本牧jack『意外と身近にある歴史散歩』日々是好日 心灯 頬笑

本牧Jackで御座います
小生の拙ブログ『意外と身近にある歴史散歩』日々是好日 心灯 頬笑に御訪問頂き誠に有難う御座います。
歴史ドラマが流行っている昨今、身近に有って気が付かなかったりする様な物を取り上げたりしています。
たまに『 多人数で取材しているのか? 』との質問を戴きますが、小生と相方の二人三脚で御座います。
出来るだけ続けたいと思っていますが 膝・耳に問題が有って、いつまで出来るやら・・・説明も、やたら長いものから あっさりしたものまで有りますが、御付き合いの程 宜しく御願い致します。
御注意 . 少ないですが生前に建てられた『 生前墓 』の記事も有ります。 ※ 申し訳御座いませんが「画像の転用」は禁止とさせて頂きます。 コメントは原則公開させていただいております 質問等に対してはブログ記事で返信させていただきます 他の方法で連絡を取り合う等一切しません 場合によっては、「IPブロック」しますがブロックした場合解除する事は有りませんので宜しくお願いします。

2025/09

呉のツアーに申し込んだ際の食事「呉海軍グルメ・艦隊特別会席」でいただいたものです。

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⇧ 店外観

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⇧ お酒のメニュー

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⇧ やっぱり熱かん 千福 黒松

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⇧ 相方はライムサワー

先付 タコの酢味噌和え 「戦艦・扶桑」を
撮影するのを忘れてしまいました。
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⇧ 向付 鮪の湯引きちり入り 「軽巡洋艦・鬼怒」
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⇧ 焼物 鰻の蒲焼き 焼き茄子 「潜水母艦・大鯨」
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⇧ 蓋物 鯛のけんちん蒸し 「一等巡洋艦・愛宕」 DSC_0184
⇧ 油物 ウエールスモールカツレツ 「戦艦・長門」
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⇧ 蒸物 和牛すき焼き 「戦艦・陸奥」
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⇧ 食事 鯛めし 「海軍料亭五月荘・名物」   止椀 鹽ますの味噌汁 「戦艦・扶桑」
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⇧ 水菓子 まぼろしの白玉ぜんざい 「戦艦・大和」
なぜ幻なのかは、大和が呉に帰って来れなかったからです。

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⇧ 千福 黒松が美味し過ぎて4本も飲んじゃいました。


呉 : 五月荘 ( お店ホームページ )






この石柱は、江の島への道筋に建てられた道標 ( どうひょう ) の一つです。

江の島弁財天道標は、管を用いて鍼 ( はり ) をさす管鍼術 ( かんしんじゅつ ) を、江の島で考案したという杉山検校 ( すぎやまけんぎょう ) が寄進したと伝えられ、現在市内外に十数基が確認され、そのうち市内の十二基が藤沢市の重要文化財に指定されています。

すべて頂部のとがった角柱型で、その多くが、正面の弁財天を表す梵字 ( ぼんじ ) の下に「ゑ ( え ) のしま道」、右側面に

「一切衆生 ( いっさいしゅじょう )」、左側面に「二世安楽 ( にせあんらく )」と彫られています。

この文言は、江の島弁財天への道をたどるすべての人の現世・来世での安穏・極楽への願いが込められています。

この道標は、平成十一年 ( 1999 ) 一月、ここより170メートル南の洲鼻 ( すばな ) 通りの地下から、道路工事中に発見され、追加の指定を受けたものです。
(案内板より)

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呉で老舗のコーヒー屋さんです

店頭ではホット、アイスコーヒーと生カフェオレの販売もしており

店内では季節限定のコーヒーを含む、約 40数種類の販売もされております。

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⇧ 購入したアイスコーヒーS、生カフェオレ。


呉 : 昴珈琲店







小森 和子(こもり かずこ、1909年(明治42年)11月11日 - 2005年(平成17年)1月8日)は、映画評論家タレント。 旧姓は安彦(あびこ)。愛称は「(小森の)おばちゃま」。

プロフィール
生い立ち
東京府東京市赤坂区(今の東京都港区赤坂)に生まれ育つ。実家は裕福であった。小学校は赤坂区内に通い、当時麻布区にあった東京府立第三高等女学校(現・東京都立駒場高等学校)を卒業した、今風に言えば港区育ちである。高等女学校卒業後、『婦人公論』誌編集部で見習い記者を務める。

会社員から結婚
関係を持った菊池寛の運営する『映画時代』誌編集部へ移り、さらに京都で作家の川口松太郎の愛人生活を送るようになる。その後、神戸にあったイギリスの船舶会社『P&O』の日本支店で会社員生活を送る。


神戸で会社員時代に知り合った、日本放送協会元会長・小森七郎の息子の小森一郎と32歳で結婚。その後第二次世界大戦終盤に神奈川県藤沢市鵠沼に疎開し、戦争の終結を迎えた。

映画評論家に
映画好きが昂じて1947年(昭和22年)に『映画の友』誌の編集部に入り、当時の編集長の淀川長治の勧めで映画評論活動を開始。のち一身上の都合で『映画の友』誌の編集部を一方的に辞職し、そのために淀川と一時険悪な関係にあった。

アメリカの映画俳優ジェームズ・ディーンの熱狂的崇拝者として有名で、エピソードも多い。作家の三島由紀夫が戦後早々と渡米して、ジェームズ・ディーン行きつけのバーを訪れたことを知るや、「その時にあなたが穿いていたズボンを頂戴。ジミーが座っていた場所に座っていた、そのズボンを」と要求し、三島を驚かせた。 また『太陽の季節』がベストセラーになると、作家の石原慎太郎宅を訪れジェームズ・ディーンの代表作『理由なき反抗』について感想を述べてほしいと要請するが、石原から断られている[1]

渡米
48歳で小森一郎と離婚し、まだ日本人の渡米が困難だった1958年(昭和33年)、単身渡米して、ジェームズ・ディーンの墓参を果たすと共に、『映画の友』編集者時代からの親友シャーリー・マクレーンの紹介でハリウッドを訪問。

当時まだアメリカの映画界では日本人女性が大変珍しかったのでフランク・シナトラたちから大歓迎を受けた。シャーリー・マクレーンの娘サチコ(女優のサチ・パーカー)の名前は小森の命名による。なおこの渡米ではニューヨークで作家の檀一雄と恋愛関係になった。

バラエティ人気
話を切り出す際の一人称として「おばちゃまはねぇ…」と言っていたこともあり、「(小森の)おばちゃま」として親しまれた。1980年代から1990年代にかけて片岡鶴太郎が小森のものまねをしたことがきっかけでバラエティ番組の出演も増加し、玉ねぎ型の髪型とその喋りや人柄から人気を得た。

映画ファンが集まり語り合う場所として、六本木でムービーサロン『ココ』を20年に亘って主宰した。そこで働いていた従業員の女性を気に入り、独り身であった小森は「養女にならないか」と度々誘い、最初は女性は断っていたが、後述される小森の容態が悪くなってからは、小森の介護をするために養女となる。1992年(平成4年)に熊本県熊本市の映画サークルに、映画評論家時代の映画資料1万点を寄贈。

晩年
1995年(平成7年)3月に自宅で転び、更に転んだ先に暖房ヒーターがあり、ヒーターの熱風で顔に火傷を負ってからはマスメディアに露出することがなくなり、1998年(平成10年)11月に車椅子で淀川長治の葬儀に出席したのが公の場に姿を見せた最後となる。晩年の10年はパーキンソン病老人性認知症うつ病を患い、寝たきりの状態で自宅療養生活を送り、養女が介護していた。

死去
2005年(平成17年)1月8日1時42分、呼吸不全のため東京都の自宅で死去。95歳没。墓所は染井霊園。小森の訃報を受けて、弔問に訪れた鶴太郎は小森に敬意を示して「もう小森さんのものまねは封印します」と涙ながらに宣言した。その後2014年10月10日放送の「爆報! THE フライデー」で晩年の小森の特集をした際、親しかった人物として鶴太郎が登場して小森について語り、VTR終盤で小森の気持ちを想像した小森のものまねを久々に披露した。

小森の資産は貯金と不動産を合わせて4億あると言われ、その資産が全て無くなっている事から、小森の養女が食い潰したとしてマスコミのバッシングを浴び、多くの報道陣が小森の養女の自宅に押しかけるが、一切コメントをしなかった。その後、前述の「爆報〜」で養女がインタビューに応じ、自身が肺気腫で余命半年ということを明かした上で、生きている内に全てを話そうと小森の晩年や資産の使い道を明かした。その中で、資産は小森の入院費や自宅のバリアフリー化、友人からの介護施設の投資話を持ちかけられ、小森のためにと出資するが、介護施設の運営が赤字となって結局解任させられる。そのような事があって小森の資産を使い切ったが、小森も容認しており、決して私利私欲のために使っていなかったと語った。

その他
・奔放な性遍歴と率直な人柄の持ち主としても知られ、菊池寛川口松太郎檀一雄の愛人だったことを自ら述懐している。
・1991年度より開催されている日本映画批評家大賞の立ち上げに関わった一人であり、小森の没後の第14回(2004年度)より、新人女優に対する表彰に「小森和子賞」の名がつけられている。

著書
・スター・ア・ラ・カルト じかに会った素顔の味わい(エヌピー出版1975年
・『流れるままに、愛』集英社、1984年4月25日。NDLJP:12261335
・『おばちゃまのモア・ベター人生論』講談社、1984年11月11日。NDLJP:12194652
・映画はわたしの恋人 おばちゃまのシネマ人生80年(近代映画社1990年

小森和子を演じた女優
久本雅美」(テレビ朝日2004年

出演歴
バラエティ
笑っていいとも!フジテレビ、1983年10月 - 1984年9月 ※火曜日担当)
ライオンのいただきます(フジテレビ)
オールナイトフジ(フジテレビ)
いきなり!フライデーナイト(フジテレビ)
・爆笑!オールスターものまね王座決定戦(フジテレビ、※審査員)
鶴ちゃんのプッツン5(日本テレビ)
ファンキートマトテレビ神奈川

ドラマ
大江戸捜査網(1983年、テレビ東京
  ・3シリーズ第508話「下手人は父ちゃんだ!」 - 長屋の女 役
ライオン奥様劇場 / 動物だぁーいすき!(1983年、フジテレビ)
月曜ドラマランド(フジテレビ)
  ・「ハーイ!あっこです」(1984年)
  ・「ひまわりくん」(1985年)
花の女子校 聖カトレア学園(1985年、テレビ東京)
月曜ワイド劇場 / 燃えて尽きたし 姑がボケた!(1985年、テレビ朝日

CM
森永製菓小枝」(1976年 - 1977年・1990年代 ※ナレーター)
ライオンエメロンシャンプー」(1983年 ※ナレーター)
祐徳薬品工業「パスタイムH」 - 三遊亭楽太郎と共演。
WOWOW - おすぎらと共演。

脚注
1. 石原慎太郎『弟』幻冬舎、1996年[要ページ番号]


参考資料
・日刊スポーツ「小森のおばちゃま」小森和子さん天国へ[リンク切れ]

・小森晴子「養女が語る 小森のおばちゃまナイショの話」『新潮45』新潮社、2005年(平成17年)3月号
(wikiより)


14 小森和子

小森和子

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たまたま買いに行ったら物凄い行列で ( 2020.  8.22 ) 並んで購入しました。

なんとナイルレストランのお隣りだったんですね

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銀座 : 月と花 ( 食べログ )






渡辺 渡(わたなべ わたる、安政4年7月27日1857年9月15日) - 大正8年(1919年6月29日[1])は、日本冶金学者

人物・生涯
長崎県出身。大学南校を経て、1879年明治12年)、東京大学理学部を卒業し、東京大学校助教授となった。

1882年(明治15年)から1885年(明治18年)まで冶金鉱山学研究のためドイツに留学し、フライベルク鉱山大学に学ぶ[2]1886年(明治19年)、東京帝国大学工科大学教授に就任し、農商務省技師を兼ね佐渡鉱山局に勤務した。また宮内省で御料鉱山設置の構想が進むと、御料局技師・理事・佐渡支庁長に任命された。

1891年(明治24年)には工学博士の学位を得た。しかし1896年(明治29年)に御料鉱山構想が中止になると退官した。しかし翌年に再び工科大学教授に任命され、農商務省鉱山局長を兼ねた。

1899年(明治32年)、局長を辞し欧米に出張した。1902年(明治35年)から工科大学長を務めた。

親族
・父・渡辺真 - 東京府平民[3]
・妻・すみ - 台北賓館台湾神宮などを手掛けた建築家福田東吾(1855年-1917年)の妹[3]
・長女・つな(1880年生) - 横堀治三郎の妻[3]
・二女・禄(1882年生) - 加茂正雄の妻[4]
・長男・渡辺仁(1887年生) - 東京帝大建築科卒。建築家。岳父に菊池武夫 (法律家)[5]
・三女・義乃(1890年生) - 古宇田實の妻[6]
・二男・礼(1894年生) - 法学士
・四女・智聰子(1897年生)
・五女・信夫(1899-1970) - 医師・堀江恭一(1889-1962)の妻[7]。婚家の堀江家は天正年間より中野郷(現・東京都中野区)の名主を務めた旧家で、恭一の父・堀江悦之助は地主で銀行家[8]。継母の松江は石坂泰三の姉[7]。弟の堀江重賢は日本ステンレス副社長、住友金属工業常務取締役[9][10]。信夫・恭一夫妻には子がなく、屋敷の半分を中野バプティスト教会に売却し、信夫の遺言でもう半分を老人福祉センター設立のために中野区に寄附した[9]
・三男・渡辺誠(1903年生) - 商工省鉱山局技師

脚注
1. 
『官報』第2072号、大正8年7月2日。
2. 
20世紀日本人名事典『渡辺 渡』 - コトバンク   
3. 
a b c 渡辺渡『人事興信録』第4版 [大正4(1915)年1月]
4. 
『人事興信録. 第13版(昭和16年) 上』加茂正雄
5. 
渡辺仁『人事興信録』第13版(昭和16年) 下
6. 
『人事興信録. 第13版(昭和16年) 下』渡辺仁
7. 
a b 堀江恭一『人事興信録』第8版 [昭和3(1928)年7月]
8. 
『東京府豊多摩』豊多摩郡、1916年、p387   
9. 
a b 中野区の敬老館から「堀江」の名が消えた顛末 (2022年6月)中野非公式リポート
10. 役員住友金属工業(株)『住友金属工業最近十年史 : 創業七十周年記念』(1967.06)

参考文献
・「東京帝国大学工科大学教授渡辺渡叙勲ノ件」 アジア歴史資料センター Ref.A10112853200

外部リンク
デジタル版 日本人名大辞典+Plus『渡辺渡』 - コトバンク      
「渡辺渡」横断検索 - ジャパンサーチ(BETA)
(wikiより)


13 渡邊渡

渡邊 渡

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宿泊したホテルの並びにあったお店です。( 横浜馬車道 )

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⇧ 店外観

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⇧ 色々なタイプが有りました。

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⇧ 良い雰囲気です。

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⇧ パンもモッチリ美味しかったです。



Toaster! ( お店ホームページ )





伊藤正次

俳優

イトウ演劇研究所主催

伊藤鉄衛・次男。
(墓碑より)


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サザンオールスターズ宮城ライブ終了後に立ち寄った店です ( 2013. 9.22 )

とにかく早めに入店して良かった ライブ参加客が続々入店して即満員でした。

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⇧⇩ メニュー

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⇧⇩ いかぽっぼ焼き

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⇧ 牡鹿半島黄金がき焼き

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⇧ かつをわら炙り

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⇧ 馬刺し

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⇧ 沢がにの唐揚げ

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⇧ 鶏もも焼き


仙台 : 牡鹿半島 ( お店ホームページ )





花柳若奈( 本名 : 伊藤栄 )で、作家・山口瞳の妹。

1970年代に活躍した歌手のデイビッド&ミシェルは、ジェリーと若奈の子供である。

ジェリー伊藤の妻、日本舞踊家。

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本名ジェラルド・タメキチ・イトウ
生年月日1927年7月12日
没年月日2007年7月8日(79歳没)
出生地アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国ニューヨーク州
死没地アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国カリフォルニア州ロサンゼルス
職業歌手俳優
活動期間1957年 - 1997年

ジェリー 伊藤ジェリー いとう[1][2]1927年昭和2年〉7月12日[1] - 2007年平成19年〉7月8日)は、日本歌手俳優アメリカ合衆国ニューヨーク生まれ[1]。本名ジェラルド・タメキチ・イトウ[3][2]

来歴・人物
で活躍した日本人ダンサー・振付師である伊藤道郎の次男[注釈 1]。母親のヘイゼル(Hezel Wright)は道郎のダンサー仲間で、ジェリーのほかに長男ドナルドをもうけた[5][6]。俳優で演出家千田是也に当たる[1][4][2]。祖父の伊藤為吉服部時計店銀座)などの設計を担当した建築家として知られる。自身の妻は日本舞踊家の花柳若奈(本名:伊藤栄)[3]で、作家山口瞳の妹。1970年代に活躍した歌手のデイビッド&ミシェルは、ジェリーと若奈の子供である。

生まれてすぐロサンジェルスに転居、真珠湾攻撃勃発により父親がスパイ容疑で収監され、ジェリーらはニューヨークの母方の親戚宅に身を寄せた[7]。父親はミズーラ (モンタナ州)司法省のキャンプに2年間留置されたのち、日本に送還され、音信不通となった[7]。戦後すぐアメリカ海兵隊員として来日して父親探しを始め、GHQの劇場で働く父親と再会した[7]。ニューヨークに戻りニュースクール大学の演劇を学び、"All the President's Men"でブロードウェイデビューしたが、朝鮮戦争で再び従軍、1950年代に再来日して花柳若奈と結婚した[7]。若菜とは父を通してニューヨークで知り合っていた[7]

モスラ』の悪役など多くの映画やテレビドラマ、さらにはCMミュージカルなどでも活躍した[1]

1995年からNHK教育テレビ『英語であそぼ』(現『えいごであそぼ』)の第3シリーズに出演したが、3年間続いた同シリーズ最終年度に入る直前の1997年脳溢血で倒れ、途中降板。但し、オープニングをはじめ1996年度までに収録された映像は継続して使用された為、1997年度も正式な出演者として扱われていた。

晩年はアメリカで生活していたが、ゴジラ関連のイベントで共演した小泉によれば伊藤は日本を懐かしがっていたという[8]

2007年7月8日午前8時(日本時間同日深夜)、肺炎のためロサンゼルス市内の自宅で死去。79歳没[3]。墓所は染井霊園

エピソード
トワ・エ・モワ越路吹雪の歌唱で知られる「誰もいない海」は、1967年NET木島則夫モーニングショー』に出演していた伊藤の「今週の歌」のために書かれた曲である。

モスラ』の監督を務めた本多猪四郎は、伊藤は日本語がうまくなかったが、脚本を読むのには不自由はなかったという[4]。同作品の企画時に、アメリカ側からハーフである伊藤がアメリカ人に見えないとの意見が挙がったが、本多は日本語がわかることを理由に伊藤を推したという[4]

『モスラ』で共演した小泉博は、伊藤について人懐っこく誰にでも話しかけて友達になる性格であったと証言しており[8]、小泉とも同作品で仲良くなったという[8][9]。子役として同作品に出演した田山雅充も、伊藤は明るく、共演者の中村哲とともによく冗談を言っていたと述懐している[10]

出演作品
映画
海の野郎ども(1957年) - アラブ人A
・双頭の殺人鬼(1959年) - 捜査官アイダ
モスラ(1961年) - クラーク・ネルソン[1][2]
世界大戦争(1961年) - ワトキンス[11][2]
ニッポン無責任野郎(1962年) - ゲーリー
・やぶにらみニッポン(1963年) - ジョン町平
国際秘密警察 指令第8号(1963年) - ケント
江分利満氏の優雅な生活(1963年) - ピート
君も出世ができる(1964年) - マクレガー
新網走番外地(1968年) - ジミー中田
・舶来仁義 カポネの舎弟(1970年) - ヒューバー
ゴルゴ13 九竜の首(1977年) - ポランスキー
宇宙からのメッセージ(1978年) - 連邦軍司令

テレビドラマ
私は貝になりたい(1958年) - MP [注釈 2]
でっかい青春 第9話「はくらい剣法」(1967年12月24日) - ジェリー高井
マイティジャック 第6話「熱い氷」(1968年) - ロベール岡村
まぼろし城 小西寿安 (1968年、MBS)
大河ドラマ
 ・三姉妹(1967年) - アーネスト・サトウ
 ・竜馬がゆく(1968年) - アーネスト・サトウ
 ・勝海舟(1974年) - アーネスト・サトウ
 ・花神(1977年) - エドワード・スネル
ジョン万次郎(1968年)
フジ三太郎 第10話「東京には空気がない」(1968年)
素浪人 花山大吉 第57話「母は異国の人だった」(1970年) - ドニケル・ウィルマン(通称:ドンケル)
NHK特集 / 日本の戦後(1977年) - コートニー・ホイットニー
UFO大戦争 戦え! レッドタイガー(1978年) - 天野博士
大都会 PARTIII 第38話「国際密輸ルート」(1978年) - シャルウィン・シャン
江戸川乱歩の黄金仮面 妖精の美女(1978年) - ジョルジュ・ポワン(フランス大使館員)
特捜最前線 第103話、第104話「帰ってきたスキャンダル刑事!」(1979年) - ミヤモト(ジョージ原口)
特命刑事 第4話「危険海域」(1980年) - ガルシア(某国駐日大使)
非情のライセンス 第3シリーズ 第20話「兇悪の父娘 スパイ・イン・東京」(1980年) - チャーリー・E・クロフォード
加山雄三のブラック・ジャック 第5話「魔王大尉」(1981年) - ケネス大尉
大奥 第22話「不倫の円舞曲」(1983年)
嫁姑・陣取り合戦(1985年)
太陽にほえろ! 第691話「さらば! 山村刑事」(1986年) - トーマス・ベルナルド(バルジ共和国書記官)

教養番組
英語であそぼ 第3シリーズ「プラネット・パラダイス」(1995年 - 1998年) - グランパ・ジェリー

CM
資生堂男性用化粧品(初代男性モデル)

脚注
注釈
1. 
本多猪四郎は、父親を道郎の弟である伊藤熹朔と誤認していた[4]
2. 
クレジットは「ジェリー・イトウ」。

出典
1. 
a b c d e f 東宝特撮映画全史 1983, p. 530, 「怪獣・SF映画俳優名鑑」
2. 
a b c d e ゴジラ大百科 1993, p. 121, 構成・文 岩田雅幸「決定保存版 怪獣映画の名優名鑑」
3. 
a b c “俳優、歌手のジェリー伊藤さん死去”asahi.com. (2007年7月10日) 2009年7月1日閲覧。
4. 
a b c d 「本多猪四郎監督 長編インタビュー(1)」『モスラ / モスラ対ゴジラ』東宝出版事業室〈東宝SF特撮映画シリーズVOL.2〉、1985年1月1日、148-149頁。ISBN 4-924609-04-8
5. 
"Michio Ito: The Dancer and His Dances"Helen Caldwell, University of California Press, 1977, p91-97
6. 
Vaner Kingancestry 
7. 
a b c d e New Legs for a LegendLos Angels Times, March 24, 1998 
8. 
a b c モスラ映画大全 2011, p. 19, 聞き手・友井健人「インタビュー 俳優 小泉博」
9. 
別冊映画秘宝編集部 編「小泉博(構成・文 浦山珠夫/『映画秘宝』2010年4月号掲載)」『ゴジラとともに 東宝特撮VIPインタビュー集』洋泉社〈映画秘宝COLLECTION〉、2016年9月21日、23頁。ISBN 978-4-8003-1050-7
10. 
モスラ映画大全 2011, p. 51, 聞き手・友井健人「インタビュー 子役 田山雅充」
11. 
東宝特撮映画全史 1983, p. 536, 「主要特撮作品配役リスト」

参考文献
・『東宝特撮映画全史』監修 田中友幸東宝出版事業室、1983年12月10日。ISBN 4-924609-00-5
・『ENCYCLOPEDIA OF GODZILLA ゴジラ大百科 [メカゴジラ編]』監修 田中友幸、責任編集 川北紘一Gakken〈Gakken MOOK〉、1993年12月10日。
・『別冊映画秘宝 モスラ映画大全』洋泉社〈洋泉社MOOK〉、2011年8月11日。ISBN 978-4-86248-761-2

外部リンク
・『ジェリー伊藤』 - コトバンク
ジェリー伊藤 - allcinema
ジェリー伊藤 - KINENOTE ウィキデータを編集
ジェリー伊藤 - 映画.com
Jerry Itô - IMDb(英語)
(wikiより)


10 ジェリー 伊藤

ジェリー 伊藤

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ミチオ・ダナルド・イトウ
( 1924.11 - 1980.5.7 )

宝石デザイナー

道郎の長男、ニューヨークで没。
(墓碑より)  

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伊藤貞亮
( 1908. 8. 3. - 2001. 1. 9. )

建築家、ビオラ奏者。
(墓碑より)

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本名伊藤 キシ
生年月日1905年5月1日
没年月日1990年5月10日(85歳没)
出生地日本の旗 日本北海道
職業女優
ジャンル演劇劇映画時代劇現代劇トーキー)、テレビ映画
活動期間1925年 - 1974年
配偶者東屋三郎(? - 1935年)
千田是也(1942年 - 1990年)
主な作品
映画
野良犬
キクとイサム
喜劇 にっぽんのお婆あちゃん
にっぽん昆虫記
白い巨塔
受賞
芸術祭奨励賞(1966年)

岸 輝子(きし てるこ、本名:伊藤 キシ[1]〈いとう キシ〉、1905年5月1日[1] - 1990年5月10日[1])は、日本女優。夫は千田是也[1]。千田らとともに劇団俳優座を創設。

来歴・人物
北海道出身[1]北海高等女学校卒業[1]。一旦は就職すものの俳優を志し、1925年築地小劇場に入り[1]研究生となる。初舞台は、『寂しき人々』。築地小劇場の分裂を経て、1936年新築地劇団に入団[1]1940年に弾圧による解散[2]後、1944年2月に青山杉作、千田、東野英治郎小沢栄太郎東山千栄子ら10人で劇団俳優座を創立[3]、以降俳優座の中心女優として活躍し、多くの舞台に立った。『肝っ玉おっ母とその子供たち』はその代表作で、1966年芸術祭奨励賞を受賞している。1963年東山千栄子村瀬幸子永井智雄らとヨーロッパへ演技研究に出かけている。

舞台のほか、映画でも活躍。映画デビューは小山内薫監督の『黎明』(未公開)。戦後から本格的に活動し、黒澤明監督の『野良犬』を筆頭に、多くの作品に登場した。

特に母親役や老け役で名演を残しており、日本を代表する老け役の1人でもあった。

その一方で、福祉活動や反戦運動にも尽力している。1962年10月19日に結成された「新日本婦人の会」の創立に当たり、32人のよびかけ人のうちの1人として平塚らいてうらとともに名を連ねた[4]

私生活では、東屋三郎と結婚するも、1935年に死別。1940年に千田と同棲、同年新劇人に対する大がかりな弾圧がおこなわれ[2]、千田は逮捕・投獄されるが1942年に出所、同年千田と結婚[1]した。

1990年5月10日死去、85歳没[1]。墓所は染井霊園

主な出演作品
映画
・黎明(1927年、ミナトーキー)
・求婚三銃士(1936年、P.C.L.)
・流旅の人々(1941年、南旺映画・第一協団)
女優須磨子の恋(1947年、松竹)
・結婚(1947年、松竹) - 下宿主婦
野良犬(1949年、映画芸術協会・新東宝) - スリのお銀
・レ・ミゼラブル ああ無情(1950年、東横) - お六
海の花火(1951年、松竹) - 母さみ
・慾望(1953年、近代映画協会) - 山崎久子
思春の泉(1953年、新東宝・俳優座) - そで子婆さん
雲ながるる果てに(1953年、重宗プロ・新世紀映画)
・勲章(1954年、俳優座) - 菊子
・市川馬五郎顛末記 浮草日記(1955年、山本プロ) - 太田の婆さん
処刑の部屋(1956年、大映)
夕やけ雲(1956年、松竹) - 菓子屋のお神さん
日本橋(1956年、大映) - 蒟蒻島の阿婆
森は生きている(1956年、民芸・独立映画)
あらくれ(1957年、東宝) - お島の母
危険な英雄(1957年、東宝)
純愛物語(1957年、東映) - ドヤのかみさん
怒りの孤島(1958年、日映) - 妻トリ
人間の條件(1959年、松竹) - 岡崎の妻
荷車の歌(1959年、全国農村映画協会) - 姑
惜春鳥(1959年、松竹) - 桃沢たね
キクとイサム(1959年、大東映画) - おかつ
人間の壁(1959年、山本プロ) - 与田消防団長夫人
武器なき斗い(1960年、大東映画) - さき
松川事件(1961年、松川事件劇映画製作委員会) - 園子の母・タニ
飼育(1961年、大宝) - 塚田ます
喜劇 にっぽんのお婆あちゃん(1962年、MIIプロ) - いじわるばあさんかく
二人で歩いた幾春秋(1962年、松竹) - その母
にっぽん昆虫記(1963年、日活) - 松木りん
五番町夕霧楼(1963年、東映) - おみね
砂の上の植物群(1964年、日活) - 女将
猟人日記(1964年、日活)
・白昼の通り魔(1966年、創造社) - シノの祖母
白い巨塔(1966年、大映) - 東政子
眠狂四郎人肌蜘蛛(1968年、大映)
私が棄てた女(1969年、日活) - 森田キネ
・サマー・ソルジャー(1972年、勅使河原プロ) - 母親
サンダカン八番娼館 望郷(1974年、東宝・俳優座) - ナミ

テレビドラマ
東芝土曜劇場 第5話「草を刈る娘」(1959年、CX)
・菊池寛シリーズ / 海の勇者(1959年、NTV)
・おかあさん(TBS) 
第91話「笑いと波の音」(1961年)
 ・第144話「愛の代償」(1962年)
 ・第229話「手術のとき」(1964年)
 ・第389話「白い春」(1967年)
・指名手配(NET)
 ・第100・101話「偽装離婚」(1961年)
 ・第124・125話「絆」(1962年)
・女の園(NHK)
 ・第18話「桃の花咲く」(1962年)
 ・第50話「蜜月」(1962年) - お福さん
・文芸アワー / 田舎教師(1962年、NTV)
・文芸劇場(NHK)
 ・第34話「草を刈る娘」(1962年)
 ・第61話「この世で一番粋なこと」(1963年)
近鉄金曜劇場(TBS)
 ・足摺岬(1962年)
 ・激流にのれ(1966年)
こども名作座 / 夜明け朝明け(1962年、NHK)
・愛の劇場 第165話「毒薬はいかが」(1962年、NTv)
・判決(NET)
 ・第8話「暗い轍」(1962)
 ・第91話「半日本人」(1964年)
 ・第152話「空のイルリゲーター」(1965年)
・テレビ指定席 / ある結婚(1963年、NHK)
・夫婦百景 第262話「和楽三代夫婦」(1963年、NTV)
・シャープ月曜劇場 第12話「おえん」(1963年、CX)
日本映画名作ドラマ(NET)
 ・山と川のある町(1963年)
 ・鶯(1964年)
・晩鐘(1964年)
風雪(NHK)
 ・開化聖代(1964年) - 武家の奥方
 ・万機公論(1964年) - 老婆
・NHK劇場 / 都会(1966年、NHK)
部長刑事 第385話「野暮てん」(1966年、ABC)
木下恵介アワー(TBS)
 ・記念樹(1966年) - 村越すえ
 ・おやじ太鼓(1968年) - イネ
・剣 第42話「縁切寺異聞」(1968年、NTV)
日産スター劇場 / おじゃまさま(1968年、NTV)

舞台
・検察官(1946年)
・神を畏れぬ人々(1946年)
・中橋公館(1947年)
・馬(1948年)
赤い陣羽織(1948年)
・女房学校(1950年)
桜の園(1951年)
・天使(1952年)
女の平和(1954年)
森は生きている(1955年)
町人貴族(1955年)
・どれい狩り(1955年) - その付添い 役
・赤いカーディガン(1955年)
三人姉妹(1956年)
・ピクニック 夏の日のロマンス(1956年)
・死んだような平和(1957年)
ウィンザーの陽気な女房たち(1957年)
幽霊はここにいる(1958年、1970年) - 大庭トシエ
・見知らぬ人(1959年)
・千鳥(1959年、1967年)
・巨人伝説(1960年)
・石の語る日(1961年)
十二夜(1961年)
・鈍琢亭の最期(1962年) - 松隈あぐり
・有福詩人(1964年)
ハムレット(1964年) - ガートルード
・おまえにも罪がある(1965年)
・国語(1966年)
肝っ玉おっ母とその子供たち(1966年、1969年) - アンナ・フィアリング
未必の故意(1971年) - 島民C
・母(1972年)

著書・参考文献
岸輝子『夢のきりぬき 千田と私のこと』東京新聞出版局、1980年。ISBN 978-4-8083-0029-6

脚注・出典
1. a b c d e f g h i j 岸輝子とは - コトバンク 2011年11月13日閲覧
2. 
a b 法政大学大原社研 戦時中の新劇運動〔日本労働年鑑 特集版 太平洋戦争下の労働運動216〕 2011年11月13日閲覧
3. 
俳優座史 - 劇団俳優座 2011年11月13日閲覧
4. 
新婦人ってなあに? - 新日本婦人の会 2011年11月20日閲覧

外部リンク
岸 輝子 - 日本映画データベース
(wikiより)


7 伊藤きし(岸輝子)

岸輝子

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7c




生年月日1899年8月1日
没年月日1967年3月31日(67歳没)
出生地日本の旗 日本東京府東京市神田区三崎町
民族日本人
職業舞台美術家
ジャンル舞台美術映画
活動期間1920年代 - 1967年
主な作品
日在校園

伊藤熹朔(いとう・きさく 1899年8月1日 - 1967年3月31日[1])は、日本の舞台美術家美術監督である。伊藤熹朔賞に名を残す。

人物・来歴
1899年(明治32年)8月1日東京市神田区(現東京都神田三崎町に建築家伊藤為吉の四男として生まれる[1]。兄に舞踊家の伊藤道郎、弟に演劇人の千田是也[1]、妹暢子はのちに画家の中川一政を夫とした。

旧制・東京美術学校(現在の東京藝術大学美術学部)西洋画科に入学[1]、在学中から土方与志の模型舞台研究所に参加した。1923年(大正12年)に同校を卒業し、1924年大正13年)、『ジュリアス・シーザー』の装置で舞台美術家としてデビューする[1]。その後、築地小劇場、分裂後の劇団築地小劇場、築地座新協劇団などの舞台美術を手がけ、舞台美術の先駆者となる。1930年(昭和5年)、六人会を結成、後進の育成に努めた。

1953年(昭和28年) 株式会社俳優座劇場付属の舞台美術部を芝区川桜町に開設

1956年(昭和31年)、イヴ・シァンピ監督による日仏合作映画『忘れえぬ慕情』の美術、1959年(昭和34年)には、ジョン・ヒューストン監督の『黒船 THE BARBARIAN AND THE GEISHA』の美術顧問を務め、国際的にも活動した[2]

1962年、菊池寛賞を受賞[3]

1964年(昭和39年)、日本芸術院会員になる[1]

1967年(昭和42年)3月31日、死去した[1]。満67歳没。墓所は染井霊園

娘の伊藤弘子wikidataは女優となり、俳優の長谷川哲夫と結婚ののち引退した。2人の娘で熹朔の孫である上原真美も女優になっている。
フィルモグラフィ特筆なきものは「美術」とクレジット[2]
・『唐人お吉』 : 監督冬島泰三新興キネマ東京撮影所、1935年
・『罪なき町』 : 監督森一生新興キネマ京都撮影所、1941年
・『夫婦太鼓』 : 監督森一生、新興キネマ京都撮影所、1941年
・『大村益次郎』 : 監督森一生、新興キネマ京都撮影所、1942年
・『大仏開眼』 : 監督衣笠貞之助大映京都撮影所、1952年 - 美術監督
・『雨月物語』 : 監督溝口健二、大映京都撮影所、1953年 - 美術監督
・『獅子の座』 : 監督伊藤大輔、大映京都撮影所、1953年
・『』 : 監督豊田四郎大映東京撮影所、1953年 - 美術監督
・『地獄門』 : 監督衣笠貞之助、大映京都撮影所、1953年
・『山椒大夫』 : 監督溝口健二、大映京都撮影所、1954年
・『春琴物語』 : 監督伊藤大輔、大映東京撮影所、1954年 - 美術監督
・『千姫』 : 監督木村恵吾、大映京都撮影所、1954年
・『藤十郎の恋』 : 監督森一生、大映京都撮影所、1955年
・『渡り鳥いつ帰る』 : 監督久松静児東京映画、1955年 - 美術監督
・『修禅寺物語』 : 監督中村登松竹大船撮影所、1955年
・『続宮本武蔵 一乗寺の決闘』 : 監督稲垣浩東宝、1955年 - 美術監督
・『夫婦善哉』 : 監督豊田四郎、東宝、1955年
・『野菊の如き君なりき』 : 監督木下恵介、松竹大船撮影所、1955年
・『宮本武蔵 完結編 決闘巌流島』 : 監督稲垣浩、東宝、1956年 - 美術監督
・『残菊物語』 : 監督島耕二、大映京都撮影所、1956年 - 美術監督
・『忘れえぬ慕情』 : 監督イヴ・シャンピ松竹シラフィルムテラフィルムパテ、1956年
・『猫と庄造と二人のをんな』 : 監督豊田四郎、東京映画、1956年 - 美術監督
・『雪国』 : 監督豊田四郎、東宝、1957年
・『夕凪』 : 監督豊田四郎、宝塚映画製作所、1957年
・『太夫さんより 女体は哀しく』 : 監督稲垣浩、宝塚映画製作所、1957年
・『喜びも悲しみも幾歳月 第一部第二部』 : 監督木下恵介、松竹大船撮影所、1957年
・『楢山節考』 : 監督木下恵介、松竹大船撮影所、1958年
・『花のれん』 : 監督豊田四郎、宝塚映画製作所、1959年
・『黒船 THE BARBARIAN AND THE GEISHA』 The Barbarian and the Geisha : 監督ジョン・ヒューストン20世紀フォックス、1959年 - 美術顧問
・『或る剣豪の生涯』 : 監督稲垣浩、東宝、1959年
・『男性飼育法』 : 監督豊田四郎、東京映画、1959年 - 美術・出演(演劇研究員の先生役)
・『暗夜行路』 : 監督稲垣浩、東京映画、1959年
・『日本誕生』 : 監督豊田四郎、東宝、1959年 - 美術監督
・『珍品堂主人』 : 監督稲垣浩、東京映画、1960年
・『路傍の石』 : 監督久松静児、東京映画、1960年
・『濹東綺譚』 : 監督豊田四郎、東京映画、1960年
・『笛吹川』 : 監督木下恵介、松竹大船撮影所、1960年
・『東京夜話』 : 監督豊田四郎、東京映画、1961年
・『釈迦』 : 監督三隅研次、大映京都撮影所、1961年 - 美術監督
・『如何なる星の下に』 : 監督豊田四郎、東京映画、1962年
・『忠臣蔵 花の巻・雪の巻』 : 監督稲垣浩、東宝、1962年 - 美術監督
・『憂愁平野』 : 監督豊田四郎、東京映画、1963年
・『台所太平記』 : 監督豊田四郎、東京映画、1963年
・『さりとて望郷の』 : 監督向井洋允、東京映画、1963年
・『新・夫婦善哉』 : 監督豊田四郎、東京映画、1963年
・『喜劇 陽気な未亡人』 : 監督豊田四郎、東京映画、1964年
・『香華 前後篇』 : 監督木下恵介、松竹大船撮影所、1964年
・『波影』 : 監督豊田四郎、東京映画、1965年
・『大工太平記』 : 監督豊田四郎、東京映画、1965年

ビブリオグラフィ
・『舞台装置の研究』、小山書店、1941年
・『移動演劇十講』、健文社、1942年
・『移動演劇の研究』、日本電報通信社出版部、1943年
・『舞台装置の話』、美術出版社、1951年
・『舞台装置の三十年』、筑摩書房、1955年
・『舞台美術』、朝日新聞社、1963年
・『1930伊藤熹朔画集』、ワイズ出版、1994年

受賞歴
・1947年 - 文部大臣賞
・1949年 - 毎日演劇賞
・1950年 - 日本芸術院賞(舞台装置における業績)[4]
・1953年 - 毎日映画コンクール美術賞
・1964年 - 毎日文化賞    

脚注
1. a b c d e f g 伊藤熹朔、『講談社 日本人名大辞典』、講談社コトバンク、2010年3月5日閲覧。
2. 
a b 伊藤憙朔、日本映画データベース、2010年3月5日閲覧。
3. 
伊藤熹朔 年譜 
4. 
『朝日新聞』1950年4月1日(東京本社発行)朝刊、2頁。

外部リンク
Kisaku Ito - IMDb(英語)
伊藤憙〔ママ〕朔 - 日本映画データベース    
伊藤為吉 関連家系図 - 近現代・系図ワールド
(wikiより)


6 伊藤熹朔

伊藤熹朔

6a

6b

6c



伊藤祐司
( 1897.9.14 - 1963.10.28 )

作曲家、舞台美術、ニューヨークで没。

オリエンタル・ダンサー ディコ・イトウの夫。
(墓碑より)

5a

5b

5c



伊藤辨治郎 
( 1830 - 1898 )

伊勢松坂の生

宮大工

為吉の父。
(墓碑より)

1a

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1c




伊藤 為吉(いとう ためきち、1864年2月24日文久4年1月17日) - 1943年昭和18年)5月9日)は、日本の建築家発明家伊勢国松坂(現三重県松阪市)出身。

クリスチャンであり[1]教会の建築も多く手掛けている。

来歴・人物
17歳で上京、尾崎行雄の家に寄宿し、工部大学校機械工学を学び、幸田露伴郡司成忠漢学の勉強をする。その後攻玉社に学僕として住み込み、片山潜と知り合う。22歳の時、片山とともに渡米、サンフランシスコ付近の修道会に学僕として住み込み、洗礼を受ける。学費捻出のためクリーニング店などで働き、イタリア人建築家カッペレッティ建築設計事務所製図工として働き、建築と物理学を学ぶ。1888年に帰国、日本最初のドライクリーニング店を開店した。ついでアメリカ式の家具製造を始め、さらに洋風建築の設計施工を始める。

銀座の初代服部時計店、日本博品館愛宕ホテル、本郷春木町の中央会堂(現在の本郷中央教会)、麻布教会(現在の鳥居坂教会)[2]などを建築設計する。1893年に郡司成忠が千島探検に出た際には、3時間で組み立てられるプレハブ式家屋を贈った。木造家屋の耐震・耐風化の研究や、建築用具の発明、職工徒弟の教育に力を注いだ。発明家として生涯に70近い特許をとり、和製レオナルド・ダ・ヴィンチと言われた。晩年は永久機関の開発に着手していた。

のちに東京工大田辺平学が提唱したものに先駆けて、コンクリートブロック式耐震構造から万年塀を考案、伊藤の万年塀は関東大震災に際しても破損しなかった。

伊藤のところに寄宿していた人物として、後の救世軍山室軍平がいる。

生涯
・1864年2月24日 伊勢国松坂近郊塩鼻村で宮大工の父弁治郎と母家寿(やす)の長男として生まれる[3]
・1882年 上京し、同郷の尾崎行雄宅の書生となる。工部大学校の自称「自由研究生」となり機械工学を学ぶ。菊池松軒の漢学塾で幸田露伴郡司成忠兄弟らと出会う。
・1883年 攻玉社の学僕となり、片山潜と知り合う。
・1884年 片山潜を渡米させる。
・1885年2月8日 渡米し、サンフランシスコに移住[3]
・1887年
  ・4月 帰国[3]
  ・9月 東京で日本初のクリーニング工場「伊藤組洗染所」を始める[3]
・1888年4月頃 下谷教会付属の駒込講義所(現在の西片町教会)ができる[4]。そこへ出席するようになり、受洗する[5]
・1889年
  ・3月1日 設計施工を行った駒込講義所の会堂が完成[5][6]
  ・3月25日 駒込講義所の会堂で飯島喜美栄との結婚式を挙げる。司祭はチャールズ・イビー宣教師。[5]
  ・3月31日 駒込講義所が駒込教会と改められる[4]
  ・9月 伊藤建築事務所を設立する[3]
  ・11月 長女の嘉子誕生[3]
  ・芝愛宕ホテル及び5階の愛宕塔を建てる[3]
  ・麻布教会(現在の鳥居坂教会)の会堂を建てる[2]
1892年
  ・1月 長男の晃一誕生(夭逝)[3]
  ・静岡教会 2代目会堂を建てる[2][7]
  ・牛込教会堂を建てる[7][8][9]
・1893年4月13日 次男の道郎誕生[3]
・1894年 青山英和女子学校職業部[7]、日比谷の裁判所、鳥居坂の日本メソジスト教会などの工事に参加。銀座服部時計店を建てる。[3]
・1895年  
  ・三男の鉄衛誕生[3]
  ・10月末ごろ 山室軍平、寄宿。
・1896年
  ・四男の裕司誕生[3]
  ・6月5日 駒込教会(西片町教会)が西片町に移転。
・1899年
  ・五男の熹朔(きさく)誕生。
  ・博品館を建てる。
・1902年
  ・1月 次女の暢子誕生[3]
  ・静岡教会 3代目会堂を建てる[10]
・1904年
  ・巻煙草包装機械を発明[3]
  ・7月15日 六男の圀男(千田是也)誕生[3]
・1905年7月7日 三女の愛子誕生[3]
・1907年2月 七男の忠雄誕生(夭逝)[3]
・1908年8月3日 八男の貞亮誕生[3]
・1911年2月26日 九男の翁介誕生[3]
・1917年3月 コンクリート製造研究所を設ける[3]
・1926年6月16日 伊藤式コンクリート製造所を独力で始める[3]
・1930年
  ・2月14日 古銅器コレクションを携えて横浜出発[3]
  ・5月27日 ロサンゼルス州立博物館で古銅器展がオープン[3]
・1932年8月25日 アメリカより帰国[3]
・1933年 大阪に「研究所」を設け、無限動力機関の発明に没頭する[3]
・1942年12月26日 妻の喜美栄、死去[3]
・1943年5月9日 大阪で没する[3]

代表建築
商業施設
・銀座の初代服部時計店(1894年 - 1921年頃)[7]
・日本博品館(1899年 - 1921年)[11]
・愛宕ホテル(1889年 - 1897年)[3][7]
・愛宕塔(1889年 - 1923年)[3][7]
第十六国立銀行[7]
第七十八国立銀行[7]    

教会関係
・駒込教会(西片町教会)初代会堂(1889年 - 1896年に移転 本郷駒込東片町)[5][7]
・駒込教会(西片町教会)2代目会堂(1896年 - 1935年 現在の東京都文京区西片2-18-18)
・駒込教会(西片町教会)3代目会堂(1935年 - 現存 現在の東京都文京区西片2-18-18)
・中央会堂(現・日本基督教団本郷中央教会[7]
函館教会[7]
・相良教会堂[7]
静岡教会 2代目会堂(1892年 - 1902年に移転 現在の静岡県静岡市葵区追手町6丁目付近) [2][7]
・静岡教会 3代目会堂(1902年 - 1945年に空襲で焼失 現在の静岡県静岡市葵区追手町9丁目付近) [10]
・牛込教会堂(現・日本基督教団頌栄教会) (1892年 - 1934年?) [7][8][9]
甲府教会 2代目会堂(1891年 - 1916年 現在の山梨県甲府市中央2丁目付近) [7][12][13]
・麻布教会堂(現・日本基督教団鳥居坂教会) (1889年 - 1945年)[2][7]
弘前教会堂[7]
チャールズ・イビー宣教師邸[7]


家族
・妻 喜美栄(きみえ、1864年 - 1942年)は、動物学者で東京帝国大学教授の飯島魁の妹(1890年に結婚)。
 ・長女 嘉子(よしこ、1889年 - ?)は陸軍大将の古荘幹郎の妻[14]
 ・長男 晃一(こういち、1892年 - 夭逝)[14]
 ・次男 伊藤道郎(みちお、1893年 - 1961年)は世界的舞踊家で[14]、妻はアメリカ人のヘイゼル(子にジェリー伊藤)。
 ・三男 伊藤鉄衛(かなえ、1895年 - ?)は建築家[14]
 ・四男 伊藤祐司(ゆうじ、1896年 - ?)はオペラ歌手でコスチューム・デザイナー[14][15]、妻は日系人舞踊家のテイコ・イトウ(子に伊藤貞司)。
 ・五男 伊藤熹朔(きさく、1899年 - 1967年)は舞台美術家[14]
 ・次女 暢子(のぶこ、1902年 - ?)は画家の中川一政の妻(子に中川晴之助[14]
 ・六男 伊藤圀夫(くにお、1904年 - 1994年)は千田是也として知られる演出家・俳優で[14]、妻はドイツ人のイルマ(娘に中川晴之助の妻、孫に女優の中川安奈)と女優の岸輝子
 ・七男 忠雄(ただお、1907年 - 夭逝)[14]
 ・三女 愛子(あいこ、1905年 - ?) は邦楽家で、阪東壽三郎の妻[14]
 ・八男 伊藤貞亮(ていりょう、1908年 - ?)は建築家[14]
 ・九男 伊藤翁介(おうすけ、1911年 - 2009年)は作曲家・ギタリスト[14]で、妻は伊藤多津子

脚注
1. 村松貞次郎 (1994年7月28日). やわらかいものへの視点 異端の建築家伊藤為吉. 岩波書店. pp. 111-114
2. a b c d e 鳥居坂教会百年史. 日本基督教団鳥居坂教会. (1987年11月15日). p. 64
3. 
a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac 村松貞次郎 (1994年7月28日). やわらかいものへの視点 異端の建築家伊藤為吉. 岩波書店. pp. 223-229   
4. 
a b 日本メソヂスト下谷教会六拾年史. 日本メソヂスト下谷教会. (1879). pp. 64,74-76 
5. 
a b c d 村松貞次郎 (1994年7月28日). やわらかいものへの視点 異端の建築家伊藤為吉. 岩波書店. pp. 111-112   
6. 
会堂完成の時期は『やわらかいものへの視点 異端の建築家伊藤為吉』には1889年、『下谷教会六拾年史』には1890年とある。会堂で結婚式を挙げたという記述と矛盾してしまうため、ここでは前者を採用している。
7. 
a b c d e f g h i j k l m n o p q r 建築造営主心得書 : 附・伊藤建築事務所定則 - 国立国会図書館デジタルコレクション”. dl.ndl.go.jp. pp. 10-19. doi:10.11501/8462382019年1月26日閲覧。
8. 
a b 日本メソヂスト牛込教会史. 日本メソヂスト牛込教会. (1925年10月27日). p. 20 
9. 
a b 日本メソヂスト牛込教会史 - 国立国会図書館デジタルコレクション”. dl.ndl.go.jp. p. 18. doi:10.11501/9204852019年1月29日閲覧。
10. 
a b 静岡教会125年史. 日本基督教団静岡教会. (2009年7月31日). pp. 52-54
11. 
村松貞次郎 (1994年7月28日). やわらかいものへの視点 異端の建築家伊藤為吉. 岩波書店. pp. 38-42 
12. 
日本基督教団甲府教会百年史. 日本基督教団甲府教会. (1979年4月22日). pp. 61-62 
13. 
『甲府教会百年史』では設計者に関する記録がない。また、『建築造営主心得書』には甲府教会会堂を建てた時期の記録がない。ただし、伊藤為吉がキリスト教に関わりだした1888年から『建築造営主心得書』の発行された1897年までの間に建てられた甲府教会の会堂は1891年の2代目会堂のみである。
14. 
a b c d e f g h i j k l 村松貞次郎 (1994年7月28日). やわらかいものへの視点 異端の建築家伊藤為吉. 岩波書店. pp. 191-192 
15. 
Teiji Ito -MySpace     

参考文献
・『鳥居坂教会百年史』日本基督教団鳥居坂教会、1987年11月15日
・伊藤為吉 著『建築造営主心得書』伊藤建築事務所、1897年3月
・村松貞次郎 著『やわらかいものへの視点 異端の建築家伊藤為吉』岩波書店、1994年7月28日
・『静岡教会125年史』日本基督教団静岡教会、2009年7月31日
・『日本メソヂスト下谷教会六拾年史』日本メソヂスト下谷教会、1879年
・『日本基督教団甲府教会百年史』日本基督教団甲府教会、1979年4月22日
・『日本メソヂスト牛込教会史』日本メソヂスト牛込教会、1925年10月27日

関連項目
日本の建築家一覧
片山潜
山室軍平
伊藤道郎
伊藤熹朔
千田是也
伊藤翁介     

外部リンク
関連家系図
西片町教会    

伝記

・村松貞次郎『やわらかいものへの視点 異端の建築家伊藤為吉』岩波書店
(wikiより)


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遠州浜松藩家老で旧姓飯島。

伊藤 喜美栄 ( いとう - きみえ 1864年 - 1942年 ) は、動物学者で東京帝国大学教授の飯島魁の妹( 1890年に結婚 )。

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相方は何度も行っているのですが僕は初めての訪店です

もうメッチャ渋い カウンター前にはおでん鍋 ( 席が開いていたら座った方が良いかも ) 

とりあえず熱かんを飲みながら、おでんを注文

良く出汁が沁みているので酒が進みます あっという間に1本目が無くなり 2本目の熱かんを注文

お店の方も感じが良くて、店の事や箸袋の由来も話してくれます。

胃袋も心もいっぱいになって帰ってきました。

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もう表から渋い

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⇧ 熱かん 夏でも熱かんにしてしまう僕です
珍しがられます

おでんが美味し過ぎて、熱かんを追加注文してしまいました

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⇧ 注文したおでん
昔ながらの素材を使ったおでんはメッチャ美味しいです

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⇧ おでんの種類 下の赤文字は常連客が名付けた別名

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⇧ このお店 箸にもこだわりがあって詳しい事はお店の人が教えてくれます
また箸袋には昭和五十年にサトウハチローさんが作った句が印刷してあります

来年 ( 2024年は開店 100周年になるそうです )

撮影 2023. 8. 6



丸太ごうし






 堂埼天主堂内は撮影不可です。

堂崎天主堂(どうざきてんしゅどう)は、長崎県五島市福江島にあるキリスト教カトリック教会)の聖堂である。江戸時代からのキリスト教禁教令廃止以降、五島列島で最初に建てられた聖堂で、1974年昭和49年)に堂崎教会(どうざききょうかい)の名称で長崎県指定有形文化財に指定され[1]、現在は堂崎天主堂キリシタン資料館として活用されている[2][3]

教会の保護者
日本二十六聖殉教者    

沿革
1873年明治6年)9月 - フランス宣教師フレノ神父[注釈 1]が五島に招かれる
・1873年(明治6年)12月24日 - 堂崎の浜辺にて、五島で初めてのクリスマス(降誕祭)を祝う
1877年(明治10年) - フレノ神父が五島常駐となる
1879年(明治12年) - 奥浦地区に仮聖堂建設
1880年(明治13年) - フレノ神父の後任として、ジョゼフ・マルマン神父が主任司祭として着任
・1880年(明治13年)10月17日 - マルマン神父が、のちの奥浦慈恵院のもととなる子供救済施設「子部屋」創設
1883年(明治16年) - 手狭になった子部屋を、大泊から堂崎に移設。同時に、のちの「お告げのマリア修道会奥浦修道院」のもととなる「女部屋」を創設
1887年(明治20年) - マルマン神父が堂崎を離れ、ペルー神父が後任となる
1908年(明治41年)5月10日 - 堂崎天主堂完成
1912年大正6年)6月 - 天主堂改修
1974年昭和49年)4月9日 - 「堂崎教会」の名称で長崎県指定有形文化財に指定される[1]
1977年(昭和52年) - 堂崎天主堂キリシタン資料館開設

明治時代にカトリックの禁教が解かれた後、五島で最初に司祭が常駐して教会が立てられた土地で、下五島地区のカトリック教会の信仰の中心地であった。 日本二十六聖人の一人で五島出身の聖ヨハネ五島を記念して、「日本二十六聖殉教者」を保護の聖人として建てられている。

2014年現在は、約3km南にあるカトリック浦頭教会の巡回教会となっていて、ミサは基本的に月1回行われる[4]

2007年平成19年)にユネスコ世界遺産(文化遺産)暫定リストへ掲載が決まった「長崎の教会群とキリスト教関連遺産」を構成する教会の一つであったが、現在は資料館となっていてミサなどには使われていないため、構成資産の見直しにより外され[5]、「世界遺産の構成資産と一体的に保存・継承していく資産」とされている[6]

建物の概要
設計はペルー神父、施工は野原与吉・鉄川与助が担当し、1908年に完成した。煉瓦造・ゴシック様式の平屋で、五島初の洋風建築とされ、その美しい外観は五島内の他の天主堂の模範となった。

内部は木造で、ステンドグラスの模様は五島の他の教会と同じく椿をモチーフとしている。リブ・ヴォールト天井はイタリアから資材を運び込んだといわれている。

堂崎天主堂キリシタン資料館
主任教会が浦頭教会に移され、堂崎天主堂が長崎県指定有形文化財に指定された後の1977年(昭和52年)に、天主堂内部に開設された資料館で、布教時代から迫害を経て復活に至る信仰の歴史が展示されている[3]。帳方(隠れキリシタンの役職者)に受け継がれてきた「お帳(太陽暦)」(1634年)、ド・ロ聖教木版画(長崎県指定文化財[7])などの資料のほか、五島出身の二十六聖人のひとり聖ヨハネ五島の聖遺骨もマカオから里帰りして安置されている[8]

所在地
〒853-0053 五島市奥浦町堂崎2019

アクセス
福江港から五島バス戸岐・観音平行き約15分、「堂崎天主堂入口」バス停から徒歩10分(約1km)
・福江港から車で約15分

画像については、「
堂埼天主堂ウィキペディア」をご覧ください。 ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A0%82%E5%B4%8E%E5%A4%A9%E4%B8%BB%E5%A0%82


脚注
注釈
1. ピエール・テオドール・フレノ Pierre Theodore Fraineau 1847-1911 神父。浦上・五島・長崎にて布教。浦上天主堂創建に尽力した。

出典
1. a b 長崎県の文化財 堂崎教会 長崎県学芸文化課
2. 
『カトリック教会情報ハンドブック2014』 p266 カトリック中央協議会 ISBN 978-4877505530   
3. 
a b ミュージアム情報 堂崎天主堂キリシタン資料館 長崎県文化振興課
4. 
『カトリック教会情報ハンドブック2014』 p258
5. 
大平晃久「堂崎天主堂の世界遺産候補除外とスケールの政治」『浦上地理』第3巻、長崎大学教育学部地理学研究室、2016年12月、14-22頁、NAID 120006974070
6. 
関連遺産の分布図 長崎県世界遺産登録推進課 
7. 
長崎県の文化財 浦頭教会聖教木版画(筆彩三幅) 長崎県学芸文化課 
8. 
堂崎教会 五島市ナビ 五島市観光ポータルサイト

参考文献
・『素敵な島の休日 五島・福江島』(福江市観光協会、1990年)
・三沢博昭『大いなる遺産 長崎の教会』(智書房、2000年) ISBN 4434002651
・『長崎遊学2 長崎・天草の教会と巡礼地完全ガイド』(長崎文献社、2005年) 
ISBN 978-4888510912

外部リンク
カトリック浦頭教会
堂崎教会堂 長崎旅ネット 長崎県観光連盟
長崎県の文化財(堂崎天主堂)   

関連項目
カトリック長崎大司教区   
(wikiより)

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所在地長野県上田市常盤城3-7-48
位置北緯36度24分25.2秒 東経138度14分15.9秒
山号松翁山
院号円覚院
宗旨浄土宗
宗派鎮西派
本尊阿弥陀如来
創建年天正11年(1583年)
正式名松翁山円覚院芳泉寺
文化財小松姫の墓、仙石家霊廟、木造阿弥陀如来立像

芳泉寺(ほうせんじ)は長野県上田市にある浄土宗鎮西派の寺院。号は松翁山円覚院。本尊は阿弥陀如来[1]

歴史
天正11年(1583年)、真田昌幸上田城の築城に際して小県郡下之条村(後の上田市大字下之条)にあった全称院を上田城下に移転して、常福寺と号したのが始まりとされている[1][2]

慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いの終結後、昌幸の嫡男・真田信之が上田城主となると、当寺を真田氏の菩提寺とした[1][2]元和6年(1620年)、信之の妻・小松姫が亡くなると、当寺を含む三か寺に分骨され一周忌の際に当寺に御霊廟が設けられた[1][2][注 1]

元和8年(1622年)、信之の松代移封に伴い、小松姫の御霊廟も松代城下の大英寺に移転した[1][2]。その後、上田に小諸城主・仙石忠政が入封すると、仙石氏の菩提寺である宝仙寺を当地に移転し、真田氏の庇護にあった常福寺を小県郡下之条村に戻した[1][2]。 寺号が宝仙寺から芳泉寺に改められた時期については定かではないが、忠政の嫡男・仙石政俊の死後とも、小諸から移転した直後からともされている[2]

江戸期には浄土宗の総本山である知恩院の末寺として、上田領の触頭の役割を担っていた[1][2]

文化財
市指定文化財
小松姫の墓[4]
仙石家霊廟[5]
・木造阿弥陀如来立像
[6]


交通アクセス
上信越自動車道上田菅平インターチェンジから車で約15分[7]   
JR東日本しなの鉄道上田電鉄上田駅からタクシーで約10分[7]

脚注
注釈
1. 小松姫の墓は当寺のほかに埼玉県鴻巣市勝願寺群馬県沼田市正覚寺にある[3]

出典
1. 
a b c d e f g 「角川日本地名大辞典」編纂委員会 編『角川日本地名大辞典 20 長野県』角川書店、1990年、993-994頁。ISBN 4-04-001200-3
2. 
a b c d e f g 平凡社地方資料センター 編『日本歴史地名大系 20 長野県の地名』平凡社、1979年、251-252頁。ISBN 4-582-49020-4
3. 
大蓮院殿の墓”. 沼田市公式ホームページ (2017年4月1日). 2017年4月22日閲覧。
4. 
小松姫の墓(芳泉寺)”. 上田市文化財マップ. 2017年4月22日閲覧。
5. 
仙石家霊廟(芳泉寺)”. 上田市文化財マップ. 2017年4月22日閲覧。
6. 
木造阿弥陀如来立像”. 公益財団法人 八十二文化財団. 2017年4月22日閲覧。
7. 
a b 芳泉寺”. さわやか信州旅.net:長野県公式観光Webサイト. 2017年4月22日閲覧。

外部リンク
芳泉寺 - 上田市
(wikiより)

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戊辰の役上田藩従軍記念碑

戊辰戦争で上田藩は新政府側につき北越戦争や会津戦争に出兵しました。

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かなり混むお店です
横須賀で人気 2 ~ 3番目のお店だそうです

お一人様だとすぐに入店できる可能性は大です。

さて注文したのは、瓶ビール、相方は酎ハイ、ポテトサラダにオコゼのお刺身、湯豆腐 ( 半丁 )、白エビの天ぷら。

大満足で帰ります。

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⇧ 店外観

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⇧ 瓶ビール

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⇧ バイスサワー

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⇧ ポテトサラダ

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⇧ オコゼのお刺身

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⇧ 湯豆腐 ( 横須賀湯豆腐とも呼ばれています )

お豆腐の上に和辛子を塗りネギ、かつお節をかけたものですがメチャ美味いんです。
ちなみにどのお店でも、1丁と半丁があります ( 画像は半丁です )

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⇧ 白えびの唐揚げ


中央酒場 ( 食べログ )






第 2代上田市長

勝俣英吉郎翁像

石井光三郎書

勝俣英吉郎翁は大正 13年 7月 14日上田市第 2代市長となり昭和 5年 4月 7日現職中齢 67歳にて逝去さる

在職中 皇太子殿下ご成婚記念事業として長野県議会の議決により金 5万円の県費補助金を得て昭和 2年上田公園内に野球場陸上競技場庭球場など全国でも有数な施設を上田市議会の議決を経て建設した

その後これらの施設を基盤として更に改修拡充新設などにより市営総合運動場の完成をみるに至った

この運動場の活用により幾多の国際競技人を生みまた青少年教育にも大きな貢献をいたし今日に至る

昭和の始めにこのような画期的な施設をつくった翁の先見と偉業を永久にたたえるため有志一同と相図りその胸像を建設して翁の功績を顕彰する

昭和 36年 11月 3日建之

上田市体育協会
(碑文より)

〇 勝俣英吉郎
勝俣 英吉郎(かつまた えいきちろう、1865年4月13日〈慶応元年3月18日[1][2][3]〉 - 1930年昭和5年〉4月7日[1][2][4])は、明治から昭和時代前期の政治家医師長野県上田市長。俳号・かつ丸。

経歴
信濃国上田城下上田藩医の家に生まれる[1][2][3][5]。1879年(明治12年)東京外国語学校ドイツ語を学び、1883年(明治16年)東京大学医学部別課に入学し、1887年(明治20年)帝国大学医学大学を卒業し、1888年(明治21年)家業の医院を継ぐ[1][2][3][5]

1891年(明治24年)信陽医学会を創立し、同会長を務める[5]日清日露戦争では日本赤十字社救護医として従軍[1][2][3][5]1909年(明治42年)長野県会議員に当選し、立憲民政党支部長に就任した[5]。1919年(大正8年)上田市会議員に選出され、1923年(大正12年)同議長に就任[3]

細川吉次郎市長の死去に伴い1924年(大正13年)7月14日、推挙され上田市長に就任し、1930年(昭和5年)4月7日、在職中に没した[1][2][3][4][5]。この間、上田橋の架け替え、丸子鉄道上田温泉電軌北東線の開通、汚物焼却場設置、市営運動場、児童遊園地の建設などに尽力した[1][5]

ほか、1914年(大正3年)長野県医師会長、1919年(大正8年)より5年間に渡り上田市医師会長を務めた[3][5]。また、かつ丸と号し、俳句も能くした[5]

親族
・長男:勝俣稔(医師、国会議員)[5][6]
   
脚注
1. 
a b c d e f g 『日本の歴代市長 第2巻』254頁。
2. 
a b c d e f 『信州人物誌』129-130頁。
3. 
a b c d e f g 『明日をひらいた上田の人びと』38-39頁。
4. 
a b 赤羽ほか 1989, 807頁.
5. 
a b c d e f g h i j 赤羽ほか 1989, 188頁.
6. 上田を支えた人々〜上田人物伝〜、2019年7月20日閲

参考文献
・田島清編『信州人物誌』信州人物誌刊行会、1969年。
・『日本の歴代市長 第2巻』歴代知事編纂会、1984年。
・赤羽篤ほか 編『長野県歴史人物大事典』郷土出版社、1989年。ISBN 4876631263
・『上田市誌 人物編:明日をひらいた上田の人びと』上田市、2003年。
(wikiより)

31 勝俣英吉郎

勝俣英吉郎

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此方のお店は横須賀ナンバー1のお店と言われている「大衆酒場ぎんじ」さんです 
当然メチャ混みあいますが行ってみる価値は 100%以上あります。

いまでは店内は撮影禁止なのですが、店の雰囲気が最高です

昭和を感じながらゆったりと呑めるお店です。

注文したのは、熱かん、チューハイ3杯、ぬた、モツ揚げ ( 砂ぎもを半分に切れ目を入れ油で揚げたもの )、湯豆腐

この湯豆腐なのですが、通称 横須賀湯豆腐と呼ばれていて、鍋から豆腐を取り出したら和からしを塗り、ねぎ、かつおぶしをかけて食べるんですが、めっちゃ美味しいんです

サイズも1丁、半丁と選べます。

味、雰囲気最高なお店です。

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大衆酒場ぎんじ ( 食べログ )






上田城址

                           土屋 竹雨

英雄父子據孤城

曽扼関東十萬兵

故國蒿莱剰楼櫓

亂山如戟勢崢嶸
(石碑文より)

 意味

英雄父子孤城に據 ( よ ) り

曽て ( かつて ) 扼 ( やく ) す関東十萬の兵

故國蒿莱 ( ここくこうらい ) 楼櫓 ( ろうろ ) を剰 ( あま ) し 

亂 ( らん ) 山戟 ( げき ) の如く勢崢嶸 ( そうこう )

〇 土屋竹雨
土屋 竹雨(つちや ちくう、1887年明治20年)4月10日 - 1958年昭和33年)11月5日)は、日本漢詩人。本名・久泰。字は子健。大東文化大学学長(初代)などを歴任。山形県鶴岡市出身。

人物
1914年、東京帝国大学法学部卒。1928年、芸文社を興し『東華』を創刊、1931年、大東文化学院講師、のち教授、東京文政大学文政大学・大東文化大学学長(初代)を務める。国分青崖のあと漢詩壇の第一人者となり、1949年、日本芸術院会員。余香吟社などの詩社を指導した。『日本百人一詩』(砂子屋書房、1943)の著作がある。

経歴
1887年(明治20年)4月10日 - 庄内藩士・土屋久国の長男として、山形県鶴岡市に生まれる。
1906年(明治39年) - 荘内中学校(現・山形県立鶴岡南高等学校)を卒業し、仙台第二高等学校へ進む。
1914年(大正3年) - 東京帝国大学(現・東京大学)法学部卒業
1923年(大正12年) - 大東文化協会幹事 就任
1928年(昭和3年) - 芸文杜を創設し、漢詩文雑誌「東華」を発行する。
1931年(昭和6年) - 大東文化学院(のちに大東文化学院専門学校)の講師となる。
1935年(昭和10年) - 同学院教授 就任
1945年(昭和20年) - 鶴岡に疎開し漢詩の指導にあたる。
1949年(昭和24年) - 日本芸術院会員となり、大東文化学院専門学校校長(第14代)・東京文政大学(現・大東文化大学)学長(初代) 就任。
1950年(昭和25年)6月 - 以文会(現・致道博物館)が設立され顧問 就任
1957年(昭和32年) - 自選詩集「猗廬詩稿」2冊を刊行する。
1958年(昭和33年)11月5日 - 病気が原因で死去する。享年71。戒名は「芸文院泰山竹雨居士」

著作物
1935年(昭和10年) - 『日本刀講座・第11巻』 雄山閣(出版)
1936年(昭和11年) - 『漢詩大講座 第2巻』 名著普及会(出版)
1943年(昭和18年) - 『日本百人一詩』 砂子屋書房(出版)
1957年(昭和32年) - 『猗廬詩稿 乾』 芸文社(出版)
1957年(昭和32年) - 『猗廬詩稿 坤』 芸文社(出版)
1961年(昭和36年) - 『土屋竹雨遺墨集』 土屋竹雨遺墨集刊行会(出版)
1981年(昭和56年) - 『土屋竹雨先生詩抄 桑梓』 鶴岡書道会(出版)
1981年(昭和56年) - 『漢詩作詩法・資料集成』 名著普及会(出版)
1987年(昭和62年) - 『大道無門 - 土屋竹雨生誕百年記念』 致道博物館(出版)
1998年(平成10年) - 『故国山水 - 庄内讃歌』

親族
・従弟:佐藤貫一 - 刀剣学者    

参考文献
・『庄内人名辞典』 大瀬欽哉(代表編者) 致道博物館内「庄内人名辞典刊行会」(発行)
国立国会図書館・蔵書   
鶴岡市立図書館・蔵書

外部リンク
大東文化大学     
日本芸術院    
(wikiより)

30 土屋 竹雨

土屋竹雨

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横須賀中央駅から数分の焼き鳥店です

立ち食いコーナーもあり缶ビール片手に食べている人もチラホラ、どれでも1本 100円なので気軽に食べれますね。

焼き鳥のラインナップは、ばら、つくね、ひなどり、タン、ぼんぼち、とりかわ、レバー、しろもつ、ハツ 味付けは全てタレのみとなっています。

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⇧ 右側が立ち食べコーナー

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⇧ こちらがテイクアウトコーナーです。


相模屋 ( 食べログ )






分類都市公園(総合公園)
所在地
長野県上田市二の丸6263番地イ
座標北緯36度24分13.6秒 東経138度14分39.9秒
面積168,000 m2
運営者上田市
設備・遊具野球場、陸上競技場、相撲場、体育館、プール、テニスコート、ゲートボール場、弓道場、児童遊園地
公式サイト上田市のサイト

上田城跡公園(うえだじょうせきこうえん)は、長野県上田市にある、上田城を中心に整備された都市公園(総合公園)である[1]

上田城の本丸、二の丸を中心に市民会館、プールなどが整備され市民の憩いの場となっている。また、毎年4月上旬から5月上旬にかけての観桜シーズンには「上田城千本桜まつり」が催され、全国から花見客が訪れる。

主な施設
上田城
上田市立博物館(本館・別館)
山本鼎記念館 - 2014年(平成26年)9月30日閉館。2016年(平成28年)より上田市立博物館別館。
・旧上田市民会館 - 1963年(昭和38年)開館。2014年(平成26年)12月26日閉館。2016年1月17日から2017年(平成29年)1月15日まで「信州上田 真田丸 大河ドラマ館」として建物利用された。
  詳細は「#信州上田 真田丸 大河ドラマ館」を参照
・真田神社
・招魂社
・平和の鐘
・愛の鐘
・児童遊園地
上田城跡公園野球場
・陸上競技場
・弓道場
・ゲートボール場
・体育館(第一・第二) - 2021年移転予定。 
・テニスコート(東・西) - 2020年移転予定。
・上田城跡駐車場・上田城跡北観光駐車場

信州上田 真田丸 大河ドラマ館
2016年(平成28年)1月10日、NHK大河ドラマ『真田丸』が放映開始。同ドラマの放送にあわせ、旧上田市民会館(2014年12月26日閉館)の建物を上田市が整備し、2016年1月17日に「信州上田 真田丸 大河ドラマ館」としてリニューアルオープンした[2]。館長には箱根高原ホテル元社長の唐沢信幸が就任した[3]

2017年(平成29年)1月5日、累計入館者数が100万人を突破。2008年(平成20年)に大河ドラマ館として当時最多の入館者約67万人を記録した鹿児島市の「篤姫館」を大きく上回り、史上初の100万人を達成した[4]。同年1月15日、閉館。

同年4月1日から11月30日まで「特別企画展『400年の時を経て甦る上田城』」の会場となった[5][6][7]。同展終了後は上田市役所の会議室や収納スペースとして暫定使用。

2020年(令和2年)度から解体に着手[8]し、上田城二の丸の遺構復元工事が行われた。

歴史
1879年(明治12年) - 本丸跡に松平神社(現・真田神社)設立の動き
1889年(明治22年) - 西櫓一帯が寄付される
1923年(大正12年) - 招魂社、上田公会堂が二の丸に設立
1925年(大正14年) - 本丸一帯が上田市に寄付される
1927年(昭和2年) - 陸上競技場完成、二の丸橋竣工、二の丸堀に上田交通真田傍陽線開通、公会堂下駅開業
1928年(昭和3年) - 野球場完成、東テニスコート完成
1929年(昭和4年) - 西櫓に徴古館(上田市立博物館の前身)開館
1937年(昭和12年) - 武徳殿竣工
1949年(昭和24年) - 北櫓・南櫓の移築復元完成
1950年(昭和25年) - 動物園開設
1954年(昭和29年) - 市営プール完成
1961年(昭和36年) - 愛の鐘完成
1962年(昭和37年)10月 - 山本鼎記念館開館
1963年(昭和38年) - 上田公会堂跡に上田市民会館竣工
1965年(昭和40年) - 二の丸に上田市立博物館完成、西櫓閉鎖。児童遊園地開園、動物園閉鎖(ウサギ鳥類のみ児童遊園地内動物舎にて飼育継続)
1970年(昭和45年)9月 - (第一)体育館完成
1972年(昭和47年) - 上田交通真田傍陽線廃止、平和の鐘が設置される、西テニスコート(朝日生命厚生事業団寄贈)完成
1978年(昭和53年)4月 - 弓道場完成
1979年(昭和54年) - 多目的広場(ゲートボール場)、相撲場完成
1980年(昭和55年) - 第二体育館完成
1981年(昭和56年)3月 - けやき並木遊歩道完成
1983年(昭和58年)4月 - 勤労青少年ホーム完成
1994年(平成6年) - 東虎口櫓門及び袖塀復元完成、北櫓・南櫓の内部公開開始(いずれも上田市立博物館の施設となる。2018年(平成30年)より「上田城櫓資料館」と呼称)
2014年(平成26年)8月 - 2015年の「アクアプラザ上田」(室内プール)開業に伴い市営プール営業終了
・2014年(平成26年)9月 - 山本鼎記念館閉館.。所蔵品は同年10月2日に開館した上田市立美術館に移された
・2014年(平成26年)12月 - 同年10月2日に上田市交流文化芸術センターが開館したことに伴い上田市民会館閉館
2015年(平成27年)3月31日 - 勤労青少年ホーム閉館
・2015年(平成27年)6月 - 真田神社の社務所授与所改築・境内改修工事を行う(2017年6月工事完了奉告)
・2015年(平成27年) - 上田市立博物館隣に多機能トイレを設置
2016年(平成28年)1月4日 - 西櫓の内部公開再開(12月28日まで)。旧山本鼎記念館を上田市立博物館別館として再開館
・2016年(平成28年)1月17日 - NHK大河ドラマ真田丸』放送に合わせ、旧上田市民会館建物に「信州上田真田丸大河ドラマ館」開館(2017年1月15日まで)
・2016年(平成28年)4月1日 - 勤労青少年ホームと市営プールの跡地に上田城跡北観光駐車場を開設
2017年(平成29年)3月31日 - 児童遊園地遊具更新工事完了し再開園。動物舎、パーゴラ等改築。けやき並木遊歩道バリアフリー化整備工事完了
・2017年(平成29年)4月1日 - 旧上田市民会館建物の「信州上田真田丸大河ドラマ館」を改装し、特別企画展「400年の時を経て甦る上田城」を開催(同年11月30日まで)
・2017年(平成29年)11月 - 体育館・テニスコートの公園外への移転計画が公表される

主なイベント
・上田城千本桜まつり
・上田真田まつり
・上田城跡能
・真田幸村出陣まつり
・紅葉まつり

脚注
1. 上田市の都市公園(上田市)   
2. 
市川顕 (2016年4月11日). “ドラマをとことん楽しむ“テーマパーク”「信州上田 真田丸 大河ドラマ館」”. NHKエンタープライズ. 2022年12月21日閲覧。
3. 
杉山果奈美 (2022年12月20日). “<人もよう> 岡崎の大河ドラマ館館長・唐沢信幸さん(71)”. 中日新聞. 2022年12月21日閲覧。
4. 
“真田丸ロス”いやす大河ドラマ館、史上初100万人突破 15日まで”. ORICON NEWS (2017年1月5日). 2022年12月21日閲覧。
5. 
“真田丸ドラマ館 上田市新装へ 誘客維持狙い”. 信濃毎日新聞. (2016年11月11日) 2016年11月11日閲覧。
6. 
“400年の時を経て甦る「真田」の上田城 VRで再現 4月1日に開幕へ”. 産経新聞. (2017年3月31日) 2017年7月3日閲覧。
7. 
特別企画展『400年の時を経て蘇る上田城』特設サイト信州上田まつり実行委員会/上田観光コンベンション協会/上田市/上田商工会議所
8. 
2018年3月13日 『信濃毎日新聞』東信版23面

関連項目
上田城
公園前駅 (長野県)   

外部リンク
上田城観光ガイド -上田観光コンベンション協会-
上田城千本桜まつり公式ガイド
上田真田まつり公式ガイド
上田城跡公園 - 上田市役所
古写真「最近の上田 上田城」  
(wikiより)


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⇧ 上田城跡公園入口

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浦賀駅近く ( 数分 ) のお店です

数年前にも来店したことがあり再訪しました。

食べたのは前回と同じ、ラーメン、半チャーハンを食べました。


亜細亜楼 ( 食べログ )

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⇧ 店外観

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⇧ メニュー

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⇧ ラーメン

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⇧ チャーハン


亜細亜楼 ( 食べログ )







上田城三の丸にある現上田高校の敷地は、真田氏以降、仙石氏、松平氏と続いた上田藩主の居館 ( きょかん ) 跡であり、「御屋形 ( おやかた )」と呼ばれていた。

四囲に堀と土塁をめぐらした陣屋の構えを取っていた。

堀を含めた敷地の広さは、東西が七十四間三尺 ( 135.5m )、南北が七十四間二尺であった。

屋形の基本的な構成は、当初から大きな変化はなかったものと見られるが、松平氏時代の様子のあらましは次のようだった。

屋形は入り口側から、御表 ( おんおもて )・勝手・御奥 ( おんおく ) の三つの殿舎群に分けられていた。

御表は、藩主の公的な生活の場で、大書院・大広間等があった。

勝手は、藩主の居間で小書院・表居間など、また、御奥には藩主の寝室・側室の部屋などがあった。
(案内板より)

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横須賀名物のポテチパンと数点購入しました。

のり塩のポテトチップとキャベツをマヨネーズで合えたものを挟んでありますが、素朴で美味しかったです。

購入したら出来るだけ早く食べましょう

キャベツから水分が出るのでポテチの食感が悪くなっちゃいます。

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⇧ 店外観

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中井パン店 ( 食べログ )






レモン色の秘密(ガス燈のしくみ)

タイマーでセットされた時刻になるとガス弁が開き、灯具内のバーナーにガスが送られ点火プラグによるスパークで着火します。

ガス燈のムードあるレモン色の光はバーナーで熱せられたマントルという発行体のはなつ光です。
(案内板より)

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ひと恋し火とぼしころを桜ちる

白雄 ( しらお )( 1738 ~ 1791 ) は本名を加舎 ( かや ) 吉春といい、与謝蕪村とならび称される天明時代の俳人である。

元文三年、上田藩士の次男として江戸深川に生まれ、鳥酔 ( ちょうすい ) 鳥明 ( うめい ) に俳諧を学んで蕉風俳諧の復興、定着に生涯をかけた。

上田は白雄のふるさとであるばかりでなく、俳人としての出発をこの地で飾り、広く信州の庶民文化を啓発した。

ここに自筆による代表作を刻し永くその遺徳、功績を後世に伝えるものである。

平成二年十月吉日 加舎白雄顕彰保存会
(案内板より)

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長野県宝 上田城三櫓(南櫓・北櫓・西櫓)

種別    建造物
所在地   上田市二の丸
推定年月日 昭和 34年 11月 9日

上田城は、真田正幸によって天正 11年 ( 1583 ) から築城が開始された平城である。

城郭自体の規模はさほど大きくないが、南方は千曲川の分流である尼ヶ淵 ( あまがふち ) に面した断崖に臨み、他の三方は城下町と河川を巧みに配して、周囲一帯を極めて堅固な防御陣地としている。

この上田城の特性は、天正 13年 ( 1585 ) と慶長 5年 ( 1600 ) の 2回にわたる徳川氏との合戦の際に遺憾なく発揮され、真田氏と上田城の名は天下に鳴り響いたのである。

しかし、真田氏の上田城は、関ヶ原の合戦後に徹底的に破却され、現存する上田城の隅櫓 ( すみやぐら ) や石垣は、寛永 3 ~ 5年 ( 1626 ~ 28 ) にかけて仙石忠政によって新たに築き直されたものである。

仙石氏による上田城再築は、忠政の病死により中絶し、堀や石垣などの普請 ( ふしん )( 土木工事 ) は完成したものの、櫓や城門を建てる作事 ( さくじ )( 建築工事 ) は本丸のみの未完成に終わった。

本丸には、天守は建てられず、7棟の二層隅櫓と 2棟の櫓門が建てられたことが、絵図などの記録と発掘調査によって確認されている。

上田城は仙石氏の後、松平氏によって受け継がれ明治維新を迎えた。

現存する 3棟の隅櫓のうち、本丸西虎口 ( こぐち )( 城郭の出入り口 ) に建つ 1棟 ( 西櫓 ) は、寛永期の建造当初からのものであるが、本丸東虎口の 2棟 ( 南櫓・北櫓 ) は、明治初期に民間に払い下げられ、市内に移築されていたものを市民の寄付により買戻し、昭和 18 ~ 24年にかけて現在の場所に復元したものである。

これら三棟の櫓は、江戸時代初期の貴重な城郭建造物として、昭和 34年に長野県宝に指定された。

三櫓の構造形式はいずれも共通で、二層二階、桁行 ( けたゆき ) 五間、梁間 ( はりま ) 四間の妻入り形式である。

屋根は入母屋 ( いりもや ) 造りで、本瓦を葺き、外廻りは白漆喰塗籠大壁 ( しろしっくいぬりごめおおかべ ) で、腰下見板張 ( こししたみいたば ) り、内部は、白漆喰塗りの真壁 ( しんかべ ) になっている。

窓は白漆喰塗りの格子 ( こうし ) 窓で、突き上げ板戸が付いている。

なお、本丸東虎口櫓門と紬塀は、明治 10年頃に撮影された古写真と、石垣の痕跡、発掘調査の成果などをもとに、平成 6年に復元したものである。

櫓門と同時に整備された本丸東虎口の土橋 ( どばし ) には、両側に武者立石段 ( むしゃたていしだん ) と呼ばれる石積が設けられ、本丸大手口としての格式を示している。
(案内板より)

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米熊は長門国長府藩士・三吉慎蔵の長男として、万延元年 ( 1860) 山口県下関市に生まれた。

成人し上京後、駒場農学校 ( 現東大農学部 ) を卒業。

同郷出身者の薦めがあって長野県の職員となる。

その後蚕業事情視察のため渡欧し、二年間養蚕技術を習得帰国後、明治二十五年日本で最初の蚕業教育の学校である小県蚕業学校 ( 現上田東高等学校 ) の初代校長に就任。

また、明治四十三年開校の上田蚕糸専門学校 ( 現信州大学繊維学部 ) の創立委員と教授を兼ねた。

昭和二年逝去するまで実に三十六年間蚕業教育に情熱を傾けた。

当時の日本経済を支えた蚕糸業に寄与した功績は計り知れない。


米熊の父の慎蔵は、薩長同盟締結や大政奉還に尽力した土佐の坂本龍馬の盟友「槍の慎蔵」として知られている人物である。

維新後も明治の元勲らとも交流を続け、龍馬と同様に新しい日本の夜明けの礎を築いたひとりである。


米熊は父・慎蔵と同じく中央から立身出世の再三の誘いがあっても、栄達を望まずこの異郷の地、上田で終生蚕業教育発展のために身を捧げたのである。
(案内板より)

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二度にわたり徳川の大軍の攻撃を退けた真田の「智勇」は天下に轟き大坂夏の陣において武具を赤で統一した「真田赤備え」部隊を率いた真田幸村公がかぶった朱色で鹿角型の兜が「赤備え兜」です。

幸村公は「愛」と「義」の捨て身の活躍で「日本 ( ひのもといち ) の兵 ( つわもの )」と称されました。

自ら信じる道を民と共に歩んだ真田一族の熱き「和」と「仁」の心、真田魂が宿る真田杉の切り株を「赤備え兜」がお守りしています。

真田神社奉賛会
(案内板より)

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大手の石垣に巨石を用いる例は多く、城主はその権威を示すために、大きさを競ったという。

真田石は、真田信之が松代に移封を命じられた際に、父の形見として持っていこうとしたが、微動だにしなかったという伝承がある。

現在ある石垣は仙石忠政が造ったものである。

真田氏に寄せる人々の敬愛の情がうかがえる伝承である。
(案内板より)

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 明治時代、上田街学校の校長だった久米由太郎を称える碑

日本人・久米先生碑

題額 上田市長 淺井敬吾先生

先生名ハ由太郎東京ノ人ナリ曾テ東京師範學校ニ學ヒ業ヲ卒ヘテ福島縣訓導ヲ奉シ尋テ長野縣ニ轉シ上田小學校長ニ任ス先生性寡黙謹厳ニシテ恪勤常ニ率先シテ衆人ヲ導キ言行一致ス在職五年學績大ニ舉リ令名頗ル高シ曩ニ本縣カ教育王國ノ讃辭ヲ贏チ得タル所以モ亦先生訓育ノ功興リテ大ナリトス然ルニ明治三十一年三月不幸ニシテ火ヲ失シ貴重ナル記念校舎鳥有ニ歸ス蓋シ同校舎ハ曾テ

明治天皇在所タリ先生恐慴シテ謹愼スルコト数日遂ニ決然トシテ自刃シ以テ其ノ罪ヲ天下ニ謝ス時ニ先生四十七歳ナル當時恰モ政争激甚ヲ極メ此活教育ノ至寳ヲ敢テ顯彰スルモノ之ガ爲ニ去ル者日ニ疎クシテ四十有七年ヲ閲ス昭和十九年五月大東亞青年同盟上田支部ハ此ノ列々タル先生ノ遺徳堙没センコトヲ憂ヘテ慰霊祭を擧行シ朝野ノ名士ヲ招シテ大講演會ヲ開キ以テ先生ノ徳ヲ表ハス眞ニ當代ノ殷鑑タリ今茲昭和二十年右支部及ヒ遺弟ノ有志ニヨリテ先生彰徳ノ碑ヲ其ノ殉職ノ地ニ建テ以テ後世ニ貽サントス冀クハ後進ノ士民ハ先ノ遺訓ヲ體シ君國ノ為メ大ニ重責ニ任センコトヲ望ミ建碑ノ梗概ヲ記ス云爾

大東亜青年同盟参議細田晦堂撰文

   従七位勲八等 堀内義謹書
(案内板より)

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みすず飴みす(みすずあめ)は、長野県で製造、販売されているゼリー菓子である。

概要
みすず飴は果汁に水飴等を加え寒天で固めたもので、弾力性があって柔かく果汁の風味と独特の歯ごたえが好まる。飴どうし、あるいは飴と包装紙がつかないようオブラートでくるむか、砂糖をまぶすなどの処置が施されている。商品としてはセロファンで包まれたものと、紙の包装のものがあり、セロファンで包まれたものは首都圏でも売られている。みすゞ飴、みすず飴は特に上田市周辺の長野県土産の常連で、や土産店でも目立つ場所に置かれている。

「みす飴」[1]と「みす飴」[2]は株式会社飯島商店の登録商標であるため、他社が同様の商品を販売する際はそれを避けるため「寒天ゼリー」という名称で売られている。

歴史
みすゞ飴、みすず飴は大正8年(1919年)、上田市株式会社飯島商店の飯島新三郎によって翁飴をヒントに開発された。信州というイメージで商品化するという狙いからみすず飴とつけられた。最初はアンズ、イチゴ、リンゴの三種類であった。[3]現在ではアンズ、梅、三宝柑、ぶどう、もも、りんごの6種類である。ちなみに高麗人参抽出液のみを使用した製品が存在するがこちらは「みすゞ人参糖」と呼ばれている。また、杏果汁を原料とした製品は「みすゞ杏」の名で独立販売されていたことがある。

脚注
1. 
「みすゞ飴」商標登録 第1645947号
2. 
「みすず飴」商標登録 第5699420号
3. 
上田市誌人物編「明日をひらいた上田の人びと」p.6-7(2003年)

関連項目
踊り字(みす飴のゞ)

外部リンク
株式会社飯島商店 - みすゞ飴
みすゞ飴本舗 飯島商店 (misuzuame) - Facebook    
(wikiより)

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北国街道(ほっこくかいどう)は日本の街道である。江戸幕府によって整備された脇街道で、北国脇往還(ほっこくわきおうかん)、善光寺街道(ぜんこうじかいどう)などとも呼ばれる。

追分軽井沢町の西寄り)で中山道と分かれ、善光寺を経て直江津北陸道に合流する。この北陸道も含めて、追分から出雲崎または新潟湊まで一体的に「北国街道」と呼称する場合もある[1][2]

概要
本道は、善光寺への参拝のために整備され、佐渡の江戸に運ぶ道として五街道に次ぐ重要な役割を果たした。軽井沢町から上越市までの区間は現在の国道18号にほぼ相当する。

善光寺平の入り口矢代宿(屋代宿とも書く)[3]を過ぎて雨宮の渡しで千曲川を渡るが、川を渡らずに東岸の松代城下や福島宿を経由して、牟礼宿で本道と合流する松代道と呼ばれる脇道があり、谷街道の一部と重なる。この路は、犀川の川止めで本道が足止めされた場合、布施の渡しで千曲川を渡って福島宿へと迂回し、足止めを回避することを目的としている。

沿線の宿場町のまち並みは観光地となっている[4]

宿駅
田中宿と海野宿、上戸倉宿と下戸倉宿、古間宿と柏原宿、関川宿と上原宿、田切宿と二俣宿、松崎宿と二本木宿は合宿(あいしゅく)といい、セットで1つの宿場の役割を果たした。また、鼠宿と篠ノ井追分宿は間の宿(あいのしゅく)といい、幕府や藩の非公認の宿であった。
追分宿長野県北佐久郡軽井沢町
小諸城下小諸宿(長野県小諸市
田中宿海野宿(長野県東御市
上田城下(長野県上田市
・(間の宿)鼠宿(長野県埴科郡坂城町
坂木宿(長野県埴科郡坂城町)
上戸倉宿下戸倉宿(長野県千曲市
矢代宿(長野県千曲市)
・(間の宿)篠ノ井追分宿(長野県長野市
丹波島宿(長野県長野市)
善光寺宿(長野県長野市)
新町宿(長野県長野市)
牟礼宿(長野県上水内郡飯綱町
古間宿柏原宿(長野県上水内郡信濃町
野尻宿(長野県信濃町)
関川宿上原宿新潟県妙高市
田切宿二俣宿(新潟県妙高市)
関山宿(新潟県妙高市)
松崎宿二本木宿(新潟県上越市中郷区
荒井宿(新潟県妙高市)
高田城下(新潟県上越市)

松代道(脇道)
・矢代宿(長野県千曲市)
雨宮宿(長野県千曲市)
松代城下(長野県長野市)
川田宿(長野県長野市)
福島宿(長野県須坂市
神代宿(長野県長野市)
・牟礼宿(長野県上水内郡飯綱町)

脚注
出典
1. 北国街道と岩室宿の発展 - 新潟県 2019年1月16日閲覧。
2. 
北国街道 - 新潟市西蒲区 2019年1月16日閲覧。
3. 
八木牧夫著 「ちゃんと歩ける伊勢参宮道 善光寺道」山と溪谷社 2019年
4. 
北国街道 自転車の旅 - 信州キャンペーン実行委員会 2019年1月16日閲覧。

関連項目
北国西街道     

外部リンク
信州の街道探訪 - 国土交通省関東地方整備局
(wikiより)


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