人物
伊予国(現・愛媛県松山市)に伊予松山藩の儒者大原観山の三男として生まれる。父の死後、上京し、1876年(明治9年)給費の官吏養成所である司法省法学校(現在の東京大学法学部)に入学、フランス語とフランス法を学んだ。1879年1月廃絶していた縁戚の加藤家を興し加藤家戸主になった[1]。同年2月校長の方針に反対し退学、中江兆民の塾に入る。
1883年11月、フランス留学のため出国し、翌1884年1月、パリに到着。1886年、外務省に入りフランス在勤となる。1890年12月、パリを発ち、1891年2月に帰国する。外務省政務局を経て、1892年-1897年にフランス公使館書記、その後、大臣秘書官、人事課長、ベルギー公使などを務める。
1906年(明治39年)にジュネーヴで万国赤十字改正会議の全権代表になるが、伊藤博文と対立し、翌年に退職した。大阪新報社長兼主筆、大阪北浜銀行(現UFJ銀行)取締役となる。
1908年5月、第10回衆議院議員総選挙に愛媛県松山市区より出馬して当選。衆議院議員を一期務める。1912年5月27日、貴族院勅選議員となり[2]、交友倶楽部に属し死去するまで在任。1917年12月15日、錦鶏間祗候を仰せ付けられた[3]。1919年、第一次世界大戦後のパリ講和会議に参加。シベリア出兵後、1919年8月12日、特命全権大使となりシベリア派遣大使に就任し、錦鶏間祗候は消滅した[4]。1922年(大正11年)に第5代松山市長に就任したが、翌1923年、任期途中に食道がんで死去した。勲一等旭日大綬章が追贈された。墓所は松山市の相向寺(現松山市拓川町)にある。
栄典
位階
・1891年(明治24年)12月5日 - 正七位[5]
・1923年(大正12年)3月27日 - 従三位[12]
勲章等
・1898年(明治31年)4月6日 - 勲五等双光旭日章[13]
・1901年(明治34年)6月27日 - 勲四等瑞宝章[14]
・1902年(明治35年)12月28日 - 旭日小綬章[15]
・1905年(明治38年)6月24日 - 勲三等瑞宝章[16]
・1906年(明治39年)4月1日 - 勲二等瑞宝章[17]
・1919年(大正8年)12月25日 - 勲一等瑞宝章[19]
・1923年(大正12年)3月27日 - 旭日大綬章[12]
外国勲章佩用允許
・1888年(明治21年)7月7日 - ベルギー王国:レオポール勲章シュワリエー[20]
・1892年(明治25年)11月8日 - フランス共和国:レジオンドヌール勲章シュヴァリエ[21]
・1893年(明治26年)2月13日 - スペイン王国:イザベルラカトリク勲章シュワリエー[22]
・1901年(明治34年)
・10月4日 - フランス共和国:レジオンドヌール勲章コマンドール[23]
・10月4日 - スペイン王国:イザベルラカトリック勲章グランクロワ[23]
・1907年(明治40年)2月1日 - スペイン王国:シャールトロワー第一等勲章[24]
・1906年(明治39年)11月2日 - ベルギー王国:レオボール勲章グランクロアー[25]
詳しいことは「加藤恒忠ウィキペディア」をご覧ください。 ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8A%A0%E8%97%A4%E6%81%92%E5%BF%A0
(wikiより)
加藤恒忠



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