本牧jack『意外と身近にある歴史散歩』日々是好日 心灯 頬笑

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歴史ドラマが流行っている昨今、身近に有って気が付かなかったりする様な物を取り上げたりしています。
たまに『 多人数で取材しているのか? 』との質問を戴きますが、小生と相方の二人三脚で御座います。
出来るだけ続けたいと思っていますが 膝・耳に問題が有って、いつまで出来るやら・・・説明も、やたら長いものから あっさりしたものまで有りますが、御付き合いの程 宜しく御願い致します。
御注意 . 少ないですが生前に建てられた『 生前墓 』の記事も有ります。 ※ 申し訳御座いませんが「画像の転用」は禁止とさせて頂きます。 コメントは原則公開させていただいております 質問等に対してはブログ記事で返信させていただきます 他の方法で連絡を取り合う等一切しません 場合によっては、「IPブロック」しますがブロックした場合解除する事は有りませんので宜しくお願いします。

2023/07

金蓮院(こんれんいん)は、東京都葛飾区にある真言宗豊山派寺院

概要

永正年間(1504年1521年)、賢秀によって開山された。「本寺」の格式を持つ寺であった[3]


当寺は度々火災に遭ったが、寺宝の弘法大師の肖像画は自ら飛び出して難を逃れたという逸話から「火伏の大師」との異名をもつ[3]

交通アクセス
金町駅より徒歩6分。

脚注
1. a b c d e f 新編武蔵風土記稿 金町村.
2. 葛飾区指定・登録文化財一覧.
3. a b 入本英太郎、橋本直子 著『葛飾区史跡散歩 (東京史跡ガイド22)』学生社、1993年、76-78p

参考文献
・入本英太郎、橋本直子 著『葛飾区史跡散歩 (東京史跡ガイド22)』学生社、1993年

・「金町村 金蓮院」『新編武蔵風土記稿』巻ノ27葛飾郡ノ8、内務省地理局、1884年6月。NDLJP:763979/41

・“葛飾区指定・登録文化財一覧”. 葛飾区郷土と天文の博物館. 2020年8月2日閲覧。

外部リンク
・“人々の祈願と信仰 :写し霊場巡り”. 葛飾区史. 2020年8月2日閲覧。 - (新四国四箇領八十八箇所)
(wikiより)

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ここは江戸時代、関東周辺の琵琶 ( びわ ) 法師や鍼灸師 ( しんきゅうし )、按摩 ( あんま ) などの盲人 ( もうじん ) を統括していた総録 ( そうろく ) 屋敷の跡です。


杉山和一は慶長十五年 ( 一六一〇 ) 、伊勢国安濃津 ( あのづ )( 三重県津市 ) で生まれました。


幼時に失明、はじめ江戸の山瀬検校に鍼灸を師事しましたが、後に京都の鍼師入江豊明に弟子入りしました。


厳しい修行の後、江ノ島の岩窟 ( いわや ) で断食 ( だんじき ) 祈願を行いました。


その満願の明け方、霊夢を通して新しい鍼管術を考案しました。


杉山流管鍼 ( かんしん ) 術は、鍼を管に入れ、的確にツボを押さえるという画期的なものでした。


その後の和一の名声は日増しに高まり、寛文十年 ( 一六七〇 ) 、検校に任じられました。


さらに五代将軍綱吉の治療の功を褒美 ( ほうび ) わ尋ねられ、和一は目を請いました。


綱吉は一ツ目 ( 本所一之橋際の土地 ) と関東総録検校職を与えたと伝えられています。


時に元禄六年 ( 一六九三 ) 六月のことでした。


一町四方 ( 約一万二千平方メートル ) の土地に総録屋敷と神社が建てられ、現在の場所には鍼治 ( しんち ) 講習所もありました。


現在の神社の名は、土地の拝領者と厚い信仰をささげた江ノ島弁財天を意味します。


社殿の南側には江ノ島の岩窟を模した洞窟があります。
(案内板より)

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杉山検校の業績が認められ、大正 13年に正五位が追贈されたのを記念して作製された、世界に 1つの点字石碑である。
(江島杉山神社ホームページより)

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〇 江島杉山神社
鍼術の神様・杉山和一 ( 一六一〇 ~ 九四 ) が五代将軍綱吉から、ここ本所一ツ目に約一万二千平方メートルの土地を拝領し総録屋敷を建て、その西隣に弁財天の一社を建立したのが、江島杉山神社の始まりです。


神奈川県藤沢市の江島弁財天と、杉山和一検校が祀られています。


和一は、現在の三重県津市の出身で幼いころに失明しましたが、江戸に出て鍼術を学び、江ノ島弁財天の岩屋にこもり鍼術の一つである管鍼術を授かりました。


其の後、京都でも鍼術を学び、再び江戸に戻り、鍼の名人として活躍しました。


この評判を聞いた綱吉は和一を「扶持検校」として召し抱え、日夜自分の治療に当たらせました。
(江島杉山神社説明版より)


〇 江島杉山神社 由緒
当社は神奈川県藤沢市江島神社の弁財天を奉斎し、またその弁財天を深く信仰した杉山和一を併せ祀る。


杉山和一 ( 慶長十五 < 一六一〇 > 年 ~ 元禄七 < 一六九四 > 年 ) は三重県津市の武家の生まれで幼い頃失明し、身を立てるために鍼術を志す。


江戸の山瀬琢一に入門し修行に励む中、江島弁財天の岩屋にて七日七夜の参籠した。


業が明けた日外に出ると大きな石に躓 ( つまづ ) いてしまうが何か手に刺さるものがあり探ってみると、筒の様にくるまった枯葉 ( スダジイ ) の中に一本の松葉が入っていた。


「いくら細い鍼でも管に入れて使えば盲人の私にも容易に打つ事が出来る」


こうして現在鍼治療の主流である管鍼術が生まれた。


躓 ( つまづ ) いた石は「福石」として、本社江島神社の境内に祀られている。


この後より深く鍼治を学ぶため京都の入江豊明の元へ入門する。


そして江戸で治療所を開くと、その噂は瞬く間に広がった。


同時に多くの弟子を輩出し、世界初の盲人教育の場、職業の確立を進めた。


寛文十 ( 一六七〇 ) 年一月 和一は六一歳にして兼業の位を受けた。


その名声により五代将軍・徳川綱吉の医師として務めるようになる。


元禄五 ( 一六九二 ) 年五月九日将軍より総検校に任じられる。


和一が八三の時、綱吉公の難病を治療した功により「何か望みの物はないか」との問いに「唯一つ、目が浴しゅうございます」と答え、ここ本所一ツ目に総録屋敷の領地を賜り更に和一が高齢になっても月参りを欠かさなかった江ノ島弁財天が敷地内に勧請された。


翌年には壮麗な社殿が建立、本所一ツ目弁天社と呼ばれ江戸名所となり、多くの信仰を集めた。


元禄七 ( 一六九四 ) 年五月十八日八四歳没。


明治四年 当道座組織が廃止され総録屋敷も没収されるが、当社は綱吉公が古跡並の扱いとしたため残され、社名も江島神社となる。


明治二三年四月杉山和一霊牌所即明庵も再興し、境内に杉山神社を創祀。


震災、戦災により二つの社殿とも消失するが戦後昭和二七年合祀し、江島杉山神社となる。
(由緒案内板より)


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かつてこの辺りにあった町名です。


その由来は、・・・・・・。


享保年間 ( 一七一六 ~ 三五 ) 紀伊生まれで麹町に住んでいた毛利藤左衛門は、自分の支配地である西葛西領猿江村の入り堀二万五千坪を自費で開墾し、「毛利新田」と呼ばれていました。


しかし、これが幕府の貯木場として、残らず召し上げられ、その代わりにこの土地を賜ったことから藤代町と呼ばれています。


回向院や向島に通じる要衝だったため、商家が軒を並べるかなり賑やかな場所で、本所の入り口にふさわしい繁華街でした。
(案内板より)

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駒留橋が架かる入り堀に生える葦は、同じ方向にしか葉を出さなかったことから、方葉の葦と呼ばれていました。


入り組んだ地形の風の吹き込み方が影響していたと考えられますが、当時はそれが、本所七不思議の一つとされていました。


その由来は・・・


昔、本所横網町に住んでいた留蔵という男が、三笠町のお駒という娘に惚れました。


留蔵はお駒を自分のものにしようと、あの手この手で近づきますが、お駒は一向になびきません。


腹を立てた留蔵は、お駒を殺害し、片手片足を切り落として堀に投げ込みました。


それ以来、ここに生える葦は、すべて片葉になったというものです。


当時、葦は吉原の語源となるほどこの辺りにたくさん生えていました。
(案内板より)

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駒留橋は、この辺りにあった旧両国橋北側の入り堀に架かっていた長さ二間半 ( 約四.五メートル )、幅三間 ( 約五.四メートル ) の小さな石の橋で、藤代町と東両国広小路を結んでいました。


その堀の幅はもっとも広いところが四間 ( 約七.二メートル ) で、奥に行くほどだんだん狭くなっていました。


本所七不思議の一つである方葉の葦が生えていたので、別名、方葉堀といわれ、盛り場の近くにありながら、夜になると寂しい場所でした。


両国の繁華街がもっとも賑やかになる時間帯でもこの橋の周りは森閑としていたと伝えられています。


そのせいか、夜になると、橋詰にあった自身番 ( 町内の私設交番 ) の前に夜鷹が集まり、道行く人の袖を引いていたようです。
(案内板より)

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秋山 ちえ子(あきやま ちえこ、1917年(大正6年)1月12日 - 2016年(平成28年)4月6日)は、日本のラジオパーソナリティエッセイスト評論家。本名、橘川ちゑ(きっかわ ちえ)。

来歴・人物

宮城県仙台市出身[1]東京女子高等師範学校(現:お茶の水女子大学)を卒業後、聾唖学校の教師となる。この時、取材に訪れた川端康成と知り合い、北条誠を川端に紹介する。結婚後、中華民国に4年滞在。1948年(昭和23年)から1956年(昭和31年)まで、NHKラジオ番組『私の見たこと、聞いたこと』のレポーターを担当し、主婦の視点から見た日本の現状をわかりやすく説明した。1954年(昭和29年)にラジオ番組「私の見たこと聞いたこと」で第2回日本エッセイスト・クラブ賞を受賞(書籍ではなく、ラジオ番組に対しての授与)。その後ラジオ東京(現TBSラジオ)『昼の話題』→『秋山ちえ子の談話室』のパーソナリティ1957年(昭和32年)から45年間担当した。1994年度(平成6年度)の日本女性放送者懇談会賞の日本女性放送者懇談会25周年特別賞を受賞する[2]


2002年
(平成14年)に帯番組終了後も毎週日曜日に続編『秋山ちえ子の日曜談話室』として続いていたが、それも2005年(平成17年)10月2日をもって終了した。この番組について報道機関各社の説明では「当初から3年間限定と決めていましたし、どこかでパッとやめた方が自分の信条に合っています」としている。このラジオ番組の回想録「風の流れに添って(ラジオ生活57年)」が2005年(平成17年)10月2日の放送最終日に講談社より出版された。


2005年のラジオパーソナリティ引退後は後進の育成・訓導を行っていた。また2015年まで毎年8月15日終戦の日)に、ラジオで童話「かわいそうなぞう」の朗読を、『大沢悠里のゆうゆうワイド』(TBSラジオ)で継続していた[3]。『大沢悠里のゆうゆうワイド』の後継番組『大沢悠里のゆうゆうワイド土曜日版』では、2016年4月16日の放送分で、秋山の追悼特集を放送した。[4]また、2016年4月30日の「ゆうゆうワイド土曜日版」においての大沢悠里発言並びにネット配信[5][6]において、同年5月5日の21時より追悼特別番組を放送予定とアナウンスされた。


また、古巣のNHKでも2005年(平成17年)12月NHKラジオ第1放送きょうも元気でわくわくラジオ」に出演したことが縁で、2006年(平成18年)4月から2008年(平成20年)3月の放送終了まで、村上信夫司会週の放送回に不定期ながら出演している。この出演から、童話「かわいそうなぞう」の朗読も毎年8月NHKで行われるようになった(2011年は急病のため、出演を断念し朗読CDが流されている)。

文章にも定評があり「喋るエッセイスト」とも称されていた。


1991年(平成3年)に第39回菊池寛賞1997年(平成9年)に東京都文化賞1999年(平成11年)にエイボン女性大賞を受賞。


2016年
(平成28年)4月6日、自宅で肺炎のため死去[7]。99歳没。

福祉活動
大分県別府市を中心として障害者の支援を行っている社会福祉法人太陽の家の活動を応援しており、自らを「太陽の家応援団」と称して多くの支援を行っている。特に障害者の就労において、ソニーの創業者井深大本田技研工業の創業者本田宗一郎オムロンの創業者立石一真を紹介し、それぞれソニー・太陽株式会社、ホンダ太陽株式会社、オムロン太陽株式会社という社会福祉法人 太陽の家の共同出資会社の設立がなされた。

平和活動

1967年(昭和42年)から毎年8月15日の終戦記念日には、戦争中に餓死させられた動物園のゾウの話「かわいそうなぞう」の朗読を続け、戦争の悲惨さと憲法九条の大切さを訴えていた。生前の秋山は「生きている限りはTBSラジオで毎年読ませてくださいとお願いしている」と語っており、生涯をかけた自分の仕事の一つとして「かわいそうなぞう」の朗読を続けていた。


九条の会」傘下の「マスコミ九条の会」呼びかけ人でもあった[8]

著書
・『私の社会見学』牧書店(学校図書館文庫) 1955

・『お勝手口からごめんなさい』春陽堂書店 1957

・『日本人の住まいと暮らし』筑摩書房(新中学生全集) 1959

・『幸福へのささやき』知性社(知性選書) 1959

・『しあわせな子どものゆくすえ』文芸春秋新社(ポケット文春)1962

・『夫とつきあう法』文芸春秋(ポケット文春)1966

・『妻の孤独』主婦の友社 1966

・『町かどの福祉』柏樹社 1976

・『大晦日のローストビーフ 23の物語』文化出版局 1976 のち文春文庫

・『おそい目ざめ』文化出版局 1977

・『十年目の訪問』文化出版局 1979 のち文春文庫

・『蜃気楼』潮出版社 1980

・『いぶし銀のように 秋山ちえ子の歳時記』潮出版社 1981

・『われら人間コンサート』暮しの手帖社 1985

・『雨の日の手紙』文化出版局 1986 のち文春文庫

・『秋山ちえ子の暮しの覚え書き』文化出版局 1986

・『女の食卓 春・夏・秋・冬』海竜社 1988

・『野菜の花 随想集』文京書房 1988

・『まわり道』マガジンハウス 1991

・『近くなった町 それぞれに大人の物語』ネスコ 1992 のち文春文庫

・『冬の薔薇』三月書房 1994

・『九十九歳の恋うた 小さな町の物語』岩波書店 1994

・『さよならを言うまえに』岩波書店 1997 のち現代文庫

・『二人静 女と男五つの小さな物語』小池書院(道草文庫) 1998

・『八十二歳のひとりごと』岩波書店 1999

・『風の流れに添って ラジオ生活五十七年』講談社 2005

・『種を蒔く日々 九十歳を生きる』講談社 2008

共編著
・少年少女教養全集 1(思想編) 宝文館 1961

・家庭教育の疑問に答える 早川元二共編 1964 (三一新書)

・われら人間 自立に向って生きる 大和書房 1981.11

・わたしの家族 家の光協会 1995.4

・日本の名随筆 別巻 59 感動 作品社 1996.1

・元気よすぎる息子へのラブレター 親から子に贈る愛のメッセージ 漆原智良千葉剛共編著 KTC中央出版 1998.4

・ラジオを語ろう 永六輔 2001.10 (岩波ブックレット)

脚注
1. 評論家の秋山ちえ子さん死去 ラジオで「談話室」45年 朝日新聞 2016年4月12日
2. 歴代受賞者”. 日本女性放送者懇談会 SJWRT. 2016年6月21日閲覧。
3. 2015年(平成27年)の終戦の日は土曜日で、該当する時間には土曜ワイドラジオTOKYO 永六輔その新世界が放送されるため、8月14日に繰り上げ放送された
4. 大沢悠里が秋山ちえ子さんへの思い出話を語る - 大沢悠里のゆうゆうワイド土曜日版公式ページ、2016年4月12日、同月13日閲覧。
5. 秋山ちえ子さんの追悼特別番組を放送 - TBSラジオ、2016年4月20日10:50配信、同年5月5日閲覧。
6. 
さようなら 秋山ちえ子さん 今夜放送 - TBSラジオ、2016年5月5日00:02配信、同日閲覧。
7. “訃報:秋山ちえ子さん99歳=評論家、ラジオで「談話室」”. 毎日新聞. (2016年4月12日). http://news.nifty.com/cs/domestic/societydetail/mainichi-0412e040200/1.htm 2016年4月12日閲覧。 
8. マスコミ九条の会(よびかけ人はだれですか)

関連項目
宮城県出身の人物一覧

社会福祉法人 太陽の家
(wikiより)

0021 秋山ちえ子

⇧ 秋山ちえ子

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伊藤 雄之助(いとう ゆうのすけ、1919年8月3日 - 1980年3月11日)は、日本俳優。本名は伊藤 嘉朗(いとう よしろう)。


兄は二代目澤村宗之助、弟は伊藤寿章(澤村敞之助、澤村昌之助)、妻は新東宝の女優だった桐丘峯子。子に俳優の伊藤高と歌手の伊藤照子。付き人に大地康雄がいる。


「ゆうのすけ」は雄之助雄之弼侑之助でクレジットされている映画もある。

来歴・人物

1919年8月、東京市浅草区東仲町(現在の東京都台東区雷門)で帝国劇場専属の歌舞伎俳優の初代澤村宗之助(本名伊藤三次郎)の次男として生まれる。母は帝国劇場専属女優第1期生の鈴木徳子。兄、弟も役者の芸能一家に育つ。父方の祖父は尾張藩に仕えた300石取りの武士の家柄に生まれた士族だが、地元の子供芝居に投じて台頭、四代目助高屋高助に認められて上京し、その養子となって七代目澤村訥子を襲名していた。訥子は養父の死後小芝居の大立者となり、雄之助出生時もなお活躍中であった。


1924年
4月、満4歳8カ月で“澤村雄之助”の芸名を名乗り、父の舞台である四谷の大国座で初舞台を踏む。本来初舞台披露が行われるはずの帝国劇場は前年の関東大震災で焼失し、再建中であった。しかし、初舞台の6日目に父が舞台で急逝した。雄之助ら遺児3兄弟は祖父の世話を受けることになったが、祖父が2年後に亡くなると親戚中から冷遇され、さらに雄之助は他の兄弟たちと比べのろまで不器用だったことから“紀ノ国屋の場違い小僧”と罵られるなど、苦労の多い幼年期を過ごした。


教育熱心な母の意向で慶應義塾幼稚舎に入れられ、成績優秀で将来は教師になることを望んでいたが、慶應義塾普通部1年の夏に母が3万円ほどの借金を遺して病死したため学業中断を余儀なくされ、「澤村兄弟プロダクション」を組織して芸能活動を再開した。1934年東京宝塚劇場開場と同時に公募された専属俳優に兄弟とともに応募、「東宝専属男女優」第1号の1人となった。この一座はのちに「東宝劇団」と名づけられたが、この劇団では六代目坂東蓑助[注釈 1]ら先輩役者との対立もあり、辛酸を嘗めた。とりわけ六代目簑助からは厳しい態度で臨まれ、伊藤自身がノイローゼに追い込まれたほどで、六代目蓑助を刺し殺して自らも自殺しようと思いつめたこともあるという[1]。その最中に若手勉強会に加わったことをきっかけに、リアリズム演劇に惹かれ、初めて演技することの喜びを感じたという。


1940年
に陸軍に応召、1943年に一等兵で除隊されるまでに中国大陸で兵役に就く。上官の大便が入った浴槽で入浴することを強要されるなど、ここでも冷遇を受けた[2]。その後は第2次東宝劇団に参加、小夜福子組の移動演劇隊に加わって山形県を巡業中に終戦を迎える。1946年に演劇隊を解散し、東京に戻り八田元夫の演劇研究所に入ってからは、スタニスラフスキー・システムによる演技を学ぶ。


映画は1932年に『少年諸君』で映画デビューしているが、本格的な映画出演は戦後からで、義兄である佐伯清の薦めで1946年に東宝撮影所へ入社する。特に1949年に公開された『野良犬』(監督・黒澤明)では、端役でありながら印象的な演技を見せた。その後東宝争議が始まったために東宝を退社し、新東宝綜芸プロなどに所属。この時期は市川崑作品の常連で、主演をつとめた社会風刺喜劇『プーサン』(1953年)は、監督ともども出世作となった。


1954年よりフリー。早い段階でフリーとなったため、テレビドラマにも1950年代から多くの作品へ積極的に出演した。


代表作に『巨人と玩具』『侍』『しとやかな獣』など。特徴のある顔とアクの強い演技で多数の映画で名脇役として活躍、『椿三十郎』では大詰めのみの出演ながらも存在感を示した。一方で『気違い部落』『ああ爆弾』などでは主演として鮮烈な印象を残した。1969年6月、歌舞伎座の舞台[注釈 2]に出演中に脳溢血で倒れ[3][4][5]、半身不随となるも懸命なリハビリの結果、翌1970年には『橋のない川 第二部』(監督・今井正)にて俳優活動を再開した[6]。まだ仕事復帰は医師から厳重に止められており、文字通り命懸けの演技であったという[6]。再起不能とも言われた状態からの復帰直後には「“絶望とはおろか者の結論”とはうがったことばですね。人間、あきらめちゃだめです。努力すれば必ず道はひらけますよ。この通りあたしがなおったんですから」と述べている[5]。晩年も『太陽を盗んだ男』では日本兵の軍装で皇居に突撃しようとするバスジャック犯役で怪演を見せるなど、多数の映画・ドラマなどに出演した。


1980年3月5日、療養で伊東市の温泉へ行くが、翌3月6日になって容態が悪化、そのまま伊東市内の病院に入院。3月11日に心臓発作で死去。60歳没。同年公開の『戒厳令の夜』が遺作となった。


子どもの頃から油絵を描くなど絵を描くことが好きで、寸暇を惜しんでスケッチをして歩くのが趣味だった[7]


芝居に対する執念はすさまじく、伊藤と同じ事務所に所属していた時、伊藤への興味から伊藤の関西公演に同行して共に生活した俳優梅津栄は、ある夜明けに隣室の伊藤が起きているのに気付き、「もう起きていらっしゃるんですか」と言おうと襖を開けたが、本を前に何ごとか考えている伊藤の姿に「声をかけるきっかけさえつかめない位のきびしさがあるんだよね...。何、考えてらしたんだろうねェ。...やっぱり、気違いなんですわな。おそらく何かこう、次の作品のヒントかどうかわかんないけど、空気がピーンと張りつめててね、もうね、声かけられなかったですよ。これだっ!って思ったわな」と述懐している[8]。また気骨ある言動で知られ、ゴテ雄のあだ名がつくほどであった。1968年には幼少期から受けた冷遇などを元に、映画界の因習について厳しく批判したエッセイ『大根役者・初代文句いうの助』[9] を執筆したために映画界から干されるなど、苦労の多い役者人生だった。六代目尾上菊五郎について、「六代目亡きあと日本には役者はいない」と言うほどに深く尊敬していた。[5]


墓所は西光寺 (墨田区)にある[10]

出演作品
映画
少年諸君(1932年、兄弟プロダクション

少年忠臣蔵(1933年、兄弟プロダクション) - 吉良上野介

楠正成(1934年、太秦発声映画) - 沢上錦吾 

かけ出し時代(1947年、新東宝) - 松浦記者

人間模様(1949年、新東宝) - 狩野龍馬

野良犬(1949年、新東宝)

銀座三四郎 (1950年、新東宝)

恋人(1951年、新東宝)

ブンガワンソロ(1951年、新東宝) - 野呂上等兵

結婚行進曲(1951年、東宝) - 藤間寿五郎

生きる(1952年、東宝)

あの手この手 (1952年、大映) - 野呂ドクター

早稲田大学(1953年、東映)

プーサン(1953年、東宝) - 野呂米吉

愛と死の谷間(1954年、日活) - 松村医師

億万長者(1954年、青俳クラブ) - 団海老蔵

警察日記(1955年、日活) - 岩太

三つの顔(1955年、日活)- 小林大三

ビルマの竪琴(1956年、日活)

あなた買います(1956年、松竹) - 球気一平

気違い部落(1957年、松竹) - 村田鉄次

抜き打ち浪人(1957年、東映) - 秋沢壮典

・少年探偵団 透明怪人 首なし男(1958年、東映) - 怪人二十面相

巨人と玩具(1958年、大映) - 春川純二

坊っちゃん(1958年、松竹) - 堀田(山嵐)

楢山節考(1958年、松竹)

赤い陣羽織(1958年、松竹)

悪女の季節(1958年、松竹) - 片倉盛太

人間の壁(1959年、山本プロ) - 新井代議士

恋山彦(1959年、東映) - 英一蝶

いろはにほへと(1960年、松竹) - 松本宗治

次郎物語(1960年、松竹) - 本田俊亮

「粘土のお面」より かあちゃん(1961年、新東宝) - 豊田由五郎

しとやかな獣(1962年、大映) - 前田時造

椿三十郎(1962年、東宝) - 睦田

放浪記(1962年、東宝) - 白坂五郎

忍びの者(1962年、大映) - 百地三太夫藤林長門守

温泉巡査(1962年、大映) - 望月六郎太

白い熱球(1963年、東映) - 若山校長

若い東京の屋根の下(1963年、日活) - 柔野謙太郎

天国と地獄(1963年、東宝) - 馬場専務

関東無宿(1963年、日活) - おかる八

・停年退職(1963年、大映)- 多田良雄

ああ爆弾(1964年、東宝) - 大名大作

黒いダイスが俺を呼ぶ(1964年、東宝) - 城崎

若草物語(1964年、日活) - 高村勇造

・現代インチキ物語騙し屋 (1964年、大映) -赤トンボ

(1965年、東宝) - 星野監物

にっぽん泥棒物語(1965年、東映) - 安東警部補

けものみち(1965年、東宝) - 秦野重武

拳銃野郎(1965年、日活)

明日は咲こう花咲こう(1965年、日活) - 尊道教・教祖

血と砂(1965年、東宝)- 持田一等兵

・逃亡列車(1966年、日活) - 李元成

日本のいちばん長い日(1967年、東宝) - 野中俊雄

華岡青洲の妻(1967年、大映) - 華岡直道

眠狂四郎女地獄(1968年、大映) - 野々宮甚内

とむらい師たち(1968年、大映京都) - 先生

肉弾(1968年、ATG

橋のない川(1969年、ほるぷ映画) - 永井藤作

赤毛(1969年、東宝) - 神尾金太郎

子連れ狼 子を貸し腕貸しつかまつる (1972年、東宝) - 柳生烈堂

・青幻記 遠い日の母は美しく(1973年、青幻記プロ) - 大山公平

人間であるために(1974年、新映画協会) - 岡本尚一

血を吸う薔薇(1974年、東宝) - 高倉刑事

裸足のブルージン(1975年、東宝)

エデンの海 (1976年、東宝)

岸壁の母(1976年、東宝) - 弥助

太陽を盗んだ男(1979年、キティ・フィルム) - 山崎留吉

戒厳令の夜(1980年、東宝) - 原良介

詳しいことは、『伊藤雄之助ウィキペディア』をご覧ください。 ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8A%E8%97%A4%E9%9B%84%E4%B9%8B%E5%8A%A9
(wikiより)

0029 伊藤雄之助

⇧ 伊藤雄之助

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聖堂の西比井名水にてお茶の水にもめしあげたり


神田川堀割の時ふちになり◇水際に形残る


享保十四年江戸川拡張の後川幅をげられ擴げられし時川の中になりて今もその形もなし

           
                  「再校江戸砂子」より


慶長の昔、この辺り神田山の麓に高林寺という禅寺があった


あるとき 寺の庭より良い水がわき出るので将軍秀忠公に差し上げたところお茶に用いられて大変良い水だとお褒めの言葉を戴いた。


それから毎日この水を差し上げる様になり


この寺をお茶の水高林寺と呼ばれ、この辺りをお茶の水と云うようになった。


其の後茗渓又小赤壁と稱して文人墨客が風流を楽しむ景勝の地であった。


時代の変遷と共に失われて行くその風景を惜しみ心ある人たちがこの碑を建てた。
(石碑文より)


 ◇ 判別不可でした。

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