2025/12
9025 セブンスターの木(北海道上川郡美瑛町北瑛)
9024 伏見 : 鳥正
9023 ケンとメリーの木(北海道上川郡美瑛町大久保協生)
概要
美瑛の丘陵地帯に立つ1本の大きなポプラの木である。1972年から1977年まで発売された「ケンとメリーのスカイライン」こと日産・4代目スカイラインのCM第15作「地図のない旅」編(1976年9月制作)のロケーション撮影で使われた。また、BUZZによるCMソング「ケンとメリー〜愛と風のように〜」がオリコンチャート最高位19位になるなどブームとなった。CM放送後、この木は観光名所となり演者の役名より「ケンとメリーの木」と名付けられた。
この木は、私有地内にあり、撮影スポットには、名称の由来などの説明や老木ゆえ大事にしてほしい旨が書かれた看板がある。
所在地
・北海道上川郡美瑛町大久保協生
アクセス
・JR北海道美瑛駅
・国道237号線
ギャラリー
・美瑛時間 美瑛町観光協会
(wikiより)

9022 日本橋 : 宇田川
9021 田中一村墓(栃木県栃木市旭町22-27・満福寺)
田中 一村(たなか いっそん、1908年7月22日 - 1977年9月11日)は、日本画家である。栃木県栃木にて木彫家の父田中稲邨の長男として生まれ、東京市で育った、本名は田中孝。中央画壇とは一線を画し、1958年(昭和33年)千葉市での活動の後、50歳で奄美大島に単身移住。奄美の自然を愛し、亜熱帯の植物や鳥を鋭い観察と画力で力強くも繊細な花鳥画に描き、独特の世界を作り上げた[1]。
奄美市名瀬有屋38番地3には、最後の10日間を過ごした家が、田中一村終焉の家として移設保存されている[2]。
生涯
・1908年 - 栃木県下都賀郡栃木町(現・栃木市)に6人兄弟の長男として生まれる。父は彫刻家の田中彌吉(号は稲村)。若くして南画(水墨画)に才能を発揮し「神童」と呼ばれ[3]、7歳の時には児童画展で受賞(天皇賞もしくは文部大臣賞)。父濔吉より「米邨」の号を与えられる[1]。大正時代また10代にして既に与謝蕪村や青木木米などを擬した南画を自在に描き得た。
・1920年 - 米邨の落款で描いた「枝垂れ桜に四十雀」の図が、ローマ-東京間の長距離飛行を達成したイタリア人飛行士に贈られた書画集(東京市内の小学児童の一校一名の作品を選んで貼付)に載る[4]。
・1926年 - 東京市港区の芝中学校を卒業する。東京美術学校(現・東京芸術大学)日本画科に入学。同期に東山魁夷、加藤栄三、橋本明治、山田申吾らがいる。しかし、学校の指導方針への不満や父の病気などが原因で同年6月に中退。趙之謙や呉昌碩風の南画を描いて一家の生計を立てる。『大正15年版全国美術家名鑑』には田中米邨(たなかべいそん)の名で登録された。
・1931年 - それまで描いていた南画と訣別。自らの心のままに描いた日本画『蕗の薹とメダカの図』は後援者には受け入れられなかった。
・1938年 - 親戚の川村幾三氏を頼って、千葉県の千葉寺町に移る。
・1947年 - 『白い花』が川端龍子主催の第19回青龍社展に入選。この時、初めて「一村」と名乗る。
・1948年 - 第20回青龍社展に『秋晴』『波』を出品。このうち『波』は入選するが、『秋晴』の落選に納得できず、『波』の入選を辞退。これを境に川端龍子と絶縁する。
・1953年 - 第9回日展(審査員に東山魁夷が参加)に、『秋林』を出品(履歴欄に「松林桂月の門人」を名乗る)するが落選。この年の12月25日、太平洋戦争敗戦後に米国統治下だった奄美大島が日本に返還される。
・1954年 - 第10回日展(審査員に加藤栄三、橋本明治が参加)に『杉』を出品するが落選。
・1955年 - 九州・四国・紀州をスケッチ旅行して回る。
・1957年 - 院展への出品を目指し、制作を開始する(この年、院展の監査台帳には出品の記録なし)。
・1958年 - 第43回院展に『岩戸村』『竹』を出品するが落選。中央画壇への絶望を深め、奄美行きを決意、家を売る。12月13日朝、奄美大島の名瀬港に到着。
・1959年 -国立療養所奄美和光園の官舎に移り込み、小笠原医師との共同生活を始める。
・1960年 -5月28日、千葉に一時帰郷する。翌年まで、岡田藤助の計らいで国立千葉療養所の所長官舎にアトリエと住居を与えられる。
・1961年 -3月31日、見合いをするが、のちに自ら破談とした。4月22日、所長官舎を引き上げ、奄美に戻る。12月、名瀬市有屋の一戸建て借家に移り、農業を始める。
・1962年 -名瀬市大熊にある 大島紬工場の染色工の仕事で生計を立てながら絵を描き始める。
・1965年 -3月末、姉・喜美子の危篤を知らされ、千葉に帰る。5月16日、喜美子逝去(享年60)。遺骨を抱いて奄美に戻る。12月5日、川村幾三逝去。
・1967年 -5年間働いた紬工場を辞め、3年間絵画制作に専念する。
・1970年 -再び紬工場で働き始める。2年働いて個展の費用を捻出しようとしたが、結局個展の開催は実現せず、最後まで中央画壇に認められないままだった。
・1972年 -紬工場を辞め、3年間絵画制作に専念するが、腰痛や眩暈などで三度も昏倒する。
・1976年 -6月下旬、畑仕事中に脳卒中で倒れ、一週間入院。その後、名瀬市の老人福祉会館に通いリハビリテーションに励む。姉・房子と甥・宏が来訪、奄美で描かれた一村の作品を預かり、千葉に持ち帰る。
・1977年 -春、体調やや回復する。9月1日、和光園近くの畑の中の一軒家に移り、「御殿」と称する。同月11日、夕食の準備中に心不全で倒れ、死去。69歳没。墓所は満福寺。戒名は真照孝道信士。
没後の再評価
死去の直前、奄美在住だった友人の紹介で一村と会った写真家・田辺周一によると、田中は千葉にいた頃に写真を学んで造詣が深く、自ら撮影もしており、写実的な画風にも影響を与えていたとみられる。田辺は散逸しそうだった一村の遺品を預かり、現在まで保管。さらに2015年には、一村の写真集『海神の首飾り』(リーブル出版)を刊行した[5]。一村は、アンリ・ルソーからの影響が指摘されることもある。
・没後にNHKの『日曜美術館』「黒潮の画譜~異端の画家・田中一村」(1984年12月16日放映)や『南日本新聞』に連載された「アダンの画帖~田中一村伝」でその独特の画風が注目を集め、全国巡回展が開催され、一躍脚光を浴びる。南を目指したことから、「日本のゴーギャン」などと呼ばれることもある[3]。評伝や画集も複数が刊行されているほか、以下のように記念美術館が開館したり、各地の美術館で展示会が開かれたりするようになっている。
・2001年 - 鹿児島県は奄美大島北部・笠利町(現・奄美市)の旧空港跡地にある「奄美パーク」の一角に「田中一村記念美術館」がオープンした(館長・宮崎緑)。
・2008年 - 生誕100年にあたり、奈良県高市郡明日香村の奈良県立万葉文化館[2](館長・中西進)で「生誕100年記念特別展 田中一村展-原初へのまなざし-」が開催された(10月18日~11月24日)。入場者は25,000人。
・2010年 - 千葉市美術館で「田中一村 新たなる全貌」を開催(8月21日~9月26日)。一村ゆかりの地(栃木、千葉、石川、鹿児島)にある美術館が共同で取り組む初めての回顧展で、近年新たに発見された資料を多数含む約250点の出品作による、現時点で最大規模の展覧会となっている。入場者は61,166人。その後、鹿児島市立美術館(10月5日~11月7日)、田中一村記念美術館(11月14日~12月14日)に巡回。
・2012年 - 沖縄県立博物館・美術館で、本土復帰40周年記念「田中一村展~琉球弧で開花した美の世界」を開催(3月30日~5月6日)。同年、石川県立美術館では「孤高の画家・田中一村展」を開催(7月28日~8月26日)。 一村が1955年、石川県羽咋郡宝達志水町にある「やわらぎの郷」で制作した「聖徳太子殿天井画」の修復が完了したことに伴い企画された。
・2018年 - 岡田美術館が「田中一村の絵画-奄美を愛した孤高の画家」(4月6日~9月24日)、佐川美術館が「生誕110年 田中一村展」(7月14日~9月17日)を開催。
・2021年 - 千葉市美術館で「田中一村展 ― 千葉市美術館収蔵全作品」(1月5日~2月28日)[6]。
毎年9月11日の命日に「一村忌」が「一村終焉の家」で行われている。一村の絵『奄美の杜』は黒糖焼酎のラベルにもなっている。
詳しいことは、『田中一村ウィキペディア』をご覧ください。 ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B0%E4%B8%AD%E4%B8%80%E6%9D%91#%E6%98%A0%E7%94%BB
(wikiより)
9020 鎌倉 : 鎌倉こまち市場 風凛
9019 杉浦吉副墓(栃木県栃木市旭町22-27・満福寺)
加波山事件(かばさんじけん)とは、1884年(明治17年)9月23日に発生した栃木県令三島通庸等の暗殺未遂事件。

⇧ 玉水嘉一(左)と富松正安(右)
概要
自由民権運動の激化事件の一つであり、急進的な考えを抱いた若き民権家たちが起こした。福島事件に関わった河野広躰(河野広中の甥)等のグループが中心で、これに茨城県・下館の富松正安や栃木県内の民権家が加わっている。栃木県庁の移転にともなって宇都宮に庁舎が落成する際に、民権運動を厳しく弾圧した三島通庸県令や集まった大臣達を爆殺する計画であったが、鯉沼九八郎が爆弾を製造中に誤爆。計画が明らかになると、茨城県の加波山山頂付近に立てこもり、「圧制政府転覆」「自由の魁」等の旗を掲げ、決起を呼びかけるビラを配布した。又警察署や豪商の襲撃も行なっている。茨城県古河市中田にあった文武館を中心にして小山、結城にて策謀を練っていた。
その後
後日の再集結を約して解散するが次々に逮捕された。その後、自由党幹部である内藤魯一や、田中正造・小久保喜七をはじめとして300名におよぶとまでいわれる民権家が逮捕された。しかし、政治犯とはならず、資金集めの際の強盗等の罪によって裁かれたため、起訴されたのは加波山に立てこもった16人と、内藤、鯉沼らの若干名にとどまった。7名に死刑判決が下され(うち1人は刑執行前に獄死)、3名が無期懲役となった。獄死した者以外は特赦によって1894年までには出獄している。
この事件を期に、政府は爆発物の使用に対して刑法(いわゆる旧刑法)の規定よりも厳格に取り締まるため、爆発物取締罰則を制定した。
茨城県筑西市下館地区の妙西寺に富松正安・保多駒吉・玉水嘉一・平尾八十吉の4名が葬られ、「加波山事件志士の墓」として市指定文化財(史跡)となっている。
西條八十が作詞した下館音頭の11番には加波山事件が歌われている。
逮捕または起訴された人物

⇧ 加波山事件志士の墓
(茨城県筑西市下館地区)
大井憲太郎と共に自由民権運動派の代言事務所厚徳館を設立した弁護士の山田泰造(いずれも後に衆議院議員となる)らが弁護した。
・天野市太郎
・山口守太郎
・杉浦吉副
・河野広躰
・三浦文治
・草野佐久馬
・横山信六
・保多駒吉
・小林篤太郎
・琴田岩松
・小針重雄
・玉水嘉一
・五十川元吉
・富松正安
・原利八
・門奈茂次郎
・鯉沼九八郎
・大橋源三郎
・佐伯正門
関連項目
・福島事件
・夷隅事件
外部リンク
・国立国会図書館 憲政資料室 加波山事件関係資料(MF:個人蔵)
・国立国会図書館 憲政資料室 加波山事件関係資料(所蔵)
・茨城県古河市西公民館図書室
・日本経済評論社『福島自由民権と門奈茂次郎5 加波山事件』
(wikiより)






9018 浅草 : 並木藪蕎麦
9017 杉浦吉副顕彰碑(栃木県栃木市旭町22-27・満福密寺)
9016 三ノ輪 : パンのオオムラ
9015 満福寺(栃木県栃木市旭町22-27)
| 所在地 | 栃木県栃木市旭町22-27 |
|---|---|
| 位置 | 北緯36度22分44秒 東経139度44分11秒 |
| 山号 | 教王山 |
| 宗旨 | 真言宗 |
| 宗派 | 真言宗智山派 |
| 寺格 | 中本寺 |
| 本尊 | 大日如来(金剛界) |
| 創建年 | 1262年(弘長2年) |
| 開山 | 朝海法印 |
| 中興年 | 1688年(元禄元年) |
| 中興 | 祐眞和尚 |
| 正式名 | 教王山 遍照光院 満福寺 |
| 別称 | おにおう(鬼王)さん:地元では「おにょうさん」と呼ばれている |
| 文化財 | 三鬼尊像(栃木市指定文化財) |
| 公式サイト | 蔵の街とちぎ 大毘盧遮那殿 満福密寺(通称 満福寺) |
満福寺(まんぷくじ)は、栃木県栃木市にある真言宗智山派の寺院。山号を「教王山」、院号を「遍照光院」という。奥の細道霊場十八番札所。ご本尊は大日如来(金剛界)。他に開運厄除大師をはじめ悪運断ち三鬼尊・子授け観音・縁結び歓喜天・身代り地蔵尊などを祀る。
沿革
鎌倉時代の1262年(弘長2年)、洛南醍醐寺報恩院の学僧 憲深和尚の室にいた朝海法印が、日光修験に赴いた折、下野国都賀郡太平山の山麓(現 栃木市薗部町)に住坊を建立し、山林修行に励む傍ら天下泰平・万民豊楽の祈祷を行ったことに始まる。
天正年間、皆川城主・皆川広照の栃木城及び城下町造営の際、命によって現在の地(栃木市旭町)に移され、城下町東の木戸守衛を兼ねる。1591年(天正19年)11月には、関東八州に移った徳川家康の鷹狩りの折休息所となり、住持の応接にすこぶる満悦し朱印五石を賜わる。
以来寺勢大いに振い、江戸期には十間四面の大本堂を中心に、大門・御成門・多宝塔・大師堂・薬師堂・不動堂・稲荷社・聖天堂・三鬼堂・大書院・住房等が、広い境内に建ち並ぶ大伽藍を擁した。しかし1862年(文久2年)、大火により堂宇をことごとく失った。
以後しばらく無住の時期もあったが、1897年(明治30年)、富山県射水郡から出た長澤泰純が晋住して復興に着手。しかし、廃仏毀釈の影響や世の時勢によって復興は思うにまかせず、民家風の仮本堂兼客間兼庫裡一宇にとどまったまま大戦後もしばらく推移した。
全山焼失110年後の、1972年(昭和47年)現住 長澤弘隆が晋住し、復興の機運を得て本堂を再建し、1985年(昭和60年)には客殿・住坊を建設。さらに、2011年(平成23年)、開創750年を期に新本堂「大毘盧遮那殿」を建立。旧本堂は大師堂となり、同時に境内も大規模整備された。
文化財
三鬼尊(栃木市指定文化財)
全国でも珍しい「赤・青(緑)・黒」三体一組の鬼神の像(左甚五郎の作とも定朝の作ともいわれる)。戦後、閻魔大王の縁日の16日に合わせ、1月と8月の16日に縁日がひらかれてにぎわったが、この鬼は閻魔大王に仕える地獄の獄卒ではなく、江戸と日光を往来する修験行者によって尊崇されたヤマの守護神と推察される。ちなみに、広島県宮島の弥山に「三鬼堂」があり福徳・知恵・降伏を司る三鬼大権現が祀られ、同じく麓の大聖院(真言宗御室派)の摩尼殿にも祀られている。
田中一村の墓
栃木市生まれで、絵の考え方のちがいにより中央画壇と絶縁し、奄美大島で活動した日本画家 田中一村が、祖父母・両親や姉と共に眠っている。平成29年夏、一村の没後40年にあたり、遺族の新山宏氏によって田中家のお墓が一新され、同時に一村の墓石も新たに建立された。これに伴い、大師堂の裏手にあった一村供養碑は撤去された。
その他の文化財
・中村不折揮毫の扁額「無畏城」
・松岡正剛揮毫の扁額「大毘盧遮那殿」
主な行事
・1月1日 - 2日 - 新年大護摩供
・3月彼岸前 - 弘法大師御影供
・7月13日 - 7月盆特別供養会
・8月13日 - 8月盆特別供養会
・9月25日 - 施餓鬼会
人銘
田嶋隆純
当寺第27世泰純和尚の弟子。大正大学教授、文学博士。仏教学・密教学の学匠。河口慧海に師事しチベット語を修学。戦前、パリのソルボンヌ大学に留学。チベット文献をもとに『大日経住心品』フランス語訳等を発表。戦後、花山信勝のあとを受け巣鴨拘置所の教誨師となり、戦犯の心と人間性に寄り添い絞首刑にも立ち会い、「巣鴨の父」と慕われた。真言宗豊山派正真寺住職(東京都江戸川区)。
高久泰憲
当寺第28世泰隆和尚の弟子。タカキュー(Taka-Q)創業者。栃木市都賀町出身、田嶋隆純などと同じ時期当寺で修学。
長澤實導
当寺第29世。大正大学教授、文学博士。仏教学・密教学の学匠。智山教化研究所初代所長。真言宗智山派菩提院結衆。サンスクリット・チベット文献を精査し初期唯識から後期中観・密教に至るまで幅広い研究を行う。瑜伽行中観派のジュニャーナガルバの研究に先駆的学績を残す。また、宗派の要請を受け智山教化研究所初代所長に就任、教学の裏付けにもとづいた布教教化の在り方や資料の出版につとめ、宗団教化の基礎を築いた。智山教化研究所は現在の智山伝法院の前身。
兄に藤田金一郎(東北大学工学部建築学教授)、姉に見田公子(見田石介の妻)ら、母方(杉山家)の親戚に東儀秀子がいる。田嶋隆純は義兄。
長澤弘隆
当寺第30世(現)、第29世實導和尚の長男。インド哲学・大乗仏教思想・空海密教の研究者。密教21フォーラム事務局長。早稲田大学東洋哲学科で福井康順・田中於菟弥・金倉圓照・西義雄等教授の指導に浴す。編集工学の松岡正剛の協力を得て、ウェブサイトを含めさまざまな方法で空海密教の世界を情報化し発信。
代々住職の念願だった当寺の伽藍復興につとめる。
交通
・JR両毛線・東武鉄道日光線 栃木駅北口から徒歩15分、タクシー5分、市内観光用レンタサイクルあり。
・東北自動車道 栃木ICから、約10分
詳しいことは、『満福寺(栃木県)ウィキペディア』をご覧ください。 ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%80%E7%A6%8F%E5%AF%BA_(%E6%A0%83%E6%9C%A8%E5%B8%82)
(wikiより)


















9014 道後温泉別館 飛鳥乃湯泉 2階特別浴室
2024年 7月には道後温泉本館の工事も終了して特別浴室もリニューアルされるのではないでしょうか?
※ 道後温泉本館の日本唯一の皇室専用浴室「又新殿」(ゆうしんでん)

⇧ 飛鳥乃湯入口脇の窓口です
満員御礼でした 予約しといて良かった

⇧ 入り口を入ってみました

⇧ 浴衣が選べます。


⇧ 2階に上がる階段

⇧ ちょっとベンチに座って時間つぶし

⇧ 階段を上がって、大広間を左に曲がり道なりに来ると「2階特別浴室」です

⇧ 立派な入口です


⇧ 特別浴室は 2ヶ所、入室する時は木札を「入浴中」にします

⇧ 入口が銀が貼られているのでしょうか?

⇧ 入ってみました
こちらの襖も銀が貼ってあるのでしょうか?

ちなみに特別室を予約すると 1回の大浴場にも入湯できます ( 1階大浴場じゃないとシャンプーが出来ません )


⇧ ボケちゃった

⇧ この扉は開きません

⇧ ランプも渋いです





⇧ 銀の襖を開けてみました

⇧ 右側の木戸が浴室入り口です。

⇧ 入浴時は裸ではなく、この浴着を着用するそうです ( 画像はネット上の拾い物です )

⇧ 左上ボタンを押すと、お湯が出ます
右側に降りる階段のようになっています

⇧ ここが浴槽になります ( 石鹸、シャンプーは不可です )
やはり浴着を着用して入浴するのは、違和感を感じます
⇧ 装飾も素晴らしいので、動画見てください

⇧⇩ 入浴後は、お茶とお菓子を戴きます


⇧ 一息ついたら退室しましょう

⇧ 銀の襖は凄いですね


⇧ 退室時は木札を裏返しましょう

階段です
9013 大場医院(栃木県栃木市旭町15-14)
9012 日本橋 : 小洞天 日本橋本店
9011 巴波の鯰(栃木県栃木市万町)
9010 大船:鳥恵
9009 巴波川(栃木市)
| 水系 | 一級水系 利根川 |
|---|---|
| 種別 | 一級河川 |
| 延長 | 28.5[1] km |
| 平均流量 | -- m³/s |
| 流域面積 | 213.6[1] km² |
| 水源の標高 | -- m |
| 河口・合流先 | 渡良瀬川(栃木市藤岡町石川) |
| 流域 | 栃木県 |
巴波川(うずまがわ)は、栃木県南部を流れる利根川水系渡良瀬川支流の一級河川。
流路
流域は栃木県中西部から南部。栃木市川原田町の白地沼(しらじぬま)を水源とし、思川小倉堰(栃木市西方町本城)の分水と合流、広い平野を南に流れていく。栃木市の市街地中心部では歴史ある蔵が立ち並ぶ景観の中を流れ、南西に転じ渡良瀬遊水地に入り、栃木市藤岡町石川で渡良瀬川に合流する。渡良瀬遊水地と栃木市大平町伯仲・小山市大字中里付近間は国土交通大臣が管理する直轄管理区間[2]。
地域の自治体
栃木県
栃木市、小山市
名称の由来
「ウズを巻き、波を立てて流れる」という意味に由来する。近世には「宇津間川」、「鶉妻川」などとも表記された[3]。
歴史
中世から江戸川と通じた舟運の盛んな川で、栃木市内には蔵造りの建造物が多く残り「蔵の街」として親しまれている。舟運の始まりは、江戸時代に徳川家康の霊柩を久能山から日光山に改葬した際に、日光御用の荷物を栃木河岸に陸揚げしたことが端緒である。その後、物資の集散地として江戸との交易で隆盛を極めた[4]。現在は、錦鯉が放流されており、船頭による舟歌が楽しめる観光用の舟(蔵の街遊覧船)が行き来する。
ナマズの民話があり、そのナマズを模したしゃもじの郷土玩具がある[5]。
治水
明治時代に堤防が築かれる以前はたびたび氾濫し、橋をかけても2年ともたないと言われたほどであった。氾濫を鎮めるために人柱を立てたという伝説も残っており、「巴波川悲話」として栃木市の塚田歴史伝説館などで紹介されている(幸来橋#伝承・逸話を参照)。
近代以降においては、1947年(昭和22年)16日、カスリーン台風襲来の際に旧部屋村内で堤防が決壊、部屋村の全戸と旧生井村の6割が浸水する大洪水となり、多くの被災者を出した[6]。また、2015年(平成27年)9月の関東・東北豪雨、2019年(令和元年)の東日本台風襲来の際にも氾濫し、被害を出した[7][8]。
支流
・荒川
・新川(小倉川の分水)[3]
・永野川
・出流川
・藤川
・赤津川
自然
栃木市内には多くの錦鯉が生息している。最盛期、鯉の数は県庁堀と合わせて10万匹にまでなったとも言われている[9]。
橋梁
上流から
・ふるさと橋
・新藤沼橋
・藤沼橋
・新高瀬橋(栃木県道37号栃木粟野線)
・高瀬橋
・新蟹田橋(栃木県道37号栃木粟野線)
・蟹田橋(栃木県道309号栃木環状線)
・雷電橋
・原ノ橋(栃木県道32号栃木粕尾線)
・小平橋
・沖乃橋
・嘉右衛門橋
・泉橋
・大川橋
・開運橋
・常盤橋
・倭橋
・幸来橋(栃木県道75号栃木佐野線)
・巴波川橋
・公園橋(瀬戸河原公園内)
・相生橋
・関門橋(栃木県道11号栃木藤岡線)
・開明橋(栃木県道153号南小林栃木線)
・新橋
・平成橋(栃木県道31号栃木小山線)
・両毛線・東武日光線
・弁天橋
・金橋
・愛宕橋
・吾妻橋
・寿橋
・感際橋(栃木県道311号小山大平線)
・中村橋
・新田橋
・生駒橋(栃木県道36号岩舟小山線)
・本郷橋
・新蛍橋(栃木県道153号南小林栃木線)
・蛍橋
・新巴波川橋(国道50号)
・泉橋
・新泉橋
・雷電橋
・昇明橋(栃木県道160号和泉間々田線)
・緑川橋
・巴波橋(栃木県道50号藤岡乙女線)
・石川橋(沈下橋)
脚注
1. a b 金子是久、布川洋之、藤咲雅明「巴波川(栃木県栃木市)における生物多様性の保全と地域の人々の関わり」『景観生態学』第15巻第1号、日本景観生態学会、2010年6月、31-36頁、doi:10.5738/jale.15.31、NAID 40017215354。
2. 出張所管理区間 国土交通省利根川上流河川事務所
3. a b "巴波川". ブリタニカ国際大百科事典. コトバンクより2022年2月27日閲覧。
4. 栃木県歴史散歩編集委員会 編 編『栃木県の歴史散歩』山川出版社〈歴史散歩⑨〉、210-211頁。ISBN 978-4-634-24609-6。
5. 郷土玩具の杜 うずまの鯰
6. 濁流呑むニケ村『朝日新聞』昭和22年(1947年)9月17日、4版、1面
7. “平成27年9月関東・東北豪雨 災害・支援・復旧記録”. 栃木市 (2018年10月22日). 2018年9月29日閲覧。
8. “【台風19号】氾濫で屋形船損傷 橋桁に衝突、復旧見通せず 栃木・蔵の街遊覧船”. 下野新聞社 (2019年10月21日). 2020年12月27日閲覧。
9. “県庁堀の鯉”. とちぎ旅ネット. 公益財団法人 栃木県観光物産協会. 2020年8月12日時点のオリジナルよりアーカイブ。2017年3月17日閲覧。
関連項目
・胸形神社 (小山市)
外部リンク
・巴波川 - 栃木市観光協会
・『巴波川』 - コトバンク
・「栃木県栃木市にある巴波川の水害の歴史について知りたい。」(栃木県立図書館) - レファレンス協同データベース
(wikiより)



9008 仙台:中嘉屋食堂 麺飯甜 仙台駅構内店
9007 山本有三碑(栃木県栃木市沼和田町1-1・栃木駅北口ロータリー)
たったひとりしかない自分を、たった一度しかない一生を、ほんとうに生かさなかったら、人間、生まれてきたかいがないじゃないか。
〇 山本有三
| 誕生 | 山本 勇造 1887年7月27日 |
|---|---|
| 死没 | 1974年1月11日(86歳没) |
| 墓地 | 近龍寺(栃木市) |
| 職業 | 劇作家、小説家、政治家 |
| 最終学歴 | 東京帝国大学文科大学独文科選科 |
| 活動期間 | 1920年 - 1974年 |
| ジャンル | 小説、戯曲 |
| 文学活動 | ふりがな廃止論 |
| 代表作 | 『嬰児ごろし』(1920年、戯曲) 『坂崎出羽守』(1921年、戯曲) 『同志の人々』(1923年、戯曲) 『波』(1923年) 『女の一生』(1932年) 『真実一路』(1935年) 『路傍の石』(1937年) |
| 主な受賞歴 | 文化勲章(1965年) |
| デビュー作 | 『生命の冠』(1920年) |
山本 有三(やまもと ゆうぞう、1887年〈明治20年〉7月27日 - 1974年〈昭和49年〉1月11日)は、大正から昭和にかけて活躍した日本の小説家、劇作家、政治家[2]。本名:山本 勇造(やまもと ゆうぞう)。日本芸術院会員、文化功労者、文化勲章受章者。
人道的な社会劇作家として名を成し、『嬰児殺し』『坂崎出羽守』『同志の人々』などを発表。その後、小説に転じて『波』『女の一生』『真実一路』『路傍の石』などを書き、理想主義の立場から人生の意味を平明な文体で問いかけた作風で広く読まれた。
第二次世界大戦後は貴族院勅選議員。のち参議院議員として新仮名遣い制定など国語国字問題に尽力した。
来歴
呉服商の子として栃木県下都賀郡栃木町(現在の栃木市)に生まれる。跡取り息子として裕福に育ち[3]、高等小学校卒業後、父親の命で一旦東京浅草の呉服商に奉公に出されるが、一度は逃げ出して故郷に戻る。上級学校への進学を希望したが許されず、結局、家業を手伝うことになる。
この頃、佐佐木信綱が主宰する短歌の結社「竹柏会」に入会し、新派和歌を学んだ。また『中学世界』や『萬朝報』『文章世界』に投稿して入選している[4]。その後、1905年に母の説得で再度上京。正則英語学校、東京中学に通い[5]、1908年(明治41年)に東京府立一中を卒業。1909年(明治42年)9月一高入学。同級だった近衛文麿とは生涯の親交を暖めた。1年の留年を経て一高を中退し[6]、東京帝国大学文科大学独文学科選科に入る。
在学中から『新思潮』創刊に参加し、修了後、早稲田大学ドイツ語講師として働きながら[7]、1920年には戯曲『生命の冠』で文壇デビュー。真実を求めてたくましく生きる人々の姿を描いた。一高時代落第後に同級となった菊池寛や芥川龍之介らとは文芸家協会を結成し、内務省の検閲を批判する一方、著作権の確立に尽力した。1932年(昭和7年)には新設された明治大学文芸科の科長に就任。しかし、1934年(昭和9年)に共産党との関係を疑われて一時逮捕されたり、『路傍の石』が連載中止に追い込まれたりし、日増しに政府・軍部の圧迫を受けるようになった。1933年6月3日、共産党に資金を提供した疑いで検挙された[8]。1941年(昭和16年)には帝国芸術院会員、太平洋戦争中の1942年(昭和17年)には日本文学報国会理事に選ばれている。
1936年、三鷹市(当時は東京府下)の洋館に移り住んだ。1926年築の、当時としては珍しい鉄筋コンクリート2階建で、前所有者から買い受けた[9]。自作の小説、戯曲を執筆するだけでなく、子供向けの『日本少国民文庫』(全16巻)の編集も担った。編集主任には、以前から親交があり、当時は失業中だった吉野源三郎を登用した。そのうちの一冊で、現在も読み継がれる『君たちはどう生きるか』の1937年初版は、吉野と山本の共著となっている。また太平洋戦争下の1942年夏には、子供が自由に蔵書を読めるようにと、自宅を「ミタカ少国民文庫」として開放した[10]。
戦後は貴族院勅選議員に勅任され、国語国字問題に取り組んで「ふりがな廃止論」を展開したことでも知られる。憲法の口語化運動にも熱心に取り組んだ。1947年(昭和22年)の第1回参議院議員通常選挙では全国区から出馬して9位で当選。参議院議員を1期6年間務めて緑風会の中心人物となり、政治家としても名を残したが、積極的な創作活動は終生変わらなかった。1965年には文化勲章を受章している。他の叙勲は幾度か辞退していたが、1972年に国会議員の功労として銀杯一組を賜った[11]。
1974年1月5日に国立熱海病院(静岡県熱海市)に入院し、1月11日に高血圧症から肺炎による急性心不全を併発して死去。戒名は山本有三大居士[12]。命日の1月11日は、1月11日の数字の並びと有三の「三」の字にちなみ、一一一忌(いちいちいちき)と呼ばれている。
家族
父・山本元吉は、宇都宮藩士(足軽の小頭)だったが、明治維新後、裁判所書記などをした後、呉服屋で修業を積み独立するも失敗。かつぎ商人となって苦労の末、素封家や富商、三業地(花街)などの固定客を相手に、外商を主にした呉服業を栃木町で営んだ[3]。1907年に脳溢血で死去[3]。姉がいたが、夭折したため一人っ子[3]だった。
1917年に母の勧めで最初の妻と結婚するも離婚[7]。1919年3月に、本田増次郎と井岡ふでの娘・井岡はな(1897-1930)と再婚し、有一(1921-1930年)、朋子(1925-2007年)、玲子(1927年-)、鞠子(1928-2010年)の四子をもうける[13][14]。妻のはなは両親が未入籍だったため私生児で、5歳の時に結核で母を亡くした後、母方の祖母や親族の間を転々とし、跡見女学校を卒業。21歳の時に同校学監の跡見李子(ももこ)の紹介で10歳年上の有三と結婚した[15]。
『破船』事件
夏目漱石門下の久米正雄とは親友だったが女優木下八百子を巡って険悪となり、久米が漱石長女筆子の愛を巡って松岡譲と争ったいわゆる『破船』事件の際には、久米を陥れようと企んで、久米を女狂い、性的不能者、性病患者などと誹謗中傷する怪文書を、筆子の学友の名を騙って夏目家に送りつけた一面があった。怪文書の筆跡は明らかに女性のものだったが、有三が起草した文章を夫人に清書させたと、久米も松岡も筆子も考えていた[16]。しかしながら久米と筆子の件は夏目門下生と親族以外は知らされておらず、山本がこの件を知っていたとは考えにくい。また、松岡は以前にも似た悪戯を久米にしている。
主な著作
主な著作については、山本有三記念館編「著作表」[17]を参照した。
戯曲
・穴(歌舞伎 明治44年3月)
・女親(『新思潮』大正3年4月)→淀見蔵
・曼殊沙華(『帝国文学』大正3年12月)
・津村教授(『帝国文学』大正8年2月)
・生命の冠(『人間 』大正9年1月)
・嬰児ごろし(『第一義』大正9年6月)
・女親(『人間』大正9年9月)→女おや
・坂崎出羽守(『新小説』大正10年9月)
・指鬘縁起(『改造』大正11年9月)
・同志の人々(『改造』大正12年4月)
・海彦山彦(『女性』大正12年8月)→ウミヒコ・ヤマヒコ
・本尊(『サンデー毎日』大正13年1月)
・熊谷蓮生坊(『改造』大正13年6月)
・スサノヲの命(『婦女界』大正13年9月-10月)→スサノオノミコト
・大磯がよひ(『新潮』大正13年10月)→大磯がよい
・女中の病気(『演劇新潮』大正13年10月)
・父親(『改造』大正14年9月)→父おや
・嘉門と七郎右衛門(『文藝春秋』大正15年6月)
・西郷と大久保(『文藝春秋』昭和2年5月)
・霧の中(『キング』昭和2年11月)※ラジオドラマ
・盲目の弟(『講談倶楽部』昭和4年10月)※シュニッツレルの戯曲の翻案
・女人哀詞(『婦女界』昭和5年1月-3月)
・米百俵(『主婦之友』昭和18年1月-2月)
小説・物語
・兄弟(『新小説』大正11年10月)
・雪―シナリオの形を借りて―(『女性』大正14年3月)
・生きとし生けるもの(『朝日新聞』大正15年9月25日-12月7日 未完)
・波(『朝日新聞』昭和3年7月20日-11月22日)
・子役(『改造』昭和6年12月)
・チョコレート(『改造』昭和6年12月)
・風(『朝日新聞』昭和5年10月26日-昭和6年3月25日)
・女の一生(『朝日新聞』昭和7年10月20日-昭和8年6月6日 中断)
・不惜身命(『キング』昭和9年1月,3月)→ふしゃくしんみょう
・瘤(『改造』昭和9年12月)→こぶ
・真実一路(『主婦之友』昭和10年1月-昭和11年9月)
・はにやみやのクララ(『主婦之友』昭和12年1月-3月)
・ストウ夫人(『主婦之友』昭和13年1月-3月)
・路傍の石(『朝日新聞』昭和12年1月1日-6月18日 第一部)
・新篇 路傍の石(『主婦之友』昭和13年11月-昭和15年7月 中絶)
・無事の人(『新潮 』昭和24年4月)
・濁流 雑談 近衛文麿(『毎日新聞』昭和48年4月4日-5月31日、昭和49年3月1日-3月11日)
随筆・評論・談話
・野外劇場(新小説 大正2年11月)
・島村抱月先生に 芸術座の「海の夫人」を見て(新思潮 大正3年2月)
・美術劇場と無名会(新思潮 大正3年6月)
・『その妹』の上演(新演芸 大正9年10月)
・『父帰る』を見て(新演芸 大正9年12月)
・芸術は『あらわれ』なり(人間 大正10年5月)
・久米正雄に 戯曲集『阿武隈心中』のあとがき(『阿武隈心中』大正10年6月)
・『坂崎出羽守』と悲劇の主人公(読売新聞 大正10年9月6日-7日)
・道しるべ(都新聞 大正12年1月1日)
・Strindbergの読み方(文藝春秋 大正12年5月)
・その日から翌朝まで(改造 大正12年10月)
・大地(随筆 大正12年11月)
・築地小劇場の反省を促す(演劇新潮 大正13年7月)
・翻訳雑感(演劇新潮 大正13年9月)→文学の輸出入
・創作で立とうとする人びとに(文藝講座 大正14年10月)
・小学読本と童話読本(文藝春秋 大正15年1月)
・あに発売禁止のみならんや(改造 大正15年9月)
・徳冨蘇峰氏座談会(文藝春秋 昭和2年3月)
・小人国(東京朝日新聞 昭和2年7月15日)
・おみおつけ(大調和 昭和2年9月)
・芥川君の戯曲(文藝春秋 昭和2年9月)
・『嬰児殺し』の評を見て 小山内薫氏に一言(東京朝日新聞 昭和3年12月19日)
・一即多(悲劇喜劇 昭和4年4月)
・いずこに訴えん(『朝日民衆講座第13輯 検閲制度批判』昭和4年12月)
・序にかえて(『山本有三全集』昭和6年2月)
・われらの主張の根本要旨(東京朝日新聞 昭和6年2月4,5,6,10,11,12日)
・『嬰児殺し』漫談(演芸画報 昭和6年10月)
・小学国語読本批判(『小学読本批判座談会』昭和7年4月)
・山本有三氏を中心として純文学の問題を談ず(読売新聞 昭和8年1月11-13日)
・興味とは何か、問題とは何か(読売新聞 昭和8年2月21日)
・直木君の最後(読売新聞 昭和9年2月27日)
・『ウミヒコ・ヤマヒコ』について(現代 昭和10年2月)
・近衛文麿公閑談会(文藝春秋 昭和11年7月)
・近衛公を語る(読売新聞 昭和12年6月2日)
・この本を出版するに当たって(『戦争と二人の婦人』昭和13年4月)
・一問一答・近衛文麿と山本有三(モダン日本 昭和14年10月)
・もじと国民(文藝春秋 昭和16年1月26日)
・雪もちの竹(銀河 昭和22年1月)
・『文化』の役わり(東京新聞 昭和22年4月11日,12日)
・人間菊池(別冊文藝春秋 昭和23年10月)
・現代文壇史(9) 新思潮の頃(文芸 昭和31年2月)
・文化人と国会(中央公論 昭和31年6月)
・アメリカと直線(朝日新聞 昭和32年1月1日)
・『文化の日』が決まるまで(昭和35年11月6日)
・三鷹の思い出(三鷹市報 昭和40年11月3日)
・母の思い出(毎日新聞 昭和41年1月1日)
・からっぽ(『新潮日本文学11 山本有三集』月報 新潮社 昭和44年8月)
・青春を語る――自分に落第点を(『現代日本の文学12 山本有三集』月報 学習研究社 昭和45年5月)
・自然は急がない(読売新聞 昭和45年8月12日)
・死にべた 「あとがき」にかえて(『無事 名作自選 日本現代文学館』ほるぷ出版 昭和47年12月)
・老いの春(毎日新聞 昭和49年1月12日)
詳しいことは、『山本有三碑ウィキペディア』をご覧ください。 ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E6%9C%AC%E6%9C%89%E4%B8%89
(wikiより)

⇧ 山本有三




9006 松山:四季瀬戸の味 たにた
9005 初代・久保田一竹墓(新宿区改代町11・田中寺)
初代久保田 一竹(くぼた いっちく[1]、1917年(大正6年)10月7日[1] - 2003年(平成15年)4月26日[1])は、日本の染色工芸家[2]。辻ヶ花と呼ばれる15世紀後半~16世紀前半に失われてしまった染色・装飾技法の復刻への取り組みが世界的に評価されている。
生涯
東京神田の骨董品屋の息子として生まれる。関東大震災で店の商品が全焼し、父親のような道楽商売ではなく自分の腕に技術をつけようと思うようになり、手書き友禅を始める[3]。友禅師の小林清のもとに入門[4]。1934年に画家の大橋月皎から人物画を[4]、1936年に北川春耕から日本画を学ぶ[4]。1937年、東京国立博物館で目にした室町時代の『辻が花染め』の小裂に魅了される。しかし、辻が花染めは崎友禅斎によって手書き友禅を発明されたことにより、手間がかり値段も高く売れないために廃れてしまっていた。そこで一竹は、再現だけでなく過去の模倣で終わらない現代に息づく独自の染色『辻が花』を確立を目指すべく研究に没頭していく。1944年、27歳で太平洋戦争に応召し出兵。敗戦に伴い捕虜となり、シベリアに抑留される。抑留中も、監視の目を盗み薬品で布を染めたり、防寒具の毛で筆を作り柄を描くなど研究を怠らなかったという。また、この抑留時代にシベリアに沈む太陽を目に焼き付け、後にこれを題材とした着物を制作している[5]。
1962年、一竹は、伝統的な辻が花を完璧に復刻するのは技術的に不可能であると判断し、代わりに“一竹辻が花”として自己流の辻が花を発展させることにした。練貫の代用品として、縮緬の絹糸を使用し、草木染の染料の代わりに化学染料を使用した。1977年一竹が60歳の年に初めて自身の装飾着物の展覧会を開催する。1990年には、フランス芸術文化勲章シュバリエを受章[6]。
一竹の着物の作品は、“光のシンフォニー”と呼ばれ、“宇宙の威厳”とも評されている。1995年、“宇宙の威厳”の作品の一部がワシントンのスミソニアン博物館に展示された。スミソニアン博物館に存命の芸術家の作品が展示されたのはこれが初めてだった。一竹は生涯で80点の着物のデザインを発案し、そのうち40点を完成させた。一竹のデザインの中には、着物から別の着物へと柄が続き、四季を現した1枚の風景画を表しているユニークなものも存在する。
2003年、逝去。長男の悟嗣が、二代目久保田一竹として後を引き継いだ[7]。
脚注
1. a b c 『「現代物故者事典」総索引 : 昭和元年~平成23年 2 (学術・文芸・芸術篇)』日外アソシエーツ株式会社、2012年、394頁。
2. “伝統文化を守る|丹裳会|一竹辻が花染/加賀友禅”. tanshokai.jp. 2022年10月7日閲覧。
3. 『NHK映像ファイル あの人に会いたい 【久保田一竹(染色家)】』の番組概要ページ - gooテレビ番組(関東版) 2017年10月29日
4. a b c 着物買取・売却は着物買取専門店のいわの美術 久保田一竹(1917~2003) 2017年10月28日閲覧
5. 『所さんのニッポンの出番!』 (2016年5月24日放送回)の番組概要ページ - gooテレビ番組(関東版) 2017年10月28日閲覧
6. 久保田一竹(くぼたいっちく)とは - コトバンク 2017年10月30日閲覧
7. “伝統文化を守る|丹裳会|一竹辻が花染/加賀友禅”. tanshokai.jp. 2022年10月7日閲覧。
外部リンク
・久保田一竹美術館 ITCHIKU KUBOTA ART MUSEUM (日本語)
・一竹工房・一竹辻が花 | Itchiku Atelier・Itchiku Tsujigahana (日本語)
・The Kubota Collection (英語)
・Landscape Kimonos of Itchiku Kubota - Canadian museum of civilization (英語)
・久保田一竹 - NHK人物録
(wikiより)
9004 新神戸駅:臼臼 新神戸店
9003 立神煉瓦倉庫群(佐世保市立神町)
9002 有馬温泉:なかさ
9001 田中穂積と美しき天然(長崎県佐世保市下船越町403・展海峰展望台)
田中 穂積(たなか ほづみ、1855年12月22日(安政2年 旧暦11月14日) - 1904年(明治37年)12月31日)は、現在の山口県岩国市出身の作曲家、海軍軍人。
略歴
・1855年(安政2年)- 吉川藩(現在の山口県岩国市)藩士田中判右衛門の次男として誕生。
・1867年(慶応3年)- 岩国藩日新隊に入隊し、鼓手を務める。
・1873年(明治6年)- 志願して海兵隊に入隊、五等鼓手を命ぜられ、軍楽隊に配属される。
・1890年(明治23年)- 海軍軍楽師(准士官)に任命される。
・1895年(明治28年)- 勲八等受勲、瑞宝章受章。大本営付きとなり、明治天皇の側近で奉仕。
・1899年(明治32年)- 佐世保鎮守府に第三代軍楽長として赴任。
・1902年(明治35年)- 私立佐世保女学校で音楽を教授。音楽教材として代表作「美しき天然」を作曲。
・1904年(明治37年)- 長崎県佐世保市にて心臓麻痺で死去(享年49)。同市東山町の海軍墓地(現在の東公園、通称:東山公園)に眠る。
代表作
代表作である『美しき天然』(1902年(明治35年))は日本初のワルツであり且つヨナ抜き短調曲とされている。大正、昭和期にはサーカスやチンドン屋などが客の呼び込みで演奏する曲として全国に広まった。同曲は長崎県立佐世保北高等学校と長崎県立佐世保南高等学校の前身の1つである私立佐世保女学校(佐世保市立成徳高等女学校)で田中が音楽指導する際に、教材として作曲したものと伝えられている。『美しき天然』の歌碑が佐世保市の烏帽子岳に、田中穂積の銅像が佐世保市の展海峰に建立されており、佐世保市民の愛唱歌として親しまれている。
その他の作品
・如何に狂風
・軍人勅諭
・黄海海戦
・勇敢なる水兵
参考資料
・アジア歴史資料センターレファレンスコードA10110571800、12頁以下
・創立百周年記念「成徳」(2002年(平成14年)9月30日発行, 佐世保市立成徳高等女学校同窓会)
関連項目
・軍歌
・軍楽隊
・野口寧斎(1906年、義弟の野口男三郎の裁判時に流行した、演歌「ああ世は夢か幻か」に「美しき天然」の旋律が使われた。)
(wikiより)


9000 姫路:たこまるたこ焼き
8999 九十九詩人歌碑(長崎県佐世保市下船越町403・展海峰展望台)
8998 浅草:馬賊
8997 九十九島展海峰(長崎県佐世保市下船越町399)
8996 高知 : 高知アイスいろいろ
8995 旧佐世保海軍工廟250トン起重機(佐世保市立神町)
8994 博多:博多純情ラーメン Shin Shin
8993 旧佐世保海軍工廟第七船船渠(佐世保市立神町)
8992 函館:函館ビヤホール
8991 カトリック三浦町教会(長崎県佐世保市三浦町4-25)
| 所在地 | 長崎県佐世保市三浦町4番25号 |
|---|---|
| 国 | |
| 教派 | カトリック教会 |
| ウェブサイト | https://miurakyokai.com/ |
| 歴史 | |
| 創設日 | 1891年 |
| 守護聖人 | イエスの御心 |
| 管轄 | |
| 教区 | カトリック長崎大司教区 |
| 教会管区 | カトリック長崎教会管区 |
| 聖職者 | |
| 大主教 (大司教) | ペトロ中村倫明(2013年度から司教叙階まで主任司祭を務めた) |
| 主任司祭 | ミカエル中島誠志 |
カトリック三浦町教会(カトリックみうらちょうきょうかい[1])は、長崎県佐世保市三浦町にあるキリスト教の教会ならびにその聖堂である。駅周辺のランドマークとして佐世保市を代表する建築物であるとして、2004年に第6回佐世保市景観デザイン賞に選定された[2][3]。
教会の保護者
・至聖なるイエスの聖心
沿革
元々は市役所に近い谷郷町に1897年(明治30年)に建てられた。その後、3代目の主任司祭である脇田浅五郎(後の横浜教区長)の奔走により現在地に新しい教会堂を建設することになり、1931年(昭和6年)12月8日(無原罪の聖マリアの祝日)に献堂式が執り行われた[4]。
佐世保駅前の左手正面の丘に建つ教会堂であり、軍港(佐世保港)周辺施設を一望できることから第二次世界大戦中は軍からの監視を受け、さらに空襲をさけるためとして白い外壁にコールタールを塗られ黒一色の姿になったが、1945年(昭和20年)6月28日の佐世保大空襲では焼失を免れている。
終戦後は外壁も元通りの白い姿に戻されたが、教会堂のすぐ下を走る国道35号の拡幅に伴い前の山が削られ、擁壁に途中折り返し付きの急な階段で登る現在の形になっている。
所在地
・〒857-0863 長崎県佐世保市三浦町4番25号
アクセス
・JR・松浦鉄道佐世保駅から徒歩3分
・西肥バス(させぼバスも含む)「戸尾町」下車
周辺情報
1. 聖心幼稚園 - 同敷地内にある学校法人純心女子学園が経営する幼稚園。園舎の耐震性不足など諸事情により2017年3月をもって閉園。
2. アルカスSASEBO - 国道を挟んで正面にある多目的ホール。
3. 佐世保駅
4. えきマチ1丁目佐世保
5. 四ヶ町商店街
脚注
1. 『カトリック教会情報ハンドブック2014』 教会五十音順索引(p355) カトリック中央協議会 ISBN 9784-877505530
2. 第6回佐世保市景観デザイン賞 佐世保市役所
3. 『長崎游学2 長崎・天草の教会と巡礼地完全ガイド』 p46 長崎文献社 ISBN 9784-88851-0912
4. 『長崎游学2 長崎・天草の教会と巡礼地完全ガイド』 p137 長崎文献社 ISBN 9784-88851-0912
関連項目
・カトリック長崎大司教区
外部リンク
・三浦町教会のホームページ
・聖心幼稚園 - リンク切れ
(wikiより)

8990 函館:ひさご寿司
8989 戸尾市場(とんねる横丁)(佐世保市戸尾町)
8988 神保町:中華料理 三幸園
8987 下士官兵集合所跡と旧佐世保橋(長崎県佐世保市平瀬町)
8986 中華そば 雑司ヶ谷:ターキー
8985 旧佐世保鎮守府凱旋記念館(長崎県佐世保市平瀬町2)
〇 旧佐世保鎮守府凱旋記念館
旧海軍佐世保鎮守府凱旋記念館(きゅうかいぐんさせぼちんじゅふがいせんきねんかん)は、長崎県佐世保市平瀬町にある歴史的建造物。国の登録有形文化財に登録されている。佐世保港付近に点在する旧海軍にまつわる近代化遺産の一つ。
第一次世界大戦で海軍佐世保鎮守府に所属する艦艇が連合国側に属して地中海等で戦い活躍したことを記念して建てられたものである。現在は佐世保市が管理する佐世保市民文化ホールとなり、市民による演劇や音楽の練習及び発表の場となっている。 2014から翌2015年にかけて耐震性向上のための構造補強を主目的とした改修工事が行われ、同時に外観や内装の修復と一部創建当時への復元を行っている。
建築概要
・竣工 1923年(大正12年)
・構造 鉄筋コンクリート造2階建
・所在地 佐世保市平瀬町2
歴史
・1923年(大正12年) 現在地に竣工。海軍の行事や合同葬に使用された。
・1939年(昭和14年)4月13日、伊六十三潜海軍合同葬が執り行なわれた。
・1945年(昭和20年) 米軍に接収される。
・1982年(昭和57年) 佐世保市に返還され、その後現在の市民文化ホールとなる。
・1997年(平成9年) 国の登録有形文化財になる。
・2005年(平成17年) 第7回佐世保市景観デザイン賞に選ばれる。
・2014年(平成26年) 3月から構造補強及び外観・内装の復元を目的として改修工事を開始。翌2015年11月竣工。事業費約4億6,900万円。
・2016年(平成28年) 日本遺産『鎮守府横須賀・呉・佐世保・舞鶴 ~日本近代化の躍動を体感できるまち~』の構成資産として指定される。
アクセス
西肥バス(させぼバスも含む)「佐世保市総合医療センター入口」下車すぐ。
周辺
・海上自衛隊佐世保地方総監部
・海上自衛隊佐世保史料館(セイルタワー)
・佐世保市総合医療センター - 旧海軍下士官兵集会所の跡地に建てられている。
・佐世保橋(海軍橋)
・佐世保中央インターチェンジ
関連項目
・登録有形文化財一覧
(wikiより)


8984 茅ケ崎:イル・ド・ショコラ 茅ヶ崎店
8983 海上自衛隊佐世保資料館(長崎県佐世保市上町8-1)
| 施設情報 | |
|---|---|
| 正式名称 | 海上自衛隊 佐世保史料館 |
| 愛称 | セイルタワー |
| 前身 | 海上自衛隊防衛資料館 |
| 専門分野 | 旧日本海軍・海上自衛隊の史料収蔵と広報 |
| 事業主体 | 海上自衛隊 |
| 開館 | 1997年(平成9年)3月 |
| 所在地 | 〒857-0058 長崎県佐世保市上町8-1 |
| 位置 | 北緯33度10分26秒 東経129度42分49秒 |
海上自衛隊佐世保史料館(かいじょうじえいたいさせぼしりょうかん)は長崎県佐世保市にある海上自衛隊及び大日本帝国海軍に関する史料館。愛称は「セイルタワー」。1997年(平成9年)3月10日に現在地に開館した。
概要
1968年(昭和43年)、佐世保市平瀬町の佐世保補給所内(現・平瀬庁舎)に設けられた海自防衛資料館が前身。旧日本海軍・佐世保鎮守府時代から海上自衛隊にいたる現在までの資料約4,400点を収蔵、そのうち約1,300点を常設展示している。映像や写真、模型、当時の資料などを通じ、旧海軍、自衛隊の変遷を知ることができる。
建物は7階建て。1・2階部分は、旧海軍時代に将校の宿泊、福利厚生施設として利用していた「佐世保水交社」の建物の一部を再利用している。国際通り側に突き出た石張りの八角屋根がかつての雰囲気を感じさせる。3階以上はガラス張りの現代的な建物となっている。屋上部の構造物が船の帆にも見えることから「セイルタワー」の愛称で親しまれている。
施設
・7階 展望所、映像ホール 展望所からは佐世保港や米海軍佐世保基地などが一望でき、映像ホールでは海上自衛隊のPR映画を上映している。
・6階 長崎海軍伝習所から佐世保鎮守府開設までの歩み
・5階 日清戦争、日露戦争
・4階 太平洋戦争
・3階 海上自衛隊の艦船、歴史
・2階 海上自衛隊の装備、活動(南極観測船、災害派遣、海外派遣など)、図書室
・1階 売店、企画・特別展示
入館者はいったんエレベーターで7階に昇り、1階ずつ降りていく。
基本情報
※外部リンクにある佐世保地方隊公式サイトも参照のこと。
・開館時間:9:30~17:00
・休館日:毎月第3木曜日及び年末・年始(12月28日~1月4日)
・入館料:無料(入館の際、1階受付で署名が必要)
2009年(平成21年)の行政刷新会議による事業仕分けにおいて、参議院議員の蓮舫(後の行政刷新担当相)が入場料を徴収するよう指摘したことを受け、2010年(平成22年)11月1日より「当面の間」高校生を除く18歳以上の大人が400円、小・中・高校生が200円の有料制とされた[1](陸上自衛隊広報センター・航空自衛隊浜松広報館との同時実施)が、有料化に伴い入場者数が激減したなどの理由から同実験は2011年2月1日付をもって終了した[2]。
・駐車場:普通車約20台、大型バス6台(無料)
交通アクセス
・西九州自動車道佐世保中央インターチェンジより車で1分
・西肥バス(させぼバスも含む)「佐世保市総合医療センター入口」下車、徒歩2分
・国道35号松浦交差点から車で2分
注
1. 防衛省・自衛隊:自衛隊の大規模広報施設に係る入場料の徴収に関する実験の実施について2010年10月22日、防衛省
2. 事業番号0062 平成23年度行政事業レビューシート(防衛省)
関連項目
・海上自衛隊呉史料館(てつのくじら館)
・鹿屋航空基地史料館
・海事博物館
外部リンク
・佐世保史料館(セイルタワー)(佐世保地方隊公式サイト内)
(wikiより)

⇧ 海上自衛隊佐世保資料館

⇧⇩ 護衛艦くらまの錨


8982 秋葉原:新福菜館 秋葉原店
8981 日本最西端佐世保駅(長崎県佐世保市三浦町21-1)
| 所在地 | 長崎県佐世保市三浦町21-1 |
|---|---|
| 所属事業者 | ■九州旅客鉄道(JR九州) ■松浦鉄道 |
| 電報略号 | サホ |
| 駅構造 | 高架駅 |
| ホーム | (JR九州)3面6線 (松浦鉄道)1面2線 |
| 乗車人員 -統計年度- | (JR九州)2,600人/日(降車客含まず) -2021年- |
| 乗降人員 -統計年度- | (松浦鉄道)1,392人/日 -2021年- |
| 開業年月日 | 1898年(明治31年)1月20日[1] |
| 乗入路線 2 路線 | |
| 所属路線 | ■佐世保線 (■大村線直通含む) |
| キロ程 | 48.8 km(江北起点) |
◄日宇 (3.4 km) | |
| 所属路線 | ■西九州線 |
| キロ程 | 93.8 km(有田起点) |
◄佐世保中央 (1.0 km) | |
| 備考 | 共同使用駅 JR九州:直営駅 JR九州:みどりの窓口 有[2] 松浦鉄道:有人駅 |
佐世保駅(させぼえき)は、長崎県佐世保市三浦町にある、九州旅客鉄道(JR九州)・松浦鉄道の駅である。
概要
長崎県北部の主要都市である佐世保市の中心駅であり、JR九州の佐世保線と松浦鉄道の西九州線の2路線が乗り入れている。両路線とも当駅が終点で全列車が当駅始発・終着で運転される。2009年3月14日から、松浦鉄道の列車が1往復JR線に直通運転を行っていたが、2020年3月14日のダイヤ改正で直通運転を休止した。佐世保線と西九州線の他、早岐駅を起点とするJR九州大村線の列車もほとんどが当駅を始発・終着としており、利用可能である。
西九州線はかつて日本国有鉄道(国鉄)→JR九州が松浦線として管轄していたが、1988年4月1日に松浦鉄道に経営移管されたのに合わせて西九州線に改称した。同時に当駅はJRグループ全駅中最西端の駅かつ日本最西端の終着駅となった(これはJRも松浦鉄道も当駅を終点としているため)。
佐世保市は人口では長崎県第2の自治体であるが、当駅の利用者数は長崎駅、諫早駅に次いで県内では3位となっている。
歴史
・1898年(明治31年)1月20日:九州鉄道の駅として開業[1]。
・1907年(明治40年)7月1日:九州鉄道が国有化[1]。同時に当駅は国有鉄道の最西端駅となる。
・1909年(明治42年)10月12日:国有鉄道線路名称制定により、早岐駅 - 佐世保駅間に佐世保線の名称が付けられ、当駅は佐世保線の終点となる。
・1934年(昭和9年)12月1日:長崎本線が現行の肥前鹿島駅経由のルートに変更されたのに伴い、旧ルートのうち肥前山口駅(現・江北駅) - 早岐駅間を佐世保線に編入。
・1935年(昭和10年)11月9日:佐世保線が北佐世保駅まで延長[3]。これにより当駅は佐世保線の中間駅となると共に、国有鉄道最西端の駅の座も失うこととなった。
・1937年(昭和12年)8月25日:鉄筋コンクリート造2階建ての駅舎に改築、竣工[4]。この駅舎は戦災も免れて高架化まで使用された。
・駅舎の位置は現駅舎東口(国道35号線側)の早岐方約50mほどのところ。現在は東口駅前広場となっている。
・1943年(昭和18年)8月30日:佐世保線の当駅 - 北佐世保駅間を松浦線に編入。これにより当駅は佐世保線と松浦線の駅となり、両線の終点となる。
・1985年(昭和60年)3月14日:貨物営業を廃止[1]。
・1987年(昭和62年)4月1日:国鉄分割民営化により、九州旅客鉄道(JR九州)の駅となる[1]。
・1988年(昭和63年)4月1日:JR九州松浦線が松浦鉄道西九州線に転換される[3]。これにより、当駅は国鉄・JRの駅としては52年ぶりに最西端に戻る。
・1990年(平成2年)11月2日:駅舎の内外装リニューアル[5]。
・1995年(平成7年)1月30日:高架化工事に着手[6]。
・2001年(平成13年)12月26日:高架化[7]。新駅舎完成[7]。
・2002年(平成14年)3月23日:当駅でのJRと松浦鉄道の直通運転が再開。
・2006年(平成18年)3月18日:当駅でのJRと松浦鉄道の直通運転を休止。
・2009年(平成21年)3月14日:当駅でのJRと松浦鉄道の直通運転が再開。
・2010年(平成22年)3月 - JR改札口に自動改札機を設置。
・2020年(令和2年)3月14日:当駅でのJRと松浦鉄道の直通運転を休止。
・2024年(令和6年)度:ICカード「SUGOCA」の利用が可能となる(予定)[8]。
※高架化前(旧駅時代)はJR九州では最後となる赤帽が配置されている駅であった。
JR・松浦鉄道の両社一体の高架駅であり、高架下は駅舎・コンコースとなっている。国道側は「東口」、佐世保港側は「みなと口」となっており、東口側から見て左がJR九州の駅、右が松浦鉄道の駅となっている。JR九州、松浦鉄道とも有人駅で自動券売機を備えている。
JR九州の窓口は高架下にありみどりの窓口を備えている[2]。なお松浦鉄道は当駅を含めて自動改札機は一切設置していないため、当駅は九州最西端の自動改札機設置駅となる。松浦鉄道の窓口は高架部(ホーム)にあり、窓口そばに自動券売機があるが、窓口の営業時間外には券売機は使用できない。なお松浦鉄道は終日車内精算で、乗車時には整理券を取り、降車時には運賃または切符と引き換えに精算証明書を運転士または車掌から受け取る。また松浦鉄道ではnimoca(SUGOCAなどの相互利用可能ICカードを含む)が利用可能であるが駅構内に対応機器はなく、車内のカードリーダーに触れることで精算を行う。
コンコース内にはKIOSKやファミリーマートをはじめとする売店、佐世保観光情報センターなどがある。東口側には佐世保バーガーの店である「ログキット」もある。
ホーム
JR九州は島式ホーム3面6線、松浦鉄道は島式ホーム1面2線を有しており、いずれも東口側からみなと口側に向かって1番のりばから6番のりば(JR九州)または2番のりば(松浦鉄道)まで付番されている。JR九州のホームは改札口から続く連絡通路を介してそれぞれ結ばれており、松浦鉄道のホームにはコンコースから直接階段またはエスカレーターによって行き来する。JR九州のホームにはそれぞれエスカレーターとエレベーターが備えられている。
なお、2020年8月8日よりJR5・6番のりばは使用休止となり(それまでは早朝の佐世保線普通列車3本と、18時台の普通列車5本及び「シーサイドライナー」1本が使用していた)、立ち入りできなくなっている[9]。
JR1・2番のりばホームと松浦鉄道のホームは一体となっており、境界部に松浦鉄道管理の連絡改札がある。JR2番のりばは佐世保線と西九州線の直通が可能であるため、直通列車はこのホームを使用する。ただし2020年3月14日以降はJR線と松浦鉄道線を直通する定期列車は設定されていない。
詳しいことは、「佐世保駅ウィキペディア」をご覧ください。 ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%90%E4%B8%96%E4%BF%9D%E9%A7%85
(wikiより)


8980 函館:函館麺屋 ゆうみん
8979 海童神社(長崎県南松浦郡新上五島町有川郷・有川港ターミナル)
〇 海童神社 (新上五島町)
| 所在地 | 長崎県南松浦郡新上五島町有川郷 |
|---|---|
| 位置 | 北緯32度59分12.2秒 東経129度06分51.2秒 |
| 主祭神 | 海童神 |
| 社格等 | 旧無格社 |
| 創建 | 不詳 |

⇧ 応護島頂上の祠

⇧ 鯨の顎骨の鳥居
海童神社(かいどうじんじゃ)は、長崎県新上五島町有川郷船津地区の応護島に鎮座する神社である。鯨の顎骨を使用した鳥居があることで有名。
祭神
海童神を主祭神に、蛭子神を配祀する。
配祀神の蛭子神は、合祀された船津地区・蛭子神社の祭神である。
歴史
創建年代は不詳。町や長崎県のほとんどの資料等に記載されている由緒によると、「元和3年(1617年)~同5年にかけて、有川村では毎年6月17日に限って海で遊泳する大人・子供に溺死人が相次いだ。時の乙名役の高井良福右衛門に海童神からの神託によって神子島に石祠を建立し、海童神を奉祀した」と記載されている。また、「翌(元和)6年6月17日には例祭を行い、二〇加踊り(にわかおどり)と呼ばれる即興の寸劇を奉納したところ、溺死者はなくなった」とされる。その後も二〇加(俄)の奉納は毎年行われ、現在では有川地区の年中行事である十七日祭りとなっている。
しかし近年では郷土史家による研究が進み、いくつかの矛盾点が指摘されている。江戸時代中期(18世紀)から明治初期(19世紀後葉)にかけて、村の漁業・農業・風俗等を記した『江口文書』や、慶応4年(1868年)に記された祖母君神社の縁起書によると、「慶長3年(1598年)の祖母君神社奉遷の際、それを守護する応護神として有川湾の中ノ島に龍神を祀り、これに因んで島の名前を応護島とした」と記述されている。また、当時は「乙名役」という役職もなく、「高井良福右衛門」という人物も宝暦5年(1755年)以降に記述があり、この時期には存在していないことが確認された。
文久4年(1864年)の資料では「宝暦2年(1752年)6月17日に、船乗り等の水難防止を祈願して通りもの(行列)を始めた」との記述がある。また、全国に伝承される俄の諸記録によると、いずれも江戸中期(18世紀中頃)の「通りもの(練りもの)」から始まり、大阪・京都・江戸での即興笑劇の流行の伝播を受け、江戸時代初頭(19世紀初)より「二〇加(俄)」の芸態が確立されたとされ、有川村が江戸時代最初期(17世紀初頭)から全国に先駆け「二〇加」を創始していたとは考えにくいため、江戸時代後期以降の創始ではないかとの指摘がされている。
明治中期に船津・蛭子神社を合祀。同41年(1908年)に祖母君神社に合祀されている。この時に拝殿や鳥居は破壊され石祠のみ祀られていたが、昭和2年(1927年)に鳥居を建立し、同48年(1973年)に鯨骨の鳥居が日東捕鯨株式会社より奉納されている。 平成16年(2004年)には有川港の整備事業によって埋め立てられ陸続きになった。
祭祀
主な祭礼・神事
・十七日祭(7月)
・魚供養祭(8月)
その他の神社
その他の有川郷の神社に有川神社がある。

有川神社
参考文献
・『有川町郷土誌 平成6年』有川町郷土誌編纂委員会
・『有川の歴史の虚実』荒木文朗著 平成16年刊
・『有川二〇加』荒木文朗著 平成19年刊
(wikiより)



































































































































































































