本牧jack『意外と身近にある歴史散歩』日々是好日 心灯 頬笑

本牧Jackで御座います
小生の拙ブログ『意外と身近にある歴史散歩』日々是好日 心灯 頬笑に御訪問頂き誠に有難う御座います。
歴史ドラマが流行っている昨今、身近に有って気が付かなかったりする様な物を取り上げたりしています。
たまに『 大人数で取材しているのか? 』との質問を戴きますが、小生と相方の二人三脚で御座います。
出来るだけ続けたいと思っていますが 膝・耳に問題が有って、いつまで出来るやら・・・説明も、やたら長いものから あっさりしたものまで有りますが、御付き合いの程 宜しく御願い致します。
御注意 . 少ないですが生前に建てられた『 生前墓 』の記事も有ります。 ※ 申し訳御座いませんが「画像の転用」は禁止とさせて頂きます。 コメントは原則公開させていただいております 質問等に対してはブログ記事で返信させていただきます 他の方法で連絡を取り合う等一切しません 場合によっては、「IPブロック」しますがブロックした場合解除する事は有りませんので宜しくお願いします。

2024/03

幕末の風雲児・高杉晋作の誕生地。

現在は、南側半分が公開されており、産湯に使ったと伝えられる井戸や自作の句碑などがあります。

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嘉永年間 ( 1848 ~ 1854 ) の当主・野田七郎左衛門は、萩藩遠近付で、51石余を給されていた。

建物は、木像平屋建、寄棟造、桟瓦葺で、道路に面した門とそれに続く土塀、主座敷南側に造られた庭園なども残り、江戸時代武家屋敷の面影をよく伝えている。
(案内板より)

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井上剣花坊は明治 3 (1870 ) 年、藩士・井上吉兵衛の長男として、旧萩城下江向に生まれた。 本名は幸一。

苦学して木間の小学教員となり、地元の新聞記者を経て、明治 33年 ( 1900 ) に上京、雑誌「明義」の記者となって文芸欄を担当した。

明治 36年 ( 1903 ) 日本新聞社に入社し、新聞「日本」に剣花坊の名で「新題柳樽」欄を設け、新聞記者をつとめるかたわら、川柳の改革復興に尽力した。

同 38年には柳樽寺川柳会を組織し、機関紙「川柳」を創刊。

大正期には柳樽寺剣花坊の名で、新川柳会の総帥と仰がれた。

門下は全国各地に広がり、なかには雉子郎の川柳名をもつ作家・吉川英治もいた。

昭和 9年 ( 1934 ) 没、享年 65歳。

また、妻・信子は萩市土原に生まれ、後に川柳を学び、公私ともに剣花坊と歩んだ。89歳で死去。

夫妻の墓は、鎌倉建長寺にある。
(案内板より)

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時代江戸時代後期
生誕寛政12年(1800年
死没文久3年10月28日1863年12月8日
改名:正裕・子寛、号:顔山
墓所光源寺
幕府江戸幕府
長州藩

坪井 九右衛門(つぼい くえもん)は、江戸時代後期の長州藩士。佐藤家(内閣総理大臣岸信介佐藤栄作兄弟の実家)に生まれ(信介、栄作は兄の玄孫)、幼少時に坪井家の養子になった。

経歴
村田清風藩政改革に協力して功を挙げた。清風と共に藩政改革の建白書を毛利敬親に提出している。しかし清風の2回目の藩政改革は、清風の政敵である椋梨藤太の台頭で失敗し、しかも清風は安政2年(1855年)に中風が原因で他界した。このため、坪井は椋梨により失脚を余儀なくされる。

後に椋梨の失脚により、再び藩政に参与したが、坪井は尊王攘夷よりも佐幕派を支持したため、過激な尊王攘夷派が多い長州藩内部で孤立してしまい、文久3年(1863年)にその過激な一部の尊王攘夷派によって萩城下の野山獄で処刑された。享年64。
(wikiより)

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 食事系ブログ記事を移動します
今後は こういう記事も続くかと思いますが宜しくお願いします。



安永の初年(今より百八十有余年前)山口縣長州萩港の沖、日本海の孤島で青海島大日比(オオミジマオオヒビ)と云う村落ありて、男性の入門を禁じられた尼僧修行道場で有名な尼寺があります。

その尼寺の海辺に一つの珍らしい果実が漂着せるを拾いてその種子を撒附けたものが発芽成育したもので、初めは「宇樹橘(ユズキチ)」と呼び、何人も食用に供した者もなく、然るにその後文化の初年、夏期に食して美味なる事を初めて覚り、「夏橙(ダイダイ)」と名付けて大日比より萩町江向の士族、楢崎壱十郎兵衛へ贈った。

その贈られた果実の種子を蒔きて愛育したるもの、之が萩町に於ける種子蒔きの創初であります。

明治の初年、廃藩置縣の為め、萩城での士族は食禄を失はんとする當り、藩主、毛利公の奨励に従い競って種子を需め庭園と畑地とを問はず栽培して、活路を開き初めました。

 當時、萩町河添区の住民、小幡髙政は”祖式宗助””宍戸某等”らと相謀って、同志を募り、萩地方は夏蜜柑栽培に最も適し恵まれたる地質と気候とが相俟って、之が産業的計画に基づき栽培を施く奨励しまして、終に長州本場夏蜜柑と名附けて広く全国に輸出をするに至ったのであります。

日本最初夏蜜柑の原樹は史蹟及び、天然記念物に指定されて、山口縣長州青海島の大日比村落に老樹の子木、今尚生存して居ります。 
(お店のhpより)


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光圀本店 ホームページ







佐世一清 ( させ - いっせい )

嘉永 5 ( 1852 ) 年 ~ 明治 9 ( 1876 ) 年 12月 3日 江戸時代末期・明治期の萩藩士の子。

萩の乱で敗れ斬首される。

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生年天保5年3月20日1834年4月28日
生地長門国・土原村
没年1876年12月3日(42歳没)[1]
没地長門国・
活動倒幕萩の乱
長州藩
受賞贈従四位


前原 一誠
(まえばら いっせい)は、日本武士長州藩士)。は一誠。通称は八十郎、彦太郎。倒幕運動志士として活躍したが、明治維新後、萩の乱の首謀者として処刑された。

位階は贈従四位大正5年(1916年)4月11日)。維新の十傑の一人。参議、兵部大輔(現在の国防次官)を務めた。

出自
本姓佐世氏は、宇多源氏佐々木氏の分流で、出雲源氏の諸流に属する。遠祖は尼子氏毛利氏の家臣である佐世清宗

経歴
天保5年(1834年3月20日、4月28日長門国土原村(現・山口県萩市)にて、長州藩士・佐世彦七(大組47石)の長男として生まれ、前原氏を相続する。前原家の遠祖は戦国武将米原綱寛である。

天保10年(1839年)、郡吏となった父とともに厚狭郡船木村に移住。のちに萩にて修学するが、嘉永4年(1851年)、再び船木にて陶器製造など農漁業に従事する。安政4年(1857年)、久坂玄瑞高杉晋作らと共に吉田松陰松下村塾に入門する。松陰の処刑後は長崎で洋学を修め、のちにの西洋学問所・博習堂に学ぶ。

文久2年(1862年)に脱藩し、久坂らと共に直目付・長井雅楽の暗殺を計画する。文久3年(1863年)、右筆役、七卿方御用掛。その後は高杉らと下関に挙兵して藩権力を奪取し、用所役右筆や干城隊頭取として倒幕活動に尽力した。長州征伐では小倉口の参謀心得として参戦、明治元年(1868年)の戊辰戦争では北越戦争に出兵し、参謀として長岡城攻略戦など会津戦線で活躍する。明治3年(1870年)、戦功を賞されて賞典禄600石を賜る。

維新後は越後府判事(次官)や参議を勤める。大村益次郎の死後は兵部大輔を兼ねたが、出仕することが少なかったため、船越衛は省務停滞を嘆いている。また、大村の方針である「国民皆兵」路線(徴兵令)に反対して木戸孝允と対立する。

やがて、徴兵制を支持する山縣有朋に追われるように下野し、萩へ帰郷する。新政府の方針に不満をもった前原は明治9年(1876年)、奥平謙輔とともに不平士族を集めて萩の乱を引き起こしたが、即座に鎮圧されて捕らえられ、12月3日、萩にて斬首刑に処された。享年43(満42歳没)。

彼の辞世の詩として伝えられるのは、

吾今国の為に死す、死すとも君恩に背かず。人事通塞あり、乾坤我が魂を弔さん。

またその戯句に

これまでは いかい御苦労 からだどの よびだしの声 まつむしや秋の風 」

墓所は山口県萩市土原の弘法寺。遺言により戒名はないという[2]

評価
吉田松陰        
 ・「八十郎(一誠)は勇あり、智あり。誠実人に過ぐ。いわゆる布帛粟米。適用せざるなし。その才や實甫(久坂玄瑞)に及ばず。その識や暢夫(高杉晋作)に及ばず。しかしてその人物の完全なること、二子また八十に及ばざること遠し。吾友肥後の宮部鼎蔵の資性、八十と相近し。八十父母に事へて至孝。余未だ責むるに国事を以てすべからざる也」[3]        
 ・「佐世八十郎に至っては隠然両郎(高杉・久坂)の一敵国である」
横山幾太 「極めて重厚なる風の人」[4]
渡邊嵩蔵 「佐世八十郎は、村塾にても余り多くは読書せず」[4]
曽我祐準 「妙な人で、事の善悪を決して云わぬ人であった」[5]         

親族
・甥:国司仙吉(秋田県権令、異父姉「まし」の子息)[6]

脚注
1. 前原一誠』 - コトバンク     
2. 
中嶋 繁雄 『明治の事件史―日本人の本当の姿が見えてくる!』 青春出版社〈青春文庫〉、2004年3月20日、47頁   
3. 
『松陰とその門下』
4. 
a b 『吉田松陰全集 第12巻』
5. 
『大村先生逸事談話』P73   
6. 
海原徹『松下村塾の明治維新 : 近代日本を支えた人びと』ミネルヴァ書房、1999年、222頁。

登場作
花神 - 1977年、演:江原正士     
・遠雷と怒涛と-1982年、演:近藤正臣      
幕末青春グラフィティ Ronin 坂本竜馬 - 1986年、演:石田純一      
炎の如く・吉田松陰 - 1991年、演:吉田次昭      
花燃ゆ - 2015年、演:佐藤隆太       
戦国炒飯TV - 2021年、演:小川史記     

関連項目
佐藤信寛     

外部リンク
佐世氏系譜      
前原一誠年譜・解説      

(wikiより)

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前原一誠

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時代江戸時代末期(幕末
生誕天保2年2月13日1831年3月26日
死没安政2年1月11日1855年2月27日
別名名:貞吉、卯之助、直三郎、重輔、変名:渋木松太郎、市木公太
墓所山口県萩市北古萩町 保福寺
官位正五位
幕府江戸幕府
長州藩
父母父:茂左衛門、母:つる
養父:金子氏

金子 重之輔(かねこ しげのすけ)は幕末長州藩士である。名は重輔とも。

経歴
長門国阿武郡紫福村商人・茂左衛門とつるの長男として生まれる。後に足軽の金子家の養子となる。幼時より白井小助、次いで土屋蕭海に学び嘉永6年(1853年)、家業を嫌って江戸に出て長州藩邸の雑役となる。

同年、熊本藩士・永島三平を伝にして吉田松陰と出会いその弟子となる。嘉永7年(1854年)、アメリカ合衆国東インド艦隊再来に際して松陰と共に渡米を計画して藩邸を脱走。鳥山確斎の私塾に寄宿して、世界地誌を学びながら機会を窺った。

日米和親条約が締結されると松陰と共に下田へ赴いて米艦に乗り込もうとするがアメリカ側に拒否されたためにやむなく計画を中止、自首した。伝馬町牢屋敷に収容後、国許に蟄居の判決を受け、幕吏によってへ檻送され安政2年(1855年)、士分以外の者が入る岩倉獄で病没した。享年25(満23歳没)。

明治44年(1911年)、正五位を追贈された[1]

金子重之輔の像は、吉田松陰誕生地にある松陰の銅像のそばで松陰を見上げる姿で残っている。

脚注
1. 
田尻佐 編『贈位諸賢伝 増補版 上』(近藤出版社、1975年)特旨贈位年表 p.28

登場する主な作品
花神 - 1977年、NHK、演:岡本信人    
龍馬伝 - 2010年、NHK、演:尾関伸嗣     
花燃ゆ - 2015年、NHK、演:泉澤祐希
(wikiより)

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時代江戸時代末期(幕末
生誕天保2年2月13日1831年3月26日
死没安政2年1月11日1855年2月27日
別名名:貞吉、卯之助、直三郎、重輔、変名:渋木松太郎、市木公太
墓所山口県萩市北古萩町 保福寺
官位正五位
幕府江戸幕府
長州藩
父母父:茂左衛門、母:つる
養父:金子氏

金子 重之輔(かねこ しげのすけ)は幕末長州藩士である。名は重輔とも。

経歴
長門国阿武郡紫福村商人・茂左衛門とつるの長男として生まれる。後に足軽の金子家の養子となる。幼時より白井小助、次いで土屋蕭海に学び嘉永6年(1853年)、家業を嫌って江戸に出て長州藩邸の雑役となる。

同年、熊本藩士・永島三平を伝にして吉田松陰と出会いその弟子となる。嘉永7年(1854年)、アメリカ合衆国東インド艦隊再来に際して松陰と共に渡米を計画して藩邸を脱走。鳥山確斎の私塾に寄宿して、世界地誌を学びながら機会を窺った。

日米和親条約が締結されると松陰と共に下田へ赴いて米艦に乗り込もうとするがアメリカ側に拒否されたためにやむなく計画を中止、自首した。伝馬町牢屋敷に収容後、国許に蟄居の判決を受け、幕吏によってへ檻送され安政2年(1855年)、士分以外の者が入る岩倉獄で病没した。享年25(満23歳没)。

明治44年(1911年)、正五位を追贈された[1]

金子重之輔の像は、吉田松陰誕生地にある松陰の銅像のそばで松陰を見上げる姿で残っている。


脚注
1. 
田尻佐 編『贈位諸賢伝 増補版 上』(近藤出版社、1975年)特旨贈位年表 p.28

登場する作品
花神 - 1977年、NHK、演:岡本信人     
龍馬伝 - 2010年、NHK、演:尾関伸嗣     
花燃ゆ - 2015年、NHK、演:泉澤祐希   
(wikiより)

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正保 2年 ( 1645 ) 9月 17日夜、藩士・岩倉孫兵衛 ( 大組・禄高 200石 ) は酒に酔って道を隔てた西隣の藩士・野山六右衛門 ( 大組・禄高 200石 ) の家に切り込み、家族を殺傷した。

この事件のため、岩倉は死刑となり、両家とも取りつぶされ、屋敷は藩の獄になった。

野山獄は上牢として士分の者の収容を、岩倉獄は下牢として庶民を収容した。

なお、現在の指定地は獄の一部分である。

幕末、吉田松陰は海外渡航に失敗したのち野山獄に、その従者・金子重之助 ( 重輔 ) 岩倉獄に投ぜられた。

松陰はここで仲間の囚人を教化するという前例のない教育活動を行っている。

野山獄はまた維新前夜の藩内抗争の中で、正義派 ( 革新派 )・俗論派 ( 保守派 ) 双方の藩が投ぜられ、処刑された場所でもある。
(案内板より)

〇 野山獄
野山獄(いわくらごく)は、江戸時代長州藩によってに設けられた獄屋敷である。

概要
長州藩には士分武士階級)の者を収容する上牢である野山獄と、士分以外の者を収容する下牢である岩倉獄が設けられた。

長州藩の大組藩士であった野山六右衛門の屋敷と、同じく大組藩士であった岩倉孫兵衛の屋敷は道路を隔てて向かい合わせであった。正保2年(1645年)9月17日の夜、岩倉孫兵衛が酒に酔って野山六右衛門の屋敷に押し入り、家族を殺傷する事件を起こした。この時、岩倉孫兵衛は野山宅に幽閉され、のちに斬首の刑に処された。しかし、喧嘩両成敗により両家は取りつぶしとなり、屋敷が没収され、後に屋敷跡は牢獄に建て替えられた。

切り込まれた野山家側に非はないとして、野山獄は上牢とされた。12室の独房が6室ずつ向かい合わせの構造で、検視小屋や刑場も設けられた。幕末には吉田松陰が収容され、獄内で教育活動を行ったほか、高杉晋作など正義派の志士、正義派と対立した俗論党椋梨藤太などが収容されていた。また、両派の関係者が処刑されたことでも知られる。

現在は史跡として整備され、記念碑が建てられている。

関連項目
萩市観光協会公式サイト 野山獄跡
(wikiより)

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正保 2年 ( 1645 ) 9月 17日夜、藩士・岩倉孫兵衛 ( 大組・禄高 200石 ) は酒に酔って道を隔てた西隣の藩士・野山六右衛門 ( 大組・禄高 200石 ) の家に切り込み、家族を殺傷した。

この事件のため、岩倉は死刑となり、両家とも取りつぶされ、屋敷は藩の獄になった。

野山獄は上牢として士分の者の収容を、岩倉獄は下牢として庶民を収容した。

なお、現在の指定地は獄の一部分である。

幕末、吉田松陰は海外渡航に失敗したのち野山獄に、その従者・金子重之助 ( 重輔 ) 岩倉獄に投ぜられた。
(案内板より)

〇 岩倉獄
岩倉獄(いわくらごく)は、江戸時代長州藩によってに設けられた獄屋敷である。

概要
長州藩には士分武士階級)の者を収容する上牢である野山獄と、士分以外の者を収容する下牢である岩倉獄が設けられた。

長州藩の大組藩士であった野山六右衛門の屋敷と、同じく大組藩士であった岩倉孫兵衛の屋敷は道路を隔てて向かい合わせであった。正保2年(1645年)9月17日の夜、岩倉孫兵衛が酒に酔って野山六右衛門の屋敷に押し入り、家族を殺傷する事件を起こした。この時、岩倉孫兵衛は野山宅に幽閉され、のちに斬首の刑に処された。しかし、喧嘩両成敗により両家は取りつぶしとなり、屋敷が没収され、後に屋敷跡は牢獄に建て替えられた。

切り込んだ岩倉家側に非があるとして、岩倉獄は下牢とされた。野山獄とは異なり環境が劣悪で、着物や食べ物が満足に与えられなかったため、吉田松陰と共に黒船で密航を企てた金子重之輔は岩倉獄で病死している。

現在は史跡として整備され、重輔絶命の詩碑と松陰が重輔に与えた詩碑が建てられている。

関連項目
萩市観光協会公式サイト 岩倉獄跡       
(wikiより)


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山縣 周南(やまがた しゅうなん、貞享4年(1687年) - 宝暦2年8月12日1752年9月19日))は、江戸時代中期の儒学者荻生徂徠の高弟であり、長州藩藩校明倫館の二代目学頭。漢詩、国史に精通し、教育者としても名声を博した。

名は孝孺(こうじゅ)。周南と号する。字は次公、少介。徂徠学派は中国風に名乗る風習があり縣次公、縣孝孺などと称した。

生涯
周防国の南方、右田鈴屋村(現山口県防府市)に山縣良斎の次男として生まれる。号の周南はこの生地にちなむ。父、良斎は毛利家一門毛利就信に仕える儒者。父の教育は厳しく、高楼上で学問をさせられ、必要が無ければ降ろしてもらえなかった。

8歳の時、父良斎の転勤に伴い萩へ移住。19歳で江戸へ遊学し荻生徂徠の門を叩く。3年で卒業し萩へ帰るが、以後江戸出張の際や書簡において頻繁に徂徠の薫陶を受ける。

26歳の時、朝鮮通信使が赤間関に来訪。長州藩の学者として朝鮮の学者と詩文の応酬を行う。詩才を高く評価され、朝鮮通信使正使に特別に接見を許される。この出来事が周南と、徂徠学派の文名を世に知らしめる一因となった。

31歳、藩主侍講となり、藩主に従い度々萩と江戸を往復する。また、藩校明倫館開学にあたって館の儀式・学規等を制定する。明倫館の初代学頭小倉尚斎没後は、二代目学頭に就任。学者、医者、官吏など多くの人材を育成した。また藩要人も多く門下にあり、藩政にも関与した。

59歳頃川魚を食べて体を壊し病に伏せるようになる。自身の文業について服部南郭に後事を託した後、66歳で没した。萩の保福寺(山口県萩市北古萩)に葬られる。

行状によると温厚な性格であったという。川遊びを好み、江戸で徂徠や南郭ら大勢の蘐園一門を招いて川遊びを挙行した。また没する直前、やや病が回復した際にも京都で川遊びを行っている。

大正4年(1915年)、従四位を追贈された[1]

学統
徂徠が未だ名を成さない頃から従った愛弟子であり、長州藩に、また西日本に徂徠学(古文辞学)を普及させる一大要因となった。末流といえる広瀬淡窓の儒林評では格別に古文辞を固守するようなところは無いとされ、彼自身仁斎学にも共感を示し、伊藤東涯と度々交渉を持つなど開けた学問交流を行っていた。ただし、日野龍夫によれば、その詩文の作風については古文辞風という以外に格別の特徴はないという。

また、京都の古医方派と親しく、香川修庵山脇東洋吉益東洞などの医師と交流が深かったことも特筆される。

著作
・『周南文集』 明倫館の設立次第を記した「長門国明倫館記」や周南先生行状等多くの詩文を載せる。なお、周南文集の稿本が存在し、周南続稿とも異なる周南の文章が収録されている。
・『為学初問』 小論文集。
・『作文初問』 明古文辞派の主張をその中心とする漢文手引書。
・『講学日記』 学問上の覚え書きを収録したもの。
・『宣室夜話』 周南の作ではないという説がある
・『周南続稿』 「周南文集」に収録された詩文数十編と、外に未収録の詩文を収録。 
・『周南先生医談』
・『江氏家譜』 藩命によって編纂した毛利家の系譜。

脚注
1. 田尻佐 編『贈位諸賢伝 増補版 上』(近藤出版社、1975年)特旨贈位年表 p.35

参考文献 
・河村一郎『長州藩徂徠学』私家版
・藤井明・久富木成大『山井崑崙 山県周南』明徳出版社

(wikiより)

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時代江戸時代末期(幕末
生誕天保9年(1838年
死没元治元年6月6日1864年7月9日
別名諱:律義(のりよし)、号:寒翠・寒緑
官位従四位
幕府江戸幕府
長州藩

杉山 松助(すぎやま まつすけ)は、幕末長州藩士。諱は律義(のりよし)。名は松介とも。

略伝
安政5年(1858年)の吉田松陰による間部詮勝天誅計画をはじめとした過激な尊皇攘夷運動に参加。文久2年(1862年)には京都に赴き、久坂玄瑞らと共に活動を続ける。藩主より功績が認められて藩士の身分を許された。

元治元年6月5日、池田屋事件に遭遇。脱出して深手を負いながらも長州藩邸に辿り着いて危険を知らせたが、重傷だったため助からず、翌日死亡した。享年27。明治24年(1891年)、従四位を贈られる[1]

脚注
1. 
田尻佐 編『贈位諸賢伝 増補版 上』(近藤出版社、1975年)特旨贈位年表 p.6
(wikiより)

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時代江戸時代末期
生誕文政2年5月1日1819年6月22日
死没文久3年2月6日1863年3月24日
別名雅楽、与之助、与左衛門、隼人、右近
戒名庸軒誠義英剣居士
墓所海潮寺山口県萩市
主君毛利敬親
長州藩
氏族大江姓長井氏
父母父:長井泰憲 母:福原利茂の女
貞子

長井 雅楽(ながい うた、文政2年5月1日1819年6月22日〉 - 文久3年2月6日1863年3月24日〉)は、日本江戸時代末期(幕末)の長州藩士。役職は直目付。一般的な呼び名である雅楽は通称で、時庸(ときつね)。

長井家は主家毛利家の庶流安芸福原氏の一族で、毛利家と同じく大江広元が祖先にあたり、毛利家家臣団の中でも名門であった。

略歴
萩藩士大組士中老・長井次郎右衛門泰憲の長男として生まれた。文政5年(1822年)、4歳の時に父が病死したため、家督を継いだが、このとき幼少のためということで家禄を半分に減らされた。その後、藩校明倫館で学び、時の藩主・毛利敬親の小姓、奥番頭となった。敬親から厚い信任を受け、敬親の世子である毛利定広の後見人にもなった。そして安政5年(1858年)、長州藩の重役である直目付となる。

当初から雅楽は開国論者であったため、文久元年(1861年)に公武一和に基づいた『航海遠略策』を藩主に建白し、これが藩論となされた[1]。その後、朝廷や幕府の公武合体派にこれを歓迎され、11月には藩主・敬親と共に江戸に入り老中・久世広周安藤信正と会見。翌月に正式に同策を建白して公武の周旋を依頼された。しかし、藩内の吉田松陰とその門下生が主流である尊皇攘夷派とは対立関係にあり、井伊直弼安政の大獄で松陰が捕縛され、後の江戸護送に対しても強硬な対抗策を取らなかったため、後に松陰の弟子である久坂玄瑞前原一誠らに暗殺を計画される。当時の藩の事情を考慮すれば長井のとった方針はごく自然なものであり、また松陰が江戸に護送された際には様々にその処遇について気を使っていた側面もうかがえる。

文久2年(1862年)、幕府で公武合体を進めていた安藤や久世らが坂下門外の変で失脚すると藩内で攘夷派が勢力を盛り返し、長井の排斥運動が激しくなった。同年3月、再度入京したが、この頃には尊攘激派の台頭が著しく、岩倉具視や久坂らの朝廷工作もあり、長井の説は朝廷を誹謗するものとして聞き入れられず、敬親により帰国謹慎を命じられた。同年6月に免職され、帰国。翌、文久3年(1863年)、雅楽は長州藩の責任を全て取る形で切腹を命じられた。長井本人もこの措置には納得しておらず、また長井を支持する藩士はいまだ多くいたが、藩論が二分され、内乱が起きることを憂いて切腹を受け入れ、同年2月、萩城下、土原(ひじはら)の自邸にて、検視役正使国司親相の下に切腹した。享年45(満43才没)。長女・貞子は後に富岡製糸場で勤務した。

高杉晋作の父・高杉小忠太とは長年世子付の同役を務めた友人同士であった。切腹の前日、小忠太へ身の潔白を訴え遺児の庇護を依頼する長文の手紙を出し、末尾に「ぬれ衣のかかるうき身は数ならで唯思はるる国の行く末」と辞世の歌を残している。

辞世の句
・今さらに何をか言わむ代々を経し君の恵みにむくふ身なれば
・君がため捨つる命は惜しからで ただ思はるる国のゆくすえ
・君恩に報いんとして業いまだ央ならず 自羞す四十五年の狂 即今成仏は予が意に非らず 願わくは天魔を帥いて国光を輔けん

評価
野村靖 「長井雅楽は敵ながらも天晴れな男で、風采は坂東彦三郎そっくりで、弁舌は今の金子堅太郎を一層調子強くしたものだ」[2]   


演じた俳優
テレビドラマ
・『天皇の世紀』(1971年、ABCテレビ・国際放映、演:小栗一也
・『花神』(1977年、NHK大河ドラマ、演:渥美国泰
・『奇兵隊』(1989年、日本テレビ年末時代劇スペシャル、演:渥美国泰
・『花燃ゆ』(2015年、NHK大河ドラマ、演:羽場裕一


脚注
注釈
出典
1. 村上一郎 『草莽論』ちくま学芸文庫、2018年、P.273頁。
2. 『実録維新十傑 第十巻』

外部リンク
長井氏
毛利福原氏
国立国会図書館 憲政資料室 長井雅楽関係文書(MF:個人蔵)    
(wikiより)


236 長井雅楽


長井雅楽

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渡辺 内蔵太(わたなべ くらた、天保7年2月3日1836年3月19日) - 元治元年12月19日1865年1月16日))は、江戸時代末期(幕末)の萩藩士。長嶺内蔵太(ながみね くらた)とも。甲子殉難十一烈士の一人。

1862年御楯組結成に参加。

その後、山田亦介前田孫右衛門毛利登人松島剛蔵大和弥八郎楢崎弥八郎らと共に斬罪に処される。
(wikiより)

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時代江戸時代末期(幕末
生誕天保14年(1843年1月
死没文久3年10月14日1863年11月24日
別名別名:南八郎
墓所兵庫県朝来市山口護国神社
山口県萩市長寿寺
下関市櫻山神社
官位従四位
幕府江戸幕府
長州藩
父母父:河上繁完

河上 弥市(かわかみ やいち)は、幕末の長州藩士。河上繁完の子。

人物
高杉晋作が中心となって立ち上げた奇兵隊の第2代総監を務めた。

討幕の先駆けとなり、七卿落ちの公家である沢宣嘉を主将に奉じ、幕府直轄地生野銀山のある生野代官所を占拠するため、但馬国平野国臣多田弥太郎、美玉三平、北垣晋太郎進藤俊三郎らと挙兵するが、生野の変で敗死した。享年21。

生野の変は、土佐藩出身の吉村虎太郎を中心に挙兵した天誅組の変に呼応した挙兵であった。

明治24年(1891年)、従四位を追贈された[1]

辞世の句
「奉献 議論より実を行へ、なまけ武士、 国の大事を余所に見る馬鹿、皇国草莽臣 南八郎」
(南八郎は河上弥市の別名)


高杉は、吉村寅太郎と河上の死を知り、「私の知り合いは世に数多くいるが、私の心を知るものは吉村虎太郎と河上弥市のみだ」と悼んだという。

「予、知己天下に多し、而して能く我心を知る者は、土州の吉村寅太郎、我藩の河上弥市也、弥市節に但馬に死し、寅太郎節に大和に死す。二士之名頗る近時に冠たり、而して寅太郎は張巡に類し、弥市は霽雲 に類す。然して、二士之節義は固より巡雲の及ぶ所に非ざる也。」
(東行遺稿。東行とは高杉のこと)

墓所
河上ら十三士は、兵庫県朝来市山口にある山口護国神社に、幕末以降の戦役での戦没者とともに祀られている。また、高杉晋作の発議により建立された櫻山神社に、吉田松陰や晋作らと共に祀られている。

親族
再従弟の山田顕義は、萩市にある河上弥市碑の文を書いている。山田は河上弥市最期の地となった朝来市山口の妙見山麓に建立された忠魂碑に参ったのち、生野銀山を視察中に卒倒し、そのまま没した。

弥市亡き後、顕義の弟の繁栄が、弥市の妹の梅子と結婚し、河上家の名跡を継いだ。一方、のちに顕義の跡を繁栄の子の久雄が、さらにその跡を繁栄自身が継いだ。その他の一族・親類に、村田清風(大伯父)、山田亦介(父の従兄弟)らがいる。

脚注
1.田尻佐 編『贈位諸賢伝 増補版 上』(近藤出版社、1975年)特旨贈位年表 p.6

関連項目
奇兵隊#長州奇兵隊      

関連作品
秋山香乃『晋作 蒼き烈日』(日本放送出版協会

外部リンク
・萩市 萩博物館 『萩の維新関係碑文拓本集 「河上弥市碑」
・朝来市 『明治維新の魁 生野義挙
『東行先生遺文』(高杉晋作)大正期 - ウィンベル教育研究所
日本大学 日本大学の歴史『日大を作った先人たち 「学祖 山田顕義」』    
萩の人物データベース 河上弥市     
(wikiより)


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時代江戸時代末期(幕末
生誕天保8年4月5日1837年5月9日
死没元治元年7月19日1864年8月20日
別名:弘致、弘毅、通称:万吉、杉蔵、:子遠、変名:河島小太郎
戒名精節軒弘致子遠居士
墓所上善寺京都府京都市北区
長寿寺山口県萩市
官位正四位
長州藩
氏族入江氏
父母父:入江嘉伝次、母:満智(村上与三右衛門の長女)
兄弟九一野村靖伊藤すみ子伊藤博文の最初の妻)
粂(堀音右衛門の娘)
養子:音次郎貫一

入江 九一(いりえ くいち)は、日本武士長州藩士)。別名は河島小太郎

生涯
天保8年(1837年4月5日、長州藩の足軽である入江嘉伝次・満智(村上与三右衛門の長女)夫妻の長男として生まれた。弟に野村靖(和作)、妹に伊藤すみ子伊藤博文の最初の妻)がいる。妻は九一の父の同僚である堀音右衛門の娘・粂。

松下村塾
安政3年(1856年)に父が死去し、家督を継いだ。安政4年(1857年)に弟の和作が吉田松陰松下村塾に入塾するが、九一は家計を支えるべき立場であるため通う暇を作れず、安政5年(1858年)になって遅れて入門した。同年12月に松陰は再投獄されるため、実際に学んだのは1ヶ月程度に過ぎないが、松陰から高く評価され久坂玄瑞高杉晋作吉田稔麿と並んで松門四天王の一人に数えられた。

同年、師匠の松陰が江戸幕府の無勅許による日米修好通商条約締結に激怒し倒幕を表明して老中間部詮勝暗殺計画を企んだ。この時、高杉・久坂・稔麿らは猛反対したが、九一・和作兄弟だけは賛成し計画に加担。その際に松陰から「久坂君たちは優秀だが、度胸が無い。しかし君だけは国のために死ねる男児である」と高く評価されている。そのため、後に松陰が安政の大獄で処刑された後も、九一は師匠の遺志を受け継いで間部詮勝暗殺計画を実行に移そうとしている。

同年、伏見にて藩主を拉致して朝廷に誘導し、強引に攘夷を宣言させるという奇策「伏見要駕策」を獄中で思いついた松陰は、無謀な策に反対する久坂玄瑞、高杉晋作ら殆どの門下生に破門状を出し、入江兄弟に実行の指示を出すが、藩に察知されて弟と共に岩倉獄に投獄された。これにより入江家は困窮し、九一は獄中で内職を行って家計を助けた。

奇兵隊と禁門の変
松陰の処刑から半年後、兄弟も万延元年(1860年)に釈放され、文久3年(1863年)には吉田稔麿らと共に足軽から士分[1]に取り立てられたが、無給の士分という扱いであり、家計の苦しさに変化はなかった。京都尊皇攘夷のための活動を行なう一方で高杉の奇兵隊創設にも協力し、奇兵隊の参謀となった。同年の下関戦争には久坂の率いる光明寺党の一員として参加した。

元治元年(1864年7月19日禁門の変では久坂の率いる浪人隊の一員として天王山に布陣し、御所攻撃に参加したが敗れて久坂は自刃。久坂に藩主世子への伝言を頼まれた九一は何とか脱出しようと図ったが、塀を越えたところで越前兵の槍を顔面に受けて死亡。享年28。

首級は福井藩士が松平春嶽に許可を得、同様の戦死者8名と共に福井藩の京の菩提寺である上善寺に手厚く葬られた。その後長らく長州藩側に忘れられていたが、旧福井藩士が毛利家に連絡した事をきっかけに、明治30年代に碑石が修築された。

死後
後に木戸孝允大村益次郎たちによって[要出典]長州藩内の桜山招魂場(現在の桜山神社下関市上新地町)・朝日山招魂場(現在の朝日山護国神社山口市秋穂二島)、京都霊山護国神社東京招魂社(後の靖国神社)に護国の英霊として祀られている。山口県萩市「長寿寺」にも入江家の父母、妻の粂らと共に墓碑がある。九一の没後、妻の弟の音次郎を養嫡子にしたが、アメリカへ官費留学した翌年の明治6年(1873年)に病で客死したため、九一の弟・野村靖の次男である貫一を明治13年(1880年)に養子に迎え入江家を継がせた[2]ニュージャージー州ニューブランズウィックウィロー・グローブ墓地には、幕末に同地のラトガース大学で学び、同地にて客死した日下部太郎の墓があり、それと並んで入江音次郎の墓碑がある(墓碑では1874年、19歳没)[3]。日下部家は旧福井藩士である。

明治24年(1891年)に正四位を贈られた。家紋は丸に並び鷹の羽。

著作
・「伝言録」
・「入江子遠遺稿」

脚注
1. 武士の身分。長州藩制では足軽と士分には明確な身分差があった。
2.
家系図九一会
3. 
Changing our World for the BetterWHEEL OF DHARMA, Buddhist Churches of America, AUGUST 2010

関連作品
テレビドラマ
・『花神』(1977年NHK大河ドラマ)演:今村民路    
・『奇兵隊』 (1989年日本テレビ年末時代劇スペシャル、 演:岡野進一郎)
・『花燃ゆ』(2015年NHK大河ドラマ、演:要潤
(wikiより)

233 入江九一

入江九一

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⇧ 中央の墓石が入江九一 その左が夫人の墓。

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歌碑)「家ごとに池を構えて水を引き朝夕清き藍場川流る 八郎」と刻されています。

竹内八郎先生は、1899年 7月萩浜崎待ちに出生。

萩中を経て、1923年同志社大学法学部卒業。

間もなく萩商業学校に奉職し、1955年教頭として同校を辞任されるまで実に 30年間、郷土の後進育成に専念された。

此の間、大東亜戦には陸軍歩兵注意として中国の山野に転戦された。

歌人としての先生は、県主催の短歌会は勿論、県内内外の歌会の選者として活躍、一方短歌誌の発展にも尽粋され、就中 1954年以降「あらつち主管としての活躍は特筆すべきである。

先生は少年時代から作歌されたが、本格的な研鑚は、1918年覇王樹入会、橋田東声、臼井大翼両氏の指導に始まり、多くの優れた作をものされた。

歌集「樹空」の上■は 1968年である。
(石碑文より)

 ■は判読不可。

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竹内八郎

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明治維新後、3回にわたって内閣総理大臣を務めた桂 太郎の旧宅。

桂 太郎は、萩藩士・桂 與一右衛門の長男として、萩城下・平安古に生まれ、3歳の時に川島に移り住みました。

この旧宅は、明治 42年 ( 1909 ) に新築したもので、主屋は派手さを抑え、規模も比較的小さなもので、藍場川沿いの生活を穏やかに楽しむために造られています。

藍場川の水を引き込んだ流水式池泉庭園内には桂太郎公銅像が建っています。

また、縁側には水琴窟(すいきんくつ)があり、澄んだ音色を楽しむことができます。

ここにはガイドが常駐し、施設の説明を行っています。 

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勤王。 

行年 28歳。

没年 元治 2年 1月 6日。

戒名 : 自光軒義山稲彦居士。

奇兵隊小隊司令となり絵堂にて戦死す。

別名 正臣。
(案内板より)

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儒者。 

行年 72歳。

行年 明治 25年 8月 23日。

戒名 : 一貫斎文藻道哲居士。

大組士。

64石。

市川仁五衛門の養子。実は平佐二蔵の子。

維新後、川島に私塾 ( 新選塾 ) を開きのち、新堀小学、椿町小学校の校長を務める。
(案内板より)

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儒者。

行年 48歳。

没年 天明 6年 9月 4日。

戒名 : 玉山季有居士。

藩士。

実は山県周南の第五子。

儒学に造詣深く藩の典故に詳し、藩の史局の長となる。
(案内板より)

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医師。 

行年 66歳。

没年 昭和12年 12月 5日。

戒名 : 清廉院東陽自適居士。

京都、萩にて開業の最初の歯科医師 ( 東田町 ) のち朝鮮京城に赴き、京都にて病没。 楢崎家分家。
(案内板より)  

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従四位勲三等功四級。

軍人。

行年 63歳。

没年 昭和 10年 11月 24日。

戒名 : 諦観院殿義山誠道大居士。

平安古。陸軍少将。謙道の子。
(案内板より)

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志士。 

行年 27歳。

没年 明治 9年 12月 3日。

戒名 : 雲凌院英岩俊彦居士。

大組士。 87石余。

横山彦七の養子、実は三戸市之亟の二男。前名 新之亟。

明治 9年、萩の大区長となり、前原一誠等反乱首謀者の一人として獄中にて斬首される。
(案内板より)

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贈正四位。 

志士。

行年 元治元年 12月 19日。

戒名 : 節庵清義居士。

大組士。

源次郎の嫡子。

文久 3年 9月 政務役となり、国事に奔走し禁門の変後、俗論派政府のため野山獄に投ぜられ、獄中にて斬刑に処せらる。
(案内板より)

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画家。 

行年 49歳。

没年 安政 8年 11月 5日。

戒名 : 雲山緑水居士。

大組士。53石。

林百非および田村竹田に学び南画家として聞ゆ。
(案内板より)

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画家。 

行年 73歳。

没年 安永 3年 7月 17日。

戒名 : 雲谷庵声応等琳大徳。

絵師。 雪舟流、等直の妹驚、中島小兵衛利茂の三男。初名 弥八。

原景光、雲谷等直より画業をゆずり受く。
(案内板より)

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政治家。 

行年 65歳。

没年 明治 33年 2月 9日。

戒名 : 顯光院泉水峰自澄居士。

江向、境翁介の養子。実は、斎藤謙蔵の二男、前名 栄蔵

吉田松陰および塩谷右陰に学び長府藩主の侍講となる。

廃藩後、島根県令。

明治 16年帰省してはじめて松下村塾の保存を提唱す。
(案内板より)

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歌人。

行年 72歳。

没年 明治 19年 12月 3日。

戒名 : 月渓院久清爽秋居士。

大組士。43石5斗。

維新後、宮内省内膳少司令となる。
(案内板より)

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画家。 

行年 47歳。

没年 大正 15年 4月 23日。

戒名 : 太鼓堂天倫西湖居士。

日本画家、田総百山、山元春挙に学ぶ、花鳥及び人物に長ず。

萩町公会堂に虎の襖絵を揮毫す。萩にて病没。
(案内板より)

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