永禄 4年 ( 1561 ) 9月 10日、ここ八幡原 ( はちまんばら ) を中心に上杉、武田両軍 3万余の壮絶な死闘が展開された。

上杉謙信は紺糸威 ( こんいろおどし ) の鎧 ( よろい ) に萌黄緞子 ( もえぎどんす ) の胴肩衣 ( どうかたきぬ )、金の兜に立烏帽子白妙 ( たてえぼししろたえ ) の練絹 ( ねりぎぬ ) で行人包 ( ぎょうにんつつみ )、長光 ( ながみつ ) の太刀を抜き放ち、名馬放生 ( ほうしょう ) に跨り戦況の進展に注目、乱戦で武田本陣が手薄になったのをみ、旗本数騎をつれ信玄の本営を強襲した。

この時の武田信玄は諏訪法性 ( すわほっしょう ) の兜、黒糸縅の鎧の上に緋 ( ひ ) の法衣、軍配を右手にもち、この地で崩れかかる諸隊を激励指揮していた。

この信玄めがけて謙信は只一騎、隼の如く駆け寄りざま、馬上より流星一閃、信玄は軍配で受けたが、続く二の太刀で腕を、三の太刀で肩に傷を負った。

後にこの軍配を調べたところ刀の跡が七ヶ所もあったといわれ、この一騎討ちの跡を世に三太刀七太刀之跡という。
(案内板より)

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