父の淡島椿岳は、江戸時代に大流行した軽焼きせんべいの名店「淡島店」を経営する実業家で大地主であった。
また、知識欲が旺盛で、画を学び、ピアノを買って演奏会を開く趣味人でもあった。
明治 17( 1884 ) 年、向島の弘福寺地内に隠居所を建てて住んだ。
息子の寒月は西鶴再評価のきっかけをつくり、趣味人として、新聞や雑誌に寄稿。
実体験をベースにした小説や江戸にまつわる話などを洒脱なタッチで著わし好評を博した。
明治 26( 1893 ) 年頃、父の使っていた隠居所を梵雲庵と名づけ隠居。
「梵雲庵寒月」と号し、悠々自適な生活に入る。
夏目漱石の「吾輩は猫である」に水島寒月という学者が登場するが、モデルは寺田寅彦で、名前は寒月から採ったといわれている。
収集家としても有名で、梵雲庵には三千余の玩具と江戸関連の貴重な資料があったが、関東大震災ですべて焼失されてしまった。
(案内板より)
〇 淡島椿岳
淡島 寒月(あわしま かんげつ、本名: 淡島
広範な知識を持った趣味人であり、元禄の作家井原西鶴を再評価し、幸田露伴や尾崎紅葉など文壇に紹介したエピソードで有名である。
収集家としても有名であり、住居の梵雲庵には3000あまりの玩具と江戸文化の貴重な資料があったが、関東大震災の際に全て焼失した。
略歴
日本橋馬喰町4丁目に生まれる。淡島家の家業は軽焼きの名店淡島屋であり、非常に裕福であった。父親の椿岳には160人の愛妾がいたという。
1870年、福澤諭吉を読んで西洋文化に興味を持つようになり、英語を勉強し洋間に住んだ。頭髪に灰汁をかけて染髪までしていた。寒月は西洋文明への憧れのあまり、アメリカに帰化しようと願う。向こうで日本のことを聞かれると思い、日本文化を研究し始めた。
1880年、湯島聖堂の図書館に通い、草双紙を毎日写本する。このとき山東京伝を読んで西鶴のことを知る。
1887年頃、文学者の露伴や紅葉らと知り合い、西鶴を紹介する。このことが明治における西鶴再評価に繋がった。
1893年、前々年から雑誌や新聞への寄稿を止め、向島の梵雲庵で隠居生活に入る。このころキリスト教の洗礼を受ける。しかし、これは宗教観からというよりは、外国の文化に接するためであったと、後に述懐している。
1923年9月1日、関東大震災により、梵雲庵全焼。収集物を全て失う。12月、梵雲庵再建。
1926年2月23日、66歳で死去。遺体は駒込の染井霊園に葬られた。
主な作品
・『江戸か東京か』
・『亡び行く江戸趣味』
・『西鶴雑話』
参考資料
・『梵雲庵雑話』 延広真治解説、岩波書店〈岩波文庫〉、1999年、ISBN 4003115910
・『「敗者」の精神史』 山口昌男、岩波書店、1995年、ISBN 4000029665
外部リンク
・淡島寒月:作家別作品リスト - 青空文庫
・淡島寒月のこと幸田露伴、「東京日日新聞」1938(昭和13)年6月4日号、5日号
(wikiより)
淡島寒月
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