佐倉藩士の家に生まれた學海は、藩校・成徳書院で漢学を学び、教授となった。
後に江戸藩邸留守居役などの重職を勤め、維新後は東京会議所の書記官、文部省勤務に出仕し、漢文教科書の編集に携わっている。
53歳で退官し、創作や文芸評論に力を注いだ。
森鴎外の師としても知られ『ヰタ・セクスアリス』の中では文淵先生として登場。
向島の隅田川の土手を臨む須崎村 142 ( 向島 5丁目、言問小学校あたり ) に居を構え、若い妻と幸せな日々を送っていたことを書いている ( 実際は妾宅で、漢文の直しを乞いに訪ねた若い鴎外は気づかなかった )。
鴎外が 15歳の頃の出会いだが、その後も 2人の興隆は続き、鴎外のドイツ留学に際しては、『送森軍医遊伯林序』という僧別の漢詩を贈っている。
向島百花園にもよく足を運び、明治 15年に発行された『墨水二十四景記』には、百花園について記載している。
同書は永井荷風著「墨東綺譚」の主人公が持って歩いていたことでも知られている。
また、50年以上に亘って書き続けた日記『學海目録』には多くの文化人との交流が記され、明治文化史の貴重な資料にもなっている。
(案内板より)
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