本牧jack『意外と身近にある歴史散歩』日々是好日 心灯 頬笑

本牧Jackで御座います
小生の拙ブログ『意外と身近にある歴史散歩』日々是好日 心灯 頬笑に御訪問頂き誠に有難う御座います。
歴史ドラマが流行っている昨今、身近に有って気が付かなかったりする様な物を取り上げたりしています。
たまに『 大人数で取材しているのか? 』との質問を戴きますが、小生と相方の二人三脚で御座います。
出来るだけ続けたいと思っていますが 膝・耳に問題が有って、いつまで出来るやら・・・説明も、やたら長いものから あっさりしたものまで有りますが、御付き合いの程 宜しく御願い致します。
御注意 . 少ないですが生前に建てられた『 生前墓 』の記事も有ります。 ※ 申し訳御座いませんが「画像の転用」は禁止とさせて頂きます。 コメントは原則公開させていただいております 質問等に対してはブログ記事で返信させていただきます 他の方法で連絡を取り合う等一切しません 場合によっては、「IPブロック」しますがブロックした場合解除する事は有りませんので宜しくお願いします。

2024/05

千駄木駅近くに有る漬物屋『 やなぎに桜』さんです

 

季節それぞれ色々な種類のお漬物をそろえていて、中には珍しいものも有ったりします。

 

通常量り売りなので、試しに購入してみるのも良いですね。

 
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⇧ 店外観

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⇧ ザーサイの浅漬け

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⇧ あんずのお漬物

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⇧ 定番の白菜の浅漬け

 

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これ以外にもいろいろなお漬物が有ります。



千駄木 : やなぎに桜 ( 食べログ )






高杉晋作とともに“松下村塾の双璧”と称されていた幕末の志士・久坂玄瑞の旧宅跡。

久坂玄瑞は、天保 11年 ( 1840 )、萩藩医・久坂良迪 ( りょうてき ) の三男として平安古に生まれました。

17歳のときに高杉晋作らと共に松下村塾で学び、のちに藩校明倫館に学びます。

吉田松陰から「防長年少第一流の才気ある男」と絶賛された玄瑞は、18歳のときに松陰の妹・文 ( ふみ ) と結婚しました。

長井雅楽の提唱した航海遠略策に反対し、藩論を尊攘討幕に一変。

英国公使館焼き打ちや下関の外国船砲撃に参加しました。

元治元 ( 1864 ) 年の禁門の変 ( 蛤御門の変 ) で、幕府方諸軍と戦い、流弾を受け負傷。享年 25歳という若さで自刃しました。 

現在は、長州に亡命した尊王攘夷派公卿の 1人、三条実美が詠んだ追悼の和歌を刻んだ石碑が建てられています。

中央公園の一角に、平成 27年 1月 久坂玄瑞進撃像が建立されました。

〇 久坂玄瑞

生年天保11年(1840年5月
生地日本の旗 日本長門国
没年元治元年7月19日1864年8月20日)(満24歳没)
没地日本の旗 日本山城国京都
活動尊王攘夷
長州藩

久坂 玄瑞(くさか げんずい、1840年天保11年5月) - 1864年8月20日元治元年7月19日))は、幕末長州藩士。幼名秀三郎、は通武(みちたけ)、通称は実甫、誠、義助(よしすけ)。妻は吉田松陰の妹・文(後の楫取美和子)。長州藩における尊王攘夷派の中心人物。栄典正四位1891年)。

経歴
幼少年期から藩医になるまで
天保11年(1840年長門国萩平安古(ひやこ)本町(現・山口県萩市)に藩医久坂良迪、富子の三男・秀三郎として生まれる(二男は早世している)[1]。幼少の頃から城下の私塾の松下村塾四書の素読を受けた(この塾には1歳年長の高杉晋作も通っていた)[2]。ついで藩の医学所・好生館に入学したが、14歳の夏に母を亡くし、翌年には兄・久坂玄機が病没した。そして、そのわずか数日後に父も亡くし、15歳の春に秀三郎は家族全てを失った。こうして秀三郎は藩医久坂家の当主となり、医者として頭を剃り、名を玄瑞と改めた。17歳の時に、成績優秀者は居寮生として藩費で寄宿舎に入れるという制度を利用して、玄瑞は藩の医学所である「好生館」の居寮生となった。身長は6尺(約180cm)ほどの長身で恰幅がよく、声が大きく美声であった。片目は少しスガメであった[3][4]

九州遊学から松下村塾入門へ
安政3年(1856年)、玄瑞は兄事する中村道太郎のすすめで九州に遊学する。九州各地の著名な文人を訪ね、名勝地を巡りつつ詩作にふける旅に出た。玄瑞がこの旅で作った詩は、のちに『西遊稿』としてまとめている[5]。熊本に宮部鼎蔵を訪ねた際、吉田松陰に従学することを強く勧められた[6]。玄瑞はかねてから、亡兄の旧友である月性上人から松陰に従学することを勧められており、久坂は萩に帰ると松陰に手紙を書き、松陰の友人の土屋蕭海を通じて届けてもらった[7]

まず玄瑞が松陰に送った手紙の内容は、「弘安の役の時の如く外国の使者を斬るべし。そうすれば、必ず米国は来襲する。来襲すれば、綱紀の緩んだ武士達も覚醒し、期せずして国防も厳重になるであろう」という意見であった[8]。しかし松陰は、玄瑞の手紙をそのまま送り返し、その欄外に「あなたの議論は浮ついており、思慮も浅い。至誠より発する言葉ではない。私はこの種の文章を憎みこの種の人間を憎む。アメリカの使節を斬るのは今はもう遅い。昔の死んだような事例をもとに、現在のまったく違った出来事を解決しようということを思慮が浅いと言うのだ。つまらぬ迷言を費すよりも、至誠を積み蓄えるべきだ。実践を抜きにした言説は駄目だ」と書いて玄瑞の論を酷評した[9]

だが、松陰が玄瑞に痛烈な批判を加えたのは考えがあってのことだった。玄瑞を紹介した土屋への手紙に松陰は、「久坂の士気は平凡ではない。何とか大成させようと思い、力をこめて弁駁しました。これで激昂して反駁してくる勢いがあれば、私の本望です。もし、これでうわべを繕って受け入れたふりをするような人ならば、私の見込み違いであったというべきでしょう。」と玄瑞を試していたのであった[10]。玄瑞は猛然と反駁した。「米英仏が強いことは昔の朝鮮の如きとは比較にならない。米英仏の巨大な戦艦と大砲、鉄砲には我が国は太刀打ちできない。だからといって座して国が亡びるのを待つのは如何なものであろうか。まず守りを固めるべきである。」「あなたの不遜な言説では私は屈しない」「もしあなたがこのような罵詈、妄言、不遜をなす男ならば、先に宮部殿があなたを称賛したのも、私があなたを豪傑だと思ったのも、誤りであったようだ。私は手紙に対して、憤激のあまり拳を手紙に撃ちつけてしまった。」と書いた[11]

松陰はすぐに返事はせずに約1カ月の間をおいて筆を執った。「今や幕府は諸外国と条約を結んでしまった。それがだめだといっても、我が国から断交すべきではない。国家間の信義を失うことは避けなければならない。外国とは平穏な関係を続けながら、我が国の力を蓄え、アジア、中国、インドと手を携えたのちに欧米諸国と対峙すればいい。あなたは一医学生でありながら空論を弄び、天下の大計を言う。あなたの滔々と語る言説はただの空論だ。一つとしてあなたの実践に基づくものはない。すべて空論である。一時の憤激でその気持ちを書くような態度はやめよ。」と返書した[12]

しかし、三度玄瑞は反論の筆を執った。「外国人との交易はどちらを利しているのか」「人心は現状を保つことに汲々としているが、武器はいつ備えるのか。士気はいつ高まるのか。危急存亡について誰が考えているのか」と食い下がった[13]。これに対して松陰の3度目の返信は、それまでとはうってかわって、「あなたが外国の使いを斬ろうとするのを空論と思っていたのは間違いだった。今から米使を斬るようにつとめてほしい。私はあなたの才略を傍観させていただこう。私の才略はあなたにとうてい及ばない。私もかつてはアメリカの使いを斬ろうとしたことがあるが、無益であることをさとってやめた。そして、考えたことが手紙に書いたことである。あなたは言葉通り、私と同じにならないように断固としてやってほしい。もし、そうでないと、私はあなたの大言壮語を一層非難するであろう。」と書いた[14]

松陰は玄瑞に実践を求めたのであったが、玄瑞に米使を斬る手だてはなかった。ここに両者の議論に決着がついた。このやりとりの後しばらくして玄瑞は、翌安政4年(1857年)晩春、正式に松門に弟子入りした。

松下村塾では晋作と共に「村塾の双璧」、晋作・吉田稔麿入江九一と共に「松門四天王」といわれた。松陰は玄瑞を長州第一の俊才であるとし、晋作と争わせて才能を開花させるよう努めた。そして、安政4年(1857年)12月5日、松陰は自分の妹・を玄瑞に嫁がせた。

尊王攘夷運動
安政6年(1859年)10月、安政の大獄によって松陰が刑死した。

文久元年(1861年)12月、玄瑞は、松下村塾生を中心とした長州志士の結束を深めるため、一灯銭申合を創った(参加者は桂小五郎、高杉晋作、伊藤俊輔山縣有朋ら24名)。

文久元年頃から玄瑞と各藩の志士たちと交流が活発となり、特に長州、水戸、薩摩、土佐の四藩による尊攘派同盟の結成に向けて尽力し、尊王攘夷運動、反幕運動の中心人物となりつつあった[15]

文久元年初めから藩論は、長井雅楽の「航海遠略策公武合体」に傾きつつあり、5月23日、藩主は長井に、朝廷に参内させ攘夷論の朝廷を説得せしめることに成功した。しかし、これに対し玄瑞は以下の観点から反駁した[16]

一点目は経済の観点から、「今の通商は亡国への道である。売るものがなく、買うばかりの一方的な貿易で年々多くの国幣を失っている。物価は高騰し、国民は塗炭の苦しみの中にある。貿易を盛んにする前に、国産の開発が大いになされなければならない」。

二点目は幕府を助けることのみに終わるという観点から、「最終的には我が国は海外へ出ていかなければならないのはわかっている。先師(松陰)の考えもそうだった。だが、それが幕府を助け天朝を抑えることになってはならない。いずれは万里の外へ航海に乗り出す策を立てねばならないのは当然だ。しかし、今回対馬を占領されており、これだけの凌辱を受けながら、その罪も正さず、頭を垂れて尻尾を振って、航海に乗り出しても武威の高まることはないと思う。先日、佐久間象山を訪ねたが、同じ航海説でも「力を計り勝ちを計る」という考えで、大人物かつ発想に秀でており、戦を恐れて航海を唱える者と同じ土俵で論ずるべきではない」。

玄瑞は長井に何度を議論を挑み、また藩主への具申をしたが、藩論は覆ることはなかった。文久元年、公武合体の考えに沿うように和宮の降嫁が実現した。

このような中、玄瑞は全国の「草莽の志士糾合」に賭けざるを得なくなる。文久2年(1862年)正月14日、坂本龍馬が剣道修行の名目で、武市半平太の書簡を携え、玄瑞との打ち合わせのため萩へ来訪した。馬関の豪商白石正一郎と結び、白石宅をアジトにして、薩摩の西郷隆盛、土佐の吉村寅太郎、久留米、筑前の志士たちとも謀議を重ねた。松門の同志は血盟を交わし、桂小五郎は、繰り返し藩主親子、藩の重臣たちに、長井雅楽弾劾を具申し続けた。4月、玄瑞は同志と共に上京し、長井の弾劾書を藩に提出する。6月、玄瑞は長井要撃を試みるが襲撃の時機を逸したため、藩に長井への訴状も兼ねて待罪書を提出するも、京都にて謹慎となる。しかし、桂小五郎らは攘夷をもって幕府を危地に追い込む考えで、藩主・毛利敬親に対し攘夷を力説し、7月6日、長井失脚に成功した[17]

廻瀾條議と解腕痴言
玄瑞は謹慎中の文久2年(1862年)8月、『廻瀾條議』と名付けた建白書を藩主に上提した。これが藩主に受け入れられ、長州藩の藩論となる。藩論は航海遠略策を捨て、完全に尊王攘夷に変更された(長井は翌年2月自刃を命ぜられた)。また翌月には、全国の尊攘派同士に向けた実践綱領の書『解腕痴言』を書いた。

『廻瀾條議』と『解腕痴言』は、結局「西洋の強大な武力に屈服する形で開国するのではなく、対等に交渉する気力を奮い起こすべきであり、それによって国力を回復させ、軍備を整えた後、対等な立場で条約締結に及ぶ」という意見であった。これは師松陰の開国的攘夷論を踏まえたものであるが、他方、「攘夷」という主張は、政権を幕府から朝廷へ回復させる倒幕という目的からも有効であると玄瑞は力説した[18][19]。|『廻瀾條議』の要点は次の通りである[20]

(1)汚名を蒙って処刑された吉田松陰の遺骸を改葬して、その「忠烈節義」「殉国の志」を顕彰し、藩内で誰の意見が正しくまた邪であったかをはっきりさせること。

(2)安政五年の修好通商条約をはじめ幕府の怯懦な方策により、日本が将来植民地同様となる危機が生じており、その責任を負うべき井伊直弼以下の閣僚はさらに安政の大獄という暴虐の責めをも負うべきで、厳罰に処さねばならない。

(3)下田の和親条約までは良く、安政五年の条約はすべて下田の条約にまで引き戻し、外国貿易は長崎、下田、函館の三港に限ること。

(4)安政五年の条約は違勅の大罪をも犯しており、「大義をもって論ぜば」幕府を「誅戮殲滅」させてもいいのだが、朝廷が「ご寛容」に将軍の過誤を改める機会を与えられたのだから、「長薩二藩」が「督責」して条約に関する処罰や下田条約への引き戻しをさせねばならない。

(5)朝廷に「御政事所」を設け、ちくいち重要政務を幕府から奏聞させ、また、「御親兵」を置くなどして、ゆくゆくは「天下の御威権」を「朝廷に帰」すべきだが、ものごとには順序が大切であり、まず先の項(4)を実現するようにもってゆき、もし「承服つかまつらず」は、「決闘死戦と御勇決猛断」をなされねばならない。

以上をなして、諸外国の様子を洞観し、海軍を充実させ士気を高めて積極的海外に雄飛せよ。

同年9月、謹慎を解かれた玄瑞は、早速活動を開始する。薩長土三藩有志の会合に出席し、攘夷御下命の勅使を激励する決議をなした。また、9月末には土佐の坂本龍馬福岡孝弟らと会い、三藩連合で近衛兵を創設する件を議した。10月、玄瑞は桂小五郎とともに、朝廷の尊王攘夷派の三条実美姉小路公知らと結び、公武合体派の岩倉具視らを排斥して、朝廷を尊攘化した。そして同年10月、幕府へ攘夷を督促するための勅使である三条実美・姉小路公知と共に江戸に下り、幕府に攘夷の実行を迫った。これに対し、将軍・徳川家茂は翌年上京し返答すると勅旨を受け取った。

イギリス公使館焼き討ち
江戸に着いた玄瑞は晋作と合流した。晋作は外国人襲撃を画策していたが、玄瑞は「そのような無謀の挙をなすよりも、同志団結し藩を動かし、正々堂々たる攘夷を実行するべき」と主張し、晋作と斬るか斬られるかの激論となった。それを井上聞多がうまく裁き、結局玄瑞も受け入れ、長州藩志士11名が襲撃を決行することとなった[21]。しかし報せを聞いた長州藩世子・毛利定広や三条実美らの説得を受け、中止に終わった。その後11名の志士は、御楯組を結成し血盟した。ちなみにその趣意精神を記した「気節文章」は玄瑞が書いたものである。そして12月、彼らは品川御殿山に建設中の英国公使館焼き討ちを実行した。

下関戦争と光明寺党、奇兵隊
文久2年12月、玄瑞は再び佐久間象山を訪ねるため、水戸を経て信州に入った。象山を長州藩に招聘するためだったが、象山は辞退した。しかし象山は、玄瑞を数日滞在させて助言を与える。翌文久3年の正月に、この助言を藩主に詳しく説明したところから、伊藤俊輔、井上聞多らの藩費によるイギリス留学が実現した[22]

文久3年(1863年)1月27日に京都翠紅館にて各藩士と会合する。2月21日には朝廷の攘夷決定にもかかわらず幕府が因循しているのため、玄瑞は関白鷹司輔煕の邸に推参し建白書を提出し、攘夷期限の確定を求めた。また、京都藩邸御用掛として攘夷祈願の行幸を画策した。これらが実現し、朝廷の指導権は長州が握ることとなった。

幕府は朝廷に御親兵をおくこと、攘夷期限を定めることを認めざるを得なくなり、3月には幕府より奉勅攘夷の決定が列藩に布告され、4月には攘夷期日を5月10日とする勅令が発せられた。

4月25日、玄瑞は帰藩し、5月10日に関門海峡を通航する外国船を砲撃する準備を整えるため、50人の同志を率いて馬関の光明寺を本陣とし、光明寺党を結成した。光明寺党は、他藩の士や身分にとらわれない草莽の士を糾合したものであり、その行動は藩意識を超脱したものだった。これを長州藩の玄関たる馬関の地で実行した[23]

この光明寺党が後の奇兵隊の前身となる。玄瑞は公卿中山忠光を首領として、久留米藩の真木和泉も加え、士卒の意気を高めた。5月10日から外国船砲撃を実行に移した(外国艦船砲撃事件)。

長州藩はアメリカ商船ベンブローク、フランス軍艦キャンシャン、オランダ艦メデューサへの攻撃を行ったが、長州藩の砲台では海峡の反対側を通る船舶には弾が届かないことが判明したため、玄瑞は、かつて松陰が書いた『水陸戦略』の「海戦は奇なり、陸戦は正なり、……夜中など賊船に潜み近づき、船腹を打ち貫き候様の術、……」に倣い、夜中に船で近づいて攻撃するという戦法を実行した[24]

この戦いで、長州藩の海防上の問題(旧式の青銅砲は射程が短く、外国間の報復攻撃の際に、門司側が無防備では十分な反撃ができないということ)が明らかになった。また、5月20日に朝廷の攘夷急進派の中心人物で長州藩の最も重要な後ろ盾であった姉小路公知国事参政が、何者かに暗殺された。そのため藩は5月28日、朝廷へのパイプの太い玄瑞を、朝廷への攘夷報告と対岸の小倉藩の協力要請のための使者に伴わせて京都に向かわせた[25]

6月1日、玄瑞ら長州藩は朝廷に攘夷の報告をし、朝廷から藩主への褒め詞を賜った。3日には、朝廷から各藩への攘夷趣旨貫徹の下達を請願した。朝廷は、5日に小倉藩へ通達。6日には列藩に対しても攘夷の趣旨が伝えられた。

攘夷実行と同時に起きた京都政界の急変に対応するため、入江九一を除き、光明寺党の中核をなしていた玄瑞、寺島忠三郎吉田稔麿野村靖ら松下村塾の門人たちはみな、京都、山口、馬関の間を駆け巡らなければならなくなった[26]

玄瑞が京都へ東上した頃、光明寺党の幹部と真木和泉、中山忠光白石正一郎らが話し合い、新しい隊を結成することとなった。光明寺党を基として、足軽、農民、町人、工匠等の希望者を募って、隊づくりが進行した[27]

しかし、玄瑞が京都で政治活動中の6月1日、5日に長州藩は、アメリカ艦、フランス艦から報復攻撃を受け、長州藩軍艦2隻が撃沈、砲台が破壊され、寺、民家を焼かれた。玄瑞不在の代理として藩は6月5日、討幕挙兵を唱えて謹慎中であった高杉晋作に馬関防衛を命じ、6月6日、晋作は現地に赴任し、奇兵隊の総管となった。『奇兵隊日記』によると、光明寺党が奇兵隊へ名称変更したのは、晋作が着任以前のことであることがわかる[28]

くわしいことは「久坂玄瑞ウィキペディア」をご覧ください。 ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%85%E5%9D%82%E7%8E%84%E7%91%9E     
(wikiより)


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久坂玄瑞

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⇧ 久坂玄瑞誕生地

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日本全国に「焼きそば」の有名店は多いですが、栃木市にある大豆生田商店の焼きそばは「じゃがいも入り焼きそば」で有名なお店です。

 

お店は店内で食事するお客と、入り口で待っているお客 ( 持ち帰り ) の人もいるので、客席を見て空いていたら「中に入ってしまった方が」良いと思います

 

それに電話注文が引っ切り無しにかかってきて、店員さんもテンパッテますから、オーダー来ないな?と思ったら調理場にいる店員さんにオーダーを出した方がスムーズに済みます。

 

メニューは、じゃがいも入り焼きそば ( プレーンタイプのじゃがいも入り焼きそばと、じゃがいも・いか入り焼きそば ) と、いもフライの 2種類 ( いもフライは、甘じょっばいソースと、甘いソースの2種類にソース無しも選べます。)

 

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⇧ 店外観
店外にも並んでいる人もいますが、お持ち帰りの人なので店内に入っちゃった方が良いです。

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⇧⇩ 店内

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⇧ メニュー

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⇧ 味変セット、コショウ、七味、ソース ( 追いソース ) の3種類

どれも試してみましたが美味しかったです。


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⇧ じゃがいも入り焼きそば ( 並盛り )

 

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⇧ いか・じゃがいも入り焼きそば ( 並盛り )

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⇧ いもフライ

じゃがいもを半分に割ったものを4個 ( じゃがいも2個分 )

表面もカリカリで美味しかったです ソースは甘じょっばい方を選びました

 

小食のため 2人で焼きそば 2皿、いもフライを 1本注文しましたが、胃にキビシイ状態になりました

 

2人で焼きそば 1皿、いもフライ 1本で注文していた 3人連れの御家族もいらっしゃったので、そういう風にすれば良かったと反省しました。

 

 

栃木 : 大豆生田商店 (タベログ)

 




本樹は指月公園内の志都岐山神社参道、旧明倫館遺構万歳橋の東側に位置している。

根元の幹周 1.7m、幹は基部で三分岐し、一幹は枯損。

主幹は目通り 0.8m、樹高 6mのさして大木とはいえないが、この種は日本で萩市のみに知られる稀品であり、植物分類学的位置を評論する場合の基準標本の原木として貴重である。

本種は桜の中でも最も一般的なソメイヨシノに似ているが、萼が緑色であるところからミドリヨシノと名づけられた。

花は純白色で、遠望すればナシ類の花を思わせる風情は格別であり、また特色の一つでもある。

いずれにしても学術的に貴重な樹木といえる。
(案内板より)

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日本橋のすぐ隣りにある「天松」さんです。

 

朝一の映画を見た後に丁度良く使わせて頂いております。

3階席で食べていると渋滞時は首都高を走る運転手さんと目が合う事もチラホラ

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⇧ 外観

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入店するとレジで注文したお料理の会計して 2~3階の席へと向かいます。

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⇧ 3階席です。

 

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⇧ 別注文のメニュー

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⇧ 天丼定食を注文しました。

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⇧ 天丼

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⇧ 香の物

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⇧ お味噌汁

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⇧ 天ぷら定食を注文しました。

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⇧  ( かき揚げを天丼にして貰ったためお皿に「かき揚げ」は有りません )

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⇧ 「かき揚げ」を天丼にして貰いました 

かき揚げの天丼を選ばなければ通常のご飯となります。


若干小食気味なので大満足でした。

 

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2021年 7月 31日 再訪

 

日本橋TOHOシネマズで映画を見てから来てみました

前回は満員で入れなかったため、今回はどうしても天ぷらが食べたかったんです。

 

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⇧ 建物外観

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⇧ 「天ぷら定食」を注文してから出てくるのがこれです。

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⇧ 揃いました

いつも通りに大満足でした。

 


日本橋 : 天松 ( お店ホームページ )







児玉花外は、本名を伝八といい、明治 7年 ( 1874 ) 京都に生まれた。

同志社、札幌農学校、東京専門学校(早稲田大学の前身)などに学んだが、いずれも中退した。

熱血詩人と称され、「社会主義詩集」「ゆく雲」などの作品と「明治大学校歌」の作詞者として有名である。

父・精斎は現在の長門市深川板持の出身で、京都で医師を開業していた。

大正 13年 ( 1924 )、花外は父の故郷を尋ね、湯本を基点に下関・山口・萩などの維新の志士ゆかりの地を遊歴して、「防長新聞」「関門日日新聞」に318の詩編を発表した。

昭和 18年 ( 1943 )、東京で没した。享年 70歳。

三百年の萩の花 一たび揺れて血の勝利

この詩は、東京遊学中の山口県出身学生の親睦団体であった防長学生連盟のために、昭和2年(1927)に、花外が作詞した団歌「防長学生連盟の歌」の冒頭の句である。

碑は萩文化協会が王政復古70周年の記念として揮毫を花外に依頼し、昭和12年に建立された。
(案内板より)

〇 児玉花外
児玉 花外(こだま かがい、1874年明治7年)7月7日 - 1943年昭和18年)9月20日)は、日本の詩人。はじめ社会主義詩を、後に愛国詩をよくし、「熱血詩人」の異名をとった[1]。『明治大学校歌[2]の作詞者でもある。本名は伝八。詩人の児玉星人は異母弟[3]

経歴
京都室町通上立売下ル西入蒔鳥屋町(現・京都府京都市上京区)で旧長州藩士の児玉精斎の長男として生まれた。児玉家は代々萩城下町に住んでいたが、維新後に大津郡三隅村、次いで京都に移り、室町通で漢方医を開業していた[3]

1886年(明治19年)、高倉初音小学校(現・京都市立高倉小学校)を卒業。同志社予備校に入学し、次いで同志社普通学校(本科)に進む[3]1890年(明治23年)、新島襄の死に際してを担いで野辺の送りをした[3]。その直後に同志社を中退し、やはり新島が校長を務めていた東華学校に入学。同校が廃校になった後、札幌農学校(現・北海道大学)予科に入学するも本科に進まず中退。1894年(明治27年)には東京専門学校(現・早稲田大学)文学部に入学。坪内逍遙の影響を受け、バイロンシェリーバーンズの詩に親しんだが、3年後にやはり中退し、京都に帰る[3]

京都に帰った児玉は内村鑑三に影響を受け、内村の『東京独立雑誌』や片山潜の『労働世界』などといった雑誌に次々と詩作を発表[3]1899年(明治32年)には山本露葉山田枯柳との共著で、処女詩集『風月万象』を出版する[4]。また、この頃から「花外」という雅号を使用するようになった。ちなみに「一生を出世栄達という花の外に居る」という思いからつけられている。

その後、新聞記者などを務めながら社会主義的詩を次々と発表し、評論家からは高い評価を受けていたが、1903年(明治36年)、第2詩集となる『社会主義詩集』が、製本段階で発売禁止処分を受ける[5]。『社会主義詩集』というタイトルであるとはいえ、収録されている詩はそれまでに雑誌で合法的に発表していたものであり、特別過激な内容であったわけではない。このため、なぜ発売禁止処分を受けたのかは不明である。さらに、1907年(明治40年)には第4詩集『天風魔帆』が、またも発売禁止処分を受けてしまう。

以後、児玉は社会主義的作品をほとんど書かなくなり、『冒険世界』『武侠世界』などの雑誌に英雄詩や勇壮詩を多く執筆するようになる。しかし生活は苦しく、酒の飲み過ぎから体調を崩したこともあって、救護法の適用を受けたことさえあった。なお、この頃の代表作には、「白雲なびく駿河台」の歌詞で知られる『明治大学校歌』がある。

最晩年、花外が板橋東京養育院に入所していると聞いた武田孟(のち明大総長)ら多くの明大の関係者・学生が、学内で寄付金を募り、慰問の品々を持参して見舞いに訪れた。車椅子で迎えた花外に、学生たちはマンドリンオーケストラの旋律に合わせて明治大学校歌を合唱して慰め、花外は感激のあまり涙を流したという[6]

1943年(昭和18年)9月20日、急性腸炎のため死去[4]。69歳。晩年は日蓮宗が心の支えだったという。墓所は静岡県伊豆市の上行院。

1960年(昭和35年)、祖父のゆかりの地である山口県長門市大寧寺に詩碑が建立された[7]

『社会主義詩集』のその後
発売禁止処分を受けた『社会主義詩集』であったが、ごくわずかに製本されたものが存在していた。 1935年(昭和10年)ごろ、大阪の活字問屋社主で古書コレクターでもあった青山督太郎の手元に渡ったことが確認されたものの、青山の蔵書は後に警察に押収されてしまい、戦後青山が返還を求めたときには行方不明になっていた。

このことから、稀覯本番付が作られた場合には第一に名前があがる稀覯本として古書コレクターの間で知られていたが、時を経るに従って、もう現存していないと考えられるようになったため、近年ではその名前が取り沙汰されることはない。

なお、『社会主義詩集』は1949年に日本評論社から岡野他家夫の解題、中野重治の序文をつけて刊行され、またそこに収められていた詩のなかのいくつかは、『日本プロレタリア文学大系』(三一書房)の「序巻」(ISBN 978-4-380-68509-5)で読むことができる。

関連項目
天狗倶楽部     

脚注
1. 原田謙次 校歌と校風』 北光書房、1943年、80頁
2.
児玉花外詩集』 文松堂書店、274-276頁
3. 
a b c d e f 『明治文學全集83 明治社会主義文學集(一)』 506-507頁
4. 
a b 『日本現代詩辞典』 185-186頁
5. 
明治36年内務省告示第57号(『官報』第6062号、明治36年9月14日、p.217
6. 
『朝日新聞』 昭和15年11月17日
7. 
『同志社山脈』 201頁

参考文献
・『明治文學全集83 明治社会主義文學集(一)』 筑摩書房、1965年 ISBN 978-4-480-10383-3
・『日本現代詩辞典』 桜楓社、1986年 ISBN 4-273-02072-6      
・同志社山脈編集委員会編 『同志社山脈』 晃洋書房、2003年 ISBN 4771014086
・明治大学百年史編纂委員会 『明治大学百年史』 第三巻 通史編Ⅰ、学校法人明治大学、1992年
横田順彌 『[天狗倶楽部]快傑伝 元気と正義の男たち』 朝日ソノラマ 1993年

外部リンク
山口県/文化振興課/山口の文学者たち・児玉花外
児玉花外資料目録|山口県立山口図書館
 ウィキソースには、明治大学校歌の原文があります。
明大校歌歌詞の成立 補論 - 明治大学図書館        
児玉花外:作家別作品リスト - 青空文庫        
(wikiより)

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児玉花外

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旭川駅で昼食でもと思い歩いていたら見つけました。

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⇧ 店外観
けっこう人が入っていくので気になったんです

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⇧⇩ 店内

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⇧ お客さんの回転が早い

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⇧ ⇧ 旭川ラーメンなんだそうです 
初めて食べましたが美味しかったです。

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⇧ 焼きそば

麺を固く焼いている部分が有り美味しいです

 

ラーメン、焼きそばも「大盛り」を注文している人が多かったです。

 

 

旭川 : 駅ナカ食堂 なの花 

 





萩城築城以前に、ここに住んでいた近藤元統 ( こんどう - もとのり ) の屋敷跡及び墓所であるといわれる。

元統の孫・露竹 ( ろちく ) の代、毛利輝元による萩城築城の際に、この地を献上した。

露竹は輝元の萩打入りを迎え、深野太郎左衛門とともに、塩屋町・今魚店町の取り立てに尽力した。

この碑は、明治 30年 ( 1897 ) 12月、近藤氏の子孫にあたる史家・近藤清石によって、その旧跡に建てられ、清石は、

あわれ其恵 ( そのめぐみ ) の露 ( つゆ ) のかからでは

                      かからざらまし露の草むら

という和歌を詠んだ。
(案内板より)

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以前から気になっていたのですが、なかなか購入する機会が無かったのです・・・ 

が、今回はバッチリ購入出来ました。

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⇧ 店外観

左側の小窓から注文するようです また店内にはイートインスペースが有ります。

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⇧ テイクアウトした 4種類のピザ ( ペパロニ、トマト&バジル、ミックス、ガーリックほうれん草 )

 

日本のピザみたいに具材がいっぱい乗せられているピザに慣れている人は驚くかもしれませんが、オーソドックスなアメリカンピザはメチャメチャ美味しいですし食べ応えありです。

 

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2021. 9. 25 再訪


今回は、ホットトマト、ガーリックほうれん草、ハーブ&ソーセージを購入しました。

 

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⇧ ホットトマト

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⇧ ガーリックほうれん草

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⇧ ハーブ&ソーセージ



石川町 : 045ピザマイロ ( 食べログ )








西村秀造は慶応元年 ( 1865 ) 10月萩片河町で生まれた。

株式会社・藤田組を興した関西実業会の重鎮・藤田伝三郎 ( 男爵 ) の甥。

上京して実業界に入り、王子製紙会社の創立に参与し、その重役に列した。

その他小田原電気鉄道・日本牟窯業・日本瓦斯などの各会社の創立に関し、貢献するところが多かった。

内閣総理大臣・田中義一 ( 陸軍大将、男爵 ) とは幼友達で、親交が深く、経済的援助を怠らなかった。

大正 14年 ( 1925 ) 10月 13日、東京にて没する。年 62。墓所は端坊 ( 萩市恵美須町 )。

この碑は、昭和 6年 ( 1931 ) 10月にたてられ、歴史学者・渡辺世祐 ( 文学博士 ) の撰文、日本画家・松林啓月 ( 日本芸術院会員、萩市名誉市民 ) の書である。
(案内板より)

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兼六園に向かって歩いていた時に見つけたお店です。

店内観については、お客様が満員状態だった為撮影しませんでした。

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⇧ 店外観

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⇧ ワンタンメン

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⇧ ラーメン

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⇧ チャーハン

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⇧ 餃子



金沢 : 平和軒 ( 食べログ )







前田孫右衛門は、文政元年 ( 1818 ) 7月 28日萩に生まれ、名は利済、字は致遠、隆山または行蔵独倚楼などと号した。

萩藩八組士 ( 禄高 173石余 ) で、藩校明倫館に学んだ。

寛容で文雅の嗜みがあり、同輩は彼を擁して長者とし、吉田松陰からも尊敬された。

藩の首脳部の中で、松陰の間部老中要撃策を是認したのは、彼だけである。

松陰死後、その門下生と交わり、一銭燈中合に参加した。

当職手元役・当職用誠役・直目付など藩の要路にあって、藩主の信頼があつく、よく献策した。

同年 12月 19日野山獄 ( 萩市今古萩町 ) で同志 6人とともに刑死した。年 47。

明治 24年 ( 1891 ) 正四位を贈られた。

旧宅は萩市江向水車筋。墓所は東光寺(萩市椿東椎原)。

この碑は、大正 5年 ( 1916 ) 3月に建てられ、前田孫右衛門の外孫・井上清介の構文、教育者・安藤紀一の書である。
(案内板より)

〇 前田孫右衛門

時代江戸時代末期(幕末
生誕文政元年7月28日1818年8月29日
死没元治元年12月19日1865年1月16日
別名:利済、字:致遠、通称:岩助、号:陸山
墓所東光寺
幕府江戸幕府
長州藩

前田 孫右衛門(まえだ まごえもん )は、幕末長州藩士。利済甲子殉難十一烈士の一人。

略伝
藩校明倫館で学び、長州藩の代官や奉行を歴任後、文久元年(1862年)に上京して直目付に就任して軍備の整備に当たるが、奉勅攘夷の為出奔。文久2年(1863年)の八月十八日の政変により直目付を罷免されるが、9月に表番頭格用談役に登用され、後に直目付に復職。

元治元年(1864年)7月、山田亦介天野謙吉らと共に東上するが京師の変の報を聞いて帰国し、伊藤俊輔と共に応接使となる。禁門の変の後、直目付を再び罷免され、謹慎処分に処される。その後野山獄に入れられ、楢崎弥八郎松島剛蔵毛利登人山田亦介大和弥八郎渡辺内蔵太ら6人と共に処刑される。

関連作品
花神 - 演:渡辺厳 NHK大河ドラマ、1977年)
奇兵隊 - 演:近藤洋介 日本テレビ年末時代劇スペシャル、1989年)
(wikiより)


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