学を、叔父長野誠に兵学を学ぶ。


嘉永
3年(1850年)に父・深蔵の家督を継ぎ、馬廻役から大島(福岡県宗像市大島)の定番となるも辞職し、尊皇攘夷運動に身を投じる。万延元年(1860年)5月、藩主・黒田長溥参勤交代を行うに際し、尊王論の立場から述べた建白書を提出、さらに8月には藩の汚職を批判する建言を行った。

このことから11月に捕縛され、翌年の文久元年(1861年)に家禄没収の上、御笠郡古賀村(現・筑紫野市古賀、上古賀)に幽閉される(辛酉の獄)。


文久3年(1863年)6月には藩執政加藤司書の進言により帰宅するも、なお蟄居を命ぜられ、屋外に出ることを禁じられた。八月十八日の政変の後、脱藩志士の平野国臣に出奔して共に決起して欲しいと持ち掛けられたが洗蔵はこれを断り、10月に永訣状を送り付けられている。


元治
元年(1864年)5月、罪を許されて職に復し、町方詮議掛のち吟味役を命じられ、薩長2藩の融和および薩長同盟の起草に勤めた。第一次長州征討において福岡藩は征討中止を目指し、藩を挙げて長州周旋に務めたが、月形は五卿を説得して長州藩外への移転を実現し、征討中止に貢献した。慶応元年(1865年)には三条実美以下五卿が太宰府天満宮延寿王院太宰府市)に移る際、これを下関(山口県下関市)まで迎えに行き案内した。


しかし幕府が再度の長州征討を決定すると、反対勢力の佐幕派が復権して藩論が一変する。洗蔵は五卿転座の費用の藩の公金1500両使途不明で公金横領の罪を問われ、身柄を親類に預けられた後、同年10月23日に桝木屋(福岡県福岡市中央区唐人町)において海津幸一ら13名と共に斬首される(乙丑の獄)。明治31年(1898年)7月、贈正四位墓所は月形家菩提寺大凉山少林寺(福岡市中央区天神)

人物
西郷隆盛に「志気英果なる、筑前においては無双といふべし」と言われている。

関連作品
月形半平太 - 戯曲の主人公。月形洗蔵と武市半平太をモデルにしたと言われている。

葉室麟著『月神』角川春樹事務所2013年

月形洗蔵を描いた月の章と従兄弟月形潔を描いた神の章の二部作の歴史小説

参考文献
・日本歴史学会編『明治維新人名辞典』吉川弘文館、1981年。
森政太郎編『筑前名家人物志』文献出版、昭和54年。

栗田藤平著『雷鳴福岡藩』弦書房、2004年。

浦辺登著『太宰府天満宮の定遠館』弦書房、2009年。

・明治維新史学会編『明治維新と歴史認識』吉川弘文館、2005年。

・アクロス福岡文化誌編纂委員会『アクロス福岡文化誌9 福岡県の幕末維新』海鳥社、46頁 2015年

・力武豊隆著『月形洗蔵』のぶ工房、2021年
(wikiより)

⇩ 月形家三代の墓

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⇧ 月形洗蔵墓

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⇧ 祖父・月形鷦窠墓

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⇧ 父・月形深蔵墓



栄姫(えいひめ、天正13年 (1585年) - 寛永12年1月12日1635年3月1日))は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての女性。福岡藩初代藩主・黒田長政の継室。別称に、ねね姫。出家後、大涼院と号した。

生涯

天正13年(1585年)、信濃国高遠城主、保科正直の娘として誕生。母は久松俊勝の娘・多劫姫で、多劫姫の母は徳川家康の実母・於大の方であるため、家康には姪にあたる。


慶長
5年(1600年6月6日、伯父・家康の養女として、先妻の糸姫と離縁した黒田長政に嫁いだ。その際、化粧料として、豊後国玖珠郡内に1,000石を与えられた。また、護身刀として家康より稲葉志津脇差を拝領し嫁いだ。


関ヶ原の戦い
の寸前、西軍による妻女人質計画があった際には、栗山利安らの導きで、大坂天満の黒田屋敷から脱して長政の領国である豊前国中津まで船で逃れている。長政との間には嫡子、忠之(福岡藩2代藩主)・長興秋月藩藩祖)・高政東蓮寺藩藩祖)・徳姫(榊原忠次正室)・亀子姫(池田輝興正室)の3男2女を儲けた。


福岡藩がお家騒動黒田騒動)を乗り切って後の寛永12年(1635年)、病身ながら次代藩主である孫・吉兵衛(光之)の江戸幕府3代将軍徳川家光への謁見に江戸城へ随行した。その後間もなく黒田藩江戸桜田屋敷にて死去。法名も同じく大涼院。当初は西久保(現・東京都港区虎ノ門3丁目)の天徳寺に葬られたが、現在は黒田家菩提寺である祥雲寺(東京都渋谷区)と少林寺(福岡市中央区)に墓所がある。また、秋月藩主になった次男の長興は、母の菩提を弔うために、秋月山浄仙院大涼寺朝倉市秋月)を建立している。

遺物
日光東照宮には栄姫が奉納した燈籠一対(栄姫灯篭)が上神庫の前に残っている。これは大名の正室が奉納した唯一の灯篭である。奉納日は夫・長政が寄進した大鳥居と同じ、「元和四年四月十七日」の刻印がある。

参考文献
・「幕府祚胤伝」(『徳川諸家系譜』第二巻)

・「忠之記」(川添昭二・福岡古文書を読む会『新訂黒田家譜』第二巻、文献出版、1982年)

関連作品
書籍
安部龍太郎『風の如く 水の如く』 集英社 、1996年。

映像
軍師官兵衛2014年NHK大河ドラマ、演:吉本実憂
(wikiより)

092 黒田長政夫人

⇧ 栄姫

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⇧ お参り不可なので外から・・・

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⇧ お寺の裏に回ってみました。

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少林寺(しょうりんじ)は福岡県福岡市にある浄土宗の寺院[1]山号大凉山(だいりょうざん)。本尊阿弥陀如来

歴史

慶長9年(1604年)、長誉恵順を開山として福岡藩初代藩主・黒田長政が建立[2]。当初は永長山 昌林寺と号したが[2]寛永12年(1635年)に長政の正室・栄姫が江戸で亡くなるとその遺髪を埋葬して菩提所となり、栄姫の法名・大涼院にちなんで山号を大涼山に改め[2]、後に寺号も少林寺に改められた[2]


境内には黒田家ゆかりの墓が複数あり、3代藩主光之の長男・黒田綱之の墓はその遺言から多くの人に参詣されたという[2]。また、他には幕末に筑前勤王党の志士として活動し、西郷隆盛とも親交のあった月形洗蔵の墓所も置かれている[3]

脚注
1. 少林寺”. 浄土宗寺院紹介Navi. 2018年11月23日閲覧。
2. a b c d e 福岡市 少林寺”. 福岡市 (2016年10月1日). 2018年11月23日閲覧。
3. “月形洗蔵 「薩筑長一和」に奔走”. 産経ニュース. (2017年10月6日). https://www.sankei.com/region/news/171006/rgn1710060005-n1.html 2018年11月23日閲覧。 
(wikiより)

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麒麟 ( きりん ) および鷽 ( うそ ) 像


麒麟は中国の瑞獣 ( ずいじゅう ) 思想上の動物で、聖人が現れて王道が行われる時に出現すると伝えられ、菅公御聖徳をたたえたものといえる。


鷽は一月七日、一年中の嘘を天神様の誠心と取り替えていただく鷽替 ( うそかえ ) 神事縁 ( ゆかり ) の鳥で、幸運を運ぶ天満宮の守り鳥でもある。


嘉衛五年 ( 1852 ) に奉納されたもの。
(案内板より)

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徳富猪一郎 ( 蘇峰) は熊本県に生まれ、二十七歳で「国民新聞」を刊行した思想家であり歴史家である。


菅家の子孫といい、菅原正敬と署名している。


この詩は道真公のご生涯とその精神を讃えたもので、九十二歳の書である。


文豪の徳富蘆花 ( ろか ) は実弟。
(案内板より)

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和魂漢才碑 ( わこんかんさいひ )

漢学に精通しつつも、日本精神を失わないようにこの四文字が、菅公の学識 ( がくしき ) と教学 ( きょうがく ) を適切にいい表した言葉で、明治維新の後、これを替えて和魂洋才という言葉も生まれた。


この碑は、安政五年 ( 1858 ) 菅原為定の書で、西高辻信金を中心に、平田鉄胤 ( ひらたてつたね ) ほか多くの学者や志士によって建碑された。
(案内板より)

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東風吹かばにほひおこせよ梅の花

     あるじなしとて春な忘れそ


昌泰四年 ( 901 ) に太宰権帥 ( だざいごんのそち ) を命じられた菅原道真公が京都を出発される際に紅梅殿の梅に借別の想いを込めて詠じられたもので、公を慕って一夜のうちに京より太宰府まで飛来したといわれる御神木「飛梅 ( とびうめ )」( 御本殿右側 ) の由来として有名である。
(案内板より)

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太宰府天満宮(だざいふてんまんぐう)は、福岡県太宰府市宰府(さいふ)にある神社。旧社格官幣中社で、現在は神社本庁別表神社。神紋は梅紋である。菅原道真(菅原道真公、菅公)を祭神として祀る天満宮の一つ(天神様のお膝元)。初詣の際には九州はもとより日本全国から毎年200万人以上[1]、年間にすると850万人以上[2]の参詣者がある。現在、京都北野天満宮とともに全国天満宮の総本社とされ、また菅公の霊廟として篤く信仰されている。

祭神
菅原道真

  学問の神として広く知られている。

歴史

右大臣であった菅原道真は昌泰4年(901年)に左大臣藤原時平らの陰謀によって筑前国大宰府員外帥として左遷され、翌々年の延喜3年(903年)に同地で死去した。その死後、道真の遺骸を安楽寺に葬ろうとすると葬送の牛車が同寺の門前で動かなくなったため、これはそこに留まりたいのだという道真の遺志によるものと考え、延喜5年8月、同寺の境内に味酒安行(うまさけのやすゆき)がを建立、天原山庿院安楽寺と号した。一方都では疫病や異常気象など不吉な事が続き、さらに6年後の延喜9年(909年)には藤原時平が39歳の壮年で死去した。これらのできごとを「道真の祟り」と恐れてその御霊を鎮めるために、醍醐天皇の勅を奉じた左大臣藤原仲平が大宰府に下向、道真の墓所の上に社殿を造営し、延喜19年(919年)に竣工したが、これが安楽寺天満宮の創祀である[3]


それでも「道真の祟り」は収まらず、延喜23年(923年)には皇太子保明親王が21歳で死去。狼狽した朝廷は、延長と改元したうえで、4月に道真の官位を生前の右大臣の官職に復し、正二位の位階を追贈した。しかしそれでも「祟り」が沈静化することはなく、保明の遺児慶頼王が代わって皇太子となったものの、延長3年(925年)には慶頼もわずか5歳で死去した。そしてついに延長8年(930年)6月、醍醐天皇臨席のもとで会議が開かれていた、まさにその瞬間、貴族が居ならぶ清涼殿に落雷があり、死傷者が出る事態となった(清涼殿落雷事件)。天皇は助かったが、このときの精神的な衝撃がもとで床に伏せ、9月には皇太子寛明親王(朱雀天皇)に譲位し、直後に死去するに至った。承平元年(931年)には道真を側近中の側近として登用しながら、醍醐と時平に機先を制せられその失脚を防げなかった宇多法皇も死去している。わずか30年ほどの間に道真「謀反」にかかわったとされた天皇1人・皇太子2人・右大臣1名以下の高級貴族が死亡したことになる。猛威を振るう「怨霊」は鎮まらず、道真には太政大臣追贈などの慰撫の措置が行われ、道真への御霊信仰は頂点に達した。ついに正暦元年(990年)頃からは本来は天皇・皇族をまつる神社の社号である「天満宮」も併用されるに至った[4]寛和2年(986年)、道真の曾孫菅原輔正によって鬼すべ神事が始められるようになった[5]


寛弘
元年(1004年)、一条天皇が初めて北野天満宮行幸されて、太宰府へも勅使をつかわせて以来、士庶の崇敬を広く集め、とくに承徳元年(1097年)、大江匡房太宰権帥に任ぜられてからは神幸祭など、祭祀が厳かになったという[6]


本殿が再建されたのは、時代が変わって安土桃山時代天正19年(1591年)、小早川隆景によるものである。

江戸初期に黒田氏が国主になってからは、常に社域の整備や社殿の修復・造営がおこなわれて社運は隆盛、九州でも多くの観光客を集める神社となっている。


文明12年(1480年)に当地を訪れた連歌師宗祇が『筑紫道記』にこの安楽寺天満宮のことを記しているが、道真の御霊に対する恐れも少なくなってきた中世ごろから、道真が生前優れた学者であったことにより学問の神としても信仰されるようになった。


明治に入り、近代社格制度のもとで明治4年(1871年)に国幣小社に列格するとともに神社名を太宰府神社に変更した。これは北野天満宮が近代社格制度のもと「北野神社」に変更したのと同様に、「宮」号が基本的には皇族を祭神とする神社しか使用できなくなったからである。同15年(1882年)には官幣小社に昇格、次いで同28年(1895年)には官幣中社に昇格した。神社の国家管理を脱した戦後の昭和22年(1947年)に社号を太宰府天満宮に復した[7]


祭神の菅原道真が「学問の神様」であると同時に「文化の神様」としても信仰されていたため、それぞれの時代の人々による和歌連歌歌舞伎書画の奉納を通じて、文芸・芸能・芸術、いわゆるアートと関係が深まっていった[8]平成の時代においても、女性音楽グループが本殿前に特設の舞台を設け歌唱奉納を行うなどしている[9]。また、奉納絵馬は九州でも指折りの質量となっており、それを掲げた絵馬堂はギャラリーとしての役割を果たしている。


参道を登りつめた先には延寿王院があり、ここは幕末維新の策源地といわれ、三条実美たち公卿5人が3年半余り滞在した所である。土佐脱藩の土方久元中岡慎太郎も滞在しており、薩摩西郷隆盛長州伊藤博文、肥前の江藤新平坂本龍馬なども来訪している。


太宰府天満宮・北野天満宮防府天満宮を合わせて「三天神」と呼ぶ。三天神には諸説あり、太宰府と北野天満宮までは共通するものの、あとの一つを大阪天満宮等とする説も存在する。

神事
・初詣(歳旦祭) - 1月1日

鬼すべ - 1月7日

鷽替え - 1月7日

・初天神祭 - 1月25日

・梅花祭 - 2月25日

曲水の宴 - 3月第1日曜日

・斎田御田植祭 - 6月中旬

神幸式大祭 - 9月21日9月25日

・例祭 - 9月25日

・秋思祭 - 旧暦9月10日

・特別受験合格祈願大祭 - 10月18日

社殿
本殿は五間社流造で屋根檜皮葺。正面に1間の唐破風造の向拝(こうはい)を設ける。また、左右側面には各1間でこれも唐破風造の車寄を付け、廻廊が前方の楼門まで廻らされている。本殿は明治40年(1907年)5月27日に古社寺保存法に基づく特別保護建造物に指定され、昭和25年(1950年)文化財保護法施行に伴い重要文化財とされている。昭和41年(1966年)6月11日付で棟札9枚と板札2枚が重要文化財の附(つけたり)として指定されている。

太宰府天満宮を舞台にした作品
要整理


能楽

世阿弥老松(おいまつ)


では一番目に演じられる初番目物(しょばんめもの)。粗筋は梅津の某(ワキ)が夢の告げで筑紫安楽寺(太宰府天満宮)に行くと、老人(前シテ)と若い男(ツレ)が咲き誇るの垣を囲っている。飛梅(後述)とその脇の古(老松)の謂われを尋ねると、2人はその謂われを語り、梅と松が唐の国でも尊ばれたことを述べて神々しい姿で去る。梅津の某が老松のかたわらに祗候していると、老松の神霊(後ジテ)が現れ、客人を慰めようと様々な舞楽を奏し神託を告げる。この後ジテは老人の面に白髪をたれた老神の姿で登場し、その舞いは荘厳な真ノ序ノ舞である。因みにツレの若い男は実は飛梅の精で、飛梅とは道真が京から左遷された時、京から飛んできたとされる梅である。江戸時代、徳川将軍家では「高砂」とともに筆頭祝言曲とされた。

歌曲
大和田建樹鉄道唱歌』第2集山陽九州篇

  ・41.まだ一日とおもいたる 旅路は早も二日市 下りて見てこん名にききし 宰府の宮の飛梅を

  ・42.千年(ちとせ)のむかし太宰府を おかれしあとは此処(このところ) 宮に祭れる菅公の 事績かたらんいざ来たれ

  ・43.醍醐の御代の其(その)はじめ 惜しくも人にそねまれて 身になき罪をおわせられ ついに左遷と定まりぬ

  ・44.天に泣けども天言わず 地に叫べども地もきかず 涙を呑みて辺土なる ここに月日をおくりけり

  ・45.身は沈めども忘れぬは 海より深き君の恩 かたみの御衣を朝毎(あさごと)に ささげてしぼる袂かな

  ・46.あわれ当時の御心を おもいまつればいかならん お前の池に鯉を呼ぶ おとめよ子等(こら)よ旅人よ

  ・47.一時栄し都府楼の あとをたずねて分け入れば 草葉をわたる春風に なびく菫(すみれ)の三つ五つ

  ・48.鐘の音きくと菅公の 詩に作られて観音寺 仏も知るや千代までも つきぬ恨みの世がたりは

鉄道唱歌第2集は全68番であるが、そのうち太宰府には8分の1弱に当たる8番を割り当てており、作者の建樹が道真と天満宮に強い関心を持っていたことを窺わせる。

さだまさし「飛梅」(アルバム『風見鶏』収録)

 さだは、自身の所有する詩島に太宰府天満宮の分霊を祀った「詩島天満宮」を建立している。

小説
住野よる君の膵臓をたべたい

 主人公「僕」と桜良が福岡を旅行する中で太宰府天満宮に参拝するシーンがある。2017年に映画化された際、実際に当地でロケも行われている[10]

文化財
国宝
・翰苑巻第卅(書跡)

 平安時代の作。1954年(昭和29年)3月20日指定[11]

重要文化財(国指定)
・本殿(附 棟札9枚、板札2枚)(建造物)

 桃山時代の造営。1907年(明治40年)5月27日指定[12]

・末社志賀社本殿(建造物)

 室町時代中期、長禄2年(1458年)造営。1907年(明治40年)5月27日指定[13]

毛抜形太刀 無銘(工芸品)

 平安時代の作。1923年(大正12年)3月28日指定[14]

・太刀 銘俊次(工芸品)

 鎌倉時代の作。1912年(大正元年)9月3日指定[15]

・梅月蒔絵文台(工芸品)

 裏面に信元(花押)の蒔絵銘がある。室町時代の作。1980年(昭和55年)6月6日指定[16]

・太宰府天満宮文書 78巻・25冊・1幅(附 大宰府天満宮境内図(着色)1幅)(古文書)

 平安時代から江戸時代の文書。1982年(昭和57年)6月5日指定[17][18]

・蓮華唐花文塼(考古資料)

 福岡県筑紫郡太宰府町大字観世音寺出土。奈良時代の作。1961年(昭和36年)6月30日指定[19]

詳しいことは、『太宰府天満宮ウィキペディア』をご覧ください。 ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%AA%E5%AE%B0%E5%BA%9C%E5%A4%A9%E6%BA%80%E5%AE%AE
(wikiより)

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10人の遊女が祀られています。

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この方源氏名「明月」、本名「お秋」と言い備中生まれ。石山本願寺の戦の折、11世顕如上人に父とともに仕え働いていました。


ここ萬行寺の住職第 5世正海、俗名七里三河守順宗も駆けつけていました。その時お秋さん 15才。


戦いの中で父が戦死し、その遺骨を抱えて国に帰ると病弱だった母はすでになく、唯一の頼りである許婚者の金吾は親の仇討ちのため九州へ旅立ったあとでした。


会いたい一心で後をおうのですが、金吾は仇をとったものの自らも命果てたことを知り生きる力尽き果て海に身を投げます。


そのお秋を助けた男、お秋の美貌に慾心を起こし博多柳町の妓楼薩摩屋へ遊女として売られ源氏名「明月」としての暮らしが始まりました。


信仰心あるお秋さん、明月となってもその心をなくさず、ある日楼主に許を乞い亡き父母、金吾の菩提追善供養のため参詣した萬行寺において石山合戦で活躍した正海和上に遭遇、暗黒の中に一筋の光明を見出した心地であったに違いありません。


よりいっそうの信仰にめざめお参りを怠ることない明月の姿がいつしか病床に臥すに至り天正 6年 ( 1578年 ) 2月 7日普賢菩薩に迎えられました。22才。


なきがらは萬行寺境内に葬られ供養されました・・・。


明月逝きて 49日を迎えた朝、墓より一茎の蓮華が伸び白蓮華の花がいまやほころびかけていました。


その墓を掘り返して見た時、49日前に葬った明月のかんばせ ( 顔 ) は今なお生きているが如く輝き、わずかに開いた唇から浅緑の蓮華の茎が真っすぐに伸びていました。


この口蓮華は 400余年の歳月を経た今日なおも浅緑に色をたたえ毎年 5月 15日に営まれる明月追悼の日に拝観できます。


「死したのちも生きつづける。」と言うことでしょうか。


「名娼明月墓」は赤い色で書かれています。

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時代江戸時代中期
生誕宝暦4年5月28日1754年7月18日
死没天明2年8月21日1782年9月27日
改名又八(幼名)、京極高幸、黒田高幸、治高
墓所福岡県福岡市東長寺
官位従四位下侍従筑前守
幕府江戸幕府
主君徳川家治
筑前福岡藩
氏族京極氏黒田氏
父母父:京極高慶、母:誓寿院
養父:黒田治之
兄弟京極高明、軽三郎、京極高文治高、富姫ら
養子:斉隆


黒田 治高
(くろだ はるたか)は、筑前国福岡藩8代藩主。

生涯

讃岐国多度津藩主・京極高慶の七男。母は高慶の側室で林代右衛門の娘・誓寿院。官位は従四位下、侍従、筑前守。幼名は又八。初名は京極高幸(きょうごく たかゆき)。黒田家では「高」の字を通字に用いているので、黒田家に養子入りしてからも1か月ほどは改名せずに同じ黒田高幸(くろだ たかゆき)と名乗っていた。その後に治高と改名する。


宝暦4年(1754年)5月28日、丸亀城にて生まれた。天明元年(1781年)2月2日、福岡藩主・黒田治之末期養子として家督を相続した。同年2月18日、将軍徳川家治御目見した。同年3月7日、従四位下・侍従・筑前守に叙任し、養父・治之と同じく家治より偏諱を受けて治高と改名する。同年3月15日、初めてのお国入りの許可を得る。同年5月に領地福岡に入ったが、同年8月21日に福岡城において死去した。29歳。なお、幕府には10月24日死亡と届けた。後嗣は生前に仮養子として指名していた一橋徳川家当主・徳川治済(養父・黒田治之の兄)の三男・雅之助(黒田斉隆)を末期養子に迎え、京極家からの藩主は1代限りとなった。

黒田家と京極家の関係
先代・黒田治之の子女は早世して残っていなかったため、黒田家と同じく宇多源氏佐々木流を称する同族京極家から養子を迎えたという。黒田家では治高を、3代光之の娘・筑姫(酒井忠挙の正室)の子孫として養子に貰い受けたというが、京極家の記録では実際には血筋はつながっていない。丸亀藩京極高豊の継室の市子は筑姫の娘で、嫡男の京極高或をもうけたが、多度津家初代で治高の実祖父の京極高通は高豊が側室との間にもうけた庶子である。なお、治高の実父京極高慶の正室は久留里藩黒田直純の娘であるが、こちらの黒田家は福岡藩黒田家とは別系統であり、かつ治高は正室の子ではない。
(wikiより)

081 黒田治高

⇧ 黒田治高

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時代江戸時代前期
生誕寛永5年5月16日1628年6月17日
死没宝永4年5月20日1707年6月19日
改名槌万(幼名)→長之→光之
戒名江竜院淳山宗真
墓所東長寺福岡県福岡市博多区
高野山奥の院
官位従四位下右衛門佐右京大夫
主君徳川家綱綱吉
筑前福岡藩
氏族黒田氏
父母父:黒田忠之、母:養照院(坪坂氏)
兄弟光之之勝
正室:市松姫小笠原忠真長女)
筑、悦子、綱之、市之助、左兵衛、綱政、富貴、長清、百助、正太郎


黒田 光之
(くろだ みつゆき)は、筑前福岡藩の第3代藩主。

生涯

寛永5年(1628年)5月16日、第2代藩主・黒田忠之の長男として筑前早良郡橋本村の別邸にて生まれた。なぜこのようなところに生まれたかといえば、父の忠之が側室で生母の坪坂氏を嫌って、筆頭家老の黒田一貫のもとに預けていたからである。承応3年(1654年)、父の死去により家督を継いだ。すでに福岡藩の財政は忠之末期から窮乏化が始まっていたため、光之は厳しい倹約令を出して藩政改革に取り組んだ。光之は武断よりも文治を好み、父忠之に仕えていた儒学者、貝原益軒を再び召抱え、黒田家の伝承を集めた『黒田家譜』などを編纂させている。それまでの保守的な重臣を遠ざけて、新参の鎌田昌勝博多南坊流を創始した立花重根を家老として新たに登用した。また福岡城三の丸(西の丸)に広大な下の屋敷(下館)を造営し、新たな居館にした。


延宝
5年(1677年)2月、嫡男綱之廃嫡して、東蓮寺藩を継いでいた四男・長寛(綱政)を跡継ぎと新たに定めたが、これが原因で家老が処分されるなど、藩内に大きな混乱をもたらす羽目となった。なお、この間天和2年(1682年)には朝鮮通信使の接待を担当している。元禄元年(1688年)12月9日、綱政に家督を譲ったが、晩年にはその綱政とも対立している。宝永4年(1707年)5月20日、福岡にて死去した。享年80。法号は江竜院淳山宗真。

逸話

光之の時代の大きな事件は、黒田藩の御用商人である伊藤小左衛門による朝鮮との密貿易が発覚し、幕府の嫌疑を避けるために小左衛門一家を処分したことである。朝鮮貿易は対馬府中藩宗家の専管である中、朝鮮国の官吏は伊藤小左衛門との密貿易を認めている。この密貿易が問題となった一因は、密貿易の品々の中に武器が含まれていたことにある。この一件は後世、近松門左衛門による浄瑠璃の題材となり、『博多小女郎浪枕』(はかたこじょろうなみまくら)、歌舞伎では『恋湊博多調』(こいみなとはかたのひとふし)通称『毛剃』として作品化された。


光之は荒廃していた飛鳥時代創建の太宰府の官寺、観世音寺戒壇院を豪商天王寺屋浦了夢夫妻に命じて再興させた。四男綱政の正室で東蓮寺藩主時代に筑後柳川藩立花家から輿入した呂久姫(心空院)に対し、「私が亡くなっても黒田家の奥の管理を宜しく候」との書状を残している。また、悲恋の姫君として逸話の残る光之の次女松平悦子の墓が岩手県奥州市水沢公園にある。


また日本三大銘菓の一つで知られる「鶏卵素麺(けいらんそうめん)」は、その考案者である初代松屋利右衛門から光之に献上され、黒田藩御用菓子と認められたことで全国に広まった。


江戸、麻布に母坪坂氏(養照院)を弔い、天真寺を建立している。光之も父忠之と同様、高野山真言宗を信仰し、高野山の黒田光之廟は幾多ある黒田家霊廟の中で、空海廟に一番近い場所にある。生母・養照院、正室・寶光院の巨大な鳥居付き供養塔も近くにある。

一族
・正室:市松姫(宝光院) - 小笠原忠真長女

  ・長女:筑(宝厳院) - 酒井忠挙正室

  ・長男:黒田綱之

  ・次男:市之助

  ・四男:黒田綱政、福岡藩4代目藩主

  ・五男:黒田長清、直方藩藩主

・側室:村上氏

  ・次女:悦子(月心院) - 伊達宗景正室

  ・三女:富貴 - 黒田長重正室

・側室:渡邊氏

  ・三男:左兵衛(早世)

・側室:仙光院(河合氏)

  ・六男:百助(早世)

  ・七男:正太郎(早世)

参考文献
・福岡市 編『ふくおか歴史散歩』

・福岡県高等学校歴史研究会 編『福岡県の歴史散歩』山川出版社

・筑紫豊『だいふまいり』西日本新聞社、1976年

・筑紫豊『私と歩こう博多と太宰府』文献出版、1977年

・森弘子『太宰府発見』海鳥社、2003年、ISBN 4-87415-422-0
(wikiより)

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黒田 忠之(くろだ ただゆき)は、江戸時代前期の大名筑前国福岡藩2代藩主。江戸三大御家騒動の一つ、黒田騒動の原因を作った当主として記録に残る。

生涯

慶長7年(1602年11月9日、福岡藩初代藩主・黒田長政と継室・栄姫(大涼院・徳川家康養女)の嫡男として筑前福岡城内の藩筆頭家老・栗山利安の屋敷にて生まれる。のち駿府城において、長政と共に将軍・徳川家康に拝謁している。


慶長19年(1614年)、大坂冬の陣では長政が幕府から江戸城留守居を命じられたため、代わりに出陣している。長政はその際、関ヶ原の戦いの折に家康より拝領した金羊歯前立南蛮鉢兜を忠之に与え、1万の軍を率いさせている。

福岡藩2代藩主

元和9年(1623年)、徳川家光将軍宣下の先役を命じられた長政と京都へ同行したが、長政が報恩寺にて病により死去し、家督を継ぐ。当初、江戸幕府2代将軍・徳川秀忠から偏諱を授かり、忠長(ただなが)や忠政(ただまさ)を名乗っていたが、この時に忠之に改めた。以後、徳川将軍家は福岡藩の歴代藩主・嫡子に松平の名字と将軍の偏諱を授与していく[2]


また、父の遺言で弟の長興に5万石(秋月藩)、高政に4万石(東蓮寺藩)を分知した。これにより石高は43万3千余石となった。

黒田騒動

忠之は生まれながらの大藩の御曹司であり、祖父や父とは違い、性格も奔放でわがままであったという。外見は華美で派手なものを好み、藩の財力でご禁制の大型船舶「鳳凰丸」などを建造したり、自らの側近集団を組織し、倉八正俊、郡慶成らを重用した。一方で筑前六端城(領内主要6拠点の支城)城主を始め、父・長政時代からの重臣たちと対立し、忠之は所領減封や改易などの強硬策をとった。


寛永9年(1632年)、六端城の一つ麻底良城の城主・栗山利章(大膳)によって幕府に「黒田家、幕府に謀反の疑いあり」と訴えられ、黒田家は改易の危機に立たされた。いわゆる黒田騒動である。3代将軍・徳川家光は自ら裁定を下し、栗山の訴えは「精神的に異常であり藩主への逆恨み」と裁断し、のち幕命により倉八は高野山、栗山は盛岡藩南部家へ預けられ追放された。藩主黒田家はお咎めなし(正確には名目上いったん改易後、旧領に再封する形を取った)であったが、このこともあり、長政と懇意の仲であった幕府老中安藤直次、幕府古老・成瀬正虎らから連署で忠之へ書状が送られ、「御父上のように年寄どもとご相談の上」藩政を進めるように促された。その結果、忠之の側近政治は弱められ、福岡藩の政治は元の「重臣を中心とした合議制」色が強くなった。


寛永14年(1637年)、島原の乱に出陣し、武功を挙げる。


寛永18年(1641年)、江戸幕府が海外貿易の窓口として長崎を(いわゆる鎖国)幕府直轄地(長崎奉行地)に定めると、肥前佐賀藩鍋島家と交代で、長崎警護の幕命を受ける。忠之は長崎に警護屋敷、港を造営し、末次家や伊藤家、藩御用大賀家など数多くの博多商人も長崎と博多を船で往来するようになる。また、このことにより福岡藩の江戸参勤に於ける回数、当主の江戸滞在期間短縮など幕府から優遇を受ける。


承応3年(1654年2月12日福岡城にて死去した。享年53(満51歳没)。跡を長男・光之が継いだ。

逸話
・忠之は高野山真言宗を信仰していたために、菩提寺を父の禅宗寺院崇福寺ではなく、空海が開いた博多の東長寺にするように遺言を残した。東長寺墓所の石塔は国内で2番目に巨大なものである。また江戸においては麻布に瑠璃山正光院を開基、また中屋敷には父長政の菩提を弔い興雲院(現在の祥雲寺)を開基している。

空誉上人の弟子を小姓(性行為の相手)として差し出すように命じて断られた為に、空誉上人を残虐な方法(背中を太刀で切り割り、そこに熱く溶けた鉛を流し込む)で処刑したとされる。

糸島市に、黒田家祀社の桜井神社を創建した。忠之は島岡大明神として祀られる。

細川家文書によれば、当初は藤堂高虎の娘を正室に迎える予定だったというが、徳川秀忠の養女を正室に迎えた。

・徳川将軍家から忠之に下賜された「短刀銘則国」(重要美術品)が、最上義光歴史館に所蔵されている。

・博多の豪商、神屋宗湛から父長政の遺言と称して、名物茶器「博多文琳」を黄金2千両の代価で召し上げ、代々黒田家の家宝となった。福岡市美術館所蔵。

系譜
・父:黒田長政(1568-1623)

・母:栄姫(1585-1635) - ねね姫、大凉院、徳川家康の養女、保科正直の娘

・正室:梅渓院(1606-1628) - 久姫、徳川秀忠養女、松平忠良次女

・継室:養照院 - 坪坂氏

  ・長男:黒田光之(1628-1707)

  ・次男:黒田之勝(1634-1663) - 黒田高政の養子

・養子

  ・女子:通 - 黒田之勝継室、池田輝興

脚注
1. 福岡藩御用絵師尾形(小方)家の3代目守房(友元)のこと。なお、福岡市美術館には他に、狩野探幽が30代から40代に描き、沢庵宗彭が賛をした、束帯姿で傍らの犬を見つめる忠之像も残っている。
2. 村川浩平『日本近世武家政権論』近代文芸社、2000年。

参考文献
・『福岡県史 通史編 福岡藩 (一)』 福岡県地域史研究所

関連作品
・『主家滅ぶべし』(滝口康彦文藝春秋 、1979年)
(wikiより)

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⇧ 黒田忠之

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東長寺(とうちょうじ)は、福岡県福岡市博多区にある真言宗寺院。九州における真言宗九州教団の拠点寺院(別格本山)である。山号は南岳山、正式名称は東長密寺である。

歴史

筑前国続風土記』によると、空海(弘法大師)がでの修行を終え帰国の途につき、大同元年(806年)10月に博多へ帰着、翌年4月末まで博多に滞在したと記されている[1]。滞在のおりに、密教東漸(とうぜん[注釈 1])を祈願し、本尊とし不動明王像を空海自らが彫り、一伽藍を建立したのが始まりとされる[1][2]。寺院名の東長密寺は、「密教が東に長く伝わるように」と祈誓し命名し[3][4]、空海が創建した日本最古の寺とされる[5]。初期の伽藍は、博多の海辺の勤行町(略して行町(ぎょうのちょう)ともいう。)(現・呉服町)にあり[2]、大伽藍を有し寺勢は盛んだったとされ[4]、空海が自身の像を彫り大師堂に安置し、また多聞天持国天像も空海が自作したと記されている[1]


元弘
年間の頃に兵火にあい3年後に再興するが、当初の半分にも及ばず[6]。再度、永禄天正年間に兵火にあい荒廃するが、福岡藩2代藩主黒田忠之が、真言宗に帰依し大檀越となり、現在地に鐘楼・護摩堂・大日堂・本堂などを建立、また寺領200石を寄進して再興し、菩提所とした[2][6]。また、福岡藩3代藩主黒田光之も、寺領100石と山林15万坪(約49.5万km2)を寄進し加増した[2]

伽羅
・山門 - 「南岳山」の扁額が架かる。

門に向かって右に「九州三十六不動霊場第三十六番札所」、左に「九州八十八ヶ所第一番霊場」の表札が架かる[7]。また、山門右側方に「弘法大師開基 真言密教最初霊場 南岳山 東長密寺」の寺号標、左側方に「南岳山 東長密寺開創千弐百年記念 弘法大師開基 密教東漸日本最初霊場 西安 青龍寺住持 寛旭」の石碑が建つ[7]

・六角堂 - 天保13年(1842年)に建立。覆屋と回転式の仏龕からなる仏殿である[2]福岡市指定文化財で詳述)。正面に一対の狛犬が置かれている[8]。通常、扉が閉まっているが毎月28日に開帳される[5]


・大仏殿 - 福岡大仏とよばれる木造迦如来坐像を安置する。

高さ10.8メートル光背の高さ16.1メートル、重さ30トン造で、1992年平成4年)に完成[5]。膝上で両手を組む法界定印(ほっかいじょういん)を結ぶ。像高10.8メートルは、人間の煩悩の数(百八とされる)にちなむ。木造坐像としては日本最大級を誇る(日本一と紹介する資料もある[5])。光背の後方壁面には5000もの小仏がある[5]。大仏台座周囲に真っ暗な通路があり「地獄極楽巡り(戒壇廻り)」ができる[9]。大仏殿は鉄筋コンクリート造りの2階建ての2階にあり、1階は駐車場である。

・鐘楼 - 鉄筋コンクリート造りの寺務所2階にある。


・本堂 - 本尊秘仏・木造千手観音立像(重要文化財で詳述)、弘法大師坐像(秘仏)、不動明王立像。


・多宝塔 - 本堂に接し後方にあり、鐘楼・大仏殿辺り(2階)から見えるが、全景は確認できない。


・地蔵堂 - 九州二十四地蔵尊22番霊場となっている。


・五重塔 - 2011年(平成23年)5月に完成。総檜造。高さ25.9メートル[10]

釘を使用しない伝統工法で建てられ、非公開ではあるが、塔内部には四季の風物や仏像を描いた日本画が飾られている[11]

  ・本尊 - 大日如来[10]

  ・材木 - は、奈良の吉野檜、高知の四万十檜の赤身材を使用し、総使用木材重量は78トン[10]

  ・屋根 - は、耐寒性に優れた岐阜の美濃瓦を17850枚を使用[10]

  ・相輪 - 青銅鋳物製金箔仕上げで、高さ8メートル。露盤の中央に輪宝、右に黒田藤、左に五三の桐寺紋が彫られている[10]。五重塔自体は心柱のある伝統工法で地震にも強いが、相輪部と塔の接続部は地震に弱いため、最新工法である免震ゴムを装着し耐震性が高められている[11]

  ・基壇 - 沓石は岡山の万成御影石、基壇は佐賀の天山御影石を使用。総使用石材重量は30トン[10]

  ・塗装 - 鉛丹胡粉を用い木材を保護している[10]

・福岡藩主黒田家墓所 - 福岡藩二代藩主黒田忠之、三代藩主光之、八代藩主治高の墓所[12]福岡市指定文化財で詳述)。

          藩祖・黒田孝高、初代藩主・長政など黒田家の菩提寺は、崇福寺 (福岡市)であるが、当寺は黒         田家の準菩提寺となっている[2]

文化財
重要文化財(国指定)

木造千手観音立像
指定年月日:1904年明治37年)2月18日[13]平安時代中期作、材一木造、像高83センチ[14]


頭部に10面の化仏が付く十一面観音で、髻(もとどり[注釈 2])は高く華やかで、目じりが切れ上がり頬が張り、唇は分厚く全体に比してやや大きく造られている。手部は肩から別材で矧ぎ(はぎ[注釈 3])つけている。体躯は肉どりが厚く膨らみがあるが、腰部と脚部が引き締められ、上体が反り気味に立たせてあるため、丈の低さを感じさせない。条帛(じょうはく[注釈 4])、には翻波式(はんぱしき[注釈 5])・巻葉渦文の衣文が見られ、平安中期の様式と考えられる。正面から見ると、四十二の手、両側に持つ錫杖・鉾などが逆三角形のプロポーションとなり安定感があるが、の跡が残り細部にこだわりがない造りである。頭上面、天衣、前面の宝鉢を持つ手、脇手などに後補[注釈 6]が見られる。台座は1955年(昭和30年)の修理時に新調したものである[14]

福岡市指定文化財
東長寺六角堂 附 仏龕1基および卓1脚(区分 - 有形文化財、種別 - 建造物)
指定年月日:昭和63年(1988年)3月31日。覆屋に回転式の仏龕が収められた六角形の仏殿である[2]


天保13年(1842年)に、博多上東町(現・呉服町付近)で売薬や漆問屋を営んでいた商人の豊後屋栄蔵(万歳楼袖彦)が名古屋以西の商人から浄財を募り、名古屋の堂宮大工・8代伊藤平左衛門を招き建立し寄進した仏殿である[2]。当初、東長寺の末寺に建立されていたものを、当地へ移築したものである[15]。その末寺は櫛田神社そばにあった東長寺に属する神護寺であり、明治の神仏分離令により廃寺になるにあたり六角堂を移築したとされる(信頼できる出典は見つからず)。六角堂内部に仏龕が置かれ、厨子扉には、聖福寺の僧・仙厓和尚など、当時の文人の書画が刻まれている[2]。形状は六角形で回転式であり、形態的には輪蔵と同等である。仏龕の六角形の各面に弘法大師像、薬師如来像、文殊菩薩像、白衣観音像、地蔵菩薩像、北辰霊符神像を安置する[2]。輪蔵は経典を納める回転式の書架であり、輪蔵を回すことで経典の功徳が得られるとされ、また輪蔵を収める建物は経蔵と呼ばれる。対して、当六角堂に収められている仏龕は、輪蔵と同様の回転式であるが仏龕として仏像を収め、また覆屋も礼拝が行われる場として利用できる構造、即ち仏殿としてふさわしい設計が行われている。六角堂は、周囲に壁がなく柱だけでを付け、六角形の各面に唐戸(両開きの板扉)が1面に設置されているため、堂を周りながらでも、どの面からでも礼拝が可能な機能的な構造となっている。また、正面だけは柱間が他の五面より広く造られ、六躯の仏像を納めた仏龕は、堂の中心より一程度、後方にずらし設置されている。これは正面から礼拝した場合、仏像前方の空間を広くし、礼拝をしやすくした構造にしているためである。 屋根は二層になっているが、珍しい行基葺(後述)という古い工法で葺かれている。これは大工・伊藤平左衛門の残した『見聞学行跡集』に「萬歳楼好ニテ」とあり、施主の豊後屋栄蔵(万歳楼袖彦)が好んだと書かれており、鬼瓦の文様やその他にも亀の意匠などは施主の意向であると考えられている[2]

備考

行基葺 - 行基が考案したとされる仏閣の屋根瓦の葺き方の一つで、古い形式の葺き方である。行基式丸瓦とよばれる半円筒状の一方を細くし下方が末広がりとなった丸瓦と平瓦を交互に並べ重ねて葺いていく工法である[16]

福岡藩主黒田家墓所(区分 - 記念物、種別 - 史跡)
指定年月日:1995年(平成7年)3月31日指定。福岡藩二代藩主黒田忠之、三代藩主黒田光之、八代藩主黒田治高の墓所。


墓碑は三藩主とも花崗岩製の五輪塔で高さは約5.4メートルから5.8メートルあり、三墓碑とも49本の花崗岩製卒塔婆で囲まれている[12]。忠之の墓前には、この時に殉死した尾上二左衛門勝義(陽桃院殿長壽正仙)、深見五郎右衛門重昌(實相院殿一如真空)、長濱九郎右衛門重勝(修徳院殿道壽宗清)、竹田助之進義成(春嶺院殿花心淨蓮)、田中五郎兵衛栄清(龍華院殿春庭永喜)の5基の五輪塔の墓碑が並ぶ[12]。またその傍らに、この時同様に殉死した明厳院(山伏秀栄)の墓碑が建つ[12]

その他寺宝
・弘法大師坐像 - 本堂内、千手観音像の向かって右の厨子内に安置。秘仏。

・不動明王立像 - 本堂内、千手観音像の向かって左に安置。

・千字文 - 平安時代。伝・空海作。

・五鈷 - 鎌倉時代

・独鈷 - 平安時代。

行事

年間行事[17]

・1月1日 - 新春初詣

・2月3日 - 節分大祭


節分で豆まきが行われたことが文献に現れる最も古い記録は、室町時代・応永32年(1425年)であるが[18]、東長寺節分大祭は「歳徳神節分祭(としとくじんせつぶんさい)」ともよばれ、室町時代から続き[19]、歴史は福岡、博多では最も古い節分祭とされる[4]。期間中は、重要文化財・千手観音像、福岡市指定有形文化財・六角堂が開帳され、毎年多くの人で賑わう[19]。豆まきは、年男や福岡・博多の名士などにより行われ、豆、餅、みかん、お菓子などが本堂から撒かれれる[4]。また、1995年に福岡市で開催された夏季ユニバーシアードの翌年から、海外からの留学生との国際交流の場として、特設舞台で外国人留学生が七福神お多福、赤鬼、青鬼に扮し「招福魔滅まき」が行われている[4][19]


・2月2日:節分祭(前夜祭)。

  節分豆まきが行なわれる[4]


・2月3日:開運厄除 節分大祭。

  節分豆まき、開運厄除護摩祈願、星まつり・火まつりが行なわれる[4]


・3月21日 - 正御影供

・6月15日 - 弘法大師誕生祭

・8月16日 - 大施餓鬼会

・10月20日 - 土砂加持法要

前後の札所

九州八十八カ所百八霊場

  1 東長寺 - 2 般若院

九州三十六不動尊霊場

  35 恵光院 - 36 東長寺

九州二十四地蔵尊霊場

  21 恵光院 - 22 東長寺 - 23 隆照寺

博多祇園山笠

博多祇園山笠の追い山のになると、追い山笠のコースには三つの清道旗が立てられている。最初の旗は櫛田神社の清道にあり、二つ目が東長寺前の大博通りのセンターライン部分、三つ目が承天寺の前である。いずれも各舁き山笠が回るので、見物のポイントでもある[20]


各流は東長寺正門前に並ぶ住職たちを前に舁き回る習慣が残っているが、これは明治維新後の神仏分離まで東長寺に属する神護寺が櫛田神社を管理していたことから、今もなおその敬意を表して表敬を行っているためである[20]

詳しいことは、『東長寺ウィキペディア』をご覧ください。 ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E9%95%B7%E5%AF%BA
(wikiより)

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承天寺(じょうてんじ)は、福岡県福岡市博多区博多駅前にある臨済宗東福寺派寺院である。

歴史
仁治3年(1242年)、大宰少弐武藤資頼円爾(弁円、聖一国師)を招聘して創建[1]。創建にあたっては謝国明商人が多く援助した。寛元元年(1243年)、官寺となる。

伽羅

仏殿覚皇殿」、方丈開山堂などがある。方丈の前には石庭「洗濤庭」が広がる。墓地には新派俳優川上音二郎や、宋で織物技術を学び博多織を始めた満田弥三右衛門らの石碑(墓所は聖福寺)がある。


境内
は市道によって北東と南西に分かれる。これは昭和38年(1963年)の博多駅移転に伴う区画整理事業によって通されたもので、このため山門や仏殿は南西側、本堂や墓地などは北東側に分断されている。

博多千年門
平成16年(2014年3月28日、承天寺通りの一角に新たな博多のシンボルとなる博多千年門(せんねんのもん)が完成した。千年門は古文書に登場する博多の出入り口「辻堂口門(つじのどうぐちもん)」をモデルにした木造瓦ぶきの四脚門。高さ、幅ともに約8メートルで、博多の街の未来千年の繁栄を願って命名された。通りのうち寺の境内に挟まれた約150メートルには、マツモミジ自然石が配置され、庭園のような趣となっている。扁額は太宰府天満宮西高辻宮司による揮毫である[2][3]

文化財
重要文化財
・木造釈迦如来及両脇侍

・絹本著色禅家六祖像 6幅

・銅鐘(梵鐘) - 朝鮮鐘清寧11年(1065年)の銘がある。

福岡市指定有形文化財
・開山堂

唐門

鐘楼

その他
・「饂飩蕎麦発祥之地」の石碑 - 仁治2年(1241年)に円爾が宋から帰国した際に技術を持ち帰った。承天寺には詳細な製粉法を記した古文書水磨の図が残っている。

・「御饅頭所」の石碑 - 円爾が宋から持ち帰った饅頭の製法を茶店に伝え、与えた看板(虎屋所蔵)の文字を彫っている。

・「満田彌三右衛門之碑」 - 円爾とともに宋に渡り、織物麝香素麺金箔の製法を持ち帰った。

・「山笠発祥之地」の石碑

・「舊就義隊碑」福岡藩兵の部隊履歴について。荒井周大編『福岡県碑誌』福岡県碑誌保存會、昭和4年

・「川上音二郎の墓所」日本近代演劇の祖の墓

脚注
1. 渡辺文吉『武藤少弐興亡史』 (海鳥社、1989年)の91ページに、「「万松山勅賜承天禅寺由来縁起」で当山は大宰少弐藤原資頼寺地の喜捨あり」と記述がある。
2. 新しい名称は「承天寺通り」に決定 博多の魅力 - 2013年9月23日付
3. 博多の新シンボル完成 「千年門」1000人通り初め 西日本新聞 - 2014年3月28日付

関連項目
筥崎宮 - 聖一国師報賽式

武藤資頼

博多うどん

日本の寺院一覧

日本の寺の画像一覧
(wikiより)

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⇧  この先に川上音二郎さんの墓所が有るのですが・・・・

お寺の方にお聞きしたところ「檀信徒以外の方には開門はしないという事」でした

マナーを守りたいですね。

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満田彌三右衛門 ( みつた  -  やざえもん ) の碑


鎌倉時代の嘉禎元年 ( 1235年 )、聖一国師とともに中国・宋に渡った彌三右衛門は、6年後の仁治 2年 ( 1241年 )、織物・じゃこう・素麺・箔・朱の製法を日本に持ち帰りました。


これらの製法は博多の人々に広く伝えられましたが、その中の織物技術のみ家伝とされ、その後、独自の技法を加えながら現代に伝わっているのが「博多織」です。


この名称は、江戸時代の福岡藩初代藩主・黒田長政が、幕府への献上品としたことから、『献上・博多織』と呼ばれるようになりました。
(案内板より)

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御饅頭所 ( おんまんじゅう ) の碑


仁治 2年 ( 1241年 )、中国の宋より帰国した聖一国師が、ある日、禅の布教に出向いた先でとある茶店に立ち寄ったところ、茶店の主人が心づくしの歓待を受けました。


それに喜んだ聖一国師は、南栄から持ち帰った饅頭の製法を教え、「御饅頭所」の看板まで書き与えました。


これにより、博多の地が饅頭発祥の地とされています。


看板は現存し、東京の「虎屋」が所蔵。


その古い複製が博多松屋に伝えられています。
(案内板より)

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饂飩 ( うどん )・蕎麦 ( そば ) 発祥之地の碑


仁治 2年 ( 1241年 )、中国の宋より帰国した聖一国師は、羹、饅、麺の製法とともに、製粉技術も日本に持ち帰りました。


羹は羊羹、饅は饅頭、麺は饂飩・蕎麦等を指しますが、聖一国師により伝えられた製法・製粉技術のおかげで、日本の粉食文化が大きく発展したことは言うまでもありません。


この碑は、博多における聖一国師の偉業を後世へと伝えるものです。
(案内板より)

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森繁 泉 ( もりしげ - いずみ )     
昭和 16年 1月 7日 ~ 平成 11年 1月 23日 ( 1941 - 1999 )

     
賀茂カントリークラブ社長。

昭和 37年 ( 1962 ) 出海産商代表。

昭和 40年 ( 1965 ) 佐鳥マリーナ代表専務。

昭和 49年 ( 1974 ) 日本マリーナ・ビーチ協会専務理事。

昭和 51年 ( 1976 ) B&G財団施設部会委員・日本小型船舶検査機構評議員。

昭和 63年 ( 1988 ) 神奈川県小型FRP船建造所協議会会長・舟艇利用振興センター評議員・海上保安友の会理事。

平成元年 ( 1989 ) 運輸政策審議会総合部会専門委員。58歳没。


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森繁万寿子 ( もりしげ - ますこ )     
大正 3年 ? ~ 平成 2年 10月 21日 ( 1914 ? - 1990 )

     
随筆家・旅行家。

筆名、森繁杏子。

東京女子大学卒業。

昭和 42年 ( 1967 ) 日本女性で初めて南極大陸を訪れる。

世界を 200回以上旅行し、旅行家として知られる。76歳。

著書:「ママのアフリカ欲張り旅行」、「ばばの手紙」( 平成 3年日本文芸大賞・特別賞受賞 ) など。

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平尾 昌晃(ひらお まさあき、1937年12月24日 - 2017年7月21日[1])は、日本作曲家作詞家歌手社団法人日本作曲家協会・常務理事[2]社団法人日本音楽著作権協会 (JASRAC) 理事[3]

来歴・人物
生い立ち

化粧品業を営んだ平尾聚泉の孫。クラシックの作曲家で国立音楽大学教授を務めた平尾貴四男は伯父。


東京市牛込(現:東京都新宿区)「生まれ」であるが、終戦後、神奈川県湘南エリアに移住し、藤沢市にある湘南学園で小中学時代を送る[4]。出生名は平尾勇。幼少時にたびたび改名し、デビュー初期の芸名である「昌章」を経て、最終的には本名の通り平尾昌晃を芸名としていた。


小学3年生のとき、自宅に来ていた将校から貰ったジャズのLPを聴き衝撃を覚える[5]。11歳のとき、のど自慢大会に出場し「奥様お手をどうぞ」を英語で歌い、鐘3つの合格点をもらう[6]


藤沢市
に住み、ジャズ教室に通い、朝丘雪路水谷良重ペギー葉山らと知り合う。慶應義塾高等学校中退後、ウエスタンの人気バンド、チャック・ワゴン・ボーイズに入る[7]。しばらくして、チャック・ワゴン・ボーイズボーカル小坂一也が脱退したため、オールスターズ・ワゴンとなる。

ソロ・デビュー

1957年、ジャズ喫茶「テネシー」に出演していた際、ステージを見た渡辺プロ渡辺美佐と映画監督井上梅次に見初められ、同年に公開された石原裕次郎主演の『嵐を呼ぶ男』に出演する[8]。自身としても、翌1958年1月、キングレコードより「リトル・ダーリン」でソロ・デビューする[8]。同曲の売上は芳しくなかったが、続いて同年3月に発表した「監獄ロック」が10万枚を売り上げるヒットとなる[9]。その後、ミッキー・カーチス山下敬二郎(後にこの2人は渡辺プロに所属する)と「ロカビリー三人男」として「日劇ウエスタンカーニバル」などで爆発的な大人気を博した[10]。1958年には、キングレコードからオリジナルナンバーである「星は何でも知っている」1960年4月には「ミヨチャン」(ミヨちゃん)を発表し、2曲共に100万枚を売り上げる大ヒットとなった[11]。売上に関しては、「星は何でも知っている」は50万枚[12]、「ミヨちゃん」は40万枚[13] とする文献もある。


「ミヨチャン」の元歌は、戦前から中学生の間で流行していた作曲者不詳の歌で、平尾は高校生の頃に覚えたという。それを基に現代(1960年当時)向きの歌詞をつけてリメイクしたのが平尾の「ミヨチャン」である[14]


ポール・アンカ
が作詞・作曲した「好きなんだ! (I Love You)」は、日本での売上は10万枚程度に留まったが、ハワイでは地元ラジオ局KPOI英語版が流したことをきっかけにリクエスト・ランキングで1位を記録する大ヒットとなった[15]。1959年12月、ハワイで開催された「アメリカン・ポップス大会」では、日本代表として歌唱した[15]


1965年
2月20日拳銃不法所持で逮捕される[16]。平尾が独自にハワイから持ち帰り、帰国後「日頃、興行でお世話になっているから」と[16]名古屋東京暴力団組長に拳銃をプレゼントした事件が発覚した[16]。平尾は22日間拘留され[16]、釈放後「軽率だった」との反省文が雑誌に掲載された[16]


ロカビリーブームが去った1965年頃、北海道からじわじわ火がつき始めた「おもいで」で再ブレイクする[17]。「おもいで」は、渡辺プロの新人歌手だった布施明1966年に再レコーディングし、これもヒットとなった[18]。続けて、作曲家として「霧の摩周湖」「」、じゅん&ネネ「愛するってこわい」[19][20]梓みちよに提供した「渚のセニョリーナ」などがヒット。「霧の摩周湖」、「渚のセニョリーナ」では、第9回日本レコード大賞作曲賞を受賞した。


その後も作曲家として非凡な才能を発揮していたが、1968年12月3日[21]結核を患い健康保険岡谷塩嶺病院への長期間入院による療養を余儀なくされ、翌1969年5月と6月に2度にわたる大手術を経て、肋骨を6本取り除く。1969年11月30日に退院[21]。平尾自身は、この療養期間が作曲家としての活動の原点であることを事あるごとに語っている[22]

1970年代

1970年代に入ると、ソフトな演歌から穏やかなポップス調まで様々な作風の曲を、五木ひろし小柳ルミ子アグネス・チャンらに提供している。作詞家山口洋子とのコンビは、この時代を代表するゴールデン・コンビとして知られている。


1971年、五木に提供した「よこはま・たそがれ」、小柳に提供した「わたしの城下町」がそれぞれ大ヒットする。

1972年、小柳に提供した「瀬戸の花嫁」が第3回日本歌謡大賞を受賞する。

1973年、五木に提供した「夜空」が第15回日本レコード大賞を受賞する。


1974年
、平尾昌晃音楽学校(現:平尾昌晃ミュージックスクール、HMS)を創立する[23]。東京本校の他、札幌、所沢、茨城、名古屋、大阪、福岡、鹿児島にも地方校があり、デビューのバックアップもする。同校出身者は狩人畑中葉子川島なお美石野真子松田聖子川崎麻世大沢逸美森口博子芳本美代子笹峰愛倖田來未後藤真希西田あいなど。歌手としては、生徒の一人である畑中葉子とデュオを組み、「カナダからの手紙」「ヨーロッパでさよなら」などのヒットを出した。また、彼が日本でのデビューのきっかけを作ったアグネス・チャンとも、「香港国際空港(CHEK LAP KOK空港)」でデュオを組んだ。

1980年代

1980年代NHKの人気番組『レッツゴーヤング』の司会などにも携わる一方、『平尾昌晃の部屋』など、ラジオ番組のパーソナリティも務めた。その他、人気テレビ番組『熱中時代』での「僕の先生はフィーバー」、「やさしさ紙芝居」、『熱中時代-刑事編』の「カリフォルニア・コネクション」の他、ABCテレビ朝日系時代劇の『必殺シリーズ』、アニメ『銀河鉄道999』などの音楽を手がける。また1980年代初頭から宝塚歌劇団の舞台音楽も手がけており、こちらは晩年まで長きにわたって関係が続いた[24]


音楽活動のみならず、『ものまねバトル』(日本テレビ系)の審査員、チャリティゴルフの企画など、幅広く活躍した。俳優としても、『二階の他人』などに出演している。


競走馬オーナーとしては中央競馬で3勝したスーパーミヨチャンなどを所有した[25]。また、ジャパンカップ優勝のローズキングダムの一口馬主でもあった。オートレースのファンとしても有名で、川口オートレース場には年間ボックスシートを持っているほどだった。作曲者としても川口オートのテーマソングとなる『ぶっちぎりの青春』を提供した。

2000年代

2001年モンブラン国際文化賞受賞。

2002年特定非営利活動法人ラブ&ハーモニー基金を設立、音楽を通じた福祉活動を展開する。

2003年紫綬褒章受章。

2004年に三男の平尾勇気歌手デビューを果たす。

2005年、歌手を目指す若い人、生徒のために自主レーベルのHMSレコードを立ち上げて、優秀な生徒をCDデビューさせている。

2006年、大晦日の『第57回NHK紅白歌合戦』では同年3月に逝去した宮川泰の後を受け「蛍の光」の指揮者に就任し、2016年第67回まで11年間務めた。ただし、宮川やその前任の藤山一郎前田璣などと比較するべくもなく本格的に勉強した指揮法ではなく、いわば名誉職的な役割であることを本人も認めている。

晩年・闘病・死去

肺結核で片肺を切除して以来、肺疾患が慢性化。たびたび体調不調に悩まされた。


2014年末には原発性肺高血圧症に起因する肺炎で危篤状態となったが、この時は奇跡的に持ち直している[26]


2015年に肺がんであることが判明。体力面を考慮して手術を回避。以降は呼吸補助器を携行しながら、公の場にも積極的に顔を出していた。その後2017年5月「息苦しい」と訴え約1か月にわたって入院。一時は回復したものの、同年7月13日に「蒸し暑く体調が悪い」と訴え、病院で検査の結果「肺炎の疑い」との診断で入院。だがこの時も食欲は旺盛で、病室でテレビを楽しんでいたという。


しかし7月21日深夜に容体が急変。病院にかけつけた夫人や数人の親族に看取られ、同日23時40分、肺炎のため東京都内の病院で死去[1]。79歳だった。訃報後の7月23日、2016年に再々婚していたことが明らかとなった[27]。平尾の葬儀は親族らによる密葬の形で7月30日に執り行われたため、10月30日に東京・青山葬儀所にて渡邊美佐渡辺プロダクショングループ代表)を葬儀委員長とし、故人と縁のあった布施明、原辰徳青木功らを発起人とし『故 平尾昌晃 葬儀・告別式』と題して公のお別れの会が行われ、原が弔辞を読み、布施と五木ひろしが「霧の摩周湖」と「よこはま・たそがれ」を霊前に捧げるべく熱唱し、葬儀に参列した歌手らにより小柳ルミ子の「瀬戸の花嫁」を合唱するなどして故人を偲んだ[28]

没後
没後に第59回日本レコード大賞特別功労賞が贈られた[29]

詳しいことは、『平尾昌晃ウィキペディア』をご覧ください。 ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E5%B0%BE%E6%98%8C%E6%99%83
(WIKIより)

124 平尾昌晃

⇧ 平尾昌晃

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大矢市次郎(おおや いちじろう、1894年明治27年)2月11日 - 1972年昭和47年)5月28日)は、大正 - 昭和期の俳優。新派生え抜きの役者の一人で名脇役として知られた。

生涯

東京浅草須賀町(現・台東区)の生まれ[1]。幼少時からの芸事好きで、1907年(明治40年)に伊井蓉峰主演の舞台「乞食の子か大名の子か」で子役エキストラの一人で初舞台を踏む[1]。伊井の弟子の藤井六輔に師事し、藤川宗六の芸名を貰うが後に本名の大矢市次郎で活動。


18歳のときに、60歳の役を演じて以来老け役を得意とし、多くの当り役を持った。


新派系の劇団を転々としたのち、1939年(昭和14年)に花柳章太郎伊志井寛柳永二郎川口松太郎・大江良太郎らと、劇団『新生新派』を旗揚げ、戦後の劇団新派結成へも関わり、新派に欠かせぬ中心メンバーとなる。


1962年(昭和37年)に芸術院賞、紫綬褒章を、1967年(昭和42年)には勲四等旭日小綬章を受章している。


1967年にはその演技力を乞われ、文学座公演「大寺學校」へ客演(主演)として招かれ、初めて新派劇以外の舞台へも立ち、話題と人気を集めた。


1972年(昭和47年)5月28日、肺癌のため没。78歳。前年7月の歌舞伎座での新派公演「風流深川唄」の利三郎役が最期となった。


今日、初代水谷八重子・花柳章太郎・伊志井寛と並び、新派四天王と称されている。


弟子に大鹿次代などがいる。

出演作品
映画
歌行燈(1943年)

新・平家物語(1955年)

新宿そだち(1968年)

テレビドラマ
・日立ファミリーステージ 左の腕(1961年、TBS

ポーラ名作劇場 第50回「夜の河」(1963年、MBS

著書
・『日々願うこと』(六芸書房、1965年)

脚注
1. a b 歴代の名優 劇団新派 2018年7月17日閲覧。

外部リンク
劇団新派公式サイト 歴代の名優

大矢市次郎
(wikiより)

0127 大矢市次郎

⇧ 大矢市次郎

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お化け地蔵の横に、三界萬霊之塔 : 金町一家之碑がありました。


また浅草寺には「金町一家のお墓」もあります。

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⇧⇩ 浅草寺にある金町一家のお墓?

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「お化け地蔵」の名には、かつて大きな笠をかぶり、その笠が向きをかえたから、あるいは高さ 3メートル余りの並はずれて大きいからなど、いくつかの伝承がある。


この辺りは、室町時代以来、禅宗の名刹総泉寺の境内地であった。


門前一帯を浅茅ヶ原といい、明治 40年刊「東京名所図会」には「浅茅ヶ原の松並木の道の傍らに大いなる石地蔵ありしを維新の際並木の松を刈りとり、石地蔵は総泉寺入口に移したり」とあり、「当寺入口に常夜灯あり、東畔に大地蔵安置す」とも記している。


お化け地蔵の台石によれば、この石仏は享保 6年 ( 1721 ) の建立。


関東大震災で二つに折れたが、補修し現在にいたっており頭部も取りかえられている。


常夜灯は、寛政 2年 ( 1790 ) に建てられた。


総泉寺は、昭和 4年板橋区へ移転した。


「お化け地蔵」近くにある「元総泉寺境内諸仏供養の為」の碑は移転に際し建てられたものと思われる。
(案内板より)

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カール・ゴッチKarl Gotch、本名:Krel Alfons Ceclie Istaz / Karl Istaz1924年8月3日 - 2007年7月28日)は、プロレスラーおよびプロレスのトレーナー。


1961年までは、カール・クラウザーKarl Krauser)のリングネームを名乗っていた。


プロフィール上はドイツハンブルク出身とされているが、実際はベルギーアントワープ出身と言われている[2]。詳しくは「#来歴についての疑問点」を参照。

来歴
生い立ち
1924年8月3日にベルギーのアントワープでドイツ国籍の元、父エドワードと母ヨハナの元に生まれる。本名はカレル・アルフォンス・セシル・イスタス。幼少期にドイツのハンブルクに移り住む。

レスリング
レスリングでは、グレコローマンおよびフリースタイルレスリングのベルギー王座を7回ずつ獲得[3]ロンドンオリンピック1948年)のグレコローマンおよびフリースタイルレスリングにベルギー代表として出場[4]

アメリカのプロレス

1950年、"Karel Istaz" のリングネームでプロレスラーとしてデビュー、ヨーロッパ各地のトーナメントへ参戦。同年、ウィーンでのトーナメントでハープ・ガーウィッグ(後のキラー・カール・コックス)に敗れ準優勝[要出典]。1951年より"Snake Pit"(蛇の穴)の通称でも知られるイギリスビリー・ライレージムビリー・ジョイスについてランカシャーレスリング(キャッチ・アズ・キャッチ・キャン)を練習する。


1959年
カナダへ進出、モントリオールでの興行へ参戦。1960年アメリカへ進出、プロフィール上はドイツ人となり、リングネームとしてカール・クラウザーを名乗る。オハイオ州のMWA(Midwest Wrestling Association)へ参戦すると、1961年にNWAイースタンステーツヘビー級王座を獲得。同年、リングネームをフランク・ゴッチにあやかりカール・ゴッチへ改める[5]。1962年8月31日オハイオ州コロンバスにおいて、友人であるビル・ミラーと共に、NWA世界ヘビー級王者バディ・ロジャースと控え室でトラブルを起こす。同年、ドン・レオ・ジョナサンを破り、オハイオ版AWA(American Wrestling Alliance)世界ヘビー級王座を獲得。1963年9月から1964年11月にかけて、ルー・テーズが保持していたNWA世界ヘビー級王座に9回挑戦するが、王座は獲得できず。


1967年カリフォルニア州ロサンゼルスWWAに参戦すると、同年 "アイアン" マイク・デビアスをパートナーとしてWWA世界タッグ王座を獲得。同年6月30日、大木金太郎が保持していたWWA世界ヘビー級王座にデビアスが挑戦した試合へ乱入し、デビアスの王座獲得を助けたと言われている。1968年アメリカ市民権を取得。1971年WWWF(後のWWE)へ参戦すると、レネ・グレイをパートナーとしてWWWF世界タッグ王座を獲得。しかし、ルー・テーズから「私をもっとも苦しめた挑戦者」と評されながらもとうとう主要王座は獲得できず、「無冠の帝王」の異名を持つ。

日本のプロレス

日本においては、1961年4月に日本プロレスの第3回ワールドリーグに出場するために、カール・クラウザーKarl Krauser)のリングネームで初来日。東京都体育館吉村道明と45分3本勝負で対戦し、1本目にジャーマン・スープレックス・ホールドを日本初公開し、吉村からピンフォールを奪った(試合は1-1で時間切れ引き分け)。

第3回ワールドリーグ終了後の国際試合シリーズにも引き続き参戦し、1961年5月26日に福井市体育館力道山とシングルマッチ(60分3本勝負)で対戦し、1-1で引き分ける[6][7]。この福井での試合が力道山とゴッチがただ一度だけ一騎打ちを行った試合となった。なお、来日中、ビル・ミラー(覆面レスラーのミスター・Xとして来日)と共に控え室でグレート・アントニオへ制裁を加えたという噂がある。1966年7月に再来日、ジャイアント馬場インターナショナル・ヘビー級選手権に挑戦が決まっていたが、怪我で断念した為、馬場とのタイトル戦は実現しなかった。

1968年1月に日本へ移り住み、日本プロレスのコーチに就任。「ゴッチ教室」を開き、アントニオ猪木卍固め、ジャーマン・スープレックスを伝授。さらに山本小鉄星野勘太郎といった当時の若手・中堅選手を厳しく鍛えた。ヨーロッパ仕込みのテクニックの高さから「プロレスの神様」とも称されるという。


その後はハワイで清掃関係の企業をしていた[7]が、1971年3月国際プロレス吉原功社長の招きで、第3回IWAワールド・シリーズに参加。ビル・ロビンソンと5回対戦し、全試合とも時間切れで引き分ける。モンスター・ロシモフ(後のアンドレ・ザ・ジャイアント)とも対戦し、ジャーマン・スープレックス・ホールドを決めるが、レフェリーリング外でダウンしていたためフォールは認められず、ロシモフの逆襲に不意を突かれ敗れる。国際プロレスに所属していたアニマル浜口らを指導する。


1972年1月の新日本プロレス設立に選手兼ブッカーとして助力。1972年3月から1974年8月にかけて、アントニオ猪木と5回対戦し、3勝2敗。1973年10月ルー・テーズをパートナーとしてアントニオ猪木&坂口征二組と3本勝負で対戦し、1-2で敗れる。

アメリカへ戻る
その後、フロリダ州タンパ市の「ゴッチ道場」において、藤波辰巳木戸修藤原喜明佐山聡前田日明らプロレスラーを数多く育成する。1982年1月1日後楽園ホールにおいて藤原喜明エキシビション・マッチで対戦、同年1月8日後楽園ホールにおいて木戸修と対戦したエキシビション・マッチが、プロレスラーとして最後の試合である。

晩年

2006年7月より藤波辰爾西村修が設立した無我ワールド・プロレスリングの名誉顧問に就任。晩年はタンパの自宅に西村が度々訪ね、既に夫人を亡くしていたゴッチの世話を行っていた。2人で夜な夜なワインを酌み交わしながら、プロレス談義に花を咲かせていたという。前田日明はその話を聞き、後輩である西村に恩義を感じている。


2007年7月28日21時45分に、フロリダ州タンパ市にて82歳で死去した。2007年7月30日発行の『東京スポーツ』紙の記事では「大動脈瘤破裂」が死因だったとしている。

来歴についての疑問点
・ゴッチの生年月日についてはいくつかの説が伝えられていたが、2000年代になってからは「1924年8月3日生まれ」でほぼ統一されている。


・「ドイツ・ハンブルク出身」とされているが、「ベルギーのアントウェルペンまたはブリュッセルの生まれで、後にハンブルクへ移住した」とも言われている。また、「父はハンガリー人マジャル人)、母はドイツ人」「"Gotch"というリングネームは母方の姓に由来する」とも「オランダ系でドイツ人の血は引いていない」とも言われている。このため、「ゴッチは(かつて第二次世界大戦においてアメリカと戦った「ヒール」としての)ギミックとしてドイツ人を演じているだけではないか」という意見もあるが、一方で、「ゴッチはナチスについて肯定的な発言を本気でしている」とも言われている。


・ナチスについてはG SPIRITS Vol.46による実娘ジェニン・ソラナカのインタビューによると、ゴッチは父親のエドワードと1943年と1944年と2回にわたって強制収容所に収監されている。父親のエドワードがナチス反対派で、ビラやチラシを配っていたという。何度も逃げようとしたが、その都度捕まり酷い罰を与えられたといい、ろくに食事も与えられず、とにかくいつもお腹をすかせていたという。収容所では鉄道レールを敷く仕事をやらされていたという。そして本誌では、ドイツ人としたのは、ハンガリーやベルギー、オランダといった国ではアメリカ人らには馴染みが無かったからだとしている他、本名はKrel Alfons Ceclie Istaz カレル・アルフォンス・セシル・イスタスで、兄弟はいない一人息子、夫人のエラは水泳の選手だったといい、ふだんの言語はフラマン語を使用していたという。ゴッチの父エドワードがハンガリー系で、ゴッチの母ヨハナ、旧姓ファン・ヘイステレンがオランダ系。母方エラのデルース家は生粋のベルギー人とのこと。ゴッチが結婚したのは1949年9月で、翌年3月に娘ジェニンが生まれている。


・ザ・ベストマガジン9月号増刊平成5年9月発行プロレス王国の本人のインタビューによると、生まれたのは確かにアントワープであるが両親がドイツ国籍で幼少期にハンブルクに移り住み、祖父がハンガリー人で1/4ハンガリーの血が流れているという。父親が商船士、9歳の時に近所のジムで、元グレコローマンのオリンピック王者であるフリッツ・ヤンセンの門下生となったという。13歳の時に鉄製の船具を作る鍛冶屋で働き、並行してトレーニングに励んでいた。ボクシングを1年間練習しウエイトリフティングのジムにも足を運んでいたという。なお、リングネームをゴッチに改名したのは1970年で,母方のファミリーネームからとしている。同雑誌の記述による1945年ナショナル王者をへて1952年にヘルシンキオリンピック出場といった経緯自体実に曖昧で,ドイツ国籍であったがベルギー代表として出場したとしている。


・ゴッチのアメリカ進出以前の経歴については、出典により異なった情報が伝えられている点が多い。例えば、以下のような経歴が紹介されたことがある。


  ・ナチス統治下のドイツにおいて、9歳よりレスリングを始める。

  ・16歳でアマチュアレスリング全ドイツ・ヘビー級王座を獲得[8]

  ・ヘルシンキオリンピック1952年)のグレコローマンスタイルレスリングに出場、銀メダルを獲得[9]

  ・1954年より2年間、ビリー・ライレージムでランカシャーレスリングを練習する。

  ・1956年ヨーロッパでプロレスデビュー。


・ゴッチが初来日の時に「クライザー」と名乗っていたのは、元々来日する予定であったクライザーというプロレスラーが来日できなくなり、代役として来日したためであるという「ゴッチ代役説」が伝えられている。この説では、ゴッチが「クラウザー」という類似したリングネームを使っていた事実はなかった(もしくは単なる偶然)とされる[注釈 1]。また、代役としてゴッチを推薦したのは、ビル・ミラーとも言われている。この説とは別に、「クライザー」というプロレスラーが来日するはずが、なんらかの手違いにより「クラウザー」ことゴッチが来日してしまったという「ゴッチ人違い説」も伝えられている。元々来日する予定であったプロレスラーは、カロル・カルミコフのリングネームも使っていたカロル・クラウザー(Karol Krauser)とも言われている。


1962年8月31日にオハイオ州コロンバスのフェアグラウンズ・コロシアムにおいて、ジョニー・バレンドと対戦予定であったNWA世界ヘビー級王者バディ・ロジャースが「控え室でカール・ゴッチとビル・ミラーに襲われて負傷した」と訴え、その日の試合を欠場した(公演自体は行われ、ロジャースの代役としてジャイアント馬場がバレンドと対戦したが、入場料の一部は払い戻しとなった)。ゴッチとミラーは警察署に出頭して逮捕され、保釈金を支払って釈放された。ロジャースが「急に閉じられたドアに手を挟まれて負傷した」と主張したのに対し、ゴッチとミラーは「平手で一発ずつロジャースの顔を殴っただけで、負傷させるつもりはなかった」と反論した。ゴッチとミラーは「ロジャースには次にオハイオを訪れた時にわたしたちの挑戦を受けることを要求したのに、負傷させては意味がない」「わたしたちがロジャースを負傷させるつもりであれば、手を負傷した程度で終わるはずがない」とロジャースを負傷させたことを否定したが、ロジャースは複数のプロモーター、プロレスラーから恨まれていたため[11]、何者かがゴッチとミラーに依頼してロジャースを負傷させたという憶測が絶えなかった。なお、ロジャースはしばらくして試合に復帰したが、1963年1月24日にルー・テーズに敗れてNWA世界ヘビー級王座を奪われた。一方、ゴッチはこの事件の2週間後にオハイオ版AWA世界ヘビー級王座を獲得すると、その後はテーズと互いの王座を懸けて対戦するなど、アメリカにおける全盛期を迎えた。この逸話はかつては梶原一騎などによって「ロジャースは人気ばかりで実力がなかったからゴッチに控室でKOされた男として最低の恥をかかされた(『プロレススーパースター列伝』でのリック・フレアーの台詞)」などと誇張して伝えられ、ロジャースが未来日だったこともあって日本でのある時期のロジャースの印象を一部で低下させた。

詳しいことは、『カール・ゴッチウィキペディア』をご覧ください。 ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%82%B4%E3%83%83%E3%83%81
(wikiより)

117 カールゴッチ

⇧ カール・ゴッチ

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平山角左衛門尚住は、広島藩主・浅野吉長公により、元文 5年 ( 1740年 ) 尾道町奉行に任命されました。


平山奉行は、寄港する船舶等のために埋立工事を行い、寛保元年 ( 1741年 ) 住吉浜を完成させて港町尾道の発展の基礎を築きました。


また同年、浄土寺境内にあった住吉神社を港の守護神として住吉浜に遷座しています。


平山奉行の功績を慕う尾道町民は、後年、住吉神社内に平山大明神をまつり、昭和 10年 ( 1935年 ) からは、祭礼として尾道みなと祭が開催されています。


昭和 43年 ( 1968年 ) には、尾道名誉市民に選ばれました。


本像は、尾道港開港 850年にあたり平山奉行を顕彰し、港町尾道のさらなる発展を願い、尾道奉行所があったこの場所に設置されました。
(案内板より)


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焼夷弾で顔が破損した石仏


大念寺は、安那群川北村 ( 現:神辺町 ) で創建され、1619年 ( 元和 5年 )、初代福山藩主・水野勝成の福山城築城にあたり、寺町へと移ったとされる。


1945年 ( 昭和 20年 ) 8月 8日の福山空襲により、本堂などの建物は、すべて焼失した。


境内にあったこの石仏も、焼夷弾を受けて顔の一部を破損した。


戦後、現在の位置に安置され、焼夷弾による空襲の被害を今に伝えている。
(説明版より)

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福山藩主 四代・勝種の母 ( 野瀬氏 ) 月窓院。

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水野氏 三代勝貞の母 ( 月岡氏 ) 清春院。

 この墓所も電車の高架下を超えた場所となります。

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水野勝貞・家臣 : 安田孫之進。

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水野 勝貞(みずの かつさだ)は、備後国福山藩の第3代藩主。水野宗家3代。第2代藩主・水野勝俊の次男。

経歴

備後国で、第2代藩主・勝俊の嫡男として生まれる。14歳のとき島原の乱に参戦し、帰陣後の寛永16年(1639年)に徳川家光御目見する。翌17年(1640年)、従五位下に任官し、備後守を名乗る。承応4年(1655年)、勝俊の病死により31歳で家督を継ぐ。同年(改元され明暦元年)徳川家綱に御目見して従四位下に任官、日向守と改める。祖父・勝成の日向守に対し、「後日向守」とも呼ばれる。


勝成、勝俊に続き、主に領内の寺院を保護し、福山城下の円光寺を深津郡草戸村(現在の福山市草戸町)の古刹・常福寺に合併させ、寺名を明王院と改めた。文芸の興隆にも努め、京都から俳人野々口立圃を呼び、多くの門人を輩出させたり、城下の寺院でたびたび芝居を催したという。また、草戸稲荷神社前には遊女町を造ったといわれる。


寛文
元年(1661年)に病に伏し、翌年(1662年)に江戸藩邸において38歳で死去した。


藩政においては、生え抜きの藩士を積極的に登用しているが、勝貞の死後、家老・上田玄蕃ら門閥派の巻き返しにより、勝貞に重用された猪熊三右衛門ら側近5人が殉死に追い込まれる事態となった。この御家騒動(水野家家中騒動)に家中は激しく動揺したといわれ、城下の惣堂神社が「惣堂(そうどう)→騒動」に繋がるとして延広神社に改称されたという。

系譜
・父:水野勝俊(1598年 - 1655年)

・母:不詳

・正室:酒井忠勝の養女 - 松平康政の娘

  ・長女:鶴 - 勧修寺経敬室、勧修寺尹隆生母

・妾:瀬尾氏

  ・次女:与曽

  ・長男:水野勝種(1661年 - 1697年)

外部リンク
福山城(福山城博物館)

備後歴史探訪倶楽部特別版「福山城」 - ウェイバックマシン(2005年4月7日アーカイブ分)
(wikiより)


111 水野勝貞

⇧ 水野勝貞

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水野勝成 五男・水野織部正勝則。

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