蒲生忠知 ( 一六〇五 ~ 一六三四 ) は会津若松城主・蒲生秀行の二男で蒲生氏郷の孫。

また徳川家康の外孫に当る。


寛永四 ( 一六二七 ) 年 加藤嘉明の会津移封に伴い出羽上城主から松山城主となったが、わずか七年にして寛永十一 ( 一六三四 ) 年に病没した。


世継ぎがなく平安時代の武将・藤原秀郷 ( 俵藤太 ) 以来の名門が断絶した。


忠知ははじめ味酒二丁目の大林寺に葬られたとも伝えられているが、忠知のあと松山城主となった松平定行が興聖寺を創建して蒲生家の零位等を同寺に移した。


碑は、高さ二.五四メートル、幅〇.五三メートル、厚さ〇.二 ~ 〇.二五メートルで、表面の刻字は「興聖院殿前拾遺華岳宗栄大居士」とある。


安永七 ( 一七七八 ) 年蒲生家遺臣の子孫九名が往時を追懐して供養碑を建立したが、その経過は興聖寺所蔵の「建碑略記」のなかにきされている。
(案内板より)

0137b

0137c