来歴
生い立ち
長門国厚狭郡生田村[注釈 1](のち山口県山陽小野田市)出身。幼名は三浦團七。長州藩の村医・三浦玄仲の長男として生まれ、22歳の時毛利敬親の侍医で日本で初めて種痘を行った蘭学者・青木周弼(1803年 - 1864年)の弟で後の宮廷大典医となる青木研藏(1815年 - 1870年)の養子となって士族となり、この際に2人の名を取り周藏と改名し、研藏の娘・テルと結婚する。
留学
明倫館で学んだ後、長崎での医学修行を経て1868年(明治元年)、藩留学生としてドイツ留学。渡独後、医学から政治、経済学に無断転科し問題となったが、来独中の山縣有朋に談判して解決させた。1872年(明治5年)、北ドイツ留学生総代となり在独留学生の専攻科目決定に介入し、物議をかもす。当時の留学生の専攻は軍事、医学に集中しており、青木の真意は日本近代化には専攻を分散することの必要を説くことだった。青木の推奨もあって、林業、製紙、ビール、製絨(羅紗絨毯)などの分野へ特化して成功した人物も出た。
外務省勤務
1873年(明治6年)に外務省へ入省する。外務省一等書記官を経て本省に勤務したが、翌1874年(明治7年)には駐独代理公使、さらに駐独公使となってドイツに赴任、プロイセン貴族の令嬢エリザベートと知り合う。1875年にはオーストリア=ハンガリー帝国公使を兼任した。1876年にはエリザベートと結婚を決意し、1877年(明治10年)に外務省の許可を得るものの、テルとの離婚が青木家から承諾を得られず、難航する。そのため、周蔵がテルに新しい夫を見つけ、その結納金を支払うことを条件とし、計3回テルに夫を紹介して3回結納金を払った[1]。
この結婚をめぐって困難があったものの、品川弥二郎らに助けられて難事を乗りこえた[2]。1878年には、オランダ公使も兼任している。
1879年(明治12年)、妊娠中のエリザベートを連れて帰国して、条約改正取調御用係となったが、1880年、井上馨外務公卿の下で再度駐独公使としてベルリンに赴任、1882年(明治15年)には伊藤博文のヨーロッパでの憲法調査を助け、ベルリン大学のルドルフ・フォン・グナイスト、ウィーン大学のロレンツ・フォン・シュタインの両法学教授の斡旋をおこなっている[3]。1885年(明治18年)にオランダ、ノルウェー公使をも兼務したが、翌年に外務大輔として帰国、条約改正議会副委員長となった[4]。1886年(明治19年)、第1次伊藤内閣の外務大臣井上馨のもとで外務次官となり、全権委任状を下付されて条約改正会議に出席するなど、1887年まで井上外交を支えた[4]。
1888年(明治21年)の黒田内閣の大隈重信外相のもとでも引き続き外務次官を務めた。1889年には外務次官・条約改正全権委員として条約改正交渉の中心人物として活躍した[4]。
外務大臣就任、条約改正交渉
「外国人司法官任用問題」も参照
来島恒喜のテロによって大隈が遭難したあと、1889年(明治22年)12月24日に第1次山縣内閣の外務大臣に就任、外相として「青木覚書」を閣議に提出して承認を受けた[4]。こののち対英条約改正交渉をみずから指揮して駐日イギリス公使フレーザーとの交渉を進め、1891年(明治24年)、第1次松方内閣でも外務大臣を留任、領事裁判権撤廃の条約改正に奮闘した。青木の条約改正案は従来のものと異なり治外法権に関して「対等合意」(外国人裁判官の大審院への不採用、外国人不動産は領事裁判権を撤廃しない限り認めないことを明記)を目指した。
帝政ロシアが東アジアに進出することに不安を抱くイギリスが日本に好意を持つなど、時勢にも恵まれ交渉は成功しかけたが、新条約調印寸前の1891年5月大津事件が発生し引責辞任、交渉は中断される。なお、この際ロシア公使に対して犯人津田三蔵の死刑を確約しながら、判決が無期懲役となり公使が抗議に訪れると、これを伊藤博文と井上馨の指示だと述べたことによって両名の恨みを買うことになった(相手国公使に対する通告内容に関する最終決定権は大臣である青木にある)。1892年(明治25年)、駐独公使としてドイツに赴任した。後任の外相には陸奥宗光が抜擢され、陸奥は青木に駐イギリス公使を兼任させた。
1894年(明治27年)駐英公使として外相の陸奥とともに条約改正に尽力、アレクサンダー・フォン・シーボルトを通訳として日英通商航海条約改正に成功した。
1898年(明治31年)、第2次山縣内閣では再び外務大臣に就任、1900年(明治33年)の義和団の乱に対処、列強の動きを敏感に察知し積極的な介入を試みた。こののち枢密顧問官を経て叙勲され子爵となる。
1906年(明治39年)には駐米大使として移民問題の解決につとめた。
1914年(大正3年)2月6日、肺炎のため死去[5]。
政策
外交官としての青木の半生は条約改正交渉に長く深く関わり、外交政略としては早くから強硬な討露主義と朝鮮半島進出を主張し、日露戦争後は大陸への進出を推進した。
ドイツ文化の導入
留学生・外交官(ドイツ公使)として滞独生活は25年に及び、日本におけるドイツ通の第一人者としてドイツの政治体制、文化の導入をはかった。獨逸学協会にも会員として在籍し、獨逸学協会学校の評議委員も務めた[6]。
「青木覚書」
大隈重信遭難後、第1次山縣内閣と第1次松方内閣の外務大臣として条約改正交渉を主導した。条約改正方針として「青木覚書」を山縣内閣の閣議に提出している。その骨子は、
1. 外国出身の法律家を大審院の法官に任用せざること。
2. 法典を早きに及びて編成発布することを約束せざること。
3. 不動産の所有権は、領事裁判を撤去せざる間は、其抵償物として之を外国人に許与せざること。
4. 外国人取扱上に付、経済上又は法律上、或る場合に於ては、特権の制限を設くること。
であり、「其範囲内に於て全権を実際に便宜運用するは改正事務を委任されたる人の裁酌する所に任すべし」というものであった[4]。
家族
・最初の妻にテル(養父青木研藏の娘)
・2番目の妻としてプロイセン貴族令嬢エリザベート(エリーザベト)・フォン・ラーデ(Elisabeth von Rhade)。
・エリザベートとの子・ハナ(1879年 - 1953年)[7]は、プロイセン・シュレージェン州(現・シレジア)の領主の次男で駐日ドイツ公使館主任外交官補のアレキサンドル・フォン・ハッツフェルト・ツー・トラッヘンベルク伯爵[8]と1904年に東京で結婚し、夫婦の間に一人娘ヒサ[9]が生まれ、ドイツとオーストリアにその子孫が健在する[1]。ヒサの外孫の一人、ニクラス・ザルム・ライファーシャイト[10]が2004年に那須別邸を訪れ、ハナの写真などを寄贈した。
・養子の青木梅三郎は杉孫七郎(皇太后宮大夫などを歴任)の三男[11](テルと周蔵の離婚にともない、青木家の家督継承者として梅三郎が養子に入った)
・義孫青木重夫は梅三郎の長男。貴族院子爵議員を務めた[11]。梅三郎の長女田鶴子の長男
・ペルー日本大使公邸占拠事件時の在ペルー特命全権大使青木盛久は義理の曾孫(梅三郎の孫のため血縁関係はない)。
・日本ホテル協会会長などを務めた原範行も義理の曾孫(梅三郎の孫のため血縁関係はない)[12][13]。
栄典
位階
・1886年(明治19年)10月20日 - 従三位[14]
・1914年(大正3年)2月16日 - (没後追叙)正二位[15]
勲章等
・1887年(明治20年)5月9日 - 子爵[16]
・1889年(明治22年)11月25日 - 大日本帝国憲法発布記念章[17]
・1890年(明治23年)6月30日 - 勲一等瑞宝章[18]
・1894年(明治27年)8月29日 - 旭日大綬章[19]
・1914年(大正3年)2月16日 - (没後叙勲)旭日桐花大綬章[15]
外国勲章等佩用允許
・1885年(明治18年)12月25日
・ザクセン=コーブルク=ゴータ公国:エルコスト第一等勲章[20]
・メクレンブルク=シュヴェリーン大公国:グライヘン第一等勲章[20]
・1887年(明治20年)9月27日 - ポルトガル王国:キリスト勲章グランドクロア[21]
・1888年(明治21年)2月21日 - 勲一等タイ王冠勲章[22]
・1891年(明治24年)5月27日 - オスマン帝国:美治慈恵第一等勲章[23]
・1895年(明治28年)8月17日
・1等オスマニエ勲章
・1902年(明治35年)7月22日 - デンマーク王国:ダンネブロ勲章グランクロワー[25]
著作
・坂根義久 校注『青木周蔵自伝』
(平凡社東洋文庫、1970年) ISBN 4-582-80168-4
(平凡社東洋文庫ワイド版、2004年) ISBN 4-256-80168-5
詳しいことは、「青木周蔵ウィキペディア」をご覧ください。 ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9D%92%E6%9C%A8%E5%91%A8%E8%94%B5
(wikiより)
青木周蔵


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