本牧jack『意外と身近にある歴史散歩』日々是好日 心灯 頬笑

本牧Jackで御座います
小生の拙ブログ『意外と身近にある歴史散歩』日々是好日 心灯 頬笑に御訪問頂き誠に有難う御座います。
歴史ドラマが流行っている昨今、身近に有って気が付かなかったりする様な物を取り上げたりしています。
たまに『 多人数で取材しているのか? 』との質問を戴きますが、小生と相方の二人三脚で御座います。
出来るだけ続けたいと思っていますが 膝・耳に問題が有って、いつまで出来るやら・・・説明も、やたら長いものから あっさりしたものまで有りますが、御付き合いの程 宜しく御願い致します。
御注意 . 少ないですが生前に建てられた『 生前墓 』の記事も有ります。 ※ 申し訳御座いませんが「画像の転用」は禁止とさせて頂きます。 コメントは原則公開させていただいております 質問等に対してはブログ記事で返信させていただきます 他の方法で連絡を取り合う等一切しません 場合によっては、「IPブロック」しますがブロックした場合解除する事は有りませんので宜しくお願いします。

2025/07

誕生碓井 小恵子
1957年1月11日
日本の旗 北海道岩見沢市
死没2008年6月6日(51歳没)
日本の旗 東京都
職業小説家
国籍日本の旗 日本
活動期間1977年 - 1995年
ジャンル少女小説
代表作なんて素敵にジャパネスク」シリーズ(1981-91年)
海がきこえる』(1990-92年)
デビュー作「さようならアルルカン」(1977年

氷室 冴子(ひむろ さえこ、本名:碓井 小恵子(うすい さえこ)、1957年1月11日 - 2008年6月6日)は、日本小説家1980年代から1990年代にかけて集英社コバルト文庫を代表する看板作家であり、かつては正本ノン久美沙織田中雅美とあわせてコバルト四天王と呼ばれていた[1]

生涯
北海道岩見沢市出身。北海道岩見沢東高等学校を経て藤女子大学文学部国文学科へ進学。当時の知的流行であった構造主義に傾倒し、志賀直哉の文庫本をバラして一日1ページのペースで文章を一字一句に至るまで解析する学究生活を送る。大学3年の夏に賞金目当てで第10回「小説ジュニア青春小説新人賞」へ応募して佳作を受賞。その時点では職業作家を目指していなかったものの、このときの受賞作「さようならアルルカン」で、1977年(昭和52年)に小説家としてデビュー、翌年には初の単行本『白い少女たち』が刊行される。

卒論では堀辰雄を論じた。1979年(昭和54年)に大学は卒業するがオイルショックの影響で就職ができず、母親と喧嘩して家を出て札幌で高校時代からの友人2人と共同生活を始める。手元にあったのは『白い少女たち』の印税60万円であり、家賃から雑費まですべて含めて月1万9000円の貧乏生活を開始。月に1本のペースで小説を書いては出版社に送りつける。1980年(昭和55年)4月に刊行された学園コメディー『クララ白書』の印税を手にしたときは銀行預金の残高が4万円しか残っていなかった。

その後、宝塚歌劇をモデルにした漫画『ライジング!』の原作を手がけることになり、1981年(昭和56年)、取材のため兵庫県宝塚市へ転居。小説家であることを隠してファンクラブに潜入し、若手スターの追っかけをしながら原稿を執筆する。1年ほど宝塚で暮らし、ファンクラブ内では準幹部まで出世している。

雑居時代』(1982年7月刊)が版を重ねることで職業作家としての道が確立、1982年(昭和57年)に札幌に戻ったが、長距離電話代の請求額にショックを受けて1985年(昭和60年)に上京。これと平行して隔月雑誌『小説コバルト』に『ざ・ちぇんじ!』『シンデレラ迷宮』などを発表。『なんて素敵にジャパネスク』シリーズで一躍集英社コバルト文庫の看板作家としての地位を確立し、少女小説ブームの立役者として活躍した。“少女小説家”という言葉の生みの親でもあり、同名作品を83年に著している。

古代日本を舞台に設定したファンタジー『銀の海 金の大地』シリーズ、小学校時代を舞台にした半自伝小説『いもうと物語』、結婚を迫る母親との攻防戦を描いたエッセイ『冴子の母娘草』などの作品もある。次第に『Cobalt』以外にも活動の場を広げ、徳間書店のアニメ情報誌『アニメージュ』で連載した『海がきこえる』は1993年(平成5年)にスタジオ・ジブリでアニメ化された。

1990年代後半以降は体調を崩しがちになり、目立った執筆活動はなかった。2000年代は漫画賞の選考委員などを行っていた。2001年に雑誌コバルトの取材で斎宮歴史博物館を訪れ学芸員と対談、斎宮を舞台にした平安時代小説の新作の構想で盛り上がったという[2]2008年(平成20年)6月6日午前9時、肺癌で死去した[3]。51歳没。

生前親交の深かった日本橋学館大学千葉県柏市)の田中二郎准教授に約850冊の本を譲っていた縁で、2009年10月24日、同大学で「氷室さんを偲ぶ一日」が開かれ、田中准教授は「思い出を語る会」で氷室のパワフルに過ごした私生活などを紹介した。また同大学図書館では、寄贈された本や氷室が愛用したパソコン・キーボード、原稿用紙などを公開する展示企画「氷室冴子の世界 ~寄贈本と思い出の品~」を同年9月中旬から10月末まで開催していたが、読売新聞千葉日報で紹介されるなどしたため、11月末まで展示は続けられることになった[4] [5] [6] [7] [8]

2017年、岩見沢市では氷室冴子の功績をたたえ「氷室冴子青春文学賞」を創設することになった[9]

作風と影響
最初期の『さようならアルルカン』やミッションスクールの寄宿舎を舞台にしてそれぞれの内面を抱えた3人の少女の精神的な交流を描いた『白い少女たち』には、少女小説の元祖的存在である吉屋信子の強い影響が認められる[10]。また、子供の頃から少女漫画を愛読しており、萩尾望都らの影響を受けたと語っている[11]。萩尾らが少女漫画で「虚構の少年」、男女どちらからも自由な新しいイメージを描いたことに感銘を受け、しかし、男の子はうらやましい、男の子に対して現実の女の子は人生の主役にもなれないし物語の主役にもなれないと感じ、少女を主人公にした「少女小説」を意識して書くようになった[12]大塚英志は、氷室や久美沙織らが少女小説に「アニメのような小説」、「少女まんがのような小説」を持ち込んだと述べている[13]

氷室以前に、平安時代を舞台にしたものは歴史小説が主で、創作キャラクターが活躍する小説はほとんどなかった。氷室は、現代的な感覚のヒロインが平安時代で活躍するというスタイルを確立した。平安時代に育った人物は平安時代の感覚を持つはずであり、現代の女子高生のような感覚の主人公が平安時代にいるという設定は本来不自然であるが、氷室は並々ならぬ歴史・古典知識と愛情、綿密なストーリー構成によってその壁を超えた(同様の挑戦を行った作品として、荻原規子の児童文学「勾玉三部作(1988 ‐ 1996年)」がある)。氷室の歴史ものは「古典の現代的再生」に成功した希有な例であり、その後の少女小説やライトノベル、漫画における平安もの、歴史ものに大きな影響を与えた[2]。ブロガーのペトロニウスは、「平安朝の貴族文化を現代風にアレンジしてエンターテイメントにする手法」のフォーマットの始まりは氷室作品で、これは広く一般化しており、D.キッサンのマンガ『千歳ヲチコチ』(2011年 ‐ 2016年) のような近年の作品は、このフォーマットが深く浸透している前提で、平安時代の風習の説明も省いていると指摘している[14]。氷室作品が古典や歴史に興味を持つきっかけになった人も多く、斎宮歴史博物館の榎村寛之は、「『古典や歴史の研究を志したきっかけは、氷室先生の作品に接したことでした』という研究者は、特に若手の女性研究者を中心に少なくないようです」と述べている[2]

Cobalt』2006年2月号で行われた、同誌で活躍中の作家に初めて読んだコバルト文庫作品を尋ねるアンケートで、今野緒雪金蓮花倉世春らが氷室の作品を挙げており、氷室による現代少女小説の流れは次の世代の作家たちに受け継がれていると言える[15]

漫画家・青山剛昌原作の『名探偵コナン』87巻に収録の『蘭GIRL』と『新一BOY』は、氷室の『なぎさボーイ』と『多恵子ガール』を元ネタとしており、青山は、「『なぎさボーイ』を読んだ後で『多恵子ガール』を読み、『女の子ってこんなこと考えてたんだ。おもしれー』と感動し、いつかオレもこんな連載を描いてみたいなぁと思っていたら30年もたってしまった…(笑)」と話している[16]

作品
小説
*出版社表記のないものは全て集英社文庫コバルトシリーズ(コバルト文庫)
・白い少女たち 1978年   
・さようならアルルカン 1979年 - 表題のデビュー作を含む短編集
  ・収録作品は「さようならアルルカン」「アリスに接吻を」「誘惑は赤い薔薇」「妹」
・クララ&アグネス白書
  ・クララ白書 1980年
  ・クララ白書ぱーとII 1980年
  ・アグネス白書 1981年
  ・アグネス白書ぱーとII 1982年
恋する女たち 1981年
・雑居時代 上下巻 1982年
ざ・ちぇんじ! 前編・後編 1983年
・シンデレラシリーズ
  ・シンデレラ迷宮 1983年
  ・シンデレラ ミステリー 1984年
・少女小説家は死なない! 1983年
なんて素敵にジャパネスク シリーズ
・蕨ヶ丘物語 1984年
・ボーイ・ガールシリーズ - 蕨ヶ丘物語と同舞台
  ・なぎさボーイ 1984年
  ・多恵子ガール 1985年
  ・北里マドンナ 集英社 1988年 のち文庫 1991年
ヤマトタケル 1986年
・冬のディーン 夏のナタリー1-3 1988年 - 1993年
レディ・アンをさがして 角川文庫 1989年
・碧(あお)の迷宮 上 角川書店 1989年
・いもうと物語 新潮社、1991年 のち文庫 1994年
・ターン―三番目に好き 集英社、1991年 のち文庫 1994年
銀の海 金の大地シリーズ
海がきこえる1-2 徳間書店 1993,1995年 のち文庫
・月の輝く夜に/ざ・ちぇんじ! 2012年 - 『ざ・ちぇんじ!』と文庫未収録3作品を収録した作品集
  ・収録作品「月の輝く夜に」「ざ・ちぇんじ!」「少女小説家を殺せ!(少女小説家は死なない!番外編)」「クララ白書番外編 お姉さまたちの日々」
さようならアルルカン/白い少女たち-氷室冴子初期作品集- 集英社 2020年
  ・収録作品「さようならアルルカン」「あなたへの挽歌」「おしゃべり」「悲しみ・つづれ織り」「私と彼女」「白い少女たち」

エッセイ
・冴子の東京物語 集英社 1987年 のち文庫 1990年
・プレイバックへようこそ 角川書店 1989年 のち文庫 1991年
・プレイバックへようこそ2 角川書店 1990年 のち文庫(「委員物語」に改題) 1991年
・ガールフレンズ―冴子スペシャル 集英社文庫コバルトシリーズ 1990年 - 対談集+αのバラエティブック
・マイ・ディア―親愛なる物語 角川文庫 1990年 - ブックガイドエッセイ
・いっぱしの女 筑摩書房 1992年 のち文庫 1995年 のち文庫再刊行 2021年
・冴子の母娘草(ははこぐさ) 集英社 1993年 のち文庫 1996年
・ホンの幸せ 集英社 1995年 のち文庫 1998年

翻訳
落窪物語 講談社 1993年 改版 2009年

共著
僕が好きなひとへ 海がきこえるより 近藤勝也共著 徳間書店 1993年

戯曲
レディ・アンをさがして     

漫画原作
螺旋階段をのぼって(香川祐美、小学館)
ライジング!藤田和子、小学館)
・ラブ・カルテット(谷川博実、集英社)

氷室作品を題材・原作とした作品
ドラマ化
・なんて素敵にジャパネスク(主演:富田靖子
海がきこえる〜アイがあるから〜(主演:武田真治佐藤仁美

ラジオドラマ化
なんて素敵にジャパネスク(NHK-FM 主演:小林聡美

映画化
クララ白書(主演:少女隊
恋する女たち(主演:斉藤由貴
・「さよなら」の女たち(主演:斉藤由貴

アニメ化
海がきこえる(スタジオジブリ、主演:飛田展男坂本洋子

漫画化
クララ白書(みさきのあ小学館
・アグネス白書(みさきのあ:小学館)
・なんて素敵にジャパネスク(山内直実白泉社
・雑居時代(山内直実:白泉社)
・蕨ヶ丘物語(山内直実:白泉社)
・ざ・ちぇんじ!(山内直実:白泉社)
・月の輝く夜に(山内直実:白泉社)
・少女小説家は死なない(にしざわみゆき:白泉社)
・恋する女たち(南部美代子:集英社)

絵物語化
シンデレラ迷宮(絵:いのまたむつみ、構成:成井豊、徳間書店

舞台化
レディ・アンをさがして
  ・OSK日本歌劇団1996年煌みちるのトップお披露目公演として近鉄劇場で上演。
    ・ラルフ・ベッカー役:煌みちる、レディ・アン役:湖上芽映
・ざ・ちぇんじ!-新釈とりかえばや物語-
  ・テアトル・エコー2000年11月12 - 21日新宿南口紀伊国屋サザンシアターにて上演。
    ・壌晴彦脚色・演出。大谷美智浩脚本。綺羅姫:杉村理加、綺羅君:溝口敦
  ・女性ミュージカル劇団「劇団スター・オブ・ドリームズ」が上演。
    ・1991年9月初演。2005年9月森之宮プラネットステーションにて15周年記念公演で再演。
    ・大浦薫演出。綺羅姫:響優、綺羅君:世羅雅
・シンデレラ迷宮
  ・演劇集団キャラメルボックス1994年、東京芸術劇場小ホール、新橋ヤクルトホールにて上演。
    ・久世龍之介演出。成井豊脚本。

参考文献
氷室冴子責任編集『氷室冴子読本』(徳間書店、1993年) ISBN 4-19-175242-1
・『没後10年記念特集 氷室冴子 私たちが愛した永遠の青春小説作家』河出書房新社<KAWADE夢ムック>、2018年8月 ISBN 978-4309979533   
嵯峨景子『氷室冴子とその時代』小鳥遊書房、2019年9月 ISBN 978-4909812162

脚注
注釈
出典
1. 
菅聡子 編『〈少女小説〉ワンダーランド 明治から平成まで』明治書院、2008年、116-117頁。ISBN 978-4-625-68408-1
2. 
a b c 第1話 哀悼 氷室冴子先生 斎宮歴史博物館
3. 
“「なんて素敵にジャパネスク」 作家の氷室冴子さん死去”. 四国新聞. (2008年6月6日). オリジナルの2009年9月6日時点におけるアーカイブ。 2008年6月6日閲覧。
4. 
“[図書館イベント]氷室冴子さんからの贈り物”. 日本橋学館大学. (2009年10月2日). オリジナルの2012年3月5日時点におけるアーカイブ。
5. 
“読売新聞(10月23日付)、及び千葉日報(10月25日付)に「氷室冴子さんを偲ぶ一日」についての記事が掲載されました!”. 日本橋学館大学. (2009年10月27日). オリジナルの2012年3月5日時点におけるアーカイブ。
6. 
“好評につき期間延長! 展示企画「氷室冴子の世界」”. 日本橋学館大学. (2009年11月2日). オリジナルの2012年3月5日時点におけるアーカイブ。
7. 
氷室さんの蔵書850冊寄贈[リンク切れ](読売新聞 2009年10月23日付 画像のみ)
8. 
“「私生活はパワフルに」氷室冴子さんを日本橋学館大准教授が紹介”. 千葉日報. (2009年10月25日). オリジナルの2012年10月23日時点におけるアーカイブ。
9. 
氷室冴子青春文学賞   
10. 
“吉屋信子は終わらない 少女たちのはかなくも凛とした世界”. 朝日新聞. (2008年7月20日). オリジナルの2008年8月3日時点におけるアーカイブ。
11. 
氷室冴子責任編集『氷室冴子読本』徳間書店、1993年、99頁。
12. 
萩尾望都 『物語るあなた 絵描くわたし』 河出書房新社、2012年
13. 
大塚英志『キャラクター小説の作り方』講談社講談社現代新書〉、2003年、123-124頁。ISBN 978-4-06-149646-0
14. 
ペトロニウス 平安朝の貴族文化を現代風にアレンジしてエンターテイメントする手法って、本当に一般化したなーと思う。 物語三昧~できればより深く物語を楽しむために 2016-05-11
15.
菅聡子 編『〈少女小説〉ワンダーランド 明治から平成まで』明治書院、2008年、83-84頁。ISBN 978-4-625-68408-1
16. 
青山剛昌『名探偵コナン 87巻』集英社、2015年8月、カバー折り返し部分の作者コメントより。

外部リンク
光彩孤月(氷室冴子ファンページ)
氷室冴子さんを偲ぶ会
氷室冴子青春文学賞
(wikiより)

1 氷室冴子

氷室冴子

1a

1b

1c



用途文化・商業施設
旧用途港湾倉庫( - 1989年
アメリカ軍港湾司令部(GHQによる接収中、1945年 - 1956年)
設計者妻木頼黄
事業主体株式会社横浜赤レンガ
管理運営横浜市
着工1907年(2号倉庫)
1908年(1号倉庫)
竣工1911年 (112年前)(2号倉庫)
1913年 (110年前)(1号倉庫)
改築1930年
1994年 - 2002年
所在地神奈川県横浜市中区新港1-1
座標北緯35度27分7.8秒 東経139度38分34.4秒
文化財近代化産業遺産(2007年)
ユネスコ文化遺産保全のためのアジア太平洋遺産賞 優秀賞(2010年)

赤レンガパーク
Red Brick Park
分類港湾緑地
面積約5.5ha
開園2002年平成14年)4月12日
運営者横浜市
設備・遊具旧横浜港駅
駐車場有 24時間営業 年中無休 一時間500円 以後30分毎250円
事務所株式会社横浜赤レンガ
事務所所在地231-0001 神奈川県横浜市中区新港1-1
公式サイト横浜赤レンガ倉庫

3a

上空から見た赤レンガ倉庫。右が1号館、左が2号館。

横浜赤レンガ倉庫(よこはまあかレンガそうこ)は、神奈川県横浜市中区新港一丁目の横浜港にある文化・商業施設。新港埠頭建設の一環として、明治政府によって横浜税関新港埠頭保税倉庫として建設され[1]、2号館は1911年明治44年)、1号館は1913年大正2年)に竣工した。

保税倉庫としての役割は1989年平成元年)までに終え、その後しばらく放置されていたが、2002年(平成14年)に「横浜赤レンガ倉庫」として、1号館は展示スペース・ホールなどの文化施設、2号館は商業施設に生まれ変わり、赤レンガ倉庫の付近一帯は広場と公園を備える「赤レンガパーク」として整備された。以降、みなとみらい地区の代表的な観光施設となっている(同地区の2街区に位置する)。

第45回BCS賞2004年)受賞。2007年(平成19年)、経済産業省による近代化産業遺産に認定。2010年(平成22年)、日本初の「ユネスコ文化遺産保全のためのアジア太平洋遺産賞」優秀賞受賞。2号館については「旧新港埠頭煉瓦二号倉庫(横浜赤レンガ倉庫2号館)」として横浜市認定歴史的建造物、かながわの建築物100選に選定されている[2]


本項では赤レンガ倉庫とともに新港埠頭の歴史についても記述する。

歴史
築港工事と赤レンガ倉庫の建設
赤レンガ倉庫(新港埠頭保税倉庫)は、明治時代の終わりから、大正時代の初めにかけて建設された。

当時の横浜港は、1859年安政6年)の開港から半世紀を経て、近代的な港湾の整備が横浜市にとって急務となっていた。1889年(明治22年)には第1期築港工事が始められ、大桟橋、東西防波堤などの整備が進められた。これに続く1899年(明治32年)には、横浜税関拡張工事の名目で大蔵省が主導して、第2期築港工事が始められた。

第2期築港工事は、前期と後期に分かれる。前期工事は、税関前の海面を埋め立てて、係船岸壁を有する埠頭の建設を主に進めた。係船岸壁とは船が直接接岸できる岸壁で、その建設は日本初の試みであった。1905年(明治38年)には埋立が完了したが、同年より引き続いて始められた後期工事は埠頭の拡張と陸上設備(上屋、倉庫、鉄道、道路)の整備を目指した。赤レンガ倉庫は後期工事の中で、国営保税倉庫として建設された。後期工事には、日清戦争後に急伸し東洋最大の港となっていた神戸港大阪港に対抗するため、横浜市も約270万円の費用を負担して、築港の完成を急いだ。これは横浜市が国に働きかけて実現させた事業であり、国と地方の共同事業の嚆矢となった。

赤レンガ倉庫の設計は、妻木頼黄・部長率いる大蔵省臨時建築部によって行われた。妻木頼黄は、馬車道にある横浜正金銀行本店(現、神奈川県立歴史博物館)の設計もした、明治建築界三巨頭の一人である。2号倉庫が1911年(明治44年)、1号倉庫が1913年(大正2年)に竣工した[3]。第2期築港工事は1914年(大正3年)までに完成し、ここに税関埠頭、現在の新港埠頭が生まれた。

全長約150メートル、背面に鉄骨造ベランダを持ち、日本初の業務用エレベーター避雷針消火栓を備える赤レンガ倉庫は、国営保税倉庫建築の模範となるとともに、組積造技術の最高段階を示す建築とされる。2号倉庫はレンガとレンガの間に鉄を入れる補強が施されていたことで、1923年(大正12年)に発生した関東大震災でも、被害は1号倉庫の約30%損壊にとどまった。なお、当時のエレベーターは現在も1号館横に展示されており、重要科学技術史資料登録台帳に第00027号として登録[4]されている。

横浜港の接収と新港埠頭の停滞
赤レンガ倉庫を含む新港埠頭は、1942年横浜港ドイツ軍艦爆発事件1945年横浜空襲での破壊を避けられ、第二次世界大戦終戦後の1945年(昭和20年)に、連合国軍に接収され、横浜税関に連合国軍最高司令官総司令部が置かれた(後に第一生命ビルへ移転)。

新港埠頭のほかにも、横浜港は大部分が連合国軍に接収されて使用不能となり、横浜の復興を遅らせる原因となった。新港埠頭は、1954年(昭和29年)に商船の臨時使用が許可され、1956年(昭和31年)に1号から6号岸壁と赤レンガ倉庫を含む上屋の接収が解除された。接収解除後は、貿易の急増によって入港船舶トン数、取扱貨物量など、すべての数値が戦前の記録を更新した。

しかし、貨物のコンテナ化が進展して他の埠頭に主役が移り、1975年(昭和50年)頃には取扱貨物量が激減。その頃、倉庫としての役目を終え始めていると判断されていたことから倉庫をすべて解体して跡地をコンテナターミナルにすることも考えられていたが、観光資源として生かす方向性を示し始めるようにもなり、解体は当時の横浜市長が阻止したという。それ以降、アクションドラマや映画のロケ地として頻繁に利用されるようになる。特に1986年(昭和61年)から翌年にかけて放送されたテレビドラマ「あぶない刑事」のエンディングで、赤レンガ倉庫がロケ地とされた事により注目を浴び、倉庫への落書きなども横行した。1989年平成元年)には倉庫としての役割を終えた[3]

赤レンガ倉庫の修復と再生
1991年(平成3年)、横浜市港湾局が中心となり、有識者等による保存改修検討委員会が設置された[3]

1992年(平成4年)3月、横浜市と大蔵省(当時)との間で、市の保有土地との交換により、国の所有する赤レンガ倉庫の土地・建物を横浜市が取得した[3]。横浜市は、5年以上かけて倉庫を修復し、保存活用するための工事を進めた。また、関東大震災で倒壊したため埋められていた横浜税関事務所の遺構や旧・横浜港(よこはまみなと)駅のプラットホームなども発掘・復元し、山下公園まで続く山下臨港線プロムナード(汽車道)も整備した。

2000年(平成12年)7月には、2号倉庫事業主体の事業者グループによって株式会社横浜赤レンガが設立された[3]

こうして、2002年(平成14年)4月12日、赤レンガ倉庫を中心とした付近一帯は、展示スペース、ホール、広場、店舗からなる横浜赤レンガパークとしてオープンした[3]。赤レンガ倉庫1号館は主に文化施設として、公益財団法人横浜市芸術文化振興財団が運営する。赤レンガ倉庫2号館は商業施設で、株式会社横浜赤レンガが運営する。いずれも歴史的なたたずまいを残しつつ、現代的な耐震性と消火設備を備えている。2007年(平成19年)11月には、経済産業省により近代化産業遺産として認定された。

横浜赤レンガ倉庫は、2006年(平成18年)1月に通算来館者数が2000万人、2013年(平成25年)5月に通算来館者数が6000万人を達成するなど、年間来場者数が600万人を超える横浜の人気観光地となっている。また、『僕の生きる道』や『喰いタン』といったテレビドラマロケ地にも選ばれている(「#作品の舞台」も参照)。

2022年(令和4年)5月より大規模改修工事で一次休館、その後12月6日にリニューアルの上営業再開した[5]

b1

オープン前の横浜赤レンガパークと改修工事中の大さん橋(2002年2月)

施設
・所在地 - 横浜市中区新港一丁目1番[3]
・構造 - レンガ組積造地上3階建[3]
・規模 - 延床面積17,163.49平方メートル
[3]

1号館
2002年(平成14年)4月12日、文化施設として開館。1階の床下には瓦などが展示されている。
・2階 展示スペース3室:各200㎡、天井高2.4m
・3階 ホール:約400席 面積=約400m2/天井高=トラス下5.1m

2号館
2002年(平成14年)4月12日、商業施設として開館。当初は31店舗であったが、現在のテナント数は40店舗を超える。多くの店舗で横浜赤レンガ倉庫ならではの商品を置いている。また、3階のレストランビアネクストのロゴマークは、倉庫内にある防火扉の開閉に使っていた滑車(現在は保存)に由来する。1階のテーマは「港ヨコハマの心地よいおもてなし」、2階のテーマは「予感をふくらませる、とっておきのこだわり」。

2002年度グッドデザイン賞受賞[6]

c1

1号館

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2号館内部

c3

ギャラリースペース

詳しい事は「横浜赤レンガ倉庫ウィキペディア」をご覧ください。 ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A8%AA%E6%B5%9C%E8%B5%A4%E3%83%AC%E3%83%B3%E3%82%AC%E5%80%89%E5%BA%AB
(wikiより)

195a

Red Br

出生名佐藤さとう 陽子ようこ
生誕1949年10月14日
出身地日本の旗 日本福島県福島市
死没2022年7月19日(72歳没)
日本の旗 日本静岡県熱海市
学歴モスクワ音楽院卒業
ジャンルクラシック
職業ヴァイオリニスト声楽家エッセイストタレント音楽教育者
活動期間1962年 - 2022年
配偶者岡本行夫1973年-1979年
共同作業者池田満寿夫
著名使用楽器

佐藤 陽子(さとう ようこ、1949年昭和24年)10月14日[1] - 2022年令和4年)7月19日)は、日本人ヴァイオリニスト声楽家エッセイストである。

来歴
1949年、福島県福島市に生まれる[2]。3歳よりヴァイオリンを始める[2]1958年に来日中のレオニード・コーガンに公開レッスンで才能を認められ[3]、翌1959年よりソビエト連邦文化省の招きを受けてソビエト連邦へ渡った[4]。ソ連政府の給費留学生としてモスクワ音楽院附属音学校に進学、コーガンに師事した[4]1962年4月にキリル・コンドラシンの指揮によりモスクワデビューを果たし、1966年6月にはチャイコフスキー国際コンクールに出場して第3位に入賞した[4]。同年9月からはモスクワ音楽院に進学し[4]、在学中の1969年にはパリロン=ティボー国際コンクールで第3位に入賞した[1][4]1971年にモスクワ音楽院を首席で卒業した後、フランスに留学して翌1972年より晩年期のヨゼフ・シゲティの門を叩く[1][4]。同年10月のパガニーニ国際コンクールで第2位に入賞した[4]。同年のヨーロッパ演奏旅行の際に、マリア・カラス声楽の分野での資性も認められた[4]。カラスの唯一の弟子として声楽を学び[4]1975年10月にはルーマニアブカレスト国立歌劇場ルーマニア語版から「蝶々夫人」でオペラ歌手としてデビューし、喝采を受けた[1][4]1977年にはソプラノ歌手としてジュゼッペ・ディ・ステファーノらと共演した[4]

1976年に帰国し、アーティストとしての演奏活動のかたわら、エッセイの執筆やミュージカル歌手としてタレント活動も続けた。私生活ではパリで知り合った外務官僚・岡本行夫と大恋愛の末に24歳で結婚するも、池田満寿夫とローマで運命的な出会いをし1979年に岡本とは離婚している。同年池田と共同で個人事務所「M&Y事務所(有)」を設立した[4]。1980年に池田と結婚を「宣言」、同年1月には高橋三千綱戸川昌子らの発起により結婚披露パーティーが開かれた[5]。池田の撮影モデルを務めるなどもし、しばしば芸能界でもおしどり夫婦として話題になったが、池田側の事情によって、両者が正式の夫婦になったことは一度もなかった[6]。池田が死去する前後の一時期は演奏活動が停滞したが、後には、レクチャー・コンサートや慈善演奏会、ワークショップにおける青少年の指導に力を注いだ。池田とパートナーとなった後の1982年に静岡県熱海市へ居を移し、1997年の池田死去後は自宅や池田が作陶の場とした「満陽工房」を熱海市に寄贈したが、以降も晩年まで熱海で過ごした[2][7]。その後、海光町の自宅は「池田満寿夫・佐藤陽子 創作の家」として、下多賀の工房は「池田満寿夫記念館」として熱海市より公開された[7]

2022年7月19日、肝臓がんのため、静岡県熱海市内の病院で死去した[5]。72歳没。訃報は同年8月1日に明らかになった。

著書
・『17の変奏曲 佐藤陽子のG線対談』読売新聞社 1979
・『音楽のある街角』講談社 1980
・『スポット・ライト 音楽のきこえる話』角川文庫 1981
・『Masuo my love』ケイエスエス 1998

共編著
・『昼の眠りと夜の目醒め』池田満寿夫共著 講談社 1979
・『食后のラブレター』池田満寿夫共著 主婦の友社 1984
・『クライマックスはご一緒に いつまでも"男と女"でいるための愛し方』池田満寿夫共著 主婦と生活社 1986
・『こういう女ならすべて失ってもいい』池田満寿夫共著 青春出版社 1988 のち文庫
・『20世紀レコード・ジャケット傑作集』池田満寿夫共監修・選 毎日新聞社 1998
・『池田満寿夫愛のありか』編 二玄社 2002

出演
バラエティ
象印クイズヒントでピント(1979年3月4日(第1回) - 1980年3月30日(第53回)、テレビ朝日) - 女性軍初代2枠レギュラー解答者[註 1][註 2]

ドラマ
大奥 第44話(1984年、関西テレビ) - おらん 役
月曜ドラマランド奥様は不良少女!? おさな妻」(1985年4月10日、フジテレビ)

CM
金印 金印わさび(1988年)※池田満寿夫と共演。
ツクダオリジナル「オセロゲーム」(1990年)※池田と共演。
ジョンソン「ガラスクルー・住まいクルーペーパータイプ」※池田と共演。

ドキュメンタリー
・池田満寿夫-NHK

関連項目
小澤征爾 - 5歳の頃に演奏会でピアノ伴奏をしてもらったことがある。[8]

脚注
注釈
1. 1989年10月15日放送の「500回記念大会」には浅井慎平とペアで出演した。
2. 1994年、番組700回記念大会にもOBチームメンバーとして柳家小三治とペアで出演した。

出典
1. a b c d 板倉重雄 (2022年8月1日). “【追悼】ヴァイオリニスト 佐藤陽子さん 72歳 声楽家、エッセイストとしても活躍”. TOWER RECORDS ONLINEタワーレコード. 2022年8月2日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年8月3日閲覧。
2. a b c バイオリニスト佐藤陽子さん死去 声楽家」『東京新聞中日新聞社共同通信)、2022年8月1日。2022年8月3日閲覧。オリジナルの2022年8月1日時点におけるアーカイブ。
3. 河北春秋(8/3):早熟な人だった。3歳からバイオリンを始め…”. 河北新報 (2022年8月3日). 2022年8月5日閲覧。
4. a b c d e f g h i j k l プロフィール”. Yoko sato officialONKYO ENTERTAINMENT TECHNOLOGY (2007年). 2009年4月16日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年8月3日閲覧。
5. a b バイオリニストの佐藤陽子さん死去…池田満寿夫さんのパートナー」『読売新聞オンライン』、2022年8月1日。2022年8月1日閲覧。オリジナルの2022年8月1日時点におけるアーカイブ。
6. 芸術家・池田満寿夫さん急死、早過ぎる63歳/復刻」『日刊スポーツ』、2017年3月9日。2017年3月9日閲覧。オリジナルの2017年3月12日時点におけるアーカイブ。7. 
7. a b バイオリニスト佐藤陽子さん死去 熱海市がゆかりの施設に記帳所設置」『毎日新聞』、2022年8月2日。2022年8月3日閲覧。オリジナルの2022年8月2日時点におけるアーカイブ。
8. 小澤さくら『北京の碧い空を』(1991年、二期出版)268-269頁

外部リンク
公式サイト(アーカイブ)
池田満寿夫・佐藤陽子 創作の家(そうさくのいえ) - 熱海市   
 (wikiより)

14  佐藤陽子

佐藤陽子

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彼岸鐘

  草木聞けり

      鳥聞けり
                    大野林火

〇 大野林火
大野 林火(おおの りんか、1904年3月25日 - 1982年8月21日[1])は、昭和期の俳人。本名は大野正(おおの まさし)。

略歴
神奈川県横浜市生まれ。旧制県立横浜第一中学校旧制第四高等学校を経て、1927年東京帝國大学経済学部を卒業。大学卒業後は日本光機工業に入社。1930年に会社を辞めて県立商工実習学校(現・横浜創学館高等学校)教諭となる。当時の教え子に、後に高弟となる宮津昭彦がいる。中学時代より鈴木三重吉佐藤春夫の抒情詩に傾倒。俳句は中学時代の1920年、親友の荻野清(のち俳文学者となる)の父から手ほどきを受け、1921年、荻野の勧めをうけて「石楠」に入会、臼田亞浪に師事する。

1939年、句集『海門』(交蘭社)を上梓、本格的に俳人としての地位を築く。この頃より水原秋櫻子加藤楸邨らとも積極的に交流を行う[2]。1946年、「」を創刊、主宰。同年、『俳句研究』『俳句の国』の編集に携わる。1948年、教職を辞し俳句一筋の生活となる。1953年より角川書店俳句』編集長を務める(同年11月号から1956年12月号まで)。1956年、横浜俳話会発足に参加(発起人のひとり。のちに幹事長)[3]

1964年、第13回横浜文化賞、1969年、第三回蛇笏賞(『潺潺集』他)、1973年、第22回神奈川文化賞受賞。1974年愛媛俳壇選者。1978年、俳人協会会長に就任。1980年朝日俳壇選者。同年、俳人協会訪中団団長を務め、日中文化交流にも力を尽くした[2]。代表句は「本買へば表紙が匂ふ雪の暮」「ねむりても旅の花火の胸にひらく」「雪の水車ごつとんことりもう止むか」など。清新な叙情性を持つ句で知られた。優れた指導者でもあり、主宰誌「濱」からは多数の著名俳人を輩出。また草津市の療養所栗生楽泉園ハンセン病患者の句会を指導し村越化石を見出した点でも評価される。

作品

・『海門』交蘭社(1939年)
・『現代俳句読本』艸書房、1940
・『冬青集』三省堂(1940年)
・『現代の秀句 鑑賞と作家』三省堂 1941
・『高浜虚子』七丈書院 1944
・『早桃 自選句集』目黒書店(1946年)
・『冬雁』七洋社 1948
・『白幡南町』近藤書店(1958年)
・『虚子秀句鑑賞』1959 角川新書
・『雪華』牧羊社 1965
・『近代俳句の鑑賞と批評』明治書院 1967
・『自選自解大野林火句集』白凰社(現代の俳句) 1968
・『潺潺集 句集』角川書店 1968
・『春の俳句 俳句鑑賞歳時記』明治書院 1973
・『飛花集 句集』東京美術 1974
・『大野林火集』俳人協会(自註現代俳句シリーズ) 1978
・『行雲流水 私の俳句歳時記』明治書院 1979
・『方円集 句集』角川書店 1979
・『大野林火全句集』明治書院 1983
・『大野林火集』俳人協会(脚註名句シリーズ) 1990
・『大野林火全集』全8巻 梅里書房 1993-94

出典
大串章 「大野林火」 『現代俳句事典』普及版、三省堂、2008年、101-103頁
・遠藤若狭男 「大野林火」 『現代俳句ハンドブック』 雄山閣、1995年、23頁

個別参照
1. 
大野林火』 - コトバンク   
2. 
a b 邑書林句集文庫版『海門』著者紹介 邑書林、1998年。 ISBN 9784897092812     
3. 「俳話会の歴史」-横浜俳話会のウェブサイト         

外部リンク
・現代俳句人名事典における大野林火の俳句現代俳句協会
大野林火の句の鑑賞(増殖する俳句歳時記)
百鳥     
(wikiより)

192 大野林火

大野林火

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所在地神奈川県横浜市南区平楽103
位置北緯35度25分43秒 東経139度37分45秒
山号海龍山[1](海龍山)
院号増徳院(增德院)
宗旨古義真言宗[1]
宗派高野山真言宗
寺格準別格本山
創建年伝9世紀
開基不詳
中興永覺[1]
正式名海龍山本泉寺増徳院
(海龍山本泉寺增德院)
別称寺号:本泉寺[1]
札所等新四国東国八十八箇所

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聖観音高村光雲作)

増徳院(ぞうとくいん)は、神奈川県横浜市南区平楽にある高野山真言宗仏教寺院である。準別格本山で、海龍山本泉寺増徳院と号する。もとは元町1丁目(元町プラザの一角)にあり、現在の横浜外国人墓地は境内墓地であった。

歴史
大同年間(806年 – 810年)の創立と伝えられる。
1854年嘉永7年)アメリカ海軍ペリー提督の意向を受け、江戸幕府はアメリカ人用の墓地として増徳院の境内の一部を提供した。これが外国人墓地の始まりとなる。
1923年大正12年)関東大震災で全焼、1928年昭和3年)現在地に再建される。
1972年昭和47年)元町に薬師堂が再建される。

所在地・交通
神奈川県横浜市南区平楽103

脚注
1. a b c d 新編武蔵風土記稿 横濱村.

参考文献
・「横浜市史稿」
・「横浜元町140年史」
・「横濱村 増徳院」『新編武蔵風土記稿』 巻ノ77久良岐郡ノ5、内務省地理局、1884年6月。NDLJP:763986/26

関連項目
横浜外国人墓地     
元町 (横浜市)       
厳島神社 (横浜市中区) - 別当寺となっていた。
(wikiより)

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東海大学硬式野球部 名誉総監督
基本情報
国籍日本の旗 日本
出身地佐賀県神埼郡三田川町(現・吉野ヶ里町
生年月日1936年3月30日
没年月日2014年5月29日(78歳没)
選手情報
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
監督歴

原 貢(はら みつぐ、1936年3月30日 - 2014年5月29日[1])は、アマチュア野球指導者。東海大学硬式野球部名誉総監督佐賀県神埼郡三田川町(現・吉野ヶ里町)出身。

プロ野球選手読売ジャイアンツ監督の原辰徳は息子[2]。読売ジャイアンツ投手の菅野智之は孫(娘の子)。

来歴・人物
鳥栖工業高等学校卒業、立命館大学中退。ノンプロの東洋高圧大牟田(現・三井化学)を経て、福岡県立三池工業高等学校野球部監督に就任。1965年(昭和40年)に無名校を初出場にして夏の甲子園大会の優勝へと導き、三池工フィーバーを起こした。

その後、三池工での戦いぶりと原の生き様に感銘を受けた東海大学の創設者・総長松前重義の招きで1966年(昭和41年)12月9日に大牟田を発ち、12月10日に神奈川着[3]。同日から東海大学付属相模高等学校野球部監督に就任。東海大相模の名を全国に轟かせ、神奈川高校野球界の勢力図を塗り替える。1974年(昭和49年)には長男・辰徳が東海大相模に入学し、「親子鷹」としても話題となるが、辰徳には野球部内では親子の関係を一切断ち切るなど厳しい条件を押し付けた。練習では何度も辰徳に対して鉄拳を浴びせ、ほかの選手の襟を正すための手本とさせた。

1976年(昭和51年)11月16日に翌1977年(昭和52年)より辰徳の進学と共に東海大学硬式野球部監督に就任することが発表された。首都大学リーグ7連覇を達成。辰徳が巨人入りすることが決まった直後の1980年(昭和55年)12月19日に東海大相模監督に復帰した。1984年(昭和59年)から東海大学系列校野球部総監督。1990年(平成2年)春から東海大監督に復帰、6度のリーグ優勝に導き、1996年(平成8年)10月29日に勇退を表明した[4]。以降は再び東海大学系列校野球部総監督だった。

守備に重点を置いた厳しい指導を行う一方、1970年代の指導者にしては珍しく練習中の水分補給を認めたり(当時は「水を飲むと動きが鈍くなる」「飲むような奴は根性が無い」というのが通説となっていた)[5]塩を舐めさせたりするなど[6]、進歩的な考えも併せ持っていた。また野球部の練習が休みで辰徳が自宅に帰ってきた際には、夕食で辰徳におかずを勧めるなど、温厚な父親の顔を見せていた。辰徳曰く「悪い言葉で言えば二重人格、よく言えば切り替えの名人」[7]

孫の菅野智之が、2011年のドラフトで巨人の単独指名を受けるとみられていたが、日本ハムが強行指名し交渉権を獲得したことについて「日本ハムからあいさつが一言もなかった。これは人権蹂躙」「あいさつもなしに指名するなんて“だまし討ち”」だと憤った[8][9]

2014年5月4日心筋梗塞のため、神奈川県内の病院に入院した[10]。同年5月29日午後10時40分に心不全で死去したことが、同月31日に発表された[1]法名は熱球院釋貢勝(ねっきゅういんしゃくこうしょう)[11]。没後に生前の功績を讃えられ、東海大学:松前達郎総長から『東海大学野球部名誉総監督』の称号が追贈された[12]

2015年6月8日に、2015年度の育成功労賞を受賞することが日本高等学校野球連盟朝日新聞社から発表された[13]。同年8月15日阪神甲子園球場で表彰式が行われ、長男の辰徳が代理として出席し、「天国より大変喜んでいると思う」と感謝の言葉を述べた[14]

甲子園での成績
・三池工:出場1回・5勝0敗・優勝1回(春:出場なし/夏:出場1回・5勝0敗・優勝1回)
・東海大相模:出場8回・12勝7敗・優勝1回・準優勝1回(春:出場2回・3勝2敗・準優勝1回/夏:出場6回・9勝5敗・優勝1回)
・通算:出場9回・17勝7敗・優勝2回・準優勝1回

脚注
1. a b 原貢さん死去=甲子園優勝、辰徳氏の父―79歳”. 時事通信 (2014年5月31日). 2014年5月31日閲覧。
2. 
原辰徳・3度目の監督就任!これまでに残した8つの伝説”. NHKスポーツ (2019年1月31日). 2021年1月10日閲覧。
3. 
炭鉱町に咲いた原貢野球234ページ、集英社文庫2018年、ISBN978-4087457698
4. 
甲子園2度V、辰徳と父子鷹/原貢氏略歴 日刊スポーツ 2014年5月31日
5. 
原貢さん死去:強烈、球界の「父子鷹」 甲子園2度V 強打の「パワー野球」毎日新聞2014年6月1日配信
6. 
朝日新聞社「週刊 甲子園の夏」より、辰徳談。なお原父子について取り上げた『バース・デイ』(TBSテレビ、2014年7月19日放送分)では、貢が監督当時の東海大相模ナインが練習中に水分及び塩分を補給するニュース映像が流されており、そのことが証明されていた。
7. 
ベースボール・マガジン社「大学野球 2011春季リーグ戦展望号」より
8. 
菅野の祖父 原貢氏憤慨 日本ハムから「あいさつなかった 人権蹂躙」”. スポーツニッポン (2011年10月28日). 2011年10月29日閲覧。
9. 
浪人させる!菅野「だまし討ち」原貢氏激怒”. サンケイスポーツ (2011年10月29日). 2011年10月29日閲覧。
10. 
原監督の父・貢氏が心筋梗塞で入院 中日戦は川相ヘッドが代行スポーツニッポン2014年5月5日配信 
11. 
巨人・原監督、男泣き!天国の父・貢さんに捧げたV3!!”. 産経デジタル (2014年9月27日). 2014年9月27日閲覧。
12. 
巨人・原監督の父、貢氏の葬儀・告別式が営まれる サンケイスポーツ 2014年6月6日閲覧 
13. 
「育成功労賞」に故原貢氏ら 日本高野連と朝日新聞社”. 朝日新聞デジタル (2015年6月8日). 2015年8月21日閲覧。
14. 
夏の甲子園:育成功労賞表彰 原貢氏の代わりに辰徳氏出席”. 毎日新聞 (2015年8月15日). 2015年8月21日閲覧。

参考文献
・『炭鉱町に咲いた原貢野球-三池工業高校・甲子園優勝までの軌跡』(澤宮優著・現代書館
・『甲子園優勝校物語』ベースボールマガジン社 ISBN 58361408X
・『甲子園の星たち』ベースボールマガジン社 ISBN 83610696

外部リンク
2015年度「育成功労賞」受賞者一覧 - 日本高等学校野球連盟公式サイト
(wikiより)

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所在地千葉県香取市佐原イ74
所属事業者東日本旅客鉄道(JR東日本)
所属路線成田線
鹿島線直通含む)
キロ程40.0 km(佐倉起点)
千葉から56.1 km
電報略号サラ
駅構造地上駅
ホーム2面4線
乗車人員
-統計年度-
2,474人/日(降車客含まず)
-2021年-
開業年月日1898年明治31年)2月3日[1]
備考直営駅管理駅
みどりの窓口 有

佐原駅(さわらえき)は、千葉県香取市佐原にある、東日本旅客鉄道(JR東日本)成田線である。運転系統上は鹿島線の列車も当駅に乗り入れ、実際は2路線3方向の列車が発着している。なお、鹿島線は東隣の香取駅が線路名称上の起点である。

歴史
1898年明治31年)2月3日:成田鉄道(初代)の駅として開業[1]。旅客・貨物取扱い[2]
1920年大正9年)9月1日:成田鉄道が買収され、国有鉄道の駅となる[1]
1931年昭和6年)11月10日:当駅 - 笹川間延伸開業[1]
1984年(昭和59年)2月1日:貨物取り扱い廃止[2]
1987年(昭和62年)4月1日国鉄分割民営化に伴い、東日本旅客鉄道(JR東日本)の駅となる[1]
2007年平成19年):「ちばディスティネーションキャンペーン」に併せて駅舎をリニューアル[3]
2009年(平成21年)3月14日ICカードSuica」の利用が可能となる[4]東京近郊区間に組み込まれる[4]。自動改札機の使用を開始。
2011年(平成23年)6月:2代目駅舎供用開始[5]
2015年(平成27年)9月:佐原駅前広場の整備が完了し、駅周辺に分散していたバス停が駅前にまとめられた。

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旧駅舎(2003年3月)
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整備中の駅舎(2011年2月)

駅構造
駅舎に面した単式ホーム1面1線(1番線)、島式ホーム1面2線(2・3番線)ならびに単式ホームの南西側香取方を切り欠いた切欠きホーム1線(0番線)の計2面4線を有する地上駅になっている。それぞれのホームは跨線橋で連絡している。

直営駅であり、管理駅として成田線の大戸駅 - 下総橘駅間の各駅と鹿島線の十二橋駅を管理している。みどりの窓口(営業時間6時30分 - 20時)・指定席券売機・Suica対応自動改札機が設置されている。

駅南側に、2011年2月から供用開始した駅舎があり、駅舎内にNewDaysや観光交流センターなどがある。2015年に完成した駅前広場を含めて、佐原の町並みをイメージして和風でまとめられている。駅北側に改札はないが、南側の駅前広場と跨線歩道橋で行き来できる。

のりば

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(出典:JR東日本:駅構内図
列車交換がない時は、基本的に1番線を使用する。
・停車列車同士が行き違う時、下りは2・3番線、上りは1番線を通る。
・停車列車と通過列車が行き違う時、通過列車は1番線、停車列車は2・3番線を通る。
・0番線は成田方面が行き止まりとなっており、原則として鹿島線の折り返し列車が使用する。


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一線スルー構造となっており、主本線を発着する場合は通過が可能[7]
・夜間、1・3番線に普通列車が留置される。0番線にも留置される場合がある。
・貨物列車の行き違いのため、1・2番線の線路有効長はかなり長い。

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改札口と券売機(2022年4月)

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0・1番線ホーム(2022年2月)

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2・3番線ホーム(2022年2月)

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レトロ調デザインの駅名標(2011年1月)

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象限儀の複製(佐原駅北口付近)

利用状況詳しい事は、『佐原駅ウィキペディア』をご覧ください。 ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%90%E5%8E%9F%E9%A7%85#cite_note-9   
(wikiより)

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所在地日本の旗 日本 神奈川県横須賀市
所在海域東京湾
座標北緯35度17分10秒 東経139度41分39秒
面積0.055 km²
海岸線長約1.6 km
最高標高39.3 m

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猿島(さるしま)は、神奈川県横須賀市猿島に所在する無人島[1]東京湾最大の自然島である。1995年に国から横須賀市へ移管され、横須賀市が猿島公園として観光などに活用している[1][2]

地勢
・面積 約0.055 km2
・周囲 約1.6 km[1]
・標高 最高39.3m
・横須賀市平成町より北東へ約1.15 km、三笠公園戦艦三笠保存地)東方約1.75 km 沖合。

概要
京急本線横須賀中央駅から徒歩15分の三笠ターミナルで船に乗り、10分程度で着く[2]海水浴バーベキュー釣り、散策などのレジャーに適する無人の自然島。

島からは縄文時代土器弥生時代の土器・人骨が出土し、日蓮にまつわる伝説が残るなど[3]、古くから人々に親しまれている。

幕末から第二次世界大戦前にかけては、東京湾の首都防衛拠点となる。幕末の1847年江戸幕府により国内初の台場が築造され[3]明治時代に入ると陸軍省海軍省の所管となり、東京湾要塞の猿島砲台が築造された。本施設が実戦に用いられたことはないが、島内の岩壁を掘って煉瓦で覆われた要塞跡は現在も残り[1]、日本国では数少ないフランドル積みが見られる。使用された煉瓦は愛知県の東洋組士族就産所で製造された。国の史跡に指定されている。当時の煉瓦は素材や焼成温度が均一でなかったため、結果として色とりどりの煉瓦が積まれて現代に残り、観光客に人気がある[4]。なお、砲台は2000年に「猿島要塞」として土木学会選奨土木遺産に指定される[5]

第二次世界大戦後は1961年まで、日本を占領して横須賀軍港を使用したアメリカ合衆国に接収された。その間にも1947年に渡船の運航が開始、1957年には海水浴場が開かれる。その後、1993年に海水浴場は閉鎖、航路も廃止されて、立ち入り禁止とされる。

1995年横須賀市大蔵省(現:財務省)から管理を受託。散策路等を整備し、航路を復活させた。翌1996年には海水浴場も再開された。2003年、横須賀市が国から猿島の無償譲与を受け、「猿島公園」として整備した。

アニメ映画天空の城ラピュタ』を連想させるとして人気を集めており[1]、『仮面ライダー』のロケーション撮影ではゲルショッカーの基地があると設定されたことでも知られている。2013年度の入島者は約11万人と2003年度の1.7倍に増えており、2015年に「国史跡」に指定を受ける。横須賀市では2015年4月から入園料を徴収している[6]

有料化されても人気は続いており、2017年の入島者は約18万人へ増えた[4]

2019年夏、ドローンによる食材配送サービスが期間限定で運用される[7]

交通
・三笠桟橋(三笠公園内)よりトライアングル(運行事業者)の船で10分。船は、3月から11月までは毎日運航、12月から2月までは土日祝日のみ運航。往復運賃は入島料込みで大人2000円、中学生1750円、小学生1000円で横須賀市民には割引がある[1]
  ・三笠桟橋まで、京急横須賀中央駅より徒歩15分[1]JR東日本横須賀駅より徒歩30分。
防衛省防衛大学校短艇委員会(課外活動であるが、校長直属であるため、規則により「委員会」となっている)が、トレーニングのために走水練習場から短艇で漕ぎ着けてくることがある[8]

人が搭乗することはできないが、猿島の行楽客から注文を受けた飲食品や紙皿などをドローンで配達する実験を、西友楽天が2019年7月に開始する計画を公表している[9]

作品
映画
ドグラ・マグラ』(松本俊夫監督、1988年) - 主人公・一郎(松田洋治)と若林博士(室田日出男)が話し合うシーンのロケ地。
・『蘇える金狼』(村川透監督、1979年) - 中盤アクションシーンのロケ地。
・『赤と黒の熱情』(工藤栄一監督、1992年) - ラストシーンのロケ地。

ドラマ
・『怪奇大作戦』(1968年) - 第15話「24年目の復讐」のロケ地。
・『仮面ライダー』(1971年) - ショッカー・ゲルショッカーの秘密基地のロケ地。
・『大都会 PARTIII』(1979年) - 第22話「横須賀ストーリー」のロケ地。
・『西部警察』(1980年) - 「特ダネの罠」のロケ地。
・『西部警察 PART-III』(1984年) - 「刑事無情」「ターゲットX ・鳩村刑事絶体絶命」のロケ地。
・『少女コマンドーIZUMI』(1988年) - 第15話「セーラー服戦士の伝説」のロケ地。
・『探偵学園Q』(2003年) - 日本テレビのドラマSP。赤レンガのトンネル。
・『仮面ライダー剣』(2004年) - 2話のロケ地。プラントアンデッド(カテゴリーハート7)が現れた要塞。
・『ケータイ刑事 銭形雷』(2006年) - BS-iのドラマ。25話、26話のロケ地。
・『そして誰もいなくなった』(2017年) - テレビ朝日のドラマ。劇中の兵隊島のロケ地。
・『君と世界が終わる日に』(2021年) - 日本テレビドラマ。「猿ノ島」という名称で登場する(遠景だけで、ドラマのロケ地にはなっていない)。

小説
・『猿島の七日間』(1989年) - 彦一彦の冒険小説。
・『猿島館の殺人』(1990年) - 折原一の長編小説。
・『あやしい探検隊 不思議島へ行く』(1993年) - 椎名誠の冒険エッセイ。

このほか、島内の風景がアニメ映画天空の城ラピュタ』に似ているといわれる[1]

ギャラリー

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猿島(国土交通省 国土地理院 地図・空中写真閲覧サービスの空中写真を基に作成)

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うみかぜ公園から1.1 km 猿島上空から

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遊覧船(2021年10月)

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猿島ウエルカムセンター(2021年10月)

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ボードデッキ(2021年10月)

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要塞建造に使用された東洋組煉瓦の刻印

脚注・出典
1. 
a b c d e f g h 【いいね!探訪記】猿島(神奈川県横須賀市)要塞眠る森 海上のラピュタ朝日新聞』夕刊2022年6月25日3面(同日閲覧)
2. 
a b 猿島公園 横須賀市建設部公園管理課(2022年6月25日閲覧)
3. 
a b 川上朝栄「戦跡残る無人島 神奈川・横須賀の猿島」『産経新聞』朝刊2013年8月9日22面(東京本社発行13版)
4. 
a b 【ぐるっと首都圏】猿島(神奈川県横須賀市)要塞の跡 漂うロマン日本経済新聞』朝刊2018年3月24日(首都圏経済面)2019年6月21日閲覧
5. 
土木学会 平成12年度選奨土木遺産 猿島要塞”. www.jsce.or.jp. 2022年6月8日閲覧。
6. 
猿島公園 横須賀市 - ウェイバックマシン(2011年9月5日アーカイブ分)
7. 
猿島 ドローンで食材配送 楽天と西友 近未来の買い物体験 | 横須賀”. タウンニュース (2019年6月21日). 2019年7月12日閲覧。
8. 
防衛大学校 短艇委員会   
9. 
「西友、離島にドローン配送/楽天と実見 アプリで注文、400点対象/ノウハウ蓄積、他地域検討」日経MJ』2019年6月19日(コンビニ・フード面)2019年6月21日閲覧

関連項目
神奈川県の島一覧    

外部リンク
猿島公園 横須賀市
猿島 横須賀市観光情報サイト「ここはヨコスカ」
猿島
猿島公園専門ガイド協会
猿島周辺の地図 - 地理院地図(国土地理院
猿島の上空写真(2007年撮影) - 国土地理院(地図・空中写真閲覧サービス)
 ウィキメディア・コモンズには、猿島に関するカテゴリがあります。
(wikiより)


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世界三大行進曲の一つであるご存知軍艦マーチの碑である。三笠公園内 記念艦三笠の脇に設置されている。平成8年4月に建立されたが、平成15年3月、横須賀水交会によって修復されている。なお、作曲の瀬戸口軍楽長の墓は長浦の常光寺にあり、また、自筆の譜面は三笠艦で展示されている。
所在:三笠公園(横須賀市)

(刻字)
碑正面:
「行進曲 軍艦  (~楽譜~)

碑文
行進曲「軍艦」は明治30年海軍軍楽長 瀬戸口藤吉氏によって作曲された 日本の勃興期における行進曲として親しまれ 未来への明るい希望と自信を与え勇気づけるものである 世界3大行進曲の一つとして 音楽史を彩る稀有の名曲で 作曲されてから一世紀を迎える年にあたり 瀬戸口軍楽長がこよなく愛し 青春の日日を送り己が終焉の地ともなったこの横須賀の三笠公園に行進曲「軍艦」の顕彰碑を建立いたしたものである 
行進曲「軍艦」記念碑建立協賛会」

碑裏面:
「行進曲軍艦  鳥山 啓作詞 瀬戸口藤吉作曲

一.守るも攻めるも黒金(くろがね)の
  浮かべる城ぞ頼みなる
  浮かべるその城日の本(もと)の
  皇国(みくに)の四方(よも)を守るべし
  真鉄(まがね)のその艦(ふね)日の本に
  仇なす国を攻めよかし

二.石炭(いわき)の煙は太洋(わだつみ)の
  龍(たつ)かとばかり靡(なび)くなり
  弾丸撃(たまう)つ響きは雷(いかづち)の
  声かとばかりどよむなり
  万里の波濤を乗り越えて
  皇国の光輝(かが)やかせ
  平成十五年3月横須賀水交会修復」

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開基である養源院 ( 生年不詳 ) は、岩国藩 ( 山口県 ) 2代藩主・吉川広嘉 ( ひろよし・1621 ~ 79 ) の室 (『御府内寺社備考』)、あるいは妹 (「毛利氏系図」) とされ、承応 3年 ( 1654 ) に没し、戒名を「養源院殿正誉貞心大姉」と付けられました。

なお、広嘉は、元服して左馬助、後に監物と称し、寛文 3年 ( 1663 ) に家督を継ぎました。

同 6年 ( 1666 ) に領内の風土産物を調査して、『村記』及び付録の地図を作成し、同 11年 ( 1671 ) に、ニ鹿村の銅山の開発をしました。

さらに延宝元年 ( 1673 ) には、錦帯橋 ( きんたいきょう ) を架橋しました。


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種類日本銀行法に基づく認可法人
市場情報東証 8301
1983年11月1日上場
略称日銀
本店所在地日本の旗 日本
103-8660[1]
東京都中央区日本橋本石町二丁目1番1号[1]
北緯35度41分11.5秒 東経139度46分17秒
設立1882年10月10日
業種銀行業
法人番号3010005002599 ウィキデータを編集
金融機関コード0000
SWIFTコードBOJPJPJT
代表者植田和男(総裁)
資本金1億円(日本銀行法第8条第1項)
発行済株式総数出資証券として100万口(日本銀行法第9条第1項)
経常利益1兆6375億8745万3153円
(2020年3月期)[2]
純資産4兆5473億9689万1115円
(2020年3月31日現在)[2]
決算期3月31日
外部リンク日本銀行

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日本銀行本店

日本銀行(にっぽんぎんこう、Bank of Japan、英語略称: BOJ)は、日本銀行法に基づき日本の中央銀行として設立された認可法人。略称は日銀(にちぎん)。財務省が所管する。

概要
日本銀行は、日本国政府から独立した法人とされ、国の行政機関ではないものの、その金融政策は行政の範疇に属すると考えられている。物価の長期的な安定はマクロ経済学の観点から重要であるが、政治部門は短期的な手法をとることを選好しがちであるため、長期的な公益確保・政治的中立性の観点から自主性・独立性が認められている[4]。 第二次世界大戦下の1942年に制定された旧日本銀行法では、「国家経済総力ノ適切ナル発揮ヲ図ルタメ国家ノ政策ニ即シ通貨ノ調節、金融ノ調節及ビ信用制度ノ保持育成ニ任ズル」、「専ラ国家目的ノ達成ヲ使命トシテ運営セラシムル」機関とされていた[5]

読み方
日本銀行の慣習では「にっぽんぎんこう」と呼ばれているが[6]、法的に定められているわけではなく、「にほんぎんこう」と読まれる場合もある。
国税庁が管理する法人番号に届け出られている商号又は名称のフリガナ欄には「ニッポンギンコウ」とあり[7]日本銀行券でのローマ字表記もNIPPON GINKOとなっている。
日本銀行法旧日本銀行岡山支店本館[8]では「にほんぎんこう」と読むほか、日本銀行の読みを「にほんぎんこう」とする民間企業や辞書もある[9][10]

出資証券
日本銀行は、公的資本と民間資本により存立する。資本金は1億円(100万口)で、そのうち日本政府が55%の約5500万円を出資し、残り45%にあたる約4500万円を日本政府以外の者が出資する。日本銀行法により日本政府の保有割合が55%を下回ってはならないこととなっている[11][注釈 1]。2022年3月末日時点における日本政府以外の出資者の内訳は、個人40.6%、金融機関1.9%、公共団体等0.2%、証券会社0.0%、その他法人2.3%となっている[13]

株式会社における株主総会にあたる、出資者で構成される機関は存在しない[14]ことから、出資者は経営に関与することはできず、役員選任権等の共益権は存在しない。一方で自益権に相当する剰余金配当は、払込出資金額(1株の額面金額に相当、1口あたり100円)に対して年5%(つまり1口あたり5円)以内に制限されている。もしも日本銀行が解散決議した場合でも、残余財産のうち払込出資金額を超える分の財産は出資者ではなく国に帰属することになっている(日本銀行法第60条2項)。出資者となる経済的メリットは1口あたり5円以下の配当金が貰えることだけであり、40%ほどを占める個人出資者は短期的な値幅取りを目当てとした投資家と推測されている[15]。日本銀行の財務諸表に剰余金をどのように処分したか記載されているが、1兆円程度の剰余金(純利益)が発生し、500万円を配当し、5%を法定準備金として積み立て、95%が国庫納付金となっている[16]。これらとは別に法人税なども支払っている[17]

日本銀行の発行する出資証券[18]株式会社における株式に近い)は、東京証券取引所JASDAQスタンダード市場に上場していたが[19]、市場再編に伴い、2022年4月4日から市場区分なしとなった[20]

資本金の出資者には一般の株式会社の株式に相当する出資口数を証した出資証券が発行される。出資証券は東京証券取引所に上場され、株式に準じて取引されているが、証券保管振替制度の取扱銘柄ではなく、そのため日本銀行の出資証券を取り扱っていない証券会社もある[21]証券コードは8301[22]。売買価格は株式市場における実勢価格であり、額面の払込出資金額(1口あたり100円)とは異なる。

日本銀行の出資証券の東京証券取引所での2018年における年間の売買高は、462,000口[23](4,620単位)。売買単位は100口。100口券を1口券100枚に分割可能ではある。100口未満(1 - 99口)の買取請求はできない。

日本銀行の出資証券はいわゆる有価証券のペーパーレス化(株券の領域では「株券の電子化」と呼ばれた)がなされておらず[14]、東京証券取引所でなされた売買の決済は(日本証券クリアリング機構での)現物証券の受け渡しによってなされる[24]。日本国内の証券取引所でなされる売買の決済では唯一の現物受け渡しの例である[24]。証券会社では客からの注文が成立した場合、3日以内に日本証券クリアリング機構に現金と必要書類を持ち込んで窓口で現物証券を受け取り、会社に持ち帰るという手間がかかることから、取り扱いを嫌っているという[15]

日本国債の証券集中保管機関
日本銀行は(2021年現在で唯一の)日本国債に関する証券集中保管機関(CSD)であるという性格も持つ[25]社債、株式等の振替に関する法律第四十七条による主務大臣の指定により同法上の「振替業(※国債に係るものに限る)を営む者」となっている[26]

沿革
明治
1871年明治4年) - 新貨条例(明治4年太政官布告第267号)が制定され、日本円の取り扱いが始まる。
1872年(明治5年) - 国立銀行条例(明治5年太政官布告第349号)制定。紙幣の発行を担う。
1876年(明治9年) - 国立銀行条例全面改正。国立銀行条例及国立銀行成規(明治9年太政官布告第106号)[27]公布。不換紙幣の発行を認めたことが一因となって、インフレーションが進行。
1881年(明治14年) - 三井銀行の為替方を廃止し、大蔵卿松方正義により日本銀行創設へ。
1882年(明治15年)
  ・6月27日、日本銀行条例(明治15年太政官布告第32号)[28]公布。10月6日、総裁に吉原重俊、副総裁に富田鐵之助を任命。10月9日、開業免許(資本金1000万円、政府半額出資)。10月10日に営業開始。
  ・10月11日、当所商業手形割引歩合(公定歩合)を28とする。11月22日2厘引き下げ。
  ・12月18日、大阪支店開業。
1883年(明治16年)
  ・3月14日、公定歩合をさらに2厘引き下げて2銭4厘とする。10月2日2厘、11月29日1厘、12月10日1厘引き下げ。
  ・4月27日、大蔵省は国庫金取扱を命じ、5月6日国庫局を設置、7月1日事務開始。
  ・5月30日、大蔵省は各国立銀行紙幣を消却させるため、その手続として銀行紙幣合同銷却方法を下付。
1884年(明治17年)
  ・4月26日、公定歩合をさらに2厘引き下げ、1銭8厘とする。
  ・5月26日、兌換銀行券条例(明治17年太政官布告第18号)[29]制定。7月1日施行。日本銀行を唯一の発券銀行として銀行紙幣を回収。一方、集権的な倉荷証券付手形割引制度を創設。倉庫商品の権利関係に対する同証券の曖昧性を露呈。米穀投機と信用危機を誘発して破綻。
  ・7月3日、公定歩合を2厘引き下げ、2銭とする。7月18日1厘、8月12日1厘、11月19日2厘引き下げ。
1885年(明治18年)- 日本銀行兌換銀券発行、銀本位制を確立する。
1886年(明治19年)- 3月4日、公定歩合をさらに1厘引き下げ1銭8厘とする。4月9日1厘、5月3日1厘、5月28日1厘、6月22日1.5厘引き下げ。10月14日1.5厘引上げ、1銭5厘とする。10月22日1厘引上げ。
1887年(明治20年)- 1月24日、公定歩合を1厘引き下げ、1銭5厘とする。
1888年(明治21年)
  ・1月4日、公定歩合を1厘引上げ、1銭6厘とする。
  ・2月21日、副総裁富田鐵之助は総裁に昇任。
  ・3月10日、公定歩合を1厘引き下げ1銭5厘とする。5月11日1厘引上げ1銭6厘とする。6月2日さらに1厘、8月24日1厘、9月29日1.5厘引上げ。
1889年(明治22年)
  ・公定歩合を0.5厘引き下げ、1銭8厘とする。2月1日さらに0.5厘、2月19日1厘引き下げ。5月8日1厘引上げ1銭7.5厘とする。6月1日さらに0.5厘、8月19日0.5厘、9月3日0.5厘引上げ。
  ・9月3日、富田鐵之助総裁辞任、後任に川田小一郎任命。
1890年(明治23年)
  ・2月26日、日本銀行兌換券制限外500万円発行認可、3月3日発行。米価暴騰による金融梗塞対策で、日本初の制限外発行、発行額に対し5分の税率。
  ・5月17日、日本銀行兌換券の保証準備発行限度を7000万円から8500万円に拡張する旨公布。
  ・5月18日、日本鉄道会社株券など15種の株券を担保とする手形割引の道をひらく(担保付手形割引制度)。
  ・6月14日、公定歩合を2厘引下げ、1銭7厘とする。10月20日公定歩合を1厘引上げ、1銭8厘とする。
1891年(明治24年)- 3月2日、公定歩合をさらに2厘引上げ2銭とする。5月6日2厘引下げ、1銭8厘とする。7月21日さらに1厘引下げ。
1892年(明治25年)- 11月24日、公定歩合をさらに1厘引下げ1銭6厘とする。
1893年(明治26年)
  ・全国2番目の支店として、山口県下関市に西部支店(現日本銀行下関支店)を開設。
  ・3月23日公定歩合をさらに2厘引下げ1銭4厘とする。5月31日1厘引下げ。9月2日2厘引上げ、1銭5厘とする。11月21日2厘引上げ。
1894年(明治27年) - 1月22日公定歩合をさらに1厘引上げ1銭8厘とする。2月8日さらに1厘、6月19日1厘、7月26日1厘引上げ、戦争中は据置。
  ・4月1日、京都出張所を開設(1911年6月1日、支店に昇格)。
  ・6月12日、国庫金出納上一時貸借に関する法律公布、政府が国庫余裕金を日銀に預入れ、国庫不足金を日銀から借入れることを認める。
  ・11月14日、政府は日銀に950万円の借上げを令達、以後数度の借上げで戦費を応急調達し、1896年5月返済完了。
  ・12月29日、制限外兌換券を発行、12月末現在419万余円、1895年1月まで発行。
1895年(明治28年)
  ・5月31日、制限外兌換券を発行(1896年5月まで)。月末残高最高は7261万円。
  ・7月12日、公定歩合を2厘引下げ、1銭9厘とする、戦後企業勃興の契機となる。
  ・8月19日、大蔵省は日銀に1000万円の増資を許可(布告)、資本金3000万円となる。
1896年(明治29年)
  ・日本銀行本店に、日本で初めてのエレベーターオーチス製)を取り付ける。
  ・5月16日、いわゆる預合勘定をひらき、在外正貨を正貨準備に繰り入れる。9月7日公定歩合を1厘引上げ、2銭とする。
1897年(明治30年)
  ・3月1日、名古屋支店を開設。
  ・6月14日、個人取引を公開、個人と銀行とで利率に差を設ける(1899年11月27日差別廃止)。
  ・6月14日、当座貸越利子のみ2厘引上げ、8月11日公定歩合1厘引上げ、2銭1厘とする。10月23日1厘引上げ。
  ・6月14日、担保品付手形割引を廃止し、見返品付手形割引を開始、実質的には前者を存続。
  ・7月27日、制限外兌換券を発行(1899年2月まで発行)、月末残高最高は4731万円。
1898年(明治31年)
  ・公定歩合をさらに1厘引上げ、2銭3厘とする。3月14日1厘引上げ。
  ・4月19日、財界の金融逼迫救済のため、政府委託により償金の一部で公債を買入れ、10月10日までに3870万余円、日本銀行による初の市場操作。
  ・10月8日、公定歩合を2厘引下げ、2銭2厘とする。12月7日さらに2厘引下げ。
  ・10月20日、総裁岩崎は公定歩合引下げ時期をめぐり蔵相と対立し辞職。山本、第5代総裁に任命。
1899年(明治32年)
  ・2月10日、公定歩合をさらに1厘引下げ、1銭9厘とする。3月11日、4月12日、7月28日それぞれ1厘引下げ。
  ・3月10日、日銀券発行税に関する法律公布。
  ・4月15日、横浜正金銀行へ対清国事業拡張資金として金貨1000万円を年利2分で預入る旨通告。6月、第一銀行に対し韓国産金購入資金として10万円預入。7月7日、横浜正金銀行へロンドン支店為替資金970万円を年利2分で預入。
  ・11月10日、公定歩合を1厘引上げ、1銭7厘とする。11月27日2厘引上げ。12月19日商業手形割引歩合を除き1厘引上げ。12月26日制限外兌換券を発行、一時的中断をふくみつつ1902年2月まで発行、月末残高最高は4122万余円。
1900年(明治33年)
  ・3月20日、公定歩合をさらに2厘引上げ2銭1厘とする。4月18日2厘、7月18日1厘それぞれ引上げ。
  ・4月24日、公定歩合引上げの影響で東京株式相場暴落。
1901年(明治34年)10月24日、北清事変の軍費支弁のため、政府へ12月までに11回にわたり1500万円を貸上げ、1903年3月までに返済完了。
1902年(明治35年) - 3月19日公定歩合を2厘引下げ、2銭2厘とする。6月27日2厘、10月3日2厘、12月9日1厘それぞれ引下げ。7月卸売物価指数を発表、1900年10月基準
1903年(明治36年) - 3月18日公定歩合をさらに1厘引下げ、1銭6厘とする。12月29日軍備補充費を政府へ貸上、1904年3月29日までに計4100万円、1904年7月26日返済完了。
1904年(明治37年) - 2月11日制限外兌換券発行、一時的な中断をふくみつつ1909年2月まで発行、月末残高の最高は8824万円。4月21日臨時事件費として政府へ1904年3月までに計2億3900万円を貸上、1905年4月25日以降同じく7800万円、1906年2月27日以降同じく5500万円をそれぞれ貸上、1906年10月15日返済完了。7月2日公定歩合を2厘引上げ、1銭8厘とする。12月19日さらに2厘引上げ。
1905年(明治38年) - 日露戦争中であるこの年12月4日から翌年4月2日にかけて、しめて1160万ポンドをイングランド銀行へ貸し付けた[30]。この後も貸付は続き、1907年まで毎回50万ポンド単位で行われていた。巨額の外債を発行する傍らでこのような貸付が行われた事実は、1907年恐慌の兆候がいかに早く、また現金輸送が当時においていかに困難だったかを示唆する。
  ・6月16日、公定歩合をさらに2厘引上げ2銭2厘とする。
1906年(明治39年) - 3月13日公定歩合を2厘引下げ2銭とする。5月1日2厘引下げ。7月1日本支店における貸出利率を一律にし、国債抵当・保証を除く貸付・割引利率につき最高最低利子率を設定する。
1907年(明治40年) - 10月24日、横浜正金銀行に対する低利(年2分)外国為替再割引限度を、1000万円から1500万円に拡張。12月4日公定歩合を2厘引上げ、2銭とする
1909年(明治42年)
  ・3月15日、金沢出張所を開設(1911年6月1日、支店に昇格)。
  ・5月4日、公定歩合を2厘引下げ、1銭8厘とする。8月2厘引下げ。
1910年(明治43年) - 1月11日、公定歩合をさらに2厘引下げ、1銭4厘とする。3月7日1厘引下げ。2月22日大蔵省は日銀の3000万円増資を許可する(告示)、6000万円となる。12月21日制限外兌換券発行、一時的な中断をふくみつつ1915年1月まで発行、月末残高最高8424万余円。
1911年(明治44年) - 7月1日、横浜正金銀行に対する外国為替手形再割引制度を、外国為替手形引当の外国為替貸付金制度に改める。9月27日公定歩合を2厘引上げ、1銭5厘とする。
1912年(明治45年) - 公定歩合をさらに1厘引上げ、1銭6厘とする。10月2日1厘、11月14日1厘それぞれ引上げ。

大正
1913年大正2年) - 1月6日、蔵相は日銀兌換券制限外発行税率を1分引上げ、年6分とする。
1914年(大正3年)
  ・7月1日、新潟支店・松本支店を設置。
  ・7月6日、公定歩合をさらに2厘引上げ、2銭とする。7月31日政府との間で、日銀所有正貨および横浜正金銀行などから買入れるべき正貨を政府に売却することを協定。11月1日台湾銀行に対し南方為替資金を預け金として預入れ、1915年11月ロンドン・ニューヨーク向け為替資金をふくめ2000万円までを預入れ。
1915年(大正4年) - 1月18日見返担保品の範囲を拡張し、東京市債・勧銀債券・興銀債券を加える。
1916年(大正5年) - 4月17日公定歩合を2厘引下げ、1銭8厘とする。7月5日さらに2厘引下げ。12月15日金融界の安定をはかるため進んで低率の貸出を行う旨発表。
1917年(大正6年)
  ・3月16日、公定歩合をさらに2厘引下げ、1銭4厘とする。
  ・8月1日、熊本支店・秋田支店を設置。
  ・11月16日、見返品の範囲を拡張し、品目指定をやめ、一定基準に合致する有価証券は見返担保品として認めることとする。
1918年(大正7年)
  ・3月1日、松江支店を設置。
  ・9月16日、公定歩合を2厘引上げ、1銭6厘とする。11月25日2厘引上げ。
1919年(大正8年) - 6月、銀行引受手形の再割引を行うことを決定(貿易金融の改善・割引市場の発達促進・日銀券増発防止のため)。8月1日、スタンプ手形制度実施(輸出金融円滑化のため、横浜正金銀行が売出すスタンプ押捺為替手形の再割引を優遇。のちに台湾銀行住友銀行にも実施)。10月6日公定歩合をさらに2厘引上げ、2銭とする。11月19日さらに2厘引上げ、1905年6月以来の最高となる。11月22日、東西組合銀行と投機抑制について懇談。12月3日、さらに組合銀行以外の銀行とも懇談。
1920年(大正9年) - 4月12日、株式市場救済のため月末受渡資金の融資を表明。4月15日、銀行シンジケート経由の整理資金供給方式を決定。4月20日、製糖会社に救済資金融資決定、引き続き製鉄業・産銅業・絹織物業・製糸業・毛織物業などに特別融資決定。
1922年(大正11年) - 8月19日、在外正貨を正貨準備に繰入れることを禁止し、従来充当分も8月末日限り解除と決定。12月15日、東京・大阪のシンジケート銀行と会合、金融界動揺の善後策を協議し、救済援助を声明、12月中の日銀救済融資は2億2000万円。
1923年(大正12年) - 関東大震災発生により、9月27日、日銀震災手形割引損失補償令公布(緊急勅令)。補償限度1億円、日銀の震災手形割引高は1924年3月末までで4億3081万円。9月29日、副総裁は担保貸出の拡張など資金融通の方針を発表。
1925年(大正14年) - 4月15日公定歩合を2厘引下げ、2銭とする。5月、兌換券発行高・一般貸出高、震災以来の最低を記録。

昭和 ( 戦前・戦中 )
1926年昭和元年)- 10月4日、公定歩合をさらに2厘引下げ1銭8厘とする。11月12日、帝国蚕糸倉庫に、横浜正金銀行経由で生糸救済資金220万円を融資。11月20日政府・日銀は、鈴木商店・日本製粉の救済のため資金援助措置を決定、台湾銀行から両社に800万円ずつ融資。
1927年(昭和2年)
  ・3月9日、公定歩合を2厘引下げ1銭6厘とする。10月10日、さらに1厘引下げ。
  ・3月21日、市中銀行に対し非常貸出しを実施、3月23日までに6億円を突破。4月18日総裁は財界動揺防止に関し声明を発表。4月24日総裁は取引先以外の銀行へも援助を与える旨声明、4月25日までの対市中銀行貸出残高20億円を突破。
  ・5月9日、日本銀行特別融通および損失補償法、台湾に金融機関に対する資金融通に関する法律それぞれ公布、2法による日銀貸出高8億7943億円。
1928年(昭和3年)
  ・5月8日、日銀特別融資打切り、特別融通法によるものは6億8793億円、金融市場は超緩和。
  ・5月15日、総裁井上は全国手形交換所大会で特別融資の結果日銀が金融統制力を喪失した状況下では金解禁は尚早と発言。
1930年(昭和5年)- 10月7日、公定歩合を1厘引下げ1銭4厘とする。
1931年(昭和6年)
  ・金輸出再禁止に伴い管理通貨制度を確立した。
  ・10月6日、公定歩合を2厘引上げ1銭6厘とする。11月5日、蔵相は日銀の制限外発行税率を6分に決定。
1932年(昭和7年)- 3月12日、公定歩合を2厘引下げ1銭6厘とする。6月8日2厘、8月18日2厘引下げ。3月12日、蔵相は日銀の制限外発行税率を5分に決定。6月18日兌換銀行券条例改正、保証発行限度の拡張、限外発行税最低率の引下げなど。
  ・6月18日、日銀納付金法・日銀参与会法それぞれ公布。
  ・11月25日、新規国債2億円(4%利半国庫債券)の直接引受。12月24日から売りオペ[31]。12月24日、所有国債の対市中売却操作を初実施。
1933年(昭和8年)- 7月3日、公定歩合を2厘引下げ、1銭とする。
1934年(昭和9年)- 4月7日、日本銀行金買入法公布、政府の産金時価買入策の拡大。
1936年(昭和11年)- 4月7日、公定歩合を1厘引下げ9厘とする。12月28日蔵相は日銀券制限外発行税率を年3分に決定。
1937年(昭和12年)- 7月15日、公定歩合を引下げ、国債担保貸付利子歩合を1厘引下げて9厘とし、商業手形割引歩合は据置。
1938年(昭和13年)- 7月23日、外国為替基金を設定。
1940年(昭和15年)- 8月7日、満洲中央銀行に対する1億円の借款供与契約成立。
1942年(昭和17年)
  ・2月24日、日本銀行法(昭和17年法律第67号、以下「旧法」)[32]公布、管理通貨制度の法的確立。
  ・5月1日、旧法に基づく法人に改組。日本銀行条例・兌換銀行条例の廃止。
  ・6月18日、タイ大蔵省と2億円の借款供与に関する協定に調印。
  ・7月28日、中央儲備銀行に対する1億円の借款供与契約調印。11月18日、政府保証軍需手形再割引とそれを担保とする貸付に優遇措置実施。
1944年(昭和19年)- 4月4日貸出利率調整制度実施、従来の高率適用手続は廃止。

昭和 ( 戦後 )
1945年(昭和20年)- 12月27日、インドシナ銀行東京支店の業務・財産の管理人となる(以後、同様措置の対象先は拡大した)。
1946年(昭和21年)- 2月、ハイパーインフレーションの懸念から、新円切替と一昨年に続く預金封鎖が実施された。
1946年(昭和21年)
  ・3月12日、日銀券(新円)発行残高152億円、1945年8月15日以降最低、金融緊急措置実施の結果。
  ・7月17日、日本興業銀行の復興資金融通手形を担保。
  ・7月22日、連合国総司令部が米系銀行の在日支店の再開を許可。7月31日、外貨債処理法による政府債務承継まで保管されていた利払い資金がGHQから日銀へ移管される。同日、ニューヨーク・ナショナル・シティー銀行香港上海銀行チャータード銀行、オランダ系銀行2行の以上5行がもつ国内支店について、戦時中の敵産管理法により横浜正金銀行がもっていた管理権を日銀が継承した[33]
  ・9月16日、日銀券発行残高618億3700万円、旧円の最高額を突破。10月14日公定歩合を1厘引上げ1銭とする。
1947年(昭和22年)
  ・3月15日、農地証券の交付および元利金支払に関する特別取扱に関する件公布施行。
  ・4月1日日銀法改正公布、日銀券発行限度の決定方法の変更、5月3日施行。
1948年(昭和23年)
  ・4月26日、公定歩合を2厘引上げ1銭2厘とする。7月5日、さらに2厘引上げ。
  ・12月20日 - 閉鎖機関処理部廃止。
1949年(昭和24年)
  ・5月30日、東証一部に上場。同年6月には大証一部、名証一部にも上場。
  ・6月1日、社債消化促進のため市中銀行に社債買入額を限度とする復興金融金庫債の償還を認める、貸出政策と公開市場政策併用の初め。
  ・6月3日、日銀法改正公布、政策委員会の新設、6月17日同委員会発足。
  ・11月1日、外国為替管理委員会から外国為替資金に関する計算登記および報告事務を引き継いだ。また、3年前から置いていた山口事務所を大晦日に廃止。
1950年(昭和25年)- 6月7日、外資委員会の事務の取扱いに関する政令を公布、翌日施行。
1951年(昭和26年)- 10月1日、公定歩合を2厘引上げ1銭6厘とする。
1952年(昭和27年)- 6月16日、国際通貨基金へ出資する金塊15トンを政府へ売却。
1953年(昭和28年)
  ・7月15日、金管理法[注釈 2]。 
  ・10月8日、世界銀行債200万ドルを買い入れ。
  ・12月18日、連邦準備制度に口座開設。
1954年(昭和29年) - 1月16日、輸入金融抑制措置を実施、貸付金利1厘引上げなど。3月10日、優遇措置全廃など再度の引締強化を実施。7月22日、輸出金融優遇措置を実施、輸出手形貸付金利引下げなど。8月16日、輸出金融引締措置を実施、輸入決済手形貸付金利引上げなど。
1955年(昭和30年)4月15日、イングランド銀行に口座開設。8月10日、公定歩合を4厘引上げ2銭とする。11月8日、市中金融機関に対し年内買戻条件付で売オペレーションを実施。
1956年(昭和31年)- 年末現在、日銀券発行残高8632億円。
1957年(昭和32年)- 3月20日、公定歩合を1厘引上げ2銭1厘とする。5月8日、さらに2厘引上げ。
1958年(昭和33年)- 11月28日、政策委員会は農業手形制度の本年度限り廃止を決定、四国・中国・九州は1959年1月31日に廃止。
1959年(昭和34年)
  ・2月19日、公定歩合を1厘引下げ1銭9厘とする。12月2日、公定歩合を1厘引上げ2銭とする。
  ・9月11日 - 普通銀・長信・外為銀行を対象に準備預金制度はじまる[注釈 3]
1960年(昭和35年)
  ・5月、東証、大証、名証から上場廃止。
  ・8月24日、公定歩合を1厘引下げ1銭9厘とする。
1961年(昭和36年)
  ・1月26日、公定歩合を1厘引上げ1銭8厘とする、低金利政策の展開。
  ・7月22日、公定歩合を1厘引上げ1銭9厘とする(7月21日東証ダウ株価45円72銭安と下落)。9月29日さらに1厘引上げ。
  ・11月24日、外債2億USドルを外貨準備補強策として発行した。
1962年(昭和37年)
  ・10月1日、世銀債500万ドルを引受け(1964年同月同日にも同額引受け)。
  ・10月27日、公定歩合を1厘引下げ1銭9厘とする。高率適用制度を緩和。11月1日、預金準備率も引下げ、3本立で金融引締め緩和。11月27日、公定歩合をさらに1厘引下げ。
1963年(昭和38年)
  ・2月店頭登録(現ジャスダック市場に公開)。
  ・3月20日、公定歩合を1厘引下げ1銭7厘とする。4月20日さらに1厘引下げ、輸出手形は1銭1厘に据置。
  ・10月31日、ニューヨーク連邦準備銀行と貸付予約方式で1億5000万ドル双務通貨協定調印、いわゆるスワップ協定
1964年(昭和39年)
  ・3月18日、公定歩合を2厘引上げ、1銭8厘とする。
  ・11月25日、主要11中銀・国際決済銀行合衆国輸出入銀行との間に30億ドルのクレジット設定。
  ・9月4日、政策委員会は日本証券金融を通ずる債券担保の特別融資を決定、株価安定のため。9月17日大蔵省は日本共同証券資金の拡大などを決定、日銀も同調。9月22日、蔵相田中は証券市場に財界の協力を要請。
  ・12月4日、日本共同証券に400億円の特別融資、実質金利1銭5厘。翌年1月19日、日本証券保有組合にも特融決定。
1965年(昭和40年)
  ・1月9日、公定歩合を1厘引下げ、1銭7厘とする。4月3日1厘、6月26日1厘引下げ。
  ・5月28日深夜、蔵相田中は記者会見で証券緊急対策として山一証券に無制限・無期限の日銀特別融資発表、日銀法第25条適用、1956年以来の異例措置、いわゆる山一証券事件。5月29日発動。
  ・6月7日、山一証券に対する日銀特融第1回融資45億円。6月28日まで6回累計234億円。
  ・6月18日、証券14社に約600億円の救済融資決定、投資信託解約激増のため。日本証券金融に600億円までの公社債担保貸付を決定。
  ・6月25日、市中銀行に対する貸出増加額規制の廃止を決定。
  ・7月16日、預金準備率引下げ、景気刺激策。
1967年(昭和42年)
  ・2月2日国債653億円を買入れ、初の国債オペレーション。
  ・12月1日、米側の申入れにより米ニューヨーク連邦準備銀行とのスワップ協定限度額を4.5億ドルから7.5億ドルに増額。
1968年(昭和43年)3月18日 - 連邦準備制度とのスワップ取引額上限が10億ドルに増加(1973年7月10日には倍の20億ドル、1978年11月1日には50億ドルに達した)。
1971年(昭和46年)6月1日 - 外国為替資金特別会計外国為替銀行に対する外貨預託による輸入関係資金の供給を日本銀行の輸入資金貸付により行うようになる。
1973年(昭和48年)4月9日 - 全国銀行データ通信システム稼動。
1982年(昭和57年)10月8日 - 金融研究局を日本銀行金融研究所に改組。
1985年(昭和60年)1月25日 - シティバンク他2行と国債元利支払取扱店契約を締結。
1988年(昭和63年)8月15日 - 本支店間で日本銀行金融ネットワークシステム稼動。1990年5月28日、この日銀ネットによる国債関係事務の対外オンライン処理を開始。さらに同年12月11日、長期国債の募集・引受・発行事務がオンライン化。1992年5月26日に払込みオンライン化。1994年4月11日、国債資金同時受渡(国債DVP)システム稼動。

詳しい事は、「
日本銀行ウィキペディア」をご覧ください。 ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E9%8A%80%E8%A1%8C
(wikiより)


0189a

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YOKOSUKA 軍港めぐり(よこすかぐんこうめぐり)とは、神奈川県横須賀市横須賀港を周る遊覧船である。

運営会社はトライアングル。横須賀本港から長浦港を周り新井掘割水路を通り、在日米軍海上自衛隊の艦船を間近に観察できるのがこの遊覧船の特徴である。2008年9月より定期航路化され、平日5 - 6便、休日6 - 7便の定期船を運航している。

q1

遊覧船「シーフレンド8」(2021年10月)

アクセス
コースカベイサイドストアーズ(旧称:ショッパーズプラザ横須賀)裏の「汐入桟橋」から出港する。
  ・京急本線汐入駅 - 国道16号線上の歩道橋を経由し徒歩5分
  ・横須賀線横須賀駅 - ヴェルニー公園を経由し徒歩10分。
  ・自家用車の場合は、コースカベイサイドストアーズ内の駐車場利用が推奨される。観光バスはヴェルニー公園駐車場を利用する。

脚注
関連項目
横須賀港 / 長浦港
コースカベイサイドストアーズ  

外部リンク
YOKOSUKA 軍港めぐり - トライアングル
(wikiより)


2a

2b

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日本の旗 日本
所在地東京都千代田区 - 中央区
交差物件日本橋川
建設1926年[1]
座標北緯35度41分7秒 東経139度46分15秒
構造諸元
形式2連鉄筋コンクリートアーチ橋

常盤橋(ときわばし)は、東京都千代田区大手町中央区日本橋本石町との間の日本橋川にかかる橋。

「ときわばし」という名の橋は2つあり、上流側にある歩行者専用の石橋の常磐橋と、下流側にある関東大震災後の復興計画で建設された道路橋の常盤橋が存在する。この2つの橋は共に2連アーチの構造を持ち70メートルほど離れて架けられている。区別するため、石橋の方の「磐」の字は「般」に「」が用いられ、また旧常磐橋と表記されることもある。

歴史太田道灌と親交が厚かった正宗龍統が記した『江戸城静勝軒詩序并江亭記等写』に登場する河口に架かる高橋を当時の平川(現在の神田川・日本橋川)の河口付近にあったと推定されている常盤橋に当てる説(菊池山哉説ほか)があるが、賛否両論がある。その一方、1568年永禄11年)に北条氏政下総国高城胤辰を江戸城防衛のために駐屯させた「江城大橋宿」は大橋(常盤橋)そばにあった宿場町であったとする説もある。徳川家康による江戸の再整備後に日本橋が誕生して江戸の交通が南北を軸にする以前は、江戸城及び大橋(常盤橋)を中心とした東西の軸によって陸路が形成されていたと考えられている(江戸城の西の道は鎌倉府中に、大橋を通る東の道は浅草を経由して奥州房総に連絡していたと考えられている)。

元は「大橋」と称され、江戸城の大手門から浅草に直接向かう本町通りに架けられていた。また、浅草に通じていることから「浅草口橋」とも呼ばれた。ただし、大橋が架かる日本橋川は徳川家康の関東移封後に開削されたとも考えられており、その場合は常盤橋もそれ以前には存在しないことになる。この場合、当時の平川は日比谷入江に注いでおり、そこに架かっていた現在の江戸城大手門の橋(大手橋)は三ノ丸が内城に取り込まれるまでは大橋と呼称されていた(『別本慶長江戸図』『慶長江戸絵図』、それまでは現在の二ノ丸下乗門を大手門としていた)。『東京市史稿』では高橋は大橋=大手門として、当時の江戸市街の中心がそこにあったとしている。

1629年寛永6年)、本町通りが日本橋川を渡る位置に常盤橋門が設置され[2]、この頃に「常盤橋」の名称が登場したと考えられている。「常盤」の由来については、『金葉和歌集』(巻1)の「色かへぬ松によそへて東路の常盤のはしにかかる藤浪」に由来する説や、「徳川氏=松平氏」と松が持つ常盤(常緑)を掛けて同氏の繁栄が続く事を願ったとする説がある。江戸の交通の中心は日本橋にその地位を譲ったものの、常盤橋から浅草方面の途中には「伝馬町」「馬喰町」など(運送業者に由来する町名)が引き続き栄えていた。

明治になって、この木造橋は石造のアーチ橋に架け替えられたものの、手狭であったことから、関東大震災後の復興計画で幅広の常盤橋が少し離れたところに建設されて、旧橋は「常磐橋」と呼ばれるようになった。常盤橋門は明治初期に解体され石垣のみが残る。門の周囲は常盤橋公園となっており、石垣保存に功績のあった渋沢栄一の銅像が建っている[3]2007年平成19年)3月28日に常磐橋・常盤橋はともに千代田区景観まちづくり重要物件に指定された[1]2020年(令和2年)に土木学会選奨土木遺産に選ばれる[4]

旧橋は東京都内で現存する最古の石橋となっている。経年と東北地方太平洋沖地震東日本大震災)の影響による損傷で2011年(平成23年)より通行禁止となっていたが、2013年(平成25年)より約7年かけて修復工事が行われ[5]、周辺整備を経て2021年(令和3年)5月10日から通行を再開した[6]。周辺地域では「常盤橋街区」として超高層ビル建設など大規模な再開発計画が進み、千代田区では「古き良き都心の象徴として整備していく」としている。

常盤橋御門・常磐橋の歴史
・1606年(慶長11年) - 江戸城外郭工事が始まる。
・1629年(寛永6年) - 出羽奥羽の大名により外郭諸門(日比谷・数寄屋・鍜冶橋・呉服橋・常盤橋・神田橋・雉子橋)が築かれる。
・1657年(明暦3年) - 大火、常盤橋門・常磐橋が修復される。
・1703年(元禄16年) - 地震、常盤橋門・常磐橋が修復される。
・1806年(文化3年) - 火災、常盤橋門・常磐橋が修復される。
・1849年(嘉永2年) - 大地震、常盤橋門・常磐橋が修復される。
・1855年(安政2年) - 大地震、常盤橋門・常磐橋が修復される。
・1873年(明治6年) - 常盤橋門渡櫓(わたりやぐら)・冠木門(かぶきもん)などが撤去され、桝形石垣は残る。
・1877年(明治10年) - 桝形石垣の多くは取り壊され、小石川橋門の石垣の一部を使って石橋「常磐橋」が造られる。
・1917年(大正6年) - 戸川残花(とがわざんか)翁が市役所に常盤橋見附の保存を懇願。
・1923年(大正12年) - 関東大震災後の大正15年に新たに常盤橋と新たな道路が建設され、道路によって桝形石垣の一部が切り取られる。
・1925年(大正14年) - 常盤橋の保存を内務省及び復興局に陳情、史跡保存物として仮指定を申請。
・1928年(昭和3年) - 国史跡「常盤橋門跡」に指定。
・1933年(昭和8年) - 在団法人渋沢青淵(しぶさわせいえん)翁記念会による復興整備で、常盤橋公園が開園する。
・1934年(昭和9年) - 常磐橋の補修工事が行われる。
・1965年(昭和40年) - 常盤橋公園が千代田区へ移管される。
・1969年(昭和44年) - 高速道路建設によって常盤橋門石垣が解体修理される。
・1986年(昭和61年) - 千代田区により常盤橋門石垣が解体修復される。
・2011年(平成23年) - 東日本大震災の影響で常磐橋の一部の石がずれ、2年後より修復工事を開始する[7]
・2021年(令和3年)5月10日 - 常磐橋の修復工事が終了し再開通された[6]

c1

⇧ 
1871年(明治4年)の常磐橋 [8]

c2

⇧ 1880年(明治13年)頃の常磐橋

0188g

⇧ 現在の常磐橋(2021年)

隣の橋
日本橋川
  (上流) - 新常盤橋 - 常磐橋 - 常盤橋 - 一石橋 - (下流)

脚注
1. a b 千代田区景観まちづくり重要物件指定一覧表”. 千代田区役所 (2014年7月). 2018年6月18日閲覧。
2. 
金山正好,金山るみ『中央区史跡散歩』学生社、1993年、12頁。
3. 
金山正好,金山るみ『中央区史跡散歩』学生社、1993年、12-13頁。
4. 
土木学会 令和2年度度選奨土木遺産 常盤橋”. www.jsce.or.jp. 2022年6月9日閲覧。
5. 
『都内最古の石橋、和紙活用し復旧…耐久力が向上』”.読売新聞オンラインニュース(2020年2月15日). 2020年3月6日閲覧。
6. 
a b 都内最古の石橋 常磐橋の修復完了~江戸城枡形門のひとつ国指定史跡「常盤橋門跡」内の常磐橋、5月10日に通行開始!”. 千代田区役所 (2021年4月27日).
7. 
『常磐橋の概要』、「常盤橋御門・常磐橋の歴史」、千代田区、環境まちづくり部道路公園課・地域振興部文化振興課、2020年3月6日閲覧。
8. 
『旧江戸城写真帖』明治4年(1871年)常磐橋」の様子、東京国立博物館所蔵

参考文献
・鈴木理生「常盤橋」(『国史大辞典 10』(吉川弘文館、1989年) ISBN 978-4-642-00510-4
・齋藤慎一「中近世移行期の都市江戸」(『中世東国の道と城館』東京大学出版会、2010年 ISBN 978-4-13-020147-6 第15章)

関連項目
常盤橋 (山形県) - 同名の橋で、同様の由来を持つ。
公儀橋    

外部リンク
江戸東京土木遺産 常磐橋 (PDF) (DOBOKU技士会東京 第66号(2016年7月発行)) - 東京土木施工管理技士会
関東大震災復興工事関係写真 28.常盤橋工事 - 土木学会付属土木図書館
常盤橋・常磐橋     
(wikiより)


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所在地東京都台東区浅草7-4-1
位置北緯35度43分2.5秒 東経139度48分10.7秒
山号待乳山(まつちやま)
宗派聖観音宗
本尊歓喜天(聖天)・十一面観音
創建年(伝)推古天皇3年(595年
別称待乳山聖天
しょうでんさま
札所等浅草名所七福神
文化財銅造宝篋印塔(台東区指定文化財)

本龍院(ほんりゅういん)は、東京都台東区浅草にある聖観音宗の寺院で、浅草寺の子院のひとつである。山号は待乳山。本尊は歓喜天(聖天)・十一面観音で、待乳山聖天(まつちやましょうでん)とも称される。この寺には浅草名所七福神のうち毘沙門天が祀られている。

歴史
この寺は隅田川べりの小高い丘(待乳山)にあるが、この丘は595年推古天皇3年)9月に出現してが守護したと伝えられ、浅草寺の山号(金龍山)の由来となったと伝えられる。601年(推古天皇9年)この地方が旱魃に見舞われたとき、歓喜天と十一面観音が安置されたと伝えられる。待乳山は、かつては周囲が見渡せる山であり、江戸時代には文人墨客がこの地を訪れている。例年1月に行われる「大根まつり」でも知られる。

名前の由来
待乳は、真土とも書き、この辺り一帯は泥海だったが、ここだけが真の土であったことを由来とする説がある[1]

文化財
・台東区指定文化財
  ・銅造宝篋印塔

所在地
・東京都台東区浅草7-4-1
  ※ 東京で一番低い山(標高10m)の上にあり、スロープカーが整備されている。[2]

交通アクセス
浅草駅より徒歩約10分(経路案内)。

脚注
1.
『南無観世音 : 金竜山縁起正伝』金竜山縁起編修会 編 (芳林堂, 1912)   
2. 
パワースポット研究所/東京のパワースポット

関連項目
池波正太郎 - 日本を代表する時代小説作家。1923年大正12年)に待乳山聖天傍にて出生。2007年平成19年)に当本龍院の入り口に池波正太郎生誕の地の碑ができる。
ダイコン - 聖天に対するお供え物として知られる。
宝山寺 - 生駒聖天
歓喜院 (熊谷市) - 妻沼聖天

外部リンク
本龍院サイト
台東区サイト
浮世絵に描かれた待乳山
大正時代の待乳山      
(wikiより)

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ゴジラの滑り台(ゴジラのすべりだい)は、くりはま花の国神奈川県横須賀市神明1)の冒険ランドに設置されているゴジラの姿をした滑り台。

身長は9メートル、全長は10メートル、重さ5トン、強化プラスチック製、胴体から腹の部分がしっぽの部分が滑り台となっている。

沿革
・1954年 - 東宝映画ゴジラシリーズの1作目『ゴジラ』が公開された。
  ・劇中に「ゴジラは観音崎の海中を移動中」という台詞があり、観音崎がゴジラ出現の地とされる[1]
・1958年 - 観音崎のたたら浜に恐竜の姿をした滑り台が設置され地元の人から「ゴジラの滑り台」と呼ばれた。東宝の許諾が得られなかったため、公式には「ティラノサウルス」の滑り台とされた[2]。 
  ・後にたたら浜がゴジラ上陸の地という通説になった。
・1973年頃 - 老朽化により取り壊された。
  ・その後、たたら浜にゴジラの足跡が設置された。
・1999年11月 - ゴジラシリーズの東宝と特技監督の川北紘一の協力を得て製作された。
・2009年 - 「ゴジラの滑り台」誕生10周年を祝う記念イベントが行われ、約2千人が集まった[3]

関連するもの
・ゴジラの足跡
  ・観音崎公園(横須賀市鴨居4) のたたら浜に設置されている1/10縮尺の足跡のオブジェ[4]
・ゴジラカレー
  ・「ゴジラの滑り台」にちなんでゴジラをイメージして久里浜商店街の飲食店有志が開発した「火を吹く辛さ」が自慢の辛口カレー[5]

出典
1. 初代ゴジラが上陸したといわれる観音崎とは はまれぽ 2016年7月26日
2. 
『読売新聞』神奈川版 2016年5月8日号「レジェンドかながわ ゴジラ出現」 竹内駿平
3. 
横須賀の「ゴジラ」10歳に-くりはま花の国・記念イベントに2千人 横須賀経済新聞 2009年11月3日
4. 
ゴジラの足跡を求めて[出典無効]
5. 
「火吹く辛さ」ゴジラカレー 横須賀の飲食店有志が開発 神奈川新聞 2016年4月23日

外部リンク
くりはま花の国 西武パートナーズ     
(wikiより)

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所在地東京都品川区北品川二丁目30-28[1]
位置北緯35度37分01秒 東経139度44分36秒
主祭神高龗神
豊受姫之神
天照皇大神
須佐男之尊
手力雄之尊[1]
社格郷社
創建和銅2年(709年[1]
別名天王社、貴布彌大明神[1]
札所等東海七福神
例祭6月初旬の週末(天王祭)
主な神事貴布禰祭
大酉祭

荏原神社(えばらじんじゃ)は、東京都品川区北品川にある神社である。旧社格郷社。別名を天王社、貴布彌大明神[1]という。「南の天王」とも呼ばれる[2]。また東海七福神の中の1社として恵比須を祀る。

祭神
以下の5柱の神を祀る。
・右座 豊受姫之神
・右座 天照皇大神
・右座 須佐男之尊
・中央 高龗神
・左座 
手力雄之尊     

歴史
和銅2年(709年)9月9日、大和国丹生川上神社より高龗神(水神)の勧請を受けて南品川に創建したのに始まる。

長元2年(1029年)に伊勢神宮より豊受大神・天照大神を勧請。

康平5年(1062年)、源頼義義家は奥州安倍氏征伐に際し当社と大國魂神社に参籠し、品川の海中で身を浄める(※このことより、現在でも大國魂神社の神職は例祭のくらやみ祭に際し当社に参詣してを行う)。

宝治元年(1274年)に京都祇園社(八坂神社)より牛頭天王を勧請。

以降、源氏上杉氏徳川氏など多くの武家の信仰を受け、南品川の鎮守として崇敬さる。後に現在地に遷座。旧鎮座地には今も水神の貴布彌神社(きふねじんじゃ)があるように、もとは「品川貴船社」と称す。

明治元年(1868年勅祭社に准ぜられた(准勅祭社という)[1][3]。 なお、荏原神社は品川貴船社=現荏原神社が准勅祭社に列せられたとしている[3]が、昭和50年(1975年)に12の准勅祭社を基に定めた東京十社においては、品川神社第十三代神主小泉帯刀(准勅祭社指定当時の神主)の文書を根拠に[要出典]品川神社が列した。現在、品川神社、荏原神社とも元准勅祭社を名乗っている。[1][4]

明治3年(1870年)、准勅祭社制度が廃され、改めて郷社に列した。

明治8年(1875年)、品川貴船社の名を改めて、荏原郡の名をつけて「荏原神社」に改称。

祭事
9月に貴布禰祭、6月初旬に天王祭、11月に大酉祭(酉の市)が行われる。

天王祭
6月の天王祭は当社の例祭

天王洲沖で神面をつけた神輿が海に入る「御神面海中渡御」が行われる。これは、宝暦元年6月、品川沖の海面から牛頭天王の面が発見されたことに因むものである。「天王洲」の地名はこのことによるものである。天王洲は現在は埋め立てにより陸地になっており、当社の氏子地域になっている。

牛頭天王(須佐男之尊)が水神であることから、参加者をかっぱになぞらえ、「かっぱ祭」と俗称される。

交通アクセス
新馬場駅より徒歩4分(経路案内)。

脚注
1. a b c d e f g 荏原神社【天王社】”. 東京都神社庁. 2021年1月6日閲覧。
2. 
「年中行事事典」p101 1958年(昭和33年)5月23日初版発行 西角井正慶編 東京堂出版
3. 
a b 荏原神社-准勅祭社”. 2021年1月6日閲覧。
4. 
品川神社【北の天王社】”. 東京都神社庁. 2021年1月6日閲覧。

参考文献
・“荏原神社【天王社】”. 東京都神社庁. 2021年1月6日閲覧。

外部リンク
荏原神社(公式サイト)
(wikiより)


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開店1969年
種類洋食
郵便番号/ZIP231-0854
日本の旗 日本
住所

神奈川県横浜市中区根岸旭台16-1


ドルフィンは、神奈川県横浜市中区にあるレストランである。松任谷由実の楽曲『海を見ていた午後』でこの店の情景が歌われたことから、「ユーミンの聖地」として知られるようになった。

歴史
1969年絵物語作家の山川惣治により開店。実質的な経営は次男が行っていた。当初は白壁の平屋建てであり、1982年に2階建てに建て替えられた。その際の金銭上の理由により、山川は経営から退いている[1]。現在の経営元は金田総合グループ。

後述の『海を見ていた午後』の歌詞では「山手のドルフィン」と歌われているが、最寄駅は根岸駅で、根岸森林公園に向かう不動坂[注釈 1]を登りきったところにある。西洋館の立ち並ぶ山手の街並みからは離れている。路線バスでは根岸駅のほか横浜駅伊勢佐木町から根岸台行き(103系統)、桜木町駅元町から市電保存館行き(21系統)の横浜市営バスで、いずれも「旭台」下車。

ユーミンの聖地として
開店から数年後。ある女子高生が友人に連れられこの店を訪れた。やがてこの少女は八王子から電車に乗って一人で訪れるようになり、ランチタイムから夕暮れまでこの店で過ごした。店内に飾られた山川による冒険活劇のペン画も、美術大学を目指していた彼女の感性を刺激したようである[2]。この少女こそ、のちにシンガーソングライターとして一時代を築く荒井由実[注釈 2]である。

荒井は1974年リリースのアルバム『MISSLIM』収録曲の『海を見ていた午後』でこの店の情景を歌ったことから「ユーミンの聖地」として多くのファンが訪れるようになった。歌詞に「ソーダ水の中を貨物船が通る」とあることから、店ではソーダ水「ドルフィンソーダ」をメニューに加えた。曲の発表以前はメニューになかった品で、曲をイメージしたメロンソーダにイルカをかたどったオレンジが添えられている。1980年代末期のバブル景気の頃には、土日の夜にはこの店を目指して、しばしば「ドルフィン渋滞」も起きた[3]

現在[注釈 3]では、「ドルフィンソーダ」または、同様に曲をイメージしたカクテル「海を見ていた午後」の注文があると、店内BGMに「海を見ていた午後」の曲がかかる。高台にあり、周囲にマンションが増えたものの眼下にはコンビナート[注釈 4]越しに根岸湾が広がる。歌詞には「遠く三浦岬が見える」とあるが、晴れた午後には位置関係的に房総半島の眺望が良好である。眼下の海には、時折カモメが飛んでいたり、貨物船が通る[3]

脚注
注釈
1. 不動坂は交通量が多く歩道のない道であるため、歩行者は、階段のある東坂か、路線バスを利用することとなる
2. 
愛称「ユーミン」。1976年に結婚し、現在は松任谷由実 
3. 
はまれぽの取材時、2016年 
4. 
日本石油、現在のENEOS根岸製油所。完成は、ドルフィン開業前の1964年

出典
1. 
(読売新聞横浜支局 1996, pp. 15–17)
2. 
(読売日曜版 2012, pp. 1–2)
3. 
a b ユーミンの歌『海を見ていた午後』に出てくる「山手のドルフィン」の今はどうなっている?”. はまれぽ.com (2016年2月5日). 2019年9月5日閲覧。

参考文献
“名言巡礼”. 読売新聞日曜版: pp. 1-2. (2012年12月9日)
・読売新聞横浜支局『うた 人 ヨコハマ』230クラブ新聞社、1996年2月1日。ISBN 4-931353-21-5

外部リンク
ドルフィン (@dolphinyokohama) - Twitter 
(wikiより)


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サムエル・コッキングSamuel Cocking1845年弘化2年〉3月[1] - 1914年大正3年〉2月26日)は、英国出身の横浜外国人居留地に在住した貿易商。

概要
各種雑貨類や骨董品、植物などを取り扱う商社「コッキング商会」を経営した。また、江ノ島(現在の神奈川県藤沢市江の島)に別荘を持ち、当時日本最大級といわれた近代的温室をもつ庭園(後の江の島植物園、現在の江の島サムエル・コッキング苑)を造営した。

経歴
・1845年 アイルランドに生まれる。
1848年 両親とともにオーストラリアアデレードに移住。後にメルボルンに転居。
1861年 英国本国に帰国。
1868年 貿易商を志し、日本に向かう。
1869年明治2年)来日。
1871年(明治4年)横浜居留地55番地にてコッキング商会を設立
1872年(明治5年)宮田リキと結婚
1877年(明治10年)この年に流行したコレラの消毒薬として石炭酸を大量に輸入し、利益を得る
1880年(明治13年)江島神社の所有地であった江の島頂上部の土地500坪余(現在の亀ヶ岡公園)を妻名義で購入し、別荘を建築
1882年(明治15年)別荘の向かいに所在していた江島神社の所有地(神仏分離で廃寺になった寺の菜園跡)であった江の島頂上部の土地3200余(現在のサムエル・コッキング苑の一部)を買い取り、庭園の造営を開始する
1884年(明治17年)横浜・平沼に自邸と石鹸工場を開設
1885年(明治18年)庭園完成 
  ・ただし、温室の完成は1888年(明治21年)以降と推察される[注釈 1]
1887年(明治20年)居留地内に発電所開設(後に横浜共同電燈会社となる)
1889年(明治22年)英国の植物学雑誌「Garden」に寄稿。日本の植物を紹介。またこのころテッポウユリハッカなどをヨーロッパに輸出。
1906年(明治39年)頃、取引先の英国の銀行の倒産に伴って、事業縮小を余儀なくされる
1914年大正3年)横浜市平沼の自宅にて逝去

コッキング庭園の概要
コッキングの庭園は、当時の西欧の回遊式の庭園の様式を持ちながらも、東洋趣味を反映して、特に南洋の植物なども持ち込んで造営されたものだといわれている。現在もクックアローカリアタイミンチクなどの珍しい植物が現存しており、これらはコッキングが持ち込んだといわれている。

コッキングの庭園の見所は、当時、東洋最大といわれた温室であり、その面積は900平方メートルに及ぶ規模を有していた。基礎部分はレンガ造で、地下には水槽ボイラー室、貯炭庫などが設置されていた。上部構造は木造であったと推定されているが、1923年大正12年)9月1日関東大震災で壊滅し失なわれた。

下部構造は1949年昭和24年)の藤沢市による江の島植物園の造営の際に完全に破壊され、地下に埋没したと思われていたが、2002年平成14年)の江の島植物園再整備工事の際に発見され、大部分が残っていることが判明した。調査の結果、当時の国内の土木遺構としては貴重な資料であることが判明したことから、保存され、現在「江の島コッキング植物園温室遺構」として一般にも公開されている。

余談
来日の際、折からの低気圧の影響で嵐に襲われ、避難した相模湾に浮かぶ江の島の斜面緑地の美しさが印象深かったことが、後に江の島に別荘を構えるきっかけになったという説がある。

サムエルの名は「サミュエル」の方が発音としては近いと思われるが、当時の書籍や記録の大半に「サムエル」と表記されていることから、藤沢市等の公的機関でも「サムエル」の表記で統一している。

脚注
注釈1. 出土した温室遺構の基礎部分に使用された煉瓦に1888年(明治21年)創業[2][3][4][5]横浜煉化製造会社の刻印が多数見られる。

出典
1. 
内海孝「外国人と藤沢」『藤沢市史研究 37号』、藤沢市市編纂委員会、2004年3月、18頁。
2. 
川崎市川崎区:年表”. 川崎市. 2018年7月10日閲覧。
3. 
石田勝俊「100年前の煉瓦がでてきた 御幸煉瓦製造所」『かわさき産業ミュージアム講座記念論文集(平成23年3月発行)』” (PDF). 川崎市. 2018年7月10日閲覧。
4. 
横浜煉瓦会社の発起人をした「田中半兵衛」という人物について調べています。『日本紳士録 東京横濱之部』...”. 国立国会図書館. 2018年7月10日閲覧。
5. 
コッキング植物園温室遺構、温室遺構で使われたレンガ”. みゆネットふじさわ. 2018年6月17日閲覧。

外部リンク
江の島を訪れた人びと、サムエル・コッキング(みゆネットふじさわ)
江の島サムエル・コッキング苑について(藤沢市)  
(wikiより)

〇 江の島サムエル・コッキング苑
江の島サムエル・コッキング苑(えのしまサムエル・コッキングえん)は、神奈川県藤沢市江の島二丁目にある、藤沢市立の有料観光施設。苑内に江ノ島電鉄の経営する江の島展望灯台などを含む。また日本で初めてフレンチトースト専門店『LON CAFE』がある。

沿革
1880年(明治13年) - 横浜在住のアイルランド貿易商のサムエル・コッキングが金亀山与願寺(現在は神仏分離され江島神社)の菜園敷地3800坪を買収する。

1882年(明治15年) - 植物園として開園。日本で3番目に古い植物園である。敷地面積は約18,000m2。ただし、温室の完成は1888年(明治21年)以降と推察される[注釈 1]
  この後、時代の変遷や1923年(大正12年)の関東地震により、荒廃する。

1947年(昭和22年)4月1日 - 江の島を含む鎌倉郡片瀬町、藤沢市に編入。藤沢市は江の島の観光地開発に乗り出す。

1948年(昭和23年) - 上記跡地を、藤沢市が買収。

1949年(昭和24年)12月 - 藤沢市海洋総合博物館建設計画の一環として「藤沢市立江ノ島熱帯植物園」を開設。

1950年(昭和25年) - 江ノ島熱帯植物園が江ノ島鎌倉観光(後の江ノ島電鉄)の委託経営となり、「江の島植物園」と改名。[疑問点]

1951年(昭和26年)3月25日 - 江ノ島鎌倉観光が東京都世田谷区二子玉川の読売遊園(後の二子玉川園)にあった落下傘塔を江の島植物園内に移築し、「読売平和塔」という展望台を兼ねた民間灯台(江の島灯台)を建設した。
  読売遊園の落下傘塔はロープのついた落下傘で降下する遊戯施設で、戦時中は陸軍が実際の落下傘降下の訓練に利用した。江の島の読売平和塔は材料を利用したもので、形態はかなり違う。
  同年、伊豆大島から連れてきた54匹のタイワンリスを江の島植物園で飼育。後に台風で飼育小屋が壊れて逃げ出し、江の島弁天橋を渡って鎌倉市内に入り込んで繁殖するようになったといわれる。

1959年(昭和34年) - インドネシアスラウェシ島トラジャ族の家屋を模した「南方民俗館」を開設。
  この頃から読売平和塔は江の島灯台と呼ばれるようになる。

1964年(昭和39年) - 江の島植物園、再び藤沢市の運営となる。

1971年(昭和46年) - 江の島植物園内のクックアロウカリア、シマナンヨウスギ、タイミンチク群、ツカミヒイラギの4種、藤沢市指定天然記念物に指定。

1994年(平成6年) - 江の島植物園(ツバキ)、かながわ花の名所100選に選定。

1999年(平成11年)11月7日 - 藤沢青年会議所、「いいじゃん江ノ島JYAN JYAN 祭り」を開催。
  このイベントは江の島灯台の解体撤去の噂が流れたため、保存アピールのため企画された。

2002年(平成14年) - 江の島植物園改修工事のため閉園。工事現場から縄文土器類1万点が出土。さらにサムエル・コッキングの建設した温室設備を発見。
  江ノ島電鉄は、同社開業100周年記念事業として新江の島展望灯台建設に着手。
  同年12月31日 - 江ノ島電鉄開業100周年記念事業のフィナーレとして点灯式において江の島展望灯台、初点灯。

2003年(平成15年)1月 - 旧江の島灯台に隣接して新たに建設された江ノ島電鉄所有の江の島展望灯台、オープン。その後、1951年に建てられた江の島灯台は解体された。
  同年4月29日 - 整備後、藤沢市の公園施設「江の島サムエル・コッキング苑」としてオープン。
  同年10月28日 - 江の島展望灯台、第48回神奈川建築コンクール一般建築部門奨励賞受賞。

2022年(令和4年)
  ・11月16日 - リニューアルオープン(テラス等を設置)[6]。江の島サムエル・コッキング苑については開苑~17時まで無料化(17時以降出場の場合は原則有料)[7]

主な施設
姉妹都市・友好都市記念広場 - 苑内の各所に藤沢市と友好提携を結ぶ各都市をイメージした広場が設けられている。
 ・マイアミビーチ広場 - 東洋のマイアミビーチ片瀬海岸からヨットハーバーを見渡すウッドデッキの広場。日本初のフレンチトースト専門店「LON CAFE」が営業を行っている[8]。マイアミビーチ市の売り物であるアール・デコをイメージしたモニュメント内には同市から贈られた「友好の鍵」が納められている。
 ・マイアミビーチ市 - アメリカ合衆国フロリダ州マイアミ・デイド郡にある都市。ビーチリゾートとして有名な観光都市1959年3月5日姉妹都市提携。日米を代表するビーチリゾート都市同士。
 ・松本広場 - 休憩室を兼ねた海鼠壁の蔵風の蕎麦打ち体験施設「松本館」と松本市から贈られた双体道祖神を象った記念碑がある。
  松本市 - 長野県中部(中信地方)に位置する城下町施行時特例市国際会議観光都市に指定されている。1961年7月29日姉妹都市提携。海の観光都市と山の観光都市という関係。
 ・保寧(ポリョン)広場 - 韓国にちなんだ樹木の広場。夏から秋には韓国の国花ムクゲが、2月3月には保寧市の市花ツバキが咲く。2002年11月15日に保寧市から提携の記念として寄贈されたの2本の石塔が立つ。石塔に掘られた「萬世保寧」の文字は、保寧市の市民憲章「我々は、我々の故郷である萬世保寧を一番とする観光休養地に造成していく。」に由来する。
  保寧市 - 大韓民国忠清南道の都市。2002年11月15日姉妹都市提携。韓国有数の海水浴場がある。
 ・昆明広場(春澤園) - 昆明市から職人が来日して建てた本格的な中国伝統建築様式の四阿(あずまや)騁碧亭(ていへきてい)と昆明碑記、孔雀のブロンズ像「吉祥永駐」がある。
 ・昆明市 - 中華人民共和国雲南省の省都。1981年11月5日友好都市提携。昆明出身の青年作曲家聶耳1935年鵠沼海岸で遊泳中水死し、中華人民共和国成立時に彼の作品義勇軍進行曲が国歌に選ばれたことを記念して、藤沢市民有志が鵠沼海岸に記念碑を設立したことがきっかけ。
 ・ウィンザー広場 - 春秋のシーズンにはウィンザー市から贈られたバラ園が見事。
  ウィンザー市 - カナダ、オンタリオ州にある自動車工業都市。ローズランドと呼ばれるバラの産地としても知られる。1987年12月2日姉妹都市提携。双方の気候、文化、産業等が多くの共通性をもっていることなどから。
・コッキング遺構 -
 ・温室遺構 - 1949年の植物園工事で地下に埋め込まれたものが2002年のリニューアル工事の際再発見され、整備されて公開されるようになった。遺構は3棟の南北に長い温室の基礎と東南に長い温室基礎、西洋風のシンメトリーな形の池、温室の北側に設けられた付属施設であるボイラー室・燃料を入れた貯炭庫・植物や暖房のために水を蓄えた貯水槽・温室と付属施設とを結ぶ地下通路・冷たい風を遮るための防風壁や集水用陶管など。
  普段は閉鎖されているが、年に数回特別なイベントがあるときだけ公開され、内部を見学できる。
 ・熱帯植物 - コッキングのコレクションし、活着繁茂した熱帯植物に加え、市立熱帯植物園時代に植栽されたリュウゼツランなどが見られる。
  苑内には江の島植物園時代から280品種800本といわれるツバキのコレクションがあり、1994年に「かながわ花の名所100選」に選ばれている。
江の島展望灯台 - 旧平和塔の脇に2003年新たに建てられた江ノ島電鉄の経営する観光用民間灯台。完成後、旧平和塔は解体された。灯台は実効光度390,000カンデラ、単閃白色が毎10秒に1閃光で、23.0海里(46 km・民間灯台としては国内最大級)まで届く。建物の高さは59.8m(避雷針迄)、海面から120m。展望台にはエレベーター(入苑券と別売の昇塔券が必要。セット券もある)で昇れる。想定最大収容人数は188名である。遮られることのない360度の展望が楽しめる。気象条件が良ければ筑波山が見えるはずだが、その方向に横浜・東京が重なるので、極めて難しい。
  ライトアップ - 平日の営業は17時までだが、土休日は20時まで開かれ、折に触れて発光ダイオード(LED)によるライトアップが行われる。
 ・湘南の宝石- 1999年11月に開催された旧江の島展望灯台(現江の島シーキャンドル)ライトアップを前身に、2019年で20回目を迎えた光のフェスティバル[9]
 ・江の島展望灯台サンセットテラス - 「カフェ・ドゥ・ガボ」が営業する。時折ライブなどのイベント会場となる。
 ・グッズショップ「デルフィス」 - 小物類や江ノ電グッズを販売。
 ・藤沢市郷土資料館 - 展望灯台の根元にあり、旧灯台の資料や江の島の古写真などが展示されている。

主なイベント
・1月1日 - 江の島展望灯台から見る初日の出(予約制)
・2月中旬 - バレンタインアイランド江の島
・3月 - 湘南江の島春まつり
・4月6日 - ダイヤモンド富士(江の島展望灯台閉業時刻延長)
・5月 - 江の島フラワーフェスタ
・5月 - Freedom Sunset(サンセットテラスでのライブ)
・5月 - MADE in 江の島(さまざまなジャンルのアーティストによるアート展)
・5月 - ALOHA Sunset(サンセットテラスでのライブ)
・8月 - 江の島花火LIVE(サンセットテラスでのライブ)
・8月 - 江の島ゆかた祭り
・8月 - ENOSHIMA ISLAND JAM(サンセットテラスでのライブ)
・9月6日 - ダイヤモンド富士(江の島展望灯台閉業時刻延長)
・9月 - 子供達の描く絵を光と映像のアーティスト集団OVERHEADSの巨大コラージュ
・10月 - 湘南江の島秋まつり
・11月 - 湘南キャンドル
・11月下旬 - 湘南の宝石(関東三大イルミネーションのひとつ)
・12月 - 江の島ファンタジー

市指定天然記念物
すべて藤沢市が1971年(昭和46年)7月5日に指定。
・ツカミヒイラギ
・クックアロウカリア
シマナンヨウスギ
・タイミンチク群

脚注
注釈
1. 出土した温室遺構の基礎部分に使用された煉瓦に1888年(明治21年)創業[2][3][4][5] の横浜煉化製造会社の刻印が多数見られる。

出典
1. 
藤沢市指定管理者制度について 
2. 
川崎市川崎区:年表”. 川崎市 (2007年3月13日). 2020年4月9日閲覧。
3. 
石田勝俊「100年前の煉瓦がでてきた 御幸煉瓦製造所」『かわさき産業ミュージアム講座記念論文集(平成23年3月発行)』” (PDF). 川崎市. 2020年4月9日閲覧。
4. 
横浜煉瓦会社の発起人をした「田中半兵衛」という人物について調べています。『日本紳士録 東京横濱之部』...”. 国立国会図書館. 2020年4月9日閲覧。
5. 
コッキング植物園温室遺構、温室遺構で使われたレンガ”. みゆネットふじさわ. 2020年4月9日閲覧。
6. 
江の島サムエル・コッキング苑新装 アート鑑賞やテラスも”. 神奈川新聞 (2022年11月16日). 2022年11月17日閲覧。
7. 
2022年11月16日からの江の島施設の料金・各種チケットについて”. 江の島サムエル・コッキング苑、江の島シーキャンドル(公式サイト). 2022年11月17日閲覧。
8. 
LONECAFE ENOSHIMA”. SHONAN LICENSE. 2020年4月9日閲覧。
9. 
湘南の宝石”. 湘南の宝石実行委員会. 2020年4月9日閲覧。

関連項目
江の島エスカー  

外部リンク
江の島サムエル・コッキング苑について at the Wayback Machine (archived 16/06/2018) - 藤沢市
コッキング植物園跡(みゆネットふじさわ)archive.is、2012年12月20日) - http://www.mus.city.fujisawa.kanagawa.jp/chrono_detail/N0043.htm
江の島を訪れた人びと、サムエル・コッキング(みゆネットふじさわ)
藤沢市江の島サムエル・コッキング苑条例(平成15年藤沢市条例第36号)  
(wikiより)


0190 サミュエルコッキング

⇧ サムエル・コッキング

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⇧ 賢明院英誉秀徳居士が、サムエル・コッキング。



六義園(りくぎえん)は、東京都文京区本駒込六丁目にある都立庭園で、「回遊式築山泉水庭園」の日本庭園(大名庭園)である[4][1]。国の特別名勝に指定されている[4][1]

概要
原野だった駒込
六義園が造られた駒込は当時は原野であった[5]慶長1596年)から元和1624年)にかけて、江戸はどこを指していったのかといえば、「御曲輪内(おくるわない)」といって現在で言う外堀内を指しており[5]、現在の文京区は「御曲輪外(おくるわがい)」であった[5]。『文京区史』には、慶長年間に文京区に造られた主な武家屋敷は、千駄木二丁目の小笠原秀政、西片一丁目・二丁目の阿部正次、本駒込閲丁目・二丁目の土井利勝の三カ所が記されている[5]。六義園の土地は、当時は武蔵野に繋がる広々とした「原野(原っぱ)」地帯で[5]、樹林と豊富な水量に恵まれた、作庭には適した所だった[6]。 『本郷区史』[7]には、寛永5年(1628年)、将軍家鷹狩りの場として、江戸近郊に52カ村が指定され、雑司ヶ谷、本郷、小石川村などが鷹狩場となっていたと記されている[5]

将軍綱吉の時代
江戸が政治の中心となり、人が増加し住まいが必要となり、街も徐々に外周へと発展していった[5]。また、明暦3年(1657年)に発生した本郷を火元とする大火「振袖火事」である、死者10万7千人と言われている[5]天和2年(1682年)に発生した「お七火事」は江戸の街を焼き尽くした[5]。だが、その火災の毎に街並みが整理され、武家屋敷も外周へと広がっていき[5]神社仏閣などもそれに習って移転した[5]。江戸の街は発展を続け、街は商人が台頭することになる[5]。江戸の街は、五代将軍徳川綱吉の時代となった[5]

むくさのその
五代将軍綱吉の家臣柳沢出羽守保明[6](後の柳沢吉保)は、元禄8年(1695年)4月22日、松平加賀守の上屋敷[7]であった染井村の約45,862坪四万五千八百六十二坪の土地を幕府より拝領した[8]元禄文化のさなかにあって吉保は、「別荘庭園」として活用することを考えた[8]。これまでの平安時代の「寝殿造の庭」、室町時代の「書院造の庭」、また禅宗の「枯山水の庭」とは違った江戸時代の「廻遊式築山泉水庭園」であった[8]。それは、保明の文芸趣向に基づいた、本郷台地の広大な平坦な土地に、山を築き、池を掘り、流れを引き、紀州和歌の浦の景勝を写し[8]、また、『万葉集』や『古今和歌集』より名勝を取り出し、八十八境を写しだすことだった[8]。その庭園の名を「六義園」と名付け、「むくさのその」と呼び、館を「六義館」、「むくさのたち」と称した[8]。六義とは詩道の基本とする六つの体で、「賦(ふ) 感想を述べたもの」「比(ひ) 例をとり感想を述べたもの」「興(こう) 外物にふれ感想を述べたもの」「風(ふう) 民間で行われる歌謡」「雅(が) 朝廷でうたわれる雅正の詞藻」「頌(しょう) 宗廟頌徳の詞藻」をいう[8]
(wikiより)

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本地には、浅草発展の基を拓いた土師中知 ( はじの - なかとも ) の旧居宅地 ( 通称・専堂坊屋敷跡 ) が存在した。

浅草の総鎮守浅草神社は、江戸時代には三社権現と称し、主祭神は一之宮の土師真中知命 ( はじのまっちゅのみこと )( 土師中知 )、二之宮の檜前浜成命 ( ひのくまのはまなりのみこと )、三之宮の檜前竹成命 ( ひのくまのたけなりのみこと ) で、この三神は郷土浅草の開拓者であり、推古天皇三十六年 ( 六二八年 ) 三月十八日浅草寺の本尊たる観世音菩薩の尊像を感得し、護持供養に生涯を捧げた篤信者第一号にあたる人々である。

この三氏の子孫は主祭神の末孫として公認され、世襲の特権を有し、それぞれ中知の子孫は専堂坊、浜成の子孫は齊頭坊、竹成の子孫は常音坊の三譜代と称し、千三百六十有余年連綿と相続されてきた。( 平成元年専堂坊職を返上することで譜代職は消滅した )

本碑は土師中知の篤信を末代まで顕彰するため、土師中知の旧居宅地 ( 専堂坊屋敷 ) である本地に建立するものである。
(案内板より)

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 玄峰嵐雪居士。

服部 嵐雪
(はっとり らんせつ、承応3年(1654年) - 宝永4年10月13日1707年11月6日))は、江戸時代前期の俳諧師。幼名は久馬之助または久米之助、通称は孫之丞、彦兵衛など。別号は嵐亭治助、雪中庵、不白軒、寒蓼斎、寒蓼庵、玄峯堂、黄落庵など。松尾芭蕉の高弟。雪門の祖。

経歴
服部家は淡路出身の武家で、父服部喜太夫高治も常陸麻生藩主・新庄直時などに仕えた下級武士であった[1]。嵐雪の生れについては、江戸湯島とする説と、淡路国三原郡小榎並村(現:兵庫県南あわじ市榎列小榎列)とする説がある[2][3]。これについて潁原退蔵は、実家が淡路、嵐雪自身は江戸の生れであったため両説が伝えられたのではないかと考察している[4]。長男である嵐雪も一時、常陸笠間藩主の井上正利に仕えたことがある[2][5][6]。若い頃は相当な不良青年で悪所(遊里や芝居町)通いは日常茶飯事であった。

延宝2年(1673年)または3年(1674年)ころ、松尾芭蕉に入門したと見られる[5]。蕉門で最古参の一人となる。延宝6年(1678年)、不卜編『俳諧江戸広小路』に付句が2句入集したのが作品の初見である[7]。延宝8年(1680年)には同門宝井其角の『田舎之句合』に序を草し、『桃青門弟独吟廿歌仙』に入集[4][6][8]。以後『虚栗(みなしぐり)』、『続虚栗』などに作品を採用された[9]

貞享5年(1688年)には『若水』を刊行し、同年立机して宗匠となり、元禄3年(1690年)には『其帒(そのふくろ)』を刊行して俳名を高めた[10]。元禄7年(1694年)、『別座鋪』に対抗した『露払』の編纂にからんで深川蕉門との対立を生じ、代えて『或時集(あるときしゆう)』を刊行[11]。また翌年には芭蕉の一周忌追善集『若菜集』を刊行した。

作風は柔和な温雅さを特徴とする[12][13]。芭蕉は嵐雪の才能を高く評価し、元禄5年(1692年3月3日桃の節句に「草庵に桃桜あり。門人に其角嵐雪あり」と称えたが、芭蕉の奥州行脚にも嵐雪は送別吟を贈っていないなど、師弟関係に軋みが発生していた。元禄7年(1694年)10月22日、江戸で芭蕉の訃報を聞く。その日のうちに一門を参集して芭蕉追悼句会を開き、桃隣と一緒に芭蕉が葬られた膳所の義仲寺に向かった。義仲寺で嵐雪が詠んだ句は、「この下にかくねむるらん雪仏」であった。其角と実力は拮抗し、芭蕉をして「両の手に桃と桜や草の餅」と詠んだ程であったが、芭蕉没後は江戸俳壇を其角と二分する趣があった[14]

宝永4年(1707年)10月13日没。享年54。法名は雪中庵不白玄峯居士。駒込の常験寺に葬られ、後、雑司ヶ谷本教寺に移された。追善集に百里斤『風の上』など[15]。その門流は、雪門として特に中興期以後一派を形成した。

辞世の句
・一葉散る咄ひとはちる風の上

作品を収める俳諧集
・『枕屏風』
・『遠のく』
・『萩の露』
・『曠野
・『虚栗
・『続虚栗』
・『猿蓑
・『炭俵
・『続猿蓑
・『杜撰集』


うまず女の雛かしづくぞ哀なる

蜑の子にたうとがらせん道明寺

よろこぶを見よやはつねの玉箒

羽子板やたゞに目出度裏表

ほつほつと食摘あらす夫婦かな

霜朝の嵐やつゝむ生姜味噌

ふとん着て寝たる姿や東山

星合や瞽女も願の糸とらん

門流

雪中庵歴代[16]
生没年備考
服部嵐雪1654年 - 1707年
桜井吏登
大島蓼太1718年-1787年
大島完来
大島対山
山口椎陰
村井鳳洲
服部梅年
斎藤雀志
杉浦宇貫
十一清水東枝
十二増田龍雨
出典
1. 『芭蕉講座』172-173頁
2. 
a b 『潁原退蔵著作集』51-52頁
3. 
『蕉門十哲』30-32頁
4. 
a b 『潁原退蔵著作集』52頁
5. 
a b 『芭蕉講座』173頁
6. 
a b『蕉門十哲』32頁
7. 
『芭蕉講座』173-174頁
8. 
『芭蕉講座』174-175頁
9. 
『潁原退蔵著作集』53-54頁
10. 
『芭蕉講座』177-180頁
11. 
『芭蕉講座』182-183頁
12. 
『潁原退蔵著作集』61頁
13. 
『芭蕉講座』172頁
14. 
『芭蕉講座』182,184頁
15. 
『芭蕉講座』187頁
16. 
『読史備要』1099-1100頁

参考文献
・淡路の誇 上巻 片山喜一郎 實業之淡路社 1929
志田義秀岩波講座日本文学 蕉門十哲岩波書店,1932
東京帝国大学文学部史料編纂所編『読史備要』内外書籍,1938
・潁原退蔵『潁原退蔵著作集 第十二巻』中央公論社,1979
・芭蕉講座編集部編『芭蕉講座 第一巻 生涯と門弟』有精堂出版,1982

関連項目
蕉門十哲    
青木神叔    
(wikiより)

1

服部嵐雪

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近代小学校発祥地 東京府少額第六学校

深川小学校誕生之地

・明治二年二月。 明治政府ハ「府県施設順序」ヲ公布、「小学校ヲ設ケル事」ヲ命ズ。

・明治三年六月二十八日。 明治政府ハ深川森下長慶寺ニ「東京府小学校第六校」ヲ設置。

・明治四年十二月。 文部省ハ小学校ヲ「文部省直轄小学校」トスル事ヲ布達。

・明治五年八月。 政府ハ「邑ニ不学ノ戸ナク家二不学ノ人ナキヨウ二」ト「学制」公布。

・明治六年五月。 「官立小学第六校」ヲ「第六中学区一番小学深川学校」ト命名。
(石柱文より)

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用途電波塔展望台
設計者日建設計
構造設計者日建設計
施工大林組
建築主東武タワースカイツリー
構造形式

S構造およびRC構造

およびSRC構造[1]
敷地面積36,844.39 m²
※施設全体
建築面積31,832.60 m²
※施設全体
延床面積229,410.30 m²
※施設全体
階数地下1階・地上29階・塔屋4階(床のない層は除く)
高さ634m
着工2008年(平成20年)7月14日
竣工2012年(平成24年)2月29日
所在地131−0045
東京都墨田区押上一丁目1番1号
座標北緯35度42分36.5秒 東経139度48分39秒

東京スカイツリー(とうきょうスカイツリー、TOKYO SKYTREE)は、東京都墨田区押上にある電波塔送信所)。

東京のランドマークの一つ。高さは634 mで、タワーとしては世界第1位[注釈 1]建築物としてはブルジュ・ハリファPNB118(ムルデカ118)に次ぐ世界第3位となる。

商業施設東京ソラマチ」やオフィスビル東京スカイツリーイーストタワー」が併設されており、東京スカイツリータウンを構成している。

東武鉄道及び東武グループのシンボル的存在である。押上駅とうきょうスカイツリー駅と直結している。

2012年2月29日に完成し、同年5月22日に電波塔・観光施設として開業した。東京スカイツリーについての名称・ロゴマーク・シルエットデザイン・完成予想コンピュータグラフィックスといった知的財産東武グループの一社である東武タワースカイツリー株式会社等の著作権および商標権により保護されている。このため公式案内では「東京スカイツリー®」と®マークが記載されている[2]

概要
既存の電波塔の東京タワーが位置する都心部では、超高層建築物が林立して影となる部分に電波が届きにくくなっていたほか、ワンセグマルチメディア放送といった携帯機器向けの放送を快適に視聴できるようにするなどの目的もあって[3][4]2000年頃から首都圏各地で新タワーについての誘致活動が行われていた。2003年12月には日本放送協会(NHK)と在京民間テレビ局5社(TBSテレビ日本テレビフジテレビテレビ朝日テレビ東京)が600メートル級の新しい電波塔を求めて「在京6社新タワー推進プロジェクト」を発足。新タワー構想を推進していくことで建設に向けた計画に進展が付いた[3][4](建設地決定についての経緯は後述)。

東京都墨田区に所在する、東武伊勢崎線(東武スカイツリーライン)のとうきょうスカイツリー駅京成押上線都営地下鉄浅草線・東武伊勢崎線(東武スカイツリーライン)・東京メトロ半蔵門線押上駅の間に挟まれる、東武鉄道所有の貨物駅跡地(のち業平橋駅旧3 - 5番線ホーム、2003年廃止)、および2007年まで生コンクリートを製造していた東京エスオーシー(住友大阪セメント)業平橋工場の跡地に建設された。当地区は航空法上、東京国際空港(羽田空港)の制限表面の外側水平表面が被さる地域であるため空港標点の海抜295メートルまでの建造物しか建てられなかったが、2005年4月28日に高さ規制区域が見直されて建設可能となった[5]

事業主体は東武鉄道の完全子会社である東武タワースカイツリー株式会社であり、同事業費は約500億円とした。このために、同社は500億円のユーロ債CBを発行して資金調達を行っている。建設費は約400億円。総事業費は約650億円。施工は大林組、設計は日建設計である。テレビ局からの賃貸料および観光客からの入場料などで収益を得る見込みであった。

2008年7月14日に着工され、3年半の期間をかけて2012年2月29日に竣工した[6]。2012年5月展望台として開業し[7]、2011年12月から2013年5月にかけて放送局の試験放送ならびに本放送を実施する計画であった。

東京タワーの建造時(1957年 - 1958年)に比べ鋼材の品質や溶接技術・各種構造計算シミュレーション)などの設計技術・基礎部の特殊な工法が大きく進歩したことにより、東京タワーの建築面積を大きく下回る面積ながらこの高さの自立式鉄塔の建設が可能となった。また、全体の主要接合部が溶接により建設されているが鋼管同士を直接溶接接合する分岐継手を採用し、軽量化と耐震性を増している。主要鋼材はH鋼ではなく鋼管が使用された。構造が鉄骨造としては稀に見る複雑さであり各部材に要求される寸法等の精度も一般建築物とは桁違いであるため、鉄骨部材を作成する工場のうち国内のレベルの高い工場の多くは一時的にスカイツリーの部材製作で繁忙を極める状態となった。このため、溶接作業の一部には手作業による職人技が寄与している部位も多分にある[8]

2006年5月に第一生命経済研究所が出した予測[9] によると開業から1年で300万人が訪れると仮定、経済効果を473億円と試算している。また2008年1月公表の墨田区「新タワーによる地域活性化等調査報告書」では東京スカイツリーへの来場者を年間552.4万人、東京スカイツリーに併設される商業施設などを含めた開発街区全体での来場者数を年間2,907.9万人と試算している[10]

計画の基本的情報
・計画名:業平橋押上地区開発計画(新タワー計画)
・所在地:東京都墨田区押上一丁目1番1号他
・建築主:東武鉄道、東武タワースカイツリー
・施工:大林組
・設計・監理:日建設計[注釈 2]
・監修者:澄川喜一安藤忠雄
・階数:地下1階・地上29階・塔屋4階(床のない層は除く)
・高さ:634m[注釈 3]
・敷地面積:36,844.39 m2(施設全体)
  ・建築面積:31,832.60 m2(施設全体)
  ・延べ面積:229,410.30 m2(施設全体)
・建設地点:ほぼ平行する東武伊勢崎線と北十間川間の幅約100 m 強と都営地下鉄浅草線に囲まれた場所に一辺約68 m の三角形型の基礎。東西に向く一辺は北十間川とほぼ平行。
・構造:鉄骨造、鉄骨鉄筋コンクリート造、鉄筋コンクリート造
  ・鉄骨:最大直径2.3 m 、厚さ10 cm[11]
・基礎工法:場所打ちコンクリート造(一部鉄骨鉄筋コンクリート造)工法固有名称:ナックルウォール工法
  ・基礎の深さ:50 m [11]
・地上部分本体重量:約41,000 t[11]
・用途:電波塔、展示場、店舗、ミュージアム、事務所、ホール、各種学校、地域冷暖房施設、駐車場
・電波塔内の施設:放送施設・展望施設(第1展望台・第2展望台)・商業施設ほか
  ・高さ350 m の第1展望台天望デッキにはレストランやカフェ、ショップなども併設される。また4階には出発ロビー、5階には到着ロビーがそれぞれ設置される。
  ・高さ450 m の第2展望台には天望回廊と呼ばれるチューブ型でガラス張りの回廊を設置。天望回廊は第2展望台の2つのフロアを結ぶ約110 m のスロープになっている。
・エレベーター:地上4階からH350の高さにある第1展望台まで約50秒間の分速600 m /40人乗り4台(東芝製、うち2台は1階まで到達する)、第1展望台とH450の高さにある第2展望台を結ぶ約30秒間の分速240 m /40人乗り2台(日立製)、昇降距離が464.4 m と日本最長である、地下駐車場(地下1階)から天望回廊の更に上の高さであるH458までを結ぶ分速240 m(非常時:分速540 m)27人乗り業務用2台(東芝製)[12]、そのほかにも第1展望台内の移動用に1台(日立製)、タワーの足元の施設に4台がある(日立製)[13]
・収容人数:天望デッキ(第1展望台):約2,000人、天望回廊(第2展望台):約900人[11]
・非常階段数:2523段(地上1階から天望回廊上のH458フロアまでの数。ノンスリップの色はA階段が緑、B階段が赤である)[14]
・タワー周辺は東京スカイツリータウンとして整備され、地上31階建てのオフィス棟のほか、中層の商業棟、広場、約1,100台分の駐車場なども建設された。
・高度・高さを示す「H」は、Height の頭文字で示している。例えば、高さ350 m ならH350で示される。

高さ
現存する電波塔としては支線式鉄塔のKVLY-TV塔アメリカ)の628.8mを上回る世界第1位[注釈 4]。2011年11月17日に世界一高いタワーとしてギネス世界記録の認定を受けた[15]。人工の建造物としてはブルジュ・ハリーファアラブ首長国連邦ドバイ)の828mに次ぐ世界第2位となる。

東京都心部で立ち並ぶ200m級の超高層ビルの影響を受けない高さとして、NHKと在京民放キー局5社が「600m」という数字を要請し、着工当初は高さを610.6mとする計画であった。建設計画を策定する中で当時世界一の高さのカナダオンタリオ州トロントにあるCNタワーを上回る。またアメリカイリノイ州シカゴに建設予定のあった「シカゴ・スパイア」(2008年建設中止、2010年計画取消)のアンテナを含めた高さが約2,000フィート(約609.6m)だったため、「610m」という数字になったという[16][17]。構想段階では世界一高い建造物を目指していたが、完成時の高さを非公開にして建設していたブルジュ・ハリーファが高さ828mで完成した。

2009年10月16日に計画を修正し、高さ634mを目指すことを発表した。数字には東京近辺の旧国名である武蔵国(「むさし」のくに)の語呂合わせも考慮したとしている[18][注釈 5][注釈 6]。当初は東京タワーの2倍の666mの計画だったが、設計者から少し低い高さにすべきと言われ、浅草寺が創建された628年に因み628mの案もあったと根津嘉澄東武鉄道社長は2012年5月14日の開業記念式典後の記者会見で秘話を語った[19]

タワーデザイン・ライティング

東京スカイツリーの作図されたシルエット(影)と地上が正三角形(168メートル)で次第に丸くなり、H320でほぼ真となる断面[20]

2006年(平成18年)11月24日にデザインが公表された。以下の3つのコンセプトに基づき、デザインされている。
・時空を超えた都市景観の創造:日本の伝統美と近未来的デザインの融合
・まちの活性化への起爆剤:賑わいと親しみを感じる3つのゲートと2つの展望台
・都市防災「安全と安心」への貢献:日本古来の建築「五重塔」に通じる新たな構造システム

塔内部は円筒(鉄筋コンクリート造のH375で直径約8m、筒内部は階段)になっており、外側のトラス部分と構造的に独立させ地震などによる揺れを抑える制震構造となっている。タワーを設計した日建設計はこの制振システムを五重塔になぞらえて、「心柱制振」と呼んだことなどから、マスコミから五重塔の技術が用いられたかのように報道された。しかし、五重塔の制震構造は解明されておらず、実際には現代の制振技術を応用したものである[21]。また、アンテナが取り付けられる「ゲイン塔」の上には制振装置(総重量約100トンで、バネの上に乗った重りでアンテナの揺れを抑える)が設置され、心柱自体の重みと共に付加質量機構を形成する。ゲイン塔外周直径約6m、アンテナ外周直径約8m[22]

タワーの水平方向の断面は地面真上では正三角形であるが、高くなるほど丸みを帯びた三角形に変化し、H320で円となる。概観は「起り」(むくり)や日本刀の緩やかな「反り」(そり)の曲線を生かした日本の伝統建築の発想を駆使し、反りの美的要素も盛り込まれている[16]。このため、タワーを見る方角によっては傾いているようにも裾が非対称になっているようにも見える。

2009年(平成21年)2月26日にカラーデザインが公表され、「スカイツリーホワイト」と決定された。これは日本伝統の「藍白」(あいじろ)をベースにした独自の命名のオリジナルカラーで、青みがかった白である。なおエレベーターシャフトはグレー、展望台はメタリック色、頂部は鮮やかな白である[23]

2009年(平成21年)10月16日にライティングデザインが公表された。江戸で育まれてきた心意気の「」と、美意識の「雅」という2つの異なるライティングを1日毎に交互に替えるライティングである。このライティング機材や調光コントロール全般は東京スカイツリーのオフィシャルパートナーのパナソニック(当時・パナソニック電工)が請負い、ライトアップの全てをLED照明とした[24]
・「粋」は隅田川の水をモチーフとした淡いブルーの光でタワーを貫く心柱を照らし出したライティング。
・「雅」は江戸紫をテーマカラーとし、金箔のようなきらめきのある光をバランスよく散りばめたライティング。

なお「雅」はピンクすぎずすぎない上品な紫色(複数の色のLEDを混ぜたものでなく単体で表現する)を目指しており、このような色のLEDは従来にはないため「オリジナルのLEDを新たに開発する」としている。また2010年(平成22年)10月13日にはLED実験のため、51台の照明器具で数時間だけライトアップされた[25]。完成時には1995台の照明器具が使用されている。

2017年(平成29年)5月18日には開業5周年を記念して新たなライティング「」が追加され、以降は3つのライティングを1日毎に交互に替える方式に変更された[26]
・「幟」は橘色を基調とし、縦のラインで3つの面に区切られた垂直性を強調したライティング。

2019年(令和元年)5月16日から2020年(令和2年)2月19日にかけてライティング増強工事を行い、照明機器数が2,075台から2,362台に増設した。ゲイン塔部分がフルカラーで点灯できるようになるとともに、塔体250m付近と150m付近の中間部に連続性のある点灯演出が可能となった。2020年(令和2年)2月27日に「粋」「雅」「幟」のデザインを以下のようにリニューアルした。
・「粋」:泡の揺らぎや煌めきをイメージした「水泡」の緩やかな動きを追加。
・「雅」:羽衣の優美な動きをイメージした光がらせん状に上昇する緩やかな動きを追加。
・「幟」:幟の旗がそよ風にはためくような印象的なゆっくりとした動きを追加。

これ以外にも、特定日にはスペシャルライトアップが行われる。以下は、過去に行われたライトアップ。中には通例化しているものもある。
防災の日東京大空襲東日本大震災追悼(毎年3月10日 - 11日9月1日) - 完全な白色(上部のみ点灯)、2014年(平成26年)3月11日は明花。
七夕・夜空(毎年7月1日 - 7月7日) - 青色だが「粋」とは違う。
・冬粋・冬雅(毎年) - 白色の違いのみ。
オリンピックパラリンピック招致(2013年(平成25年)9月9日 - 9月16日) - 五輪カラーのイルミネーション。
・ピンクリボン(毎年10月1日) - 東京都庁舎東京タワーもピンク色にライトアップされる。
・シャンパンツリー(クリスマス) - 金色ベースに
・ホワイトツリー(クリスマス) - 白ベースに緑
・キャンドルツリー(クリスマス) - 白ベースに赤色
・ブラウンショコラ・ラブリーショコラ・ホワイトショコラ(毎年バレンタインデーからホワイトデーまでの期間)
・新年特別ライティング(毎年12月31日 23:50 - 25:00)
・桜特別ライティング(毎年3月16日 - 4月10日) - 桜の木をイメージしたライティング。「咲」と「舞」の2つからなり、15分ごとに演出が変わる。
・光の3原色(2014年(平成26年)12月11日 - 12月18日) - 青色発光ダイオード(LED)の日本人ノーベル物理学賞受賞を記念した青、緑、赤のライティング。
トリコロール2015年(平成27年)11月15日) - 同月13日に発生したパリ同時多発テロ事件の追悼[27]
・和食の日ライティング(2015年(平成27年)11月20日 - 11月24日) - オフィシャルパートナーのキッコーマンの協力の下、「炊き込みご飯」「お鍋」「卵かけご飯」の3種類をイメージしたライティング[28]
・映画『スター・ウォーズ/フォースの覚醒』公開記念ライティング(2015年(平成27年)12月17日 - 12月20日) - 新悪役のカイロ・レンが持つ赤いライトセーバーが立ち上がる様子を、赤と青の光の動きを使った演出で再現するライトアップ[29]
ももいろクローバーZのメンバーカラー(2018年(平成30年)5月7日 - 5月13日7月17日 - 7月31日) - 同グループの10周年を記念したコラボ企画『ソラクロ祭』の一環として実施したライティング[30]
ファイナルファンタジーVII リメイク2020年(令和2年)2月6日2月8日 - 2月12日) - 魔晄の色をイメージした特別ライティング[31]
・地球(2020年(令和2年)3月27日 - 4月5日)世界的に拡がる新型コロナウイルス感染症に、世界が一丸となって立ち向かい、みんなで打ち勝とうという思いを込めて、地球をイメージした青色の特別ライティング。
・炎(2020年(令和2年)10月11日16日 - 18日) - 『劇場版 鬼滅の刃 無限列車編』公開を記念して、登場人物の一人である煉󠄁獄杏寿郎の呼吸や刀の「炎(ほのお)」、及び同映画のテーマソングであるLiSAの「炎(ほむら)」をイメージした特別ライティング[32][33]
・「鬼滅の刃」 天空への願い TOKYO SKYTREE(2021年(令和3年)10月21日から2022年(令和4年)1月16日) - 当ツリーで実施される同名イベントに合わせ、同年10月21日から23日及びイベント期間中(2022年1月2日を除く)の日曜日に実施。アニメに登場する7キャラクター(竈門炭治郎、竈門禰豆子、我妻善逸、嘴平伊之助、煉獄杏寿郎、胡蝶しのぶ、宇髄天元)をイメージした特別ライティング[34]
ソラカラちゃんカラー(2022年(令和4年)4月12日 - 5月22日) - 開業10周年記念として、公式キャラクターのソラカラちゃんをイメージし、ゲイン塔部分は髪色の黄色、塔体部分はワンピースの青地に白の格子模様、塔体中央部にはソラカラちゃんの持つ望遠鏡の紫という配色になっている[35]
・JOJOTREE ジョジョの奇妙な冒険 in TOKYO SKYTREE - 東京スカイツリー同様10周年を迎えた「ジョジョの奇妙な冒険」アニメーションシリーズとコラボレーションした同名イベント[36]を記念したライティングで、アニメに登場する6キャラクター(ジョナサン・ジョースター、ジョセフ・ジョースター、空条承太郎、東方仗助、ジョルノ・ジョバァーナ、空条徐倫)6人をイメージした特別ライティングを2022年5月10日、13日から15日及び5月21日から8月6日までの毎週土曜日に実施。

名称
正式名称決定までの仮称は「新東京タワー」。正式名称は一般公募によって寄せられた1万8,606件の命名案の中から、まずは有識者10人で構成される「新タワー名称検討委員会」によって6つに候補が絞り込まれた。言葉の美しさや親しみやすさなどを基準に「東京スカイツリー」「東京EDOタワー」「ライジングタワー」「みらいタワー」「ゆめみやぐら」「ライジングイーストタワー」の6つが名称候補として選ばれ、2008年春にインターネットを通じて一般投票を行った。その結果、最多得票の「東京スカイツリー」に決定した[37]

なお公募で最も多く寄せられた「大江戸タワー」はタワー建設予定地近くにある和菓子屋(株式会社森八本舗)がタワーの名称決定を見越してすでに商標を取得しており、3位の「さくらタワー」も以前から高輪プリンスホテルには「さくらタワー」がありすでに商標登録も行っていたために使えなかった[注釈 7]。仮称として使用されていた「新東京タワー」も既存の東京タワーに似ており、建物も東京タワーを管理する日本電波塔社(現・株式会社TOKYO TOWER)とはまったく関係が無いためそれぞれ候補から外された。一候補地だった時期はプロジェクトホームページで「すみだタワー」という名称が用いられていたが、台東地区と連携した2007年夏頃からは見られなくなった。

「東京スカイツリー」は東武鉄道と東武タワースカイツリーの登録商標である(第5143175号ほか)。

注目度
日本一の建造物、さらには世界一の電波塔という大きな話題性から、完成前から各種マスメディアで大きく取り上げられた。テレビでは建設中のスカイツリーを取材した特番が時折放送されるようになったこともあって、建設期間中から"東京の新名所"となっており、休日ともなればタワーを撮影する者や見物人で周辺は混雑している。

また全体の冷暖房には、日本初となる地中熱を利用した地域熱供給システムが採用されており、その点からも注目されている[38]


詳しい事は「東京スカイツリーウィキペディア」をご覧ください。  ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E4%BA%AC%E3%82%B9%E3%82%AB%E3%82%A4%E3%83%84%E3%83%AA%E3%83%BC
(wikiより)

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情報
用途電波塔、展望台、科学館
設計者内藤多仲日建設計
施工竹中工務店
建築主日本電波塔株式会社(現・株式会社TOKYO TOWER)
構造形式SおよびRC造
敷地面積15,577.143 m²
建築面積4,470.34 m²
延床面積24,874.87 m²
階数地上16階、地下2階
高さ333 m[1](海抜高351 m)[注釈 1]
着工1957年6月29日
竣工1958年12月23日[2]
所在地105-0011
東京都港区芝公園四丁目2番8号
座標北緯35度39分31秒 東経139度44分44秒座標北緯35度39分31秒 東経139度44分44秒
文化財国の登録有形文化財
指定・登録等日2013年6月

株式会社TOKYO TOWER
TOKYO TOWER Co.,Ltd
種類株式会社
市場情報非上場
本社所在地日本の旗 日本
105-0011
東京都港区芝公園四丁目2番8号
設立1957年(昭和32年)5月8日
(日本電波塔株式会社)
業種情報・通信業
法人番号1010401023011 ウィキデータを編集
事業内容総合電波塔の設置経営、観光施設の経営、不動産賃貸業
代表者代表取締役社長 前田 伸
資本金12億円
従業員数162人
決算期3月31日
主要株主東映 13.48%
マザー牧場 11.25%
(2007年3月31日現在)
主要子会社東京タワースタジオ
東京タワーパーキングセンター
外部リンクhttps://www.tokyotower.co.jp/index.html
特記事項:2019年10月1日、現商号に変更。

東京タワー(とうきょうタワー、Tokyo Tower)は、東京都港区芝公園にある総合電波塔である[3]日本電波塔(にっぽんでんぱとう[4])とも呼ばれる。

1958年昭和33年)12月23日竣工東京シンボル観光名所である。

2018年度グッドデザイン賞受賞[5]

概要
創設者は前田久吉で、日本の「塔博士」とも称される内藤多仲らが設計(詳細は設計を参照)。 高さは333メートル[1]と広報されており、海抜では351メートル。塔脚の中心を基準とした塔脚の間隔は88.0メートル。総工費約30億円、1年半(197万4,015時間/543日間)と延べ21万9,335人の人員を要して完成した[6]。地上125メートル(海抜約150メートル)と223.55メートル(海抜約250メートル)に展望台を有するトラス構造の電波塔である[7]

昼間障害標識として、頂点より黄赤色(インターナショナルオレンジ)と白色を交互に配した塗装となっている。テレビおよびFMラジオのアンテナとして放送電波を送出(#送信周波数・出力を参照)、また東日本旅客鉄道(JR東日本)の防護無線用アンテナとして緊急信号を発信するほか、東京都環境局の各種測定器なども設置されている。

完成当初は日本一高い建造物だったが、高さが日本一だったのは1968年6月26日小笠原諸島が日本に返還され南鳥島ロランタワー硫黄島ロランタワーに抜かれるまでの約9年半と、対馬長崎県)のオメガタワーが解体されてから東京スカイツリーに抜かれるまでの約11年間である。自立式鉄塔に限れば、東京スカイツリーに抜かれるまでの約51年半は日本一の高さだった。2020年現在は、東京スカイツリーに次ぐ日本で2番目に高い建造物である。なお、重量については約4,000トンとされる。

運営会社
株式会社TOKYO TOWERTOKYO TOWER Co.,Ltd)は、東京都港区芝公園に本社を置く東京タワーの建主であり、管理ならびに運営を行っている。

法人概要
1957年5月、「大阪の新聞王」と呼ばれ、当時、産業経済新聞社大阪放送(ラジオ大阪)各社の社長を務め、後に関西テレビ放送[注釈 2]の社長にも就く前田久吉日本電波塔株式会社(にっぽんでんぱとう、NIPPON TELEVISION CITY CORPORATION)を設立。久吉はタワーの完成とほぼ同時の1958年、産経新聞社を国策パルプ工業(現・日本製紙)社長の水野成夫に譲渡してその経営から手を引いたが、日本電波塔(東京タワー)とラジオ大阪の経営には引き続き携わった。この結果、日本電波塔は当時の産経新聞グループはもちろん、その後のフジサンケイグループからも完全に切り離されて前田家主導の同族企業となった。その名残で産経新聞グループから離脱する直前の1957年10月、文化放送ニッポン放送などと共に発足した、中央ラジオ・テレビ健康保険組合[注釈 3]基幹会社の一社として2019年現在でも加入している[8][9]。また、ラジオ大阪も2005年にフジサンケイグループ入りするまで、前田家主導で独自の経営をしていた。

久吉は千葉県富津市鹿野山1962年マザー牧場を開設している関係で、2009年にはマザー牧場や日本電波塔の関連会社が同県木更津市のコミュニティFMであるかずさエフエムの株式を取得し運営しているほか[10][11]、同市や君津市を中心とする地域で整備され2010年1月に経営破綻したかずさアカデミアパークの再建スポンサーを同年8月から日本電波塔・マザー牧場・ホテルオークラ・グリーンコアの各社が務め、経営再建を行っている[12]

1964年には敷地内に東京タワー放送センター(現・東京タワーメディアセンター)を建設し、同年開局した日本科学技術振興財団テレビ事業本部(東京12チャンネル)に賃貸した。この建物は、事業を承継したテレビ東京1985年まで本社として使用していた。テレビ東京天王洲スタジオ完成後の2000年より日本電波塔による自主運営となり、2005年7月には子会社「東京タワー芝公園スタジオ」(のちに東京タワースタジオ)に移管され、2012年に閉鎖されるまでテレビスタジオとして利用された。なお、東京タワースタジオ閉鎖後、内部改装を施し「東京タワーメディアセンター」に名称を変更、2019年1月時点でも営業を続けている。

また、1960年代に東京タワーへのアクセスとして、日本電波塔自ら浜松町 - 東京タワー間1.2キロにモノレールの敷設を計画したが、これは実現しなかった[13]

東京タワーは、全国FM放送協議会(JFN)のキー局エフエム東京(TOKYO FM)の大株主(学校法人東海大学に次ぐ第2位)でもある。この他にもJFNの系列局であるKiss-FM KOBEの経営破綻による新会社・兵庫エフエム放送(Kiss FM KOBE)にTOKYO FMとともに19.2%を出資[14]。また、同じくJFN加盟局のエフエム大阪(FM大阪)に20%[注釈 4]、JFN特別加盟局のInterFM897に9.4%[注釈 5]をそれぞれ出資している[15]

2018年12月23日、東京タワーの開業60周年を機に、運営会社の商号を株式会社東京タワーに変更[16]。翌2019年10月1日には株式会社TOKYO TOWERに変更した[17]

沿革
1957年昭和32年)
  ・5月8日 - 日本電波塔株式会社を設立。
  ・6月29日 - 地鎮祭が執り行われ着工。
  ・7月15日 - 設計図の作成が終了。
  ・9月21日 - 塔脚第一柱を設置し、定礎式を挙行
1958年(昭和33年)
  ・10月9日 - 審査会において愛称「東京タワー」を決定。
  ・10月14日 - アンテナ(80メートル)を設置。
  ・12月7日 - 公開開始(プレオープン)。
  ・12月23日 - 完工式挙行、正式オープン。当時の住所は、東京都港区芝公園内20号地[18]
  ・12月24日 - 9時より一般公開。
1959年(昭和34年)
  ・1月10日 - NHK教育テレビジョン(現愛称・NHKEテレ)がVHF1chで放送開始(同年4月にNHK総合テレビジョンと入れ替わる)。
  ・2月1日 - 日本教育テレビ(NET、現・テレビ朝日)がVHF10chで本放送開始。
  ・3月1日 - フジテレビジョンがVHF8chで本放送開始。
  ・9月20日 - 南極観測隊カラフト犬(タロとジロ)の記念像の除幕式を挙行[注釈 6]
1960年(昭和35年)
  ・1月17日 - ラジオ東京(現・TBSテレビ)が赤坂の自社敷地から主送信所を移転する(送信は移転前からVHF6ch)。
  ・5月16日 - NHK教育テレビジョンの送信所を紀尾井町より移転(送信は移転前からVHF3ch)[19]。・1962年(昭和37年)3月29日 - 昭和天皇・皇后が東京タワーを見学する。天皇が訪れたのは、1958年の竣工以来はじめて。
1963年(昭和38年) - 返還前の東京都小笠原村南鳥島に、高さ411.48メートルの南鳥島旧ロランタワーが竣工する。
1964年(昭和39年)
  ・返還前の東京都小笠原村硫黄島に、高さ411.48メートルの硫黄島ロランタワーが竣工する。
  ・4月12日 - 日本科学技術振興財団テレビ事業本部(現・テレビ東京)がVHF12chで本放送開始。
1965年(昭和40年)12月24日 - イルミネーションが連夜の点灯となる。
1966年(昭和41年)1月2日 - 来塔者数が3,000万人となる。
1967年(昭和42年)7月28日 - 特別展望台オープン。
1968年(昭和43年)6月26日 - 小笠原諸島が返還され、南鳥島と硫黄島のロランタワー(411.48メートル)が日本一高い建造物となり、東京タワーは日本で3番目に高い建造物となる。
1970年(昭和45年)
  ・3月20日 - 東京タワー蝋人形館が3階にオープン。
  ・3月23日 - 蝋人形館経営者のジョージ・ドラッカーとヴィッキー・クロフォードが、特別展望台で和装にて結婚式を行う[注釈 7]
  ・4月26日 - FM東海から事業を譲り受けたエフエム東京が80.0Mc(現在はMHz)で本放送開始。
  ・10月3日 - NHK-FM放送の送信所を紀尾井町より移転(送信は移転前から82.5Mc)。
  ・11月10日 - 日本テレビ放送網麹町の自社敷地から主送信所を移転する(送信は移転前からVHF4ch)。これにより東京都のテレビ局の送信所が一本化される。
1971年(昭和46年)8月18日 - 来塔者数が5,000万人となる。該当者は都内の23歳の男子学生で、自分が5,000万人目になれないかと思って来塔し、記念品として冷蔵庫カラーテレビ・ギフト旅行券オートバイなどが贈られた。
1973年(昭和48年)10月10日 - 体育の日に大展望台までの外階段を駆け上る体力テストを開始。
1975年(昭和50年) - 長崎県上県郡上対馬町大増(現・対馬市上対馬町大増)に高さ454.830メートルのオメガタワーができ、日本で4番目に高い建造物となる。
1977年(昭和52年)6月1日 - 電波の日のこの日に「電波塔の維持運営を通じて放送の普及と重要無線通信の疎通に多大の貢献」をしたとして、当時の郵政大臣、小宮山重四郎より表彰される。
  ・7月11日 - タワー大神宮創建(23区内でもっとも高い場所にある神社)。
1978年(昭和53年)4月28日 - 東京タワー水族館オープン(世界初の観賞魚水族館。2018年9月30日閉館[20])
1984年(昭和59年)11月1日 - 放送大学が大学開学に向けてテレビ放送をUHF16chで、同時期にFMラジオ放送を77.1MHzで予告放送開始(翌1985年(昭和60年)4月1日に授業開始)[21]
1986年(昭和61年)
  ・航空法改正により黄赤色と白色の塗り分けを11等分から7等分へ変更し、黄赤色の赤みを強くした。
  ・南鳥島旧ロランタワーが解体され、日本で3番目に高い建造物に返り咲く。
1988年(昭和63年)
  ・ロゴマークを変更。
  ・10月1日 - エフエムジャパン(現・J-WAVE)が81.3MHzで本放送を開始。
1989年(昭和64年・平成元年)
  ・1月1日 - これまでの輪郭のみの点灯から全体を照らすライトアップが開始された。
  ・7月25日 - 来塔者数が1億人となる。
1991年(平成3年)3月3日 - 「平成3年3月3日」で3が重なることを記念して記念展望券の発売、バッジや絵はがきのプレゼント、エッフェル塔へ招待するクイズなど数々のイベントが行われる。
1994年(平成6年)
  ・4月 - 「東京タワートリックアートギャラリー」がタワービル4階に登場する。
  ・10月 - 硫黄島ロランタワーが運用停止、解体され日本で2番目に高い建造物に返り咲く。
1995年(平成7年)
  ・1月 - 来塔者数が1億2,000万人となり、日本の総人口に相当する人数が来塔したことを記念してキャンペーンを行う。
  ・11月1日 - 東京メトロポリタンテレビジョン(東京MXテレビ、TOKYO MX)が東京都初の都域民間放送テレビ局としてUHF14chで本放送開始。
1996年(平成8年)4月1日 - エフエムインターウェーブ(現・InterFM)が76.1MHzで本放送開始。
1998年(平成10年)
  ・12月 - 大展望台外壁を黄赤色から白色へ変更。
  ・12月23日 - ノッポン誕生。
1999年(平成11年) - オメガ塔(対馬オメガ局)が解体され、日本一高い建造物に返り咲く。
2002年(平成14年)3月19日 - 特別展望台・大展望台をリニューアルオープン。営業時間を年間を通して22時までに延長。
2003年(平成15年)
  ・10月10日 - デジタルラジオ推進協会地上デジタル音声放送の実用化試験放送をVHF7chの帯域で放送開始。
  ・12月1日 - 放送大学以外のテレビ局が地上デジタルテレビ放送をUHF帯域で開始。
2005年(平成17年)
  ・3月19日 - タワービルをリニューアルオープン(名称を「フットタウン」に変更、外壁色を濃いブラウンに変更)。
  ・12月25日 - 大展望台にハート形のイルミネーションを始める。
  ・「日本電波塔」としてDOCOMOMO JAPAN選定 日本におけるモダン・ムーブメントの建築に選定。
2006年(平成18年)
  ・9月29日 - 来塔者数が1億5,000万人となる。
  ・12月1日 - 放送大学が地上デジタルテレビ放送をUHF帯域で開始[21]
2009年(平成21年)
  ・5月8日 - ロゴマークの変更[注釈 8]
  ・10月16日 - 来塔者数が1億6,000万人となる[22]
  ・12月31日 - 開業以来営業してきた、タワー大食堂(タワーレストラン)が営業終了。
2010年(平成22年)3月29日 - 建設中の東京スカイツリーが高さ338メートルに到達したため、日本で2番目に高い建造物となる。
2011年(平成23年)
  ・3月11日 - 東北地方太平洋沖地震東日本大震災)の影響で、タワー先端部の地上アナログ放送用アンテナが東に2度曲がる[23]被害を受ける(強震により激しく振られた)[24]。展望台にいた観客は階段で下りて避難し、けが人は出なかった。タワーの営業は同月18日まで中止となる[25][注釈 9]
  ・3月31日 - 地上デジタル音声放送の実用化試験放送終了にともない送信終了。
  ・7月24日 - 地上アナログテレビ放送がこの日の正午で終了し、24時で地上アナログテレビ放送の送信が停止された。
2012年(平成24年)
  ・2月1日 - 一部を除くアナログ送信アンテナの撤去を開始。また、前の地震で曲がった先端部の交換ならびに耐震補強も同時に行う。工事終了は2014年12月を予定している[26]。特別展望台行きエレベーターの改修工事にともない、同月29日まで特別展望台の営業を休止[27]
  ・4月22日 - この日をもってJ-WAVEとNHK東京FMのFMラジオ放送の送信を終了。翌日にそれぞれ送信所が東京スカイツリーに移転。移転後もNHK東京FMは予備送信所として存続。
  ・7月10日 - 先端のSTアンテナの撤去を夜から開始[28]。長さ約25メートル、直径約37センチの空洞の支柱を17分割に輪切りにして下から順に取り除く[29]際に、地上306メートルの支柱底部から軟式野球用ボールが発見される[30]。なお、撤去したSTアンテナの一部は東京タワー敷地内に保存、別の一部は同アンテナを納入した古河電気工業の事業を継承していた古河C&B横浜測定所に保存後、同社の全事業を譲受したミハル通信本社(鎌倉市)に移設されている[31]
  ・8月3日 - 7月10日より行われていた先端のアンテナ支柱の交換作業を午前中に完了し、一時315メートルだったタワーが元の高さに戻る。円柱だった支柱は四角柱となり、耐震性が向上する[29]
  ・10月1日 - TOKYO MXの地上デジタルテレビ放送の物理チャンネル切り替えのため、東京スカイツリーとのサイマル放送を開始[32]
  ・11月12日 - TOKYO MXの東京タワーからの電波の1回目の減力を実施[33]。以後、2013年1月14日、2月4日、2月25日、3月18日に分けて段階的に減力を実施する[34][35][36][37]
2013年(平成25年)
  ・2月11日 - TOKYO FMの送信用アンテナをアナログテレビ放送終了で空いた333メートルの頂上部に新設・移転し、供用を開始[38]
  ・5月12日 - この日の正午、TOKYO MXの物理チャンネル切り替えによるサイマル放送終了にともない東京タワーからの送信を停止[39]。翌13日18時に東京タワーからの送信を終了。
  ・5月31日 - この日の9時、放送大学を除く地上デジタルテレビ放送7局の送信所が東京スカイツリーに移転した[40][41]。当初は1月に移転予定だったが電波障害対策が必要となったため、その対策を講じてからの移転となった。送信の移転後はNHKと民放キー局5社については東京タワーを予備電波塔として使用することとなっている。
  ・6月21日 - 国の登録有形文化財に登録[42]
  ・11月23日 - 2020年の東京五輪招致の応援で、南極観測隊カラフト犬像の場所を使って招致のシンボルマークを花で描くことになったため、タロ・ジロのブロンズ像を東京都立川市国立極地研究所に移転[43]
2015年(平成27年)
  ・6月26日 - InterFMが新周波数89.7MHzでの試験放送を開始[44]
  ・6月30日 - この日の18時より、InterFMが新周波数89.7MHzでの本放送を開始[45]
  ・7月13日 - 株式会社VIPに対しV-Low帯マルチメディア放送東京局の予備免許を交付[46]
  ・10月5日 - 東京地区のV-Low帯マルチメディア放送の試験電波の発射を開始[47]
  ・10月31日 - InterFMの旧周波数76.1MHzでの運用終了[48]
  ・12月7日 - 株式会社VIPに対しV-Low帯マルチメディア放送東京局の本免許を交付[49]
2016年(平成28年)
  ・3月1日 - この日の正午よりV-Low帯マルチメディア放送「i-dio」東京局の本放送開始[50]。開始当初はプレ放送期間と位置づけ、コンテンツプロバイダーの放送開始をもって同年7月1日に本開局した[51]
2018年(平成30年)
  ・1月25日 - 来塔者が1億8,000万人突破[52]
  ・3月3日 - 特別展望台を「トップデッキ」、大展望台を「メインデッキ」に改称[53]
  ・9月30日 - 23時15分をもって、放送大学の地上波デジタルテレビジョン放送、FMラジオ放送を終了[54](ただし地上波放送の放送免許自体は10月末まで有効)。東京タワー水族館が営業を終了。[55]
  ・12月23日 - 運営会社の商号を「日本電波塔株式会社」から「株式会社東京タワー」に変更[16]。・2019年令和元年)10月1日 - 運営会社の商号を「株式会社東京タワー」から「株式会社TOKYO TOWER」に変更[17]
2020年(令和2年)3月31日 - この日の23時59分を持ってi-dioの放送を終了。

構想
東京タワーの建設前、放送事業者各社局は個々に、高さ153 - 177メートルの電波塔を建設、自局の塔から放送を行っていた。当時開局していた日本放送協会(NHK)は千代田区紀尾井町に、日本テレビ放送網(NTV)は千代田区麹町に、ラジオ東京テレビ(KRT、現在のTBSテレビ)は港区赤坂に、自前の鉄塔を建設していた。これらの高さだと、放送電波は半径70キロ程度しか届かず、100キロ[注釈 10]離れた関東平野東端の銚子や関東平野北東部[注釈 11]水戸では満足に電波を受信することができなかった。また、受信アンテナには指向性があるため、チャンネルを変えるごとにアンテナの向きを各電波塔の方向に変えなければいけないという不便が生じた。

さらに、鉄塔の乱立は都市景観においても好ましい状況ではなく[56]、既に千代田区南西部から港区北東部にかけての一帯には先述したNHK、NTV、KRTの鉄塔が乱立する光景が広がっており、今後放送局が増加した場合、東京が電波塔だらけになる恐れがあった[57]。当時郵政省の電波管理局長であった浜田成徳をはじめとする関係者の中で、電波塔を一本化する総合電波塔を求める機運が高まっているところ、放送事業の将来性に着目した前田久吉と鹿内信隆[注釈 12]の各々によって計画され、まもなく両者の計画は一元化された。

ほかの計画案もあったが、高さ300メートルを超える案は東京タワーのみで、次に高いものは200メートル級であり、放送事業者の既存の限られた土地を利用するため、展望台のないスリムなものであった。浜田は、パリエッフェル塔を超える世界最大の塔を造り、そこに展望台を設けて集客すれば、建設費は10年で元が取れると考えていた。[要出典]


建設場所
建設地は安定した電波を供給するために巨大な電波塔の建設が可能な広さと強固な地盤を有していること、魅力ある展望台のために工場などの煙が景観を妨げないことなど厳しい条件が求められた。

当初は上野公園付近への建設も検討されたが、海抜18メートルの高台にある港区芝公園地区は基礎を打ち込むための東京礫層地盤もより浅いところにあり、国の中枢機関や各放送事業者との距離が近いなど、報道と観光の両面に恵まれた立地であった。

増上寺の境内は25区画に分割された公園に指定されており日本電波塔株式会社は「紅葉山」と呼ばれる、以前紅葉館という高級料亭のあった区画を購入した。土地の買収は増上寺の檀家総代に前田が日本工業新聞の社長時代から親交があった池貝庄太郎がおり、増上寺との間を取り持って用地買収を成功させるよう働きかけた。また、芝公園4丁目地区の周辺一帯は建物倒壊危険度、火災危険度、避難危険度を示す地域の危険度特性評価(東京都2002年実施)において「相対的に危険度の低い町」を示すAAAの評価を得ており、防災面でも電波塔の立地に適していることがのちに判明した。

タワーより西側の住民は、飛行機の衝突、交通渋滞ゴミの増加、環境が悪くなり子どもに悪影響があるのではないかとタワー建築に反対の姿勢であった。東側は、当時の国鉄浜松町駅からタワーへ向かう客により潤されることを期待した。

詳しい事は「東京タワーウィキペディア」をご覧ください。  ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E4%BA%AC%E3%82%BF%E3%83%AF%E3%83%BC
(wikiより)

0178a


基本情報
船種貨客船
クラス氷川丸級貨客船
船籍大日本帝国の旗 大日本帝国
日本の旗 日本
所有者日本郵船
運用者Flag of Japan.svg 日本郵船
 大日本帝国海軍
建造所横浜船渠
母港東京港/東京都
姉妹船平安丸
日枝丸
航行区域遠洋
信号符字VCGT
IMO番号35370(※船舶番号)
建造期間534日
就航期間11564日
経歴
起工1928年11月8日
進水1929年9月30日
竣工1930年4月25日
就航1930年5月13日
終航1960年10月3日
除籍1960年12月21日
現況山下公園に停泊
要目
総トン数11,622トン[1]
純トン数6,787トン
載貨重量10,436トン
全長163.3m
垂線間長155.45m[1]
型幅20.12m[1]
型深さ12.50m
高さ29.26m(水面からマスト最上端まで)
12.19m(水面から船橋・煙突最上端まで)
11.88m(水面から船橋後方デリックポスト最上端まで)
9.75m(水面から後部船倉用デリック最上端まで)
喫水9.2m
機関方式B&W社製 ダブルアクティング4ストローク8気筒ディーゼルエンジン 2基
推進器2軸
出力11,000BHP (5,500BHP×2)
最大速力18.21ノット[1]
航海速力15.0ノット
航続距離15ノットで18,700海里
旅客定員一等:76名
二等:69名
三等:186名
積載能力2,600トン
1941年11月21日徴用。
高さは米海軍識別表[2]より(フィート表記)。
0176b

⇧ 横浜市の山下公園に停泊している氷川丸

基本情報
艦種特設病院船(日本海軍)
特別輸送船(第二復員省/復員庁)
艦歴
就役1941年12月1日(海軍籍に編入時。日本海軍)
連合艦隊第四艦隊/横須賀鎮守府所管
1945年12月1日(第二復員省/復員庁)
横須賀地方復員局所管
除籍1945年11月30日(日本海軍)
1946年8月15日(復員庁)
要目
兵装なし
装甲なし
徴用に際し変更された要目のみ表記。
0176c

⇧ 特設病院船時代の氷川丸

氷川丸(ひかわまる)は、日本郵船1930年昭和5年)に竣工させた日本の12,000t貨客船。北太平洋航路で長らく運航された。2019年時点では、横浜市博物館船として公開されている。国の重要文化財(歴史資料)に指定されている[3][4]

概要
「氷川丸」は、横浜船渠(現三菱重工業横浜製作所)で建造された1万トン級貨客船であり、太平洋戦争では病院船として運用された。戦後は1960年(昭和35年)まで北太平洋航路で運航を続けた。

運航終了後は横浜市の山下公園前(横浜港)に係留されている。戦前より唯一現存する日本の貨客船であり、船内のインテリアなども含めて貴重な産業遺産であるため、2003年平成15年)には横浜市の有形文化財の指定を受け、2007年(平成19年)に経済産業省近代化産業遺産として認定、さらに2016年(平成28年)8月には国の重要文化財(歴史資料)に指定された。

船名
本船(氷川丸)の船名は、大宮氷川神社に由来する[5]ブリッジ神棚には氷川神社の祭神が勧請され、保存船となった後も氷川神社を祀っている[5]。姉妹船には2隻(日枝丸平安丸)があり、「日枝丸」は東京千代田区日枝神社を、「平安丸」は平安神宮を祀った[5]。なお本級3隻は頭文字『』で統一されている[5]

船歴
構造経緯
日本郵船は昭和初期、北太平洋で展開されたアメリカカナダとの貨客船就航(路線)競争の一環として、明治末期から大正初期に建造された天洋丸級をはじめとする老朽船に代わる、新型貨客船を必要としていた。またワシントン海軍軍縮条約航空母艦(空母)の保有を制限された大日本帝国海軍も、平時には商船として運用し、有事には空母に改造可能な大型貨客船を求めていた[6]

北米サンフランシスコ航路を強化するため、日本郵船は浅間丸型貨客船3隻(浅間丸〈1929年9月15日〉、龍田丸〈1930年3月15日竣工〉、秩父丸〈1930年3月10日竣工。後に改名し鎌倉丸〉)を発注した[7]。この3隻は、有事において航空母艦に改造する予定だった[6]。 続いて日本郵船は1927年(昭和2年)には欧州航路2隻、南米航路1隻、北米シアトル航路用3隻を建造することになり、「秩父丸」を建造中の横浜船渠は北米シアトル航路用2隻を受注した[7]。これが本船(氷川丸)と「日枝丸」である[7]。「平安丸」は大阪鉄工所に発注された[5]。 日本海軍は、氷川丸と日枝丸を航空機運搬艦(飛行甲板を保有するが、輸送や工作任務を前提とした簡易空母)にする予定だった[6]

本船の横浜船渠建造番号は「S177」[1]。 太平洋(外洋)での航海に堪えるため、外板の厚さは15mm、船窓も丸窓を採用した[8]。 船級はロイド船級協会最高クラスを取得している[8]

主機関は、「秩父丸」と同様にデンマークのバーマイスター&ウェイン(B&W社。現在はドイツのMAN社と合併)製複動式ディーゼル機関2基搭載2軸推進とした[8]。主発電機にはB&W社設計のライセンスによる池貝鉄工所製450馬力4サイクル ディーゼル機関駆動の直流225V 出力325kW 3台を搭載し[9]、ウインドラスやウインチ、各種ポンプ類の動力に直流電動機を用いて騒音振動を軽減した[10]

竣工時の一等客室は76名(貴賓用特別室を含む)、二等69名、3等138名、合計283名[11]。翌年には三等客室を48人増やして計331名となった[11]。船内各部の装飾は、諸外国・日本国内の建築家やインテリア・デザイナー間でコンペティションを行った結果[12]、フランスのマーク・シモン社が担当することになった[11]

1933年からの発効が既に決定されていた海上人命安全のための国際条約SOLAS)の基準を先取りした水密区画構造を採用、アール・デコArt Déco)様式のインテリア、オーシャンライナーという船型、そして日本郵船の擁する一流シェフによる料理などのサービス提供など、構造、サービスとも当時の先端をいく良質な船として建造された。

「氷川丸」は1928年(昭和3年)11月9日に起工、1929年(昭和4年)9月30日に進水、1930年(昭和5年)4月25日に竣工した[8]

就役
1930年(昭和5年)5月9日、「氷川丸」は横浜港から神戸へ出港[13]。13日に神戸港出港後、14日四日市、15日清水、16日横浜と航海[13]。5月17日、シアトルへの処女航海に向かった[13]。5月27日、シアトル着[13]排日移民法の締結などアメリカにおける反日感情は強くなっていたが、シアトルでは3万人近い見学者が「氷川丸」を訪れた[13]。6月29日に横浜に帰国、神戸を経由して7月6日に門司に入港した[13]。門司港でも岸壁を整備したばかりであり、「氷川丸」は接岸第1船となった[13]

その後、氷川丸のサービスの良さが評判を呼び、著名人を含む多くの賓客で賑わった。1932年の11次航海ではチャールズ・チャップリンが乗船、1937年の47次航海ではイギリス国王ジョージ6世戴冠式から帰国の途にあった秩父宮夫妻が乗船、1939年の59次航海では宝塚少女歌劇団(現・宝塚歌劇団)の訪米芸術使節団一行がアメリカ公演を終了した後の帰国時に乗船するなど、氷川丸は華々しい活躍を続けた。アメリカ側の発着地であるシアトル市民にとっても、1930年代、日本から定期的にやってくる「ハイカワマル」は馴染み深い存在になっていたという。1941年(昭和16年)8月、シアトル航路の閉鎖が決定[14]。 日米関係が極端に悪化しつつある同年10月21日、氷川丸はカナダの在留邦人日系人引き揚げ船として横浜港を出発。同月31日にバンクーバー、翌12月1日にシアトルを回り、363人の乗客を乗せて11月18日に横浜港へ戻ってきた[15]

特設病院船
1941年(昭和16年)11月末、氷川丸は日本海軍徴用され[16]病院船として使用される(日枝丸と平安丸は特設潜水母艦[14][6]。 海軍側からは病院長・金井泉軍医大佐(院長当時)、郵船側からは船長・石田忠吉らが乗組んだ。11月20日、第四艦隊に編入[17]。同年12月に横須賀海軍工廠で病院船に改造された[14][18]。 12月20日、改造完了[16]。 国際法により病院船であることを示すため、船体は白色に塗装、緑色の帯を引き、赤十字が描かれ、夜間はイルミネーションのような電飾を実施した[14]。「白鳥」という愛称があった[14]

本船は、1943年(昭和18年)10月3日、インドネシアのスラバヤ港外で機雷の爆発による損傷を艦尾に受けた[19]。病院船の氷川丸は夜間に電飾を実施していたが[14]、同年11月のラバウル空襲で氷川丸の周囲に船が集まったため、盲爆され(特設病院船でも軍艦が随伴していたら攻撃対象となる)多くの被害が生じたと言う理由により、聯合艦隊司令長官から病院船も軍港に入港時は消灯するよう伝達を受けた[20]

1944年(昭和19年)2月20日、横須賀を出港後、トラックを経由してパラオへ、続いてバリクパパンで傷病兵や患者を受け入れる。この頃、戦況の悪化によってパラオでは大空襲が予想されたため、内地への引揚を希望する邦人が急増。そのためバリクパパンを出港した氷川丸は予定を変更し、3月16日に再びパラオに戻り、内地引揚希望の邦人を受け入れたので、他の回航で500人~1000人を乗せていた氷川丸の船内は、この回航では総員2500人に膨れ上がった。パラオ出港後に向かったサイパンでは傷病兵の一部を下船させた短い航海となり、3月25日に横須賀に帰港[21]

同年7月15日(6月8日とも)、カロリン諸島メレヨン島に到着、傷病兵を受け入れ出港直後に磁気機雷2発が至近距離で爆発(珊瑚礁で起爆)、若干の損害を受けた[19][22]1945年(昭和20年)2月14日、ベトナムのサンジャックからシンガポールへの航海中、船尾附近に触雷、浸水被害を受けるが自力航行は可能だった[19]

1945年5月には佐世保からジャワへ暗号書を輸送し、その後はシンガポールから重油(タンクに入れていた水と入れ替えた)とパイロットを運んでいる[23]

姉妹船「日枝丸」(特設潜水母艦、のち特設運送船)と「平安丸」(特設潜水母艦)が戦没する中[24]、本船は終戦の日舞鶴海軍工廠で迎えた[19][注 1]。「氷川丸」は28回出動し、3万名以上の傷病兵を運んだ[23]

太平洋戦争以後
敗戦後、「氷川丸」はGHQ日本商船管理局en:Shipping Control Authority for the Japanese Merchant Marine, SCAJAP)によりSCAJAP-H022の管理番号を与えられ、帰国者の引き揚げ任務に従事[25]。45000人を日本へ運んだ[23]。続いて国内航路に就役し、輸送任務に従事[25]1953年(昭和28年)、11年ぶりにシアトル航路に復帰した[25]。最終航海は、1960年(昭和35年)8月27日に横浜からシアトルへ出港[25]。10月1日に横浜に戻ると、10月3日に神戸に到着[25]。神戸から横浜に回航され、太平洋横断238回をもって航海を終えた[25]。のべ25,000人余りの乗客を運んだという[25]

解体予定もあったが、市や市民の保存を望む声によって同年12月に「宿泊施設を兼ねた観光船」に転用される[26]。この際、船尾の貨物施設やプロペラシャフトの撤去など、横浜船渠第一号船渠(現在日本丸メモリアルパーク)で大規模な補修が実施された[26][27]1961年(昭和36年)5月、山下公園に係留される[26]。以後の所有は氷川丸マリンタワー株式会社(以下、「氷川丸マリンタワー」と記す)になり、ユースホステル見学施設として運営された。後に船体がエメラルド・グリーンに塗り替えられた。 船内では船上結婚式ビアガーデンライブ、サロン・コンサート、パーティ、年越しカウントダウンなどの催事・イベントが実施された[26]。この間、船体はブルーに塗り替えられていた時期を経て1980年代後半に日本郵船時代の黒い塗装に再度塗り直されている[26]

2003年(平成15年)、「氷川丸」は横浜市指定有形文化財に指定された[28]。 しかし、入場者数の減少のため、氷川丸マリンタワーは2006年(平成18年)10月13日、同年12月25日で氷川丸の運営を終了し、船体を日本郵船に譲渡することを発表した[28]。その後、予定通りに運営を終了し、氷川丸マリンタワーは2006年12月31日付で解散した。

2007年(平成19年)8月より船体の部分的な修繕・内装の修復を行っていたが、日本郵船より一般公開を再開する旨が発表される。2008年(平成20年)4月25日、「氷川丸」竣工から78年目にあわせ、「日本郵船氷川丸」の名称で一般公開を開始した[29][30]

毎日正午になると時報代わりに汽笛を鳴らす、この他前述のカウントダウンでは新年を迎える際に氷川丸の汽笛を鳴らすのが慣例になっている。船体の大規模な修繕は1961年(昭和36年)より実施されておらず老朽化が進行している[31]

2016年(平成28年)、戦前で作られた貨客船としての文化的価値が評価されて、国の重要文化財(歴史資料)に指定された。「明治丸」に続く二番目の船の文化財となったが、海上で保存されている船舶では初の文化財である。

病院長
1. 金井泉 軍医大佐:1941年12月1日[32] - 1942年11月15日
2. 本間正人 軍医大佐:1942年11月15日[33] - 1943年11月5日
3. 野村守 軍医大佐:1943年11月5日[34] - 1944年10月25日
4. 鍵山俊六 軍医大佐:1944年10月25日[35] - 1945年6月20日
5. 村上哲 軍医大佐/第二復員官:1945年6月20日[36] - 1946年3月30日
6. 武藤經世 第二復員官/第二復員事務官/復員事務官:1946年3月30日[37] - 1946年8月15日[注 2]        

歴史
1930年昭和5年)4月25日 横浜船渠株式会社(現・三菱重工業横浜製作所)にて竣工。
・1930年(昭和5年)5月13日 - 5月27日 処女航海 神戸 - シアトル [注 3]
  ・初代船長の秋吉七郎は「軍艦氷川」と評されるほどの厳格な船内規律を徹底させ、以後氷川丸の伝統となるサービスの基礎を築いた。
・1930年(昭和5年) ロンドン軍縮会議批准書を輸送。
1932年(昭和7年) 第11次航海の往路にハリウッド俳優のチャールズ・チャップリンが異父兄にあたるシドニー・チャップリンと乗船。
1937年(昭和12年) イギリス王室ジョージ6世の戴冠式からの帰国時、秩父宮夫妻が乗船。カナダ・ビクトリア港 - 横浜。
1938年(昭和13年) 東京オリンピック誘致のため、カイロIOC会議に出席した嘉納治五郎が帰国時、シアトルより乗船。5月4日肺炎により船内で亡くなる[38]
1939年(昭和14年)6月20日 第59次航海の復路に宝塚少女歌劇団(現・宝塚歌劇団)の訪米芸術使節団一行がアメリカ公演からの帰朝時にシアトルから乗船。シアトル - バンクーバー - 横浜 - 神戸。
・1939年(昭和14年)8月17日 国際情勢によりシアトル航路閉鎖。
1941年(昭和16年) 日本政府に交換船として徴用され、在日アメリカ・カナダ人を送り届け、在米・在加日本人を乗せて帰国。
・1941年(昭和16年)11月 日本海軍に徴用され、病院船として南太平洋海域にて活動。戦時中の様子は1943年(昭和18年)に制作された戦記映画『海軍病院船』(日本映画社制作・53分)で確認可能。
1945年(昭和20年) 第二次世界大戦終了後、復員輸送に従事。
1947年(昭和22年) 北海道航路に就航 横浜 - 室蘭 - 大阪
1949年(昭和24年) 不定期で外国航路に就航。
1950年(昭和25年) 不定期で米国航路に貨物船として就航。
1952年(昭和27年) 欧州定期航路に貨客船として就航。
1953年(昭和28年)7月 横浜 - シアトル航路に定期貨客船として復帰。
・1953年(昭和28年) - 1960年(昭和35年) フルブライト交換留学生が利用[注 4]
1959年(昭和34年) 宝塚歌劇団がカナダ・アメリカ公演の渡航に利用。
・1960年(昭和35年) 運航終了。日本郵船もシアトル航路から撤退。
1961年(昭和36年) 横浜港開港100周年記念事業として山下公園前に係留、ユースホステルとなる。
1978年(昭和53年) 横浜大洋ホエールズ(現・横浜DeNAベイスターズ)応援団に銅鑼が寄贈される[注 5]。     
2000年平成12年)6月15日 係留中の船体から重油が流出。海面約700平方メートルにわたり広がった。
2003年(平成15年)11月 横浜市指定有形文化財の指定を受ける。
2006年(平成18年)10月13日 運営してきた氷川丸マリンタワー株式会社が、営業を同年12月25日で終了すると発表。
・2006年(平成18年)12月25日 営業終了、日本郵船へ管理が移管される。
2008年(平成20年)4月25日 リニューアル工事を行った後に一般への公開を再開。
2010年(平成22年)11月12日 - 11月14日 APEC首脳会議開催に伴うテロ対策のため、営業停止。
2012年(平成24年)5月 - リニューアルオープンから入場者100万人に到達[30]
2016年(平成28年)8月17日 同日付けの官報告示により国の重要文化財に指定。指定名称は以下のとおり[3]
  ・氷川丸 1艘 昭和五年、横浜船渠株式会社製
  ・附 一、航海日誌・諸記録類8点 一、図面類455点   

現係留地
北緯35度26分48.07秒 東経139度39分4.54秒   
横浜東部 - 地理院地図     
日本郵船氷川丸 - Google マップ


詳しい事は「氷川丸ウィキペディア」をご覧ください。 ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%B7%E5%B7%9D%E4%B8%B8
(wikiより)

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用途展望
設計者伊藤紘一仲威雄日建設計
施工大林組[1]
延床面積1,534 m²
階数12
高さ108m
着工1962年昭和37年)8月13日
竣工1963年(昭和38年)11月20日
開館開所1963年(昭和38年)11月21日
改築2010年3月
所在地650-0042
兵庫県神戸市中央区波止場町5-5
座標北緯34度40分57.5秒 東経135度11分12.1秒
文化財国の登録有形文化財
指定・登録等日2014年12月

神戸ポートタワー(こうべポートタワー)は、神戸港中突堤のたもとに建つタワー。2021年9月27日から耐震化など補強工事のため休館となり[2]、2024年春に営業を再開する予定である[3]

概要

世界初のパイプ構造の建造物で、和楽器のを長くしたような外観(双曲面構造)が特徴である[4]。その独特の構造・形状から「鉄塔の美女」とも称され、高層建築物のモデルの一つとなっている[4]。また日本で初めてライトアップされた建造物でもある[4]。当時の神戸市長(第7代)であった原口忠次郎は、元内務省の技術官僚でもあったが、1959年ロッテルダムを訪れた際に、港を一望するユーロマスト[5]に感激し、このタワーの建設を思い立った。その4年後に実現することになる。ちなみに当初タワー全体を銀色にする予定だったが、地上からの高さが60mを越すことから当時の航空法によって黄赤をメインに白をアクセントにした塗装に変更させられている[6]

以降、神戸港のシンボルとして広く知られ、修学旅行などの観光客が港町神戸を学習する際にその多くが立ち寄る拠点ともなっている。中には売店・レストラン・展望台がある。

第15回日本建築学会賞(1963年)、 建築業協会優良建築賞(BCS賞)、 照明学会照明普及会賞、DOCOMOMO JAPAN選定 日本におけるモダン・ムーブメントの建築(2003年)の受賞歴がある。2014年12月に国の登録有形文化財に登録された[7]

開場時間
・3月 - 11月 9:00 - 20:30
・12月 - 2月 9:00 - 18:30 (ただし、大晦日9:00 - 16:30 元日6:30 - 16:30)

歴史
1963年(昭和38年)に完成[2]。建設時は港の景色が楽しめるように、中突堤(埠頭)上に建設された。その後、1980年代メリケンパーク造成により東岸が、1990年代中突堤中央ターミナル造成により西岸がそれぞれ埋め立てられ、現在は埠頭上には位置していない。

2009年12月 - 2010年3月の間、神戸市によって建設以来の大規模な改修工事が行われた。総事業費は約3億3,000万円。17年ぶりの鉄塔の塗装の塗り直しをはじめ、LEDの使用による新たなライトアップや展望室のリニューアル(1階床の一部ガラス化および5階天井に光ファイバーを使用した星雲状の星空の演出)、バリアフリー化がなされた。照明の色は白1色から光の三原色(赤・青・緑)にすることにより40種類のイルミネーション演出が可能となった。2010年4月28日19時00分に式典が開催されリニューアルオープンした[8][9]

2013年11月21日、開業50周年式典が行われた。22日まで開業当時の入場料金、大人150円、子供80円で入場できるなどの特典があった[10][11]

2021年9月27日から老朽化対策や耐震性強化などの工事のため休館となり、2023年度に営業を再開する予定だった[2]。しかし、台風などで工事の遅れが生じ、運営する民間事業者の選定に時間を要するため、営業再開は2024年春の予定となった[3]

交通アクセス
JR神戸線東海道本線)・阪神本線神戸高速線元町駅」から徒歩15分
阪急神戸高速線花隈駅」から徒歩15分
神戸市営地下鉄山手線県庁前駅」から徒歩20分
神戸市営地下鉄海岸線みなと元町駅」から徒歩5分

周辺の名所・文化施設
中突堤中央ターミナル
中突堤 - ルミナス神戸2が発着、メリケンパークオリエンタルホテル
波止場町TEN×TEN
・中突堤中央ビル - 4階に兵庫エフエム放送
神戸ハーバーランド - 高浜旅客ターミナルコンチェルト
メリケンパーク - 神戸海洋博物館フィッシュ・ダンス神戸港震災メモリアルパーク
旧居留地 - 神戸市立博物館商船三井ビルディングチャータードビル
南京町   

脚注
1. 神戸ポートタワーの実績”. 大林組. 2019年11月14日閲覧。
2. 
a b c ポートタワー27日から休館 名残惜しみ足運ぶ人も」『神戸新聞』、2021年9月21日。2021年11月18日閲覧。
3. 
a b 神戸ポートタワー営業再開、24年春にずれ込み 台風が影響、運営業者も決まらず半年以上遅れ」『神戸新聞』、22022-09-30。2022年10月2日閲覧。
4. 
a b c 2021年09月26日〜2023神戸ポートタワーは年リニューアル工事のため0 8月ごろ休業までいたします。” (PDF). 神戸ポートタワー. 2021年9月21日閲覧。
5. 
Euromast   
6. 
よくある質問 - ウェイバックマシン(2015年5月18日アーカイブ分)
7. 
神戸ポートタワーの「国登録有形文化財」への登録が決まりました!”. 神戸観光局 (2014年7月18日). 2019年11月14日閲覧。
8. 
神戸ポートタワー、7色に変化…改修工事完了」『読売新聞』、2010年4月24日。[リンク切れ
9. 
生まれ変わりました ポートタワーが再オープン」『神戸新聞』、2010年4月28日。オリジナルの2010年4月29日時点におけるアーカイブ。
10. 
神戸ポートタワー開業50周年記念イベント開催 - ウェイバックマシン(2013年11月24日アーカイブ分)
11. 
港都照らし半世紀 神戸ポートタワーで開業50周年式典」『神戸新聞NEXT』、2013年11月21日。オリジナルの2013年11月21日時点におけるアーカイブ。

関連項目
大怪獣決闘 ガメラ対バルゴン - 劇中でバルゴンに破壊される。
ウルトラセブン - 第15話「ウルトラ警備隊西へ・後編」に登場。
昨晩お会いしましょう - 松任谷由実の12thアルバム。
神戸タワー     

外部リンク
神戸ポートタワー
神戸市:神戸ポートタワーの「国登録有形文化財」への登録が決まりました! - ウェイバックマシン(2014年8月12日アーカイブ分)
(wikiより)

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 こちらのお寺にお墓があったのですが戦災にて消失しました。

〇 日本駄右衛門 ( にっぽん - だえもん )
河竹黙阿弥作の歌舞伎狂言「青砥稿花紅彩画」( 1862年初演 ) に登場する、いわゆる白浪五人男の首領。

延享 ( 1744 ~ 48 ) ごろに実在した浪人あがりの盗賊・浜島庄兵衛がそのモデルといわれる。

庄兵衛は当時大坂豊竹座の浄瑠璃「風俗太平記」に出てくる賊徒日本左衛門の名をとって名乗っていたといい、こうした実説は早くも宝暦 13 ( 1763 ) 年歌舞伎に仕組まれ、日本駄右衛門の名はこのときに始まった。

「盗みはすれど非道はせず」という義賊ぶりは当時の風潮だった富豪への反感を反映しており、のちの鼠小僧などを生む因となったが、「もはや四十に人間の定めはわずか五十年」といった無常観には黙阿弥の人生観が裏打ちされている。

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長慶寺(ちょうけいじ)は、東京都江東区にある曹洞宗寺院

概要
1630年寛永7年)に開山された。境内に「蟠龍松」というの大木があったことから山号が「蟠龍山」になったという[1]

かつて、境内には松尾芭蕉翁句塚や日本左衛門の墓があったが、1923年大正12年)の関東大震災で滅失した[1]

交通アクセス
森下駅より徒歩1分。

脚注
1. a b 細田隆善 著『江東区史跡散歩 (東京史跡ガイド8)』学生社、1992年、134-135p

参考文献
細田隆善 著『江東区史跡散歩 (東京史跡ガイド8)』学生社、1992年
(wikiより)

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生誕1932年昭和7年)1月20日
日本の旗 日本東京府
(現:東京都
死没2000年12月5日(68歳没)
東京都
出身校学習院女子短期大学
職業料理研究家

鈴木 その子(すずき そのこ、1932年(昭和7年)1月20日 - 2000年(平成12年)12月5日)は、昭和50年代から平成年代にかけての料理研究家である。本名、鈴木 荘能子(読み同じ)。株式会社トキノ(現在の株式会社SONOKO)を創業した。

人物
東京府(現・東京都)出身。山脇学園中学校・高等学校を経て、学習院女子短期大学食品化学科卒業。

実父の死去後、譲り受けた遺産を元手に株式会社トキノを設立し、拒食症で愛息を失ったことから考案した「鈴木式ダイエット法」を1980年(昭和55年)に本にまとめた『やせたい人は食べなさい』[注 1]」がミリオンセラーとなった。その後は、白米食を中心としたダイエット法の提唱者として、会社経営の他に各地で講演活動を行った。1990年代後半には、その異様に白塗りした仮面のような顔と、テレビ番組出演の際に顔だけ集中的に照明で照らす方法により「美白の女王」として演出した。

1999年(平成11年)3月イレウス発症を機に体調を崩し気味になり、翌年11月下旬に風邪をこじらせて入院して1週間後、肺炎のため急死した[注 2][1]。68歳没。戒名は「白蓮院妙容日苑大姉」。墓所は成田メモリアルパーク。

私生活
短期大学卒業後は、お見合いで結婚し一男一女をもうけ、株式会社トキノ創業までは平凡な専業主婦として過ごしていた。1976年(昭和51年)、拒食症を患っていた息子が、ベランダにいたところ突然倒れそのまま転落死。料理研究家が料理で息子を救えなかったと後悔したことが「鈴木式ダイエット法」考案のきっかけとなった。

政治家、越智通雄の選挙応援を幾度となく行ったことも知られるが、これは越智の永年連れ添った妻が鈴木の学習院時代の同期・親友であったことに由来した。

鈴木は晩年、ホテルニュージャパンの元オーナー・横井英樹が所有していた東京・田園調布の邸宅跡地を購入、自身の邸宅の建設を進めていた。建設は鈴木の死去により中断され、土地は売却された。

出演
テレビ番組
未来ナース TBS系列)
鈴木その子の出番です テレビ東京系列、製作:テレビ愛知
笑っていいとも!(フジテレビ系列、1999年1月 - 2000年11月※不定期出演)[2]
愛する二人別れる二人(フジテレビ系)
・ドラマヤマダ一家の辛抱 (TBS系列)山田寿美恵役
・ドラマ天国に一番近い男 第5話 (TBS系列) 本人役

著書
・やせたい人は食べなさい 減量常識を破る奇跡の鈴木式(1980年、発行:祥伝社ISBN 4-396-10170-8
・やせたい人の献立集 食べてやせる和・中・洋食と外食の知恵(1980年、発行:祥伝社)
・3週間でやせる毎日のおかず(1981年、発行:二見書房
・カロリーなんか忘れなさい 食べて・やせる・鈴木式健康法(1983年、発行:祥伝社、ISBN 4-396-10225-9
・鈴木その子のスーパーダイエット 常識革命・食べなければやせない!(1984年、発行:小学館ISBN 4-093-06006-1
・男のスーパーパワー 鈴木その子の食養法 健康革命・食べて、やせて、活力を得る(1985年、発行:小学館、ISBN 4-093-06011-8
・鈴木その子の秘密のスーパーダイエット(1985年、発行:小学館、ISBN 4-093-29013-X
・食因病に克つ 鈴木その子の食療革命 食で冒された体は"食"で治す(1986年、発行:小学館、ISBN 4-093-06017-7
・鈴木式・食べ方の処方箋 成人病からドカ食いまでを治す調理のコツ(1986年、発行:祥伝社、ISBN 4-396-10265-8
・鈴木その子のやせるクッキングテクニック ごはんを中心にしっかり食べて 2週間で5kgらくらくやせる(1986年、発行:主婦の友社
・新・やせたい人は食べなさい 奇跡の鈴木式・スーパー・ダイエット(1990年、発行:祥伝社)
・奇跡のダイエット 美と健康を求めて(1992年、発行:小学館、ISBN 4-093-97411-X
・鈴木その子のやせる調理革命(1992年、発行:講談社ISBN 4-062-05991-6
・鈴木その子のダイエットへの道 美しく健康な明日の自分を創るために(1993年、発行:海竜社ISBN 4-759-30355-3
・鈴木その子の美肌革命 食べて・美しくなる・真の化粧法(1993年、発行:講談社、ISBN 4-062-06697-1
・やせるダイエット革命(1993年、発行:三笠書房
・時のダイエット鈴木式の極意 肥満・成人病から自分を守るのはもう一人の自分(1994年、発行:祥伝社、ISBN 4-396-10348-4
・鈴木その子のダイエット心理作戦 香りと神経・香りと食事(1994年、発行:講談社、ISBN 4-062-07065-0
・マンガでバッチリ!!鈴木式ダイエット(1995年、発行:祥伝社、ISBN 4-396-10362-X
・過食・拒食からの脱出 トキノ会10万人のデータからの処方箋(1995年、発行:祥伝社、ISBN 4-396-10373-5
・幸せをよぶダイエット 鈴木その子のタリズマンパワー(1996年、発行:海竜社、ISBN 4-759-30461-4
・鈴木その子のやせる水・太る水 誰も書かなかった水の話(1996年、発行:講談社、ISBN 4-062-08271-3
・鈴木その子の<超>ダイエット法(1996年、発行:三笠書房、ISBN 4-837-90821-7
・鈴木その子のDQ やせる法則がわかった!(1997年、発行:祥伝社、ISBN 4-396-10396-4
・キレるキレないは「食」で決まる(1998年、発行:祥伝社、ISBN 4-396-10398-0
・その子の美容革命 白肌は絶対おトクよ!(1998年、発行:祥伝社、ISBN 4-396-10402-2
・鈴木その子の幸せをつくる生き方(1999年、発行:海竜社、ISBN 4-759-30582-3
・やせたい人は食べなさい 決定版(1999年、発行:祥伝社、ISBN 4-396-31126-5
・鈴木その子のおしゃれレクチャー(1999年、発行:KKベストセラーズISBN 4-584-01059-5
・鈴木その子のキレイになれる美造講座(2000年、発行:小学館、ISBN 4-093-97412-8
・鈴木その子のやせる本格レシピ 美白とスリムのトキノの調理法、教えます(2000年、発行:主婦の友社、ISBN 4-072-28690-7
・鈴木その子のシンプル・ダイエット(2000年、発行:三笠書房、ISBN 4-837-96049-9
・鈴木その子のこれが究極!食べてやせる料理(2000年、発行:小学館、ISBN 4-09-397413-6
・カロリーなんか忘れなさい 完全版(2001年、発行:祥伝社、ISBN 4-396-31279-2
・その子(2001年、発行:新潮社ISBN 4-10-443601-1

その他
2000年(平成12年)に講談社の月刊少女漫画雑誌『デザート』において、『鈴木その子物語』(漫画:寄田みゆき)と言うタイトルで彼女の半生が描かれた漫画が掲載され、単行本も発売されている。

テレビドラマ放送枠『DRAMA COMPLEX』(日本テレビ)内で2006年(平成18年)に放送されたエピソード、『ダイエットの女王 鈴木その子』[3]では、坂下千里子が20代の鈴木その子役、加賀まりこが30代から晩年の鈴木その子役をそれぞれ演じた。

脚注
注釈
1. 自身のモットーでもある。
2. 
死亡時刻は、2000年(平成12年)12月5日午前4時45分。

出典
1. 
日刊スポーツ 訃報 
2. 
鈴木その子 - オリコンTV出演情報 
3. 
2006年(平成18年)4月25日放送

関連項目
浅草キッド その子ライトの発案者
JR東海313系電車 - 前面が白いことから「その子」と呼ばれることがあった

外部リンク
創業者 鈴木その子 | SONOKO公式オンラインショップ
  ・鈴木その子の生涯 | SONOKO公式オンラインショップ
20世紀日本人名事典鈴木その子』 - コトバンク  
(wikiより)

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⇧ 鈴木その子

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陽岳寺(ようがくじ)は、東京都江東区にある臨済宗妙心寺派寺院

概要
1637年寛永14年)、向井忠勝の開基である。江東区内で「東京都旧跡」に指定されている文化財が11点あるが、その内の4点が当寺にある[1]

1923年大正12年)の関東大震災で、建物や寺宝の多くを失っている。現在の本尊は、同宗派大本山の妙心寺にあった塔頭実相院(現在は廃寺)にあったものである[2]

墓所これらはいずれも東京都旧跡に指定されている[1]
向井忠勝(開基、御船手奉行)
  忠勝の子孫は代々幕府の海事官僚を歴任している。

・伏見義民
  伏見奉行小堀政方の悪政を幕府に直訴した文珠九助、丸屋久兵衛、麹屋伝兵衛の3人の墓である。

英信勝画家
  英一蝶の長男で「二代目英一蝶」を名乗った。一蝶の三宅島流刑時代に産ませた子である。

観嵩月画家
  英派の画家で高嵩谷の弟子である。

交通アクセス
門前仲町駅より徒歩5分。

脚注
1. 
a b 細田隆善 著『江東区史跡散歩 (東京史跡ガイド8)』学生社、1992年、64-66p 
2. 
陽岳寺について陽岳寺

参考文献
細田隆善 著『江東区史跡散歩 (東京史跡ガイド8)』学生社、1992年

外部リンク
臨済宗妙心寺派長光山陽岳寺ホームページ   
(wikiより)

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心行寺(しんぎょうじ)は、東京都江東区にある浄土宗寺院

概要
1616年元和2年)、岩国領領主吉川広嘉の妻の養源院の開基である。元々は八丁堀町(現・東京都中央区八丁堀)に位置していたが、1633年寛永10年)に現在地に移転した[1]

かつては末寺として「影窓院」「正寿院」があったが、現在は統合している[2]

深川七福神
深川七福神福禄寿が、当寺の六角堂に安置されている[3]

1970年昭和45年)に復活した七福神巡礼札所で、1975年(昭和50年)に六角堂が建てられ、翌年に福禄寿像が安置された[1]

墓所
・養源院(開基)
工藤平助経世論の論者)
五代目鶴屋南北歌舞伎役者
松本交山画家
・井上氏(米問屋「鯉屋」の当主)

交通アクセス
門前仲町駅より徒歩5分。

脚注
1. a b 細田隆善 著『江東区史跡散歩 (東京史跡ガイド8)』学生社、1992年、67-69p
2. 
心行寺について心行寺
3. 
心行寺江東区観光協会「江東おでかけ情報局」

参考文献
・細田隆善 著『江東区史跡散歩 (東京史跡ガイド8)』学生社、1992年

外部リンク
浄土宗双修山心行寺   
(wikiより)

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