大橋 乙羽(おおはし おとわ、明治2年6月4日(1869年7月12日) - 明治34年(1901年)6月1日)は、日本の小説家、編集者。本名は又太郎、旧姓は渡部。羽前国米沢(現・山形県米沢市)生まれ。
硯友社に入り『こぼれ松葉』『露小袖』などを執筆。のち博文館主人大橋佐平の娘婿[1]・養子となり、博文館に入社。樋口一葉を商業誌デビューさせたほか、尾崎紅葉、巖谷小波らを担当し、日本の近代文学における編集者の先駆けであった[1]。著書に小説などをまとめた『花鳥集』『若菜籠』、紀行文集『千山万水』など。
経歴
明治2年(1869年)6月4日、羽前国米沢の立町二ツ橋畔に生れた。父は渡部治兵衛、母はかつといい、旅館「音羽屋」を営んでいた。乙羽は6男で、後に実家の屋号をもじったペンネームをつけた[1]。北堤小学校に入り、この頃から作文などが得意であった。
卒業後、山形十日町の呉服商「富士屋」で商売の見習いをしていたが、次第に文学を志して実家へ戻った。友人と雑誌を作ったりした後、20歳のときに磐梯山爆発の記事を『出羽新聞』に載せ、これが出版社東陽堂主人の吾妻健三郎の目に留まり、上京して東陽堂に入社した。
『風俗画報』『絵画叢誌』を編集し、政治小説『霹靂一声』などを書いたが、石橋思案と知り合い硯友社に入った。『こぼれ松葉』『露小袖』『霜夜の虫』などを書き、『上杉鷹山』の挿絵を描いた寺崎広業の紹介で博文館主人の大橋佐平を知った。
尾崎紅葉の仲立ちでこの大橋家の養子となり、佐平の長女とき(時子)と結婚する。博文館に入り、支配人となって文筆活動を離れていった。硯友社以外にも根岸派や樋口一葉らの文人、画家、政財界人への幅広い人脈を活かし、博文館では『文芸倶楽部』のほか総合雑誌『太陽』の編集も手掛けた。写真を多用した雑誌『太平洋』を立ち上げて自らカメラマンもする[1]など、多くの雑誌を成功させた。坪内祐三は、滝田樗陰に先立って、近代日本で編集者という職能を最初に確立した人物と評している。
樋口一葉とは1895年(明治28年)に半井桃水から紹介されて知り合った。翌1896年には一葉の『たけくらべ』を『文芸倶楽部』に一括掲載して世に名を成さしめ[1]、さらに乙羽の依頼で一葉は『ゆく雲』『にごりえ』など代表作を発表している。また乙羽の妻・ときも一葉から和歌の指導を受けるなど夫婦で親交があった。
乙羽は紀行文にも妙があり、思案と東北を旅した際の『奥州日記』、1900年に外遊した際の『欧山米水』、特に紀行文集『千山万水』は有名である。この外遊時にはパリ万国博覧会_(1900年)に合わせて開かれた著作権に関する国際会議に出席した[1]。
帰国後の1901年、腸チフスと筋膜炎を併発し、6月1日午前6時に没した。
著書
・『霹靂一声』二橋散士(大橋又太郎) 松成伊三郎 1889年
・『こぼれ梅 金玉均遺案』蚯蚓庵主人 鳳林館 1893年(未確認)
・『二人若衆』駸々堂 1896年
・『累卵の東洋 政治小説』東京堂 1898年
・『若菜籠』博文館 1898年
・『花鳥集』博文館 1899年
・『千山万水』博文館 1899年
・『藤侯実歴』(伊藤博文)博文館 1899年
・『初子集』博文館 1899年
・『風月集』博文館 1899年
・『欧山米水』博文館 1900年
・『耶馬渓』博文館 1900年
・『欧米小観』博文館 1901年
・『大正俳家伝』国華社出版部 1924年(未確認)
編著
・『名流談海』編 博文館 1899年
・『教育戊申勅語画談 教育勅語の部』編 富田文陽堂 1910年(未確認)
翻訳
・『探偵小説 銀行の秘密』二橋生、刀川子訳 春陽堂 1893年
脚注
1. a b c d e f 安藤貞之:文豪鍛えたマルチ編集者◇樋口一葉ら支えた「大橋乙羽」自ら執筆や写真発表◇『日本経済新聞』朝刊2020年2月6日(文化面)2020年2月8日閲覧
外部リンク
・国際日本文化研究センター共同研究報告『編集者大橋乙羽』坪内祐三
(wikiより)
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