本牧jack『意外と身近にある歴史散歩』日々是好日 心灯 頬笑

本牧Jackで御座います
小生の拙ブログ『意外と身近にある歴史散歩』日々是好日 心灯 頬笑に御訪問頂き誠に有難う御座います。
歴史ドラマが流行っている昨今、身近に有って気が付かなかったりする様な物を取り上げたりしています。
たまに『 大人数で取材しているのか? 』との質問を戴きますが、小生と相方の二人三脚で御座います。
出来るだけ続けたいと思っていますが 膝・耳に問題が有って、いつまで出来るやら・・・説明も、やたら長いものから あっさりしたものまで有りますが、御付き合いの程 宜しく御願い致します。
御注意 . 少ないですが生前に建てられた『 生前墓 』の記事も有ります。 ※ 申し訳御座いませんが「画像の転用」は禁止とさせて頂きます。 コメントは原則公開させていただいております 質問等に対してはブログ記事で返信させていただきます 他の方法で連絡を取り合う等一切しません 場合によっては、「IPブロック」しますがブロックした場合解除する事は有りませんので宜しくお願いします。

2023/05

伊藤小左衛門累代墓。


伊藤小左衛門父子哀悼碑。

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鷹取養巴 ( たかとり - ようは )
( 1827 - 1865 )


江戸時代後期の医師。


文政 10年 1月 13日生まれ。


筑前 ( ちくぜん ) 福岡藩医。


加藤徳成 ( とくなり ) らとともに尊攘 ( そんじょう ) 派として活動。


藩論が佐幕に一変すると、月形洗蔵らとともに捕らえられ、慶応元年 10月 23日斬首 ( ざんしゅ ) された。39歳没。


名は惟寅。字 ( あざな ) は子直。号は碩庵、葵軒。
 
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寛永十五年二月二十二日没。
(案内板より)

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竹中半兵衛 ~ 重門 ~ 重次


慶長十七年、十三歳にて長政公仕える。


万治四年四月十四日没 六十二才。
(案内板より)

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鎌田九郎兵衛昌信の墓。


元禄三年八月二十九日没。

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黒田家家老。


鎌田八左衛門昌勝の墓。


寛文九年十月六日没。

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西村文助の墓。

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宮崎織部安直の墓。


寛永八年十月十六日没。


秋月藩家老。


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末次久四郎孝善の墓。


博多の豪商だとか。


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紙屋善四郎宗啿墓。


寛永十二年十月二十八日没。


[生]天文 20 ( 1551 ).博多

[没]寛永 12 ( 1635 ). 10. 28. 博多


安土桃山時代,


江戸時代初期の豪商,茶人。


紹策の子。


紙屋 ( こうや ) 宗旦とも書き,幼名善四郎,字は貞清。


神谷家は筑前博多の商人で 3代目の寿貞が石見銀山の開発に成功して富をなした。


天正 15 ( 1587 ) 年大坂城で豊臣秀吉に謁見してその寵を得、特権的政商として朝鮮、中国やルソン、シャムなどとの南洋貿易を行い巨利を博した。


さらに産業開発にも意をそそぎ、櫨 ( はぜ ) による製ろう法、博多そうめんをも創製し、冶金法、織物にも貢献した。


彼の手記『宗湛日記』は当時の茶会記録として著名。

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伊丹九郎左衛門氏親の墓。


雪峯宗伯居士。


寛永十四年十二月二十九日没。


直方藩家老。

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伊丹九郎左衛門氏親の墓。


雪峯宗伯居士。


寛永十四年十二月二十九日没。


直方藩家老。

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吉田壱岐繁成の墓。


元和七年九月三日没。


黒田二十四騎の一人、吉田長利の子で、中津城で宇都宮鎮房 ( 城井鎮房 ) を謀殺した際に、鎮房に酌をした人物だそうです。

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黒田二十四騎の一人、大譜代 : 竹森石見次貞


父の代から黒田家に仕え、数々の武功を挙げますが播磨別府城攻めで左腕を斬られ不自由になって以降は旗奉行を務めています。


竹森家は代々黒田家の旗奉行を勤めた。

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三代藩主、光之公息男


黒田左兵衛 ( 宗玉 )


寛文三年四月九日没。

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森 勤作 ( もり - きんさく )
( 1831 - 1865 )


幕末の武士。


天保 ( てんぽう ) 2年生まれ。

筑前 ( ちくぜん ) 福岡藩士。

藩命で対馬 ( つしま ) 府中藩の内紛調停に派遣されているとき、藩論が佐幕に一変して帰藩。

月形洗蔵ら勤王派同志とともに、慶応元年 10月 23日処刑された。35歳。

本姓は吉田。字 ( あざな ) は子静。通称は勤作。


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伊丹眞一郎 ( いたみ - しんいちろう )
( 1833 - 1865 )


幕末の武士。


天保 ( てんぽう ) 4年生まれ。


筑前 ( ちくぜん ) 福岡藩士。


元治 ( げんじ ) 元年藩命により長門 ( ながと )( 山口県 ) に行き、幕長戦争後の事態収拾のため三条実美 ( さねとみ ) ら五卿の太宰府 ( だざいふ ) 移動に尽くす。


慶応元年、喜多岡勇平を佐幕派に通じたとして暗殺し、同年 10月 23日処刑された。33歳。


名は重本。字 ( あざな ) は子信。号は信堂。


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びっしりと文字が刻印されています


「 唐石石門 」というものですが、詳しいことは分かりませんでした。

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ういろう伝来之地だそうです。

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東長寺東側を南北に走る御供所通りの奥にある。


臨済宗大徳寺派。山号は石城山。正和 5年 ( 1316 )、大応国師 ( 南浦紹明 ) の法弟月堂宗規の開基。


石城は元寇防塁にちなむ博多の異称。


草創の寺地は博多湾岸の沖の浜にあった。


遣明使一行が宿泊するなど対外交渉の一拠点になっていた。


明僧来復の詩文にある呑碧樓、潮音閣の建物は、寺内に掲げる篇額にその名を残す。


天正年間に焼失し、黒田長政入国後現在地に移転した。


本堂裏の墓地には、黒田家重臣の墓石が立ち並び、博多の豪商である神屋宗湛の墓が残る。


また、開山堂の一角には、鎖国の禁を破り長崎で処刑された伊藤小左衛門の墓がある。

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家数二十軒 古昔筥崎八幡宮の御供を調べ奉りし町なる故御供所町と云う        

「筑前続風土記」より
(石碑文より)

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静岡県浜松市奥山大本山方広寺開山 聖鑑国師無文元選禅師は、後醍醐天皇の皇子にして、建仁寺で得度 

可翁宗然禅師 雪村友梅禅師に就き参禅


暦応三年 ( 一三四三 ) 元国に渡り各地を歴参 大覚明智寺の古梅正友禅師の法を継ぎ、観応元年 ( 一三五〇 ) 博多に帰朝、当山に逗留すること一年


翌年帰洛 至徳元年 ( 一三八四 ) 方広寺を開山 康応二年 ( 一三九〇 ) 三月二十二日遷化


平成二十八年四月建立
(石碑文より)

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加藤司書の子で、玄洋社員として活動した。

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舌間宗綱の高弟 : 相羽蜘祐。


〇 双水執流
双水執流(そうすいしつりゅう、そうすいしりゅう)は日本武術柔術居合の流派。

歴史

流祖は、竹内流開祖の竹内久盛の高弟だった二上半之亙で、竹内流の極意皆伝後、二神流体術を創始したが、吉野山中に37日参籠して大悟、二神流を改め、双水執流組討腰之廻と称した[1]。その後、1652年(承応元年)筑前直方に入り、黒田藩の体術指南役として迎えられ、二神半之助正聡(ふたがみはんのすけまさあき)と改名した[1]。その後、正聡は1666年(寛文6年)高弟の田代清次郎に極意を相伝するまで、多くの後進を育成した[1]寛文年間、二神は福岡藩で馬廻組に就き、後直方舌間家によって東蓮寺藩で伝承、寛延四年に舌間宗益によって福岡藩に伝承された。竹内流から派生した流派だが、竹内流では「腰之廻」は1尺2寸の短刀を用いた組討技法を指すが、現在の双水執流では居合のことを「腰之廻」と呼ぶ。なお、江戸期に江戸に伝播したという記録は残っていない。


明治
21年、警視庁に招かれた松井百太郎宗忠(まついひゃくたろうむねただ)によって東京にも伝播しており、現在は福岡と東京にて伝承されている。また昭和以降、海外に伝播した流れもある。


ー尺二寸の脇差を帯しておこなう戦場での組討である腰之廻を中心として、捕手・剣術・居合・槍術短剣など所謂武芸十八般から構成されており、純然たる組討というよりも、総合武術的な要素が強いのが双水執流の技法の特色とされる[1]

系譜

福岡に伝わる系統[2] [3] [4]

三代目以降は、舌間家を中心として栄え、柔術諸流派の中でも古い部類に入り、技法と家系を今日まで正しく伝えているとされる[1]

・二神半之助正聴 - 承応

・田代清次郎則忠 - 寛文六年十一月十四日

・舌間新次郎宗督 - 天和三年四月十五日

・舌間喜兵衛宗一 - 元禄十年八月十二日

・大野弥兵衛宗勝 - 亨保三年五月七日

・舌間作五郎宗廉 - 同十年正月二七日

・榎本久右衛門忠直 - 同十五年十月五日

・舌間七郎宗益 - 元文四年九月十五日

・臼杵九十郎宗直 - 安永三年九月十一日

・舌間眞次郎宗章 - 文化十五年一月十三日

・舌間弥五郎(忘多)宗綱(十一代・十三代)- 天保四年十一月十八日

・舌間愼吾宗継

・青柳喜平正聰

・舌間修三宗聴

・舌間萬三宗利(現在)


東京に伝わった系統(11代舌間宗綱高弟、松井百太郎以降)[5] [6] [7]

・十一代:舌間弥五郎宗綱

   ・松井百太郎宗忠

     ・松井福次郎宗継

     ・佐藤昇一郎 - 大正六年

     ・佐々木章次 - 昭和二年十月

     ・杉山正太郎 - 昭和二年

       ・北島胡空 - 昭和三九年

         ・島村武司

           ・伊藤學

           ・木村昭夫 現在

         ・臼木良彦宗隆 平成十年〜現在

参考文献

・舌間家譜 安永五年二月 舌間宗益(舌間家蔵)

・組討腰之廻口伝書 天保四年十一月 舌間宗章(隻流館蔵)

・双水執流組討目録 安政二年 舌間弥五郎宗綱(臼木家蔵)

・双水執流組討目録 昭和二年十月 松井宗忠(佐々木家蔵)

・双水之流 昭和十六年八月十五日 舌間修三宗聴(隻流館蔵)

・双水執流秘書(隻流館蔵)

・双水執流略史(隻流館蔵)

・武芸 大正四年

・武道家名鑑 昭和五年

・黒田三藩分限帳(福岡地方史談話会)

・『朝野新聞』1910年2月9日東京朝刊 「柔道の奥様 良夫に劣らぬ大怪力」[8]

・郷土の先達 舌間宗益とその業績(紫村一重著 郷土直方第12号)

・双水執流組討腰之廻について 1982. 135 山本義泰『天理大学学報』第33巻第4号

脚注
1. a b c d e 山本義泰「双水執流組討腰之廻について」『天理大学学報』第33巻第4号、天理大学学術研究会、2019年3月、 18-30頁。
2. 双水執流組討目録 安政二年 舌間弥五郎宗綱
3. 双水之流 昭和十六年 舌間修造宗聴
4. 双水執流略史
5. 双水執流組討目録 昭和二年十月 松井宗忠
6. 武芸 大正四年
7. 武道家名鑑 昭和五年
8. 松井百太郎の妻袖子と双水執流道場尚武館に関する記事。

外部リンク
双水執流柔術会 社団法人隻流館

双水執流組討腰之廻 清漣館

江戸伝 双水執流組討腰之廻 光尊会
(wikiより)

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幕末の勤皇の志士 加藤司書公 ( 墓所 )

加藤司書公は、天保元年 3月 5日城門前上の橋堀端で出生。


加藤家 11代当主として 2800石の家督を継ぎ、中老職となる。


先祖の加藤重徳は、荒木村重のため地下牢に投じられた黒田如水 ( 官兵衛 ) を救出した功で代々中老職に列せられる。


重徳次男の一成は、甘木三奈木 16000石を賜り、黒田 24騎の一人として活躍した。


司書 24歳の嘉永 6年 ( 1853年 ) 7月ロシア海軍プチャーチンが来港した時、藩兵 500余人を指揮し長崎を警護、 同艦隊を無事国外に立ち去らせ、異国との紛争回避に努力した功績は多大であった。


次に長州征伐解兵のために活躍した。


元治元年の池田屋事件・禁門の変、更に幕府は、前尾張藩主徳川慶勝を総督として 36藩を動員し、 長州を討とうとした為、長州征伐まで戦火が拡大した。


この時広島に各藩の藩兵が参集、司書は黒田藩を代表し薩摩の西郷と共に長州の恭順を条件に長州征伐の解兵を成功させた。


司書はこの時の成功を喜び、広島の宿において作った今様は、次の通りである。


皇御国すめらみくにの武士つわものは いかなる事をか勤むべき ただ身にもてる 赤心 ( まごごろ ) を君と親とに盡 ( つく ) すまで


その後長州にいた五卿を九州太宰府延寿王院に請じ、太宰府は五卿を中心に尊王運動の策源地とする薩・長・筑三藩連合を打ち立てた。


次に司書は、諸外国侵攻の危機を解消するため、万一の場合藩主を鞍手郡犬鳴の別館に移すべく工事を急いだが、この事が佐幕派の人々の扇動により反逆の疑いをかけられ、 遂に慶応元年 ( 1865年 ) 十月乙丑 ( いっちゅう ) の獄 ( ごく ) の大弾圧となり、 切腹を命ぜられ、36歳をもってその生涯を終わった。


司書公の霊は、加藤家の菩提寺節信院に眠る。
(案内板より)


 漢数字は、英数字にしました。


〇 加藤司書
加藤 司書(かとう ししょ)は、江戸時代末期(幕末)の武士福岡藩家老。筑前勤王党首領格。名は三太郎、家督を継いで徳成(のりしげ)と改めた。月形洗蔵らとともに勤皇派の中心人物として活躍した。

生涯

文政13年3月5日(1830年3月28日)、福岡藩中老職の加藤家9代当主加藤徳裕側室の尾形友花との間に生まれる。


天保
11年(1840年)に遠縁である大老職の三奈木黒田家からの養子だった加藤家10代当主の義兄加藤徳蔵(黒田溥整)が実家に復籍して三奈木黒田家の家督を継いだことで当時11歳の司書が加藤家11代目2800石の家を継ぎ、福岡藩中老の位列に加えられる。


嘉永6年(1853年)7月、ロシアエフィム・プチャーチン長崎に来航した際、長崎港警備を勤めていた福岡藩は会議の末、藩主黒田長溥は司書に命じて、藩士約500人を率いて長崎沿岸の警護にあたらせる。司書は幕府外国奉行の川路聖謨に助力し、黒船の艦長達の対応に当たる。水と炭を求める相手側に対し、水のみを与える対応をした。


安政
3年(1856年)、司書は藩の執政に就任し、義兄の後押しもあり尊皇攘夷派の中心人物となる。


安政4年(1857年)、蘭癖大名と呼ばれ世界情勢や軍事事情に詳しい藩主・長溥は、現状のままの装備では今日の情勢に通用せず、洋式兵制の導入の必要性を藩士たちに説いた。しかし、司書ら攘夷派は西洋調練を嫌い、藩内の尊皇攘夷派、筑前勤王党、三十九派の砲術師範らは結束して藩への洋式兵制を拒否した。薩摩、長州、佐賀、久留米など新進の藩が富国強兵を目指し洋式兵制を取り入れている時期に、福岡藩は戦国時代の装備のまま取り残される事になる。司書は蘭学振興や洋式兵制の必要性を説く長溥を「殿様は愚昧だから」と切り捨て、蘭学を無視して国学に傾倒し、尊皇攘夷を唱えた。


元治
元年(1864年)7月、司書は以前に担当した製鉄事業で注目していた犬鳴谷に有事の際に藩主を匿う避難所の建設を提案、黒田長溥もこれを承諾し、犬鳴御別館の建設が始まる。その後、京都で起こった禁門の変に際し、福岡藩は藩兵約500人を禁裏守護のため京都へ派遣することになり、司書がこれを率いて福岡を発したが、直後に第一次長州征討が決まった為、派兵は中止となり福岡に引き返した。


11月、高杉晋作筑前入りした際に野村望東尼の住む平尾山荘で月形洗蔵早川養敬中村圓太らと共に会合し、七卿の九州下りと薩長両藩の融和などを話し合う。


12月、第一次長州征討に際し、司書ら勤王派は黒田長溥の命を受け、長州周旋に当たる。司書は建部武彦、月形洗蔵、早川養敬らを連れ、幕府軍の本陣があった広島まで赴き、成瀬正肥田宮如雲とに密かに接見し交渉した。その後、広島城の大広間にて藩代表による作戦会議に参加し、薩摩藩西郷吉之助と共に総督徳川慶勝に謁見にした。司書は藩主・長溥が総督に宛てた「外国艦隊の脅威を前に国内で戦っている時ではない、国防に専念すべし」という親書を提出し、現状を細かに説明した上で「今は挙国一致を以て外敵の襲来に備えるべし。」と進言した。その後も二人は懲罰案や譲歩案などの建議書を提示して交渉し、総督に征長軍解散を決めさせることに成功する。


征長軍解散の結果、長州藩の三家老(国司親相益田親施福原元僴)の切腹のみで決着することとなった。この結果に感激した司書は宿舎に戻った時に筑前今様を書き留め、その場で2度歌った。


皇御國すめらみくに武士もののふはいかなる事をか勤むべき、只身にもてる赤心まごころを君と親とに盡すまで


また勤王派はこの時、長州にいた三条実美ら五卿を説得し、大宰府延寿王院に移したことで、筑前太宰府は勤王志士達のメッカとなり、坂本龍馬中岡慎太郎も大宰府へ五卿を見舞いに訪れている。司書達は西郷吉之助や高杉晋作と密談を行い[1]薩長同盟の実現に向けて活動し、福岡藩は尊皇攘夷の急先鋒とされ筑前勤王党の知名度も飛躍的に上がることとなった。


慶応
元年(1865年)2月11日、司書は征長軍解兵の功績を賞じられ、家老に昇進した。黒田播磨が藩主長溥や子の長知の反対を押し切って実現したものであり、佐幕派の3家老が一斉辞任して対抗するなど対立が強まった。勤王党の面々が藩の要職となり、藩主の側用人を廃止し長溥に直接要求を主張するなど勢いに乗った司書は、藩論を公武合体から尊王攘夷へと転換すべく、そのために宗教は一藩神道とし、邪教の仏教は廃止、寺院の打ち壊しを説くなど性急に藩政改革を進める。5卿の太宰府転座で全国の浮浪浪士が警備の名目で太宰府に集まっており、無法の彼らを背景にした筑前勤王党は増長し、横暴さを増していった。


藩主の専制権をも侵し始めた勤王党に対し、長溥が反撃に出る。勤王党と保守派を対決論争させ、「公武一和」を主張する保守派の意見を藩是とすることにした。


5月、筑前勤王党は加藤派と月形派に分かれて内紛を起こすようになっており、暴走していた勤王党員が「司書は優柔不断な藩主を幽閉し、長州周旋に奔走し、長州藩主毛利敬親と面識のある黒田長知を擁立して、佐幕派を排除し実権を握ろうとしている。」と言い回った。これまでの勤王党の活躍を面白く思ってなかった佐幕派はこの事を聞き、司書を非難し長溥に報告した。


さらに幕府が長州再征討を決めた為に勤王派の周旋活動の功績が否定された結果、佐幕派が復権し、形勢が逆転となって勤王派弾圧の動きが強くなった。


これに対して、加藤司書も黒田溥整と連名で「上下一致、人心一和して過激を抑え因循を奮発することが肝要である。」という内容の建白書を提出したが、長溥はこれに激怒して側近らに命じ、司書ら勤王党の陰謀を目付に調べさせる。


5月24日、司書は家老の職を三ヶ月で辞任した。6月、追い込まれた勤王党の人物から司書らのクーデター計画が注進され、6月20日、長溥は直書を発して勤王党の一斉断罪を命じる。これにより勤王派140人余りが逮捕・監禁され、その中でも加藤司書以下7名が切腹、月形洗蔵以下14名が桝木屋で斬首、野村望東尼以下15名が流罪の大粛清に至る(乙丑の獄)。


慶応元年(1865年)10月25日天福寺にて切腹享年36。「君かため盡す赤心まごころ今よりは 尚いやまさる武士の一念」と辞世の句を残した。


福岡市
博多区聖福寺塔頭寺院 節信院に墓がある。

没後

乙丑の獄により夫の司書と兄の建部武彦を同時に亡くした妻の安子はその後 病に倒れ、司書の死から7ヶ月後、絶食の末に亡くなった。


長男の堅武と次男の大四郎は藩から家督を継ぐ事を許されず、野村市之丞を次女の婿養子に迎え、徳行と名を改めた。


明治
10年(1877年)3月27日、堅武はかつて司書と共に謀った西郷隆盛が起こした西南戦争に呼応し、従兄弟である武部小四郎らと共に福岡城を襲撃するために平尾山にて挙兵し、福岡の変を起こした。福岡の変には大四郎と徳行も参加した。しかし官軍と警官隊に挟撃され、敗走した後に小隊長だった堅武は捕らえられ斬罪に処され、大四郎と徳行も逮捕された。その後、大四郎は釈放されたが、徳行は獄中で病死した。処刑時の福岡県令だった渡辺清 (政治家)は堅武の未亡人チセ(母里太兵衛十代目の娘)を後妻とした[2]。大四郎は釈放されたが若死にし、子の輔道は加藤家の菩提寺である節信院の親寺聖福寺に預けられ、節信院の住職となった[3]

明治24年(1891年)、正五位を追贈された[4]

人物

父親・加藤徳裕教育厳格であり、6歳で初めて書を読み、7歳から武を学んだ。成長するにつれ文武両道に磨きがかかり、周りから将来を嘱望させられていたという。司書は力が強く、相撲においては藩内で誰も敵わなかったとされており、武術剣術槍術のみならず、弓術馬術も堪能であった。


また司書は非常に負けず嫌いでもあったとされている。重臣中の若者達が集まって、蝋燭の火を碁盤で消せるかどうかを話ていたときに司書は何も言わず、帰宅後に一睡もせずに碁盤で蝋燭の火を消す練習をした。後日、話していた重臣達を自宅へ呼んで、碁盤で蝋燭の火を消して見せた。一同は司書の腕力の強さに驚嘆するよりも、その負けず嫌いの強さに驚嘆したという。


他にも捕魚の術を全く知らなかった司書は、網打ちに出掛けても自分は打たずに漁師が捕ったものを貰っていたが、ここでも網打ちの上手い下手の話になり網打ちが出来ない司書は黙って聞いていた。そして司書は帰宅後、家人が寝静まった後に庭を海と見立てて、縁側で網打ちの稽古を夜な夜な続けた。そして休日に網打ちの自慢していた重臣達と海に出た。各自網を打ちながら「司書殿は網を打てぬでお気の毒」と言われた司書は立ち上がり、手捌きも鮮やかに網を打ち、その網の中は大漁だったという。網打ちが出来ないと笑った一同は驚いて理由を聞くと、毎晩網打ちの稽古をしていたと聞かされ、改めて負けず嫌いな性格に驚嘆した。


また司書は非常に大食いであったとされる。礼節を尊ぶ茶席懐石料理は好まず、食材が沢山入った鍋料理を好んでいた。ある時に侍女の実家に立ち寄った際に合鴨三羽入った煮物を悠々と平らげたという。また、勤王党の同志であり長女の夫の河合茂山の家を訪ねた際も、二分のを平らげたという。


長崎警備で長崎に出張した際、長崎奉行は酒の席で最初に五入りのを饗したが、司書は一気に飲み干した。奉行は更に八合入りの盃を差し向けるとこれも一気に飲み干した。最後に一盃に入れて差し向けると辟易せずにこれを一気に飲み干した様を見て、奉行や周りの人々は司書の大酒に驚いたとされている。

エピソード
1854年、黒田長溥に製鉄事業を任され、外部への見つかり難くさ、製鉄と運搬の効率を考えた結果、深山幽谷であり木炭の生産地であった建部武彦の知行地の犬鳴峠犬鳴谷村(現在の宮若市犬鳴)を選び、犬鳴日原鉄山を開業させた。これは木炭を別の場所へ運ぶより、砂鉄を犬鳴谷に運んだ方が効率が良いとされたためである。さらに1865年、有事の際に福岡藩主が避難する場所として犬鳴御別館を建てさせた。犬鳴日原鉄山や犬鳴御別館の建設により、旧犬鳴村周辺は加藤司書ゆかりの地として、1994年に建設された犬鳴ダムのダム湖には公募の結果「司書の湖」という愛称が付けられているほか、ダム湖より犬鳴川源流側に「司書橋」、福岡県道21号福岡直方線上には「新司書橋」があり、新司書橋の近くのJR九州バス直方線バス停の名前は「司書橋」となっている。また、犬鳴のある若宮町(現宮若市)には「司書太鼓」という太鼓演奏の団体も存在する。犬鳴御別館は現在では石垣の一部とその後に作られた陸軍大将荒木貞夫題字の加藤司書忠魂碑のみが残る。


今様「皇御国(すめらみくに)の武士(もののふ)」の作者である。この歌は前の小学校唱歌軍歌黒田節の一節として知られる。


戦前までは西公園に司書の銅像が建てられていたが、戦時特例により供出され、現在では台座が皇御國の歌碑として残されている。


福岡市中央区桜坂1丁目にはいまもその邸宅跡が残っている。

系譜
・司書の家系である福岡藩重臣の加藤家の家祖は福岡藩祖である黒田孝高有岡城の戦い荒木村重により有岡城幽閉された際に、世話をして救出の手引きをした有岡城牢番の加藤重徳とその長男の加藤吉成である。重徳の家系は摂津国の豪族の藤原北家利仁流加藤氏支流とされる伊丹氏であり、有岡城(伊丹城)落城後は宇喜多家小西行長の家臣となったが、関ヶ原の戦いの後に浪人を経て、福岡藩初代藩主黒田長政に父・孝高救出の功績が認められて加藤家は代々重臣となった。なお、司書の義兄の徳蔵の実家である三奈木黒田家の祖黒田一成は重徳の次男であり、吉成の実弟である。

脚注
1.  石蔵酒造の歴史と博多百年蔵 、2015年7月29日閲覧
2. 『現代華族譜要』 維新史料編纂会編、日本史籍協会、1929, p717
3. 加藤司書西日本シティ銀行、平成2年5月
4. 田尻佐 編『贈位諸賢伝 増補版 上』(近藤出版社、1975年)特旨贈位年表 p.7

参考文献
・『加藤司書傳』全頁 1929年

・『福岡県史 第二巻上冊』253 - 254頁 1963年

川添昭二『新訂 黒田家譜』1984年

田中健之『靖国に祀られざる人々 -名誉なき殉国の志士たちの肖像-』66 - 69頁 2013年

・『アクロス福岡文化誌9 福岡県の幕末維新』47頁 2015年
(wikiより)

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聖福寺の塔頭たっちゅう寺院である。


福岡藩の倒幕派の中心的な立場にあった家老加藤司書の菩提寺である。 裏手にある案内板に詳しく書かれている。

その内容を本ページの最下部にそのまま記す。


伊藤氏メモ『福岡寺院探訪』に次のような記載がある。( 2014 - 12 - 13 )


開基は、黒田藩の家臣 : 加藤重徳 ( 法名:節信院實翁宗是居士 ) にて、開山を月庭禅師という。

重徳は黒田孝高 ( 官兵衛 ) に従い九州へ下り、その後代々黒田家の重臣として仕える。

住職の話によれば、重徳の子 ( 一成 ) は、黒田家の養子となり黒田一成と名乗り、 黒田二十四騎の一人として活躍した。

また、「皇御国の武士はいかなる事をか勤むべき」の筑前今様の作者で知られる勤皇家の加藤司書は、 佐幕派によって切腹を命じられ自刃、当寺に埋葬された。

切腹当時の血染めの衣類 が当寺に残っていたが、戦災にて焼失した。

寺内には、加藤家の菩提寺として一族の墓がある。


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満州義軍(まんしゅうぎぐん)は、日露戦争中の1904年ロシア軍の後方攪乱・兵站破壊を任務として満州の馬賊を集めて創設された特別任務隊である。トップに立ったのは、「花大人(ホアターレン)」として知られた花田仲之助少佐である。彼は、戦争前から、ウラジオストクの西本願寺において僧に化け、「諜報」活動に従事していた。

概要

日露戦争が始まると満州義軍は、同じく馬賊を編成した「遼西特別任務班」と共に大陸の各地で鉄道の破壊や、物資の略奪を行い、ある程度の成果を挙げた。ロシア軍の後方で活動する満州義軍がロシア軍の将兵に与えた心理的ダメージは計り知れない。これらの部隊の総指揮を行ったのは、日本陸軍の情報将校の先駆けで現地満州軍の高級参謀だった福島安正である。実際のところ、満州義軍については、研究がほとんど存在しない。何故ならば、この組織は国際法に抵触する秘匿されたものであり、当時の公式の戦史に記述が存在しないからである。(但し、蜷川新著「黒木軍ト戦時国際法」には付言としてではあるが、言及されており必ずしも「秘匿されていた」とは言い難い。)


福岡市崇福寺内の玄洋社墓地に「満州義軍義士之碑」がある。

文献

旧日本軍の文書、とりわけ諜報活動に関するものは太平洋戦争の敗戦の折、GHQの手に渡るのを恐れその多くが焼却処分されたため、ほとんど現存していない。しかし、2006年9月1日付毎日新聞(全国版)に日露戦争の諜報史料発見の記事が掲載された。この史料の中には、満州義軍に関する情報も多く含まれる。この史料は「発信原稿」と呼ばれ、当時の極秘電文の元原稿を月日順に綴ったものである。個人蔵であるため、まだその全容を閲覧する事は出来ないが、詳しい内容は2006年9月刊行の『軍事史学』(第42巻2号・錦正社)に掲載された「日露戦争と戦場の諜報戦」を参照のこと。


なお、山名正二著『日露戦争秘史・満州義軍』(月刊満州社東京出版部、一九四二年)は、満州義軍の関係者に取材して記された好資料である。また、谷寿夫著(『機密日露戦史』〈明治百年史叢書 第三巻〉原書房、一九六六年)にも、記述はある。
(wikiより)

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高場 乱(たかば おさむ、天保2年10月8日1831年11月11日) - 明治24年(1891年3月31日)は、江戸時代末期の女性儒学者で、医者、教育者。筑前国博多の人。幼名は養命。は元陽のち乱。通称は小刀。号は仙芝など。

経歴

筑前国博多瓦町の眼科医・高場正山の末子として生まれる。高場家は代々眼科医の名門で福岡藩の藩医を努めていたが、幼名の「養命」からうかがえるように、乱は男として育てられた。天保12年(1841年)、10歳で(男として)元服。なお、この元服は藩に受理された公的なものである。異例と言えなくはないが、福岡藩の支藩にあたる秋月藩には原采蘋という男装帯刀の女性儒学者がすでにいた。16歳で一度は夫を得るが、これを不服として自ら離縁、20歳の時に亀井昭陽の亀井塾に入る。亀井塾は身分性別を問わない学風で、実際に女性の弟子も多かった。先に挙げた原采蘋もその一人である。


亀井塾で学問を修めた乱は明治6年(1873年)、福岡藩の薬用人参畑跡(現在博多駅の近く)に私塾興志塾(通称「人参畑塾」)を開設、医業の傍らで教育にも携わる道を選んだ。弟子は何故か乱暴者が多く、乱もあえてそういった人物を拒まなかったという。そのせいか乱は世間から「人参畑の女傑」と呼ばれ、塾も「梁山泊」などと呼ばれていたというが、乱自身は生来虚弱で、華奢であったと伝えられている。そんな興志塾に明治7年(1874年)頃に入門したのが頭山満であるが、彼の他にも後に玄洋社の主要なメンバーとなった平岡浩太郎進藤喜平太箱田六輔武部小四郎などはいずれも興志塾で学んだ。


その弟子たちが起こした明治10年(1877年)3月の福岡の変への関与を疑われ、乱も一時は拘束されるが、釈放されている。その後、頭山らが結成した向陽社(玄洋社の前身)内部の抗争を仲裁するなどしつつ、弟子たちの行く末を見守っていたが、自由民権運動のうねりの中で多くの弟子たちが命を失っていった。ことに、弟子の一人である来島恒喜大隈重信へテロを仕掛け自殺したことには衝撃を受けたようで、これを「匹夫の勇」(思慮浅く、ただ血気にはやって行動したがるだけの勇気)と評した書簡が残っている。来島の自殺の翌年、乱は後を追うように病床に伏し、医者であるにも関わらず一切の治療を拒みながら、弟子たちに看取られつつ逝去した。明治24年(1891年)3月31日のこと、59歳であった。


墓所は福岡市の崇福寺にあり、その墓碑銘「高場先生之墓」は勝海舟が書いている。

参考文献
・永畑道子『凛―近代日本の女魁・高場乱』藤原書店, 1997。 ISBN 978-4894340633

・石瀧豊美『玄洋社・封印された実像』海鳥社、2010年。ISBN 978-4874157879

・荒井周大編『福岡県碑誌』福岡県碑誌保存會、昭和4年(崇福寺・玄洋社墓地の勝海舟の墓碑撰文、漢詩)

・浦辺登著『玄洋社とは何者か』弦書房、2020年、ISBN978-4-86329-154-6
(wikiより)

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⇧ 高場 乱

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⇧⇩ 墓碑銘「高場先生之墓」は勝海舟が書いている。

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来島 恒喜(くるしま つねき、1860年1月31日安政6年12月30日) - 1889年(明治22年)10月18日)は、日本右翼活動家、不平士族、テロリスト。筑前共愛公衆会玄洋社元社員。

概要

外国人司法官任用問題」も参照

福岡藩士・来島又右衛門の二男として現在の福岡県福岡市に生まれる。


高場乱
興志塾に学び、堅志社十一学舎を経て、1879年(明治12年)4月、向陽義塾に加入する[1]

1883年(明治16年)4月、上京し中江兆民に仏語を学んだ後、筑前共愛公衆会や、頭山満率いる玄洋社に参加する。一時、小笠原諸島に玄洋社の的野半介竹下篤次郎と渡り、同地に送られた朝鮮開化党金玉均と過ごし、朝鮮の政治改革について語り合った。


その後、大隈重信の条約改正案に反対し、現状の日本の国際地位ではこの改正案が第一歩として次の改正に繋がると批判しなかった[要出典]玄洋社を退社。(退社の理由は他の社員が共犯関係を疑われて刑事責任を負わされる可能性を最小限に抑える為とも言われる)。計画には同じく玄洋社の社員であった月成功太郎も加わっていたが、老母、妻子を持つ月成の身を欺き、単独で決行した。


1889年
(明治22年)10月18日、外務省からの帰路にあった大隈に、彼の乗る馬車へ爆弾を投げつけた。爆弾は馬車の中に入り、大隈の足元で爆発した[2]。来島はその場で短刀で喉を突き自害した[2]。享年29。大隈は命はとりとめたものの、顔と手に軽症、右膝とくるぶしに重症を負い、右脚を切断することとなった[2]。かねてから条約交渉に反発していた閣僚らは、黒田清隆首相に条約改正交渉の中止を求めた。これにより黒田内閣は総辞職に追い込まれ、条約改正は頓挫した[3]。来島の死後、石工広田徳平により、墓碑が寄贈された。また、博多の玄洋社墓地(崇福寺)にも墓があるが、勝海舟によって谷中霊園にも墓が建てられた。同墓はその後、頭山満によって建て替えられたが、当初の墓石も傍に横たえて残されている。


後に、友好関係にあり眠食も共にした杉山茂丸が自身の著書『百魔』の中で、以前、自決することを仄めかす様な事を言ったとある。また、上京することを杉山に告げた際、時期でないと止められたが、林斧助という人に杉山宛の手紙を残したまま上京した、ともある。

逸話

・大隈の治療は、池田謙斎を主治医とし、手術は佐藤進高木兼寛橋本綱常エルヴィン・フォン・ベルツの執刀で行われた[2]。大隈はその後、来島について「爆裂弾を放りつけた奴を、決して気違いの人間で、憎い奴とは寸毫も思わず。」「華厳の滝に飛び込む弱虫よりは、よっぽどエライ者と思うておる」「いやしくも外務大臣である我が輩に爆裂弾を食わせて世論を覆そうとした勇気は、蛮勇であろうと何であろうと感心する。」と語っている[4]小久保喜七は毎年来島のために年忌を行っていたが、大隈は毎年法要に代理人を送ってきたという。大隈の没後も、養嗣子の大隈信常によって代理人の派遣は続けられた[5]


・来島も学んだ興志塾(通称人参畑塾)の塾長高場乱(たかばおさむ)は国際情勢や日本の国際環境を理解しない浅はかな者だと否定し、批判している[6]。一方で、自決したことには「ながらえて明治の年の秋なから心にあらぬ月を見るかな」という嘆きの歌を詠んでいる[7]


・博多の侠客「勇敢仁平」の異名をとる大野仁平と乱闘となり、燭台で大野仁平の頭をたたき割っている。


・来島の墓碑を寄贈した広田徳平は、後に首相となる広田弘毅の父。また、計画に加わっていた月成功太郎は弘毅の妻の父であり、岳父にあたる。

登場する作品

・『風蕭々』 - 尾崎士郎の短編小説。大隈重信の遭難事件を来島の視点から描いた作品。

日本暗殺秘録(1969年、東映) - 演:吉田輝雄

・『テロルの系譜』「綺異譚 来島恒喜」(1975年、日本文華社) - かわぐちかいじの漫画作品。

春の波涛(1985年、NHK) - 演:堀隆博

夜会の果て(1997年、NHK) - 演:林邦史朗

八重の桜(2013年、NHK) - 演:大平真嗣

・『ゴーマニズム宣言SPECIAL 大東亜論 巨傑誕生篇』(2014年、小学館) - 小林よしのりの漫画作品。

・「高場乱」(2020年、ユーチューブ配信)語り芝居:岩城朋子

脚注
1. 凛―近代日本の女魁・高場乱p16,永畑道子,藤原書店,1997年3月1日

2. a b c d 伊藤之雄 & 2019上, p. 346.
3. 伊藤之雄 & 2019上, p. 346-347.
4. 大隈重信『青年の為に』(東亜堂,1919) p.113https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/933317
5. 伊藤之雄 & 2019上, p. 348.
6. 凛―近代日本の女魁・高場乱,永畑道子p56,藤原書店,1997年3月1日
7. 凛―近代日本の女魁・高場乱p62,永畑道子,藤原書店,1997年3月1日

参考文献
北川晃二『黙してゆかむ―広田弘毅の生涯』(1975年、講談社ISBN 978-4061840959

頭山統一『筑前玄洋社』(1977年9月、葦書房ISBN 978-4751200353

浦辺登『太宰府天満宮の定遠館―遠の朝廷から日清戦争まで』(2009年8月20日、弦書房ISBN 978-4863290266

石瀧豊美『玄洋社・封印された実像』(2010年10月15日、海鳥社ISBN 978-4874157879

小林よしのり『ゴーマニズム宣言スペシャル 反TPP論』(2012年2月24日、幻冬舎ISBN 978-4344021341

伊藤之雄大隈重信(上)「巨人」が夢見たもの』中央公論新社〈中公新書〉、2019年7月。ISBN 978-4-12-102550-0

・浦辺登著『玄洋社とは何者か』弦書房、2020年、ISBN978-4-86329-154-6

関連項目
玄洋社

頭山満

中江兆民

大隈重信

杉山茂丸

大野仁平
(wikiより)

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⇧ 来島恒喜

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頭山 満(とうやま みつる、安政2年4月12日1855年5月27日[1] - 昭和19年(1944年10月5日[1]、幼名:乙次郎)は、日本国家主義者、大アジア主義[2]は立雲[1]


1878年
板垣退助の影響で自由民権運動に参加して国会開設運動を行い、向陽社(のち共愛会)を創設したが、1881年に国会開設の詔勅が出ると共愛会を玄洋社と改名し、自由民権論から離れて国権伸張を主張し、大アジア主義を唱導するようになり、玄洋社の中心人物として対外強硬論を主張し続け、韓国併合などを推進した[2]

概略

頭山満の組織した玄洋社は、日本における民間の国家主義運動の草分け的存在であり、後の愛国主義団体や右翼団体に道を開いたとされる。また、教え子の内田良平の奨めで黒龍会顧問となると、大陸浪人にも影響力を及ぼす右翼の巨頭・黒幕的存在と見られた。一方、中江兆民吉野作造などの民権運動家や、遠縁のアナキスト伊藤野枝大杉栄とも交流があった。また、鳥尾小弥太犬養毅広田弘毅など政界にも広い人脈を持ち、実業家(鉱山経営者)や篤志家としての側面も持っていた[3]


条約改正交渉
に関しては、一貫して強硬姿勢の主張をおこない、また、早い時期から日本の海外進出を訴え、対露同志会に加わって日露戦争開戦論を主張した。同時に、朝鮮金玉均中国孫文蔣介石インドラス・ビハリ・ボースベトナムファン・ボイ・チャウなど、日本に亡命したアジア各地の民族主義者・独立運動家への援助を積極的に行った[4]

生涯
初期の経歴

安政2年(1855年)4月12日、筑前国早良郡西新町福岡藩士・筒井亀策の三男として生まれる[1]。幼名は乙次郎(おとじろう)[5]。のちに鎮西八郎為朝にあやかって、自ら八郎と名を改める[6]。13歳の時には、太宰府天満宮の「満」から名前を授かって筒井満と改める[6]。1871年、16歳の時に、父の従弟の山本兵蔵の養子となり、山本に姓をあらためるが、しばらくして実家に戻る[7]。1873年の春に、男手のなかった母方の頭山家に当時3歳だった娘の峰尾の婿として迎え入れられ、頭山に姓を改める[7]。なお、頭山が峰尾と正式に結婚するのは、1885年頭山が30歳になってからである[7]。筒井家は福岡藩百石取りの馬廻役であったものの、家計は苦しかった[5]

町でサツマイモを売り歩く貧しい少年時代をすごす[要出典]。「小さいときから記憶力が強くて物事を語ることが鋭敏」だったと言われている。幼少期に桜田義士伝の講談に連れて行かれた際に、家に帰ってから最初から最後までを人名とともに説明してみせた、という記憶力の良さを示すエピソードが伝わる[6]慶応元年(1865年)、11歳の時に「楠木正成のような人物になりたい」という思いから生家の庭に植えたクスノキが、現在も生家跡(現・西新エルモールプラリバ)北側の西新緑地に残る[6][8]


16歳の時、福岡藩の勤皇派の流れを汲む[要出典]、男装の女医(眼科医)で儒学者の高場乱(たかば おさむ)が開いていた興志塾(高場塾[要出典]、人参塾とも)に入門する[9]。初めは眼病を患い治療のために高場のもとに訪れたが、治療のために通っているうちにこの塾の話を高場に聞かされ興味を持ったことが、入塾のきっかけだった[10]。興志塾は他の塾では断られるような乱暴な少年たちを好んで入門させており、腕白少年たちの巣窟と言われていた。頭山はここで進藤喜平太箱田六輔ら後の玄洋社の創設メンバーと出会う[要出典]。頭山は晩年、当時のことを「教えは徹頭徹尾、実践だった」と回想している[要出典]。頭山は、この興志塾で熱心に学問に取り組み、高場の代わりに浅見絅斎の『靖献遺言』を講義することもあった[11]。この『靖献遺言』は、中国及び日本の中心や義士の遺文や略伝、行状を載せたものであり、幕末の尊王倒幕の思想に大きな影響を与えたといわれている[12]。『靖献遺言』をはじめとしてこの時期に学んだ文献によって、頭山の思想的基盤が形作られたとみられている[11][13]


頭山が興志塾で学んでいた頃、板垣退助らを中心として全国的に自由民権運動が盛んになっていた[14]。1874年の愛国公党の結成を経て、板垣は1875年2月に大阪で愛国社を結成する[14]。この結成大会には興志塾出身の武部小四郎越知彦四郎が参加しており、同年の8月には福岡に戻り、武部を社長とする矯志社(きょうししゃ)、越知を社長とする強忍社(きょうにんしゃ)、箱田六輔を社長とする堅志社(けんししゃ)を設立した[15]。頭山はこのうちの矯志社の社員となった[15]


1874年の佐賀の乱をはじめとして、明治9年(1876年)には神風連の乱、秋月の乱などの不平士族の反乱が相次いで起こった[16]。続いて同年、頭山らの矯志社とつながりの深かった前原一誠が萩の乱起こしたが、この反乱に呼応して矯志社が決起することはなかった[17]。しかし、矯志社は以前から警察当局に警戒されており、同年11月に矯志社の社員でもあった箱田が家宅捜査を受けると、社内で議論されていた大久保利通襲撃を示す文書が見つかり箱田が逮捕される[17]。この逮捕が不当であると抗議するために頭山らは警察に赴くがそのまま拘束され、投獄された[17]。初めは福岡の牢獄に入れられていたが、後に萩に移送された[17]。翌年の西南戦争は獄中で知ることになる。西南戦争時には、約500名の旧福岡藩士も呼応して決起(福岡の変)し、武部や越知がこの中心であった[18]。彼らと同じように、尊敬する西郷隆盛とともに戦えなかった頭山らの悔しい思いが、玄洋社の原点になっている[要出典]。頭山らが釈放されたのは、皮肉にも西郷が自刃した9月24日であった[18]。頭山らは福岡に戻り、海の中道の土地を官有地の払い下げで手に入れる[19]。開墾社を創設して、山林を伐採してその木材を販売し[19]、田畑を開墾して自給自足の生活を送りながら心身の鍛錬に励み[要出典]、来るべき時に備える日々を送った。しかしこの生活も一年半で金銭的に行き詰まった[19]

自由民権運動への参加

西南戦争の翌年の明治11年(1878年)5月14日、大久保利通が暗殺される(紀尾井坂の変)。西郷討伐の中心人物の死を受け、板垣退助が西郷隆盛に続いて決起することを期待して頭山は高知に旅立つ。しかし、板垣は血気にはやる頭山を諭し、言論による戦いを主張する。これをきっかけに自由民権運動に参画した頭山は、板垣が興した立志社集会で初めて演説を体験し、植木枝盛ら民権運動家と交流を結ぶ。


高知から福岡に戻った頭山は福岡の街の不良たちを集め、12月に向陽社を結成し[1]、力づくで地元炭鉱労働者の不満や反発を抑えるようになる。このときも興志塾、開墾社時代からの仲間である進藤喜平太(第二代玄洋社社長)、箱田六輔(第四代社長)が行動をともにし、箱田が向陽社の初代社長となった。翌年1月には、福岡の豪商たちの支援を受けて向陽義塾を開校した。一方で、この時期は日清の対立が表面化した時でもあり、血気盛んな向陽社では、「討清義勇軍」の募集を行い武道の訓練を熱心に行ったと記録されている。子分に気前良く金を与え「スラムの帝王」として知られるようになると地元の政治家達もその暴力に一目おくようになる。

玄洋社
設立

玄洋社は、自由民権運動の結社であった向陽社を改名して結成された[1]。成立年については諸説があり、大正時代に書かれた『玄洋社社史』では明治14年(1881年)2月となっているが、それ以前の活動の記録が残っており、最近では明治12年(1879年)12月成立という研究結果もある[要出典]。社員は61名。自由民権運動を目的とした結社であり、また誰もが例外なく西郷隆盛を敬慕しており、束縛がなくきわめて自由な組織だったと言われている。このなかから、異彩を放つ人材が数々輩出し、近代史に足跡を残すことになる。箱田六輔(30歳)・平岡浩太郎(29歳)・頭山満(25歳)は「玄洋社三傑」と称された。

憲則三条

結成の届け出の際に示された玄洋社の基本精神である「憲則三条」は次の通りである。


・第一条 皇室を敬戴すべし。

・第二条 本国を愛重すべし。

・第三条 人民の権利を固守すべし。

政党政治時代
明治13年(1880年)5月に、頭山は福岡から徒歩で東京に向かい、早稲田の近くに一軒家を借りて住み始めた。7月初めには東北地方に行脚の旅に出て、福島の河野広中はじめ多くの民権運動家と出会った。明治14年(1881年)、政府は国会開設の詔を発布し、九年後の国会開設を決定した。自由民権運動は軌道に乗り、板垣退助自由党を結成して政党政治の時代に移行する。九州でも民権派が結束して九州改進党が発足し、玄洋社にも誘いが来た。しかし、党利党略に明け暮れる運動家たちを嫌った頭山は加盟を見合わせ、玄洋社の面々は各自の事業に専念するようになる。『玄洋社社史』は当時の様子を「頭山は平尾の山荘にあって社員らと農業にいそしみ、箱田は養蚕を業とし、平岡は鉱業に専念する」と伝えている。

金玉均と朝鮮独立党支援

明治17年(1884年)12月6日、朝鮮で日本と結んで自国の近代化を目指した金玉均が率いる独立党によるクーデター(甲申政変)が起こるが、清国軍の介入により三日間で失敗に終わった。


頭山は翌年、半島から長崎にたどり着いた金玉均と神戸の西村旅館で会い、支援のため当時の金で500円(2020年現在の価値で約1,000万円程度)という大金を渡した。

福陵新報創刊
明治20年(1887年)8月、頭山は『福陵新報』(九州日報の前身)を創刊し、社長に就任した。玄洋社の中心的人物でありながらその社長になることすらなかった頭山が生涯で唯一持った肩書だった。紙面は活気に満ち売れ行きも順調であった。この時期に議論の的となったテーマは、不平等条約改正反対運動の盛り上がり、清国に対する敵愾心などである。


不平等条約改正問題
政党政治が始まった当時の日本で、最も関心が高かったテーマの一つが条約改正である。これは、幕末に結ばれた不平等条約を対等条約に改めようという政治課題であるが、実際に政府が作る改正案はいまだに諸外国の圧力に屈した内容であったため、自由民権運動の流れを汲む活動家たちは「改正反対」を声高に訴えていた。頭山は、その不平等条約改正反対運動のリーダー的存在であり、また民権主義を訴えるだけでは国家の存立は困難と考え自由民権運動とは一線を画す手法をとるようになっていた。明治22年(1889年)10月18日、首相・黒田清隆が「改正を断行する」と閣議で発言したのを受けて、改正交渉の責任者であった外相・大隈重信が外務省門前で爆弾を投げ付けられて右脚切断の重傷を負う事件が起きた。犯人の来島恒喜は元玄洋社員だったが、その場で頸動脈を切って自殺したため背後関係は不明のままとなった。この事件で黒田内閣は瓦解、条約改正交渉も白紙に戻った。

選挙干渉

明治23年(1890年)7月、第1回衆議院議員総選挙が行われ、政府側は敗北した。日清戦争に向けての軍備拡大を進める政府の予算案は、第一回の議会では土佐派の切り崩しで辛うじて通過したが、翌年の議会では否決される形勢となった。そこで首相・松方正義は衆議院を解散するとともに、次の選挙での民党の締め付けを行った。これが明治25年(1892年)の選挙干渉であり、民党支持者に対して買収や脅迫が公然と繰り広げられ、時には警官までもが動員された。玄洋社も選挙干渉への協力を求められ、その実行者となった。


大規模な選挙干渉にもかかわらず、第2回衆議院議員総選挙も政府側の敗北に終わった。その後、玄洋社は結社としての活動を縮小し、頭山は自由民権運動の志士から脱却し、「国士」としてアジア主義への道を歩み始める。

孫文と頭山

明治28年(1895年)、日清戦争の終結後、広州での武装蜂起を企てた孫文が、密告されたため頓挫し日本に亡命した。孫文は明治30年(1897年)、宮崎滔天の紹介によって頭山と出会い、頭山を通じて平岡浩太郎から東京での活動費と生活費の援助を受けることになった。また、住居である早稲田鶴巻町の2千平方メートルの屋敷は犬養毅が斡旋した。


明治32年(1899年)、義和団の乱が発生し、翌年、孫文は恵州で再度挙兵するが失敗に終わった。明治44年(1911年)、辛亥革命が成功し、その翌年、孫文が中華民国臨時政府の大総統に就任すると、頭山は犬養とともに中国に渡って会見し、長年の苦労をねぎらった。その後、袁世凱に大総統の座を譲った孫文は、大正2年(1913年)の春に前大総統として来日し各地で熱烈な大歓迎を受け、福岡の玄洋社や熊本の宮崎滔天の生家にも立ち寄った。このとき既に頭山は袁世凱の動向を強く懸念していたというが、その予言通り袁世凱と争って破れた孫文は、再び日本への亡命を余儀なくされた。日本政府は袁世凱支持に回っていたため孫文の入国を認めない方針をとっていたが、頭山は犬養を通じて首相・山本権兵衛に交渉し、亡命を認めさせた。孫文が匿われたのは霊南坂(現港区)にあった頭山邸の隣家である。

アジア主義とその挫折

明治35年(1902年)、欧米列強によるの半植民地化が加速し、日本とロシアの対立が鮮明になるなか、日本は対ロシア戦略のもとに日英同盟を締結し、頭山も対露同志会を設立した。明治37年(1904年)、日露戦争が勃発すると玄洋社は若者を中心に満州義軍を結成、参謀本部の協力を得て満州の馬賊を組織し、ロシア軍の背後を撹乱するゲリラ戦を展開した。


玄洋社は孫文の革命運動への支援と並行して、明治43年(1910年)の日韓併合にも暗躍したとされている。杉山茂丸内田良平などの社員もしくは250余名の関係者が日韓の連携のために奔走したのは事実だが、玄洋社が目指していたのは植民地化ではなく、「合邦」という理想主義的な形態だったと見られている。「合邦」の詳細については定かではないが、内田は現実の日韓併合に対して憤激しており、初めは協力的だった玄洋社と日本政府の関係は後に大きく離間していった。


大正4年(1915年)、頭山は孫文の仲介により、インドの独立運動家ラス・ビハリ・ボースと会談し、支援を決意した。当時のラス・ビハリ・ボースはイギリス領インド帝国植民地政府から追われ日本へ亡命していたものの、イギリス政府および植民地政府から要請を受けていた日本政府によって、国外退去命令を受けていた身であった。


並行して日本国内では、1919年11月、河合徳三郎梅津勘兵衛倉持直吉青山広吉篠信太郎西村伊三郎中安信三郎を中心とし、原敬内閣の内務大臣・床次竹二郎立憲政友会)を世話役に、伯爵大木遠吉を総裁、村野常右衛門を会長、中安信三郎を理事長として、会員数60万と称する大日本国粹会を立ち上げた。

またボースの紹介により、当時のインドの独立運動家で、アフガニスタン首長国インド臨時政府を樹立していたマヘンドラ・プラタップにも会った。大正12年(1923年)、頭山は来日したプラタップの歓迎会を開き、援助を約束した。そして、アフガニスタンが統一されると「わが明治維新の当時を想わしむ」との賀詞をアフガニスタン首長に送った。


頭山はこのような独立支援の対象をフィリピンベトナムエチオピアなど当時アメリカフランスイタリアなどの列強帝国主義の元にひれ伏していた地にも拡大していった。


大正13年(1924年)11月、孫文は最後の日本訪問を行い、神戸で頭山と会見した。日本軍の中国東北部への侵攻により日中関係が憂慮すべき事態となっているのを受けての会談であったが、孫文が撤退への働きかけを申し入れたのに対し、日本の拡大がアジアの安定につながると真摯に考えていた頭山はこれを断った。会見の翌日、孫文は「大亜細亜問題」と題する講演を行い、その4ヵ月後に病没した。


翌年、孫文の後継者として蔣介石中華民国の国民軍総司令官に就任したが、その2年後には下野して頭山を頼って来日し、孫文と同様に頭山邸の隣家で起居する。後に蔣介石は、頭山らに激励を受けて帰国し、孫文の宿願であった北伐を成功させる。昭和4年(1929年)、南京の中山稜で行われた孫文の英霊奉安祭に、頭山は犬養毅とともに日本を代表して出席している。


昭和7年(1932年)の関東軍の主導による満州国建国は、頭山の理想とは大きくかけ離れていた。昭和10年(1935年)、来日した満州国皇帝溥儀の公式晩さん会への招待を、頭山は「気が進まない」との理由で断わっている。

詳しいことは、『頭山 満ウィキペディア』をご覧ください。 ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A0%AD%E5%B1%B1%E6%BA%80
(wikiより)

041 頭山満

⇧ 頭山 満

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玄洋社(げんようしゃ、1881年 - 1946年)は、旧福岡藩(黒田藩)士が中心となって、1881年明治14年)に結成されたアジア主義を抱く政治団体。日本で初めて誕生した右翼団体ともいわれる[1]

概要
当時の在野の多くの政治結社と同じく、欧米諸国の植民地主義に席捲された世界の中で、人民の権利を守るためには、まず国権の強化こそが必要であると主張した。また、対外的にはアジア各国の独立を支援し、それらの国々との同盟によって西洋列国と対抗する大アジア主義を構想した。明治から敗戦までの間、政財界に多大な影響力を持っていたとされる。

主な活動

1881年(明治14年)、平岡浩太郎を社長として旧福岡藩士らが中心となり、杉山茂丸頭山満箱田六輔大原義剛福本誠内田良五郎内田良平の父)、進藤喜平太進藤一馬の父)、月成功太郎末永純一郎武井忍助古賀壮兵衛的野半介月成勲児玉音松らが創立に参画し、新聞「福陵新報」を創刊し、吉田磯吉といった侠客や、「二六新報」の主筆・鈴木天眼もしばしば関係した。


戦前、戦中期にかけて軍部官僚財閥政界に強大な影響力を持ち、日清戦争日露戦争第一次世界大戦そして第二次世界大戦日本の関わってきた数々の戦争において情報収集や裏工作に関係してきた。またアジア主義の下に、中国孫文李氏朝鮮金玉均をはじめ、当時欧米諸国の植民地下にあったイスラム指導者などアジア各国の独立運動家を支援した。ただし「玄洋社の連中がわしが半島に行って乱を起こしてやると吹聴していた」のは、東学党の綱領の中に「排日」があったので、ただの大言壮語であろうと陳舜臣たちは述べている[2]


玄洋社の社則の条項は「皇室を敬戴すべし」、「本国を愛重すべし」、「人民の権利を固守すべし」というものであった。当時、薩長藩閥政府による有司専制を打破するために、議会の開設を要求した有力な政治勢力の一つは、今日「右翼」と称される玄洋社などの民間結社であった。しかし、これらの勢力が議会開設後に一転して政府と一体になって選挙干渉に転じた。その理由は、当時の議会が「民力休養」を掲げ、軍事予算の削減を要求しながら清国との戦争を躊躇していたためであった。玄洋社は、テロも含めた激しい選挙干渉を実行している。

外国人司法官任用問題」も参照


他に玄洋社が関わった有名な事件としては、1889年(明治22年)の大隈重信爆殺未遂事件がある。当時外務大臣だった大隈重信は、日本が幕末に結んだ不平等条約の改正をはかったが、その改正案は関係各国に対しかなり妥協的であり、国民的反対運動がたちまち全国を覆った。しかし、剛毅な大隈は決して自案を曲げなかったため、玄洋社社員の来島恒喜が大隈に爆弾を投擲し、自身もその場で咽喉を斬って自決したのである。来島の投げた爆弾は過激自由民権運動家の大井憲太郎から提供されたものと言われている。事件で大隈は右足を失いながらも、尚自説を貫く決意であったが、政府は方針を急転し、大隈は辞職したため、この妥協的改正案は見送られることとなった。


玄洋社の社員らが掲げた有名なスローガンには「大アジア主義」(孫文の神戸演説に語源があるとされる)がある。彼らは、朝鮮の親日開化運動家金玉均朴泳孝インドの独立運動家ラース・ビハーリー・ボースらを庇護し、アメリカと独立戦争を戦うフィリピンアギナルドへは武器と義兵を送ろうとした。


1901年
(明治34年)に、内田良平らが黒龍会(玄洋社の国外工作を担う)を設立してからは、より多彩な活動が展開されるようになる。孫文らの辛亥革命を支援するために、多くの浪人たちが清朝政府軍やその後の軍閥政府軍と戦っている。


日露戦争中全般にわたり、ロシア国内の政情不安を画策してロシアの継戦を困難にし、日本の勝利に大きく貢献した明石元二郎も玄洋社の社中(社員)であった。陸軍参謀本部参謀次長長岡外史は「明石の活躍は陸軍10個師団に相当する」と評した。また、ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世は「明石元二郎一人で、満州の日本軍20万人に匹敵する戦果を上げている。」といって称えた。


また、日韓問題については、内田良平は一進会の領袖李容九と、日本と大韓帝国(韓国)の対等な立場での合邦を希望し運動した。


昭和に入ると、玄洋社と関係の深かった中野正剛らは、大日本帝国憲法朝鮮台湾にも施行して、内地と朝鮮の法律上の平等の徹底(参政権は属地主義であったため、日本内地在住の朝鮮人、台湾人にのみ選挙権、被選挙権があった)をはかるべきと主張した。一方、頭山満と親交のあった葦津耕次郎らは、国家として独立できるだけの朝鮮のインフラ整備は既に完了したとして朝鮮独立を主張した。葦津は、満州帝国に対する関東軍の政治指導を終了すべきことも主張している。

新聞発刊
新聞「福陵新報」を1887年(明治20年)8月から発行した。これは1898年(明治31年)に「九州日報」と改題し、さらに1942年(昭和17年)には新聞統制に伴い「福岡日日新聞」に合併されて「西日本新聞」となり、現在に至っている。

政治との関連

進藤喜平太の子息で、中野正剛秘書や玄洋社の最後の社長を務めた進藤一馬は福岡市長となった。


多くの玄洋社の運動家を輩出した福岡藩の藩校である修猷館は、現在は県立高校(福岡県立修猷館高等学校)となった。進藤の跡を継ぎ1986年(昭和61年)から1998年平成10年)まで福岡市長を務めた桑原敬一も修猷館高校出身である。


また、玄洋社の思想に共鳴した柴田徳次郎によって、関東一円の学生によって設立されたのが青年大民團である。青年大民團は玄洋社の思想を多くの青年へ教育するための教育機関として私塾國士舘を設立しており、こうした関係から第二次世界大戦直後は国士舘はその名称を変更させられていた時期もあった。


記念館・記念碑

福岡市中央区舞鶴の玄洋社跡地に隣接して建てられた雑居ビル「玄洋ビル」内に、玄洋社関係の各種資料を収蔵した「玄洋社記念館」があった。1978年11月に開館したが、2008年5月末をもって閉館され、資料は福岡市博物館に寄託される[3]


なお、玄洋ビルは後に解体されたが、同ビル跡の隣にあるNTTドコモ舞鶴ビルの一角に記念碑が設置されている[4]


また、博多区崇福寺には頭山満来島恒喜など社員の墓がある。

歴代社長
1. 平岡浩太郎

2. 進藤喜平太

3. 阿部武三郎

4. 箱田六輔

5. 進藤喜平太(再任)

6. 喜多嶋淳

7. 月成勲

8. 美和作次郎

9. 吉田庾

10. 進藤一馬

著名な出身者

川上音二郎

須永元

杉山茂丸

寺田栄鳩山由紀夫の曾祖父)

明石元二郎

中野正剛

緒方竹虎

月成功太郎

中村天風

山座円次郎

内田良平

末永節

来島恒喜

横山雄偉

広田弘毅[注釈 1]

小野(三木)隆助  
堀川辰吉郎(孫文の辛亥革命に助力)[信頼性要検証]

吉岡友愛

関連人物
夢野久作

犬養毅

松岡洋右

真藤慎太郎

安川敬一郎

安川第五郎

山崎和三郎山崎拓の祖父)

深作清次郎

宮崎滔天

桃中軒雲右衛門

脚注
注釈
1. 広田弘毅伝記刊行会編『広田弘毅』どでは正式な社員とならなかったとしており、『落日燃ゆ』などでも踏襲されている。しかし玄洋社記念館の館報『玄洋』第2号の記述から服部龍二は広田が正式な社員になったとしている[5]。また東京裁判開廷前の尋問では「イギリスから帰ったとき青年教育のために入社するよう求められ、改めて社員になった」と供述している[6]

出典
1. 石原莞爾の「墓守」は軍歌を流す街宣車を追い払ったJcast
2. 司馬遼太郎『司馬遼太郎対話選集』9「アジアの中の日本」p194、文春文庫
3. 玄洋社記念館 月末で閉館 政治結社の足跡伝え30年 資料、市立博物館に寄託へ - 西日本新聞(2008年5月25日)
4. 玄洋社跡碑 - 地域情報サイト ZAQ(2012年9月26日閲覧)
5. 服部 2008、pp.4-6、p.16
6. 服部 2008、pp.229-230、『国際検察局尋問調書』第28巻よりの引用

参考文献
・頭山統一『筑前玄洋社』(葦書房) ISBN 9784751200353

葦津珍彦『大アジア主義と頭山満』(葦津事務所) ISBN 9784901577090

宮崎滔天萱野長知北一輝著『アジア主義者たちの声』書肆心水、2008年。ISBN 9784902854428

・石瀧豊美『玄洋社・封印された実像』海鳥社、2010年。ISBN-13: 978-4874157879

服部龍二『広田弘毅―「悲劇の宰相」の実像』中央公論新社中公新書〉、2008年。ISBN 4121019512

・嵯峨隆『頭山満 アジア主義者の実像』ちくま新書、2021年、ISBN978-4-480-07433-1

関連項目
黒龍会

浪人会

東方会

自剛天真流

青年大民團

児玉誉士夫

国士舘大学

外部リンク
玄洋社史概観
(wikiより)

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自剛天真流(じごうてんしんりゅう)は、福岡藩伝来の武術の一つ。別名、為勢自得天真流。

概要
創流時は全てのものを武器として使用する綜合武術であったが、現在では主に柔術が相伝されている。古式の技法が数多く残されており、逆手を中心とした関節技、居取、拳法、逮捕術、活法など多彩な技を今に伝えている。また2005年に福岡市無形文化財に指定された[1]

歴史

流祖の藤田麓憲貞は、黒田藩武術指南役の久保貞次のもとで良移心当流を収めた後、柔術の代表である揚心流秋月藩武術指南役の海賀藤蔵直方に師事し、極意皆伝を受けた後、二流に自己の工夫を加えて、為勢自得天真流を輿こした[2]。藤田麓憲貞は、大いに名声を博し、大坂奉行所の武術指南として活躍したが、1839年(天保10年)に病没した。


藤田の一人娘を娶った庄林道ーの在世中、および子息又七郎が相伝のころまでは、良移心当流と為勢自得天真流の両派の名称で指南したようである[2]。又七郎が壮年時に病没したので、高弟達が合議した結果、その流名を白剛天真流と称するようにしたようである。圧林道ーの自著した伝書に自剛天真の巻があり、これに基づいたとされる[2]


庄林藤橘の没後、玄洋社の附属道場明道館が伝承の中心的な役割を担った。また、玄洋社から分かれた黒龍会の創始者内田良平天真館を設立し、自剛天真流の普及につとめた。

伝系

山本義泰によれば以下の通り[2]で、良移心当流の伝系と同一視されている。

庄林家

・藤田麓憲貞(流祖)

・庄林藤原道一(初代)

・庄林又七郎(2代)

・庄林藤橘(3代) - 藤橘の代で庄林家の相伝は絶えた。


明道館道場

・宮川太一郎 - 庄林又七郎の高弟、免許皆伝。

・猪股雲八 - 庄林又七郎と庄林藤橘に師事、免許皆伝。

・坪田必義勝 - 庄林又七郎と庄林藤橘に師事、免許皆伝。

・吉田繁次郎 - 坪田必義勝の高弟、免許皆伝。

・竹田乙麿 - 庄林藤橘と猪股雲八に師事、免許皆伝。

・十時惟隆 - 竹田乙麿の高弟、免許皆伝。

・横田正米清廣 - 竹田乙麻呂の高弟、免許皆伝。

・財部一郎 - 横田正米清廣に師事。


天真館道場

・山田六郎貞信 - 庄林藤橘と猪股雲八に師事、免許皆伝。

西文雄 - 講道館柔道の師範。免許皆伝。伝書類の再興に貢献した。

・藤川恒夫

・野田清美

・前田実

・赤司智治 - 西・藤川・野田・前田の4氏に師事、免許皆伝

・昭和義塾

・赤司智治 免許皆伝 現在、以下4名を師南

・明道館

・石橋晋平 

・昭和義塾道場(タフス道場)

・松田大次老

・昭和義塾道場

・花岡一誠

・恒久尚利 

脚注
1. 平成16年指定文化財” (日本語). 福岡市の文化財. 2020年4月29日閲覧。
2. a b c d 山本義泰「自剛天真流組討について」『天理大学学報体育編』第36巻第4号、天理大学学術研究会、2009年3月、 102-118頁。

外部リンク
福岡市指定無形文化財 為勢自得天真流柔術

・山本義泰「自剛天真流組討について」『天理大学学報』第146号、天理大学学術研究会、1985年3月、 102-118頁、 ISSN 03874311NAID 120005980638

・宗家自剛天眞流保存会ホームページ jigoutenshinryu.jp
(wikiより)

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NHK大河ドラマ記念植樹


黒田親子桜


平成二十六年三月二十日


小石原焼 太田和孝
(案内板より)

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時代安土桃山時代
生誕天正10年(1582年
死没慶長2年(1597年
墓所

崇福寺福岡市博多区

圓應寺
氏族黒田氏
父母父:黒田孝高(官兵衛・如水)
母:櫛橋光(幸圓、照福院。櫛橋伊定娘)
兄弟長政熊之助

黒田 熊之助
(くろだ くまのすけ)は、安土桃山時代の人物。黒田孝高の次男。

生涯

天正10年(1582年)、黒田孝高と正室の次男として播磨国姫路にて生まれる。兄に黒田長政がいる。


慶長
2年(1597年)7月、豊前中津城で留守中、兄、長政の朝鮮出兵(慶長の役)に加われなかったことを嘆き、中津城から抜け出し秘密裏に朝鮮へ渡る途中、が嵐にあい転覆、16歳で死去した。その時、一緒に船出した家臣の子、母里吉太夫母里友信嫡男)、加藤吉松黒田一成弟)、木山紹宅の3人も一緒に溺死した。死後、母の光は自身が創建した圓應寺福岡市中央区)に熊之助の霊を弔った。のち崇福寺(福岡市博多区)にも墓碑が建立された。

関連作品
軍師官兵衛2014年、演:佐藤陽大田中悠翔北村凌駕荒井雄斗今井悠貴
(wikiより)

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時代江戸時代前期 - 中期
生誕寛文7年6月26日1667年8月15日
死没享保5年2月23日1720年3月31日
改名平八(幼名)→長清
戒名龍湫院殿瑞林道祥大居士
墓所東京都港区南麻布の]の天真寺
福岡県直方市山部の雲心寺
和歌山県高野山奥の院
官位従五位下、伊勢
幕府江戸幕府
筑前直方藩
氏族黒田氏
父母父:黒田光之、母:市松姫小笠原忠真の娘)
兄弟綱之綱政長清
正室:賀留(小笠原長勝三女)
継室:伊予(小笠原長勝五女)
側室:宮井氏
利(佐竹義峯正室)、男子、継高

黒田 長清
(くろだ ながきよ)は、筑前直方藩(福岡新田藩)の藩主。黒田光之の五男。

略伝

寛文7年(1667年)6月26日、江戸麻布の藩邸に生まれた。元禄8年(1688年)、兄の綱政が本家の福岡藩を継いだとき、筑前鞍手郡内に5万石を分与され、福岡新田藩を立藩した。


綱政の死後、本家の家督はその子・宣政が継いだが、宣政は生来から病弱で政務を執れず、嗣子もいなかった。このため、長清の長男・継高がその養嗣子となり、長清は宣政の後見人となった。享保5年(1720年)2月23日、江戸麻布の藩邸にて死去した。享年54。


継高は本家を継いでおり、他に嗣子が無かったため、直方藩は廃藩となり、その所領は福岡藩に還付された。長清の供養塔が高野山奥の院にあるが荒廃し、現在は無残な姿となっている。
(wikiより)

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時代江戸時代前期
生誕寛永11年(1634年
死没寛文3年7月25日1663年8月27日
改名万吉(幼名)→政之(初名)→之勝
別名官兵衛(通称
戒名乾徳院殿高峯宗堅大居士
墓所東京都渋谷区広尾の祥雲寺
福岡県直方市山部の雲心寺
官位従五位下、市正右馬頭
幕府江戸幕府
筑前東蓮寺藩
氏族黒田氏
父母父:黒田忠之、母:養照院(坪坂十右衛門の娘)
養父:黒田高政
兄弟光之之勝
正室:松平定頼の娘
継室:池田輝興の娘)
娘、養子:長寛

黒田 之勝
(くろだ ゆきかつ)は、筑前東蓮寺藩の第2代藩主。福岡藩2代藩主黒田忠之の次男。

略歴

寛永16年(1639年)11月、叔父で東蓮寺藩主であった黒田高政が嗣子無くして死去したため、翌年に高政の養嗣子としてその跡を継いだ。しかし之勝も娘1人だけしか生まれず、寛文3年(1663年)7月25日に江戸麻布の藩邸にて死去した。享年30。


福岡藩3代藩主の兄光之の三男・長寛(後の福岡藩4代藩主黒田綱政)が養嗣子として跡を継いだ。
(wikiより)

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黒田 長政(くろだ ながまさ)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将大名筑前国福岡藩初代藩主。


戦国武将・黒田孝高(官兵衛・如水)の嫡男九州平定文禄・慶長の役で活躍した。特に関ヶ原の戦いでは東軍につき大きな戦功を挙げたことから、徳川家康より筑前国名島に52万3千余の封を受け、福岡藩を立藩し初代藩主となった。長政も父の孝高と同じくキリシタン大名であったが、棄教した。

生涯
出生
長政は永禄11年(1568年)12月3日、黒田孝高と正室櫛橋光嫡男として播磨姫路城にて生まれる。幼名は松寿丸(しょうじゅまる)といった[2]。当時、この名前は縁起の良い名前として、武将の嫡子にはよくつけられた名前である。当時の黒田家は御着城主・小寺政職の家老として、小寺姓を賜って名乗っていたため、小寺吉兵衛とも呼ばれる。

織田家の人質時代

長政の父・孝高は中央の織田信長に伺候し、織田氏家臣の羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)に従っていたが、天正5年(1577年)10月15日に孝高は秀吉に対して起請文を提出し、松寿丸を人質として秀吉に預けている。これは信長が播磨諸侯に人質の提出を命じたものの、主君の政職が嫡子・氏職が病弱であることを理由に、松寿丸を代わりに提出させたためとされる[3]


松寿丸は秀吉の居城・近江長浜城にて、秀吉・おね夫婦から人質ながら、我が子のように可愛がられて過ごしたという。この頃、別所重棟の娘と婚約しているが、のちに破談となった。


天正6年(1578年)、信長に一度降伏した荒木村重が反旗を翻した(有岡城の戦い)。父の孝高は、懇意であった村重を翻意させるために有岡城へ乗り込むも説得に失敗し逆に拘束された。この時、いつまで経っても戻らぬ孝高を、村重方に寝返ったと見なした信長からの命令で松寿丸は処刑されることになった。ところが、父の同僚・竹中重治(半兵衛)が密かに松寿丸の身柄を居城・菩提山城城下に引き取って家臣・不破矢足(喜多村直吉)の邸[注釈 1]に匿い、信長には処刑したと虚偽の報告をするという[注釈 2]機転を効かせた[1][要ページ番号][注釈 3]


有岡城の陥落後、父が救出され疑念が晴らされたため[注釈 4]、姫路へ帰郷した。

羽柴(豊臣)家の家臣として

天正10年(1582年)6月、本能寺の変で信長が明智光秀の襲撃によって自刃すると、父と共に秀吉に仕える。秀吉の備中高松城攻めに従い、初陣の冠山城の戦いなど中国地方毛利氏方と戦った(備中高松城の戦い)。


天正11年(1583年)、賤ヶ岳の戦いでも功を挙げて、初めて河内国内に450石の領地を与えられる。


天正12年(1584年)、小牧・長久手の戦いでは大坂城の留守居を務め、雑賀衆根来衆菅達長率いる長宗我部水軍と戦った。その功績により、加増2,000石を与えられる。


天正15年(1587年)、九州平定において、長政自身は日向財部城攻めで功績を挙げた。戦後、父子の功績をあわせて孝高に豊前国中津に12万5,000石が与えられた。しかし豊前の国人勢力を懐柔するのは困難であった。その中の有力領主の一人・城井鎮房(宇都宮鎮房)は秀吉の出陣要請に対して、病気と称して自身は出陣せず、息子の城井朝房に僅かな手勢を付けて参陣させた。だが、このような鎮房の態度に秀吉は不信を抱き、以後の豊前国の治世の困難を憂慮して九州平定後、鎮房に伊予国への移封を命ずる。移封は加増を伴ったものであるが鎮房は先祖伝来の地に固執して朱印状の受け取りを拒否し、秀吉の怒りを買うに至る。


この期に及んでは穏便に事を修めることが不可能と悟った長政は城井谷を攻撃したが、地の利のある鎮房のゲリラ戦術に苦戦した。そこで黒田父子は付け城を築いて兵站を断つ持久戦法をとり、他の国人勢力を各個攻め下していった。これが功を奏し形勢は逆転し、鎮房は12月下旬に13歳になる娘・鶴姫を人質に差し出すことを条件に和議を申し出、それが受け入れられ鎮房は恭順を誓った。しかし、秀吉の承認を得ることは出来なかった。秀吉の承認を得ることができないと知った長政は、城井一族の誅伐を決心した。


天正16年(1588年)4月20日、長政は鎮房を中津城に招いたが、家臣団は城下の合元寺に留め置かれた。わずかな共の者と中津城に入った鎮房は、長政の手によって酒宴の席で謀殺された。そして黒田勢が合元寺に差し向けられ、斬り合いの末に城井の家臣団は全員が討ち取られた。さらに黒田勢は城井谷城に攻め寄せて陥落させ、鎮房の父・城井長房を殺害した。また、鎮房の嫡男・城井朝房は、黒田孝高に従い一揆鎮圧のため出陣していたが肥後国で孝高によって暗殺された。こうして城井氏の勢力の殲滅に成功した長政は、人質の鶴姫を13人の侍女と共に、山国川の畔、広津の千本松河原で磔にして処刑した[6][7]


天正17年(1589年)、父が隠居したために家督相続を許され、同時に従五位下、甲斐守に叙任した。

朝鮮出兵

文禄元年(1592年)から行なわれた文禄・慶長の役では渡海している。長政は5千人の軍役を課せられ、主将として三番隊を率いて一番隊の小西行長や二番隊の加藤清正らとは別の進路を取る先鋒となった。釜山上陸後は金海昌原、霊山、昌寧、厳風、茂渓津、星州、金山、秋風嶺永同、文義、清州、竹山を進撃して、5月7日に漢城へ到達した。5月初旬の漢城会議で黄海道を任された三番隊は、平安道担当の一番隊と共に朝鮮王宣祖を追って開城を攻略した。


6月15日、大同江の戦いでは朝鮮軍の夜襲を受け苦戦していた宗義智の軍勢を救援し、長政は負傷するも大いに奮戦し朝鮮軍を破った。


6月16日、敗退した朝鮮軍が放棄した平壌城を占領した。


6月下旬、黄海道の制圧に戻り、7月7日には海州を攻略した。


8月初旬、漢城会議での援軍を警戒して戦線を縮小して主要街道を固め、李廷馣の守る延安城を攻撃を行ったが落とすことが出来ず、以後黄海道の広範な制圧から転換して北方からの攻勢に対応するために主要街道沿いにある白川城・江陰城を守った。同じく三番隊の大友吉統は鳳山城・黄州城を拠点とした。


文禄2年(1593年)正月、中央から派遣された李如松率いる明の大軍が小西行長らの守る平壌城を急襲し、落城寸前の状態から撤退してきた小西軍を長政は白川城に収用した。漢城に集中した日本軍は碧蹄館の戦いで南下してきた明軍を撃破し、戦意を失った明軍と兵糧不足に悩む日本軍との戦いが停滞する中で、長政は幸州山城の戦いにも出陣した。


和平交渉が進み、日本軍は4月に漢城を放棄して朝鮮半島南部へ布陣を行った。6月には朝鮮南部の拠点である晋州城を攻略し(第二次晋州城攻防戦)、長政配下の後藤基次が先陣争いで活躍した。その後の南部布陣期の長政は機張城を守備する。


慶長
元年(1596年)9月、日明和平交渉は大詰めを迎え、秀吉による明使謁見で双方の外交担当者による欺瞞が発覚して交渉が破綻すると秀吉は諸将に再出兵を命じた。


慶長2年(1597年)7月、元均率いる朝鮮水軍による攻撃があり、反撃により漆川梁海戦で朝鮮水軍を壊滅に追い込んだ日本軍は、8月より主に全羅道から忠清道へ攻勢を掛けた。長政は再度5千人の軍役を課せられ加藤清正や毛利秀元らと右軍を形成して黄石山城を攻略し(黄石山城の戦い)、8月に全州で左軍と合流し、全州会議に従って各軍の進路を定めた。長政ら右軍は忠清道の天安へ進出した。日本軍の急激な侵攻を受けて、漢城では明軍が首都放棄も覚悟したが明軍経理の楊鎬が抗戦を決意し、派遣された明将の解生の軍と長政軍が忠清道の稷山で遭遇戦(稷山の戦い)となり、激戦の末に秀元の援軍もあり明軍を撃破し、数日間稷山に駐屯した。駐屯中の長政に対して、解生は白鷹を贈るなどして和議を求めた[1]。長政軍が稷山に至ると漢城では恐れ戦いた多くの人々が都から逃亡した[8][要ページ番号]。その後、長政は秀元、清正と鎮州で会議を行い、竹山、尚州慶山密陽を経て梁山倭城を築城して守備についた。


占領地を広げて冬営のために布陣していた日本軍に対し、12月末から経理・楊鎬、提督・麻貴率いる明軍が完成間近の蔚山倭城へ攻勢をかけ(第一次蔚山城の戦い)、加藤清正が苦戦すると西部に布陣していた日本軍は蔚山救援軍を編成して明軍を撃破した。長政はこの救援軍に600人を派遣しており、後にその不活発さを秀吉から叱責される。明の攻撃を受けた諸将は今後の防衛体制を整えるために蔚山倭城(最東方)、順天倭城(最西方)、梁山倭城(内陸部)の三城を放棄して戦線を縮小する案を秀吉に打診したが却下された。結局、長政の梁山倭城のみ放棄が認められ、以後撤退命令が出るまで長政は亀浦倭城へ移陣した。


慶長3年(1598年)8月18日、秀吉が死去し、日本軍が明軍を三路の戦いで撃破すると長政ら日本軍はそのまま撤退した。


このように朝鮮では数々の武功を挙げたが、同時に吏僚である石田三成や小西行長らと対立した。

関ヶ原の戦い

慶長3年(1598年)8月、秀吉が死去すると、三成ら文治派との路線対立から五大老徳川家康に接近し、先に結婚していた蜂須賀正勝の娘・糸姫と離別し、家康の養女の栄姫保科正直の娘)を新たに正室に迎えた。


慶長4年(1599年)閏3月、前田利家が死去すると、長政は福島正則や加藤清正ら武断派(いわゆる七将)と共に三成を襲撃した。この頃、根岸兎角ら優秀な鉄砲の遣い手を多数召抱えている。


慶長5年(1600年)、家康が会津の上杉景勝討伐(会津征伐)の兵を起すと家康に従って出陣し、出兵中に三成らが大坂で西軍を率いて挙兵すると、長政も東軍の武将として関ヶ原の戦いにおいて戦う。本戦では家臣の菅正利の鉄砲隊などを従え、切り込み隊長として西軍に攻撃を加え、三成の家老・島清興を討ち取り、さらに父・如水譲りの調略においても親戚でもあった平岡頼勝らを通じ、西軍の小早川秀秋吉川広家など諸将の寝返りを交渉する役目も務めている。それらの戦功により戦後、家康から御感状(福岡市博物館所蔵)を賜り、関ヶ原の戦い一番の功労者として子々孫々まで罪を免除するというお墨付きをもらい、筑前国名島に52万3,000余石のを与えられた。


江戸時代

慶長6年(1601年)、豊前国より筑前国に入府。海外貿易の大湊、博多大津(三津七湊)を要する筑前は古来より町人や禅僧の力が強い地であり、長政や家臣達は威力を示すために武装して入部した。これを『筑前お討ち入り』といった。当初入城した小早川氏の居城であった名島城は手狭で簡素な城であり、太守としては不便な土地であったことから、父・如水とともに新たな城を築城する。と並ぶ商人の街・博多の那珂川を挟んだ隣接地を選び、当初は福崎といったその地を、黒田氏ゆかりの備前国の故地からとって福岡と名付け、同年に着工し、

慶長11年(1606年)に福岡城は7年あまりで全体が完成。長政は初代福岡藩主となる。


慶長8年(1603年)、朝廷より従四位下、筑前守に叙任される。


慶長9年(1604年)、父・如水が京都伏見屋敷(または福岡城三の丸御鷹屋敷)にて死去した。如水はキリシタンであったため、葬儀はキリスト教カトリック式及び仏式で行われ、仏式では臨済宗京都大徳寺他にて大々的に取り行う。また、播磨国の鶴林寺においては、福岡藩の安寧と故地播磨をしのび大法要を行い、金銀を寄進した。


慶長10年(1605年)、藩領内の土地や住民に対し錠書を出す。


慶長11年(1606年)、長政は筑前入部に従い同行してきた商人・大賀宗九に対し徳川家康から海外貿易を行うための朱印状を受けさせる。宗九はこの貿易により巨万の富を築き以降、博多筆頭町人、福岡藩黒田家御用の地位を得、博多一の豪商となった。また、この年に亡父・如水の供養ために、京都の大徳寺山内に塔頭・龍光院を建立。

慶長17年(1612年)、嫡男の黒田忠之とともに上洛し、忠之は江戸幕府第2代将軍・徳川秀忠から松平の名字を与えられる[9]


慶長19年(1614年)、大坂冬の陣では江戸城の留守居役を務め、代理として忠之を出陣させる。徳川方によって長政の交流関係が調査され、徳川氏に対して繰り返し起請文を提出させられた[10]


慶長20年(1615年)、大坂夏の陣では秀忠に属して加藤嘉明とともに陣を張り、豊臣方と戦った。また、戦後、家臣の黒田一成に命じ、当時一流の絵師を集めて自らも参陣した『大坂夏の陣図屏風』(通称『黒田屏風』)を描かせたが、その絵の中には徳川軍の乱妨取りも詳細に描かれており、何故徳川方の長政が、味方の残酷極まりない有り様をこの大作に描かせたのか現在も論争が絶えない。同屏風は大阪市所有(大阪城天守閣保管)で、国の重要文化財に指定されている。


長政は藩主となって以降、数々の産業を奨励し博多人形博多織高取焼など伝統工芸の復興に力を入れ、現在に至るまで福岡の名産品となっている。


元和
9年8月4日(1623年8月29日)、長政は京都における黒田家の位牌寺・報恩寺の客殿寝所にて、56歳の生涯を終えた。徳川家光の三代将軍宣下の先遣として、早くに上洛していたが、既に病にかかっていた状態であった。


辞世は「此ほどは浮世の旅に迷ひきて、今こそ帰れあんらくの空」。


跡を長男の忠之が継いだ。生前の長政は、忠之の器量を心配して廃嫡を考えたこともあったが、重臣の栗山利章(大膳)にも諌められ、思いとどまった。そして利章に忠之の補佐を託して亡くなった長政だったが、後に忠之と利章が対立するお家騒動が勃発することになった(黒田騒動[11]

人物

・熟慮断行の気性であったとされ、父・如水はそれを優柔不断のように見たのか「自分はかつて小早川隆景に、物事の決断が早すぎるので慎重にしたほうがよいと言われたが、おまえはその逆だから注意しろ」との意味の言葉をかけたとも言われる。


・築城の名手であり、家臣には林直利など天才的な石工、石材加工の職人集団がおり、江戸城築城の際の天守台、本丸の石垣、福岡市の箱崎宮住吉神社、徳川家康を祀る日光東照宮の石の大鳥居(日本三大鳥居)、石塔、徳川期大坂城名古屋城の通称「清正石」など、さまざまな巨石の建造物を各地に残している。各地の石切場に多くの石丁場(石切丁場)を作り、有名な天狗岩丁場などがある香川県小豆島[注釈 5]のほか、福岡県糸島市、静岡県伊豆市、神奈川県真鶴町本小松石)などに遺跡がある。なお、日光東照宮には正室の栄姫(徳川家康の養女)も女性としては唯一、献灯篭を許されている。


・歴史学者の渡邊大門が唱える新説によれば、長政の父・孝高は天下取りも出来るほどの逸材だったとの評は、実は長政による宣伝であったという。長政の遺言書には、「自分と父は、関が原の戦いで天下を取ろうと思えば取れたが、父はほぼ九州を支配下においており、自分がいなければ徳川家は関ヶ原で勝てたかどうかわからない。徳川家に天下を取らせることが良いことだと思ったために、この程度で甘んじたのだ。家康公もそのことがよくお分かりだったので、実質的に100万石の領地を与えられ、将軍家の姫君が降嫁し、子々孫々まで罪を免除されたのだ」と大いに自己宣伝をしている。これを伝え聞いた黒田藩士の学者・貝原益軒らが『黒田家譜』において黒田孝高を持ち上げたために、孝高の逸話が多く作られたとされているが[誰によって?]それを証明する文書が無い等、この渡邊大門の新説に対する異論もある[誰によって?]。なお、長政の遺言書は黒田騒動の時に幕府に寛大な措置を求めるために用意されたとする偽作説も小説にあるが、こちらも定かではない[12]

詳しいことは、『黒田高政ウィキペディア』をご覧ください。⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BB%92%E7%94%B0%E9%95%B7%E6%94%BF
(wikiより)

034 直方藩初代・黒田高政   黒糸威胴丸具足


⇧ 直方藩初代・黒田高政   黒糸威胴丸具足。


034 黒田高政

⇧ 黒田高政

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黒田高政の殉死者。
(案内板より)

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黒田高政の殉死者。
(案内板より)

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黒田高政の殉死者。
(案内板より)

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黒田高政の殉死者。
(案内板より)

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黒田継隆の子の墓。
(案内板より)

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黒田綱政の嫡男の墓。
(案内板より)

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黒田長政の末娘の墓。
(案内板より)

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時代江戸時代後期
生誕寛政7年2月6日1795年3月26日
死没嘉永4年1月26日1851年2月26日
改名幼名:松次郎、初名:長順→斉清
別名通称:官兵衛、号:楽善堂
戒名乾竜院利山道見
墓所崇福寺福岡県福岡市博多区
天真寺東京都港区麻布
官位従四位下、左近衛権少将、備前
幕府江戸幕府
主君徳川家斉家慶
筑前福岡藩
氏族黒田氏
父母父:黒田斉隆
母:新間の方(真妙院、藩儒学者渡辺忠蔵養女)
正室:福子(宝林院、二条治孝の娘)
側室:河合氏、ほか
純姫(黒田長溥正室)、養嗣子:長溥


黒田 斉清
(くろだ なりきよ)は、筑前福岡藩の第10代藩主。蘭癖大名のひとりとして知られる。

生涯

寛政7年2月6日(1795年3月26日)、福岡藩第9代藩主・斉隆の長男(一説に筑前秋月藩主・黒田長舒の四男[1])として福岡城にて誕生した。母は側室・新間の方(真妙院)。同年10月6日11月17日)、斉隆の死去により幼くして家督を相続した。幼名は松次郎。初名は長順で、藩主就任時に将軍徳川家斉から偏諱を受けて斉清に改名した。


文化
元年(1804年)、ロシア帝国の使節としてニコライ・レザノフが長崎に来航する。文化5年8月(1808年10月)、長崎港イギリス海軍の軍艦が侵入するフェートン号事件が発生した。佐賀藩が長崎警固の兵力を無断に減らしていたため処罰を受け、急遽、福岡藩が佐賀藩の分担分も警固することになり、費用負担が増大した。文政2年(1819年)、蘭学者で藩士の安部龍平を直礼城代組に抜擢し、長崎詰役とした。文政5年(1822年)、斉清は若年ながら眼病を患い、薩摩藩主・島津重豪の九男・斉溥(後の長溥)を娘・純姫と婚姻させ、婿養子という形で迎え養嗣子とした。


文政10年(1827年)、安部龍平の蘭学の師である志筑忠雄が口述訳した「二国会盟録」を提出させる。文政11年(1828年)、長崎に派遣された藩兵を視察した際にオランダ商館を訪問し、商館の附属医であるフィリップ・フランツ・フォン・シーボルトに、薬学から動植物・世界地理・文化風習など広く本草学分野に関して対話した。シーボルトは斉清に対して、本来は医師などが行えばよい博物学を藩公が自ら学ぶ意義について質問したところ、斉清は「外国ノ形勢、風俗ノ淑慝、人類ノ強弱、法政、蕃育ノ得失、奇品異類ノ形状」を知ることで国防に役立てようとしている、と答えている。これらの問答を龍平に編集させ、『下問雑戴』にまとめさせた。さらに、シーボルトに礼として、参勤交代の途中で蒐集した押し葉標本を与え、この標本はライデンの国立ハーバリウムに収蔵されている。また、福岡市美術館には斉清筆と伝わる、原寸大の「鵞鳥図」が所蔵されている。また、藩の御用絵師、尾形洞谷に命じて藩祖の黒田如水縁の家臣団、黒田二十四騎図を新たに作成している。


文政12年(1829年)以降は長崎警固を養嗣子の斉溥にあたらせる。天保2年(1831年)、龍平に自身の海防論をまとめた書『海寇窃策』を編纂・補完させる。


天保3年(1832年)3月頃、斉清は重臣・黒田播磨に隠居の相談を持ちかけ、翌年11月頃、藩内に隠居の意向を公表した。天保5年(1834年11月6日、養嗣子・斉溥に家督を譲って隠居した。当時、失明に近い状態であったという。


天保4年(1833年)、財政改革の意見書公募を行い、眼医者の白水養禎が提出した、大量の藩札を発行し領民に貸し付け、米で返済させ、払い下げた米の代金により藩札の回収を行う、とする御家中並郡町浦御救仕法が採用され、翌天保5年(1834年)、養禎を御救奉行に任じ、家老・久野外記や花房伝左衛門らと共にこれに当たらせた。領地筑前福岡の民に江戸から七代目市川團十郎、成田屋一門を招聘し歌舞伎を半年にわたり興行、他に人形浄瑠璃、相撲、富くじなどを催して藩札の使用を促したが、交換価値が暴落し改革は失敗し道半ばであった。天保7年(1836年)、外記は任を退き、養禎は逼塞とされたが、この時の天保の博多の賑わいが当時の商人の記録に残っている。博多をどりの起源ともされる。


嘉永4年(1851年)1月26日、江戸桜田の上屋敷にて死去した。享年57。


斉清は蘭学本草学に詳しい教養人であり、富山藩主・前田利保とともに博物大名として知られた。とくに鳥類に強い関心を抱き、幼少のときからアヒルを飼育したという。著書に『鷲経』、『鴨経』、『駿遠信濃卉葉鑑』などがあるほか、小野蘭山の『本草綱目啓蒙』の補訂書である『本草啓蒙補遺』を残した。のち子孫に鳥類学者を出すなど、黒田家歴代当主の鳥好きの先鞭を付けたといえる。


福岡藩では、先代斉隆の治世中に引き続き、斉清時代にも播磨国姫路に於ける黒田家先祖の廟所整備が行われ、享和2年(1802年)、黒田如水の祖父にあたる黒田重隆、実母の明石正風娘の廟所が造営されている。現在黒田家廟所として、姫路市指定文化財となっている。

注釈
1. 福岡県史: 通史編 - 第 2 巻、第 2 部 - 161 ページ

参考文献
・宮崎克則・原三枝子「黒田斉清・黒田長溥―好学・開明的なふたりの藩主」、『九州の蘭学-越境と交流』、193-99頁。
ヴォルフガング・ミヒェル鳥井裕美子川嶌眞人 共編(京都:思文閣出版2009年)。ISBN 9784784214105
(wikiより)

026 十代目・黒田斉清

⇧ 黒田斉清

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時代江戸時代中期
生誕安永6年9月21日1777年10月21日
死没寛政7年6月23日1795年8月7日
改名幼名:雅之助
墓所崇福寺福岡県福岡市
官位従四位下侍従・筑前守
幕府江戸幕府
主君徳川家斉
筑前福岡藩
氏族一橋徳川家黒田氏
父母父:徳川治済、母:於富(岩本正利の娘)
養父:黒田治高
兄弟徳川家斉徳川治国黒田斉隆、雄之助、徳川斉匡徳川斉敦松平義居、久之助、本之丞
正室:なし
側室:駒子(真妙院、藩儒学者・渡辺忠蔵養女)
斉清


黒田 斉隆
(くろだ なりたか)は、江戸時代後期の大名筑前福岡藩第9代藩主。

生涯

安永6年(1777年)9月21日、江戸城内一橋邸にて生まれる。一橋徳川家第2代当主・徳川治済の三男で、母は側室・お富の方。第11代将軍徳川家斉は実兄で同母。福岡藩第7代藩主・黒田治之の甥に当たる。幼名は雅之助


天明2年(1782年)12月19日、福岡藩主・黒田治高末期養子として5歳で福岡藩黒田家の家督を相続する。のちに実兄の家斉から偏諱を授かり、斉隆とした。


父の治済は将軍実父として、幕府内において隠然たる大きな影響力を持っており、先代の治高が死去前に養子として指名していたことや弟の先々代治之との繋がりから両家の重臣と話合いを持ち、息子の三男、雅之助(後の斉隆)を幼いまま、福岡藩黒田家の養子に入れた。斉隆は若くして死去したこともあって正室はいないが、側室の真妙院との間に、第10代藩主となった斉清がいた。幼い頃より文学に嗜み、儒学を好んだ。側室・駒子(真妙院)の養父、福岡藩士で儒学者の渡辺忠蔵は藩が警護していた長崎にて平賀源内と問答をしている記録が残る。また、側室の駒子は、先々代、治之の正室、亀姫瑤津院の計らいにより、藩主生母として、新間の方(しんまのかた)と呼ばれた。


天明3年(1783年)、福岡藩領内に重臣たちの献策もあり、藩儒・竹田定良と、儒医・亀井南冥に、藩校を創建することを命じる。天明4年(1784年)、定良が修猷館(東学問稽古所)(現在の福岡県立修猷館高等学校)、南冥が甘棠館(西学問稽古所)を開館している。


寛政2年(1790年)10月15日、13歳で従四位下・侍従・筑前守に叙任する。


寛政5年、領地福岡に入る。翌年、領内を巡見し、領民の暮らしぶりを見て周り、顕彰をした。


斉隆は聡明で博識な藩主として家老たちからも期待されたが、寛政7年(1795年)に病に伏し、6月23日に福岡城にて死去した。享年19。幕府には同年8月24日死去と届け出た。跡を嫡男の松次郎、のちの斉清が継いだ。

斉隆の治世中には、黒田家の先祖を祀る事跡があった。天明3年(1783年)に第3代藩主・黒田光之に廃された黒田綱之を祀る幹亮権現社を創立し、同年にはまた初代長政を祀る黒崎大明神を再興した。また、藩祖・黒田孝高の父、黒田職隆の墓所が播磨姫路にて発見され、二百回忌の法要、および墓所の築造が当地にて行われた。
(wikiより)

025 九代目・黒田斉隆

⇧ 黒田斉隆

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時代江戸時代中期
生誕宝暦2年12月1日1753年1月4日
死没天明元年8月21日1781年10月8日
改名幼名:隼之助、初名:高満→治之
戒名鳳陽院典山紹靖
墓所崇福寺福岡県福岡市
官位従四位下侍従・式部大輔、筑前守
幕府江戸幕府
主君徳川家治
筑前福岡藩
氏族一橋徳川家黒田氏
父母父:徳川宗尹、母:細川徳時の娘
養父:黒田継高
兄弟松平重昌、仙之助、松平重富徳川治済治之、鎌三郎、金次郎
正室:亀姫瑤津院榊原政永の娘)
側室:鈴木氏ほか
隼三郎(早世)、養嗣子:治高


黒田 治之
(くろだ はるゆき)は、筑前福岡藩の第7代藩主。


生涯

宝暦2年(1752年)12月1日、御三卿一橋徳川家の初代当主・徳川宗尹の五男として、江戸城内の一橋邸にて生まれた。母は側室・細川徳時の娘。幼名は隼之助。第8代将軍徳川吉宗の孫であり、第11代将軍徳川家斉や、福岡藩第9代藩主黒田斉隆の叔父にあたる。


宝暦13年(1763年)11月23日、11歳で先代福岡藩主黒田継高の養嗣子となり、「高」の字を与えられて初名の高満(たかみつ)を名乗る。明和2年(1765年)12月15日、従兄で10代将軍の徳川家治御目見し、その偏諱を受けて治之に改名する(「之」は忠之光之綱之吉之が使用した通字である)。明和3年(1766年)7月18日、従四位下・侍従・式部大輔に叙任する。後に筑前守に改められる。明和6年(1769年)12月10日、継高の隠居により家督を相続した。当初は黒田重政の娘、屋世姫を婚約者としたが早世し、榊原政永の娘、亀姫を正室として迎え、これにより藩祖・黒田孝高、初代黒田長政以来の黒田本家の血統は途絶えることとなった。


明和8年(1771年)に国内を巡見した。また、亀井南冥を抜擢した。天明元年(1781年)8月21日、福岡城にて死去した。享年30。嗣子がなかったため、その死はしばらく隠された。同年11月20日、黒田治高を末期養子として迎えることが決定し、喪を発している。なお、天明4年(1784年)、治之の遺言により学問所が設置されている。
(wikiより)

024 七代目・黒田治之

⇧ 黒田治之

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黒田 継高(くろだ つぐたか)は、筑前福岡藩の第6代藩主。藩祖黒田孝高、初代黒田長政の血統最後の筑前福岡藩主となった。

生涯

元禄16年(1703年)、筑前直方藩主・黒田長清の次男として誕生した。幼名は菊千代、のち長好(ながよし)と名乗る。正徳4年(1714年)4月23日、宗家であり従兄にあたる福岡藩主黒田宣政の養嗣子となった。同年5月1日、7代将軍徳川家継御目見し、同年12月1日に将軍家継の前で元服、その偏諱を受けて継高に改名した[2]。従四位下・筑前守に叙任し、松平姓を下賜される[3]。後に侍従、次いで左少将に任官した。享保4年(1719年)11月22日、養父宣政の隠居により家督を相続する。享保5年(1720年)4月15日、実父の長清が死去した。長清には継高以外に男子がなかったため、これにともなって直方藩領は宗家に返還・編入される形で継高のものとなった。歴代福岡藩主の中で最も長い50年もの間、藩主を勤めた。


病弱な養父とは対照的に非常に頑健で精力的であり、吉田栄年(よしだ まさとし)・保年(やすとし)父子[4]を登用して藩政改革にも積極的に取り組んだ。運上銀の改定、享保の大飢饉後の窮民対策などがそれである。宝暦4年(1754年)には早良郡田島村に別邸屋敷、友泉亭を建立(現友泉亭公園)。ちなみに吉田栄年と協力して行なった藩政改革は、一定の成果を収めている。また、伝統芸能、文化を愛した。中でも能楽を大変好み、桜田の黒田家上屋敷にては、盛大な能会を何度も催している。この間、将軍御成や御老中連が黒田家を何度も訪れ、演能する能役者のために邸内に稽古場を作り、自身も嗜んだ。


晩年の継高は、長男・重政、三男・長経という2人の次期当主となりうる男子を相次いで亡くし、後継者問題に見舞われた。継高や重臣は評議の上で、岡山藩池田宗政の次男・政長改め長泰(後の相良長寛)を養子に迎えることに決定した。長泰は継高の外孫(長女・藤子の次男)であった。しかし、宝暦13年(1763年)9月、幕府は10代将軍徳川家治の従兄弟にあたる隼之助(一橋宗尹の五男、後の黒田治之)を養子にすることを打診してきた。継高は家臣団・一門と協議のうえ、藩存続のために隼之助を養子に迎え入れることにした。亡くなった重政の娘、屋世を養女に迎え、隼之助と婚約させて黒田家の血統維持をはかったものの、屋世は11歳で早世してしまい、女系での血統維持も出来なかった。


明和
6年(1769年)12月10日、継高は隠居し、養子治之に家督を譲った。隠居後は、図書頭を称した。安永4年(1775年)6月17日、福岡城にて死去した。享年73。法号は功崇院章山道善。

逸話
宝暦2年(1752年)雷山に大悲王院千如寺福岡県糸島市)を再興、堂宇を建立した。境内の大楓は著名である。

系譜
・正室:(圭光院) - 黒田宣政養女、黒田吉之次女

  ・長女:藤 - 池田宗政

  ・次女:為 - 酒井忠温

  ・四女:友 - 松平定邦

・側室:田中氏

  ・三女:正(玉津院) - 黒田長邦

  ・長男:春千代

・側室:小寺氏

  ・次男:重政

  ・八女:麻 - 南部利謹

  ・九女:芳

  ・十女:代々 - 広橋伊光

・側室:三隅氏

  ・三男:宮内

  ・五女:秋

  ・六女:清 - 立花鑑通

  ・七女:茂

  ・四男:長経

  ・十三女:貞 - 勧修寺経逸婚約者

・側室:岸原氏

  ・十一女:房 - 久我信通婚約者

・側室:三原氏

  ・十二女:恒 - 烏丸光祖婚約者

・側室:昭月院 - 鷲尾隆照

  ・十四女:厚 - 治之養女、醍醐冬香婚約者

  ・十五女:吉

脚注
1. 池田宗政の次男、継高の外孫、※のち縁組自体が解消、相良家を継ぐ
2. 「高」の字は祖先の黒田孝高から1字を取ったものであり、また孝高と同じく「黒田官兵衛」を通称とした
3. 村川浩平『日本近世武家政権論』近代文芸社、2000年、206頁。
4. 正確には保年は栄年の婿養子。この2名の吉田氏についてはこちらを参照。
(wikiより)

023 六代目・黒田継高

⇧ 黒田継高

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黒田 宣政(くろだ のぶまさ)は、筑前福岡藩の第5代藩主。

生涯

貞享2年(1685年)、福岡藩第4代藩主・黒田綱政の次男として、江戸桜田の藩邸にて生まれた。初名は政則(まさのり)。兄の吉之が早世したため嫡子となり、正徳元年(1711年)の父の死去により跡を継いだ。藩主就任時に将軍徳川家宣より偏諱を受けて宣政と名乗った。


しかし生来病弱で政務を執れず、また嗣子にも恵まれなかったため、叔父で支藩直方藩主・黒田長清の次男で、従弟にあたる継高を養嗣子として迎え、享保4年(1719年)11月に隠居して家督を継高に譲った。病弱のため、領地筑前に入ることが中々できず、藩政は代理で叔父の長清が行っている。宣政時代の黒田家の文書類はほぼ焼失、散逸しており、従姉妹の市子((酒井河内守忠挙の娘、松壽院)との交換書状が唯一残る。


延享元年(1744年)、江戸桜田藩邸にて死去した。享年60。
(wikiより)

022 五代目・黒田宜政

⇧ 黒田宜政

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黒田 綱政(くろだ つなまさ)は、江戸時代中期の大名筑前東蓮寺藩3代藩主、のち筑前福岡藩4代藩主。

生涯

万治2年(1659年)8月11日、福岡藩3代藩主・黒田光之の四男として江戸麻生の藩邸にて生まれた。寛文3年(1663年)7月、支藩東蓮寺藩2代藩主で叔父の黒田之勝に嗣子が無かったため、その跡を継いで長寛(ながひろ)と名乗った。ところが延宝5年(1677年)2月に兄の綱之廃嫡され、代わって嫡子に選ばれ綱政と改名した[1]。この時、東蓮寺藩は収公された。


元禄
元年(1688年)、父の隠居により家督を継ぐ。このとき、弟の長清に5万石を分与した(直方藩)。隅田重時を家老として登用し、光之時代の側近を全て排除して藩主権力の強化に努めた。しかし、これにより光之と対立、さらには肥前佐賀藩との間で背振山国境論争が起こる。また、財政改革のために藩札を発行したが、逆に米価が高騰して失敗に終わった。一方、絵画を好み、黒田家の御用絵師として狩野派狩野昌運を召し抱えた。


正徳
元年(1711年)6月18日、福岡にて死去した。享年53。綱政は大徳寺299世天庵宗篤に帰依し、遺髪は京都の菩提寺大徳寺龍光院に納められた。


長男の吉之は先立って死去しており、家督は次男の政則(宣政)が継いだ。

系譜
・正室:呂久姫(心空院) - 立花鑑虎養女、立花忠茂八女

  ・長男:黒田吉之

  ・次男:黒田宣政

  ・三男:亀之助

・側室:下谷氏

  ・四男:岩之助

・側室:吉田氏

  ・長女:久(萬) - 上杉吉憲正室

・側室:藤井氏

  ・五男:竹松

脚注
1. 「綱」は将軍徳川家綱から偏諱を受けたもの、「政」は初代藩主・黒田長政より1字を取ったものである。
(wikiより)

021 四代目・黒田綱政

⇧ 黒田綱政

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