2023/09
7963 野口健司墓(京都四条大宮町37番地・光縁寺)
7962 坂宗之墓(西日暮里3-8-3・南泉寺)
7961 坂宗英墓(西日暮里3-8-3・南泉寺)
7960 坂宗長墓(西日暮里3-8-3・南泉寺)
7959 坂宗真墓(西日暮里3-8-3・南泉寺)
7958 坂宗恭墓(西日暮里3-8-3・南泉寺)
7957 坂満◇墓(西日暮里3-8-3・南泉寺)
7956 坂東林墓(西日暮里3-8-3・南泉寺)
7955 坂宗純墓(西日暮里3-8-3・南泉寺)
7954 坂寿仙墓(西日暮里3-8-3・南泉寺)
7953 坂宗説墓(西日暮里3-8-3・南泉寺)
7952 武市富子墓(高知市仁井田3021)
略伝
嘉永2年(1849年)、武市瑞山に嫁ぐ。夫の瑞山は土佐の若手志士たちと交流が深く、富子はたびたび訪れる志士たちの応対に努め、夫を助けた。文久3年(1863年)、瑞山が投獄されると、自分も夫の辛苦を共にするために、その日以来、板の間で寝て決して畳で眠らず、夏は蚊帳をせず、冬は蒲団を使わずに過ごしたという。慶応元年(1865年)、夫が切腹となると家財のことごとくを没収され、困窮を内職でもって生計を立てた。
瑞山との間に実子はなかったが、養子に半太を迎え、共に東京に引っ越すも、明治45年(1912年)、半太とともに土佐に帰郷した。
叔父が島村雅事、従弟が島村衛吉である。
脚注
1. 『幕末維新大人名事典 下巻』(新人物往来社、2010年)p.55
2. 沢辺の従弟が坂本龍馬。
関連作品
映画
・『ボディ・ジャック』(2008年、監督:倉谷宣緒、演者:関谷理香)
・『サムライせんせい』(2017年、監督:渡辺一志、演者:奥菜恵)
テレビドラマ
・『龍馬伝』(2010年1月-11月、NHK、大河ドラマ、演者:奥貫薫)
・『サムライせんせい』(2015年10月-12月、テレビ朝日、金曜ナイトドラマ、演者:谷村美月)
7951 武市半平太墓(高知市仁井田3021)
時代 | 江戸時代末期 |
---|---|
生誕 | 文政12年9月27日(1829年10月24日) |
死没 | 慶応元年閏5月11日(1865年7月3日) |
別名 | 幼名:鹿衛 通称:半平太 諱:小盾 号:瑞山、茗澗 変名:柳川左門、柳川吹山 |
墓所 | 瑞山神社 |
官位 | 贈正四位 |
主君 | 山内容堂、豊範 |
藩 | 土佐藩 |
父母 | 父:武市正恒 母:大井氏 |
兄弟 | 瑞山、田内衛吉 |
妻 | 富子(島村氏) |
子 | 実子:なし、養子:半太(大甥) |
武市 瑞山(たけち ずいざん)は、幕末の志士、土佐藩郷士。土佐勤王党の盟主。通称の武市 半平太(たけち はんぺいた)で呼ばれることも多い。
概略
幼名は鹿衛。諱は小楯(こたて)。号は瑞山または茗澗。変名は柳川左門。後に柳川左門と変名した際は雅号を吹山とした。
土佐藩郷士・武市正恒(白札格[1]、51石)の長男。母は大井氏の娘。妻は土佐藩郷士島村源次郎の長女富子。板垣退助とは親戚、坂本龍馬とは遠縁にあたる[2]。
優れた剣術家であり、黒船来航以降の時勢の動揺を受けて攘夷と挙藩勤王を掲げる土佐勤王党を結成。参政吉田東洋を暗殺して藩論を尊王攘夷に転換させることに成功し、京都と江戸での国事周旋によって一時は藩論を主導、京洛における尊皇攘夷運動の中心的役割を担ったが、八月十八日の政変により政局が公武合体に急転すると、前藩主山内容堂によって投獄される。獄中闘争を経て切腹を命じられ、土佐勤王党は壊滅した。
生涯
剣術家
文政12年9月27日(1829年10月24日)、土佐国吹井村(現在の高知県高知市仁井田)に生まれる。武市家は元々土地の豪農であったが、半平太より5代前の半右衛門が享保11年(1726年)に郷士に取り立てられ、文政5年(1822年)には白札格に昇格。白札郷士とは上士として認められたことを意味する。
天保12年(1841年)、一刀流・千頭伝四郎に入門して剣術を学ぶ[3]。嘉永2年(1849年)、父母を相次いで亡くし、残された老祖母の扶養のために、半平太は同年12月に郷士・島村源次郎の長女・富子を妻としている[4]。翌嘉永3年(1850年)3月に高知城下に転居し、小野派一刀流(中西派)の麻田直養(なおもと)の門で剣術を学び、間もなく初伝を授かり、嘉永5年(1852年)に中伝を受ける。
嘉永6年(1853年)、ペリーが浦賀に来航して世情が騒然とする中、半平太は藩より西国筋形勢視察の任を受けるが、待遇に不満があったのかこれを辞退している[5]。翌嘉永7年(1854年)に新町に道場を開き[6]、同年(安政元年)に麻田より皆伝を伝授される。
安政元年に土佐を襲った地震のために家屋を失ったが、翌・安政2年(1855年)に新築した自宅に妻の叔父にあたる槍術家・島村寿之助との協同経営の道場を開き、声望が高まっていた半平太の道場には120人の門弟が集まった[7]。この道場の門下には中岡慎太郎や岡田以蔵等もおり、後に結成される土佐勤王党の母体となる。同年秋に剣術の技量を見込まれて、藩庁の命により安芸郡や香美郡での出張教授を行う[8]。
安政3年(1856年)8月、藩の臨時御用として江戸での剣術修行が許され、岡田以蔵や五十嵐文吉らを伴って江戸へ出て鏡心明智流の士学館(桃井春蔵の道場)に入門。半平太の人物を見込んだ桃井は皆伝を授け、塾頭とした。塾頭となった半平太は乱れていた道場の風儀を正し、その気風を粛然となさしめた。同時期に坂本龍馬も江戸の桶町千葉道場(北辰一刀流)で剣術修行を行っている。安政4年(1857年)8月、半平太と龍馬の親戚の山本琢磨が商人の時計を拾得売却する事件が起きた。事が藩に露見したため切腹沙汰になったが、半平太と龍馬が相談の上で山本を逃がしている[9][10]。
これから程ない9月に老祖母の病状が悪化したので土佐に帰国した。安政5年(1858年)に一生二人扶持の加増を受け、剣術諸事世話方を命じられる[11]。
安政6年(1859年)2月、一橋慶喜の将軍継嗣擁立を運動していた土佐藩主・山内豊信が大老・井伊直弼によって隠居させられ、同年10月には謹慎を命じられる。土佐藩士達はこの幕府の処置に憤慨したが、翌安政7年(1860年)3月3日に井伊が暗殺され(桜田門外の変)、土佐藩士達は変を赤穂義士になぞらえて喝采し、尊王攘夷の機運が高まった[12][13]。
同月、祖母が死去し、その喪が明けた7月に半平太は岡田以蔵や久松喜代馬、島村外内を伴い武者修行の西国遊歴に出る。龍馬は「今日の時世に武者修行でもあるまい」と笑ったが[14]、その真意は西国諸藩の動静視察であった。一行は長州を経て九州に入って諸藩を巡り、途中、以蔵は家が貧しく国へ帰れば再び出ることは難しかろうと豊後国岡藩の堀道場に託して年末に帰国した[15]。この旅行で半平太は攘夷派志士の思想に大きな影響を与えた国学者・平田篤胤の『霊能真柱』を持ち帰っている[16]。
土佐勤王党結成
文久元年(1861年)4月、半平太は江戸で諸藩の攘夷派と交際を持っていた大石弥太郎の招請に応じて剣術修行の名目で出立、7月に江戸に到着し、長州藩の桂小五郎や久坂玄瑞、高杉晋作、薩摩藩の樺山三円、水戸藩の岩間金平ら尊王攘夷派と交流する。半平太は特に久坂に心服し、久坂の師である吉田松陰の「草莽崛起」の思想に共鳴した[17][18]。
土佐藩の尊王攘夷運動の立ち遅れを痛感した半平太は久坂・樺山と三藩の藩論を攘夷に一決して藩主を入京せしめ、朝廷を押し立てて幕府に攘夷を迫ろうと提案し、この提案は一同の同意を得ることとなった[19][20]。
8月、半平太は築地の土佐藩中屋敷で少数の同志と密かに土佐勤王党を結成し、大石弥太郎の起草により、隠居させられた老公(山内容堂)の志を継ぎ、一藩勤王を旨とする盟曰(盟約)を定めた[21][22]。9月に帰国した半平太は同志を募り、坂本龍馬が土佐における筆頭加盟者となり[23]、間崎哲馬・平井収二郎・中岡慎太郎・吉村虎太郎・岡田以蔵ら最終的に192人が加盟した。加盟者の大半は下士・郷士・地下浪人の下級武士や庄屋で、上士は2人しか加わっていない[24]。
この頃の土佐藩は容堂の信任厚い参政・吉田東洋と配下の新おこぜ組が政を司り、意欲的な藩政改革を進めていた。故に藩論は東洋の唱える開国・公武合体であり、また初代・山内一豊が徳川家康の格別の抜擢によって土佐一国を拝領した歴史的経緯から土佐藩では幕府を尊崇する気風が強かった。10月23日、半平太は藩論を刷新すべく大監察・福岡藤次および大崎健蔵に進言するが書生論であると退けられ、半平太はなおも東洋宅を訪問して時勢を論じ勤王と攘夷を説くが、東洋は「そこもとは浪士の輩に翻弄されているのであろう。婦女子の如き京師の公卿を相手にして何事ができようか。山内家と幕府との関係は島津、毛利とは違う、両藩と事を同じにしようとは不注意の極みである」と一蹴した[25]。
半平太は藩論を転換すべく各方面に運動するとともに、長州の久坂玄瑞に大石弥太郎・坂本龍馬らを使者に送り、薩長土勤王密約実現のための連絡を緊密にした。長州でも長井雅楽の開国論(「航海遠略策」)が藩論となっており、久坂は自藩の萎微を痛嘆する返書を寄こす情勢だった[26]。だが、翌文久2年(1862年)2月、久坂の元へ送った吉村虎太郎から薩摩藩国父・島津久光が精兵2,000をもって率兵上京するとの報がもたらされた。久坂ら攘夷派はこれを攘夷のための挙兵であると解釈しており、吉村は半平太に脱藩して薩摩の勤王義挙に参加すべしと説くが、半平太は飽くまでも一藩勤王の実現を目指すべきだと自重を促した。吉村はこれに納得せず、宮地宜蔵とともに脱藩して長州へ向かい、次いで沢村惣之丞と坂本龍馬も脱藩してしまった。龍馬の脱藩について半平太は後に「龍馬は土佐の国にはあだたぬ(収まりきらぬ)奴。広い処へ追い放してやった」と語っている[27]。
吉田東洋暗殺
半平太は吉田東洋の専横を憎む守旧派で連枝の山内大学・山内兵之助・山内民部、家老の柴田備後・五藤内蔵助らと気脈を通じるようになる[28]。半平太は穏当な手段での東洋排斥を彼ら連枝家老に説くが、山内民部の「一人東洋さえ無ければ、他の輩は一事に打ち潰すこともできよう」との言葉を暗殺の示唆と受け取り、半平太はついに東洋暗殺を決断した[29]。これには来る4月12日に藩主・山内豊範が参勤交代のため出立することが決まり、東洋ら佐幕派に囲まれた藩主・豊範が江戸へ行ってしまえば、久坂らとの三藩藩主勤王上洛の密約は水泡に帰すとの情勢の切迫もあった。
4月8日夜、豊範に「本能寺凶変」の進講をして帰宅途上にあった吉田東洋を、半平太の指令を受けた土佐勤王党の那須信吾・大石団蔵・安岡嘉助が襲撃して殺害し、その首を郊外の雁切橋に獄門にかけ斬姦状を掲げた上で、刺客達は逃亡脱藩した。東洋派の藩庁は激怒し、容疑者の半平太以下、土佐勤王党の一網打尽を図るが、土佐勤王党はこれに反発して討ち死にも辞さぬ構えを示し、一触即発の事態になった。この事態を打開すべく半平太は山内民部に書簡を送り、これを受けた山内民部が土佐勤王党に自重を促すとともに、土佐勤王党を庇護していた山内大学・山内下総(酒井勝作)と謀って政権を掌握し、半平太率いる土佐勤王党は彼らを通して実質的に藩政の主導権を握った。12日に東洋派は藩庁から一掃され、暗殺された東洋の吉田家は知行召し上げとなっている[30]。
これより前の文久2年(1862年)3月に薩摩藩国父・島津久光が入洛したが、攘夷派の期待と異なり久光の真意は公武合体にあり、4月23日には寺田屋騒動が起きて有馬新七ら薩摩藩攘夷派は粛清され、彼らと行動を伴にしていた吉村虎太郎ら土佐脱藩浪士も送還させられた。過激攘夷派を弾圧して暴発を防いだ久光は朝廷を押し立てて将軍上洛、五大老の設置そして一橋慶喜の将軍後見職、松平春嶽の大老就任による幕政改革を要求する。4月27日には長州藩世子・毛利定広が入洛して国事周旋の勅命を受けた[31]。この後、長州藩では攘夷派が優勢になり、7月に開国派の長井雅楽が罷免されて破約攘夷が藩論となる。
半平太は長州と同様の勅命を土佐にも下させるべく同志を京に派遣して朝廷に働きかけ、これを受けた朝廷は薩長両藩に続き土佐藩を入洛させるべく山内家と姻戚関係にある三条実美を介して入洛催促の書簡を送った。しかし、守旧派が多数を占める藩庁は婉曲にこれを拒否する返書を送った[32]。吉田東洋暗殺のために延期になっていた山内豊範の参勤交代出立は6月28日となり、人数は通常600人程を2,000人に増員した大部隊になったと伝えられ[33]、半平太をはじめ島村衛吉・平井収二郎ら土佐勤王党の同志数十人も供奉した。参勤交代の一行は播磨国姫路で麻疹の集団感染が発生して、豊範も罹患したため大坂での約一ヵ月の逗留を余儀なくされた。この大坂逗留中の8月2日に吉田東洋暗殺の下手人探索をしていた元下横目の井上佐市郎が岡田以蔵ら土佐勤王党に殺害されている。
国事周旋と天誅
参勤交代の行列を京都に留めようとする半平太の狙いとは逆に、守旧派は京都に立ち寄らずに江戸への東下を策謀していた。このため土佐勤王党に同情的な大監察・小南五郎右衛門が江戸へ下って老公・容堂に藩主の入洛を説き、遂に容堂は朝命を拝受せよと決断した。8月25日、豊範は京都河原町の土佐藩邸に入り、在京警備と国事周旋の勅命を受けた[34]。
閏8月に半平太と小南五郎右衛門・平井収二郎・小原与一郎・谷守部ら尊攘派が他藩応接役に任じられた[35]。
半平太は周旋活動のために藩邸を離れて三条木屋町に寓居を構え[36]、藩主・豊範の名で朝廷に向けた建白書を起草した。この建白書の内容は、山城、摂津、大和、近江4力国を天皇の直轄地とし、直轄地に配置した親王以下の国司は諸国浪士を家来として召し抱えること、江戸への参勤交代を5年ないし3年に1度へと軽減させることなどを建言すると共に、政令は全て天皇から諸大名へ直接発すべきであるとし、王政復古を主張するなど、時代に先んじたものであった。同時に、長州の久坂玄瑞ら他藩の志士、三条実美や姉小路公知を始めとした朝廷内の尊攘派公卿とも緊密に連携し、朝廷を代表して幕府に攘夷督促する勅使を江戸へ東下させる画策の下、朝廷工作に奔走する。これらの動きが功を奏し朝廷が攘夷の朝議を決定した際、一橋慶喜がこれを覆そうと入京を画策したが、半平太は裏工作によりこれを一時妨害することに成功している。
この時期、京都では過激な尊王攘夷派による天誅、斬奸と称する暗殺が横行し、半平太も少なからず関与していた[37][38]。
半平太の下で動いた人物では、後に「人斬り」の異名を持つことになる門弟・岡田以蔵と薩摩藩士・田中新兵衛が有名である。半平太が関与したとされる天誅には、越後の志士・本間精一郎の暗殺(閏8月21日)、安政の大獄で志士を弾圧した目明し・文吉の虐殺(9月1日)、石部宿における幕府同心・与力4名の襲撃暗殺(9月23日)がある。しかし、同月に関白・近衛忠煕が半平太に対し洛中での天誅・斬奸を控えるように命じてから後は、半平太の直接指揮による京での暗殺事件は確認されていない。また、侍従・中山忠光から前関白・九条尚忠と岩倉具視ら幕府に通じる三卿両嬪の暗殺のための刺客の貸与を申し入れられたが、これは断り、軽挙を止めさせている[39]。
10月、幕府に対する攘夷督促と御親兵設置を要求する勅使として正使・三条実美、副使・姉小路公知が派遣されることになり、山内豊範には勅使警衛が命ぜられた。警固役には土佐勤王党の者が選ばれ、半平太は姉小路の雑掌となり、柳川左門の仮の名が下賜されて江戸へ随行。勅使の雑掌として江戸城に入城した際は将軍・徳川家茂にも拝謁し、幕府から饗応を受けている。幕府は勅命への対応に苦慮したが、容堂の働きかけもあって曖昧ながら攘夷の勅命は受け入れ、御親兵設置については謝絶している。
また、この時期に長州藩の高杉晋作と久坂玄瑞が横浜の異人館襲撃を計画し、久坂は半平太にも参加を呼びかけるが、久坂の口から土佐勤王党の弘瀬健太がこれに加わっている事を知った半平太は山内容堂に訴えて収拾を乞い、容堂の警告を受けた長州藩世子・毛利定広が高杉らを説諭して襲撃は中止となった。この事件の余波で、長州藩の周布政之助が容堂に放言をして、長州藩士と土佐藩士が衝突しかける騒ぎが起こっている。江戸滞在中に半平太は7回、容堂に拝謁しており、その感激の思いを妻・富子に書き送っている[40]。
12月に役目を終えて京都に戻った半平太は、入京以来の功績に報いる形で上士格留守居組への昇進を命じられる。さらに翌文久3年(1863年)3月には京都留守居加役となった。白札郷士から上士格への昇進は、それまで土佐藩において前例の無いことであったが、同志たちはこれを半平太を勤王運動から引き離すための容堂の策謀と考えた[41]。
勤王党弾圧
勅使護衛の任に当たっていた半平太の留守中に京都で他藩応接役を務めていた平井収二郎は間崎哲馬、弘瀬健太とともに青蓮院宮から令旨を賜り、これを楯に国元にいる先々代藩主・山内豊資(藩主・豊範の実父)に働きかけて藩政改革を断行しようと動いていた。この頃、容堂は土佐勤王党の台頭に露骨に不快感を示し始めており、半平太を除く勤王党志士に対し、他藩士との政事交際を禁じる通達を出した[42]。文久3年(1863年)1月25日に入京した容堂は、青蓮院宮から平井・間崎らの動きを知らされ「僭越の沙汰である」と激怒して両名を罵倒して罷免した上で土佐へ送還させた。
容堂は3月に土佐へ帰国すると直ちに吉田東洋暗殺の下手人捜索を命じ、土佐勤王党に同情的な大監察・小南五郎右衛門、国老・深尾鼎を解任し、大監察・平井善之丞は辞職を余儀なくされた。この頃の半平太はかねてより不和が生じていた薩摩と長州の融和に腐心していたが、土佐勤王党をとりまく情勢が険悪化する中、4月に半平太は薩長和解調停案の決裁を容堂に仰ぐために帰国する事となった。久坂玄瑞は危険であるとこれを止め、帰国せずに脱藩して長州へ亡命するよう勧めるが、半平太は亡命を拒否し、同志たちに諌死の決心を以て一藩勤王の素志を貫徹すべきであると告げて帰国した[43]。
平井収二郎・間崎哲馬・弘瀬健太は入牢させられ、厳しく尋問された。帰国した半平太は三名の助命を容堂に嘆願するが、6月7日に死罪が決定し、翌8日に三人は切腹した。半平太は尚も望みを捨てずに容堂に謁見して藩政改革の意見書を提出するとともに国事を論じた。容堂は半平太を罰しないが意見を容れることもなかった。
8月18日に会津藩と薩摩藩による政変で長州藩が中央政界で失脚すると同時に、事態は一転し、勤王派は急速に衰退し、代わって公武合体派が主導権を握る。同時期に大和国で吉村虎太郎・那須信吾ら土佐脱藩浪士らを中心とする天誅組が挙兵するが、翌月には壊滅して吉村らは討ち死にしている(天誅組の変)。
尊攘派の情勢が急激に悪化する中、9月21日に「京師の沙汰により」の名目で半平太ら土佐勤王党幹部に対する逮捕命令が出され、半平太は城下帯屋町の南会所(藩の政庁)に投獄された。獄吏が半平太の人物に傾倒したために彼らに便宜を図ってもらえたとされ、獄吏らを通じて家族や在獄中の同志と秘密文書をのやり取りも可能となった。これにより、長期にわたる獄中闘争の中で同志の団結を維持し続けると共に、軽挙妄動を戒めた。取調べの際、上士である半平太は結審に至るまで拷問される事はなかったものの、軽格の同志たちは厳しく拷問された。半平太らはまだ捕らえられていない獄外同志やその他の協力者への連累を食い止めるべく吉田東洋暗殺事件を初めとした被疑事実を否認し続け、長い獄中闘争を耐えた。だが、京都に残留していた岡田以蔵が元治元年(1864年)4月に捕縛されて土佐に送還され、監察府の拷問に耐えかねて、京や大坂での天誅事件への関与やその実行者の名を次々と自白したことで事態は悪化し、新たな逮捕者が相次ぐこととなる。
捕縛後
7月に安芸郡で郷士・清岡道之助ら23名が半平太たちの釈放を要求して挙兵し、藩庁から派遣された足軽800人によって鎮圧される野根山屯集事件が起き、9月に清岡らは斬首に処された。この頃より監察府の陣容が一新され、小笠原唯八・乾退助そして吉田東洋門下の後藤象二郎らが土佐勤王党の取り調べに当たるようになると尋問は更に厳しさを増し、同志達は厳しく拷問された。
この時、平井善之丞の甥である乾退助は、役務上、取調べを行わざるを得なかったが、退助も勤王派であったためきつく尋問する事には消極的であった。退助が武市を尋問したのは一度きりで「土佐勤王党の首領である武市から犯人の名を明らかにさせ、他はあまり深く究明しないつもりである」と述べている[44]。当時の状況から、武市の関与があったかは曖昧で、証拠不充分で武市自身は釈放されると退助を含め多くの人から考えられていた。退助は半平太に同情的であったため藩庁の意見と合わず、ついに国許土佐での役職を干されて江戸での騎兵術修行を申し付けられ、遠避けられてしまう。監察府の陣容一新の噂を耳にし、これまで以上の厳しい追及を覚悟した半平太は盂蘭盆の休日を利用して三枚の獄中自画像を揮毫し、それぞれ妻と姉に送った。
以蔵の自白により窮地に
以蔵の自白によって新たな逮捕者が相次ぎ、半平太らに対する取調べも厳しさを増していった。半平太の実弟・田内衛吉は監察府による厳しい拷問に耐えかねてついに自供を始めてしまい、更なる自白を恐れて服毒自殺。島村衛吉も拷問死した。また、上士である自身に対しても拷問が行われることを覚悟した半平太は、これが現実になれば、獄中生活による衰弱も相まって拷問に耐えきれず自白してしまう可能性を憂慮し、自殺用の毒を自身にも調達するよう外部に依頼している。獄内外の同志は、なおも自白を続ける以蔵の存在が事態をさらに悪化させる事を恐れ、彼らの間で以蔵を毒殺する(あるいは、半平太の実弟と同様の服毒自殺を促す)計画が浮上した。
この以蔵毒殺計画に関しては、後年の小説やドラマ等の創作の影響から、保身に走った半平太が以蔵の自白を恐れ、獄外の同志に指令を発して以蔵毒殺計画を実行したため、以蔵がこれに憤怒し、半平太に対する憤りから自白を重ねたとする風説が流布されている。しかし、「武市瑞山獄中書簡」の編註者である横田達雄の研究によれば、前述の通り、以蔵は早々と拷問に屈して自白を重ねた事、半平太は同志間で持ち上がった強引な以蔵毒殺計画には反対し、以蔵の実家からの承諾を優先させた事、以蔵の実家から承諾を得られないまま獄が結審を迎えたため、最終的に毒殺計画は実行に移されていない事が判明している。さらに以蔵本人は、自身の自白によって同志らが一層厳しい境遇に追いやられた事を後悔し、以後の取調べにおいては、自身の自白内容について曖昧にボカすなどしていた事も判明している[注釈 2]。
以蔵ら4名の自白はあったものの、半平太らが一連の容疑を否認し続けたため、監察府は半平太や他の勤王党志士の罪状を明確に立証するまでには至らなかった。そして慶応元年閏5月11日(1865年7月3日)、業を煮やした容堂の御見付(証拠によらない一方的罪状認定)により「主君に対する不敬行為」という罪目で、半平太は切腹を命じられる。岡田以蔵、久松喜代馬、村田忠三郎、岡本次郎の自白組4名は斬首、その他は9名が永牢、2名が未決、1名が御預けと決まった。半平太ら勤王党志士が一連の容疑を頑なに否認したことで、死刑は盟主である半平太の切腹と以蔵ら自白組4名の斬首のみとなり、獄外同志やその他協力者への連累は食い止められた。
即日刑が執行され、以蔵ら4名は獄舎で斬首。切腹を命じられた半平太は体を清めて正装し、同日20時頃、南会所大広庭にて、未だ誰も為しえなかったとさえ言われてきた三文字割腹の法を用いて、法式通り腹を三度かっさばいた後、前のめりになったところを両脇から二名の介錯人に心臓を突かせて絶命した。享年37(満35歳没)。
辞世の句は、
ふたゝびと 返らぬ歳を はかなくも 今は惜しまぬ 身となりにけり[45]
であった。
没後
武市の死によって土佐勤王党は事実上壊滅した。中岡慎太郎ら一部の同志は見限って脱藩し、浪士となって討幕活動を進めた。後に中岡の仲介によって乾退助と西郷隆盛が薩土討幕の密約を結び、退助は土佐勤王党の志士らを釈放し、土佐藩は薩長とともに討幕勢力の一翼を担うことになる。また、土佐勤王党を弾圧した後藤象二郎が参政となり坂本龍馬と邂逅して大政奉還を主導したが、勤王の志士を再結集して戊辰戦争を戦い土佐藩兵を率いたのは武市と縁ある退助であった[2]。
維新後、木戸孝允が山内容堂との酒席で酔った勢いで「殿はなぜ武市半平太を斬りました?」と詰めたが、彼は「藩令に従ったまでだ」と答えたきりだったと言われる。しかし、病に臥せた晩年の容堂は、武市を殺してしまったことを何度も悔いていたとされ、「半平太ゆるせ、ゆるせ」とうわ言を言っていたとも伝えられる[46]。
名誉回復と顕彰
武市に関しては、土佐藩内で罪人として処罰された経緯があったが、維新後、有志の盡力により、明治10年(1877年)に名誉回復される。
明治17年(1884年)に元土佐藩士の土方久元・田中光顕・佐々木高行らが中心となって瑞山会が結成されて土佐勤王党殉難者の記念碑建立と武市半平太の伝記編纂が決められた。翌年、高知縣護國神社に「南海忠烈碑」が建立される。
さらに、明治24年(1891年)4月8日に坂本龍馬、中岡慎太郎、吉村虎太郎とともに正四位が追贈された。5月8日、東京・九段坂上(靖國神社)において、武市の追贈(贈正四位)奉告式が挙行された。この式典に際し、富子夫人は、実弟の島村笑児を伴って上京し参列。清華家からの代表者として右大臣岩倉具視、旧土佐藩主山内豊範、 旧土佐藩大監察後藤象二郎、板垣退助、佐々木高行、土方久元、田中光顕らを初め土佐勤王党の同志ら朝野の済々多士が参列。山内、板垣、後藤らが神前に深々と頭を垂れ、懇ろに拝したのを見て、富子は感極まって涙したという。式典の後、九段坂上の富士見軒で開かれた直会の席において、武市の親族[2]でもある板垣は「当時の経緯は種々あったとはいえ、土佐藩が瑞山先生を殺した処断は、日本における損失であり洵に誤りで有ったと断言できる」と両者の間に立って心痛の思いを吐露し、後藤も同意した。この一言は、土佐勤王党の同志らの思いを代弁するもので、当時の藩庁側、勤王側、身内側の立場を知る板垣にしか発せられない言葉であったため、一同は永年の溜飲が一時に下がり心から晴々としたと言う[47]。瑞山への取調べが激化した時、板垣は武市を救おうとしたが、藩庁側と意見が合わず「不念の儀あり」と讒言を受けて職を解かれ、左遷されるかのように遠避けられ、江戸で軍学修行を仰せ付けられていた[48]。
詳しいことは、「武市瑞山ウィキペディア」をご覧ください。 ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E5%B8%82%E7%91%9E%E5%B1%B1
(wikiより)
⇧ 武市瑞山
⇧ 武市半平太と富の墓。
⇧⇩ 顕彰碑
⇧⇩ 武市半平太墓。
7950 作江伊之助墓(東山区五条橋東6-514・大谷本廟)
来歴・人物
家族は父・音次郎と、兄が大工をしながら生計をたてていた。運送業に従事していたが、間もなく徴兵され、久留米独立工兵第十八大隊に配属される。1932年(昭和7年)1月18日、第1次上海事変が勃発。2月2日、独立工兵第十八大隊は上海派遣混成第二十四旅団(下元熊弥少将)の工兵部隊に抽出され、5日、佐世保港を出発。7日上海に上陸、ただちに第九師団植田謙吉中将の隷下となった。以降進撃を続け、20日午後、旅団は国府軍との戦闘の最前線である廟行鎮に到着した。21日午前8時30分、植田中将は下元少将をして翌22日午前5時30分を期し廟行鎮を制圧せよとの命令を下した。だが、十九路軍はそこに幅4.5m、深さ2mの外壕と深さ4mの鉄条網を作り、その後方14.5mには左右から日本軍に十字砲火を浴びせかけるために側壕を設け、そこに六基の重機関銃を据え付けていた。歩兵の銃剣突撃ならば歯がたたない。
そこで下元少将は工兵第二中隊に対し、歩兵碇大隊を援護し鉄条網の破壊を命じた。中隊長の松下環大尉(陸士32期)は、竹と藁の筒に爆弾を詰め込んだ即席の破壊筒を作成し、第一破壊隊、第二破壊隊の二小隊からなる総勢36名の攻撃隊を編成。第二破壊隊小隊長・東島時松少尉(少候10期)はさらに2分隊に分け、第一班は三組、予備の第二班は二組に分けた。そこで破壊筒を5本用意し、麦家宅の家陰内にてシミュレーションを行わせた。午後6時、金馮宅西端にて休憩。
翌午前3時、小隊は歩兵第三中隊と合流し、敵前50メートルの地点に陣地を構築した。第一班班長馬田豊喜軍曹は携行している発煙筒を以て敵の視界を遮り、その間に第一斑を突撃させた。だが、鉄条網まであと14.5mというところで運悪く、南からの風で煙幕が晴れた。敵はすかさず機関銃を浴びせ、馬田班長と破壊隊第二組の小佐々吉郎一等兵を除く全員が戦死した。
第二班班長の内田徳次伍長は二組の破壊隊に突撃を命じた。作江は第一組の最後列となり、江下武二、北川丞とともに敵陣へと突撃した。その途中、先頭の北川が撃たれ負傷。諦めて引き返そうとしたが、それを見た内田伍長に怒鳴りつけられたためそのまま突撃。鉄条網の下に飛び込み破壊筒をその下に差し込んだが、脱出する暇もなく破壊筒は爆発。江下、北川は即死。作江は爆風で左脚を吹き飛ばされ、駆け寄った内田伍長にしばらくうわごとを呟いていたが、間もなく死亡した。続いて第二組も成功、怯んだすきに馬田軍曹が戦死した兵士から抜き取った手榴弾を機関銃座に向かって投擲し、そのまま突撃。こうして3条の突撃路が開かれ、間もなく歩兵もなだれ込み、敵陣は陥落した。
参考文献
・『満州事変忠勇美譚』教育総監部編、1933年8月15日。川流堂。
史跡
・『忠烈作江伊之助君の碑』(昭和10年5月7日建立・陸軍大将植田謹書)
・大谷本廟
関連項目
・爆弾三勇士
(wikiより)
作江伊之助
7949 北川丞墓(東山区五条橋東6-514・大谷本廟)
北川 丞(きたがわ すすむ、1910年(明治43年)3月8日 - 1932年(昭和7年)2月22日)は、大日本帝国陸軍の軍人。最終階級は工兵伍長。長崎県北松浦郡佐々村(現・佐々町)出身。
いわゆる爆弾三勇士の一人。
生涯
佐々村大字市瀬江里免(現・佐々町江里免)の農家、北川権作の次男として生まれる。北川家の先祖は平戸藩に仕えた武士で[1]、権作は日清戦争、日露戦争に従軍するも自身が戦果を上げられなかったことを悔やみ、丞を立派な軍人にしようと考えていたが、丞が8歳の時に肺炎で亡くなってしまった[2]。
1924年に佐々尋常高等小学校を卒業後、補習学校後期に入学するも1年で中退し兄とともに母を助け農業に従事、1926年には実業補習学校に進むが、この時もやむなく退学している[3]。丞は次男だったため、将来を考えて林業の道を進むこととなり、18歳の時に相浦町で住み込みで働いていたが、20歳の時の壮丁検査で甲種合格を果たし[4]、1931年に久留米工兵第18大隊に入営する[5]。
1932年2月6日、一等兵として神通に乗船し第一次上海事変に出征[6]。2月22日、上海の廟行鎮に張られた鉄条網を破壊しようと丞を先頭に江下武二、作江伊之助とともに破壊筒を抱え突進、爆死した[7]。
平和之礎
故郷の佐々町にある三柱神社に「平和之礎」と台座に記された丞の銅像がある[8]。戦前は別の銅像が立っていたが、金属類回収令により供出されてしまい、現存の銅像は東京都港区の青松寺にあった三勇士の銅像の丞の部分のみを切り離して移築したものである[9]。また生家に隣接して「肉弾三勇士北川伍長記念館」がある[10]。
脚注
1. 小笠原、164頁。
2. 「肉弾三勇士の生立 北川丞君」『爆弾三勇士』護国業書、軍事教育刊行会、48-49頁。
3. 小笠原、168-169頁。
4. 小笠原、173頁。
5. 小笠原、175頁。
6. 小笠原、181頁。
7. 小笠原、44-45頁。
8. 肉弾三勇士 佐々町観光サイト、2018年6月27日更新。
9. 肉弾三勇士 青松寺(2007年11月30日時点のアーカイブ)
10. 『平戸・田平・生月れきし発見』 NPO法人長崎人権研究所、2013年3月1日発行、15頁。
参考資料
・小笠原長生著『忠烈爆弾三勇士』実業之日本社、1932年4月12日発行
・護国業書『爆弾三勇士』軍事教育刊行会、1932年4月10日発行
7948 江下武二墓(東山区五条橋東6-514・大谷本廟)
経歴
神埼郡蓮池村に生まれるも、親の事業の失敗から炭鉱を転々とし、少年期から杵島炭鉱で働く。父も兄二人も久留米歩兵連隊に入営した軍人一家で、武二は海軍志望だったが1931年(昭和6年)、父兄と同様に久留米工兵第18連隊に入営[1]。翌年混成旅団工兵中隊に編入され、陸軍一等兵として第一次上海事変に出征。同事変の「廟行鎮の戦い」に於いて北川丞、作江伊之助とともに中国軍陣地の鉄条網を自らの体ごと破壊筒を以て爆破・排除したいわゆる爆弾三勇士の一人。死後一等兵より二階級特進し伍長に進んだ。爆死については決死の突撃、事故、上官の命令など諸説あるが、陸軍が愛国美談に仕立てさらに新聞が大きく報道したため芝居や映画となるなど大きなブームとなった。
死後、県民の寄付により蓮池公園に銅像が建てられたが、第二次世界大戦の戦局悪化に伴う金属提供により供出された。ただし原型の石膏像が残っており寄贈を受けた陸上自衛隊目達原駐屯地が広報資料館で展示している[2]。また、公園に残された台座は8代目蓮池藩主である鍋島直與(雲叟)の歌碑に転用された。
地元以外では貴族院議員・金杉英五郎が委員長となった「肉弾三勇士銅像建設会」によって東京都港区青松寺に三人が破壊筒を抱えて突撃する様子の銅像が設置された。しかし戦後撤去され、後に江下の部分のみが新たな台座とともに安置されている[3]。ほか、山川招魂社に「爆弾三勇士」の碑、陸上自衛隊久留米駐屯地に肉弾三勇士のジオラマ、東京靖国神社にレリーフなどがある。
関連項目
・生方一平 - 新興キネマ製作 映画『肉弾三勇士』で江下を演じる
・佐分利信 - 日活製作 映画『誉れもたかし 爆弾三勇士』で江下を演じる
・爆弾三勇士の歌 - 与謝野鉄幹作詞、辻順治作曲。(ポリドール・レコード)
脚注
1. 「肉弾三勇士の生立 江下武二君」『爆弾三勇士』護国業書、軍事教育刊行会、44-46頁。
2. 「肉弾三勇士」江下伍長の像、16年ぶり展示 佐賀新聞 - 2010年08月10日
3. 【軍事のツボ】戦後70年と軍神の今 なぜ日本人はこれほど時代に流されたのかサンスポ - 2015年3月12日
参考資料
・護国業書『爆弾三勇士』軍事教育刊行会、1932年4月10日発行
(wikiより)
江下武二
7947 永井尚志君追弔碑(荒川区南千住1-59-11・円通寺)
時代 | 江戸時代後期 - 明治時代 |
---|---|
生誕 | 文化13年11月3日(1816年12月21日) |
死没 | 明治24年(1891年)7月1日 |
改名 | 松平岩之丞→永井岩之丞(幼名)→尚志→介堂(法号) |
戒名 | 崇文院殿介堂日彰大居士 |
墓所 | 東京都荒川区西日暮里の本行寺 |
官位 | 従五位下玄蕃頭、主水正 |
幕府 | 江戸幕府大目付、若年寄 |
主君 | 徳川家慶→家定→家茂→慶喜→明治天皇 |
氏族 | 大給松平家→永井氏 |
父母 | 父:松平乗尹、母:側室 養父:永井尚徳 |
兄弟 | 松平某室、女子、尚志ら 養兄弟:松平乗羨 |
子 | 養子:尚忠 |
永井 尚志(ながい なおゆき/ながい なおむね)は、幕末の武士(旗本)。昭和時代の作家・三島由紀夫の父方の高祖父にあたる。
生涯
文化13年(1816年)11月3日、三河国奥殿藩5代藩主・松平乗尹とその側室の間に生まれた。幼名を岩之丞、号を介堂といった。父の晩年に生まれた息子で、既に家督は養子の乗羨に譲っていたことから、25歳の頃に旗本の永井尚徳の養子となった。
嘉永6年(1853年)、目付として幕府から登用される。安政元年(1854年)には長崎海軍伝習所の総監理(所長)として長崎に赴き、長崎製鉄所の創設に着手するなど活躍した。安政5年(1858年)にそれまでの功績を賞されて呼び戻され、岩瀬忠震と共に外国奉行に任じられた。そしてロシア、イギリス、フランスとの交渉を務め、通商条約調印を行なった。その功績で軍艦奉行に転進したが、直後の将軍後継者争いで一橋慶喜を支持する一橋派に組したため、南紀派の大老・井伊直弼によって罷免され、失脚した。
直弼没後の文久2年(1862年)、京都町奉行として復帰し、元治元年(1864年)には大目付となる。文久3年(1863年)の八月十八日の政変、元治元年(1864年)7月19日の禁門の変では幕府側の使者として朝廷と交渉するなど、交渉能力で手腕を発揮した。慶応3年(1867年)には若年寄にまで出世する。大政奉還においても交渉能力を発揮した。鳥羽・伏見の戦い後は慶喜に従って江戸へ戻り、徳川家の駿府転封が決まった後は榎本武揚と行動を共にして蝦夷地へ渡り、「蝦夷共和国」の箱館奉行に就任した。しかし、旧幕府軍は半年あまりの戦いの末、明治2年5月に降伏した。新選組隊士の田村銀之助が大正9年に史談会で語ったところによれば、最初に降伏したのが弁天台場の守備に当っていた永井らで、降伏後は五稜郭の榎本らにも頻りに降伏の勧誘を行っていたという[1]。
明治5年(1872年)、明治政府に出仕し、開拓使御用係、左院小議官を経て、明治8年(1875年)に元老院権大書記官に任じられた。
明治24年(1891年)7月1日に死去した。享年76。
年譜
※日付は明治5年(1872年)までは旧暦
・文化15年(1818年)5月13日 - 父・松平乗尹死亡のため、江戸麻布藩邸にて藩主の義兄松平乗羨のもとで養育される。
・天保11年(1840年)- 旗本2,000石・永井尚徳の養子となる。幼名・岩之丞はそれまで通り称す。
・弘化4年(1847年)4月16日 - 小姓組番士となる。
・嘉永元年(1848年)- 昌平坂学問所学問吟味に合格。
・嘉永4年(1851年)2月 - 甲府徽典館学頭となる。
・嘉永6年(1853年)
・7月20日 - 十番小姓組番頭・牧野筑後守忠直組進物番士より二番徒頭に異動。
・10月8日 - 目付に異動し、海防掛を兼帯し、砲台普請・大砲製鋳等を併せて担当する。
・11月7日 - 布衣に遇せられる。
・嘉永7年(1854年)4月5日 - 肥前国長崎駐在。
・安政2年(1855年)
・7月29日 - 長崎海軍伝習所総取締を兼帯。
・11月19日 - 従五位下・玄蕃頭に叙任。
・安政4年(1857年)
・5月 - 江戸に帰府。
・12月3日 - 勘定奉行(勝手掛)に異動。江戸詰にて長崎御用を兼帯す。
・安政5年(1858年)7月29日 - 外国奉行に異動。
・安政6年(1859年)
・2月24日 - 軍艦奉行に異動。
・8月27日 - 軍艦奉行を罷免され、隠居差控の処分を受ける。
・文久2年(1862年)
・7月5日 - 軍艦操練所御用となる。前年9月4日より田沼意尊が若年寄となっており、旗本管轄の若年寄の官職名と同一であることから内規に倣い、主水正(実父・松平乗尹が藩主時代に任官していた)に遷任。
・5月7日 - 京都東町奉行に異動。
・元治元年(1864年)
・2月9日 - 大目付に異動。
・6月23日 - 宗門改を兼帯。
・元治2年(1865年)1月11日 - 大目付を免じ、寄合となる。
・改元して慶応元年10月4日 - 再び大目付となる。
・10月27日 - 外国奉行と長州御用掛を兼帯。
・慶応3年(1867年)
・2月3日 - 若年寄格に異動。前年10月24日に若年寄・田沼意尊が御役御免となっていたため、若年寄格への異動に伴い玄蕃頭に還任。
・11月15日(1867年12月10日) - 近江屋事件発生。
・12月15日 - 若年寄に異動。
・慶応4年(1868年) 戊辰戦争
・1月10日 - 従五位下・玄蕃頭の官位を剥奪。
・2月9日 - 若年寄は御役御免。
・2月19日 - 逼塞処分を受ける。
・改元して明治元年12月 - 蝦夷島政府における箱館奉行となる。
・明治2年(1869年)5月15日 - 降伏。
・明治4年(1871年)1月6日 - 特赦により出獄。
・明治5年(1872年)
・1月12日 - 開拓使御用掛となる。
・1月19日 - 左院少議官に異動。
・4月15日 - 正六位に叙位。
・10月8日 - 左院三等議官に異動。(官制改革による)
・明治8年(1875年)
・4月14日 - 左院三等議官を免ず。
・7月12日 - 元老院権大書記官となる。
・12月7日 - 元老院権大書記官を免本官、位記返上[2]。
・明治24年(1891年)7月1日 - 従五位に昇叙。同日、死亡。享年76。死後、正五位に叙せられる。法号:崇文院殿介堂月影大居士。墓所:東京都荒川区西日暮里の長久山本行寺
・幼い頃から利発で読書が好きであったため師について経史を学び、独学で蘭学を修めた。泰西事情に通じていたという。その学才を伝えきいた永井能登守尚徳が、永井家の養子として迎えた。
・長崎海軍伝習所では、勝麟太郎、矢田堀鴻、木下利義、榎本釜次郎、肥田浜五郎、他数十人を教えた。
・戊辰戦争で幕府軍が敗れることを知っていたのに、最後まで忠誠を尽くして戦った忠臣として高く評価されている。また、旗本から若年寄に栄進したのは、異例のことである。一方、『越前藩小倉滞陣日記』によると、第一次征長戦争においては後から交渉に関わったにもかかわらず、毛利敬親を捕縛しさらし者にすることを主張し、交渉をまとめた征討総督の徳川慶勝らの面目を潰し、参謀の西郷隆盛に矛盾を指摘され論破されるという失態を犯しているという[3]ところからみて、政治的には旧態依然とした幕府中心主義から最後まで脱しきれなかった人物と見ることもできる。しかし、このような観点は表層的であり、永井の行動は長州藩の過激派を解体するプログラムに沿っており、寛典論を尾張藩との交渉において発言しているのは蘇峰の『国民史』でも明らかである。言い換えると役人らしく幕府の強硬派への釈明から薩摩の意見を容れるポーズを見せたというのが実相である。
・戊辰戦争では、息子(養子)・岩之丞と共に品川を脱出し、函館の五稜郭に立て籠もり、共に戦った。
・養子である永井岩之丞の長女・夏子は内務官僚の平岡定太郎に嫁ぎ、その孫が平岡公威、すなわち作家の三島由紀夫である。つまり尚志は三島の養高祖父にあたる。
・尚志の子孫の集まる「桜木会」があり、年一度の親睦会が開かれ昭和45年(1970年)時には、270名の会員がいたという。三島由紀夫もその一員であり、親睦会に出席したこともあったという。
・孫の永井亨(経済学博士)は祖父・尚志について、「監察史となって長崎に出張しましたときオランダ人を雇い入れ長崎に海軍伝習所をつくったのであります。(中略)長崎奉行と意見が合わないのを独断でオランダ人からいろいろの技術や材料を入れて、長崎の飽ノ浦という所へ造船所を作った。これがいまの三菱造船所の前身であります。(中略)そのうちだんだん用いられまして、海軍奉行あるいは軍艦奉行、外国奉行などいたしまして後に京都へ参り、京都で若年寄格にまでなりまして、守護職の松平容保(会津藩主)の下ではたらき、近藤勇、土方歳三以下の新撰組の面々にも人気があったと伝えられています」[4]と語っている。また、尚志の晩年については、「向島の岩瀬肥後守という、若くして死にましたが偉い人物がおりました。その人の別荘に入り、その親友の岩瀬を邸前に祭って死ぬまで祀をたたず、明治二十四年七月一日に七十六歳で死んでおります。私は数え年十四の年でしじゅう遊びに参っておりましたのでよく覚えております」[4]と語っている。
・孫の大屋敦(元住友本社理事、日銀政策委員)は、「軍艦奉行として日本海軍の創設者であったゆえをもって、烏帽子に直垂といったいでたちの写真が、元の海軍記念館に飾られていたことを記憶している。(中略)そういう波乱に富んだ一生を送った祖父は、政治家というより、文人ともいうべき人であった。徳川慶喜公が大政奉還する際、その奏上文を草案した人として名を知られている。勝海舟なども詩友として祖父に兄事していたため、私の昔の家に、海舟のたくさんの遺墨のあったことを記憶している」[5]と語っている。
・三島由紀夫は映画『人斬り』(監督・五社英雄)に薩摩藩士・田中新兵衛の役で出演した際のことを、友人・林房雄宛の書簡(1969年6月13日付)の中で、「明後日は大殺陣の撮影です。新兵衛が腹を切つたおかげで、不注意の咎で閉門を命ぜられた永井主水正の曾々孫が百年後、その新兵衛をやるのですから、先祖は墓の下で、目を白黒させてゐることでせう」と記している[6]。
・田中新兵衛が姉小路公知暗殺の嫌疑で捕縛された時の京都町奉行は、永井尚志であったという。[7]
系譜については、『永井尚志ウィキペディア』をご覧ください。 ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%B8%E4%BA%95%E5%B0%9A%E5%BF%97
登場作品
・新選組! (2004年 NHK大河ドラマ 演:佐藤B作)
・新選組!! 土方歳三 最期の一日(2006年正月時代劇 演:佐藤B作)
・龍馬伝 (2010年 NHK大河ドラマ 演:石橋蓮司)
・青天を衝け(2021年、NHK大河ドラマ、演:中村靖日)
・幕末相棒伝(2022年、NHK正月時代劇、演:杉本哲太)
脚注
1.「田村銀之助君の函館戦争及其前後に関する実歴談」(原書房版『史談会速記録』第40巻)
2. 『国立公文書館所蔵 勅奏任官履歴原書 上巻』279頁。
3. 参照『越前藩小倉滞陣日記』
4. a b 『永井亨博士回顧録 思い出話』
5. 『私の履歴書 第22集』(日本経済新聞社、1964年)、『私の履歴書 経済人7』(日本経済新聞社出版局、1980年)
6. 『決定版 三島由紀夫全集第38巻・書簡』(新潮社、2004年)
7. 『三島由紀夫 vs.司馬遼太郎 戦後精神と近代』P.85
8. 永井氏系譜(武家家伝)
参考文献
・大日本近世史料『柳営補任』、戸川安宅(残花)『旧幕府(合本一)』原書房所収の第五号記載の『永井玄蕃頭伝』
・越次倶子『三島由紀夫 文学の軌跡』広論社、1983年。
・福島鑄郎『再訂資料・三島由紀夫』朝文社、2005年。
・安藤武『三島由紀夫「日録」』未知谷、1996年。
・『私の履歴書 経済人7』日本経済新聞社出版局、1980年。
・我部政男・広瀬順晧編『国立公文書館所蔵 勅奏任官履歴原書 上巻』柏書房、1995年。
(wikiより)

⇧ 永井尚志

7946 永井岩之丞君追弔碑(荒川区南千住1-59-11・円通寺)
時代 | 江戸時代末期(幕末) - 明治時代 |
---|---|
生誕 | 弘化2年(1845年)9月 |
死没 | 明治40年(1907年)5月25日 |
改名 | 鍵之丞(幼名)→尚忠(諱) |
別名 | 誠斎(号) |
戒名 | 瑞雲院殿尚忠日順大居士 |
墓所 | 東京都荒川区西日暮里の本行寺 |
官位 | 従四位勲三等 |
幕府 | 江戸幕府 |
氏族 | 三好氏→永井氏 |
父母 | 父:三好長済、養父:永井尚志 |
兄弟 | 三好悌三郎、岩之丞、三好晋六郎 |
妻 | 高(松平頼位の三女) |
子 | 永井壮吉、平岡夏子(平岡定太郎妻)、永井亨、永井啓、永井繁、大屋敦、鐘、愛、千恵(横山英太郎妻)、清子、文子 |
永井 岩之丞(ながい いわのじょう)は、幕末の幕臣、明治期の裁判官(大審院判事)。三島由紀夫の曾祖父にあたる。
生涯
三好為三の子孫である700石取りの幕臣・三好長済(山城守幽雙)の次男として生まれ、旗本・永井尚志(玄番頭)の養子となる。
戊辰戦争では養父と共に蝦夷地へ脱走し、函館の五稜郭に立て籠もって戦った。
明治5年(1872年)7月7日、常陸宍戸藩主・松平頼位の三女・鷹(のちに高)と結婚し、六男六女を儲ける。
明治6年(1873年)7月、司法省十等出仕を命ぜられる。明治13年(1880年)5月1日、判事。明治16年(1883年)1月、控訴院判事。明治27年(1894年)4月、大審院判事。
明治40年(1907年)5月25日、下谷区上野桜木町の自宅で死去。享年63。
栄典
・1886年(明治19年)7月8日 - 従六位[1]
・1904年(明治37年)2月10日 - 従四位[2]
人物
六男の大屋敦(元住友本社理事、日銀政策委員)は、父・岩之丞について『私の履歴書』(日本経済新聞 1964年に連載)の中で、「父は融通など全くきかぬ厳格そのもののような人だった。子供の教育については、なにひとつ干渉しなかったが日常の起居は古武士のようであぐらなどかいた姿を、ただの一度も見たことはなかった。当時の判事は行政官に比べるときわめて簿給で、それで十二人の子女を養わねばならなかったから、当然清貧であった。私どもと同じ上野桜木町に住む父の実弟三好晋六郎は日本の造船界黎明期の権威者で、東京帝大の教授であり、産業界にも深いつながりを持っていた関係で、今の大学の先生など想像のできぬ豊かな暮らしをしていたが、兄弟仲はすこぶるむつまじかったようである」[3]と語っている。
家族・親族
・父・三好長済(山城守幽雙)(幕臣)
・養父・永井尚志(旗本・玄番頭)
・長男・永井壮吉(海軍中佐)
・二男・永井亨(経済学博士、人口問題研究所所長)
・三男・永井啓(第一銀行監査役)
・四男・永井繁(東洋リノリューム社長)
・五男・高校生の時に急逝(京都三高の学生時、スペイン風邪で死去)
・六男・大屋敦(住友本社理事、日銀政策委員)
・長女・夏子(なつ)(内務官僚・平岡定太郎に嫁ぐ)
・二女・鐘
・三女・愛
・四女・千恵(電波研究所長・横山英太郎に嫁ぐ)
・五女・清子
・六女・文子
・孫
壮吉の子:多喜子(衆議院議員・岡田五郎に嫁ぐ)、稔子、永井隆
夏子(なつ)の子:平岡梓(農商務官僚)
亨の子:永井良(明石合金)、永井弘(日本通運健保常務理事)、久子、志子、信子、保子、礼子
啓の子:細谷省吾(娘・悠が伊勢丹社長・小菅丹治に嫁ぐ)、永井彰(新家電工業取締役)、永井保(彫刻家)、永井治(石川島播磨設計課長)
繁の子:恵美子、永井基(住友軽金属常務)、永井三明(同志社大学教授)
敦の子:大屋宏(住友金属鉱山取締役)、純子、大屋薫(東芝音楽工業邦楽部長)、千枝子、大屋韶(日本板硝子ガラス課長)
鐘の子:磯崎隆吉(海軍造船少将)、磯崎勉(東急自動車社長)、磯崎叡(国鉄総裁)、京子、磯崎迪(三菱商事鹿児島支店長)、澄子
愛の子:加代子、豊沢通明
千恵の子:喜美(住友銀行専務取締役・伊部恭之助に嫁ぐ)、秀
清子の子:田中泰(互栄酵素代表者)、博子、静子、和子
文子の子:渡辺篤二(農林省食品栄養部長)、渡辺文治(東芝音楽工業)、久子、重子
・曾孫・平岡公威(作家、筆名:三島由紀夫)、平岡美津子、平岡千之(外交官)、その他
系譜については、「永井岩之丞ウィキペディア」をご覧ください。 ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%B8%E4%BA%95%E5%B2%A9%E4%B9%8B%E4%B8%9E
脚注
1. 『官報』第907号「賞勲叙任」1886年7月10日。
2. 『官報』第6181号「叙任及辞令」1904年2月12日。
3. 『私の履歴書 第22集』(日本経済新聞社、1964年)、『私の履歴書 経済人7』(日本経済新聞社出版局、1980年。
4. 永井氏系譜(武家家伝)
参考文献
・越次倶子『三島由紀夫 文学の軌跡』(広論社、1983年)
・福島鑄郎『再訂資料・三島由紀夫』(朝文社、2005年)
・安藤武『三島由紀夫「日録」』(未知谷、1996年)
・『私の履歴書 経済人7』(日本経済新聞社出版局、1980年)
・安藤武『三島由紀夫の生涯』(夏目書房、1998年) 64-65頁
(wikiより)

7945 竹村俊秀墓(新宿区市ヶ谷富久町9-23・源慶寺)
7944 中原成業墓(新宿区市ヶ谷富久町9-23・源慶寺)
7943 井口慎次郎墓(新宿区市ヶ谷富久町9-23・源慶寺)
( 1854 ~ 1877年 2月 7日 )
150石。
戊辰時 15歳。
井口隼人の次男として若松城下に生まれ、性淳良で勇敢、日新館の秀才。
井口隼人の妻、井口慎次郎の母は浅羽忠之助の姉「みさ」である。
京都守護職時代 ~ 戊辰戦争
戊辰戦争では白虎隊幼少組に編入され、力戦奮闘したという。
兄・信太郎 ( 18 ) は 8月 29日の長命寺の戦いに朱雀士中二番田中隊として参加し戦死している。
戊辰戦争後
父、隼人は高田謹慎の際に病死。( 母・みさ、弟常四郎等を連れ斗南に移住し金田一村に永住した )
誠実で快活な性格で永岡は弟のように面倒をみた。
永岡の書生となり、永岡に私淑し、思案橋事件に参加する。
思案橋事件の際、誤って永岡を傷つけ、その傷が元で永岡が亡くなった為自責の念に苛まれるが、永岡よりの遺言で「軽挙を謹んで欲しい」と言われ思いとどまる。
そして刑場では永岡の後を追える事、自責の念から開放される事から喜んで死を迎えたという。
『待て暫し我も後より続かまし同じ黄泉路を辿る身なれば』は辞世の句である。
事件首謀者として明治 10年 2月 7日処刑される。享年 24歳。
墓は新宿区源慶寺。
〇 思案橋事件
思案橋事件(しあんばしじけん)は、
1876年(明治9年) に の らが起こした に呼応する形で、旧 士 らにより生起した。
概要
1876年(明治9年) 、萩の乱の発生を電文で知った永岡久茂ら旧会津藩士他14名は、東京・思案橋から に向けて出航しようとしていた。しかし不審に思った者の通報により駆け付けた 隊と切りあいとなり、永岡ら数名はその場で逮捕された。逃走を図った者は中根米七を除き、最終的には逮捕されている。主犯の永岡は事件の時に負った傷が元で翌年1月に獄中死し、その年の2月7日に行われた裁判では井口慎次郎、中原成業、竹村俊秀の会津藩士3名が斬罪となった。中根は (明治11年)、 の寺院境内で している。警察側は寺本義久 と河合好直 の2名が した。
当初の計画では
関係者墓所
・市谷源慶寺 - 。井口慎次郎ら処刑された3人の墓がある。
・今戸 - 永岡久茂の墓があったが、関東大震災や空襲のため現存していない。
・ - 寺本警部補
参考資料
・ 『思案橋の暴徒事件』 - 蔵
・ 『法窓秘聞』 - 批評社 1999年
・ 『明治無頼伝』角川文庫2002年2月 - 三番隊長であった を主人公に束松事件と思案橋事件を描いた。
・ 『苔』中公文庫 1977年
関連項目
・
(wikiより)
7942 東都三十三間堂旧記(江東区深川2-22-5・正覚寺)
東都三十三間堂旧記
「東都三十三間堂旧記 ( とうとさんじゅうさんげんどうきゅうき )」は、元禄一三年 ( 一七〇〇 ) 深川に再建された三十三間堂に関する記録です。
一番から七番と付録の八冊で構成され、現在は六冊に装丁されています。
堂守 ( 堂司 ) をつとめた鹿塩久右衛門家 ( かしお きゅうえもんけ ) に代々伝わってきましたが、火災のたびに水をかぶり傷んだため文政三年 ( 一八二〇 ) に新たに書き写されたものです。
内容は、火災や風雨によって破損した堂宇の再建や修復に関する願書のほか、堂守の鹿塩久右衛門が三十三間堂町の名主をつとめていた関係から、三十三間堂町に記録も含まれています。
東都三十三間堂は、京都の三十三間堂 ( 蓮華王院 = れんげおういん ) を模して、寛永一九年 ( 一六四二 ) に浅草 ( 現台東区 ) に建てられました。
元禄一一年 ( 一六九八 ) の大火によって消失し敷地が召し上げられたため、代地を深川に賜り再建されました。
柱間の数して三十三間あり、弓術 ( きゅうじゅつ ) の練習や競技の場として西側に射場 ( いば ) が設けられ、堂の端から端まで矢を射通す「通し矢」が行われました。
明治五年 ( 一八七二 ) に壊された時、本文書は本尊とともに正覚寺 ( しょうかくじ ) に移管され、関東大震災や戦災の被害を免れて現在に至っています。
深川を代表する名所である三十三間堂の様相を詳しく伝え、かつ災害を乗り越えて区内に伝えられた貴重な史料です。
(案内板より)
7941 福禄寿像(江東区深川2-16-7・心行寺)
7940 伊能忠敬翁像(千葉県香取市佐原イ74)
7939 庚申坂(小日向4丁目・春日2丁目の間)
「小日向第六天町の北、小石川同心町の界 ( さかい ) 東より西へ下る坂あり・・・・・ 略・・・・・・・・・・」『東京名所図会}』
庚申 ( こうしん ) 信仰は庚申 ( かのえさる ) の日 ( 60日ごと ) 人が眠ると三尸 ( さんし ) の蒸しが人の体から出て天にのぼり天帝にその人の罪を告げるというところから、人々は一晩中夜明かしをした。
この信仰は中国から伝わり、江戸時代に盛んになった。
従ってキリシタン坂はこの坂の地下鉄ガードの向う側の坂のことである。
「・・・・・・両側の藪の間を上がる坂あり・・・・・・ これが真の切支丹 ( キリシタン ) 坂なり」『東京名所図会』
とぼとぼと老宣教師ののぼりくる
春の暮れがたの切支丹坂
( 金子薫園 )
7938 福禄寿六角堂(江東区深川2-16-7・心行寺)
7937 伴伝兵衛墓(江東区深川2-16-7・心行寺)
※ 正直どちらの墓石が伴伝兵衛のものかは分かりません。
伴 伝兵衛(ばん でんべい)は、いち早く江戸日本橋に進出した近江商人、屋号は江戸で『近江屋』、八幡で『扇屋』。歴代当主が襲名した名称。伴伝兵衛家は西川甚五郎家・森五郎兵衛家と共に八幡御三家とされる(資料によっては伴伝兵衛に替わり西川庄六家が入るものもある)。
歴代当主[1][2]
・伴太郎左衛門尉資家:近江国甲賀郡(後の伴谷村、現滋賀県甲賀市水口町)の郷士より織田信長に従い天正10年(1582年)本能寺において討死。
・伴伝兵衛 (初代)資則:武士を捨て行商を行い、大名屋敷御用を得た。慶長15年(1610年)近江商人の中で最も初期の段階に江戸出店を行った。
・伴伝兵衛 (2代):正月名物近江屋の松飾。
・伴伝兵衛 (7代):御朱印騒動解決に尽力。
脚注
・「近江商人」(平瀬光慶著 近江尚商会 1911年)
・「滋賀県百科事典」(滋賀県百科事典刊行会編 大和書房 1984年)
7936 新井章吾墓(港区南青山2-32-2・青山霊園)
生年月日 | 1856年3月28日 (安政3年2月22日) |
---|---|
出生地 | 下野国都賀郡吹上村 (現・栃木県栃木市吹上町) |
没年月日 | 1906年10月16日(50歳没) |
死没地 | 東京府東京市本郷区 |
出身校 | 日就館(吹上藩藩校) 育英館 |
所属政党 | 自由党[1][2][3]→ 自由倶楽部[4]→ 自由党[3]→ 東洋自由党[1][2]→ 大日本協会派[1]→ 同志倶楽部[5]→ 憲政党[1][2][3]→ 立憲政友会[1][2][3][6] |
選挙区 | 栃木県第2区、栃木県郡部 |
当選回数 | 7回[2][3][6] |
在任期間 | 1890年7月1日 - 1902年8月9日 1904年3月1日 - 1906年10月16日 |
選挙区 | 下都賀郡選挙区 |
当選回数 | 2回 |
在任期間 | 1882年7月 - 1884年5月 1889年3月 - 1889年7月[7] |
新井 章吾(あらい しょうご、安政3年2月22日(1856年3月28日)- 明治39年(1906年)10月16日[3])は、明治前期の政治家。衆議院議員として通算7期[2][3][6]。位階および勲等は従四位・勲四等。
自由党幹部として活躍した。
経歴
下野国都賀郡吹上村(現在の栃木県栃木市吹上町)の豪農の家に生まれる[1][2][3]。吹上藩[8]の藩校日就館で学んだ後、壬生の育英舎で英学を学んだ[1][3]。明治10年(1877年)、吹上村の戸長になる[1][3]。
明治13年(1880年)以後、自由民権運動に参加して自由党に加入[9]、郷里を中心に運動の興隆に努め、明治15年(1882年)に栃木県会議員となる[1][3][6]。翌年、官吏侮辱罪・集会条例違反で5か月間収監され、更に大阪事件に関与して朝鮮渡航部隊の責任者となったことから捕らえられて重懲役9年の判決を受ける[1][2][3][6]。
明治22年(1889年)の大赦後に県会議員に復帰し[1][2][3][6]、第1回衆議院議員総選挙では栃木県第2区から初当選を果たし、以後6期連続当選する[1]。だが、星亨との確執を機に「関東自由党」の分離や高島鞆之助と結んで薩摩閥との連携を模索するが上手くいかず、明治25年(1892年)5月に自由党を脱党し[1][3]、12月に同じく脱党した大井憲太郎とともに東洋自由党を結成した[1]。その後、硬六派系の諸会派を転々とする[1]。
この間、明治29年(1896年)に拓殖務大臣であった高島の要請で衆議院議員の身分のまま拓殖務省北部局長に就任するが[2][6]、直後に同省の廃止が決定されて辞任した[1]。明治31年(1898年)に自由党の後身である憲政党に復帰してその後立憲政友会に合流するが[1][2][3]、第7回衆議院議員総選挙で落選する。明治37年(1904年)の第9回衆議院議員総選挙で7回目の当選を果たして国政に復帰する[1]。その後、宇治川水力電気会社の創設に尽力するが[2][3]、設立直前の明治39年(1906年)に東京において51歳で急死した[1]。墓所は青山霊園1-イ22-1と、郷里である吹上町の専福寺だが、2022年現在吹上の方の墓所は無縁墳墓となっている[10]。
親族
・室 新井タネ 昭和29年4月15日歿
・子 新井胖:朝鮮総督府判事 1938年12月31日歿
・子の妻 新井静 昭和55年11月10日歿
脚注
1. a b c d e f g h i j k l m n o p q r s 国史大辞典 1979
2. a b c d e f g h i j k l 日本歴史大事典 2000
3. a b c d e f g h i j k l m n o p 日本史大事典 1992
4. “栃木2区選挙結果 第1回衆議院議員選挙 栃木県小選挙区”. 選挙ドットコム. 選挙ドットコム株式会社. 2018年6月6日閲覧。
5. “栃木2区選挙結果 第5回衆議院議員選挙 栃木県小選挙区”. 選挙ドットコム. 選挙ドットコム株式会社. 2018年5月27日閲覧。
6. a b c d e f g 政治家人名事典 2003
7. 栃木県会 編 『栃木県会沿革誌. 自明治12年度至明治29年度』栃木県、1898年11月27日。全国書誌番号:40021100。

8. 新井の生まれる直前、吹上村に陣屋が設置されて吹上藩が成立していた。
9. 上田正昭、津田秀夫、永原慶二、藤井松一、藤原彰、『コンサイス日本人名辞典 第5版』、株式会社三省堂、2009年 57頁。
10. 官報無縁墳墓
参考文献
・鳥海靖 著「新井章吾」、国史大辞典編集委員会 編 『国史大辞典 1』吉川弘文館、1979年3月1日、325頁。ISBN 978-4-642-00501-2。
・小山博也 著「新井章吾」、青木和夫ほか 編 『日本史大事典 1』平凡社、1992年11月18日、252頁。ISBN 978-4-582-13101-7。
・松尾章一「新井章吾」 『日本歴史大事典 1』小学館、2000年7月10日、103頁。ISBN 978-4-095-23001-6。
・「新井章吾」 『新訂 政治家人名事典 明治~昭和』日外アソシエーツ、2003年10月27日、26頁。ISBN 978-4-8169-1805-6。
(wikiより)

⇧ 新井章吾




7935 大久保端造墓(港区南青山2-32-2・青山霊園)
大久保 端造(おおくぼ たんぞう、1854年(安政元年5月10日[1][2]) - 1916年(大正5年)6月25日[2])は、日本の弁護士・政治家。衆議院議員(1期)。
経歴
常陸国新治郡(のち茨城県新治郡安飾村→出島村→霞ヶ浦町、現・かすみがうら市)生まれ[1]。法律学を学ぶ。戸長を経て、代言人となり、弁護士の業務に従事する[2]。東京弁護士会副会長、東京市京橋区会議員を務めた[2]。
1890年の第1回衆議院議員総選挙において茨城5区から自由党所属で立候補するが5票差で落選した[3]。1892年の第2回衆議院議員総選挙では自由党から立候補したが次点で落選した[4]。1894年3月の第3回衆議院議員総選挙では自由党から立候補して当選した[5]。同年9月の第4回衆議院議員総選挙で落選[6]。1898年3月の第5回衆議院議員総選挙では新自由党から立候補して落選した[7]。衆議院議員は1期務めた。大正5年6月25日卒去。墓所は青山霊園1-イ-22。
脚注
1. a b 衆議院 編 『総選挙衆議院議員略歴 第1回乃至第202回』衆議院事務局、1940年、92頁。NDLJP:1278238。
2. a b c d 『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』124頁。
3. 『衆議院名鑑 第1回・1890年~第34回・1976年総選挙』1頁。
4. 『衆議院名鑑 第1回・1890年~第34回・1976年総選挙』7頁。
5. 『衆議院名鑑 第1回・1890年~第34回・1976年総選挙』13頁。
6. 『衆議院名鑑 第1回・1890年~第34回・1976年総選挙』19頁。
7. 『衆議院名鑑 第1回・1890年~第34回・1976年総選挙』25頁。
参考文献
・総選挙衆議院議員略歴 第1回乃至第20回』衆議院事務局、1940年。
・日本国政調査会編『衆議院名鑑 第1回・1890年~第34回・1976年総選挙』国政出版室、1977年。
・衆議院・参議院『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
(wikiより)