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9184 東光寺(山口県下関市豊前田町1-1-23)
| 所在地 | 山口県下関市豊前田町1-1-23 |
|---|---|
| 位置 | 北緯33度57分10.4秒 東経130度55分45.3秒 |
| 山号 | 浄瑠璃山 |
| 宗派 | 曹洞宗 |
| 本尊 | 薬師如来 |
| 創建年 | 1199年(正治元年) |
| 開基 | 文覚上人 |
| 札所等 | 中国四十九薬師霊場 第31番 |
東光寺(とうこうじ)は、山口県下関市豊前田町にある寺院。正治元年(1199年)、文覚上人の開基と伝えられる。本尊の薬師如来像は聖徳太子の作と伝えられている。
歴史
豊前田町にあり。はじめは薬師堂として、新地町にあって真言宗。のち時宗になり、さらに貞享3年(1686年)禅宗に改まり、宝永元年(1704年)東光寺と称した。
寺伝によれば、正治元年(1199年)高雄の文覚上人が開基した。江戸時代は萩藩歴代の遥拝所であったが、享保5年(1720年)現在地に移転したという。
参考文献
・富永浩平 『中国四十九薬師巡礼』、中国四十九薬師霊場会編、朱鷺書房、1997年、ISBN 4886023118、140-143頁。
(wikiより)











9183 山口県国際総合センター(山口県下関市豊前田町3-3-1)
| 用途 | コンベンションセンター 多目的ホール オフィスビル(国際貿易ビル) 展望塔(海峡ゆめタワー) |
|---|---|
| 設計者 | NTTファシリティーズ[1] |
| 事業主体 | 山口県 |
| 管理運営 | 一般財団法人山口県国際総合センター NTTファシリティーズ[2] |
| 構造形式 | 鉄筋コンクリート造及び鉄骨造 |
| 敷地面積 | 7,841 m² |
| 延床面積 | 30,582 m² [3] |
| 階数 | 地上10階、地下1階(国際貿易ビル) 地上4階(アリーナ) 地上30階(海峡ゆめタワー)[3] |
| 高さ | 153m(海峡ゆめタワー) |
| 着工 | 1994年7月5日[3] |
| 竣工 | 1996年6月30日[3] |
| 開館開所 | 1996年8月1日[3] |
| 所在地 | 〒750-0018 山口県下関市豊前田町3丁目3番1号 |
| 備考 | 事業費 【土地】約68億円(県:50%、市:50%) 【建物】約200億円(県:276億円、財団:24億円)[3] |
山口県国際総合センター(やまぐちけんこくさいそうごうセンター)は、山口県下関市豊前田町3丁目3番1号にある、山口県と一般財団法人山口県国際総合センターが設置し、同財団法人が管理・運営する会議・展示施設。通称は海峡メッセ下関(かいきょうメッセしものせき)[4]。
概要
細江地区の旧日本国有鉄道貨物ヤード(関門連絡船貨車航送場)跡地を対象とした再開発事業「海峡あいらんど21」計画の一環として、海峡ゆめ広場(1989年(平成元年)9月完成)に隣接する土地に建設された[4]。なお、同センターの建設計画は、県立の文化施設を県内各地にバランスよく配置する意図をもって、岩国市のシンフォニア岩国と萩市の山口県立萩美術館・浦上記念館の建設と一体をなすものとして、推し進められた。
1994年(平成6年)7月から建設が始められ、1996年(平成8年)6月に完成、同年8月1日にオープン(海峡ゆめタワーは7月20日に先行オープン[5])した。
施設
敷地面積は7,841m2、延床面積 30,587m2で、地上10階のオフィスビル「国際貿易ビル」(延床面積:14,684.21㎡)、地上4階のイベントホール・展示見本市会場「アリーナ」(6,957.97㎡)、展望塔「海峡ゆめタワー」(2,439.2㎡)、立体駐車場から構成される。
海峡ゆめタワー
海峡ゆめタワーの高さは153m、展望室の高さは地上143m[5]。これは西日本の自立型タワーの中では最も高い(ただし、超高層ビルを含めた展望室の高さを比較した場合、大阪市のあべのハルカス ハルカス300が288mで西日本一)。形状が特徴的で、展望室が球体状になっている。球体状の展望室はこのタワーが世界最初だった[5]。夜はライトアップされ、関門海峡周辺(下関市街地・門司港レトロ、関門橋など)の夜景を楽しめる。歴史に関する展示もあり、「壇ノ浦の戦いの地」や「巌流島の決闘場」を実際に見下ろしながら学ぶことが出来る[5]。
国際貿易ビル
国際貿易ビルには、4ヵ国語同時通訳設備のある国際会議場や多目的ホール「海峡ホール」が設けられているほか、様々なテナントが入居している。アリーナのイベントホールでは、2002年(平成14年)に国際捕鯨委員会 (IWC) の年次総会が開催された。
主なテナント
・ジェトロ山口
・パスポートセンター
・NHK下関支局
・yab山口朝日放送下関支局
・ワイエム証券本社
・ゆうちょ銀行山口地域センター
・山口県日中経済交流促進協会
交通
・JR西日本下関駅より徒歩約3分。
・下関港国際ターミナルよりすぐ近く。
・サンデン交通「豊前田」バス停下車
近隣施設
・海峡ゆめ広場
・下関駅
・シーモール下関
・下関港国際ターミナル
・下関警察署
・下関市民会館
・エディオン下関店
脚注
1. 建築作品集>山口県国際総合センター - NTTファシリティーズ公式サイト、2015年9月12日閲覧
2. ソリューション事例>財団法人山口県国際総合センター様 - NTTファシリティーズ公式サイト、2015年9月12日閲覧
3. a b c d e f 山口県国際総合センターの概要 - 海峡メッセ下関公式サイト
4. a b “甦る土地 海峡メッセ下関”. 交通新聞 (交通新聞社): p. 2. (1997年5月14日)
5. a b c d 『日本展望タワー大全』(2020年9月10日、かねだひろ著、辰巳出版発行)134頁。
外部リンク
・海峡メッセ下関
・海峡ゆめタワー
(wikiより)



9182 勝安寺(山口県下関市豊前田町2-2-8)
9181 明治維新豪商白石雅一郎邸海門跡地(山口県下関市竹崎町3-8-13)
9180 七卿西下図(山口県下関市竹崎町1-13-10・大歳神社)
9179 大歳神社の大鳥居(山口県下関市竹崎町1-13-10・大歳神社)
9178 大歳神社の一二三坂(山口県下関市竹崎町1-13-10・大歳神社)
9177 大歳神社(山口県下関市竹崎町1-13-10)
| 所在地 | 山口県下関市竹崎町一丁目13-10 |
|---|---|
| 位置 | 北緯33度57分5.2秒 東経130度55分31.8秒 |
| 主祭神 | 木花咲耶姫神(大歳御祖神) |
| 社格等 | 旧村社 |
| 創建 | 文治年(1186年) |
大歳神社(おおとしじんじゃ)は、山口県下関市竹崎町にある神社。旧社格は村社。
由緒
平安時代末期の源平合戦において、平家追討のため西国へ下った源義経が、武運の守護神・富士浅間神社の御祭神・大歳御祖大神に戦勝祈願を行った。義経は平家が布陣する彦島を望む有明山(大歳山・円山)に富士の小松を植え、篝火を焚き、二日二夜の沐浴して潔斎を行い、祈念を込めた桑の弓矢をもって平知盛の率いる平家軍に開戦の矢文を放った。
平家軍は急遽壇ノ浦に軍船を進めて戦ったが、待機していた源範頼の軍勢と義経軍の挟み撃ちにあい、平家は敗れ、義経率いる源氏軍の勝利となった。翌年の文治2年(1186年)、四軒の漁民が義経の祈願のありさまを畏敬して神祠を祀ったことが大歳神社の由来となる。
以来、武運長久の神として明治維新の際には奇兵隊旗揚げの軍旗が奉納された。大鳥居は文久2年(1862年)に白石正一郎が攘夷必勝を祈念して奉納した。
アクセス
・下関駅から徒歩5分
関連項目
・壇ノ浦の戦い
(wikiより)
























9176 車両航送発祥の地碑(山口県下関市竹崎町4-3)
9175 下関漁港閘門(山口県下関市彦島本村町6-1-1)
9174 第4期拡張事業完成記念碑(下関市彦島)
9173 西楽寺(山口県下関市彦島本村町5-3-1)
9172 渡辺つゆ子墓(台東区今戸1-6-7・潮江院)
9171 渡辺桂子墓(台東区今戸1-6-7・潮江院)
9170 尺八碑銘(静岡市葵区常磐町2丁目13-2・宝台院)
柳居青翁者東京人名恒考旧称半兵衛糟谷氏世為幕府臣凪有隠逸之志年既壮矣譲家其弟受吹笛法於荒木古童終極秘奥又喜俳諧歌煎茶式等超然遊于物他明治十七年五月静岡寶臺院謙賀愛其爲人延爲賓師乃移中居数年骰最留也古典無所來推究遂補修之蓋出于其自得巳今年六十又四門人相謀建石勤銘◇代壽碑因請余銘銘曰
◇
虞舜作簫 律呂和調 厥形参差 厥音超遥 星移物換 ◇求絶萩 或稱尺八 猶協九韶 李唐高僧 呪経升天 張伯一叫 ◇雲爲穿
或稱尺八 猶協九韶 李唐高僧 呪経升天 張伯一叫 ◇雲爲穿 十又六世 張参◇傳 我僧法燈 渡海問禅 受業出藍 悟◇八玄
歸朝建寺 法侶満筵 創意截竹 不復用編 一管五◇ 美之吹之 如喜如泣 如訴如悲 上下鬼神 感動媍兒 爲布教具 設後世規 尺八之穪 遍千四維 騒人嘯月 遣懐慰思 義士晦跡 避険去危 世勢一変 教法敗壊 新政漸興 旧物盡廃 國多野調 郷之豎遂 嗚呼青翁 不顧人言 及其未絶 餘音尚在 刻苦研究 尽夜◇諼 濯足東海 寄身寺門 訂曲校譜 誘掖後昆 惟斯奇行 豈無淵源
壽興石堅 長頌聖思
明治二十三年十月 関口隆正撰文并書


9169 潮田辰一碑(静岡市葵区常磐町2丁目13-2・宝台院)
9168 勝じゅん墓(勝海舟の妹)墓(静岡市葵区沓谷2-7-1・蓮永寺)
9167 勝信子(勝海舟の母)墓(静岡市葵区沓谷2-7-1・蓮永寺)
9166 お万の方(養珠院)供養塔(静岡市葵区沓谷2-7-1・蓮永寺)
養珠院(ようじゅいん、天正5年(1577年)/天正8年(1580年) - 承応2年8月22日(1653年10月13日))は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての女性。徳川家康の側室。紀州徳川家の家祖徳川頼宣、および水戸徳川家の家祖徳川頼房の母。名は万(まん、旧字体:萬)。
以下の呼称は実名の万で統一する。
生涯
出自については、有力な説として『寛政重修諸家譜』などでは、勝浦城主正木頼忠と智光院との間に生まれた娘とある。『南紀徳川史』では河津城主蔭山氏広と智光院との間に生まれた娘とされる。信憑性は低いが、冷川村百姓夫婦の娘など諸説もある。また母とされる智光院は『寛政重修諸家譜』などでは北条氏隆の娘[1]とあり、『南紀徳川史』では田中泰行の娘(板部岡江雪斎の姉、氏隆養女)という説がある。血筋は三浦義村の娘矢部禅尼を先祖に持つ三浦宗家の末裔である。
天正5年(1577年)4月4日、三浦庶流の正木頼忠を父として生まれたが、同年8月正木憲時の挙兵により勝浦城から三原(和田町)に移り、その後、小田原に居住した。天正12年(1584年)、母親が蔭山氏広と再婚したことより蔭山一族となったとされる[2]。小田原征伐の際に蔭山氏広は山中城籠城軍に加わるも、落城時に脱出し居城の河津城に戻ったが、伊豆国修善寺にて蟄居したと伝わる。一説に伊豆国冷川村の出身で幼いころに百姓である両親と死別した。
万は駿河国大平村(沼津市大平)の名主、星谷縫殿右衛門に養育される。文禄2年(1593年)三島で徳川家康に目見え、江川英長(江川太郎左衛門)の養女として家康の側室となった[2]。伏見において、慶長7年(1602年)3月7日には頼宣を、同8年(1603年)8月10日には頼房を出産する[3]。
慶長11年(1606年)3月26日の『玉沢手鑑草稿』に記載されている宝倉板本尊銘写によると「蓮華院妙紹日心」とあり、養珠院と称する前は蓮華院と称していたことが確認できる[4]。
義父の蔭山家は代々日蓮宗を信仰しており、万もその影響を受けて日遠に帰依した。家康は浄土宗であり、日頃から宗論を挑む日遠を不快に思っていたため、慶長13年(1608年)11月15日、江戸城での問答の直前に日蓮宗側の論者日経を家臣に襲わせた結果、日蓮宗側は半死半生の状態となり、浄土宗側を勝利させた。この不法な家康のやり方に怒った日遠は身延山法主を辞し、家康が禁止した宗論を上申した。これに激怒した家康は、日遠を捕まえて駿府の安倍川原で磔にしようとしたため、万は家康に日遠の助命嘆願をするが、家康は聞き入れなかった。すると万は「師の日遠が死ぬ時は自分も死ぬ」と、日遠と自分の2枚の死に衣を縫う。これには家康も驚いて日遠を放免した[3]。この万の勇気は当時かなりの話題になったようで、後陽成天皇も万の行動に感激し、天皇が自ら「南無妙法蓮華経」と題目を揮毫し、万に下賜されたという。彼女は家康が死去した後、元和5年(1619年)8月、身延山で法華経一万部読誦の大法要を催し、満願の日に七面山に向かった。
なお、この慶長宗論で日経が襲撃されたとする主張は日蓮宗側の主張のみで、他の浄土宗・武家・判者の高野山は日経が横たわったまま殆ど発言しなかったと記録する。また日遠が駿河国に赴いたのは、日蓮宗関係以外の史料では確認することができないとする指摘がある[5]。
大坂の陣における実兄の三浦為春の武功に、徳川家康が喜んでいることを万が為春に知らせた古文書が残る[6]。歴史的な内容が確認できる唯一のものだが、年月日、文書の形態・宛所等も不明で現蔵機関名も記されていない[5]。三浦為春はのちに万の子である徳川頼宣に附属され、紀州藩の御附家老となった。
元和2年(1616年)4月22日、蓮華院妙昭日心から養珠院妙昭日心に法号を変えた(『本光国師日記』)[5]。
承応2年(1653年)、万は死去した。墓所は山梨県南巨摩郡身延町大野の日蓮宗寺院・本遠寺と静岡県三島市の妙法華寺。承応3年(1654年)に徳川頼宣により建立された墓所で、花崗岩製の宝篋印塔が現存している。山梨県指定史跡。法号は養珠院殿妙紹日心大姉。杉並区理性寺にも分骨されている。
その他
駿府城の万の居間が移築されて、妙法華寺奥書院(静岡県三島市玉沢)として現存している。駿府城で唯一の遺構である。静岡県三島市の文化財となっている。
2004年(平成16年)、海禅院の多宝塔の下の石室から万の遺髪が発見された[7]。
登場作品
・春日局(1989年、NHK大河ドラマ、演 : 佐藤真浪)
・影武者徳川家康 (1998年、テレビ朝日、演 : 石井亜可理)
・葵 徳川三代 (2000年、NHK大河ドラマ、演 : 尾上紫)
・影武者徳川家康(2014年、テレビ東京、演 : 葉月)
脚注
1. 北条氏尭の誤伝もしくは田中泰行の娘で氏尭の養子。
2. a b 勝浦市史 2006, p. 405.
3. a b 勝浦市史 2006, p. 406.
4. 勝浦市史 2006, pp. 406–407.
5. a b c 大石 1997.
6. 中村利枝『徳川養珠夫人伝』(私家版)、1971年、59-60頁。
7. 妹背山護持顕彰会
参考文献
書籍
・勝浦市史編さん委員会 編『勝浦市史 史料編 中世』2003年。
・勝浦市史編さん委員会 編『勝浦市史 通史編』2006年、385-421頁。
論文
・大石泰史「養珠院お萬の方に関する諸問題」『勝浦市史研究』3号、1997年。
・大石泰史「養珠院お萬の方(一五七七?―一六五三)―紀州・水戸徳川家初代の生母となった正木氏の娘―」『千葉史学』54号、2009年。
・小山譽城「徳川頼宣の母養珠院について」『南紀徳川史研究』9号、2010年。
関連項目
・仙寿院 (渋谷区)
外部リンク
・肖像画(静岡市清水区 龍華寺)



9165 久世暉之墓(東京都豊島区巣鴨5-35-6・本妙寺)
| 時代 | 江戸時代中期 |
|---|---|
| 生誕 | 元禄12年(1699年) |
| 死没 | 寛延2年8月18日(1749年9月29日) |
| 改名 | 源五郎(幼名)、暉之 |
| 墓所 | 東京都豊島区の本妙寺 |
| 官位 | 従五位下隠岐守、讃岐守 |
| 幕府 | 江戸幕府 |
| 主君 | 徳川吉宗→家重 |
| 藩 | 下総関宿藩主 |
| 氏族 | 久世氏 |
| 父母 | 父:久世重之、母:不詳 |
| 兄弟 | 暉之、広籌、広般、松平康員正室、石川総慶正室ら |
| 妻 | 正室:津軽信寿の娘 |
| 子 | 養子:広明 |
久世 暉之(くぜ てるゆき)は、江戸時代中期の下総国関宿藩主。関宿藩久世家3代。
生涯
元禄12年(1699年)、当時は三河吉田藩主だった久世重之の四男として三河吉田で生まれる。重之は宝永2年(1705年)に関宿へ転封された。兄3人が早世したために世子となり、正徳3年(1713年)3月7日に従五位下・隠岐守に叙位・任官する。享保5年(1720年)、父の死去により家督を継いだ。このとき、弟の久世広籌に5000石を分与した。
寛保2年(1742年)、寛保二年江戸洪水により、関宿城および領内に甚大な被害を受ける。延享2年(1745年)9月3日に讃岐守に遷任する。寛延元年(1748年)8月22日に養子の広明に家督を譲って隠居する。
寛延2年(1749年)8月18日に死去した。享年51。
系譜
父母
・久世重之(父)
正室
・慈照院、於染 ー 津軽信寿の娘
養子
・久世広明 ー 久世広武の長男
(wikiより)




9164 久世重之墓(東京都豊島区巣鴨5-35-6・本妙寺)
| 時代 | 江戸時代前期 - 中期 |
|---|---|
| 生誕 | 万治2年(1659年) |
| 死没 | 享保5年6月27日(1720年8月1日) |
| 墓所 | 東京都豊島区の本妙寺 |
| 官位 | 従四位下讃岐守、大和守 |
| 幕府 | 江戸幕府寺社奉行、若年寄、老中 |
| 主君 | 徳川家綱→綱吉→家宣→家継→吉宗 |
| 藩 | 下総関宿藩主→備中庭瀬藩主→丹波亀山藩主→三河吉田藩主→下総関宿藩主 |
| 氏族 | 久世氏 |
| 父母 | 父:久世広之、母:不詳 |
| 兄弟 | 重之、遠山友貞正室、松平重治正室、内田正衆正室ら |
| 妻 | 正室:土井利房の次女 |
| 子 | 暉之、広籌、広般、松平康員正室、石川総慶正室ら |
久世 重之(くぜ しげゆき)は、江戸時代前期から中期にかけての大名・老中。官位は従四位下・讃岐守、のち大和守。下総国関宿藩主、備中国庭瀬藩主、丹波国亀山藩主、三河国吉田藩主。関宿藩久世家2代。
生涯
関宿藩初代藩主・久世広之の3男として誕生。
延宝7年(1679年)に関宿藩主となって以来、重之一代の間に下総関宿藩(千葉県野田市関宿三軒家)から備中国庭瀬藩(岡山県岡山市北区庭瀬)ついで丹波国亀山藩(京都府亀岡市)さらに三河国吉田藩(愛知県豊橋市)へと転封を続け、宝永2年(1705年)に再び関宿に復帰する。元禄9年(1696年)11月に但馬国出石藩の小出氏が無嗣断絶となった際に出石領内で暴動が起こったが、隣国亀山藩を領していた重之がこれを鎮圧している。
幕府では45歳のときに三河吉田藩主時に寺社奉行に起用されたのを皮切りに、若年寄、ついで、下総関宿藩主になった翌年からの正徳3年(1713年) - 享保5年(1720年)、老中を務める。この時期1万石を加増され、都合6万石となる。また、新井白石の学問の崇拝者として知られ、幕閣に味方の少ない正徳の治を側面から支持し、正徳金銀鋳造の責任者を担当している。
重之の死後、家督は四男の暉之が継いだ。
逸話
『土芥寇讎記』に拠れば、若いころは男色に耽り、色白で化粧をした男性を好んでいたが、長じてその趣味を止めた、とされている。また同書では「(儒学に対して)無学無能」とされている。
経歴
・1659年(万治2年) 生誕
・1679年(延宝7年) 下総関宿藩主就任
・1683年(天和3年) 備中庭瀬藩に転封
・1686年(貞享3年) 丹波亀山藩に転封
・1697年(元禄10年) 三河吉田藩に転封
・1704年(宝永元年) 寺社奉行
・1705年(宝永2年) 若年寄。下総関宿藩に再封
・1713年(正徳3年) 老中
・1720年(享保5年) 在職中死去。享年61。
墓所は本妙寺(東京都豊島区)
系譜
父母
・久世広之(父)
正室
・土井利房の次女
子女
・久世暉之(四男)
・久世広籌(五男)
・久世広般(九男)久世広貞の養子
・松平康員正室
・石川総慶正室
(wikiより)




9163 久世広誉墓(東京都豊島区巣鴨5-35-6・本妙寺)
| 時代 | 江戸時代中期 - 後期 |
|---|---|
| 生誕 | 寛延4年2月29日(1751年3月26日) |
| 死没 | 文政4年3月8日(1821年4月10日) |
| 改名 | 勝之助(幼名)、広敦(初名)、広誉 |
| 戒名 | 隆光院殿昌徳日統 |
| 墓所 | 東京都豊島区巣鴨の本妙寺 |
| 官位 | 従五位下隠岐守、大和守、従四位下 |
| 幕府 | 江戸幕府 |
| 主君 | 徳川家治→家斉 |
| 藩 | 下総関宿藩主 |
| 氏族 | 久世氏 |
| 父母 | 父:久世広明、母:岡部長著の娘 |
| 兄弟 | 広誉、広備、長谷川勝孚、土井利豊、広才、鈴木重逵、松平広徳、広侶、 久世広楽正室、満喜子、久世広孝正室ら |
| 妻 | 正室:松平武元の7女・泰 側室:道樹院 |
| 子 | 綏之、土井利器、秋田長季正室、安藤信馨正室、伊保子ら 養子:広運 |
久世 広誉(くぜ ひろやす)は、江戸時代中期から後期にかけての下総国関宿藩主。関宿藩久世家5代。
来歴
寛延4年(1751年)、先代藩主久世広明の長男として生まれる。明和2年(1765年)6月1日、10代将軍徳川家治に拝謁する。同年12月18日に従五位下隠岐守。明和6年10月1日、雁間詰めを命じられる。天明5年(1785年)3月10日、父広明の死去により遺領を継いだ。同年8月15日、初めてお国入りする許可を得る。天明7年(1787年)10月28日、相模国などの領地を常陸国内などに移される。
寛政7年(1795年)、諱を広敦から広誉に改め、3月13日に名乗りを大和守とする。文化7年(1810年)末に従四位下に陞叙。文化14年(1817年)11月7日、病気を理由に家督を嫡孫で養子の広運に譲って隠居する。文政4年(1821年)3月に死去した。享年71。
系譜
父母
・久世広明(父)
・岡部長著の娘(母)
正室
・泰 ー 松平武元の七女
側室
・道樹院
子女
・久世綏之(長男)
・土井利器[1](十一男)生母は道樹院(側室)
・秋田長季正室
・安藤信馨正室
・久世伊保子 ー 松平光庸正室
養子
・久世広運 ー 久世綏之の子
脚注
1. 土井利義の養子
(wikiより)




9162 久世広明墓(東京都豊島区巣鴨5-35-6・本妙寺)
| 時代 | 江戸時代中期 |
|---|---|
| 生誕 | 享保16年12月23日(1732年1月20日) |
| 死没 | 天明5年1月24日(1785年3月4日) |
| 改名 | 熊太郎、広明 |
| 墓所 | 東京都豊島区の本妙寺 |
| 官位 | 従四位下大和守 |
| 幕府 | 江戸幕府寺社奉行、大坂城代、京都所司代、老中 |
| 主君 | 徳川家重→家治 |
| 藩 | 下総関宿藩主 |
| 氏族 | 久世氏 |
| 父母 | 父:久世広武、母:松平忠根の娘 養父:久世暉之 |
| 兄弟 | 広明、土井利剛、巨勢利永正室、河野通成 |
| 妻 | 正室:岡部長著の娘 |
| 子 | 広誉、広備、長谷川勝孚、土井利豊、広才、鈴木重逵、松平広徳、広侶、久世広楽正室、満喜子、久世広孝正室ら |
久世 広明(くぜ ひろあきら)は、江戸時代中期の大名。寺社奉行、大坂城代、京都所司代、老中。下総国関宿藩主。官位は従四位下大和守。関宿藩久世家4代。
略歴
大身旗本・久世広武(久世重之の五男広籌を初代とする旗本久世家)の長男として誕生。幼名は熊太郎。実父広武は土井利良の三男として生まれて、広籌の養子に迎えられた。
寛保3年(1743年)7月9日、本家である関宿藩主久世暉之の養嗣子となった。7月28日、8代将軍徳川吉宗に御目見した。寛延元年(1748年)8月22日、暉之が隠居し家督を継ぐ。寺社奉行、京都所司代などを歴任後、天明元年(1781年)に老中となり、天明5年(1785年)に死去するまで在任した。墓所は、東京都豊島区巣鴨5丁目の本妙寺。
年表
・1731年(享保16年) 12月23日 生誕
・1739年(元文4年)徳川吉宗の伽衆となる。
・1765年(明和2年) 8月21日 寺社奉行
・1769年(明和6年) 9月24日 寺社奉行免、9月28日 大坂城代
・1777年(安永6年) 9月15日 大坂城代免、京都所司代
・1781年(天明元年) 京都所司代免、9月18日老中
・1785年(天明5年) 1月24日 在職のまま卒。享年55。
系譜
父母
・久世広武(実父)
・松平忠根[1]の娘(実母)
・久世暉之(養父)
正室
・岡部長著の娘
子女
・久世広誉(長男)生母は正室
・久世広備(六男)
・長谷川勝孚(七男)
・土井利豊(八男)
・久世広才(九男)
・鈴木重逵(十一男)
・松平広徳(十二男)
・久世広侶(十三男)
・久世広楽正室
・久世満喜子 - 伊達村芳正室
・久世広孝正室
脚注
1. 土井利義の養子
(wikiより)




9161 久世広之墓(東京都豊島区巣鴨5-35-6・本妙寺)
| 時代 | 江戸時代前期 |
|---|---|
| 生誕 | 慶長14年(1609年) |
| 死没 | 延宝7年6月25日(1679年8月1日) |
| 墓所 | 東京都豊島区の本妙寺 |
| 官位 | 従五位下大和守、従四位下 |
| 幕府 | 江戸幕府御側→若年寄→老中 |
| 主君 | 徳川秀忠→家光→家綱 |
| 藩 | 下総関宿藩主 |
| 氏族 | 久世氏 |
| 父母 | 父:久世広宣、母:奥原経重娘 |
| 兄弟 | 広当、勝宣、広之、重利、 大久保忠当室ら |
| 妻 | 正室:戸田忠能養女 |
| 子 | 重之、遠山友貞正室、松平重治正室、 内田正衆正室ら 養子:広次 |
久世 広之(くぜ ひろゆき)は、江戸時代前期の大名。若年寄、老中。下総国関宿藩主。関宿藩久世家初代。武家官位(名乗り)は従四位下大和守。
来歴
慶長14年(1609年)、徳川氏の家臣・久世広宣の三男として誕生。
元和8年(1622年)に江戸幕府2代将軍・徳川秀忠の小姓となり、寛永元年(1624年)に3代将軍・徳川家光の小姓となる。寛永3年(1626年)に父の遺領を継いだ兄・広当から下総国海上郡内500石を分与されて分家。寛永12年(1635年)に徒頭、同13年(1636年)に従五位下に叙位され大和守を名乗る。寛永15年(1638年)に小姓組番頭に任じられ、寛永18年(1641年)に4500石加増で都合5000石。正保3年(1646年)には家光に拝謁するため長崎出島から江戸に赴いたオランダ商館館長レイニール・ファン・ツムと会見している。慶安元年(1648年)に5000石加増で都合1万石となり大名に列す。
承応2年(1653年)9月、土屋数直・牧野親成と共に4代将軍徳川家綱の御側となる。万治2年(1659年)に5000石加増で都合1万5000石、寛文2年(1662年)に若年寄になるとさら5000石を加増され都合2万石。寛文3年(1663年)に老中となり従四位下に昇叙。同4年(1664年)にはさらに2万石を加増され都合4万石。寛文6年(1666年)、稲葉正則・阿部忠秋・酒井忠清と共に4老中の連名で諸国山川掟を発令している。寛文9年(1669年)にさらに1万石を加増され、都合5万石で下総国関宿城を拝領した。
延宝7年(1679年)に死去、享年71。遺領は三男の重之が継いだ。墓所は東京都豊島区の本妙寺。
系譜
実家
・父:旗本寄合 久世広宣
・母:奥原経重女
・兄:旗本寄合 久世広当
・妹:旗本 大久保忠当正室
自家
・正室:下野国宇都宮藩主 戸田忠能養女(実父は旗本戸田忠次)
・三男:久世重之
・女子:美濃国苗木藩主 遠山友貞正室
・女子:上総国佐貫藩主 松平重治正室
・女子:下野国鹿沼藩主 内田正衆正室
・養子:久世広次(実父は久世広当)
関連項目
・文治政治
・能見台
(wikiより)

久世広之



9160 久世広運墓(東京都豊島区巣鴨5-35-6・本妙寺)
| 時代 | 江戸時代後期 |
|---|---|
| 生誕 | 寛政11年7月5日(1799年8月5日) |
| 死没 | 文政13年8月20日(1830年10月6日) |
| 改名 | 吉九郎(幼名)、広運 |
| 戒名 | 泰領院殿海山英意日照 |
| 墓所 | 東京都豊島区巣鴨の本妙寺 |
| 官位 | 従五位下長門守 |
| 幕府 | 江戸幕府 |
| 主君 | 徳川家斉 |
| 藩 | 下総関宿藩主 |
| 氏族 | 久世氏 |
| 父母 | 父:久世綏之、母:不詳 養父:久世広誉 |
| 兄弟 | 広運、大友義路 |
| 妻 | 正室:伊達村芳の娘・八智 |
| 子 | 養子:広周 |
久世 広運(くぜ ひろたか)は、江戸時代後期の下総国関宿藩の第6代藩主。関宿藩久世家6代。
生涯
寛政11年(1799年)、先代藩主・久世広誉の長男・久世綏之の子として生まれる。文化10年(1813年)9月2日、祖父広誉の嫡孫となる(父・綏之が病弱を理由に廃嫡されたため、孫である広運が広誉の後継者となったことによる)。文化11年(1814年)4月1日、11代将軍・徳川家斉に拝謁する。同年12月16日、従五位下・長門守に叙位・任官する。文化14年(1817年)11月7日、広誉が病気を理由に隠居したため家督を継いだ。文化15年(1818年)8月15日、初めてお国入りする許可を得る。
藩政では文政7年(1824年)11月に藩校・教倫館を創設して学問を奨励している。文政13年(1830年)8月20日に死去、享年32。跡を末期養子の広周が継いだ。
系譜
父母
・久世綏之(実父)
・久世広誉(養父)
正室
・八智 ー 伊達村芳の娘
養子
・久世広周 ー 大草高好の次男
(wikiより)



9159 慈眼寺(東京都豊島区巣鴨5-35-33・慈眼寺)
| 山号 | 正寿山 |
|---|---|
| 宗派 | 日蓮宗 |
| 本尊 | 一塔両尊四士・日蓮聖人 |
| 創建年 | 安土桃山時代 - 江戸時代初期 |
| 開山 | 了現院日盛 |
慈眼寺(じげんじ)は、東京都豊島区にある日蓮宗の寺院。
歴史
安土桃山時代から江戸時代初期、了現院日盛によって開山された。元々は深川六間掘猿子橋(現・江東区新大橋)にあり、1615年(元和元年)に日盛の弟子の慈眼院日遼によって寺院化した。その後、1693年(元禄6年)に本所猿江(現・江東区猿江)に移転した[1]。
1907年(明治40年)と1910年(明治43年)の水害により壊滅的打撃を受けた。1912年(明治45年)、谷中にあった妙伝寺と合併し、現在地に移転した[1]。
墓地墓地には、下記の人物が葬られている[1]。
・浦里・時次郎比翼塚(『明烏夢泡雪』の登場人物)
・小林平八郎(吉良家家老、赤穂浪士と戦い、斃れる)
・斎藤鶴磯(儒学者)
・司馬江漢(絵師、蘭学者)
・芥川龍之介(小説家)
・谷崎潤一郎(小説家)
・菊島隆三(脚本家)
交通アクセス
・新庚申塚停留場より徒歩7分。
脚注
1. a b c 豊島区立郷土資料館 編『豊島の寺院(豊島区立郷土資料館調査報告第二集)』豊島区教育委員会、1986年、41-42p
参考文献
・豊島区立郷土資料館 編『豊島の寺院(豊島区立郷土資料館調査報告第二集)』豊島区教育委員会、1986年
(wikiより)






9158 岩垂至墓(東京都豊島区駒込7-4-14・勝林寺)
9157 田沼意留墓(東京都豊島区駒込7-4-14・勝林寺)
| 時代 | 江戸時代後期 |
|---|---|
| 生誕 | 不明 |
| 死没 | 文久元年9月17日(1861年10月20日) |
| 改名 | 熊五郎(幼名)、意留、楽山(号) |
| 墓所 | 東京都豊島区駒込の勝林寺 |
| 官位 | 従五位下、備前守 |
| 幕府 | 江戸幕府 |
| 主君 | 徳川家斉→家慶 |
| 藩 | 遠江相良藩主 |
| 氏族 | 田沼氏 |
| 父母 | 田沼意正、水野忠友娘 |
| 兄弟 | 意留、柳生俊能、柳生俊章正室ら |
| 妻 | 正室:堀直教娘 継室:分部光実娘 |
| 子 | 意尊、久留島通容正室 |
田沼 意留(たぬま おきとめ)は、江戸時代後期の大名。遠江国相良藩主。官位は従五位下・備前守。相良藩田沼家7代。田沼意次の孫。
生涯
先代藩主・田沼意正の長男。文化2年(1805年)閏2月15日、11代将軍・徳川家斉に御目見する。文政2年(1819年)8月9日、意正の若年寄就任に伴って菊之間詰となる。12月16日、従五位下・備前守に叙任される。天保7年(1836年)4月21日、家督を相続し、雁之間詰となる。同年8月、天保の大飢饉による凶作で領内に多数の餓死者を出すなど、前途多難であった。
天保11年(1840年)7月20日、家督を嫡男の意尊に譲って隠居する。天保14年(1843年)11月25日、楽山と号す。文久元年(1861年)9月17日死去。
系譜
父母
・田沼意正(父)
・水野忠友の娘(母)
正室、継室
・堀直教の娘(正室)
・分部光実の娘(継室)
子女
・田沼意尊
・久留島通容正室
(wikiより)



9156 田沼意明墓(東京都豊島区駒込7-4-14・勝林寺)
| 時代 | 江戸時代中期 |
|---|---|
| 生誕 | 安永2年(1773年) |
| 死没 | 寛政8年9月22日(1796年10月22日) |
| 官位 | 従五位下、下野守 |
| 幕府 | 江戸幕府 |
| 主君 | 徳川家斉 |
| 藩 | 遠江相良藩主→陸奥下村藩主 |
| 氏族 | 田沼氏 |
| 父母 | 田沼意知 |
| 兄弟 | 意明、意壱、意信 |
| 妻 | 織田信浮長女・喜姫 |
| 子 | 意壱 |
田沼 意明(たぬま おきあき)は、江戸時代中期の大名。遠江国相良藩2代藩主、のち陸奥国下村藩初代藩主。官位は従五位下・下野守。相良藩田沼家2代。初代相良藩主・田沼意次の孫。
略歴
田沼意次の世子で若年寄を務めた田沼意知の長男。正室は織田信浮長女の喜姫。
意知が天明4年(1784年)に暗殺されたため、祖父である意次の世継となり、天明7年(1787年)に家督を継いだ。ただし、祖父が松平定信の粛清を受けて失脚したため、相良領は意次最盛期の5万7000石から意明継承時には2万7000石まで減封され、さらにそののち下村1万石に減移封となった。寛政5年(1793年)の定信失脚までは、領地へ下向することも許されず、江戸定府とされ、将軍への御目見や従五位下の官位任官も受けられなかった。
寛政8年(1796年)に大坂定番もしくは大坂加番に任命されたが、領地を一度も見ることなく[1]同年24歳で死去し、跡を弟で養嗣子の意壱が継いだ。
系譜
父母
・田沼意知(父)
正室
・織田信浮の娘
養子
・田沼意壱 - 意知の次男
脚注
1. 深谷克己『田沼意次―「商業革命」と江戸城政治家』2010年、山川出版社
(wikiより)



9155 田沼意定墓(東京都豊島区駒込7-4-14・勝林寺)
| 時代 | 江戸時代後期 |
|---|---|
| 生誕 | 天明4年(1784年) |
| 死没 | 文化元年7月26日(1804年8月31日) |
| 改名 | 幾之助(幼名)、意定 |
| 墓所 | 静岡県牧之原市の西大寺 |
| 官位 | 従五位下、主計頭 |
| 幕府 | 江戸幕府 |
| 主君 | 徳川家斉 |
| 藩 | 陸奥下村藩主 |
| 氏族 | 田沼氏 |
| 父母 | 田沼意致 養父:田沼意信 |
| 兄弟 | 意英、意定ら |
| 妻 | 稲生正方娘 |
| 子 | 意正 |
田沼 意定(たぬま おきさだ)は、江戸時代後期の大名。陸奥国下村藩4代藩主。官位は従五位下・主計頭。相良藩田沼家5代。
略歴
天明4年(1784年)、田沼家初代・田沼意次の甥(意次の弟・田沼意誠の子)田沼意致の四男として誕生した。正室は稲生正方娘。
享和3年(1803年)、先代藩主・田沼意信が早世したため、その養嗣子となって跡を継いだが、翌文化元年(1804年)7月26日に後を追うように死去した。嗣子がなかったため、従父である意正(意次の四男)が養嗣子となってその跡を継いだ。
系譜
父母
・田沼意致(実父)
・田沼意信(養父)
正室
・稲生正方の娘



























































































