安政 2年 ( 1855 )、下谷龍泉寺町に生まれた篁村は、「安政の大地震」で母を失う。
父は無事だったが、乳飲み子だった篁村を育てるのは難しい、それを助けたのが、近くに住む「武村氏」で、その恩を忘れないため、後に、「篁村」「竹の屋」の号を用いることにしたという。
11歳で日本橋の質屋に奉公に出たが、主人に可愛がられ、観劇のお供や貸本読み放題などの高待遇を受けたため、劇、俳諧、花柳界などに関する知識を身につけた。
19歳になった篁村は、読売新聞を発行していた日就社に校正担当として入社。
2年後に読売新聞の編集記者となって活躍する。
31歳の時、読売新聞に『当世商人気質』を連載して大好評を博し、篁村の名を不動のものにした。
その後、東京朝日新聞社に移ってからも、劇評や小説を執筆。
特に演劇批評は、「竹の屋劇評」として評判が高かった。
向島小梅町や寺町の地に居住し、依田學海といっしょに酒を飲み明かしたエピソードなどを東京朝日新聞に連載した『隅田の春』に書いている。
(案内板より)
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