本牧jack『意外と身近にある歴史散歩』日々是好日 心灯 頬笑

本牧Jackで御座います
小生の拙ブログ『意外と身近にある歴史散歩』日々是好日 心灯 頬笑に御訪問頂き誠に有難う御座います。
歴史ドラマが流行っている昨今、身近に有って気が付かなかったりする様な物を取り上げたりしています。
たまに『 大人数で取材しているのか? 』との質問を戴きますが、小生と相方の二人三脚で御座います。
出来るだけ続けたいと思っていますが 膝・耳に問題が有って、いつまで出来るやら・・・説明も、やたら長いものから あっさりしたものまで有りますが、御付き合いの程 宜しく御願い致します。
御注意 . 少ないですが生前に建てられた『 生前墓 』の記事も有ります。 ※ 申し訳御座いませんが「画像の転用」は禁止とさせて頂きます。 コメントは原則公開させていただいております 質問等に対してはブログ記事で返信させていただきます 他の方法で連絡を取り合う等一切しません 場合によっては、「IPブロック」しますがブロックした場合解除する事は有りませんので宜しくお願いします。

2023/11

出生名前野曜子(まえの ようこ)
別名弓 千晶 (ゆみ ちあき)
西丘 有里 (にしおか ゆり)
生誕1948年1月25日
出身地日本の旗 日本 東京都中央区銀座
死没1988年7月31日(40歳没)
学歴川村高等学校 中退
宝塚音楽学校 卒業
ジャンルポップスジャズアニメソング
職業歌手
活動期間1968年 - 1988年
レーベルCBSソニー
ユニオンレコード
東芝エキスプレス
事務所小学館プロダクション
共同作業者ペドロ&カプリシャス
リッキー&960ポンド
旧メンバー

リッキー&960ポンド

ペドロ&カプリシャス

前野 曜子
(まえの ようこ、1948年1月25日 - 1988年7月31日)は、日本の歌手である[1][2][3][4]ペドロ&カプリシャスの初代ヴォーカルである。宝塚歌劇団在籍中の芸名は弓 千晶(ゆみ ちあき)、その後の初期芸名は西丘 有理(にしおか あり)。1980年前後の時期、俳優として劇場用映画テレビ映画に出演した[1][2][3][4]

人物・来歴
1948年(昭和23年)1月25日、東京都中央区銀座に生まれる。


1963年(昭和38年)4月、川村高等学校に進学するも、満17歳になった1965年(昭和40年)、同校を中途退学し、宝塚音楽学校に進む。1967年(昭和42年)、第53期生として宝塚歌劇団へ入団、同年の星組公演『世界はひとつ』が初舞台公演の演目であった。同期は54名、室町あかね小松美保がおり、前野の当時の芸名は弓 千晶。1968年(昭和43年)10月30日付で同劇団を退団した。


宝塚時代に知り合った亀渕友香ディスコ赤坂ムゲン」で再会して上野義美がプロデュースしていたリッキー&960ポンドに参加、翌1969年(昭和44年)、「ワッハッハ」(CBSソニー)がヒットを記録する。この頃は西丘 有里と名乗る。1971年(昭和46年)、同グループと同じ事務所(小学館プロダクション)に所属するペドロ&カプリシャスにヴォーカルとして参加、同年10月発売の「別れの朝」が大ヒットを記録する。同作の原曲はウド・ユルゲンスの「夕映えのふたり」(ドイツ語Was ich dir sagen will, 1967年)である。


1972年(昭和47年)9月、「ペドロの前野曜子が倒れた」と報道される[5]。1973年(昭和48年)、ペドロ&カプリシャスを脱退し渡米、半年弱の滞在後帰国し、本村俊雄をリーダーとするバンド”マスカレード"にて歌手活動を再開後、1976年(昭和51年)に古巣のリッキー&960ポンドに復帰する。1977年(昭和52年)9月、リッキー&960ポンドとアルバム『ABRAZAME』を録音。「別れの朝」は3ヴァージョンが存在するが、このアルバムに収録されたものが最高の出来との評価もある[誰によって?]。同グループに3年間所属した後、再び脱退する。


1979年(昭和54年)に映画『蘇える金狼』の主題歌『蘇える金狼のテーマ』をリリース。このとき「あの前野曜子が6年ぶりにカムバック!!」と報道されたが[6]、カプリシャス脱退以降の経歴が考慮されていない。1980年(昭和55年)、映画『野獣死すべし』に出演。1980年代初期には自己のバンド"ASANTE-SANA"を組みリサイタルも行った。1982年(昭和57年)から始まったテレビアニメ『スペースコブラ』(フジテレビ)のテーマ曲を歌う。同時期、都内の病院に入院し闘病を開始したとされる[7]


次第にアルコール依存症等が深刻化し、1988年(昭和63年)7月31日、心不全で死去した[7]。満40歳没。訃報についてはリアルタイムに報道されることなく、3年後に『女性自身』1991年4月23日号が初めて報じた[7]


2015年(平成27年)4月18日 第1回のファンの集いが開かれた。

ディスコグラフィ
※ ペドロ&カプリシャスは、ペドロ&カプリシャス#作品を参照。

リッキー&960ポンド
シングル
・『帰らないで(作詞:麻生香太郎)/リップ・ステックのテーマ』 (1976年11月21日)
・『告白・アイ・ラブ・ユー(作詞・万里村ゆき子)/夢物語』 (1977年7月)
・『抱きしめて (作詞・なかにし礼、作曲・フリオ・イグレシアス)/バイ・バイ・シティ』(1977年12月5日)

アルバム
・『ABRAZAME(抱きしめて)』(1977年12月)- 2011年CD化。

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アルバム
蘇える金狼・前野曜子』(1979年8月)- 2011年CD化。
『HALF TIME』(1980年8月)- 2012年CD化。
『一人で(アローン) 』(1981年12月、日本コロムビア、AF-7096-N)- 2012年CD化。
『TWILIGHT』(1982年9月)- 2012年CD化。
『YOKO MAENO memorial collection “BEST” -30th Anniversary-』(2018年7月)

フィルモグラフィ
特筆以外はいずれも「出演」である[1][2][3][4]
蘇える金狼』 : 監督村川透、製作角川春樹事務所、1979年8月25日公開(映倫番号 19789) - 主題歌
探偵物語』第14話『復讐のメロディー』 : 監督村川透、製作日本テレビ放送網東映芸能ビデオ、1979年12月18日放映(テレビ映画
野獣死すべし』 : 監督村川透、製作角川春樹事務所、1980年10月4日公開(映倫番号 110160) - 「沙羅」(鹿賀丈史の恋人のダンサーの同僚ホステス)役
スペースコブラ』 : 1982年10月7日 - 1983年5月19日放映(連続テレビアニメ映画・全31回) - 主題歌

脚注
1. a b c 前野曜子文化庁、2015年8月3日閲覧。
2. 
a b c 前野曜子KINENOTE, 2015年8月3日閲覧。
a b c 前野曜子日本映画データベース、2015年8月3日閲覧。
4. 
a b c 前野曜子テレビドラマデータベース、2015年8月3日閲覧。
5. 
週刊明星[1972], p.52-54.
6. 
週刊平凡[1979], p.159.
7. 
a b c 女性自身1991年4月23日号「「別れの朝」のペドロ&カプリシャス 前野曜子さん3年前に淋しき死! 」
8. 
a b 西丘有里名義。
9. 
映画『蘇える金狼』主題歌。
10. 
映画『蘇える金狼』挿入歌。
11. 
映画『復活の日』主題歌日本語版。
12. 
第20回国際歌祭ソポト大衆賞。
13. 
映画『スフィンクス』イメージソング。
14. 
TVアニメ『スペースコブラ』のオープニングテーマ。
15. 
TVアニメ『コブラ』のエンディングテーマ。

参考文献
週刊明星』第15巻第37号通巻第739号、集英社、1972年9月17日発行
週刊平凡』第21巻第29号、平凡出版、1979年7月発行
女性自身』、光文社、1991年4月23日発行

関連項目 
宝塚歌劇団53期生
ペドロ&カプリシャス

外部リンク
前野曜子 - KINENOTE
前野曜子 - 文化庁日本映画情報システム
前野曜子 - 日本映画データベース
前野曜子 - テレビドラマデータベース
(wikiより)

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前野曜子

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於岩稲荷田宮神社(おいわいなりたみやじんじゃ)は、東京都新宿区神社

歴史
創建年代は不明。元々は田宮家の屋敷神として祀られていた稲荷神の祠が起源である。四谷怪談が広く知られるようになり、当社の信仰が盛んになった[1]


1879年
明治12年)に火災に遭い、東京市京橋区(現・東京都中央区)に移転した。これが、現在の中央区新川にある於岩稲荷田宮神社である[1]


移転後の当地には、小さな祠が残されていた。昭和初期に陽運寺が創建され、お岩信仰の一翼を担っていた[2]。戦後の1952年(昭和27年)に再建された[1]


そういう経緯から「於岩稲荷田宮神社」を名乗る神社が新宿区と中央区に二つ存在することになった。

交通アクセス
四谷三丁目駅より徒歩5分。

脚注
1. a b c 新宿区教育委員会 編『ガイドブック新宿区の文化財(3)(史跡 東部篇)』新宿区教育委員会、1981年、87p
2.
 陽運寺について陽運寺

参考文献
新宿区教育委員会 編『ガイドブック新宿区の文化財(3)(史跡 東部篇)』新宿区教育委員会、1981年
(wikiより)


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江戸時代、文政八年七月、歌舞伎作者 四世鶴屋南北作「東海道四谷怪談」が世に広まり、お岩様が庶民の畏敬を集めました。この地にあったお岩様の霊堂が戦災にあったため栃木県沼和田から薬師堂を移築再建し当寺が開山されました。

境内にある秦山木の下にお岩様縁の祠があったと伝えられ陽運寺の起源とされています。薬師堂の棟札には宝暦七年と記されており二五〇年以上の歴史ある建物です。当堂内にはお岩様の立像が奉祀され、厄除け、ご縁事、芸能事に霊験があると多くの参拝者の信仰を集めています。境内にはお岩様由縁の井戸、再建記念碑等があります。

平成二十五年 ・巳年十月吉辰 於岩稲荷 長照山 陽運寺

陽運寺ホームページ

萩原宗固の墓
( 一七〇三 ~ 一七八四 ) 享年八十二歳

江戸中期の国学者、塙保巳一の師で歌人でもある。

市谷本村町の鈴木家に生まれ、後に萩原氏の養子になって、本名貞辰、通称七左衛門といい百花庵と号した。

幕府の御先手与力を勤めたが、病により辞した後は国学を学び和歌に親しんだ。

晩年は四谷荒木町に住み、八十二歳で没した。

著書に「一葉集」「蜻名遺傳」「蜻鈴日記注釈」などがあり、和歌は冷泉為村に学び、次のような名吟がある。

『夢中郭公』( ほととぎす )

「夢なれや枕ならべてねし人も、

         きかぬ初音の山ほととぎす」
(案内板より)

〇 萩原宗固  ( 

はぎわら - そうこ )

没年:天明 4. 5. 2 ( 1784. 6. 19 )
生年:元禄 16 ( 1703 )

江戸中期の歌人。

名貞辰、号百花庵。

幕府の先手組に所属する幕臣。

烏丸光栄、武者小路実岳、冷泉為村らに師事して和歌・歌学を学ぶ。

江戸の武家歌人として名声高く、また内山賀邸と共に「明和十五番狂歌合」の判者をも勤めて天明狂歌の原点に位置したことでも知られる。

家集『志野乃葉草』、ほかに『一葉抄』『もずのくさぐき』などの歌学随筆が伝わる。

『塙氏雑著』(静嘉堂文庫蔵)も宗固自筆の雑抄。

為村との問答である『冷泉宗匠家伺書』には宗固の苦悩もほの見えて興味深い。

<参考文献> 安藤菊二『江戸の和学者』

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霊巌寺(れいがんじ)は、東京都江東区白河一丁目にある浄土宗の寺院。山号道本山院号東海院。本尊は阿弥陀如来

歴史
寛永元年(1624年)、雄誉霊巌上人の開山により、日本橋付近の芦原を埋め立てた霊巌島(現在の東京都中央区新川)に創建された。数年後に檀林が設置され、関東十八檀林の一つとなった。


明暦
3年(1657年)、江戸の大半を焼失した明暦の大火により霊巌寺も延焼。境内や周辺で1万人近くの避難民が犠牲になったという。万治元年(1658年)に徳川幕府の火事対策を重視した都市改造計画の一環として、現在地に移転した。


霊巌寺には、11代将軍徳川家斉のもとで老中首座として寛政の改革を行った松平定信の墓をはじめ、今治藩主松平家や膳所藩主本多家など大名の墓が多く存在する。また、境内には江戸六地蔵の第5番が安置されている。


幕末江戸の7大火葬場(荼毘所)のひとつ、境内除地に火屋があり、火葬執行の責任者が置かれていた。

文化財
・銅造地蔵菩薩坐像 - 東京都指定有形文化財(彫刻)[1]  
  享保2年(1717年)に造られた、江戸六地蔵の5番目。

・松平定信の墓 - 国の史跡
  陸奥白河藩の第3代藩主で、寛政の改革を行った松平定信の墓。霊巌寺周辺の地名である白河は、定信に由来する。

交通
半蔵門線
都営大江戸線 清澄白河駅より徒歩3分

脚注
1. 東京都文化財情報データベース   

関連項目
関東十八檀林 
成瀬川土左衛門 
霊巌寺 (同名の寺院)
(wikiより)

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戦災で真っ黒に焼けてしまっていて読めないが江東区指定文化財になっている。

九角柱で「南無下品上生即無生」と刻されている。

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 雄松院にあった墓石は、大正 12年の関東大震災で失われて現在では過去帳のみが残っているそうです。

過去帳によると茂左衛門は数代あり、何代目の茂左衛門が紀文と競ったかはよくわからないようです。




〇 奈良屋茂左衛門
奈良屋 茂左衛門(ならや もざえもん)は、江戸時代中期の江戸材木商である。

来歴
通称奈良茂(ならも)。姓は神田(かんだ)。4代目勝豊が知られ、勝豊を初代とする数え方もある。奈良屋は寛永年間1624年 - 1644年)以降、代々江戸・深川霊岸島(れいがんじま)に住んだ。


『江戸真砂六十帖』に拠れば、初代勝儀2代目勝実3代目豊勝までの茂左衛門は、裏店住いの車夫ないしは小揚人足などをして言われるが、4代目が大成した後の由緒書きで誇張が含まれるとも指摘される。


4代目勝豊
寛文2年(1662年)? - 正徳4年6月13日1714年7月24日))は、2代目茂左衛門の子。幼名は茂松、あるいは兵助。号は安休。材木問屋の「宇野屋」に奉公し、『江戸真砂六十帖』に拠れば28歳で独立。材木商として明暦の大火日光東照宮の改築、将軍綱吉の寺社造営などを契機に御用商人となり、一代で急成長したという。吉原遊女を身請けするなど、紀伊國屋文左衛門に対抗して放蕩の限りを尽くしたという。その後は材木商を廃業し、家屋敷を買い集めて地代収入を得る。


勝豊の子である5代目広璘元禄8年(1695年) - 享保10年9月3日1725年10月8日))と、分家した弟・勝屋の代に遊興で家産を使い果たし同家の経営は衰退したという。

奈良茂左衛門」を参照

6代目勝屋5代目の兄広璘の没後に跡を継ぎ細々と足袋屋をしていたようだが、それでも1744年(延享元年)には幕府から買米を命じられており、7代目の頃にも江戸町会所で有力商人に揚げられている。子孫は、大正年間1910年代 - 1920年代)まで千住質屋を営んでいたと言われる。

関連項目
奈良茂左衛門

(wikiより)

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霊巌寺の開山堂で、寛永四年 ( 1627 ) に創立された。開基は雄誉上人で、そのため本尊も雄誉上人である。( 江東区の民俗深川編より )

浄土宗寺院の雄松院は、道本山と号します。

雄松院は、雄誉上人が開基となり、寛永 4年 ( 1627 ) 霊巌寺の開山堂として創建したといいます。

豪商・奈良屋茂左衛門の過去帳や、松尾芭蕉門人の女流俳人・渡会園女の墓があります。

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長谷寺(ちょうこくじ)は、長野県上田市にある曹洞宗寺院である。山号は真田山(さなださん)。

歴史

天文16年(1547年)、真田幸隆真田本城(松尾城)内の種月庵跡地に伝為晃運(晃運字伝)を招聘して創建した。晃運は上野国後閑(群馬県安中市)の長源寺の僧で、幸隆とは旧知の間柄であった。


寺は慶長5年(1600年上田合戦に巻き込まれて焼失。元和8年(1622年)には真田氏松代(現長野市)移転と共に、長谷寺の6世住持が松代に移り、新たに長国寺を開山。長谷寺は長国寺の末寺となった。


寛保
2年(1742年)、長谷寺は土砂災害に巻き込まれる。宝暦7年(1757年)には再び火災で焼失。明治23年(1890年)にも火災に遭い、古い建物は残されていない。現本堂は昭和53年(1978年)の再建である。


本堂の背後に幸隆夫妻と真田昌幸の墓所がある。

交通アクセス
JR北陸新幹線上田駅から車で30分

参考文献
・『信州の文化シリーズ 寺と神社』1981年 信濃毎日新聞社
・『探訪 信州の古寺 禅宗』1996年 郷土出版社  

外部リンク
真田山長谷寺  
(wikiより)


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上田駅から出てくると「真田幸村公騎馬像」が見えます

ここでめっちゃテンションアゲアゲになりますが落ち着きましょう ( 笑 )

上田城築城 400年を記念し、成沢定平氏より寄贈された真田幸村公初陣の騎馬像。

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〇 旗見石

この石は真田七つ石の一つである。

ここからは、北の松尾古城や大日向・菅平方面、南西方面は真田本城や戸石城・上田方面まで望める展望の良い場所である。

このあたり一帯は古くから字名を旗見原と呼んでいる。

一説には戦国時代この石の上で攻めてきた相手の旗印を見張っていたという言い伝えがある。

七つ石はこの他に甲石 ( かぶといし )・御座石 ( ございし )・立石 ( たていし )・的石 ( まといし )・米石 ( こめいし )・茶袋石 ( ちゃぶくろ ) がある。
(案内板より)

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本性寺(ほんしょうじ)は、東京都新宿区にある日蓮宗寺院

歴史
1670年寛文10年)、観智院日詠によって開山された。江戸時代初期、幕臣三田佐兵衛の祖父(妙伝院日香居士)は、当地を隠居所としていたが、1641年寛永18年)、観智院日詠にその土地を譲渡した。日詠は妙伝院日香居士の死去後に、菩提を弔うための寺を創建した。これが当寺の起源である[1]


詠は本堂や庫裏の建設に取り掛かったが、1677年延宝5年)に遷化し、2世住職円智院日成の代にようやく整備された[2]


境内
には、「北向毘沙門天堂」という堂宇があり、毘沙門天像が安置されている。これは元々太田道灌の時代から江戸城本丸に在ったものといわれており、江戸幕府第5代将軍徳川綱吉の時代に移築されたものという[1]


墓地
には、塙保己一の師匠として知られる萩原宗固の墓がある。新宿区の文化財に指定されている[3][2]。他にも和算家馬場正督正統父子の墓もある[1]

交通アクセス
信濃町駅より徒歩7分。

脚注
1. a b c 新宿区立図書館 編『四谷南寺町界隈(新宿区立図書館資料室紀要5)』新宿区立図書館、1971年、p38-40
2. 
a b 本性寺について本性寺
3. 
本性寺新宿観光振興協会

参考文献
新宿区立図書館 編『四谷南寺町界隈(新宿区立図書館資料室紀要5)』新宿区立図書館、1971年

外部リンク
四谷本性寺(ほんしょうじ) 
(wikiより)

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顕性寺(けんしょうじ)は、東京都新宿区にある真言宗豊山派寺院

歴史
1611年慶長16年)、法印賢秀によって開山された。元々は牛込門外に位置していたが、江戸城拡張工事のため、1634年寛永11年)に現在地に移転している[1]

1725年享保10年)に火災に遭い、文政年間(1818年1831年)に至っても、まだ仮堂のままなど、寺運衰微の時期が長く続いた。そのため著名人の墓は特にない[1]

俎大師
当寺の寺宝に「俎大師(まないただいし)」がある。これは弘法大師空海土佐国高岡郡に巡錫した際、家に泊めてくれたお礼として、まな板に「南無阿弥陀仏」の文字を彫ったものという。その後幕末に至り、空海が泊まった家の末裔が大坂に移住し、続いて江戸改め東京に移住した。しかし生活苦に陥り、例のまな板を抵当として料亭「鳥八十」から5を借りた。そして、そのまま鳥八十の所有となった。この鳥八十の主の娘が、後に落語家五代目古今亭今輔の母となる女性である。1934年昭和9年)、弘法大師千百年遠忌に際し、古今亭今輔の母は、この俎大師を当寺に寄進した[1]

交通アクセス
四谷三丁目駅より徒歩10分。

脚注
1. a b c 新宿区立図書館 編『四谷南寺町界隈(新宿区立図書館資料室紀要5)』新宿区立図書館、1971年、p40-42

参考文献
・新宿区立図書館 編『四谷南寺町界隈(新宿区立図書館資料室紀要5)』新宿区立図書館、1971年
(wikiより)


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〇 大逆 ( たいぎゃく ) 事件刑死者慰霊碑

富久町児童遊園の一隅にある「刑死者慰霊塔」がそれである。

1910年 ( 明治 43 ) 5月、幸徳秋水らが天皇暗殺を計画したとして逮捕され、12月10日からいきなり大審院 ( 今の最高裁にあたる ) での秘密裁判に付せられた。

そして翌年1月18日、大逆罪 (  たいぎゃくざい ) として、幸徳ら24名が死刑を判決された。

この事件は、政府が無政府主義者 4人ほどの計画を探知して、これを社会主義者・無政府主義者を一掃するための「大逆事件」と仕立ててしまったのである。

ところが、この事件は海外にも大反響を呼び起こし、アメリカ・イギリス・フランスの労働組合や社会主義者の抗議集会や、日本政府へ当てた抗議文は数百件に上った。

ジャック・ロンドンやバーナードショウらの作家も、痛烈に日本政府を非難した。

日本政府はこれに驚いて判決の一週間後に幸徳ら 12人の絞首刑を執行したが、他の 12人は天皇のお慈悲として無期懲役に減刑された。

そして、ファーブルの「昆虫社会」が、「社会」という言葉のために発売禁止にされるという、「冬の時代」に入っていくのである。

この辺は市谷の監獄あとで、この地での 295人の処刑者を合祀するということで、日本弁護士連合会が資金カンパし、1965年に処刑地の跡に建てたものである。
(「東京歴史散歩 60コース」より)


〇 市ヶ谷刑務所 ( 刑死者慰霊塔 )

市谷刑務所(いちがやけいむしょ)は、かつて存在した日本の刑務所である。1922年までは「東京監獄」と呼ばれていた。


近接して別に「市谷監獄」があった。1903年-1910年明治36-43年)の間、両者が並存していたことになり、しばしば混同されてもいる。

東京監獄・市谷刑務所
東京監獄のルーツは皇居近くの鍛冶橋にあった警視庁鍛冶橋監獄署である。

1903年に内務省(警視庁)から司法省に移管され、東京監獄と改称。

同年6月、東京駅建設のため鍛冶橋より東京市牛込区市谷富久町(現在の新宿区富久町)に移転し、同年7月1日より事務を開始[1]

1922年(大正11年) 「市谷刑務所」と改称された。


当初は未決囚を拘置し、裁判所へ送致することが主な目的であったが、その後既決囚を収容するに至り、死刑囚収監と処刑も行っていた。当時の文献類で「市ヶ谷の未決監」等とあるのは「東京監獄」のことである。


1937年
(昭和12年)、巣鴨刑務所の跡地に移転し、その際に東京拘置所と改称された。

エピソード
永井荷風の作品に「監獄署の裏」(1909年)とあるのは、東京監獄のことである(すぐ北の余丁町に荷風の家があった)。


大杉栄
は東京監獄の未決監の回想を「獄中記」に書いている[2]


三島由紀夫
の『豊饒の海』第二巻『奔馬』で、主人公の飯沼勲が収容されるのも「市ヶ谷刑務所」である。

沿革
1870年(明治3年)12月 鍛冶橋門に未決囚を収容する「監倉事務取扱所」を設置
1876年(明治9年)2月 監倉事務取扱所を警視庁に移管、まもなく鍛冶橋監獄署と改称
1903年(明治36年)3月 警視庁監獄が司法省に移管、鍛冶橋監獄は東京監獄と改称
・1903年6月 東京監獄が鍛冶橋より牛込区富久町に移転
1911年(明治44年) 幸徳秋水大逆事件死刑囚が処刑
1922年(大正11年) 市谷刑務所と改称
・1932年(昭和7年) 李奉昌、大逆罪で処刑
1937年(昭和12年) 閉鎖(豊島区西巣鴨へ移転し、東京拘置所と改称)

市谷監獄
市谷監獄のルーツは伝馬町牢屋敷である。1875年(明治8年)、日本橋小伝馬町より市谷に移転、市谷谷町囚獄役所として設立された(警視庁所管)。位置は現在の新宿区市谷台町すべてと、住吉町富久町の一部であった。


後に市谷監獄と改称。また、1903年(明治36年)に内務省(警視庁)から司法省に移管された。


1910年
(明治43年)に豊多摩郡野方村(現在の中野区)に移転し、豊多摩監獄となった。

沿革
1875年(明治8年) 市谷谷町囚獄役所が谷町、富久町に設立
1879年(明治12年) 高橋お伝処刑
1903年(明治36年) 市谷監獄と改称
1910年(明治43年) 市谷監獄が豊多摩郡野方村に移転

跡地
現在の靖国通り住吉町交差点から市谷台町へ登る坂は、市谷刑務所への入り口であり『刑務所通り』と呼ばれていた。 現在の坂は、住吉町交差点から見て右側に、もともとの道幅の約倍の幅に拡張されている。 現在の坂の中央部から左側(左車線)が、もともとの『刑務所通り』にあたる。


刑務所跡地の一部は現在『富久町児童遊園』となっており、公園内の刑死者慰霊碑が立っている場所に処刑場があったと言われる。碑は1964年(昭和39年)、日本弁護士連合会が建立したものである。

脚注
1. 『官報』第5993号、明治36年6月25日。
2. 
大杉栄「獄中記」[1]     

出典・参考文献
・新宿の歴史を語る会『新宿区の歴史』<東京ふる里文庫2>名著出版、1977年
大杉栄著『獄中記』土曜社、2012年
(wikiより)

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⇧ 富久町児童遊園

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ピストン堀口(ピストンほりぐち、1914年大正3年)10月7日 - 1950年昭和25年)10月24日)は、日本プロボクサー。本名:堀口 恒男(ほりぐち つねお)。栃木県真岡市出身。昭和初期における日本ボクシング界の象徴的存在で「拳聖」と呼ばれた。元日本フェザー級・東洋フェザー級および日本ミドル級チャンピオン。次兄から順に、基治、宏(元日本バンタム級チャンピオンの堀口宏)、喬久という堀口4兄弟(いずれもプロボクサー)の長兄。孫は元ボクサーの堀口昌彰で、日本ライト級2位に格付けされていた。現在はピストン堀口道場の指導者を務める。


「ピストン堀口」の呼称は正式なリングネームではなく、あくまで本名の堀口恒男が正式なリングネームなのだが、いつの頃からか「ピストン・堀口恒男」との異名が新聞記事などで使われるようになり、一般に「ピストン堀口」の呼称が定着してしまった[1]

略歴
警察署長の子として栃木県真岡市で生まれる。旧制真岡中学時代は柔道部の主将を務め、県下で有名な強豪選手であった。真岡中学の先輩で「日本ボクシングの父」と称される渡辺勇次郎が弟子達を率いて真岡市でボクシングの模範試合を行った際、堀口は腕試しのつもりで飛び入り参加しプロボクサー相手に3ラウンドを戦い、渡辺に度胸と才能を評価されて1932年に上京し、早稲田大学に通うかたわら、日本拳闘倶楽部へ入門した。


自己流でトレーニングをして、上京からわずか半月後に初試合を行いKO勝ちを収める。翌1933年にプロデビュー。その後、かつての名選手岡本不二の指導を受け、デビューから5引き分けを挟んで47連勝という驚異的な記録を残す。その間、元世界王者のエミール・プラドネル(フランス)と8回戦で引き分けたり、B・D・グスマンを破り東洋フェザー級チャンピオンまで上りつめるなど、世界クラスの実力を持っていたが、太平洋戦争の影響もあり世界王座に挑戦する機会には恵まれなかった。特に、1941年5月28日両国国技館で行われた笹崎僙戦は日本ボクシング史上「世紀の一戦」と呼ばれるほど有名で、この試合に勝利して以降は「剣聖」宮本武蔵になぞらえて「拳聖」と称されるようになった。

ピストン戦法
対戦相手をロープに追い詰めての休まぬ左右の連打を得意とし、「ピストン戦法」と呼ばれた。その無類のスタミナは、10分間連打でミット打ちを続けてなお息切れ一つしなかったという。堀口の連打が始まると「わっしょい、わっしょい」の大合唱が起こる程の人気であった。


ただし、1936年ハワイ巡業を行った際、日本では熱狂的に受け入れられた捨て身のピストン戦法は、先進国であった当地の新聞に「ボクシングと呼べるものではない」と酷評されている。この頃、既にアメリカのボクシング界ではフットワークやディフェンスの技術が重要視され、攻防一体のスタイルが主流となっており、ディフェンスを軽視した堀口のファイトスタイルは時代遅れのものであった。この時の体験が契機となり剣道空手など武道を通じて精神修養に励み(師匠は小西康裕)、プロボクサーとしてではなく拳闘家として精神力と肉体の練磨に一層努めるようになった。

主な戦績
1933年3月、早稲田大学在学中(後に中退)に日本拳闘倶楽部(日倶ジム)からプロデビュー。
1933年7月3日、元世界フライ級王者エミール・プラドネルフランスの旗 フランス)と8回戦で引き分け。
1934年12月26日、日本フェザー級王座獲得。
1936年5月8日、東洋フェザー級王座獲得。以後1度防衛。
1937年1月4日、デビュー以来40連勝を達成。
1941年5月28日笹崎僙(後の笹崎ボクシングジム会長)に5回TKO勝ち。(試合詳細
1944年1月25日秋山政司に10回判定勝ち。
1946年7月14日、通算100勝達成。
1948年3月28日、日本ミドル級王座獲得。
1950年4月22日、現役引退。

最終戦績176戦138勝(82KO)24敗14分[2]

引退後
戦後はボクシングの他探偵業もしていたが、現役引退から半年後の1950年10月24日午前0時過ぎ、東海道線線路上を平塚方面から茅ヶ崎方面へ歩いている処を列車に撥ねられて轢死。泥酔して自宅に近い下車駅(茅ケ崎)を寝過ごしてしまい、線路沿いを歩いて帰る途中だったといわれている。


1937年にピストン堀口が茅ヶ崎市幸町に練習場として開いていたジムを、長男・昌信が引き継いで「ピストン堀口道場」として同市茅ヶ崎1丁目に開設し、現在は孫にあたる昌彰が会長の座を受け継いでいる。3代続けての早大ボクシング部である[3]。道場にはピストン堀口の書「拳闘こそ我が命」の額が掲げられ、好んだ緑色がジムのマット色になっている。


墓は茅ヶ崎市内の海前寺にあり、墓碑銘に「拳闘こそ我が命」と刻まれている。

エピソード
合気道開祖の植芝盛平の道場へ行き、植芝に対して挑みストレートを打ったが、その手を鷲掴みにして投げられたことがある(塩田剛三『合気道修行』より)。
警察庁逮捕術制定委員を務めた[4]
梶原一騎は若いころ、喧嘩や格闘技にのめり込んでおり、憧れの存在がピストン堀口であった。

映画
・リングの王者(1935年日活、ピストン堀口自ら主演で、清瀬英次郎がメガホンを執った[5]

漫画
・ピストン堀口物語 著者 梶原一騎 影丸譲也   

脚注
1. “4万円”チケットがダフ屋で“60万円”に…戦前の異常人気ボクサー、“拳聖”ピストン堀口とは何者だったのか?(2/4) Number Web 2021年4月25日
2. 
ピストン堀口道場ホームページ「ピストン堀口って?」より 
3. 湘南経済新聞 
4. 『警視庁武道九十年史』404頁、警視庁警務部教養課
5. 
リングの王者 日活

出典・参考文献
ピストン堀口の風景(1988年、ベースボール・マガジン社刊、山本茂著)ISBN 4583027044
・ETV特集 シリーズ父の日記を読む『俺は拳闘家だ! 〜ピストン堀口の「拳闘日記」〜』(NHK教育テレビジョンで1994年9月6日に放送、NHKアーカイブスで2007年9月2日再放送)
・わが人生の時の人々 石原慎太郎 文芸春秋(紹介のエピソードは199ページに所収)

関連項目
男子ボクサー一覧      
ボクシング日本王者一覧


外部リンク
ピストン堀口道場 公式サイト

(wikiより)

27 ピストン堀口

ピストン堀口

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⇧ 拳闘こそ我が命

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黒板 五郎(くろいた ごろう)
演 - 田中邦衛

1935年1月5日生[40]。本作の主人公

先祖は阿波徳島藩出身[41][注釈 16]

八人兄弟の五男[注釈 17]

1950年富良野工業高校を卒業[42]

卒業と同時に集団就職で上京し、東京田端の中村製鋼所、東京上板橋あけぼの自動車修理工場、中央区築地高津自動車サルベージを経て、青山三丁目の坂田商会ガソリンスタンドに入社する[43]

1968年のサルベージ会社勤務時代に礼子と知り合い、同年結婚[44]

坂田商会淀橋支店で働きながら一家4人で暮らしていたが、妻・令子の不倫をきっかけに1980年純と螢を連れて郷里の富良野へ帰ってくる。

その時の所持金はわずか7、8万円だった[45]

その後、令子とは正式に離婚したが、それから2ヵ月あまり後に死別する。

富良野では中畑木材の仕事を手伝ったり、小規模の農業や炭焼きをしたりして、生計を立てる。

発想力と行動力があり、沢から水道を引いたり風力発電を作ったり、井戸を独力で掘ったり、廃品で家を建築したりする。

性格は基本的に温厚だが、頑固なところもあり一度ヘソを曲げると手が付けられなくなることもある。

また、初期には内弁慶なところもあり、外で面白くないことがあると家に帰ってから子供たちに当たることもあった。

「'83冬」では内地(本州)へ出稼ぎへ行く様子も伺える。

みどりの借金を被せられ土地を追われる危機に瀕するも、村の仲間たちの助けもあり危機を逃れる。

「'84夏」では出稼ぎから帰った当日に丸太小屋が焼失する事件が起き、心身が疲弊する様子が描かれた。

「'89」で再び丸太小屋の制作に着工するが、「'92」では一人の寂しさから「アキナ」という柴犬を飼いはじめる。

やがて、純がタマコを妊娠させてしまい、純の不始末を購うため上京して謝罪し、建設用の木材を売り払って100万の金を作り慰謝料として支払う。

かわりに廃石を利用して石の家を建設する。久しぶりに3人が富良野に集う大晦日、螢から就職のため札幌に行くと宣言されて失意に打ちのめされ、純が和久井家に居る螢を迎えに出た間に石の家の建設作業中に屋根から転落。材木に足を挟まれて猛吹雪の中遭難。

未明になっても帰らないことを心配した純が近隣を訪ね歩いた際に加納から建設現場の話を知らされ、三人が駆けつけたことで発見され、九死に一生を得る。

「秘密」では螢の駆け落ちに動揺するが娘の想いをどうにか理解しようと苦悶する。

純の彼女であるシュウから慕われ、二人の交際を応援する。「時代」では無農薬農法に熱意を注ぎ、五郎を慕い教えを請う完次に目をかけていたが、疫病の発生と完次に対する草太の惨い仕打ち、完次の自殺未遂と夜逃げについて草太を責めることもなくじっと見守る。

妊娠し、正吉と結婚すると言ってきた螢には感動の余り涙を流すが、和夫から螢の子の父親が黒木だと聞き、動揺して雪子に相談。

やがて疑惑は確信となるが、それでも螢を支えようという正吉の男気に感謝し、螢の結婚式では酔い潰れるほど舞い上がる。

草太の死後、彼の遺した牧場を純と正吉が継ぐ運びになったことを危惧していた。

「遺言」では五郎の危惧は現実のものとなり、牧場の破綻で五郎の家族は離散状態となってしまう。

それでも恨み言一つ言わずに初孫の快を溺愛し、返済のため富良野を離れた純と正吉を案じていた。

富良野を訪れたシュウから結婚の報告を受けるが頑なに純の所在は明かさず、彼女の手紙を純に送る。

健康面に不安を感じるようになり、螢の強い勧めもあって精密検査を受けるがそのことで自分の死を意識するようになる。

結果的に杞憂だったが不安は拭えず、新吉の勧めで山下に弟子入りして「遺言」を書き始める。

中畑家に入り婿することになった正彦が五郎を慕い、すみえとの新居作りを手がけることになる。

やがて、みずえの病気が発覚。

愛妻の余命を知って動揺する和夫を支えつつ、事情を知る寛次らと共に突貫工事を進める。

その頃、羅臼から訪ねてきた吾平を事情を知らずに建築工事に巻き込み、それを謝罪して自宅に泊め、酒を酌み交わす。

「流氷を見せたい」という純の招待で羅臼を訪れるが、そこで純から結との結婚を相談される。

だが、結が人妻だと聞いて動揺し、純の長時間の説得でようやく納得したものの、吾平の遭難事故に巻き込まれてしまう。

生還した吾平から思わぬ歓待を受けるが、そこにみずえの訃報が届き、純と共に富良野に急ぎ戻り、みずえの死に落胆する和夫を見守る。

やがて、純に嫁ぐ覚悟で富良野に来た結を歓迎し、螢も正吉からの手紙で安堵。久しぶりの家族団欒を楽しむ。

だが、正吉と暮らすため螢が富良野を離れることになり、快との別れに最後まで抵抗し、みっともない悪あがきをする。

完成した五郎の遺言は物語を振り返り、締めくくるものとなった。

倉本の設定では学生時代は女好きであり、付き合った女性はすぐ妊娠することから「一発屋の五郎」というあだ名がつけられていた[46]

なお、「黒板」という姓は倉本が若い頃に片思いした女性に由来するという[47]
(wikiより)

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⇧⇩ 黒板五郎の石の家。

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⇧⇩ 石の家に向かい合って左側にある「 黒板五郎の記念碑 」

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⇧⇩ 田中邦衛さんのお墓が造られるとか・・・

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千代田区外神田・宮本公園内にある遠藤家旧店舗・住宅母屋です。

遠藤家旧店舗・住宅主屋は、江戸時代以来、材木商を営んできた遠藤家(屋号「井政」)の店舗兼住宅として昭和二年(1927)に鎌倉河岸(現 内神田一丁目)に建てられました。

その後、昭和四十八年(1973)に都心の開発に伴う立替えの際、旧家屋の解体を惜しみ府中市へ移築されましたが、文化財指定に伴いここ宮本公園に移築されました。

この建物は、戦前の店舗形式をよく伝えている点、江戸時代からの伝統的な建築技術を受け継いでいる点、また、材木屋という職業柄、良材や銘木が建物全体に使用されている点などから、貴重な建築物といえます。

文化財指定にあたり、できる限り鎌倉河岸に所在していた時期の姿に戻すこととし、本来あった土間を復元しています。
また、一階六畳の茶の間は、茶室として改修されています。

現在では手に入れることが難しい屋久杉や秋田杉などの銘木や良材をふんだんに使い、「江戸黒」と呼ばれた黒漆喰の外壁や、新しい時代の銅板などの建築材料を取り入れて建築したものです。

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授与所でお頒けしている

勾玉をお水で浄め

美と長命を祈り

お守りとしてお持ちください。
(案内板より)

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工藤 安世(くどう やすよ、元禄8年(1695年)-宝暦5年2月20日1755年4月1日)は、『赤蝦夷風説考』の筆者工藤平助の養父で仙台藩江戸詰の藩医絵師。号は丈庵(じょうあん)。平助の娘工藤あや子(只野真葛)の著作『むかしばなし』に詳細が記されている。

略歴

工藤丈庵安世は、仙台藩第5代藩主伊達吉村寛保3年(1743年)に江戸品川袖ヶ先に隠居するにあたり、その侍医として300石で召し抱えられた。延享3年(1746年)頃、仙台藩医になる際に妻帯が条件であったため、23歳年下の上津浦ゑんと結婚し、同時に紀州藩江戸詰の医師長井大庵の三男であった13歳の平助を養子とした。


『むかしばなし』によれば、養子平助にはまったく医学を授けなかった。しかし、実家で学問らしきことをほとんどしていない平助に対し、朝、『大学』を始めから終わりまで通して3度教え、翌日まで復習するようにと命じてみずからは出勤するという教授法で、10日ばかりで四書のすべてを教え、それによって平助は3ヶ月程度で漢籍はすべて読めるようになったという[1]


宝暦
元年(1751年)、伊達吉村逝去の際、願い出て藩邸外に屋敷を構えることを許され[2]、伝馬町に借地して二間間口の広い玄関をもつ家を建てた。宝暦5年2月20日に死去。享年60。墓所深川東京都江東区)の心行寺にある。

人物

丈庵安世は、すぐれた医師であったばかりでなく、学問歌道書道および武芸百般に通じていた。また、「うき絵」という一種の遠近法の手法を駆使する絵師でもあった。仙台藩では安世に対し和歌添削なども命じている。にあたる工藤あや子(只野真葛)は、『むかしばなし』のなかで「工藤丈庵と申ぢゞ様は、誠に諸芸に達せられし人なりし。いつの間に稽古有しや、ふしぎのことなり」と記している。同書にはまた「ぢゞ様はそうぞくむき巧者にてありし」の記述があり、蓄財も巧みであったといわれる。また、京都にいた蝦夷開拓論者の並河天民から北方に関する情報を得ており、蝦夷地開発は安世にとって長年の重大な関心事であった。


養子となった工藤平助には医業や自分の仕事向きのことは伝えなかった。『むかしばなし』には、あるとき、平助が茶屋で休んでいたとき「工藤丈庵様のお子様か」と声をかけられた逸話が収載されている。声をかけられた平助が「左様だが」と答えると、「丈庵様は格別の御名医でありました。自分が若い頃、松坂屋手代が病を得て様々に治療したがいっこうによくならず、自分がたのまれて丈庵様のところへいき様子を申し上げると、『患者はかねてよりアサツキを好んで多食していないか。それなら行ってみるに及ばない。をひかえて生姜のしぼり汁を一日に茶碗いっぱい、三度斗に用いよ。平癒するであろう』とおっしゃられて、その通りにしたところ完全に治りました。そのとき、わたしは工藤様の御紋所を見覚えていたのです」と言われたという[3]


脚注
1. 関(2008)p.9-10
2. 
『むかしばなし』に「御家中に外宅といふはぢゞ様がはじめなり」の記述がある。
3. 
武田(1996)p.333


出典
武田昌憲「工藤平助」朝倉治彦三浦一郎編『世界人物逸話大事典』角川書店、1996年2月。ISBN 4-04-031900-1
関民子『只野真葛』吉川弘文館<人物叢書>、2008年11月。ISBN 4-642-05248-8

(wikiより)

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石坂 宗哲(いしざか そうてつ)は、江戸時代鍼医名跡。特に指定しない場合は、(竽斎うさい)石坂宗哲を指すことがほとんどである。なお、江戸時代の出版物では「石宗哲」と「石宗哲」が混在するが、石坂が多い。また、明治あるいは昭和以降の出版と論文では石坂と記述される事がほとんどである。

1. 竽斎 石坂 宗哲(うさい いしざか そうてつ)1770年明和7年) - 1842年1月1日天保12年11月20日))は、江戸幕府第11代将軍・徳川家斉の侍医を務め[1]、当時多数流派に分かれていた経穴(ツボ)を整理し、統合した。現代に繋がる針の基礎を作り、また、石坂流鍼術を創始した。名は永教、は竽斎(医学史家、呉秀三は当初宗哲の号を竿斎とみなしていたが、後に竽斎と改正した、竽とは竹の笛で勉学中家が貧しかったので市中を巡り按摩をして生活の糧としたので家宝とし号を竽斎とした。
2. 石坂 宗哲(宗圭)は、竽斎石坂宗哲の娘婿で、初め宗圭を名乗った。
3. 石坂 宗哲(その他)は、石坂宗哲の名跡を名乗った人で、町田栄治の著書に存在に確認できる。

竽斎石坂宗哲
甲府の藤原家に生まれる。幼名は文和、永教[2]、号は竽斎。後に石坂家が江戸の大火(後述)にあったせいか幼少の頃はほとんど記録がない。石坂家二代目、石坂宗鐵の長男が幼くして病弱となり後継ぎが出来ないので文和を養子にしたいと依頼する。文和は当時5歳ごろとおもわれる。養祖父石坂志米一、養父石坂宗鐵は共に杉山流鍼治導引稽古所(世界初の盲人教育機関)で鍼術、導引、按摩を学ぶ。文和も同所で鍼灸、導引、按摩を学ぶ、教科書は初等科では杉山流三部書(療治之大概集、選鍼山要集、医学節要集)中等科では中国古典鍼灸、内経、難経など、また鍼管法、杉山真伝流の表之巻を学ぶ。高等科では杉山流を他人に伝授する教育を受ける。杉山真伝流、目録之巻物一巻、真伝流中之巻、奥龍虎之巻を学び、終了時には門人神文帳が伝授される。1796年寛政8年)12月22日、小普請医となり、鍼科と漢方科の教育機関の創設を命じられ金二十両を賜り甲府へ赴任し、翌1797年(寛政9年)6月、甲府医学所を興す[1][3]。初年度に200人以上の生徒が全国から集まる。教育内容は西洋解剖学、生理学を含み現在の鍼灸教育の先鞭となる。また漢方医学科を設けられ校内に3000坪の薬園があった。


1799年(寛政11年)8月5日、妻の高子が没、1800年(寛政12年)に頭取の宇佐美道茂が病で急死。同年5月15日、任務を果たして甲府より江戸に戻る。なお甲府医学所は明治元年まで東洋医学の教育と治療を行った。1802年享和2年)11月22日、寄合医師に進み、禄百俵を給せらる(この時、御目見以上の身分になったものと推定される)。なお1803年(享和3年)に奥医師(鍼科)に進んだものと考えられ、1812年(文化9年)9月11日将軍徳川家斉に拝謁(その時家斉は、「私の祖父の命で一橋家から将軍職を絶やさないように沢山の子を持つように」と言付けられた、そして「そちの鍼を打つことで子宝を授かることが出来るか」と尋ねた。宗哲は「出来ます」と言う)。同年12月16日、法眼に叙せられ録二百俵を給せられる。


文政
年間には、後述するようにフィリップ・フランツ・フォン・シーボルトと交流し解剖学を学ぶ、そのことから「シーボルトの弟子」と記載される例[4]もある、またシーボルトに鍼を教えていたのは宗哲であり、そういう意味ではシーボルトの師匠(シーボルトおよび宗哲双方にその意志は無いが)というのがふさわしい。シーボルトが江戸参府をした時に宗哲と面会する、シーボルトは宗哲に、「私の腕に鍼を打ってくれるように」と頼む、宗哲は子の宗貞に鍼を打たせた。シーボルトは痛くもなく、炎症もおこらなかったので感心した。そしてシーボルトは「それでは貴方の腕を切って繋いで見せましょう」と冗談を言ったが、宗哲は愚弄されたと思った。なお、シーボルトが帰国する1829年10月(文政12年9月)の直前、「文政十二年三月廿一日の大火記録」によれば「類焼卸医師」の住所氏名に「石坂宗哲 同宗貞」とあり、火災に遭っているようである[5]。シーボルト帰国後は、私塾,定理医学書屋、出版部


1804年(文化元年)には陽州園を設立して後進の指導に当たった[3]1841年、隠居。子の宗貞が先に没していたため、孫の宗元が継いだ。1842年1月1日天保12年11月20日)死去、深川増林寺に葬られる。


石坂氏は元文年間より江戸幕府に仕えていたが、『寛政重修諸家譜』編纂時点では御家人身分であったため同書には掲載されていない。また、宗哲は世襲名で子孫も襲用しており、そのため伝記には混乱が見られるので注意を要する。

業績
石坂流鍼術の創始者で、多くの著書を遺した。1822年にはオランダ商館医「的由児里无吉」(Nikolaas Tullingh)と出会い『鍼灸知要一言』を与える。テルリンキは「初めて鍼術について聞きました。軽いことではありません。本国の医師に伝えて、行われることを願います。鍼の実技をぜひ行って下さい。今の機会を失うことを恐れます。この大略を聞かせてください」と頼んだ。よって『知要一言』を訳官、中山作三郎に渡す。訳官この書を彼に通訳し、長崎に持ち帰る。宗哲は東西の医学統合を試みて『栄衛中経図』を著した。同著は、パルヘイン(Johan Palfyn)著『人体解剖学書』の血管図を取り入れたものと見られる[1]、これはシーボルトに頼んで借りたものである。また宗哲はシーボルトに神経図を貸してくれるように頼んだ。シーボルトは1826年(文政9年)3月15日江戸参府の際に神経図を宗哲に借与する。宗哲はまた、『鍼灸知要一言』『九鍼之図説大略』『灸法略説』『鍼灸広狭神俱集』『鍼灸説約』鍼灸図解』喜多村彦兵衛の『経絡図』および鍼治療道具一式『栄衛中経図』二組などを献上している。[6]シーボルトは「先生にもらった鍼法は、翻訳、印刷して国中に広めて、人々の宝としたい。謹んであなたの大いなる宝を拝します。これをヨーロッパ中に伝えて鍼灸が優れた治療法であることを知らせます。実に仁の人の教えであり、利は薄いし、この書は義の海の指南であります」。シーボルトは1833年に著した"Niipon"(日本)において、石坂宗哲ともに鍼治療と治療道具一式を2ページにわたって紹介しているほか[1]、帰国後に『鍼灸略説』を翻訳したと思われる論文を学会に発表している[6]。海を渡った宗哲の著作物には"Sotcts"とラテン語表記されていた[6]。なお、シーボルトに献じた鍼は、浅草の神戸源蔵(かんべげんぞう、代々世襲名初代)のものであり、銀鍼一番から九番、銀製九鍼、この神戸源蔵の鍼は詳細に模写された論文が公開された。シーボルトは宗哲にお礼として阿片少々、ランセット2本、流金留め針をおくる。石坂宗哲が献じた針および書籍のヨーロッパにおける研究はほとんど進んでいないが、チャールズ・ガブリエル・プラパーズとアレキサンダー・ウッドによって注射器が発明されたのは、1853年である。


シーボルト以前にオランダ人医師のウィルレム・テン・ライネは1674年に将軍家綱の病気治療に来日、ヨーロッパに日本の植物、鍼灸を紹介する。


宗哲の業績は石坂流鍼術の理論と技術を完成させたことにある。彼の理論によると、気血の鬱滞により様々な病気となる、その気血の主流である衝脈、(衝脈は血の海、十二経の海、彼は下降大動脈を大衝脈と呼び衝脈と断定した)また陰経の主流任脈と陽経の主流督脈を開通する技術を開発した。衝脈が気と血液の循環を総括、調和を司るとした。しかし衝脈は身体の中心軸にあり直接鍼を行えないので、背部督脈、華佗侠脊、膀胱経、腹部任脈、腎経を利用することで衝脈を開通すると言う。


衝脈は循環器系、呼吸器系、中焦を司り、督脈は脳神経系、上焦を司り、任脈は消化器系、生殖器系、下焦を司ると言う。


その技術として石坂流三刺を開発する。それらは、誘導刺、連環刺、尖地刺である。


誘導刺は督脈、華佗夾脊、膀胱経、任脈、腎経に散鍼を行う技術。


連環刺は身体の部分で円環状の部分に三日月形に散鍼を行う技術。


尖地刺は水平刺で肩甲骨内側刺鍼などに利用する。


いずれの技術も気の流れを利用した技術であり、武道の合気術と同様の動きである(医武同源)。


宗栄衛三気弁、栄衛中経図などにより、宗脈を神経、栄脈を動脈、衛脈を静脈、中経を門脈と解釈する。


宗哲は弟子に対して「お前たちは鍼で按摩をしているだけで、医者などという大それたものではない」と教えた。


また「鍼は臍下丹田を使って行い、宇宙の気と繋がって、体全体を波のように前後に揺らして行なう」と言った。


弟子に対して「師の姿を遠くから見て、体全体の動きを観察するように」と言った。


また「押手は、鍼を打ったあと皮膚を拇指と示指で摘み上げて時計回りに回転させる、刺手は鍼を持ち手の重みでゆっくりと下してゆく。これによりどんな硬結にもすんなりと鍼は入ってゆく」と言った。

住居
住居は、江戸の日本橋濱町山伏井戸(明治期に両国に統合された後に、現在日本橋浜町)である。1776年から同じ山伏井戸に杉田玄白が住んでおり[7]至近距離である。また、安政六年の地図には、石坂宗哲家(この時の名義は子・石坂宗貞)の西4軒隣に杉田玄丹と記載がある[5]。杉田玄白は、1817年に江戸で亡くなっているが、終生この地に住んでいたとすれば宗哲35歳の頃までわずか数軒隣に杉田玄白が住居し、塾を開いていた事となる。この山伏井戸は至近距離の薬研堀と共に医者町を形成しており、娘婿の石坂宗桂宅は東北10軒隣に住んでおり、薬研堀の目前である。また、石坂宗桂宅2軒隣の水谷玄丹は一橋家侍医であり、また、宗哲家の道を挟んで3軒となりが一橋家下屋敷である。他にも至近距離に順天堂病院を創立する事となる佐藤泰然、シーボルト門下の竹内玄洞、奥医師多紀法印家、半井策庵、土生玄碩の子である土生玄昌家など当代随一の医者が集中しており、付近で医学会の情報ネットワークを形成していた[8]

人間関係
家族
・石坂志米一(石坂宗権、源与一)石坂家初代-竽斎宗哲の養祖父。越後の国小千谷の上杉家の家臣の家に生まれる。幼少のときに盲目となる。小千谷の当道座で按摩を学ぶ、後に江戸に行き杉山流鍼治導引稽古所で鍼灸を学ぶ。志米一は杉坂かの一に師事する、かの一は島崎とえ一に師事、とえ一は三島やす一に師事、やす一は杉山和一に師事する。徳川吉宗の時代の鍼医で検校(91番目)の地位(1733年)にまで昇った。1736年に西城の鍼科20口、西の丸、大奥の奥方、側室の治療にあたる。同年4月に将軍徳川吉宗に拝謁、日本橋四丁目に住む。延享2年(1745年)7月2日死去。戒名を寿仙院前石坂検校実翁宗権居士。杉山和一の十大弟子の一人。米山(男谷)銀一(米山検校、勝海舟の曽祖父)は志米一の弟子。

・石坂宗鐵-竽斎宗哲の養父(石坂家二代目)。1775年(安永4年)8月26日没、妻、喜春(-1794)

・石坂宗貞-宗鐵の実子長年病弱であった、1780年(安永9年)7月13日没、戒名を園仁院高絋智月居士

・石坂喜春-宗鐵妻

・石坂高子-竽斎宗哲妻。1799年(寛政11年)8月5日死去

・石坂宗貞-竽斎宗哲の子。1842年没。鍼灸説約(1811年)の冒頭に校正として「男 道常宗貞」と記載がある。なお、一部鍼灸説約の印字が悪く宗員と読めるものもあるようだ。江戸時代に出版された地図には宗哲の住んでいた住居と同じ位置に宗貞とある事から住居相続しており、当初後継者と考えられていた可能性が高いが病死した。1843年(天保14年)7月4日西城の奥医、奥奉公(これは手続上のみで1842年に没している)

・石坂宗得(-1815)

・石坂宗元(四代)-1843年西城の奥医となる。

・石坂宗圭-道弘、道宏、楽園、竽斎宗哲の娘婿。後に、宗哲を襲名した。宗哲の著書『医源』の序文を書く。日本医師会 昭和8年5月例会に島田筑波が竿斎宗哲の没年を特定し報告[9]するまでは竿斎宗哲と混同されていた。1863年(文久3年)2月15日没

・石坂宗秀、復斎、岡宗益(宗圭妻)1843年(天保14年)12月3日没

石坂周造 宗順(1832-1903)-石坂宗哲(おそらく宗圭)の養子。ただし、晩年に山伏井戸の実家で出産された逸話を語っており、娘婿の立場である宗圭の望まれぬ非嫡出子として生まれ一旦外に養子に出された逸話を語っている事から、宗圭の後継者病死の後に戻された実子(戻り養子)である可能性が高い。妻はけい(山岡鉄舟の妻の妹)侍医の家に生まれ、石坂宗順を名乗り石坂塾に学ぶも、尊皇攘夷の意志を強く持ち、幕閣を斬るビラを配っていた所、幕府に捕縛される寸前に乳母から知らせを受けて出奔した。清河八郎の同志で、清河が幕府に殺されると、死体から清河の首を打ち取る振りをして首を取り戻し弔った。山岡鉄舟の義弟になり幕末に倒幕で活躍しようとしたが、ここで捕縛され切腹は逃れたものの牢に入れられ活躍できずにいた。同輩の士が維新の功績で知事などに栄達する中で維新後は実業家に進み、後に明治期に石油産業の祖として活躍した。日本の石油の父などと称されたが、やはり鍼医としては継がずに石坂流鍼灸術が途絶える遠因となった。豪快破天荒な性格で、時に山師などと呼ばれ、繊細で緻密な鍼医にはもともとから性格的に向かなかったと見られる。

・石坂宗寿-中山宗淑の妻

・石坂宗壁-宗貞の妻、1853年(嘉永6年)4月3日没

・石坂宗元(五代目)-1862年(文久2年)8月28日没

・石坂宗貞(六代目)-(-1855)

・石坂宗文(七代目)-宗信、1843年(天保14年)生まれ、1868年(明治元年)5月15日没

・石坂宗哲(八代目)-義宗、1891年(明治24年)4月15日没

・石坂晧(九代目)-(-1958)

・石坂一夫(十代目)-(1936-)

・その他 - 石坂宗哲の書状などに孫を失った記載があり。はっきりしないが病死した子孫がいく人かいたようである[10]。後継者に不幸が続き、後継に不安を持ち万が一の時には石坂流を頼むという趣旨の手紙が宗哲弟子の中山宗淑の子孫、町田家に残されているという。

門下
・中山宗淑 - 石坂宗哲の「第一門人」[11]と記載される事もある鍼医、妻の宗寿は水戸藩の侍医。江戸の本家石坂流が途絶えたとされる事が多い。本家は明治政府の医療法改正により医師のみが鍼を行うことが出来るようになりを廃業して、按摩とニンニク灸を行う。現在石坂流を伝えるのはこの家系である町田家とされる事が多い。宗淑の子が、中山浅之進、その子が中山けざし、その夫が町田繫吉(-1931)、その子が、町田吉雄(1915-)、町田栄治(1922-)。

・田中信行 - 鍼灸説約のあとがきに見える門人。あとがきには「門人 江左里正 田中信行識」とあり、当時としては貴重な約2ページに及ぶあとがきを任されている事から、かなりの高弟と思われるがはっきりしない。鍼灸説約のあとがきの記述日時は「文化壬申(9年)夏五月」で、東都書舗版、蜜月堂版共に記載がある。

・斎藤宗甫 - 鍼灸説約の校正を石坂宗貞と共に行った甲斐の門人。

・川俣文哲

・土橋宗魯

・土橋保輔

・乙黒宗魯

・岩下宗魯

・吉田秀哲

・中山浅之進

交友および関係者
・杉本良仲 - 鍼医。鍼灸説約の序文に「極鍼経」と絶賛する文を寄せている。掲載時の署名は「侍醫法眼杉本良仲誌」と捺印されており、当時を代表する人物だったと推測される。東都書舗版、蜜月堂版共に記載がある。

・它山 唐公愷 - 知要一言の序文寄稿者。序文には宗哲を竽斎先生と記載し鍼に解剖の知識を活かした事や西乙福児篤(シーボルトの当て字)への言及があり諸国に鍼治療があるのを知らしめるとある。儒学者の堤它山の名が公愷であり、また、号として它山を使用していた[12]事から、堤它山の事と思われる。佐藤一斎の弟子で、佐久間象山から見て堤它山は兄弟子にあたり、また学問所では頼山陽などが同僚[13]である。漢方医川村寿庵、錦城(日本名山図絵を谷文晁と共に作成する)と親交があったと見られる。知要一言の序文に錦城翁の名前がありこれは川村寿庵錦城と思われる。1849年没。

・川村寿庵 - 錦城、江戸の有名な漢方医、安藤昌益の弟子、川村快庵の婿養子となる。奇行で有名、治療は午前のみ、午後は笛を吹いて過ごした、楽器の収集を趣味とした、また山登りが好きで全国を巡り歩いた。彼はそれを口実として安藤昌益の思想を密かに伝道したものと思われる。彼は安藤昌益の『自然真営道』を密かに所有していた。また彼は江戸じゅうの漢方薬店に行き床を掃除するからといって、床に落ちていた漢方薬を集めてもらって帰り混ぜて「万病回春散」と銘打って売り大もうけした。『錦城先生経験方』『日本名山図譜』子は川村真斎(漢方医)

・川村真斎 - 妻は土岐村元立の妻、琴の妹、滝沢宗伯の妻の叔母、『真斎先生傷寒論』『真斎漫筆』『進退小録』『老子解』『真斎聚方』『真斎方記』『良中子神医天真』『神医天真論』

滝沢馬琴 - 戯曲家、南総里見八犬伝その他、江戸の知識人の集まりの兎園会を主催。1825年(文政8年)正月から始まり毎月一回集まって見聞した珍談、奇談を披露しあった。参加者は、滝沢馬琴、山崎美成、屋代弘賢、荻生維則、西原好和、滝沢琴嶺、関思亮、大郷良則、桑山修理、亀屋久右衛門、清水正徳、中井豊民が正会員、各員として石坂宗哲参加する。

・山崎美成 - 随筆家、雑学者、国学者、『兎園小説』の著者、堤た山の『駱駝孝』の序文を書く

・滝沢宗伯 - 馬琴の子、妻は紀州藩三浦家の医師土岐村元立の三女、路

谷文晁 - 画家、日本名山図絵

平田篤胤 - 思想家、言霊学者、医師、蘭学を吉田長淑に学び解剖に立ち会う、国学者、『仙境異聞』『医道大意』など著書多数、荷田春満、賀茂真淵、本居宣長と共に国学四大人の一人

屋代弘賢 - 幕府御家人(右筆)国学者、腰痛を宗哲に治癒してもらいその礼に雲棲子著の『鍼灸広狭神倶集』を寄贈する。塙保己一に国学を学んで『群書類従』の編纂に加わる。著書に『寛政重修諸家譜』『古今要覧稿』、柴野栗山、太田南北、谷文晁、らとも親交があった。

・各務文献 - 整骨家、整骨新書の著者、木骨を製作し江戸医学館に大月玄沢を通じて献納する。宗哲は二分の一大の木骨を購入する。この木骨は宗哲の私塾で解剖学の教材とする。

大槻玄沢 - 蘭方医『重訂解体新書』『蘭学階梯』の著者、宗哲に蘭学を教授する。蘭学塾、芝蘭堂を開く。

土生玄碩 - 西洋眼科の始祖で宗哲と共にシーボルトにあっている[14]。後にシーボルト事件に連座し投獄。その息子の玄昌は同じ山伏井戸に住居があり近隣である。

・溝部益有山 - 鍼灸説約蜜月堂版(オリエント出版2004年再収録)にあとがきを載せた人物で豊後(大分)の人と記載がある以外詳細不明である。記述年日は「文化壬申夏」で、田中信行に先行して記述してある。東都書舗版の鍼灸説約には記載がない。

中山作三郎 - 幕府大通詞(通訳の責任者)。文政7年にシーボルトと会える旨の書簡を宗哲とやりとりしている[15]

美馬順三 - シーボルトに贈呈された宗哲の書(鍼灸知要一言)を、シーボルトからの依頼を受けてオランダ語に翻訳した[15]

石井宗謙 - 美馬順三が文政8年に早世した後を受けて、宗哲の書をオランダ語に翻訳したと推定されている[15]

・男谷家 - 石坂志米一が男谷(米山)銀一(1703-1771、越後の長鳥村の生まれ)の師匠であり、恩人なので石坂家とは親戚のように付き合う。銀一の子供が男谷平蔵、孫が彦四郎、忠蔵、勝小吉、曾孫が勝海舟

・山岡鉄舟

宗哲が住んでいた山伏井戸には、かつて国学の四大人の一人と目された賀茂真淵が住を構えていたため、文化人も多く集まっていた。そのためか宗哲も文化人との交流が多く、日本医家列伝には風流の人と記載がある。また、蘭方医との知己も多く、シーボルト事件で連座した医者らの多くは知己であったと見られる。

詳しいことは、『石坂宗哲ウィキペディア』をご覧ください。 ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%B3%E5%9D%82%E5%AE%97%E5%93%B2

(wikiより)

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架空の島、志木那島 ( しきなじま ) を主な舞台とするドラマ「Dr.コトー診療所」のロケ地としても有名な与那国島ですが、その撮影で実際に使用されたセット ( 診療所 ) を 見学することができます。

待合室や入院室などもそのまま残されており、ドラマを彷彿とさせます。

白衣を着ての記念撮影もOKです。

すぐ目の前にある比川浜も、何度となくドラマに登場する天然ビーチです。

〇 
Dr.コトー診療所 (テレビドラマ)

Dr.コトー診療所』(ドクターコトーしんりょうじょ)は、フジテレビ系列で放送されていた日本のテレビドラマ。主演は吉岡秀隆山田貴敏による同名の漫画を原作とする。2022年6月、16年ぶりに続編映画が発表された。公開予定は2023年。


第1期は、2003年7月3日より9月11日まで毎週木曜日22:00 - 22:54に、「木曜劇場」枠で放送。


2004年
に『特別編』と『Dr.コトー診療所2004』が放送。


第2期は、2006年10月12日より12月21日まで毎週木曜日22:00 - 22:54に、「木曜劇場」枠で放送。


2022年
に劇場版作品として続編制作が始動した事が発表されている。2023年公開予定。

概要
第1期
沖縄県八重山列島にあるとされる架空の島志木那島(しきなじま)[注 1]を主な舞台とするドラマ版『Dr.コトー診療所』は、2003年に連続ドラマとして第1期が制作された。ロケ地となった与那国島の自然が美しく、離島での過酷な医療状況とともに、島でのゆったりとした時間の流れや人間関係が情緒豊かに描かれている。また、都会から島にやってきた人の視点と島の人が外来者を見た視点が対照的に描かれ、時には誤解が生じたり、お互いを傷つけることもあるが、忘れてしまっていた大切なコトにお互いに気付きはじめ、相互に影響しあいながら少しずつ信頼関係を築いてゆく姿が描き込まれている。

富良野塾出身である脚本家の吉田紀子と、主人公のコトー役の吉岡秀隆をはじめとする役者陣の演技や、演出家の中江功をはじめとするスタッフ陣、中島みゆきの主題歌や吉俣良劇中音楽など、それまでの医療ドラマの視点とは異なる作品になっている。

ハイビジョン撮影作品であるが、本放送時は地上デジタル放送は行われておらず(2003年12月1日放送開始)、アナログ放送において4:3サイドカットで放送されている。

なおCS ファミリー劇場で、2021年5月1日に全話一挙放送された[3] 。この際は地デジ同様の16:9比で放送された。

特別編
2004年1月9日1月10日の2夜連続でフジテレビ系列の新春ドラマスペシャルとして放送された。

志木那島での新撮場面にはコトーと和田、島の少年たちの他にはレギュラー出演者は登場しないが、Dr.コトー診療所2004、2006年第2期に繋がる貴重な新録内容となっている。

この作品はDVD化はされておらず地上波での再放送もされていないが、フジテレビオンデマンドで配信されている。なお、CS ファミリー劇場の一挙放送枠で第1期最終回の後、2021年5月1日に二部連続で放送された[4] 。

Dr.コトー診療所2004
2004年11月12日11月13日に2夜連続のドラマスペシャルとして放送された。2003年第1期の続編として完全新撮されたもので、コトーの身近な人たちを襲う悲劇や苦渋の選択をする姿が描かれている。尚、当初の放送予定は10月であったが、相次ぐ台風のため収録に手間取り、放送が遅れる経緯があった。

この作品も長らく地上波での再放送がされていなかったが、2020年6月18日より7月9日まで『特別編』として毎週木曜日22:00 - 22:54に、「木曜劇場」枠で再放送された[5]

第2期
『Dr.コトー診療所2004』の続編。また近年では珍しく、同じタイトルバック(1話のみ映像の上にタイトル)、同じエンドバックが使用されていた。なお、前シリーズでは、夏のシーンが夏に放送されただけだったが、このシリーズではドラマ中で、春から冬(12月)までの四季の移り変わりが描かれていた。

あらすじ
第1期
東京の大学病院で外科医をしていた五島健助が星野正一とともに漁船に乗り込み、本土沖縄本島)から6時間かかる志木那島をめざして洋上を行くところからドラマは始まる。それは島の診療所に常駐してくれる医師を長年さがし続けている、志木那村役場の民生課長星野[注 2]の要請だった。星野の娘で看護師の彩佳や役場の職員で診療所事務長の和田[注 3]をスタッフとして張り切る五島だったが、それまでの経緯から島の医師を信用しない島民らは全く診療所に寄りつかない。最初の患者となった島の少年から感謝のしるしとして贈られた診療所の旗に「ドクターコトー診療所」と記されていたため、以来五島は島民からコトーと呼ばれることになる。コトーの医師としての技量の確かさと誠実な人がらはしだいに島民らに受け入れられ、交流を深めていった。そんななかコトーが大学病院を辞めるきっかけとなった医療事故の関係者巽謙司が来島し、最終話に向けて島民を巻きこむ大波乱となる。


特別編
志木那島で新年を迎えたコトーのもとに三上医師からの手紙が届く。大学病院を辞した三上はコトーと同じように僻地医療を担うべく、北海道にある礼別島(れべつとう:架空の島)診療所に赴任していた。島の医師は自分1人という責任の重さと、島民に信頼されない焦りとの苦悩をつづった文面から、コトーは自分が初めて志木那島に赴任して来た頃を思い出していた。ここから2003年第1期の主要エピソードを再編集した内容が回想される。東京へ研修中の彩佳からお土産を貰う。それは「週刊アクセス」という雑誌。離島医療に携わるコトーと島の現状が掲載されている。もちろんこの記事は巽謙司が書いたものである。そしてコトーは三上に励ましの手紙を書く。三上は患者となった1人暮らしの老女との交流を通して島の医師としての手応えを掴んで行く。

Dr.コトー診療所2004
島を挙げての祭りのさなか星野昌代が家で倒れているのを、診療所から戻った娘の彩佳が発見した。コトーの緊急手術により一命を取り留めたものの、脳内出血後遺症が残り、右半身が不自由になってしまう。昌代の異変に気付かなかったことで、夫の正一や彩佳は後々まで自分を責め続けることになる。一方、コトーに憧れ医師を目指す島の少年、原剛洋は島を出て東京の私立中学受験を決意する。漁師では充分な学資が得られないと考えた父の剛利は、漁船を手放し本土(沖縄本島)に出稼ぎに行く決断をする。

Dr.コトー診療所2006
2006年、彩佳は本土から志木那島に帰る船内で出張から帰る村長と会う。そんな船内で村長は数人の男が一人の女性に絡まれていたところ仲裁に入るが吹き飛ばされた衝撃で頭を打ってしまう。船内から志木那島に連絡が入り港にはすでにコトー、和田、正一、島民たちが駆けつけ診療所に向かう。またそこには近いうちに診療所に入る予定だった看護師、仲井ミナと出会い村長のオペ(手術)に立ち会う。ミナは気を失ったが村長は一命を取り留めた。一方、東京での私立中学受験を受けに行った剛洋は島に私立に合格したことが連絡が来た。しかし次に受けた公立には失敗した一方で父・剛利にお金のことで心配していた。剛利は電話でお金の事は心配せずと伝えるが、建築会社などに残業を上司に頼のんでいた。彩佳は介護士の学校に通うために剛洋と同じ東京に来ていたが一人で大学病院に来ていた。彩佳を担当した主治医・鳴海からコトーに彼女が乳がんであることが初めて知る。後に一時、診療所での手術を望んでいたが、星野正一や昌代、島民たちに心配かけまいと鳴海のいる大学病院での手術となった。剛利は順調だった仕事だが事故で仕事仲間を怪我してしまい慰謝料を払い事になる。そしてそれらを知ったしげさんは直接剛利のいる会社に行き放った言葉で再び剛利は志木那島での漁師に戻る。また彩佳の乳がんの事を初めて知った正一と昌代、島民たちは言葉を失うが、彩佳からコトーへの電話で鳴き声を聞き、コトーは彼女の入院する東京の病院に行き鳴海と共に彩佳の手術を始める。しかし鳴海は身内の手術は避けたほうがいいと手術前に5年前、鳴海の妻の手術で失敗し寝たきりになった事を聞かされる。一時は我を失ったコトーだが、鳴海の言葉により手術は成功した。コトーは島に戻り、彩佳は退院した。島では彩佳の手術を成功させたコトーへの祝福がなされ、診療所で新たに加わったミナと共に再び戻ってくる彩佳を待ちながら診療所へやってくる島民たちの病気を治していく。

Dr.コトー診療所(劇場版、映画)
2023年公開予定

※2022年6月に16年ぶりに続編が発表。

キャスト
登場人物についてはDr.コトー診療所を参照。ただし、原作と大幅に違う部分が多い。

志木那島
志木那島診療所(ドクターコトー診療所)
五島健助
演 - 吉岡秀隆
外科医。専門は外科。東京の昭栄大学附属病院に勤めていたが、医療ミスの責任をとって志木那島にやって来る。

星野彩佳
演 - 柴咲コウ
看護師。星野正一の娘

和田一範
演 - 筧利夫
村役場の職員。志木那島診療所の事務員。

仲依ミナ
演 - 蒼井優(第2期)
看護師。

その他の主要人物
原剛利
演 - 時任三郎
漁師。

西山茉莉子[注 4]
演 - 大塚寧々
スナック経営者。

内つる子
演 - 千石規子(第1期)
村の長老。産婆。

安藤重雄[注 5]
演 - 泉谷しげる
漁業協同組合漁労長。

星野正一
演 - 小林薫
村役場の民生課課長。

その他人物
星野家
・星野昌代[注 6](正一の妻) - 朝加真由美

山下家(明夫)
山下明夫(農業) - 今福將雄(第1期)
・山下一夫(明夫の息子・村役場の職員) - 納谷真大
・山下道子(一夫の妻) - 森上千絵
・山下邦夫[注 7](一夫の息子) - 春山幹介

坂野家
坂野ゆかり - 桜井幸子
・坂野孝(村役場の職員・ゆかりの夫) - 大森南朋
・坂野千賀 - 畠山彩奈(第2期)
・坂野和枝 - 田畑ゆり


漁業関係者
・元木渡(漁師) - 山西惇
・橋口俊(漁師) - 塩谷瞬(第1期)
・熊木圭介(漁師) - 熊耳宏之
・脇田実(漁師) - 栗脇高志
・南佑介(漁師) - 東誠一郎
・洋平(漁師) - 宮嶋剛史(第2期)


山下家(努)
・山下努(漁師) - 船木誠勝
・山下春江(努の妻) - 高橋史子
・山下信一(努の息子) - 斉藤大貴(第2期:石川眞吾
・山下桃子(努の娘) - 松本梨菜


宮野家
宮野純平(剛洋の友達) - 池田晃信
・宮野真由美 - 谷本真美
・宮野真人(純平の兄) - 細田よしひこ(第2期)

小沢家
小沢信二 - 光石研(2004、第2期)
・小沢小百合 - 神野三鈴(2004、第2期)
・小沢ひな - 尾崎千瑛(現:尾崎由香)(2004、第2期)

その他
中村三郎(志木那村村長) - 坂本長利
・中村悠子(剛洋の同級生) - 大後寿々花
・川畑夏美(剛洋の同級生) - 大畑稚菜
・山下茂 - 松田史朗
・山下巌 ‐ 谷津勲
・原秀雄(剛洋の叔父) - 妹尾正文(第2期)
・原和子(剛洋の叔母) - 増子倭文江(第2期)

昭英大学附属病院・その他医師
原沢咲(五島の元同僚・昭英大学附属病院産婦人科医) - 石田ゆり子(第1期)
三上新一(五島の元同僚・昭英大学附属病院消化器外科医) - 山崎樹範(最終話)
鳴海慧(医師) - 堺雅人(第2期)

詳しいことは、『
Dr.コトー診療所 (テレビドラマ)』ウィキペディアをご覧ください。 ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/Dr.%E3%82%B3%E3%83%88%E3%83%BC%E8%A8%BA%E7%99%82%E6%89%80_(%E3%83%86%E3%83%AC%E3%83%93%E3%83%89%E3%83%A9%E3%83%9E)
(wikiより)

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⇧⇩ 小雨が降っていて肌寒かったです。

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⇧ 見学料は300円でした ( 2010年 11月 10日当時 )

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⇧ 病室からの眺め。

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⇧ 屋上にある旗と同じものです。

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⇧ 撮影で使われた自転車。

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⇧⇩ 診察室からの眺め。

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⇧⇩ 劇中で食べられていたカップヌードル「ヤシガニラーメン」

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⇧⇩ 外に出てみました 比川浜が見えます。

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⇧ 屋上の旗も雨でぬれています。

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⇧⇩ 屋上に登ってみました。

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⇧⇩ 病院の左に来ました。

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⇧ ドラマ内で浜に放置されていた船

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⇧⇩ オープンセットの左側には
「 鬚川小学校(通称赤石小学校)発祥の地 」という碑が有りますが詳細不明です。


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四代目 坂田 藤十郎(さかた とうじゅうろう、1931年12月31日 - 2020年11月12日)は、歌舞伎役者。屋号山城屋定紋五つ藤重ね星梅鉢、替紋は向い藤菱日本芸術院会員、重要無形文化財保持者。


前名の三代目 中村 鴈治郎(さんだいめ なかむら がんじろう)としても、また今なお初名の二代目 中村 扇雀(にだいめ なかむら せんじゃく)としても知られる。日本舞踊雁音流家元としては雁音 歌扇(かりがね かせん)。妻は女優で政治家の扇千景、妹は女優の中村玉緒と芸能一家である。


現代歌舞伎の大看板のひとりでもあり、また上方歌舞伎の復興プロジェクトでも主導的な役目を務めたほか、近松門左衛門作品を原点から勉強し直すために劇団近松座を結成し、尽力した。


日本中にブームを巻き起こした『曾根崎心中』のお初は当たり役とされている[1]

年譜
・1931年12月31日 二代目中村鴈治郎の長男として生まれる。
・1941年10月 道頓堀角座山姥』の金時で二代目中村扇雀を襲名し初舞台。
旧制東山中学校卒業[2]
・1949年 武智鉄二が文楽座で始めた関西実験劇場に参加(武智歌舞伎)。
・1953年 250年ぶりに復活上演[3]された『曾根崎心中』のお初が絶賛。扇雀ブームを起こす。
・1955年2月 松竹を離脱し、阪急電鉄東宝の子会社・宝塚映画製作所専属俳優になる。
・1957年1月 東宝専属俳優になり、この時に当時宝塚スターの扇千景と出会う。
・1958年10月 扇千景と結婚。
・1963年3月 松竹に復帰し、歌舞伎役者としての活動を再開。
・1981年 近松座を結成。
・1990年11月 歌舞伎座廓文章』「吉田屋」の伊左衛門、『心中天網島』「河庄」の治兵衛、『春興鏡獅子』のお小姓弥生/獅子の精で三代目中村鴈治郎を襲名。
・1994年 重要無形文化財保持者に各個認定(人間国宝)。日本芸術院会員に。
・2001年 イギリスのロンドンで『曾根崎心中』を上演。
・2005年4月 韓国のソウルと釜山で『曾根崎心中』『棒縛り』を上演。
・2005年11月 京都南座顔見世本朝廿四孝』「十種香」「奥庭」の八重垣姫、『曽根崎心中』のお初、『由縁の月』の伊左衛門で上方歌舞伎の大名跡・坂田藤十郎を四代目として襲名。
・2007年8月 世界陸上大阪大会の開会式で口上を披露。
・2009年11月 文化勲章受章。
・2011年10月 七代目中村芝翫死去により、日本俳優協会会長代行に[4]
・2012年4月 日本俳優協会会長に就任。伝統歌舞伎保存会会長に就任。
・2015年6月25日 博多座公演『曽根崎心中』のお初役での出演が通算1400回を達成する[1]
・2019年 伝統歌舞伎保存会名誉会長に就任[5]
・2020年11月12日10時42分、 老衰のため都内の病院で死去[6][7][8]。88歳没。死没日をもって従三位に叙された[9]。最後の舞台は、2019年12月京都南座『祇園祭礼信仰記 金閣寺』の慶寿院尼だった[6]
・2021年10月28日、没後一周忌を迎える前にコロナ禍などの影響で延期した形になっていた「坂田藤十郎を偲ぶ会」が東京都のホテルオークラにて催された[10]

人物・逸話
扇雀ブーム
扇雀当時、お初で大当たりをとった時の人気は凄まじく、特に関西では知らない人のいないほどだった。中には本人許諾のもとで社号及び商標を扇雀にあやかったものに改名する会社まで現れた。扇雀飴本舗はその会社の一つ。関西の年配者には今でも「センジャクはん」と呼ぶ者も多い。

女性関係
昭和30年代から、浮気騒動を起こすことがよくあり、週刊誌上をたびたび賑わせていた。夫人・扇千景との新婚旅行の車中では、酔った勢いで、自身の女性遍歴を悪びれることなく全て打ち明け、その相手への対応方法などを、堂々と新妻に語ったと言われている。また、扇との結婚はできちゃった結婚であったことを、日本経済新聞に連載したコラム『私の履歴書』で告白している。


また、扇と結婚する前は、京都に相思相愛の芸妓がいたといわれており、自身がつとめる舞台にその芸妓が訪れると、表は成駒屋定紋の祇園守紋、裏はその芸妓が用いていた女紋をあしらった扇子で舞台をつとめた。

騒動
鴈治郎時代の2002年、京都のある舞妓(後に芸妓)とホテルで密会、バスローブをはだけて自身の陰部を露出させたことが、同年6月7日発売の写真週刊誌FRIDAYにスクープされた。もともと本人は若い頃から祇園界隈では遊び人として有名で、夫人の扇も夫の女遊びに対して最後に自分のところに戻ってくるなら「男の甲斐性」として許す考えであった。それを知らない(女性週刊誌等の)マスコミは、写真のバスローブ姿から「中村ガウン治郎」と揶揄し「驚いた。人間国宝でも所詮芸人か。ほんとうに驚いた」と非難したが、本人は記者会見で「お恥ずかしいなぁ。私が元気だってことを証明してくださって」と話し[11]、相手女性については「私を支援してくれるグループのリーダー。部屋では僕のビデオを見て焼き鳥を食べただけ」と説明。記者たちに対して「世の男性も頑張って欲しい」と語った[12]。当時は国土交通大臣を務めていた夫人・扇は「彼は芸人ですから」と前置きした後で、「女性にモテない夫なんてつまらない」[13]とマスコミを一蹴した。

受賞歴
受賞
・1953年 毎日演劇賞
・1980年 芸術選奨文部大臣賞
・1986年 日本芸術院賞[14]
1989年 松尾芸能賞
・1996年 読売演劇大賞最優秀男優賞
・2008年 高松宮殿下記念世界文化賞(演劇・映像部門)

栄典・顕彰
・1990年 紫綬褒章
・2003年 文化功労者
・2009年 文化勲章[15]
・2020年 叙従三位  

その他
・1994年 人間国宝   

役職
日本俳優協会会長
伝統歌舞伎保存会名誉会長
近松座主宰
日本芸術院会員

家族・親族
・曾祖父:三代目中村翫雀成駒屋
・祖父:初代中村鴈治郎(成駒屋)
・伯父:二代目林又一郎(成駒屋)
・叔母:林たみ(長谷川一夫の妻)
・叔母:中村芳子四代目中村富十郎の妻)
・父:二代目中村鴈治郎(成駒屋)
・妹:中村玉緒
・妻:林寛子(扇千景)(元参議院議員、第26代参議院議長、元宝塚歌劇団娘役)
・長男:四代目中村鴈治郎(成駒家)
  ・孫:中村壱太郎(成駒家)
・次男:三代目中村扇雀(成駒家)
  ・孫:中村虎之介(成駒家)

歌舞伎の当たり役
はじめ、女形として活躍したが、現在は立役、老役など幅広い役をこなした。祖父、父から継承した上方和事の第一人者であり、その華やかで艶のある芸風は衰えることを知らず、関西歌舞伎の発展のため後進の指導にも熱心であった。
・『心中天網島』「河庄」「時雨炬燵」紙屋治兵衛 役
・『義経千本桜』「すし屋」いがみの権太 役
・『夏祭浪花鑑』團七九郎兵衛 役
・『恋飛脚大和往来』「封印切」「新口村」亀屋忠兵衛 役
・『廓文章』藤屋伊左衛門・夕霧 役
・『梶原平三試名剣』(石切梶原)梶原景時 役
・『祇園祭礼信仰記』(金閣寺)雪姫 役
・『本朝廿四孝』「十種香」「狐火」八重垣姫・武田勝頼 役
・『大津絵道成寺』藤の精、鷹匠、座頭、船頭、鬼 役
・『桂川連理柵』「帯屋」信濃屋娘お半、お絹、丁稚長吉 役
・『傾城反魂香』「吃又」お徳 役
・『寿梅鉢万歳
・『汐汲
・『雁のたより』三二五郎七 役
・『伽羅先代萩』「御殿」乳母政岡 役
・『近江源氏先陣館』「盛綱陣屋」佐々木盛綱
・『良弁杉由来』「志賀の里」「物狂」「二月堂」渚の方 役
・『男の花道中村歌右衛門 
・『仮名手本忠臣蔵』高師直・早野勘平・おかる・大星由良助・寺岡平右衛門・戸無瀬 役(昭和52年11月中座公演では、足利直義・おかる・戸無瀬・力弥の四役を、平成4年2月国立文楽劇場公演では、師直・由良助・与市兵衛・定九郎・勘平・平右衛門・戸無瀬の七役を、平成11年3月松竹座公演では、師直・勘平・おかる・戸無瀬の四役をつとめている)。

復活上演
・『曽根崎心中[3]天満屋遊女お初 役

詳しいことは、『
四代目・坂田藤十郎ウィキペディア』をご覧ください。 ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9D%82%E7%94%B0%E8%97%A4%E5%8D%81%E9%83%8E_(4%E4%BB%A3%E7%9B%AE)

(wikiより)

073 四代目・坂田藤十郎

⇧ 四代目・坂田藤十郎

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三井 親和(みつい しんな、元禄13年(1700年) – 天明2年3月7日1782年4月19日))は、江戸時代中期の日本の書家篆刻家である。


は孺鄕、に竜湖・深川漁夫・万玉亭などがある。通称は孫兵衛。信濃国諏訪藩諏訪忠晴の弟にあたる旗本諏訪盛條の家臣三井孫四郎之親(ゆきちか)の子。深川に住んだので深川親和とも称された。

略伝
最初、禅僧東湖に書法を学び、正徳元年(1711年)、細井広沢に就いて書と篆刻を学んだ。広沢没後は関思恭松下烏石、平林惇信とともに、細井門下の「四天王」と並び称された。寺社の扁額や祭礼の幟、商家の暖簾など請われるままに書している[1]安永天明の頃に親和の篆書草書を反物に染出した「親和染」が好事家の間に流行した[注釈 1]。また印譜なども多く収蔵し、「親和は広沢の深遠な刀法をただひとり受け継いだ」と評された。しかし、実際は正しい篆法を学んでいないので書体の用法に過ちが多いと指摘される。


兄喜左衛門の仕えた高崎藩主で当時老中に昇り詰めた松平輝高に気に入られ、深川に地屋敷を与えられた。旗本御家人の子息が挙って門を叩き多くの門人を集め、馬術弓術指南と書を教えた。


親和は50歳過ぎまで妻帯しなかったが、人に勧められて40過ぎの農家の女を妻にした。しかし、子が出来ないので妻に請われて20歳ほどの女を妾とし、三人の子に恵まれた。一説には親和の妻は松平輝高の臣下の娘だとも言う。


享年
83。門下で著名となった者に林述斎亀田鵬斎などがいる。子の親孝も書家となったが大成しなかった。甥の三井之孝による肖像画が伝わっている。

注釈
1. 甲子夜話』より[2]

脚注
1. 
八島五岳 『百家琦行伝』有朋堂文庫、1914年、P.691頁。
2. 
石川恒太郎 『日本浪人史』西田書店、1980年、P.116頁。
3. 
読みは以下のとおり。「高城」「東去海雲低 玄菟城頭烏夜啼」(出典は明・王世貞「寄耿中丞子承」)「弦中」

出典
中井敬所「日本印人伝」『日本の篆刻』 中田勇次郎編 二玄社、1966年。
森銑三「三井親和」、 中央公論社<森銑三著作集 第4巻 人物篇>
小松雅雄『江戸に旋風三井親和の書』信濃毎日新聞社、2004年。

関連項目
日本の篆刻家一覧 
(wikiより)

0161 三井親和

⇧ 三井親和 『百家琦行伝』より

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⇧⇩ お寺入り口付近にある石柱

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弁財天の御利益である

福徳円満を祈り

浄水にてお金を洗い

お詣りください
(案内板より)

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力石は墨田区内に三十七個あるが、一番古いものは牛島神社の享保十五年 ( 1730 ) であるが最も重いものは此力石で重量九十三貫 ( 三四八、七五キロ ) もあり江戸中頃より末期頃迄の庶民の最も手軽なスポーツ、レジャーとして力比べに使はれたものと云ふ。
(案内板より)

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二代目 中村鴈治郎(なかむら がんじろう、1902年明治35年)2月17日 - 1983年昭和58年)4月13日)は、日本の歌舞伎役者。屋号成駒屋定紋イ菱日本芸術院会員、重要無形文化財保持者(人間国宝)。本名は林 好雄(はやし よしお)。


上方歌舞伎
の伝統を継承し、立役から女形まで幅広い芸域を誇ったが、特に父・初代鴈治郎譲りの二枚目役においてその本領を発揮した。

略歴
大阪生まれ。初代中村鴈治郎の二男。1906年(明治39年)、京都南座で初舞台。1909年(明治42年)、初代中村扇雀に改名。幼少期は子供芝居で、やや長じては青年劇中村扇雀一座の座頭として活躍する。1924年(大正13年)に大歌舞伎に復帰し、以後初代鴈治郎・二代目實川延若十二代目片岡仁左衛門などのもとで修行。当時は主に女形を務めた。


1935年(昭和10年)初代鴈治郎が死去。このころから若手の有望株と目され、1941年(昭和16年)には四代目中村翫雀を、また1947年(昭和22年)には二代目中村鴈治郎襲名した。1952年(昭和27年)には宇野信夫の脚本により近松門左衛門の『曾根崎心中』を復活上演、以後生涯の当たり役となった。しかしこの頃になると上方歌舞伎の凋落がいちじるしく、鴈治郎自身も周囲の期待の重圧に自身の芸が伸び悩む。また三代目市川壽海を主とする興行方針をめぐる松竹との軋轢、さらには長男二代目中村扇雀の松竹離脱もあって居場所を失う形となり、1955年(昭和30年)に松竹を離脱した。大名跡である鴈治郎・扇雀親子の松竹離脱は、混乱と凋落の真っ只中にあった当時の上方歌舞伎にさらなる追い打ちを掛ける事になった。


以後は扇雀と共に映画やテレビへ活躍の場を移し、それから約10年の間、映画・ドラマ俳優としての活動が主となる。とりわけ映画では大映を中心に目覚しい活躍を見せた。当時の主な出演作には『炎上』『』(市川崑監督)、『浮草』『小早川家の秋』(小津安二郎監督)、『どん底』(黒澤明監督)、『雁の寺』(川島雄三監督)などが挙げられる。


映画出演の傍ら、1958年(昭和33年)からは十三代目片岡仁左衛門らとともに歌舞伎の自主公演「七人の会」にも出演したが、歌舞伎公演が激減していた当時の上方にはもはや活躍の場は無いも同然で、上方を離れ東京歌舞伎と一座することが多くなる。その間に映画出演などで芸の力が付いた事でようやくスランプを脱すると、上方和事の真髄とも言う芸を見せて高く評価された。主な顕彰歴は、1967年(昭和42年)人間国宝、1968年(昭和43年)紫綬褒章、1969年(昭和44年)NHK放送文化賞、1970年(昭和45年)日本芸術院賞[1]、1972年(昭和47年)日本芸術院会員、1974年(昭和49年)勲三等瑞宝章

1980年(昭和55年)文化功労者


1983年(昭和58年)4月13日死去、正四位勲二等瑞宝章が追贈された。 


家族・親族
義父に落語家笑福亭圓歌、兄に二代目林又一郎、妹に長谷川一夫に嫁した林たみ、四代目中村富十郎に嫁した女優の中村芳子など。長男は四代目坂田藤十郎(妻は元参議院議員の扇千景)、長女は女優の中村玉緒。娘婿は俳優の勝新太郎(玉緒の夫)。甥は林敏夫(又一郎の長男、第二次世界大戦で戦死)・俳優の林成年(たみの息子)。姪は俳優の長谷川季子(たみの娘)。大甥は俳優の林与一(又一郎の孫)。孫に四代目中村鴈治郎三代目中村扇雀・奥村真粧美・鴈龍。曾孫に中村壱太郎中村虎之介


娘婿・勝新太郎の実兄は同じく俳優の若山富三郎で、若山の長男、すなわち勝の甥である若山騎一郎の元妻は上原謙の長女仁美凌(上原の後妻大林雅美との間に生まれた子で、加山雄三の異母妹)。上原の前妻で加山の生母である小桜葉子は明治の元勲岩倉具視の曾孫(岩倉具定公爵の五男・岩倉具顕の娘)。小桜の伯母は依仁親王妃周子伏見宮邦家親王の第17王子である東伏見宮依仁親王の妃)であるため、林家は奥村家・池端家・岩倉家・東伏見家・久邇家を通し、一時期天皇家の縁戚となった。


なお、妹婿である四代目富十郎の孫(先妻・吾妻徳穂との次男の長女・後の二代目吾妻徳穂)が自身の孫である四代目鴈治郎に嫁いだため、曾孫の壱太郎から見て四代目富十郎は実の曽祖父であると共に義理の曾祖叔父でもある。


また、この吾妻徳穂の曽祖父に当たる(通説による)のが越前松平家当主であった松平春嶽のため、林家は徳川将軍家と繋がりがある他(一例をあげると、中村壱太郎→二代目吾妻徳穂→山田元靖→初代吾妻徳穂→十五代目市村羽左衛門→池田絲→松平春嶽→徳川斉匡徳川治済→十一代将軍徳川家斉)、同家を通じて現在も皇室には間接的な繋がりがある(例えば、春嶽の異母弟徳川慶頼の子徳川家達の妻が、後陽成天皇十一世孫である近衛泰子)。 


芸風・当たり役
立役、女形、敵役、老役とあらゆる役種をこなしたが、本領は父・初代鴈治郎ゆずりの二枚目と二代目延若の影響を受けたつっころばしなどの上方和事にある。上方歌舞伎の伝統にのっとって、を意識しない写実的な芸風が特徴で、身ごなしや風情に独特の艶のある役者だった。歌舞伎以外にも松竹新喜劇の『わてらの年輪』で花柳章太郎と共演するなど幅広く活躍した。


立役
・『曾根崎心中』の徳兵衛
・『心中天網島』の紙屋治兵衛
・『恋飛脚大和往来』「封印切」「新口村」の忠兵衛
・『伊賀越道中双六』「沼津」の重兵衛
・『双蝶々曲輪日記』「引窓」の南与兵衛後ニ南方十次兵衛
・『菅原伝授手習鑑』「寺子屋」の武部源蔵
・『義経千本櫻』「すし屋」「四ノ切」のいがみの権太、平維盛、源義経
・『仮名手本忠臣蔵』の大星由良助
・『一谷嫩軍記』「熊谷陣屋」の源義経
・『妹背山婦女庭訓』「三笠山御殿」の漁師鱶七実ハ金輪五郎今国
・『新薄雪物語』の奴妻平
・『土屋主税』の土屋侯


女形
・『菅原伝授手習鑑』「道明寺」「寺子屋」の覚寿、千代
・『鏡山旧錦絵』のお初、岩藤
・『伽羅先代萩』の八汐
・『近江源氏先陣館』「盛綱陣屋」の微妙
・『一谷嫩軍記』「熊谷陣屋」の相模


敵役
・『仮名手本忠臣蔵』の高師直
・『菅原伝授手習鑑』「車引」の藤原時平公
・『敵討天下茶屋聚』の東間三郎右衛門


道外役
・『新板色読販』(ちょいのせの善六)の善六


脇役
・『宿無団七時雨傘』(宿無団七)の並木正三


新作歌舞伎
・『建礼門院』の後白河法皇


舞踊劇
・『隅田川』の舟長


人物・逸話
最後まで若々しい芸を見せ、『曾根崎心中』で舞台を共にした長男・二代目扇雀(→三代目鴈治郎→四代目藤十郎)が人気を集めると「嫉みますがな」とライバル意識をむき出しにしていた。


庶民的な気さくな面を持ちパチンコ競馬が好きで、人間国宝に認定されると「国宝なったら競馬したらアカンのか」と本気で心配した。また、当時孤軍奮闘していた三代目市川猿之助を可愛がり、彼の一座によく参加するといった義侠心も併せ持つ人物だった。


小心なところがあり、戦時中空襲警報が発令されると真っ先に自宅の防空壕に駆け込んでいた。終戦直後はヒロポンを常習したこともある。


科白
覚えは悪かったものの、新作や新しい役柄には進んで挑戦する精神に富んでいた。科白がうろ覚えでも本番では観客に悟られることなく役をつとめることが出来る特技を持っていた。ある新作の稽古で、原作者から「鴈治郎さん、科白覚えて下さい!」と駄目を出された時は、今まで見せたことのない怒りの表情になり、後々までもこのことを恨んでいたという。また、黒澤明の『どん底』に出演した時は、黒澤から「歯を全部抜けますか。」と聞かれ、希望通りに全部抜いてしまうほどの熱の入れようだった。


また、『妹背山婦女庭訓』「金殿」の鱶七をつとめたとき、周囲は荒事の鱶七を和事の鴈治郎ができるのか、いかにもニンが違い過ぎはしないかと案じた。しかし鴈治郎は二代目尾上松緑から役の性根を教えてもらい、自身なりの鱶七を見事につとめあげて賞賛を浴びた。これには、お三輪役で舞台を共にした六代目中村歌右衛門が、以前から「成駒屋(鴈治郎のこと)の鱶七はすごいわよ」とその芸力を認め強く推薦していたからだった。


晩年は病魔に悩まされながら舞台を勤めた。最後の舞台は1982年(昭和57年)京都南座顔見世の『新口村』の忠兵衛で、息子の扇雀の梅川、友人で好敵手でもある十三代目仁左衛門の孫右衛門との共演であった。鴈治郎の死後、仁左衛門はその千秋楽の日、最後の告別の場面で「成駒屋がいつまでも私の手を離さへんのです。」と感慨を込めて証言した。


十代の頃は少年雑誌に林春虎のペンネームで投稿をおこなっていた。 


映画・テレビドラマでの出演作​
映画
・『芸道一代男』(1941年、特作プロ/松竹)、主演・中村鴈治郎
・『大阪物語』(1957年、大映京都)
・『琴の爪』(1957年、東宝
・『どん底』(1957年、東宝)
・『女殺し油地獄』(1957年、東宝)
・『暖簾』(1958年、宝塚映画/東宝)
・『炎上』(1958年、大映京都)
・『鰯雲』(1958年、東宝)
・『弁天小僧』(1958年、大映京都)
・『』(1959年、大映東京)
・『日本誕生』(1959年、東宝) - 景行天皇[2][3]
・『浮草』(1959年、大映東京)・
・『初春狸御殿』(1959年、大映京都)
・『女経』第三話「恋を忘れていた女」(1960年、大映東京)
・『女が階段を上る時』(1960年、東宝)
・『ぼんち』(1960年、大映京都)
・『好色一代男』(1961年、大映東京)
・『東京おにぎり娘』(1961年、大映東京)
・『小早川家の秋』(1961年、宝塚映画/東宝)
・『釈迦』(1961年、大映京都)
・『雁の寺』(1962年、大映京都)
・『破戒』(1962年、大映京都)
・『お吟さま』(1962年、文芸プロダクションにんじんくらぶ/松竹)
・『長脇差忠臣蔵』(1962年、大映京都)
・『殺陣師段平』(1962年、大映京都)
・『秦・始皇帝』(1962年、大映)
・『雪之丞変化』(1963年 大映京都)
・『女系家族』(1963年 大映京都)
・『越前竹人形』(1963年 大映京都)
・『怪談』第四話「茶碗の中」(1964年、文芸プロダクションにんじんくらぶ/東宝) - 出版元[4]
・『幸せなら手をたたこう』(1964年、大映)
・『「エロ事師たち」より 人類学入門』(1966年、今村プロ/日活
・『湖の琴』(1966年、東映京都)
・『悪名 縄張荒らし』(1974年、勝プロダクション/東宝)
・『ある映画監督の生涯 溝口健二の記録』(1975年、近代映画協会/ATG
・『徳川一族の崩壊』(1980年5月24日、東映京都)


テレビドラマ
・『すいーとぽてと』(1971年 - 1972年、毎日放送・NET系列)
・『男は度胸』(1970年 - 1971年、NHK)-淀屋辰五郎 役
・『日本沈没』(1974年 - 1975年、TBS系列)
・『座頭市物語』 第26話(最終回)「ひとり旅」(1975年、フジテレビ)
日本名作怪談劇場死神』(1977年、テレビ東京系列)
・『必殺仕事人』(1979年、テレビ朝日系列) - (元締)鹿蔵 役
・『木曜ゴールデンドラマ 母と子の裁かれる日』(1982年、読売テレビ・日本テレビ系列)
・『必殺シリーズ10周年記念スペシャル 仕事人大集合(1982年、テレビ朝日系列)


詳しいことは、『二代目・中村鴈治郎ウィキペディア』をご覧ください。 ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E6%9D%91%E9%B4%88%E6%B2%BB%E9%83%8E_(2%E4%BB%A3%E7%9B%AE)
(wikiより)

072 二代目中村鴈治郎

⇧ 二代目・中村鴈治郎

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三代目・岩井紫若 ( いわい - しじゃく)
( 1840 - 1873 ) 

幕末 - 明治時代の歌舞伎役者。

天保 ( てんぽう ) 11年生まれ。

10代嵐三右衛門の門人。

大坂の浜芝居で修業。

慶応 3年江戸の中村座に出演し、みとめられて 8代岩井半四郎 ( 2代紫若 ) の養子となる。

明治 5年 3代紫若を襲名。

若女方で若衆方にもすぐれた。

明治 6年 10月 5日死去。34歳。

前名は嵐栄三郎。屋号は大和屋。

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1879b

1879c



九代目・岩井半四郎( いわい - はんしろう )      
明治 15年 ~ 昭和 20年 5月 26日 ( 1882 - 1945 )

歌舞伎役者。

女形。

父、4代岩井粂三郎。5代岩井粂三郎。

日本舞踊の普及をはかるために岩井流初代宗家として流派をおこした。

「紫香院燕子日信士」

10代岩井半四郎 ( 1927. 8. 8- ) は、俳優名として昭和 26年 ( 1951 ) 市川猿之助門弟で、初代花柳寿太郎の長男市川笑猿(  本名:仁科周芳:にしな - ただよし ) が襲名し現在に至る。

長女は女優の岩井友見、次女は女優の仁科亜季子、三女は女優の仁科幸子。

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岩井半四郎( いわい - はんしろう )     
文政 12年 10月 2日 ~ 明治 15年 2月 19日 ( 1829 - 1882 )

歌舞伎俳優。

女形。

父、7代岩井半四郎。

俳名、2代紫若。

江戸出身。

天保 3年 ( 1832 ) 岩井粂三郎( くめさぶろう )を名乗って初舞台。

嘉永 4年 ( 1851 ) 河原崎座で 8代市川団十郎の相手役の立女方となる。

元治元年 ( 1864 ) 父親の前名岩井紫若の 2代目を襲名。

明治 5年 ( 1872 ) 8代目岩井半四郎を襲名。

明治 7年 ( 1874 ) 中村座座頭。

「貞松院修徳日厚信士」。

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七代目・岩井半四郎。

五代目の次男。

六代目の弟。

( 1804 - 1845 )。

俗に「紫若半四郎」。屋号は大和屋。俳名は扇朝、紫若。

初代・岩井小紫 → 初代・岩井松之助 → 初代・岩井紫若 → 七代目・岩井半四郎。

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