本牧jack『意外と身近にある歴史散歩』日々是好日 心灯 頬笑

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2023/12

 この記事で 今年最後の記事となりました 来年からは 5日より記事のUPをしていきますので宜しくお願い致します。

時代江戸時代末期(幕末
生誕天保13年6月15日1842年7月22日
死没元治元年11月12日1864年12月10日
改名丑之介(幼名)→信濃→朝相→親相
別名通称:熊之助、徳蔵
墓所宇部市奥万倉 天龍寺
官位贈正四位
幕府江戸幕府
長州藩家老
氏族国司氏
父母父:高洲元忠、養父:国司迪徳
兄弟弟:堅田少輔
弥佐
養子:国司純行

国司 親相(くにし ちかすけ)は、江戸時代末期(幕末期)の武士長州藩家老国司 信濃(くにし しなの)の名で知られる。

生涯

天保13年(1842年)6月15日、寄組藩士・高洲元忠(たかす もとただ)の次男として生まれる。幼名丑之介、徳蔵、熊之助とも称し、後に信濃、朝相(ともすけ)と改め、毛利慶親(後の毛利敬親)より一字を賜り、親相と改めた。6歳の頃、同じく寄組藩士5600石の国司迪徳(みちのり、通称は亀之助、将監)の養嗣子となり、弘化4年(1847年)に家督を継いで大組頭となった。家柄も然ることながら、親相は若い頃から聡明だったため、次第に頭角を現してゆき、文久3年(1863年)には長井雅楽の切腹検視役正使を務めている。


嘉永
6年(1853年)、アメリカ合衆国マシュー・ペリー浦賀来航して以来、日本では尊王攘夷論が高まり国内騒然し、文久3年(1863年)5月10日、親相は久坂玄瑞らと共にアメリカ船ペンブローク号(Pembroke)を砲撃し、下関海峡を封鎖、朝廷からも褒勅の沙汰を賜わった。この功績により、親相は下関防備総奉行に任じられる。しかし八月十八日の政変で長州藩が京都から追放されると、親相は家老に昇格した上で、同じく家老の益田親施福原元僴、さらに久坂・来島又兵衛真木保臣らと共に京都における長州藩の影響力を取り戻そうと挙兵して、翌元治元年(1864年)7月19日禁門の変を引き起こした。


だが、薩摩藩会津藩連合軍の前に大敗し、来島や久坂と真木は自刃、戦乱を起した敗軍の責を負わざるを得なくなった。親相は誰よりも責任を感じ、死をおもうていた。「はかなくも風の前の燈火(ともしび)の、消えゆることのみ待つ我が身かな」との京都の天龍寺において詠んでいる一首にそのことが偲ばれる。最善の引責の方法を藩主の命によって決したいとの一念で、玉砕をさけあえて帰藩。時は元治元年(1864年)8月5日である。


やがて第一次長州征伐が始まると、征長総督(総大将)に徳川慶勝、参謀に西郷隆盛が就任した大軍が長州に押し寄せてくる。そして西郷が長州藩に対して、責任を取る形で親相ら三家老の切腹を要求したため、親相は徳山澄泉寺にて同年11月12日、自刃して果てた。享年23。親相の家老職は、益田や福原の永代家老とは違い、実力で昇進した家老職であった。


辞世の句「よしやよし 世を去るとても 我が心 御国のために なほ尽さばや」「君がため つくせやつくせ おのがこの 命一つを なきものにして」。


墓所は宇部市奥万倉の天龍寺。妻と並んで墓石が建っている。死後の明治21年(1888年)に靖国神社合祀。明治24年(1891年)、贈正四位。
(wikiより)

161 国司信濃

国司信濃

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時代江戸時代末期(幕末
生誕天保14年6月9日1843年7月6日
死没元治元年12月25日1865年1月22日
別名字:子済、通称:清太郎、勘太郎、与右衛門、号:葭堂
戒名仁沢院殿向山義雄
墓所東光寺
幕府江戸幕府
主君毛利氏
長州藩家老
氏族清水氏
父母父:清水信篤、養父:清水親春

清水 親知(しみず ちかとも)は、幕末長州藩正義派の代表的家老備中高松城の戦いで知られる清水宗治から12代の子孫。

生涯
天保14年(1843年)6月9日、長州藩清水分家・清水図書信篤の子として萩に生まれる。安政2年(1855年)本家清水美作親春の養子に迎えられる。文久元年(1861年)大橋訥庵に師事した。後の伊藤博文と親交が深かった親知は伊藤博文を誘い、同じ塾で学んだ。[1]


文久3年3月(1863年) 20歳にして学習院御用掛として、朝廷と幕府との間に入り調整役を勤めた。[2]


同年4月(1863年)孝明天皇は237年ぶりに賀茂社行幸[3]を決行し攘夷祈願を行った。江戸幕府発足以来、天皇は幕府の許可なく御所からでることが許されなかったため、重大な意味を持った行事となった。この重大な行事に長州藩の代表家老として親知は清水家家老難波覃庵と参加した。[4]

同年8月(1863年)藩制改革後により22歳にして国元加判役(家老格)に抜擢される。


元治元年(1864年)4月には津和野鳥取岡山ら諸藩を巡廻し、八月十八日の政変により処罰された藩主父子の雪冤を働きかけ、6月に領内で藩兵が不満を募らせると周布政之助とともに鎮撫のために奔走した。しかし7月に禁門の変が失敗に終わると更迭され謹慎する。高杉晋作が挙兵すると、報復処刑として12月25日俗論派の藩命により自刃。東光寺の元治甲子殉難烈士墓所では、福原元僴益田親施国司親相周布政之助甲子殉難十一烈士と共に祀られている。


辞世の句は、「古道照顔色」の五文字で自分を励ますための言葉である。[5]

死後
清水家の家老である難波覃庵が、立野村の給主・清水氏の氏神と清水宗治 の神霊 と清水親知の神霊を合祀し正義霊社に祀った。[6][7][8]

清水清太郎
幕末には3人の清水清太郎が登場する。1人目は本項の清水清太郎親知、2人目は養父である清水清太郎親春、3人目は島根県宇龍港で前原一誠を捕縛した島根県吏。

関連項目
長州藩の家臣団
向山文庫
正義霊社
難波覃庵  

参考文献
・「明治維新人名辞典」
1. 防長回天史 第,3(上)編 
2. 
国会図書館 学齢館 少年立志伝
3. 
孝明天皇の賀茂社行幸とその絵巻 
4. 
国会図書館所蔵 三十一豪傑列伝 殺気満紙. 2 P36 
5. 
国会図書館 靖献事蹟 : 山口県史略附録 下巻 
6. 
事實文編. 國書刊行會. (1910)
7. 
吉田松陰 (1934). 吉田松陰全集. 岩波書店
8. 
光市史 989ページ
(wikiより)

160 清水清太郎

清水清太郎

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時代江戸時代末期 - 幕末
生誕文政6年3月23日1823年5月3日
死没元治元年9月26日1864年10月26日
別名変名:麻田公輔、松岡敬助
幕府江戸幕府
長州藩
氏族周布氏
父母父:周布吉左衛門兼正、母:村田伝左衛門信嘉の娘・竹
兄弟兄、政之助
藤吾公平

周布 政之助(すふ まさのすけ)は、幕末長州藩士。政之助は通称で、兼翼(かねすけ)。変名に麻田公輔、松岡敬助などがある。

略歴
周布氏益田氏の支流にあたり、近世以降は代々長州藩毛利家に仕えた家柄である。


政之助(兼翼)もこの一族の出身者であり、文政6年(1823年)、長州藩士(大組219石)・周布吉左衛門兼正村田伝左衛門信嘉の娘竹の五男として生まれる。父と長兄が相次いで歿したことによる末期養子であったため、家禄を68石に減ぜられ、わずか生後6ヵ月で家督を相続した。


来原良蔵
松島剛蔵らと嚶鳴社を結成して政治を論じたが、弾圧されることなく、弘化4年(1847年)に祐筆・椋梨藤太の添役として抜擢された。文久2年(1862年)頃に藩論の主流となった長井雅楽航海遠略策に藩の経済政策の責任者として同意したが久坂玄瑞松下村塾の藩士らに説得され藩論統一のために攘夷を唱えた[1]


元治
元年(1864年)、高杉晋作とともに長州藩士の暴発を抑えようとしたが失敗[2]、その結果起こった禁門の変第一次長州征伐に際しても事態の収拾に奔走したが、次第に椋梨ら反対派に実権を奪われることとなった。同年9月、責任を感じて山口矢原(現・山口市幸町)の庄屋吉富藤兵衛邸にて切腹した。享年42。

備考
・酒癖が悪く、一途な性格から多くの舌禍事件を起こしてたびたび逼塞処分を受けたが、その都度、その有能さから政治へ復帰している。舌禍事件の一つとして、文久2年(1862年)に土佐藩前藩主・山内容堂に対して暴言を吐いて謹慎となった。その際、「麻田公輔」と改名している。また、高杉晋作が脱藩の罪で投獄された時にも、酒に酔って馬で野山獄に抜刀して乱入したとも言われる。

明治期、政之助の偉業を知る有志の手により、切腹の地の近隣に顕彰碑が建立された。のちに顕彰碑の周囲は周布公園として整備され、さらに一帯の地名は山口市周布町となっている。

親族
周布藤吾 - 長男、第二次長州征伐で戦死
周布公平 - 次男
周布兼道 - 孫 (公平の長男)
杉孫七郎 - 甥

脚注
1. 村上一郎 『草莽論』ちくま学芸文庫、2018年、P.272頁。
2. 
村上一郎 『草莽論』ちくま学芸文庫、2018年、P.273頁。

関連作品
竜馬がゆく(NHK大河ドラマ)-演:渥美国泰 (NHK大河ドラマ、1968年)
天皇の世紀 (テレビドラマ) - 演:高津住男 (ABCテレビ国際放映、1971年)
花神 - 演:田村高廣 (NHK大河ドラマ、1977年)
奇兵隊 - 演:津川雅彦 (日本テレビ年末時代劇スペシャル、1989年)
炎の如く 吉田松陰 - 演:山口崇 (日本テレビ時代劇スペシャル、1991年)
長州ファイブ - 演:矢島健一 (リベロ、2006年)
花燃ゆ - 演:石丸幹二 (NHK大河ドラマ、2015年)

関連項目
村田清風記念館

(wikiより)

159 周布政之助

周布政之助


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時代江戸時代末期(幕末
生誕文政4年7月6日1821年8月3日
死没元治元年12月19日1865年1月16日
別名:貞武、武、号:主静庵、斤田
墓所東光寺
幕府江戸幕府
長州藩
氏族吉敷毛利家
父母父:毛利虎十郎

毛利 登人(もうり のぼる)は、幕末期の長州藩士。貞武甲子殉難十一烈士 の1人。

生涯
吉敷毛利家の末家、毛利虎十郎(大組600石)の嫡男として誕生。長州藩主毛利敬親の世子、毛利定広(後の元徳)の小姓として在京し、勤王の志士との交流を深め、大きな影響を受けた。


文久
3年(1864年)の馬関戦争では宍戸刑部こと高杉晋作とともに、毛利出雲と称して四国連合艦隊との停戦の副使となったが、その直後の同年秋の第1次長州征伐の後に俗論派が藩論を主導するようになると、前田孫右衛門大和弥八郎らと共に謹慎処分を受け、蟄居した。12月には野山獄に投じられ、山田亦介松島剛蔵前田孫右衛門大和国之助楢崎弥八郎渡辺内蔵太らと処刑された。


辞世の歌は「皇の 道しるき世を ねかふかな わが身はこけの したにくつとも」。
(wikiより)

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大和 弥八郎(やまと やはちろう、天保6年11月3日1835年12月22日) - 元治元年12月19日1865年1月16日))は、江戸時代末期(幕末期)の長州藩士大和国之助とも。甲子殉難十一烈士の一人。


1862年
久坂玄瑞寺島忠三郎らと横浜居留地焼討ちを計ったが、藩主・毛利定広に伝わり実行には到らなかった。その後、御楯組結成に参加。1865年、山田亦介前田孫右衛門毛利登人松島剛蔵渡辺内蔵太楢崎弥八郎らと共に斬罪に処された。
(wikiより)

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時代江戸時代後期
生誕文化元年8月13日1804年9月16日
死没元治元年11月12日1864年12月10日
別名通称:山三郎、九郎兵衛、左馬之介 名:忠美、号:橘廂、鳰浮巣翁、宍翁
官位死後贈正四位
主君毛利斉熙斉元斉広敬親
長州藩
氏族林氏宍戸氏
父母父:林隆州
養父:宍戸知之
小弥太

宍戸 真澂(ししど ますみ/まさもと)は、江戸時代末期の勤皇家、長州萩藩士長門萩生まれ。萩藩の重臣として活躍し、萩藩大坂屋敷の留守居役を務めた。

生涯
長門国阿武郡川上村で林隆州の三男として生まれる。文化14年(1818年)に毛利氏一門である宍戸藤兵衛知之の養子となり、宍戸氏を継ぐ。若き頃に伴信友近藤芳樹に師事して、国学を熱心に学び、勤皇思想に感化される。安政3年(1856年)に長州藩京都藩邸の都合人になると在京の梅田雲浜らとも交流した。


同藩の来島又兵衛久坂玄瑞らとも気脈を通じて活動したが、元治元年(1864年)の禁門の変において長州藩兵の鎮撫に失敗し、帰国した後に俗論派によって野山獄に投獄され、獄中で斬首された(甲子殉難十一烈士[1]。享年61。


辞世の歌は「われならぬ 人のしをりを たどりつゝ たか根に匂ふ はなをみるかな」。

脚注
1.コトバンク

関連項目
宍戸氏
幕末の人物一覧

(wikiより)

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時代江戸時代末期(幕末
生誕文政元年7月28日1818年8月29日
死没元治元年12月19日1865年1月16日
別名:利済、字:致遠、通称:岩助、号:陸山
墓所東光寺
幕府江戸幕府
長州藩

前田 孫右衛門
(まえだ まごえもん )は、幕末長州藩士。利済甲子殉難十一烈士の一人。

略伝
藩校明倫館で学び、長州藩の代官や奉行を歴任後、文久元年(1862年)に上京して直目付に就任して軍備の整備に当たるが、奉勅攘夷の為出奔。文久2年(1863年)の八月十八日の政変により直目付を罷免されるが、9月に表番頭格用談役に登用され、後に直目付に復職。


元治
元年(1864年)7月、山田亦介天野謙吉らと共に東上するが京師の変の報を聞いて帰国し、伊藤俊輔と共に応接使となる。禁門の変の後、直目付を再び罷免され、謹慎処分に処される。その後野山獄に入れられ、楢崎弥八郎松島剛蔵毛利登人山田亦介大和弥八郎渡辺内蔵太ら6人と共に処刑される。

関連作品
花神 - 演:渡辺厳 NHK大河ドラマ、1977年)
奇兵隊 - 演:近藤洋介 日本テレビ年末時代劇スペシャル、1989年)
(wikiより)

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時代江戸時代末期
生誕天保元年(1830年
死没元治2年2月11日1865年3月8日
別名玉井氏、知章(諱)
官位正五位
主君毛利敬親
長州藩藩士

桜井 三木三
(さくらい みきぞう)は、江戸時代幕末武士長州藩士。諱は知章。

来歴
いわゆる正義派・俗論派と呼ばれる派閥争いが長州藩内で発生した際、桜井は同士の冷泉五郎らとともに中立派の鎮静会に加わり、藩内争乱の調停を目指す。諸隊との調停のため、山口の諸隊屯所へ赴いて藩論の説明に心を砕くが、その帰途、俗論派に属する選鋒隊隊士によって襲撃され、同僚の冷泉や香川半助とともに殺害された。元治2年(1865年)のことだった。


明治44年(1911年)、正五位を追贈された[1]

脚注
1. 田尻佐 編『贈位諸賢伝 増補版 上』(近藤出版社、1975年)特旨贈位年表 p.28

参考文献
・『日本人名大辞典』(講談社2001年

(wikiより)

権現原 斬殺 享年 36歳。

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香川半助 ( かがわ - はんすけ )
( 1831 − 1865 ) 幕末の武士。

天保 ( てんぽう ) 2年生まれ。

長門 ( ながと )( 山口県 ) 萩 ( はぎ ) 藩士。

文久 3年奥番頭 ( ばんがしら ) 格となり藩の世子に仕えたが、病気のため退く。

禁門の変後、幕府恭順派による藩政独占を怒り、桜井三木三らと実情説明に山口諸隊屯所に赴いての帰途、元治 ( げんじ ) 2年 2月 11日暗殺された。35歳。名は景真。

( 権現原 斬殺 享年 35歳 ) 

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冷泉五郎 ( れいぜい - ごろう )
( 1841 - 1865 ) 幕末の武士。

天保 ( てんぽう ) 12年生まれ。

長門 ( ながと )( 山口県 ) 萩 ( はぎ ) 藩士。

砲術を江川太郎左衛門に、剣術を斎藤弥九郎に学び、帰藩後兵制改革に当たる。

元治 ( げんじ ) 2年の藩内抗争に際し、中立派の鎮静会に加わり、藩主に藩論統一を建白。

香川半助らと山口の諸隊を訪れて調停を進める。

その帰途の同年 2月 11日恭順派に暗殺された。25歳。本姓は井上。名は綏豊 ( やすとも )。

 (権現原 斬殺 享年 25歳 )

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元治元年 ( 1864 ) に勃発した禁門の変と下関戦争の敗北により、萩藩は幕府へひたすら謝罪降伏する藩論へ転換し、尊王攘夷派 ( 急進派 ) が一掃されて恭順派が藩の政権を握った。

第一次長州出兵が迫るな中、益田右衛門介 ( ますだ - うえもんすけ )・国司信濃 ( くにし - しなの )・福原越後 ( くにはら - えちご ) の 3家老が禁門の変の責任を問われ、同年 11月 11日に自刃を命ぜられ、また 12月 25日、家老の清水清太郎 ( しみず - せいたろう ) も自刃を命ぜられた。

さらに 10月 24日、尊王攘夷派の 11人が野山獄に投獄され、11月 12日に竹内正平衛 ( たけうち - しょうべえ )・中村九郎 ( なかむら - くろう )・佐久間佐兵衛 ( さくま - さへえ )・宍戸左馬之助 ( ししど - さまのすけ ) の4人が、ついで12月19日に前田孫右衛門 ( まえだ - まごえもん )・毛利登人 ( もうり - のぼる )・山田亦介 ( やまだ - またすけ )・渡辺蔵太 ( わたなべ - くらた )・楢崎弥八郎 ( ならざき - やはちろう )・大和国之助 ( やまと - くにのすけ )・松島剛蔵 ( まつしま - ごうぞう ) の 7人が斬首された。

明治維新後、旧藩士・杉山孫七郎 ( すぎやま - まごしちろう ) やか杉民治 ( すぎ - みんじ )( 吉田松陰の兄 ) らは、殉死した四大夫、十一烈士の墓が各所に散在し、香花も絶えて十分な世話もできない状態であることを見聞し、明治 22年 ( 1889 ) 彼らの招魂墓を建立した。

のち明治 31年 ( 1898 ) には、禁門の変の責任を感じて自刃した周布政之助 ( すふ - まさのすけ ) の招魂墓も、同所に建立された。
(案内板より)

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渡辺 内蔵太(わたなべ くらた、天保7年2月3日1836年3月19日) - 元治元年12月19日1865年1月16日))は、江戸時代末期(幕末)の萩藩士。長嶺内蔵太(ながみね くらた)とも。甲子殉難十一烈士の一人。


1862年
御楯組結成に参加。

その後、山田亦介前田孫右衛門毛利登人松島剛蔵大和弥八郎楢崎弥八郎らと共に斬罪に処される。
(wikiより)

( 野山獄 刑死 29歳 )

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山田 亦介(やまだ またすけ)は、幕末長州藩士甲子殉難十一烈士の一人。

略歴

大組頭山田家の嫡男。村田清風の甥にあたる。甥に初代司法大臣・陸軍中将の山田顕義がいる。

長沼流兵学を学び、弘化2年(1845年)には吉田松陰(寅次郎、当時15歳)に教授している。嘉永5年(1852年)、古賀侗庵の『海防憶測』を出版した罪で隠居となり、知行も削減される。安政5年(1858年)には隠居雇として海防や軍艦「庚申丸」製造に関わり、銃士隊の編成を進言する。


しかし、長州藩内の主導権を握った俗論党によって、萩の野山獄にて57歳で処刑された。

〇 甲子殉難十一烈士
甲子殉難十一烈士(きのえねじゅんなんじゅういちれっし)は、江戸時代末期(幕末)の1864年元治元年)、江戸幕府による第一次長州征伐に際し長州藩内の主導権を握った俗論党によって、萩の野山獄で処刑された長州藩士11人を総称した名称。


彼ら11人は、黄檗宗東光寺萩市)の元治甲子殉難烈士墓所に福原元僴益田親施国司親相清水清太郎周布政之助らと共に祀られている。

該当者
宍戸真澂
山田亦介
前田孫右衛門
竹内正兵衛
毛利登人
松島剛蔵
中村九郎
佐久間左兵衛
大和弥八郎
渡辺内蔵太
楢崎弥八郎

関連項目
幕末の人物一覧
烈士

(wikiより)

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竹内正兵衛 ( たけのうち - しょうべえ )
( 1819 - 1864 ) 幕末の武士。

文政 2年生まれ。

長門 ( ながと )( 山口県 ) 萩 ( はぎ ) 藩士。

元治 ( げんじ ) 元年禁門の変で敗れて帰国。

恭順派が藩の政権をにぎったため野山獄に投獄され、同年 11月 12日処刑された。46歳。

本姓は八谷 ( やたがい )。名は清喜 ( 記 ) 、勝愛。号は竹叢、至愚。 

( 野山獄 刑死 享年 46歳 )

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楢崎弥八郎 ( ならざき - やはちろう )
( 1837 - 1865 ) 幕末の武士。

天保 ( てんぽう ) 8年 7月 12日生まれ。

長門 ( ながと )( 山口県 ) 萩 ( はぎ ) 藩士。

江戸で安積艮斎 ( あさか - ごんさい )、大橋訥庵 ( とつあん ) に学び、尊王攘夷 ( じょうい ) の志をいだく。

文久3年政務役となり、禁門の変のあと、藩内で幕府恭順派が実権をにぎると捕らえられ, 、同志と共に元治 ( げんじ ) 元年 12月1 9日刑死した。28歳。

名は清義。号は節庵。 

( 野山獄 刑死 享年 28歳 )

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中村九郎 ( なかむら - くろう )
幕末の志士。萩藩士。

通称喜八郎・道太郎、諱は清旭、号は白水山人、変名・中河内主水。

吉田松陰に師事する。

国事に尽力し密用方右筆から江戸方右筆に進む。

禁門の変に敗れ、国に戻り野山嶽に投ぜられる。

元治元年 ( 1864 ) 歿、37才。 ( 野山獄 刑死 )

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佐久間佐兵衛 ( さくま - さへえ )
1833 - 1864 幕末の武士。

天保 ( てんぽう ) 4年生まれ。

長門 ( ながと )( 山口県 ) 萩 ( はぎ ) 藩士。

伯父に養われ赤川姓を名のる。

水戸の会沢正志斎 ( あいざわ - せいしさい ) に学び、帰郷後

佐久間氏を継ぎ、藩校明倫館の助教。

のち京都で尊攘 ( そんじょう ) 派として活躍。

禁門の変で敗れて帰藩後捕らえられ、元治 ( げんじ ) 元年 11月 12日処刑された。32歳。

本姓は中村。名は忠亮,義済。通称ははじめ直次郎。号は淡水,思斎。 

( 野山獄 刑死 享年 32歳 )

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松島 剛蔵(まつしま ごうぞう、文政8年3月6日1825年4月23日) - 元治元年12月19日1865年1月16日))は、幕末長州藩士、医師。尊王攘夷および倒幕運動派の志士として活動したが、長州藩の俗論派(幕府派)によって処刑された。甲子殉難十一烈士の一人である。

生涯
長州藩の藩医である松島瑞蟠の長男として文政8年(1825年)3月6日、萩中ノ倉に生まれた。弟に吉田松陰の妹婿である小田村伊之助(楫取素彦)と小倉健作(松田謙三)がいる。天保2年(1831年)、父・瑞蟠が狂を発し廃人となったため家督を継ぐ。禄39石余り。


江戸遊学し、坪井信道に4年間従学のち、世子である毛利元徳の侍医となった。のち、長崎に赴き勝海舟らと共に長崎海軍伝習所でオランダ人に航海術を3年間学び、帰藩して洋学所・軍艦教授所を創立する。軍艦教授所の門下生には高杉晋作らがいた。桂小五郎(木戸孝允)、吉田松陰とは友人であり、特に松下村塾の門下生らと提携して様々な活動を行った。


安政
4年(1857年)、長州藩初の西洋式軍艦製造にともない、初代長州藩海軍総督となり、丙辰丸艦長に就任する。桂小五郎と共に海軍の充実と丙辰丸の江戸航海について、藩庁に請願書を提出する。万延元年(1860年)、藩はこれを許可し、高杉晋作・久坂玄瑞ら士分6人と舸子14人が丙辰丸に乗り込み、外洋を航海し同年6月、江戸に入る。同年7月、桂小五郎に水戸藩の西丸帯刀・野村彝之介・住谷寅之介らを紹介し、水戸藩と長州藩が連帯して行動することを約した「丙辰丸の盟約」(成破の約)を丙辰丸艦内で結ぶ。


文久2年(1862年)、高杉晋作、久坂玄瑞らと共に御楯組を結成する。12月12日、江戸品川の御殿山に建設中だったイギリス公使館を襲撃した(英国公使館焼き討ち事件)。


文久3年(1863年)5月、下関戦争に参加、直接に自身が指揮する庚申丸でアメリカ商船を攻撃した。これを皮切りに、23日にはフランス艦を、26日にはオランダ艦に砲撃を浴びせた。ただ驚愕するばかりの両艦はなんとか逃走した。「攘夷が成功した!」と、長州藩は勝利に沸きたつ。同年6月、米国軍艦(ワイオミング号)の猛烈な反撃にあい、他の長州艦船(癸亥丸壬戌丸)と共に庚申丸は沈没した。大砲、砲台も破壊されて大損害をこうむり、5日にはフランス軍艦(フリゲート艦セミラミスと通報艦タンクレード)が下関を砲撃した。250人の武装兵が上陸し、砲台を破壊、付近の村を焼き払った。松島はこの戦闘の際に負傷している。


元治元年(1864年)、禁門の変が起こり、久坂玄瑞らが戦死する。幕府による第一次長州征伐で俗論派が藩政権を握ったため、松島は萩野山獄に投ぜられる。同年12月16日、「高杉晋作が功山寺で挙兵」との報が萩に伝わるや、その3日後の12月19日に処刑された。享年40(満39歳没)。

辞世の句は
かねてより たてしこゝろの たゆむべき たとへこの身は くちはてぬとも[1]

である。

明治時代になって正四位の位が贈られた。誕生の地には今も石碑が立ち、墓は山口県萩市の東光寺にある。

著書
(長州藩)松島剛蔵「覚」書という書籍が現存する。

登場する作品

花燃ゆ - 2015年、NHK、演:津田寛治 

脚注
1. #『勇猛・悲壮 辞世の句150 戦国武将・維新志士・帝国軍人…日本男児が遺した最期の言葉!』136P

参考文献
蒲生重章「松島剛蔵傳」:『近世偉人傳・二編』(1878年)より

(wikiより)

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日本大学の学祖「山田顕義」とは

日本大学の学祖である山田顕義は、最年少の門下生として 14歳で吉田松陰が主宰する松下村塾に入門します。

高杉晋作や久坂玄瑞らと交流し、長州の志士として歩み始めた顕義は、大村益次郎から兵学を学び、幕末に戦闘が絶え間なく続いた長州藩において軍人としての才能を発揮、諸隊を率いて幕末・維新の動乱を駆け抜けました。

明治初年、日本近代陸軍の創設に尽力、岩倉使節団で欧米諸国を回覧後は、近代法の整備が急務であると痛感し、以後近代法整備事業に取り組んでいきます。

一方で教育普及にも力を注ぎ、明治22年には日本法律学校 (  現日本大学 )、翌年には國學院 (  現國學院大學  ) の創立に尽力しました。

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日本大学、國學院大学の創設者として知られる山田顕義 ( 市之允 ) の生家跡。

弘化元年 ( 1844年 ) に萩藩大組士山田七兵衛の長男として生まれた顕義は、安政 4年 ( 1857年 ) 吉田松陰の門を叩いた。

四境戦争、戊辰戦争、西南戦争に参戦し、陸軍中将、司法大臣、枢密顧問官を歴任。

昭和 54年 ( 1979年 ) 建学 90周年を迎えた日本大学によって、山田顕義の誕生地に顕義園が整備された。 

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山田顕義

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生年月日天保15年10月9日
1844年11月18日
出生地長門国阿武郡椿郷東分
(現在の山口県萩市
没年月日1892年11月11日(47歳没)
死没地兵庫県朝来市生野町生野銀山
出身校松下村塾
前職武士長州藩士
陸軍軍人
称号帝國陸軍の階級―肩章―中将.svg 陸軍中将
正二位
JPN Toka-sho BAR.svg 勲一等旭日桐花大綬章
伯爵
配偶者山田龍子
子女山田金吉(長男)
山田梅子(長女)
親族村田清風(大伯父)
山田顕行(父)
山田亦介(伯父)
河上弥市(再従兄)
山田英夫(娘婿)

日本の旗 初代 司法大臣
内閣第1次伊藤内閣
黒田内閣
第1次山縣内閣
第1次松方内閣
在任期間1885年12月22日 - 1891年6月1日

日本の旗 第5代 司法卿
在任期間1883年12月12日 - 1885年12月22日

日本の旗 第8代 内務卿
在任期間1881年10月21日 - 1883年12月12日

日本の旗 第3代 工部卿
在任期間1879年9月10日 - 1880年2月28日

在任期間1878年3月5日 - 1879年9月10日

その他の職歴
日本の旗 貴族院伯爵議員
1890年7月10日 - 1892年4月1日)

山田 顕義
(やまだ あきよし、旧字体山田 顯義天保15年10月9日1844年11月18日〉- 明治25年〈1892年11月11日)は、日本政治家陸軍軍人[1]顕孝(あきたか)、のちに、顕義に改めた。通称市之允(いちのじょう)。に養浩斎、狂痴、韓峰山人、不抜、空斎など。別名は山田 空斎(やまだ くうさい)。陸軍中将正二位勲一等伯爵

生涯
明治維新期の軍人として新政府に貢献するとともに、新日本の設立者として、近代日本の法典編纂に尽力したことから法典伯の異名を持つ[2][3]日本法律学校を創立するうえで評議員の一人として特に関わり、日本大学の学祖とされる。

吉田松陰が営む松下村塾に最年少の14歳で入門、最後の門下生となる[4]。25歳の時に戊辰戦争で討伐軍の指揮をとる。その際、西郷隆盛から「あの小わっぱ、用兵の天才でごわす」、軍才から「用兵の妙、神の如し」との名言があり「小ナポレオン」とも称された[5]岩倉使節団の一員としてフランスを訪問した際、ナポレオン法典と出会い、「法律は軍事に優先する」ことを確信し、以後一貫して法律の研究に没頭する。約9年間にわたり司法大臣として近代国家の骨格となる明治法典を編纂した。

誕生から松下村塾入塾まで
天保15年(1844年)10月9日、長門国阿武郡椿郷東分[注 1](現・山口県萩市)で、長州藩士である山田七兵衛顕行村田光賢の子で山田家の養子となった山田龔之の子、大組士、禄高102石[6]、藩海軍頭)の長男として生まれる。伯父に山田亦介、また村田家の血縁でつながる親族に村田清風(大伯父)、河上弥市(再従兄)らがいる。


兵学者
・山田亦介の甥でありながら、幼少期の頃に「性質愚鈍、垂鼻頑獣(はなたれだるま)、ほとんど白痴の如し」といわれていた[7]


安政
3年(1856年)、松本村の新山直衛塾に学ぶ。2月、伯父の亦介により、中村九郎竹内竹叢から兵学を教授される。3月、藩校明倫館に入って師範の馬来勝平から剣術柳生新陰流)を学び[8]、文久2年(1862年)には柳生新陰流伝中許を得ている。安政4年(1857年)6月、松下村塾に入門した[8]


安政5年(1858年)、吉田松陰から「与山田生」(詩)「立志尚特異 俗流與議難 不思身後業 且偸目前安 百年一瞬耳 君子勿素餐」と立志の目標が書かれた扇面を与えられる[9]。その内容は「立志は特異を尚(たっと)ぶ、俗流はともに議し難し、身後の業を思はず、且(か)つ 目前の安きを偸(ぬす)む、百年は一瞬のみ、君子 素餐することなかれ[注 2]」である。

幕末期
文久2年(1862年)秋に上京し、藩主の世子である毛利定広の警護を務めるようになった。同年12月、高杉晋作久坂玄瑞・志道聞多(のちの井上馨)・伊藤俊輔(のちの伊藤博文)・品川弥二郎らとともに攘夷の血判書(御楯組血判書)に名を連ねた[10]。文久3年(1863年)3月31日、孝明天皇の攘夷祈願の賀茂神社行幸に際して、御前警護のため毛利定広に随行した。4月11日の石清水八幡宮への行幸にも同様に随行した。八月十八日の政変では長州藩兵として堺町御門の警備を担当し大砲掛となるも、公武合体派に排除され、三条実美以下7人の尊皇攘夷派公卿の長州亡命(七卿落ち)に同行した[10]。しかし途中で兵庫から大坂経由で京都へ一旦戻り潜伏、後に長州へ帰国した。藩から遊撃隊御用掛に任命された。慶應1年(1865年)に普門寺塾大村益次郎から西洋兵学を学んだ[11]。後に大村の遺志を継いで、陸軍創設へ大きく貢献する[12]


元治
元年(1864年)7月、禁門の変では山崎に布陣する久坂玄瑞・真木保臣らの陣に加わったものの長州勢は敗北し、山田も長州へ落ち延びている。8月、太田市之進・品川弥二郎らと御楯隊を創設し、軍監となって下関戦争で奮戦するも長州藩は敗北した。12月、対幕府恭順論の「俗論派」による藩支配に対する高杉晋作の決起(功山寺挙兵)に参戦し勝利を収め、俗論派を排除する。また、山田亦介が処刑され、市之允は謹慎となる[10]


慶応
2年(1866年)、第二次長州征伐では藩海軍総督の高杉晋作から丙寅丸の砲隊長に任命され、6月に周防大島沖で幕府軍艦を奇襲攻撃。7月、御楯隊司令として芸州口に転戦、数々の勝利を収めた。7月20日に将軍・徳川家茂の死去により第二次長州征伐は休戦となった[10]


慶応3年(1867年)5月、御楯隊と鴻城隊を合体した整武隊の総管に就任[10]。11月、薩摩藩から倒幕の出兵要請を受けた藩主・毛利敬親の命令で、長州藩先鋒隊の総隊長として三田尻(現山口県防府市)を出発し、全軍総督である毛利内匠の東征軍先鋒隊700人余とともに海路で京都に入った[13]


慶応4年(1868年)1月、戊辰戦争の発端となる鳥羽・伏見の戦いで在京長州藩兵諸隊の指揮官として、1,000余名ほどの長州藩兵を率いることとなった。新政府征討総督・仁和寺宮嘉彰親王の征討総督副参謀に命じられる。長州藩勢は、伏見口のところで京を保護、約1万の幕府軍遊撃隊)を引き払った。その後、山田と麾下の部隊は、大坂、京の守備にあたり、4月、三田尻に凱旋した。その頃、江戸城明け渡しを果たし、上野戦争彰義隊に勝利した新政府軍官軍)は、会津藩を中心とする奥羽越列藩同盟諸藩との戦いに入った。東北から新潟方面で起きた北越戦争は、北陸道鎮撫総督参謀になったばかりの黒田清隆山縣有朋奇兵隊を率いて、5月に長岡城を占拠した。しかし、アームストロング砲ガトリング砲エンフィールド銃スナイドル銃シャープス銃(軍用カービン)で武装した長岡藩兵を主軸とする精鋭兵に手こずり、長岡軍がアームストロング砲で榴散弾を発射して、奇兵隊ら新政府軍の頭上で爆発させる戦術を用いて、多大な損害を与えた。新政府軍はやむなく守勢に置かされた。それを克服するため、山田は先年にイギリスで完成した長州藩の艦艇「第一丁卯」に乗船を命じられ、5月に薩摩艦「乾行丸」、筑前艦「大鵬丸」も同行し馬関(現下関)を出発、越後海域に向かった[13](山田は山縣に協力して、海軍の戦闘を助力した)。


明治元年(1868年)5月、柏崎を拠点に新政府軍は、奥羽越列藩同盟の海からの補給路を完全に遮断するために、新潟港を手中に収める必要があったため、山田は「衝背作戦」を発案し実行した。この作戦のための兵士を乗せた輸送艦が柏崎に入港した7月、越後口海軍参謀(陸軍参謀兼海陸軍参謀)に命じられる。25日、官軍は占拠した長岡城を長岡軍に奪還されるが、同日、新政府軍が阿賀野川口東にある松ヶ崎・大夫浜に上陸する。その間、同盟軍の退路を断つとともに新潟の占領に成功する。また、29日には再度長岡城を占拠することに成功した。8月末頃、山田は援軍要請のため京に赴いたが、長州藩の衰退で増援はできなかった。9月4日に米沢藩、9月10日に仙台藩、9月22日に会津藩が相次いで降伏し、他の東北諸藩もこれに続いたため、新政府軍の戦略計画は変更になった。幕府海軍副総裁・榎本武揚は、指揮下の艦隊を率いて江戸を脱出、会津藩などの残存兵を吸収して、10月に蝦夷地に上陸する。榎本軍は新政府(箱館府)が置かれていた五稜郭を占拠した。新政府は、榎本軍と対戦するため青森に兵力を集めた。11月、青森口陸軍参謀(海軍参謀含)に命じられる。榎本軍・旧幕臣・同盟軍は蝦夷島政府(蝦夷共和国)を樹立して、新政府からの独立を試みた。明治2年(1869年)4月、新政府軍は箱館攻撃を開始、輸送艦3隻(1隻に1,500名ほど)に乗り青森を出発し、江差北方の乙部村に上陸する。五稜郭の戦い[14]で勝利し、戊辰戦争は終結した[13]

明治維新
明治2年(1869年)6月、宮中において黒田清隆らとともに明治天皇に謁見、戦功を賞される。陸海軍参謀の任を解かれ、新官制(太政官制)施行による兵部大丞に就任、長州藩少参事兼任を命ぜられる。同年8月、山口凱旋。顕義と改名する。同9月、維新の軍功により新政府から永世600石の禄を下賜されるが、大村益次郎の暗殺未遂により、藩命で急ぎ上京する。病床の大村より日本近代軍制の創設について指示を受け、11月には兵部少輔久我通久と連署で、結局大村は死去するが、その遺策をまとめた『兵部省軍務ノ大綱』を太政官に提出した。以後, 大阪を中心とした兵部省確立に尽力する。同じ長州出身の前原一誠らと共に国軍の建設を進めようとしたが、省内の統制がとれず仕事は停滞する。国軍の建設が進展をみせたのは、欧州視察から帰国した山縣有朋が兵部少輔(国防次官補)に、西郷従道が権大丞(局長の次)に就いてからであった[15]


明治3年(1870年)、亡き大村の計画に従い、大坂城跡に設置された大坂兵部省出張所と東京の本省とを往復する日々を過ごす。5月頃から畿内限定の徴兵制(辛未徴兵)施行の政府有力者への働きかけを開始する。これも大村の計画によるものであった。9月には普仏戦争の観戦を強く希望するが、川村純義ら他の兵部省員らも希望したため、省務の停滞を危惧した大久保利通らの指示により許可されなかった。この年、井上馨の養女で湯田温泉瓦屋の鹿島屋喜右衛門の長女龍子と結婚する。


明治4年(1871年)1月、大坂にて辛未徴兵を開始するも、5月には事実上延期となる[注 3]。 これは徴兵の質、および指導士官や施設の不足などの根本的な問題のためだった。7月、陸軍少将に任命された。


幕末に欧米諸国との不平等な条約を改正することが、新政府の重要課題で、欧米と対等な交渉をするためにも、日本は近代法の整備が急務となった。


同年11月、岩倉使節団に軍事制度調査のため、兵部省理事官として随行する[16]サンフランシスコソルトレイクシティシカゴを経由し、ワシントンD.C.に到着。明治5年2月(1872年3月)、岩倉らと別れて原田一道ら兵部省一行とともにフィラデルフィアの海軍施設などを見学後、渡仏。パリを中心に、ベルリンオランダベルギーローザンヌブルガリアロシアなど欧州各国で軍制を調査する。ウィーン万国博覧会にも立ち寄り、明治6年(1873年)5月、マルセイユ港から帰途に着く[17]


詳しいことは「山田顕義ウィキペディア」をご覧ください。 ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E7%94%B0%E9%A1%95%E7%BE%A9
(wikiより)

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山田顕義

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⇧⇩ 楫取素彦旧宅跡から少し登ると、山田顕義誕生地になります。

そして右側の階段を下りると、冒頭画像の顕義園という公園となります。

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生年月日1829年4月18日
出生地長門国萩魚棚沖町(現山口県萩市
没年月日1912年8月14日(83歳没)
死没地日本の旗 日本 山口県三田尻(現防府市
出身校明倫館
前職長州藩
称号正二位勲一等男爵
配偶者杉寿(久子) (1853年 - 1881年)
杉文(美和子) (1883年 - 1921年)

在任期間1876年 - 1884年

在任期間1884年 - 1890年

在任期間1890年7月10日 - 1911年7月9日

松下村塾を側面から支援した楫取素彦の旧宅跡。

文政 12年 ( 1829年 ) 萩藩医・松島瑞播の次男として生まれた素彦は、兄に松島剛蔵を持ち、萩藩儒者小田村吉平の養子となって小田村伊之助と称した。

翌天保元年 ( 1830年 ) に生まれた吉田松陰とは生前を通して深い親交を結び、松下村塾で門下生の指導にあたるなど松陰を支え、松陰の妹・寿、美和子を妻に迎えている。

四境戦争では、幕府側との交渉役を担い、維新後は初代群馬県令を経て、元老院議官、宮中顧問官、貴族院議員を歴任。

吉田松陰の実兄・杉民治と共に松陰の顕彰に努力した。

〇 楫取素彦
楫取 素彦(かとり もとひこ、文政12年3月15日[1]1829年4月18日) - 大正元年(1912年8月14日[1])は、幕末長州藩志士明治時代の官僚、政治家。錦鶏間祗候正二位勲一等男爵通称は久米次郎または内蔵次郎。小田村家の養嗣となって小田村伊之助(おだむら いのすけ)と改め、後に文助・素太郎といい、慶応3年(1867年)9月に藩命により、楫取素彦と改名[2]した。は希哲(ひさよし)、字は士毅、号は耕堂彜堂・晩稼・棋山・不如帰耕堂など。


幕末を代表する人物である吉田松陰とは関係が深く、また松陰の次妹の寿と結婚し、寿に先立たれた後の明治16年(1883年)、久坂玄瑞の未亡人であった末妹の美和子(文)と再婚している。最初の妻・寿との間に希家(小田村家を継ぐ)、道明(久坂家を一時継ぎ、のち楫取家の籍に入る、芝山巌事件で殺害された)の二男がいる。曾孫(希家の養孫、道明の外孫)に小田村寅二郎小田村四郎らがいる。

来歴
文政12年3月15日(1829年4月18日)、長門国萩魚棚沖町(現・山口県萩市)に藩医・松島瑞蟠の次男として生まれる。兄に松島剛蔵、弟に小倉健作(松田謙三)がいる。小田村家の養子となるのは天保11年(1840年)で、同家は代々儒官であった。弘化元年(1844年明倫館に入り、同4年(1847年)19歳で司典助役兼助講となる。22歳大番役として江戸藩邸に勤め、安積艮斎佐藤一斎に教えを受ける。


安政
2年(1855年)4月、明倫館舎長書記兼講師見習となる。翌3年(1856年)2月相模出衛を命ぜられ、同4年(1857年)4月帰国、明倫館都講役兼助講となる。この頃から松陰の教育事業は盛んになり、翌5年(1858年)11月の松下村塾閉鎖まで、初めはその計画に参与し、また時々訪問し間接の援助を与え、塾生とも相知ることとなる。松陰の激論を受け止め、相敬愛するところは、2人の交わりの特色である。松陰の投獄後には塾生指導の任に当たるも、国事に忙しくなり塾の世話ができなくなったが、明治以後に杉民治と共に一門の中心となって、松陰の顕彰に尽力した。


万延
元年(1860年)山口講習堂及び三田尻越氏塾で教え、文久元年(1861年)以後はもっぱら藩主に従って江戸・京都・防長の間を東奔西走する。元治元年(1864年)12月、藩の恭順派のために野山獄に投ぜられ、翌慶応元年(1865年)出獄する。5月には藩命により、当時太宰府滞在中の五卿(七卿落ちの7人から錦小路頼徳澤宣嘉を除いた5人)を訪ねる。四境戦争の時は、広島へ出張の幕軍総督への正使宍戸璣(山縣半蔵)の副使となる。慶応3年(1867年)冬、長州藩兵上京の命を受け、諸隊参謀として出征する。公卿諸藩の間を周旋し、鳥羽・伏見の戦いにおいて、江戸幕府の死命を制するに至った。


維新後、いったん帰国して長州藩に出仕していたが職を辞し、一時期三隅(現在の長門市西部)に住んでいた。明治5年(1872年)に足柄県参事となり、明治7年(1874年)に熊谷県権令、明治9年(1876年)の熊谷県改変に伴って新設された群馬県県令となった。楫取の在任中に群馬県庁移転問題で前橋が正式な県庁所在地と決定し、楫取は高崎の住民から反感を買っている。また「明治の三老農」の一人船津伝次平駒場農学校へ奉職するよう勧めている。


明治17年(1884年)、元老院議官に転任する。その後、高等法院陪席裁判官・貴族院議員・宮中顧問官などを歴任し、また貞宮多喜子内親王御養育主任を命ぜられたこともあった。明治20年(1887年男爵を授けられる。明治23年(1890年)7月10日、貴族院男爵議員に就任し、1911年(明治44年)7月9日まで3期在任[3]。1890年10月20日、錦鶏間祗候となる[4]。大正元年(1912年)8月14日、山口県の三田尻(現・防府市)で死去。84歳歿。没後に正二位に追叙され、勲一等瑞宝章を追贈された[5]


台湾で横死した次男・道明の遺児である三郎が男爵位を継いだ。

栄典
叙位
・明治5年11月12日 - 従六位[6]
1874年(明治7年)11月5日 - 正六位[6]
1876年(明治9年)5月24日 - 従五位[7]
1883年(明治16年)7月16日 - 正五位[6][8]
1884年(明治17年)8月30日 - 従四位[6][9]
1886年(明治19年)10月20日 - 従三位[6][10]
1894年(明治27年)5月21日 - 正三位[6][11]
1905年(明治38年)5月30日 - 従二位[6][12]
1912年(大正元年)8月5日 - 正二位[6][13]


勲章等
1882年(明治15年)12月7日 - 勲四等旭日小綬章[6]
1885年(明治18年)4月7日 - 勲三等旭日中綬章[6][14]
1887年(明治20年)5月24日 - 男爵[6][15]
1889年(明治22年)11月25日 - 大日本帝国憲法発布記念章[6][16]
1896年(明治29年)3月29日 - 銀杯一組[6]
1898年(明治31年)1月28日 - 御紋付御杯[6]
1901年(明治34年)6月27日 - 勲二等瑞宝章[6][17]
1906年(明治39年)4月1日 - 旭日重光章[6][18]
1912年(大正元年)8月5日 - 勲一等瑞宝章[6][13]

顕彰
2012年(平成24年)8月14日 - 初代群馬県令没後100年記念顕彰碑「足跡」(前橋市前橋公園
2016年(平成28年)8月21日 - 功績顕彰銅像(楫取素彦、妻寿子、新井領一郎星野長太郎)建立(前橋市前橋公園

詳しいことは「楫取素彦ウィキペディア」をご覧ください。 ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A5%AB%E5%8F%96%E7%B4%A0%E5%BD%A6
(wikiより)

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楫取素彦

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案内板も無い為、詳しい事は分からないのですが・・・

おそらく「天樹公」とは「毛利輝元」の事なので

旧明光寺地蔵屋敷にて、毛利輝元が休息をしたとゆう事だと思います。

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松島 剛蔵(まつしま ごうぞう、文政8年3月6日1825年4月23日) - 元治元年12月19日1865年1月16日))は、幕末長州藩士、医師。尊王攘夷および倒幕運動派の志士として活動したが、長州藩の俗論派(幕府派)によって処刑された。甲子殉難十一烈士の一人である。

生涯
長州藩の藩医である松島瑞蟠の長男として文政8年(1825年)3月6日、萩中ノ倉に生まれた。弟に吉田松陰の妹婿である小田村伊之助(楫取素彦)と小倉健作(松田謙三)がいる。天保2年(1831年)、父・瑞蟠が狂を発し廃人となったため家督を継ぐ。禄39石余り。


江戸遊学し、坪井信道に4年間従学のち、世子である毛利元徳の侍医となった。のち、長崎に赴き勝海舟らと共に長崎海軍伝習所でオランダ人に航海術を3年間学び、帰藩して洋学所・軍艦教授所を創立する。軍艦教授所の門下生には高杉晋作らがいた。桂小五郎(木戸孝允)、吉田松陰とは友人であり、特に松下村塾の門下生らと提携して様々な活動を行った。


安政
4年(1857年)、長州藩初の西洋式軍艦製造にともない、初代長州藩海軍総督となり、丙辰丸艦長に就任する。桂小五郎と共に海軍の充実と丙辰丸の江戸航海について、藩庁に請願書を提出する。万延元年(1860年)、藩はこれを許可し、高杉晋作・久坂玄瑞ら士分6人と舸子14人が丙辰丸に乗り込み、外洋を航海し同年6月、江戸に入る。同年7月、桂小五郎に水戸藩の西丸帯刀・野村彝之介・住谷寅之介らを紹介し、水戸藩と長州藩が連帯して行動することを約した「丙辰丸の盟約」(成破の約)を丙辰丸艦内で結ぶ。


文久2年(1862年)、高杉晋作、久坂玄瑞らと共に御楯組を結成する。12月12日、江戸品川の御殿山に建設中だったイギリス公使館を襲撃した(英国公使館焼き討ち事件)。


文久3年(1863年)5月、下関戦争に参加、直接に自身が指揮する庚申丸でアメリカ商船を攻撃した。これを皮切りに、23日にはフランス艦を、26日にはオランダ艦に砲撃を浴びせた。ただ驚愕するばかりの両艦はなんとか逃走した。「攘夷が成功した!」と、長州藩は勝利に沸きたつ。同年6月、米国軍艦(ワイオミング号)の猛烈な反撃にあい、他の長州艦船(癸亥丸壬戌丸)と共に庚申丸は沈没した。大砲、砲台も破壊されて大損害をこうむり、5日にはフランス軍艦(フリゲート艦セミラミスと通報艦タンクレード)が下関を砲撃した。250人の武装兵が上陸し、砲台を破壊、付近の村を焼き払った。松島はこの戦闘の際に負傷している。


元治元年(1864年)、禁門の変が起こり、久坂玄瑞らが戦死する。幕府による第一次長州征伐で俗論派が藩政権を握ったため、松島は萩野山獄に投ぜられる。同年12月16日、「高杉晋作が功山寺で挙兵」との報が萩に伝わるや、その3日後の12月19日に処刑された。享年40(満39歳没)。

辞世の句は
かねてより たてしこゝろの たゆむべき たとへこの身は くちはてぬとも[1]

である。

明治時代になって正四位の位が贈られた。誕生の地には今も石碑が立ち、墓は山口県萩市の東光寺にある。

著書
(長州藩)松島剛蔵「覚」書という書籍が現存する。

登場する作品

花燃ゆ - 2015年、NHK、演:津田寛治 

脚注
1. #『勇猛・悲壮 辞世の句150 戦国武将・維新志士・帝国軍人…日本男児が遺した最期の言葉!』136P

参考文献
蒲生重章「松島剛蔵傳」:『近世偉人傳・二編』(1878年)より

(wikiより)

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・小津安二郎誕生の地

江東区の生んだ世界的映画監督小津安二郎は、明治三十六 ( 一九〇三 ) 年 十二月十二日、この地に生をうけました。 

生家は、「湯浅屋」という屋号の肥料問屋でした。 

安二郎が十歳のとき、三重県松坂町に転居、中学校卒業後、尋常小学校の代用教員を一年間勤めた後、大正十二 ( 一九二三 ) 年再び上京、深川和倉町に住み、松竹蒲田撮影所に撮影助手として入社しました。
 
昭和二 ( 一九二七 ) 年監督に昇進、処女作時代劇「懺悔の刃」を監督しました。
 
その後の小津安二郎監督作品は、「出来ごころ」に代表されるような、下町特有の情緒や人情味が描かれ、またローアングルによる撮影スタイルなどによって、家族の触れ合いや日常生活を端的に描く独特の作風を作り上げていきました。

昭和三十七 ( 一九六二 ) 年、「秋刀魚の味」を発表、映画人としては、初の芸術院会員となりました。 

この作品が小津安二郎の遺作となり、翌昭和三十八 ( 一九六三 ) 年六十歳で死去しました。

その作品の価値は死後内外共にいよいよ高まり、世界最高の映像作家として評価されています。
(案内板より)

〇 小津安二郎
小津 安二郎(おづ やすじろう、1903年明治36年〉12月12日 - 1963年昭和38年〉12月12日)は、日本映画監督脚本家である。日本映画を代表する監督のひとりであり、サイレント映画時代から戦後までの約35年にわたるキャリアの中で、原節子主演の『晩春』(1949年)、『麦秋』(1951年)、『東京物語』(1953年)など54本の作品を監督した。ロー・ポジションによる撮影や厳密な構図などが特徴的な「小津調」と呼ばれる独特の映像世界で、親子関係や家族の解体をテーマとする作品を撮り続けたことで知られ、黒澤明溝口健二と並んで国際的に高く評価されている。1962年には映画人初の日本芸術院会員に選出された。

生涯
生い立ち
1903年12月12日東京市深川区亀住町4番地(現在の東京都江東区深川一丁目)に、父・寅之助と母・あさゑの5人兄妹の次男として生まれた[4][5][6]。兄は2歳上の新一、妹は4歳下の登貴と8歳下の登久、弟は15歳下の信三である[5]。生家の小津新七家は、伊勢松阪出身の伊勢商人である小津与右衛門家の分家にあたる[7]。伊勢商人は江戸に店を出して成功を収めたが、小津与右衛門家も日本橋で海産物肥料問屋の「湯浅屋」を営んでいた[7][8][注 2]。小津新七家はその支配人を代々務めており、五代目小津新七の子である寅之助も18歳で支配人に就いた[7][10]。あさゑはの名家の生まれで、のちに伊勢商人の中條家の養女となった[5][7]。両親は典型的な厳父慈母で、小津は優しくて思いやりのある母を終生まで敬愛した[8]。小津は3歳頃に脳膜炎にかかり、数日間高熱で意識不明の状態となったが、母が「私の命にかえても癒してみせます」と必死に看病したことで一命をとりとめた[13]


1909年
、小津は深川区立明治小学校附属幼稚園に入園した。当時は子供を幼稚園に入れる家庭は珍しく、小津はとても裕福で教育熱心な家庭で育ったことがうかがえる[14]。翌1910年には深川区立明治尋常小学校(現在の江東区立明治小学校)に入学した[4]1913年3月、子供を田舎で教育した方がよいという父の教育方針と、当時住民に被害を及ぼしていた深川のセメント粉塵公害による環境悪化のため、一家は小津家の郷里である三重県飯南郡神戸村(現在の松阪市垣鼻785番地に移住した[4][15]。父は湯浅屋支配人の仕事があるため、東京と松阪を往復する生活をした[15]。同年4月、小津は松阪町立第二尋常小学校(現在の松阪市立第二小学校)4年生に転入した[16]。5・6年時の担任によると、当時の小津は円満実直で成績が良く、暇があるとチャンバラごっこをしていたという[17]。やがて小津は自宅近くの映画館「神楽座」で尾上松之助主演の作品を見たのがきっかけで、映画に病みつきとなった[4]


1916年
、尋常小学校を卒業した小津は、三重県立第四中学校(現在の三重県立宇治山田高等学校)に入学し、寄宿舎に入った[4]。小津はますます映画に熱を上げ、家族にピクニックに行くと偽って名古屋まで映画を見に行ったこともあった[18]。当時は連続活劇の女優パール・ホワイトのファンで、レックス・イングラムペンリン・スタンロウズ英語版の監督作品を好むなど、アメリカ映画一辺倒だった[18][19]。とくに小津に感銘を与えたのがトーマス・H・インス監督の『シヴィリゼーション』(1917年)で、この作品で映画監督の存在を初めて認識し、監督を志すきっかけを作った[19][20]1920年、学校では男子生徒が下級生の美少年に手紙を送ったという「稚児事件[注 3]」が発生し、小津もこれに関与したとして停学処分を受けた[22]。さらに小津は舎監に睨まれていたため、停学と同時に寄宿舎を追放され、自宅から汽車通学することになった[22]。小津は追放処分を決めた舎監を終生まで嫌悪し、戦後の同窓会でも彼と同席することを拒否した[23][24]。しかし、自宅通学に変わったおかげで外出が自由になり、映画見物には好都合となった[22]。この頃には校則を破ることが何度もあり、操行の成績は最低の評価しかもらえなくなったため、学友たちから卒業できないだろうと思われていた[25][26]


1921年
3月、小津は何とか中学校を卒業することができ、両親の命令で兄の通う神戸高等商業学校を受験したが、合格する気はあまりなく、神戸大阪で映画見物を楽しんだ[27][28]名古屋高等商業学校も受験したが、どちらとも不合格となり、浪人生活に突入した[4]。それでも映画に没頭し、7月には知人らと映画研究会「エジプトクラブ」を設立し、憧れのパール・ホワイトなどのハリウッド俳優の住所を調べて手紙を送ったり、映画のプログラムを蒐集したりした[29]。翌1922年に再び受験の時期が来ると、三重県師範学校を受験したが不合格となり、飯南郡宮前村(現在の松阪市飯高町)の宮前尋常高等小学校に代用教員として赴任した[30]。宮前村は松阪から約30キロの山奥にあり、小津は学校のすぐ近くに下宿したが、休みの日は映画を見に松阪へ帰っていたという[31][32]。小津は5年生男子48人の組を受け持ち、児童に当時では珍しいローマ字を教えたり、教室で活劇の話をして喜ばせたりしていた[31]。また、下宿で児童たちにマンドリンを弾き聞かせたり、下駄のまま児童を連れて標高1000メートル以上の局ヶ岳を登頂したりしたこともあった[33]

映画界入り
1923年1月、一家は小津と女学校に通う妹の登貴を残して上京し、東京市深川区和倉町に引っ越した[4]。3月に小津は登貴が女学校を卒業したのを機に、代用教員を辞めて2人で上京し、和倉町の家に合流して家族全員が顔を揃えた[34]。小津は映画会社への就職を希望したが、映画批評家の佐藤忠男曰く「当時の映画は若者を堕落させる娯楽と考えられ、職業としては軽蔑されていた」ため父は反対した[34][35]。しかし、母の異母弟の中條幸吉が松竹に土地を貸していたことから、その伝手で8月に松竹キネマ蒲田撮影所に入社した[34]。小津は監督志望だったが、演出部に空きがなかったため、撮影部助手となった[36]。入社直後の9月1日、小津は撮影所で関東大震災に遭遇した。和倉町の家は焼失したが、家族は全員無事だった[37]。震災後に本家が湯浅屋を廃業したことで、父は亀住町の店跡を店舗兼住宅に新築し、新たに「小津地所部」の看板を出して、本家が所有する土地や貸家の管理を引き受けた[38][39]。松竹本社と蒲田撮影所も震災で被害を受け、スタッフの多くは京都の下加茂撮影所に移転した[39]。蒲田には島津保次郎監督組が居残り、小津も居残り組として碧川道夫の撮影助手を務めた[40]


1924年
3月に蒲田撮影所が再開すると、小津は酒井宏の撮影助手として牛原虚彦監督組についた[41][42]。小津は重いカメラを担ぐ仕事にはげみ、ロケーション中に暇があると牛原に矢継ぎ早に質問をした[42]。12月、小津は東京青山近衛歩兵第4連隊一年志願兵として入営し、翌1925年11月に伍長で除隊した[41]。再び撮影助手として働いた小津は、演出部に入れてもらえるよう兄弟子の斎藤寅次郎に頼み込み、1926年に時代劇班の大久保忠素監督のサード助監督となった[43]。この頃に小津はチーフ助監督の斎藤、セカンド助監督の佐々木啓祐、生涯の親友となる清水宏、後に小津作品の編集担当となる撮影部の浜村義康の5人で、撮影所近くの家を借りて共同生活をした[43][44]。小津は大久保のもとで脚本直しと絵コンテ書きを担当したが、大久保は助監督の意見に耳を傾けてくれたため、彼にたくさんのアイデアを提供することができた[36][44][45]。また、大久保はよく撮影現場に来ないことがあり、その時は助監督が代わりに務めたため、小津にとっては大変な勉強になった[36]。小津は後に、大久保のもとについたことが幸運だったと回想している[45]


1927年
のある日、撮影を終えて腹をすかした小津は、満員の社員食堂でカレーライスを注文したが、給仕が順番を飛ばして後から来た牛原虚彦のところにカレーを運んだため、これに激昂して給仕に殴りかかろうとした[46]。この騒動は撮影所内に知れ渡り、小津は撮影所長の城戸四郎に呼び出されたが、それが契機で脚本を提出するよう命じられた[47]。城戸は「監督になるには脚本が書けなければならない」と主張していたため、これは事実上の監督昇進の試験だった[36]。小津は早速自作の時代劇『瓦版かちかち山』の脚本を提出し、作品は城戸に気に入られたが、内容が渋いため保留となった[36][47]。8月、小津は「監督ヲ命ズ 但シ時代劇部」の辞令により監督昇進を果たし、初監督作品の時代劇『懺悔の刃』の撮影を始めた[48]。ところが撮影途中に予備役の演習召集を受けたため、撮り残したファーストシーンの撮影を斎藤に託し、9月25日に三重県津市の歩兵第33連隊第7中隊に入隊した[49]。10月に『懺悔の刃』が公開され、除隊した小津も映画館で鑑賞したが、後に「自分の作品のような気がしなかった」と述べている[49][50]

監督初期
1927年11月、蒲田時代劇部は下加茂撮影所に合併されたが、小津は蒲田に残り、以後は現代劇の監督として活動することができた[48]。しかし、小津は早く監督になる気がなく、会社からの企画を6、7本断ったあと、ようやく自作のオリジナル脚本で監督2作目の『若人の夢』(1928年)を撮影した[50]。当時の松竹蒲田は城戸の方針で、若手監督に習作の意味を兼ねて添え物用の中・短編喜劇を作らせており、新人監督の小津もそうした作品を立て続けに撮影したが、その多くは学生や会社員が主人公のナンセンス喜劇だった[51][52][53]1928年は5本、1929年は6本、1930年は生涯最高となる7本もの作品を撮り、めまぐるしいほどのスピード製作となった[4][54]。徐々に会社からの信用も高まり、トップスターの栗島すみ子主演の正月映画『結婚学入門』(1930年)の監督を任されるほどになった[55]。『お嬢さん』(1930年)は当時の小津作品にしては豪華スターを配した大作映画となり、初めてキネマ旬報ベスト・テンに選出された(日本・現代映画部門2位)[54][55]


1931年
、松竹は土橋式トーキーを採用して、日本初の国産トーキー『マダムと女房』を公開し、それ以来日本映画は次第にトーキーへと移行していったが、小津は1936年までトーキー作品を作ろうとはしなかった[56]。その理由はコンビを組んでいたカメラマンの茂原英雄が独自のトーキー方式を研究していたことから、それを自身初のトーキー作品で使うと約束していたためで、後に小津は日記に「茂原氏とは年来の口約あり、口約果たさんとせば、監督廃業にしかず、それもよし」と書いている[55][57]。小津は茂原式が完成するまでサイレント映画を撮り続け、松竹が採用した土橋式はノイズが大きくて不備があるとして使用しなかった[55]。しかし、サイレント作品のうち5本は、台詞はないが音楽が付いているサウンド版で公開されている[58]


1930年代前半になると、小津は批評家から高い評価を受けることが多くなった。『東京の合唱』(1931年)はキネマ旬報ベスト・テンの3位に選ばれ、佐藤は「これで小津は名実ともに日本映画界の第一級の監督として認められるようになったと言える」と述べている[59]。『大人の見る繪本 生れてはみたけれど』(1932年)はより高い評価を受け、初めてキネマ旬報ベスト・テンの1位に選ばれた[58]。さらに『出来ごころ』(1933年)と『浮草物語』(1934年)でもベスト・テンの1位に選ばれた[55]1933年9月には後備役として津市の歩兵第33連隊に入営し、毒ガス兵器を扱う特殊教育を受けた[32]。10月に除隊すると京都で師匠の大久保や井上金太郎らと交歓し、井上の紹介で気鋭の新進監督だった山中貞雄と知り合い、やがて二人は深く心を許し合う友となった[32][60]。新しい出会いの一方、1934年4月には父寅之助を亡くした[4]。父が経営した小津地所部の後を継ぐ者はおらず、2年後に家族は深川の家を明け渡すことになり、小津と母と弟の3人で芝区高輪に引っ越した。小津は一家の大黒柱として、家計や弟の学費を背負ったが、この頃が金銭的に最も苦しい時期となった[61]


1935年
7月、小津は演習召集のため、再び青山の近衛歩兵第4連隊に3週間ほど入隊した[4]。この年に日本文化を海外に紹介するための記録映画『鏡獅子』(1936年)を撮影し、初めて土橋式によるトーキーを採用した[55][62]1936年3月、小津は日本映画監督協会の結成に加わり、協会を通じて溝口健二内田吐夢田坂具隆などの監督と親しくなった[60]。この年に茂原式トーキーが完成し、小津は約束通り『一人息子』(1936年)で採用することを決め、同年に蒲田から移転した大船撮影所で撮影することを考えたが、松竹が土橋式トーキーと契約していた関係で大船撮影所を使うことができず、誰もいなくなった旧蒲田撮影所で撮影した[63][64][注 4]1937年に土橋式で『淑女は何を忘れたか』を撮影したあと、自身が考えていた原作『愉しき哉保吉君』を内田吐夢に譲り、同年に『限りなき前進』として映画化された[63]。9月には『父ありき』の脚本を書き上げたが、執筆に利用した茅ヶ崎市の旅館「茅ヶ崎館」は、これ以降の作品でもしばしば執筆に利用した[65]

小津と戦争
1937年7月に日中戦争が開始し、8月に親友の山中が応召されたが、小津も『父ありき』脱稿直後の9月10日に召集され、近衛歩兵第2連隊に歩兵伍長として入隊した[63][66]。小津は毒ガス兵器を扱う上海派遣軍司令部直轄・野戦瓦斯第2中隊に配属され、9月27日に上海に上陸した[66]。小津は第三小隊の班長となって各地を転戦し、南京陥落後の12月20日に安徽省滁県に入城した[67]1938年1月12日、上海へ戦友の遺骨を届けるための出張の帰路、南京郊外の句容にいた山中を訪ね、30分程の短い再会の時を過ごした[68]。4月に徐州会戦に参加し、6月には軍曹に昇進し、9月まで南京に駐留した[66]。同月に山中は戦病死し、訃報を知った小津は数日間無言になったという[4]。その後は漢口作戦に参加し、1939年3月には南昌作戦に加わり、修水の渡河作戦で毒ガスを使用した[66]。続いて南昌進撃のため厳しい行軍をするが、小津は「山中の供養だ」と思って歩いた[69]。やがて南昌陥落で作戦は中止し、6月26日には九江で帰還命令が下り、7月13日に日本に帰国、7月16日に召集解除となった[70]


1939年12月、小津は帰還第1作として『彼氏南京へ行く』(後に『お茶漬の味』と改題)の脚本を執筆し、翌1940年に撮影準備を始めたが、内務省の事前検閲で全面改訂を申し渡され、出征前夜に夫婦でお茶漬けを食べるシーンが「赤飯を食べるべきところなのに不真面目」と非難された[71]。結局製作は中止となり、次に『戸田家の兄妹』(1941年)を製作した。これまで小津作品はヒットしないと言われてきたが、この作品は興行的に大成功を収めた[55]。次に応召直前に脚本を完成させていた『父ありき』(1942年)を撮影し、小津作品の常連俳優である笠智衆が初めて主演を務めた[4]。この撮影中に太平洋戦争が開戦し、1942年に陸軍報道部は「大東亜映画」を企画して、大手3社に戦記映画を作らせた。松竹はビルマ作戦を描くことになり、小津が監督に抜擢された[56]。タイトルは『ビルマ作戦 遥かなり父母の国』で脚本もほぼ完成していたが、軍官の求める勇ましい映画ではないため難色を示され、製作中止となった[72]


1943年
6月、小津は軍報道部映画班員として南方へ派遣され、主にシンガポールに滞在した[56]。同行者には監督の秋山耕作と脚本家の斎藤良輔がおり、遅れてカメラマンの厚田雄春が合流した[56]。小津たちはインド独立をテーマとした国策映画『デリーへ、デリーへ』を撮ることになり、ペナンスバス・チャンドラ・ボースと会見したり、ジャワでロケを行ったりしたが、戦況が悪化したため撮影中止となった[73]。小津は厚田に後発スタッフが来ないよう電報を打たせたが、電報の配達が遅れたため、後発スタッフは行き違いで日本を出発してしまい、小津は「戦況のよくない洋上で船がやられたらどうするんだ」と激怒した。後発スタッフは何とか無事にシンガポールに到着し、撮影も続行されたが、やがて小津とスタッフ全員に非常召集がかかり、現地の軍に入営することになった[74]。仕事のなくなった小津はテニスや読書をして穏やかに過ごし、夜は報道部の検閲試写室で「映写機の検査」と称して、接収した大量のアメリカ映画を鑑賞した[32][75]。その中には『風と共に去りぬ』『嵐が丘』(1939年)、『怒りの葡萄』『ファンタジア』『レベッカ』(1940年)、『市民ケーン』(1941年)などが含まれており、『ファンタジア』を見た時は「こいつはいけない。相手がわるい。大変な相手とけんかした」と思ったという[76]


1945年
8月15日にシンガポールで敗戦を迎えると、『デリーと、デリーへ』のフィルムと脚本を焼却処分し、映画班員とともにイギリス軍の監視下にあるジュロンの民間人収容所に入り、しばらく抑留生活を送った[4][77]。小津は南方へ派遣されてからも松竹から給与を受け取っていたため、軍属ではなく民間人として扱われ、軍の収容所入りを免れていた[78]。抑留中はゴム林での労働に従事し、収容所内での日本人向け新聞「自由通信」の編集もしていた[77]。暇をみてはスタッフと連句を詠んでいたが、小津は後に「連句の構成は映画のモンタージュと共通するものがあり、とても勉強になった」と回想している[76]。同年12月、第一次引き揚げ船で帰国できることになり、スタッフの人数が定員を上回っていたため、クジ引きで帰還者を決めることにした。小津はクジに当たったが、「俺は後でいいよ」と妻子のあるスタッフに譲り、映画班の責任者として他のスタッフの帰還が終わるまで残留した[77]。翌1946年2月に小津
も帰還し、12日に広島県大竹に上陸した[4]

詳しいことは、『小津安二郎ウィキペディア』をご覧ください。 ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E6%B4%A5%E5%AE%89%E4%BA%8C%E9%83%8E
(wikiより)

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小津安二郎

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江戸伝統すみだ川染

手描江戸友禅伝承の碑

昭和六十三年四月十九日

染絵師 井浦深泉

・東京手描友禅
経済産業大臣指定 ( 昭和 55年 3月 3日 )・伝統的工芸品、東京都知事指定 ( 昭和 57年 12月 24日 )・伝統工芸品「東京手描友禅」に認定されています。

・東京手描友禅 ( 東京友禅・江戸友禅 ) の由来
友禅染は、江戸時代の貞享 ( じょうきょう ) 年間 ( 1684 - 1688 ) に京都の扇面絵師であった宮崎友禅斎 ( 日置清親 _ ひおききよちか ) により創始されたと伝えられています。

扇面絵師として名を知られていた友禅斎が呉服屋の依頼により、小袖に小紋模様の多彩色の図案を描いたのが評判となり、友禅模様として脚光を浴びることとなりました。

徳川家康が江戸幕府を開設したこと ( 1603年 ) を契機に大名家の参勤交代制度に伴って、絵師や染師も他の職人達と同様に京から江戸に移り住むようになりました。

京のみならず各地方の各種技術・技法の交流がはじまり伝承され、江戸特有の文化にも育まれて、より洗練されたものづくりがされるようになりました。

染物には水資源が欠かすことのできない重要な要素となり、このため隅田川や神田川の河川流域には多くの染師や職人が住んでいました。

延宝元年 ( 1673年 ) に日本橋に越後屋呉服店 ( 現在の日本橋・三越 ) が開設されて、近年には、その染工場が神田川上流域の高田馬場付近に造られ、多くの染師や染物関連の職種に携わる人達が移り住むようになりました。

特に関東大震災や第二次世界大戦を契機に東京の地場産業として、目覚ましい発展を遂げて来ました。その中にあって東京手描友禅は構想・図案・下絵・糸目糊置き・友禅の色挿し・仕上げまでの工程がほぼ作者の一貫作業となっており、華やかさを抑えて単彩のなかにも秘められた美しさと溢れる気品は、江戸の粋を現代に伝えています。

("東京手描友禅" 東京都工芸染色協同組合ホームページより)

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江戸時代に材木の貯木場があった場所。

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沢田 美喜(さわだ みき、1901年9月19日[1][2] - 1980年5月12日[3])は、日本の社会事業家。本名は澤田 美喜(読みは同じ)。


三菱財閥
の創業者・岩崎弥太郎の孫娘として生まれ[4]、外交官の沢田廉三と結婚[4]。4人の子に恵まれる[5]。敗戦後、日本女性のパンパンデビューブームのなか、日本女性と日本を占領した連合国軍(事実上のアメリカ軍)兵士たちとの間に生まれた全国の混血児(GIベビー)たちの中で、両親に捨てられたG.Iベビーたち(GIベビー孤児)の中の、東京周辺にいるG.Iベビー孤児たち約2000人を、神奈川県大磯町に建設した孤児院,エリザベス・サンダースホームに収容して保護・育成した。

略歴
1901年9月19日三菱財閥の3代目総帥・男爵岩崎久弥の長女として東京府東京市本郷区(現在の東京都文京区)に生まれる[1][2]岩崎家宗教真言宗だった[6]。母・寧子は子爵保科正益(飯野藩第10代目藩主)の長女。伯爵加藤高明(元内閣総理大臣)は義理の伯父(妻が久弥の姉)[4][7]、元京都府知事の木内重四郎(元京都府知事貴族院議員)と男爵幣原喜重郎(元内閣総理大臣)は義理の叔父(ともに妻が久弥の妹)であった[4][7]

1903年1月20日:妹・澄子(伯爵甘露寺受長の弟・方房に嫁ぐ)誕生[2]

1907年東京女子高等師範学校附属幼稚園(現在のお茶の水女子大学附属幼稚園)に入園[2]

1908年7月8日:妹・綾子(福澤諭吉の孫・堅次に嫁ぐ)誕生[2]

1916年東京女子高等師範学校附属高等女学校(現在のお茶の水女子大学附属中学校お茶の水女子大学附属高等学校)を中退し[2][8]津田梅子らの家庭教師について学習[9]

1922年7月クリスチャンの外交官・沢田廉三と結婚してキリスト教に改宗[2]

1923年:夫・廉三のアルゼンチンブエノスアイレスへの転任に伴い同行[2]。長男・信一誕生[2]4月8日、祖母・喜勢死去[2]

1924年:廉三の中国北京への転任に伴い同行[2]。次男・久雄声楽家安田祥子の夫[4])誕生[2]

1925年:三男・晃(洗礼名ステパノ、聖ステパノ学園及び聖ステパノ農場の名はここに由来)誕生[2]

1927年日本に帰国[10]

1928年:長女・恵美子誕生[10]

1931年:夫・廉三の英国ロンドンへの転任に伴い同行[10]、孤児院ドクター・バーナードス・ホーム訪問。院長の『捨てられた子を引っ張りだこになるような人間に変えるのは、素晴らしい魔法だ』という言葉に感銘を受ける。

1933年:夫・廉三のフランスパリへの転任に伴い同行[10]ジョゼフィン・ベーカーと出会い友人となり、ジョセフィンは後に美喜の良き理解者として活動を支援していく。またこのころマリー・ローランサンの弟子となる。このころのパリ社交界でコティノーベルらと親交を持つ。

1935年:夫・廉三の米国ニューヨークへの転任に伴い同行[10]パール・S・バックと出会い友人となる。

1936年:米国より帰国[10]

1937年9月12日:妹・澄子死去[10]。敬虔なクリスチャンとなった美喜の影響もあり、死に際して洗礼を受ける。

1939年:日系2世留学生を受け入れる外務省施設「敝之館(へいしかん)」「瑞穂館」の設立に伴い、瑞穂館の応援団長となる。入館者の相談によく乗り、また野球チームのマネージャーになるなど、母親のように慕われた[11]

1942年:夫の沢田廉三日本聖公会系列の財団法人滝乃川学園の第4代理事長に就任(1946年辞任)。

1944年3月10日:母・寧子死去[10]

1945年:三男・晃がインドシナ沖で戦死[10]。海軍志願兵だった。終戦後、旧岩崎邸の本館がGHQ/SCAP参謀部G2(情報部)に接収され、和館での生活を余儀なくされる。1947年にはG2所属の日系2世職員家族が同居し、美喜は誕生した子供の育児指導をしている[12]

1947年2月:列車内で死亡した混血児の母親と間違われ、混血児救済を決心。

1948年2月:孤児院エリザベス・サンダース・ホームを設立する[10]。進駐軍と日本政府から迫害をうけ、経営は窮乏を極めた。

1949年:ホームの寄付金を募るためにアメリカで講演会を行う。このころニューヨークで澤田家はグレース・ケリーと親交をもち美喜および長女恵美子の親しい友人となる。グレースはモナコ公妃となったあとも美喜の活動の良き理解者として支援する。

1950年:ホームに基金を作るため、再びアメリカで講演会を行う。

1953年学校法人聖ステパノ学園を創立[10]。ホームの小学校と中学校である。

1955年: 昭和天皇皇后訪園。12月2日:父・久弥死去[13]

1962年ブラジルアマゾン川流域の開拓を始め、聖ステパノ農場を設立。孤児院の卒園生が数多く移住。

1967年4月2日に三兄・恒弥が、9月8日に長兄・彦弥太が相次いで死去。

1970年12月8日:夫・廉三死去[14]

・1980年5月12日:スペインマヨルカ島にて心臓発作のため78歳で急死。

主な文献
著書
・『混血児の母、エリザベス・サンダース・ホーム』(毎日新聞社、1953年)

・『歴史のおとし子 エリザベス・サンダース・ホーム10年のあゆみ』(読売新聞社、1958年)、写真影山光洋ほか

・『黒い肌と白い心』(日本経済新聞社、1963年)

  ・新版『黒い肌と白い心 サンダース・ホームへの道』(創樹社、1991年/日本図書センター<人間の記録>、2001年)、ISBN 482055963X

・『黒い十字架のアガサ』(毎日新聞社、1967年)

・『母と子の絆 エリザベス・サンダース・ホームの三十年』(PHP研究所、1980年)

伝記
小坂井澄 『これはあなたの母 沢田美喜と混血孤児たち』(集英社、1982年)

青木冨貴子 『GHQと戦った女 沢田美喜』(新潮社、2015年/新潮文庫、2018年)

・小手鞠るい『名もなき花たちと』(原書房 2019年)

・『The LEAST of THESE』(John Weatherchill、Elizabeth Anne Hemphill)

テレビ番組
第9回NHK紅白歌合戦NHK1958年)審査員

・『子供たちは七つの海を越えた~サンダースホームの1600人』(日本テレビ系、1978年7月12日)

テレビ東京開局45周年記念6夜連続特番第4弾『トンネルの向こうはぼくらの楽園だった』

2009年3月11日放送 『トンネルの向こうは僕らの楽園だった』(テレビ東京)自らもハーフである土屋アンナが、初老を迎えたエリザベス・サンダースホームの卒園生たちを訪ね歩き、彼らの今を見つめた。

・2006年8月15日放送 RAMA COMPLEX 『二千人の孤児の母 澤田美喜物語』(日本テレビ系、2006年8月15日 松坂慶子が演じた)

・1981年7月8日放送 『母たることは地獄のごとく 炎の女 澤田美喜』(日本テレビ 京マチ子が演じた)

・ここ鐘は鳴る 沢田美喜(NHK1958年[15]

受賞・栄誉
・エリザベスブラックウェル賞 受賞

・国際孤児団 世界の婦人賞 受賞

・フランス 国家功労勲章グランクロワ章

内閣総理大臣顕彰(1966年7月1日)

勲二等瑞宝章(1972年4月29日)

正四位(1980年5月12日)

参考文献
・『黒い肌と白い心 サンダース・ホームへの道』創樹社、1991年4月20日第1刷発行[注釈 1]

・「特集 三菱最強伝説」『週刊ダイヤモンド2016年1月30日号、ダイヤモンド社、30-71頁。

脚注・出典
脚注
1. 同書は1963年に日本経済新聞社より発行され[16]、1979年にエリザベス・サンダースホームの自費出版として新版が[17]、1991年に創樹社より改訂新版が[18]、2001年に日本図書センターより最新版がそれぞれ発行されているが、本記事では創樹社版を出典として使用した。

出典

1. a b 『黒い肌と白い心』、創樹社版、3頁。
2. a b c d e f g h i j k l m 『黒い肌と白い心』、創樹社版、327頁。
3. 『黒い肌と白い心』、創樹社版、342頁。
4. a b c d e 「特集 三菱最強伝説 家系解剖 三大創業家の華麗すぎる閨閥図」、『週刊ダイヤモンド』2016年1月30日号、52-53頁。
5. 『黒い肌と白い心』、創樹社版、99頁。
6. 『黒い肌と白い心』、創樹社版、35頁。
7. a b 『黒い肌と白い心』、創樹社版、333頁。
8. 『黒い肌と白い心』、創樹社版、38-39頁。
9. 『黒い肌と白い心』、創樹社版、40頁。
10. a b c d e f g h i j k 『黒い肌と白い心』、創樹社版、328頁。
11. 立花譲『帝国海軍士官になった日系二世』(築地書館、1994)80頁
12. 立花譲『帝国海軍士官になった日系二世』(築地書館、1994)202頁。この職員は元帝国海軍中尉で、美喜の長男沢田信一と同部隊という縁があった。
13. 『黒い肌と白い心』、創樹社版、329頁。
14. 『黒い肌と白い心』、創樹社版、330頁。
15. - NHK名作選(動画・静止画)NHKアーカイブス
16. 『黒い肌と白い心』、創樹社版、巻頭掲載(1頁より前にある)「著者のことば」より。
17. 『黒い肌と白い心』、創樹社版、340頁。
18. 『黒い肌と白い心』、創樹社版、345頁。

関連項目
東京都出身の人物一覧

ポール・ラッシュ

松本滝蔵

外部リンク
三菱人物伝 澤田美喜

澤田美喜 -孤児の母として捧げた半生-

キリスト教人物小伝 (16) 澤田美喜 - 日本基督教団荒川教会公式サイト内のページ。
(wikiより)

068 沢田美喜

沢田美喜

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日宗寺(にっそうじ)は、東京都新宿区にある日蓮宗寺院

歴史
1619年元和5年)、高見院の開基である。高見院は津藩藩主藤堂高次の妻である。


元々は江戸麹町に位置していたが、江戸城拡張工事のため、1634年寛永11年)に現在地に移転した[1]


墓地
には、歌人北村季吟の実家の北村家の墓がある。なお季吟本人の墓は台東区正慶寺にある。また、旗本里見家土井家、大澤家、幸田家の墓所もあり、他には医師本草学者栗本丹洲言語学者新村出和算家内藤豊由小説家田中霜柳無縁墓の中)などの墓がある[1]

交通アクセス
中央快速線東京メトロ丸ノ内線東京メトロ南北線四ツ谷駅より徒歩6分。

脚注
1. a b 新宿区教育委員会 編『ガイドブック新宿区の文化財(3)(史跡 東部篇)』新宿区教育委員会、1981年、80p

参考文献
新宿区教育委員会 編『ガイドブック新宿区の文化財(3)(史跡 東部篇)』新宿区教育委員会、1981年
(wikiより)

11a

11b

11c



新村 出(しんむら いずる、1876年明治9年)10月4日 - 1967年昭和42年)8月17日)は、日本言語学者文献学者京都大学教授名誉教授で、ソシュール言語学の受容やキリシタン語の資料研究などを行った日本人の草分けである。

人物・来歴
幕臣で当時山口県令を務めていた関口隆吉の次男として現在の山口市道場門前[1]に生まれる。「出」という名は、父親が山口県と山形県の県令だったことから「山」という字を重ねて命名された。


1889年(明治22年)4月に父・隆吉が機関車事故により不慮の死を遂げた後、徳川慶喜家の家扶で、慶喜の側室新村信の養父にあたり元小姓頭取の新村猛雄の養子となる[2]。慶喜の多彩な趣味のひとつに写真撮影があったが、彼の遺した写真の中には若き日の出の姿を写したものもある。出は慶喜家で子弟の家庭教師も務めていた[2]

静岡尋常中学第一高等学校を経て、1899年(明治32年)、東京帝国大学文科大学博言学科卒業[3]。在学中は上田萬年の指導を受けた。この頃からの友人として亀田次郎がおり、のちに『音韻分布図』を共同して出版した。国語研究室助手を経て、1902年(明治35年)に東京高等師範学校教授[4]となり、1904年(明治37年)には東京帝国大学助教授を兼任した。


1906年(明治38年)から1909年(同41年)までイギリスドイツフランスに留学し、言語学研究に従事する。その間、1907年(明治39年)に京都帝国大学助教授、帰朝後に同教授となった。言語学講座を担当し、1910年(明治43年)には文学博士[5]、1928年(昭和3年)には帝国学士院会員となる。1936年(昭和10年)に定年退官した。


1933年、宮中の講書始の控えメンバーに選ばれた後、1935年には正メンバーに選ばれた。同年1月28日、昭和天皇に国書の進講を行った[6]


終生京都に在住して辞書編纂に専念し、1955年(昭和30年)に初版が発刊された『広辞苑』の編纂・著者として知られる。息子の新村猛がこの共同作業に当たった。出は新仮名遣いに反対し、当初予定の『廣辭苑』が『広辞苑』に変更になったときは一晩泣き明かしたという。そのため『広辞苑』の前文は、新仮名遣いでも旧仮名遣いでも同じになるように書き、せめてもの抵抗をした。出はまた形容動詞を認めなかったため『広辞苑』には形容動詞の概念がない。

新村はまたエスペランティストでもあった。1908年にドレスデンで行われた第4回世界エスペラント大会に日本政府代表として日本エスペラント協会代表の黒板勝美とともに参加している。

1956年(昭和31年)文化勲章受章。1967年(昭和42年)の死去時に賜銀杯一組。


没後にその業績は『全集』(筑摩書房)にまとめられた。南蛮交易研究や吉利支丹文学キリシタン版関連)は平凡社東洋文庫などで再刊されている。


出の業績を記念し1982年(昭和57年)から、優れた日本語学や言語学の研究者や団体に対し毎年「新村出賞」が授与されている。

エピソード
谷崎潤一郎を通じ、女優の高峰秀子と交流を持つようになる。自宅に招いた際は、玄関や書斎を高峰のポスターやノベルティで飾り、高峰を驚かせたという。


また「高峰のあめりかだより夕刊に出でしまわりに赤い線引く」と詠み、これは「全集15巻」に収録されている。


同世代の歌人佐佐木信綱とは終生の友人で『佐新書簡 新村出宛佐佐木信綱書簡』(竹柏会心の花[7]、2019年)がある。

栄典
1915年(大正4年)1月11日 - 正五位[8]     

家族
父:関口隆吉
兄弟:関口壮吉加藤周蔵関口鯉吉関口隆正関口操関口万寿
次男:新村猛
孫:新村祐一郎(西洋史学者)、新村徹新村恭(編集者)[9]   

著書

単著
『南蛮記』 東亜堂書房、1915年
『南蛮更紗』 改造社、1924年
『典籍叢談』 岡書院、1925年
『南蛮廣記』 岩波書店、1925年
『続 南蛮廣記』 岩波書店、1925年
『船舶史考』 更生閣、1927年
『東方言語史叢考』 岩波書店、1927年
『薩道先生景仰録 吉利支丹研究史回顧』「ぐろりあ叢書」ぐろりあそさえて、1929年
『東亜語源志』 岡書院、1930年
『南国巡礼』 梓書房、1930年
『琅玕記』 改造社、1930年
『言語学概説 続国文学講座』 国文学講座刊行会、1933年
『史伝叢考』 楽浪書院、1934年
『典籍散語』 書物展望社、1934年
『遠西叢考』 楽浪書院、1935年
『花鳥草紙』 中央公論社、1935年
『言語学概論』 日本文学社、1935年
『随筆 橿』 靖文社、1940年
『日本の言葉』 創元社〈創元選書〉、1940年
『国語問題正義』 白水社、1941年
・『重山集』 草木社出版部、1941年
『日本吉利支丹文化史』 地人書館(大観日本文化史薦書)、1941年
『言葉の歴史』 創元社〈創元選書〉、1942年
『随筆 ちぎれ雲』 甲鳥書林、1942年
『日本晴』 靖文社、1942年
『言語学序説』 星野書店、1943年
『国語学叢録』 一条書房、1943年
『国語の規準』 敞文館(黎明選書)、1943年
新村出選集』全4巻、甲鳥書林、1943–47年
『朝霞随筆』 湯川弘文社、1943年
『南方記』 明治書房、1943年
『外来語の話』 新日本図書、1944年
『典籍雑考』 筑摩書房、1944年
『童心録』 靖文社、1946年
『あけぼの』 大八洲出版、1947年
『吉利支丹研究余録』 国立書院、1948年
『松笠集』 河原書店、1948年
『万葉苑枯葉』 生活社、1948年
『語源をさぐる 第1』 岡書院、1951年
『五月富士』 読売新聞社(読売新書)、1955年
『言葉の今昔』 河出書房(河出新書)、1956年

全集
新村出全集 筑摩書房(全15巻)、1971–1973年
1. 言語研究篇I
2. 言語研究篇II
3. 言語研究篇III
4. 言語研究篇IV
5. 南蠻紅毛篇I
6. 南蠻紅毛篇II
7. 南蠻紅毛篇III
8. 書誌典籍篇I
9. 書誌典籍篇II/史伝考証篇I
10. 史伝考証篇II
11. 随筆篇I
12. 随筆篇II
13. 随筆篇III
14. 随筆篇IV
15. 短歌篇・書簡篇
『新村出全集 別巻』(索引と、書誌・稿本目録・年譜)、新村出記念財団 編・刊、1983年
・『美意延年 新村出追悼文集』(新村猛編)、新村出遺著刊行会、1981年

没後出版
『歌集 白芙蓉』 初音書房、1968年
『新村出 国語学概説』 金田一京助 筆録・金田一春彦 校訂、教育出版(シリーズ名講義ノート)、1974年
『語源をさぐる 語源叢談一』 教育出版、1976年/旺文社文庫(新編)、1981年/講談社文芸文庫、1995年
  『広辞苑先生、語源をさぐる』 河出文庫、2018年
・『日本語漫談 語源叢談二』 教育出版、1976年
・『外来語の話 語源叢談三』 教育出版、1976年/講談社文芸文庫(新編)、1995年
・『言葉の散歩道 語源叢談四』 教育出版、1976年
・『新編 琅玕記』 旺文社文庫、1981年/講談社文芸文庫、1994年。新村徹編
・『新村出集 現代の随想24』 彌生書房、1982年/『新村出随筆集』平凡社ライブラリー、2020年。新村猛編
・『南蛮更紗』 平凡社東洋文庫、1995年、ワイド版2009年
・『新編 南蛮更紗』 講談社文芸文庫、1996年。『南蛮広記』も一部収録
・『わが学問生活の七十年ほか』「人間の記録」日本図書センター、1998年

編著
『異国情趣集』 更生閣書店、1928年
・『辞苑』 博文館、1935年
・『言苑』 博文館、1938年
・『万葉図録 文献篇』、『地理篇』 佐佐木信綱 共編、靖文社、1940年
・『聖徳太子御年譜』 山口書店、1943年
・『言林』昭和24年版、全国書房、1949年
・『国語博辞典』 甲鳥書林、1952年
・『新辞林』 清文堂書店、1953年
・『新辞泉』 清文堂書店、1954年
・『広辞苑』 岩波書店、1955年(第1版)
・『鑑賞小倉百人一首』 洛文社、1964年(第2版)

翻訳・校訂・共著
『イエスペルセン氏 言語進歩論』 東京専門学校出版部、1901年
『佐久間象山先生』 象山会、久保田収 共著、1964年
・『文禄旧訳 伊曽保物語』 開成館、1911年
・『天草本 伊曽保物語』 岩波文庫、1939年。復刊1997年ほか
・『吉利支丹文学集』(全2巻)、柊源一共編・校註
  ・朝日新聞社(日本古典全書)、1957–60年/平凡社東洋文庫、1993年、ワイド版2008年
・『近代浪漫派文庫18 山田孝雄 新村出[10] 新学社、2006年

脚注
1. 「やまぐちの文学者たち」80人/新村出 山口県 2018年8月31日閲覧。
2. a b 将軍・殿様が撮った幕末明治. 新人物往来社. (1996年4月21日). pp. 126-127
3. 『官報』第4808号、明治32年7月12日、p.194
4. 『東京高等師範学校沿革略志』東京高等師範学校、1911年、p.72
5. 『官報』第8106号、明治43年6月30日、p.695
6. 「講書始の奉仕者」『東京朝日新聞』昭和10年1月10日3面
7. 佐佐木幸綱(信綱の孫で歌人)監修
8. 『官報』第731号「叙任及辞令」1915年1月12日。
9. 伝記『広辞苑はなぜ生まれたか 新村出の生きた軌跡』(新村恭著、世界思想社、2017年)を著した。
10. 南蛮記(抄)を収録。

外部リンク
新村 出:作家別作品リスト - 青空文庫
新村出氏の紹介 - 大阪大学文学部
新村出 :: 東文研アーカイブデータベース - 東京文化財研究所
新村出記念財団 重山文庫
新村出 - NHK人物録
(wikiより)


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