| 本名 | 梅宮 辰雄 |
|---|---|
| 生年月日 | 1938年3月11日 |
| 没年月日 | 2019年12月12日(81歳没) |
| 出身地 | |
| 身長 | 174 cm |
| 血液型 | A型[2] |
| 職業 | 俳優 タレント 実業家 |
| 活動期間 | 1958年 - 2019年 |
| 活動内容 | 映画 テレビドラマ バラエティ番組 |
| 配偶者 | 梅宮クラウディア |
| 著名な家族 | 梅宮アンナ(娘) 梅宮百々果(養子、元孫)[3] 梅宮万紗子(姪) 梅宮亜須加(姪) |
梅宮 辰夫(うめみや たつお、1938年〈昭和13年〉3月11日[2] - 2019年〈令和元年〉12月12日[4])は、日本の俳優、タレント、司会者、実業家。娘はモデル・タレントの梅宮アンナ。
生涯
生い立ち
梅宮の先祖は、福島会津若松の城下で「梅宮屋」の名前で煙草を売っていた[5]。梅宮の祖父・辰次郎が陸軍士官学校卒業後日露戦争に従軍[5]。妻とともに満州・奉天に移住[5]。辰次郎は関東軍参謀・板垣征四郎とも懇意の仲で、祖父の葬儀では板垣が弔文を読んだ。辰次郎の次男で父の次郎は同地で生まれ[5]、満州医科大学を卒業し医師となった後、満州国ハルビン特別市で満鉄病院に勤務していた[5]。梅宮のほか弟と妹それぞれ2人ずつおり、5人兄弟の長男である[6]。一家はその後、次郎の異動により開原市(現中華人民共和国遼寧省)に移住[5]、同地で太平洋戦争終戦を迎え、1946年に他の引揚者らとともに信濃丸で博多港に帰国[注釈 1]。
満洲から帰国して半年後に茨城県水戸市の病院に職を見つけた父とともに一家で移住。小学校・中学校は1クラスだったが、小学4年から中学3年までの6年間はずっと番長で[7]、生徒会長にもなり[7]、女生徒からも人気があったという[7]。茨城弁は訛りがキツくて嫌いで、水戸時代も茨城弁は一切使わず、東京弁で通した[7]。茨城大学教育学部附属愛宕中学校では陸上競技をしていた。同校の後輩にはジャーナリストで評論家の立花隆がおり、立花とは後年、テレビ番組の企画で共演している[8]。水戸移転から10年後、高校から[7]、近くに親戚のいた品川区戸越銀座へ移住する。戸越銀座移転後、実家は内科・小児科を診療科目とする梅宮医院を開業、辰夫は跡継ぎとして期待されていたが[9]、早稲田高等学校を経て[7]、医学部を受験するも不合格となったため[7]、浪人するのが嫌で、日本大学法学部に入学(後に中退)[7]。早稲田高校時代に剣道部を創設し[7]、喧嘩三昧[7]。高校までは硬派で、大学2年までは童貞だったという[7]。筆下ろしの相手はキャバレーのホステスで、銀座三丁目の寿司屋「江戸常」で逆ナンされた[7]。
大学在学中、日東紡でモデルのアルバイトなどもしていて[10]、その「江戸常」のゲイから東映ニューフェイス試験を薦められ[10]、1958年(昭和33年)、東映ニューフェイス5期生に合格[10][11]。当時、映画は"娯楽の王様"で、応募者は3万3000人超[10]。五次試験まであり合格者は21人[10]。同期には八代万智子・応蘭芳・高島新太郎・小嶋一郎・滝川潤がいる。役者になった目的は、いい女を抱くこと、いい酒を飲むこと、いい車に乗ること、きれいな海が見える一等地に家を構えることの4つ[10]。東映へ入社し、翌年映画『少年探偵団 敵は原子潜航挺』シリーズで主演デビュー[12][13]。新人時代は他に『遊星王子』等子供向けヒーロー映画に主演していた[11]。
東映が全力で売り出していた波多伸二が1960年(昭和35年)、デビューから四作目で急死し、若手の主演級スターがいなくなり、プロデューサー・監督ら幹部クラスで波多に代わるスターの選考が行われた[14]。ここで大半が推したのは亀石征一郎だったが[14]、岡田茂プロデューサー(のち、東映社長)が「亀石?あいつは暗くてダメだ!梅宮がいい。あいつは仰げばどんどん上がる。ああいう奴が人気が出るんだ」と鶴の一声を発し[14]、梅宮が東映東京撮影所(以下、東映東京)の次世代スターとして売り出されることになった[14]。役者として4つの目標を掲げたが、脇役が長く続くようなら役者稼業は見切りを付けるつもりだったという[10]。初主演作『殺られてたまるか』がヒットしたため、デビュー作だった三田佳子とゴールデンコンビを組み、10数本のコンビ作が量産される[15]。しかしお互いが異性としては嫌いなタイプで[15]、三田が東映上層部に共演拒否を申し出てコンビ解消[15]。
以後、1964年(昭和39年)の『暗黒街大通り』までは「アクション映画」や「仁侠映画」で硬派な役柄で活躍していたが、段々私生活が派手になっていく梅宮を見て、岡田プロデューサーが梅宮の私生活に近いプレイボーイ、女を泣かす役柄をあてた[16][17][18][19]。これが1965年(昭和40年)の『ひも』に始まる「夜の青春シリーズ」で[20]、岡田は梅宮を着流し任俠路線の裏番組のエースとして起用し続けた[20]。ここから"男を泣かせる鶴田 女を泣かせる梅宮"の名惹句が生まれた[17][20][21]。これが同じ岡田プロデュースによる1968年(昭和43年)からの「不良番長シリーズ」に至る[12][18][19][20][21]。不良番長役は、自分でも「俺のために用意された役だ、正に俺にしかできない役だ」と大喜びで、俄然やる気も増して、こうなったら東映東京は俺一人で背負って立つという自覚も芽生えた[21]。1960年代半ば以降は東映京都撮影所(東映京都)で「任侠映画」が量産されたため、東映東京の看板スターだった鶴田浩二と高倉健が東映京都に行くことが多くなり[19]、必然的に梅宮が東映東京の看板スターとなった[19]。このため女性からのモテ方は今の芸能人の比ではなかったと話している[19]。東映入社後から10数年間は毎日のように銀座のクラブに通った[22] 一番通ったのは東映ニューフェイスの一年先輩・山口洋子が経営していた「姫」で、他に田村順子の「クラブ順子」[22][23]、「クラブ麻衣子」[24]「エスポワール」[25][22]などによく通った[22]。銀座はお姉ちゃんをナンパする場所と決めていたから、お姉ちゃんを口説くのに邪魔になるため、俳優仲間とはつるんでいかず、一人で行った[22]。席に座れば、一般客そっちのけでホステスが梅宮に集まり取り合いをしたという[22]。
「不良番長シリーズ」は、最初の数本こそシリアス・タッチだったものの、梅宮を軸にした集団コメディの色彩は回を重ねるごとに強くなり、後に公私共に盟友となる山城新伍がコメディリリーフとして加わってからは、ますます破壊的なギャグが繰り出され、計16作が公開された。梅宮は「みなさんの中で役者・梅宮辰夫は『仁義なき戦い』の印象が強いかもしれないけど、僕の真髄は不良と女たらしを兼ねた『不良番長シリーズ』なんですよ[26]」と述べ、自身の代表作としている[17]。続いて主演の『夜の歌謡シリーズ』、更に1970年代からは『帝王シリーズ』などを成功させた[12]。
ベテラン俳優として
1972年(昭和47年)、自身が経営する事務所「梅宮企画」倒産などによる多額の借金で窮地に立たされるが、クラウディア・ヴィクトリアと再婚、同年にはアンナが誕生した。1973年(昭和48年)からは『仁義なき戦い』や東映実録路線で貫禄十分の独特の存在を醸し出した[11][12][27]。同映画の監督、深作欣二とは同郷(茨城県水戸市)という縁もあった。
付き合いのあった山本健一のモデルを演じた『仁義なき戦い 頂上作戦』が公開された1974年(昭和49年)、36歳のときがんに罹り、睾丸腫瘍の診断を受けた[28]。半年後、癌細胞は肺にまで転移し、末期の肺がんの診断を受け、医者の父には「息子さんの余命は2~3ヵ月」と伝えられる[28]。抗癌剤による化学療法の奏効によって治癒し、副作用の脱毛が全く起こらず、主治医が驚いていたというエピソードがある[28]。復帰作は珍しくエリート刑事役を演じた『県警対組織暴力』。この病気の後、梅宮は夜遊びを止め、酒を減らし、家族との時間を大事にし、早起きして料理に励むようになった[28]。
1975年、倉本聰に請われて『前略おふくろ様』に出演。「渋い」板前役を演じ、役柄を広げることに成功。料理に目覚めた切っ掛けはこのドラマ出演から[29]。
1977年、大映テレビ制作の刑事ドラマ『新・夜明けの刑事』にて、温厚な人柄の刑事課長役を演じたことで新境地を開いた。以後、『明日の刑事』(1978年 - 1979年)、『スクール☆ウォーズ』(1984年 - 1985年)にも出演するなど、大映ドラマの常連俳優としても活躍する一方、『はぐれ刑事純情派』シリーズや『箱根湯河原温泉交番』シリーズなどのテレビドラマに出演し、名脇役ぶりを発揮する。
実業家・マルチタレント
これ以降は20代前半からの美食三昧で肥やした舌を活かし、料理人としても徐々に活路を見出して行く。 実業家・料理家としての才能にも長けており、「梅宮辰夫漬物本舗」「梅辰亭」といったブランドのフランチャイズチェーンや、名古屋で「梅宮辰夫の炭焼き家 炎園」などの事業も展開している[12]。
晩年
晩年も病気がちで、2018年9月に前立腺がん、2019年1月に尿管がんの手術を受けるなど、これまで6度のがんの手術を受けた[12]。その後も慢性腎不全で週に数回、人工透析を受けてきたが、2019年12月12日午前7時40分に慢性腎不全のため神奈川県内の病院で死去。81歳だった[30]。戒名は海釣りが好きだったことにちなみ『浄海院和譽辰照居士』となった。
詳しいことは、『梅宮辰夫ウィキペディア』をご覧ください。 ⇩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A2%85%E5%AE%AE%E8%BE%B0%E5%A4%AB
(wikiより)

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