2024/02
8109 内山太郎右衛門直一墓(山口県萩市川島197・善福寺)
8108 田村荷苗篤幹墓(山口県萩市川島197・善福寺)
8107 平田尚介墓(山口県萩市川島197・善福寺)
8106 粟屋幹墓(山口県萩市川島197・善福寺)
8105 吉見墓廣長墓(山口県萩市川島197・善福寺)
8104 織部灯篭(山口県萩市川島197・善福寺)
8103 山田宇衛門旧宅跡(萩市川島2区-2)
8102 山縣有朋誕生地(萩市川島313-1)
幼名は小輔、狂介などを名乗り、維新後有朋と改名。
早くから志をたてて文武に励み、特に槍術 ( 宝蔵院流 ) に長じた。
吉田松陰の松下村塾に学び、高杉晋作率いる奇兵隊に入隊。
長州藩の中心人物の一人として活躍し、維新後は明治政府の軍備面に精力を注いだ。
欧州視察等を経て、大村益次郎の唱えた軍制を具体化、参謀本部の創設など日本陸軍の建設に当たった。
総理大臣となり、明治 22年 ( 1889 ) 第 1次内閣を組閣。
枢密院議長、日清戦争に際して第一司令官、陸軍大臣、次いで陸軍元帥にすすみ、明治 31年 ( 1898 ) 第 2次内閣を組閣した。
大正 11年 ( 1922 ) 85歳でこの世を去るまで、長州出身の長老として長きに渡り明治政府の中心的な存在であり続けました。
8101 大照院(山口県萩市椿4132)
所在地 | 山口県萩市椿4132 |
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位置 | 北緯34度23分43.5秒 東経131度23分8.9秒 |
山号 | 霊椿山 |
宗旨 | 臨済宗 |
宗派 | 南禅寺派 |
創建年 | 明暦2年 |
開基 | 毛利綱広 |
札所等 | 中国三十三観音霊場第20番 |
文化財 | 本堂、鐘楼門、庫裏、書院、経蔵、木造赤童子立像(重要文化財) 萩藩主毛利家墓所(国の史跡) |
公式サイト | 大照院 |
大照院(だいしょういん)は、山口県萩市にある臨済宗南禅寺派の寺院である。中国三十三観音霊場第二十番。
歴史
延暦年間(8世紀末 - 9世紀初)に月輪山観音寺という前身寺院があったというが、創建の事情は定かでない。その後鎌倉時代末期に建長寺の義翁和尚が大椿山歓喜寺と改め、臨済宗の寺院とした。その後荒廃したが、萩藩2代藩主毛利綱広が亡父の初代藩主秀就の菩提寺とするために承応3年(1654年)から明暦2年(1656年)にかけて再建し、その時秀就の法号にちなんで霊椿山大照院と改めた。
寺は延享4年(1747年)に火災に遭い、現存する本堂等は、その後6代藩主宗広によって再建されたものである。
境内の萩藩主毛利家墓所は国の史跡で、初代(萩での藩主の代数は輝元を初代とせず、秀就を初代として数えている)秀就、2代綱広、4代吉広、6代宗広、8代治親、10代斉煕、12代斉広と2代から12代までの偶数代の藩主と夫人や藩士の墓石があり、墓前には藩士が寄進した石灯籠が600数基ある。
ちなみに奇数代の藩主の廟所は萩市内の黄檗宗寺院東光寺にあり、秀就の父輝元の廟所は萩市の天樹院跡にある。
文化財
重要文化財
・本堂 - 入母屋造、桟瓦葺きの方丈形式の仏堂。延享4年(1747年)の火災後、寛延3年(1750年)頃までに再建された。鐘楼門、庫裏、書院も同じ頃の建築である。
・鐘楼門 - 江戸時代中期(1750年)の建立。三間一戸二階二重門、入母屋造、桟瓦葺。平成14年(2002年)5月23日指定。
・庫裏 - 江戸時代中期(1750年)頃の建立。桁行18.1m、梁間18.0m、一重、切妻造、妻入、南面・西面下屋付、東面庇・南面渡廊下及び便所・北面庇・西面便所各附属、本瓦及び桟瓦葺、東面突出部 桁行4.0m、梁間4.0m、入母屋造。平成14年(2002年)5月23日指定。
・書院 - 江戸時代中期(1750年)頃の建立。桁行21.9m、梁間22.7m、一重、丁字形東面入母屋造、西面寄棟造、北面切妻造、西面北端便所附属、南面東端廊下附属、桟瓦葺。平成14年(2002年)5月23日指定。
・経蔵 - 江戸時代後期(1755年)の建立。土蔵造、正面6.2m、側面6.2m、一重、宝形蔵、向拝一間、桟瓦葺、八角輪蔵付、北面及び西面張出し附属。平成14年(2002年)5月23日指定。
・木造赤童子立像 - 南北朝時代の作品。明治35年(1902年)7月31日指定。
国の史跡
萩藩主毛利家墓所
萩藩主毛利家の墓所は、大照院隣接地と東光寺隣接地にある。
毛利輝元の子の初代藩主秀就は、慶安4年(1651年)に萩城で没し、天樹院で火葬されたあと歓喜寺に葬られた。2代藩主綱広は亡父のため、承応3年(1654年)歓喜寺の改修に着手し、明暦2年(1656年)に完工した。この時、秀就の法号大照院にちなんで寺名を大照院と改めた。大照院は臨済宗の寺で、延享4年(1747年)に火災のため全焼し、6代藩主宗広の時、寛延3年(1750年)に再建した。
東光寺は、3代藩主吉就が、元禄3年(1690年)に創建した黄檗宗の寺である。東光寺の創立以降、歴代藩主は大照院と両寺に交互に葬られることとなった。すなわち、大照院には初代秀就・2代綱広・4代吉広・6代宗広・8代治親・10代斉熙・12代斉広の7人が、東光寺には3代吉就・5代吉元・7代重就・9代藩主斉房・11代藩主斉元の5人が葬られた。
大照院の墓所は、大きく5群に分かれている。墓所内の墓の数は52基で、藩主の墓7基を除いた45基は、藩主正室、一族、殉死者などのものである。墓標は、改葬墓1基、新墓2基を除いて、花崗岩製の五輪塔型で統一され、水輪に普の字を、地輪の表には法号、その裏に没年月日を刻むのを原則としている。墓の大きさも藩主夫妻と一族などの2種類に分けてほぼ統一され、藩主夫妻のそれは特に大型である(総高約4.5メートル)。墓の周囲には玄武岩製の石柱玉垣がめぐらされており、藩主の玉垣の内側と外側には青栗石が敷きつめられている。藩主墓の参道にはそれぞれ鳥居(計7基)が建っていることも特徴である。また墓所内には、605基の石燈籠がある。この両墓所は、明治初年にそれぞれ大照院・東光寺から分離され(東光寺の墓所は明治4年(1871年))、毛利家の所有となり、現在に至っている。
毛利輝元は、寛永2年(1625年)に没すると天樹院に葬られた。旧天樹院には、五輪塔型、花崗岩製の輝元夫妻の墓、秀就火葬跡が残っている。
萩藩主毛利家墓所は、大照院・東光寺ともに、山林を背にして広大な地域に整然と配置され、その規模の大なることといい、荘厳幽邃なことといい、近世大名墓所の代表的なものであり、大名の墓制・葬制を知る上で重要である。
昭和56年(1981年)5月11日指定。
所在地
・山口県萩市椿4132
拝観
・4~11月 8~17時
・12~3月 8~16時30分
拝観料 200円
隣の札所
外部リンク
・霊椿山大照院のホームページ
・国指定文化財等データベース
(wikiより)





8100 奥平謙助墓(山口県萩市椿4132・大照院)
時代 | 江戸時代(幕末) - 明治時代初期 |
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生誕 | 天保12年1月21日(1841年2月12日) |
死没 | 明治9年(1876年)12月3日 |
別名 | 諱:居正、号:弘毅斎 |
官位 | 贈従五位 |
藩 | 長州藩 |
父母 | 父:奥平清兵衛 |
奥平 謙輔(おくだいら けんすけ)は、幕末から明治時代初期の長州藩士、志士。萩の乱の首謀者の一人。
経歴
天保12年(1841年)2月12日、長州藩士・奥平清兵衛の五男として萩城下土原に生まれる。藩校明倫館で学び詩賦に優れた。文久3年(1863年)の下関戦争では先鋒隊士として参加。慶応2年(1866年)には干城隊に配属された。その後の戊辰戦争ではその干城隊の参謀として報国隊、奇兵隊とともに長岡、新発田、新潟を転戦した。その際、友人の会津藩士・秋月悌次郎にあてた手紙は名文として知られる。またその際には秋月から会津藩士の少年2人を書生として預かったが、一人は後に東京帝国大学総長となった山川健次郎で、もう一人は陸軍に入り近衛師団の工兵大隊長を務めた小川亮である。
明治2年(1869年)に越後府権判事として佐渡に赴任するが、同年8月には職を辞している。
郷里に戻ってからは攘夷論を説き、新政府の方針に不満を募らせる。明治9年(1876年)には前原一誠を盟主に萩の乱を起こしたが敗走し、12月3日に斬首となった。享年36。
大正5年(1916年)、従五位を追贈された[1]。
秋月悌次郎を通じて会津との交流、会津藩の子弟を教育したことが縁となり、平成7年(1995年)には当時の会津市長であった山内日出夫が奥平謙輔の墓に参っている。
脚注
1. 田尻佐 編『贈位諸賢伝 増補版 上』(近藤出版社、1975年)特旨贈位年表 p.40
参考資料
・松本次郎『増補 萩の乱前原一誠とその一党』マツノ書店 1996年
・一坂太郎『長州奇兵隊』中公新書 2002年
・山川健次郎「奥平謙輔先生」『男爵山川先生遺稿』所載
(wikiより)

奥平謙助




8099 前原騒動慰霊碑(山口県萩市椿1015‐14)
生年 | 天保5年3月20日(1834年4月28日) |
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生地 | 長門国・土原村 |
没年 | 1876年12月3日(42歳没)[1] |
没地 | 長門国・萩 |
活動 | 倒幕、萩の乱 |
藩 | 長州藩 |
受賞 | 贈従四位 |
〇 前原一誠
前原 一誠(まえばら いっせい)は、日本の武士(長州藩士)。諱は一誠。通称は八十郎、彦太郎。倒幕運動の志士として活躍したが、明治維新後、萩の乱の首謀者として処刑された。
位階は贈従四位(大正5年(1916年)4月11日)。維新の十傑の一人。参議、兵部大輔(現在の国防次官)を務めた。
出自
本姓の佐世氏は、宇多源氏佐々木氏の分流で、出雲源氏の諸流に属する。遠祖は尼子氏・毛利氏の家臣である佐世清宗。
経歴
天保5年(1834年)3月20日、4月28日長門国土原村(現・山口県萩市)にて、長州藩士・佐世彦七(大組47石)の長男として生まれ、前原氏を相続する。前原家の遠祖は戦国武将米原綱寛である。
天保10年(1839年)、郡吏となった父とともに厚狭郡船木村に移住。のちに萩にて修学するが、嘉永4年(1851年)、再び船木にて陶器製造など農漁業に従事する。安政4年(1857年)、久坂玄瑞や高杉晋作らと共に吉田松陰の松下村塾に入門する。松陰の処刑後は長崎で洋学を修め、のちに藩の西洋学問所・博習堂に学ぶ。
文久2年(1862年)に脱藩し、久坂らと共に直目付・長井雅楽の暗殺を計画する。文久3年(1863年)、右筆役、七卿方御用掛。その後は高杉らと下関に挙兵して藩権力を奪取し、用所役右筆や干城隊頭取として倒幕活動に尽力した。長州征伐では小倉口の参謀心得として参戦、明治元年(1868年)の戊辰戦争では北越戦争に出兵し、参謀として長岡城攻略戦など会津戦線で活躍する。明治3年(1870年)、戦功を賞されて賞典禄600石を賜る。
維新後は越後府判事(次官)や参議を勤める。大村益次郎の死後は兵部大輔を兼ねたが、出仕することが少なかったため、船越衛は省務停滞を嘆いている。また、大村の方針である「国民皆兵」路線(徴兵令)に反対して木戸孝允と対立する。
やがて、徴兵制を支持する山縣有朋に追われるように下野し、萩へ帰郷する。新政府の方針に不満をもった前原は明治9年(1876年)、奥平謙輔とともに不平士族を集めて萩の乱を引き起こしたが、即座に鎮圧されて捕らえられ、12月3日、萩にて斬首刑に処された。享年43(満42歳没)。
彼の辞世の詩として伝えられるのは、
「吾今国の為に死す、死すとも君恩に背かず。人事通塞あり、乾坤我が魂を弔さん。」
またその戯句に、
「これまでは いかい御苦労 からだどの よびだしの声 まつむしや秋の風 」
墓所は山口県萩市土原の弘法寺。遺言により戒名はないという[2]。
評価
・吉田松陰
・「八十郎(一誠)は勇あり、智あり。誠実人に過ぐ。いわゆる布帛粟米。適用せざるなし。その才や實甫(久坂玄瑞)に及ばず。その識や暢夫(高杉晋作)に及ばず。しかしてその人物の完全なること、二子また八十に及ばざること遠し。吾友肥後の宮部鼎蔵の資性、八十と相近し。八十父母に事へて至孝。余未だ責むるに国事を以てすべからざる也」[3]
・「佐世八十郎に至っては隠然両郎(高杉・久坂)の一敵国である」
・横山幾太 「極めて重厚なる風の人」[4]
・渡邊嵩蔵 「佐世八十郎は、村塾にても余り多くは読書せず」[4]
・曽我祐準 「妙な人で、事の善悪を決して云わぬ人であった」[5]
親族
・甥:国司仙吉(秋田県権令、異父姉「まし」の子息)[6]
2. 中嶋 繁雄 『明治の事件史―日本人の本当の姿が見えてくる!』 青春出版社〈青春文庫〉、2004年3月20日、47頁
3. 『松陰とその門下』
4. a b 『吉田松陰全集 第12巻』
5. 『大村先生逸事談話』P73
6. 海原徹『松下村塾の明治維新 : 近代日本を支えた人びと』ミネルヴァ書房、1999年、222頁。
登場作品
・花神 - 1977年、演:江原正士
・遠雷と怒涛と-1982年、演:近藤正臣
・幕末青春グラフィティ Ronin 坂本竜馬 - 1986年、演:石田純一
・炎の如く・吉田松陰 - 1991年、演:吉田次昭
・花燃ゆ - 2015年、演:佐藤隆太
・戦国炒飯TV - 2021年、演:小川史記
関連項目
・佐藤信寛
外部リンク
・佐世氏系譜
・前原一誠年譜・解説
前原一誠
〇 萩の乱
萩の乱(はぎのらん)は、1876年(明治9年)に山口県の萩で起こった明治政府に対する士族反乱の一つ。
1876年10月24日に熊本県で起こった神風連の乱と、同年10月27日に福岡県で起こった秋月の乱に呼応し、山口県士族の前原一誠(元参議)、奥平謙輔ら約200名(吉田樟堂文庫「丙子萩事変裁判調書」では506名、岩村通俊遺稿では2千余名と諸説あり)によって起こされた反乱である。後の内閣総理大臣(第26代)田中義一も当時13歳で反乱に参加している。
『萩一戦録』(早川松山画)
概要
前参議前原一誠は辞職したのち故郷で各地の不平士族と連絡を取っていたが、熊本城下での神風連の決起を聞くと旧藩校明倫館を拠点に同志を募り、10月26日には県庁を挟撃するため須佐育英館長の坂上忠介や多根卯一、徳山の同志・今田浪江らに決起を促す使者を派遣した。10月28日には前原を指導者とする「殉国軍」が挙兵したが、県庁襲撃は政府側に事前に察知されたため、天皇に直訴するため紫福を経て須佐より山陰道を東上するよう方針を転換し10月30日には須佐兵67人と合流し約300名にて地扱所を占拠し兵糧を確保する。しかし、海路で浜田に向かったところ悪天候で断念し江崎に上陸した後、虚報(袂を分かった諫早基清が萩を占拠し近親者を処罰しているという説「須佐郷土史研究会」)により10月31日萩・越ケ浜より明倫館に戻ったが備蓄弾薬が池に破棄されており、待ち伏せていた政府軍と市街戦が発生。これを退けるも橋本町辺に68軒の焼失被害を出す(品川弥二郎書翰)。弾薬欠乏から前原らは軍勢を囮として小倉信一、有福洵允にまかせ幹部5名のみ直訴のため別行動をとった。小倉らは萩で三浦梧楼少将率いる広島鎮台と軍艦孟春の攻撃を受け、11月6日までに政府軍により鎮圧された。この際、長州藩剣術指南役を務めた内藤作兵衛が誤認射殺されている。
その後
別行動をとった一誠・奥平ら幹部と従者白井林蔵、馬来木工の7名は東京へ向かうべく船舶にて萩越ケ浜を出港したが、悪天候のため宇竜港(現在の出雲市内)に停泊中水先案内人に通報されたことで11月5日に島根県令佐藤信寛らに包囲され、弁明の機会を与えることを条件に投降し逮捕された。なお、一誠は決起の前に元会津藩士で親交のあった永岡久茂と連絡を取っており、永岡は10月29日に千葉県庁襲撃未遂事件(思案橋事件)を起こしている。
12月3日に山口裁判所・萩臨時裁判所(裁判所長・岩村通俊)にて弁明の機会を与えられぬまま関係者の判決が言い渡され、首謀者とされた一誠と奥平および横山俊彦、佐世一清(一誠の実弟)、山田頴太郎(一誠の実弟)、有福旬允、小倉信一、河野義一は即日(翌日説あり)斬首された。 残る人物の処遇は明治九年司法省之部賊徒口供書では有罪72名、無罪1名、放免299名、合計372名(諸説あり、萩の乱刑死者追悼詩書木額では懲役48人・除族放免15人・放免388人とも、岩村通俊判事ノ遺稿では懲役60余人・2千余を放免とも、清水清太郎の日記では賊徒凡三千五百人ともある)。この処罰には司法卿・大木喬任により制定された臨時暴徒処分例(明治9年11月8日)が適用された。
乱による松下村塾への影響
この乱には松下村塾最年長の一誠をはじめ、多くの塾生や吉田松陰の親族(松陰叔父の玉木家、本人の吉田家、実家の杉家)跡取が事件に深く関与した。いずれも松陰の実兄の杉民治を介しており、玉木正誼は民治長女の婿養子、吉田小太郎は民治長男、杉相次郎は民治次女の婿養子である。玉木正誼と吉田小太郎が戦死したため玉木家は正誼の子・玉木正之が、吉田家は民治三女の婿養子・吉田庫三が相続した。この件により松陰の叔父であり松下村塾塾頭玉木文之進は切腹し塾も閉鎖された。松陰の実兄・杉民治も本郷代官を辞して隠居の身となったが、明治13年(1880年)松下村塾を再興し明治23年(1890年)の教育勅語で塾が閉鎖されるまで子弟教育に励んだ。
脚注
1. a b 原 剛 2002, p. 47.
参考文献
・原 剛 『明治期国土防衛史』錦正社、2002年2月。ISBN 4-7646-0314-4。
関連項目
・日本史の出来事一覧
(wikiより)





8098 品川弥二郎誕生地(萩市椿東船津)
生年月日 | 1843年11月20日 (天保14年閏9月29日) |
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出生地 | 長門国阿武郡椿郷東分村 (現在の山口県萩市) |
没年月日 | 1900年2月26日(56歳没) |
死没地 | 東京府(現在の東京都) |
出身校 | 松下村塾 |
前職 | 武士(長州藩士) |
所属政党 | 国民協会 |
称号 | 正二位 勲一等旭日大綬章 子爵 |
配偶者 | 品川静子 |
子女 | 品川弥一(長男) |
親族 | 池田六左衛門(祖父) 品川弥市右衛門(父) 品川清太郎(孫) |
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内閣 | 第1次松方内閣 |
在任期間 | 1891年6月1日 - 1892年3月11日 |
〇 品川弥二郎
品川 弥二郎(しながわ やじろう、天保14年閏9月29日〈1843年11月20日〉- 明治33年〈1900年〉2月26日)は、日本の官僚・政治家[1]。栄典は正二位勲一等子爵。名は省吾、弥吉。号は扇洲。別称に橋本八郎、松本清熊などがある。
経歴
天保14年(1843年)、長州藩の足軽・品川弥市右衛門と池田六左衛門の長女・まつの長男として生まれた。安政5年(1858年)、松下村塾に入門して吉田松陰から教えを受けるが、安政6年(1859年)に安政の大獄で松陰が刑死すると、高杉晋作らと行動を共にして尊王攘夷運動に奔走し、英国公使館焼き討ちなどを実行している。元治元年(1864年)の禁門の変では八幡隊長として参戦し、のちに太田市之進、山田顕義らと御楯隊を組織した。慶応元年(1865年)、木戸孝允と共に上京して情報収集と連絡係として薩長同盟の成立に尽力した。戊辰戦争では奥羽鎮撫総督参謀、整武隊参謀として活躍する。
明治維新後の明治3年(1870年)、渡欧して普仏戦争を視察するなどドイツやイギリスに6年間留学する[2]。内務大書記官や内務少輔、農商務大輔、駐独公使、宮内省御料局長、枢密顧問官などを歴任する。明治17年(1884年)、維新の功により子爵を授けられる。
明治24年(1891年)に第1次松方内閣の内務大臣に就任するが、明治25年(1892年)の第2回衆議院議員総選挙において次官の白根専一とともに警察を動員して強力な選挙干渉を行なって死者25人を出してしまった経緯を非難され、引責辞職を余儀なくされた(ただし、実際の経緯については諸説存在する)。その後は西郷従道と協力して政治団体・国民協会を組織する。
民間にあっては、獨逸学協会学校(現在の獨協大学)や旧制京華中学校(現在の京華学園)を創立し、また信用組合や産業組合の設立にも貢献している[2]。
明治33年(1900年)、流行性感冒(インフルエンザ)に肺炎を併発して死去[3][4]。享年58。
人物・逸話
・戊辰戦争の際、新政府軍が歌った「トコトンヤレ節」(「宮さん宮さん」)は、品川が作詞をしたとされる[要出典]。
・松陰は品川を「温厚正直で人情に厚く、うわべを飾らない。抜きん出た能力はないが、心が広く奥深いのが優れている」と評している[要出典]。
・同時代のジャーナリストである鳥谷部春汀は、明治24年(1891年)の選挙干渉における品川の手段を全く公正明大を欠いたものであると難じ、選挙干渉以後の言動は陸奥宗光への嫉妬と復讐の私情に制せられ「堂々たる大丈夫の気象なし」と評する。さらに品川の師である吉田松陰と比較して、同じく多感であり「怒りやすく泣きやすき奇癖あり」とするが、誠実さという点では「未了の疑問なり」と書く[5]。
・維新で亡くなった志士たちを顕彰するため、京都に尊攘堂を建立して京都帝国大学に寄贈した[要出典]。品川の死後、山口県下関市の功山寺にも建立されている[要出典]。
・東京都千代田区九段南の田安門前(九段坂公園内)に銅像がある。高村光雲の監督によるという[要出典]。
・大日本山林会初代幹事長を務めた[要出典]。
・大日本水産会 第一次幹事長(初代会長に相当)を務めた(任期:明治15年(1882年)2月12日 - 同19年(1886年)4月26日)[6]。
・大日本農会初代幹事長を務めた[要出典]。
・1885年(明治18年)に、塩原温泉塩釜の地(栃木県那須塩原市)に別荘を建てた。この別荘は、塩原温泉における別荘建築として最古に属し、現在は「品川弥二郎の旧念仏庵」として、市の有形文化財に指定されている[2]。
栄典
位階
・1885年(明治18年)10月31日 - 正四位[7]
・1886年(明治19年)10月20日 - 従三位[8]
・1891年(明治24年)6月15日 - 従二位[9]
・1900年(明治33年)2月26日 - 正二位[10]
勲章等
・1884年(明治17年)7月17日 - 子爵[11]
・1887年(明治20年)11月25日 - 勲二等旭日重光章[12]
・1900年(明治33年)2月26日 - 勲一等旭日大綬章[13]
系譜
品川氏
弥一右衛門━━弥二郎━━弥一━━清太郎
脚注
1. 日本大百科全書(ニッポニカ)「品川弥二郎」
2. a b c “品川弥二郎の旧念仏庵|那須塩原市” (日本語). www.city.nasushiobara.lg.jp. 2021年12月5日閲覧。
3. 『新聞集成明治編年史』 11巻、林泉社、1940年、31頁。
4. 服部敏良『事典有名人の死亡診断 近代編』(吉川弘文館、2010年)140頁
5. 鳥谷部春汀 『明治人物評論・正』博文館、1898年、22-30p頁。
6. 『大日本水産会百年史』社団法人大日本水産会、1982年。
7. 『官報』第711号「叙任」1885年11月12日。
8. 『官報』第994号「叙任及辞令」1886年10月21日。
9. 『官報』第2388号「叙任及辞令」1891年6月17日。
10. 『官報』第4995号「叙任及辞令」1900年2月28日。
11. 『官報』第316号「叙任及辞令」明治17年7月18日。
12. 『官報』第1325号「叙任及辞令」1887年11月28日。
13. 『官報』第4994号「叙任及辞令」1900年2月27日。
関連作品
テレビドラマ
・『竜馬がゆく』(1968年、NHK大河ドラマ、演:岡本富士太)
・『花神』(1977年、NHK大河ドラマ、演:荒川太郎)
・『竜馬がゆく』(1982年、テレビ東京、演:天田俊明)
・『翔ぶが如く』(1990年、NHK大河ドラマ、演:廣田高志)
・『花燃ゆ』(2015年、NHK大河ドラマ、演:音尾琢真)
参考文献
・池田さなえ 『皇室財産の政治史: 明治二〇年代の御料地「処分」と宮中・府中』人文書院、2019年3月。ISBN 978-4409520765。
関連項目
・第2回衆議院議員総選挙
・本山白雲(九段坂公園にある品川弥二郎の銅像の作者)
外部リンク
・品川弥二郎 | 近代日本人の肖像
・品川 弥二郎(京都大学附属図書館 維新資料画像データベース)
・品川弥二郎関係文書(その1) | 国立国会図書館 憲政資料室
・品川弥二郎関係文書(その2)|国立国会図書館 憲政資料室
(wikiより)

品川弥二郎


8097 花月楼跡(萩市椿東船津)
8096 郡司鋳造所遺構広場(萩市椿東)
〇 郡司鋳造所
郡司鋳造所(ぐんじちゅうぞううしょ)とは、萩にあった長州藩の鋳造所で、幕末には大型の大砲の鋳造も行われた。
概要
郡司家は三田尻に居住し、大内氏に仕える鋳物師であった。大内氏滅亡後、江戸時代前期に大砲鋳造の技術により長州藩に召し抱えら萩に移った。江戸時代を通じて、鍋・すき先など生活用具、梵鐘などを製造していた。
幕末、長州藩は郡司源之允を長崎の高島秋帆のもとに派遣して、洋式砲術を研究させた。さらに幕府から三浦半島警護の命令を受けると鋳物師を江戸に派遣し、嘉永7年(1854年)に佐久間象山の指導のもとに18ポンド砲を鋳造させた。この大砲は後に下関に移され、下関戦争で使用されている。
幕府が諸藩に洋式砲術の採用を奨励すると、長州藩は郡司家の細工場を大砲鋳造所とし、郡司喜平治(1804年-1882年)を大砲鋳造用掛に命じた。鋳造所では「こしき炉」と「たたら」とによる、在来の技術を用いた方法により洋式大砲の鋳造が行われた。下関戦争では、ここで製造された24ポンド砲や32ポンド砲が使用されている。このときフランス軍によって鹵獲された長州藩の大砲の何門かがパリの廃兵院に保管されていたが、現在は下関に貸与されている。またロンドン近郊の王立大砲博物館(The Royal Artillery Museum)、アメリカのワシントン海軍工廠にも保存されている。
平成12年度(2000年)に山口県埋蔵文化財センターが行った発掘調査では、巨大な石組の大砲鋳造遺構が確認され、また実際に使われた鋳型も多数発見された。現在は元の場所から北東50m程度離れた場所に、郡司鋳造所遺構広場として復元されている。
郡司家
萩藩の家臣として藩の軍事面(大筒打・鋳物師)にたずさわり、江戸時代より萩藩の代表的な鋳物師として知られた。17世紀中ごろには郡司家中興の祖・郡司讃岐長左衛門信久が萩藩初代藩主・毛利秀就に三田尻から萩に召し出され、松陰神社にほど近い月見川沿いの松本(東萩駅南東)に鋳造所を設け、隠居後には青海(萩駅南西)にも郡司鋳造所を設けて、鍋などの生活用具、犂先など農具、梵鐘などの工芸品、大砲などの兵器といった鉄・青銅製品の鋳造を歴代にわたり行った。
明和期には郡司姓を名乗る家が7家あり、うち郡司源七家など4家が大筒打に、郡司喜兵衛家と郡司四郎左衛門家の2家が鋳物師として鋳砲にあたった。幕末期に欧米列強に対する軍備強化のため、萩藩の要請を受けて大砲鋳造や砲術指導に深く関わった。ペリー来航の数か月後の1853年11月、郡司右平次率いる郡司鋳造所は藩営の銃砲鋳造所に指定され、青銅製カノン砲が生産された。[1]
脚注
1. 長州の科学技術幕末長州科学技術史研究会、平成15年8月23日
参考文献
・萩博物館編『幕末長州藩の科学技術 大砲づくりに挑んだ男たち』2006年2月
・郡司鋳造所跡、説明板
関連項目
・湯島大小砲鋳立場:幕府の兵器鋳造工場
外部リンク
・80ポンドボンベカノン諸規則。文化遺産オンライン
・郡司鋳造所遺構広場。萩市観光協会公式サイト
8095 石碑「薩長土連合密議之處」(萩市椿東1537・松陰神社敷地内)
8094 松浦松洞誕生地(山口県萩市椿東・松陰神社入口前)
時代 | 江戸時代末期(幕末) |
---|---|
生誕 | 天保8年(1837年) |
死没 | 文久2年4月13日(1862年5月11日) |
別名 | 温古(諱)、亀太郎(通称)、知新、無窮、松田和介 |
官位 | 贈正五位 |
藩 | 長州藩陪臣 |
松浦 松洞(まつうら しょうどう)は、江戸時代末期(幕末)の画家、長州藩の志士。諱は温古、通称は亀太郎。
生涯
魚商人の子として生まれる。のちに才覚を認められ、長州藩寄組・根来主馬の家臣として仕える。安政3年(1856年)吉田松陰の松下村塾に入り、尊王攘夷運動に参加。江戸に出て漢学を修める。安政5年(1858年)江戸で渡米を企てるものの、松陰が「勤皇倒幕の大事は目前に迫っており、今、海外に出るのは正しい策ではなく、時機ではない」と反対したため、取り止めている。文久2年(1862年)4月13日、久坂玄瑞らと上洛し、公武合体・開国派であった長州藩士・長井雅楽暗殺を計画したが、翻意を促されて断念し、京都粟田山にて切腹した。切腹の原因は、栗田宮(中川宮)が最初は尊攘派の旗を掲げていたにもかかわらず、幕府の懐柔策に乗り、佐幕派の支柱となって、尊攘志士を弾圧するようになったことへの抗議として、死を以って諌めたとも言われている。
幼少より絵画を志し、画家としては四条派の羽様西崕に師事しており、安政6年(1859年)安政の大獄によって江戸護送が決定した吉田松陰の肖像画を残している。
明治44年(1911年)、正五位を追贈された[1]。
登場する作品
・『花燃ゆ』 - 2015年、NHK、演:内野謙太
脚注
1. 田尻佐 編『贈位諸賢伝 増補版 上』(近藤出版社、1975年)特旨贈位年表 p.28
参考文献
・『日本人名大辞典』講談社
・『コンサイス日本人名事典』三省堂
(wikiより)




8093 吉田稔麿誕生の地(萩市椿東)
時代 | 江戸時代末期(幕末) |
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生誕 | 天保12年閏1月24日(1841年3月16日) |
死没 | 元治元年6月5日(1864年7月8日) |
改名 | 吉田栄太郎→吉田稔麿 |
別名 | 雅号:風萍軒(ふうひょうけん) |
墓所 | 京都霊山護国神社(京都府京都市東山区清閑寺霊山町) 護国山(山口県萩市椿東椎原) 桜山神社(山口県下関市上新地町) 朝日山護国神社(山口県山口市秋穂二島) |
官位 | 贈従四位 |
主君 | 毛利敬親 |
藩 | 長州藩 |
氏族 | 吉田氏 |
父母 | 父:吉田清内 |
吉田 稔麿(よしだ としまろ)は、江戸時代末期(幕末)の長州藩の活動家。名は栄太郎。後に稔麿と改名。
久坂玄瑞、高杉晋作とともに松陰門下の三秀と称され、さらに入江九一を入れて松門四天王ともいう。
生涯
松下村塾・奇兵隊
天保12年(1841年)閏1月24日(1841年3月16日)、萩藩松本村新道に軽卒といわれる十三組中間(大組中間)の吉田清内の嫡子として生まれる。稔麿の生家は吉田松陰の生家の近所で、松陰神社の近くに吉田稔麿誕生の地との石碑がある。
稔麿は、松陰以前に久保五郎左衛門が教えていたころの松下村塾に通っていた。稔麿は無駄口を利かず、眼光鋭い少年であったという。
また、松陰が禁固を命ぜられて実家に戻っていた時に、増野徳民に誘われて吉田松陰の松下村塾に入門し、兵学を究めた。吉田稔麿、増野徳民の2人に松浦松洞を加えて「三無生」と称することがあるが、それは稔麿が「無逸」、増野が「無咎(むきゅう)」、松浦が「無窮(むきゅう)」と称したことに由来する。
松陰は才気鋭敏な稔麿を高く評価しており、高杉晋作を「陽頑」と評したのに対し、稔麿を「陰頑」と形容していた。
安政5年(1858年)に松陰に下獄の命が下されると、親族一門を守るために師の元を一時離れる。が、翌年松陰が江戸に送られる際には隣家の塀の穴から見送ったとの逸話が残されている。松陰刑死前後の稔麿の動向は詳細不明であるが、万延元年(1860年)10月に脱藩。しかし、文久2年(1862年)にはその罪を許されている[注釈 1]。また、同年10月には松陰の慰霊祭に初めて参加した。
文久3年(1863年)4月、兵数を増やすために「穢多・非人・屠勇」(現在でいう被差別部落民)の兵士取り立てを建策する[1]。同年6月、高杉晋作の創設した奇兵隊に参加。7月に屠勇隊を創設。8月の朝陽丸事件では烏帽子・直垂姿で船に乗り込み、説得に成功する。またこの年に稔麿と改名した。
最後
元治元年(1864年)6月5日の池田屋事件では、吉田も出席していたが、一度屯所に戻るために席を外す。しばらくして戻ると新撰組が池田屋の周辺を取り囲んでいたため、奮闘の末に討ち死にした。最近の説では、「長州藩邸に戻っていた吉田が脱出者から異変を聞き、池田屋に向かおうとするも加賀藩邸前で会津藩兵多数に遭遇し討ち死にした」とされている。また別の説として、「池田屋で襲撃を受け、事態を長州藩邸に知らせに走ったが門は開けられる事無く、門前で自刃した」という話もある。満23歳没。
墓所
墓は京都霊山護国神社(京都府京都市東山区清閑寺霊山町)、護国山(山口県萩市椿東椎原)、桜山神社(山口県下関市上新地町)、朝日山招魂場(山口県山口市秋穂二島、現在の朝日山護国神社)の4ヵ所。山口県萩市の俊光寺は吉田家の菩提寺だが、当初から墓はない。また、池田屋殉難墓碑が三緑寺(京都府京都市左京区岩倉花園町)にあり、殉節之地碑が京都府京都市中京区下丸屋町にある。
明治24年(1891年)、従四位を追贈された[2]。
人物・逸話
謹直重厚な人物であったといわれ、その秀才ぶりは松下村塾でも有数のものであった。
以下、牧野謙次郎著『維新伝疑史話』[1]より
・山県有朋が自分は稔麿に比べてどの程度劣っているか高杉晋作に尋ねると、晋作は笑って、「(人として比べられるくらい)同等というのか、吉田が座敷にいるとすれば、お前は、玄関番ですらない。味噌も糞も一緒にするとはこのことだ」と答えた[注釈 2]。
・稔麿が、戯れに、放れ牛の絵を描き、それに烏帽子と木刀に棒切れを添えて描いた。有朋が、それは何かと尋ねると、稔麿は、「高杉は俗事にこだわらない俊才で、誰もつなぎとめることはできない、これは、野に放たれた牛のようなものである、久坂玄瑞は雰囲気が立派なもので、烏帽子をかぶらせ、大きな屋敷に座らせれば絵になるだろう。入江九一は、(彼らに比べれば)少々劣るところもあるが、まあ、木刀くらいのものではある。斬ることはできないが、脅しには使える」と言った。有朋は、残りの棒切れは何かを尋ねた。稔麿は、「それはお前だ、凡庸で、何のとりえもない」と答えた[注釈 3]。
評価
・吉田松陰 「吉田稔麿の識見は(高杉)晋作に髣髴す。ただ些才あり。これ大にその気魄を害す」[3]
・渡邊嵩蔵 「吉田稔丸は賢き人なり」[4]
・品川弥二郎 「稔麿が生きていたら総理大臣になっただろう」
・伊藤博文 「(自分と比べるとどれくらいの人物かという問いに)どうして比べることができようか、全く天下の奇才であった」
・近藤勇 「長州の士、吉田稔麿なるものあり。その死、最も天晴れ。後世学ぶべきものなり」[5]
注釈
1. 松陰の後を追って萩藩を脱藩し、江戸で幕臣の家士となって幕府や松陰の動きをさぐったともいわれている。
2. 山県狂介(有朋)嘗て晋作に問うて曰はく、僕を以て吉田氏に比せば果して彼に幾籌を輸するか。晋作哂つて曰はく、物を擬するに倫を以てす。吉田をして坐敷に居らしめば、汝輩は玄関番にもなり難し。諺に云ふ、味噌も糞も一つにするとは汝輩の謂なり。(第8豪快「山県有朋稔麿の人物を問ふ」段)
3. 嘗て放牛を画く、下に烏帽木剣及び一木を添ふ。山県狂介傍に在り、故を問ふ。稔麻呂曰はく、高杉は逸気俊才覇束すべからざること猶ほ奔牛のごときか。久阪玄瑞は気度高尚、亦廊廓の器なり。入江九一は稍々駑なりと雖ども亦以て木剣に当つべし。斬ること能はざれども、亦以て人を嚇すべし。狂介曰はく一木を画く者は何の故ぞ。稔麻呂かつて曰はく、此れ乃ち汝なり。徒に碌々員に備ふるのみにして他の言ふべき者なきなり。(拾遺「吉田稔麻呂」段)
出典
1. 前田朋章「幕末における長州藩部落民諸隊の活動」部落解放研究所紀要40,昭和59,p24-29,
2. 田尻佐 編『贈位諸賢伝 増補版 上』(近藤出版社、1975年)特旨贈位年表 p.6
3. 『松陰とその門下』
4. 『吉田松陰全集 第12巻』
5. 『松陰先生と吉田稔麿』 来栖守衛 著 昭和13
関連作品
テレビドラマ
・『八重の桜』(2013年、NHK大河ドラマ、演:石川雄亮)
・『花燃ゆ』(2015年、NHK大河ドラマ、演:瀬戸康史)
小説
・伊東潤『池田屋乱刃』(講談社、2014年)
・木内昇『火影に咲く』(集英社、2018年)
ゲーム
・『龍が如く 維新!』(セガ、2014年、声:石川英郎)
(wikiより)

吉田稔麿



8092 伊藤博文旧宅(山口県萩市椿東)
生年月日 | 天保12年9月2日(1841年10月16日) |
---|---|
出生地 | ![]() |
没年月日 | 1909年10月26日(68歳没) |
死没地 | ![]() |
出身校 | 松下村塾卒業 |
前職 | 武士(長州藩士) |
所属政党 | 立憲政友会 |
称号 | 従一位![]() ![]() ![]() ![]() 公爵 名誉博士(イェール大学) 校賓(早稲田大学) |
配偶者 | 伊藤すみ子(先妻) 伊藤梅子(継妻) |
子女 | 貞子(長女) 生子(次女) 朝子(三女) 文吉(長男・庶子) 眞一(次男・庶子) |
親族 | |
サイン | ![]() |
伊藤 博文(いとう ひろぶみ、天保12年9月2日〈1841年10月16日〉- 明治42年〈1909年〉10月26日)は、明治時代の日本の政治家[1]。位階勲等爵位は従一位大勲位公爵。
明治時代に、4度にわたって内閣制度発足以降の内閣総理大臣(初代[2]、5代・7代、10代)を務めたことで知られる。一次内閣時には明治憲法の起草の中心人物となり、二次内閣では日清講和条約の起草にあたった。四次内閣の組閣に際して立憲政友会を結党して初代総裁となり、政党政治に道を開いた[1]。他、初代枢密院議長、初代貴族院議長、初代韓国統監、元老などを歴任した[3][1]。
諱は博文(ひろぶみ、「ハクブン」と読むこともある)。「越智宿禰博文」とも名乗った。幼名は利助(りすけ)、後に吉田松陰から俊英の俊を与えられ、俊輔(しゅんすけ)とし、さらに春輔(しゅんすけ)と改名した。
概要
周防国の百姓の子として生まれる。父が長州藩の足軽伊藤家に入ったため、父とともに下級武士の身分を得る。
吉田松陰の私塾である松下村塾に学んだ。尊王攘夷運動に参加したが、1863年には藩命により井上馨らとともにイギリスに密航して留学して開国論者となる[4][3]。1864年にロンドンで四国連合艦隊の長州藩攻撃の計画を知り、急遽帰国し、藩主毛利敬親に開国への転換の必要を説いたが、受け容れられなかった。同年幕府による第一次長州征伐に対する藩首脳の対応に憤慨した高杉晋作が起こした功山寺挙兵に参加。この藩内戦の勝利により藩主流派となり、藩政改革に参画するようになり、主に藩の対外交渉の任にあたった[3]。
明治維新後の1868年から政府に出仕し、外国事務掛、参与、外国事務局判事、初代兵庫県知事などを歴任。1869年(明治2年)には陸奥宗光らとともに当面の政治改革の建白書を提出して開明派官僚として頭角を現した。また大蔵少輔兼民部少輔として貨幣制度の改革を担当し、1870年(明治3年)には財政幣制調査のために渡米し、翌年の金本位制の採用と新貨条例の公布を主導した。1871年(明治4年)岩倉使節団の副使として外遊する。この間に大久保利通の信任を得た[3]。
1873年(明治6年)の帰国後には大久保らとともに内政優先の立場から西郷隆盛の征韓論に反対し、同年10月に西郷らが下野すると大久保の片腕として参議兼工部卿に就任した[1]。1878年(明治11年)に大久保が不平士族に暗殺された後、その後を継いで内務卿に就任し、政府の中心人物となった。琉球処分、侍補制度の廃止、教育令の制定などを推進した。1881年(明治14年)に大隈重信からイギリス型議会政治を目指す急進的憲法意見が出されると伊藤が反対し、大隈ら開明派官僚が下野するという明治十四年の政変が発生した[3][1]。1882年(明治15年)にドイツやオーストリアの憲法調査を行い、1884年に宮中に制度取調局を創設してその長官に就任し、立憲体制への移行に伴う諸制度の改革に着手[3]。
1885年に太政官にかえて内閣制度を創設し、内閣発足以後[2]の初代内閣総理大臣に就任した(第1次伊藤内閣)。井上毅や伊東巳代治、金子堅太郎らとともに憲法や皇室典範、貴族院令、衆議院議員選挙法の草案の起草にあたり、1888年に枢密院が創設されるとその議長に就任し、憲法草案の審議にあたった。1889年に日本最初の近代憲法明治憲法を制定。君主大権の強いドイツ型の憲法だったが、伊藤は立憲政治の意義が君権制限と民権保護にあることを強調し、立憲主義的憲法理解を示した[3][1]。
1890年(明治24年)に帝国議会が創設されると初代貴族院議長に就任(最初の議会のみ)。1892年(明治25年)に第2次伊藤内閣を組閣し、衆議院の第一党だった自由党に接近。日清戦争では首相として大本営に列席するとともに日清講和条約に調印した。戦後は自由党と連携して連立政権を組織[1]。1898年(明治31年)に第3次伊藤内閣を組閣したが、自由党や進歩党との連携に失敗し、地租増徴が議会の反発で挫折したことで総辞職。他の元老たちの反対を押し切って大隈重信と板垣退助を後継に推して日本最初の政党内閣(第1次大隈内閣)を成立させた。さらに1900年(明治33年)には立憲政友会を結党して、その初代総裁となり、第4次伊藤内閣を組閣。明治立憲制のもとでの政党政治に道を開いた[1]。しかし1901年(明治34年)に貴族院の反発と財政問題をめぐる閣内不一致で総辞職[3]。
同年に起こった日英同盟論には慎重でロシアとの協商を模索して訪露したが、具体的成果を得られず、結果的に日英同盟が促進された。帰国後は野党の立場を貫こうとする政友会の指導に苦慮し、1903年(明治36年)に総裁を辞し、元老の立場に戻った[3]。
日露戦争開戦には慎重だったが[5]、日露戦争後の朝鮮・満州の処理問題に尽力し、1905年(明治38年)には初代韓国統監に就任[3]。韓国の国内改革と保護国化の指揮にあたり、3度にわたる日韓協約で漸次韓国の外交権や内政の諸権限を剥奪した[6]。伊藤は日本政府内では対韓慎重派であり、保護国化はやむなしとしたが、併合には慎重だったといわれる[5]。しかし韓国民族運動との対立の矢面に立つ形となり、1909年(明治42年)に韓国統監を辞職した後、ハルビン駅において韓国の民族主義運動家の安重根に狙撃されて死亡した[1]。
開明派として日本の近代化、特に憲法制定とその運用を通じて立憲政治を日本に定着させた功績が評価される[1]。
生涯
生い立ち
天保12年(1841年)9月2日、周防国熊毛郡束荷村字野尻(現・山口県光市束荷字野尻)の百姓・林十蔵(のちに重蔵)の長男として生まれる。母は秋山長左衛門の長女・琴子。弘化5年(1846年)に破産した父が萩へ単身赴任したため母とともに母の実家へ預けられたが、嘉永2年(1849年)に父に呼び出され萩に移住した。萩では久保五郎左衛門の塾に通い(同門に吉田稔麿)、家が貧しかったため、12歳ごろから父が長州藩の蔵元付中間・水井武兵衛の養子となり、武兵衛が安政元年(1854年)に周防佐波郡相畑村の足軽・伊藤弥右衛門の養子となって伊藤直右衛門と改名したため、十蔵・博文父子も足軽となった[7]。
松下村塾入門
安政4年(1857年)2月、江戸湾警備のため相模に派遣されていたとき、上司として赴任してきた来原良蔵と昵懇となり、その紹介で吉田松陰の松下村塾に入門する。伊藤は友人の稔麿の世話になったが、身分が低いため塾の敷居をまたぐことは許されず、戸外で立ったままの聴講に甘んじていた。
・渡邊嵩蔵 「伊藤公なども、もとより塾にて読書を学びたれども、自家生活と、公私の務に服せざるべからざる事情のために、長くは在塾するを得ざりしなり」[8]
翌安政5年(1858年)7月から10月まで松陰の推薦で長州藩の京都派遣に随行、帰藩後は来原に従い安政6年(1859年)6月まで長崎で勉学に努め、10月からは来原の紹介で来原の義兄の桂小五郎(のちの木戸孝允)の従者となり、長州藩の江戸屋敷に移り住んだ。ここで志道聞多(のちの井上馨)と出会い、親交を結ぶ。
松陰が同年10月に安政の大獄で斬首された際、桂の手附として江戸詰めしていた伊藤は、師の遺骸を引き取ることなる。このとき、伊藤は自分がしていた帯を遺体に巻いた。このあと、桂を始め久坂玄瑞・高杉晋作・井上馨らと尊王攘夷運動に加わる一方で海外渡航も考えるようになり、万延元年12月7日(1861年1月17日)に来原に宛てた手紙でイギリス留学を志願している。
文久2年(1862年)には公武合体論を主張する長井雅楽の暗殺を画策し、8月に自害した来原の葬式に参加、12月に品川御殿山の英国公使館焼き討ちに参加し、山尾庸三と共に塙忠宝[注釈 1]・加藤甲次郎を暗殺する[10]など、尊王攘夷の志士として活動した[11]。筋肉質の体躯であったとされる。
イギリス留学
文久3年(1863年)には井上馨の薦めで海外渡航を決意、5月12日に井上馨・遠藤謹助・山尾庸三・野村弥吉(のちの井上勝)らとともに長州五傑の一人としてイギリスに渡航する。伊藤の荷物は文久2年に発行された間違いだらけの『英和対訳袖珍辞書』1冊と寝巻きだけであったという。しかも途中に寄港した清の上海で別の船に乗せられた際、水兵同然の粗末な扱いをされ苦難の海上生活を強いられた。
9月23日のロンドン到着後、ヒュー・マセソンの世話を受け化学者アレキサンダー・ウィリアムソンの邸に滞在し、英語や礼儀作法の指導を受ける。ロンドンでは英語を学ぶとともに博物館・美術館に通い、海軍施設、工場などを見学して見聞を広めた。留学中にイギリスと日本との、あまりにも圧倒的な国力の差を目の当たりにして開国論に転じる。
元治元年(1864年)3月、米英仏蘭4国連合艦隊による長州藩攻撃が近いことを知ると、井上馨とともに急ぎ帰国した。
6月10日に横浜上陸後長州藩へ戻り、戦争回避に奔走する。英国公使オールコックと通訳官アーネスト・サトウと会見したが、両名の奔走も空しく、8月5日に4国連合艦隊の砲撃により下関戦争(馬関戦争)が勃発、長州の砲台は徹底的に破壊される。
伊藤は戦後、宍戸刑馬こと高杉晋作の通訳として、ユーリアラス号で艦長クーパーとの和平交渉にあたる。藩世子・毛利元徳へ経過報告したときには、攘夷派の暗殺計画を知り、高杉とともに行方をくらましている。そして、この和平交渉において、天皇と将軍が長州藩宛に発した「攘夷実施の命令書」の写しをサトウに手渡したことにより、各国は賠償金を江戸幕府に要求するようになる[12]。
挙兵
オールコックらとの交渉で伊藤は井上馨とともに長州藩の外国応接係を任されるが、下関戦争と禁門の変で大損害を被った藩は幕府への恭順を掲げる俗論派が台頭、攘夷派の正義派(革新派)との政争が始まった。伊藤は攘夷も幕府にも反対でありどちらの派閥にも加わらなかったが、9月に井上が俗論派の襲撃で重傷を負うと行方をくらました。
11月、長州藩が第一次長州征伐で幕府に恭順の姿勢を見せると、12月に高杉らに従い力士隊を率いて挙兵(功山寺挙兵)。このとき、高杉のもとに一番に駆けつけたのは伊藤だった。その後、奇兵隊も加わるなど各所で勢力を増やして俗論派を倒し、正義派が藩政を握った。のちに伊藤は、このときのことを述懐して「私の人生において、唯一誇れることがあるとすれば、このとき、一番に高杉さんのもとに駆けつけたことだろう」と語っている。
翌慶応元年(1865年)に藩の実権を握った桂の要請で行った薩摩藩や外国商人との武器購入および交渉がおもな仕事となり、第二次長州征伐にも戊辰戦争にも加勢できずに暇を持て余す形になった。
慶応4年(明治元年、1868年)に外国事務総裁東久世通禧に見出され、神戸事件と堺事件の解決に奔走。これが出世の足がかりとなった[13]。
詳しい事は「伊藤博文ウィキペディア」をご覧ください。 ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8A%E8%97%A4%E5%8D%9A%E6%96%87
(wikiより)


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8091 片山東熊別邸跡(山口県萩市椿東1489付近)
( 1854 ~ 1917 )
生誕 | 1854年1月18日 (旧暦嘉永6年12月20日) 長門国萩(現 山口県萩市) |
---|---|
死没 | 1917年10月24日 |
出身校 | 工部大学校 |
職業 | 建築家 |
受賞 | 勲一等旭日大綬章 |
所属 | 宮内省 |
建築物 | 帝国京都博物館(現 京都国立博物館) 東宮御所 (現 迎賓館) |
デザイン | 歴史主義建築 |
片山東熊(かたやま とうくま、嘉永6年12月20日(1854年1月18日)- 1917年(大正6年)10月24日)は、明治期に活躍した建築家。工手学校(現工学院大学)造家学科教務主理。位階および勲等は正三位勲一等。号は晩晴。
山口県生まれ。工部大学校の建築学科第1期生。
宮内省で赤坂離宮など宮廷建築に多く関わる。職務として県庁や博物館、宮内省の諸施設など36件の設計に関わったほか、公務の合間に貴族の私邸を中心に14件の設計を行った。
日本人建築家の養成を行うべく来日した、ジョサイア・コンドルによる最初の学生の一人である。
代表作である旧東宮御所(現・迎賓館)は、2009年に明治期以降の建築としては初めて国宝に指定された。
経歴
・1854年(安政元年) - 萩で長州藩下級藩士の父片山文左、母伊丹ハルの四男として生まれる。
・1865年(慶応元年) - 奇兵隊に入隊。
戊辰戦争に参戦。
・1879年(明治12年)
・11月 - 工部大学校卒業し、工学士となる。辰野金吾、曽禰達蔵らと同期。
・12月 - 工部省営繕課に勤務。
・1882年(明治15年) - 有栖川邸建設のため、有栖川宮熾仁親王とともに欧州視察。
・1886年(明治19年) - 宮内省勤務となる。皇居御造営局で明治宮殿建設に関わる、宮殿装飾調査のために翌年までドイツ出張。
・1887年(明治20年)10月 - 帝国大学(後の東京帝国大学、現在の東京大学)の渡辺洪基や辰野金吾、藤本寿吉らとともに、「工手学校」(現・工学院大学)を設立。
・1889年(明治22年) - 宮内省内匠寮の匠師に昇進。
・1897年(明治30年) - 東宮御所建設のため、翌年まで欧米を視察。
・1899年(明治32年) - 東宮御所着工
・1904年(明治37年) - 宮内省内匠頭に任ぜられ、東宮御所御造営局技監を兼任
・1909年(明治42年) - 東宮御所竣工。
・1912年(大正元年) - 明治天皇葬祭場などの建設に関わる。
・1915年(大正4年) - 宮内省内匠寮に在職30年の間、大小様々な工事の実現に尽くした功績に依り宮中顧問官となり、従三位勲一等旭日大綬章を授けられる。
・1917年(大正6年)10月23日 - 病となり特旨をもって正三位を叙せられ、同日薨去。享年65。
・同月28日 - 青山霊園に葬られ、勅使が弔った。
エピソード
・片山は奇兵隊の少年従士であり、また、兄の湯浅則和が兵部省の山城屋事件で長州閥の山縣有朋をかばい辞職。このため山縣は生涯片山を引き立てたという。明治12年ごろ、山縣が麹町区五番町に自宅を新築する際には、片山が在籍する工部大学校造家学科第1期生の4名で学生コンペを行ない、片山案を採用し、片山の処女作として木造家屋を建設した[1]。この山縣の後ろ盾のおかげで、就職の際も担当教授であるジョサイア・コンドルに頼らずとも、宮内省への道が開かれた[2]。
・東宮御所の建設に心血を注ぎ、完成の報告を明治天皇に行ったところ、一言「贅沢すぎる」と言われてショックを受け、病気がちとなったという。
親族
妻は琵琶湖疏水を築いたことで有名な土木技術者田辺朔郎の姉鑑子で、子供はいないため、長兄湯浅則和の子鉱三郎を養子とした。その後も鎮熊、東彦と続く。
栄典・授章・授賞
位階
・1887年(明治20年)1月8日 - 正七位[3]
・1903年(明治36年)9月30日 - 従四位[4]
・1908年(明治41年)10月10日 - 正四位[5]
・1917年(大正6年)10月23日 - 叙正三位(従三位勲一等工学博士片山東熊)[6]
勲章等
・1896年(明治29年)12月25日 - 勲六等瑞宝章[7]
・1901年(明治34年)6月27日 - 勲四等瑞宝章[8]
・1905年(明治38年)6月24日 - 勲三等瑞宝章[9]
・1915年(大正4年)11月10日 - 大礼記念章[10]
・1916年(大正5年)1月19日 - 勲一等旭日大綬章[11]
詳しい事は「片山東熊ウィキペディア」をご覧ください。 ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%89%87%E5%B1%B1%E6%9D%B1%E7%86%8A
(wikiより)

片山東熊



8090 松下村塾発祥之地(萩市椿東1584-1)
その後玉木が藩に抜擢され官職に就いたため、松陰の母方の叔父にあたる久保五郎左衛門に代わった ( 第 2代 )。
出獄後も自宅に幽閉されていたが、その間に近隣の子弟を集めて孟子の講義をはじめ、やがて松下村塾を主宰していた叔父までが聴講するようになり、自然に松下村塾の主宰は松陰に移った ( 1855 = 安政 2年。第 3代松下村塾 )。ここで 高杉晋作をはじめ 維新の指導者となる多くの人材が育った。
〇 松下村塾
松下村塾(しょうかそんじゅく)は、江戸時代末期(幕末)に、長州萩城下の松本村(現在の山口県萩市)に存在した私塾である。
吉田松陰が同塾で指導した短い時期の塾生の中から、幕末より明治期の日本を主導した人材を多く輩出したことで知られる。
変遷
1842年(天保13年)に松陰の叔父、玉木文之進が八畳一間の私塾を開き松下村塾と名付け、少年だった松陰も入門した。文之進の指導は非常に厳格なもので、松陰が授業中、顔にとまった蚊を払って殴られた話が伝わる。ついで松陰の外叔、久保五郎左衛門がその名を継承し、塾生の教育にあたった。松下村塾は武士や町民など身分の隔てなく塾生を受け入れた。明倫館は士分と認められた者しか入学できず、町・農民はもちろん(卒族)、軽輩と呼ばれた足軽・中間なども入学できなかったのと対照的であった。1857年(安政4年)より、藩校明倫館の塾頭を務めていた吉田松陰が同塾を引き継いだ。名簿は現存しないが、塾生は約50名ほどいた。
著名な門下生には、全国の倒幕の志士の総元締の役割を果たした久坂玄瑞、吉田稔麿、入江九一、寺島忠三郎等、また藩論を倒幕にまとめ幕府軍を打ち破った高杉晋作がいた。高杉晋作、久坂玄瑞は、「識の高杉、才の久坂」と称され、「松下村塾の双璧」と呼ばれた。また、この2人に吉田稔麿を入れて松陰門下の三秀と言い、さらに入江九一を合わせて「松下村塾の四天王」と称された。 1858年(安政5年)、松陰が野山獄に再投獄され、また幕末動乱期に至って塾生の多くが地元を離れたため中絶した。慶応二年にいったん再開し、馬島甫仙、河合惣太等が教授にあたる。明治4年より再度玉木文之進が塾頭となり、塾の場所を自宅に移した。
以後の塾舎として使われた玉木文之進の旧宅もまた、萩市内に保存されている。
萩の乱に前原一誠など元塾生の多数が参加し反乱の罪に問われたため、乱の鎮定後の1876年(明治9年)に責任を感じた玉木が切腹し、再度途絶。1880年(明治13年)頃に松陰の兄の杉民治が塾を再開した。1892年(明治25年)頃、杉が老年に至って閉塾した。
著名な塾生
・伊藤博文 政治家
・山縣有朋 陸軍軍人、政治家
・品川弥二郎 官僚、政治家
・山田顕義 武士、政治家、陸軍軍人
・野村靖 武士、政治家、子爵
・松本鼎 長州藩士、官僚、政治家
・岡部富太郎 長州藩士、尊王攘夷派志士
・正木退蔵 官僚、外交官、教育者
・前原一誠 長州藩士
・飯田俊徳 官僚、技術者
・渡辺蒿蔵(天野清三郎)官僚、造船技術者、実業家
・松浦松洞 画家、長州藩士
・増野徳民 尊攘運動家、医師
・有吉熊次郎 長州藩士、 尊王攘夷派武士
・時山直八 長州藩士
・駒井政五郎 長州藩士
・中村精男 気象学者
・玉木彦助 長州藩士
・飯田正伯 長州藩士
・杉山松助 長州藩士
・久保清太郎 長州藩士、官僚
・生田良佐 長州藩士
・境二郎 長州藩士、官僚
・宍戸璣 長州藩士、政治家、官僚、子爵
・久坂玄瑞 長州藩士
・吉田稔麿 長州藩士
・入江九一 長州藩士
・寺島忠三郎 長州藩士、 尊王攘夷派志士
・高杉晋作 尊王攘夷派志士
関係者
・玉木文之進 - 松下村塾を開塾。
・吉田松陰 - 講師
・木戸孝允(桂小五郎)- 塾生ではないものの、明倫館時代の松陰に兵学の教えを受けていた。
・乃木希典 - 玉木家の親戚にあたり、塾生ではないが一時玉木家に住み込んで文乃進から指導を受けた。
・富永有隣 - 講師
・杉民治 - 松下村塾を再開。
建物
萩市の松陰神社の境内には幕末当時の塾舎が現存する。建物は木造かわらぶき平家建(床面積45.51㎡、天保年月日不詳新築、安政5年3月11日増築)の小舎で、当初からあった八畳と、十畳半の部分からなっている。十畳半は塾生が増えて手狭になったため、後から塾生の中谷正亮が設計し、松陰と塾生の共同作業で増築したものである。
1889年(明治22年)、境二郎が往時の塾舎の保存を提案、品川弥二郎、山田顕義らが賛同して寄付金を募り、塾舎を屋根の漆喰塗りや壁の塗り直し等の若干の補修を行ったうえで保存することとした。1922年(大正11年)10月12日、国の史跡に指定されたが、当時の山口県の調査資料では、幕末の建物がそのまま保たれていたことが記載されている[1]。管理団体は松陰神社である。
2009年(平成21年)1月5日に「九州・山口の近代化産業遺産群」の一つとして世界遺産暫定リストに追加掲載され、2015年に「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業」として正式登録された。
2020年(令和2年)10月27日に山口県土地家屋調査士会により法務局へ建物表題登記がされた。
模築
下記のところに松下村塾の模築がある。
・松陰神社(東京) - 東京都世田谷区
・玉川学園(玉川大学) - 東京都町田市(広瀬淡窓の咸宜園の模築と並んでいる)
・山口県立奈古高等学校 - 山口県阿武郡阿武町
・竹村記念公園 - 秋田県大館市(当時安田生命相談役であった竹村吉右衛門が奔走して、実現となったもの)
・徳山大学 - 山口県周南市
・山口放送本社 - 山口県周南市
・道の駅萩往還 - 山口県萩市(松陰記念館内)
脚注
1. 「塾ハ爾来僅カニ修理ヲ加へタルモ完全ニ旧態ヲ維持ス」 山口県編 史蹟名勝天然記念物調査報告概要. 1925年(大正14年)
関連項目
・松陰神社
・ザメディアジョン(「月刊 松下村塾」を全国発売している)
外部リンク
・松下村塾 - 文化遺産オンライン(文化庁)
・松下村塾 - 国指定文化財等データベース(文化庁)
・吉田松陰.com(幕末の私塾・松下村塾について)
・萩市松陰神社公式サイト 松下村塾(世界遺産)
(wikiより)




8089 玉木文之進旧宅(萩市椿東1584-1)
8088 玉木正之墓(護国山・山口県萩市椿東243‐31)
8087 吉田松陰誕生地(山口県萩市椿東1442‐1)
8086 高杉晋作草庵跡地顕彰碑(護国山・山口県萩市椿東243‐31付近)
8085 伊藤柏翠句碑(護国山・山口県萩市椿東243‐31付近)
〇 伊藤柏翠
伊藤 柏翠(いとう はくすい 1911年5月15日 - 1999年9月1日)は、東京府出身の俳人。本名勇。 父櫻孝太郎、母大久保喜久。父の友人伊藤専蔵の養子となり、義母・義父の死別により若くして天涯孤独の身となる。1929年、結核のため鎌倉鈴木療養所に入所。1931年より作句、翌年「ホトトギス」初入選。1934年、鎌倉俳句会で高浜虚子、星野立子、松本たかしに会う。1939年、療養所で同じく結核をわずらっていた森田愛子と会う。1942年、愛子を追って三国を訪れ同居。1945年「花鳥」創刊、主宰。1947年愛子死去。のち高浜虚子が愛子をモデルに小説「虹」を書き、柏翠もその恋人のモデルとなった。
1949年、三国で料亭「虹屋」開業。1953年山下千鶴と結婚。1958年、永平寺で得度。1987年、日本伝統俳句協会が設立され常任理事に就任。のち副会長。1995年、「ホトトギス」同人会長に就任。1999年7月、「花鳥」主宰を坊城中子に譲り、同年9月1日死去。句集に『虹』(森田愛子との共著)『花鳥』『花鳥禅』、著書に『柏翠自伝』などがある。品格高く艶のある句風であった。福井県鯖江市に伊藤柏翠俳句記念館が建てられている。
参考文献
・現代俳句大事典、三省堂、2005年
・ホトトギスの俳人101、新書館、2010年
外部リンク
・花鳥
(wikiより)



8084 吉田松陰先生像(護国山・山口県萩市椿東243‐31付近)
8083 玉木文之進墓(護国山・山口県萩市椿東243‐31)
時代 | 江戸時代末期 - 幕末 - 明治時代 |
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生誕 | 文化7年9月24日(1810年10月22日) |
死没 | 明治9年(1876年)11月6日 |
改名 | 正一 → 正韞(まさかぬ、諱) |
別名 | 通称;文之進。号;韓峰・玉韞。 |
主君 | 毛利敬親 → 元徳 |
藩 | 長州藩。郡奉行、当役、奥番蔵 |
氏族 | 杉氏 → 玉木家(乃木氏分流) |
父母 | 実父:杉常徳(杉七兵衛) 養父:玉木正路 |
兄弟 | 杉百合之助(杉常道) 吉田大助(吉田賢良) 玉木文之進 |
妻 | 国司氏の娘 |
子 | 実子:彦助 養子:正誼(乃木希次四男) |
玉木 文之進(たまき ぶんのしん)は、日本の武士(長州藩士)、教育者、兵学者(山鹿流)。松下村塾の創立者。吉田松陰の叔父に当たる。諱は正韞であるが、一般的に通称で文之進と呼ばれる。家格は大組。石高40石。
生涯
文化7年(1810年)9月24日、長州藩士で無給通組・杉常徳(七兵衛)の三男として萩で生まれる。文政3年(1820年)6月、家格では杉家より上にあたる大組士、40石取りの玉木正路(十右衛門)の養子となって家督を継いだ。
天保13年(1842年)に松下村塾を開いて、少年期の松陰を大変厳しく教育した(過激な、体罰を加えられることが多かったという。)。また親戚の乃木希典も玉木の教育を受けている。天保14年(1843年)に大組証人役として出仕。安政3年(1856年)には吉田代官に任じられ、以後は各地の代官職を歴任して名代官と謳われたという。安政6年(1859年)に郡奉行に栄進するが、同年の安政の大獄で甥の松陰が捕縛されると、その助命嘆願に奔走した。しかし松陰は処刑され、その監督不行き届きにより万延元年(1860年)11月に代官職を剥奪されている。
文久2年(1862年)に郡用方として復帰し、文久3年(1863年)からは奥阿武代官として再び藩政に参与し、その年のうちに当役(江戸行相府)に進む。藩内では尊王攘夷派として行動し、毛利一門家厚狭毛利家毛利親民の参謀を兼ね、慶応2年(1866年)の第2次長州征伐では萩の守備に務めた。その後、奥番頭にすすむが、明治2年(1869年)には政界から退隠し、再び松下村塾を開いて子弟の教育に努めている。なお、実子で継嗣であった玉木彦助は奇兵隊に入隊し、功山寺挙兵後の戦いで落命している。
明治9年(1876年)、前原一誠による萩の乱に養子の玉木正誼と門弟の多くが参加したため、その責任を取る形で11月6日に先祖の墓の前で自害した[1]。享年67。その跡は正誼の子、正之が相続した。
山口県萩市に旧宅が保存されている。
人物
玉木家は乃木傳庵の長男である玉木春政が、母の玉木の勲功で母の雅号を家名として分立し成立した家であるため、乃木家とは代々交流があった。加えて乃木希典の父である希次とは歳が近い上に、性格も似ていたので、平素互いに推服していたという。このためか、実子の彦助が死去すると希次の子が文之進の養子となるが、これが玉木正誼である。
参考文献
・塚田清市著「乃木大将事跡」乃木十三日会
・「三百藩藩主人名事典 6」新人物往来社
・萩市立図書館 編 『萩市立図書館所蔵諸家旧蔵書籍目録』萩市立図書館、1995年。
登場する作品
・『坂の上の雲』 - 2011年、NHK、演: 江良潤
・『花燃ゆ』 - 2015年、NHK、演:奥田瑛二
脚注
1. 萩市立図書館 1995, p. 36
(wikiより)




