本牧jack『意外と身近にある歴史散歩』日々是好日 心灯 頬笑

本牧Jackで御座います
小生の拙ブログ『意外と身近にある歴史散歩』日々是好日 心灯 頬笑に御訪問頂き誠に有難う御座います。
歴史ドラマが流行っている昨今、身近に有って気が付かなかったりする様な物を取り上げたりしています。
たまに『 多人数で取材しているのか? 』との質問を戴きますが、小生と相方の二人三脚で御座います。
出来るだけ続けたいと思っていますが 膝・耳に問題が有って、いつまで出来るやら・・・説明も、やたら長いものから あっさりしたものまで有りますが、御付き合いの程 宜しく御願い致します。
御注意 . 少ないですが生前に建てられた『 生前墓 』の記事も有ります。 ※ 申し訳御座いませんが「画像の転用」は禁止とさせて頂きます。 コメントは原則公開させていただいております 質問等に対してはブログ記事で返信させていただきます 他の方法で連絡を取り合う等一切しません 場合によっては、「IPブロック」しますがブロックした場合解除する事は有りませんので宜しくお願いします。

2026/04

時代江戸時代中期
生誕寛延2年(1749年
死没天明4年4月2日1784年5月20日
官位従五位下大和守播磨守山城守
幕府江戸幕府 奏者番若年寄
主君徳川家治
遠江相良藩
氏族田沼氏
父母田沼意次黒沢定紀
兄弟意知、勇次郎、勝助、意正、松三郎、
土方雄貞九鬼隆棋、千賀、宝池院
松平康福
意明意壱意信
稲葉正武正室

田沼 意知(たぬま おきとも)は、江戸時代中期の遠江国相良藩の世嗣。若年寄官位従五位下大和守播磨守山城守

生涯
老中を務めた遠江国相良藩主・田沼意次の嫡男として誕生した。母は黒沢定紀の娘。

明和4年(1767年)、19歳にして従五位下・大和守に叙任する。松平輝高の没後の天明元年(1781年)12月15日には奏者番、天明3年(1783年)に意次の世子の身分のまま若年寄となり[1]、意次が主導する一連の政治を支えた。これは徳川綱吉時代に老中大久保忠朝の子・忠増が世子のまま若年寄になって以来の異例な出世である。また、老中である父が奥詰めも同時に果たしたように、若年寄でありながら奥詰めもした。その翌年に江戸城内において佐野政言に斬りつけられ、治療が遅れたために8日後に死亡した。享年36。

父子ともに現役の幕閣であったため、意次と別居するために田沼家中屋敷または下屋敷へ移ったが、新たな屋敷を構えたのは暗殺の直前であった。江戸市民の間では、佐野を賞賛して田沼政治に対する批判が高まり、幕閣においても松平定信ら反田沼派が台頭することとなった。江戸に意知を嘲笑う落首が溢れている中、オランダ商館長イサーク・ティチングは「鉢植えて 梅か桜か咲く花を 誰れたきつけて 佐野に斬らせた」という謡曲鉢木』に因んだ落首を世界に伝え、「田沼意知の暗殺は幕府内の勢力争いから始まったものであり、井の中の蛙ぞろいの幕府首脳の中、田沼意知ただ一人が日本の将来を考えていた。彼の死により、近い将来起こるはずであった開国の道は、今や完全に閉ざされたのである」と書き残した。

意知の死後に失脚して隠居した意次の跡は、意知の長男・意明(当時の名乗りは幼名の龍助)が継いだ。しかし、後見した意次が間もなく没し、意明も夭折した。その跡を継いだ次男・意壱、四男・意信のいずれも早世し、意知の血筋は絶えた。田沼家の家督はその後、意知の従子にあたる意定、次いで意知の弟・意正が継いだ。

系譜
・父:田沼意次(1719年 - 1788年)
・母:黒沢定紀の娘
・正室:松平康福の娘
・生母不明の子女
 ・長男:田沼意明(1773年 - 1796年)
 ・次男:田沼意壱(1780年 - 1800年) - 意明の養子
 ・四男:田沼意信(1782年 - 1803年) - 意壱の養子
・養子
 ・女子:稲葉正武正室、のち土方義苗正室、田沼意致の娘

脚注
1. 山田忠雄「田沼意次の政権独占をめぐって」1972年4月(『史学44(3)』慶應義塾大学)

関連作品
小説
稲葉稔 『邪鬼』 - 朝松健えとう乱星編著『伝奇城』収録
芦辺拓 鶴屋南北の殺人』(2020年6月、原書房)- 佐野善右衛門の刃傷沙汰を『仮名手本忠臣蔵』の塩谷判官のそれに重ね合わせて描いている。
横溝正史 神変稲妻車』 - 田沼時代を舞台とした冒険活劇風時代小説。意知の悪行が物語の大筋に深く関わっており、終盤に主人公たちとは無関係な意知の暗殺によって作中の陰謀が意味を失い、デウス・エクス・マキナ的に戦乱が突如終息する。
・筑前助広『颯の太刀』(2024年2月、KADOKAWA)-田沼時代を舞台とした青春剣劇。意知は主人公の後ろ盾として登場する。

漫画
みなもと太郎 『風雲児たち
よしながふみ 『大奥
・原作:池波正太郎・漫画:大島やすいち 『剣客商売

映画
剣光桜吹雪(1941年、日活、演者:北龍二
紫頭巾(1958年、東映 演者:石井一雄
ふたり若獅子(1959年、東映 演者:柳永二郎
忍術使いと三人娘(1961年、東映 演者:和崎隆太郎
武士道残酷物語(1963年、東映 演者:成瀬昌彦
歌麿 夢と知りせば(1977年、演:堀内正美

テレビドラマ
闇を斬れ(1981年、関西テレビ 演者:原田大二郎
栄花物語(1983年、TBS 演者:西郷輝彦
快傑黒頭巾(1990年、TBS 演者:河原崎建三
大江戸風雲伝(1994年、NHK 演者:黒田アーサー
殿さま風来坊隠れ旅(1994年、テレビ朝日 演者:原田大二郎)
大江戸捜査網2015〜隠密同心、悪を斬る!(2015年、テレビ東京、演者:高知東生
陽炎の辻 完結編〜居眠り磐音 江戸双紙〜(2017年1月2日、NHK、演者:滝藤賢一
大奥(2024年、フジテレビ、演:佐々木誠
べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~(2025年、NHK大河ドラマ、演者:宮沢氷魚

関連項目
(wikiより)

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時代江戸時代後期 - 明治時代
生誕文政2年(1819年
死没明治2年12月24日1870年1月25日
改名金弥(幼名)、意尊
墓所東京都豊島区駒込勝林寺
官位従五位下玄蕃頭
幕府江戸幕府 若年寄
主君徳川家慶家定家茂慶喜明治天皇
遠江相良藩主→上総小久保藩
氏族田沼氏
父母田沼意留
兄弟意尊久留島通容正室
久留島通嘉
智恵、路
意斉忠千代

田沼 意尊(たぬま おきたか)は、江戸時代後期の大名明治時代初期の華族

田沼意次の曽孫で遠江国相良藩主、上総国小久保藩初代藩主、同藩初代知藩事。幕末に江戸幕府の若年寄を務めた。官位従五位下玄蕃頭

略歴
田沼意留の子として誕生した。天保11年(1840年)7月20日、22歳で家督を相続する。大坂定番を務めた。文久元年(1861年)9月14日、43歳で若年寄に就任する。

元治元年(1864年)、幕府軍総督として水戸藩浪士による天狗党の乱の鎮圧に努め、天狗党退去後には筑波山を占領しているが、部田野の戦いでは敗北した。なお、乱の鎮圧に必要な軍資金の調達に奔走した家老の井上寛司が、借金を返済できなかったために切腹するという出来事があった。翌元治2年(1865年)、越前国敦賀で降伏をした武田耕雲斎らを処刑した。

慶応2年(1866年)10月4日、若年寄を解任された。慶応4年(1868年)の鳥羽・伏見の戦いに幕府軍として参陣した。直後の2月に駿地方では最も遅く勤王証書を提出した。

明治元年(1868年)9月21日に上総小久保へ移封され、明治2年(1869年)6月24日、版籍奉還により知藩事となった。洋学を取り入れた近代的な藩校創設に尽力した。同年12月24日、51歳で死去した。

系譜
父母
田沼意留(父)
正室
久留島通嘉の娘
子女
・智恵(長女) - 田沼忠千代夫人、のち田沼望夫人
・路(次女) - 小笠原長育夫人
養子
田沼忠千代 - 伊達宗城の六男
田沼意斉 - 大岡忠恕の五男
田沼望 - 伏原宣諭の二男
(wikiより)

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時代江戸時代後期
生誕宝暦9年(1759年
死没天保7年8月24日1836年4月21日
改名水野忠徳→田代玄蕃→田沼意正
別名通称:金弥、玄蕃
墓所東京都豊島区駒込勝林寺
官位従五位下中務少輔玄蕃頭従四位下・内膳正
幕府江戸幕府 大番頭若年寄(西丸)、側用人(西丸)
主君徳川家斉
陸奥下村藩主→遠江相良藩
氏族田沼氏水野氏(忠重系忠清流 出羽守家)→田代氏→田沼氏
父母父:田沼意次、母:田代氏
養父:水野忠友田沼意定
兄弟意知、勇次郎、勝助、意正、松三郎、
土方雄貞九鬼隆棋、宝池院、千賀ら
水野忠友の娘
意留柳生俊能柳生俊章正室ら

田沼 意正(たぬま おきまさ)は、江戸時代後期の大名陸奥国下村藩5代藩主、のち遠江国相良藩主。通称は金弥、玄蕃。官位従四位下・内膳正。相良藩田沼家6代。

生涯
藩祖・田沼意次の四男で、初代から3代の下村藩主の叔父に当たる。母は側室の田代氏。

安永3年(1774年)7月27日、老中水野忠友と養子縁組し、その娘と結婚して水野忠徳(みずの ただのり)と名乗る[1]。安永4年(1775年)11月15日、10代将軍・徳川家治御目見した。同年閏12月11日、従五位下・中務少輔に叙任された。しかし、天明6年(1786年)9月5日、意次の失脚により、養子縁組を解消されて田沼家に戻された。このとき、母方の姓である田代を称し[2]田代玄蕃(たしろ げんば)と名乗っている。

文化元年(1804年)7月26日、従子である陸奥国下村藩主・田沼意定の死去により、末期養子として田沼本家の家督を相続した。同年10月1日、11代将軍・徳川家斉に御目見した。同年12月16日、従五位下・玄番頭に叙任された。後に内膳正となる。文化3年(1806年)6月1日、大番頭に就任した。文政2年(1819年)8月8日、若年寄(西丸)に就任した。

文政6年(1823年)7月8日、忠友の跡を継いだ水野忠成の推挙や家斉の尽力もあって、旧領である遠州相良への復帰を許された。文政8年(1825年)4月18日、側用人(西丸)となった。同年12月、従四位下に昇進する。天保5年(1834年)4月26日、側用人を病気を理由に辞任する。天保7年(1836年)4月21日、隠居し長男の意留に家督を譲った。同年8月24日、78歳で死去した。墓所は東京都豊島区駒込勝林寺

意正の時代になって田沼家が相良復帰、復権を果たしたのは、元来田沼派であった水野家の後継養子の忠成が将軍家斉の信任を受けて老中側用人として栄達し、家斉の同意の下で意正を引き立てたためと思われる。

系譜
父母
田沼意次(実父)
・田代氏(実母) - 側室
水野忠友(養父)
田沼意定(養父)
正室
水野忠友の娘・八重姫 - のち離縁
子女
田沼意留(長男) 生母は正室
柳生俊能(次男) - 柳生俊章の養子
柳生俊章正室

脚注
1. 山田忠雄「田沼意次の政権独占をめぐって」1972年4月(『史学44(3)』慶應義塾大学)
2. 
田代は意次の母方の姓でもある(意次の母が田代高近の養女)。

関連作品
幻十郎必殺剣(2008年、テレビ東京東映) - 演:中原丈雄   
(wikiより)

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時代江戸時代後期
生誕天明2年(1782年
死没享和3年9月12日1803年10月27日
改名鎌之丞(幼名)、意信
墓所静岡県牧之原市の西大寺
官位従五位下主計頭
幕府江戸幕府
主君徳川家斉
陸奥下村藩
氏族田沼氏
父母田沼意知
兄弟意明意壱意信
松平頼前養女
意定

田沼 意信(たぬま おきのぶ)は、江戸時代後期の大名陸奥国下村藩3代藩主。官位従五位下主計頭田沼家4代。

略歴
天明2年(1782年)、田沼意知田沼意次の嫡男)の四男として誕生した。正室は松平頼前の養女(松平頼陽の娘)。

寛政12年(1800年)に次兄の意壱が、先々代の長兄意明に続いて早世したため、その養嗣子として跡を継いだ。

しかし享和3年(1803年)9月12日、意信も早世した。享年22。跡を養嗣子の意定田沼意致の四男)が継いだ。

系譜
父母
田沼意知(実父)
田沼意壱(養父)
正室
松平頼前の養女、松平頼陽の娘
養子
田沼意定 - 田沼意致の四男
(wikiより)

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時代江戸時代中期
生誕安永9年(1780年
死没寛政12年9月17日1800年11月3日
改名万吉・万之助(幼名)、意壱
別名意吉
墓所静岡県牧之原市の西大寺
官位従五位下左衛門佐
幕府江戸幕府
主君徳川家斉
陸奥下村藩
氏族田沼氏
父母田沼意知
兄弟意明意壱意信
新見正偏
意信

田沼 意壱(たぬま おきかず)は、江戸時代中期の大名陸奥国下村藩2代藩主。官位従五位下左衛門佐田沼家3代。田沼意次の孫。

略歴
安永9年(1780年田沼意知(田沼意次の嫡男)の次男として誕生した。正室は新見正偏の娘。

寛政8年(1796年)に兄意明の早世により跡を継いだ。しかし病弱だったため、意壱も寛政12年(1800年)9月17日に早世した。享年21。

小夜の間との子を儲けたが、未熟児で幼少のころ他界したとされている。弟の意信が養嗣子として跡を継いだ。

系譜
父母
田沼意知(父)

正室
新見正偏の娘

養子
田沼意信 - 意知の四男
(wikiより)

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時代江戸時代後期 - 大正時代
生誕嘉永3年7月19日1850年8月26日
死没大正11年(1922年3月7日[注釈 1]
改名包五郎[1]、末徳
諡号徳源院殿実道至信大居士[1]
墓所東京都の染井墓地[1]
官位対馬守[1]正三位従二位
幕府江戸幕府
主君徳川家茂慶喜明治天皇大正天皇
播磨小野藩
氏族九鬼氏一柳氏
父母九鬼隆都一柳末彦
兄弟九鬼隆備大田原富清九鬼隆義末徳建部秀隆九鬼寧隆本庄道美正室、
板倉勝敬正室、石川総邦正室ら
一柳頼紹栄子志乃、妾蓉子
譲二、広岡恵三、剛、大井光衛室、
喜久子、満喜子筏井寿夫室ら

一柳 末徳(ひとつやなぎ すえのり)は、江戸時代後期の大名播磨国小野藩第11代(最後)の藩主。明治維新後に華族子爵)となり、貴族院議員(子爵議員)を務めた[1]

経歴
丹波国綾部藩主・九鬼隆都の五男として誕生した[1]。幼名は包五郎[1]

先代藩主・一柳末彦の養嗣子となり、文久3年(1863年)6月9日の末彦の隠居により家督を継いだ。慶応4年(1868年)の戊辰戦争では早くに新政府に帰順して北越戦争に出兵する。明治2年(1869年)の版籍奉還知藩事となり、明治4年(1871年)の廃藩置県で上京する。その後は慶應義塾に入って英学を学んだ。

明治12年(1879年)には東京府区会議長となる。明治17年(1884年)の華族令子爵となり、その後帝国博物館員を務めた。1890年(明治23年)7月10日、貴族院議員に就任し4期ほど務め[2]正三位勲三等に叙せられ、1920年(大正9年)1月17日に辞職した[3]。大正11年(1922年)3月7日、兵庫県明石市大蔵谷本邸にて死去した。享年73。

栄典
1914年(大正3年)6月18日 - 勲三等瑞宝章[4]       

備考
・子供たちには男女ともに高等教育と海外留学を薦め、自由と平等を尊重した人物であったという[5]

系譜
・父:九鬼隆都(1801年 - 1882年)
・母:不詳
・養父:一柳末彦(1843年 - 1881年)
・正室:栄子 - 一柳頼紹
・継室:志乃
・室:妾蓉子
・生母不明の子女
 ・長男:一柳譲二
 ・次男:広岡恵三(1876年 - 1953年) - 加島銀行大同生命大阪電気軌道広岡浅子の女婿
 ・三男:一柳剛
 ・長女:大井光衛
 ・次女:喜久子 - 森忠恕
 ・三女:一柳満喜子(1884年 - 1969年) - ウィリアム・メレル・ヴォーリズ夫人
 ・四女:筏井寿夫
長男の譲二は分家[6]、二男の恵三は他家に養子に行った[7]。継嗣とされた三男の剛は大正天皇の学友の一人であるが[5]、家督相続前に死去[8]。剛の長男の一柳末幸が家督を継ぎ、子爵となった[1]。四男の喬は夭折[9]

脚注
注釈
1. 『一柳家史紀要』では3月21日没[1]

出典
1.a b c d e f g h i 一柳貞吉 1933, p. 48.
2. 
『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』52頁。
3. 
『官報』第2236号、大正9年1月20日。
4. 
『官報』第565号「叙任及辞令」1914年6月19日。
5. 
a b “小野藩主一柳末徳の三女と米国人夫の歩みたどる 小野で企画展”兵庫おでかけプラス (神戸新聞). (2019年2月17日) 2021年10月11日閲覧。
6. 
一柳貞吉 1933, pp. 45, 48.
7. 
一柳貞吉 1933, pp. 45–46, 48.
8. 
一柳貞吉 1933, p. 46, 48.
9. 
一柳貞吉 1933, p. 46.

参考文献
一柳貞吉一柳家史紀要』1933年。
・衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。

外部リンク
・デジタル版 日本人名大辞典+Plus『一柳末徳』 - コトバンク    
(wikiより)

17 一柳末徳

一柳末徳

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17d

17e

17f




青森士族。

会津藩士・三橋文内は文庫の父。

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16c



会津藩。

10石 3人扶持。

青龍足軽三番唐木隊小隊頭。

明治元年 9月 1日会津大内峠で戦死。

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15b

15c




時代江戸時代後期 - 明治時代
生誕天保8年9月20日1837年10月19日
死没明治22年(1889年11月18日
改名録千代・大助(幼名)→高潔
墓所豊島区染井霊園
官位左近衛権少将従三位大学頭
主君徳川慶喜明治天皇
伊勢国津藩知事
氏族藤堂氏
父母父:藤堂高猷
母:橋本氏
兄弟高潔黒田長知脇坂安斐松平定昭
量子蜂須賀斉昌養女、蜂須賀昭順娘)
高紹、銑子(子爵高倉永則夫人)、鋀子(常磐井尭猷室、子爵牧野忠篤室)

藤堂 高潔(とうどう たかきよ)は、伊勢津藩の第12代(最後)の藩主(知藩事)。藤堂家宗家12代。正室は蜂須賀斉昌養女で蜂須賀昭順の娘の量子

生涯
天保8年(1837年9月20日に生まれる。嘉永元年12月16日(1849年)、従四位下・侍従・大学頭に叙任する。文久3年(1863年)、父に代わって上京して孝明天皇に拝謁し、御所の警備を務めた。元治元年(1864年)4月18日、左近衛権少将となる。

慶応3年(1867年)12月、朝廷の命令に従い、上洛するものの、ほどなく帰藩する。明治元年(1868年)3月2日、上洛する。同年10月、版籍奉還後の藩政改革を主導し、明治天皇伊勢神宮参拝においても守備などで尽力した。明治3年(1870年)10月、藩士を解散したことで監物騒動が発生する。

明治4年(1871年)6月28日、病を理由に父が隠退したため、その跡を継いで知藩事となる。しかし同年7月の廃藩置県で免官となった。明治22年(1889年)11月18日、父に先立って53歳で死去した。

賢明温厚で書画の才にも優れていたと言われている。絵は、渡辺崋山に師事し、花卉図を得意としたという。またの腕前も免許皆伝の腕前で、自邸や実弟、黒田長知の赤坂の黒田邸に出入りし、喜多六平太にも稽古を付けた程であった。

栄典
1884年(明治17年)7月7日 - 伯爵[1]
1889年(明治22年)11月19日 - 従三位[2]

家族
父:藤堂高猷   
・母:橋本氏 − 側室
・正室:藤堂量子 − 蜂須賀昭順の娘、蜂須賀斉昌の養女
 ・長男:藤堂高紹(1884−1943)
 ・次女:藤堂銑子(1880-1929)子爵高倉永則夫人
 ・三女:藤堂鋀子(1882-1963)男爵常磐井尭猷夫人後に子爵牧野忠篤夫人

脚注
1. 『官報』第307号「叙任及辞令」1884年7月8日。
2. 
『官報』第1920号「叙任及辞令」1889年11月20日。
(wikiより)

14 藤堂高潔

藤堂高潔

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生年月日明治5年8月11日
1872年9月13日
出生地日本の旗 日本 堺県茨田郡門真一番下村
(現:大阪府門真市
没年月日1951年3月10日(78歳没)
死没地日本の旗 日本 東京都世田谷区
出身校帝国大学法科大学
前職外務官僚
所属政党(無所属→)
同和会→)
日本進歩党→)
日本民主党→)
(無所属/同志クラブ→)
(無所属/民主クラブ→)
民主自由党
称号従一位
 勲一等旭日桐花大綬章
男爵
法学士(帝国大学・1895年
配偶者幣原雅子
子女長男:幣原道太郎
次男:幣原重雄
三男:幣原平三
親族岩崎弥太郎(義父)
幣原坦(兄)
加藤高明(義兄)
木内重四郎(義兄)
サイン

日本の旗 第44代 内閣総理大臣
内閣幣原内閣
在任期間1945年10月9日 - 1946年5月22日
天皇昭和天皇

日本の旗 第40代 衆議院議長
在任期間1949年2月11日 - 1951年3月10日
天皇昭和天皇

内閣濱口内閣
在任期間1930年11月14日 - 1931年3月10日
天皇昭和天皇

内閣第1次吉田内閣
在任期間1947年5月3日 - 1947年5月24日

日本の旗 初代 復員庁総裁
内閣第1次吉田内閣
在任期間1946年6月15日 - 1947年5月24日

その他の職歴
日本の旗 初代 第一復員大臣
初代 第二復員大臣

(幣原内閣)
(1945年12月1日 - 1946年5月22日、総理兼任)
日本の旗 第38・40代 外務大臣
加藤高明内閣第1次若槻内閣
1924年6月11日 - 1927年4月20日
濱口内閣第2次若槻内閣
1929年7月2日 - 1931年12月13日
日本の旗 衆議院議員
旧大阪3区、当選回数 2回)
1947年4月26日 - 1951年3月10日
日本の旗 貴族院議員
1926年1月29日 - 1947年5月2日

幣原 喜重郎(しではら きじゅうろう、旧字体幣󠄁原 喜重郞1872年9月13日明治5年8月11日〉- 1951年昭和26年〉3月10日)は、日本政治家外交官爵位男爵位階従一位勲等勲一等

外務大臣(第40414344代)、貴族院議員(勅選議員[1])、内閣総理大臣臨時代理内閣総理大臣第44代)、第一復員大臣初代)、第二復員大臣初代)、復員庁総裁初代)、副総理衆議院議員衆議院議長(第40代)を歴任した。

生涯
生い立ち
明治5年8月11日1872年9月13日)、堺県茨田郡門真一番下村[2](現・大阪府門真市)の豪農の家に生まれた[3]。兄・は教育行政官、台北帝国大学初代総長。大阪城西側にあった官立大阪中学校(のち京都に移転、第三高等中学校となる)から、第三高等中学校(首席卒業)を経て、1895年(明治28年) 東京帝国大学法科大学卒業。濱口雄幸とは、第三高等中学校、帝国大学法科大学時代を通じての同級生であり2人の成績は常に1、2位を争ったという。

大学卒業後は農商務省に入省したが、翌1896年(明治29年)外交官試験に合格し、外務省に転じた[1]

外務省
外務省入省後、仁川、ロンドン、ベルギー、釜山の各領事館に在勤後、ワシントン、ロンドンの各大使館参事官、オランダ公使を経て1915年大正4年)に外務次官となり、1919年(大正8年)に駐米大使[1]第一次世界大戦後にアメリカ合衆国大統領ウォレン・ハーディングの提唱で開かれた国際軍縮会議ワシントン会議においては全権委員を務める[1]

外務大臣歴任
外務大臣になったのは1924年(大正13年)の加藤高明内閣が最初であった。以降、若槻内閣(1次2次)、濱口内閣憲政会立憲民政党内閣で4回外相を歴任した。

彼の1920年代自由主義体制における国際協調路線は「幣原外交」とも称され、軍部の軍拡自主路線「田中外交」と対立した。ワシントン体制に基づき、対米英に対しては列強協調を、民族運動が高揚する中国においては、あくまで条約上の権益擁護のみを追求し、東アジアに特別な地位を占める日本が中心となって安定した秩序を形成していくべきとの方針であった。そのため、1925年(大正14年)の5・30事件においては、在華紡(在中国の日系製糸会社)の中国人ストライキに対して奉天軍閥張作霖に要請して武力鎮圧するなど、権益の擁護をはかっている。

1926年(大正15年)に蔣介石国民革命軍率いて行った北伐に対しては、内政不干渉の方針に基づき、アメリカとともにイギリスによる派兵の要請を拒絶。しかし、1927年(昭和2年)3月に南京事件が発生すると、軍部や政友会のみならず閣内でも宇垣一成陸相が政策転換を求めるなど批判が高まった。こうした幣原外交への反感は金融恐慌における若槻内閣倒閣の重要な要素となった。

1930年(昭和5年)にロンドン海軍軍縮条約を締結させると、特に軍部からは「軟弱外交」と非難された。1931年(昭和6年)夏、広州国民政府の外交部長陳友仁が訪日し、張学良を満洲から排除し満洲を日本が任命する政権の下において統治させ、中国は間接的な宗主権のみを保持することを提案したが、幣原外相は一蹴した。その後、関東軍の独走で勃発した満洲事変の収拾に失敗し、政界を退いた。幣原外交の終焉は文民外交の終焉であり、その後は軍部が独断する時代が終戦まで続いた。

なお、濱口内閣時代には、濱口雄幸総理の銃撃による負傷療養期間中、宮中席次の規定により次席であった幣原が内閣総理大臣臨時代理を務めた[4]立憲民政党の党員でなかった幣原が臨時代理を務めたことは野党立憲政友会の批判の的となり、また同じく批判されたロンドン条約については天皇による批准済みであると国会答弁でしたことが天皇への責任転嫁であると失言問題を追及された[5]。その際の首相臨時代理在任期間116日は最長記録である。

第2次若槻内閣の総辞職以降は表舞台から遠ざかっていたが、南部仏印進駐のころに近衛文麿に今後の見通しを訊かれ、「南部仏印に向かって出帆したばかりの陸軍の船団をなんとか呼び戻せませんか?あるいは台湾に留め置けませんか?それが出来ずに進駐が実現すれば、絶対アメリカとの戦争は避けられません」と直言し、予言が的中した逸話が残っている。

第二次世界大戦末期の1945年5月25日、空襲により千駄ヶ谷の自邸が焼失。多摩川畔にあった三菱系の農場に移った[6]

内閣総理大臣
戦後の1945年10月9日に、10月5日東久邇宮内閣総辞職を受け内閣総理大臣に就任[7]。本人は首相に指名されたことを嫌がって引っ越しの準備をしていたが、同じく指名を固辞した吉田茂の後押し[8]昭和天皇じきじきの説得などもあり[要出典]政界に返り咲いた。幣原の再登場を聞いた古手の政治記者が「幣原さんはまだ生きていたのか」と言ったという逸話が残る[要出典]ほど、当時の政界では忘れられた存在となっていたが、親英米派としての独自のパイプを用いて活躍した。ただし、吉田が幣原を首相に推したのは吉田の政治的な地位作りのためであったともいわれている[要出典]

1945年10月11日マッカーサーに新任の挨拶を行うために連合国軍最高司令官総司令部を訪問[9]。挨拶という体裁ではあったが、持ち前の卓越した英語力、外交官としての見識などを持って一時間にわたる会談となった。マッカーサーからはポツダム宣言に沿って憲法改正を行うこと、人権確保のための改革を行うこと、厳冬期対策を急ぐべきことの要求が出された[10]

日本国憲法と幣原
幣原と日本国憲法の制定については様々な研究が行われているが、特に日本国憲法第9条における戦争の放棄については、幣原の発案であるかどうかという論争が行われている。

幣原は当初天皇制の維持のため、憲法改正には消極的であった[11]

幣原は1951年に公刊した『外交五十年』において、9条の発案者は自身であると述べている[12]。これによれば、1945年8月15日に玉音放送を聞いた後、電車内で泣き叫ぶ男に出会ったのがきっかけで、「戦争を放棄し、軍備を全廃」することを発案したという[13]。後にマッカーサーも9条は幣原の提案によると述べている[14]。一方で松本烝治芦田均といった幣原内閣の閣僚、木内四郎内閣副書記官長、増田甲子七押谷富三といった政治家、幣原の息子道太郎も幣原の発案であることを否定している[15]

1946年1月24日、幣原は風邪をひいた際にマッカーサーからペニシリンを贈られたことに対する返礼を名目に会談を行った(ペニシリン会談)[16]。マッカーサーの回顧録によれば、この席で幣原が戦力の放棄を含む戦争放棄の新憲法制定の提案を行ったという[14][17]。後に幣原が大平駒槌に語った談話(羽室メモ[注釈 1])によれば、「僕はかねて考えていた戦争を世界中がしなくなる様になるには戦争を放棄するという事以外にないと考える」「世界から信用をなくしてしまつた日本にとつて戦争を放棄すると云ふ様な事をハツキリと世界に声明する事それだけが日本を信用してもらえる唯一のほこりとなる事じやないだろうか」と述べ、マッカーサーも大いに感動していたという[19]

ただしチャールズ・L・ケーディス民政局次長の回想によれば、マッカーサーから告げられた会談のテーマは公職追放についてであったという[19]。また「羽室メモ」通りのことを幣原が述べたとしても、「声明」にとどまっており、憲法に戦力の不保持とともに書き込むというものではなかった[19][17][20]

1月30日、閣議において新憲法の政府案である松本試案について検討が行われた[14]。この席で幣原は軍に関する条項を削除するよう求めたが、「大勢カラ云ヘバイツカ軍ハ出来ルト思フガ今、之ニ入レルコトハ刺激ガツヨスギル」「(GHQとの交渉に)一、 二ケ月モ引カツテシマフ」と述べたように、単に交渉的な問題であり、将来的な軍の保有を排除したものではなかった[14]。松本試案は新聞によって暴露され、日本政府の憲法案が不十分であると判断したマッカーサーは、2月3日に民政局に対して新憲法草案を作成するよう命じた。この際マッカーサーは自衛権をも含む戦争放棄を含めた新憲法の原則「マッカーサー・ノート」を示している[21]

2月13日コートニー・ホイットニー民政局局長は、松本試案を否定し戦争放棄を含むGHQの憲法草案(マッカーサー草案)を幣原と松本烝治国務大臣に手交した[22]広田弘毅の弁護人を務めた広田洋二は、幣原の秘書である岸倉松の証言から「幣原首相もちよつとおどろいたようであり」と、幣原が憲法に戦争放棄条項が含まれることを予想していなかったことを述べている[17]2月18日にはホイットニー民政局局長は48時間以内の回答を要求した[22]。閣議は紛糾し、2月21日にマッカーサーと幣原、芦田均小林一三の会談が行われた。この席で幣原は主権在民の明文化に難色を示すとともに、「(戦争放棄の条文化は)世界のどの国の憲法にもない異例な話で」と戦争放棄条項についても否定的な意見を述べた[23]。マッカーサーは「日本の為に図るに寧ろ第二章(GHQ草案)の如く国策遂行の為めにする戦争を抛棄すると声明して日本がMoral Leadershipを握るべきだと思ふ」と述べたが、幣原は「leadershipと言はれるが、おそらく誰もfollowerとならない」と否定した[24]。しかしマッカーサーは「譲ることも変へることも出来ない」と受諾を要求した[23]

2月22日、GHQ側から渡された憲法草案を原則的に受諾することが閣議決定された。ただし、戦争放棄条項については松本国務大臣が前文に移すことを提案したがホイットニー民政局局長に却下され、修文・翻訳を通じて「ウマク曲文」することとなった[23]。同日、天皇を訪ね経緯と内容を報告した[25]

幣原は3月15日の閣議で「天子様をすてるかすてぬかと云ふ事態に直面して、あの司令部側の申出を承諾した」と述べており、GHQ案の受諾は天皇制維持という受動的な動機にすぎなかった[26]

憲法9条幣原発案説論争
→「日本国憲法第9条 § 発案者をめぐる議論」も参照

古関彰一は戦争放棄の発案者は幣原であるとし、マッカーサーがその提案を受けて条項化を指示したとした[12]深瀬忠一河上暁弘笠原十九司などは更に幣原の主導性を重視し、幣原が発案者であるとしている[12]。一方で佐々木髙雄五百籏頭眞は1946年1月24日会談における幣原の提案は不戦条約レベルのものではなかったかとしている[27]。また幣原が年来の考えであった非戦思想をマッカーサーに話したことと、マッカーサーがそれに共鳴したことによって9条が生まれたという見解もある。幣原内閣の外務大臣であった吉田茂や幣原の秘書岸倉松、佐藤達夫法制局次長などはこの見解を取っている[28]

2020年代においては笠原十九司は幣原発案説を支持しているが、幣原の評伝を著した熊本史雄種稲秀司は否定している[29]

発案者公表の経緯
マッカーサーは1950年1月1日の「日本国民諸君」というメッセージにおいて、戦争放棄規定は「日本人みずから考え出したもの」と述べているが、幣原とは明示しなかった[30]

1976年に外務省が公開したマッカーサー・ノートには、戦争放棄条項の次に括弧書きで「この考えは、最初に当時の幣原首相から最高司令官に表明され、司令官はただちにそれにつき心からの支持を与えた。」という注釈が入っているが、もとの公式文書であるマッカーサー・ノートには入っていない[31]。これは1950年11月11日にマッカーサー・ノートを記事にしようとした『ニッポン・タイムズ(現ジャパンタイムズ)』に掲載の許可を与えた際、GHQ側が掲載の条件として括弧書きの文面を提示したものである[32]。これ以降マッカーサーも幣原の発案であることを語るようになり、1951年5月5日のアメリカ合衆国上院軍事・外交合同委員会での証言、1962年の内閣憲法調査会への高柳賢三会長への書簡、1964年に刊行された回顧録でも幣原の発案であると述べている[33]。また幣原も1951年刊行の回顧録『外交五十年』において発案者であると記している。

平野文書
幣原の秘書をしていたという[注釈 2]衆議院議員平野三郎は1958年頃から自由民主党内における護憲派として、幣原が憲法9条の発案者であるという主張を行うようになった[35]。1963年11月頃、平野が幣原の発案を裏付ける文書を持っているという情報が一部メディアに取り上げられた[36]。この頃内閣憲法調査会でも9条の発案者が幣原かどうかを調査することとなった。憲法調査会会長の高柳賢三は、護憲派の立場から幣原発案説を支持し、否定派の議員と対立していた。このような状況で、平野は1951年2月下旬に日向ぼっこをしながら幣原から話を聞き、その内容をまとめたという文書(平野文書)を提出した。この文書では「原子爆弾というものが出来た以上、世界の事情は根本的に変って終った」「戦争をやめるには武器を持たないことが一番の保証になる」と戦力の放棄を述べられており[37]、1946年1月24日会談で「天皇の人間化と戦争放棄を同時に提案」 したとしており、「日本がアメリカと全く同じものになったら誰が世界の運命を切り拓くか」と日米の軍事一体化を否定するものであった[38]。しかし憲法調査会での評価は芳しく無く、平野も文書のもととなったというメモを提示しなかったため、最終報告書にも取り上げられなかった[36]。笠原十九司は「幣原でなければ言えなかった事実」「平野には創作できなかった事実」であるとしているが、佐々木髙雄や中村克明は創作である可能性を指摘している[37]。佐々木は1951年2月下旬は幣原が日向ぼっこができるような日はなかったこと、平野が文書の原本であるメモを提出しなかったことを指摘している[39]。また種稲秀司は幣原の他の発言や思想と一致しないことや幣原没後のことである冷戦を意識したような記述から、「矛盾や齟齬があまりにも多い怪文書」と評している[40]

詳しいことは、「弊原喜重郎ウィキペディア」をご覧ください。 ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%A3%E5%8E%9F%E5%96%9C%E9%87%8D%E9%83%8E
(wikiより)

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弊原喜重郎

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⇩ 奥様墓。

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生誕1860年11月27日
 土佐国土佐郡神田村高神
死没1925年9月18日(64歳没)
所属組織 大日本帝国陸軍
最終階級陸軍大将
指揮軍事参議官
浦塩派遣軍参謀長
近衛師団
第15師団
参謀本部第1部長
歩兵第27旅団長
第8師団参謀長
戦闘日清戦争
日露戦争
シベリア出兵
墓所染井霊園

由比 光衛(ゆひ みつえ、1860年11月27日万延元年10月15日[1] ) - 1925年9月18日[2])は、日本陸軍軍人。最終階級は陸軍大将従二位勲一等功二級。教育者・由比質は弟[3]

経歴
土佐藩士、由比光索の長男として土佐国土佐郡神田村高神(現・高知市)に生れる[4]。土佐海南私塾を経て、陸軍士官学校幼年生徒となり、1882年12月、陸軍士官学校(旧5期)を卒業し、陸軍少尉任官。1891年11月、陸軍大学校(7期)を首席で卒業した。陸士教官、大本営参謀を歴任し、日清戦争では第2軍参謀として出征した。1895年から1899年までイギリスに留学し、その後、西部都督部参謀、臨時清国派遣隊参謀、第5師団参謀、参謀本部2部欧州班長などを歴任した。
シベリア派遣軍各国軍人らとの集合写真(前列右から3人目)

日露戦争では、第2軍参謀副長として出征したが、同軍参謀長落合豊三郎少将と対立し、奉天会戦直前に第8師団参謀長に転出し参戦した。1909年5月、陸軍少将に進級し歩兵第27旅団長、参謀本部第1部長を務め、1914年5月、陸軍中将となり、陸大校長、第15師団長、近衛師団長を歴任。シベリア出兵では、浦塩派遣軍の参謀長を務めた。その後、青島守備軍司令官を経て、1919年11月、陸軍大将となり、軍事参議官を務め1923年予備役に編入された。

1925年(大正14年)9月18日薨去。墓所は染井霊園1-イ-4-19。弟の由比質の墓も同所にあり、左側の由比家の墓石が光衛の墓石である。

評価
陸軍士官学校を首席で卒業した秀才。旅順攻略ではその難しさに警鐘を鳴らす数少ない良識者であり、早くから28センチ砲を用いるように提案していた人物であった。「其ノ初メ少佐由比光衛開戦前大イニ二十八珊砲使用ヲ主張シタガ、突飛ナリトテ一笑に附セラレタ(出典:機密日露戦史)」。また少将時代に田中義一大将(当時中佐)、佐藤鋼次郎中将(当時中佐)らと共に旅順要塞の攻略を軽視しないように進言したがこれも聞き入れられることはなかった[要出典]この由比の進言の的確さは旅順要塞で大量の死傷者を出したことによって証明された。もしこの進言が受け入れられていれば、被害を最小限に済ませてもっと短期間で旅順要塞を陥落できたといえる[要出典]

一方、黒溝台一時放棄作戦を考え、日本軍を窮地に陥らせた[要出典]。 しかし、これは満州軍総司令部が敵の数を偵察隊ぐらいだと間違って伝達された上で構築された策であり、正確な情報が伝えられていれば由比の策は違うものになったと思われる[要出典]

宇都宮太郎大将は自身の手記で、松石更迭後の第一部長について「第一候補は由比光衛、第二候補は田村怡与造の婿山梨半造、宇都宮の同期の柴勝三郎、新潟出身の星野金吾」を挙げたが、福島中将も由比が最適であるとして第一部長に推薦されている[要出典]

また、日本軍の四回の出兵全てにおいて主要方面での参謀を務めている。

栄典・授章・授賞
位階
1883年(明治16年)1月3日 - 正八位[1]
1886年(明治19年)7月8日 - 従七位[1][5]
1892年(明治25年)3月28日 - 正七位[1][6]
1897年(明治30年)8月20日 - 従六位[1][7]
1902年(明治35年)12月10日 - 正六位[1][8]
1905年(明治38年)4月7日 - 従五位[1][9]
1909年(明治42年)7月20日 - 正五位[1][10]
1914年(大正3年)6月10日 - 従四位[1][11]
1916年(大正5年)6月30日 - 正四位[1][12]
1919年(大正8年)7月21日 - 従三位[1][13]
1922年(大正11年)8月10日 - 正三位[1][14]
1923年(大正12年)4月20日 - 従二位[15]    

勲章等
1889年(明治22年)11月29日 - 大日本帝国憲法発布記念章[16]
1895年(明治28年)
 ・5月23日 - 勲六等瑞宝章[17]
 ・11月18日 - 明治二十七八年従軍記章[18]
1901年(明治34年)10月1日 - 勲四等旭日小綬章功四級金鵄勲章[19]
1914年(大正3年)11月30日 - 勲二等瑞宝章[20]
1915年(大正4年)11月10日 - 大礼記念章[21]
1919年(大正8年)11月28日 - 勲一等瑞宝章[22]
1920年(大正9年)11月1日 - 旭日大綬章功二級金鵄勲章大正三年乃至九年戦役従軍記章[23]戦捷記章[24]      

脚注
1. 
a b c d e f g h i j k l 陸軍大将男爵内山小二郎外三名特旨叙位ノ件」 アジア歴史資料センター Ref.A11113162600   
2. 
『官報』第3956号「彙報 - 官吏薨去及卒去」1925年10月30日。
3. 
人事興信所編『人事興信録 第5版』(人事興信所、1918年)ゆ1頁
4. 
高知新聞社 1999, 897頁.
5. 
『官報』第929号「叙任」1886年8月5日。
6. 
『官報』第2621号「叙任及辞令」1892年3月29日。
7. 
『官報』第4242号「叙任及辞令」1897年8月21日。
8. 
『官報』第5833号「叙任及辞令」1902年12月11日。
9. 
『官報』第6531号「叙任及辞令」1905年4月12日。
10. 
『官報』第7821号「叙任及辞令」1909年7月21日。
11. 
『官報』第558号「叙任及辞令」1914年6月11日。
12. 
『官報』第1175号「叙任及辞令」1916年7月1日。
13. 
『官報』第2089号「叙任及辞令」1919年7月22日。
14. 
『官報』第3009号「叙任及辞令」1922年8月11日。
15. 
『官報』第3215号「叙任及辞令」1923年4月21日。
16. 
『官報』号外「叙任及辞令」1889年12月29日。
17. 
『官報』第3578及辞令」1895年6月5日。
18. 
『官報』第3824号・付録「辞令」1896年4月1日。
19. 
『官報』第5487号「叙任及辞令」1901年10月15日。
20. 
『官報』第700号「叙任及辞令」1914年12月1日。
21. 
『官報』第1310号・付録「辞令」1916年12月13日。
22. 
『官報』第2197号「叙任及辞令」1919年11月29日。
23. 
『官報』第2612号「叙任及辞令」1921年4月19日。
24. 
『官報』第2903号「叙任及辞令」1922年4月10日。

参考文献
秦郁彦編『日本陸海軍総合事典』第2版、東京大学出版会、2005年。
・福川秀樹『日本陸軍将官辞典』芙蓉書房出版、2001年。
・外山操編『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』芙蓉書房出版、1981年。
(wikiより)

12 由比光衛

由比光衛

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誕生宮武 亀四郎(かめしろう)
1867年2月22日
 日本讃岐国阿野郡小野村(現・香川県綾歌郡綾川町小野)
死没1955年7月28日(88歳没)
日本の旗 日本東京都文京区駒込追分町(東京都文京区向丘二丁目)
墓地染井霊園
職業ジャーナリスト著作家
国籍日本の旗 日本
活動期間1887年 - 1946年
主題パロディ言葉遊び、風俗史研究
代表作新聞・雑誌
『頓智協会雑誌』
『滑稽新聞』
『スコブル』
『公私月報』など多数

書籍
『奇態流行史』
『賭博史』
『面白半分』
アメリカ様』など多数
配偶者緒方八節
子供2人

宮武 外骨(みやたけ がいこつ、1867年2月22日慶応3年1月18日〉 - 1955年昭和30年〉7月28日)は、日本ジャーナリスト新聞記者編集者)、著作家、新聞史研究家、明治期の世相風俗研究家。

明治・大正期にはジャーナリストとして、政治家官僚行政機関マスメディアを含めた権力の腐敗を言論により追及した。日本における言論の自由の確立を志向し、それを言論によって訴えた。また、活字による文字絵(後のアスキーアートのようなもの)を先駆的に取り入れた文章など、様々な趣向を凝らしたパロディ言葉遊びを執筆した。関東大震災以降は風俗史研究に活動の重点を移し、東京帝国大学(東京大学)に明治新聞雑誌文庫を創設した。

生涯
パロディから反官僚へ
讃岐国阿野郡小野村(現在の香川県綾歌郡綾川町小野)に庄屋宮武家の四男として生まれた。幼名は亀四郎。

一生農家で果てるのを嫌って、高松栄義塾で漢学を学び、明治14年(1881年)、14歳の時に上京し進文学舎においても漢学を学ぶ。東京で多くの出版物に触れて記者や著述家ほど愉快な職業はないと感じ、『朝野新聞』の成島柳北、『近事評論』の林正明 (肥後熊本藩士)、『東京新誌』の服部誠一らに憧れ、18歳から執筆活動を始める[1]

17歳の時に戸籍上の本名を "外骨" に改める。幼名の亀四郎の亀が "外骨内肉" の動物であることに因んだ物である[2][3]。正式の本名であるにもかかわらず、のようにしか受け止められないことが多く、役所や図書館の窓口などで「号ではなく本名をお願いします」などとたびたび言われるのが癪だと言って、「是本名也」と彫った印鑑を用いたことも少なくなかった。なお、晩年は「外骨」の読みを「とぼね」に改めている。

当初は比較的穏健だったが、反骨精神に富み自ら新聞・雑誌を刊行して政治や権力批判を行ったためたびたび発禁・差し止め処分を受けた。明治22年(1889年)3月4日、『頓智協会雑誌』で大日本帝国憲法発布をパロディ化して(戯画「頓智研法発布式」)不敬罪に問われ禁錮3年の実刑判決を受けた(10月)。未決勾留日数の刑期算入も認められず、投獄は3年8ヶ月に及んだ。それからは官僚を宿敵と見なし、活発な権力批判を行うようになった。その後も検挙投獄は3回に及んだ。また雑誌は数多く創刊したが比較的短命なものが多く、1号のみの廃刊誌は実に17を数える。 1927年(昭和2年)時点で、同業者からは「発売禁止の大先輩」として半ば崇められており、その時点の発禁回数は43回とされている[4]

警察署長の不正や悪徳商法の主(野口茂平)を長期間紙面で晒し上げる一方で日露戦争に対する社説を翻した『万朝報』を批判するなど、批判精神を忘れて権力・世論に迎合するジャーナリズムに対する批判も行い、反権力を貫く一ジャーナリスト(当時の訳語では「操觚者」)として徹底した行動を取りつづけた。もっとも日露戦争自体については主戦論ではないが反戦論でもなく、戦争協力を誌面で説いたこともある。たとえばニコライ教ロシア正教会ニコライ・カサートキンによる伝来であったから、「愚民を惑はすのみならず、常に賣国奴を養成して居る」[5]と非難し、ニコライの逮捕、退会しない信徒の国外追放[6]ニコライ堂の破壊などの弾圧を行うよう主張した。

特に、自らの力を悪用して私欲を働くマスメディアには「ユスリ記者」と呼び激しい批判を行った(『滑稽新聞』では「ユスリ」に特注の極太ゴシック体を使用して強調した)。ただし、その主張の中には「味の素の原料は青大将」など、後に結局デマと分かったものもあった[7]

外骨の厳しさは読者や親族にも及んだ。『滑稽新聞』明治40年(1907年11月20日号で吉田東伍の『大日本地名辞書』の誤りを指摘し、版元の冨山房ともども「文壇の山師」と批判した。読者に、この記事は出版社をユスろうとしているのではないかと批判投稿した者がいた。12月20日号で採用した上でこの読者に対する反論を行い、さらに「間抜け」な批判をした読者を磔にした挿絵を付け文字通りさらし者にしたことがある。この読者からは冨山房の店員(拡販員と思われる)から『滑稽新聞』の記事について「善悪とも交渉すべからず」といわれたため疑念を抱いたのだという返信が来たため、外骨は冨山房に抗議した上で『大日本地名辞書』批判をしばらく続けた。

また、著書『つむじまがり』で「予の先祖は備中穢多(えた)であるそうな」と書いたところ、「未だ穢多の子孫と云ふ事は耳にしたる事無之候、(中略)宮武家一門三百人の大迷惑」と抗議した親類があった。外骨は「予の親族中にも、今尚斯る舊弊(きゅうへい)思想の脱しない者がある位だから、予は飽迄も穢多の子孫なりと叫ばねばならぬ」(『スコブル』大正6年(1917年)第10号)と反論した。部落差別が解消されていれば「穢多の子孫」と自称しても全く意味はないはずだから、抗議した親類の態度こそ差別であると主張した[8]。一方、桃中軒雲右衛門を否定的な意味で「穢多芸人」[9]と呼ぶなどの差別発言を行っていたことも指摘されている[10]

『滑稽新聞』の成功
外骨の出版した刊行物の中でも最も有名な『滑稽新聞』は、明治34年(1901年)に大阪で創刊された。名目上の発行人は三好米吉。これは、外骨に万一のことがあっても発行を続けられるように別人を立てたためで、外骨は「小野村夫」(出身地にちなむ)のペンネームで執筆。無署名なども含めると、記事の大半を自ら書いた。寄稿は編集者によるものを含めほとんどがペンネームで、外骨以外の編集者、寄稿者で実名がはっきりしているのは三好、溝口駒造、板橋菊松森近運平、松崎天民、結城禮一郎、寺門咲平の7人。印刷は福田友吉が担当した。

モットーは『威武に屈せず富貴に淫せず、ユスリもやらずハッタリもせず、天下独特の肝癪(かんしゃく)を経(たていと)とし色気を緯(よこいと)とす。過激にして愛嬌あり』。時事批評だけでなく下世話な世相の話題まで扱い、現代の週刊誌に相当する内容であった。外骨の記事は巧みに仕込まれた毒とパロディー精神に富み、さらに挿絵も腕の良い職人(実名がはっきりしているのは墨池亭黒坊こと前野一廣竹久茂次郎)の手になるもので一般大衆に人気を博した。活字(文字約物)を並べて絵に見せたり、他愛ない小説に見せかけて(縦組みのページを)横に読むと性的なネタが隠れていたりと今日各種ウェブサイトで一般化した技法(アスキーアート縦読みなど)の原形も見られる。検閲などのため刊行が遅れることが多く途中からは「例の延刊」と自ら表紙に載せ、たまに予定通り発行されると「例の延刊にあらず」とネタにしたほどだった[11]。最盛期の部数は8万部。この時代の雑誌としてはトップクラスの売れ行きだった。そのため類似誌も『いろは新聞』『東京滑稽新聞』『あづま滑稽新聞』『滑稽界』『東京滑稽』『江戸ツ子』『ポテン』『滑稽雑誌』『名古屋滑稽』『釜山滑稽新聞』など多数登場し、外骨は「猿雑誌」と類似誌を評しつつ『滑稽新聞』の影響力を自慢した。先述の野口茂平に対しては、野口が誹毀罪で告訴したためもあるが、毎号野口がさらし首にされた絵を載せ攻撃し続けるなど長期間にわたって追跡する記事が多かった。これらが他誌にまま見られた金銭などのユスリ目的ではないことは野口も承知していた[12]

明治41年(1908年)10月、当局は『滑稽新聞』に対して発行禁止命令を出した。外骨は発行禁止に先んじて173号を以て「自殺号」として廃刊。しかし翌月には『大阪滑稽新聞』を創刊して事実上の後継誌とした(31号までで外骨は編集を離れたが、大正3年(1914年)まで存続)。同誌では批判対象の伊藤博文井上馨山縣有朋の死期を当てる懸賞という不謹慎企画を立てた(明治42年(1909年10月15日号、通巻24号)[13]。外骨は懸賞商法を批判していたが内務省が10月15日付で規制に乗り出したため、わざと懸賞を始めたのである。その直後に伊藤が安重根に暗殺されると11月1日号(通巻25号)は風俗関連の記事が安寧秩序を乱し、風俗を害するとして発禁となった。11月15日号(通巻26号)では伊藤追悼一色のマスコミを批判し「非常の死は幸福」と題して津田三蔵[14]小山六之助李鴻章襲撃犯)を例に挙げ[15]、暗に安を擁護した。これも発禁処分となった。また12月15日号(通巻28号)では「我輩と社会主義」と題し、「社会主義者ではない」が社会主義を取り入れた国家社会主義によって「今日の政弊を除去し得られる」と主張したがこれは発禁にはならなかった。外骨と編集発行人の金子又次郎は25号、26号について自首した。その結果、大阪区裁(村野美雄裁判長)は25号、26号の記事を無罪としたが代わりに検察が問題にしなかった「我輩と社会主義」を有罪とし又次郎は新聞紙法違反で罰金80円、外骨は禁錮2ヶ月の実刑判決を受けた。

『スコブル』以降
大正4年(1915年)、第12回衆議院議員総選挙に立候補し「政界廓清(かくせい)・選挙違反告発候補者」を名乗り選挙違反を片っ端から告発。落選運動の走り的存在といえた。結果は259票と、法定得票には辛くも到達したが落選。一部の高額納税者にしか選挙権が無いという当時の選挙制度を正面から批判した。

大正5年(1916年)、月刊誌『スコブル』を創刊し軌道に乗せた。大正6年(1917年)、第13回衆議院議員総選挙でも再び選挙違反告発を目的として立候補。『スコブル』に選挙違反告発の目的を達成できなくとも「自己の賣名」は達成できると開き直ったり、投票日前に「落選報告演説會」の告知を出したりした。この時代の総選挙は厳密には立候補制ではなくどこの選挙区で運動することも可能だったが、東京市、大阪市それぞれの選挙区でいずれも3票と惨敗した。ちなみに「落選報告演説會」は落選後予定どおり開催され、外骨の他、外骨を下回る2票で惨敗した職工の厚田正二、1295票で法定得票には到達したが及ばなかった講釈師の伊藤痴遊も弁士として出席し盛況であった。入口に「入場料金三銭、貧民無料、新聞記者は貧民同様無料」と掲げたところ新聞記者たちは始めはそのまま入場しかけたが、「貧民同様」の文言にプライドを刺激されたのか慌てて入場料を支払ったという。

また、社会主義には当初は「到底世人の賛同を得られまい」「今の政府者がコンナ社會主義者を怖がるのは何故であるか、我々は其の理由が判らない」(『滑稽新聞』通巻125号)と冷めた見方をしていた。その後は「極端なる社會主義の実行には不賛成」だが「(政府を)普通尋常の手段で攻撃してもその功は無い、これは社會主義でおどかして改心せしめるより外に途はない」(『滑稽新聞』通巻139号)と間接的に評価するようになった。さらに思想的には距離を置きつつも森近の『大阪平民新聞』刊行を援助し「平民新聞の提灯持ち」を自称したため、特別高等警察に「社會主義派」の「特別要視察人」としてマークされた[16]。森近が師事した幸徳秋水にも好意的で面識はないが幸徳の死刑廃止論を評価し、第二次大戦後になって『明治社会主義文献叢書』(龍吟社)の秋水文集の編纂に協力している。その後吉野作造民本主義に傾倒し、大正8年(1919年)3月には雑誌『民本主義』を創刊した。しかし創刊からわずか4日後に即発禁処分となり廃刊させられている。大正13年(1924年)に吉野が明治文化研究会を立ち上げた際にも、外骨は同人として名を連ねている。

昭和2年(1927年)、博報堂の創業者で外骨の友人瀬木博尚の寄付により、東京帝国大学法学部に明治新聞雑誌文庫(通称「明治文庫」)が創立された。外骨は事務主任(東京帝国大学嘱託)となり、吉野作造とともにその充実に貢献した。外骨は全国の旧家を回るなどして新聞・雑誌の収集を行った。これらの資料は文化史的に価値のあるもので、広く研究のための利用に供されている(後に明治新聞雑誌文庫は、東京大学大学院法学政治学研究科附属「近代日本法政史料センター」の一部門に改組)[17]

終戦後もGHQによる検閲や発禁処分を度々受け、「何が言論の自由か」と言論の規制を敷いている点では戦前の日本政府とGHQは大して差が無いことを批判した。

昭和24年(1949年)に東京大学(昭和22年(1947年)に東京帝国大学から新制東京大学に改称)を退職。昭和30年(1955年)7月30日に文京区駒込追分町の自宅で老衰により死去。享年89。戒名は質直院外骨日亀居士[18]。晩年は容姿がガンジーに似ているといわれた。

家族及び親族
父親の宮武吉太郎は代々の庄屋の仕事のほかに酒造・砂糖業を営んでいた[19]。兄の宮武南海(1861年生)は出版社「進歩館」や私塾「東京学館」などを経営したほか[20][21]、東京市会議員[19]、日動火災海上保険の取締役なども務めた[22]。外骨が収監中には『頓智協会雑誌』の後継誌として『頓智会雑誌』を創刊した[23]

外骨自身は結婚しているが、若くして妻子に先立たれている。明治25年(1892年)に緒方八節(おがた やよ)と連れ添い[24]、外骨が27歳の時に八節との間に、一男天民(てんみん)をもうけたが、わずか1歳で天民は夭折。大正4年(1915年)、バセドー氏病を患った妻・八節とも48歳の時に死別している[24]。八節は旧肥後高瀬藩主・細川利愛の子・緒方倫親の娘だが、明治維新後、貧困のため妾奉公などを経て外骨の下女となり、そののち妻となった[25]。八節の父親の倫親は幼児期に細川家から緒方家に養子に出された際に細川家から生涯年金が支払われる約束を得ていたが、廃藩置県を機にその支給が途絶えていた[25]。倫親の貧窮ぶりを見た外骨は、倫親の兄である細川家当主細川利永子爵にかけあったが拒否されたため、事の次第を告発する文書を作成したり、民事訴訟を起こすなどして細川家の非情を世に訴えた[25]。同じ華族醜聞事件として世を賑わせた相馬家事件で一儲けした黒岩涙香萬朝報が「細川家事件」として外骨に取材して連載する予定だったが、細川家からの依頼でこれを反故にしたため、外骨と黒岩は生涯反目したと言われる[25]

明治39年(1906年)に養女にした三千代は大正13年(1924年)に嫁ぎ先で流産の為に死去。その死を知らせて来た電報を外骨は生涯手元に置いていた。もともと『滑稽新聞』の顧問弁護士・日野国明の娘だった三千代は、八節が亡くなった年に実家の日野家に復籍、大正11年に上野高等女学校を卒業後、吉野作造を媒酌人に、吉野の教え子の東京帝国大学法学部出で住友総本店に勤務していた石川清と結婚、亡くなったときはまだ19歳だった[24]

大正11年(1922年)に吉原の元遊女だった小清水マチ(末知)と暮らし始め、のちに再婚したが、昭和3年(1928年)にマチは書生との密通を外骨に問い詰められて猫いらずで服毒自殺した[24]。その一週間後、39歳の水野和子(まさこ)と再婚、昭和15年に和子が脳溢血で亡くなると稲田能子(よしこ)と再婚した[24]。八節の前に同棲していた房子を入れると外骨は生涯に5人の女性を妻とした。

晩年の外骨と生活をともにし外骨の伝記や復刻本を多数刊行、近代史関係の著作もある吉野孝雄は甥(最後の妻・能子の妹の子)。

従兄弟の曾孫にフリーライターで宮武外骨を研究するグループ「ぐわいこつふあんくらぶ」会長の、砂古口早苗(さこぐち さなえ、昭和24年(1949年) - )がいる。

刊行物及び著書
雑誌・新聞
・『屁茶無苦新聞』明治19年(1886年)4月 ※1号のみ
・『頓智新聞』明治19年(1886年)10月 ※1号のみ
・『絵入広告新聞』明治19年(1886年)11月 ※1号のみ
・『頓智協会雑誌』明治20年(1887年)4月~明治22年(1889年)2月 ※1~28号
・『宮武雑誌』明治20年(1887年)12月 ※1号のみ
・『西洋叢談』明治21年(1888年)3月 ※1号のみ
・『文明雑誌』明治26年(1893年)3月 ※1号のみ
・『頓智と滑稽』明治28年(1895年)5月~11月 ※1~7号
・『骨董雑誌』明治29年(1896年)11月~明治31年(1898年)10月 ※1号~第3編4号
・『半狂堂随筆』明治29年(1896年)11月~明治30年(1897年)10月 ※1~8集「骨董雑誌」付録
・『古今内外名数雑誌』明治30年(1897年)8月 ※1号のみ
・『骨董協会雑誌』明治32年(1899年)1月~4月 ※1~4号
・『美術国』明治32年(1899年)4月 ※1号のみ
・『台北新報』明治32年(1899年)10月 ※1号のみ
・『滑稽新聞』明治34年(1901年)1月~明治41年(1908年)10月 ※1~173号
・『活殺』明治40年(1907年)5月 ※1号のみ
・『絵葉書世界』明治40年(1907年)5月~明治42年(1909年)6月 ※1~26集「滑稽新聞」増刊
・『月雪花』明治40年(1907年)5月~6月 ※1~2集「絵葉書世界」付録
・『教育画報 ハート』明治40年(1907年)10月~明治41年(1908年)1月 ※1~3号
・『大阪滑稽新聞』明治40年(1907年)10月~明治42年(1909年)4月 ※1~19号
・『大阪滑稽新聞』明治41年(1908年)11月~明治43年(1910年)2月 ※1~31号
・『此花』明治43年(1910年)1月~明治45年(1912年)7月 ※1枝~周落号
・『有名無名』明治45年(1912年)4月~6月 ※1~2号
・『日刊 不二 新聞』大正2年(1913年)4月~大正3年(1914年)4月 ※1~300号
・『月刊 不二 雑誌』大正2年(1913年)10月~大正3年(1914年)3月 ※1~10号
・『興味雑誌 奇』大正3年(1914年)5月~11月 ※1~7号
・『天下茶屋』大正3年(1914年)12月 ※1号のみ
・『ザックバラン』大正4年(1915年)5月~7月 ※1~2号
・『袋雑誌—新刊十二種』大正4年(1915年)11月 ※1号のみ
・『猥褻研究会雑誌』大正5年(1916年)6月 ※1号のみ
・『スコブル』大正5年(1916年)10月~大正8年(1919年)2月 ※1~27号
・『男女性学雑誌』大正7年(1918年)1月~2月 ※1~2号
・『迷信研究雑誌』大正7年(1918年)1月~2月 ※1~2号
・『民本主義』大正8年(1919年)3月 ※1号のみ
・『赤』大正8年(1919年)7月~大正9年(1920年)2月 ※1~7号
・『逃避文学』大正11年(1922年)5月~大正12年(1923年)5月 ※1~4号
・『変態知識』大正13年(1924年)1月~12月 ※1~12号
・『早晩廃刊雑誌』大正15年(1926年)4月 ※1号のみ
・『奇抜と滑稽』昭和2年(1927年)5月~9月 ※1~5号
・『面白半分』昭和4年(1929年)6月~11月 ※1~6号
・『公私月報』昭和5年(1930年)11月~昭和15年(1940年)3月 ※1~109号
・『ふたな』昭和12年(1937年)9月 ※1号のみ

詳しいことは、「宮武外骨ウィキペディア」をご覧ください。 ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%AE%E6%AD%A6%E5%A4%96%E9%AA%A8    
(wikiより)

11 宮武外骨

宮武外骨

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時代江戸時代後期 - 明治時代
生誕寛政10年6月26日1798年8月8日
死没明治11年(1878年10月4日
改名起之進(幼名)→松平光庸→戸田光庸
別名左京、主馬(通称)、尤香斎(号)
墓所東京都豊島区駒込染井霊園
官位従五位下、弾正少弼、丹波
幕府江戸幕府
主君徳川家斉家慶
信濃松本藩
氏族戸田松平家→戸田家
父母父:松平光行、母:錠姫(松平光悌の娘)
養父:松平光年
伊保子久世広誉の娘)
小笠原長国光則内藤政恒戸田光芬(四男)、戸田光遠野々山義比(六男)、康載(板倉勝観)、貞(安藤直裕正室)、孝(島津忠寛継室のち九鬼隆備正室)
養子:光領

松平 光庸(まつだいら みつつね)は、信濃松本藩の第8代藩主。戸田松平家13代。

生涯
寛政10年(1798年)、松本藩の第6代藩主・松平光行の三男として生まれる。母・錠姫は光行の正室で、第5代藩主・松平光悌の娘である。文政2年(1819年)7月8日、第7代藩主・松平光年(母方のおじにあたる)の養子となる。同年9月1日、将軍・徳川家斉に拝謁する。文政3年12月16日(1821年)、従五位下・弾正少弼に叙任する。天保8年(1837年)3月30日、光年の死去により家督を相続した。

文化13年(1816年)、産物会所を設置して領内の産業を奨励した。 天保12年(1841年)、藩の財政改革を巡って譜代家臣と新参家臣が対立し、お家騒動(戸田図書事件)が起こる。弘化2年(1845年)10月22日、家督を次男の光則に譲り、隠居して尤香斎と称する。明治5年(1872年)2月5日、東京に移住する。明治11年(1878年)、葛飾郡須崎村の邸宅で死去した。

系譜
父母
松平光行(実父)
・錠姫 ー 松平光悌の娘(実母)
松平光年(養父)[1]

正室
・伊保子 ー 久世広誉の娘

側室
・吉野曽興子
・浅野氏

子女
小笠原長国[2](長男)
松平(戸田)光則(次男)生母は吉野氏(側室)
内藤政恒[3](三男)生母は伊保子(正室)
戸田光芬(四男)
戸田光遠(五男)
野々山義比(六男)
松平(松井)康載[4](九男)
・貞 ー 安藤直裕正室
・孝 ー 島津忠寛継室のち九鬼隆備正室

養子
松平光領 ー 松平光年の四男

脚注
1. 松平光悌の長男
2. 
小笠原長和の養子
3. 
内藤政民の養子
4. 
松平康英の養子、生家へ復籍ののち板倉家に入婿(板倉勝観と改名)
(wikiより)

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時代江戸時代後期 - 明治時代
生誕天保10年1月24日1839年3月9日
死没明治12年(1879年12月27日[1]
別名通称:連麿[2]
墓所豊島区染井霊園
主君孝明天皇明治天皇
氏族中山家正親町家
父母父:中山忠能、母:中山愛子
養父:正親町実徳、養母:山内豊敬の六女
兄弟中山忠愛中山慶子公董中山忠光
季董、兎美子、弥栄、春香
養子:実正

経歴
山城国京都権大納言中山忠能の二男として生まれ[3]、権大納言・正親町実徳の養子となる[1]嘉永4年3月23日1851年4月24日)に元服し昇殿を許された[4]。嘉永5年7月3日1852年8月17日)左近衛権少将安政3年2月14日1856年3月20日)国事寄人となる[1][4]

文久3年5月(1863年6月)長州藩が外国船への砲撃を行い攘夷を決行すると、同年6月14日(7月15日)長門国監察使に任じられ長州藩に攘夷実行嘉賞の勅諚を届け、三田尻三条実美と会見した[1][4]。同年八月十八日の政変により、同年10月7日(11月4日)三条との会見を咎められ差控となり、慶応3年1月25日1867年3月1日)に赦免された[1][4]

王政復古後、慶応3年12月13日1868年1月7日)参与に就任し、慶応4年2月2日(1868年2月24日)左近衛権中将に任じられた[2]。同年2月9日(3月2日)東征大総督参謀となり、さらに奥羽追討白河口総督を務め各地を転戦し、明治元年11月5日(1868年12月18日)京都に帰還した[2]。その後、兼皇后宮亮、三等陸軍将、十津川郷巡察使、陸軍少将などを歴任[2]。明治2年6月2日1869年7月10日)戊辰の戦功により賞典禄300石を永世下賜された[2]。明治4年3月24日1871年5月13日)に免本官となる[2]

1873年12月、河鰭実文秋月種樹らと華族の職責を果たすことを目的とした通款社を設立した[5]

系譜
・父:中山忠能
・母:中山愛子
・養母:高知藩山内豊敬六女[5]
・養父:正親町実徳
・妻:宮田濱子(季董生母、その他不詳)
 ・三男:正親町季董男爵[6]
 ・女子:兎美子 - 伯爵正親町実正夫人
 ・女子:弥栄 - 牧野弼成正室
 ・女子:春香 - 子爵園池実康夫人
 ・女子:継子(六女)
・養子
 ・男子:正親町実正(養父の長男、伯爵[6]
・妾:せき - 神戸市の鈴木氏知(長谷川猪三郎父)の妹[7]
 ・女子:亀子(1892年3月生)- 藤原瑩宣(東京本法寺住職)の妻[7][8]
 ・女子:幸子(1894年9月生)- 菊亭公長の妻(別名・章子)[7][8]。最晩年に志賀潔の曾孫・直子(1968年生)を養子とする。

脚注
1. a b c d e 『明治維新人名辞典』179-180頁。
2. 
a b c d e f 『百官履歴 下巻』450-452頁。
3. 
『平成新修旧華族家系大成』上巻、273頁では三男。
4. 
a b c d 『正親町家譜』
5. 
a b 『明治時代史大辞典 第三巻』316頁。
6. 
a b 『平成新修旧華族家系大成』上巻、273-274頁。
7. 
a b c 『弊風一班 蓄妾の実例』黒岩涙香、現代教養文庫、社会思想社、1992年、p183 
8. 
a b 中山孝麿『人事興信録』第4版 [大正4(1915)年1月]

参考文献
・修史局編『百官履歴 下巻』日本史籍協会、1928年。
・日本歴史学会編『明治維新人名辞典』吉川弘文館、1981年。
霞会館華族家系大成編輯委員会『平成新修旧華族家系大成』上巻、霞会館、1996年。
安岡昭男編『幕末維新大人名事典』上巻、新人物往来社、2010年。
・宮地正人・佐藤能丸・櫻井良樹編『明治時代史大辞典 第三巻』吉川弘文館、2013年。
・『正親町家譜』1875年。東京大学史料編纂所所蔵。
(wikiより)

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生誕1888年明治21年)10月12日
日本の旗 日本茨城県[1]
死没1957年11月29日(69歳没)
所属組織 大日本帝国海軍
軍歴1916年 - 1945年
最終階級 海軍技術中将
墓所豊島区染井霊園

徳川 武定(とくがわ たけさだ、1888年明治21年〉10月12日 - 1957年昭和32年〉11月29日)は、日本の海軍軍人(海軍造船官)、造船学者華族東京帝国大学教授、海軍技術研究所所長。最終階級は海軍技術中将工学博士子爵

生涯
武定の父・徳川昭武は最後の水戸藩主であったが、1883年明治16年)に水戸徳川家家督を甥(前藩主であった長兄・慶篤の遺児)の篤敬に譲って隠居した後、実子の武定をもうけた。1892年(明治25年)5月3日、父の勲功により特旨によって武定は華族に列し子爵を叙爵して[2]松戸徳川家が創設された。

東京高等師範学校附属小学校東京高等師範学校附属中学校第八高等学校を経て[3]1916年大正5年)7月に東京帝国大学工科大学造船学科を卒業[3][4]

1918年(大正7年)12月に海軍造船大技士(大尉相当官)、呉海軍工廠造船部員[3][注釈 1]。海軍に入ってから平賀譲(のちに海軍技術中将・東京帝国大学総長)の部下となり、その影響を強く受けた[5]八八艦隊計画では、4万7000トン・18インチ砲搭載の巨大戦艦を設計した。1922年(大正11年)3月から1925年(大正14年)3月まで、3年間イギリスに私費留学した[3]

1924年(大正13年)から1944年昭和19年)まで20年にわたって海軍技術研究所に勤務した。当初、同研究所は築地市場の傍にあったが、徳川はしばしば市場に通っては魚を観察して、新造艦のアイデアを求めたと言われている[6]。特に昭和初期に帝国海軍が優秀な潜水艦を多数保有できた[7][8]のは、徳川の研究成果によるところが大きいとされている[8][9][10][11]1942年(昭和17年)11月、海軍技術中将に進級すると共に海軍技術研究所長に就任し、1944年(昭和19年)12月に海軍艦政本部出仕となり、1945年(昭和20年)4月に予備役に編入された[3]

海軍士官として勤務しつつ、東京帝国大学工学部教授を、1938年(昭和13年)3月から1944年(昭和19年)10月まで兼任した[3]

戦後公職追放令によって、一時丸善の顧問(研究員)となる[12]が、畑違いと思われた永井荷風の研究論文で文学界の注目を集めた。また、技術者らしく「ペンを科学する」というペン先を科学的に分析した研究論文も執筆した[13]。追放解除後は、防衛庁技術研究所[14]川崎重工業の顧問を務めて、日本の造船業の再建に尽力した。

松戸市にある武定の邸宅である戸定邸には多くの工学関連、あるいは趣味によるアフリカ関連書籍が収蔵されていた[15]。前者は藤原工業大学慶應義塾大学に統合)、後者は天理大学に寄贈された。

1951年(昭和26年)に戸定邸を松戸市へ物納し、以後はその離れに住した。登山も楽しんだ[16]

栄典
1913年大正2年)11月1日 - 正五位[17]

家族
妻は徳川達孝の四女・繡子(ぬいこ)[18](母・鏡子は昭武の七兄・徳川慶喜の長女)。その間に長女・宗子(ときこ)がおり、その婿・徳川博武(母・保子は昭武の十三兄・土屋挙直の娘)が松戸徳川家を継いだ[18]。ついで博武・宗子の子の徳川文武が3代当主となっている。

脚注
注釈
・出典には、海軍造船中技士(中尉相当官)への任官については記載がない。

出典
1. デジタル版 日本人名大辞典+Plus「徳川武定」 (日本語)
2.  『官報』第2652号、1892年明治25年)5月4日、p26。
3. 
a b c d e f 秦 2005, p. 232, 第1部 主要陸海軍人の履歴-海軍-徳川武定
4. 
高木 1917, pp. 145–150.
5. 
山本 1997, pp. 39–43.
6. 
谷口 1970, pp. 53–57.
7. 
鬼頭 1979, pp. 620–623.
8. 
a b 鬼頭 1967, pp. 523–528.
9. 
竹沢 1978, pp. 467–474.
10. 
吉織 1980, pp. 267–272.
11. 
山本 2000, pp. 812–814.
12. 
「鹿鳴館資料・1867年渡仏の徳川民部公子一行に関する資料・その他(德川武定氏出品)」『日仏文化交流展 : 解説及出品目録 資料,文献,絵画 日仏文化協定締結記念』文化懇話会、国際文化振興会、東洋文庫(編)、丸善、1953年(昭和28年)、p76(コマ番号0048.jp2)、全国書誌番号:54013658doi:10.11501/2987565。戦後の日仏文化交流再開を祝う展覧会の図録。徳川は父・昭武がフランスを訪問したとき受贈した懐中時計ほかを出展した。会期は1953年(昭和28年)11月3 - 14日、会場は日本橋丸善本店。
13. 
中村 1985, pp. 427 -.
14. 
佐藤 2003, pp. 676–682.
15. 
新聞集成昭和編年史 2003, p. 418.
16. 
小林義正「徳川武定氏」『山と書物』築地書館、1957年、343頁。doi:10.11501/3013071全国書誌番号:57000125国立国会図書館内限定・図書館送信対象(コマ番号0191.jp2)
17. 
官報』第379号「叙任及辞令」1913年(大正2年)11月3日。
18. 
a b 平成新修旧華族家系大成、p173。

参考文献
主な執筆者名の50音順。
霞会館華族家系大成編輯委員会『平成新修旧華族家系大成』 下巻、東京 : 霞会館、吉川弘文館 (発売)、1996年11月、173頁。:注記『昭和新修華族家系大成』1982年刊(昭和57年)の改訂版。
・鬼頭史城「流体力学の回顧」『造船協会誌』第462号、1967年12月25日、523 - 528頁、doi:10.14856/kyokaisi.462.0_523
・鬼頭史城「水力学よもやまばなし」『日本機械学会誌』第82巻第727号、1979年6月5日、620 - 623頁、doi:10.1299/jsmemag.82.727_620
・佐藤隆一「防衛庁技術研究本部第1研究所(〈シリーズ〉研究所紹介)」『Techno marine 日本造船学会誌』第875号、2003年9月10日、676 - 682頁、doi:10.14856/technom.875.0_676
・高木栄二郎「耐圧球殻の圧壊強度について」『日本造船学会誌』第501号、1971年、145 - 150頁、doi:10.14856/zogakusi.501.0_145
・竹沢誠二「本邦試験水槽発達小史〔1〕」『日本造船学会誌』第592号、1978年10月25日、467 - 474頁、doi:10.14856/zogakusi.592.0_467
・谷口中「船型開発ものがたり (その 1)」『日本造船学会誌』第488号、1970年、53 - 57頁、doi:10.14856/zogakusi.488.0_53
・中村貴憲「漢字の制限などについて思うこと」『日本造船学会誌』第673号、1985年7月25日、427 -、doi:10.14856/zogakusi.673.0_427
秦郁彦(編著)『日本陸海軍総合事典』(第2)東京大学出版会、2005年。
・明治大正昭和新聞研究会(編)「『アフリカ文献』を完成・徳川武定博士三十年の努力」『新聞集成昭和編年史』 昭和27年版、3号、新聞資料出版、2003年4月、418頁。<GB511-H9>
・山本善之「平賀 譲先生を考える2」『らん:纜』第38号、1997年12月30日、39 - 43頁、doi:10.14856/ran.38.0_39
・山本善之「徳川武定先生と鬼頭史城先生」『Techno marine 日本造船学会誌』第857号、2000年11月25日、812 - 814頁、doi:10.14856/technom.857.0_812
・吉織正雄「弾性安定論覚書」『日本造船学会誌』第611号、1980年5月25日、267 - 272頁、doi:10.14856/zogakusi.611.0_267

関連資料
 脚注に使用していないもの。発行年順
・松戸市教育委員会(編)『松戸徳川家資料目録』第2集、松戸市教育委員会、1990年。<GK138-E25>
・原剛、安岡昭男(編)「徳川武定」『日本陸海軍事典』新人物往来社、1997年、p466。<A112-G101>
・「徳川武定」『ドキュメント人と業績大事典』第16巻、ドキュメント人と業績大事典編集委員会(編)、ナダ出版センター、2001年、p52。<GK13-G691>
沢井実「徳川武定」『近代日本の研究開発体制』名古屋大学出版会、2012年、p86。<M33-J39>
板倉聖宣(監修)「徳川武定(造船工学)」『事典日本の科学者 : 科学技術を築いた5000人』日外アソシエーツ、2014年、p535。<M2-L18>

関連項目
水力学
弾性
土浦藩
流体力学       
(wikiより)

8 徳川武定

徳川武定

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8b

8c




時代江戸時代後期 - 明治時代
生誕天保4年8月11日1833年9月24日
死没明治27年(1894年10月5日
別名通称:半之丞
墓所豊島区染井霊園
官位従五位下正五位従四位正四位備中守丹後守子爵
幕府江戸幕府
主君徳川家慶家定家茂慶喜明治天皇
和泉伯太藩
氏族三河渡辺氏
父母父:渡辺潔綱
兄弟章綱寛綱隆綱、里(永井直幹正室)、稲垣太祥継室、永井尚敏正室
正室:内藤頼寧の娘
恭綱(長男)
養子:寛綱(実弟)

渡辺 章綱(わたなべ あきつな)は、江戸時代後期の大名明治時代華族和泉伯太藩最後(第9代)の藩主で同藩初代(最後)知藩事。華族としての爵位は子爵

略歴
天保4年(1833年)、第8代藩主・渡辺潔綱の長男として誕生する。弘化3年(1846年)9月1日、第12代将軍・徳川家慶御目見した。

弘化4年(1847年)5月23日、父・潔綱の隠居により、家督を相続した。同年12月16日、従五位下備中守に叙任した。後に丹後守に改めた。安政3年(1856年)2月8日、大坂加番を命じられる。また、日光祭祀奉行を務めた。元治元年(1864年)6月25日、大和橋などの警備を命じられた。慶応4年(1868年)3月16日、上洛する。

明治2年(1869年)の版籍奉還藩知事となるが、明治4年(1871年)7月15日の廃藩置県で免官となる。同年9月28日、東京に移る。明治17年(1884年)、子爵となった。

明治27年(1894年)、死去。享年62。
(wikiより)

7 渡辺章綱

渡辺章綱

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樺山 愛輔(かばやま あいすけ、慶応元年5月10日1865年6月3日) - 昭和28年(1953年10月21日)は、日本の実業家政治家華族貴族院伯爵議員伯爵樺山資紀の長男。

生涯
1865年薩摩藩士・樺山資紀の長男として鹿児島に生まれた。1878年米国に留学。1885年コネチカット州ウェズリアン大学に入学。[1]その後、1887年アマースト大学に編入。アマースト大学卒業後はドイツボン大学に学ぶ。実業界に入り、函館どつく日本製鋼所十五銀行などの役員を務める。1922年、父資紀(海軍大将、伯爵)の死後、爵位を襲爵した。1925年7月10日に貴族院議員に選任され[2]1946年6月13日まで務めた[3][4]1930年ロンドン海軍軍縮会議には随員として参加。太平洋戦争中は、近衛文麿原田熊雄吉田茂、盟友の松平恒雄などと連携していわゆる「ヨハンセングループ」の終戦工作に従事した。1946年枢密顧問官に就任。翌年日本国憲法の施行により枢密院廃止。公職追放となる[5]

20年以上の滞米経験から米国内に多くの知己を持ち、日米協会会長や国際文化振興会顧問、国際文化会館理事長、ロックフェラー財団などの国際的文化事業にも携わった。墓所は染井霊園

栄典
位階
1885年(明治18年)6月10日 - 従五位[6][7]
1894年(明治27年)6月30日 - 正五位[6]
1901年(明治34年)6月21日 - 従四位[6]
1913年(大正2年)6月30日 - 正四位[6]
1924年(大正13年)11月15日 - 従三位[6][8]
1932年(昭和7年)12月2日 - 正三位[6][9]
1941年(昭和16年)12月15日 - 従二位[6]

勲章等
1922年(大正11年)2月28日 - 伯爵襲爵[6]
1928年(昭和3年)11月10日 - 金杯一個大礼記念章(昭和)[6]
1931年(昭和6年)
 ・5月1日 - 帝都復興記念章[6][10]
 ・10月31日 - 勲三等瑞宝章[6]
1932年(昭和7年)10月1日 - 朝鮮昭和五年国勢調査記念章[6]
1934年(昭和9年)
 ・2月1日 - 御紋付銀盃[6]
 ・4月29日 - 旭日中綬章昭和六年乃至九年事変従軍記章[6]
1940年(昭和15年)
 ・4月29日 - 勲二等瑞宝章支那事変従軍記章[6]
 ・11月10日 - 紀元二千六百年祝典記念章[6]
1944年(昭和19年)1月15日 - 御紋付木盃[6]

外国勲章佩用允許
1934年(昭和9年)3月1日 - 満洲帝国大満洲国建国功労章[6]
1935年(昭和10年)9月21日 - 満洲帝国満洲帝国皇帝訪日記念章[6]
1937年(昭和12年)10月7日 - ベルギー王国:ゲーロンヌ勲章グランオフィシエ[6]
1941年(昭和16年)12月9日 - 満洲帝国建国神廟創建記念章[6]

家族
・妻・常子は、伯爵川村純義の娘。兄に鉄太郎大寺純藏がいる。
・長男・丑二は、東宝取締役、モルガン銀行東京支店顧問。妻の梅子は橋本圭三郎の娘。
・長女・泰子は、男爵近藤廉平の二男・廉治の妻。「不良華族事件」も参照。
・二女・正子は、白洲次郎の妻。

脚注
1. Bronson Potts, David. Wesleyan University, 1831-1910: Collegiate Enterprise in New England. Yale University Press, 1992, p. 345.   
2. 
『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、貴族院事務局、1947年、33頁。
3. 
『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』25頁。
4. 
『官報』第5828号、昭和21年6月20日。
5. 
『朝日新聞』1947年6月22日一面。
6. 
a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u 樺山愛輔」 アジア歴史資料センター Ref.A06051186300   
7. 
『官報』第582号「賞勲叙任」1885年6月11日。
8. 
『官報』第3672号「叙任及辞令」1924年11月18日。
9. 
『官報』第1779号「叙任及辞令」1932年12月3日。
10. 
『官報』第1499号・付録「辞令二」1931年12月28日。

参考文献
・衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。

外部リンク
国立国会図書館 憲政資料室 樺山愛輔関係文書     
(wikiより)

6 樺山愛輔

樺山愛輔

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6b




生誕1876年12月21日
日本の旗 日本東京府
死没1951年3月5日(74歳没)
所属組織 大日本帝国海軍
軍歴1898年 - 1924年
最終階級 海軍少将
除隊後講道館長
墓所豊島区染井霊園

南郷 次郎(なんごう じろう、1876年明治9年)12月21日 - 1951年昭和26年)3月5日)は、日本海軍軍人。最終階級は海軍少将講道館長(第2代)

経歴
東京府出身。南郷茂光の長男として生まれる。学習院海軍予科を経て、1898年(明治31年)12月、海軍兵学校26期)を卒業し、1900年(明治33年)1月、海軍少尉任官。日露戦争に第4艇隊艇長として出征し、さらに第1艇隊に属する第67号艇長として日本海海戦に参戦した。1905年(明治38年)12月、海兵幹事に就任。海軍大学校乙種学生、海軍水雷学校高等科学生として学び、1907年(明治40年)9月、「初霜駆逐艦長となり、「鹿島水雷長心得を経て、1908年(明治41年)9月、海軍少佐に昇進し「常磐」水雷長に就任。水雷学校教官を経て、1910年(明治43年)11月、海軍大学校(甲種8期)を卒業した。

1910年12月、「薩摩」水雷長となり、海兵教官を経て「浅間」副長として第一次世界大戦に出征した。1913年(大正2年)12月、海軍中佐に進級。1916年(大正5年)2月から東伏見宮依仁親王付武官を務め、1917年(大正6年)12月、海軍大佐に昇進。

1919年(大正8年)2月、「春日艦長に就任し、以後、「香取」艦長、軍令部副官、軍令部出仕を歴任。1922年(大正11年)12月、海軍少将に進み佐世保防備隊司令に就任した。1923年(大正12年)12月、待命となり、1924年(大正13年)2月、予備役に編入された。

講道館の創始者である嘉納治五郎の甥である縁から、海軍退役後に講道館第2代館長を務めた。

栄典
位階
1900年(明治33年)2月20日 - 正八位[1]
1901年(明治34年)12月17日 - 従七位[2]
1903年(明治36年)12月19日 - 正七位[3]
1908年(明治41年)12月11日 - 従六位[4]
1914年(大正3年)1月30日 - 正六位[5]
1918年(大正7年)1月30日 - 従五位[6]
1922年(大正11年)12月28日 - 正五位[7]
1924年(大正13年)3月24日 - 従四位[8]

勲章等
1914年(大正3年)5月16日 - 勲四等瑞宝章[9]
1921年(大正10年)7月1日 - 第一回国勢調査記念章[10]

外国勲章佩用允許
1919年(大正8年)1月22日
 ・イギリス帝国ロイヤル・ヴィクトリア勲章コマンダー[11]
 ・イタリア王国聖マウリッツィオ・ラザロ勲章コメンダトーレ[11]
 ・ベルギー王国:王冠第三等勲章[11]
 ・フランス共和国レジオンドヌール勲章オフィシエ[11]

親族
・長男 南郷茂章(海軍少佐、戦死)
・三男 南郷茂男(陸軍中佐、戦死)
・娘婿 矢田健二(海軍技術大佐)
・弟 南郷三郎日本綿花社長)・九里四郎洋画家
・叔父 嘉納治五郎(母の弟)・遠藤喜太郎(海軍少将、父の弟)
・義父 堤正誼男爵

脚注
1. 『官報』第4989号「叙任及辞令」1900年2月21日。
2. 
『官報』第5539号「叙任及辞令」1901年12月18日。
3. 
『官報』第6142号「叙任及辞令」1903年12月21日。
4. 
『官報』第7640号「叙任及辞令」1908年12月12日。
5. 
『官報』第451号「叙任及辞令」1914年1月31日。
6. 
『官報』第1647号「叙任及辞令」1918年1月31日。
7. 
『官報』第3126号「叙任及辞令」1923年1月4日。
8. 
『官報』第3483号「叙任及辞令」1924年4月7日。
9. 
『官報』第539号「叙任及辞令」1914年5月18日。
10. 
『官報』第2858号・付録「辞令」1922年2月14日。
11. 
a b c d 『官報』第3369号「叙任及辞令」1919年1月24日。

参考文献
秦郁彦編『日本陸海軍総合事典』第2版、東京大学出版会、2005年。
・外山操編『陸海軍将官人事総覧 海軍篇』芙蓉書房出版、1981年。
・福川秀樹『日本海軍将官辞典』芙蓉書房出版、2000年。
・海軍歴史保存会編『日本海軍史』第10巻、発売:第一法規出版、1995年。
・「軍艦浅間准士官以上名簿」 アジア歴史資料センター Ref.C11081162800 (防衛省防衛研究所所蔵 海軍省-遣英遣米-T3-13-19 海軍省公文備考類 遣米枝隊関係書類 巻15)
(wikiより)

5 南郷次郎

南郷次郎

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中根 東里(なかね とうり、元禄7年(1694年) - 明和2年2月7日1765年3月27日))は、江戸時代中期の儒学者。名は若思、字は敬夫、通称は貞右衛門[1]

伊豆国下田村(現静岡県下田市)生まれ。父は三河国出身の農民医師を兼ねていた重勝(しげかつ)[2]。13歳のとき父が死去し、母の勧めで出家して地元の禅宗となった。のちに山城国宇治(現京都府宇治市)の黄檗山萬福寺に赴いて中国語を学び[3]、次いで江戸駒込の浄土宗蓮光寺に移り読書に励んだ。19歳で荻生徂徠に入門、のち還俗した。徂徠学に疑いを抱くようになり、朱子学に傾斜して、享保元年(1716年)23歳で加賀国金沢(現石川県金沢市)の室鳩巣に師事した。それでも満足できず、さらにのち陽明学に転じた[4]。享保20年(1735年)、弟子である下野国植野村(現栃木県佐野市植野町付近)の医師金束信甫に招かれ、信甫の家の泥月庵(のち知松庵)で塾を開き[5]、20年余りにわたって陽明学や『伝習録』をわかりやすく講じた[3]宝暦12年(1762年)、母と姉の住む相模国浦賀村(現神奈川県横須賀市)に移り、明和2年(1765年)2月7日死去、村内の日蓮宗東耀山顕正寺に葬られた[2]。著書に『学則』『新瓦(しんが)』『東里遺稿』などがある[2]

脚注
1. 中根東里 なかね-とうり 日本人名大辞典
2. 
a b c 中根東里 なかねとうり(1694 - 1765) 日本大百科全書     
3. 
a b 「中根東里」 (PDF) 『浦賀文化』第34号、浦賀行政センター、2013年7月1日   
4. 
中根東里 朝日日本歴史人物事典   
5. 
佐野市指定文化財 中根東里学則版木 佐野市       

外部リンク
中根東里の経歴(『下田の栞』による) - ウェイバックマシン(2016年5月31日アーカイブ分)
(wikiより)

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誕生山口 瞳
1926年1月19日
日本の旗 日本 東京府荏原郡入新井町(現:東京都大田区
死没1995年8月30日(69歳没)
日本の旗 日本 東京都小金井市(聖ヨハネ会桜町病院)[1]
職業小説家エッセイスト
国籍日本の旗 日本
民族大和民族
教育鎌倉アカデミア
最終学歴國學院大學文学部卒業
ジャンル小説
代表作江分利満氏の優雅な生活』(1963年)
『血族』(1979年)
『男性自身』シリーズ(1963年 - 1995年)
主な受賞歴直木賞(1965年)
菊池寛賞(1979年)
デビュー作江分利満氏の優雅な生活』(1963年)
活動期間1961年 - 1995年
子供山口正介
親族花柳若奈(妹)

山口 瞳(やまぐち ひとみ、本名同じ、1926年(大正15年)1月19日(戸籍上は11月3日) - 1995年(平成7年)8月30日)は、日本男性作家エッセイスト

妹は日本舞踊家花柳若奈(本名:栄)でジェリー伊藤の妻。作家映画評論家山口正介は息子。甥(弟・山口昭の子)にプロレスのレフェリーだったウォーリー山口(本名:山口雄介)[2]

経歴
1926年1月19日、東京府荏原郡入新井町(現:東京都大田区)に生まれる。ただし、同年同月に異母兄が生まれたため、戸籍には11月3日生まれとして届けられた[3]。父親はアイディアマンの実業家。母親は横須賀柏木田遊郭の経営者の娘で(ただし、その事実は、終生子供には隠していた。のちに山口は柏木田を舞台に『血族』を執筆)、美人で社交的で粋な女性。非常に雰囲気が明るく、交友関係も広く、派手な家庭であった。長唄三味線家元杵屋勝東治、その息子である、後の若山富三郎勝新太郎も出入りしていた。

父親の事業が一時失敗し、落魄して川崎の尻手付近に「都落ち」したこともあり、山口の中ではその赤貧時代が原風景としていつまでも残り、派手好きでありながら、一方で非常に謹直であるという複雑な性格の元となった。家族の間では「冷血動物」とあだ名されたという。

小学校時代は野球に熱中し、同級生に元東急フライヤーズ投手黒尾重明がいた。旧制麻布中学を経て旧制第一早稲田高等学院を中退。

兵役の後、1946年鎌倉アカデミアに入学し、在学中から同人誌に作品を発表。なお、鎌倉アカデミア時代には、歌人吉野秀雄に師事した。この時川端康成宅の隣に住み、養女の政子と親しくしていた[4]

国土社に入社し編集者となる。だが、正式の大学を出ていないことに対する劣等感を指摘され、師事していた高橋義孝から「正式な大学を出れば、もっと大きな出版社に紹介してあげる」と言われたことから、國學院大學文学部に入り、1954年に卒業[注 1]河出書房の「知性」編集部に勤務していたが、1957年3月に同社が倒産。同誌の続刊を図る編集長の小石原昭に従って新設の知性社に移るも、同誌は2号で廃刊となったため再び失職。

1958年開高健の推薦で壽屋(現:サントリー)に入社。PR雑誌「洋酒天国」の編集や、コピーライターとして活躍する。ハワイ旅行が当たる懸賞のコピートリスを飲んでHawaiiへ行こう!」が代表作。

婦人画報」に連載した『江分利満氏の優雅な生活』で、1963年に第48回直木賞を受賞、同作品は映画化もされた。受賞後しばらくは二足の草鞋を履いたが、「週刊新潮」の伝説的編集者斉藤十一からコラムの連載依頼を受けたことから、文筆業に専念するためにサントリーを退社。

代表作は、「週刊新潮」に1963年から31年間、延べ1614回、死去まで一度も穴を開けることなく連載を続けたコラム・日記の『男性自身』シリーズ、自らの両親の生い立ちを題材とした『血族』(第27回菊池寛賞受賞)、『家族』などがある。

血族』は、1980年1月6日から2月3日まで、NHKテレビドラマ人間模様」で脚本:早坂暁、音楽:武満徹、演出:深町幸男で全5回のドラマとして放送された(主演は小林桂樹

競馬将棋、野球に造詣が深く、全国の地方競馬場を踏破した『草競馬流浪記』、プロ棋士と駒落ちで対戦した記録『山口瞳血涙十番勝負』、プロ野球から草野球まで、野球に関するエッセイをまとめた『草野球必勝法』などの著書もある。

なお、山口の著書の表紙絵、挿絵は、その多くをサントリー時代からの友人である、柳原良平が担当している。

糖尿病を患っていたが、克服。晩年は小説の執筆をやめ、『男性自身』に集中して仕事をしていた。死の直前は肺癌が急速に悪化。直前まで本人には告知されなかった。家族がホスピスへ移すことを相談している最中に突然、状態が急変し、東京都小金井市の聖ヨハネ会桜町病院ホスピス棟にて死去[1]。死が急であったため、結果的に、『男性自身』は「アナ空き」がないことになった。戒名は文光院法国日瞳居士[5]

エピソード
将棋
将棋には幼少の頃から熱心に打ち込み、専業作家になってからも、原田泰夫の弟子である山口英夫を自宅に呼んで稽古をつけてもらっていた。また、将棋棋士たちの世界のことが一般に知られていないことに義憤を抱き、「将棋界の宣伝マン」と自ら名乗った。「将棋界は大天才の集団」と唱え、著書や観戦記などで、個性的な将棋棋士たちを紹介した。

また、師の山口英夫と飛車落ちの新定跡「瞳流6筋位取り戦法(瞳流位取り)」を研究・創案。これを用いて「血涙十番勝負」では、飛車落ちで、当時のトッププロであった米長邦雄、原田泰夫に勝利し、山田道美と引き分け、3勝6敗1分け(ただし、6敗のうちの1敗は後述する蛸島彰子との平手戦である)という結果を残した。なお、将棋では千日手や持将棋などは再試合となるため、純粋な引き分けが記録されることは殆どなく、山口の1分けという棋譜は非常に変わった記録である(山田は対局後に記した自戦記で上手側からの攻撃が難しくなる瞳流6筋位取り戦法の優秀性を認めるとともに、従来の6筋位取り戦法は6筋の位を取って中央に二枚銀を配し、飛車は4八の地点で受けに使い左玉で囲う形だったのを、飛車を6八に振って6筋の攻撃の主力にし、右玉に囲うという発展形を考案した。直後に山田が急死したため、山口はその後に行われた第四戦で山田への追悼としてこの戦法を使い、米長を破っている)。ただ、アマチュアの段位を貰うことは頑なに拒んだ。これは山口が子供の頃プロ棋士を志望したが、当時の棋士の収入の低さを不安に思ってやめてしまったという複雑な感情に起因する。

しかし、その「血涙十番勝負」の企画で、蛸島彰子初段(当時)と平手対局するにあたり、将棋連盟の強い要望によりアマ四段の免状を受けている。これは、万が一プロの二段(当時、女流棋界は発足する前で、蛸島は奨励会の初段としてプロを目指した後、二段ということで対局していた)が無段の人間に負けては示しがつかない、というのが理由である。

また「子供の頃からの夢」であった、名人戦第1局の観戦記執筆も叶えた。

だが、晩年には、山口英夫や将棋連盟の米長邦雄との間にトラブルが起きたことや、将棋界の保守的な体質に対して不信感を抱いたこともあり、将棋界との交流を絶った。[要出典]

ただし、1987年に創設された、将棋を愛する作家、ジャーナリスト、観戦記者たちの団体「将棋ペンクラブ」には参加し、「将棋ペンクラブ大賞」の選考委員も、死去するまで務めた。

なお、山口瞳から絶縁された山口英夫は、瞳の弟で、婦人洋品卸会社社長だった山口昭に招かれて将棋の指導会を行っていた[2]。ただし、昭のほうは瞳のような棋力はなく、アマチュア級位者クラスだった[6]

没後、日本将棋連盟からアマ七段の免状(二上達也会長と羽生善治名人・竜王の署名入。ただし、役職、タイトルは何れも当時)が授与された[7]

行きつけの店
東京や、取材で訪れた旅行先等で、お気に入りの店が見つかると、その店に通いつめる性格であった。そうした「行きつけの店」たちのことを、たびたび『男性自身』等に描いている。また、自らの母親の家系が「サービス業」だったせいか、「飲食業の人たちが仲間に思える。大きな顔をして客らしく構えることができず、どうしても従業員の人に気を使ってしまう」とも書いている。

ただし、執筆のための飲食では、出版社に「接待」されていたため、晩年、デビューしたばかりの田中康夫から「自分は自腹を切って、料理店の批評を書いている。山口のように自分のお金で飲食しないのでは、その店を正しく評価できない」と批判された。

礼儀作法
サラリーマン向けの礼儀作法についての作品も多く、『礼儀作法入門』はロングセラーとなっている。サントリーの新聞広告での新成人や新社会人へのメッセージは、毎年成人の日4月1日の恒例となっていた。没後は伊集院静が引き継いで続いている。

向田邦子晩年の向田邦子の、最も近くにいた作家の一人でもある。その随筆や短編小説に惚れ込み、第83回直木賞では向田を強く推薦して受賞に至らしめた。仕事の上での交友関係も続いたが、1981年8月22日の向田の突然の事故死には大きなショックを受け、「アル中寸前」にまで陥ったという。こうした向田とのエピソードの多くは、自身のエッセイ『男性自身 木槿の花』に収められている。この作品から、向田の命日は「木槿忌」と呼ばれることとなった。

なお、山口は向田の死後、「向田邦子は八方美人的なところがあり、誰もが『自分が一番愛されている』と思わせる天才だった。それゆえ嘘つきだった」と評した[要出典]。競馬を介して交流があった色川武大が死去した際も、同趣旨の追悼文を書いた。

国立
かねがね「山手線の外側には住まない」と発言していたが、サントリー退社当時、息子の山口正介が東京郊外の国立市の中学校に通っていたことから、国立に居を移し、気に入って終生の棲家とした。国立に移住する際、師と仰いだ高橋義孝の紹介による若手女性建築家に自宅の設計を任せたところ、「コンクリート打ちっぱなし、家の真ん中にある半地下の部屋が食堂」という、非常にモダンで実験的な家が出来上がった。山口自身は、和風な家が好みであったが、高橋との義理のため、このうちに我慢して住んだ。大雨の際に地下の食堂が浸水したり、晩年の足が不自由になった際でも、食堂にいくため一々階段を下りなければならない等、「実験的な家」は住むには不自由な家であった。

『男性自身』でもたびたび地元・国立のことに触れていて、なかでも谷保天満宮(やぼてんまんぐう)はお気に入りの場所だった。なお、谷保天満宮では、ある朝突然たずねてきた伊丹十三宮本信子に依頼されて、山口が立会人を務めて、その日のうちに彼等の結婚式が行われた。気さくな人柄で谷保駅前の焼き鳥屋に夜毎顔を出し、地元の人々との交流を大切にしていた。『居酒屋兆治』はそんな経緯から生まれた作品である。

近所に住む彫刻家関保寿ドストエフスキーに容貌が似ていることから、作中では「ドスト氏」と表現)とは特に気が合い、一緒に数多く旅行をした。旅行先では、地方競馬に興じたり、油絵を描くなどして、楽しんだ。

同じ国立に所在する縁で、荒磯部屋(二所ノ関系)の後援会長を務めていた[8]


妻とは鎌倉アカデミア時代に知り合った。妻の実家は東京向島で皮革業を営んでいた。結婚後、彼女が現在でいうパニック障害(当時はノイローゼと診断)に罹ったため、妻は電車に乗れず、共に外出する際は、いつもタクシーを用いた。妻と幼い息子を連れて、銀座バーに出かけたこともあるという。

平和主義者
筋金入りの反戦主義者・護憲論者であり、「我が生涯の幸運は、戦争に負けたことと憲法九条に尽きると思って居る」「人を傷つけたり殺したりすることが厭で、そのために亡びてしまった国家があったということで充分ではないか」「もし、こういう(非武装の)国を攻め滅ぼそうとする国が存在するならば、そういう世界は生きるに価しないと考える」[9]など、強固な信念に基づく見解を『男性自身』などで述べている。

プロ野球選手
史上最強の打者に、景浦将(阪神)と大杉勝男(ヤクルト)の2名を挙げている。大杉評として有名なものに「大杉のバッティングを見ると、いつも景浦を思い出した」と言うものがある。

著作
・『山口瞳大全』全11巻 新潮社 1992-93

小説
・『江分利満氏の優雅な生活』 文藝春秋新社 1963 のち新潮文庫、「江分利満氏の優雅で華麗な生活」小学館
・『江分利満氏の華麗な生活』 文藝春秋新社、1963 のち新潮文庫角川文庫
・『結婚します』 新潮社1965 のち文庫
・『マジメ人間』 文藝春秋新社 1965 のち角川文庫
・『新入社員諸君!』 文藝春秋新社 1966 のち角川文庫
・『世相講談』正続、第三 文藝春秋 1966-69 のち角川文庫
・『少年老い易く』 講談社 1967
・『結婚しません』 新潮社 1967 のち文庫
・『善の研究』 文藝春秋 1968 のち角川文庫
・『わが町』 新潮社 1968 のち角川文庫
・『愛ってなに?』 新潮社 1968 のち文庫
・『小説・吉野秀雄先生』 文藝春秋 1969 のち文庫
・『江分利満氏大いに怒る』 新潮社 1969 のち集英社文庫
・『鳩胸の鳩』 新潮社 1970
・『なんじゃもんじゃ』 文藝春秋 1971 のち角川文庫
・『人殺し』 文藝春秋 1972 のち文庫
・『けっぱり先生』 新潮社 1972 のち文庫
・『どこ吹く風』 新潮社 1972 のち集英社文庫
・『山口瞳血涙十番勝負』正続 講談社 1972 のち文庫、中公文庫、小学館
・『犬の歴史』 番町書房 1973
・『むにゃむにゃ童子』 角川書店 1976 のち文庫
・『伝法水滸伝』 集英社文庫 1977
・『血族』 文藝春秋 1979 のち文庫、小学館
・『単身赴任』 講談社 1979 のち文庫
・『考える人たち』 作品社 1979 のち文春文庫
・『同行百歳』 講談社 1979 のち文庫
・『谷間の花』 集英社文庫 1980
・『青雲の志について 鳥井信治郎伝』 集英社文庫 1981
・『居酒屋兆治』 新潮社 1982 のち文庫、小学館
・『婚約』 講談社 1982 のち文庫
・『家族』 文藝春秋 1983 のち文庫、小学館
・『木彫りの兎』 集英社文庫 1983
・『庭の砂場』 文藝春秋 1987 のち文庫
・『梔子の花』 新潮文庫 1995
・『いろいろ有難う・これからどうなる』 新潮ピコ文庫 1996
・『巷説 天保水滸伝』 河出書房新社 2004
・『父の晩年』 河出書房新社 2007

男性自身シリーズ
・1 男性自身 (1965)
・2 ポケットの穴 (1966)
・3 旧友再会 (1967)
・4 父のステッキ (1968)
・5 壁に耳あり (1969)
・6 少年達よ、未来は (1970)
・7 天下の美女 (1971)
・8 変奇館日常 (1972)
・9 変奇館の春 (1973)
・10 隠居志願 (1974)
・11 銀婚式決算報告 (1975)
・12 元日の客 (1976)
・13 巨人ファン善人説 (1977)
・14 人生仮免許 (1978)
・15 展覧会の絵 (1980)
・16 卑怯者の弁 (1981)
・17 木槿の花 (1982)
・18 禁酒時代 (1983)
・19 余計なお世話 (1984)
・20 私本歳時記 (1985)
・21 私の根本思想 (1986)
・22 梔子の花 (1987)
・23 還暦老人ボケ日記 (1989)
・24 還暦老人憂愁日記 (1989)
・25 還暦老人極楽蜻蛉 (1991)
・26 年金老人奮戦日記 (1994)
・27 江分利満氏の優雅なサヨナラ (1995)

エッセイ・対談
・『酒呑みの自己弁護』新潮社 1973 のち文庫
・『作法・不作法 師弟対談』高橋義孝 角川書店 1974 のち集英社文庫
・『山口瞳幇間対談』講談社 1974
・『礼儀作法入門 気持ちよく人とつきあうために』祥伝社ノン・ブック 1975、のち集英社文庫、新潮文庫
・『湖沼学入門』講談社 1976 のち文庫
・『月曜日の朝』新潮社 1976 のち「月曜日の朝・金曜日の夜」で新潮文庫
・『私流頑固主義 さりげなく優しさを示すエチケット』祥伝社ノン・ブック 1976、のち集英社文庫、「続礼
・作法入門」新潮文庫
・『草野球必勝法』実業之日本社 1977 のち文春文庫
・『旦那の意見』中央公論社 1977 のち文庫
・『金曜日の夜』新潮社 1978
・『迷惑旅行』新潮社 1978 のち文庫
・『ゲーム的人間』(編)新潮社 1979(楽しみと冒険)
・『酔いどれ紀行』新潮社 1981 のち文庫
・『男の風俗・男の酒』丸谷才一 TBSブリタニカ 1984
・『草競馬流浪記』新潮社 1984 のち文庫
・『温泉へ行こう』新潮社 1985 のち文庫
・『諸君!この人生、大変なんだ』講談社 1985 のち文庫
・『日本競馬論序説』赤木駿介 新潮社 1986 のち文庫
・『新東京百景』新潮社 1988 のち文庫
・『イテマスマス耄碌』対談:吉行淳之介 新潮社 1993
・『行きつけの店』TBSブリタニカ 1993 のち新潮文庫
・『この人生に乾杯! 山口瞳と三十人』TBSブリタニカ 1996
・『君等の人生に乾盃だ!』講談社 1998、「社会人心得入門」講談社+α文庫
・『勤め人ここが心得違い』小学館文庫 1999
・『江分利満氏の酒食生活』角川春樹事務所 2002(ランティエ叢書)
・『やってみなはれみとくんなはれ』開高健 新潮文庫 2003
・『人生の楽しみ見つけたり』講談社+α文庫 2003
・『禁酒禁煙』中公文庫 2003
・『人生論手帖』河出書房新社 2004
・『わが師わが友』河出書房新社 2004
・『わたしの読書作法』河出書房新社 2004
・『会社の渡世』河出書房新社 2005
・『衣食足りて』河出書房新社 2006
・『忘れえぬ人』河出書房新社 2006
・『ああ!懐かしのプロ野球黄金時代』河出文庫 2012
・『山口瞳ベスト・エッセイ』ちくま文庫 2018 小玉武

参考文献
山口正介『ぼくの父はこうして死んだ 男性自身外伝』新潮社 1996
・『この人生に乾杯!山口瞳と三十人』TBSブリタニカ 1996
・山口正介『親子三人』新潮社 1997
・中野朗『変奇館の主人 山口瞳評伝・書誌』響文社 1999
・『KAWADE夢ムック 山口瞳-江分利満氏の研究読本』河出書房新社 2003、増補新版2014
・山口治子『瞳さんと』聞き書き:中島茂信、小学館 2007
・山口正介『山口瞳の行きつけの店』ランダムハウス講談社 2007
常盤新平『国立の先生 山口瞳を読もう』中野朗編、柏艪舎 2007

関連文献
・山口正介『江分利満家の崩壊』新潮社 2012。母治子の死を機に実情を明かした
・山口正介『正太郎の粋 瞳の洒脱』講談社文庫 2013
・山口正介『父・山口瞳自身 息子が語る家族ヒストリー』小学館 2020

脚注
注釈
1. 『文藝年鑑』1969年版では最終学歴が「早大中退」となっている。

出典
1. 
a b 史上初の大調査 著名人100人が最後に頼った病院 あなたの病院選びは間違っていませんか”. 現代ビジネス (2011年8月17日). 2019年12月22日閲覧。
2. 
a b 湯川博士『将棋巷談 一手劇場』毎日コミュニケーションズ p.152 
3. 
山口瞳電子全集 - P+D MAGAZINE   
4. 
「隣人・川端康成」『小説吉野秀雄先生』
5. 
大塚英良『文学者掃苔録図書館』(原書房、2015年)p.243   
6. 
湯川博士『将棋巷談 一手劇場』毎日コミュニケーションズ p.155   
7. 
春原千秋 『将棋を愛した文豪たち』(メディカル・カルチュア社、1994年)、「山口瞳」の章
8. 
北の富士勝昭、嵐山光三郎『大放談!大相撲打ちあけ話』(新講舎、2016年)p.58   
9. 
嵐山光三郎編『男性自身傑作選 熟年篇』所収「私の根本思想」(新潮文庫、2003年)p.227
(wikiより)

18 山口瞳

山口 瞳

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西野前知 ( さきとも ) は、江戸時代の後期から明治にかけて浦賀を中心に三浦半島の歌壇をリードした人物。

文政五年 ( 1822 ) 生まれ。嘉永六年 ( 1853 ) には、父の後を継いで回船問屋の八代目市郎左衛門を名乗った。

維新後は新政府の浦賀役所に出仕した。

愛宕山の中島三郎助の招魂碑建立にあたっては、濱口英幹らとともに発起人の一人として名を連ねている。

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大衆帰本塚の碑

大衆帰本塚の碑は、元治元年 ( 1864年 ) 9月に建てられました。

篆額 ( てんがく ) は江戸時代後期の国学者の大畑春国が書き、碑文は浦賀奉行所与力の中島三郎助の文章と筆跡がそのまま刻まれています。

碑材には、安山岩の中でも板状節理が発達した箱根産の根府川石が使われています。

なお、石碑は浦賀警察署裏手にあった山の中腹辺りに建てられていましたが、平成 9年の造成工事により現在の場所に移しました。
(浦賀行政センターに資料があります。)

《 碑文の概要 》

この周辺の昔の様子を想えば、葦蟹 ( あしがに ) が遊ぶところから蟹田といい、のどかな湿地帯であった。

しかし、ここにも湊 ( みなと ) の賑いから家並みが押し寄せてきた。

この開発によって傍らに眠っていた無縁仏をひとまとめにして供養しようと、時の浦賀奉行の大久保土佐守が大衆帰本塚を設けることを決めた。

この話を聞いた奉行所付大工棟梁の川島平吉は、奉行の決定を神妙に承り、千年後までもこの事実を伝えるために石碑も良い物を選び、碑の周辺には何本かの桜の木を植えて、無縁になった人々の魂を慰めようと考え、実行した。

立派でたいそう嬉しい心配りであり、なんとも心強くまじめな心であろうか。

このように言うのは、浦賀奉行所に仕える中島三郎助永胤 ( ながたね ) である。
(案内板より)

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浦賀造船所

浦賀湾を囲むこの施設は、住友重機械工業株式会社追浜造船所浦賀工場です。

創業以来、浦賀船渠株式会社、浦賀重工業株式会社、更には現在の社名と変わりましたが、広く「浦賀ドック」の愛称で呼ばれてきました。

この造船所は、明治二十九年、当時農商務大臣であった榎本武揚などの提唱により陸軍要さい砲兵幹部練習所の敷地及び民有地を取得して設立準備を進め、翌三十年六月二十一日の会社設立登記をもって発足したものです。

資本金は百万円でした。

その頃の日本は、日清戦争などの影響もあって、外国から多くの艦船を買い入れ、世界的な海運国に発展しようとしていました。

一方造船界は、技術面や設備面で大きく立ち遅れていました。

その遅れを取り戻すため、外国人技師を雇い入れて国内各地に次々と造船所を造っていきました。

この造船所もそのなかの一つで、ドイツ人技師ボーゲルを月給約百五十円で雇いドックを築きました。

明治三十五年十月十五日、フィリピンの沿岸警備用砲艦ロンブローン号 ( 三五〇排水トン ) を進水させました。

創業以来手がけてきた船は、いずれも国内の企業から受注した工事用運搬船のたぐいばかりでしたが、十四隻目に初めて外国から受注した本格派の艦船を世に送りだしました。

この浦賀造船所で建造した艦船は、戦前・戦後を通じ約一千隻にのぼります。

現在もなお技術革新の旗手として、新しい船を造り続け、造船の浦賀の象徴として、今もなお地元市民に基盤を置いています。
(案内板より)

〇 浦賀船渠

浦賀船渠(うらがせんきょ)は、神奈川県横須賀市浦賀地区にあった造船所。通称浦賀ドック日本海軍駆逐艦建造で有名である。太平洋戦争後も艦艇の建造が続けられたが、2003年平成15年)に閉鎖された。

2021年(令和3年)3月に、施設及び周辺部が住友重機械工業から横須賀市に無償で寄付された[1]

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1910年の浦賀の様子

概要
幕府の浦賀造船所
浦賀での造船の歴史は1853年嘉永6年)のペリー来航までさかのぼる。この時江戸幕府は「大船建造の禁」を解いて浦賀造船所を設置、直ちに軍艦の建造を始め、7か月を掛けて国産初の洋式軍艦「鳳凰丸」を建造した。これは浦賀奉行与力中島三郎助らに軍艦の建造を命じたことが始まりである。また1859年安政6年)には日本初のドライドックが完成し、アメリカへ向かう咸臨丸整備が行われている。しかし小栗忠順らにより、横須賀港製鉄所を建設することを決定し(後の横須賀造船所横須賀海軍工廠)、艦艇建造の中心は横須賀へ移り、浦賀造船所は1876年明治9年)に閉鎖された。

浦賀船渠
中島三郎助の意志を継いだ荒井郁之助榎本武揚塚原周造が中心となり、1897年(明治30年)に浦賀船渠が設立。かつての浦賀造船所と同じ場所に工場が建設された。同時期に同じ浦賀に建設された東京石川島造船所(現:IHI)の浦賀分工場との間で、艦船建造・修理の受注合戦が繰り広げられたという。この競争はダンピング合戦を生み、両社の経営を悪化させた。ほどなくして石川島の浦賀分工場を浦賀船渠が買収、自社工場とすることで決着した。

艦艇建造

石川島との競争や、フィリピンへの砲艦輸出が不調となるなど、当初は経営が思わしくなく、渋沢栄一浅野総一郎などが再建に手を差し伸べた。1912年(明治45年)に就任した第5代社長によりようやく経営が安定した。その後の第一次世界大戦による好況(特需景気)もあり経営は立ち直った。

艦艇の建造は、日露戦争時に横須賀工廠から艦載水雷艇を受注したことに始まる。1907年(明治40年)に初めて駆逐艦「長月」を建造した。その後も小艦艇建造を中心的業務としており、特に駆逐艦の建造で有名で、大阪にあった藤永田造船所と共に駆逐艦建造の名門であり、「西の藤永田、東の浦賀」と呼ばれていた(軽巡洋艦 2隻、駆逐艦 44隻、海防艦 11隻+2隻未完)。

1914年(大正3年)には国内初の鋼製純貨物船[2]として「第五長久丸」が竣工。注目されていたこの船が成績優良につき、同型船6隻及びさらに大型の船6隻も受注して開業以来の盛況を呈した[3]。その後1924年(大正13年)には国内初の旅客兼車両渡船(鉄道連絡船)として青函連絡船翔鳳丸」と「飛鸞丸」が竣工。両船の就航後の成績も良好で、その後多くの青函連絡船を浦賀で建造する事となった。

戦後

太平洋戦争海上自衛隊向けに艦艇建造を続け、米空母ミッドウェイの大規模改修、日本丸建造なども行われた。住友機械工業と合併した際、追浜造船所(現横須賀造船所)を開設、民間船建造はこちらに移った。浦賀地区は工場集約のため2003年平成15年)に閉鎖された。閉鎖後は資材置場として使用されてきた[4]

浦賀船渠の第1号ドック(通称浦賀ドック)は世界に4か所にしか現存していないレンガ積みドライドックのうちのひとつとなっている。国内でも明治期のものは浦賀ドックと川間ドック跡しかなく、両者とも貴重な文化遺産である。

2007年(平成19年)11月30日、浦賀船渠の第1号ドック、ポンプ施設、ドックサイドクレーンが近代化産業遺産に認定。

2021年(令和3年)3月に、浦賀ドックとその周辺部は住友重機械工業から横須賀市に無償で寄付された[1]

沿革
浦賀造船所
1853年嘉永6年) 幕府が浦賀造船所を設置
1854年安政元年) 「鳳凰丸」竣工
1859年(安政6年) 日本初のドライドック建造、咸臨丸の整備が行われる
1873年明治6年) 水兵練習所を設置
1876年(明治9年) 浦賀造船所廃止
1885年(明治18年) 水兵練習所を浦賀屯営と改称
1889年(明治22年) 浦賀屯営閉鎖、陸軍要塞砲兵幹部練習所となる。

浦賀船渠
1895年(明治28年) 10月 株式会社東京石川島造船所(現・株式会社IHI)が浦賀分工場を建設
1898年(明治29年)
 ・5月 陸軍要塞砲兵幹部練習所敷地を取得
 ・9月28日 創業総会
1897年(明治30年)
 ・2月 ドックの建設開始
 ・6月21日 浦賀船渠設立登記
1898年(明治31年) 11月 東京石川島造船所浦賀分工場の操業開始
1899年(明治32年) 11月 1号ドック完成
1900年(明治33年)
 ・1月 浦賀船渠の営業開始
 ・6月10日 新造第1船竣工
1902年(明治35年) 8月 東京石川島造船所浦賀分工場を買収、川間分工場とする。
1907年(明治40年) 浦賀で初の駆逐艦「長月」竣工
1914年大正3年)国内初の鋼製純貨物船[2]第五長久丸」竣工[注 1]
1923年(大正12年)
 ・7月 軽巡洋艦「五十鈴」竣工
 ・国会議事堂鉄骨工事
1924年(大正13年) 初の青函連絡船「翔鳳丸」竣工
1925年(大正14年) 5月 軽巡洋艦「阿武隈」竣工
1938年昭和13年) 大日本兵器設立。青島工廠の経営を委託される
1943年(昭和18年) 2月25日 W型戦時標準船のモデル船として第四青函丸竣工
1944年(昭和19年) 四日市造船所開設。翌年9月閉鎖
1945年(昭和20年) 9月28日 第十一青函丸が戦後竣工第1船となる
1948年(昭和23年) 8月31日 戦後初の旅載青函連絡船として「摩周丸」竣工、際立った豪華さを誇った。子会社として玉島デイゼル工業[注 2] を岡山県に設立。
1953年(昭和28年) - 子会社の玉島デイゼル工業株式会社が浦賀玉島デイゼル工業株式会社へ社名変更。
1955年(昭和30年) 敷設艇えりも竣工(戦後初の自衛艦建造)
1957年(昭和32年) - アメリカにニューヨーク事務所(現・SHI (USA) )開設。
1961年(昭和36年) 記念館三笠修復工事完了
1962年(昭和37年) 子会社の浦賀玉島デイゼル工業と合併し、浦賀重工業株式会社設立。

浦賀重工業
1964年(昭和39年) - イギリスにロンドン事務所(現・SHI (Europe) )開設。
1969年(昭和44年) 6月 住友機械工業と合併し住友重機械工業浦賀造船所となる
 →住友機械工業と合併後については「住友重機械工業#沿革」を参照

歴代社長

[6]         
・初代・塚原周造
・2代・早崎源吾(大久保満寿子の弟)
・3代・浅野総一郎
・4代・足立太郎
・5代・町田豊千代(町田實秀の父)
・6代・山下亀三郎
・7代・今岡純一郎(今岡賀雄の父)
・8代・寺島健
・9代・堀悌吉
・10代・甘泉豊郎
・11代・多賀寛(昭和37年11月会社名が浦賀重工になる)
・12代・二瓶豊
・13代・大塚振武

主な製品
艦船
戦前
・軍艦
 ・軽巡洋艦五十鈴阿武隈
 ・敷設艦厳島 (II)
駆逐艦
 ・神風型駆逐艦 (初代)長月菊月
 ・樺型駆逐艦
 ・樅型駆逐艦
 ・若竹型駆逐艦早苗早蕨
 ・神風型駆逐艦 (2代)追風(II)
 ・睦月型弥生(II)水無月(II)望月
 ・吹雪型深雪磯波(II)狭霧潮(II)雷(II)
 ・初春型子日(II)初霜(II)
 ・白露型時雨(II)五月雨(II)山風(II)涼風
 ・朝潮型霞(II)
 ・陽炎型不知火(II)早潮時津風(II)浜風(II)萩風秋雲
 ・夕雲型風雲高波涼波岸波清波清霜
 ・秋月型宵月    
・官公庁船
 ・関門連絡船長水丸豊山丸鉄道院旅客船
 ・青函連絡船:飛鸞丸(鉄道省・旅客兼車両鉄道連絡船
 ・青函連絡船・戦時標準船第三青函丸(浦賀タービン主機1号搭載、青函連絡船のモデル船)
 ・青函連絡船・W型戦時標準船第四青函丸(W型のモデル船)、第五〜第十青函丸運輸通信省)
・民間船
 ・貨物船:第五長久丸、葛城丸
 ・貨客船白山丸    

戦後
 →住友機械工業と合併後については「住友重機械工業#過去の製品」を参照
自衛艦
 ・むらさめ型護衛艦 (初代)はるさめ (初代)
 ・はまな (給油艦)
 ・えりも (敷設艇)
・官公庁船
 ・だいおう型巡視船:むろと
 ・鉄道連絡船:第十一、第十二青函丸(運輸省W型戦時標準船、第十一青函丸は戦後竣工第1船)
 ・鉄道連絡船:北見丸日高丸国鉄
 ・鉄道連絡船:摩周丸(戦後初の客載青函連絡船、画期的な豪華船)
 ・鉄道連絡船:空知丸洞爺丸事故代替船)
 ・鉄道連絡船:津軽丸 (2代)(代替計画シリーズ第1船)、十和田丸 (2代)
・民間船
 ・ラッシュ船 アケェイディア・フォレスト

その他の製品
クレーン
 ・自社80トンクレーン
橋梁
 ・大利根橋
 ・市川橋
 ・葛西橋
 ・国会議事堂鉄骨工事
 ・東大宇宙科学研究所ラムダロケット用ランチャー
 ・記念館三笠修復工事
 ・宇宙通信センターのパラボラアンテナ、30m,20m各1

詳しいことは、「浦賀船渠ウィキペディア」をご覧ください。 ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%A6%E8%B3%80%E8%88%B9%E6%B8%A0   
(wikiより)

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ポンポン船の愛称で親しまれ、浦賀のシンボルにもなっている渡船は、奉行所が浦賀に置かれてまもない享保 10年 ( 1725年 ) 頃から始まる長い歴史を持っています。

江戸時代には、船が 1艘 ( そう ) で船頭さんが 2人。この船頭さんたちの雇用と船の維持管理は、東西浦賀の人々に加えて少し離れた鴨居地区や久里浜地区の住民までもが協力するなど、まさにこの地域の日常生活に欠かせない船でした。

明治 11年 ( 1878年 ) 8月からは、東西浦賀の 17町内会の共同体が維持管理をするようになりました。

この時の料金は、1人 3厘。営業時間は朝6時から夜 10時までで、夜間の料金は倍額と定められました。

これが地域が運営する交通としての渡船の誕生です。

浦賀町が渡船に関わるのは、それから 40年後の大正 6年 ( 1917年 ) のことです。

この時、町は共同体から 5,000円で営業権を譲渡してもらっています。

この頃が渡船の最盛期であり、1日の平均乗客数が 1,000人にも達していました。

そのため現在の場所から浦賀駅方面の 300mほどのエリアに、もう 1ルートの営業が行われていました。

昭和 18年 4月、浦賀町は横須賀市と合併し、渡船も横須賀市営となりましたが、その後、昭和 24年 10月から市の施設を民間事業者に貸し付けて運航する方式に改め、さらに令和 4年 4月からは、市から ( 株 ) トライアングルに営業譲渡され、現在に至っています。

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関東大震災の慰霊塔

大正十二年 ( 1923年 ) 九月一日午前十一時58五十八分、関東地方に大地震が発生しました。

昼食時と重なって東京や横浜では大火災となり、多くの人命と家屋が失われました。

ここ浦賀でも崖 ( がけ ) 崩れや火災などにより大きな被害を受けました。

特に西浦賀では愛宕山 ( あたごやま ) が崩れ、家屋七十四戸と百人程の人が埋まってしまいました。

ドック原 ( 浦賀生協あたり ) でも山が崩れ、通行中の七人が生き埋めとなり、浦賀町だけでも二百二人の生命が失われました。
 
戦後、この塔は震災と海難の犠牲者慰霊のため再建され、毎年八月上旬の浦賀みなと祭りで慰霊祭が行われています。
(案内板より)

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船番所跡

18世紀に入るころから国内では生活物資の生産量が拡大し、それまでの関西方面からでなく、東北や南関東からも江戸へ、大量の物資が入ってくるようになりました。

この流通の変化は、幕府に経済政策の見直しを迫るものでした。

幕府の対応の一つが、享保 5年 ( 1720年 ) 12月、それまで伊豆下田にあった奉行所を浦賀に移転させ、江戸へ出入りする船の積荷を厳しく管理し、江戸の物価の安定をはかることでした。

この船の検査「船改め」を行ったのが、船番所です。

ここは船の関所ですから、積荷の他に「入り鉄砲に出女」の検査もし、乗組員もチェックされました。

積荷の中でも生活必需品の、米、味噌、から木綿や薪までの 11品目について 3か月ごとに集計したものを、幕府の勘定奉行に提出していました。

1日に 50隻にも及ぶ船が出入りをしていましたので、「船改め」の業務は、奉行所の役人だけでは人出が足りず、この検査は廻船問屋と呼ぶ人たちに委託されました。

廻船問屋は、下田時代からやっていて、奉行所の移転に伴い浦賀に来た通称下田問屋が 63軒、西浦賀に 22軒、東浦賀に 20軒、の合計 105軒で行っており、この業務に就いた時だけは、奉行所の足軽役になったので、苗字を名乗ることが許されました。

この頃になると、外国船が日本近海に出現するようになり、1837年浦賀沖にも現れました。

そうした外国船への対応も、しなければならなくなりました。

この「船改め」は、慶応 4年 ( 1868年 ) 閏 4月奉行所が無くなっても継続され、業務が終了したのは明治 5年 ( 1872年 ) 3月のことでした。

その船番所があったのがこの場所です。

浦賀観光協会

〇 船番所跡

浦賀奉行所の出先機関で、享保六年 ( 1721 ) から明治五年まで、江戸へ出入りするすべての船の乗組員と積荷を検査する「船改め ( ふなあらため )」を行い、江戸の経済を動かすほどと言われました。

与力、同心の監督のもと、「三方 ( さんぽう ) 小屋」と呼ばれる下田と東西浦賀の廻船問屋百軒余が、昼夜を通して実務を担当しました。

「入り鉄砲に出女」を取り締まる海の関所としても、重要なものでした。
(案内板より)

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昭和 20年 ( 1945年 ) 8月 15日、太平洋戦争は終結。

ポツダム宣言により海外の軍人、軍属及び一般邦人は日本に送還された。

ここ浦賀港も引揚指定港として、中部太平洋や南方諸地域、中国大陸などから 56万余人を受け入れた。

引揚者は敗戦の失意のもと疲労困憊の極限にあり、栄養失調や疫病で倒れる者が続出した。

ことに翌 21年、華南方面からの引揚船内でコレラが発生。

以後、続々と感染者を乗せた船が入港。

このため、旧海軍対潜学校 ( 久里浜長瀬 ) に設けられた浦賀検疫所に直接上陸、有史以来かつてない大防疫が実施された。

この間、祖国を目前にして多くの人々が船内や病院で亡くなる悲劇があった。

昭和 22年 5月浦賀引揚援護局の閉鎖で、この地の引揚業務も幕を閉じる。

私たちは再び繰り返してはならない戦争による悲惨な引揚の体験を後世に伝え、犠牲となられた方々の鎮魂と恒久の平和を祈念し、市制百周年にあたりここに記念碑を建立する。

横須賀市

( 裏面 )
ここ浦賀港は、先の大戦終結後、引揚指定港の一つとして極めて重要な責務を担いました。

引揚とコレラ等の防疫に携わったすべての人々をねぎらい謝意を表するとともに、この地で倒れた幾多の御霊に弔意を表します。

この碑は、引揚者や地元の方々の熱意により建立が実現したものであり、市制百周年を迎えるにあたり、当地の歴史を再認識し、恒久平和の願いを後世に伝えんとするものです。
(石碑文より)

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浜口 興右衛門(はまぐち おきえもん、文政12年11月15日1829年12月10日) - 明治27年(1894年10月15日)は、日本の武士幕臣。明治期の海軍技官は英幹(ひでもと)。

経歴
浦賀奉行所組同心から長崎海軍伝習所第一期生に選ばれ、航海術を修めた。与力上席軍艦操練所教授方となり、咸臨丸が太平洋横断を果たした際、運用方として大きな働きをした。後に軍艦頭取として蟠竜丸艦長を務め、位は大番格軍艦役並に進んだ。

維新後、明治4年に主船少師として横須賀製鉄所に勤務している。製鉄所が海軍に移管された後、海軍権少匠司に進む。従六位勲六等(単光旭日章)海軍少技監(奏任官三等)に任ぜられ、横須賀造船所造船科主幹となった。

浦賀奉行所の与力、同心には俳諧を嗜む者が多く、浜口も蕉雪の号を持ち、俳人としても知られていたという。

参考文献
新人物往来社編『世界を見た幕末維新の英雄たち』、新人物往来社〈別冊歴史読本64〉、2007年3月。ISBN 978-4-404-03364-2、46-47頁

関連項目
大日本帝国海軍文官一覧    
(wikiより)

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寿光院
常福寺の隠居所としての境外仏堂です。

墓地には、「三命地蔵」が祀られています。

これは江戸時代後期に、弁天丸の水主 ( かこ = 水夫 ) の三人が遊ぶ金欲しさから、船の命ともいうべき網や綱を売ってしまいました。

三人は死刑に処せられる前、大変後悔し、罪滅ぼしにと「この地にねんごろに葬ってくれれば、首から上の病気は何でも治します」と言ったので、船宿が地蔵を彫って安置しました。

咸臨丸の副艦長格としてアメリカに渡った、浦賀奉行所与力・浜口英幹の墓もあります。
(案内板より)


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浦賀奉行所とは
享保 5年 ( 1720 ) 12月、伊豆の下田にあった奉行所を移転し、新たに浦賀奉行所が開設されました。

浦賀への移転理由は「下田は港の出入口に岩礁があって、船の入出港の妨げになっている」という船乗りたちからの声を聞き、より安全な湊を調査した結果、浦賀ていうことになった。」と記されています。

しかし、この理由は下田に奉行所が置かれてから 100年以上経過しているため、これが移転の本当の理由とは思えません。

江戸幕府が開かれて 100年が過ぎ、平和な時代が続いたため、農業を中心とした生産力があがり、全国各地から江戸へ様々な物資が入ってくるようになりました。

その 98%以上が船で運搬されており、江戸の物価の安定を図るために、江戸での在庫量を把握する必要に迫られていた浦賀が選ばれたのです。

浦賀奉行所では、船の積み荷と乗組員の検査をする「船改め」を行う「船番所」が開設され、江戸を往来するすべての船は浦賀で検査を受けることが義務付けられました。

この「船改め」は「廻船問屋」と呼ばれた 105件の問屋に委託され、「入り鉄砲に出女」の検査はもちろん、生活必需品 11品目については、3か月ごとに集計された数字が江戸町奉行所へ報告されました。

その他の業務としては、現在の税務署・裁判所・警察署・海上保安庁などの仕事を行っていました。

浦賀奉行所が開設されて 100年を過ぎたころから、江戸近海に異国船が来航するようになると、江戸を異国船から守る最前線の基地の役目も持つようになりました。

嘉永 6年 ( 1853 ) 6月、浦賀に入港したペリー艦隊は、日本が近代に進む第一歩としてよく知られていますが、浦賀奉行所にとっては、文政元年 ( 1818 ) 5月に来航したイギリス船から数えて 7度目の異国船でした。

このペリー来航時には、中島三郎助や香山栄左衛門をはじめとした浦賀奉行所の役人たちが大きく活躍し、交渉の結果、アメリカ大統領の親書を久里浜で受け取ることになりました。

ペリー浦賀来航後は慶応 4年 ( 1868 ) 閏 4月、新政府に接収されるまで続き、さらに、「船改め」の業務だけは、明治 5年 ( 1872 ) 3月まで続けられました。

浦賀奉行所の業務は、長官である奉行 ( 1、2人 )・与力 ( 部課長クラス ) が 10騎 ~ 18騎 ( 馬に乗ることが許されたので )・同心 ( 係長クラス ) 50人 ~ 100人で行ってました。

与力・同心はほとんど転勤がなく奉行所の表門前から海岸に向けた場所に役宅 ( 官舎 ) が建ち並び、ここに暮らしていました。
(案内板より)

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千代ヶ崎砲台跡(ちよがさきほうだいあと)神奈川県横須賀市西浦賀6丁目の海抜60mほどの丘に存在する史跡である。明治時代に東京湾防御の要塞として日本陸軍が建設した東京湾要塞群の一つである。猿島砲台ともに 以前の時期に建設された砲台と比較して砲台構造の完成度が高く、諸施設も機能的に充実し、建築技術にも進歩が認められる、これらの砲台跡は築造当初の姿を良好にとどめており、日本の近代軍事、築城技術の具体的様相を理解するうえで重要な遺跡であるとして、2015年(平成27年)3月 10日に文部科学省告示第 38 号により文化財保護法により史跡に指定された[1]

千代ヶ崎砲台跡は 1892年(明治25年)12月起工、1895年(明治28年)2月竣工した砲台である。これらの砲台跡は、築造当初の姿を良好にとどめており、我が国近代の軍事、築城技術の具体的様相を理解するうえで重要である。[2]

榴弾砲砲台(28cm榴弾砲6門を備砲)と、近接防御砲台(15cm臼砲4門、機関砲4門等を備砲)から構成され、前者は観音崎堡塁群の南方海上と浦賀湾口の海正面防御、後者は上陸した敵兵に対する防御を役割とした。榴弾砲砲台は、南北の直線上に1砲座2砲床の3砲座が配置され、砲座は西側に平行して存在する塁道と地下交通路で連絡し、塁道―砲座間の地下には砲側弾薬庫、掩蔽部、貯水所などの地下施設が付帯する。煉瓦組積法はイギリス積またはオランダ積で、隧道内施設の前面壁と室内、交通路の脚壁では普通煉瓦、露天空間に設けられた施設の前面壁、あるいは露天空間と接する隧道の出入り口には、雨水に対する防水と帯水防止のため焼過煉瓦を用いて[1]おり、第一砲座入口や一部構造物で煉瓦による斜めアーチ構造物[3]であるねじりまんぽ(斜架拱)も見ることができる。

1960年から2010年まで、海上自衛隊横須賀通信隊千代ヶ崎送信所として使われていた。当時は中波で数字ばかりのモールス信号を送っていた。その際は、第二および第三砲座は埋没していた[4]

2015年に国の史跡に指定され、日本遺産の構成文化財としても認定された。横須賀市が整備を行い、2021年10月23日からは土日祝日のみ無料一般公開が行われており、無料の現地ガイド[5]がある。

千代ヶ崎砲台跡に関しては、明らかに追加指定が必要とされる区域( 千代ヶ崎砲塔砲台 大正14年5月完成 鹿島 (戦艦)の45口径30cm加農砲塔跡などがある[6])があり、また、東京湾要塞跡を構成する砲台跡は市内だけでも夏島砲台跡、走水低砲台跡、観音崎砲台跡等が指定に至らず、現在に至っている。[2]

明治以前の歴史的背景は江戸湾防禦に当たった会津藩は現在の 千代ヶ崎の海側一部にあたる平根山に海防施設として平根山台場を1811年文化8年)に設置、1837年天保8年)にはモリソン号事件で砲撃した場所とされている。また、赤星忠直らによって縄文時代土器なども発掘されている[7]

砲塔砲台はファーマシーガーデン浦賀となっており一般の立ち入りはできない。

ギャラリーについては「千代ケ崎砲台跡ウィキペディア」をご覧ください。 ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%83%E4%BB%A3%E3%82%B1%E5%B4%8E%E7%A0%B2%E5%8F%B0%E8%B7%A1

交通
京浜急行久里浜線京急久里浜駅から京浜急行バス(久9・19・29)千代ヶ崎 浦賀駅 ゆき バスに乗車、「燈明堂入口」で下車し坂道を登る 。バス停から徒歩15分 (アクセスマップ)。
・京浜急行本線浦賀駅から京浜急行バス(久9・19) 千代ヶ崎 京急久里浜駅 ゆき バスに乗車、 「燈明堂入口」で下車し坂道を登る。バス停から 徒歩15分(アクセスマップ)。
・自転車、バイク、自動車の場合、「燈明堂入口」バス停 または シティーマリーナヴェラシスを目印に海側に向かい、千代ヶ崎砲台駐車場(料金は無料)に駐車の後、坂道を上り徒歩5分ほど [5]。また、近隣の燈明堂に有料駐車場あり。
・敷地内には車輌(自転車やバイクを含む)の乗り入れはできない[8]
MEGURUプロジェクトで浦賀ドックと千代ケ崎砲台をめぐるツアーガイドバスを(株)トライアングルが運行している。(2022年1月23日迄・以後運用未定)[9]

脚注
1. a b 国指定文化財等データベース”. 文化庁. 2022年1月6日閲覧。
2.
a b 史跡東京湾要塞跡猿島砲台跡千代ヶ崎砲台跡整備基本計画”. 教育委員会事務局教育総務部生涯学習課 担当:文化財係. p. 12. 2022年1月6日閲覧。
3. 
小野田滋, 河村清春, 須貝清行, 神野嘉希「組積造による斜めアーチ構造物の分布とその技法に関する研究」『土木史研究』第16号、土木学会、1996年、117-132頁、doi:10.2208/journalhs1990.16.117ISSN 0916-7293NAID 130004038298
4. 
黒田泰介「東京湾要塞 千代ヶ崎砲台跡 榴弾砲砲台 第三砲座に関する考察」『日本建築学会計画系論文集』第766号、日本建築学会、2019年12月、2629-2638頁、doi:10.3130/aija.84.2629ISSN 1340-4210NAID 130007777649
5. 
a b 千代ケ崎砲台サポーターの会”. 千代ヶ崎砲台跡サポーターの会デジタル班. 2022年1月6日閲覧。
6. 
『日本の要塞』学習研究社、2003年10月1日、98-105頁。
7. 
横須賀市平根山遺跡”. 横須賀市自然・人文博物館. 2022年1月6日閲覧。
8. 
よこすかの文化財 > 国史跡東京湾要塞跡史跡整備 > 千代ヶ崎砲台跡の公開”. 横須賀市ホームページ. 2022年1月6日閲覧。
9. 
【初公開の千代ヶ崎砲台・圧巻のレンガドック】知られざる浦賀の裏側を旅するイベントが始まりました。”. (株)トライアングル. 2022年1月6日閲覧。
10. 
原剛『明治期国土防衛史 (錦正社史学叢書)』錦正社、2002年2月1日。ISBN 4764603144

参考サイト
横須賀ルートミュージアム
横須賀市ホームページ(千代ケ崎砲台跡の公開)
東京湾要塞砲台マップ【三浦半島】
千代ヶ崎砲台跡サポーターの会(Twitter)
東京湾要塞 千代ヶ崎砲台へようこそ ( 千代ケ崎砲台跡活用サポーターの会で運用している)       (wikiより)

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⇧ 内部の白い部分は「漆喰」です。

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⇧ 天井部も良い造りです。

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⇧⇩ 砲弾の貯蔵庫です。

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⇧⇩ 隣の貯蔵庫から砲弾を移動させて、上の穴からクレーンで引き揚げます。

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⇧ 下の階から上げた砲弾を大砲まで移動させていた装置なのですが、戦後のドサクサで鉄部分が盗られてしまいました。

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⇧⇩ 大砲が設置されていた場所です。

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⇧ 奥の丸い部分にも大砲が設置されていました。

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⇧ 丸い穴の部分に命令が聞こえるようにパイプが通っていました。

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⇧⇩ 小菅 ( 現小菅拘置所 ) で作られていた煉瓦。( 桜マーク )

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⇧ 通風孔

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⇧ 砲台を上から見る。

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⇧ 東京湾方向。

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⇧ 埋められた通風孔。

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時代江戸時代中期
生誕元文元年6月1日1736年7月9日
死没文化4年12月29日1808年1月26日
改名富次郎(幼名)、政従、政純、忠宝、政次、政一、政永
官位従五位下式部大輔従四位下侍従右京大夫
幕府江戸幕府
主君徳川吉宗家重家治家斉
越後高田藩
氏族榊原氏
父母父:榊原政岑、母:坂田氏
兄弟政純政永勝行勝定大久保忠由正室、榊原長之
堀田正亮の娘・
政敦政晨政億政成職序稲垣長続京極高貞大久保政敏、亀姫、喜連川彭氏正室、内藤正弘正室ら
特記
事項
異母兄の政純の死後に身代わりで家督相続し、公式には同一人物とされた。

榊原 政永(さかきばら まさなが)は、江戸時代中期の大名越後国高田藩の初代藩主。官位従四位下侍従右京大夫。榊原家9代当主。ただし、本来の初代藩主・9代当主であった異母兄の榊原政純の身代わりとして擁立され、公式には同一人物とされた。

生涯
元文元年(1736年)6月1日、姫路藩主・榊原政岑の次男として誕生。生母は坂田氏。幼名は富次郎。初名は政従。その後、政純(異母兄の名)、忠宝、政次、政一、政永(隠居後)と改名する。

寛保元年(1741年)、政岑は8代将軍・徳川吉宗から強制隠居と蟄居を命じられ、家督は嫡男・小平太政純が継いだが、さらに姫路から高田転封となった。政岑は寛保3年(1743年)に没した。

延享元年(1744年)12月11日、小平太政純が病死した。小平太は兄とはいえ富次郎とは1歳しか違わず、当時数え10歳であった。幼少のため将軍御目見も果たしておらず、世継も定めていなかった。末期養子が認められる年齢でもなかったため、榊原家は幕閣から内密の了承を得て、異母弟の富次郎政従を小平太政純とすり替えることにした。

寛延3年(1750年)10月1日、富次郎は小平太政純として9代将軍・徳川家重に御目見した。同年12月18日、従五位下・式部大輔に叙任する。以降、宝暦4年(1754年)従四位下、天明4年(1784年)侍従、寛政元年(1789年)右京大夫と官位を重ねた。

寛政元年(1789年)5月10日に隠居し、跡を次男・政敦に譲る。隠居後、右京大夫を称する。文化4年12月29日(1808年1月26日)死去。

逸話
父の政岑は、当時の将軍・徳川吉宗が出した倹約令を無視した行動を行ったために処分を受け、榊原家は越後高田へ懲罰転封となった。政岑は複数の芸事も熱心に遊んだが、その一つに能楽があった。この能楽趣味は政永も受け継いだ。

政永は城中で自身の舞う能の会を何度も開催し、その都度身内や家臣らに、観覧の許可を与えた。許可といっても命令に等しく、家臣らは参加が強要されたも同然であった。何度も開催される主君の能に辟易した家臣らは、何かと理由をつけて避けたため、回を重ねるごとに観覧者が減少していった。これでは張り合いがないので、なんとか観る者を増やしたい政永は、次に城下の領民らに対し観覧の許可を与えた。普段は入ることのできない城内での能舞台であり、殿様を間近に見られる機会であったため、領民らはお城見物とばかりにこぞって押し寄せたが、これも回を重ねるごとに物珍しさも無くなり、参加者が減っていった。このため政永は町々村々に対し、人口や石高に応じて観覧者の強制割り当てを命じた。町年寄や名主らはこれに困り、藩と交渉を行い、参加者には日当と弁当が出ることを約束させた。それでもしかし、能どころではない農繁期などは参加者が激減した。最終的に城下にたむろしていた素性も知れぬ無宿人らが、日当と弁当目当てに殿様の能を観にやってくるようになってしまった。

そもそも能楽鑑賞を家臣や城下の庶民が好むとは限らない上に、政永の能は上手か下手かも定かではない。

年表
1735年享保20年)12月11日 - 小平太、生誕。
1736年元文元年)6月1日 - 富次郎、生誕。
1741年寛保元年) - 小平太、家督相続(10月13日)、高田に国替(11月1日)。
1744年(延享元年)12月11日、小平太政純、病死。富次郎がすり替わる。
1789年寛政元年) - 隠居。
1807年文化4年) - 死去、享年73。

官位位階
1750年寛延3年) - 従五位下式部大輔。
1754年宝暦4年) - 従四位下。
1784年天明4年) - 侍従。
1789年寛政元年) - 右京大夫。

系譜
父母
榊原政岑(父)
・坂田氏(母) - 側室
正室
・園 - 堀田正亮の娘
子女
・(長男)
榊原政敦(次男) 生母は園
榊原政晨(三男)
榊原政億(四男)
榊原政成(五男)
榊原職序(八男) - 榊原職武の養子
稲垣長続(十男) - 稲垣長以の養子
京極高貞(十二男)
大久保政敏(十三男)
・亀姫、のち幸姫、瑤津院 - 黒田治之正室
喜連川彭氏正室
内藤正弘正室

家臣
岡部八左衛門 - 剣術家

脚注
関連項目
末期養子#藩主のすり替えの例 
(wikiより)

24a

24b




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