本牧jack『意外と身近にある歴史散歩』日々是好日 心灯 頬笑

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小生の拙ブログ『意外と身近にある歴史散歩』日々是好日 心灯 頬笑に御訪問頂き誠に有難う御座います。
歴史ドラマが流行っている昨今、身近に有って気が付かなかったりする様な物を取り上げたりしています。
たまに『 大人数で取材しているのか? 』との質問を戴きますが、小生と相方の二人三脚で御座います。
出来るだけ続けたいと思っていますが 膝・耳に問題が有って、いつまで出来るやら・・・説明も、やたら長いものから あっさりしたものまで有りますが、御付き合いの程 宜しく御願い致します。
御注意 . 少ないですが生前に建てられた『 生前墓 』の記事も有ります。 ※ 申し訳御座いませんが「画像の転用」は禁止とさせて頂きます。 コメントは原則公開させていただいております 質問等に対してはブログ記事で返信させていただきます 他の方法で連絡を取り合う等一切しません 場合によっては、「IPブロック」しますがブロックした場合解除する事は有りませんので宜しくお願いします。

2023/10

六代目・岩井半四郎 ( ろくだいめ いわい はんしろう、寛政 10年 ( 1798年 )  - 天保 7年 4月 8日 ( 1836年 5月 22日 )) は天保期の歌舞伎役者。俳名は袖歌、梅我。屋号は大和屋。

経歴
1798年生れ。父は名優五代目・岩井半四郎。初名を初代・岩井久次郎という。

文化元年 ( 1804年 ) 11月に父の前名二代目・岩井粂三郎と改名。

天保 3年 ( 1832年 ) 11月に六代目・岩井半四郎を襲名。

江戸を中心に女形として活躍し人気を博したが、天保 7年 ( 1836年 ) 4月 8日、39歳の若さで亡くなった。

戒名は深窓院梅我日鮮信士。

死後、半四郎の名跡は弟の初代岩井紫若が七代目として襲名した。

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五代目・岩井 半四郎 ( ごだいめ いわい はんしろう、安永 5年 ( 1776年 ) - 弘化 4年 4月 6日( 1847年 5月 20日 )) は化政期に女形として活躍した江戸の歌舞伎役者。幼名は長松 ( ちょうまつ )。屋号は大和屋。俳名に梅我・杜若、通称に杜若半四郎・眼千両・大太夫などがある。

来歴
安永 5年江戸で生れる。父は四代目・岩井半四郎。

天明 7年 11月 ( 1787年 ) に桐座で岩井粂三郎と名乗り初舞台。

文化元年 ( 1804年 )、中村座で五代目・岩井半四郎を襲名、父祖以来の女形の家を継いだ。「目千両」と呼ばれるほどの眼差しと、すこし下唇が出たおちょぼ口が魅力的で、しかも容姿抜群、愛嬌もたっぷりという三拍子揃った五代目は、すぐに江戸一の人気役者になった。芸の方もしっかりしており、四代目・鶴屋南北と組んで生世話物の悪婆を得意としたほか、若衆や荒事までこなす名優であった。

文政 3年  ( 1820年 )、五代目・松本幸四郎や三代目・坂東三津五郎と同時に上方へのぼる。これをきっかけに以後多くの役者が上方に赴くことになる。

文政 5年には、長男の二代目・岩井粂三郎、次男の初代・岩井紫若 ( 後の七代目・岩井半四郎 )、そして自身の親子三人で江戸三座の立女形を独占したことで有名になった。

天保 3年 ( 1832年 ) 11月、俳名をとって岩井杜若を名乗り、弘化のはじめに剃髪、松下庵永久と号して役者を引退した。

逸話
自然体の演技を得意とし、半四郎が「お帰りあそばしませ。」と云うだけで相手方の俳優は自分の妻よりもいとしく思えたという。また、名人五代目・幸四郎は、彼のことを「あの人と一緒に演じているとまるで桜の散る中を歩くようです。」と評した。

彼の容貌から、悲劇よりも元気のいい女性を演じるのに本領を発揮した。特に「お染の七役」の「土手のお六」などは全く彼によって創作されたものであり、当時としては斬新な演技を創造する才能に長けていた。

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四代目・岩井半四郎 ( よだいめ いわい はんしろう、延享 4年 ( 1747年 ) - 寛政 12年 3月 29日 ( 1800年 4月 22日 )) は江戸時代中期の歌舞伎役者。

江戸を中心に活躍し、女形の家としての岩井家の基礎を築いた。俳号は杜若、屋号ははじめ雑司ヶ谷屋、のちに大和屋。

江戸の人形遣い辰松重三郎の子。

二代目・松本幸四郎の門人となり、宝暦 4年 ( 1754年 ) 11月の中村座で松本長松を名乗り七歳で初舞台を踏む。
その後二代目・幸四郎は四代目・市川團十郎を襲名、長松は宝暦 12年 ( 1762年 ) に師匠の前名である松本七蔵を二代目として襲名する。四代目・團十郎にとっては女形の弟子は七蔵だけだった。

当時上方には初代・半四郎の孫娘がいたが、この女性は初代・中村富十郎の妻であった。三代目・半四郎が死去したのち、富十郎は半四郎の名跡が絶えるのを惜しみ、自分が養子にしていた弟子の岩井半之助に半四郎の名を明和元年 ( 1764年 )、上方で継がせた。

ところが三代目・半四郎にはおまつという娘がいて、これが四代目・團十郎の妻となっていた。團十郎とおまつは弟子の七蔵に半四郎の名を継がせたいと望んだ。その結果明和 2年 ( 1765年 ) 11月、七蔵は岩井家の養子となって四代目・岩井半四郎を中村座で襲名、富十郎の養子である半四郎は中村新五郎と改名した。岩井半四郎はもとは立役の名跡であったが、四代目からは江戸歌舞伎の女形として基礎を築き、以後五代目、六代目、七代目へと続いた。

女形でありながら気性の荒いところがあったともいわれるが、風貌は丸顔で愛嬌があり「お多福半四郎」と呼ばれ、他にも「白金の太夫」「目黒の太夫」などの愛称があった。

生世話を得意とし、特にその中の三日月お仙は当り役となり、これは五代目・半四郎にも受け継がれ演じられている。また舞踊にも優れ、長唄の所作事『手習子』を初演し今に残る。江戸を代表する女形として高い人気を誇り、三代目・瀬川菊之丞と「女方の双璧」と並び称された。

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木村岡右衛門は漢詩に秀で、吉良家討入の際、兜頭巾の裏に漢詩を縫い込んでいたと伝えられる。

身寄浮雲滄海東

久愆恩義世塵中

看花對月無窮恨

散作暁天草木風

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大高源吾は茶道と俳句に優れ、切腹の際「ちょっとお筆を拝借」と次の辞世の句を残した。

梅てのむ 茶屋も有べし 死出の山

大高子葉 ( しよう ) ( 不詳 - 一七〇三 元禄一六年 )

赤穂浪士・大高源五は、子葉と号し宝井基角 ( たからい きかく ) に俳諧を学んだ。

元禄一五年一二月一四日主君の仇を報じて後、江戸松山藩邸に預けられ同一六年二月四日同藩邸において切腹を命ぜられた。

その死に臨んでこの句を遺して潔く自刃、享年三二歳。

基角遺稿の俳諧選集『類柑子 ( るいこうじ )』( 宝永四年刊 ) の文字により昭和三九年建立。
(案内板より)

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宮川延吉頼温       (○)

慶応 3. 12. 8日

近藤勇の甥 

天満屋事件にて討ち死

 墓石に名前が刻まれていない。

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伊藤甲子太郎武明   

慶応 3. 11. 18日 

御陵衛士

油小路事件     

斬殺

 墓石に名前が刻まれていない。

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 毛内有之助良種     

慶応 3. 11. 18日 

御陵衛士

油小路事件     

斬殺

 墓石に名前が刻まれていない。

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服部武雄良章    (○)

慶応 3. 11. 18日 

御陵衛士

油小路事件     

斬殺

 墓石に名前が刻まれていない。

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藤堂平助宜虎   

慶応 3. 11. 18日

御陵衛士

油小路事件

斬殺

 墓石に名前が刻まれていない。

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加藤羆藤原忠徳       

慶応 3. 6. 14日   

詳細不明

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茨木司藤原信忠    

慶応 3. 3. 14日 

伊藤一派               

斬殺

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佐野七五三之助藤原重之

慶応 3. 6. 14日 

伊藤一派               

斬殺

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中村五郎藤原政常       

慶応 3. 6. 14日 

伊藤一派               

斬殺

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富川十郎藤原政行     

慶応 3. 6. 14日

伊藤一派           

斬殺

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矢口健一郎藤原定孝   

慶応 3. 4. 26日  

詳細不明

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眞明院照誉貞相大姉    

慶応 3. 4. 26日

沖田総司の縁者・明里?

詳細不明

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田中寅三菅原正久      

慶応 3. 4. 5日

脱走

切腹

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田内知源重次          

慶応 3. 1. 10日

武士道不覚悟       

切腹

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市橋謙吉藤原義次      

慶応 2. 10. 7日 

詳細不明

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柴田彦三郎忠輿     

慶応 2. 6. 23日

勝手金策逃亡       

切腹

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谷三十郎藤原供国  (○)

慶応 2. 4. 1

祇園石段下で斉藤一に斬殺

 墓石に名前が刻まれていない。

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小川信太郎平国行    

慶応 2. 2. 18日

詳細不明

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河合耆三郎吉輝     

慶応 2. 2. 12日

五十両使い込みの濡れ衣

切腹

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大石造酒蔵源守仲    

慶応 2. 2. 5日

大石鍬次郎の弟     

斬殺

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桜井勇之進平盛房    

慶応元年 12. 12日  

詳細不明

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松原忠司藤原誠忠    

慶応元年 9. 1日   

四番隊長柔術師範

心中 ( 女も一緒に埋葬 )

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石川三郎源義元     

慶応元年 6. 21日 

不義密通           

切腹

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施山多喜人源泰朝    

慶応元年 6. 21日 

不義密通           

切腹

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大谷良輔     

元治 2. 3. 4日 

罪状不明

斬殺

 墓石に名前が刻まれていない。

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山南敬介藤原知信    

元治 2. 2. 23日   

総長              

切腹

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