本牧jack『意外と身近にある歴史散歩』日々是好日 心灯 頬笑

本牧Jackで御座います
小生の拙ブログ『意外と身近にある歴史散歩』日々是好日 心灯 頬笑に御訪問頂き誠に有難う御座います。
歴史ドラマが流行っている昨今、身近に有って気が付かなかったりする様な物を取り上げたりしています。
たまに『 大人数で取材しているのか? 』との質問を戴きますが、小生と相方の二人三脚で御座います。
出来るだけ続けたいと思っていますが 膝・耳に問題が有って、いつまで出来るやら・・・説明も、やたら長いものから あっさりしたものまで有りますが、御付き合いの程 宜しく御願い致します。
御注意 . 少ないですが生前に建てられた『 生前墓 』の記事も有ります。 ※ 申し訳御座いませんが「画像の転用」は禁止とさせて頂きます。 コメントは原則公開させていただいております 質問等に対してはブログ記事で返信させていただきます 他の方法で連絡を取り合う等一切しません 場合によっては、「IPブロック」しますがブロックした場合解除する事は有りませんので宜しくお願いします。

2024/05

上田で宿泊するので相方と出かけてみました ( 1週間前に予約済み )

 

入店するときに、2グループがいたのですが予約していなかったのか 入店できませんでした。


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⇧ 店外観

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1階は満員状態で、通されたのは2階の個室です。

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⇧ メニュー

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⇧ お通し 味玉とローストビーフ ( 酢と大根でさっぱり )

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⇧ 1杯目はビール小で・・・

 

相方は、栗焼酎・栗天照 ( 宮崎 ) のお湯割りを注文。


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⇧ 刺身 5点盛り ( 右側から、ヤイトガツオのたたき、ヒムカ本サバ、熟成シマアジ、大トロ、本マグロ赤身 ) 

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⇧ 熱燗 月吉野 ( 長野県上田市 ) やや辛口 冷酒でもアツカンでも美味しくいただけます。

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⇧ おまかせ 10本盛り ( 右から、はらみ、ねぎま、すなぎも、つくね、かしら )

 

これに・・・・・ ジャーン


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⇧⇩ 美味 ( おい ) だれ登場 これを焼き鳥にかけて食べるそうです

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⇧ これはヤバイ ニンニクやら色々入ってます 特に、ニンニクのニオイがヤバイと言いながら僕はメチャつけて食べました。

 

また熱燗をお代わりしたんですが撮影のせず飲んでしまいました

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⇧ イラの梅みょうが和え ( イラという魚の切り身の梅みょうが和えです )

お口直しも出来て大満足、ホテルまで数分歩いて帰ります。

 



食酒屋 るり家 ( 食べログ )

 






〇 川中島合戦をしのぶ田中月亀翁父子の歌碑

田中月亀翁は本名亀太郎、現長野市更北の人で、松代藩主・真田幸教に仕え、学問に熱心で、歌道に長じ、その子亀作も亀守 ( かめもり ) と号し、風雅の道で知られていた。

この歌碑は、田中父子の和歌をしるしたもので、表の和歌は、川中島の大激戦の様子をしのび、裏の和歌は、大合戦の終わった後のここ八幡原 ( はちまんばら ) 一帯の情景を歌ったものである。

( 表 ) 跡しのぶ 川中島の朝あらし

      いぶきのさ霧 おもかげに見ゆ

                   月廼亀麿 ( つきの かめまろ )

( 裏 ) 月影の入 ( いり ) にし後 ( のち ) も ほととぎす

      ひとこえ残す 小島田の里

                   月廼亀守 ( つきの かめもり )
(案内板より)

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明治 38年創業の「みますや」さんに行って来ました

 

東京で一番古い飲み屋だそうです


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⇧ 昼間でも メチャ良い雰囲気です。

昼間はランチもしているので、ランチの時間にも来て見たいです。


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⇧ 換気扇のカバーも木製でお洒落ですのう。


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⇧ 夜です もうヤル気満々です ( 笑 )

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⇧⇩ 店内の雰囲気

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⇧ お酒のメニュー

意外とリーズナブルですね。


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⇧ お通し もずく酢


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⇧ 神亀 ( しんかめ ) 埼玉 750円


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⇧ 芋焼酎 佐藤 ( お湯割り ) 750円



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⇧⇩ 芋焼酎 佐藤 ( お湯割り ) 750円

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⇧ お湯割り完成。

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⇧ こはだ刺身

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⇧ 焼き鳥

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⇧ 南部美人 ( なんぶびじん ) 岩手 750円

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⇧ 馬刺し ( 霜降り ) 

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⇧ 厚揚げ豆腐

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⇧ 日高見 ( ひだかみ ) 宮城 750円

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⇧ 鳥の唐揚げ


2024年 3月 30日 再訪

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⇧ 店外観

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 ⇧ メニュー

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⇧ 日本酒あつ燗 ( 2合 )

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⇧ 焼酎の炭酸割り

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⇧ 馬刺し ( 赤身 )

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⇧ 漬物



小川町 : みますや ( 食べログ )


 

 

 


この建物は、明治三十五年五月二十二日皇太子嘉仁 ( よしひと ) 親王殿下 ( 後の大正天皇 ) が、この歴史的景勝地八幡原の史蹟を御見学の為行啓され ( 参道右手に石垣に囲まれた二本の松はその折り、殿下が植えられたもの ) その後も県内外より史蹟見学者が多数訪れ、湯茶接待を行うための休憩所 ( 二間半四方丸木堀立板葺 ) として使用された建物址である。
(案内板より)

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一時期店を閉められていた為、中々来られませんでした

 

きょうは近くまで来たので念願が叶いました ( 笑 )

こちらのお店 孤独のグルメ 197話で登場しました。


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⇧ 店外観

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⇧ 店内観

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⇧⇩ メニュー

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⇧ ラーメン

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⇧⇩ 半チャーハン

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⇧ 餃子

 

 

( 食べログ )

 

 



ただ軍の軍旗であるこの旗は、別名「孫子」の旗ともいわれ、もともと鮮麗な紺色の絹布に金泥で書いたもので、字句は兵法の聖典「孫子」の一節で、武田氏の菩提寺恵林寺 ( えりんじ ) の禅僧快川紹喜 ( かいせんじょうき ) の筆になるものである。

「疾 ( はや ) きこと風の如く、徐 ( しず ) かなること林の如く、侵掠 ( しんりゃく ) すること火の如く、動かざること山の如し」

これは合戦にのぞみ、軍隊とはかくあるべきことを教えたもので、孫子の研究者として戦国時代の最高峰といわれた信玄の軍隊運用術でもあった。

武田軍の軍旗としては、このほかに「南無諏訪南宮法性上下大明神」の旗があり、「風林火山」の旗と共に武田軍の象徴である。
(案内板より)  

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門司を散歩していて発見 

 

この雰囲気は入らなければ駄目ですね

 

しかし回転率が良いです 

 

お客さんが、どんどん入ってきても余裕です ( 専用駐車場有り )

 

入り口と出口が違うので注意ですね。

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⇧ ちなみにこっちは出口の方です。

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⇧ メニュー

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⇧ ラーメンです

スープは豚骨しょうゆ&ショウガなので、さっぱりとしています。

 




ラーメン 太平山 ( 食べログ


)

 

 




上杉軍の軍旗で、「毘 ( び )」は上杉謙信が信仰した毘沙門天 ( びしゃもんてん ) を意味し、戦場にこの旗と共にあることは毘沙門天と共にあり、その加護のもと上杉軍将兵は勇往邁進し、水火も辞さない勇気を示したといわれる。

「龍」は乱れ龍を意味し、突撃の時まっ先に押し立てて進んだ「突撃用軍旗」である。

永禄四年 ( 一五六一 ) 九月十日の川中島合戦もこの旗で火蓋が切られたのである。

謙信自らの信仰心に発する「昆」の旗と共に、この旗は上杉軍の勇猛果敢さを象徴し戦わずして敵の恐怖心を誘発したといわれる。
(案内板より)

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浅草弁天さんでお腹一杯そばを食べて家に向かって歩き出すと・・・

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⇧ 美味しそうなお店を発見

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お話を聞くと、もう長いことお店を開いているとのこと ( 知らんかった )

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お腹一杯なのに、モンブランとイチゴのショートケーキを購入 ( 笑 ) 

 

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⇧ イチゴのショートケーキ

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⇧ モンブラン

 

食べてみると何方も素材の味を生かして美味しいですよ♪

 

これはリピーターになる可能性大です。


 

La Patisserie de Natsu ( 食べログ )

 





永禄 4年 ( 1561 ) 9月 10日、ここ八幡原 ( はちまんばら ) を中心に上杉、武田両軍 3万余の壮絶な死闘が展開された。

上杉謙信は紺糸威 ( こんいろおどし ) の鎧 ( よろい ) に萌黄緞子 ( もえぎどんす ) の胴肩衣 ( どうかたきぬ )、金の兜に立烏帽子白妙 ( たてえぼししろたえ ) の練絹 ( ねりぎぬ ) で行人包 ( ぎょうにんつつみ )、長光 ( ながみつ ) の太刀を抜き放ち、名馬放生 ( ほうしょう ) に跨り戦況の進展に注目、乱戦で武田本陣が手薄になったのをみ、旗本数騎をつれ信玄の本営を強襲した。

この時の武田信玄は諏訪法性 ( すわほっしょう ) の兜、黒糸縅の鎧の上に緋 ( ひ ) の法衣、軍配を右手にもち、この地で崩れかかる諸隊を激励指揮していた。

この信玄めがけて謙信は只一騎、隼の如く駆け寄りざま、馬上より流星一閃、信玄は軍配で受けたが、続く二の太刀で腕を、三の太刀で肩に傷を負った。

後にこの軍配を調べたところ刀の跡が七ヶ所もあったといわれ、この一騎討ちの跡を世に三太刀七太刀之跡という。
(案内板より)

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ここの所 旅行で「 こってり系 」が続いたので、さっぱりしたいという事で、散歩がてら歩いて浅草の弁天さんへ

 

開店前に到着したので、店前には10人ぐらいの人が待ってました。

 

はまぐりが良いですねぇ 相方は「 はまぐりせいろ 」、僕はざる ( 大盛り ) 本当に蕎麦が美味しいと思う年齢になったなぁ・・・

 

蕎麦湯も飲みたかったけど蕎麦猪口のつゆが多いので今回はパス

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⇧ 店外観

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⇧ 相方がチョイスした「 はまぐりせいろ 」

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⇧ しかしはまぐりがデカい ( 笑 )

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⇧ ざる ( 大盛り )

 



そば処 弁天 ( 食べログ )





現在八幡社境内西北の隅に蓋がされている井戸がある。

真夜中になると、井戸底から、戦死者の怨霊の悲鳴が聞こえるという。
(パンフレットより)

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上田の焼きそばといえば「あんかけ」が定番と聞いて、絶対に食べなければと来ました

 

お店も上田では老舗なんだそうですよ。

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⇧ 店外観 

上田駅 ( お城口 ) を出てから左に曲がり、少しの場所にモリタは有ります。( 駅から2 ~ 3分 )

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⇧ 良い雰囲気の看板です ( 笑 )

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⇧ メニュー

 

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⇧ ラーメン 520円

ぶっちゃけ通常の大盛りレベルの量です

スープの感じも昔懐かしい「中華そば」です。


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⇧ 餃子もニンニクがガッツリ効いて、口臭なんて「どんとこい!!」です。


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⇧ 上田名物 あんかけ焼きそば ( 柔らかめの麺です ) 

これがメチャ美味しい


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⇧ あんかけ焼きそばに、かけて味変する「酢からし」

これもメチャ良い感じでした。


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⇧ チャーハンについてくるようなスープも付属します ( ボケちゃってゴメン )



上田 : 中華モリタ ( 食べログ )





 

永禄 4年の合戦のあと、武田方の梅津城代・高坂弾正が、一帯に散乱する戦死者の遺体を敵味方区別無く手厚く葬った塚とされる。

昔は付近に数基あったいうが、現存しているのは二基だけで、もう一基は八幡社の南 200メートル程の所にある。
(パンフレットより)

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2021年 2月 11日 再訪


11時 38分の入店だったので隣の店舗の方に通されました。

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⇧⇩ 店外観

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⇧ 店内観

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⇧ エビ春巻

 

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⇧ かた焼きそばではなく、通常の焼きそば

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⇧ サンマーメン ( サンマーメンというと伊勢佐木町の玉泉亭が有名ですが、玉泉亭とは完全に別物です )


ちなみに横浜の中華料理店で一番の老舗が、伊勢佐木町の玉泉亭と石川町の奇珍楼と言われていて、サンマーメンの発祥も「この2店舗」とも言われています ( 異説あり )

 

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⇧ シューマイ 10個、お土産にしました ( 5個単位 )

 


ご馳走様でした。


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横浜の中華店では老舗中の老舗で有名です。

 

この時も開店 5分で満員 ( 驚 ) 

またシューマイを「おみやげ」にする人も多く、30個、50個とオーダーが入ります。

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⇧ 店外観 

よく見ると 2軒が1軒に繋がっているんです。

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⇧ 店内観

 

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⇧⇩ メニュー

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⇧ ラーメン

しなちくがメチャ太い、スープは甘いです。

 

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⇧ チャーハン

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⇧ ザーサイ

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⇧ シューマイ



奇珍 ( 奇珍楼 )








今回は 301 ~ 391番まで紹介します。

御祭神 三九一柱
・吉田松陰:一柱
・高杉晋作、久坂義助、入江九一、吉田稔麿、河上弥一、白石正一郎、白石廉作、山県有朋 等、
 
長州藩奇兵隊士:二五六柱
・泉十郎、熊野直助 等、
 
浦藩報国隊士:九六柱
・膺徴隊、八幡隊、遊撃隊、整武隊、清末藩育英隊等諸隊士: 三八柱

 招魂碑の御名前と違う場合も有ります。

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301 三島現八忠之

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302 早川文三

303

303 増野矢之助

304

304 吉武五郎清久
 
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305 橋本九兵衛忠誠

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306 高橋源吾

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307 熊和惣五郎正

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308 植田謙三正致

309

309 山本弥八

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310 上田仁兵衛

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311 後藤酒兵衛正信

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312 吉田喜三郎正光

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313 山名孫八政次

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314 平野耕造行家

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315 岡村常吉行信

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316 阪本伊三郎清則

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317 江見謙介正勝

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318 榎本清蔵信喬

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319 下田小太郎正行

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320 河田源太郎直一

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321 畠中孫助喬秀

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322 阿川五郎国光

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323 藤井直江正治

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324 大崎源吾忠勝

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325 原新兵衛辰繁

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326 関中力蔵義之

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327 原吉太郎貞徳

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328 渋谷処吉年之

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329 石田幾次郎光吉

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330 石井兵蔵重信

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331 坂井栄太郎義一

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332 平尾磯之助正一

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333 井上三郎正一

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334 無敵幸之進勝行

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335 堀尾六郎範勝

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336 児玉雷蔵春唯

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337 清水甚蔵範正

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338 上原二九郎利之

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339 穴山一俊幸

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340 勝見善太郎末高

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341 滝川六郎資直

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342 倉光新吉亮正

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343 迫田為太郎清治

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344 勝原国介棟栄

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345 下村文次郎高俊

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346 下田恂介

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347 千葉三郎忠明

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348 熊野直介則之

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349 泉十郎重次

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350 有川恒槌紀綱

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351 岩本勘九郎

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352 藤村英次郎稔彦

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353 元森熊次郎春幹

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354 熊美平吾宜一

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355 山田鵬輔成功

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356 藤村太郎稲彦

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357 前兵部少丞 交野◇

※ ◇は判読不可でした。

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358 河上弥一

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359 吉田稔麿秀実

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360 久坂義助通武

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361 松陰吉田先生

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362 高杉晋作春風

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363 入江九一弘致

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364 時山直八養直

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365 福田侠平公明

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366 宮城彦助御楯

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367 堀潜太郎春峰

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368 阿川四郎延実

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369 十川東之勝忠一

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370 天宮慎太郎行文

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371 堀滝太郎浪風

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372 山県有朋

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373 小田村信之進

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374 永野熊之允政和

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375 井関英太郎

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376 周田半蔵 

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377 伊藤百合五郎

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378 白石廉作資敏

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379 田中弁蔵知忠

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380 伊東貞三祐久

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381 下瀬熊之進

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382 山内賢之充通喜

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383 白石資風

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384 阿部宗兵衛吉道

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385 南野一郎

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386 尾川清足

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387 堀平三郎知忠

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388 世木騎騄義安

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389 和田小伝次唯之

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390 臼井留之助平胤勝

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391 松尾甲之進

以上 391の招魂碑でした。



旭川は 2度目なんですが美瑛に移動して宿泊しました


この日は雨に祟られて良いこと無し・・・


宿からお店までは 3~ 4分なのですが、雨が強いので長く感じました。

 
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⇧ 店外観

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⇧ 着席

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⇧ お通しは つぶ貝 ( お通しの量からして多め )

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⇧ メニュー 美味しいものがたっぷり

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⇧ とりあえず日本酒で・・・ 日本酒は こんな感じで供されます。

増毛 : 国稀 鬼ころし 500円

 

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⇧  相方は、グレープフルーツ凍らせサワー 500円

おかわりは、「注ぎ足し 250円」です。


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⇧ 活 北海しまえび

 

もう日本酒が進む進む


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⇧ するめいか炙り

これだけで酔いつぶれるまで呑めるほどの美味しさ。


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⇧ 厚岸 まるえもん牡蠣

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⇧ 日本酒おかわり

根室 : 北の勝ち 本醸造 500円

 

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⇧ 20cmオーバーの本ししゃも このサイズは中々無いそうです。

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⇧ 刺身盛り合わせ

 

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⇧ またまた日本酒おかわり

釧路 : 福司 純米 500円

 

この3種類のお酒は日本酒らしく飲みやすかったです。

 

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⇧ ふらのとうもろこしかき揚げ

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⇧ 自家製つくね串

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⇧ 美瑛 和豚串

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⇧ 〆はサッポロラガークラシックですね ( がっついて飲んじゃいました )

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⇧ 相方はグレープフルーツサワー



美味しいお酒に美味しい肴を堪能しました。


店員さんの対応も良い素敵なお店でした。



美瑛 : びえい和牛と旬彩 炭火割烹 亀鶴 ( 食べログ )







今回は 201 ~ 300番まで紹介します。

御祭神 三九一柱
・吉田松陰:一柱
・高杉晋作、久坂義助、入江九一、吉田稔麿、河上弥一、白石正一郎、白石廉作、山県有朋 等、
 
長州藩奇兵隊士:二五六柱
・泉十郎、熊野直助 等、
 
浦藩報国隊士:九六柱
・膺徴隊、八幡隊、遊撃隊、整武隊、清末藩育英隊等諸隊士: 三八柱

 招魂碑の御名前と違う場合も有ります。

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201 長網滝吉好文

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202 武末孫六末永

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203 吉崎常吉通行

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204 吉津定吉利政

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205 勝岡弥九郎信好

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206 金田常吉正盛

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207 河崎友次郎正勝

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208 金山太郎熊忠貫

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209 川崎八郎行光

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210 渡辺幸助章

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211 太田銀次郎正光

212

212 岡本勝右衛門吉豊

213

213 大藤季吉一好

214

214 徳永権次郎忠勝

215

215 処光蔵正勝

216

216 本田三郎金吉

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217 萩原次郎右衛門忠孝

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218 一柳勇次郎忠明

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219 泉光蔵時明

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220 入船米吉信光

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221 木原四郎

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222 阿武市之丞

223

223 福田直右衛永光

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224 土田内蔵太

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225 佐々木又四郎満寛

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226 小枝正之助守義

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227 中村高平

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228 長尾兵馬春景

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229 三井弦次郎

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230 福田儀作任風

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231 吉村盛之助忠光

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232 吉村虎吉

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233 寺岡軍一

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234 中村広太郎国久

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235 土井熊吉忠臣

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236 井石和作茂秀

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237 山田梅吉正明

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238 高橋五郎高政

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239 武井満太郎等実

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240 矢野伊兵衛直行

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241 吉岡三郎綱重

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242 岡田辰太郎正明

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243 泰音之進嘉延

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244 斎藤亀蔵

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245 西林利吉(正行)

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246 村田団蔵

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247 本田寅之助芳忠

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248 飯田楳之丞敬之

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249 河村次郎通治

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250 田中英作義之

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251 杉浦喜代三信之

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252 佐伯多三郎正道

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253 西山八十槌長安

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254 柳半之丞之道

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255 田村熊吉郎恵満

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256 正木泰蔵正行

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257 水津惣之助重義

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258 森重菊次郎謙

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259 斎藤千熊幸郷

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260 町田道之助勝久

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261 藤田吉作則忠

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262 松江安右衛門

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263 福田弥太郎正重

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264 森脇三右衛門忠信

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265 遵海坊鬼顔

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266 戸沢竹次郎政勝

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267 藤重源九郎行政

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268 藤井一郎雅章

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269 榊原剛之助勝忠

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270 竹森源二

271

271 藤田育太郎義懐

272

272 早川源次郎

273

273 藤川清次徳一

274

274 入江勝馬一義

275

275 石川伊三郎義忠

276

276 大村精次郎義忠

277

277 本田政之助

278

278 石川和三郎勝久

279

279 伊藤俊三政寿

280

280 佐々木五右衛門綱孝

281

281 杉山蔦太郎秀清

282

282 渡辺八郎英

283

283 山田藤五郎貞光

284

284 植木百合次正之

285

285 大本昇勝喜

286

286 山本泰三

287

287 北島保介

288

288 久富豊

289

289 山田寅之助盛次

290

290 三分利徳三郎

291

291 今津宇三郎

292

292 内山太郎右衛

293

293 堀弥四郎敬忠

294

294 山徳権之丞

295

295 山本弁蔵道輝

296

296 山本作蔵

297

297 広瀬徹和義

298

298 国弘数馬一之

299

299 徳永九十九忠信

300

300 山県保助義幸



次回はは 301 ~ 391番まで紹介します。




久々に鎌倉を散歩して八幡様前の、段葛 こ寿々(だんかずら こすず)  さんで食事をしました。

 

此方では、そば以外に「 わらび餅 」も名物です。

 
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⇧ 店外観

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⇧ 店内観

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⇧⇩ メニュー

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⇧ もりそば

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⇧ こ寿々そば


鎌倉 : 段葛 こ寿々 ( お店ホームページ )





今回は 101 ~ 200番まで紹介します。

御祭神 三九一柱
・吉田松陰:一柱
・高杉晋作、久坂義助、入江九一、吉田稔麿、河上弥一、白石正一郎、白石廉作、山県有朋 等、
 
長州藩奇兵隊士:二五六柱
・泉十郎、熊野直助 等、

浦藩報国隊士:九六柱
・膺徴隊、八幡隊、遊撃隊、整武隊、清末藩育英隊等諸隊士: 三八柱

 招魂碑の御名前と違う場合も有ります。

101

101 山中杢助盛幸

102

102 上領重三安利

103

103 奈良尾源兵衛義民

104

104 金山儀十郎忠直

105

105 杉野晋八

106

106 橋本常吉孝幸

107

107 末武省作定国

108

108 関謙三正直

109

109 船木良蔵

110

110 吉田治三郎

111

111 井尻友蔵

112

112 藤本利吉

113

113 久富信吉

114

114 中尾千之丞忠光

115

115 酒井定五郎

116

116 多々野六郎正景

117

117 加藤房蔵

118

118 石田五郎直明

119

119 原川助右衛門安則

120

120 野田蔵之進信利

121

121 山下半三郎安邦

122

122 安部直人

123

123 萩原忠一郎忠秀

124

124 村岡彦十郎

125

125 田村勇人義之

126

126 木原亀之進弘幸

127

127 山浪松蔵千治

128

128 今井満田郎忠備

129

129 西本四郎勝正

130

130 平賀宗四郎政一

131

131 檜垣五三郎貞静

132

132 藤田平太郎岸彦

133

133 粂八

134

134 堀虎蔵

135

135 中村元之親清忠

136

136 矢玉助太郎

137

137 藤野浪太郎秀一

138

138 伊藤虎松直之

139

139 古川順蔵正勝

140

140 松原与兵衛時治

141

141 飯田幸十郎勝真

142

142 中村水穂

143

143 本郷志摩之助

144

144 御手洗音五郎光重

145

145 磯野虎蔵正一

146

146 若月健蔵勝正

147

147 大枝八郎義鎌

148

148 渡辺逸蔵義之

149

149 福間辰之助久重

150

150 梅村喜代三春行

151

151 見義市蔵助光

152

152 木原祐太郎虎重

153

153 山崎四方七昌貫

154

154 安部清見

155

155 飯沼三千助(元春)

156

156 井上収蔵

157

157 玉江芳彦美臣

158

158 美香房之進忠義

159

159 山田滝太郎義忠

160

160 十河彦四郎義一

161

161 有田彦兵衛忠光

162

162 村上小次郎周徳

163

163 関口弥太郎兼房

164

164 大野秀兵衛義光

165

165 隅次郎秀光

166

166 梅津熊之進正義

167

167 守永光之進一正

168

168 徳見与五郎忠信

169

169 春日与七芳風

170

170 山城平吉政久

171

171 橘式部信秀

172

172 重富秀之進義明

173

173 伊藤清治祐俊

174

174 内田文吉清忠

175

175 柳良平守忠

176

176 藤野正助

177

177 高橋市之進

178

178 秋枝庄太郎

179

179 山下豊吉

180

180 長岡勘助国光

181

181 永山勝四郎光行

182

182 中井源次郎忠一

183

183 梅林芳助忠一

184

184 野上繁九郎信綱

185

185 国重直人与芳

186

186 黒塚源吾信弘

187

187 工藤合輔順豊

188

188 日下房助信義

189

189 国村貞右衛門正明

190

190 山尾謙次勝信

191

191 松田新兵衛雪範

192

192 舛見栄作忠清

193

193 深津信吉清喬

194

194 藤永政助雪範

195

195 福田忠蔵武俊

196

196 福原林之助俊喬

197

197 作間友槌信忠

198

198 水野清蔵範正

199

199 北村忠蔵光信

200

200 藤吉


次回は 201 ~ 300番まで紹介します。




浅草象潟にあるお店です。( 2020年年末近くに訪問 )

五千円 (税別) のコースをお願いしました。

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⇧ 店外観

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⇧ 店内観

落ち着いた感じで良いですね。

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まずは中生ビールを飲んでから黒龍を注文しました。

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⇧ 先付 湯豆富沢煮椀

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⇧ 前八寸 鮟肝と分葱のぬた、海老芝煮、花豆蜜煮、木の子と春菊のお浸し、真鱈フライ、金目鯛山椒焼き、クリームチーズ味噌煮。

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⇧ 2杯目は、ヘト💧

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⇧ 造里 季節の鮮魚

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⇧ 焼物 鰤柚庵焼き芽キャベツと焼海苔

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⇧ 醸し人九平次

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⇧ 揚物 雲子天ぷらからすみがけ

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⇧ 鮟鱇信田煮

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⇧ 牡蠣と蓮根の土鍋ごはん、香物、味噌汁

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⇧ 甘味 キウイソルベ

とても美味しかったです。



浅草 : こへると ( 店ホームページ )






櫻山神社(さくらやまじんじゃ)は山口県下関市に鎮座する神社[1]

祭神
吉田松陰 1柱
高杉晋作久坂義助入江九一吉田稔麿河上弥市 5柱、
白石正一郎、白石廉作、山県有朋 等 長州藩奇兵隊士 256柱
・泉十郎、熊野直助 等 豊浦藩報国隊士 96柱
・膺懲隊、八幡隊、遊撃隊、整武隊、清末藩育英隊等諸隊士 38柱 計391柱(霊標は391柱だが合祀され神霊名簿に記載されている神霊は857柱[2]

歴史
文久3年(1863年)の下関事件を受け、高杉晋作は奇兵隊を結成した。同年10月(1864年11月)殉国の志士の神霊を祀る招魂場の創建を発議した。文久4年1月23日(1864年3月2日)、白石正一郎らにより下関の新地岡の原に招魂場の創建(社殿は翌月から着工されたが下関戦争、禁門の変といった動乱続きにより落成したのは元治の内乱で藩論が統一された後の元治2年8月3日(1865年9月22日)であった)[3]。明治5年8月20日(1872年9月22日)、防長各所の招魂場を合祀。同年9月1日(1872年10月3日)豊浦藩報国隊士を合祀。

1959年吉田松陰没後百年祭にあたり山縣有朋等23柱を追祀。2016年
前原一誠ら6柱を合祀。[4]

参考文献
櫻山神社 公式サイト
“東流西流”. 山口新聞. (2016年10月30日)
“御由緒”. 櫻山神社. (2018年5月9日)
“下関の桜山神社「前原一誠」合祀”. 山口新聞. (2016年8月12日)

関連項目
招魂社    

外部リンク
櫻山神社 公式サイト       
(wikiより)

御祭神 三九一柱
・吉田松陰:一柱
・高杉晋作、久坂義助、入江九一、
 吉田稔麿、河上弥一、
 白石正一郎、白石廉作、
 山県有朋 等、
 長州藩奇兵隊士:二五六柱
・泉十郎、熊野直助 等、
 浦藩報国隊士:九六柱
・膺徴隊、八幡隊、遊撃隊、
 整武隊、
 清末藩育英隊等諸隊士: 三八柱

 招魂碑の御名前と違う場合も有ります。

30i

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⇧ 中央の背が高い招魂碑が吉田松陰です。

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⇧ 入口の門

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⇧ 招魂墓地全景 ( 中央左側に桜が咲いていました。2022.11.11. )

1

1 権右エ門

2

2 久光秀太郎秀光

3

3 杉浦梅五郎義一

4

4 楊井安右衛門政之

5

5 森重謙介

6

6 上田滝之助

7

7 皆川謙蔵義虎

8

8 久松

9

9 末村綱次郎守節

10

10 生雲五郎一友信

11

11 奇兵隊別当 喜作

12

12 奇兵隊小者 利吉

13

13 奇兵隊工人 治助

14

14 14 奇兵隊小者 友吉

15

15 奇兵隊小者 喜八

16

16 奇兵隊小者 広吉招魂碑

17

17 柳井寅之助正明

18

18 岡村房助義勝

19

19 奇兵隊付郷侠組 久松

20

20 奇兵隊別当 清助

21

21 笹倉新之丞正義

22

22 橋本虎松孝幸

23

23 柏多牧太安親

24

24 末久亀二郎久勝

25
 
25 山下次郎鬼一

26

26 田辺五郎正道

27

27 永田真平

28

28 細川清若儀金

29

29 野村織之助

30

30 原田幸三郎正義

31

31 杉山深太郎正一

32

32 和田十郎清門

33

33 和田三郎義一

34

34 藤岡三右衛門義道

35

35 磯野熊蔵

36

36 田中初太郎

37

37 依儀復忠道

38

38 長府屋由五郎

39

39 奇兵隊小者 弥吉

40

40 佐伯武治郎義武

41

41 前兵部権大録 木村文太郎

42

42 関奥小路 山形屋甚兵衛

43

43 池田与吉

44

44 波田仙一

45

45 平田四郎忠勝

46

46 三輪内蔵主

47

47 井関閑斉儀憐

48

48 奇兵隊小者 松次郎

49

49 今永順治

50

50 藤原静馬秀友

51

51 奇兵隊小者 冨蔵

52

52 渡辺九郎明

53

53 片山高岳

54

54 宮崎浅太郎基

55

55 軍曹 赤間関也藤原公任

56

56 奇兵隊別当 利吉

57

57 井上勝之進康同

58

58 桐原二平

59

59 奇兵隊郷侠組 要吉

60

60 上田村 九兵衛

61

61 上田村 嘉吉

62

62 山県清之進清澄

63

63 小村五郎

64

64 守川豊 

65

65 植田楳之允

66

66 鹿蔵

67

67 幸助

68

68 小使 竹蔵招

69

69 江本豊太郎孝敷

70

70 枝川貞吉正芳

71

71 箙梅吉

72

72 島弥太郎勝正

73

73 末永勝之進信吉

74

74 原勝蔵広行

75

75 上杉六郎良虎

76

76 直江政吉実行

77

77 大原新五郎正敬

78

78 原田儀助朝吉

79

79 岡村勝三郎新国

80

80 小川直八道近

81

81 園田伝吉保次

82

82 杉山重吉忠義

83

83 稲田次郎

84

84 河野三郎信義

85

85 植田村 喜代三郎

86

86 国島栄三高徳

87

87 久我亀吉忠行

88

88 竹林次郎英生

89

89 廣世徹和儀

90

90 伯野波江

91

91 馬屋原彦右衛門

92

92 岡田五郎忠義

93

93 吉富信吉

94

94 原勝之進為則

95

95 三栖谷建礼

96

96 小須賀逸衛知良

97

97 西山八郎勝清

98

98 芳川道祐正義

100

99 高橋淳太郎忠信

99

100 三浦平之介義英

次回は 101 ~ 200番まで紹介します。


このお店「 3年B組金八先生 」でもチョクチョク出てきたお店です。


たまたま別件で歩いていて発見しました 


これは入店しなければダメですね

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⇧ 店外観 


見たままの昭和感満載です。

 

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⇧⇩ 店内


もっと撮影したかったのですが、ほかにお客様がいらっしゃったので・・・


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⇧ ラーメン

本当に昔懐かしいラーメンです。

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⇧ 焼きそば

お好みで、別にソースを出してくれます。

 

どちらも美味しくいただきました。

 

 

 

足立区柳原 : 日の出屋 ( 食べログ )







鎮座地 : 長野市小島田町新田一三六二番地一

御祭神 : 誉田別尊 ( ほんだわけのみこと ) 建御名方命 ( たけみなかたのみこと )

由緒

祭神の誉田別尊は第十五代応神天皇の諱 ( いみな ) で神宮皇后 ( じんぐうこうごう ) を母とし在位四十一年に亘大陸の文化を積極的にとり入れられ、古代日本の文化の向上、国家の発展に尽くされた御功績が仰がれ皇室の崇敬する神であるばかりでなく源氏一族をはじめ武人の神、弓矢八幡と称して全国各地へ勧請 ( かんじょう ) され、開拓の守護神、農耕神としても信仰されました。

当社においても平安中期、源顕清が信濃の国に流されたと時、この地を訪れ広大な景勝の原野に武運長久を祈り八幡大神 ( はちまんのおおかみ ) ( 誉田別尊 ) をご神木の大欅 ( おおけやき ) に包まれる鞘堂 ( さやどう ) 内のご神殿に祀られたことから、この広源一帯を八幡原 ( はちまんばら ) と名づけました。

川中島合戦で破壊された神殿を信玄は、高坂弾正に命じて社殿を再建させ、その後松代藩真田家が明治維新まで代々祭祀、修繕運営をされました。

現在は明治四十一年に建御名方命 ( 諏訪大社の祭神 ) が合祀され、その御神徳は、必勝、厄除、交通安全、安産、育児などであります。
(案内板より)

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前回の記事のお店、大甚本店から数分のお店です。

 

ここも絶対に来てみたかったお店でした。


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⇧ 店外観

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⇧ 店内観

若干の待ち時間は有ったものの すぐに席に座れました。

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⇧⇩ メニュー

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⇧ お通し

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⇧ 冷酒 : 加茂鶴蔵生を注文。

 

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⇧ 相方は、濃いめのレモンサワーを注文。

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⇧⇩ 土手焼き ( 味噌おでん ) 盛り合わせ ( 豆腐・こんにゃく・玉子・里芋・大根・牛スジ )

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⇧ 牛スジ

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⇧ いかゲソ塩焼き

 

お客の開店も早く、値段もリーズナブルで大満足でした ご馳走様でした。

 

 

島正 ( 食べログ )









信玄・謙信 一騎討ちの銅像

永禄 4年の第 4次の戦いで、謙信の太刀を信玄がが軍配で受け止めたという伝説に基づく一騎討ちの銅像。

建立は昭和 44年 ( 1969 ) 11月。

NHK大河ドラマ『天と地と』( 海音寺潮五郎原作 ) の放送記念として立てられた。

作者は、後藤光行。
(パンフレットより)

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名古屋に来たら絶対に来たかったお店です

開店数時間後に入店したのですが、並んでいなかったためすぐに席に着けました。

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⇧ 店外観

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⇧⇩ 店内観

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着席後、日本酒を注文 

それから肴をチョイスしに行きます 小鉢によって値段が決まっているので計算も楽です。

 

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⇧ 日本酒を注文。

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⇧ 相方はトマトハイを注文。

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⇧ ぶりの刺身と、きぬかつぎ

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⇧ クリームチーズと長ねぎのぬた

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⇧ ビールを追加

 

気が付くと階段にまで並んでまっている人がいたので、そうそうに退散しました。

 



ご馳走様でした。

 


大甚 本店( 食べログ )









川中島古戦場(かわなかじまこせんじょう)は、長野県長野市小島田町にある、越後上杉政虎甲斐武田晴信軍による川中島の戦い・第四次合戦(八幡原の戦い)に於いて、武田軍が本陣をこの付近に置いたと伝えられる。

概要
川中島古戦場とはいえ、この地で戦闘があった訳ではなく、武田軍が勝鬨を上げたとされる八幡社境内と、討ち取った敵将兵の首実見を行ったとされ、周辺の広い田畑の中に残されていた首塚や「三太刀七太刀跡」の石碑(大正期に建造)が散在していた。また、実際に両軍が激突した最前線はこの地から2~3km西方に当たるとされる。現在の南長野運動公園[注 1] 国道18号篠ノ井バイパスを挟んだ西側には「合戦場」の地名が残り、こちらの一帯が激戦地であり最前線であったことを物語っている。

川中島古戦場は1969年(昭和44年)NHK大河ドラマ天と地と」放映の前後頃から、一帯が公園化整備された。八幡原史跡公園内には石碑の移設、馬に乗った謙信と見られる武将の剣を信玄が軍配で防いだという甲陽軍鑑の記述に基づく銅像が建てられて、長野市立博物館も建設された。この博物館の建物はその後1981年地方都市にあっては珍しい日本建築学会賞作品賞を受賞し、同年に建設省から全国公共建築百選にも選定された。

現在は善光寺上信越道長野ICとを結ぶ道路(県道)に接していることもあって観光名所になっており、八幡神社参道にはみやげ物屋が並んでいる。八幡社の鳥居の前からは上杉軍が布陣したと伝えられる妻女山が望め、その背後に冠着山(姨捨山)が聳える。地域在住者らによって「川中島の戦い語り部の会」と言うボランティアグループが結成されており八幡社境内でのガイドが得られ甲越合戦の解説などもしてくれる。

交通アクセス
上信越自動車道長野ICから車で3分
・最寄りの鉄道駅は今井駅であるが約4km程離れており鉄道駅からの徒歩でのアクセスにはやや難があり、長野駅より後述の路線バス(アルピコ交通・30系統)の利用が推奨される。
 ・川中島の名称が冠されている川中島駅ならびに篠ノ井駅とは約5km離れている。

路線バス・高速バス
八幡原史跡公園前の長野県道35号長野真田線上に、アルピコ交通川中島古戦場停留所がある。

長野ICへのアクセス道路であることもあって、アルピコ交通が関わる(共同運行の事業者も含む)高速バスのうち、当地を経由しない妙高高原線を除くすべての路線が停車する。但し、クローズドドアシステムが採用されており当停留所は長野発の系統は乗車専用、長野着の系統は降車専用となっている為、長野駅方面とのアクセスに利用することはできない[1]。一方、長電バス運行の高速バスも新潟方面を除きすべて停留所を通るものの、停車はしない。
・アルピコ交通
 ・30 長野駅・県庁前 - 丹波島橋南 - 川中島古戦場 - 長野インター前 - 松代駅 - 松代高校
 ・102 文化学園前  市役所前 ← 県庁前 ← 丹波島橋南  川中島古戦場 ← …
 ・103 善光寺大門 ← 合同庁舎前 ← 県庁前 ← 丹波島橋南  川中島古戦場 ← …
 ・高速バス 新宿ゆき
 ・高速バス 京都・大阪ゆき
 ・高速バス 名古屋ゆき
 ・高速バス 飯田ゆき
 ・高速バス 松本ゆき
 ・高速バス 
上高地ゆき(夏季)

注釈
1. 
武田方の足軽大将山本勘助が第四次合戦で討死したのはこのあたりと伝説されている~墓は八幡原史跡公園の東側を流れる千曲川の対岸の河川敷にある

外部リンク
川中島古戦場~武田信玄・上杉謙信両雄激突の地~
(wikiより)

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近くに「吉良上野介邸」の跡地があり来るたびに気になっていたのですが、なかなか入店の機会が無く今回初めて入店しました。

 

創業 100年以上というだけあり、店内は歴史を感じます。

 

迷わず「もりそば」を注文し美味しくいただきました


また近くに来た時は寄りたいと思います。

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⇧ 店外観

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⇧⇩ 店内観

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⇧ メニュー

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⇧ 天ぷらそば

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⇧ ざるそば


両国 : 元禄二八そば 玉屋







高坂弾正について刻されているようです。

時代戦国時代
生誕大永7年(1527年
死没天正6年5月7日1578年6月12日
改名春日虎綱、香坂虎綱
別名昌信、昌宣、昌忠、晴昌、晴久
通称:源五郎、弾正
渾名:逃げ弾正[1]
戒名保雲椿公禅定門(「成慶院過去帳」)
憲徳院玄菴道忠居士
墓所明徳寺長野県長野市
恵林寺山梨県甲州市
官位弾正忠
主君武田信玄勝頼
氏族春日氏香坂氏高坂氏
父母父:春日大隅、養父:香坂宗重
兄弟熊麿虎綱(高坂昌信)
正室:香坂宗重の娘
昌澄(源五郎)信達(源次郎)昌定(源三郎)

春日 虎綱(かすが とらつな)は、戦国時代武将高坂(香坂) 昌信(こうさか まさのぶ)の名で知られる甲斐武田氏家臣で譜代家老衆。幼名は春日源五郎(かすがげんごろう)。武田晴信 (信玄)勝頼に仕え、武田四天王の一人として数えられる。

姓名
及び仮名
一般に「高坂昌信」の名前で知られるが、姓については「高坂」または「香坂」姓を用いたのは最も長くて弘治2年(1556年)から永禄9年(1566年)9月までの11年間である。この「高坂」または「香坂」姓は信濃国更級郡牧ノ島の香坂氏の家督を継承していることに由来する。香坂氏は武田領と反武田の北信濃国人・上杉謙信との境目に位置しつつ唯一武田側に属しており、虎綱が養子に入った背景にも香坂氏の川中島地域における政治・軍事的立場が考慮されたと考えられている[2]

香坂氏に養子に入った時期は『甲陽軍鑑』によれば、永禄4年に香坂氏が上杉謙信に内通し成敗された時点、または弘治2年(1556年)に小山田昌行(備中守)が水内郡海津城長野市松代町)から雨飾城に番替えとなると後任として海津城代となり、この時点で「高坂」を称していたとしている[3]。なお、『甲陽軍鑑』は海津城築城を永禄3年としているが、これは史実とは矛盾する[4]

一方、高野山成慶院『武田家過去帳』では弘治4年時点で「香坂弾正」を称していることが確認される[3]。この他に「香坂」姓の名乗りが確認されるのは、永禄2年11月屋代政国宛判物における副状で、早くとも永禄6年6月まで「香坂」姓を称し、遅くとも永禄9年9月までには復姓している[5]

名については、確実な文書上からは実名は「虎綱」であることが指摘されており[6]「昌信」(しょうしん)に関しては出家名とされる[要出典]

また、仮名として弾正を名乗っていたとされ、しばしば「高坂弾正」と記載する場合もある。永禄2年まで「弾正左衛門尉」を称し、同年以降には「弾正忠」に改めている[3]

本記事においては以下、春日虎綱として記述する。

生涯
出生から香坂氏継承​
甲陽軍鑑』に拠れば、大永7年(1527年)、甲斐国八代郡石和郷(山梨県笛吹市石和町)の百姓春日大隅の子として生まれる。天文11年(1542年)に父の大隅が死去した後、姉夫婦との遺産を巡る裁判で敗訴して身寄りが無くなるが、信玄の奥近習として召抱えられたという。

はじめは使番として働き、天文21年(1552年)には100騎持を預る足軽大将となり、春日弾正忠を名乗ったという[要出典]。なお、この間の『天文15年(1546年)推定武田晴信誓詞東京大学史料編纂所所蔵文書)』は、虎綱を指すとされる「春日源助」宛で晴信と虎綱の衆道関係を示す文書とされていたが、近年は宛名の「春日」姓が後筆である可能性が指摘されている[7]

武田氏による埴科郡村上義清攻略が本格化した天文22年(1553年)には信濃佐久郡小諸城(長野県小諸市)の城代となる。同年4月に虎綱が名跡を継承することになる信濃更級郡牧野島の国人の香坂氏が武田家に出仕している[2]

その後、虎綱は香坂氏をはじめとする川中島衆を率いて越後上杉氏に対する最前線にあたる海津領の守将を任された。川中島衆となる北信の寺尾・屋代両氏の取次役を務めている[5]。海津城は武田氏と上杉氏の争いにおいて最前線に位置し、『軍鑑』に拠れば永禄4年(1561年)8月には上杉謙信が侵攻し、虎綱は海津城において籠城し、同年9月4日には川中島において第4次川中島の戦いが発生する[4]。『甲陽軍鑑』によれば妻女山攻撃の別働隊として戦功を挙げ、引き続き北信濃の治世にあたったという。

『軍鑑』に拠れば、その後も元亀3年(1572年)の三方ヶ原の戦いなど、武田氏の主だった戦いに参戦したという。

囲碁に関しては「信玄より高坂のほうが二子強かるべし」とする伝説があった[8]

勝頼期の活動から晩年​
元亀4年(1573年)4月の武田信玄死後の武田勝頼期にも海津城代として上杉氏に対する抑えを任されている。天正3年(1575年)5月21日の長篠の戦いには、上杉軍の抑えとして参戦せずに海津城を守備していたが、嫡男の高坂昌澄が戦死している。『軍鑑』に拠れば武田勝頼期には一門の武田信豊穴山信君、譜代家臣の跡部勝資長坂光堅らが台頭していたといわれ、春日虎綱らの老臣は疎まれていたという。

長篠の戦い武田氏織田氏に大敗した。この戦いは武田家にとって有力家臣の多くを失い領国の動揺を招くこととなり甲陽軍鑑においても武田氏の衰退を決定づけた合戦とされる。武田勝頼は長篠敗戦後に信濃へ逃れ、6月2日に甲府へ帰陣している。甲陽軍鑑には、春日虎綱は敗報を聞くと信濃駒場において武田勝頼を出迎え、衣服・武具などを替えさせ敗軍の見苦しさを感じさせないように体面に配慮し、五箇条の献策を行ったとする逸話がある[9]。虎綱の献策が事実であるかは検討を要することが指摘されるが、主に相模国後北条氏との同盟を強化することと、戦死した内藤昌豊山県昌景馬場信春らの子弟を奥近習衆として取り立てて家臣団を再編すること、および長篠敗戦の責任を取らせるため、戦場を離脱したとされる親族衆の穴山信君武田信豊切腹を申し立てたとしている[10]

武田勝頼期には尾張の織田氏との対決が行われているが、虎綱は天正6年(1578年)の上杉謙信死後に発生した上杉家における御館の乱において、武田信豊とともに上杉景勝との取次を努め、甲越同盟の締結に携わっている。虎綱が甲越間の交渉に携わっている天正6年6月8日付の北条高広北条景広上杉景勝書状を最後に史料からは消え、6月12日付の武田信豊書状では信豊が単独で交渉に携わっており、同年10月からは虎綱の子の高坂昌元が登場することが確認される[11]。同年6月14日に海津城において死去したとされる。享年52。

虎綱の命日は複数の説があり、『乾徳山恵林寺雑本』等では天正6年5月11日、『甲斐国志』人物部第五では墓所の明徳寺に伝わる5月初7日死去としているが、甲越間の交渉時期からこの説は整合性が取れない[12]。高野山成慶院「武田家過去帳」では虎綱の命日を「天正6年6月14日巳ノ刻」としており、この説が最も整合性の取れることが指摘される[13]。『武田御日坏帳』によれば、同年7月25日には高野山成慶院で甥の惣次郎による供養が営まれている。法名は弘治2年4月21日に「保雲椿公禅定門」と定められている。

虎綱の子孫と『甲陽軍鑑』
春日氏は次男の信達が継承し海津城代も務めるが、天正10年(1582年)3月の武田氏滅亡後は森長可の支配を受ける。同年6月の本能寺の変後、信達は美濃に撤退する森長可を妨害し、越後上杉景勝に属したが、7月13日、北信での自立を画策する武田遺臣の真田昌幸北条氏直らと内通したことが発覚し、激怒した上杉景勝によって誅殺され、これにより高坂氏嫡流は滅亡した。さらに慶長5年(1600年)3月、初代川中島藩主として北信濃に入った森長可の弟の森忠政によって信濃に残っていた信達の一族は残らず探し出され18年前に森長可の信濃撤退を妨害した罪で一族全員が磔刑に処された(森家先代実録)。

近世には甲府町年寄の山本金右衛門(春日昌預1751年3月17日寛延4年) - 1836年天保7年))は甲府城下の大店若松屋を営む加藤家の出自で、加藤家は虎綱の子孫を称している。

虎綱の活躍をはじめ信玄・勝頼期の事績を記している『甲陽軍鑑』は江戸時代の元和年間に成立した軍学書で、『軍鑑』自身の奥書によれば原本は虎綱の口述記録で、長篠合戦の後に武田氏の行く末を危惧した虎綱が勝頼や重臣の跡部勝資長坂光堅らに対する「諫言の書」として記したという。

虎綱の死後も甥の惣次郎と家臣大蔵彦十郎が執筆を継続し、虎綱の海津城代時代の部下である小幡昌盛の子の小幡景憲がこれを入手し、完成させたという[14]

高坂節三経済同友会幹事)によると、「高坂家の先祖は甲斐の武田信玄に仕えた武将・高坂弾正忠昌信といわれ、兄(高坂正堯)は自分が戦国武将の末裔であることを非常に誇りに思っていた」という[15]高坂正堯は自身の長男を「昌信」と名付けている[16]

関連作品
映画
杉森修平:『影武者』(1980年東宝
沖田浩之:『天と地と』(1990年角川
稲見雅文:『おけちみゃく』(2018年カエルカフェ)

テレビドラマ
村井国夫
 ・『天と地と』(1969年NHK大河ドラマ
 ・『おんな風林火山』(1986年TBS
村上弘明:『武田信玄』(1988年・NHK大河ドラマ)
成瀬正孝:『武田信玄』(1991年TBS大型時代劇スペシャル
里見浩太朗:『風林火山』(1992年日本テレビ年末時代劇スペシャル 里見は山本勘助と2役を演じている。)
金児憲史:『風林火山』(2006年テレビ朝日
田中幸太朗:『風林火山』(2007年・NHK大河ドラマ)役名は春日源五郎→春日虎綱→香坂虎綱
大出俊:『天地人』(2009年・NHK大河ドラマ)役名は高坂弾正昌信

脚注
1. 甲陽軍鑑』に拠れば、虎綱は慎重な采配で三方ヶ原の戦い等においても撤退を進言し、「逃げ弾正」の異名を取ったという。
2. 
a b 平山(1994・②)、p.52
3. 
a b c 平山(1994・②)、p.53
4. 
a b 平山(1994・②)、p.55
5. 
a b 平山(2008)、p.314
6. 
平山(2008)、p.313
7. 
鴨川(2004)
8. 
http://www.excite.co.jp/News/lifestyle/20150720/NHKtextview_21077.html 
9. 
平山(2011)、p.156
10. 
平山(2011)、pp.156 - 158
11. 
平山(1994・②)、p.64
12. 
平山(1994・②)、pp. 64 - 65
13. 
平山(1994・②)、p.65
14. 
『甲陽軍鑑』には文書上確認されない人物名や合戦、年紀の誤り等基本的事実の混同が頻出するため史料的価値や虎綱が原本を口述したとすることも疑問視する指摘もあるが、近年は国学的検討により再び性格をめぐり議論が行われている
15. 
高坂節三 『昭和の宿命を見つめた眼―父・高坂正顕と兄・高坂正堯』PHP研究所、2000年11月1日、28頁。ISBN 978-4569613574
16. 
岡部陽二服部龍二 『Documents and Data 元住友銀行専務取締役 岡部陽二インタビュー : 学生時代の高坂正堯』中央大学総合政策学部〈総合政策研究 = Japanese journal of policy and culture (28)〉、2020年3月、116頁。

参考文献
・『石和町誌』石和町、1987年
平山優「春日虎綱」『新編武田信玄のすべて』(新人物往来社、2008年)
・平山優①「戦国大名武田氏の領国支配機構の形成と展開 -川中島四郡支配を事例として-」『山梨県史研究 第2号』、1994年
・平山優②「戦国大名武田氏の海津領支配について-城代春日虎綱の動向を中心に-」『甲斐路 No.80』山梨郷土研究会、1994年
柴辻俊六「戦国期信濃海津城代春日虎綱の考察」『信濃 第59巻第9号』2007年、のち『戦国期武田氏領の地域支配』(岩田書院、2013年)に収録
・鴨川達夫「武田信玄の自筆文書をめぐって」『山梨県史研究 第12号』、2004年

関連項目
戦国時代の人物一覧
春日氏
香坂氏
高坂氏
(wikiより)

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犬山城を見に行って宿泊した宿の前に有ったお店です

「ねこてい」というお店の名前通り ネコがフューチャーされています。

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⇧ 店の外観

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⇧ 看板

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⇧ とりあえず日本酒

何か犬山の地酒は有りますか? と聞いたところ、有るには有ったそうですが火事で酒蔵が無くなったと言われたので・・・

 

青森県 豊盃 ( ほうはい ) 特別純米酒を注文。

 

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⇧ 犬山ハイボール ( 犬山名物 桃の香り )

 

相方は、犬山ハイボールを注文。


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⇧ お通し

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⇧⇩ 料理は、おすすめのコース料理 2,000円ちょっとぐらいを注文しました。

馬の刺身あれこれ。


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⇧ お刺身

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⇧ 日本酒のおかわり

醸し人九平次 ( かもしびとくへいじ ) 純米大吟醸 雄町 ( 名古屋市緑区 萬乗醸造 )


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⇧ サラダ

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⇧ 焼き物 田楽と 右側 4つは、生麩 ( なまふ )

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⇧ 鳥の揚げ物

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⇧ 味噌カツ

 

どれもこれも美味しかったです ご馳走様でした。

 


ねこてい ( お店ホームページ )






松代の民話

酒飲み弥勒 ( みろく ) さん

 - お小僧に化けて酒を買いに -

こがらし吹くある日の夕方、中町の酒屋へ「明徳寺 ( めいとくじ ) です。お酒を一升 ( いっしょう ) ください。」と ひとりのお小僧がやってきました。

「うちの和尚 ( おしょう ) さんとってもお酒好きなんです。」

そして毎晩毎晩やって来ました。

年の暮れに、寺へ代金を受け取りに行くと「酒代?わたしは酒は飲まんよ。小僧なんていないよ。」

酒屋は代金をとれずじまいで、ぷんぷん怒 ( おこ ) りながら家へ帰りました。

ところがその日の夕方、例の小僧がまたやってきたのでつかまえて柱にしばりつけてしまいました。

翌朝、逃げ出した足跡 ( あしあと ) を追って明徳寺の弥勒堂 ( みろくどう ) をつきとめ、開けて見たところ弥勒さんがなわでしばられて、酒の匂いをぷーんと漂 ( ただよ ) わせておりました。
(案内板より)

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通りかかって入店。

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⇧ 店外観

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⇧ 食品サンプルがシブイ

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⇧メニュー

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⇧ 入って右側の座敷に通されました。

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⇧ ラーメン

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⇧ チャーハン

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⇧ 餃子







時あたかも、東日本大震災に始まる政治経済混乱の中で、一年余が経過した今、明徳寺ご一山のご厚誼の下に、栗林忠道・今井武夫顕彰平和宣誓碑を建立した。

ここ数年来、世界的な政治経済の激動と混迷の中で、我国は昭和前期の政党政治崩壊と、戦争への歩み想起させるような微候が見られるようになった。

そこで戦争惨禍の体験者として、長野中学四十五回同窓を始めとする有志の私共は、両家ご親族の理解と協力を得て、二度とその間違いを繰り返さないために、長野出身の先達、栗林忠道・今井武夫の生涯と平和的事項を明らかにしたいと願い、二〇〇九年に二人の顕彰会を立ち上げ、種々の活動をし、昨年は現代の覚醒の書として「栗林忠道・今井武夫物語」を出版した。

私共の憂い願いは、すべてこの書に込められている。

この二人の先達は、軍人という困難な立場にありながら、対米国対中国の開戦に対し、最後まで不戦・和平を求め続けた。

私共は今こそその強靭な和平の志願と、人間として義に生き抜かれた高邁な人格を、この「いしぶみ」と己の中に刻み、末永く学び続けて後世に伝えながら、国際平和保持の一端を担うことを、お二人に固くお誓いするものである。

この心 己に刻み 末永く 学び努めて 平和築かむ

               人間栗林忠道・今井武夫顕彰会
(顕彰碑碑文より)     

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金沢は 2度目なんですが、絶対に食べてみたかった「カニ面」


「カニ面を食べ」と観光も織り交ぜて金沢に来ました。

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⇧ 店外観

並んで待っている人も多かったです 予約しておいてよかった。


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⇧ 店内

店内は超満員状態で、席に移動するのも難しい状態でした。

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⇧ とりあえず瓶ビール

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⇧⇩ とりあえず おでんを見つくろってもらいました。

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⇧⇩ 予約しておいたカニ面です。

地元の人によると「カニ面」と書いて「カニヅラ」と呼ぶそうです。

ずわい蟹の雌で、蟹身だけでなく、蟹味噌や外子がたっぷりのカニです。

カニの面に、内子、外子を詰めて、その上からカニ足で蓋をします。

身が崩れないようにするのは、その店その店の技でダシを沢山吸うようになっております。

カニの旨味と内子の濃厚な味を楽しめるのが、このカニ面だそうです。


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⇧ 〆にカモ葱。

 

とても美味しかったです ご馳走様でした。

 

おでん高砂 ( 食べログ )







※ 御遺体は硫黄島 ( いおうとう ) で発見されていない為 御遺骨は入っていません。

生誕1891年7月7日
日本の旗 日本長野県埴科郡西条村
死没1945年3月26日(53歳没)
日本の旗 日本東京都小笠原諸島硫黄島村硫黄島
所属組織 大日本帝国陸軍
軍歴1914年 - 1945年
最終階級帝國陸軍の階級―襟章―大将.svg 陸軍大将

栗林 忠道(くりばやし ただみち、1891年明治24年)7月7日 - 1945年昭和20年)3月26日[1][注釈 1])は、日本陸軍軍人最終階級陸軍大将位階勲等従四位勲一等旭日大綬章[注釈 2]陸士26期陸大35期次席長野県埴科郡西条村(現:長野市松代町)出身。

第二次世界大戦太平洋戦争/大東亜戦争)末期の硫黄島の戦いにおける、日本軍守備隊の最高指揮官(小笠原兵団長。小笠原方面陸海軍最高指揮官)であり、その戦闘指揮によって敵であったアメリカ軍から「アメリカ人が戦争で直面した最も手ごわい敵の一人であった[4]と評された。

経歴
戦国時代以来の旧松代藩郷士の家に生まれる。1911年(明治44年)、長野県立長野中学校を卒業(第11期)。在学中は文才に秀で、校友誌には美文が残されている。当初ジャーナリストを志し東亜同文書院を受験し合格していたが、恩師の薦めもあり1912年大正元年)12月1日に陸軍士官学校へ入校。陸軍将校の主流である陸軍幼年学校出身(陸幼組)ではなく、中学校出身(中学組)であった。長野中学の4期後輩に今井武夫陸軍少将がいる。陸士同期に、のちの硫黄島の戦いで混成第二旅団長に指名して呼び寄せた“歩兵戦の神”の異名をもつ千田貞季田中隆吉影佐禎昭、とくにノモンハン事件では、戦車第3連隊吉丸清武第23師団参謀長大内孜、第23師団捜索隊長東八百蔵の3人の同期が戦死しており、栗林が同期を代表して新聞紙面上で追悼のことばを送っている[5]

1914年(大正3年)5月28日、陸士卒業(第26期、兵科騎兵、席次:742名中125番)、騎兵第15連隊附となり、同年12月25日に陸軍騎兵少尉任官。1917年(大正6年)10月から1918年(大正7年)7月まで陸軍騎兵学校乙種学生となり[6]、馬術を専修[7]。馬術の技術は高く、気性が荒く陸軍騎兵学校の誰もが敬遠していた馬を何度も落馬しながらも乗り続け、最後には乗りこなしていたという逸話が残っている[8]

1918年(大正7年)7月に陸軍騎兵中尉1920年(大正9年)12月7日、陸軍大学校へ入校。1923年(大正12年)8月、陸軍騎兵大尉。同年11月29日に陸大を卒業(第35期)、成績優等(次席)により恩賜の軍刀を拝受[9]。同年12月、栗林義井(よしゐ[10])と結婚[注釈 3]。太郎・洋子・たか子の一男二女を儲ける。孫に衆議院議員新藤義孝がいる(たか子の子)[11]

北米駐在・騎兵畑
騎兵第15連隊中隊長、騎兵監部員を経て1927年昭和2年)、アメリカ駐在武官在米大使館附)として駐在、帰国後の1930年(昭和5年)3月に陸軍騎兵少佐に進級、4月には陸軍省軍務局課員。1931年(昭和6年)8月、再度北米カナダに駐在武官(在加公使館附)として駐在した。栗林は2年間に渡ってアメリカ各地を回ってアメリカ軍の軍人だけではなく一般市民とも親交を深めた。栗林のアメリカ人評は「朗らかで気さくな人が多い」であり、アメリカ人との交流について、妻よしゐやまだ字が読めない長男太郎宛に、イラストや漫画を描き込んだユーモアにあふれる多くの手紙を送っている[12]。 フォート・ビリス英語版では騎兵訓練を受けているが、そのときの教官であったジョージ・ヴァン・ホーン・モーズリー英語版准将からは、「尊敬する栗林へ、貴官との愉快な交際を忘れません」と書かれた記念写真を受け取っている。栗林はフランスドイツ志向の多い当時の陸軍内では少数派であった「知米派」で、国際事情にも明るくのちの対米開戦にも批判的であり、妻のよしゐに「アメリカは世界の大国だ。日本はなるべくこの国との戦いは避けるべきだ。その工業力は偉大で、国民は勤勉である。アメリカの戦力を決して過小評価してはならない」と話したこともあった[13]

1933年(昭和8年)8月、陸軍騎兵中佐、同年12月30日に陸軍省軍務局馬政課高級課員となりさらに1936年(昭和11年)8月1日には騎兵第7連隊長に就任する。1937年(昭和12年)8月2日、陸軍騎兵大佐に進級し陸軍省兵務局馬政課長。馬政課長当時の1938年(昭和13年)には軍歌愛馬進軍歌』の選定に携わっている。

1940年(昭和15年)3月9日、陸軍少将に進級し騎兵第2旅団長、同年12月2日、騎兵第1旅団長に就任。

太平洋戦争(大東亜戦争)
太平洋戦争(大東亜戦争)開戦目前の1941年(昭和16年)9月、第23軍参謀長に就任。第23軍は緒戦の南方作戦においてイギリス香港を攻略することを任務としており、12月8日の開戦後、香港の戦いにおいて18日間でイギリス軍を撃破して香港を制圧した。

1943年(昭和18年)6月、陸軍中将に進級し、第23軍参謀長から留守近衛第2師団[注釈 4]に転じる[7]

1944年(昭和19年)4月、留守近衛第2師団長から東部軍司令部附に転じる[7][注釈 5]。栗林が東部軍司令部附となったのは、厨房から失火を出した責によるとされる[7]秦郁彦は、厨房から火事を出した程度で留守師団長を更迭されるとは考えにくい、第109師団長に親補する前提での人事であろう、という旨を述べている[7]

硫黄島の戦い
詳細は「硫黄島の戦い」を参照

1944年(昭和19年)5月27日[3]、小笠原方面の防衛のために新たに編成された第109師団長に親補された[7]。6月8日、栗林は硫黄島に着任し、以後、1945年(昭和20年)3月に戦死するまで硫黄島から一度も出なかった[7]。同年7月1日には大本営直轄部隊として編成された小笠原兵団長も兼任、海軍部隊も指揮下におき「小笠原方面陸海軍最高指揮官」となる(硫黄島の戦い#小笠原兵団の編成と編制)。周囲からは、小笠原諸島全域の作戦指導の任にある以上は、兵団司令部を設備の整った父島に置くべきとの意見もあったが、アメリカ軍上陸後には最前線になると考えられた硫黄島に司令部を移した。その理由としては、サイパンの戦いにおいて、第31軍司令官小畑英良中将が、司令部のあるサイパン島から部隊視察のためパラオ諸島に行っていたときにアメリカ軍が上陸し、ついに小畑はサイパン島に帰ることができないまま守備隊が玉砕してしまったという先例があることや、父島と比較すると硫黄島の生活条件は劣悪であり、自分だけ快適な環境にいることなく部下将兵と苦難を共にしたいという想いがあったからという。栗林はその人柄から部下将兵からの人気も高かった[17]

栗林の着任当時、硫黄島には約1,000人の住民が居住しており、当時の格式では、閣僚クラスの社会的地位のある中将の来島に色めきたったが、栗林は島民に配慮して一般島民とは離れた場所に居住することとしている[18]。栗林が司令部ができるまで居住していた民家は「硫黄島産業」という会社の桜井直作常務の居宅で、桜井は栗林と接した数少ない島民となったが、栗林は食事の席で桜井に「我々の力が足りなくて、皆さまに迷惑をかけてすまない」と謝罪し桜井を驚かせている[19]。栗林の島民に対する配慮はまだ続き、アメリカ軍による空襲が激しくなると、島民も将兵と同じ防空壕に避難するようになったが、薄手の着物姿の女性が避難しているのを見た栗林は、将兵からの性被害を抑止するために女性にモンペの着用を要請し、また防空壕も可能な限り軍民を分けるよう指示した[20]。その後も、アメリカ軍の空爆は激化する一方で、全島192戸の住宅は3月16日までの空襲で120戸が焼失、6月末には20戸にまでなっていた。栗林は住民の疎開を命じ、生存していた住民は7月12日まで数回に分けて父島を経由して日本本土に疎開した[21]。栗林の方針によって硫黄島には慰安所は設置されておらず、硫黄島は男だけの島となったが、結果的に早期に住民を疎開させるという判断が、島民の犠牲を出さなかったことにつながった[22]

敵上陸軍の撃退は不可能と考えていた栗林は、堅牢な地下陣地を構築しての長期間の持久戦・遊撃戦(ゲリラ)を計画・着手する。従来の「水際配置・水際撃滅主義」に固執し水際陣地構築に拘る1部の陸軍幕僚と同島の千鳥飛行場確保に固執する海軍を最後まで抑え、またアメリカ軍爆撃機空襲にも耐え、上陸直前までに全長18kmにわたる坑道および地下陣地を建設した。陣地の構築については軍司令官である栗林が自ら島内をくまなく巡回し、ときには大地に腹ばいになって、目盛りのついた指揮棒で自ら目視して作業する兵士たちに「この砂嚢の高さをあと25cm上げよ」「こっちに機銃陣地を作って死角をなくすようにせよ」「トーチカにもっと砂をかけて隠すようにせよ」などの具体的で詳細な指示を行うこともあったという。生還者の1人であった歩兵第145連隊第1大隊長原光明少佐は「(栗林)閣下が一番島のことをご存じだった。だから私ら、突然、閣下が予想外の場所から顔を出されるので、いつもびっくりさせられた」と回想している[23]。このように、通常は部隊指揮官がやるような細かい指示を軍司令官が行ったことについて、栗林の率先指揮ぶりの好エピソードとして語られることもあるが、これは、軍参謀がわずか5人と少ないうえ着任して日も浅く、また部隊指揮官は急編成でろくに経験もない老兵が多かったという小笠原兵団の窮状によるものでもあった[24]

持久戦術は守備隊唯一の戦車戦力であった、戦車第26連隊(連隊長:西竹一中佐)に対しても徹底された。戦車第26連隊は満州で猛訓練を積んできたこともあり、連隊長の西は硫黄島でも戦車本来の機動戦を望んでいたが[25]、これまでの島嶼防衛戦で戦車を攻撃に投入したサイパンの戦い[26][27][28]ペリリューの戦いにおいては[29]、優勢なアメリカ軍部隊に戦車突撃をして、強力な「M4中戦車」との戦車戦や、バズーカなどの対戦車兵器に一方的に撃破されることが続いており[30][26][31]。栗林は西に対して、戦車を掘った穴に埋めるか窪みに入り込ませて、地面から砲塔だけをのぞかせ、トーチカ代わりの防衛兵器として戦うよう命じた。西はこの命令に反撥したが最終的には受入れている。栗林と西は同じ騎兵畑出身で親しかったとする証言もあるが、勤勉且つ繊細であった栗林に対し、華族で裕福であった西は豪放で奔放と性格が全く異なっており、確執があったとする証言もある[32]。ただし、戦車を防衛兵器として使用する判断をしたのは西であったとする説もある[33]

隷下兵士に対しては陣地撤退・万歳突撃自決を強く戒め、全将兵に配布した『敢闘ノ誓』や『膽兵ノ戦闘心得』に代表されるように、あくまで陣地防御やゲリラ戦をもっての長期抵抗を徹底させた(硫黄島の戦い#防衛戦術)。過酷な戦闘を強いることになる隷下兵士には特に気を配っており、毎日、島を何周も廻る視察には、陣地構築の状況確認のほかに、兵士の士気と指揮官の兵士に対する態度を確認する目的もあった。栗林は兵士に対して、作業中や訓練中には自分も含め上官に敬礼は不要と徹底し、部下から上官に対する苦情が寄せられた場合は容赦なく上官を処罰した。食事についても栗林自らも含め、将校が兵士より豪華な食事をとることを厳禁した。栗林は、平時から階級上下での待遇差が激しい軍内で根強い“食べ物の恨み”が蔓延しているしていることを認識しており、水不足、食料不足の硫黄島においては、さらにその“食べ物の恨み”が増幅する懸念が大きく、戦闘時の上下の信頼関係を損なって、戦力に悪影響を及ぼすという分析をしていた。そのため、自らも兵士と同じ粗食を食し、水も同じ量しか使用しなかった。この姿勢が兵士から感銘を受けて、栗林への信頼が高まっていった[34]

1945年(昭和20年)2月16日、アメリカ軍艦艇・航空機は硫黄島に対し猛烈な上陸準備砲爆撃を行い、同月19日9時、海兵隊第1波が上陸を開始(硫黄島の戦い#アメリカ軍の上陸)。上陸準備砲爆撃時に栗林の命令を無視し、(日本)海軍の海岸砲擂鉢山火砲各砲台応戦砲撃を行ってしまった。栗林は慌てて全軍に全貌を暴露するような砲撃は控えるよう再徹底したが[35]、栗林の懸念通りにアメリカ軍は応戦砲撃で海軍砲台の位置を特定すると、11時間にも及ぶ艦砲射撃で全滅させてしまった。これはアメリカ海兵隊の硫黄島の戦いの公式戦史において、「(硫黄島の戦いにおける)栗林の唯一の戦術的誤り」とも評された[36]

その後は守備隊各部隊は栗林の命令を忠実に守り、十分にアメリカ軍上陸部隊を内陸部に引き込んだ10時過ぎに栗林の命令によって一斉攻撃を開始する。上陸部隊指揮官のホーランド・スミス海兵隊中将は[7]、その夜、前線部隊からの報告によって硫黄島守備隊が無謀な突撃をまったく行なわないことを知って驚き、取材の記者たちに「誰かは知らんがこの戦いを指揮している日本の将軍は頭の切れるやつ(one smart bastard)だ」と語った[37]。また、第4海兵師団の戦闘詳報によれば、日本軍の巧みな砲撃指揮を「かつて、いかなる軍事的天才も思いつかなかった巧妙さ」と褒めたたえている[38]。アメリカ軍は硫黄島の指揮官が誰であるのかを正確には把握できておらず、上陸前にはサイパン島で入手した日本軍の機密資料から、父島要塞司令官大須賀應陸軍少将と考えていた。しかし、上陸以降に捕らえた日本兵の捕虜から「最高司令官はクリバヤシ中将」という情報を聞き出したアメリカ軍は、硫黄島のような小さく環境が劣悪な島に中将がいるとは考えられないという判断しながらも、硫黄島の戦力が当初の14,000人という見積より多いという報告から、師団クラスの戦力が配置されており、師団長クラスの中将が指揮をしてもおかしくはないという分析も行った。その場合は硫黄島の戦力は当初の見積より遥かに多く、また「クリバヤシ」が優れた戦術家であれば苦戦は必至と危惧することとなったが、事実、この危惧通りにアメリカ軍は大苦戦させられることとなる[39]

その後も圧倒的な劣勢の中、アメリカ軍の予想を遥かに上回り粘り強く戦闘を続け多大な損害をアメリカに与えたものの、3月7日、栗林は最後の戦訓電報となる「膽参電第三五一号」を大本営陸軍部、および栗林の陸大在校時の兵学教官であり、騎兵科の先輩でもある侍従武官長蓮沼蕃大将に打電。さらに組織的戦闘の最末期となった16日16時には、玉砕を意味する訣別電報を大本営に対し打電(硫黄島の戦い#組織的戦闘の終結#訣別の電文)。

翌17日付で戦死と認定され[7][注釈 6]、特旨により陸軍大将に親任された[2]陸軍大臣杉山元元帥は、内閣総理大臣小磯國昭に送付した文書に次のように記している[7]

第百九師団長として硫黄島に在りて作戦指導に任じ其の功績特に顕著なる処、三月十七日遂に戦死せる者に有之候条、同日付発令相成度候

— 杉山元。出典では漢字カナ表記、[7]

太平洋戦争(大東亜戦争)において中将の戦死者が増加したため、中将で戦死した者のうち、親補職軍事参議官[15]。陸軍では、陸軍三長官陸軍航空総監師団長以上の団隊の長、侍従武官長など[15]。海軍では、海軍大臣軍令部総長、艦隊司令長官、鎮守府司令長官など[15]。)2年半以上を経ており、武功が特に顕著な者を陸海軍協議の上で大将に親任するという内規が作られ、この内規により、陸軍で7名(栗林を含む)[40]、海軍で5名が戦死後に大将に親任された[41]

昭和19年5月27日に第109師団長に親補され、昭和20年3月17日に戦死と認定された栗林は、上記の内規の年限を満たさなかったが、特旨により大将に親任された[41]

同日、最後の総攻撃を企図した栗林は残存部隊に対し以下の命令を発した。

・一、戦局ハ最後ノ関頭ニ直面セリ
・二、兵団ハ本十七日夜、総攻撃ヲ決行シ敵ヲ撃摧セントス
・三、各部隊ハ本夜正子ヲ期シ各方面ノ敵ヲ攻撃、最後ノ一兵トナルモ飽ク迄決死敢闘スベシ 大君[42]テ顧ミルヲ許サズ
・四、予ハ常ニ諸子ノ先頭ニ在リ

大本営は訣別電報で栗林は戦死したと判断していた。しかし、3月23日に硫黄島から断続的に電文が発されているのを父島の通信隊が傍受した。その電文には3月21日以降の戦闘状況が克明に記されていたが、最後の通信は23日の午後5時で、「ホシサクラ(陸海軍のこと)300ヒガシダイチニアリテリュウダンヲオクレ」という平文電報がまず流れてきたので、通信兵が返信しようとすると、「マテ、マテ」と硫黄島から遮られて、その後に続々と電文が送られてきたという。その電文の多くが栗林による部隊や個人の殊勲上申であり、栗林は戦闘開始以降、部下の殊勲を念入りに調べてこまめに上申して、昭和天皇の上聞に達するようにしてきたが、最後の瞬間まで部下のはたらきに報いようとしていたのだと電文を受信した通信兵たちは感じ、電文に記された顔見知りの守備隊兵士を思い出して涙した。しばらくすると通信は途絶えて、その後は父島からいくら呼びかけても返信はなかった[43]

栗林の最期
3月17日以降、栗林は総攻撃の機会をうかがっていた。既に生存者の殆どが、守備隊の命運は尽きており、待っているのは自滅のときの訪れであって、そうであれば最後の突撃をなるべく早く行うべきと考えていたが、栗林は死を焦る参謀や指揮官らに「今、しばらく、様子を見たい」として安易な突撃を許さなかった。その指示を聞いた参謀らは、最後まで作戦を考える栗林の戦意と気力に大きな感銘を受けたという[44]。アメリカ軍は18日から、艦砲射撃や空爆を中止し、損害の大きかった海兵隊を硫黄島から次第に撤退させており、1個連隊程度の戦力を残して、戦車と迫撃砲での攻撃を主として近接戦闘をなるべく避けるように作戦変更していた。栗林は冷静にアメリカ軍の作戦変更を見極めて、警戒が緩んできた3月24日に攻撃の機が熟したと判断すると、25日夜間の総攻撃開始を決定した[45]。この総攻撃も、今まで栗林が徹底して禁止してきたバンザイ突撃ではなく、緻密に指揮された周到な攻撃であった。栗林は階級章を外すと、軍刀などの所持品から名前を消して白襷を着用し、25日の深夜に、今まで栗林に従ってきた師団司令部附大須賀應陸軍少将、歩兵第145連隊連隊長池田益雄陸軍大佐、参謀長高石正陸軍大佐や海軍第27航空戦隊司令官市丸利之助海軍少将と共に、攻撃隊400人の先頭に立って司令部の半地下壕を出て、元山・千鳥飛行場方向に向けて前進を開始した[46]

翌3月26日午前5時15分、栗林の指揮する攻撃隊は西部落南方の海岸で、アメリカ陸軍航空隊の第7戦闘機集団と第5工兵大隊が就寝している露営地に接触し攻撃を開始した。攻撃隊は日本軍の兵器のほかに、アメリカ軍から鹵獲したバズーカや自動小銃などを装備しており非常に重武装で、太平洋戦争の島嶼戦で繰り返された貧弱な装備でのバンザイ突撃とは一線を画した秩序だった攻撃であり、攻撃を受けたアメリカ軍も日本軍部隊がよく組織されているものと感じ、それは栗林の戦術的な規律によるものと評価している[47]。 攻撃隊の周到な攻撃によってアメリカ軍は大混乱に陥り、多数の戦闘機パイロットが殺傷されたが、その後海兵隊の増援も到着し、3時間の激戦によって戦闘機パイロットら44人が戦死、88人が負傷し、海兵隊員も9人が戦死、31人が負傷するという大損害を被った[48]。その後、栗林は部隊を元山方面に転戦しようとしたが、敵迫撃砲弾の破片を大腿部に受けて負傷し、司令部付き曹長に背負われながら前線から避退したが進退窮まり、最後に「屍は敵に渡してはいけない」と言い残して、近くの洞窟で自決した[45]。満53歳没。

ただし、栗林の最期については、直接見た者は生存していないことから諸説ある。最後の総攻撃の数少ない生還者である通信兵小田静夫曹長の証言によれば、栗林は千鳥飛行場に天皇陛下万歳三唱して斬りこんだが、参謀長の高石か参謀の中根に自分を射殺するよう命じ、高石か中根は栗林を射殺したのちに自分も拳銃で自決したという。しかし、小田は実際には栗林の最期を見てはおらずこれは推測である[49]。他の生還者である歩兵第145連隊の大山純軍曹によれば、前進途中の千鳥部落付近で敵の砲火を浴び、部隊は散開状態となったが、大山はそのとき栗林の近くにおり、栗林が「狙撃を出して攻撃せんか」と命令したのを聞いている。大山はその場で機関銃弾を受けて負傷し栗林とはぐれてしまったが、戦闘後に戦闘指揮所に戻ると、栗林が負傷し、出血多量で絶命したため、遺体を参謀長の高石が近くの木の根元の弾痕に埋葬したという話を聞いている[50]

他にも、攻撃中にアメリカ軍の155㎜砲の直撃を受けて爆死し遺体が四散したとの推察もある[51]

最後の総攻撃後に、日本兵の遺体262人が残され、18人が捕虜となった[52]。海兵隊は栗林に敬意を表し遺体を見つけようとしたが、結局見つけることはできなかった。アメリカ海兵隊は公式報告書で栗林による最後の攻撃を以下の様に記録している[53]

3月26日に栗林と他の高級将校が日本軍の最後の攻撃を主導したという報告があった。この攻撃はバンザイ突撃ではなく、最大の混乱と破壊を生み出すことを目的とした優秀な計画であった。午前5時15分、200−300人の日本兵が島の西側に沿って北から下り、西部の海岸の近くで海兵隊と陸軍の露営地を攻撃した。混乱した戦いは3時間にも及び、第7戦闘機集団の司令部が大打撃を被ったが、混乱から立ち直って反撃を開始し、第5工兵大隊は急いで戦闘ラインを形成して敵の攻撃を食い止めた。日本軍の部隊は、日本とアメリカの両方の武器で十分に武装しており、40人が軍刀を帯びていたので、高級将校が高い割合を占めることを示していたが、遺体や書類を確認したところ栗林を見つけることはできなかった。

栗林の最期に関する異説としては、大野芳が、第109師団父島派遣司令部の参謀であった堀江芳孝少佐の手記から、栗林が戦闘中にノイローゼとなり、アメリカ軍に降伏しようとして参謀に斬殺されたという説を唱えたことがあった[54]。しかし梯久美子の調査により、堀江が硫黄島で栗林の下で勤務したのは数日に過ぎず、栗林の最期についても伝聞であり、その情報源とされた小元久米治少佐[注釈 7]が否定していたことが判明、戦史叢書の編集者も堀江の手記の栗林の最期の記述については信ぴょう性が薄いと判断し、戦史叢書の記述に採用していない[56]

戦後
死後、日米の戦史研究者などからは高い評価を得ていたが、硫黄島の戦いを除くと参謀長や騎兵旅団長など軍人としては目立ったエピソードも少なく、局地戦で戦死した指揮官ということもあり、日本でも一般的な知名度は高くなかったが、2005年平成17年)に上梓された梯久美子散るぞ悲しき 硫黄島総指揮官・栗林忠道』、翌2006年(平成18年)に公開されたハリウッド映画硫黄島からの手紙』により、一躍その名が知られるようになった。

秦郁彦は下記のように述べている。

『散るぞ悲しき』(梯久美子著)がベストセラーになり、映画『硫黄島からの手紙』もヒットして、栗林忠道の名は日本中に知れわたりました。「太平洋戦争最高の名将」という地位をほぼ確立したんじゃないですか。

— 
秦郁彦[7]       

栗林は幼少の頃、一時的に養子に出ていたことがあり、養子に出ていた当時の記録は長らくの間不明であったが、近年、生家から少年時代の日記帳や成績表などが発見され、生後まもなく地元の士族・倉田家へ養子に出ていた時期など、これまで知られていなかった少年期の詳細が明らかになった。

墓所は長野市松代明徳寺だが、遺骨はない。栗林の長兄が継いだ長野市松代の生家では、仏壇に硫黄島の石、および、栗林が陣頭指揮・戦死した3月26日未明の最後の総攻撃に参加し、生還を果たした陸軍下士官が、復員から間もない1946年(昭和21年)に栗林の妻の義井に送った手紙(最後の総攻撃の様子を詳細に記す)を供えていた[10]1967年(昭和42年)、勲一等に叙せられ旭日大綬章を受勲。

詳しい事は「栗林忠道ウィキペディア」をご覧ください。 ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A0%97%E6%9E%97%E5%BF%A0%E9%81%93       
(wikiより)

5 栗林忠道

栗林忠道

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⇧ 2012年 4月に建立された栗林忠道 今井武夫顕彰平和宣誓建立趣意碑。


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元々は台東区清川の「 稲荷ずし 松むら 」から始まったお店も今回で最後となりました。

 

台東区清川の「 稲荷ずし 松むら 」から、のれん分けの、松むら 足立区北千住店、松むら 墨田区向島店、味吟 高砂店、味吟 押上店の 5店舗になりました。

 

どちらのお店も甲乙付け難く、とても美味しかったです 

 

またお店によって、巻物にバリエーションがあったりしました これはコンプリートしないと駄目ですね 。

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⇧⇩ 店外観

スカイツリー側にあるお店です。

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⇧ 経木 ( きょうぎ ) で包んでくれます。

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押上 : 味吟 ( 食べログ )






時代戦国時代
生誕大永7年(1527年
死没天正6年5月7日1578年6月12日
改名春日虎綱、香坂虎綱
別名昌信、昌宣、昌忠、晴昌、晴久
通称:源五郎、弾正
渾名:逃げ弾正[1]
戒名保雲椿公禅定門(「成慶院過去帳」)
憲徳院玄菴道忠居士
墓所明徳寺長野県長野市
恵林寺山梨県甲州市
官位弾正忠
主君武田信玄勝頼
氏族春日氏香坂氏高坂氏
父母父:春日大隅、養父:香坂宗重
兄弟熊麿虎綱(高坂昌信)
正室:香坂宗重の娘
昌澄(源五郎)信達(源次郎)昌定(源三郎)

春日 虎綱(かすが とらつな)は、戦国時代武将高坂(香坂) 昌信(こうさか まさのぶ)の名で知られる甲斐武田氏家臣で譜代家老衆。幼名は春日源五郎(かすがげんごろう)。武田晴信 (信玄)勝頼に仕え、武田四天王の一人として数えられる。

姓名
及び仮名
一般に「高坂昌信」の名前で知られるが、姓については「高坂」または「香坂」姓を用いたのは最も長くて弘治2年(1556年)から永禄9年(1566年)9月までの11年間である。この「高坂」または「香坂」姓は信濃国更級郡牧ノ島の香坂氏の家督を継承していることに由来する。香坂氏は武田領と反武田の北信濃国人・上杉謙信との境目に位置しつつ唯一武田側に属しており、虎綱が養子に入った背景にも香坂氏の川中島地域における政治・軍事的立場が考慮されたと考えられている[2]

香坂氏に養子に入った時期は『甲陽軍鑑』によれば、永禄4年に香坂氏が上杉謙信に内通し成敗された時点、または弘治2年(1556年)に小山田昌行(備中守)が水内郡海津城長野市松代町)から雨飾城に番替えとなると後任として海津城代となり、この時点で「高坂」を称していたとしている[3]。なお、『甲陽軍鑑』は海津城築城を永禄3年としているが、これは史実とは矛盾する[4]

一方、高野山成慶院『武田家過去帳』では弘治4年時点で「香坂弾正」を称していることが確認される[3]。この他に「香坂」姓の名乗りが確認されるのは、永禄2年11月屋代政国宛判物における副状で、早くとも永禄6年6月まで「香坂」姓を称し、遅くとも永禄9年9月までには復姓している[5]

名については、確実な文書上からは実名は「虎綱」であることが指摘されており[6]「昌信」(しょうしん)に関しては出家名とされる[要出典]

また、仮名として弾正を名乗っていたとされ、しばしば「高坂弾正」と記載する場合もある。永禄2年まで「弾正左衛門尉」を称し、同年以降には「弾正忠」に改めている[3]

本記事においては以下、春日虎綱として記述する。

生涯
出生から香坂氏継承​
甲陽軍鑑』に拠れば、大永7年(1527年)、甲斐国八代郡石和郷(山梨県笛吹市石和町)の百姓春日大隅の子として生まれる。天文11年(1542年)に父の大隅が死去した後、姉夫婦との遺産を巡る裁判で敗訴して身寄りが無くなるが、信玄の奥近習として召抱えられたという。

はじめは使番として働き、天文21年(1552年)には100騎持を預る足軽大将となり、春日弾正忠を名乗ったという[要出典]。なお、この間の『天文15年(1546年)推定武田晴信誓詞東京大学史料編纂所所蔵文書)』は、虎綱を指すとされる「春日源助」宛で晴信と虎綱の衆道関係を示す文書とされていたが、近年は宛名の「春日」姓が後筆である可能性が指摘されている[7]

武田氏による埴科郡村上義清攻略が本格化した天文22年(1553年)には信濃佐久郡小諸城(長野県小諸市)の城代となる。同年4月に虎綱が名跡を継承することになる信濃更級郡牧野島の国人の香坂氏が武田家に出仕している[2]

その後、虎綱は香坂氏をはじめとする川中島衆を率いて越後上杉氏に対する最前線にあたる海津領の守将を任された。川中島衆となる北信の寺尾・屋代両氏の取次役を務めている[5]。海津城は武田氏と上杉氏の争いにおいて最前線に位置し、『軍鑑』に拠れば永禄4年(1561年)8月には上杉謙信が侵攻し、虎綱は海津城において籠城し、同年9月4日には川中島において第4次川中島の戦いが発生する[4]。『甲陽軍鑑』によれば妻女山攻撃の別働隊として戦功を挙げ、引き続き北信濃の治世にあたったという。

『軍鑑』に拠れば、その後も元亀3年(1572年)の三方ヶ原の戦いなど、武田氏の主だった戦いに参戦したという。

囲碁に関しては「信玄より高坂のほうが二子強かるべし」とする伝説があった[8]

勝頼期の活動から晩年​
元亀4年(1573年)4月の武田信玄死後の武田勝頼期にも海津城代として上杉氏に対する抑えを任されている。天正3年(1575年)5月21日の長篠の戦いには、上杉軍の抑えとして参戦せずに海津城を守備していたが、嫡男の高坂昌澄が戦死している。『軍鑑』に拠れば武田勝頼期には一門の武田信豊穴山信君、譜代家臣の跡部勝資長坂光堅らが台頭していたといわれ、春日虎綱らの老臣は疎まれていたという。

長篠の戦い武田氏織田氏に大敗した。この戦いは武田家にとって有力家臣の多くを失い領国の動揺を招くこととなり甲陽軍鑑においても武田氏の衰退を決定づけた合戦とされる。武田勝頼は長篠敗戦後に信濃へ逃れ、6月2日に甲府へ帰陣している。甲陽軍鑑には、春日虎綱は敗報を聞くと信濃駒場において武田勝頼を出迎え、衣服・武具などを替えさせ敗軍の見苦しさを感じさせないように体面に配慮し、五箇条の献策を行ったとする逸話がある[9]。虎綱の献策が事実であるかは検討を要することが指摘されるが、主に相模国後北条氏との同盟を強化することと、戦死した内藤昌豊山県昌景馬場信春らの子弟を奥近習衆として取り立てて家臣団を再編すること、および長篠敗戦の責任を取らせるため、戦場を離脱したとされる親族衆の穴山信君武田信豊切腹を申し立てたとしている[10]

武田勝頼期には尾張の織田氏との対決が行われているが、虎綱は天正6年(1578年)の上杉謙信死後に発生した上杉家における御館の乱において、武田信豊とともに上杉景勝との取次を努め、甲越同盟の締結に携わっている。虎綱が甲越間の交渉に携わっている天正6年6月8日付の北条高広北条景広上杉景勝書状を最後に史料からは消え、6月12日付の武田信豊書状では信豊が単独で交渉に携わっており、同年10月からは虎綱の子の高坂昌元が登場することが確認される[11]。同年6月14日に海津城において死去したとされる。享年52。

虎綱の命日は複数の説があり、『乾徳山恵林寺雑本』等では天正6年5月11日、『甲斐国志』人物部第五では墓所の明徳寺に伝わる5月初7日死去としているが、甲越間の交渉時期からこの説は整合性が取れない[12]。高野山成慶院「武田家過去帳」では虎綱の命日を「天正6年6月14日巳ノ刻」としており、この説が最も整合性の取れることが指摘される[13]。『武田御日坏帳』によれば、同年7月25日には高野山成慶院で甥の惣次郎による供養が営まれている。法名は弘治2年4月21日に「保雲椿公禅定門」と定められている。

虎綱の子孫と『甲陽軍鑑』
春日氏は次男の信達が継承し海津城代も務めるが、天正10年(1582年)3月の武田氏滅亡後は森長可の支配を受ける。同年6月の本能寺の変後、信達は美濃に撤退する森長可を妨害し、越後上杉景勝に属したが、7月13日、北信での自立を画策する武田遺臣の真田昌幸北条氏直らと内通したことが発覚し、激怒した上杉景勝によって誅殺され、これにより高坂氏嫡流は滅亡した。さらに慶長5年(1600年)3月、初代川中島藩主として北信濃に入った森長可の弟の森忠政によって信濃に残っていた信達の一族は残らず探し出され18年前に森長可の信濃撤退を妨害した罪で一族全員が磔刑に処された(森家先代実録)。

近世には甲府町年寄の山本金右衛門(春日昌預1751年3月17日寛延4年) - 1836年天保7年))は甲府城下の大店若松屋を営む加藤家の出自で、加藤家は虎綱の子孫を称している。

虎綱の活躍をはじめ信玄・勝頼期の事績を記している『甲陽軍鑑』は江戸時代の元和年間に成立した軍学書で、『軍鑑』自身の奥書によれば原本は虎綱の口述記録で、長篠合戦の後に武田氏の行く末を危惧した虎綱が勝頼や重臣の跡部勝資長坂光堅らに対する「諫言の書」として記したという。

虎綱の死後も甥の惣次郎と家臣大蔵彦十郎が執筆を継続し、虎綱の海津城代時代の部下である小幡昌盛の子の小幡景憲がこれを入手し、完成させたという[14]

高坂節三経済同友会幹事)によると、「高坂家の先祖は甲斐の武田信玄に仕えた武将・高坂弾正忠昌信といわれ、兄(高坂正堯)は自分が戦国武将の末裔であることを非常に誇りに思っていた」という[15]高坂正堯は自身の長男を「昌信」と名付けている[16]

関連作品
映画
杉森修平:『影武者』(1980年東宝
沖田浩之:『天と地と』(1990年角川
稲見雅文:『おけちみゃく』(2018年カエルカフェ)

テレビドラマ
村井国夫
 ・『天と地と』(1969年NHK大河ドラマ
 ・『おんな風林火山』(1986年TBS
村上弘明:『武田信玄』(1988年・NHK大河ドラマ)
成瀬正孝:『武田信玄』(1991年TBS大型時代劇スペシャル
里見浩太朗:『風林火山』(1992年日本テレビ年末時代劇スペシャル 里見は山本勘助と2役を演じている。)
金児憲史:『風林火山』(2006年テレビ朝日
田中幸太朗:『風林火山』(2007年・NHK大河ドラマ)役名は春日源五郎→春日虎綱→香坂虎綱
大出俊:『天地人』(2009年・NHK大河ドラマ)役名は高坂弾正昌信

脚注
1. 甲陽軍鑑』に拠れば、虎綱は慎重な采配で三方ヶ原の戦い等においても撤退を進言し、「逃げ弾正」の異名を取ったという。
2.
a b 平山(1994・②)、p.52
3. 
a b c 平山(1994・②)、p.53
4. 
a b 平山(1994・②)、p.55
5. 
a b 平山(2008)、p.314
6. 
平山(2008)、p.313
7. 
鴨川(2004)
8. 
http://www.excite.co.jp/News/lifestyle/20150720/NHKtextview_21077.html 
9. 
平山(2011)、p.156
10. 
平山(2011)、pp.156 - 158
11. 
平山(1994・②)、p.64
12. 
平山(1994・②)、pp. 64 - 65
13. 
平山(1994・②)、p.65
14. 
『甲陽軍鑑』には文書上確認されない人物名や合戦、年紀の誤り等基本的事実の混同が頻出するため史料的価値や虎綱が原本を口述したとすることも疑問視する指摘もあるが、近年は国学的検討により再び性格をめぐり議論が行われている
15. 
高坂節三 『昭和の宿命を見つめた眼―父・高坂正顕と兄・高坂正堯』PHP研究所、2000年11月1日、28頁。ISBN 978-4569613574
16. 
岡部陽二服部龍二 『Documents and Data 元住友銀行専務取締役 岡部陽二インタビュー : 学生時代の高坂正堯』中央大学総合政策学部〈総合政策研究 = Japanese journal of policy and culture (28)〉、2020年3月、116頁。

参考文献
・『石和町誌』石和町、1987年
平山優「春日虎綱」『新編武田信玄のすべて』(新人物往来社、2008年)
・平山優①「戦国大名武田氏の領国支配機構の形成と展開 -川中島四郡支配を事例として-」『山梨県史研究 第2号』、1994年
・平山優②「戦国大名武田氏の海津領支配について-城代春日虎綱の動向を中心に-」『甲斐路 No.80』山梨郷土研究会、1994年
柴辻俊六「戦国期信濃海津城代春日虎綱の考察」『信濃 第59巻第9号』2007年、のち『戦国期武田氏領の地域支配』(岩田書院、2013年)に収録
・鴨川達夫「武田信玄の自筆文書をめぐって」『山梨県史研究 第12号』、2004年

関連項目
戦国時代の人物一覧
春日氏
香坂氏
高坂氏
(wikiより)

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此方のお店も「清川 : 稲荷寿司 松むら」で修行されて暖簾分けしたお店です。

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⇧ 店外観

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とても美味しかったです。



高砂 : 味吟 ( 食べログ )







蛙合戦 

   見し夜の泊まり 

          川中島
 
                鉄之介
(石碑文より)

 本堂の裏には、ヒキガエルが産卵のために群集する「蛙合戦」の池などがある。

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台東区清川にある「稲荷ずし 松むら」から暖簾分けされたお店です

松むらを名乗っているのは、本店 ( 清川 )、足立店、向島店の 3店です。


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⇧⇩ 店外観

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墨田区の地蔵坂通りに有ります。

味は さっぱり目です。

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⇧ 此方では太巻きも有ったので注文してみました。


向島 : 稲荷ずし 松むら 向島店





子供たちよ。
これは譲ゆづり葉の木です。
この譲ゆづり葉は
新あたらしい葉が出来ると
入いれ代かはつてふるい葉が落ちてしまふのです。


こんなに厚あつい葉
こんなに大きい葉でも
新しい葉が出来ると無造作むざうさに落ちる
新しい葉にいのちを譲ゆづつて――。


子供たちよ。
お前たちは何を欲ほしがらないでも
凡てのものがお前たちに譲ゆづられるのです。
太陽の廻めぐるかぎり
譲られるものは絶たえません。


輝かゞやける大都会だいとくわいも
そつくりお前たちが譲ゆづり受けるのです。
読みきれないほどの書物しよもつも
みんなお前たちの手に受取うけとるのです。
幸福なる子供たちよ
お前たちの手はまだ小ちひさいけれど――。


世のお父さん、お母さんたちは
何一つ持つてゆかない。
みんなお前たちに譲ゆづつてゆくために
いのちあるもの、よいもの、美しいものを
一生懸命に造つくつてゐます。


今、お前たちは気が附つかないけれど
ひとりでにいのちは延のびる。
鳥のやうにうたひ、花のやうに笑つてゐる間に気が附ついてきます。


そしたら子供たちよ
もう一度ど譲ゆづり葉はの木の下したに立つて
譲り葉を見る時が来くるでせう。

太田野雲書
(石碑文より)

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清川本店から のれん分けしたお店です。

 

お揚げの味付けもスッキリ、すし飯の酢もサッパリで幾つでも食べられます。


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⇧ 店外観

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⇧⇩ ショーウインドゥの雰囲気が良いなぁ

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千住 : 稲荷ずし 松むら






明徳寺(めいとくじ)は、長野県長野市松代町豊栄にある曹洞宗寺院。山号は、龍潭山。本尊は拈華微笑 釈迦牟尼仏鎌倉時代作)。

概要
1390年(南朝:元中7年、北朝:明徳元年)に越後国刈羽郡の東福院5世妙徳により開山。明応10年(1501年)には正続円明禅師が中興開山となった。戦国時代には甲斐武田氏家臣で、信濃更級郡香坂氏の養子となった海津城代の春日虎綱(高坂昌信)の帰依厚く、1533年(天文2年)に諸堂を修理し重興開基となる。玉山春洞を招き明徳寺は曹洞宗となる。

境内には虎綱の墓所があり、『甲斐国志』によれば明徳寺には虎綱の没年を天正6年5月初7日とする伝承を伝えているが、これは誤りであることが指摘される。

慶長16年(1611年)、松平忠輝により寺領20石を寄進され、慶安2年(1649年)には江戸幕府から朱印20石を安堵された。それ以後は歴代松代藩主(真田氏)により保護された。

エピソード
夜な夜な小僧に化けて酒を買いにでかけたという「酒飲み弥勒」の伝承がある弥勒菩薩も本尊のほかに安置されている。本堂裏手には、ヒキガエルの産卵場所になる「蛙合戦」の池(長野市指定天然記念物1967年(昭和42年)11月1日指定)などがある。

墓所
高坂昌信の墓の他、大東亜戦争における硫黄島の戦いの指揮官栗林忠道の墓もある。

参考文献
・『信州の文化シリーズ 寺と神社』1981年 信濃毎日新聞社   
・『探訪 信州の古寺 禅宗』1996年 
郷土出版社            
(wikiより)

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⇧⇩ 高坂弾正の墓

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⇧ 栗林忠道の墓

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稲荷寿司まつむら 浅草店です。

 

此方の揚げの味付けはキリッと濃いめになっています。


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清川 : 松むら ( 食べログ )







門生が、馬島春海の為に建立したみたいです。

馬島春海 ( まじま - しゅんかい )

天保 12年 ~ 明治 38年 11月 16日 ( 1841 ~ 1905 )

江戸時代末期・明治期の漢学者。

騎兵隊書記を経て、萩に帰り、漢学塾晩成堂を開く。

松下村塾入塾年 ( 安政 4年12月 )

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 このお店は閉店しました。


田原町駅近くにあるお店なのですが、以前も食べたことが有るのですが・・・

お店が廃業する ( 5月いっぱい ) というような噂 ( ツイートを読んで ) 聞いて行って来ました ( 2021年 5月 21日 )

 

メチャ美味しいというよりも「このお店が出来た時は」というノスタルジックな味かもしれませんが、近くまで行くと必ず買って帰ってくる感じですね

また銀座線の車両に乗っていて田原町駅に停車すると焼きそばを焼く匂いがして、いわゆる飯テロ攻撃をされていました。


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⇧ 店外観

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⇧ お持ち帰りにした焼きそば ( 並盛り )



田原町 : 花家 ( 食べログ )






この石碑は、大正 8年 ( 1919 ) 11月、侯爵・毛利元昭によって建てられ、萩城の来歴を記したもので、子爵・杉孫七郎の撰文、高島張輔 ( 日本画家・高島北海の実兄 ) の書である。

萩城は毛利輝元によつて築城され、慶長 9年 ( 1604 ) に工事に着手し、4年後の慶長 13年に完成した。

以後 260年間、萩藩主の居城として、また周防・長門両国の藩政の中枢機関として偉容を誇った。

しかし、第 13代藩主・敬親の代に至り、幕末の多端な国事の処理に不便なため、文久 3年 ( 1863 ) 4月、藩府を山口に移した。

その後、藩主の居館、諸役所などが漸次取り除かれついに明治 6年 ( 1873 ) には政府から萩城払い下げが下り、翌年天守閣、矢倉などすべてが解体された。
(案内板より)

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いつも店の前を通っていたんですが、甘味屋さんだと思い入った事はなかったので今回入ってみました。

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⇧ 店外観

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⇧⇩ メニュー

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⇧ ラーメン

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⇧ 五目焼きそば

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⇧ 餃子 ( この餃子、野菜餃子で何個でも食べられます )

 

ちなみにラーメン & 餃子セット ( 餃子 3個 ) も有ります。

 



日暮里 : 花屋 ( 食べログ )


 



旧県社。

祭神は、毛利元就・毛利隆元・毛利輝元・毛利敬親・毛利元徳。

明治 11年 ( 1878 )、萩町及び付近の有志が発起し、広く毛利家ゆかりのあるものの賛同を得て、萩城跡本丸内に山口の豊栄 ( 祭神・毛利元就 )・野田 ( 祭神・毛利敬親 ) 両神社の遥拝所を創建した。

翌 12年、この遥拝所を山口にある両神社の分社とし、指月神社と称した。

同 15年県社に列せられ、志都岐山神社と改めた。

同 33年、祭神を元就・隆元・敬親・元徳の 5柱とし、初代から 12代まで萩藩主を配祀した。
(案内板より)

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