種類日本銀行法に基づく認可法人
市場情報東証 8301
1983年11月1日上場
略称日銀
本店所在地日本の旗 日本
103-8660[1]
東京都中央区日本橋本石町二丁目1番1号[1]
北緯35度41分11.5秒 東経139度46分17秒
設立1882年10月10日
業種銀行業
法人番号3010005002599 ウィキデータを編集
金融機関コード0000
SWIFTコードBOJPJPJT
代表者植田和男(総裁)
資本金1億円(日本銀行法第8条第1項)
発行済株式総数出資証券として100万口(日本銀行法第9条第1項)
経常利益1兆6375億8745万3153円
(2020年3月期)[2]
純資産4兆5473億9689万1115円
(2020年3月31日現在)[2]
決算期3月31日
外部リンク日本銀行

q1

日本銀行本店

日本銀行(にっぽんぎんこう、Bank of Japan、英語略称: BOJ)は、日本銀行法に基づき日本の中央銀行として設立された認可法人。略称は日銀(にちぎん)。財務省が所管する。

概要
日本銀行は、日本国政府から独立した法人とされ、国の行政機関ではないものの、その金融政策は行政の範疇に属すると考えられている。物価の長期的な安定はマクロ経済学の観点から重要であるが、政治部門は短期的な手法をとることを選好しがちであるため、長期的な公益確保・政治的中立性の観点から自主性・独立性が認められている[4]。 第二次世界大戦下の1942年に制定された旧日本銀行法では、「国家経済総力ノ適切ナル発揮ヲ図ルタメ国家ノ政策ニ即シ通貨ノ調節、金融ノ調節及ビ信用制度ノ保持育成ニ任ズル」、「専ラ国家目的ノ達成ヲ使命トシテ運営セラシムル」機関とされていた[5]

読み方
日本銀行の慣習では「にっぽんぎんこう」と呼ばれているが[6]、法的に定められているわけではなく、「にほんぎんこう」と読まれる場合もある。
国税庁が管理する法人番号に届け出られている商号又は名称のフリガナ欄には「ニッポンギンコウ」とあり[7]日本銀行券でのローマ字表記もNIPPON GINKOとなっている。
日本銀行法旧日本銀行岡山支店本館[8]では「にほんぎんこう」と読むほか、日本銀行の読みを「にほんぎんこう」とする民間企業や辞書もある[9][10]

出資証券
日本銀行は、公的資本と民間資本により存立する。資本金は1億円(100万口)で、そのうち日本政府が55%の約5500万円を出資し、残り45%にあたる約4500万円を日本政府以外の者が出資する。日本銀行法により日本政府の保有割合が55%を下回ってはならないこととなっている[11][注釈 1]。2022年3月末日時点における日本政府以外の出資者の内訳は、個人40.6%、金融機関1.9%、公共団体等0.2%、証券会社0.0%、その他法人2.3%となっている[13]

株式会社における株主総会にあたる、出資者で構成される機関は存在しない[14]ことから、出資者は経営に関与することはできず、役員選任権等の共益権は存在しない。一方で自益権に相当する剰余金配当は、払込出資金額(1株の額面金額に相当、1口あたり100円)に対して年5%(つまり1口あたり5円)以内に制限されている。もしも日本銀行が解散決議した場合でも、残余財産のうち払込出資金額を超える分の財産は出資者ではなく国に帰属することになっている(日本銀行法第60条2項)。出資者となる経済的メリットは1口あたり5円以下の配当金が貰えることだけであり、40%ほどを占める個人出資者は短期的な値幅取りを目当てとした投資家と推測されている[15]。日本銀行の財務諸表に剰余金をどのように処分したか記載されているが、1兆円程度の剰余金(純利益)が発生し、500万円を配当し、5%を法定準備金として積み立て、95%が国庫納付金となっている[16]。これらとは別に法人税なども支払っている[17]

日本銀行の発行する出資証券[18]株式会社における株式に近い)は、東京証券取引所JASDAQスタンダード市場に上場していたが[19]、市場再編に伴い、2022年4月4日から市場区分なしとなった[20]

資本金の出資者には一般の株式会社の株式に相当する出資口数を証した出資証券が発行される。出資証券は東京証券取引所に上場され、株式に準じて取引されているが、証券保管振替制度の取扱銘柄ではなく、そのため日本銀行の出資証券を取り扱っていない証券会社もある[21]証券コードは8301[22]。売買価格は株式市場における実勢価格であり、額面の払込出資金額(1口あたり100円)とは異なる。

日本銀行の出資証券の東京証券取引所での2018年における年間の売買高は、462,000口[23](4,620単位)。売買単位は100口。100口券を1口券100枚に分割可能ではある。100口未満(1 - 99口)の買取請求はできない。

日本銀行の出資証券はいわゆる有価証券のペーパーレス化(株券の領域では「株券の電子化」と呼ばれた)がなされておらず[14]、東京証券取引所でなされた売買の決済は(日本証券クリアリング機構での)現物証券の受け渡しによってなされる[24]。日本国内の証券取引所でなされる売買の決済では唯一の現物受け渡しの例である[24]。証券会社では客からの注文が成立した場合、3日以内に日本証券クリアリング機構に現金と必要書類を持ち込んで窓口で現物証券を受け取り、会社に持ち帰るという手間がかかることから、取り扱いを嫌っているという[15]

日本国債の証券集中保管機関
日本銀行は(2021年現在で唯一の)日本国債に関する証券集中保管機関(CSD)であるという性格も持つ[25]社債、株式等の振替に関する法律第四十七条による主務大臣の指定により同法上の「振替業(※国債に係るものに限る)を営む者」となっている[26]

沿革
明治
1871年明治4年) - 新貨条例(明治4年太政官布告第267号)が制定され、日本円の取り扱いが始まる。
1872年(明治5年) - 国立銀行条例(明治5年太政官布告第349号)制定。紙幣の発行を担う。
1876年(明治9年) - 国立銀行条例全面改正。国立銀行条例及国立銀行成規(明治9年太政官布告第106号)[27]公布。不換紙幣の発行を認めたことが一因となって、インフレーションが進行。
1881年(明治14年) - 三井銀行の為替方を廃止し、大蔵卿松方正義により日本銀行創設へ。
1882年(明治15年)
  ・6月27日、日本銀行条例(明治15年太政官布告第32号)[28]公布。10月6日、総裁に吉原重俊、副総裁に富田鐵之助を任命。10月9日、開業免許(資本金1000万円、政府半額出資)。10月10日に営業開始。
  ・10月11日、当所商業手形割引歩合(公定歩合)を28とする。11月22日2厘引き下げ。
  ・12月18日、大阪支店開業。
1883年(明治16年)
  ・3月14日、公定歩合をさらに2厘引き下げて2銭4厘とする。10月2日2厘、11月29日1厘、12月10日1厘引き下げ。
  ・4月27日、大蔵省は国庫金取扱を命じ、5月6日国庫局を設置、7月1日事務開始。
  ・5月30日、大蔵省は各国立銀行紙幣を消却させるため、その手続として銀行紙幣合同銷却方法を下付。
1884年(明治17年)
  ・4月26日、公定歩合をさらに2厘引き下げ、1銭8厘とする。
  ・5月26日、兌換銀行券条例(明治17年太政官布告第18号)[29]制定。7月1日施行。日本銀行を唯一の発券銀行として銀行紙幣を回収。一方、集権的な倉荷証券付手形割引制度を創設。倉庫商品の権利関係に対する同証券の曖昧性を露呈。米穀投機と信用危機を誘発して破綻。
  ・7月3日、公定歩合を2厘引き下げ、2銭とする。7月18日1厘、8月12日1厘、11月19日2厘引き下げ。
1885年(明治18年)- 日本銀行兌換銀券発行、銀本位制を確立する。
1886年(明治19年)- 3月4日、公定歩合をさらに1厘引き下げ1銭8厘とする。4月9日1厘、5月3日1厘、5月28日1厘、6月22日1.5厘引き下げ。10月14日1.5厘引上げ、1銭5厘とする。10月22日1厘引上げ。
1887年(明治20年)- 1月24日、公定歩合を1厘引き下げ、1銭5厘とする。
1888年(明治21年)
  ・1月4日、公定歩合を1厘引上げ、1銭6厘とする。
  ・2月21日、副総裁富田鐵之助は総裁に昇任。
  ・3月10日、公定歩合を1厘引き下げ1銭5厘とする。5月11日1厘引上げ1銭6厘とする。6月2日さらに1厘、8月24日1厘、9月29日1.5厘引上げ。
1889年(明治22年)
  ・公定歩合を0.5厘引き下げ、1銭8厘とする。2月1日さらに0.5厘、2月19日1厘引き下げ。5月8日1厘引上げ1銭7.5厘とする。6月1日さらに0.5厘、8月19日0.5厘、9月3日0.5厘引上げ。
  ・9月3日、富田鐵之助総裁辞任、後任に川田小一郎任命。
1890年(明治23年)
  ・2月26日、日本銀行兌換券制限外500万円発行認可、3月3日発行。米価暴騰による金融梗塞対策で、日本初の制限外発行、発行額に対し5分の税率。
  ・5月17日、日本銀行兌換券の保証準備発行限度を7000万円から8500万円に拡張する旨公布。
  ・5月18日、日本鉄道会社株券など15種の株券を担保とする手形割引の道をひらく(担保付手形割引制度)。
  ・6月14日、公定歩合を2厘引下げ、1銭7厘とする。10月20日公定歩合を1厘引上げ、1銭8厘とする。
1891年(明治24年)- 3月2日、公定歩合をさらに2厘引上げ2銭とする。5月6日2厘引下げ、1銭8厘とする。7月21日さらに1厘引下げ。
1892年(明治25年)- 11月24日、公定歩合をさらに1厘引下げ1銭6厘とする。
1893年(明治26年)
  ・全国2番目の支店として、山口県下関市に西部支店(現日本銀行下関支店)を開設。
  ・3月23日公定歩合をさらに2厘引下げ1銭4厘とする。5月31日1厘引下げ。9月2日2厘引上げ、1銭5厘とする。11月21日2厘引上げ。
1894年(明治27年) - 1月22日公定歩合をさらに1厘引上げ1銭8厘とする。2月8日さらに1厘、6月19日1厘、7月26日1厘引上げ、戦争中は据置。
  ・4月1日、京都出張所を開設(1911年6月1日、支店に昇格)。
  ・6月12日、国庫金出納上一時貸借に関する法律公布、政府が国庫余裕金を日銀に預入れ、国庫不足金を日銀から借入れることを認める。
  ・11月14日、政府は日銀に950万円の借上げを令達、以後数度の借上げで戦費を応急調達し、1896年5月返済完了。
  ・12月29日、制限外兌換券を発行、12月末現在419万余円、1895年1月まで発行。
1895年(明治28年)
  ・5月31日、制限外兌換券を発行(1896年5月まで)。月末残高最高は7261万円。
  ・7月12日、公定歩合を2厘引下げ、1銭9厘とする、戦後企業勃興の契機となる。
  ・8月19日、大蔵省は日銀に1000万円の増資を許可(布告)、資本金3000万円となる。
1896年(明治29年)
  ・日本銀行本店に、日本で初めてのエレベーターオーチス製)を取り付ける。
  ・5月16日、いわゆる預合勘定をひらき、在外正貨を正貨準備に繰り入れる。9月7日公定歩合を1厘引上げ、2銭とする。
1897年(明治30年)
  ・3月1日、名古屋支店を開設。
  ・6月14日、個人取引を公開、個人と銀行とで利率に差を設ける(1899年11月27日差別廃止)。
  ・6月14日、当座貸越利子のみ2厘引上げ、8月11日公定歩合1厘引上げ、2銭1厘とする。10月23日1厘引上げ。
  ・6月14日、担保品付手形割引を廃止し、見返品付手形割引を開始、実質的には前者を存続。
  ・7月27日、制限外兌換券を発行(1899年2月まで発行)、月末残高最高は4731万円。
1898年(明治31年)
  ・公定歩合をさらに1厘引上げ、2銭3厘とする。3月14日1厘引上げ。
  ・4月19日、財界の金融逼迫救済のため、政府委託により償金の一部で公債を買入れ、10月10日までに3870万余円、日本銀行による初の市場操作。
  ・10月8日、公定歩合を2厘引下げ、2銭2厘とする。12月7日さらに2厘引下げ。
  ・10月20日、総裁岩崎は公定歩合引下げ時期をめぐり蔵相と対立し辞職。山本、第5代総裁に任命。
1899年(明治32年)
  ・2月10日、公定歩合をさらに1厘引下げ、1銭9厘とする。3月11日、4月12日、7月28日それぞれ1厘引下げ。
  ・3月10日、日銀券発行税に関する法律公布。
  ・4月15日、横浜正金銀行へ対清国事業拡張資金として金貨1000万円を年利2分で預入る旨通告。6月、第一銀行に対し韓国産金購入資金として10万円預入。7月7日、横浜正金銀行へロンドン支店為替資金970万円を年利2分で預入。
  ・11月10日、公定歩合を1厘引上げ、1銭7厘とする。11月27日2厘引上げ。12月19日商業手形割引歩合を除き1厘引上げ。12月26日制限外兌換券を発行、一時的中断をふくみつつ1902年2月まで発行、月末残高最高は4122万余円。
1900年(明治33年)
  ・3月20日、公定歩合をさらに2厘引上げ2銭1厘とする。4月18日2厘、7月18日1厘それぞれ引上げ。
  ・4月24日、公定歩合引上げの影響で東京株式相場暴落。
1901年(明治34年)10月24日、北清事変の軍費支弁のため、政府へ12月までに11回にわたり1500万円を貸上げ、1903年3月までに返済完了。
1902年(明治35年) - 3月19日公定歩合を2厘引下げ、2銭2厘とする。6月27日2厘、10月3日2厘、12月9日1厘それぞれ引下げ。7月卸売物価指数を発表、1900年10月基準
1903年(明治36年) - 3月18日公定歩合をさらに1厘引下げ、1銭6厘とする。12月29日軍備補充費を政府へ貸上、1904年3月29日までに計4100万円、1904年7月26日返済完了。
1904年(明治37年) - 2月11日制限外兌換券発行、一時的な中断をふくみつつ1909年2月まで発行、月末残高の最高は8824万円。4月21日臨時事件費として政府へ1904年3月までに計2億3900万円を貸上、1905年4月25日以降同じく7800万円、1906年2月27日以降同じく5500万円をそれぞれ貸上、1906年10月15日返済完了。7月2日公定歩合を2厘引上げ、1銭8厘とする。12月19日さらに2厘引上げ。
1905年(明治38年) - 日露戦争中であるこの年12月4日から翌年4月2日にかけて、しめて1160万ポンドをイングランド銀行へ貸し付けた[30]。この後も貸付は続き、1907年まで毎回50万ポンド単位で行われていた。巨額の外債を発行する傍らでこのような貸付が行われた事実は、1907年恐慌の兆候がいかに早く、また現金輸送が当時においていかに困難だったかを示唆する。
  ・6月16日、公定歩合をさらに2厘引上げ2銭2厘とする。
1906年(明治39年) - 3月13日公定歩合を2厘引下げ2銭とする。5月1日2厘引下げ。7月1日本支店における貸出利率を一律にし、国債抵当・保証を除く貸付・割引利率につき最高最低利子率を設定する。
1907年(明治40年) - 10月24日、横浜正金銀行に対する低利(年2分)外国為替再割引限度を、1000万円から1500万円に拡張。12月4日公定歩合を2厘引上げ、2銭とする
1909年(明治42年)
  ・3月15日、金沢出張所を開設(1911年6月1日、支店に昇格)。
  ・5月4日、公定歩合を2厘引下げ、1銭8厘とする。8月2厘引下げ。
1910年(明治43年) - 1月11日、公定歩合をさらに2厘引下げ、1銭4厘とする。3月7日1厘引下げ。2月22日大蔵省は日銀の3000万円増資を許可する(告示)、6000万円となる。12月21日制限外兌換券発行、一時的な中断をふくみつつ1915年1月まで発行、月末残高最高8424万余円。
1911年(明治44年) - 7月1日、横浜正金銀行に対する外国為替手形再割引制度を、外国為替手形引当の外国為替貸付金制度に改める。9月27日公定歩合を2厘引上げ、1銭5厘とする。
1912年(明治45年) - 公定歩合をさらに1厘引上げ、1銭6厘とする。10月2日1厘、11月14日1厘それぞれ引上げ。

大正
1913年大正2年) - 1月6日、蔵相は日銀兌換券制限外発行税率を1分引上げ、年6分とする。
1914年(大正3年)
  ・7月1日、新潟支店・松本支店を設置。
  ・7月6日、公定歩合をさらに2厘引上げ、2銭とする。7月31日政府との間で、日銀所有正貨および横浜正金銀行などから買入れるべき正貨を政府に売却することを協定。11月1日台湾銀行に対し南方為替資金を預け金として預入れ、1915年11月ロンドン・ニューヨーク向け為替資金をふくめ2000万円までを預入れ。
1915年(大正4年) - 1月18日見返担保品の範囲を拡張し、東京市債・勧銀債券・興銀債券を加える。
1916年(大正5年) - 4月17日公定歩合を2厘引下げ、1銭8厘とする。7月5日さらに2厘引下げ。12月15日金融界の安定をはかるため進んで低率の貸出を行う旨発表。
1917年(大正6年)
  ・3月16日、公定歩合をさらに2厘引下げ、1銭4厘とする。
  ・8月1日、熊本支店・秋田支店を設置。
  ・11月16日、見返品の範囲を拡張し、品目指定をやめ、一定基準に合致する有価証券は見返担保品として認めることとする。
1918年(大正7年)
  ・3月1日、松江支店を設置。
  ・9月16日、公定歩合を2厘引上げ、1銭6厘とする。11月25日2厘引上げ。
1919年(大正8年) - 6月、銀行引受手形の再割引を行うことを決定(貿易金融の改善・割引市場の発達促進・日銀券増発防止のため)。8月1日、スタンプ手形制度実施(輸出金融円滑化のため、横浜正金銀行が売出すスタンプ押捺為替手形の再割引を優遇。のちに台湾銀行住友銀行にも実施)。10月6日公定歩合をさらに2厘引上げ、2銭とする。11月19日さらに2厘引上げ、1905年6月以来の最高となる。11月22日、東西組合銀行と投機抑制について懇談。12月3日、さらに組合銀行以外の銀行とも懇談。
1920年(大正9年) - 4月12日、株式市場救済のため月末受渡資金の融資を表明。4月15日、銀行シンジケート経由の整理資金供給方式を決定。4月20日、製糖会社に救済資金融資決定、引き続き製鉄業・産銅業・絹織物業・製糸業・毛織物業などに特別融資決定。
1922年(大正11年) - 8月19日、在外正貨を正貨準備に繰入れることを禁止し、従来充当分も8月末日限り解除と決定。12月15日、東京・大阪のシンジケート銀行と会合、金融界動揺の善後策を協議し、救済援助を声明、12月中の日銀救済融資は2億2000万円。
1923年(大正12年) - 関東大震災発生により、9月27日、日銀震災手形割引損失補償令公布(緊急勅令)。補償限度1億円、日銀の震災手形割引高は1924年3月末までで4億3081万円。9月29日、副総裁は担保貸出の拡張など資金融通の方針を発表。
1925年(大正14年) - 4月15日公定歩合を2厘引下げ、2銭とする。5月、兌換券発行高・一般貸出高、震災以来の最低を記録。

昭和 ( 戦前・戦中 )
1926年昭和元年)- 10月4日、公定歩合をさらに2厘引下げ1銭8厘とする。11月12日、帝国蚕糸倉庫に、横浜正金銀行経由で生糸救済資金220万円を融資。11月20日政府・日銀は、鈴木商店・日本製粉の救済のため資金援助措置を決定、台湾銀行から両社に800万円ずつ融資。
1927年(昭和2年)
  ・3月9日、公定歩合を2厘引下げ1銭6厘とする。10月10日、さらに1厘引下げ。
  ・3月21日、市中銀行に対し非常貸出しを実施、3月23日までに6億円を突破。4月18日総裁は財界動揺防止に関し声明を発表。4月24日総裁は取引先以外の銀行へも援助を与える旨声明、4月25日までの対市中銀行貸出残高20億円を突破。
  ・5月9日、日本銀行特別融通および損失補償法、台湾に金融機関に対する資金融通に関する法律それぞれ公布、2法による日銀貸出高8億7943億円。
1928年(昭和3年)
  ・5月8日、日銀特別融資打切り、特別融通法によるものは6億8793億円、金融市場は超緩和。
  ・5月15日、総裁井上は全国手形交換所大会で特別融資の結果日銀が金融統制力を喪失した状況下では金解禁は尚早と発言。
1930年(昭和5年)- 10月7日、公定歩合を1厘引下げ1銭4厘とする。
1931年(昭和6年)
  ・金輸出再禁止に伴い管理通貨制度を確立した。
  ・10月6日、公定歩合を2厘引上げ1銭6厘とする。11月5日、蔵相は日銀の制限外発行税率を6分に決定。
1932年(昭和7年)- 3月12日、公定歩合を2厘引下げ1銭6厘とする。6月8日2厘、8月18日2厘引下げ。3月12日、蔵相は日銀の制限外発行税率を5分に決定。6月18日兌換銀行券条例改正、保証発行限度の拡張、限外発行税最低率の引下げなど。
  ・6月18日、日銀納付金法・日銀参与会法それぞれ公布。
  ・11月25日、新規国債2億円(4%利半国庫債券)の直接引受。12月24日から売りオペ[31]。12月24日、所有国債の対市中売却操作を初実施。
1933年(昭和8年)- 7月3日、公定歩合を2厘引下げ、1銭とする。
1934年(昭和9年)- 4月7日、日本銀行金買入法公布、政府の産金時価買入策の拡大。
1936年(昭和11年)- 4月7日、公定歩合を1厘引下げ9厘とする。12月28日蔵相は日銀券制限外発行税率を年3分に決定。
1937年(昭和12年)- 7月15日、公定歩合を引下げ、国債担保貸付利子歩合を1厘引下げて9厘とし、商業手形割引歩合は据置。
1938年(昭和13年)- 7月23日、外国為替基金を設定。
1940年(昭和15年)- 8月7日、満洲中央銀行に対する1億円の借款供与契約成立。
1942年(昭和17年)
  ・2月24日、日本銀行法(昭和17年法律第67号、以下「旧法」)[32]公布、管理通貨制度の法的確立。
  ・5月1日、旧法に基づく法人に改組。日本銀行条例・兌換銀行条例の廃止。
  ・6月18日、タイ大蔵省と2億円の借款供与に関する協定に調印。
  ・7月28日、中央儲備銀行に対する1億円の借款供与契約調印。11月18日、政府保証軍需手形再割引とそれを担保とする貸付に優遇措置実施。
1944年(昭和19年)- 4月4日貸出利率調整制度実施、従来の高率適用手続は廃止。

昭和 ( 戦後 )
1945年(昭和20年)- 12月27日、インドシナ銀行東京支店の業務・財産の管理人となる(以後、同様措置の対象先は拡大した)。
1946年(昭和21年)- 2月、ハイパーインフレーションの懸念から、新円切替と一昨年に続く預金封鎖が実施された。
1946年(昭和21年)
  ・3月12日、日銀券(新円)発行残高152億円、1945年8月15日以降最低、金融緊急措置実施の結果。
  ・7月17日、日本興業銀行の復興資金融通手形を担保。
  ・7月22日、連合国総司令部が米系銀行の在日支店の再開を許可。7月31日、外貨債処理法による政府債務承継まで保管されていた利払い資金がGHQから日銀へ移管される。同日、ニューヨーク・ナショナル・シティー銀行香港上海銀行チャータード銀行、オランダ系銀行2行の以上5行がもつ国内支店について、戦時中の敵産管理法により横浜正金銀行がもっていた管理権を日銀が継承した[33]
  ・9月16日、日銀券発行残高618億3700万円、旧円の最高額を突破。10月14日公定歩合を1厘引上げ1銭とする。
1947年(昭和22年)
  ・3月15日、農地証券の交付および元利金支払に関する特別取扱に関する件公布施行。
  ・4月1日日銀法改正公布、日銀券発行限度の決定方法の変更、5月3日施行。
1948年(昭和23年)
  ・4月26日、公定歩合を2厘引上げ1銭2厘とする。7月5日、さらに2厘引上げ。
  ・12月20日 - 閉鎖機関処理部廃止。
1949年(昭和24年)
  ・5月30日、東証一部に上場。同年6月には大証一部、名証一部にも上場。
  ・6月1日、社債消化促進のため市中銀行に社債買入額を限度とする復興金融金庫債の償還を認める、貸出政策と公開市場政策併用の初め。
  ・6月3日、日銀法改正公布、政策委員会の新設、6月17日同委員会発足。
  ・11月1日、外国為替管理委員会から外国為替資金に関する計算登記および報告事務を引き継いだ。また、3年前から置いていた山口事務所を大晦日に廃止。
1950年(昭和25年)- 6月7日、外資委員会の事務の取扱いに関する政令を公布、翌日施行。
1951年(昭和26年)- 10月1日、公定歩合を2厘引上げ1銭6厘とする。
1952年(昭和27年)- 6月16日、国際通貨基金へ出資する金塊15トンを政府へ売却。
1953年(昭和28年)
  ・7月15日、金管理法[注釈 2]。 
  ・10月8日、世界銀行債200万ドルを買い入れ。
  ・12月18日、連邦準備制度に口座開設。
1954年(昭和29年) - 1月16日、輸入金融抑制措置を実施、貸付金利1厘引上げなど。3月10日、優遇措置全廃など再度の引締強化を実施。7月22日、輸出金融優遇措置を実施、輸出手形貸付金利引下げなど。8月16日、輸出金融引締措置を実施、輸入決済手形貸付金利引上げなど。
1955年(昭和30年)4月15日、イングランド銀行に口座開設。8月10日、公定歩合を4厘引上げ2銭とする。11月8日、市中金融機関に対し年内買戻条件付で売オペレーションを実施。
1956年(昭和31年)- 年末現在、日銀券発行残高8632億円。
1957年(昭和32年)- 3月20日、公定歩合を1厘引上げ2銭1厘とする。5月8日、さらに2厘引上げ。
1958年(昭和33年)- 11月28日、政策委員会は農業手形制度の本年度限り廃止を決定、四国・中国・九州は1959年1月31日に廃止。
1959年(昭和34年)
  ・2月19日、公定歩合を1厘引下げ1銭9厘とする。12月2日、公定歩合を1厘引上げ2銭とする。
  ・9月11日 - 普通銀・長信・外為銀行を対象に準備預金制度はじまる[注釈 3]
1960年(昭和35年)
  ・5月、東証、大証、名証から上場廃止。
  ・8月24日、公定歩合を1厘引下げ1銭9厘とする。
1961年(昭和36年)
  ・1月26日、公定歩合を1厘引上げ1銭8厘とする、低金利政策の展開。
  ・7月22日、公定歩合を1厘引上げ1銭9厘とする(7月21日東証ダウ株価45円72銭安と下落)。9月29日さらに1厘引上げ。
  ・11月24日、外債2億USドルを外貨準備補強策として発行した。
1962年(昭和37年)
  ・10月1日、世銀債500万ドルを引受け(1964年同月同日にも同額引受け)。
  ・10月27日、公定歩合を1厘引下げ1銭9厘とする。高率適用制度を緩和。11月1日、預金準備率も引下げ、3本立で金融引締め緩和。11月27日、公定歩合をさらに1厘引下げ。
1963年(昭和38年)
  ・2月店頭登録(現ジャスダック市場に公開)。
  ・3月20日、公定歩合を1厘引下げ1銭7厘とする。4月20日さらに1厘引下げ、輸出手形は1銭1厘に据置。
  ・10月31日、ニューヨーク連邦準備銀行と貸付予約方式で1億5000万ドル双務通貨協定調印、いわゆるスワップ協定
1964年(昭和39年)
  ・3月18日、公定歩合を2厘引上げ、1銭8厘とする。
  ・11月25日、主要11中銀・国際決済銀行合衆国輸出入銀行との間に30億ドルのクレジット設定。
  ・9月4日、政策委員会は日本証券金融を通ずる債券担保の特別融資を決定、株価安定のため。9月17日大蔵省は日本共同証券資金の拡大などを決定、日銀も同調。9月22日、蔵相田中は証券市場に財界の協力を要請。
  ・12月4日、日本共同証券に400億円の特別融資、実質金利1銭5厘。翌年1月19日、日本証券保有組合にも特融決定。
1965年(昭和40年)
  ・1月9日、公定歩合を1厘引下げ、1銭7厘とする。4月3日1厘、6月26日1厘引下げ。
  ・5月28日深夜、蔵相田中は記者会見で証券緊急対策として山一証券に無制限・無期限の日銀特別融資発表、日銀法第25条適用、1956年以来の異例措置、いわゆる山一証券事件。5月29日発動。
  ・6月7日、山一証券に対する日銀特融第1回融資45億円。6月28日まで6回累計234億円。
  ・6月18日、証券14社に約600億円の救済融資決定、投資信託解約激増のため。日本証券金融に600億円までの公社債担保貸付を決定。
  ・6月25日、市中銀行に対する貸出増加額規制の廃止を決定。
  ・7月16日、預金準備率引下げ、景気刺激策。
1967年(昭和42年)
  ・2月2日国債653億円を買入れ、初の国債オペレーション。
  ・12月1日、米側の申入れにより米ニューヨーク連邦準備銀行とのスワップ協定限度額を4.5億ドルから7.5億ドルに増額。
1968年(昭和43年)3月18日 - 連邦準備制度とのスワップ取引額上限が10億ドルに増加(1973年7月10日には倍の20億ドル、1978年11月1日には50億ドルに達した)。
1971年(昭和46年)6月1日 - 外国為替資金特別会計外国為替銀行に対する外貨預託による輸入関係資金の供給を日本銀行の輸入資金貸付により行うようになる。
1973年(昭和48年)4月9日 - 全国銀行データ通信システム稼動。
1982年(昭和57年)10月8日 - 金融研究局を日本銀行金融研究所に改組。
1985年(昭和60年)1月25日 - シティバンク他2行と国債元利支払取扱店契約を締結。
1988年(昭和63年)8月15日 - 本支店間で日本銀行金融ネットワークシステム稼動。1990年5月28日、この日銀ネットによる国債関係事務の対外オンライン処理を開始。さらに同年12月11日、長期国債の募集・引受・発行事務がオンライン化。1992年5月26日に払込みオンライン化。1994年4月11日、国債資金同時受渡(国債DVP)システム稼動。

詳しい事は、「
日本銀行ウィキペディア」をご覧ください。 ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E9%8A%80%E8%A1%8C
(wikiより)


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