〇 佐錬可宜 ( されかうべ ) の塚
明治十四年五月京橋の東なる新富町と入舟町との境に官より一帯の溝渠を新に開墾せられしを土中より十四の髑髏を掘出しけり事等其路傍に委するを
見るに忍びず慰めんと請て此地に埋む囲て其事を石に記して申上げる
( 不詳 )
応需素嶽記 ( ★ 1 ) 廣群鶴鐫 ( ★ 2 )
京橋銀坐壹町目
明治十六年八月十日建 ( ★ 3 ) 小倉 總兵衛
小倉 邑太郎
永井 勝輔
「明治 14年 ( 1881 ) 5月、京橋区 ( 現中央区 ) の新富町と入舟町の境で行われた水路の掘削工事の際に、地中から 14体分の頭蓋骨 ( しゃれこうべ ) が発見された。
道端に骨を放置したままにはしておけず、東京府管轄の公共墓地である谷中墓地に埋葬し塚が建てられた。」
★ 1 素嶽
永井 素嶽 ( ながい そがく ) 嘉永 5年 ( 1852 ) ~ 大正 4年 ( 1915 )
書家、劇評家
銀座の料理屋の長男に生まれた。
松花堂・勘亭流の能書家
★ 2 廣群鶴
廣群鶴 ( こうぐんかく )
江戸一番の名石工、御碑銘彫刻師「谷中の廣群鶴」として知られる。
★ 3碑に刻まれた三人は京橋の大地主
『東京地主細覧.2』杉本尚正著 ( 明治 6年 )、『区分町鑑東京地主案内』山本忠兵衛編 ( 明治 11年 ) に名前が見られる。




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