本牧jack『意外と身近にある歴史散歩』日々是好日 心灯 頬笑

本牧Jackで御座います
小生の拙ブログ『意外と身近にある歴史散歩』日々是好日 心灯 頬笑に御訪問頂き誠に有難う御座います。
歴史ドラマが流行っている昨今、身近に有って気が付かなかったりする様な物を取り上げたりしています。
たまに『 大人数で取材しているのか? 』との質問を戴きますが、小生と相方の二人三脚で御座います。
出来るだけ続けたいと思っていますが 膝・耳に問題が有って、いつまで出来るやら・・・説明も、やたら長いものから あっさりしたものまで有りますが、御付き合いの程 宜しく御願い致します。
御注意 . 少ないですが生前に建てられた『 生前墓 』の記事も有ります。 ※ 申し訳御座いませんが「画像の転用」は禁止とさせて頂きます。 コメントは原則公開させていただいております 質問等に対してはブログ記事で返信させていただきます 他の方法で連絡を取り合う等一切しません 場合によっては、「IPブロック」しますがブロックした場合解除する事は有りませんので宜しくお願いします。

2023/07

平岡 円四郎(ひらおか えんしろう、1822年11月20日文政5年10月7日〉- 1864年7月19日元治元年6月16日〉)は、日本武士一橋家家臣・家老並)。徳川慶喜小姓を務めた。は方中。

生涯

旗本岡本忠次郎の四男として生まれ、16歳の時に旗本・平岡文次郎の養子となる。昌平坂学問所にて学問所寄宿中頭取(学生寮の寮長)に就任するなど若い頃から聡明だった。だが、人づきあいが苦手な性格が災いしてか「武術鍛錬のため」と2年ほどで学問所を辞めてしまう。その後10年近くは定職につかずにいたが、一時的に町方与力の助手をしたりすることはあったという[2]


徳川慶喜
(一橋家相続及び改名前は松平昭致)が一橋家に入った際、父親の徳川斉昭は慶喜に諍臣が必要と考え藤田東湖にその人選を依頼。平岡の才能を認めていた川路聖謨や藤田から同家の小姓として推薦され、慶喜に仕えることとなった[2]安政5年(1858年)に徳川家定将軍継嗣をめぐっての争いが起こったときには、平岡と中根長十郎(一橋家家老)は主君の慶喜を将軍に擁立しようと奔走したが、将軍には徳川慶福紀州藩主)が擁立されてしまい、失敗する。しかも直後の安政の大獄では、大老井伊直弼から一橋派の危険人物として処分され、小十人組に左遷された。安政6年(1859年)、甲府勝手小普請にされる。


文久
2年(1862年)12月、慶喜が将軍後見職に就任すると江戸に戻る。文久3年(1863年)4月、勘定奉行所留役当分助となり、翌月一橋家用人として復帰した。この年、慶喜の上洛にも随行している。京都で慶喜は公武合体派諸侯の中心となるが、裏で動いているのは平岡と用人の黒川嘉兵衛と見なされた[注釈 1]。慶喜からの信任は厚く、元治元年(1864年)2月、側用人番頭を兼務、5月に一橋家家老並に任命される。6月2日には慶喜の請願により大夫となり、近江守に叙任される[4]。その2週間後の6月14日、渡辺甲斐守の宿所から御用談所へ向かう途中、京都西町奉行所付近[5]にて在京水戸藩士江幡広光林忠五郎らに襲撃され暗殺された。平岡に同行し暗殺者を倒した川村恵十郎によると、一人に背後から頭へ、一人に腰へ一刀づつ斬り付けられ即死だったという[6]享年43。


遺体は京都で荼毘に伏せられ、本所本久寺に葬られた。法号は養忠院殿徳孝日浄大居士。なお、円四郎自身の墓石は関東大震災後の特設墓地造営により失われており、東京大空襲においても同寺は被害を受け、現在はその名前は見ることはできないがコンクリート製の"平岡家之墓"に同族の平岡煕平岡養一などと並んで葬られている。

評価
平岡の推薦で一橋家の家臣に取り立てられた経験を持つ渋沢栄一は後年、以下のように述べている。

この人は全く以て一を聞いて十を知るといふ質で、客が来ると其顔色を見た丈けでも早や、何の用事で来たのか、チヤンと察するほどのものであつた。然し、斯る性質の人は、余りに前途が見え過ぎて、兎角他人のさき回りばかりを為すことになるから、自然、他人に嫌はれ、往々にして非業の最期を遂げたりなぞ致すものである。平岡が水戸浪士の為に暗殺せられてしまうやうになつたのも、一を聞いて十を知る能力のあるにまかせ、余りに他人のさき廻りばかりした結果では無からうかとも思ふ。
 
                                    — 渋沢栄一『実験論語処世談』[7]


脚注
注釈
1. 「天下の権朝廷に在るべくして在らず幕府に在り、幕府に在るべくして在らず一橋に在り、一橋に在るべくして在らず平岡・黒川に在り」と評された[3]
2. 「二日 幕府、禁裏守衞総督德川慶喜權中納言・後征夷一大橋將軍ノ願意ニ依リ、其家家老並平岡方中圓四郎ヲ諸大夫ト為スニ敍ス近江守ト稱ス」

出典
1. 雨夜譚会談話筆記』 - デジタル版「渋沢栄一伝記資料」
2. a b 丸山淳一 (2021年6月2日). “堤真一さんが演じた平岡円四郎の志、渋沢栄一はどう引き継いだか”. 読売新聞. https://www.yomiuri.co.jp/column/japanesehistory/20210531-OYT8T50042/ 
3. 『朝日日本歴史人物事典』「平岡円四郎」(執筆者:井上勲
4. 『大日本維新史料稿本』コマ924[注釈 2]
5. 紀行第16回「東京都文京区/京都府京都市」大河ドラマ青天を衝け
6.  藤木喜久麿 (1940-06). “川村恵十郎日記より見たる青淵先生(上)”. 竜門雑誌 (621). 
7. 『実験論語処世談』2.平岡円四郎と藤田小四郎

参考文献
維新史料綱要データベース東京大学史料編纂所

  ・『大日本維新史料稿本』(維新史料編纂事務局編)

デジタル版「実験論語処世談」(渋沢栄一記念財団)

登場作品
テレビドラマ
・『雲を翔びこせ』(1978年 TBSドラマスペシャル 演:田村高廣

・『雄気堂々』(1982年 NHK時代劇ドラマスペシャル 演:児玉清

・『翔ぶが如く』(1990年 NHK大河ドラマ 演:永田博丈

・『徳川慶喜』(1998年 NHK大河ドラマ 演:新井康弘

・『西郷どん』(2018年 NHK大河ドラマ 演:山田純大

・『青天を衝け』(2021年 NHK大河ドラマ 演:堤真一

外部ドラマ
平岡円四郎』 - コトバンク
(wikiより)

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明徳小学校発祥之地
1872 ( 明治 5 ) 年に学制が公布され 公立学校が設立されることになり、ここ本所地区でも 本久寺に寺子屋が開設された。


これが 後の明徳小学校である。


その 3年後に ここから南東に 400m先 ( 現在の本所中学校 ) に移転。


1923 ( 大正 12 ) 年の関東大震災で校舎が焼失し,、7年後に 鉄筋の新校舎が完成したが、1945 ( 昭和 20 ) 年の東京大空襲で再び全焼し、翌年 国民学校の廃止に伴い廃校になった。


この発祥碑は 今年 ( 2006 ) 6月に 開校 130周年記念として建立された。

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本久寺(ほんきゅうじ)は、東京都墨田区にある日蓮宗寺院

概要

戦国時代末期、清眼院日有によって開山された。創建年について、『寺社書上』では1571年元亀2年)、『江戸名所図会』では1575年天正3年)、寺伝では1585年(天正13年)としている[1]


当寺保管の祖師(日蓮)像は、日朗が首を、日法が胴体を造ったといわれている。元来は谷中感応寺(現在の天王寺)にあったものだが、当時の感応寺は不受不施派に属していたことから、幕府の弾圧に遭い、天台宗の寺となってしまったため、この寺に移したという[1]

交通アクセス
浅草駅より徒歩8分。

脚注
1. a b 小島惟孝 著『墨田区史跡散歩 (東京史跡ガイド7)』学生社、1993年、71-72p

参考文献
・小島惟孝 著『墨田区史跡散歩 (東京史跡ガイド7)』学生社、1993年
(wikiより)

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葛飾柴又寅さん記念館(かつしかしばまたとらさんきねんかん)は、東京都葛飾区柴又に所在する記念館である。

柴又は松竹製作・配給の映画男はつらいよ』の舞台であり、当該作品の世界観および各種資料を再現・展示したものである。

施設概要
・住所:東京都葛飾区柴又6丁目22番19号

・正式名称:葛飾区観光文化センター内葛飾柴又寅さん記念館

指定管理者共立メンテナンス2014年4月~)

・開館:1997年11月16日

・開館時間:9:00 - 17:00(閉館30分前に入場)

・休館日:第3火曜日(但し第3火曜日が祝日の場合は直後の平日)および12月の第3火・水・木曜日

・入場料:一般500円、児童・学生300円、シルバー400円、団体(一般)400円

京成電鉄の主要駅(京成上野駅成田空港駅など)では当記念館の前売入場券を発売している。(一般450円、児童・学生270円)

解説

柴又地区で、江戸川高規格堤防の整備事業が行われ、河川敷法面が一体で整備され「柴又公園」が設立された。当該記念館は、その柴又公園の真下に作られたものである。別棟にはレンタサイクルのセンターが設置されている。


『男はつらいよ』の世界をコーナー別に分けて展示しており、松竹大船撮影所神奈川県鎌倉市2000年閉鎖)から移設した「くるまや」「朝日印刷所」のセット、映画の名場面を紹介した映像コーナー、実物の革カバンなどの展示コーナー、記念撮影コーナーなどがある。2012年からは『男はつらいよ』の原作者で第3作と第4作を除いたシリーズの監督も務めた山田洋次を顕彰する『山田洋次ミュージアム』を開設している。

展示物
・「くるまや」セット

・「くるまや」ミニチュア模型

・「朝日印刷所」セット

・思い出に残るなつかしの駅舎

・生まれも育ちも葛飾柴又コーナー

・帝釈人車鉄道への旅

・作品資料展示コーナー 他

関連項目
柴又

男はつらいよ

渥美清

山田洋次

外部リンク
寅さん記念館

葛飾区観光サイト かつまるガイド
(wikiより)

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山田洋次監督の自筆による「男はつらいよ」でおなじみの台詞が刻されています。

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柴又駅(しばまたえき)は、東京都葛飾区柴又四丁目にある京成電鉄金町線駅番号KS50

歴史
帝釈人車鉄道
1899年明治32年)12月17日 - 帝釈人車鉄道(後の帝釈人車軌道)の駅として開業。

京成
1912年大正元年)11月3日 - 京成電気軌道の駅として開業。開業当時は終点であった。

1913年(大正2年)10月21日 - 京成電気軌道の金町(後の京成金町駅)延伸により、中間駅となる。

1945年昭和20年) - 社名変更により京成電鉄の駅となる。

1997年平成9年) - 「関東の駅百選」に選定。選定理由は「ご存知寅さんの『男はつらいよ』の雰囲気を考慮した瓦葺き風の駅舎」。

2010年(平成22年)7月5日 - 当駅 - 京成高砂駅間が複線から単線並列に切り換えられる。

2021年令和3年)2月26日 - 駅前の商業施設「柴又駅前店舗」が一部開業[1][2]


1929年
に投機会社筑波高速度電気鉄道1930年に京成と合併)が当駅を通る松戸支線の鉄道免許を取得したが、当駅を含む区間は後年失効。また、1962年新京成線松戸駅から当駅までの延伸の敷設免許が新京成電鉄に下りていたが、一部用地が取得できず、1970年代までに失効した。

駅構造

相対式ホーム2面2線を有する地上駅京成金町駅管理)。ホーム有効長は6両。


2010年7月4日までは当駅 - 京成高砂駅間は複線で、列車交換も一部時間帯でのみ行われていた。成田スカイアクセス開業に伴う京成高砂駅東側の踏切の遮断時間短縮のために、同年7月5日から京成高砂駅の金町線ホームが高架化され、京成高砂方が単線並列(ただし1本は入・出庫線)となり、早朝と深夜を除くほとんどの時間帯に当駅で列車交換が行われるようになった。金町側は単線となっている。


駅舎は京成高砂方面ホーム側にある。改装時には山田洋次の意見も取り入れて、純和風の外観となった。京成金町方面ホームとは構内踏切により連絡している。初詣葛飾納涼花火大会などの多客時には金町方面ホーム側の臨時改札口(有人)や臨時出札口も営業することがある。

のりば、利用状況については、『柴又駅ウィキペディア』をご覧ください。 ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9F%B4%E5%8F%88%E9%A7%85

駅周辺
周辺は山田洋次が監督し、渥美清が主演したテレビドラマおよび劇映画シリーズ『男はつらいよ』(1968年 - 1995年)の舞台となった地域・柴又である。駅前には、渥美清が演じた「フーテンの寅」(車寅次郎)の銅像がある。この銅像は渥美清の死去に伴い『男はつらいよ』シリーズが終了したことにより、主役「車寅次郎」および俳優渥美清を記念して1999年に建てられたものである[7]。男はつらいよシリーズには柴又帝釈天参道や当駅が度々登場して「柴又出身者」が主役となっている物語の世界観を決定付け、現実の柴又の知名度を向上させた[8]。その後、2017年には振り返る寅さんを見送る妹さくら(倍賞千恵子)の銅像も建立されている[9]


柴又帝釈天へは駅前からの参道が通じており、開業当時から、正月初詣)や庚申の日には多くの参拝客で賑わう。加えて、渥美の死去後、映画の舞台として探訪する観光客が急増した。その後、葛飾区は「寅さん記念館」や「山田洋次ミュージアム」を開設し、「こちら葛飾区亀有公園前派出所」の亀有とともに区内の物語の舞台であることをPRするラッピング列車を走らせるなど、観光に力を入れている。また、葛飾納涼花火大会の会場最寄駅でもある。


以上のことに加え、住宅密集地であることも相まって、小さな構内の当駅は混雑しやすく、並行路線バスの本数も多い。


・経栄山題経寺(柴又帝釈天

・葛飾区観光文化センター

  ・葛飾柴又寅さん記念館

  ・山田洋次ミュージアム

葛飾区山本亭

柴又八幡神社

・おりつ地蔵尊

江戸川

  ・矢切の渡し柴又側船着場

金町浄水場

・葛飾区柴又区民サービスコーナー

  ・柴又地域センター

・葛飾柴又郵便局

・葛飾柴又一郵便局

柴又街道

京成バス京成タウンバス「柴又帝釈天」停留所

その他

・当駅は『男はつらいよ』シリーズのほぼ全作に登場するため、車両や駅の変遷を映像からたどることができる。

・駅名の表記は、プラットホーム上やウェブサイト、時刻表などの冊子では柴又であるが、駅前広場に面する駅舎上部のみ柴叉と、「又」より一つ点が多い「叉」が使用されている。

・前記の『こちら葛飾区亀有公園前派出所』やアニメ版の『男はつらいよ』で当駅駅舎が描写されたことがある。

隣の駅

京成電鉄
KS 金町線

        京成高砂駅 (KS10) - 柴又駅 (KS50) - 京成金町駅 (KS51)

脚注
1. “「柴又駅前店舗」が開業します!” (PDF) (プレスリリース), 京成電鉄, (2020年12月18日), オリジナルの2020年12月18日時点におけるアーカイブ。, https://web.archive.org/web/20201218081644/https://www.keisei.co.jp/information/files/info/20201218_154537647928.pdf 2021年4月9日閲覧。 
2. “柴又駅前の商業施設が一部オープン 「風景の国宝」に配慮、ファミマの看板は茶色に”. 東京新聞. (2021年2月27日). オリジナルの2021年2月27日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20210227022943/https://www.tokyo-np.co.jp/article/88414 2021年4月9日閲覧。 
3. 駅別乗降人員(一日平均) (PDF) - 京成電鉄
4. 葛飾区統計書 - 葛飾区
5. レポート - 関東交通広告協議会
6. 東京都統計年鑑 - 東京都
7. 「フーテンの寅像」説明
8. 今こそ「寅さん」の世界へ!定番から穴場まで柴又昭和散歩”. 楽天トラベル (2019年3月22日). 2020年7月14日閲覧。
9. 『見送るさくら』像除幕式レポート!「お兄ちゃん、もう寂しくないよ」|松竹映画『男はつらいよ』公式サイト| 松竹株式会社” (日本語). 『男はつらいよ』公式サイト | 松竹株式会社. 2020年9月23日閲覧。

出典
東京都統計年鑑
1. 東京都統計年鑑(平成2年)
2. 東京都統計年鑑(平成3年)
3. 東京都統計年鑑(平成4年)
4. 東京都統計年鑑(平成5年)
5. 東京都統計年鑑(平成6年)
6. 東京都統計年鑑(平成7年)
7. 東京都統計年鑑(平成8年)
8. 東京都統計年鑑(平成9年)
9. 東京都統計年鑑(平成10年) (PDF)
10. 
 東京都統計年鑑(平成11年) (PDF)
11. 
 東京都統計年鑑(平成12年)
12. 東京都統計年鑑(平成13年)
13. 東京都統計年鑑(平成14年)
14. 東京都統計年鑑(平成15年)
15. 東京都統計年鑑(平成16年)
16. 東京都統計年鑑(平成17年)
17. 東京都統計年鑑(平成18年)
18. 東京都統計年鑑(平成19年)
19. 東京都統計年鑑(平成20年)
20. 東京都統計年鑑(平成21年)
21. 東京都統計年鑑(平成22年)
22. 東京都統計年鑑(平成23年)
23. 東京都統計年鑑(平成24年)
24. 東京都統計年鑑(平成25年)
25. 東京都統計年鑑(平成26年)
26. 東京都統計年鑑(平成27年)
27. 東京都統計年鑑(平成28年)
28. 東京都統計年鑑(平成29年)
29. 東京都統計年鑑(平成30年)
30. 東京都統計年鑑(平成31年・令和元年)

関連項目
日本の鉄道駅一覧

外部リンク
柴又駅|電車と駅の情報 - 京成電鉄

(wikiより)

087a 柴又駅

⇧ 柴又駅(wikiより)

087a

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087c

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⇧ よく見ると寅さん

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087f



壷月とは富山第十六世渡辺海旭上人 ( 一八七二 ~ 一九三三 ) の号。


ドイツにて十年間の留学中、哲学博士の学位を取得、帰国後は芝学園校長社会福祉事業の実践、大蔵経の編纂、国際協力等大乗仏教の精神に則り広く社会に貢献した。


また多くの優れた門弟を養成し、当代屈指の名僧と慕われた。


北鴎は芝学園出身で慶應義塾大学在学中富寺に三年間寄食し、直接薫陶を受けた。


西光寺第十八世明誉記
(石碑文より)

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この辺りに、前原伊助宅がありました。


伊助は、赤穂浪士四十七士の一人で、浅野家家臣・前原自久の長男として生まれ、延宝四年 ( 一六七六 ) に家督を継ぎます。


金奉行として勤仕したため、商才に長けていました。


浅野内匠頭の刃傷事件後は江戸急進派として単独で別行動をとりました。


初めは日本橋に住んでいましたが、やがて吉良邸裏門近くの本所相生町二丁目に移り住み、「米屋五兵衛」と称して店を開業し、吉良家の動向を探りました。


その後、大石内蔵助と行動をともにしました。


討ち入りの直前には、亡君の刃傷事件から討ち入りまでの経過を漢文体で克明に書き綴った「赤穂盟伝」を著しています。
(案内板より)

〇 前原伊助
前原 宗房 (まえはら むねふさ、寛文4年(1664年) - 元禄16年2月4日1703年3月20日))は、江戸時代前期の武士赤穂浪士四十七士の一人。通称は伊助(いすけ)。

生涯

寛文4年(1664年)、浅野家家臣・前原自久の長男として赤穂藩浅野家江戸上屋敷に生まれる。


延宝
4年10月9日1676年11月14日)、父・自久の死により元服のうえ家督を継いだ(10石3人扶持)。宗房は江戸詰めの金奉行(蔵奉行とも)として勤仕したため、財政に明るかった。これが後に商人に成りすます際に大いに役に立った。


元禄14年3月14日1701年4月21日)に起きた主君・浅野長矩吉良義央への刃傷の際に前原は江戸にいた。

その後、江戸急進派として行動し、はじめ大石良雄らの盟約に加わらず、別行動をとった。はじめ日本橋あたりに住んでいたが、9月には吉良邸裏門近くの本所相生町二丁目に移住して「米屋五兵衛」と称して店を開業しながら吉良家の動向をさぐった。11月に良雄が第一次江戸下向をした際にその盟約に加わる。元禄15年(1702年)4月には「小豆屋善兵衛」と称していた神崎則休と合流して一緒に暮らした。6月には浅草茶屋にて杉野次房武林隆重倉橋武幸不破正種勝田武尭らと同盟の誓約をする。また討ち入りの直前には亡君刃傷から討ち入りまでの経過を漢文体で書き綴った『赤城盟伝』を著しており(則休が注釈をいれ、木村貞行が序文を寄せた)、このなかで脱盟者のことを辛辣に評している。


吉良邸討ち入りの際には裏門隊に属した。本懐後は長府藩毛利家に預けられ、元禄16年2月4日1703年3月20日)に毛利家家臣・榊政右衛門の介錯で切腹した。享年40。主君・長矩と同じ高輪泉岳寺に葬られた。法名は刃補天剣信士。


なお、『忠臣蔵』のドラマでは、宗房は吉良邸探索中に小林平八郎清水一学に察知されて拷問を受ける場面を描かれることが多いが、特に史実に基づく確証がある話ではない。

関連項目
大石神社
(wikiより)

050 前原伊助

⇧ 前原伊助

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050c



二代目・会津小鉄

・1886年、上坂卯之松(上坂仙吉の実子)は、会津小鉄二代目に襲名した。

・1935年、会津小鉄二代目・上坂卯之松は、死去した。
(wikiより)

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⇧ 上坂仙吉墓

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⇧ 上坂卯之松墓



 2021年 9月 19日再訪


リニューアルしたと聞いたが、あまりの変わり様にビックリ。

また案内板の文章も変更されていたので掲載します。


〇 将門塚
神田明神のご祭神である東国の英雄・平将門公の御首 ( みしるし )
お祀りしております。


平将門公は、承平天慶年間 ( 931 ~ 946 ) に活躍され、武士の先駆けとして関東地方の政治改革に尽力され、弱きを助け強きを挫くその性格から民衆より篤い信望を受けていました。


今を去ること 1075年ほどの昔、桓武天皇五代の皇胤鎮守府将軍・平良将公は、下総国に兵を起こし、たちまちにして坂東八ヶ国を平定、自ら平新皇と称して政治の革新を図りましたが、平貞盛と藤原秀郷の奇襲をうけ、馬上人頭に戦って憤死しました。


享年 38歳、世にこれを天慶の乱といいます。


その後、将門公の首級は京都に送られ獄門に架けられましたが、三日後白い光を放ち、東方に飛び去り、武蔵国豊島郡芝崎に落ちました。


大地は鳴動し太陽も光を失って暗夜のようになったとされ、村人は恐怖し、塚を築いて埋葬しました。


これが、この将門塚と語り伝えられています。


その後も度々、将門公の怨霊が祟をなすため徳治 2年、時宗二祖真教上人は、将門公に蓮阿弥陀仏という法号を追贈し、塚前に板石塔婆を建て、日輪寺にて供養し、さらに傍の神田明神にその霊を合わせ祀ったところ、ようやく将門公の霊魂も鎮まり、この地の守護神になったといわれています。


天慶の乱は平安期の中期に当たり、京都では藤原氏が政権をほしいままにし、我が世の春を謳歌していました。


遠い坂東では国々の司が私欲に走り善政を忘れ、下僚は収奪に民の膏血 ( こうけつ ) をしぼり、加えて洪水や旱魃 ( かんばつ ) が相次ぎ、人民は食なく衣なく、その窮状は言語に絶するものでした。


その為、これらの力弱い多くの人々が将門公によせた期待と同情とは極めて大きなものがあり、今もって関東地方には数多くの伝説と将門公を祀る神社があります。


このことは将門公が歴史上朝敵と呼ばれながらも、実は郷土の勇士であったことの証です。


また天慶の乱は、武士が台頭する烽火 ( のろし ) であったと共に、弱きを助け強きを挫く江戸っ子気風へと繋がり、今日の社会にも大きい影響を与えています。


江戸時代の寛文年間、この地は坂井雅楽頭の上屋敷の中庭であり、歌舞伎「先代萩」で知られる伊達騒動で伊達安芸と原田甲斐の殺害された場所でした。


明治時代、大蔵省再建事業の際に崩されるなどしましたが、その後、昭和になり史蹟将門塚保存会が結成され、昭和 36年 ( 1961 ) の第一次整備工事を皮切りに、幾多の変遷を経て、令和 3年 ( 2021 ) 第六次整備工事として、現況のように整備されました。


将門塚は神田明神・創建の地でもあります。


毎年 9月彼岸の日には「将門塚例祭」が執り行われ、 5月の神田祭の時には必ず鳳輦神輿 ( ほうれんみこし ) が渡御 ( とぎょ ) して神事が行われる重要な場所です。


将門塚保存会神輿も同保存会の方々により担がれており、現在も同保存会により大切に維持され、神事が行われています。


史蹟 将門塚保存会
江戸総鎮守 神田明神
(案内板より)


〇 将門塚
将門塚(まさかどづか)とは、東京都千代田区大手町にある、平将門を祀るである。東京都指定の旧跡となっている[1]

概要

かつては盛土と、内部に石室ないし石廓とみられるものがあったので、古墳であったと考えられている[2]


この地はかつて武蔵国豊嶋郡芝崎村と呼ばれた。住民は長らく将門の怨霊に苦しめられてきたという。諸国を遊行回国中であった遊行二祖他阿真教が徳治2年(1307年)、将門に「蓮阿弥陀仏」の法名を贈って首塚の上に自らが揮毫した板碑を建立し、かたわらの天台宗寺院日輪寺時宗(じしゅう)芝崎道場に改宗したという。日輪寺は、将門の「体」が訛って「神田」になったという神田明神別当として将門信仰を伝えてきた。その後江戸時代になって日輪寺は浅草に移転させられるが、今なお神田明神とともに首塚を護持している。時宗における怨霊済度の好例である。


付近一帯は江戸時代には姫路藩雅楽頭酒井家の上屋敷の敷地となり、山本周五郎の歴史小説『樅ノ木は残った』で知られる、仙台藩原田宗輔による刃傷沙汰が発生している(伊達騒動[3]


関東大震災
による被災[2]後、周辺跡地に大蔵省仮庁舎が建てられることとなり(後述)、石室など首塚の大規模な発掘調査が行われた。昭和2年(1927年)に将門鎮魂碑が建立され、神田神社の宮司が祭主となって盛大な将門鎮魂祭が執り行われる。この将門鎮魂碑には日輪寺にある他阿真教上人の直筆の石版から「南無阿弥陀仏」が拓本された。


数十年にわたり、地元のボランティア団体が浄財を元に、周辺の清掃・整備を行っているが、その資金の預金先として、隣接する三菱UFJ銀行に「平将門」名義で口座が開かれていた。


2016年から2020年にかけて隣接地で大手町再開発事業大手町ワンの建築が行われた。この工事終了に合わせて2020年、将門没後1081年にあたって1961年の第1次整備工事以来、数えて第6次目の改修工事が実施された。関係各所の総意として、「敷地内の安全性と管理性の向上を目指すと共に、これからの時代にふさわしい新しい将門塚として皆様に愛されることを目指し」て実施[4]。2020年(令和2年)11月から2021年(令和3年)4月末まで工事が行われた。

供物

2021年の第6次目の改修整備以降、一般参詣者の敷地内に供物、物品の寄進、お線香台の利用は禁止となっており注意が必要である[5]平将門命への奉納希望者は、将門塚を管理している外神田神田神社社務所にて受け付けている。お賽銭に限り以前と同様に将門塚敷地内、九曜の家紋が掘られた賽銭箱にて受け付けている。


第6次目の改修工事以前、首塚の境内には多数の蛙の置物が奉納されていた。将門の首が京都から飛んで帰ったことから、必ず「帰る(カエル)」にひっかけ、左遷に遭った会社員が、元の会社に無事に戻ってこられるように、あるいは誘拐されたり行方不明になった子供が、無事帰ってこられるように、といった願いをかけて供えられたものである[6]若王子事件以来、目立つようになった[7]

祟りの伝説

築土神社や神田神社同様に、古くから江戸の地における霊地として、尊崇と畏怖とが入り混じった崇敬を受け続けてきた。この地に対して不敬な行為に及べば祟りがあるという伝承が出来た。


1923年
大正12年)の関東大震災後に都市再開発(復興計画)として大蔵省の仮庁舎を建てようとした際、工事関係者や省職員、さらには時の大蔵大臣第1次若槻内閣)・早速整爾の相次ぐ不審死が起こったことで、将門の祟りが省内で噂されることとなり、省内の動揺を抑えるため仮庁舎を取り壊して鎮魂碑を立てた[注 1]1928年昭和3年)3月には大蔵省が主催して鎮魂祭を行っている。 しかし、早速が大蔵大臣に就任、それから程なくして亡くなったのは仮庁舎建設の3年後の1926年(大正15年)であり、仮庁舎建設には関わっていない。また、工事部長だった矢橋賢吉が死亡したのは建設から4年後の1927年(昭和2年)である。 さらに、大蔵省庁舎が落雷による火災で焼失したのは、17年後の1940年(昭和15年)の事であり、この日都内では20ヶ所で落雷していて、航空局に落雷して発生した火災が延焼したものであった[9]


また、第二次世界大戦後に戦災復興都市計画として、GHQが丸の内・大手町周辺の区画整理にとって障害となるこの地を撤去・造成しようとした時、不審な事故が相次いだため、計画を取り止めた[10]


アメリカ軍のブルドーザーが作業中に横転し、運転手が投げ出されて死亡。それまでも事故があり日本人の労務者に怪我人が出ていたので付近を調査したところ、転覆したブルドーザーの前に半分埋まっている墓のようなものが見つかり大騒ぎとなった。当時町内会長であった遠藤政蔵により、将門の首塚の碑であることが判明し、GHQ当局に陳情を重ねた結果、塚の取り壊しが中止された[11]


それらの結果、大手町周辺が高層ビル街へと発展する過程においても、首塚は取り壊しや移転を免れて残ることとなり、現在でも毎日、香華の絶えない程の崇敬ぶりを示しており、近隣の企業が参加した「史蹟将門塚保存会」が設立され、維持管理を行っている。

交通アクセス
東京メトロ都営地下鉄大手町駅C6a出入口からすぐ。

画像については、『将門塚ウィキペディア』をご覧ください。 ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%86%E9%96%80%E5%A1%9A

脚注
注釈
1.  国税庁のウェブサイトでは、「大正15年、第一次若槻礼次郎内閣で大蔵大臣であった早速整爾が突然亡くなり、管財局技師で工事部長だった矢橋賢吉が亡くなるなど続けて不幸があったため、仮庁舎建設に際する祟りが噂されるようになり、昭和2年に鎮魂碑を立てたといわれています。大蔵省に関わる祟りが事実か否かは確かめようもありませんが、昭和15年6月には、落雷による大蔵省庁舎焼失を含む大手町官庁街の火災が起こり、また、太平洋戦争後、米軍が塚を整地しようとした時にブルドーザー横転事故が起きて運転者が亡くなっています。」と記述されている[8]

出典
1. 将門塚”. 東京都文化財情報データベース. 東京都教育庁地域教育支援部. 2020年9月17日閲覧。
2. a b 鳥居竜蔵 (1927年). “上代の東京と其周囲”. 国立国会図書館デジタルコレクション. p. [要ページ番号]. 2020年6月23日閲覧。
3. スポット(将門塚)”. visit-chiyoda.tokyo. 東京都千代田区. 2020年6月23日閲覧。
4. 平将門公|将門塚保存会 » 将門塚 改修工事のお知らせ|東京都千代田区大手町1-2-1” (LANG-CODE). 2020年11月25日閲覧。
5. 『参詣者の皆さまへのお願い』案内板より
6. 加門七海『平将門魔方陣』文庫版あとがき
7. 「産経抄」(産経新聞2015年1月23日)。
8. 大手町の首塚”. www.nta.go.jp. 国税庁. 2020年6月23日閲覧。
9. 東京朝日新聞、昭和15年6月21日記事
10. 鵜飼 秀徳 (2018年3月7日). “大都市に潜む「怨霊伝説」を訪ねる 首塚とクスノキと骨壺と”. 日経ビジネスオンライン (日経BP). https://business.nikkeibp.co.jp/atcl/report/16/030500208/030500001/?P=2&mds 2018年9月17日閲覧。 
11. 史蹟将門塚保存会

関連項目
祟り

平将門の胴塚

御首神社

東京都指定文化財一覧#旧跡

村上春樹 - 国文学者。平将門研究者として知られる。

帝都物語

都市伝説の女 - 第一話目ではこの首塚にまつわる伝説が題材となった。

外部リンク
史蹟将門塚保存会

築土神社/平将門を祀る江戸の古社

神田神社(神田明神)

神田の家(将門塚保存会前会長の家)
(wikiより)

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⇧⇩ えらい変わりました。

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旧両国橋が架かる半世紀以上も前の慶長十一年 ( 一六〇六 ) 、この地で土地の開拓と海苔の製造を行っていた小林治郎右衛門が、増上寺の信誉英松和尚を迎え当寺わ創建しました。


浄土宗に所属し、江戸時代には寺子屋を開くなど地域の教育にも貢献しましたが、大火、震災、戦災など度重なる災害にも遭遇しました。


明治時代後半に第十六世住職となった渡辺海旭和尚は、ドイツに留学して仏教学の研究で博士号を取得し、帰国後は深川に浄土宗労働共済会を設立して、日本の近代社会事業の先駆者として知られています。


また、没年まで芝学園の校長ほ務めた他、当寺に多くの学生を居留させ、門下生として著名な仏教者を多数輩出しました。


学者としては『大正新修大蔵経』を監修発行したことでも有名です。


現在の本堂は、平成七年 ( 一九九五 ) に再建されました。
(案内板より)

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幕府は低湿地であった本所の開発にあたり、洪水の被害を最小限に止めるため配水路を基盤目状に開削し、掘り出した土を陸地の補強、嵩上げに利用しました。


排水路は隅田川に対し縦・横に開削されました。


万治二年 ( 一六五九 ) 、縦の代表格、堅川の開削と同時に架けられ、隅田川から入って一ツ目の橋という意で命名されたのが、この一之橋で長さ十三間、幅二間半ほどありました。


堅川の両岸には全国から水運でもたらされる様々な物品を扱う商家や土蔵などが立ち並び、橋を行き交う人々も多く、大いに賑わいました。


一之橋は、赤穂浪士が泉岳寺に引き揚げる際に最初に渡った橋としても知られています。
(案内板より)


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明治・大正期の一時代を画した日本経済史学の先駆者、内田銀蔵は明治五年 ( 一八七二 ) 正月二十五日、ここ千住仲町で江戸時代初期から続く川魚問屋の老舗「鮒与」内田与兵衛の長男として生まれました。


銀蔵は家業を継ぐ立場にありましたが幼少の頃から学問好きで、千寿小学校での成績も抜群でした。


そして学問の道を熱望したため父親も許し、地方裁判所に願い出て弟善蔵に与兵衛の名跡を相続させ、学者の道に進みました。


明治二十二年ね東京専門学校 ( 後の早稲田大学 ) 政治科に進学して経済学を学び、さらに東京大学文化大学国史科に進んで二十六年に卒業、「日本経済史及び史学と経済学との教育的価値」を課題として大学院で研究し、学会誌『史学雑誌』に日本の古代・中世・近世における経済史関係の論文を次々と発表しました。


これが認められて大学院卒業後は東京大学の講師となり、わが国最初の日本経済史を講義しました。


経済史学の創始者と後々までも称えられる所以はここにもあります。


三十五年十月、二十九歳の若さで文学博士となり、翌年一月には文部省の外国理由学生として三年半の長きにわたりヨーロッパの歴史学・経済学を学び、その間、主著『日本近世史』を刊行しました。


また、海外留学中にもかかわらず広島高等師範の教授に任命され、帰国後は京都大学文化大学の教授も兼任して史学の道を切り開きました。


史学といえば現在も京都大学が一目おかれるのは、銀蔵が築いた研究室の在り方が伝統になっているからだと言われています。


かくして四自由年五月、三十六歳の時、京都大学の専任教授となり、五年後には経済史のバイブル的存在『経済史総論』を刊行しています。


第一次世界大戦後の大正七年 ( 一九一八 ) 欧米各国に出張して翌年帰国しましたが間もなく発病し、七月二十日、四十七歳の若さで他界しました。


戒名は「文教院智顕日名居士」、墓は日ノ出町四二ノ一の清亮寺墓地にあります。


なお銀蔵は幼い日、生家の向かいにある橋本家で、稿本『自然真営道』の旧蔵者・橋本律蔵の薫陶を受けたと言われ、銀蔵の死後、京都大学に寄贈された遺品資料の中からは、〇六年九月、調べる会の調査によって、安藤昌益の医学や自然哲学を受け継ぐ川村真斎の『老子解真斎先生草稿』や橋栄徳の『静谿謾筆』、橋本律蔵の『雑記』等といった貴重な資料が見出されました。


長いあいだ昌益研究史上の謎とされてきた、安藤昌益と千住を結ぶ医師たちの系譜が他ならぬ内田銀蔵の仲介によって解明されつつあるのです。


二〇〇六年五月設置、二〇〇九年二月増補


安藤昌益と千住宿の関係を調べる会
(案内板より)

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旧両国橋の東詰め、隅田川と堅川が交差する角地がね尾上町といわれていました。


もともとは空き地でしたが、元禄七年 ( 一六九四 ) に町屋となりました。


町名の由来は、その東側に相生町があったことによります。


古来から、播磨の国の尾上神社は非常におめでたいものとされた相生の松があり、「尾上」といえば「相生」という対にように使われていたためです。


水上交通には便利な土地だったので、料理茶屋や貸し座敷、蕎麦屋などが軒を並べて、たいへん賑やかな所でした。
(案内板より)

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栃光 正之(とちひかり まさゆき、本名:中村 有雄(なかむら ありお)、1933年8月29日 - 1977年3月28日)は、熊本県牛深市深海町(現在の天草市深海町)出身で、春日野部屋に所属した大相撲力士である。最高位は東大関(1962年9月場所、1963年5月場所など)。身長176cm、体重128kg。得意手は左四つ、押し、寄り、上手投げ[1]

来歴

農家の長男で、中学生の時から宮相撲で活躍したが、天草に巡業に来た力士の一団を見て栃錦に魅せられた。1952年、熊本県水俣市で開催された相撲大会に出場した時に春日野部屋の力士から勧誘され、父の反対を押し切って同部屋へ入門し、同年5月場所で初土俵[2]


非力で不器用ながらも、春日野親方(元横綱栃木山)から押し相撲の基本を叩きこまれた。脇を固めハズ押しで攻めるために両脇にを挟んでの押しの稽古をも課せられた[2]が、無類の稽古熱心で師匠の指導を身につけていった。稽古熱心であったが好きであったわけではなく「こんな稽古、田舎にいた頃に比べればへでもないよ」と言って一生懸命取り組んでいた[3]1954年5月場所にて新十両となり、1955年3月場所では十両で15戦全勝優勝を成し遂げ、翌5月場所で入幕した[2]。ここまで初土俵から五分の場所(当時、幕下以下は8番相撲を取る)が1場所あるものの、負け越しがなかった。


なお、15日制になってから十両で全勝優勝した力士は、栃光のほかに内田(後の大関・豊山)、北の冨士(後の横綱・北の富士)、把瑠都栃ノ心の4人がいる。


入幕後はすぐに上位に進出、1956年1月場所では初日に新大関の松登を破り、4日目には横綱・吉葉山から金星をあげた。一時蕁麻疹のために伸び悩んだ時期もあったが、1962年5月場所で3日目に柏戸、12日目に大鵬の両横綱を破るなど13勝2敗と好成績を挙げ、14勝1敗で優勝した弟弟子栃ノ海と同時に場所後に大関昇進を果たした[4][1]。直前3場所前が西前頭4枚目での11勝であり、これが次点にも及ばないことから当時の感覚としてもやや甘めの大関昇進であった[5]。好成績を挙げながら幕内最高優勝には手が届かなかったものの、決して「待った」をしない立派な土俵態度のために名大関と呼ばれた[1][6]。出身地の「牛深」にちなみ「ベコ」(牛)の異名があり[1][2]、土俵態度そのままの実直で礼儀正しい人柄はファンや報道陣などから広く愛された[2]1965年9月場所から6勝9敗、5勝10敗、5勝10敗と3場所連続で負け越して大関陥落(当時の規定)が決定的となり、1966年1月場所の千秋楽限りで現役引退した。この場所12日目の柏戸戦で鯖折りを受けて右ひざから土俵に落ちたが、負けた栃光はいつもの通り直立不動の姿勢で土俵に一礼して引上げ、その土俵態度の良さから観衆が「よくやったゾ!栃光」と声を上げ、盛んな拍手がわきあがった[2]


引退後は年寄千賀ノ浦を襲名し、春日野部屋の名コーチとして栃錦をよく助けていた。親方時代には勝負審判を務めており、1969年3月場所2日目、大鵬が戸田に連勝を45で止められた「世紀の大誤審」の時に土俵下から物言いをつけた検査役が千賀ノ浦であり、1972年1月場所8日目北の富士-貴ノ花戦で北の富士の右手が「つき手」か「かばい手」かで先に物言いをつけたのも千賀ノ浦だった[7][8][2]


1977年3月28日、直腸癌のため東京都中央区内の病院で逝去。43歳没[8]

人物・エピソード
・趣味はゴルフとマージャンで、酒も好きだった。同郷の川上哲治には可愛がられていた。

・2007年にはテレビ熊本「TKUドキュメンタリードラマ 郷土の偉人シリーズ第15弾」として『押し相撲の名大関 栃光正之〜真実一路・待ったなし〜』が放送され、栃光を元幕下力士の両國宏が演じた。

・地方場所であれば当時の春日野部屋が親しくしている出羽海部屋の力士たちと遊ぶことが多かったが、東京場所では栃ノ海が出かけると話し相手がいないのでテレビを見るのが関の山であった[9]

主な成績・記録
・通算成績:577勝431敗11休 勝率.572

・幕内成績:486勝403敗11休 勝率.547

・大関成績:188勝131敗11休 勝率.589

・幕内在位:60場所

・大関在位:22場所

・三役在位:15場所(関脇7場所、小結8場所)

三賞:5回

  ・殊勲賞:3回(1961年3月場所、1962年3月場所、1962年5月場所)

  ・敢闘賞:2回(1959年5月場所、1961年7月場所)

・金星:4個(吉葉山2個、鏡里1個、朝潮1個)

・各段優勝

  ・十両優勝:1回(1955年3月場所)

  ・幕下優勝:1回(1954年3月場所)

場所別成績については、『栃光正之ウィキペディア』をご覧ください。 ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A0%83%E5%85%89%E6%AD%A3%E4%B9%8B

四股名変遷
・栃光 正之(とちひかり まさゆき)1952年7月場所 - 1966年1月場所(引退)

  ※本名の姓・中村は同名の年寄名跡があるため、そのまま四股名にすることができない。

年寄変遷
・千賀ノ浦 穏光(ちがのうら やすみつ)1966年1月 - 1977年3月(死去)

  ※番付表上は「隠光」と記載された時期あり

参考文献
・ベースボールマガジン社『大相撲名門列伝シリーズ(1) 出羽海部屋・春日野部屋 』(2017年、B・B・MOOK)

脚注
1. a b c d 『大相撲名門列伝シリーズ(1) 出羽海部屋・春日野部屋 』p29
2. a b c d e f g 北辰堂出版『昭和平成 大相撲名力士100列伝』(塩澤実信、2015年)68ページから69ページ
3. 北の富士勝昭、嵐山光三郎『大放談!大相撲打ちあけ話』(新講舎、2016年)p19
4. 同部屋から2者同時新大関に昇進したため、昇進伝達式は2人一緒に行われた。
5. 琴ヶ濱以降、年6場所制下で大関昇進を果たした力士の中で直前3場所前の地位として、最低のものである。1977年3月に大関特例復帰の規定にあずからず再大関を果たした魁傑も同じく直前3場所前に西前頭4枚目の地位にあったがこちらは14勝での優勝であった。
6. ベースボールマガジン社『大相撲戦後70年史』18ページ
7. 三宅充 「大相撲なんでも七傑事典」128頁(講談社+α文庫)
8. a b 「歴代大関大全」79頁(ベースボール・マガジン社)2014年
9. 『大相撲名門列伝シリーズ(1) 出羽海部屋・春日野部屋 』p60
10. 外傷性左肘関節炎のため途中休場
11. 腎臓炎及び頭痛のため途中休場
12. 角番(当時1969年5月場所までは3場所連続負け越しで大関陥落)

関連項目
大関一覧
(wikiより)

108 栃光正之

⇧ 栃光正之

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大本山増上寺 八十三世大僧正


大野法道
( おおの - ほうどう ) / 大野法道


明治一六年 ( 一八八三 ) 九月三日 — 昭和六〇年 ( 一九八五 )一一月二八日。


貫蓮社徹誉通阿性相陽炎 ( しょうそうようえん )。


増上寺八三世。


三重県桑名郡益生村 ( 現・桑名市 ) に松谷甚右衛門の長男 ( 幼名貞吉 ) として生まれた。


明治三〇年 ( 一八九七 ) 松阪市樹敬 ( じゅきょう ) 寺大野法音に養子入籍し、法道と改名して得度。


浄土宗学第四教校、浄土宗高等学院を卒業し、同四〇年八月、小石川伝通院において勤息義城 ( ごんそくぎじょう ) より宗戒両脈と璽書を相承した。


同四二年三月に宗教大学研究科を卒業、同四三年五月より内地留学生として研鑽を重ね、同四四年五月、天台宗西部大学講師に就任。


大正五年 ( 一九一六 ) 宗教大学教授、同一五年大正大学教授、昭和一五年 ( 一九四〇 ) 駒沢大学講師などを歴任し、同二〇年一一月、大正大学授与としては第一号となる文学博士の学位を得た。


同二一年三月、GHQの請求により「浄土宗の教義」を文部省に提出 ( 望月信亨校閲・石井真峰英訳 )。


また同三年一〇月には小石川智願寺に董住、同二五年五月には増上寺執事長に就任した。


同二八年三月に勧学。


同二九年六月、鎌倉光明寺に晋董 ( 一〇八世 )、同三一年三月に大僧正に任ぜられた。


同三七年六月に大正大学名誉教授となり、同四三年一一月には仏教戒律研究と仏教学進展への寄与が認められて銀杯を受章した。


同四六年七月に増上寺に転董 ( 八三世 )。


椎尾弁匡の遺志である大殿復興工事を受け、同四九年一一月に大殿落慶式と開宗八〇〇年慶讃法要を奉修した。


同五〇年二月には開宗八〇〇年記念の大五重道場を開莚。同五三年六月に法主を退任し、以後増上寺山内に退隠。師は朴訥 ( ぼくとつ ) 温厚にして、名号等の揮毫は比類ない独自の境地を示した。


世寿一〇三歳。


著書に『大乗戒経の研究』( 理想社、一九五四 )、『円戒概説』 ( 浄土教報社、一九二二 )、『善導大師と日本』( 浄土宗、一九二八 )、『律蔵概説/大乗戒史』(共著、仏教年報社、一九三四 )、『法然上人』( 法然上人鑽仰会、一九三五 )、『戒学点描』( 浄土宗、一九五四 ) 等がある。


【参考】『大本山増上寺史・本文編』( 大本山増上寺、一九九九 )
(WEB版新纂浄土宗大辞典より)


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佐竹音次郎 ( さたけ - おとじろう )
( 1864 - 1940 ) 


明治 - 昭和時代前期の社会事業家。


元治 ( げんじ ) 元年 5月 10日生まれ。


明治 27年神奈川県腰越 ( こしごえ ) 村 ( 鎌倉市 ) に医院を開業し、29年小児保育園を併設。


38年医院を辞め、鎌倉小児保育園を設立し保育事業に専念した。


昭和 15年 8月 16日死去。77歳。

土佐 ( 高知県 ) 出身。済生学舎卒。

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堀口 大學(ほりぐち だいがく、新字体堀口 大学1892年明治25年〉1月8日 - 1981年昭和56年〉3月15日)は、明治から昭和にかけての詩人歌人フランス文学者。訳詩書は三百点を超え、日本の近代詩に多大な影響を与えた。雅号十三日月葉山町名誉町民

経歴
学生時代

1892年(明治25年)、東京帝大在学の堀口九萬一(のち外交官)の長男として、東京市・本郷区森川町(現:東京都文京区本郷或いは西片辺り)に生まれる。父は戊辰戦争で戦死した長岡藩士堀口良治右衛門の長男で、母は村上藩士江坂氏の長女である。大學という名前は、出生当時に父が大学生だったことと、出生地が東京帝国大学の近所であることに由来する。日清戦争開始により、父が仁川領事館補として朝鮮に単身赴任するにあたり、新潟県古志郡長岡町(現:長岡市)に引き揚げる。


母が23歳で早世したこともあり、以後は祖母に育てられる。父は閔妃暗殺事件に連座して失脚し、後事を京城在任以来の知己である与謝野鉄幹に託した。1898年(明治31年)長岡町立阪之上尋常高等小学校(現:長岡市阪之上小学校)に入学。復職してオランダに在住していた父の指導により、日本牧師の指導で英学を始める。1904年(明治37年)2月日露戦争、4月(旧制)新潟県立長岡中学校(現:新潟県立長岡高等学校)に入学。この頃から文学に魅かれ、内藤鳴雪俳句に心酔。同級に松岡譲が居た。


1909年
(明治42年)に上京し、好んで谷中墓地を逍遥して短歌を詠み、『スバル』を読んで明星派短歌に魅了され、十三日月の雅号で詠草が一二月号に掲載される。9月に「新詩社」に入社。1910年(明治43年)慶應義塾大学文学部予科に入学。与謝野鉄幹の永井荷風への推薦もあって知遇を得、『三田文学』に詩歌の発表を始める。この頃から、同門の佐藤春夫とは終生の友人であった。予科の教師はベルグソン哲学の訳者の広瀬哲士で、学年末のフランス語成績は「不可」であった。翌年に予科2年に進級するが、父の任地メキシコに赴くため、慶大を中退した。

外遊

東洋汽船会社の香港丸で横浜を出帆し、メキシコの日本公使館に在ること1年。この頃、肺結核を患う。父の後妻がベルギー人で、家庭の通用語が当然ながらフランス語で、その習得に専念出来た。パルナシアン(高踏派)の詩を読み始める。滞在時にメキシコ革命に遭遇。マデロ大統領失脚、謀殺までの『悲劇の二週間』を体験する。1913年大正2年)にシベリア経由でベルギーに向かい、ランボーをピストルで撃ったヴェルレーヌの事件を担当した裁判官シャルル・リグール家に住み、10月には当時日銀副総裁だった水町袈裟六の斡旋でベルギー国立銀行日本銀行の委託研究生として勤務し、異例の待遇を受けた。


詩人としては、ヴェルレーヌを始めサンボリスム詩への傾倒が始まり、詞華集『今日の詩人』でレミ・ド・グールモンRemy de Gourmont)の詩を読み、「一生を通じての精神上の最大の事件」[1]といえる決定的な影響を受ける。以後も父の任地に従い、ベルギースペインスイスパリブラジルルーマニアと、青春期を日本と海外の間を往復して過ごす。スペイン滞在時はマドリード日本公使館で、マリー・ローランサンと交歓しギヨーム・アポリネールを教えられる。スイスで療養したサナトリウムは、トーマス・マン魔の山』の舞台になったところである。

1917年(大正6年)に外交官及領事官試験のために帰国し、日夏耿之介柳沢健長谷川潔を知る。第一次論文選考、第二次筆記試験には合格したが口述試験で病弱のため採用されず、外交官への道を断念する。翌年に浅野合名会社嘱託通弁となり、永井荷風序文による処女作『昨日の花』を自費出版。リオデジャネイロから『三田文学』『炬火』に寄稿。1919年(大正8年)、最初の詩集『月光とピエロ』(永井荷風序文)、歌集『パンの笛』(与謝野鉄幹、与謝野晶子序文)を刊行。以後、ブラジルバイーア州ペルナンブーコ州、リオ、サンパウロサントスアルゼンチンウルグアイに滞在、ウルグアイではジュール・シュペルヴィエルを知る。


1923年(大正12年)ルーマニアに赴任、船中でポール・モラン『夜をひらく』を訳し、パリにモーラン自身を訪ね翻訳出版の快諾を得、長谷川潔や鈴木龍二らと再会交流し、藤田嗣治や詩人アンドレ・サルモンらと交友を持つ。1925年(大正14年)に帰国。


以後その仕事は作詩、作歌にとどまらず、評論、エッセイ、随筆、研究、翻訳と多方面に及び、多数の出版を手がけ、生涯に刊行された著訳書は、300点を超える。

帰国後の詩作活動

彼の斬新な訳文は当時の文学青年に多大な影響を与え、特に新感覚派運動の誘因となった。帰国後に文化学院大学部でフランス近代詩を講ずる。以後、ヴェルレエヌの研究評伝を手がけ、戯曲訳にも手を染め、ジャン・コクトーをはじめ、一一家十三篇を訳す。1928年昭和3年)日夏耿之介、西條八十との共同編集で詩誌『パンテオン』を創刊。岩佐東一郎青柳瑞穂城左門田中冬二矢野目源一熊田精華らの若い詩人が集う。4月に文化学院を辞任。しかし、翌年に日夏耿之介との確執が起き、決別し『パンテオン』が廃刊。自ら後継詩誌『オルフェオン』を第一書房から創刊し、新たに菱山修三が加入し、機知感覚の詩風は、シュルレアリスム詩『詩と詩論』と共に詩壇に新風を与えた。


1932年(昭和7年)小石川区(現・文京区西部辺り)に居を構え、6月に『昼顔』を発行するが発禁処分となる。

1935年
(昭和10年)に日本ペンクラブの副会長に推される(会長・島崎藤村)、文芸誌『若草』の詩選を担当し、京都の『時世粧』の編纂人となる。翌年5月にジャン・コクトーが来日した際は帝国ホテルに同宿して歌舞伎などを案内[2]している。国家総動員法の公布に伴い、日本学者のジョルジュ・ボノー野尻湖畔のレーキサイドホテルにこもり、仏訳に専心した。しかし、著書が情報局検閲で削除されるなど思想弾圧を受けた。1941年(昭和16年)に静岡県興津に疎開。翌年に師・与謝野晶子が死去し、青山で挽歌十首を捧げた。1945年(昭和20年)に被爆下の静岡を脱出し、新潟県関川村(現:妙高市)に再疎開。1945年(昭和20年)秋には父が亡くなり故郷で葬った。1946年(昭和21年)より新潟県高田市(現:上越市)に転居[3]

戦後

1947年(昭和22年)に詩集五冊を上梓したのを皮切りに、著作活動を再開し、翌年に東郷豊治西蒲原郡の旧家を訪ね、良寛の遺墨を観る。1950年(昭和25年)に、疎開から引き揚げて以降は、神奈川県湘南葉山町に終生在住した。白水社草野貞之の知遇により、シャルル・ボードレールの『悪の華』を全訳。


1957年
(昭和32年)に日本芸術院会員。9月に国際ペン大会会長として来日したアンドレ・シャンソンと会談。1959年『夕の虹』にて第10回読売文学賞を受賞。日本現代詩人会の「詩祭」で顕彰され、上司海雲と東郷豊治の案内で、秋篠寺唐招提寺薬師寺などを参観。ほか日本全国を旅し、室生犀星詩集賞や読売文学賞選考委員となる。


1967年
(昭和42年)1月、宮中歌会始で召人、(お題は「魚」)「深海魚光に遠く住むものはつひにまなこも失ふとあり」と詠んだ[4]。生物学者である昭和天皇はたいそう喜んだというが、また一部には、天皇本人を目の前にしての批判(諌言)であると解する向きもある。4月に勲三等瑞宝章を受章。


1970年(昭和45年)日本詩人クラブ名誉会員。日本万国博「日本の日」に式典歌として作詞した「日本新頌」「富士山点描」を発表し、11月に文化功労者。翌年、日本現代詩人会名誉会員。1973年(昭和48年)10月に新潟総合テレビ文化賞。岩佐東一郎の葬儀に参列し、翌年に勲二等瑞宝章1975年(昭和50年)に父の漢詩に和訓を付し、年譜を添えた『長城詩沙』を上木し、宿願を果たした。1979年(昭和54年)に文化勲章を受章。東大寺落慶法要式典歌作詞のため、奈良へ取材旅行。1981年3月15日、急性肺炎のため葉山町の自宅で死去[5]。享年89。


葉山町神社境内「人に」、栃木県竜王峡「石」、上越市「高田に残す」の詩碑が建立されている。

人物
三島由紀夫も少年期に、大學訳のラディゲドルジェル伯の舞踏会』に多大な影響を受けた一人である[6]

・疎開に際し父・九萬一のも含め蔵書を売却した、その豪華さは荷風『断腸亭日乗』や、中村真一郎の回想エセーに記されている。大學自身は「あれを売ったお金で、田舎に隠れて(中略)何もしないで遊んで暮らした」[7]と述べた。

著書
・堀口大學全集 (全9巻+補巻3+別巻1)小澤書店[8] 1981年-88年 

  小澤書店は2000年に倒産したが、2001年に日本図書センターで復刻された。

詩集・歌集
月光とピエロ 籾山書店 1919

・歌集 パンの笛 籾山書店 1919

・水の面に書きて 籾山書店 1921

・月夜の園 抒情小曲 玄文社 1922

・新しき小径 アルス 1922

・遠き薔薇 新潮社 1923

・砂の枕 第一書房 1926 

・堀口大學詩集 長谷川潔画 第一書房 1928

・歌集 男ごころ 第一書房 1929

・歌集 涙の念珠 昭森社 1936

・人間の歌 宝文館 1947 

・詩集乳房 岡本太郎画 ロゴス 1947

・冬心抄 詩・歌・訳詩 斎藤書店 1947

・雪国にて 柏書院 1947

・白い花束 詩と随筆 草原書房 1948

・夕の虹 昭森社 1957

・堀口大学詩集 白凰社「青春の詩集 日本篇」1967、新版1975、平田文也編

・飛花落葉抄 白凰社 1969

・堀口大學全詩集 筑摩書房 1970

・幻露抄 堀口大学詩集 茗渓堂 1971

・月かげの虹 筑摩書房 1971

・朱唇紅臉抄 堀口大学詩集 茗渓堂 1973、松本和男編

・虹の花粉 蕗谷虹児画 大門出版美術出版部 1973

・東天の虹 彌生書房 1976

・遠くかそけく 堀口大学詩集 沖積舎 1976

・水かがみ 昭和出版 1977

・消えがての虹 小澤書店 1978

・富士山 米寿記念詩集 へっど・あ-と 1979

・堀口大学詩集 彌生書房〈世界の詩〉 1980、那珂太郎

・堀口大学詩集 「現代詩文庫1019」思潮社 1980、新書版

・幸福のパン種 堀口大学詩集 かまくら春秋社 1993、新版2011、堀口すみれ子編  

評論・随筆
ヴェルレエヌ 世界文学大綱 東方出版 1927

・註と解 仏蘭西現代詩の読み方 第一書房 1932

・季節と詩心 随筆集 第一書房 1935。講談社文芸文庫 2007(解説長谷川郁夫)

・山巓の気 生活社 1945

・詩と詩人 講談社 1948

・ヴェルレエヌ研究 昭森社 1948

・饗宴にエロスを招いて 昭森社 1960

・捨菜籠 随筆集 彌生書房 1972

・秋黄昏 河出書房新社 1980

・虹消えず 新潮社 1983

詳しいことは、『堀口大学ウィキペディア』をご覧ください。 ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A0%80%E5%8F%A3%E5%A4%A7%E5%AD%B8
(wikiより)

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⇧ 堀口大学

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「矢切の渡し」の歴史について

 

「矢切の渡し」は、江戸時代初期、地元民専用に耕作や対岸の農地への移動手段として使われるとともに、日用品購入、寺社参拝などの目的のために、徳川幕府が設けた利根川水系河川 15ヶ所の渡し場のうちのひとつであり、「金町・松戸の渡し」と呼ばれていた。


これらの渡しについては、江戸幕府による直轄事業として行われていた。 渡し場で使われていた船は、金町村と松戸村で 2隻ずつ出していたが、その後、松戸町だけで船を出すようになる。 当時の渡航運賃は 1人 3文。馬も 5文で乗ることができたといわれている。


1740年頃、渡しの運営が幕府による直轄事業から、幕府と松戸町、町民による半官半民の運営体制となったことから、百姓たちにも渡し業を請け負わせた時代もあったそうである。


 明治初期には、関所廃止及び陸運の発達のため、鉄道や主要幹線道路などに橋が開設されるようになり、各地で渡し船を廃止するところが場を閉めるようになった。


隅田川では、戦後まで運行を続けている渡し舟もあったが、「佃の渡し」が昭和 39年、「汐入の渡し」が昭和 41年を最後に廃止され、現在、東京近郊で定期的に運行されている渡しは、「矢切の渡し」のみとなっている。


なお、「矢切の渡し」は、「下矢切の渡し」とも呼ばれる時期もあったそうである。


松戸市下矢切と東京都葛飾区を結ぶ、現在の「矢切の渡し」の運行航路の他に、1877年 ( 明治 10年 ) から 1910年 ( 明治 43年 ) まで、この上流である上矢切から金町間を往来した「上矢切の渡し」が運行されていたからである。

 
この「矢切の渡し」が世に広まったのは、1906年 ( 明治 39年 )、雑誌「ホトトギス」に発表された、矢切を舞台に、政夫と民子の悲恋の物語を描いた小説「野菊の墓」の一節、「僕の家といふは、矢切の渡しを東へ渡り、小高い岡の上で矢切村と云っている所。」として描かれたことによるとされている。

( 下矢切の西連寺の境内には、小説の一節を描いた「野菊の墓文学碑」が建立されている。)


この渡しが全国的に有名になったのは、1982年 ( 昭和 57年 ) に細川たかし氏が歌った、歌謡曲『矢切の渡し』が大ヒットしたことや、フーテンの寅さんが柴又を舞台に各地を訪れる映画『男はつらいよ』が上映されたことで、「矢切の渡し」が全国的有名となり、再び脚光を浴び、年間 20万人以上の観光客が乗船する時期もありました。

 「矢切の渡し」は、有限会社矢切渡船で運営・運行しているが、明治時代から、杉浦家において、世襲制で代々運行を引き継いでいる。


現在もなお、帝釈天や寅さん記念館&山田洋次ミュージアム、山本亭などがある対岸、葛飾区柴又などを訪れる人の観光コースとして、運行を続けている。

〈参考〉


「矢切の渡し」を紹介する看板の文面について


松戸側

矢切の渡しは 松戸市下矢切と東京都柴又を往復する渡しで、その始まりは380余年前、江戸時代初期にさかのぼります。 当時、 江戸への出入は 非常に強い規則のもとにおかれており、 関所やぶりは 「はりつけ」になろうという世の中でしたが、 江戸川の両岸に田畑をもつ農民は、 その耕作のため関所の渡しを通らず農民特権として自由に渡船で行きかうことができました。これが矢切の渡しの始まりで、いわゆる農民渡船といわれるものです。


明治以降は、 地元民の足として、また自然を愛する人々の散歩コースとして利用され 現在では 唯一の渡しとなっています。 この矢切の渡しの庶民性と矢切の里の素朴な風景は、 千葉県の生んだ歌人でもあり、小説家でもある伊藤左千夫の小説“野菊の墓”の淡い恋物語の背景となっており、その小説の中で美しく描かれております。


葛飾側

元和 2年 ( 1616 ) 、幕府は利根川水系河川の街道筋の重要地点 15ヵ所を定船場として指定、 それ以外の地点での渡河を禁止しました。


その 1つが矢切の渡しで、 この付近を通る国分道に架かる渡しで、主に近郷の農民が対岸の農耕地へ渡るために利用していました。


現在、 都内に残る唯一の渡し場で、 今も昔ながらの手漕ぎの和船が対岸の松戸市下矢切との間を往復しています。 伊藤左千夫の名作「野菊の墓」の舞台となり、 ヒット曲「矢切の渡し」を生んだ地としても有名です。

〇矢切の渡し
矢切の渡し」(やぎりのわたし)は、石本美由起の作詞、船村徹の作曲による演歌。1976年にちあきなおみのシングル「酒場川」のB面曲として発表され、1982年にはちあきなおみのA面シングルとして発売された。翌1983年に多くの歌手によって競作され、中でも細川たかしのシングルが最高のセールスとなった。

解説

東京都千葉県の県境を流れる江戸川で、葛飾区柴又松戸を結ぶ渡し舟がある矢切を舞台にした歌である。


元々は、1976年10月1日に発売されたちあきなおみのシングルEP「酒場川」のB面曲として発表された[1]プロデューサーだった中村一好をはじめとする製作陣は本作をシングルのA面として発売することを希望したが、ちあきの希望で「酒場川」がA面になり、本作はB面収録となった[2]。なお、この時にはタイトルは「矢切の渡し」と表記されていた。


人の耳にとまりにくい売り出しで、空前の大ヒット曲「およげ!たいやきくん」の前に影は薄かった[1]。 

6年後の1982年、ちあき盤「矢切の渡し」は梅沢富美男の舞踊演目に用いられたことで好評を博し[3]、同年6月に開始したTBS系列のテレビドラマ『淋しいのはお前だけじゃない』(梅沢も出演した)の挿入歌としても使用されて話題を集めた。そこで、同年10月21日に本作をA面としたシングルが改めて発売された[4]


バーニングプロダクション
社長・周防郁雄が同プロ所属の「細川たかしに歌わせてみたい」と[1]、翌1983年に細川のシングル(後述)が発売された。同年にはこの他、瀬川瑛子中条きよし春日八郎&藤野とし恵島倉千代子&船村徹、佐山友香など、競作で発売されたが、中でも最も売れたのが細川盤であった。ただし、当時の有線のチャートではちあき盤が首位にあった。また、瀬川盤はオリコン44位にランクインしている。


本作は他にも、美空ひばりがLPアルバムで、中森明菜が2007年のアルバム『艶華 -Enka-』でカバーするなど、LPアルバムでは1997年1月の時点で28人がレコード化した記録が残る[1]


1983年度の日本音楽著作権協会(JASRAC)発表による楽曲別の著作権使用料分配額では、「氷雨」に続いて年間2位にランクインされた[5]


本作の作曲を手がけた船村徹は、ちあきなおみに提供した楽曲が細川たかしの歌唱によってヒットしたことについて、「ちあきの歌は(楽曲のイメージ通りの)手漕ぎの櫓で、細川の歌はモーター付の船だ。」という評価を下している。また、ちあきの歌は「鑑賞用」で細部まで聴かせる歌なのに対して、細川の歌は一本調子で楽曲の難しい部分を省略した歌い方でありカラオケなどで誰でも歌えると世間に思わせてしまっている、とも発言している[2][6]

楽曲の製作過程
作詞の石本美由起は、山口県との県境の町、広島県大竹市の出身で、近くに両県を結ぶ「木野川渡し」(現在の小瀬川)があり、山口側には江戸へ移送される時に、二度と帰れぬ故郷との別れを詠んだ吉田松陰歌碑がある[7][8]。石本にはこの思い出が強く「渡しをテーマに創作してみよう」という気持ちは常にあった[9]1970年代半ば頃、映画『男はつらいよ』で「矢切の渡し」が紹介され、2つの渡しが心の中でつながりだした時に、テレビの紀行番組で「矢切の渡し」がなくなりそうだという話を聞いた。作曲家の船村徹も同じ番組を観ていて、翌日現場に行き、その足で当時専属だった日本コロムビア本社に行くと石本が偶然いて、雑談は当然のように「矢切」へ行き着いた。船村の出身地・栃木県塩谷郡塩谷町周辺にも2ヶ所「鬼怒川の渡し」があった。場所こそ違うが渡しへの郷愁を共有していた2人は「渡しがなくなるなら、作品に残そう」と意気投合、本曲の製作に至った[9]

ちあきなおみのシングル

ちあきなおみのシングル「矢切の渡し」は、1982年10月21日に発売された。発売元は日本コロムビアである。


上記の通り梅沢が本作を使って話題になったことにより、コロムビアは急遽、ちあき本人が一度もテレビなどで歌ったことがなく、B面曲として埋もれていた本作をシングルA面として再び発売することを決めた[2]


1982年
に放送され、ちあきも出演した毎日放送製作のドラマ『ちょっと噂の女たち 黒田軟骨の女難』では劇中歌としてちあきが本作を歌唱した。


ちあき盤は翌年に細川盤が日本コロムビアから発売された際に生産中止となっている(ちあきは1983年当時、ビクターに移籍し、アルバムで外国の曲を日本語でカバーする活動をしていた)。


B面の「別れの一本杉」は春日八郎のカバーである。作曲は同じく船村徹による。

収録曲
・両楽曲共に、作曲・編曲:船村徹
1. 矢切の渡し(3分52秒)

  作詞:石本美由起
2. 別れの一本杉(3分32秒)

  作詞:高野公男

細川たかしのシングル
細川たかしのシングル「矢切の渡し」は、1983年2月21日に19枚目のシングルとして発売された。発売元はちあき盤と同じく日本コロムビアである。

解説
オリコンの週間ヒットチャートでは3週にわたって第1位を獲得、1983年のオリコン年間ヒットチャートにおいては第2位にランクインされる大ヒットとなった。細川は本作で同年に『第25回日本レコード大賞』を受賞した。同年には『第34回NHK紅白歌合戦』でも大トリで披露している。

・前年には「北酒場」(1982年3月21日[10])で第24回日本レコード大賞を受賞していたため、レコ大史上初の2年連続受賞歌手となった。後に他のミュージシャンも連続受賞を果たしているが、「発売したシングル盤が2作連続して日本レコード大賞を受賞」というのは現在においても細川のみである。

・当時の人気番組であったTBS系の音楽番組ザ・ベストテン』では3月31日放送分で初登場し、連続13週ランクインした。前年に続き、2年連続で年間ランキング1位を獲得した。また、当時は賞レース番組であったフジテレビ系『FNS歌謡祭』の第12回放送でグランプリを受賞した(前年の第11回放送では、「北酒場」で最優秀視聴者賞を受賞している)。

収録曲
1. 矢切の渡し(3分49秒)

  作詞:石本美由起/作曲:船村徹/編曲:薗広昭
2. おんな岬(4分11秒)

  作詞:千家和也/作曲:浜圭介/編曲:竜崎孝路

価格
・発売当時の値段は700円

関連作品
青春歌年鑑 1983

演歌の頂天

歌王 演歌名曲120選

関連項目
矢切

矢切駅 - 2017年3月31日より発車メロディに使用。

ご当地ソング

  ・東京都のご当地ソング一覧 - 柴又

  ・関東地方のご当地ソング一覧#千葉県 - 矢切

脚注
1. a b c d 読売新聞社文化部『この歌 あの歌手(下)』社会思想社、1997年、204-205頁
2. a b c 『ちあきなおみ 喝采、蘇る』(石田伸也著、徳間書店、2008年)
3. 梅沢は『第34回NHK紅白歌合戦』(自身も「夢芝居」のヒットにより歌手として出場)でも、細川の「矢切の渡し」歌唱時に舞踊を披露している。
4. 「歌伝説・ちあきなおみの世界」(NHK-BS22005年11月6日放送)
5. 「歌謡界『アンコ椿』の夢よ再び──新人づくり四苦八苦(ニュースの周辺)」『日本経済新聞』1985年1月31日付夕刊、3頁。
6. たけしの誰でもピカソ」(テレビ東京、2007年2月16日放送)
7. みち紀行 - 中国新聞 第5部 防府から井原へ④ 大竹市
8. 舟運の話 - 国土交通省 中国地方整備局
9. a b 『この歌 あの歌手(下)』202-203頁
10. 2003年10月22日には、「北酒場」「矢切の渡し」のカップリングでマキシシングル化された。
(wikiより)

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⇧ 千葉県側の船着き場が壊されてしまった為、川の中央で引き返して運航しています。( 2021年 3月 7日 撮影 )



葛飾や桃の籬 ( まがき ) も水田べり


水原秋櫻子先生 ( 明治二十五年 ~ 昭和五十六年 ) の作


先生は東京カンダの生まれ。


はじめ高浜虚子に師事したが、やがて「ホトトギス」を去り、昭和六年から「馬酔木 ( あしび ) 」を主宰した。


葛飾の自然をこよなく愛し、しばしば訪れて、世に「葛飾調」といわれる多くの作品を残した。


この句は大正十五年の作。


対岸の市川真間あたりの風景をよんだもので「葛飾調」の代表作のひとつ。


その頃の水郷価値しかの春の田園の美しさと流麗典雅の響きでうたっている。
(石碑文より)


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この石碑は、右手に剣を待ち、左手で小鬼をつかむ立像を浮き彫りにしたものです。

像の光背 ( こうはい ) の左右には「奉造立鍾馗為悪魔降伏 金町村施主敬白 念仏講結同行四十一人元禄八乙亥七月十七日」の銘があります。
 
銘文から元禄 8年 ( 1695 ) 金町村の念仏講の人々が悪魔降伏を祈って建てたことがわかります。


念仏講は宗派を越えて結成され、来世での極楽往生を願い、庶民の間に広がりました。
念仏を勤め会食をしたり、葬儀の際には助け合うなど、念仏による相互扶助的な信仰共同体として各地に普及しました。

 
鍾馗は疫鬼 ( やくき ) を退け、魔を除く神として信仰されたものです。


画像は、室町時代にきかのぼって見られますが、石像は他にほとんど例がなく、この鍾馗石像は大変貴重なものです。
    
〇 材質 石材 〇 大きき 地上高 111cm 〇 像高 72cm
(案内板より)

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当神社に奉納された重さ五十八貫 ( 217キロ ) はじめ 5つの力石は手で触れることにより力をいただけると言われております。
(案内板より)

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香取神社 ( 葛西神社 ) の社号石碑


葛飾周辺地域に来られた際 当社へ立ち寄られ書き記されたもの
(案内板より)

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葛西ばやし碑
        葛西神社宮司香山善之輔書
(裏面)
葛西ばやしは 葛飾方面に古るくから伝はる郷土芸術の一とつである


享保の初年 葛西金町の鎮守香取神社の神主 能勢環氏の郷土の青少年の情操に思いをいたし 和歌ばやしといふ一種のはやしを教え 次第に江戸近郷の祭礼に愛賞され 神霊を慰めたのがその起因といわれる


後ちに葛西はやしとなって再来 文化の進取と共に郷土色豊かな祭りばやしとなって 現代に至ったのである


昭和二十六年 区内有志により葛西ばやし保存会を創設し 一段と技能 研精に努め 同二十八年十一月三日 東京都より無形文化財の指定を受けたのである


偶々今秋社殿の落慶を記念し これが起因を石に刻して もって後代に伝ふ
      
昭和四十年十月建之
同 史談会 入本英太郎


〇 史跡 葛西神社 ( 葛西ばやし発祥の地 )
当社は、むかし香取宮と称し 元暦元年 ( 1184 ) 下総国香取神宮の御分霊を勧請し 葛西三十三郷の総鎮守として創立したものと伝えられ


天正十九年 ( 1591 ) 十一月 徳川家康より御朱印十石を賜った。


享保年間 当社の神官能勢氏の創作した「和歌ばやし」は後「葛西ばやし」として 江戸市中をはじめ近郷一帯の祭礼時に「はやし」として流行し 今なお 当地方の郷土芸能の一つとして伝わり


昭和二十八年十一月三日, 東京都無形文化財に指定され 今日に至る。


葛飾区
葛飾区観光協会
(石碑文より)

昭和二十八年、葛西囃子が東京都指定無形文化財となったことを記念して、昭和四十年に建立。


〇 葛西囃子
葛西囃子(かさいばやし)は、祭の際に演奏される音楽で、祭囃子(まつりばやし おはやし)の一つ。神田囃子などをはじめとした現在の東京都およびその周辺の祭囃子の祖。 葛西囃子と言う名称は戦後有志によって保存会が結成されてから付けられたものであり、それまでは特定の呼称を有さず単に「お囃子」と呼ばれていた。

ここでは便宜上、金町を中心とした葛飾方面の農村に伝承され江戸の祭礼囃子の源流となった郷土芸能を「葛西囃子」と称する。 葛西囃子には「本所(ほんじょ)囃子」「神田囃子」「住吉囃子」等の支派が多数存在するがこれらはいずれも葛西囃子より派生したものである。なお、現在では「きりばやし」と言う流儀が葛西囃子の代表となっている。 葛西囃子は江戸祭り囃子の代表的存在とされ、神田祭や山王祭と言った江戸の天下祭において付祭(つけまつり)の山車(だし)囃子として奉仕する事を常としている。

概要
江戸時代、東葛西領の総鎮守であった金町村の香取神社(葛飾区、葛西神社)の神官が創作した祭り囃子。現在の東京都およびその周辺の祭り囃子の祖とされる。

発祥と歴史

葛西囃子の起源は、一説によれば享保(1716~36)の初めに、江戸葛西領金町村30鎮守であった香取明神(現葛飾区東金町町の葛西神社)の神主・能勢環が敬神の和歌に合わせて音律を工夫創作し、これを和歌ばやしと名づけて村内の若者に教え神霊を慰めたのものとされている。以来天下泰平国家安全の奉納囃子として改良されながら葛西領一円、更に江戸市中に広まり各地の祭礼に用いられたもの。又、享保四年関東の代官伊奈半左衛門はこれを若者善導の社会施策の一つとして奨励し、毎年各町村 より推薦会を行い、その代表者を神田明神の将軍 上覧祭りに参加させたので一層普及し、農業の余暇に能勢環より囃子を習う者が続出した。明治時代にかなり流行したようだが、現在では切り囃子という流儀が葛西囃子の代表になっている。


幕末の嘉永年間、黒船事件以来一時衰退、安政四年六月の神田祭に月番寺社奉行松平氏のきも入りで復活したが間もなく明治維新以来に至る社会情勢のため自然に中止となった。 その後、世相の安定と共に復活し、維新以来の大祭として知られる明治十七年の神田祭には葛西方面から表青戸の源次郎、小松川村の角次郎、鹿骨村の七五郎、そっぱの伝次郎、新宿町助次郎の名人が参加してその妙技を示し好評を博している。しかし、この頃には神田の人たちも葛西方面から囃子方を呼ばなくてもいいように葛西囃子を会得し神田囃子を創始した。こうして品川・目黒・大井・等々力・馬込・渋谷・阿佐ヶ谷 三つ目囃子など、それぞれの土地名を付けた囃子が生まれた。 さらに多摩川すじを経て青梅方面まで発展していき、これらの囃子が最も盛んな頃は明治中期であった。

葛西囃子の流儀
江戸時代、名人と呼ばれる演奏者の傑出は祭りに於ける山車の流行とも相まって隆昌の一途を辿る。こうしたお囃子の流行は関東周辺にも広まり後に秩父、川越、石岡、また東北地方、東海地方の囃子の流儀を生む所となった。 各地方に伝播した葛西囃子は地域によって変遷を遂げている。現在では金町・江戸川方面に伝承されている流儀の「きりばやし」がその代表的存在となっているが江戸時代には亀有の「美濃がえくづし(別名:三の輪囃子)」と言う流儀が大流行している。江戸の深川方面では旗本の次男・三男が半ば娯楽として習い覚えたのが「深川囃子」となり、本所割下水に住む御家人連中に伝えたのが「本所囃子」となった。一方浅草猿若町の三芝居の連中が葛西から習った拍子を変化させたのが「住吉囃子(別名:裏囃子)」、その他「松江囃子」、「三浦囃子」などの流派が編み出された。やがて「神田囃子」、「目黒囃子」などが次々に編成編されて、その技量の程を競ったと言う。 ちなみに当初、神田囃子は即ち葛西囃子でもあったのだが神田の氏子が葛西囃子の技術を取得してから神田囃子として発展して行ったと言われる。

演奏形態・楽器
編成は5人で、大太鼓(大胴)1名、しめ太鼓(しらべ)2名、笛(とんび)1名、鉦(よすけ)1人名。 ケテンテケテンテンテンステックという「上げ」(打ち込み)の囃子にはじまり、屋台囃子という曲から一定の順序で数曲続け、ふたたび屋台囃子で終わるというのが一般的。

葛西囃子の編成
葛西囃子は「五人ばやし」とも称せられる様に五人で編成される。その配列は向かって左より、大太鼓・締太鼓(タテ)・締太鼓(ワキまたはナガレ)が前列、そして後列が笛・鉦(かね)となっている。

曲目
1.打ち込み
(締太鼓を打ち込む。言うなれば前奏曲部分)

2.屋台
(笛、締太鼓、鉦、大太鼓、と次第に音調を整える)

3.昇殿
(全体としてゆったりとした演奏)

4.鎌倉
(鳶職の「木遣り」と似ている。比較的静か)

5.四丁目(師調目・使丁舞・四丁舞)
(一番賑やかに奏する箇所で演奏者の技量が問われる)

6.屋台
以上の順序で演奏する六段構成が基本となっている。 追記すると、四丁目には締太鼓のタテが「四丁目の玉」を打つとワキが「玉の地」を打つ玉入りが入る。(「玉」とは笛の調子に合わせて即興で打つ太鼓の事を言う) なお、上記の他に御輿巡行を迎える「投げやり」、おかめ・ひょっとこ等の馬鹿面を被った道化踊りの「忍馬(にんば)」、獅子舞の「勇み」「清め」「じゃれ」等の曲目が存在する。

囃子道具

大太鼓        別名:大胴(おおど)1基
締太鼓(しめだいこ) 別名:しらべ2基
笛          別名:とんび1管
鉦(かね)      別名:よすけ1個


踊り
馬鹿面踊り
寿獅子舞
ひょっとこ
おかめ


葛西囃子の修練と成果

かつて葛西囃子の練習は11月、収穫が済んだ時期の余暇を練習に充てる形で開始された。その多くは葛飾区の青戸・亀有・金町・新宿・奥戸等の農家の人員で構成されるが技術の取得には修練を要し、一定の技量となるには1〜2年は掛かるとされる。その中に於いて笛はとりわけ上達が困難とされ、数年(人によっては10年とも言われる)の稽古を経てやっと人前で演奏出来る一人前の笛吹きとなれると言う。 当然その練習は厳しいものであり特に江戸時代には稽古場に於ける以下の規則を遵守する事が必須だった。



一、稽古場にて酒飲むべからず、朔日、十五日、二十八日、稽古仕舞ひ候て後は格別の事
一、喧嘩口論堅く禁制たるべし
一、稽古場にて安座(あぐら)かき申間敷事
一、世話役の外、其処は打った抔(など)と多言致間敷事
一、仲間の中は折合能く可致事


追記すると、上記は代官伊奈半左衛門が葛飾地方の人心の利導を目的とした上で拵えて置いた条文とされる。 こうした背景において輩出された名人が江戸の天下祭へと参加し、葛西囃子は江戸で大流行する事となったのである。


葛西囃子保存会
葛西囃子の保存伝承のために昭和24年に東都葛西囃子睦会が結成され都内神社等の祭礼や伝統行事、地域イベント等での上演を行っている。 また、有志によって昭和26年に葛西囃子保存会(葛西神社事務局)が結成され現在も葛西神社の例大祭・酉の市の祭事に奉納演奏を、また毎月中旬の日曜日にも同神社の境内に於いて稽古が行われている。葛西囃子保存会は近年その活動領域を広げ、葛西囃子の素晴らしさを伝える為にオーストラリアやウィーン等、海外への遠征公演も果たした。 なお、上記の他にも葛飾区・江戸川区を中心とした地域に各保存会が存在する。

無形文化財指定の経緯
東京都は1953年(昭和28年)11月3日、東都葛西囃子睦会による葛西囃子(江戸川区)を無形民俗文化財に指定した。これに対し長年、本家争いを繰り返してきた葛飾区側は猛抗議を行った。これに対して東京都は1954年(昭和29年)4月9日、葛飾区の葛西囃子、神田囃子も包括して「江戸の祭囃子」として再指定を行った[1]

脚注
1. 「残したい庶民の宝 葛西ばやし」『日本経済新聞』昭和30年1月21日11面

参考文献
・「武江年表」

・「日本民謡大鑑」関東編

・「東京のまつり」 朝日新聞社刊

・「ふるさと東京 民俗芸能」 朝文社

・「東京都の郷土芸能」 宮尾しげを・本田安次 昭和29年 一古堂書店

・「日本の民謡と民俗芸能」 本田安次 音楽の友社 昭和42年 

・「江戸の祭り囃子」 東京都教育委員会編 東京都教育庁生涯学習部文化課 平成9年

・「増補 葛飾区史」 東京都葛飾区編

・「演劇百科事典」 平凡社

外部リンク
葛西囃子保存会
葛西神社
(wikiより)

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葛西神社(かさいじんじゃ)は、東京都葛飾区東金町にある神社。旧社格郷社金町、東金町を合わせた11町会の総氏神祭囃子発祥の神社でもある。

由緒

創建の年代は平安時代末期、元暦2年(1185年)である。当時は上葛西、下葛西合わせた三十三郷(現在の行政区分では、東京都葛飾区江戸川区の全域、墨田区江東区足立区の一部地域にあたる)の総鎮守として葛西三郎清重公の信仰により、香取神宮の分霊を祀ったのが始まりである。


この地は葛西御厨の神域にある。その具体的典拠としては「香取文書」の内、鎌倉時代から室町時代にかけての文書に「治承元年丁酉十二月九日 香取造営次第 葛西三郎清重」などをはじめとする記述が散見できる。なお、至徳4年(1387年)の官符によると御厨在住の領家である占部氏に関して「武蔵国猿俣関務事 香取大禰宜長房如先規可令成敗云々」などの記載があり、往還の人馬から関銭なども徴収して神宮の用途に充てていたことが検証できる。中でも、金町・小鮎(小合)・猿俣(猿町)・飯塚の四郷は古来より21年ごとに香取神宮の造営を携わっていたことは、この地との由縁を物語っている。


上記の事由から、葛西神社(当時は香取宮と称す[2])が郷内の守護神として祀られたと言われている。その後、時を経てこの香取宮は明治8年には郷社に定められ、第二次世界大戦後は全国神社の社格が廃止され、宗教法人葛西神社として今日にいたる。

御祭神

経津主神(ふつぬしのかみ)

  経津主神はフツと断ち放つ剣を象徴した神名とされる。そのような働きにより、自己研鑽、勝負、諸願成就の神として葛西神社において主祭神として往古より永く祀られている。


日本武尊(やまとたけるのみこと)

  日本武尊は景行天皇の皇子。『日本書紀』の倭姫命叢雲剣(むらくものつるぎ)の段の話や、日本武尊の御魂が空高く舞い上がり、飛び立っていったという古事にちなんで白鳥となって酉との縁が生じ、おとりさまとしての神様の面など、エピソードの多い神様である。葛飾区の郷土資料史には、大向(現在の東金町)のお社にお酉様として日本武尊が祀られていたのを葛西神社に合祀することになった時、近隣の家々で飼われていた鶏が別れを悲しんで一斉に鳴き声を上げたという伝説が記載されている。


徳川家康
尊(とくがわいえやすのみこと)
江戸時代初めに徳川家康が葛西神社へ立ち寄った際、古くから伝わる操り人形芝居の神事を見て大変感激し、奨励のために天正19年(1591年)に玄米十石を扶持として与える御朱印を下賜した。この縁により、葛西神社において徳川家康を祀ることとなる。立身出世や事業成功の象徴として、今なお敬意を集めている。

摂末社

以下に記す多くの摂末社が境内に鎮座する。

厳島神社(祭神 市杵嶋姫神)
手水舎の奥にある摂社。朱鳥居、福神殿、厳島神社からなる。

諏訪神社
安政5年(1858年)建立。8月1日が祭礼日。建御名方神は大國主尊の御子神であり、信濃の諏訪大社の大神である。諏訪氏(勝頼)との関係ができてからは武田信玄崇敬の神でもある。

稲荷社(祭神 倉稲魂神)
2月の初午祭に参拝者が参詣に来られる。以前は農作物の収穫を祈り、稲作、地元農産物の金町コカブや青物作物など、生産者の地元農民達に崇敬を集めていた。

葛西天神社(祭神 菅原道真命)
学問の神の道真公を祀る。初天神の時期には、春に進学の夢を望み、天神様へ受験生が参拝される。天神社の参道の脇には、飛梅と称した梅がある。

三峯神社(祭神 日本武尊)
埼玉奥秩父の三峯大神を祀る。

富士社(祭神 木花咲耶姫神)
富士山を模して築山し、種々の自然石を用いて明治44年に竣工。頂上に富士社を祀る。

神明社(祭神 天照大御神)
平成2年に再建。日本人の心の古郷である伊勢神宮の大御神様を奉祭。

道祖神社(祭神 猿田彦神)
元禄13年(1700年)造営。天孫の際、瓊々杵尊(ニニギノミコト)に道案内をしたことにちなみ、旅行の無事安全、また足の健康を願い、草鞋を奉納する。

水神社(祭神 罔象女神)
天保8年(1839年)造営。明治36年再建。造営当時以前から江戸川の洪水が幾度か発生し、村民の大きな悩みであった。自然災害が起きないよう、水の神に祈る人たちの思いがうかがえる。

金町招魂神社
昭和29年に大東亜戦争に出征して国を守り戦った御魂の尽力に感謝し、金町遺族会によって二百有余の御魂を祀る。

祭囃子

葛西神社は祭囃子発祥の地と言われている。祭囃子すなわち葛西囃子は城東地域(東京東部)に古くから伝わる郷土芸能の一つ。起源について明確に記載された文献は残されていないが通説としては享保年間、葛西神社の神官、能勢環(のせたまき)が敬神の和歌に合わせ、音律を工夫して和歌囃子として村の若者に教え、御神霊をお慰めしたのがその起源とされている。宝暦3年(1753年)頃より関東代官伊奈半左衛門(増補 葛飾史では伊奈半十郎)忠順が天下泰平・五穀豊穣を祈願すると共に一家和合並びに青少年の善導を目的としてこれを奨励した。結果、毎年各地で葛西囃子代表者の選出会が催される事となり、選出された者を代官自ら神田明神の将軍家御上覧祭りに推薦した事により大流行した。


なお、葛西周辺各地より名人が神田祭で囃子の奉仕をする形式を取っていたがやがてそれらの技能を身に付けた神田の氏子達の手でお囃子が行われる様になる。以来、お囃子は盛んの一途を辿り、神田囃子、深川囃子、また関東周辺にも広まり、秩父川越石岡、また東北地方東海地方の囃子の流儀を生んでいる。但し、葛西囃子は嘉永年間浦賀に黒船が渡来した事件と相まって一時衰退を見せる。安西四年(1857年)六月の神田祭より、月番寺社奉行松平豊前守のきも入りで復活の兆しを見せたものの、幕末から明治維新へと変遷を遂げる社会的動乱の中で再び衰微した。祭礼囃子に対して時代の変化による世人の嗜好が変化した事もその要因と考えられる。


しかし、以降の社会情勢の安定化に伴い葛西囃子も復活を見せる所となり明治17年(1884年)の神田明神の大祭において葛西神社名人代表が参加して好評を博した。また、この頃に小松村の神官秋元式弥が主体となって葛西囃子の普及に努めた事も復興に大きな役割を果たした。第二次世界大戦後、いち早く有志によって、昭和26年(1951年)に葛西囃子保存会(葛西神社事務局)が結成され、昭和28年(1953年)に東京都より無形文化財の指定を受け今日に及んでいる。現在、葛西神社の例大祭、11月の酉の市の祭事に奉納演奏を、また毎月中旬の日曜日にも境内で稽古が行われている。


余談だが「葛西囃子」の名称自体は戦後に付けられたものである。これは大東亜戦争の後、地元有志の手により保存会が結成されてからの呼称でありそれ以前は単に「おはやし」と称されていた。

酉の市
葛飾区唯一のお酉様として11月の酉の日には、熊手を求める参拝者で賑わっている。酉の市の夜には神楽殿において素人演芸大会が行われており、第二次世界大戦以前から長く続けられている。また、日本放送協会(NHK)のテレビ番組「NHKのど自慢」の初代の鐘が奉納され、今でもその鐘で参加者の歌唱力を審査している。

骨董市
毎月第一土曜日に朝8時から夕方まで、葛西神社青空骨董市委員会による青空骨董市が開かれており、多数の出店がされている。

文化財
・板絵着色赤穂浪士討ち入りの図(葛飾区指定有形文化財)
豊臣秀吉家臣浅野長吉文書(葛飾区指定有形文化財)[3]
・葛西神社鍾馗石像(葛飾区指定有形民俗文化財)[3]
・葛西神社のイチョウ(葛飾区指定文化財天然記念物)[3]
宮神輿




ギャラリーについては、『葛西神社ウィキペディア』をご覧ください。 ⇩


交通
JR常磐線京成線 金町駅より徒歩10分

脚注
1. a b c 東京都神社庁.
2. 新編武蔵風土記稿 金町村.
3. a b c d 葛飾区.

参考文献
・「心のふるさと 葛西神社」葛西神社御鎮座八百周年記念事業奉賛会、昭和60年8月25日発行
・「葛西神社文書1」葛飾区古文書史料集九、葛飾区郷土と天文の博物館編、平成8年3月31日発行
「金町村 香取社」『新編武蔵風土記稿』巻ノ27葛飾郡ノ8、内務省地理局、1884年6月。NDLJP:763979/40
・「十方庵遊歴雑記」釈敬順、江戸叢書刊行会、大正6年
・「祭礼囃子の由来」明治28年
・「ふるさと東京 民俗芸能」朝文社
・「東京都の郷土芸能」宮尾しげを・本田安次、昭和29年、一古堂書店
・「日本の民謡と民俗芸能」本田安次、音楽の友社、昭和42年
・「民俗芸能」三隅治雄編、昭和44年
・「江戸東京の民俗芸能 二」平成4年 
・「都道府県別祭礼行事」高橋秀雄・西村亨・倉林正次編、平成3年
・「江戸の祭り囃子」東京都教育委員会編、東京都教育庁生涯学習部文化課、平成9年
・「増補 葛飾区史」東京都葛飾区編
・「世界百科事典」平凡社
葛西神社”. 東京神社庁. 2020年7月16日閲覧。
文化財一覧”. 葛飾区史. 葛飾区. 2020年7月16日閲覧。

外部リンク
葛西神社公式サイト
(wikiより)

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俳人 鈴木松什

鈴木松什は、寛政 10年 ( 1798  )柴又村に生まれ通称を安五郎、俳号を無有庵 ( むゆうあん ) 松什といいました。


瓦の製造を生業としていましたが、若くして俳諧の道に入り、当時江戸の俳諧師として名の知れていた寥松 ( りょうしょう ) のもとで学びました。


松什は俳句のほか書画にも優れ、中央の俳壇までその名を知られていました。


『 気も散らで 暮れに及ぶや蓮の花 』


彼の編集した、句集「芭蕉翁発句類題集」などは著名なもので、嘉永 6年 ( 1853 ) 松什の没後も柴又を中心に俳句が盛んに作られました。


鈴木松は什当区の生んだ文人の先覚として、この地域の文化に寄付した顕彰すべき人物です。


墓は鈴木家の墓地の左側、法名は「無有庵俊誉松什禅士」
(案内板より)

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高畠 華宵(たかばたけ かしょう、1888年4月6日 - 1966年7月31日)は、日本の画家。本名、高畠幸吉


愛媛県
宇和島市裡町に生まれ、京都市立美術工芸学校日本画科卒業。大正から昭和初期にかけて、華宵の絵は当時の少年少女の間で絶大な人気を得た。宇和島市長・衆議院議員を務めた高畠亀太郎は、実兄。

栄光の日々
上京した当座は生活苦に喘いでいたが、1911年に「華宵」名義で発表した津村順天堂「中将湯」の広告画で一躍有名になる。アール・ヌーボーユーゲントシュティール、特にオーブリー・ビアズリーの影響を受けたとされるシャープなペン画によるモダンな絵はそれまでの広告イラストとは一線を画したもので[1]、世間の注目を集めた。

074b 高畠華宵

⇧ 1924年『七転八起開運出世双六』高畠華宵


その後『少女画報』(東京社)『少女倶楽部』『少年倶楽部』(いずれも講談社)『日本少年』『婦人世界』(いずれも実業之日本社)などの少女向け雑誌や少年雑誌、婦人雑誌などに描いた独特な美少年美少女の挿絵や美人画は一世を風靡し、たちまち竹久夢二らと並ぶ人気画家となった。1926年には自身の意匠による便箋や封筒を発売するなど、現代でいうメディアミックス風のプロモーションも行い、当時の流行歌「銀座行進曲」(正岡容作詞、1928年)の歌詞に「華宵好みの君も往く」と歌われるほどになった[2]。また、鎌倉・稲村ヶ崎一の谷(いちのやと)に建てた異国情緒あふれる自邸は「華宵御殿」と呼ばれ、華宵の趣味が凝縮したものとして注目を集めた。華宵御殿には、全国の女性(とくに女学生)からのファンレターが殺到し、地方の令嬢が華宵御殿見たさに家出するほどだった[3]。当時の華宵の画料は本人の言い値で決まっていたとされ、1925年には『少年倶楽部』の加藤謙一らの画料引き下げの求めに対し、華宵は寄稿の取りやめで応じたという[4]


しかし戦時色が濃くなるにつれ、人気絶頂の1937年ごろから雑誌などの活動が減ってゆき、一般大衆の間でもその人気は持続しなかった。戦後も華々しいカムバックとはいかず、1960年代に再評価を受ける(後述)まではやや歴史の中に埋もれた存在となっていた。それでも完全に忘れ去られることはなく、昭和中後期における少年少女、婦人雑誌の人物の挿絵は華宵の影響を受けたものが多い。漫画家の丸尾末広も華宵の画風から影響を受けていることがよく知られている。

画風

人物画が中心。連載小説挿絵・雑誌口絵レターセットなどの小物の意匠などに使われた。独特の三白眼を有する、無国籍風な表情と中性的な雰囲気をもつ人物を描く。妖艶さと清楚さを併せ持つ少女画・美人画と、凛々しく潔い、しかしやはりどこか色香を漂わせる少年画はいずれも一目で彼の作品とわかるほどの個性を放っている。また、明治から昭和初期にかけての和装・洋装を含むありとあらゆる服装・髪型アクセサリーが画題となっていることも注目される。描かれるファッションレパートリーは幅広く、たとえば和服については生涯にわたって同じ柄の着物を二度以上描いたことがないと豪語したとも伝えられるほどに衣装デザインは多彩だった。実際、彼は浴衣洋服のデザインを行い、それが雑誌口絵に鳴り物入りで掲載されるなど、時代のファッションをリードするデザイナーとしても活躍した(雑誌口絵にはそのデザイン服は「華宵好み」という名を冠して掲載された)。そのレパートリーの広さを存分に生かした渾身の大作が「移り行く姿」(昭和初期、現在は個人蔵)である。これは明治から昭和初期にかけての女性ファッションの移り変わりを、60人以上の女性を配した六曲一双の屏風絵に仕立てたものである。華宵はこの作品を暑い季節にも寝食を忘れて描き、すっかりやせ細ってしまったという弟子の証言があるほどの、一世一代の力作であった。


幾多の美女・美少女・美少年を描き続けたが、特定のモデルはいなかったとされている。また本人にはまったく浮いた話がなく、生涯独身であった。縁談を勧められたときも「私には絵の中の女たちがいますから」と切り返した話は有名である。

失意の戦後と幸せな晩年
戦後しばらくは夢を抱いて渡米するも、経済的に貧窮し、健康にも恵まれずに帰国するなど失意の日々を過ごし、怪盗ルパンシリーズの挿絵など、子供向けの仕事を細々と続けながら、全盛期とは比べ物にならないほど凋落した生活を送っていた。晩年にはかつて絶縁した実家の兄を頼るほどに困窮し、神戸の老人福祉施設に入っている。そんな中、幼少時に華宵のファンだった[5]という弁護士の鹿野琢見が偶然華宵の困窮ぶりを伝える記事を目にし、本人と文通を開始した(のちに華宵はあらたに「新・さらば故郷!」と題する水彩画を描き、鹿野に贈っている)。鹿野らの尽力に加え、かつて華宵の絵に熱狂した世代の後押しもあり、首都圏で華宵の回顧展が開催され、爆発的に人気が再燃した。その隆盛ぶりを見届けたのちの1966年7月31日、鹿野とかつて画料問題で対立した加藤謙一に看取られつつ生涯を閉じた。同日付けで挿絵画家としては初となる勲五等双光旭日章を受けた[6]。墓所は神奈川県鎌倉市鎌倉霊園にあり、養子の華晃ものちに同じ墓に葬られている。鹿野らは1984年に東京都文京区に「弥生美術館」を開き、華宵の作品の常設展示を始めた(後述)。

展示施設

弥生美術館(東京都文京区

  3階にて鹿野らが集めた多くの作品が常設展示されている。竹久夢二美術館が併設され、これらの美術館では華宵作品を中心として当時の風俗・ファッション・イラスト・少年少女の生活などを対象とする研究が積極的に行われている。


高畠華宵大正ロマン館
(愛媛県東温市

  自筆を含む多くの作品、書簡写真などが展示されている。


宇和島市立歴史資料館(愛媛県宇和島市)

  華宵作品の常設展示室「華宵の部屋」が開設され、3ヶ月毎に展示替えが行われている。

関連書籍
・『高畠華宵名作画集』 講談社、1967年

・『想いでの華宵絵ごよみ 抒情画家・高畠華宵の生涯』 ノーベル書房、1969年

・高畠華晃編著『画家の肖像 高畠華宵の伝記と作品』 「画家の肖像」同刊行会、1971年

・『豪華限定版 高畠華宵名画大集』 講談社、1976年(限定1500部)

・『高畠華宵名画集 優美、華麗な叙情画の世界』 講談社、1984年、ISBN 4-06-201655-9

・『別冊太陽 高畠華宵 美少年・美少女幻影』 平凡社、1985年

朝日新聞東京本社編『生誕100年 大正ロマンを描いた高畠華宵展図録』 朝日新聞社、1988年

・『高畠華宵大正ロマン館 図録』同編、1990年

・高橋光子『高畠華宵とその兄』 潮出版社、1993年、ISBN 4-267-01341-1

・近藤富枝『移り行く姿』 彩樹社/星雲社:発売、1993年、ISBN 4-7952-3925-8

弥生美術館監修『弥生美術館 叙情画家高畠華宵の世界』(CD-ROM) アテイン販売

・『高畠華宵 もう一つの世界』(CD-ROM) リンクインク制作/ドーム発売、1996年、ISBN 4-88734-801-0

・コロナ・ブックス編集部編『高畠華宵・美少年図鑑』 平凡社、2001年、ISBN 4-582-63388-9

・中村圭子編 『昭和美少年手帖』 河出書房新社、2003年、ISBN 4-309-72729-8

  ・『昭和美少年手帖』 河出書房新社、新装版2012年、ISBN 978-4-309-72790-5

・松本品子編 『高畠華宵 大正・昭和 レトロビューティー』 河出書房新社、2004年、ISBN 978-4-309-72735-6

  ・『高畠華宵 大正・昭和 レトロビューティー』 河出書房新社、新装版2011年、再訂版2020年、ISBN 978-4-309-75042-2

・松本品子編 『華宵のおしゃれ教室』 河出書房新社、2007年、ISBN 978-4-309-72763-9

出典
1. 千足伸行「高畠華宵と西洋近代絵画」『高畠華宵展 -華麗なる浪漫の世界-』図録、明石市立文化博物館神戸新聞社、1994年
2. 匠秀夫 『匠秀夫著作集 第2巻』 pp.395-396、沖積舎、2002年
3. 松本品子編『高畠華宵 大正・昭和レトロビューティー』 p46、河出書房新社、2004年、
4. 加藤丈夫『漫画少年物語』都市出版、2002年、pp.117 - 118
5. 鹿野は「さらば故郷!」が好きだったという。
6. 松本品子編『高畠華宵 大正・昭和レトロビューティー』 p119、河出書房新社、2004年、

外部リンク
弥生美術館

高畠華宵大正ロマン館

宇和島市歴史資料館 華宵の部屋
(wilkiより)

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⇧ 高畠華宵

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三代目 三遊亭 圓歌(さんゆうてい えんか、1932年1929年?)1月10日 - 2017年4月23日)は日本落語家俳優日蓮宗僧侶。 本名∶中澤 信夫であるが、出家後の資料では中澤 圓法(円法えんぽう)としている場合がほとんどである[1]出囃子は「二ツ巴」。定紋は片喰。

生年について
生年については1932年説と1929年説があり、落語協会公式サイト[2] では1932年1月10日となっている。これに対して1929年説は「空襲で役所が焼け、戸籍を再度届け出た際に家族が間違え、戸籍上3歳若くなったためである」としている[3]。一般的には1929年説が通っているともされていたが、4代目圓歌によれば、3代目の通夜が終わった後、飲み屋で会った岩倉鉄道学校の卒業生が1931年生まれで圓歌のことを「1年後輩」と言ったこと[4]、かつて手伝いに来ていた圓歌の母に1929年生まれが正しいのか聞いたところ「そんなに早く産んだ覚えはない」と言われたことに加え[5]、1929年説は5代目春風亭柳朝との確執の末に出てきたものだという。圓歌は日ごろから柳朝とはそりが合わず何かにつけて意地の張り合いをしていたが、ある時柳朝に「俺は昭和4年生まれだ。そっちは?」と聞かれ、負けず嫌いがゆえに1932年生まれの年下であることが言えず「俺も4年だ」と言い返し、これが定着したものだとしている[4][5]

生涯

東京府東京市向島区(現:東京都墨田区向島)出身。幼少期より、駄菓子屋を経営する祖母・中澤タダと二人暮らしであったという。東京市第二寺島尋常小学校(現在の墨田区立第二寺島小学校)時代の先輩には小川宏、同級生(1929年説であれば後輩)にはのちに漫画家となる滝田ゆうがいた。なお、この頃から吃音症を患うようになる。卒業後は鉄道員になりたくて岩倉鉄道学校(現岩倉高等学校)に入学し、同校を卒業[6]


その後について、「運輸通信省東京鉄道局(当時の国鉄)に入局し、山手線新大久保駅駅員を務め[6]、終戦を迎えた1945年8月に東京鉄道局を退職、同年9月2代目三遊亭圓歌に入門した[7]。」に語られることがあるが、高座の上でのネタ、漫談での語り、あるいは高座外での嘘が混ざっている話で、新大久保駅員であったことも、真偽の根拠が不明であるため、これらは弟子の立花家橘之助らによって高座で語られている。


戦後間もない頃、実家を間借りていた人物が「ポコちゃん」こと4代目三遊亭圓楽(後の3代目柳亭市馬)であった。圓楽に吃音症の克服を相談したところ「落語家になればいい」とアドバイスを受け、寄席見物に行く。ここで2代目三遊亭円歌と出会い、入門。前座名・三遊亭歌治。[8] なお、入門した詳細な時期については不明。自伝及び落語では1945年9月1日とあるが、実際はこれよりもっと遅くに入門したといわれる。


1949年、二つ目に昇進し、2代目三遊亭歌奴に改名した。 この頃スランプに陥り、一時期大阪へ失踪。周囲に諭されて東京に戻るが、帰路の都電で円歌と遭遇。「明日の朝、おいで」と言われ、翌朝おそるおそる謝罪しに行くと、「いままでの芸じゃ駄目だ。何か、新しいものを見つけてこい」と1ヶ月ほど暇を出される。そこで歌奴は祖母の疎開先であった秋田県湯ノ岱温泉へ向かった[8]

ここで、現地の人と東京の観光客で方言の違いで両者の会話に齟齬が出ていたことが面白く、これを落語に取り入れることができないかと思案し、そこへたまたま持っていた上田敏の訳詩集「海潮音」に収録されていたカール・ブッセの詩「山のあなた」を加えてできた噺が、歌奴の代名詞とも言える創作落語「授業中(山のあなた)」である。

この「授業中」を早稲田の寄席「ゆたか」でやったところ大いに受ける。気をよくした歌奴はNHKラジオにかけるとこれまた大好評。こうして1950年代には歌奴の名前は全国区になっていった。[8]

1957年
には二つ目のまま林家三平鈴本演芸場でトリを務めるまでになった。 1958年9月、真打に昇進した[9]


歌奴時代、黎明期のテレビ演芸番組に多く出演し、1960年代の演芸ブームでは売れっ子芸人の一人に目される。この時の活躍から、初代林家三平と共に「爆笑落語」の時代を築いた人物として後年に知られるようになる[7]。一時期『笑点』の大喜利メンバーとして出演[10]。この頃に自作の「授業中」で人気を博した[10] ことから、この時代の世代からは圓歌襲名後も「歌奴」と呼ばれることがあるという。


1967年昭和天皇の前で御前公演をした
(演目は十八番の「授業中」であったという)と語られることがあるが、真実は不明である(他のエピソードを含め、圓歌が高座で語ったものはあくまで落語であるから真実とは限らないということを、橘之助らが高座で述べている)。


1970年9月、三遊亭圓歌を襲名した。以後はテレビ出演を控え、高座に専念。1971年文化庁芸術祭優秀賞受賞。


1985年
出家日蓮宗久遠寺修行し、法号「本遊院圓法日信」を名乗り、噺家と僧侶の二足の草鞋を履く。

「中沢家の人々」では、前妻の死去をきっかけだと語られるが真偽は不明。高齢となってからの入門だったため、お経を唱えながら水垢離を行っている最中に心筋梗塞で倒れ、東京女子医大病院へ搬送されたとこちらも「中沢家の人々」で語られるが、真偽は不明。この一件について、後に圓歌は「寺から病院に行ったのは俺くらいだ[11]」、「俺が退院した後に、同じ病室に逸見政孝ら著名人が立て続けに入院して亡くなっていった。俺は良いタイミングで出てきたな(と、高座で話したところ、東京女子医大から誰もその病室に入りたがらないとクレームが来た)」「マスコミからの問い合わせに対し、三遊亭小円歌(当時。現:立花家橘之助)が誤って『病状は近親相姦です』と答えた。なんで俺が親と寝なきゃならねぇんだ!」などと、「中沢家の人々」のネタにしている。


1987年、当時の落語協会副会長6代目蝶花楼馬楽の死去に伴い、副会長に就任。1992年浅草芸能大賞大賞受賞。1996年8月、5代目柳家小さんの後任で、8代目会長就任[7]2006年6月から最高顧問に就任。2002年勲四等旭日小綬章受章[12] 後任の会長は、2001年に死去した3代目古今亭志ん朝の後任で副会長に就任した5代目鈴々舎馬風である。


1967年[13] から2015年まで東京都千代田区六番町に在住。なお、住んでいた自宅は作家有島武郎の旧家であったと「中沢家の人々」で語られるが真偽は不明。2015年からは湯島のマンションに住んでいた[13]。関係者によれば「最後まで高座に上がり続けるために鈴本演芸場に近い場所を選んだ終活ではないか」としている[14]


2017年
4月23日、結腸がんによる腸閉塞のため、東京都内の病院で死去した。享年86(1929年説では89)[15]。関係者によれば、亡くなる前年末頃から体調がすぐれず、高座を降りてから弟子に抱えられて舞台袖に向かう姿が見られたといい[16]、死の3か月ほど前の1月4日に鈴本演芸場で弟子とともに座談会を開いたが、結果的にこれが最後の高座となった[13]。4月27日に東京・青山葬儀所で「落語協会葬」(葬儀委員長・柳亭市馬落語協会会長)が執り行われた[15]

人物

得意演目は、新作では「授業中(山のあな)」「浪曲社長」「月給日」「電報違い」「我孫子宿」「中沢家の人々」「天皇陛下、初めて落語を聴く」「円歌の道標」[17] など。古典では、「替わり目」「坊主の遊び」「西行」[7]「三味線栗毛」「紺田屋」「品川心中」[7]宮戸川」「湯屋番」など。


前述の通り、幼少期から吃音症であった。「授業中」「浪曲社長」「月給日」には登場人物に吃音者が出てくるのはそのためである。CD「中沢家の人々完全版」によると、近所に住んでいた幼馴染で後にアナウンサーとなる小川宏が吃音者で、真似をしていたら自分もなってしまったという。落語家になった理由もそれの克服だが、入門時に(落語家への入門を懇願され)激怒した親から戸籍を外されてしまった。また、吃音者であることは駅員時代にも災いし、偶然同じく吃音者だった旧日本軍の人間の接客をしていた際、つられてどもって話していたところ、マネしてバカにしていると勘違いして激怒した軍人に危うく切り捨てられそうになった。やはり吃音癖のある2代目圓歌に弟子入りしたのは偶然であったという。以上の吃音に関する(いささか誇張も混じっていると思われる)エピソードは3代目本人の語るところによるものであるが、7代目立川談志は「あれは師匠に合わせた誇張で、(3代目)圓歌兄さんはどもっちゃいない」と生前に語っている。いずれの話も真偽は定かでない。


それまでの落語界ではありえなかったことをいくつか始めており、「落語界の異端児」を自称している。例として次のようなことが挙げられる[18]


・黒以外の色の紋付きを着て高座を務める。元々、落語界では黒紋付きを着て高座を務めるのが慣例であったが、「お葬式じゃねぇんだから何人も黒紋付きで出ることはねぇ」との理由でこれを破った。

眼鏡を掛けて高座を務める。元々、強度の近視で眼鏡なしでは客席もよく見えないためであった。

江戸落語界では初めて女流の弟子として、1980年に立花家橘之助(当時の前座名「あす歌」。三味線漫談)、1981年三遊亭歌る多(当時の前座名「歌代」)を取り、育て上げた。このうち、歌る多は1993年に落語協会初の女流真打に昇進している。

・居酒屋でたまたま出会ったハドソンの創業者の工藤裕司と話が合い、弟子に誘い「三遊亭あほまろ」という名前を与えている。


落語協会で初めて、副会長から会長になった人物でもある。副会長時代、病気療養を理由に前会長の5代目柳家小さんから次期会長を頼まれ、引き受けた。「馬風なんて俺殺せば会長になる会長になるって[19]、あいつ知らねえんだ。代々副会長ってのは会長より先に死ぬもんだ」と、新作落語「昭和の噺家」でネタにしている。


「浪曲社長」を自作したことからもわかるように浪曲好きで、木村若衛に弟子入りまでした[20]


副業
として伊豆長岡に「三遊亭」というしゃぶしゃぶ店を経営していた。「中沢家の人々」によれば、この店は自分の4番目の弟に仕切らせていたという。


芸者好きで、後妻・令子は伊豆長岡の芸者で、亡くなった前妻・和子は向島の芸者だった。ちなみに、ふたりの名前をあわせると「令和」になる。

芸歴
1945年9月∶二代目三遊亭円歌に入門、前座名「歌治」。

1948年∶二ツ目昇進、「二代目三遊亭歌奴」を襲名。

1958年∶真打昇進。

1970年∶「三代目三遊亭圓歌」を襲名。

1971年∶「三味線栗毛」により文部省芸術祭優秀賞受賞。

1987年落語協会副会長就任。

1992年∶浅草芸能大賞受賞。

1996年∶落語協会会長に就任。

2006年∶最高顧問に就任。

2017年4月∶死去。

出演
テレビドラマ
アイフル大作戦

赤い衝撃(1976年)

悪魔くん - 山田春吉 役

大奥(フジテレビ) - 佐田兵助

おんなの家(1974年)

・元旦ドラマスペシャル・初春物語(日本テレビ)

ザ・ガードマン 第334話「荒野のカー・アクション殺人」(TBS / 大映テレビ室、1971年) - スタントカーショー司会 役

シークレット部隊(1972年)

太陽野郎(1967年)
晴のちカミナリ(1989年)

窓からコンチワ(1967年)

燃える兄弟(1972年)

夜明けの刑事 第78話「現代・四谷怪談」(1976年、TBS / 大映テレビ) - 質屋の店主 役

映画
羽織の大将(1960年、東宝

三等兵親分(1966年、東映

落語野郎 大脱線(1966年、東宝)

落語野郎 大馬鹿時代(1966年、東宝)

落語野郎 大爆笑(1967年、東宝)

落語野郎 大泥棒(1967年、東宝)

喜劇急行列車(1967年、東映)

爆笑野郎 大事件(1967年、東宝)

濡れた逢いびき(1967年、松竹

喜劇 団体列車(1967年、東映)

コント55号と水前寺清子の神様の恋人(1968年、松竹)

コント55号と水前寺清子のワン・ツー・パンチ 三百六十五歩のマーチ(1969年、松竹)

喜劇 いじわる大障害(1971年、日活

陽のあたる坂道(1975年、東宝) - 清吉 役

戦争と青春(1991年、松竹)

詳しいことは、『三代目・三遊亭圓歌ウィキペディア』をご覧ください。 ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E9%81%8A%E4%BA%AD%E5%9C%93%E6%AD%8C_(3%E4%BB%A3%E7%9B%AE)
(wikiより)

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⇧ 三代目・三遊亭圓歌


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初代 市川八百蔵(しょだい いちかわ やおぞう、享保15年〈1730年〉 - 宝暦9年10月19日1759年12月8日〉)とは、江戸時代中期の歌舞伎役者俳名定花、屋号蓬莱屋。紋は三升の中に八の字。

来歴
道外方松島茂平次の子。初め松島吉三郎を名乗り、大坂の豊竹蛙井の操座で子役として初舞台。寛保2年(1742年)江戸に出て、中村座の『傾城赤澤山』で子役を勤める。この時に「子役の名人」といわれて評判をとる。延享3年(1746年)に松島八百蔵と改名し若衆方、のち立役に転じる。寛元2年(1749年)11月、二代目市川團十郎の門下となり市川八百蔵と改名した。享年30。荒事を最も得意とし、曾我五郎の役は二代目團十郎を凌ぐといわれた。二代目八百蔵は初代八百蔵の妹おるやの婿。

参考文献
・野島寿三郎編 『歌舞伎人名事典』(新訂増補) 日外アソシエーツ、2002年
(wikiより)

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⇧ 初世・市川八百蔵

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元禄 7年 ( 1694 ) 7月に建てられたもので、中央に地蔵の浮彫、その左側に ( そうか迄二里半 ) 、右には ( ミキいわつきしおんしミち ) とあります。


以前はここより 30m南の街道ぞいにありました。


岩槻慈恩寺は、坂東三十三観音霊場の第十二番札所として知られ、江戸川ぞいの人々の信仰をあつめていました。


この道は岩槻慈恩寺道と呼び、舟運が発達するまでは行徳の塩を運ぶ陸路として利用されました。


その後慈恩寺へお参りにいく人々の道として賑わいました。


「金町村 同行弐百三十五人」と彫られていることから、多くの信仰をあつめていた様子がうかがえます。
(案内板より)

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光増寺(こうぞうじ)は、東京都葛飾区にある浄土宗寺院

概要

1222年貞応元年)、法海によって開山された。親鸞がとある庵に一泊したことがきっかけで、その庵主の法海は親鸞の弟子になり、庵を「光増寺」として浄土真宗の教えを広めることになった[2]


その後、1538年天文7年)の国府台合戦の戦火により廃寺化したが、1587年天正15年)になり常誉によって中興され、浄土宗の寺院となった[2][3]


現在の当寺の宗派は浄土宗になっているが、当寺の公式サイトでは「親鸞聖人ゆかりの寺」を公言し[1]、寺宝も親鸞に由来しているものが多い[4][5]

文化財
・一茎三蓮 - 葛飾区登録文化財(有形民俗文化財)[6][5]

・舟形地蔵道標 - 葛飾区指定文化財(有形民俗文化財)[6][7]

・俳人 鈴木松什の墓 - 葛飾区指定文化財(史跡)[6][8]

交通アクセス
金町駅より徒歩9分。

脚注
1. a b c d 光増寺トップページ光増寺
2. a b 入本英太郎、橋本直子 著『葛飾区史跡散歩 (東京史跡ガイド22)』学生社、1993年、82-84p
3. 新編武蔵風土記稿 金町村.
4. 寺宝:真向如来尊像・三名号光増寺
5. a b 寺宝:一茎三蓮光増寺
6. a b c 葛飾区史文化財一覧
7. 舟形地蔵道標 光増寺
8. 俳人 鈴木松什(しょうじゅう)の墓 光増寺

参考文献
・入本英太郎、橋本直子 著『葛飾区史跡散歩 (東京史跡ガイド22)』学生社、1993年

・「金町村 光増寺」『新編武蔵風土記稿』巻ノ27葛飾郡ノ8、内務省地理局、1884年6月。NDLJP:763979/41

関連項目
親鸞

外部リンク
浄土宗攝取山蓮池院光増寺

・“文化財一覧”. 葛飾区史. 葛飾区総務部総務課 (2017年4月1日). 2020年4月20日閲覧。
(wikiより)

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朝宗は足利氏満 満兼に歴任し 入道して禅助と号す 


人称して犬懸 ( いぬかけ ) の管領  (かんれい = 将軍代理職 ) といふ 


其子氏憲 嗣 ( つぎ = 継 ) て持氏の執事となり 入道して禅秀と号す 


然 ( しか ) るに後 持氏と隙 ( 不仲 ) あり 


応永廿三年 ( 1416 ) 氏憲は持氏の叔父満隆と謀り 満仲を奉じて兵を起せしも遂に敗れ 


翌年 ( 1417 ) 正月 一味 と共に雪ノ下の鶴岡別当坊に自尽す 此処は即ち其の邸なり
(石碑文より)

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田楽辻子 ( でんがくずし )
鎌倉時代に呼ばれていた小路で、路名の由来は、路ぞいの釈迦堂前に田楽師が住んでいたとめと伝える。
 
辻子は通り抜けのできる小路のことで、十字路を辻という。
 
「吾妻鏡」などの田楽にまつわる記事に基づいて現在の道筋をたどると筋替橋 ( すじかえばし ) を起点として宝戒寺裏から滑川を渉り、大御堂ヶ谷・釈迦堂ヶ谷の入口をへて宅間ヶ谷に出て六浦と合流する小路と考えられる。
(案内板より) 

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師匠は十一代・春日野清隆 ( 元関脇・栃乃和歌 )。


大正十四年 ( 一九二五 ) 五月、第二十七代横綱・栃木山 ( 八代・春日野剛也 ) が、出羽海部屋から分家独立し、創設しました。


昭和三十四年 ( 一九五九 ) 十月、八代・春日野の死去に伴い、部屋所属の第四十四代横綱・栃錦が現役のまま九代・春日野を襲名、部屋を継承し、昭和三十五年 ( 一九六〇 ) 、現役を引退するまでの間、二枚鑑札で部屋経営ににあたりました。


また、九代・春日野は、昭和四十九年 ( 一九七四 ) から同六十三年 ( 一九八八 ) まで日本相撲協会理事長を務めました。


平成二年 ( 一九九〇 ) 一月、九代・春日野の死去に伴い、部屋付の中立親方 ( 第四十九代横綱・栃ノ海 ) が部屋を継承、十代・春日野晃将を襲名しました。


平成十五年 ( 二〇〇三 ) 二月、十代・春日野の定年退職に伴い、部屋付の竹縄親方 ( 元関脇・栃乃和歌 ) が十一代・春日野を襲名し、部屋を継承、今日に至っています。
(案内板より)

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藤村 俊二(ふじむら しゅんじ、1934年(昭和9年)12月8日 - 2017年(平成29年)1月25日[1])は、日本俳優声優タレント振付師実業家神奈川県鎌倉市出身。愛称は「おヒョイ(さん)」。俳優事務所、有限会社O’hyoi & Sons(オヒョイアンドサンズ)所属。

生涯
生い立ち
実父はスバル興業社長[2]小学校から高等学校まで暁星学園で過ごし、演出家を志して早稲田大学第一文学部演劇学科に進学。理論偏重の教育に飽き足らず中退し、東宝芸能学校舞踊科を第1期生として卒業。

芸能界へ

日劇ダンシングチーム12期生として1960年に渡欧し、イギリスフランスを巡る。このとき本場の芸の水準に驚いて舞踊家の道を断念し、帰国後、振付師に転向。ザ・ドリフターズの大人気番組『8時だョ! 全員集合』(TBS)やレナウン「イエイエ」のCFの振り付けも担当した。


『8時だョ! 全員集合』では、ギャグアドバイザーだったこともあり、「ヒゲダンス」の振り付けを担当したとされる。しかし藤村自身が2008年4月18日放送のNHK-FM『邦楽ジョッキー』や『おしゃれカンケイ』でこれを否定し、『8時だョ! 全員集合』で振り付けたのはオープニング(民謡「北海盆唄」の替歌)の「エンヤーコラヤ ドッコイジャンジャン コーラヤ」の部分であり、「腕・肩を順番に触るだけの単純な動作だが、忙しく踊っているように見える振り付け」と語っている。


かつて代表を務めていた俳優事務所「オフィス・オヒョイ」には自身のほか黒澤久雄岡崎友紀らも所属していたが、2011年をもって同事務所は解散。滝口順平の死去に伴い2011年から担当していた『ぶらり途中下車の旅』のナレーションも2015年10月24日放送分からは太川陽介林家たい平石丸謙二郎らが週替わり(代役)でナレーターを務めた(2016年1月9日放送分から小日向文世が3代目ナレーターを担当するまで)。

晩年

2015年12月になって藤村夫人が『女性自身』のインタビューに応じて、藤村について「体調を考慮して『ぶらり―』のナレーションを2015年10月をもって正式降板し、それと共に芸能界から引退した」ことを公表した。血管の状態が思わしくないため、千葉県の病院に通院していたという[3]。一方、有限会社O’hyoi & Sons(オヒョイアンドサンズ)代表取締役で長男の藤村亜実は「単に『ぶらり―』を降板しただけ」と引退発言報道を公式に否定していた[4][5]


2017年
1月25日午後8時45分頃、心不全のため静岡県御殿場市内の病院で死去[1]。82歳没。藤村の死去は2月1日に公表され、藤村の長男が記者会見を開いて「その瞬間を大事に生きていた人」と、父を偲ぶコメントを残した[6]。また、1996年に再婚した28歳年下の女性とは2013年12月頃に離婚。2015年に小脳出血で倒れ、リハビリ生活を送っていたと語られた。

人物
容姿
長らく細身に黒髪のアフロヘアートレードマークだったが、56歳のときに胃癌で胃を全摘出してからは毛染めをやめ、白髪と白い口ひげがトレードマークとなった。

役者・芸風

本人によると、もともと振付師志望であったが、番組中にエキストラ出演を頼まれることが多く、画面に映るのが嫌でその場から「ひょい」と逃げていたところ「おヒョイ」のあだ名がついたという(後輩からは「おヒョイさん」と呼ばれていた)。


バラエティ番組
などでは、とぼけたキャラクターと自虐とも取れるシュールな冗談を言うなど、飄々としたキャラクターで人気を集めていた。


本人は「タレント」という肩書きを嫌い、「アクター(俳優)」を自認しており、1990年代以降、先述の胃癌を機にした容姿の変化に伴い、老け役としての需要が急増。知的な老紳士・好々爺役が多かったが、複数回起用された三谷幸喜作品ではボケキャラだった。


たびたび「執事役が似合う芸能人」として話題に挙がることもあり、闘病前の姿を知らない若い世代には特にその傾向が強く、漫画『黒執事』に登場する老執事・タナカは藤村をモデルとして作られており、アニメ化にあたっては当の本人を声優として起用し、死去の際には作者の枢やなが追悼文を発表している[7]。また2017年に公開された『劇場版 黒執事 Book of the Atlantic』は藤村にとっての遺作となった。


「ズボンの折り目が嫌い」という理由から、クリーニングから返ってきたズボンの折り目をわざわざ自分でアイロンをかけて消していた。

交友
1934年生まれの同い年であった長門裕之愛川欽也大橋巨泉財津一郎森山周一郎らと1976年に親睦団体「昭和九年会」を結成していた。逝去後に親友の森山や中村メイコがマスコミのインタビューに応じている。

実業
芸能界で活躍する一方、東京・南青山でバー「O'hyoi's」(オヒョイズ)を経営していた。店のロゴマークにはオーナーの藤村のシルエットがあしらわれていた。芸能人が経営する飲食店は、いわゆる名義貸しオーナーの形が多いが、藤村は仕事の合間を縫って店に立つなど、実際に現場での経営を行っていた。また、この店では「お客様にサービスするのが当たり前だから」という理由でサービス料は設定していなかった。2010年12月に閉店。

出演作品

テレビドラマ
忍者部隊月光 第111話・第112話(フジテレビ) - 幻21号 役

戦え! マイティジャック 第10話「消えた王女の謎を解け!!」(フジテレビ) - R69号

ハレンチ学園東京12チャンネル(現:テレビ東京)) - ヒゲゴジラ(2代目)

2丁目3番地(1971年、日本テレビ) - 金田俊吉

いじわるばあさん 第3話「押売りさんコンニチワ!」(1971年、フジテレビ)

3丁目4番地(1972年、日本テレビ、1972年) - 金田俊吉

水曜ドラマシリーズ おやじの嫁さん(1973年、フジテレビ)

七丁目の街角で、家出娘と下駄バキ野郎の奇妙な恋が芽生えた(1976年、日本テレビ) - 哲也

西遊記II(1979年、日本テレビ) - 玉竜の人間態

江戸の牙1979年テレビ朝日三船プロ) - 間兵助

大江戸捜査網 第508話「駒下駄と鬼娘の涙」(1981年、東京12チャンネル・三船プロ) - 兵六

田中丸家御一同様(1982年、日本テレビ) - 西村英太郎

鬼平犯科帳 (萬屋錦之介) 第3シリーズ 第3話「霧の朝」(1982年、テレビ朝日・東宝) - 吉造

王様のレストラン(1995年、フジテレビ) - レストラン「マール・オ・ヴュペール」の迎えの人

古畑任三郎 第2シーズン第3話(1996年、フジテレビ) - 花見録助

こんな私に誰がした(1996年、フジテレビ) - チグリス前川

コーチ 第1話(1996年、フジテレビ) - 平林

おひさまがいっぱい(1996年、TBS)

総理と呼ばないで(1997年、フジテレビ) - 副総理

不機嫌な果実(1997年10月9日 - 12月18日、TBS) - 児玉会長

三姉妹探偵団(1998年、日本テレビ) - 王様

天国に一番近い男 MONOカンパニー編 第3話(1999年) - 龍崎教授

お水の花道(1999年、フジテレビ) - 松嶋誠二

笑ゥせぇるすまん(1999年、テレビ朝日) - バー「魔の巣」のマスター

教習所物語(1999年、TBS) - 左右田善哉

痛快!三匹のご隠居 第7話(1999年) - 近衛綾麿

HR(フジテレビ) - 日和先生

月曜ドラマスペシャル税務調査官・窓際太郎の事件簿(4)(2000年、TBS)

京都潜入捜査官 THE SLIPPERS(2000年、テレビ朝日) - オープニングナレーション

まんてん(2002年-2003年、NHK) - ナレーション

火曜サスペンス劇場(日本テレビ)

  ・「盲人探偵・松永礼太郎12・今一度の」(2000年) - 藤原浩

  ・「屋形船の女」(2003年 - 2004年) - 岩倉源三

はみだし刑事情熱系(2001年、テレビ朝日) - 脇坂康平 役

女と愛とミステリー「湯けむり殺人案内 なんにも専務の名推理」(2003年1月、テレビ東京) - シゲさん

東京ワンダーホテル(日本テレビ)

東京ワンダーツアーズ(日本テレビ)

怪奇大家族(2004年、テレビ東京系列) - 忌野淵男

虹のかなた(2004年、毎日放送) - 立野繁造

離婚弁護士(2004年、フジテレビ) - 高橋秀雄

ファイト(NHK) - 西郷

ウルトラマンコスモス 第20話(2001年、毎日放送) - 木本研作博士

よい子の味方 〜新米保育士物語〜(2003年、日本テレビ) - 村林完一(おじいちゃん先生)

ヒョイと花咲くストーリー(2006年、岩手めんこいテレビ) - 美容室オーナー

がきんちょ〜リターン・キッズ〜(2006年、毎日放送) - 田丸蔵之介

電車男(フジテレビ) - 照光

芋たこなんきん(NHK) - 有田

ハッピィ★ボーイズ(テレビ東京) - 渋川一蔵

おシャシャのシャン!(2008年1月10日、NHK)

NHKスペシャル / 感染爆発〜パンデミック・フルー(2008年1月12日、NHK)

土曜時代劇 / オトコマエ!(2008年、NHK) - 仙人(宮宅又兵衛)

恋のから騒ぎ 〜Love StoriesV〜「電報を打つ女」(2008年10月10日、日本テレビ)

月曜ゴールデン自治会長・糸井緋芽子社宅の事件簿(9)(2009年2月16日、TBS) - 五十嵐大吾朗

古代少女ドグちゃん(2009年10月、毎日放送)

HTBスペシャルドラマミエルヒ」(2009年12月、北海道テレビ) - 田代

ドラマ10八日目の蝉」(2010年、NHK) - 写真館店主

金曜ロードSHOW!特別ドラマ(日本テレビ)

  ・磁石男(2014年6月13日) - おじいさん(劇中ナレーション)

  ・Dr.ナースエイド(2014年11月7日) - 葉山幸次郎

映画
・青春ア・ゴーゴー(日活1966年) - ゴーゴーフェスティヴァルの司会者

ハレンチ学園(1970年) - ヒゲゴジラ

東京上空いらっしゃいませ(1990年) - 橋本勝

ラヂオの時間(1997年) - 伊織万作

・白痴(1999年) - 仕立屋

日本の黒い夏─冤罪(2001年) - 藤島教授

Quartet カルテット(2001年) - 藤岡俊吉

ウルトラマンコスモス THE FIRST CONTACT(2001年) - 木本研作博士

ゴーストシャウト(2004年) - 坂口健太

・冬の幽霊たち ウィンターゴースト(2004年) - 町のご意見番

子ぎつねヘレン(2006年) - 上原教授

初恋(2006年) - 柏田バイク店店主

デスノート / デスノート the Last name(2006年) - ワタリ

椿山課長の七日間(2006年) - 喫茶店マイルスのマスター

L change the WorLd(2008年) - ワタリ

なくもんか(2009年) - ボーダーシャツの男


詳しいことは、『藤村俊二ウィキペディア』をご覧ください。 ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E6%9D%91%E4%BF%8A%E4%BA%8C
(wikiより)

065 藤村俊二

⇧ 藤村俊二

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円光大師詠歌碑。

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初代・竹本東猿塚 / 竹本東猿 ( たけもと - とうえん )
( 1867 ~ 1904 )


明治時代の女義太夫の太夫。


慶応 3年生まれ。


19歳で真打となり、大阪の女義太夫界で名声を博する。


明治 32年上京、多くの名士にひきたてられた。


品行方正で後進の模範ともされた。


明治 37年 8月 12日死去。38歳。大坂出身。

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水木 洋子(みずき ようこ、本名:高木富子、1910年明治43年)8月25日 - 2003年平成15年)4月8日)は、日本脚本家映画監督谷口千吉は元夫。1913年大正2年)生まれを自称していた。

来歴・人物

東京府東京市京橋区(現・東京都中央区京橋)出身。東京府立第一高等女学校(現東京都立白鷗高等学校)、文化学院出身。東京左翼劇場に出演する。


24歳で父と死別してから家族を支えるために脚本を執筆するようになる。当初は舞台の脚本を書いていたが、戦時中ラジオドラマの脚本を主に手掛けるようになった。


1938年12月、都内の乃木神社で当時東宝の助監督だった谷口千吉と挙式を挙げるが、翌年10月に協議離婚をした。


戦後、かつてのロシア語の師で、大御所脚本家になっていた八住利雄映画の脚本を書くよう勧められ、1949年『女の一生』が映画デビュー作品となる。


その後女性の視点から見たヒット作を多数描き、特に文芸作品の脚色で多くの傑作を遺した。キネマ旬報ベストテン1位を4回受賞するなど、戦後の日本映画黄金時代を代表する脚本家である。林芙美子原作・成瀬巳喜男監督の『浮雲』(1955年)などは名高い。


没後、一切の財産を1946年から住んでいた市川市に寄贈した。旧宅は毎月第4土日に公開されている。2004年(平成16年)、市川市の名誉市民に選出された。

主な作品
また逢う日まで今井正監督)

おかあさん成瀬巳喜男監督)

ひめゆりの塔(今井正監督)

あにいもうと(成瀬巳喜男監督)

山の音(成瀬巳喜男監督)

浮雲(成瀬巳喜男監督)

驟雨(成瀬巳喜男監督)

おとうと市川崑監督)

ここに泉あり(今井正監督)

純愛物語(今井正監督)

キクとイサム(今井正監督)

怪談小林正樹監督)

もず渋谷実監督)

婚期吉村公三郎監督)

甘い汗豊田四郎監督)

竜馬がゆく大河ドラマ

はまなすの花が咲いたら(テレビドラマ)

甘柿しぶ柿つるし柿(テレビドラマ)

受賞

・第1回菊池寛賞(1953年)

紫綬褒章(1981年)

・勲四等宝冠章(1987年)

伝記
加藤馨『脚本家水木洋子 大いなる映画遺産とその生涯』映人社、2010年

  ・著者は元朝日新聞記者、2002年より水木洋子市民サポーターの会会長。市川市立図書館所蔵の資料を基にした評伝。

関連項目
東京都出身の人物一覧 

外部リンク
脚本家水木洋子の世界 市川市役所
(wikiより)

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⇧ 水木洋子

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新場 小安(しんば こやす、寛政2年(1790年) - 慶応元年8月5日1865年9月24日))とは江戸時代後期の侠客、魚問屋。新場の小安として知られる。

略歴

寛政2年(1790年)に江戸日本橋にあった新肴場に生まれる。通称は伊勢屋卯之助。魚河岸の顔役と知られた。享年76。墓所は江東区深川の重願寺。法名は小安院観誉静翁信士。


その子が2代目小安を継いでいる。

参考文献
上田正昭他編 『日本人名大辞典』 講談社、2001年
(wikiより)

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旧両国橋は現在の両国橋の下流約五十メートルのこの辺りに架かっていました。


完成は万治二年 ( 一六五九 ) 十二月。


明暦三年 ( 一六五七 ) の大火が大災害となったため、幕府が防災上の理由から架け、武蔵と下総の国を結ぶ橋なので、両国橋と呼ばれました。


橋の上は、四方が眺望できる絶景の場所で、近くは浅草の観音堂、遠くは常陸の筑波山まで、見えたようです。


橋が架かったことで交通の要衝となるとともに、橋の袂には火除け地としての広小路が設けられました。


西側 ( 日本橋側 ) は「両国広小路」といわれ、芝居小屋や寄席、腰掛茶屋が立ち並び、東側は「向こう両国」と呼ばれ、見世物小屋、食べ物屋の屋台が軒を連ねる繁華街となりました。


寛保二年 ( 一七四二 ) の調査では一日に二万人以上が往来したとされています。
(案内板より)

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元禄十五年 ( 一七〇二 ) 十二月十四日、赤穂浪士は本所二ツ目の吉良邸に討ち入り、主君である浅野内匠頭の仇討ちを成し遂げました。


これが世に言う赤穂事件で、芝居などで「忠臣蔵」と呼ばれるようになりました。


赤穂浪士が討ち入り後、泉岳寺への引き揚げ前に休息した場所がここにあった広小路です。


吉良家への応援に駆けつけて来るであろう上杉家の家臣たちを迎え撃つ心算であったとの説もあります。


休息後、大名との無益な衝突を避けるため、登城路になる旧両国橋を渡らず、一之橋、永代橋を経由して、泉岳寺へと引き揚げました。
(案内板より)


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石尊垢離場跡 ( せきそんこりばあと )


石尊とは、神奈川県伊勢原市にある大山のことです。


山頂の阿夫利神社は、商売繁盛と勝負事に御利益があるので江戸中期、江戸っ子が講を組み、白衣に振り鈴、木太刀を背負った姿でお参りに出かけました。


出発前に水垢離を取り、体を清めました。


その垢離場が旧両国橋の南際にありました。


川の底に石が敷いてあり、参詣に出かける者が胸のあたりまで水につかり「さんげさんげ、六根罪障、おしめにはったい、金剛童子・・・・・・」などと唱えながら、屈伸を行い、そのたびにワラで作ったサシというものを流したのです。


その賑わいは、真夏の海水浴場のようだったとされています。
(案内板より)

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小柳 徹 ( こやなぎ - とおる )
( 1948 - 1969 )


俳優、歌手。


第三京浜をトヨタコロナクーペを運転中に激突事故で、1969年 3月 24日に亡くなりました。


『ホームラン教室』NHK土曜日の 6時 ( 1960年ごろ )。

ヤング 720の司会。

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⇧ 小柳 徹

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当社の創建は詳らかではないが、『葛西誌』に「慶長四年 ( 一五九九 ) の鎮守と云」とある。


しかし、柳原村は、元禄年間 ( 一六八八 ~ 一七〇四 ) に葛西郡小谷野柳原村より分村独立しているので、それ以降に村の鎮守として祀られたものであろう。


江戸期にあって同じ柳原の理性院持ちであった。


祭神は、宇迦之御魂神 ( うかのみたまのかみ )。


明治十二年 ( 一八七九 ) の東京府神社明細簿によると、本社殿、拝殿、境内二百三十五坪 ( 官有地 ) とあり、境内社として高木神社 ( 産霊神 = むすびのかみ ) と日枝神社 ( 大山咋神 = おおやまくいのかみ・東照宮 ) の二社があり、氏子は三十五戸ときされている。


高木神社は江戸期の第六天社で、神仏混淆 ( しんぶつこんこう ) を禁止された明治以降に改称した。


また、明治四十四年 ( 一九一一 ) に日枝神社は高木神社に合祀された。


昭和八年 ( 一九三三 ) 、柳原冨士講により浅間神社が勧請 ( かんじょう ) され、富士塚が築かれた。


これは、昭和五十九年 ( 一九八四 ) 十一月、足立区登録有形民俗文化財となった。


講中による七富士巡りなどが行われている。


また、当社に奉納される柳原箕輪囃子 ( みのわばやし ) は、江戸期より伝わる民族芸能で、昭和五十七年 ( 一九八二 ) 十二月、足立区登録無形民俗文化財となった。
(案内板より)

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千住河原町はかつて「やっちゃ場」とよばれた青物市場で、戦前には旧日光街道沿いに多くの青物問屋が軒を連ね、活気あふれる問屋街でした。


千住河原町稲荷神社境内には明治 39 ( 1906 ) 年建設の「千住青物市場創立三百三十年祭記念碑」が立っています。


これによれば市場開設は天正 4 ( 1576 ) 年になりますが、史料によれば、公的に市場の形をなしたのは享保 20 ( 1735 ) 年でした。


青物市場は神田・駒込と並び江戸の三大市場に数えられ、幕府の御用市場でもあったのです。


市場には現足立区域内外から多くの農産物が集められ、それらが都心部へ運ばれましたが、その際に活躍したのが投師 (なげし ) といわれる人たちです。


大正期には 130人いたという投師は、やっちゃ場から都心の神田・京橋といった市場へ転売しました。


そのため、他の朝市に間に合うように運ぶ必要があり、やっちゃ場はそれよりも早い午前3時には市が開かれていたといいます。

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足立区立第二中学校(あだちくりつ だいにちゅうがっこう)は、かつて東京都足立区千住曙町にあった公立中学校。略称は足立二中(あだちにちゅう)。


少子化
ドーナツ化現象私立中学校への進学者増加に伴う公立中学校への進学者減少などの理由により学区内の生徒数が減少し、全校生徒が127人と少なくなったため、2005年平成17年)3月末に閉校した。ともに閉校となった足立区立第十六中学校と統合した、足立区立千寿桜堤中学校が別の所在で新設された。

沿革
1947年4月1日 - 開校。当初は本校を旭小学校内、分校を柳原小学校内に設置される。

1950年9月11日 - 千住曙町(閉校までの場所)に木造校舎が完成する。

1959年1月1日 - 校歌が完成する(作詞:石田波郷、作曲:渡邊浦人)。

1963年5月10日 - 体育館が完成する。

・1963年5月6日 - 学校給食を開始する。

1971年頃 - 屋上プールなどを備える鉄筋校舎が完成する。以降、閉校までほぼ同じ姿だった。

・2005年3月31日 - 閉校。同時期には閉校式・お別れ会も催され、生徒・卒業生・地域住民などが別れを惜しんだ。

  ・閉校後しばらくはそのままの状態となっていたが、一時は校庭の貸出利用も行っていた。

2006年3月 - 足立区から学校法人三幸学園に対して、当校の敷地(土地)については定期借地権により無償貸与、建物・工作物・立木については無償譲渡された。のちにクレーン等の大型重機が入り施設の改修や増設工事が行われ、2007年(平成19年)4月に東京未来大学が同地に開校した。

校章
はばたいた翼の中に「中」の文字をあしらったシンプルなデザインだった。外側の羽は鳩の羽をイメージしたもので、「鳩のように礼儀正しく責任感の強い生徒になれ」との意味が込められている。

交通
東武伊勢崎線 堀切駅西口より徒歩3分

・東武伊勢崎線 牛田駅より徒歩8分

京成本線 京成関屋駅より徒歩8分

撮影地として
・テレビドラマ『3年B組金八先生』で、舞台となる「東京都区立桜中学校」のロケ地として当校が使用されたことでも知られてもいるが、未成年の妊娠など題材とする内容に難色を示して撮影を拒否する事もあった為、撮影が行われたのは第1、第5〜7シリーズのみであり、それ以外は近隣の中学で撮影した。

・廃校後、東京未来大学への転用にともなう改修工事が着工されるまでの間は様々な映像作品の撮影に使用された。金八のスペシャル11『未来へつなげ 3B友情のタスキ』(2005年12月30日放送)を初めバラエティ番組『水10!ワンナイR&R』内で放送されたドラマ『もんじゃろ学園物語』のオープニング映像では当校が使用されており、3年B組金八先生を模した演出がなされている。このほか、コブクロの楽曲『』のプロモーションビデオや、テレビドラマ『アンフェア』などでも使用されている。

関連項目
足立区の学校一覧

東京都中学校の廃校一覧

3年B組金八先生

学園ドラマ
(wikiより)

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里見 勝蔵(さとみ かつぞう、1895年明治28年)6月9日 - 1981年昭和56年)5月13日)は、日本洋画家国画会会員[1]

人物
京都市四条生まれ。東京美術学校卒業後にフランスに留学。二科展に入会し活躍。1926年には前田寛治佐伯祐三らと1930年協会を設立したほか、児島善三郎らと独立美術協会を創立し、フォーブ運動を展開した。終戦後に国画会に入会。著書に「ブラマンク」など[2]

コレクション
東京国立近代美術館[3]

京都国立近代美術館

茨城県近代美術館

宇都宮美術館

目黒区美術館

神奈川県立近代美術館

山梨県立美術館

愛知県美術館

三重県立美術館

山口県立美術館

静岡県立美術館

京都市美術館

ふくやま美術館

山梨県立美術館

愛媛県立美術館

北九州市立美術館

大分市美術館

脚注
1. 里見勝蔵 :: 東文研アーカイブデータベース”. www.tobunken.go.jp. 2021年1月9日閲覧。
2. 
里見勝蔵』 - コトバンク
3. 里見勝蔵 略歴”. www.g-ashiya.jp. 2021年1月9日閲覧。
(wikiより)

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光永 星郎(みつなが ほしお、慶応2年7月26日1866年9月4日〉 - 昭和20年〈1945年2月20日)は、日本実業家日本広告日本電報通信社(後の電通)創業者。貴族院勅選議員。幼名は喜一きいち雅号八火はっか熊本県八代郡野津村(現・氷川町)出身。

生涯

1866年(慶応2年)旧暦7月26日、熊本県八代郡野津村(現・氷川町)生。幼名は喜一。


宮原町寺子屋に通い、野津小学校(のちの東光寺小学校)、小川町(現・宇城市)にあった大槻英輿の漢学塾である菁莪堂で学ぶ。1880年(明治13年)、共立学舎入学。徳富一敬蘇峰の父)に学ぶが中途退学。当時高揚していた藩閥打倒運動に共鳴したためとみられる。


その後、陸軍士官学校予備門育雄校に入り、軍人を志すが、瘭疽のため右脚の自由を失った。

軍人になる道を閉ざされた光永は政治家を志し、自由党の政治家らと共に政府批判を展開したが、1887年(明治20年)に保安条例違反により、東京から3以内に入ることを禁じられた。このとき、尾崎行雄星亨中江兆民らが同様に追放処分を受けている。


のち、めさまし新聞福岡日日新聞などに寄稿するようになり、日清戦争時には従軍記者として中国に向かう。この時、通信手段の不備が原因でせっかく書いた記事の掲載が大幅に遅れた経験から、正確で迅速なニュース報道の必要性を感じ、新聞社にニュースを供給する通信社の設立を構想するようになる。しかし、通信業単独では採算がとれそうもないことから、広告代理店を設立し、新聞社から得る通信料と新聞社に支払う広告料を相殺することを思い立つ。光永の採ったこの方式は、近代的通信社の先駆であるフランスアヴァスと同様の発想に基づいていた。


通信業を興すには莫大な先行投資を要することから、光永は広告代理店を先に設立した。しかし、10万円としていた資本金のうち、実際に調達できたのは5000円に過ぎなかった。


1901年
(明治34年)7月1日、光永は現在の銀座4丁目に新聞社に広告を取り次ぐ「日本広告株式会社」を創立した。社員8名の小さな会社で、2階建ての借家からはじめ、1階の6畳と2畳が事務所、2階の4畳半と6畳が創業者光永の住居だった[1]


起業したばかりの広告会社が大手に対抗するため、光永は3つの戦略を立てた。第1が「利率の低廉」手数料を他社より安くすること。第2は「取引の公明化」入札時に談合入札を拒否するなど、広告取引の透明化を図ること。第3は「設備の完全化」意匠図案サービスの無料提供や調査情報サービスの提供により広告主への支援サービスを充実させること。従前の広告代理業の常識を変えるこうした戦略により、日本広告の企業基盤はしだいに固められていった。


株式会社日本広告創立から4カ月後の1901年11月、光永は個人経営の形で「電報通信社」を設立し、念願であった通信業を開始する。


電報通信社を創業して5年目通信業と広告代理業の一体経営化を決定。1906年(明治39年)12月27日、「株式会社日本電報通信社」(以下電通)を設立し、「電報通信社」と「日本広告(株)」を合併し、本格的な電通の併営体制を開始した。


1907年には、アメリカ合衆国で創業したばかりのUP(United Press Association、現在のUPI)と通信契約を締結した。


1914年
(大正3年)7月28日、第一次世界大戦が勃発すると、大戦報道で電通は顕著な成果を上げ、通信社電通の声価を高めた。また、戦時の好景気を背景に、広告の主力媒体である新聞の発行部数も増大し、電通の営業成績は急上昇を辿っていった。


しかし、1931年昭和6年)の満州事変が起こると、国内の情報通信機関を一元化するため、電通と競合していた新聞聯合社との合併を図る動きが浮上した。光永は強硬に反発したが、かなわず、両者の統合方針が決定された。1933年(昭和8年)12月5日、貴族院勅選議員に任じられ死去するまで在任[2]1936年(昭和11年)、新聞聯合社の後身「同盟通信社」が誕生すると、電通は通信部を同盟通信社に譲渡し、以後、電通は広告専門業者として再出発した。


戦時下の広告界は苦難の道を歩むが、光永は戦後の繁栄を見ることなく、1945年(昭和20年)2月20日死去。享年78。


埋葬地は熊本県氷川町桜ケ丘公園。没後の1970年(昭和45年)、熊本県の近代文化功労者として顕彰された。また、1973年(昭和48年)には記念事業として光永の雅号を冠した八火図書館が氷川町に開かれた。

その他
テレビ熊本は2014年10月26日、「郷土の偉人」シリーズの第22弾として「広告の先駆者・光永星郎」のドキュメンタリードラマを放送した。[3]

・光永が始めた行事として、毎年7月に実施する富士登山がある。社長以下全社員が富士山に登り、山頂の郵便局から暑中見舞い葉書を顧客に送る。現在の電通でも連綿と続けられている、恒例行事である。

脚注
1.  株式会社電通 創業者 光永星郎”. 野村ホールディングス日本経済新聞社. 2003年3月31日閲覧。
2. 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、43頁、52頁。
3. 電通の創業者をドラマ化「広告の先駆者・光永星郎」”. 電通. 2014年10月24日閲覧。

関連図書
・『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、貴族院事務局、1947年。

熊本日日新聞社編纂『九州人国記』熊本日日新聞社、1966

八代郡竜北村史編纂委員会編纂『竜北村史』竜北村役場、1973

・熊本日日新聞社編纂『熊本県大百科事典』熊本日日新聞社、1982

田原総一朗『電通』朝日文庫、1984

・熊本教育振興会『肥後の人物ものがたり』熊本教育振興会事務局、1988

日外アソシエーツ『熊本県人物・人材情報リスト、2007』

関連項目
古野伊之助

岩永裕吉

里見甫

外部リンク
電通百年の歩み

近代の熊本を創った人々(熊本県ホームページ内)
(wikiより)

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⇧ 光永星郎

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〇 金蓮院愛染明王石像 ( こんれんいんあいぜんみょうおうせきぞう )


この石像は、宝永 7年 ( 1710 ) に二十六夜待 ( にじゅうろくやまち ) 講中の人々が、二世安楽を願って建てたものです。


二十六夜待とは、特定の月の 26日の夜に人々が寄り合い、飲食などをしながら月の出を待ち、五穀豊穣 ( ごこくほうじょう ) 、商売繁昌などを願うことをいいます。


二十六夜待の本尊は愛染明王ですが、石像を刻むよりも文字を刻む例が多く、愛染明王の石像単独では余り例はなく、これはその中でも古い方に入ります。


愛染明王は人々の迷いのもととなる、様々な愛欲の心をきよめることによって、その悩みから人々を救い、大きな愛へ転化させる力 ( 菩提心 = ぼだいしん ) を持つ仏とされています。


像容は三目六臂 ( さんもくろっぴ ) 像 ( 目が 3つで腕が 6本 ) で、中央の第一手 左に鈷鈴 ( これい ) 、右手に五鈷杵 ( ごこしょ ) 、下部の第二手左に弓、右が矢を持ち、上部の第三手左が拳をつくり、右に蓮華を持ってます。
(説明版より)

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羅漢薪 ( ラカンマキ ) はマキ科に属する常緑樹です。


古くから金蓮院の「ラカンマキ」として有名で、文政 12年 ( 1829 ) の紀行文『十方庵游歴雑記 ( じゅうほうあんゆうれきざっき )』などの

文献にも記された名木です。


『又傍らに槇の大樹あり。 太さ三尺四寸廻りもあらんか、樹の高さ凡そ二丈余り、葉のかたち尋常に在らず。・・・・・・枝振り又天然なり云々』


ラカンマキの大木は都内でも極めて少ないものです。


樹高は 10mあまり、幹周り約 3mほどで、樹齢は 400~450年といわれています。


金蓮院は永正年間 ( 1504~1520 ) の創立で旧門末 30余ヶ寺、朱印地 10石をもった本寺格の寺院です。
(案内板より)

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