本牧jack『意外と身近にある歴史散歩』日々是好日 心灯 頬笑

本牧Jackで御座います
小生の拙ブログ『意外と身近にある歴史散歩』日々是好日 心灯 頬笑に御訪問頂き誠に有難う御座います。
歴史ドラマが流行っている昨今、身近に有って気が付かなかったりする様な物を取り上げたりしています。
たまに『 多人数で取材しているのか? 』との質問を戴きますが、小生と相方の二人三脚で御座います。
出来るだけ続けたいと思っていますが 膝・耳に問題が有って、いつまで出来るやら・・・説明も、やたら長いものから あっさりしたものまで有りますが、御付き合いの程 宜しく御願い致します。
御注意 . 少ないですが生前に建てられた『 生前墓 』の記事も有ります。 ※ 申し訳御座いませんが「画像の転用」は禁止とさせて頂きます。 コメントは原則公開させていただいております 質問等に対してはブログ記事で返信させていただきます 他の方法で連絡を取り合う等一切しません 場合によっては、「IPブロック」しますがブロックした場合解除する事は有りませんので宜しくお願いします。

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高野山より石童丸が分骨したものです。
(案内板より)

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石童丸が父の菩提を弔うため九重の塔を建立、弘化四年三月善光寺大地震の折崩れ現在は五重の塔となっております。
(案内板より)

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前近代に広く知られた伝説上の人物。

筑前 ( ちくぜん )( 福岡県  ) 苅萱 ( かるかや ) の庄 ( しょう ) 松浦 ( まつら ) の党総領、加藤左衛門繁氏 ( しげうじ ) の子。

13歳のときに、出家していた父の苅萱道心 ( どうしん ) を高野山 ( こうやさん ) に訪ねたが、父はわが子と知りながら名のらずに別れる。

のちに石童丸は母や姉と死別してから高野山に登り、苅萱の弟子となって道念坊と称したが、ついに親子の名のりはせず、父子ともに同時刻に往生を遂げ、信濃 ( しなの ) 善光寺の親子地蔵として祀 ( まつ ) られる。
 
この説話は、もとは説教 (  唱導 ) であり、それを広めたのは高野聖 ( こうやひじり ) であった。

『善光寺親子地蔵縁起』から謡曲『苅萱』を経て、説経浄瑠璃 ( じょうるり )『かるかや』が生まれ、そこから数種類の説経浄瑠璃が生じ、やがて並木宗輔 ( そうすけ )・丈輔 ( じょうすけ ) 作の浄瑠璃『苅萱桑門筑紫 ( かるかやどうしんつくしのいえづと )』( 1735・豊竹座初演 ) ができて、石童丸の名はあまねく知られるようになった。

また、1806年 ( 文化 3 ) には曲亭馬琴の読本 ( よみほん )『石堂丸苅萱物語』まで刊行され、歌舞伎 ( かぶき ) や新内節、琵琶唄 ( びわうた ) でも有名になった。

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六道の衆生を救う菩薩のお姿を浮彫りであらわした室町時代の作風であり素朴ながら柔和なお顔とやさしいお姿はまれにみるすぐれた作といわれている。
(案内板より)

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寛保三年 ( 1743年 ) 十月十二日

芭蕉翁の五十回忌を期して多くの俳諧師によって建立された翁の句碑としては信濃最古のもの

「雪ちるや 穂屋のすゝきの刈残し」
(案内板より)

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西光寺
刈萱山西光寺
所在地長野県長野市北石堂町1398
位置北緯36度38分49.1秒 東経138度11分15.1秒座標北緯36度38分49.1秒 東経138度11分15.1秒
山号苅萱山
院号寂照院
宗派浄土宗
本尊苅萱親子地蔵
創建年(伝)正治元年(1199年)
開基苅萱上人(苅萱道心)
正式名苅萱山寂照院西光寺
別称苅萱山、かるかや山
札所等善光寺七福神(第一番寿老人
文化財親子地蔵(市指定文化財)
百万塔(市指定文化財)

西光寺(さいこうじ)は、長野県長野市にある浄土宗仏教寺院山号は苅萱山。院号は寂照院。本尊は苅萱親子地蔵[1]絵解きの寺として知られる。

交差点の名前も「かるかや山」、バス停も「かるかや山前」となっており、かるかや山と通称されることが非常に多い。

歴史と「苅萱伝説」
謡曲説経節などで広まった「苅萱伝説」ゆかりの寺である。伝承によれば、苅萱道心寂照坊等阿とも)は元は九州6か国の国司で、俗名を加藤左衛門尉重氏といった。世の無常を感じた重氏は出家して高野山に赴き、仏道修行に励む。苅萱の出家後に生まれた子である石童丸と母は父を探して高野山に行き、女人禁制で母は麓に残る。

石童丸は父と思しき僧を見つけ、「父ではないか?」と尋ねるが、出家の身である苅萱は涙を堪えて「そなたの父は死んだ」と告げる。石童丸が下山すると母が亡くなっていた。石童丸はその後、高野山に上り、刈萱を実の父親と確信しつつも、34年間弟子として共に過ごした。

ある日、刈萱は善光寺阿弥陀如来のお告げを得て信濃国に移って、善光寺近くに草庵を営んだ。これが西光寺のはじまりである。それから14年、83歳で往生するまで、刈萱は日々善光寺に参籠して過ごしたという。

一人残された石童丸は、信濃の方角に紫雲のたなびくのを見て信濃の西光寺へ向かい、刈萱塚を建立した。そして父の死の2年後の同じ8月24日、そこで没した。西光寺に伝わる2体の地蔵菩薩像は「苅萱親子地蔵」と称され、苅萱道心と石童丸がそれぞれに刻んだものとされている。西光寺にはこの縁起を描いた『苅萱道心石童丸御親子御絵伝』が所蔵されており、聴衆に見せながら語り聞かせる絵解きを行っている[2]



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苅萱道心と石童丸の像

歴史
正治元年(1199年)、善光寺如来の導きにより、高野山を下った苅萱道心がこの地に草庵を結び、創建する。[3]

越後に流されていた親鸞聖人は、建暦元年(1211年)、放免されて関東に向かう途中、善光寺を訪れ、兄弟弟子であった苅萱道心の寺(西光寺)に50日間逗留した。親鸞は1日に一体、不二の名号を書き、また刈萱道心とともに霊峰戸隠山に登り、両界山で阿弥陀三尊の像を合作したという。[4]

建保2年(1214年)、父の往生を悟った石童丸は西光寺へ。父の遺志を継いでこの寺に住し、2年後入寂した。ここまでは伝承である。

永和2年(1376年)、学圓上人が荒廃していた寺内を整理、本堂を建て、西光寺を復興した。[5]

明和6年(1769年)、佐久郡の両岡部・清水の三氏が、永代供養料として七反七畝余の土地を寄進し、寺内での常念仏を復興した。[6]

延宝5年(1677年)~安永8年(1779年)、この100年ほどの間に10回ほど出開帳(自ら出向いて開帳すること)が行われた。「苅萱道心石童丸御親子御絵伝」を持参し、出開帳先の社寺などで絵解きを行った。[7]

宝永元年(1704年)小山田平太夫はこの西光寺を宿舎と定め、善光寺本堂復興の工事をスタート。宝永4年(1707年)に本堂は完成。その後、善光寺仮堂が西光寺に寄進され、本堂となった。[8]

明治4年(1871年)、「長野石炭油会社」を設立した石坂周造が、境内に日本で最初の石油精製所を置く。明治8年に道路を挟んだ南石堂町に移設するまでこの場所にあった。[9]

本堂が明治8年(1875年)に老朽化のため取り壊され、開山堂を本堂とする。その後、昭和13年(1938年)の建替えを経て今日に至る。[10]    

昭和40年代ころ、住職夫人が、かるかや親子「御絵伝」(江戸前期作)の説明を開始。その後、さらに江戸中期作の御絵伝が発見され、平成元年(1989年)に修復、開眼供養し、2幅を一貫した「御絵伝」として絵解きを行っている。[11]     

伽羅
・本堂 - 本尊が祀られ、絵解きが行われる。
・慈光門 - 1979年昭和54年)の建立。
・大師堂(園通殿) - 弘法大師を祀る。
・玉取稲荷神社 - 苅萱稲荷社とも呼ばれる境内鎮守
・芭蕉塚 - 「雪ちるや穂屋のすすきの刈残し」
 ・1743年寛保3年)のもので、長野県内最古の松尾芭蕉句碑
・一茶自筆の句碑 - 「花乃世ハ仏の身さへおや子かナ」
 ・小林一茶が西光寺を訪れた時、苅萱道心と石童丸を詠んだもの。1937年、一茶の筆跡で建立された。[12]
・苅萱塚
 ・苅萱上人、石童丸、そして千里御前(石童丸の母)の墓。
・石油会社社員の墓
 ・石坂周造によって興された、日本で最初の石油会社・長野石炭油会社の社員の墓。
・苅萱道心と石童丸像
・小山田平太夫の墓
善光寺七福神巡り 第一番 寿老人
 ・善光寺七福神の寿老人の像。
・信濃新四国八十八ヶ所 第七十六番札所の石碑
・六角石憧地蔵尊
・六地蔵尊
・徳住上人 六字名号石
 ・念仏行者・徳本上人の弟子、徳住の文字。県内でも数少ない。
・針塚
・大蛇、小蛇(おおにょう、こにょう)の塚(朝日山大蛇の塚)
 ・霊験あらたかなとして広く信仰される。
 ・こんないわれがある。天明6年(1786年)、西光寺の少し南に中兵衛という木こりが住んでいた。ある日、旭山で木を切っていると大蛇に出会い、それを殺してしまう。死骸を持ち帰り、家の近くで見世物にすると、大いに金をもうけられた。ところがその数日後、中兵衛は突然の病で亡くなり、その妻も、大勢いた子どもも次々亡くなってしまった。隣近所の人間まで病気になる有様である。
 ・これは大蛇のたたりに違いない。町の人々は西光寺に墓を建て、大蛇の霊を弔った。この墓には戒名が2つ刻まれているが、殺された蛇は夫婦だったので、その妻の小蛇の方も一緒に弔われている。
 ・また、この墓を動かすとたたりがあるとも言われている。大正13年に墓を動かして道路を拡張した際、それにかかわった3人が亡くなったということである。戦後はこれまで通りに面していた境内の西側に商店が立ち並んだが、大蛇の墓だけは移動できないので、そのまま寺の入り口に残っている。また、大蛇が見世物にされた場所を示す石も、付近の交差点に今も残っている。[13]

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本堂

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刈萱塚

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六地蔵尊

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大蛇、子蛇の塚
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大蛇を見世物にした場所を示す蛇石。動かせないので、現在も不自然な場所にある。

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大師堂(園通殿)

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針塚

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一茶の句碑

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玉取稲荷神社(刈萱稲荷社)

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寿老人

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徳住上人 六字名号石

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六角石憧地蔵尊

宝物
・木造苅萱親子地蔵尊像(来迎地蔵尊像)※長野市重要文化財指定
 ・西光寺の本尊。鎌倉時代中期の作。[14]
百萬塔(木造百万塔) ※長野市重要文化財指定
 ・明治41年(1908年)5月、法隆寺が譲与して同寺の基金としたもののひとつ。寛慶寺・大本願・往生寺も所有している。[15]
・苅萱道心石童丸御親子御絵伝(2幅)
 ・江戸前期と中期のもの。絵解きに使われる。
十王像
 ・本堂に安置。その教えを伝える口演を行っている。
・伝親鸞聖人筆 不二の名号
 ・親鸞が逗留中に1日1枚書いたとされるもの。
・子授け・安産の霊石
 ・苅萱道心は、父重昌が香椎宮に詣でて授かった霊石の霊験によって生まれたと言われる。それにちなんで本堂に祀られている。
・苅萱道心ご持仏 伽羅仏立像延命地蔵尊
 ・苅萱道心が守り本尊として、いつも身辺に置いて拝んでいたという、延命地蔵尊。天竺伝来と伝わる。
・かるかや山西光寺の韋駄天さま
 ・平安時代初期の公卿・小野篁の作とされる像。

詳しいことは、『西光寺 (長野市)ウィキペディア』をご覧ください。 ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E5%85%89%E5%AF%BA_(%E9%95%B7%E9%87%8E%E5%B8%82)
(wikiより)

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時代江戸時代後期
生誕文化7年(1810年)
死没嘉永3年12月21日(1851年1月22日)
別名国定忠次
国次[注釈 1]

国定 忠治(くにさだ ちゅうじ、忠次とも、文化7年(1810年) - 嘉永3年12月21日1851年1月22日))は、江戸時代後期の侠客である。「国定」は生地である上野国(上州)佐位郡国定村に由来し、本名:長岡忠次郎

後に博徒となって上州から信州一帯で活動し、「盗区」として一帯を実質支配する。天保の大飢饉で農民を救済した侠客として、講談浪曲映画新国劇大衆演劇などの演劇の題材となった。特に新国劇の『國定忠治』は劇団の財産ともなり、劇団解散まで繰り返し上演された。赤城天神山の場での台詞「赤城の山も今夜を限り」は歌舞伎の決め台詞ばりに普及した(後述)。

群馬県伊勢崎市国定町の金城山養寿寺と群馬県伊勢崎市曲輪町の善應寺がある。

現在まで残っている彼の肖像画は、足利の画家である田崎草雲の手によるもの。茶店で一度すれ違っただけだが、そのときの印象を絵に残したとされる。

生涯
上野国佐位郡国定村(旧、佐波郡東村国定地区、現在の群馬県伊勢崎市国定町)の豪農の家に生まれる。国定村は赤城山南麓の村で、生業は米麦栽培のほか農間余業として養蚕も行われており、長岡家でも養蚕を行っている。長岡家の菩提寺である養寿寺の墓碑によれば父は、国定村の百姓与五左衛門、母は弘化2年(1845年)5月14日に死去している。

父与五左衛門が文政2年(1819年)5月20日に死去したため、忠治は青年期に無宿となり、家督は弟の友蔵が継ぐこととなった。弟の友蔵( - 明治11年(1878年))は養蚕のほか糸繭商を興し、無宿となった忠治を庇護している。忠治や友蔵は長岡家の菩提寺である養寿寺で寺子屋を開く住職貞然に学んでいると考えられており、養寿寺には友蔵の忠治宛金借用証文も残されている。

忠治は上州勢多郡大前田村(群馬県前橋市)の博徒大前田英五郎の縄張りを受け継いで百々村(どうどうむら)の親分となり、日光例幣使街道、間宿の境町を拠点とする博徒で英五郎と敵対する島村伊三郎と対峙する。忠治は伊三郎の縄張りを荒らし捕らえられたが、伊三郎から助命された。しかし忠治は伊三郎に怨恨を抱き、子分の三木文蔵が伊三郎の一派と諍いをおこしたのをきっかけとして、天保5年(1834年)、忠治は伊三郎を殺しその縄張りを奪うと、一時関東取締出役の管轄外であった信州へ退去し、上州へ戻ると一家を形成した[注釈 2]

その後は日光例幣使街道の玉村宿を本拠とする玉村京蔵・主馬兄弟と対立し、天保6年(1835年)には玉村兄弟が山王堂村の民五郎(山王民五郎)の賭場を荒らしたことを発端に対立が激化、山王民五郎に子分二人を差し向けて玉村兄弟を襲撃し駆逐する。また、忠治はこのころ発生した天保の大飢饉に際して家財を売り払って国定村の住民に施しをしたと伝わるが[3]、この話は群馬県高崎市生れの在野の歴史家・田村栄太郎により否定されている[4]。ただ、羽倉簡堂関東代官として支配所村々を巡視した天保8年(1837年)当時の日記「済菑録」にも「山中ニ賊有リ、忠二ト曰フ、党ヲ結ブコト数十、客冬来、屡孤貧ヲ賑ス」[5]とあり(類似の記載は忠治の死後に記された「赤城録」にも認められる)、その実態は別として忠治が貧民救済に奔走していたこと自体は否定できない。その後、天保9年(1838年)には世良田の賭場が関東取締出役の捕手により襲撃され三木文蔵が捕縛され、忠治は文蔵奪還を試みるが失敗し、関東取締出役の追求が厳しくなったため逃亡する。忠治は文蔵に加え子分の神崎友五郎や八寸才助らも処刑され一家は打撃を受けた。天保10年(1839年)には幕府は関東取締出役の不正を摘発し人員を一新して体制の強化も図った(この際、新たに任命された一人が羽倉簡堂が代官時代の手代である中山誠一郎)。

天保12年(1841年)には忠治の会津逃亡中に玉村主馬が山王民五郎を殺害して反撃にでると、翌年正月に忠治は帰還し主馬を殺害した[注釈 3]。さらに同年8月には関東取締出役の道案内(目明し)を務める三室勘助・太良吉親子を殺害し[注釈 4]、勘助殺しにより中山誠一郎ら関東取締出役は警戒を強化し忠治一家の一斉手配を行う。また、天保13年には老中・水野忠邦が将軍徳川家慶による日光参詣を67年ぶりに企図し、同年4月13日から4月21日にかけて実施された[9]。これに伴い博徒・無宿の取り締まりを強化した[10]。忠治は信州街道の大戸(後の群馬県吾妻郡東吾妻町)の関所を破り会津へ逃れるが、日光円蔵や浅次郎らの子分を失っている。

その後、忠治は弘化3年(1846年)に上州に帰還するがこのころには中風を患い、嘉永2年(1848年)には跡目を子分の境川安五郎に譲る。忠治は上州に滞在し盗区において匿われていたが、翌嘉永3年8月24日1850年9月29日)には田部井村名主家において関東取締出役によって捕縛され、一家の主要な子分も同じく捕縛された。捕縛後は江戸の勘定奉行池田頼方の役宅に移送され取調べを受け、小伝馬町の牢屋敷に入牢。博奕・殺人・殺人教唆等罪名は種々あったが、最も重罪である大戸関所関所破りにより時の勘定奉行・道中奉行池田頼方の申し渡しによって上野国吾妻郡大戸村大戸関所(群馬県吾妻郡東吾妻町大戸)に移送され、大戸処刑場で磔の刑に処せられる。享年41。

忠治の遺体は三日間晒された後に取り捨てられた[11]。首を含めた遺体は何者かに盗まれ、国定村の養寿寺住職・法印貞然の「一札」によれば、貞然は忠治の首を密かに寺に貰い受け、供養したという[11]。その後、関東取締出役が探索を強化し、貞然は忠治の首を再び掘り起こすと別の場所に秘匿したという[12]。貞然の「一札」によれば、戒名は「長岡院法誉花楽居士」[12]

忠治の十三回忌にあたる文久元年(1861年)には貞然が死去し、同年9月には大戸村の土屋重五郎・本宿村もしくは大柏木村の霞藤左衛門を世話人として、大戸刑場跡に忠治地蔵が造立された[13]。また、群馬県伊勢崎市曲輪町に所在する善應寺には忠治の妾・菊池徳が造立した「情深墳」があり、忠治の戒名を「遊道花楽居士」としている[14]

明治15年(1882年)には長岡家の嗣子である権太により忠治夫妻の墓誌が建立され、碑銘は元伊勢崎藩の儒者・新井雀里が手がけている[15]

関連史跡・名所
群馬県
・養寿寺・長岡忠治之墓(伊勢崎市)
・善應寺・情深墳(伊勢崎市)
・称念寺・家鴨塚(玉村町)
・忠治とまどいの松(東吾妻町)
・忠治地蔵(東吾妻町)
・大戸関所(東吾妻町)
赤城温泉郷・忠治温泉(前橋市)

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忠治とまどいの松

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忠治地蔵

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家鴨塚

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大戸関所

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忠治温泉

長野県
・須坂市上町の寿泉院にある「地蔵堂」[16]
・長野市権堂町秋葉神社境内にある「国定忠治の墓碑」[16]
・志賀高原硯川ホテル前の前山リフト乗り場付近にある「忠治の隠れ岩」[16]
・野沢温泉村に再建された「忠治地蔵」[16]
・中野市松崎の八ケ郷用水取入口付近の国定忠治が渡ったと言い伝えられている石橋[16]
・「草津道(忠治)の石橋」。保存会により石橋の案内石碑の設置と草津道の復元が行われた。

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草津道(忠治)の石橋

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国定忠治の墓碑

逸話

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国定忠治のたばこ入れ
愛煙家であった忠治は、そろばんが付いた革製のたばこ入れを愛用していた。こうしたそろばん付きのたばこ入れは、往時の博徒らがよく使っていたという[17]
・関東取締出役から下仁田の名主に回された人相書に忠治の容貌に関する以下の記録がある。「中丈、殊之外ふとり、顔丸ク鼻筋通り色白き方、髪大たぶさ、眉毛こく、其外常躰角力取体ニ相見候。」[18]
の腕前に自信があった忠治は当時日本一と評判の北辰一刀流道場破りとして乗り込み、真剣勝負で千葉周作と立ち合おうとするも忠治の構えから千葉は勝負の成り行きを見抜き早々にその場を立ち去る、荒立った忠治だったが門下生一同より諭されたことで命拾いしたと悟り道場を後にする。
・逸話の多い人物であるが、遠州を西へ旅していた時に掛川の博徒で堂山の龍蔵というウルサ型の親分の世話にならず旅籠に泊まったことがあった。面子を潰したと龍蔵は激怒、命を取ろうと追いかけて前に立ちはだかったが、相手が龍蔵と確かめた忠治は顔色一つ変えずに「忠治の伊勢参りだ。共をするか」と台詞を残し去った。呆気にとられた龍蔵だがずっと後までこの忠治の度胸の良さと男振りを「忠治というのは偉い奴だ、偉い奴だと聞いてはいたが本当に偉い奴だった」と褒め称えたという。この逸話は山雨楼主人こと村本喜代作の『遠州侠客伝』に拠る。
・信州に逃げている忠治が地元の親分の家にワラジを脱いだ際、親分の女房が「このごろ旅人が多くて遣り繰りが大変だ」と愚痴をこぼした。これを聞いた忠治は「俺は十五の時から貰い飯で育った。米の値段は分からねえ。それに生まれつき遠慮は知らねえ」と塩鮭一匹を丸々焼かせて、大きな黒椀で十数杯の飯をムリヤリに詰め込んで女房をドギマギさせたという話が残っている(出典は増田知哉の「清水次郎長とその周辺」1974)。
・喧嘩にはめっぽう強く「国定忠治は鬼より怖い、にっこり笑って人を切る」と謳われた。
・なお忠治と島村の伊三郎、勘助の子孫らは「忠治だんべ会」[19]の仲裁により平成19年(2007年6月2日の手打ち式で170年越しに和解した[20]

国定忠治を主題とする作品
芝居
上述の通り新国劇、大衆演劇の定番である。新国劇では1919年(大正8年)の大阪弁天座『國定忠治』(脚本・行友李風)が初演[21]。初演時の配役は以下の通り[22]

國定忠治 -
 澤田正二郎    
板割の浅太郎 - 田中介二
清水巌鉄 - 金井謹之助
高山定八 - 小川隆      
日光円蔵 - 倉橋仙太郎
川田屋惣兵衛 - 中田正造

今日、伝わっている台本(『行友李風戯曲集』所収「極付 國定忠治」)では五幕七場で構成されているが、大井広介によれば『國定忠治』は通しで上演されることは珍しく、陰惨な後半は割愛され、二幕目「赤城天神山不動の森」から三幕目第三場「半郷の松並木」まで、あるいは「赤城天神山不動の森」だけということも多かったという[23][注釈 5]。その「赤城天神山不動の森」での忠治の台詞「赤城の山も今夜を限り、生れ故郷の國定の村や、縄張りを捨て国を捨て、可愛い子分の手めえ達とも、別れ別れになる首途(かどで)だ」や「加賀の国の住人小松五郎義兼が鍛えた業物、万年溜の雪水に浄めて、俺にゃあ、生涯手めえという強い味方があったのだ」は歌舞伎の決め台詞ばりに普及して国定忠治のイメージを決定的にした。

大衆演劇では、2011年5月に、西条晃(現・曾我廼家晃)が、国定忠治の処刑場の場までの長編の芝居を上演した。また演歌歌手の公演でも演じられる。たとえば北島三郎の特別公演では、この話を劇に使ったことがある。詳しいことは、『国定忠治ウィキペディア』をご覧ください。 ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E5%AE%9A%E5%BF%A0%E6%B2%BB
(wikiより)

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⇧ 国定忠治

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長野松竹相生座
長野ロキシー1・2
Nagano Shochiku Aioiza
Nagano Roxy 1, 2


通称相生座/ロキシー
正式名称長野松竹相生座・長野ロキシー
旧名称千歳座
完成1892年
開館1919年4月
収容人員516人
客席数当該項目参照
設備DSDDSRD
用途映画上映
旧用途芝居上演
運営長野映画興行株式会社
所在地380-0833
長野県長野市権堂町2255
位置北緯36度39分12秒 東経138度11分22.9秒

長野松竹相生座・長野ロキシー(ながのしょうちくあいおいざ・ながの-)とは、長野県長野市権堂町にある映画館

古くからの繁華街に位置する、国内最古級の映画館である。

概要
1892年明治25年)に開場した芝居小屋「千歳座」が前身で、建物は増改築が重ねられているものの明治時代当時のものが今も使われている。当初は歌舞伎などが上演されていたが、日本で最初に活動写真が上映された1897年(明治30年)には県内で初めて活動写真の上映が行われた。

映画の時代の到来とともに、1919年大正8年)に長野演芸館(現 長野映画興行)に買収されて「相生座」と名を改めた。相生座の名は、劇場が面する相生町通り(1913年大正2年)開通=現 権堂アーケード通り)に由来する。1972年昭和47年)には松竹と劇場賃貸契約を交わし、翌年スクリーンを増やし「長野ロキシー」との2館体制として、松竹配給の洋画も上映するようになる。現在では長野映画興行の直営館であり、新作映画のほか、隔月で観客へのアンケートによる「名画特集」が催されている。

建物は既に築120年以上経ち、建築年が明確にわかっている中で日本一古い映画館である高田世界館新潟県上越市1911年(明治44年)開館よりも更に古い。

沿革
1892年明治25年)12月11日 - 芝居小屋 千歳座が開場。
1897年(明治30年)7月8日 - 千歳座で県下で初めて活動写真が上映される。
1917年大正6年)12月25日 - 株式会社長野演芸館、設立。東之門町で映画館「長野演芸館」(1914年(大正3年)開館・1948年(昭和23年)閉館)を営業していた。
1919年(大正8年)4月 - 長野演芸館が千歳座を買収し、相生座と改称。
1947年昭和22年)1月 - 運営会社、長野演芸興行株式会社と改称。
1953年(昭和28年)1月 - 運営会社、長野映画興行株式会社と改称。
1972年(昭和47年)10月 - 松竹株式会社と劇場賃貸契約。
1973年(昭和48年) - 館内改修。スクリーンを増設し長野松竹相生座長野ロキシーの2館体制となる。
1984年(昭和59年)4月 - さらにミニシアターを増設し、長野ロキシーが長野ロキシー1・2となる。
2006年平成18年)3月 - 松竹との配給契約を終了し、長野映画興行の直営館となる。
2017年(平成29年) - 長野演芸館設立から100周年を迎える。
 ・8月 - 民教協番組『日本のチカラ』で「商店街のニューシネマパラダイス」として当館が取り上げられる[1]

スクリーン
3スクリーンがあり、総座席数は516席。

無題

アクセス
長野電鉄長野線権堂駅」から徒歩3分
 ・土休日等は長野電鉄の割引きっぷ「ながでんシネマきっぷ」[2] が利用できる。
長野駅善光寺口からアルピコ交通川中島バス 1017系統 または ぐるりん号に乗車、「権堂入口」下車徒歩3分

脚注
1. 
中嶋言実 (6 August 2017). "商店街のニューシネマパラダイス"日本のチカラ. Episode 98. 民間放送教育協会テレビ朝日. 2017年9月18日閲覧 加盟局の信越放送は同年8月20日に放送。
2. 
ながでんシネマきっぷ (PDF) - 長野電鉄。権堂駅までの往復乗車券(特急料金含む)と映画1上映がセットで1,860円となる(平成26年4月現在)。

関連項目
長野市内の映画館
営業中
 ・長野グランドシネマズ権堂町
 ・長野千石劇場南石堂町
・閉館(2000年以降)
 ・長野東宝グランド劇場(権堂町) - 1966年2006年
 ・長野東宝中劇(権堂町) - 1948年2007年
 ・長野東映(権堂町) - 1958年2006年
 ・シネマポイント(権堂町) - 1998年2020年
 ・ニュー商工西鶴賀町) - ※成人映画館、1927年2012年
 
ギャラリー・コム川合新田

参考文献
・小林竜太郎「未来に伝えたい『日本一古い映画館』相生座の価値」(長野郷土史研究会『長野』297号 2014年10月発行)
・『街並み』43号映画館(ナノグラフィカ、2014年6月発行)

外部リンク
長野松竹相生座・長野ロキシー     
長野松竹相生座・長野ロキシー - 「港町キネマ通り」(2009年10月取材の記事)
長野松竹相生座・長野ロキシー (@aioiza_roxy) - X(旧Twitter)     
長野松竹相生座・長野ロキシー (@naganoaioiza_roxy) - Instagram     
(wikiより)


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明治初年元長岡藩士

岡本翠山翁 ( 1824生 ~ 1891没 ) 

北信濃にて宝生流謡曲の先達として名あり

句作画法さらに小笠原流礼式等文武万端に通じ 門弟一千数百人を擁す

没後七回忌 明治三十年 ( 1897 ) ここ善光寺境内に門弟有志により この碑を建立した

平成二十六年秋の長野県北部地震により倒壊す

翠山翁の流れ汲む翠雲会・長野宝生会々員等により平成二十七年三月修復した

平成二十七年 ( 2015 ) 盛夏

           有志一同
(案内板より)

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36b



所在地長野県長野市元善町491
位置北緯36度39分42.12秒 東経138度11分15.76秒座標北緯36度39分42.12秒 東経138度11分15.76秒
山号定額山
宗派無宗派[1]
本尊一光三尊阿弥陀如来(絶対秘仏
創建年(伝)皇極天皇3年(644年
開基(伝)皇極天皇(勅願
別称信州善光寺、信濃善光寺
札所等西国三十三所(番外)
坂東三十三観音(番外)
秩父札所三十四観音霊場(番外)
信濃三十三観音(客番)
西山国師遺跡霊場(客番)
真盛上人二十五霊場(番外)
文化財本堂(国宝
三門、銅造阿弥陀如来及び両脇侍立像ほか(重要文化財
公式サイト信州善光寺ホームページ

善光寺(ぜんこうじ)は、長野県長野市元善町にある無宗派の単立仏教寺院住職は「大勧進貫主」と「大本願上人」の両名が務める。本尊日本最古と伝わる一光三尊阿弥陀如来(善光寺如来)で、絶対秘仏である[2]開帳は前立本尊で行う[3])。

本尊の善光寺如来は由緒ある像として権威の象徴とも見なされ、戦国時代には大名がこぞって自領(本拠地)に善光寺如来を遷座させ、各地を転々とした。

昔から多くの人々が日本中から善光寺を目指して参詣し、「一生に一度は参れ善光寺」と言われた。

概要
山号は「定額山」(じょうがくさん)で、山内にある天台宗の「大勧進」と25院、浄土宗の「大本願」と14坊によって護持・運営されている。「大勧進」の住職は「貫主」(かんす)と呼ばれ、天台宗の名刹から推挙された僧侶が務めている。「大本願」は、大寺院としては珍しい尼寺である。住職は「善光寺上人」(しょうにん)と呼ばれ、門跡寺院ではないが代々公家出身者から住職を迎えている(浄土宗では大本山善光寺大本願の法主)。令和5年(2023年)時点の「善光寺貫主」(「大勧進貫主」)は前大勧進副住職の第104世栢木寛照[4]、「善光寺上人」(「大本願上人」)は鷹司家出身の第121世鷹司誓玉である。

古えより、「四門四額」(しもんしがく)と称して、東門を「定額山善光寺」、南門を「南命山無量寿寺」(なんみょうさんむりょうじゅじ)、北門を「北空山雲上寺」(ほくくうさんうんじょうじ)、西門を「不捨山浄土寺」(ふしゃさんじょうどじ)と称する。

特徴として、日本において仏教が諸宗派に分かれる以前からの寺院であることから、宗派の別なく宿願が可能な霊場と位置づけられている。また女人禁制があった旧来の仏教の中では稀な女性の救済[注 1]が挙げられる。そのため、江戸時代には女性の参詣者が非常に多いという特異な現象があった(昔、女性の旅行者はまれだった)。また、善光寺参詣で得られるのは現世利益ではなく、死後の極楽往生だった。身分も男女も善悪も問わず、どんな人でも必ず極楽往生できる、という善光寺の特色が、全国から人々をひきつけたと言える[5]

三国渡来の絶対秘仏の霊像と伝承される丈一尺五寸の本尊一光三尊阿弥陀如来像が本堂「瑠璃壇」厨子内に安置されている[6]。その姿は寺の住職ですら目にすることはできないとされ、「お朝事」と呼ばれる朝の勤行や正午に行なわれる法要などの限られた時間に金色に彩られた瑠璃壇の戸張が十数秒ほど上がり、瑠璃壇と厨子までを拝することが通例とされる。

数えで七年に一度の御開帳には、金銅阿弥陀如来及両脇侍立像(前立本尊)が絶対秘仏の本尊の分身として公開される。また、日本百観音西国三十三所坂東三十三観音秩父三十四観音)の番外札所となっており、秩父三十四観音の三十四番水潜寺で百観音結願となった後には「結願御礼として長野の善光寺を詣でる」といわれている。

歴史
善光寺の創建と発展
詳細は「善光寺縁起」を参照

善光寺は伊勢神宮熱田神宮とともに、中日本では古くからの歴史がある神社仏閣である。

善光寺の本尊「一光三尊阿弥陀如来」は、天竺の月蓋長者が鋳写したものとされ、百済経由で聖王(聖明王)から日本に献呈された最古の仏とされる。この仏像は廃仏派の物部氏によって難波の堀江に捨てられるが、本田善光(若麻續東人とも言う)に拾われ(一説に和光寺)、信濃元善光寺へ、次いで現在地に遷座したと伝えられる。ここまでは伝説であり、実際の創建の経緯は不明である。

有力なのは、善光寺は天武天皇時に日本全国で造られた郡寺(郡衙隣接寺院、信濃国水内郡金刺舎人)のひとつで、金刺氏が創建に関わったという説である[8]。『伊呂波字類抄』引用の善光寺古縁起に、「皇極元年(642年)若麻績東人、水内郡の宅を改めて草堂となす」とあるように、善光寺は元々「草堂」であったとされる。しかし、後に瓦葺きとなった。

善光寺に用いられていたのは「川原寺式瓦」というものであるが、この瓦は地方豪族のいた地域(品部名代などの王権や中央豪族部民が存在しない地域)のみに存在していることから、善光寺は地元の豪族(金刺氏)の影響を強く受けていると考えられる[9]。善光寺のものと確証が得られている訳ではないが、境内の遺跡から出土した古代寺院の古瓦は9世紀の物と鑑定されている[10]。これらのことから、遅くても平安時代初期頃までには瓦葺きの建物を持つ寺が現在地にあったのは確かなことであり、おそらくは金刺氏かその一族若麻績氏が建立したのであろう。[11]善光寺が草堂から瓦葺の寺院となったのは、壬申の乱の影響であり、多品治が同族である金刺氏他田氏を率いて功績を残したことがきっかけであるとされる[9]

善光寺の名は開祖の本田善光の名を取ったといわれる。しかし、古い善光寺縁起には本田善光という名が出てこない。本田善光の存在自体が創造であるとするなら、善光寺はなぜ善光寺と名付けられたのか。有力な説は百済王善光からというものである。奈良時代には百済王善光は百済系渡来人の祖として崇められるようになったという。善光寺を建てたと考えられる金刺氏の一族は、百済に渡航して活躍し、百済滅亡後は日本へ帰ってきて官吏として仕えた者もある。そこで百済王善光から名を取って善光寺としたのではないかと思われる。[12]

「善光寺」の名が初めて登場する文献は、十世紀中ごろに成立したとされる『僧妙達蘇生注記』であり、「善光寺縁起」に関する一番古い記録があるのは『扶桑略記』(1107年以前成立)。また歴史上、善光寺に参詣したことが確認できる最古の人物は、摂政・関白藤原忠通の息子・藤原覚忠(1118~1177)である。[13]ただし、善光寺が平安時代頃までほとんど無名だったのは、『今昔物語』に信濃の寺がいくつも出てくるのに、善光寺の名がひとつも出てこないことからもうかがえる。[14]

当時の信濃国という辺境の地なのにも関わらず、仏教が受け入れられたのは、善光寺平に渡来人が多く住んでいたために仏教に対する知識を有する人間がいたり、実際に仏教を信仰する人がいたりしたからであると考えられる[9]

善光寺縁起は、『扶桑略記』で記されているのを始めに、時代を経るごとに追記や改変がされていった[15]院政期に書かれたとされる『伊呂波字類抄』にその引用があり、その記述には日本の仏教公伝の旧説とされる552年から丁度50年後の602年推古天皇10年)に若麻績東人(本田善光)が仏像を入手して信濃に持ち帰り、更に166年を経た768年神護景雲2年)に至ったことが記されている。『伊呂波字類抄』が参照した原典は、768年に書かれた善光寺の「古縁起」であったと見られている。田島公は推古天皇の時代、信濃国の大部分はヤマト王権(大和朝廷)の支配下にあって他の東国諸国とともに貢納を行っていたと推定されること(「東国の調」)、768年前後には称徳天皇道鏡の下で仏教振興政策が取られており、既存寺院の把握も行われていたことから、本田善光の説話は全くの創作ではなく、768年に作成された善光寺の「古縁起」のモデルとなった伝承が存在したと唱えている[16]

頼朝の善光寺参詣と北条家の信仰

治承・寿永の乱(源平合戦)が本格化する直前の治承3年(1179年)3月24日、善光寺には大火災が発生している(『吾妻鏡文治3年7月27日条)。記録に残る最初の火災である。この火災は『平家物語』(巻第二)でも取り上げられており、当時の緊迫した情勢に関わる(園城寺系の善光寺と延暦寺系の顕光寺の対立や、親平氏政権派と反平氏政権派の対立など)「事件」とも言われている。善光寺縁起によれば、原因は落雷である。[17]     

その後、信濃国が関東御分国になったのをきっかけとして、文治3年(1187年)に源頼朝が信濃国守護目代を務める比企能員を通じて同国の御家人に対し善光寺の再建を命じ(『吾妻鏡』同年7月28日条)、建久8年(1197年)には頼朝自らが善光寺に参詣した。頼朝参詣のことは、当該年の記述を欠いた『吾妻鏡』には載せられていないものの、九州の御家人であった相良四郎も随兵として従ったことが相良氏に伝わる善光寺参拝の随兵交名から知ることができる(『大日本古文書』相良家文書1-1号)。

頼朝が長く暮らしていた関東では善光寺信仰が盛んで、頼朝も北条政子も早くから善光寺信仰を抱いていたらしい。頼朝が善光寺復興に非常に熱心だったのはその信仰心のあらわれでもあるが、またそれによって人心を掌握しようとしたためである。この時代にはすでに広く善光寺信仰が行き渡っていたことがわかる。[18]        

その後も鎌倉幕府及び執権北条氏による再建・造営事業は継続され、特に熱心であったのは北条氏庶流の名越氏一族であった。名越朝時(北条朝時)は善光寺の再建事業を支援しただけでなく、自らも鎌倉新善光寺(現在は葉山に移転)を創建して、その遺言に従って寛元4年(1246年)3月14日に名越氏一族主催による落慶供養が実施された。同年に発生した宮騒動の影響で名越氏一族は没落するが、続いて同じ北条氏庶流の金沢氏が善光寺・新善光寺の保護に努めた。

善光寺の再建事業は北条氏以外の御家人の間にも善光寺への関心を高め、念仏禅宗と同様に武士の間に善光寺信仰が受け入れられるきっかけとなっていった[19]。この時代、善光寺信仰が全国に爆発的に広まった。鎌倉時代以降、信仰者が「夢で見た」とされる善光寺本尊を模した像(善光寺式阿弥陀三尊)が多く作られ、日本の各地に「善光寺」や「新善光寺」を名乗る寺も建てられた。

さらに、普及に寄与したのは善光寺聖と呼ばれる勧進聖たちによってである。彼らは各地に出向き、背負ってきた厨子の扉を開いて善光寺如来の分身仏の開帳をし、さらには善光寺縁起絵伝を広げて絵解きをすることによって、善光寺信仰を広めた。[20]これは江戸時代に始まる「出開帳」の基礎となった(後述#御開帳参照)。善光寺は鎌倉時代に二度、室町時代には四度火災にあい、そのたびに再建された。これらの再建は年月を要したので、勧進聖の活動は恒久的なものになった。[21]        

後深草院二条の『とはずがたり』には半年余にわたり、善光寺付近の有力者であった和田氏の館(長野運動公園のあたりと考えられている)に滞在して参詣した旨の記述がある。文永2年(1265年)にはそれまで在地の有力者に任されていた善光寺警固のための奉行人制度が廃止されて和田石見入道仏阿、窪寺左衛門入道光阿、原宮内左衛門入道西蓮、諏訪部四郎左衛門入道定心の4氏が解任され鎌倉幕府が直接統制に乗り出した[22]。またこの時代には現在につながる門前町が形成された。

鎌倉幕府の崩壊後は建武政権側と反対勢力に地元豪族達が分かれて争った。中先代の乱観応の擾乱といった南北朝戦乱に続いて、室町時代大塔合戦では地元豪族が結束して守護を追い出し、漆田原の戦いでは守護家が後継を争うなど、内続く戦乱に善光寺も巻き込まれる。

戦国大名による善光寺如来の争奪
戦国時代の、善光寺平は信濃侵攻を行う甲斐国の武田晴信(信玄)と北信国衆を庇護する越後国の上杉謙信の争いの舞台となり(川中島の戦い)、寺は兵火を被り荒廃した。この後、善光寺如来は寺地を地方に流転することになるが、行く先については諸説ある。通説では、上杉氏による戦災からの保護を口実として、武田信玄により善光寺は善光寺別当の栗田氏と共に、寺ごと武田氏居館のある甲斐国甲府へ移され、この時に建てられたのが今日の山梨県甲府市にある甲斐善光寺であるとする。別の説では、善光寺を保護したのは上杉謙信であり、本尊や仏具は高梨氏によって越後国の十念寺(浜善光寺)に移された後、上杉景勝の米沢藩への国替えによって現在は法音寺 (米沢市)と熊野神社 (南陽市)にあるとされる。

善光寺如来は由緒ある像として権威の象徴とも見なされ、上記を契機として、甲斐国・信濃国を占領下(影響下)に置いた戦国大名はこぞって自領(本拠地)に善光寺如来を遷座させるようになった。善光寺如来は武田氏が織田信長に滅ぼされると(甲州征伐)、その嫡男・織田信忠によって岐阜(善光寺 (岐阜市))へ、本能寺の変の後には織田信雄により尾張国甚目寺へ、譲り受けた徳川家康の手で遠江国鴨江寺、後に甲斐善光寺へと転々とした。自領内の寺院に善光寺如来を遷座させた武田氏や織田氏は没落したこと、とりわけ織田氏が善光寺如来を岐阜へ遷座させた直後に本能寺の変が発生し、信長・信忠父子が自刃に追い込まれたことから、善光寺如来を私利で外部へ持ち出すと祟られるとする噂がまことしやかに囁かれるようになり、徳川家康が甲斐善光寺に善光寺如来を返還したのは、祟りを恐れたためとも言われる(この頃家康は背中の腫れ物で苦しみ、一時重篤になったという)。

ただし『家忠日記』には美濃から甲斐へ直接移すとする記述があり、家康が遠江鴨江寺に遷座させたとする通説に、疑問が呈されている。『甲斐善光寺建立記』にも古縁起にある上記の経緯を紹介しつつも、他の記録や言い伝えの裏付けが取れないとして、採用は難しいとある。

1597年(慶長2年)には、豊臣秀吉の命令により、甲斐から京都の方広寺大仏殿へと移された[25]。これは文禄5年閏7月13日(1596年9月5日)に起きた慶長伏見地震により損壊した方広寺大仏(京の大仏)に代わる、新たな本尊を方広寺に迎えたいとの秀吉の意向によるものである(地震で大仏は損壊したが、大仏殿は損壊を免れた)[25]。秀吉はまず損壊した大仏の解体を命じた。『義演准后日記』慶長2年(1597年)5月23日条には「今日大仏へ太閤御所御成、本尊御覧、早々くすしかへの由仰云々 (秀吉公が大仏を御覧になり、早く取り壊せなどと命じた)」とする記述があるほか、宣教師ぺドウロ・ゴーメスの書簡には「自身の身すら守れぬ大仏が人びとを救えるはずもないとして、大仏を粉々になるまで砕いてしまえと命じた」と記録される[26]。大仏を取り壊したのち、平内吉政に命じてその台座上に宝塔(厨子のようなものか?)を造らせ、そこに善光寺如来が安置された[27]。また無傷であった大仏の光背はそのまま残されていた[27]。これ以後方広寺大仏殿は「善光寺如来堂」と呼ばれることになり(『鹿苑日録』『義演准后日記』)、如来を一目拝もうとする人々が押し寄せるようになった。ただ巨大な大仏殿に小ぶりな善光寺如来は不釣り合いであり、その異様さを嘲笑する声もあったという[28]。相国寺の僧西笑承兌は自身の日記の中で、方広寺の本尊が巨大な大仏から小振りな善光寺如来に替わったことは、天下人が織田信長から豊臣秀吉に替わったことの如くだと評した[25](秀吉は小人物に過ぎないとする皮肉とも言われる)。

善光寺如来の遷座の翌年の1598年(慶長3年)に、秀吉は病を患い、床に臥せるようになった。これは善光寺如来の祟りであるという噂が民衆の間で流布したため、秀吉の死の前日に信濃へ帰されることが決まり、長年の流転の末、ようやく善光寺如来は信濃へ戻った[25](善光寺公式HPでは、秀吉の死の間際、善光寺如来が夢枕に立ち信濃へ戻りたいと告げたためとしている)。しかし秀吉はその甲斐なく死去してしまった。同時代人には「秀吉公は、善光寺如来を方広寺大仏殿へ遷座したことによる祟りで落命された」と認識されていた[29][30]。

武田信玄による善光寺如来の遷座から、秀吉によって信濃善光寺に返還されるまでの数十年間に渡り、善光寺如来は各地を流転したが、大本願の鏡空(智淨)や智誓(誓観)、智慶という三代の尼上人らが善光寺如来に付き従って移動したとされ、大勧進の僧集団は残って本尊不在の荒れ果てた寺地を守っていたとされる。秀吉が善光寺如来を無理矢理方広寺に移座させたことについて、宗教を軽視した彼の傲慢とされることもあるが、秀吉が甲斐国から善光寺如来を持ち出さなければ、今日まで如来は甲斐国に留め置かれていた可能性もあったので、如来が信濃国に返還されたのは、(本来の思惑は別として)結果的には秀吉の功績とも言える。なお秀吉が持ち出し、返還したのは善光寺如来のみで、寺宝(最古とされる源頼朝の木像など)は甲斐善光寺に留め置かれた。豊臣秀頼の代には彼の寄進で信濃善光寺の伽藍の復興がなされたが、寛永19年(1642年)に火災があり烏有に帰した。先述の通り現存の本堂は宝永4年(1707年)に再建されたものである[31]。

江戸時代と明治以後
江戸時代には参詣者も次第に増加し、他国から信濃に入る道はたいてい「善光寺道」と呼ばれるようになった。[32]お伊勢参り」の帰りに「善光寺参り」を行う場合もあった[33][34]。長野村など門前町の中心部は寺領であったが、近世末以降には寺領人口8000人、町続き他領分もあわせて約1万人に及んだ。

出開帳が初めて行われたのもこの時代である。その後、現在の御開帳へとつながる居開帳も開始された(後述#御開帳参照)。そうして集められた収益によって、現在の本堂などが建立された。

また1692年、出開帳を機に坂内直頼がそれまで世に広まっていた漢文の『善光寺縁起』(1668年出版)を、誰にでも読めるよう仮名書きに改めて出版。全国に販売され、江戸時代に最も読まれた善光寺縁起となった。[35]      

さらに、この時代に生まれたものとして「お血脈」は無視できない。

詳しいことは、『
善光寺ウィキペディア』をご覧ください。 ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%96%84%E5%85%89%E5%AF%BA
(wikiより)

35a

35b



所在地長野県長野市松代町松代70
駅番号Y6
所属事業者長野電鉄
所属路線屋代線
キロ程8.6 km(屋代起点)
電報略号マシ[1]
駅構造地上駅
ホーム2面3線[1]
乗車人員
-統計年度-
333人/日(降車客含まず)
-2010年-
開業年月日1922年大正11年)6月10日[1]
廃止年月日2012年平成24年)4月1日[1]

松代駅(まつしろえき)は、長野県長野市松代町松代にあった長野電鉄屋代線廃駅)である[1]駅番号Y6

路線が廃止となった後も、駅舎やホーム等の設備は残され観光案内所やバスの待合所として利用されている。線路は撤去され旧駅構内は松代城公園の駐車場として利用されている。以下、駅に関する記述はいずれも鉄道駅としての営業当時のものである。

歴史
1922年大正11年)6月10日河東鉄道により開業[1]
1926年(大正15年)9月30日:河東鉄道と長野電気鉄道の合併により、長野電鉄が発足したことに伴い、河東線の駅となる。
1973年昭和48年)4月1日:貨物営業廃止。
1983年(昭和58年)8月14日:手小荷物営業廃止。
2002年平成14年)9月18日:路線名改称により屋代線の駅となる。
2012年(平成24年)4月1日:屋代線廃止により廃駅[1]

駅構造
単式1面、島式1面の2面3線のホーム留置線を有する地上駅[1]有人駅である[1](駅員配置時間は7:00-21:00)。戦時中は不要不急線として休止される予定だったが、松代大本営建設のために休止は返上され、貨物輸送に利用された。留置線はその際に敷設されたもの。なお駅員に申請すれば、レンタサイクルを利用することが可能になっている(17:00まで)。

のりば
34

付記事項
・駅舎に一番近いホームが3番線である。

Inside_at_Matsushiro_sta_Nagano,JAPAN

駅舎内部(2004年2月、改札口付近)

2

ホーム(2004年2月)

3

構内(2012年3月)

4

駅舎(2017年8月、路線廃止後)

利用状況
年間乗車人数及び1日あたり乗車人員は次のとおりであった[2]
・2006年度 107,648人 : 295人/日
・2007年度 106,221人 : 290人/日
・2008年度 110,009人 : 301人/日
・2009年度 105,466人 : 289人/日
・2010年度 121,696人 : 333人/日

駅周辺
松代城(海津城)址[1]
真田宝物館
文武学校
松代藩鐘楼
松代大本営跡
国道403号谷街道
池田満寿夫美術館
・松代郵便局
・長野市立松代中学校
・長野市立松代小学校
長野松代総合病院
松代温泉(加賀井温泉)[1]    

a1

  
松代城址

廃止後
駅の設備は屋代線廃止から1年ほど残ったが、以降は駅舎と駅舎側ホームを除いて全て解体・更地化されたのち松代城など観光用駐車場に転用された。 さらに近くで三日月池の復元工事も行われている。

また、2022年から2023年の間に駅前にある松の木が枯れ、その後伐採された。

バス路線
駅前にアルピコ交通長野支社)・長電バス・長野市乗合タクシー・ぐるりん号松代駅停留所がある。
・アルピコ交通
 ・30 長野駅 - 県庁前 - 丹波島橋南 - 川中島古戦場 - 長野インター前 - 松代駅 - 松代高校
 ・48 長野駅 - 市役所前 - 文化学園前 - 綱島 - 金井山 - 松代駅 - 松代高校
 ・139 松代八十二銀行前 - 松代駅 - 松代温泉 - 赤柴上
・長電バス
 ・屋代線代替バス 須坂駅 - 井上 - 若穂病院 - 川田駅 - 松代駅 - 岩野 - 屋代駅  
・長野市乗合タクシー
 ・大室線 松代駅 - 柴 - 金井山駅 - 大室駅 - (信濃川田駅
 ・松代西条線 松代駅 → 象山記念館 → 地震観測所入口 → (入組南) → 青垣公園入口 → … → 松代駅
・松代ぐるりん号
 ・M 松代荘(M-01) - 信州松代ロイヤルホテル(M-03) - 長国寺入口(M-05) - 松代駅(M-08) - 松代藩文武学校(M-10) - 象山神社(M-12)

隣の駅
長野電鉄
 屋代線
   象山口駅 (Y5) - 松代駅 (Y6) - 金井山駅 (Y7)

脚注
1. 
a b c d e f g h i j k 信濃毎日新聞社出版部『長野県鉄道全駅 増補改訂版』信濃毎日新聞社、2011年7月24日、296頁。ISBN 9784784071647
2. 
「長野市統計書」による

関連項目
松代町 (長野県)
日本の鉄道駅一覧    

外部リンク
ながでんバス 屋代須坂線 - ウェイバックマシン(2017年1月21日アーカイブ分)
アルピコグループ 松代駅 バスのりばご案内 - ウェイバックマシン(2020年1月5日アーカイブ分)
(wikiより)

34a

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汽車ポッポ」(きしゃポッポ)は、富原薫作詞、草川信作曲の日本の童謡である。2007年(平成19年)に、日本の歌百選に選出されている。「汽車ぽっぽ」とも表記される。

概要
1937年(昭和12年)にレコード用の童謡『兵隊さんの汽車』として世に出た。歌詞も現在のものと異なり、蒸気機関車が客車を牽引するSL列車(汽車)に乗って出征する兵士を見送る内容であった。

作詞者の富原は静岡県駿東郡御厨町(現在の御殿場市)で教員として働いており、旧陸軍演習場があった御殿場線御殿場駅で見た光景を歌詞にしたという。

後に川田正子の歌唱によるレコードが発売され、1945年(昭和20年)の大晦日NHKラジオの『紅白音楽試合』(『NHK紅白歌合戦』の前身)で川田によりこの曲が歌われることになった。その際に近藤積ディレクターから終戦後の時代にあった内容への改作を依頼され、富原自身の手によって現在の題名と歌詞に改められた[1]

正しい歌詞は「畑も とぶ とぶ」であるが、レコードでは川田正子が間違えて「田んぼも とぶ とぶ」と歌ってしまった。しかし当時はレコードの原盤が非常に高価だったため再録音せずにそのまま発売した、と川田の甥に当たる三代目海沼実がラジオで話している。

のちに、うたの科学館シリーズ のりものの歌に収録され、水谷玲子が歌唱した。さらに昔の列車・今の列車に赤坂東児によるアレンジを施し、岡崎裕美が歌唱したバージョンが収録された。

汽車ポッポの歌詞を掲載した歌碑が、草川の出身地である長野県長野市松代町の旧松代駅前に設置されている。

また、御殿場駅前にも御殿場線を走行したD52形蒸気機関車が2010年から「ポッポ広場」で展示保存され、歌碑が設置された。

録音した歌手
大木英稔井上裕子コロムビアゆりかご会
岡崎裕美
川田正子森の木児童合唱団
森みゆき高橋寛
太田裕美
ももくろちゃんZ
グッチ裕三とグッチーズ
中尾隆聖佐久間レイ       

脚注
出典
1. 
 “「汽車ポッポ」は兵隊さんを乗せて 戦意高揚の童謡を歌った「少国民」”. 東京新聞. (2022年8月22日) 2023年3月4日閲覧。

外部リンク
きしゃポッポ - YouTube(歌:横山だいすけ
「兵隊さんの汽車」と「汽車ポッポ」歌詞対比
(wikiより)

33a

33b




作詞 : 山上 武夫     
作曲 : 上原 げんと

一 花ならば 花ならば

    駒もいななく出陣の

  かぶとに散った山桜

     今もすがしく花びらに

  かおる真田の心意気

     おおさ 真田の心意気



 二 川ならば 川ならば

    三太刀七太刀決戦の

  面影伝う千曲川

     流れうずまきしぶく瀬に

  おどる真田の心意気

     おおさ 真田の心意気



 三 人ならば 人ならば

    永久に光と語り継ぐ

  象山佐久間 恩田杢

     仰ぐ不滅の至誠こそ

  燃える真田の心意気

     おおさ 真田の心意気



 四 城ならば 城ならば

    残すすがたにそのかみの

  まぼろし浮かぶ海津城

     はれる朝霧松風に

  しのぶ真田の心意気

     おおさ 真田の心意気
(歌碑より)

32a

32b




作詞 : 坂口 淳
作曲 : 平岡 照章     
歌唱 : 古賀 さと子

子鹿 ( こじか ) のバンビは かわいいな

お花がにおう 春の朝

森の小薮 ( こやぶ ) で 生れたと

みみずくおじさん いってたよ

子鹿のバンビは 栗毛 ( くりげ ) 色

せなかに白い てんてんよ

細いあんよで かけだせば

野原の蝶々 ( ちょうちょ ) も 今日 ( こんにち ) は

子鹿のバンビは 元気だね

ちらちら雪が ふりだして

池に氷が はる頃は

とん助うさぎと スケートよ

子鹿のバンビは やさしいな

弱虫 ( よわむし ) いじめ しないもの

今に 大きくなったなら

すてきな ぼくらの王様 ( おうさま ) だ
(石碑文より)

31a

31b




作詞、作曲 : 海沼 実

( 1 ) からすの赤ちゃん なぜなくの

   こけこっこの     おばさんに

   赤いおぼうし     ほしいよ

   赤いおくつも     ほしいよ 

   とカアカア       なくのね

( 2 ) めえめえやぎさん なぜなくの

   あさとの        かあさんに

   おねむに       なったのよ

   とメエメエ       なくのね

( 3 )まいごの鳩さん   なぜなくの

   みみずく        おじさんに

   夜道は         こわいよ

   ほうずきちょうちん  かしとくれ

   とホロホロ       なくのね

( 4 ) きつねの赤ちゃん  なぜなくの

   みかずき        おばさんに

   木の葉でかんざし   買っとくれ

   こいしで花ぐし     買っとくれ

   とコンコン        なくのね
(石碑文より)

30a

30b




作詞 : 加藤省吾
作詞 : 海沼実

みかんの花が 咲いている

思い出の道 丘の道

はるかに見える 青い海

お船がとおく 霞(かす)んでる


黒い煙 ( けむり ) を はきながら
 
お船はどこへ 行くのでしょう

波に揺(ゆ)られて 島のかげ

汽笛がぼうと 鳴りました


何時か来た丘 母さんと

一緒 ( いっしょ ) に眺 ( なが ) めた あの島よ

今日もひとりで 見ていると
 
やさしい母さん 思われる
(石碑文より)

29a

29b

29c

29d

29e




作詞 : 野口 雨情     
作曲 : 草川 信

桜の花の咲く頃は
 
うらら うららと 日はうらら
 
ガラスの窓さえ みなうらら

学校の庭さえ みなうらら


河原でひばりの鳴く頃は
 
うらら うららと 日はうらら

乳牛舎 ( ちちや ) の牛さえ みなうらら

鶏舎 ( とりや ) の鶏 ( とり ) さえ みなうらら


畑に菜種の咲く頃は
 
うらら うららと 日はうらら

渚 ( なぎさ ) の砂さえ みなうらら
 
どなたの顔さえ みなうらら
(石碑文より)

28a

28b

28c




作詞 : 斎藤 信夫     
作曲 : 海沼 實

月夜の 田圃 ( たんぼ ) で コロロコロロ
 
コロロコロコロ 鳴る笛は
 
あれはね あれはね
 
あれは蛙の 銀 ( ぎん ) の笛

ささ 銀の笛


あの笛きいてりゃ コロロコロロ
 
コロロコロコロ 眠 ( ねむ ) くなる
 
あれはね あれはね
 
あれは蛙の 子守唄 ( こもりうた )

ささ 子守唄


蛙が笛吹きゃ コロロコロロ
 
コロロコロコロ 夜 ( よ ) が更 ( ふ ) ける
 
ごらんよ ごらんよ
 
ごらんお月さんも 夢みてる
 
ささ 夢みてる
(石碑文より)

27a

27b

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恩田木工民親

生没年 : 享保 2年 ( 1717 ) ~ 宝暦 12 ( 1762 )
 
享年 : 46歳菩提寺 : 長國寺
 
昭和 33年 ( 1958 ) に、飯島忠夫博士の揮毫により建立。

碑文は恩田木工民親の短歌「朝夕に向かいてぞ見る紐鏡 ( ひもかがみ ) 己が心に僻 ( ひが ) みあるかと」。

恩田木工民親は第 4代藩主真田幸弘から藩財政建て直しを受命。家老職勝手掛に就任。質素倹約に腐心。虚言を払拭し、正直を貫徹。この歌からは、藩財政立て直しに対する並々ならぬ恩田木工民親の覚悟を感受。 
(案内板より)

26a

26b




三浦 啓之助(みうら けいのすけ、嘉永元年11月11日1848年12月6日) - 明治10年(1877年2月26日)は、日本の武士新選組隊士。

人物
幕末期の洋学者・佐久間象山とその妾・お蝶の子で、本名は佐久間恪二郎(さくま かくじろう)。ちなみに「三浦」は義母・順(勝海舟の妹)の姓である。

元治元年(1864年)に父・象山に随身して入洛するも、同年7月11日に父が暗殺されてしまう。この時、父の門弟・山本覚馬に仇討ちを勧められ、新選組へ入隊する。近藤勇はこのとき三浦の心情に感銘を受け、義挙を支える約束をしたという。しかし叔父にあたる勝海舟は入隊を憂慮していた。また、京都所司代松平定敬は、松代藩に対し、佐久間家断絶処分の見直しを打診している[1]

入隊後は局長・近藤勇の側近となり、他の平隊士よりも丁重に扱われたが、次第に父譲りの傲慢さが露わになり、芦谷昇たちと共に粗暴を働くようになる(その為、土方歳三沖田総司からは終始目を付けられていた)。


そして慶応2~3年頃、芦谷と共に新選組を脱走する(但し、それ以前に土方が松代藩への帰藩を促したことがあるが、啓之助自身はこれを拒否している)。慶応4年(1868年)、勝の紹介で慶應義塾に入学するが、女性問題が重なり結婚を機に退学する。

明治維新後は(いそし)と名を改め、勝の後ろ盾や象山の息子であることを利用して司法省に出仕するも、警察官と喧嘩を起こし免職となる。その後は松山県裁判所判事として松山に赴任したが、明治10年(1877年)2月26日にを食べての食中毒または溺死で死亡したとも言われている。享年30〜31。

三浦啓之助が登場する作品
​小説
山田風太郎『おれは不知火』

漫画
手塚治虫新選組 (手塚治虫の漫画)』(集英社少年ブック
村上もとかJIN-仁-
富沢義彦(原作)・朝日曼耀(漫画)『戦国新撰組』
『幕末奇談』 子母沢寛

ドラマCD
薄桜鬼 真改 ドラマCD〜珍客逗留始末〜(2016年 演:濱健人

テレビドラマ
・『八重の桜』(2013年 NHK大河ドラマ、演:下江昌也

脚注
1. 新人物往来社『新選組大人名辞典』新人物往来社、2001年、18頁。
(wikiより)

2a

⇧⇩ 無縁墓の場所にありました。

2b



三浦 啓之助(みうら けいのすけ、嘉永元年11月11日1848年12月6日) - 明治10年(1877年2月26日)は、日本の武士新選組隊士。

人物
幕末期の洋学者・佐久間象山とその妾・お蝶の子で、本名は佐久間恪二郎(さくま かくじろう)。ちなみに「三浦」は義母・順(勝海舟の妹)の姓である。

元治元年(1864年)に父・象山に随身して入洛するも、同年7月11日に父が暗殺されてしまう。この時、父の門弟・山本覚馬に仇討ちを勧められ、新選組へ入隊する。近藤勇はこのとき三浦の心情に感銘を受け、義挙を支える約束をしたという。しかし叔父にあたる勝海舟は入隊を憂慮していた。また、京都所司代松平定敬は、松代藩に対し、佐久間家断絶処分の見直しを打診している[1]

入隊後は局長・近藤勇の側近となり、他の平隊士よりも丁重に扱われたが、次第に父譲りの傲慢さが露わになり、芦谷昇たちと共に粗暴を働くようになる(その為、土方歳三沖田総司からは終始目を付けられていた)。


そして慶応2~3年頃、芦谷と共に新選組を脱走する(但し、それ以前に土方が松代藩への帰藩を促したことがあるが、啓之助自身はこれを拒否している)。慶応4年(1868年)、勝の紹介で慶應義塾に入学するが、女性問題が重なり結婚を機に退学する。

明治維新後は(いそし)と名を改め、勝の後ろ盾や象山の息子であることを利用して司法省に出仕するも、警察官と喧嘩を起こし免職となる。その後は松山県裁判所判事として松山に赴任したが、明治10年(1877年)2月26日にを食べての食中毒または溺死で死亡したとも言われている。享年30〜31。

三浦啓之助が登場する作品
​小説
山田風太郎『おれは不知火』

漫画
手塚治虫新選組 (手塚治虫の漫画)』(集英社少年ブック
村上もとかJIN-仁-
富沢義彦(原作)・朝日曼耀(漫画)『戦国新撰組』
『幕末奇談』 子母沢寛

ドラマCD
薄桜鬼 真改 ドラマCD〜珍客逗留始末〜(2016年 演:濱健人

テレビドラマ
・『八重の桜』(2013年 NHK大河ドラマ、演:下江昌也

脚注
1. 新人物往来社『新選組大人名辞典』新人物往来社、2001年、18頁。
(wikiより)

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関山 仙太夫(せきやま せんだゆう、天明4年(1784年) - 安政6年(1859年))は、江戸時代の囲碁棋士、信濃国松代藩士で真田幸貫家臣。本因坊烈元門下、五段格とも七段格とも言われ、素人日本一と称される。晩年の本因坊秀策との二十番碁は著名。

経歴
信濃国松代に生まれ、幼名は虎之介。寛政9年(1797年)に出府し、水谷琢元に師事した後、水谷琴花の紹介により本因坊烈元に入門、享和元年(1801年)18歳で初段を許された。しかし藩中の者から「碁才餘りあるも武道に疎し。是れ武士の本旨にあらず」言われ、一念発起して文武に励み、念流免許皆伝を受けて、再度本因坊家にて囲碁の修行に戻ったと言われる。文政からは江戸在だったが、天保2年(1831年)に江戸詰めを解かれて帰郷するに際して、名人となったばかりの本因坊丈和に二子局を願い、これに1目勝ち。この時に五段の免状を所望したが、素人に高段を許すことをためらった丈和に三段を勧められ、逆にこれを断って終生初段としていた。天保10年(1839年)の囲碁番付『囲碁勝劣競』では、初段ながら四段者の上の東の5番目に記されている。

嘉永4年(1851年)68歳の時、本因坊家跡目となっていた秀策との対局を望む手紙を本因坊秀和に送る。秀和はこれを認めて秀策を松代に赴かせ、20日間で仙太夫先番での二十番碁を打ち、仙太夫7勝13敗とした。この第3局は仙太夫自身で「誰に見せても言分あるまじ」と述べ、また秀策も仙太夫の力量を賞賛し「妙碁と称すべきもの二局あり」と述べている。仙太夫は第1着を必ず右上隅目外しに打っているが、白は毎局で布石を変え、これを仙太夫は「真の棋聖と言うべきなり」とも述べている。仙太夫は秀策の帰京の際に、礼金として20両を贈った。

安政3年(1856年)には、本因坊門下の村瀬彌吉(後の本因坊秀甫)を招き十番碁を打ち、1勝8敗1ジゴ。

藩では祐筆を勤め、竹林亭と号して囲碁に関する著作も多く、本因坊算砂から天保までの棋譜を集めた『聖賢囲碁妙手集』、自分の打碁200局を集めた『竹林修行用魂集』、『囲碁方位初心階』、『囲碁初心調練階』などを遺しており、貴重な文献となっている。家督を譲ってからは各地を漫遊した。安政6年(1859年)に死去。

記念碑
2003年に長野県の囲碁愛好家による「関山仙太夫顕彰会」が作られ、2004年に仙太夫の旧宅前に「囲碁の達人関山仙太夫邸」の標柱、秀策と二十番碁を打った梅田屋に記念碑が建立されている。

参考文献
・安藤如意、渡辺英夫『坐隠談叢』新樹社 1955年
・中田敬三『信州の碁聖関山仙太夫』一草舎出版 2004年

外部リンク
関山仙太夫の生涯
木石庵「関山仙太夫」
せとうちタイムズ「碁聖・本因坊秀策偉人伝 郷土因島出身の天才棋士の物語り 虎次郎は行く」717号                                    
(wikiより)

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恩田 民親(おんだ たみちか、享保2年(1717年) - 宝暦12年1月6日1762年1月30日))は江戸時代中期の松代藩家老百官名は木工。恩田木工(おんだ もく、「杢」とも記される)として知られる。幼名は佐吉。通称は靱負。

経歴
松代藩家老として1千知行する恩田民清の長男として、信濃国松代城下(現・長野県長野市松代町)に生まれる。享保20年(1735年)に家督を相続。延享3年(1746年)に家老となる。

松代藩の財政は、江戸幕府に命じられた度重なる手伝普請助役などによって、3代藩主真田幸道の時代より徐々に困窮し、民親が家督を相続したころにはかなりの財政難に陥っていた。寛保2年(1742年)には松代城下を襲う大水害(戌の満水)に見舞われ、復旧のため幕府より1万の借財を受けた。そこで、5代藩主真田信安小姓より登用した原八郎五郎を家老に抜擢し、藩政改革に当たらせた。原は享保14年(1729年)より始まっていた家臣の知行・俸禄の半知借上を踏襲し、更に、領民より翌年・翌々年分の年貢を前納させるという藩政改革を実行した。しかしこれが家臣の反発を招き、延享元年(1744年)に足軽によるストライキという事態となった。

宝暦元年(1751年)には原八郎五郎を罷免し、代わって赤穂藩浪人と称する田村半右衛門[※ 1]を勝手方として召し抱え、財政再建に当たらせた。しかし、性急な改革は農民の反発を招き、同年には「田村騒動」と呼ばれる藩内初の一揆が起こった。田村は同年に失脚した。原や田村の時代、贈賄を行った者には納税が目こぼしされたり、商人からの寄付の一部を横領したりするなどの汚職が横行した。彼らはこれにより失脚したが、汚職の横行により藩内の風紀は乱れていた。

宝暦2年(1752年)に信安の死に伴い藩主となった真田幸弘により、民親は宝暦7年(1757年)に「勝手方御用兼帯」に任ぜられて藩政の改革を任された。民親は、幸弘から「国元の政道は心一杯に」と全権を委任され、家老以下の藩士にも民親に従うという誓詞の提出を求めた。一方で「虚言申すまじく候」「申したること再び変替致さず候」と自らも律し、藩士だけでなく領民とも直接面談して、反発を受けずに改革を進めるよう配慮した[1]

藩政自体は概ね原八郎五郎の政策を踏襲し、多少の手直しを加えたにとどまったが、質素倹約を励行し、贈収賄を禁止、不公正な民政の防止など前藩主時代に弛んだ綱紀の粛正に取り組んだ。年貢の前納や御用金賦課を廃止し、貢租の怠納を清算し、新たに年貢上納を容易にする月割上納制を導入した。さらに山野や荒地の新規開墾や殖産興業に力を入れた。また、宝暦8年(1758年)に藩校「文学館」を開き、文武の鍛錬を奨励した。逼迫した藩財政自体は改善しなかったが、民親の取り組んだ公正な政治姿勢や文武の奨励は、藩士・領民の意識を改革した。

宝暦12年(1762年)正月、病を得て死去。享年46。彼の意思は、藩主幸弘や、民親の妻の弟である望月治部左衛門により受け継がれた。

後世の松代藩士・馬場正方によって書かれたとされる『日暮硯』は、半知借上を廃止したなどと民親の仁政を讃えた著書である。しかし、半知借上は民親の時代はもちろん後世まで続いており、この著書の内容には脚色も多く見られる。

墓所は、藩主真田家菩提寺長国寺の境内にある。大正7年(1918年)に正五位を遺贈された[2]

注釈
1. 
浅野家の家老であった大野知房の子・大野群右衛門と同一人物とも言われる。

出典
1. 
川口素生『江戸諸藩 中興の祖』p.36-38(2005年、河出書房新社)ISBN 4-309-22425-3
2. 
田尻佐 編『贈位諸賢伝 増補版 上』(近藤出版社、1975年)特旨贈位年表 p.45

参考文献
西尾實林博校註『日暮硯』(岩波文庫、1941年)
滝沢七郎『日暮硯 恩田木工』(明徳出版、1957年)
恩田恒久『「日暮硯」の謎をとく』(信濃教育会出版部、1977年)
堤清二『現代語で読む 日暮硯』(三笠書房、1983年)
奈良本辰也『日暮硯-信州松代藩 奇跡の財政再建』(講談社、1987年)
笠谷和比古『新訂 日暮硯』(岩波文庫、1988年)
川村真二『誠心の指導者 恩田木工』(PHP研究所、1993年)
川村真二『恩田木工―真田藩を再建した誠心の指導者』(PHP研究所、1997年)
笠谷和比古『「日暮硯」と改革の時代 恩田杢にみる名臣の条件』(PHP新書、1999年)

関連文献
池波正太郎『真田騒動-恩田木工』(「運の矢」立風書房、「真田騒動-恩田木工」新潮文庫 1984年、所収)

関連項目
藩政改革     
佐久間象山   

外部リンク
JOG(262) 恩田杢 ~ 財政改革は信頼回復から - ウェイバックマシン(2006年9月25日アーカイブ分)
(wikiより)

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真田幸道に初めて家老に任じられた恩田頼母民重を恩田家中興初代とする。

恩田頼定 - 定俊 = 時民 ( 定俊弟・木工 ) - 時義 (  木工 ) - 万吉 = 民重 ( 時義弟 ) = 民清 ( 民重婿養子・木工 ) - 民親 ( 木工 ) - 宣民 ( 木工 ) - 貫誠 - 民矩 ( 貫実 ) -民伸 ( 寛 )

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真田幸道に初めて家老に任じられた恩田頼母民重を恩田家中興初代とする。

恩田頼定 - 定俊 = 時民 ( 定俊弟・木工 ) - 時義 (  木工 ) - 万吉 = 民重 ( 時義弟 ) = 民清 ( 民重婿養子・木工 ) - 民親 ( 木工 ) - 宣民 ( 木工 ) - 貫誠 - 民矩 ( 貫実 ) -民伸 ( 寛 )

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はせを翁  

更科の郡かな

     十六夜もまた

( 十六夜も まだ更科の 郡かな )

芭蕉 正保元年伊賀上野生 元禄七年大阪没

天保十余年翁忌百五十回造立

昭和三十九年再建
(案内板より)

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武田・上杉両軍三万余の死闘を展開した川中島合戦の最中、作戦の失敗から緒戦の劣勢を余儀なくされ、身辺が手薄となった武田信玄めがけて切り込む上杉謙信の鋭い切っ先に、あわや信玄も八幡原 ( はちまんばら ) の露と消えようとした間一髪、武田軍の中間頭原大隅 ( はらおおすみ ) が、傍 ( かたわら ) にあった信玄の持ち槍、青貝の長柄を取って馬上の謙信をめがけて、ひと槍突き出した。

苛立った槍は鎧の肩の上にそれ、残念なりと返す槍で謙信の鎧の肩を斜右上から力いっぱい打下したが、またも外れて馬の三頭 ( さんず ) をしたたか打ったので、馬は驚き跳ね上がってその場を狂奔 ( きょうほん ) し去ったため、震源は危うく虎口を免れることができた。

一方謙信は取り逃がし、無念やるかたない原大隅は、傍らにあったこの石を槍で突き通したといわれる。
(案内板より)

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