本牧jack『意外と身近にある歴史散歩』日々是好日 心灯 頬笑

本牧Jackで御座います
小生の拙ブログ『意外と身近にある歴史散歩』日々是好日 心灯 頬笑に御訪問頂き誠に有難う御座います。
歴史ドラマが流行っている昨今、身近に有って気が付かなかったりする様な物を取り上げたりしています。
たまに『 多人数で取材しているのか? 』との質問を戴きますが、小生と相方の二人三脚で御座います。
出来るだけ続けたいと思っていますが 膝・耳に問題が有って、いつまで出来るやら・・・説明も、やたら長いものから あっさりしたものまで有りますが、御付き合いの程 宜しく御願い致します。
御注意 . 少ないですが生前に建てられた『 生前墓 』の記事も有ります。 ※ 申し訳御座いませんが「画像の転用」は禁止とさせて頂きます。 コメントは原則公開させていただいております 質問等に対してはブログ記事で返信させていただきます 他の方法で連絡を取り合う等一切しません 場合によっては、「IPブロック」しますがブロックした場合解除する事は有りませんので宜しくお願いします。

2026/05

昭和三十九年 秋彼岸

当代総代 山形丑蔵氏により 発起し発祥
(石碑文より)

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所在地山口県下関市豊前田町1-1-23
位置北緯33度57分10.4秒 東経130度55分45.3秒
山号浄瑠璃山
宗派曹洞宗
本尊薬師如来
創建年1199年(正治元年)
開基文覚上人
札所等中国四十九薬師霊場 第31番

東光寺(とうこうじ)は、山口県下関市豊前田町にある寺院。正治元年(1199年)、文覚上人の開基と伝えられる。本尊の薬師如来像は聖徳太子の作と伝えられている。

歴史
豊前田町にあり。はじめは薬師堂として、新地町にあって真言宗。のち時宗になり、さらに貞享3年(1686年禅宗に改まり、宝永元年(1704年)東光寺と称した。

寺伝によれば、正治元年(1199年)高雄文覚上人が開基した。江戸時代は萩藩歴代の遥拝所であったが、享保5年(1720年)現在地に移転したという。

参考文献
・富永浩平 『中国四十九薬師巡礼』、中国四十九薬師霊場会編、朱鷺書房、1997年、ISBN 4886023118、140-143頁。
(wikiより)


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用途コンベンションセンター
多目的ホール
オフィスビル(国際貿易ビル)
展望塔(海峡ゆめタワー)
設計者NTTファシリティーズ[1]
事業主体山口県
管理運営一般財団法人山口県国際総合センター
NTTファシリティーズ[2]
構造形式鉄筋コンクリート造及び鉄骨造
敷地面積7,841 m²
延床面積30,582 m² [3]
階数地上10階、地下1階(国際貿易ビル)
地上4階(アリーナ)
地上30階(海峡ゆめタワー)[3]
高さ153m(海峡ゆめタワー)
着工1994年7月5日[3]
竣工1996年6月30日[3]
開館開所1996年8月1日[3]
所在地750-0018
山口県下関市豊前田町3丁目3番1号
備考

事業費

【土地】約68億円(県:50%、市:50%)

【建物】約200億円(県:276億円、財団:24億円)[3]

山口県国際総合センター(やまぐちけんこくさいそうごうセンター)は、山口県下関市豊前田町3丁目3番1号にある、山口県と一般財団法人山口県国際総合センターが設置し、同財団法人が管理・運営する会議・展示施設。通称は海峡メッセ下関(かいきょうメッセしものせき)[4]

概要
細江地区の旧日本国有鉄道貨物ヤード関門連絡船貨車航送場)跡地を対象とした再開発事業「海峡あいらんど21」計画の一環として、海峡ゆめ広場(1989年平成元年)9月完成)に隣接する土地に建設された[4]。なお、同センターの建設計画は、県立の文化施設を県内各地にバランスよく配置する意図をもって、岩国市シンフォニア岩国萩市山口県立萩美術館・浦上記念館の建設と一体をなすものとして、推し進められた。

1994年(平成6年)7月から建設が始められ、1996年(平成8年)6月に完成、同年8月1日にオープン(海峡ゆめタワーは7月20日に先行オープン[5])した。

施設
敷地面積は7,841m2、延床面積 30,587m2で、地上10階のオフィスビル「国際貿易ビル」(延床面積:14,684.21㎡)、地上4階のイベントホール・展示見本市会場「アリーナ」(6,957.97㎡)、展望塔「海峡ゆめタワー」(2,439.2㎡)、立体駐車場から構成される。

海峡ゆめタワー
海峡ゆめタワーの高さは153m、展望室の高さは地上143m[5]。これは西日本の自立型タワーの中では最も高い(ただし、超高層ビルを含めた展望室の高さを比較した場合、大阪市あべのハルカス ハルカス300が288mで西日本一)。形状が特徴的で、展望室が球体状になっている。球体状の展望室はこのタワーが世界最初だった[5]。夜はライトアップされ、関門海峡周辺(下関市街地門司港レトロ関門橋など)の夜景を楽しめる。歴史に関する展示もあり、「壇ノ浦の戦いの地」や「巌流島の決闘場」を実際に見下ろしながら学ぶことが出来る[5]

国際貿易ビル
国際貿易ビルには、4ヵ国語同時通訳設備のある国際会議場や多目的ホール「海峡ホール」が設けられているほか、様々なテナントが入居している。アリーナのイベントホールでは、2002年(平成14年)に国際捕鯨委員会 (IWC) の年次総会が開催された。

主なテナント
ジェトロ山口
パスポートセンター
NHK下関支局
・yab山口朝日放送下関支局
ワイエム証券本社
ゆうちょ銀行山口地域センター
・山口県日中経済交流促進協会

交通
JR西日本下関駅より徒歩約3分。
下関港国際ターミナルよりすぐ近く。
サンデン交通豊前田」バス停下車

近隣施設
・海峡ゆめ広場
下関駅
シーモール下関
下関港国際ターミナル
下関警察署
下関市民会館
エディオン下関店

脚注
1. 建築作品集>山口県国際総合センター - NTTファシリティーズ公式サイト、2015年9月12日閲覧
2. 
ソリューション事例>財団法人山口県国際総合センター様 - NTTファシリティーズ公式サイト、2015年9月12日閲覧
3. 
 a b c d e f 山口県国際総合センターの概要 - 海峡メッセ下関公式サイト
4. 
a b “甦る土地 海峡メッセ下関”. 交通新聞 (交通新聞社): p. 2. (1997年5月14日)
5. 
a b c d 『日本展望タワー大全』(2020年9月10日、かねだひろ著、辰巳出版発行)134頁。

外部リンク
海峡メッセ下関   
海峡ゆめタワー    
(wikiより)

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寺院名 : 勝安寺

宗派 : 浄土真宗本願寺派

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白石正一郎は赤間関 ( 現在の下関 ) 竹崎の荷受問屋小倉屋の八代目当主でした。

国学を学び、各地の志士たちとも交流があったため尊皇攘夷の思想に傾倒し、西郷隆盛に接したことをきっかけに、高杉晋作、久坂玄瑞、坂本龍馬など、400人にも及ぶ藩内外の多数の志士たちを資金面で援助していました。

明治維新における影の功労者とも呼ばれています。

1863 ( 文久 3 ) 年の白石邸における高杉晋作の奇兵隊結成にも援助し、自らも奇兵隊士となりました。

奇兵隊本陣もここに置かれましたが、隊士の増加とともに手狭になったため、のちに本陣は阿弥陀寺 ( 現赤間神宮 ) に移されました。

白石家は家財をすべて倒幕運動に捧げてしまったために破産し、維新後は赤間神宮の宮司となってひっそりと暮らしたそうです。

騎兵隊結成の地となった白石正一郎邸は、現在中国電力下関営業所となっており、敷地内に白石正一郎邸跡と高杉晋作奇兵隊結成の地の二つの碑が建てられています。

ちょうどこの碑の辺りにあった白石邸の建物の一部で、多くの志士たちがくぐったであろう浜門は、市内の長府松小田町の民家に移築され現存しています。

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七卿落ちの画碑の説明

この画碑は三条実美卿を始め、七卿 ( 七人のお公家さん ) が、京都の妙法寺から蓑笠姿にて長州へ下向する様子を ( 画碑に ) 写刻したものであります。

白石正一郎邸にて匿われた縁を持ちまして氏神の大歳神社の境内に大正 4年 ( 1915年 ) 関門史談会が建立し、七卿の偉業を顕彰されました。

嘉永 6年 ( 1853年 ) 日本に来航したペリーは、圧倒的な軍事力を背景に、江戸幕府へ開国を要求。

さらに、通商の開始を求められた井伊直弼が、朝廷の許可なく条約を結んだことにより、国内に動揺が広がりました。

以後、公卿や大名だけでなく学者・浪士など、様々な身分の者たちが、開国・鎖国・攘夷・公武一和 ( 朝廷と幕府の関係修復 ) などを訴え、行動を起こします。

文久 3年 ( 1853年 ) 8月、孝明天皇の意を受けた会津・薩摩藩は、過激な攘夷を主張した事を里由 ( ※注 1 ) に、在京諸藩と協力して三条実美卿ら公卿と長州藩を京都から退けました。

一連の事件は、八月十八日の政変及び『七卿落ち』といわれています。

※注 1、過激な攘夷を訴える諸藩士、浪人らが三条実美卿ら公卿を通じて、孝明天皇が攘夷祈願のために親征 ( 大和行幸 ) し、攘夷の気運を盛り上げようとしました。しかし、孝明天皇は、軽率な親征に反対を示しています。

長州藩においては、元治元年 ( 1864年 ) は激動の年でした。

四国連合艦隊との下関戦争の敗北に加え、禁門の変を起こして朝敵の汚名を蒙り、さらには幕府や諸藩で構成された征長軍が藩境にまで迫るなど、正に内憂外患だったのです。

苦境に陥った長州藩内において、幕府への抵抗を声高に叫ぶ人々は、三条実美卿らを唯一の拠り所としたのでした。

やがて、高杉晋作の功山寺決起をきっかけに長州藩の意見は統一され、幕府に抵抗していく方針に決定しました。

さらに、慶応 2年 ( 1866年 ) には、長州藩が薩摩藩と同盟を締結 ( 薩長同盟 ) し、第二次長州出兵 ( 四境戦争 ) で勝利を得ます。

翌年には、大政奉還、王政復古の大号令が出され、慶応 4年 ( 1868年 ) 五箇条の御誓文と共に明治時代の幕開けとなりました。

境内には、七卿落ちの画碑、明治維新の史跡、白石正一郎奉納の鳥居、さらに錦小路頼徳の病気平癒を祈願してお祀りされた八坂神社を有しています。それは、白石正一郎が氏子であったこともありますが、何より下関市において唯一源氏のご祭神を祀り、勝ち戦を祈願した歴史と由緒が大きいのではないでしょうか。

本画碑を通じ幕末維新当時の先人の足跡に触れていただければ幸いです。
(案内板より)

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大鳥居は文久 2年 ( 1862年 ) に白石正一郎が攘夷必勝を祈念して奉納した。

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大歳神社 ( おおとしじんじゃ ) の一二三坂 ( ひふみざか )

当社は昭和十五年に関門トンネル工事の折、鉄道路線敷に接収され、現在地に遷座 ( せんざ ) されました。

当初階段は一二三段でした。( ※ 1 )

この一二三とは一二三の祓い言葉 ( ※ 2 ) にちなみ厄を払う意味が込められており、お祓いの一二三坂として親しまれてきました。

不慮の遷座ではありましたが、当社は現在も本州最西端を守護しており、一二三の階段と併せ二重の厄を祓う意味が込められていたと考えられます。

平成十年に下関市の『海の見える丘の径』事業の一環として階段の整備が行われ現在の一一五段に到っております。

平成十八年には、下関市夜間景観整備事業第一号として、階段に人生の通過儀礼のプレートを施しました。

また、当社の御祭神である木花咲耶姫神は山の神 ( 富士山 ) であることから、長い階段を登るというより、小山を登頂しお参りに来たと考えて頂ければ幸甚であります。

参拝される皆様のご隆昌とご健勝に繋がりますようお祈り申し上げます。

※ 1
元の境内は下関駅西口高架下付近、文治二年 ( 西暦・・一一八六年 ) に鎮座。

遷座とはお引越しの事。
 ( 伊勢 ) 神宮の二十年に一度行われる式年遷宮が有名です。

※ 2
古事記の天の岩戸において、天鈿女命 ( あめのうずめのみこと ) が舞をしつつ、ひふみの祓詞を唱えたといわれています。

四十七の清音で成り立っています。

ひふみの祓詞・・・

ひふみよ いむなや こともちろらね しきる ゆゐつわぬ

そをたはくめか うおゑに さりへて のます あせえほれけ
(案内板より)

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所在地山口県下関市竹崎町一丁目13-10
位置北緯33度57分5.2秒 東経130度55分31.8秒
主祭神木花咲耶姫神(大歳御祖神)
社格旧村社
創建文治年(1186年

大歳神社(おおとしじんじゃ)は、山口県下関市竹崎町にある神社旧社格は村社。

由緒
平安時代末期の源平合戦において、平家追討のため西国へ下った源義経が、武運の守護神・富士浅間神社の御祭神・大歳御祖大神に戦勝祈願を行った。義経は平家が布陣する彦島を望む有明山(大歳山・円山)に富士の小松を植え、篝火を焚き、二日二夜の沐浴して潔斎を行い、祈念を込めたの弓矢をもって平知盛の率いる平家軍に開戦の矢文を放った。

平家軍は急遽壇ノ浦に軍船を進めて戦ったが、待機していた源範頼の軍勢と義経軍の挟み撃ちにあい、平家は敗れ、義経率いる源氏軍の勝利となった。翌年の文治2年(1186年)、四軒の漁民が義経の祈願のありさまを畏敬して神祠を祀ったことが大歳神社の由来となる。

以来、武運長久の神として明治維新の際には奇兵隊旗揚げの軍旗が奉納された。大鳥居文久2年(1862年)に白石正一郎攘夷必勝を祈念して奉納した。

アクセス
下関駅から徒歩5分

関連項目
壇ノ浦の戦い    
(wikiより)

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準鉄道記念物
車両航送発祥の地碑

本州・九州間の国鉄貨物輸送に大変革をもたらした貨車航送は鉄道院から下関・小森江 ( 北九州門司区小森江笠松町 ) 間の航送作業を請け負った宮本高次 ( 下関市宮本組 ) が明治四十四年三月一日から試航送を行い同年十月一日鉄道院はこの航路を関森 ( かんしん ) 航路として正式に営業を開始しました。

宮本高次はかねてから貨車航送について深い関心をよせ航送作業を請け負うに当り資材を投じて七トン貨車三両を積載する艀 ( はしけ ) 三隻 ( せき ) とこれを曳航 ( えいこう ) する小蒸気船三隻 ( せき ) を建造し当時の困難な海陸連絡輸送を打開しました。

この貨車航送はわが国の車両航送のはじまりであり当時の下関発着場がこの地点です。

昭和四十一年十月十四日指定
(説明版より)

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下関市の本土と彦島を隔てる海峡にある「下関漁港閘門 ( こうもん )」は、パナマ運河と同じ仕組みを持つ小さな運河で、規模は世界最小といわれています。

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第 4期拡張事業 ( 昭和 9年 4月 ~ 昭和 10年 10月 )

本事業は、水源対策と、昭和 8年 3月市域に編入された彦島町へ給水するため、計画された。
 
すなわち、既存の貯水池流入量では、明治 44年規模の渇水に遭遇すれば断水は必至であると予想されていたが、遂に昭和 9年大旱ばつに遭遇し、実に 70日余りにわたり制限給水の憂き目を見たのである。

従来から、渇水事態に備える抜本的対策を検討してきたところであるが、今回は、一時的な措置として、昭和 7 ~ 8年に調査した綾羅木川及び砂子多川からの取水実験結果に基づき、当面する水源不足の緩和を図った。
 
これは、貯水池下流の綾羅木川及び砂子多川から、農業用水に支障をきたさないかんがい期間外に取水し、浄水場へ揚水し、ダム貯水量を温存しようとするもので、取水施設として綾羅木ポンプ所を築造、導水管を布設して高尾浄水場へ連絡した。
 
また、彦島町への給水は、日和山浄水場から小門海峡の海底部を経由して配水管を布設するとともに、給水需要の時間的変化に備えて彦島町本村字後山に調整池 1池を築造した。
 
本事業は、昭和 9年 4月に着工し、翌 10年 10月に完成した。
(下関市ホームページより)

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平家ゆかりの寺で、建治 2年 ( 1276 )、一遍上人の従者で平忠政の孫でもあった西楽法師によって開かれました。

本尊の阿弥陀如来座像は平重盛の持仏で、守り本尊であったと伝えられていて注目、下関市の有形文化財に指定されています。

下関指定有形文化財

西楽寺木造阿弥陀如来坐像 
 

像高 : 八十三・五センチメートル

指定年月日 : 昭和六十年十二月二十日

所在地 : 下関市彦島本村町五丁目三番一号

西楽寺の本尊である阿弥陀如来坐像は、古くは平重盛の持仏であったと伝えられており、彦島の人々によって大切に守り伝えられてきました。

本像はヒノキの材を用いて、寄木造という技法でつくられています。

この寄木造りとは、いくつかの材を組み合わせて本体をつくる仏像製作の技法です。

平安時代に考案され、以後多く用いられました。

丸く張りのある顔立ちや体型、浅めに彫られた繊細は衣の線などの表現から、本像は平安時代の終わりごろから鎌倉時代のはじめにかけて制作されたと考えられます。

後の時代に部分的な修理や表面の彩色がほどこされています。

平家一門と彦島の地とのかかわりをうかがわせるものとして、また当時の文化の豊かさを伝えるものとして貴重な仏像です。

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文学・俳人。

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文学・俳人。

渡辺水巴妻。

俳人協会名誉会員

吉野雛、吾亦紅。

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何も説明版が無い為、詳細は不明ですが・・・

尺八の名手の方が、柳居青翁という人のようです。

柳居青翁者東京人名恒考旧称半兵衛糟谷氏世為幕府臣凪有隠逸之志年既壮矣譲家其弟受吹笛法於荒木古童終極秘奥又喜俳諧歌煎茶式等超然遊于物他明治十七年五月静岡寶臺院謙賀愛其爲人延爲賓師乃移中居数年骰最留也古典無所來推究遂補修之蓋出于其自得巳今年六十又四門人相謀建石勤銘代壽碑因請余銘銘曰

虞舜作簫 律呂和調 厥形参差 厥音超遥 星移物換 ◇求絶萩 或稱尺八 猶協九韶 李唐高僧 呪経升天 張伯一叫 雲爲穿 
或稱尺八 猶協九韶 李唐高僧 呪経升天 張伯一叫 雲爲穿 十又六世 張参傳 我僧法燈 渡海問禅 受業出藍 悟八玄 
歸朝建寺 法侶満筵 創意截竹 不復用編 一管五 美之吹之 如喜如泣 如訴如悲 上下鬼神 感動媍兒 爲布教具 設後世規 尺八之穪 遍千四維 騒人嘯月 遣懐慰思 義士晦跡 避険去危 世勢一変 教法敗壊 新政漸興 旧物盡廃 國多野調 郷之豎遂 嗚呼青翁 不顧人言 及其未絶 餘音尚在 刻苦研究 尽夜諼 濯足東海 寄身寺門 訂曲校譜 誘掖後昆 惟斯奇行 豈無淵源
壽興石堅 長頌聖思

明治二十三年十月 関口隆正撰文并書

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従二位勲一等伯爵松方正義公篆額  

従六位 片山遠平君撰文

君名辰一潮田君常吉之長子也母松井氏安政五

年五月廿九日生于東都櫻田街西尾侯藩邸資性

實著好學明治二年及藩侯轉封安房君従而徙焉

五年負笈游横濱親就西人講英學九年入駒場農

學校十三年卒其業乃受農學士之稱無幾出歴事

岐阜山梨二縣之農學校等尋任静岡尋常中學校

一等教諭兼幹事二十一年三月九日病歿于静岡

享年三十有一訃至諸友莫不痛悼者吁嗟君之甞

在駒場農學校也余時承乏校長補善知君之為人

心竊期其成立而何料天不假之年溘然易簀悲夫

君娶蜂屋氏生男誠一尚幼頃者諸友有謀為君建

碑俾余撰文余不文何當然義不得辭因略記其◇

歴以代之

明治二十二年九月  高田忠周書

 

※ ◇部分は判読不能

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勝海舟の妹 ( 佐久間象山の妻 ) じゅんの墓。

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勝海舟の母

信子の墓。

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養珠院(ようじゅいん、天正5年(1577年)/天正8年(1580年) - 承応2年8月22日1653年10月13日))は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての女性。徳川家康の側室。紀州徳川家の家祖徳川頼宣、および水戸徳川家の家祖徳川頼房の母。名は(まん、旧字体:)。

以下の呼称は実名の万で統一する。

生涯
出自については、有力な説として『寛政重修諸家譜』などでは、勝浦城正木頼忠と智光院との間に生まれた娘とある。『南紀徳川史』では河津城主蔭山氏広と智光院との間に生まれた娘とされる。信憑性は低いが、冷川村百姓夫婦の娘など諸説もある。また母とされる智光院は『寛政重修諸家譜』などでは北条氏隆の娘[1]とあり、『南紀徳川史』では田中泰行の娘(板部岡江雪斎の姉、氏隆養女)という説がある。血筋は三浦義村の娘矢部禅尼を先祖に持つ三浦宗家の末裔である。

天正5年(1577年)4月4日、三浦庶流の正木頼忠を父として生まれたが、同年8月正木憲時の挙兵により勝浦城から三原(和田町)に移り、その後、小田原に居住した。天正12年(1584年)、母親が蔭山氏広と再婚したことより蔭山一族となったとされる[2]小田原征伐の際に蔭山氏広は山中城籠城軍に加わるも、落城時に脱出し居城の河津城に戻ったが、伊豆国修善寺にて蟄居したと伝わる。一説に伊豆国冷川村の出身で幼いころに百姓である両親と死別した。

万は駿河国大平村(沼津市大平)の名主、星谷縫殿右衛門に養育される。文禄2年(1593年)三島徳川家康に目見え、江川英長(江川太郎左衛門)の養女として家康の側室となった[2]。伏見において、慶長7年(1602年)3月7日には頼宣を、同8年(1603年)8月10日には頼房を出産する[3]

慶長11年(1606年)3月26日の『玉沢手鑑草稿』に記載されている宝倉板本尊銘写によると「蓮華院妙紹日心」とあり、養珠院と称する前は蓮華院と称していたことが確認できる[4]

義父の蔭山家は代々日蓮宗を信仰しており、万もその影響を受けて日遠に帰依した。家康は浄土宗であり、日頃から宗論を挑む日遠を不快に思っていたため、慶長13年(1608年)11月15日、江戸城での問答の直前に日蓮宗側の論者日経を家臣に襲わせた結果、日蓮宗側は半死半生の状態となり、浄土宗側を勝利させた。この不法な家康のやり方に怒った日遠は身延山法主を辞し、家康が禁止した宗論を上申した。これに激怒した家康は、日遠を捕まえて駿府の安倍川原で磔にしようとしたため、万は家康に日遠の助命嘆願をするが、家康は聞き入れなかった。すると万は「師の日遠が死ぬ時は自分も死ぬ」と、日遠と自分の2枚の死に衣を縫う。これには家康も驚いて日遠を放免した[3]。この万の勇気は当時かなりの話題になったようで、後陽成天皇も万の行動に感激し、天皇が自ら「南無妙法蓮華経」と題目を揮毫し、万に下賜されたという。彼女は家康が死去した後、元和5年(1619年)8月、身延山で法華経一万部読誦の大法要を催し、満願の日に七面山に向かった。

なお、この慶長宗論で日経が襲撃されたとする主張は日蓮宗側の主張のみで、他の浄土宗・武家・判者の高野山は日経が横たわったまま殆ど発言しなかったと記録する。また日遠が駿河国に赴いたのは、日蓮宗関係以外の史料では確認することができないとする指摘がある[5]

大坂の陣における実兄の三浦為春の武功に、徳川家康が喜んでいることを万が為春に知らせた古文書が残る[6]。歴史的な内容が確認できる唯一のものだが、年月日、文書の形態・宛所等も不明で現蔵機関名も記されていない[5]。三浦為春はのちに万の子である徳川頼宣に附属され、紀州藩御附家老となった。

元和2年(1616年)4月22日、蓮華院妙昭日心から養珠院妙昭日心に法号を変えた(『本光国師日記』)[5]

承応2年(1653年)、万は死去した。墓所は山梨県南巨摩郡身延町大野の日蓮宗寺院・本遠寺静岡県三島市妙法華寺。承応3年(1654年)に徳川頼宣により建立された墓所で、花崗岩製の宝篋印塔が現存している。山梨県指定史跡。法号は養珠院殿妙紹日心大姉。杉並区理性寺にも分骨されている。

その他
駿府城の万の居間が移築されて、妙法華寺奥書院(静岡県三島市玉沢)として現存している。駿府城で唯一の遺構である。静岡県三島市文化財となっている。

2004年(平成16年)、海禅院多宝塔の下の石室から万の遺髪が発見された[7]

登場作品
春日局(1989年、NHK大河ドラマ、演 : 佐藤真浪
影武者徳川家康 (1998年、テレビ朝日、演 : 石井亜可理)
葵 徳川三代 (2000年、NHK大河ドラマ、演 : 尾上紫
・影武者徳川家康(2014年、テレビ東京、演 : 葉月

脚注
1. 北条氏尭の誤伝もしくは田中泰行の娘で氏尭の養子。
2. 
a b 勝浦市史 2006, p. 405.
3. 
a b 勝浦市史 2006, p. 406.
4. 
勝浦市史 2006, pp. 406–407.
5. 
a b c 大石 1997.
6. 
中村利枝『徳川養珠夫人伝』(私家版)、1971年、59-60頁。
7. 
妹背山護持顕彰会

参考文献
書籍
・勝浦市史編さん委員会 編『勝浦市史 史料編 中世』2003年。
・勝浦市史編さん委員会 編『勝浦市史 通史編』2006年、385-421頁。
論文
大石泰史「養珠院お萬の方に関する諸問題」『勝浦市史研究』3号、1997年。
・大石泰史「養珠院お萬の方(一五七七?―一六五三)―紀州・水戸徳川家初代の生母となった正木氏の娘―」『千葉史学』54号、2009年。
小山譽城「徳川頼宣の母養珠院について」『南紀徳川史研究』9号、2010年。

関連項目
仙寿院 (渋谷区)    

外部リンク
肖像画(静岡市清水区 龍華寺)

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時代江戸時代中期
生誕元禄12年(1699年
死没寛延2年8月18日1749年9月29日
改名源五郎(幼名)、暉之
墓所東京都豊島区本妙寺
官位従五位下隠岐守讃岐守
幕府江戸幕府
主君徳川吉宗家重
下総関宿藩
氏族久世氏
父母久世重之:不詳
兄弟暉之広籌広般松平康員正室、石川総慶正室ら
正室津軽信寿の娘
養子広明

久世 暉之(くぜ てるゆき)は、江戸時代中期の下総国関宿藩主。関宿藩久世家3代。

生涯
元禄12年(1699年)、当時は三河吉田藩主だった久世重之の四男として三河吉田で生まれる。重之は宝永2年(1705年)に関宿へ転封された。兄3人が早世したために世子となり、正徳3年(1713年)3月7日に従五位下・隠岐守に叙位・任官する。享保5年(1720年)、父の死去により家督を継いだ。このとき、弟の久世広籌に5000石を分与した。

寛保2年(1742年)、寛保二年江戸洪水により、関宿城および領内に甚大な被害を受ける。延享2年(1745年)9月3日に讃岐守に遷任する。寛延元年(1748年)8月22日に養子の広明に家督を譲って隠居する。

寛延2年(1749年)8月18日に死去した。享年51。

系譜
父母
久世重之(父)
正室
・慈照院、於染 ー 津軽信寿の娘
養子
久世広明 ー 久世広武の長男
(wikiより)

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時代江戸時代前期 - 中期
生誕万治2年(1659年
死没享保5年6月27日1720年8月1日
墓所東京都豊島区本妙寺
官位従四位下讃岐守大和守
幕府江戸幕府寺社奉行若年寄老中
主君徳川家綱綱吉家宣家継吉宗
下総関宿藩主→備中庭瀬藩主→丹波亀山藩主→三河吉田藩主→下総関宿藩主
氏族久世氏
父母久世広之:不詳
兄弟重之遠山友貞正室、松平重治正室、内田正衆正室ら
正室土井利房の次女
暉之広籌広般松平康員正室、石川総慶正室ら

久世 重之(くぜ しげゆき)は、江戸時代前期から中期にかけての大名老中官位従四位下讃岐守、のち大和守下総国関宿藩主、備中国庭瀬藩主、丹波国亀山藩主、三河国吉田藩主。関宿藩久世家2代。

生涯
関宿藩初代藩主・久世広之の3男として誕生。

延宝7年(1679年)に関宿藩主となって以来、重之一代の間に下総関宿藩千葉県野田市関宿三軒家)から備中国庭瀬藩岡山県岡山市北区庭瀬)ついで丹波国亀山藩京都府亀岡市)さらに三河国吉田藩愛知県豊橋市)へと転封を続け、宝永2年(1705年)に再び関宿に復帰する。元禄9年(1696年)11月に但馬国出石藩小出氏が無嗣断絶となった際に出石領内で暴動が起こったが、隣国亀山藩を領していた重之がこれを鎮圧している。

幕府では45歳のときに三河吉田藩主時に寺社奉行に起用されたのを皮切りに、若年寄、ついで、下総関宿藩主になった翌年からの正徳3年(1713年) - 享保5年(1720年)、老中を務める。この時期1万石を加増され、都合6万石となる。また、新井白石の学問の崇拝者として知られ、幕閣に味方の少ない正徳の治を側面から支持し、正徳金鋳造の責任者を担当している。

重之の死後、家督は四男の暉之が継いだ。

逸話
土芥寇讎記』に拠れば、若いころは男色に耽り、色白で化粧をした男性を好んでいたが、長じてその趣味を止めた、とされている。また同書では「(儒学に対して)無学無能」とされている。

経歴
1659年万治2年) 生誕
1679年延宝7年) 下総関宿藩主就任
1683年天和3年) 備中庭瀬藩に転封
1686年貞享3年) 丹波亀山藩に転封
1697年元禄10年) 三河吉田藩に転封
1704年(宝永元年) 寺社奉行
1705年(宝永2年) 若年寄。下総関宿藩に再封
1713年正徳3年) 老中
1720年(享保5年) 在職中死去。享年61。
墓所は本妙寺東京都豊島区

系譜
父母
久世広之(父)
正室
土井利房の次女
子女
久世暉之(四男)
久世広籌(五男)
久世広般(九男)久世広貞の養子
松平康員正室
石川総慶正室
(wikiより)

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時代江戸時代中期 - 後期
生誕寛延4年2月29日1751年3月26日
死没文政4年3月8日1821年4月10日
改名勝之助(幼名)、広敦(初名)、広誉
戒名隆光院殿昌徳日統
墓所東京都豊島区巣鴨本妙寺
官位従五位下隠岐守大和守従四位下
幕府江戸幕府
主君徳川家治家斉
下総関宿藩
氏族久世氏
父母久世広明岡部長著の娘
兄弟広誉広備長谷川勝孚土井利豊広才鈴木重逵松平広徳広侶
久世広楽正室、満喜子、久世広孝正室ら
正室松平武元の7女・
側室:道樹院
綏之土井利器秋田長季正室、安藤信馨正室、伊保子ら
養子広運

久世 広誉(くぜ ひろやす)は、江戸時代中期から後期にかけての下総国関宿藩主。関宿藩久世家5代。

来歴
寛延4年(1751年)、先代藩主久世広明の長男として生まれる。明和2年(1765年)6月1日、10代将軍徳川家治に拝謁する。同年12月18日に従五位下隠岐守。明和6年10月1日、雁間詰めを命じられる。天明5年(1785年)3月10日、父広明の死去により遺領を継いだ。同年8月15日、初めてお国入りする許可を得る。天明7年(1787年)10月28日、相模国などの領地を常陸国内などに移される。

寛政7年(1795年)、広敦から広誉に改め、3月13日に名乗りを大和守とする。文化7年(1810年)末に従四位下に陞叙。文化14年(1817年)11月7日、病気を理由に家督を嫡孫で養子の広運に譲って隠居する。文政4年(1821年)3月に死去した。享年71。

系譜
父母
久世広明(父)
岡部長著の娘(母)
正室
・泰 ー 松平武元の七女
側室
・道樹院
子女
久世綏之(長男)
土井利器[1](十一男)生母は道樹院(側室)
秋田長季正室
安藤信馨正室
・久世伊保子 ー 松平光庸正室
養子
久世広運 ー 久世綏之の子

脚注
1. 土井利義の養子
(wikiより)

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32d




時代江戸時代中期
生誕享保16年12月23日1732年1月20日
死没天明5年1月24日1785年3月4日
改名熊太郎、広明
墓所東京都豊島区本妙寺
官位従四位下大和守
幕府江戸幕府寺社奉行大坂城代京都所司代老中
主君徳川家重家治
下総関宿藩
氏族久世氏
父母父:久世広武、母:松平忠根の娘
養父久世暉之
兄弟広明土井利剛巨勢利永正室、河野通成
正室岡部長著の娘
広誉広備長谷川勝孚土井利豊広才鈴木重逵松平広徳広侶久世広楽正室、満喜子、久世広孝正室ら

久世 広明(くぜ ひろあきら)は、江戸時代中期の大名寺社奉行大坂城代京都所司代老中下総国関宿藩主。官位従四位下大和守。関宿藩久世家4代。

略歴
大身旗本久世広武久世重之の五男広籌を初代とする旗本久世家)の長男として誕生。幼名は熊太郎。実父広武は土井利良の三男として生まれて、広籌の養子に迎えられた。

寛保3年(1743年)7月9日、本家である関宿藩主久世暉之の養嗣子となった。7月28日、8代将軍徳川吉宗御目見した。寛延元年(1748年)8月22日、暉之が隠居し家督を継ぐ。寺社奉行、京都所司代などを歴任後、天明元年(1781年)に老中となり、天明5年(1785年)に死去するまで在任した。墓所は、東京都豊島区巣鴨5丁目の本妙寺

年表
1731年享保16年) 12月23日 生誕
1739年(元文4年)徳川吉宗の伽衆となる。
1765年明和2年) 8月21日 寺社奉行
1769年(明和6年) 9月24日 寺社奉行免、9月28日 大坂城代
1777年安永6年) 9月15日 大坂城代免、京都所司代
1781年天明元年) 京都所司代免、9月18日老中
1785年(天明5年) 1月24日 在職のまま卒。享年55。

系譜
父母
久世広武(実父)
松平忠根[1]の娘(実母)
久世暉之(養父)
正室
岡部長著の娘
子女
久世広誉(長男)生母は正室
久世広備(六男)
長谷川勝孚(七男)
土井利豊(八男)
久世広才(九男)
鈴木重逵(十一男)
松平広徳(十二男)
久世広侶(十三男)
久世広楽正室
・久世満喜子 - 伊達村芳正室
久世広孝正室

脚注
1. 土井利義の養子
(wikiより)

31a

31b

31c

31d




時代江戸時代前期
生誕慶長14年(1609年
死没延宝7年6月25日1679年8月1日
墓所東京都豊島区本妙寺
官位従五位下大和守従四位下
幕府江戸幕府御側若年寄老中
主君徳川秀忠家光家綱
下総関宿藩
氏族久世氏
父母父:久世広宣、母:奥原経重
兄弟広当勝宣広之重利
大久保忠当室ら
正室:戸田忠能養女
重之遠山友貞正室、松平重治正室、
内田正衆正室ら
養子:広次

久世 広之(くぜ ひろゆき)は、江戸時代前期の大名若年寄老中下総国関宿藩主。関宿藩久世家初代。武家官位(名乗り)従四位下大和守。

来歴
慶長14年(1609年)、徳川氏の家臣・久世広宣の三男として誕生。

元和8年(1622年)に江戸幕府2代将軍徳川秀忠の小姓となり、寛永元年(1624年)に3代将軍・徳川家光の小姓となる。寛永3年(1626年)に父の遺領を継いだ兄・広当から下総国海上郡内500石を分与されて分家。寛永12年(1635年)に徒頭、同13年(1636年)に従五位下に叙位され大和守を名乗る。寛永15年(1638年)に小姓組番頭に任じられ、寛永18年(1641年)に4500石加増で都合5000石。正保3年(1646年)には家光に拝謁するため長崎出島から江戸に赴いたオランダ商館館長レイニール・ファン・ツムと会見している。慶安元年(1648年)に5000石加増で都合1万石となり大名に列す。

承応2年(1653年)9月、土屋数直牧野親成と共に4代将軍徳川家綱御側となる。万治2年(1659年)に5000石加増で都合1万5000石、寛文2年(1662年)に若年寄になるとさら5000石を加増され都合2万石。寛文3年(1663年)に老中となり従四位下に昇叙。同4年(1664年)にはさらに2万石を加増され都合4万石。寛文6年(1666年)、稲葉正則阿部忠秋酒井忠清と共に4老中の連名で諸国山川掟を発令している。寛文9年(1669年)にさらに1万石を加増され、都合5万石で下総国関宿城を拝領した。

延宝7年(1679年)に死去、享年71。遺領は三男の重之が継いだ。墓所は東京都豊島区本妙寺

系譜
実家
・父:旗本寄合 久世広宣
・母:奥原経重
・兄:旗本寄合 久世広当
・妹:旗本 大久保忠当正室
自家
・正室:下野国宇都宮藩主 戸田忠能養女(実父は旗本戸田忠次
・三男:久世重之
・女子:美濃国苗木藩主 遠山友貞正室
・女子:上総国佐貫藩主 松平重治正室
・女子:下野国鹿沼藩主 内田正衆正室
・養子:久世広次(実父は久世広当)

関連項目
文治政治     
能見台      
(wikiより)

30 久世広之

久世広之

30a

30b

30c




時代江戸時代後期
生誕寛政11年7月5日1799年8月5日
死没文政13年8月20日1830年10月6日
改名吉九郎(幼名)、広運
戒名泰領院殿海山英意日照
墓所東京都豊島区巣鴨本妙寺
官位従五位下長門守
幕府江戸幕府
主君徳川家斉
下総関宿藩
氏族久世氏
父母久世綏之:不詳
養父久世広誉
兄弟広運大友義路
正室伊達村芳の娘・八智
養子広周

久世 広運(くぜ ひろたか)は、江戸時代後期の下総国関宿藩の第6代藩主。関宿藩久世家6代。

生涯
寛政11年(1799年)、先代藩主・久世広誉の長男・久世綏之の子として生まれる。文化10年(1813年)9月2日、祖父広誉の嫡孫となる(父・綏之が病弱を理由に廃嫡されたため、孫である広運が広誉の後継者となったことによる)。文化11年(1814年)4月1日、11代将軍徳川家斉に拝謁する。同年12月16日、従五位下・長門守に叙位・任官する。文化14年(1817年)11月7日、広誉が病気を理由に隠居したため家督を継いだ。文化15年(1818年)8月15日、初めてお国入りする許可を得る。

藩政では文政7年(1824年)11月に藩校教倫館を創設して学問を奨励している。文政13年(1830年)8月20日に死去、享年32。跡を末期養子広周が継いだ。

系譜
父母
久世綏之(実父)
久世広誉(養父)
正室
・八智 ー 伊達村芳の娘
養子
久世広周 ー 大草高好の次男
(wikiより)

29a

29b

29c




山号正寿山
宗派日蓮宗
本尊一塔両尊四士日蓮聖人
創建年安土桃山時代 - 江戸時代初期
開山了現院日盛

慈眼寺(じげんじ)は、東京都豊島区にある日蓮宗寺院

歴史
安土桃山時代から江戸時代初期、了現院日盛によって開山された。元々は深川六間掘猿子橋(現・江東区新大橋)にあり、1615年元和元年)に日盛の弟子の慈眼院日遼によって寺院化した。その後、1693年元禄6年)に本所猿江(現・江東区猿江)に移転した[1]

1907年明治40年)と1910年(明治43年)の水害により壊滅的打撃を受けた。1912年明治45年)、谷中にあった妙伝寺と合併し、現在地に移転した[1]

墓地墓地には、下記の人物が葬られている[1]
・浦里・時次郎比翼塚(『明烏夢泡雪』の登場人物)
小林平八郎吉良家家老赤穂浪士と戦い、斃れる)
・斎藤鶴磯(儒学者
司馬江漢絵師蘭学者
芥川龍之介小説家
谷崎潤一郎(小説家)
菊島隆三(脚本家)

交通アクセス
新庚申塚停留場より徒歩7分。

脚注
1. a b c 豊島区立郷土資料館 編『豊島の寺院(豊島区立郷土資料館調査報告第二集)』豊島区教育委員会、1986年、41-42p

参考文献
・豊島区立郷土資料館 編『豊島の寺院(豊島区立郷土資料館調査報告第二集)』豊島区教育委員会、1986年
(wikiより)

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追慕の碑

會計は

 かね ( 金銭 ) やたから ( 財産 ) の

   はたらき ( 活動 ) を

はかり ( 計算 ) ととのえ ( 記帳整理 )

  しらべ ( 監査 )
 
      きわむる ( 分析吟味 )

 著書會計学入門より抜粋

   岩垂 至

明治二十三年 福岡県に生まれる

明治大学教授として会計の本質を平易に

説き実務に明るい人材の育成に努めた

なお公認会計士制度の発足に当たり第一回

特別公認会計士試験委員に選ばれる

  昭和四十六年三月二日没

平成二十年八月 岩垂邦典建之
(石碑文より)

26a

26b

26c




時代江戸時代後期
生誕不明
死没文久元年9月17日1861年10月20日
改名熊五郎(幼名)、意留、楽山(号)
墓所東京都豊島区駒込勝林寺
官位従五位下備前守
幕府江戸幕府
主君徳川家斉家慶
遠江相良藩
氏族田沼氏
父母田沼意正水野忠友
兄弟意留柳生俊能柳生俊章正室ら
正室:堀直教
継室:分部光実
意尊久留島通容正室

田沼 意留(たぬま おきとめ)は、江戸時代後期の大名遠江国相良藩主。官位従五位下備前守。相良藩田沼家7代。田沼意次の孫。

生涯
先代藩主・田沼意正の長男。文化2年(1805年)閏2月15日、11代将軍・徳川家斉御目見する。文政2年(1819年)8月9日、意正の若年寄就任に伴って菊之間詰となる。12月16日、従五位下・備前守に叙任される。天保7年(1836年)4月21日、家督を相続し、雁之間詰となる。同年8月、天保の大飢饉による凶作で領内に多数の餓死者を出すなど、前途多難であった。

天保11年(1840年)7月20日、家督を嫡男の意尊に譲って隠居する。天保14年(1843年)11月25日、楽山と号す。文久元年(1861年)9月17日死去。

系譜
父母
田沼意正(父)
水野忠友の娘(母)
正室、継室
堀直教の娘(正室)
分部光実の娘(継室)
子女
田沼意尊
久留島通容正室
(wikiより)

25a

25b

25c




時代江戸時代中期
生誕安永2年(1773年
死没寛政8年9月22日1796年10月22日
官位従五位下下野守
幕府江戸幕府
主君徳川家斉
遠江相良藩主→陸奥下村藩
氏族田沼氏
父母田沼意知
兄弟意明意壱意信
織田信浮長女・喜姫
意壱

田沼 意明(たぬま おきあき)は、江戸時代中期の大名遠江国相良藩2代藩主、のち陸奥国下村藩初代藩主。官位従五位下下野守。相良藩田沼家2代。初代相良藩主・田沼意次の孫。

略歴
田沼意次の世子で若年寄を務めた田沼意知の長男。正室は織田信浮長女の喜姫。

意知が天明4年(1784年)に暗殺されたため、祖父である意次の世継となり、天明7年(1787年)に家督を継いだ。ただし、祖父が松平定信の粛清を受けて失脚したため、相良領は意次最盛期の5万7000石から意明継承時には2万7000石まで減封され、さらにそののち下村1万石に減移封となった。寛政5年(1793年)の定信失脚までは、領地へ下向することも許されず、江戸定府とされ、将軍への御目見や従五位下の官位任官も受けられなかった。

寛政8年(1796年)に大坂定番もしくは大坂加番に任命されたが、領地を一度も見ることなく[1]同年24歳で死去し、跡を弟で養嗣子の意壱が継いだ。

系譜
父母
田沼意知(父)

正室
織田信浮の娘

養子
田沼意壱 - 意知の次男

脚注
1. 深谷克己『田沼意次―「商業革命」と江戸城政治家』2010年、山川出版社
(wikiより)

24a

24b

24c




時代江戸時代後期
生誕天明4年(1784年
死没文化元年7月26日1804年8月31日
改名幾之助(幼名)、意定
墓所静岡県牧之原市の西大寺
官位従五位下主計頭
幕府江戸幕府
主君徳川家斉
陸奥下村藩
氏族田沼氏
父母田沼意致
養父:田沼意信
兄弟意英意定
稲生正方
意正

田沼 意定(たぬま おきさだ)は、江戸時代後期の大名陸奥国下村藩4代藩主。官位従五位下主計頭相良藩田沼家5代。

略歴
天明4年(1784年)、田沼家初代・田沼意次の甥(意次の弟・田沼意誠の子)田沼意致の四男として誕生した。正室は稲生正方娘。

享和3年(1803年)、先代藩主・田沼意信が早世したため、その養嗣子となって跡を継いだが、翌文化元年(1804年7月26日に後を追うように死去した。嗣子がなかったため、従父である意正(意次の四男)が養嗣子となってその跡を継いだ。

系譜
父母
田沼意致(実父)
田沼意信(養父)
正室
稲生正方の娘

養子
田沼意正 - 田沼意次の四男
(wikiより)

23a

23b

23c




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