本牧jack『意外と身近にある歴史散歩』日々是好日 心灯 頬笑

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小生の拙ブログ『意外と身近にある歴史散歩』日々是好日 心灯 頬笑に御訪問頂き誠に有難う御座います。
歴史ドラマが流行っている昨今、身近に有って気が付かなかったりする様な物を取り上げたりしています。
たまに『 大人数で取材しているのか? 』との質問を戴きますが、小生と相方の二人三脚で御座います。
出来るだけ続けたいと思っていますが 膝・耳に問題が有って、いつまで出来るやら・・・説明も、やたら長いものから あっさりしたものまで有りますが、御付き合いの程 宜しく御願い致します。
御注意 . 少ないですが生前に建てられた『 生前墓 』の記事も有ります。 ※ 申し訳御座いませんが「画像の転用」は禁止とさせて頂きます。 コメントは原則公開させていただいております 質問等に対してはブログ記事で返信させていただきます 他の方法で連絡を取り合う等一切しません 場合によっては、「IPブロック」しますがブロックした場合解除する事は有りませんので宜しくお願いします。

2023/08

本名大久保 ふみ子
生年月日1912年3月13日
没年月日2004年12月6日(92歳没)
出生地日本の旗兵庫県神戸市長田区
死没地日本の旗東京都中央区
職業女優実業家慈善家・社会事業家
ジャンル映画歌手
活動期間1930年 - 1949年
活動内容1930年に映画『時代の反抗児』でデビュー
配偶者 板谷健吾(1963年 - 1965年
著名な家族

(養父)大久保博司

(母)大久保マスエ(のちに惠代)
主な作品
映画
国境の町』(1935年、監督:松崎博臣
三聯花』(1935年、監督:田中重雄
己が罪』(1936年、監督:西鉄平
愛怨峡』(1937年、監督:溝口健二

山路 ふみ子(やまじ ふみこ、1912年明治45年〉3月13日[1] - 2004年平成16年〉12月6日[1])は、女優実業家社会事業家兵庫県神戸市長田区出身。本名・大久保 ふみ子(おおくぼ ふみこ)。

来歴・人物

1912年、兵庫県神戸市に生まれる。1930年、森高等女学校(現・神戸学院大学附属高等学校)在学中に神戸新聞社主催のミス神戸に選出され、同年、大阪松竹楽劇部(現・OSK日本歌劇団)を経て、帝国キネマ演芸株式会社に新人幹部候補生として入社し、『時代の反抗児』で映画デビューを飾る。たちまち看板スターとして脚光を浴び、雑誌や広告にもモデルとして登場するが、演技への評価はあまり高くなかった[2]

山路ふみ子という芸名の由来は、菊池寛の小説『結婚二重奏』のヒロインの名を菊池本人から頂戴したものである。


1937年、帝国キネマに移ってきた溝口健二が映画『愛怨峡』の主演に抜擢し演技指導、その後も溝口の作品に出るようになる。

帝国キネマから日活へ移籍後、新興キネマに復帰し、主演女優として多くの作品に出演し、 数本の映画主題歌もレコーディングした。日産自動車ウテナ化粧品等の広告モデルも務めた。

戦後、『暁の大地に咲く』(1949年)への映画出演を最後に映画界を引退し、母と共に東京都港区芝公園料亭「山路」を経営する実業家に転身した。自身は女将として、母が切り盛りし繁盛した。1964年に母のの病気を機に料亭を廃業した後に、当時の日本の医療器具では母の目の病気を完治させることが不可能であったことなどから、その土地と建物を売却して得た私財の内、半分以上にあたる一億円を基金として擲ち、「日本の科学の発展の為に寄与する。」という目的で「山路ふみ子自然科学振興財団」を設立して助成活動を開始し、今度は社会事業家として名前が世に知られるようになる。なお、これは「お金は人様のために使わなくては」との母の言葉に従ったものである。

1963年に東京都善行銅賞受賞、同年、「中央公論・婦人公論」最高殊勲夫人に推された。1972年藍綬褒章を受章。

また、1976年5月に映画人を育成して、功績のあった人を賞賛すること、ならびに教育・文化・福祉事業への支援活動を行うために、私財を投げ打って「山路ふみ子文化財団」を設立。毎年7部門に50万円の賞金を授与した。さらにネパールに職業訓練学校を寄付するなど、慈善活動を海外にまで広げた。

1978年、母が亡くなったショックで酒浸りとなり、くも膜下出血で倒れたが奇跡的に生還、車椅子で再び活動を続け、1993年にはネパールから勲章を贈られている。

2004年12月6日、心不全にて92歳で没。

エピソード
・1930年代に個人で自家用車を保有し、運転免許を取得して自ら車を運転をしていた、数少ない日本人女性ドライバーの一人である。


主な出演作品
・『時代の反抗児』(1930年、帝国キネマ)
・『神戸行進曲』(1930年、帝国キネマ)
・『恋は田舎でするものよ』(1930年、帝国キネマ)
・『花嫁寝台列車』(1934年、日活)
・『国境の町』(原作/岡田八千代、1935年、新興)
・『龍涎香』(原作/久米正雄、1935年、新興)
・『三聯花』(原作/吉屋信子、1935年、新興)
・『三つの愛』(原作/川村花菱、1936年、新興)
・『己が罪』(原作/菊池幽芳、1936年、新興)
・『花嫁設計図』(原作/中野実、1936年、新興)
・『浮かれ桜』(1936年、新興)
・『街の姫君』(原作/菊池寛、1936年、新興)
・『愛怨峡』(原作/川口松太郎、1937年、新興)
・『淨婚記 真砂の巻』(原作/細田民樹、1937年、新興)
・『淨婚記 比芙美の巻』(原作/細田民樹、1937年、新興)
・『露営の歌』(1938年、新興)
・『母の魂』(1938年、新興)
・『男の魂』(1938年、新興)
・『あゝ故郷』(1938年、新興)  
・『妻の魂』(1938年、新興)
・『新しき門』(原作/中野実、1938年、新興)
・『日本の魂』(1938年、新興)
・『評判五人娘』(1939年、新興)
・『紅痕』(原作/竹田敏彦、1939年、新興)
・『結婚問答』(原作/木々高太郎、1939年、新興)
・『愛情一筋道』(1939年、新興)
・『』(原作/鶴見祐輔、1939年、新興)
・『若妻の夢』(1939年、新興)
・『愛の記念日』(1939年、新興)
・『太平洋行進曲』(1940年、新興)
・『玄界灘』(原作/山田克郎、1940年、新興)
・『狂亂の娘藝人』(原作/長田幹彦、1940年、新興)
・『闘ふ母』(原作/広津和郎、1940年、新興)
・『暖きふる里』(原作/藤戸三四「JOBKラジオドラマ当選脚本『斧音』」、1941年、新興)
・『ある映画監督の生涯 溝口健二の記録』(1975年、近代映画協会)※取材協力

著書・参考文献
・山路ふみ子『命あるかぎり贈りたい 山路ふみ子自伝』草思社、1994年5月、ISBN 4794205538
立花忠男『日本映画スチール集 新興キネマ モダニズム篇』ワイズ出版、2002年1月、ISBN 4898301274
佐藤忠男丸尾定登川直樹『新興キネマ 戦前娯楽映画の王国』山路ふみ子文化財団、1993年3月、ISBN 4845993104    

脚注
1. a b 山路 ふみ子』 - コトバンク
2. 『文藝春秋 2005年2月号』2005年2月1日、458頁。

関連項目
公益財団法人山路ふみ子文化財団
山路ふみ子映画賞
帝国キネマ
新興キネマ
日活
日活撮影所
大映     

外部リンク
日本映画データベース 山路 ふみ子
公益財団法人山路ふみ子文化財団    
(wikiより)

4 山路ふみ子墓

⇧ 山路ふみ子

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本名:市瀬静雄 ( いちせ - しずお)

生年月日:1925年 1月 1日生まれ ( 大正 14年 ) 享年 89歳

出身地:長野県

家族構成:妻、市瀬恭子 長女、石田欧子

ブランド:Akio Hirata

経歴
独立し、Atelier HIRATAを設立 ( 1955年 )

パリに留学 ( 1962年 )

帰国して、Haute Mode Hirataを設立 ( 1965年 )

Boutique Salon Cocoを開店(1971年)

平田暁夫帽子教室を主宰 ( 1971 ~ 2000年 )

皇族の帽子をはじめ、著名デザイナー多数の帽子制作を手掛ける。

近年では、内閣総理大臣賞など数々の賞を受賞している。

著書
「自分で作れる帽子」文化出版局 1977年発行

「装花」文化出版局 1980年発行

「別冊25ans 帽子」婦人画報社 1994年発行

「Akio et Aquirax」ワイズ出版 2010年発行

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荒木 伸吾(あらき しんご、1938年11月28日 - 2011年12月1日)は、日本アニメーターキャラクターデザイナー漫画家。作画プロダクション「有限会社荒木プロダクション」代表取締役日本アニメーター・演出協会(JAniCA)会員。


代表作に『聖闘士星矢』『キューティーハニー』『魔女っ子メグちゃん』など。全盛期の1970年代から1980年代まで、荒木伸吾デザインのアニメキャラクターはその端正な絵柄で美形キャラクターの代名詞とされるほどだった。アクション作画の腕前を評価する声も多い。

映像ディレクター、CMプランナーの荒木伸二は息子[1][2]

略歴

愛知県名古屋市出身。中学卒業後、日本車輌製造に勤務する。さいとうたかを辰巳ヨシヒロの影響を受けて漫画の執筆をはじめ、1955年に貸本劇画誌『街』(セントラル文庫)の新人コンクールで入賞、漫画家としてデビューする。その後、昼は工場で働きながら、『街』や『顔』(エンゼル文庫)などの貸本劇画誌に約60本の短編を執筆する。


しかし漫画で生計を立てることは出来ず、22歳頃から1年ほどCMのコンテを描く仕事に従事した後、貸本漫画家仲間で先に虫プロダクションに入っていた真崎守の誘いで、1964年に虫プロダクションへ入社。テレビアニメジャングル大帝』でアニメーターへの転身を果たした。


虫プロダクションは1年ほどで退社して、1966年に作画スタジオ「ジャガード」を斎藤博ら仲間数人で発足。アニメについては、ジャガード時代に斎藤から多くを学んだと後に荒木は感謝の弁を述べている。


ジャガードは虫プロダクションの作品とともに東京ムービーの作品の作画も手がけて、荒木も楠部大吉郎作画監督の下で『巨人の星』の劇画タッチの作画に挑戦し、劇中の一つのクライマックスになる星飛雄馬大リーグボール1号花形満が打ち返すパースを強調させたシーンの作画は語り草となった。


1970年
から、虫プロダクションで杉野昭夫金山明博との3人共同で『あしたのジョー』の作画監督を務めた。また、この年から『キックの鬼』『魔法のマコちゃん』で作画監督をしたのを手始めに東映動画作品にも参加するようになった。1971年には友人とスタジオZを設立(後輩の金田伊功貞光紳也富沢和雄もここに在席)。1973年にフリーになり、テレビアニメ『バビル2世』で荒木は初のキャラクターデザインを任された。これらは初期のキャラクターでは最も愛着が強いという。


さらに東映動画では、1973年の『キューティーハニー』、1974年の『魔女っ子メグちゃん』、1975年の『少年徳川家康』『UFOロボ グレンダイザー』、1977年の『惑星ロボ ダンガードA』と立て続けに東映動画作品のキャラクターデザインをして、荒木の名を印象付けた。特に『惑星ロボ ダンガードA』の男性キャラクターのトニー・ハーケンは女性ファンの支持を得た。


1970年代
末に始まったアニメブームで荒木を人気アニメーターの地位に押し上げたのは、これらの作品である。この間、1972年に倒産したジャガードに代わり1974年に荒木プロダクションを設立、荒木の設立時からのメンバーである姫野美智を片腕として、姫野の少女漫画的な華麗なタッチが荒木の作風に加わった。


1979年
の東京ムービー作品『ベルサイユのばら』を終えると、荒木プロダクションは1980年から同じく東京ムービーでフランスとの合作作品『宇宙伝説ユリシーズ31』『ルパン8世』『ガジェット警部』『シャンソン・ノノ』『ヒースクリフ』を1983年まで手がけて、日本国内ではアニメファンに対して目立った仕事がなかった。フランスとの仕事ではソフトな演技を学び、後の仕事に役立ったという。


荒木の作風の人気に再び火がついたのは、1986年車田正美原作の『聖闘士星矢』のテレビアニメ化によるものだった。『聖闘士聖矢』は3年間にわたって放送され、自他ともに認める荒木・姫野の代表作となり2000年代以降も続編を制作する人気シリーズとなった。その後は車田作品の『リングにかけろ1』・『風魔の小次郎』に加え、横山光輝作品の『横山光輝 三国志』など、多くのキャラクターデザインを手がけるようになった。この人気を背景に、荒木・姫野のオリジナルキャラクターデザインによるコンピュータゲームBURAI』(1989年)[3]と『KIGEN 輝きの覇者』(1991年)が発売された。


『聖闘士星矢』以降も荒木は東映動画作品を主としてキャラクターデザインを続けたが、作画監督を務めることは少なくなっていった。


2010年8月には公式サイトを開設(外部リンク参照)。45年ぶりに作成中の漫画作品『Sourire』のサンプルを数ページほど公開した。


2011年
12月1日、水泳中の事故による[4]急性循環不全で死去した[5]。満73歳没。

作品リスト
テレビアニメ
巨人の星(1966年、原画)
パーマン(1967年、作画)
アタックNo.1(1969年、作画)
あしたのジョー (1970年、作画監督)
キックの鬼 (1970年、作画監督)
魔法のマコちゃん (1970年、作画監督)
アニメンタリー決断 (1971年)
原始少年リュウ(1971年、作画)
アパッチ野球軍 (1971年、作画監督)
赤胴鈴之助 (1972年、作画監督)
正義を愛する者 月光仮面(1972年、作画)
デビルマン (1972年、作画監督)
荒野の少年イサム(1973年、作画監督)
キューティーハニー (1973年、キャラクターデザイン[6]・作画監督)
バビル2世 (1973年、キャラクターデザイン・作画監督)
柔道讃歌 (1974年、作画監督)
魔女っ子メグちゃん (1974年、キャラクターデザイン・作画監督)
少年徳川家康 (1975年、キャラクターデザイン[7]・作画監督)
UFOロボ グレンダイザー (1976年、キャラクターデザイン・作画監督)
新巨人の星 (1977年、作画監督)
惑星ロボ ダンガードA (1977年、キャラクターデザイン[8]・作画監督)
銀河鉄道999 (1978年、キャラクターデザイン)
花の子ルンルン(1979年、キャラクターデザイン・原画)
新・巨人の星II(1979年、作画監督)
ベルサイユのばら (1979年、キャラクターデザイン・作画監督)
宇宙伝説ユリシーズ31 (1981年、作画総監督)
銀河烈風バクシンガー (1982年、オープニングアニメーション)
わが青春のアルカディア 無限軌道SSX (1982年、作画監督)
愛してナイト (1983年、作画監督)
はーいステップジュン (1984年、作画監督)
ガラスの仮面 (1984年、オープニングアニメーション)
ルパン三世 PARTIII (1984年、作画監督)
ふしぎなメルモ (1985年、作画監督)
メイプルタウン物語 (1986年、作画監督)
聖闘士星矢 (1986年、キャラクターデザイン・作画監督)
横山光輝 三国志 (1991年、キャラクターデザイン・作画監督)
蒼き伝説 シュート! (1993年、キャラクターデザイン・作画監督)
ゲゲゲの鬼太郎 (1996年、キャラクターデザイン)
金田一少年の事件簿 (1997年、キャラクターデザイン)
遊☆戯☆王 (1998年、キャラクターデザイン)
遊☆戯☆王デュエルモンスターズ (2000年、キャラクターデザイン)
リングにかけろ1 (2004年、キャラクターデザイン・総作画監督・作画監督)
遊☆戯☆王デュエルモンスターズALEX (2006年、キャラクターデザイン)※日本未公開
・リングにかけろ1-日米決戦編- (2006年、キャラクターデザイン)
・リングにかけろ1 影道編 (2010年、キャラクターデザイン)
・リングにかけろ1 世界大会編 (2011年、キャラクターデザイン)
聖闘士星矢Ω (2012年、原画)

劇場アニメ
パンダコパンダ (1972年、原画)
・キューティーハニー (1974年、作画監督)
・魔女っ子メグちゃん (1974年、作画監督)
長靴をはいた猫 80日間世界一周 (1976年、原画)
一休さん ちえくらべ (1977年、作画監督)
さらば宇宙戦艦ヤマト 愛の戦士たち(1978年、作画監督)
・あしたのジョー (1980年、作画監督)
聖闘士星矢 邪神エリス (1987年、キャラクターデザイン・作画監督)
聖闘士星矢 神々の熱き戦い (1988年、キャラクターデザイン・作画監督)
聖闘士星矢 真紅の少年伝説 (1988年、キャラクターデザイン・作画監督)
聖闘士星矢 最終聖戦の戦士たち (1989年、キャラクターデザイン)
・ベルサイユのばら (1990年、作画監督)
三国志 第二部・長江燃ゆ!(1993年、原画)
・蒼き伝説 シュート! (1994年、作画監督)
ゲゲゲの鬼太郎 大海獣 (1996年、キャラクターデザイン・作画監督)
・金田一少年の事件簿・オペラ座館・新たなる殺人 (1996年、キャラクターデザイン・作画監督)
ゲゲゲの鬼太郎 妖怪特急! まぼろしの汽車 (1997年、キャラクターデザイン・作画監督)
遊☆戯☆王 (1999年、作画監督)
・金田一少年の事件簿2・殺戮のディープブルー (1999年、キャラクターデザインコンセプト)
シャム猫 -ファーストミッション-(2001年、 メインキャラクターデザイン)
聖闘士星矢 天界編 序奏〜overture〜 (2004年、キャラクターデザイン・作画監督)


OVA
アモン・サーガ (1986年、キャラクターデザイン・作画監修・原画)
風魔の小次郎 聖剣戦争篇 (1990年、キャラクターデザイン)
インフェリウス惑星戦史外伝 CONDITION GREEN (1991年、キャラクターデザイン)
ドラゴン・フィスト (1991年、キャラクターデザイン・作画監督)
・風魔の小次郎 最終章・風魔反乱篇 (1992年、キャラクターデザイン)
・バビル2世 (1992年、キャラクターデザイン)
ゲキ・ガンガー3 熱血大決戦!! (1998年、原画)
聖闘士星矢 冥王ハーデス 十二宮編 (2002年、キャラクターデザイン・総作画監督)
聖闘士星矢 冥王ハーデス 冥界編 前章 (2005年、キャラクターデザイン・総作画監督)
聖闘士星矢 冥王ハーデス 冥界編 後章 (2006年、キャラクターデザイン・総作画監督)
聖闘士星矢 冥王ハーデス エリシオン編 (2008年、キャラクターデザイン・総作画監督)

漫画
・街路 (1960年5月、『街』40号 セントラル文庫)
・Sourire (鋭意制作中。正式発表時期未定)

ゲーム
BURAI (1989年、リバーヒルソフト、キャラクターデザイン・原画)
KIGEN 輝きの覇者 (1991年、リバーヒルソフト、キャラクターデザイン・原画)
機動戦艦ナデシコ The blank of 3years (1997年、アニメパートスタッフ原画)
聖闘士星矢 ブレイブ・ソルジャーズ (2013年、オープニングアニメーションスタッフ キャラクターデザイン)

注釈
1. 『キューティーハニー』 『ベルサイユのばら』 『聖闘士星矢』などを手がけた天才アニメーター 荒木伸吾回顧展が秋葉原で開催 週刊アスキー 2012年11月14日 2020年7月5日閲覧 

2. 
長澤知之 特集 第三弾!PV制作チーム 荒木伸二氏×菅原直太氏 対談! POPSCENE 2017年4月3日 2020年7月5日閲覧 

3. 
『BURAI』の原作・シナリオなどを手がけた飯島健男が自著『ゲーム業界白書』の中で、「荒木の参加によってこれまでパソコンゲームに見向きもしなかった女性層に興味を持ってもらえ、発売前後のショップイベント等では珍しく女性ファンの姿を見ることができたが、肝心のソフトの売り上げはそれまでの作品と比べて大差無かった(=荒木キャラに熱中する女性ファンは、ソフトを買うほど作品そのものには入れ込んでくれなかった)」と当時を述懐している。 

4. 
荒木伸吾 公式サイト 「ファンの皆様へ」を参照。

5. 
「バビル2世」など手がける、荒木伸吾氏が死去 : ニュース : エンタメ : YOMIURI ONLINE(読売新聞)”. 読売新聞社 (2011年12月2日). 2011年12月2日閲覧。
6. 
キューティーハニー”. 東映アニメーション. 2016年5月23日閲覧。

7. 
少年徳川家康”. 東映アニメーション. 2016年5月23日閲覧。

8. 
惑星ロボ ダンガードA”. 東映アニメーション. 2016年6月2日閲覧。


参考文献
・「The BIKEI '87 荒木伸吾&姫野美智の世界」『アニメージュ』1987年11月号、徳間書店、pp.6-12
・「特集 荒木伸吾 その美しき世界」『アニメディア』1989年6月号、学習研究社、p109-112

外部リンク
SOURIRE(荒木伸吾 公式サイト)
 ・かつては荒木プロダクション公式サイトもあったが、現在は閉鎖されている。
WEBアニメスタイル 荒木伸吾さんに聞く 新生『聖闘士星矢』
@SHINGObySHINJI Twitter ※息子によるアカウント。
(wikiより)


2 荒木伸吾

⇧ 荒木伸吾

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本名関口せきぐち 達雄たつお
別名籬風[注釈 1]
生年月日1924年1月14日
没年月日2004年1月31日(80歳没)
出身地日本の旗 日本東京都
死没地日本の旗 日本東京都
師匠二代目桂小文治
弟子二代目柳家蝠丸
三代目桂伸治
三代目桂小文治
十一代目桂文治
桂右團治
名跡1.柳家小よし
(1946年)
2.桂小よし
(1946年 - 1948年)
3.二代目桂伸治
(1948年 - 1979年)
4.十代目桂文治
(1979年 - 2004年)
出囃子武蔵名物
活動期間1946年 - 2004年
所属日本芸術協会
落語芸術協会
主な作品
掛取り
源平盛衰記
親子酒
受賞歴
2002年:勲四等旭日小綬章受章
備考
公益社団法人落語芸術協会会長(1999年 - 2004年)

十代目 桂 文治(かつら ぶんじ、1924年1月14日 - 2004年1月31日)は、東京都豊島区出身の落語家南画家(雅号:籬風)。落語芸術協会会長(第4代)。落語江戸(東京)桂派宗家。血液型はO型、本名∶関口 達雄。父は同じく落語家初代柳家蝠丸出囃子は『武蔵名物』。

人物

早くから噺家志望であったが、軍需工場工員を経て1944年召集令状を受ける[1]。終戦後日本に帰国後の1946年6月、2代目桂小文治に師事し、父の名であった柳家小よしを名乗るが、後に師の亭号が桂だったために桂小よしに改名。1948年10月、2代目桂伸治に改名し二つ目昇進。1958年9月、春風亭柳昇2代目桂小南三笑亭夢楽三遊亭小圓馬4代目春風亭柳好とともに真打昇進。

1960年代の演芸ブームでテレビ・ラジオに多く出演。フジテレビお笑いタッグマッチ」(5代目春風亭柳昇司会の大喜利番組)の回答者や同番組の提供スポンサーでもあった丸美屋食品工業のふりかけ「のりたま」のテレビCMで売れる。

1979年3月、前年亡くなった9代目桂文治の盟友である8代目林家正蔵(後の林家彦六)の推薦で10代目桂文治[注釈 2]を襲名。桂派宗家となる。1996年芸術選奨文部大臣賞受賞。1999年9月、4代目桂米丸の後任で落語芸術協会会長就任。正調の江戸弁を大切にしていた噺家であった。

得意ネタは、「掛取り」「源平盛衰記」「親子酒」「お血脈」「長短」「蛙茶番」「義眼」「鼻ほしい」「火焔太鼓」「道具屋」「替り目」「ラブレター」「あわて者」「猫と金魚田河水泡・作)」「二十四孝」などであり、5代目柳家小さんと並んで滑稽噺のスペシャリストであった。芸風は極めて自由闊達で、晩年に至るまで客席を爆笑の渦に誘ったが、その芸の根底には本人も認めるように戦前の爆笑王の一人であった初代柳家権太楼の影響があるといえる(「猫と金魚」「あわて者」は権太楼譲りのネタ)。

2002年11月勲四等旭日小綬章受章。

2004年1月、急性白血病に倒れ、同月18日に入院[2]。その後、東京都新宿区の東京女子医科大学病院に転院したが容態が悪化し、芸協会長の任期満了日であった1月31日、急性白血病による腎不全のため死去した。80歳没。翌日付で昇格が内定していた副会長の桂歌丸が後任の会長に就任した。

戒名は「文翁院話玄達道居士」。墓所は東京都港区南青山の玉窓寺。

一門弟子
桂伸乃介
二代目柳家蝠丸
三代目桂伸治
三代目桂小文治
十一代目桂文治
桂右團治 - 芸協初の女性真打
桂快治 - 文治死後伸治門下へ
桂前助 - 立川談志門下から移籍、文治死後蝠丸門下へ

画家として
・財団法人書壇院 院友・南画部審査員
・回瀾書道会 参与

映画出演
・春だ!ドリフだ!全員集合!!(松竹大船
・男はつらいよ 柴又慕情(松竹

エピソード
・航空兵志望だったが、父が初代蝠丸だというのが知られていたのか、「はなし家はオトスから」という理由で断られた[1]

・高座に上がる際、聴衆の拍手を遮りながら「どうぞお構いなく」と言うのが決まり文句であり、これにより聴衆を一度に自分の世界に引き込むという効果があった。

・9代目文治の弟子筋ではないが、父の初代蝠丸が作った「大蔵次官」を9代目が得意ネタにしていたという縁がある。

・十八番の一つである「あわて者」(=「堀の内」)の主人公をかなりリアルに演じられたのは本人自身がかなりの慌て者だったからという説もある。

・時間に非常にルーズな面があり、落語芸術協会会長時代、常に周囲の者を冷や冷やさせていた。後任会長・桂歌丸(もちろん後輩)に著書で批判されているほか、他の後輩落語家たちからも半ばネタとして扱われている。ラジオ番組の出番をすっぽかしたこともあり、通りすがりの運転手にそのことを指摘されたこともある[3]

・出囃子が同じ「武蔵名物」だった古今亭圓菊落語協会)とは折り合いが悪く、ホール落語で同席するとトラブルになることも多かった。[4]

・弟子入りすると、四年間は内弟子として自宅で寝泊りさせていた。

・趣味は絵画のほか木彫りやカメラなどがあり、宮本幹也玉川一郎三国一朗宅の表札を彫ったこともある[3]。宮本からは、その多才ぶりが芸の大成を阻害しやしないかと心配されたこともある[5]

・江戸言葉に厳しかったことで有名で、例えば「『こたけむかいはら』(小竹向原)というのは間違っている、江戸言葉では『向こう』というのが正しいから、正確には『こたけむこうはら』なんだ」といったり、また「やじうま(野次馬)」ではなく「やじんま」、「何を言やがるんでえ」ではなく「何をいやんでぇ」、また江戸の職人は「やかましいやい」ではなく「うるせいやい」、商人は「ありがとうございました」では縁が切れるから「ありがとうございます」や「ありがとう存じます」というのが正しいんだ、という持論があった。ただし、若い頃はそういうこだわりは無く、どこかで感銘を受けてこだわるようになったのではないか、と弟子などからは指摘されている。また普段から落語家らしく色紋付きのない着物姿で歌舞伎を愛した。

・晩年、寄席への行き来に使っていた西武新宿線の女子高校生たちの間で「ラッキーおじいさん」と呼ばれ、「ラッキーおじいさん」に会えればその日一日が幸せになる、と噂されるようになった。

著書
・『十代文治 噺家のかたち』著:桂文治、編:太田博(うなぎ書房、2001年12月)ISBN 9784901174091


参考文献
・中島英雄「最後の噺家 こだわり文治の泣きどころ」(うなぎ書房、2005年2月)[注釈 3]
・桂伸治「エー はなし家です」『落語など』第1巻第1号、プレイグラフ社、1966年、 154-155頁。
・宮本幹也「落語家らしい落語家」『落語など』第1巻第1号、プレイグラフ社、1966年、 155頁。

関連項目
小文治一門  

脚注
注釈
1. 南画家としての雅号
2. 
10代目文治は上方にいた7代目 桂文治の孫弟子に当たる。
3. 
著者は中央群馬脳神経外科病院理事長。1985年に十代文治から「桂前治」の名前をもらい、病院寄席を開催。2012年死去。

出典
1. 
a b #落語など p. 154 
2. 
文治師匠との最後の別れ - 噺家 桂伸治オフィシャルサイト 2004年4月1日
3. 
a b #落語など p. 155 
4. 
そのことをよく目撃していた10代目文治の愛弟子11代目桂文治と圓菊の実子で弟子の古今亭菊生は、それぞれの師匠から出囃子を受け継ぎ二人とも「武蔵名物」を使っていた。その二人がホール落語で同席した際は互いに出囃子を譲り合い、文治が「武蔵名物」を、菊生が圓菊死去の際まで使用していた「鉄道唱歌」を使用した。
5. 
#落語など(宮本) p. 155

外部リンク
桂文治 - 落語芸術協会               
(wikiより)

1 十代目・桂文治

⇧ 十代目・桂文治

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遊撃隊整兵隊嚮導。

佐波郡植松村の農。

慶応四 ( 1868 ) 年 1月 4日伏見で負傷、2月 12日死去。享年 23歳。

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正覚寺(しょうがくじ)は、東京都江東区にある浄土宗寺院

概要

1629年寛永6年)、専蓮社南誉上人によって開山された[1]


かつて、富岡八幡宮の隣には、京都の三十三間堂に倣って、江戸版ともいえる「東都三十三間堂」と呼ばれる寺があった。1872年明治5年)に廃寺となり、仏像や文書等が当寺に移管された。旧三十三間堂の観音菩薩像は、1923年大正12年)の関東大震災で焼失した[2]が、古文書は現在も残り、江東区の有形文化財に指定されている。

墓所
元ノ杢網夫妻(狂歌師
   「もとのもくあみ」と読む。江戸狂歌壇の重鎮であった。

交通アクセス
清澄白河駅より徒歩7分。

脚注
・細田隆善 著『江東区史跡散歩 (東京史跡ガイド8)』学生社、1992年、70-71p
正覚寺浄土宗

参考文献
・細田隆善 著『江東区史跡散歩 (東京史跡ガイド8)』学生社、1992年


関連項目
江戸三十三間堂

(wikiより)

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生きもの殺生供養の鳥塚です。

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『曽我兄弟の仇討ち』の弟、五郎の足跡石といわれるものです。


〇 曾我時致
曾我 時致(そが ときむね)は、鎌倉時代初期の武士曾我兄弟の仇討ちで知られる。曽我五郎曽我時宗とも。

生涯

安元2年(1176年)、3歳の時、実父・河津祐泰が所領相続をめぐって揉めていた同族の工藤祐経に暗殺される。その後、母が兄と自身を連れ相模国曾我荘(現神奈川県小田原市)の領主・曾我祐信に再嫁する。兄・祐成元服後に曽我の家督を継いだ。ただし『吾妻鏡』では、祐信には先妻との間に実子の祐綱がおり、彼が家督を継いでいる。建久元年(1190年9月7日北条時政烏帽子親として元服、その偏諱を賜って時致と名乗ったとされ[1]、その後は時政の庇護の下にあったという。曾我兄弟は厳しい生活のなかで成長し、雁の群れに亡き父を慕ったと伝えられる。


建久
4年(1193年)5月、時致は兄・祐成と共に源頼朝が開催した富士の巻狩りに参加した[2]

同年5月28日、曾我兄弟の仇討ち事件は富士の巻狩り最後の夜に起きた。『吾妻鑑』28日条には「曽我十郎祐成・同五郎時致、富士野の神野の御旅館に推參し工藤左衛門尉祐経を殺戮す」とあり、曽我兄弟は富士野の神野の御旅館におしかけて工藤祐経を討った。このとき酒の相手をしていた王藤内も討たれた。傍に居た手越宿と黄瀬川宿の遊女は悲鳴を上げ、この一大事に現場は大騒動となった。この後、祐成は駆けつけた祐経の部下の仁田忠常に討たれるが、時致は頼朝の御前を目指して、向かってきた武士たちをことごとく倒して頼朝の宿所に押し入った。しかし、頼朝の宿所の中にいた御所五郎丸は時致の身を一人で取り押さえた[2]。仇討ちの翌日である29日に頼朝は時致の尋問を行い、有力御家人らがそれに同席し、その他多くの者も群参した。尋問を終えた頼朝は時致の勇姿から宥免を提案するが、祐経の子である犬房丸の訴えにより同日梟首された[3]

その後、出家して律師と号していた時致らの末弟が兄たちに連座して鎌倉へ呼び出され甘縄で自害し、時致らの同腹の兄弟である原小次郎(北条本『吾妻鏡』や『曽我物語』では「京の小次郎」)がこの事件に連動して失脚した源範頼の縁座として処刑されている。

系譜

曾我氏は、桓武平氏千葉氏の支流であり、我祐家が相模国曾我荘(現神奈川県小田原市周辺)を本拠として曾我氏と称したのに始まる[4]


曾我兄弟の子孫は、室町時代足利将軍家奉公衆となり室町幕府に仕えた。足利義昭の近習に曽我晴助がいる。


・実父:河津祐泰

・養父:曾我祐信

・母:横山時重の娘

・兄弟:

  ・曾我祐成

  ・原小次郎

  ・律師

・養兄弟:曾我祐綱

・妾:虎御前

  ・男子:河津信之


横須賀市
にある乗誓寺の伝承によると、曾我時致と虎御前の間には河津三郎信之という子があり、源実朝に仕え多くの武功を残した。その恩賞として平塚の地を賜ったが、同族の宿縁と積年の仇敵を恐れて、出家して名を了源と改め、安貞元年(1227年)平塚の地に一宇を建立し、親鸞直筆の十字尊号を本尊として迎え、阿弥陀寺を開いたという。

北条時政黒幕説

吾妻鏡や曽我物語では時致が工藤祐経を討った後に源頼朝をも襲っており、これが北条時政の暗躍によるものとする解釈である。時政は事前に駿河国に入国し準備を行っており[5]、頼朝が富士野に到着した際もあらかじめ参上しており、この説に説得力をもたらした。またそれ以前より時政と兄弟は縁があり、兄が弟である筥王(曾我時致)を連れ時政の屋形を訪れ、時政を烏帽子親として元服している[6]。歴史学者の三浦周行大正期に北条時政黒幕説を唱え、それ以来学界に大きな影響を与えてきた[7][8][9]。従来より面識のあった時政が兄弟を頼朝襲撃へと誘導したとする見方が現在でも多い[10]


また、伊東祐親は工藤祐経に襲撃される直前に自分の外孫にあたる頼朝の長男・千鶴丸(千鶴御前)を殺害しており、工藤祐経による伊東祐親父子襲撃そのものに息子を殺された頼朝による報復の要素があり、曾我兄弟も工藤祐経による伊東父子襲撃の背後に頼朝がいたことを知っていたとする説もある[11]

文化において
演劇
曾我時致は、歌舞伎の曽我兄弟の仇討ちを主題とする『曽我もの』に登場する。

・歌舞伎狂言『曽我狂言』は、曾我兄弟の仇討ちを主題とする[12]

・歌舞伎狂言『曽我綉侠御所染』は、曾我兄弟と主人公の御所五郎蔵を主題とする[13]

浮世絵

曾我時致は浮世絵の画題の一つである。以下は、曾我時致が描かれた浮世絵である。

・『曽我五郎と御所五郎丸東洲斎写楽、1794年。

・『春英 武者絵 曽我五郎時宗 御所之五郎丸』勝川春英、1798年。

・『曽我五郎時宗 御所五郎丸重宗 十番切』歌川国貞、1820年代。

・『武英猛勇鏡歌川国芳、1836年。

・『冨士裾野曽我兄弟本望遂圖歌川国芳、1843-1847年。

・『曽我物語図絵歌川広重、1844年。

・『右大将頼朝 北條時政 畠山重忠 御所五郎丸 五郎時宗』歌川国貞、1851年。

・『曽我五郎時宗 御所五郎丸 高麗之助広次』歌川国貞、1851年。

・『曽我五郎・曽我十郎歌川国貞、1860年。

・『今様擬源氏 廿四 胡蝶 御所五郎丸宗重 曽我五郎時致』落合芳幾、1864年。

・『曽我五郎と曽我十郎月岡芳年、1876-1882年。

・『雨後の山月 時致月岡芳年、 1885年。

・『曽我五郎時宗、五所五郎丸』月岡芳年、1886年。

・『英名武者鑑 御所五郎丸 曽我五郎時宗山田年忠

・『曽我物語之内』豊原周延

・『曽我五郎、御所五郎丸』勝川春章

映画
・『曾我兄弟狩場の曙』(1908年)

・『曾我十番斬』(1916年)

・『永禄曾我譚』(1917年、小林)

・『小袖曽我』(1920年)

・『夜討曽我』(1923年、帝キネ)

・『曽我』(1927年)

・『日活行進曲 曽我兄弟』(1929年)

・『夜討曽我』(1929年、マキノ)

・『仇討日本晴 孝の巻 曾我兄弟』(1931年、帝キネ)

・『富士の曙 少年曾我』(1940年)

・『曽我兄弟 富士の夜襲』(1956年、東映、監督:佐々木康)曾我時致:中村錦之助

テレビドラマ
・『曾我兄弟』(1959年、日本テレビ)

・『草燃える』(1979年、NHK大河ドラマ

小説
高橋直樹『天皇の刺客』(文庫題:『曾我兄弟の密命―天皇の刺客』)文藝春秋

漫画
湯口聖子夢語りシリーズ 天翔ける星』秋田書店

歌謡曲
・長編歌謡浪曲曽我の討入り (三波春夫

ミュージカル
・ミュージカル刀剣乱舞 『髭切膝丸双騎出陣〜SOGA〜』(2019年、刀剣乱舞 (舞台作品)

画像集については、『曾我時致ウィキペディア』をご覧ください。 ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9B%BE%E6%88%91%E6%99%82%E8%87%B4

脚注
1. 吾妻鏡』建久元年九月七日条には筥王(時致)が兄・祐成に連れられて時政の所に赴き、時政の御前において元服した旨の記載が見られ、その場所として時政の邸宅が利用されていたという(『真名本曾我物語』巻第五(所収:『真名本曾我物語1』(参考文献掲載)P.253)に「北条殿の御宿所」において元服した旨の記載が見られる)。これは、兄・祐成が以前より時政に参勤しており、祐成が仲介役となって主人と仰ぐ時政に自身の弟の烏帽子親となるよう依頼したことにより実現したものであるとする見解も出されている。以上の記述は山野龍太郎論文(山本、2012年、P.166・169・175、参考文献参照)による。
2. a b 『曽我物語 岩波古典文学大系88』岩波書店、1966年、p 362~363。
3. 坂井孝一『曽我物語の史的研究』吉川弘文館、2014年。pp.117–118。ISBN 978-4-6420-2921-6
4. 『世界大百科事典 第2版』平凡社、1998年、曾我氏。
5. 坂井孝一『曽我物語の史的研究』吉川弘文館、2014年。pp.120。ISBN 978-4-6420-2921-6
6. 『吾妻鏡』建久元年(1190年)9月7日条
7. 三浦周行、「曾我兄弟と北条時政」『歴史と人物』、1915
8. 石井進、「曾我物語の世界」『中世武士団』、講談社
9. 坂井孝一『曽我物語の史的研究』吉川弘文館、2014年。pp.11-12。ISBN 978-4-6420-2921-6
10. 坂井孝一『曽我物語の史的研究』吉川弘文館、2014年。pp.140-160。ISBN 978-4-6420-2921-6
11. 保立道久「院政期東国と流人・源頼朝の位置」『中世の国土高権と天皇・武家』校倉書房、2015年 ISBN 978-4-7517-4640-0
12. 松村 明『大辞泉』小学館、1995年、曽我狂言。
13. 『日本大百科全書』小学館、1998年、曽我綉侠御所染。ISBN 4-09-906721-1OCLC 1150226150

参考文献
・青木晃・池田敬子・北川忠彦編 『真名本曾我物語1』(平凡社東洋文庫四六八、1987年)

・山野龍太郎「鎌倉期武士社会における烏帽子親子関係」(所収:山本隆志 編『日本中世政治文化論の射程』(思文閣出版、2012年)

関連項目
曾我兄弟の仇討ち

富士の巻き狩り

曽我物語

助六
(wikiより)

0141 曽我五郎

⇧ 曾我時致 ( 曾我五郎 )

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中興之始祖 初代古童 豊田風憧史蹟」碑


豊田風憧 ( ? ~ 1851 ) は、江戸後期の尺八奏者で、後に古童と号した。


〇 豊田古童
豊田古童 ( とよだ - こどう )
( ? - 1851 )


江戸時代後期の尺八奏者。


琴古 ( きんこ ) 流。


江戸の人。


初代・山田如童、久松風陽に学ぶ。


風憬、のち古童と号し世に風憬古童と称される。


古童の芸名は弟子の初代・荒木古童が継いだ。


嘉永 ( かえい ) 4年 4月 27日死去。通称は勝五郎。

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虚無僧の「尺八塚」。


寛永四年 ( 1851年 ) 尺八琴古流宗家の豊田鳳憬は、傑出した虚無僧の高徳と尺八の伝統技能を大成した中興の人であり、当山はその累代菩提所として歌舞伎音曲に縁の深い事でも知られています。
(法乗院パンフレットより)


〇 荒木古童
荒木 古童(あらき こどう)は琴古流尺八奏者の名跡。


初世 古童

豊田古童(生年不詳 - 嘉永3年4月27日(旧暦) [1850年6月7日] )。本名は豊田勝五郎。初代山田如童、久松風陽に師事し、風憬、後に古童と称した。通称は「風憬古童」。
(wikiより)

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法乗院(ほうじょういん)は、東京都江東区にある真言宗豊山派寺院

概要
1629年寛永6年)、覚誉僧正によって開山された。元々は深川富吉町(現・東京都江東区佐賀)に位置していたが、1641年(寛永18年)に現在地に移転した[1]

えんま堂
江戸時代から「深川の閻魔」として知られていた。当初の本尊閻魔であったが、1760年宝暦10年)に閻魔堂に移された[1]。最近ではハイテク技術を導入し、光や音を駆使しながら閻魔の声で仏の教えを語るように設定されている[2]

墓所
初代市川八百蔵歌舞伎役者

初世荒木古童尺八奏者

  「豊田古童」としても知られている。古童の業績を偲ぶ「尺八塚」も建立されている。

交通アクセス
門前仲町駅より徒歩5分。

脚注
1. a b 細田隆善 著『江東区史跡散歩 (東京史跡ガイド8)』学生社、1992年、66-67p
2. 法乗院(深川えんま堂)江東区観光協会「江東おでかけ情報局」

参考文献
・細田隆善 著『江東区史跡散歩 (東京史跡ガイド8)』学生社、1992年

関連項目
閻魔

外部リンク
賢臺山法乗院深川えんま堂
(wikiより)

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歌師にして文化四年六月二十日死去し、夫妻は正覚寺に葬られている。
(石柱文より)

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 詳しいことは分かりませんでしたが、平岡凞さんのお墓があるので関連しているのかもしれません。

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 墓石名は、「 飯森家 」なので、初代か二代目の柳橋だと思います

春風亭 柳橋(しゅんぷうてい りゅうきょう)は、落語家名跡柳派の祖。2008年9月21日に当代の8代目が襲名した。

3代目、4代目、5代目は親子の関係である。


初代から5代目までの亭号は麗々亭(れいれいてい)であった。そのため6代目柳橋を「初代春風亭柳橋」と表記する人もごく少数存在する。この項では便宜上、全て「春風亭 柳橋」として一括に表記をする。

生年月日 不詳年
没年月日 不詳年
出身地 日本の旗 日本
師匠 惣領甚六
初代麗々亭柳橋
名跡 1. 惣領和久蔵
2. 麗々亭柳舎
3. 麗々亭柳女
4. 昔々亭桃流
5. 2代目麗々亭柳橋
所属 柳派


麗々亭柳橋 (2代目) ( 二代目・春風亭柳橋 )

2代目 麗々亭 柳橋(れいれいてい りゅうきょう、生没年不詳)は、落語家。本名は不明。


『落語家奇奴部類』によれば、最初は惣領甚六の門人で惣領和久蔵といったというので素人連出身とも考えられる。


初代柳橋の門人で柳舎から柳女その後、初代の兄と不和になり2代目三笑亭可楽の門に移り昔々亭桃流と改名したが和解の後に2代目を継いだ。


神田
に居を構えていたが、没年は不明だが亡くなったのは新宿で、3代目柳橋が襲名直前のことだったという。

妻は女義太夫竹本咲家寿。門下には田舎咄を得意とした、龍女がいる。
(wikiより)

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 墓石名は、「 飯森家 」なので、初代か二代目の柳橋だと思います。

春風亭 柳橋(しゅんぷうてい りゅうきょう)は、落語家名跡柳派の祖。2008年9月21日に当代の8代目が襲名した。

3代目、4代目、5代目は親子の関係である。


初代から5代目までの亭号は麗々亭(れいれいてい)であった。そのため6代目柳橋を「初代春風亭柳橋」と表記する人もごく少数存在する。この項では便宜上、全て「春風亭 柳橋」として一括に表記をする。

別名 柳橋庵亀好
生年月日 不詳年
没年月日 1840年4月25日
出身地 日本の旗 日本
師匠 初代船遊亭扇橋
名跡 1. 扇遊亭新橋
2. 扇遊亭新鳥
3. 舞遊亭扇蝶
4. (亭号不明)柳好
5. 初代麗々亭柳橋
活動期間 ? - 1840年
所属 柳派


〇 麗々亭柳橋 (初代) ( 初代・春風亭柳橋 )

初代 麗々亭 柳橋(れいれいてい りゅうきょう、生年不詳 - 1840年4月25日(21日とも))は、本名、不明、名字は久世?。俳名、柳橋庵亀好。人情噺の元祖。俗に「久世柳橋」。


初代船遊亭扇橋の門人で初名を扇遊亭?新橋から新鳥、舞遊亭扇蝶となった。扇橋と不和になり一時柳好。和解し麗々亭柳橋と改名した。


俳諧
を良くした。辞世の句は「ほととぎす明かしかねたる此世かな」(『墓碣余誌』)


門人には2代目3代目柳橋初代春風亭柳枝、柳馬、柳鳥(後の2代目柳好)、柳里、柳佐、などがいた。
(wikiより)

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二代目 古今亭 志ん生(ここんてい しんしょう、天保3年(1832年9月) - 明治22年(1889年11月24日)は、幕末・明治期に活躍した東京の落語家。本名∶福原 常蔵


三代目五明楼玉輔
の叔父にあたり、志ん生の姉の夫が三代目金原亭馬生の門弟の初代金原亭馬きん。通称「お相撲」、「トバシヤ」(※巨漢だったことからお相撲といわれた、トバシヤに関してはヨタをとばしたということから)

『講談落語今昔譚』には相生町の餅菓子屋の職人で力士を志し、姉を頼って江戸に来た。近所に初代古今亭志ん生が住んでいたのが縁で門下になり寿六(壽六)と名乗った。


初代志ん生死去に伴い初代五明楼玉輔の門に移り初代五明楼今輔、その後慶応2年頃、二代目志ん生となった。

1880年には初代談洲楼燕枝初代三遊亭圓馬と共に「落語睦連」の社長に就任している。


1873年
の落語番付に「盲ヘビ」と書かれたことに怒り版元に抗議したり1878年の寄席取締規則が発足された際的外れな批判をし拘束されたりと向こうみずなところもあった。


墓所は墨田区本久寺。

得意ネタ
・「人情噺ねずみ小僧」

・「桜田事件

・「相撲伝」

・「桂川の仇討」

弟子
三代目古今亭今輔

三代目五明楼玉輔

四代目五明楼玉輔

横目家助平

出典
・諸芸懇話会、大阪芸能懇話会共編『古今東西落語家事典』平凡社ISBN 458212612X
(wikiより)

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初代 古今亭 志ん生(ここんてい しんしょう、文化6年(1809年)(逆算) - 安政3年12月26日1856年1月21日))は、幕末期に活躍した江戸落語家。俗称、清吉。俳名、寿耕。通称「八丁荒らしの志ん生」。


小玉屋権左衛門家に丁稚奉公をした後、文政期から初代三遊亭圓生の弟子になり初代三遊亭圓太の名で噺家になった。


のちに初代立花屋圓蔵と圓生の名跡でを争って敗れたため失意の結果旅に出たとされる。1847年に帰京し四谷忍原亭で古金亭真生を披露したが、1836年には既に古金亭志ん生で名乗っており、弘化期には新生、嘉永期では真生を名乗ることもあった。


人情咄
を得意とした、得意演目には「お初徳兵衛浮き名の桟橋」「お富与三郎」「小猿七之助」などがありいずれも劇化され8代目市川團十郎が演じ評判になった。「九州吹戻し」は鈴々舎馬風から2両2文で譲り受けたといわれ、そのうまさは誰も真似できなかった、そのため後に三遊亭圓朝は弟子に一切演じるのを禁じた。


俳句
も良くし「送り火や飛びつく螽追ひながら」の句を残している。


顔にはあざがあったとされ、また片目か片足が不自由でかごに乗って寄席通いをしたと伝わっている。墓所は墨田区本久寺。

門下
初代蝶花楼馬楽

2代目古今亭志ん生

出典
・諸芸懇話会、大阪芸能懇話会共編『古今東西落語家事典』平凡社ISBN 458212612X

関連項目
古今亭志ん生
(wikiより)

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重願寺(じゅうがんじ)は、東京都江東区にある浄土宗寺院

概要

戦国時代末期~江戸時代初期に開山された。開山年は、1590年天正18年)とも1600年慶長5年)とも1639年寛永16年)ともいわれている。開基は千葉邦胤の娘の不虚大禅尼である[1]


元々は、現在の日本橋馬喰町にあったが、その後新大橋に移転し、最終的に現在の猿江の地に移転した[1]

みまもり観音
境内には、1981年昭和56年)に建てられた「みまもり観音」と呼ばれる観音菩薩像がある。関東大震災東京大空襲の犠牲者の冥福を祈るために建てられたもので、法相宗大本山薬師寺東院堂の国宝「銅造観音菩薩立像」を模写して2.2倍の大きさにしたものである[2]

墓所
関根正二洋画家

新場小安侠客

交通アクセス
住吉駅より徒歩5分。

脚注
1. a b 細田隆善 著『江東区史跡散歩 (東京史跡ガイド8)』学生社、1992年、135-136p
2. 境内のご案内重願寺

参考文献
・細田隆善 著『江東区史跡散歩 (東京史跡ガイド8)』学生社、1992年

外部リンク
浄土宗重願寺
(wikiより)

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殉難慰霊 平和祈願 みまもり観音


造立由来

みまもり観世音は東京大空襲による戦災や関東大震災などの災害で殉難された方々のご冥福を祈り戦争や天災のもたらす悲惨さと平和の尊さを後世に伝えるため當山檀信徒をはじめ猿江地区六ケ町有志の方々等一萬数千巻に及ぶお写経の勧進によって造立されました ( 昭和五十六年九月一日 序幕開眼 )


観音像 足下の地下収納庫には五千人に及ぶ人々のご納経がカプセルに保護されて収められています


みまもり観音と云う名称は殉難された多くの方々に対する心からなる慰霊の念をこめて観音さま「亡き人々を「みまもり給え」と願い また限りない観音さまの大慈悲をもって いま、生きる私達を「日々にみまもり給え」と祈念して名づけられました


戦災 ( ひ ) に消えし 亡き人々よ 安かれと祈りて今朝 ( けさ ) も 経の字写す

                                主水

・原型 奈良薬師寺 ( 官主 高田好胤師 ) 蔵
      
      国宝 聖観世音菩薩
       
・鋳造 滋賀金壽堂 滋賀県無形文化財 黄地佐平氏指揮
(案内板より)

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関根 正二(せきね しょうじ、本名読み:まさじ[1]1899年4月3日 - 1919年6月16日)は、日本洋画家である。

経歴
1899年福島県西白河郡大沼村(現白河市)に屋根葺き職人の父のもとに生まれた。1908年、前年に発った父を追い上京、深川に住む。小学校の同級生に伊東深水がおり、伊東の紹介で1914年に東京印刷株式会社に就職、そこでオスカー・ワイルドの作品を読み、ワイルドの思想に触れた。1915年、会社を辞めた関根は知人と共に長野県へ放浪、そこで洋画家の河野通勢と出会った影響などを受け、ほぼ独学で絵画を学んでいく。同年、16歳の時に描いた「死を思う日」が第2回二科展に入選。1918年、19歳の時に第5回二科展に出品した「信仰の悲しみ」が樗牛賞に選ばれたが、関根はこの頃より心身共に衰弱し、翌年結核により20歳で夭折した。絶筆となった「慰められつゝ悩む」は後に紛失し、現在は作品を写した絵葉書のみが残されている。関根の代表作である「信仰の悲しみ」は後に日本の近代洋画史を代表する傑作の一つと評され、2003年重要文化財の指定を受けている。

代表作品については、『関根正二ウィキペディア』をご覧ください。 ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%96%A2%E6%A0%B9%E6%AD%A3%E4%BA%8C

展覧会
・関根正二展 生誕120年・没後100年 神奈川県立近代美術館 鎌倉別館 2020年2月1日ー3月22日

脚注
1. 二十歳で逝った天才画家
2. 牛舎 - 収蔵作品検索 - 福島県立美術館ホームページ
3. 風景 - 収蔵作品検索 - 福島県立美術館ホームページ。なお、当ページでは「1918年頃」「33.2×23.0」と記載しているが、『生誕100年 関根正二展図録』や『生誕120年・没後100年 関根正二展』では「1916年頃」「33.3x23.1」と記載しており、当項目では後者に従っている。
4. 村岡みんの肖像 _ 神奈川県立近代美術館
5. 一本杉の風景 - 収蔵作品検索 - 福島県立美術館ホームページ
6. OHARA MUSEUM of ART ― 作品紹介>主な作品の紹介>日本の絵画と彫刻>関根正二
7. 姉弟 - 収蔵作品検索 - 福島県立美術館ホームページ
8. 自画像 - 収蔵作品検索 - 福島県立美術館ホームページ
9. 神の祈り - 収蔵作品検索 - 福島県立美術館ホームページ
10. 婦人像 - 独立行政法人国立美術館・所蔵作品検索
11. 三星 - 独立行政法人国立美術館・所蔵作品検索
12. 《子供》 - 日本近代洋画 _ アーティゾン美術館
13. 関根正二《慰められつゝ悩む》 - 関根正二研究所

参考文献
・神奈川県立近代美術館ほか編集 『生誕100年 関根正二展図録』 神奈川県立近代美術館、1999年7月10日

関連項目
河野通勢

東郷青児

今東光

村山槐多 - 関根と並び評される夭折の画家。両者の関係は今なお不明だが、関根が親友宅に槐多のデッサンを預けたという伝説がある。

外部リンク
関根正二と河野通勢の邂逅(三重県立美術館学芸課長)

関根正二(三重県立美術館)
(wikiより)

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とてもキレイに整備されていて地元の人々とのつながりの深さを感じます。

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日先神社神社は正徳年間(1711-1716)に猿田彦命を祭って勧請したといいます。明治維新後は無格社に列格しています。


由緒
日先神社


猿江裏町にあり、無格社で猿田彦命を祭る。


正徳年中の勧請と云ひ、境内八十坪現神職は神保鐡男。(「深川区史」より)


・日先神社所蔵の文化財

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史跡顕彰 猿江神社由来記


伝承として昔、康平年間 ( 西暦 1059年 - 1065年 ) 源頼義が奥州征伐 ( 後三年の役 ) の頃 この附近の入江に勇々しき戦武者の屍がただより着き 不思議にも其の頃屍より毎夜光明を発し村人この屍を叮重に葬る。


武士の鎧に源頼義の臣「猿藤太」と記しあり また懐中より有難き経文一巻がいでたり よって村人「猿藤太」の頭文字と入江の「江」をとりて猿江稲荷と尊称し近郷近在の守護神となし村落の敬神の地として仰ぎ奉り、豊作祈願 病気平癒 悪病退散 等の、この地の氏神社として祭り 又それより 地名をも猿江村と称えはじめ現在に至れり 正に猿江の地名これより発祥せり


尚 当時この村落の氏神社である猿江稲荷神社は 古来より「天照大御神」「宇迦之御魂命」とを御祭神としてゐたが武人猿藤太の御霊をも合せ加え代々お祀り申し上げて参りました


江戸時代は猿江稲荷神社と称し隣接せる日蓮宗寺院本覚山妙寿寺の住職が代々守護管理を司とっていたが明治以後 近年になり神保宮司を祭官として招き合せて村 町の発展とともに町内氏子の者達が神社の護持運営にあたり現在に引き継がれた次第であります。


お恵み ( ご利益 ) として家内安全 病気平癒 商売繁昌心願成就として霊験あらたかなり


昭和六十一年丙寅八月吉日


文筆者 堀江候雄


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猿江神社(さるえじんじゃ)は東京都江東区神社

概要

康平年間(1058年1065年)に創建された。源義家前九年の役で出征の途中、当地の入江で家臣の「猿藤太」が亡くなり、現地に祠を建てて葬った。これが当社の起源である。地名の猿江は、藤太が亡くなった入に由来する[1]


当社の別当寺は、妙寿寺(現在は東京都世田谷区烏山寺町に移転)であった[1]


1923年
大正12年)の関東大震災で社殿が焼失したため、再建時に鉄筋コンクリート造にした。その甲斐あって、1945年昭和20年)の東京大空襲では、焼失を免れることができた[2]

交通アクセス
住吉駅より徒歩2分。

脚注
1. a b 細田隆善 著『江東区史跡散歩 (東京史跡ガイド8)』学生社、1992年、136-137p
2. 猿江神社トップページ猿江神社

参考文献
・細田隆善 著『江東区史跡散歩 (東京史跡ガイド8)』学生社、1992年
(wikiより)

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藤森神社縁起

創立不詳ながら、江戸時代初期には本所 ( 墨田区 ) 横網町の江戸幕府御用材 木蔵に、すでに祀られていた。


享保十九年 ( 一九三四 ) 御用材 木蔵とともに猿江の地 ( 現在の猿江恩賜公園 ) 遷座された。


明治以降は宮内省所管となり、この頃から猿江神社の宮司家により祭祀奉仕亦、社殿が藤の木で囲まれ、毎年花の咲く時期に祭礼が行われていたことから、何時しか藤乃木魂を祀る「藤森神社」と称され、四百年余に亘り木材作業に従事する人々の厚い信仰を享けてきた。


昭和五十二年春、東京都の都市計画による猿江貯木場の移転に伴い、現潮見駅前に遷座されるが、平成十三年十二月崇敬なる旧東京官材共同組合長 氏橋幸次郎氏及び東京広葉樹連合会会長 長谷川建治氏、他関係諸氏の総意尽力で再び縁深きこの猿江の地に戻り、猿江神社の境内に安宮鎮座される。


江戸時代より木材の守護神として商売繁盛、工事作業安全のご利益があるとされている。


尚、石燈篭一対 ( 弘化五年 ) 、石水盤 ( 貞享三年 ) は区の有形文化財である。


宮司 神保恵一 謹書
(案内板より)

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高 嵩月(こうすうげつ、宝暦5年(1755年[1]) - 文政13年8月29日1830年10月15日[2]))は江戸時代英派絵師観嵩月とも表記される。

来歴

高嵩谷の門人。氏は坂本[3]、名は常雄。字は子行または巨熊。嵩月、蓑虫庵、景訥、観、卓朗斎、(草冠+鹿)菴と号す。生家は筑島屋といい、もともとは材木屋だったが、祖父・坂本雪花斎の代に別家し、地主として地代で生活していた[3]。父は幕府御用達という池之端仲町の小間物手遊類問屋の大槌屋(新井氏)からの養子だった[3]。祖父の代から俳号を持っており、祖父の姉または妹が江戸座の俳人・岡田米仲の妻になり、自身も米化という俳名を持つなど俳諧グループとの繋がりもあった[3]


久松町に住んでおり、主に寛政から文政にかけて活躍、肉筆画のほかにわずかに版画摺物を残している。一方、書画に精通しており、菅原洞斎著『画師姓名冠字類鈔』や朝岡興禎著『古画備考』に、情報の提供や仲介をし、その成立に大きな貢献を果たした。嵩月の祖父の長屋に晩年の尾形乾山が住んだ(『古画備考』巻三十五)という縁からか、酒井抱一にも乾山の情報を提供している[4]。嵩月自身も、『画師冠字類考』(西尾市岩瀬文庫蔵)を編著している。戒名は観月院湘室景納居士、墓は深川陽岳寺で、金3両で妻と共に永代供養を契約したためか、現在も陽岳寺の本堂前に観月の墓石は残っている[5]。また、その墓の隣にはやはり金1両で永代供養を約した英一蝶 (2代目)の墓が建っている[5]

作品については、『高 嵩月ウィキペディア』をご覧ください。 ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E5%B5%A9%E6%9C%88

脚注
1.  結城素明 『東京美術家墓所誌』 1936年、p.145に歿年七十六とあることから逆算。
2. 『古画備考』より、『武江年表』や陽岳寺に残る墓石では文政13年11月20日1831年1月3日沒としているが、これは嵩月の遺言状に「何ヶ月に没しても忌日は十一月ノ廿日也」と沒日を変更したためである。しかし、なぜ嵩月がこの日に拘ったかは不明(井田(2016)p.32)。
3. a b c d 井田(2016)p.29。
4. 井田(2016)p.31。
5. a b 井田(2016)p.32。
6. 威光山法明寺 近江正典編 『雑司ヶ谷鬼子母神堂開堂三百五十年・重要文化財指定記念 雑司ヶ谷鬼子母神堂』 勉誠出版、2016年11月28日、pp.80,132、ISBN 978-4-585-21036-8

参考文献
日本浮世絵協会編『原色浮世絵大百科事典』第2巻 大修館書店、1982年

・古画備考研究会編 『原本『古画備考』のネットワーク』 思文閣出版、2013年2月、ISBN 978-4-7842-1674-1

・井田太郎 「本を読む 観嵩月という結節点 血縁と基本資料」『書物學 BIBLIOLOGY 第8巻』 勉誠出版、2016年8月8日、pp.27-33、ISBN 978-4-585-20708-5
(wikiより)

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全国にわたる天明の大飢饉 ( ききん ) ( 1783 ~ 87年 ) の頃、山城国伏見奉行・小堀政方は幾多の悪政を重ねた。


このため、伏見住民は塗炭の苦しみにあえいだ。


文殊久助、丸屋九兵衛および麹屋伝兵衛らは幕府に直訴を企てひそかに江戸に入ったが、伝兵衛は小堀が放った捕吏に殺され、ようやく逃れた九助と九兵衛は直訴に成功して小堀は赦免されたが、両人は天明八年 ( 1788 ) 獄死した。


三名の遺体はそれぞれ陽岳寺に引き取られ、厚く葬られたが、これはかれら三名が江戸にあって直訴をうかがっている間、当寺に庇護され、多大の援助を受けたからである。
(案内板より)

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英信勝は英一蝶の子で、父一蝶が元禄十一年 (1968) 三宅島に流され、宝永六年 ( 1709 ) 有されて江戸に帰り、深川に住んだが、信勝も父に従って江戸に出て絵画に専念、画風はよく一蝶の風格を得て絶妙であった。


信勝は通称を長八、号を栗舎、一峰、春窓などと称し、二世・英一蝶とも称した。


信勝は元文二年 ( 一七三七 ) 閏十一月十一日、四十七才をもって死去し、法名は「機外道倫信士」である。
(案内板より)

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採茶庵跡 ~奥の細道はここから~

採茶庵は、江戸時代中期の俳人杉山杉風 ( すぎやま - さんぷう ) の庵室です。


杉風は、名を市兵衛、または藤左衛門と称したほか、屋号を鯉屋 ( こいや )、俳号を採茶庵、五雲亭 ( ごうんてい ) などとし、隠居したのちは一元 ( いちげん ) と名乗りました。


家業は魚問屋で鯉上納の幕府御用もつとめ、小田原町一丁目 ( 中央区 ) に住んでいました。


松尾芭蕉の門人でもあり蕉門十哲 ( しょうもんじってつ ) に数えられ、『常盤屋句合 ( ときわやくあわせ )』『角田川 ( すみだがわ ) 紀行』などの著作があります。


また、芭蕉を経済的に支援したパトロンとしても知られています。


採茶庵が有った場所については、杉風の娘婿である髄夢 ( ずいむ ) の遺言状に「元木場平野町北角」と書かれています。


平野町 ( ひらのちょう ) は、海辺橋 ( うみべばし ) 南詰から万年町 ( まんねんちょう ) 二丁目 ( 深川1-8 ) をはさんだ一画でした。


説明版が建っている海辺橋のたもとより一四〇メートルほど南西に位置します。


芭蕉は奥の細道の旅に出る前、住居としていた芭蕉庵を手放し、しばらくは採茶庵で過ごしました。


門人たちと別れを惜しんだのち、舟で隅田川をのぼり、千住大橋のたもとから奥州へと旅立っていきました。
(案内板より)

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ここに、塩原太助 ( 一七四三 ~ 一八一六 ) の炭屋がありました。


太助は、文化年間 ( 一八〇四 ~ 一八一七 ) の商人で、当時の本所相生町二丁目に炭屋を開きました。


十八才で江戸に出、職を変えながら四十二才で炭屋山口屋に奉公しました。


独立後、木炭の粉を丸くこね固めた炭団が当たり、「本所に過ぎたもの二つあり、津軽屋敷に炭屋塩原」と謳われるほどの成功を収めました。


名人と呼ばれた落語家三遊亭圓朝は、その人生を「塩原多助一代記」として作品化しました。


故郷、上野国 ( 現在の群馬県みなかみ町 ) にいた頃の愛馬との悲しい別れや江戸での苦労の末に成功を収めていく姿に共感が集まり、その後も芝居や講談、浪曲などの数多くの題材となりました。
(案内板より)

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八橋城秀検校 ( 八橋検校 ) の事が刻されています。

〇 八橋検校
八橋検校(やつはし けんぎょう、慶長19年(1614年) - 貞享2年6月12日1685年7月13日))は、近世中期の日本を生きた人物である。江戸時代前期の音楽家であり、検校を務めた。名は城秀。出身は諸説あるが、山田松黒が安永8年(1779年)に記した『箏曲大意抄(そうきょくすすたいいしょう)』より陸奥国磐城(明治期の磐城国、現・福島県いわき市)が定説とされている。他に摂津国(現・大阪府北中部、ほか)とする説もある。

人物・来歴
八橋検校は、寛永年間(1624-1685年)の初め頃、摂津で城秀と称して三味線の分野で活躍した。その後、江戸にくだり、筑紫善導寺法水に師事して筑紫流箏曲を学んだ。この箏曲を基に現在の日本のの基礎を作り上げた。独奏楽器としての楽器奏法の改良、段物などの楽式の定型化など、箏曲の発展に努めた。代表作に組歌の『梅が枝(うめがえ)』、『菜蕗(ふき)』、『心尽し』、『雲井の曲(くもいのきょく)』などがあり、また、段ものの『六段の調』、『(みだれ)』(乱輪舌[みだれ りんぜつ])、『八段の調』も八橋の作と伝えられている。寛永13年(1636年)に上洛し、母親が俳人藤本箕山(ふじもと きざん、畠山箕山)配下の山住(やまずみ)某(なにがし)に扶持されていたことにちなんで山住勾当[1](やまずみ こうとう)を名乗った。1639年〈寛永16年)にも再び上洛して上永検校と称し、さらにのち、八橋検校と改めた。


その芸術は高く評価され、磐城平藩専属の音楽家として五人扶持で召し抱えられたこともある。胡弓、三味線の名手でもあり、胡弓のの改良も行っている。

銘菓・八ツ橋
八橋検校の死後、その業績を偲んで、箏の形を模した堅焼き煎餅が配られたといわれ、これが銘菓八ツ橋」の始まりと伝えられている[2]

箏組歌
八橋検校がそれまでの様々な中世の箏歌を基礎にして生み出した音楽のジャンルで、江戸時代に盛んに行なわれていた[3]。箏組歌は全部で三十数曲あり、「若葉」「橋姫」など、その半数ほどが『源氏物語』を典拠としたもの[3]。箏組歌「若葉」は「若紫」の巻に登場する和歌6首をもとに、「橋姫」は宇治十帖の「橋姫 (源氏物語)」巻から「浮舟 (源氏物語)」巻までの和歌をもとに作られている[3]

脚注
1. 勾当(こうとう) :当道座に属した盲官(盲人の役職)の官位には、検校・別当・勾当・座頭があり、勾当は第3の位階。
2. 八ッ橋の歴史 - 八ッ橋について”. 聖護院八ッ橋総本店. 2017年5月24日閲覧。
3. a b c シンポジウム 源氏物語の魅力スティーブン・G・ネルソン他、法政大学、日本文學誌要第77号

関連項目
邦楽

江戸時代の人物一覧

日本のクラシック音楽の作曲家一覧

吉沢検校

外部リンク
・“八ッ橋の歴史:八ッ橋の誕生”. (公式ウェブサイト). 聖護院八ツ橋総本店. 2015年2月16日閲覧。
(wikiより)

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寛政 8年に作られた「いわやみちの碑」から更に奥へ進むと、杉山和一が管鍼術を授かった、本社江ノ島弁天の岩屋を模した岩屋がある。
 
寛政 5年に一部補修をした記録が岩屋入口の「岩屋修復記」に記されている。
 
岩屋中には人頭蛇尾の姿をした宇賀神像、宗像三女神像、杉山和一検校像が祀られている。


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⇧ 白いものは白蛇です。

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ももんじ屋(ももんじや)またはももんじい屋とは、江戸時代江戸近郊農村において、農民が鉄砲などで捕獲した農害獣の鹿を利根川を利用して江戸へ運び、その他、などの肉を食べさせたり、売っていた店のこと。表向きは肉食忌避があったから、これらを「薬喰い」と呼んだ。猪肉を山(やまくじら)、鶏肉を(かしわ)、鹿肉を紅葉(もみじ)などと称した。猪肉を「牡丹」、鹿肉を「紅葉」と称するのは、花札の絵柄に由来する隠語の説もある[注 1]が、赤身と脂身の色から牡丹と言ったり、牡丹を模して盛り付けるからとも言われている。江戸時代では、猪をブタ、野猪をイノシシと読み混合していた[注 2][1]


江戸では両国広小路[注 3]、あるいは麹町にあった店が有名であった。獣肉を鍋物にしたり、鉄板で焼いたりし食べていたようで、近代のすき焼き桜鍋の源流と言える。幕末には豚肉(猪肉)食が流行し、これを好んだ15代将軍・徳川慶喜は「豚将軍」「豚一殿」とあだ名された。また、新撰組でも豚肉を常食していた記録が残っている。これら肉食文化は明治初期の牛鍋の人気につながっていった。


百獣屋
の字をあてて「ももんじや」としているが、一方で関東地方妖怪を意味する児童語のモモンジイに由来しており、江戸時代には尾のある獣や毛深い獣が嫌われてモモンジイと呼ばれたことから、それらの肉を扱う店も「ももんじ屋」と呼ばれるようになった[3]という説がある。


彦根藩では第3代藩主・井伊直澄のころ、反本丸(へいほんがん)と称して全国で唯一牛肉の味噌漬けが作られており、滋養をつける薬として全国に出回り、幕末まで幕府や他藩から要求が絶えなかったという。これは近江牛が名産となるはしりとなった[4][5]

小説などへの登場
鳥羽亮著 『ももんじや 御助宿控帳』 朝日文庫2009年ISBN 978-4-02-264508-1

脚注
注釈
1. 猪は7月、鹿は10月のそれぞれ種札(10点札)の絵柄で存在する。ただし、鹿は10月が紅葉なので名前と絵柄で符合するのだが、猪の札がある7月はの花で一方の牡丹は6月の花であり、また6月の種札はであるため符合しない。一方、猪については「獅子に牡丹」という成句の獅子を猪に置き換えたものとの説もあるがこちらは鹿も「しし」と読む。

2. 日本以外の漢字文化圏では現代においても猪をブタとするため、例えば十二支は日本以外ではブタである。
3. 現在の中央区東日本橋2丁目。なお、ほど近い墨田区両国で、1718年(享保3)創業の「もゝんじや(ももんじや)」が2021年現在も営業している[2]


出典

1. 松下幸子 『江戸料理読本』 ちくま学芸文庫、2012年、P.109
2. もゝんじや(猪料理)”. 墨田区銘品名店会. 2015年7月7日時点のオリジナル[リンク切れ]よりアーカイブ。2010年7月20日閲覧。
3. 村上健司著 『妖怪事典』 毎日新聞社2000年、335頁。ISBN 4-620-31428-5
4. 国宝彦根城築城400年祭「列伝 井伊家十四代 第8回」[1]
5. 市村 勲. “牛鍋物語”. 食文化のウンチク. 2009年9月3日時点のオリジナル[リンク切れ]よりアーカイブ。2010年4月7日閲覧。

参考文献
飯野亮一著 『居酒屋の誕生』 ちくま学芸文庫2014年ISBN 978-4-480-09637-1 C0121

大久保洋子著 『江戸の食空間』 講談社学術文庫2012年ISBN 978-4-06-292142-8

松下幸子著 『江戸料理読本』 ちくま学芸文庫、2012年ISBN 978-4-480-09483-4 C0139

関連項目
日本の獣肉食の歴史

ジビエ / ブッシュミート - ももんじ屋で取り扱われる鳥獣の肉は当時のジビエもしくはブッシュミートともいえる。

焼肉

ぼたん鍋

犬食文化

外部リンク
一般社団法人日本ジビエ振興協会

ももんじや
(wikiより)

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両国橋(りょうごくばし)は、隅田川にかかるで、国道14号靖国通り京葉道路)を通す。


西岸の東京都中央区東日本橋二丁目と東岸の墨田区両国一丁目を結ぶ。橋のすぐ近くには神田川と隅田川の合流点がある。


現在は武蔵国内にあるが、1686年(貞享3年)に境が変更されるまでは下総国との国境にあったことから、両国橋と呼ばれる。

現在の橋

完成当時は言問橋天満橋と共に「三大ゲルバー橋」とよばれ、技術的にも当時の最先端であった。

ガードレール部分には軍配花火が描かれ、柱部には両国国技館の屋根を模った飾りを配するなど、デザイン的にも凝ったつくりになっている。


・構造形式 3径間ゲルバー式鋼鈑桁橋

・橋長 164.5m

・幅員 24.0m

・着工 1930年(昭和5年)2月

・竣工 1932年(昭和7年)5月18日[1]

・施工主体 東京市

・施工 石川島造船所 / 間組

歴史

両国橋の創架年は2説あり、1659年(万治2年)と1661年(寛文元年)である、千住大橋に続いて隅田川に2番目に架橋された橋。長さ94間(約170m)、幅4間(約7m)。名称は当初「大橋」と名付けられていた。しかしながら西側が武蔵国、東側が下総国[2]と2つの国にまたがっていたことから俗に両国橋と呼ばれ、1693年(元禄6年)に新大橋が架橋されると正式名称となった。位置は現在よりも下流側であったらしい。


江戸幕府
は防備の面から隅田川への架橋は千住大橋以外認めてこなかった。しかし1657年(明暦3年)の明暦の大火の際に、橋が無く逃げ場を失った多くの江戸市民が火勢にのまれ、10万人に及んだと伝えられるほどの死傷者を出してしまう。事態を重く見た老中酒井忠勝らの提言により、防火・防災目的のために架橋を決断することになる。架橋後は市街地が拡大された本所深川方面の発展に幹線道路として大きく寄与すると共に、火除地としての役割も担った。両国広小路の項も参照のこと。


両国橋は流出や焼落、破損により何度も架け替えがなされ[3]、木橋としては1875年(明治8年)12月の架け替えが最後となる。西洋風の九十六間(約175m)の橋であったが、この木橋は1897年(明治30年)8月10日の花火大会の最中に、群集の重みに耐え切れず10mにわたって欄干が崩落してしまう[4]日本橋消防署の資料によれば、橋に降り掛かる火の粉を避けようとした群衆に、一斉に押された圧力で折れたとされる[5]。死傷者は数十名にもおよび、明治の世に入ってからの事故ということで、これにより改めて鉄橋へと架け替えが行われることが決定する。


結果、現在の位置より20mほど下流に鉄橋として生まれ変わる。1901年(明治34年)8月に起工し、1904年(明治37年)11月14日に開通式を行った。曲弦トラス3連桁橋であり、長さ164.5m、幅24.5m、工費約30万円と記録に残る。設計は原龍太。この橋は関東大震災では大きな損傷も無く生き残ったが、他の隅田川橋梁群の復旧工事に合わせて、震災後に現在の橋に架け替えられた。なお、この架け替え時に取り外された両国橋の橋名板が東京都復興記念館に保存されている。


2008年(平成20年)3月28日、言問橋と共に東京都の東京都選定歴史的建造物に選定された。

南高橋
最後の架け替えの際、損傷のほとんど無かった3連トラスのうち1連が再利用され、幅、高さ等を詰めたうえで亀島川の最下流、隅田川との合流地点付近にある南高橋となった。この南高橋は都内に現存する鉄橋のうち、川を跨いで実際に利用されている自動車橋としては最も古い(八幡橋(旧弾正橋)が最古であるが、人道橋であり、現在は陸橋)。

路線バス
かつては都営バス草28系統(神田駅 - 両国駅 - 錦糸町駅 - 亀戸駅通り - 西大島駅 - 境川 - 葛西橋/葛西車庫)が経由していたが2000年に神田駅 - 両国駅間を短縮のうえ両28系統となり、現在定期路線の運行はない。

画像一覧については、『両国橋ウィキペディア』をご覧ください。 ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%A1%E5%9B%BD%E6%A9%8B

隣の橋
隅田川

  (上流) - 蔵前専用橋 - 隅田川橋梁 - 両国橋 - 両国大橋 - 新大橋 - (下流)

脚注
1. 工事畫報昭和七年七月號
2. 正確には東岸からさらに東1kmのほぼ横十間川が両国(武蔵国・下総国)の境だった。
3. 改修に関連して改易処分となった上野沼田藩真田信利がいる。
4. 国立国会図書館デジタルコレクション2016/3/28閲覧
5. 日本橋消防署百年史:明治14年~昭和56年2019/7/6閲覧
(wikiより)

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この橋は、元禄十一年 ( 一六九八 ) に、神田川が隅田川にそそぐところに架けられ、最初は「川口出口の橋」と呼ばれた。


近くに幕府の矢の倉があったのにちなみ、矢の倉橋・矢之城橋と呼んだともいう。


柳橋は享保頃からの呼称らしい。


橋の名の由来には、「柳原堤の末にある」」「矢之城を柳の字に書きかえた」「湖畔の柳にちなむ」など諸説ある。


鉄橋に架け替えられたのは明治二十年で、現在の橋は昭和四年に完成した。


江戸時代、湖畔は船宿が並んで賑わった。


幕末・明治以降、柳橋は花柳界として名を知られ、多くの文人・墨客が題材に取り上げている。


また、柳橋は落語にもよく登場し「船徳」等はこの地を舞台にした噺である。


[柳橋ゆかりの人々]

・成島柳北
蔵前生まれ。『柳橋新誌』を著した。


・小林清親
「元柳橋両国遠景」で、往時の柳橋周辺の情景を描いた。


・正岡子規
句集『寒山落木』の中で、「春の夜や 女見返る 柳橋」と詠んだ。


・島崎藤村
今の柳橋一丁目に住み、柳橋を題材にした随筆『新片町にて』を発表し、小説『沈黙』の中では大正期の柳橋界隈を情景豊かに書いている。

また代表作の『春』「家」などの作品も柳橋在住のときに発表した。


・池波正太郎
『剣客商売』などの作品で柳橋界隈を取り上げている
(案内板より)

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山口 小夜子(やまぐち さよこ、1949年9月19日 - 2007年8月14日[1])は、日本のファッションモデル

活動はモデルだけに留まらず女優、パフォーマー、ファッションデザイナー、と多岐にわたる。また晩年は、その活動を自ら「ウェアリスト」と説明していた。

経歴・来歴
パリコレデビュー 〜 資生堂専属モデル契約

京浜女子大学横浜高等学校[2]、下赤塚に住み杉野学園ドレスメーカー女学院に通う。卒業後[3]1971年プロのモデルとしてデビューし[4]高田賢三山本寛斎のショーで注目を集める[3]。1959年にルイ・フェロー英語版に見い出されてアジア系モデルとして初めてパリコレクションに起用された松田和子、1960年にピエール・カルダンに見い出された松本弘子に続き、1972年にパリコレクションに起用され[5]、次いでニューヨークコレクションにも出演した。


彼女は1960年代にパリコレクションで活躍した松田和子や松本弘子のような大きな目でキュートな顔立ちのモデルとは違い、切れ長の目と黒髪のおかっぱ髪で登場し日本人ブームを起こした[3]。白い肌に切れ長の目の美しさを作り出す繊細なアイライン、高い位置のチーク、くっきり縁取った赤いリップによる彼女のエキゾチックな顔は、ヨーロッパで熱狂的に支持され、「SAYOKO マネキン」というマネキン人形が欧米のブティックを席巻した。なお現在でもアナスイニューヨーク店で使用されている。


1973年から1986年まで、資生堂のモデルとして専属契約を結び「美」の普遍的イメージを国内外に発信していくことになる。1973年の『シフォネット』のポスターは、ハーフモデル全盛の時代に、黒髪おかっぱのいかにも「日本人らしい」モデルの登場を鮮烈に印象づけ、時代の転換点を体現した。 モデルとして活動しながら、ファッションデザインや服飾品のプロデュースも幾度となく担当。1977年には、雑誌『ニューズウィーク』の「世界のトップモデル6人」にアジア人で初めて選ばれた[3][5]

舞台・映画・ダンス・デザイン

モデルとしての活動の傍ら、舞台および映画女優としての活動も開始。寺山修司演出の『中国の不思議な役人』(1977年)の稽古で天井桟敷のメソッドに触れ、飛躍的に表現の幅を広げた後、同年に映画『杳子』、1981年には重信浩演出による半自叙伝的舞台『小夜子:山口小夜子の世界』(1980年)で主演を務める。その他、演出家 佐藤信の舞台『忘れな草』(1986年)、国際エミー賞ほかを受賞したNHK音楽ファンタジー『カルメン』(1989年)、江戸時代から続く糸あやつり人形劇団 結城座の人形たちと共演した『ペレアスとメリザンド』(1992年)など多くの舞台に出演する。


一方で、舞踏やダンスの分野にも活動の場を拡げていく。1986年にはパリ市立劇場フランス語版を拠点として活動する舞踏グループ 山海塾からメソッドを学び、横須賀功光の撮影による写真集『月 小夜子/山海塾』で共演。1987年には、勅使河原三郎/KARASとのコラボレーションを始め、以後ダンサーとして、1996年頃まで世界ツアーも含めて彼らと活動をともにする。


また、音楽や舞、ファッションショーが一体化した壮麗な舞台の出演者としても、林英哲、山本寛斎、和田勉、毛利臣男、天児牛大らとのコラボレーションを行った数多くの仕事がある。


さらに、クリエイターとしても舞台の衣装を数多く担当。自らも出演した天児牛大演出のオペラ『青ひげ公の城』(1997年)で、衣装デザインを担当したほか、フランス・リヨン国立歌劇場で初演された、同じく天児牛大演出のオペラ『三人姉妹』(1988年)の衣装デザイン、2004年の佐藤信演出のふたつの舞台『リア王の悲劇』の衣装デザイン、結城座公演『夢の浮橋~人形たちとの<源氏物語>』の人形デザインおよび人形遣いのスタイリングも手がける。

ウェアリスト(着る人)

着物をまとい、たおやかな理想の女性を演じる一方で、小夜子は、例えば1977年の時点で、ロンドン・キングスロードの動向やパンク・ムーヴメントについて中西俊夫らと雑誌で情報交換するなど、新しいもの、オルタナティヴなものに対する強い感受性を持っていた。2000年代に入った晩年の数年は、彼女のそうした側面が遺憾なく発揮された、最も自由な時間だった。


こうした活動に、晩年は「ウェアリスト(着る人)」と名乗り、自らの身体において、ファッションだけでなく、ダンス/舞、音楽、映像、文学など諸芸術が交錯する表現を展開した。


クラブカルチャーを舞台に様々な表現を始め、DJとしての活動、また多くの表現者と様々な表現に挑戦していた。 2002年、藤乃家舞(CDJ、ミキサー、FX担当)、宇川直宏(VJ担当)と『SUNZU』を結成。音楽活動としては、後にラッパーのA.K.I. PRODUCTION[注 1]とも電子音楽ライブを行っている(小夜子は、DJ・ミキサー・声を担当)。


2003年、映像作家、VJとして活躍していた生西康典[注 2]、掛川康典と、舞、ファッション、音楽、映像、朗読などが一体化したパフォーマンスを展開。山川冬樹[注 3]ら若い世代のパフォーマーたちとも積極的に共演する。これは晩年「ウェアリスト(着る人)」を名乗った彼女の、映像や音楽、空間を「纏う」という独自の表現の完成を示していた。2007年には、生西康典、掛川康典と自身の主演映画を共同監督する予定だったが、この計画は彼女の突然の逝去で断たれることになる。


一方、2005年から写真家 高木由利子[注 4]と雑誌、およびWebサイトで連載した『蒙古斑革命』は、彼女が興味を持つ世代を超えた表現者たちにインタビューしていくもので、諸文化の混合した現在の日本を、自らのありのままの出自として受け止める人々の連帯がここに示されている。かつてナショナリスティックな「日本」イメージのアイコンであった小夜子。しかし彼女自身は、早くから中国や朝鮮半島も含めた各種の身体表現、衣装やメークを通して、日本だけでなく東アジア人であることと内側から向き合おうとしてきたのであり、「日本なるもの」を再定義するようなこのプロジェクトはその集大成とも言えるものであった。(Webサイト『蒙古斑革命』はサーバーダウンにより全データが消失し、しばらく閲覧できない状態だったが、2017年から「The Salvage Project of 蒙古斑革命」[注 5]として、サイトの復元が行われている。)

急逝

小夜子は2007年8月14日、急性肺炎のため死去した[3]。小夜子の葬儀は親族だけで執り行われ、9月19日にお別れの会が開かれた[1]。 小夜子は生前、最後の出演映画となった『馬頭琴夜想曲』にて、その1週間ほど前に会ったばかりだったという、同作の木村威夫監督は小夜子について「体調が悪い様子はなかった」と語っている事から、いかに急逝だったかが伺える。


2015年、東京都現代美術館にて小夜子の生涯と携わった作品群を回顧する「山口小夜子 未来を着る人」が開催された。


当時、小夜子は既に死後8年を経過しようという時の開催だったが、『山口小夜子』を知らなかったはずの世代にも熱狂的に受け入れられ、小夜子が体現したような「纏う」ということ、現在のファッションとアートの交錯を先駆するような存在となった小夜子をフィーチャーした本展は、現在にも通ずるファッションの本質についての再考としても受け入れられたのか、入場者数は5万5千人。最終日だけでも3000人を動員し、大盛況のうちに幕を閉じた。

著書
・『小夜子の魅力学』 文化出版局 1983年3月 ISBN 9784579301188

主な出演
映画
キャロル1974年 本人役)

ピーターソンの鳥(1976年)

杳子(1977年)

原子力戦争1978年

四季の追想1979年

上海異人娼館 チャイナ・ドール1981年

石の花 ISHINOHANA1989年

利休(1989年 茶々役)

T-CITY1993年

ピストルオペラ2001年

Soundtrack(2002年)

馬頭琴夜想曲2007年「山口さよこ」名義)

氷の花火 山口小夜子(2015年 追悼作品)

テレビ
夜のヒットスタジオDELUXE(1986年) - 沢田研二「ヴォラーレ」でダンサーとして。

音楽ファンタジー「カルメン」(1989年)<1989年イタリア賞テレビ音楽部門特別賞受賞作品> ―日本の様式で描くカルメンの悲劇―

NHK-BS世界・わが心の旅』「モロッコベルベルの少女の瞳」 旅人・山口小夜子(モデル・クリエーター)、語り・磯部勉1998年。(2004年12月28日・2006年11月16日の各日にNHK衛星第2で再放送)

NHK総合課外授業 ようこそ先輩2002年11月 - 横浜市立元街小学校を訪問

・NHK衛星第2(2003年10月)[シネマナビゲーション/フランス映画特集コメンテーター]

その他
1977年発売のスティーリー・ダンのアルバム『彩(エイジャ)』のカバーをつとめた(写真:藤井秀樹)。

詳しいことは、『山口小夜子ウィキペディア』をご覧ください。 ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E5%8F%A3%E5%B0%8F%E5%A4%9C%E5%AD%90
(wikiより)

118 山口小夜子

⇧ 山口小夜子

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碑文
安政元年三月三日 ( 1854 ) 日米和親条約が横浜村で調印された。


本邦初のペンキ塗装が施された。


本邦ペンキ塗装の元祖町田辰五郎は寝食を忘れ研究に研究を重ねてそれを完成させたのである。


以来数多くのペンキ塗装を手懸け、又数多くの弟子を育成した。


それにより本邦の隅々迠もペンキ塗装が伝はり 今日の現況に迠至ったのである。
(石碑文より)

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小沢 昭一(おざわ しょういち、本名:小澤 昭一(読み同じ)、1929年(昭和4年)4月6日 - 2012年(平成24年)12月10日)は、日本俳優タレント俳人エッセイスト芸能研究者放送大学客員教授日本新劇俳優協会会長、劇団「しゃぼん玉座」主宰、見世物学会顧問を務めた。俳号は小沢 変哲。

来歴・人物

東京府豊多摩郡和田堀町大字和泉(現在の東京都杉並区和泉)生まれ[1]。父は現在の長野県長野市の出身で、新潟県高田市(現・上越市)で写真屋修行時代に結婚し東京に出てきた[1]。昭一2歳の頃、父親が写真館を始めたため日暮里へ引っ越し[1]、4歳のときに蒲田に移り住む。当時の蒲田は、松竹映画の撮影所があるモダンな街で、また寄席もあり、その猥雑な雰囲気が小沢の後の活動に影響を与えた。


戦争の匂いが身近に迫る中、旧制麻布中学に入学[2]し、同級に大西信行加藤武フランキー堺仲谷昇なだいなだ等多くの友人を得る。軍事教練や、学徒動員先でも天狗連として彼らと、しばしば落語を披露し合っていた。通学帰り、ネタを増やしに、大西、加藤らと、学生服姿で人形町末廣、神楽坂演芸場、銀座金春亭など禁演落語の時節真っ只中の寄席に入り浸り、そこで出会った演芸評論家・作家の正岡容の知遇を得て弟子になる。桂米朝、大西、加藤らとは正岡門下の兄弟弟子の関係である。さらに大西、加藤らと麻布中で演劇部を立ち上げた。その後、海軍兵学校第78期生として1945年(昭和20年)4月に入校(第703分隊)するが、終戦のために退校。そこで見た一面の焼け野原・終戦体験が昭一青年に大きな影響を与えた。まだ豊かに残っていた大道芸に出た「透明人間」「蜘蛛娘」などの見世物小屋手品女相撲に熱中した経験を持つ[3]


麻布に復学後、早稲田大学第一文学部仏文科卒。早大在学中にはやはり、大西、加藤らと共に、日本で初めての学校での落語研究会を創設する(名称は「寄席文化研究会」としたかったが、大学に認めてもらえず「庶民文化研究会」とした。顧問は暉峻康隆(当時)助教授)。また、北村和夫加藤武今村昌平らとグループを結成して演劇活動に熱中した。

1949年(昭和24年)、大学在学中に俳優座付属俳優養成所の二期生となり、千田是也に師事する。卒業後、俳優座公演で初舞台を踏む。1960年(昭和35年)には演出家の早野寿郎と「劇団俳優小劇場」を結成。1966年(昭和41年)に新劇寄席『とら』で芸術祭奨励賞を受賞した(俳優小劇場はのち、1971年(昭和46年)に解散)。

以降も舞台ラジオ番組映画テレビ番組などで芸能活動を行い、1966年(昭和41年)のNHKラジオドラマ『ゆびぶえ』など優れた作品を残している。


映画俳優としては、早稲田の同窓である今村昌平の紹介で1954年(昭和29年)に映画デビュー。今村が日活に移籍したのをきっかけに自身も日活と専属契約をした。ここで、小沢の心酔することになる川島雄三と出会う。


川島の『愛のお荷物』、『洲崎パラダイス赤信号』、そして『幕末太陽傳』で、脇役ながらその存在感を示した。その後、今村の『エロ事師たちより 人類学入門』で主役を務め、1966年(昭和41年)の「キネマ旬報」主演俳優賞、「毎日映画コンクール」男優主演賞など多数の賞を獲得した。小沢は川島に傾倒しており、日本経済新聞に掲載された『焼け跡派のこころ』(2004年(平成16年)連載)では「川島監督に演技を開眼してもらった」と述べている。なお、プログラムピクチャーにも多数出演しているが、怪しい訛り言葉を話す中国人役などが多かった。個性派のバイプレイヤーとして、200本以上の映画に出演している。


また、1969年(昭和44年)、不惑の年に、それまでの新劇を基点とした活動に限界を感じ、またもともと、幼少期より落語など演芸・話芸・雑芸が好きであったこともあり、「芸能の原点」を求めて日本の伝統的な芸能に憧れを抱き、著書『私は河原乞食・考』を刊行。またこの年から、早稲田大学演劇科の大学院に特別入学して、郡司正勝教授のもとに5年間通い、芸能史の研究を行う。同1969年、東京やなぎ句会に参加。


その後も放浪芸の収集、発掘に深い関心を寄せ、記録、保存、著述、そして実践を行うようになる。1971年(昭和46年)には全国を廻って収集した音源を元に制作したレコード『日本の放浪芸』LP7枚組を発売し、1971年度の第13回日本レコード大賞企画賞を受賞。続編の『又・日本の放浪芸』は、1974年度の芸術選奨新人賞を受賞。以降も、次々と続編を制作する。また三河万歳の才蔵役として門付に出るなど、実践を行う(『日本の放浪芸』に収録)。


その「芸能研究の実践活動」として、1975年(昭和50年)、小沢が主宰し加藤武山口崇山谷初男らと劇団「芸能座」を旗揚げする(旗揚げは永六輔作『清水次郎長伝・伝』で全国を巡業する)。1980年(昭和55年)までその活動は続いた。付属として「あたらしい芸能研究室」(出版部門)をつくり、研究誌「季刊藝能東西」を創刊。「藝能東西」以外にも、芸能関係の書籍を多数刊行し、2001年(平成13年)まで出版社として活動した[注 1]。また小沢自身も、時代と共に消え行く伝統芸能やストリップなどの猥雑な諸芸能を取材・研究した本を刊行し続ける。


1973年
(昭和48年)には、TBSラジオ小沢昭一の小沢昭一的こころが放送開始される。


1982年(昭和57年)には「俳優が小沢一人」の劇団「しゃぼん玉座」を創設し、晩年まで活動を行った。「引退興行」と称して『唐来参和』(井上ひさし原作)の一人芝居を各地で、1982年(昭和57年)から18年間続け、公演660回を数えた。


他に野坂昭如永六輔と「中年御三家」を結成し、1974年(昭和49年)の武道館でのコンサートはビートルズ以来と言われるほど盛況であった(2003年(平成15年)に「帰ってきた中年御三家」コンサートをNHKホールで行ったが、野坂は病気のため不参加)。また晩年期(いわゆる「二代目小沢昭一」の時代)には「老謡」と称し、幼・少・青年期に親しんだ歌を多数歌うようになる。


小沢はまた、俳人でもあり「小沢変哲」という俳号を持っている。1969年(昭和44年)に入船亭扇橋を宗匠にして、永六輔、江國滋酔郎らと共に「やなぎ句会」を発足。句集など俳句関連の出版物もある[4]


父が修業した新潟の写真館の建物が収蔵されていることから、博物館明治村村長も務め、また日本新劇俳優協会会長を務めた。


1992年、第46回毎日出版文化賞特別賞を受賞。(ビデオブック『大系日本歴史と芸能 全14巻』網野善彦+小沢昭一+服部幸雄+宮田登大隅和雄山路興造=編集委員、平凡社+日本ビクター)による。


1994年
(平成6年)に紫綬褒章、1999年(平成11年)に坪内逍遥大賞2001年(平成13年)に勲四等旭日小綬章及び徳川夢声市民賞、2003年(平成15年)に東京都功労者。2004年(平成16年)に早稲田大学芸術功労者。2005年(平成17年)に朝日賞大衆文学研究賞。元放送大学客員教授。2008年(平成20年)したまちコメディ映画祭in台東において、『第1回コメディ栄誉賞』を受賞。


2005年
(平成17年)、新宿末廣亭6月下席夜の部にて、主任の柳家小三治の依頼により、子どもの時分から憧れだった寄席の舞台に芸人(演目は「随談」)として出演した。そのときの様子は書籍[5]になっている。


1998年
(平成10年)に前立腺癌が見つかったが長らく伏せており、仕事の間を縫って定期的に治療を行っていたことを2011年(平成23年)2月10日発売の「文藝春秋」に寄せた随筆で初めて公にしている[6]。2010年にがんは頸椎へ転移[7]2012年(平成24年)夏頃から体調を崩し、同年9月13日に入院。これに伴い、9月24日以降の『小沢昭一の小沢昭一的こころ』は過去の放送回の中より傑作選を放送していた。10月22日に退院した後も自宅で療養を続けていた。『小沢昭一の小沢昭一的こころ』11月16日放送回では、自宅で録音したというメッセージを寄せ、復帰に意欲を見せていたが、これが生涯最後の仕事となった。


2012年(平成24年)12月10日、前立腺癌のため、東京都内の自宅で死去した[8][9]。83歳没。12月14日に千日谷会堂で行われた本葬では生島ヒロシ、永六輔、乙武洋匡[10]、加藤武、桂米團治神津善行黒柳徹子篠田正浩春風亭小朝露木茂長峰由紀中村メイコ、野坂昭如、林家正蔵林家三平吉行和子ら850人が参列した。戒名は洽昭院澹然一哲居士。世の中に豊富な見識をユーモアと優しさを持って伝えた活眼の士という意味が込められている[11]。尚、式場となった千日谷会堂は生前、死を覚悟した小沢がたまたま車で通りかかった際に「ここだな…」とつぶやき、心に決めた場所だったという[12]


九条の会」傘下の「マスコミ九条の会」呼びかけ人[13]、「世田谷・九条の会」呼びかけ人を務めていた。

出演映画

太字の題名はキネマ旬報ベストテンにランクインした作品


・勲章
(1954年、俳優座) - 金子

・市川馬五郎一座顛末記・浮草日記(1955年、山本プロ)

・愛のお荷物(1955年、日活) - 鳥居秘書官

洲崎パラダイス赤信号(1956年、日活) - 三吉

・街燈(1957年、日活)

幕末太陽傳(1957年、日活) - 貸本屋金造

・誘惑(1957年、日活)

陽のあたる坂道(1958年、日活) - 上島健伍

東京のバスガール(1958年、日活) - 桃山

紅の翼(1958年、日活) - 安藤幸宏

にあんちゃん(1959年、日活) - 金山春夫

武器なき斗い(1960年、大東映画) - 清

・大出世物語(1961年、日活) - 六さん

豚と軍艦(1961年、日活) - 軍治

・大当り百発百中(1961年、日活) - 及川太郎

あいつと私(1961年、日活) - 金沢正太

・猫が変じて虎になる(1962年、日活) - 葛井久六

喜劇 にっぽんのお婆あちゃん(1962年、松竹) - 副園長小野

雁の寺(1962年、大映) - 鷹見邦遠

キューポラのある街(1962年、日活) - 鑑別所の教師

しとやかな獣(1962年、大映) - ピノサク

非行少女(1963年、日活) - 小使

台所太平記(1963年、東宝) - 園田光雄

若い東京の屋根の下(1963年、日活) - 北村利夫

エデンの海(1963年、日活) - 高岡

煙の王様(1963年、日活) - スクラップ工事長

・競輪上人行状記(1963年、日活) - 伴春道

・くノ一忍法(1964年、東映) - 薄墨友康

・くノ一化粧(1964年、東映) - 真昼狂念

越後つついし親不知(1964年、東映) - 瀬神留吉

続・拝啓天皇陛下様(1964年、松竹) - 王万林

赤い殺意(1964年、日活) - 田丸和幸

仇討(1964年、東映) - 小山左門

甘い汗(1964年、東京映画) - バーテン藤井

馬鹿が戦車でやって来る(1964年、松竹) - 郵便配達夫

春婦伝(1965年、日活) - 秋山憲兵軍曹

冷飯とおさんとちゃん(1965年、東映) - 中村又三郎

・悦楽(1965年、創造社) - 速水

犬シリーズ(大映)

  ・鉄砲犬(1965年) - 早川正

  ・早射ち犬(1967年) - 山本五郎

「エロ事師たち」より 人類学入門(1966年、日活) - スブやん

逢いたくて逢いたくて(1966年、日活) - 小橋作造

三匹の狸(1966年、東宝) - 猿田留吉

あこがれ(1966年、東宝) - 西沢恒吉

忍者武芸帳(1967年、創造社) - 語り手

痴人の愛(1967年、大映) - 河合譲治

伊豆の踊子(1967年、松竹) - 紙屋

続・何処へ(1967年、東宝) - 吉村順太郎

喜劇 駅前学園(1967年、東宝) - 小原金助

愛の讃歌(1967年、松竹) - 郵便屋

・喜劇列車シリーズ(東映)

  ・喜劇急行列車(1967年) - 今井

  ・喜劇団体列車(1967年) - 中村駅長

社長シリーズ(東宝)

  ・社長繁盛記(1968年) - 苑平漢

  ・続・社長繁盛記(1968年) - 苑平漢

  ・社長えんま帖(1969年) - 富田林茂

  ・続・社長えんま帖(1969年) - 富田林茂

  ・社長学ABC(1970年) - 汪滄海

  ・続・社長学ABC(1970年) - 汪滄海

・「経営学入門」より ネオン太平記 (1968年、日活) - 益本利徳

・サラリーマン悪党術(1968年、東宝) -

肉弾(1968年、ATG) - 軍曹

日本一の裏切り男(1968年、東宝) - 雑炊屋

スクラップ集団(1968年、松竹) - ドリーム

吹けば飛ぶよな男だが(1968年、松竹) - 弁士

橋のない川(1969年、ほるぷ映画) - 大竹

喜劇 深夜族(1969年、松竹) - ナレーター

私が棄てた女(1969年、日活) - 大野義雄

無頼漢(1970年、東宝) - 丑松

・サマー・ソルジャー(1972年、勅使河原プロ) - 谷川

一条さゆり 濡れた欲情(1972年、日活) - ラーメン屋の主人

喜劇 だましの仁義(1974年、東宝) - 石山権太郎/山田代議士

青春の門(1975年、東宝) - 平吉・語り手

ボクサー(1977年、東映) - アパートの管理人

冬の華(1978年、東映) - 陳

ええじゃないか(1981年、松竹) - 鵜飼作之丞

男はつらいよ 寅次郎紙風船(1981年、松竹) - 倉富常三郎

楢山節考(1983年、東映) - 勝造

鑓の権三(1986年、松竹) - 船頭

黒い雨(1989年、今村プロ) - 庄吉

砂の上のロビンソン(1989年) - 浮浪者

うなぎ(1997年、松竹) - 初老の医師

カンゾー先生(1998年、東映) - 医師

梟の城(1999年、東宝) - 今井宗久

かあちゃん(2001年、東宝) - 大家

釣りバカ日誌18 ハマちゃんスーさん瀬戸の約束(2007年、松竹) - 渋谷剛三

詳しいことは、『小沢昭一ウィキペディア』をご覧ください。 ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E6%B2%A2%E6%98%AD%E4%B8%80
(wikiより)

0128 小沢昭一

⇧ 小沢昭一

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井川 邦子(いがわ くにこ、1923年10月15日 - 2012年10月4日)は、日本女優。一ツ橋家政女学校卒業。本名は野中 敏子(のなか としこ)。

来歴・人物

1940年松竹に入り、同年、河野敏子の芸名で『絹代の初恋』で映画デビュー。戦後、井川邦子と改名し、木下惠介小津安二郎など巨匠の作品に数多く出演。中でも『わが恋せし乙女』『結婚』『肖像』『カルメン故郷に帰る』など木下作品に次々と出演し、木下学校の優等生としてスターの道を歩んだ。1960年の『笛吹川』を最後に映画界を離れ、その後はテレビドラマに出演していたが、1977年に女優業を引退。引退後は神奈川県鎌倉市で喫茶店を経営し、悠々自適の生活を送っていた。

2012年10月4日死去[1]。88歳没。

出演作品
映画
・絹代の初恋(1940年)

戸田家の兄妹(1941年)

わが恋せし乙女(1946年)

・結婚(1947年)

肖像(1948年)

・執行猶予(1950年)

・初恋問答(1950年)

カルメン故郷に帰る(1951年)

麦秋(1951年)

あの丘超えて(1951年)

二十四の瞳(1954年)

喜びも悲しみも幾歳月(1957年)

笛吹川(1960年)

テレビドラマ
ぼうふら紳士(1960年 - 1961年、CX

・松本清張シリーズ・黒の組曲 第26話「濁った陽」(1962年、NHK

木下恵介劇場 記念樹 第42話「風の音」(1967年、TBS

すぐやる一家青春記(1977年、TBS)

脚注
1. 悲しみの小雨まじりの鎌倉 御土産が御供物に・・・(涙)ケンベロンのきまぐれ AOSUKE & おとぼけ GUZUTA 2012年10月28日付
(wikiより)

125 井川邦子

⇧ 井川邦子

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 本堂裏の高台にある駐車場近くに有ります。


ジャッキー佐藤
(じゃっきーさとう、本名:佐藤 尚子(さとう なおこ)、1957年10月30日 - 1999年8月9日)は、日本の元女子プロレスラー神奈川県横浜市港南区出身。

経歴

川崎市立桜本小学校在校時から長身で、横浜市立浜中学校在学中はバスケットボール部で活躍。その後結局は1975年3月に神奈川県立商工高等学校を2年で中退し全日本女子プロレスに入門。デビュー戦は同年4月27日のマキ上田戦。 1976年2月24日にマキとビューティ・ペアを結成しWWWA世界タッグ王座を獲得した。ビューティ・ペアは「かけめぐる青春」「真赤な青春」「青春にバラはいらない」などの曲が大ヒットする。当時のビューティ・ペア人気は凄まじく、試合前のリングで歌を披露する際はリングに紙テープや紙吹雪がいっぱいになった。

ジャッキー佐藤名義で「美しい決意」、「ポケット一杯の涙」、「もしも旅立ちなら(B面:Ciscoを探せ)」というシングルレコードも出している。


1977年
11月1日にはマキが持つWWWA世界シングル王座に挑戦。この試合はビューティ・ペア同士の対決として注目され、互いに譲らず60分時間切れ、判定でタイトルを獲得。1979年2月27日には「敗者引退」という過酷なルールでのマキとの再対決は48分7秒、エビ固めで勝ち、マキは引退、ビューティ・ペアに終止符が打たれた。マキ引退後はモンスター・リッパーにWWWA世界シングル王座を奪われるも奪還したが、1981年2月25日のジャガー横田(当時:横田利美)戦で同王座から転落。1981年5月21日に引退式が行われた。


その後、新団体「ジャパン女子プロレス」の設立に参加。1986年8月17日、対神取忍(当時:神取しのぶ)戦で現役に復帰する。しかし、団体内でのトラブルから神取との確執が表面化し、1987年7月18日の神奈川・大和車体工業体育館大会において行われた神取との一騎打ちが壮絶なセメントマッチとなり、敗れたジャッキーは1988年3月20日での試合を最後に現役を引退した。

引退後

引退直後の1988年には体操教室の会社「ジャムナ」を設立する。スポーツプログラマー、ヘルスケアトレーナーの資格を取得し、中高年女性を中心に自らが考案した「ジャムナ体操」を教える。


1999年8月9日8時41分、胃がんのため神奈川県川崎市の病院で死去。41歳没。生涯独身だった。


大のタバコ好きで、にはタバコが納められた。引退後に卵巣がんを患った全女の後輩ナンシー久美の治療生活を精神的に支えており、最期まで私生活でも仲がよかった。ナンシーはジャッキーの姉弟と共に入院中のジャッキーの看護[1]・死後の諸々の後始末にもあたった。


ジャッキーは病名をマキには伝えず、マキはそのことについて「哀しいけど、いつまでもライバルとして見ていてくれたことが嬉しい」と話している。ジャッキーは死の前年に故郷の鳥取で暮らしていたマキを訪ねており、それが今生の別れとなったという[2]


葬儀は横浜市鶴見区總持寺で執り行われた。

タイトル歴
WWWA世界シングル王座

WWWA世界タッグ王座

メディア
テレビドラマ
噂のポテトボーイ 第9話「俺たち女子プロの味方です」(1983年、TBS

脚注
1. ジャッキー佐藤を看取った元女子プロレスラーの現在” (日本語). ライブドアニュース(2019年4月6日). 2021年11月15日閲覧。
2. 元ビューティ・ペアのマキ上田さんは、浅草で釜飯屋の女将に…相方・J佐藤さんとの別れ、そしてコロナ禍|まいどなニュース” (日本語). まいどなニュース(2020年8月31日). 2021年11月15日閲覧。

外部リンク
JAKKIE FOREVER - ウェイバックマシン(2016年7月29日アーカイブ分)
(wikiより)

0130 ジャッキー佐藤

⇧ ジャッキー佐藤

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千代の富士 貢(ちよのふじ みつぐ、1955年昭和30年)6月1日 - 2016年平成28年)7月31日)は、1970年代から1990年代初頭にかけて活躍した大相撲力士北海道松前郡福島町出身。第58代横綱。昭和最後の大横綱。本名:秋元 貢(あきもと みつぐ)。血液型はA型

来歴
秋元少年の角界入り

秋元貢は1955年、北海道松前郡福島町で漁師を営む家に誕生。子供の頃から漁業を手伝って自然に足腰が鍛えられ、運動神経が抜群だった。特に福島町立福島中学校陸上競技部では走り高跳び三段跳びの松前郡大会で優勝し[2]、「オリンピック選手もいける」と言われるほどだったが、相撲は大嫌いだった。中学1年生の時に盲腸炎の手術を受けたが、貢の腹の筋肉が厚いために手こずって、予定を大幅に上回る長時間の手術になってしまい、終了直前に麻酔が切れてしまった。それでも必死に耐え続ける体格の良い貢を見た病院長が千代の山の入門の世話をしたことがある若狭龍太郎(当時、九重部屋北海道後援会世話人)に連絡した。九重(千代の山)と、貢の母の実家である大村家が遠縁であり[2]、北海道巡業の際に九重は直々に秋元家に勧誘に赴いたが、貢自身は気があまり乗らず、両親も入門に大反対したため一旦は断っていた。


それでも諦めない九重は貢に対して「とりあえず東京に行こう。入門するなら飛行機[補足 1]に乗っけてあげるよ」[3][4]「中学の間だけでも(相撲を)やってみて、後のことを考えたらどうだ?」などと持ちかけると、貢は飛行機にどうしても乗りたいがために、家族の反対を押し切って九重部屋に入門を決めた。まだ現役であった北の富士も貢と会っているが、その時を後に北の富士は「小さかったよ。だけど、物おじしないで平気な顔で部屋に来たのを覚えている。『おれのこと知ってるか』と聞いたら、『知らない。大鵬なら知ってるけど』。それが初めての会話だった。」と振り返っている[5]。上京前夜には、父が巡業の接待役にあたっていた貴ノ花に会わされ、「坊や、相撲に行くんだって?」「(九重部屋は)親方もいい。横綱もいい。とっても明るくて、いい部屋だよ……坊や、目つきが違うぞ。頑張れよ」と声をかけられた[6]

五文字の関取誕生

中学3年生で[補足 2]本名のまま1970年9月場所初土俵を踏み、翌11月場所序ノ口につき「大秋元」と改名、1971年1月場所序二段に昇進すると「千代の冨士」(1975年1月場所より「千代の富士」[7])と名付けられた[4]四股名の由来は、九重の四股名である「千代の山」と同じ部屋の先輩横綱・北の富士から取られていて、九重からはそれだけの大器と見られていた[8]。上京して相撲を始めたものの陸上への未練も捨てがたく、転入した台東区立福井中学校では台東区立中学連合の陸上競技大会の砲丸投げで2位に入賞する活躍を見せた。ただ相撲には馴染めず、中学校を卒業後に帰郷しようと、1971年3月場所の終了後は荷物を実家へ送り返してしまった。土俵での成績は概ね良好のため、逸材を手放すことを恐れた九重は故郷の後援会会員に世話を頼んで千代の冨士を明治大学付属中野高校定時制へ進学させた。そこで学業と相撲の両立を図ったが、これを妬んだ兄弟子からの折檻を受け、さらに同年7月場所を負け越しで終えると「学校と相撲は両立できない」と6か月で高校を中途退学し、相撲に専念した[3][9]。同年秋ごろに右足首の骨折でやる気が薄れたが、当時東京で上野の松坂屋に勤めていた姉に励まされて踏みとどまった[3]


小兵(幕内定着の頃まで体重は100kg以下)ながら気性の激しさを見せる取り口[4]で順調に出世して、1974年11月場所で19歳5ヶ月にして十両昇進、史上初の5文字四股名の関取となった。異名の「ウルフ」については、ちゃんこ番として魚をさばいているところを見た九重が「みたいだな」と言ったことから名付けられた[3]。当初は狼と呼ばれていたものがいつしか変化したそうで、これを聞いた春日野理事長は「動物の名前で呼ばれる力士は強くなる。ワシは『マムシ』だった。狼は若乃花の昔のあだ名だ」と言ったという。

肩脱臼との戦い

幕下時代は投げに頼った強引な相撲が目立ち、このことが肩の脱臼癖を招くこととなった[10]1973年3月場所13日目、白藤との取組で左腕をねじられた際に左肩を脱臼した。このときは医者に相手にされず湿布でしのいだが、翌5月場所3番相撲、立山との取組で二本差しになり左から投げを打ったところその左腕を抱えられた瞬間に再度脱臼し、休場に追い込まれた。三段目に下がった翌7月場所では場所前の稽古でまた左肩を脱臼したが、痛みに耐えて出場し6勝を挙げた。新十両の1974年11月場所でも11日目の隆ノ里との取組で土俵下に転落した際に左肩を脱臼している。


1975年9月場所で昭和30年代生まれの力士として第1号の新入幕を果たし、2日目に元大関大受からは幕内初白星を挙げる[補足 3]が、相撲の粗さ[補足 4]もあって5勝10敗と負け越した。その後も故障もあって1976年1月場所まで連続負け越しとなり、幕下まで番付を下げる。昭和30年代生まれの力士としての幕内勝ち越し第1号は、当時「北の湖二世」と呼ばれ将来を嘱望された小沼が達成し先を越された。奮起し76年7月場所で帰り十両を果たすが、先天的に骨の形状から両肩の関節のかみ合わせが浅く、左肩を脱臼しやすいという弱点が顕在化し[補足 5]、最初の幕下からの5年間で公式には7回、部屋で半脱臼したものも含めれば10回を超える脱臼を繰り返した[12]。その頃の取り口は類い稀な運動神経を活かし、力任せの強引な投げ技で相手を振り回すのを得意としていたが、それは左肩へますます負担をかけ、度重なる脱臼に悩まされることとなった。けがの影響で2年間を十両で過ごすことになるが、元NHKアナウンサー向坂松彦はこの頃から「(千代の冨士は)ケガ(脱臼)さえなければ幕内上位にいる人だと思う。ウルフと言われる鋭い目はいつの日か土俵の天下を取るものと見ている」と将来性を見抜いていた[13]


1977年10月29日に九重が死去したため、部屋は北の富士が継承した。この頃から師匠(北の富士)の指導で脇を締めて左の下手を取って引き付ける相撲を身に付ける[14]。その成果もあって脱臼も幾分か治まり、1978年1月場所には再入幕を果たした。同年5月場所13日目の対貴ノ花戦は、取組前の「両者とも足腰が良いからもつれるだろう」という実況・解説者の予想を覆して、頭を付けて懐に入ってから強烈な引き付けで貴ノ花の上体を起こし、貴ノ花が左からおっつけるところを一気に寄り切るという会心の相撲で勝利し、大関戦初勝利と勝ち越しを同時に手にする大きな白星となった。この場所、9勝6敗の成績を挙げて初の敢闘賞を受賞。同年7月場所では新小結に昇進し、貴ノ花・旭國の2大関を破る活躍も見せたが、5勝10敗と負け越す。西前頭8枚目で迎え、幕内への定着も見えてきた1979年3月場所の播竜山戦では右肩を脱臼する。全治1年、手術すれば2年という重大なけがで途中休場し入院。脱臼との戦いをまたも強いられることとなった。このときの診察で肩関節の臼が左右とも普通人の3分の2しかないことが発見された[15]。三重県四日市中央病院の院長には「手術すれば半年は稽古ができない」と言われる一方、「もし2カ月で治したいなら筋力トレーニングを行い肩の周辺を筋肉で固めなさい」とアドバイスされた[16][3][17]ことが、肩を鋼の筋肉で固めるというけが防止策を見出すこととなった。毎日500回の腕立て伏せウェイトトレーニングに励み、当時東京都江戸川区に構えていた自宅の8畳の自室を4か月に一度、畳替えをしなければならないほどすさまじいトレーニングだったという[補足 6][18]

三役昇進

1979年5月場所は休場明けで十両に下がり、取組中のケガだったことから公傷制度を利用して肩の治療に専念するはずだった。しかし、手続きの不手際(書類を受け取った担当の親方が書類を鞄に入れたまま提出するのを忘れてしまった[19])で公傷と認められない[17]ことが場所の直前になって発覚したため、このまま休場し続ければ幕下陥落の危機もあったことから3日目より強行出場、9勝を挙げて同年7月場所に幕内へ復帰した。以後は着実に力をつけ、幕内上位に定着することとなる。


肩の脱臼を受けて、それまでの強引な投げから前廻しを取ってからの一気の寄りという形を完成させ[補足 7]1980年3月場所から幕内上位に定着する。横綱・大関陣を次々と倒して人気者となり、特に大関昇進後の増位山に対しては6戦6勝負けなしと「増位山キラー」とされた。同年9月場所には小結で幕内初の二ケタ勝利となる10勝5敗の成績を挙げた(この場所以降引退まで、皆勤場所では全て二ケタ勝利)。同年11月場所に新関脇に昇進すると初日から8連勝した。連勝は九日目輪島に敗れて[補足 8]止まったが11勝4敗の成績を挙げ、大関を目前として1981年1月場所を迎えた。


1981年1月場所は前場所をはるかに上回る快進撃を見せる。輪島を相手得意の左四つからの上手投げ、若乃花を外四つで寄り倒し、いずれも不利な体勢から2横綱を破るなど初日から14連勝を記録。そして迎えた千秋楽(1月25日)、1敗で追いかけた北の湖との直接対決を迎えた。本割では吊り出しで敗れて全勝優勝こそ逃し、北の湖に14勝1敗で並ばれたが、吊り出された時に北の湖の足の状態が不完全であることに気付いて立てた作戦が優勝決定戦で見事に決まり、北の湖を右からの上手出し投げで下し、幕内初優勝を果たした。場所後に千代の富士の大関昇進が決定。千秋楽の大相撲中継視聴率は52.2%[18]、千代の富士の優勝が決まった瞬間の最高視聴率は65.3%に達し、現在でも大相撲中継の最高記録となっている(ビデオリサーチ調べ)[20]。九重は千代の富士の優勝で一番思い出に残る取組にこの優勝決定戦を挙げており、塩沢実信のインタビューでは「やっぱり、初優勝の時ですね。北の湖との本割で敗れて、そして優勝決定戦。あの二番は忘れられません。大関に昇進、横綱に昇進という時は、感激が大きすぎてピンと来ないもんなんです。初優勝した時は、千代の富士の姿を見て涙が出ましたから」と語っていた[4]

ウルフフィーバー

新大関で迎えた3月場所は11勝4敗、5月場所は13勝2敗と連続して千秋楽まで優勝争いに残り、横綱昇進が懸かった7月場所には千秋楽で北の湖を破って14勝1敗の成績で2度目の優勝を果たして横綱を掴んだ。この千秋楽の取組では千代の富士が立合い、得意の左前ミツを取って頭をつけた。北の湖が左をのぞかせ、右からおっつけたが、千代の富士は土俵際、回り込んで右の前ミツも取ると、右上手出し投げで北の湖の体を泳がし、そのまま寄り切った[21]。非常に劇的な瞬間に、千秋楽審判委員として土俵下に控えていた当時の九重親方(北の富士)は勝負が決まった瞬間手で涙を拭った。この日のNHK大相撲中継の視聴率は2017年3月場所終了までの記録で夏場所としては第3位となる36.5%[22]と盛り上がった。横綱昇進の際「2代目・千代の山」の襲名を打診されたが「今の横綱2人分(千代の山+北の富士=『千代の富士』)の四股名の方が強そうだから」と述べ固辞。千代の富士の大関・横綱昇進伝達式の際には、北の富士と、北の富士の配慮で先代九重親方の未亡人が同席していた。横綱昇進伝達式では「横綱の名を汚さぬよう一生懸命頑張ります」と口上を述べた[23]横綱土俵入りは九重と同じ雲龍型を選択した[補足 9]


新横綱となった同年9月場所の2日目、ライバルと言われた隆の里との取組で場所前から痛めていた足を負傷し、新横綱が途中休場という憂き目を見る(新横綱の休場は昭和以降では武蔵山吉葉山に次いで3人目)。新横綱の期待が一転し、一部に「不祥事」「短命か」などの批判もあった[24]。しかし、同年11月場所では12勝3敗の成績で朝汐との優勝決定戦を制して横綱としての初優勝を飾ることで復活を見せた。なお、この場所も14日目に隆の里に敗れ、隆の里はその後も千代の富士の天敵と言えるような存在で千代の富士を長く苦しめた。対隆の里戦の通算成績は12勝16敗で、下位力士(関脇~大関時代の隆の里)相手に8連敗という不名誉な記録も作っている。


1981年は、同一年中に関脇・大関・横綱の3つの地位で優勝するという史上初の記録を達成した[4]。関脇から横綱へ一気に駆け上がるとともに新横綱での挫折、翌場所の復活優勝と、1981年は千代の富士にとって激動の1年であった。一気に大関・横綱への昇進を決めた1年間は「ウルフフィーバー」の年として記憶されている。細身で筋肉質な体型と精悍な顔立ち、そして豪快でスピーディな取り口から若い女性や子供まで知名度が高まり、一種のアイドル的な人気を得た。千代の富士の取組にかかる懸賞の数は他の力士に比べて圧倒的に多く、懸賞旗が土俵を数周してもまだ余る状態だった(大抵の場合3周以上していた)。スピード昇進だったことから、千代の富士が関脇や大関として登場した広告などの記録は、大関時代に『テレビマガジン』における永谷園「味ぶし」の宣伝に登場した例があるものの少ない。

怪我や不幸との戦いと「千代の富士時代」の到来

1982年は3~7月の3場所連続優勝を達成し、初の年間最多勝を記録した。しかし横綱昇進後の最初の3年間は強い時は強いが頼りない部分も見受けられ、1982年7月場所後の『読売大相撲』では「ウルフV3はしたけれど……ひどい、低調しらけ場所」という総評が出されるなど周囲の崩れに助けられたという意見もあった。特に1984年は年明けから振るわず、3月場所は右股関節捻挫で中日から途中休場。同年5月場所は2年ぶりの優勝を目指す北の湖敏満から一方的な寄りを受けて敗れるなど11勝4敗に終わった。同年7月場所は左肩の脱臼で全休。同年9月場所は入幕2場所目の小錦の突き押しにあっけなく敗れ、同年11月場所は1年ぶりに優勝したが、翌年は30歳を迎えるという年齢的な面から「千代の富士限界説」が流れた[25][補足 10]


しかし、千代の富士にとっての本格的な黄金時代は30代に入ってからだった。両国国技館のこけら落としとなった1985年1月場所は全勝優勝を果たして幸先良いスタートを切る。5月場所から廻しの色を青から「黒」に変え、この年には史上3人目となる年間80勝を達成、3年ぶり2度目の年間最多勝にも輝き、「限界説」を一蹴して「千代の富士無敵時代」がやってきた[25]1986年1月場所に天敵・隆の里が引退し、同年3月場所から7月場所までの番付は千代の富士のみの一人横綱となり(7月場所後に北尾が横綱昇進し一人横綱は3場所で解消)、1986年5月場所から1987年1月場所までは5場所連続優勝を達成した(1986年も2年連続3度目の年間最多勝となるが、これが自身最後の同受賞)。


1987年前半は5月場所が10勝5敗に終わるなど崩れ、千代の富士時代は終わりに近づいたとの声も出て「次の時代を担う力士は誰か」というアンケートも実施された[要出典]。しかし1988年5月場所7日目から11月場所14日目まで53連勝を記録して[18][26]そんな声を打ち消し、他を寄せ付けない強さで昭和末期から平成初期にかけての「千代の富士時代」を築き上げた。昭和最後の取組となった11月場所千秋楽で大乃国に破れ連勝を止められたが、53連勝は昭和以降の記録としては2020年7月場所現在、双葉山(69連勝)、白鵬(63連勝)に次いで歴代3位の記録となった。


1989年
1月場所も優勝候補筆頭だったが、8日目に寺尾に敗れて以降は優勝争いから後退、11勝4敗に終わる。4年4ヶ月ぶりに西正横綱として登場した同年3月場所は初日から他を寄せ付けない強さで、14日目に大乃国を破って優勝を決めたが、この一番で左肩を再び脱臼したことで千秋楽が不戦敗となり、表彰式では左手首にテープを巻いて腹に固定して登場、右手のみで賜杯を手にした[補足 11]


さらに、1989年6月には、2月に生まれたばかりの三女・愛がSIDS(乳幼児突然死症候群)で生後わずか4か月足らずで死去した[18][27]。自身や家族が受けた精神的ショックは計り知れず、師匠・九重でさえも「もう相撲は取れないのではないか」と思われるほどだったという。しかし直後の7月場所は首に数珠を掛けて場所入りし、12勝3敗の成績ながらも千秋楽の優勝決定戦にて同部屋の弟弟子・横綱北勝海を下して優勝を果たした[4][27]。この優勝決定戦では2人は仕切りでほとんど目を合わせなかった。立ち上がって北勝海が右ノド輪で攻めたが、千代の富士は左おっつけから差し手争いに持ち込み左四つがっぷりの体勢になった。千代の富士は北勝海が再三右上手を切りにくるのも構わず、出し投げ気味のタイミングのいい上手投げで、28回目の優勝を決めた。この優勝に際して千代の富士は「優勝できて、愛のためにいい供養ができた」とコメントした[28]。同年9月場所には通算勝ち星の新記録を達成し、同年9月28日に大相撲で初となる「国民栄誉賞」授与が決定した。この日は先代九重(千代の山)の13回忌が行われた日でもあり、千代の富士は「苦労をかけた師匠に良い報告ができます」と言った。翌9月29日に首相官邸において、内閣総理大臣海部俊樹から賞が授与された[補足 12]。協会は一代年寄「千代の富士」を満場一致で承認するが、本人は九重とも相談した上で辞退している[補足 13]

1000勝到達〜現役引退

1990年1月場所に優勝回数を30の大台に乗せた。同年3月場所の7日目には花ノ国戦に勝利して前人未踏だった通算1000勝の大記録を達成した[補足 14]。同年5月場所と7月場所は旭富士に優勝を奪われ、旭富士の横綱昇進の引き立て役にもなった。夏巡業で左足を痛めて同年9月場所を全休、35歳という年齢から引退を囁かれたが、同年11月場所に復帰して4横綱の中で14日目に31回目の優勝を決め、同時に北の湖と並び史上1位タイとなる幕内通算804勝目を上げて貫禄を見せ付けた。


1991年1月場所初日に幕内通算805勝目を挙げ、当時の大相撲史上単独1位(2020年7月場所終了後現在では史上3位)の記録を達成したが、翌日の逆鉾戦で左腕を痛めて途中休場。翌場所も全休した。復帰場所となった1991年5月場所は初日に新鋭・貴花田(のち貴乃花)と対戦。貴花田との対戦は5月場所に出場した目的でもあった[27]が、まわしが取れず頭をつけられて寄り切りで敗れた[29]。この時点では引退を否定、翌日の板井戦は勝利したものの納得いく相撲とはほど遠かった。「もう1敗したら引退する」と決意して3日目の貴闘力戦に挑んだが、現役時代で唯一なったとったりを受けて完敗。その日の夜に九重部屋にて緊急記者会見し、現役引退を表明した[補足 15]。会見では冒頭に「体力の限界・・・、気力もなくなり、引退することになりました」と述べた。引退理由として「最後に貴花田と当たってね、若い、強い芽が出てきたな、と。そろそろ潮時だな、と」と貴花田戦の衝撃を挙げた。


日本相撲協会は理事会で功績顕著として全会一致で一代年寄を認めたが、将来的に九重部屋を継ぐことが決まっていたため、同じ九重部屋に所属していた16代・陣幕(元前頭1・嶋錦)と千代の富士自身が所有していた年寄・八角の名跡交換を行い、17代・陣幕を襲名し九重部屋の部屋付きの親方となった。

あと1回優勝すれば大鵬の優勝32回に並ぶところでの引退であり、巷では引退を惜しむ声が高かったが、九重は塩澤実信からのインタビューで「そりゃみんなそう言うし、本人もできればもう一度優勝して辞めたかったんだろうけど、しかし僕は『記録は31回も32回も一緒だ。記録にこだわっちゃいかん。辞める時が大事だ』と言ったんです。そういう意味じゃ、僕も納得したし、千代の富士本人も納得したいい辞め方だったと思います」と答えている。


千代の富士の引退相撲・断髪式は1992年1月場所後に行われた。

引退後

1992年4月に師匠の九重(元横綱・北の富士)と名跡交換し九重部屋を継承。しかし、まもなく陣幕(先代九重)との考え方の違いなどもあり[補足 16]1993年弟弟子の八角(元横綱・北勝海)が10月に九重部屋から独立し八角部屋を創設する際、陣幕を含む部屋付の年寄全員が同部屋に移籍することになった[4]。さらに、施設も旧九重のものを継承し九重の方が部屋を出て行く形となった[補足 17][補足 18]。このため、九重は自宅を改装して部屋を新設した[補足 19]。現在の九重部屋は「大横綱・千代の富士が師匠の相撲部屋」という色を前面に打ち出した部屋になっている[補足 20]


引退後、2010年5月場所まで毎場所に渡って中日新聞に「一刀両断」と題した相撲解説コラムを連載していた(系列紙の東京新聞には「ウルフの目」というタイトルで掲載)。注目した取組や力士に関する独自の解説、相撲界への提言、優勝力士の予想など幅広く執筆していた。優勝力士予想については千秋楽当日でも当たらない場合があった。しかし、親方業の傍ら執筆しているために自分の部屋に所属する力士の情報なども詳細に語られ、新聞の相撲担当記者が書いた記事とは違った魅力がある。晩年には力士の稽古不足・下半身の強化不足を主張し続けた。


日本相撲協会では、1994年武蔵川と揃って役員待遇に昇格し、審判部副部長を務めていたが、評議員が少ない高砂一門に所属しており、さらに一門内でも外様出身[補足 21]であるため、理事に立候補することが出来ずにいた。また、1998年に弟弟子の八角が格上の監事に就任したり[補足 22]、また、長く審判部副部長を務めているのにもかかわらず、理事が務める審判部長には二子山押尾川放駒と大関止まりの理事が3代続いて九重を超えて就任していて、「副部長を務めている」と言うより「部長に昇進できずにいる」という印象が強かった。

しかし、2007年半ばより始まる朝青龍のトラブルや時津風部屋力士暴行死事件で角界が大揺れの中、一門代表の理事・高砂が朝青龍の師匠として責任を問われたことにより2008年2月からようやく理事に就任し、広報部長・指導普及部長を務めた。審判部の職から離れたことでNHKの大相撲中継の解説者として登場することが可能となり、2008年3月場所8日目には15年ぶりに正面解説席で幕内取組の解説を務めた。また、直後の5月場所から東京場所限定でファンサービスの一環として、親方衆による握手会を開催して先着100名に直筆サイン色紙をプレゼントした。その後は日替わりで玉ノ井高田川とともに日本相撲協会のキャラクターグッズを先着100名にプレゼントをした。


その直後の理事選挙には、高砂一門から立候補して当選を果たし、新弟子検査担当・ドーピング委員長を兼任する審判部長に就任した。理事長が放駒に代わった後の体制では巡業部長を務めている。2010年9月場所7日目に正面解説席で解説を務め、この日に自身の連勝記録(53連勝)を超えた白鵬を支度部屋で祝福した。


2012年
の理事改選で再選されるが最下位当選。しかし、改選直後の理事会において、貴乃花とともに北の湖の理事長就任に尽力したことから、論功行賞により2月の職掌任命において、事実上のナンバー2である事業部長に就任した。9月に理事が辞任したことを受けて、総合企画部長と監察委員長も兼任。


北の湖が腸閉塞のため2014年1月場所・初日から7日目までを休場する中で理事長代行を務める運びとなり協会あいさつも担当[30]。あいさつとして「大関稀勢の里が休場致し遺憾に存じます」と述べる[31]


2014年の理事改選では最下位である5票しか獲得できず、11人の候補者中唯一の落選となった。現職の事業部長の落選は史上初であったが、理事・九重への悪評は「豪傑すぎる言動」として常時指摘されており[4]、件の理事選で高砂一門が八角を第1候補に擁立していたことからも、驚きをもって迎えられることはなかった[32]。同年4月の職務分担では委員に降格。友綱(元関脇・魁輝)のように前期に理事を務めた年寄が次の職務分担で委員に降格する例が過去にも存在するが、前期の年寄序列と現役時代の実績を考えれば左遷や冷遇と呼べるものがあった[33]。育成面では前述の千代大海の他に千代天山千代鳳千代丸千代大龍千代の国千代翔馬らを育てている[34]。大鵬以降の一代年寄で弟子が大関に昇進した親方は2016年時点では九重ただ一人である[補足 23]。(ただし前述の通り、一代年寄は辞退している。)

詳しいことは、『千代の富士ウィキペディア』をご覧ください。 ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%83%E4%BB%A3%E3%81%AE%E5%AF%8C%E5%A3%AB%E8%B2%A2
(wikiより)

126 千代の富士

⇧ 千代の富士

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⇧ 棹石の右側に ほんのちょっと緑色に見える部分は「千代の富士像」です
お墓の場所も把握しやすいと思います。

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十代目 金原亭 馬生(きんげんてい ばしょう、1928年昭和3年〉1月5日 - 1982年〈昭和57年〉9月13日)は、東京市出身の落語家である。本名∶美濃部 清(みのべ きよし)。

来歴・人物

豊山第二中学校(旧制私立豊山中学校定時制)を中退した後、当時の中学生の憧れの一つであった予科練を志していたが、体調が悪化したことにより断念する。の病気の発見がやや遅れ、駒込の病院で大手術を施された。


退院すると死生観の変化により予科練志願の心は消え、落語家になろうと思い立つ。1942年8月、父・5代目古今亭志ん生に入門し、4代目むかし家今松を名乗る。当時は落語家が足りなかったため、二つ目として落語家人生をスタートさせた。1944年頃、初代古今亭志ん朝と改名。1945年4月、終戦直前になって父・志ん生が満州慰問に出てしまったため、苦労を重ねる。


1947年
1月、父・志ん生が帰国。同年には再び今松を名乗る。1948年真打昇進し、5代目古今亭志ん橋を襲名。1949年10月、10代目金原亭馬生を襲名した。父・志ん生からはあまり噺の稽古をつけてもらえなかったため、他の師匠から稽古を受けたり、独流で噺を練り上げたりすることで独自の芸風を磨き続け、三遊派柳派両派のネタを多く持った。また、人情噺などのじっくり聴かせる噺に本領を発揮し、独自の芸風を確立した[1]


書画
は本職並みで、酒仙でもあった。また、私生活では噺家らしく和服を貫いていた。


1969年芸術選奨新人賞を受賞。1973年には文化庁芸術祭優秀賞を受賞する。1978年から1982年まで落語協会副会長を務めた。


俳句も作り、結城昌治らと第一次「くちなし句会」を1978年に結成[2]青木雨彦高橋呉郎大泉拓村上豊青柳純一小田島雅和らがメンバーだったが[3]、1982年の馬生の死で解散。


1982年9月13日、食道がんのため、54歳で死去。

経歴

5代目古今亭志ん生一家の戦前の履歴は諸説あるが、この年表は『総特集古今亭志ん生』〈KAWADE夢ムック文藝別冊〉204 - 207頁に掲載の年表を底として作成した。なお、年表内に記した住所の旧居はいずれも現存しない。


1928年昭和3年)1月5日 - 東京市豊多摩郡和田堀町方南71(現:杉並区方南)にて出生[注釈 1][注釈 2]

  ・4月 - 本所区業平橋1丁目12(現:墨田区業平1丁目、いわゆる「なめくじ長屋」)へ転居。

1936年(昭和11年)2月26日 - 浅草区永住町(現:台東区元浅草)へ転居。

1937年(昭和12年)8月 - 本郷区駒込神明町338(現:文京区本駒込)へ転居。

1940年(昭和15年)4月 - 豊山第二中学校(旧制私立豊山中学校夜間部)入学。

1943年(昭和18年)8月 - 父・5代目古今亭志ん生に入門。芸名は4代目むかし家今松[4]。取り急ぎ『たぬき』『道灌』『子ほめ』の三席を教わり[5]、入門当日から高座に上がる[6]

1944年(昭和19年)9月 - 古今亭志ん朝(初代)[4]に改名。

  ・5月6日 - 父・志ん生が満州へ慰問に行く。

1945年(昭和20年)4月13日 - 本郷区駒込動坂町327(現:文京区千駄木)へ転居。

  ・5月6日 - 父・5代目古今亭志ん生が満州へ慰問旅行中に、敗戦のため帰国不能になる。

1947年 - 父・5代目古今亭志ん生が約1年7か月ぶりに帰国。

  ・6月 - 再びむかし家今松[4]に改名。

1948年(昭和23年) - 古今亭志ん橋(代数不詳だが5代目と称した)と改名して真打昇進。

1949年(昭和24年)10月 - 10代目金原亭馬生[4]を襲名。

1950年(昭和25年) - NHKラジオ若手演芸会でラジオ初出演[7]。『鮑のし』を口演する。

1951年(昭和26年)11月 - 荒川区日暮里町9丁目1114(現:荒川区西日暮里3丁目)へ転居。

1953年(昭和28年)10月16日 - 妻・治子と結婚。

1955年(昭和30年)3月12日 - 長女・志津子(池波志乃)誕生。この頃実家の前の路地を挟んだ二軒隣(現:荒川区西日暮里3丁目16 - 12[注釈 3])に転居。

1961年(昭和36年)

  ・4月 - 一番弟子金原亭桂太が入門。総領弟子。

  ・5月30日 - 第31回東横落語会で東横落語会初出演。『禁酒番屋』を口演する。

1966年(昭和41年)4月26日 - 第57回東横落語会出演。以降レギュラーメンバーとなる[7]

1969年(昭和44年)3月 - 第19回芸術選奨において新人賞受賞。演目は『鰍沢』。

1973年(昭和48年) - 第248回三越落語会において口演した『明烏』で文化庁芸術祭優秀賞を受賞。

  ・9月21日 父・5代目古今亭志ん生死去。志ん生門下から古今亭志ん駒が移籍。

1976年(昭和51年) - 旧居のはす向かいに転居。

1978年(昭和53年) - 社団法人落語協会の副会長に就任。

  ・5月 - 6代目三遊亭圓生主催の落語三遊協会発足(落語協会分裂)に伴い、古今亭志ん駒が3代目古今亭志ん朝門下へ移籍。

1979年(昭和54年) - 金原亭駒七が入門。最後の弟子となる。

1980年(昭和55年)2月18日 - 本牧亭で独演会「馬生十八番」を開始、以降計10回開催する[7]

1982年(昭和57年)8月30日 - 第260回東横落語会で『船徳』口演。最後の高座となる。

  ・9月13日 - 死去。戒名「心光院清誉良観馬生居士」。墓所は文京区小日向の還国寺。

2006年平成18年)11月25日 - 妻・治子死去。享年75。

2011年(平成23年) - 墓所が台東区谷中の長久院に移される。

2014年(平成26年)9月6日、上野精養軒で三十三回忌法要[8]。9月11日~20日、新宿末廣亭昼の部『十代目金原亭馬生三十三回忌 追善興行 師匠を語る・父を語る』が開催される。当代馬生が中トリの後、中尾彬池波志乃が連日座談会に登場、日替わりで直弟子がトリを務めた。

芸歴
1943年8月∶五代目古今亭志ん生に入門、「四代目むかし家今松」を名乗る。

1944年9月∶古今亭志ん朝に改名。

1947年6月∶「四代目むかし家今松」に再改名。

1948年∶真打昇進、「五代目古今亭志ん橋」を改名。

1949年10月∶十代目金原亭馬生を襲名。

1982年9月∶死去。

代数をめぐる議論

10代目金原亭馬生を襲名した当時、5代目(「黒馬生」)と6代目(「赤馬生」)が併存した「二人馬生」時代からの名跡の混乱(金原亭馬生参照)によるいざこざが尾を引いていた。10代目馬生[注釈 4]は5代目馬生の弟子である9代目馬生から生前稽古を付けてもらった際に、「本来ならば師匠の5代目馬生から名前をもらった自分は『6代目馬生』となるはずだったが、東京で6代目・7代目・8代目が勝手に襲名されたせいで『9代目馬生』になってしまった。馬生の名跡は差し上げるけれども、将来継ぐときは『7代目馬生』として継いでくれ」と依頼されていた。

しかし、9代目馬生から6代目(鶴本勝太郎、父・5代目志ん生の師匠)・7代目(父・5代目志ん生)・8代目(小西万之助、父・5代目志ん生の友人)を「インチキ馬生」呼ばわりされて意地になった父・5代目志ん生の意見で、当初は9代目馬生として襲名した。鴨下晁湖の筆で「九代目金原亭馬生」と記してある襲名披露に使用された後ろ幕が現存している[9][8]


その後、「さまざまないきさつがあっても、存在したものは存在したものとして正しい代数に直すべきである」という6代目三遊亭圓生の意見に従い、代数を10代目に訂正した。

主な演目
明烏

安中草三

幾代餅

今戸の狐

王子の狐

大阪屋花鳥

おせつ徳三郎

お富与三郎

親子酒

笠碁

鰍沢

子別れ

ざる屋

真景累ヶ淵 〜豊志賀の死〜

鈴振り

崇徳院

粗忽長屋

そば清

茶金

付き馬

佃祭

つづら

天狗裁き

富久

二番煎じ

八五郎出世(別名:妾馬)

花筏

花見の仇討

船徳

文七元結

目黒のさんま

宿屋の富

柳田角之進

淀五郎

らくだ

など

詳しいことは、『十代目・金原亭馬生ウィキペディア」をご覧ください。 ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%91%E5%8E%9F%E4%BA%AD%E9%A6%AC%E7%94%9F_(10%E4%BB%A3%E7%9B%AE)
(wikiより)

0133 十代目・金原亭馬生

⇧ 十代目・金原亭馬生

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門前には、大正11年6月に建立された津久井義行公の碑がたつ。


当山第52世・中島佛山師代に、津久井氏墓所の修復をした記念にたてられたもの。


碑の裏面には、義行公墓所の由来と施主の名前が彫られている。

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赤尾 敏(あかお びん、1899年明治32年〉1月15日 - 1990年平成2年〉2月6日)は、日本政治家右翼活動家衆議院議員大日本愛国党初代総裁


当初は社会主義者であったが、1926年(昭和元年)に「天皇制社会主義」を理想として民族主義者転向。1942年(昭和17年)には衆議院議員に当選した。1945年(昭和20年)の敗戦後、政治活動と講演活動を行い、1951年(昭和26年)親米反共を訴える大日本愛国党を創党した。特に銀座数寄屋橋などでの辻説法による過激な街頭演説で有名であった。

生涯
生涯前半

赤尾敏は1899年(明治32年)1月15日、愛知県名古屋市の金物商の息子として生まれた。彼の父親は家業である織物業を継がず、中小企業者になって金物・木炭販売、漁業、牧場などを手広く経営しており、自由主義者知識人であった。


高等小学校
に入学した時に、ある教師から「太閤秀吉はぞうり取りから天下を取った」と言われ、「俺だって勉強すれば総理大臣になれる」との夢を抱いたという。その時から彼は総理大臣を将来の希望とした。

社会主義者からの転向

旧制愛知第三中学(現在の愛知県立津島高等学校)に進学後、結核を患う。一時、彼は療養のため親元を離れ三宅島に移る。そこで小説家・武者小路実篤が唱えていた新しき村運動(原始共産制の実現を目指した社会運動)の実践を志し、実業家であった父から三宅島の牧場の経営を委ねられたという。貧困の中にあった島の孤児らを引き取って共同農場を運営した。農場では階級の別なく平等に作物が分配されるなどユートピア的な制度が用いられ、「新しき村」運動に賛意を示していた小説家・幸田露伴は赤尾の理想に共感して彼と面談している。またこの時に三宅村神着地区の旧名主浅沼家とも知り合い、後に日本社会党委員長となる浅沼稲次郎大日本愛国党参与となる浅沼美智雄(稲次郎とは遠縁になる)らとの交流が始まった。赤尾は仲間らと共に理想社会を建設する事を夢見たが、農場は島の有力者らに騙し取られる。


苦い経験をしつつも東京堺利彦山川均大杉栄高畠素之のもとで社会主義を学び、堺や後の日本共産党書記長徳田球一らの支援を受け、名古屋で東海農民組合連合会や借家人同盟をつくり、左翼運動を行う。軍事教練の最中に天皇制への批判演説を行い身柄を拘束されたほか、地元財界の有力者に活動資金のカンパを要求したことが恐喝未遂とされて逮捕された。その際、それまで同志だと思っていた「愛知通信」の記者から手のひらを返した様に批判されたことで、左翼運動に深く失望した赤尾は獄中で転向を決断する。

衆議院議員当選

赤尾は獄中で仏教儒教キリスト教などの書物を読む。1926年、高畠素之の一派と交流を深め、メーデーに対抗するために「建国祭」を企画。「建国祭」は荒木貞夫平沼騏一郎らの賛同を受け、全国で12万人を集め成功に終わる。赤尾は建国祭の常設機関として建国会を結成、会長に上杉慎吉、建国祭準備委員に高畠素之、書記長に高畠門下の津久井龍雄、顧問に頭山満と平沼騏一郎を迎え、永田秀次郎の援助も受け、理事長に就任する。会の具体的な行動の一つとしては、1933年ごろに紀元節にちなんで新しい節句「梅の節句」を考案、神武天皇を最上段に祭った人形まで作られたが、広まらなかった[2]


大東亜戦争
に関しては、赤尾は「アメリカと戦争するのは共産主義ソ連の策略に乗るだけである」として対米戦争に激しく反対した。このため右翼でありながら、戦時下の政府の国策に敵対する反体制派であった。


1942年翼賛選挙では東京6区から出馬し、大政翼賛会の推薦を受けない「非推薦候補」ながら当選を果たす。鳩山一郎斎藤隆夫中野正剛笹川良一など他の非推薦議員と同様に翼賛政治会(翼政)に加入はしたが、1943年の第81通常議会では戦時刑事特別法改正案に抗議し委員を辞職(3月8日)。また続く第82臨時議会では施政方針演説に臨もうとした東條英機首相に対し妨害行為を行い、議場退場処分(同年6月16日)を受け、翼政を除名される。議会からも譴責の懲罰を下されるなど、右翼ながら筋を通した反体制派議員としての行動が目立った。なお、戦後国会内でのビラ撒きにより元国会議員待遇を剥奪されている(当選無効ではないので、国会議員であった事実が取り消されたわけではない。選挙報道などでは、その後も「元議員」として扱われている)。1945年8月敗戦後、全土を巡って右翼活動と啓発講演活動を通い、敗戦を克服して再び立ち上がることを主張した。以降、連日東京・数寄屋橋で辻説法を行なった。

戦後

右翼政治運動

第二次世界大戦後にGHQによって公職追放され、追放解除後の1951年大日本愛国党を結成し、総裁に就任。1952年の総選挙に出馬するが落選。以後、親米反共の立場からの右翼活動に関わる一方で、各種選挙に立候補し、参議院全国区では最高で122532票(第6回参院選)を獲得した。もっとも、選挙のたびに立候補したのは、選挙期間中も街頭での辻説法を行うことが主な理由だったという。参議院不要論を唱え、参院選のたびに自分へも投票せず棄権するよう訴え続けた。


配下の党員であった山口二矢(事件当時は離党)が起こした浅沼稲次郎暗殺事件では取調べを受け、嶋中事件では殺人教唆で逮捕されている(証拠不十分で釈放)。沢木耕太郎『テロルの決算』によると、山口は浅沼の「アメリカ帝国主義は日両国人民の共同の敵」発言に殺意を抱いたという(このことは本人の「斬奸状」にも触れられている)。また、赤尾が個人的に交流のあった浅沼を「善人だから始末に悪い」と評したこともきっかけとなったのではないかとする。事件後赤尾は浅沼の妻享子三木睦子と電話で連絡を取り合ったというエピソードもある。1961年2月嶋中事件に関連、警視庁愛国党の総裁の赤尾敏が背後にあると考え、同年2月21日、赤尾を殺人教唆、殺人未遂の教唆などで逮捕したが、4月17日、赤尾は証拠不十分で不起訴になった。


また、アメリカンアセンブリーと国際親善日本委員会が主催していた第二回下田会議の初日、長髪をなびかせ数人を引き連れてロビーに押し込もうとしたことがある。日の丸の旗を振りながらホテルに上がってきた赤尾は「共産主義の脅威と戦うために再軍備すべきだ」と主張したが、駆け付けた警察に逮捕された。


銀座数寄屋橋での辻説法は当地の名物であった。街宣車を導入した右翼のはしりとも言われる。

浅沼稲次郎暗殺事件と嶋中事件

1960年1月、警視庁によって赤尾の家から左派性向文化人とジャーナリスト、学者へのいやがらせに使われた「かぎ十字ポスター」が押収された。浅沼委員長刺殺事件当日、その党員十数人は日比谷公会堂の前から3、4番目の席に陣取った。入場券は確保していなかったが、会場前のダフ屋から購入した。山口が浅沼委員長を襲った直後、出血が少ないことに気づいた赤尾は、隣の人間に「坊や(山口)、やりそこなったかな」と話しかけたという。またニュース映画「毎日ニュース」には、「坊やがよくやったもんだ、偉いもんだ」という発言や、当時の日教組委員長殺害を企て上京した少女を歓迎する様子が残っている。


10月29日
、赤尾は威力業務妨害容疑で逮捕された。11月には大日本愛国党が破防法の調査対象団体に指定される。愛国党員だった山口二矢が起こした浅沼稲次郎暗殺事件では、取調べを受けた。赤尾は、個人的に交流のあった浅沼を評して「善人だから始末に悪い」と語っていた。山口の自殺の2日後、赤尾総裁は「直接の関係はなし」とされ釈放された。ただ嶋中事件が起こった後、初めて会場のビラ撒きと浅沼委員長の演説妨害について起訴された。しかしやはり嫌疑不十分で釈放された。


晩年

街宣車には日の丸旭日旗とともに星条旗ユニオンジャックを掲げ、「ソ連・中共を叩くために日本はアメリカ・イギリスと組むべき」として徹底して親米・親英をアピールし続けた。日米安保に肯定的であった。昭和天皇の戦争責任を認めるような発言をしたこともあるが、1989年の参院選政見放送では土井たか子天皇に戦争責任があると発言したことに対し批判をしている。韓国にも反共主義のために好意的であり、「北朝鮮打倒のために日韓は協力すべき」と述べていた。


昭和天皇の大喪の礼
に続く、1989年第15回参議院議員通常選挙東京都選挙区から満90歳で出馬、政見放送では意気軒昂に演説した。国政選挙の高齢立候補者としては、94歳で立候補した1953年第26回衆議院議員総選挙での尾崎行雄2012年第46回衆議院議員総選挙での川島良吉に次ぐ第3位の高齢である。


著書は『日本の外交を何とするか 』『滅共反ソか反英米か』ほか。1990年2月6日午前9時26分、東京都立大塚病院心不全のため死去。満91歳没。

死後
赤尾は、多くの講演活動やスピーチを介して多くの青年たちに影響を与え、赤尾の死後もその影響を受けた多くの青年右翼たちが養成された。

略歴
1899年 - 愛知県名古屋市東区生まれ。

建国会理事長

1942年 - 第21回衆議院議員総選挙で東京6区から出馬し当選。

・終戦後、公職追放を受ける。

1951年 - 大日本愛国党を結成

1990年 - 心不全のため死去

選挙歴

※1942年以外は全て落選

・1942年 第21回衆議院議員総選挙東京府第6区)

・1952年 第24回衆議院補欠選挙東京都第6区

・1952年 第25回衆議院議員総選挙(東京都第6区)

・1953年 第26回衆議院議員総選挙(東京都第6区)

・1955年 第27回衆議院議員総選挙(東京都第6区)

・1956年 第4回参議院議員通常選挙東京都選挙区

・1958年 第28回衆議院議員総選挙(東京都第6区)

・1959年 東京都知事選挙

・1959年 第5回参議院議員通常選挙(東京都選挙区)

・1960年 第29回衆議院議員総選挙(東京都第6区)

・1963年 東京都知事選挙

・1967年 第31回衆議院議員総選挙(東京都第6区)

・1967年 東京都知事選挙

・1968年 第8回参議院議員通常選挙(東京都選挙区)

・1969年 第32回衆議院議員総選挙(東京都第6区)

・1971年 東京都知事選挙

・1971年 第9回参議院議員通常選挙(東京都選挙区)

・1974年 第10回参議院議員通常選挙(東京都選挙区)

・1975年 東京都知事選挙

・1979年 東京都知事選挙

・1980年 第12回参議院議員通常選挙(東京都選挙区)

・1983年 東京都知事選挙

・1983年 第13回参議院議員通常選挙(東京都選挙区)

・1983年 第37回衆議院議員総選挙東京都第1区

・1986年 第14回参議院議員通常選挙(東京都選挙区)

・1987年 東京都知事選挙

・1989年 第15回参議院議員通常選挙(東京都選挙区)

家族・親族
・祖父 赤尾志津摩

・弟 赤尾四郎(アカオアルミ創業者)

・妻 赤尾富美江、1913年-2006年(平成18年)7月14日

・子 赤尾太郞、1940年(昭和15年)-1942年(昭和17年)10月25日

・子 赤尾道彦

・姪 赤尾由美[3]

人物
・困窮の中でも参議院選挙への立候補・落選を繰り返した。第二次世界大戦前の左翼活動の中で感じた憤りから徹底して世の中の矛盾を糾弾し、名古屋弁での狂信的とも見える演説は市井では一定の支持者を得た。

・前述のように、三宅島に転地療養した関係もあって、三宅島出身の浅沼とは一時期深い親交をもっていたが、後年の浅沼事件によって三宅島の人々全体に恨まれることになってしまい、赤尾はそのことを非常に残念がっていたという。

・晩年までライフワークとした辻説法の場所に数寄屋橋を選んだのは、当時有楽町にあった朝日新聞東京本社の近くであり、同社批判も目的のひとつにあったことを筑紫哲也が証言している。赤尾の死去当日、元同社記者であった筑紫は自身の番組で訃報を伝えた際に、「テロリストを生んだ当時(浅沼事件)のことに親近感を感じる理由はないのだが、毎日のように『馬鹿野郎』と言われた身としては、愛嬌のある人柄に懐かしさも感じる」と回想していた[4]。なお同社は1980年に築地へ東京本社を移転したが、赤尾はその後も亡くなる直前まで数寄屋橋での辻説法を続けた。後年、姪の由美が第48回衆議院議員総選挙(2017年)に立候補した時は、かつて叔父の赤尾が説法をしていたこの数寄屋橋交差点角にて街頭演説を行っている。

・亡くなる前年のドキュメンタリー番組[5]で「今一番ほしいものは何ですか?」と質問を受けて、「金が欲しい。金がなけりゃ何にもできないもの。僕はね、若い頃から空想家で金のことを考えないでやってきたんだよね。90歳の今頃になって金の大事なことがわかったって、もう遅いよ(笑)何十年来の知り合いの笹川良一なんて、何千億の金もってやっているだろ。僕は何にもないんだよ。唯物論じゃないが、物は大事だよ。たとえば空気だって人間は30分吸わないと死んじまうだろ。空気があれば、人間、霊魂があるかないか意識を失っていても生きていくことができる。空気だって物だろ。だから物は大事なんだよ。物の現実的代表は金だよね。僕には何にも財産がない。ステッキ一本が財産なんだよ」と発言している。

・1965年1月31日、長崎県佐世保港空母エンタープライズが入港した時に抗議の演説をすべく佐世保市へ出かけたところ、市内でバイクをわき見運転をしていた16歳の少年にはねられるという事故に遭った。しかし赤尾はその少年が仕事でバイクに乗っていた事を知ると「16年の若さで仕事をしているとは感心だ」として訴える事はしなかった。

成田空港予定地の代執行に際して、赤尾は現地に乗り付けて三里塚闘争を行っていた反対派農民らへの批判演説を行った。このとき、三里塚芝山連合空港反対同盟が建てた農民放送塔に黒枠で縁取りされた日章旗があるのを見咎めて赤尾は激怒したが、別の砦に本物の日章旗があるのを見つけると「これはいい!」といったという[6]

・赤尾は最期まで部屋に明治天皇釈迦牟尼尊イエス・キリストの大きな肖像画を飾っていたという。

詳しいことは、『赤尾 敏ウィキペディア』をご覧ください。 ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B5%A4%E5%B0%BE%E6%95%8F
(wikiより)

0129 赤尾敏

⇧ 赤尾 敏

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当山略縁起によれば1,200余年前、行基菩薩が諸国行脚の際、当郷にて草庵を結び、生きている全てのものを救うために地蔵菩薩像を造られた。

そんなある夜、老翁(三浦富士の神様の化身)が行基菩薩の夢に現れ、全ての生命あるものの安楽のために薬師如来の像を刻むよう告げた。

行基菩薩は、目が覚めるとすぐに三浦富士に登り、夢に見た神様を祀った。


その後、草庵に戻り夢のお告げの通りに薬師如来と日光・月光菩薩、12神将の像を彫刻し、お寺を建てた。

薬師如来のお住みになるお浄土は七宝で飾られているので七宝山(しっぽうざん)といい、浄土は東の方角にあり、名前を瑠璃光世界というので東光寺と名付けた。

さらに、三浦富士の神様のお告げによるので三浦富士大権現(みうらふじだいごんげん)と言うようになった。


しかしながら、開山以降風雨を重ね堂宇は荒廃してしまい、時の住持・上野阿闍梨はこの廃絶を悲しんでいたところ、三浦の庄司、平義継の二男、津久井次郎義行公、当郷に居し当山を治国理民の祈祷所と定められ中興した。

その威光は三浦全郷に聞こえたという。


その後、明治維新の神仏分離令や戦後の農地開放などの法難に遭遇し、著しく規模を縮小していたところ、当山54世大門僧正入山後、大規模な墓地の拡幅を行い多くの壇信徒とご縁をいただき現在に至っている。
(東光寺ホームページより)

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ロバート・オカザキ (Robert Okazaki)、ないし、ボブ・オカザキ (Bob Okazaki) として知られた、岡崎 巌(おかざき いわお、1902年2月3日 - 1985年5月28日)は、日本東京に生まれ、第二次世界大戦前に渡米し、その後、ハリウッドでテレビドラマ・シリーズや映画に出演し、最期はロサンゼルスに没した俳優[1]


特に、最晩年に出演した1982年の映画ブレードランナー』の冒頭の場面におけるスシバーの主人役の演技で知られる。


死去後、遺骨は分骨され、ロサンゼルス[2]と東京の青山霊園に墓がある。

フィルモグラフィ
映画
・1941年:They Met in Bombay - クレジットなし

・1942年:A Yank on the Burma Road - クレジットなし

・1942年:Secret Agent of Japan - クレジットなし

・1955年:東京暗黒街・竹の家 House of Bamboo - クレジットなし

・1956年:Navy Wife - クレジットなし

・1956年:八十日間世界一周 Around the World in 80 Days - クレジットなし

・1957年:Jungle Heat

・1959年:Tokyo After Dark

・1959年:潜望鏡を上げろ Up Periscope - クレジットなし

・1959年:クリムゾン・キモノ The Crimson Kimono

・1959年:決戦珊瑚礁 Battle of the Coral Sea - クレジットなし

・1960年:戦場よ永遠に Hell to Eternity

・1961年:嬉し泣き Cry for Happy

・1961年:7 Women from Hell

・1962年:Womanhunt

・1962年:忘れえぬ慕情 A Girl Named Tamiko - クレジットなし

・1963年:魚雷艇109 PT 109 - クレジットなし

・1966年:歩け走るな! Walk, Don't Run - クレジットなし

・1970年:R. P. M. - クレジットなし

・1971年:新・猿の惑星 Escape from the Planet of the Apes - クレジットなし

・1982年:ブレードランナー Blade Runner

おもなテレビドラマ

いずれも単発のエピソードへの出演

・1957年:西部の男パラディン Have Gun – Will Travel

・1960年/1961年/1962年:ハワイアン・アイ Hawaiian Eye - 5エピソードにそれぞれ別の役で出演。

・1963年:ヒッチコック劇場 The Alfred Hitchcock Hour

・1965年:アイ・スパイ I Spy

・1965年:弁護士ペリー・メイスン Perry Mason

・1966年:タイムトンネル The Time Tunnel

・1967年:奥さまは魔女 Bewitched

・1966年/1969年:FBIアメリカ連邦警察 The F.B.I.

・1967年:0011ナポレオン・ソロ The Man from U.N.C.L.E. - 日本などでは劇場版映画『0011ナポレオン・ソロ ミニコプター作戦 The Karate Killers』として公開された。

・1975年:鬼警部アイアンサイド Ironside

・1979年:マッシュ M*A*S*H

脚注
1. Bob Okazaki - IMDb(英語)
2. Iwao Robert Okazaki - Find a Grave(英語)

外部リンク
二つで充分ですよ! ロバート・オカザキのお墓参り - 個人ブログ

Bob Okazaki in "Have Gun: Will Travel" - YouTube - テレビドラマシリーズ『Have Gun: Will Travel』における出演場面
(wikiより)

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⇧ 右が、ロバート・オカザキさん 左がハリソン・フォードさん。

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遠江国横須賀藩三万五千五石で、城中で将軍に諸事を取り次ぎ、礼式を管理した奏者番の職にあった西尾隠岐守の抱屋敷です。


敷地はおよそ一万三千坪あり、津軽家上屋敷がおよそ八千坪といいますから、その一.六倍はあったことになります。


当時、周辺は押上村、小梅村と称され、長閑な田園地帯が広がり、その中に寺社仏閣が点在していました。


内河川が発達していたことから四季折々の変化を舟で楽しむ江戸市民の人気の行楽先でした。


しかし、夜ともなると、明かりもめったに見えない実に寂しい土地となり、大名の下屋敷は博奕場に変わり、盗賊の盗人宿も加わって、脛に疵持つ者が身を隠す格好の場所になります。


鬼平犯科帳では、賭場や盗人宿への経路としてたびたび登場します。
(案内板より)


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甲 吾郎(かぶと ごろう、1870年1月5日明治2年12月4日) - 1923年1月9日[1])は、立川部屋中村部屋、再度立川部屋に所属した元力士。6代立川。本名は五味安吉。山梨県巨摩郡(現・南アルプス市)出身。168cm、90kg。最高位は東前頭4枚目。

経歴
甲 吾郎(かぶと ごろう、1870年1月5日明治2年12月4日) - 1923年1月9日[1])は、立川部屋中村部屋、再度立川部屋に所属した元力士。6代立川。本名は五味安吉。山梨県巨摩郡(現・南アルプス市)出身。168cm、90kg。最高位は東前頭4枚目。

成績
・幕内21場所59勝77敗44休30分預

・通算30場所103勝101敗44休36分預

改名
甲 → 甲斐ノ山 → 甲 → 兜 → 甲 → 立川 [2]

出典
1. 京須利敏・水野尚文『令和三年版 大相撲力士名鑑』(共同通信社) 8頁
2. 大相撲力士名鑑平成13年版、水野尚文、京須利敏、共同通信社、2000年、ISBN 978-4764104709
(wikiより)

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真勝院(しんしょういん)は、東京都葛飾区にある真言宗豊山派寺院

概要

806年大同元年)に開山した。柴又界隈で最も古い寺である[2]

近くの柴又八幡神社別当寺でもあった[1]


境内には、五智如来石仏がある。1660年万治3年)に柴又村の名主らによって建立された[2]

交通アクセス
柴又駅より徒歩4分。

脚注
1. a b c d 新編武蔵風土記稿 柴又村.
2. a b 入本英太郎、橋本直子 著『葛飾区史跡散歩 (東京史跡ガイド22)』学生社、1993年、65-67p

参考文献
入本英太郎、橋本直子 『葛飾区史跡散歩 (東京史跡ガイド22)』 学生社、1993年4月。ISBN 4311419724NCID BN11900938 

・柴又地域文化的景観調査委員会 『葛飾・柴又地域文化的景観調査報告書』 葛飾区教育委員会、2015年3月。 NCID BB1914195X 

・葛飾区郷土と天文の博物館編 『平成28年度企画展図録 葛飾・柴又の宝物―知られざる歴史・文化的魅力―』 葛飾区郷土と天文の博物館、2016年7月。 NCID BB23210615 

・「柴又村 八幡社/真勝院」『新編武蔵風土記稿』巻ノ27葛飾郡ノ8、内務省地理局、1884年6月。NDLJP:763979/42

関連項目
柴又八幡神社

戸室氏 - 一族が檀家を務めている。
(wikiより)

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⇧ 境内にある五智如来
横にある解説文によると、右から阿閦如来宝生如来大日如来阿弥陀如来不空成就如来となっている。

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密教では大日如来の知恵を五つにわけ、これにそれぞれ五仏をあて五仏如来といいます。


真言の行者は、発心修行 ( はっしんしゅぎょう ) の結果、この五智を得ることができるといわれています。


この五智如来石像は、像立碑から万治 3年 ( 1660 ) 柴又村の名主済藤次良衛門と、相模伊勢原村の鳥居九良左衛門等により、逆修供養 ( 生前自分の死後の冥福 ( めいふく ) を祈って仏事を営むこと ) のために建てられたものです。


向かって右から阿閦如来 ( あしゅくにょらい ) ・宝生如来 ( ほうしょうにょらい ) ・大日如来 ( だいにちにょらい ) ・阿弥陀如来 ( あみだにょらい ) ・不空成就如来 ( ふくうじょうじゅにょらい ) の順に並び、中央の宝冠を戴く大日如来を、真言宗では最高の仏として寺院の本尊としています。
(案内板より)


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