本牧jack『意外と身近にある歴史散歩』日々是好日 心灯 頬笑

本牧Jackで御座います
小生の拙ブログ『意外と身近にある歴史散歩』日々是好日 心灯 頬笑に御訪問頂き誠に有難う御座います。
歴史ドラマが流行っている昨今、身近に有って気が付かなかったりする様な物を取り上げたりしています。
たまに『 大人数で取材しているのか? 』との質問を戴きますが、小生と相方の二人三脚で御座います。
出来るだけ続けたいと思っていますが 膝・耳に問題が有って、いつまで出来るやら・・・説明も、やたら長いものから あっさりしたものまで有りますが、御付き合いの程 宜しく御願い致します。
御注意 . 少ないですが生前に建てられた『 生前墓 』の記事も有ります。 ※ 申し訳御座いませんが「画像の転用」は禁止とさせて頂きます。 コメントは原則公開させていただいております 質問等に対してはブログ記事で返信させていただきます 他の方法で連絡を取り合う等一切しません 場合によっては、「IPブロック」しますがブロックした場合解除する事は有りませんので宜しくお願いします。

2024/04

JR佐原駅からも そう遠くない場所にあります

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⇧ 店外観

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⇧ 店内観

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⇧ メニュー

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⇧ かつ丼

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⇧ 香の物

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⇧ 味噌汁

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⇧ 天丼



佐原 : 桶松食堂 ( 食べログ )





別名指月城
城郭構造梯郭式平山城(指月山)
天守構造複合式望楼型5層5階(1608年築・非現存)
築城主毛利輝元
築城年慶長9年(1604年
主な城主毛利氏
廃城年明治7年(1874年
遺構長屋石垣
指定文化財国の重要文化財(厚狭毛利家長屋)
国の史跡
再建造物北の総門・土塀・土橋
位置北緯34度25分3.33秒 東経131度22分56.92秒
地図
萩城の位置(山口県内)

萩城
(はぎじょう)は、山口県萩市にあった日本の城である。別名・指月城(しづきじょう)。城跡は国の史跡に指定されている。

概要
関ヶ原の戦いに西軍の総大将に就いたことにより周防国長門国の2ヶ国に減封された毛利氏が、広島城に代わる新たな居城として慶長9年(1604年)に築いた城。完工は慶長13年(1608年)だが、築城者である毛利輝元[1]は、慶長9年12月に未完成のまま入城していた。

指月山の山麓にある平城本丸二の丸三の丸)と山頂にある山城(詰丸)で構成されている。本丸の御殿は藩主居館と政庁を兼ねており、250年余りの間、長州藩(萩藩)の拠点であったが、明治7年(1874年)前年に発布された廃城令によりなど他の建物と共に破却され、石垣(水堀)のみが現存している。現存していた頃の姿は解体前に撮影された古写真[2]で見ることができる。現在、二の丸土塀や三の丸総門など一部は復元されている。さらには、破却された天守など建物の復元を行う動きもあるが、財源の問題で難しくなっている。

現在、城跡は指月公園(しづきこうえん)として整備され、二の丸入口近くに旧厚狭毛利家萩屋敷長屋(重要文化財)が現存し、松下村塾や侍屋敷などとともに萩市の観光名所となっている。萩市の観光の中でも有名である。

歴史・沿革
戦国時代
戦国時代、指月山に津和野城主・吉見氏が出城を構え、のちに吉見正頼の隠棲所となった。
1600年慶長5年)、関ヶ原の戦いで西軍総大将となった毛利輝元は安芸国ほか8か国で112万石の大大名であったが、敗戦により隠居のうえ嫡男の秀就に家督を譲るように命じられ、2か国29万8千石[3]余に減封された。

江戸時代
1603年(慶長8年)幼少の秀就に代わり、輝元は後見役として萩・山口三田尻防府市)の3ヵ所を城地の候補とし、幕府に裁可を求めた。これに対し幕府は、海に臨み要害の地である萩が良いとの回答をしている。
1604年(慶長9年)萩城建造に着手。指月山に連なる干潟を埋め立て、城地を建造した。輝元は、本丸御殿などまだ一部しか出来ていなかった11月に、早々に入城した。
1608年(慶長13年)落成。平時に建設された城ではあるが、指月山に詰の丸を配するなど、戦時を意識した構えとなっている。
1613年(慶長18年)、幕閣とも協議のうえ36万9千石に高直し、幕府は長州藩の表高として公認した。この石高は支藩の分与後も変わることはなかった。
1863年文久3年)時の藩主・毛利敬親は幕府に無許可で藩庁を山口城(山口市)に移し、萩城は藩庁としての役目を終えた(山口移鎮)。

近現代
・1874年(明治7年)廃城令により天守・櫓などの建物を破却。
1951年(昭和26年)国の史跡に指定される。
1967年(昭和42年)萩城下町が国の史跡に指定される。
1971年(昭和46年)指月山が国の天然記念物に指定される。
1996年 - 堀や石垣・門の復元・保存を行う「史跡萩城跡外堀保存整備事業」を開始。
2004年 - 「史跡萩城跡外堀保存整備事業」によって北の総門が復元される。
2006年平成18年)4月6日、日本100名城(75番)に選定された。
2011年3月29日 - 1996年から行われていた「史跡萩城跡外堀保存整備事業」が終了。堀や石垣の復元整備や北の総門復元などが行われた[4]
2015年7月5日 - ユネスコ世界遺産に「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業」の1つとして登録される。

構造
城の位置と構成
毛利輝元は、萩・山口・防府の3ヵ所を築城候補地とし、最終には幕府の指示で萩に決定した[5]。一般的には、これは外様大名の雄である毛利氏山陰の僻遠地に押し込める意図が幕府にあり、毛利氏の本命候補地は山口であったとも言われている[6]。しかし、幕末に山口移鎮を行った毛利敬親は、萩城は他大名と戦う場所としては優れた「形勝之地」と表現するなど先祖代々の重要な場所と認識しており、萩への築城は毛利氏の不本意だったという見方には根拠が無いとする見解もある[6]

三角州に築城されたため、三方を海に囲まれている。日本海に張り出した指月山山頂の詰丸(要害とも呼ばれる)と、その山麓に梯郭式(曲輪#縄張と主要な曲輪を参照)に本丸・二の丸・三の丸を配し3重の堀を巡らした平山城であった。吉田郡山城などの中世山城に見られる"山麓の館と山頂の砦"という形態を近世の最新築城術で再現したような城で、広島城を失った毛利輝元が背水の陣で築いた城として、輝元の築城理念が最もよく示されているとされる[7][5]。厳密には、山頂の詰丸も本丸と二の丸で構成されており、山麓の城とは独立したものであるため、平山城ではなく平城と山城であるとする見解がある。また、海に突出しているため、海城であるという見方もある[8]

本丸
指月山を背後にした本丸御殿を中心に、南西部に天守を、南東部と北東部の隅に着見櫓と井上櫓)[9]を配した曲輪。広さは東西約200メートル・南北約145メートルに及ぶ。正面となる南側には本丸門(内側の渡櫓門と外側の高麗門で構成される内枡形の虎口)と極楽橋(現在は土橋だが往時は木橋)を設け、二の丸との間には幅20(約40メートル)の内堀・石垣を巡らせていた。明治12年(1872年)に豊榮神社・野田神社を分社した志都岐山神社が建てられたほか、明治20年(1887年)には藩主別邸の花江御殿から茶室・花江茶亭[10]も移築された。現在では指月公園(要入場料)を成しており、その他の旧跡として梨羽家茶室[11]、旧福原家書院、万歳橋などがある。
本丸の櫓[12]:井上櫓・着見櫓・天守

天守
萩城の天守は5層5階の複合式望楼型(天守の北側には付櫓を接続した複合式の縄張りと2層2階の入母屋造の基部に3層3階の望楼を載せた構造)で、高さは約21メートルであった。外壁は白漆喰の総塗籠で、窓は銅板を貼った突き上げ戸を備える。明和5年(1768年)の修理では赤瓦に葺きかえられた。また、高さ6間、約11メートルの天守台は、非常に勾配の緩やかなから上にいくに従って急勾配に立ち上がっている。これは、城の築かれた土地である三角州の地盤の強度を補うため、底面を広げることで荷重を分散させる工夫である。

指月山山麓の本丸南西部に据えられた天守は、城外(城下町)からは見えなかったため、安土桃山時代以降の多くの近代城郭が持っていたとされる城主(藩主)の支配力を誇示するという役割は期待できなかったと思われる[5]

各階
東西は桁行、南北は梁間。「間」は柱割であり寸法ではない。重数は「御天守之図」記載の名称。括弧内は「萩城絵図」記載の名称。

付櫓(天守戸前と天守附添之長屋)
付櫓は、「天守戸前」と「天守附添之長屋」に分かれていた。戸前の北西に附添之長屋が付属する構造が「御天守之図」に描かれている。平櫓であるが、内部には中二階があり、天守台下に当たる付櫓1階から中二階を経て天守に入る構造となっていた。

初重(天守下段)
東西11間、南北9間。「萩城絵図」によれば坪数99坪とある。
天守台から外に半間ほど張り出している張出構造で、張出し部の床下は石落としに利用された。
身舎には6部屋あったが、無目の敷居が敷かれるのみであった。

弐重(天守弐階)
東西10間、南北8間。
構造、仕様は初重とほぼ同じである。

三重(天守三階)
東西6間、南北5間。東西面に2間×3間の小屋の間、南北面に4間×1間の入母屋破風出窓の張り出しがある。
身舎には薄縁の畳が敷かれ、南側に床の間と上段があり、建具は障子とはめ殺しの格子が建てられていた。

四重(天守四階)
東西6間、南北5間。南北面に2間×1間半の小屋の間(入母屋破風出窓の上)がある。
構造は三重目とほぼ同じであるが、床の間や上段などはない。

五重(天守五階)
東西3間、南北3間。ただし、南北は19尺5寸、東西は22尺5寸である。
外廻縁高欄をつけ、南北面に中央開口部の両脇に2つずつ、東西面中央に1つずつの花頭窓型の出入り口(花頭口)があった。

二の丸
本丸と指月山を囲むように造られた曲輪。12基の櫓、34の井戸、蔵元役所、寺社(真言宗満願寺[13]臨済宗妙玖寺[14]など)、6代藩主毛利宗広により東園と名付けられた回遊式庭園[15]などがあった。南側と東側にそれぞれ内枡形虎口城門があり、大手門である南門は虎口内部に突き出た石垣を設けて「コ」の字型とする構造となっており、東門は外門(高麗門)・内門(渡櫓門)に加えて2つの櫓(三重の東櫓・二重の時打櫓)が設けられていた。また、菊ヶ浜の方に面した東側には渡櫓門式の潮入門やいくつかの埋門があった。いずれもの門も石垣のみが現存し、豪雨被害の修復は行われたが復元はされていない。ただし、潮入門の南側には四角い銃眼のある土塀(二の丸土塀)が昭和40年(1965年)に復元されている。地続きとなっている二の丸南側は幅16間(約32メートル)の中堀で囲まれていたが、大正15年(1926年)に指月川(橋本川の水を迂回させて水害を防止するために造られた萩疎水で中堀とは無関係。)が造られた時に埋め立てられている。
・二の丸の櫓[12]:北櫓・満願寺櫓(三摩寺院櫓)・荒川櫓・紙櫓・華櫓・東櫓・時打櫓・塩櫓・青海櫓(青見櫓)・八間櫓・岡崎櫓・妙玖寺櫓。

三の丸
重臣の居住区となっていた曲輪。厚狭毛利家の萩屋敷[16]も建てられている。三の丸から城下町に出入りする総門は北・中・南の3つがあった。南は平安古の総門と呼ばれ、外堀に架けられた玄武岩製の石橋・平安橋が現存している[17]。また、平成16年(2004年)には北の総門が復元され、総門脇の土塁船着場・土塀付き土橋なども整備された[18]。一方、城内と城外を隔てる幅20間の外堀は、元和8年(1622年)に完成したとされる。しかし、東側の城下町の発展にともなって堀が埋められていき、元文4年(1739年)には幅8間(16メートル)になった[19]。現在では、外堀より内側(萩城側)の地区が堀内と呼ばれており、昭和51年(1976年)に、堀内地区のうち約77ヘクタールが重要伝統的建造物群保存地区として選定されている(日本で最初に選定された7地区のうちの1つ)[20][21]
・三の丸の櫓益田家物見櫓[22]大野毛利家隅櫓[23]児玉家隅櫓。
・旧厚狭毛利家萩屋敷長屋:二の丸南門の近くにあり、約1万5500平方メートルにおよぶ敷地に庭園も備えていたとされる武家屋敷。明治維新後にほとんど解体されたため、現在では長屋のみが残っている。桁行51.5メートル・梁間5メートルの長屋は、萩に残る武家屋敷の中では最大のもの。昭和41年(1966年)に国の重要文化財に指定された。昭和43年(1968年)に解体修理が完了し、現在は萩城下町絵図や萩城復元模型などを展示する資料館となっている。

詰丸
指月山の山頂に設けられた詰めの城。城跡の案内板では「萩城要害跡」とも表記されている。石垣と土塀で囲まれた本格的な城郭で、東側の上段を本丸、西側の下段を二の丸として、石垣と塀で仕切られていた両者の間は棟門で繋がれていた。二の丸の南側に枡形虎口と櫓門による表門があり、本丸東側に裏門として埋門がある。詰丸には現存する建物はなく、天守があったという記録もないが、二の丸には海と陸を監視する番兵たち(平時でも6・7名が泊まり込んでいた)が詰める番所と居小屋が、本丸には藩主のための茶屋があったとされる。また、門櫓以外に7基の櫓が建てられていた。櫓には万が一籠城する時ために武器が備えられていた。なお、山頂には井戸がないので水溜があり、昭和40年に土塀の一部と共に復元整備された。石垣とする石を切り出した石切場も残されている。
・詰丸の櫓[12]:八間櫓・拾間櫓・北国櫓・辰巳櫓(小櫓)・大将櫓(大櫓)・瀬戸崎櫓・山中櫓[24]

くわしいことは「萩城ウィキペディア」をご覧ください。 ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%90%A9%E5%9F%8E

(wikiより)

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⇧⇩ 大きい木の切り株です。

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⇧ 携帯電話を置いてみました 大きさが分かり易いと思います。

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⇧ 萩城入り口です。

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⇧ 堀の向うに石垣が見えます。

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⇧ 入場料を払って入場します。

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⇧ 顔出し看板も有ります。

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⇧ 石垣に登れます。( 萩城天守閣跡 )

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⇧ 登るってみました。

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元々、浅草の料亭「福し満」の手土産として考案されて、好評だったのでお店を開いたそうです

ウチでも 30年以上「お使い物」として使っていますが、先様にも喜ばれています。

かりんとうというと「甘い」と思いがちですが、こちらのかりんとうは素材の味に、ほのかな甘みで飽きの来ない味です。

「江戸の三大かりんとう」
銀座・たちばな、浅草・小桜、ゆしま・花月、と言われています。

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⇧ 店外観

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⇧ ちなみに桜柄の包装紙は「和紙」でできていて、文庫本等のカバーにする人もいます。


小桜 浅草本店 ( 食べログ )







 大照院の毛利家墓所に詳細不明のお墓が有り それを撮影してきたのでupします。

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⇧⇩ 毛利家墓所入口

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以上 33基のお墓が有りました。


以前は行ったんですが 近頃はご無沙汰してます

呑んでると注文した酒を撮るの忘れたり、酒の名前を忘れたりですが宜しくお願いします。

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⇧⇩ 店外観

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⇧ お通し

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⇧ 角ハイボール

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⇧ つくねの唐揚げ

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⇧ 刺身3点盛り

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⇧ 焼き鳥

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⇧ 何かの酒

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⇧ 厚焼き玉子

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⇧ シメサバ

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⇧ 何かの酒

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⇧ 焼きそば

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⇧ 何かの酒

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⇧ また白髭橋をボチボチ行きます

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⇧ 店外観

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⇧ お通しのアジフライと、瓶ビール

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⇧ 何かの酒

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⇧ 牡蠣酢

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⇧ 刺身3点盛り

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⇧ 焼き鳥

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⇧⇩ 何かの酒 

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⇧ ハムカツサンド



向島 : かどや ( 食べログ )


















かどやさんにはチョコチョコ行ってたんですが 近頃は足が遠くなっちゃいました。

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⇧ 白髭橋を渡って

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⇧⇩ 店外観

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⇧ お通し

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⇧ 南部美人、春霞

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⇧ つくねの唐揚げ

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⇧ 山芋の磯部揚げ

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⇧ 刺身の3点盛り

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⇧ 朝日鷹

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⇧ ハムカツサンド

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⇧ 播州一献

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⇧ 焼きそば

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⇧ 天狗舞

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⇧ 桜橋をテクテクと歩き

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⇧⇩ 店外観

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⇧ お通し、中生ビール

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⇧ 銀鱈の刺身

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⇧ 定番の、つくねの唐揚げ

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⇧ 刺身3点盛り

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⇧ 焼き鳥

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⇧ 焼きそば

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⇧ 鳥焼き

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⇧ 獺祭

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⇧⇩ 白髭橋を渡り

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⇧⇩ 隅田川沿いをテクテクと

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⇧⇩ 店外観
きょうは待っている人が多い

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⇧ お通し

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⇧ 中生

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⇧ 小柱の刺身

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⇧ 焼き鳥

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⇧ 白子ポン酢

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⇧ 厚揚げ焼き

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⇧⇩ 何かの日本酒

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⇧ 角ハイボール

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⇧ 山芋の磯辺揚げ

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⇧ 焼きそば

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⇧ 何かの日本酒



向島 : かどや ( 食べログ )






時代江戸時代前期
生誕文禄4年10月18日[1]1595年11月19日
死没慶安4年1月5日1651年2月24日[2]
改名松寿丸[1]幼名[3])→秀就
別名藤七郎(通称[1][3]、秀成(秀就の初名とも)
諡号大照公[2]
戒名大照院殿前二州太守四品羽林次将月礀紹澄大居士[2]、大照院月礀紹澄[3]
墓所山口県萩市椿青海の大照院[2][3]
官位従四位下[2]右近衛権少将[2]
幕府江戸幕府
主君豊臣秀頼徳川家康秀忠家光家綱
長州藩
氏族毛利氏
父母父∶毛利輝元[4]
母∶清泰院[1]
兄弟秀就就隆[5]、竹姫[5]
喜佐姫[2]
松寿丸、和泉守、大吉丸、綱広、登佐姫、竹姫

毛利 秀就(もうり ひでなり)は、江戸時代前期の大名毛利氏15代当主。長州藩初代藩主。

毛利輝元の長男[3][4]。母は児玉元良の娘・清泰院(二の丸殿)[1]毛利就隆の兄[5]。正室は結城秀康の娘・喜佐姫徳川秀忠の養女・龍昌院)[2]。子に松寿丸[6]綱広(四男)[7]、登佐姫(越前松平光長正室)[2]、竹姫(鷹司房輔室)ほか[6]毛利元就の嫡曾孫にあたる。

生涯
幼年の当主
文禄4年(1595年10月18日毛利輝元の長男として、安芸広島城で生まれた(異説あり・後述[1][3]。幼名は松寿丸。

輝元は長く実子に恵まれなかったため、従弟の毛利秀元を養嗣子に迎えていたが、秀就が生まれると、秀元には別家を立てさせている。

慶長4年(1599年)、豊臣秀頼近侍となり、秀頼を烏帽子親として元服豊臣姓を与えられ、その偏諱を受けて、秀就と名乗った[3][注釈 1]

関ヶ原の戦い西軍が敗れると、毛利家は長門周防2か国29万8千石[注釈 2]に減封され、輝元に代わって秀就が形式的な当主となった。しかし、幼年のため、幕府からは輝元と共同での当主と見なされていたようである。また、輝元が法体のまま実質的な当主として君臨し続け、秀就との二頭体制が敷かれた[4][9]

慶長6年(1601年)、はじめて江戸に赴き、徳川家康と面会した[3]

慶長8年(1603年)、江戸外桜田に屋敷を拝領する[3]

慶長9年(1604年)、築城が始まった萩城に、築城者である輝元とともに入城した[注釈 3]

慶長13年(1608年)、大御所・家康の命によって、家康の次男・結城秀康の娘の喜佐姫正室に迎え[2]越前松平家の一門となり、松平長門守を称した[10]

慶長15年(1610年)、領内の新たな検地が行なわれ、53万9268石余を幕閣に申告したが、検地時に一揆が発生したこと、東軍に功績のあった隣国の広島藩主・福島正則とのつりあいなどを理由に、幕府は検地高の7割に相当する36万9千石を、毛利家の表高として公認した。この表高は幕末まで変わることはなかった。

慶長16年(1611年12月、江戸での証人としての勤めを終えて幕府から帰国を許され、初めて領国に入った。その際に、幕府より10万石の役儀を免ぜられ、小袖銀子などを拝領している[11]。これらの幕府の処置に対し、輝元は福原広俊への書状で感謝の意を漏らしている[12]

慶長18年(1613年1月、再び江戸に赴いて2代将軍徳川秀忠に謁見し、翌年まで桜田の毛利邸に滞在した[12]

大坂の陣
慶長19年(1614年10月11日、徳川家康が駿府を発して大坂城攻撃の途に上ると、同年10月18日に輝元の命を受けた神村元種が密かに下野小山藩主・本多正純と会見し、秀就の弟・就隆も出陣すべきかを協議した。その結果、就隆だけでなく輝元、秀就、秀元も出陣することで意見が一致したため、正純は10月24日に輝元へ出陣を要請した[13]。さらに秀忠が11月10日に伏見に到着すると、秀忠に従軍する酒井忠世土井利勝安藤重信は江戸にいる秀就と秀元に早々に西上するよう要請した[14]

11日、輝元はを発し、17日摂津国兵庫に着陣したが、病により家康から帰国許可を得て、秀就が到着し次第、帰国することとなった。家康の要請により、21日夕刻に輝元は秀就に対し、急遽西上することを督促した[15]

12月6日、秀就は秀元と共に大坂に到着して、茶臼山に布陣した家康や西宮の輝元と会見した後に、大坂へ布陣した。秀就は大坂冬の陣に参戦し、これが秀就の初陣となった[16]

同年12月19日、徳川方と豊臣方の間で講和が成立し、毛利家も大坂城のの埋め立て普請を手伝う事となったが、秀忠は青山忠俊板倉重宗を秀就のもとに派遣し、堀の埋め立ては急ぐよう通達。また、普請が終われば秀就の帰国が認められることとなった。

27日、秀就は毛利元倶毛利元景に秀忠からの通達を連絡し、翌28日には元倶と元景に黒印の法度を出し、堀の埋め立て普請助役に関する注意事項を伝えた。

慶長20年(1615年1月23日、堀の埋め立てが完了し、1月下旬には秀就も秀元と共に帰国した[17]

しかし、慶長20年(1615年)4月10日付けの本多正純の奉書4月17日に輝元と秀就宛てに届いた。内容は、徳川方と豊臣方が手切れとなった際には摂津国の兵庫、西宮、尼崎付近へ出陣する準備を命じるものであり、一方で、出陣命令を受けるまではもし家康が上洛したとしても国許で指示を待つようにというものであった。輝元と秀就は、奉書を受け取った17日に直ちに秀元を毛利軍の先鋒とし、宍戸元続、毛利元倶、毛利元宣毛利元鎮らを従軍させると決定した。

4月18日、家康が二条城に、21日に秀忠が伏見城に入ったことで本多正純は毛利家へ出陣を要請した。

4月28日、秀元が先鋒としてまず出陣し、5月4日に秀就は吉川広正や宍戸元続をはじめとする毛利の主力を率いて周防国三田尻を出航した。

5月10日、秀就は兵庫を経て西宮に着陣したが、既に5月8日に大坂城が陥落して大坂夏の陣は終戦しており、家康も二条城へと凱旋していた。そこで、伏見から秀就を出迎えた福原広俊の意見に従って、5月11日に伏見で本多正信に面会し、進退についての指示を求めた。

正信は早々に家康に謁見することを秀就に勧めたため、5月12日に毛利秀元と吉川広正を伴って二条城で家康に謁見し、大坂城攻撃に間に合わなかったことを謝罪した。しかし、家康はそもそも毛利へ出陣命令を出すことが遅れたことが原因であるとして不問としたため秀就は安堵し、伏見の毛利邸に暫く滞在した[18]

家康は秀就が遠国から急行した労を謝して、同年7月には暇を出し、秀就は直ちに毛利秀元や吉川広正をはじめとする毛利の全軍を率いて帰国した[19]

単独での政務
元和9年(1623年9月10日、秀就が江戸から帰国して萩城に入城すると、輝元から家督譲渡の儀式を行われ、正式に秀就へと家督が譲渡された[20][21]。これにより、秀就が単独で藩主を務めるも、藩政は後見人の秀元、益田元祥清水景治らが担当、秀就に権力はほとんどなかった。

寛永2年(1625年)、秀元が中心となって、一門を含めた家臣団の大幅な知行地の入れ替えを行った。知行地の入れ替えの例としては、毛利元倶が周防国熊毛郡三丘から佐波郡右田へ、毛利元景が周防国玖珂郡椙杜から長門国豊浦郡阿川へ、毛利元包が長門国豊浦郡阿川から周防国吉敷郡吉敷へ、福原元俊が周防国吉敷郡吉敷から長門国厚狭郡宇部へ、宍戸元匡が周防国佐波郡右田から熊毛郡三丘へ移動していることが挙げられる。また、家臣団の削減も行っており、元和8年(1622年)の分限帳と寛永4年(1627年)の分限帳を比較すると、約160人が減少している。しかし、これらの施策には秀元の思惑の影響が多大にあったことが指摘されており、例えば知行地の入れ替えでは秀元と懇意であった毛利元倶と毛利元包が防長両国の要衝である右田と吉敷に移動しているのに対して、秀元と折り合いの悪かった福原広俊の子である福原元俊は民家も少なく土地も痩せていた宇部への移動となっている。また、秀就と縁戚関係にあった児玉家が輝元の遺言を名目として突如暇を出されているが、これも児玉景唯が秀元と不仲であったことが関係しているとされる[22]

寛永3年(1626年)、大御所・秀忠、将軍・家光父子の上洛に付き従い、後水尾天皇の二条城行幸に供として加わり右近衛権少将に任ぜられた[3]

しかし、秀就は次第に秀元と対立し、寛永8年(1631年)に秀元が後見人を辞任してからは不和が深刻になる。寛永11年(1634年)に秀元が独立を画策したり、江戸城普請を拒否したりしたことから、事態を憂慮した幕府の仲裁で寛永13年(1636年)に秀元と和解し、対立は終息した[23][24]。秀元の後見人辞任後の寛永9年(1632年)は義兄弟の吉川広正が後見人となっているが、実際の藩政は重臣たちに任せているため、秀元の辞任で藩主を中心とした権力は確立したとされる[25]

慶安4年(1651年1月5日[2][3]、秀就は萩城において、57歳で死去した[2][3]。死後、跡を四男の綱広が継いだ。

出生について
前述の通り、通説では秀就は文禄4年(1595年)に広島城で生まれたとされているが、異説として天正19年(1591年)に長門厚東郡四ケ小野村(現在の山口県宇部市小野地区)で出生したとの説がある[26][27][28]。これは、布引敏雄が指摘しており、宇部市小野地区に残る古文書に「秀就は小野村で生まれた」との記述があることから小野郷土史懇話会の会員が調査したもので、厚東郡小野村の領主であった財満家の文書や伝承から、財満忠久就久父子の屋敷が出生地であると結論づけた。

この説によると、輝元の正室・南の大方を非常に恐れていた側室の二の丸殿は、懐妊が発覚すると秘密裏に財満家に匿われて、そのまま密かに出産したとされる[29]。また、出生後の処置について、小早川隆景に相談した記録も発見された(財満家文書)。財満屋敷跡がある同地には、秀就の誕生時に使われたという「産湯の池」や暗殺を逃れるための「穴蔵」などが残るほか、村人たちが秀就の成長を高良神社で祈願したとの伝承も残っている[30]

くわしいことは「毛利秀就ウィキペディア」をご覧ください。 ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AF%9B%E5%88%A9%E7%A7%80%E5%B0%B1
(wikiより)

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毛利秀就

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日比谷で映画を見た帰りに立ち寄りました。

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⇧⇩ 店外観

入口左にある発券機でチケットを購入します。

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⇧⇩ 店内観

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⇧ ラーメン

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⇧ 半チャーハン

谷 1

⇧ 餃子


有楽町 : 谷ラーメン





時代江戸時代後期
生誕天明3年12月9日[1]1784年1月1日
死没天保7年5月14日1836年6月27日[1]
改名保三郎[1](幼名)、熙成[1]、憲熙[1]、斉熙[1]
別名(*「熙」は「煕」、「熈」とも書く)
戒名清徳院殿故中大夫中書大卿羽林次将長防国主天安道寧大居士[1]
墓所東京都港区愛宕の青松院
山口県萩市椿の大照院[1]
官位従四位下侍従大膳大夫[1]左近衛権少将[1]民部大輔[1]中務大輔[1]
幕府江戸幕府
主君徳川家斉
長州藩
氏族毛利氏
父母父:毛利治親[1]、実母:小泉氏(明善院)[1]
養父:毛利斉房
兄弟斉房斉熙細川興昶熙載水野忠篤
正室:池田治道娘・三津(法鏡院)[1]
側室:池上藤大夫娘・真嶺院、金子繁平娘・玉温院、野中繁八娘・豊
斉広[2]信順[2]、由美子[2]、万寿子[3]、八重姫[4]、美知子[4]斉元

毛利 斉熙(もうり なりひろ)は、江戸時代後期の大名毛利氏24代当主。長州藩10代藩主。8代藩主・毛利治親の次男[1]

初名は熙成ひろなり憲熙のりひろ、改名して斉熙[1]。各に一貫して共通する「熙」の通字は祖先にあたる毛利煕元に由来するもので、「煕」または「熈」とも表記する。

経歴
天明3年(1783年12月9日江戸で生まれる[1]文化6年(1809年)、兄で先代藩主の毛利斉房の死去により跡を継ぐ[1]。このときに斉房同様、11代将軍徳川家斉より偏諱を授与され斉熙に改名し、従四位下侍従に叙任した。聡明な藩主で、海防の強化や西洋軍備による軍備増強を行なった。

文政2年(1817年)に従四位・少将となる[1]。併せて従弟で福原房純の養嗣子になっていた福原房昌(後の毛利斉元)を貰い返して婿養子にし、文政7年(1824年2月27日家督を譲って隠居した[1]。幼い実子斉広をただちに世継とするのがためらわれた一方、一度福原家へ養子に出した斉元を呼び戻すからには、単に実子が成長するまでのつなぎの仮養子のままとどめて斉元の立場をないがしろにするわけにもいかなかった、という事情による[5]

しかし、隠居後も斉熙は村田清風の登用など、なおも藩政の実権は握り続けた。天保7年(1836年5月14日、54歳で死去[1]。墓所は東京都港区愛宕の青松院、山口県萩市椿の大照院[1]

系譜
・父:毛利治親(1754年 - 1791年)
・母:明善院 - 小泉氏
・養父:毛利斉房(1782年 - 1809年)
・正室:三津 - 法鏡院、池田治道長女
・側室:真嶺院(志津・花ノ井) - 池上藤大夫
 ・女子:由美子 - 蓮容院、毛利斉元正室
 ・次男:毛利斉広(1814年 - 1837年) - 毛利斉元の養子
・側室:豊 - 野中繁八娘 
 ・長男:俊次郎(1812年)[6]
・側室:玉温院 - 金子繁平
 ・三男:毛利信順 - 子の順明は13代藩主毛利敬親の養子
 ・女子:万寿子 - 慈芳院、宗義章正室
 ・女子:八重姫 - 天妙院、毛利元蕃正室
 ・女子:美知子 - あき、水野忠武正室、のち毛利元純正室
・側室:須美(住崎・小梅)
 ・女子:多亀姫
 ・女子:直姫
・養子
 ・男子:毛利斉元(1794年 - 1836年) - 毛利親著の長男

家臣
武鑑掲載の家臣
斉熙が隠居する直前の文政6年(1823年)に刊行された須原屋茂兵衛蔵版武鑑[7]に掲載されている家臣は以下のとおり。なお刊行の都合により刊行年以前の内容が含まれている可能性がある。また、武鑑では諸藩で呼び名が違う役職名を標準化している場合があるので、実際の藩職名と相違する場合もある。

一門八家、家老など
宍戸主計毛利内匠、毛利本之助(毛利房晁か?)、毛利蔵主毛利少輔三郎毛利伊賀益田丹後福原豊前、清水長左衛門、堅田宇右衛門、児玉三郎右衛門、国司信濃、佐世六郎左衛門、井原大學

用人
江羽兵庫、福嶋九郎右衛門、三浦内左衛門、秋里治右衛門、福原三郎左衛門、久芳安積

側用人
揚井謙蔵、粟屋十右衛門、吉田六蔵、神村喜兵衛、南杢之助、内藤十郎兵衛、粟屋与一右衛門(城使兼務)、毛利丹宮、井上三郎兵衛、石津環、宮本八郎右衛門、宇野太兵衛、八木作左衛門、馬屋原伊兵衛、平川端

城使(他職兼任者除く)
井原幸兵衛、坂次郎右衛門

偏諱を受けた人物
注: 上記の通り、「熙」は「煕」または「熈」とも表記する。

憲熙時代(藩主就任前)
毛利(のちの細川興昶)
毛利吉敷毛利家毛利房直の養子)
毛利(のちの水野忠篤)
いずれも斉熙の実弟で、他家に養子入りしたがいずれも家督を継ぐことなく早世している。

斉熙時代(藩主在任中)
毛利徳(孝)阿川毛利家
毛利大野毛利家
赤川安芸熊谷氏
熊谷(安芸熊谷氏第23代当主、赤川熈斐の実弟)
宍道(宍道伊豆、宍道氏
根来根来上総の父)
福原(宇部領主福原家

脚注
1. a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w 時山弥八編 1916, p. 115.
2.
a b c 時山弥八編 1916, p. 116.
3. 
時山弥八編 1916, p. 118.
4. 
a b 時山弥八編 1916, p. 119.
5. 
大森、p.162-167
6. 
大森、p.162
7. 
『編年江戸武鑑・文政武鑑3』所収

参考文献
オープンアクセス時山弥八編 国立国会図書館デジタルコレクション 『稿本もりのしげり』1916年。 NCID BN04718592
石井良助 監修『編年江戸武鑑・文政武鑑3』/柏書房
大森映子『お家騒動 大名家の苦闘』吉川弘文館〈読みなおす日本史〉、2018年
(wikiより)

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時代江戸時代前期
生誕寛永16年11月20日[1]1639年12月14日
死没元禄2年4月17日1689年6月4日[1]
改名千代熊丸[1](幼名[2])、綱広
戒名泰巌院殿前二州太守四品拾遺補闕兼大官令清高亮安大居士[1]、泰巌公[1]
墓所山口県萩市大照院[1]
官位従五位下[1]従四位下[1]侍従[1]大膳大夫[1]従三位[2]
幕府江戸幕府
主君徳川家綱綱吉
長州藩
氏族毛利氏
父母毛利秀就[1][2]喜佐姫[1][2]
兄弟松寿丸、和泉守、大吉丸、綱広、登佐姫、竹姫ら
松平忠昌娘千姫[1]梨木永祐娘房子[1]
吉就[3]吉広[3]元重[4]、良[5]、品[5]、勘[6]、幸[6]、類[3]

毛利 綱広(もうり つなひろ)は、江戸時代前期の大名。毛利氏16代当主。長州藩2代藩主。初代藩主・毛利秀就の四男[1][2]。母・喜佐姫徳川家康の孫なので、綱広は家康の外曾孫に当たる。

生涯
寛永16年11月20日[1]1639年12月14日)に江戸桜田の藩邸で生まれる[2]慶安4年(1651年)、父・秀就の死去で跡を継ぐ[1][2]承応2年(1653年)に叙任し、4代将軍徳川家綱(綱広の外又従弟にあたる)から偏諱を受けて綱広と名乗った[2]。承応3年(1654年)には周防国三田尻を結ぶ萩往還を造った。その際に、三田尻御茶屋を築造して、参勤交代の拠点とした。藩政では、榎本就時を起用して万治制法と呼ばれる法令「33か条の条目」を万治3年(1660年)に制定させた[2]。これは毛利元就以来の先例をまとめ上げたものと言われている。

このように藩政を確立したが、その反面で反骨心も人一倍強く、徳川将軍家家門筆頭の越前松平家から正室・千姫(高寿院)を迎えている(自身も母方で越前家の血を引き、千姫とは外従兄妹にあたる)にもかかわらず、元就の嫡孫・毛利輝元の嫡孫であるということから、徳川家に仕えることを恥として、江戸に滞在しながら病と称して江戸城に登城しないことさえあったという[2]。幕府側からは綱広の母が徳川家康の次男・結城秀康の娘であることから幕府から追及はされなかったが[2]、これを口実とした改易を恐れた家臣が綱広に隠居を要求するようになる[2]。綱広はやむを得ず、天和2年(1682年2月27日[1]に長男の吉就に家督を譲って、麻布の藩邸に隠居した[2]

元禄2年4月17日1689年6月4日)に江戸麻布龍土邸で死去した[1][2]。享年51[1][2]。墓所は山口県萩市椿の大照院[1][2]昭和3年(1928年11月従三位を追贈された[2]

系譜
・父:毛利秀就(1595-1651)
・母:喜佐姫(1598-1655) - 竜昌院、徳川秀忠の養女、結城秀康の長女
・正室:千姫 - 高寿院、松平忠昌
 ・長女:良 - 吉姫、青陽院、松平義行正室
 ・次女:品 - 内藤弌信継室
 ・長男:毛利吉就(1668-1694)
・継室:房子 - 昌寿院、梨木永祐
 ・次男:毛利吉広(1673-1707) - 毛利就信の養子
 ・五男:毛利元重(1676-1706)
 ・六女:勘 - 毛利就豊毛利就詮の子)室
 ・七女:幸 - 放光院、毛利匡広正室 
 ・
九女:類 - 松平忠雅正室

偏諱を与えた人物
毛利吉(次男、初め就勝、第4代藩主として就任時に故・綱広の1字を取って吉広に改名)
毛利吉敷毛利就直の長男、毛利広政広包(※この2人は吉広から「広」の字を授与されている)の長兄)
浦氏
国司?(国司氏堅田就政の子で国司元貞の養子とされる)
佐佐木尼子氏末裔・佐佐木氏)
福原次(俊)(宇部領主福原家15代当主、隠岐守)
山内山内広通毛利元雅の父)

毛利綱広を演じた人物
森繁久彌 - TBS系列『水戸黄門』第23部 二十二話「白いお髭の意地比べ・萩」…劇中では水戸黄門(光圀)と碁の腕を競った仲で互いに「圀さん」「綱さん」と呼び合う親友となっている。

脚注
1. a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u 時山弥八編 1916, p. 89.
2.
a b c d e f g h i j k l m n o p q 吉田 1976, p. 235.
3. 
a b c 時山弥八編 1916, p. 91.
4. 
時山弥八編 1916, p. 92.
5. 
a b 時山弥八編 1916, p. 90.
6. a b 時山弥八編 1916, p. 93.

参考文献
オープンアクセス時山弥八編 国立国会図書館デジタルコレクション 『稿本もりのしげり』1916年。 NCID BN04718592
・吉田祥朔 『近世防長人名辞典』(増補)マツノ書店、1976年6月1日。 NCID BN02934961・      
(wikiより)

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時代江戸時代中期
生誕享保2年7月6日[1][2]1717年8月12日
死没寛延4年2月4日1751年3月1日[1]
改名百合助[1](幼名)、維広(初名)[1]、宗広
別名大膳[1]、松平大膳[2]
戒名観光院殿前二州大守四品拾遺輔閥兼大官令天倫常沢大居士[1]、観光公[1]
墓所山口県萩市桜江の大照院[1]
官位従五位下大膳大夫[1]従四位下[1]侍従[1]
幕府江戸幕府
主君徳川吉宗家重
長州藩
氏族毛利氏
父母毛利吉元[1][2]、永昌院[1]
兄弟元朝(宗元)元陳宗広、皆姫、寧ら
松平宗昌娘勝姫[1]
齢、百合姫ら
重就[3]

毛利 宗広(もうり むねひろ)は、江戸時代中期から後期の大名毛利氏20代当主。長州藩6代藩主。5代藩主・毛利吉元の五男[1][2]。正室は松平宗昌の娘・勝姫(隔芳院・融芳院)。は初め維広これひろ[1]、後に8代将軍徳川吉宗の諱を拝領して宗広に改名した[2]

経歴
享保2年(1717年7月6日萩城で生まれる[1][2]。長兄で嫡子だった宗元が享保6年(1721年)に早世したため世嗣となる。享保12年(1727年)に松平大膳と称し、諱を維広とする[2]。同年、将軍・吉宗から偏諱を受け吉広と改名する[2]。享保16年(1731年)、吉元の死去により家督を相続し15歳にして藩主に就く[1][2]

その施政は、岡山藩の倉安川を参考に萩城下に藍場川を造成し、水運の便を図ったり、神社仏閣の建設にも力を入れた。治世中の出来事として、寛保2年江戸洪水の手伝い普請がある。

寛延4年(1751年2月4日、35歳で死去した[1]。世嗣となる男児がいなかったため、支藩である長府藩から重就末期養子として迎えられた。

系譜
・父:毛利吉元(1677-1731)
・母:永昌院 - 森氏
・正室:勝姫 - 隔芳院・融芳院、松平宗昌
・生母不明の子女
 ・次女:齢 - 誠姫、毛利重就の養女、毛利重広室、のち松平容頌継室
 ・三女:百合姫 - 毛利重就の養女
・養子
 ・男子:毛利重就(1725-1789) - 毛利匡広の十男

偏諱を与えた人物
毛利右田毛利家
毛利定(胖)(広信の養子、重就の実兄。※広定については父の匡広から賜った可能性もある)
毛利漢(氏/景)阿川毛利家
毛利大野毛利家
井原(長州藩士。前藩主毛利吉元期の家臣、井原孫左衛門元歳の子と思われる。次男に熊谷就直がいる。年代から判断して就直の養父・熊谷元貞の子である井原就正は広似の養子と思われる)
宍戸周(満)宍戸氏安芸熊谷氏の出身で熊谷就直の義兄にあたる)
宍道慶(慶)益田就高の子、宍道氏を継ぐ)
椙杜椙杜氏椙杜元縁の孫)
福原門(茂)(宇部領主福原家
益田(須佐領主益田家、宍道広慶の実兄)
益田問田益田家
※死後
毛利重(重就の養子。宗広の遺言により娘婿となり、重就の嫡子となるも早世)

脚注
1. a b c d e f g h i j k l m n o p q r s 時山弥八編 1916, p. 100.
2.
a b c d e f g h i 吉田 1976, p. 236.
3. 時山弥八編 1916, p. 101.

参考文献
オープンアクセス時山弥八編 国立国会図書館デジタルコレクション 『稿本もりのしげり』1916年。 NCID BN04718592
・吉田祥朔 『近世防長人名辞典』(増補)マツノ書店、1976年6月1日。 NCID BN02934961
(wikiより)

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以前は明治大学の裏近くに有ったのですが、数年前に移転されたとの事で行ってみました。

10数年前 御茶ノ水駅近くの病院に入院していた時に知ったお店なのですが、食事が出来るようになったのは数か月後 病院に通院後に伊峡で食事をしていました。

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⇧⇩ 旧店舗

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⇧ 新店舗

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⇧ ラーメン

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⇧ チャーハン

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⇧ タンメン



中華そば 伊峡 ( 食べログ )






時代江戸時代中期
生誕延宝元年1月12日[1]1673年2月28日
死没宝永4年10月13日1707年11月6日[1]
改名千之助[1](幼名[2])→就勝[1]→吉広
別名主膳[1][2]
諡号青雲公[1]
戒名青雲院殿前二州太守四品拾遺補闕大官令徹山道照大居士[1]
墓所山口県萩市椿の大照院[1][2]
官位従五位下[1]従四位下大膳大夫侍従[1]
幕府江戸幕府
長州藩藩主
氏族毛利宗家右田毛利家→毛利宗家
父母父:毛利綱広[1][2]
母:房子(昌寿院、梨木永祐の娘[2][1]
養父:毛利就信
養母:長寿院(亀子、酒井忠隆の娘)
兄弟吉就[3][2]吉広元重[4]
正室:小石姫(養心院、鷹司輔信の娘)[1]
養子:吉元

毛利 吉広(もうり よしひろ)は、江戸時代前期から中期の大名毛利氏18代当主。長州藩4代藩主。2代藩主・毛利綱広の次男[1]

概要
延宝元年1月12日[1]1673年2月28日)に江戸麻布の藩邸で生まれる[2]

貞享元年(1684年)に一門八家の一つ右田毛利家当主・毛利就信の養嗣子となり、異母兄で長州藩主を継いでいた毛利吉就から偏諱を授与されて毛利就勝もうり なりかつと名乗った。

元禄7年(1694年)に吉就が嗣子なくして早世するとその養嗣子として跡を継ぐ[1][2]。8月に兄同様、5代将軍徳川綱吉より偏諱を授与され、亡き父の1字を取って[要出典]吉広に改名した[2]

元禄9年(1696年)にはじめて領国に入国する[2]。藩財政が窮乏化する中、三田尻海岸の干拓[2]橋本川の治水工事、城下町整備や検地など積極的な政策を展開するが、宝永4年(1707年10月13日[1]に江戸桜田の藩邸で[2]、35歳で死去する[1][2]。改革は中途半端に終わった。

嗣子はなく、また弟の元重も前年に死去し、その子で甥に当たる元直も幼少であったため、長府藩から元倚もうり もとよりが養子に迎えられ、毛利吉元として跡を継いだ。

偏諱を与えた人物
毛利右田毛利家、吉敷毛利就直の四男、就直の実兄・毛利就信の養子)
毛利吉敷毛利家、就直の五男で広政の実弟)
毛利阿川毛利家、正室は毛利就包(広政・広包の兄)の娘)
宍戸宍戸氏
椙杜椙杜氏椙杜元縁の孫)
椙杜(広中の実弟・養嗣子)
福原(宇部領主福原家
福原泰(毛利為)(初め大野毛利家の嗣子、のち兄の広頼が亡くなったのに伴い実家を相続)
山内(山内采女広通、備後山内氏

脚注
1. a b c d e f g h i j k l m n o p q r 時山弥八編 1916, p. 95.
2. 
a b c d e f g h i j k l m 吉田 1976, p. 235.
3. 
時山弥八編 1916, p. 91.
4. 
時山弥八編 1916, p. 92.

参考文献
オープンアクセス時山弥八編 国立国会図書館デジタルコレクション 『稿本もりのしげり』1916年。 NCID BN04718592
・吉田祥朔 『近世防長人名辞典』(増補)マツノ書店、1976年6月1日。 NCID BN02934961
(wikiより)

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呉に行ったら絶対に寄ってみたかったお店です

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入店すると ( ラーメンの量 )
「並盛?大盛?」と聞かれ驚きますが、並盛を注文しサイドメニューのゆで卵と稲荷ずしをチョイス。

 

さほど広くない店内はお客さんで満員でした。

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⇧ 稲荷ずしが小さいんじゃなく ゆで卵がメチャ大きいんです。

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麺はラーメンと言うよりも冷や麦の太目な雰囲気 スープは良い感じの塩味がたまりません。

店の有る付近は、映画 虎狼の血LEVEL 2で撮影された場所なのでジックリ歩いてみるのも良いかもしれませんね。

 

 

ごちそうさまでした。


呉 : モリス ( 食べログ )

 




時代江戸時代中期 - 後期
生誕宝暦4年6月15日[1]1754年8月3日
死没寛政3年6月12日1791年7月12日[1]
改名岩之允[1]幼名)→徳元[1]→治元[1]→治親[1]
戒名容徳院殿前二州太守大官令四品拾遺補闕仁山応寿大居士[1]
墓所山口県萩市大照院[1]
官位従五位下壱岐[1]、従四位下[1]、侍従[1]、大膳大夫[1]
長州藩藩主
父母父:毛利重就[1]、母:立花貞俶娘・登代子(瑞泰院)[1]
兄弟匡満治親匡芳親著
正室:田安宗武の娘・とき子(邦媛院)[2]
側室:小泉氏(明善院)[3]、岡田氏(宝池院)[4]
斉房[5]斉熙[5]細川興昶[5]熙載毛利房直養子)[3]水野忠篤[3]、多美(有馬頼端婚約者)[2]、他

毛利 治親(もうり はるちか)は、江戸時代後期の大名毛利氏22代当主。長州藩8代藩主。7代藩主・毛利重就の四男[1]嫡出子

生涯
宝暦4年(1754年6月15日江戸で生まれる[1]。四男だったが正室の子で[1]、かつ重就が養嗣子にしていた重広(従兄にあたる)や実兄たちが相次いで早世したため、世子となる。明和5年(1768年)3月に元服して従五位下、壱岐守に叙任する。後に従四位下に叙任し、10代将軍徳川家治から偏諱を受けて、初名の徳元のりもとから治元はるながに改名した(後に治親と改名)。

薩摩藩の「近秘野艸」(『鹿児島県史料』「伊地知季安著作史料集六」所収)では天明元年(1781年)生まれの奥平昌高が治広(松平大膳大夫治元)の養子になっていたとしている。

天明2年(1782年8月28日、父・重就の隠居により跡を継ぐが[1]寛政元年(1789年)に父が死去するまでは実権は全くなく、また父の死からわずか2年後の寛政3年(1791年6月12日に江戸で死去したため[1]、治績などはほとんどない影の薄い藩主であった。享年38[1]。跡を長男の斉房が継いだ。

墓所は山口県萩市椿の大照院[1]

系譜
・父:毛利重就(1725-1789)
・母:登代子 - 瑞泰院、立花貞俶次女
・正室:とき子(1756-1815) - 邦媛院、田安宗武の五女
・側室:明善院 - 小泉氏
 ・長男:毛利斉房(1782-1809)
 ・次男:毛利斉熙(1784-1836) - 毛利斉房の養子
・側室:花村(?-1790) - 宝池院、岡田氏
 ・五男:水野忠篤(1787-1816) - 水野忠韶の養子
・生母不明の子女
 ・三男:細川興昶(1785-1803) - 細川興徳の養子
 ・四男:毛利熙載 - 毛利房直の養子
 ・女子:多美 - 有馬頼端婚約者

偏諱を与えた人物
治親時代 (*「親」の字は南北朝期の毛利氏当主(毛利時親貞親親衡師親(元春)の4代)が代々使用した字でこれに由来する)
毛利(実弟、子に第11代藩主斉元、孫に第13代藩主慶親(敬親)
毛利大野毛利家
熊谷安芸熊谷氏
佐世益田就恭の実弟)
宍戸宍戸氏
益田愛(賢)問田益田氏、娘に吉敷毛利房謙正室、右田毛利房顕正室、阿川毛利房嘉正室がいる)

脚注
1. a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u 時山弥八編 1916, p. 110.
2.
a b 時山弥八編 1916, p. 111.
3. 
a b c 時山弥八編 1916, p. 113.
4. 
時山弥八編 1916, p. 114.
5. 
a b c 時山弥八編 1916, p. 112.

参考文献
オープンアクセス時山弥八編 国立国会図書館デジタルコレクション 『稿本もりのしげり』1916年。 NCID BN04718592
(wikiより)

270 毛利治親

毛利治親

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時代江戸時代後期
生誕文化11年5月16日[1]1814年7月3日
死没天保7年12月29日1837年2月4日[1]
改名保三郎[1](幼名)、崇広[1]、斉広
戒名崇文院殿故大官令中大夫羽林次将長防国主天常瑞誠大居士[1]
墓所東京都港区愛宕青松寺
山口県萩市椿の大照院[1]
官位従四位下侍従修理大夫[1]左近衛権少将[1]大膳大夫[1]
幕府江戸幕府
主君徳川家斉
長州藩
氏族毛利氏
父母毛利斉熙[1]、志津[1]
毛利斉元
兄弟斉広信順、由美子、万寿子、八重姫、
美知子
徳川家斉二十女和姫[1]、勇信院[2]
都美子[2]敬親

毛利 斉広(もうり なりとう)は、江戸時代後期の大名毛利氏26代当主。長州藩12代藩主。10代藩主・毛利斉熙の次男で、11代藩主・毛利斉元の養嗣子[1]。長州藩主としては在職期間が最短の藩主である。

経歴
文化11年(1814年5月16日萩城内において、斉熙と側室の池上氏(志津・花ノ井)との間に生まれる[1]幼名として保三郎、のちに初名の崇広たかひろを名乗る[1]文政5年(1822年6月、先代藩主・毛利斉元の養嗣子となる[1]。これに先立って、保三郎の丈夫届公儀に提出されたが、斉熙は文政2年(1819年)に斉元を養嗣子にした際、実子はまだないとして願い出ていたため、保三郎の官年は5歳若く当年4歳、すなわち文政2年生まれとして届け出ている[3]

文政13年(1830年3月、実父・斉熙や養父・斉元と同様、11代将軍徳川家斉より偏諱を授与され斉広なりとうに改名、従四位下侍従に叙任し、修理大夫と称する。しかし、文政13年(1830年)に正室の和姫(家斉の娘)が死去する[1]

天保7年(1836年9月8日に斉元が死去したため、同年12月10日に跡を継ぐが、20日足らず後の29日に桜田の藩邸において、23歳で死去した[1]。なお、実父の斉熙も同年5月14日に死去していた。

3歳年下の異母弟の毛利信順がいたが、斉元が生前に自身の長男・猶之進を斉広の跡継ぎに立て、斉広の娘都美子(当時数え5歳)と娶わせる意向を残しており、これが江戸加判役・毛利房謙より公表されるに及び、老臣の衆議でこれに異議がなかったため、猶之進(教明、のちの慶親、敬親)が家督を相続した。斉広は生前に仮養子を立てておらず、手続きは斉広の存命を装っての末期養子となり、3月15日に斉広の死が公表された[4]

文化人としては有能で、林述斎に師事して「与人論」や「世子告文」など多くの書物を残している。

系譜
・父:毛利斉熙(1784年 - 1836年)
・母:志津 - 花ノ井、池上氏
・養父:毛利斉元(1794年 - 1836年)
・正室:和姫(1813年 - 1830年) - 貞惇院、徳川家斉二十女
・側室:勇信院 - 本多氏
・生母不明の子女
 ・長女:毛利都美子(1833年 - 1913年) - 浄華院殿釈尼妙好大姉、毛利敬親正室
・養子
 ・男子:毛利敬親(1819年 - 1871年) - 毛利斉元の長男

補足
・前述したように、藩主在職期間が20日足らずと歴代の中でも最短の藩主であるため、このわずかな期間に偏諱を与えられた者はいない(該当者なし)。
の2文字目「広」は祖先大江広元にちなんだ毛利氏の通字の一つで、歴代藩主の中でも2代綱広、4代吉広、6代宗広が用いている字でもあり、本来は「ひろ」と読む。斉広自身も最初は崇広たかひろと名乗っていたが、斉広と改名する際に実父・斉熙と同じ読みとなってしまうのを避けるために読みを変更したものと思われる(かつて曽祖父の重就が「就」の読みを「なり」から「たか」に改めた例もある)。

脚注
1. a b c d e f g h i j k l m n o p q r 時山弥八編 1916, p. 123.
2.
a b 時山弥八編 1916, p. 124.
3. 
大森、p.165-167
4. 
大森、p.172-174

参考文献
オープンアクセス時山弥八編 国立国会図書館デジタルコレクション 『稿本もりのしげり』1916年。 NCID BN04718592
・萩市史編纂委員会編 『萩市史』 第1巻、萩市、1983年6月。 NCID BN01890860全国書誌番号:83049750Closed Access logo alternative.svg国立国会図書館デジタルコレクション    
大森映子『お家騒動 大名家の苦闘』吉川弘文館〈読みなおす日本史〉、2018年
(wikiより)

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毛利斉広

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 東光寺の毛利家墓所に入って左奥の方に、詳細不明のお墓が有り それを撮影してきたのでupします。

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⇧ このような状態で並んでいました。

画像左側にも有り 向かい合って並んでいました。

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以上 17基のお墓が有りました。




時代江戸時代中期 - 後期
生誕天明2年11月20日[1]1782年12月24日
死没文化6年2月14日1809年3月29日[1]
改名義二郎[1]・善次郎(幼名)、維房(初名)[1]、斉房[1]
戒名靖恭院殿前二州太守大官令四品拾遺補闕澹雲如祥大居士[1]
墓所山口県萩市椿東の東光寺[1]
官位従四位下侍従大膳大夫[1]
幕府江戸幕府
主君徳川家斉
長州藩
氏族毛利氏
父母毛利治親[1]、明善院[1]
兄弟斉房斉熙細川興昶熙載水野忠篤、多美
有栖川宮織仁親王幸子、芳春院[2]
徳丸[1]斉熙

毛利 斉房(もうり なりふさ)は、江戸時代後期の大名毛利氏23代当主。長州藩9代藩主。8代藩主・毛利治親の長男[1]

経歴
天明2年(1782年11月20日江戸で生まれる[1]寛政3年(1791年)、父・治親の死去により10歳で跡を継ぐ[1]。寛政7年(1795年8月、11代将軍徳川家斉から偏諱を授かって初名の維房(これふさ)から斉房に改名し、叙任する。寛政12年(1800年)からは藩財政再建のために10ヵ年の倹約を行ない、さらに伊能忠敬周防長門の測量を行なわせて海防の強化に努めるなどしたが、文化6年(1809年2月14日に28歳で江戸にて死去した[1]。実子の徳丸が生まれたのは斉房の死後であり[3]、養子となっていた弟の斉熙が跡を継いだ[4]。墓所は萩市椿東の東光寺[1]

系譜
・父:毛利治親(1754年 - 1791年)
・母:明善院 - 小泉氏
・正室:幸子 - 栄宮、貞操院殿松林如榮大姉、有栖川宮織仁親王
・側室:芳春院 - 山田氏
・生母不明の子女
 ・男子:徳丸(1809年 - 1814年)[3]    
・養子
 ・男子:毛利斉熙(1784年 - 1836年) - 毛利治親の次男

斉房の代の主要
家臣
文化元年(1804年)頃の主要な斉房の家臣は下のとおり。
家老
宍戸美濃毛利勇之進毛利若狭、毛利帯刀、毛利次郎兵衛毛利伊賀益田吉十郎福原豊前、粟屋帯刀、佐世仁蔵、清水長左衛門、堅田宇右衛門、山内九郎兵衛、児玉遠江、国司市正

用人     
・山田図書、粟屋清蔵、吉田八郎右衛門、田坂昇、粟屋恵次、山県市左衛門、冷泉六郎右衛門

側用人      
・石津環、揚井鎌蔵、三浦内左衛門、福島直衛、久芳安積、山中殿衛、山県左次馬

城使      
・児玉準、簗川六兵衛、粟屋十右衛門

偏諱を与えた人物
「房」の字は室町時代の毛利家当主、毛利広房之房(光房)熙房(熙元)の3代に亘って使用された字でこれに由来する。
毛利(勇之進、右田毛利家
毛利吉敷毛利家、房良の実弟)
毛利(右田毛利家、房良・房直の実弟)
毛利(吉敷毛利家、房直の養孫)
毛利晁(衆)厚狭毛利家
毛利阿川毛利家、房晁の実弟)
毛利謙(祀)(吉敷毛利家、房晁・房嘉の実弟で房裕の養子)
(うら ふさとも、通称:浦木工、浦氏浦元襄(靱負)の養父)
国司毛利元美の後見役)
佐佐木尼子氏末裔・佐佐木氏)
宍戸宍戸氏一族の者か、次男に佐佐木房高の婿養子となった佐佐木元久、孫に元久の子で浦元襄養子の浦親教がいる)
宍道(宍道外記、宍道氏
益田(吉十郎、須佐領主益田家
福原純(俊)(豊前、宇部領主福原家
福原(従兄弟、房純の養子、のちの長州藩第11代藩主毛利斉元

脚注
1. a b c d e f g h i j k l m n o p 時山弥八編 1916, p. 114.
2.
時山弥八編 1916, p. 115.
3. 
a b 大森、p.159
4. 時山弥八編 1916, pp. 114–115.

参考文献
オープンアクセス時山弥八編 国立国会図書館デジタルコレクション 『稿本もりのしげり』1916年。 NCID BN04718592
大森映子『お家騒動 大名家の苦闘』吉川弘文館〈読みなおす日本史〉、2018
(wikiより)

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時代江戸時代中期
生誕延宝5年8月24日[1]1677年9月20日
死没享保16年9月13日1731年10月13日[1]
改名又四郎[1](幼名[2])、元倚(初名)[1]、吉元
別名右京大夫(通称
諡号泰桓公[3]
戒名泰桓院殿前二州太守四品拾遺補闕仰岳浄高大居士[3]、泰桓院仰岳浄高[2]
墓所山口県萩市東光寺[3]
官位従五位下[3]右京大夫[3]従四位下[3]民部大輔侍従[3]長門守[3]
幕府江戸幕府
主君徳川綱吉家宣家継吉宗
長府藩世嗣、長州藩
氏族毛利氏
父母父:毛利綱元[1][2]、母:池田光政[1][2]・祥雲院
養父:毛利吉広[1]
兄弟吉元本多忠次匡以元矩、真寿院
正室:池田綱政娘・法林院[3]
側室:伴氏(桂月院)[4]、森氏(永昌院)[4]
元朝(宗元)[3]元陳[5]宗広(維広)[6]、皆姫[5]、寧[6]

経歴
延宝5年(1677年8月24日江戸で生まれる[1]元禄4年(1691年12月元服して元倚もとより[1][注釈 1]と名乗る。宝永4年(1707年)に本家藩主・毛利吉広が若死にすると、その養嗣子として後を継ぐ[2]。吉広同様、5代将軍徳川綱吉より偏諱を賜い、吉元に改名。吉元は毛利秀元系初の長州藩主であるが、この家督相続の際に徳山藩主で、血統上は毛利輝元系の毛利元次が無視されたので、禍根を残すことになり、万役山事件を起こすこととなる。

藩財政再建のため、5か年の倹約や経費節減、参勤交代での人数の減少に努めた。また、文武を奨励して藩校明倫館を創設し[2]、さらに毛利家の家系をまとめた閥閲録204冊の編纂も行なった。

享保16年(1731年9月13日、江戸で死去[3][2]。享年55[3][2]。墓所は山口県萩市椿東の東光寺[3][2]大正5年(1916年11月従三位を追贈された[2]

初めは三男の元陳もとのぶを、次に実家の長府藩主を継いでいた長男の元朝(宗元)を、次の長州藩主に定めていたが、いずれも吉元に先立って早世しており、新たに嫡男となっていた五男の維広(宗広)が跡を継いだ。

系譜
・父:毛利綱元(1651-1709)
・母:房姫(1653-1686) - 祥雲院、池田光政
・養父:毛利吉広(1673-1707)
・正室:品子 - 法林院、池田綱政
 ・長男:毛利元朝(宗元)(1703-1721)
 ・三男:毛利元陳 (1706-1713)
 ・長女:皆姫 - 島津継豊正室
・側室:桂月院 - 伴氏
・側室:永昌院 - 森氏
 ・五男:毛利宗広(維広)(1717-1751)
・生母不明の子女
 ・女子:寧 - 心涼院、毛利師就正室

偏諱を与えた人物
吉元時代
「元」は毛利氏の通字として最もよく用いられている字であり、一部の分家でも代々用いられている。そちらについては特別に吉元から賜ってはいないものとみなし、明らかにこの代に賜っている人物のみを掲載する。
毛利朝(宗(長男)
毛利(三男)
毛利厚狭毛利家
毛利吉敷毛利家
井原(通称:井原孫左衛門、毛利広豊徳山藩入りの際にその同行人として萩藩から派遣された)
(通称:浦図書、浦氏
(通称:浦主計、蔵田与右衛門連珍の次男で元敏の養嗣子)
熊谷安芸熊谷氏、子に宍戸広周ほか)
佐佐木尼子氏末裔・佐佐木氏)
清水清水氏、通称:清水宮内)
宍道(宍道四郎右衛門、毛利就久の弟・匡雅の子で宍道氏を継ぐ)
椙杜世(蜂/岑)椙杜氏椙杜元縁の曾孫)
益田(須佐領主益田家
益田言(方)問田益田家
福原(益田元道の実弟、宇部領主福原家を継ぐ)
山内山内采女広通の子か。子に熊谷直温がいる)

登場する作品
テレビ朝日の「暴れん坊将軍」(第11シリーズ)では地元出身の歌手・山本譲二が吉元を演じた。

脚注
1. 元猗とも。
2.
a b c d e f g h i j 時山弥八編 1916, p. 96.
3. 
a b c d e f g h i j k 吉田 1976, p. 236.
4. 
a b c d e f g h i j k l m n 時山弥八編 1916, p. 97.
5. 
a b 時山弥八編 1916, p. 100.
6. 
a b 時山弥八編 1916, p. 98.
7. a b 時山弥八編 1916, p. 99.

参考文献
オープンアクセス時山弥八編 国立国会図書館デジタルコレクション 『稿本もりのしげり』1916年。 NCID BN04718592
・吉田祥朔 『近世防長人名辞典』(増補)マツノ書店、1976年6月1日。 NCID BN02934961
(wikiより)

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時代江戸時代前期
生誕寛文8年1月21日[1]1668年3月3日
死没元禄7年2月7日1694年3月2日[2]
改名元千代丸[1](幼名[3])、吉就
諡号寿徳公[2]
戒名寿徳院殿前二州太守四品拾遺補闕大光元栄大居士[2]、寿徳院大光元栄[3]
墓所山口県萩市東光寺[2][3]
官位従五位下[2]従四位下侍従長門守[2]
幕府江戸幕府
主君徳川綱吉
長州藩
氏族毛利氏
父母毛利綱広[1][3]松平忠昌娘千姫[1][3]
兄弟吉就吉広[4]元重[5]、良、品、勘、幸、類ら
酒井忠隆娘亀子[2]
吉広

毛利 吉就(もうり よしなり)は、江戸時代前期の大名毛利氏17代当主。長州藩3代藩主。

略歴
2代藩主・毛利綱広の長男[1]。母は松平忠昌の娘・高寿院(千姫)[1][3]。正室は若狭小浜藩主・酒井忠隆の娘・長寿院(亀子)[2]官位従四位下長門[2]

寛文8年(1668年1月21日江戸麻布の藩邸で生まれる[1][3]天和2年(1682年2月27日、父の隠居により跡を継いだ[1][3]4月に5代将軍徳川綱吉から偏諱を賜り[3]祖父・毛利秀就からも1字を取って[要出典]吉就と名乗り、従四位下に叙位、侍従に叙任され、長門守と称する[3]

藩主としては、貞享元年(1684年)にはじめて領国に入国する[3]。貞享3年(1686年)に貞享検地と呼ばれる検地を行なって、領民への徴税を是正することに務める一方[3]、新堀川の治水工事[3]城下町の整備に取り組み、元禄4年(1691年)には護国山東光寺を建立する[3]など積極的な政治を展開するが、同時に藩財政の悪化も招くことになった。これに反発する家臣団との対立に苦労する中、元禄7年(1694年2月7日に江戸桜田の藩邸で急死してしまった[2][3]。享年27[2][3]

吉就には嗣子がなく、跡を吉就の異母弟で養嗣子の就勝(吉広)が継ぐこととなった。墓所は萩市椿東の東光寺[2][3]

系譜
・父:毛利綱広(1639-1689)
・母:千姫 - 高寿院、松平忠昌
・正室:亀子 - 長寿院、酒井忠隆
・養子
 ・男子:毛利吉広(1673-1707) - 毛利綱広の次男

偏諱を与えた人物
毛利(実弟・養嗣子、のちの毛利吉広。就勝は右田毛利就信の養子になっていた時の。)
毛利厚狭毛利家
毛利吉敷毛利就直の次男で広政広包の次兄、初め村上武真)
毛利阿川毛利家
宍戸延(宗)熊谷元実の子で宍戸就附熊谷就実の実弟。就附死後、宍戸氏を継ぐ。)
志道志道氏、主に吉広・吉元時代に当職(国家老・執政)を務めたが、毛利広政の直訴により罷免。)
志道椙杜元縁の養子・就幸の子で椙杜就保とも。元縁実父・志道元保の曾孫で就晴とは親戚関係にある。娘に宍戸広周正室。主に吉広・吉元時代に当役を務めたが、毛利広政の直訴により罷免。)
清水清水氏
宍道(宍道氏)
福原?(福原広俊の子)
益田益田氏分家、益田景祥の孫で広尭宍道広慶の実父。)
益田(益田氏分家から本家・須佐領主益田家第7代当主となる。)
椋梨椋梨氏

脚注
1. a b c d e f g h 時山弥八編 1916, p. 94.
2.
a b c d e f g h i j k l 時山弥八編 1916, p. 95.
3. 
a b c d e f g h i j k l m n o p q 吉田 1976, p. 235.
4. 
時山弥八編 1916, p. 91.
5. 
時山弥八編 1916, p. 92.

参考文献
オープンアクセス時山弥八編 国立国会図書館デジタルコレクション 『稿本もりのしげり』1916年。 NCID BN04718592
・吉田祥朔 『近世防長人名辞典』(増補)マツノ書店、1976年6月1日。 NCID BN02934961
(wikiより)

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⇧⇩ 酒井忠隆 娘 亀子 墓

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時代江戸時代後期
生誕寛政6年3月24日[1]1794年4月23日
死没天保7年9月8日1836年10月17日[1]
改名豊之允[1](幼名)、房昌[1](福原氏時代)、教元、斉元
別名弾正[1](福原氏時代)、式部(通称[1]
戒名邦憲院殿故大中大夫大官令羽林次将長防国主慈峰真秀大居士[1]
墓所山口県萩市椿東の東光寺[1]
官位従四位下式部大輔[1]宮内大輔[1]侍従[1]大膳大夫[1]左近衛権少将[1]、従四位上[1]
幕府江戸幕府
主君徳川家斉
長州藩
氏族毛利氏安芸福原氏、毛利氏
父母毛利親著[1]、以久[1]
福原房純毛利斉熙[1]
兄弟斉元毛利房良正室
毛利斉熙娘由美子[1]
原田氏[2]、田代氏、山崎氏[3]、京[3]
敬親[4]、牧之助[4]、三寿姫[4]、孝子[2]教徳[2]、嘉姫[2]斉広

毛利 斉元(もうり なりもと)は、江戸時代後期の大名毛利氏25代当主。長州藩11代藩主。7代藩主・毛利重就六男である毛利親著の長男で、10代藩主毛利斉熙の養子[1]

経歴
寛政6年(1794年3月24日萩城下八丁邸にて出生する[1]享和3年(1803年)に一門八家福原房純の養嗣子となり、文化5年(1808年9月1日、養父と同じく藩主・毛利斉房偏諱を授かり福原房昌ふくばら ふさまさと名乗った。同年に通称として弾正と名乗った。藩主の兄弟を養子にできるのは一門八家のうちさらに六家のみに限られていたため、この養子縁組には反対もあったが、斉元は藩主の弟でなく弟の息子であったため押し切られた[5]

文政2年(1819年)、従兄で藩主の毛利斉熙の実子・保三郎(後の毛利斉広)が幼いため、つなぎの当主とすべく福原家から藩主家に貰い返されて、通称を式部、名を毛利教元のりもとに改めた。同年9月に斉熙の養嗣子となり[1]、四品に叙任して式部大輔に任じられ、文政3年(1820年)に宮内大輔に転じ、文政4年(1821年)に従四位侍従となる[1]

文政7年(1824年2月27日の斉熙の隠居により跡を継ぐが、文政12年(1829年)に従四位・左近衛少将になる[1]。11代将軍徳川家斉からの偏諱を受け斉元と改名する。

天保6年(1836年12月26日に従四位上に叙任されるが、翌天保7年(1836年)5月14日に養父の斉煕が死去する。同年6月12日には後世に「申歳の大水」として語り継がれる大洪水が起こり、実子の猶之進(教明)らがいた萩城下の南苑邸が大破し、城下の3分の2が浸水、溺死者約200人に上るなどの被害を出す。同年9月8日に斉熙の後を追うように死去した[6]。享年43[1]。跡を継いだ斉広は同年のうちに亡くなり、実子の教明(後の慶親・敬親)がその跡を継ぐことになる。

人物
父が部屋住み身分で、自身も家臣福原家から貰い返されて毛利宗家を継いだ経緯があるためか、万事に控え目な性格で、実権は養父・斉熙が握り、終始中継ぎ藩主のままであった。

狂歌を好んで鹿都部真顔に師事し、柳桜亭花也[1]、柳花亭風姿瑞垣、土筆亭和気有丈などの狂号をもち、戯作者山東京山の次女・京が侍女から側室となり、孝姫、甚之丞(早世)を産んだ。

系譜
・父:毛利親著(1766年 - 1800年)
・母:以久 - 心月院
・養父:福原房純(1772年 - 1836年)、毛利斉熙(1784年 - 1836年)
・正室:由美子 - 蓮容院、毛利斉熙娘
・側室:原田氏
 ・長男:毛利敬親(1819年 - 1871年) - 毛利斉広の養子
・側室:田代氏
・側室:山崎氏
・側室:京 - 山東京山
・生母不明の子女
 ・男子:牧之助 
 ・
女子:三寿姫 - 益田親興親施兄)室
 ・女子:孝子 - 伊達宗徳正室
 ・男子:毛利教徳
 ・女子:嘉姫
・養子
 ・男子:毛利斉広(1814年 - 1837年) - 毛利斉熙の次男

偏諱を与えた人物
毛利教元時代
毛利(長男、のちの毛利敬親)
毛利(息子、教明の弟)

毛利斉元時代
「元」は毛利氏の通字として最もよく用いられている字であり、一部の分家でも代々用いられている。そちらについては特別に斉元から賜ってはいないものとみなし、明らかに賜っている人物のみを掲載する。
毛利美(教)厚狭毛利家
毛利寿右田毛利家房顕の嫡男(のち廃嫡))
毛利亮(敬/統)(右田毛利家、元寿廃嫡後の嫡子、元美の娘婿)
毛利一(潔)吉敷毛利家、元寿の義弟(正室が房顕の娘))
浦 (通称:浦靱負)
堅田徳山毛利広鎮の五男、堅田就正の養子)
佐佐木尼子氏末裔・佐佐木房高の婿養子、浦靱負の養子・親教の実父)
宍戸(福原家における義弟、母方の宍戸氏を継承、初め宍戸延良)
清水清水氏、通称:清水信濃、清水親春の養父)
高洲(寄組藩士、国司親相(国司信濃)の実父)
福原(通称:福原越後、毛利広鎮の六男で堅田元琦の実弟)
益田(須佐領主益田家、子の親興は斉元の娘婿。)
益田(通称:益田伊豆、問田益田氏

脚注
1. 
a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y 時山弥八編 1916, p. 120.
2. 
a b c d 時山弥八編 1916, p. 122.
3. 
a b 時山弥八編 1916, p. 123.
4. 
a b c 時山弥八編 1916, p. 121.
5. 
大森、p.162-164
6. 
時山弥八編 1969, p. 118.

参考文献
・津田真弓『山東京山』新典社、2005年
オープンアクセス時山弥八編 国立国会図書館デジタルコレクション 『稿本もりのしげり』1916年。 NCID BN04718592
 ・復刻 時山弥八編 『増補訂正もりのしげり』(復刻)赤間関書房、1969年2月20日。 NCID BA43309514全国書誌番号:73000641
・萩市史編纂委員会編 『萩市史』 第1巻、萩市、1983年6月。 NCID BN01890860全国書誌番号:83049750Closed Access logo alternative.svg国立国会図書館デジタルコレクション    
大森映子『お家騒動 大名家の苦闘』吉川弘文館〈読みなおす日本史〉、2018年
(wikiより)

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時代江戸時代中期 - 後期
生誕享保10年9月10日[1]1725年10月15日
死没寛政元年10月7日1789年11月23日[1]
改名岩之丞(幼名[1]
→ :元房[1]匡敬まさたか
→ 重就(しげなり→しげたか)
諡号英雲公[1]
戒名英雲院殿前二州太守四品吏部大郷羽林次将祐山如靖大居士[1]
墓所山口県萩市東光寺[1]
官位従五位下甲斐守[1]、従四位下侍従・大膳大夫[1]、左近衛少将[1]、式部大輔[1]
従三位明治41年[1]
幕府江戸幕府
長府藩主→長州藩
氏族毛利氏
父母父:毛利匡広[1]、母:性善院(飯田氏)[1]
養父:毛利宗広
兄弟演暢院(有馬一準室)、師就政苗広定
重就増山正贇
正室:登代立花貞俶娘・瑞泰院)[1]
側室:利尾(家臣飯田存直娘)
側室:留楚(佐竹氏家臣武藤群次妹)
側室:種織(家臣河野通貞娘)
匡満治親匡芳親著(六男)、友(山内豊雍正室)、勢代(有馬頼貴正室)、好(藤井松平信亨正室)、佐代(鷹司輔平室)、澄(奥平松平忠啓正室)、長(毛利匡邦正室のち前田利謙正室、顕徳院)、娘(内藤信旭正室)、列(井伊豊吉婚約者)、多鶴(近衛経熙婚約者)
養子:毛利重広[2]、養女:(保科松平容頌継室[2]

毛利 重就(もうり しげなり/しげたか)は、江戸時代中期から後期の大名毛利氏21代当主。長門国長府藩8代藩主、のち長州藩7代藩主。ははじめ元房(もとふさ)、のち匡敬(まさたか)、重就(しげなり)、さらに重就(しげたか)と改めた。

経歴
享保10年(1725年[1]、長州藩支藩の長府藩主・毛利匡広の十男として生まれる。幼名は岩之丞[1]。匡広の跡を継いだ五男の師就が享保20年(1735年)に死去した際、師就の実子・多賀之丞(毛利教逵)は出生が幕府に未届けで相続が認められず、匡広の七男の政苗、八男の広定はそれぞれ清末藩主、右田毛利家を継いでおり、仮養子として届けられていた岩之丞(重就)が家督を相続することになった。また、宝暦元年(1751年)には本家にあたる長州藩6代藩主・毛利宗広が早逝し、世嗣がないことなどで、末期養子として家督を相続する。

当時の長州藩は、天災によるの不作、藩商品の販売不振などにより収入が減少し、財政赤字に陥っていた。重就は藩主就任と同時に坂時存、長沼正勝ら3家老を招集し、改革案の提出を要請する。宝暦3年(1753年)「三老上書」が提出される。内容は、経費の削減などから新田開発、荒廃田の復旧、築港による流通整備などが掲げられていた。

重就はまず検地を行い、8年後には新たに4万石分の収入を得ることに成功した。この収入を藩財政には組み込まず撫育方を設立させ、こちらの資金として充てる。撫育方はこの資金を元手に明和元年(1764年)、鶴浜を開作、伊崎を埋め立て今浦港を築港、4年後には室積・中関(三田尻)の港整備を行う。

港の改良により回船の寄港地として発展させると同時に、藩物品の販売、回船業者への資金貸し付け、倉庫貸出などを行い、利益を得る。撫育方がほぼ全てにあたった。

また、塩田開発も進め、明和年間には21万石に上がる収益を得たと言われている。この他にも製紙、製蝋、製糖などにも力を入れた(防長三白)。一方で、過度な年貢取り立てなどの政策は一揆に悩まされることにもなった。

天明元年(1781年)、10代将軍徳川家治の嗣子に一橋家の男子の豊千代が決定し、徳川家斉と改名すると、“しげなり”の“なり”が将軍嗣子の本名と同じ(「就」が「斉」と同じ読みである)ため、読みを“しげなり”から“しげたか”に改める[3][4]

天明2年(1782年)に家督を四男の治親に譲って隠居し[1]、自身は三田尻三田尻御茶屋に住んだ。7年後の寛政元年(1789年)に死去した[1]。享年64[1]

墓所は山口県萩市東光寺[1]

系譜
参考は「萩市史・第一巻」など
・父:毛利匡広(1675-1729)
・母:性善院 - 側室、飯田氏

・兄弟姉妹
 ・毛利師就
 ・毛利政直
 ・毛利政苗
 ・毛利広定
 ・増山正贇
 ・演暢院(丸岡藩有馬一準室)
 ・慧照院(長島藩増山正武室)
  ほか

・正室:登代(
柳川藩藩主立花貞俶の次女・寛延元年(1748年)入輿、明和6年(1769年)死去)
 ・三女: 友(とも)子(1749年 - 1780年) - 寛延2年12月21日または19日に江戸日々窪長府邸で生まれる[5]土佐藩山内豊雍正室、三条実美の曾祖母。婚姻日は明和6年(1769年)3月23日[5]。安永9年4月30日1780年6月2日)に江戸鍛冶橋土佐藩邸において死去、年32、法名は観月院殿翠顔妙黛大姉、墓所は東京芝愛宕町青松寺[6]     
 ・四女: 勢代(せよ)子(1751年 - 1775年) - 三田御前様と称した[7]。寛延4年(1751年5月5日に江戸日々窪長府邸で生まれる[7]久留米藩有馬頼貴正室で婚姻日は明和5年(1768年11月23日[7]。安永4年12月20日(1776年2月9日)に江戸芝三田有馬藩邸において死去、年25、法名は養源院殿貞室知栄大姉、墓所は東京渋谷祥雲寺[7]       
 ・五女: 艶(つや)子(1752年 - 1759年) - 早世、はじめの名前は屋代(やよ)姫、宝暦2年(1752年)11月15日に江戸桜田邸において誕生する[7]。宝暦9年7月25日1759年8月17日)に江戸桜田邸において死去、年8、法名は涼岳院殿慧林玉芳大童女、墓所は東京芝白金瑞聖寺[7]     
 ・四男:毛利治親(1754年 - 1791年) - 長州藩第8代藩主

・側室:利尾(家臣飯田存直の娘・
享和3年8月2日死去)
 ・長女: 好(よし)子(1744年 - 1766年) - 上山藩主藤井松平信亨の正室、婚姻日は宝暦12年(1762年6月23日[2]。明和3年4月12日1766年5月20日)に江戸三田新堀邸において死去、年23、法名は清峰院殿浄雲自鏡大姉、墓所は東京泉岳寺[8]    
 ・次女: 佐代(さよ)子(1746年 - 1769年) - はじめの名前は千代姫、後に惟保(いほ)君と称する[5]。関白鷹司輔平室で婚姻日は、宝暦11年(1761年2月18日[5]。明和6年4月29日1769年6月3日)に京都において死去、年24、法名は妙池院殿青蓮慈薫大姉、墓所は京都嵯峨二尊院、萩市広雲寺[5]   
 ・長男: 毛利匡満(1748年 - 1769年) - 長府藩第9代藩主
 ・次男: 徳治郎(1750年 - 1750年) - 早世、寛延3年(1750年3月11日に江戸日々窪邸で誕生[注釈 1][7]。寛延3年7月22日(1750年8月23日)に死去、法名は玉章院殿瑞厳本光大童子、墓所は長府笑山寺[7]      
 ・三男: 永丸(1753年 - 1758年) - 早世、岩之助、又利丸、宝暦3年(1753年4月29日に萩城において生まれる[9]。宝暦8年10月9日1758年11月9日)に萩城において死去、年6、墓所は萩市東光寺[9]   
 ・六女: 澄(すみ)子(1755年 - 1779年) - 宝暦5年(1755年)2月28日に萩城で生まれる[9]桑名藩松平忠啓正室、婚姻日は安永4年(1775年)6月3日[9]。安永8年6月29日1779年8月11日)に江戸馬場先松平邸において死去、年25、法名は蘭蕙院殿孤芳智秀大姉、墓所は東京谷中天眼寺と萩市東光寺[9]  

・側室:留楚(佐竹氏家臣武藤群次の妹・
文化7年7月22日死去)
 ・五男: 毛利匡芳(1758年 - 1792年) - 長府藩第10代藩主[10]     
 ・七女: 列(れつ)子(1762年 - 1773年) - 宝暦12年(1762年)4月11日に江戸新シ橋邸で生まれる[10]彦根藩井伊直幸の嗣子・井伊直富と婚約中の安永2年10月4日1773年11月17日)に江戸麻布邸において早世、年12、法名は凌寒院殿幻梅衍香大童女、墓所は東京芝白金瑞聖寺[10]   
 ・六男:毛利親著(1766年 - 1800年) - 長州藩第11代藩主・毛利斉元の父

・側室:田中氏(文化12年9月17日死去)
 ・八女: 多鶴子 - 権大納言の近衛師久と婚約中に夭折)

・側室:種織(家臣河野通貞の娘、
寛政2年8月25日死去)
 ・九女: 長子 - 初め雅子、清末藩主毛利匡邦正室、富山藩前田利謙正室

・生母不明の子女
 ・女子:内藤信旭正室

・養子
 ・男子: 毛利重広 - 演暢院の子で重就の甥にあたる[2]    
 ・女子: 誠(のぶ)姫 - 毛利宗広の次女[2]     
 ・女子: 百合(ゆり)姫 - 毛利宗広の三女[2]

系図

実際の親子関係のみを示す。
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家臣
武鑑に掲載された家臣
「大武鑑・中巻」に収録された宝暦5年(1755年)の武鑑に掲載された家臣は以下の通り。なお刊行の都合により掲載情報が宝暦5年以前のものを含んでいる可能性はある。また、武鑑では諸藩で呼び名が違う役職名を標準化している場合があるので、実際の藩職名と相違する場合もある。

【一門八家】
宍戸出雲毛利筑後毛利七郎兵衛毛利虎槌毛利宮内毛利彦治(次)郎益田越中福原豊前  

【家老】
宍道外記、清水長左衛門、浦主計     

【毛利重広附】
井原孫左衛門、児玉縫殿

用人
三戸是令、小川貞右衛門、赤川仁右衛門、桂五郎左衛門

【毛利重広附用人】
三浦内左衛門、中井定右衛門

城使
周布与三右衛門、嶋尾五郎右衛門、有福庄右衛門、都筑弥右衛門

偏諱を与えた人物
匡敬時代
毛利(長男、長府藩第9代藩主)
毛利豊(芳)(五男、長府藩第10代藩主)

重就時代
(※前述した通り、「就」の読みは初め「なり」、天明元年(1781年)以降は「たか」と読まれる。1781年から(重就が隠居した)天明2年(1782年)に授与された者は初めから読みは「たか」である。)
毛利(甥(兄・広定の子)、右田毛利家当主)
毛利(同上、就任の実弟、吉敷毛利家第8代当主)
毛利(同上、就任・就兼の実弟、厚狭毛利家第8代当主)
毛利(吉敷毛利家第7代当主、就兼の養父)
毛利(厚狭毛利家第7代当主、就宣の養父)
毛利馴(友)徳山藩(就隆系)毛利家)
毛利阿川毛利家第8代当主)
井原安芸熊谷氏熊谷元貞宍戸広隆の弟)の子で宍戸広周の実弟。毛利敬親期の家臣・井原親章(主計)は子孫とみられる。)
(通称:浦兵介、宍道外記(宍道広慶)の次男、浦主計(浦元伴)の養子となり浦氏を継承)
国司国司氏、次男に浦就尹の子・房伴の養子となった浦元襄、三男に熊谷直行がいる。)
熊谷(就正の養父と思われる井原広似の次男で熊谷元貞の養子)
佐佐木尼子氏末裔・佐佐木氏)
宍戸宍戸氏、宍戸出雲の子)
宍道(宍道氏、益田就高の孫)
志道(熊谷元貞の子で宍戸広周・井原就正の実弟、志道氏を継ぐ)
椙杜椙杜氏分家、椙杜元縁の曾孫)
繁沢(はじめ繁沢利充の養子、のち実家の阿川毛利家に戻ってその第11代当主となる)
福原(宇部領主福原家
益田(須佐領主益田家
益田(就祥の子、母は重就の兄・広定の養女)
益田問田益田家
村上(むらかみ なりつね/たかつね、藩士・能島村上氏当主、佐佐木就清の子を養子に迎える。)

伝記
・小川国治『毛利重就』(吉川弘文館、2003年) ISBN 4-642-05226-7   

関連項目
三田尻    

脚注
1. 『長府系図』では長府で誕生したとする[7]
2. 
a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u 時山弥八編 1916, p. 102.
3. 
a b c d e f 時山弥八編 1916, p. 103.
4. 
小川国治『毛利重就』
5. 
『萩市史・第一巻』参照
6. 
a b c d e 時山弥八編 1916, p. 104.
7. 
時山弥八編 1916, pp. 104–105.
8. 
a b c d e f g h i 時山弥八編 1916, p. 105.
9. 
時山弥八編 1916, pp. 103–104.
10. 
a b c d e 時山弥八編 1916, p. 106.
11. a b c 時山弥八編 1916, pp. 106–107.

参考文献
オープンアクセス時山弥八編 国立国会図書館デジタルコレクション 『稿本もりのしげり』1916年。 NCID BN04718592

外部リンク
防府と毛利重就 - 防府Web歴史館(防府市教育委員会文化財課)
萩藩改革の足がかりをつくった毛利重就と撫育方 - 山口ブランドストーリー(山口県観光振興課)
毛利重就 - 茶室辞典(株式会社山中工務店)
(wikiより)


264 毛利重就

毛利重就

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⇧⇩ 登代 ( 立花貞俶娘・瑞泰院 )墓。

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富良野駅から数分程度の場所にある居酒屋 炉ばたさんです

 

ドラマ 北の国からでもチョコチョコ出ていたそうです

そう大きい店では有りませんが、居心地が良く 予約客のみで満員になってしまいます

 

絶対に予約されてから行かれることをお勧めします。

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⇧ 富良野駅から、へそ歓楽街に行きます

 

「へそ」というのも富良野のお祭りにある「へそ祭り」から来ている名前です ( 富良野が北海道の真中なので " へそ " らしいです )。

 

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⇧ 「北の国から」で見たことあるでしょ?

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⇧ もう雰囲気満点な店構え

 

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⇧ 店内も良い雰囲気でしょ?

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⇧⇩ 囲炉裏の上にあるツボで日本酒を " お燗 " しています

冬なら確実に飲んでました


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⇧ メニュー

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⇧ お通しの野菜と漬物

もうこれだけで酔い潰れるぐらい飲めるほど美味しい。


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⇧ じゃがバター

じゃがいもの美味しさがたまらない


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⇧ 中生ビール

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⇧ 相方は、富良野で取れたブドウサワー これもメチャ美味しい。

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⇧ 鹿肉の串焼き


油が良い感じで美味しい。

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⇧ アイヌ餃子

ニラは使わず、行者ニンニクを使っています


良いアイディアですよ 行者ニンニクの方がサッパリしています。

 

という事で、中生ビールをもう1杯飲んでホテルへと移動しました。

ご家族3人で経営していらっしゃるそうです

御店主もお話し好きの良い人なので時間が有れば あれこれ聞いてみるのも良いかもしれません。

 



富良野 : 炉ばた





突き進む

    にぎりこぶしへ

           当る風

剣花坊

井上剣花坊は明治 3 (1870 ) 年、藩士・井上吉兵衛の長男として、旧萩城下江向に生まれた。 本名は幸一。

苦学して木間の小学教員となり、地元の新聞記者を経て、明治 33年 ( 1900 ) に上京、雑誌「明義」の記者となって文芸欄を担当した。

明治 36年 ( 1903 ) 日本新聞社に入社し、新聞「日本」に剣花坊の名で「新題柳樽」欄を設け、新聞記者をつとめるかたわら、川柳の改革復興に尽力した。

同 38年には柳樽寺川柳会を組織し、機関紙「川柳」を創刊。

大正期には柳樽寺剣花坊の名で、新川柳会の総帥と仰がれた。

門下は全国各地に広がり、なかには雉子郎の川柳名をもつ作家・吉川英治もいた。

昭和 9年 ( 1934 ) 没、享年 65歳。

また、妻・信子は萩市土原に生まれ、後に川柳を学び、公私ともに剣花坊と歩んだ。89歳で死去。

夫妻の墓は、鎌倉建長寺にある。
(案内板より)

〇 井上剣花坊
井上 剣花坊(いのうえ けんかぼう、明治3年6月3日1870年7月1日) - 昭和9年(1934年9月11日)は、日本の川柳作家。幼名は七郎、のちに幸一[1]

著書に『江戸時代の川柳』などがある。

生涯
明治3年(1870年)6月3日、山口県に生まれた。家系は毛利家に仕えていたが、廃藩後に没落、父栄祐は1891年に、不遇のうちに亡くなった[1]

独学で小学校代用教員となり、のちに山口県の新聞社『鳳陽新報』(のち『長周日報』、その後防長新聞に併合されて消滅)に就職して新聞記者となった[2]。同じ頃山県トメと結婚し、3人の子供を授かるも、トメは3人目出産後の予後が悪く、1898年に他界。なお井上はその3年後の1901年に岡ノブと再婚、2人の子供をもうけた[2]。同じ1901年には『越後日報』に就職、主筆となった[2]

1903年7月、『越後日報』を退社し新聞「日本」に入社。ここで剣花坊の筆名で新川柳の選者を務めた。なお筆名は、山口県で「争気がある人」を「喧嘩ぼう」といったことから、自らをそれになぞらえて「剣花坊」の漢字を当てたものである[3]。その後退社したものの、客員として同誌の選者を務めた。また他に『國民新聞』や『読売新聞』でも選者を務め、新興川柳の普及に努めた[4]1905年結成の柳樽寺派の先達としても活躍し、「大正川柳」(のちに「川柳人」に改題)を創刊、新興川柳派を支援した。しかし同誌に掲載された鶴彬の句が治安維持法違反とされたため、同誌は廃刊に追い込まれた。

1929年からは『福岡日日新聞』『主婦之友』『中国民報』でも選者を務めた[5]

しかし1933年頃から体調不良を自覚し、翌年の1934年には軽い脳溢血を起こして右半身が不自由となった[6]1934年9月8日脳溢血で倒れ、9月11日、仮寓の神奈川県鎌倉建長寺で死去した。没後は妻の信子が後継となり、川柳誌を発行し続け、また川柳作家の鶴彬を支援した。

主な川柳作品
・何よりも母の乳房は甘かりし - 生誕地の句碑に刻まれている。
・咳一つ聞えぬ中を天皇旗
・米の値の知らぬやからの桜狩り
・活眼をひらくとゴミが眼にはいり

著書
単著
・『赤裸々の大石良雄』(1913年、敬文堂書店)
・『新川柳六千句』(1916年、南北社)
・『川柳を作る人に』(1918年、南北社)
・『川柳1922年集』(1922年、柳樽寺新星会)
・『古川柳真髄』(1925年、柳樽寺川柳会)
・『江戸時代の川柳』(1928年、近世日本文化史研究會)
・『新川柳自選句百三十三人集』(1932年、柳樽寺川柳会)

共編著
井上剣花坊選、近藤浩一路絵『川柳漫画』(1930年、川柳漫画刊行会)
井上剣花坊編『三笠しづ子 (丸山貞子) 句集』(1932年、柳樽寺川柳会)

作品集
・白石維想楼編『習作の二十年 : 井上剣花坊句集』(1922年、柳樽寺川柳会)
・井上信子編『井上剣花坊句集』(1935年、叢文閣)
・井上鳳吉編『井上剣花坊句集』(1966年、市ケ谷出版社)

評伝
坂本幸四郎 『井上剣花坊・鶴彬 川柳革新の旗手たち』 リブロポート<シリーズ民間日本学者>、1990年

参考文献
昭和女子大学近代文学研究室『近代文学研究叢書 第37巻』(1973年)

脚注
1. 
a b 昭和女子大学(1973)p.228 
2. 
a b c 昭和女子大学(1973)p.229 
3. 
昭和女子大学(1973)p.230 
4. 
昭和女子大学(1973)pp.231-232 
5. 
昭和女子大学(1973)p.234 
6. 
昭和女子大学(1973)p.235
(wikiより)

263 井上剣花坊

井上剣花坊

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 これから食事系記事も掲載させて頂きますので宜しくお願いします。

知る人ぞ知る東京の老舗飲み屋 鶯谷の鍵屋さん

ようやく行けました。

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⇧ 店の雰囲気だけでヤバイ状態です。

まだ開店ではないので 店前の椅子に座って待ってます

開店前に ほぼ満員状態の人数が並んでいました。

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⇧ 開店直後の店内
1番だったので小上がりでした カウンターは回転が早いです。

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⇧ 年代物の、味の素のポスター

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⇧ ふかし豆 ( お通し ) これメッチャ ハマります

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⇧ 木製のメニュー

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⇧ かん酒 ( かん酒は、甘口、辛口を選べます ) 辛口を選びました

僕には どっしりとした飲み口でメッチャ好みです。

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⇧⇩ 通常 味噌おでんは 3本なのですが 4本に増やして貰いました

こんにゃく、豆腐 2本、ちくわぶ

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⇧ とりもつなべに、とりかわをミックスして貰いました。

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⇧ かん酒 辛口をおかわりしました。

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⇧ 合鴨塩焼き

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⇧ サービスでいただいた にこごり 

これもメッチャ美味しくてヤバイ

 

なんと店を出たら喫煙しているオッサン ( 店内は禁煙 ) がいて、帰りに店を撮影することを忘れた・・・
これは再度訪問しなきゃダメですね。


鶯谷 : 鍵屋 食べログ





口羽家は、萩藩の寄組士 ( 1,018石余 ) で代々萩城三の丸に住んだ。

大身 ( だいしん ) の武士の居住地区であった堀内地区に現在も旧藩時代そのままの姿をとどめている。

表門は萩に現存するものでは最大の長屋門で、片潜門の左に門番所を設けている。

また主屋は東面切妻 ( きりつま ) 造り、西面入母屋造り桟瓦葺 ( さんかわらぶ ) きで東面に入母屋造りの突出部を設けた形式からなっている。

こうした門と住宅がセットで残っているのは珍しく、武家屋敷の一遺例として価値がある。

建築年代はいずれも 18世紀後半から 19世紀初めのものと思われる。
(案内板より)

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毛利秀就公を火葬した場所です。

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〇  長井元房と忠義の猫 ~ 猫町 ( ねこちょう ) 伝説 ~
これは毛利輝基の家臣であった長井元房のお墓です。

萩に城下町を築いた藩祖、毛利輝元には、長井元房という家臣が居ました。

元房は、若いころ萩を出奔し他国に流浪していましたが、その間も輝元はひそかに銀子を与えて元房を庇護していました。

その後、輝元は萩に帰った元房を依然と同様に家臣として遇しました。

1625年 ( 寛永 2年 )、輝元が亡くなると元房は輝元に深い恩を感じていたのでしょう、後を追って殉死しました。

元房には、たいへん可愛がっていた猫がいました。

その猫は元房の死後、天樹院の元房の墓前から離れようとはせず、49日の法要の日に舌を噛んで死んでいたと伝えられています。

萩博物館の西側には元房の屋敷があったことから、この筋に猫町 ( ねこのちょう ) という名前がつけられました。
(案内板より)

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清光院(せいこういん、永禄元年(1558年)- 寛永8年6月20日1631年7月19日))は、毛利輝元正室。父は毛利氏一門衆の宍戸隆家、母は毛利元就の娘である五龍局南の大方と呼ばれた。

生涯
永禄元年(1558年)、宍戸隆家の三女として生まれる[1]

永禄6年(1563年)2月、毛利輝元との婚約が成立し、永禄11年(1568年)3月に吉田郡山城内において盛大な婚儀が執り行われた。ただ、この婚約は毛利元就によって1度破棄されている。これは当時、室町幕府将軍足利義輝の仲介で、輝元に大友宗麟の娘を嫁がせて和議を結ぶことが決まったことによる[2]。その後、和議が破綻して輝元と宗麟の娘との婚姻は実現しなかったことで、改めて婚姻が進められた。

清光院と輝元との間には子がなかったため、天正13年(1585年)に輝元の叔父穂井田元清の子である毛利秀元を輝元の養子とした。しかし、文禄4年(1595年)に輝元の側室である中の丸殿(清泰院)毛利秀就を生んだため、秀元には別家(長府藩)を興させ、秀就を輝元の嗣子とした。

毛利氏が豊臣秀吉に従った後の天正18年(1590年)、輝元や小早川隆景吉川広家らが小田原征伐のために上洛するに先立って、清光院は女房衆を伴い上洛。その際に勧修寺尹豊勧修寺晴豊とその女房衆らと贈物を贈り合い、三色三荷を贈られた。また、福原元俊を使者として、准后女御に挨拶をしている。

慶長5年の関ヶ原の戦い後、毛利氏が周防長門二か国に封じられると、清光院も山口移り住み、慶長9年(1604年)に萩城がある程度出来上がるとへと移っている。清光院は浄土真宗に帰依しており、慶長9年(1604年)頃に山口興正寺兼帯所を建立。慶長13年(1608年)頃には興正寺兼帯所をへ移転した。

寛永8年(1631年)6月20日、74歳で周防国山口宮野で死去[1]。墓は山口県萩市堀内の沙麓山天樹院跡に、輝元の墓と並んで建っている。輝元の墓は高さ2.1m、清光院の墓は高さ1.8mと大型で、いずれも花崗岩製の五輪塔形である。また、清光院の死去に伴い、興正寺を清光院の霊位安置所として「月輪山清光寺」と号するようになり、現在でも清光院の肖像画が所蔵されている。

脚注
1. 
a b 小都勇二「元就の家族」(河合正治編『毛利元就のすべて(新装版)』新人物往来社、1996年)
2. 宮本義己「足利将軍義輝の芸・豊和平調停」(初出:『政治経済史学』102・103号(1974年)/所収:木下昌規 編『シリーズ・室町幕府の研究 第四巻 足利義輝』(戎光祥出版、2018年) ISBN 978-4-86403-303-9) 2018年、P221-223.

参考文献
渡辺世祐『毛利輝元卿伝』(マツノ書店1982年
・小都勇二「元就の家族」(河合正治編『毛利元就のすべて(新装版)』新人物往来社1996年
(wikiより)

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萩藩を創設した毛利輝元の墓所。

もともとここは輝元の隠居所(四本松邸)で、輝元亡き後に天樹院という菩提寺が建てられましたが維新後に廃寺になりました。

竹林に囲まれた静かな場所に五輪搭形の墓が残っています。  

毛利輝元は、天文22年(1553)毛利隆元の長男として生まれ、永禄6年(1563)家督を相続。祖父・元就(三矢の訓えで有名な戦国の武将)の後見を受け将軍足利義輝の一字を拝領して輝元と称す。

元就没後は、両叔吉川元春と小早川隆景の補佐を受け出雲国から尼子勝久・山中幸盛らを追放、備前国の浦上宗景を圧迫し、讃岐国にも兵を出した。

天正8年(1580)信長に追われた足利義昭を厚遇し、上洛して信長と覇を争う。

同年6月、備中高松城下で講和成立直後に本能寺の変を知るが講和を守って追撃せず、秀吉の中央での制覇に好機を与える。

豊臣政権下に入っては四国・九州出征において先鋒をつとめ、参議に任官。


天正 17年 ( 1589 ) 太田川口のデルタに築城を始め、この地を広島と命名。

本拠を吉田郡山城から広島に移す。

同 19年秀吉から安芸・周防・長門・石見・出雲・備後・隠岐七ヵ国および伯耆国三郡と備中国内で 120万石の知行目録を与えられ、中国にその勢を振るった。

慶長 2年 ( 1597 ) に五大老に列せられ、秀吉の死去にあたり秀頼の補佐を委託される。

慶長 5年 ( 1600 ) の関ヶ原の役では、自身は大阪西の丸にあって西軍の総帥とみなされたため七ヵ国を削られ周防・長門両国 36万 9千石に減封された。

同 5年 10月薙髪して隠居し、家督を 6歳の秀就に譲り、同 9年 ( 1604 ) 11月築城中の萩城に移った。

寛永 2年 ( 1625 ) 萩城内で死没。73歳。 

時代戦国時代後期 - 江戸時代前期
生誕天文22年1月22日1553年2月4日[1]
死没寛永2年4月27日1625年6月2日[1]
改名幸鶴丸[1]幼名)→輝元→幻庵宗瑞[1](号)
別名少輔太郎[1]通称)、羽柴安芸宰相、羽柴安芸中納言、大江輝元
戒名天樹院殿前黄門雲巌宗瑞大居士[1]、天樹公[1]
墓所山口県萩市堀内の沙麓山天樹院[1]
官位従五位下右衛門督→ 右馬頭従四位下・ 侍従参議従三位権中納言[1]
従二位[2]
幕府室町幕府 相伴衆副将軍[3]江戸幕府
主君足利義昭豊臣秀吉秀頼徳川家康秀忠家光
長州藩藩祖
氏族大江姓毛利氏
父母父:毛利隆元[1]
母:尾崎局内藤興盛の娘、大内義隆の養女[1]
兄弟輝元徳鶴丸[4]津和野局吉見広頼室)[4]
正室南の大方宍戸隆家の娘[1]
側室二の丸殿児玉元良の娘)、
秀就[1]竹姫吉川広正正室)、就隆
養子:秀元
養女:古満姫宍戸元秀女、小早川秀秋准尊室)、羽柴秀勝室(内藤元種の娘)

〇 毛利輝元
毛利 輝元(もうり てるもと)は、戦国時代後期(安土桃山時代)から江戸時代前期にかけての武将大名安芸戦国大名毛利氏の14代当主。父は毛利隆元、祖父は毛利元就

豊臣政権五大老の一人であり、関ヶ原の戦いでは西軍の総大将となった。長州藩の藩祖でもある[5]

生涯
誕生
天文22年(1553年)1月22日、毛利隆元の嫡男として、毛利氏の居城・安芸吉田郡山城で誕生した[1]。母の尾崎局大内氏の重臣で長門守護代内藤興盛の娘であり、大内義隆の養女でもあった[6]幼名幸鶴丸(こうつるまる)と名付けられた[1]

幸鶴丸が誕生した天文22年は、天文19年(1550年)7月の井上元兼とその一族の討伐を契機に家中掟法の整備、それによる家中統制が行われ、毛利氏の「国家」が成立していた[7]。また、陶晴賢が主君・義隆を討った大寧寺の変を経て、祖父・毛利元就の権力基盤が強化された後でもあった[7]

天文23年(1554年)、防芸引分(大内氏・陶氏との断交)が行われ、翌年(1555年)に毛利氏は厳島の戦いで陶晴賢を討った。その後、防長経略も行われ、毛利氏は大内氏と陶氏を滅ぼした。さらに、尼子晴久を惣領とする尼子氏との戦いも行われ、石見国で対峙が続いた。それゆえ、父の隆元は断続的に出陣を繰り返し、幸鶴丸のもとに落ち着くことはなかった[8]

家督相続と二頭体制
永禄6年(1563年)8月4日、当主である父・隆元が尼子攻めのさなか、安芸佐々部で急死した[7]。そのため、幸鶴丸が11歳にして家督を継承するが、元就が後見して政治・軍事を執行した。この時期、安堵状・宛行状・官途状・加官状類は元就から発されており、幸鶴丸は形式的には家督を継承したものの、その権限は保留状態にあった[9]

永禄8年(1565年)2月16日、幸鶴丸は13歳のとき、吉田郡山城で元服し、室町幕府の13代将軍足利義輝より「輝」の偏諱を受けて、輝元と名乗った[10][11]。もっとも、輝元が将軍の偏諱を受けることができたのは元就が幕府に働きかけたからであり、永禄7年(1564年)12月以前から元服の準備が進められ、幸鶴丸の名を据えた花押の文書が同年半ば頃から増加したのもその一環であったと考えられる[12]

これにより、輝元は事実上の当主となり、幸鶴期には全く発給していなかった官途状・加官状類が輝元の名でも発給されるようになり、輝元自身の当主としての権限も拡大された[13]。だが、輝元と元就の連署の書状もあり、元就の後見が必要となる場面もあった[14]

永禄8年3月、輝元は毛利氏による尼子攻めに出陣し、4月の尼子氏の本拠地・月山富田城への総攻めで初陣を飾る(月山富田城の戦い[15]。この戦いにより、永禄9年(1566年)11月に尼子氏の当主・尼子義久が降伏し、毛利氏にとって長年の宿敵たる尼子氏は滅亡した[16]

永禄10年(1567年)2月、輝元は吉田郡山城へ凱旋した[16]

他方、元就自身は二頭体制に移行後、輝元の当主権限が拡大されるにつれ徐々に権限を移行し、輝元の初陣を機に隠居を考えていた[16]。だが、同年に輝元は隠居しようとする元就に隠居しないように懇願し、その隠居を断念させた[17]。15歳の輝元には毛利氏の領国を円滑に運営させてゆく自信がなく、輝元の名で領主たちの盟主たりうることは困難であった[17]。そのため、元就が死没するまで、輝元と元就の二頭政治体制が続くことになる[18]。また、叔父の吉川元春小早川隆景の2人、毛利氏庶家筆頭の福原貞俊口羽通良を合わせた4人、いわゆる「御四人」が輝元の政務を補佐した[19]

尼子氏残党の蜂起と大内輝弘の乱
永禄12年(1569年)6月、尼子勝久山中幸盛ら尼子氏の残党が蜂起し、但馬山名祐豊の支援を受け、毛利氏の支配する出雲に侵入した[20][21][22]。このとき、毛利氏の主力は豊後大友氏との戦闘のため、九州北部に展開中であり、それを狙った蜂起であった。尼子氏の残党が出雲に侵入すると、尼子氏の旧臣が集結し、7月中旬には月山富田城を攻撃した。

10月、旧主家・大内氏の残党である大内輝弘が大友氏の援軍を得て、周防に侵入した[21]。これには大内氏の遺臣らも加わり一気に勢力が拡大し、毛利氏の領国支配を乱すこととなった(大内輝弘の乱[21]

輝弘の侵入は6月の尼子氏の出雲侵入に呼応したものであり、大友氏の策略によるものであった。大友氏とは永禄7年に幕府の仲介で和睦していたが、永禄9年になると大友氏が毛利氏に属する筑前国の有力国人・高橋鑑種への攻撃を始めた[23]。その後、同じ筑前の有力国人・立花鑑載が毛利氏に付き、それに対して大友氏が立花氏の居城・立花山城を攻め落とすなど、筑前では毛利氏と大友氏の攻防が続いていた(多々良浜の戦い[23]

毛利氏は輝弘ら大内氏残党の侵入に対処するため、九州に展開していた軍勢を撤退させ、同月のうちに輝弘ら大内残党を討伐した。だが、この大内輝弘の乱により、筑前の高橋鑑種は不利な状況となり、輝元・元就・元春・隆景の連署起請文では「毛利氏が鑑種を見捨てない」ことを約束していたにもかかわらずそれを反故にする形となり、翌年に降伏を余儀なくされた[23]。毛利氏は筑前国から勢力を失ったほか、豊前国でも門司城などの一部を残して拠点を失い、北九州における毛利氏の勢力は大きく減退した[24]

永禄13年(1570年)1月、輝元は大内輝弘の乱を鎮圧したのち、尼子氏残党軍を討伐するため、元春、隆景らとともに吉田郡山城より大軍を以て出陣した[25][26]。2月に布部山の戦いで勝利したのをはじめ、次々と尼子方を打ち破り、元亀2年(1571年)8月までに山陰から駆逐した[27]。だが、尼子勝久・山中幸盛ら尼子氏の残党勢力は再興を諦めず、毛利氏に対して抵抗を続けることとなる。

織田氏との関係構築・敵対勢力との戦い
永禄8年5月、輝元が元服して3ヶ月後、京では将軍・足利義輝が三好義継三好三人衆松永久通らに討たれる永禄の変が発生し、新たな動乱の火種となった。その後、義輝の弟・一条院覚慶は還俗して足利義昭を名乗り、永禄10年に聖護院門跡の道増を使者とし、輝元を後見する元就に支援を求めた[28]。この道増は近衛尚通の子で、さらに兄の近衛稙家は義輝の義父であり、義輝の使者として幾度か西国へ下向していた[28]。義昭は道増と元就の間に構築された外交ルートを活用することを考え、尼子氏を滅ぼして上洛が可能となった毛利氏を頼ろうとしていた[28]

その後、永禄11年1月3日付で義昭から輝元に起請文が発せられたものの、元就は無用な戦線の拡大を望まず、出兵要請には応じなかった[29]。同様の要請は越後の上杉輝虎(謙信)、越前の朝倉義景、尾張の織田信長らにも行われたが、上杉輝虎は要請に難色を示し、朝倉義景も上洛に踏み切ろうとしなかった。結局、織田信長がこの要請に応じ、同年9月に義昭とともに上洛、義昭は朝廷から将軍に任命された。

永禄12年半ば以降、毛利氏と織田氏の交流が始まった。同年6月に毛利氏の主力が九州北部に出兵中、但馬山名氏の支援を受けた尼子氏残党が出雲国に侵攻した際、信長は木下秀吉坂井政尚を丹波へと出兵させて毛利氏を支援した[20]。また、信長は敵対する阿波讃岐を支配する三好氏に対抗するため、毛利氏と大友氏を調停し、和睦させた[20]

永禄13年3月以降、輝元と信長の通交が始まるようになる。3月23日付の書状では、輝元が朝廷から右衛門督に任ぜられたことに関して、義昭の御内書が発給されたことを信長が祝している[30]。また、毛利氏が要請した浦上氏の攻撃に関して、信長が時期を見て出兵すると約束したことも記されている[30]

元亀2年4月、輝元が元就との連署で信長に書状を発している[30]。その内容は尼子氏に与して出雲・伯耆沿岸部に襲来した丹後・但馬の海上勢力に対して、将軍から停止命令を発給してほしいと要請したものである[30]。信長は将軍にこれを奏達し、信長自身も命令を発している[30]

同年6月、信長が輝元・元就宛に書状を送っている[31]。その内容は、阿波の三好氏家臣・篠原長房備前国児島郡に襲来し、将軍から停止命令を発給してもらえるように輝元・元就が要請したことに関して、長房は義昭や信長と敵対状況にあり、停止命令は効果がないというものであった[31]

同月14日、輝元を後見し続けてきた元就が死去した[26]。このとき、輝元は布部山の戦いの後も出雲に在陣中であったが、新山城攻撃を目前に「元就、危篤」の報が入り、元春にその場を任せ、隆景と共に元就の病床に駆けつけたほどであった。元就の死により、輝元は毛利両川体制を中心とした重臣の補佐を受け、親政を開始する。

9月、信長は元就死去の弔意を隆景宛ての書状で示している[32]。その書状には、「讃州表発珍重に候」とあり、毛利氏が三好氏の支配する分国へ出兵を図っていたことも記されている[32]

輝元ら毛利氏は大友氏、尼子氏、三好氏、浦上氏などに戦いを有利に進めるため、将軍の権威を利用し、その過程で信長を経由しなければならなかった[32]。信長も表面的には協力姿勢を見せ、毛利氏と織田氏には軍事同盟が成立していたが、信長自身のなかでは毛利氏への優先度は低かった[32]

そのため、輝元は独力でこれらの敵を相手にせねばならなかった。輝元は元亀2年の元就没後すぐ、尼子勢を領内から駆逐し、また三好氏の分国へも侵攻した[32]。その後、元亀3年(1572年)には浦上氏とも和睦を成立させ、事実上屈服させた。これにより、毛利氏はその包囲網を瓦解させることに成功した[32]

義昭の処遇を巡って
永禄13年1月、信長は義昭に殿中御掟に追加の5ヶ条を加えた。その第一条は諸国の大名との交流に関して制限を加えるもので、義昭が御内書を出す場合には信長の添状を必要とするものであり、その効力に規制を加えるものであった[33]。これを機に信長と義昭の関係は悪化していった[33]

元亀3年(1572年)10月、信長は義昭に殿中掟書の徹底を求めるため、意見17ヶ条を出した[34]。その中では義昭の御内書の無断発給を問題視し、信長は同盟関係にあった毛利氏との交流も監督下に置こうとした[34]

元亀4年(1573年)2月9日、輝元は義昭からの推挙を得て、朝廷から右馬頭に任じられた[34]。これは輝元を与党に引き入れ、毛利氏の勢力を味方につけようとする義昭の工作でもあった[34]

信長も義昭の動きに対抗して、輝元に接近し、毛利氏との同盟関係を維持しようとした[35]。義昭は信長に対抗するため、6月に毛利氏に対して兵粮料を要求したが、輝元は信長との関係から支援しなかった[35]。そして、7月18日に義昭は槇島城の戦いに敗れ、京から退去した。信長は輝元に7月13日付の書状で、「自身が天下を静謐し、将軍家のことに関しては輝元と万事相談してその結果に従うこと」を約束している[35]

義昭追放後、輝元と信長の関係は続いた。そのため、9月7日付の御内書では、毛利氏が信長と懇意にしていることや、かつて毛利氏が将軍家を疎かにしないと提出した起請文が反故にされていることが批判されている[36]。他方、輝元が秀吉に充てた同日付の書状では、信長と義昭が和解し、義昭が京に帰還できるよう仲介を試みている[37]

輝元はまた、義昭と信長の和解を仲介する代わりに、但馬山名氏の支援を受けて反抗を続ける尼子氏残党に対抗するため、織田氏に但馬への侵攻を要請しており、信長も同意していた[37]。輝元にとってもまた、織田氏との同盟は領国を守るためには重要であり、義昭のために信長と敵対して上洛するより、信長の力を利用する道が最適であった[37]。他方、輝元は信長と義昭の仲介もあきらめておらず、両者の関係をとりもつため尽力した。

天正元年11月5日、義昭が和泉のに落ち着くと、信長からは羽柴秀吉と朝山日乗が、輝元からは安国寺恵瓊林就長が派遣され、双方の使者はともに義昭と面会し、信長と和解したうえでの帰京を説得した[38][39]。信長自身も義昭の帰京を認めていたが、義昭が信長からの人質を求めたため、交渉は決裂した[40]

輝元は義昭の処遇に関して、信長と義昭を仲介したが、それは決して室町幕府復興のために尽力したわけではなかった[40]。輝元が怖れていたのは、追放された義昭が毛利氏の領国に下向し、織田氏と全面戦争に突入することであった[40]。信長もまた、義昭の追放で畿内が動揺している今、輝元が義昭を奉じて織田氏との全面戦争に踏み切ることは避けたかったと考えられる[40]

詳しいことは「毛利輝元ウィキペディア」をご覧ください。 ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AF%9B%E5%88%A9%E8%BC%9D%E5%85%83
(wikiより)


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毛利輝元

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⇧ 右側の白壁内が毛利輝元公の墓所になります。

元々、輝元の隠居所だった四本松邸が天樹院という菩提寺になりました。

お寺は、明治維新後廃寺になり、今は墓所のみ残っています。


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⇧ 入口です。

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⇧⇩ 毛利輝元公を火葬した場所です。

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⇧⇩ もともと隠居所だったので敷地も広いです。

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⇧ 墓所入り口です。

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⇧⇩ 毛利輝元公のお墓です。

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⇧⇩ 清光院  ( 毛利輝元正室 ) のお墓です。

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益田家は、阿武郡須佐 ( 現在の須佐町 ) に領地を持っていた萩藩の家老である。

幕末の当主・親施は、13代藩主・毛利敬親を助け藩政改革を行ったが、1864 ( 元治元 ) 年、禁門の変の責任者として切腹させられた。

高い石垣の上につくられたこの矢倉 ( 武器などを入れた倉 ) は、長さ 11m、奥行約 5mの平屋建てだ、見張りに使われたといわれている。
(案内板より)

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処刑場の相首 ( おくび ) 町屋敷の不浄の門です。

山口県庁を襲撃しようとした前原一誠でしたが、戦況不利となり須佐へ脱出しました。

しかし出雲宇竜浦で逮捕され、萩へ護送されました。

斬首を宣告された前原ら七人はここで最後の酒宴を開き、前原が「ただいま冥土 ( めいど ) へ行く。なににしても勤王が第一だぜ」と大声で別れを告げ首を打たれました。享年 43歳。

つづいて、奥平謙輔、横山謙太郎、佐世一清、有福恂允、小倉信一も首をはねられました。

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楫取素彦は文政 12年(1829)、萩藩医・松島瑞璠の次男として萩に生まれ、12歳の時に萩藩の儒者・小田村吉平 ( きっぺい ) の養子となり、小田村伊之助と名乗った。

藩校明倫館で儒学を講じ、嘉永 6年 ( 1853 ) 吉田松陰の妹・寿 ( ひさ ) と結婚した。

松陰の再入獄後は後継者として、松下村塾でも指導にあたった。

慶應元年 ( 1865 ) の四境 ( しきょう ) 戦争 ( 幕長戦争 ) では幕府側との交渉にあたり、慶応 3年 ( 1867 ) 藩命により楫取素彦と改名した。

明治 9年 ( 1876 ) 初代群馬県令となり、同 17年 ( 1884 ) まで蚕糸業の振興や教育の充実に尽力した。

明治 14年 ( 1881 ) 寿と死別後、同 16年に松陰の妹で久坂玄瑞の未亡人・文 ( 踏み = 美和子 ) と再婚した。

大正元年 ( 1912 ) 没、享年 84。

この場所には、楫取素彦が養嗣子となった小田村家があった。

小田村家は代々、藩校明倫館の儒官をつとめた家柄であり、楫取素彦は義父が没した弘化 4年 ( 1847 ) 19歳のときに家督を相続、明倫館の講師となり、儒者として道を歩み始めた。
(案内板より)

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金毘羅社の建立年は不詳であるが、入口に金毘羅社に寄進された鳥居が建っており、それに延享 2年 ( 1745 ) と彫られている点や天保年間 ( 1830 ~ 43 ) に編纂された「八江萩名所図画」に現在の社そのままの姿が描かれていることなどから、少なくともそのころには建立されていたと思われる。

本殿は木像切妻造檜皮葺で桁行 1.73m、梁間 1.2m、主な用材はケヤキ、柱は丸柱である。

釣屋は桁行 5.41m、梁間 5.1mの桟瓦葺で、内部は畳敷きである。

拝殿は一重裳階付、入母屋造瓦葺、前面庇は檜皮葺、用材はケヤキ、柱は丸柱で、唐破風の桁行 4.0m、梁間 6.1mの本県独特の楼造風である。

このように社殿が地方色の濃い古い建物であることや神仏習合の形態が今でもみられる点で貴重な遺構である。

石鳥居は花崗岩製で高さ 2.8m、様式は明神鳥居で笠木・島木に反りがあり、柱には転びがあり、柱頭部には台輪がついている。

建立年代は延享 2年 ( 1745 ) である。

山門は桁行 2.42m、梁間 1.34mの棟門形式で本瓦葺、両袖に 1.35mの潜門がついている。

建築年代は不明である。

石灯籠は玄武岩製で高さ 4.3m、さらに 77cmの 4段の台座上に立ち、県下最大のものである。

竿の部分の竜の高彫はすばらしく、高さ 1.14m、直径 52cmである。

制作年代安政 5年 ( 1858 ) で萩の石工・五嶋吉平恒徳、同山中武祐利豊の共同制作であり、付近の町人たちが寄進したものである。
(案内板より)

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13代藩主・毛利敬親の侍医を務めた青木周弼が生まれ育った家。

幕末当時、日本屈指の蘭学医でもあった。

来客用と家人用の座敷に分けられた母屋が、全国から門下生が集まった青木家の事情を物語っている。

青木周弼は、享和 3 ( 1803 ) 年、周防大島郡の医師・青木玄棟の長男として生まれる。

三田尻の名医・能美友庵・洞庵父子に学び、江戸に出て蘭方医坪井信道などに学んだ。

長崎に遊学した際には、シーボルトに師事。

一時、長崎で開業するも天保 9 ( 1838 ) 年に能美洞庵などの推薦で藩医となり、嘉永元 ( 1848 ) 年、13代藩主・毛利敬親の信任を得て侍医となる。

早くから種痘法に注目し、弟・研蔵を長崎に遣わし研究させ、藩内でこれを施し大いに功を奏した。

高杉晋作が 10歳のとき疱瘡にかかった際、診療した医者としても知られる。

藩の医学館 ( 好生堂 ) 創設にかかわり、後に館長となり、防長医学の発展に大きく貢献。

周弼が培った洋学の知識は、村田清風を通じて幕末の藩政改革に生かされた。

文久 3 ( 1863 ) 年、61歳でこの世を去る。

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当屋敷は、幕末安政年間 ( 1854 ~ 59 ) に描かれた「萩城下町絵図」によると、萩藩大組士・佐伯丹下 ( 125石 ) の屋敷であったことがわかる。

佐伯丹下は幕末期、直目付や撫育方仕組掛、奥番頭役など藩の要職を歴任、多年藩の財政整理や岩国吉川家との交渉に尽力した。

明治 5年 ( 1872 ) 65歳で没するまで、この家が本拠であった。

その後、安富五三郎 ( 通称 : 伊勢屋 ) の所有になり、親戚の久原房之助が衆議院議員に立候補の時には選挙事務所になったこともある。

戦時中は九州大学名誉教授の永瀬純次郎が住み、戦後は萩中学校長の河内才三や、第六高等学校 ( 現岡山大学 ) 校長の金子幹太などが住んでいた。

屋敷は昔の状態がよく保たれており、映画のロケにも使われたことがある。

・「直目付」藩士の職務等を観察する役。

・「撫育方」藩の別途会計を管理する役所。

・「奥番頭役」藩主の側に仕え殿中の諸事一切を統括する役。
(案内板より)

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・菊屋家住宅 主屋・本蔵・金蔵・米蔵・釜場 五棟

萩藩の御用も勤めた豪商の家。

主屋は切妻造り、桟瓦葺きで北面し、西側に通り土間があり、床上部は前寄り一間半を店とし、その奥は横に二または三室が三列に配されていた。

全国でも最古に属する大型の町家として極めて貴重。

主屋と数棟の蔵が立ち並ぶ西側の景観は見ごたえがあり、国指定史跡萩城城下町の地域内にあってその重要な構成要素の一をなしている。

(主屋 17世紀前半、他 18 ~ 19世紀)
(案内板より)

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呉服商・酒造業を営んでいた久保田家は、主屋、門、塀、離れが旧御成道に面し、菊屋家の主屋同士が向かい合い、立ちの低い菊屋家の主屋に対し、旧久保田家の主屋は、屋根裏に物置や使用人の寝間を設けた「つし二階」を持ち、立ちが高く、両者の対比は、それぞれの建物が建てられた時代的特色をよく表している。

幕末から明治前期にかけての建物として、意匠・構造・技術に優れ、酒造業で繁栄した往時の状況も良く伝えており、史跡萩城城下町を構成する極めて重要な建物である。
(案内板より)

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田中義一 ( 1864 - 1929 )

近代の軍人、政治家、男爵。

藩主の御六尺 ( かごかき ) 田中家の三男として呉服町に出生。

13歳のときに新堀小学校の授業生 ( 代用教員 ) に登用され、萩の乱にも参加したが、のち陸大に進学した。

大正 7年以降陸軍大臣、次いで大将に進み、再び陸軍大臣となる。

大正 14年政友会総裁に就任、昭和 2年内閣総理大臣となり、外務大臣をも兼任した。
(案内板より)

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