本牧jack『意外と身近にある歴史散歩』日々是好日 心灯 頬笑

本牧Jackで御座います
小生の拙ブログ『意外と身近にある歴史散歩』日々是好日 心灯 頬笑に御訪問頂き誠に有難う御座います。
歴史ドラマが流行っている昨今、身近に有って気が付かなかったりする様な物を取り上げたりしています。
たまに『 大人数で取材しているのか? 』との質問を戴きますが、小生と相方の二人三脚で御座います。
出来るだけ続けたいと思っていますが 膝・耳に問題が有って、いつまで出来るやら・・・説明も、やたら長いものから あっさりしたものまで有りますが、御付き合いの程 宜しく御願い致します。
御注意 . 少ないですが生前に建てられた『 生前墓 』の記事も有ります。 ※ 申し訳御座いませんが「画像の転用」は禁止とさせて頂きます。 コメントは原則公開させていただいております 質問等に対してはブログ記事で返信させていただきます 他の方法で連絡を取り合う等一切しません 場合によっては、「IPブロック」しますがブロックした場合解除する事は有りませんので宜しくお願いします。

2023/06

龍之介は、明治 25年 ( 1892 )  3月 1日、東京都京橋区入船町 8丁目 1番地 ( 中央区明石町 ) に牛乳搾取販売業耕牧舎を営む新原敏三・ふくの長男として生まれました。


辰年辰の日辰の刻に生まれたので龍之介と命名されたと言われます。


生後 7ヵ月で、当時本所区小泉町 15番地 ( 両国 3丁目 ) に住んでいたふくの長兄、芥川道章に引き取られ、13歳の時、芥川家の養子となりました。


芥川家は江戸時代からの旧家で、道章は、教養趣味が深く、俳句や南画をたしなみ、一家をあげて一中節を習い、歌舞伎を見物するなど、江戸趣味の濃い家庭でした。


明治 43年 ( 1910 ) 19歳で新宿に移転するまで過ごした両国界隈は、龍之介の精神的風土を形成しました。


「大導寺信輔の半生」「本所両国」などの作品に、その一端を見ることができます。


龍之介は、回向院に隣接する江東尋常小学校付属幼稚園に入園、翌年同小学校 ( 両国小学校 ) に入学しました。


明治 38年 ( 1905 ) 府立第三中学校 ( 両国高等学校 ) に入学、同 43年成績優秀により無試験で第一高等学校第一部乙類に入学しました。


その後、大正 2年東京帝国大学英文科に入学、同 5年卒業しました。


大学在学中、同人雑誌「新思潮」に「鼻」を発表して夏目漱石に激賞され、大正初期の文壇に華やかに当時要しました。


初期には「羅生門」「芋粥」などの多くの歴史小説を残し、大正時代を代表する短編小説家として活躍しました。


また、小説以外にも詩、俳句 ( 高浜虚子に師事 ) 、評論、随筆にも優れました。


昭和 2年 ( 1927 ) に 35歳の生涯を閉じました。


遺稿にに「西方の人」「歯車」「或阿呆の一生」などがあります。


龍之介のゆかりを慕い、区立両国小学校の正門前には、児童文学「杜子春」の一節を引用した文学碑がまた、両国高校内にも「大川の水」の一節を刻んだ文学碑が建てられています。


芥川龍之介賞

通称芥川賞。


新聞・雑誌に発表された純文学短編作品の中から、最も優秀な新人作家に与えられる文学賞。


昭和 10年 ( 1935 ) 、当時文芸春秋社長であった菊池寛氏が、亡友芥川龍之介の名を記念し文学の発展をねらい創設されました。
(案内板より)

112b

112a



ピジョン株式会社創業者。

仲田祐一
・1910年 誕生
・1926年 近藤忠商店入社
・1936年 幾久屋百貨店入社
・1951年 ドウフ貿易常務
・1952年 ドウフ貿易社長
・1957年 ピジョン哺乳器本舗社長
・1966年 ピジョン社長
・1983年 ピジョン会長
  
父:仲田祐治
母:千春
妻:ヒテコ
・長男:仲田洋一
・長女:仲田祐子(★ピジョン専務 坂本健の妻)
・二女:仲田紘子(★ピジョン常務 手塚克麿の妻)
・三女:仲田孝子(興商代表取締役 西城真人の妻)
・四女:仲田美晴(★ピジョン常務 水之江浩之の妻、水之江殿之の長男)

068a

068b

068c



犬養 廉(いぬかい きよし、1922年10月31日 - 2005年5月7日)は、日本文学者お茶の水女子大学名誉教授東京生まれ。1952年東京大学国文科卒。北海道大学助教授、中央大学教授、お茶の水女子大教授、88年定年、立正大学教授。93年退職。万葉集研究の第一人者である犬養孝は実兄。

著書
・『万葉・古今・新古今新解』新塔社 1991 (要所研究シリーズ)

・『平安和歌と日記』笠間書院 2004

共編著
・『小倉百人一首新釈』小高敏郎共編 白揚社 1954

・『古典和歌論叢』明治書院 1988

・『後拾遺和歌集新釈』上巻 笠間書院 1996 (笠間注釈叢書) 

校注
・『更級日記 日本古典文学全集 18』小学館 1971

・『百人一首 兼載』有吉保,橋本不美男校注 新典社 1974 (影印校注古典叢書)

・紫式部『帚木』奥出文子と校注 新典社 1978 (影印校注古典叢書)

・『山家集(鑑賞日本の古典)』尚学図書 1980

藤原道綱母『蜻蛉日記』 1982 (新潮日本古典集成)

・『小倉百人一首』創英社 1985 (全対訳日本古典新書)

・『新日本古典文学大系 平安私家集』共校注 岩波書店 1994

・紫式部『源氏物語 須磨』おうふう 1995

・『蜻蛉日記』學燈社 2006

参考文献
・文藝年鑑2004
(wikiより)

0024a

0024b

0024c



犬養 孝(いぬかい たかし.1907年4月1日 - 1998年10月3日)は日本文学者万葉学者)。大阪大学名誉教授甲南女子大学名誉教授文学博士文化功労者。高岡市万葉歴史館名誉館長東京都出身。


弟の犬養廉日本文学者お茶の水女子大学名誉教授 中古平安時代日本文学研究者。

人物

万葉集に登場する万葉故地をすべて訪れ、万葉集研究に生涯をささげ「万葉風土学」を確立。また、テレビ・ラジオ番組や公演などで多数の人に万葉集をひろめた。万葉歌に旋律をつけて朗唱する「犬養節」は独自の歌い方で、おおくの万葉ファンに親しまれた。


万葉の景観をまもるため、万葉故地が乱開発される現状に抗議し、国会議員や松下幸之助などの財界人にも万葉故地の重要性をうったえた。その一環として、日本全国の万葉故地に所縁の万葉歌を揮毫した「万葉歌碑」を建立、故地をまもる活動に奔走した。定例の万葉ハイキングや月見の会をかさね、明日香古都保存に尽力し、明日香村名誉村民となる。

1979年(昭和54年)に昭和天皇が明日香に行幸し、甘樫丘にて明日香の歴史的風土を視察したときの案内役をつとめる。1951年(昭和26年)に始まった「大阪大学万葉旅行」は45年間の参加者延べ4万人をこえた。2000年には奈良県明日香村に犬養を顕彰し関係資料を展示する「犬養万葉記念館」が完成した。


犬養揮毫の万葉歌碑は131基におよぶ。


墓は養子(実の甥)によってまもられている。

年譜
・1907年 - 東京市下谷区谷中清水町一番地(現、東京都台東区東区池の端3-1)に生まれる

・1929年 - 第五高等学校文科甲類卒業

・1932年 - 東京帝国大学文学部卒業

神奈川県立横浜第一中学校教諭

・1942年 - 台北高等学校 (旧制)教授

・1946年 - 大阪高等学校講師

・1950年 - 大阪大学教養部助教授

・1956年 - 大阪大学分校教授

・1962年 - 「萬葉集の心情表現とその風土的関聯につきての研究」で文学博士東京大学)の学位取得

・1967年 - 大阪文化賞受賞

・1970年 - 大阪大学定年退官、名誉教授、帝塚山短期大学教授を経て、甲南女子大学教授

・1978年 - 勲三等旭日中綬章

・1981年 - 甲南女子大学定年退任、名誉教授

・1986年 - 明日香村名誉村民

・1987年 - 文化功労者

・1998年 - 叙正四位、叙勲二等瑞宝章

著書
・『笠金村』青梧堂 1944

・「万葉の風土」塙書房、1956

・「万葉の旅」社会思想社現代教養文庫、1964 のち平凡社ライブラリー

・『続・万葉の風土』塙書房 1972

・『明日香風 随想 万葉風土』社会思想社 1972 のち文庫

・『万葉のいぶき』PHP研究所 1975 のち新潮文庫

・『万葉の人びと』PHP研究所 1978 のち新潮文庫

・『万葉のこだま』PHP研究所 1982

・『わたしの万葉歌碑』(編著)社会思想社 1982

・『万葉十二カ月』新潮社 1983 のち文庫

・『万葉の大和路』講談社 1983 のち旺文社文庫

・『明日香風 第3 万葉風土』社会思想社(現代教養文庫) 1984

・『続々 万葉の風土』塙書房 1986

・『万葉 花・風土・心』社会思想社(現代教養文庫) 1987

・『万葉の歌びとと風土』中央公論社 1988

・『万葉恋の歌』世界思想社 1991

・『万葉の風土と歌人』雄山閣出版 1991

・『万葉魂の歌』世界思想社 1994

・『万葉の歌人高橋虫麻呂』世界思想社 1997

・『犬養孝万葉歌碑』山内英正 (野間教育研究所特別紀要) 1999

・『犬養孝揮毫の万葉歌碑探訪』山内英正 和泉書院 2007

・『万葉の里』和泉書院 2007

・『万葉・その後』犬養孝博士古稀記念論集刊行委員会 塙書房 1980

・『万葉の風土・文学』犬養孝博士米寿記念論集刊行委員会 塙書房 1995

関連項目
帝塚山大学の人物一覧

外部リンク
犬養万葉記念館

犬養孝 - NHK人物録
(wikiより)

0024 犬養孝

⇧ 犬養 孝

0024a

0024b

0024c




明治初年日本医学のあけぼのの時代


明治三年八月当山で解剖が行われました


仏をふわけさせる者などだれもいないころでした被解剖者はすべて死罪人でした


執刀は福井順道が一人、大久保適齋が九人、亜米利加人ヤンハンが一人いずれも日本医学のバイオ二ヤーたちでした


それら解剖された死罪人の霊をとむらうべく墓を明治五年二月に建てましたが破損してきましたのでここに新しく建立しました


昭和四十二年六月 当山二十七世 日香
(石碑文より)

061a

061b

061c

061d

061e

061f

061g

061h




清亮寺の門前を通っている幅六メートルの道路は、千住を起点として水戸に至る江戸時代の水戸街道 ( 水戸海道 ) です。


江戸時代初期の元和五年 ( 1619年 ) に開山した清亮寺は、今の千住四丁目で日光街道 ( 日光道中 ) から分岐した水戸街道に面する最初の寺院で、門前には街道の向う側にまで枝が達する大きな松の木がありました。


水戸街道は参勤交代の大名行列で賑わいましたが、槍持ちはいかなる理由でも槍を横に倒すことは許されません。


しかし、街道一杯に張り出した松のため、一度は槍を倒さなければ通れません。


そこで、街道に張り出した松を切ろうとしたとき、見事な枝振りをご覧になった、後の水戸黄門、水戸藩主の徳川光圀公は『名松を切るのは惜しい。ではここで、この松に槍を立て掛けて休み、出立の時に、槍持ちが松の向こう側に行ってから槍を取り直せば、槍を倒したことにはならない』と、粋な計らいをしました。


以来、この松は「槍掛けの松」と称えられ、ここを通る大名行列は、門前で松に槍を立て掛けて休むようになりました。


写真は、水戸黄門の時代から守られてきた「槍掛けの松」の見事な姿で、今の足立たちばな幼稚園西側の道路から、関東大震災以前にさつえいされたものです。


大きな松の根元は幼稚園内の南西寄りにあり、屈曲した先端は添え木に支えられ、水戸街道の向う側にまで勢いよく枝を張り葉を茂らせています。


しかし、樹齢三百五十年を数えた名松は、惜しくも昭和二十年ごろに枯れてしまいました。


南無妙法蓮華経と髭題目が刻まれた棹石や、清亮寺と刻した寺号石は、正面が西向きに置かれており、今の山門前とは向き、場所が共に異なっています。


広報左手は清亮寺内の家ですが、右側の二軒は、間に水戸街道を挟んだ道路の向う側の家ですので、この写真は、水戸黄門一行が通行した時代を偲ぶことも出来る貴重うな資料といえます。
(石碑文より)

059a

059b

059c

059d

059e

059f

059g

059h

059i



日蓮宗、久榮山清亮寺と号す。


元和 ( げんな ) 五年 ( 一六一九 ) 身延山久遠寺末として、運寮院日表上人により、水戸海道入口のこの地に創建された。


本尊は、一塔両尊四士合掌印、宗祖日蓮説法像を中心に、左に釈迦・多宝両如来、四菩薩、四天王、文珠・普賢両菩薩、不動・愛染両明王の十五躰の木像で構成されている。


本堂は天保四年 ( 一八三三 ) に再建の総欅 ( けやき ) 造りで、随所に江戸着の建築様式を残しているすぐれた建造である。


昭和六年再建の山門 ( 薬医門 ) に掲げる扁額「久榮山」の書は、六朝風の名筆中村不折によるもので、昭和五十九年十一月区登録有形文化財 ( 書跡 ) とした。


墓域には、明治初年日本医学発展のために解剖された囚人十一名を供養した解剖人塚があり、昭和五十七年十二月区登録有形文化財 ( 歴史資料 ) とした。


他に千住出身の歴史学者文学博士内田銀蔵の墓などがある。


また、かって水戸海道に面して古松が茂り水戸光圀公ゆかりの「槍かけの松」として有名であった。
(案内板より)


058a

058b

058c

058d



内田 銀蔵(うちだ ぎんぞう、1872年3月4日明治5年1月25日) - 1919年大正8年)7月22日[1])は、日本歴史学者。専門は日本経済史。文学博士。日本経済史学の先駆者。

生涯

明治5年(1872年)1月、東京府足立郡千住宿中組(現在の東京都足立区)の旧家に生まれる。明治22年(1889年)、東京専門学校(現:早稲田大学)邦語政治科卒業[2]。第一高等中学校(のちの一高)に編入し、1896年(明治29年)に帝国大学文科大学国史科を卒業[3]した。国史科の同期に、喜田貞吉黒板勝美笹川種郎原勝郎幸田成友らがいた。帝国大学卒業後、同大学院に進学し、「日本経済史及び史学と経済学との教育的価値」をテーマに研究した[4]


1899年
(明治32年)、東京帝国大学文科大学国史科・史学科の講師となり、日本の大学で初めて経済史を講義した。1902年(明治35年)、「我国中古の班田収授及近時まで本邦中所々に存在せし田地定期割替の慣行に就きて」と「徳川時代特に其中世以後に於ける外国金銀の輸入」によって、文学博士の学位を取得した[5]


1903年(明治36年)1月、文部省外国留学生[6]としてヨーロッパに派遣、イギリスフランスドイツに3年間留学し、ドイツ歴史学派経済学の学風を学んだ。同年発刊の『日本近世史』第1巻 上冊 第1で、西洋歴史学の三分法を適用して、日本史三分法で江戸時代を近世として「古代 - 中世 - 近世」を提起し、研究者たちに支持され、これに近代を末に加えて、日本史学での総括的な日本史時代区分の名称となり、後代に影響を与えた[7]1906年(明治39年)に帰国する[8]が、留学途中の1905年(明治38年)に、広島高等師範学校教授に就任した。


帰国後の1906年(明治39年)、創設されたばかりの京都帝国大学文科大学教授を兼任し、文科大学史学科開設に参画した。その際、内田の創案によって、日本で初めて史学科に学生向けの国史研究室や、史学科に地理学の講座を設置した。翌1907年(明治40年)5月に京都帝国大学文科大学専任教授に就任、同年9月に開設された史学科で国史学講座を担当し、史学研究法・史学概論、のちに日本近世史・日本経済史も併せて講義した。


1918年大正7年)、再びヨーロッパに出張し、翌1919年(大正8年)3月に帰国するが、間もなく発病し、同年7月22日、胃潰瘍のため[9]48歳で歿した。

著書
・『日本近世史』 第1巻 上冊 第1、冨山房 1903

・『近世の日本』冨山房 1919

・『日本近世史・近世の日本』平凡社東洋文庫(上記二冊)

・『内田銀蔵遺稿全集』全5巻 同文館 1921-1922

  ・(1)日本経済史の研究 上巻

  ・(2)日本経済史の研究 下巻

  ・(3)国史総論及日本近世史

  ・(4)史学研究法及史学理論

  ・(5)内田銀蔵講論集

脚注
1. 『京都帝国大学一覧 自大正9年至大正11年』京都帝国大学、1921年、p.293
2. 『会員名簿 昭和2年11月』早稲田大学校友会、1927年、p.2
3. 『官報』第3910号、明治29年7月11日、p.119
4. 『東京帝国大学一覧 従明治29年至明治30年』東京帝国大学、1896年、p.322
5. 『官報』第5785号、明治35年10月14日、p.260
6. 『官報』第5868号、明治36年1月27日、p.517
7. 坂本賞三「日本中世史の形成」『史人』第6号 2015年、2018年7月15日閲覧
8. 『官報』第6886号、明治39年6月14日、p.456
9. 服部敏良『事典有名人の死亡診断 近代編』(吉川弘文館、2010年)54頁
(wikiより)

060 内田銀蔵

⇧ 内田銀蔵

060a

060b

060c

060d

060e

060f



続きを読む

1992年4月25日早朝、東京都足立区千住河原町の民家の庭にて泥酔状態で発見され、警察に通報される。


救急車で墨田区の白鬚橋病院に運ばれ診察を受け、妻と兄とともに自宅マンションに帰宅する。

足立区千住河原町の民家 通称 : 尾崎ハウス ( 当時の建物は壊され建て替えられました。) 。

043a




両国橋の風景を特徴づけるもののひとつに、百本杭があります。


昭和五年 ( 1930 ) に荒川放水路が完成するまで、隅田川には荒川、中川、綾瀬川が合流していました。


そのため隅田川にはは水量が多く、湾曲部ではその勢いが増して、川岸が浸食されました。


両国橋付近はとりわけ湾曲がきつく流れが急であったため、上流からの流れが強く当たる両国橋北側には、数多くの杭が打たれました。


水中に打ち込んだ杭の抵抗で流れを和らげ、川岸を保護するためです。


夥 ( おびただ ) しい数の杭はいつしか百本杭と呼ばれるようになり、その光景は隅田川の風物詩として人々に親しまれるようになりました。


江戸時代の歌舞伎では、多くの作品の重要な場面に「両国百本杭の場」が登場します。


「十六夜清心 ( いざよいせいしん)」でも、冒頭に「稲瀬川 ( いなせがわ ) 百本杭の場」がおかれています。


稲瀬川は鎌倉を流れる川の名ですが、歌舞伎の中では隅田川に見立てられることがあります。


観客は「百本杭」という言葉から、この場面が実は隅田川を舞台としていることに気づくのです。


百本杭はそれほど人々に知られた場所だったのです。


また、明治十七年 ( 1884 ) に陸軍参謀本部が作成した地図には、両国橋北側の川沿いに細かく点が打たれ、それが百本杭を示しています。


明治三十五年 ( 1902 ) に幸田露伴は『水の東京』を発表し、「百本杭は渡船場の下にて、本所側の岸の川中に
張り出たるところの懐 ( ふところ ) わいふ。

岸を護る杭のいと多ければ百本杭とはいふなり。

このあたり川の東の方水深くして、百本杭の辺りはまた特 ( こと ) に深し。

ここにて鯉を釣る人の多きは人の知るところなり」


と富士見の渡の南側から見られた様子を綴っています。


このほか、本所向島に親しんだ多くの文人が、百本杭と往時の記憶について書き留めています。


しかし明治時代末期から始められた護岸工事でほとんどの杭は抜かれ、百本杭と隅田川がおりなす風情は今では見られなくなりました。
(案内板より)


0032a

0032b

0032c

0032d



ホテル ニューグランドは、神奈川県横浜市中区山下町に在するホテル、及びその運営企業(株式会社ホテル、ニューグランド)である。プリファード・ホテル・グループに加盟し、JR東日本ホテルズ準会員である。

概要

通称山下公園通りを挟んで山下公園の真向かいに位置し、横浜中華街へ通じる横道沿い一区画を占める。横浜における主要なランドマークの一つである。


横浜市は関東大震災で壊滅的な打撃を受け、復興にあたって当時の横浜市長有吉忠一の提案により、横浜市在住の有力者を集めた「横浜市復興会」を結成。そこで決議された「外人ホテル建設の件」が、ホテルニューグランド建設の端緒となった。名称は公募によって集められたが、関東大震災で倒壊して廃業した外国ホテル「グランドホテル」の後継館として訪日客に謳う狙いで選ばれたとも、公募の中に適当な名称がなかったため横浜市復興会計画部長の井坂孝が命名したという説もあり、定かではない。


こうしてニューグランドは、横浜市復興計画の一環として官民一体となって建設が進められ、当初は今日の第三セクターとして発足した。現在の本館は、1927年創業時に渡辺仁の設計で建築され、クラシックホテルの代表例として名高い。1930年代は、ルーフガーデンで大桟橋など横浜港を見ながら食事ができた。ロビーの大階段の先には川島織物製のタペストリーがかかり、高さ6メートルのマホガニーの柱は現在も残る。洋風の豪華な造りである一方で和風の意匠も取り入れられ、メインダイニングでは御簾の奥で雅楽が奏された[2]


初代会長には先の井坂孝が就任し、井坂は東洋汽船出身であったことから、ホテルの主要業務であるサービス・宿泊・飲食に関する知識に明るく、さらに当時東洋汽船サンフランシスコ支店長であった土井慶吉を自分の補佐として呼んだ。土井は総支配人としてパリからアルフォンゾ・デュナンを招聘。新生ホテルの目玉として「最新式設備とフレンチ・スタイルの料理」をキャッチフレーズレストランへ特に力を注ぎ、総料理長には、先のアルフォンゾ・デュナンの紹介で、パリのホテルからスイスコックサリー・ワイルを据え、さらに元帝国ホテル第4代総料理長の内海藤太郎をその補佐につけた。


ニューグランドの厨房からはドリアナポリタンプリンアラモードなど後に広く知られる料理が生まれた[3]。また、ホテルオークラ初代総料理長となる小野正吉や、プリンスホテルグループ総料理長となる木沢武雄、霞が関飯野ビル「キャッスル」の荒田勇作銀座5丁目「コックドール」の林久次ロイヤル中洲本店前川卯一[4]など数々の名店の料理長を輩出し、日本の食文化に多大な影響を与えた。


開業当時から、皇族イギリス王族などの賓客や、喜劇王チャーリー・チャップリン、米国の野球選手ベーブ・ルースなど著名人も多数来訪し、ダグラス・マッカーサー1937年に新婚旅行の帰路と1945年SCAPとして来日直後[5]にそれぞれ滞在している。日本が第二次世界大戦に敗れた後の7年間は、マッカーサーが率いる占領軍将校宿舎として接収され[6][7]、戦前の錚々たる宿泊者を記したゲストブックが持ち去られた[2]。なお、マッカーサーが当時宿泊していた315号室は「マッカーサーズスイート」として一般客も宿泊できる。

その独特のクラシカルな雰囲気から、『RAMPO』『ツナグ』など邦画ロケーション撮影にも多用されている。

沿革
1926年大正15年)7月 - 「株式会社ホテル、ニューグランド」を設立する。幕末に開設されたフランス海軍病院跡を敷地とする。

1927年昭和2年)12月1日 - ホテルニューグランドを開業する。

1963年(昭和38年)2月 - 株式を店頭公開する。

1991年平成3年) - 18階建て(高さ73m)のニューグランドタワーを開業する。

2003年(平成15年)3月 - 東日本旅客鉄道(JR東日本)が株式の一部を取得。

2004年(平成16年)- JR東日本と業務及び資本提携を締結。JR東日本ホテルチェーンにアソシエイトホテルとして加盟。全面リニューアルオープンする。

2011年(平成23年)4月1日 - プリファード・ホテル・グループに加盟する。

施設概要

本館 (地上5階)
 スイートルーム3室含む全49室 (3階 - 4階)
  ・レストラン&バー
   ・イタリアン レストラン“イル・ジャルディーノ”
   ・京料理“たん熊北店”
   ・コーヒーハウス“ザ・カフェ”
   ・ロビーラウンジ“ラ・テラス”
   ・バー“シーガーディアンII”


ニューグランドタワー (地上18階・地下5階)
 全202室 (6階 - 17階)
  ・レストラン
   ・パノラミックレストラン“ル・ノルマンディ”
 エグゼクティブフロア (15階 - 17階)
   ・エグゼクティブラウンジ「ザ・クラブ」 (16階)
    (エグゼクティブフロア宿泊者専用)

アクセス
横浜高速鉄道みなとみらい線元町・中華街駅一番出口より徒歩1分(渋谷駅から東急東横線相互直通運転

・JR根岸線石川町駅より徒歩15分

横浜市営バス京浜急行バス山下公園前下車すぐ

JR東日本及びJRグループとの関連

2004年3月、東日本旅客鉄道が業務提携により株式の2.9%を取得する。同年4月以降、直営以外唯一の準会員としてJR東日本ホテルズ加盟となり[8]ビューカード利用者向け「ホテルズ利用特典」提供ならびにTYOなどびゅう国内旅行商品として取り扱われている。準会員であるため、JR東日本ホテルズWebサイトでの予約は受け付けず、JRホテルグループにも属さずJRホテルグループ施設要覧などに掲載はない。北海道旅客鉄道(JR北海道)「ツインクルプラザ」商品の首都圏フリープランパッケージツアーパンフレットでは「JRホテルグループ」として扱われている。JR東日本は自社運営ホテルを横浜市内に長らく展開していなかった[注 1]


JR東日本ホテルズの会員制度である「EASTYLE MEMBERS」についても、2015年12月1日付でようやく加盟し、以降は、当館でも同会員制度の特典が受けられるようになった。

雑記
・運営会社「株式会社ホテル、ニューグランド」は商号に「、(読点)」が入る、稀有な名前を持つ[9]
・ニューグランドタワー屋上に、テレビ朝日情報カメラが設置されている。
1988年矢沢永吉シングル『ニューグランドホテル』をリリースしている。シングル、アルバムを含め演奏場所以外に矢沢が具体的建物を題名とした、唯一の作品である。[要出典]
サザンオールスターズのシングル『LOVE AFFAIR 〜秘密のデート』の歌詞に当ホテルのバー「シーガーディアン」が登場する。
東京事変のミニアルバム『color bars』に収録される「今夜はから騒ぎ」のPVは当ホテルで撮影された。
・当地以外の同名あるいは類似名称の宿泊施設とは一切無関係である。たとえば、以下が挙げられる:
  ・東京都八王子市大和田町の八王子ホテルニューグランド(サンルートホテルチェーン提携。以前は“八王子”を省いた看板などが使われていた)。
  ・愛知県名古屋市中村区の「名鉄ニューグランドホテル」(名鉄グループ
・2013年、本館および横浜そごうのバーで、メニューと実際に提供される食材が異なっていたことが判明した[注 2]。これについて総務人事部の見解は「酒中心の店で認識が甘くなった」ためであると謝罪した[10][11][12]
太平洋戦争開戦時の外務次官であった西春彦は夫人の実家がニューグランドだった縁もあり、戦後、横浜市復興会副会長を務めていたが、退官後に入社。後に会長となった。

脚注
注釈
1. 2008年JR東海系「ホテルアソシア新横浜ターミナル」が開業してグループに加盟し、2010年10月、鶴見駅近くに「ホテルメッツ横浜鶴見」を開業している。
2. 
本館の「シーガーディアンII」および横浜そごうの「シーガーディアンIII」において、バナメイエビを「芝海老」、また加熱処理された冷凍ジュースを「フレッシュ」としていた。なお、2013年は阪急阪神ホテルズの各ホテルを皮切りに各地で類似の偽装が発覚した。

出典
1. a b c d e f g h i j k 株式会社ホテル、ニューグランド (2020-02-27). 第142期(2018年12月1日 - 2019年11月30日)有価証券報告書 (Report). 
2. a b 「クラシックホテル 1930年代のインバウンドとともに」『日本経済新聞』朝刊2019年6月23日(NIKKEI The STYLE)。
3. ホテルニューグランド ザ・カフェ”. 2013年10月18日時点のオリジナル[リンク切れ]よりアーカイブ。2013年11月7日閲覧。
4. 梅谷羊次 『ファミレスは進化する!』 商業界、2010年、14頁。ISBN 9784785503901 
5. アメリカ占領下の日本 第2巻 最高司令官マッカーサー 企画・制作:ウォークプロモーション
6. かながわの米軍施設-横浜地区編 CityOfYokohama
7. 横浜市と米軍基地 CityOfYokohama 
8. “ホテルニューグランドとの業務提携開始について” (プレスリリース), 東日本旅客鉄道, (2003年11月11日), https://www.jreast.co.jp/press/2003_2/20031104.pdf 2017年7月14日閲覧。 
9. ホテルニューグランドの社名に「、」が入る理由とは?”. はまれぽ.com (2019年11月7日). 2020年7月5日閲覧。
10. “ホテルニューグランドとベイシェラトン 偽装、横浜の名門も”. 朝日新聞: 神奈川版. (2013年11月7日) 
11. “横浜のホテルニューグランドでも不適切表記 「バナメイエビ」を「芝海老」”. MSN産経ニュース. (2013年11月6日). http://sankei.jp.msn.com/region/news/131106/kng13110618370004-n1.htm 2013年11月7日閲覧。 
12. バー シーガーディアンIIおよびIIIにおける表記についてお知らせとお詫び”. ホテル、ニューグランド (2013年11月6日). 2013年11月10日時点のオリジナル[リンク切れ]よりアーカイブ。2013年11月11日閲覧。

参考文献
・高橋清一『横浜流―すべてはここから始まった』 東京新聞出版局、2005年。ISBN 4808308347

・白土秀次『ホテルニューグランド50年史』 中央公論事業出版、1977年。

関連項目
クラシックホテル - 当ホテルと他の5つの老舗ホテルで「クラシックホテルの仲間たち」というグループを結成し、共同での広報活動を行っている。

外部リンク
公式ウェブサイト
(wikiより)


057a

057c

057b

057d

057e

057f

057h

057i

057g

057j

057k

057l

057m

057n

057o

057p

057q

⇧⇩ Sea Guardian Ⅱ

057r

057s

057t

057u

057v

057w

057x

057y

⇧ 中庭



碑を建てることば

作詞者 武内俊子さんは昭和八年の秋ある日


のメリケン波止場から船で布教のためハワイへ旅立たれる叔父さんを見送りにこられました


それはよく晴れた日の午後のことで桟橋一帯に白いかもめがたくさん飛びまわりそれが折からの夕陽に映えてとても美しく印象的でした


この童謡はこのときの光景を描いたもので横浜港は「かもめの水兵さん」の発祥地であります。
(石碑文より)


童謡『かもめの水兵さん』


1.
かもめの水兵さん

並んだ水兵さん

白い帽子 白いシャツ 白い服

波にチャップチャップ 浮かんでる


2.
かもめの水兵さん

駆け足水兵さん

白い帽子 白いシャツ 白い服

波をチャップチャップ 越えていく


3.
かもめの水兵さん

ずぶ濡れ水兵さん

白い帽子 白いシャツ 白い服

波でチャップチャップ お洗濯


4.
かもめの水兵さん

仲良し水兵さん

白い帽子 白いシャツ 白い服

波にチャップチャップ 揺れている


056a

056b

056c



七代目 澤村 訥子(しちだいめ さわむら とっし、安政7年4月8日1860年5月28日) - 大正15年(1926年3月26日)は、明治から大正にかけて活躍した歌舞伎役者。屋号は紀伊國屋定紋丸にいの字俳名に訥子がある。本名は伊藤 千之助(いとう せんのすけ)。


尾張藩家老家臣の子として名古屋に生まれる。幼少の頃から役者を志し、明治7年(1874年)に大垣で市川千之助を名乗って初舞台を踏む。明治11年(1878年)中村千之助と改名し上京。その後四代目助高屋高助が芸を見込んで養子に迎え入れ、明治15年(1882年)9月に七代目澤村訥子襲名する。勇ましい役どころや激しい大立廻りを得意とし「猛優訥子」の異名をとった。大劇場に出ることはあまりなく専ら小芝居に甘んじたが大衆の人気を勝ち得た。


長男に早世した初代助高屋小傳次、次男にやはり早世した初代澤村宗之助、また甥で養子とした二代目助高屋小傳次がいる。長男門下の澤村傳次郎が娘婿になり後に八代目澤村訥子を襲名して芸風を受け継いだ。


孫はのち映画に進出した二代目澤村宗之助伊藤雄之助澤村昌之助
(wikiより)

054a

054b



助高屋 小傳次 ( すけたかや こでんじ )
( 1884 - 1899 )

明治 17年 5月 2日生まれ。


明治時代の歌舞伎役者。


7代目・沢村訥子 ( とっし ) の長男。


明治 20年 4歳のとき東京吾妻座 ( のちの宮戸座 ) で初舞台。


宮戸座の子供芝居の座頭となる。


のち新富座にうつり大好評をえて前途を期待されたが、明治 32年 8月 24日死去。16歳。


東京出身。


本名は伊藤政吉。

055a

055b



永 六輔(えい ろくすけ、1933年昭和8年)4月10日[2] - 2016年平成28年)7月7日[4])は、日本のラジオ番組パーソナリティタレント随筆家。元放送作家作詞家テレビラジオなどを中心に活躍。軽妙な語り口と歯に衣着せぬトークで人気を集めた。1961年7月に坂本九により初演され、その後世界中でヒットしたポップソング上を向いて歩こう』の作詞者として知られる[5]。また短く簡単な言葉で物事の本質を突く、短文の名人としても知られ、著作も多い。『大往生』は200万部を超える大ベストセラーとなった[6]


“旅の坊主”、“ラジオ屋”、“テレビ乞食”、“遊芸渡世人”、“男のおばあさん”などを自称。本名は永 孝雄(えい たかお)。晩年の所属事務所は「オフィス六丁目」だった。角刈り頭と細長い顔がトレードマーク


長女の永千絵は映画エッセイスト、次女の永麻理は元フジテレビアナウンサー、麻理の長男、岡﨑育之介は俳優、脚本家、演出家。麻理の次男は「大遺言〜祖父・永六輔の今を生きる36の言葉」(小学館刊)の著者拓実[7][8]。また、藤本義一とは遠戚である。

略歴
生い立ち
1933年、代々東京・元浅草の最尊寺の住職を勤めていた永忠順(1900年 - 1991年[9])の息子として生を受けた。江戸時代初期に渡来した中国の学僧を先祖に持つ在日本外国人17代目と自称[10]。父や祖父は永という姓を「ヨン」と名乗っていた[10]。東京都下谷区(現・台東区)の国民学校に通っていた1944年、学童疎開により長野県北佐久郡南大井村の国民学校に転校し、そこで終戦を迎えた。

学生時代以降

1946年に長野県立上田中学校(旧制)に入学するが翌年東京へ帰り早稲田中学校(旧制)に2年編入で転校。この間同校が学制改革により新制の早稲田中学校・高等学校となったため3年で高等学校に昇級進学して卒業する。ラジオに興味を持ち、焼け跡の金属を換金し秋葉原で部品を買い鉱石ラジオを組み立てるグループを作る。そのグループのリーダーが渥美清であった。


この頃からNHKのラジオ番組『日曜娯楽版』にネタを投稿するようになり、そして学校をさぼって実家から近い国際劇場を本拠地にしていた松竹歌劇団レビューを見続けたことがのちの放送作家やテレビ演出活動の原点になった。また、1948年から淀川長治が主催していた「東京映画友の会」の初期の参加メンバーであった[11]。1952年に早稲田大学第二文学部へ入学。大学では民俗学者であった宮本常一の影響を受ける。在学中に三木鶏郎(『日曜娯楽版』の発案者)にスカウトされ、トリローグループのメンバーとして放送作家、司会者としてデビューする。早稲田大学第二文学部を1952年に中退[2][12]


放送作家として

日本でテレビジョン放送が始まる前の実験放送からテレビに関わっており、数々の番組の作・構成を手がけた「放送作家」のまた、先駆者と言える。日本のテレビ草創期を語るときに欠くことのできない存在である。


また、のちには自身も出演者としてテレビ・ラジオの多くの番組を持つようになる。


かくして20代前半から、ラジオ・テレビ番組の企画・演出や、ピアニストで作曲家の中村八大らと組んでの歌曲作詞、また軽妙な語り口を生かしたタレントとしての活動など、マルチプレイヤーとして活動を続けてきた。特にラジオパーソナリティとしての知名度が高い。古今の芸人についての研究や、日本政府によるメートル法の厳しすぎる施行で過度に排除された尺貫法の復権を志す運動[13]、佐渡島の独立運動、「天皇陛下に公式の場で和服(着物)をおめしいただこう」という運動(「天皇に着物を!市民連合」略称「天着連」)など、ユニークな取り組みも多い。


ディズニー
の日本語版製作のアルバイトをしていた関係で1956年には同社のアニメ映画『わんわん物語』でチワワのペドロの声を演じた。続けて『バンビ』『ダンボ』にも声優として出演している[14]


1958年には、若手の文化人らと「若い日本の会」を結成し、安保闘争時に安保改正に反対した。当時、『光子の窓』の脚本を担当していたが、安保デモに参加して脚本を落とし、しかも永を捜しにデモ現場に駆け付けた日本テレビの担当者の「安保と番組、どっちが大事なんだ!」との問いに「安保です」と答えたために番組を降ろされている[15][16]


1960年代には1年間大阪で漫才作家の修行を積み若井はんじ・けんじらの漫才台本を書く。この頃にのちにやなぎ句会で一緒になる桂米朝と出会う。


1961年に NHKで始まった音楽バラエティ番組「夢であいましょう」の作・構成を手がけ、音楽とコントを取り合わせて当時としては大変垢抜けた画期的な番組として人気を博した。この番組からは渥美清、坂本九、黒柳徹子、初代ジャニーズ、E・H・エリックといった多くの人気者を輩出している。


1970年には読売テレビで「遠くへ行きたい」が始まる。タイトルは永と中村八大によるヒット曲「遠くへ行きたい」からとったもので番組開始当初は永六輔が毎週旅をして出演、テレビの旅番組の先駆けとなった。


1977年革新自由連合の結成に参加し政治活動にも進出。1983年6月26日執行の第13回参議院議員通常選挙に比例代表区から出馬したが落選。以降選挙への立候補からは撤退している。1985年、次女・麻理がフジテレビのアナウンサーとして同局に入社(1993年、結婚のため退職)。


1994年には『大往生』を発表。日本のあちこちの無名の人々の生、死に関する様々な名言を集めたこの本は、200万部を超える大ベストセラーとなる。他に、多方面でのエッセイの著作が多数ある。2000年に、全業績で菊池寛賞を受賞。


2002年 - 2007年まで、校長が中山千夏、講師陣が永・矢崎泰久小室等という私塾「学校ごっこ」に係わった。


2008年6月、第45回ギャラクシー賞で、ギャラクシー賞45周年記念賞を受賞[17]

音楽ではシャンソンが好きで、石井好子との学生時代からの交友関係もあった。その一方で、演歌はあまり好きでないが「好きな演歌もある」そうである[18]


闘病

2009年に呂律が回らなくなったと『週刊女性』に報じられ[19]、そのときは加齢と入れ歯のせいだとしていたが[20] [21]、2010年になってパーキンソン病と診断されてこれを公表し、投薬治療を受けていた[22][23]。2010年9月30日には、前立腺癌とパーキンソン病と闘病しながら活動を行う永を密着取材したドキュメンタリー番組『永六輔 戦いの夏』がNHK総合で放送された[24][25]。一時は引退も考えたと語ることもあったが、投薬治療されるようになってからは症状が良くなりラジオでも会話が滑らかになっていた。


パーキンソン病の影響で歩行困難になり[24]、2006年に奄美大島で転倒して右足小指骨折し、半年間杖で歩行していた。さらに2011年11月16日夕、東京都内の自宅で転倒して大腿骨頸部を骨折し入院・手術[23]。永の強い意志で仕事は極力休まず、ラジオのレギュラーは病室からのゲスト参加や収録という形式が採られた。同12月27日、イベントへ車椅子で参加。以後、レギュラー2番組の放送・収録は病院からスタジオへ赴いた。2012年1月17日に退院、リハビリは継続した。


リハビリ中には、インドネシア人介護福祉士が「日本にはいい歌がある。『上を向いて歩こう』を歌いながら歩きましょう」と提案。永は恥ずかしがり、「この歌、僕知らないからやめてください」と言ったところ、リハビリの主任の医師から「外国から勉強に来ている子なんだから嘘つかないでください。ちゃんと言ってください」と言われ、翌日リハビリが始まるときに「あれは嘘です、知ってます。なぜ知ってるかっていうと僕が作ったからです」というと、インドネシア人の介護士は「また嘘ついてる」と笑った[26]


2013年、毎日芸術賞特別賞を受賞。


死去

2016年6月27日の放送を以って「六輔七転八倒九十分」が終了し[注釈 1]、全レギュラー番組を降板した。

2016年7月7日午後1時57分に、肺炎のために東京都内の自宅にて83歳で死去していたことが同月11日に発表された。[27][4][注釈 2]。医師によると「死因は肺炎とするが、老衰と言っていい状況」で穏やかな最期だったという[28]。葬儀・告別式は実家の最尊寺で7月11日、近親者で行った。8月30日に青山葬儀所で《 六輔・永(なが)のお別れ会 》と題したお別れの会が行われ、同日に赤坂BLITZでファン参加型のお別れの会「ばらえてぃ 永六輔を送りまSHOW」が昼夜2回催された[29][30][31]


友人である黒柳徹子に対し、「黒柳が亡くなった際の葬儀委員長をやる」とよく話していたが、実際は永が先に亡くなり、黒柳が永のお別れの会でメッセージを述べることとなった。そのお別れの会で黒柳は永の顎が外れたエピソードを話し、会場が爆笑となった[32][33]


2016年11月17日第58回日本レコード大賞の特別功労賞を受賞することが発表された[34]


作詞家活動

1959年、作曲家の中村八大からの依頼がきっかけで作詞家として活動を始める[35]。この年、「黒い花びら」で第1回日本レコード大賞を受賞。1959年 - 1966年にかけて中村八大とのコンビにより数々のヒット曲を飛ばし、特に1961年に坂本九が唄って大ヒットした「上を向いて歩こう」がアメリカ合衆国で『スキヤキ・ソング』(Sukiyaki)とタイトルを変え『ビルボード』のウィークリーチャート(Hot 100)で1位(1963年6月15日付けから3週連続)に輝くという金字塔を打ち立てた。


しかし、この曲の録音の際、永は坂本九の「ウヘホムフイテ、アールコホゥホゥホゥ」という独特の節回しの歌いだしを聴いて、耳を疑い「おまえ、どこにホゥホゥホゥと書いてあるんだ」と激怒し、これではヒットしないと考えた。舞台の袖にいた俳優の水谷良重は「こういうのヒットするのよね」と言っていた。永の予感は外れ、全米のヒットチャートでも1位に輝くなどしたが、後に永は坂本が幼児期から清元小唄を仕込まれていたことを知り、「あの歌い方は邦楽だった。彼の中に日本の伝統が生きていた」と自分自身を納得させた[36][5][37]


「上を向いて歩こう」は当時大人気だったNHKの音楽バラエティ番組「夢であいましょう」(作・構成は永六輔)の”今月の歌”で歌われたことにより一気に日本中でヒットしたが、この番組からは数々の歌が生まれ、六輔・八大・九の3人による歌がヒットするにつれ、「六・八・九トリオ」と呼ばれるようになった。また、同じように「夢であいましょう」の”今月の歌”であった「こんにちは赤ちゃん」も第5回レコード大賞を受賞している。


作曲家・いずみたくと共に作ったミュージカル「見上げてごらん夜の星を」からのタイトル曲も、「上を向いて歩こう」と並んで坂本九の代表曲となっている。


永が作詞家として全盛期を迎えたのは、日本のミュージックシーンに作詞・作曲から歌まで1人で手がけるシンガーソングライターが登場した時期でもあった。ビートルズが来日した1966年は、美輪明宏が「ヨイトマケの唄」を、さらに荒木一郎が「空に星があるように」を、自ら作詞・作曲し歌ってヒットさせた年でもある。


ラジオの活動に重きをおくようになった1967年以降は作詞活動から後退し、1969年以降は付き合いを除く作詞活動から撤退した。


作詞をやめた理由としては、「テレビに出れば何でも流行するのか」と怖くなったことがあげられる[38]。また、永が多くの詞を提供した作曲家である中村八大といずみたくの2人は、同世代であり互いの曲を意識しあったが、共通の友人でもある永には複雑な思いがあった。特に板挟みのような状況ではなく作曲家2人は仲が良かったのだが、それだけに「友達でいることを優先」したかったことも、その理由のひとつだったと後に本人は述べている[39]。それとともに、シンガーソングライターの出現により「自分が歌いたい歌を作詞すればよい」と思うようになったということもあげられるが、それはシンガーソングライターを否定するものではなく、きたやまおさむとは『土曜ワイド』にたびたびゲストとして招いたり、逆にNHK-FMの『きたやまおさむのレクチャー&ミュージック』に永がゲスト出演する(2010年12月10日・17日など)という仲である。


永は1974年に野坂昭如小沢昭一と中年御三家を結成して日本武道館でコンサートを行い、ビートルズ以来と言われるほど盛況であった(2003年に「帰ってきた中年御三家」コンサートをNHKホールで行ったが、野坂は病気のため不参加)。


テレビ出演

かつてTBSテレビ放送40周年記念特別番組の際、タレントが永が行っていたラジオ番組紹介コーナーの進行を無断で遮ったことに憤慨し、生放送であるにもかかわらず途中で退場[40]。その後、テレビへの出演に消極的になった(なお他のテレビ番組(テレビ朝日こんにちは2時』など)でも途中退場したことがある[16])。


2016年
2月4日には82歳で、『徹子の部屋』40周年記念ゲストとして81歳の大橋巨泉と共に出演した。パーキンソン病の影響と、過去に圧迫骨折した背骨の再手術を控えて入院先の病院からスタジオへ出かけての出演であったため、リクライニングシートを斜めに倒した車椅子に座った状態だったが、巨泉からプレゼントされたエイ(魚)のぬいぐるみを膝に乗せてトークを披露した。『徹子の部屋』には通算39回出演。


ラジオ出演

それまで構成作家として関わってきたラジオ番組だが、1959年放送開始の『昨日のつづき』にて初めて出演することとなる。この番組は、日本初のフリートークで進められる番組で[41]、永六輔は番組開始後、早い時期に喧嘩別れして大橋巨泉と交代した。1966年に『夢であいましょう』が終了すると、活躍の場をラジオに求め、翌年の1967年に『誰かとどこかで』がスタートする。それ以降は、ラジオに重きを置くようになっているが、TBSラジオ以外の関東地方のラジオ局では晩期は定時番組(レギュラー)での仕事をしていない。「出演者は自分で名乗るべき」と永六輔に諭されていたらしい外山惠理が、永六輔亡き後の番組で、いきなりトークに入り、それに対してはぶ三太郎が「あなたは何者ですか?」と自己紹介を促したことがあった。「ご自身(永六輔)は名乗らないで、いきなりトークに突入することもあった」と、2016年7月11日放送の『いち・にの三太郎〜赤坂月曜宵の口』の中で述べている。


なお、朝日放送中部日本放送琉球放送のラジオ番組にも出演しているが、あくまでも個人的な付き合いに留まっている(朝日放送はアナウンサーの道上洋三との[42]、中部日本放送はつボイノリオとの親しい縁から[43]、道上によると、永は面白いと思った地方ラジオ放送局にアポイントを入れることなく、直接プロデューサーに交渉して出演するという。道上、および、つボイとの親交が特に深いのは、こういった事情もある。なお、出演料は基本的にノーギャラであり、CBCラジオの「つボイノリオの聞けば聞くほど」に出演した際には、「高級天丼」が、ギャラの代わりに提供されることも明らかにしている。


全国こども電話相談室』に回答者として出演した際、「どうやったらテレビに出られますか?」という質問に対し「出なくてもいい」という趣旨の答えを返し、「もっといろいろなものに興味を持ちなさい」と子供を諭した逸話がある[44]


TBSラジオでかつて放送されていた『永六輔の土曜ワイドラジオTokyo』は久米宏が初めてレギュラーを受け持った番組であり、久米は永のことを「拾ってくれた」「恩人」と言っている[45]。しかし後に永自身が語ったところによると、久米は永からかなりぞんざいに扱われた為、当時はかなり恨んでいたという[46]。久米は現在でも「永さんの前に立つと緊張する」と語っているが、恨みは持っておらず、『大往生』がベストセラーとなった1994年にはニュースステーションの年末特番に「ベストセラー作家」として永がゲスト出演している他、2010年1月2日には『久米宏 ラジオなんですけど』にゲスト出演している。また、永の訃報に久米は「永さんは、僕の恩人で先生です。いなくなると、とても困るのです。ですから、永さんはいなくならないのです」とコメントを出した。


映画出演
フランキーの宇宙人(1957年3月27日公開、菅井一郎監督、日活) - 新聞記者 役
男はつらいよ 寅次郎純情詩集(1976年12月25日公開、山田洋次監督、松竹) - 根津神社の警官 役
春男の翔んだ空(1977年12月19日公開、山田典吾監督、現代ぷろだくしょん) - 野杉春男 役(主演)[注釈 3][47]
大往生(1998年10月10日公開、藤田傳監督、劇団1980)- 熊御堂 役[48]
理由(2004年12月18日公開、大林宣彦監督、アスミック・エース) - 有吉房雄 役


その他の活動

舞台監督としても活躍していた時代があり、自らのトークショーや地方講演などではプロの舞台監督を雇わずに自分で進行をしていた。ただし、業界で唯一信頼を置いて舞台進行を任せる人物に勇村育世がおり、最近では永自らが構成・演出する舞台であるにもかかわらず、彼女を「舞台演出家」と他の出演者に紹介するほどである。「彼女の言うことに僕は逆らったことがない」というのが口癖。


初めてテレビCM出演したのが浅田飴、初めてスポンサーラジオ番組を持ったのが桃屋だが、つながりができた理由は自身の語るところによると「江戸風俗・芸能に造詣が深いから」という。


自身の信念とは正反対の文藝春秋で記事を書くこともあるが、これも「江戸風俗・芸能に造詣が深いから」書けるとのこと。しかし、文藝春秋で書いていることについて「あいつらに人質にとられているようなものですよ」と半ば自嘲気味に語っている。新潮社でも「江戸風俗・芸能に造詣が深い」との理由から長らく記事を書いていたが、親交のある灰谷健次郎斎藤十一のやり方に抗議して絶縁した1997年以降疎遠となり、週刊金曜日主催の「ちょっと待った! 教育基本法改悪 共謀罪 憲法改悪 緊急市民集会」[注釈 4]での言動を同社の雑誌に批判されてからは完全に絶縁した。


物柔らかく高めの声音が明仁天皇に似ていて、永自身も明仁天皇の即位前から冗談の種にしている[要出典]NHKラジオ第1放送の番組『話芸・笑芸・当たり芸』において「我は高田文夫を深く認識いたします」とのセリフでものまねを披露したこともあった。その一方、永のものまねをした者もいる( →永七輔小堺一機タブレット純大泉洋など)。自らを「男のおばさん」と標榜しており、ピーコなどと仲が良い。


中居正広
と接点があり、バラエティ番組「SMAP×SMAP」の1コーナーだった中居のコント「輔のちょっといい話」のために、自前の衣装(和服)をプレゼントしたことがある[49]


プライベート
生活
・大変な愛妻家として知られる。1955年、日本テレビの廊下で一目惚れした女性と22歳で結婚。テレビ・放送業界で活躍し始めていたものの、相手の家庭が堅い職業の家柄だったため、僧侶である自分の父親に頼んで筆と巻紙で手紙を書いてもらって両親に挨拶に行き、結婚の許しを得た。 2002年、68歳で妻に先立たれるが、遺骨をずっと自宅に置き、妻宛に日記代わりのハガキを書き続けた。投函して自宅に届けられた亡き妻宛のハガキは1500通を超えた。
・アナログ人間であり、ポリシーとしてウェブ(インターネット)や電子メール、携帯電話など最先端のものを避けてきたが、SO213iWR(AMラジオが付いた携帯電話端末)が出たのを機に、携帯電話を所持するようになったが、電子メール機能は利用したことがないほか、2008年1月の放送では、「持ってなくても不便ではないから、常には持ってない」と発言している。
・かつては自動車を運転していたこともあったが、「人をひきたくない」と思うようになり、運転しなくなった[50]
・"楽しくなければ嫌”というモットーを一貫しており、リハビリの車いすを選ぶ際にも『どんなのがある?』と好奇心旺盛で、展示場で目を輝かせていた。このため、長女の永千絵ら家族はどうすれば永を楽しませられるかを常に考えねばならなかった。病院嫌い、薬嫌いでもあり、服用のための子ども用のゼリーを粉薬にかけても、上のゼリーだけすくって食べて、薬は残っていた。待つことが嫌いな永のため、家族は自宅近くのクリニックへの通院では、朝一番に駆けつけて受付けを済ませ、その後、「すぐに父を呼んで来ます」と、2番目に並ぶ患者さんにも聞こえるように言い、走って迎えに行って受診させた。待合室でも、永を楽しませるためのおかしなネタを仕入れて置くなどしなければならなかった。疲れた顔など見せようものなら、「楽しくないのなら、お帰りください!」というのが永のスタンスであったという[51]


伝統
・「天皇陛下に公式の場で和服(着物)をおめしいただこう」という運動(「天皇に着物を! 市民連合」略称「天着連」)を主催する形で、天皇と日本の民族衣装である着物に対する敬意を持つことを表明している[52]
・反捕鯨運動には、日本の伝統文化としての捕鯨を守る立場から一貫して批判的である。シーシェパードなど実力行使を伴う反捕鯨運動を「テロリズム」と批判している[53]
・伝統的建築復権運動を進めている。日本では建築基準法により、建築物にボルト締めは不可避だが、ボルトを使わず木材だけで建築した建物が地震で崩れないのに、何故そういう建築を認めないのかと憤慨している。晩期になって伝統的な職人の服装の復権を呼びかけていた。
メートル法が施行されて日本古来の尺貫法が禁じられ、曲尺鯨尺の製造・使用が違法扱いになって多くの職人が困っていると知り、1975年に尺貫法復権運動を始めた。日本の建築や着物など多くの日本文化が尺貫法に則って作られてきたにも関わらず、それを違法とするおかしさをラジオや講演で訴え、尺貫法復権の立役者となった。
山田洋次監督『男はつらいよ』シリーズ第18作、1977年正月映画(1976年12月公開)の「男はつらいよ 寅次郎純情詩集」には主人公車寅次郎が露天商として「くじら尺」を売る場面があり、「家を建てるにも、服を作るにも、このくじら尺をというものがないと始まらない。これがなくては職人さんも困っちゃう。」という口上を述べるシーンがあり、その様子を怪訝な表情で見つめる警察官が登場するが、その警察官役を永が務めている[54]
佐渡島を舞台として活動する伝統芸能をもとにした和太鼓集団、鼓童の前身である鬼太鼓座の立ち上げに尽力したことから、鼓童も支援し続けた。『土曜ワイド』でも佐渡から生放送したことがある。
・「ご先祖様は大事だが、先祖を奉れと強要する人がいてよろしくない」「何何をしないと不幸になるという人がいて不快」という発言を、ラジオ番組ですることが多い。
・1960年代から安藤鶴夫との知己を得て狂言歌舞伎講談落語浪曲などの伝統芸能と接する機会が増え、以降東京の伝統芸能を積極的に後援していた。実家である浅草の最尊寺においては自身を肝煎とする寄席「永住亭」を1986年から年4回定期的に開催し、東京の女性寄席芸人による木遣を唄う集団「住吉木遣り連 大江戸小粋組」のサポーターも勤めていた。1960年代の終わり頃およそ1年半に渡って大阪に居住し、上方の文化と芸能に接した。安藤鶴夫から豊竹咲大夫を紹介された。


信条
叙勲制度に反対している。
・死刑制度に反対している。
天皇制には反対の立場を貫いた。これは天皇を嫌っているわけではなく、むしろ同世代という連帯感もあるとしている[55]。また、晩年は、この国で誰よりも日本国憲法を大切にしているのは明仁天皇皇后両陛下である、として尊敬の念を示していた。


共産党
しんぶん赤旗日本共産党推薦人になり、党や支持団体が主催するイベントで度々講演[56]していた。また、日本共産党中央主催の赤旗まつりでは色紙展に出品するのが恒例となっていた。
・同じく日本共産党の支持者であった井上ひさしとの縁と自身の信念から、井上らが構成する護憲組織「九条の会」に賛同している[57]が、「九条以外は日本国憲法を改正してもいい」という永の考えの賛同メッセージが消されているため距離を置いていた。なお井上とは不仲にならず亡くなるまで親交は続いていたという。また、永は日本国憲法を「二度と飢えた子どもの顔は見たくない[注釈 5]」の一言を組み込んで世界でいちばん短い憲法にするべきと言った考えを述べていた[58]
・2006年11月19日、日比谷公会堂で開かれた「週刊金曜日」主催の集会に参加し、日本国歌「君が代」をアメリカの有名な行進曲「星条旗よ永遠なれ」のメロディーで歌った[注釈 4]


交流
青島幸男が東京都知事時代、官僚と対決する公約を破っていると指摘した。田原総一朗石原慎太郎におもねった発言をしたとの理由で批判している[59]
東京やなぎ句会の同人である桂米朝とも親交が深く、弟子の桂ざこばとかつて新宿駅西口地下広場で反戦噺会を開いていた。
中山千夏とも古くから親交があり、当時の「反ジェンダーフリー・保守的教育復興運動」には批判的で、2007年の東京都知事選挙では親交のある中山千夏と共に浅野史郎を支援した。
辛淑玉と親交があり、彼女が『世界一受けたい授業』に講師として出演した際「推薦VTR」で出演していた。また、2007年5月5日に長野県松本市の寺で行った彼女の生前葬では葬儀委員長を務め、無着成恭と共に読経した。


詳しいことは、『永 六輔ウィキペディア』をご覧ください。 ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%B8%E5%85%AD%E8%BC%94
(wikiより)

0020 永六輔

⇧ 永 六輔

0020a

0020b

0020c

0020d

0020e

⇧⇩ お参りが済んで寺務所にご挨拶をしたら絵葉書セットをいただきました。

0020f



「日の恩や 忽ちくだく 厚氷」と刻されています。

吉良邸に討ち入った赤穂四十七士の大高源五の辞世の句と言われています。

0031a



明治 40年に起きた日露戦争の戦没者を悼んで建てられた石碑です。

揮毫は日清、日露戦争で陸軍大将として指揮した大山巌です。裏側には戦没者の名前が刻まれています。

0030a

0030b

0030c



両国広小路(りょうごくひろこうじ)は、隅田川に架かる両国橋西詰に設けられていた広場。重要な交通手段であるの交通を守るために火除地(ひよけち)として扱われたため、常設の建物は作られなかった。現在の中央区東日本橋二丁目のことを指す。

歴史
東日本橋」も参照

江戸幕府は防備の面から隅田川への架橋は千住大橋以外認めてこなかった。しかし1657年(明暦3年)の明暦の大火の際に、橋が無く逃げ場を失った多くの江戸市民が火勢にのまれ、10万人に及んだと伝えられるほどの死傷者を出す。事態を重く見た老中・酒井忠勝らの提言により、防火・防災目的のために架橋を決断することになる。木製の橋への類焼を防ぐため、火除地として広小路は作られた。地名としての「両国」は、隅田川西側の武蔵国側を多くは指し、対岸の(現在の両国である)旧下総国側(墨田区側)を「向両国(むこうりょうごく)」(東両国とも)と呼んだ。


興行の町・繁華街としての両国広小路

江戸の街中にポッカリと穴が開いたように空き地があれば、人は無断利用するのが当然で、すぐに目的外使用が始まり、仮設の見世物小屋( ヒラキと呼んだ)(現在の相撲・飲食店含む)が立ち並び、「両国広小路」と「浅草寺裏」は、江戸一番の盛り場(歓楽街)として、江戸時代期から明治時代初期を通して繁盛した。将軍が鷹狩りに出るときなどは、両国の全ての見世物小屋がきれいに無くなって、本来の火除地の姿に戻った。江戸三大広小路のひとつにあげられる。この姿は江戸東京博物館ジオラマ模型展示で再現されている。


江戸砂子』によると、まず辻講釈が出たのが始まりで、次々と見世物小屋が建ち、飲み屋ができ、浅草観音付近を思わせるほどの盛り場となった[1]。両国橋東西の広小路には、髪結床水茶屋といった床見世のほかに、棒手振りや屋台の露店商などが立ち並ぴ、軽業手品浄瑠璃講談などの見世物小屋で賑わった[2]享保年間には両国広小路の露店売りが常設となり[3]安政ごろには小屋が建ち並んでいたと思われる[1]明治時代には卑俗な見世物小屋がたくさんあり、明治初年ごろには阪東村右衛門の芝居(のちの中嶋座)、富田角蔵兄弟の芝居(のちの明治座)、矢場辰の女芝居があり、いずれも粗末な小屋掛けであったが年中大入りであった[1]。明治末には福宝堂活動写真館「第七福宝館」ができ、両国広小路から薬研堀のあたりまで狭い横丁が縦横にあり、飲酒屋や汁粉屋などあらゆる飲食店が軒を連ねた[1]

その他の両国広小路に関連する風俗
・うろうろ船
・水垢離
・両国花火
・両国ねこういん坊主

主な見世物興行一覧
繁栄の後
木橋としては1875年(明治8年)12月の架け替えが最後となる。両国駅の開業や両国国技館の開館にともない、両国という地名は次第に東両国を指すようになっていった。1971年には住居表示にともない、中央区の日本橋両国は周囲の日本橋米沢町、日本橋薬研堀町などとあわせ東日本橋と改められ、現在は中央区東日本橋二丁目となっている。一方、墨田区側はすでに1967年、東両国から両国へ改称されている。現在、両国橋西交差点付近に、「両国広小路記念碑」が設けられている。

再現

江戸東京博物館には、両国広小路西橋詰の模型が常設展示されており、天保の改革の取締りの記録をもとにした改革前の盛り場の姿を1500体の人形を配置して再現している[4]

2013年12月には、埼玉県羽生市にある羽生パーキングエリアの商業施設「鬼平江戸処」の内部に、両国広小路の屋台の連なりを再現した立ち食い処が設けられた[5]

脚注
1. a b c d 『日本橋消防署百年史 : 明治14年~昭和56年』(日本橋消防署, 1981)
2. 盛り場・両国江戸東京博物館、2013年04月16日
3. 交差の界隈性 : 現代東京における江戸の見附地と辻の役割牛垣雄矢、田中絵里子、畠山輝雄、佐野 充、IATSS REVIEW Vol.30,№.2、2005年8月
4. 常設展 5階江戸東京博物館
5. 立ち食い処屋台連東北自動車道 羽生PA(上) 鬼平江戸処


参考文献
海野弘『江戸の盛り場』青土社、1995年11月。ISBN 4791753771
・海野弘『新編東京の盛り場』アーツ・アンド・クラフツ、2000年12月。ISBN 4900632465
・たばこと塩の博物館『展覧会図録『大見世物』 江戸・明治の庶民娯楽 : 開館25周年記念特別展』たばこと塩の博物館、2003年。ISBN 4924989223

関連項目
市川九女八 - 当地の菰張小屋の女芝居に出ていた
明治座 - 当地にあった富田兄弟の芝居小屋が前身
両国八景 - 両国広小路を舞台にした落語

外部リンク
両国橋西詰広小路模型 360度パノラマビュー - 江戸東京博物館
広小路 - 『隅田川両岸一覧』葛飾北斎
(wikiより)

0028a

0028b



明治初年の文書によると、祭神は土師真中知命 ( はじのまつちのみこと ) ・桧前浜成命 ( ひのくまのはまなりのみこと ) ・桧前竹成命 ( ひのくまのたけなりのみこと ) ・東照宮である。


浜成と竹成は隅田川で漁猟中、浅草寺本尊の観音像を網で拾い上げた人物

真中知はその像の奉安者といわれている。


三神を祀る神社なので、「三社様」と呼ばれた。


しかし鎮座年代は不詳。


東照宮は権現様すなわち徳川家康のことで、慶安二年 ( 1649 ) に合祀された。


以来、三社大権現といい、明治元年 ( 1868 ) 三社明神、同六年浅草神社と改称した。


現在の社殿は慶安二年十二月、徳川家光が再建したもの。


建築様式は、本殿と拝殿との間に「石の間」 ( 弊殿・相の間ともいう )

設け、屋根の棟数の多いことを特徴とする権現造。


この社殿は江戸時代初期の代表的権現造として評価が高く、国の重要文化財に指定されている。


毎年五月に行われる例祭は「三社祭」の名で知られ、都指定無形民俗文化財「びんざさら」の奉演、百体近い町神輿の渡御があって、人々が群集し、賑やかである。
(案内板より)

〇 浅草神社
浅草神社(あさくさじんじゃ)は、東京都台東区浅草浅草寺本堂東側にある神社である。通称に三社権現(さんじゃごんげん)、三社様(さんじゃさま)。5月例大祭は三社祭という。

祭神
浅草寺の創建に関わった土師真中知(はじのまなかち)、檜前浜成(ひのくまのはまなり)、檜前武成(ひのくまのたけなり)を主祭神[2]とし、東照宮徳川家康)・大国主命を合祀する。檜前浜成・武成の他のもう一柱の主祭神については諸説ある[注釈 1]が、浅草神社では土師真中知であるとしている。この三人の霊をもって「三社権現」と称されるようになった。

歴史

社伝によれば、推古天皇36年(628年)3月18日、漁師の檜前浜成・檜前武成の兄弟が宮戸川(現在の隅田川)で漁をしていたところ、網に同じ人形の像が繰り返し掛かった。兄弟がこの地域で物知りだった土師真中知に相談した所、これは聖観音菩薩像であると教えられ、二人は毎日観音像に祈念するようになった。その後、土師真中知は剃髪して僧となり、自宅を寺とした。これが浅草寺の始まりである。土師真中知の没後、真中知の子の夢に観音菩薩が現れ、そのお告げに従って真中知・浜成・武成を神として祀ったのが当社の起源であるとしている。


実際には、平安時代の末期から鎌倉時代にかけて、三人の子孫が祖先を神として祀ったものであると考えられている。ご神体として前述三氏を郷土神として祀っている。


明治の神仏分離により浅草寺とは別法人になり、明治元年に三社明神社に改称、明治5年に郷社に列し、明治6年に現在の浅草神社に改称した。

社殿
社殿は浅草寺の本堂の東側にある。現存の社殿は徳川家光の寄進で慶安2年(1649年)に完成したもので、昭和26年(1951年)に拝殿・幣殿・本殿が国の重要文化財に指定された[4][注釈 2]

文化財
重要文化財(国指定)
・本殿及び幣殿 - 江戸時代前期(1649年)頃の建立。本殿、三間社流造、銅板葺。幣殿、桁行三間、梁間一間、一重、前面入母屋造、背面本殿に接続、銅板葺。昭和21年(1946年)11月29日指定。

・拝殿 - 江戸時代前期(1649年)頃の建立。桁行七間、梁間三間、一重、入母屋造、向拝三間、本瓦葺。昭和21年(1946年)11月29日指定。

氏子地域

台東区浅草

台東区花川戸

台東区千束一丁目、二丁目1~32、三丁目2~18・20・21、四丁目1~11

台東区東浅草二丁目6~9・27・28

台東区日本堤一丁目1・22~24・40、二丁目1・28~29

台東区清川二丁目4~6・14~18・22・28~34・37~39

台東区西浅草一丁目、三丁目

台東区雷門

台東区駒形一丁目6~12、二丁目1・6・7

台東区寿一丁目1~9・15~19、二丁目1~4・9~10、三丁目15~21、四丁目全域


浅草神社の氏子町会は全部で44ヶ町あり、南部16ヶ町、西部16ヶ町、東部12ヶ町と3ブロックに別れている。また三社祭では本社神輿の一之宮、二之宮、三之宮が3つのブロックを渡御し、どのブロックにどの神輿が渡御するのかは毎年変わる。 ちなみに浅草神社や浅草寺は氏子町会である浅草公園町会の町会区域に属する。

浅草神社氏子町会(三社祭などでの略称)


南部16ヶ町 仲見世町会(仲見世) 浅草東町会(浅草東) 浅草中央町会(浅草中央) 浅草西町会(浅草西) 浅草公園町会(浅草公園) 浅草一丁目三栄町会(浅一三栄) 雷門東部町会(雷門東部) 雷門中部町会(雷門中部) 雷門西部町会(雷門西部) 雷門田原町会(雷門田原) 西浅草一丁目町会(西浅草一) 浅草寿町一丁目町会(寿一) 浅草寿町二丁目町会(寿二) 浅草寿町三丁目東町会(寿三東) 浅草寿町四丁目町会(寿四) 駒形町会(駒形)


西部16ヶ町 浅草町一町会(浅草町一) 浅草町二町会(浅草町二) 浅草町清三睦会(浅草清三) 堤町会(堤) 千草町会(千草) 浅草中町会(浅草中) 浅草千和町会(浅草千和) 千束二丁目西町会(千二西) 千束二丁目光月町会(千二光月) 千束一丁目南町会(千一南) 西浅草三丁目北部町会(西浅三北) 浅草芝崎町東町会(芝崎東) 浅草芝崎町中町会(芝崎中) 浅草芝崎町西町会(芝崎西) 浅草三丁目東町会(浅三東) 浅草二丁目町会(浅草二)


東部12ヶ町 浅草馬道一丁目町会(浅草馬一) 浅草馬二町会(浅草馬二) 浅草馬三町会(浅草馬三) 花川戸一丁目町会(花川戸一) 花川戸二丁目町会(花川戸二) 浅草五一町会(浅五会) 田町聖横町会(田聖睦) 猿若町会(猿若) 聖天町会(聖天) 浅草象一町会(浅草象一) 浅草象潟町会(浅草象潟) 浅草象三町会(浅草象三)

補注
・神社では特に宣伝していないが、現在判明している最も古い招き猫丸〆猫(まるしめのねこ)」に関する記録が複数残っており、現在最も古い招き猫の例となる(『武江年表』、『藤岡屋日記』共に嘉永5年(1852年)の項)。

・2019年に新春の伝統行事である大まぐろ奉納や福男選びで全国的に知られている西宮神社兵庫県西宮市)の古文書調査で浅草寺周辺の地主神が西宮神社を由来とする「西宮恵比寿」であることが判明。江戸時代までは神仏分離前の浅草寺でもえべっさんが祭られていたことも分かった。西宮神社との関係復活を記念して、浅草神社でも西宮神社の伝統行事である「十日えびす」に因んだ「浅草二十日えびす」を2020年1月19日に開催した[7][8][9][10]

交通
G 東京メトロ銀座線A 都営地下鉄浅草線東武線 東武伊勢崎線(東武スカイツリーライン)浅草駅より徒歩7分

Tsukuba Express mark.svg つくばエクスプレス浅草駅より徒歩10分

脚注
注釈
1. 土師中知(はじのなかとも)とも。 [3]
2. 国指定文化財等データベースでは昭和21年指定[5][6]

出典
1. a b c 東京都神社庁.
2. 浅草神社について 浅草神社(2020年11月閲覧)
3. 浅草寺の歴史 浅草寺より
4. 浅草神社について 社殿について”. 浅草神社. 2020年6月12日閲覧。
5. 浅草神社 本殿及び幣殿”. 国指定文化財等データベース. 2020年6月12日閲覧。
6. 浅草神社 拝殿”. 国指定文化財等データベース. 2020年6月12日閲覧。
7. 浅草でも「えべっさん」 総本社 西宮神社との縁、古文書で判明”. フジサンケイビジネスアイ(2019年2月26日作成). 2020年1月11日閲覧。
8. 十日えびす、何で大マグロに硬貨を張るの? 参拝客が始め、関西一円へ”. 神戸新聞(2019年1月8日作成). 2020年1月11日閲覧。
9. 浅草廿日戎(あさくさはつかえびす)開催のご案内”. 浅草神社(2020年1月9日作成). 2020年1月11日閲覧。
10. 東京・浅草 復活!“廿日戎”で繁盛祈願”. 東京メトロポリタンテレビジョン(2020年1月19日作成). 2020年1月23日閲覧。

参考文献
・“浅草神社【三社様】”. 東京都神社庁. 2020年6月12日閲覧。

関連項目
土師氏

外部リンク
浅草神社 公式サイト

浅草神社 (@asakusajinja) - Twitter

浅草神社 (asakusajinja) - Instagram

浅草神社 - Facebook
(wikiより)

0174a

0174b



慶安二年 ( 1649 ) 十二月二十三日、旧本堂と共に三代将軍徳川家光公により、再建落慶した旧仁天門 ( 国宝指定 現宝蔵門と同規模 ) は、三百年間浅草寺山門として江戸・明治・大正・昭和と時代の変遷を見つめ、文学、絵画、芸能など往時の文化にたびたび登場してまいりましたが、残念ながら昭和二十年 ( 1945 ) 三月十日の東京大空襲により本堂・五重塔 ( 家光公建立・国宝 ) と共に炎上焼失いたしました。


その後、現本堂に続き昭和三十九年 ( 1964 ) 四月一日、仁王門を宝蔵門と改めて同跡地に再建されました。


この3つの大石は宝蔵門再建に際して旧仁王門の跡地より昭和三十七年二月六日に掘出された礎石です。


旧仁王門には十八本の大木柱があり、それぞれに基礎石がありましたが、戦火に遭い、ひび割れ破損し、原型をとどめる大礎石三個を選び保存しました。


石材は「本小松石」で上端の仕上げ面は約一・ニm角、柱受けのホゾ穴があり、最大幅は約一・四m角、高さ約一m。


この礎石の下部と周囲は十~十五cm径の玉石と粘土で突き固められていました。


江戸の人々の息吹を感じると共に、平和を祈る記念碑として受継ぎたいと存じます。

浅草寺
(案内板より)

0173a

0173b

0173c



五重塔とは、仏舎利 ( ぶっしゃり = 釈迦の遺骨 ) を奉安する仏塔の一つで、古くから寺院に建立されてきた。


この場所は、江戸時代の慶安元年 ( 1648 ) 徳川家光によって再建された旧国宝の五重塔 ( 木像高さ三十三メートル ) が建立されていた場所で、現在の五重塔とは反対側に位置していた。


浅草寺の五重塔は、天慶五年 ( 942 ) 平 公雅 ( たいらのきんまさ ) により創建され、その後いく度か炎上するもその都度再建されている。


江戸時代、家光再建の五重塔は、上野の寛永寺・谷中の天王寺・芝の増上寺の塔とともに「江戸四塔
」として親しまれていた。


また、歌川広重 ( うたがわひろしげ )・歌川国芳 ( うたがわくによし ) などの浮世絵の格好の画題としても全国に知られ、朱塗り・碧瓦 ( 未、申 ( ひつじ、さる ) にあたる裏鬼門 ( うらきもん ) の本学の第三層には、羊角猿面 ( ようかくさるめん ) の鬼瓦が葺 ( ふ ) かれる ) の美しい姿を見せていたが、昭和二十年 ( 1945 ) の戦災で惜しくも消失した。


金龍山 浅草寺
(案内板より)

0172a

0172b

0172c




浅草寺(せんそうじ)は、東京都台東区浅草2丁目にある東京都内最古のである。正式には金龍山浅草寺(きんりゅうざんせんそうじ)と号し、観音菩薩を本尊とすることから浅草観音(あさくさかんのん)として知られている。山号は金龍山。

元は天台宗に属していたが、昭和25年(1950年)に独立し、聖観音宗本山となった[1]。都内では、坂東三十三箇所観音霊場唯一の札所(13番)、また江戸三十三箇所観音霊場の札所(1番)でもある。全国有数の観光地であるため、正月の初詣では毎年多数の参拝客が訪れ、参拝客数は常に全国トップ10に収まっている[2]。本尊は聖観世音菩薩

歴史
創建 - 平安時代
『浅草寺縁起』等にみえる伝承によると、浅草寺の創建の由来は以下のとおりである。


飛鳥時代
推古天皇36年(628年)、宮戸川(現・隅田川)で漁をしていた檜前浜成・竹成(ひのくまのはまなり・たけなり)兄弟の網にかかった仏像があった。これが浅草寺本尊の聖観音(しょうかんのん)像である。この像を拝した兄弟の主人・土師中知(はじのなかとも [3]、「土師真中知」(はじのまなかち)[4]とも)は出家し、自宅を寺に改めて供養した。これが浅草寺の始まりという。その後大化元年(645年)、勝海という僧が寺を整備し観音の夢告により本尊を秘仏と定めた。観音像は高さ1寸8分(約5.5センチ)の金色の像と伝わるが、公開されることのない秘仏のためその実体は明らかでない。平安時代初期の天安元年(857年天長5年(828年)とも)、延暦寺の僧・円仁(慈覚大師)が来寺して「お前立ち」(秘仏の代わりに人々が拝むための像)の観音像を造ったという。これらを機に浅草寺では勝海を開基、円仁を中興開山と称している。天慶5年(942年)、安房守平公雅が武蔵守に任ぜられた際に七堂伽藍を整備したとの伝えがあり、雷門、仁王門(現・宝蔵門)などはこの時の創建といわれる。


一説に、本尊の聖観音像は、現在の埼玉東京の県境に近い飯能市岩淵にある成木川沿いにある岩井堂に安置されていた観音像が大水で流されたものとする伝承がある。浅草寺創建より100年程前に、岩井堂観音に安置されていた観音像が大雨によって堂ごと成木川に流され、行方不明になったという。成木川入間川荒川を経て隅田川に流れており、下流にて尊像発見の報を聞いた郷の人々が返還を求めたが、かなわなかったという。

中世 - 近世
浅草寺の文献上の初見は鎌倉時代の『吾妻鏡』である。同書によれば、治承5年(1181年)、鎌倉鶴岡八幡宮造営に際し、浅草から宮大工を呼び寄せている。また、建久3年(1192年)、鎌倉の勝長寿院後白河法皇の四十九日法要が営まれた際、浅草寺の僧が参加している。後深草院二条の『とはずがたり』には、彼女が正応3年(1290年)浅草寺に参詣した時の様子が描写されている。


天正18年(1590年)、江戸に入府した徳川家康は浅草寺を祈願所と定め、寺領五百石を与えた。浅草寺の伽藍は中世以前にもたびたび焼失し、近世に入ってからは寛永8年(1631年)、同19年(1642年)に相次いで焼失したが、3代将軍徳川家光の援助により、慶安元年(1648年)に五重塔、同2年(2500年)に本堂が再建された。このように徳川将軍家に重んじられた浅草寺は観音霊場として多くの参詣者を集めた。


貞享2年(1685年)には、表参道に「仲見世」の前身である商店が設けられた。これは、寺が近隣住民に境内の清掃を役務として課す見返りに開業を許可したものである。江戸時代中期になると、境内西側奥の通称「奥山」と呼ばれる区域では大道芸などが行われるようになり、境内は庶民の娯楽の場となった。天保13年(1843年)から翌年にかけて、江戸三座の芝居小屋が浅草聖天町(猿若町、現・台東区浅草六丁目)に移転し、そうした傾向はさらに強まった。

近代
浅草は近代以降も庶民の盛り場、娯楽場として発達し浅草寺はそのシンボル的存在であった。明治6年(1873年)には境内が公園地に指定され(浅草公園)、明治18年(1885年12月27日)には表参道両側の「仲見世」が近代的な煉瓦造の建物に生まれ変わった。明治23年(1890年)には商業施設と展望塔を兼ねた12階建ての「凌雲閣」(通称「浅草十二階」)が完成している。


大正
6年(1917年)からは日本語の喜歌劇である「浅草オペラ」の上演が始まり、映画が普及する以前の大衆演劇として隆盛した。関東大震災では浅草区は大半が焼失する被害にもかかわらず、避難民の協力によって境内は一部建築物が延焼するだけの被害で済んでいる。しかし昭和20年(1945年3月10日東京大空襲で旧国宝本堂(観音堂)、五重塔などが焼失。第二次世界大戦後の浅草は、娯楽の多様化や東京都内の他の盛り場の発展などによって一時衰退した。しかし、地元商店街のPR活動等によってかつての賑わいを取り戻しつつあり、下町情緒を残す街として東京の代表的な観光地となっており、羽子板市、ほおずき市などの年中行事は多くの人出で賑わっている。

境内
雷門
詳細は「雷門」を参照

表参道入口の門。切妻造の八脚門で向かって右の間に風神像、左の間に雷神像を安置することから正式には「風雷神門」というが「雷門」の通称で通っている。慶応元年(1865年)に焼失後は仮設の門が時折建てられていたが、昭和35年(1960年)に常設の門が鉄筋コンクリート造で再建された。実業家・松下幸之助が浅草観音に祈願して病気平癒した報恩のために寄進したものである。門内には松下電器産業(現パナソニック)寄贈の大提灯がある。三社祭の時(神輿が通れないので)と台風到来の時だけ提灯が畳まれる。


風神雷神像は頭部のみが古く、体部は慶応元年(1865年)の火災で焼失後、明治7年(1874年)に補作。昭和35年(1960年)の門再建時に補修と彩色が加えられている。門の背面の間には、「金龍・天龍」の像を安置する。西の金龍(女神)は仏師・菅原安男、東の天龍(男神)は彫刻家・平櫛田中の作で、昭和53年(1978年)に奉納されたものである。

仲見世通り
詳細は「仲見世通り」を参照

雷門から宝蔵門に至る長さ約250mの表参道の両側には土産物、菓子などを売る商店が立ち並び、「仲見世通り」と呼ばれている。商店は東側に54店、西側に35店を数える。寺院建築風の外観を持つ店舗は、関東大震災による被災後、大正14年(1925年)に鉄筋コンクリート造で再建されたものである。


浅草寺は付近の住民に境内の清掃を賦役として課すかわりに、南谷の支院の軒先に床店(小屋掛けの店)を出す許可を与えた。貞享2年(1685)頃のことで、これが仲見世の発祥といわれている。

宝蔵門
雷門をくぐり、仲見世通りの商店街を抜けた先にある。入母屋造の二重門(2階建てで、外観上も屋根が上下二重になっている門)である。江戸時代には一年に数度2階部分に昇ることが可能であった。現在の門は昭和39年(1964年)に再建された鉄筋コンクリート造で、実業家・大谷米太郎夫妻の寄進によって建てられたものである。門の左右に金剛力士(仁王)像を安置することからかつては「仁王門」と呼ばれていたが、昭和の再建後は宝蔵門と称している。その名の通り、門の上層は文化財「元版一切経」の収蔵庫となっている。


2体の金剛力士像のうち、向かって左(西)の阿形(あぎょう)は仏師・錦戸新観、右(東)の吽形(うんぎょう)像は木彫家・村岡久作の作である。阿形像のモデルは力士の北の湖、吽形像のモデルは明武谷と言われている。門の背面左右には、魔除けの意味をもつ巨大なわらじが吊り下げられている。これは、前述の村岡久作が山形県村山市出身である縁から、同市の奉賛会により製作奉納されているもので、わら2,500kgを使用している[5]

わらじは10年おきに新品が奉納されているが、稲藁は長い方が加工しやすいものの、近年の稲作では全国的に稲藁の利用の激減や、風雨で倒れにくく収穫しやすいことから、丈の低い品種への品種改良が進んでいる。同市ではこのために丈の高い古い品種を特別に栽培している。


耐震性の向上と参拝客に対する安全確保のため平成19年(2007年)に屋根改修工事を行い、軽量さと耐食性に優れたチタン製のを全国で初めて採用した[6]。(カナメ社製瓦:TranTixxiiチタン素材使用)表面のアルミナブラスト加工をランダムに配置することで、土瓦特有の「まだら感」を再現している。また、主棟・隅棟・降棟・妻降棟すべての鬼飾もチタンで製作された。これ以降、境内の建物の瓦は順次チタン製に置き換えられている[7]

本堂
本尊の聖観音像を安置するため観音堂とも呼ばれる。旧堂は慶安2年(1649年)の再建で近世の大型寺院本堂の代表作として国宝(当時)に指定されていたが、昭和20年(1945年)の東京大空襲で焼失した。現在の堂は昭和33年(1958年)に再建されたもので鉄筋コンクリート造である。再建にあたっては、建設資金を捻出するために瓢箪池の敷地(2400坪)が江東楽天地などに売り払われた[8]


外陣には川端龍子(かわばたりゅうし)筆「龍の図」、堂本印象筆「天人散華の図」の天井画がある。内陣中央には本尊の聖観音像(絶対秘仏)を安置する八棟(やつむね)造りの宮殿(くうでん、「厨子」と同義)がある。宮殿内部は上段の間と下段の間に分かれ、上段の間には秘仏本尊を安置する厨子を納め、下段の間には前立(まえだち)本尊の観音像(伝・円仁作)安置する。下段の間にはこのほか徳川家康徳川家光公遵法親王(中御門天皇第二皇子、天台座主)がそれぞれ奉納した観音像が安置されている[9]


宮殿の扉の前には「御戸帳」と称する、刺繍を施した帳(とばり)が掛けられている。宮殿の手前左右には梵天帝釈天像が立つ。宮殿の裏には秘仏本尊と同じ姿という聖観音像(通称裏観音)、堂内後方左右の厨子内には本尊の脇侍として不動明王像と愛染明王像を安置する[10][11]


毎年12月12・13日に煤払(すすはらい)と開扉法要が行われる。本尊は絶対秘仏で公開されないが、「お前立」の観音像は12月13日午後2時からの開扉法要の際に一般の信徒も拝観することができる[12]

2009年2月から2010年12月にかけて、「平成本堂大営繕」が行われた。屋根の葺き替えは1958年(昭和33年)の再建以来50年ぶり。宝蔵門の改修工事でも用いたチタン瓦 (カナメ社製瓦:TranTixxiiチタン素材使用)を採用[7]。使用色も2色から3色に増やし、より粘土瓦に近い風合いを醸し出している。


2020年6月13日午前、新調された扁額の奉納法要が行なわれた。「施無畏」と書かれた扁額は1727年に奉納されたが、1945年東京大空襲で焼失し、写真による複製が飾られていた。新調された扁額は大ケヤキの一枚板で、天台宗僧侶書家豊道春海の筆による「施無畏」の文字が、井波彫刻の彫刻師、南部白雲によって彫られた。幅約4メートル、縦約1.3メートル、厚さ約15センチメートル、重さ約700キログラム。文字の掘り込みは5センチメートル以上となっている、1958年の本堂再建時に新調予定だったが、大きな一枚板を調達できず長らく実現できずにいた[13]

五重塔
天慶5年(942年平公雅が塔を建立したと伝わる。この塔は三重塔であったといわれる。焼失を繰り返したのち慶安元年(1648年)に五重塔として建立され、本堂と同様、関東大震災では倒壊しなかったが昭和20年(1945年)の東京大空襲では焼失した。現在の塔は本堂の西側、寛永8年(1631年)に焼失した三重塔の跡伝承地付近に場所を移して、昭和48年(1973年)に再建されたもので鉄筋コンクリート造、アルミ合金瓦葺き、基壇の高さ約5メートル、塔自体の高さは約48メートルである。基壇内部には永代供養のための位牌を納めた霊牌殿などがあり、塔の最上層にはスリランカアヌラーダプライスルムニヤ寺院から請来した仏舎利を安置している。なお、再建以前の塔は東側にあった。その位置(交番前辺り)には「塔」と刻まれた標石が埋め込まれていたが、平成21年(2009年)、新たに「旧五重塔跡」と記された石碑が設置された。周辺には木が植えられ、憩いの場となっている。江戸四塔江戸六塔の一つに数えられる。


アルミ製の瓦を使用していたが、2017年6月には本堂で使われた3色のチタン瓦 (カナメ社製瓦:TranTixxiiチタン素材使用)を導入した[7]  

ニ天門
重要文化財。本堂の東側に東向きに建つ、切妻造の八脚門である。元和4年(1618年)の建築で、第二次世界大戦にも焼け残った貴重な建造物である。この門は、本来は浅草寺境内にあった東照宮(徳川家康を祀る神社)への門として建てられたものである(東照宮は寛永19年(1642年)に焼失後、再建されていない)。現在、門の左右に安置する二天(持国天、増長天)は上野の寛永寺墓地にある厳有院(徳川家綱)霊廟から移されたものである。平成22年(2010年)、改修により創建当初の様式に戻された。

浅草神社(あさくさじんじゃ)
詳細は「浅草神社」を参照

本堂の東側にある。拝殿、幣殿、本殿は重要文化財。浅草寺の創建に関わった3人を祭神として祀る神社である。明治の神仏分離以降は浅草寺とは別法人になっている。

伝法院(でんぼういん)
宝蔵門の手前西側にあり、浅草寺の本坊である。小堀遠州の作と伝えられる回遊式庭園がある。通常、一般には公開していないが、特別公開されることがある。平成23年(2011年)、国の名勝に指定された。院内にある天祐庵は表千家不審庵写しの茶室で、江戸時代後期の建立。もとは名古屋にあった。

浅草寺病院
境内北側にて社会福祉法人浅草寺病院を運営。明治43年1910年)に関東大水害の被災者のための救護所「浅草寺診療所」を念仏堂に設けたのが始まり。1952年に現病院に改組。

詳細は「浅草寺病院」を参照

その他の堂宇等
駒形堂
寺の南方、隅田川に架かる駒形橋西詰の飛地境内にある小堂。本尊は馬頭観音立像(秘仏)。浅草寺本尊聖観音像の「示現の地」とされ、かつて船で来訪する参詣者はここで下船し、駒形堂に参詣してから観音堂へ向かったという。現在の堂は鉄筋コンクリート造、方三間、宝形造で、平成15年(2003年)に建て替えたものである。堂は元来は隅田川に向いて建てられていたが、現在の堂は江戸通り側を正面とし、川には背を向けた形になっている。本尊は毎月19日の縁日に開扉され法要が行われる。

二尊仏
宝蔵門手前右手にある2体の露座の銅造仏像。「濡れ仏」と通称する。向かって右が観音菩薩、左が勢至菩薩像である。台座を含めた高さは約4.5メートル。貞享4年(1687年)の作で、台座の刻銘によれば、上野国館林(群馬県館林市)の高瀬善兵衛という人物が、かつて奉公した日本橋の米問屋成井家への報恩のために造立したものである。

久米平内堂
二尊仏の手前にある小祠。ここに祀られる久米平内(くめのへいない)は、講談等に登場する半ば伝説化された人物である。その伝記等は定かでないが、剣の道に優れ、多くの人の命を奪ったので(首切り役人だったともいう)、その罪滅ぼしのために、自らの像を仁王門の近くに埋めて多くの人に踏みつけさせたという。「踏みつけ」が「文付け」(恋文)に通じることから、縁結びの神とみなされるに至った。

弁天山
宝蔵門の東方、広場の奥にある小山を「弁天山」といい、石段上に朱塗りの弁天堂、その右手に鐘楼が建つ。弁天堂は鉄筋コンクリート造で昭和58年(1983年)の再建。鐘楼は木造で昭和25年の再建。この鐘楼に架かる梵鐘は江戸時代の人々に時を知らせた「時の鐘」の1つで、「元禄5年(1692年)深川住の太田近江大掾藤原正次が改鋳」の銘がある[14]松尾芭蕉の句「花の雲鐘は上野か浅草か」と関連して説明されることが多いが、この句は現存する鐘の鋳造の5年前の貞享4年(1687年)に詠まれたものである。弁天堂への石段の左側には芭蕉の「観音の甍(いらか)見やりつ花の雲」の句碑がある。

影向堂(ようごうどう)
本堂の西側にある。鉄筋コンクリート造、寄棟造、錣葺き(しころぶき)屋根で、平成6年(1994年)の建立。堂内には本尊聖観音像のほか、鎌倉期の円派の様式を示す阿弥陀如来坐像等[15]十二支の守り本尊である8体の仏像を横一列に安置する。影向堂の周囲には六角堂、橋本薬師堂、石橋などがある。影向堂の左に建つ六角堂(東京都指定有形文化財)は室町時代の建立で、小規模ではあるが、境内最古の建物である。堂内には日限地蔵(ひぎりじぞう)を本尊として祀る。石橋(国の重要美術品)はかつて境内にあった東照宮(徳川家康を祀る)への参詣用に造られたもので、元和4年(1618年)、東照宮が勧請された際に建造された。東照宮自体は焼失後再建されていない。

淡島堂
影向堂のさらに西側に建つ。江戸時代、元禄年間に紀州(和歌山市)の淡島明神(淡嶋神社)を勧請したことからこの名がある。木造、入母屋造。平成7年(1995年)、境内地の再整備の際に旧影向堂を移して淡島堂としたものである。この堂は昭和30年(1955年)までは浅草寺の仮本堂であった。堂内には本尊阿弥陀如来坐像、向かって左に淡島神の本地仏とされる虚空蔵菩薩像を安置する。毎年2月8日にこの堂で針供養が行われることで知られる。

鎮護堂
本坊伝法院の鎮守で、伝法院通りを西方に向かって歩いた右手に入口がある。伝法院は非公開だが、敷地の南西にある鎮護堂のみは公開されており、ここから柵越しに伝法院の回遊式庭園が瞥見できる。ここに祀られる「鎮護大使者」とはタヌキである。明治時代の初期、境内には多くのタヌキが住み着き、寺では手を焼いていた。ある夜、当時の住職の夢にタヌキが現れ、「自分たちを保護してくれるならば、伝法院を火災から守ってやろう」と住職に告げたため、この堂を建てて鎮守とすることにしたという。切妻造の拝殿の奥に建つ本殿は大正2年(1913年)の建立。


宝蔵門のそばに「浅草不動尊」と「三宝荒神堂」があるが、天台宗の大行院という寺院で、浅草寺には属していない。

境内の銅像、碑等
・大谷米太郎夫妻像 - 本堂裏広場奥。宝蔵門を再建寄進した大谷米太郎ホテルニューオータニ創業者)夫妻の胸像。昭和42年(1967年)の造立。

九世市川團十郎「暫」の像 - 本堂裏広場。当初、大正8年(1919年)に造立されたもので、彫刻家新海竹太郎の作であったが、第二次世界大戦時の金属供出で失われ、昭和61年(1986年)、十二世市川團十郎の襲名を期に再建されたものである。

宮古路豊後掾追悼碑 - 豊後節の祖。養嗣子である宮古路文字太夫(初代常磐津文字太夫)によって、延享3年(1746年)に建立された。豊後節は一中節から派生し、この豊後節からは宮園節新内節、そして豊後三流の頭取である常磐津節、そこから富本節が派生し、清元節へとつながることになる。現存する浄瑠璃8流派のうちの6流派が、この豊後系の浄瑠璃にあたる。

・松尾芭蕉句碑 - 弁天山石段の左方。寛政8年(1796年)建立。

・迷子知らせ石標 - 本堂前。江戸に数箇所あった迷子知らせ石標の1つで、安政7年(1860年)に建立されたが、現在立つ石標はは昭和32年(1957年)に復元されたもの。

・「鳩ポッポ」の歌碑 - 本堂前。東くめ作詞、瀧廉太郎作曲で明治33年(1900年)に発表された童謡「鳩ぽっぽ」の歌詞と楽譜を表した碑。昭和37年(1962年)の建立。なお、この曲は文部省唱歌の「鳩」とは別の曲である。

・映画弁士塚 - 淡島堂南側の「新奥山」と称する一画に立つ。無声映画時代に活躍した弁士を称えるために昭和33年(1958年)建立された。題字は鳩山一郎の書。

喜劇人の碑 - 「新奥山」にある。昭和57年(1982年)建立。川田晴久を筆頭に、物故者となった日本の喜劇人の名が刻まれている。

・瓜生岩子像 - 「新奥山」にある。瓜生岩子(1829 - 1897)は、今の福島県喜多方市の出身。生涯を弱者、貧困者の救済、社会事業に捧げ、日本のナイチンゲールと称される人物である。銅像は明治34年(1901年)に造立されたが、第二次大戦時の金属供出で失われ、昭和30年(1955年)に再建されたもの。

・『こちら葛飾区亀有公園前派出所』記念碑 - 浅草神社鳥居脇。平成17年(2005年)に秋本治の漫画『こちら葛飾区亀有公園前派出所』の単行本の発行部数が1億3,000万部を突破したことを記念するため建立された。同作品の主人公である「両さん」こと警察官両津勘吉は浅草育ちという設定になっており、両津の少年時代のエピソードを題材にした「浅草物語」の巻に浅草神社が登場した縁により建立されたものである。

・消防殉職者表彰碑 - 本堂裏広場奥。大正元年(1912年)、殉職した火消の慰霊と顕彰のため建立された。毎年5月25日に慰霊祭が行なわれ、本堂裏手広場では梯子乗り・木遣・纒振りの演技が披露される[16]

・浅草大平和塔 - 1963年8月15日の建立で湯川秀樹の碑文が刻まれている[17][18]。老朽化のため2019年に建て替えられた。


この他、浅草神社境内には久保田万太郎句碑、川口松太郎句碑、河竹黙阿弥顕彰碑、市川猿翁(二代目市川猿之助)句碑、初代中村吉右衛門句碑などがある。

浅草公園
東京・浅草公園は、かつて浅草寺の境内地を中心にあった公園。日本初の都市公園の一つとして[19]、1873年(明治6年)3月25日に誕生した。 公園用地は1871年(明治4年)寺社領・境内地の上地令により公収され、明治6年太政官布達第16号東京府から公園の指定を受け、整備を始めた。当初は浅草寺境内と仲見世や奥山地区等に限定していたが、東京府は他の4公園の維持管理費を賄うため浅草公園から上がる地代収入に期待して、1876年(明治9年)11月以後伝法院、浅草寺火除地、界隈16ヶ町等を組入拡大した。1882年(明治15年)にはようやく浅草寺西側の浅草田圃と呼ばれる火除地を埋め立て、林泉地区(後の四区)と興行地区(後の六区)の造成に着手。1883年(明治16年)9月26日に造成完了、1884年(明治17年)1月公園地は6つの区画に分かれ、同年9月に7区目が追加(後に除外)。こうして浅草公園の開園式は、1886年(明治19年)5月20日より行われた[20]


第二次世界大戦後となり、1947年(昭和22年)4月2日の公共団体所有の社寺地財産処分の政府通牒を受けて、浅草公園は同年5月1日公園地の指定解除、1951年(昭和26年)10月再び浅草寺の所有地になった[21][22]。浅草寺は束の間、東京大空襲で焼失した本堂の復興資金を捻出するために四区の瓢箪池を売却。その後も町名として1965年(昭和40年)8月1日の住居表示制度が導入される時まで存続していたが、現在は無い。行政町名としての「浅草公園地」は、概ね現在の浅草一丁目と二丁目に内包される。もはや都立公園でも区立公園でもない浅草公園[23]が、昔からの名残として、地図上の浅草寺境内地に表記されている。

詳しいことは、『浅草寺ウィキペディア』をご覧ください。 ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%85%E8%8D%89%E5%AF%BA
(wikiより)

0171a



手水鉢 ( ちょうずばち )

江戸時代 安永六年 ( 1777 )

「手水鉢」とは、社寺の参拝前に手を清めるために置かれる鉢のことである。

鉢の側面には「安永六年 ( 1777 ) に観世音千百五十年法会供養の日に臨時連中によって寄附された」とあり、推古三十六年 ( 628 ) のご本尊さまご示現 ( じげん ) から数えて 1150年を祝う記念法会のために、明和六年 ( 1769 ) に設置された浅草寺の消防組織である「臨時連中」によって献じられたと推定できる。

また銘文に「随身門 ( ずいしんもん ) 前」とあり、文化十年 ( 1813 ) に編纂された『浅草寺志』にも「裏門の外」と記されていることから、場所を変えずに今に至ると判明する。

現在は使われていないが、江戸時代の多くの人々がここで手を清め、観音さまや三社さまにお参りをされたことであろう。

金龍山 浅草寺
(案内板より)

0170a

0170b




この二天門は、慶安二年 ( 1649 ) 頃に浅草寺の東門として建立されたようであるが、江戸時代を通じて浅草寺観音堂の西側に建てられた東照宮の随身門と伝えられ、随身像が安置されていた。

なお、浅草寺の東照宮は元和四年 ( 1618 ) に建立されたが、寛永八年 ( 1631 ) と同十九年の火災によって、浅草寺の他の諸堂とともに消失し、その後東照宮は江戸城内の紅葉山に移された。

明治初年の神仏分離令によって門に安置された随身像は、仏教を守護する四天王のうち持国天・増長天の二天像に変わり、名称も二天門と改称した。

現在安置されている二天像は、京都七条の仏師、吉田兵部が江戸時代初期 ( 十七世紀後半 ) に制作したもので ( 東京都指定有形文化財 ) 、昭和三十二年に寛永寺の巌有院殿 ( 四代将軍徳川家綱 ) 霊廟の勅使門から移されたものである。

二天門は昭和二十五年、国指定重要文化財に指定された。
(案内板より)

 撮影時 2021年 6月 20日

0169a

0169b

0169c

0169d

0169e



原 知佐子(はら ちさこ、本名:実相寺 知佐子(じっそうじ ちさこ)[1][2]、旧姓名・旧芸名:田原 知佐子(たはら ちさこ)、1936年1月6日 - 2020年1月19日)は、日本女優。夫は実相寺昭雄。現代制作舎所属。


高知県高岡郡高岡町(現在の同県土佐市)出身。高知県立高知追手前高等学校卒業、同志社大学文学部美学美術学科中退。

来歴・人物

高岡第一小学校に在学中、教師から「この子は宝塚に入ったらいい」と薦められ、芸能界に憧れる。


高岡中学校を経て、1954年に高等学校を卒業。宝塚歌劇団松竹歌劇団を受験するが落ちてしまい、「芸能人の多い京都ならばコネで潜り込めるかも」と思い立ち、大学に入学。1955年新東宝の「第4期スターレット」(同期は北沢典子三ツ矢歌子万里昌代、朝倉彩子ら)に合格後、大学を中退。


1959年
には東宝に移籍。


1970年代に山口百恵が主演した「赤いシリーズ」での強烈なイビリ役で有名となり[3]、一連の大映ドラマに欠かせない名脇役として活躍。


夫の実相寺が亡くなるまで、実相寺の監督作品の常連出演者でもあった。


2017年に発売された『異端の映画史 新東宝の世界』(映画秘宝編集部・編、洋泉社)に、北沢典子・矢代京子らとの座談で新東宝在籍時の事を語っている[4]


2020年1月19日、上顎肉腫のため、東京都内の病院に於いて死去[1]。84歳没。

出演
映画
スーパージャイアンツ 宇宙怪人出現(1958年)

汚れた肉体聖女(1958年)

黒い画集 あるサラリーマンの証言(1960年)

秋立ちぬ(1960年)

女ばかりの夜(1961年)※主演

真紅の男(1961年)

・その場所に女ありて(1962年)

乾いた花(1964年)

おんな番外地 鎖の牝犬(1965年)

続・おんな番外地(1966年)

華岡青洲の妻(1967年)

・女賭博師鉄火場破り(1968年)

愛のきずな(1969年)

・十七才の成人式(1971年)

・あさき夢みし(1974年)※実相寺昭雄監督作品

祭りの準備(1975年)

泥だらけの純情(1977年)

翼は心につけて(1978年)

悪魔が来りて笛を吹く(1979年)

ひめゆりの塔(1982年)

(1983年)

遠き落日(1992年)

釣りバカ日誌8(1996年)

D坂の殺人事件(1998年)※実相寺昭雄監督作品

発情娘 糸ひき生下着(1998年)別題:ベストフレンド[5]

あ、春(1998年)

百合祭(2001年)

姑獲鳥の夏(2005年)※実相寺昭雄監督作品

シルバー假面(2006年) 「第壱話 はなやしき」 ※実相寺昭雄監督作品

東京タワー 〜オカンとボクと、時々、オトン〜(2007年)

進撃の巨人 ATTACK ON TITAN(2015年)

・彦とベガ(2016年)

シン・ゴジラ(2016年)[6]

・ニッポニアニッポン フクシマ狂詩曲(2019年)

のさりの島(2021年5月29日) - 山西艶子 役 ※遺作[7][8]

テレビドラマ
・夫婦百景 第29話「にたもの夫婦」(1958年、NTV

サンヨーテレビ劇場「東京の風」(1959年、KR

・木曜ワイドアワー「からみ合い」(1960年、NTV)

・ヤシカ ゴールデン劇場(NTV)

  ・才女とカンガルー(1960年)

  ・戦国非情(1960年)

・ドラマシリーズ「青春の群像」(1963年、NTV / 松竹

近鉄金曜劇場TBS

  ・倒産(1963年)

  ・ある女優志願(1963年)

  ・岡田茉莉子シリーズ・ある女の影(1965年)

・おかあさん 第2シリーズ(TBS)

  ・第173話「さらばルイジアナ」(1963年) ※実相寺昭雄演出

  ・第242話「タニシ・タニシ・タニシ」(1964年)

  ・第395話「北の河」(1967年)

東芝日曜劇場(TBS)

  ・ふりむけばひとり(1963年)

  ・裸っ子タケちゃん(1964年・HBC制作)

  ・ダンプかあちゃん(1969年・HBC制作)

・火曜劇場まごころ(1963年、CX

日本映画名作ドラマNET

  ・子供の眼(1963年)

  ・西陣の姉妹(1964年)

  ・通り雨(1964年)

次郎長三国志(1964年、CX / 東宝

・テレビ劇場「「弓村」の報告書」(1964年、NHK

・女医(1964年、12ch

三匹の侍(CX)

  ・第1シリーズ 第24話「北辺乱刃」(1964年)

  ・第4シリーズ 第1話「吠えろ剣」(1966年) - お新

  ・第6シリーズ 第24話「白刃有情」(1969年) - おたき

・ゴールデン劇場「今ひとたびの」(1964年、12ch)

暖流(1964年、THK

・この世の憩い(1965年、THK)

ザ・ガードマン(TBS / 大映テレビ室

  ・第5話「赤い妄執」(1965年)

  ・第144話「夜と昼の顔を持つ男」(1968年)

  ・第147話「交通殺人」(1968年)

  ・第172話「怪談殺人鬼ホテル」(1968年)

  ・第206話「新婚旅行は地獄へどうぞ」(1969年)

  ・第217話「教育ママ殺人事件」(1969年)

  ・第247話「殺人せり市」(1969年)

  ・第270話「妻は夫の秘密をさぐるな」(1970年) - 神谷の妻

  ・第303話「父親の子守歌で復讐が始まる」(1971年)

  ・第329話「怪談・氷の中のヌード美人」(1971年) - ミチコ

松本清張シリーズ「弱味」(1965年、KTV

ポーラ名作劇場(NET)

  ・いのちある日を(1965年)

鉄道公安36号(1965年、NET)

今井正アワー・初夜(1966年、NET / 東映

・テレビ指定席「希望」(1966年、NHK)

日産スター劇場(NTV)

  ・バンザイ出世街道(1966年)

  ・危うし!離婚同盟(1967年)

  ・にきびと香水(1967年)

泣いてたまるか「ある結婚」(1967年、TBS / 国際放映

レモンのような女 第6話「もしもその時雨が降っていなかったら」(1967年、TBS)

・NHK劇場「ひとりぼっちの廊下」(1967年、NHK)

第21話「誰がための仇討ち」(1967年、TBS) - ※実相寺昭雄監督作品

・そしてあしたは(1967年、KTV)

七人の刑事 第175話「冬の抱擁」(1967年、TBS)

・夕映えの中にいた(1968年、TBS)

・道頓堀(1968年 - 1969年、YTV

日本剣客伝 第7話「針谷夕雲」(1968年、NET)

怪奇ロマン劇場八つ墓村」(1969年、NET)

・冬の庭(1970年、NHK)

・お嫁にいきたい(1970年、CX)

木下恵介・人間の歌シリーズ 俄-浪花遊侠伝(1970年、TBS) - 芸者

ポーラテレビ小説 (TBS)

  ・花もめん(1970年 - 1971年) - 小鶴

  ・元気です!(1980年 - 1981年) - キク

  ・白き牡丹に(1982年 - 1983年) - きん

大忠臣蔵(1971年、NET / 三船プロ) - 片岡志津

非情のライセンス(NET / 東映)

  ・第1シリーズ 第28話「兇悪の欲望」(1973年) - 美江子

  ・第2シリーズ 第27話「兇悪の炎」(1975年) - 斉藤芳江

特別機動捜査隊 第646話「嘆きの天使」(1974年、NET / 東映)

ウルトラシリーズ円谷プロ

  ・ウルトラマンレオ 第37話「怪奇! 悪魔のすむ鏡」(1974年、TBS) - 和服の女 / マザラス星人

  ・ウルトラマンをつくった男たち 星の林に月の舟(1989年、TBS) - あけぼの荘の大家 ※実相寺昭雄原作作品 
  ・ウルトラマンティガ 第37話「花」(1997年、MBS) - マノン星人女中 ※実相寺昭雄監督作品

  ・ウルトラQ dark fantasy 第19話「レンズ越しの恋」(2004年、TX) - 矢島静枝 
  ・ウルトラゾーン 第14・15話「東京ジュラ紀」(2012年、tvk) - 白石深月

  ・ウルトラマンギンガS 第11話「ガンQの涙」(2014年、TX) - アパートの大家

  ・ウルトラマンオーブ 第24話「逆襲の超大魔王獣」(2016年、TX) - 岸根秋恵

華麗なる一族(1974年、MBS / 東宝) - 原田節子

ふりむくな鶴吉 第14話「湯女風情」(1975年、NHK)

剣と風と子守唄 第25話「左源太賞金首」(1975年、NTV / 三船プロ) - お浜

燃える捜査網 第11話「女の仮面をはがせ!」(1975年、NET / 東映)

赤いシリーズ(TBS / 大映テレビ)

  ・赤い疑惑(1975年 - 1976年) - 相良多加子

  ・赤い衝撃(1976年 - 1977年) - 大山政子

  ・赤い激流(1977年、TBS) - 山田タメコ

夜明けの刑事(TBS / 大映テレビ)

  ・第73話「ハンサム歌手の赤い殺意!!」(1976年)

  ・第83話「山口さんちのツトム君誘拐事件」(1976年) - 島内かよ

岸辺のアルバム(1977年、TBS)

新幹線公安官 第2シリーズ 第26話「未来の終電車」(1978年、ANB / 東映) - 菊奴

桜中学シリーズ

  ・3年B組金八先生 第2シリーズ 第12話「三者面談始まる」(1980年、TBS) - 石川祐子の母

  ・3年B組貫八先生(1982年 - 1983年、TBS)

松本清張シリーズ・けものみち(1982年、NHK) - 久垣の妻

波の盆(1983年、NTV) ※実相寺昭雄監督作品

イエスの方舟 イエスと呼ばれた男と19人の女たち(1985年、TBS)

刑事物語'85 (1985年、NTV)

もめん家族(1986年、THK)

花嫁人形は眠らない(1986年、TBS・KANOX) - 笙子

花嫁衣裳は誰が着る(1986年、CX)- 相良 秀子

火曜サスペンス劇場(NTV)

  ・ペイパーハネムーン(1987年)

  ・女監察医室生亜季子3・瀬戸内竹原殺人行(1987年、NTV / 東映)

  ・救命救急センター(2000年) - 都築初子

  ・検事・霞夕子20(2003年) - 柳沢信子

大河ドラマ / 春日局(1989年、NHK) - 信松尼

想い出にかわるまで1990年、TBS)

都会の森(1990年、TBS)

七人の女弁護士 第1シリーズ 第4話「新婚初夜殺人事件 疑われた密会の花嫁!」(1991年、ANB)

熱血!新入社員宣言(1991年、TBS)

迷惑な家族(1992年、CBC

ホテルドクター 第1話「さあ大変!! 逃げた花嫁」(1993年、ABC

ダブル・キッチン(1993年、TBS)

適齢期(1994年、TBS)

鳥帰る(1996年5月4日、NHK) - 木崎奈津子

サイコメトラーEIJI(1997年、NTV) - 遠藤正子

水戸黄門 第28部 第2話「黄門様は恋の道先案内人 -小田原-」(2000年、TBS / C.A.L) - 菊江

花村大介 第3話「パパ、ママをもういじめないで」(2000年、KTV)

ドラマW / ご近所探偵TOMOE(2003年3月29日、WOWOW

偽りの花園 (2006年、THK

怨み屋本舗(2006年、TX)12話 - 野田文枝

怪奇大作戦 セカンドファイル 第2話「昭和幻燈小路」(2007年、NHK) - 旅館静正の女将

松本清張ドラマスペシャル・霧の旗(2010年、NTV) - 渡辺美和

ビンタ!〜弁護士事務員ミノワが愛で解決します〜 第6話(2014年、YTV) - 小田祐子

詳しいことは、『原 知佐子ウィキペディア』をご覧ください。 ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8E%9F%E7%9F%A5%E4%BD%90%E5%AD%90
(wikiより)

0019 原知佐子

⇧ 原 知佐子

0019a

0019b

DSC_0175



芥川 也寸志(あくたがわ やすし、1925年7月12日 - 1989年1月31日)は、日本作曲家指揮者JASRAC元理事長。

作風
快活で力強い作風といわれ、特に人気のある代表作に『交響三章』『交響管弦楽のための音楽』『弦楽のための三楽章』などが挙げられる。映画音楽・放送音楽の分野でも『八甲田山』『八つ墓村野村芳太郎監督)』『赤穂浪士のテーマ』などが知られるとともに、童謡『小鳥の歌』『こおろぎ』等の作曲者としても知られる。そのほか、多くの学校の校歌日産自動車の「世界の恋人」など、団体(企業等)のCMソング社歌も手がけている。

来歴
小説家・芥川龍之介の三男として東京市滝野川区(現:東京都北区田端に生まれる[1]。母は海軍少佐・塚本善五郎の娘・。長兄は俳優・芥川比呂志。次兄は多加志。也寸志の名は龍之介が親友の法哲学者・恒藤恭(つねとう きょう)の名「恭」を訓読みし万葉仮名に当て命名された。


父は1927年に自殺したが、也寸志は父の遺品であるSPレコードを愛聴し、とりわけストラヴィンスキーに傾倒した。兄弟で毎日『火の鳥』や『ペトルーシュカ』などを聴きながら遊び、早くも幼稚園の頃には『火の鳥』の「子守唄」を口ずさんでいたという。絵本の詩を即興で作曲することもあったが、当時まだ五線譜を知らなかったので、自己流の記譜法で書きとめた。このとき作った節を、作曲家になった後で気に入って自ら出版したこともある[2]


東京高等師範学校
附属小学校(現:筑波大学附属小学校)在学中は唱歌が苦手だったために、音楽の成績は通知表の中で最も劣っていた[3]1941年、東京高等師範附属中学校(現:筑波大学附属中学校・高等学校)4年在学時に初めて音楽を志し、橋本國彦の紹介で井口基成に師事してバイエルから猛勉強を開始する。このとき無理が祟って肋膜炎を患う。東京高師附属中の同期には、石川六郎鹿島建設名誉会長)、山本卓眞富士通名誉会長)、嘉治元郎(元東京大学教養学部長)、森亘(元東京大学総長)などがいる。


1943年東京音楽学校予科作曲部(現:東京芸術大学音楽学部作曲科)に合格したものの、乗杉嘉壽校長から呼び出しを受け、受験者全員の入試の成績一覧表を示されて「お前は最下位の成績で辛うじて受かったに過ぎない。大芸術家の倅として、恥ずかしく思え!」と叱責され、衝撃を受けた。橋本國彦に近代和声学管弦楽法下総皖一細川碧対位法を学ぶ。


1944年10月、学徒動員で徴兵され陸軍戸山学校軍楽隊に配属。東京音楽学校からは十数名の配属者がいたが、芥川は8か月の教育期間を首席で卒業し、教育総監だった土肥原賢二中将から銀時計を賜った。その後、作曲係上等兵として團伊玖磨奥村一斎藤高順と共に終戦まで勤務。様々な隊歌や軍楽隊向けの作編曲を行う。


1945年
8月に戦争が終わって東京音楽学校に戻ったとき、戦後の人事刷新で作曲科講師に迎えられた伊福部昭と出会い、決定的な影響を受けた。当時の進駐軍向けラジオ放送でソ連音楽界の充実ぶりを知り、ソ連への憧れを募らせた。ソ連の音楽もまた、彼の作風に影響を及ぼす。


1947年
に東京音楽学校本科を首席で卒業する。本科卒業作品『交響管絃楽のための前奏曲』は伊福部の影響が極めて濃厚な作品である。伊福部が初めて音楽を担当した映画『銀嶺の果て』ではピアノ演奏を担当した。


1949年、東京音楽学校研究科を卒業する。在学中に作曲した『交響三章』や『ラ・ダンス』もこのころしばしば演奏された。1950年、『交響管絃楽のための音楽』がNHK放送25周年記念懸賞募集管弦楽曲に特賞入賞する。このとき、もう一人の受賞者は團伊玖磨だった。同年3月21日、『交響管絃楽のための音楽』が近衛秀麿指揮の日本交響楽団(NHK交響楽団の前身)により初演され、作曲家・芥川也寸志の名は一躍脚光を浴びた。 同じ1950年には、窓ガラス越しのキスシーンで有名な東宝映画『また逢う日まで』(監督;今井正)に、ピアノを弾く学生の役で出演する。


1953年
に同じく若手作曲家である黛敏郎、團伊玖磨と共に「三人の会」を結成する。作曲者が主催してオーケストラ作品を主体とする自作を発表するという、独自の形式によるコンサートを東京と大阪で5回開催した。同年開催された毎日映画コンクールでは、『煙突の見える場所』が音楽賞を獲得している。


1954年、当時まだ日本と国交がなかったソ連に、自作を携えて単身で密入国する。ソ連政府から歓迎を受け、ショスタコーヴィチハチャトゥリアンカバレフスキーの知遇を得て、ついには自分の作品の演奏、出版にまでこぎつけた。当時のソ連で楽譜が公に出版された唯一の日本人作曲家である。中国から香港(当時イギリス領)経由で半年後に帰国する。以後、オーケストラ作品を中心に次々と作品を発表し、戦後の日本音楽界をリードした。

1956年、アマチュア演奏家たちの情熱に打たれて新交響楽団を結成する。以後、無給の指揮者としてこのアマチュアオーケストラの育成にあたった。1976年、当時としては画期的な、1940年代の日本人作曲家の作品のみによるコンサート「日本の交響作品展」を2晩にわたり行い、その功績を讃えられて翌年には鳥居音楽賞(後のサントリー音楽賞)を受賞した。その後もショスタコーヴィチ交響曲第4番の日本初演を行うなど活発に活動をした。一方で、同団においては一部の作品を除いて自作の演奏をなかなか行わず、ようやく1986年に創立30年記念演奏会を自作のみで行った。


1957年
にはヨーロッパ旅行の帰途、インドに立ち寄ってエローラ石窟院のカイラーサナータ寺院で、巨大な岩を刳り貫いて造られた魔術的空間に衝撃を受け、このときの感動から『エローラ交響曲』を作曲、代表作の一つとなった。この頃から、動的な作風の代わりに静謐な作風を模索するようになる(いわゆる「マイナスの作曲論」などに代表される)。この『エローラ交響曲』は、伊福部と同様に若き芥川に芸術観形成で大きな影響を与えた早坂文雄に捧げられた(芥川は修業時代、早坂の許で映画音楽作曲のアシスタントを勤めた)。


1958年
6月16日、京都五条の旅館にて松竹映画『欲』のための音楽を作曲中、芥川の部屋に京都大学医学部助教授夫人(35歳)が乱入し、服毒自殺を遂げるという事件が発生する。この女性は芥川に熱烈な思慕を寄せ、一方的に恋文攻勢や待ち伏せ(現在でいうストーカー行為)を繰り返していたが、恐れをなした芥川にきっぱり撥ねつけられ、絶望して覚悟の死を選んだものである。


1967年
12月、芥川を中心にアマチュア合唱団「鯨」が創立する。


1977年から1984年まで、NHKの音楽番組『音楽の広場』に司会として黒柳徹子とともに出演した。『音楽の広場』のほかにも、音楽番組のみならず彼はテレビの司会を何度か務めている(テレビ東京『木曜洋画劇場』)。ラジオの分野では1967年より死の前年までTBSラジオ百万人の音楽』で野際陽子とパーソナリティーを務めた。ダンディな容貌とソフトだが明晰な話し方で、お茶の間の人気も高かった。


1978年第1回日本アカデミー賞で『八甲田山』と『八つ墓村』が最優秀音楽賞と優秀音楽賞を受賞した。


1988年
夏、日ソ音楽交流の一環で松村禎三らと訪ソし、ヴァレリー・ゲルギエフの指揮するオーケストラが芥川の『オーケストラのためのラプソディ』などを演奏する音楽祭コンサートに出席する予定だったが、渡航直前の6月、健康診断を受けた際に進行した肺癌が見付かり、東京都中央区国立がんセンターに入院、手術治療を受け、いったんは成功。退院後は北軽井沢の別荘で静養しながら、なかにし礼の詞による合唱曲『佛立開導日扇聖人奉讃歌“いのち”』の作曲を続けたが、11月に再び病状が悪化し再入院。それまでに合唱パート全てと六分の一ほどのオーケストレーションはできていたものの、残りの完成の遅れを気にかけた芥川は、作曲家仲間の松村禎三黛敏郎に相談し、黛の弟子で新進作曲家であった鈴木行一に残りのオーケストレーションの完成を依頼。そして、芥川は、病状好転せぬまま、1989年1月31日入院先にて逝去した。63歳没。


逝去の前日、容態急変を聞き付け病院に駆け付けた黛敏郎の手を握り、回らぬ舌で「あとをたのむ」と言ったというエピソードが、東京新聞に掲載された黛による追悼記事に残されている。最後の言葉は「ブラームス一番を聴かせてくれないか…あの曲の最後の音はどうなったかなあ」だった。遺作『佛立開導日扇聖人奉讃歌“いのち”』の“いのち”という題は、なかにしの発案によったが、なかにしは、芥川からタイトルを訊かれた際に、その病状を慮るあまり、とうとう言い出せなかったという。鈴木が補作して完成した『佛立開導日扇聖人奉讃歌“いのち”』は、1989年5月2日に東京・サントリーホールで開催された「芥川也寸志追悼演奏会」で初演された。没後、勲二等瑞宝章を追贈された。


生前、芥川は「古事記によるオラトリオをライフワークにしたい」とたびたび述べていた。作曲を進行させていたと窺わせる発言もあり、1990年に予定されていたサントリー音楽財団による『作曲家の個展』にはそれを発表すべく委嘱も行われたのであるが、その死により実現を見なかった。


曲の構想など詳細は不明であるが、晩年、病院から一時帰宅を許されたときに自宅仕事場でスケッチされたという「チェンバロとオーケストラのためのコンチェルト」の一部の譜面が遺されているようである。これは、写真家・木之下晃が、芥川の没後に仕事場を撮影した写真の中に写っており、最晩年の芥川の音楽作品を考える上で興味深い。


芥川の音楽界での功績を記念して1990年4月、サントリー音楽財団により「芥川作曲賞」が創設された。芥川の死の半年後、埼玉県北葛飾郡松伏町に、芥川の「エローラ交響曲」から名を取った田園ホール・エローラが完成した。


2002年
、芥川を記念する「芥川也寸志メモリアル オーケストラ・ニッポニカ」が設立された。

人物
芥川にはうたごえ運動の指導者という側面もあった。1953年の『祖国の山河に』(詩:紺谷邦子)は広く歌われた。音楽著作権関連の活動では日本音楽著作権協会 (JASRAC) 理事長として音楽使用料規定の改定に尽力し、徴収料金倍増などの功績を上げた。この背景には、若い頃父の印税が途絶えたために非常に生活に苦しんだ経験が理由の一つとしてあるといわれる。1989年には芥川の肖像が、著作権管理制度50年記念切手の図柄に採用されている(但し郵政省の公式の見解では「特定の人物を描いたものではない」とされていた)[4]。そのほかにも生涯、純粋な音楽活動以外に、社会的分野などでも精力的な活動を行っている。


快活な人柄で知られ、姪からは「はるかぜおじさん」と呼ばれていた。ただし芥川自身は「私自身は物事をやや深刻に考え過ぎる欠点を持っているのに、私の音楽はその正反対で、重苦しい音をひっぱり回して深刻ぶるようなことは、およそ性に合わない」(『音楽の旅』)と述べている。例外的な作品が『チェロとオーケストラのためのコンチェルト・オスティナート』(1969年)で、この作品では芥川に珍しい苦渋に満ちた感情表現に接することができる。


父・龍之介に対しては尊敬の念を抱いていたが、同時に「学校を卒業して社会に出た時には、ことある毎に〈文豪の三男〉などと紹介され、いい年をして、親父に手を引っぱられて歩いているような気恥ずかしさに、やり切れなかった」「父が死んだ年齢である三十六歳を越えていく時は、もっとやり切れなかった。毎日のように、畜生! 畜生! と心の中で叫んでいた。無論、自分が確立されていないおのれ自身への怒りであった」(『父や母のこと』)とも告白していた。

私生活

結婚を3度している。


1948年
2月、東京音楽学校で知り合った山田紗織(声楽科卒。のち離婚後の再婚により間所紗織となる)と結婚する。このとき芥川は紗織に対して「作曲家と声楽家は同じ家に住めない」と主張し、音楽活動を禁じている。これはマーラーが妻・アルマに取った行動と酷似しているが、芥川の場合は、彼女の歌が「作曲の邪魔になる」というもっと即物的な理由であった[注 1]。歌を禁じられた紗織は「音のない」美術に転向、程なく画家として認められる。しかし、二女をもうけた後、1957年に離婚した[注 2]。 長女・芥川麻実子はタレントとして活躍した後にメディアコーディネイターになった。『芥川龍之介あれこれ思う孫娘より』(サンケイ出版、1977年)の著書がある。

2度目の妻は女優の草笛光子である(1960年に結婚、1962年に離婚)。離婚の原因は、草笛が芥川の連れ子と不仲だったこととされる[6]


3度目の妻は東京芸術大学作曲科出身で石桁真礼生門下の作曲家・エレクトーン奏者の江川真澄(1970年に結婚)。彼女は結婚前、作曲・編曲だけでなくYAMAHAエレクトーン演奏の名手としても名を馳せた。彼女との間に生まれた息子・芥川貴之志成城大学文芸学部英文学科卒業後、エディター・スタイリストとして活躍している。『Blue RIBBONS』(ディー・ディー・ウェーブ、2005年)の著書がある。

主な作品
歌劇
ヒロシマのオルフェ(1960年、原題『暗い鏡』、1967年改訂。台本:大江健三郎)- ザルツブルク・オペラ・コンクール第1位。西村朗による室内管弦楽編曲版が存在。

管弦楽
・交響管絃楽のための前奏曲(1947年)

交響三章(トリニタ・シンフォニカ)(1948年)

・小管弦楽のための組曲(1949年) - NHKラジオ「日曜随想」にて放送。「Basso ostinato」と「終曲 - トッカァタ」の2曲が現存。前者はピアノのための『ラ・ダンス』の間奏曲の編曲。

交響管弦楽のための音楽(1950年)

・バレエ音楽「失楽園」(1950年)

・バレエ音楽「湖底の夢」(1950年) - 二幕四場、総譜は行方不明。

・バレエ音楽「Kappa」(1951年) - 総譜は大部分が現存するが一部は行方不明。

・バレエ音楽「炎も星も」(1953年) - 二幕四場、総譜は行方不明。

弦楽のための三楽章(トリプティーク)(1953年)

交響曲第1番(1954年、1955年改訂)

・喜遊曲(ディベルティメント)(1955年) - 終曲を交響曲第1番の1955年改訂版第2楽章に改作。その後、本作は破棄された。ただし楽譜は現存する。

・子供のための交響曲「双子の星」(1957年、宮澤賢治作「雙子の星」による)

エローラ交響曲(1958年)

・Marcia in do(1959年) - 吹奏楽曲。古関裕而飯田三郎と1楽章ずつ合作した「祝典組曲」の3曲目。

・弦楽のための「陰画」(1966年)

・オスティナータ・シンフォニカ(1967年)

・舞踊組曲「蜘蛛の糸」(1968年)

チェロとオーケストラのための「コンチェルト・オスティナート」(1969年)

・オスティナータ・シンフォニカ'70(1970) - 「オスティナータ・シンフォニカ」の改訂版

オーケストラのためのラプソディー(1971年)

・GXコンチェルト(1974年) - ヤマハ・GX-1とオーケストラのための協奏曲。

・森のすきなおとなとこどものための音楽童話「ポイパの川とポイパの木」(1979年) - 語り手とorch

・March1979「栄光をめざして」(1979年) - 管弦楽版と吹奏楽版が存在

・音楽と舞踏による映像絵巻「月」(1981年)- イタリア放送協会賞、エミー賞受賞。

・行進曲「風に向かって走ろう」(1982年) - 管弦楽版と吹奏楽版が存在

・アレグロ・オスティナート(1986年) - 外山雄三三枝成章石井眞木と共に1楽章ずつ合作した交響組曲『東京』の終曲。FM東京開局15周年記念委嘱作品。GXコンチェルトの一部を改作したもの。

オルガンとオーケストラのための「響」(1986年) - サントリーホール落成記念委嘱作品。「オスティナータ・シンフォニカ」の素材が多く用いられている。

・ゴジラの主題によせるバラード(1988年) - 「伊福部昭先生の叙勲を祝う会」にて発表された小品。

詳しいことは、『芥川也寸志ウィキペディア』をご覧ください。 ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8A%A5%E5%B7%9D%E4%B9%9F%E5%AF%B8%E5%BF%97
(wikiより)

0018 芥川也寸志

⇧ 芥川也寸志

0018a

0018b

0018c



久松 保夫(ひさまつ やすお、本名:高橋寛[1]1919年6月6日[1] - 1982年6月15日[1])は、日本の男性俳優声優青二塾(東京校)初代塾長。最終所属は青二プロダクション[4]

経歴・人物

東京府東京市日本橋區久松町(現・東京都中央区日本橋久松町)出身[2](※芸名は出身地名に由来)。本籍は東京都中央区日本橋浜町二ノ四〇。


東京府立第六中学校(現・東京都立新宿高等学校)を経て、青山学院(現・青山学院大学)神学部へ入学するも、1938年8月に中退。


同年新築地劇団入団。ただし俳優ではなく経営部に籍を置き、劇団運営や客集めといった裏方として奔走する。舞台に上がるきっかけは、地方公演の同行でたまたま俳優が足りないゆえの頭合わせで、1939年海援隊』で初舞台を踏む。この時の発声や役者向きの顔が評価されて帰京後、役者としての籍を同劇団内に得る。1940年8月、新築地劇団解散後は。劇団築地小劇場日本移動演劇聯盟くろがね隊と移り、この間に南旺映画で1940年3月、千葉泰樹監督の『彦六なぐらる』にて映画初出演を果たす。


1942年
8月、東京宝塚劇場(現・東宝)に技芸社員として入社。東宝劇団に籍を置き、菊田一夫の下で俳優としての才能を開花させる。特にセリフの早覚えと人並み以上の反射神経を生かしたアドリブ演技に秀でており、菊田自身久松の才能を高く評価しかわいがった他、作品の配役を久松自身に選ばせるなど恵まれた時を送った。後年、久松は「菊田先生の御恩は忘れられません」と語っている。


1949年
3月、東宝劇団を退団しフリーとなる。その後、映画評論家で外国推理小説の権威でもあった双葉十三郎からの仕事で映画雑誌『スター』のグラビアを受け、これがきっかけで懇意になり、この結果1955年から始まったKRテレビ(現・TBSテレビ)の連続テレビドラマ『日真名氏飛び出す』で主人公・日真名氏役を得ることになる。双葉は東宝劇団時代の役作りに対する真摯な姿勢を菊田同様高く評価しており、双葉が原案者として参加していた『日真名氏飛び出す』の主役選定に当たって久松を主役に推薦、了承され演じることとなった。


『日真名氏飛び出す』は当時の視聴率調査で49.5%(関東地区)と高い反響を呼ぶ。久松は一躍人気者となり、ドラマでのテレビスター第一号の称号を得る。この当時のエピソードとして「チンピラ達が集まってケンカをしている処をたまたま覗きに行ったら『日真名氏が来た』と彼らは逃げていってしまった。彼らは『日真名氏は強い』と思っていたらしく恐れられていたようだった」と久松自身がインタビューで語っている。しかし反面、久松=日真名氏のイメージが強くなってしまい、以降はドラマのレギュラー、特に主役に恵まれず不遇な時を送っている。


1958年頃から声優としての活動も始め、『ララミー牧場』の主人公ジェス・ハーパー(ロバート・フラー)、『スタートレック/宇宙大作戦』のスポック副船長(レナード・ニモイ)、バート・ランカスターらの吹き替え等を担当した。中でも『ララミー牧場』のジェス・ハーパー役は渋い声と江戸言葉(いわゆる「べらんめえ口調」)で、最高視聴率43.7%(1961年2月23日)を記録する。なお『日真名氏飛び出す』で久松は本編内の生コマーシャル部分(インテグレートCM)でロバート・フラーとの共演を果たしている。


自身の持ち役であるバート・ランカスターは一作ごとに全く異なった演技をするので役者としてやりがいがあると生前語っていた。アテレコの仕事の話をきくと早めに試写をしてからアテレコ二日前から体調を整え長編スクリーンは台本を五冊ほど用意し肩をこらせないようにするという。ランカスターのくせは声を出す前に必ず白い歯を見せることらしい。


1969年
4月、日本で初の声優専門の芸能事務所青二プロダクションの設立に参加、以来死去する1982年まで13年間所属した。あわせて、後進の育成、芸能人の生活向上と権利保護の活動にも力を注ぎ、青二塾の立ち上げに尽力し初代塾長を務めたほか、日本放送芸能家協会の設立に尽力し、社団法人日本芸能実演家団体協議会専務理事、文化庁著作権審議会委員、協同組合日本俳優連合副理事長等を歴任した。


こけし
をはじめとする伝統玩具の蒐集家としても有名で、1974年に設立されたこけしの同好会「こけしの会」の同人を亡くなるまで務め、同人誌「木の花」や、こけし関連書籍の執筆などでも活躍した。1964年の時点では約5000体のこけしを収集しており、こけしの魅力について、1964年9月にこけし職人を訪ねるために夫人同伴で福島県を旅行した際には「伝統あるこけしには口に出せない美しさを感じ、民族的な面白さがある」と語っている[5]


1980年12月に呼吸困難で入院、その後、喘息、肺気腫、胃潰瘍を発症し入退院を繰り返すようになる。1982年6月15日、芸団協の会議に出席中に呼吸不全と心臓発作を併発し、死去[1]享年63。生前出演が決まっていた『わが青春のアルカディア』は、急遽森山周一郎が代役として起用された[6]

後任・代役については、『久松保夫ウィキペディア』をご覧ください。 ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%85%E6%9D%BE%E4%BF%9D%E5%A4%AB

出演作品

映画
虎の尾を踏む男達1945年9月完成、東宝) - 梶原の使者

四つの恋の物語 第四話 恋のサーカス(1947年、東宝) - 三吉

テレビドラマ
日真名氏飛び出す(1955年 - 1962年、KRテレビ) - 日真名氏(※放送回数:全380回)

鉄腕アトム(1959年、毎日放送) - アナウンサー

仇討選手(1959年、フジテレビ

一年半待て(1961年、TBS)

太閤記(1965年、NHK

特別機動捜査隊NET

  ・第198話「戦争の傷あと」(1965年)

  ・第320話「女の坂道」(1968年) - 太田黒

  ・第357話「情炎譜」(1968年) - 北川

  ・第537話「愛と憎しみのバラード」(1972年)

・悪の紋章(1965年、NET)

ザ・ガードマン 第28話「暗黒の掟」(1965年、TBS)

三匹の侍(CX)

  ・第4シリーズ 第1話「吠えろ剣」(1966年) - 有村与三衛門

  ・第4シリーズ 第26話「斬る」(1967年) - 田坂大膳

  ・第5シリーズ 第23話「紙人形」(1968年) - 水木采女

白い巨塔(1967年、NET・東映) - 小山教授

レモンのような女 第1話「離婚 結婚」(1967年、TBS)

戦え! マイティジャック 第9話「地底の悪魔をたたき出せ!」(1968年、CX円谷プロ

東芝日曜劇場(TBS)

  ・第749回「女と味噌汁 その19」(1971年)

  ・第988回「式場の微笑」(1975年)

  ・第1113回「松本清張おんなシリーズ・馬を売る女」(1978年)

火曜日の女シリーズ  逃亡者-この街のどこかで-(1970年、大映テレビ室・日本テレビ) -バーの客

天下御免 (1971年、NHK)

おらんだ左近事件帖 第6話「コロリの謎」(1971年、CX)

花神(1977年、NHK大河ドラマ) - 池田播磨守

・森村誠一シリーズ・人間の証明 第6回(1978年、毎日放送)- 弁護士

ラジオ
日本沈没(1980年、NHK-FM) - オーストラリア首相

吹き替え
俳優

クルト・ユルゲンス

眼下の敵(テレビ朝日旧録版)

史上最大の作戦(テレビ朝日版)

世界殺人公社(TBS版)

嘆きの天使

眼には眼を


バート・ランカスター

明日なき十代

アパッチ

雨を降らす男

インディアン狩り

ヴェラクルス

エルマー・ガントリー/魅せられた男

OK牧場の決斗(テレビ東京版)

怪傑ダルド

カサンドラ・クロス(LD版 Blu-Ray収録)

空中ぶらんこ

五月の七日間

地上より永遠に(TV版)

さすらいの大空

殺人者

終身犯(NET版がDVD収録)

スコルピオ

成功の甘き香り(DVD収録)

大反撃

大列車作戦

旅路(DVD収録)

タルファ駐屯兵

追撃のバラード

追跡者(TBS版)

ニュールンベルグ裁判

ビッグトレイル

秘密殺人計画書

深く静かに潜航せよ

プロフェッショナル(日本テレビ版)

許されざる者

山猫

洋画
アレゲニーの反乱 (ジョージ・サンダース) ※TBS版

1941(ジョセフ・W・スティルウェル中将:ロバート・スタック

王子と踊子ローレンス・オリヴィエ

おしゃれ泥棒ヒュー・グリフィス)※フジテレビ版

怪奇!魅惑の魔女 (オットー(エドワード・アンダーダウン))

怪情報メコンの蛇 (トニー・ローランド(ブラッド・ハリス))

風の遺産フレドリック・マーチ

華麗なるダイヤモンド強奪 (ガストーネ・モスキン)

キス!キス!キルキル (トニー・ローランド(ブラッド・ハリス))

巨大なる戦場カーク・ダグラス

恋はかくのごとく (ロジャー(フランチョット・トーン))

荒野の棺桶エドゥアルド・ファヤルド

・コマンド (エリオット軍曹(ジェームズ・ホイットモア))

細菌弾をぶっ飛ばせ! (トニー・ローランド(ブラッド・ハリス))

さすらいの旅路(ローレンス・オリヴィエ)

サムソンとデリラ (サラン(ジョージ・サンダース)) ※フジテレビ版

猿の惑星ジェームズ・ホイットモア)※フジテレビ版

スエズの陰謀 ( テオプロス(エドワルド・ファジャルド))

スパイ指令・地獄への突入 (ジョー・アレン(ブラッド・ハリス))

続・荒野の用心棒(エドゥアルド・ファヤルド)

ダイアモンド・ヘッドチャールトン・ヘストン

大海賊シャルル・ボワイエ)※NHK版

地球は壊滅するダナ・アンドリュース

地底探検ジェームズ・メイソン

テキサスディーン・マーティン

トラ・トラ・トラ!ハズバンド・キンメル海軍大将マーティン・バルサム

トルコの肝っ玉野郎 (トニー・ローランド(ブラッド・ハリス))

偽の売国奴 (ヒュー・グリフィス) ※NHK版

ネットワーク(ハワード・ビール:ピーター・フィンチ

のっぽ物語 (レオ・サリバン教授:レイ・ウォルストン)

バルジ大作戦(ダナ・アンドリュース)※NET版

ピラミッド (ヘイマー(アレクシス・ミノティス)) ※NHK版

武器よさらばヴィットリオ・デ・シーカ

ブルー・マックス(ジェームズ・メイソン)

魅惑の巴里 (レスリー・フィリップ)

・炎の女 (ピーター・カッシング)

墓石と決闘ジェイソン・ロバーズ

夜の大捜査線(エリック・エンディコット:ラリー・ゲイツ)※NET版(BD収録)

落日の決闘ブライアン・ドンレヴィ

レーザーガン奪取計画 (トニー・ローランド(ブラッド・ハリス))

若い恋人たち (アントン・ゾーベック( デビッド・コンク))

詳しいことについては、『久松保夫ウィキペディア』をご覧ください。 ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%85%E6%9D%BE%E4%BF%9D%E5%A4%AB
(wikiより)

0017 久松保夫

⇧ 久松保夫

0017a

0017b



中川 一政(なかがわ かずまさ、1893年明治26年)2月14日 - 1991年平成3年)2月5日)は、日本洋画家美術家歌人随筆家東京府生まれ。

経歴
1893年 東京市本郷に生まれる。

1914年 巽画会展に出品した作品が岸田劉生に見出されて画家を志す。

1915年 草土社を結成。

1920年 初の個展(油彩)を開く。また、同年2月千家元麿宮崎丈二らと雑誌『詩』を創刊。

1922年 小杉放庵らと「春陽会(しゅんようかい)」設立に参加。

1923年 伊藤暢子(伊藤為吉の娘)と結婚[1]

1931年 水墨画の個展を開く。

1949年 神奈川県真鶴町にアトリエを構える。

1975年 文化勲章を受章。文化功労者表彰。

1986年 母の故郷である石川県松任市(現白山市)に松任市立中川一政記念美術館(現 白山市立松任中川一政記念美術館)が開館。

1989年3月 真鶴町に真鶴町立中川一政美術館(設計 柳澤孝彦/第15回吉田五十八賞受賞、第33回BCS賞受賞)が開館した。

作品

洋画水墨画版画陶芸詩作和歌随筆と多彩な作品を制作した。全てが独学であり自ら「在野派」と称した。洒脱な文章でも知られた。

・絵画作品 「漁村凱風」「薔薇」「箱根駒ケ岳」等。

・和歌 1961年歌会始の召人となり詠進した。

・挿絵 都新聞に連載された尾崎士郎「人生劇場」

・随筆 文集全5巻、全文集全10巻がある。

評伝・その他
・97歳と長命であったが、晩年まで創作活動を続けた。視力が衰えたため、家政婦に絵の具の色の名を大きく書かせて描く時に見分けたという[要出典]。絶筆はかねてから好んで描いていたバラであった[要出典]。バラを題材にした作品は判明しているだけで800点を超える[要出典]

・遺した美術品コレクションが競売にかけられた際、それまで判明していなかったがゴッホの油彩画であることが判明した絵画があった。当初は落札予想価格が1万円とされていたものが、6600万円でウッドワン美術館に落札された。中川がゴッホ作であったことを知っていたかどうかは不明[要出典]

・戦時中は伊豆に疎開しその途中、真鶴に魅了された[要出典]

著作
・見なれざる人 (詩集 叢文閣、1921年)

・ゴオホ (アルス、1925年)

・美術の眺め (アトリヱ社、1930年 のち講談社文芸文庫)

・美術方寸 (第一書房、1933年)

・永福寺余暇 (竹村書房、1934年)

・武蔵野日記 (竹村書房、1934年)

・庭の眺め (竹村書房、1936年)

・旅窓読本 (学芸社、1936年)

・一政随筆 (学芸社、1937年)

・顔を洗ふ (中央公論社、1938年)

・美しい季節 (桜井書店、1942年)

・一月櫻 (随筆 錦城出版社、1942年)

・向ふ山 (歌集 昭南書房、1943年)

・野の娘 (昭南書房、1943年 のち講談社文芸文庫)

・我思古人 (靖文社、1947年 のち講談社文芸文庫)

・歳々年々 (自在書房、1947年 のち講談社文芸文庫

・篋中デッサン (建設社、1947年)

・香爐峰の雪 (創元社、1950年)

・見えない世界 (筑摩書房、1954年)

・モンマルトルの空の月 (筑摩書房、1955年 のち中公文庫)

・猫と人間 (朋文堂、1955年)

・正午牡丹 (筑摩書房、1958年)

・道芝の記 (実業之日本社、1959年)

・うちには猛犬がゐる (筑摩書房、1963年 のち中公文庫)

・遠くの顔 (中央公論美術出版、1967年)

・近くの顔 (中央公論美術出版、1967年)

・中川一政書蹟 (中央公論美術出版、1967年)

・中川一政插画 (中央公論美術出版、1971年)

・さしゑ人生劇場 (求竜堂美術出版、1971年)

・門前小僧 (中川一政水墨・岩彩 求竜堂、1973年)

・書の本 (求竜堂、1974年)

・一政印譜 (求竜堂、1974年)

・中川一政文集 (全5巻 筑摩書房、1975年-1976年)

・腹の虫 (日本経済新聞社、1975年 のち中公文庫)

・対談 (求竜堂、1977年)

・雨過天晴 (歌集 求龍堂、1979年)

・随筆八十八 (講談社、1980年2月 のち文芸文庫)

・中川一政文選 (筑摩叢書、1983年 のちちくま文庫)

・画にもかけない (講談社、1984年 のち文芸文庫)

・中川一政ブックワーク (形象社、1984年)

・つりおとした魚の寸法 (講談社、1985年)

・中川一政全文集 (全10巻 中央公論社、1986年-1987年)

・裸の字 (中央公論社、1988年 のち文庫)

・いのち弾ける! (二玄社、1996年)

系譜
妻は伊藤為吉の娘、伊藤道郎の妹、千田是也の姉の暢子[2]で、中川のぶの名で翻訳を1冊(カアスン・マックカラーズ 『話しかける彼等』)出している。長男は元劇団四季副社長、舞踊評論家の中川鋭之助。長女は俳優原保美の妻・原桃子。次男は映画監督中川晴之助。晴之助が是也と最初の妻との間の娘モモコと従兄妹同士で結婚して生まれたのが女優の中川安奈である。

中川一政に師事した主な画家
田垣内友吉(1894年 - 1931年、三重県出身)

堀内唯生(1900年 - 1981年、長野県出身)

・棟方寅雄(1902年 - 1992年、青森県出身)

・志村一男(1908年 - 1981年、長野県出身)

・田中謹左右(1908年 - 1935年、岡山県出身)

・上原欽二(1915年 - 2001年、愛知県出身)

野村千春(1908年 - 2000年、長野県出身)

・渡邉一雄(1937年 - 、静岡県出身)

・小池邦夫(1941年 - 、愛媛県出身)

小杉小二郎(1944年 - 、東京都出身)

脚注
1. 村松貞次郎 (1994年7月28日). やわらかいものへの視点 異端の建築家伊藤為吉. 岩波書店. p. 228
 

2. 村松貞次郎 (1994年7月28日). やわらかいものへの視点 異端の建築家伊藤為吉. 岩波書店. pp. 191-192 

参考文献
・村松貞次郎 著『やわらかいものへの視点 異端の建築家伊藤為吉』岩波書店、1994年7月28日

関連項目
中川一政美術館

白山市立松任中川一政記念美術館(旧 松任市立中川一政記念美術館)

外部リンク
中川一政 - 白山市

真鶴町立中川一政美術館

白山市立松任中川一政記念美術館

関連家系図

中川一政 - NHK人物録
(wikiより)

0016 中川一政

⇧ 中川一政

0016a

0016b



野沢 那智(のざわ なち、1938年1月13日[1][2] - 2010年10月30日[1])は、日本声優ラジオパーソナリティ俳優演出家実業家


東京府
(現:東京都)出身[1]オフィスPAC元代表。父は作家陸直次郎、妻は女優の成瀬麗子長男は俳優の野沢聡、姪はタレント野沢直子、大姪(直子の娘)は格闘家真珠・野沢オークレアー


本名の表記は同じ[注 1]だが、読みは「のざわ やすとも」である[3]

人物

数多の洋画吹き替えアニメ作品で声の出演、またラジオDJナレーションなどを手がける。舞台プロデュース、舞台演出でも活躍。


芸名の由来は公私ともに本来の読みである「やすとも」と呼ばれたことがなく、結果的に誤った読み方の「なち」がそのまま定着したことによる。

生涯

舞台美術家から舞台演出家への転向、役者の道へ

中学生の頃、家の近くにあった「明治座」という芝居劇場へ毎日のように通う。ただし見ていたのは役者ではなく舞台装置で、明治座から帰るとみかん箱を舞台に見立てたミニチュアを作って遊んでいた。最初から役者をやりたかったわけではなく、将来は舞台美術家になりたいと思っていた[4]


國學院大學
政経学部に進学後、大学3年生の頃からプロ劇団に出入りするようになり、大道具などの仕事を手伝わせてもらうようになる。ところが、その劇団の舞台美術家から「お前が下手だな。思いつきはいいんだけど。向いてないよ。やめろ」と言われてしまう[4]。野沢はそれでも芝居関係の仕事がやりたかったため、今度は舞台演出家を目指すようになる[4]


大学を中退し、劇団七曜会に演出家研修生として入団。だが、主催の高城淳一に会った途端、「演出家希望?とりあえず役者やれ!」と言われ、いきなり舞台に出ることになる。それから3年ほど、七曜会で役者を続けることになった[4]。なお、七曜会時代の先輩には肝付兼太青野武らがいる。


また、当時誕生したばかりだった洋画の吹き替えアルバイトをこなすようになった。俳優間では「(吹き替えの仕事は)俳優として、自分のオリジナリティを捨てている」と見下されていたが、野沢は「当時はテレビドラマ生放送だから、ドラマの仕事が来ると稽古やリハーサルで一週間は拘束される。でも、それじゃ舞台のための稽古ができない。吹き替えは一定期間で終わるから、時間的に効率のいいアルバイトだった。役者を目指しているからには、稽古時間が欲しいじゃないですか。それに、一応セリフを喋る仕事だから、まったく関係ない業種のアルバイトより、吹き替えのほうが勉強になりますからね。僕は演技のデッサンとして面白いなと思ったし、実際に収入もなかった」という理由で積極的にやったという[4]


劇団七曜会を退団後、野沢は役者仲間を集めて「劇団城」を立ち上げた。初めて演出を担当するが、難しい演目ばかりやっていたため、客は入ってこなかった。そのため、金はかかるとたちまち運営に行き詰ってしまい、劇団は分裂。製作の責任者であった野沢は3年間で370万円(現在の価値で2000万円ほど)もの借金を抱え込んでしまった。その後はアパートを引き払い、友人の家を転々とし、15円のコッペパンで「今日は食べたぞ!」と満足していたほどの赤貧生活だった。当時の生活について野沢は「少しも辛くなかったのは、芝居が好きっていうのもあるけど、日本中が貧乏だったからでしょうね」と振り返っている[4]

アテレコ(声優業)の本格開始

借金返済の見通しも立たず困り果てたある日、野沢が銀座の街を歩いていると、劇団七曜会にいた頃の先輩である八奈見乗児と道端で偶然出くわした。そこで野沢は「何か仕事が無いですか?」と聞いたら、「お前、アテレコやれ。事務所は紹介するから」と八奈見に言われるが、野沢は最初、冗談だと思ってまともに取り合わなかった。しかし一週間後また偶然八奈見と出くわすと「もう事務所に連絡入れたぞ」と言われ、四谷にあるプロダクションに連れていかれるが、そこは裏通りにある魚屋の2階で、階段も狭く「俳優の事務所っつったって汚ねぇんだな。何ていうプロダクションなんだろう」とよく見てみると「東京俳優生活協同組合[5]だったという。このような経緯から事務所の熱心な売り込みもあって、野沢は本格的に声の仕事を始めた。


テレビ普及が本格化した高度経済成長時代のテレビドラマ黎明期に、人手不足からテレビの仕事に手伝いで呼ばれ参加したところ、その仕事は演出などのスタッフではなく演じる方=俳優の端役(性犯罪者役)であった。「こんなの親に見せられない」と困惑した野沢が、「人目に触れず出来る仕事はないか」と職を探しながらも「そんなコソドロみたいな仕事はない」と返され、渋々いくつかの映像出演や舞台出演を重ねた後、次に引き込まれていったもう1つの人手不足の現場がアフレコの世界であった。野沢によれば「アテレコで若い男の役といえば野沢那智」という感じで、次々と仕事が回ってきて、1日3本こなしたこともあったと言う[4]


1年半アフレコの仕事をこなし、借金が半分になったため、そろそろ役者を辞めようと思い始めた。その時、「最後にこのオーディションに行くだけ行ってきてよ。ほとんどキャストは決まっているので、落ちるから大丈夫」と言われて紹介されたのが『0011ナポレオン・ソロ』であった。気楽にオーディションを受けたが、既にイリヤ・クリヤキン(デヴィッド・マッカラム)役は愛川欽也に決まっていたのが、何故か配役が野沢に変更された[4]。野沢が知人から聞いたところによれば、ディレクターが野沢の出演している番組を偶然見て「誰だ?この女みたいな芝居する奴は」と注目し、配役を決定したという。そして『0011ナポレオン・ソロ』が視聴率40%くらいを取る大当たりになったため、役者をやめるわけにはいかなくなったとのこと[4]


このような経緯で劇団の借金を返済するため声優業を開始して、次第に人気を獲得していった野沢だが、最終的には自分の劇団を復活させ演出家としても活動する。また数多くの吹き替えやアニメに多く出演したり、バラエティ番組などでナレーションを担当した。


TBSラジオ
の深夜ラジオ番組『パックインミュージック』でパーソナリティとして白石冬美とコンビを組み、文化放送など局を移しても2人で「那智チャコ」の愛称でラジオ番組のパーソナリティ・コンビを務めた。


1963年に、劇団薔薇座を設立し、プロデュース演出を担当。ストレートプレイミュージカルの上演に力を注いだ。1988年、劇団薔薇座の第21回公演ミュージカル『スイート・チャリティ』で文化庁芸術祭賞を受賞している。

晩年・死後

2003年オフィスPACを設立し、付属養成所のパフォーミング・アート・センターにおいて声優や舞台俳優を目指す人材を育成。設立当初は代表取締役として在籍し、声優としては賢プロダクションに所属を続けていたが、2008年5月頃に賢プロダクションを退所し、事実上オフィスPACへ移籍した。一時は青二プロダクションにも所属していた[6]


2008年
第2回声優アワード功労賞を受賞。

2008年、『コブラ』がOVAとして復活。テレビアニメ『スペースコブラ』でコブラを演じた野沢が再びコブラ役に起用された。野沢本人も声優アワードにまつわるインタビューなどにおいて「今年はコブラだ!」と気合と意気込みをアピールしている。


2009年
後半、この頃から次第に体調を崩し始め、一時仕事を完全にストップして治療に専念すると宣言するなど、仕事のセーブに拍車がかかる。


2010年
、7月頃までは指導にあたっていたが、夏に精密検査を受けた結果肺癌を患っていたことが判明し、8月から入院。抗がん剤などで治療生活を送るも、容態は一向に回復せず、10月26日に都内の別の病院へ転院。この頃には、もう会話することすらできなくなっていたという。妻や長男、親族、自身が代表を務める養成所の生徒たちに囲まれながら、10月30日午後3時36分、肺癌のため死去[7]。72歳没。


2011年
2月14日にお別れの会が行われ、俳優仲間の山寺宏一羽佐間道夫をはじめとした580人が参列した[8]。祭壇には野沢が愛用していた物や舞台演出した台本、息子の贈り物などが飾られた[8][9]。弔辞を読んだのは野沢とTBSラジオで15年間(在京3局でのべ25年間)コンビを組んだ白石冬美で「どこも痛くなくなった今、空の上から見守ってください」と別れを惜しんだ[8]


2011年3月5日に行われた、第五回声優アワードで特別功労賞が贈られた[10]。声優アワードの生前、没後双方での受賞は初となる。


スター・ツアーズ』のC-3POの声は、野沢の没後も生前に収録した音声が使用されていたが、2012年のリニューアルに伴い岩崎ひろしに交替した。

特色

声種バリトン


役柄としては主に青年役を担当しているが、時に中年・老人役も演じる。声質からアニメやゲーム作品においては、『キングダムハーツ Re:チェインオブメモリーズ』(ヴィクセン)や『ルパン三世 ルパン暗殺指令』(ジョン・クローズ)のような悪役を演じるイメージが強いが、『チキチキマシン猛レース』(ナレーター〈実況〉)のような熱血漢、洋画吹き替えではアラン・ドロンジュリアーノ・ジェンマロバート・レッドフォードジェームズ・ディーンなどの二枚目役、また雰囲気を変えた三枚目もこなす。本人によれば「狂人が得意分野」とのことで、「キレるのはそう難しくないんです」と語ったこともある[11]。『悟空の大冒険』で担当した三蔵法師がいわゆる「おかま」になったのはアドリブからである。


アル・パチーノクリストファー・ウォーケンダスティン・ホフマンデニス・ホッパー(『スピード』)といった狂気がかった役の吹き替えが多いが、本人はジェラール・フィリップトム・ハンクス全出演作を吹替えるという夢を持っていた。前者はナレーションを担当した『星の王子さま(CD-ROM版)』で一部実現したが後者は一本も担当したことがなかった。笑いの要素が好きで演技にも感動させられると語っていた。

担当俳優について
アラン・ドロン

1969年頃、アラン・ドロンの吹き替えを初めて担当。数人いるドロン担当声優のひとりとなる。『日曜洋画劇場』で主にドロンを担当していた堀勝之祐などと比べ、ドロン担当として野沢は比較的後発の存在だったが、やがて1970年代後半頃から、ほぼ全局で野沢がドロンの吹替を担当するようになり、茶の間にも「アラン・ドロンの吹替といえば野沢那智」のイメージが浸透していった。野沢に先んじてドロンを多く吹き替えた堀も野沢が担当した作品を観た際には「僕は彼の演技にのれないことが多々あったが、野沢さんの場合はぴったり合っている」と評している[12]


ドロンを担当するようになった経緯ついて、野沢本人は後に「『太陽がいっぱい』で堀勝之祐がドロン、自身がモーリス・ロネを吹き替え放送したところ、しばらくして春日正伸の提案で配役を逆にして録り直し放送した。これで初めてドロンを吹き替え、その後多く吹き替えるようになった」と述べている[13]。ただし、野沢がロネを吹き替えた音源はなく、とり・みきの調査では野沢が初めてドロンを担当したのが『黒いチューリップ』となっているため、真相は不明である。


野沢がドロン担当声優として有名なため、演劇・映画の関係者や評論家、役者たちのコラムや寄稿において「アラン・ドロンから連絡を貰った」「稽古場でアラン・ドロンがソバを食べていた」など、冗談でアラン・ドロン扱いされることも多い。東映制作の特撮テレビドラマ作品『仮面ライダークウガ』(2000年)の第37話では劇中で「アラン・ドロンの声をやっていた人物」として野沢の名前が登場する。また、野沢はドロンがダリダとデュエットし、ヒットしたシングル『あまい囁き(Parole Parole)』の日本語版にも参加している。


アラン・ドロン自身の声は、野沢が演じるものより低い声である。ディレクターも交えて(冗談まじりに)ドロンに似せた低音で演じてみた時、その声で日本語を話すと重くなりすぎ、泥臭く聞こえてドロンの外見のイメージと合わないことがわかった。そこで「ドロンの顔つきや体つきからイメージされる、甘さのある柔らかい雰囲気で」との方向性で声のトーンを決めていったという。「アラン・ドロン自身のような低音でフランス語を話してると響きが良いんですけど、その声で日本語を話すと聞こえ方が違う」と、日本語とフランス語の聴感の違いも感じさせる回答を野沢は述べている。また、ドロンの顔と体のイメージから、演技としても大芝居を避けて「さらりと、さざ波のような感じで声を出そう」という演技方針を固めていったが、「さざ波って言っても難しいんです」とも述べて、持ち役の中でもドロンと同様に二枚目俳優であるロバート・レッドフォードについても「顔がきれいで印象を壊しちゃいけないから、タッチの強い台詞が言えない。いちばん難しい」と語り[11]、二枚目を吹き替える難しさを度々振り返っていた[14]


野沢は「二枚目という端正な魅力を生かすには、汚い日本語では絶対に成立しない。正確にいうと、アラン・ドロンを演じているわけじゃない。彼が映画の中で役を通して表現したかったことを、日本語で表現している」とインタビューで話している[15]


役作りについては「3日前からドロンになれてないと収録できない」と話しており、ドロンが演じた多くの役のような孤独で人間関係には器用でない役を吹き替える際は、当日できるだけ収録本番まで人に会わないように現場に入り、挨拶もほとんどしないという。いわば担当する人物の人間関係そのままに振る舞うという行動で「孤独な役をやるんなら、世間話してると物語に入れないんです」と話している。野沢によると、オードリー・ヘプバーンの吹替で知られる池田昌子も同様の役作りをしており、特に野沢と池田が会話の少ない役で共演する時は、本番以外ではほとんど会話しないという[14]


野沢にとっては、収録の際のマイクに対する立ち方も役作りのひとつになっており、ドロンの吹替の時は大抵左端のマイクを使い、隣の相手役にも敢えて向き合わずに収録するという。その位置は「人と関わらない立ち位置」だといい、「いわば壁を作ってる感じで…相手役の台詞は聞きますが、相手役は見ないし、体も寄せてません。見ながらやると関わってしまうので…」という状態で演技することが多い。作品映像を見ながら演技する吹替現場において孤独な役を吹き替える際には「その位置だと、映像がいちばん遠くなるので合理的じゃないです。でも、そういう他人と関わらない位置でやらないと、やり辛い」とし[14]、先述のレッドフォードを吹き替える際も「(マイクが4本あったら)一番右のマイクに行き、共演者の皆が見える所で演じると、フランクな気持ちになって、楽になってやりやすい」としており、二枚目を吹き替える上での野沢流の“作法”を明かしている[16]


ドロン若き日の代表作『太陽がいっぱい』について、野沢は作品自体、またドロンの演技についても高く評価している。この作品はテレビ放映の機会も多く、テレビ放映用に現在まで少なくとも5ヴァージョンの吹替が製作され、そのうち野沢は3度ドロンを吹き替えている。2008年にこの映画のスペシャル・エディションDVDが製作され、音声特典として“野沢ドロン”の吹替収録が決定、野沢は収録の候補になった1972年収録版と1984年収録版を久々に見直した。1972年版について野沢は「出だしのころの台詞なんて、気恥ずかしい出来です」と当時30代だった自分の演技の未熟さを評し、十年以上を経た84年版での演技のほうが納得できると振り返ったが、72年版で共演のモーリス・ロネを担当した堀勝之祐の芝居の見事さや、同版での自分の演技についても「“一攫千金を狙う貧乏な青年”の雰囲気は、下手なりに出ていたのかなあ」と感じた点を含めて、「サスペンスの雰囲気も出ていて、作品全体としては72年版の方が出来が良い」と最終的に72年版のDVDへの収録に同意したという[14]


2007年、テレビ東京にて『太陽がいっぱい』を“野沢ドロン”で改めて収録・放映する企画が決まり、局側から打診を受けた野沢は「(オリジナルの製作当時20代だった)あの頃のドロンに見合った声と気持ちで演じるのはもう無理」と70歳を翌年に控えた自分の年齢などから断ったが、「今電話でお聞きしてる声なら大丈夫、気持ちもやってみたらきっといけます、また新しくこの作品を作りましょう」と局側から口説かれ、収録に応じたと2008年6月のインタビューで語った[14]。インタビュー当時野沢は自身3度めの『太陽がいっぱい』の仕上がりをまだ見ておらず「見るのが怖い」と明かしていたが、映画は08年7月に放映されている。


幼い頃父を亡くしたという経験がドロンと野沢には共通しており、野沢が生い立ちに言及した際は「共通点があるから、彼の作品を理解しやすいのかもしれない」と振り返っていた[14]


ドロンが日本で本国フランス以上ともいえる人気を博した理由についても野沢なりの分析を述べている。「(ドロンの映画には)泣かせ方というのか、物語に日本的情緒があって、彼は“信義や友情を大事にする熱い男”という役をずっと演じていた」と、当時の日本人に訴えかける男性像だったことを人気の要因として挙げた。また「彼の顔立ちも、本当に外国人という感じじゃなくて、日本人にもいそうな顔立ちだった」ことも観客には親近感があったのでは、と述べている[14]。加えて1980年代のインタビューでは、「最近はアラン・ドロンが映画を撮っても、日本の劇場ではやらないです。お客が入らないらしくてね、今のお客さんとちょっとズレちゃった」とドロンの人気の衰えについても言及し、やや野沢自身の寂しさや長くつきあっているドロンへの愛着を感じさせる回答を残している[13]


以上のように苦労もありながらも、ドロンの作品に多く共感できることや、30年にもわたって関わり続けてきたことなどから「どれだけの人数を吹き替えてきたかわからないけど、アラン・ドロンが一番やりやすいです」と野沢は答えている[14]


担当したドロン作品の中で印象に残っている作品として、冒険活劇としての面白さから『黒いチューリップ』、『アラン・ドロンのゾロ』の2作、また作品の出来栄えに感銘を受けたとして『地下室のメロディ』を挙げ、また「演じていて面白かった」と『ブーメランのように』を、また『高校教師』も印象に残る作品として選んでいる[14]

アル・パチーノ

ドロンと並んで、アル・パチーノの吹替も日本人に一番馴染み深いフィックスとしてファンから高い支持を得ている野沢の持ち役の一つである[17]。パチーノの演技力について野沢は「僕が考える演技の枠を飛び越えてる存在」と語って感嘆していた[14]。パチーノの出世作・代表作となった『ゴッドファーザーシリーズ』でのマイケル・コルレオーネ役は3部作すべてを担当、3作目では長いブランクを経て放送局が日本テレビの『水曜ロードショー』からフジテレビの『ゴールデン洋画劇場』へと変わっても野沢版(日本テレビ版)のキャストが踏襲された[17]上、ソフト版にも同キャストが採用されている。野沢は全シリーズに渡って演じている唯一の人物であるが、1・2作目の市販ソフトに関してはそれまで山路和弘[注 2](DVD版)や森川智之(Blu-ray版)など野沢版とは異なるキャストによる新録版のみの収録に留まっており配役が統一されず、3作目を除くと野沢版のソフトでの鑑賞が不可能となっていた。本シリーズの野沢版はザ・シネマで現代にあわせてHD化・ワイド化(ノートリミングのビスタサイズ)が行われた上で放映された[17]のち、『ゴッドファーザー 吹替完全版 ブルーレイBOX [初回限定盤]』に当時の吹替台本を復刻・縮刷したものを付録として付属した上で全3作を収録したものを発売する予定であったが、中止となる[18]。その後、2017年7月21日にNBCユニバーサル・エンターテイメントジャパンより発売された『ゴッドファーザー45周年記念ブルーレイBOX TV吹替初収録特別版』で初めて1作目の野沢版がソフトに収録されることとなった[19]。なお2作目は現状、野沢版はソフト未収録のままである。


『ゴッドファーザー』で担当した際、パチーノの緻密な表現に接したことを「彼のひとつひとつの演技すべてにはっきりした解釈を要求されて、「お前に演れるか?」と挑まれた思いだった。俳優として、人間としての洞察力まで試された経験」と画面の中のパチーノとの真剣勝負を振り返り、パチーノの演技水準が高いこともあって「芝居が読み取れなくて本当に大変。難しいんだけど、あの芝居に触れられたのはすごい刺激」と語っており、当3部作を「映画の面白さ、演じることの楽しさを一番経験した仕事」として[20]、キャリアの中で一際思い入れの深い仕事に挙げている[11][21]


パチーノの吹替を担当した当初は「どうだ、俺うまいだろう」と得意になって演じていたと振り返っているが、後に野沢はニューヨークブロードウェイでアル・パチーノ本人の出演する『アメリカン・バッファロー』の舞台を鑑賞する。その際、野沢はパチーノの凄まじいマシンガントークと肺活量に脱帽し、「あんたどこで息吸うの?ってくらい。あれ観ちゃうといけないね。巨人ですよ、まさに天才、ほんとに。狂気の如き演技。」とパチーノの技術を高く評価したと同時に、完全に圧倒されたと述べた。その後「この人と同じ芝居なんかやれない、俺には。どうしたもんだろってすごく悩むようになっちゃった。」と葛藤していたものの、それが面白いと感じるようになり、「彼がやっている芝居を日本語でそのまま再現できたら、役者としても面白いし意味もあるんだろうなぁ」と語り、その頃から真面目に、一生懸命に芝居をやるようになり、それからは「一作一作が闘い」もしくは「その人の演技との真剣勝負」という意識でアフレコに挑んでいたとのこと[20][22][23]


男性的で先頭に立つ役柄も多いパチーノの吹替の際は堂々たる雰囲気を心がけ「真ん中のマイクの前に立って、周りを睨みまわすぐらいの気持ちでやらないと、雰囲気が出ない」という[14]


パチーノと同様に演技派俳優として名高いダスティン・ホフマンの吹替も数多く経験、ホフマンを吹替える時も「周りを見ながら演じられる位置」に立って収録すると野沢は語っている[14]。また洋画劇場時代には上記2名と同様にオフ・ブロードウェイで初舞台を踏み、演技派として高い評価を受けているジェームズ・ウッズも持ち役にしており、ウッズの吹替に関しては「彼は普通のセリフの合間に変なブレスを入れて来るのでアテづらい」と難色を示していた[24]。パチーノやホフマンなどの吹替の際は「疲れるけど、大声を出しても大丈夫」[14]もしくは「声がどう出ようが平気な感じがある」[11]とも話して、彼らの芝居を把握したうえであれば思い切った表現を用いても違和感がないと述べており、ドロンなど正統派の二枚目を吹き替える場合との違いを明かしている。


同業者間でも誰もが「アル・パチーノといえば野沢那智」と認識しており、上述の通り『ゴッドファーザー』を2001年の新録で担当した山路和弘は「さぁ、どうしようかな。僕は野沢那智さんみたいにはできないから」と苦悩があったことを明かしており[25]、『ゴッドファーザー テレビ完全版』で一度だけパチーノを吹替えた山寺宏一は、風の噂で山寺が一回演ったことを野沢が耳にしたと聞き、後にとある現場で野沢と共演した際に恐縮していたが「お前なら許す」と言われ、本当に涙が出るほど嬉しかったといい、「頑張れよ」などの激励された時の言葉を一生忘れられない言葉として回想し、「まだまだ全然追いつけませんが、少しでも那智さんに近づけるように僕もがんばっていきたいと思います」と野沢が亡くなった際にコメントを残した[26]。また『フェイク』で野沢のパチーノと共演するジョニー・デップを吹替えた平田広明も、年老いたパチーノを吹替える野沢の芝居を見て「これはやはり一緒に録らないと、那智さんの「圧」が直接ないとできないだろう」と確信し、感銘を受けたと述べた。2000年代前後にテレビ東京の『木曜洋画劇場』で旧作を放映する「20世紀名作シネマ」の枠内での新録版『スケアクロウ』(本作は野沢がパチーノを吹き替えた版は存在しない)において平田はパチーノを吹替えており、その際には「アル・パチーノをやったというよりも那智さんをやらせてもらった、みたいなイメージでとても嬉しかった」と感激したといい、これらのエピソードを踏まえた上で、「まだ新人の頃から一人前の役者として扱っていただいてすごく嬉しかったです。すごい自信になりますよね。大御所に名前を呼び捨てにされるというのはとっても嬉しいですね。『平田、芝居やってんのか』って。まだまだ教えてもらいたいことが沢山あったんですけどね」と悔やみつつ、野沢を偲んだ[27]


2017年からオンデマンド配信されているNetflixのテレビドラマシリーズ『マインドハンター』の第1話では劇中においてパチーノの代表作である『狼たちの午後』が上映される場面が存在する。この日本語吹替版では野沢がパチーノを吹替えたフジテレビ版の吹替音声(1979年「ゴールデン洋画劇場」で初放映)が使用されている。

詳しいことは、『野沢那智ウィキペディア』をご覧ください。 ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%8E%E6%B2%A2%E9%82%A3%E6%99%BA
(wikiより)

0015 野沢那智

⇧ 野沢那智

0015a

0015b

0015c



山形 勲(やまがた いさお、1915年7月25日 - 1996年6月28日)は、日本の俳優。本名:塙 勲(はなわ いさお)。

来歴

イギリスロンドン生まれ[1]東京市麻布区市兵衛町(現在の東京都港区六本木)出身。父親の山形巌1881年大阪生まれ。少年時代にサーカス団員となり、1917年の帰国まではヨーロッパ各国で軽業師をしていた。ベルリン滞在中に日本から呼んだ女性と結婚。勲は4男3女の次男である。帰国後は「山形ホテル」を1920年に建てた[2]。この本格的洋風ホテルのあった麻布市兵衛町(港区六本木1丁目)には永井荷風の住む偏奇館があり、大正から昭和にかけ正装して食事に訪れる姿を小学生の勲が目撃している。なお、ホテルは世界恐慌の際に廃業した。


1935年
日本俳優学校を卒業[1]兵役を経て1936年東宝劇団に入団した[1]1942年佐佐木隆鈴木光枝山村聰らと劇団文化座を結成[1]。同座には1953年まで在籍した。


1949年
、『斬られの仙太』で映画に初出演した[1]。昭和28年の『地獄門』で注目された[1]。初めは市川崑の監督作品や黒澤明監督の『七人の侍』などに出演していたが、しだいに悪役として注目され[1]、その後は東映時代劇に多く出演、主に悪役として活躍した。


1953年
大映初の総天然色イーストマンカラー映画で第7回カンヌ国際映画祭でグランプリを受賞した映画『地獄門』(衣笠貞之助監督)に京マチ子の夫役で準主演しているが、のちに定着する悪役のイメージとは全く異なる善人を演じている。その代わり、主演の長谷川一夫が悪役を演じている。


時代劇のほか、現代劇でも活躍しており、大学教授・会社重役・高級官僚などの役を演じることが多かった[1]

1976年
公開の山崎豊子原作の映画『不毛地帯』(山本薩夫監督)では仲代達矢演じる主人公・壱岐正を招き入れる近畿商事の大門一三社長を演じている。


テレビドラマにも多く出演している。特に、『剣客商売』では加藤剛演じる剣客・秋山大治郎の父親の秋山小兵衛役で主演[1]。また、『水戸黄門』では第1部から第18部まで柳沢吉保を演じ、はまり役と言われた。


1988年に勲四等瑞宝章を受章した[1]


1995年のNHKドラマ『されどわが愛』のロケ参加後に入院[1]、1996年6月28日午前6時15分に若いころから患っている肺結核のため、東京都府中市東京都立府中病院で死去した。80歳没[3]

人物
・若い頃に肺結核を患い手術で一命を取り留めるが片方の肺を失い、この手術の影響で後年は片方の肩が落ちていたそうである。また、肺結核の手術を受けた時期に新東宝製作で鈴木英夫監督の映画『殺人容疑者』(1952年)の主役である犯人役のオファーを受けているが辞退し、代役を当時まだ新人だった丹波哲郎が演じ映画デビューを飾ることとなった。


・文化座を共に結成した山村聰とは長年のライバルで、山村との共演の話が来ると『いつでも勝負するから四つに組む役を取って来なさい』と意気込んでいたそうである。山形と山村は映画の他にもテレビドラマでも共演しており、1974年放送の『華麗なる一族』では山村は主役の万俵大介を、山形は永田大蔵大臣をそれぞれ演じた。


1972年放送の円谷プロ製作の特撮テレビドラマ『ウルトラマンA』の第14話「銀河に散った5つの星」で防衛組織TACの高倉司令長官役で一回のみゲスト出演。その際、歴代のウルトラシリーズに登場した防衛組織の長官らとは一線を画した傲慢な軍人を演じた。


・出演映画が米国アカデミー賞世界三大映画祭(カンヌ・ベルリン・ヴェネツィア)のすべてで受賞しており、4冠を達成している。


・長男はテレビ朝日プロデューサーの塙淳一

出演
映画
・斬られの仙太(1949年、東宝

・無国籍者(1951年、東横映画) - 諜略部隊隊長

ブンガワンソロ(1951年、新東宝) - 憲兵曹長

・盜まれた恋(1951年、新東宝) - 学芸部長

・リンゴ園の少女(1952年、新芸術プロ) - 友景先生

・泣虫記者(1952年、東映) - デスクの大島

千姫(1953年、宝塚映画) - 速水左馬之介

・韋駄天記者(1953年、東映) - 村田副部長

プーサン(1953年、東宝) - 野毛山

・悲劇の将軍 山下泰文(1953年、東映) - 樺山副官

・新書太閤記 流転日吉丸(1953年、東映) - 築阿弥

・素浪人奉行(1953年、東映) - 水野越前守

天晴れ一番手柄 青春銭形平次(1953年、東宝) - 大久保石見守

・続々魚河岸の石松(1953年、東映) - 警察署取調べ官

人生劇場 第二部(1953年、東映) - 刑事

太平洋の鷲(1953年、東宝) - 機関参謀

地獄門 Gate of Hell(1953年、大映) - 渡辺渡

夜明け前(1953年、新東宝)

・叛乱(1954年、新東宝) - 磯部浅一

・花と波濤(1954年、東宝) - 刑事

・春色お伝の方 江戸城炎上(1954年、新東宝) - 西尾隠岐守

七人の侍(1954年、東宝) - 鉄扇の浪人

・母の秘密(1954年、新東宝) - 検事

・地獄の剣豪 平手造酒(1954年、日活) - 山部幾之進

・愛と死の谷間(1954年、日活) - 保安主任

千姫(1954年、大映) - 坂崎出羽守

・蛍草(1954年、松竹) - 小島博士

怪人二十面相 3部作(1954年、松竹) - 羽柴博士

・三つの愛(1954年、松竹) - 父修平

・若き日の啄木 雲は天才である(1954年、新東宝)

・億万長者(1954年、青俳プロ) - 行政監察委員長

・美男お小姓 人斬り彦斎(1955年、日活) - 前田伊右衛門

浮雲(1955年、東宝) - 伊庭杉夫

・皇太子の花嫁(1955年、新東宝)

・大岡政談 黄金夜叉(1955年、東映) - 高垣備前守

侍ニッポン 新納鶴千代(1955年、東映) - 吉村左馬之助

多羅尾伴内シリーズ(東映)

  ・多羅尾伴内 復讐の七仮面(1955年) - 村尾彦作

  ・多羅尾伴内 戦慄の七仮面(1956年)

  ・多羅尾伴内 七つの顔の男だぜ(1960年) - 大沢警部

楊貴妃(1955年、大映) - 楊銛

・美わしき歳月(1955年、松竹) - 院長

・六人の暗殺者(1955年、日活) - 近藤勇

・終電車の死美人(1955年、東映) - 三井主任

・母水仙(1955年、大映) - 浅井

絵島生島(1955年、松竹) - 山田宗円

青銅の基督(1955年、松竹) - 奉行

・江戸一寸の虫(1955年、日活) - 山岡鉄太郎

・応仁絵巻 吉野の盗賊(1955年、松竹) - 厨子太郎

・かりそめの唇(1955年、松竹) - 北野

・薔薇の講道館(1956年、大映) - 矢野正五郎

宇宙人東京に現わる(1956年、大映)

・浅草の灯(1956年、大映) - 佐々木紅光

警視庁物語 魔の最終列車(1956年、東映) - 森田

・鞍馬天狗 御用盗異変(1956年、東宝) - 松平主税之介

・女の足あと(1956年、松竹)

・刑事部屋(1956年、大映) - 田村警部補

・父子鷹(1956年、東映) - 桜井甚左衛門

大学の石松シリーズ(東映)

  ・大学の石松(1956年) - 次郎長先生

  ・大学の石松 女群突破(1957年) - 清水次郎吉

人妻椿(1956年、松竹)

旗本退屈男シリーズ(東映)

  ・旗本退屈男 謎の幽霊船(1956年) - 孫大人

  ・旗本退屈男 謎の紅蓮塔(1957年) - 藤崎平九郎

  ・旗本退屈男 謎の蛇姫屋敷(1957年) - 柳沢美濃守

  ・旗本退屈男(1958年) - 原口刑部

  ・旗本退屈男 謎の南蛮太鼓(1959年) - 由比道雪

  ・旗本退屈男 謎の大文字(1959年) - 内藤大和守重頼

  ・旗本退屈男 謎の幽霊島(1960年) - 唐金屋浪右衛門

  ・旗本退屈男 謎の暗殺隊(1960年) - 皎雲斎

  ・旗本退屈男 謎の竜神岬(1963年) - 桜井兵部太夫

・妖蛇の魔殿(1956年、東映) - 更科弾正

・朱鞘罷り通る(1956年、東映) - 横井甚兵衛

少年探偵団 妖怪博士 二十面相の悪魔(1956年、東映) - 小泉信太郎

流星空手打ち(1956年、東映)

・恋と金(1956年、大映)

新諸国物語 七つの誓い(東映) - 一文字入道

  ・黒水仙の巻(1956年)

  ・奴隷船の巻(1957年)

  ・凱旋歌の巻(1957年)

・新春オールスター映画(東映)

  ・任侠清水港(1957年) - 都鳥の吉兵衛

  ・任侠東海道(1958年) - 角井門之助

  ・任侠中仙道(1960年) - 松井軍太夫

・炎の氷河(1957年、松竹) - 佐伯兵五郎

・正義派(1957年、松竹) - 係官

いれずみ判官シリーズ(東映)

  ・海賊奉行(1957年) - 梅野五左衛門

  ・御存じ いれずみ判官(1960年) - 大月利左衛門

  ・さくら判官(1962年) - 跡部山城守

(1957年、東映) - 太田松之助

・大名囃子(1957年、東映) - 土方旗十郎

・多情仏心(1957年、東映) - 八田検事

・母と子の窓(1957年、松竹) - 塩沢幾太郎

・日清戦争風雲秘話 霧の街(1957年、東映) - 鬼頭重蔵

・船頭姉妹(1957年、東映) - 金田杉五郎

大菩薩峠(東映) - 神尾主膳

  ・第一部(1957年)

  ・第二部(1958年)

  ・完結篇(1959年)

・満月乙女笠(1957年、東映) - 鯛沢善兵衛

ゆうれい船(東映)

  ・前篇(1957年) - 赤鼻玄蕃

  ・后篇(1957年) - 弥三蔵

・天狗街道(1957年、東映) - 小田井の岩太郎

富士に立つ影(1957年、東映) - 玉置左内

・恋風道中(1957年、東映) - 天城の五郎丸

・気違い部落(1957年、松竹) - 野村良介

・朝晴れ鷹(1957年、東映) - 菊村正之進

・花吹雪鉄火纏(1957年、東映) - 山崎屋茂助

・神変麝香猫(1958年、東映) - 丸橋忠弥

・素っ飛び笠(1958年、東映) - 木曾の大五郎

・千両獅子(1958年、東映) - 鳥居甲斐守

・江戸の花笠(1958年、東映) - 大杉伝右衛門

丹下左膳シリーズ(東映)

  ・丹下左膳(1958年) - 峰丹波

  ・丹下左膳 怒濤篇(1959年) - 鈴川源十郎

  ・丹下左膳 妖刀濡れ燕(1960年) - 大岡越前守

  ・丹下左膳 濡れ燕一刀流(1961年) - 柳生対馬守

・葵秘帖(1958年、東映) - 藤田東湖

・大江戸七人衆(1958年、東映) - 松平帯刀

・伊那の勘太郎(1958年、東映) - 大和田重兵衛

・鶯城の花嫁(1958年、東映) - 尾形主膳

・清水港の名物男 遠州森の石松(1958年、東映) - 都鳥の吉兵衛

・新撰組(1958年、東映) - 土方歳三

・怪傑黒頭巾シリーズ(東映)

  ・怪傑黒頭巾(1958年) - 間部主税介

  ・怪傑黒頭巾 爆発篇(1959年) - 水野主膳

・喧嘩太平記(1958年、東映) - 鳳左次馬

・大東京誕生 大江戸の鐘(1958年、松竹) - 榎本武揚

裸の太陽(1958年、東映) - 運転助役

・隠密七生記(1958年、東映) - 久世右馬之丞

・今は名もない男だが(1958年、東映) - 兵頭教授

一心太助シリーズ(東映) - 松平伊豆守

  ・江戸の名物男 一心太助(1958年)

  ・一心太助 天下の一大事(1958年)

  ・一心太助 男の中の男一匹(1959年)

  ・一心太助 男一匹道中記(1963年)

点と線(1958年、東映) - 安田辰郎

・修羅八荒(1958年、東映) - 松平安芸守

・浅間の暴れん坊(1958年、東映) - 越生の虎五郎

殿さま弥次喜多 捕物道中(1959年、東映) - 垣内権兵衛

忠臣蔵 桜花の巻・菊花の巻(1959年、東映) - 不破数右衛門

・大名シリーズ(東映)

  ・あばれ大名(1959年) - 加藤義明

  ・あらくれ大名(1960年) - 板倉伊賀守勝重

  ・鉄火大名(1961年) - 黒田三左衛門

・美男城(1959年、東映) - 竹中内蔵之介

右門捕物帖シリーズ(東映) - 松平伊豆守

  ・右門捕物帖 片目の狼(1959年)

  ・右門捕物帖 地獄の風車(1960年)

  ・右門捕物帖 南蛮鮫(1961年)

新吾十番勝負(東映) - 梅井多門

  ・新吾十番勝負(1959年)

  ・新吾十番勝負 第二部(1959年)

  ・新吾十番勝負 第三部(1960年)

  ・新吾二十番勝負 完結篇(1963年) - 弘徳

・あばれ街道(1959年、東映) - 成瀬隼人正

・お役者文七捕物暦 蜘蛛の巣屋敷(1959年、東映) - 水野和泉守

・独眼竜政宗(1959年、東映) - 畠山義継

・素晴らしき娘たち(1959年、東映)

・伊達騒動 風雲六十二万石(1959年、東映) - 酒井雅楽頭

疑惑の夜(1959年、東映) - 大滝組社長

・水戸黄門漫遊記シリーズ(東映)

  ・水戸黄門 天下の副将軍(1959年) - 佐伯将監

  ・水戸黄門(1960年) - 金井将監

・血斗水滸伝 怒濤の対決(1959年、東映) - 大前田の英五郎

・榛名ばやし 喧嘩鷹(1959年、東映) - 平原権十郎

・大岡政談 千鳥の印籠(1959年、東映) - 大岡越前守

・天下の伊賀越 暁の血戦(1959年、東映) - 阿部四郎五郎

・百万両五十三次(1959年、東映) - 柳川隼人

・血槍無双(1959年、東映) - 猿橋右門

・緋鯉大名(1959年、東映) - 稲葉主膳

・江戸の悪太郎(1959年、東映) - 秋山典膳

・ひばり十八番 弁天小僧(1960年、東映) - 浜松屋幸兵衛

・浪人市場 朝やけ天狗(1960年、東映) - 黒川内記

・白い崖(1960年、東映) - 岡林専務

・天保六花撰 地獄の花道(1960年、東映) - 山崎和膳

・さいころ無宿(1960年、東映) - 国定忠治

・酒と女と槍(1960年、東映) - 石田三成

・大岡政談 魔像篇(1960年、東映) - 脇坂淡路守

・暴れん坊兄弟(1960年、東映) - 稲葉兵部

・旅の長脇差 花笠椿(1960年、東映) - 堀留の長五郎

・ひばり捕物帖 折鶴駕籠(1960年、東映) - 由比正雪

壮烈新選組 幕末の動乱(1960年、東映) - 芹沢鴨

・黒部谷の大剣客(1960年、東映) - 裏金座の雲右衛門

・庄助武勇伝 会津磐梯山(1960年、東映) - 駒田主水

・天竜母恋い笠(1960年、東映) - 飯田屋熊五郎

・森の石松 鬼より恐い(1960年、東映) - 清水の次郎長

・江戸の朝潮(1960年、東映) - 土橋大学

・若き日の次郎長シリーズ(東映)

  ・若き日の次郎長 東海の顔役(1960年) - 伝兵衛

  ・若き日の次郎長 東海道のつむじ風(1962年) - 猿屋勘助

若さま侍捕物帖シリーズ(東映)

  ・若さま侍捕物帖(1960年) - 鈴木采女

  ・若さま侍捕物帖 黒い椿(1961年) - 新三

  ・若さま侍捕物帖 お化粧蜘蛛(1962年) - 唐津屋十兵衛

・家光と彦左と一心太助(1961年、東映) - 鳥居土佐守成次

・江戸っ子肌(1961年、東映) - 中原扇十郎

・江戸っ子奉行 天下を斬る男(1961年、東映) - 竜神の虎五郎

赤穂浪士(1961年、東映) - 片岡源五右衛門

・月形半平太(1961年、東映) - 田代源八

・白馬城の花嫁(1961年、東映) - 昇り竜の富蔵

・ちゃんりんこ街道(1961年、東映) - 鬼がわらの弥曽吉

・はやぶさ大名(1961年、東映) - 森川但馬守

・幽霊島の掟(1961年、東映) - 周陽伯

・モーガン警部と謎の男(1961年、東映) - 周

・ヒマラヤ無宿 心臓破りの野郎ども(1961年、ニュー東映) - 大竹社長

・口笛を吹く無宿者(1961年、東映) - 月輪主膳

・べらんめえ中乗りさん(1961年、東映)

・ひばり・チエミの弥次喜多道中(1962年、東映) - 和泉屋多左衛門

瞼の母(1962年、東映) - 息羽田要助

・美男の顔役(1962年、東映) - 河内山宗俊

・天下の御意見番(1962年、東映) - 鮫州重左衛門

・きさらぎ無双剣(1962年、東映) - 水野和泉守

太平洋のGメン(1962年、東映) - 陳社長

・あの空の果てに星はまたたく(1962年、東映)

・あべこべ道中(1962年、東映) - 伊勢伊勢守

源九郎義経(1962年、東映) - 藤原秀衡

・胡蝶かげろう剣(1962年、東映) - 霊岸島の喜六

・まぼろし天狗(1962年、東映) - 田沼意次

・八月十五日の動乱(1962年、東映) - 陸軍大臣

柳生武芸帳シリーズ(東映)

  ・柳生武芸帳 独眼一刀流(1962年) - 山田浮月斎

  ・柳生武芸帳 片目の十兵衛(1963年) - 伊達政宗

  ・柳生武芸帳 剣豪乱れ雲(1963年) - 山田浮月斎

・次郎長と小天狗 殴り込み甲州路(1962年、東映) - 黒駒の勝蔵

・鉄火若衆(1962年、東映) - 松原大学

・血煙り笠(1962年、東映) - 田尻の平八

・お坊主天狗(1962年、東映) - 念沢修理介

・地獄の影法師(1962年、東映) - 二階堂鉄馬

・若ざくら喧嘩纏(1962年、東映) - 筒井伊賀守

・浪人街の顔役(1963年、東映) - 塚越四郎左衛門

・五人のあばれ者(1963年、東映) - 飯塚五郎太夫

・最後の顔役(1963年、東映)

・用心棒市場(1963年、東映) - 金井陣左衛門

・若様やくざ 江戸っ子天狗(1963年、東映) - 影山将監

宮本武蔵 一乗寺の決斗(1964年、東映) - 壬生源左衛門

ジャコ萬と鉄(1964年、東映) - 九兵衛

・第三の忍者(1964年、東映) - 祝部源太夫

二十一歳の父(1964年、松竹)

さすらいの賭博師(1964年、日活) - 浅野

・敗れざるもの(1964年、日活) - 沖山博士

・さまざまの夜(1964年、松竹)

・男の紋章 花と長脇差(1964年、日活) - 渋沢男爵

忍びの者 伊賀屋敷(1965年、大映) - 松平伊豆守

・その口紅が憎い(1965年、松竹) - 宮下

大根と人参(1965年、松竹)

ウナ・セラ・ディ東京(1965年、松竹)

水で書かれた物語(1965年、中日映画社) - 橋本伝蔵

・春一番(1966年、松竹)

暖春(1966年、松竹)

座頭市海を渡る(1966年、大映) - 藤八
上意討ち 拝領妻始末(1967年、東宝) - 土屋庄兵衛

・春日和(1967年、松竹)

・陸軍中野学校 密命(1967年、大映)

・ある殺し屋の鍵(1967年、大映)

・残雪(1968年、日活)

・爽春(1968年、松竹)

・いつか来るさよなら(1969年、松竹)

幕末(1970年、中村プロ) - 山田広衛

東京⇔パリ 青春の条件(1970年、松竹)

子連れ狼 死に風に向う乳母車(1972年、勝プロ) - 猿渡玄蕃

しあわせの一番星(1974年、松竹)

球形の荒野(1975年、松竹)

不毛地帯(1976年、東宝) - 大門近畿商事社長

徳川一族の崩壊(1980年、東映) - 板倉静勝

ちゃんばらグラフィティー 斬る!(1981年、東映)

La Truite(1982年、フランス映画)※大阪ヨーロッパ映画祭で上映され日本ロケも行われた

詳しいことは、『山形 勲ウィキペディア』をご覧ください。 ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E5%BD%A2%E5%8B%B2
(wikiより)

0014 山形勲

⇧ 山形 勲

0014a

0014b

0014c

0014d



歌舞伎系の名跡?

詳細不明。

0012a

0012b




おそらく歌舞伎系?

詳細不明。

0012a

0012b




手塚 良仙(てづか りょうせん、または良庵(りょうあん)、文政9年(1826年) - 明治10年(1877年10月10日)は、幕末から明治時代初期の医師蘭学者。名は光亨。息子は司法官手塚太郎大槻俊斎は義弟にあたる。漫画家の手塚治虫の曾祖父である。

略歴
江戸蘭方医常陸国府中藩医手塚良仙(手塚光照)を父に生まれ、緒方洪庵適塾に入門。福澤諭吉らと親しむ。

・江戸に帰って、伊東玄朴大槻俊斎らと図り、お玉が池種痘所設立。

・父の跡を継ぎ、良仙と改名。幕府歩兵屯所付医師となり、維新後、大日本帝国陸軍軍医となる(大尉相当官)。

西南戦争に従軍、九州で赤痢に罹り、長崎陸軍病院にて死去した。

家族・親族

手塚家
・祖父・良仙(光行)

・父・良仙(光照)1801年 - 1862年医師蘭学者

・息子・太郎1862年 - 1932年司法官

・孫・1900年 - 1986年写真家

・曾孫・1928年 - 1989年漫画家

・玄孫・1961年 - 。映像クリエイター

・玄孫・るみ子1964年 - 。プランニングプロデューサー)

著書
・『妊婦摂生略考』

登場する作品
・手塚治虫『陽だまりの樹

手塚良仙を主人公の一人とした歴史漫画。大阪岡場所で手塚ではなく鉄川と名乗っていたエピソードが描かれているが、これは当時適塾で学んでいた福澤の著書『福翁自伝』中の「遊女の贋手紙」の章でも書かれている。


みなもと太郎風雲児たち 幕末篇』

幕末史の群像劇を描いた大河歴史ギャグ漫画。適塾時代の福澤のエピソードで、顔が手塚治虫の自画像風で、さらにまでベレー帽風に描かれた良仙が登場する。

関連項目
伊東玄朴

大槻俊斎

外部リンク
デジタル版 日本人名大辞典+Plus『手塚良仙』 - コトバンク

手塚良庵:キャラクター名鑑:TezukaOsamu.net(JP) 手塚治虫 公式サイト

手塚良仙:キャラクター名鑑:TezukaOsamu.net(JP) 手塚治虫 公式サイト
(wikiより)

0011a



手塚 治虫(てづか おさむ、1928年[注 1]昭和3年〉11月3日 - 1989年平成元年〉2月9日)は、日本漫画家アニメ監督医師勲等勲三等学位医学博士奈良県立医科大学1961年)。本名:手塚 治(読み同じ)。


戦後日本においてストーリー漫画の第一人者として、漫画表現の開拓者的な存在として活躍した。兵庫県宝塚市出身で同市名誉市民。出生は大阪府豊能郡豊中町大阪帝国大学附属医学専門部を卒業。

概要

大阪帝国大学附属医学専門部在学中の1946年1月1日に4コマ漫画『マアチャンの日記帳』(『少国民新聞』連載)で漫画家としてデビュー。1947年、酒井七馬原案の描き下ろし単行本新寶島』がベストセラーとなり、大阪に赤本ブームを引き起こす。1950年より漫画雑誌に登場、『鉄腕アトム』『ジャングル大帝』『リボンの騎士』といったヒット作を次々と手がけた。


1963年、自作をもとに日本初となる30分枠のテレビアニメシリーズ[注 2]鉄腕アトム』を制作、現代につながる日本のテレビアニメ制作に多大な影響を及ぼした。1970年代には『ブラック・ジャック』『三つ目がとおる』『ブッダ』などのヒット作を発表。また晩年にも『火の鳥』『陽だまりの樹』『アドルフに告ぐ』など青年漫画においても傑作を生み出す。デビューから1989年の死去まで第一線で作品を発表し続け、存命中から「マンガの神様」と評された[注 3]


藤子不二雄
藤子・F・不二雄藤子不二雄)、石ノ森章太郎赤塚不二夫横山光輝水野英子矢代まさこ萩尾望都などをはじめ数多くの人間が手塚に影響を受け、接触し漫画家を志した。

生涯
幼少期

手塚治虫(本名・治)は1928年11月3日、大阪府豊能郡豊中町(現・豊中市本町付近)に、父・手塚粲(てづかゆたか・1900年 - 1986年5月14日[2])と母・文子(1909年 - 1983年)の長男として生まれた。明治節に生まれたことから「明治」にちなんで「」と名づけられた[3]。3人兄弟の長男であり、弟は手塚浩(1930年 - )、妹は宇都美奈子(1932年 - 2015年)。


1933年、治が5歳の時に一家は、1932年に他界した祖父が終の棲み家とした兵庫県川辺郡小浜村(現・宝塚市)川面(かわも)の邸宅に移り住んだ。戦前の寶塚(現・宝塚)は、小林一三箕面有馬電気軌道の乗客増加を狙って田園風景の中に開発した新興の住宅地が散在して、その中心に宝塚少女歌劇団(現・宝塚歌劇団)の本拠地である宝塚大劇場宝塚ファミリーランドの前身である宝塚新温泉や宝塚ルナパークなどの行楽施設が立ち並んで、一種の異空間を形作っていた[4]。宝塚の人工的な近代都市の風景は手塚の作品世界の形成に大きな影響を及ぼしたと考えられる[5]。父は宝塚ホテルの中に作られた宝塚倶楽部の会員であり、ときどき治は父に連れられて宝塚ホテルのレストランで食事をして、母には宝塚少女歌劇団に連れて行ってもらっていた[6]。また手塚家の隣家は宝塚少女歌劇団の男役トップスターである天津乙女(本名:鳥居榮子)と雲野かよ子(本名:鳥居華子)と池邊鶴子(本名:鳥居久代)姉妹が住む鳥居家であり、宝塚音楽学校に入学したい娘が保護者とともにお百度を踏む光景がよく見られるなど、宝塚少女歌劇団の女性と接する機会も多かった[7]。のちに手塚は、初恋の相手が宝塚少女歌劇団の生徒だったこと、宝塚の生徒を見たいがために宝塚大劇場に通ったこと、月丘夢路淡島千景のような鉄火肌の女性が好みであること、月丘主演の大映映画『新雪』(1942年)を20数回観たことを語っている[8]


1935年、池田師範附属小学校(現・大阪教育大学附属池田小学校,ただし移転により当時とは場所が異なる)に入学した。母が東京出身であったこともあり、近畿方言を話せず浮いた存在であったために、小学2年生の時に「ガヂャボイ」というあだ名を付けられ、からかいの対象になったという。囃し歌を歌われる度に泣いていたという。しかし、幼い頃から見様見真似で描いていた漫画絵が治を救うことになる。小学3年生の時に、最初の漫画「ピンピン生チャン」を完成させると、その後漫画の練習に取り組み[9]、小学5年生の頃には長編漫画「支那の夜」を完成。同作品は、仲間内のみならず学校の教師の間でも話題になるほどであり、以後教師からも漫画を描くことを黙認されるようになったという[10]。漫画を描くことで同級生たちからも一目置かれ、また漫画目当てにいじめっ子も手塚の家に訪れるようになるなどして次第にいじめはなくなった。誕生日には家に20人もの友人が集まるほどになっていた[11][注 4]。友人が家に来ると、当時としては珍しく紅茶菓子でもてなされ、治の誕生日には五目寿司茶碗蒸しが振舞われた[11]。この当時に描いた漫画の一部は今でも記念館に保存されている[12]


この時期に、同級生の石原実(後に大阪淀屋橋石原時計店社長)と親しくなり、彼の影響を受けて昆虫科学天文学に興味を持つようになる[13]。手塚家の邸宅の広い庭は昆虫の宝庫であり[14]、また周囲の田園地帯にも虫が豊富にいて、昆虫採集には最適の環境だったことから、趣味に対し深みを持たせた[15]。友人から借りた平山修次郎『原色千種昆蟲図譜』を読み、甲虫オサムシの存在を知り、それにちなんで、この時期からペンネームとして「手塚治虫」を使い始めた。1950年頃までは、「治虫」はそのまま「おさむ」と読ませていた[16]

青年期と戦争体験

1941年、大阪府立北野中学校(現・大阪府立北野高等学校)に入学。時節柄軍事色が強まっていった時期であり、小学校時代とは一転し、漫画を描いているのを学校教練の教官に見つかり殴られるなどしている[17]。この時期、仲間内で作った同好会の会誌などで漫画を執筆する一方で、手塚版「原色甲蟲圖譜」などイラストレーションによる図鑑を自作するなど精力的に活動する。


1944年夏には体の弱い者が入れられる強制修練所に入れられる。9月からは学校に行く代わりに軍需工場に駆り出され[17]、ここで格納庫屋根にするスレートを作った[18]


1945年3月、戦時中の修業年限短縮により北野中学を4年で卒業。旧制浪速高等学校(現・大阪大学)を受験したものの、漫画ばかり描いていたため、不合格となった[19]。6月、勤労奉仕監視哨をしていたときに大阪大空襲に遭遇、頭上で焼夷弾が投下されるも九死に一生を得る[20]。この空襲は手塚の原体験ともいうべきものとなり、後に『紙の砦』(1974年)や『どついたれ』(1979年 - 1980年)などの自伝的作品の中にその様子が描かれている[21]。この体験以降、手塚は工場に行くのをやめ、家にこもってひたすら漫画を描くようになった[22]


同年7月、手塚は大阪帝国大学附属医学専門部の試験を受け、入学を許可された[23]。医学専門部は、戦争の長期化に伴い、軍医速成のため正規の医学部とは別に臨時に大阪帝国大学の学内に付設されたもので、学制上は旧制医学専門学校であり[注 5]、従って旧制中学校からの入学が可能であった[24]。大阪大学(旧・大阪帝国大学)附属医学専門部は1951年に廃止されている。なお後述の通り医師国家試験についてはジャングル大帝や鉄腕アトムなど連載の執筆をしながら合格している。

デビュー、赤本の世界へ

終戦後、学生である手塚は戦時中に描き溜めた長編の中から『幽霊男』(『メトロポリス』の原型)という長編を選んで描き直し、毎日新聞学芸部へ送った[25]。これは音沙汰無しに終わったが、その後、隣に住んでいた毎日新聞の印刷局に勤める女性からの紹介で、子供向けの『少国民新聞』(現・毎日小学生新聞)学芸部の程野という人物に会い[26]、彼の依頼を受けて『少国民新聞』の大阪版に4コマ漫画『マアチャンの日記帳』を連載(1946年1月1日 - 3月31日)、この作品が手塚のデビュー作となった。この『マアチャン』はローカルながら人気があり、人形駄菓子キャラクターに使用されたという記録も残っている[27]。『マアチャン』に続けて4月から『京都日日新聞』に4コマ漫画『珍念と京ちゃん』を連載しており、これらと平行して4コマ形式の連載長編作品『AチャンB子チャン探検記』『火星から来た男』『ロストワールド』(後述するものとは別物)なども各紙に描かれているが、4コマ連載という形式に限界があり、後2者はどちらも中断に近い形で終わっている[27]


漫画家としてデビューする前の1945年頃、2代目桂春団治が地方での自主興行を行う際のポスター画を提供した[28](現物は宝塚市立手塚治虫記念館に展示されている)。2代目春団治が宝塚市清荒神在住ということもあり、親交を重ねるうち、手塚の漫画家志望という進路を案じ、落語家になるよう勧めたという。


1946年、同人誌『まんがマン』の例会を通じて後見役の酒井七馬と知り合い、酒井から長編ストーリー漫画の合作の話を持ちかけられる[29]。これは戦後初の豪華本の企画でもあり、それまで長編漫画を描き溜めていた手塚としては願ってもない話であった[30]。こうして大雑把な構成を酒井が行い、それを元に手塚が自由に描くという形で200ページの描き下ろし長編『新寶島』が制作された[31]。1947年1月に出版されると、当時としては異例のベストセラーとなった。映画的な構成とスピーディな物語展開を持つ『新寶島』は、一般に戦後ストーリー漫画の原点として捉えられている[32][33](後段#新寶島(新宝島)の革新性も参照)。


ベストセラーとなった『新寶島』は大阪に赤本ブームを起こし、手塚はこれに乗って描き下ろし単行本の形で長編作品を発表できるようになった[34]。手塚は忙しくなり、これまでに描き溜めてきた長編を基に、学業の傍ら月に1、2冊は作品を描き上げなければならなくなった[35]。1947年に発表された『火星博士』『怪人コロンコ博士』『キングコング』などは子供向けを意識したB級映画的な作品であったが、1948年の『地底国の怪人』からは悲劇的な展開も取り入れるようになり、SF冒険などを題材に作品中でさまざまな試みが行なわれた。同年末に描かれた『ロストワールド』では様々な立場の人物が絡み合う地球規模の壮大な物語が描かれ、続く『メトロポリス』(1949年)『来るべき世界』(1951年)とともに手塚の初期を代表するSF三部作をなしている[36]。1949年の西部劇『拳銃天使』では児童漫画で初のキスシーンを描く[37]。1950年には文豪ゲーテの『ファウスト』を漫画化したほか、「映画制作の舞台裏をお見せします」という導入で始まる『ふしぎ旅行記』、自身の漫画手法を体系化して示した漫画入門書の先駆的作品『漫画大学』などを発表している。


漫画執筆が忙しくなると大学の単位取得が難しくなり、手塚は医業と漫画との掛け持ちは諦めざるを得なくなった。教授からも医者になるよりも漫画家になるようにと忠告され、また母の後押しもあって、手塚は専業漫画家となることを決める[38]。もっとも学校を辞めたわけではなく、1951年3月に医学専門部を卒業(5年制、1年留年。この年に専門部が廃止されたため最後の卒業生となった)、さらに大阪大学医学部附属病院で1年間インターンを務め、1952年3月に第十二回医師国家試験に合格、1953年9月18日に医籍登録されている[39]。このため、後に手塚は自伝『ぼくはマンガ家』の中で、「そこで、いまでも本業は医者で、副業は漫画なのだが、誰も妙な顔をして、この事実を認めてくれないのである」と述べている[40]

雑誌連載開始
手塚は大阪で赤本漫画を描く傍ら、東京への持ち込みも行なっている。当初期待した講談社では断られたが、新生閣という出版社で持ち込みが成功し、ここでいくつか読み切りを描いた後、新創刊された雑誌『少年少女漫画と読み物』に1950年4月より『タイガー博士の珍旅行』を連載、これが手塚の最初の雑誌連載作品となった[41]。同年11月より雑誌『漫画少年』(学童社)にて『ジャングル大帝』の連載を開始、1951年には『鉄腕アトム』(1952年 - )の前身となる『アトム大使』を『少年』(光文社)に連載するなど多数の雑誌で連載を始め、この年には少年漫画誌のほとんどで手塚の漫画の連載が開始された[42]。1953年には『少女クラブ』(講談社)にて『リボンの騎士』の連載を開始した。宝塚歌劇やディズニーからの影響を受けたこの作品は、以後の少女雑誌における物語漫画の先駆けとなった[43]。1954年には『ジャングル大帝』連載完結の後を受けて『漫画少年』に『火の鳥』の連載を開始した。『火の鳥』のシリーズはその後も休刊等によりCOM、マンガ少年、野性時代と掲載誌を変えながら長年に描き継がれ,手塚のライフワークとなった。

月刊の雑誌連載という形態は、手塚がそれまで描き下ろし単行本で行ってきた複雑な物語構成の見直しを余儀なくさせ、読者を引っ張るための魅力的なキャラクター作りや単純な物語構成などの作劇方法へ手塚を向かわせることになった[44]。一方、描き下ろし単行本の方は1952年の『バンビ』『罪と罰』の2冊で終わりを告げるが、代わりに郵便法の改正によってこの時期に雑誌の付録が急激に増加し、手塚は連載作品と平行して付録冊子の形で描き下ろし長編作品をいくつも手がけ、この形で単行本時代の作品も続々とリメイクされていった[45]


私生活の面では、1952年に宝塚から東京に移住し、さらに翌1953年に『漫画少年』編集部からの紹介で豊島区トキワ莊に入居[46]、その後トキワ荘には手塚に続いて寺田ヒロオ藤子不二雄が入居。手塚は自分が住んでいた14号室を藤子不二雄の二人に譲ってトキワ荘から転居したが、その後も石森章太郎(後に石ノ森章太郎に改名)、赤塚不二夫など後に著名な漫画家となる者たちが続々と入居したトキワ莊は漫画家の梁山泊となった。この時期、手塚はトキワ莊の漫画家に映画をたくさん観るようにと薦めており、手塚自身も十数年間は年に365本を必ず観ていたという[注 6]


なお、1953年に手塚は関西の長者番付の画家の部でトップとなったが、仕事場が木造2階建て建築のトキワ莊であったため、取材に来た新聞記者に呆れられたので、以後は意識して高級品を買い込むようにしたと語っている[47]


『鉄腕アトム』『ぼくのそんごくう』など児童漫画の人気作品の連載をする一方で、手塚は1955年に大人向けの漫画雑誌『漫画読本』(文藝春秋新社)に『第三帝国の崩壊』『昆虫少女の放浪記』を発表しており、ここでは子供向けの丸っこい絵柄とは違った大人向けのタッチを試みている[48]。1955年から1958年にかけての手塚は知的興味を全面に出した作品を多く出しており[48]、1956年にSF短編シリーズ『ライオンブックス』を始めたほか、学習誌に『漫画生物学』『漫画天文学』などの学習漫画を発表、後者は第3回小学館漫画賞(1957年)の対象作品となった。この他にも幼年向け作品や絵物語小説エッセイなど漫画家の枠を超えた活動をするようになっており[49]、1958年には東映動画(現・東映アニメーション)の演出家白川大作から請われて同社の嘱託となり劇場用長編漫画映画『西遊記』(『ぼくのそんごくう』が原作)の原案構成を受け持っている[50]

劇画との闘い

1958年頃より、各漫画誌で桑田次郎武内つなよし、横山光輝などの売れっ子漫画家が多数出現しており、この時期の手塚は人気面ではそのような漫画家達の中の一人に過ぎなくなっていた[51]。さらに手塚を脅やかしたのは、この時期に新しく台頭してきた劇画の存在であった。社会の闇をストレートに描く劇画の人気は当時の手塚を大いに悩ませ、階段から転げ落ちたり、大阪の劇画作家の拠点に押しかけ、集会に参加したりした[52]


当初は劇画の雑誌にも連載を持つなどしていたが、手塚のアシスタントまでが貸本劇画を何十冊も借りてくるようになると、手塚はノイローゼに陥り、精神鑑定も受けたという[53]。またすでに、1957年には『黄金のトランク』(『西日本新聞』連載)で劇画風のタッチを試みるなどしており、徐々に劇画の方法論を自作に取り入れていくようになる[54]


1959年、週刊誌ブームを受けて週刊漫画雑誌『少年マガジン』(講談社)および『少年サンデー』(小学館)が創刊され、それ以後月刊の少年誌は次第に姿を消していくことになった。この時、手塚は誘いを受けて小学館の専属作家となった(ただし、『少年サンデー』初代編集長豊田亀市は、契約料200-300万円(当時)を提示して専属契約を持ちかけたが、断られたと証言している[55]。)が、講談社からも誘いを受けて困惑し、結局『少年サンデー』創刊号には自身の手による『スリル博士』を連載、『少年マガジン』の方には連載13回分の下描きだけをして石森章太郎に『快傑ハリマオ』の連載をさせている[50]。同年、宝塚ホテルにて結婚式を挙げる。

詳しいことは、『手塚治虫ウィキペディア』をご覧ください。 ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%89%8B%E5%A1%9A%E6%B2%BB%E8%99%AB
(wikiより)

0010 手塚治虫

⇧ 手塚治虫

0010a

0010b




鈴木 正雄(すずき まさお、1932年9月18日[1] - )は、日本の実業家。ソープランド32軒や宝石店やボクシングジム、不動産会社、バスタオル洗濯会社などを擁する[2]角海老グループの創業者・経営者で「ソープの帝王」と呼ばれる[3]

来歴・人物

富裕な家具屋と妾の間に生まれ、山田家の養子となる[4]東京府東京市金曾木国民学校(現・台東区立金曾木小学校)を経て、1945年4月、旧制開成中学校(現・開成高等学校)に入学[5]。同年5月、山形県に疎開し、旧制山形中学校(現・山形県立山形東高等学校)に転入[6]


第二次世界大戦
後、東京に戻るが、実家と養家の没落に伴い実母のもとに戻り、困窮生活を送り、アルバイトをしながら旧制開成中学校に3年間学ぶ[7]。さらに、便所掃除や人力車の車夫の仕事をしつつ、1948年から新制巣鴨商業高等学校に学ぶが、1950年6月に中退する[7]。母が浅草花柳界にいた縁から、自らも吉原輪タクの経営を始め、さらに女郎屋「あけぼの二号店」を開く[8]。のち、車夫時代から出入りしていた老舗遊郭「角海老」の名を継いで今日に至る[9]


売春防止法
違反などで10回の逮捕歴を持ち、脱税容疑で国税庁の査察を受けること2回[10]。3回の執行猶予付き有罪判決を受けたが、実刑判決を受けたことはない[11]。外国から来日した賓客や随伴の官吏の接待に売春を斡旋していた関係から政財界や官界にパイプを持ち、特に内閣総理大臣田中角栄[12]大平正芳[12]最高裁判所長官石田和外[13]三井銀行会長の小山五郎[14]検事総長井本臺吉[15]京王閣社長の遠藤士一[16]本田技研工業社長の本田宗一郎[17] と昵懇で、石田のことは「第三の親父」[18]、遠藤のことは「わたしには人生で『親父』と呼んだ人が三人ほどおりますが、そのうちの一人が遠藤さん」[19] というほどの関係であった。


このため、「わたしは警視庁に十回逮捕されているにもかかわらず、刑務所には一度も収監されていないのは、このことが理由の一つかもしれません」とも述べている[20]


1977年
度の個人所得が東京都荒川区長者番付で第2位(国家公務員の初任給が8万8000円の時代に1億4992万円)となったこともある[21]


在日朝鮮人
と言われることもあるが、これは同姓同名の恐喝犯と混同した誤伝であると鈴木当人は主張している[22]


また鈴木は、角海老宝石ボクシングジムを開設し、ジムオーナーとして 小林光二(元WBCフライ級王者)、 イーグル・デーン・ジュンラパン(イーグル京和、元WBCミニマム級王者)、小堀佑介(元WBAライト級王者)を始め、坂本博之榎洋之など数々の名ボクサーを育成しているとされているが、本人にボクシング経験はなくトレーナーライセンスも取得していない。

脚注
1. 『公衆トイレと人生は後ろを向いたらやり直し』p.49。
2. 『公衆トイレと人生は後ろを向いたらやり直し』p.267。
3. 『公衆トイレと人生は後ろを向いたらやり直し』p.3。
4. 『公衆トイレと人生は後ろを向いたらやり直し』p.52-53。
5. 『公衆トイレと人生は後ろを向いたらやり直し』p.55。
6. 『公衆トイレと人生は後ろを向いたらやり直し』p.57。
7. a b 『公衆トイレと人生は後ろを向いたらやり直し』p.66。
8. 『公衆トイレと人生は後ろを向いたらやり直し』p.79。
9. 『公衆トイレと人生は後ろを向いたらやり直し』p.84。
10. 『公衆トイレと人生は後ろを向いたらやり直し』p.109。
11. 『公衆トイレと人生は後ろを向いたらやり直し』p.82。
12. a b 『公衆トイレと人生は後ろを向いたらやり直し』p.90-96。
13. 『公衆トイレと人生は後ろを向いたらやり直し』p.107-108, 166-169。
14. 『公衆トイレと人生は後ろを向いたらやり直し』p.148-149。
15. 『公衆トイレと人生は後ろを向いたらやり直し』p.157。
16. 『公衆トイレと人生は後ろを向いたらやり直し』p.173-176。
17. 『公衆トイレと人生は後ろを向いたらやり直し』p.178-180。
18. 『公衆トイレと人生は後ろを向いたらやり直し』p.168。
19. 『公衆トイレと人生は後ろを向いたらやり直し』p.173。
20. 『公衆トイレと人生は後ろを向いたらやり直し』p.95。
21. 『公衆トイレと人生は後ろを向いたらやり直し』p.24。
22. 『公衆トイレと人生は後ろを向いたらやり直し』p.31。

参考文献
木谷恭介『公衆トイレと人生は後ろを向いたらやり直し』(光文社、2012年)
(wikiより)

0009a

0009b

0009c

0009d



本名岡田 八郎
別名義江戸家小猫(初代)
生年月日1949年11月30日
没年月日(2016-03-21) 2016年3月21日(66歳没)
出身地東京都中央区
言語日本語
最終学歴玉川学園
師匠三代目江戸家猫八(父)
芸風声帯模写
事務所落語協会
過去の代表番組テレビ
キンカン素人民謡名人戦
Theゲームパワー
親族江戸家まねき猫(妹)
三遊亭歌司(義兄)
弟子二代目江戸家小猫(長男)
受賞歴
文化庁芸術祭賞優秀賞(2004年)


四代目江戸家 猫八
(よだいめ えどや ねこはち、1949年11月30日 - 2016年3月21日)は、動物の声帯模写を得意とする、落語協会所属の演芸家、司会者である。旧名を初代江戸家小猫(えどや こねこ)と称し、2009年(平成21年)四代目江戸家猫八を襲名した。本名は岡田八郎(おかだ はちろう)。東京都中央区出身。出囃子は「猫じゃ猫じゃ」。

人物

親子代々で「動物ものまね芸」を生業とする。祖父が初代 江戸家猫八、父が三代目 江戸家猫八。妹も物真似芸人で、江戸家まねき猫という芸名である。落語協会に所属。姉の夫は落語家の三遊亭歌司


1968年
玉川学園を卒業後、父親の三代目猫八に弟子入りした。風間杜夫とは中高の6年間玉川学園の同窓生(クラスが同じになったこともある)で、共に演劇部に在籍した[1]


司会者
としても活躍し、特に1991年より2001年9月まで、テレビ東京のテレビゲーム紹介番組『Theゲームパワー』から後継番組を含め約10年半司会を務めた。


2001年
に三代目猫八が死去。葬儀の際、出棺に当たっての挨拶の最後で、声帯模写の代表作であるウグイスの鳴きまねを行い、師匠であり実父である三代目を送った。


2004年
文化庁芸術祭賞優秀賞受賞。


2009年11月1日に四代目猫八を襲名した。襲名については先代(三代目猫八)から生前「俺が88歳になったらお前に猫八(の名)をやる。俺は八十八(やそはち)を名乗るから」と言われていた。そして2009年は先代が存命ならば88歳を迎えていて、自らも還暦を迎えることから襲名を決意した旨を明かしている[2]。彼の襲名興行は変則的で、寄席における定席(定期公演)の番組は通常10日間のところその5日間のみに出演するというものであった。これにより東京の定席4つ(鈴本演芸場浅草演芸ホール新宿末廣亭池袋演芸場)の寄席を5日ずつ回り、計20日間務めた。


2011年
3月、舞台修行をしていた長男・真一郎が、自身の初名である「江戸家小猫」の二代目を襲名した[3]


2016年3月8日放送のテレビ朝日系『徹子の部屋』に長男の二代目小猫とともに出演(収録は同年2月18日)。これが最後の仕事となった[4]


『徹子の部屋』出演から13日後の3月21日、進行性胃癌のため死去[4][5][6][7]。66歳没。

出演
映画
男はつらいよ 寅次郎忘れな草(1973、山田洋次監督)

かあちゃん(2001、市川崑監督)

・涙の数だけ笑おうよ(2016年9月3日、ドキュメンタリー映画) [8]

テレビ
火曜日の女シリーズ / クラスメート -高校生ブルース-(1971年、NTV)

すし屋のケンちゃん(1971年3月 - 1972年2月)

剣客商売 第12話「おかしな入門者」(1973年)- 小金吾 役

非情のライセンス 第1シリーズ 第39話「兇悪のライフル」(1973年)

はじめまして(1975年)

必殺シリーズABC / 松竹)

  ・必殺からくり人・富嶽百景殺し旅(1978年) - 鈴平 役

  ・必殺仕事人 第35話「飛技万才踊り攻め」(1980年) - かめ三 役

  ・必殺仕事人IV 第31話「加代、幽霊になる」(1984年) - 長吉 役

連続テレビ小説(NHK)

  ・マー姉ちゃん(1979年、第23作) - 栄一 役

西田敏行の泣いてたまるか 第11話「犬ちゃん恋におちて」(1987年)

笑点

初詣!爆笑ヒットパレード

まんがジョッキー

キンカン素人民謡名人戦

おもしろ漢字ミニ字典

Theゲームパワー

ゲーム王国

ゲームEX

レディス4

北野タレント名鑑

金曜バラエティー

土曜スペシャル 夫人との旅行出演

ラジオ深夜便(2009年12月26日・27日)

徹子の部屋(2016年3月8日) 長男の二代目小猫とともに出演[9]。これが最後のテレビ出演となった[4]

CM
グンゼ(1981年)- 三代目江戸家猫八と共演

マルキユー(釣り餌)

浅田飴(浅田飴)

キンカン本舗(金柑のど飴)

吉野石膏(ニューラスボード&YNプラスター) - 三代目江戸家猫八と共演

インターネット
お台場寄席DOUGAフジテレビ無料動画サイト「見参楽みさんが!)」)

著書
・されど、鶯は鳴きやまず 〜ものまね芸四代〜(2009年12月、角川書店)ISBN 978-4048850438 

・猫の鳥談義(2014年6月、文一総合出版)ISBN 978-4-8299-7101-7

エピソード
・『Theゲームパワー』の司会を務めていた当時、小猫のやる気の感じられない司会ぶりを『電気グルーヴのオールナイトニッポン』などでよくネタにされていた。

・2000年代の深夜番組「北野タレント名鑑」(フジテレビ)にて、司会のガダルカナル・タカが毎回名前の頭文字が違う芸能人に電話をかけノーギャラ前提での出演交渉を行うクイズ企画があり、その交渉すべく人選に苦慮すると、タカは「え」の回でもないのに小猫によく電話をし「すいません師匠、ちょっと人選が思うように行かなくてですね、番組の進行には関係ないんですがウグイスの声を聞きたくてお電話しました」と言っていた。毎回その問いかけに「あ、いいですよ。」と二つ返事で電話口で芸を披露していた。

脚註
1. 三遊亭小円歌演芸図鑑』(2014年3月15日、NHK)
2. “江戸家小猫が猫八襲名を発表”. nikkansports.com (日刊スポーツ新聞社). (2009年1月19日). https://www.nikkansports.com/entertainment/news/f-et-tp0-20090119-451635.html 2021年10月21日閲覧。 
3. 二代目江戸家小猫、29日デビュー[リンク切れ] 産経新聞 2011年3月26日閲覧
4. a b c “江戸家猫八さん死去 ウグイス声帯模写、66歳進行性胃がん”. スポーツ報知. (2016年4月1日). http://www.hochi.co.jp/entertainment/20160401-OHT1T50035.html 2016年4月1日閲覧。 
5. 江戸家猫八 訃報”. 一般社団法人 落語協会 (2016年3月31日). 2021年10月21日閲覧。
6. “四代目江戸家猫八さん死去 進行胃がんで 66歳”. 東スポWeb (東京スポーツ新聞社). (2016年3月31日). https://www.tokyo-sports.co.jp/entame/525102/ 2021年10月21日閲覧。 
7. “四代目江戸家猫八さん死去 66歳 ウグイスの声帯模写など”. スポーツニッポン. (2016年3月31日). http://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2016/03/31/kiji/K20160331012317020.html 2016年4月1日閲覧。 
8. “41歳で脳出血…林家かん平ドキュメンタリー完成”. 日刊スポーツ. (2016年8月29日). http://www.nikkansports.com/entertainment/news/1701843.html 2016年8月29日閲覧。 
9. 3月8日(火) 江戸家猫八(えどや ねこはち) 江戸家小猫(えどや こねこ)”. 徹子の部屋. バックナンバー. テレビ朝日 (2016年3月8日). 2021年10月21日閲覧。

外部リンク
江戸家猫八 - 落語協会
(wikiより)

0008 四代目・江戸屋猫八

⇧ 四代目・江戸屋猫八

0008a

0008b



3代目江戸家 猫八(さんだいめ えどや ねこはち、1921年10月1日 - 2001年12月10日)は、物真似師、俳優落語芸術協会に所属していた。本名は岡田 六郎(六男だったため、六郎と名付けられる)。愛称は江戸猫。

来歴・人物
父は初代江戸家猫八。落語家の三遊亭歌司は長女の夫、四代目江戸家猫八(初代江戸家小猫)は長男、江戸家まねき猫は次女、江戸家猫ハッピーは三女、二代目江戸家小猫は孫(4代目猫八の長男)。

略歴
・1940年 古川緑波一座に入団し、俳優となる。

・1942年 召集により南方戦線を転々とする。ラバウル・北千島の輸送任務では九死に一生を得る。

・1945年 広島市宇品(現在の南区宇品)の大日本帝国陸軍船舶司令部(正確には陸軍船舶砲兵連隊 / 通称「暁部隊」)兵長として軍務中の8月6日被爆

・1950年 父の弟子であった2代目猫八(木下華声)から、父の物真似芸を継ぐよう薦められ、芸を教わって寄席修行をし、この年に、3代目江戸家猫八を襲名。

・1956年 三遊亭小金馬一龍斎貞鳳とNHK「お笑い三人組」(八ちゃん役)に出演。11年つづく。

・1979年 落語協会から落語芸術協会に移籍。落語協会では色物に舞台の主任(トリ)をとらせない決まりがあったため、色物でも主任をとることができる落語芸術協会に移籍した。

 ・第34回文化庁芸術祭大衆芸能部門優秀賞受賞。

・1981年 第36回文化庁芸術祭大衆芸能部門優秀賞受賞。

・1982年 第2回花王名人大賞(関西テレビ)諸芸部門名人賞受賞。

・1986年 第2回浅草芸能大賞大賞受賞。

・1988年 紫綬褒章を受章。

・1994年 勲四等旭日小綬章を受章。

・2001年 12月10日、心不全のため東京都青梅市の病院で逝去。80歳没。墓所は父と同じ雑司ヶ谷霊園

広島での被爆
広島に原爆が投下された1945年8月6日当時、23歳の猫八は同市内宇品(現・広島市南区)に駐屯する陸軍船舶砲兵第1連隊(暁2953部隊)の「岡田六郎兵長」として軍務に従事していた。当日朝は地方巡業中の移動劇団「桜隊」の一員として広島に滞在していた旧知の女優・園井恵子と会う予定であったが、前日の軍旗祭(連隊記念祭)で声帯模写を披露し獲得した優勝賞品の酒を飲み過ぎ、二日酔いで寝坊したため朝の点呼に遅刻し園井と会うことができなくなった。そして部下の初年兵に起こされた直後に原爆投下に遭遇した(このとき園井は爆心地に近い宿舎で被爆し、神戸まで避難したものの8月21日に原爆症で死去)。


しかし連隊が置かれていた宇品は爆心地から3km以上隔たっていたため直接の被害は少なく、猫八は比治山町船舶砲兵団司令部との連絡を取るため御幸橋方面の被害状況の偵察を上官から命じられ、初めて惨状を目の当たりにすることになった。その後彼は暁部隊の一員として市内の救援・医療活動に動員されたため、市内に高度に残留していた放射線に被曝、復員後は生涯にわたって二次被爆が原因と思われる体調不良と戦い続けることとなった。


被爆時・事後の救援・医療活動動員での体験は、猫八にとってあまりにも悲惨で生涯トラウマとなるほど忌まわしいものであったため、長い間この体験は語られなかったが、後年「兵隊ぐらしとピカドン」「キノコ雲から這い出した猫」を著して自らの被爆当時を記している(同様に暁部隊の一員として被爆した人物には、司令部付きの兵卒であった思想史家・丸山真男がいる)。

出演ドラマ
テレビドラマ
・母帰る

・アッちゃんシリーズ

快獣ブースカ(1966年 - 1967年) - 屯田栄之助

ウルトラマン 第37話「小さな英雄」(1967年) - 友好珍獣 再生ピグモンの鳴き声 役[1]

特別機動捜査隊

五番目の刑事 第8話「その玩具に手を出すな」(1969年、NET / 東映) - 伊沢茂夫 役

時間ですよ

繭子ひとり

・花よりだんご

・チャコちゃんシリーズ

鬼平犯科帳(松本白鸚 版)(1969年 - 1972年、NET/ 東宝) - 三次郎 役

  ・第61話「あほうがらす」(1970年)- 和泉屋万右衛門 役

非情のライセンス 第1シリーズ 第39話「兇悪のライフル」(1973年) - 宮寺 役

俺たちの朝

連続テレビ小説(NHK)

マー姉ちゃん(1979年、第23作) - 植辰

鬼平犯科帳(萬屋錦之介 版)

  ・第1シリーズ 第9話「敵」(1980年)

  ・第2シリーズ 第23話「金太郎そば」(1981年) - 藁馬の重兵衛 役

西田敏行の泣いてたまるか 第6話「こちら突撃リポーター」(1986年、TBS

鬼平犯科帳(中村吉右衛門 版)(1989年 - 2001年、フジテレビ) - 相模の彦十 役

イキのいい奴

剣客商売(藤田まこと版) - 嘉助 役(第3シリーズまで)

春の一族

必殺仕事人 第35話「飛技万才踊り攻め」 - つる吉役(1979年)

必殺仕事人IV 第7話「主水 忘年会の幹事でトチる」 - ピン助役

ジャンボーグA 第20話「ポンコツ自動車の大反乱!」 - 敬介役

ウルトラマンタロウ 第26話「僕にも怪獣は退治できる!」 - 竹雄の父・仙吉役

ダンナ様は18歳

火曜サスペンス劇場日本テレビ

  ・「松本清張スペシャル・山峡の湯村」(1992年) - 梅田敏治 役

  ・「下町葬儀屋事件簿」(1995年) - 瀬田龍三 役

  ・「地方記者 立花陽介⑥ 鎌倉湘南通信局」(1995年) - 山野厳 役

ほか


その他のテレビ番組
お笑い三人組

歌のグランプリショー - 司会者

ひょっこりひょうたん島 ネンネ役

笑点 - 2000年12月17日放送回に親子で出演した

映画
・剣豪対豪傑 誉れの決戦(1956年)

・花嫁は待っている(1957年)

・お笑い三人組(1958年)

・大笑い捕物帖(1958年)

負ケラレマセン勝ツマデハ(1958年)

・銭形平次捕物控 雪女の足跡(1958年)

・大江戸千両祭(1958年)

初春狸御殿(1959年)

・落語天国紳士録(1960年)

・俺は都会の山男(1961年)

・お笑い三人組 怪しい奴にご用心(1961年)

・お笑い三人組 泣き虫弱虫かんの虫の巻(1961年)

・カミナリお転婆娘(1961年)

・大学かぞえうた 先輩・後輩(1962年)

・腰抜けガン・ファイター(1963年)

・海抜0米(1964年)

・雨の中の二人(1966年)

・友を送る歌(1966年)

・北国の旅情(1967年)

・残雪(1968年)

・続・与太郎戦記(1969年)

・満願旅行(1970年)

・喜劇 三億円大作戦(1971年)

若大将対青大将(1971年)

伊豆の踊子(1974年)

・茗荷村見聞記(1979年)

・港町紳士録(1979年)

・お母さんのつうしんぼ(1980年)

・ヒロシマのたたかい はだしのゲン PART3(1980年)

裸の大将放浪記(1981年)

・ユッコの贈りもの コスモスのように(1982年)

お葬式(1984年)

みんなあげちゃう(1985年)

塀の中の懲りない面々(1987年)

釣りバカ日誌(1988年)

公園通りの猫たち(1989年)

せんせい(1989年)

RAMPO(1994年)

億万長者になった男。(1994年)

・大夜逃 夜逃げ屋本舗3(1995年)

鬼平犯科帳 劇場版(1995年)

・出現!東京龍 TOKYO DRAGON(1997年)

どら平太(2000年)

CM
グンゼ(1981年)- 初代江戸家小猫(現:四代目江戸家猫八)と共演

マルキュー(釣り餌)

吉野石膏(ニューラスボード&YNプラスター) - 初代江戸家小猫(現:四代目江戸家猫八)と共演

著書
・吾輩は猫ではない ポプラ社, 1983.2

・兵隊ぐらしとピカドン 吾輩は猫ではない2 ポプラ社, 1983.8

・二足のわらじをはいた猫 吾輩は猫ではない3 ポプラ社, 1984.2

・魚に釣られた猫 猫八のおもしろ釣れづれ人生 桃園書房, 1985.6

・おかあちゃんは二人いらない 筑摩書房, 1986.8

・猫とまたたび 筑摩書房, 1989.9

・キノコ雲から這い出した猫 中央公論社, 1995.8

CD
・お笑い百貨事典7 昭和34年〜39年 テレビ・コメディーブーム 2000

  ・「動物ものまね」を収録

DVD
・昭和名人芸大全~珍芸・奇芸・ビックリ芸~五日目 木村万里、江戸家猫八、ゼンジー北京ボンサイト 2002

・NHK想い出倶楽部~昭和30年代の番組より~(5)お笑い三人組 江戸家猫八、一龍斎貞鳳三遊亭小金馬楠トシエ 2003

その他
自ら車の運転をしていたが、自宅の車庫が非常に狭く、常に車庫入れの際は車庫の壁と車の隙間が数センチ単位での微調整を余儀なくされており、車庫入れの模様をワイドショーやバラエティー番組などで放送されることもあった。


中央競馬
馬主としても活動しており、中央競馬で10勝を挙げた他京成杯3歳ステークス東京4歳ステークスで2着に入ったキヤツトエイト(同馬の甥にオペックホースがいる)などを所有した。


鬼平犯科帳』に出演していたこともあり、所属していた落語芸術協会の同僚である桂歌丸から中村吉右衛門のサインをもらってほしいと仲介役を頼まれたことがあったという。これは吉右衛門と歌丸の接点が直接なかったためとのことだが、猫八没後に吉右衛門は「(歌丸が)照れ屋さんだったんでしょうね」と頭をなでながら語っている。


実は猫が苦手で、猫好きの三女江戸屋猫ハッピーが保護した捨て猫を飼うことに反対していたが、結局名前も付けて家に迎えたことがある。[2]

脚注
1. 満田かずほ監督談、『NIKKEI×BS LIVE 7PM』2012年7月5日(BSジャパン)。
2. がんで闘病時、猫が元気をくれた 江戸家猫ハッピーさんのにぎやかで夢中だった日々”. 朝日新聞 (2021年4月22日). 2021年4月22日時点のオリジナルよりアーカイブ。2021年5月1日閲覧。

関連項目
柳家小さん (5代目) - 二・二六事件時、一兵卒として反乱軍に動員され警視庁占拠に参加。そのさい上官の命で落語を独演させられた。

喜味こいし - 広島で少年兵として教育中に爆心地近くの兵舎で被爆したが、救出され九死に一生を得た。

江戸家猫八 (初代)

木下華声 - 二代目の猫八

外部リンク
ヒロシマ新聞 - 岡田六郎兵長(江戸家猫八)の証言

江戸家猫八 - NHK人物録
(wikiより)

0007 三代目・江戸屋猫八

⇧ 三代目・江戸屋猫八

0007a

0007b



本名 長谷川 栄太郎
生年月日 1911年7月6日
没年月日 (1986-05-27) 1986年5月27日(74歳没)
師匠 2代目三遊亭金馬
5代目三升家小勝
江戸家猫八
弟子 タイヘイトリオ
名跡 1.三遊亭金時
2.三升家勝頼
3.江戸家小猫八
4.2代目江戸家猫八(1931年 - 1933年)
5.木下華声(1933年 - 1986年)
家族 2代目春風亭大与枝



木下 華声(きのした かせい、1911年明治44年)7月6日 - 1986年昭和61年)5月27日[1])は、物真似師、漫談家。本名は長谷川 栄太郎。一時は、2代目江戸家猫八を襲名していた。


落語研究家の野村無名庵はおじにあたる。また、久保田万太郎鴨下晁湖阿木翁助等に愛された浅草の豚カツ屋、「柳とんかつ」の主人はいとこ。

経歴・人物

東京出身[1]。父は柳派寄席五厘(事務員)をやっていた2代目春風亭大与枝で、芸人のプロデューサー的な役割を担っていて「頭取」と呼ばれ、落語界に大きな力を持っていた。彼の功績には、3代目柳家小さんを真打にして世に出したこと、当時皇族向けにしか芸を見せず「御止芸」といわれていた「琵琶節」を寄席に出したこと[2]、そして大道で芸をしていた初代江戸家猫八を発掘して寄席に出したこと、などがあるという。また、初代快楽亭ブラック、毒婦・花井お梅日清戦争の英雄・原田重吉などを寄席に出演させたのも、大与枝だという。


だが、1917年大正6年)に大与枝は初代伊藤痴遊と衝突。「五厘」は不要となり、一家は没落する。


そのため、2代目三遊亭金馬に入門し、三遊亭金時と名乗った。後に5代目三升家小勝の門で勝頼と名乗る。

大正14、15年頃に、父の縁がある初代江戸家猫八一座で小猫八と名乗る。


1931年(昭和6年)に2代目を襲名し上野鈴本演芸場で襲名披露を行なう。だが、1933年(昭和8年)、「東宝名人会」に出演するにあたり、「猫八」という名前は「砂の芸(大道芸)の名前だから」と言われて拒否される。そのため、久保田万太郎に相談して徳川夢声の向こうを張った「木下華声」の名をもらって一時的に名乗る。以降、「物真似」以外の仕事をする際は、この名前を使うこととなった。


この頃、夢声主催の「談譚集団」という漫談研究会に入り、5代目蝶花楼馬楽(後の林家彦六)らと漫談修行をする。


1935年
(昭和10年)には「あきれたぼういず」等のボーイズ物の流行にのり、吉本興業東京吉本)に入社して「ザツオン・ブラザース」を結成。1940年(昭和15)には松竹系の新興演芸に移り、やはりボーイズの「あひる艦隊」を結成。


また、物真似芸を活かしてPCL・東宝映画で「効果」の仕事を多くし、山本嘉次郎監督の『吾輩は猫である』(1936年)では猫の鳴き声を担当した。


1944年(昭和19年)に浅草・常盤座で軽演劇の俳優をやり、左卜全と共演。また同年に「教育召集」され、歩兵軽機関銃部隊に配属される。同じ隊に、木谷実並木一路今井正がいた。朝鮮に配置されるが3ヶ月で除隊。

なお、1945年(昭和20年)の終戦間際に「8月15日入隊」の召集令状が来たため、親友で日本放送協会(NHK)の名アナウンサー和田信賢に別れの挨拶にいったところ、いわゆる「玉音放送」の進行を担当することになっていた和田は「心配ないよ。戦争はもうすぐ終りだ」と内緒で教えた。8月12日には、NHKラジオで「猫八入隊」の特別番組に出演したが、終戦が近いことを知っているスタッフから「米軍機撃墜や、東條英機の物真似は止めてくれ」といわれたという。


また、戦後は古川ロッパの劇団で本名の「岡田六郎」名で役者をやっていた初代猫八の実子を弟子にして芸を伝え、1950年(昭和25年)に3代目の名を譲る。


以後は「木下華声」一本で漫談、声帯模写に活躍した。NHKラジオでは、2代目広沢虎造榎本健一3代目金馬大河内伝次郎5代目小さんらの声帯模写をしながら、「石川五右衛門」などのストーリーを演じた。

1969年(昭和44年)頃からは「巷談」と称して、市井の出来事や芸人の内幕などを話す芸を行った。

幼少期からの芸人であったこともあり、また、様々な仕事をしたため芸界に交流が深く、久保田万太郎に可愛がられ、また、高見順安藤鶴夫らとも懇意な仲であった。また、徳川夢声、榎本健一、山本嘉次郎らからも目をかけられた。


また、和田信賢、5代目一龍斎貞丈とは兄弟分の仲。2代目虎造(まだ売り出す前からの交友)、4代目鈴々舎馬風森川信らが親友で、その他にも多くの芸人と親交があった。

森川信とは、2人で戦争中に、サトウハチローの弟で破滅的な生き方をした佐藤節[3]の世話になったこともあった。


弟子にはタイヘイトリオの洋児がいる。その弟子筋はタイヘイ一門といわれ多くの弟子を育てた。

出演
フランケンシュタインの怪獣 サンダ対ガイラ(1966年、東宝) - サンダの子供の声

出典
・木下華声『芸人紙風船』大陸書房 

・諸芸懇話会、大阪芸能懇話会共編『古今東西落語家事典』平凡社ISBN 458212612X

脚注
1. a b デジタル版 日本人名大辞典+Plus
2. 高峰三枝子の父親である高峯筑風が出演した。
3. この人物については、佐藤愛子による、佐藤家の歴史を描いた小説『血脈』に詳しい。1945年(昭和20年)旅行先の広島原爆投下により被爆死した。
(wikiより)

0006 二代目・江戸屋猫八(木下華声)

⇧ 真ん中 ( ギターを持ってる人 ) が木下華声。

0006a

0006b



造船技術者・渡邉忠右衛門 ( わたなべ - ちゅうえもん )


横浜における民間造船業のパイオニアである渡邉忠右衛門は、嘉永元 ( 1848 ) 年伊豆国戸田 ( へた ) 村で生まれた。


父・金右衛門は、安政元年 12月 ( 1854 ) に沈没したロシア艦船「ディアナ号」の代替船「ヘダ号」建造にあたった船大工 ( 「造船世話掛(ぞうせんせわがかり)」 ) の 1人であり、その後石川島造船所で「君沢型 ( きみさわがた )」と呼ばれる洋式船の建造に従事した。


忠右衛門もまた文久 3 ( 1863 ) 年 15歳で石川島造船所に入り、その後横須賀製鉄所をへて、横浜居留地のヨコハマ・アイアン・ワークス、築地の海軍兵学寮をへて、横浜の三菱製鉄所、横浜船渠 ( よこはませんきょ ) と技術者として渡り歩き、明治 29 ( 1896 ) 年平沼町 4丁目に丙申 ( へいしん ) 工場を、31年には高島に渡邉造船鉄工所を設けて独立。


明治 41 ( 1909 ) 年神奈川台場東の海面を埋め立てて、本格的な乾ドック ( かんどっく ) をもつ渡邉船渠会社を開いた。


忠右衛門は大正 9 ( 1920 ) 年に 72歳で逝去している。


豊富とはいえない渡邉忠右衛門の履歴資料ではあるが、忠右衛門のような技術者が、明治日本の近代化を底辺で支えたことは間違いなく、私は平成 11年の当館企画展示「工業都市への鳴動―ビールから自動車まで」においてやや詳しく紹介した。


渡邉船渠は昭和 8 ( 1933 ) 年に操業を終え、不動産部門を運営する現在の渡邉戊申株式会社 ( 明治 41年創業・在神奈川区 ) が渡邉家の事業として残ることとなった。


渡邉戊申株式会社・渡邉淳社長から、平成 20年に「当社が創立 100周年を迎えるにあたり、記念としてこれまでご縁のあった横浜市のいくつかの施設に寄付をしたいが、なにかよい使い道はないか」との連絡をいただいた。大変ありがたいお申し出であり、横浜市がご寄付を受納するかたちをとり、以下の資料が開港資料館の収蔵品として収まることとなった。


拓本・渡邊忠右衛門翁碑

中区北方・妙香寺 ( みょうこうじ ) の本堂から墓地にのぼる階段のわきにある石柱で区切られた一画に、大きな台座石に支えられた高さ 3メートルをこえる巨大な石碑がある。自然石の表面に「渡邊忠右衛門翁碑」と刻まれた文面は漢文で、忠右衛門の履歴を記している。


企画展示「工業都市への鳴動」では、文字をノートに書き取り、ワープロ入力したうえで展示パネルを作成したが、今回は専門業者に依頼して拓本をとり、軸装をお願いした。


石碑の建立は忠右衛門氏逝去の 3年をへた大正 12 ( 1923 ) 年であり、85年の歳月は、文字を刻んだ部分の表面に細かな剥離を生じさせていたが、解読不能の文字はなかった。


拓本を軸装したところ、タテ 233センチ×ヨコ 158センチとなり、開港資料館の企画展示室では陳列できないものとなった。そこでさらにお願いして、当館展示室のグリッドに掛けられるような縮小版も作成させていただいた。
(開港のひろばより)

05a

05b

05c

05d



芝山 兼太郎(しばやま けんたろう、1873年明治6年〉7月18日[1] - 1929年昭和4年〉11月14日)は、日本美容家。日本の美顔術(女性の顔の美しさを保つことを目的としたマッサージ[2])の始祖とされ[2]神奈川県横浜市で日本初の美容室を開店したとされる人物である[3]。横浜理容界の草分けの1人ともいわれる[4]。長女は日本で初めてエステティックサロンを開業した人物とされる芝山みよかであり、芝山の習得した美顔術は、みよかにも大きな影響を与えている[5][6]

経歴
誕生 - 理容師修行

肥後国熊本藩に誕生した[1][2]。幼少時に神奈川の庄屋の養子となり[* 1]、13歳のとき、遠縁の理髪店に勤めた。

間もなくその店の規模の小ささに見切りをつけて、横浜外国人居留地に夢を託した[2]。横浜は、日本で最初の西洋式の理髪店が開店したこともあり、当時は日本国外の客を相手にする理容師が多く存在していた[2]


芝山は横浜で名を馳せる理容師の中の1人、松本定吉に弟子入りした[7]。松本は当時の理容師の中でも最も名声があり、「かみそり定」の異名で呼ばれていた。その剃刀の腕前は、後年「なめらかに削った竹のヘラで頬をなでるように剃刀を使い、いつの間にか客を眠らせるほどの名人上手」と伝えられている[2][8]


芝山は松本のもとに勤め、本格的に理容師の修行を始めた。早朝から深夜まで雑用は続き、毎晩250本ものタオルを手で洗った。冬季は辛い作業であった。芝山は激務に耐えつつ、ふけ取り、剃刀の研ぎ方など、理髪の初歩的な技術を一つ一つ、懸命に学んだ。深夜は密かに、自分の膝を客の顔に見立てて、剃刀を練習していた。そのためにいつも、膝から血を流していた[2][9]


松本は芝山の器用さと熱心さを見込み、外国人居留地でフランス人が営む理髪店に修行に出した。芝山はこの店で、ドイツゾーリンゲン製の剃刀の技術を学んだ。ゾーリンゲン製の剃刀の切れ味は日本製を上回り、芝山はその性能に魅了された[10]。後に芝山は「外人屋敷の理容師」に昇格し、単独での客回りが可能となった[2]

独立・開業
21歳のとき、日清戦争で応召したが、満州での戦闘で負傷し、後送された[11]。その後は再び松本の店で働いた後、22歳で独立し、1895年(明治28年)に横浜市中区山下町に理容店「日之出軒」を開業した[12]。日之出軒は大いに繁盛し、当時の新聞に「横浜名物は伊勢佐木町の吉野志る粉に山下町の日之出軒」と記事が載るほどであった[13][14]

1897年(明治30年)、日本国外の客を専門とする「パレス・トイレット・サロン・シバヤマ」を、山下町に開業した[12]。店には、先述のフランス人理容師から帰国前に譲り受けた、全高3.6メートル以上の巨大な鏡を設置して、その前には大理石の豪華な前流しを5台も設け、客たちを驚かせた[13][15]。芝山の他、ベテラン店員が5人勤めており、後に北海道で「女床」の名で知られる宍戸いく(後の北海道美容環衛組合初代理事長)もいた[6]。店の理髪部に隣接して、日本国外の女性客を対象とした婦人部もあり、人気を呼んだ。これが日本での美容室の始まりとされる[13][15]


日露戦争
でも戦争に参加させられたが、ここでも国外での戦争で負傷し、帰国して間もなく除隊した[13][16]

美顔術の習得

1905年(明治38年)、アメリカの医師であるW・キャンブルーが芝山の店を訪ね、自ら研究している血行療法主体のマッサージ法を教え、それを学ぶことを勧めた。教授料は高額であったが、芝山は日本国外の新技術に強い興味を持っていたことから、それを教わることを決心した[12][18]。マンツーマンでの教育により、2日間でマッサージ法のほとんどを習得した[19][20]


芝山はこの技術を広めるために、講習会を開催した。講習生が「この技術を何と呼ぶか」と問い、芝山が「英語では単にフェーシャル(facial)、正確にはキャンブルー式フェイス・マッサージ」と答えたところ、「名前が長い」「難しい」との意見が多発した。講習生の一人、後に「天皇の理髪師」として知られる大場秀吉が、「顔を美しくする」との意味で、日本語での「顔美術(がんびじゅつ)」の名を提案したところ、芝山は語呂が良くないとして「美顔術」と命名した[21][* 2]。また他のキャンブルーのマッサージ用語も、「軽擦法」「振動法」「圧迫法」などと日本語訳した[19]


1906年(明治39年)、それまであまり顧みられることのなかった衛生知識の普及や、技術向上を目的として、理髪業界の初の組織である「大日本美髪会」が誕生した。芝山は大場秀吉の勧めもあって、この会に参加し、講習部長として日本全国を回った[15]。苦心して学んだ技術を、わずかの講習料で教えることを咎める声もあったが、芝山は業界利益全体の発展を願い、反対の声を退けて、技術も知識も出し惜しみすることは無かった[19]


1912年大正元年)、美顔術研究の成果の集大成として『実用美容術指針 一名学理的化粧法』を刊行した[12]。図解は、芸術的才能に恵まれた次男が担当した。モデルを務めた2人の女性は、後の日本ヘアデザイン協会名誉会員となる坪内弘江と、横浜の芝山美容学校の生徒となる吉田美津枝であり、共に関西美容界を後に牽引する人物であった。『実用美容術指針』は美顔術研究者のバイブル[19]、古典的名書ともいわれ[22]1929年(昭和4年)までに7刷を重ねた。芝山みよかの著書『正則美顔術』の基盤にもなった[19]

震災からの復興

1923年(大正12年)9月、関東大震災が発生した。芝山とみよかは北海道での講習中のために難を逃れたが、横浜の家も店も跡形なく焼失した[23][24]


県外の地方在住の弟子たち、受講生たちからは、多くの見舞金が送られてきた。芝山はそれを復興資金として、同1923年、横浜市中区相生町に、日本人を対象とした「芝山理容院」を再建し[25]、山下町には日本国外の客を対象とした店を再建した[24]。この営業再開の迅速さは、後々まで語り草となった[23]。一番弟子である大島款太郎(後の日本ヘアデザイン協会名誉会員)は、1年間無給で働くことを申し出て、芝山を感激させた[24]

後進の育成

関東地方や横浜が次第に復興した後、芝山は相生町の店を門弟に一任し、中区住吉町に理容室と美容室を開業した。さらに私塾「東洋美容学校」を併設して、理容業と共に美容教育に乗り出した[23][15]。やがて震災後に洋髪が流行し、生徒の増大により学校が手狭になったため、拡充として1925年(大正14年)[15]、横浜市鶴見区生麦に「芝山美容学校[* 3]」を開校した[12][26]。これは本格的な技術者教育を目的とし、各種学校令に基づく認可も取った学校であった[27]国際理容美容専門学校の創設者である松村重貴智も、この芝山校の生徒である[24]


しかしこの学校設立に対して、大日本美髪会から「芝山は会の復興よりも自分の復興を優先している」と批判があり、学校を美髪会の東京本部へ移管するよう要請も入った。芝山は苦心の末に、美髪会の辞職を決断した。美髪会にとって、講習会で活躍してきた芝山を欠くことは大きな痛手であったが、芝山きっての門弟の一人、後に美容評論家となる赤間徳が美髪会で跡を継ぐことで、一応の解決を見た[27]


一方で芝山の方では、美髪会辞職後に自分側の幹部が手薄となったため、講師養成を目的とした師範講習会を発足した。当時は「師範」という言葉が「師範学校」「高等師範」など、軍の学校などと同様に尊敬される立場であったため、芝山が新聞に師範講習会開催の広告を出すと、神奈川県庁より「床屋が師範とは何事か」と横槍が入る一幕もあった[28]


1929年(昭和4年)、大日本美髪会が改編されて、日本の理容の普及と発展を目的とした団体とした社団法人「大日本理容協会」が組織され、芝山は総務長を務めた[29]


急逝

同1929年(昭和4年)11月14日、横浜の自宅で、心臓発作に倒れた。駆けつけた主治医による応急手当の甲斐も無く、56歳で急逝した[30]。東京の美容室で働いていたみよかが駆けつけたときは、モーニング型の白衣、縞のズボンという仕事着姿のままで死去していた[24][31]


横浜市中区の妙香寺で葬儀が行われ、参列者や花輪の数は、関東大震災後の横浜では最大の規模に上った[30]。葬儀委員長は、先述の大場秀吉が務めた。葬列は、住吉町の店から約2キロメートル先の妙香寺まで繋がり、先頭が寺に着いても、後ろがまだ店にいたほどで[15]、「空前の葬列」とも呼ばれた[32]。弟子の1人は後に「あれほどのものは見たことがないし、これからもないでしょう」と語った[15]


遺された芝山美容学校などは諸事情から、みよかではなく他の手に渡った[31]。墓碑は少年期の師である松本定吉と共に、妙香寺にある[24]

慈善活動

芝山が店に初めて「フェイシャル・マッサージ」の看板を掲げたときは、視覚障害者による横浜のマッサージ師団体が、「晴眼者がマッサージの看板を出せば、我々は飯の食い上げ」と言って激しく抗議した[7]。芝山は「美容のためのマッサージであり、全身的な治療とは異なる」と弁明したが、聞き入れられることはなく、マッサージの資格の無いことを詰問された。芝山は免許取得のためにマッサージ学校に入学し[20]、その在学中、視覚障害者たちの教育不足を痛感した。そこで芝山は、一同が自立して生活できるようにと盲学校を建立、さらに団体への寄付など、長年にわたって援助を続けた[2]。この恩義から、芝山の葬儀の参列者の中には、涙を浮かべる盲学校の生徒たちの一団の姿もあり、沿道で人々の注目を集めた[2][30]


芝山は弱者を労わる人格でも知られ、千葉県に弟子を訪ねたときに、渡し船しかない川の不便さから、橋を架けた。感謝の意味から、この橋は地元で「芝山橋」と呼ばれた[16]1918年(大正7年)には、病気や学業不振で通学できない子供たちのために本牧中学校を設立して、その理事長も務めた[2]。野球選手として活躍した苅田久徳若林忠志も、同校の生徒である[33]。大日本美髪会の講習のために日本内外を回ったときにも、講習料は安価で、芝山の利益がほとんど無いほどだった[15]。関東大震災後に多くの支援により迅速に営業再開できたことも、芝山の優れた人望を物語っている[23]。このように温かな人格から、没後は「慈温院法香日兼居士」の戒名が授けられた[2]

人物

進取の気性に富み、日本国外の技術に貪欲であり、新たな器具や化粧品を次々に取り入れた。中には驚くほど高価な品もあり、客が仰天するほどだった。娘のみよかは「新しい物好き」とよく笑っていた。1918年(大正7年)、マーセル・アイロン(火熱式のアイロン)をいち早く輸入し、ウェーブ技術を世間に広めた。大正10年代には自ら「縮毛矯正アイロン」などの新技術を開発し[13]、これは娘みよかにも受け継がれた[22]。芝山美容学校でも「人はいつでも一歩先を行かなければ。現状に甘んじてはいけない」と唱えていた[15]


みよかの後年の弁によれば、芝山がマーセル・アイロンを用いていたのは日本国外の客を対象とした高級美容であり、日本で一般的な美容院がマーセルアイロンを導入したのは震災前後という[34]。また芝山によれば、髪のウェーブに熱アイロンを用いることは、日本女性には抵抗が強かったため、当時は男性の髪や髭に施していたという[35]

家族

長男の芝山武一(しばやま たけいち)は、神奈川県立横浜第一中学校を首席で卒業するほどの、明晰な頭脳の持ち主であった。父は大いに期待を寄せ、東京帝国大学へ進学させることを望んだものの、結核で肺を病んで学業を断念した[33]


次男の芝山征守(しばやま ゆきもり)は、芸術家肌で絵の才能もあり、加えて独学で英語とフランス語を習得していた。父の著書『実用美容術指針 一名学理的化粧法』の手技や顔の図解も手掛けた[33]。武一と征守は共に、父に先立って死去した[17]


長女(三子)の芝山みよかは、1人娘ということもあって芝山に溺愛され、兄2人に嫉妬されるほどだった。芝山の店に出入りしていたジュジューというフランス人美容師が、実娘を病気で喪った悲嘆のあまり、みよかを養女に欲しいと芝山に懇願すると、芝山はジュジューと懇意の仲にもかかわらず、さすがに「馬鹿も休み休み言え!」と激怒した[33]。なおジュジューが芝山の店で美容を指導する際、唯一知っている日本語「よく見て」を連呼していたことから、みよかの本名の漢字表記「見与加」は、「よく見て」を「よく見て、人に与え、己に加える」と転じて命名したとの説もある[33]

詳しいことは、『芝山兼太郎ウィキペディア』をご覧ください。 ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8A%9D%E5%B1%B1%E5%85%BC%E5%A4%AA%E9%83%8E
(wikiより)

04 芝山兼太郎

⇧ 芝山兼太郎

04a

04b

04c

04d



渡邊 はま子(わたなべ はまこ、1910年(明治43年)10月27日[1] - 1999年(平成11年)12月31日[1])は戦前から戦後にかけて活躍した日本の流行歌手。神奈川県横浜市[1]平沼出身。本名 加藤 濱子[1]。生涯横浜で過ごした。愛称は「おはまさん」。

経歴
横浜生まれで横浜育ちの、文字通りハマっ子の渡邊は、美貌で知られた歌手であった。母方の祖父がアメリカ人だった。

デビューからビクター移籍
1933年(昭和8年)「武蔵野音楽学校」(後の武蔵野音楽大学)卒業[1]立松ふさ[2]に師事。卒業後は、横浜高等女学校(後の横浜学園高等学校)で音楽教師をしていたが[1]、同年にポリドールの歌手テストを受け、『山形新聞』懸賞入選の新民謡「最上川小唄」を吹き込む[1]がポリドールでは結局この1曲のみで終わった。音楽学校在学中に指導を受けた徳山璉の推薦もあり、同年12月にビクターから「海鳴る空」でデビューした。


1934年(昭和9年)、日比谷公会堂で開催されるビクター歌手総出演のアトラクション「島の娘」に主演のはずであった小林千代子が突然失踪する。急遽 渡辺が代役に抜擢され、漁師の娘を演じる。以降ビクター在籍中はアトラクションに度々出演し、藤山一郎古川ロッパらの相手役を務めている。


同年のJ.Oスタヂオ映画『百万人の合唱』に出演するために勤務先の横浜高女を休んだことが問題になり、保護者らが学校に抗議。これが新聞沙汰となる。1935年(昭和10年)の秋には教職を辞し[1]、渡邊はビクターの流行歌手に専念することとなる。同年、夏川静枝の朗読によるハンセン病患者に取材した放送劇「小島の春」のラジオ主題歌「ひとり静」を歌い、初のヒット曲となる。この曲をきっかけに、渡邊は終生を通じ、ハンセン病患者の病院の慰問を続けた。特に岡山愛生園では、療養所歌として今も愛唱されている。

「ネエ小唄」騒動
1936年(昭和11年)、「忘れちゃいやヨ」をレコーディング。作曲者の細田義勝に歌中の「ネエ」の部分の歌い方を何度も指導されて、本人は辟易して歌ったが、その直後に早稲田大学野球部の応援歌の発表会で歌ったところ、観客に大ウケしたため、本人にもヒットの予感があったという。ところが、発売から3ヵ月後、ちょうどヒットの兆しが見えた頃に、内務省から『あたかも娼婦の嬌態を眼前で見るが如き歌唱。エロを満喫させる』と指摘され、ステージでの上演とレコードの発売を禁止する統制指令が下る。


ヒットを惜しんだビクターは、改訂版として「月が鏡であったなら」とタイトルを変更し歌詞の一部分を削除してレコードを発売、大人気を得る。しかし、このヒットによりこの種の曲『ネエ小唄』ブームが起こり、「あゝそれなのに」(美ち奴、のち発売禁止)「ふんなのないわ」(ミス・コロムビア)「憎いわね」などの類似曲を続々と生み出す結果となった。 この状況を快く思わなかった軍部が主導になり、日本における流行歌の傾向を意図的に変えさせようと、「国民歌謡」を誕生させるキッカケとなる。渡邊も続いて、「とんがらかっちゃ駄目よ」をヒットさせるが、ビクターの内紛と一連のネエ小唄騒動で、1年間の休業をすることになった。

コロムビア移籍
1937年(昭和12年)4月、コロムビアに移籍。翌年、皮肉にも流行歌の浄化を統制された国民歌謡の「愛国の花」が、渡邊にとっての移籍後のヒット曲第一号となる。この頃から、戦時下の上海など戦地への慰問も積極的に行うようになり、「支那の夜」「広東ブルース」などの大陸を題材にした曲目が徐々に増え、人々からは『チャイナ・メロディーの女王』『チャイナソングのおハマさん』と呼ばれ支持された。そのため、慰問先の満州から松平晃が持ち帰った「何日君再来」(訳詞長田恒雄)も渡邊が唄い、レコードが日本で発売されることになった。


さらに、当時はテイチクの専属であった満州の大陸女優、李香蘭主演の大ヒット映画の主題歌をコロムビアから国内で日本語で発売する際には、渡邊がレコーディングした。「いとしあの星」「蘇州夜曲」といった曲は渡邊、李両者の持ち歌として大ヒットを記録している。


1941年
(昭和16年)、渡邊が新聞に掲載された記事に感動し、是非とも歌謡曲としてレコード化したいと台湾総督府に申し入れ、レコード・リリースした「サヨンの鐘」もヒット。その後も「風は海から」「花白蘭の歌」など、日本のトップ歌手して活躍。スクリーンにおいても既に1937年(昭和12年)に新興映画『庭の千草』に主演していた他、東宝映画ロッパ歌の都へ行く』『ロッパの新婚旅行』『エノケンの孫悟空』などに出演している。特に『ロッパの新婚旅行』では、声楽家役として出演し、クラシックの歌曲を原語で高らかに歌い上げているのは、元音楽教師の面目躍如であった。

戦後
戦地への慰問として訪れていた大陸の天津で終戦を迎え、捕虜として1年間の収容所生活を余儀なくされる。が、その間も渡邊はま子は、日本人捕虜仲間を美しい歌声で慰めることを忘れなかった。日本へ帰国後、外地から引き揚げてきた兄とようやく再会する事ができるが、不慮の病で失うという不幸に見舞われた。


1947年(昭和22年)に結婚し、歌手活動の傍ら横浜で花屋を営みながら、「雨のオランダ坂」「東京の夜」といったヒット曲を飛ばし続けた。


1950年(昭和25年)、敗戦後初めての日本人の芸能使節団として、小唄勝太郎、三味線けい子らと共に、祖父の眠るアメリカ各地を公演。帰国後は、古巣のビクターに移籍し、「火の鳥」「桑港のチャイナ街」などのちに代表曲となるヒット曲を出す。


1952年
(昭和27年)、NHKラジオ『陽気な喫茶店』を司会していた松井翠声の元に送られてきた、フィリピンの日本人戦犯が作詞作曲した曲「あゝモンテンルパの夜は更けて」を渡邊がレコード化。日本国政府厚生省復員局と渡邊の奔走で、モンテンルパ市のニューピリビット刑務所へ慰問コンサートが実現。フィリピン政府当局に減刑、釈放を嘆願し、当時のフィリピンの元首であったキリノ大統領に日本人戦犯の釈放を決断させ、全員の日本への帰国が実現したことは、渡邊の歌手人生におけるハイライトといえる。


1951年(昭和26年)の第1回『NHK紅白歌合戦』では、紅組トリを務めた。昭和40年代には、東海林太郎らと共に歌手協会の発展に尽力し、1973年(昭和48年)には紫綬褒章を受章。暮れには、同年に受章した藤山一郎と共に『NHK紅白歌合戦』に特別出演し、「桑港のチャイナ街」を熱唱している。渡邊は特別出演も含めて『NHK紅白歌合戦』に計9回出場している(下記参照)。

晩年
1981年(昭和56年)、勲四等宝冠章を受章。テレビやラジオになお活躍を続けたが、1985年(昭和60年)におしどり夫婦として知られた渡邊の夫が亡くなったショックもあり、この頃から認知症を発症したという。異変に気付いた家族からの忠言を受けて、1989年(平成元年)に引退。ただし、引退を決意する以前にオファーがあったステージ等は引退後も約束通りこなし、翌1990年(平成2年)6月19日には水戸市の県民文化センターでの、地元銀行主催〝年金受給者の集い〟に特別出演し、好評を博している。


引退後は認知症の進行及び脳梗塞に倒れたこともあり、家族以外の者との会話がほぼ困難になり(最後に第三者と会話が成立したのは、1993年(平成5年)の藤山一郎没後に藤山未亡人へお悔やみの電話をした時と長女は語っている)、最晩年は寝たきりの生活であった。亡くなる5日前の1999年(平成11年)のクリスマスの日、長女が渡邊にモンテンルパ慰問の際に録音したテープを聞かせると、普段は病気のため表情を変えることのなかった渡邊が長女の言葉に何度も頷き、一筋の涙を流したという。


1999年 (平成11年) 12月31日、脳梗塞のため死去した。89歳没。


死後は遺言に従い親族だけで密葬を済ませ、2000年(平成12年)1月、かつての所属会社であるビクターから、正式にその訃報が明らかにされた。

代表曲
・「ひとり静」(1934年(昭和9年)2月発売)

・「忘れちゃいやヨ」(1936年(昭和11年)3月発売)

・「とんがらかっちゃ駄目よ」(1936年9月発売)

・「民謡組曲 祇園会」(1936年7月JOBKローカル初演、1937年7月19日全国放送、作曲:内田元)

・「愛国の花」(1938年(昭和13年)12月発売)

・「支那の夜」(1938年12月発売)

・「広東ブルース」(1939年(昭和14年)1月発売)

・「何日君再来」 (1939年8月発売)

・「長崎のお蝶さん」(1939年9月発売)

・「いとしあの星」(1940年(昭和15年)1月発売)

・「りぼんむすめ」(1940年6月発売)

・「蘇州夜曲」(1940年8月発売、共唱:霧島昇

・「サヨンの鐘」(1941年(昭和16年)11月発売)

・「明日の運命」(1941年(昭和16年)発売, 共唱:霧島昇)

・「西貢だより」(1942年(昭和17年)7月発売、共唱:藤山一郎

・「風は海から」「翡翠の歌」(1943年(昭和18年)1月発売、東宝映画『阿片戦争』挿入歌)

・「花白蘭」(1943年2月発売)

・「夏子の歌」(1943年10月発売、共唱:楠木繁夫

・「夢見る扇」(1946年(昭和21年)9月発売)

・「ほんのり花嫁」(1946年10月発売)

・「雨のオランダ坂」(1947年(昭和22年)1月発売)

・「東京の夜」 (1947年5月発売、共唱:藤山一郎)

・「旅空夜空」(1948年(昭和23年)4月発売)

・「アデュー上海」(1948年11月発売)

・「波止場通りの唄」(1949年(昭和24年)5月発売)

・「おらんだ船」(1949年9月発売)

・「いつの日君帰る」(1950年(昭和25年)2月発売)

 戦前に自身も吹き込んだ「何日君再来」をモチーフとした曲。新東宝映画『いつの日君帰る』の同名主題歌として発表。

・「そんな娘がいるかしら」(1950年5月発売)

・「ヨコハマ物語」(1950年6月発売)

・「火の鳥」(1950年10月発売、共唱:宇都美清

・「桑港のチャイナ街」(シスコのチャイナタウン) (1950年11月発売)

作詞:佐伯孝夫、作曲:佐々木俊一

記念すべき第1回NHK紅白歌合戦で紅組トリを飾った、戦後最大の代表作ともいえる作品。

・「そばの花咲く」 (1951年(昭和26年)1月発売)

・「チャンウェイ・チャンウェイ(薔薇處處開)」 (1951年3月発売)

・「夢の彼の君(夢中人)」(1951年3月発売)

・「七つの星座」(1951年6月発売、共唱:宇都美清)

・「峠を越えて帰ろうよ」(1951年7月発売)

・「マンボ・チャイナ」 (1951年12月発売)

・「チャイナボート」(1952年(昭和27年)4月発売)

・「マンボ上海」(1952年5月発売)

・「雨の長崎」(1952年6月発売)

・「チャイナムーン」(1952年8月発売)

・「あゝモンテンルパの夜は更けて」(1952年9月発売、共唱:宇都美清)

・「悲しみの丘」(1952年9月発売)

・「マニラの夜」(1953年(昭和28年)5月発売)

・「あゝモンテンルパの丘に泣く」(1953年5月発売)

・「蘇州舟唄」(1953年5月発売)

・「晩香玉(ワンシャンユィ)は夢の花」(1953年10月発売)

・「この太陽」(1954年(昭和29年)3月発売、共唱:小畑実

・「薔薇色のブルース」(1954年5月発売)

・「青い星のブルース」(1954年11月発売)

・「懐かしのブエノスアイレス」(1954年3月発売)

・「波止場のチャイナ娘」(1955年(昭和30年)6月発売)

・「カサブランカの夜」(1958年(昭和33年)12月発売)

・「日本の母の詩」(1979年(昭和54年)発売)

・「サンライズ・イン・ヨコハマ」(1982年(昭和57年)発売)

詳しいことは、『渡辺はま子ウィキペディア』をご覧ください。 ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%A1%E8%BE%BA%E3%81%AF%E3%81%BE%E5%AD%90
(wikiより)

03 渡辺はま子

⇧ 渡辺はま子

03a

03b



須田 開代子(すだ かよこ、1938年8月2日 - 1995年11月20日)は、日本のプロボウリング選手。東京都出身。


ライセンスナンバー1の女子第1期生。日本国内初の女子プロボウラーとしても知られる。通算タイトル43勝。永久A級ライセンス取得者。日本ブランズウィック社所属。ジャパンレディスボウリングクラブ(JLBC)初代代表。

来歴・人物

1967年の第1回全日本選抜選手権で優勝。1969年プロ入り。同期の中山律子石井利枝並木恵美子と共に、高度成長期を背景にボウリングブームを支えた。


オイルショック
によりボウリングブームが一気に下火になる中、1976年須田は女性だけのボウリング団体「ジャパンレディースボウリングクラブ」を設立。自ら初代代表に就任し、ボウリング業界復興に尽力した(本人の意向で会長とは名乗らず、2代目藤原清子より会長となる。3代目中山律子を経て、現在は石井利枝が4代目会長)。

私生活では男子プロボウリング選手だった西城正明との結婚・離婚を経験している。歌手の田谷力三のファンであり、西城との結婚式では田谷が式中で歌った。


自らを蝕んだ胃癌食道癌を一度は克服して復活を果たした須田であったが、1995年に療養先のアメリカバージニア州内の病院にて心不全のため57歳で死去。


須田のボウリング人生を記した著書に、『須田開代子という生き方―世界一ボウリングを愛した女(ひと)』(笹山生子著 チクマ秀版社版)がある。また、1971年には映画『起きて転んでまた起きて』(東京映画)にプロボウラー役として出演した。

テレビ番組
レディズ・チャレンジボウル(NETテレビ→テレビ朝日)

ザ・スターボウリング(テレビ東京)

関連項目

日本プロボウリング協会

永久シード (プロボウリング)

外部リンク
須田開代子(社団法人 日本プロボウリング協会)
(wikiより)

02 須田開代子

⇧ 須田開代子

02a

02b

02c



三囲神社(みめぐりじんじゃ)は、東京都墨田区向島に在る神社である。祭神は宇迦御魂之命(うがのみたまのみこと)。

概要

倉稲魂命(宇迦之御魂神)を祀る。旧村社(現在はかつての小梅村にあたる地区にあるが、旧地は須崎村にあったと推測されている)。元、田中稲荷と称した。創立年代は不詳。伝によれば、近江国三井寺源慶[要曖昧さ回避]が当地に遍歴して来た時、小さな祠のいわれを聞き、社壇の改築をしようと掘ったところ、壺が出土した。その中に、右手に宝珠を、左手にイネを持ち、白狐に跨った老爺の神像があった。このとき、白狐がどこからともなく現れ、その神像の回りを3回回って死んだ。三囲の名称はここに由来するという。


元禄
6年(1693年)、旱魃の時、俳人其角が偶然、当地に来て、地元の者の哀願によって、この神に雨乞いする者に代わって、「遊(ゆ)ふた地や田を見めくりの神ならは」と一句を神前に奉ったところ、翌日、降雨を見た。このことからこの神社の名は広まり、松阪の豪商・三井氏が江戸に進出すると、その守護神として崇め、越後屋の本支店に分霊を奉祀した。


本来は牛嶋神社の隣にあったが、洪水で一度流され、河岸に堤が築かれることになった際に南へ少し移動した[1]。その堤のために、対岸から見ると、鳥居が堤から奇妙に頭だけ出しているように見え、浮世絵などに好んで描かれた。

三井家との関係
三井家では、享保年間に三囲神社を江戸における守護社と定めた。理由は、三囲神社のある向島が、三井の本拠である江戸本町から見て東北の方角にあり、鬼門だったことと、三囲神社の“囲”の文字に三井の“井”が入っているため、「三井を守る」と考えられたため。社域の一角には没後100年を経た三井家当主たちを祀った「顕名霊社」がある。三井グループ各社の総務部によって三囲会が組織されており、年に4回代表が一堂に会し祭典を催している[2]。閉店した池袋三越前にあったライオン像も寄贈されている。

三越
各店に分社があるが、なぜか日本橋本店(屋上)ではなく銀座店(9階屋上)に社務所がある(日中のみの対応で諸業務のほかおみくじも引ける)。

祭神

・宇迦之御魂之命、宇迦御魂之命

なお、丹後神社の祭神も、宇迦御魂之命である。

その他

この神社の境内には、隅田川七福神のうち「恵比寿」・「大国神」が祀られている。


木嶋神社
と同様の石造りの三柱鳥居がある。この石造りの三柱鳥居は「三井邸より移す。原型は京都太秦・木嶋神社にある」と境内に表示されている。


三柱鳥居の手前には三本柱の屋根を持つ手水鉢がある。

ライオンの狛犬
神社境内の狛犬の傍にライオンが置かれている。三越デパートの入り口に置かれている物と同じ像で、2009年平成21年)に三越から奉納された。かつては池袋三越店頭に設置されていたもので、同店の閉店に伴い、神社からの申し出により、三越と強い縁を持っている事から実現した。

灯籠

三囲神社の灯籠の火袋には三つの穴があいている。三つ穴灯籠三郷市丹後神社にもある。


三囲神社、丹後神社の祭神は共に宇迦御魂之命である。

一勇斎歌川先生墓表
明治6年(1873年)に浮世絵師歌川国芳を顕彰するために絵馬堂脇に建立された石碑

文化財

三囲神社石造鳥居(堤下の大鳥居)

 墨田区登録有形文化財(建造物)[3]


三囲神社本社

 墨田区登録有形文化財(建造物)[3]


宝井其角「ゆうだちや」の句碑 (雨乞いの句碑)

 墨田区登録有形文化財(歴史資料)[3]


三囲神社の石造常夜燈

 墨田区登録有形文化財(歴史資料)[3]


「一勇斎歌川先生墓表」(歌川国芳顕彰碑)

 墨田区指定有形文化財(歴史資料)[3]


三囲神社の石造狛犬

 墨田区登録有形民俗文化財[3]


三囲神社の石造神狐

 墨田区登録有形民俗文化財[3]

所在地
東京都墨田区向島2-5-17

脚注
1. 隅田川少考
2. 三井広報委員会 SPOT 三囲神社
3. a b c d e f g 墨田区.

参考文献
・“登録文化財一覧”. 墨田区ホームページ. 墨田区. 2020年6月26日閲覧。

外部リンク
三囲神社”. 東京都神社庁. 2020年6月26日閲覧。

・斎藤幸雄 (1927). “三囲稲荷社”. 江戸名所図会. . 有朋堂書店. pp. 169,174-175,179. NDLJP:1174161/92 

浮世絵に描かれた三囲神社

・“正一位三囲稲荷大明神”. くもん子ども浮世絵ミュージアム. 公文教育研究会. 2020年6月26日閲覧。
(wikiより)

1a

1b

1c

1d

1e

1f

1g

1h

1i

1j

1k

1l

1m

1n

1o

1p

1q

1r

1s

1t

1u

1v

1w

1x

1y

1z

1z2

1z1

1z3

1z4

1z5

1z6

1z7

1z8

1z10

1z11

1z9



直次郎 32歳の時、深谷宿の旅籠で、飯盛り女として働く、美寧 ( みね ) と出会い、事情を聴くと親は旧彦根藩武士の娘で、養子縁組で親と意見が合わず家出しているとのこと。

教養も有り将来必要な人と直次郎は感じ、尾高家にこの事を話すと、一旦尾高家の養女とした後に、妻として向かい入れることを承諾してもらいます。

仕事も順調に進み豪農として村からも信頼されるようになっていきます。
(富岡製糸場ホームページより)

014a

014b

014c

014d



三代目の工場長時代に副工場長としてその才能を発揮して暗殺された。

013a

013b

013c

013d



1823年 ( 文政 6 ) 10. 5 ~ 1898年 ( 明治 31 ) 1. 27

韮塚直次郎は、1832 ( 文政 6 ) 年に尾高家の使用人として働いていた父・久保田熊次郎と、同じく使用人であった母・銀の長男として尾高家 ( 惇忠の祖父・磯五郎の時代) ) の離れで 生まれました。

当時、尾高家は 油屋と呼ぱれ、農業のほかに菜種油、藍玉製造 、販売、 塩、 雑貨等を販売しており、使用人も雇っていました。

直次郎が 7歳の頃、同じく搾油業 を営んでぃた韮塚仙之助 ( 明戸村 : 現深谷市 ) に跡継がいないことを知った磯五郎は、まじめに働く熊次郎親子を韮塚家に養子縁組する事を薦めました。

そうして熊次郎親子は韮塚家に入り、韮塚姓を名乗るようになりました。

しかし、2年後には仙之助が亡くなり、翌年には熊次郎も亡くなったため、生活の糧を得るために銀は直次郎と共に再び尾高家の使用人として住み込みで働くようになりました。

7年問働いた後に独立して韮塚家に戻った母子は 、農業のほかに養蚕、藍玉作り、菜種油の製造・販売に力を注いだため幕末には豪農としての地位を築いたのでした。

このようにたゆまぬ努力でができた背景には、尾高家の物心両面の力添があったと思われますが、この直次郎のひたむきに努力する姿を尾高惇忠が目の前で見ていたため直次郎に対して深い信頼を寄せたと見る事が出す。

尾高惇忠が韮塚直次郎に富岡製糸場の礎石の運搬や煉瓦製造を任せたのはこのような背景がありました。

富岡製糸場の建設において資材調達のまとめ役をつとめた人物として知られていますが、製糸場は洋式の建物となることが決まっていて、明治時代となって 4年あまりの当時ですから、それがどんな建物なのか、想像することも非常に困難なものだったことでしょう。

主要な建築材料となる煉瓦も、まだその製造方法すら分かっていない中、直次郎は地元明戸の瓦職人たちを束ね、外国人技師バステアンから煉瓦の素材や性質を聞き、材料である粘土探しからはじめました。

そして、富岡に近い笹森稲荷神社 ( 現甘楽町福島 ) 付近の畑から煉瓦に適した粘土を発見し、その周辺に焼成窯を設け、試行錯誤の末に、煉瓦を焼き上げることに成功したのです。

その他にも、 当時はセメントがなく、煉瓦をつなぎ合わせる漆喰にも強度を増すために膠等混ぜての技術や、妙義山から御神木とされていた杉の木の切り出し、連石山から石材の切り出し、輸送や瓦など、多くの資材調達を請け負った 韮塚直次郎は、製糸場完成後は富岡製糸場の工女 400人分、1日 3食の賄い ( 今で言う社員食堂 ) を任せれます。



富岡製糸場 工女募集に奔走
富岡製糸場は伝習の場であるため、3年程で技術を取得し、工女たちは国元に帰っていき、明治 8年頃には当初入場した工女たちは殆んどいなくなりました。

工女の補充が必要となり、韮塚直次郎は妻の美寧 ( ミネ ) の出身地 ( 旧彦根藩 ) に工女を求めました。

当時彦根藩の旧藩士たちは、生活が困窮している人が多く、工女を募集したところ思った以上に希望者が有り、製糸場で受け入れられない程だったので、韮塚製糸場を建設したのか、韮塚製糸場を建設したので工女を求めたのか詳細は 、はっきりしていないようです。

韮塚製糸場の建設が明治 9年であること、植松サト ( 死亡時、明治 13年 22歳 ) 植松コト ( 死亡時、明治 12年 16歳 ) の姉妹の姉は、富岡製糸場へ入場させていること、清水ゲン ( 死亡時、明治 10年 9歳 10ヶ月 ) は、富岡製糸場ではなく、韮塚製糸場に入場させています。

当初、富岡製糸場の工女の雇用年齢は 12歳以上と決められていたため、清水ゲンの様に年齢が 12歳に満たないものは、韮塚製糸場に一時預かり、12歳になるのを待ったと考えても良いのではないでしょうか?

又、予定以上に工女希望があったため、韮塚製糸場で預かるための製糸場とも考えられます。

韮塚製糸場に付いたは、詳細な資料がないためはっきりしない部分が多々あるようです。

数年で閉場した韮塚製糸場の工女たちは、富岡製糸場に移り、直次郎は、富岡製糸場の賄い方の御用商人として独立し、多角経営に乗り出します。
(富岡製糸場ホームページより)

012a

012b

012c

012d



〇 旧官営富岡製糸場 工女の説明

旧官営富岡製糸場は、日本の近代国家への礎として、明治政府が総力を結集し国営で創設した。


外国人の設計による西洋式建物 ( 木骨レンガ造り ) で、我が国最初の工場化された産業施設であり、近代産業の象徴として又日本蚕糸工業の官営模範工場として、一八七二年 ( 明治五年 ) 十月に操業を開始した。


現在は片倉工業株式会社富岡工場となっている。

この操業に当たって特に苦心したのが工女の募集である。


当時、ブドウ酒を飲む外国人を見た民衆は、「若い娘の生き血を飲んでいる」といって恐れ、噂が噂を生み工女の確保に大変困ったという。


初代所長長尾惇忠は率先してまず自分の娘を入場させ、全国各府県の士族から工女を集めたという。


翌年一八七三 ( 明治六年 ) 一月には、工女総数四百四人に達し、当工場で生産する生糸は品質優良で海外に名声を博し、特に一八七三年ウィーンで開かれた万国博覧会において入賞している。


国の繁栄のため遠く親元を離れ、病のため異郷のこの地に命を落とした乙女たち四十八人の墓が、小さな肩を寄り添うように墓地中心部に立っていて、乙女たちのけなげな姿を現在に伝えている。
(案内板より)


 大雨のため全部の墓石を撮影することが出来ませんでした。

011a

011c

011e

011f

011g

011h

011i

011j

011k

011l

011m

011n

011o

011p

011q

011r

011s

011t

011u

011v

011w

011x

011y

011z



この板碑は供養塔の一種で、高さ一三九・四センチメートル、幅四五・五センチメートルの規模で武蔵型板碑である。


中央部の図様は、胎蔵界大日如来 ( たいぞうだいにちにょらい ) の真言 ( しんごん ) の梵字ア・ビ・ラ・ウン・ケンを下から上に、言い換えると上からケンを一字・ウン・ラ・ビ・アを相向かいに二文字ずつ五輪塔型に組合わせて図案化したものである。


その上に瓔珞 ( ようらく ) をつけた天蓋 ( てんがい ) 、五輪塔の下に蓮台 ( れんだい ) を刻し、蓮台下に「貞治三年甲辰卯月日」と刻まれてる。


その左右に「逆修 ( ぎゃくしゅ )」「聖書」、外側には梵字で光明真言を四行刻み、左右に花瓶 ( けびょう ) を付刻している。


さらに周囲には三条線の区画内にア・ビ・ラ・ウン・ケンの梵字を配している。


造立者は不明であるが、逆修の文字のあることから生前供養として建立されたものである。


なお龍光寺開山の祖である「貞誉上人」が刻んであるのは追刻である。


記年銘は北朝年号 ( ほくちょうねんごう ) の貞治三年 ( 一三六四 ) であるが、薬研 ( やげん ) 刻の刻法からも鎌倉時代の様式を十分表現している。


他に類例のない秀作である。
(案内板より)

010a

010b

010d

010c

010e



イチョウは、イチョウ科の落葉高木です。


この大イチョウは、樹高二十五メートル、目通し周は五メートル、根回りは九る.五メートルの雌株です。


根元から四~五メートルの高さから枝を張り、枝張りは東西十五メートル、南北十四メートルに及びます。


東の幹が主幹となり樹幹 ( じゅかん ) を形成してり、枝のもとには多数の気根 ( きこん ) が見られます。


樹齢は三百八十年以上と推定でき、今なお生育を続けるイチョウとしては市内でも有数の巨木です。


龍光寺は、長禄年間 ( 一四五七 ~ 一四六〇 ) 奥平氏により宮崎村 ( 現富岡市宮崎 ) に創建され、慶長十七年 ( 一六一二 ) から元和三年 ( 一六一七 ) にかけて富岡町 ( 現富岡市富岡 ) が創設された際に、宮崎から現在地に移転しました。


このイチョウには、龍光寺が富岡に移った際に移植されたという伝承もあります。


市街地の屋根越しに各所から望むことができる大イチョウは、龍光寺を訪れる子供たちや参詣者にも親しまれています。
(案内板より)

009b

009a

009c

009d



JR高崎駅にある『幸福のだるま』モニュメント。

008a



↑このページのトップヘ