1823年 ( 文政 6 ) 10. 5 ~ 1898年 ( 明治 31 ) 1. 27

韮塚直次郎は、1832 ( 文政 6 ) 年に尾高家の使用人として働いていた父・久保田熊次郎と、同じく使用人であった母・銀の長男として尾高家 ( 惇忠の祖父・磯五郎の時代) ) の離れで 生まれました。

当時、尾高家は 油屋と呼ぱれ、農業のほかに菜種油、藍玉製造 、販売、 塩、 雑貨等を販売しており、使用人も雇っていました。

直次郎が 7歳の頃、同じく搾油業 を営んでぃた韮塚仙之助 ( 明戸村 : 現深谷市 ) に跡継がいないことを知った磯五郎は、まじめに働く熊次郎親子を韮塚家に養子縁組する事を薦めました。

そうして熊次郎親子は韮塚家に入り、韮塚姓を名乗るようになりました。

しかし、2年後には仙之助が亡くなり、翌年には熊次郎も亡くなったため、生活の糧を得るために銀は直次郎と共に再び尾高家の使用人として住み込みで働くようになりました。

7年問働いた後に独立して韮塚家に戻った母子は 、農業のほかに養蚕、藍玉作り、菜種油の製造・販売に力を注いだため幕末には豪農としての地位を築いたのでした。

このようにたゆまぬ努力でができた背景には、尾高家の物心両面の力添があったと思われますが、この直次郎のひたむきに努力する姿を尾高惇忠が目の前で見ていたため直次郎に対して深い信頼を寄せたと見る事が出す。

尾高惇忠が韮塚直次郎に富岡製糸場の礎石の運搬や煉瓦製造を任せたのはこのような背景がありました。

富岡製糸場の建設において資材調達のまとめ役をつとめた人物として知られていますが、製糸場は洋式の建物となることが決まっていて、明治時代となって 4年あまりの当時ですから、それがどんな建物なのか、想像することも非常に困難なものだったことでしょう。

主要な建築材料となる煉瓦も、まだその製造方法すら分かっていない中、直次郎は地元明戸の瓦職人たちを束ね、外国人技師バステアンから煉瓦の素材や性質を聞き、材料である粘土探しからはじめました。

そして、富岡に近い笹森稲荷神社 ( 現甘楽町福島 ) 付近の畑から煉瓦に適した粘土を発見し、その周辺に焼成窯を設け、試行錯誤の末に、煉瓦を焼き上げることに成功したのです。

その他にも、 当時はセメントがなく、煉瓦をつなぎ合わせる漆喰にも強度を増すために膠等混ぜての技術や、妙義山から御神木とされていた杉の木の切り出し、連石山から石材の切り出し、輸送や瓦など、多くの資材調達を請け負った 韮塚直次郎は、製糸場完成後は富岡製糸場の工女 400人分、1日 3食の賄い ( 今で言う社員食堂 ) を任せれます。



富岡製糸場 工女募集に奔走
富岡製糸場は伝習の場であるため、3年程で技術を取得し、工女たちは国元に帰っていき、明治 8年頃には当初入場した工女たちは殆んどいなくなりました。

工女の補充が必要となり、韮塚直次郎は妻の美寧 ( ミネ ) の出身地 ( 旧彦根藩 ) に工女を求めました。

当時彦根藩の旧藩士たちは、生活が困窮している人が多く、工女を募集したところ思った以上に希望者が有り、製糸場で受け入れられない程だったので、韮塚製糸場を建設したのか、韮塚製糸場を建設したので工女を求めたのか詳細は 、はっきりしていないようです。

韮塚製糸場の建設が明治 9年であること、植松サト ( 死亡時、明治 13年 22歳 ) 植松コト ( 死亡時、明治 12年 16歳 ) の姉妹の姉は、富岡製糸場へ入場させていること、清水ゲン ( 死亡時、明治 10年 9歳 10ヶ月 ) は、富岡製糸場ではなく、韮塚製糸場に入場させています。

当初、富岡製糸場の工女の雇用年齢は 12歳以上と決められていたため、清水ゲンの様に年齢が 12歳に満たないものは、韮塚製糸場に一時預かり、12歳になるのを待ったと考えても良いのではないでしょうか?

又、予定以上に工女希望があったため、韮塚製糸場で預かるための製糸場とも考えられます。

韮塚製糸場に付いたは、詳細な資料がないためはっきりしない部分が多々あるようです。

数年で閉場した韮塚製糸場の工女たちは、富岡製糸場に移り、直次郎は、富岡製糸場の賄い方の御用商人として独立し、多角経営に乗り出します。
(富岡製糸場ホームページより)

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