本牧jack『意外と身近にある歴史散歩』日々是好日 心灯 頬笑

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2024/01

時代江戸時代末期(幕末
生誕天保12年5月17日1841年7月5日
死没元治2年1月21日1865年2月11日
別名:正弘
官位正五位
主君毛利敬親
長州藩嗣子近侍
氏族玉木氏(乃木氏分流)
父母父:玉木文之進。母:国司氏

玉木 彦助(たまき ひこすけ)は、江戸時代末期(幕末)の長州藩士。玉木文之進嗣子吉田松陰の従弟である。正弘。藩吏子弟として初の諸隊入隊者であった。

経歴
天保12年(1841年)5月17日、吉田松陰の叔父である家格大組士、玉木文之進の長男として生まれる。安政2年(1855年)に元服する。従兄の松陰とは仲が良く、元服のときから松下村塾で教えを受けたといわれる。

文久3年(1863年)に藩主の世子である毛利元徳近侍となる。

元治元年(1864年)に長崎へ留学し、帰国後に御堀耕助御楯隊に入隊する。第1次長州征伐で長州藩が幕府軍に降伏したことにより幕府恭順派の俗論党が台頭すると、彦助は高杉晋作らと共にこれに反発、元治2年(1865年)1月16日には俗論党によって送られた軍と戦って敗れた上に負傷した。同月21日、吉敷郡小郡で自害した。享年25。

明治21年(1888年)に靖国神社合祀となり、明治35年(1902年)に正五位[1]

登場する作品
・『花燃ゆ』 - 2015年NHK大河ドラマ、演:冨田佳輔  

脚注
1. 田尻佐 編『贈位諸賢伝 増補版 上』(近藤出版社、1975年)特旨贈位年表 p.17

参考文献
・『三百藩家臣人名事典 6』新人物往来社   
(wikiより)

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生年天保11年(1840年5月
生地日本の旗 日本長門国
没年元治元年7月19日1864年8月20日)(満24歳没)
没地日本の旗 日本山城国京都
活動尊王攘夷
長州藩

久坂 玄瑞
(くさか げんずい、1840年天保11年5月) - 1864年8月20日元治元年7月19日))は、幕末長州藩士。幼名秀三郎、は通武(みちたけ)、通称は実甫、誠、義助(よしすけ)。妻は吉田松陰の妹・文(後の楫取美和子)。長州藩における尊王攘夷派の中心人物。栄典正四位1891年)。

経歴
幼少年期から藩医になるまで
天保11年(1840年長門国萩平安古(ひやこ)本町(現・山口県萩市)に藩医久坂良迪、富子の三男・秀三郎として生まれる(二男は早世している)[1]。幼少の頃から城下の私塾の松下村塾四書の素読を受けた(この塾には1歳年長の高杉晋作も通っていた)[2]。ついで藩の医学所・好生館に入学したが、14歳の夏に母を亡くし、翌年には兄・久坂玄機が病没した。そして、そのわずか数日後に父も亡くし、15歳の春に秀三郎は家族全てを失った。こうして秀三郎は藩医久坂家の当主となり、医者として頭を剃り、名を玄瑞と改めた。17歳の時に、成績優秀者は居寮生として藩費で寄宿舎に入れるという制度を利用して、玄瑞は藩の医学所である「好生館」の居寮生となった。身長は6尺(約180cm)ほどの長身で恰幅がよく、声が大きく美声であった。片目は少しスガメであった[3][4]

九州遊学から松下村塾入門へ
安政3年(1856年)、玄瑞は兄事する中村道太郎のすすめで九州に遊学する。九州各地の著名な文人を訪ね、名勝地を巡りつつ詩作にふける旅に出た。玄瑞がこの旅で作った詩は、のちに『西遊稿』としてまとめている[5]。熊本に宮部鼎蔵を訪ねた際、吉田松陰に従学することを強く勧められた[6]。玄瑞はかねてから、亡兄の旧友である月性上人から松陰に従学することを勧められており、久坂は萩に帰ると松陰に手紙を書き、松陰の友人の土屋蕭海を通じて届けてもらった[7]

まず玄瑞が松陰に送った手紙の内容は、「弘安の役の時の如く外国の使者を斬るべし。そうすれば、必ず米国は来襲する。来襲すれば、綱紀の緩んだ武士達も覚醒し、期せずして国防も厳重になるであろう」という意見であった[8]。しかし松陰は、玄瑞の手紙をそのまま送り返し、その欄外に「あなたの議論は浮ついており、思慮も浅い。至誠より発する言葉ではない。私はこの種の文章を憎みこの種の人間を憎む。アメリカの使節を斬るのは今はもう遅い。昔の死んだような事例をもとに、現在のまったく違った出来事を解決しようということを思慮が浅いと言うのだ。つまらぬ迷言を費すよりも、至誠を積み蓄えるべきだ。実践を抜きにした言説は駄目だ」と書いて玄瑞の論を酷評した[9]

だが、松陰が玄瑞に痛烈な批判を加えたのは考えがあってのことだった。玄瑞を紹介した土屋への手紙に松陰は、「久坂の士気は平凡ではない。何とか大成させようと思い、力をこめて弁駁しました。これで激昂して反駁してくる勢いがあれば、私の本望です。もし、これでうわべを繕って受け入れたふりをするような人ならば、私の見込み違いであったというべきでしょう。」と玄瑞を試していたのであった[10]。玄瑞は猛然と反駁した。「米英仏が強いことは昔の朝鮮の如きとは比較にならない。米英仏の巨大な戦艦と大砲、鉄砲には我が国は太刀打ちできない。だからといって座して国が亡びるのを待つのは如何なものであろうか。まず守りを固めるべきである。」「あなたの不遜な言説では私は屈しない」「もしあなたがこのような罵詈、妄言、不遜をなす男ならば、先に宮部殿があなたを称賛したのも、私があなたを豪傑だと思ったのも、誤りであったようだ。私は手紙に対して、憤激のあまり拳を手紙に撃ちつけてしまった。」と書いた[11]

松陰はすぐに返事はせずに約1カ月の間をおいて筆を執った。「今や幕府は諸外国と条約を結んでしまった。それがだめだといっても、我が国から断交すべきではない。国家間の信義を失うことは避けなければならない。外国とは平穏な関係を続けながら、我が国の力を蓄え、アジア、中国、インドと手を携えたのちに欧米諸国と対峙すればいい。あなたは一医学生でありながら空論を弄び、天下の大計を言う。あなたの滔々と語る言説はただの空論だ。一つとしてあなたの実践に基づくものはない。すべて空論である。一時の憤激でその気持ちを書くような態度はやめよ。」と返書した[12]

しかし、三度玄瑞は反論の筆を執った。「外国人との交易はどちらを利しているのか」「人心は現状を保つことに汲々としているが、武器はいつ備えるのか。士気はいつ高まるのか。危急存亡について誰が考えているのか」と食い下がった[13]。これに対して松陰の3度目の返信は、それまでとはうってかわって、「あなたが外国の使いを斬ろうとするのを空論と思っていたのは間違いだった。今から米使を斬るようにつとめてほしい。私はあなたの才略を傍観させていただこう。私の才略はあなたにとうてい及ばない。私もかつてはアメリカの使いを斬ろうとしたことがあるが、無益であることをさとってやめた。そして、考えたことが手紙に書いたことである。あなたは言葉通り、私と同じにならないように断固としてやってほしい。もし、そうでないと、私はあなたの大言壮語を一層非難するであろう。」と書いた[14]

松陰は玄瑞に実践を求めたのであったが、玄瑞に米使を斬る手だてはなかった。ここに両者の議論に決着がついた。このやりとりの後しばらくして玄瑞は、翌安政4年(1857年)晩春、正式に松門に弟子入りした。

松下村塾では晋作と共に「村塾の双璧」、晋作・吉田稔麿入江九一と共に「松門四天王」といわれた。松陰は玄瑞を長州第一の俊才であるとし、晋作と争わせて才能を開花させるよう努めた。そして、安政4年(1857年)12月5日、松陰は自分の妹・を玄瑞に嫁がせた。

尊王攘夷運動
安政6年(1859年)10月、安政の大獄によって松陰が刑死した。

文久元年(1861年)12月、玄瑞は、松下村塾生を中心とした長州志士の結束を深めるため、一灯銭申合を創った(参加者は桂小五郎、高杉晋作、伊藤俊輔山縣有朋ら24名)。

文久元年頃から玄瑞と各藩の志士たちと交流が活発となり、特に長州、水戸、薩摩、土佐の四藩による尊攘派同盟の結成に向けて尽力し、尊王攘夷運動、反幕運動の中心人物となりつつあった[15]

文久元年初めから藩論は、長井雅楽の「航海遠略策公武合体」に傾きつつあり、5月23日、藩主は長井に、朝廷に参内させ攘夷論の朝廷を説得せしめることに成功した。しかし、これに対し玄瑞は以下の観点から反駁した[16]

一点目は経済の観点から、「今の通商は亡国への道である。売るものがなく、買うばかりの一方的な貿易で年々多くの国幣を失っている。物価は高騰し、国民は塗炭の苦しみの中にある。貿易を盛んにする前に、国産の開発が大いになされなければならない」。


二点目は幕府を助けることのみに終わるという観点から、「最終的には我が国は海外へ出ていかなければならないのはわかっている。先師(松陰)の考えもそうだった。だが、それが幕府を助け天朝を抑えることになってはならない。いずれは万里の外へ航海に乗り出す策を立てねばならないのは当然だ。しかし、今回対馬を占領されており、これだけの凌辱を受けながら、その罪も正さず、頭を垂れて尻尾を振って、航海に乗り出しても武威の高まることはないと思う。先日、佐久間象山を訪ねたが、同じ航海説でも「力を計り勝ちを計る」という考えで、大人物かつ発想に秀でており、戦を恐れて航海を唱える者と同じ土俵で論ずるべきではない」。


玄瑞は長井に何度を議論を挑み、また藩主への具申をしたが、藩論は覆ることはなかった。文久元年、公武合体の考えに沿うように和宮の降嫁が実現した。

このような中、玄瑞は全国の「草莽の志士糾合」に賭けざるを得なくなる。文久2年(1862年)正月14日、坂本龍馬が剣道修行の名目で、武市半平太の書簡を携え、玄瑞との打ち合わせのため萩へ来訪した。馬関の豪商白石正一郎と結び、白石宅をアジトにして、薩摩の西郷隆盛、土佐の吉村寅太郎、久留米、筑前の志士たちとも謀議を重ねた。松門の同志は血盟を交わし、桂小五郎は、繰り返し藩主親子、藩の重臣たちに、長井雅楽弾劾を具申し続けた。4月、玄瑞は同志と共に上京し、長井の弾劾書を藩に提出する。6月、玄瑞は長井要撃を試みるが襲撃の時機を逸したため、藩に長井への訴状も兼ねて待罪書を提出するも、京都にて謹慎となる。しかし、桂小五郎らは攘夷をもって幕府を危地に追い込む考えで、藩主・毛利敬親に対し攘夷を力説し、7月6日、長井失脚に成功した[17]

廻瀾條議と解腕痴言
玄瑞は謹慎中の文久2年(1862年)8月、『廻瀾條議』と名付けた建白書を藩主に上提した。これが藩主に受け入れられ、長州藩の藩論となる。藩論は航海遠略策を捨て、完全に尊王攘夷に変更された(長井は翌年2月自刃を命ぜられた)。また翌月には、全国の尊攘派同士に向けた実践綱領の書『解腕痴言』を書いた。

『廻瀾條議』と『解腕痴言』は、結局「西洋の強大な武力に屈服する形で開国するのではなく、対等に交渉する気力を奮い起こすべきであり、それによって国力を回復させ、軍備を整えた後、対等な立場で条約締結に及ぶ」という意見であった。これは師松陰の開国的攘夷論を踏まえたものであるが、他方、「攘夷」という主張は、政権を幕府から朝廷へ回復させる倒幕という目的からも有効であると玄瑞は力説した[18][19]。|『廻瀾條議』の要点は次の通りである[20]


(1)汚名を蒙って処刑された吉田松陰の遺骸を改葬して、その「忠烈節義」「殉国の志」を顕彰し、藩内で誰の意見が正しくまた邪であったかをはっきりさせること。

(2)安政五年の修好通商条約をはじめ幕府の怯懦な方策により、日本が将来植民地同様となる危機が生じており、その責任を負うべき井伊直弼以下の閣僚はさらに安政の大獄という暴虐の責めをも負うべきで、厳罰に処さねばならない。

(3)下田の和親条約までは良く、安政五年の条約はすべて下田の条約にまで引き戻し、外国貿易は長崎、下田、函館の三港に限ること。

(4)安政五年の条約は違勅の大罪をも犯しており、「大義をもって論ぜば」幕府を「誅戮殲滅」させてもいいのだが、朝廷が「ご寛容」に将軍の過誤を改める機会を与えられたのだから、「長薩二藩」が「督責」して条約に関する処罰や下田条約への引き戻しをさせねばならない。

(5)朝廷に「御政事所」を設け、ちくいち重要政務を幕府から奏聞させ、また、「御親兵」を置くなどして、ゆくゆくは「天下の御威権」を「朝廷に帰」すべきだが、ものごとには順序が大切であり、まず先の項(4)を実現するようにもってゆき、もし「承服つかまつらず」は、「決闘死戦と御勇決猛断」をなされねばならない。

以上をなして、諸外国の様子を洞観し、海軍を充実させ士気を高めて積極的海外に雄飛せよ。


同年9月、謹慎を解かれた玄瑞は、早速活動を開始する。薩長土三藩有志の会合に出席し、攘夷御下命の勅使を激励する決議をなした。また、9月末には土佐の坂本龍馬福岡孝弟らと会い、三藩連合で近衛兵を創設する件を議した。10月、玄瑞は桂小五郎とともに、朝廷の尊王攘夷派の三条実美姉小路公知らと結び、公武合体派の岩倉具視らを排斥して、朝廷を尊攘化した。そして同年10月、幕府へ攘夷を督促するための勅使である三条実美・姉小路公知と共に江戸に下り、幕府に攘夷の実行を迫った。これに対し、将軍・徳川家茂は翌年上京し返答すると勅旨を受け取った。

イギリス公使館焼き討ち
江戸に着いた玄瑞は晋作と合流した。晋作は外国人襲撃を画策していたが、玄瑞は「そのような無謀の挙をなすよりも、同志団結し藩を動かし、正々堂々たる攘夷を実行するべき」と主張し、晋作と斬るか斬られるかの激論となった。それを井上聞多がうまく裁き、結局玄瑞も受け入れ、長州藩志士11名が襲撃を決行することとなった[21]。しかし報せを聞いた長州藩世子・毛利定広や三条実美らの説得を受け、中止に終わった。その後11名の志士は、御楯組を結成し血盟した。ちなみにその趣意精神を記した「気節文章」は玄瑞が書いたものである。そして12月、彼らは品川御殿山に建設中の英国公使館焼き討ちを実行した。

下関戦争と光明寺党、奇兵隊
文久2年12月、玄瑞は再び佐久間象山を訪ねるため、水戸を経て信州に入った。象山を長州藩に招聘するためだったが、象山は辞退した。しかし象山は、玄瑞を数日滞在させて助言を与える。翌文久3年の正月に、この助言を藩主に詳しく説明したところから、伊藤俊輔、井上聞多らの藩費によるイギリス留学が実現した[22]

文久3年(1863年)1月27日に京都翠紅館にて各藩士と会合する。2月21日には朝廷の攘夷決定にもかかわらず幕府が因循しているのため、玄瑞は関白鷹司輔煕の邸に推参し建白書を提出し、攘夷期限の確定を求めた。また、京都藩邸御用掛として攘夷祈願の行幸を画策した。これらが実現し、朝廷の指導権は長州が握ることとなった。

幕府は朝廷に御親兵をおくこと、攘夷期限を定めることを認めざるを得なくなり、3月には幕府より奉勅攘夷の決定が列藩に布告され、4月には攘夷期日を5月10日とする勅令が発せられた。

4月25日、玄瑞は帰藩し、5月10日に関門海峡を通航する外国船を砲撃する準備を整えるため、50人の同志を率いて馬関の光明寺を本陣とし、光明寺党を結成した。光明寺党は、他藩の士や身分にとらわれない草莽の士を糾合したものであり、その行動は藩意識を超脱したものだった。これを長州藩の玄関たる馬関の地で実行した[23]

この光明寺党が後の奇兵隊の前身となる。玄瑞は公卿中山忠光を首領として、久留米藩の真木和泉も加え、士卒の意気を高めた。5月10日から外国船砲撃を実行に移した(外国艦船砲撃事件)。

長州藩はアメリカ商船ベンブローク、フランス軍艦キャンシャン、オランダ艦メデューサへの攻撃を行ったが、長州藩の砲台では海峡の反対側を通る船舶には弾が届かないことが判明したため、玄瑞は、かつて松陰が書いた『水陸戦略』の「海戦は奇なり、陸戦は正なり、……夜中など賊船に潜み近づき、船腹を打ち貫き候様の術、……」に倣い、夜中に船で近づいて攻撃するという戦法を実行した[24]

この戦いで、長州藩の海防上の問題(旧式の青銅砲は射程が短く、外国間の報復攻撃の際に、門司側が無防備では十分な反撃ができないということ)が明らかになった。また、5月20日に朝廷の攘夷急進派の中心人物で長州藩の最も重要な後ろ盾であった姉小路公知国事参政が、何者かに暗殺された。そのため藩は5月28日、朝廷へのパイプの太い玄瑞を、朝廷への攘夷報告と対岸の小倉藩の協力要請のための使者に伴わせて京都に向かわせた[25]

6月1日、玄瑞ら長州藩は朝廷に攘夷の報告をし、朝廷から藩主への褒め詞を賜った。3日には、朝廷から各藩への攘夷趣旨貫徹の下達を請願した。朝廷は、5日に小倉藩へ通達。6日には列藩に対しても攘夷の趣旨が伝えられた。

攘夷実行と同時に起きた京都政界の急変に対応するため、入江九一を除き、光明寺党の中核をなしていた玄瑞、寺島忠三郎吉田稔麿野村靖ら松下村塾の門人たちはみな、京都、山口、馬関の間を駆け巡らなければならなくなった[26]

玄瑞が京都へ東上した頃、光明寺党の幹部と真木和泉、中山忠光白石正一郎らが話し合い、新しい隊を結成することとなった。光明寺党を基として、足軽、農民、町人、工匠等の希望者を募って、隊づくりが進行した[27]

しかし、玄瑞が京都で政治活動中の6月1日、5日に長州藩は、アメリカ艦、フランス艦から報復攻撃を受け、長州藩軍艦2隻が撃沈、砲台が破壊され、寺、民家を焼かれた。玄瑞不在の代理として藩は6月5日、討幕挙兵を唱えて謹慎中であった高杉晋作に馬関防衛を命じ、6月6日、晋作は現地に赴任し、奇兵隊の総管となった。『奇兵隊日記』によると、光明寺党が奇兵隊へ名称変更したのは、晋作が着任以前のことであることがわかる[28]

くわしいことは「
久坂玄瑞ウィキペディア」をご覧ください。 ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%85%E5%9D%82%E7%8E%84%E7%91%9E

(wikiより)

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久坂玄瑞

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生誕1884年2月20日
山口県山口市
死没1964年12月14日(80歳没)
大阪府
国籍日本の旗 日本
出身校慶應義塾大学理財科
職業大阪商工会議所会頭
日本商工会議所副会頭
日本貿易振興機構理事長
団体八木商店社長
受賞正三位
勲一等瑞宝章
藍綬褒章


杉 道助
(すぎ みちすけ、1884年明治17年)2月20日 - 1964年昭和39年)12月14日)は、日本の実業家第二次世界大戦後における大阪関西財界の代表者。曽祖父は吉田松陰の父である杉常道、祖父は松陰の兄の杉民治

八木商店社長となり、大阪商工会議所会頭を23年間務め、日本商工会議所副会頭、新日本放送(現・MBSメディアホールディングス)社長、海外市場調査会(現・日本貿易振興機構(略称:JETRO(ジェトロ)を設立後、理事長となる。鳩山一郎内閣において日ソ交渉全権顧問、日韓会談首席代表として政界にも関与した。 位階は正三位、勲等は勲一等

生涯
生い立ち
山口県山口市に生まれた。父の相次郎は県庁勤めをしていた。郷里の萩市で幼少時代を過ごし、山口師範学校附属小学校(現・山口大学教育学部附属山口小学校)へ、萩から山口の距離は相当あったのにもかかわらず、徒歩で通学した(にわかに信じがたいが、林茂香著「幕末・明治萩城下見聞録(マツノ書店発行)」によれば、著者は山口師範学校在学中に萩から徒歩で通学していたとあり、その行程もくわしく記述がある)。また、鮎川義介が学校の先輩で近所に住んでおり、学校へ一緒に通うなどした。

中学校は前半は山口中学校(現・山口県立山口高等学校)で、後半は萩中学校(現・山口県立萩高等学校)で過ごした。中学時代は自然主義が勃興し、杉も国木田独歩田山花袋などに刺激され、新体詩を制作したり、懸賞文に応募したりしていた。杉は中学を卒業すると、すぐに東京へ行った。まっすぐ大学へ入ろうと考えていなかった杉は、徳富蘆花の「歴史の片影」という著書に影響を受け、南米に憧れを抱いた。東京へ行くと、松陰の吉田家を継いだ従兄の吉田庫三の友人でペルーで開発会社を営んでいた田中貞吉にペルー行きを誘われた。早速、実家へ相談してみたが、話がまとまらないうちに日露戦争が開戦しそうになり、船が出なくなってしまった。

そこで、終戦までの「ツナギ」として大学に通うことになり、慶應義塾大学の補欠試験を受けて入学をした。大学時代は専らスポーツに親しみ、大学野球は自身を「見物選手」と称すほどよく観戦し、応援していた。また、予科を教えていた英国人教師からホッケーのルールを教わり、慶應義塾大学体育会ホッケー部を創設した。杉は後に大阪へ行ってから羽衣女学院(現・羽衣学園中学校・高等学校)にホッケーの道具を寄付し、羽衣はホッケーで全国トップクラスの女学校になった。晩年には日本ホッケー協会の会長にもなっている。

財界で
1909年に慶應義塾大学理財科を卒業し、「久原鉱業所」(後の日産コンツェルン、現・JXTGホールディングス等)に入社した。在学中より三井物産に入りたいと考えていたが、井上馨の側近に久原鉱業所を勧められたため、大阪へ向かう社長の久原房之助新橋駅の待合室で会い、久原鉱業所の東京事務所に雇われることになった。

1910年武藤山治の仲人で、大阪・船場の綿糸問屋・八木商店(現・ヤギ)の創業者・八木与三郎の長女・義と結婚した。翌年には久原鉱業所が大阪に支店を設けることになり、大阪と縁深い杉が行くことになったのだが、武藤にこの話をしたところ「せっかくの大阪なんだから繊維の方をやったらどうか」と言われ、久原の快諾を得た杉は大阪で繊維工業に関わっていくことになる。

最初の仕事は堺市の小さなタオル工場「堺製織所」の整理だった。当時の紡績業界では工場が乱立し、職工の争奪戦が起こるなど気苦労が多かった。メリヤス地の統一を行うなど、品質の均質化にも苦心した。

1912年に浪速紡織(現・ダイワボウホールディングス)が設立され、武藤の肝いりで会社を任されることになった。同年から八木商店にも関わるようになった。1910年1920年代に掛けては大戦景気とその反動の不況で市場は大混乱に陥った。八木商店や浪速紡績なども甚大な損失を被った。繊維業界では「総解合い」が行われ市場が安定したが、債務支払いのために自宅を売り払い、天下茶屋などの借家を転々とした。

1923年には武藤が政界を革新すべく「実業同志会」を結成し、杉も会員となった。同志会は翌年の第15回衆議院議員総選挙に候補を送り、武藤をはじめ12人の当選者を出した。杉も幹事長役をしたが、選挙には門外漢ばかりで選挙活動が選挙違反に引っ掛かり、2ヶ月にわたって拘引されてしまった。杉は判事に諭され、独居房でたくさんの本を読んだ。杉自身は、「この独房生活はわたしにかなりプラスになったと思う」と述懐している。

戦中・戦後の大阪
当時の経済界では営業税の一部を会議所の経費に充てていた。紡績などの大きな企業ほど納める額も多くなる。そこで、会議所の経費抑制に勉めようということで、杉らは1929年大阪商工会議所に入所した。日中戦争が始まると、大阪では軍需産業が興り、会議所も政府の下請機関の機能を負うようになっていった。理財部長や時局対策委員長などを務めた杉は、会頭の安宅弥吉らと「満支視察団」を結成し、満韓支を回った。1941年には副会頭となったが、国策の下、大阪商工会議所は布施の会議所と合併し大阪商工経済会となり、更に政府の下請機関としての色合いが濃くなっていくことになる。また、大阪の繊維統制会社「大阪繊維製品配給」の社長にも就任した。一方で、八木商店では1938年に社長、1941年には会長に就任している。

終戦後の1946年には大阪商工会議所第16代会頭に就任した[1]。またその頃、戦時中の有力企業幹部の公職追放の審査委員会の委員にも選任されている。大阪商工会議所の会長になった杉の下で大阪経済の立て直しが始まった。1953年、「大阪経済振興審議会」が結成され、ひとつの展望と振興策が示された。その結果は1956年に府や市とともに組織した「大阪経済振興連絡協議会」のもとで遂行された。新幹線の新大阪駅の位置を決定、大阪国際空港地下鉄網の整備、阪神高速道路公団の設立促進などの都市基盤整備や重化学工業化などはその成果である。

1950年、大阪初となる民間放送局・「新日本放送」(現・MBSメディアホールディングス)が設立されると、社長となった。また、貿易振興を図るために1951年に「海外市場調査会」(現・日本貿易振興機構)を設立し、理事長となった。他にも、戦争で中止になった大阪国際見本市を実現すべく、1952年に「日本国際見本市委員会」が結成され、杉は委員長となる。見本市は同年開かれ、成功を収めた。1953年における会頭挨拶では、「大阪は経済の中心だとか、貿易産業の中心地だといわれてきたが、いまは名目だけで実質ではない。これをもとの大阪にもどそうではないか。これは単に関西という地域的感情にとらわれていうのではない。大阪の復興が日本の経済発展、国力の回復に寄与するところが大きいと信ずるからだ」と呼びかけた[2]

その一方で、1956年鳩山一郎の日ソ国交回復交渉の全権顧問や、1959年赤間文三の後任として大阪府知事に推挙されるも、辞退している。だが、1961年に第6次日韓会談の政府代表になるなど、1964年に死去するまで精力的に活動を続けた。また、大正3年(1914年)に設立された大阪貿易学院高等学校(現在の学校法人大阪貿易学院・開明中学校・高等学校)の再建に力を注ぎ、昭和25年に理事長・校長に就任した。

1959年藍綬褒章1964年11月には関西財界の生存者として前例の無い勲一等瑞宝章を賜り、同年の死に際しては正三位が与えられた。

墓所は山口県萩市杉家墓地にある。墓には「杉家第八代。生涯松陰を敬慕。『祖先の墓より大きくしない』と遺言を残した」と書かれている[3]

系譜については「杉 道助ウィキペディア」をご覧ください。⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%89%E9%81%93%E5%8A%A9

栄典
藍綬褒章(1959年)
勲一等瑞宝章(1964年)
正三位(1964年)

脚注
1. [https://www.nikkei.com/article/DGXLASHD15H7P_W6A810C1960E00/ “杉道助、貿易振興に尽力 五代友厚の志継ぐ大商(3) 軌跡”]. 日本経済新聞. (2016年8月25日) 2020年2月27日閲覧。
2. 
戦後の大阪経済振興と杉道助   
3. 
『週刊司馬遼太郎Ⅱ』(朝日新聞社、2007年)158頁

参考文献
・『私の履歴書 経済人1』(日本経済新聞社、1970年) - 1956年6月日本経済新聞連載
・『関西財界外史 戦後編』(関西経済連合会、1978年)

関連項目
ヤギ (企業)
井上靖 - 杉道助を小説『あした来る人』の登場人物である梶大助のモデルにした。
阪神間モダニズム
西宮市
香櫨園
大阪
吉田松陰
鳩山一郎
伊丹空港
新大阪駅     

外部リンク
折目允亮著 現代に生きる人間学・第二十八回 「人物論-1」杉道助
大阪商工会議所ホームページ・戦後の大阪商工会議所(1)
文藝春秋ホームページ「本の話連載|大和屋女将の語る昭和のサムライたち」
杉道助の墓 
(wikiより)

186  Michisuke_Sugi

杉 道助

186a

186b

186c

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幕末の藩医。

玄機・玄瑞の父

藩主・敬親の信任厚く、晩年には侍医に任じられた。

嘉永七年 ( 1854 )没

行年 六十三才
(案内板より)

185a

185b

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久坂 玄機(くさか げんき、文政3年(1820年) - 嘉永7年2月27日1854年3月25日))は、幕末長州藩士、蘭学家、医師。適塾塾頭。名は真(まこと)、静。天籟と号す。久坂玄瑞の兄。

経歴
文政3年(1820年長門国萩平安古(ひやこ)石屋町(現・山口県萩市)に藩医久坂良迪、富子の長男として生まれる。長州藩医きっての俊英で、弟の玄瑞とともに「坂家の連璧(ばんけのれんぺき)」と称せられた。久坂玄瑞とは20歳の年の差があったが、後の玄瑞の思想、行動に大きな影響を与えた。

弘化4年(1847年)6月に緒方洪庵適塾に客分の処遇で籍を置く。翌嘉永元年(1848年)3月に適塾塾頭となる。しかし、翌年、召還の藩命が下り、好生館の都講に任ぜられる。適塾塾頭は同じ長州の村田蔵六が継承した。長州藩初の藩内種痘実施に際して、引痘主任を命ぜられ、藩下で種痘を組織的に行った。嘉永3年(1850年)6月に好生館の書物方を兼任し、また、最年少(31歳)の本道科教授となる。


海外事情に通じており、西洋軍事学に関する藩内の評価も高く、藩命により、『演砲法律』、『銃隊指揮令』、『新撰海軍砲術論』、『和蘭陀紀略内編』、『抜太抜亜志』、『新訳小史』など数多くの翻訳書を残した。このような玄機の西洋学問研究は、弟の久坂玄瑞に相当の影響と感化を与えたと言われている。 そして、海防については、幾度も藩政府から意見具申を求められ、病床にありながら、藩主毛利敬親に上書建白した数日後の嘉永7年(1854年)2月27日に逝去した。享年35。

明治44年(1911年)、正五位を追贈された[1]

脚注
1. 田尻佐 編『贈位諸賢伝 増補版 上』(近藤出版社、1975年)特旨贈位年表 p.28

参考文献
『日本の思想家50 高杉晋作 久坂玄瑞』 (2012年)

登場人物
花燃ゆ - 2015年、NHK、演:村上新悟    
(wikiより)


184a

184b

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妻の滝との合葬墓。

吉田松陰の実父、萩藩士 ( 家禄二十六石 )。

妻・滝との間に三男・四女 ( 松陰は次男 )。

杉家一族の中心として困難の中で誠実に生き抜き、終始松陰を温かく応援し続けた。

慶應元年 ( 1865 )没 行年 六十二才
(案内板より)

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183b

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吉田家第九代。

松陰の甥 ( 杉民治の長男 ) で、松陰の後を嗣いだ。

明治九年 ( 1876 ) 前原一誠とともに決起し戦死。

行年 十九才。
(案内板より)

182a

182b

182c

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吉田家第十代。

松陰の姪 ( 杉民治の三女 )

明治十年 ( 1877 )没

行年 二才
(案内板より)

181a

181b

181c

181d




杉百合之助の三男。松陰の弟。

生来の聾唖 ( ろうあ )。

家族を挙げてあらゆる手当てを尽くすも医薬功を奏せず。

松陰の手記からも弟への深い思いが伺える。

明治九年 ( 1876 )没 行年 三十二才
(案内板より)

180a

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杉 民治(すぎ みんじ)は、江戸時代末期(幕末)の長州藩士、明治時代の政治家、教育家。


は修道。吉田松陰の兄として知られる。杉道助は次女滝子の子。長男吉田小太郎と長女豊子の夫玉木正誼萩の乱で戦死。三女道子の養子に吉田庫三

経歴
長州藩士・杉常道(百合之助)の長男として、長門国の松本村に生まれる。幼少期は弟・寅次郎(松陰)とともに父や叔父・玉木文之進に師事し、のち玉木の松下村塾藩校明倫館で学んだ。


嘉永
6年(1853年江戸湾警備のために相模国へ出張するが、翌安政元年(1854年)松陰の黒船密航未遂事件に関連して帰国し、郡奉行所勤務となった。しかし安政6年(1859年安政の大獄で捕縛された松陰に連座して免職となった。


万延
元年(1860年)杉家を相続して再び藩に出仕。文久3年(1863年)御蔵元役所本締役となる。慶応元年(1865年)東光寺組を結成し、手廻組として藩の革新派に加わった。同年、民政方御用掛、明治元年(1868年)当島宰判と浜崎宰判の民政主事助役を担当。その労を称して藩主の毛利敬親より「民治」の名を与えられた[1]。明治4年(1871年)の廃藩置県の後は山口県権典事となって、明治11年(1878年)まで旧長州藩領の治政に携わった。


明治13年(1880年)頃には松下村塾を再興。また修善女学校の校長となって子女教育にも邁進した。


杉家の旧蔵書35点は、萩市立図書館が所蔵している[2]

登場する作品
・『花神』 - 1977年、NHK総合、演:小野泰次郎
・『花燃ゆ』 - 2015年、NHK総合、演:原田泰造


参考文献
・『朝日 日本歴史人物事典』朝日新聞社
・『日本人名大辞典』講談社
・『萩の103人』萩博物館
・萩市立図書館 編 『萩市立図書館所蔵諸家旧蔵書籍目録』萩市立図書館、1995年。

脚注
1. a b 萩市立図書館 1995, p. 36
2. 
萩市立図書館 1995, pp. 15–17, 36
(wikiより)

179 杉民治

杉 民治

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時代江戸時代末期 - 明治時代前期
生誕天保12年(1841年
死没明治2年4月23日1869年6月3日
改名駒井忠仲
官位正五位


駒井 政五郎
(こまい まさごろう)は、幕末長州藩士。

江戸時代末期の長州藩士・吉田松陰松下村塾に学ぶ。文久3年(1863年)に海防大砲掛、慶応3年(1867年)、鋭武隊総督に就任。

戊辰戦争には征討軍の軍監を務める。奥羽、函館方面を転戦し、二股口の戦い土方歳三率いる衝鋒隊伝習歩兵隊約300人と戦ったが乱戦の末、胸に銃弾を受け戦死した。

明治35年(1902年)、正五位を追贈された[1]

脚注
1. 田尻佐 編『贈位諸賢伝 増補版 上』(近藤出版社、1975年)特旨贈位年表 p.17
(wikiより)

178a

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通称東行
生年天保10年8月20日1839年9月27日
生地日本の旗 長門国(現在の山口県萩市)
没年慶応3年4月14日1867年5月17日
(満27歳没)
没地日本の旗 長門国下関(現在の山口県下関市)
活動尊王攘夷倒幕運動
長州藩
所属奇兵隊
受賞正四位
母校明倫館松下村塾
靖国神社

高杉 晋作
(たかすぎ しんさく、天保10年8月20日1839年9月27日〉- 慶應3年4月14日1867年5月17日〉)は、日本武士幕末長州藩尊王攘夷志士として活躍。奇兵隊など諸隊を創設し、長州藩を倒幕運動に方向付けた。

系譜と名前
高杉氏戦国時代以来、代々毛利氏に仕え藩政に関わる要職を歴任した家である。

晋作通称で、春風(はるかぜ)。他に東一、和助。暢夫(ちょうふ)。は楠樹、東行(とうぎょう)で、東行狂生、西海一狂生、東洋一狂生とも名乗った。ほかに些々などがある。変名を谷 潜蔵、谷 梅之助、備後屋助一郎、三谷和助、祝部太郎、宍戸刑馬、西浦松助など。のち、谷 潜蔵とも改名。

生涯
誕生
長門国萩城菊屋横丁(現在の山口県萩市)に長州藩士・高杉小忠太(大組・200)とミチ(道子・大西将曹の娘)の長男として生まれる。3人の妹がいたが、男子は晋作のみで跡取りとして大切に育てられた。

10歳のころに疱瘡を患う。祖父母ら家族の献身的な介抱で一命を取り留めるが、あばたが残った事から「あずき餅」と呼ばれた。漢学塾(吉松塾)を経て、嘉永5年(1852年)に藩校の明倫館に入学。柳生新陰流剣術も学び、のち免許を皆伝される。安政4年(1857年)には吉田松陰が主宰していた松下村塾に入り、久坂玄瑞吉田稔麿入江九一とともに松下村塾四天王と呼ばれた。安政5年(1858年)には藩命で江戸へ遊学、昌平坂学問所や大橋訥庵の大橋塾などで学ぶ。安政6年(1859年)には師の松陰が安政の大獄で捕らえられると伝馬町獄を見舞って、獄中の師を世話をするが、藩より命じられて萩に戻る途中で、松陰は10月に処刑される。万延元年(1860年11月に帰郷後、防長一の美人と言われた山口町奉行井上平右衛門(大組・250石)の次女・と結婚する。

留学
文久元年(1861年3月には海軍修練のため、藩の所蔵する軍艦「丙辰丸」に乗船、江戸へ渡る。神道無念流練兵館道場で剣術の稽古をした。8月には東北遊学を行い、加藤桜老佐久間象山横井小楠とも交友する。文久2年(1862年5月には藩命で、五代友厚らとともに、幕府使節随行員として長崎から中国上海へ渡航、欧米植民地となりつつある実情や、太平天国の乱を見聞して7月に帰国。日記の『遊清五録』に大きな影響を受けたことが記されている。

尊王攘夷運動
長州藩では、晋作の渡航中に俗論派の長井雅楽らが失脚、尊王攘夷(尊攘)派が台頭し、晋作も桂小五郎(木戸孝允)や久坂義助(久坂玄瑞)らとともに尊攘運動に加わり、江戸・京都において勤皇・破約攘夷の宣伝活動を展開し、各藩の志士たちと交流した。

文久2年(1862年)、晋作は「薩藩はすでに生麦に於いて夷人を斬殺して攘夷の実を挙げたのに、我が藩はなお、公武合体を説いている。何とか攘夷の実を挙げねばならぬ。藩政府でこれを断行できぬならば」と論じていた。折りしも、外国公使がしばしば武州金澤(金沢八景)で遊ぶからそこで刺殺しようと同志(高杉晋作、久坂玄瑞、大和弥八郎長嶺内蔵太志道聞多松島剛蔵寺島忠三郎有吉熊次郎赤禰幹之丞山尾庸三品川弥二郎[1] が相談した。しかし玄瑞が土佐藩武市半平太に話したことから、これが前土佐藩主・山内容堂を通して長州藩世子・毛利定広に伝わり、無謀であると制止され実行に到らず、櫻田邸内に謹慎を命ぜられる。

この過程で、長州藩と朝廷や他藩との提携交渉は、もっぱら桂や久坂が担当することとなる。文久2年12月12日には、幕府の違勅に抗議するため、同志とともに品川御殿山に建設中の英国公使館焼き討ちを行う。この事件の後、他の同志たちが次々と京都に向かうなか、晋作はそのまま江戸に居座り松蔭改葬などを済ませたが、京都にいる世子の命を受けた志道聞多が晋作を迎えに来て共に京都に向かった。京都に呼び寄せられた晋作は、藩が晋作に就かせようと考えていた朝廷側との交渉役である学習院用掛の役を辞退し、突然十年の暇を願い出た。それが許されると翌日には頭を丸めて僧形になってしまった。このとき晋作は「西へ行く人をしたひて東行くわが心をば神やしるらむ」と詠み、東行(とうぎょう)と号した。その後萩に帰り吉田松陰の生誕地である松本村にある小さな借家に妻と女中1人を引き連れて引っ越した。

下関戦争と奇兵隊創設
文久3年(1863年5月10日、幕府が朝廷から要請されて制定した攘夷期限が過ぎると、長州藩は関門海峡において外国船砲撃を行うが、逆にの報復に逢い惨敗する(下関戦争)。晋作は下関の防衛を任せられ、6月には廻船問屋白石正一郎邸において身分に因らない志願兵による奇兵隊を結成し、阿弥陀寺(赤間神宮の隣)を本拠とするが、9月には教法寺事件の責任を問われ総監を罷免された。

京都では薩摩藩会津藩が結託したクーデターである八月十八日の政変で長州藩が追放され、文久4年(1864年1月、晋作は脱藩して京都へ潜伏する。桂小五郎の説得で2月には帰郷するが、脱藩の罪で野山獄に投獄され、6月には出所して謹慎処分となる。7月、長州藩は禁門の変で敗北して朝敵となり、来島又兵衛は戦死、久坂玄瑞は自害した。

8月には、イギリスフランスアメリカオランダの4か国連合艦隊が下関を砲撃、砲台が占拠されるに至ると、晋作は赦免されて和議交渉を任される。晋作が24歳のときであった。交渉の席で通訳を務めた伊藤博文の後年の回想によると、この講和会議において、連合国は数多の条件とともに「彦島租借」を要求してきた。晋作はほぼすべての提示条件を受け入れたが、この「領土の租借」についてのみ頑として受け入れようとせず、結局は取り下げさせることに成功した(古事記を暗誦して有耶無耶にしたと言われる)。これは清国の見聞を経た晋作が「領土の期限付き租借」の意味するところ(植民地化)を深く見抜いていたからで、もしこの要求を受け入れていれば日本の歴史は大きく変わっていたであろうと伊藤は自伝で記している(ただし、このエピソードは当時の記録にはない[2])。

功山寺挙兵
詳細は「功山寺挙兵」を参照
幕府による第一次長州征伐が迫るなか、長州藩では幕府への恭順止むなしとする保守派(晋作は「俗論派」と呼び、自らを「正義派」と称した)が台頭し、10月には福岡へ逃れる。平尾山荘に匿われるが、俗論派による正義派家老の処刑を聞き、ふたたび下関へ帰還。12月15日夜半、伊藤俊輔 (博文) 率いる力士隊石川小五郎率いる遊撃隊長州藩諸隊を率いて功山寺で挙兵。のちに奇兵隊ら諸隊も加わり、元治2年(1865年3月には俗論派の首魁・椋梨藤太らを排斥して藩の実権を握る。

晋作は同月、海外渡航を試みて長崎でイギリス商人のグラバーと接触するが反対される。4月には、下関開港を推し進めたことにより攘夷・俗論両派に命を狙われたため、愛妾・おうのとともに四国へ逃れ、日柳燕石を頼る。6月に桂小五郎の斡旋により帰郷。

元治2年(1865年1月11日付で晋作は高杉家を廃嫡されて「育(はぐくみ)」扱いとされ、そして同年9月29日、藩命により谷潜蔵と改名する。慶応3年(1867年3月29日には新知100が与えられ、谷家を創設して初代当主となる。高杉本家の家督は末妹・の婿に迎えた春棋が継いだ。

四境戦争
再度の長州征討に備え、晋作は防衛態勢の強化を進めた。慶応2年(1866年1月21日(一説には1月22日)、彼が桂小五郎(後の木戸孝允)・井上聞多・伊藤俊輔たちとともに進めていた薩長盟約土佐藩坂本龍馬中岡慎太郎土方久元の仲介によって京都薩摩藩邸で結ばれた。

5月、伊藤俊輔とともに薩摩行きを命じられ、その途次長崎で蒸気船「丙寅丸」(オテントサマ丸)を購入している。

6月の第二次長州征伐(四境戦争)では海軍総督として「丙寅丸」に乗船し、戦闘指揮を執った。屋代島(周防大島)沖で幕府艦隊を夜襲してこれを退け、林半七率いる第二奇兵隊などと連絡して周防大島を奪還している。小倉方面では艦砲射撃の援護のもと奇兵隊・報国隊を門司・田ノ浦に上陸させて幕府軍を敗走させている。その後小倉城近くまで進撃したものの、肥後藩細川家の軍勢に撃退され戦況は停滞した。

しかし、7月20日将軍徳川家茂が死去すると、7月30日には肥後藩久留米藩柳川藩唐津藩中津藩が撤兵、幕府軍総督・小笠原長行も海路で小倉から離脱、残された小倉藩が8月1日小倉城に火を放ち逃走したため、幕府軍の敗北が決定的となった。幕府の権威は大きく失墜し、翌慶応3年(1867年)11月大政奉還へとつながることとなった。

その後、下関市桜山で肺結核の療養中、慶応3年4月13日1867年5月16日)深夜に死去。享年29(満27歳8ヶ月)。なお墓碑銘などで命日が14日とされているのは、長男の梅之進に谷家を相続させるために時間が必要だったためと考えられる[3]。 臨終には父・母・妻と息子がかけつけ、野村望東尼山県狂介田中顕助が立ち会ったとされる(ただし田中自身は当日は京にいたと日記に記している)。

栄典正四位1891年(明治24年)4月8日)。

墓所
墓所は山口県下関市吉田の東行庵にある。2016年4月に晋作の生前の遺言を刻んだ「墓誌碑」が建立された[4]

また木戸孝允・大村益次郎らによって東京招魂社(現在の靖国神社)に吉田松陰久坂玄瑞坂本龍馬中岡慎太郎たちとともに祀られた。

人物
・いわゆる辞世の歌について、
 ・「おもしろきこともなき世おもしろく」
 ・「おもしろきこともなき世おもしろく」

の両説あるが、晋作直筆になる歌が残されていないため、正確なところは不明。なお東行庵の句碑には「に」とあり、防府天満宮の歌碑では「を」となっている。古川薫の著書では「を」が採用されている一方、一坂太郎は「に」を採用し「『を』は後年の改作であろう」としている。その根拠として高杉家に伝えられた和装本では「こともなき世」とされており、この本は晋作直筆ではないものの晋作直筆本を写本したもとであることはほぼ確かで、原本と校合したと思われる朱筆も残っていることをあげている。[5]

かつては死の床にあった晋作が詠み、晋作を看病していた野村望東尼が「すみなすものは心なりけり」という下の句をつけたと言われていたが、近年の研究によればこの歌は死の前年にすでに詠まれていたという記録があり、正確には辞世ではないという説が有力である。

都々逸三千世界の鴉を殺し、主と添寝がしてみたい」(添寝の部分が『朝寝』とされていることもある)は一般に晋作の作であると言われている(木戸孝允作の説も有り)。この都々逸は、現在でも萩の民謡である「男なら」や「ヨイショコショ節」の歌詞として唄われている。

・師である吉田松陰は晋作の非凡さをいち早く見抜き、剣術ばかりであまり学業に本腰を入れない晋作を奮起させるために、あえて同門で幼馴染でもある優秀な久坂ばかりをべた褒めしたという。晋作は悔しさをバネに自身の非凡さを発揮。玄瑞と肩を並べお互いを切磋琢磨しあうなど、とても優秀であったという。

公金と私金の区別をつけない人物だった。藩の金で軍艦を二度、購入しようとしたこともある。

・一度日本に駐在していた英国人兵に頼まれて刀を見せたことがあったが、武士の魂ともいえる刀を物めずらしいと何度も見せてくれと言われ、そのことを遺憾に感じた晋作はそれ以後決して見せることはなかったという。

・晋作が上海で購入したS&Wモデル2アーミー 33口径6連発を坂本龍馬に贈ったとの逸話がある。龍馬が手紙に「かの高杉より送られ候ビストールをもって打ち払い」と述べているように、晋作から龍馬にピストルが贈られたことは確かなようだが、このピストルが実際に上海で購入されたものという確証はない。一坂太郎は晋作が上海でピストルを購入してから龍馬に贈るまでの約二年半の間に長州藩では武器の密輸が行われ、晋作も密輸されたピストルを一挺個人で購入していることをあげ、龍馬に贈られたピストルは「上海土産」ではなくこの頃に入手したものである可能性も否定できないとしている。

・のちに伊藤博文彦島の前を船で通過した際、「あのとき高杉が租借問題をうやむやにしていなければ、彦島は香港になり、下関は九龍半島になっていただろう」と語っている。

言動
「死すべきときに死し、生くべき時に生くるは英雄豪傑のなすところである。両三年は軽挙妄動せずして、専ら学問をするがよい。その中には英雄の死すべき時が必ず来る」[6]

「およそ英雄というものは変なき時は非人乞食となって潜れ。変ある時に及んで龍の如くに振舞はねばならない」[6]

「男子と言うものは困ったと言うことを決して言うものではない。これは自分が父から平生やかましく言われたことであるが、困ったと言う時は死ぬ時である。どんな難局に處しても、何困らぬと言う気概でやっておると、自づと通づるものである。どんな難局にも必ず逃れ路がある。行き当れば曲り路ありと言う訳である。断じて困らぬと言う気概でやっていれば必ず道はつくものである。だから困ったという一言だけは決して口にしてはいけない」
[6]


詳しいことは「高杉晋作ウィキペディア」をご覧ください。 ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E6%9D%89%E6%99%8B%E4%BD%9C
(wikiより)

177 高杉晋作

高杉晋作

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吉田大助の妻。

松陰の実母。

夫の没後は実家・森田家に寄寓。

松陰を常に見守り、死後も墓参をかかさず供養に努めた。

明治五年 ( 1872 )没 行年五十九才。
(案内板より)

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吉田家 第七代で松陰の義父。

松陰実父の杉百合之助の弟。

天保六年 ( 1835 ) 没 行年 二十九才
(案内板より)

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通称吉田寅次郎
生年文政13年8月4日1830年9月20日
生地日本の旗 長門国
没年安政6年10月27日1859年11月21日
満29歳没
没地日本の旗 江戸
思想尊王攘夷
活動倒幕
長州藩
投獄野山獄、伝馬町牢屋敷
裁判斬罪(罪状:老中暗殺を計画)
刑場伝馬町牢屋敷
受賞正四位[1]
桜山神社松陰神社靖国神社

吉田 松陰[注 1](よしだ しょういん、文政13年8月4日1830年9月20日〉 - 安政6年10月27日1859年11月21日〉)は、江戸時代後期の日本武士長州藩士)、思想家教育者山鹿流兵学師範。明治維新の精神的指導者理論者。「松下村塾」で明治維新に重要な働きをする多くの若者へ影響を与えた。

名前
吉田 松陰[注 1](よしだ しょういん、文政13年8月4日1830年9月20日〉 - 安政6年10月27日1859年11月21日〉)は、江戸時代後期の日本武士長州藩士)、思想家教育者山鹿流兵学師範。明治維新の精神的指導者理論者。「松下村塾」で明治維新に重要な働きをする多くの若者へ影響を与えた。

文に曰く、二十一回猛子と、忽ち覚(さ)む。因て思ふに杉は二十一の象あり。吉田の字も亦二十一回の象あり。我が名は寅、寅は虎に属す。虎の特は猛なり。

                  — 吉田松陰全集 第1巻(岩波書店,1940)

二十一回猛子の「二十一」の由来は、杉の木を分解すると「十」と「八」で18、三(さんづくり)が3で計21。吉田は士と十で21、ロと口で回という意味である[2]

生涯
文政13年(1830年)8月4日(西曆9月20日)、長州萩城下松本村(現・山口県萩市)で長州藩士・杉百合之助の次男として生まれる。天保5年(1834年)、叔父で山鹿流兵学師範である吉田大助養子となり、兵学を修める。天保6年(1835年)に大助が死亡したため、同じく叔父の玉木文之進が開いた松下村塾で指導を受けた。9歳のときに明倫館の兵学師範に就任。11歳のとき、藩主・毛利慶親への御前講義の出来栄えが見事であったことにより、その才能が認められた。13歳のときに長州軍を率い西洋艦隊撃滅演習を実施。15歳で山田亦介より長沼流兵学の講義を受け、山鹿流、長沼流の江戸時代の兵学の双璧を収めることとなった。松陰は子ども時代、父や兄の梅太郎とともに畑仕事に出かけ、草取りや耕作をしながら四書五経の素読、「文政十年の詔」[注 2]「神国由来」[注 3]、その他頼山陽の詩などを父が音読し、あとから兄弟が復唱した。夜も仕事をしながら兄弟に書を授け本を読ませた[3]


嘉永
3年(1850年)9月、九州平戸藩に遊学し、葉山左内(1796-1864)のもとで修練した[4]。葉山左内は海防論者として有名で、『辺備摘案』を上梓し、阿片戦争で清が敗北した原因は、紅夷(欧米列強)が軍事力が強大であったことと、アヘンとキリスト教によって中国の内治を紊乱させたことにあったとみて、山鹿流兵学では西洋兵学にかなわず、西洋兵学を導入すべきだと主張し、民政・内治に努めるべきだと主張していた[4]。松蔭は葉山左内から『辺備摘案』や魏源著『聖武記附録』を借り受け、謄写し、大きな影響を受けた[4]


ついで、松蔭は江戸に出て、砲学者の豊島権平や、安積艮斎山鹿素水、古河謹一郎、佐久間象山などから西洋兵学を学んだ[4]嘉永4年(1851年)には、交流を深めていた肥後藩宮部鼎蔵山鹿素水にも学んでいる[5]


嘉永
5年(1852年)、宮部鼎蔵らと東北旅行を計画するが、出発日の約束を守るため、長州藩からの過書手形通行手形)の発行を待たず脱藩。この東北遊学では、水戸会沢正志斎と面会、会津日新館の見学を始め、東北の鉱山の様子などを見学した。秋田では相馬大作事件の現場を訪ね(盛岡藩南部家の治世を酷評している)、津軽では津軽海峡を通行するという外国船を見学しようとした。 山鹿流古学者との交流を求め訪問した米沢では、「米沢領内においては教育がいき届き、関所通過も宿泊も容易だった。領民は温かい気持ちで接し、無人の販売所(棒杭商)まである。さすがに御家柄だ[注 4]」と驚いている[6][注 5]。江戸に帰着後、罪に問われて士籍剥奪・世禄没収の処分を受けた。


嘉永6年(1853年)、ペリー浦賀に来航すると、師の佐久間象山と黒船を遠望観察し、西洋の先進文明に心を打たれた。このとき、同志である宮部鼎蔵に書簡を送っている。そこには「聞くところによれば、彼らは来年、国書の回答を受け取りにくるということです。そのときにこそ、我が日本刀の切れ味をみせたいものであります」と記されていた[7]。その後、師の薦めもあって外国留学を決意。同郷で足軽の金子重之輔長崎に寄港していたプチャーチンロシア軍艦に乗り込もうとするが、ヨーロッパで勃発したクリミア戦争イギリスが参戦したことから同艦が予定を繰り上げて出航していたために果たせなかった。1853年旧暦8月に、藩主に意見書「将及私言」を提出し、諸侯が一致して幕府を助け、外寇に対処することを説いた。


嘉永7年(1854年)、ペリーが日米和親条約締結のために再航した際には、金子重之輔と2人で、海岸につないであった漁民の小舟を盗んで下田港内の小島から旗艦ポーハタン号に漕ぎ寄せ、乗船した。しかし、3月27日渡航は拒否されて小船も流されたため、下田奉行所に自首し、伝馬町牢屋敷に投獄された[注 6]。幕府の一部ではこのときに象山、松陰両名を死罪にしようという動きもあったが、川路聖謨の働きかけで老中の松平忠固老中首座の阿部正弘が反対したために助命、国許蟄居となった(9月18日)。長州へ檻送されたあとに野山獄に幽囚された。ここで富永有隣高須久子と知り合い、彼らを含め11名の同囚のために『論語』『孟子』を講じ、それがもととなって『講孟余話』が成立することになる[8]。この獄中で密航の動機とその思想的背景を『幽囚録』に記した。


安政2年(1855年)に出獄を許されたが、杉家に幽閉の処分となる。


安政3年8月22日(1856年9月20日)、禁固中の杉家において「武教全書」の講義を開始した[9]


安政4年(1857年)に叔父が主宰していた松下村塾の名を引き継ぎ、杉家の敷地に松下村塾を開塾する。この松下村塾において松陰は久坂玄瑞高杉晋作伊藤博文吉田稔麿入江九一前原一誠品川弥二郎山田顕義野村靖渡辺蒿蔵、河北義次郎などの面々を教育していった[注 7]山縣有朋桂小五郎は松陰が明倫館時代の弟子であり、松下村塾には入塾していない)。なお、松陰の松下村塾は一方的に師匠が弟子に教えるものではなく、松陰が弟子と一緒に意見を交わしたり、文学だけでなく登山や水泳なども行うという「生きた学問」だったといわれる。


安政5年(1858年)、幕府が無勅許で日米修好通商条約を締結したことを知って激怒し、間部要撃策を提言する。間部要撃策とは、老中首座間部詮勝孝明天皇への弁明のために上洛するのをとらえて条約破棄と攘夷の実行を迫り、それが受け入れられなければ討ち取るという策である。松陰は計画を実行するため、大砲などの武器弾薬の借用を藩に願い出るも拒絶される。次に伏見にて、大原重徳と参勤交代で伏見を通る毛利敬親を待ち受け、京に入る伏見要駕策への参加を計画した。 しかし野村和作らを除く、久坂玄瑞、高杉晋作や桂小五郎ら弟子や友人の多くは伏見要駕策に反対もしくは自重を唱え、松陰を失望させた。松陰は、間部要撃策や伏見要駕策における藩政府の対応に不信を抱くようになり草莽崛起論を唱えるようになる[10]。さらに、松陰は幕府が日本最大の障害になっていると批判し、倒幕をも持ちかけている。結果、長州藩に危険視され、再度、野山獄に幽囚される。


安政6年(1859年)、梅田雲浜が幕府に捕縛されると、雲浜が萩に滞在した際に面会していることと、伏見要駕策を立案した大高又次郎平島武次郎が雲浜の門下生であった関係で、安政の大獄に連座し、江戸に檻送されて伝馬町牢屋敷に投獄された。評定所で幕府が松陰に問いただしたのは、雲浜が萩に滞在した際の会話内容などの確認であったが、松陰は老中暗殺計画である間部要撃策を自ら進んで告白してしまう[11]。この結果、松陰に死罪が宣告され、安政6年10月27日グレゴリオ暦1859年11月21日)、伝馬町牢屋敷にて執行された。享年30(満29歳没)。

ゆかりの地
・故郷である山口県萩市には、誕生地、投獄された野山獄、教鞭をとった松下村塾があり、死後100日目に遺髪を埋めた遺髪塚である松陰墓地(市指定史跡)、明治23年(1890年)に建てられた松陰神社(県社)がある。ほかにも、山口県下関市桜山神社には、高杉晋作発案で招魂墓がある。
・静岡県下田市には、ペリー艦隊へ乗艦し密航を試みた場所であり、数多くの吉田松陰に関する史跡が点在している。
・処刑直後に葬られた豊国山(ほうこくさん)回向院。小塚原回向院とも(東京都荒川区)の墓地に現在も墓石が残る。
・文久3年(1863年)に改葬された東京都世田谷区若林の現在の墓所には、明治15年(1882年)に松陰神社が創建された。若林は吉良氏の領地であり[注 8]、長州藩はその領内に土地を購入し自前で藩別邸を持った。
・松陰が収容されていた伝馬町牢屋敷跡の「十思公園(東京都中央区日本橋小伝馬町)」には「吉田松陰終焉乃地碑」と「留魂碑」がある。
・松陰が弟子の金子重之輔を従えてペリー艦隊を見つめている姿を彫刻したという銅像が、山口県萩市椿東の吉田松陰誕生地にある。題字は、佐藤栄作が書いた。
・松陰は嘉永4年(1851年)12月19日から翌年1月20日にかけて水戸の永井政介宅に約1カ月余り滞在している。その際、会沢正志斎、豊田天功等に師事、また、水戸の青年有志と交わり水戸の学問の真髄を学んだといわれる。松陰が滞在した永井政介宅跡に石碑は建てられている。
・嘉永5年、長州藩を脱藩して東北旅行に出かける途中、追っ手をおそれた松陰は松戸宿から東北に半里離れた山中に分け入り、本郷村(松戸市上本郷)の本福寺の門を叩いて一晩の宿を得た。その翌日、村の子供たちを集めて講義をしたという。本福寺には「吉田松陰脱藩の道」の碑が建てられている。
・山形県米沢市粡町(あらまち)辻西には「吉田松陰宿泊の地」石碑がある。松陰は山鹿流古学や蘭学の高橋玄勝(はるまさ)らと交流があった。領内視察を行ない、上杉家治世を称賛した記録が萩に現存する。

思想
一君万民論
「天下は万民の天下にあらず、天下は一人の天下なり」と主張して、藩校明倫館の元学頭・山県太華と論争を行っている。「一人の天下」ということは、国家は天皇が支配するものという意味であり、天皇の下に万民は平等になる。

飛耳長目
塾生には、常に情報を収集し将来の判断材料にせよと説いた。これが松陰の「飛耳長目(ひじちょうもく)」である。自身東北から九州まで脚を伸ばし各地の動静を探った。萩の野山獄に監禁後は、弟子たちに触覚の役割をさせていた。長州藩に対しても主要藩へ情報探索者を送り込むことを進言し、また江戸や長崎に遊学中の者に「報知賞」を特別に支給せよと主張した。松陰の時代に対する優れた予見は、「飛耳長目」に負うところが大きい。

草莽崛起
詳細は「草莽」を参照

「草莽(そうもう)」は『孟子』においては草木の間に潜む隠者を指し、転じて一般大衆を指す。「崛起(くっき)」は一斉に立ち上がることを指し、「在野の人よ、立ち上がれ」の意。


安政の大獄で収監される直前(安政6年(1859年)4月7日)、友人の北山安世に宛てて書いた書状の中で「今の幕府も諸侯も最早酔人なれば扶持の術なし。草莽崛起の人を望む外頼なし。されど本藩の恩と天朝の徳とは如何にして忘るゝに方なし。草莽崛起の力を以て、近くは本藩を維持し、遠くは天朝の中興を補佐し奉れば、匹夫の諒に負くが如くなれど、神州の大功ある人と云ふべし」と記して、初めて用いた。

対外思想
『幽囚録』で「今急武備を修め、艦略具はり礟略足らば、則ち宜しく蝦夷を開拓して諸侯を封建し、間に乗じて加摸察加(カムチャッカ)・隩都加(オホーツク)を奪ひ、琉球に諭し、朝覲会同すること内諸侯と比しからめ朝鮮を責めて質を納れ貢を奉じ、古の盛時の如くにし、北は満州の地を割き、南は台湾、呂宋(ルソン)諸島を収め、進取の勢を漸示すべし」と記し、北海道(当時の蝦夷地)の開拓、琉球王国(現在の沖縄県。当時は半独立国であった)の日本領化、李氏朝鮮の日本への属国化、そして当時は領だった満洲台湾・「スペイン領東インド」と呼ばれていたフィリピンロシア帝国領のカムチャツカ半島オホーツク海沿岸という太平洋北東部沿岸からユーラシア大陸内陸部にかけての領有を主張した。その実現に向けた具体的な外交・軍事策を松陰は記さなかったものの、松下村塾出身者の何人かが明治維新後に政府の中心で活躍したため[注 9]、松陰の思想は日本のアジア進出の対外政策に大きな影響を与えることとなった。

吉田松陰に影響を与えた中国の思想家
魏源
清代の思想家。アヘン戦争でイギリスと対峙した清の政治家林則徐の側近。則徐が戦時下で収集した情報をもとに東アジアにおける当時の世界情勢を著した『海国図志』の中で、魏は「夷の長技を師とし以て夷を制す」と述べ、外国の先進技術を学ぶことでその侵略から防御するという思想を明らかにしており、松陰の思想に影響を与えたとされる。

王陽明
松陰は王が創始した陽明学に感化され、自ら行動を起こしていく。『伝習録』は陽明学の入門書として幕末日本でも著名であった。

文天祥
南宋末期の軍人。松陰の生き方、死に方もまさしく文天祥そのものであり、松陰は自作の「正気の歌」を作って歌っている。この「正気の歌」の思想が幕末・明治維新の尊王攘夷の思想になり、それが昭和の軍人たちにまでつながった[12]

語録
・立志尚特異 (志を立てるためには人と異なることを恐れてはならない)
・俗流與議難 (世俗の意見に惑わされてもいけない)
・不思身後業 (死んだ後の業苦を思い煩うな)
・且偸目前安 (目先の安楽は一時しのぎと知れ)
・百年一瞬耳 (百年の時は一瞬に過ぎない)
・君子勿素餐 (君たちはどうかいたずらに時を過ごすことなかれ)
・至誠にして動かざる者は未だこれ有らざるなり(本当の誠実さを持ちながら行動を伴わない人はいない、本物の誠実さがあるというのであれば、行動しなさい)

志を立てて以って万事の源となす

志士は溝壑に在るを忘れず

万巻の書を読むに非(あら)ざるよりは、寧(いずく)んぞ
   一己(いっこ)の労を軽んずるに
非ざるよりは、寧んぞ兆民の安きを致すを得ん。

仁とは人なり。人に非ざれば仁なし、禽獣これなり。
仁なければ人に非ず。禽獣に近き是なり。
必ずや仁と人と相合するを待ちて道と云うべし。

仮令獄中にありとも敵愾(てきがい)の心一日として忘るべからず。
苟(いやしく)も敵愾の心忘れざれば、一日も学問の切磋怠るべきに非ず。

己に真の志あれば、無志はおのずから引き去る
恐るるにたらず

凡そ生まれて人たらば宜しく人の禽獣に異なる所以を知るべし

体は私なり、心は公なり
公を役にして私に殉う者を小人と為す

人賢愚ありと雖も各々一二の才能なきはなし
湊合して大成する時は必ず全備する所あらん

死して不朽の見込みあらばいつでも死ぬべし
生きて大業の見込みあらばいつでも生くべし

先生から何のために学問するかと問われた事を記憶す。先生曰く、学者になるのはつまらない。
学者になるには本を読みさえすれば出来る。学問するには立志という事が大切である。[13]     

詳しいことは「吉田松陰ウィキペディア」をご覧ください。 ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%89%E7%94%B0%E6%9D%BE%E9%99%B0
(wikiより)

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吉田松陰

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吉田 庫三(よしだ くらぞう、1867年 - 1922年6月)は、日本の教育者。長州藩(現山口県)出身。吉田松陰の甥に当たる。

概要
1867年(慶応3年)、吉田松陰の妹・千代(芳子)と児玉祐之の息子として長州藩に生まれる。吉田松陰が刑死後、安政の大獄大赦によって再興された吉田家を、11歳の時に第11代として相続。松陰神社の毎年の例祭に祭主を務める。


吉田松陰が創立した松下村塾に7歳の時に入り、大叔父(吉田松陰の叔父)の玉木文之進の教えを受ける。12歳でその課程を終えた後は、私塾西鄙黌で学び、1882年、15歳の時に上京して二松学舎に入学し、2年間、漢学を学んだ。福永淑人から国史・国文を、法学博士末岡精一に法制を、高嶺秀夫に心理・教育を学び、三島中洲に従い文章を研究、森槐南について漢詩を研究した。


1890年
、22歳の時に学習院で初めて教鞭をとった。同年から1893年まで、海軍編修書記との兼任であった[1]。以後、高等師範学校中学科、陸軍幼年学校等で教え、1895年には従七位を授与された。1897年から商船学校(現:東京海洋大学)で教えた後は、鳥取県第一中学校(現:鳥取県立鳥取西高等学校)、神奈川県第二中学校(現:神奈川県立小田原高等学校)、神奈川県立第四中学校(現:神奈川県立横須賀高等学校)の校長をそれぞれ歴任する。


鳥取県第一中学校の校長時には校友会生徒会)の活性化、原因不明の出火により焼失した校舎の復旧対策と新校舎建築に取り組んだ。


神奈川県立第二中学校の校長時には修身の講義を行っていたが、自分の家柄のことや、吉田松陰のことについては一言も触れることなく、郷土の偉人として二宮尊徳を推称し、その言行を教訓とすべきことを力説した。約3年間の校長在任中、「至誠無息・堅忍不抜」を校訓に、質実剛健の校風をつくることに努めた。


乃木希典
は吉田家と親戚関係にあり、生涯にわたって吉田庫三と親交があった。乃木が日露戦争旅順攻撃の際に得た漢詩『金州城外の作』は、第二中学校長吉田庫三宛に送った1枚の葉書に記されたのが世に出た初めてのものである。


神奈川県
下の2校の校長を歴任したのは、当時の神奈川県知事・周布公平の招請によるものだが、これは、周布が長州藩士で、同郷の吉田の教育者としての経験を高く評価していたからといわれている。

年譜
1867年(慶応 3年) - 吉田松陰の妹・千代(芳子)と児玉祐之の息子として長州藩で出生。
1874年(明治 7年) - 松下村塾に入る。
1878年(明治11年) - 吉田家第11代当主となる。
1879年(明治12年) - 松下村塾の課程を修了し、私塾西鄙黌で学ぶ。
1882年(明治15年) - 上京。二松学舎に入学。
1890年(明治23年) - 海軍編修書記となる。学習院で初めて教鞭をとる。
1893年 (明治26年) - 海軍編修書記を退職。
1895年(明治28年) - 従七位を授与。
1897年(明治30年) - 商船学校(現:東京海洋大学)で教鞭。
1899年(明治32年) - 鳥取県第一中学校(現:鳥取県立鳥取西高等学校)第14代校長に就任。
1899年(明治32年) - 文官普通試験委員を命ぜられる。
1901年(明治34年) - 神奈川県第二中学校(現:神奈川県立小田原高等学校)初代校長に就任。
1904年(明治37年) - 和歌山県視学官に転ずる。その後、奈良県でも勤務。
1908年(明治41年) - 神奈川県立第四中学校(現:神奈川県立横須賀高等学校)初代校長に就任。
1922年(大正11年) - 死去。

脚注
1. 学習院授業嘱托を兼任することについて不都合の有無を、宮内大臣が海軍大臣に宛てて問い合わせる文書が残る。防衛省防衛研究所所蔵、海軍『職員進退録 明治23年6巻』2103-2113丁。1893年3月4日付で海軍編修書記を退職した。『職員進退録 明治26年5巻』0446丁。

参考文献
・中野敬次郎『小田原近代百年史』形成社、1968年
・神奈川県県民部県史編集室『神奈川県史 別編1 人物』神奈川県、1983年
・神奈川県立横須賀高等学校『神奈川県立横須賀中学校・高等学校八十年史』神奈川県立横須賀高等学校、1989年
・神奈川県立小田原高等学校『小田原高校百年の歩み』神奈川県立小田原高等学校、2002年


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時代江戸時代末期(幕末
生誕天保12年1月24日1841年3月16日
死没元治元年6月5日1864年7月8日
改名吉田栄太郎→吉田稔麿
別名雅号:風萍軒(ふうひょうけん)
墓所京都霊山護国神社京都府京都市東山区清閑寺霊山町)
護国山山口県萩市椿東椎原)
桜山神社山口県下関市上新地町)
朝日山護国神社山口県山口市秋穂二島
官位従四位
主君毛利敬親
長州藩
氏族吉田氏
父母父:吉田清内

吉田 稔麿(よしだ としまろ)は、江戸時代末期(幕末)の長州藩の活動家。名は栄太郎。後に稔麿と改名。

久坂玄瑞高杉晋作とともに松陰門下の三秀と称され、さらに入江九一を入れて松門四天王ともいう。

生涯
松下村塾・奇兵隊
天保12年(1841年1月24日(1841年3月16日)、萩藩松本村新道に軽卒といわれる十三組中間(大組中間)の吉田清内の嫡子として生まれる。稔麿の生家は吉田松陰の生家の近所で、松陰神社の近くに吉田稔麿誕生の地との石碑がある。

稔麿は、松陰以前に久保五郎左衛門が教えていたころの松下村塾に通っていた。稔麿は無駄口を利かず、眼光鋭い少年であったという。

また、松陰が禁固を命ぜられて実家に戻っていた時に、増野徳民に誘われて吉田松陰松下村塾に入門し、兵学を究めた。吉田稔麿、増野徳民の2人に松浦松洞を加えて「三無生」と称することがあるが、それは稔麿が「無逸」、増野が「無咎(むきゅう)」、松浦が「無窮(むきゅう)」と称したことに由来する。

松陰は才気鋭敏な稔麿を高く評価しており、高杉晋作を「陽頑」と評したのに対し、稔麿を「陰頑」と形容していた。

安政5年(1858年)に松陰に下獄の命が下されると、親族一門を守るために師の元を一時離れる。が、翌年松陰が江戸に送られる際には隣家の塀の穴から見送ったとの逸話が残されている。松陰刑死前後の稔麿の動向は詳細不明であるが、万延元年(1860年)10月に脱藩。しかし、文久2年(1862年)にはその罪を許されている[注釈 1]。また、同年10月には松陰の慰霊祭に初めて参加した。

文久3年(1863年)4月、兵数を増やすために「穢多非人・屠勇」(現在でいう被差別部落民)の兵士取り立てを建策する[1]。同年6月、高杉晋作の創設した奇兵隊に参加。7月に屠勇隊を創設。8月の朝陽丸事件では烏帽子直垂姿で船に乗り込み、説得に成功する。またこの年に稔麿と改名した。

最後
元治元年(1864年6月5日池田屋事件では、吉田も出席していたが、一度屯所に戻るために席を外す。しばらくして戻ると新撰組が池田屋の周辺を取り囲んでいたため、奮闘の末に討ち死にした。最近の説では、「長州藩邸に戻っていた吉田が脱出者から異変を聞き、池田屋に向かおうとするも加賀藩邸前で会津藩兵多数に遭遇し討ち死にした」とされている。また別の説として、「池田屋で襲撃を受け、事態を長州藩邸に知らせに走ったが門は開けられる事無く、門前で自刃した」という話もある。満23歳没。

墓所
墓は京都霊山護国神社京都府京都市東山区清閑寺霊山町)、護国山山口県萩市椿東椎原)、桜山神社(山口県下関市上新地町)、朝日山招魂場(山口県山口市秋穂二島、現在の朝日山護国神社)の4ヵ所。山口県萩市の俊光寺は吉田家の菩提寺だが、当初から墓はない。また、池田屋殉難墓碑が三緑寺(京都府京都市左京区岩倉花園町)にあり、殉節之地碑が京都府京都市中京区下丸屋町にある。

明治24年(1891年)、従四位を追贈された[2]

人物・逸話
謹直重厚な人物であったといわれ、その秀才ぶりは松下村塾でも有数のものであった。

以下、牧野謙次郎著『維新伝疑史話』[1]より

山県有朋が自分は稔麿に比べてどの程度劣っているか高杉晋作に尋ねると、晋作は笑って、「(人として比べられるくらい)同等というのか、吉田が座敷にいるとすれば、お前は、玄関番ですらない。味噌も糞も一緒にするとはこのことだ」と答えた[注釈 2]

・稔麿が、戯れに、放れ牛の絵を描き、それに烏帽子と木刀に棒切れを添えて描いた。有朋が、それは何かと尋ねると、稔麿は、「高杉は俗事にこだわらない俊才で、誰もつなぎとめることはできない、これは、野に放たれた牛のようなものである、久坂玄瑞は雰囲気が立派なもので、烏帽子をかぶらせ、大きな屋敷に座らせれば絵になるだろう。入江九一は、(彼らに比べれば)少々劣るところもあるが、まあ、木刀くらいのものではある。斬ることはできないが、脅しには使える」と言った。有朋は、残りの棒切れは何かを尋ねた。稔麿は、「それはお前だ、凡庸で、何のとりえもない」と答えた[注釈 3]

評価
吉田松陰 「吉田稔麿の識見は(高杉)晋作に髣髴す。ただ些才あり。これ大にその気魄を害す」[3]
渡邊嵩蔵 「吉田稔丸は賢き人なり」[4]
品川弥二郎 「稔麿が生きていたら総理大臣になっただろう」
伊藤博文 「(自分と比べるとどれくらいの人物かという問いに)どうして比べることができようか、全く天下の奇才であった」
近藤勇 「長州の士、吉田稔麿なるものあり。その死、最も天晴れ。後世学ぶべきものなり」[5]


脚注
注釈  
1. 松陰の後を追って萩藩を脱藩し、江戸で幕臣の家士となって幕府や松陰の動きをさぐったともいわれている。
2. 山県狂介(有朋)嘗て晋作に問うて曰はく、僕を以て吉田氏に比せば果して彼に幾籌を輸するか。晋作哂つて曰はく、物を擬するに倫を以てす。吉田をして坐敷に居らしめば、汝輩は玄関番にもなり難し。諺に云ふ、味噌も糞も一つにするとは汝輩の謂なり。(第8豪快「山県有朋稔麿の人物を問ふ」段)
3. 
嘗て放牛を画く、下に烏帽木剣及び一木を添ふ。山県狂介傍に在り、故を問ふ。稔麻呂曰はく、高杉は逸気俊才覇束すべからざること猶ほ奔牛のごときか。久阪玄瑞は気度高尚、亦廊廓の器なり。入江九一は稍々駑なりと雖ども亦以て木剣に当つべし。斬ること能はざれども、亦以て人を嚇すべし。狂介曰はく一木を画く者は何の故ぞ。稔麻呂かつて曰はく、此れ乃ち汝なり。徒に碌々員に備ふるのみにして他の言ふべき者なきなり。(拾遺「吉田稔麻呂」段)

出典
1. 前田朋章「幕末における長州藩部落民諸隊の活動」部落解放研究所紀要40,昭和59,p24-29,
2. 田尻佐 編『贈位諸賢伝 増補版 上』(近藤出版社、1975年)特旨贈位年表 p.6
3. 『松陰とその門下』
4. 『吉田松陰全集 第12巻』
5. 『松陰先生と吉田稔麿』 来栖守衛 著 昭和13年

関連作品
テレビドラマ
・『八重の桜』(2013年NHK大河ドラマ、演:石川雄亮
・『花燃ゆ』(2015年、NHK大河ドラマ、演:瀬戸康史

小説
伊東潤『池田屋乱刃』(講談社2014年
木内昇『火影に咲く』(集英社2018年

ゲーム
・『龍が如く 維新!』(セガ2014年、声:石川英郎
(wikiより)

172 吉田稔麿

吉田稔麿

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安政四年 ( 1857 ) から松陰の兵学門下生。

下関の外国艦隊砲撃に参加。

元治元年 ( 1864 ) 禁門の変にて重傷を負い自刃。

行年 十九歳
(案内板より)

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松陰の母 瀧の養父。

千代 ( 松陰の妹 ) の義父。

安政六年 ( 1859 ) 病没 行年 六十九歳
(案内板より)

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松陰の義弟 ( 松陰の妹・千代の夫 )。

吉田家 十一代・庫三の父。

明治八年 ( 1875 ) 没 行年 五十六歳。
(案内板より)

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萩藩士。

嘉永元年 ( 1848 ) から松陰の兵学門下生。

のち松下村塾に学ぶ。

明治維新後、松本村の戸長を務める。
(案内板より)

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名は光昭または光豊、通称は誠一郎、樗擽・桜山と号す。家世々医なり。 

安政 4年 14歳の時松下村塾に入り、稚心未だ去らないが書を読むこと極めて敏、「塾中第一流」の少年として深く松陰に愛される。 

安瀬 5年 12月松陰再び獄に入り、甫仙塾の後継者にしたいと思う。松陰没後も久坂等と交わり、文久元年の「一燈銭申合」に参加し、国事に奔走した、文久 3年馬関の外国戦艦砲撃にも加わる。また高杉の下で奇兵隊の書記役を務めた。

慶応元年より松陰の遺命を思いて松下村塾で教え、傍らに松陰の遺稿整理に当たる。 

明治 3年朝廷勤皇殉難者の事蹟報告を命ぜられると山口藩庁は甫仙にも資料募集を依頼した。この年同門の兵部大丞・山田顕義に伴われて大阪に出、翌年東京に移る。この年 12月 1日熱病を患い亡くなる。享年 28歳。萩椎原松陰の墓地近くに葬られる。 
( 第 4巻 148・160頁、第 5巻 131頁、第 9巻第 555・588頁 )

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芝山巌六氏追慕之碑
昭和五十七年五月、元台湾教育関係者一同によって、明治二十九年一月一日芝山巌学堂において殉職された以下六氏の英魂が一堂に合祀されたものです。

山口県 楫取道明先生  三十九歳
愛知県 関口長太郎先生 三十七歳
群馬県 中島長吉先生  二十五歳
東京都 桂金太郎先生  二十七歳
山口県 井原順之介先生 二十四歳
熊本県 平井数馬先生      十七歳
(案内板より)

〇 六氏先生
六氏先生(ろくしせんせい / りくしせんせい)または六士先生は、日本統治時代台湾に設立された小学校、芝山巌学堂(しざんがんがくどう)で抗日事件により殺害された日本人教師6人のことである。

芝山巌事件
1895年明治28年)5月17日下関条約(馬関条約)により台湾が日本に割譲され、5月21日から日本による統治が始まると、当時文部省の学務部長心得だった伊沢修二は、初代台湾総督に就任した樺山資紀に「(台湾の統治政策の中で)教育こそ最優先すべき」と教育の必要性を訴え、同年6月、日本全国から集めた人材7名を連れて台湾へ渡り、台北北部の芝山巌恵済宮という道観の一部を借りて同年7月に芝山巌学堂という小学校を設立した。


最初は生徒6人を集め、台湾総督府学務部長となった伊沢と教師7人の計8人で日本語を教えていた。次第に周辺住人に受け入れられ、同年9月20日には生徒数が21人になり甲、乙、丙の3組に分けて授業を行っていた。


その頃、能久親王が出征中の台南(後の台南神社境内)で薨去し、それに伴い伊沢と1人の教師(山田耕造)は親王の棺とともに日本本土に一時帰国した。

その伊沢の帰国中に事件は起こる。

1895年の暮れになるとふたたび台北の治安が悪化し、日本の統治に反対する勢力による暴動が頻発すると、周辺住人は教師たちに避難を勧めたが、彼らは「死して余栄あり、実に死に甲斐あり」と教育に命を懸けていることを示し、芝山巌を去ろうとはしなかった。


1896年(明治29年)1月1日、6人の教師と用務員(小林清吉)が元旦の拝賀式に出席するために生徒を連れて船着場に行ったが、前日からのゲリラ騒ぎで船が無く、生徒達を帰して芝山巌に戻った。再び芝山巌を下山しようとした時、約100人の抗日ゲリラ(日本側で言う匪賊)に遭遇した。教師たちはゲリラたちに説諭したが聞き入れられず、用務員の小林を含む7人全員が惨殺された。ゲリラ達は、日本人の首を取ったら賞金が貰えるとの流言から襲撃を掛けたと言われており、6人の首級と用務員を襲って殺害した上に着衣や所持品を奪い、さらに芝山巌学堂の物品も略奪した。この事件は、台湾にいた日本人を震撼させたのみならず、日本政府にも重大視され、丁重に葬儀を行うとともに、台湾統治の強化が行われた。芝山巌学堂は3か月間の授業停止の後に再開された。

6人の教師

「六氏先生」と呼ばれる教師は以下の6人である。
楫取道明山口県、38歳、初代群馬県令楫取素彦吉田松陰の妹・寿の次男)
・関口長太郎(愛知県、37歳)
・中島長吉(群馬県、25歳)
・桂金太郎(東京府、27歳、東京府士族
・井原順之助(山口県、23歳)
・平井数馬(熊本県、17歳)
(wikiより)

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正五位・楫取道明先生之墓

先生は萩藩儒・小田村伊之助 ( のち楫取素彦と改名 ) の二男として、安政五年 ( 1858 ) 萩に生まれられました。

母は吉田松陰の妹・寿子です。

幼名を久米次郎といい、一旦同藩士・久坂義助 ( 前名・玄瑞 ) の後嗣となりましたが、のち復籍して兄・篤太郎が小田村家をつぎ、先生は楫取家をつがれました。

先生は学問を好まれ、和歌に堪能で、宮内省に入って御歌所の講師となられました。

やがて台湾がわが領土となり、教化の急が要請されるに及び、先生は率先志願されて三男二女を夫人・美寿子 ( 千草 ( ちぐさ ) 氏 ) に託し、明治二十八年六月十五日勇躍台湾に渡られ、六月十七日に学務部員となられ、芝山巌上の学堂に五名の学務部員と起居を共にして、現地学童の教育に専念され、伊沢修二学務部長の職務を代行されました。

明治二十九年 ( 1896 ) 一月一日、かねて不穏の噂があった抗日派の住民の襲来にあい、他の部員五氏と共に殉職されました。

しかし英霊は永く台湾教育者の指針となり、いわゆる「芝山巌精神」による教育の成果は、異国となった今も尚 華を咲かせています。
(案内板より)

〇 楫取道明

楫取 道明(かとり みちあき、安政5年5月27日1858年7月7日) - 明治29年(1896年1月1日)は、日本教育者楫取素彦(小田村伊之助)と最初の妻・寿吉田松陰の妹)との次男。台湾教育の祖。六氏先生の一人。

幼名は粂次郎(くめじろう)。幼少時に久坂玄瑞と文(松陰と寿の妹)夫婦の養子となり、玄瑞の死後に一時久坂家を継いだが、のち玄瑞の庶子の秀次郎が認知されて久坂家を継ぎ、粂次郎は生家に戻された。文はのちに美和子と改名し、寿の死後に楫取素彦と再婚した。


明治29年(1896年)1月1日、芝山巌事件で殺害された。同年1月13日、正五位を贈られた[1]

家族・子孫
・妻:美寿子 - 千種有任の娘
・息子:三郎 - 素彦の男爵位を継ぐ
・娘:治子 - 小田村有芳(道明の実兄・小田村希家の養子)の妻
・孫:小田村寅二郎小田村四郎など

脚注
1. 『官報』第3761号、1896年1月15日
(wikiより)


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六氏先生の写真。楫取道明は前列中央。

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萩東光寺境内にある先生の墓の南側に、明治二十九年五月父・素彦氏が建てられた自然石の碑で、撰文は素彦氏、揮毫は看雨村田峯次郎氏 ( 清風の孫 ) です。
(案内板から)

〇 六氏先生
六氏先生(ろくしせんせい / りくしせんせい)または六士先生は、日本統治時代台湾に設立された小学校、芝山巌学堂(しざんがんがくどう)で抗日事件により殺害された日本人教師6人のことである。

芝山巌事件
1895年明治28年)5月17日下関条約(馬関条約)により台湾が日本に割譲され、5月21日から日本による統治が始まると、当時文部省の学務部長心得だった伊沢修二は、初代台湾総督に就任した樺山資紀に「(台湾の統治政策の中で)教育こそ最優先すべき」と教育の必要性を訴え、同年6月、日本全国から集めた人材7名を連れて台湾へ渡り、台北北部の芝山巌恵済宮という道観の一部を借りて同年7月に芝山巌学堂という小学校を設立した。


最初は生徒6人を集め、台湾総督府学務部長となった伊沢と教師7人の計8人で日本語を教えていた。次第に周辺住人に受け入れられ、同年9月20日には生徒数が21人になり甲、乙、丙の3組に分けて授業を行っていた。


その頃、能久親王が出征中の台南(後の台南神社境内)で薨去し、それに伴い伊沢と1人の教師(山田耕造)は親王の棺とともに日本本土に一時帰国した。


その伊沢の帰国中に事件は起こる。


1895年の暮れになるとふたたび台北の治安が悪化し、日本の統治に反対する勢力による暴動が頻発すると、周辺住人は教師たちに避難を勧めたが、彼らは「死して余栄あり、実に死に甲斐あり」と教育に命を懸けていることを示し、芝山巌を去ろうとはしなかった。

1896年(明治29年)1月1日、6人の教師と用務員(小林清吉)が元旦の拝賀式に出席するために生徒を連れて船着場に行ったが、前日からのゲリラ騒ぎで船が無く、生徒達を帰して芝山巌に戻った。再び芝山巌を下山しようとした時、約100人の抗日ゲリラ(日本側で言う匪賊)に遭遇した。教師たちはゲリラたちに説諭したが聞き入れられず、用務員の小林を含む7人全員が惨殺された。ゲリラ達は、日本人の首を取ったら賞金が貰えるとの流言から襲撃を掛けたと言われており、6人の首級と用務員を襲って殺害した上に着衣や所持品を奪い、さらに芝山巌学堂の物品も略奪した。この事件は、台湾にいた日本人を震撼させたのみならず、日本政府にも重大視され、丁重に葬儀を行うとともに、台湾統治の強化が行われた。芝山巌学堂は3か月間の授業停止の後に再開された。

6人の教師

「六氏先生」と呼ばれる教師は以下の6人である。
楫取道明山口県、38歳、初代群馬県令楫取素彦吉田松陰の妹・寿の次男)
・関口長太郎(愛知県、37歳)
・中島長吉(群馬県、25歳)
・桂金太郎(東京府、27歳、東京府士族
・井原順之助(山口県、23歳)
・平井数馬(熊本県、17歳)
(wikiより)

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前列真ん中が、楫取道明

事件のその後

彼らの台湾の教育に賭ける犠牲精神は「芝山巌精神」と言われ、人々の間で語り継がれるようになった。


この「芝山巌精神」は当時の台湾教育者に多くの影響を与え、統治直後、総人口の0.5~0.6%だった台湾の学齢児童の就学率は1943年昭和18年)頃には70%にもなった。また終戦時には識字率が92.5%に登り、後に台湾が経済発展をする基礎となった。


1930年
(昭和5年)には「芝山巌神社」が創建され、六氏先生をはじめ、台湾教育に殉じた人々が、1933年(昭和8年)までに330人祀られた(そのうち台湾人教育者は24人)。


境内には六氏先生を合葬する墓があり、また社殿の前には六氏先生を追悼して、伊藤博文揮毫による「学務官僚遭難之碑」(1896年7月1日建立)が建てられた。


毎年2月1日には慰霊祭が執り行われ、芝山巌は「台湾教育の聖地」と称された。

165 六氏先生の墓

六氏先生の墓


165 芝山巌神社

芝山巌神社

165 雨農閲覧室の額

雨農閲覧室の額

戦後
終戦後、蔣介石をはじめとする外省人中国国民党の者たちが中国本土から台湾に逃げて来て、台湾は日本色を一掃する中国国民党により芝山巌神社は破壊され、本殿跡には国民党軍統局副局長だった戴笠を記念する「雨農閲覧室」が建てられた。この時、神社の隣にあった恵済宮の住職は、六氏先生の墓跡から遺骨を密かに移し、無名の墓を造って祀っていた。


雨農閲覧室では、抗日運動の成果のひとつとして芝山巌事件を紹介する展示などが行われてきた。しかし、李登輝総統の下で台湾民主化の動きが進むと、芝山巌学堂が開かれて100年経った1995年平成7年)1月1日に芝山巌学堂の後身である台北市立士林国民小学中国語版の卒業生により、教育に命をかけた「六氏先生の墓」が再建され、2000年(平成12年)には「学務官僚遭難之碑」も復元された。


在、周辺は芝山文化生態緑園として整備されており、自然観察をしたり、大石象、蝙蝠洞、太陽石、砲台跡、同帰所(芝山で亡くなった無縁仏の合葬施設)などを見て回ることができる。

六氏先生の歌

作歌: 加部巌夫、作曲: 高橋二三四

やよや子等 はげめよや
学べ子等 子供たちよ
慕へ慕へ 倒れてやみし先生を

歌へ子等 思へよや
すすめ子等 国のため
思へ思へ 遭難六氏先生を

関連項目
伊沢修二        

外部リンク
六氏先生之墓
六氏先生墓-芝山文化生態綠園(中国語)
(wikiより)


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時代江戸時代末期(幕末
生誕天保4年9月2日1833年10月14日
死没元治元年11月11日1864年12月9日
改名:兼施(かねのぶ)→親施
別名仮名:右衛門介(うえもんのすけ)、号:霜台、翠山、通称:幾三郎、越中、弾正
戒名高正院大義全明
墓所笠松山麓
幕府江戸幕府
長州藩
父母父:益田元宣、母:益田房清の娘・孝子
兄弟親興親施、房子
精祥、養子:益田親祥

益田 親施(ますだ ちかのぶ)は、江戸時代末期(幕末)の長州藩士。益田家第33代当主。長州藩永代家老・須佐領主益田家14代。益田元宣の三男。通称右衛門介(うえもんのすけ)。

は初め兼施(かねのぶ)、後に長州藩主毛利敬親より偏諱の授与を受けて親施と名乗る。

生涯
天保4年(1833年)9月2日、益田元宣の三男として生まれる。母は益田房清の娘・孝子。


嘉永
2年(1849年)、父・元宣が死去し、兄の親興(ちかおき)も既に亡くなっていたため、家督を継いだ。同年、吉田松陰の山鹿流兵学に入門。嘉永6年(1853年)、アメリカ合衆国マシュー・ペリーが浦賀に来航すると、浦賀総奉行として着任する。安政3年(1856年)には長州藩の国家老となった。安政5年(1858年)、通商条約問題が起こると、益田は周布政之助らと共に朝廷の意思に従って攘夷を決行すべきと江戸幕府に提言し、「朝廷に対しては忠節、幕府に対しては信義、祖先には孝道」という藩の三大原則を打ち出した。


文久
3年(1863年)には上洛して孝明天皇に謁見し、真木保臣らと共に過激な尊皇攘夷に走ろうとした。しかし同年の八月十八日の政変で長州をはじめとする尊皇攘夷派が京都から追放されると、益田は七卿落ちで朝廷から追放された7人の公卿と共に長州に帰国した。その後、失った勢力を取り戻すため、翌元治元年(1864年)に上洛、福原元僴国司親相久坂玄瑞来島又兵衛らと共に出陣して長州軍の指揮を執るが、薩摩藩会津藩連合軍の前に敗れ(禁門の変)、長州に帰国した。


そして責任を取る形で領地の阿武郡須佐に引き込んだが、同年に行なわれた第一次長州征伐で、幕府軍より益田に責任が問われて、徳山藩に身柄を預けられた後、11月11日、惣持院にて切腹を命じられ、自刃した。享年32。


この時、実子の精次郎(後の精祥)は3歳とまだ幼少であったため、妹・房子の夫となった桂親澄改め益田親祥が中継ぎの当主として家督を継承するが、結局翌慶応元年(1865年)3月に精次郎が家督を相続している。

関連作品
天皇の世紀 - 演:宮川洋一 (ABCテレビ国際放映、1971年)
白虎隊 - 演:荒木茂 (日本テレビ年末時代劇スペシャル、1986年)
白虎隊 - 演:並木史朗 (テレビ朝日、2007年)

関連項目
長州藩の家臣団     
(wikiより)


163 益田右衛門介

益田右衛門介

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時代江戸時代末期(幕末
生誕文化12年8月28日1815年9月30日
死没元治元年11月12日1864年12月10日
別名福原越後、福原徴之助、佐世主殿、号:翠崖
戒名隆文院願堂全忠居士
墓所山口県宇部市宗隣寺
官位越後守
幕府江戸幕府
主君毛利斉熙斉元斉広慶親
長州藩
氏族大江姓毛利氏宇多源氏佐々木氏佐世氏→大江姓福原氏
父母父:毛利広鎮、母:不詳
養父:佐世親長福原親俊
兄弟雅太郎、寛之進、鋭三郎、雍五郎、堅田元琦、元蕃秋元志朝定広(元徳)、他多数
正室:椙森元周の娘
彦七、養子:良通 (粟屋氏より)


福原 元(ふくばら もとたけ)は、江戸時代末期(幕末期)の長州藩の永代家老。通称は越後で、福原越後として知られる。


長州藩支藩である周防徳山藩毛利広鎮の六男で、最後の長州藩主となる毛利元徳の実兄である。

生涯
文化12年(1815年)8月28日生まれ。六男であるために家督を継ぐことはできず、12歳の頃に長州藩寄組佐世親長益田就恭の実弟)の養子となる。「元」の字はこの頃の藩主・毛利斉元(在任:1824年 - 1836年)から偏諱を受けたものと推測される。


嘉永
4年(1851年)、家老に昇進するが、大名の子の養子先としては家格が低すぎることから[1]安政5年(1858年)に藩命で長州藩で代々家老職を継ぐ家柄の福原親俊(伯父・福原房純の孫)の家督を継承した[2]


万延
元年(1860年)に国家老として藩主・毛利慶親(斉元の子、後の敬親)を補佐し、尊王攘夷運動を推進する[3]文久3年(1863年)に廃止された最後の当職(財務を統括する家老職)[4]を務めており、当職廃止後も加判役として藩政の中枢に残った。後述の長州軍上洛に至る政務において、どのような権限を持ち政務を行ったかは定かでは無いものの、在職期間から考えて、航海遠略策の進言・藩是転換(奉勅攘夷・破約攘夷の提案・実行)などの政策で責任者のひとりであった可能性が高い[5]


同年、八月十八日の政変で長州藩が京都から追放されると、元治元年(1864年)に来島又兵衛久坂玄瑞らと協力して挙兵し、上京して禁門の変を引き起こした。元は伏見長州藩邸に布陣した長州藩主力軍の総大将として伏見街道を進むが、途中で交戦した大垣藩勢の銃撃で負傷、敗退して帰国した。


その後、幕府による第1次長州征伐が起こると、藩内では保守派である俗論党が主導権を掌握してしまう。元は禁門の変で敗れて逃げ戻ったという経緯があったため、保守派の意向に逆らうことができず、西郷隆盛の要求により国司親相益田親施と共に禁門の変、並びに長州征伐の責任を取る形で、同年11月12日に岩国の龍護寺で自害した(享年50)。首級は他の家老らの首級と共に幕府側に送られた。


辞世の句
:くるしさは 絶ゆるわが身の夕煙 空に立つ名は 捨てがてにする

死後
慶応2年(1866年)8月に罪状焼棄の命が下り、藩主に背いた不忠不義との汚名は破棄され、11月に完成した維新招魂社(現・宇部護国神社)の主神として遷座された。


養嗣子は福原姓を憚って鈴尾五郎(後に毛利敬親の1字を受けて鈴尾親徳)[6]と名乗ったが、後に復姓して福原良通と名乗った。また、佐世家に養子へ出された時に側室との間に実子彦七が生まれ、文久2年(1862年)に彦七と井上馨の妹孝子との間に孫栄太郎が誕生した。栄太郎は母方の伯父馨の庇護を受け慶應義塾へ入学、三井物産へ就職して明治34年(1901年)頃に小野田セメント社長になった[7]。 元については、昭和期に周防大島町出身の画家中村青田によって作られたとされる木像が知られていたが、平成25年(2013年)に防府市毛利博物館肖像画が発見され、明治45年/大正元年(1912年)までに同博物館に預けられたとみられることから、前述の木像の元になった可能性が指摘されている[8]。その他、地元彫刻家によって作られた銅像が、宇部護国神社に平成22年(2010年)に建てられた[9]

人物
寡黙で果断、温厚でもあり、幕末初期の長州藩政を見事に運営した名臣として、高く評価されている。毛利博物館には元が描いたとされる郭公の絵が残されている。元治元年に藩兵を率いて上洛する直前に描かれたこの絵には、『太平記』で楠木正成が登場する一節と思われる文が書写されている。湊川の戦いで敗死した楠木正成は、事前に勝ち目が無いことを悟っていた(桜井の別れ)とされることから、長州軍の挙兵・上洛が成功するかどうか疑問視していたとの見方もある[10]

系図

実際の親子関係のみを示す。
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脚注
佐世家(3997石)は佐々木源氏系の名門であるが、一門六家や永代家老と較べれば家格は高くなかった。翻って福原家(安芸福原氏)は毛利氏と同じ大江朝臣長井氏を祖に持つ、代々永代家老の家柄であった。
・福原氏への転出の理由としてはもう1つ、元自身が、当時の藩主・毛利慶親(敬親)が養嗣子としていた毛利定広(後の元徳)の実兄であったことも関係しているものと推測される。以後も国家老として藩主を補佐する立場にあった。
福原越後 - 朝日日本歴史人物事典、日本大百科全書コトバンク
参勤交代制度の緩和に併せて、長州藩内でも様々な改革が行われたもの。
・ 「目で見る 毛利家あれこれ 〜毛利博物館収蔵資料と歴史ばなし〜第252回 - 毛利博物館館長代理 柴原直樹」(『ほっぷ』2015年7月24日号 - 地域情報新聞社)
・「鈴尾」は安芸福原氏発祥の城名にちなんだものである。
・堀雅昭『井上馨』P262 - P263。
・福原越後の肖像画見つかる/ 福原越後の肖像画見つかる - このまちメディアWeb 2013年12月13日(宇部日報
・宇部護国神社で越後公像の除幕式 - Web宇部日報 2010年11月24日(宇部日報)
・「目で見る 毛利家あれこれ 〜毛利博物館収蔵資料と歴史ばなし〜第253回 - 毛利博物館館長代理 柴原直樹」(『ほっぷ』2015年7月31日号 - 地域情報新聞社)

関連作品
テレビドラマ
・『竜馬がゆく』(1968年、NHK大河ドラマ、演:高橋正夫
・『天皇の世紀』(1971年、ABCテレビ・国際放映、演:矢野宏
・『花神』(1977年、NHK大河ドラマ、演:草薙幸二郎)※役名は「佐世主殿」
・『花燃ゆ』(2015年、NHK大河ドラマ、演:西岡秀記
( wikiより)

162 福原越後
福原越後

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