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8965 池田鴻墓(長崎県南松浦郡新上五島町浦桑郷1189・浄福寺)
| 生誕 | 1939年3月13日 |
|---|---|
| 出身地 | |
| 死没 | 1988年3月5日(48歳没) |
| 学歴 | 早稲田大学 |
| ジャンル | ミュージカル アニメソング |
| 職業 | 俳優 歌手 |
| 担当楽器 | 歌 |
| 活動期間 | (アニソン歌手としては1976年 - 1988年) |
| レーベル | キングレコード |
池田 鴻(いけだ こう、本名:池田 幸鴻[1](いけだ ゆきひろ)、1939年3月13日[1] - 1988年3月5日)は、日本の俳優、歌手。おぎいくこ事務所に所属していた[1]。
略歴
長崎県出身[1]。早稲田大学を卒業[1]した後、劇団四季、東京キッドブラザーズに所属し数々の舞台を踏む一方、テレビドラマでも重厚な存在感を見せた。
また歌手としても活動、いくつもの特撮・アニメ主題歌をリリースした。『機動戦士ガンダム』のオープニングテーマ「翔べ! ガンダム」は代表作として知られている。
1988年3月5日、直腸癌により48歳で死去。彼の墓は南松浦郡新上五島町浦桑郷の浄福寺にある。
特技は舞踊[1]、歌唱[1]。
出演
テレビドラマ
・大河ドラマ(NHK)
・天と地と(1969年)
・花神(1977年) - 槙村半九郎
・草燃える 第50回「三浦義村の策謀」(1979年) - 藤原忠綱
・獅子の時代(1980年) - 通弁
・峠の群像(1982年) - 仲買人
・徳川家康 (1983年) - 津川義冬
・山河燃ゆ(1984年)
・春の波涛(1985年) - 岡崎高厚・
・新・日本剣客伝 第2話「中村半次郎」(1969年、NET) - 大久保一蔵
・女人平家(1971年 - 1972年、ABC) - 三善康信
・なつかしき海の歌(1975年、TBS)
・新宿警察 第3話「新宿ろくでなし」(1975年、CX)
・夜明けの刑事 第67話「君は妻娘を殺されたらどうする!!」(1976年、TBS / 大映テレビ) - 村岡隆一郎
・特別機動捜査隊(NET)
・第758話「愛情の海」(1976年) - 中杉成吾
・第797話「夕陽の波止場」(1977年) - 沖口
・大都会シリーズ(NTV / 石原プロ)
・大都会 闘いの日々 第19話「受難」(1976年)
・大都会 PARTIII 第45話「深夜の殺人者」(1979年) - 田代警視
・太陽にほえろ!(NTV / 東宝)
・第231話「孤独」(1976年) - 七曲署捜査三係刑事
・第270話「殿下とライオン」(1977年) - 三田村雅文(スーパーエルフ店長)
・第307話「反転」(1978年) - 島崎編集長
・第457話「長さんが刑事を辞めたくなった」(1981年) - 矢追信用金庫支店長
・第518話「忘れていたもの」(1982年) - 前尾健三
・第550話「俺はプロだ!」(1983年) - 谷原秘書
・第563話「たすけて!」(1983年) - 南郷不動産社長
・第589話「共謀」(1984年) - 伊藤
・第601話「アイドル」(1984年) - 東洋テレビリポーター
・太陽にほえろ! PART2 第9話「見知らぬ侵入者」(1987年) - パールマンション管理人
・破れ奉行 第12話「悲愁! 八千両の鈴」(1977年、ANB)
・日本の戦後 第4集「それは、晩餐から始まった 財閥解体への道」(1977年、NHK)
・特捜最前線(ANB)
・第28話「恐喝 にせ女子大生日記」(1977年) - 岡崎助教授
・第38話「バスジャック・光なき娘へのハレルヤ」(1977年) - 警視庁南新宿署長
・第100話「レイプ・17歳の記録!」(1979年)
・第350話「殺人トリックの女!」(1984年)
・華麗なる刑事 第20話「黒衣の女」(1977年、CX / 東宝) - 海老沢
・ロボット110番 第36話「二人のパパ」 (1977年、ANB) - 夢野一路
・青春の門 第二部 (1978年、MBS)
・七人の刑事 第3シーズン(TBS)
・第3話「ブルートレインはふるさと行」(1978年)
・第63話「顔を買う男」(1979年)
・達磨大助事件帳 第23話「地獄への落し穴」(1978年、ANB / 前進座 / 国際放映) - 池永
・チェックメイト78 第9話「警部とピアノ殺人楽章」(1978年、ABC / テレパック)
・消えた巨人軍 最終話(1978年、NTV / 東映) - 三上課長
・不毛地帯 第15話(1979年、MBS) - 刑事
・特別企画三時間ドラマ 日立スペシャル / 大いなる朝(1979年、TBS)
・おやこ刑事 第16話「ディスコ・レディ全裸殺人事件」(1979年、12ch)
・騎馬奉行 第13話「湖底の黄金を探せ!」(1980年)
・Gメンシリーズ(TBS / 近藤照男プロ)
・Gメン'75 第264話「悪魔の棲む家」(1980年) - 井沢拓郎
・Gメン'82 第16話「花嫁強盗団」(1983年) - 鑑識員
・仮面ライダースーパー1 第7話「ドグマ式生きているコンピューター」(1980年、MBS / 東映) - 山下博士
・西武スペシャル / 隣りの女-現代西鶴物語-(1981年、TBS)
・2年B組仙八先生(1981年、TBS)
・新五捕物帳 第166話「はかなき百両の恋」(1981年、NTV)
・土曜ワイド劇場
・死者の木霊 信濃路バラバラ殺人事件(1982年) - 野本敏夫
・松本清張の溺れ谷(1983年)
・牟田刑事官事件ファイル 第1作「事件の眼 信濃路にいた女」(1983年)
・家路の果て 建売住宅ローン殺人事件! ラブホテルで主婦が焼死!(1985年)
・松本清張の黒い樹海(1986年)
・勇者は語らず いま、日米自動車戦争は 第2話「きょう、オハイオの大地に立つ」(1983年、NHK) - ティム・クボタ
・ザ・ハングマンシリーズ(ABC / 松竹)
・新ハングマン 第19話「浮浪者を襲う医大教授と浮気婦人」(1983年) - 浅田事務局長(東都医科大学)
・ザ・ハングマン4 第25話「痛快ダブルハンギング!! さようならありがたや節」(1985年) - 平瀬(隆友ジャーナル幹部)
・メタルヒーローシリーズ(ANB / 東映)
・宇宙刑事シャリバン 第28話「キャンパスは風速80Mの猛烈ストーム」(1983年) - 大神豊教授(キャンパスビースト人間態)
・巨獣特捜ジャスピオン 第32話「お手伝いロボットの真夜中のアルバイト」(1985年) - チップ
・必殺仕事人IV 第2話「秀、少女の謎を明かす」(1983年、ABC / 松竹) - 牧野内膳正
・右門捕物帖 第33話「冬の風鈴」(1983年、NTV)
・スペシャルドラマ(TBS)
・風にむかってマイウェイ(1984年) - 横山武敏
・イエスの方舟 イエスと呼ばれた男と19人の女たち(1985年)
・金曜ドラマ / 夫婦生活(1985年、TBS)
・金曜女のドラマスペシャル(CX)
・おふくろシリーズ 第2作「おふくろ殿」(1985年)
・小さな目撃者 ママとあっちゃんの推理ポケット(1988年)
・火曜サスペンス劇場 / 女からの眺め 女だけで犯した20億円強奪作戦(1987年、NTV) - 犬猫病院先生
CM
・マクドナルド
主な曲
タイアップ
・怒れ勇者よバトルホーク(特撮番組『バトルホーク』 主題歌)
・正義の闘士バトルホーク(特撮番組『バトルホーク』 副主題歌)
・飛べ!グロイザーX(アニメ『グロイザーX』 主題歌)
・ゴーゴー・グロイザーX(アニメ『グロイザーX』 副主題歌)
・きょうりゅうサイボーグ マシンザウラー(『きょうりゅうサイボーグ マシンザウラー』イメージソング)
・おれのマシンザウラー(『きょうりゅうサイボーグ マシンザウラー』 イメージソング)
・翔べ! ガンダム(アニメ『機動戦士ガンダム』 オープニングテーマ)
・永遠にアムロ(アニメ『機動戦士ガンダム』 エンディングテーマ)
カバーソング
・セタップ! 仮面ライダーX(『仮面ライダーX』OP)
・おれはグレートマジンガー(『グレートマジンガー』OP)
・ゲッターロボ!(『ゲッターロボ』OP)
・仮面ライダーストロンガーのうた(『仮面ライダーストロンガー』OP)
・勇者ライディーン(『勇者ライディーン』OP)
・とべ!グレンダイザー(『UFOロボ グレンダイザー』OP)
・立て!闘将ダイモス(『闘将ダイモス』OP)
・グランプリの鷹(『アローエンブレム グランプリの鷹』OP)
・フラッシュ!イナズマン(『イナズマンF』OP)
・秘密戦隊ゴレンジャー(『秘密戦隊ゴレンジャー』ED)
・猿の軍団(『SFドラマ 猿の軍団』OP)
・ジムボタンの歌(『ジムボタン』OP)
・ピンポンパン体操'74
・およげ!たいやきくん
他多数。
その他
・オリバー君のロックンロール(オリバー君ブームの際に作られたイメージソング。1976年発売)
・恋するオリバー君(「オリバー君のロックンロール」シングルB面)
・やっぱりジャイアンツ(読売ジャイアンツ応援歌。1980年発売)
出典
1. a b c d e f g 『日本タレント名鑑'82』VIPタイムズ社、1981年、21頁。
(wikiより)

⇧ 池田 鴻



⇧ 墓碑書の文字はペギー葉山さんです。
8964 美瑛駅(北海道美瑛町本町1-1)
歴史
・1899年(明治32年)
・9月1日:北海道官設鉄道十勝線旭川駅 - 当駅間開業にともない設置[1]。一般駅[1]。
・11月15日:当駅 - 上富良野駅間延伸開業。
・1905年(明治38年)4月1日:鉄道作業局に移管[1]。
・1909年(明治42年)10月12日:所属路線が釧路線に改称。
・1913年(大正2年)11月10日:所属路線が富良野線に改称。
・1949年(昭和24年)6月1日:公共企業体である日本国有鉄道に移管。
・1951年(昭和26年)9月:旧駅舎が手狭になったため、駅舎改築を決定[4][5]。
・1952年(昭和27年)1月30日:美瑛軟石を用いた現駅舎が竣工[4][5][6]。
・総工費404万円中、町が113万3000円を負担した[4]。
・1954年(昭和29年)
・月日不詳:4名の町民が在町50年を記念して大時計を寄贈し、駅舎正面玄関上に掲げる[4][5]。
・9月26日:台風15号(洞爺丸台風)により大時計が駅舎片屋根と共に飛散[4][5]。
・1959年(昭和34年)12月15日:美瑛町開町60年を記念し、5名の町民が再度大時計を寄贈し、駅舎正面玄関に掲げる[5]。
・1960年(昭和35年)1月:職員宿舎2棟6戸建設[5]。
・1961年(昭和36年)5月20日:国鉄合理化のモデルケースとして、美瑛駅に6中間駅を含む経営と、従来旭川保線区美瑛線路分区が担っていた保線業務(保線班)を統括させる美瑛運輸区を設置[5]。
・1962年(昭和37年)10月:美瑛町農業協同組合専用線(186 m)新設[5]。
・1964年(昭和39年)
・6月1日:前年に町と旭川鉄道管理局で協定が結ばれ、同年5月17日に建設省から許可された駅前広場造成事業(駅前広場や周辺街路の舗装等)に着手[7]。同年は総事業量の65%を施行し、残りは翌年度施工(当初計画)[7]。
・9月:4番線土場を舗装[5]。
・1965年(昭和40年)
・10月:駅前広場完成[7]。
・12月:色灯式信号機に変更[5]。
・1966年(昭和41年)
・1月31日:「所期の目的を達成」として美瑛運輸区廃止。旭川保線区美瑛線路分区を分離[5]。
・11月:女性専用便所新設[5]。
・1967年(昭和42年)10月:4番線土場の舗装を拡大[5]。
・1968年(昭和43年)10月:駅上下ホーム舗装、駅宿舎1棟改築[5]。
・1982年(昭和57年)11月15日:貨物取扱い廃止[1]。
・1984年(昭和59年)2月1日:荷物取扱い廃止[1]。
・1987年(昭和62年)4月1日:国鉄分割民営化により、北海道旅客鉄道(JR北海道)の駅となる[1]。。
・2024年(令和6年)4月1日:業務委託化[8]。
駅名の由来
「美瑛川#川名の由来」および「美瑛町#町名の由来」も参照
駅構造
2面2線の相対式ホームをもつ地上駅[6]。ホーム間の移動は跨線橋を使う。
駅舎は富良野方に向かって左側のホームに隣接して設けられている[6]。現駅舎は1952年(昭和27年)に新築竣工した平屋鉄骨鉄筋石造(290.5 m2)で[4][9]、当時国鉄旭川鉄道管理局建築課に在籍していた新田進が設計した[9]。国鉄時代の駅舎としては珍しい石造であり、合計3,400才(≒6.133 m3)の美瑛軟石が用いられている[4]。
北海道ジェイ・アール・サービスネットに駅業務を受託している業務委託駅である[2]。みどりの窓口が設置されている。

改札口・みどりの窓口(2021年5月)

ホーム(2021年5月)

跨線橋(2021年5月)
利用状況
乗車人員の推移は以下のとおり。年間の値のみ判明している年については、当該年度の日数で除した値を括弧書きで1日平均欄に示す。乗降人員のみが判明している場合は、1/2した値を括弧書きで記した。
また、「JR調査」については、当該の年度を最終年とする過去5年間の各調査日における平均である。
駅正面側 (美瑛市街)
市街地は1989年(平成元年)から2001年(平成13年)にかけ駅を中心に商店を集約し、付帯施設を整備する区画整理を実施した。併せて屋根勾配を揃える、高さの制限、ファサードに美瑛軟石を用いるなどの建築協定を定め、統一感ある街並みとしている[15]。
・北海道道213号天人峡美瑛線・北海道道543号上宇莫別美瑛停車場線
・道の駅びえい「丘のくら」(石造倉庫・物産施設・ふれあい舘ラヴニール)
・美瑛町役場(四季の塔)
・美瑛郵便局
・旭川信用金庫美瑛支店
・北海道銀行美瑛支店
・美瑛町農業協同組合(JAびえい)
・四季の情報館(観光案内所)
・美瑛町立美瑛小学校
・北海道美瑛高等学校
・美瑛町図書館
・道北バス・美瑛町営バス・ノースライナー「美瑛駅前」停留所
・旭川東警察署美瑛交番
駅裏
・ふらのバス「美瑛駅」停留所
・セブンスターの木(タバコのパッケージに使われた木)
・アラポテトの丘(ポテトチップスのCMで撮影されたジャガイモ畑)
隣の駅
北海道旅客鉄道 (JR北海道)
■富良野線
千代ヶ岡駅 (F35) - *北美瑛駅 (F36) - 美瑛駅 (F37) - 美馬牛駅 (F38)
*:一部の上り列車は北美瑛駅を通過する。
脚注
出典
1. a b c d e f g 石野哲 編『停車場変遷大事典 国鉄・JR編 II』(初版)JTB、1998年10月1日、887頁。ISBN 978-4-533-02980-6。
2. a b “直営店舗および受託駅一覧 | 会社概要 | 株式会社北海道ジェイ・アール・サービスネット”. 北海道ジェイ・アール・サービスネット. 2024年10月4日閲覧。
3. 日本国有鉄道営業局総務課 編『停車場一覧 昭和41年3月現在』日本国有鉄道、1966年、235頁。doi:10.11501/1873236。2022年12月10日閲覧。
4. a b c d e f g h i 美瑛町役場 編『美瑛町史』 2巻、美瑛町、1959年、226‐228頁。doi:10.11501/3450767。2023年1月2日閲覧。
5. a b c d e f g h i j k l m n o 美瑛町史研究編纂会 編『美瑛町史』 3巻、美瑛町、1970年、487-493頁。doi:10.11501/9490659。2023年1月3日閲覧。
6. a b c d 宮脇俊三、原田勝正 著、二見康生 編『北海道630駅』小学館〈JR・私鉄各駅停車〉、1993年6月20日、124頁。ISBN 4-09-395401-1。
7. a b c 美瑛町史研究編纂会 編『美瑛町史』 3巻、美瑛町、1970年、221-222, 487-493, 496頁。doi:10.11501/9490659。2023年1月3日閲覧。
8. “沿革 | 会社概要 | 株式会社北海道ジェイ・アール・サービスネット”. 北海道ジェイ・アール・サービスネット. 2024年10月4日閲覧。
9. a b c 馬場, 知己「駅のうつりかわり(2)―鉄道旅客駅変遷史―」『汎交通』第83巻第11号、日本交通協会、1983年11月、21-29頁、doi:10.11501/2793339、2023年1月3日閲覧。
10. 照井八重治 編『美瑛村史』照井八重治、1917年11月5日、45-46頁。doi:10.11501/951643。2023年1月3日閲覧。
11. “平成25年度美瑛町町勢要覧” (PDF). 美瑛町. p. 11 (2013年). 2018年2月8日閲覧。
12. “平成29年度美瑛町町勢要覧” (PDF). 美瑛町. p. 11 (2017年). 2018年2月8日閲覧。
13. a b c 令和元年度美瑛町町勢要覧 2020年9月24日閲覧
14. 令和2年度美瑛町町勢要覧 2021年5月1日閲覧
15. 内藤, 清二「区画整理事業による中心市街地活性化に向けて―建築協定によって良好な環境を創造―」『道路 : road engineering & management review』第685号、日本道路協会、1998年3月、33-36頁、doi:10.11501/3309363、2023年1月3日閲覧。
(wikiより)

⇧ 駅外観

⇧ 駅舎内



⇧ ホーム
8963 浄福寺(長崎県南松浦郡新上五島町浦桑郷1189)
8962 神田明神下:笹一葉 みやび本舗
8961 鉄川與助墓(南松浦郡新上五島町)
| 生誕 | 1879年(明治12年)1月13日 (現 長崎県南松浦郡新上五島町) |
|---|---|
| 死没 | 1976年7月5日(97歳没) |
| 国籍 | |
| 出身校 | 有川高等小学校 |
| 職業 | 建築家 |
| 受賞 | 黄綬褒章(1959年) 勲五等瑞宝章(1967年) |
| 所属 | 鉄川組 |
来歴
1879年(明治12年)、長崎県の五島列島を構成する島の一つである中通島の青方村で、大工の棟梁である鉄川与四郎の長男として生まれる。幼少の頃、近郊の魚目村に移る。(いずれも現在は長崎県南松浦郡新上五島町)
有川高等小学校卒業後、家業を手伝うが、1899年(明治32年)、20歳の時に魚目村に曽根天主堂が建設された際、野原棟梁と出会う。野原はフランス人宣教師A・ペール神父の指導のもとで、当時数少ない天主堂建築を手掛ける大工であった。与助にとっては初の西洋建築との出会いでもあり、以後、野原のもとで修行を積むことになる。また、その頃の五島列島は、信者たちが天主堂建設を合言葉にするほど求められた時代であり、与助は天主堂建築に傾斜していく。
ペール神父からリブ・ヴォールト天井や幾何学についての教えを受け、野原のもとで天主堂を建築していくなか、1906年(明治39年)27歳の時に家業を相続し鉄川組を編成する[1]。30代半ばに大浦天主堂に隣接する大司教館の建築で、マルク・マリー・ド・ロ神父と出会う。以来、教会建築に関する様々な事柄を神父より教えられ、鉄川も神父の素材選びや建築に対する姿勢に感化され、後の仕事に大きく反映されたという。[2] 1959年に黄綬褒章、1967年には勲五等瑞宝章を授与されている。
多くのカトリック教会を建設し、「教会建築の父」とも呼ばれているが、彼自身は生涯仏教徒であった[3]。しかし、仏教寺院の建築に関わったのは生涯で3軒と言われている[3]。
晩年は横浜市で過ごす。共に暮らしていた孫は「97歳で亡くなる数週間前まで元気に過ごしていた」「(仏教徒ゆえ)亡くなるときに「仏様が見える」と話した」と2018年のシンポジウムにて明かしている[4]。
五男の鉄川喜一郎が、父の手掛けた建築を一部紹介した『日本れんが紀行』(日貿出版社、2000年)を読んで、與助が遺した資料を著者の喜田信代に貸与。これを基に喜田は2017年、『天主堂建築のパイオニア・ 鉄川與助―長崎の異才なる大工棟梁の偉業』(日貿出版社)を刊行した[5]。
「設計・施工に携わった教会堂」については、「鉄川與助ウィキペディア」をご覧ください。 ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%89%84%E5%B7%9D%E4%B8%8E%E5%8A%A9
設計・施工に携わった寺院
・浄福寺 長崎県南松浦郡新上五島町、大正10年(1921年)、浄土宗
・元海寺 長崎県南松浦郡新上五島町、大正13年(1924年)、浄土真宗本願寺派
・得雄寺 長崎県南松浦郡新上五島町、昭和22年-25年(1947年-1950年)、浄土真宗本願寺派
脚注
1. 雑賀 雄二 1989, p. 9-10.
2. 砂田光紀『九州遺産』弦書房、2005年P209
3. a b “【今日は何の日】◆8月27日 男はつらいよの日”. クリスチャンプレス (2020年8月27日). 2021年6月11日閲覧。
4. 長崎新聞 (2018年10月14日). “鉄川与助の人物像に迫る 子孫や識者ら意見交わす | 長崎新聞”. 長崎新聞. 2021年6月11日閲覧。
5. 喜田信代「大工が積んだ教会レンガ◇長崎の天主堂など30棟建てた鉄川與助の仕事ひもとく◇」『日本経済新聞』2017年7月21日(文化面)
6. 大刀洗町ホームページ
参考文献
・三沢博昭『大いなる遺産 長崎の教会』(智書房、2000年)
・横浜都市発展記念館『開国150周年記念 横浜・長崎 教会建築史紀行 祈りの空間をたずねて』(2004年)
・「鉄川与助 鉄筋コンクリート独力習得」読売新聞 2010 - 01 - 24 日曜版
・雑賀雄二『天主堂物語』新潮社、1989年。ISBN 410363202X。
・住友和子編集室; 村松寿満子『鉄川与助の教会建築 五島列島を訪ねて』LIXIL出版〈LIXIL BOOKLET〉、2012年。ISBN 9784864805001。
伝記
・喜田信代『天主堂建築のパイオニア鉄川與助』日貿出版社、2017年
関連項目
・長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産
外部リンク
・長崎の教会 鉄川与助(おじいちゃんが建てた教会)
(wikiより)



⇧ ボケちゃいました。

⇧ 鉄川與助。





8960 根津:中川屋
8959 鉄川與助旧居(南松浦郡新上五島町丸尾郷)
〇 鉄川與助
| 生誕 | 1879年(明治12年)1月13日 (現 長崎県南松浦郡新上五島町) |
|---|---|
| 死没 | 1976年7月5日(97歳没) |
| 国籍 | |
| 出身校 | 有川高等小学校 |
| 職業 | 建築家 |
| 受賞 | 黄綬褒章(1959年) 勲五等瑞宝章(1967年) |
| 所属 | 鉄川組 |
来歴
1879年(明治12年)、長崎県の五島列島を構成する島の一つである中通島の青方村で、大工の棟梁である鉄川与四郎の長男として生まれる。幼少の頃、近郊の魚目村に移る。(いずれも現在は長崎県南松浦郡新上五島町)
有川高等小学校卒業後、家業を手伝うが、1899年(明治32年)、20歳の時に魚目村に曽根天主堂が建設された際、野原棟梁と出会う。野原はフランス人宣教師A・ペール神父の指導のもとで、当時数少ない天主堂建築を手掛ける大工であった。与助にとっては初の西洋建築との出会いでもあり、以後、野原のもとで修行を積むことになる。また、その頃の五島列島は、信者たちが天主堂建設を合言葉にするほど求められた時代であり、与助は天主堂建築に傾斜していく。
ペール神父からリブ・ヴォールト天井や幾何学についての教えを受け、野原のもとで天主堂を建築していくなか、1906年(明治39年)27歳の時に家業を相続し鉄川組を編成する[1]。30代半ばに大浦天主堂に隣接する大司教館の建築で、マルク・マリー・ド・ロ神父と出会う。以来、教会建築に関する様々な事柄を神父より教えられ、鉄川も神父の素材選びや建築に対する姿勢に感化され、後の仕事に大きく反映されたという。[2] 1959年に黄綬褒章、1967年には勲五等瑞宝章を授与されている。
多くのカトリック教会を建設し、「教会建築の父」とも呼ばれているが、彼自身は生涯仏教徒であった[3]。しかし、仏教寺院の建築に関わったのは生涯で3軒と言われている[3]。
晩年は横浜市で過ごす。共に暮らしていた孫は「97歳で亡くなる数週間前まで元気に過ごしていた」「(仏教徒ゆえ)亡くなるときに「仏様が見える」と話した」と2018年のシンポジウムにて明かしている[4]。
五男の鉄川喜一郎が、父の手掛けた建築を一部紹介した『日本れんが紀行』(日貿出版社、2000年)を読んで、與助が遺した資料を著者の喜田信代に貸与。これを基に喜田は2017年、『天主堂建築のパイオニア・ 鉄川與助―長崎の異才なる大工棟梁の偉業』(日貿出版社)を刊行した[5]。
「設計・施工に携わった教会堂」については、「鉄川與助ウィキペディア」をご覧ください。 ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%89%84%E5%B7%9D%E4%B8%8E%E5%8A%A9
設計・施工に携わった寺院
・浄福寺 長崎県南松浦郡新上五島町、大正10年(1921年)、浄土宗
・元海寺 長崎県南松浦郡新上五島町、大正13年(1924年)、浄土真宗本願寺派
・得雄寺 長崎県南松浦郡新上五島町、昭和22年-25年(1947年-1950年)、浄土真宗本願寺派
脚注
1. 雑賀 雄二 1989, p. 9-10.
2. 砂田光紀『九州遺産』弦書房、2005年P209
3. a b “【今日は何の日】◆8月27日 男はつらいよの日”. クリスチャンプレス (2020年8月27日). 2021年6月11日閲覧。
4. 長崎新聞 (2018年10月14日). “鉄川与助の人物像に迫る 子孫や識者ら意見交わす | 長崎新聞”. 長崎新聞. 2021年6月11日閲覧。
5. 喜田信代「大工が積んだ教会レンガ◇長崎の天主堂など30棟建てた鉄川與助の仕事ひもとく◇」『日本経済新聞』2017年7月21日(文化面)
6. 大刀洗町ホームページ
参考文献
・三沢博昭『大いなる遺産 長崎の教会』(智書房、2000年)
・横浜都市発展記念館『開国150周年記念 横浜・長崎 教会建築史紀行 祈りの空間をたずねて』(2004年)
・「鉄川与助 鉄筋コンクリート独力習得」読売新聞 2010 - 01 - 24 日曜版
・雑賀雄二『天主堂物語』新潮社、1989年。ISBN 410363202X。
・住友和子編集室; 村松寿満子『鉄川与助の教会建築 五島列島を訪ねて』LIXIL出版〈LIXIL BOOKLET〉、2012年。ISBN 9784864805001。
伝記
・喜田信代『天主堂建築のパイオニア鉄川與助』日貿出版社、2017年
関連項目
・長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産
外部リンク
・長崎の教会 鉄川与助(おじいちゃんが建てた教会)
(wikiより)










8958 谷中:昔せんべい大黒屋
8957 頭ヶ島教会(長崎県南松浦郡新上五島町友住郷頭ヶ島638)
| 所在地 | 長崎県南松浦郡新上五島町友住郷頭ヶ島638 |
|---|---|
| 国 | |
| 教派 | カトリック教会 |
| 歴史 | |
| 守護聖人 | 聖ヨセフ |
| 管轄 | |
| 教区 | カトリック長崎大司教区 |
| 教会管区 | カトリック長崎教会管区 |
| 聖職者 | |
| 主教 (司教) | ペトロ中村倫明 |
| 主任司祭 | ペトロ中濱敬司 |
頭ヶ島天主堂(かしらがしまてんしゅどう)は、長崎県南松浦郡新上五島町の頭ヶ島にあるキリスト教(カトリック教会)の聖堂である。2001年(平成13年)に国の重要文化財に指定されており[1][2]、ユネスコの世界遺産(文化遺産)候補で2018年に登録審査が決まり、同年6月30日に登録が決まった[3][4]「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」を構成する「頭ヶ島の集落」に包括される教会である[5]。
教会の保護者
・聖ヨゼフ
沿革
・1869年(明治2年)頃 - キリシタン迫害を逃れ、中通島の鯛ノ浦の潜伏キリシタンが無人島だった頭ヶ島に移住
・1887年(明治20年) - カトリックに復帰した信徒たちにより初代の聖堂建設
・1919年(大正8年) - 1910年(明治43年)の着工から10年を費やし、現聖堂が完成[6]
・2001年(平成13年)11月14日 - 国の重要文化財に指定[1][2]
・2003年(平成15年)12月25日 - 境内地が重要文化財に追加指定される
・2016年(平成26年) - 世界遺産としては「禁教期に焦点を絞るべき」との指摘をうけ推薦が一旦取り下げられ、対応が進められた結果再推薦は決まったが禁教期を象徴する「頭ヶ島の集落」に包括する扱いとなった
・2018年(平成30年) - 世界遺産登録が決定[3][4]
建物の概要
・構造:石造平屋
・様式・意匠:ロマネスク調の教会堂で、平面は単廊式、天井はアーチやヴォールトを用いず、二重持送りのハンマー・ビーム架構で折り上げられている
・設計・施工:鉄川与助
頭ヶ島教会は五島列島最東端で幕末までは無人島であった頭ヶ島に建てられた小規模な教会ではあるが、西日本唯一の、また日本全国でも珍しい石造の教会堂であり、その意匠も優れている。鉄川与助の設計・施工、大崎八重神父の指導により、島内の石を切り出し、積み上げて建設された。内観の造形は、船底天井と五島列島の椿を模した花装飾と、青を基調とした華やかな雰囲気が美しい。教会堂のほかに司祭館と門柱が重要文化財の附(つけたり)指定となっており、土地(境内地)も2003年に重要文化財に追加指定されている。教会堂本体とともに付属建物・石垣・石段などが周囲の環境とともに良好に保存されている点が、文化財として高く評価されたものである。
主任司祭は常駐しておらず、カトリック鯛ノ浦教会の巡回教会となっている。
所在地
〒 857-4102 長崎県南松浦郡新上五島町友住郷638
アクセス
・有川港(中通島)から車で約20分
・西肥バス有川港ターミナルから頭ヶ島天主堂行き終点下車(1日3本のみ運行)
・2018年4月1日以降、路線バス以外の手段で天主堂を見学する場合は一旦上五島空港でシャトルバスに乗り換えなければならない。[7]
脚注
1. a b 頭ヶ島天主堂 文化遺産データベース 文化庁
2. a b 頭ヶ島天主堂 長崎県の文化財 長崎県学芸文化課
3. a b “長崎、天草の「潜伏キリシタン」が世界文化遺産に決定 22件目”. 産経新聞. (2018年6月30日) 2018年6月30日閲覧。
4. a b “長崎と天草地方の「潜伏キリシタン」世界遺産に”. 読売新聞. (2018年6月30日) 2018年6月30日閲覧。
5. 頭ヶ島天主堂 長崎の教会群とキリスト教関連遺産 長崎県世界遺産登録推進室
6. “Comprehensive Preservation and Management Plan - Hidden Christian Sites in the Nagasaki Region” (pdf). Unesco World Heritage Centre. p. 78. 2021年11月20日閲覧。
7. “「頭ヶ島パーク&ライドについて」 - 長崎県五島列島新上五島町公式サイト より” (日本語). 長崎県 五島列島 新上五島町公式サイト 2018年10月15日閲覧。
参考文献
・「新指定の文化財」『月刊文化財』460号、第一法規、2002
・「新指定の文化財」『月刊文化財』483号、第一法規、2003
・『長崎遊学2 長崎・天草の教会と巡礼地完全ガイド』(長崎文献社、2005年) ISBN 9784888510912
関連項目
・カトリック長崎大司教区
・島の宝100景
外部リンク
・長崎の教会群とキリスト教関連遺産
・頭ヶ島天主堂 長崎旅ネット 長崎県観光連盟
(wikiより)










⇧ 本当は窓になるはずなのですが、外装から作ってしまった為に内装とズレてしまい窓にならなかった窓です。


⇧ 森 松次郎翁の居館跡。





8956 根津:オトメ
8955 ワィル・ウェフ号の舵取棒(長崎県南松浦郡新上五島町江ノ浜郷448-16)
8954 長崎:江山楼 中華街新館
8953 龍馬ゆかりの地碑(長崎県南松浦郡新上五島町江ノ浜郷)
8952 博多:もつ鍋ながまさ 博多本店
8951 竜馬ゆかりの碑・慰霊塔(長崎県南松浦郡新上五島町江ノ浜郷)
ワイル・ウエフ号(ワイル・ウエフごう、Wild Wave)は、亀山社中の練習船。
坂本龍馬が薩摩藩の援助を得て、グラバーから購入したプロイセン建造の木造小型帆船。
1866年(慶応2年)4月28日 (旧暦) にユニオン号に曳航されて長崎を出航し、鹿児島へ向かっていたが、途中暴風雨に遭遇し、衝突防止のため曳航索を切断後に遭難した。5月2日 (旧暦) 未明、長崎県中通島の東、潮合崎沖で暗礁に乗り上げ転覆し、亀山社中の池内蔵太など、乗組員の多くが死亡した。
ワイル・ウエフ号が沈没した海域を臨む、長崎県新上五島町の有川地区には、その時の船の一部と思われる舵棒の原寸大模造が置かれ、「龍馬ゆかりの地」という記念碑が建てられている。2010年5月2日には新上五島町により海に向かって合掌する「祈りの龍馬像」が建立された[1]。
出典
1. 「祈りの龍馬像」建立10年で式典 新上五島、五島の住民グループ”. 長崎新聞. 2022年11月25日閲覧。
参考文献
・『旅する長崎学(13)海の道Ⅲ 五島列島』(長崎文献社、2010年)
関連項目
・いろは丸
外部リンク
・ワイル・ウエフ号遭難の慰霊碑発見顛末記 長崎県職員公式ブログ 「ながさき情報局 ~坂本龍馬、秋山真之、観光情報、etc.~」
(wikiより)


⇧ 真ん中が慰霊塔
左右がお墓のようです。

















8950 両国 : 亀戸ぎょうざ両国支店
8949 聖ヨハネ五島(長崎県五島市奥浦町堂崎2019・堂崎天主堂)
8948 水戸 : そば処 久月
8947 マルマン、ペルー像(復活の夜明け)(長崎県五島市奥浦町堂崎2019・堂崎天主堂)
8946 浅草 : 弁天
8945 ドミニコ中村長八神父ゆかりのイヌマキの木(長崎県五島市奥浦町堂崎2019・堂崎天主堂)
8944 呉 : 昴珈琲店
8943 石田城(別名 福江城)(長崎県五島市池田町1-2)
| 別名 | 福江城 |
|---|---|
| 城郭構造 | 海城 |
| 天守構造 | なし(本丸二重櫓で代用) |
| 築城主 | 五島盛徳 |
| 築城年 | 1863年(文久3年) |
| 主な城主 | 五島氏 |
| 廃城年 | 1872年(明治5年) |
| 遺構 | 櫓・門・塀 石垣・堀・土塁・五島氏庭園 |
| 指定文化財 | 県指定史跡 国の名勝(石田城五島氏庭園) |
| 再建造物 | 長崎県立五島高等学校 五島観光歴史資料館 五島市福江文化会館 |
| 位置 | 北緯32度41分36.5秒 東経128度50分47.5秒 |
| 地図 |
石田城(いしだじょう)は、長崎県五島市池田町にあった日本の城。城跡は長崎県指定史跡。城内に残る五島氏庭園は国の名勝に指定されている。福江城とも記される。続日本100名城の1つ。
概要
幕末の1863年に福江藩最後の藩主五島盛徳が完成させた五島氏の居城。現在は五島市の中心街に位置しているが、築城当時は四方を海に囲まれる出城となっていた海城であった。幕末期の海上防衛や異国船の来訪に備えるため、城内には台場(砲台)が設けられていた。松前城とともに幕末の城郭として貴重なものである。
本丸、二ノ丸、北ノ丸からなり、内堀、外堀がめぐらされた。天守はなかったが、本丸の二重櫓がその代用とされた。城の裏門である蹴出門(けだしもん)は、部品や木材の交換を重ねながらも現存する。また、土塀の一部や石橋も現存している。石垣は野面積み工法を多用しており、自然石も積み上げられている。
沿革
1614年(慶長19年)に、五島氏の当時の居城・江川城が焼失。代わって1637年(寛永14年)に石田陣屋を藩庁にした。五島氏は築城を幕府に願い続けたが、藩の財政難もありなかなか実現しなかった。しかし幕末の1849年(嘉永2年)、異国船を監視し、海上防衛に備えるとの目的で、五島盛成の代に築城が認められた。盛成は海辺への築城に際し、福江川河口に、今日でいう灯台にあたる常夜灯「常灯鼻」を1846年(弘化3年)に建設、さらに波の影響から城を守るため、陸へと続く導水堤(防波堤)を1848年(嘉永元年)に完成させていた。日本初の海城である高松城に続いての海城の築城には財政難や海沿い特有の問題もあり、竣工までに14年の歳月を要したが、富江藩などからの資金援助もあり、1863年(文久3年)、第11代藩主・盛徳の代になり、ようやく念願であった居城(現代日本で最も新しく完成した城)が完成された。
その後、本丸跡に長崎県立五島高等学校、北の丸跡に五島観光歴史資料館や五島市福江文化会館が建てられ、二の丸跡には五島氏庭園が往時の姿を今に伝えている。
2017年(平成29年)4月6日、続日本100名城(187番)に選定された。
五島氏庭園
二の丸の位置に現在も残っており、一般公開されている。見学は有料。盛成により構想が練られたといわれている。安政5年(1858年)から2年の歳月をかけ、盛成の隠居所として造られた。鹿苑寺(金閣寺)を模した林泉式庭園という回遊式の庭園である。京都の僧、善章に造らせた。庭石と築山はすべて鬼岳の溶岩を用いた特徴的なものである。植栽にビンロウジュ、ソテツ、オオタニワタリ、キンモクセイなど南方の植物を配している点も特徴である。「心」の文字をかたどった池は、心字が池と呼ばれている。
国の名勝に指定された理由として、「江戸期の日本庭園の地方伝播の具体例」「城郭内の庭園は現存例が少ない」「作庭時期が文献に明記されている」「建物が庭園とともに保存されている」などが挙げられている。
関連項目
・続日本百名城
・日本の城一覧
・名勝
・海城 (城郭)
外部リンク
・五島市観光情報サイト
・長崎県教育委員会「長崎県文化財調査報告書第163集 石田城Ⅱ」(冒頭のP8に四方を海に囲まれた出城である石田城の完成当時の古図あり)
・長崎県立五島高校
(wikiより)

8942 下関 : そば処 もりた屋
8941 鐙瀬熔岩海岸(崎県五島市野々切町)
8940 松山 : ことり
8939 カトリック井持浦教会(長崎県五島市玉之浦町玉之浦1243番地)
8938 神田 : 神田新八
8937 大瀬崎(長崎県五島市玉之浦町玉之浦)
| 航路標識番号 [国際標識番号] | 6161 [M5002] |
|---|---|
| 位置 | 北緯32度36分45.8秒 東経128度35分59.9秒 |
| 所在地 | 長崎県五島市玉之浦町山之神表1429 |
| 塗色・構造 | 白色・円筒形 |
| レンズ | 無等 |
| 灯質 | 閃白光・毎10秒を隔てて1閃光 |
| 実効光度 | 200万 cd |
| 光達距離 | 23.5海里 |
| 明弧 | 301度から175度まで |
| 備考 | |
|---|---|
| 光源 | 電灯1キロワット電球 |
| 灯器種別 | L13-90型 |
| 電球種別 | H-1000 |
| 標識種別 | 沿岸大型 |
| 海図番号 | W217、W1212 |
歴史
五島列島は昔より中国とを結ぶ航海の要衝であった。遣唐使派遣の初期、640年頃の唐書「挺地志」に「資聖寺有宝塔、高峻層々、用四方燈、点照東海、舟行者皆望之為標的焉」とあり、“東海(渤海)の航路を照輝し、船舶は皆これを航行の標的とした”と述べている[1]。この日本における最初と呼ぶべき灯台は、664年に防人に遣唐使船の目標になるよう昼は烽火(のろし)をあげ、夜はかがり火を焚かせたのがその始まりとされている。
五島は、航海の要地であるとともに漁業基地としても昭和初期までは重要視される。着工は1876年(明治9年)で、イギリス人のR・プラトンの設計といわれる。断崖の標高80m地点で、10 mあまり屹立していた岩石を切り落として基盤とし、ここに灯台を築いた[2]。初点灯は1879年(明治12年)[3]で、総工費は当時の額で3万円だった。
大瀬崎の山頂にある無線電信所は、日露戦争の日本海海戦の端緒となる、「敵艦見ゆ」の第一報を受信した歴史もあり、この山は電波山と呼ばれた。1945年(昭和20年)8月7日には、米軍の潜水艦による20分間の艦砲射撃にみまわれ、その一発は灯台丸屋根を貫通したがレンズには損傷がなかった。このとき米軍は灯台の背後の山にある、無線電信所を目標としていた。
1971年(昭和46年)に改築され現在の白い円塔の灯台となる[2]。少なくとも昭和末期までは灯台守がいて、灯台のふもとに居を構え監視していたが、現在は無人である。初代の灯台躯体は船の科学館に屋外展示物として復元されている[2]。 だが、2019年1月現在、当灯台の上には日本財団のビルが建っているため、亡失したと思われる
また太平洋戦争時には、出征した多くの将兵達が大瀬崎を日本の地の見納めとしたことから、1978年(昭和53年)には灯台を見下ろす大瀬山に鎮魂碑と北村西望作の「祈りの女神像」が建てられた。
付属施設
大瀬埼灯台には、ディファレンシャルGPS局が設置されており、船舶に搭載されているGPSを高精度に補正する電波と、電文で気象通報を配信している。また、中波(H3E) 1670.5kHzで船舶気象通報を行っており、1時間に1回、大瀬埼灯台と女島灯台の気象情報を放送している。なお、DGPSの気象通報、船舶気象通報は2016年9月30日廃止[4]、ディファレンシャルGPS局は2019年3月廃止となった[5]。
自然
灯台が立つ大瀬崎断崖は西海国立公園の特別地域に指定されている。砂岩と泥岩の互層からなる第三紀層「五島層群」が、東シナ海から叩きつける荒波で削られて形成された海食崖であり、標高250mの大瀬山山頂まで急斜面が続いている。灯台は海面に対して約24°傾いた地層の上に建てられている[2][6]。
大瀬崎周辺は渡り鳥の渡りの中継地でもあり、秋にはハチクマ、アカハラダカ、チゴハヤブサ、ツバメ等、繁殖を終えた夏鳥が大陸へ渡っていくのを観察できる。特にハチクマは日本国内で繁殖した個体群の殆どが五島列島を通過して600km先の中国大陸へ渡るとされ、大瀬崎では9月中旬から10月上旬にかけて約1万羽、多い日には1日で約1500羽ものハチクマが上空を通過する[2]。
画像については、「大瀬埼灯台ウィキペディア」をご覧ください。 ⇩
交通アクセス
長崎港からの船便は長崎 - 福江間フェリー(所要時間3 - 4時間)[7]とジェットフォイル(所要時間90分弱)[8]がある。ANAによる福岡空港から五島福江空港への直行便は所要時間約40分[9]であり、九州外からの移動は空路の方が速い。
福江港からは自動車で約1時間、五島バス玉之浦・向小浦行きで1時間20分、大瀬崎口バス停下車、徒歩30分。五島バスは運行本数が少なく時間に注意しなければならない。
出典・参考資料
・玉之浦町郷土誌(記述ミス多々有り)
・第七管区海上保安本部 交通部企画課監理係長 福本久士様よりの情報
・燈台風土記
出典
1. 大瀬埼灯台-海上保安庁
2. a b c d e 環境省・長崎県,西海国立公園「大瀬崎園地」展望台案内板
3. 明治12年11月18日工部省布達第16号(『法令全書 明治12年』内閣官報局、pp.1123-1124.)
4. 海上保安庁が実施する情報提供業務の一部終了について(PDF) Archived 2016年8月17日, at the Wayback Machine. - 海上保安庁交通部 (2016年5月) ※茨城県水産試験場漁業無線局ホームページでの掲載(2016年7月12日閲覧)
5. “ディファレンシャルGPSの廃止について” (PDF). 海上保安庁 (2017年6月30日). 2019年1月7日時点のオリジナルよりアーカイブ。2019年1月7日閲覧。
6. 鐙瀬ビジターセンター展示「湖で生まれた五島列島」
7. 九州商船フェリー 長崎 - 福江間ダイヤ
8. 九州商船ジェットフォイル 長崎 - 福江間ダイヤ
9. ANA国内線 - 時刻表、PDF時刻表ダウンロードサービス 2009年1月6日 - 2009年1月31日から佐賀・福岡・北九州 - 五島福江間を選択・ダウンロードにて確認。
関連項目
・日本の灯台50選
・日本の夕陽百選
・福江島
・女島灯台
・悪人 (小説)
・長崎県の灯台一覧
(wikiより)






8936 高知 : 安兵衛
8935 大坪永章墓(長崎県五島市福江町16-1・宗念寺)
8934 銀座 : 三州屋本店
8933 アルメイダの宣教碑(長崎県五島市奥浦町堂崎2019・堂崎天主堂)
ルイス・デ・アルメイダ(Luís de Almeida [luˈiʃ dɨ ɐɫˈmɐjdɐ] 、1525年? - 1583年10月[1])は、戦国時代末期の日本を訪れたポルトガル人。商人であったが、医師の免許を持ち、西洋医学を日本に導入して豊後府内に日本初の病院を作ったことで知られる。後にイエズス会員となった。ポルトガル貴族の出身[2]。
生涯
アルメイダは、1525年ごろリスボンでユダヤ教からカトリックに改宗したコンベルソの家庭に生まれた。1546年にポルトガル王から与えられる医師免許を取得した後で、世界雄飛を夢見てゴアからマカオに渡った。1552年に貿易目的で肥前国の平戸に初来日。日本とマカオを行き来して多くの富を手にした。
アルメイダは山口でイエズス会宣教師コスメ・デ・トーレス神父に会う。彼はフランシスコ・ザビエルの事業を継承して日本で布教を続けていた。アルメイダは宣教師たちとの出会いを通して思うところがあり、豊後府内(大分県大分市)にとどまり、私財を投じて乳児院を建てた[3]。これは当時の日本で広く行われていた赤子殺しや間引きの現実にショックを受けたからであるとされている。さらに豊後府内の領主であった大友宗麟に願って土地をもらいうけ、1557年に外科、内科、ハンセン氏病科を備えた総合病院を建てた [4] 。これが日本初の病院であり、西洋医学が初めて導入された場所である。
この病院においては、みずからが外科医療を担当した一方で、元僧侶の日本人キリシタンが内科医療や薬のことに携わった[5]。そのほか、聖水や十字架、数珠、祈祷文などを用いた呪術的な医療も盛んに行われた。実際、この病院で主力だったのは、外科医療よりも呪術的な医療であり、アルメイダ自身は、実際のところ、外科医療よりも呪術的な医療を重視しており、病気治癒の効果がデウスの力あることを強調する発言を残している。
また、大分において「ミゼリコルディア」(ポルトガル語:(Santa Casa de )Misericórdia 、「憐れみ(の聖なる家)」)といわれるキリスト教徒の互助組織を発足させた。
布教においても活躍し、コスメ・デ・トーレス神父は、改宗が難しそうな土地へたびたびアルメイダを向かわせた。学識あるアルメイダは僧侶など知識人の欲求によく応え、改宗へと導いた。医師としても貧しい人々を助けたので多くの信者を獲得した。
神父としての活動を始めてからも、貿易への投資を続け、病院の資金を調達した。また、慢性的な財政難に苦しんでいた日本の教会へも惜しみなく私財を寄進した。
日本人医師の協力を受けて病院を運営していたアルメイダは1558年には医学教育も開始。医師の養成を行った。やがてアルメイダは九州全域をまわって医療活動を行うようになり、1561年6月下旬には平戸の北部、度島でも治療に当たっていた。1563年には横瀬浦から避難し後に『日本史』を書いたルイス・フロイスも度島で10か月ほど滞在した。宇久純定の治療を依頼されるほどその名声は高まっていた[6]。
1566年9月、トルレスに派遣され、天草の豪族・志岐麟泉の招きで初めて志岐(天草郡苓北町)を訪れた。[7]アルメイダは天草に初めて布教を開始し、南蛮文化を伝えた。天草市の殉教公園には彼の像が建てられている。天草に移住してからは、カステラ風のお菓子を教えるなど食文化にも精通しており、玉名市の銘菓「松の雪」は、アルメイダが、貿易港伊倉の菓子職人に製法を伝えたとされる。
1580年、アルメイダはマカオにわたって司祭に叙階された。再び日本に戻って、宣教活動・医療活動に専念するが、1583年10月に天草の河内浦(熊本県天草市)で没した。冒険商人から無償奉仕の医師へと転身し、病人と乳児に尽くした波乱の生涯であった。
アルメイダの名を冠した施設等
・大分市医師会立アルメイダ病院(1969年開設、大分県大分市)の名称は彼にちなんでいる。
脚注
1. “ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説”. コトバンク. 2018年2月3日閲覧。
2. 上田正昭、津田秀夫、永原慶二、藤井松一、藤原彰、『コンサイス日本人名辞典 第5版』、株式会社三省堂、2009年 66頁。
3. 『イエズス会士 日本通信 上 (新異国叢書 1)』(昭和43年(1968年)12月10日発行 訳者:村上直次郎 編輯者:柳谷武夫 発行所:雄松堂出版) 74頁、102-103頁、117頁
4. この病院は現在の住所で大分県大分市顕徳町2丁目にあったデウス堂の隣地に開設され、日本初の入院施設も備えていた。 『南蛮医アルメイダ』(1993年9月24日発行 著者:東野利夫 発行所:柏書房) 45-68頁 (「4 府内病院の位置証明」)
5. 『イエズス会士 日本通信 上 (新異国叢書 1)』(昭和43年(1968年)12月10日発行 訳者:村上直次郎 編輯者:柳谷武夫 発行所:雄松堂出版) 125-126頁、150-151頁、177-179頁、188-189頁、191-192頁、237頁
6. 『イエズス会士 日本通信 下 (新異国叢書 2)』(昭和44年(1969年)2月10日発行 訳者:村上直次郎 編輯者:柳谷武夫 発行所:雄松堂出版) 84頁-98頁
7. 松田毅一・川崎桃太訳『フロイス日本史』9巻、第17章(第1部72章)、中央公論社、1979年。274頁。1567年10月13日付、志岐発信、アイレス・サンシェス修道士書簡、CI.f.247v.
参考文献
・若桑みどり『クアトロ・ラガッツィ 天正少年使節と世界帝国』集英社、2003年。
関連項目
・日本のキリシタン一覧
・多聞山城
(wikiより)




8932 蔵前 : ドーナツもり 蔵前店
8931 白浜 徴墓(長崎県五島市福江町16-1・宗念寺)
8930 神楽坂 : ドーナツもり 神楽坂店
8929 坂部貞兵衛墓(長崎県五島市福江町16-1・宗念寺)
8928 谷中 : 手打ちそば 根津 鷹匠
8927 歴代藩主側室墓(長崎県五島市福江町16-1・宗念寺)
8926 森下 : 桜なべ みの家 本店
8925 宗念寺(長崎県五島市福江町16-1)
8924 浅草 : 生駒軒
8923 常灯鼻(長崎県五島市東浜町・福江港)
8922 日本橋 : レストラン桂
8921 八代目・橘家圓蔵墓(江東区亀戸3-10-2・長寿寺)
| 本名 | |
|---|---|
| 別名 | 五代目月の家圓鏡 ヨイショの圓蔵 平井の圓蔵 |
| 生年月日 | 1934年4月3日 |
| 没年月日 | 2015年10月7日(81歳没) |
| 出身地 | |
| 師匠 | 七代目橘家圓蔵 |
| 弟子 | 六代目柳亭左楽 二代目橘家竹蔵 六代目月の家圓鏡 橘家半蔵 橘家富蔵 二代目橘家蔵之助 橘家仲蔵 |
| 名跡 | 1. 初代橘家竹蔵 (1952年 - 1955年) 2. 初代橘家舛蔵 (1955年 - 1965年) 3. 五代目月の家圓鏡 (1965年 - 1982年) 4. 八代目橘家圓蔵 (1982年 - 2015年) |
| 出囃子 | 虎退治 |
| 活動期間 | 1952年 - 2015年 |
| 所属 | 落語協会 (1952年 - 1978年) 落語三遊協会 (1978年) 落語協会 (1978年 - 2015年) |
| 主な作品 | |
| 『猫と金魚』 『寝床』 『反対俥』 『堀の内』 | |
| 受賞歴 | |
| 文化庁芸術祭優秀賞(1978年) 江戸川区文化賞(2012年) | |
八代目橘家 圓蔵(たちばなや えんぞう、1934年〈昭和9年〉4月3日 - 2015年〈平成27年〉10月7日)は、日本の落語家。本名∶大山 武雄。落語協会所属、同協会相談役。出囃子∶『虎退治』。
前名の五代目月の家圓鏡としても広く知られていた。
来歴・人物
東京府東京市(現在の東京都江戸川区)平井出身[1]。生涯を通して平井に在住していたため、『平井の師匠』という通り名があった[1]。
1960年代から1980年代にかけて「ヨイショの圓鏡」の異名で、落語家としてもラジオスターとしても一時代を築いた。徹底的に明朗かつ座持ちの良い芸風で、座敷(旦那衆相手に幇間よろしくヨイショで稼ぎまくっていた)[要出典]のみならず、高座、ラジオ、テレビ、CMを問わず大活躍し、圓鏡の声が聞こえない日はなかったほどの人気を得る。また7代目(自称5代目)立川談志[2]を兄貴分として信頼していた(なお、実年齢は圓蔵の方が上である)。
持ち前の頭の回転の速さからなぞかけを得意とし、テレビやラジオなどの放送番組で人気を博す。この時代にラジオ台本を多く手がけていたのが半村良[3]で、交友は半村の晩年まで続いている。
得意のなぞかけから、自宅の表札の裏に「そのココロは?」と書いてあるとも噂された。また頭の回転を活かした頓知も発揮し、大喜利やクイズでも逸早く回答して「早いが取り柄の出前と圓鏡」「早いと言えば、圓鏡か新幹線か」と自称した。
強度の近視のため、黒縁眼鏡を掛けたまま高座に上がっていた。これは従来の寄席演芸のタブーを破るものであり、自身のトレードマークとなった。
兄弟子の初代林家三平が「ヨシコさん」で売ったのに対抗し、妻の節子[4]をネタにした「ウチのセツコが」というフレーズが大いにウケた。
1960年代から1980年代初頭まで、CMキャラクターとしてもお茶の間でお馴染みの存在となり、人気者になった。
1978年に勃発した落語協会分裂騒動では師匠である7代目圓蔵の無節操な言動に翻弄され、その後も落語協会復帰は許されたものの、実質的な圓蔵一門の看板としてその後の後始末などで大変な苦労をすることになった。1980年に師匠が没してわずか2年後の1982年、圓蔵の名跡に付いてしまった悪印象の払拭を期待され、異例の性急さで8代目圓蔵を襲名。この襲名劇に際して、7代目圓蔵が一代限りの約束で名跡を6代目三遊亭圓生から借りていたという事情があったため、当時5代目月の家圓鏡を名乗っていた8代目圓蔵が7代目の没後に6代目圓生未亡人に名跡を一度返上した後、圓生未亡人に対して「私(5代目圓鏡)に圓蔵の名を継がせて下さい」と頼み込み、その了解を得て襲名を行ったという経緯があった[1][5]。
8代目襲名後は次第に寄席に比重を移し、総領弟子の6代目月の家圓鏡以下、多数の弟子を抱える大御所的存在として君臨する。8代目圓蔵一門は本人に因み「ヨイショの一門」と呼ばれる。
晩年は高齢のため全盛期のような口演が困難となり、2012年ころからは高座への出演を控えていた[6]。
2015年10月7日(水曜日)午前3時30分、心室細動により死去[1][7]。81歳没。
没後、江戸川区が平井の圓蔵邸を購入する。その後は江戸川区により記念館『ひらい圓藏亭』として保存し、整備された後に一般公開されている[8]。
経歴
1952年12月14日、紙芝居屋を経て四代目月の家圓鏡に入門。前座名は橘家竹蔵。
1955年3月に金原亭馬太郎と共に二ツ目昇進し、橘家舛蔵と改名。
1965年3月、真打昇進、五代目月の家圓鏡を襲名。七代目立川談志、五代目三遊亭圓楽、三代目古今亭志ん朝と共に「落語四天王」と呼ばれた。
2006年、落語協会相談役に就任。2012年11月に江戸川区文化賞受賞。
2015年10月7日、死去。
芸歴
・1952年12月∶四代目月の家圓鏡に入門、前座名「竹蔵」。
・1955年9月∶二ツ目昇進、「舛蔵」と改名。
・1965年4月∶真打昇進、「五代目月の家圓鏡」を襲名。
・1982年∶「八代目橘家圓蔵」を襲名。
・2006年∶落語協会相談役に就任。
・2015年10月∶死去。
主な演目
・穴どろ
・浮世床
・鰻の幇間
・大山家の人々(自作)
・火焔太鼓
・蜘蛛駕籠
・七面堂
・品川心中
・死神
・心眼
・粗忽の釘
・たいこ腹
・道具屋
・猫と金魚
・寝床
・反対俥
・無精床
・堀の内
・湯屋番
・らくだ
主な出演番組
ラジオ番組
・円鏡のこの指とまれ(TBSラジオ)
・午後2時の男(1966年10月 - 1981年10月、文化放送)
・歌謡大行進(1969年4月 - 1970年7月、文化放送) - 三笠麗子と共演
・円鏡のもうじきお昼だよ(文化放送)
・圓蔵のみんなでヨイショ!(1982年10月 - 1984年3月、文化放送)
・円鏡の歌謡曲ドンドン(1968年9月 - 1973年4月、ニッポン放送)
・談志・円鏡 歌謡合戦(1969年 - 1973年、ニッポン放送)
※木魚を叩きながら7代目(自称5代目)立川談志とナンセンスギャグの応酬を展開し、伝説的番組となった(CD化され、『立川談志ひとり会 CD全集 第二期』に収録)。
・円鏡のモシモシ歌謡曲(1970年10月 - 1973年4月、ニッポン放送)
・月の家円鏡ショウ(1973年4月 - 1974年4月、ニッポン放送)
・月の家円鏡のハッピーカムカム → 橘家圓蔵のハッピーカムカム(1974年4月 - 1987年4月、ニッポン放送)
・圓蔵のお昼だヨイショ → 圓蔵・まみのお昼だヨイショ(1987年4月 - 1989年4月、ニッポン放送)
テレビ番組
レギュラー
・お好み演芸会(NHK総合)
・やじうま寄席(日本テレビ)
・お笑い頭の体操[9](TBSテレビ)
・ハイヌーンショー(フジテレビ、司会)
・お笑い大集合(フジテレビ、司会)
・大進撃!おもしろ組(フジテレビ、司会)
・日曜演芸会(NETテレビ)
・ウィークエンド東京(東京12チャンネル)
・ちびっこアベック歌合戦[10](毎日放送、司会)
ゲスト等
・笑点(日本テレビ)
・気まぐれ百年(日本テレビ)
・初笑いうるとら寄席(TBSテレビ)
・ゆく年くる年(TBSテレビ担当 1965年)
・オットいたゞき
・第9話「油断大敵の巻」
・第10話「万事休すの巻」
(NET / 東映 1966年)
・初詣!爆笑ヒットパレード(フジテレビ)
・花王名人劇場(関西テレビ)
・特捜最前線 第399話「少女・ある愛を探す旅!」(テレビ朝日 / 東映 1985年)
映画出演
・落語野郎 大爆笑 (1967年)
・与太郎戦記 (1969年)
コマーシャル
・国際電気(国際電気工業)
※銃を持った戦闘員の格好をしている圓蔵が、ほふく前進をしながら本部へ無線連絡して「寒くて寒くてガッタガタです」と言う時の動きがウケていた(「暑くて暑くてクーラクラです」と言うパターンもあった)。
・エバラ焼肉のたれ(エバラ食品工業)
※1970年から1986年までの約16年間の長きに渡り出演。「3日に一度は焼肉料理」のフレーズでエバラ食品工業(現在は東証スタンダード上場)の知名度・業績拡大に大きく貢献した他、エバラの社員と共に日本各地の精肉店に営業に出向いたこともあった。
・メガネクリンビュー(タイホー工業(現:イチネンケミカルズ))
※鍋料理を囲む設定で、「眼鏡スッキリ曇りなし、料理すっかり食う物なし」のフレーズが受けた。
・タイホーハロン消火器(タイホー工業)
・セブン-イレブン
※1980年代初頭、年末年始仕様のCMに出演。
・ニュータッチヌードル(ヤマダイ)
※1980年代に出演。詳しいことは、『八代目・橘家圓蔵ウィキペディア』をご覧ください。 ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A9%98%E5%AE%B6%E5%9C%93%E8%94%B5_(8%E4%BB%A3%E7%9B%AE)

⇧ 八代目・橘家圓蔵




8920 大須 : 新雀本店
8919 廣徳禅寺遺趾(台東区東上野4-5-1・広徳公園)
8918 広尾 : Ryori 雄 苺みるく洋羹
8917 西館翫水墓(江東区亀戸3-10-2・長寿寺)
家督を継ぐと諸役を歴任し、次第に藩主・承昭の信任を得て、慶応元年 ( 1865 ) に家老職に就任しました。








































































































































































































































