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9089 西郷局墓(静岡市葵区常磐町2丁目13-2・宝台院)
西郷局(さいごうのつぼね、天文21年(1552年)(永禄4年(1561年)説もあり) - 天正17年5月19日(1589年7月1日))は、戦国時代・安土桃山時代の女性[1]。初名はあい、お愛とされるが、お相が正しいとする説もある(後述)。徳川家康の側室となって以降は西郷局と称した[2][3]。院号は宝台院。贈位を受けた際の名は源昌子[4]。
江戸幕府第2代将軍・徳川秀忠、松平忠吉を産んだ[3]。
通説における生涯
江戸後期に成立した『寛政重修諸家譜』・『以貴小伝』によれば、父は戸塚忠春[5][6]とされる。母は源姓土岐氏流三河西郷氏とされ、西郷正勝の娘とされる。
幼少時、父忠春と兄の忠家が討ち死し、母とともに、祖父・西郷正勝に保護された[3]。『以貴小伝』・『寛政重修諸家譜』では母が忠春の死後蓑笠之助正尚に嫁いだためにその養女になり、その後正勝に引き取られたとしている[7]。のち、正勝の嫡孫・西郷義勝と結婚した[8][7]。義勝との間に1男1女をもうけている[9]。元亀2年(1571年)、武田氏の先遣・秋山虎繁の南進を阻むため、縁戚の菅沼定盈に協力した竹広合戦で、義勝が落命する。彼女の産んだ男子は幼過ぎて家督を継げなかった。
義勝の死後、藤正尚の屋敷にいた母の元に身を寄せた。天正6年(1578年)、家康が同屋敷を訪れた際、お愛の方を見初め、浜松に連れ帰った[8]。お愛の方は、正勝の子であり伯父にあたる西郷清員の養女となり、家康に仕え、西郷局と改めた[8]。『柳営婦女伝系』では西郷清貞の養女となったとされる[6]。
天正7年(1579年)4月に秀忠を、同8年(1580年)9月に忠吉を産んだ[8]。
天正17年(1589年)5月19日、駿府で死去した[8]。28歳(一説に30歳)[8]。龍泉寺に葬られ、法名は竜泉院殿とされた[8]。
『家忠日記』の天正17年(1589年)5月21日の記事には「駿川若君様御袋西郷殿一昨日十九日ニ御死去之由申来候。野田菅沼助兵へ喧嘩にて死去之由申来候」と記されている[10]。このため西郷局が野田菅沼助兵(菅沼定盈の従兄弟であり、その家臣)とのトラブルで命を落としたのではないかという見方もある。一方で家康の後継者の生母が喧嘩に巻き込まれることは考え難く、他史料に同じ記述がないことから、病死したという見解もある[11]。郷土史家の中山正清は西郷局死去の知らせと野田菅沼助兵が喧嘩で殺害されたという別のものが同日条に記されたにすぎないとしている[12]。また『柳営婦女伝系』には「松平主殿助家忠の家士・稲吉兵衛に害されたと云々」とあり、家忠の家臣が殺害したと書かれている[10][13]。
寛永5年(1628年)5月9日、従一位が贈られ、5月19日には法名も宝台院殿一品大夫人松誉定樹大禅定尼とする宣命が下り、龍泉寺は宝台院と名を改めた[4]。当時の将軍・徳川家光は孫、翌年即位した明正天皇は曾孫に当たる。
通説の生涯に対する疑義
通説の生涯は、『寛政重修諸家譜』で整理され、18世紀末以降に成立した『以貴小伝』の頃に完成したものと見られる[14]。後世の系譜類では混乱があり、寛政11年(1799年)に編纂された『譜牒余録』では西郷局は西郷正勝の娘、『柳営婦女伝系』では服部氏の一族蓑笠之助正尚の娘であるとしている[6]。
先行する江戸時代前期成立の『寛永諸家系図伝』や林鵞峰の『故江府令朝散大夫親衛校尉石谷叟行状』では、戸塚氏の縁者であるとはされているが、三河西郷氏については全く触れられておらず、『藩翰譜』でも言及されていない[6]。戸塚氏は上西郷村(現在の静岡県掛川市)の西郷氏(江戸時代には石谷氏を称する)に属する地侍であり、一方生母の生家とされる三河西郷氏は豊橋市西郷校区辺りに勢力を持つ豪族であった。『掛川市史』は家格の釣り合いが取れず、西郷氏が戸塚氏と婚姻を結ぶ必然性に乏しいとして疑問を呈している[9]。
また、天正17年(1589年)に西郷局が28歳で没したと言う記録は、通説を構成する記録との齟齬が生まれる。『以貴小伝』では戸塚忠春が天文23年(1554年)に没したとしているが、これは西郷局の生まれる8年前である[9]。また夫であった義勝が死亡した元亀2年(1571年)には、満年齢で10歳となり、一男一女をもうけたというのは考え難い[9]。『以貴小伝』は西郷局の没年齢を38歳としているが、他の諸系図では没年齢は28歳である[9]。
郷土史家の中山正清は徳川綱吉の不興を蒙って大名から転落して旗本となっていた三河西郷氏の嫡流が、将軍家とのつながりを主張するために西郷局との血縁を強調する作為を行ったのではないかとしている[15]。
家康正室説
彼女の死を伝えた『家忠日記』天正17年5月21日条に、彼女のことを「西郷殿」と記している。この「殿」という呼称から、彼女が家康の妻として遇されていたとする説がある[16][17]。「殿」は公式の妻に対して用いられる呼称で、側妾に対してもちいられる呼称は「局」だからである[16]。この説が正しければ、家康の最初の正室(正妻)である築山殿は天正7年に死去しているため、それ以降は唯一の妻であった彼女が正室となっていたことになる(築山殿が死去したために、秀忠を生んだ彼女が妻に引き上げられた可能性もある)。その後、家康は豊臣秀吉の妹である朝日姫を正室として迎えたが、当時の武家では一夫一妻制が確立していなかったため、引き続き正室と同格とされる「次妻」として遇されていた可能性が高く、死去時の「殿」の呼称につながったと推測される[17]。
なお、武家諸法度成立以降、武家における一夫一妻制の原則が確立され、同法成立以前の婚姻に関しても次妻・別妻と称されていた正室以外の妻に対して、法的には非公式な関係に過ぎない妾の格式である「側室」としてみなされるようになったと言われている(豊臣秀吉における淀殿も同様とされている)[18]。正室説では「西郷局」という呼称は『徳川幕府家譜』などの江戸時代以降の史料しか登場しないと指摘されている。
人物
西郷局は美人で、また温和誠実な人柄であり、家康の信頼厚く、周囲の家臣や侍女達にも好かれていた。また強度の近眼であったらしく、とりわけ盲目の女性に同情を寄せ、常に衣服飲食を施し生活を保護していた。そのため西郷局が死去すると、大勢の盲目の女性達が連日、寺門の前で彼女のために後生を祈ったという。
また西郷局の従姉妹が記した『お国文書』と呼ばれる文書が静岡県掛川市に残されており、西郷局が家康から拝領した屋敷が上西郷村に存在したとされる[19]。
名前について
『幕府祚胤伝』には「於愛」もしくは「於丁」、『徳川幕府家譜』には「於桐」、『柳営婦女伝系』には「於相」、『以小貴伝』には「お愛」と書かれているため、通説では「愛」が実名と考えられている。しかし、「桐」を「相」の誤記、「愛」は「相」は同音の別表記という考えから、「相」が正しい実名で「愛」はその別表記とする説もある。また、『徳川幕府家譜』には「西郷局」と書かれているが、同時代史料である『家忠日記』には「西郷殿」と書かれているのは前述の通りである[17]。
登場作品
・『徳川家康』(1964年、NET、演:中原ひとみ→藤野節子)※中原ひとみは吉良御前と二役
・『戦国うらばなし 長勝院の萩 家康父子に愛された女』(1983年、朝日放送テレビ、演:亀井光代)
・『徳川家康』(1983年、NHK大河ドラマ、演:竹下景子)※吉良御前と二役
・『どうする家康』(2023年、NHK大河ドラマ、演:広瀬アリス)
脚注
出典
1. 小林貞美、牧野登『西郷氏興亡全史 [Complete History of the Rise and Fall of the Saigo Clan]』歴史調査研究所、東京、1994年、613頁。
2. 中山 2016, p. 12.
3. a b c 山本 2020, pp. 1–2.
4. a b "徳川家康公の側室お愛の方(西郷の局)の菩提寺". 宝台院【静岡】の公式ホームページ. 2023年6月24日閲覧。
5. 山本 2020, p. 1.
6. a b c d 中山 2016, p. 15.
7. a b 中山 2016, p. 16.
8. a b c d e f g 山本 2020, p. 2.
9. a b c d e 中山 2016, p. 18.
10. a b 鷹橋忍 (2023年6月19日). "『どうする家康』お万、於愛…最後は40歳下?家康の側室遍歴と彼女たちの生涯|徳川家康と家臣たちのゆかりの地(第5回)". JBpress オートグラフ. JBpress. p. 3. 2023年10月29日閲覧。
11. 濱田浩一郎 (2023年9月25日). "大河『家康』お愛の方 早逝に謎 喧嘩による死か?病死か? 識者が語る". よろず~ニュース. 2023年10月29日閲覧。
12. "西郷の局・史談". 西郷の局・於愛の方. 2023年1月5日. 2023年10月29日閲覧。
13. 国書刊行会 編「柳營婦女傳系 四」『柳営婦女伝叢 (国書刊行会本)』国書刊行会〈国書刊行会本〉、1917年、83頁。doi:10.11501/945825。NDLJP:945825/47。(大正6年)
14. 中山 2016, p. 17.
15. 中山 2016, p. 18-19.
16. a b 福田 2018, p. 52, 「一夫一妻制の原則と世襲制」.
17. a b c 黒田 2023, pp. 36–37, 「家康の妻と子どもたち」.
18. 福田千鶴『大奥を創った女たち』吉川弘文館〈歴史文化ライブラリー549〉、2022年5月23日、5-11頁。ISBN 978-4-642-05949-7。
19. 中山 2016, p. 11-12.
参考文献
・中山正清「西郷局の出自と構江屋敷についての一考案 -『お国文書』「先祖覚」の再評価を通じて-」『静岡産業大学情報学部研究紀要』第18巻、2016年3月、11-24頁、NII:1530/00001328。
・福田千鶴「一夫一妻制の原則と世襲制」『近代武家社会の奥向構造 江戸城・大名武家屋敷の女性と職制』吉川弘文館、2018年5月25日、52頁。ISBN 978-4-642-03488-3。初出:『歴史評論』747号(2012年)。
・山本博文 著、日本歴史学会 編『徳川秀忠』(新装版)吉川弘文館〈人物叢書303〉、2020年2月26日。ISBN 978-4-642-05296-2。
・黒田基樹 編「家康の妻と子どもたち」『徳川家康とその時代』戎光祥出版〈戦国大名の新研究3〉、2023年5月1日、36-37頁。ISBN 978-4-86403-473-9。
(wikiより)
9088 宝台院(静岡市葵区常磐町2丁目13-2)
概要
江戸時代には江戸幕府から朱印状(朱印三百石)も与えられていたほか住職の江戸城登城時には十万石の格式をあたえられた。
徳川家康の側室で徳川秀忠生母西郷の局(お愛の方)の墓がある。
徳川家康の身代わりとなって矢を受けた守り本尊の快慶作「白本尊阿弥陀如来」(国重要文化財)を安置している。
二代将軍徳川秀忠が現在地に移し大伽藍を建立し増上寺とともに徳川家当用の菩提寺となった。当時は境内に塔頭、末寺が多数あり駿河国触頭であった。また浄土宗の寺格である引込紫衣地七箇寺の一つとなった。
大政奉還後、江戸から徳川慶喜が入りこの寺で謹慎した。
徳川秀忠正室で徳川家光の母であるお江の方の墓および御霊屋も存在していたが現在は増上寺に合祀されている。[1]
家康の墓所である久能山東照宮の麓に宝台院別院があり、徳川家家臣榊原照久の墓所がある。
歴史
・1507年(永正4年)鎌倉光明寺八世祐崇、駿府に龍泉寺(宝台院)を起立[2]。
・1589年(天正17年)徳川家康の側室で2代将軍となった徳川秀忠の生母西郷局がこの寺に葬られる[2]。
・1628年(寛永5年)西郷の局の戒名が「宝台院殿一品大夫人松誉定樹大禅定尼」となる[2]。幕府、駿河龍泉寺を宝台院と改める[2]。増上寺とともに徳川家の菩提寺となる[3]。徳川忠長によりお江の方の墓および御霊屋造営
・1868年(慶応4年)江戸開城後に徳川慶喜が水戸・弘道館からこの寺へ移り、謹慎[2]。
・1869年(明治2年)9月 徳川慶喜、謹慎が解かれ宝台院から紺屋町元代官屋敷(現浮月楼)に移る[2]。
・1886年(明治19年)8月 佐倉信武により境内に静岡高等英華学校が設立される。この学校が何年頃まで存続したものかは不明[4]。
・1904年(明治37年)日露戦争時、ロシア兵の捕虜収容所となる[2]。
・1940年(昭和15年)1月15日 静岡大火で旧国宝の本堂が焼失[5]。大火後の土地区画整理により、境内地が大幅に縮小された[2]。なお、1628年(寛永5年)徳川秀忠により築造された山門は、1918年(大正7年)菊川市中内田の応声教院に移築されていたため現存する。
文化財
・木造阿弥陀如来立像(国指定重要文化財)
・徳川家康自画像(市指定重要文化財)
・西郷の局の墓(市指定重要文化財)
・徳川家康筆「安元御賀記手習」[6]
・徳川家康「真の太刀」[7]
・徳川家康鎧下着切[6]
・徳川秀忠筆「本多正純宛書状」[6]
・徳川秀忠筆「千姫宛書状」
・徳川家光筆「遠山月」
・徳川家光筆「鶺鴒図」[6]
・徳川家綱筆「鶏図」[6]
・徳川慶喜謹慎之地石碑
・徳川慶喜筆「水如淡」[6]
・徳川慶喜筆「月可遊」[8]
・松平元康筆「弓の事」[6]
・西郷局(お愛の方)肖像画[6]
・古田織部作 キリシタン灯篭[6]
所在地・交通アクセス
・本院 静岡市葵区常磐町二丁目13番地の2
・別院 静岡市駿河区安居(あご)291番地
・(本院)JR東海東海道本線静岡駅から徒歩8分
・(本院)しずてつジャストラインバス、藁科線「宝台院」下車徒歩2分
脚注
1. “由緒|【浄土宗金米山 宝台院】最後の将軍徳川慶喜公謹慎の地です”. www.houdaiin.jp. 2023年12月1日閲覧。
2. a b c d e f g h “由緒|【浄土宗金米山 宝台院】最後の将軍徳川慶喜公謹慎の地です”. www.houdaiin.jp. 2018年10月10日閲覧。
3. “浄土宗大辞典”. 宗教法人 浄土宗. 2023年8月24日閲覧。
4. 『静岡県英学史』. 講談社. (1967). p. 44
5. 延焼十三時間半、やっと鎮火(昭和15年1月16日 大阪毎日)『昭和ニュース辞典第7巻 昭和14年-昭和16年』p79 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年
6. a b c d e f g h i “宝台院公式インスタグラム”. 2023年8月24日閲覧。
7. “宝台院公式インスタグラム”. 2023年8月24日閲覧。
8. “宝物|【宝台院】家康公の阿弥陀如来立像(国・重要文化財)や自画像(市・重要文化財)など”. www.houdaiin.jp. 2023年9月5日
参考図書
飯田 宏『静岡県英学史』講談社 1967年
関連項目
・ジュリアおたあ - 彼女が駿府にいたときに作らせた「キリシタン灯篭」が駿府城から移され、残っている。
・静岡電灯 - 明治時代の電力会社。宝台院境内に事務所と発電所を構えた。
詳しいことは、『宝台院ウィキペディア』をご覧ください。 ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%9D%E5%8F%B0%E9%99%A2


9087 市姫墓(静岡市葵区鷹匠2丁目24-18・華陽院)
市姫(いちひめ、慶長12年1月1日(1607年1月28日) - 慶長15年2月12日[1](1610年3月7日))は、伊達政宗の嫡男・伊達忠宗と婚約していた女性。父は徳川家康、母は側室のお梶の方(遠山氏)。
徳川家康が66歳のときに生まれた五女である。家康は、織田信長の妹で絶世の美女と謳われたお市の方のように美女になってほしいと願っていたらしく、市姫と命名した。
慶長12年(1607年)2月8日、家康は当時、最大の勢力を誇っていた外様大名の伊達政宗と関係をさらに深めるため、政宗の嫡男・虎菊丸(のちの忠宗)と婚約させている。しかし慶長15年(1610年)2月12日、市姫は3歳で夭折した。野苺を摘んでいた際、毒虫に刺され、それが原因でこの世を去ったと言われている。追号は清雲院[2]、または一照院[3]。墓所は静岡市葵区の華陽院。
家康は市姫の夭折に嘆き悲しむと同時に、忠宗に対して孫娘の振姫(実父は池田輝政で、生母が家康の次女・督姫)を徳川秀忠の養女として婚約させている。
脚注
1. 『徳川幕府家譜』より。『幕府祚胤伝』では閏2月12日とされている。
2. 『徳川幕府家譜』
3. 『幕府祚胤伝』(wikiより)




9086 徳川家正公御手植えの松(静岡市葵区鷹匠2丁目24-18・華陽院)
9085 源応尼墓(静岡市葵区鷹匠2丁目24-18・華陽院)
出身
・江州佐々木氏流の尾張・青木加賀守弌宗の娘
・尾張・宮野善七郎(『尾張志』)
・三河寺津の城主・大河内左衛門佐元綱の養女、または実の娘(政局は甥と伝わる)
・川口家々譜によれば大河内但馬守満成の娘
など様々な説がある。
生涯
明応元年(1492年)に誕生。
はじめ、三河国刈谷城城主・水野忠政に嫁いで水野忠重や於大の方ら3男1女を生む。ところが、隣の岡崎城城主・松平清康がその美しさに目をつけて、松平氏が水野氏を破ったときの講和条件として譲り受けたといわれている。(しかし、伝えられている松平清康(天文4年(1535年)死亡)との再婚が事実とすれば、これ以後の出生と考えられる忠分や忠重の母ではない事になり矛盾が生じる。平野明夫は自書「三河松平一族」において所生の子供たちの生年から検討した結果、於富の方と松平清康との再婚は有り得ないと考証、結論している)。清康の死後、星野秋国、菅沼定望、川口盛祐といった三河の諸豪族に次々に嫁ぐが、いずれも夫に先立たれている。
その後、駿河国の大名・今川義元を頼って駿府に入り、出家して源応尼(げんおうに)と名乗る。松平竹千代(後の徳川家康、清康の先妻の子である松平広忠と娘である於大の方との間に生まれた子)が今川氏の人質として駿府に送られると、義元に乞うて竹千代が元服するまでの8年間、その育成にあたった。
永禄3年(1560年)、死去。華陽院の墓は静岡市葵区鷹匠2丁目24番18号の玉桂山華陽院(浄土宗)にある。この寺は元、知源院とよばれていたものを華陽院の法名により改めたものであり、境内には華陽院の墓のほか、3歳で歿した家康の五女市姫の墓もある。法名は華陽院殿玉桂慈仙大禅尼。豊橋市の龍拈寺と刈谷市の楞厳寺には、華陽院の肖像画が現存している(共に市指定文化財)[1]。
華陽院の子
・水野忠政との子
・水野忠守
・於大の方(松平広忠室、久松俊勝室。徳川家康、松平定勝らの母)
・水野信近
・水野忠分(「水野氏法名一覧」によれば三昭貞富禅定尼の子とも)
・水野忠重(「水野氏法名一覧」によれば本樹院殿栄岩宗盛大姉の子とも)
・松平清康との子とされる人物
・碓井姫(松平政忠室、酒井忠次室。松平康忠、酒井家次、本多康俊らの母)
・松平信康 (源次郎)
・川口盛祐との子
・川口宗吉
おもな登場作品
・徳川家康(1983年、NHK大河ドラマ)、演:八千草薫
・麒麟がくる(2020年、NHK大河ドラマ)、演:真野響子
脚注
出典
1. “楞厳寺(りょうごんじ)”. 刈谷市. 2022年3月12日閲覧。
(wikiより)

⇧ 源応尼 ( 華陽院 )





9084 島津式部男又吉郎源久攄墓(静岡市葵区鷹匠2丁目24-18・華陽院)
御庭番(おにわばん)は、江戸時代の第8代将軍・徳川吉宗が設けた幕府の役職。将軍から直接の命令を受けて秘密裡に諜報活動を行った隠密を指した。
諜報活動といっても、実際には時々命令を受けて、江戸市中の情報を将軍に報告したり、身分を隠して地方におもむき情勢を視察していた程度だといわれている。実態としては、大目付や目付を補う将軍直属の監察官に相当する職であることがうかがえる。
職務
御庭番は、江戸幕府の職制では大奥に属する男性の職員・広敷役人のひとつで、若年寄の支配だった。彼らは江戸城本丸に位置する庭に設けられた御庭番所に詰め、奥向きの警備を表向きの職務としていた。時に将軍の側近である御側御用取次から命令を受け、情報収集活動を行って将軍直通の貴重な情報源となった[1]。また、日常的に大名・幕臣や江戸市中を観察し、異常があれば報告するよう定められていたといわれる。
庭の番の名目で御殿に近づくことができたので、報告にあたっては御目見以下の御家人身分であっても将軍に直接目通りすることもあり、身分は低くても将軍自身の意思を受けて行動する特殊な立場にあった。
その特殊な任務のために功績を挙げて出世する機会に恵まれ、中には幕末に初代新潟奉行・長崎奉行を歴任した川村修就、勘定奉行・外国奉行を歴任し、日米修好通商条約批准のため使節副使としてアメリカに渡った村垣範正のような人物もいる。
起源
御庭番の前身は、吉宗が将軍就任前に藩主を務めていた紀州藩お抱えの薬込役(くすりごめやく)と呼ばれる役人たちで、紀州藩でも奥向きの警備を表向きの職務とし、藩主の命を受けて情報収集を行っていたといわれる。吉宗が将軍に就任したとき、薬込役のうち十数人の者たちが吉宗に随行して江戸に移り、幕臣に編入されて御庭番となった。紀州藩の薬込役は全体で数十人おり、その中から幕臣に編入されたのは十数人だけだったが、これは輪番で江戸に随行した者を任命しただけで、特に選抜して連れてきたというわけではない。
吉宗が御庭番を新設した理由としては、家康以来幕府に仕えてきた伊賀者や甲賀者が忍者としての機能を失い、間諜として使い物にならなくなったことや、傍流の紀州家から将軍家を継いだ吉宗が代々自分の家に仕えてきて信頼のおける者を間諜に用いようとしたことが、理由として挙げられる。また、幕府の公式の監察官だった大目付が後代には伝令を主たる職務とする儀礼官になったこともあり、将軍直属の監察能力が形骸化したため、これを補って将軍権力を強化する意味あいもあった。
・「御庭番」の家筋の祖となった17名の採用経緯と役職名の変遷[2]
・享保元年10月に吉宗の長男長福丸(後の徳川家重)に供奉して江戸城に入った者(「広敷伊賀者」に任命、元紀州藩「薬込役」)
・川村弥五左衛門
・宮地六右衛門
・薮田定八
・享保元年11月に江戸に出府した者(12月に「広敷伊賀者」に任命、元紀州藩「薬込役」)
・明楽樫右衛門
・西村庄左衛門
・享保3年5月に吉宗の母(浄円院)とともに和歌山城から江戸城に入った者(「広敷伊賀者」に任命、元紀州藩「薬込役」)
・馬場瀧右衛門
・中村万五郎
・野尻七郎兵衛
・村垣吉平
・古坂興吉
・高橋與右衛門
・倉地文左衛門
・梶野太左衛門
・和多田孫市
・林惣七郎
・吉川安之右衛門
・以上、江戸幕府の「広敷伊賀者」となった16名は享保11年2月に7名が「御休息御庭締戸番(おきゅうそくおにわしめどばん)」、残りの9名は「伊賀御庭番」となり、従来の「広敷伊賀者」と区別された。
・享保14年8月に紀州藩出身で江戸幕府でも「口之者」を勤めていた者1名(「御庭番」に任命、元紀州藩「口之者」)
・川村新六
・以上の合計17名が「御庭番」の祖となった。
身分と家柄
吉宗のとき紀州藩で薬込役と呼ばれていた隠密任務に就いていたものを幕府に編入し、最終的に17名を初代の御庭番に任命した。以後の御庭番はこの子孫17家の世襲からなり、さらに分家9家が生まれて合計26家となり、歴史の中で4家が解任され、幕末には22家が残った。彼らは、世襲によってまかなわれる御庭番の家筋としての団結を保ち、御庭番の職務を協同して行っていた。[2]
御庭番の家筋の諸家は、当初はすべてが下級の御家人だったが、幕末までに大半の家が下級の旗本にまで上昇した。御庭番出身の者が出世すれば、当然に軽輩の職務である御庭番からは離れることになるが、その子が新たに幕府に出仕するときは御庭番となるのが定めで、旗本に出世した御庭番の子は旗本格の御庭番になった。
彼らは当時の武鑑に御庭番として収録されており、間諜でありながら氏名、住居はもとより収入や経歴に至るまで公開されていた。
遠国御用
御庭番が幕臣としての身分を隠し、遠国に実情を調査に出かける旅行のことを「遠国御用」という。前述したように、彼らは一般に言われるような華々しい間諜行動はとらなかったようだが、それでもしばしば命ぜられる遠国御用は重要な任務だった。
御庭番に関しては、将軍の命を受けてすぐに幕府御用達呉服店におもむき、秘密の部屋で変装して家族にも告げず、ただちに出立するといった記述をよく見かけるが、御庭番自身の談話や彼らの書き残した記録、幕府に残る公的記録からは、これが伝説に過ぎないことが見て取れる。
実際には、情報収集の命令を受けた御庭番は、出発前に一度自宅に戻って綿密に準備していた。彼らは、幕臣として出世後に御庭番の職務を離れた長老までも含めた、御庭番家筋の間で相互に親密に連絡を取り合っており、命を受けた御庭番は家筋の長老をはじめとする先輩御庭番たちに、調査内容について相談していた。それでも表向きには、御庭番たちは「他人はもとより親兄弟と雖も職務上の秘密を漏らさない」旨の誓紙を就任時に提出していた。また、江戸で事前の調査を行い、予備知識を蓄えてから出発した。調査報告にあたっても報告は書面で認め、先輩御庭番たちの校閲を経てから報告が行われた。
隠密調査中は、公式には病欠扱いとされていたようである。報告書上の旅程は、下命直後に出発して帰着直後に復命した、という形式をとったが、実際には事前の準備と事後の報告書作成のため、前後数日間の在宅期間が存在していた。これは、脇目もふらず職務に邁進したという建前をとる必要があったことと、日割で出張手当が支給されたことによると考えられる。
遠国御用のたびに立ち寄ることになる京都・大坂には、毎回御用を命ぜられた御庭番が立ち寄る御用達町人が、御庭番の隠密調査を支援するための一種の現地スタッフとして配置されており、御庭番は初めての御用でも彼らの助けを得て無事に任務を果たすことができた。
創作作品
一般には、いわゆる間者や忍者の類だったとする御庭番像が広まっており、時代劇・時代小説や漫画などでそのような描写が数多くなされている[注釈 1]。
脚注
注釈
1. ただし、忍者についても、時代劇・時代小説・漫画などで大幅な脚色が見られる。現実の忍者の諜報活動も御庭番と同程度のものだったとも考えられ、むしろ忍者同様に大幅な脚色がなされていると言える。
出典
1. 深井雅海「江戸幕府御側御用取次の基礎的研究」1983年5月(『国史学 第120号』)
2. a b 深井雅海、「徳川将軍の情報収集活動」 『情報管理』 1991年 34巻 3号 p.219-231, doi:10.1241/johokanri.34.219, 科学技術振興機構
参考文献
・旧事諮問会編『旧事諮問録』(岩波文庫、1986年) - 明治維新後に元御庭番の川村帰元(川村修就の嫡子で、洋画家川村清雄の父)がその職務について語った記録を載せる。
・小松重男『旗本の経済学』(新潮選書、1991年) - 御庭番家筋の川村修富(川村修就の父)の覚書をまとめたもの。
・深井雅海『江戸城御庭番 徳川将軍の耳と目』(中公新書、1992年)
外部リンク
・『御庭番』 - コトバンク
(wikiより)



9083 藤原広栄墓(静岡市葵区鷹匠2丁目24-18・華陽院)
9082 安藤直之墓(静岡市葵区鷹匠2丁目24-18・華陽院)
| 時代 | 江戸時代中期 - 後期 |
|---|---|
| 生誕 | 寛保2年12月22日(1743年1月17日) |
| 死没 | 文化2年8月10日(1805年9月2日) |
| 改名 | 大河内祝嘏、安藤直之 |
| 別名 | 大河内将曹、安藤木工之助、彦四郎(通称) |
| 戒名 | 源樹院殿直誉騰山誼純大居士 |
| 墓所 | 東京都千代田区麹町の栖岸院 |
| 官位 | 従五位下・伊予守 |
| 幕府 | 江戸幕府 駿府城代 |
| 主君 | 徳川家治、家斉 |
| 氏族 | 大河内松平氏、安藤氏 |
| 父母 | 父:松平信祝、母:小林氏娘狭妻 養父:安藤直元 |
| 兄弟 | 松平信復、中川久貞、松平正温、翁之丞、直之、多代、伊代、得寿、清涼院、喜尾、兼、八十、光、幸、郁、参、賀久、皆 |
| 妻 | 安藤直元の娘 |
| 子 | 直温、保之、直則、武藤安存、直與、 斎藤利道室、酒井忠徹室 |
安藤 直之(あんどう なおゆき)は、江戸時代中期から後期にかけての旗本(寄合)。官位は従五位下・伊予守。石高は4535石。
生涯
寛保2年(1742年)12月22日、遠江国浜松藩主・松平信祝の五男として江戸にて誕生した(幕府には元文5年(1740年)生まれと届ける)。同族である上野国高崎藩主・松平輝高の仮養子となっていたが、輝高の実子が成長して丈夫届を幕府に提出したため、宝暦4年(1754年)7月に解消された。宝暦6年(1756年)2月23日に250石を与えられ、三河国吉田藩谷中下屋敷の山之屋形へ引越す。
明和3年(1766年)8月11日に旗本・安藤直元の婿養子となり、直之と名乗る。明和4年(1767年)3月19日に初めて10代将軍・家治に拝謁した。明和6年(1769年)4月15日、直元の隠居により家督を相続した。明和8年(1771年)3月27日に中川御番、安永2年(1773年)12月12日に火消役となる。同年同月16日、布衣の着用を許される。安永9年(1780年)11月15日に百人組頭、寛政4年(1792年)12月24日に小姓組番頭となる。同年同月28日、従五位下・伊予守に叙任される。寛政9年(1797年)6月5日に西丸書院番頭、寛政10年(1798年)12月10日に書院番頭となる。享和3年(1803年)閏1月30日に大番頭となり、二条在番を勤める。文化2年(1805年)2月29日に駿府城代となり、同年8月11日に在職のまま駿府で病死した。享年64(公的には66)。
系譜
・父:松平信祝(1683年 - 1744年)
・母:狭妻 - 側室、清凉院、小林氏
・養父:安藤直元
・正室:安藤直元の娘
・生母不明の子女
・男子:安藤直温
・男子:安藤保之
・三男:安藤直則(1780年 - 1823年) - 安藤直與の養子
・男子:武藤安存
・五男:安藤直與(1790年 - 1809年) - 安藤道紀の養子
・女子:斎藤利道室
・女子:酒井忠徹室
参考文献
・『寛政重修諸家譜』第17巻
・『豊橋市史』第6巻
(wikiより)





9081 向島 : 言問団子
9080 松平右近信之墓(静岡市葵区鷹匠2丁目24-18・華陽院)
〇 御定番
御庭番(おにわばん)は、江戸時代の第8代将軍・徳川吉宗が設けた幕府の役職。将軍から直接の命令を受けて秘密裡に諜報活動を行った隠密を指した。
諜報活動といっても、実際には時々命令を受けて、江戸市中の情報を将軍に報告したり、身分を隠して地方におもむき情勢を視察していた程度だといわれている。実態としては、大目付や目付を補う将軍直属の監察官に相当する職であることがうかがえる。
職務
御庭番は、江戸幕府の職制では大奥に属する男性の職員・広敷役人のひとつで、若年寄の支配だった。彼らは江戸城本丸に位置する庭に設けられた御庭番所に詰め、奥向きの警備を表向きの職務としていた。時に将軍の側近である御側御用取次から命令を受け、情報収集活動を行って将軍直通の貴重な情報源となった[1]。また、日常的に大名・幕臣や江戸市中を観察し、異常があれば報告するよう定められていたといわれる。
庭の番の名目で御殿に近づくことができたので、報告にあたっては御目見以下の御家人身分であっても将軍に直接目通りすることもあり、身分は低くても将軍自身の意思を受けて行動する特殊な立場にあった。
その特殊な任務のために功績を挙げて出世する機会に恵まれ、中には幕末に初代新潟奉行・長崎奉行を歴任した川村修就、勘定奉行・外国奉行を歴任し、日米修好通商条約批准のため使節副使としてアメリカに渡った村垣範正のような人物もいる。
起源
御庭番の前身は、吉宗が将軍就任前に藩主を務めていた紀州藩お抱えの薬込役(くすりごめやく)と呼ばれる役人たちで、紀州藩でも奥向きの警備を表向きの職務とし、藩主の命を受けて情報収集を行っていたといわれる。吉宗が将軍に就任したとき、薬込役のうち十数人の者たちが吉宗に随行して江戸に移り、幕臣に編入されて御庭番となった。紀州藩の薬込役は全体で数十人おり、その中から幕臣に編入されたのは十数人だけだったが、これは輪番で江戸に随行した者を任命しただけで、特に選抜して連れてきたというわけではない。
吉宗が御庭番を新設した理由としては、家康以来幕府に仕えてきた伊賀者や甲賀者が忍者としての機能を失い、間諜として使い物にならなくなったことや、傍流の紀州家から将軍家を継いだ吉宗が代々自分の家に仕えてきて信頼のおける者を間諜に用いようとしたことが、理由として挙げられる。また、幕府の公式の監察官だった大目付が後代には伝令を主たる職務とする儀礼官になったこともあり、将軍直属の監察能力が形骸化したため、これを補って将軍権力を強化する意味あいもあった。
・「御庭番」の家筋の祖となった17名の採用経緯と役職名の変遷[2]
・享保元年10月に吉宗の長男長福丸(後の徳川家重)に供奉して江戸城に入った者(「広敷伊賀者」に任命、元紀州藩「薬込役」)
・川村弥五左衛門
・宮地六右衛門
・薮田定八
・享保元年11月に江戸に出府した者(12月に「広敷伊賀者」に任命、元紀州藩「薬込役」)
・明楽樫右衛門
・西村庄左衛門
・享保3年5月に吉宗の母(浄円院)とともに和歌山城から江戸城に入った者(「広敷伊賀者」に任命、元紀州藩「薬込役」)
・馬場瀧右衛門
・中村万五郎
・野尻七郎兵衛
・村垣吉平
・古坂興吉
・高橋與右衛門
・倉地文左衛門
・梶野太左衛門
・和多田孫市
・林惣七郎
・吉川安之右衛門
・以上、江戸幕府の「広敷伊賀者」となった16名は享保11年2月に7名が「御休息御庭締戸番(おきゅうそくおにわしめどばん)」、残りの9名は「伊賀御庭番」となり、従来の「広敷伊賀者」と区別された。
・享保14年8月に紀州藩出身で江戸幕府でも「口之者」を勤めていた者1名(「御庭番」に任命、元紀州藩「口之者」)
・川村新六
・以上の合計17名が「御庭番」の祖となった。
身分と家柄
吉宗のとき紀州藩で薬込役と呼ばれていた隠密任務に就いていたものを幕府に編入し、最終的に17名を初代の御庭番に任命した。以後の御庭番はこの子孫17家の世襲からなり、さらに分家9家が生まれて合計26家となり、歴史の中で4家が解任され、幕末には22家が残った。彼らは、世襲によってまかなわれる御庭番の家筋としての団結を保ち、御庭番の職務を協同して行っていた。[2]
御庭番の家筋の諸家は、当初はすべてが下級の御家人だったが、幕末までに大半の家が下級の旗本にまで上昇した。御庭番出身の者が出世すれば、当然に軽輩の職務である御庭番からは離れることになるが、その子が新たに幕府に出仕するときは御庭番となるのが定めで、旗本に出世した御庭番の子は旗本格の御庭番になった。
彼らは当時の武鑑に御庭番として収録されており、間諜でありながら氏名、住居はもとより収入や経歴に至るまで公開されていた。
遠国御用
御庭番が幕臣としての身分を隠し、遠国に実情を調査に出かける旅行のことを「遠国御用」という。前述したように、彼らは一般に言われるような華々しい間諜行動はとらなかったようだが、それでもしばしば命ぜられる遠国御用は重要な任務だった。
御庭番に関しては、将軍の命を受けてすぐに幕府御用達呉服店におもむき、秘密の部屋で変装して家族にも告げず、ただちに出立するといった記述をよく見かけるが、御庭番自身の談話や彼らの書き残した記録、幕府に残る公的記録からは、これが伝説に過ぎないことが見て取れる。
実際には、情報収集の命令を受けた御庭番は、出発前に一度自宅に戻って綿密に準備していた。彼らは、幕臣として出世後に御庭番の職務を離れた長老までも含めた、御庭番家筋の間で相互に親密に連絡を取り合っており、命を受けた御庭番は家筋の長老をはじめとする先輩御庭番たちに、調査内容について相談していた。それでも表向きには、御庭番たちは「他人はもとより親兄弟と雖も職務上の秘密を漏らさない」旨の誓紙を就任時に提出していた。また、江戸で事前の調査を行い、予備知識を蓄えてから出発した。調査報告にあたっても報告は書面で認め、先輩御庭番たちの校閲を経てから報告が行われた。
隠密調査中は、公式には病欠扱いとされていたようである。報告書上の旅程は、下命直後に出発して帰着直後に復命した、という形式をとったが、実際には事前の準備と事後の報告書作成のため、前後数日間の在宅期間が存在していた。これは、脇目もふらず職務に邁進したという建前をとる必要があったことと、日割で出張手当が支給されたことによると考えられる。
遠国御用のたびに立ち寄ることになる京都・大坂には、毎回御用を命ぜられた御庭番が立ち寄る御用達町人が、御庭番の隠密調査を支援するための一種の現地スタッフとして配置されており、御庭番は初めての御用でも彼らの助けを得て無事に任務を果たすことができた。
創作作品
一般には、いわゆる間者や忍者の類だったとする御庭番像が広まっており、時代劇・時代小説や漫画などでそのような描写が数多くなされている[注釈 1]。
脚注
注釈
1. ただし、忍者についても、時代劇・時代小説・漫画などで大幅な脚色が見られる。現実の忍者の諜報活動も御庭番と同程度のものだったとも考えられ、むしろ忍者同様に大幅な脚色がなされていると言える。
出典
1. 深井雅海「江戸幕府御側御用取次の基礎的研究」1983年5月(『国史学 第120号』)
2. a b 深井雅海、「徳川将軍の情報収集活動」 『情報管理』 1991年 34巻 3号 p.219-231, doi:10.1241/johokanri.34.219, 科学技術振興機構
参考文献
・旧事諮問会編『旧事諮問録』(岩波文庫、1986年) - 明治維新後に元御庭番の川村帰元(川村修就の嫡子で、洋画家川村清雄の父)がその職務について語った記録を載せる。
・小松重男『旗本の経済学』(新潮選書、1991年) - 御庭番家筋の川村修富(川村修就の父)の覚書をまとめたもの。
・深井雅海『江戸城御庭番 徳川将軍の耳と目』(中公新書、1992年)
外部リンク
・『御庭番』 - コトバンク
(wikiより)




9079 墨田 : 長明寺桜もち
9078 家康公お手植えのみかん(静岡市葵区鷹匠2丁目24-18・華陽院)
9077 下関 : 三枡
9076 華陽院(静岡市葵区鷹匠2丁目24-18)
9075 呉 : メロンパン本店
9074 能屋梵藝和尚墓(静岡市葵区井宮町48・瑞龍寺)
9073 東舞鶴 : 魚源 東舞鶴店
9072 朝日(旭)姫墓(静岡市葵区井宮町48・瑞龍寺)
| 生誕 | 天文12年(1543年) |
|---|---|
| 死没 | 天正18年1月14日(1590年2月18日) |
| 墓地 | 南明院(東福寺塔頭、京都府京都市東山区本町十五丁目) 泰雲山瑞龍寺(静岡県静岡市葵区井宮町) |
| 別名 | 朝日/旭、駿河御前、南明院 |
| 配偶者 | 佐治日向守または副田甚兵衛吉成 徳川家康 |
| 親 | 父:竹阿弥、母:仲(大政所) |
| 家族 | 兄弟姉妹:豊臣秀吉、朝日姫、ほか |
朝日姫(あさひひめ)、または旭姫は、戦国時代から安土桃山時代にかけての女性。豊臣秀吉の異父妹[1]とされるが、同父妹とする指摘もある[2]。徳川家康の正室[1](継室)。名は旭(あさひ)といわれる。家康との結婚後は駿河御前(するがごぜん)[3]と呼ばれ、死後は法名の南明院(なんめいいん)でも呼ばれる。
生涯
天文12年(1543年)、竹阿弥と、なか(大政所)の娘として誕生[4]。
尾張国の農民に嫁いだ。織田信長に仕えた秀吉の出世とともに、この夫も武士に取り立てられ、佐治日向守を名乗った[5]。ただし、最初の夫は佐治日向守ではなく別の織田家臣・副田甚兵衛吉成であったという話もある[4][6]。天正14年以前のことについては相互に矛盾するさまざまな伝承が存在してはっきりしない[6]。
一方、徳川家康は天正7年(1579年)に正室・築山殿を失って以来、側室は多数いたが、正室はいなかった[4](近年、西郷局が正室であったとする説がある[7])。小牧・長久手の戦い(天正12年)の和睦の後、秀吉は家康の第二子の於義丸(結城秀康)を自分の養子としていたが、秀吉は家康と主従関係をとりたいと考え、家康を妹婿とすることで形式的な従属を強めようと考えた[4]。
天正14年(1586年)、秀吉は政略結婚のために妹を強制的に夫と離縁させ、夫には500石を捨扶持として与えた[6]。この時に佐治日向守は自殺した[1]とも、剃髪して隠居したとも云うが、これも定かではない[6][4]。また、近年では本能寺の変の頃には既に離縁しており、政略結婚のために強制的に離縁された訳ではないとする説も出されている[8]。
秀吉は、同年2月22日、織田信雄の家臣で、陪臣にあたる滝川雄利(羽柴下総守)・土方雄久を使者として三河吉田に派遣し、酒井忠次を介して、徳川家康を懐柔するための縁組を持ちかけた。家康はこれを了承し、榊原康政が代理として上洛して結納を取り交わした。
朝日姫は4月に大坂城を出て聚楽第に入り、5月に浅野長政・富田知信・津田四郎左衛門・滝川儀太夫等を従えて150名余の花嫁行列は京を出発し、途中、信雄の家臣・織田長益と滝川雄利がさらに加わって、11日、三河西野に達し、14日に浜松に至って、家康の正室(継室)として徳川家に嫁いだ[9]。この時、家康45歳、朝日姫44歳だった。朝日姫は駿河府中(駿府)に居を構え、駿河御前と呼ばれた。
家康は婚儀が済んでも上洛しなかったため、大政所が岡崎の駿河御前を訪ねるという形でさらに人質となり、家康は上洛して秀吉との和議が成立した。
その後、天正16年(1588年)に母・大政所の病気の見舞いを理由に上洛したが、しばらくして快方に向かったので、9月9日、駿河に帰国した。次の上洛時期は不明であるが、聚楽第に住んでいる。天正17年(1589年)11月には病気に罹っており[8]、天正18年(1590年)1月14日、死去した[1]。48歳[1]。
この頃、家康は小田原征伐への出征準備中であり、喪を秘して東福寺[1](京都府京都市東山区本町十五丁目)に葬った。駿河御前の晩年は病気がちで臨済宗に帰依した。法名は南明院殿光室宗王大禅尼(南明院殿光室総旭大姉)[注 1]。
東福寺塔頭に南明院があるが、これは家康が駿河御前の菩提を弔うために後に建立したものである。臨済宗においての徳川将軍家の菩提寺となっていて、同院に肖像画も所蔵されている。
また、駿府の泰雲山瑞龍寺(静岡県静岡市葵区井宮町)にも分骨された墓があるが、墓の建立は秀吉によるという説と家康によるという説がある[10][11]。曹洞宗の同寺での法名は瑞龍寺殿光室総旭大禅定尼。
関連作品
ドラマ
・『大坂城の女』(1970年(昭和45年) フジテレビ 演:桜町弘子)
・『新書太閤記』(1973年(昭和48年)NET(現テレビ朝日) 演:岡田可愛)
・『関ヶ原』(1981年(昭和56年)TBS 演:三戸部スエ)
・『おんな太閤記』(1981年(昭和56年)NHK大河ドラマ 演:泉ピン子)
・『徳川家康』(1983年(昭和58年)NHK大河ドラマ 演:岩本多代)
・『独眼竜政宗』(1987年(昭和62年)NHK大河ドラマ 演:野川由美子)
・『秀吉』(1996年(平成8年) NHK大河ドラマ 演:細川直美)
・『功名が辻』(2006年(平成18年) NHK大河ドラマ 演:松本明子)
・『寧々〜おんな太閤記』(2009年(平成21年)テレビ東京 新春ワイド時代劇 演:田畑智子)
・『江〜姫たちの戦国〜』(2011年(平成23年) NHK大河ドラマ 演:広岡由里子)
・『真田丸』(2016年(平成28年) NHK大河ドラマ 演:清水ミチコ)
・『どうする家康』(2023年(令和5年) NHK大河ドラマ 演:山田真歩)
脚注
注釈
1.『野史』では、南明院光室総旭[1]。
出典
1. a b c d e f g 飯田, p. 5.
2. 小和田 1985, p. 67.
3. 渡辺 1919, p. 286.
4. a b c d e 杉山ほか 2007, p. 50.
5. 渡辺 1919, p. 283.
6. a b c d 渡辺 1919, p. 285.
7. 黒田基樹「家康の妻と子どもたち」黒田 編著『徳川家康とその時代』戒光祥出版〈シリーズ・戦国大名の新研究 3〉、2023年5月。ISBN 978-4-86403-473-9。P36-37.
8. a b 黒田基樹「家康の妻と子どもたち」黒田 編著『徳川家康とその時代』戒光祥出版〈シリーズ・戦国大名の新研究 3〉、2023年5月。ISBN 978-4-86403-473-9。P40-41.
9. 渡辺 1919, pp. 285–286.
10. “旭姫ってどんな人? 築山殿亡き後の家康正室 兄秀吉により前夫と強制離縁、豊臣と徳川の架け橋に”. 静岡新聞. 2023年9月3日閲覧。
11. “~令和4年度第3回静岡市文化財保護審議会を開催~静岡市指定有形文化財の指定について答申を受けました。”. 静岡市. 2023年9月3日閲覧。
参考文献
・飯田忠彦修ほか「第八十一巻 徳川外戚伝」『野史』 二十八、国文社。NDLJP:771775/6。
・杉山博・渡辺武・二木謙一・小和田哲男 編『豊臣秀吉事典』(コンパクト)新人物往来社、2007年。ISBN 9784404034687。
・小和田哲男『豊臣秀吉』中央公論社〈中公新書〉、1985年。ISBN 9784121007841。
・渡辺世祐『国立国会図書館デジタルコレクション 豊太閤と其家族』日本学術普及会、1919年。
外部リンク
・世界大百科事典 第2版『朝日姫』 - コトバンク
(wikiより)

朝日姫像(南明院蔵)








9071 日本橋 : 吉田
9070 太原雪斎墓(静岡市葵区大岩町7-1・臨済寺)
| 太原 雪斎 / 太原 崇孚 | |
|---|---|
| 時代 | 室町時代 - 戦国時代 |
| 生誕 | 明応5年(1496年) |
| 死没 | 弘治元年閏10月10日(1555年11月23日) |
| 改名 | 九英承菊→太原崇孚 |
| 墓所 | 静岡県富士市の善得寺跡 静岡県静岡市の臨済寺 静岡県藤枝市の長慶寺 |
| 主君 | 今川義元 |
| 氏族 | 庵原氏 |
| 父母 | 父:庵原政盛 母:興津正信の娘 |
太原 雪斎/太原 崇孚(たいげん せっさい/たいげん そうふ[注釈 1])は、戦国時代の武将・政治家。臨済宗の僧侶(禅僧)で今川家の家臣。諱は崇孚。雪斎の号は居住した場所に「雪斎」と書かれた扁額があったことが由来[3]。
父は庵原城主・庵原政盛(左衛門尉)。母は興津横山城主・興津正信の娘。父方の庵原氏は駿河庵原(現在の静岡市清水区)周辺を治める一族。母方の興津氏は横山城を本拠に海運を掌握し海賊(水軍)も率いていた。両家とも今川氏の譜代の重臣。今川義元に仕えて義元の家督相続に尽力。相続後は義元を補佐して内政・外交・軍事に敏腕を発揮して今川家の全盛期を築き上げた。
後奈良天皇から宝珠護国禅師を諡された[4]。
生涯
義元の幼少時代
雪斎が義元と初めて出会ったのは大永2年(1522年)頃のこととされる[5][6]。はじめ雪斎は九英承菊(きゅうえいしょうぎく)と名乗って、駿河富士山麓の善得院(現在の臨済寺)に入寺し、幼名を芳菊丸といった義元の教育係を務めた[5]。後に京都五山の建仁寺で修行をしていた。この頃から秀才として将来を嘱望されていたと言われる。この噂を聞いた主君の今川氏親から帰国して今川家に仕えるよう要請されるが、一説にはこの要請を2度までも断ったと伝えられる。享禄3年(1530年)、建仁寺の師である常庵龍崇によって芳菊丸(義元)が得度の儀式(薙髪染衣)を行い、承芳と名を改める。2人はさらなる修行のため、大永5年(1525年)と天文2年(1533年)の2度に渡って上洛し、善得院から建仁寺へ、さらに妙心寺へと移った[6]。この頃に承芳(義元)は道号「栴岳」を与えられ栴岳承芳と名乗った。
今川家では大永6年(1526年)に氏親が死去。その葬儀の頃、義元は富士郡の善得寺にいた。氏親は、今川領国としては不安定な河東の安定化を図り、同地において重要な立場にある庵原氏出身の雪斎に、義元の補佐役・養育係を任せていた[7]。天文4年(1535年)、善得寺の住持であった琴渓承舜[注釈 2]の7回忌法要のため駿河に戻り、再び善得寺に入った。
義元の家督相続
天文5年(1536年)3月17日、氏輝が死去、為和の日記や武田家臣の日記『高白斎記』などに拠れば同日に氏輝の後継的立場にあった次弟の彦五郎も死去している。継嗣が無かったため、氏親の3男で義元の異母兄である玄広恵探と栴岳承芳こと義元の家督争いが起こる。この時、雪斎は義元の家督相続に尽力し、花倉館に籠城した玄広恵探を攻め、自刃に追い込んだとされる[6][9](花倉の乱)。このため、還俗して家督相続を実現させた義元は雪斎を厚く信頼し、政治・軍事における最高顧問として重用する。
雪斎の活躍
雪斎は義元を政治・軍事の両面で全面的に補佐した。義元も雪斎を厚く信任して手厚い庇護を与えた[10]。天文6年(1537年)、雪斎は氏親の時代から悪化していた甲斐の武田信虎との関係改善に務め、義元の正室に信虎の長女・定恵院を迎え、信虎の嫡子・晴信に三条公頼の娘・三条の方(今川家の遠縁)を周旋して、両家の間に甲駿同盟を成立させた[6][11][12]。だがこのため、これまで同盟関係にあった相模の北条氏綱との関係が悪化し、氏綱は駿河東部に侵攻し、同地を占領した[13](河東の乱)。雪斎はこれに対して拙速を避け、天文14年(1545年)に関東管領の山内上杉憲政を誘い込んで武田晴信と共同して河東に出兵し、同地を取り戻している[13][14]。(河越城の戦いも参照)。
天文12年(1543年)、雪斎は臨済寺の開山として迎えた大休宗休の門人となることが許されて同じ臨済宗でもそれまでの建仁寺派から離れて妙心寺派に転じ、法名も後世に知られる太原崇孚と改める[15][16]。これは、当時妙心寺派の勢力が東国を中心に急速に拡大していたことに対応しようとしたものとされる(ただし、妙心寺が五山系の諸派と対立していた訳ではないことに注意を要する)。なお、それに先立って雪斎は同じ妙心寺派の明叔慶浚を臨済寺に招いて一時的に住職の地位を譲っている[15][17]。
天文15年(1546年)10月、織田信秀が西三河に侵入して松平広忠が救援を要請してきたのを機会に、雪斎は大軍を率いて西三河に介入する[18]。天文16年(1547年)、今川軍を率いて三河田原城を攻めて、同城を落とした[19][20]。天文17年(1548年)3月19日、三河小豆坂で尾張の織田信秀と戦い、織田軍を破った[18][19][20](第2次小豆坂の戦い)。天文18年(1549年)11月、三河安祥城を攻めて織田信広を捕縛し、織田信秀と交渉を重ねて、織田家に奪われていた人質の松平竹千代(のちの徳川家康)を今川氏のもとへと取り戻している[21][20]。この時の人質交換は三河の西野笠寺で行なわれた(『徳川実紀』東照宮御実記巻一 天文十八年)[21][22]。安祥城を失ったことにより織田氏の勢力は著しく減退し、今川氏は西三河の支配権を得た。
天文19年(1550年)6月に義元の正室・定恵院が死去し、今川家と武田家の婚姻関係が絶えた。このため天文21年(1552年)11月に義元の長女・嶺松院を晴信の嫡子・義信の正室として嫁がせて同盟・婚姻関係を保持した。
天文23年(1554年)3月には甲斐の武田晴信、相模の北条氏康に働きかけ、甲相駿三国同盟の締結に尽力した。この同盟に伴い、義元の嫡子・氏真に氏康の娘・早川殿が嫁ぐ。これにより、今川家は三河など西方面への作戦に兵力を集中することが可能になった[23][19][13]この同盟に際し、武田晴信、北条氏康、主君の今川義元の三家の当主を駿河の善得院(現・臨済寺)で会合させたとの伝説もあり、現在では面会そのものは後世の創作との説が有力である(甲相駿三国同盟#善得寺会盟)。
このように外交と軍事の活躍が目立つ雪斎であるが、天文14年(1545年)に高僧を招いて駿府に臨済寺を開寺し、自らは2世住持となり、天文19年(1550年)には京都妙心寺の第35代住持に就任するなど、僧侶としても活躍している[10]。雪斎の時代に駿河では善徳院と清見寺を中興し、今林寺や承元寺、葉梨長慶寺、庵原一乗寺が、遠州では定光寺が、三河では太平寺が興され、妙心寺派の普及がなされている。
天文22年(1553年)、今川家の分国法である今川仮名目録33か条の追加21箇条の制定に寄与する。また臨済宗を中心とした領内における寺社・宗教の統制や、在来商人を保護する商業政策なども行ない、今川氏の最盛期に大きく貢献した。中国の史書である歴代序略を印刷している。
最後
弘治元年(1555年)閏10月10日、駿河長慶寺にて死去した[22][24]。享年60[5]。
人物像
今川義元の右腕として手腕を発揮し、今川氏の発展に大きく寄与したことから「黒衣の宰相」「名補佐役」「軍師」などと現在では評価されている。『今川分限帳』では「執権」と評している。このように雪斎の手腕は今川義元の全盛期を築き上げた人物として後世には見られていた[25]。そのため「雪斎が生きていれば桶狭間の敗戦はなかったろう」とまでいわれる。また『甲陽軍鑑』では雪斎の死後、山本勘助が「今川家の事、悉皆坊主(雪斎)なくてはならぬ家」と評したとしている。家康も「義元は雪斎和尚とのみ議して国政を執り行ひし故、家老の威権軽ろし。故に雪斎亡き後は、国政整はざりき」と評したという。
なお、庵原一族の庵原忠胤が武田信玄の家臣・山本勘助の義母(父の後妻)の親族と見られており、雪斎と勘助は縁戚関係にあった可能性もある[4]。
人質時代の徳川家康の学問・軍学の師とする説も存在しており、小和田哲男が支持している[1]。しかし雪斎の駿府不在時期と重なり、雪斎は名目上の師で実際は雪斎の弟子が行ったとする説[26]を始め、その他異論・反論も多く、雪斎を家康の師匠としている『朝野旧聞裒藁』の記述も疑問視されている。
雪斎は『御屋形対諸宗礼之事』という義元の太守としての心得を遺している。これによると雪斎は有徳の僧侶であれば形式などくだらないものにこだわらないで尊敬する事、禅師・上人などの号に奢って堕落する高僧を非難するなど、合理主義者としての素養をうかがわせる一文がある。
脚注
注釈
1. 一般的には「すうふ」で通っているが、近年の研究では「そうふ」と読むのが一般的である[1][2]。
2. 今川氏の同族である吉良氏の出身。建仁寺において常庵龍崇と共に若き日の雪斎の師となり、大永4年(1524年)に善徳寺の住持となった。以上の経緯から彼の住持就任には雪斎の推挙があったとみられる[8]。
出典
1. a b 小和田哲男『今川義元:自分の力量を以て国の法度を申付く』ミネルヴァ書房、2004年9月。
2. 有光友學『今川義元』吉川弘文館〈人物叢書〉、2008年。
3. 大塚 2010, p. 48.
4. a b 川口 2009, p. 76.
5. a b c 川口 2009, p. 91.
6. a b c d 歴史群像編集部 2007, p. 293.
7. 平野 1987.
8. 今枝愛眞「戦国大名今川氏と禅宗諸派」『静岡県史研究』14号、1997年。/所収:黒田 2019a, pp. 264–265
9. 川口 2009, p. 92.
10. a b 川口 2009, p. 93.
11. 川口 2009, pp. 93–94.
12. 川口 2009, p. 77.
13. a b c 川口 2009, p. 94.
14. 歴史群像編集部 2007, pp. 295–296.
15. a b 黒田 2019b, pp. 78–79, 82–83, 小川剛生「今川文化の歴史的意義-和漢聯句を視座として-」
16. 黒田 2019b, p. 154, 丸島和洋「今川氏家臣団論」.
17. 黒田 2019b, pp. 200–201, 長谷川幸一「宗教勢力への政策と統制」.
18. a b 歴史群像編集部 2007, p. 294.
19. a b c 川口 2009, p. 78.
20. a b c 川口 2009, p. 95.
21. a b 歴史群像編集部 2007, p. 295.
22. a b 川口 2009, p. 79.
23. 歴史群像編集部 2007, p. 296.
24. 川口 2009, p. 96.
25. 歴史群像編集部 2007, p. 292.
26. 黒沢脩 著「今川家執権雪斎長老と寿桂尼」、今川氏研究会 編『駿河の今川氏 第一集』谷島屋書店、1975年。/所収:黒田 2019a, p. 250
参考文献
・歴史群像編集部 編『戦国驍将・知将・奇将伝 ― 乱世を駆けた62人の生き様・死に様』〈学研M文庫〉2007年。
・川口素生『戦国軍師人名事典』〈学研M文庫〉2009年。
・大塚勲『戦国大名今川氏四代』羽衣出版、2010年。
・平野明夫「太原崇孚雪斎の地位と権限」『駿河の今川氏』10号、1987年。
・遠藤英弥「今川氏の三河領国化と太原崇孚」『駒澤大学大学院史学論集』38号、2008年。
・黒田基樹 編『今川氏親』戎光祥出版〈シリーズ・中世関東武士の研究 第二六巻〉、2019年4月。ISBN 978-4-86403-318-3。
・黒田基樹 編『今川義元とその時代』戎光祥出版〈シリーズ・戦国大名の新研究 第1巻〉、2019年6月。ISBN 978-4-86403-322-0。
関連作品
テレビドラマ
・徳川家康(演:小林桂樹、1983年、NHK大河ドラマ)
・武田信玄(演:財津一郎、1988年、NHK大河ドラマ)
・風林火山(演:伊武雅刀、2007年、NHK大河ドラマ)
・おんな城主 直虎(演:佐野史郎、2017年、NHK大河ドラマ)
・麒麟がくる(演:伊吹吾郎、2020年、NHK大河ドラマ)
漫画
・センゴク外伝 桶狭間戦記 - 宮下英樹(講談社) 義元を導き生き方を決定付けた重要な登場人物であり、もうひとりの主人公である若き日の織田信長にとっても、生涯で初めての超えるべき巨大な敵として描写されている。
小説
・桶狭間に死す - 坂上天陽(学習研究社、歴史群像新書) 雪斎が存命の場合の桶狭間合戦を舞台にした架空戦記小説。
・赤神諒『計策師 甲駿相三国同盟異聞』(朝日新聞出版社、2019年10月7日)ISBN 978-4022516404
関連項目
・戦国時代の人物一覧
・甲相駿三国同盟
(wikiより)
9069 八重洲 : 酒ぐら 金八
9068 今川氏輝墓(静岡市葵区大岩町7-1・臨済寺)
| 時代 | 戦国時代 |
|---|---|
| 生誕 | 永正10年(1513年) |
| 死没 | 天文5年3月17日(1536年4月7日) |
| 改名 | 竜王丸(幼名)→氏輝 |
| 別名 | 五郎(通称) |
| 戒名 | 臨済寺殿用山玄公大居士 |
| 墓所 | 静岡県静岡市葵区大岩町の臨済寺 |
| 官位 | 従五位下、上総介 |
| 幕府 | 室町幕府駿河・遠江守護職 |
| 主君 | 足利義晴 |
| 氏族 | 今川氏 |
| 父母 | 父:今川氏親、母:寿桂尼 |
| 兄弟 | 氏輝、彦五郎、玄広恵探、象耳泉奘、義元、氏豊、吉良義堯室、瑞渓院(北条氏康室)、松平親善妻(のち鵜殿長持室)、中御門宣綱室、関口親永室 |
今川 氏輝(いまがわ うじてる)は、戦国時代の駿河の戦国大名。今川氏の第10代当主。
生涯
永正10年(1513年)、駿河の守護大名の今川家に第9代当主・今川氏親の嫡男として生まれる。大永5年(1525年)に元服し、氏輝を名乗る。翌大永6年(1526年)6月23日には父氏親が死去し、家督を継いだ。家督継承時は14歳と若年であったため、母の寿桂尼が後見人として補佐した。
以後実質的には寿桂尼が実権を握っていたが、天文元年(1532年)頃から氏輝が親政を開始する。天文2年(1532年)には遠江において検地を行ない、さらに朝廷に献上物を送るなどして、中央との関係強化に務めた。氏親期からの相模国後北条氏との駿相同盟は維持される。武勇にも秀でており、天文4年(1535年)には、相模の北条氏綱と連携して甲斐国守護武田信虎と対立する国人勢力を後援して信虎と争い、甲斐国都留郡山中(現在の山梨県南都留郡山中湖村)において武田信虎の軍勢と戦っており、これにより一時的にとはいえ甲斐国の半分ほどを占拠したものと思われる。
天文5年(1536年)には冷泉為和とともに歌会のため小田原へ赴いている[注釈 1]が、同年3月17日に死去している、享年24。為和の日記や武田家臣の日記『高白斎記』などに拠れば同日に氏輝の後継的立場にあった弟の彦五郎も死去している。嫡子の無い氏輝の死後には出家していた弟の栴岳承芳(後の義元)と玄広恵探の間で家督を巡る花倉の乱が発生している。氏輝は病弱であったものの、彦五郎と同日に死去している突然死には諸説があり、疫病説[注釈 2]・毒殺説・自殺説などが疑われている。
領国統治
氏輝期には氏輝自身による40通以上の発給文書が残されているが、家督継承から氏輝の死去、義元の家督相続に至るまで寿桂尼による発給文書が15通見られ、氏輝は病弱な人物であったと考えられている。
氏輝期には対外軍事行動が少なく、氏親期の施策を踏襲し安定した領国統治が行われていたと考えられており、領内における検地などが実施されている。一方で、氏親期の発給文書には富士氏や興津氏といった国人領主の子の「馬廻衆」としての登用や、商業振興策などの施策が見られる。小和田哲男はこれを新しい施策として評価しているが、史料的制約から氏輝期の創始とするのには慎重な意見もある。
また、京都から駿河に数多くの公家が滞在し歌会などが催され今川文化が形成されているが、氏輝も冷泉為和の門弟として和歌を学び歌会へも参加している教養人で、『新古今和歌集』などの古典も所蔵している。
脚注
注釈
1. 大石泰史は単なる歌会ではなく、妹の瑞渓院が北条氏康に嫁ぐのに同行したとしている[1]。
2. 『勝山記』には相模・駿河に隣接する甲斐・都留郡で天文5年に疫病発生の記事が載せられていること、冷泉為和の歌集から氏輝の小田原訪問には彦五郎が同行したのが確実であることから、一緒に行動していた氏輝と彦五郎が揃って疫病にかかったとしても不自然ではない、とする見方がある[2]。
出典
1. 大石泰史 著「対立から同盟へ-今川義元・氏真と氏康の関係性-」、黒田基樹 編『北条氏康とその時代』戎光祥出版〈シリーズ・戦国大名の新研究 2〉、2021年、263頁。ISBN 978-4-86403-391-6。
2. 平山優『武田信虎 覆される「悪逆無道」説』戎光祥出版〈中世武士選書4〉、2019年、239-240頁。ISBN 978-4-86403-335-0。
参考文献
・有光友學『今川義元』吉川弘文館〈人物叢書〉、2008年。
(wikiより)






9067 墨田 : 吉備子屋
9066 今川範政墓(静岡市葵区大岩町7-1・臨済寺)
| 時代 | 南北朝時代 - 室町時代前期 |
|---|---|
| 生誕 | 正平19年/貞治3年(1364年) |
| 死没 | 永享5年5月27日(1433年6月14日) |
| 別名 | 五郎 |
| 戒名 | 今林寺殿慶堂道賀大禅定門 |
| 官位 | 従四位下、上総介、民部大輔 |
| 幕府 | 室町幕府征夷副将軍・駿河国守護 |
| 主君 | 足利義持→義量→義教 |
| 氏族 | 駿河今川氏 |
| 父母 | 父:今川泰範、母:上杉朝顕の娘 |
| 兄弟 | 範政、泰国、範信 |
| 妻 | 正室:上杉氏定の娘 |
| 子 | 範豊、範忠、範勝、小鹿範頼(範満の父) |
今川 範政(いまがわ のりまさ)は、南北朝時代から室町時代前期にかけての守護大名・歌人。駿河今川氏の第4代当主。今川義元は玄孫にあたる。
武将として上杉禅秀の乱の鎮圧をはじめとする多くの功績を挙げた一方で、和歌や書にも秀でた才能を示した。『源氏物語提要』などの著書がある。
生涯
1409年、父・泰範の死により家督を相続する(泰範の没年には異説が多く、それ以前に家督を継いだとも考えられている)。
1416年に上杉禅秀の乱が起こると、上杉禅秀の攻撃を受けて鎌倉から逃亡してきた鎌倉公方・足利持氏を保護した。そして将軍・足利義持の命を受けて軍を率いて上杉房方らと共に鎌倉に攻め入り、禅秀らを討って乱を平定した。この折の功により範政は幕府の信任を得て、副将軍の重職に任ぜられることとなった。
その後、将軍が代替わりして足利義教の代になると、義教からの寵愛を受けて重用された。京都の義教と鎌倉の持氏との対立が深まったときには、鎌倉の監視役を務め、1432年には富士山を遊覧してきた義教を駿府にて饗応している。
しかし最晩年に末子の千代秋丸(小鹿範頼)を溺愛して家督を譲ろうとしたため、これが原因で千代秋丸と嫡男の範忠の間で熾烈な家督争いが発生する。この争いの最中で、失意のうちに永享5年(1433年)5月27日に死去した。享年70。死後、家督は幼少の千代秋丸が継ぐことで鎌倉公方の干渉を受けることを恐れた義教の裁定によって、成人していた範忠が継承することとなった。
歌人として
歌人としても知られた人物であった。正徹・正広などとも交友があり、『新続古今和歌集』(1438年)に和歌が採録されている[1]。
1432年には、源氏物語の梗概書『源氏物語提要』を著した。
系譜
・正室:上杉持定の娘
・四男:小鹿範頼(与五郎、範満の父)
・生母不詳
・長男:今川範豊(五郎)
・次男:今川範忠(彦五郎)
・三男:今川範勝(弥五郎)
『満済准后日記』に範忠を娚(=甥)と記し(永享5年3月15日条)、弥五郎(範勝)を「二男」、千代秋丸をその舎弟と記す(同年4月14日条)記事があることから、範忠は範豊の急死後に急遽養子に迎えられた甥で、範政の実子で無かったのもその後の家督争いの一因であったとする大石泰史の説がある。大石は範忠の実父については確定できないが、今川氏の諸系図でどの系図にもその存在が記載されている弟の今川泰国とみるのが適切としている[2][3]。
脚注
1. “今川範政”. 美術人名辞典(コトバンク収録). 2016年8月11日閲覧。
2. 大石泰史 著「今川範忠に関する基礎的考察」、戦国史研究会 編『論集 戦国大名今川氏』岩田書院、2020年、39-46頁。ISBN 978-4-86602-098-3。
3. 大石泰史『城の政治戦略』KADOKAWA〈角川選書〉、2020年、39-41頁。ISBN 978-4-04-703676-5。
(wikiより)




9065 高知:どんこ
高知一番の居酒屋とも言われています。

⇧ 入口です。

⇧ 入っていくと入口からして良い雰囲気です。
カウンターに着座してオーダーをしていると、お通しが来ました

⇧ ドロメの酢の物 ( みかん酢? ) ( ドロメ = 高知では生しらすをドロメと言います )

⇧ とりあえず生ビール

⇧ 大自然 林のソーダ割り

⇧ かつおのたたき ( お皿右上にある容器には、柑橘系の果汁が入っていました )
普通に見えますが、切り身がとても大きくビックリしました。

⇧ ニラとドロメのかき揚げ

⇧ アジのお刺身

⇧ あおさのかき揚げ

⇧ 日本酒 : 桂月

⇧ 相方はダバダ イタリアーノのソーダ割り ( ダバダ火振り ( 栗焼酎 ) で有名な無手無冠酒造です )

⇧ あつまん ( 海老を練り込んだ里芋団子のきのこ餡かけ )

⇧ メヒカリの一夜干しを炙ったもの
にんにく醤油も良いけど、そのままの塩味が一番かも

⇧ つくね焼き


⇧ 予約だけで完売してしまう鯖寿司、一人一切れ。
どれも美味しくて予約だけで満員になってしまうのが分かります。
9064 今川義元夫人(定恵院)墓(静岡市葵区大岩町7-1・臨済寺)
生涯
永正16年(1519年)、武田信虎の長女として生まれる。母は大井の方で、信玄の同母姉にあたる。
天文6年(1537年)2月10日、18歳で今川義元(18歳)に嫁いだ。義元は前年に花倉の乱を経て家督に就いたばかりであり、武田家との甲駿同盟を固める婚姻であった。しかし、この婚姻に対して武田家とは長らく敵対関係にあった相模の北条氏綱が激怒し、駿河国に侵攻して興津辺りまでを焼き払うという事件が起きた(河東一乱)。信虎が義元支援のため須走口まで出馬するが、富士川以東(河東)は北条氏に占領され、駿相の敵対関係は10年近く続くことになる。
天文7年(1538年)、定恵院は義元との間に長男今川氏真を生んだ。その後、娘の嶺松院・隆福院が生まれている。天文10年(1541年)6月、父信虎は娘夫婦と会うために駿河を訪問しているが、嫡男・晴信によって帰国を拒絶され、そのまま駿河に滞在することとなった。
天文19年(1550年)6月2日(6月10日とも)に死去した。享年32。法名は定恵院殿南室妙康大禅定尼。
死後、甲駿同盟を維持するために、天文21年(1552年)11月に、娘・嶺松院が甥・武田義信の許に嫁いだ。いとこ同士の結婚である。ついで弟・信玄の娘の黄梅院(定恵院の姪)が北条氏政に、北条氏康の娘の早川殿が氏真に嫁ぐことで、後の甲相駿三国同盟へと繋がっていった。
系譜
- 夫
・今川義元



9063 今川範忠墓(静岡市葵区大岩町7-1・臨済寺)
| 時代 | 室町時代 |
|---|---|
| 生誕 | 応永15年(1408年) |
| 死没 | 寛正2年5月26日(1461年7月4日)? |
| 別名 | 彦五郎(通称) |
| 戒名 | 宝処寺殿不二全大禅定門 |
| 官位 | 従四位下、民部大輔、上総介 |
| 幕府 | 室町幕府駿河守護 |
| 主君 | 足利義教→義勝→義政 |
| 氏族 | 駿河今川氏 |
| 父母 | 父:今川範政、母:上杉氏定の娘(範政の実子ではない説あり) |
| 兄弟 | 範豊、範忠、範勝、小鹿範頼(範満の父) |
| 子 | 義忠 |
今川 範忠(いまがわ のりただ、1408年(応永15年)-1461年7月4日(寛正2年5月26日)?)は室町時代中期の守護大名。駿河今川氏の第5代当主。今川義元は曾孫にあたる。
人物
第4代当主今川範政の次男として生まれたが、兄の範豊の死によって嫡子となる(ただし、この問題については後述する)。
だが、父が晩年に範忠を廃嫡して異母弟の千代秋丸(小鹿範頼)に譲ろうとしたため、これが原因で兄弟間の間で家督争いが起こった。永享5年(1433年)、父が死去すると鎌倉公方・足利持氏との対抗上から、幼年の千代秋丸よりも成人した範忠が後を継いだほうがよいと考えた6代将軍・足利義教の裁定により、在洛中の範忠が家督を継いで当主となった。この時、狩野氏や富士氏など一部の反対派が持氏の支援を受けて蜂起したが、義教の強い支持を背景に三河・遠江守護の斯波氏の部隊などが派遣され[1]、これを鎮圧している。
これらの経緯から幕府に対する忠誠心が強く、関東の監視役を務め、永享の乱や結城合戦では常に幕府方として参戦し、武功を挙げた。この功によって義教より同族庶流の今川姓使用を禁じ範忠の子孫のみに許す、いわゆる「天下一苗字」(この世に一家だけの姓とする)の恩賞が与えられ、以後範忠の直系子孫を今川氏の宗家とする事が保障された。これにより分家遠江今川氏の範将は堀越氏を名乗ったとされる(異説あり)。
康正元年(1455年)には8代将軍足利義政から鎌倉公方足利成氏討伐を任じられて後花園天皇から御錦旗を受け取ると直ちに領国に戻って、上杉氏討伐に向かっていて留守となっていた鎌倉を攻め落とした。このため、成氏は古河に逃れて古河公方と名乗った(享徳の乱)。
寛正元年(1460年)正月に駿河に帰国、翌年の3月20日に子の義忠に家督を譲った事が確認できるが、程なく死去(没年には異説がある)。
『満済准后日記』永享5年3月15日条の「娚子彦五郎」を巡って
『満済准后日記』における範忠=彦五郎に関する記述について、永享4年6月29日条には「駿河守護今河範政嫡子彦五郎遁世」と記載され[2]、翌年の永享5年3月15日条には「今河総州駿河守護娚子彦五郎」と記されている[3]。従来は、永享5年の記事に書かれた「娚子」は「嫡子」の誤りと考えられていたが、大石泰史は東京大学史料編纂所架蔵写真帳で永享5年3月15日条は楷書に近い崩し字で「娚子」と記載されているのを確認した上で、文明本『節用集』に「姪 メイ 娚 ヲイ」と書かれていること、江戸時代末期にまで甥を娚と表記する慣例があった[注釈 1]こと、加えて永享5年4月14日条には範政の二男として弥五郎、同舎弟として千代秋丸が登場していることも指摘して、永享5年3月15日条も単なる誤記ではなく、範忠は範政の実子ではなく甥であったと指摘した[4]。
大石は系譜上でその実在の可能性が高い範政の弟である泰国(宮内少輔)の子であったと考えるべきであるが、系図に記載されていない兄弟姉妹の子であった可能性も排除できないとしている[5]。大石は範忠擁立の背景として、長男である今川範豊(五郎)が死去した際に弥五郎(後の範勝)および千代秋丸(後の小鹿範頼)は幼少もしくは未誕生であったため、後を継ぐ養子が必要であったと推測する[6]。しかし、今川氏と何度も婚姻を重ねてきた上杉氏出身の室から千代秋丸が生まれたことにより、今川家中に内紛が生じ、今川範政は幕府が既に後継者として認めていた養子の範忠を強引に出家させたとする。鎌倉府の支配権と国境を接する範政とすれば、千代秋丸が実子と言うだけではなく代々の縁戚で鎌倉府にも影響を持つ上杉氏を血を引くという点でも今川氏の後継者に相応しいと考えていたと考えられるが、今川氏の家中には強引な範忠出家劇に反発する重臣もあり、何よりも室町幕府(足利義教)が今川氏と鎌倉府の接近を警戒して範忠の廃嫡を許さなかったために、範政-千代秋丸と範忠およびそれぞれを支持する家臣の間の内紛が生じたとしている[7][注釈 2]。
脚注
注釈
1. 東京大学史料編纂所『史料稿本』嘉永元年6月13日条に、江戸幕府が将軍徳川家慶の「外娚」である前田慶栄を鳥取藩(池田氏)当主に立てるように命じたとする史料が残されている。
2. 大石泰史は『城の政治戦略』でも、この問題が再論した上で[8]、範忠の子(義忠の兄弟)に千代秋丸らの名前を載せる『系図纂要』や『浅羽本系図所収今川系図』の問題点を指摘すると共に「彦五郎」を名乗った義忠に逸名の兄がいた可能性も指摘している[9]。
出典
1. 水野 2019, p. 63.
2. 大石 2020a, p. 35.
3. 大石 2020a, p. 42.
4. 大石 2020a, pp. 42–44.
5. 大石 2020a, p. 44.
6. 大石 2020a, pp. 44–45.
7. 大石 2020a, pp. 49–52.
8. 大石 2020b, pp. 37–39.
9. 大石 2020b, p. 41.
参考文献
・水野茂「徳願寺山城」『今川氏の城郭と合戦』戎光祥出版〈図説日本の城郭シリーズ11〉、2019年、60-63頁。
・大石泰史 著「今川範忠に関する基礎的考察」、戦国史研究会 編『論集 戦国大名今川氏』岩田書院、2020年、33-60頁。ISBN 978-4-86602-098-3。
・大石泰史『城の政治戦略』KADOKAWA〈角川選書〉、2020年。ISBN 978-4-04-703676-5。
(wikiより)




9062 今川義忠墓(静岡市葵区大岩町7-1・臨済寺)
| 時代 | 室町時代 - 戦国時代 |
|---|---|
| 生誕 | 永享8年2月10日(1436年2月26日) |
| 死没 | 文明8年2月6日(1476年3月1日) |
| 改名 | 龍王丸、義忠 |
| 別名 | 彦五郎(通称) |
| 戒名 | 長保寺殿桂山昌公大禅定門 |
| 墓所 | 静岡県静岡市葵区大岩町の臨済寺 静岡県菊川市の正林寺 |
| 官位 | 従五位下、上総介、治部大輔 |
| 幕府 | 室町幕府・駿河国守護 |
| 主君 | 足利義政 → 義尚 |
| 氏族 | 今川氏 |
| 父母 | 父:今川範忠 |
| 兄弟 | 義忠、範勝、範慶 |
| 妻 | 正室:北川殿(伊勢盛定の娘) |
| 子 | 正親町三条実望室、氏親、心範 |
今川 義忠(いまがわ よしただ)は、室町時代から戦国時代の武将、守護大名。駿河国守護。駿河今川家第8代当主。今川義元の祖父にあたる。
生涯
家督相続まで
嘉吉3年(1441年)、嘉吉の乱に際して父・範忠の名代として1,000騎を率いて尾張国まで出陣している[注釈 1]。
康正2年(1454年)の享徳の乱では、室町幕府より鎌倉公方・足利成氏討伐を命じられた父の名代として出陣した。鎌倉を攻略した功により、第8代将軍・足利義政から感状を受けた。なお元服して将軍・義政の偏諱(「義」の字)を受け義忠(「忠」は父・範忠の1字)と名乗ったのは、この前後と思われる。
そして寛正2年(1461年)に父の危篤を受けて駿河守護職を継承。家督を継承した義忠は、将軍・義政よりその庶兄である堀越公方・足利政知への援助を申し受けている。また、寛正6年(1466年)には甲斐国の武田信昌と共に鎌倉から古河へ移った成氏の討伐を命じられている。
遠江今川氏の苦境
今川氏は、かつて今川了俊の挙げた功により、本拠の駿河国以外に遠江国の守護職を一門で保持していたが、応永26年(1419年)以降の遠江守護職は斯波氏となっていた。
しかも、遠江今川氏の今川範将(了俊の曾孫)は、長禄3年(1459年)に自ら中核となって引き起こした「中遠一揆」を守護方に鎮圧された上に、その死後には堀越(現袋井市堀越)などの所領さえも守護代の狩野宮内少輔に奪われたばかりか、寛正6年(1465年)7月26日には、その所領の代官認可まで幕府から得た守護代に正当化されてしまっている。おかげで了俊以来の見付城(現磐田市見付)から追い出された今川貞延(範将の子、了俊の玄孫)を駿河で庇護したという経過から、今川氏と斯波氏との対立が深まっていた[2]。
応仁の乱と遠州出征
応仁元年(1467年)に応仁の乱が起こる。同2年(1468年)、上洛した[3]。山名宗全からの西軍への勧誘の動きもあったが、そもそも将軍警固のために上洛したことを理由に東軍が占拠している花の御所へ入り、そのまま東軍へ属した。西軍であった遠江守護の斯波義廉との、かねてからの対立関係から東軍に属したと考えられている[4]。
この上洛中に、伊勢新九郎(北条早雲)の姉妹である北川殿と結婚したと考えられている[5]。長年の通説では、新九郎は素浪人であり、北川殿は側室とされていた[6]。しかし、近年の研究で新九郎は幕府政所執事の名門伊勢氏の一族で備中伊勢氏の幕臣伊勢盛時であるとする説が有力である[7]。上洛中に義忠は政所執事・伊勢貞親をしばしば訪ねており、貞親の義弟(妹の夫)で盛時と北川殿の父・盛定が今川家との申次衆を務めていた。その縁で北川殿が義忠に嫁いだと考えられ、家柄の釣合から正室と考えるのが妥当であるとする説が有力となっている[8][9]。北川殿との間には文明5年(1473年)に嫡子・龍王丸(後の氏親)が生まれている。
応仁2年(1468年)、細川勝元からの要請を請け、東海道にある斯波義廉の分国であった遠江国を撹乱すべく駿河へ帰国した義忠は、積極的に遠江への進出を図り、斯波氏や在地の国人と戦った。
文明5年(1473年)、美濃国守護代格・斎藤妙椿から攻撃された東軍の三河国守護・細川成之を支援するため、将軍の命により三河へも出陣している。ところが兵糧用として将軍から預けられた所領を巡って、同じ東軍の尾張国守護・斯波義良(乱発生後、西軍方の斯波義廉に替わって遠江守護に任じられていた)と対立する。さらに、三河の吉良義真の被官となっていた遠江の国人・巨海氏、狩野氏とも対立し、義忠は同じ吉良氏の被官である飯尾長連の支援を受けてこれら国人を滅ぼしてしまった。これにより、同じ東軍であるはずの斯波義良、細川成之とも敵対することになった。
文明7年(1475年)義廉の重臣・甲斐敏光を西軍から寝返らせた東軍は、甲斐を遠江守護代として任じた。これにより同じ東軍ながら、遠江から(義良・義廉を問わず)斯波氏勢力を締め出したい野心を抱く義忠と甲斐氏の関係が悪化し、遠江の情勢は混沌とする[10]。甲斐と斯波義良は遠江へ下向し軍事的に圧力を強め、義忠もまた遠江へ出陣して斯波義良方の国人と戦った。
文明8年(1476年)、義忠から背いて斯波義良に通じ、見付城を修復し抵抗の構えを見せた遠江の国人・横地四郎兵衛と勝間田修理亮を討伐すべく、500騎を率いて出陣。勝間田城と金寿城(横地城:横地氏の拠点)を囲み、両人を討ったものの、その帰途の夜、遠江塩買坂(現在の静岡県菊川市)にて横地氏と勝間田氏の残党による一揆に不意を襲われた。馬上から指揮する義忠だったが、流れ矢に当たって討ち死した[注釈 2]。なお塩買坂は金寿城から駿府へ戻る経路とは反対方向にあり、金寿城で敗走した義忠が、坂の南にあった今川氏方の新野城に落ち延びる途中で討たれた可能性を指摘する説もある[13]。なお、義忠の忌日には諸説あるが、『太田道灌状』に道灌が(小鹿範満に加担するため)駿河に出陣したのが3月と記されているため、『今川記』に記載の2月19日が忌日とみられる[14]。
死後
『今川記』などでは、横地・勝間田の両名をあたかも幕府に背いた謀叛人であるかのように記している。しかし、両名が内通した斯波義良は幕府から任じられた守護であるから、横地・勝間田の行動は幕府・守護の指示に従ったにすぎず、むしろ攻撃して討たれた義忠の方が幕府に反抗した形である。
義忠の不慮の死により、僅か4歳の龍王丸(のちの氏親)が残されたが、義忠の行為によって龍王丸は幼少といえども生母である北川殿ともども反逆者の家族として討たれる可能性が生じた。このため今川氏では、義忠の従弟の小鹿範満が家督継承を主張して龍王丸派と範満派に分かれて内紛状態となり、享徳の乱では幕府(東軍)と協力関係にあった扇谷上杉家の上杉定正が範満の縁者(定正と範満の父が従兄弟)として家宰太田道灌を、堀越公方足利政知が執事の上杉政憲をそれぞれ駿河に派遣して介入する事態となった。この時、範満や道灌は龍王丸を討つことも考慮していたとみられている[13]。
幕府は今川氏嫡流である龍王丸の討伐までは考えていなかったものの、義忠死去の経緯から幕府が龍王丸の保護に乗り出す必要が生じていた。そのため、今川氏の内紛を調停(実際は龍王丸の保護)するために、長年駿河・遠江の問題に関わってきた伊勢盛定の息子で北川殿の兄弟であった幕府申次衆の伊勢盛時が駿河へ下向している[15]。このことが盛時と今川氏との絆を強め、後の盛時の関東進出と後北条氏誕生の契機になる。
なお、当時の遠江国には御一家衆で今川氏にとっては宗家筋にあたる三河吉良氏の所領(浜松荘など)があり、吉良氏は同じ一族である今川氏と斯波氏の争いに対しては中立を保とうとしたが、被官のうち巨海氏と狩野氏は義忠に抵抗して滅ぼされ、飯尾氏[注釈 3]は義忠に呼応して当主の飯尾長連は義忠と共に戦死してしまった(『宗長日記』)ため、遠江の吉良氏家臣団は斯波派と今川派に分裂し、その後の遠江を巡る今川氏と斯波氏の争いが継続される一因となった[17]。
偏諱を与えた人物
・伊達忠宗(藤四郎)[3]
系譜
・父:今川範忠
・母:不詳
・正室:北川殿 - 伊勢盛定の娘
・嫡男:今川氏親
・生母不明
・女子:正親町三条実望室
・男子:今川心範
脚注
注釈
1. 『今川記』では範政とされているが、範政は永享5年(1433年)に没しており、名代は龍王丸(義忠)と思われる[1]。
2. 大塚勲は『宗長日記』の記述から義忠の戦死を文明7年の誤りとする説を唱えているが[11]、黒田基樹は大塚の解釈誤りを指摘して文明8年で問題ないとしている。また、黒田は江戸時代には文明11年死去と記す文献もあったが、これは後継ぎである龍王丸が足利義政から義忠の後継者として安堵を受けた年を誤解したものである、と解説する[12]。
3. 飯尾氏が今川氏の譜代ではなく元々は吉良氏の家臣であったことは、『山科家礼記』応仁2年7月5日条に登場する「吉良殿内飯尾善四郎」という人名(「善四郎」は飯尾連龍まで飯尾氏歴代当主の通称として用いられた)から裏付けられる[16]。
出典
1. 小和田 1983, p. 124.
2. 小和田 1983, pp. 129–130.
3. a b 清水市史編さん委員会 1976, p. 362.
4. 小和田 1983, pp. 131–132.
5. 小和田 1983, p. 134.
6. 小和田 1983, p. 133.
7. 家永 2005, pp. 42–43.
8. 家永 2005, p. 43.
9. 小和田 1983, pp. 133–134.
10. 家永 2005, p. 45.
11. 大塚勲「今川義忠の討死と竜王丸の自立」『今川氏と駿河・遠江の中世』岩田書院、2008年。
12. 黒田 2019, pp. 11–12.
13. a b 家永 2013, pp. 235–236.
14. 黒田 2019, pp. 12.
15. 家永 2013, pp. 236–238.
16. 谷口 2019, p. 41.
17. 谷口 2019, pp. 40–48.
参考文献
・家永遵嗣「北条早雲の素性をさぐる」、「初代 北条早雲」『戦国の魁早雲と北条一族―北条五代百年の興亡の軌跡』新人物往来社、2005年。ISBN 4404033168。
・小和田哲男『駿河今川一族』新人物往来社、1983年。ASIN B000J7HXUY。
・家永遵嗣「伊勢宗瑞(北条早雲)の出自について」『成蹊大学短期大学部紀要』29号、1998年。/所収:黒田基樹 編『伊勢宗瑞』戒光祥出版〈中世関東武士の研究 第一〇巻〉、2013年。ISBN 978-4-86403-071-7。
・黒田基樹「今川氏親の新研究」『今川氏親』戎光祥出版〈中世関東武士の研究 第二六巻〉、2019年4月。ISBN 978-4-86403-318-3。(新稿)
・清水市史編さん委員会 編『清水市史』 第一巻、吉川弘文館、1976年1月15日。NDLJP:9537281。(要登録)
・谷口雄太「戦国期における三河吉良氏の動向」『戦国史研究』66号、2013年。/所収:谷口雄太『中世足利氏の血統と権威』吉川弘文館、2019年11月。
関連項目
・宗長
(wikiより)




9061 岡本かの子著 東海道53次碑(静岡市駿河区丸子7-10-10・丁子屋)
9060 臨済寺(静岡市葵区大岩町7-1)
| 所在地 | 静岡県静岡市葵区大岩町7番1号 |
|---|---|
| 位置 | 北緯34度59分35秒 東経138度22分33秒 |
| 山号 | 大龍山 |
| 宗旨 | 禅宗(臨済宗) |
| 宗派 | 臨済宗妙心寺派[1] |
| 本尊 | 阿弥陀仏[1] |
| 創建年 | 享禄年間 |
| 開基 | 今川氏親 |
| 中興年 | 天文5年(1536年) |
| 中興 | 今川義元、大休宗休、太原崇孚雪斎 |
| 正式名 | 大龍山臨濟寺 大日本國駿州大龍山臨濟禪寺 |
| 別称 | 敕東海最初禪林 善得院 |
| 文化財 | 本堂 - 重要文化財 庭園 - 国の名勝 |
臨済寺(りんざいじ)は、静岡市葵区大岩町にある、臨済宗妙心寺派の禅寺。山号は大龍山、同派の専門道場である。駿河の戦国大名・今川家の菩提寺で、今川館(現在の駿府城)の北西に当たる賤機山(しずはたやま)の麓に位置する。なお賤機山山頂には今川家の詰城である賤機山城があった。
歴史
今川時代
享禄年間(1528年 – 1532年)に、今川氏親が、出家した子・栴岳承芳(せんがくしょうほう、後の今川義元)のために、母・北川殿(今川義忠室、伊勢宗瑞姉)の別邸跡に、太原雪斎(たいげんせっさい)を招き建立した寺院・善得院が前身である。
天文5年(1536年)、栴岳承芳の兄・今川氏輝が急逝したため、今川家の家督を巡る「花倉の乱」が起こった。この内訌で弟の玄広恵探を破り家督を次いだ今川義元は、同年、氏輝を当寺に葬った(法名・臨済寺殿用山玄公)。この際に、「善得院」を氏輝の法名に由来する「臨済寺」と改め、京都妙心寺霊雲院の大休宗休を開山とした。そして、実際の運営を掌る2代目の住持として、大休宗休の弟子・太原崇孚雪斎が招かれた[1]。
雪斎は、当寺を駿河の勅願寺に昇格させた上、天文23年(1554年)には「歴代序略」臨済寺雪斎書院刊を出版するなどして今川領国内に臨済宗を広げたため、寺勢は大いに興隆した。さらに雪斎は、当寺の住持の任にありながら、戦国大名・今川氏の軍師として、義元の下で政治・軍事・外交に秀でた手腕を発揮してこれを補佐した。
当寺がある賤機山麓の大岩には、6代範政墓所の今林寺、7代範忠墓所の宝処寺、8代義忠墓所の長保寺、さらには義元の桶狭間での戦死後に12代氏真が義元墓所として建立した天沢寺など多くの歴代今川氏縁の寺院があったとされるが、その多くが廃寺となり当寺に吸収されている。そのため当寺には、氏輝・義元らの墓所があるとともに、歴代今川当主の位牌が安置されている。
1918年(大正7年)『静岡案内』「臨済寺」
安倍郡安東村大岩に在り、本尊は名工春日の作阿弥陀仏を安置す、京都妙心寺派にして県下屈指の巨刹なり。元と善得院と号し享保の頃、僧承芳の創建なり。天文5年、今川氏親の子氏輝を葬り臨済寺殿と称せしを以て大龍山臨済寺と改めしなり。当時、僧太原、この寺に住し今川氏の執権を兼ね、太原本光国師(大休)を師とし、請して開山となし自ら二世となる。国師、後奈良天皇の御帰依を受く、因て勅願寺となす現に之を蔵す。また、竹千代丸(家康公幼名)今川氏に質となり駿河に在りし頃、太原を師として書を学び兵を講ぜりと云う。
— 浦田張洲編『静岡案内』「臨済寺」、1918年(大正7年)2月発行より抜粋[1] ー
徳川時代以降
永禄11年(1568年)、今川氏・北条氏との甲相駿三国同盟が手切となり武田信玄による駿河侵攻が開始され、駿府城下に火が懸けられたため、臨済寺の堂宇も灰燼に帰した。しかし、天正10年(1582年)の武田氏滅亡後に駿河を領有した徳川家康が正親町天皇の勅命によって復興・整備を進め、現在も残る本堂が再建されるなど盛時の姿を取り戻した。
当寺は、今川氏人質時代の家康(松平竹千代)が教育を受けたところとしても知られており、駿府が徳川幕府直轄地となった江戸期を通じて徳川氏の手厚い庇護を受けた。
1918年(大正7年)『静岡案内』「臨済寺」
天正10年、家康、甲斐の武田信玄と其の地に戦い依って兵火に遇いしが、同年8月、正親町天皇の勅を奏して建立す、即ち今日の殿堂これなり。明治維新神仏混淆を許されなくなり、同年20年頃、山門を新築し内に今の十二神、元浅間の楼門にありしが之を安置す。域広く樹木鬱蒼し、山門、方丈、大書院、及庫裡、護国道場等あり、伽藍雄大にして美観、寺内に今上天皇陛下皇太子殿下に在ま頃の御手植松、内親王常宮、周宮両殿下の御手植の桜、家康公接木の西湖梅等あり。
— 浦田張洲編『静岡案内』「臨済寺」、1918年(大正7年)2月発行より抜粋[2] ー
伽羅
境内は参観自由であるが、現在も僧堂は修行僧の専門道場となっており、建造物・庭園内は春・秋の年2日、特別公開が行われる以外は非公開である。春の特別公開は、今川義元の命日にあたる5月19日に、秋の特別公開は、摩利支天祈祷会が執り行われる10月15日である。
本堂(大方丈)
国の重要文化財。江戸時代前期の建立。入母屋造、こけら葺で、方丈形式の平面をもつ本堂である。駿河の勅願寺であったことを示す「勅東海最初禅林」の額が掲げられている。
山門
神仏分離により静岡浅間神社から移設された仁王像が安置されている。また、山号「大龍山」の額は、徳川慶喜の揮毫によるものである。
大書院
内部に竹千代御手習いの間がある。
書院
座禅堂
摩利支尊天信仰の外郭団体である開運講が、年に一度招かれ講中斎が開かれる。
新仏殿
1997年(平成9年)建立。
茶室「夢想庵」
鐘楼
通用門
庭園
国の名勝。賤機山の斜面を利用し、天正年間(1573年 - 1592年)に築造された池泉回遊式の庭園。
文化財
重要文化財(国指定)
江戸時代前期(17世紀)建立。桁行22.7m、梁間16.8m、一重、入母屋造、こけら葺。1983年(昭和58年)1月7日重要文化財指定。
臨済寺は今川氏親の創立した寺院で、武田信玄、徳川家康両度の兵火を受け再建された。
名勝(国指定)
1936年(昭和11年)9月3日指定
1941年(昭和16年)「臨済寺庭園」[3]
一.所在地 静岡市大岩城山臨済寺境内
二.指定年月日 昭和十一年九月三日
三.指定理由 保存要目名勝の部第一に依る
四.説明 天正年間徳川家康が伽藍を再建せし時築造せられたるものなりと傳ふ。建物は北方なる傾斜地を背景として南面し敷地に高低あり、東方一段高き大書院前の小池には崖上より溪谷風に導かれたる清水注ぎ、其の水溢れて西方低き方丈前なる小池の飛泉となれり、面して東側なる岩盤にばイハヒハ郡生し、主要部にはアカマツ、ラカンマキ、ゴエフマツ、ソテツ、サツキ等を植栽して、江戸時代に於ける景観と大なる変更なきものの如し。
— 『静岡県史蹟名勝天然記念物並国宝概要』静岡県、1941年(昭和16年)12月より抜粋
静岡県指定有形文化財
・絹本著色大休和尚画像(絵画) - 1956年(昭和31年)1月7日指定
・千鳥図屏風 一双(絵画) - 1957年(昭和32年)5月13日指定。元和2年(1616年)、駿府城で病臥していた家康への見舞いの勅使が、当寺に宿泊していた際に使用されたものだとされる。
・鉄山釜 - 1956年(昭和31年)1月7日指定
その他の文化財
・今川義元坐像
・太原雪斎像
・今川氏発給文書
・一休禅師書
・徳川慶喜書
1918年(大正7年)『静岡案内』「臨済寺」
蔵する処の什宝も多く、その一二を記せば後奈良天皇御宸翰、正親町天皇御宸翰、太原和尚所持長刀、袈裟、鐙、家康公寄付の金唐草文庫、唐桑硯箱、丹渓硯石、紫純子机掛、提重。
— 浦田張洲編『静岡案内』「臨済寺」、1918年(大正7年)2月発行より抜粋[2]
その他詳しいことは、『臨済寺ウィキペディア』をご覧ください。 ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%87%A8%E6%B8%88%E5%AF%BA_(%E9%9D%99%E5%B2%A1%E5%B8%82)
(wikiより)













9059 中村一氏墓(静岡市葵区大岩町7-1・臨済寺)
| 時代 | 戦国時代 - 安土桃山時代 |
|---|---|
| 生誕 | 不明 |
| 死没 | 慶長5年7月17日(1600年8月25日) |
| 別名 | 孫平次(仮名) |
| 戒名 | 大竜院殿一源心公大禅定門 |
| 墓所 | 静岡県静岡市の臨済寺 |
| 官位 | 従五位下式部少輔 |
| 主君 | 豊臣秀吉 |
| 氏族 | 中村氏 |
| 父母 | 中村一政? |
| 兄弟 | 一氏、一栄、右近?、横田村詮室 |
| 妻 | 池田せん |
| 子 | 一忠、甚左衛門 |
中村 一氏(なかむら かずうじ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、大名。豊臣政権の三中老の一人。
経歴
出自については諸説ある(後述)。早くから織田氏の家臣であった羽柴秀吉(豊臣秀吉)に仕えた。天正元年(1573年)頃に秀吉より近江長浜のうち200石を拝領する。
秀吉の命を受け、石山合戦や天正10年(1582年)の山崎の戦いでの鉄砲隊指揮などで武功をたてる。天正11年(1583年)、賤ヶ岳の戦いに参戦した。同年、蜂屋頼隆の後任として和泉国岸和田城主となり3万石を拝領し[1]、和泉国衆を傘下に、大坂の防衛および来たるべき紀州攻めに備える役割を与えられた。和泉国はいまだ秀吉政権に服属しておらず、紀州の根来衆や本願寺残党勢力により各地を支配され、緊張状態が続いていた[2][3][4]。
天正12年(1584年)、正月一日早々から紀州勢により岸和田城への襲撃が行われ、その後も大坂を狙った攻撃が相次ぐが、一氏らはそれらを撃退した。3月22日から大坂および岸和田城下に紀州勢の猛攻を受けるも(同月21日に徳川家康を相手とした小牧・長久手の戦いのために秀吉軍主力が尾張へ向けて出陣した間隙をぬったものであり[5]、秀吉は一旦大坂に引き返すなどの苦戦を強いられている)、一氏は劣勢ながら岸和田城を守り切り、翌天正13年(1585年)の反転攻勢においても主導的役割を果たした(秀吉の紀州征伐、千石堀城の項目を参照)。
天正13年(1585年)近江国水口岡山城主になり6万石を拝領、従五位下式部少輔に叙任された。天正18年(1590年)の小田原征伐においては羽柴秀次隊の先鋒を務め、ほぼ単独で松田康長の守る山中城の主要部分を攻略。この功により戦後、関東に移封となった家康の抑えとして駿河府中14万石を拝領する。また、文禄4年(1595年)駿河直領(蔵入地)の代官として駿河一国を任され、慶長3年(1598年)三中老の一人に任命された。しかし三中老は後世に作られた実在しない制度とする指摘もある[6]。
慶長5年(1600年)関ヶ原の戦いでは東軍に属すが、合戦前の7月17日(8月25日)に病死。戒名は大竜院殿一源心公大禅定門。墓は静岡市の臨済寺にある。
合戦には弟の中村一栄や、家督を継いだ長男の中村一忠が出陣し、美濃で戦った。戦後、その戦功によって伯耆一国米子城17万5,000石および国持大名の格式を与えられたが、慶長14年(1609年)に一忠が急死。跡継ぎのいなかった中村家は断絶。江戸幕府により改易された[7]。
その他
・岸和田城主時代の天正12年(1584年)、雑賀・根来衆に攻められ、居城岸和田城が落城寸前に追い込まれた(岸和田合戦)際、大蛸に乗った僧と数千の蛸に城を救われたという伝説(蛸地蔵伝説)がある。
出自について
・近江源氏佐々木氏の族・山崎氏の余流、桓武平氏良文流、藤原氏流、橘氏流とする説があるが、正確には不明である。
・『米子市史』には、数種類ある中村氏にみられるルーツ(源氏末裔、平氏末裔説など)は不確定的要素が多く、歴史的事実とみなすことはできないが、一忠の父・一氏以降の系譜は信頼性が高いとしている。
・鳥取藩士中村家の末裔・義和所有の系図は、350年以上が経過していることが鑑定により明らかだが、一氏の父は吉一としており、系図には多くの文献で一氏の父とされている一政という名は見出せない。
・『近江與地志略』には、「一氏は佐々木山崎の余流にして此の地多喜の産なり。」とある。
・『駿国雑志』には「中村一氏は尾州中村(現・愛知県名古屋市中村区)の住人中村孫平次一政の子なり。本姓詳ならず」とある。
・『滋賀県甲賀郡誌』には、「中村一氏は弥平次一政の子にして初め瀧孫平次と称し後、中村式部少輔とあらたむ。瀧村の人なり」とある
系譜
・父:中村一政?
・母:不詳
・正室:池田せん(安養院、池田恒興娘)
・男子:中村一忠(1590-1609)
米子藩初代藩主。
・子:甚左衛門
細川藤孝に仕える。関ヶ原の戦いにおける田辺城の戦いでは、禁裏への使いという密命を受け田辺城を脱出した(「中村甚左衛門田辺御籠城御使者一件」参照)。
・孫:弥一
甚左衛門の子。細川忠興の命により「沢村」に改姓、細川家家老沢村大学一門と同様の処遇を受けた。
・曾孫:正辰
熊本藩主加藤忠広に仕え500石、改易後に新藩主細川忠利に仕え1000石。
・弟の孫:勘三郎
一氏の末弟・中村右近(蜂須賀家5000石)の孫。「東都劇場沿革誌料」などの史料によれば歌舞伎江戸三座の一つ中村座の座元・初代中村勘三郎と同一人物とする説もあるが明確ではない[8]。
・弟:一栄
・妹婿:横田村詮
・沼間興清
主膳、父は沼間義清、母は中村一政の娘。正室は一氏の養女。
・野一色助義
頼母助。父は野一色行久。正室は黒川盛治の娘。娘は一氏の養女。
・志村資良
左衛門、加兵衛、父は志村資則、正室は一氏の姪の娘。関ヶ原では赤坂陣に参陣した。
家臣
・朝倉在重
弥六郎、六兵衛、父は朝倉在重、正室は末高正長の娘。
・大藪国安
新八、新右衛門。関ヶ原では大垣城寄手として曽根城陣に参陣。
・小倉正能
安右衛門、父は小倉正勝。後年関ヶ原の戦功と中村家が徳川家の姻戚であった縁故から徳川秀忠に召し出され5000石を与えられた。
・小倉正次
忠右衛門、父は小倉正能、正室は冷泉為益の娘。関ヶ原では大垣城寄手として曽根城陣に参陣。
・河村吉綱
兵右衛門。子に河村秀久。
・河村秀久
九郎右衛門、父は河村吉綱。
・木村金右衛門
・垂井昌次
兵左衛門。
脚注
1. 同年2月、秀吉は賤ヶ岳の戦いに出陣中であったが和泉の地侍を大坂城に集め、尾藤知宣・戸田勝隆を使者として送り紀伊の動向を説明させ、岸和田城に中村一氏を配置することに同意させた(『大阪府史』p.37)。
2. 和泉の地侍のうち、おおむね岸和田以北の者は中村一氏に従い、岸和田以南の者は紀州側に加わっている(『大阪府史』pp.39-40)。
3. 根来・雑賀衆は中村・沢・田中・積善寺・千石堀(いずれも現貝塚市)に付城を築く。以後、岸和田勢と紀州勢との間で小競り合いが頻発するようになった。根来・雑賀衆は畠山貞政を名目上の盟主に立て、さらに紀南の湯河氏の支援も受けた。
4. 同年7月、顕如は鷺森から貝塚に移った。雑賀衆らの秀吉への敵対に、本願寺本隊が関与していないことを示すためと言われる(『荘園の世界』上巻p.280)。
5. 小牧・長久手の戦いの対戦相手である徳川家康は井上正就を派遣し、紀州勢と同盟を結んでいる。また、紀州勢に匿われていた仇敵の佐久間安政の蜂起や、四国の長宗我部氏と紀州勢との連携も確認される。
6. 宮本義己「内府(家康)東征の真相と直江状」(『大日光』78号、2008年)
7. “米子城にまつわる史跡”. 米子市ホームページ (2011年2月28日). 2018年10月17日閲覧。
8. 金春流肥後中村家オフィシャルページ
関連作品
テレビドラマ
・功名が辻(2006年、演:田村淳)
関連項目
・甲賀二十一家
・甲賀五十三家
・千石堀城の戦い
・積善寺城
外部リンク
・中村一氏
・中村氏系譜
・近江水口岡山城
・甲賀五十三家
・甲賀町 - ウェイバックマシン(2019年3月31日アーカイブ分)
(wikiより)
⇧ 中村一氏





9058 東照宮三百年祭記念塔(静岡駅南口)
9057 徳川家康公之像(静岡駅前)
9056 丁子屋の石碑(静岡市駿河区丸子7-10-10・丁子屋)
9055 丁子屋(静岡市駿河区丸子7-10-10)
概要
丁子に由来する商号で、丁子の絵柄が含まれる家紋を持つ商家が名乗った。また、丁子に関する商売を行う者が屋号として使うケースもあった(とろろ汁・丁子油・香料・漢方薬など)。そこから広がって、植物に関係する職業(藍染屋)などでも、丁子屋の屋号は使われている。
丁子油は日本刀の手入れなどに使われるものであり、香料・漢方薬なども江戸時代には決して安いものではなかった。丁子屋を名乗る店は数多く存在したが、そういった事情である程度以上の商業資本家としての商家だったものも多い。そのため、明治維新以降も暖簾を守り続けている店も散見される。又、刃物の町として知られる大阪府堺市にも丁子屋の屋号が江戸時代から現在にいたるまで存続している。
関連項目
・元祖 丁子屋 - 江戸幕府の開府以前である1596年(慶長元年)に創業した、とろろ汁を供する飲食店。東海道の鞠子宿に現存する。「丁子屋」の屋号を名乗る商家・企業の中では日本最古と考えられている。
・丁子屋百貨店
(wikiより)






































































































